主は生きておられる 1列王記17章1~24節主は生きておられる 

聖書箇所:1列王記17章1~24節(旧約P631)
タイトル:「主は生きておられる」

 今エレミヤ書から毎週メッセージをしていますが、並行してエリヤの生涯からも学んでいきたいと思います。

皆さんはエリヤという人のことを聞いたことがあるでしょうか。エリヤがどういう人かはわからなくても、その名前を一度は耳にしたことがあるのではないかと思います。クリスチャンの多くは、自分の子どもに「エリヤ」という名前を付けます。そういう名前をつけるということは、その人がそれだけ立派な人物だからです。ヨシュア記に「アカン」という名前の人が出てきますが、「アカン」という名前を付ける人はあまりいないんじゃないかと思います。

「エリヤ」は、旧約聖書を代表する預言者でした。律法の代表はモーセですが、預言者の代表は間違いなくこのエリヤです。旧約聖書の最後にあるマラキ書には、メシヤが来られる前触れとしてエリヤが来るとあります。イエス様が高い山に登られたとき栄光の姿に変貌しましたが、その時現れたのがモーセとこのエリヤでした。

彼は、北王国イスラエルのアハブ王の時代に活躍した預言者です。その頃イスラエルはアハブの妻のイゼベルというシドン人の女がイスラエルにバアル礼拝を持ち込んだことから、霊的にかなり堕落していました。そんな中でエリヤは、バアルを拝むイスラエルの王アハブに、主は生きておられるということを証するために、神によって遣わされたのです。

 Ⅰ.烏によって養われる主(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」2 それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」

1節に、エリヤの背景が書かれています。ここには「ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤ」とあります。エリヤはティシュベの出身でした。ティシュベというのは、地図を見ていただくと分かりますが、ヨルダン川の東側にあるギルアデという地方にある町です。彼はアハブ王がイゼベルと結婚しバアル神に仕えそれを拝んでいると聞いて、神の怒りに燃え、サマリアにいるアハブ王のところにやって来たのです。その距離、約50㎞です。「エリヤ」という名前は、「ヤハウェは私の神」という意味です。彼は、その名のごとく、「ヤハウェは私の神」であるということを示すために、神によって遣わされたのです。

1節をご覧ください。エリヤはアハブに何と伝えましたか。
「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
エリヤがアハブに伝えたことは、「ここ数年の間、露も降らず、雨も降らない。」という神のことばでした。つまり、干ばつになるということです。干ばつになるという預言は、バアルの神を礼拝する者にとっては致命的なことでした。なぜなら、バアルの神は雨を降らせる神、豊穣神と考えられていたからです。その雨が降らなくなるということは、イスラエルの神はバアルの専門分野である雨さえも支配することになります。すなわち、バアル以上の神であるということです。ですから、このエリヤの干ばつの預言は、ある意味バアルに対する宣戦布告でもあったのです。

現代に生きる私たちも考えなければなりません。何が私たちの人生に真の恵みの雨をもたらしてくれるものかを。それは自分の力や自分の家族、自分の友人、あるいはこうした偶像の神々ではなく、生きておられるまことの神です。エリヤの力の源はここにありました。「ヤハウェこそ私の神」です。この生きておられる神への信頼にあったのです。生けるまことの神に信頼するなら、恐れたり、不安になったり、絶望したりする必要はありません。

このことについては、ヤコブ5章16~18節にこう言及されています。「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」
ここでのポイントは、エリヤは私たちと同じ人間であったということです。彼は決して特別な人ではありませんでした。私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように祈ると、そのようになりました。義人の祈りが働くと大きな力があるからです。義人とは、神の目で正しい人、神に信頼して生きている人のことです。生ける神に信頼し、この方に祈るなら、私たちも神から大きな力が与えられるのです。

それから、エリヤに次のようなことばがありました。3~4節をご覧ください。
「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3-4)
ケリテ川がどこにあるかは、はっきりわかっていません。恐らく、ティシュベの町の北方を流れていた川ではないかと考えられています。エリヤは、ヨルダン川の東にあるティシュベから北イスラエルの首都サマリアに行ったかと思ったら、再びヨルダン川の東側にあるケリテ川のほとりに身を隠さなければなりませんでした。何のためにですか。それは、主がアハブの手から彼を守るためです。また、このことを通して彼の信仰が養われるためでした。主は、そのような飢饉の中で彼が養われることによって、彼の信仰を強めようとされたのです。主は、どのようにして彼の飢え渇きを満たされたのでしょうか。何と烏によって養われました。

5~6節をご覧ください。「17:5 そこでエリヤは行って、【主】のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。17:6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。」
エリヤは主のことばのとおりケリテ川のほとりに行って住むと、何羽かの烏が「カー、カー」とやって来て、朝、夕とパンと肉を運んできました。また、彼はその川から水を飲みました。
皆さん、烏というのは、自らのひな鳥にさえ餌を忘れるような鳥です。そんな烏がエリヤのところに朝、夕と食べ物を運んで来たというのは驚くべきことです。これは神様の奇跡なのです。
この「パン」という言葉は、へブル語では「レヘム」という語で、食べ物一般を指すことばです。ですから、実際にはパンだけではなくそこにはナッツとか果物もあったでしょう。卵とか、アイスクリームもあったんじゃないですか。シュークリームとか、いちごのショートケーキもあったかもしれません。神様の方法と配慮には本当に驚かされますね。でも、これが神の方法なのです。神様の方法は私たちの想像をはるかに超えています。ですから、今月は食べるお金がないと言って心配しなくてもいいのです。神様がちゃんと養ってくださいますから。烏を用いて。

H先生のためにお祈りいただきありがとうございます。7月9日にご自宅でつまずいて倒れてから立ち上がることができず、ずっと介護用ベッドで過ごしておられます。どうぞ先生のために、またご家族のために続けてお祈りください。
その長谷川先生が、何の話か忘れましたが、「さば缶」の話をされたんですよね。寒川の教会を開拓される中で食べるのにも困り果て、しょうがなく奥様が近くの施設で仕事をしておられたんですが、どうも平安がありませんでした。自分たちは主に召されたのだから、必要ならば主が与えてくださるのではないかと、お仕事をお辞めになりました。
さて、この先どうしたらいいものかと途方に暮れていた時、特に、毎月17日になると家計が底をつくので、17日という数字が好きじゃないんだとおっしゃっておられましたが、その17日に信徒の方が「先生、これを食べてください」と、さばの缶詰を持って来てくださいました。ちょうど烏がエリヤのもとにパンと肉を運んで来たように、さば缶と大根を持って来てくださいました。それが美味しく美味しくて、生涯忘れられないとおっしゃっておられました。
皆さん、すばらしいですね、私たちの神様は。私たちが食べるものがなくても、ちゃんと烏を用いて養ってくださいます。何と麗しいお方でしょうか、私たちの主、生けるまことの神様は。

Ⅱ.パンの粉は尽きず、壺の油はなくならない(7-16)

次に、7~16節をご覧ください。私たちの主は生きておられる神であるということを示すために、神はもう一つの奇跡を通してそれを表してくださいました。それがパンの粉は尽きず、壺の油は無くならないという奇跡です。
「7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。8 すると、彼に次のような主のことばがあった。9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14 イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16 エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。」

しかし、しばらくすると、その川が枯れてしまいました。その地に雨が降らなかったからです。干ばつの影響が出始めたのです。すると、主はエリヤシドンのツァレファテに行き、そこに住むようにと言われました。「ツァレファテ」という町は、ツロとシドンの中間に位置する地中海沿いの町です。ヨルダンの東にあったケレテ川からは100㎞ほど離れたところにあります。なぜ主はわざわざそんな所まで行くように言われたのでしょうか。

それは、そこにいる一人のやもめを通して彼を養うためでした。やもめによって養われること自体、馬鹿げています。なぜなら、やもめは福祉制度が整っている今日とは異なり、乞食より多少ましであるという程度の貧しい存在であったからです。もし遣わすのであれば、もっと裕福な人のところに遣わした方がましに決まっています。けれども神は人の考えとは全く違い、人の考えをはるかに超えたところで働かれるお方です。神はこのことを通してご自身が生ける神であることをエリヤに示そうとされたのです。

そして、もっとすごいのは、ここに「シドンのツァレファテ」とありますが、そこがアハブの妻イゼベルの出身地で、異邦人の地、偶像神バアル礼拝の中心地であったということです。

主のことばに従って彼がツァレファテに行ってみるとどうでしょう。ちょうどそこに薪を拾い集めている一人のやもめがいました。そこで、エリヤは彼女に、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」と頼みました。これは、このやもめが、主が言われたあの一人のやもめなのかどうかを確かめるためだったのでしょう。案の定、彼女は好意的に応答し、水を取りに行こうとしたので、彼は「一口のパンも持って来てください。」とお願いしました。

すると彼女は何と言いましたか。彼女は、「あなたの神、主はき生きておられます。」と言いました。これは驚くべきことです。なぜなら、ツァレファテは異邦人の地であると申し上げましたが、異邦人の彼女が、「あなたの神、主は生きておられます。」と答えたからです。これは彼女の信仰の告白ともいえるでしょう。彼女は異邦人でありながも、イスラエルの神に対する信仰を持っていたのです。

けれども、彼女には焼いたパンはおろか、あるのはただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけでした。彼女は今集めている薪で、帰ったら、自分と息子のためにそれで調理し、それを食べて死のうとしていたのです。その時に現れたのがエリヤです。まさに絶妙なタイミングです。これは偶然ではなく神の摂理的な導きによるものでした。このことを通して主はエリヤだけでなく、彼女の信仰も養おうとしておられたのです。

そんな悲惨な状態にあった彼女に、エリヤは何と言いましたか。「それは大変ですね。わかりました。ご冥福をお祈りしています」なんて言わないで、こう言いました。
「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13-14)

何ということでしょう。行って、あなたの言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい、と言ったのです。
ここだけみると、「エリヤは、なんて人でなしなんだ」と思われるかも知れません。たとえ主からのことばが与えられていたからと言っても、このようなことはなかなか言いにくいことです。人間的に見たら、身勝手でズーズーしいといったらありゃしない、調子のいい話です。いや、何とも残酷な話です。最後のパンで私は生きるが、あなたがたは野垂れ死になさい、と言っているようなものですから。もし主の備えてくださるという約束を信じることができなければ。しかし、エリヤはそれを隠すことなく、ストレートに伝えました。なぜなら、イスラエルの神、主が、こう言われたからです。14節の『』のことばをご一緒に読みましょう。
『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』
この神のことばを信じるかどうかです。これは言い換えるなら、こうでしょう。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)
神の国とその義とを第一にするなら、それに加えてすべてのものが与えられます。彼女がエリヤのためにまず小さなパン菓子を作って食べさせたら自分たちのものはありません。しかし、主のみことばに従ってそうするなら、これらのものはすべて与えられるのです。主が地の上に雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、壺の油は無くなることはありません。信じますか?

さて、結果はどうだったでしょうか。15節をご覧ください。彼女は行って、エリヤが言ったとおりにすると、彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べることができました。そうです、エリヤを通して主が言われたことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかったのです。彼女は神の奇跡を目の当たりにしました。彼女だけではありません。エリヤもそうです。神のことばを伝えたエリヤ自身が一番驚いたかもしれませんね。かつてイスラエルが荒野を旅した40年間天からマナが与えられたように、日ごとに主により頼み、奇蹟を見させていただくことを体験することができたのです。このことによって、主は真実な方であり、必ず、みこころにそった願いを聞いてくださる方であることを確信することができました。

皆さん、私たちも、このやもめのように困窮し、もう生きることかできないと思うほど弱り果てることがあります。自分の心が底をついてしまうことがあるのです。もう奮起することができない。そんな時です。一握りの体力、気力しか無いとしたら、大抵はそれを自分の楽しみのために使うでしょう。せめてもの慰めを得たいと思うからです。でもそれを主に捧げるなら、このやもめのように尽きることのない天からの供給を受けることができます。尽きることのない勇気と力、この世では得ることのできない神の臨在を経験することができるのです。

この「ツァレファテ」という場所は、バアル礼拝の中心地であったと申し上げましたが、バアルは豊穣の神です。でもそこでも干ばつが起こりました。でも主はどんなに干ばつが続いても、麦から取れる粉とオリーブから取れる油を供給し続けてくださいました。そうです、私たちの主は、バアルよりも偉大なお方なのです。私たちの主はこの天地万物を造られた創造主であられ、今も生きて働いておられる神です。私たちも、このイスラエルの神、主こそ、天地を支配しておられる神であると認め、この方が私たちのすべての必要を満たしてくださると信じて、信頼したいと思います。

Ⅲ.いのちを戻される主(17-24)

最後に、17~24節をご覧ください。「17 これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」19 彼は「あなたの息子を渡しなさい」と彼女に言って、その子を彼女の懐から受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせた。20 彼は主叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」21 そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」22主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。23 エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に下りて、その子の母親に渡した。エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」」

それからどれくらい経ったかわかりませんが、このやもめにさらなる試みが襲い掛かります。それは、彼女の息子が病気なり、ついに息を引き取ってしまったのです。やもめにとっては何が何だかわからなかったでしょう。死のうとしていたところを生かしてくれたかと思ったら、今度は生きようとしていた息子が死んでしまったのですから。18節のやもめのことばには、こうした彼女の心境が見て取れます。
「彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」」

それに対してエリヤはどうしたでしょうか。エリヤは「あなたの息子を渡しなさい」と言うと、やもめからその子を受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋に抱えて上がり、その子を自分の寝床の上に寝かせました。ここに「その子を彼女の懐から受け取り」とか「抱えて上がり」とありますが、このことばから、この子がまだ幼かったことがわかります。

エリヤはその子を自分の寝床の上に寝かせると、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、その子の上に三度身を伏せて、主に叫んで言いました。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
するとどうでしょう。主はエリヤの祈りを聞かれ、子どものいのちがその子のうちに宿り、その子は生き返ったのです。ある人は、この子は、本当は死んだのではなく意識を失っていただけだと考えますが、そうではありません。やもめの絶望とエリヤの必死の祈りからも、この子が死んでいたことは明らかです。

ここでエリヤは三度祈っています。ただ祈ったのではありません。三度も必死に忍耐強く祈り続けました。ここにエリヤの必死に求める信仰が表されています。ヨハネの福音書4章に出てくる王室の役人のようです。彼も息子が病気で死にかかっていた時イエス様のもとに来て、癒されるように必死に祈りました(ヨハネ4:47)。そうです、主は愛する者のために、こうした必死の祈りに応えてくださる方なのです。だから、イエス様はこう言われたのです。
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は与えられ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)
それは主が生きておられる神であり、そのことばが確かなものであることを示すためです。

その子が生き返ったとき、彼女はエリヤにこう言いました。24節です。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
それはエリヤだけでなく彼女の信仰を引き上げ、彼女が主こそ神であることを示すために神がなされた御業だったのです。

その主は今も生きておられます。生きて私たちのただ中で働いておられるのです。私たちが悲しみや苦しみ、嘆きのただ中で主に叫ぶとき、主は確かに応えてくださいます。この主を認め、主に信頼しましょう。主がなさる御業に期待しましょう。主は確かにあなたの中でも働いておられるのです。その主の御名が崇められますように。すべての栄光を主にお返しします。