ヨシュア記4章 

2022年11月30日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:ヨシュア記4章

きょうは、ヨシュア記4章から学びたいと思います。

 Ⅰ.永久に記念となる石(1-7)

 まず1~7節までをご覧ください。「1 民全員がヨルダン川を渡り終えると、主はヨシュアに告げられた。2 「民の中から部族ごとに一人ずつ十二人を取り、3 その者たちに命じよ。『ヨルダン川の真ん中、祭司たちが足をしっかりととどめたその場所から十二の石を取り、それらを携えて渡り、あなたがたが今夜泊まる宿営地に据えよ。』」4 そこでヨシュアは、イスラエルの子らの中から部族ごとに一人ずつ、あらかじめ任命しておいた十二人を呼び出した。5 ヨシュアは彼らに言った。「あなたがたの神、主の箱の前、ヨルダン川の真ん中へ渡って行き、イスラエルの子らの部族の数に合わせて各自が石を一つ、その肩に担ぎなさい。6 それがあなたがたの中で、しるしとなるようにするためだ。後になって、あなたがたの子どもたちが『この石はどういうものなのですか』と尋ねたとき、7 あなたがたは彼らにこう言いなさい。『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』」」

圧倒的な主の御業によってイスラエルの民がヨルダン川を渡り終えたとき、主はヨシュアに、民の中から部族ごとに一人ずつ、12人を選び、ヨルダン川の真ん中で祭司たちが立ったその場所から12の石を取り、彼らが泊まる宿営地に据えるようにと命じました。せっかくヨルダン川を渡り終えたというのに、なぜ再びヨルダン川に戻って石を取って来なければならなかったのでしょうか。また、なぜそれを宿営地に据えなければならなかったのでしょうか。やるべきことは他にいろいろあったでしょう。疲れた人々をゆっくり休ませるとか、次の戦いの備えをするとか。

6節にその理由が記されてあります。つまり、それはしるしとなるためでした。後になって、彼らの子どもたちが、「この石はどういうものなのですか」と聞くとき、主がヨルダン川の水をせきとめられたことのしるしであると答えなければなりませんでした。それは実に、ヨルダン渡河の奇跡が生きて働かれる主の御業によるものであることの証拠として、後世の人たちの信仰の励ましとなるためのしるしだったのです。言うならば、それはイスラエルの後世の人たちに対する教訓として据えられたものだったのです。

昔から、「ユダヤ人はどうして優秀な民族なのか」という謎がありますが、その理由の一つはここにあります。すなわち、ユダヤ人は過去の体験から教訓を学び取り、それを後世にしっかりと受け継ぐ民族であるということです。ユダヤ人の生活の中にも他の民族と同じように多くの祭りがありますが、他の祭りと違うことは、ただ単に祭りによって浮かれ、はしゃぎ、興奮して、喜んでいるのではなく、その祭りに込められている歴史的教訓から学んでいるということです。それは良いことや勝利の体験ばかりでなく、悪いことや失敗の体験からもそうです。それらの事柄を通して得た教訓を、その祭りの中に託し儀式化しているのです。

たとえば、過越しの祭りをご存知だと思います。イスラエルがエジプトから救い出されたことを記念して行うものです。その祭りの期間中はどこへ行っても「種なしパン」が出されます。決してライスやパンなどは出てきません。おかずは出てきますが主食は種なしパンに徹底しています。それは、この種なしパンに大きな意味があるからです。それはイスラエル民族の屈辱と解放を記念しているものなのです。昔イスラエルがエジプトで奴隷であったとき、主は彼らの嘆きを聞かれモーセという人物を立ててそこから解放してくださいました。その脱出の際、時間がなかったのでパンを膨らませる余裕がなく、仕方なく種なしパンを食べました。そしてその後過越しの祭りの際にはその時のことを忘れないために、何百年も、何千年も、そのことを繰り返して祝ってきたのです。彼らはその種なしパンを食べる度に、あの出エジプトにおいてイスラエルの民族が受けた屈辱と、そこから解放してくださった神の恵みを、ずっと思い起こしてきたのです。

この記念碑も同じです。主がヨルダン川をせきとめて、イスラエルの民を渡らせてくださったことをいつまでも覚え、そのすばらしい主の力を思い出し、主の恵みにしっかりととどまっているために、主はわざわざヨルダン川に戻らせて12個の石を取らせ、それを記念碑としたのです。

それは私たちにも必要なことです。私たちもこのような感謝の記念碑を立てなければなりません。主が成してくださったその恵みの一つ一つを思い起こし、それを心に刻まなければならないのです。私たちはともすると、神の恵みに対してそれが当たり前であるかのように口では感謝といいながら、ぬくぬくとその中で生きていることがあるのではないでしょうか。かつてあの時に、あのようにものすごい恵みと祝福を与えてくださったのに、そればかりか様々に起こる困難に対しても、その都度乗り越える力を与え、平安を与えてくださったのに、それらすべてを過去のもとしてしまい、何の感謝もせず、むしろ不平不満をもらし、あるいはそれらを自分自身の力でなし得たかのように思って生きていることがあるのではないでしょうか。

詩篇103篇2節に、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。ほめたたえられるべき方がどのような方であるかを思い出すことが、その後の歩みの力となります。神がどのような方をあるかを知ればしるほど、神の恵みがどれほど大きいかを知れば知るほど、この神の恵みにとどまるようになるのです。

主イエスは、十字架にかかられる前夜、弟子たちと食事をした後、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯はわたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)

それは、私たちのために救いを成し遂げてくださった主の恵みを覚え、その主と一つになるために主が再び来られる時まで行うように命じられたことでした。これを行うことによって、主が成してくださったことを覚え、心に深く刻むことができます。それは聖餐だけではありません。私たちは主の恵みを具体的な形にして、感謝を表すことによって主の恵みにとどまり、次の進ませる力を受けるのです。

Ⅱ.信仰によって(8-18)

次に、8~18節までをご覧ください。 「8 イスラエルの子らはヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げられたとおり、イスラエルの部族の数に合わせて、ヨルダン川の真ん中から十二の石を取り、宿営地に携えて行って、そこに据えた。9 これらの十二の石はヨルダン川の真ん中で、契約の箱を担いだ祭司たちが足をとどめた場所にあったもので、ヨシュアがそれらを積み上げたのである。それらは今日までそこにある。10 箱を担ぐ祭司たちは、民に告げるようにと主がヨシュアに命じられたことがすべて終わるまで、ヨルダン川の真ん中に立ち続けていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。11 民全員が渡り終えた後、民が見ている前で主の箱と祭司たちが渡った。12 ルベン人とガド人と、マナセの半部族は、モーセが彼らに告げたとおり、隊列を組んでイスラエルの子らの先頭を進んで行った。13 このようにして、武装した約四万の軍勢は主の前を、戦いのためにエリコの草原へと進んで行った。14 その日、主は全イスラエルの目の前で、ヨシュアを大いなる者とされた。それで彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間、恐れた。15 主はヨシュアに告げられた。16 「ヨルダン川から上がって来るよう、あかしの箱を担ぐ祭司たちに命じよ。」17 それでヨシュアは祭司たちに「ヨルダン川から上がって来なさい」と命じた。18 主の契約の箱を担ぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中から上がって来て、祭司たちの足の裏が水際の乾いた陸地に上がったとき、ヨルダン川の水は元の場所に戻り、以前のように、川岸いっぱいに満ちて流れた。」

イスラエルの民は、ヨシュアが命じたとおりに、ヨルダン川の真ん中から12の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えました。ところで、9節には、その12の石がどのようなものかを説明して、それは、ヨルダン川の真ん中で、契約の箱を担いだ祭司たちが足をとどめた場所にあったもので、ヨシュアがそれを積み上げたとありますが、多くの訳ではそのように訳していません。たとえば、口語訳では、「ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかつぐ祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。」と訳しています。この訳によると、イスラエルの子らがヨルダン川の真ん中から取った12の石とは別に、ヨシュアはヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を踏みとどめたところに、12の石を立てた、となっているのです。

それは新共同訳も同じです。新共同訳では、「ヨシュアはまた、契約の箱を担いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた跡に十二の石を立てたが、それは今日までそこにある。」と訳しています。

創造主訳聖書もそうです。「ヨシュアは、また祭司たちが十戒の箱を担いで立っていたヨルダン川の川底にも、十二の石を据えて、記念としたが、それはこの書物を書いている今も、そこに残っている。」

ちなみに、英語のNKJV(New King James Version)もそうです。「Then Joshua set up twelve stones in the midst of the Jordan, in the place where the feet of the priests who bore the ark of the covenant stood; and they are there to this day.」

このように、新改訳聖書以外のすべての訳は、イスラエルの中から部族ごとに一人ずつ選ばれた12人のが、川底から運び出して川岸に設置した12の石とは別に、ヨルダン川の中で、祭司たちが足をとどめた川底のその場所に、ヨシュアが12の石を立てた、と訳しているのです。

新改訳聖書では、前後の文脈からその12の石がどこから取って来たものなのかを説明しようと訳したのです。なぜなら、川底に石を立てるという行為は考えられないからです。川の水が元に戻ったら、あるいは、川の水が増したら見えなくなってしまいます。ですから、新改訳聖書でこのように訳したのは、この記述が合理的でないため、書き間違いがあったのではないかと考えたからなのです。また、川の中に石を立てることは神の命令になかったことも、その理由の一つでした。そのようなことをヨシュアが命じるはずがないと考えたのです。

けれども、このような合理的な理由からだけで本文を解釈することは極めて危険です。そこに人間的な解釈が紛れ込んでしまう恐れがあるからです。もちろん、ヘブル語によくある表現で、新改訳聖書のように「ヨシュアは据えた」という句を補う形で、「祭司たちが立っていた場所の下にあった十二の石を」と理解することも間違いではありませんが、ヘブル語本文をそのまま受け入れるとしても、そこには依然として、二つの可能性が残るのは事実です。したがって、ここではどちらが正しいのかという判断はそのまま残しながらも、もし、口語訳やその他の訳のように、宿営地とヨルダン川の川底の二か所に記念碑が据えられたとしたら、それはどういうことなのかを考える必要があります。

確かに川の真ん中に作られた記念碑は、川が再び流れ出したあとでは何の証拠にもなりませんが、たとえ形が見えなくても、確かにヨルダン川を渡り、そのしるしとして川底に記念碑を立てたということを信じることができたのです。

最近、近くの(大田原し湯津上地区)にある前方後円墳の遺跡を見に行きました。遺跡というのは、古い時代に建てられた建物とか、お墓、歴史的事件があった何らかの痕跡が残されている所で、それを見ると過去の人々の営みが見えてきます。しかそのほとんどは、「えっ、こんなところにあるの」と思われるような、人目につかない閑散とした場所であることが多いのです。私が行った湯津上の遺跡もそうでした。そこには説明が書かれた立て看板が置かれてあるだけで、どこにあるのか、どこから上って行けばいいのかわからない場所でした。つまり、こうした遺跡は見えるとか、見えないとかということは問題ではないのです。問題は、実際ここに数百年前に人々が住んでいて、どこの誰なのかはわからないけれども、葬られたという事実があるということなのです。ですから、そこに佇んでいるだけで、昔の人のそうした思いや生活ぶりがよみがえってくるのです。

ヨシュアがヨルダン川の川底に記念の石塚を立てたのも同じではないでしょうか。それが見えるか、見えないかということではなく、実際にヨルダン川の川岸に立った時、かつてここでイスラエルの先祖たちが神の御業を体験し、そこを渡ることができたということを思い起こし、彼らに働いておられる神の大いなる力を信じることができたのです。見えるというだけでなく、見えない所にも記念の石塚を立てるほどものすごい神の奇跡を体験したんだということを、後世の人たちも感じることができるために、わざわざ川底にも石を据えてその記念としたのです。ですから、見えなくもいいのです。見えなくても、そのことが聖書に書き記されることによって、その思いがひしひしと伝わってくるのです。

それからもう一つ、そこに重要な意義があります。それは、このヨルダン川の川底に立てられた石塚は、キリストとともに十字架につけられたことの象徴であったということです。パウロはⅠコリント10章1~2節で、このように述べています。

「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、」

つまり、かつてモーセが紅海を通ったのは、モーセにつくバプテスマを受けたのであるならば、ヨシュアがヨルダン川を通ったのは、ヨシュアにつくバプテスマを受けたということになります。ヨシュアとはだれのことでしょうか。「ヨシュア」とはギリシャ語で「イエス」です。ですから、これはイエスにつくバプテスマのひな型だったのです。ガラテヤ2章20節にこうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

このように見ると、ヨルダン川の川底に作られた記念碑は、キリストとともに十字架につけられた自分の姿の象徴であり、宿営地に作られた記念の石塚は、キリストとともに生きる新しいいのちの象徴だったと言えます。本来であれば、川の流れの中で滅ぼされていたかもしれない自分の代わりにキリストが死んでくださったというだけでなく、その身代わりによって新しいいのちに生かされるようになりました。この十字架と復活による救いの恵みを、この二つの石塚は表していたのではないでしょうか。

さて、民がすべて渡り終わった時、主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真ん中から上がって来て、祭司たちの足の裏がヨルダン川の水際の乾いた陸地に上がったとき、ヨルダン川の水は元の場所に戻り、以前のように、川岸いっぱいに満ちて流れました。その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなるとされたので、彼らはモーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れました。それはヨシュアが大いなる者とされ、次なる戦いにとって大きな出来事であったことがわかります。そのポイントはいったい何だったのでしょうか。信仰です。モーセによって与えられた主の約束を、ヨシュアが受け継ぎ、信仰によってその実現に向かっていくのです。それがカナンの地の征服において現われていきます。信仰こそ、神の約束を実現してく手段であり、大いなる者とされる秘訣であったのです。

Ⅲ.信仰の継承(19-24)

最後に、19~24節から終わりまでをみたいと思います。「19 さて、民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。20 ヨシュアは、ヨルダン川から取ったあの十二の石をギルガルに積み上げ、21 イスラエルの子らに言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに『この石はどういうものなのですか』と尋ねたときには、22 あなたがたは子どもたちに『イスラエルは乾いた地面の上を歩いて、このヨルダン川を渡ったのだ』と知らせなさい。23 あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。24 それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。」」 

イスラエルはヨルダン川から上がると、エリコの東の境にあるギルガルに宿営しました。そこはカナン侵略の、いわば作戦軍事基地になっていった場所です。そこからイスラエルの民はカナン人との戦いを開始していきました。それほど重要な場所だったのです。そこに、ヨルダン川から取ったあの12の石を積み上げました。彼らは戦いに勝つこともあれば、負けることもありましたが、とにかくギルガルに戻ってきた時には、この記念碑を見て奮起したのです。父なる神はあのヨルダン川をせきとめて、その真ん中を渡らせてくださった全能者であることを再確認し、思い起こして、勇気をいただき、再び戦いへと出て行ったのです。

そういう意味では、ギルガルは私たちが帰る場所でもあります。そこに帰って静まり、神の偉大さを思い起こし、勇気と力をいただいて、再び戦いへと出て行くのです。そうです、それが十字架のキリストなのです。私たちはいつも十字架のキリストのもとに帰り、そこから慰めと励ましと勇気と力をいただいて、再びこの世の中に出て行くことができるのです。私たちの中で絶えずギルガルに戻ることが必要なのです。

それは私たちだけではありません。私たちの子どもにも言えることです。後になって、あなたの子どもたちがその父たちに、「これらの石はどういうものなのですか」と聞くなら、「イスラエルは乾いた地面の上を歩いて、このヨルダン川を渡ったのだ」と言わなければなりませんでした。それは、地のすべての民が主の御手が力強いことを知り、彼らがいつも彼らの神、主を恐れるためです。

私たちの子どもたちは主を恐れているでしょうか。この世の流れにどっぷりと浸かり、神ではなく別のことを恐れながら生きています。それは子どもたちだけでなく、私たち自身もそうです。地のすべての民が、主の御手が力強いことを知りこの主を恐れるために、その偉大さを教えていかなければなりません。

パウロはテモテに、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言いましたが、そのためには、他にも教える力のある忠実な人が起こされるように祈らなければなりません。これが私たちに託された使命なのです。そのためには、まず私たちが信仰に生き、神の恵みの豊かさを体験する必要があります。この世はそれとは全く反対の方向に流れていても、「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)とヨシュアが告白したように、私たちもそのように告白しながら歩んでいきたいものです。

どうして、どうして、どうしてエレミヤ書12章1~6節

聖書箇所:エレミヤ書12章1~6節(エレミヤ書講解説教26回目)
タイトル:「どうして、どうして、どうして」

きょうは、エレミヤ書12章前半の箇所からお話します。説教題は、「どうして、どうして、どうして」です。すごい題ですね。でも、皆さん、いつもこのように叫んでいるんじゃないですか。「どうして、どうして、どうして」と。
 エレミヤのメッセージは、11章から第三のメッセージに入りました。その最後のところ、つまり、11:18には、主がエレミヤの暗殺計画について知らせてくださいました。何とエレミヤの出身地のアナトテの人たちが、彼を殺そうと企んでいたのです。彼は同胞の救いのために涙をもって神からのことばを語ってきたのに、故郷の人たちはそれを快く思わなかったばかりか、彼を殺そうと企んでいたのです。それを知ったエレミヤはどうしたでしょうか。

彼はそのさばきを主にゆだねました。11:20にあるように、主は正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試される方だからです。しかし、彼の心は晴れませんでした。いったいどうしてこのようなことになるのか、自分の中で悶々とする中で、主に祈るのです。それが今日の箇所です。

ですから、これはエレミヤの祈りですが、祈りというよりも嘆きです。1節には、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」とあります。主よ、どうしてですか。納得できません。おかしいじゃないですか、と叫んでいるのです。エレミヤの心情を知れば、そのように叫びたくなるのも理解できます。神様からのことばを真面目に伝えているのにそれを受け入れるどころか、かえってそれを語っている自分を殺そうとしているのですから。エレミヤのような偉大な預言者でも神様にぼやくことがあります。弱さのあまりついつい愚痴ってしまうことがあるのです。

それはエレミヤに限ったことではありません。私たちも同じです。私たちも自分が納得できないことがあると、このように叫ぶのではないでしょうか。「主よ、どうしてですか」。そのような時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにしてそれを解決することができるのでしょうか。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの訴え(1-2)

まず、エレミヤの訴えを見ましょう。1~2節です。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。2 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

ここでエレミヤは主に訴えています。彼ははまず、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」と言っています。彼は神が正しい方であることを認めています。だれが神の正しさを疑うことができるでしょうか。神様は全く聖なる方であり、義なる方です。ですから、どんなに神様と論じ合ったとしても、神様の方が正しいのは明らかです。それでも、彼はさばきについて神に聞きたかったのです。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかでいるのかということを。どこかで聞いたことがあるフレーズですね。「なぜ、悪者が栄えるのか」。

これは、古今東西、すべての人に共通している問いです。旧約の聖徒たちもこの問題と格闘しました。ヨブ記全体が、これらの疑問に答えるために書かれています。また、ダビデは詩篇37篇で、アサフは詩篇73篇で、このテーマと格闘しています。多くの聖徒たちがこの問題にぶち当たったのです。それは現代の私たちも例外ではありません。理不尽だと思うようなことがあると、「主よ、どうしてですか。なぜ、悪者が栄えるのですか」と叫びたくなります。これはすべての人に共通している疑問なのです。神が正しい方であるならば、どうして悪者が栄え、裏切り者が安らかでいるのか。どうして正しくさばいてくださらないのか。おかしいじゃないですか。納得いきません。そう思うのです。ましてそれが自分の身に振りかかる問題であれば黙ってなどいられません。どうして私が仕事を失わなければならないのですか。どうして病気にならなければならないのでしょう。どうしてこんなひどい目に合わなければならないのですか。どうして陰で噂され、除け者にされなければならないのですか。どうして自分ばかりこんな惨めな生活をしなければならないのですか。どうして、どうして、どうして・・・と。

ここでエレミヤが言っていることは、確かに神は正しい方であるというのはわかっています。それは間違いありません。でも現実はどうかというと、その正しさがなされていないのではないかということです。悪者が栄えています。それはおかしいんじゃないですか。神様が義なる方であられるならば、どうしてその義を実現なさらないのか。むしろ悪の方が栄えています。どうしてそういうことが許されるのでしょうか。これは私たちもぶち当たる疑問です。

2節をご覧ください。「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

「彼ら」とは、アナトテの人たちのことです。「あなたは彼らを植え」とは、神が彼らを植えられたということです。神が彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って、実を結ぶことができました。つまり、すべての出来事の背後には神がおられるということです。今この世に存在している悪でさえも神の御手の中にあり、神が支配しておられるということです。どんなにおぞましいことでも神が見ておられないこと、神が知らないことはありません。このように、エレミヤはこうした状況の背後に神の主権があることを認めているのです。

でも、その彼らは神に対してどうだったでしょうか。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」どういうことでしょうか。彼らは口先では神を敬っているようでも、その心は神から遠く離れていたということです。口先では神に祈り、賛美し、礼拝しているようでも、その心は神から遠く離れていました。彼らの信仰は見せかけだったのです。そんな彼らが栄えていいんですか。それはおかしいじゃないですか。どうしてあなたはそれを許されるのですか。これが、エレミヤが抱いていた疑問だったのです。

Ⅱ.エレミヤを試された主(3-4) 

それに対して主はどのようにお答えになられたでしょうか。3~4節をご覧ください。「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これはエレミヤの祈りです。まだ神は何も答えていません。しかし、エレミヤは自分の祈りの中で一つのヒントを得ました。それは、主がエレミヤの心を試しておられるのではないかということです。ここには、「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。」とあります。神様がこのようなことを許される一つの理由は、エレミヤ自身の心を試すためであったということです。事実、エレミヤの質問に対して神様は一言も答えていません。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかというエレミヤの疑問に対して、「それはね、これ、これ、こういう理由だからだよ」という答えは一切ありません。それはエレミヤだけでなく他の聖徒たちの問いに対しても同じです。たとえば、ヨブ記を見ても、ヨブの訴えに対して神様は何も答えていません。答えたところで、私たちのようなちっぽけな者には理解できないからです。

でも、神様がもっと関心をもっておられることがあります。何でしょうか。それは私たち自身です。あなた自身です。神様の関心は私たちの質問に対して答えることではなく、私たち自身にあるのです。神様は私たち自身に、私たちの心に、私たちの信仰に関心を持っておられるのです。このことを通して私たちはどうなって行くのか、この出来事、あの出来事をあなたがどのように受け止め、どのように応答し、どのように成長していくのかということに関心を持っておられるのです。神は私たちが疑問に思うことに全く関心がないとはいいませんが、それよりもむしろ、私たち自身に関心を持っておられるのです。これは大事なポイントです。神様の焦点はあなたがどのような状況にあるかとか、どのような問題に置かれているかということではなく、あなた自身にあるということです。あなたがそれをどのように受け止め、どのように変えられようとしているかということにあるのです。未熟な私たちにはそれがわからないので、自分が嫌なことや苦しいこと、理解できないことがあると、すぐに「主よ、これはどういうことですか」と説明を求めるのですが、しかし、それはこのことに気付いていないからです。

私には3人の娘がいますが、まだ2~3歳の頃、よく「お父さん、どうして?」と聞いてきました。

「遊んだら片付けるように」 「どうして?」

「食べる前には手を洗うこと」 「どうして」

「お友達には親切にすること」 「どうして?」

何かつけ「どうして?」と聞いてくるのです。最初のうちは「これはね、これこれこういうことだからだよ」と丁寧に答えていましたが、今度はその説明に対して「どうして」と聞いてくるのです。「なぜ」とか「どうして」という問いに答えることは、ある面で子供に何かを教えていくチャンスでもあり、その子の成長につながることですが、どんなに答えても完全に納得できるかというとそうではありません。どんなに答えても親が考えているすべてのことを理解することはできないのです。

最近、面白い話を聞きました。有限な人間と無限の神の例話です。人間は有限であり、無限の神様を理解できない事も多くあります。例えば象の爪しか見えない蟻が、象全体を理解するのは困難です。その象が住んでいる、ジャングル全体を理解しようとしても不可能です。

子どもが親の考えのすべてを知ることができないのも同じです。有限な人間が無限の神を理解することはできないのです。

ですから神は最低限必要なことは答えても、何でもかんでも答えることはしないのです。大切なのは私たち人間が納得できるかどうかということではなく、誰がそのように言っておられるのかということです。それが神様であるなら、私たちが納得できてもでなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様が主権者だからです。主権者であられる神に従うかどうかが重要であって、神様はそれを試しておられるのです。

3年前に召されましたが、アメリカにウォーレン・W・ワーズビー(Warren Wendel Wiersbe)という牧師がおられました。「喜びにあふれて」とか、「試練を勝利に」という本を書いて日本語にも翻訳されています。ワーズビー牧師は、アメリカの教会成長論で幅をきかせていた統計による数量的増加というものが一般的風潮の中にあって、教会の霊的働きは統計だけでは量れないということを指摘し、量は質を保証するものではない、とまで言い切った人です。簡単に言うと、教会が大きいから質がいいというわけではない、ということです。それは、ワーズビー牧師がそれだけ聖書の真理に忠実であり、その真理に正しく生かされてきた証拠ではないかと思いますが、そのワーズビー牧師が次のように言いました。

「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」

含蓄のある言葉ではないでしょうか。神のしもべ(クリスチャン)は説明によって生きるのではありません。約束によって生きるのです。「主よ、どうしてですか」といろいろ神様に尋ね、答えをいただいてから「あっ、そういうことだったら私は従います。」とか、「こういう理由だったら従いません。」というのは違うというのです。それは神のしもべの態度ではありません。神のしもべは、主人である神から言われたことに対して有無を言わさず、文句もつけず、疑問も抱かず、そのとおりにします。それがどういう意味であろうと、自分が納得できてもできなくても従うのです。それが神のしもべであるということです。神のしもべは説明によって生きるのではなく、約束によって生きるとはそういうことです。

いろいろな疑問があります。納得いかないこともあるでしょう。説明を求めてなかなか前に進めなくなってしまうこともあります。状況が呑み込めないこともある。どうしてこんなことになってしまったのか、なぜうまくいなかいのか、なぜこの人たちはこんなに私に敵対してくるのか、なぜこんなに悪が栄え、裏切りを働く者たちがみな安らかなのか、それがわからなくて、ついつい立ち止まってしまうこともあります。でも、前に進むことを止めてはなりません。

神のしもべは、成熟すればするほど次のように受け止めることができるようになります。すなわち、私のような者にはすべてを理解することはできないが、でも私は全知全能の神様に信頼している。そして神様の約束を信じて、そこに希望を置いている。だから納得できてもできなくても、好むと好まざると、神様が言われることは間違いないので、信じて従います。これが、神のしもべである私たちクリスチャンのあるべき態度なのです。

エレミヤは、自分の心が試されていることを知っていました。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを見て、どうして悪者が栄え、裏切る者が安らかなのか納得できませんでした。しかし彼は、これは主が与えておられる試験であることを知り、何とかそれに合格したいと、彼らに対するさばきを主にゆだねました。それが3節後半~4節にあることです。「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これは、彼らの不正を神が正してくださるようにといことです。それは4節にあるように、彼らの罪によって、約束の地が荒れ果てているからです。彼らの罪のために、そこに住むすべての畑が枯れています。そこに住む者たちの悪のために、家畜も取り去られています。このままでは土地は呪われて荒れ果ててしまうことになります。だから主よ、すみやかにさばきを下してください、主が復讐してください、と祈っているのです。自分の置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とぼやいていたエレミヤでしたが、問題はそうでなく自分自身にあるということに気付かされて、そのすべてをゆだねて祈ることができたのです。

Ⅲ.神の答え(5-6)

第三に、5~6節をご覧ください。「5 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」

これは、エレミヤの疑問に対する神の答えです。しかしよく見ると、全然答えになっていません。エレミヤは「主よ、どうしてですか」と尋ねているのに、主は、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」と答えているからです。どういうことでしょうか。主はエレミヤの疑問に対して、別の形で答えているのです。

この「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに」とは、エレミヤが今直面している困難のことを指しています。エレミヤは今、故郷アナトテという町にいました。彼らに憎まれ、(うと)まれ、まさに殺されそうになっていました。彼はただ神のことばを忠実に語っただけなのに、嫌われて、命までも狙われていたのです。しかも6節には、「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ」とあるように、自分の家族や親族からも裏切られていたのです。自分の愛する者たちのためにいのちを賭けて仕えているのに、その愛する者からも裏切られ、殺されそうになっていましました。それは本当に辛いことでした。それはまさに徒歩の者と競争して疲れていた者の姿でした。

しかし神は、そんなエレミヤにこう言われました。「どうして馬と走り競うことができるだろうか」。これはどういうことかというと、徒歩の人と競争して疲れているのに、どうやって馬と走って競争することができるのかということです。できません。徒歩の人と競争して疲れているのに、馬と競争できるはずがありません。この馬と競争するというのは、これから先に起こる困難のことを指しています。来るべきさらなる試練のことです。具体的にはバビロン捕囚という出来事のことです。エレミヤは今、試練の真只中にいました。故郷のアナトテの人たちから裏切られ、殺されそうになっていました。なぜこんなことが起こるのかどうしても納得いかないと、神に食ってかかっていたわけです。そんなエレミヤに対して主は、あなたは今、徒歩の者と競争して疲れているのに、どうやって馬と競争することができるのか、と言われたのです。つまり、確かに今辛いかもしれけれども、これから先もっと辛いこと起こるわけで、であったらどうやってそれに耐えられるのかというのです。神に向かって「どうしてですか」と愚痴る暇があったら、将来の苦難に備えて信仰を増し加えるべきではないかというのです。

5節のその後のことばも同じです。「平穏な地で安心して過ごしているのに」とは、今の状態のことです。確かにアナトテの人たちはエレミヤを裏切るようなひどい人たちかもしれないが、それはまだ序の口です。平安の地で安心に過ごしているにすぎません。しかし、これからヨルダンの密林で過ごすようになります。ヨルダンの密林とは、まさに人が住めないような危険なところを意味しています。アナトテよりよっぽどひどいところです。バビロンに連れて行かれることになります。こんな平穏な地で安心して過ごしているのに、どうやってヨルダンの密林で過ごすことができるか。できません。だったらそれに備えて、信仰を増してくださいと祈るべきではないかというのです。

全く答えになっていません。何の慰めにもなりません。それはエレミヤが期待していた答えではありませんでした。彼が期待していたのは「これこれ、こういうわけだから、今はこうだけど、やがてこうなるよ」といったちゃんとした答えというか、納得できるような答えでした。あるいは、「そうだよね。本当に辛いと思うよ。頑張ってね。」というような慰めのことばだったと思います。それなのに神から示された答えは全く意外なものでした。それは、エレミヤを叱咤激励するような厳しいものだったのです。「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

皆さん、どう思いますか。私はハッとさせられました。というのは、まさに今の自分はエレミヤのようだと思ったからです。以前のような体力がなくなりました。5年前にできたことができません。人の名前も思い出せなくなりました。自分に自信を無くしたというか、この先どうやってやっていけばいいんですかと、つぶやくようになりました。そんな時に与えられたのがこの御言葉でした。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

こんなことで音を上げていてどうするんですか。これから先もっと大変なことが起こるんだよ。今はまだ平安な地で過ごしているようなものじゃないですか。これからヨルダンの密林で過ごすようになります。だから今を感謝し、ますます主に信頼して、将来に備えていかなければなりません。まさに目から鱗でした。これからもっと大変な時代がやって来るのであれば、今は恵みの時であって、多少の衰えで悲観している場合ではないと思ったのです。そう思ったら俄然力が満ち溢れるようになりました。これが主の答えだったのです。

本当に主はすばらしい答えをもっておられます。それは、私たちの想像をはるかに超えた答えです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。納得できるまで従わないのではなく、納得できてもできなくても、すべてを支配し治めておられる主の主権を認め、そのことばに従わなければならないのです。まさにウォーレン・W・ワーズビーが言ったように、「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」。説明によってではなく、神のことば、神の約束によって生きなければなりません。

その究極の約束こそ、主が再臨されるということです。その時、主イエスを信じる者は墓からよみがえり、朽ちることのない栄光のからだをもって、主のみもとに引き上げられることになります。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これが神の僕である私たちクリスチャンにとっての究極の希望です。世の終わりが近づくと、戦争や戦争のうわさを聞くことになります。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると、イエス様は言われましたが、今まさにそのような時代を迎えてこいます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。イエス様が再臨されるその時、栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになります。これがクリスチャンの究極の希望なのです。ですから、Ⅰテサロニケ4:18にはこのように勧められているのです。

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)

それゆえ私たちは、この困難な時代を耐え抜いて、生き抜いて、希望をもって生きることができるのです

ですから、もう疲れたとか、もうだめだと言わないでください。もう終わりだと言わないでください。失業することもあるかもしれません。失恋することもあるかもしれない。病気になることもあるでしょう。愛する人を失うこともあるかもしれない。自分自身が死ぬこともあるかもしれません。でも、あきらめないでください。イエス様はこう言われました。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

人生に苦難はつきものです。「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われました。なぜなら、「わたしはすでに世に勝ったからです。」イエス様はすでに世に勝利されました。

もしあなたが神のしもべとして説明によって生きることを止め、約束によって生きることを始めるなら、すでに世に勝利された主イエスの恵みと力によって、この世の苦難を必ず乗り越えることができます。

「あなたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはありません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたは今、どのような試練の中にありますか。それがどのような試練であれ、神はあなたを耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えることができるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どうぞ、神の約束を信じてください。主よ、どうしてですかと、説明を求めることを止めて、神の約束によって生きることを始めるなら、神はあなたに必ずご自身を現わしてくださるのです。

ヨシュア記3章

聖書箇所:ヨシュア記3章

 

きょうは、ヨシュア記3章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.主の契約の箱のうしろを進め(1-6)

 

 まず1節から4節までをご覧ください。「1 ヨシュアは翌朝早く起き、すべてのイスラエルの子らとともにシティムを旅立ち、ヨルダン川のところまで来て、それを渡る前にそこに泊まった。

2 三日後、つかさたちは宿営の中を巡り、3 民に命じた。「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。4 あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」」

 

エリコの町を偵察した斥候からの報告を受け、ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょにシティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、三日間そこに泊まりました。どうしてそこに三日間留まったのでしょうか。主の導きを求めたからです。彼らは、約束の地へ進んで行くためにヨルダン川を渡って行かなければならなりませんでした。どのようにしてわたって行ったらよいのか、主に祈り求めたのです。神から約束が与えられたということは、それが棚ぼた式にもたらされるということではありません。その達成のためには、いくつかの困難を乗り越えて行かなければなりません。その困難を乗り越えて行きながら、神の約束は実現していくのです。

 

彼らはどのようにしてそれを乗り越えて行ったでしょうか。2~4節には、三日後、つかさたちは宿営の中を巡り、 民にイスラエルの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進むようにと命じました。どういうことでしょうか。民数記には、イスラエルが荒野を進むとき、契約の箱をその隊列の中央に置いたとあります。契約の箱を中心に東西南北に3つの部族ごと12部族が十字架の形を組んで進みました。それは、主がイスラエルの民の真ん中におられることを象徴していました。ところが、ここでは契約の箱を先頭に立て、その後ろを進まなければなりませんでした。それは彼らに行くべき道を示すためでした。彼らは今まで、その道を通ったことがなかったので、主が先だって進まれたのです。それはイスラエルの民が荒野を進んだ時と同じです。荒野のどこを進んで行ったらいいかわからなかった彼らに、主は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださいました。それは彼らが進むべき道を知るためです。それと同じように、主は彼らが進むべき道を知るために、その先を進んでくださったのです。

それはまた主がご自身のみことばをもって導いてくださったということです。というのは、契約の箱には、主の律法のことば、主のことばが納められていたからです。それは主の臨在を現わしていたのです。主はご自身のみことばをもって導いてくださいます。預言者エリヤは450人のバアルの預言者と戦って勝利すると、アハブの妻イゼベルのことばに恐れ、神の山ホレブまで逃れて来ました。そこで激しい大嵐があっても、そこに主はおられませんでした。地震の中にも、火の中にも、主はおられませんでした。しかし、そこにかすかな細い声がありました。彼は激しい戦いや奇跡的な主の御業の中にこそ主がおられると思っていましたが、実際はそうではなく、主はかすかな主の御声の中におられたのです。この声を聞くべきです。この声に従うべきなのです。

 

ところで、4節を見ると、この契約の箱との間には、二千キュビトの距離を置かなければならないとあります。1キュビトは44.5センチですから、二千キュビトは約900メートルになります。いったいなぜこれほどの距離を置かなければならなかったのでしょうか。

二つの理由が考えられます。一つは、主は聖なる方ですから、私たちが近づくことも、触れることもできません。そのことを示すためです。それはあのウザの事件を見てもわかります。ダビデ王がエルサレムに契約の箱を運び入れようとしたとき、車を引いていた牛がつまずいて契約の箱が落ちそうになったので、側にいたウザが慌てて手で支えたところ、この行為が神の怒りに触れ、彼は神に打たれてその場で死んでしまいました。善意でしたことなのにどうしてウザは神に打たれて死ななければならなかったのでしょうか。それは、たとえ善意でしたことであれ、神は私たちが触れることも、近づくこともできないほど聖い方であられるからです。

 

もう一つの理由は、この聖なる神の御前にしゃしゃり出て、主の働きを妨げてしまうことがないようにするためです。肉なる者が前面に出てしまうと、主が働きにくくなってしまうからです。むしろ、妨げになってしまいます。

ウオッチマン・二―は、神の前における二つの罪があると言っています。一つは拒否の罪、すなわち、神様の命令に従わないで、それを拒否するという罪です。そしてもう一つは、出しゃばりの罪、すなわち神の命令がないのに、人間的な考えによって自分で進んで行こうとする罪です。

私たちは、神様が命じているのに従わないことがありますが、逆に、命じていないのに出しゃばって失敗することもあります。神様の命令よりも自分の思いが優先してしまうのです。結局のところ、何もしなければよかったということがよくあるわけです。そういうことがないように、二千キュビトの距離を置かなければならなかったのです。

 

ところで、そのためにイスラエルの民はどのような備えが必要だったのでしょうか。5~6節をご覧ください。「5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」6 ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。」

ヨシュアは民に言いました。「あなたがたは自らを聖別しなさい。あなたがたの身をきよめなさい。」と。自らを聖別するとはどういうことでしょうか。創造主訳聖書は、「身を清め、主に信頼しなさい」と訳しています。それは神に全く信頼するということです。神が語られることに対して絶対的に従うということです。どうしてでしょうか?主が、あなたがたのうちで不思議を行われるからです。それは彼らがすることではなく、主がなさることなのです。その主が御業をなさるために必要なことは、自らを聖別し、身をきよめること、神が語られることに絶対的に従うことだったのです。

 

Ⅱ.ヨルダン渡河の目的(7-13)

 

次に7節から13節までをご覧ください。「7 主はヨシュアに告げられた。「今日から全イスラエルの目の前で、わたしはあなたを大いなる者とする。わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを彼らが知るためである。8 あなたは契約の箱を担ぐ祭司たちに『ヨルダン川の水際に来たら、ヨルダン川の中に立ち続けよ』と命じよ。」9 ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「ここに来て、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」10 ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたの中にいて、自分たちの前からカナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を必ず追い払われることを、あなたがたは次のことで知るようになる。11 見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立ってヨルダン川を渡ろうとしている。12 今、部族ごとに一人ずつ、イスラエルの部族から十二人を取りなさい。13 全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は、川上から流れ下る水がせき止められ、一つの堰となって立ち止まる。」

 

ヨシュアは祭司たちに、「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」と命じました。そこで祭司たちは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行きました。いったいなぜこのようなことを命じたのでしょうか。二つの理由があります。

一つは7節にあります。それは、イスラエル全体の前で主がヨシュアを大いなる者とするためでした。それは、主がモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいることをイスラエルの民が知るためだったのです。実際、ヨシュアがこれから行なうことは、かつてモーセが行なったことと同じようなことでした。つまり、神がモーセを通して紅海を分けたように、ヨシュアを通してヨルダン川をせき止めようとしていたのです。そして、かつてモーセが祈り紅海を分けたとき、「イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」(出エジプト14:31)ように、今度はヨルダン川の水をせき止めるという神の奇跡をヨシュアが行うことによってヨシュアを大いなる者とし、イスラエルの民が彼に従うようにさせたのです。つまり、この出来事はカナンの地における次なる戦いのためにヨシュアのリーダーシップを確立させるためだったのです。おそらく、この時点ではまだ十分なリーダーシップが発揮されていなかったのでしょう。イスラエルの初代指導者であったモーセがあまりにも偉大なリーダーであったがゆえに、その後継者であったヨシュアに対する民の尊敬は今一つだったのではないかと思います。ですから、この出来事を通してモーセと同じ神が同じ霊をもってヨシュアにも働いていることを示し、ヨシュアを大いなる者にしようとしたのです。

 

もう一つの理由は、彼らがカナンの地に入って行った後に直面するであろう次なる戦いのためでした。10節には、「ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたの中にいて、自分たちの前からカナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を必ず追い払われることを、あなたがたは次のことで知るようになる。」とあります。

そこにはカナン人をはじめとする七つの部族がすでに定住していました。したがって、彼らがその地を占領するためには、そうした部族と戦って勝利しなければならなかったのです。いったいどうすれば勝利することができるのでしょうか。そのためには、生ける神が彼らのうちにおられ、それらの部族を追い払われるという確信を持たなければなりませんでした。どのようにしてその確信を持つことができるのでしょうか。この奇跡的な御業を通してです。全地の主の契約の箱が彼らの先頭に立ってヨルダン川を進んで行く時、その箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、ヨルダン川の水は上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになるという出来事によって、生ける神が彼らのうちにおられ、彼らの前から敵を追い払ってくださるということを確信することができたのです。

 

かつて福島で開拓伝道に取り組んだとき、会堂建設に携わりました。主は、600坪の土地に200人収容できる会堂を建設することを許してくださいました。しかし、それは困難を極めました。建設予定地が調整区域であったため、県からの開発許可が下りなかったのです。宗教法人で開発許可を得た法人は、当時1件もありませんでした。しかし、神様は不思議な方法で導いてくださり、申請から足かけ5年、念願の開発認可を与えてくださいました。それは信じられない神の御業でした。そればかりか、会堂建設に必要な資金も備えてくださり、1998年に献堂に導いてくださったのです。この経験を通して教えられたことは、主に信頼することの重要性です。会堂を建設することができたこともすばらしいことですが、それよりも、主が不思議を成してくださるという信仰です。その経験を通してその後の働きにおいても、主が御業を成してくださるという信仰をもって進むことができました。

 

それは私たちの信仰生活のすべてにおいて言えることです。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いと復活によって永遠のいのちがもたらされました。しかし、それはすべてにおいて順風満帆ということではなく、そこには新たな戦いが起こってきますが、その戦いのただ中に生ける主が共におられ、敵を必ず追い払ってくださることを知っているなら、たとえ困難があっても圧倒的な勝利者であられる主に信頼して前進することができるのではないでしょうか。まさにイスラエルのヨルダン渡河は、このことを知るためだったのです。

 

Ⅲ.せきとめられたヨルダン川(14-17)

 

さて、その結果どうなったでしょうか。14節から17節までをご覧ください。「14 民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。15 箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、16 川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。17 主の契約の箱を担ぐ祭司たちは、ヨルダン川の真ん中の乾いたところにしっかりと立ち止まった。イスラエル全体は乾いたところを渡り、ついに民全員がヨルダン川を渡り終えた。」

 

箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来て、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ったとき、ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれていましたが、上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところでせきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられたので、イスラエルの民はすべて、そのかわいた地を通り、ヨルダン川を渡り終えることができました。これは「刈り入れの期間中」の出来事だとありますが、今の暦に直すと三月下旬から四月上旬にかけての時期です。その時期は大麦の収穫の時期で、ヘルモン山からの雪解け水がガリラヤ湖に入ってきてヨルダン川に流れるので、水かさが最も増す時期です。しかし、どんなに水かさが増しても、主の圧倒的な力によって完全にせきとめられたので、イスラエルの民はヨルダン川の真ん中のかわいた地を通って、渡ることができたのです。

 

ところで、15節には「箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると」とあります。そのとき、ヨルダン川の水は上から流れ下る水はつったって、せきをなして立ち、塩の海のほうに流れる水は完全にせきとめられました。すなわち、ヨルダン川の水がせきとめられたのは、祭司たちの足の裏がそのヨルダン川の水の中にとどまったときでした。祭司たちはヨルダン川の水がせきとめられてから足を踏み入れたのではなく、水の中に足を踏み入れた結果、せきとめられたのです。このとき祭司たちはどんな気持ちだったでしょうか。もし水が引かなかったらどうなってしまうだろうかと不安だったに違いありません。しかし、彼らは神の約束に従って水の中に足を踏み入れたので、水がせきとめられたのです。

 

これが信仰です。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。目に見えるものを信じることは、信仰ではありません。信仰とは目に見えなくても、主が約束してくださったことを信じることです。そこに偉大な主の御業が現されるのです。私たちも主のみことばを信じて、ヨルダン川に一歩足を踏み入れる者となりましょう。

この契約のことばを聞け エレミヤ書11章1~10節

聖書箇所:エレミヤ書11章1~10節(エレミヤ書講解説教24回目)
タイトル:「この契約のことばを聞け」

エレミヤ書11章に入ります。ここから、エレミヤの第三のメッセージが始まります。第一のメッセージは2~6章にありましたが、そこでは、神から離れたイスラエルに対して、神に立ち返れと語られました。第二のメッセージは7~10章にありますが、そこには、神のことばに従わないイスラエルに対する神のさばきが語られました。そしてこの11章から第三のメッセージが語られます。その中心が、この「契約のことばを聞け」ということです。

結論から申し上げますと、この契約のことばに完全に聞き従うことは無理です。これに従おうとすることは大切なことですが、完全に行うことができる人など一人もいないのです。ではどうすればいいのでしょうか。それがきょうのポイントです。この契約のことばが指し示していたものをしっかり見て、そこに歩むことです。それがイエス・キリストです。イエス様の十字架の贖いを受け、神の聖霊をいただいて、新しい契約に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。きょうはこのことについてみことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.この契約のことばを聞け(1-5)

 

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ。3 『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。5 それは、わたしがあなたがたの父祖たちに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことを、今日のとおり成就するためであった。』」私は答えた。「アーメン。主よ。」

 

再びエレミヤに主の言葉がありました。これがいつのことなのか学者によって見解が分かれます。恐らく、南ユダ王国のヨシヤ王が死んだ後のことではないかと思います。ヨシヤ王の時代、大祭司でヒルキヤという人が神殿で律法の書を発見すると(B.C621)、それがきっかけとなって宗教改革につながっていきました。しかし、それは長くは続かずB.C.609年にヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死んでしまうと、ユダの民は元の状態に逆戻りしてしまいました。その時に語られたのがこれです。「この契約のことばを聞け。これをエルサレムの住民に語れ。」(2)

 

この「この契約のことば」とは、かつて神がモーセを通してイスラエルの民と結ばれたあの契約のことば、シナイ契約のことです。それはイスラエルの民がエジプトを出てシナイ山までやって来た時、彼らと結ばれた契約です。ですから、4節に「これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。」とあるのです。その契約を結んだ舞台がシナイ山だったので、この契約を「シナイ契約」と言うのです。シナイ契約といっても、契約をしないということではありません。ちゃんと契約をしましたが、シナイ契約と言います。この契約については出エジプト記19:4~5のところに、前提として次のように言われています。

「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

もし彼らが主の声に聞き従い、この契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の宝の民となると約束されていました。つまり、この契約のことばを守るなら祝福されるということです。これがイスラエルの原点でした。ですから、ここで神がエレミヤを通して語っておられることは、この原点に立ち返りなさいということです。そうすれば、祝福されると。それは彼らの父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことが成就するためでした。その約束通り主は、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださいました。しかし、その地に住むことと、その地に住んで祝福を味わうこととは別のことです。もしイスラエルの民がその契約を守るなら祝福を味わうことができますが、そうでなければ、のろわれることになります。それが3節で言われていることです。「『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。」

これが、モーセを通して神がイスラエルに約束してくださったことばです。この契約のことばを聞く者は祝福されますが、そうでなければのろわれることになります。

 

しかし残念ながら今、ヨシヤ王が死に人々が再び偶像礼拝に走って行ったことで、主は「もうここまで」と言われたのです。契約のことばを聞かなかった彼らに、のろいがもたらされると宣告をしているのです。奇しくも、申命記28:63のことばが実現しようとしていました。そこにはこうあります。「あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。」(申命記28:63)
 それが今、実現しようとしていました。神の民であるユダヤ人が約束の地から引き抜かれて、彼らの知らない異邦人のところ、つまり、バビロンに捕え移されようとしていたのです。

 

それに対してエレミヤは何と答えていますか。5節後半のところで彼は、「アーメン。主よ。」と答えています。「アーメン」とは、「その通りです」という意味です。そうなりますように、まことにそうです、ということです。つまり、契約にはペナルティーが伴うということです。もし神のことばに聞き従うなら神の祝福を受けますが、そうでなければのろいを招くことになります。その主のことばに対してエレミヤは、「アーメン、主よ。」と答えたのです。

 

私の妻は、1979年にカリフォルニア州のガーディナという町にあるカルバリーバプテストという教会から日本に遣わされました。その教会の牧師はアール・キースターという人でしたが、世界宣教、特にアジアの宣教に非常に重荷を持っていました。それは教会を退職してからも同じで、退職後はカールソンという教育担当の牧師をしていた御夫妻とオーカーストという町に移り住み、そこでりんごを栽培しながら後身の指導に当たっておられました。ですから、私たちが行くといつも大歓迎してくれて、私たちの日本での働きについて関心をもって聞いてくれました。

そのオーカーストという町のすぐ近くにアメリカでも有名な「ヨセミテ国立公園」があります。そこは岩肌がとても美しい大自然です。これはそのヨセミテで、1999年10月22日に起こった悲劇です。

この日、プロのパラシューダー(パラシュートを使って地上に曲芸的に降りる人)であるジャン・デイビス夫人が、事故で亡くなりました。ベース・ジャンプという大変危険なスポーツがありますが、彼女は、そのスポーツを行っていたのです。

その日、5人のジャンパーが、960mの絶壁から下に飛び降りる予定でした。彼女は、その4番目でした。しかし、パラシュートが開かないまま20秒間落下し、そのまま岩盤に叩きつけられたのです。彼女の夫は、その様子をビデオに納めていました。他に、数名の記者も同行していました。彼らは、その惨劇に、自分の目を疑いました。

そこは、この危険なスポーツであるベース・ジャンプは禁止されていました。というのも、それまでに6人もの人がそのスポーツでいのちを落としていたからです。

その日集まった5人のジャンパーたちは、ヨセミテ国立公園でのベース・ジャンプが禁止されているのを知っていましたが、皮肉なことに、彼らはベース・ジャンプが危険なものではないことを証明するために、あえて飛んだのです。彼らは、このスポーツの危険性だけでなく、違法性までも知っていました。ジャン・デイビスは、いのちの代価を払ってその償いをしたのです。

 

それはイスラエルの民も同じです。彼らもこの契約のことばを聞かなければどうなるかということをちゃんと知っていました。にもかかわらず、彼らはそれに聞き従いませんでした。その結果、神ののろいを受けることになってしまったのです。それは、私たちにも言えることです。この契約のことばを聞くなら祝福されますが、そうでなければのろわれてしまうことになるのです。

 

あるテレビの番組で、最近の若者の文化について特集していました。そこでは、最近の若者は「約束の時間を守らない、借りた物を返さない」ことが特徴だと言っていました。つまり、「いいかげん」な文化であるというのです。このままでは日本の将来が思いやられると嘆いていました。約束を守るということは、住みやすい社会を作るための基本的なルールです。神様と私たちの関係も同じで、約束(契約)というルールで成り立っています。神はイスラエルの民と契約を結ばれました。それは彼らが幸せに生きるためであって、その契約を守るなら祝福されますが、そうでなければのろわれることになるのです。

 

Ⅱ.わたしの声を聞け(6-8)

 

それに対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。6~8節をご覧ください。「6 すると、主は私に言われた。「これらのことばのすべてを、ユダの町々と、エルサレムの通りで叫べ。『この契約のことばを聞いて、これを行え。7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。』」

 

「この契約のことばを聞け」ということが、何度も繰り返されています。「聞け」というのはただ聞くというだけでなく、聞き従うこと、聞いてそれを行うということです。聞いたらメモをしておこうではありません。聞いたら自分の感じたことをシェアしなさいということでもありません。聞いたら、それを実行しなさいということです。

 

7節をご覧ください。ここには、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。」とあります。新改訳聖書第三版では「しきりに戒めてきた」と訳しています。主は今日まで「わたしの声を聞け」と、しきりに、しばしば戒めてきました。2~3回ということではありません。しきりに、しばしば、です。何回も、何回も、忍耐をもって戒めてきたのです。なぜなら、やがて聞けなくなる時がやって来るからです。それがいつなのかはわかりません。しかし、その日は間違いなくやって来ます。このエレミヤの時代も、バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼそうとしていました。そうなったらもう聞けなくなってしまいます。私たちの時代でいえば、イエス様の再臨の時はそうでしょう。イエス様が再臨してからでは遅いのです。聞きたくても聞けなくなります。ですから、その前に聞かなければなりません。神様がこうやって戒めてくださるのは、本当に幸いなことなのです。ですから、「わたしの声を聞け」という主のことばをスルーしないでください。「いつかそのうちに」とか、「今のところはまだ」などと言わないでください。「今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)とあるように、主の御声を聞いていただきたいと思います。

 

いったいなぜ主は「わたしの声を聞け」と言われるのでしょうか。それはあなたを責めるためではありません。また、あなたを叱るためでもないのです。それは、あなたに信仰を与えたいからです。というのは、信仰は聞くことから始まるからです。ローマ10:17にこうあります。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

皆さん、信仰は聞くことから始まります。神はあなたに、イエス・キリストに対する信仰を与えたいのです。神が語られるとき、それは時として耳に痛いことばかもしれません。とても聞くに耐えられないと思うかもしれない。このエレミヤのことばもそうでした。当時のユダヤ人にとっては非常に厳しい言葉だったので、故郷アナトテの人たちは彼を殺そうとしたほどです。もう聞きたくないと思いました。でも、信仰は聞くことから始まります。どんな言葉であろうと、どんな内容であろうと、聖書のことばを聞くことを止めないでいただきたい。聞くことを止めてしまったら、あなたは信仰に立ち続けることができなくなってしまいます。でも聞き続けるなら、あなたはしっかりと立つことができます。ですから、主のことばを聞くことを止めないでください。ヤコブ1:21には、「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなければなりません。その御言葉が、あなたのたましいを救うことができるからです。あなたの考えがあなたを救うのではありません。神の御言葉があなたを救うのです。神の御言葉は完全だからです。詩篇19:7~10にこうあります。「7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ 主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで人の目を明るくする。9主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」

 

8節をご覧ください。「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」

しかし、イスラエルの民は聞かず、耳を傾けませんでした。そして、頑なな悪い心のままに歩みました。それゆえ、主はこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませました。臨ませたとは、実現させたということです。つまり、神のことばを聞かない者はのろわれるということばを実現させたということです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。約束の地から引き抜かれることになります。それは主が行うようにと命じられたのに、彼らが行わなかったからです。

 

Ⅲ.契約のことばを破ったイスラエル(9-10)

 

では、どうしたらいいのでしょうか。9~10節をご覧ください。「9 主は私に言われた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。10 彼らはわたしのことばを聞くことを拒んだ自分たちのかつての先祖の咎に戻り、彼ら自身もほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った。」

 

6~8節で言われたことが、ここでも繰り返されています。こうやって見ると、イスラエルの民はいつも罪を犯していることがわかります。でもこれはイスラエルの民だけのことだけでありません。私たちも同じなのです。私たちもいつも罪を犯しています。私たちはあからさまにバアルとかアシェラといった偶像を拝むことはしないかもしれませんが、テレビやネットなどの情報を信じてまことの神から心が離れてしまうことがあります。つまり、どの時代の人でも本質的にはみな罪人なのです。聖書に「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:11)と書いてある通りです。だれ一人として神の律法を守り行うことができる人などいないのです。であれば、この契約ことば、律法にいったいどんな意味があるというのでしょうか。

 

この問題について取り上げているのが、ガラテヤ人への手紙3章です。この中でパウロは次のように言っています。「10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10-13)

 

律法の行いによるならば、人はみなのろわれた者です。なぜなら、義人はいない、一人もいないのですから。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないのです。しかし、信仰によるのであれば別です。信仰によるなら義と認めていただくことができます。「義人は信仰によって生きる」とあるからです。そのために、キリストはご自分がのろわれた者となって、十字架にかかって死んでくださいました。それは、罪のために神ののろいを受けて死ななければならない私たちの代わりとなって、私たちを律法ののろいから贖い出すためでした。木にかけられる者はのろわれた者なのです。律法を行うことができなくてのろわれた者となった姿こそ、この木にかけられた者の姿なのです。これが私たちの本来の姿です。しかし、律法をすべて行うことができる方、全く罪のない完全な神の御子イエス・キリストが代わりにのろいを受けてくださることによって、この方を信じる者を義と認めてくださったのです。

 

これが、永遠の神の救いのご計画でした。これが「新しい契約」と呼ばれているものです。新しい契約があるということは古い契約もあるということですが、その古い契約こそ、このシナ契約です。つまり、このシナイ契約が指し示していたもの、シナイ契約の先にあったのもの、それがこの新しい契約だったのです。それは新約聖書で明らかにされたのではなく、このエレミヤの時代にすでに啓示されていました。たとえば、エレミヤ31:31~33にこうあります。「31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい時代に、主がイスラエルと結ばれる新しい契約は、エジプトの地から導き出された日に、彼らと結んだような古い契約とは違います。それは、彼らの心に書き記される律法です。それは行いによるのではなく、神の真実に基づくものであって、イエス・キリストが流された血によって結ばれる契約なのです。イエス様がこのように言われました。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:20)

 

したがって、ここでは私たちクリスチャンにとって非常に重要なことが教えているのです。それは、人は律法の行いによっては救われないということです。「この契約のことばを聞け」とか、「わたしの声を聞け」とありますが、残念ながら私たちは聞き従うことができないのです。律法を守り行おうとすることは大切なことですが、その律法によってはだれも罪から救われないということです。結果、神ののろいを受けるしかありません。

 

では、この契約のことばにいったいどんな意味があるというのでしょうか。何のために律法が与えられたのでしょうか。それは、私たちが罪人であることを示すためです。そして、その罪から救われたいという願いを起こすためです。律法があるからこそ、私たちは神の前にどのような者であるかがわかります。律法は、いわば私たちの姿を写し出す鏡なのです。それがなかったら、義人はいない、一人もいないと言われても、ピンとこないでしょう。 「いや、私はそんなに悪い人間ではありません」とか、「隣の人を見てください。その人の方がよっぽど悪い人ですよ」となります。

 

でも、この律法の前に置かれたらどうでしょうか。神様の前に顔向けできなくなります。目も合わせることもできません。違反が示されるからです。律法が与えられた目的はここにあります。ガラテヤ3:22にこうあります。「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。」つまり、律法は私たちを罪の下に閉じ込めてしまうのです。ですから、律法によっては救われないことは明らかです。律法によるなら、のろわれるしかありません。だからこそ神は、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。それは、私たちが律法を行うことによってではなく、信仰によって義と認められるためです。律法の行いによっては永遠にのろわれて当然な者なのに、神は救い主を私たちのところへ送り、この救い主を信じる信仰によって救おうとしてくださいました。永遠ののろいから、永遠の祝福へと移してくださったのです。ですから、主イエスを信じるならだれでも救われるのです。

 

大切なのは、何を信じるのか、だれを信じるのかということです。今、あなたが信じているものは何でしょうか。それは大丈夫ですか。それはあなたを救うことができるでしょうか。あなたが愛して止まないもの、あなたが頼りにしているものは、あなたを裏切らないでしょうか。ほんとうに困ったとき、あなたを助けてくれるでしょうか。あなたに永遠のいのちを与えてくれるでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。

 

しかし、イエス様を信じる者は、だれでも救われます。何かをしなければならないということではありません。ただ信じるだけでいいのです。イエス・キリストを信じる者はみな救われます。律法によってはのろわれた者でしかない私たちを、神は救ってくださいました。十字架の贖いによって。この神の救い、イエス様の十字架の贖いを受け、神が与えてくださる聖霊の力によって、神のみことばに従う者とさせていただきましょう。自分の力、肉の力では限界があります。神が与えてくださる聖霊の力こそ、私たちが神のみことばに従う秘訣なのです。それは神の救い、イエス・キリストの贖いを受けることから始まります。この契約ことばは、イエス・キリストによって結ばれる新しい契約を指示していたのです。

ヨシュア記2章

聖書箇所:ヨシュア記2章

 

 

きょうはヨシュア記2章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.遊女ラハブ(1-14)

 

 まず1節から7節までをご覧ください。「1 ヌンの子ヨシュアは、シティムから、ひそかに二人の者を偵察として遣わして言った。「さあ、あの地とエリコを見て来なさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まった。2 ある人がエリコの王に、「イスラエル人の数名の男たちが今夜、この地を探ろうとして入って来ました」と告げた。3 それで、エリコの王はラハブのところに人を遣わして言った。「おまえのところに来て、おまえの家に入った者たちを出せ。その者たちは、この地のすべてを探ろうとしてやって来たのだから。」4 ところが、彼女はその二人をかくまって言った。「そうです。その人たちは私のところに来ました。でも、どこから来たのか、私は知りません。5 暗くなって門が閉じられるころ、その人たちは出て行きました。どこへ行ったのか、私は知りません。急いで彼らを追ってごらんなさい。追いつけるかもしれません。」6 彼女は二人を屋上へ上がらせ、屋上に積んであった亜麻の茎の中におおい隠していた。7 追っ手たちはヨルダン川の道をたどり、渡し場までその人たちを追って行った。門は、彼らを追う追っ手たちが出て行くと、すぐに閉じられた。」

 

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)との主のみことばに励まされてヨシュアは、主が彼らに与えて所有させようとしている地を占領するために出て行きます。ヨシュアはまずシティムという所から二人の者を遣わしてエリコを偵察させました。シティムは、アベル・ハ・シティム(民数記33:49)の省略形です。それは、ヨルダン川の東約12kmの、モアブの草原にありました。そこは、イスラエル人がヨルダン川を越える前の、最後の宿営地でした(ヨシュア3:1)。ヨシュアは、ここから斥候を遣わしたのです。すると、彼らはラハブという名の遊女の家に入り、そこに泊まりました。彼らはなぜラハブの家に入ったのでしょうか。遊ぶためではありません。彼らがエリコの町に入ったということが発覚したため、追いかけられて必至に逃げた先がこのラハブの家だったのです。そこならば彼らが入って行っても怪しまれないと思ったのかもしれません。

 

すると、エリコの王に、「イスラエル人の数名の男たちが今夜、この地を探ろうとして入って来ました。」と告げる者があったので、エリコの王はラハブのところに人をやってこう言いました。「おまえのところに来て、おまえの家に入った者たちを出せ。その者たちは、この地のすべてを探ろうとしてやって来たのだから。」

 

すると、ラハブは何と言ったでしょうか。彼女は二人をかくまって、こう言いました。「そうです。その人たちは私のところに来ました。でも、どこから来たのか、私は知りません。5 暗くなって門が閉じられるころ、その人たちは出て行きました。どこへ行ったのか、私は知りません。急いで彼らを追ってごらんなさい。追いつけるかもしれません。」

これは嘘です。ラハブはなぜこのような嘘までついて彼らをかくまったのでしょうか。それは彼女がイスラエルの民について聞いていたからです。どんなことを聞いていたのでしょうか。8~13節までをご覧ください。

「8 二人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところへ上がり、9 彼らに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。10 あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。11 私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。12 今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、13 私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」

 

9節には、「私は知っています」とあります。また、10節にも、「私たちは聞いているからです」とあります。彼女が知っていたこと、聞いていたことはどんなことだったのでしょうか。それは、イスラエルの民がエジプトから出てきたとき、主が葦の海の水を涸らされたことや、エモリ人のふたりの王シホンとオグを打ち破ったこと、そしてパレスチナの地を次々と制覇してきたということです。彼女はそれらのことを聞いたとき、このイスラエルの民の背後には偉大な神が共におられ、行く手を切り拓いておられるのだと直感したのです。そして、このイスラエルの民の信じる神、主(ヤハウェ)こそまことの神であり、この神に信頼するなら間違いないと信じたのです。9~12節までには「主」という言葉が4回も使われています。これはヘブル語で「ヤハウェ」となっています。すなわち、彼女はここで「ヤハウェ」という主なる神の御名を呼ぶことによって、自分の信仰を告白していたのです。

 

それに対して二人の斥候は何と言いましたか。14節です。「二人は彼女に言った。「私たちはあなたがたに自分のいのちをかけて誓う。あなたがたが私たちのことをだれにも告げないなら、主が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。」

 

私たちは、ここに慰めを受けます。彼女は遊女という身分でありながらも、この信仰のゆえに救いを受けることができたのです。彼女が救われたのは彼女が善人だからではなく、このイスラエルの主、ヤハウェなる神を信じたからです。それは私たちも同じです。私たちもこの遊女ように神から遠く離れていた者であり、汚れた者にすぎませんが、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるのです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

 

Ⅱ.赤いひも(15-20)

 

次に、15~20節までをご覧ください。「15 そこで、ラハブは綱で窓から彼らをつり降ろした。彼女の家は城壁に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいた。16 彼女は二人に言った。「山地の方へ行ってください。追っ手たちがあなたがたに出くわすといけませんから。彼らが引き揚げるまで、三日間そこに身を隠していてください。その後で、あなたがたが行く道を行かれたらよいでしょう。」17 二人は彼女に言った。「もしこのようにあなたが行わないなら、あなたが私たちに誓わせた、あなたへのこの誓いから私たちは解かれます。18 見なさい、私たちはこの地に入って来ます。私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結び付けておきなさい。あなたの父、母、兄弟、そして、あなたの一族全員をあなたの家に集めておきなさい。19 あなたの家の戸口から外に出る者がいれば、その人の血はその人自身の頭上に降りかかり、私たちに罪はありません。しかし、あなたと一緒に家の中にいる者のだれにでも手が下されたなら、その人の血は私たちの頭上に降りかかります。20 だが、もしあなたが私たちの、このことをだれかに告げるなら、あなたが私たちに誓わせた、あなたへの誓いから私たちは解かれます。」」

 

そこで、ラハブは綱で窓から彼らをつり降ろしました。そして、山地の方へ行き、そこで彼らが引き揚げるまで、三日間そこに身を隠しているようにと言いました。二人はそのことばの通りに山地へと逃れますが、その時、彼らが誓ったしるしに、ラハブが彼らを綱でつり降ろした窓に赤いひもを結びつけておくようにと言いました。その家に彼女の父と母、兄弟、また、父の家族を全部、集めておかなければならないというのです。そうすれば、彼らがエリコを占領した時に、そのしるしを見て、その家だけは滅ぼさないためです。

 

かつて、これと似たような出来事がありました。そうです、過越の祭りです。出エジプト12:13には、イスラエルがエジプトから出て行くとき、神はエジプトの初子という初子をみな滅ぼすと言われました。ただ家の門柱とかもいに小羊の血が塗られた家は、神のさばきが過ぎ越していき災いから免れました。この赤いひもは、過越しの小羊の血と同じ、イエス・キリストの贖いの血潮の象徴だったのです。ラハブは遊女でしたが、そんな遊女でもこの小羊の血によって救われるのです。私たちを神のさばきから救うのは、この小羊の血を信じる信仰によるのです。私たちがどのようなものであるかは関係ありません。ただキリストを信じ、その血が塗られているかどうかが問われるのです。

 

ヘブル人への手紙11章31節に、このラハブの信仰について次のように記されてあります。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」すなわち、ラハブは信仰によって生きたのです。それゆえに彼女は、遊女でありながらも不従順な人たちといっしょに滅びることを免れることができました。神のさばきから免れる唯一の道は、赤いひもを結び付けること、すなわち、神の小羊であられるキリストの贖いを信じることなのです。

 

ここに、クリスチャンとはどのような者なのかがはっきりと描かれています。それは高潔な人であるとか、立派な人、教養のある人、美徳に満ちた人ではありません。クリスチャンというのは、ただ信仰によって神の恵みと救いを受けている人のことなのです。でもちょっと待ってください。新約聖書にはこのラハブのことについてもう一か所に引用されていて、そこには彼女が行いによって救われたとも言われています。ヤコブ2:25です。「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」どういうことでしょうか。

ここでは特に人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないということの例として引用されています。これはどういうことかというと、ちょうど今礼拝でもお話ししているように、彼女がその行いによって義と認められたということではなく、彼女は生きた本当の信仰があったので、自分の命の危険を冒してもイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出すことができたということです。そうした信仰には、こうした行いが伴うということです。本物の信仰にはこうした行いが伴うのです。

 

つまり、私たちは神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのです。そこには、その人がどんな人であるかとか、どんな仕事をしていたかとか、どんな性格であるかとか、どんなことをしたかといったことは全く関係ありません。ただ神の一方的な恵みであるイエス・キリストを救い主として信じて受け入れたかどうかが問われるのです。もしイエス様を信じるなら、たとえ「遊女」という不名誉な肩書であっても、たとえ異邦人として神から遠く離れていた人でも、だれでも救われ、神の祝福を受け継ぐ者とさせていただくことができるのです。そして、そのように救い主につながった本物の信仰には、そうした行いが伴ってくるのであって、その逆ではありません。

 

Ⅲ.ラハブの信仰(21-24)

 

さて、二人の斥候からそのような提示を受けてラハブは、どうしたでしょうか。21節から終わりまでをご覧ください。「21 彼女は「おことばどおりにしましょう」と言い、二人を送り出した。彼らは去り、彼女は窓に赤いひもを結んだ。22 彼らはそこを去って山地の方へ行き、追っ手たちが引き揚げるまで、三日そこにとどまった。追っ手たちは道中くまなく捜したが、彼らは見つからなかった。23 二人は帰途についた。山地から下り、川を渡り、ヌンの子ヨシュアのところに来て、その身に起こったことをことごとく彼に話した。24 彼らはヨシュアに言った。「主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。確かに、あの地の住民はみな、私たちのゆえに震えおののいています。」」

 

ラハブは、二人のことばに対して「おことばどおりにいたしましょう。」と答えました。これは簡単なことのようですが難しいことです。皆さんがそのように言われたらどのように答えたでしょうか。そんなことしていったい何になるんですか、もっと他にすることはないんですか、たとえば、地下に隠れ家を作ってそこに隠れるとか、ありったけのお金を出して命拾いするとか、そういうことならわかりますが、つり降ろした窓に赤いひもを結ぶなんてそんな簡単なことで大丈夫なんですかと言いたくなります。でも救いは単純です。救いはただ神が仰せになられたことに対して、「おことばどおりにします」と応答することなのです。よく聖書を学んでおられる方が「私はまだバプテスマを受けられません」というようなことを言われます。「どうしてですか」と聞くと、「まだ聖書を全部学んでいないからです、せめて新約聖書の半分くらいは読まないとだめでしょう」と言うのです。確かに聖書を学ぶことは大切ですが、全部学ばないと救われないということではありません。聖書が示している救いの御業、キリストの十字架と復活が私のためであり、イエスこそ私の救い主であり、人生の主として信じて受け入れるなら、救われるのです。

 

ラハブのように応答した人が、聖書の他の箇所にも見られます。イエスの母マリヤです。彼女も主の使いから、「あなたはみごもって男の子を産みます」と告げられたとき、「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えますが、それが神の聖霊によるとわかると、「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」と言って、神のみことばを受け入れました。神の救いは自分の頭では理解できないことでも、聖書が神のことばであると信じ、聖書が言われることをそのまま受け入れることから始まります。そのような人は神から大いなる祝福を受けるのです。

それは、このマリヤもそうですが、ラハブもイエス・キリストの系図の中に記されていることからもわかります。マタイの福音書1章の救い主の系図を見ると、彼女の名が連なっていることがわかります(マタイ1:5)。異邦人でありながら、しかも遊女という肩書きであるにもかかわらず、神の恵みに対して信仰をもって応答したことによって、彼女は救い主の系図の中に組み込まれるまでに祝福されたのです。私たちも神の恵みを受けるにはあまりにも汚れた者ですが、主の恵みに信頼して、神の救いイエス・キリストを信じて受け入れ、この方と深く結びつけられることによって、神の恵みを受ける者とさせていただきましょう。

あなたの道を主にゆだねよ エレミヤ書10章17~25節


聖書箇所:エレミヤ書10章17~25節(エレミヤ書講解説教23回目)
タイトル:「あなたの道を主にゆだねよ」

きょうは、エレミヤ書10章後半から、「あなたの道を主にゆだねよ」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは23節から取りました。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」
 ここには、人にはその歩む道を確かにする力はないと言われています。ではどこにその力があるのでしょうか。勿論、それは主なる神様です。ここにはそれが省略されていますが、言わんとしていることは明らかです。箴言にはこのことがもっとはっきりと言われています。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)
 であれば、私たちは自分の道をすべて主にゆだねなければなりません。そうすれば、主が成し遂げてくださいます。それは必ずしも平坦な道ではないかもしれません。しかし、それが主が定めておられる道ならば、主が確かなものにしてくださいます。
 きょうは、そのことを悟れなかったユダと、それを悟った預言者エレミヤの姿を対比しながらお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの嘆き(17-21)

 

まず17~21節までをご覧ください。17節と18節をお読みします。「17 包囲されている女よ、あなたの荷物を地から取り集めよ。18 まことに主はこう言われる。「見よ。わたしはこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめる。彼らが思い知るためだ。」」

 

「包囲されている女」とは、エルサレムの住民のことです。そのエルサレムの住民に対して主は、「あなたの荷物を地から取り集めよ」と命じています。なぜでしょうか。なぜなら、これから旅に出ることになるからです。それは温泉旅行のような優雅な旅ではなく、バビロンまで捕虜として歩いていかなければならないという過酷な長旅です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされてしまうからです。でも彼らは信じられませんでした。まさかそんなはずはないと。今はアッシリヤ帝国がオリエント世界を支配しているではないか。どうやってバビロンなどという新興国がアッシリヤを倒して、南ユダを滅ぼすことができるというのか。そんなことあり得ない。しかも、ここには主の宮がある。契約の箱もあれば、主の律法もある。大祭司もいれば、レビ人たちもいる。そんな我々を、どうやって滅ぼすことができるというのか。そんなことは絶対にあり得ないと、高をくくっていたのです。しかしそれは彼らの単なる思い込みにすぎませんでした。18節にあるように、主はこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめます。「今度こそ」というのは、今までもそうだったが、ということです。今までもユダとエルサレムは敵の侵略を受け、荒らされ、科料を取り立てられることがありましたが、今度はそれだけではないということです。今度は、放り出されて苦しむことになります。これは勿論、捕囚の民としてバビロンに連行されることを示しています。力ずくで町から追い出され、捕虜として連れ去られることになるのです。

 

それを知ったエレミヤはどうなったでしょうか。19~20節をご覧ください。「ああ、私は悲しい。この傷のために。この打ち傷は癒やしがたい。しかし、私は言った。「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」20 私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ、私の子らも私から去って、もういない。もう私の天幕を張る者はなく、その幕を広げる者もいない。」

エレミヤは、深い悲しみに打ちひしがれました。それは天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られ、神の民が捕囚の民として連れて行かれることになるからです。天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られるというのは、約束の地が踏みにじられるという意味です。エレミヤは、エルサレムがそのような状態になることを聞いて、嘆いているのです。それは癒しがたい傷だと。

 

ここで注目していただきたいのは、エレミヤがそれを自分のこととして受け止めていることです。たとえば、19節で彼は、「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」と言っています。また20節でも「私の天幕は荒らされ」とか「私の子らも私から去って、もういない」と言っています。彼らの天幕が荒らされるとか、彼らの子らが彼らから去ってというのではなく、自分の天幕が荒らされ、自分の天幕の綱が断ち切られ、自分の子らが取り去られるといっているのです。エレミヤは、ユダの滅びを完全に自分のものとして受け止めていました。

いったいなぜ彼はここまで彼らと一体となっていたのでしょうか。それは前にもお話したように、同胞であるユダの民をこよなく愛していたからです。自分はここから離れたいと思っても、決して離れることができない愛の絆で結ばれていたのです。

 

そしてそれは、神の私たちに対する愛と同じです。神は罪に苦しむ私たちを見て、癒しがたい傷をご覧になり、こう言ってくださいます。「まことに、これこそが私が負わなければならない病だ。」と。そしてその通りに主は、私たちの罪の病を負ってくださいました。それが私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちが負わなければならない病をその身に負ってくださいました。それが十字架です。そのことが、キリストが生まれる700年も前に、預言者イザヤによって預言されていました。イザヤ書53章は、メシヤ預言として、来るべきメシヤがどのような方なのかを、イザヤが預言した箇所ですが、その中に次のようにあります。

「4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4-6)

私たちの主イエスは、悲しみの人で、私たちの病を負ってくださいました。その打ち傷によって私たちは癒されたのです。本来、私たちが受けるべき罪の刑罰を、キリストが代わりに負ってくださったので、その打ち傷によって私たちは癒されたのです。感動ですね。

 

クリスチャンのシンガーソングライターに岩渕まことさんという方がおられますが、岩渕さんがクリスチャンとなって7年目に、愛する8歳の娘さんを天に送られました。その経験を通して、父なる神さまの苦しみを改めて感じられたそうです。わが子イエスを十字架につける神さまの苦しみは、どれだけ深かったことでしょう。しかしその十字架は、私たち人間に対する神さまの愛の証しでした。それを歌った詩があります。それが「父の涙」という詩です。

心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎて行く
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

父が静かにみつめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よかれらを赦してほしいと
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛
(作詞・作曲 岩渕まこと、アルバム『HEAVENLY』より)

 

恐らく、岩渕さんは娘さんが病気になって苦しんでいるのを見て、できれば代わってやりたいと思ったことでしょう。代わりに自分が病気になれたらと。願っても叶わない歯がゆさを覚えたに違いありません。でも神はそれをしてくださいました。死にかけている子たちのために、死にかけている神の子たちをあわれんで、代わりに病を負ってくださったのです。あなたを生かすために。すばらしい神さまです。

 

プロのナレーターに中村啓子さんという方がおられます。「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません・・・」とか、「留守番電話サービスセンターへおつなぎします。」など、携帯電話を利用していると、毎日耳にする声ですが、それが中村啓子さんの声です。その中村さんから、一年ほど前にメールをいただきました。中村さんは、46歳でイエス様を信じて、洗礼を受けると、これまでの経験を生かして主に仕えたいと願うようになり、聖書朗読のネット配信を始めたのです。新約を全て読み終え、旧約を朗読しておられましたが、その朗読のために聖書の意味を理解するために、私がホームページにアップしているつたないメッセージを参考に学ばれたそうです。イザヤ書を朗読しておられました。そして、兼ねてから、53章をアップ出来た時に感謝を伝えたいと思っておられたそうですが、その時が訪れたのでとメールをくださったのです。それは「しあわせのありか」という番組に録音されていますが、聞いていて鳥肌が立ったというか、心が震えました。イエス・キリストの十字架の御苦しみと圧倒的な神の恵みが心に迫ってきました。

 

これこそわたしが負わなければならない病だと、キリストがその病を負ってくださいました。その打ち傷のゆえに、私たちは癒されたのです。何という恵みでしょうか。これが神の愛です。神さまはあなたを愛し、あなたのために涙を流して祈っておられるのです。そして、そのために愛するひとり子を与えてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ほんとうに偉大な神の愛です。この神の愛に、あなたはどのように応答されますか。

 

21節をご覧ください。ここには「牧者たちは愚かで、主を求めなかった。それゆえ、彼らは栄えず、彼らが飼うものはみな散らされる。」とあります。

いったいなぜこんなことになってしまったのでしょうか。それはユダの牧者たちが愚かで、主を求めなかったからです。この「牧者たち」とは、南ユダの政治的、軍事的、霊的指導者たちのことです。彼らは愚かにも主を求めませんでした。それゆえ、彼らは栄えず、みな散らされることになってしまったのです。

 

どのリーダーに従うかで、皆さんの運命が決まります。ですから、リーダーの責任は重いのです。特に牧師の責任は重いと言えるでしょう。なぜなら、牧者たちは、羊の群れのたましいの責任を負っているからです。バビロン捕囚の道連れにされてしまうかもしれません。ですから多くの人が教師になってはならないと、ヤコブ3:1にあるのです。格別、厳しいさばきを受けることになるからです。しかし、それは同時にすばらしい働きを求めることでもあるともⅠテモテ3:1にあります。ですから、霊的指導者、たましいの牧者は、その責任の重さをしっかりと理解し、主を求め、主の御声を正しく受け止めなければなりません。

 

Ⅱ.エレミヤの悟り(22-23)

 

次に22~23節をご覧ください。「22 声がする。見よ、一つの知らせが届いた。大いなるざわめきが北の地から来る。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするために。23 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

 

ここでエレミヤは、一つの声を聞きます。第三版では「うわさ」と訳しています。どんな声を聞くのでしょうか。それは、大いなるざわめきが北から来るという声です。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするためにです。

それに対してエレミヤは何と言っていますか。23節、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

どういうことでしょうか。エレミヤは、ユダの滅びを前にして、自分の道を主にゆだねているのです。エレミヤは知っていました。人には、歩むべき道を決定することも、その歩みを確かなものにする力もないということを。その人の歩みを確かなものにするのはたせれでしょうか。そうです、主です。主によってのみ、人の道は確かなものとなるのです。

箴言16:9にはこうあります。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(新改訳改訂第3版)

また詩篇37:23~24にはこうあります。「23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

すばらしい約束です。人は、神によって定められた道を歩むとき、神がその人を支えてくださいます。たとえ倒れることがあってもまっさかさまに倒れることはありません。主が支えておられるからです。だから皆さん安心してください。

 

あなたはどのようにはどうでしょうか。主がすべてを支配していると認め、主にすべてをゆだねておられるでしょうか。それとも、まだ自分の悟りに頼っているでしょうか。詩篇37:5に「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とあります。また、箴言3:5-6には「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)とあります。

 

ある人が、主に示された進路に進もうとした時に、未信者の親族たちから猛反対されました。代わるがわる説得され、何やかやと言われる。しかしこの事は主の御心だと思え、祈りに祈っていました。しかしなかなか道が開かれず、なおも祈り続けていました。 

でも周囲からの反対は変わらず、こんなに祈っているのに、どうして道が開かれないのか。しかし更に祈り続けました。するとその祈りの中で、心が探られ内側が照らされました。確かにそれは主の御心ではあるのだが、周囲の余りの反対に、反発心が起きて、心の中では反抗的になり、意地になっている自分に気づかされたのです。

心が頑なになっていて、何としてでも、自分の意志と力で突き進もうとしていました。主の栄光などではなく、自我そのものであったのです。心から悔い改めて、今一度主に自分自身を明け渡しました。真に主の御心が成りますようにと祈ると、心に平安が与えられました。

そして、すべてを主に委ねて祈っていると、時満ちて、門が開かれたのです。時と共に周囲も認めてくれて、御心の道へと進む事ができました。とにかく祈りに持って行くなら、間違った動機も、態度も教えられます。そして祈りも軌道修正されながら、御心へと導かれていくのです。

 

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主を認め、主に拠り頼む人は、何と幸いでしょうか。主がその人の道をまっすぐにしてくださいます。自分の悟りではなく、主に拠り頼みましょう。主によって定められている道を、歩もうではありませんか。

 

Ⅲ.エレミヤの祈り(24-25)

 

最後に24~25節をご覧ください。「24主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。25 あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。」

 

これはエレミヤの祈りです。人は神の恵みと助けがなければ一歩も動けないことを悟ったエレミヤは、民のために泣きながら祈ります。御怒りによるのではなく、ただ、公正をもって懲らしめてくださいと。これはどういうことかというと、神のさばきがイスラエルの民が滅亡するような厳しいさばきではなく、立ち上がることができる程度の懲らしめであるようにということです。また、25節には、イスラエルの民を攻撃する敵、これはバビロンのことですが、そのバビロンの上に神の憤りを注いでくださいと祈っています。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。これはどういうことかというと、バビロンはやりすぎたということです。彼らはユダの民を懲らしめるための単なる神の道具にすぎなかったので、ヤコブを食らって滅ぼそうとしました。それはやりすぎだと、エレミヤは訴えているのです。だから彼らの上に神さまの憤りを注いで、彼らを滅ぼしてくださいと祈っているのです。それはひいてはユダの救いにつながることになりますから。直接的には、ユダの救いのために祈っていませんが、敵の滅びを祈ることで、間接的にというか、遠回しにユダの救いを祈っているのです。

 

それにしても不思議です。というのは、私たちは先に7:16を見ましたが、そこには「この民のために祈ってはならない。」とあったからです。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。とりなしてはならないとありました。それなのにエレミヤはここで民のためにとりなしています。これはどういうことでしょうか。

しかし、よく見ると、エレミヤは民のためにではなく、自分ために祈っていることがわかります。たとえば、24節には「主よ、私を懲らしめないでください。」と祈っています。「そうでなければ、私は無に帰してしまいます」と。これはどういうことかというと、ユダの民の代表としての「私」です。ですから直接的にはユダの民のためには祈っていませんが、その民の代表としての「私」のために祈ることによって、結局のところ、民のために祈っているわけです。ここにエレミヤの知恵があります。そんなの屁理屈だという人もおられるかもしれませんが、神から与えられたエレミヤの知恵なのです。なぜなら、神ご自身もそのように願っておられたからです。神さまは、ご自身の民を冷たく突き放す方ではありません。事実、神は御子イエス・キリストを与えてくださいました。それほど愛しておられるのです。結局、神さまはあなたのために祈っておられるのです。あなたを助けたいのです。あなたを滅びから救いたのです。私たちの神さまはそういうお方なのです。ここまで願ってくださるのが私たちの神さまなのです。ここまで考えてくださるのが私たちの神さまなのです。すごいですね。ほんとうに恵みの神です。

 

これほどまでの愛のメッセージを聞かされて、ユダの民はさぞ感動したのではないかと思いますが、どうだったでしょうか。26:8~11をご覧ください。ここに、彼らの反応がはっきり書かれてあります。開いてみてみましょう。「8 主が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、主の名によって預言したのか。」そこで、民全体は主の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」
 主が語れと命じられたことをエレミヤがすべて語り終えると、何と祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえ、死刑を宣告するのです。驚きですね。でも神さまが特別にエレミヤを守ってくださったので、死から逃れることができましたが。これほどすばらしいメッセージを聞いてもそれを拒絶されるだけでなく、迫害されることもあるのです。神さまを信じて、神さまの道に歩もうとする時、それを快く思ってくれない人がいるわけです。もしかすると、それはあなたのごく親しい人かもしれません。あなたの夫とか、妻とか、息子、娘かもしれない。必ずしも、みながこの救いのメッセージを受け入れるとは限らないのです。

 

9月10日、11日と、保守バプテスト同盟のチームが、福島県西会津町の教会未設置町に宣教に行った時の報告書を見ました。そこは、かつてイギリス人の婦人宣教師のパルマー先生が、47歳で召を受け、会津若松で10年間仕えたのち、移り住んだ町です。80歳で帰国するまで22年間一度も帰国せずに開拓伝道に取り組みました。私も毎年夏、近くの金山町にある沼沢湖に家族でキャンプに行ったとき、日曜日の礼拝に何度か行ったことがありますが、そこには1人の兄弟とまだ洗礼を受けていない2~3名の婦人たちが集まっていました。22年間の伝道で救われた人がたった1人です。80歳を過ぎてパルマー先生は帰国しなければならなくなったとき、恵泉キリスト教会の会津チャペルがその働きを引き継ぎました。

バルマー先生によって22年間の種まきがなされてきたこともあって、刈り入れるばかりになっていると信じて、9月10日と11日の2日間、21名の兄姉が数名のチームに分かれて訪問伝道を繰り広げたのです。

その結果、あるチームは40軒以上訪問して、ほぼ全て断られました。結局、167軒を訪問して、返事なしが60件、拒否57件、ただの受け入れ10件、祈りの受け入れ8件、キリストを受け入れると表明したのはたった1人だったそうです。たった1人でも、そこにキリストの福音を聞き、受け入れるという人がいたことはすばらしいことですが、これがこの世の現実なのです。

 

こんなにすばらしい救いなのに、こんなにすばらしい神さまなのに、受け入れるのはごくわずかなのです。それは決して平坦な道のりではありません。でもそれがどんなに茨の道でも、主はエレミヤにこう約束してくださいました。「18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」」(エレミヤ1:18-19)

どんなに人々があなたを拒み、あなたを憎み、あなたを弾圧することがあっても、がっかりしないでください。主はあなたとともにいて、あなたを助け出してくださいますから。あなたが一人ぼっちになっても、主はあなたを見捨てることはなさいません。あなたとともにいて、あなたを守ってくださいます。あなたを助け、あなたを強くしてくださるのです。あなたに求められているのは、彼らを恐れないで、主が語れと言われたことを語ることです。あなたは、神によって定められている道を歩まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。人の道はその人によるのではなく、その歩みを確かにするのは、主ご自身であられるからです。その主の道を歩もうではありませんか。主があなたに求めておられるのは、主を求め、主の道に歩むことです。どれだけ立派なことをしたかということではなく、あなたが主に忠実であったかどうか、誠実であり続けたかどうが問われているのです。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。この約束を握りしめながら、すべてを主にゆだね、主が示される道を歩もうではありませんか。

ヨシュア記1章

聖書箇所:ヨシュア記1章

 

きょうからヨシュア記に入ります。私たちは、これまでモーセ五書から学んできました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記です。これらはみなモーセによって書かれたものであり、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。そのモーセが死に、今新しくイスラエルの指導者が立てられます。それがヨシュアです。このヨシュア記には、イスラエル人がカナンに住む諸民族を武力で制圧し、約束の地を征服していく歴史が記されています。ヨシュア記は、伝統的には主としてヨシュアが書き(ヨシュア24:26)、彼の死後の記事をアロンの子エルアザルとエルアザルの子ピネハスが書いたとされています。ヨシュアは、どのようにカナンの地を征服していったのか、ご一緒に見てまいりましょう。

 

 Ⅰ.ヨルダン川を渡れ(1-9)

 

 まず1~9節までをご覧ください。「主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」」

 

1節には、「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」とあります。彼は、偉大な先達者モーセの後継者であるということです。すぐれた人物の後に続く、いうならば「二番煎じ」です。ここには、その偉大な神のしもベモーセが死んだということが繰り返して書かれてあります。どういうことでしょうか。先達者が偉大な人物であればあるほどその後を継ぐ者のプレッシャーは大きいものです。しかし、そのモーセは死にました。ヨシュアにはモーセとは違う、彼自身に与えられた使命を実現してくことが求められていたのです。

 

その使命とは何でしょうか。それはイスラエルの民を約束の地に導き入れることでした。モーセは偉大な指導者でしたが、彼らをその地に導き入れることができませんでした。ヨシュアにはその使命が与えられていたのです。そしてそれはまた、律法ではなく福音によって約束を受けることを象徴していました。というのは、モーセは律法の代表者でしたが、そのモーセは死んだからです。モーセはイスラエルの民を約束の地に導くことができませんでした。約束の地に導くことができたのはヨシュアです。ヨシュアとはギリシャ語で「イエス」です。そうです、約束の地に導くのは律法ではなくイエスご自身であり、イエスを通してなされた十字架と復活という神の御業を信じる信仰によってなのです。

 

そのヨシュアに対して主が語られたことは、「今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。」ということでした。

ここで重要なことは、「わたしがイスラエルの人らに与えようとしている地に行け」ということばです。また、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、すでにあなたがたに与えている」ということばです。この「与えようとしている」とか「与えている」という言葉は完了形になっています。つまり、これは確かにこれから先のこと、未来の事柄ではありますが、神にとってはもう既に完了していることなのです。確実に与えられているということです。信仰の内に既にそのことが完了していることを表わすために、未来のことであっても完了形で書かれているのです。神の約束が与えられたなら、それはもうすでに実現しているも同然のことなのです。

 

それと同時に、2節には、「今、あなたとこのすべての民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り」とあります。これは、神の約束の実現の前には、ヨルダン川を渡らなければならないということが示しています。つまり、神の約束が与えられたからといって、何の苦労もなく、自動的に与えられるわけではないということです。むしろその約束の実現の前には困難と試練が横たわっており、それを乗り越える信仰が求められているのです。すなわち、このヨルダン川を渡った時に初めて約束のものを得ることができるということです。ヨルダン川を渡らずして、ヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、足の裏で踏むという信仰の決断を経てこそ、彼はカナンの地に入って行くことができたのです。これが霊的法則です。ですから、私たちはすばらしい主の約束の実現のために、ヨルダン川を渡ることを臆してはならないのです。私たちの前にふさがるそのヨルダン川を信仰と勇気をもって渡って行くならば、大きな神の祝福を受けることができるのです。

 

5節をご覧ください。ここには、「あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。ここには、神がともにいるという約束が語られています。信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしてもやはり恐れが生じます。しかし、この戦いは信仰の戦いであって、自分の力で敵に立ち向かっていくものではありません。主はモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいると約束してくださいました。主がともにおられるなら、だれひとりとして彼の前に立ちはだかる者はいません。主の圧倒的な力で勝利することができるのです。

 

それゆえ、主はこう言われるのです。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」(6-9)

 

ここで主はヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。」と同じことを三度繰り返しています。なぜでしょうか。ある聖書学者はこう分析しています。ヨシュアは年齢が若く、したがってモーセほどの実力がなかったので、イスラエルの民が自分に従ってくれるかどうか非常に恐れていた。それで主はこれを三度も語って励ます必要があったのだと。もちろん、ヨシュアのこれから先に起こることを考えると、主がそのように言って励ます必要があったのは確かですが、むしろ、主がこのように言われたのは、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存知であられたからです。ですから何度も繰り返して「強くあれ。雄々しくあれ。」と語る必要があったのです。確かに荒野においてヨシュアはモーセとともに戦いました。しかしそのモーセは死んだのです。モーセが死んだ今、自分一人で戦わなければならないとしたら、頼るべきものは主なる神だけです。神に聞き従いつつ、自分自身が先頭に立って様々な困難と闘っていかなければならないのです。そんなヨシュアにとって、「わたしはあなたとともにいる」という約束の言葉はどれほど力強かったことかと思います。確かにヨシュアの生涯は戦いの連続でした。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、勝利を勝ち取ることができたのです。

 

これは私たちの信仰の生涯も同じです。それは戦いの連続であり、激しい戦いを通らなければならないことがあります。しかし主はそのような時にも共にいて、勝利を与えてくださいます。それが私たちの信仰生活です。主イエスの十字架は私たちの罪の赦しのためです。しかしそれ以上に十字架は悪魔に対する勝利の力であり、悪魔の罠をも勝利に転換させる大いなる力なのです。この十字架の信仰のゆえに、どんな戦いにも勝利することができるのです。一時的には敗北と見えるようなことがあったとしても、私たちにはやがて必ず勝利するのです。なぜなら、十字架においてすでに主が勝利をとってくださったからです。私たちは、その勝利の陣営にいるのです。

 

クリスチャンは、信仰をいただいたからといっても戦いが無くなるというわけではありません。問題や試練、困難がなくなるわけではないのです。この世に住む以上常に戦いの連続であり、そのような人生を歩まざるを得ませんが、しかし感謝なことは、私たちは勝利が確実な戦いを戦っているということです。小手先ではもしかすると敗北しているように見えるかもしれませんが、大局的には最も重要な所では既に私たちは勝利しているのです。

 

アラン・レッドパスという霊的指導者はこのように言いました。「クリスチャンは勝利に向かって努力するのではなく、勝利によって働き続ける者なのです。」そうです。私たちは勝利のために、勝利に向かって懸命に戦う者ではなく、もう既に与えられている勝利をもって、勝利の中を戦い続けていくものなのです。それゆえに、その勝利の信仰をいただいて、大胆に信仰と勇気をもって人生を歩んでいきたいものです。

 

Ⅱ.食料を準備しなさい(10-15)

 

次に10~15節までをご覧ください。「10 ヨシュアは民のつかさたちに命じた。11 「宿営の中を巡って、民に命じなさい。『食糧を準備しなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡るからだ。あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、あなたがたは進むのだ。』」12 その一方で、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族にヨシュアは言った。13 「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主はあなたがたに安息を与え、この地を与えようとしておられる』と言ったことばを思い出しなさい。14 あなたがたの妻子たちと家畜は、モーセがあなたがたに与えた、このヨルダンの川向こうにとどまりなさい。しかし、あなたがた勇士はみな、隊列を組み、あなたがたの兄弟たちより先に渡って行って、彼らを助けなければならない。15 主があなたがたの兄弟たちにも、あなたがたと同様に安息を与え、彼らもあなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有したら、あなたがたは【主】のしもべモーセがあなたがたに与えた、このヨルダンの川向こう、日の出る方にある自分たちの所有の地に帰り、それを所有することができる。」」

 

ヨシュアは民のつかさたちに、「食料の準備をしなさい」と命じました。それはもう三日のうちに、ヨルダン川を渡って、神が所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしていたからです。これは、ある意味で、それ以前彼らがイスラエルの荒野で天からのマナとうずらを食べたという出来事と対照的に語られています。以前は、一方的な神の恩寵によって上から与えられる食べ物によって彼らは生きてきました。しかし、これからは自分の手によって食物を得るようにと命じられているのです。つまり、父なる神に対するある種の甘えや依存心から脱却して、自分自身の手によって食べ物を獲得しなさいというのです。

 

いったいどのようにして食料を準備したらいいのでしょうか。12~15節までのところには、その一つのことが示されています。ここでヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、戦いに参加するようにと命じています。覚えていますか、ヨルダン川の東岸、エモリ人が住んでいたところは、すでにモーセによって占領していました。そこにルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族が、ここを所有地にしたいと願い出ました。モーセは初め怒りましたが、彼らのうち成年男子が、イスラエルとともにヨルダン川を渡り、ともに戦うと申し出たので、モーセはそれを許し、彼らにその地を相続させたのです。それで今、彼らが約束したように、彼らに民の先頭に立って戦うようにと命じているのです。

 

これらの諸部族は、すでにヨルダン川の東側を所有し定住していたので、わざわざヨルダン川を渡って戦う必要はありませんでした。確かにかつて東側を所有するにあたり勢い余ってそのように宣言したかもしれませんが、今では戦いに参加するという意欲は失われていたのでしょう。そんな彼らに対して、彼らも立ち上がって戦いに参加するようにと命じられているのです。なぜなら、一つでも欠けることがあれば戦いに勝つことができないからです。彼らが一つとなって戦うところに意味があります。そこに神の力が発揮されるからです。その中には、全面的に参加する者もいれば、部分的に参加する者もいたでしょう。また最前線で戦う者もいれば、後方で支援する者もいたに違いありません。しかし、それがどのような形であっても、各々が皆同じように戦略的には尊い存在なのであって、そうした仲間が一つとなって戦うことによって神の力が溢れるのです。

 

Ⅲ.イスラエル人の応答(16-18)

 

次に16~18節をご覧ください。「16 彼らはヨシュアに答えた。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。あなたが遣わすところには、どこでも参ります。17 私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。どうかあなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じることばに聞き従わない者はみな、殺されなければなりません。あなたは、ただ強く雄々しくあってください。」」

 

それに対してイスラエルの民はどのように応答したでしょうか。彼らは、「あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。あなたが遣わすところには、どこでも参ります。私たちは、あらゆる点でモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。」と言いました。ものすごい力を感じますね。

 

でも、彼らはただヨシュアに従いますと言ったのではありません。彼らはヨシュアにあることを求めました。それは、「あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」ということです。自分たちはモーセに従ったようにヨシュアにも従うので、ヨシュアよ、あなたはただ強く、雄々しくあってほしいと言ったのです。これは指導者が持つべき要素です。つまり、敵との戦いのために指導者は強く、雄々しくなければならないということです。指導者にとって誠実であることは重要なことですが、それと同時に強く、雄々しくあることが求められます。やさしく親切で、思いやりがあることは大切ですが、それと同時に強く、雄々しくあることが必要なのです。特に戦いにあっては、その指導者の強さが勝敗を決定するといっても過言ではありません。

 

いったいその強さはどこから来るのでしょうか。第一にそれは、生まれながらのものではなく神から与えられたものでした。5節には、「わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる」とあります。主がともにおられるということ、主の臨在こそがヨシュアの強さの源でした。

 

第二の理由は、彼が明確な召命観を持っていたことです。彼は主から「わたしがイスラエルに与えようとしている地に行け。」(2)と、明確な使命が与えられていました。この召命が彼を支え、彼を強くしていたのです。

私はよく牧師に必要なのは何ですかと尋ねられることがありますが、それに対して迷うことなく「召命です」と答えます。神が自分を選び、この務めに任じてくださった。自分の願いではなく、神が目的をもって自分を用いようと召してくださったということが明確であれば、どんな問題も乗り越えることができるからです。ヨシュアはこの召命を持っていたので、強く、雄々しくあることができました。自分がこの務めに資格があるかないかとか、適任であるかどうかということは関係ありません。それよりも、自分がその目的のために召されているのかどうか、神がそれをするようにと自分に命じておられるのかどうかが重要なのです。それは牧師に限ったことではありません。どんな小さな働きでも主の働き人に求められているのは、主からの召しなのです。たとえ自分に力がなくとも、弱さや欠点を持っていようとも、私たちは強くあることができるのです。

 

ヨシュアが強くあることができた第三の理由は、彼が神の約束の言葉に信頼していたからです。彼には神の約束の言葉が与えられていたので、いかなることがあっても失望しませんでした。主なる神は約束されたことを守られる方であると信じていたからです。それゆえ、神はヨシュアに7~8節で律法を守り行うこと、これを離れて右にも左にもそれてはならないこと、この律法の書を口から離さず昼も夜も口ずさまなければならない、と命じられたのです。そうです、ヨシュアの強さはこの神のことばに信頼することからくる確信だったのです。それは私たちも同じです。私たちも神のみことばに信頼し、主が約束してくださったことは必ず実現すると信じ切るなら、主の強さと確信がもたらされるのです。

 

私たちもヨシュアのように神の強さをいただくために、神の霊を宿し、神からの召命を確認しながら、神の約束に信頼するものでありたいと思います。そして、ヨシュアが主の力によってイスラエルを約束の地へと導いていったように、信仰によって前進していきたいと思います。

偶像か、まことの神か エレミヤ書10章1~16節

聖書箇所:エレミヤ書10章1~16節(エレミヤ書講解説教22回目)
タイトル:「偶像か、まことの神か」

エレミヤ書10章に入ります。きょうのメッセージのタイトルは、「偶像か、まことの神か」です。エレミヤはここで、偶像とまことの神を対比しながら、まことの神を信じるようにと勧めています。最初の比較は、1~7節までにあります。第二の比較は、8~10節まで、第三の比較は、11~13節まで、そして第四の比較は、14~16節までに見られます。この中でエレミヤは偶像とまことの神について交互に語るわけです。エレミヤがこのように語るのは、人は何を信じるかによってその生き方が決まるからです。偶像を信じ、偶像に信頼すれば、偶像と同じように空しい生き方となります。しかし、まことの神を信じて生きるなら、その神の恵みと祝福を受けることになります。ですから、私たちは偶像か、それともまことの神を信じるかを選択しなければならないのです。

 

Ⅰ.諸国の道を見習うな(1-7)

 

早速、本文を見ていきましょう。まず、1~2節をご覧ください。「1 イスラエルの家よ、主があなたがたに語られたことばを聞け。2 「主はこう言われる。諸国の道を見習うな。天のしるしにうろたえるな。諸国がそれらにうろたえても。」

 

「諸国の道」と訳された言葉は、第三版と口語訳では「異邦人の道」、新共同訳では「異国の道」と訳しています。これは生き方や考え方、ライフスタイルのことで、具体的には異国の宗教のことを指しています。彼らは「天のしるしに」うろたえていました。これは、天に現れるさまざまな現象のことです。天の星を見た異邦人は、そういう現象があると、自分たちに何か影響を及ぼすのではないかと恐れていました。そうした天のしるしをはじめ、その土地の偶像礼拝など、あらゆる迷信的な世界観にとらわれていたのです。そうした異国の宗教に見習うな、天のしるしにうろたえるなと言うのです。

 

なぜでしょうか。3~5節をご覧ください。ここにその理由が語られています。「3 国々の民の慣わしは空しいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで作った物にすぎない。4 それは銀と金で飾られ、釘や槌で、ぐらつかないよう打ち付けられる。5 それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」

 

それは、異国の民の習わしは空しいからです。それは森から切り出された木にすぎません。木工が、なたで刻んで作った物でしかないのです。それは銀と金で飾られ、釘と金槌で、ぐらつかないように打ち付けられたものです。それは、きゅうり畑のかかしのようです。おもしろいですね、きゅうりの畑のかかしのようであると言われています。それはどういうことかというと、中身が無いということです。皆さんも「かかし」をよく見かけると思います。田んぼとか畑の中に立っています。あれは作物を荒らす烏などの害獣を追い払うための仕掛けですが、竹やわらなどで作った人形を立てておくわけです。それはただの木でしかありません。竹とかわらでしかありません。偶像は見た目では立派でも、中身はかかしと同じなのです。

 

この近くには、幸福の科学の総本山があります。「幸福の科学那須精舎」と言います。皆さん、行ったことありますか?ないですよね、私もありません。行ったこともなければ、行きたいとも思いませんが、大田原の家を建ててくれた工務店の方が、この那須精舎の建築に関わったようで、教会の修繕に来る時によく話をされるのです。「あの幸福の科学の建物はすごいぞい。金ピカだ!たまげたよ」なんて。私の前で言うのです。いかにも教会はみすぼらしいということを言っているかのように聞こえます。まあ、一般の人にはわかりません。一般の人は見た目でしか判断することができないですから。とんなに金ピカでも、それはかかしと同じです。森から切り出した木を刻み、金箔を塗って、いかにも豪華に見えますが、きゅうり畑のかかしと同じなのです。

 

どうして偶像はきゅうり畑のかかしと同じなのでしょうか。エレミヤはここで、偶像の本質を見抜いています。そして、それを「・・できない」という否定の言葉を持って暴きます。5節をご覧ください。まず偶像はものも言えず、歩くこともできません。ですから、誰かに運んでもらわなければならないのです。また、害になることも益になることもできません。良いことも悪いことも何もできないのです。それは全く無能で、無益であるということです。3節には「国々の民の習わしは空しいからだ。」とありますが、それは空しいだけです。この「空しい」という言葉は伝道者の書に何回も使われていました。「空」ということばです。へブル語では「へーベル」と言います。「空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)その空です。それは「空っぽ」という意味です中身がありません。偶像は中身がないのです。

 

そんなものを拝んでいったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。詩篇115篇4~8節には、こうあります。「4 彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。5 口があっても語れず目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。7 手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。8 これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。」

おもしろいですね。偶像は口があっても語れず、目があっても見ることができません。鼻があっても嗅げず、手があってもさわることができず、足があっても歩くことができません。問題はこれを造る者も、これに信頼する者も、みなこれと同じであるということです。これとは偶像のことです。偶像を造り、偶像を拝む者は、偶像と同じだというのです。だから、何を礼拝するかということはとても重要なことなのです。それがあなたの生き方、あなたのライフスタイルを決めるからです。

 

それに対して、まことの神はどのようなお方でしょうか。6~7節にそのことが展開されています。「6 主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。7 国々の王である方、あなたを恐れない者がいるでしょうか。そのことは、あなたにとっては当然のことです。まことに、国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、あなたに並ぶものはありません。」

 

偶像は林から切り出された木にすぎず、木工が、なたで作った物にすぎません。それは銀と金で飾られ、ぐらつかないように釘や槌で打ち付けられたものです。きゅうり畑のかかしのようで、ものを言えず、歩くことができません。

しかし、まことの神はそのようなものではありません。まことの神は、大いなる方です。その御名は力ある大いなるものです。国々の王であられ、この方を恐れない者はいません。国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、この方に並ぶものはありません。この方はまさに比類なき方なのです。

 

「リビングプレイズ」という賛美デボーションシリーズ2の中に、あるクリスチャンの証が載っていました。この方は、ニクソン・ショック以来、ご主人が経営する会社が急に経営不振に陥り、不渡り手形を毎月、何百枚となく出すようになりました。しかも利害関係で結ばれた親族間のみにくい人間関係が急に露骨になり、家庭はまっくらになりました。毎日、死にたいと思いました。そんなある日、神や仏からの御利益が著しく現れるというお不動さんを紹介され、毎日その前で祈ることにしました。ところが、いくら祈っても、自分の思いが届きません。本当の神であったら来るはずの平安が、いっこうに感じられませんでした。そこでそのお不動さんに、こう祈ったのです。「あなたには、わたしの願いが届きません。あなたでは、だめです。あなたの背後にあり、しかもわたしを造り、天地を造られた神に、わたしの思いを伝えてください。」

それからしばらくして教会に行くようになりました。そしてそこで天地を造られたまことの神さまに出会いました。すると、それまでの、死んで自分の何もかも消滅させたいと思っていた自己否定感が無くなり、生きることに積極的になりました。主の愛と臨在を感じ、不思議な平安が心を覆うようになったからです。それだけでなく、死んだのちも神とともにある永遠のいのちをいただくわけですから、死も恐れなくなりました。(P14)

 

皆さん、お不動さんではだめです。お不動さんはあなたを救うことはできません。あなたを救うことができるのは、あなたの救い主イエス・キリストだけです。この方以外には、だれによっても救いはありません。この方だけが、あなたを救うことができる大いなる方、他に並ぶものはないのです。

 

Ⅱ.主はまことの神(8-10)

 

次に8~10節をご覧ください。まず、8~9節をお読みします。「8 彼らはみな間抜けであり、愚かなことをする。空しい神々の訓戒──それは木にすぎない。9 銀箔はタルシシュから、金はウファズから運ばれる。これは木工と金細工人の手のわざ。これらの衣は青色と紫色、すべて名匠の作。」

エレミヤは、偶像を造りそれを拝む者がいかに間抜けであり、愚かであるかを語ります。「タルシシュ」は、今のスペインの南部にある町です。鉱物が採掘できるところです。そして「ウファズ」は、どこなのかはっきりわかりません。アラビヤのどこかではないかと考えられています。いずれにせよ、そこからは金が採掘されました。衣は、青色や紫色に染められた鮮やかな色彩で、ここには「名匠の作」とあります。そうですね芸術的、美術的に見れば、高度なものがたくさんあります。日本のお寺などでも芸術作品としては見事です。けれども、その礼拝対象はあくまでも木なのです。外国から運ばれて来た金銀を、木の上にかぶせたにすぎません。そこにはいのちがないのです。

 

しかし、まことの神はそうではありません。10節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。「しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その御怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。」

しかし、皆さん、主はまことの神です。「生ける神」であり、「とこしえの王」であられます。見た目では金箔や銀箔がかぶせられ、芸術的も美術的にもすばらしいものでも、木にすぎないいのちのないものと違って、生きておられる神なのです。これがまことの神、わたしたちの主であられます。それなのに、人間は弱いですね。見た目に騙されてしまいます。見た目が豪華だと、中身もすごいものだと錯覚してしまうのです。聖書は、そんな彼らは間抜けであり、愚かであると断言します。

 

絶滅の危機に瀕しているアホウドリを救うために、伊豆諸島のある島に、木で作った「おとりのアホウドリ」が100個、設置されました。そこにアホウドリを集め、繁殖を促そうとしたのです。

デコいうあだ名のついた5歳の鳥は、2年間も「おとりのアホウドリ」に求愛し続けました。デコは見事な巣を作り、競争相手を追い払い、涙ぐましい努力を続けました。観察者の報告では、彼は1日中「おとりのアホウドリ」のそばを離れなかったそうです。研究員の佐藤文男氏は、デコの求愛についてこう語りました。

「この鳥は、本物のアホウドリには全く関心を示さないんですよ。」

偶像に目が奪われる人もこのアホウドリのようです。彼らは、本当の神には全く関心を示さないで、もの言わぬ偶像に求愛しているのですから。

 

あなたはどうでしょうか。本物の神には関心を示さないで、もの言わぬ偶像に求愛しているということはないでしょうか。しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの神です。あなたが求愛すべき方は、生けるまことの神なのです。

 

Ⅲ.天と地を造られた方(11-13)

 

第三の対比は、11~13節にあります。11節をお読みします。「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」

これは、非常に興味深い節です。これを語っておられるのは神様です。まことの神様が、そうでない神々を拝んでいるすべての民に語っているのです。おもしろいことに、ここには※があります。欄外を見るとここに、「この節はアラム語で記されている」とあります。アラム語はアッシリヤ帝国の言葉で、その後バビロニア帝国でも使われるようになります。そして、当時の世界の共通語として使われるようになりました。イスラエルの民は、バビロン捕囚によってバビロンに70年間とらえられますが、その間にこのアラム語を使うことが強要されました。ですから、新約時代になってもこのアラム語がよく使われていたのです。イエス様もアラム語も使われました。「アバ父よ」の「アバ」はアラム語です。でも、どうしてここだけアラム語が使われているのでしょうか。おそらく、イスラエルに対してだけでなく、すべての国民に宣言することを意図しておられたからではないかと思います。外国人にはわからないので、外国人でもわかる世界共通語のアラム後で語られたのです。それは、この日本に住んでいる私たちも例外ではありません。私たちの住むこの国は八百万の神を拝んでいます。しかし、それはまことの神ではありません。あれも神、これも神、たぶん神、きっと神と、すべてを神にして拝んでいるわけですが、そうしたものは神ではあり得ないのです。なぜなら、まことの神は人の手によって造られたものではなく、この天と地を造られたお方だからです。天と地を造らなかったものは、地からも、天からも滅びてしまうことになります。それは何も手でこしらえたものだけのことではありません。あなたが神様以上に愛しているものがあるならば、神様以上に大切にしているものがあるならば、それがあなたの偶像となります。ですから、そうしたものも、地からも天からも滅びてしまうことになるのです。神様はそのことを全世界の人々に宣言するかのように、特に、八百万の神々を拝んでいる私たち日本人にもわかるように、アラム語で語られたのです。

 

12~13節をご覧ください。それに対して、まことの神はどのようなお方なのかが語られています。「12 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。13 主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。」

皆さん、まことの神はどのようなお方でしょうか。偶像は天と地を造らなかった神々で、人の手によって造られたものですが、まことの神は、この天と地を創造された方です。そして、今も雨を降らせ、わたしたちの生活を守っておられるお方なのです。

今年も世界中で猛暑が続き、干ばつの災害のニュースがネットやテレビを騒がせました。「記録的」とか「過去最高」、「いままで経験したことのない」といったフレーズを、頻繁に聞くようになりました。いったいどうしてこうした干ばつが起こるのでしょうか。どうして記録的な猛暑になるのでしょうか。さまざまな要因がありますが、その中でも最も大きな原因の一つが、人間活動による温室効果ガスの影響で地球の平均気温が上昇していることがあげられています。地球温暖化です。神様が造られたこの世界を、人間が破壊しているのです。いったいこの先どうなるのでしょうか。神様が天と地を創造され、神様がこれを守っておられるのに、そこに住む人間がこれをぶち壊しているのです。この天地を造られた方ではなく、そうでないものを拝むようになってしまったからです。いわば、これは人間の罪が引き起こしている結果なのです。

 

Ⅳ.万軍の主(14-16)

 

第四の比較は、14~16節にあります。14~15節には、偶像の特徴についてこのようにあります。「14 すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。15 それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。」

偶像には息がありません。それは偽りの神なのです。それを造る者も、それに信頼する者も、ともに恥を見るようになります。

それに対してまことの神は、16節にあるように、万物を創る方、万軍の主です。ここで注目していただきたいのは、「ヤコブの受ける分はこのようなものではない。」という言葉です。これはイスラエルが受ける分のことです。神の民イスラエルが受ける分は、そのようなものではありません。ヤコブの受ける分はどのようなものでしょうか。ここには「イスラエルは主のゆずりの民」とあります。これはちょっとわかりづらいですね。下の欄外の説明には「ゆずり」とは「相続」のこと、「民」とは「部族」のこととあります。これはどういうことかというと、イスラエルは主ご自身の民であるということです。イスラエルが相続するのは神ご自身であるということなのです。これほどすばらしい相続はありません。私たちは一等地の広い土地と建物を相続できたらどんなにすばらしいものかと思うかもしれませんが、イスラエルが相続するものはそんなものではないのです。もっとすばらしいもの、それはこの世が与えるものとは比べようのないものなのです。それは天の御国です。神ご自身です。それを相続することができるということです。この世が与える恩恵とは比較のしようがありません。それは超自然的な恵みです。その恵みの究極が、神のひとり子イエス・キリストご自身なのです。神様はそれを与えてくださるのです。主イエスと比べたら、この世のものはすべて色あせてしまいます。パウロは、それらは「ちりあくた」だと言ったほどです。イエス・キリストこそ、まことの神から賜った世界最高の、最上のギフトなのです。この以上の恵みは他にないということです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

これは、他の宗教では得られない恵みです。まことの神を信じない者には体験できない、到達しえない恵みなのです。これがヤコブの分け前、私たちが相続するものなのです。

 

それなのに、人はどうして、まことの神と偶像の違いに気が付かないのでしょうか。それは、この世の神が不信者の目におおいをかけているからです。この世の神とは悪魔のことです。このことについてパウロはこう言っています。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

ですから私たちは、私たちの心の目が開かれ、まことの神がどのような方であるかを知り、この神の偉大さをほめたたえなければなりません。私たちはいのちに満ちた生けるまことの神を信頼して生きるのか、それとも、人間の造った偶像を頼って生きるのかを選ばなければならないのです。私たちの前にはこの二者択一が置かれているのです。それによってあなたの道が、あなたの生き方が、あなたのライフスタイルが決まります。このどちらかを選ばなければならないのです。

イエス様は「だれも二人の主人に仕えることはでません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて、他方を軽んじることになるからです。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)と言われました。神と富とに仕えることはできません。この「富」を、「偶像」に置き換えてもいいと思います。まことの神と偶像に仕えることはできません。

でも、残念ながら神の民イスラエルは、この選択に失敗しました。まことの神を選べばいいのに、よりにもよって、偶像を選んでしまったのです。その結果、滅びてしまうことになってしまいました。バビロンという国の捕囚の民となってしまったのです。

あなたは偶像か、まことの神か、どちらを選びますか。このイスラエルの民のようにならないために、私たちはしっかりとまことの神を選びましょう。そして、この世では得られない神の恵みと祝福を味わいたいと思います。

民数記36章

いよいよ民数記の最後の章からの学びとなりました。きょうは民数記36章から学びます。まず1~4節までをご覧ください。

Ⅰ.ヨセフ族の訴え(1-4)

 

「1 ヨセフ族の一つの氏族、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する一族のかしらたちが進み出て、モーセと、イスラエルの子らの一族のかしらである家長たちの前でこう語った。

2 「主は、くじによってあの地をイスラエルの子らに相続地として与えるように、あなたに命じられました。そしてまた、私たちの親類ツェロフハデの相続地を彼の娘たちに与えるように、あなたは主によって命じられています。3 もし彼女たちが、イスラエルの子らのうちのほかの部族の息子に嫁いだなら、彼女たちの相続地は、私たちの先祖の相続地から差し引かれて、彼女たちが嫁ぐ部族の相続地に加えられるでしょう。その結果、私たちが相続する割り当て地は減ることになります。4 イスラエルの子らにヨベルの年が来れば、彼女たちの相続地は、彼女たちが嫁ぐ部族の相続地に加えられ、彼女たちの相続地は、私たちの先祖の部族の相続地から取り去られることになります。」」

ここには、マナセ族の一つの氏族のかしらたちが進み出て、モーセとイスラエルの子らの一族のかしらである家長たちが進み出て、モーセにある訴えを起こしたとあります。どのような訴えでしょうか。その訴えは、マナセ族のツェロフハデの娘たちが、他の部族の人と結婚して嫁いで行ったなら、その土地はその部族の土地に加えられるため、自分たちの相続地が減ってしまうことになるというのです。

思い出してください。マナセ族の中に、モーセに申し出た女の人たちがいました。それがツェロフハデの5人の娘たちです。彼女たちは男の兄弟がいなかったので、父の名をもつ相続地がなかったのです。それをモーセに訴えると、モーセはこの問題を神のところへ持って行き、祈りました。すると神は、彼女たちの訴えはもっともだと、彼女たちにも父の相続の所有地を与えるようにと言われたのです(27章)。しかし、折角与えられた相続地でも、彼女たちが他の部族の人たちのところに嫁いだなら、その割り当て地はその部族のものとなり、結果として、マナセ族の相続地が減ってしまうことになります。そこでマナセ族のかしらたちがやって来て、モーセに訴えたのです。

 

Ⅱ.主のみこころ(5-9)

そのことに対する主の答えはどのようなものだったでしょうか。5~9節までをご覧ください。「5 そこでモーセは、主の命により、イスラエルの子らに命じた。「ヨセフ部族の訴えはもっともである。6 主がツェロフハデの娘たちについて命じられたことは次のとおりである。『彼女たちは、自分が良いと思う人に嫁いでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族に嫁がなければならない。7 イスラエルの子らの相続地は、部族から部族に移してはならない。イスラエルの子らは、それぞれその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからである。8 イスラエルの子らの部族のうち、相続地を受け継ぐ娘はみな、その父の部族に属する氏族の一人に嫁がなければならない。イスラエルの子らが、それぞれ、その父祖の相続地を受け継ぐようにするためである。9 このように、相続地は、部族からほかの部族に移してはならない。イスラエルの子らの部族は、それぞれ、自分たちの相続地を堅く守らなければならないからである。』」」

  主は、このヨセフ部族の訴えはもっともであると言い、彼女たちは父の部族に属する氏族、すなわち、ヨセフ族の人たちのところにとつがなければならないと言いました。なぜでしょうか。なぜなら、イスラエル人はおのおの父祖の部族の相続地を堅く守らなければならないからです。神から与えられた相続地は、他の部族へ移してはならなかったのです。イスラエルの各部族は、おのおのその相続地を堅く守らなければなりませんでした。

これはどういうことでしょうか。いったいなぜ神はこのように命じられたのでしょうか。そもそもこのことがなぜ民数記の最後に記されてあるのでしょうか。私たちにどんなことを教えようとしているのでしょうか。それは、私たちクリスチャンに与えられた相続地も変わらないということです。それは不変であり、不動なものなのです。私たちの行いにかかわらず、神が私たちに与えてくださった相続地はいつまでも変わることがありません。ペテロはこう言いました。「また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(Ⅰペテロ1:4)

私たちに与えられている相続地は、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともないものです。それが天にたくわえられているのです。そして、やがてそのような資産を受け継ぐようになります。そのことを知っていれば、たとえ今、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないことがあっても、喜ぶことができます。たましいの救い、永遠のいのちを得ているからです。これはすばらしい約束ではないでしょうか。

 また、ここには、「イスラエル人は、おのおのその相続地を堅く守らなければならないからである。」ということが強調されています。ということは、私たちが守らなければならない相続地があるということです。私たちには神からすばらしい相続地が与えられているにもかかわらず、いろいろなことでそれを失ってしまうことがあります。その一つが試練です。私たちはこの地上にあってさまざまに試練にあうたびに信仰が試されることがあります。しかし、どんなことがあっても、神から与えられた相続地を堅く守らなければならないのです。

Ⅲ.ツァロフハデの娘たちの応答(10-13)

さて、このように語られた主のことばに対して、ツァロフハデの5人の娘たちはどのように応答したでしょうか。10節から13節までをご覧ください。「10 ツェロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行った。11 ツェロフハデの娘たち、マフラ、ティルツァ、ホグラ、ミルカおよびノアは、おじの息子たちに嫁いだ。12 彼女たちは、ヨセフの子マナセの子孫の氏族に嫁いだので、彼女たちの相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残った。13 これらは、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエルの子らに命じられた命令と定めである。」

ツァロフハデの娘たちは、主がモーセに命じられたとおりに行いました。彼女たちは全員おじの息子たち、すなわち、従兄弟のところに嫁ぎました。すごいですね、女性にとって結婚は人生にとって最も重要な出来事かと思いますが、彼女たちはそれをすべて主にゆだねたのです。主が命じられた通り、父の部族に属する氏族に嫁ぎました。そのようにして、彼女たちは自分たちの相続地を父の氏族の部族に残したのです。

「これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。」

これらのことが、エリコに近いモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じられたことです。特に民数記の26章からは、イスラエルが約束の地に入ってからどうあるべきなのかについて語られてきましたが、それは私たちの信仰生活そのものでもあります。私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって救いの中に入れられました。神の相続地に入れさせていただいたのです。そこでは堅く守らなければならないものがたくさんあります。神の相続を受けたからもう大丈夫というのではなく、神の相続地を受けたからこそそれを堅く守り、神のみことばに従順に聞き従う者でなければならないのです。それが神の恵みによって救われた者としてふさわしい応答なのです。私たちも、神の御言葉を堅く守り、神が約束してくださった相続地に入れさせていただきましょう。

誇る者は主を誇れ エレミヤ書9章17~26節

2022年9月18日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書9章17~26節(エレミヤ書講解説教21回目)
タイトル:「誇る者は主を誇れ」

今日は、エレミヤ書9:17~26のみことばから、「誇る者は主を誇れ」というタイトルでお話します。今日のメッセージのタイトルは、24節から取りました。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」皆さんは、何を誇っていますか。「いや~、私は誇るものなんて何もない」と思っていらっしゃる方もおられると思いますが、この「誇る」というのは、「頼る」ということでもあります。そうすると、私たちは皆何かに頼りながら生きているわけですから、その何かが何であるかということです。「私は何も信じない」「頼るのは自分だけだ」という人は、自分を誇っているわけです。その誇っているものは何かということです。それは、普段は気付かないかもしれませんが、いざという時に見えてきます。

この9章には、主を知る事を拒んだユダの民に対する神のさばきが語られてきました。7節には「それゆえ、万軍の主はこう言われる。『見よ、わたしは彼らを精錬して試す。』」とあります。それは具体的には、バビロンという国によってエルサレムを滅ぼすということです。完全に滅ぼし尽くすということではありません。ユダが悔い改めるために、神はそのような懲らしめを与えられるのです。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜に至るまで、すべて逃げ去ってしまいます。主はエルサレムを石ころとし、ジャッカルの住みかとするのです。主は彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませることになります。そして、ついには、彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、彼らを断ち滅ぼしてしまうのです。

それは彼らが主を知らなかったからです。彼らは、自分では知っていると思っていました。知っているつまりでしたが、それは表面的なもので、実際には知りませんでした。彼らが誇っていたのは主ではなく、自分自身でした。自分の知恵、自分の力、自分の富を誇っていたのです。大切なのは、主を知ることです。主を知っていることを誇り、この主に信頼することなのです。今日は、このことについて三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.やがて起ころうとしている悲劇(17-22,25-26)

 

まず、17~22節と、25~26節をご覧ください。まず、17~19節をお読みします。「17 万軍の主はこう言われる。「よく考えて、泣き女を呼んで来させよ。人を遣わして、巧みな女を来させよ。」18 彼女たちを急がせて、私たちのために嘆きの声をあげさせよ。私たちの目から涙を流れさせ、私たちのまぶたに水をあふれさせよ。19 シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、ひどく恥を見た。私たちが地を見捨て、自分たちの住まいが投げ捨てられたからだ。」

 

ここには「よく考えて、泣き女を呼んで来させよ。」とあります。これは万軍の主のことばです。この「泣き女」とは、泣くことを商売としていたプロの泣き屋のことです。こうした泣き屋を呼んでくることで、葬儀の時などに知人や友人が訪問した際、その人たちも心動かされて泣きやすくしたのです。新約聖書ヨハネ11章には、イエス様と親しかったマルタとマリヤの兄弟ラザロが死んだとき、死んだラザロのところに行かれると、マリヤを慰めていたユダヤ人の人たちが泣いていたとあります(ヨハネ11:33)が、そういう人たちいたと思います。そうした泣き女を呼んで来て、嘆きの声をあげさせよというのです。

なぜでしょうか。なぜなら、ユダの状況があまりにも悲惨だからです。19節には、「シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、ひどく恥を見た。私たちが地を見捨て、自分たちの住まいが投げ捨てられたからだ。」とあるように、バビロン軍がやって来て、エルサレムを踏みにじることになるからです。こうした泣き女たちの嘆きの声は、略奪された祖国の悲しみをより一層深いものにしたことでしょう。

 

21節と22節をご覧ください。ここでエレミヤは「死」を擬人化することによって、やがて起ころうとしている悲劇がどのようなものなのかを、生き生きと描いています。21節には、「死が私たちの窓によじ登り、私たちの高殿に入り、道端では幼子を、広場では若い男を断ち滅ぼすからだ」とあります。ここでは、死が窓によじ登るとか、高殿に入ってくるとありますが、それはそのことです。敵が攻めて来ると、道端で幼子を、広場で若い男を虐殺することになるからです。その結果、22節にあるように「人間の死体は、畑の肥やしのように、刈り入れ人のうしろの、集める者もない束のように落ちる」ことになります。これはどういうことかというと、死体があちらこちらに放置されるということです。それが腐って畑の肥やしのようになるわけです。だれも葬ることができほど大量に虐殺され、そのまま捨て置かれることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。

 

25~26節をご覧ください。ここでは、それが別のことばで表現されています。「25 「見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26 エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」」

「その時代が来る」とか「その日が来る」というのは、終末の預言が語られる時の特徴的なことばです。こうした預言は、近い未来に起こることと遠い未来に起こることが山のように重なり合っています。この場合、近い未来においてはバビロン軍がやって来て南ユダを滅ぼすということですが、遠い未来においては、世の終わりの究極的な神のさばきのことを示しています。神の救い、キリストを拒絶する世界に対する神のさばきです。そのとき主は、すべて包皮に割礼を受けている者を罰することになります。割礼とはこれまで何度もお話しているように、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。それは神の民であることの大切なしるしでした。ですからユダヤ人の男性は、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。ここではそのように割礼を受けている者を罰すると言われています。なぜでしょうか。たとえ肉体の割礼を受けていても、受けていないような歩みをしているとしたら、それは割礼を受けていない人と何ら変わりがないからです。大切なのは、心に割礼を受けるということです。このことについては、すでに4章で見てきました。4:4には、「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とありましたね。どんなに割礼を受けていても、それが形だけの表面的なものであるならば、それは受けていない者、すなわち、異邦人と何ら変わりはありません。それが26節で言われていることです。ここには、エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人とあります。これを見て、何かお気付きになりませんか。エジプトとかエドム、アンモン、モアブといった異邦人の中に、神の民であるユダが並記されています。異邦人たち、すなわち、無割礼の者たちと同列に置かれているのです。同等に扱われているということです。なぜでしょうか。それは今申し上げた通り、どんなに割礼を受けていても、自分たちはアブラハムの子孫だといって悔い改めないなら、他の異邦人と何ら変わりはないからです。やがて滅ぼされてしまうことになります。

 

使徒パウロも、このことについてこう述べています。ローマ2:25~29です。「25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

重要なのは、肉体に割礼を受けているかどうかということではなく、心に割礼を受けているかどうかです。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、内面のユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼です。すなわち、心にイエス・キリストを信じて、神の御言葉に従って生きているかどうかが問われているのです。

 

あなたはどうでしょうか。心に割礼を受けていらっしゃいますか。自分はバプテスマ(洗礼)を受けているから大丈夫だと思っていませんか。バプテスマ(洗礼)を受けることはとても重要なことです。でも、バプテスマを受けていれば自動的に天国に行けるわけではありません。勿論、悔い改めるなら、神は赦してくださいます。でも悔い改めなければ、その限りではありません。エジプト、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住民のように、自分の罪の中に滅んでいくことになります。ノンクリスチャンと同じさばきを受けることになるのです。大切なのは心に割礼を受けるということです。私たちは心に割礼を受けているかどうかを、もう一度考えなければなりません。

 

Ⅱ.自分を誇るな(23)

 

次に、23節をご覧ください。「─主はこう言われる─知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」

 

そんな神の民イスラエルに対して、主はこう仰せられました。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」

彼らの問題は、自分を誇っていたことでした。自分の知恵を誇り、自分の力を誇り、自分の富を誇っていました。こうしたものを誇るのは愚かなことです。なぜなら、こうしたものは神様が私たちに与えてくださる恵みであり、祝福だからです。その神様ではなく自分を誇っていたら本末転倒です。

 

皆さんは、どうでしょうか。自分の知恵、自分のち~、自分の富を誇っていませんか。こういうものはだれでも誇りたくなるものです。神様を知らなければ自然とそうなります。現代で言うならそれは学歴とか、地位とか、名誉とか、財産といったものになるでしょうか。どこどこの大学を出て、どのような地位にあり、どれだけの財産があるかということが、その人の価値を決めるとみんな思っています。だから一生懸命勉強して、少しでもいい学校に入り、いいところに就職し、いい人と結婚して、立派な家を建て、豊かに生きようと躍起になっているのです。それが人生の成功であり、幸福だと思っています。でも、主はそうしたものを誇るなと言っています。誇るなとは、頼りにするなということです。それを自分の栄光にしてはならないのです。

 

それは、エデンの園の中央にある木の実のようなものです。創世記3:6には、「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」とあります。それはいかにも好ましいものでした。しかし神は、その木の実について、それを食べてはならないし、それに触れてもいけないと、アダムとエバに警告していました。それを食べると、死んでしまうことになるからです。

しかし、蛇に誘惑されたエバは、それを見るともう我慢することができませんでした。もうどうにもとまらない、です。それはほんとうに目に麗しく、賢くしてくれそうで好ましかったので、食べてしまいました。自分だけだと悪いので夫にも与えたので、夫も食べてしまいました。

その結果、どうなりましたか。罪が全人類にもたらされ、その結果、全人類が真でしまいました。この死とは霊的死のことを指していますが、その結果、肉体も死ぬことになってしまいました。それは目に麗しく、賢くしてくれそうで、いかにも好ましく見えますが、死をもたらすのです。

 

東京オリンピックの巡る汚職事件が広がっています。多くの企業がスポンサー契約を巡って、贈賄容疑で取り調べを受けています。何が問題なのでしょうか。こうした大きな大会には多額のお金が絡むということです。その利権を巡って多くの人たちが動くわけです。それはどの企業にとっても魅力的なものですから。しかし、それは死をもたらすことになります。「自分の知恵を誇るな。自分の力を誇るな。自分の富を誇るな。」と聖書にあるとおりです。

 

ヨハネはこのことについて、Ⅰヨハネ2:16~17でこう言っています。「16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったものは、神から出たものではなく、この世から出たものです。そうしたものは、結局のところ、過ぎ去ることになります。これさえ手に入れば自分は幸せになれる、繁栄する、満たされると私たちが信じて疑わないもの、それは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢であって、そうしたものは、やがて消えて無くなってしまうことになります。ですから、こうしたものを誇ってはならない。頼ってはならないのです。

 

Ⅲ.誇る者は主を誇れ(24)

 

では、何を誇ったらいいのでしょうか。それが24節にあることです。ご一緒にお読みしましょう。「24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。─主のことば。』」」

 

原文では、24節の冒頭には、「むしろ」とか「それとは反対に」という意味の接続詞があります。英語の聖書では「しかし」と訳されていますが、正確には「むしろ」とか「それとは反対に」です。つまり、23節で語られたことに対して、むしろ、それとは反対に、という意味になります。つまり、人は自分の知恵を誇り、自分の力を誇り、自分の富を誇りますが、それとは反対に、むしろ「誇るものは、ただ、これを誇れ」と言うのです。それは何ですか。その次にあります。それは、「悟りを得て、わたしを知っていることを。」です。つまり、主を誇れというのです。なぜなら、主は神であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからです。これは、イスラエルの民が持っているものとは正反対のものでした。

 

たとえば「恵み」ですが、「恵み」とは「ヘッセド」というヘブル語が使われています。これは「誠実」とか「真実」という意味で、契約に基づいた愛のことです。皆さん、誠実な愛とはどういう愛でしょうか。それは、約束を守る愛です。どんなことがあっても見離したり、見捨てたりしません。それが誠実であるということです。今週、粟倉兄と石黒姉の結婚式が行われますが、結婚生活において最も重要なのはこれです。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は、決して絶えることはありません。それは、このヘッセドに基づいているからです。私たちがヘッセドなのではなく、神がヘッセドなのです。私たちは真実でなくても、神は真実なのです。どんなことがあっても決してあなたを裏切ったりはしません。

 

ここでは、その永遠に変わることがない神の愛が、イスラエル民の移り気と対比されています。そして主は、その契約に基づく愛を神の民であるイスラエルに、そして私たちに求めておられるのです。それは決して裏切らない愛、真実な愛です。知恵や力や富を求める人たちは、こうした恵みとか公正、正義といったものを疎かにする傾向があります。こうしたものを軽んじ、こうしたものに何の価値も見出そうとしないのです。こうしたものを捨ててまでも自分の知恵や、自分の強さ、自分の富を求めようとするのです。でも私たちは、悟りを得て、主を知ることを求めなければなりません。主を知らなければ、恵みと公正と正義を行うことはできないからです。それは、主から出ているものなのです。だから、主がどのような方であるのかを知って初めて、私たちは契約に基づいた神の愛、神の恵みを知ることができるのです。主を知って初めて、公正とは何かを知ることができます。また、正義とは何かを知ることができるのです。そうでなければ、すべて自分勝手な愛と公正と正義になってしまいます。ですから、私たちは主を知ることを求めなければならないのです。主を知ることを誇りとしなければなりません。

 

預言者ホセアは、こう言っています。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア6:6)。皆さん神様が喜びとするのは「真実な愛」です。いけにえではありません。形式的なささげもの、全焼のいけにえではないのです。神が求めておられるのは真実な愛です。この愛は、先ほどから述べている「ヘッセド」のことです。全焼のささげ物よりもむしろ、神を知ることを主はそれを喜ばれる。いったい私たちは何のためにきょうここに来たのでしょうか。それはただ全焼のささげものをささげるためではありません。ただ日曜日だから教会に行かなければならないと、しょうがなくて来たのではありません。そうではなく、神の御言葉を通して主がどのような方なのかを知り、その主と交わるために来たのです。そうでしょ?主がそれを喜ばれるからです。

 

イエス様はこう言われました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

皆さん、永遠のいのちとは何でしょうか。永遠のいのちとは、唯一まことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。これが永遠のいのちです。この「知る」ということばは「ギノスコー」というギリシャ語ですが、これは前回もお話したように「ヤダー」というヘブル語と同じ意味の言葉です。主を知るということが、私たちが誇りとすべきもの、私たちの人生において目標にすべきものなのです。それは単に知的に知るということではなく、人格的に、体験的に深く知るということです。いったいあなたは何のために生きておられるのでしょうか。それは自分の知恵を誇るためではありません。自分の力、自分の富を誇るためでもないのです。それはむしろ、主を知るためです。主と人格的に交わりを持つためなのです。それが永遠のいのちです。永遠のいのちは、死んでからもたらされるものではありません。それは生きている今、この地上にあって体験することができるものです。それは唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることによってもたらされます。イエス・キリストのうちにあり、キリストと深く交わること、それが永遠のいのちです。主があなたとともにおられること、これほどすばらしい体験はありません。そしてこれは一時的なものではなく、永遠に続きます。だから、主を知ることは誇りなのです。それが一時的なものであり永続しないもの、滅んでしまうようなものならば、どうして誇りにすることができるでしょうか。それはただ空しいだけです。滅んでしまうもののために人生をかけることはできないでしょう。そのようなものを誇るとしたら、人生に何の意味があるでしょうしかし、それが永遠に続くものならば、永遠のいのちにつながるものならば、それこそ価値があります。それを誇りとすることは正しいことです。そのために人生を費やすのならば意味があるのです。

 

パウロはそのことを、ピリピ3:7~9でこう言っています。「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

 

パウロは、自分にとって得であると思っていたこれらすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。「これらすべてのもの」とは、肉において誇れるようなものすべて、ということです。たとえば、その前のところには、彼が、律法についてはパリサイ人と言っていますが、そのようなものです。彼はユダヤ教の中では超エリートに属する者でした。ユダヤの最高議会の議員の一人であったラビ・ガマリエルに師事し、そのガマリエルから、もう教えることは何もないと言わしめたほどの者です。パウロはユダヤ教の指導者の中でも最高峰の教師として君臨し、歴史に名を残すほどの人物だったのです。しかし、パウロはそのようなものを損と思うようになりました。いや、ちりあくたとさえ思うようになったのです。それは彼が復活のキリストに出会ったからです。出会ってしまった!と言ってもいいでしょう。そのキリストを知っていることのすばらしさのゆえに、もうそんな過去の栄光とか栄華などどうでもよくなってしまった。そんなものは全く色あせてしまいました。ちりあくただと考えるようになったのです。皆さん、「ちりあくた」ってなんだかご存知ですか。「ちりあくた」とは、ちりと、あくたのことです。広辞苑には、「値うちのないもの、つまらないものなどのたとえ。ごみくず。」とあります。ごみくずです。それまで自分が目指してきた知恵とか、力とか、富とか、そういったものはごみくずに思えたのです。復活の主イエスと出会い、その栄光の輝きを見たら、そうした自分の知恵、力、富などはすべて、ちりあくたたにしか見えなかったのです。それほどイエス・キリストに魅了されたということです。

 

あなたはどうでしょうか。それほどにイエス・キリストに魅了されているでしょうか。自分が今まで大事だと思って来たもの、これさえあれば、あれさえあればと思って来たもの、自分が頼りにしてきたもの、そうしたものが主イエスを知ってからはもうどうてもいいと思えるほど、キリストに魅了されているでしょうか。

 

パウロは、Ⅰコリント1:26~31で、このエレミヤ書9:24を引用してこう言っています。「26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

これは旧約聖書だけのメッセージではありません。旧約聖書も新約聖書も含めて、聖書全体が私たちに語り掛けているメッセージなのです。人間的に見れば、私たちは本当に取るに足りない者です。しかし、神はこのように取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を選んでくださいました。何のために?それは、有るものを無いものとするためにです。肉なる者がだれも誇ることがないためです。しかし、私たちは神によってキリスト・イエスのうちにある者とされました。このキリスト・イエスこそ、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。ですから、パウロのように主がどのような方であるかを知っているなら、主だけを誇るようになります。もうすべては「ちりあくた」となるからです。

 

皆さんはどうでしょうか。皆さんは何を誇っていますか。まだこの世の知恵、力、富を誇りとしていますか。それらは「ちりあくた」です。主がどのような方であるかを知っているならば、です。ですから、私たちは主を知ることを求めなければなりません。主を知ることを、他のどんな活動よりも大切にしなければなりません。主を知ることを他の何よりも優先し、何よりも誇りとしなければならないのです。他のことで自慢してはなりません。それらは何も残らないからです。むしろ、主を知っていることのすばらしさを誇りとしてほしいと思います。まさに、「誇る者は主を誇れ」とあるとおりです。

 

私たちの人生には、時として、ユダの民が経験したような絶望的な瞬間がやって来ることもあるでしょう。でもそのような時、あなたは何を誇り、何に信頼すればいいのか。そのように時、私たちはキリスト・イエスのうちにあること、主なる神を知っていること誇り、その主に信頼しようではありませんか。