ヨシュア記20章

ヨシュア記20章

 きょうは、ヨシュア記20章から「逃れの町」について学びたいと思います。まず、20章全体をお読みしたいと思います。

「20:1 【主】はヨシュアに告げられた。
20:2 「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
20:3 意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。
20:4 人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。
20:5 たとえ血の復讐をする者が彼を追って来ても、その手に殺人者を渡してはならない。彼は隣人を意図せずに打ち殺してしまったのであって、前からその人を憎んでいたわけではないからである。
20:6 その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまでその町に住む。その後で、殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる。』」
20:7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
20:8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
20:9 これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。」


 イスラエルのそれぞれの部族にくじによる相続地の割り当てを行うと、主はヨシュアに逃れの町を定めるように言われました。逃れの町とは、あやまって人を殺した者が、そこに逃げ込むことができるためのもので、その町々は、彼らが血の復讐をする者からのがれる場所となりました。この逃れの町については、民数記35章において既にモーセを通してイスラエルの民に語られていました。(民数記35:10-11) ヨシュアはカナンの地に入った後で各部族に相続地を分割すると、それを実行したのです。
3節には、「意図せずに誤って人を殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。」とあります。この逃れの町は、あやまって、知らずに人を殺した者が、血の復讐をする者から逃れるために設けられたものです。律法には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21:12)とありますが、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさせた場合はその限りではありませんでした(出エジプト21:13)。逃れの町にのがれることができたのです。
では、どうやって故意による殺人と誤って人を殺した場合、すなわち不慮の事故によるものなのかを判別することができるのでしょうか。民数記35章22~29節には、そのことが詳しく述べられています。
「35:22 もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
35:23 または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、35:24 会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。
35:25 会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。
35:26 もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、
35:27 血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない。
35:28 その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。
35:29 これらのことは、あなたがたがどこに住んでも、代々守るべき、あなたがたのさばきの掟となる。」
つまり、動機と手段によって判断されるということです。すなわち、相手に対して「憎しみ」「悪意」「敵意」といった思いがなかったかどうか、そのためにどのような道具が用いられたのか、人を殺せるほどの道具であったかどうかということです。がなかったかどうかです。それが、殺してしまったのであれば、それは彼が意図して行ったことではなく誤って殺してしまったということであって、この逃れの町に逃れることができました。
4節には、「人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。」とあります。逃げてきた人の切羽詰った様子が窺えます。一刻も早く町の中に入らなければ、殺されてしまうかもしれなかったからです。ユダヤ教の言い伝えによると、この逃れの町までの道は整備がしっかりと施されており、「こちらが逃れの町」という標識があったほどです。それほど早く逃げ込むことができるように保護されていました。彼らがこれらの町に逃げ込む場合、その者は、その町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べると、長老たちは、自分たちの町に彼らを受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼とともに住みました。もしそれが嘘だったら、たとえのがれの町に入ったとしても、殺されなければなりませんでした。
しかし、それが本当に誤って起きたものであれば、たとい、血の復讐をするものがその者を追ってきても、殺人者をその手に渡してはなりませんでした。その者は会衆の前に立って正しいさばきを受けるまで、その町に住まなければならなかったのです。つまり、公正な裁判を受けるまでしっかりと保護されなければならなかったのです。あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければなりませんでした。それから後に彼は、自分の町、自分の家に帰って行くことができました。すなわち自由の身になることができたということです。なぜ、大祭司が死ぬまでその町に住まなければならなかったのでしょうか。
それは、この大祭司がイエス・キリストのことを指し示していたからです。へブル4章15節には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とありますが、この大祭司が死ぬまでとは、イエス・キリストが十字架で死ぬまでのことを示していました。大祭司が死ねば、逃れの町に逃れた殺人者は自由になり、自分の家に帰ることかできたように、真の大祭司であられるイエス・キリストが十字架で死ぬなら、すべての人の罪が赦され、罪から解放されて自由になることができました。キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったからです。
多くの人は問題を抱えると、環境を変え、場所を変えれば、やり直すことができると考えますが、それは無駄なことです。あるいは、どこか遠くの別の場所に行けばもう一度人生をやり直すことができると考えますが、そのようなことをしても状況を変えることはできません。なぜなら、これは霊的なことだからです。主イエスはニコデモとの会話の中で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。どうしたら人は神の国を見ることができるのでしょうか。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。これがすべての解決です。神の国を見ることがでるなら、神が共にいてくださるなら、私たちのすべての問題は解決します。そのためには罪が赦されなければなりません。罪が赦されて新しく生まれなければならないのです。私たちのその罪を贖ってくれる唯一の道が、キリストの十字架の死であり、この他にはありません。それゆえ、私たちはこの十字架の贖いを受け入れ、この方を救い主として信じなければなりません。そして、その御前にへりくだって悔い改めなければならないのです。そうすれば、私たちは主イエスの贖いのゆえにすべての罪が聖められ、悪魔の力から解放されて、全く新しく生まれ変わるのです。
この十字架の贖いこそ、私たちが罪から解放され、失敗と挫折の中からもう一度立ち上がる道であり、その力の源なのです。多くの人はそのことを知らないので、環境を変え場所を変えればやり直すことができると考えますが、いくらそのようにしてもこの罪の縄目から解放されることはできません。そんなことをしてもこの罪から抜け出すことはできないのです。私たちを罪から贖い、新しく生まれるためには、主イエスの十字架の贖いを受け入れ、この方を救い主として信じなければならないのです。そうです、この大祭司こそ、主イエス・キリストそのものを指示していたのです。
  詩篇46篇1節には、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」とあります。本来であれば、罪のために私たちが殺されなければいけないのに、主が避け所となって救ってくださるのです。これが、逃れ町が示していたことだったのです。
私たちは、ここに逃れれば絶対に安心だというところがあります。それがイエス・キリストです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」イエス・キリストにあるものは罪に定められることはありません。イエス・キリストにあるものは、ちょうど逃れの町の中にいる者が復讐者によって殺されることのないように、決して罪に定められることはありません。もしあなたが過去に犯した罪があるなら、あるいは、現在も肉の弱さによって犯している罪があるなら、このイエス・キリスト、逃れの町に逃れてください。そこで悔い改めて、キリストにある新しい人生を始めてください。あなたにもこの逃れの町が用意されてあるのです。
次に7節から9節までをご覧ください。
「20:7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
20:8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
20:9 これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。」
それで彼らは、ヨルダン川の向こう側と、こちら側にそれぞれ三つの町をのがれの町に当てました。それはかつてモーセが命じたように距離を測ってすべての相続地の中で均等に置かれました。それは何のためかというと、9節にあるように、あやまって人を殺したものが、そこに逃げ込むためです。会衆の前に立たないうちに、血の復讐をするものの手によって死ぬことがないように、すべての人にとってできるだけ近いところにのがれの町を置きました。つまり、神は相続地の中でだれもがすぐに逃げ込むことができるようにと配慮してくださったのです。神はそれほどまでにあやまって罪を犯した者を救うことを願っておられるのです。神は私たちをさばくことを良しとし常にその眼をさばきに向けておられるのではありません。神は私たちを愛し、赦すことに向けておられことがわかります。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかを神は知っておられ、深く理解しておられるからです。ですから、私たちはその度に悩み、落ち込むものですが、その度にこの逃れの町に逃げ込み、神の赦しと力をいただかなければなりません。
へブル人への手紙4章15~16節には、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵をいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
キリストは、私たち人間の弱さに同情できない方ではありません。私たちを思いやることができます。なぜなら、ご自身があらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解してくださいます。だから安心して、喜んで恵みの御座に近づかなければなりません。
時として私たちはこのような試練に会うとき、「神がおられるならどうしてこんな苦しみに会わせるのだ」と、神を呪い、信仰から離れてしまうことさえありますが、そんな私たちのためにこそ逃れ町が用意されておられるということを知り、そこに身を寄せなければなりません。そして、私たちを完全に理解してくださる主のあわれみと恵をいただいて、立ち上がらせていただきたいと思うのです。聖書を見ると、そのようにして人生をやり直した多くの聖徒たちのことが記されてあります。

 たとえば、パウロはどうでしょう。彼は非の打ちどころがないほどのパリサイ人で、正義感に燃え、それ故クリスチャンを迫害し、牢に投げ込み、殺害していきました。しかしダマスコに向かう途中で、復活のキリストと出会い、数年に及ぶアラビヤでの悔い改めの期間を経て、やがて世界的なキリスト教の指導者として用いられていきました。パウロはキリストによって新しい人生をやり直した人物の典型です。パウロはこのように言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
ペテロもそうです。彼もまた、主イエスを三度も否むという大きな過ちを犯しましたが、主の前に悔い改めて立ち直りました。そして、イエス様のあの言葉にあるように、イエス様のとりなしによって立ち直った彼は、兄弟たちを力づけてやる者へとなりました。パウロのように、ペテロのように、イエス・キリストは人々が立ち直り、やりなおすことを願っておられるのです。
旧約聖書における最高の指導者の一人であるモーセもそうです。彼は民族愛に燃え、ある日エジプト人を撃ち殺し、それがばれるのを恐れてミデヤンの地へのがれました。しかし、40年の荒野での空白期間を経て、神はモーセをイスラエルの解放者として召されました。モーセもまた、失敗してもやり直した人物です。
またイスラエルの最大の王であったダビデは、バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その罪をもみ消そうと夫エリヤを戦場の最前線に送り込ませて殺しました。彼は道徳的に失敗し、家庭的にも失敗し、子供たちの反逆にも遭いましたが、その度に悔い改めて神の恵みにすがりました。その結果彼はその罪を許していただき、再びやりなおすことができたのです。
このように聖書は繰り返し人生をやり直した人物にスポットを当てています。神が用いられる人とは失敗やあやまちを犯さない人ではなく、そうした失敗やあやまちを犯しても悔い改めて神のあわれみにすがる人のことであり、そのようにして人生をやりなおした人なのです。その失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いていかれたのです。
まとめてみると、この逃れの町が示していることはこれです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
これは、主イエスの宣教の第一声です。それは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。これは、イエスを信じて、もう一度やり直しなさい、ということです。逃れの町であられるイエスの下に逃れるなら、あなたももう一度やり直すことができる。これが福音です。神の福音は私たちを立ち直らせることができます。あなたも悔い改めて、主イエスを信じてください。主イエスにあって、あなたも必ずやりなおすことができるのです。

人生の目的を知る エレミヤ書22章1~19節人生の目的を知る 

2023年8月6日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書22章1~19節(エレミヤ書講解説教41回目)
タイトル:「人生の目的を知る」
エレミヤ書22章に入ります。今日は22章前半から、「人生の目的を知る」というテーマでお話します。自分は何のために生きているのか、何のために存在しているのかということです。多くの人が、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのか、なぜこの世に存在しているのかがわからず、自問自答しながら生きています。クリスチャンになることの素晴らしさの一つは、この目的を知っていることです。皆さんは何のために生きていますか。今日は、そのことをご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.私たちの人生の目的(1-9)
まず、1~9節をご覧ください。5節までをお読みします。「22:1 【主】はこう言われる。「ユダの王の家に下り、そこでこのことばを語れ。22:2 『ダビデの王座に着くユダの王よ。あなたも、これらの門の内に入って来るあなたの家来も、またあなたの民も、【主】のことばを聞け。22:3 【主】はこう言われる。公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。22:4 もし、あなたがたがこのことばを忠実に行うなら、ダビデの王座に着く王たちは車や馬に乗り、彼らも、その家来も、またその民も、この家の門の内に入ることができる。22:5 しかし、もしこのことばを聞かなければ、わたしは自分にかけて誓うが──【主】のことば──この家は必ず廃墟となる。』」」
主からエレミヤに主のことばがありました。それは、ユダの王の家に下り、そこで主のことばを語れということでした。「ユダの王の家」とは、王たちの住まいであった王宮のことです。エルサレムにあった神の宮、神殿から、自分たちの住まいであった王宮に下れということです。そこで主のことばを語るように。ダビデの王座に着くユダの王とその家来たちに、です。
その内容は、3節にあるように「公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ」ということでした。「公義」とは、神の律法にかなった行為のこと、つまり、神の律法に従って社会的弱者と呼ばれる人たちを踏みにじることがないように、正しいさばきを行うように。そして、そうした社会的弱者と言われる人たちをあわれみ、決して虐げることないように、いやむしろ、そのように虐げる者の手から救い出すようにということでした。
また、「正義」とは、神様との正しい関係のことを言います。平たくいうと、神のことばに対して忠実に生きるようにということです。この公義と正義は、神にとって最も重要なことでした。
それなのに、ダビデの王座に着く王たちは、本来すべきことをしないで、私腹を肥やしていました。この王たちは誰のことを指しているのかはっきりわかりません。お手元に「南ユダ王国の年代表」を用意しましたが、南ユダの王たちの中の最後の4人の王たちのいずれかの王です。すなわち、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの中の誰かです。いや、誰というよりも、この4人の王たちに代表されるすべてのユダの王たちと言ってもいいでしょう。彼らは王として自分が成すべきことをしていませんでした。彼らはダビテの王座に着いていましたが、ダビデの心を持っていなかったのです。ダビデの心とはどんな心ですか。使徒13章22節にはこうあります。「そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』」
ここには、「彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる」とあります。「彼は」とは「ダビデ」のことです。彼は主の心にかなった者で、主が望むことをすべて成し遂げました。これがダビデの心です。それは、神が望むことをすべて成し遂げる心です。しかし、彼らは王という立場にありながらも、その使命とか責任を果たしていませんでした。社会的弱者と呼ばれる人たちを虐げる者の手から救い出すところか、寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、咎なき者の血を流したりしていました。
もし、あなたがたが主の心にかなった者であるなら、彼らはそのまま王座にいることができ、家来や民たちもこの町に住み続けることができますが、そうでなければ、ユダの王も国も必ず亡びることになります。
これは、クリスチャンにも言えることです。Ⅰペテロ2章9 節にはこうあります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
  ここには、すべてのクリスチャンは王である祭司と言われています。イエス・キリストを信じたことでクリスチャンは神の子どもとされました。聖なる国民、神の所有の民とされたのです。神の民です。それは何のためですか。それは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の栄誉を宣べ伝えるためです。それなのに、その使命を果たしていないとしたら、それはここで糾弾されているダビデの王座に着くユダの王たちと何ら変わらないことになります。毎週日曜日教会に集い、神を賛美し、みことばに感動して、神をほめたたえることはすばらしいことです。神の家族としての教会の交わりに加えられ、時には美味しい食事を囲んで満足すこともすばらしい恵みです。でも、ただそれだけならば、この王たちと何ら変わらないのです。その使命を果たしていないからです。私たちは自分が救われた目的を知り、そこに生きる者でなければなりません。
カトリックの神学者で、晩年を知的障害者とともに過ごしたヘンリー・ナーウェンは、このように言っています。
「自分が神に「選ばれている」ということをいつも喜ぶのです。神に、「選んでくださってありがとう。」と言い、選ばれたことを思い起こさせてくれる人にも、「ありがとう。」と言うのです。 感謝をすることによって、自分が意味もなく、偶然、この世に生まれてきたのではなく、神に選ばれて生まれてきたのだということを心に刻むのです。」
とても含蓄のあることばではないでしょうか。自分が意味もなく偶然に生まれてきたのではなく、神に選ばれて生まれてきたのだということを心に刻むために、神に「選んでくださったありがとう」と言う。大切なことです。あなたはどうですか。あなたは神によって選ばれていることを感謝し、喜んでいるでしょうか。そういう人は、自分に与えられた特権や立場を感謝し、自分に与えられている使命に生きようと願いますが、そうでなければ、ただの自己満足で終わってしまいます。私たちが王である祭司、聖なる国民、神の民として選ばれたのは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を告げ知らせるためです。私たちにはそのような使命が与えられているのです。その使命をしっかり押さえている人こそ、自分がどこから来て、どこへ行くのか、何のために生きているのかということを正しく理解し、それに向かって生き生きと生きることができるのです。
6~9節をご覧ください。「22:6 まことに、ユダの王の家について、【主】はこう言われる。「あなたは、わたしにとってはギルアデ、レバノンの頂だが、必ず、わたしはあなたを荒野にし、住む人もいない町々にする。22:7 わたしはあなたを攻めるために、それぞれ武具を持つ破壊者たちを取り分ける。彼らは、最も美しいあなたの杉の木を切り倒して火に投げ入れる。22:8 多くの国々の者がこの都のそばを過ぎ、彼らが互いに、『何のために、【主】はこの大きな都をこのようにしたのだろうか』と言えば、22:9 人々は、『彼らが、自分の神、【主】の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ』と言う。」」
「ギルアデ、レバノンの頂」とは、エルサレムのことです。ギルアデ、レバノンは森林地帯でした。ユダの王たちは、その森林地帯にある高級建材を輸入して王宮を建てていました。ですから、王宮のことを「レバノンの森」と呼んだのです。そこにはまさにレバノン杉という当時の最高建材がふんだんに使われていました。しかし、その王宮が敵の攻撃によって火で焼かれてしまうことになります。神の都エルサレムが、住む人のいない廃墟のようになってしまうのです。
さらに8節と9節を見ると、そのエルサレムが崩壊するのを見た異邦人が、どうしてエルサレムはこんなことになってしまったのかと言う時、それは「彼らが、自分の神、主の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ。」と、人々が噂するようにまでなるというのです。
これが文字通りB.C.586年に起こります。バビロン捕囚という出来事です。バビロンの王ネブカデネザルがやって来てエルサレムは火で焼かれ、町の中心にあった神殿も完全に滅ぼされてしまうことになります。いったいなぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らが神に背き、神の民として自分たちに与えられた使命を見失ってしまったからです。
伝道者の書1章5~8節にこうあります。「日は昇り、また沈む。風も吹いては、同じことを繰り返す。川の流れはやがて海に行き着くが、めぐりめぐってまた元に帰り、再び海に向かって流れ出す。すべては退屈な繰り返しにすぎない。」(TEV)
皆さん、人生の目的を見失うと、このようになってしまいます。人生がただの退屈な繰り返しになってしまうのです。
ですから、私たちは私たちに与えられている役割、自分が存在している理由を知ることが重要です。そうすれば、私たちは、その役割を果たすために、そこに向かって進むことができます。そうです、私たちは神に選ばれた者、神の民として、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方のすばらしい御業をほめたたえ、神の栄光を現わす者となるのです。
Ⅱ.彼に信頼する者は失望させられることはない(10-12)
次に、10~12節をご覧ください。「22:10 死んだ者のために泣くな。その者のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼が再び帰って、故郷を見ることがないからだ。22:11 父ヨシヤに代わって王となった、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、【主】はまことにこう言われる。「彼はこの場所から出て行って、二度とここには帰らない。22:12 彼は引いて行かれた場所で死に、再びこの地を見ることはない。」」
何のことを言っているのか、ちょっと読んだだけではピンときません。ここに「死んだ者」とありますが、これは誰のことを指して言われているのかというと、南ユダ王国の第16代の王であるヨシヤ王のことです。彼は宗教改革を行うなど、善王としてよく知られています。彼は民の大きな期待を集めていました。しかし、B.C.609年にエジプトの王パロ・ネコとの戦いで死してしまいました。彼は8歳で王になると、16歳で献身し、20歳で国内にあったありとあらゆる偶像礼拝の施設を取り除きました。南ユダ王国にリバイバルをもたらしたのです。ですから、そのヨシヤ王が死んだ時、民はヨシヤ王の死を悼み悲しんだのです。
でもここには、そのヨシヤ王のために泣くな、と言われています。その者のために嘆くなと。どうしてですか?もっと他に嘆き悲しまなければならない人がいるからです。それは、ヨシヤ王の息子の「シャルム」です。
「シャルム」とは、ヨシヤ王の子「エホアハズ」のことです。エホアハズの幼名がシャルムです。彼はその後改名して「エホアハズ」となります。意味は「ヤーウェーは捉えてくださる」、「主は捉えてくださる」です。エホアハズ王はヨシヤ王の息子で、第17代の南ユダの王でしたが、その在位期間はたったの3か月でした。たった3か月しか王座にいることができなかったのです。彼はエジプトに連れて行かれ、そこで死ぬことになります。10節に「去って行く者のために、大いに泣け。」とありますが、これがこのエホアハズ王のことです。彼のために嘆けというのです。なぜでしょうか?なぜなら、彼が再びエルサレムに帰って来ることはないからです。そして次に王になるのが「エホヤキム」です。ここには「エホアハズ」とか「エホヤキム」とか「エホヤキン」とか、「きん」さん、「ぎん」さん、みたいな名前がたくさん出てくるので、皆さんどうぞ混乱しないでください。エホアハズの後がエホヤキムです。実はエホヤキムはエホアハズの2歳上の兄でしたが、最初に王になったのは弟のエホアハズの方でした。なぜなら、南ユダの民が兄のエホヤキムではなく、弟のエホアハズに希望を託したからです。エホアハズこそエジプトから自分たちを解放してくれるに違いない、そう思ったのです。しかし、そのエホアハズはどうなりましたか?彼も神のことばに聞き従わなかったので、結局のところ、王位から退けられエジプトに連行され、そこで死ぬことになります。南ユダ王国の歴史の中で初めて、自分の国ではない他の国で死ぬという不名誉な死に方をするわけです。民にとって希望の星だったエホアハズがエジプトに幽閉されて惨めな死に方をするわけです。このエホアハズのために嘆き悲しむように。主はそう言われたのです。どういうことでしょうか。あなたの希望が打ち砕かれたので嘆き悲しみなさいということです。
あなたはどこに希望を置いているでしょうか。エホアハズですか。でもエホアハズに希望を置くなら失望することになります。必ず裏切られることになります。この人なら何とかしてくれるに違いない、あの人なら大丈夫だろう。気を付けなければなりません。そのような人があなたを救うことはできないからです。あなたを救うことができるのは、あなたの救い主イエス・キリストだけです。この方に希望を置かなければなりません。聖書にこうあるからです。「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)
あなたはどこに希望を置いていますか。あなたが希望を置かなければならないのは、あなたの救い主イエス・キリストです。なぜなら、彼に信頼する者は、決して失望させられることはないからです。どんなことがあってもびくともすることはありません。
Ⅲ.主にあって死ぬ者は幸いである(13-19)
次に13~19節をご覧ください。「22:13 「わざわいだ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者たち。隣人をただで働かせて報酬も払わず、22:14 『私は自分のために、広い家、ゆったりとした高殿を建てよう』と言い、それに窓を取り付けて、杉の板でおおい、朱を塗る者は。22:15 あなたは杉の木で競って、王になろうとするのか。あなたの父は食べたり飲んだりし、公正と義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福であった。22:16 虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護し、彼は、そのとき幸福であった。それが、わたしを知っていることではないのか。──【主】のことば──22:17 しかし、あなたの目と心は、自分の利得に、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことにだけ向けられている。」22:18 それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、【主】はこう言われる。「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。22:19 彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」」
そんなエホアハズの次にユダの王になったのが、先程申し上げた兄のエホヤキムという人です。18節に彼の名前が出て来ます。エホヤキムは、エホアハズの2歳年上の兄でした。意味は「主は起こされる」です。彼はまさに弟亡き後に主が起こされたかのように王位に就きました。
彼は25歳で即位し、11年間南ユダを治めました。しかし、残念ながら彼も弟同様、悪い王に成り下がってしまいます。というのは、当時、南ユダ王国はエジプトの属国だったので、エジプトの王パロ・ネコの操り人形にすぎなかったからです。すべてエジプトの言いなりでした。ですから、エジプトの異教的な習慣を積極的に取り入れたので、霊的には真っ暗な状態だったのです。
そればかりか、エジプトの王パロ・ネコが重税を課したので、彼は民に重税を課さなければなりませんでした。さらにそれに輪をかけるかのように、自分の王宮を建てるために労働者に正当な報酬を支払わないで強制労働させました。もう贅沢三昧です。15節と16節には、父ヨシヤ王と比較されていますが父のヨシヤ王は正しい政治を行い、虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護して王として幸福な生活を送りましたが、息子のエホヤキムはそうではありません。17節にあるように、彼の目と心は、自分の利益のことばかり、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことだけに向けられていました。
それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう言われるのです。18節と19節をご覧ください。 「「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。22:19 彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」」
誰も彼の死を悼み悲しむ人はいません。葬式もなければ、国葬も行われないのです。彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められるのです。野ざらしにされたのです。
なんと寂しいことでしょう。でもこの預言の通りになります。ここでエレミヤが預言したとおり、エホヤキムはネブカデネザル王によって送られたカルデア人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊によって殺されることになります。どういうことかというと、人は生きてきたようにしか死ぬことができないということです。あなたがどのように生きたかによって、その死に方も決まります。
ある母親が次のような実話を語っています。
息子が6歳の時でした。教会の礼拝で「世の終わりのラッパ」という讃美歌が歌われました。  「その時我が名も、呼ばれなば必ずあらん。」という歌詞の歌です。
家に帰ると息子が歌詞の意味を知りたいと尋ねてきました。そこで私はこう説明しました。 「学校で、先生が生徒たちの名前を呼んで出席を取るでしょう?それと同じように、天国に行ったら神様も私たちの名前を呼ばれるの。神さまが「パパ・ロジャースさん」。と呼んだら、パパは「はい、ここにいます。」って答えて、「ママ・ロジャースさん。」って読んだら、ママも「はい。ここにいます。」って答えるの。神様が「デニス・ロジャースくん。」って読んだら、あなたも「はい。ここにいます。」とお返事するのよ。」
そんな出来事があってしばらく後に、息子は重い病気にかかってしまいました。様態はどんどん悪くなり、ついに意識もなくなり、何の反応もしなくなりました。そんな状態のある日、突然、息子がはっきりした声で「はい。ここにいます。」と叫んだのです。そして、そのまま息を引き取りました。医師が息子の死亡を確認したときに、私は、ふと、息子が神さまに名前を呼ばれて天に召されたことを悟ったのでした。
黙示録14章13節に、「主にあって死ぬ死者は幸いである」とあります。主にあって死ぬ者は何と幸いでしょうか。私たちも、永遠に価値あるものを求めましょう。私たちはそのために生かされているのですから。あなたが今ここに存在しているのは、あなたを愛し、あなたのためにご自身の命を捨ててくださった神の御子イエス・キリストのすばらしい御業を宣べ伝え、その御心に生きるためなのです。その人生の目的を知り、イエス・キリストにあって目標を目指して走ってまいりたいと思います。

いのちの道か死の道か エレミヤ書21章1~10節 


聖書箇所:エレミヤ書21章1~10節(エレミヤ書講解説教40回目)
タイトル:「いのちの道か死の道か」
きょうは、エレミヤ書21章から「いのちの道か死の道か」というタイトルでお話します。
私たちの人生は、選択の連続です。選択といってもwashingの「洗濯」ではありません。Choiceの「選択」のことです。確かに、人間の力では選択しようがないこともあります。たとえば、誰の下に生まれてくるかとか、そのようなことは選択のしようがありません。それは人間の領域をはるかに超えた出来事です。しかし、私たちが今いる場所とか環境は、そうした選択を積み重ねてきた結果であるということも事実です。瞬間、瞬間、どの道を選ぶかによって、私たちの人生の結末が決まります。
先ほど読んでいただいたエレミヤ21章8節で、主はイスラエルの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。私たちの前には常にいのちの道と死の道が置かれているのです。祝福の道と呪いの道が置かれています。そのどちらかを選ぶかによって結果が決まるのです。
Ⅰ.ゼデキヤ王の懇願(1-2)
まず、1~2節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
主からエレミヤに主のことばがありました。これがどのような状況にあった時かを考えてみましょう。この時エレミヤは絶望のどん底にいました。前回のメッセージで見たように、一度は絶望の中にあったエレミヤは、11節にあるように、しかし、主は私とともにおられるということに気付いたとき、落胆する者から賛美する者へと変えられました。
しかしその後、彼は再び絶望の淵に落とされます。この部分は、前回触れませんでした。それが14~18節にある内容です。「14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16 その人は、【主】があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17 彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18 なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」」
14節でエレミヤは、自分が生まれて来た日をのろっています。「男の子が生まれた」という知らせは、一般的に大きな喜びでした。後継ぎが出来るということですから。それが祭司の家庭であれば、なおさらの事です。しかし、ここではそんな知らせを告げた者は呪われよと言われています。エレミヤはそれほど落ち込んでいたのです。天国から地獄に突き落とされたかのようです。落胆を克服し賛美に満ち溢れるようになったエレミヤの状況とあまりにも違う姿に、聖書学者の中には、この部分はエレミヤが語ったものではなく別の人が語ったことばではないかとか、別の状況で語られたことばがここに挿入されたのではないかと考える人もいるほどですが、そうではありません。絶望を克服したエレミヤが再び絶望の淵に陥ったのです。どういうことですか。つまり、祝福はいつまでも続かないということです。神様の恵みを心から喜びその幸いに浸ったかと思った次の瞬間、どん底に突き落とされるようなことがあるのです。
エレミヤは偉大な預言者ですが、そんなエレミヤでさえこんなに落ち込んだのです。どんなに偉大な人でも落ち込むことがあります。偉大な牧師であろうと、偉大な信仰者であろうと、だれでも落ち込むことがあるのです。エレミヤはまさにそのような絶望のどん底にいたわけです。そのような時、主はエレミヤに語ってくださいました。どん底にあった者に、主はなおも語り続けてくださったのです。ここに深い神様の慰めを感じますね。
神様がいのちを与えてくださったのに、私は生まれてこなければよかったと聞いたら、神様はどんな気持ちになられたでしょう。あなたの息子があなたにそう言ったらどうですか。あなたの娘があなたにそう言ったらどうでしょう。それほど悲しいことはありません。いたたまれない思いになるのではないでしょうか。エレミヤはそれを神に対して言ったのです。造り主に対して「あなたは私をお造りにならなかった方が良かった」と。「どうして私を産んだのですか」「どうして私にいのちを与えたんですか」と。当然、神様は悲しまれたはずです。その心は痛んだでしょう。人間よりも深い痛みを味わられたはずです。それでも主はエレミヤに語ってくださったのです。これはどういうことかというと、どん底にいたエレミヤを神様は用いられたということです。普通ならもう終わりです。役に立ちません。神の預言者としては失格です。もう別の人と交代となるところですが、でも神様はそうされませんでした。なおもみことばを語ってくださいました。
これは私たちにも言えることです。神が私たちを召されたからには、決して私たちを使い捨てにはなさいません。私たちがどんな状態になろうと、一度召された者には最後まで責任を取ってくださいます。ローマ11章28節にはこうあります。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」神の賜物と召命は、変わることはありません。これはミニストリーことだけに言えることではありません。クリスチャンとして召された者も同じです。私たちもエレミヤのように落ち込むことがあります。もうまるで信仰がどこかへ行ってしまったかのような状態になることがある。でも神様はあなたを見捨てるようなことはなさいません。一度召された者は、神が最後まで責任を取ってくださるからです。ピリピ1章6節をご覧ください。ここには「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。すばらしいですね。私たちの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださいます。最後までちゃんと面倒みてくださる。ちゃんと支えてくださるのです。ちゃんと引き上げてくださいます。最後の最後まで完成できるように導いてくださるのです。
だから、エレミヤ書を見るといつも慰められます。私も落ち込むことがあるし、投げ出したくなることもあります。え、牧師でもあるんですかと驚く方もおられるかもしれませんが、私でもあるんです。いつもにこにこして何の問題もなさそうな私が、いつも偉そうに振る舞っている私が、落ち込むことなんて考えられないと思うような私でも、落ち込むことがあるんです。たまに。それはエレミヤだけじゃない、私だけじゃない、だれでも同じように絶望のどん底に陥ることがあります。どんなに偉大な聖徒でも、どんなに立派な牧師でも、どんなに信仰歴が長いクリスチャンでも、落ち込むことがあるのです。
でもそのような時に主がみことばを語ってくださいます。どんなに絶望のどん底にいてもみことばの光が差し込んで来て、みことばが私たちの道の光となり、足のともしびとなって、私たちを引き上げてくださいます。もう一度立ち上がりなさい。わたしの語るみことばを聞きなさい。そしてこれを語りなさいと。主は決してあきらめません。私たちはあきらめてしまいたいという時でも、主は決してあきらめないのです。そしてご自身のみことばを与えて奮い立たせてくださいます。立ち上がらせてくださいます。
では、エレミヤにあった主のことばとは、どのようなものだったでしょうか。その後のところをご覧ください。「ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
ゼデキヤ王とは、南ユダ王国最後の王です。350年ほど続いた南ユダ王国がついに滅んでしまうことになります。バビロンによって。その時の最後の王がこのゼデキヤです。そのゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言いました。「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」
ネブカドネツァルとは、ネブカデネザルのことです。ゼデキヤ王はエレミヤに、バビロンの王ネブカデネザルが自分たちを攻めているので、主がかつて、奇しいみわざを行われたように、彼を自分たちのところから引き上げさせてくれるように祈ってほしいと懇願したのです。
どういうことでしょうか。神様の預言のことばが成就したということです。覚えていらっしゃいますか。神に背き続けるユダの民にエレミヤが滅びのメッセージを語ったとき、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか、彼を殺そうとしました。それでひどく落ち込んでいたエレミヤに、主は慰めのことばを語るんですね。それが15章11節のみことばでした。
 「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
 このことばが今ここに成就したのです。ついにその時がやって来ました。敵が彼にとりなしを頼むようになる時が。ゼデキヤがエレミヤにとりなしを頼んだのです。主が語られたことばは必ず実現します。時間はかかるかもしれませんが必ず成就するのです。これはそのことを物語っているのです。すごいですね。神が語られたことは必ず実現します。私たちはここに希望を置きたいですね。
ところで、ここでゼデキヤは「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き上げさせてほしい」と言っています。この「奇しいみわざ」という言葉は複数形で書かれてありますが、この時彼の脳裏にはある一つの出来事があったのは確かです。それは彼の時代から遡ること100年ほど前にあったあの出来事です。この時と全く同じ状況になったことがありました。アッシリヤの王セナケリブ率いる敵の軍隊を、神が滅ぼされたという出来事です。当時南ユダはヒゼキヤという王が治めていましたが、そのヒゼキヤの下にアッシリヤの将軍ラブ・シャケがやって来てエルサレムを包囲したのです。絶体絶命のピンチでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤのもとに人を遣わしてとりなしの祈りを要請したのです。するとその夜主の使いが出て来て、アッシリヤの陣営で185,000人を打ち殺したのです。まさに神業です。それでアッシリヤの王セナケリブは陣をたたんで去って行ったのです。そういう出来事があったのです。ですからゼデキヤはあの時のように神が奇してみわざを行ってバビロンの王ネブカデネザルから救ってくれるように主にとりなしてほしいと言ったのです。
確かに、状況は非常に似ています。片やアッシリヤによって、片やバビロンによって包囲されたわけですから。でも違うのは、この時ゼデキヤはただ窮地から救ってくれるように願ったのに対して、ヒゼキヤの場合はそれだけではなかったということです。ヒゼキヤは主ご自身を求めました。彼は衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、主に祈りました。彼はただこの窮地から救ってくれるようにというだけでなく、救ってくださる神ご自身を求めたのです。
皆さん、神の助けを求めて祈ることはすばらしいことですが、しかし、もっと重要なことは、そのことを通して神ご自身を求めることです。ゼデキヤは神の助けを求めるだけで神ご自身を求めませんでした。問題の解決を求めても問題を解決してくださる方を求めなかったのです。癒しを求めても癒してくださる方を求めませんでした。自分が欲しいものを求めても与えてくださる方を求めなかったのです。それが叶えられると、「ありがとうございます。もう十分です。あとは自分でやりますから大丈夫です。また必要なときにお願いします。さようなら。」と言って立ち去って行く人のようです。神の奇跡を求めましたが、神との関係を求めませんでした。もう神様しかいない、それで神に助けを求めようとしたのは良かったのですが、彼が求めたのはただそれだけだったのです。使えるものは使っておこうと、まるで神様を駒のように考えていたのです。
私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私のところには毎日のようにとりなしの祈りの要請が届きますが、中にはとりなしを要請するだけで教会に一度も来ないという人もおられます。それはゼデキヤと同じす。ただ問題が解決することだけを求めて、神ご自身を求めていないのです。苦しい時の神頼み、それでいいです。でも神様はそれだけで終わってほしくないのです。神様が願っていることは、そのことを通してあなたが神ご自身を求めること、神との関係を持つことなのです。
Ⅱ.イスラエルと戦われる神(3-7)
それに対して、神はどのように答えたでしょうか。3~7節までをご覧ください。「3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。4 『イスラエルの神、【主】はこう言われる。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲むバビロンの王とカルデア人に向かって戦っているが、見よ、わたしはあなたがたが手にしている武具の向きを変え、それを集めてこの都のただ中に向ける。5 わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。6 この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。7 その後で─【主】のことば─わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」
イスラエルの神、主は、エレミヤを通してゼデキヤに何と言いましたか。「あなたがた」とはユダの民のことです。彼らはバビロンの王と戦っているようだけれども、実際はそうではありませんでした。実際は神ご自身と戦っていたのです。5節にはそのことがはっきり言われています。「わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。」と。どういうことですか。敵はバビロンだと思っていたら、そうではなくて、神ご自身が彼らと戦っておられたのです。
エルサレムに住む者は、人も家畜も神によって打たれることになります。神が彼らに疫病を送られるからです。それは神が送られるものです。もしその疫病を逃れることがあっても、最終的にバビロンの王ネブカデネザルの手によって殺されることになります。それも神がユダの民をさばくために用いられる道具にすぎません。ゼデキヤにとって、あるいは南ユダの人たちにとって脅威となっているのは実はバビロンではなく、神ご自身だったのです。神ご自身が彼らと戦われるのです。5節には「伸ばされた手と力強い腕をもって」という表現がありますが、これはあの出エジプトの時の、神の偉大なるみわざを表現することばです。それと同じ力をもって今、ゼデキヤ王を頭とする南ユダの人々を神ご自身が打ち滅ぼすというのです。
これは驚くべきことです。今まで彼らは自分たちこそ神の民であり、神に祝福されている者だという自負心がありました。ところが、敵はそうした異教の国々ではありませんでした。敵は何と神ご自身であり、神ご自身が彼らと戦われるというのです。神が疫病を送り、神がバビロンを用いて、彼らの背信の罪を、悔い改めない頑なな心を打ち砕かれるのです。勿論、これは破壊が目的なのではありません。完全に滅ぼし尽くすことが目的なのではありません。彼らを矯正するために、そういう目的のために行われるものです。でも彼らはそんなことは絶対ないと高をくくっていました。だって自分たちは神によって選ばれた特別な神の民だから。そんなことは起きない。神のさばきなんてあり得ないと思い込んでいたのです。
このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて救われたのだから、神に裁かれるはずなどないと。皆さん、どうですか。イエス様を信じたら神にさばかれることはないのでしょうか。ありません。ヨハネ5章24節にこのようにあります。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
すばらしい約束ですね。これはイエスさまご自身のことばです。イエスさまのことばを聞いて、イエスさまを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。イエス様を信じたその瞬間に、死からいのちに移っているのです。あなたのすべての罪が赦されたからです。ですから、イエス・キリストを信じる者は永遠のさばきから救われているのです。
ではここで言われているさばきとは何でしょうか。これは永遠のさばきのことではなく、矯正を目的とした懲らしめのことです。いわゆる訓練のことです。へブル12章7節に、この訓練のことが言われています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」いくら言ってもわからない民に対して、父親がその子をスパンク棒を持って懲らしめるように、神は自身の民を訓練されるのです。これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせるためです。そのスパンク棒こそアッシリヤであり、バビロンなのです。でもそれは訓練を目的としたものであって滅ぼすことが目的ではないのです。
ヤコブ4章4節をご覧ください。ここには、「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。ここには世を愛することは神に敵対することだと言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)でも、どんなに神が私たちの味方でも、もし私たちが神に背いてこの世を愛するなら、神に敵対する者となってしまいます。そして神はあなたにもバビロンを遣わすことがあるのです。
だから思い違いをしてはいけません。バビロンが敵なのではなく、神があなたの敵となってあなたと戦われるのです。あの人が敵なのではありません。この人が敵なのでもない。もしあなたがゼデキヤのように世を愛するなら、神はあなたに敵対するということを覚えていただきたいと思います。バビロンであろうと、何であろうと、神はあなたを永遠の滅びから救い出すために、あえてすべてを奪うことがあるのです。
Ⅲ.いのちの道か死の道か(8-10)
ですから第三のことは、いのちの道を選びましょう、ということです。エレミヤは、ゼデキヤ王のとりなしの祈りの要請に対して、このように言いました。8~10節をご覧ください。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ─【主】のことば─。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
主は彼らの前にいのちの道と死の道を置きます。だから、そのどちらかを選ばなければなりません。いのちの道とは、彼らを取り囲んでいるバビロンに降伏して、捕囚の民としてバビロンに引き連れて行かれることです。どうしてそれがいのちの道なのか不思議に思う方もおられるかと思いますが、そうすれば、捕囚の民として生き延びることができるからです。今となってはそれしか生きる道が残されていないからです。一方、死の道とは何か。それは、この都にとどまることです。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬことになります。これが死の道です。
中にはエルサレムに残って最後の最後まで徹底抗戦すべきだと主張する人たちもいました。バビロンに投降したらそれこそ終わりだと。そうすれば、家も仕事も家族も何もかも失ってしまうことになるし、同胞からは裏切り者だと指をさされてしまうことになる。だからバビロンには降伏しないでここに踏みとどまった方がいい。最後まで戦い抜いて、自分たちの力で頑張ろうと。しかし、そういう人たちはどうなりましたか。皆、滅んでしまいました。
バビロンに投降することがいのちの道であり、バビロンに行くことが祝福でした。なぜなら、それが神のことばに従うことだからです。神のことばに従うなら、それが祝福となります。神は捕囚の地でイスラエルの民を再訓練し、彼らに希望を与えようとしておられたのです。たとえそれが狭い門ら入る道であったとしても、それがいのちに至る道なのです。でも広い門から入って行こうとする人が多いのです。それは入りやすく歩きやすいからです。だから、どちらかというと選びやすいのは死の道であり、選びにくいのがいのちの道です。でも私たちは広い門からではなく、狭い門ら入らなければなりません。イエス様も言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14)滅びの道ではなくいのちの道を、のろいではなく祝福を選ばなければなりません。あなたはどちらの道を選びますか。
旧約聖書に登場するダニエルと3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、いのちの道を選びました。彼らはまさにこの時代に生きた人たちですが、この神のことばに従って素直に降伏しバビロンに捕え移されました。彼らは王族と貴族の出身でしたから、その地位や名誉を失いました。でもバビロンに連れて行かれ、そこで不遇な人生を送ったでしょうか。確かに激しい迫害に遭いました。ライオンの穴の中に投げ込まれることもありました。異教の地で信仰者として暮らすことは大変な苦労もありました。でも彼らは神が言う通りバビロンに降伏し、いのちの道を選んだ結果、神のいのちと祝福に与りました。
バビロンに降伏することがのろいなのではありません。バビロンに行くことが死なのではないのです。逆です。バビロンに降伏し、バビロンに行くことがいのちの道であり、祝福です。それは神のことばに従うことだからです。神のことばに従うことが祝福であり、いのちです。人間的な観点では死の道のように見えても、神のことばに従うなら、その先に待っているのはいのちであり祝福なのです。私たちの前には常にいのちか死か、祝福かのろいかの二者択一が求められています。すべての人にこの二者択一という神のあわれみ、神の救いのチャンスが提供されています。私たちは死ではなくいのちを、のろいではなく祝福を選択しなければなりません。その選択の基準が神のことばです。どちらかというと私たちは死の道を選びがちです。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。しかし、狭い門から入らなければなりません。いのちに至る門は狭く、その道は細いからです。狭い門から入りましょう。私たちの前にはいのち道と死の道が置かれていますが、私たちはいのちの道を選択しましょう。その道を選ぶ者こそ、人生の勝利者になれるのです。

生きておられる主 1列王記17章1~24節

聖書箇所:1列王記17章1~24節(旧約P631)
タイトル:「生きておられる主」

 今エレミヤ書から毎週メッセージをしていますが、並行してエリヤの生涯からも学んでいきたいと思います。

皆さんはエリヤという人のことを聞いたことがあるでしょうか。エリヤがどういう人かはわからなくても、その名前を一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。クリスチャンの多くは、自分の子どもに「エリヤ」という名前を付けます。そういう名前をつけるということは、その人がそれだけ立派な人物だからです。ヨシュア記に「アカン」という名前の人が出てきますが、「アカン」という名前を付ける人はあまりいないんじゃないかと思います。

「エリヤ」は、旧約聖書を代表する預言者でした。律法の代表はモーセですが、預言者の代表は間違いなくこのエリヤです。旧約聖書の最後にあるマラキ書には、メシヤが来られる前触れとしてエリヤが来るとあります。イエス様が高い山に登られたとき栄光の姿に変貌しましたが、その時現れたのがモーセとこのエリヤでした。

彼は、北王国イスラエルのアハブ王の時代に活躍した預言者です。その頃イスラエルはアハブの妻のイゼベルというシドン人の女がイスラエルにバアル礼拝を持ち込んだことから、霊的にかなり堕落していました。そんな中でエリヤは、バアルを拝むイスラエルの王アハブに、主は生きておられるということを証するために、神によって遣わされたのです。

 Ⅰ.烏によって養われる主(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」

1節に、エリヤの背景が書かれています。ここには「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤ」とあります。エリヤはティシュベの出身でした。ティシュベというのは、地図を見ていただくと分かりますが、ヨルダン川の東側にあるギルアデという地方にある町です。彼はアハブ王がイゼベルと結婚しバアル神に仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブ王のところにやって来たのです。その距離、約50㎞です。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は、その名のごとく、「ヤハウェは私の神」であるということを示すために、神によって遣わされたのです。

1節をご覧ください。エリヤはアハブに何と伝えましたか。
「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
エリヤがアハブに伝えたことは、「ここ数年の間、露も降らず、雨も降らない。」という神のことばでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルの神を礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルの神は雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神はバアルの専門分野である雨さえも支配することになります。すなわち、バアル以上の神であるということです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味バアルに対する宣戦布告でもあったのです。

現代に生きる私たちも考えなければなりません。何が私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものかを。それは自分の力や自分の家族、自分の友人、あるいはこうした偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神です。エリヤの力の源はここにありました。「ヤハウェこそ私の神」です。この生きておられる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

このことについては、ヤコブ5章16~18節にこう言及されています。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間であったということです。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人、神に信頼して生きている人のことです。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。3~4節をご覧ください。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)
ケリテ川がどこにあるかは、はっきりわかっていません。恐らく、ティシュベの町の北方を流れていた川ではないかと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに身を隠さなければなりませんでした。何のためにですか。それは、主がアハブの手から彼を守るためです。また、このことを通して彼の信仰が養われるためでした。主は、そのような飢饉の中で彼が養われることによって、彼の信仰を強めようとされたのです。主は、どのようにして彼の飢え渇きを満たされたのでしょうか。何と烏によって養われました。

5~6節をご覧ください。「17:5 そこでエリヤは行って、【主】のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。17:6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」
エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。
皆さん、烏というのは、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。そんな烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのは驚くべきことです。これは神様の奇跡なのです。
この「パン」という言葉は、へブル語では「レヘム」という語で、食べ物一般を指すことばです。ですから、実際にはパンだけではなくそこにはナッツとか果物もあったでしょう。卵とか、アイスクリームもあったんじゃないですか。シュークリームとか、いちごのショートケーキもあったかもしれません。神様の方法と配慮には本当に驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神様の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくてもいいのです。神様がちゃんと養ってくださいますから。烏を用いて。

H先生のためにお祈りいただきありがとうございます。7月9日にご自宅でつまずいて倒れてから立ち上がることができず、ずっと介護用ベッドで過ごしておられます。どうぞ先生のために、またご家族のために続けてお祈りください。
その長谷川先生が、何の話か忘れましたが、「さば缶」の話をされたんですよね。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をしておられたんですが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかと、お仕事をお辞めになりました。
さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、特に、毎月17日になると家計が底をつくので、17日という数字が好きじゃないんだとおっしゃっておられましたが、その17日に信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰を持って来てくださいました。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、さば缶と大根を持って来てくださいました。それが美味しく美味しくて、生涯忘れられないとおっしゃっておられました。
皆さん、すばらしいですね、私たちの神様は。私たちが食べるものがなくても、ちゃんと烏を用いて養ってくださいます。何と麗しいお方でしょうか、私たちの主、生けるまことの神様は。

Ⅱ.パンの粉は尽きず、壺の油はなくならない(7-16)

次に、7~16節をご覧ください。私たちの主は生きておられる神であるということを示すために、神はもう一つの奇跡を通してそれを表してくださいました。それがパンの粉は尽きず、壺の油は無くならないという奇跡です。
「7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主はエリヤシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。「ツァレファテ」という町は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。なぜ主はわざわざそんな所まで行くように言われたのでしょうか。

それは、そこにいる一人のやもめを通して彼を養うためでした。やもめによって養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、乞食より多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。もし遣わすのであれば、もっと裕福な人のところに遣わした方がましに決まっています。けれども神は人の考えとは全く違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してご自身が生ける神であることをエリヤに示そうとされたのです。

そして、もっとすごいのは、ここに「シドンのツァレファテ」とありますが、そこがアハブの妻イゼベルの出身地で、異邦人の地、偶像神バアル礼拝の中心地であったということです。

主のことばに従って彼がツァレファテに行ってみるとどうでしょう。ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこで、エリヤは彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」と頼みました。これは、このやもめが、主が言われたあの一人のやもめなのかどうかを確かめるためだったのでしょう。案の定、彼女は好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は「一口のパンも持って来てください。」とお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、ツァレファテは異邦人の地であると申し上げましたが、異邦人の彼女が、「あなたの神、主は生きておられます。」と答えたからです。これは彼女の信仰の告白ともいえるでしょう。彼女は異邦人でありながも、イスラエルの神に対する信仰を持っていたのです。

けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけでした。彼女は今集めている薪で、帰ったら、自分と息子のためにそれで調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

そんな悲惨な状態にあった彼女に、エリヤは何と言いましたか。「それは大変ですね。わかりました。ご冥福をお祈りしています」なんて言わないで、こう言いました。
「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

何ということでしょう。行って、あなたの言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい、と言ったのです。
ここだけみると、「エリヤは、なんて人でなしなんだ」と思われるかも知れません。たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくいことです。人間的に見たら、身勝手でズーズーしいといったらありゃしない、調子のいい話です。いや、何とも残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものですから。もし主の備えてくださるという約束を信じることができなければ。しかし、エリヤはそれを隠すことなく、ストレートに伝えました。なぜなら、イスラエルの神、主が、こう言われたからです。14節の『』のことばをご一緒に読みましょう。
『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』
この神のことばを信じるかどうかです。これは言い換えるなら、こうでしょう。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
神の国とその義とを第一にするなら、それに加えてすべてのものが与えられます。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作って食べさせたら自分たちのものはありません。しかし、主のみことばに従ってそうするなら、これらのものはすべて与えられるのです。主が地の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くなることはありません。信じますか?

さて、結果はどうだったでしょうか。15節をご覧ください。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにすると、彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べることができました。そうです、エリヤを通して主が言われたことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。彼女は神の奇跡を目の当たりにしました。彼女だけではありません。エリヤもそうです。神のことばを伝えたエリヤ自身が一番驚いたかもしれませんね。かつてイスラエルが荒野を旅した40年間天からマナが与えられたように、日ごとに主により頼み、奇蹟を見させていただくことを体験することができたのです。このことによって、主は真実な方であり、必ず、みこころにそった願いを聞いてくださる方であることを確信することができました。

皆さん、私たちも、このやもめのように困窮し、もう生きることかできないと思うほど弱り果てることがあります。自分の心が底をついてしまうことがあるのです。もう奮起することができない。そんな時です。一握りの体力、気力しか無いとしたら、大抵はそれを自分の楽しみのために使うでしょう。せめてもの慰めを得たいと思うからです。でもそれを主に捧げるなら、このやもめのように尽きることのない天からの供給を受けることができます。尽きることのない勇気と力、この世では得ることのできない神の臨在を経験することができるのです。

この「ツァレファテ」という場所は、バアル礼拝の中心地であったと申し上げましたが、バアルは豊穣の神です。でもそこでも干ばつが起こりました。でも主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださいました。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。私たちの主はこの天地万物を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神です。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方が私たちのすべての必要を満たしてくださると信じて、信頼したいと思います。

Ⅲ.いのちを戻される主(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。それは、彼女の息子が病気なり、ついに息を引き取ってしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は生きようとしていた息子が死んでしまったのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。
「彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」」

それに対してエリヤはどうしたでしょうか。エリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とありますが、このことばから、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は、本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りからも、この子が死んでいたことは明らかです。

ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。ヨハネの福音書4章に出てくる王室の役人のようです。彼も息子が病気で死にかかっていた時イエス様のもとに来て、癒されるように必死に祈りました(ヨハネ4:47)。そうです、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。だから、イエス様はこう言われたのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)
それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。24節です。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
それはエリヤだけでなく彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きておられます。生きて私たちのただ中で働いておられるのです。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は確かに応えてくださいます。この主を認め、主に信頼しましょう。主がなさる御業に期待しましょう。主は確かにあなたの中でも働いておられるのです。その主の御名が崇められますように。すべての栄光を主にお返しします。

主は生きておられる 1列王記17章1~24節主は生きておられる 

聖書箇所:1列王記17章1~24節(旧約P631)
タイトル:「主は生きておられる」

 今エレミヤ書から毎週メッセージをしていますが、並行してエリヤの生涯からも学んでいきたいと思います。

皆さんはエリヤという人のことを聞いたことがあるでしょうか。エリヤがどういう人かはわからなくても、その名前を一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。クリスチャンの多くは、自分の子どもに「エリヤ」という名前を付けます。そういう名前をつけるということは、その人がそれだけ立派な人物だからです。ヨシュア記に「アカン」という名前の人が出てきますが、「アカン」という名前を付ける人はあまりいないんじゃないかと思います。

「エリヤ」は、旧約聖書を代表する預言者でした。律法の代表はモーセですが、預言者の代表は間違いなくこのエリヤです。旧約聖書の最後にあるマラキ書には、メシヤが来られる前触れとしてエリヤが来るとあります。イエス様が高い山に登られたとき栄光の姿に変貌しましたが、その時現れたのがモーセとこのエリヤでした。

彼は、北王国イスラエルのアハブ王の時代に活躍した預言者です。その頃イスラエルはアハブの妻のイゼベルというシドン人の女がイスラエルにバアル礼拝を持ち込んだことから、霊的にかなり堕落していました。そんな中でエリヤは、バアルを拝むイスラエルの王アハブに、主は生きておられるということを証するために、神によって遣わされたのです。

 Ⅰ.烏によって養われる主(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」

1節に、エリヤの背景が書かれています。ここには「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤ」とあります。エリヤはティシュベの出身でした。ティシュベというのは、地図を見ていただくと分かりますが、ヨルダン川の東側にあるギルアデという地方にある町です。彼はアハブ王がイゼベルと結婚しバアル神に仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブ王のところにやって来たのです。その距離、約50㎞です。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は、その名のごとく、「ヤハウェは私の神」であるということを示すために、神によって遣わされたのです。

1節をご覧ください。エリヤはアハブに何と伝えましたか。
「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
エリヤがアハブに伝えたことは、「ここ数年の間、露も降らず、雨も降らない。」という神のことばでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルの神を礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルの神は雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神はバアルの専門分野である雨さえも支配することになります。すなわち、バアル以上の神であるということです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味バアルに対する宣戦布告でもあったのです。

現代に生きる私たちも考えなければなりません。何が私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものかを。それは自分の力や自分の家族、自分の友人、あるいはこうした偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神です。エリヤの力の源はここにありました。「ヤハウェこそ私の神」です。この生きておられる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

このことについては、ヤコブ5章16~18節にこう言及されています。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間であったということです。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人、神に信頼して生きている人のことです。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。3~4節をご覧ください。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)
ケリテ川がどこにあるかは、はっきりわかっていません。恐らく、ティシュベの町の北方を流れていた川ではないかと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに身を隠さなければなりませんでした。何のためにですか。それは、主がアハブの手から彼を守るためです。また、このことを通して彼の信仰が養われるためでした。主は、そのような飢饉の中で彼が養われることによって、彼の信仰を強めようとされたのです。主は、どのようにして彼の飢え渇きを満たされたのでしょうか。何と烏によって養われました。

5~6節をご覧ください。「17:5 そこでエリヤは行って、【主】のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。17:6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」
エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。
皆さん、烏というのは、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。そんな烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのは驚くべきことです。これは神様の奇跡なのです。
この「パン」という言葉は、へブル語では「レヘム」という語で、食べ物一般を指すことばです。ですから、実際にはパンだけではなくそこにはナッツとか果物もあったでしょう。卵とか、アイスクリームもあったんじゃないですか。シュークリームとか、いちごのショートケーキもあったかもしれません。神様の方法と配慮には本当に驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神様の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくてもいいのです。神様がちゃんと養ってくださいますから。烏を用いて。

H先生のためにお祈りいただきありがとうございます。7月9日にご自宅でつまずいて倒れてから立ち上がることができず、ずっと介護用ベッドで過ごしておられます。どうぞ先生のために、またご家族のために続けてお祈りください。
その長谷川先生が、何の話か忘れましたが、「さば缶」の話をされたんですよね。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をしておられたんですが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかと、お仕事をお辞めになりました。
さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、特に、毎月17日になると家計が底をつくので、17日という数字が好きじゃないんだとおっしゃっておられましたが、その17日に信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰を持って来てくださいました。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、さば缶と大根を持って来てくださいました。それが美味しく美味しくて、生涯忘れられないとおっしゃっておられました。
皆さん、すばらしいですね、私たちの神様は。私たちが食べるものがなくても、ちゃんと烏を用いて養ってくださいます。何と麗しいお方でしょうか、私たちの主、生けるまことの神様は。

Ⅱ.パンの粉は尽きず、壺の油はなくならない(7-16)

次に、7~16節をご覧ください。私たちの主は生きておられる神であるということを示すために、神はもう一つの奇跡を通してそれを表してくださいました。それがパンの粉は尽きず、壺の油は無くならないという奇跡です。
「7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主はエリヤシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。「ツァレファテ」という町は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。なぜ主はわざわざそんな所まで行くように言われたのでしょうか。

それは、そこにいる一人のやもめを通して彼を養うためでした。やもめによって養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、乞食より多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。もし遣わすのであれば、もっと裕福な人のところに遣わした方がましに決まっています。けれども神は人の考えとは全く違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してご自身が生ける神であることをエリヤに示そうとされたのです。

そして、もっとすごいのは、ここに「シドンのツァレファテ」とありますが、そこがアハブの妻イゼベルの出身地で、異邦人の地、偶像神バアル礼拝の中心地であったということです。

主のことばに従って彼がツァレファテに行ってみるとどうでしょう。ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこで、エリヤは彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」と頼みました。これは、このやもめが、主が言われたあの一人のやもめなのかどうかを確かめるためだったのでしょう。案の定、彼女は好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は「一口のパンも持って来てください。」とお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、ツァレファテは異邦人の地であると申し上げましたが、異邦人の彼女が、「あなたの神、主は生きておられます。」と答えたからです。これは彼女の信仰の告白ともいえるでしょう。彼女は異邦人でありながも、イスラエルの神に対する信仰を持っていたのです。

けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけでした。彼女は今集めている薪で、帰ったら、自分と息子のためにそれで調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

そんな悲惨な状態にあった彼女に、エリヤは何と言いましたか。「それは大変ですね。わかりました。ご冥福をお祈りしています」なんて言わないで、こう言いました。
「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

何ということでしょう。行って、あなたの言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい、と言ったのです。
ここだけみると、「エリヤは、なんて人でなしなんだ」と思われるかも知れません。たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくいことです。人間的に見たら、身勝手でズーズーしいといったらありゃしない、調子のいい話です。いや、何とも残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものですから。もし主の備えてくださるという約束を信じることができなければ。しかし、エリヤはそれを隠すことなく、ストレートに伝えました。なぜなら、イスラエルの神、主が、こう言われたからです。14節の『』のことばをご一緒に読みましょう。
『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』
この神のことばを信じるかどうかです。これは言い換えるなら、こうでしょう。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
神の国とその義とを第一にするなら、それに加えてすべてのものが与えられます。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作って食べさせたら自分たちのものはありません。しかし、主のみことばに従ってそうするなら、これらのものはすべて与えられるのです。主が地の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くなることはありません。信じますか?

さて、結果はどうだったでしょうか。15節をご覧ください。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにすると、彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べることができました。そうです、エリヤを通して主が言われたことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。彼女は神の奇跡を目の当たりにしました。彼女だけではありません。エリヤもそうです。神のことばを伝えたエリヤ自身が一番驚いたかもしれませんね。かつてイスラエルが荒野を旅した40年間天からマナが与えられたように、日ごとに主により頼み、奇蹟を見させていただくことを体験することができたのです。このことによって、主は真実な方であり、必ず、みこころにそった願いを聞いてくださる方であることを確信することができました。

皆さん、私たちも、このやもめのように困窮し、もう生きることかできないと思うほど弱り果てることがあります。自分の心が底をついてしまうことがあるのです。もう奮起することができない。そんな時です。一握りの体力、気力しか無いとしたら、大抵はそれを自分の楽しみのために使うでしょう。せめてもの慰めを得たいと思うからです。でもそれを主に捧げるなら、このやもめのように尽きることのない天からの供給を受けることができます。尽きることのない勇気と力、この世では得ることのできない神の臨在を経験することができるのです。

この「ツァレファテ」という場所は、バアル礼拝の中心地であったと申し上げましたが、バアルは豊穣の神です。でもそこでも干ばつが起こりました。でも主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださいました。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。私たちの主はこの天地万物を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神です。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方が私たちのすべての必要を満たしてくださると信じて、信頼したいと思います。

Ⅲ.いのちを戻される主(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。それは、彼女の息子が病気なり、ついに息を引き取ってしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は生きようとしていた息子が死んでしまったのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。
「彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」」

それに対してエリヤはどうしたでしょうか。エリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とありますが、このことばから、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は、本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りからも、この子が死んでいたことは明らかです。

ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。ヨハネの福音書4章に出てくる王室の役人のようです。彼も息子が病気で死にかかっていた時イエス様のもとに来て、癒されるように必死に祈りました(ヨハネ4:47)。そうです、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。だから、イエス様はこう言われたのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)
それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。24節です。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
それはエリヤだけでなく彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きておられます。生きて私たちのただ中で働いておられるのです。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は確かに応えてくださいます。この主を認め、主に信頼しましょう。主がなさる御業に期待しましょう。主は確かにあなたの中でも働いておられるのです。その主の御名が崇められますように。すべての栄光を主にお返しします。

いのちの道か死の道か エレミヤ書21章1~10節いのちの道か死の道か 


聖書箇所:エレミヤ書21章1~10節(エレミヤ書講解説教40回目)
タイトル:「いのちの道か死の道か」
きょうは、エレミヤ書21章から「いのちの道か死の道か」というタイトルでお話します。
私たちの人生は、選択の連続です。選択といってもwashingの「洗濯」ではありません。Choiceの「選択」のことです。確かに、人間の力では選択しようがないこともあります。たとえば、誰の下に生まれてくるかとか、そのようなことは選択のしようがありません。それは人間の領域をはるかに超えた出来事です。しかし、私たちが今いる場所とか環境は、そうした選択を積み重ねてきた結果であるということも事実です。瞬間、瞬間、どの道を選ぶかによって、私たちの人生の結末が決まります。
先ほど読んでいただいたエレミヤ21章8節で、主はイスラエルの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。私たちの前には常にいのちの道と死の道が置かれているのです。祝福の道と呪いの道が置かれています。そのどちらかを選ぶかによって結果が決まるのです。
Ⅰ.ゼデキヤ王の懇願(1-2)
まず、1~2節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
主からエレミヤに主のことばがありました。これがどのような状況にあった時かを考えてみましょう。この時エレミヤは絶望のどん底にいました。前回のメッセージで見たように、一度は絶望の中にあったエレミヤは、11節にあるように、しかし、主は私とともにおられるということに気付いたとき、落胆する者から賛美する者へと変えられました。
しかしその後、彼は再び絶望の淵に落とされます。この部分は、前回触れませんでした。それが14~18節にある内容です。「14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16 その人は、【主】があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17 彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18 なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」」
14節でエレミヤは、自分が生まれて来た日をのろっています。「男の子が生まれた」という知らせは、一般的に大きな喜びでした。後継ぎが出来るということですから。それが祭司の家庭であれば、なおさらの事です。しかし、ここではそんな知らせを告げた者は呪われよと言われています。エレミヤはそれほど落ち込んでいたのです。天国から地獄に突き落とされたかのようです。落胆を克服し賛美に満ち溢れるようになったエレミヤの状況とあまりにも違う姿に、聖書学者の中には、この部分はエレミヤが語ったものではなく別の人が語ったことばではないかとか、別の状況で語られたことばがここに挿入されたのではないかと考える人もいるほどですが、そうではありません。絶望を克服したエレミヤが再び絶望の淵に陥ったのです。どういうことですか。つまり、祝福はいつまでも続かないということです。神様の恵みを心から喜びその幸いに浸ったかと思った次の瞬間、どん底に突き落とされるようなことがあるのです。
エレミヤは偉大な預言者ですが、そんなエレミヤでさえこんなに落ち込んだのです。どんなに偉大な人でも落ち込むことがあります。偉大な牧師であろうと、偉大な信仰者であろうと、だれでも落ち込むことがあるのです。エレミヤはまさにそのような絶望のどん底にいたわけです。そのような時、主はエレミヤに語ってくださいました。どん底にあった者に、主はなおも語り続けてくださったのです。ここに深い神様の慰めを感じますね。
神様がいのちを与えてくださったのに、私は生まれてこなければよかったと聞いたら、神様はどんな気持ちになられたでしょう。あなたの息子があなたにそう言ったらどうですか。あなたの娘があなたにそう言ったらどうでしょう。それほど悲しいことはありません。いたたまれない思いになるのではないでしょうか。エレミヤはそれを神に対して言ったのです。造り主に対して「あなたは私をお造りにならなかった方が良かった」と。「どうして私を産んだのですか」「どうして私にいのちを与えたんですか」と。当然、神様は悲しまれたはずです。その心は痛んだでしょう。人間よりも深い痛みを味わられたはずです。それでも主はエレミヤに語ってくださったのです。これはどういうことかというと、どん底にいたエレミヤを神様は用いられたということです。普通ならもう終わりです。役に立ちません。神の預言者としては失格です。もう別の人と交代となるところですが、でも神様はそうされませんでした。なおもみことばを語ってくださいました。
これは私たちにも言えることです。神が私たちを召されたからには、決して私たちを使い捨てにはなさいません。私たちがどんな状態になろうと、一度召された者には最後まで責任を取ってくださいます。ローマ11章28節にはこうあります。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」神の賜物と召命は、変わることはありません。これはミニストリーことだけに言えることではありません。クリスチャンとして召された者も同じです。私たちもエレミヤのように落ち込むことがあります。もうまるで信仰がどこかへ行ってしまったかのような状態になることがある。でも神様はあなたを見捨てるようなことはなさいません。一度召された者は、神が最後まで責任を取ってくださるからです。ピリピ1章6節をご覧ください。ここには「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。すばらしいですね。私たちの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださいます。最後までちゃんと面倒みてくださる。ちゃんと支えてくださるのです。ちゃんと引き上げてくださいます。最後の最後まで完成できるように導いてくださるのです。
だから、エレミヤ書を見るといつも慰められます。私も落ち込むことがあるし、投げ出したくなることもあります。え、牧師でもあるんですかと驚く方もおられるかもしれませんが、私でもあるんです。いつもにこにこして何の問題もなさそうな私が、いつも偉そうに振る舞っている私が、落ち込むことなんて考えられないと思うような私でも、落ち込むことがあるんです。たまに。それはエレミヤだけじゃない、私だけじゃない、だれでも同じように絶望のどん底に陥ることがあります。どんなに偉大な聖徒でも、どんなに立派な牧師でも、どんなに信仰歴が長いクリスチャンでも、落ち込むことがあるのです。
でもそのような時に主がみことばを語ってくださいます。どんなに絶望のどん底にいてもみことばの光が差し込んで来て、みことばが私たちの道の光となり、足のともしびとなって、私たちを引き上げてくださいます。もう一度立ち上がりなさい。わたしの語るみことばを聞きなさい。そしてこれを語りなさいと。主は決してあきらめません。私たちはあきらめてしまいたいという時でも、主は決してあきらめないのです。そしてご自身のみことばを与えて奮い立たせてくださいます。立ち上がらせてくださいます。
では、エレミヤにあった主のことばとは、どのようなものだったでしょうか。その後のところをご覧ください。「ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」
ゼデキヤ王とは、南ユダ王国最後の王です。350年ほど続いた南ユダ王国がついに滅んでしまうことになります。バビロンによって。その時の最後の王がこのゼデキヤです。そのゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言いました。「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」
ネブカドネツァルとは、ネブカデネザルのことです。ゼデキヤ王はエレミヤに、バビロンの王ネブカデネザルが自分たちを攻めているので、主がかつて、奇しいみわざを行われたように、彼を自分たちのところから引き上げさせてくれるように祈ってほしいと懇願したのです。
どういうことでしょうか。神様の預言のことばが成就したということです。覚えていらっしゃいますか。神に背き続けるユダの民にエレミヤが滅びのメッセージを語ったとき、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか、彼を殺そうとしました。それでひどく落ち込んでいたエレミヤに、主は慰めのことばを語るんですね。それが15章11節のみことばでした。
 「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
 このことばが今ここに成就したのです。ついにその時がやって来ました。敵が彼にとりなしを頼むようになる時が。ゼデキヤがエレミヤにとりなしを頼んだのです。主が語られたことばは必ず実現します。時間はかかるかもしれませんが必ず成就するのです。これはそのことを物語っているのです。すごいですね。神が語られたことは必ず実現します。私たちはここに希望を置きたいですね。
ところで、ここでゼデキヤは「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き上げさせてほしい」と言っています。この「奇しいみわざ」という言葉は複数形で書かれてありますが、この時彼の脳裏にはある一つの出来事があったのは確かです。それは彼の時代から遡ること100年ほど前にあったあの出来事です。この時と全く同じ状況になったことがありました。アッシリヤの王セナケリブ率いる敵の軍隊を、神が滅ぼされたという出来事です。当時南ユダはヒゼキヤという王が治めていましたが、そのヒゼキヤの下にアッシリヤの将軍ラブ・シャケがやって来てエルサレムを包囲したのです。絶体絶命のピンチでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤのもとに人を遣わしてとりなしの祈りを要請したのです。するとその夜主の使いが出て来て、アッシリヤの陣営で185,000人を打ち殺したのです。まさに神業です。それでアッシリヤの王セナケリブは陣をたたんで去って行ったのです。そういう出来事があったのです。ですからゼデキヤはあの時のように神が奇してみわざを行ってバビロンの王ネブカデネザルから救ってくれるように主にとりなしてほしいと言ったのです。
確かに、状況は非常に似ています。片やアッシリヤによって、片やバビロンによって包囲されたわけですから。でも違うのは、この時ゼデキヤはただ窮地から救ってくれるように願ったのに対して、ヒゼキヤの場合はそれだけではなかったということです。ヒゼキヤは主ご自身を求めました。彼は衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、主に祈りました。彼はただこの窮地から救ってくれるようにというだけでなく、救ってくださる神ご自身を求めたのです。
皆さん、神の助けを求めて祈ることはすばらしいことですが、しかし、もっと重要なことは、そのことを通して神ご自身を求めることです。ゼデキヤは神の助けを求めるだけで神ご自身を求めませんでした。問題の解決を求めても問題を解決してくださる方を求めなかったのです。癒しを求めても癒してくださる方を求めませんでした。自分が欲しいものを求めても与えてくださる方を求めなかったのです。それが叶えられると、「ありがとうございます。もう十分です。あとは自分でやりますから大丈夫です。また必要なときにお願いします。さようなら。」と言って立ち去って行く人のようです。神の奇跡を求めましたが、神との関係を求めませんでした。もう神様しかいない、それで神に助けを求めようとしたのは良かったのですが、彼が求めたのはただそれだけだったのです。使えるものは使っておこうと、まるで神様を駒のように考えていたのです。
私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私のところには毎日のようにとりなしの祈りの要請が届きますが、中にはとりなしを要請するだけで教会に一度も来ないという人もおられます。それはゼデキヤと同じす。ただ問題が解決することだけを求めて、神ご自身を求めていないのです。苦しい時の神頼み、それでいいです。でも神様はそれだけで終わってほしくないのです。神様が願っていることは、そのことを通してあなたが神ご自身を求めること、神との関係を持つことなのです。
Ⅱ.イスラエルと戦われる神(3-7)
それに対して、神はどのように答えたでしょうか。3~7節までをご覧ください。「3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。4 『イスラエルの神、【主】はこう言われる。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲むバビロンの王とカルデア人に向かって戦っているが、見よ、わたしはあなたがたが手にしている武具の向きを変え、それを集めてこの都のただ中に向ける。5 わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。6 この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。7 その後で─【主】のことば─わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」
イスラエルの神、主は、エレミヤを通してゼデキヤに何と言いましたか。「あなたがた」とはユダの民のことです。彼らはバビロンの王と戦っているようだけれども、実際はそうではありませんでした。実際は神ご自身と戦っていたのです。5節にはそのことがはっきり言われています。「わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。」と。どういうことですか。敵はバビロンだと思っていたら、そうではなくて、神ご自身が彼らと戦っておられたのです。
エルサレムに住む者は、人も家畜も神によって打たれることになります。神が彼らに疫病を送られるからです。それは神が送られるものです。もしその疫病を逃れることがあっても、最終的にバビロンの王ネブカデネザルの手によって殺されることになります。それも神がユダの民をさばくために用いられる道具にすぎません。ゼデキヤにとって、あるいは南ユダの人たちにとって脅威となっているのは実はバビロンではなく、神ご自身だったのです。神ご自身が彼らと戦われるのです。5節には「伸ばされた手と力強い腕をもって」という表現がありますが、これはあの出エジプトの時の、神の偉大なるみわざを表現することばです。それと同じ力をもって今、ゼデキヤ王を頭とする南ユダの人々を神ご自身が打ち滅ぼすというのです。
これは驚くべきことです。今まで彼らは自分たちこそ神の民であり、神に祝福されている者だという自負心がありました。ところが、敵はそうした異教の国々ではありませんでした。敵は何と神ご自身であり、神ご自身が彼らと戦われるというのです。神が疫病を送り、神がバビロンを用いて、彼らの背信の罪を、悔い改めない頑なな心を打ち砕かれるのです。勿論、これは破壊が目的なのではありません。完全に滅ぼし尽くすことが目的なのではありません。彼らを矯正するために、そういう目的のために行われるものです。でも彼らはそんなことは絶対ないと高をくくっていました。だって自分たちは神によって選ばれた特別な神の民だから。そんなことは起きない。神のさばきなんてあり得ないと思い込んでいたのです。
このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて救われたのだから、神に裁かれるはずなどないと。皆さん、どうですか。イエス様を信じたら神にさばかれることはないのでしょうか。ありません。ヨハネ5章24節にこのようにあります。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
すばらしい約束ですね。これはイエスさまご自身のことばです。イエスさまのことばを聞いて、イエスさまを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。イエス様を信じたその瞬間に、死からいのちに移っているのです。あなたのすべての罪が赦されたからです。ですから、イエス・キリストを信じる者は永遠のさばきから救われているのです。
ではここで言われているさばきとは何でしょうか。これは永遠のさばきのことではなく、矯正を目的とした懲らしめのことです。いわゆる訓練のことです。へブル12章7節に、この訓練のことが言われています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」いくら言ってもわからない民に対して、父親がその子をスパンク棒を持って懲らしめるように、神は自身の民を訓練されるのです。これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせるためです。そのスパンク棒こそアッシリヤであり、バビロンなのです。でもそれは訓練を目的としたものであって滅ぼすことが目的ではないのです。
ヤコブ4章4節をご覧ください。ここには、「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。ここには世を愛することは神に敵対することだと言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)でも、どんなに神が私たちの味方でも、もし私たちが神に背いてこの世を愛するなら、神に敵対する者となってしまいます。そして神はあなたにもバビロンを遣わすことがあるのです。
だから思い違いをしてはいけません。バビロンが敵なのではなく、神があなたの敵となってあなたと戦われるのです。あの人が敵なのではありません。この人が敵なのでもない。もしあなたがゼデキヤのように世を愛するなら、神はあなたに敵対するということを覚えていただきたいと思います。バビロンであろうと、何であろうと、神はあなたを永遠の滅びから救い出すために、あえてすべてを奪うことがあるのです。
Ⅲ.いのちの道か死の道か(8-10)
ですから第三のことは、いのちの道を選びましょう、ということです。エレミヤは、ゼデキヤ王のとりなしの祈りの要請に対して、このように言いました。8~10節をご覧ください。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ─【主】のことば─。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
主は彼らの前にいのちの道と死の道を置きます。だから、そのどちらかを選ばなければなりません。いのちの道とは、彼らを取り囲んでいるバビロンに降伏して、捕囚の民としてバビロンに引き連れて行かれることです。どうしてそれがいのちの道なのか不思議に思う方もおられるかと思いますが、そうすれば、捕囚の民として生き延びることができるからです。今となってはそれしか生きる道が残されていないからです。一方、死の道とは何か。それは、この都にとどまることです。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬことになります。これが死の道です。
中にはエルサレムに残って最後の最後まで徹底抗戦すべきだと主張する人たちもいました。バビロンに投降したらそれこそ終わりだと。そうすれば、家も仕事も家族も何もかも失ってしまうことになるし、同胞からは裏切り者だと指をさされてしまうことになる。だからバビロンには降伏しないでここに踏みとどまった方がいい。最後まで戦い抜いて、自分たちの力で頑張ろうと。しかし、そういう人たちはどうなりましたか。皆、滅んでしまいました。
バビロンに投降することがいのちの道であり、バビロンに行くことが祝福でした。なぜなら、それが神のことばに従うことだからです。神のことばに従うなら、それが祝福となります。神は捕囚の地でイスラエルの民を再訓練し、彼らに希望を与えようとしておられたのです。たとえそれが狭い門ら入る道であったとしても、それがいのちに至る道なのです。でも広い門から入って行こうとする人が多いのです。それは入りやすく歩きやすいからです。だから、どちらかというと選びやすいのは死の道であり、選びにくいのがいのちの道です。でも私たちは広い門からではなく、狭い門ら入らなければなりません。イエス様も言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14)滅びの道ではなくいのちの道を、のろいではなく祝福を選ばなければなりません。あなたはどちらの道を選びますか。
旧約聖書に登場するダニエルと3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、いのちの道を選びました。彼らはまさにこの時代に生きた人たちですが、この神のことばに従って素直に降伏しバビロンに捕え移されました。彼らは王族と貴族の出身でしたから、その地位や名誉を失いました。でもバビロンに連れて行かれ、そこで不遇な人生を送ったでしょうか。確かに激しい迫害に遭いました。ライオンの穴の中に投げ込まれることもありました。異教の地で信仰者として暮らすことは大変な苦労もありました。でも彼らは神が言う通りバビロンに降伏し、いのちの道を選んだ結果、神のいのちと祝福に与りました。
バビロンに降伏することがのろいなのではありません。バビロンに行くことが死なのではないのです。逆です。バビロンに降伏し、バビロンに行くことがいのちの道であり、祝福です。それは神のことばに従うことだからです。神のことばに従うことが祝福であり、いのちです。人間的な観点では死の道のように見えても、神のことばに従うなら、その先に待っているのはいのちであり祝福なのです。私たちの前には常にいのちか死か、祝福かのろいかの二者択一が求められています。すべての人にこの二者択一という神のあわれみ、神の救いのチャンスが提供されています。私たちは死ではなくいのちを、のろいではなく祝福を選択しなければなりません。その選択の基準が神のことばです。どちらかというと私たちは死の道を選びがちです。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。しかし、狭い門から入らなければなりません。いのちに至る門は狭く、その道は細いからです。狭い門から入りましょう。私たちの前にはいのち道と死の道が置かれていますが、私たちはいのちの道を選択しましょう。その道を選ぶ者こそ、人生の勝利者になれるのです。

ヨシュア記18章


聖書箇所:ヨシュア記18章

きょうはヨシュア記18章から学びたいと思います。

 Ⅰ.新たな拠点シロ(1-2)

 まず、1~2節をご覧ください。「18:1 イスラエルの子らの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らに服していたが、18:2 イスラエルの子らの中に、相続地を割り当てられていない七部族が残っていた。」

16章、17章には、エフライム族とマナセ族、すなわちヨセフ族に与えられた相続地の割り当てについて記されてありました。この18章には、まだ相続地を割り当てられていない7つの部族の相続について記されてあります。1節には、イスラエルの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕が建てられたとあります。これまでイスラエルのカナン侵略の拠点はギルガルでした。その拠点をシロに移したのです。なぜでしょうか。会見の幕屋とは、その中に契約の箱が置かれてあり、神ご自身が自らを現わされる所です。それはイスラエルの民にとって最も重要な所でした。というのは、イスラエルは単なる民族主義的な共同体ではなく、創造主なる神を中心とした宗教的共同体であったからです。そのシンボルとしての幕屋をシロに建てたというのは、そこがイスラエルの中心となることを意味していました。シロはエフライムの土地にあり、イスラエルのほぼ真ん中に位置していました。そこに幕屋を建てたのは、1節に「この地は彼らによって征服されていた」とあるように、イスラエルのカナン侵攻がある程度区切りがついたからです。それで、約束の地の端にあったエリコの隣にあったギルガルから、全体の中心であったシロに本拠地を移したのです。そしてそこに12部族の中心となるべく会見の幕屋を建てることで、さらに一致団結して神の約束の実現に向かっていこうとしたのです。

Ⅱ.七つの部族への相続地の割り当て(3-10)

次に、3~10節までをご覧ください。「18:3 ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「あなたがたの父祖の神、【主】があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。18:4 部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。18:5 彼ら自身でそれを七つの割り当て地に分割しなさい。ユダは南にある自分の地域にとどまり、ヨセフの家は北にある自分の地域にとどまる。18:6 あなたがたはその地の七つの割り当て地を書き記し、私のところに持って来なさい。私はここで、私たちの神、【主】の前で、あなたがたのためにくじを引こう。18:7 しかし、レビ人はあなたがたの間に割り当て地を持たない。【主】の祭司として仕えることが彼らへのゆずりだからである。ガドとルベンと、マナセの半部族は、ヨルダンの川向こう、東の方で自分たちの相続地を受けている。【主】のしもべモーセが彼らに与えたものである。」18:8 その人たちは立って出て行った。その際ヨシュアは、その地について書き記すために出て行く者たちに命じた。「さあ、あなたがたはその地を行き巡り、その地について書き記し、私のところに帰って来なさい。ここシロで、【主】の前で、私はあなたがたのためにくじを引こう。」18:9 その人たちは行って、その地を巡り、それぞれの町を七つの割り当て地に分けて書物に書き記し、シロの宿営にいるヨシュアのもとに来た。18:10 ヨシュアはシロで、すなわち【主】の前で、彼らのためにくじを引いた。ヨシュアはそこで、彼らへの割り当てにしたがって、その地をイスラエルの子らに分割した。」

ところが、2節を見ると、まだ自分たちの相続地が割り当てられていない部族が7つ残っていました。7つの部族というのは、ヨルダン川の東側の地を相続したガド族とルベン族とマナセの半部族に、ヨルダン川の西側で既に相続したユダ族とエフライム族、マナセの半部族の5つの部族を除いた7つの部族です。彼らは自分たちの割り当て地を受け取っていましたが、その地に進んで行くのをためらっていたのです。彼らはこれまでヨシュアの指導の下勇敢に戦って来たのに、なぜ自分たちの相続地を受け取る段階になって与えられた地を占領しに行くのをためらっていたのでしょうか。確かに、カナンの地を相続することは彼らにとっては待ち望んでいた夢でしたが、現実的には色々と困難がありました。前回のところでも、ヨセフ族がヨシュアのところにやって来て、「谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」(17:16)と言ったように、敵の数の多さや装備を見て恐れ、なかなか出て行けなかったのでしょう。今すぐやらなくてもしばらくは大丈夫、カナンの地の主なところは手に入れたのでしばらくは様子を見ようと、主から与えられた使命に対して踏み出すのを先延ばしにしていたのです。

そんな7つの部族に対して、ヨシュアはこう言いました。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのですか。」(3)神はすでにこの地を彼らに与えておられるのになぜその命令に従い取り組もうとしなかったのでしょうか。それは彼らが無力だったからではありません。あるいは遠慮深かったからでもありません。それは、彼らに全能の神により頼む信仰がなかったからです。生きて働いておられる主を正しい目をもって見上げていなかったので、目の前にある課題を否定的にばかりとらえ、その歩みが止まっていたのです。それはあのヨセフ族の言い訳と同じです。ヨセフ族もヨシュアのところに来てこう言い訳しました。「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」(17:18)
その地は、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えた地です。つまり、その地は神の一方的な恵みによって与えられた地なのです。そのような恵みを受けた者として神が私たちに求めておられることは、神が共にいて働いてくださることを信じて従うことです。神に信頼して神の御業に取り組まなければなりません。神の恵みによって救われた私たちは、神とともに働く者であり、神の御業を行い神の使命を果たしていかなければならないのです。

いったいどのように取り組んで行ったらいいのでしょうか。4節をみると、ヨシュアは「部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。」と言っています。7つの部族から3人ずつを選び出しまだ割り当てられていない地を行き巡らせ、彼らにその相続地のことを書き記してもらい、それをヨシュアのところに持って来らせます。そしてその地を7つの割り当て地に分割し、主の前でくじを引きます。

ここには、何回も繰り返して、それを書き記すようにと命じられています。(4、6、8、9)何回も繰り返して書かれているということは、それだけ重要なことであるということです。それは彼らを信仰による行動へと突き動かすためでした。たらたらして手足の動きが止まっている彼らにもう一度約束の地を見て来させ、そこにどんな町々があるのか、改めて主が約束して下さっているものを細かく調べさせることによって、本来自分たちが取り組むべき仕事に着手できるように駆り立てるためだったのです。そのためには、彼らが獲得しようとしている地がどのような所で、そのためには誰と戦わなければならないのかということを具体的に書き記す必要がありました。そのようにすることで、より行動に移すことができるからです。彼らはその地を行き巡りそれを7つの割り当て地に分割しそれを実際に書き記すことによって、神に信頼して出て行く勇気が与えられたのです。

私たちはどうでしょうか。この7部族のように主は素晴らしい祝福を用意しておられるのに適当なところで満足し、信仰の歩みをストップしていることはないでしょうか。確かに主に従う生活には戦いがあります。イスラエルの行く先にもなお敵がいましたし、他の課題もありました。しかしそこで問われていることはその困難さを人間的に計算して難しそうだからやめようというのではなく、主に信頼する者を主は必ず助けて下さると信頼して、どのような中でも御言葉に従うことを何よりも大切にして進み行くことなのです。何よりも心に留めたいことは、1節でみたように、主は私たちのただ中にいることを覚えることです。主はご自身の約束のとおりに、私たちをこの地に導いてくださいました。そして、私たちとともにいると約束してくださいました。この主に信頼して、主が導いてくださる地がどのような所なのかを行き巡り、それを心に刻みたいと思います。主に従う歩みには常に困難はあるでしょうが、しかし、共にいて下さる主が、その歩みを助け、それを乗り越えることができるように導いて下さいます。その主により頼んで、困難も乗り越えさせて頂いて、主が用意下さっている祝福を十分に受け取り、主の御名があがめられるような歩みを続けていきたいものです。

Ⅲ.ベニヤミン族の割り当て地(11-28)

次に、11~28節までをご覧ください。「18:11 ベニヤミン部族の諸氏族のくじが引かれた。くじで当たった彼らの地域はユダ族とヨセフ族の間にあった。18:12 北側の境界線はヨルダン川から始まる。その境界線はエリコの北の傾斜地に上り、西の方へ山地を上る。その終わりはベテ・アベンの荒野である。18:13 さらに境界線はそこからルズに向かい、ルズの南の傾斜地を過ぎる。ルズはベテルである。それから境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルを下る。18:14 さらに境界線は折れ、西側を、ベテ・ホロンの南向かいの山から南へ回る。その終わりはユダ族の町キルヤテ・バアル、すなわちキルヤテ・エアリムである。これが西側である。18:15 南側はキルヤテ・エアリムの外れを起点とする。その境界線は西に出て、メ・ネフトアハの泉に出る。18:16 さらに境界線は、レファイムの谷間にあるベン・ヒノムの谷を北から見下ろす山の外れへ下り、ヒノムの谷をエブスの南の傾斜地に下り、エン・ロゲルを下り、18:17 北の方に折れ、エン・シェメシュに出て、アドミムの坂の反対側にあるゲリロテに出て、ルベンの子ボハンの石に下り、18:18 アラバに面する傾斜地を北へ進み、アラバに下る。18:19 そして境界線はベテ・ホグラの傾斜地を北へ進む。境界線の終わりは塩の海の北の入江、ヨルダン川の南端である。これが南の境界である。18:20 ヨルダン川が東側の境界線である。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地であり、その周囲の境界線である。18:21 ベニヤミン部族の諸氏族の町々はエリコ、ベテ・ホグラ、エメク・ケツィツ、18:22 ベテ・ハ・アラバ、ツェマライム、ベテル、18:23 アビム、パラ、オフラ、18:24 ケファル・ハ・アンモニ、オフニ、ゲバ。十二の町とその村々。18:25 ギブオン、ラマ、ベエロテ、18:26 ミツパ、ケフィラ、モツァ、18:27 レケム、イルペエル、タルアラ、18:28 ツェラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギブア、キルヤテ。十四の町とその村々。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地である。」

11節以降は、その7つの部族の内、まずベニヤミン族の割り当て地について記しています。11節にあるように、彼らの地域は、南はユダ族、北はヨセフ族(マナセ族)の間の地域でした。その境界線は、12~20節に記されてあります。そして、そこにある町々が21節から記されています。前半の21~24節は東側の町々で、全部で12の町と、それに属する村落です。25~28節は西側の町々で、全部で 14の町と、それに属する村落です。

こうやってみると、ベニヤミン族に与えられたのは極めて小さな領土でした。それは、ベニヤミン族がイスラエルの12部族の中でも、最も小さな部族であったことによります。彼らはその人数、部族の小ささによって、ほんのわずかの領地しか与えられなかったのです。しかし、この割り当てられた領土をみると、そこには重要な場所が含まれていることに気付きます。13節を見ると、「そこから境界線は、ルズに向かい、ルズの南のほうの傾斜地に進む。ルズはベテルである。さらに、境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルに下る。」とあります。

この「ベテル」とは「神の家」という意味です。これはあのヤコブの物語と関連していることに気付きます。ヤコブが兄エサウから逃れて叔父のラバンの所へ行く途中、ある町に来ました。彼はそこで石を枕にして寝ますが、不思議な光景を見ました。それは天から地にはしごがかけられていて、神の天使が上がったり、下がったりしているというものでした。彼は夢ら目が冷めたとき、いかなる孤独の中にあっても、主は自分とともにいてくださるということを知り、そこに祭壇を築いて、その祭壇に「神の家」、すなわち、ベテルと名付けたのです。(創世記28章)
このようにベニヤミン族は小さくあまり力のない部族でしたが、ヤコブ以来、人々がその所に来て、祈りと賛美をささげる聖なる場所「ベテル」を、自分の領地に取り込んでいたのです。つまり、ベニヤミン族に与えられた領地は小さかったけれども、重要な場所をしっかりと押さえ、自分たちのものとしていたのです。エルサレムもそうです。彼らはエブス(エルサレム)も自分たちの領土に取り込みました。

このように要所を押さえるというベニヤミン族の姿勢は、その後もずっと続きました。たとえば、B.C.931年に、イスラエルが北と南に分かれて戦争した時には、当時主導権を握っていたユダ族に対して不満を抱いていた他のイスラエル10部族が挑んだ戦いでしたが、12部族の中で最も小さかったベニヤミン族はユダ族とそれ以外の10部族の間に立ちながらも、結局ユダ族に付いたのです。1対10ですから、力の差は歴然です。しかも、大義名分も十部族にありました。にもかかわらず、彼らはユダ族に付いたのです。その結果、どうなったかというと、やがて北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、その10部族は、世界中に散り散りになり「失われた10部族」と言われるようになりました。要するに、この10部族は歴史のかなたに消えて行くことになるのです。そして、パレスチナには、ユダ族とベニヤミン族の2部族だけが残ることになります。やがてこの2つの部族もバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れて行かれますが、しかし、70年の捕囚の期間の後で再びエルサレムに帰還し、もう一度イスラエルを再興していくのです。そして彼らは以後「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。それはユダ族に由来しているからです。ベニヤミン族もやがてこのユダ族に吸収されていきますが、しかし部族としては、その名を遺すことになるのです。

このベニヤミン族の生き方は、私たちに大切なことを教えてくれます。つまり、私たちにとって重要なことは、自分にどれだけ力があるかとか、どれだけ有利な条件の中にいるかということではなく、たとえ小さく弱い存在であっても、「要所を押さえていく生き方」が肝心だということです。

では、私たちの人生における要所とは何でしょうか。それは聖書に示されているように、神への信仰です。なぜなら、人はそのように神に造られているからです。私たちにとって真実な神への信仰を持つかどうかということは、極めて重要な事柄なのです。私たちの人生を不幸にするさまざまな原因がありますが、その根本的な原因は罪です。しかし、神はイエス・キリストを通してその罪から解放してくださいました。この十字架の贖いの御業を信じる私たちは、人生の要所を得ているのです。この要所を押さえているのなら、たとえそれがどんなに小さな領土でも、何も恐れることはありません。ただ神を見上げ、神に従って生きる人生こそ、私たちにとって最も重要なことなのです。この要所を押さえて、私たちも充実した人生を送らせていただきたいと願うものです。

落胆する者から賛美する者へ エレミヤ書20章1~13節

聖書箇所:エレミヤ書20章1~13節(エレミヤ書講解説教39回目)
タイトル:「落胆する者から賛美する者へ」
きょうは、エレミヤ書20章から「落胆する者から賛美する者へ」というタイトルでお話します。これまでエレミヤ書をずっと見てきましたが、あなたはエレミヤのような人物をどのような目で見ていますか。スーパーマンのような何の弱さもないスーパーヒーローのような人物のように考えていませんか。エレミヤは若くして預言者として召されましたが、私たちと同じ弱さをもった人間でした。このエレミヤのように私たちの人生にも、山があれば谷もあります。落胆する時があれば歓喜する時もあります。エレミヤは落胆した時、それをどのように克服していったのでしょうか。
Ⅰ.パシュフルによる迫害(1-6)
まず、1~6節をご覧ください。「1 さて、主の宮のつかさ、また監督者である、イメルの子、祭司パシュフルは、エレミヤがこれらのことばを預言するのを聞いた。2 パシュフルは、預言者エレミヤを打ち、彼を主の宮にある、上のベニヤミンの門にある足かせにつないだ。3 翌日になって、パシュフルがエレミヤを足かせから解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はあなたの名をパシュフルではなく、『恐怖が取り囲んでいる』と呼ばれる。4 まことに主はこう言われる。見よ。わたしはあなたを、あなた自身とあなたの愛するすべての者にとって恐怖とする。彼らは、あなたが見ている前で、敵の剣に倒れる。また、わたしはユダの人すべてをバビロンの王の手に渡す。彼は彼らをバビロンへ引いて行き、剣で打ち殺す。5 また、わたしはこの都のすべての富と、すべての労苦の実と、すべての宝を渡し、ユダの王たちの財宝を敵の手に渡す。彼らはそれをかすめ奪い、略奪してバビロンへ運ぶ。6 パシュフルよ。あなたとあなたの家に住むすべての者は、捕らわれの身となってバビロンに行き、そこで死んで、そこに葬られる。あなたも、あなたが偽って預言を語り聞かせた、あなたの愛するすべての者たちも。」」
ここに、祭司パシュフルが登場します。彼は主の宮の司、エルサレム神殿を司る、また監督する立場にある人でした。彼はエレミヤがこれらのことばを預言するのを聞きました。「これらのことば」とは、前の章の19章15節にあるエレミヤが語った主のことばのことです。エレミヤは、主が遣わしたトフェトから帰り、エルサレムにある主の宮の庭に立ち、イスラエルの民全体にこう言いました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(19:15)
これを聞いた祭司パシュフルは、気分を慨し、不快感を露(あら)わにして、エレミヤの預言を押しとどめようとしました。というのは、エレミヤが罪だとか、さばきだとか、悔い改めだとか、いつもネガティブなことばかり言っていたからです。これらのことばを聞いたパシュフルはエレミヤを打ち、彼をエルサレム神殿のベニヤミンの門という門にある足かせにつなぎました。これまでもエレミヤは主のことばをストレートに語った結果、人々から嫌われ、除け者にされ、時には殺されそうになりましたが、今回は肉体に危害が及ぶまでの迫害を受けたのです。
この祭司パシュフルについては、ここに「主の宮のつかさ、また監督者」とありますが、恐らく、エルサレムの神殿を管理する最高責任者だったのではないかと思われます。彼は主の宮のつかさとして神殿に出入りする人たちを見張り、そこにいかがわしい人物がいたら、その人を捕らえて尋問したりしていました。そこにエレミヤが彼らを責めるようなことを言ったので彼は嫌になり、エレミヤを打ち足かせにつないだのです。この「打ち」というのは、むち打ちのことです。旧約聖書にはむちは40回までと定められていました。もしこれを1回でもオーバーすると打った者が罪に定められたので、40回に1つ少ない39回のむち打ちが一般的でした。それはただ単にエレミヤを黙らせるためでした。これ以上エルサレムの住民に対して否定的なメッセージを語らないように、自分たち宗教家をバカにしないようにと脅したのです。
それだけではありません。パシュフルはエレミヤをベニヤミンの門にある足かせにつなぎました。この足かせは、からだがねじれた状態で手足を締め付ける道具です。一晩経つとからだ中の筋肉が痛みで悲鳴を上げるようになります。
エレミヤは何も悪いことをしていませんでした。彼はただ神のことばをストレートに語っただけです。それなのにこんなひどい目に遭わなければなりませんでした。こんなに不当な仕打ちを受けなければならなかったのです。神の罰を語ったがゆえに、人の罰を受けることになってしまいました。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、彼の中には相当複雑な思いがあったのではないかと思います。
翌朝、パシュフルはエレミヤを解放しました。これでエレミヤを黙らせることができると思ったのでしょう。でもエレミヤはそんな軟弱な人間ではありませんでした。彼はパシュフルが彼の足かせを解いたとき、彼にこう言いました。3節です。
「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる。」(20:3)
どういうことでしょうか。恐怖によって四方八方から取り囲まれているという意味です。恐怖が彼の周りを取り囲むようになるということです。「パシュフル」という名前は、そもそも周りは安全であるという意味ですが、その名前が改名され、安全ではなく恐怖が周りを取り囲むようになると言ったのです。自由ではなく不自由になると。具体的には4~6節までにある内容です。彼と彼の家に住むすべての人が捕らわれの身になってバビロンに連れて行かれ、そこで死んで葬られることになります。バビロン捕囚という出来事です。彼と彼の家族だけではありません。ユダのすべての人もそうです。バビロンに引いて行かれ、剣で打ち殺されることになります。どうしてこのようなことになったのでしょうか。それは彼らが自分の安全を考えて神のことばをねじ曲げたからです。その結果、バビロンに連れて行かれることになってしまいました。安全ではなく恐怖が彼らを取り囲むようになったのです。神のことばよりも自分の安全を優先させるようなことがあると、恐怖があなたを取り囲むようになるのです。
Ⅱ.エレミヤの落胆(7-10)
次に、7~10節までをご覧ください。「7 「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。8 私は、語るたびに大声を出して『暴虐だ。暴行だ』と叫ばなければなりません。主のことばが、一日中、私への嘲りのもととなり、笑いぐさとなるのです。9 私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。10 私が、多くの人のささやきを聞いたからです。『「恐怖が取り囲んでいる」と告げよ。われわれも彼に告げたいのだ』と。私の親しい者もみな、私がつまずくのを待ちかまえています。『たぶん彼は惑わされるから、われわれは彼に勝って、復讐できるだろう』と。」
これは、エレミヤの祈りです。彼がどれだけ落ち込んでいたかは、この祈りを見るとわかります。エレミヤは再び捕らえられるかもしれない恐怖の中にあっても、パシュフルに向かって「主はあなたの名をパシュフルではなく「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」と、大胆に主のことばを語りました。でも、彼の心は晴れませんでした。ここで彼は率直な自分の思いを神様に訴えています。
7節には、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。私は一日中笑いものとなり、皆が私を嘲ります。」と言っています。エレミヤのような信仰の勇者でも落ち込むことがあります。あの偉大な預言者エリヤもそうでした。エリヤもアハブの妻イゼベルから「おまえのいのちを取る」と言われたとき、脅えて自分の死を願って言いました。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。」鬱ですね。もう嫌です。もうたくさんです。もう殺してください。あのエリヤが、ですよ。エレミヤも同じです。彼は落ち込んで自分の死さえ願うほどになりました。彼は私たちと同じ弱さを持った人間だったのです。どんなにスーパーマンのような人であっても、山もあれば谷もあります。落胆する時もあれば、歓喜する時もあるのです。エレミヤもまた、私たちと同じ弱さを持った人間だったのです。
エレミヤはどのように祈ったでしょうか。彼はまず、「あなたはわたしを惑わしたので、私はあなたに惑われました。」と言っています。これは聞き捨てならないことばです。というのは、神様は人を惑わすようなことはなさらないからです。ではこれはどういうことなのでしょうか。これは、神様の約束が違う!という意味です。自分は自ら進んで預言者になりたかったわけではなかったのに、主がそうせよというからそうしただけであって、そうすれば主が救ってくれると言ったのに、実際は違うじゃないですか。こんなひどい目に遭っています。それで、彼は主が私を惑わしたと言っているのです。でも、本当に主はエレミヤを惑わされたのでしょうか。
1章4~8節を開いてください。エレミヤが笑みから召命を受けた時の言葉です。「4 次のような主のことばが私にあった。5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」6 私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」7 主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。8 彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。─主のことば。」」
主はエレミヤに対して、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」(1:5)と言って預言者として召し出されました。
そに対してエレミヤは何と答えましたか。彼はこう言いました。「私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」
それに対して主が言われたことばがこれです。7節と8節です。
  「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」
主は、わたしが遣わすすべての所へ行って主が命じられたことを語るようにと言われました。恐れないで。なぜなら、主が彼とともにいて、彼を救い出すからです。
でも、現実はどうでしたか。ここでは祭司パシュフルによって捕えられ、不当にもむち打ちを受け、足かせに繋がれるという恥辱を受けました。約束が違うじゃないですか。主よ、私はあなたに惑わされたんです。騙されたんです。あなたは私をつかみ、思いのままにされました。それがこの様(ざま)です。そう訴えているのです。
皆さん、どう思いますか。約束が違いますか。主が言われたことをよく見てください。主はエレミヤに何と言われましたか?「わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(1:8)と言われました。主はエレミヤに、あなたは何の迫害も受けないとか、あなたの人生には何の問題もない、何の苦難もないなどとは一言も言っていません。むしろ、そういうことがあるということを前提に、「わたしはあなたともにいて、あなたを救い出す」と言われたのです。あなたの人生には間違いなくあなた一人ではとても耐えられないような患難があると。だから救い出される必要があるわけです。自分で自分を救い出せないような状況が起こるということを主は予めご存知であられ、でもそういう時でも心配しなくてもいい、恐れなくてもいい、なぜなら、わたしがあなたとともにいて救い出すからだと言われたのです。それがこの約束です。投獄されるようなことがあれば、そこにわたしもあなたと一緒にいるから、あなたはひとりぼっちじゃないから、ひとりで苦しむわけではない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すから、恐れなくていい。それが主の約束だったのです。
しかし、エレミヤはのことばを取り違えて、こんなことになるなんて話が違うじゃないかと、「主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました」と訴えたのです。このようなことは私たちにもあります。私たちも人生の中で嫌なこと、苦しいことがあると、こんなはずじゃなかった。どうして私の人生にこんなことが起こるのかと言って嘆くことがあります。そして、この時のエレミヤのように主に対して「あなたは私を騙しました」とか「私を惑わしました」みたいなことを言うのです。皆さん、クリスチャンになるとは、バラ色の人生が約束されるということではありません。クリスチャンになっても患難はあります。失望落胆することがある。でも違うのは、そうした患難の中にあっても主がともにいて、あなたを救い出してくださるということです。これが神の約束なのです。
主はあなたの行く先々であなたと共にいてくだいます。あなたが直面している患難、試練の中にも共にいてくださるのです。今、あなたが悩み、悲しみ、ひとりぼっちで、だれにもわかってもらえないと孤独に感じる時も、主はあなたとともにおられるのです。これが主の約束です。主イエスはこう言われました。 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)
イエス様は、世にあって患難が無くなるとは言いませんでした。確かに世にあっては患難はある。でも勇敢でありなさい、と言われたのです。なぜ?「わたしはすでに世に勝ったからです。」主イエスはすでに世に打ち勝たれました。死に勝利なさいました。その主が私たちと共にいてくださるのです。であれば、鬼に金棒です。鬼に金棒どころじゃない。私たちには万軍の主が共にいてくださるのだから、何も恐れる必要はありません。イエス・キリストはあなたと共におられます。たとえあなたが末期のがんであったとしても、たとえあなたが絶望の淵に陥っていても、主イエスがあなたと共におられるので、あなたは何も思い煩う必要はありません。これが主の約束です。
8節をご覧ください。エレミヤはここで、「私は、語るたびに大声を出して、「暴虐だ。暴行だ」と叫ばなければなりません」と言っています。これがエレミヤのメッセージでした。この「暴虐と暴行」という言葉は6章7節にも出てきましたが、エルサレムに対する神のさばきの宣言です。エレミヤのメッセージを一言でいうなら、この「暴虐だ。暴行だ」と叫ぶことでした。エルサレムの住民の罪は主に対する暴虐と暴行でしたが、それが神のさばきとして自分たちの頭上に帰ってくるということです。それが「暴虐と暴行」です。これはバビロンによってエルサレムが汚されて、完全に陥落するということです。
そういうことを語れば語るほどエレミヤはみんなから嫌われ、嘲りのもととなり、笑いぐさになりました。だれが好き好んでそんなメッセージを語りたいでしょうか。だれも語りたくありません。できればそんなこと口にもしたくありません。そんなことを言えば嫌われることくらい目に見えていました。不快なメッセージなのでだれも好き好んで語ろうとしないことですが、それでもエレミヤはずっと語ってきました。どんなに嫌われても、どんなに除け者にされても、どんなにいのちを狙われようと、ずっと語り続けてきたのです。
でもここでいよいよ耐え切れなくなりました。特にパシュフルによって拷問と辱めを受けることによって、彼の忍耐が一気に爆発してしまいました。もうやっていられない!もう嫌だ!もう止めた!英語でいうとThat’s all.です。これで終わり!です。
それで彼はどうなりましたか。9節をご覧ください。「私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。」
エレミヤは、「もう主のことばを宣べ伝えない。主の御名によって語らない。」と思いました。もうたくさんです、もうごめんです、や~めた!と思ったとき、何があったのでしょうか。主のことばが彼のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになりました。それで彼は自分の内にしまっておくのに耐えられなくなってしまったのです。どういうことかというと、主のことばが彼の心のうちで燃えさかる火のようになったので、黙ってなどいられなくなったということです。「骨」とはからだ全体のことです。神のことばが骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになるので、もう爆発しそうになったのです。もう内側にしまっておくことができなくなりました。もう抑えることができません。もうどうにも止まらない、です。
ルカの福音書24章には、イエスの復活後、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていた時の様子が記録されていますが、そこにイエスが近づいてきて、道々お話してくださいました。その時二人の目はさえぎられていて、それがイエス様だとわかりませんでした。しかし、「道々お話してくださる間、私たちに聖書を解き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(ルカ24:32)とあります。彼らの心は内で燃えていました。イエス様が聖書を説き明かしてくださる間、彼らの心の内はずっと燃えていたのです。それと同じです。主のことばが内に燃えたのです。エレミヤは非常に失望落胆していました。でも、主のことばが彼の心に入ると、そのことばが燃えさかる火のようになって燃えました。もう主の名によって語らないと思っても、語らずにはいられなくなりました。意気消沈していた心が燃えさかる火のようになりました。皆さんもそういう経験がおありでしょう。もう嫌だ、もう無理です、もうやっていられないと落ち込んだ時に主のことばが心に入ると、燃えて来たということが。それは消すことができないほどの、抑えきれないほど強いものです。これは何も牧師や伝道者に限ったことではありません。もしあなたが救われて神の聖霊を受けているなら、主のことばがあなたの心に入ると、あなたの心は燃えさかる火のようになります。それはあなたが消そうと思っても消すことが出来ないほどのものすごく強い衝動となって迫ってくるのです。もう黙ってなどいられなくなるのです。
だから、落ち込んでいられないのです。反対され、迫害され、もう二度とイエスの名を口にするなと言われても、それでも私たちは主のことばが心に入ると、それが点火して火のようになり、黙ってなどいられなくなるからです。ですから、大切なのは、主のことばがあなたの心のうちで、骨の中に閉じ込められるということです。そうすれば、あなたは燃えさかる火のようになります。まさにヘブル4章12節には、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通す」とありますが、抵抗できない力をもって、私たちの心を占領するのです。
ですから、私たちが落胆した時に求めなければならないことは、自分の力で奮起しようとすることではなく、主のことばによって燃やされることです。主のことばに捉えられ、主のことばにすっかり魅了される。そうすれば、いつの間にか主の御思いに動かされるようになります。Ⅰペテロ2章2節にはこうあります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」純粋な霊の乳、みことばの乳を慕い求めましょう。それによって成長し、救いを得ることができるからです。主のことばがあなたの心に燃えるとき、あなたはあなたの思惑ではなく、あなたの願いでもなく、あなたの意志でもなく、ただ神によって動かされていくようになるからです。そういう信仰生活を送らせていただきたいですね。
10節をご覧ください。エレミヤの友人までもが、エレミヤがつまずくのを待つようになりました。彼らがエレミヤに与えたあだ名は、「恐怖が取り囲んでいる」でした。これは、主がパシュフルに与えたものと同じです。彼らはエレミヤが語ったそのことばを逆手にとって馬鹿にして言ったのです。自分が語った主のことばがこのようにもて遊ばれることは、どれほど辛いことだったかと思います。彼は親しい友人からも裏切られ、失望と落胆の底に突き落とされるような思いでした。
Ⅲ.エレミヤの勝利(11-13)
エレミヤがそのように深く落胆したとき、彼はどのようにしてそれを克服したのでしょうか。最後に11~13節を見て終わりたいと思います。「11 しかし、主は私とともにいて、荒々しい勇士のようです。ですから、私を迫害する者たちはつまずき、勝つことができません。彼らは成功しないので、大いに恥をかき、忘れられることのない永久の恥となります。12 正しい者を試し、思いと心を見る万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私に見させてください。私の訴えをあなたに打ち明けたのですから。」13 主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」
絶望的な祈りが、突然勝利の祈りに変わります。そのきっかけとなったのが、11節の「しかし、主は私とともにいて」という短い言葉です。これは、エレミヤの信仰告白です。主がともにおられるということが勝利です。主がともにいて、荒々しい勇士のようなので、自分を迫害する者たちはつまずき、勝つことかできません。神に敵対する者たちは、必ず恥を見ることになります。これが、主が約束されたことです。エレミヤはここでその約束に立ち返っているのです。それがこの「しかし」ということばに表されています。これは、みことばに基づいた信仰と言えるでしょう。このようなみことばに基づいた信仰こそ逆境の中でモノを言うことになります。ただ信じているというのではありません。みことばの約束のゆえに必ず勝利することができると確信しているのです。なぜなら、私には思いと心を見られる万軍の主がともにいて助けてくださるからです。何を言われても、何をされても、高らかに、大胆にこのように告白できるのは、みことばの約束を信じているからなのです。そうでなければ、信仰は簡単に揺らいでしまうことになります。みことばをベースに置いていなければ、信仰は簡単に倒れてしまいます。でもみことばがベースにあるなら、どんな逆境にあっても立ち向かうことができます。主がともにいてくださると確信することができるねからです。ローマ8章31節を開いてください。ここには、「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。神が私たちの味方であるなら、だれも敵対することができません。この方があなたとともにいてくださるからです。
私たちは、しばしば孤独や絶望や挫折を経験します。しかし、そんな時に共にいて慰めや希望や勇気を与えてくださる神がおられることを知っている人は何と幸いなことでしょう。
神は天から私たちを見下ろして、ただ「ガンバレ」と声援を送るだけの方ではありません。この神は今から二千年前に人として私たちの世界に来られたイエス・キリストです。キリストは、33年間、この地上を歩まれました。そして私たち人間が経験する孤独や痛み、悲しみのすべてを経験されたのです。このキリストがこう約束してくださいました。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
 この方があなたとともにおられるのです。であれば、だれがあなたに敵対することができるでしょうか。だれも敵対することはできません。主があなたとともにいてくださるなら、あなたは落胆から勝利へ、勝利から勝利への人生を歩むことができるのです。
以前に紹介したことがありますが、一つの美しい詩を紹介したいと思います。それは、マーガレット・F・パワーズという人が書いた「あしあと」という詩です。
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつも私の心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、わたしのすべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生でいちばんつらい時には、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負ってあるいていた」
主はあなたとともにおられます。主はあなたとともにいて、あなたを守られるのです。この約束をあなたがどれだけ信じて受け止めるかで、あなたの状況はまるっきり変わります。つまり、あなたは神が見えない時は落胆し、神が見える時は勝利することができるということです。
13節をご覧ください。エレミヤは、ひどい落胆の中でこの約束を信じました。その結果、どうなりましたか。その結果、彼はこのように告白することができました。ご一緒に読みましょう。「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行う者どもの手から救い出されたからだ。」
落胆の中にいたエレミヤは、主を賛美する者に変えられました。なぜなら、彼は自分の状況を見て嘆くことを止め、主がみことばによって与えてくださった約束に目を留めたからです。「しかし、主は私とともにいて、私を助け出される」と。それは私たちも同じです。私たちもすぐに自分のことで失望落胆することが多い者ですが、その中で主を見上げ、主がともにおられるというみことばの約束に目を留め、落胆から賛美する者へと変えられていきたいと思います。

砕かれた器 エレミヤ書19章1~15節砕かれた器 


聖書箇所:エレミヤ書19章1~15節(エレミヤ書講解説教38回目)
タイトル:「砕かれた器」
きょうは、エレミヤ書19章から「砕かれた器」というタイトルでお話します。前回は、18章から、陶器師と粘土の話でしたね。覚えていらっしゃいますか?神様は、神様とご自身の民との関係を陶器師と粘土のたとえで語ってくださいました。そして神様というのは陶芸家の陶器師のようであられて、その神様に対して私たちはろくろに乗せられた粘土のようなものであるというたとえですね。そして陶器師であられる神様は、土くれにすぎない私たちをろくろで美しい人に作り変えてくださるということでした。私たちはみな、陶芸師であられる神様の手の中にあって、神様はご自身の目的に従って、私たちを美しい人に作り上げてくださいます。
今日の箇所には、その逆のことが言われています。主はエレミヤに、行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老や年長の祭司たちとベン・ヒノムの谷に出かけ、同行している人たちの前で、その瓶を砕くようにと言われます。そして彼らにこう告げなければなりませんでした。11節、「万軍の主はこう言われる。「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。」
これは、イスラエルの民が修復不可能なまでに砕かれるということを象徴しています。砕かれた器は二度と直すことはできません。ですから、その前に悔い改めなければなりません。今日は、このことについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.ベン・ヒノムの谷で(1-9)
まず、1~9節をご覧ください。6節までをお読みします。「1 主はこう言われる。「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、2 陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。3 『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。4 彼らがわたしを捨てて、この場所を見知らぬ所としたからである。彼らはこの場所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々に犠牲を供え、この場所を咎なき者の血で満たし、5 バアルのために自分の子どもたちを全焼のささげ物として火で焼くため、バアルの高き所を築いた。このようなことは、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかった。6 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば──。そのとき、もはやこの場所はトフェトとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。」
主はエレミヤに、「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。」と言われました。ベン・ヒノムの谷は、エルサレムの南にある谷で、それは「陶片の門」と呼ばれる門の入り口にありました。この「陶片の門」は、新改訳聖書第三版では「瀬戸のかけらの門」と訳されています。陶器師が瀬戸物のかけらを捨てていた場所です。これはおそらくネヘミヤ記に出てくる「糞の門」のことではないかと思われます(2:13)が、今でも、エルサレムの城壁の南の入口が「糞の門」と呼ばれています。そこは最も低い位置にあって、瀬戸物のかけらとか排泄物、その他のごみが焼却される場所になっています。そこに出かけて行って、彼らに主のことばを語るようにと言われたのです。
それはどのような内容でしょうか。3節にこうあります。「『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。」
神がユダの地にわざわいをもたらすというのです。その理由は4~6節にあるように、彼らが神を捨てて偶像に仕え、罪のない者の血を流し、バアルに子どもたちを全焼のいけにえとしてささげたからです。人をいけにえとしてささげること、人身御供(ひとみごくう)とも言いますが、これは、神が最も忌み嫌われる罪です。このような不従順の結果、ベン・ヒノムの谷は「虐殺の谷」と呼ばれるようになります。主はそんなことを命じたこともなく、語ったこともなく、思い付きもしなかったのに、彼らは平気でそのようなことをしたからです。新約聖書では、これが「ゲヘナ」を意味する言葉として用いられるようになりました。地獄ですね。それは永遠に苦しむ場所を象徴しています。神様が命じたこともなく、語ったことでもなく、思いつきもしなかったことを行った結果、このような結果を招くことになってしまったのです。
それは具体的には、7~9節にあるように、バビロン捕囚のことを指しています。「7 また、わたしはこの場所で、ユダとエルサレムのはかりごとを打ち砕く。わたしは敵の前で彼らを剣で倒し、また、いのちを狙う者の手によって倒し、その屍を空の鳥や地の獣に餌食として与える。8 また、わたしはこの都を恐怖のもと、また嘲りの的とする。そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見てあざ笑う。9 またわたしは、包囲と、彼らの敵、いのちを狙う者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いに、その友の肉を食べ合う。』」
「ユダとエルサレムのはかりごと」とは、ユダの民の考えや計画のことです。神様は、不従順な人々の考えや計画を打ち砕かれます。彼らの知恵までもむなしくされます。民は剣で殺され、その死体は動物の餌食となり、町はあざけりの的となります。そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見てあざ笑うようになります。そればかりではありません。そうしたことによってもたらされる窮乏のために、何と自分の息子の肉、娘の肉を食べるようになるというのです。まさに、生き地獄です。そこはまさにゲヘナ、地獄のようです。果たしてこれが実際に起こることになります。彼らはバビロンによって虐殺され、殺された民の死体がそこを覆うようになるのです。また、彼らのいのちを狙う者がもたらす窮乏のために、自分の息子、娘の肉を、その友の肉を食べるようになります。エレミヤが書いた哀歌4章10節には、こうあります。「あわれみ深い女たちが、自分の手で自分の子を煮た。娘である私の民が破滅したとき、それが彼女たちの食物となった。」このようなおぞましいことが実際に行われるようになりました。
アダムとエバが神のみことばに従わず、神との分離、つまり霊的な死を味わったように、ユダの民も死とわざわいを味わうようになるのです。イスラエルは、元々、国々の中から神の栄光を現わす特別な民として召されましたが、不従順によって恥とあざけりの対象へと転落してしまいました。世のすべての主権と権威は神の御手の中にあります。神は高くもされるし低くもされます。私たちはその神の御前に恐れおののき、すべてのことにおいてみことばに従って生きる者でなければなりません。祝福とのろいは、みことばに従うかどうかにかかっているのです。
それは子どもが生まれる時も同じです。子どもが生まれるとき、親は子どもに何も要求しません。親が責任をもって愛情をたっぷり注いで育てます。しかし、子どもが成長していくにつれ、少しずつ話を理解し、分別がつくようになると、親は子どもに従うことを求めます。「お父さんとお母さんの言うことをよく聞くように。」と。もし親がこのようなことを一切求めないなら、子どもは何が正しいかを判断することができなくなるからです。子どもが従わない時には、時にむちで打つこともあります。そのように従うことを学ぶことによって、子どもは立派な人に成長していくことができるからです。
神様も同じです。神は私たちをご自身の子として扱っておられます。神は私たちをご自分の子としてくださったとき、つまりイエス様を信じたとき、何も要求なさいませんでした。エペソ1章にあるように、神様は、世界の基の置かれる前から、キリストにあって私たちを選び、ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ救われるように定めておられました。私たちがイエスによる救いを受けることができるように道を開いていてくださったのです。アーメン!また、聖霊を送り、信じる心を起こさせ、「イエスは私の救い主です」と告白できるようにしてくださいました。アーメン!そして、自分でもわからないうちに全く新しく生まれ変わり、神の前に新しく造られた者にしてくださいました。アーメン!すべては神の恵みです。私たちの力や努力によるのではありません。ただ神が私たちを憐れんで、私たちがイエス様を信じることができるようにしてくださったのです。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。エペソ2章8節には「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」とあります。それは私たちから出たことではなく、神からの賜物、一方的な恵みなのです。
しかし、一端イエス様を信じて新しく生まれ変わった神の子どもには、従うことが求められます。神の子どもなのですから、父なる神の御心と一致した生き方が求められるのです。勿論、それさえも神の助けがなければできません。聖霊の助けと力がなければ、神に従うことができないのです。それさえも聖霊の働きによるのです。
ですから、使徒パウロはこう言っているのです。「3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:16-18)
  これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。御霊なる主が私たちを主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、私たちに求められていることは何かというと、主に向くということです。主に向くなら、心に掛かっているおおいが取り除かれるからです。心のおおいが取り除かれる秘訣は、「主に向く」ことなのです。主に向かないでどんなに聖書を読んでも、おおいが取り除かれることはありません。神のことばに従うことができないのです。
みなさんは、太宰治という作家をよくご存知だと思います。彼は、日本の作家の中でも一番聖書を愛読した人ではないかと思いますけれども、彼の作品には、しばしば聖書の言葉が引用されています。彼はイエス・キリストの言葉に感動して、その教えに必死に従おうとしました。ある意味で、太宰治はほとんどクリスチャンでした。でも、ほとんどクリスチャンというのとクリスチャンであるというのでは、とても近いようでも全然違います。
彼はほとんどクリスチャンでした。でも、本当の意味でクリスチャンにはなれませんでした。彼は、最後までイエス・キリストの十字架の意味が分かりませんでした。あのキリストの十字架が自分の罪のためであったことに気付かなかったのです。だから、彼はキリストの復活も、キリストの昇天も、キリストの再臨も信じることができなかったのです。
彼がいかに聖書を愛し、いかに聖書に精通していても、いかにキリストの教えに感動して従おうとしても、聖書が教える唯一の救いの道であるイエス・キリストとの個人的な関係を持たなければ、クリススチャンになることはできません。イエス・キリストを救い主として心の中に受け入れること、つまり、「主に向く」ことをしなかったために、太宰治は、聖書の周りをただぐるぐる、ぐるぐる回るだけで終わってしまったのです。
それは、私たちも同じです。どんなに聖書の話を聞いても、どんなに聖書を研究しても、たとえ聖書を全部丸暗記したとしても、聖書が私たちに与えてくれる新しい命を私たちの内側に受け取るまでは何も起こりません。神に従うこともそうです。それさえも、御霊なる主の働きによるのです。そのために必要なことは何か。「主に向く」ことです。どんなに自分の力で神に従がおうとしてもできないからです。でもあなたが主に向くなら、あなたがイエス・キリストに心を向けるなら、その時、あなたの心のおおいは取り除かれて、あなたは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。キリストにある新しい命の歩みが始まっていくのです。それが霊的に成熟している人です。
Ⅱ.砕かれた瓶(10-13)
次に、10~13節をご覧ください。「10 そこであなたは、同行の人たちの目の前でその瓶を砕いて、11 彼らに言え。『万軍の【主】はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。12 わたしはこの場所と─主のことば─その住民にこのようにする。わたしはこの都をトフェトのようにする。13 エルサレムの家々とユダの王の家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚される。』」
神のことばが目に見える形で伝えられます。こういうのを何というかというと、オブジェクトレッスンと言います。実物教育ですね。言葉で行ってもわからないので、それを目に見える形で見せるのです。百聞は一見にしかずということばがありますが、まさにそうです。聞かせるだけでなく実際に見させるのです。前回は陶器師が粘土をこねて新しい器に作り上げるということを示すオブジェクトレッスン、今回は逆です。造り上げる陶器師が作り上げた物を砕くのです。それが、焼き物の瓶を砕くという行為です。この焼き物は、イスラエルの民を象徴していました。彼らは柔らかい粘土ではなく堅い器になっていました。主はエレミヤに、その瓶を同行した人たちの前で砕くようにと言われました。砕かれた器は、二度と元に戻すことがきません。そのようにイスラエルの民ももう二度と元に戻ることはできません。その頑なさのゆえに修復不可能なほどに砕かれるのです。たとえ陶器師が水をかけても無理です。こういうのを何というかというと「不憫」(不瓶)と言うんです。瓶は瓶でも不憫です。これがエルサレムとその住民に降りかかる運命です。神様は、この神の都エルサレムをトフェトのようにすると言われました。まさに火で焼かれ、廃墟と化します。
エルサレムの家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚されることになります。勿論、罪を認めて神に立ち返り、悔い改めるなら、このような神のさばきを免れることができます。私たちはいつ滅ぼされてもおかしくない者です。それなのに、そんな私たちがまだ生かされているとしたら、それは想像もできないほどの神のあわれみと、人知をはるかに超えた神の恵みによるのです。
「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
これを逃したら、もしかしたら明日は来ないかもしれません。この恵みの時、救いの日に神に立ち返らなければなりません。神のあわれみ、神の恵みを無駄にしてはならないのです。
 実は、この言葉は、旧約聖書イザヤ書49章8節からの引用です。イザヤはやがてイスラエルがバビロンに捕えられ捕虜として連れて行かれかれることを預言しました。その時彼らは奴隷として、何の希望も見いだせない日々を過ごしていました。
そんな時に失望のどん底にいたイスラエルの民に向かってイザヤは、「そうではない。神の解放の日がやって来るのだ。必ず神の解放の日がやって来る。」そう言って彼らを励ましたのです。
パウロはそのことばを受け取って、「今はイエス・キリストにあって、すべての人が解放される日なのだ。すでに神の祝福が、あなたの目の前にある。だから今、それをつかみなさい。今を生きるべきだ。」と勧めたのです。
私たちは誰でも、過去と現在と未来を持っています。過去がない人も、未来がやって来ない人もいません。しかし、確かなことは、過去はもう過ぎ去ったということ、そして、未来はまだ来ていないということです。あるのは今だけです。今だけが、私たちの目の前にあるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。
でも、ある人は過去に生きようとします。「昔は良かった。あの時、あんなことをしていなかったら」と。でも、私たちは二度と過去には戻ることはできないのです。
ある人は未来に生きようとします。「こういうふうになったら、もっと頑張るんだけど」とか、「今に頑張るぞ。今はできないけど、そのうち頑張るさ。」だったら今頑張ればいいのに、そのうち、未来にはと、未来のことしか見ようとしないのです。そこには何の根拠もありません。未来に向かってただ望みを置いているだけです。過去も未来も神の御手の中にあり、神が私たちに委ねていらっしゃるのは「今」だけなのです。私たちは今しか生きることかできません。今は恵みの時、今は救いの日なのです。この「今」が与えられていることは感謝なことなのです。神があわれみと忍耐をもって、私たちの帰りを待っておられるということですから。この恵みの時、救いの日に神に立ち返らなければなりません。神のあわれみ、神の恵みを無駄にしてはならないのです。
ところで、新約聖書の中にも、器に関する言及がいくつかあります。たとえば、パウロが弟子のテモテに書き送った手紙の中にこのようなことばがあります。「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。」(Ⅱテモテ2:21)
神はあなたという器を用いることを望んでおられます。あなたという器が有益なものとして用いられるために必要なことは何でしょうか。ここには、「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、」とあります。これらのものとは、この文脈では俗悪な無駄話とか、真理から外れてしまった教え、また不義な行いを指して言われています。これらのことから離れて自分自身をきよめるなら、あなたは尊いことに用いられる器となるのです。
神はエレミヤにユダの民の目の前でその瓶を砕き、陶器師の器が砕かれると、二度と戻すことはできない、と言われました。私たちは不義だらけな器ですが、イエス・キリストによって義の器に変えられました。ですから、そうした不義から離れ、聖霊の恵みとあわれみと助を受けて、自分自身をきよめ、尊いことに用いられる器とさせていただきましょう。
Ⅲ.だから、あきらめないで(14-15)
ですから、第三のことは、だから、あきらめないで、ということです。14~15節をご覧ください。「14 そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトから帰って、主の宮の庭に立ち、民全体に言った。15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」」
エレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトからエルサレムに帰ってきて、主の宮に立ち、神の民全体にこう言いました。15節です。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(15)
たとえ神の民であっても、主のことばに聞き従わなかったら退けられてしまうことになります。
でも覚えておいていただきたいことは、神はご自身の民である南ユダがここまで落ちぶれても、最後の最後までチャンスを与え続けたということです。ここまで頑なになっても、最後まであきらめませんでした。エレミヤもこんなメッセージをしたら憎まれて、嫌われて、殺されるかもしれないという恐怖の中で、最後まで語り続けました。しかし、それ以上に、神は、この民がどんなに神を見捨ててほかの神々に走って行っても、最後まで悔い改めるチャンスを与えてくださいました。 
神は同じことを私たちにしてくださいます。神は最後まであなたのことをあきらめません。もしかするとこの中には泳げたい焼きくんのようにろくろから飛び降りた人もいるかもしれません。ろくろから落ちて地面にへばりついているという人が。地面と一体化して、この世にどっぷりと浸かっているという人がいるかもしれません。でもそういう人でも陶器師に「助けてください!」「あわれんでください!」と叫ぶなら、陶器師なる主は土くれにすぎないあなたを、地面から拾い上げて、再び水の洗いと聖霊の豊かな泉によって潤してくださいます。そして再びたたき、再び回し、再び指で押さえつけ、ご自身の意のままに、私たちを練り上げてくださり、美しい人に作り上げてくださいます。だから、あきらめないでください。あきらめたらすべてが台無しになってしまいます。あなたはやり直すことができます。もう一度やり直せばいいのです。神は最後の最後まであなたを見捨てることはなさらないからです。
これはアフリカへ派遣されたジェームズ・キングという宣教師が報告している実話です。
キング師が仕えていた教会に、すべての集会に欠かさず出席していた婦人がいました。彼女には愛犬がいて、この愛犬もいつも教会について来ました。この婦人はいつも通路側の席にすわり、犬は説教の間、静かにその傍にすわっていました。集会の終わりに、牧師が祈ってほしいと希望する人を講壇の前に招くと、この婦人はいつも前に行き、犬もそれについて行きました。
この婦人は、夫の暴力に悩まされていました。ある日、妻がクリスチャンとして生活していることに腹を立てた夫は、この婦人を殴り殺してしまいました。彼は、牧師がキリスト教式の葬儀を挙げることを赦しませんでした。妻は埋葬され、家には、夫と犬だけが残りました。
水曜日の夜7時になると、この犬はどこかへいなくなりますが、2時間くらいすると帰って来ます。日曜日にも同じことが起こりました。
不思議に思った夫は、犬のあとをつけてみることにしました。すると犬は、小さな教会に入り、集会の間、静かに通路にすわっていました。集会が終わりに近づいたとき、彼は犬が講壇の前に出て行くのを会場の後ろのほうから見ていました。すると犬は、妻がいつも祈りをささげていた場所にすわったのです。その光景を見た夫は、たましいが揺さぶられるような感動を覚え、自分も前に進み出て、その場でイエス様に人生を明け渡しました。そして、次の日からは、犬は新しい主人について教会に来るようになったのです。
だから、あきらめてはなりません。神は最後の最後まであなたを見捨てることはなさいません。あなたがどんなに落ちぶれても、どんなに頑なになっても、最後の最後までチャンスを与えてくださいます。たとえ焼き物の瓶が砕かれても、神はあなたに回復の希望を約束しておられます。でも、できれば神はあなたにそんなさばきを下したくはないのです。焼き物の瓶を砕きたくはありませ。二度と直すことができないような器にはしたくないのです。その前に立ち返ってほしい。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めことを願っておられるからです。
「さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。」(18:11)今がその時です。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのです。それぞれ悪の道から立ち返り、生き方と行いを改めましょう。

ヨシュア記17章

2023年6月28日(日)バイブルカフェ
聖書箇所:ヨシュア記17章

きょうはヨシュア記17章から学びたいと思います。

 Ⅰ.戦士マキル(1-2)

まず1節から2節をご覧ください。「17:1 マナセ部族の地は次のとおりにくじで割り当てられた。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギルアデの父であるマキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった。17:2 残りのマナセ族の諸氏族、すなわち、アビエゼル族、ヘレク族、アスリエル族、シェケム族、ヘフェル族、シェミダ族にも割り当てられた。これはヨセフの子マナセの、男の子孫の諸氏族である。」

16章ではエフライム族が受けた相続地について記されてありましたが、この17章にはマナセ族に割り当てられた相続地について記されてあります。マナセはヨセフの長男でしたが、先に相続地を受けたのは弟のエフライムでした。それは創世記48:19にあるように、「弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう」と語ったイスラエルの預言の成就でもありました。

1節には、マナセの長男であるマキルが、ギルアデとバシャンという二つの土地を獲得したことが書かれてあります。その地はくじによって割り当てられましたが、「彼は戦士であったので」とあるように、戦ってその地を獲得しました。つまり、イスラエルの相続地というのは自動的に与えられたというのではなく、その地を獲得する自由が与えられたに過ぎないということだったのです。そこには先住民族が住んでいたわけですから、いくら神がこの地を与えるとは言っても、それは棚ぼた式にもたらされるものではなく、自分たちの努力によって獲得していかなければならなかったのです。マキルは戦士だったので、自分に割り当てられた相続地を獲得していきました。

ここに「信仰」とはいかなるものであるかが教えられています。つまり、私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって神の救い、驚くほどの祝福を与えられましたが、そのような約束を与えられた者は、自らの手でそれをしっかりと掴まなければならないということです。Ⅱペテロ1章5~7節には、「あらゆる努力をして、信仰には徳を、特には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)とあります。また1章10節には「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」(同1:10)とあります。救いは一方的な神の恵みであり、私たちの行いによるのではありません。しかし、そのように一方的な神の恵みによって救われた者は、その恵みに応答してますます実を結ぶ者となるように熱心に求めていかなければならないのです。信仰を持つというのは、決してあなた任せになるということではありません。自分は何もしなくても、神様がみんなやってくれるのだというのではなく、神の驚くべき恵みに感謝して、キリストのご性質にあずかるためにあらゆる努力をしなければならないのです。その時神の聖霊が働いてくたさいます。神が与えてくださった祝福を、自分たちの最大限の力をもって応答し、神の約束と命令を遂行していくことなのです。

Ⅱ.ツェロフハデの娘たち(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。「17:3 マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデには、息子がなく娘だけであった。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。17:4 彼女たちは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアと族長たちの前に進み出て言った。「【主】は、私たちにも自分たちの親類の間に相続地を与えるよう、モーセに命じられました。」ヨシュアは【主】の命により、彼女たちにも、彼女たちの父の兄弟たちの間に相続地を与えた。17:5 マナセには、ヨルダンの川向こうのギルアデとバシャンの地のほかに、十の割り当て地があてがわれた。17:6 マナセの女の子孫が、男の子孫の間に相続地を受け継いだからである。ギルアデの地はマナセのほかの子孫のものとなった。」

ここには、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデの娘たちのことが記されてあります。マナセから見たら曾曾曾孫に当たります。この娘たちが、相続地を受けるために祭司エルアザルとヨシュアのもとに来て、自分たちにも相続地を与えるようにと懇願しました。なぜでしょうか。当時の女性は、戦前の日本と同じように財産を受け継ぐ権利はなく、その資格を持っていなかったからです。そこで彼女たちはその権利を主張したのです。しかも彼らはマナセから数えたら曾曾曾孫です。そのような立場から見てもこのように懇願することは極めて異例のことであり、考えられないことでした。しかし、彼女たちは大胆にも願い出て、その結果、驚くべきことに相続地を得ることができました。しかも、あの戦士マキルでさえその武力を行使してやっと2つの相続地を獲得したというのに、彼らには何の努力もなしに10の割り当て地が与えられたのです。これはどういうことなのでしょうか。

このツェロフハデの娘たちのことについては、以前、民数記で学びました。民数記27章です。そこには、このツェロフハデの娘たちがモーセのところにやって来て、男の子がいないという理由で相続地が与えられないのはおかしいと、自分たちにも与えてほしいと訴えたところ、モーセはそれを主の前に持って行き祈りました。すると主は、「彼女たちの言い分は正しい」と、彼女たちにも相続地を与えるようにと命じられたばかりか、もし子どもに男子がいない時にはその娘に相続地を渡すように、また娘もいない時には父の兄弟たちに、兄弟もいなければ、彼の氏族の中で最も近い血族に継がせるというおきてを作るようにと命じたのです。それは、このツェロフハデの娘たちの訴えがきっかけとなって出来た掟だったのです。

ここで彼女たちが大祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、自分たちにも相続地を与えてほしいと懇願したのは、この出来事が根拠になっています。つまり彼女たちは主がそのように約束されたので、それを自分たちのものとしたいと願い出たのです。確かに彼女たちは男子ではありませんでした。しかし、そうした立場であるにも関わらず主の前に出て、主のみこころを求め大胆に願い出たのです。私たちの神は、このようにみこころを求めて大胆に願う者の祈りを聞いてくださるのです。

主イエスはこう言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)どのような人が受け、見つけ出し、開かれるのでしょうか。求め続け、捜し続け、たたき続ける人です。そのような人は与えられ、見つけ出し、開かれるのです。

イエス様はそのことを教えるために、不正な裁判官のたとえを話されました。ルカの福音書18章です。一人の不正な裁判官がいました。彼は神を恐れず人を人とも思わない人でした。そんな彼のところにひとりのやもめがやって来て、「どうか、私のために裁きを行って、私を守ってください。」と懇願しました。しかし、彼はその訴えを無視しました。それでも、このやもめが毎日やって来ては、「どうか私を訴える者をさばいてください」と叫び続けたので、彼は神を恐れず、人を人とも思わない裁判官でしたが、あまりにもうるさいので、さばきをつけてやることにしました。神はこのようなお方だというのです。だとしたら、私たちもあつかましいと思われるほど執拗に求め続けていくのなら、神は心を動かしてくださるのではないか、と言われたのです。

しかし、このツェロフハデの娘たちはただ執拗に訴えたのではありませんでした。彼女たちは神の約束のことばに信頼して訴えたのです。4節を見ると、「主はモーセに命じられました」とあります。それはかつてモーセを通して命じられたことなので、その神の約束を握りしめて訴えたのです。「神さま、あなたはこのように約束してくださったではありませんか。ですから、どうかこれを実現してください。」と。そして、ヨシュアはこの約束を知った時、彼女たちは受ける資格のない者たちでしたが、その約束のごとく彼らに与えたのです。ですから、大切なのは自分たちが執拗に祈ればいいということよりも、それが神の約束であることを確信して祈ることです。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。

Ⅲ.マナセ族の失敗(7-13)

次に7~13節までをご覧ください。「17:7 マナセの境界線はアシェルからシェケムに面したミクメタテである。その境界線は南へ、エン・タプアハの住民のところに行く。17:8 タプアハの地はマナセに属していたが、マナセの境界のタプアハはエフライム族に属していた。17:9 そして境界線はカナ川を下る。川の南側にある町々は、マナセの町々の間にはあるが、エフライムに属している。マナセの地域は川の北側にある。その終わりは海である。17:10 その南はエフライムのもの、北はマナセのものである。また海がその境界である。マナセは北でアシェルに達し、東でイッサカルに達する。17:11 イッサカルとアシェルの中にある、ベテ・シェアンとそれに属する村々、イブレアムとそれに属する村々、ドルの住民とそれに属する村々、エン・ドルの住民とそれに属する村々、タアナクの住民とそれに属する村々、メギドの住民とそれに属する村々はマナセに属している。その三番目は高地である。17:12 しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの地に継続して住んだ。17:13 イスラエル人が強くなったときにはカナン人を苦役につかせたが、彼らを追い払うことはなかった。」

ここには、マナセ族が受けた相続地の地域がリストアップされています。しかし、何度も述べてきたように、相続地が与えられたとは言ってもそこにはまだカナン人が住んでおり、このカナン人と戦って獲得しなければ、それを自分たちの土地にすることはできませんでした。かくしてマナセ族はカナン人の原住民と戦い、次々とその地を占領していきました。しかし12節を見ると、マナセの子孫はこれらの町々を取ることができなかったので、カナン人は長くこの地に住み通しました。つまり、実際にはかなり多くの地を占領できずにいたのです。けれども、長い戦いの時を経て、彼らは次第に力をつけて強くなって行くと、やがて、完全にカナン人を征服するに至りました。13節には、「イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」とあります。どういうことでしょうか。
彼らは戦いに勝って、やっとその地を占領することができました。しかし、占領した時、彼らはカナン人をどのように扱ったかというと、カナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことはしませんでした。なぜでしょうか。その地を占領したならば、その地の住人を追い払うか、あるいは聖絶するようにというのが、主の命令であったはずです。それなのに彼らはそのようにしませんでした。カナン人に苦役を課したが、追い払ってしまうまでしなかったのです。どうしてでしょうか。

ある学者は、ここはイスラエルの人道主義の表れだと評価します。長い間定住地を持っていなかったイスラエルの民にとって、その厳しい生活を顧みる時に、カナン人たちに対して、自分たちが歩んできたと同じ運命を担わせるにはあまりにも忍びなかったのだといいます。苦難が私たちにもたらす大切な意味の一つは、自らが経験した苦労や苦悩によって他者への思いやりを持つことができることだというのです。

しかし、そうではありません。ここでマナセ族が強くなってもその地に住むカナン人を追い払わなかったのは、彼らが神の命令を割り引いて受け止めてしまったからです。苦役を課していれば追い払わなくてもいいだろうと、それでも自分たちは神に従っていると思い込んでいたのです。しかし、神の命令は聖絶することでした。その地の住人を追い払い、その地の偶像を完全に破壊し、その地において神の民として聖く生きることだったのです。それなのに、彼らはカナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことをしませんでした。

その結果、イスラエルがどうなったかを、私たちはイスラエルの歴史を通して見ることができます。彼らは自分たちの目で良いと思われるようなことをしたので、後になってそのカナン人からの攻撃によって苦しみ、その苦しみの中から叫ぶことで、神はさばきつかさ(士師)を送りイスラエルを救い出されました。そうやってイスラエルが神に従い、安定し、豊かになると、彼らは再び神を忘れて自分勝手に行動し、自らそのさばきを招くことになってしまうのです。その結果、国が二つに分裂し、北も南も諸外国によって攻撃されてしまいます。ほんの小さなほころびが、大きな滅亡を招くことになったのです。

これは私たちも注意しなければなりません。自分では神に従っていると思っていても、ただそのように思い込んでいるだけで、この時のイスラエル人のように徹底的に神に従っているのでなければ、実際には従っていないことになるのです。それは信仰の敗北を招くことになってしまいます。99%従っていても1%従っていなければ、従っているとは言えません。誰も完全に主に従うことなどできませんが、その中にあってこうしてみことばに教えられながら、ご聖霊の助けをいただいて、神のみこころにかなった者となるように努めていきたいと思います。

Ⅳ.信仰の目で見る(14-18)

最後に14節から18節までを見て終わりたいと思います。「17:14 ヨセフ族はヨシュアに告げた。「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほど数の多い民になるまで、【主】が私を祝福してくださったのに。」17:15 ヨシュアは彼らに言った。「あなたが数の多い民であるのなら、森に上って行きなさい。そこでペリジ人やレファイム人の地を切り開くがよい。エフライムの山地はあなたには狭すぎるのだから。」17:16 ヨセフ族は言った。「山地は私たちに十分ではありません。しかし、平地に住んでいるカナン人はみな、ベテ・シェアンとそれに属する村々にいる者も、イズレエルの平野にいる者も、鉄の戦車を持っています。」17:17 ヨシュアはヨセフの家、すなわち、エフライムとマナセに言った。「あなたは数の多い民で大きな力がある。あなたには、くじによる割り当て地が一つだけではいけない。17:18 山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」」

ヨセフ族の子孫エフライム族とマナセ族に対する土地の分配が終わると、そのヨセフ族がヨシュアのところに来てこう言いました。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」
これはどういうことかというと、自分たちは主が祝福してくださったので、こんなに数の多い民となったのになぜただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのか、ということです。つまり、彼らはこれでは不十分だと、ヨシュアに不満を訴えたのです。何ということでしょう。彼らが与えられたのはカナンの地の中心部分の最良の地でした。しかも最も広大な土地が与えられたのです。しかもそれは彼らが何かをしたからではなく、彼らの先祖ヨセフの遺徳のゆえでした。どれほど感謝してもしきれないはずなのに彼らは深く感謝したかというとそうではなく、逆に不満タラタラ訴えたのです。

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちにそれぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろいことに調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もう少し収入がほしい」と回答しました。人間の欲望は止まるところを知らないようで、「満足です」というよりも「もう少しほしい」と思っているのです。このヨセフの子孫たちもまた、この調査結果にあるように、神の恵みによって与えられた土地なのに、これでは足りない、もっと欲しいと言いました。

それに対してヨセフは何と言ったでしょうか。16節には、「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」とあります。だったら自分たちで上って行って山地を切り開いたらいいじゃないか、と言うのです。

するとヨセフ族が言いました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」
なるほど、彼らがヨシュアに不満を漏らすのもわかります。確かに彼らが受けた相続地は良い地でありその領地は最も広くても、そのほとんどが山岳地帯であり、しかもそこには強い敵が住んでいたので、その領地を自分たちのものとするには、極めて困難だったのです。山岳地帯であり、住むのに適さず、しかも強力な敵がいたので、「この地を与える」と言われても、実際に彼らが使用できる土地、支配することができた土地はほんの僅かしかありませんでした。そこで彼らは、「もっと別の領地を、もっと広い地を・・」と願い出たのです。

彼らの気持ちはわかります。けれども、カナンの地であればどこにでもカナン人は住んでいたはずであって、それはマナセとエフライムだけではなく、他のどの部族も同じことでした。そのカナン人と戦って与えられた相続地を自分たちのものにしなければならなかったのです。それなのに彼らは、そうした問題点を見つけてはヨシュアに文句を言い、自分で切り開くということをしませんでした。むしろ彼らはその広い土地が与えられていることを喜び、感謝して、敵と戦ってその地を自分のものにしなければならなかったのです。彼らに欠けていたのは、こうした信仰であり、開拓者精神だったのです。

それは日本の教会にも言えます。確かに地方での伝道は困難を極めます。人口が減少しているというだけでなく、因習との戦いもあります。都会で伝道すればどんなに楽かという同労者の声をどれほど聞いたことでしょう。けれども、都会には都会の悩みもあります。都会で一定の土地を確保しようとしたらどれほど大変なことでしょう。しかし、地方では都会と比べてそれほど困難ではありません。都会ではできないようなダイナミックな伝道ができるのです。要するにどこで伝道しているかということではなく、どこで伝道しても、どこに遣わされても、自分たちに与えられている使命を確認して、その置かれた地で咲くことなのです。

それに対してヨシュアはどのように答えたでしょうか。17節と18節をご覧ください。ここには、「するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

まずヨセフの子孫たちが訴えた、自分たちは数が多い民であるので、山地は自分たちが住むのには十分ではないということに対しては、何を言っているんですか、数が多いということはそれだけ力があるということですから、その力で山地を切り開いていくべきではないか、と言いました。
また、ヨセフの子孫たちが、自分たちが住んでいる所にはカナン人がいて、彼らは鉄の戦車を持っていて強い、と言うと、敵が強いということ、鉄の戦車を持っているということは、神の全能の力が働く余地があるということだから、その神に信頼して、その信仰によって敵を打ち破ることができる、と言いました。
このように、ヨシュアから見るとヨセフの子孫たちが挙げた不利な条件は、むしろ有利な条件だったことがわかります。ヨシュアは不利と思われる状況の中に有利な条件を見出して、それを神のみこころを行っていく力へと転換していったのです。神を信じるということはこういうことです。信仰を持つとはこういうことなのです。

私たちもこの世の目で見れば不利だと思える条件を信仰の目で見て、それを有利な条件へと転換し主の力に支えられながら、大胆に神のみこころを行う者とさせていただこうではありませんか。