ローマ人への手紙1章16~17節「救いを得させる神の力」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「救いを得させる神の力」というタイトルでお話したいと思います。きょうのところには、ローマ人への手紙全体の中心テーマが記されてあります。それは、救いを得させる神の力としての福音です。福音とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、福音は救いを得させる力であるということについてです。第二のことは、それを受ける手段についてです。それは信仰です。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。第三のことはその理由です。それは、この福音のうちに神の義が啓示されているからです。

 Ⅰ.救いを得させる神の力(16)

 まず第一に、福音は、救いを得させる神の力であるということについて見ていきたいと思います。16節のところでパウロは、「私は福音を恥とは思いません。」と言っています。この前のところで彼は、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と、この福音のあまりものすばらしさのゆえに、この恵みはどうしても返さなければならない負債だと語ったのに、ここに来て、「私は福音を恥とは思いません」と、一見弱々しいように宣言しているのはどうしてなのでしょうか。彼の中に福音に対してどこか恥と感じるようなことがあったのでしょうか。そうではありません。実は、このように「福音を恥とは思いません」という言い方は、一見否定的に見えるような言い方ですが、実はこれは、逆に誇っている表現なのです。このように否定的に表現することによって、逆の事柄を強調しようとしたのです。たとえば、マルコの福音書12章34節には「あなたは神の国から遠くない」とありますが、これは、神の国にごく近いところにいるということを強調しているのです。同じようにパウロがここで、「私は福音を恥じとは思わない」と言ったのは、彼が福音をどんなに高く評価し、それを誇りとしていたかの表れであったわけです。これまで福音を語ったために彼がどんなにひどい目に遭ってきたかを思うとき、このローマ帝国の首都において福音を語ることがどんな苦難が伴うことなのかくらい十分承知していたはずです。それは軽蔑以外の何ものでもなかったでしょう。皇帝崇拝が盛んに行われ、皇帝の権力があらゆる形で誇示されていたこのローマでは、それに対抗しうるものなど何一つないかのように感じたことと思います。そのようなローマで福音を語ることはある意味で人を気おくれさせ、恐れおののかせ、気恥ずかしい思いを抱かせたことでしょう。しかしそうした中にあってパウロは、「私は福音を恥とは思いません」と言って、福音を誇ったのでした。いったいパウロはなぜそのように言うことができたのでしょうか。それはこの世の政治、経済、文化がどれほど偉大であり、光り輝いたものであっても、福音にはそれにまさる価値があることを、彼がよく理解していたからです。それは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。ここに福音の価値がいかんなく言い表されていると思うのです。それは、この福音は神の力であるということです。それは単なる教訓とか、哲学、倫理ではなく、力なのです。それは、救いを得させる神の力です。

 それにしても、パウロはなぜここで福音を力だと言ったのでしょうか。それは、この救いは罪からの救いのことだからです。一般的に人は「救い」という言葉を聞くとき、それが病気の癒しや貧乏からの解放、あるいは、私たちの人生において直面している問題からの救いであるかのように錯覚しがちですが、ここで言われている救いとは、そうした問題からの救いのことではなく、そうした問題も含めたあらゆる問題の根源である罪からの救いのことだったのです。そしてこの罪からの救いは、私たちの力で解決できるようなことではありません。悪魔の支配下に置かれている人間は、どんなに跳んだり跳ねたりしても、あるいは力をふりしぼって頑張っても、徹夜で本を読んで勉強しても、その縄目から自分を救い出すことはできないのです。人が罪から救われるためには、悪魔よりもはるかに強い力がある方に解放していただかなければなりません。それは神です。そのような罪の中にいる人間を救うことができるのは全能の神以外にはいないからです。皆さん、考えてみてください。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、自分でどんなに変わろう、変わろうと思っても、なかなか変わられないというのが現実なのではないでしょうか。

 私はもう何年も牧師をしていますが、最も多く受ける質問は、「どうして私は変わることができないのか」というものです。「変わりたいと思っていても、どうしたら変わることができるかわからない。変わる力がない」ということなのです。皆さんにもそのような経験がおありでしょう。私たちはよくセミナーや大きな集会に出かけて行き、自分の人生をその場で変えてくれるような方法を探しますが、それをしてもなかなか変わりません。私は健康維持のためにふと思い立って散歩を始めたりするのですが、二週間も経つと最初の決意はどこかに行ってしまい、いつの間にか元通りになってしまいます。今、はまっているのはラジオ体操です。外に出るのは寒いので何かいい方法はないかと考えていたとき、どなたかがラジオ体操をやっていると聞いて、早速インターネットのユーチューブからダウンロードして時間の合間にやっています。これならどこにも行かなくても、自分の家で、好きな時にできるのでいなぁと思っているのですが、これだっていつまで続くかわかりません。すぐに元通りになってしまうかもしれません。変わるということは本当に難しいのです。時々、自己啓発の本を読んでみたりすることもありますが、問題は、そのような自己啓発の本は「何をすべきか」は教えてくれても、それを「実行する力」を与えてくれないことです。それらの本には「悪習慣を断ち切りなさい、前向きになりなさい。否定的にならない。」と教えますが、どうやったらそれができるかは教えてくれないのです。いったいどうしたら自分を変えることができるのでしょうか。どうしたら今の自分の殻を突き破ることができるのでしょうか。

 ここにすばらしい知らせがあります。それは「福音」です。福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。私たちが必要としているのはこの「力」ではないでしょうか。新約聖書の中には、この「力」という言葉は57回出てまいります。この言葉は、歴史上最も力強い出来事、そうです、イエス・キリストの復活の出来事を現すために使われています。人生において最も大切なことは、キリストを知り、キリストの復活の力を体験することです。この復活の力について、パウロは次のように言っています。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:19~21)

 この「力」と訳された言葉は、ギリシャ語の「デュナミス」(dunamis)という語ですが、これは英語の「ダイナマイト」(dynamite)の語源になっている言葉です。神の力は、今から二千年前にイエス・キリストを死の中からよみがえらせた復活の力であり、悪魔の要塞を完全に打ち破ることのできる力なのです。この神の力が私たちを悪魔とその罪の支配から救い出すことができるのであって、この神の力があらゆる問題に打ち勝つ力を与えてくださり、その人格を全く新しいものに造り変えることができるのです。この救いを得させる神の力が、私たちに差し出されているのです。それが福音です。

 Ⅱ.信じるすべての人に(16)

 ではどうしたらこのすばらしい神の力をいただくことができるのでしょうか。第二のことは、それは信仰によってであるということです。もう一度16節に注目してください。ここには、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とあります。

 ここで重要なのは、この神の力は、「信じるすべての人に」差し出されているということです。福音がどんなに力があっても、これを信じなければ救われることはできません。ある人はこう言うでしょう。「他の宗教における救いの可能性も排除してはいけない」と。「分け登る 麓の道は多かれど、同じ高嶺の月を見るかな」ってあるように・・・。どの宗教を信じたって、結局、行き着くところはみな同じだというのです。しかしそれは違います。十字架につけられて死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じること以外に救いはありません。このメッセージを投げ捨ててなりません。もしこれを放棄したら、それはもうキリスト教とは言えないからです。何を信じても同じだというのは一見、心が広い人であるかのように見えますが、それは真理ではありません。なぜなら、聖書は次のようにはっきりと言っているからです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 あるいは、このように言われる方もおられるでしょう。「あの人が救われるのなら、私はあの人よりももっとましな人間だから絶対救われるはずだ。」と。あるいは、「世の中の人たちはみんな罪を犯しているが、私はそんなに大きな罪を犯しているわけではないから、天国に行けるはずだ。私が行けなかったとしたら、あと誰が行けると言うのだ・・・。」と。しかし、誤解しないでください。天国は、相対的なものではありません。他の人と比較してどうなのかではなく、絶対的な神様の目で見てどうなのかということです。ほかの人と比較して少々善良であってもなくても、それは沈んでいく船の客室で、大きく揺れる絵の額を見比べて、どれが一番傾いているかを論じるのと同じで、全く的外れなことです。沈没するのは同じなのです。百人中二十人が天国に行けて、八十人は落第して地獄に行くというものではありません。信じて従うならすべての人が天国に行けるし、罪を悔い改めないでイエス・キリストを信じないなら、すべての人が地獄に行ってしまうのです。

 あるいは、私たちの中には、一生懸命に良いことをしたら天国に行けると思っている人も少なくありません。つまり、自分がたとえ40くらいの罪を犯しても、60くらいの功績を積めば20ポイントもプラスなんだから、天国に行けるはずだと考えるのです。しかし、これも間違いです。神様は、私たちがどれだけ良いことをしたかではなく、私たちの罪が清められているかどうかによって決まるのです。少しでも罪があるなら、全く聖い神様は、私たちを受け入れることはできません。そうでしょ。たとえば、きれいに透き通っていて、どんなに美味しそうな水でも、そこにほんの少しだけねずみの糞が入っていたら飲めますか。99%清くても、1%汚れているだけで全部捨てるように、ある程度清いから天国に行けるということではないのです。

 ならば、いったいだれが天国に行くことができるでしょうか。だれもいません。私たちは生まれながらに罪人であって、不完全な者なのだから、完全に聖くなることなどできないからです。しかし、あわれみ豊かな神は、その罪を赦し全く罪のない者としてくださるために、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。この方を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったことにより、この方を信じる者の罪はすべて洗い流されるのです。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ4:22)

 皆さん、私たちがキリストを信じたそのとき、それまでかすみのようにかかっていた罪がすっかりぬぐいさられるのです。神様がキリストによってその罪を贖ってくださるからです。私たちの罪が赦され、天国に行くことができるのは、ただこの救い主イエス・キリストを信じる以外にはありません。イエス・キリストを信じるなら、だれでも、どんな人でも救われるのです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。ですから、聖書は一貫して、「ただ信ぜよ。さらば救われる」と言っているのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)ただ信仰によって、この救いを受けることができるのです。

 Ⅲ.神の義は福音のうちに(17)

 ではなぜ福音を信じるだけで救われるのでしょうか。それは神の義がこの福音の中に啓示されているからです。最後にこのことについて見ていきましょう。17節をご覧ください。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

 ここで注目したいことは、この福音の中に「神の義」が啓示されているということです。福音のうちに神の義が啓示されているとは、どういうことでしょうか。実は、この「神の義」こそ聖書全体の重大なテーマであって、これを曖昧にすると、聖書で本当に言わんとしていることがつかめなくなってしまいます。それほど大切な事柄です。これがすべての根底にあるといってもいいでしょう。たとえば、皆さんは、神はどのようなお方ですかと尋ねられたとしたら、いったい何と答えるでしょうか。神は愛ですと答えるでしょう。しかし、その愛とは、実は、この義に基づいたものであって、私たちが考えるようなセンチメンタルなものではありません。ですから、神はどのようなお方ですかと問われたら、その第一のご性質は「義なる方」となるのです。神は義なる方、全く正しい方です。ここからすべてが発しているのです。ですから、救いということを考える時にも、単に肉体の癒しとか、問題の解決といった御利益が中心なのではなく、罪からの救いということが中心になるわけです。

 ところで、ここで「神の義が啓示される」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。これは神が定められた律法の要求に対する人間の正しい関係を意味しています。人はだれも自分の力によって義と認められません。神が要求している律法を完全に行う人など一人もいないからです。ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、神様はこの世にキリストを送ってくださったのです。それは私たちの義ではなく、この神のひとり子であられるキリストの完全な服従に基づいた義をいただくためです。神の律法の要求を完全に行うことができるキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったことによって、この方を信じるなら、私たちの中にその神の義が全うされるようになったというのです。私たちはこのキリストによって、神と正しい関係を持つことができるわけです。

 では、「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とはどういうことなのでしょうか。これは神との正しい関係が、信仰によって始まり、信仰によって完成されるという意味です。これは今に始まった新しい教えではなく、実は、旧約聖書の時代から一貫して流れていた真理でした。その一つの例が、「義人は信仰によって生きる」ということばです。これは旧約聖書のハバクク書2章4節からの引用ですが、イスラエルにカルデヤ人が侵略してきた時、そのような国家的危機の中で、預言者ハバククが語った言葉です。彼はその時何と言ったかというと、主に拠り頼む者は勝利を得ると言いました。一生懸命に武器を作り、どうしたら勝てるかと戦略を練れば勝利できるのではなく、主に拠り頼むことによってのみ勝利することができると言ったのです。義人は信仰によって生きるとはそういう意味です。神との正しい関係はこの信仰によってのみ得ることができ、また信仰によって全うすることができるのです。

 皆さん、私たちは自分はできると思いがちです。そして、救われるために自分で何とかしようとします。ある面でそれは大切なことでしょう。しかし、このような努力やがんばりだけでは、私たちの人生を破壊し、破滅に陥れるこの罪から救い出すことはできません。この罪の前には、私たちは何もすることができないのです。全く無力なのです。私たちができることはただ一つ。それは受け入れることです。十字架で死なれ、三日目によみがえられて、死に勝利された復活の力を受ける以外にないのです。

 ある家族が賭博で無一文になってしまいました。家中の財産をすっかり失ってしまったのです。賭博というのはどうも伝染するのか、この家はおじいちゃんが賭博で破滅しかと思ったら、お父さんも賭博で家を潰してしまったのにもかかわらず、息子まで賭博をするようになったのです。息子自身もそのことをよく知っていて、「祖父は賭博で破滅した。親父も賭博のために人生を棒にふった」と言っていたそうです。それなのに賭博をやめることができませんでした。この息子は教会に通い始めると、悲壮な覚悟を決め、牧師の前で何と斧で手の指を全部切ってしまいました。「これで二度と賭博はしない」と決心したのですが、その覚悟も長続きはせず、彼は再び賭博を始めてしましいました。指のない手でどうやってしたのか?何と足の指に花札をはさんで賭博をしたのです。これが罪の力です。これほどの罪の力を、いったいどうやって断ち切ることができるのでしょうか。イエス・キリストです。私たちにはできないことを神はしてくださいました。神はキリストをこの世に送り、十字架につけてくださって、この方を信じる者をみな、許してくださると約束してくださったのです。このイエス・キリストの血潮がなければ、誰一人、罪の力を断ち切ることはできません。私たちはただその十字架で死なれたイエス様が自分の救い主であると信じ、この方にお頼りして、忠実に生きさえすればよいのです。福音こそ、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。

 地上においた船をどんなに動かそうとしても、動かすことはできません。屈強な男たちが十人か二十人かかっても、1トンの船さえ動かすのは用意なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼子がちょっと押しただけでも動くようになります。神様が御業を行われる方法とは、まさにこのようなものです。自分の力、才覚でやろうとするのではなく、「神様、どうぞ恵みの水を送ってください。そしてこの困難を乗り越えさせてください」と主にしがみついて、重荷をゆだねるとき、私たちの取るに足らない力でも悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議に人生が転回し始めるのです。義人は信仰によって生きる。皆さんもキリストを信じる信仰によって、そのような世界を生きることができますように。



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ローマ人への手紙1章8~15節「返さなければならない負債」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「返さなければならない負債」というタイトルでお話したいと思います。先週は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに自分を紹介するにあたり、パウロが「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と紹介したことを学びました。パウロは、自分がこの福音のために選び分けられた者であるという強い自覚と使命感がありました。このような使命感があったからこそ、彼は本気で福音のために献身することができたのです。

 さて、きょうのところは先週に引き続きこの手紙全体の導入の部分ですが、きょうのところでパウロは、自分がなぜローマに行きたかったのか、その理由を述べています。11節を見るとここには、「私があなたがたに会いたいと切に望むのは」とか、13節にも、「何度もあなたがたのところに行こうとした」とか、15節のところにも、「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」とあります。いったいパウロはなぜそんなにローマに行きたかったのでしょうか。きょうはその理由を三つのポイントでお話したいと思います。

 第一のことは、それは彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。第二のことは、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと願っていたからです。そして第三のことは、それが返さなければならない負債であると思っていたからです。

 Ⅰ.全世界に言い伝えられている信仰(8)

 それではまず8節をご覧ください。パウロがローマに行きたかったのは、ローマのクリスチャンたちの信仰が全世界に伝えられていたからです。

「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

 パウロはまずローマのクリスチャンたちのことで、神に感謝しています。それは、彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。全世界に言い伝えられていた信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。これと同じようなことがテサロニケ人への手紙の中にも記されてありますのでご覧いただきたいと思います。Iテサロニケ1章8節です。

「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

 ここで言われている信仰とは、彼らの聖い生活とか、愛に満ちた生活ということではなく、神に対する信仰です。それはどのような信仰かというと、キリスト信仰のことです。キリストによって罪から救われ、新しい人生に導かれた者として、そのキリストとともに生きる信仰のことなのです。パウロはその信仰をガラテヤ人への手紙の中で次のように告白しました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 この信仰です。ローマのクリスチャンたちは、この信仰に生きていました。皇帝を神としてあがめるローマ帝国の首都にあって、この信仰に生きることはどんなに大変なことだったでしょう。けれども彼らはこの信仰に生き、キリストを立派にあかししていたのです。それはローマ全体から見たならほんの一握りの人々であったかもしれません。しかし、彼らのそうした不撓不屈(ふとうふくつ:どんな困難に出あっても心がくじけないこと)の信仰は、ほかの地にいるクリスチャンにとって大きな励ましであり、また良い模範となりました。パウロはこのローマのクリスチャンたちがそのような信仰を持つようになったことを神に感謝したのです。

 それは昔から信仰に生きた人たちに共通して見られるものです。たとえば、ダニエル書にはシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという三人の少年たちが登場しますが、彼らはバビロンの王ネブカデネザル王から、もろもろの楽器の音を聞く時には、ひれ伏して、彼が造った像を拝むようにと命じられても、決して拝もうとしませんでした。それによってたとえ火の燃える炉の中に投げ込まれてもです。その時彼らは王に次のように答えました。

「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17,18)

 「しかし、もしそうでなくても・・」というのがすばらしいと思います。私の神は、私の信じている神は、そのような火の燃える炉から救い出すことができますが、たとえそうでなくても、決して金の像を拝むようなことはしない、そう言ったのです。彼らは自分たちのいのちに優先する信仰として、どんな状況にあっても揺るがない、ただ神だけに拠り頼む、そのような信仰を持っていたのです。

 皆さんはいかがですか。皆さんには、「もし、そうでなくても」という信仰がおありでしょうか。もし自分の思うように進まなくても、もし自分の願いが叶わなくても、もし、このことによって苦難を受けるようなことがあっても、それでも私はこの神に拠り頼むという信仰がおありでしょうか。

 スウェーデンの宣教師デヴィッド・フラッドという人の伝記を読みました。彼は福音を伝えるために、妻と2歳の息子とともに1921年、アフリカのコンゴに向かいました。飢餓と病気、敵対的な部族の人々の中で困難な働きを続けました。宣教の唯一の実は、一人の幼い少年だけでした。彼はそこで毎週日曜日にその幼い少年に聖書を教えました。そんな中、妻が娘を出産して七日目に世を去ってしまったのです。度重なる困難に疲れ果てたフラッドは、妻まで失ったことで自暴自棄に陥りました。神に失望し、殉教まで覚悟していた信仰を捨てて、現地の宣教本部に娘を預け、息子だけを連れて本国に戻ったのです。
 その後、73歳になった彼は、40年ぶりにはじめて会った娘から驚くべき事実を聞くのです。娘は、父に会いに来る途中、ロンドンのある集会で黒人の牧師に会ったのですが、それがあのコンゴの少年だったのです。その少年は立派に成長して牧師になり、福音の不毛地と言われたコンゴで神に仕える器となったのです。そして今では32カ国に宣教師を送り、11万人ものクリスチャンのいる教会の牧師となりました。父の献身と母の殉教によって、コンゴに新しいいのちがたくさん生まれていたのです。娘が「お父さんのしたことは決して無駄ではなかったのです」という言葉に、フラッドは涙して悔い改めたのでした。
 主のために努力したのに、結果が思ったとおりでないとき、私たちは失望します。しかし、たとえそうでなくても、それでもただ神に従うという信仰が重要です。まことの神を信じるなら、あらゆる結果を感謝して受け入れることができるようになるのです。

 実にローマのクリスチャンたちにはそのような信仰がありました。この世のこと、この地上のものを求めてやまないこの世の人たちとは違って、神のこと、永遠のことを求めて生きていたのです。そういう原理に生きていました。信仰が生きていたのです。ローマのクリスチャンたちはパウロによって信仰に導かれたわけではありませんでしたが、彼らがそのような信仰を持って歩んでいるというあかしを聞き、そのように導かれた神に感謝をささげると同時に、そういう彼らに何とかして会いたいと願っていたのです。

 Ⅱ.ともに励ましを受けるため(9-12)

 パウロがローマに行きたかったもう一つの理由は、ともに励ましを受けたかったからです。9~12節をご覧ください。

「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」

 まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちではありますが、パウロはいつも彼らのことを思っていました。どのように?祈りによってです。祈りによって彼は、いつも彼らのことを思い、神のみこころによって、何とかして道が開かれて、彼らのところに行けるようにと願っていたのです。いったいなぜパウロはそんなにも彼らのところに行くことを切望していたのでしょうか。それは11、12節にあるように、御霊の賜物をいくらかでも彼らに分け与えて、彼らの信仰を強くしたかったからです。なぜ彼らの信仰を強くしたかったのでしょう。伝道者、牧師であればそれは当然のことです。そのために自分が用いられるのであれば、喜んでそうしたいと思うのが普通です。しかしパウロの場合はただそのような理由だけではありませんでした。この手紙の終わりの方、15章を見ていただくとわかりますが、どうも彼はもっと遠く西方に、イスパニヤ、今のスペインですね、そこまで福音を宣べ伝えたいと願っていたようです。その宣教の拠点としてこのローマ教会に立ってほしかった。そのために必要だったことは、彼らが福音によってその信仰がしっかりと立っているということでした。なぜなら、福音に力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって神の力です。その福音にしっかりととどまっていてほしかった。だからこの手紙を書いたのです。本当なら、ローマまで行って直に会い、顔と顔とを合わせて教えるのに越したことはありません。しかし今はそれができないので、こうやって手紙を書いて彼らを強めようとしているのです。

 しかし、パウロがローマに行きたかったのは、そのように彼に与えられた御霊の賜物を分け与えて、彼らを強くするためだけではありませんでした。12節、「というよりも、彼らの間にいて、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたかったからなのです。」

 皆さん、私たちクリスチャンには、それぞれ御霊の賜物が与えられています。この御霊の賜物についてパウロは、ローマ書12章3~8節のところで次のように言っています。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

 一つのからだには器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとりが互いに器官なのです。ですから、その与えられた御霊の賜物を、主に喜ばれるように、ほかの人々のために用いていかなければなりません。パウロには預言の賜物があったでしょう。教える賜物も、勧める賜物も、指導する賜物もあったかもしれません。かといって、彼がオールマイティーであったかというとそうではありません。おそらく、人を励ますという賜物は弱かったのではないかと思います。それはあのバルナバとの激しい反目をみるとわかります。彼らが第二次伝道旅行に出かけて行こうとした時、マルコを連れて行くかどうかで話し合った時、彼らの間に激しい反目が起こりました。先の伝道で途中から戻った者など伝道者としてふさわしくないと主張したパウロと、いや、人はみな弱さがあって完全ということはないんだから、そういう人をも受け入れていく必要があると主張したバルナバとの間に、激しい口論が生じたのです。結局、マルコを連れて行ったのはバルナバでした。パウロはなかなか受け入れることができなかった。もちろん、後でパウロはそのマルコさえも心から許し、受け入れましたが・・・。どちらが正しかったのかというよりも、人にはいろいろな性格や賜物、考え方があるので、そのような違いが生じてくるのです。しかし、それはやはりパウロの度量のなさというか、弱さからくる限界でした。やはり人を励ますという点ではバルナバの方が優れていました。とは言ってもみながバルナバだったらいいのかというとそうではありません。バルナバのような人がいて、パウロのような人がいて、それぞれに与えられた賜物を用いることによってともに励ましを受けることが大切なのです。神様は、そのために必要な人材してそれぞれを教会に置いてくださったのです。ですから、それぞれに与えられた賜物を用いて、互いに主に仕え合わなければなりません。そのためには、自分に与えられている霊的賜物を、ほかの兄弟姉妹に喜んで分け与えようという愛と、自分もまた教えられ、祝福を受ける必要があるということを十分認識し、そうした欠けを補いたいという謙虚さが必要です。この両者のあるところにクリスチャンの交わりがあり、それは大きな恵みをもたらしていくのです。

 19世紀のアメリカの偉大なリバイバリスト、D・L・ムーディの周りには、彼を支えた多くの人たちがいました。賛美の奉仕をしたのはサンキという人ですが、この人は生涯ムーディとともに働きました。ムーディーが行く先々で、まずサンキが賛美して人々の心を開き、熱くしました。ムーディとサンキの関係は、まさに同労者の関係でした。またムーディはサンキだけでなく、R・A・トーレイという神学者もいつも連れて行きました。この人は、それほど説教がすぐれていたわけではありませんでしたが、しっかりとした神学的背景を持っていたので、靴屋から献身し、それほど教育を受けられなかったムーディにとっては、そうした神学的知識で理路整然に文章をまとめ、説教の原稿を作ったり、バイブルスタディの教材を作ったりしてもらえたことは、大きな助けでした。

 パウロは、「あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」と言いました。私たちはこのような励ましをみな必要としているのです。お互いに心を開き、このような交わりを持つように励みたいものです。

 Ⅲ.返さなければならない負債(13-15)

 パウロがどうしてもローマに行きたかった第三の理由は、それが返さなければならない負債だったからです。13~15節までをご覧ください。ここでパウロは、

「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

と言っています。パウロは、何度もローマに行こうとしましたが、なかなかそれを果たすことができませんでした。なお妨げられていたのです。パウロがこの手紙を書いたのは、第三次伝道旅行でエペソに3年間滞在したのち、マケドニヤ、アカヤを訪れた時でした。コリントに三ヶ月間滞在していた時でした。コリントといったらローマまでひとっ飛びです。もう少しで行けるというところまで来ていましたが、マケドニヤからの献金を携えてエルサレムに行かなければなりませんでした。今なお妨げられているのです。しょうがないから彼はそこで手紙を書いて、隣町ケンクレヤの女執事フィベに託して手紙を送り届けたのです。それにしてもなぜパウロはローマに行くことをそれほど願ったのでしょうか。その理由は14節にあります。

「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

 パウロはそれを「返さなければならない負債」だと思っていました。「負債」とは、辞書で調べてみると、「他から金銭や物品を借りて、返済の義務を負うこと。また、その借りたもの。借金。債務。」とあります。それは義務なのです。ローマ人やギリシャ人に対して実際に負債を負っていたというのではなく、その人たちに返さなければならない負債を「神に対して」負っていたという意味です。つまり、神がそのことを要求しておられるとパウロは考えていたのです。

 パウロはその使命を負債のように感じていました。負債を負っている人なら、あるいはかつて負ったことのある人ならパウロの気持ちがよくわかるのではないでしょうか。それが常に重荷となってのし掛かってきます。「返さなければならない」というプレッシャーとなって日々全身に重く感じるのです。パウロがローマに行って福音を伝えたいと思ったのは、それは神から与えられた大きな恵みのゆえに、どうしても返さなければならない負債だったのです。

 ここに私たちクリスチャンのあるべき姿がよく表されているのではないかと思うのです。つまり、私たちは自分が何をしたいのか、どこに行きたいのかといった個人的な思いからあれをしよう、これをしようと選択して生きているのではなく、神が何をしてほしいのかを知り、それを行っていくことが大切であるということです。そういう基準で生きる(行動する、選択する)ことです。

 現代の人は「こうしなければならない」ということを極端に嫌います。代わりに「権利、権利」と、権利ばかりを主張するのです。しかし、すべての状態が自分の都合に合致しなければ喜べないというのは自己中心的であり、幼い人で、その心を変えなければ、いつまでたっても成長はありません。すべての事が自分の思うとおりにはいくとは限らないからです。神から与えられた仕事を、神のために、神のお喜びのためにやるという心を持つ時に、大人のような立派なクリスチャンになることができるのです。パウロはそうでした。彼はいつも神のために何が一番良いことなのかを求めて生きました。たとえばコリント第一の手紙9章には、彼は飲み食いする権利、妻を連れて歩く権利、まあ、これは結婚のことですが、それから働きのために報酬を受ける権利があるが、そのような権利を一つも用いなかったと告白しています。なぜでしょうか?より多くの人を獲得するためです。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(Iコリント9:19)

 彼はすべてのことを福音のためにしました。パウロは信仰によって、福音のために何が一番良いのかという選択をしました。それが霊的大人の考え方です。そのように考えるなら、このような義務は祝福であることがわかります。また、そのような務めが私たちに与えられているということは、神がそのような者として私たちを認め期待しておられるということの裏返しでもあるわけですから、本当に感謝なことなのです。数年前のペットの流行は「ホーランドロップ」といううさぎだそうですが、どんなにホーランドロップが癒し系のかわいいうさぎだからといって、そのうさぎに家中を掃除することを期待するでしょうか。しないです。そのようなものとして認めていないからです。家にはかわいいフェレットがいますが、このフェレットに何らかの責任を与えたりするでしょうか。「フェレットちゃん、きょうはおとなしくお留守番しているのよ」なんて言いません。そのようなことを期待していないからです。カエルにお買い物を頼みますか?「頼むから美味しい食べ物を買ってきてくれませんか」なんて・・。しません。できないからです。そんなこと言ったら、「もうカ~エル!」なんて言われるでしょう。そのように責任を与えるということは、それができると認めているからであって、できなかったら与えません。神様は私たちにそのような務めを与えてくださったというのは、そのような者として私たちを見ておられるからなのです。もし私たちが神から与えられた義務と責任をすばらしいものとしてとらえることができれば、一人の人間として、クリスチャンとして、必ず成長していくことになるのです。

 パウロは、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と言いました。「ギリシャ人にも未開人にも」とか、「知識のある人にも知識のない人にも」というのは、世界中のあらゆる人々にという意味です。パウロの関心は、世界中のどこにおいても、この福音を宣べ伝えることでした。それが自分に与えられた使命であり、どうしてもしなければならない負債だと考えたのです。それはパウロだけではありません。私たちも同じです。私たちも同じ負債を負っているのです。私たちはそれほど大きな神の恵みを受けたからです。神の御子をこの世に与え、十字架につけて死なせ、三日目によみがえらせることによって、この方を信じる者はだれでも救われるという道を開いてくださったのです。そのおかげで、私たちはたましいの救いを得ることができました。何と大きな恵みでしょうか。私たちはそれほどの恵みを受けたのならば、その恵みを何らかの形でお返ししたいと思うのが当然ではないでしょうか。パウロはその神の大きな恵みのゆえに、この福音宣教を、どうしても返さなければならない負債だと感じていたのです。それは私たちも同じです。私たちも恵みを受けたのです。ですから、これがどうしても返さなければならない負債、いや、それこそ私たちの願いであると受け止めるられるなら、神の国がますます大きく前進していくだけでなく、私たち自身の祝福ともなるのです。

 ですからパウロは何とかしてローマに行きたかった。ローマにいる彼らにも、ぜひ福音を伝えたかったのです。私たちもパウロのような情熱をもって、神のみこころに生きることを求めていきたいものです。



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ローマ人への手紙1章1~7節「神の福音」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうからしばらくローマ人への手紙からご一緒に学んでいきたいと思います。あるアメリカ人のアルコール中毒患者が、どうしても酒を断ち切ることができず、病院で二ヶ月以上治療を受けました。その治療期間が終わって退院した帰りに、ある酒場の前を通りかかりました。雀が精米所の前を通り過ぎることができないように、その人に酒の誘惑が強力に襲いかかってきて、そこを通り過ぎることができなくなってしまいました。ところがそのすぐそばに、2ドル30セントで牛乳飲み放題の「牛乳バイキング」の店がありました。そこでこの人はそのお店に入って、満腹になるまで牛乳を飲んで出てきました。そして再び酒場の前を通りかかったときには、もうお酒の誘惑は全く無くなっていました。簡単に通り過ぎることかできたのです。牛乳でお腹が一杯になったからです。

 これから学ぼうとしているローマ人への手紙全体のテーマは福音の力です。このアルコール中毒の患者が牛乳に満たされたことでアルコールに勝利したように、私たちは福音の力によって勝利ある人生を送ることができるのです。なぜなら、福音には力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(1:16)です。この福音をよく理解し、この福音に堅く立ち、福音によって生きるなら、私たちはみこころにかなった歩みをすることができるのです。

 きょうはこの福音について三つのことをお話したいと思います。第一に、パウロの召命感です。パウロは、この福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信をもっていました。第二のことはこの福音の内容です。それは御子に関することですとあるように、イエス・キリストのことです。そして第三のことは、この福音がもたらされた目的です。それは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためでした。それは、この福音であるイエス・キリストによってのみできるということです。

 Ⅰ.神の福音のために選び分けられたパウロ(1)

 まず、パウロの召命感について見ていきたいと思います。1節をご覧ください。
「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。」
 新約聖書の中にあるパウロの手紙は全部で十三ありますが、このローマ人への手紙は、その中でもきわめてユニークな手紙です。パウロのほかの手紙はすべて、彼が自分で伝道したか、あるいはパウロの弟子たちが伝道して生まれた教会に宛てて書かれた手紙ですが、このローマ人への手紙だけはそうではないからです。おそらくあのペンテコステの時に回心した人たちがローマに帰って伝道し、そういう人たちによって生まれていたのでしょう。ですから彼らとは一度も会ったことがありませんでしたし、全く面識がありませんでした。それではなぜパウロはローマの教会に手紙を書き送る必要があったのでしょうか。それは、このローマの教会が福音によってしっかりと立っていてほしかったからです。この手紙の後半の方、15章を見ると、どうもパウロはイスパニヤ、今のスペインですね、そこまで行って伝道しようと願っていたようです。その伝道を彼らに担ってほしいと考えていたのです。そのためには彼はローマに行って福音の奥義を語って教え、彼らの信仰を養うのが一番ですが、今はそれができませんでした。パウロがこの手紙を書いたのは彼が第三次伝道旅行でコリントを訪れ、そこに三ヶ月間滞在した時でした。彼はこの後でマケドニヤの諸教会から集めた献金を持ってエルサレムに行かなければなりませんでした。ローマに行くことも大切なことですが、迫害で苦しみ、経済的に困窮していたエルサレムの兄弟姉妹を助けることはもっと大切なひとでした。そこで彼はケンクレヤという隣町の女執事フィベにこの手紙を託して届けさせたのです。

その手紙の最初のところで彼は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに対して、自分のことをどのように初回したかというと、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」でした。

 「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」という表現は、きわめて珍しい言い方です。皆さんは、まだ一度も会ったことのない人に手紙を書き送る時、このような言い方をするでしょうか。ここにはパウロの強い思いと確信がにじみ出ています。それは、自分は福音宣教のために選ばれ、召し出された者であるということです。だからこそ彼は、使徒の働き20章24節に「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」と言うことができたのです。これが彼の献身の原動力だったのです。

 皆さん、なぜ私たちはここに存在しているのでしょうか。私たちは何の目的もなく、意味もなく、ただ偶然にここにいるのではありません。神様に偶然などあり得ないからです。神様は一羽の雀が地に落ちるのも知っておられ、二十万本以上あると言われている私たちの髪の毛一本一本の数まで知っておられる方です。その神様は、私たちひとりひとりの人間に、その人生の目的なり、計画を持っておられるのです。それは何かというと、神の福音を宣べ伝えることです。福音をあかしすること、それが私たちに対する神のみこころなのです。イエス様を信じるすべての人は救いを得ていますが、なぜ神様は私たちを救ってくださったのかというと、この神の福音を宣べ伝えるためなのです。この目的をしっかりと握っている人は、どんな誘惑に直面しても決して揺らぐことがありません。そして確信をもって献身することができるのです。この意識が重要です。

 毎年自殺者が3万人を越えています。その予備軍を入れたら、その数字はもっと多くなります。どうしてそんなに多くの方が自ら命を絶つのでしょうか。それは、人生の目的がわからないからです。人は何のために生きているかがわからないと、人生が虚しく感じられます。しかし、自分は何のために生きているのか、その目的が明確であればあるほど充実した人生を送ることができるのです。

以前、「この日本人がスゴイらしい」というテレビ番組で、核廃絶を世界に訴えた二重被爆者、山口彊(つとむ)さんの生涯が紹介されました。山口さんは1945年8月6日、会社の出張先の広島で被爆し、さらに8月9日、故郷の長崎でも被爆された二重被爆者です。それで左耳の聴力を失い、急性白血病となり、原爆の後遺症に苦しめられますが、被爆に対する偏見や差別などから自分が被爆者であることを隠していました。しかし妻と息子を亡くしたことがきっかけで、自分の命はいったい何のためにあるのか、ここに存在しているのは何のためなのかを考えるようになりました。そして、それはこの核の恐ろしさを世界に訴えるためではないかと、自分が二重被爆者であることを公表するわけです。そして90歳になってからアメリカへ行き、ニューヨークの国連本部で反核、世界平和について訴えたのです。それから被爆をテーマにした映画を観てみたいと、「アバター」で有名な映画監督のジェームズ・キャメロンに手紙を書き送るのです。
 すると2008年12月22日に、がんで長崎の病院に入院していた山口さんのもとに、このジェームズ・キャメロン監督がやって来て、やがて核廃絶をテーマにした映画を作ると約束したのです。その映画は「The Last Train from Hiroshima :The Survivors Look Back」というノンフィクションの著書を元にした映画で、この山口さんの体験が重要な部分を占めている映画です。
 それにしても90を過ぎてから国連で訴えたり、ジェームズ・キャメロンに手紙を書き送ったりという力はどこから生まれて来たのでしょうか。それは、自分が生きているのはこのためだという使命感からです。その使命感が山口さんを動かしたのです。それは私たちも同じです。

 パウロは、自分が神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信を持っていました。明確な目的意識があったのです。それが彼の生きる原動力だったのです。パウロはそのような召命感を持っていたので、すべてのことを犠牲にしても福音のために献身していきたいと思ったのです。

皆さんは何のために救いに導かれたのでしょうか。それはこの神の福音に仕えるためです。そのために選び分けられ、そのために召され、そのために存在しているのです。このことがわかるとき、たとえすべてのものを犠牲にしても、福音に献身するようになります。

 Ⅱ.福音はイエス・キリスト(2-4)

 では、その福音とは何でしょうか。第二のことは、その福音の内容についてです。2~4節までをご覧ください。
 パウロは自己紹介をしたのち、この手紙の受取人であるローマにいるすべての聖徒たちへ、すなわち7節に進むはずでしたが、ちょっと横道にそれて、とうとうこの手紙の中心主題である神の福音について語り始めました。彼としては、それが言いたくて、言いたくて、ムズムズしていたのでしょう。人は頭にあることを話します。食べ物のことばかり話す人は、いつも食べ物のことばかり考えているからです。人は頭で考え、心で思っていることを話します。私は24時間いつも教会のことばかり考えているので、いつも教会のことばかり話します。頭のてっぺんを押されても、横っ腹をつつかれても、足の裏をくすぐられても、その口から出てくるのは「教会」のことです。パウロが考え、パウロが思っていたことは、神の福音のことでした。彼はいつも福音のことばかり考えていたので、自己紹介からその受取人について書き記す間に、横道にそれてしまったのです。それほど彼は福音に心が捕らえられていたのです。しかし、ここではすべてを語りません。食事でいうなら前菜のようなもので、フルコースのメニューのわずかなものだけちらつかせて、フルコースへの関心をかき立てようとしているのです。では、その神の福音とはどのようなものなのでしょうか。

「―この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」 

 それは旧約聖書の預言者たちを通してずっと昔から約束されていたもので、御子に関することです。この御子は、「肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神に御子として示された方」です。「肉によれば」というのは、人間的に見ればという意味です。つまり、人間的に見れば、御子は旧約聖書の預言に記されてあるとおりダビデの子孫としてお生まれになられ方であるということです。すなわち、まことの救い主であられるということです。それだけではありません。聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方です。つまりキリストは十字架で死なれましたが、その死から復活されることによってご自身が神であることを証明されたのです。「この方が死につながれていることなどあり得ないからです。」(使徒2:24)つまり、この方は旧約聖書の預言の通りに生まれた方であり、死者の中からよみがえられることによって、神の御子であるということをはっきりと示された方であるということです。私たちは、この主イエス・キリストによって罪がきよめられるのです。これが福音です。いや、このイエス・キリストこそ福音なのです。

 皆さん、福音とは、決して観念やイデオロギーではありません。この生きておられる主イエス・キリストとの交わりなのです。この方に堅く結びついていれば、神のいのちにあふれることができます。パウロが信じていた福音とは、そのように自ら体験していたものであり、確かな力であり、いのちだったのです。16節のところで彼が、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言っているのはそういうことです。福音は単なる知らせではなく、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。

 イエス様は、ピリポ・カイザリヤというところで弟子たちに、「人々はわたしのことを誰だと言ってるか?」とお尋ねになられました。すると弟子たちは、「ある人は預言者だと言い、ある人はエリヤ、また別の人はほかの預言者だと言っています」と答えました。するとイエス様は弟子たちに向かって、「では、あなたがたはわたしを誰だと言うか?」とお尋ねになられました。他の人々の主張はそのくらいにして、それではあなたがたはわたしを誰だというのかと、彼ら自身の告白を求められたのです。
 すると弟子の一人のペテロが言いました。「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)するとイエス様は、ペテロを称賛し、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と言われました。イエス様はほかの人が何と言っているかではなく、あなたは何と言うか、あなた自身の告白を聞くことを願っておられるのです。

 しかし、私たちは自分の告白をしません。「ある人の話ですが、イエスを信じると救われるらしいです」とか、「だれかが言っていたのですが、祈ると答えられるらしいよ」と言うのです。これは福音宣教ではありません。福音宣教とは、自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを証することなのです。「イエスが力です。十字架が救いの力です。祈りは必ず答えられます。イエス様だけが唯一の望みです。」とはっきり言えなければならないのです。そのように言える自分の信仰、証がなければなりません。私が信じているイエス様、私が信じている福音、私が体験した福音を証しなければなりません。今はそうでなくても、少しずつ確信が与えられて、そのように言うことができたら幸いです。それが力の源なのです。福音には力があるので、みことばをそのまま読むだけでもすばらしい力がありますが、もっと力があるのはそのみことばを実際に味わっていることを証することです。福音はイエス・キリストであり、単なる考えや知識ではなく、力だからです。

 Ⅲ.このキリストによって(5-7)

 最後に、このようにパウロがローマの教会に福音を宣べ伝えた目的とその手段についてを見て終わりたいと思います。5-7節をご覧ください。

「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。―このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 パウロは自己紹介をしながら、横道というか、福音そのものについて少し触れましたが、巧みに話を元に戻し、差出人から宛先へと進めていきます。今ここで紹介した福音の本質とはイエス・キリストであるという話から、このキリストによって、自分が使徒としての務めを受けたのだと結びつけていくのです。ここには「恵みと使徒の務め」とありますが、これは、「恵み、すなわち使徒の務め」という意味で、「使徒の務めという恵み」のことです。パウロは福音そのものである主イエス・キリストによって、この尊い務めを受けたのです。いったいそれは何のためでしょうか。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。「信仰の従順」とは何でしょうか。「信仰の従順」ということばは、ギリシャ語では「信仰、つまり神への従順」となっています。ですから、信仰の従順とは信仰の内容である神に従う生活のことなのです。パウロが使徒の務めという恵みを受けたのは、あらゆる国の人たちがこの福音を信じ、神の用意してくださった救いを受け入れることによって、神に従う生活をすることができるようにするためだったのです。それはパウロだけではありません。「あなたがたも」、すなわち、ローマのクリスチャンたちも同じです。そしてそれは私たちも言えることなのです。なぜなら、私たちも、イエス・キリストによって召された者だからです。私たちも神に愛され、召された者として、パウロのように、あらゆる国の人々に信仰の従順をもたらしていかなければなりません。どうやってそれができるのでしょうか。ここに「このキリストによって」とあります。「このキリスト」とは、神の福音そのもののことです。ですから、これは神の福音によってということになります。神の福音によって私たちは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすことができるのです。それは決して人間の力や方策によってではないのです。

 ネヘミヤは、バビロン捕囚からエルサレムに戻ってきたイスラエルの民に何をしたでしょうか。ネヘミヤ記8章を見ると、彼は、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように学者エズラにお願いしました。それを水の門の広場に集まっていた民に、夜明けから真昼まで、朗読しました。その結果消滅していた仮庵の祭りが復活し、異邦人との婚姻が解消され、安息日を守る運動が徹底され、什一献金が行われるようになり、イスラエルに信仰の改革が起こっていったのです。これは「水の門」のところで起こったので、ウォーターゲートのリバイバルと呼ばれています。それはイスラエルが神のみことばに立ち返り、みことばに堅く立つことによってもたらされたものだったのです。。

 それは使徒の働きの中に見られる初代教会も同じです。例えば、使徒の働き19章にはパウロがエペソで伝道した時のことが記されてありますが、彼らはパウロを通してみことばを伝えられるとすぐに、魔術を行っていた人々は魔術の本を集めて燃やしてしまいました。その額なんと銀貨5万枚、今の価値で300万円相当だったと言われています。それは彼らが神のみことばを聞いて、それを理解したからです。みことばを本当に理解すると、自然と、その行動にも変化が起こってくるのです。

 1903年にウェールズで起こったリバイバルもそうでした。神様のみことばに対する覚醒が起こると、劇場や酒場が門を閉ざすようになりました。また工場の労働者たちが盗んだ品物を返しにやって来て、それが山のように積まれるようになったのです。なぜそういうことが起こったのかというと、いつもむちで虐待していた主人たちが、神の恵みを受けてからは優しくなり、ロバを抱いて涙する人までになったからです。神のみことばによって人々の内側が変革したことが社会的な改革へとつながっていったのです。

 1907年に今の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で起こったリバイバルもそうでした。みことばで目覚めた聖徒たちが日曜日になると一斉に仕事を休んだので、平壌の経済が麻痺してしまいました。10%の聖徒たちが商店の門を閉めたので、平壌全体が日曜日は一斉に休むようになったのです。クリスチャンが10%になると、社会全体に大きな影響を及ぼすようになります。

 それまでは少し忍耐が必要です。日本では今のところクリスチャンの人口は全体の1%にも満ちていませんが、これが10%になると、大きなうねりなって社会全体を変革していくことになります。その鍵は何でしょうか。神の福音です。神の福音に立ち返り、この福音にしっかりと立ち続けることであって、それ以外にはないのです。決して人間的な方法やプログラムによるものではありません。

 猪(いのしし)が最も好んで食べる物はどんぐりだそうです。猪はどんぐりに目がなく、夢中になります。しかし猪は頭が悪いのか、どんぐりがなくなると、どんぐりが地面から出てくると思って地面を掘り返してしまうのです。もし私たちが猪のことばを知っているとしたら、そんな猪に何とことばをかけてやるでしょうか?「猪さん。地面を掘ったってドングリは出て来ないよ。どんぐりは上から落ちてくるの。だからそんなにどんぐりを食べたければ、木の根元を打つか、枝を揺らさないと・・。」このように言ってやるのではないでしょうか。

 同じです。コロサイ人への手紙3章1,2節には、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」とあります。何か良い方法はないかと地面を掘ったりするのではなく、天にあるものを求めていかなければなりません。「天にあるものを求めなさい」それが私たちに求められていることです。

 私たちはこの一年がそのような年でありますようにと祈ります。「このキリストによって」「この神の福音によって」皆さんの心が奮い立たせられる一年でありますように。いつもみことばに立ち返りながら、そこから恵みと力をいただいて、このすばらしい務めを全うしていくことができますように。この教会がこの福音に堅く立ち、キリストの恵みと力によって前進していく教会でありますように。



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Ⅰヨハネ1章5~10節 「光の中を歩む」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 ヨハネの手紙第一から学んでおりますが、今回はその二回目のメッセージです。前回のところでヨハネは、どうしても伝えたいことがあると言いました。それは永遠のいのちであるイエス・キリストが現れたということです。なぜなら、このキリストにこそいのちがあるからです。ヨハネはこれを自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手でさわりました。人は何を見るかによってその結果が決まります。この方をじっと見続けるならそこにいのちがあふれてきます。

 ヨハネがこの手紙を書いた当時はまさに闇でした。なぜなら、多くの反キリストが現れていたからです。そのような時代にあっても惑わされることなく、信仰に堅く立ち続けるためにはどうしたらいいのでしょうか。それはイエス・キリストを見ることです。イエス様をじっと見て、イエス様との交わりに入れられるなら、そうした闇の中にあっても希望と力が与えられ、喜びに満ちあふれた人生を歩むことができるのです。

 きょうの箇所でヨハネはもう一つの真理を伝えています。それは、神は光であられるということです。神は光であって全く闇がありません。ですから、この光の中を歩むなら、決して闇の中を歩むことはありません。きょうはこの「光の中を歩む」ことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.もし光の中を歩んでいるなら(5-6)

 まず、5節と6節をご覧ください。
「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。」

 ヨハネがキリストから聞いて彼らに伝えたかったことは、神は光であって、神には全く闇がないということでした。光と闇が交わることはありません。どんな闇でも光が差し込めば消え去ります。ですから、神には全く闇がないのです。ヨハネの福音書には、このことについて次のように記されてあります。
「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
キリストが光であるとはどういうことでしょうか。それは、キリストはいのちであり、道を照らすともしびであり、生きる希望であるということです。しかしここでキリストは光であったというのは闇に対する光のことであり、それは汚れに対するきよさを表しています。ですから神は光であって、私たち人間のような「闇」、すなわち罪や汚れなどは一つもないということです。それなのにもし私たちが神と交わりがあると言いながら闇の中を歩んでいるとしたらどうでしょうか。私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいないということになります。

ここでヨハネは、「もし・・・と言いながら」と言っていますが、このような言い方は続く8節と10節にも出てきます。「もし、罪はないと言うなら」と、「もし、罪は犯していないと言うなら」です。どういうことでしょうか。ここでヨハネはこの手紙の読者たちに、この真理を自分の生活に適用して点検するようにと勧めているのです。私たちが言っていることと、行なっていることが異なるということがしばしば起こります。ここでは、「私は、神さまとの交わりを持っています」と言いながら、交わりを持っているとは思えない行動をしていることがあるということです。神は光ですから、神と交わりを持っているなら、私たちもまた光の中を歩んでいるはずですが、そうでなはなく悪を行なっていることがあります。もしそうであるなら、もし神と交わりがあると言っても、それは真実ではない、偽りであると言うのです。

 私たちクリスチャンは、とかくこのような過ちに陥ります。自分は神との交わりがあると言いながら、神との交わりから外れているようなことをしていることがあるのです。確かに、毎週日曜日には教会に行き、クリスチャンらしい宗教的なことを行なっているかもしれませんが、家庭や職場ではそれとかけ離れたことをしていることが意外とあります。
私はこうして毎週講壇から神のみことばを語りますが、講壇で語っていることと実際の生活にギャップを感じることがあります。講壇では「さばいてはなりません。さばかれないためです」と言いながら平気で人をさばいてみたり、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」と言いながら、自分ほどいい人間はいないと思ってしまいます。「同じように、夫たちよ。妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに生活しなさい」と言っておきながら、妻のことをいたわることはほとんどありません。「うちの夫は講壇にいる時が一番すばらしい。そこから降りてきてほしくない」と言った牧師の奥様がおられたそうですが、わかるような気がします。言っていることとやっていることが一致しないことがあるからです。言っていることはすばらしいですが、やっていることはどうもいまいちだということがよくあるのです。もちろん、神のみこころに歩みたいと願いそのようにしたいと努めていますが、闇の中を歩んでいることがあります。もしそういうことがあるなら、神と交わりがあるとは言っても、それは偽りであって、真理を行っていないというのです。

とても心に刺さることばですが、ここで間違えないでいただきたいことは、だからだめだと言っているのではないということです。ヨハネはこの手紙の中で、クリスチャンが永遠のいのちであられる神との交わりを持ってほしいのです。もしあなたが神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるとしたら神との交わりは断絶し、神の臨在を感じることができなくなるばかりか、自分のたましいはカラカラに乾ききり、礼拝は儀式的なものとなってしまうでしょう。私たちはイエス様を信じて永遠のいのちをいただいていますが、その主と交わりそこに喜びが全うされるためには、この罪の問題が処理されなければならないのです。いったいどうすればいいのでしょうか。

Ⅱ.御子イエスの血がきよめてくださる(7)

7節をご覧ください。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

ここには、もし私たちが光の中を歩んでいるなら、光であられる神と交わりを持っているということになります。すなわち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださっているということです。この「きよめる」ということばですが、これは現在進行形で書かれています。すなわち、今もきよめられ続けているということを表しています。御子イエスの血は私たちがイエスを信じた時にすべての罪からきよめてくださったというだけでなく、今も日々の生活においてきよめられているということです。絶えず、その血によってきよめられていることによって、聖なる神と私たちが一つとなることができるのです。

これはすばらしい約束ではないでしょうか。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。心の中に染み付いている頑固な汚れも、自分ではどうしようもないという悪しき習慣からも、すべての罪から私たちをきよめてくださるのです。イエスの血がきよめることができない罪などありません。ですから私たちはこのイエスの血によって神と一つになることができるのです。

「きよめる」というと私たち日本人には、禊(みそぎ)とかお祓いをしてもらうというイメージがありますが、ここで言われている「きよめる」というのは、単に汚れを取り除くというだけでなく、神様の前に出ることができるように変えらることを意味しています。神様の目から見て聖なる者としていただくことです。たとえば、この手紙を書いたヨハネは以前「雷の子」とあだ名が付けられるほど短気な者でしたが、のちに「愛の人」と呼ばれるほどに変えられました。私たちも光の中を歩み、神様と交わりを持つことによって、そのような者に変えられていくのです。つまり、キリスト信じて救われた時だけでなく、救われた後も、年を老いてからも、いつでも、私たち十字架のもとに行くなら、御子イエスの血が、あなたをすべての罪からきよめ、キリストのように変えてくださるということです。

私たちは神様の光に照らされる時、自分の罪や汚れ、自分の弱さや愚かさに気付かされて落ち込むことがあります。このように礼拝に出て神様の語りかけを聞く時、「そういう生き方はよくないなぁ」とか「あの考えは間違っていた」ということが示されて打ちのめされそうになることがあります。私たちは罪赦されて神様との交わりの中に入れられましたが、実際には罪を犯さずには生きていけないからです。いや、クリスチャンになってからの方が罪について敏感になりました。それまでは何でもないように思っていたことが、それが大きな罪であったことに気づかされるからです。そのような時、私たちはどうしたらいいのでしょうか。そのまま落ち込んで、「私はやっぱり駄目な人間なんだ」と自分を責め続ければよいのでしょうか。あるいは、「私は罪人で駄目な者なんです」とうなだれながら生きていったらいいのでしょうか。そうではありません。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。この御子の血にお頼りすればいいのです。そして罪をきよめていただき、この神との交わりに入れていただけばいいのです。

Ⅲ.罪を認め、悔い改める(8-10)

では、そのためにどうしたらいいのでしょうか。8節から10節までをご覧ください。「もし自分に罪がないというなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

神が備えてくださったキリストの十字架の血は私たちの罪に対して無限の力を持っていることがわかりました。では私たちはこのキリストの無限の血に対してどのような態度をとるべきでしょうか。ここには絶対にとってはならない態度と、逆に取るべき態度が教えられています。まず、絶対にとってはならない態度は何かというと、8節に「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」とあるように、「自分には罪はない」という態度です。いったいだれがこんなことを言っていたのでしょうか。ここには「私たち」とありますから、当時のクリスチャンの中にそういう考え方をもっている人たちがいたようです。当時のクリスチャンの中に、グノーシス主義と呼ばれる誤った教えによってこのような考え方を持っている人たちがいました。このグノーシス主義の特徴は物質と霊の二元論にあり、肉体はたましいを宿す単なる器にすぎず、その肉体がどんなことをしてもたましいは何の影響も受けることはないと考えていたので、何をしても自分には罪がないと、自分の肉欲のままに生きていたのです。

しかし、こうした考えはグノーシス主義に限らず、私たちクリスチャンも持ってしまいがちなものです。私たちはイエス様を信じて罪が取り除かれたのだから、私には罪はないと思っていますが、これは、間違っています。確かに、立場的にはキリストにあって正しい者とみなされましたが、罪の性質は持ったままなのです。それなのに自分はクリスチャンになったのだから、ある程度正しさは身に付いたのではないかと考えるとしたら、それは大間違いなのです。
ここでヨハネは、もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分自身を欺いていると言っています。本当の自分の姿から目をそらしているからです。聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:23)と言っています。また、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ6:23)と言っています。すべての人は生まれながらに罪を持っているのに罪がないと言うのなら、その人は自分自身を欺いているのであって、その人のうちに真理はありません。

しかし、私たちにはこのように自分を美化する心があるため、悪いのは他人だと決め込み、自分を被害者の立場に置こうとする思いが働くのです。
最初の人アダムとエバがそうでした。彼らは取ってはならないと命じられた園の中央にある木の実をとって食べ、そのことを神から咎められた時、何と言いましたか。
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)
悪いのは私ではない、悪いのはあの女で。あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って食べたので、私は食べたのです。悪いのは自分ではない、あの女であり、突き詰めれば、あの女を私のそばにおいたあなたが悪いんです、と言ったのです。
それに対してエバはどうだったでしょうか。神がエバに「あなたは何ということをしたのか」と言われると、エバもこう言いました。
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」(創世記3:13)
同じです。彼女も自分には罪がないと言いました。蛇が私を惑わしたので、それで私は食べたんですと、蛇のせいにしました。
これが人間の姿です。私たちの中には罪があっても、それを認めようとしない性質があるのです。自分には罪はないと言ってうそぶくのです。

しかしこのように考えるなら、きよめられる必要がなくなってしまいます。あの祈るために宮に上って行ったパリサイ人がそうでした。彼は心の中でこんな祈りをしました。
「神よ。私がほかの人のように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないことを、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」(ルカ18:11)
このように祈れる人はそれほど多くはいません。でもこのパリサイ人は大胆にもこのように祈りました。なぜ彼はこのように祈れたのでしょうか。聖書にはこのように書かれてあります。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちには、イエスはこのようなたとえを話された。」(ルカ18:9)
そうです、彼は、自分は正しい人であり、間違ったことはしていない。自分には罪がないと思っていたからです。そういう人にはきよめが必要ないというか、きよめられる必要さえ感じません。
一方、取税人はどうだったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)
この二人のうち、いったいどちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
同じように、自分に罪がないと言うなら、きよめられることはありません。その人は自分を欺いているのであって、真理はその人のうちにはないからです。私たちはそのようにならないために、まず自分の罪を認めなければなりません。

次に、キリストの血に対して私たちが取るべき態度とはどのようなものでしょうか。9節と10節をご覧ください。
「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

新改訳聖書第三版には、「もし私たちが自分の罪を言い表すなら」とあります。個人的にはこちらの方が好きです。「言い表すなら」も「告白するなら」も、どちらも同じです。この言葉は原語のギリシャ語は「ホモロゲオー」という言葉で、「同じことを言う」という意味です。それは、心にある事実をそっくりそのまま神に申し上げることを意味しています。それは自分の罪を認め、悔い改めて祈ることです。そのようにするなら、神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。つまり、罪の悔い改めを通して、神の光が注がれるのです。罪を悔い改めることは、神の愛と赦しの光が差し込んでくる窓なのです。窓を閉じて心の部屋を閉ざすなら、愛の光は差し込んできません。しかし自分の罪を認め、神様に向かって心を開くとき、罪を赦しくださる神の光が差し込んで来るのです。

私たちが罪を犯すとき、その罪にどのように向かい、どのように対処するかはとても重要です。もし自分には罪かせないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるのです。

ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯したとき黙って自分の心の奥に隠しました。するとそれがバレないようにと今度は彼女の夫を戦いの最前線に立たせて戦死させました。これでバレないだろうと思っていましたが逆に彼の骨は疲れきり、一日中うめきました。昼も夜も 御手が彼の上にのしかかり、骨の髄さえ、夏の日照りで乾ききりました。
しかし、彼が自分の罪を神に告白したとき、神は彼の罪のとがめを赦してくださいました。そのときダビデはこう言って賛美しました。
「幸いなことよ その背きを赦され 罪を赦され 罪を覆われた人は、幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(詩篇32:1-2)

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じて罪赦された者ですが、それは罪がないということではありません。日々罪を犯すような者ですが、もし私たちがその罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。神様は決して「またやったのか。愚か者めが」とは言われません。むしろその罪を認めて神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。

あなたはどうでしょうか。悔い改めていない罪はありませんか。きょう主の御前に自分の罪を認めて、悔い改めましょう。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださるという神のみことば約束に信頼しましょう。そのような人こそ光であられる神と交わりを持ち、光の中を歩んでいる人です。この光の中を歩むことで、神のいのちと喜びに満ちあふれた日々を送らせていただきましょう。



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Ⅰヨハネ1章1~4節「永遠のいのちを伝えます」

投稿日: 2018/04/25 投稿者: Tomio Ohashi


これからしばらくの間、ヨハネの手紙を通して、私たちがイエス・キリストの恵みと豊かな愛によって支えられ、生かされていることを深く覚えさせていただきたいと思います。今回はその第一回目となりますが、「永遠のいのちを伝えます」というタイトルでお話しします。

最近の統計によると、日本人の平均寿命は男子が80.98歳、女子が87.14歳で、共に香港に次いで世界第二位だそうです。ところが、アフリカのシオラネオレでは、ちょっとデータが古くて2012年のものですが、男女の平均が45.33歳です。ほかにもアフリカには平均寿命が45歳から55歳までの国がいくつもあります。アフリカでは私の歳でもう亡くなっている人たちがたくさんおられるのです。世界中の人々の命がみな神から与えられたかけがえのないものであることを思うと、人々はその命を本当に正しく使っているのかと疑問が生じてきます。

しかし、聖書はこの肉体的いのちと同時に、もっと大切ないのちがあることを私たちに伝えています。それは「永遠のいのち」です。この手紙を書いたヨハネは、2節でこう言っています。

「このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

ヨハネが読者に伝えたかったのは、この「永遠のいのち」でした。この「永遠のいのち」とは、もちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストこそ永遠のいのちそのものであり、私たちに与えられる「永遠のいのち」の源であります。きょうは、この「永遠のいのち」について三つのことをお話ししたいと思います。

Ⅰ.いのちのことば(1-2)

まず、この永遠のいのちは実際に存在していたものであるということです。1節と2節をご覧ください。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。」

ヨハネはなぜこの手紙を書いたのか、ここにその目的が明らかにされています。それは1節の終わりにありますが、「いのちのことば」を伝えたかったからです。「いのちのことば」とは何でしょうか?この「ことば」と訳された語は、原語のギリシャ語では「ロゴス」といいます。これは単に口から出す言葉と言う意味ではなく、宇宙全体に秩序を与えて動かしている真理そのものを意味しています。ちょっとわかりづらい表現ですが、ユダヤ人にとって「ことば」とは、天地を創造する神の知恵と力を表すものでした。ですからこれは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるという意味です。

ドイツの宣教師でギュツラフという人がいましたが、彼が日本人に訳させた最初の日本語訳聖書では、この「ロゴス」という言葉を「賢いもの」と訳しました。ですから、ヨハネの福音書1章1節の「初めにことばがあった」という文章をこのように訳したのです。「初めに、賢いもの、ござる」

また、宮城県気仙沼付近の方言であるケセン語で聖書を翻訳した山浦玄嗣(はるつぐ)先生は、ここを「初めにあったのは、神さまの思いだった」と訳しています。これが一番分かりやすいかもしれませんね。初めにあったのは神さまの思いでした。その神の思い、神のいのちが現れた。それがイエス・キリストです。

では、その神の思い、神のいのちであるキリストとはどのようなお方なのでしょうか。1節には「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」とあります。どういうことでしょうか。初めからあったものとは、神が天地を創造される前からすでに存在していたもの、永遠なる方であるという意味です。ヨハネは、このいのちのことばを聞きました。また、実際に自分の目で見ました。そして、自分の手でじかにふれたのです。つまり、ヨハネはこれを机上の空論のような抽象的なものではなく、実際的で、現実的な出来事だった言っているのです。

そんなの嘘だと言われる方もおられるかもしれませんが、ヨハネは確かにいのちのことばを実際に見て、聞いて、触れたのです。というのは、このいのちが実際に現れたからです。そうです、このいのちこそ、初めから御父とともにあり、人となって現れた方、私たちの主イエス・キリストです。

ヨハネは、このキリストの弟子として歩みました。12弟子の中で、いつもイエス様のそばに3人の弟子がいましたが、その一人がこのヨハネでした。ですから、いつも間近でイエス様の教えを聞きました。間近でイエス様の姿を見ていました。それはまさに、手で触れられる距離感だったでしょう。別にこうやって触ったわけではなかったでしょうが、実際に触れることもあったかもしれません。そのように、きわめて親しい交わりを持っていたのです。そして、この世界でいちばん大切なものを教えていただいたのです。

もちろん、ヨハネは最初から、自分の目の前にいるイエス様を、「いのちのことば」だとは思っていなかったでしょう。最初は預言者の一人ぐらいにしか思っていなかったかもしれません。自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる英雄の一人ぐらいにしか思っていなかったのではないかと思います。けれども、主イエスの生きざまは、一般の預言者や英雄のそれではありませんでした。イエス様は社会で疎外されている人々をこよなく愛し、一方、ユダヤ教の指導者たちに対してはその偽善を激しく責めました。そしてその信念を貫いて、最後は十字架に架けられて処刑されました。そこにはこの世の成功も栄誉もありませんでした。しかしこの世でいちばん大切なものを貫き通されました。その生きざま、死にざまを、ヨハネは最も間近で見たのです。触れたのです。そして、その十字架の死から復活したイエスと出会ったのです。復活された主イエスを見て、聞いて、触れて、実際に確かめることで、この方こそいのちのことば、永遠のいのちであると確信したのです。ヨハネにとってそれは単にあこがれや空想の産物といったものではなく、本当に神が人となって現われてくださり、人間の手でじかにさわることができる存在だったのです。

いったいヨハネはなぜこんなことを言っているのでしょうか。それはヨハネがこの手紙を書いた当時、そうではない教えがはびこっていたからです。つまり、あなたがたが見たと言っているイエスは肉体を持っていたかのように見えたかもしれないけれどもそれは幻覚であって、実際には霊にすぎなかったという教えです。こういう教えを何というかというと「二元論」と言います。「二元論」は、肉体は悪であり霊こそが善であると教えます。だから、悪である肉体を痛めつけることによって霊を高めることができると考えて禁欲主義に陥ったり、逆に、大切なのは霊なのだから肉体はどうでもいいと快楽主義に走ったりしていたのです。人は何をどう考えるかによってその結果である行動が決まります。もしもこのような考え方に立つなら、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださったということはまったく無意味なものとなってしまい、そこには何の希望も、喜びも見出されないことになります。ただ目先の、現実だけを追い求める生活となってしまうからです。しかし、キリストは実在された方であり、実際に目で見て、耳で聞いて、手でふれることができました。この方が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことで私たちの罪は完全に贖われました。それゆえ、この方を信じる者に聖書が約束しているように永遠のいのちが与えられました。神との交わりが与えられたのです。このイエス・キリストをじっと見るとき、そこにいのちがあふれてきます。そして、この方が語られる一つ一つのことばが私たちを生かしてくれるのです。

ヨハネは、このいのちを「じっと見つめ」と言っていますが、この「じっと見つめ」と訳されている言葉と同じ言葉がヨハネの福音書1章14節にも使われています。そこには、こう書かれてあります。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

ヨハネはここで、イエス様をじっと見つめていると、神のひとり子としての栄光が見えてくる、と言っています。そして、この方は恵みとまことに満ちておられるお方なのだということが見えてくる、と言いました。皆さんはこの方をじっと見つめていらっしゃるでしょうか。別のものを見ているということはありませんか?

先週シモン先生の牧師就任式があり、その中でもお話しをされていただいたのですが、いったいなぜシモン先生は牧師になられたのでしょうか。それは「あなたはわたしを愛しますか」と言われる主に、「はい、愛します」と答えたからです。その先にあるのが「わたしの羊を飼いなさい」とイエス様が言われたことでした。つまり、牧師になるというのはイエス様を愛することを、そのような形で応答することなのです。イエス様を愛するということの延長に牧するということがあるのであって、そうでなかったら、牧師を続けるということは難しいのです。

私は牧師になって35年になりますが、そういうことの連続だったと思います。開拓して10年くらい経った時50~60人くらいの群れに成長しましたが、その時初めて壁に直面しました。一人の姉妹が何人かの兄姉を引き連れて教会を出て行かれたんですね。初めての経験でした。寝ても覚めてもそのことが頭をよぎり、離れませんでした。「いったいどうしたらいいんだろう」と悩みました。それまでは牧師は転職だろうと思っていたのに、どうして牧師になんてなってしまったんだろうと思うようらなり、だんだん落ち込むようになりました。「もう牧師を辞めよう」と思いました。辞めるなら早い方がいいと、毎日求人広告を眺めたりしていました。

そんなとき、ある牧師に相談したら、その牧師がこう言われたのです。「日本の教会はどこも小さくて、人が減りはしないかといつも心配しているんです。でも、先生の所はいいじゃないですか。最初からゼロなんですから。失うものは何もないでしょ。これから増えるだけですよ。」何とも慰められているのか励まされているのかわからないような言葉でしたが、考えてみたら「確かに・・」と思いました。ゼロから始まったんだから、失うものは何もない。そう思うと不安とか恐れがなくなりました。

そのような時に聖書を読んでいたら、旧約聖書のエレミヤ書の御言葉が私の心を捉えました。エレミヤ30章18~19節に、こう書かれてあります。

「主はこう言われる。見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。彼らから、感謝の歌と、喜びの笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。」

これは昔、イスラエルがバビロンに捕囚となって連れて行かれた時に、神様が苦難の中にいる民に対して預言者エレミヤを通して約束してくださった言葉です。私にはこのことばが、「神様がこの教会を建て直してくださる」という約束として響いてきました。神様が建て上げてくださる。これは主の教会であり、主が建て上げてくださるということがわかったとき、少しずつイエス様にゆだねることができるようになりました。

ですから、教会創立20周年の年、私たちがこの大田原市で開拓伝道をすることになったとき、私の牧会スタイルというか、牧会理念が全く変わりました。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

この方をじっと見つめていれば、恵みとまことに満たされます。私が、何を、どうするかということではなく、いのちそのものであられるイエス様が恵みを与えてくださいます。私に求められているのはこのいのちのことばを語ることでしかないのです。それを聞く人がイエス様をじっと見て、そこからいのちを受け取ることができるようにみことばを語るだけでいいんだと示されたのです。

だから、私のメッセージは以前とは全く違うメッセージになりました。いのちのことばである聖書そのものを、恵みとまことに満ちておられるイエス様をそのまま語るというスタイルになったのです。

皆さん、イエス様をじっと見つめるなら、そこに神のいのちがあふれます。そして、恵みとまことに満ちておられるイエス様のいのちを味わうことができるのです。イエス様が語られることばによって人は生かされるのです。イエス様のもとに重荷を下ろし、憩い、赦しをいただくことで、安心して生きることができます。そして、イエス様に信頼することで、すべてをゆだねて歩むことができるのです。

あなたが見ているものは何ですか。このいのちのことば、永遠のいのちから目を離さないでください。この方をじっと見つめてください。そうすれば、あなたの人生も恵みとまことにあふれるようになります。ヨハネが伝えたかったのはこの永遠のいのちだったのです。

Ⅱ.イエス・キリストとの交わり(3)

次に3節をご覧ください。ヨハネがこの「永遠のいのち」であるイエス・キリストを伝えるのはなぜでしょうか。その目的がここに記されてあります。

「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」

ヨハネがキリストを伝えるのは、「あなたがた」、すなわちキリストを直接見たことのない読者もまた、「私たちの交わり」に入ってもらいたいからです。「私たちの交わり」とは何でしょうか?それは御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

「交わり」とは何でしょうか。教会に来ると、よく「交わり」という言葉を耳にします。みなさんもこの言葉をよく使うのではないでしょうか。「礼拝後、皆さんとお交わりしてお帰りください」とか、「クリスチャンは交わりの中で成長するので互いに交わることは大切です」とかとよく言います。しかし、この場合の交わりとは一緒に食事をしたり、お話しをしたり、時間を共にすることを念頭に言われており、人との交流を指して言われている場合がほとんどです。

しかし、聖書が教えている交わりとは、私たちが普段使っている意味と少し違います。ここに出てくる「交わり」という言葉は、原語のギリシャ語で「コイノニア」と言いますが、これは、「何か共通のものを所有すること、分かち合うこと」です。つまり、ヨハネが「御父また御子イエス・キリストとの交わり」と言っているのは、御父および御子と共通のものを所有すること、分かち合うことを意味しているのです。では、何を共有するのでしょうか。それはイエス・キリストのいのちです。このいのちを共有する神との交わりに入れていただくことで、この交わりが広がって、今度は横のクリスチャン同士の共有関係へと発展していくわけです。そのクリスチャン同士の交わりはキリストのいのち、神の恵みの分かち合いにとどまらず、実際に持ち物を分かち合ったり、喜びや悲しみを分かち合っていくという具体的な行為になって現われていきます。ヨハネは、あなたがたもこの交わりに入ってもらいたいと言っているのです。

皆さん、この世は「交わりの世界」だと言っても過言ではありません。私たちは生まれるとすぐ両親との交わりが始まります。自分を育ててくれる存在との出会いが、人生の最初の出会いとなるわけですね。それから幼稚園とか、小学校とか、中学校、高校へと進んでいく中で、先生や友人たちとの出会いがあり、仕事や家庭を持つことで、それがだんだんと社会との交流へと広がっていくわけです。そして、交流が広がれば広がるほど自分とは考え方の違う人がいるんだなぁということに気づかされ、そのような違いが見えてくることで、人間関係って煩わしいなあと思わされることもあったり、逆に、「あの人に出会って良かった」と思う出会いもあったりするわけです。

マルチン・ブーマーという人は、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、私たちの人生は、こうした様々な人たちとの出会いや交流によって方向付けられていくのです。ですから、だれと出会い、どんな交わりを持つかによって、私たちの人生は大きく左右されることになるわけです。そしてその究極の出会いと交わりがイエス・キリストなのです。

ヨハネは晩年エペソで過ごしていた時にこの手紙を書いたと言われています。彼は人生の終わりを間近にして自分の人生を振り返りながら、「私の人生にもいろいろな人との出会いがあったなぁ。交流もあった。しかし、その中で、私の人生を大きく変えた出会いがあった。それがイエス・キリストとの出会いだった。」と言っているのです。

この出会いは、決してあなたを失望させることはありません。私たちはこの方との出会いと交わりを通して父なる神を知り、神との交わりの中へと入れていただきました。そして、この方との交わりを通して愛とは何であるかを知り、その愛によって神様に愛されているということがわかったのです。その結果、こんな者でもこの愛をもって人を愛することができるようになったのです。これはすごいことじゃないですか。それまでは自分のことしか考えられなかったのに、自分だけ良ければいいと、自分を中心に世界が動いていたのに、キリストと出会い、キリストとの交わりを通して、神の愛に生きることができるようになったのですから。

私は自他共に認める自己中心的な人間で、よく家内から、「あなたほど自己中心な人はいない」と言われるのですが、イエス様と出会って、その交わりの中に生かされることによって、少しずつですが変えられてきたと思うのです。「友よ歌おう」という賛美歌がありますが、その中に、「歌い続けよう、主の愛を」という歌があります。

主イエスの深い愛にふれて 私にも愛が生まれ、

主イエスを信じた時に 私にも歌が生まれた。

いつまでも歌い続けよう 主の愛の広さ深さを

十字架でいのちを捨てた その愛の大きさを

イエス様との交わりによって私たちの人生は大きく変えられます。イエス様と交われば交わるほどイエス様のように変えられて行くのです。その交わりの中にあなたも入ってもらいたいと、ヨハネはこのいのちを私たちに伝えているのです。

Ⅲ.喜びが満ちあふれるため(4)

いったいなぜヨハネはこれらのことを書き送るのでしょうか。第三に、それは私たちの喜びが満ちあふれるためです。4節に、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」とあります。

ヨハネにとっての最高の喜びは、私たち一人ひとりが御父および御子イエス・キリストとの交わりに生きる姿を見ることでした。この「喜びが満ちあふれるためです」と訳された言葉は、第三版では「喜びが全きものとなるためです」と訳されてあります。これは、当時のユダヤ教のラビたちにとっては、この世の終わりに全てのものが新しくされる時の完成の喜びを表すものでした。それはこの地上では成し得ない喜び、至極の喜びでした。ヨハネは、あなたがたが私たちと同じように御父および御子イエス・キリストとの交わりを持って生きる姿を見ることが、私たちにとってこの上もない喜びであると言っているのです。

皆さんにとって喜びは何でしょうか。大学入試や就職試験に合格することですか。それも喜びですね。いい人と結婚することが決まったら最高の喜びでしょう。念願の夢がかなってマイホームを新築することになったらどんなにうれしいことでしょうか。これまで自分を悩ませていた病気から解放されたら、家族の願いが叶い、それぞれが自分の願っていた道に進むことができたとしたら、それも大きな喜びです。教会も広い土地が与えられて立派な会堂が建ったらどれほどうれしいことでしょうか。しかし、それよりももっと大きな喜びがあります。それはこの地上にいながらも、さながら天国を味わう喜びです。それが御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

イエス様は、伝道に遣わされた72人の弟子たちが喜んで帰って来て、「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもさえも私たちに服従します。」と報告すると、このように言われました。

「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしはみました。確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。しかし、霊でもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に下記記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:18-20)

イエス様は、弟子たちが喜ばなければならないのは彼らが悪霊を追い出す力が与えられていることではなく、彼らの名前が天に書き記されていることだと言ったのです。言い換えるならこれは、彼らが救われて神との交わりの中に生きていることです。それを喜びなさいと言われたのです。

皆さんは何を喜んでいらっしゃいますか。私たちが喜ばなければならないのはこのことです。あなたがたがこの救いの中に入れられ、御父また御子イエス・キリストとの交わりの中に生かされることです。それを見ることはどんなに喜ばしいことでしょう。それは究極の喜び、全き喜びなのです。先日のイースターには3人の方がバプテスマを受けましたが、ヨハネがここにいたらどんなに喜んだことでしょう。もう飛び上がって喜んだに違いありません。また、そのように救われた人がキリストとの交わりの中に入れられ健全に成長しているのを見たら、どれほどの喜びでしょう。本当に喜びに満ちあふれ、神様をほめたたえたことでしょう。私たちもこのことを喜ぶ者でありたいと思います。そして、このために生きる者でありたいと願わされます。これはヨハネだけでなく、私たちにとっても大きな喜びなのです。ヨハネがこの永遠のいのちを伝えたように、私たちもこの永遠のいのち、イエス・キリストを伝える者でありたいと思います。



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