ヨシュア記17章

2023年6月28日(日)バイブルカフェ
聖書箇所:ヨシュア記17章

きょうはヨシュア記17章から学びたいと思います。

 Ⅰ.戦士マキル(1-2)

まず1節から2節をご覧ください。「17:1 マナセ部族の地は次のとおりにくじで割り当てられた。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギルアデの父であるマキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった。17:2 残りのマナセ族の諸氏族、すなわち、アビエゼル族、ヘレク族、アスリエル族、シェケム族、ヘフェル族、シェミダ族にも割り当てられた。これはヨセフの子マナセの、男の子孫の諸氏族である。」

16章ではエフライム族が受けた相続地について記されてありましたが、この17章にはマナセ族に割り当てられた相続地について記されてあります。マナセはヨセフの長男でしたが、先に相続地を受けたのは弟のエフライムでした。それは創世記48:19にあるように、「弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう」と語ったイスラエルの預言の成就でもありました。

1節には、マナセの長男であるマキルが、ギルアデとバシャンという二つの土地を獲得したことが書かれてあります。その地はくじによって割り当てられましたが、「彼は戦士であったので」とあるように、戦ってその地を獲得しました。つまり、イスラエルの相続地というのは自動的に与えられたというのではなく、その地を獲得する自由が与えられたに過ぎないということだったのです。そこには先住民族が住んでいたわけですから、いくら神がこの地を与えるとは言っても、それは棚ぼた式にもたらされるものではなく、自分たちの努力によって獲得していかなければならなかったのです。マキルは戦士だったので、自分に割り当てられた相続地を獲得していきました。

ここに「信仰」とはいかなるものであるかが教えられています。つまり、私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって神の救い、驚くほどの祝福を与えられましたが、そのような約束を与えられた者は、自らの手でそれをしっかりと掴まなければならないということです。Ⅱペテロ1章5~7節には、「あらゆる努力をして、信仰には徳を、特には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)とあります。また1章10節には「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」(同1:10)とあります。救いは一方的な神の恵みであり、私たちの行いによるのではありません。しかし、そのように一方的な神の恵みによって救われた者は、その恵みに応答してますます実を結ぶ者となるように熱心に求めていかなければならないのです。信仰を持つというのは、決してあなた任せになるということではありません。自分は何もしなくても、神様がみんなやってくれるのだというのではなく、神の驚くべき恵みに感謝して、キリストのご性質にあずかるためにあらゆる努力をしなければならないのです。その時神の聖霊が働いてくたさいます。神が与えてくださった祝福を、自分たちの最大限の力をもって応答し、神の約束と命令を遂行していくことなのです。

Ⅱ.ツェロフハデの娘たち(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。「17:3 マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデには、息子がなく娘だけであった。娘たちの名はマフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。17:4 彼女たちは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアと族長たちの前に進み出て言った。「【主】は、私たちにも自分たちの親類の間に相続地を与えるよう、モーセに命じられました。」ヨシュアは【主】の命により、彼女たちにも、彼女たちの父の兄弟たちの間に相続地を与えた。17:5 マナセには、ヨルダンの川向こうのギルアデとバシャンの地のほかに、十の割り当て地があてがわれた。17:6 マナセの女の子孫が、男の子孫の間に相続地を受け継いだからである。ギルアデの地はマナセのほかの子孫のものとなった。」

ここには、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデの娘たちのことが記されてあります。マナセから見たら曾曾曾孫に当たります。この娘たちが、相続地を受けるために祭司エルアザルとヨシュアのもとに来て、自分たちにも相続地を与えるようにと懇願しました。なぜでしょうか。当時の女性は、戦前の日本と同じように財産を受け継ぐ権利はなく、その資格を持っていなかったからです。そこで彼女たちはその権利を主張したのです。しかも彼らはマナセから数えたら曾曾曾孫です。そのような立場から見てもこのように懇願することは極めて異例のことであり、考えられないことでした。しかし、彼女たちは大胆にも願い出て、その結果、驚くべきことに相続地を得ることができました。しかも、あの戦士マキルでさえその武力を行使してやっと2つの相続地を獲得したというのに、彼らには何の努力もなしに10の割り当て地が与えられたのです。これはどういうことなのでしょうか。

このツェロフハデの娘たちのことについては、以前、民数記で学びました。民数記27章です。そこには、このツェロフハデの娘たちがモーセのところにやって来て、男の子がいないという理由で相続地が与えられないのはおかしいと、自分たちにも与えてほしいと訴えたところ、モーセはそれを主の前に持って行き祈りました。すると主は、「彼女たちの言い分は正しい」と、彼女たちにも相続地を与えるようにと命じられたばかりか、もし子どもに男子がいない時にはその娘に相続地を渡すように、また娘もいない時には父の兄弟たちに、兄弟もいなければ、彼の氏族の中で最も近い血族に継がせるというおきてを作るようにと命じたのです。それは、このツェロフハデの娘たちの訴えがきっかけとなって出来た掟だったのです。

ここで彼女たちが大祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、自分たちにも相続地を与えてほしいと懇願したのは、この出来事が根拠になっています。つまり彼女たちは主がそのように約束されたので、それを自分たちのものとしたいと願い出たのです。確かに彼女たちは男子ではありませんでした。しかし、そうした立場であるにも関わらず主の前に出て、主のみこころを求め大胆に願い出たのです。私たちの神は、このようにみこころを求めて大胆に願う者の祈りを聞いてくださるのです。

主イエスはこう言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)どのような人が受け、見つけ出し、開かれるのでしょうか。求め続け、捜し続け、たたき続ける人です。そのような人は与えられ、見つけ出し、開かれるのです。

イエス様はそのことを教えるために、不正な裁判官のたとえを話されました。ルカの福音書18章です。一人の不正な裁判官がいました。彼は神を恐れず人を人とも思わない人でした。そんな彼のところにひとりのやもめがやって来て、「どうか、私のために裁きを行って、私を守ってください。」と懇願しました。しかし、彼はその訴えを無視しました。それでも、このやもめが毎日やって来ては、「どうか私を訴える者をさばいてください」と叫び続けたので、彼は神を恐れず、人を人とも思わない裁判官でしたが、あまりにもうるさいので、さばきをつけてやることにしました。神はこのようなお方だというのです。だとしたら、私たちもあつかましいと思われるほど執拗に求め続けていくのなら、神は心を動かしてくださるのではないか、と言われたのです。

しかし、このツェロフハデの娘たちはただ執拗に訴えたのではありませんでした。彼女たちは神の約束のことばに信頼して訴えたのです。4節を見ると、「主はモーセに命じられました」とあります。それはかつてモーセを通して命じられたことなので、その神の約束を握りしめて訴えたのです。「神さま、あなたはこのように約束してくださったではありませんか。ですから、どうかこれを実現してください。」と。そして、ヨシュアはこの約束を知った時、彼女たちは受ける資格のない者たちでしたが、その約束のごとく彼らに与えたのです。ですから、大切なのは自分たちが執拗に祈ればいいということよりも、それが神の約束であることを確信して祈ることです。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。

Ⅲ.マナセ族の失敗(7-13)

次に7~13節までをご覧ください。「17:7 マナセの境界線はアシェルからシェケムに面したミクメタテである。その境界線は南へ、エン・タプアハの住民のところに行く。17:8 タプアハの地はマナセに属していたが、マナセの境界のタプアハはエフライム族に属していた。17:9 そして境界線はカナ川を下る。川の南側にある町々は、マナセの町々の間にはあるが、エフライムに属している。マナセの地域は川の北側にある。その終わりは海である。17:10 その南はエフライムのもの、北はマナセのものである。また海がその境界である。マナセは北でアシェルに達し、東でイッサカルに達する。17:11 イッサカルとアシェルの中にある、ベテ・シェアンとそれに属する村々、イブレアムとそれに属する村々、ドルの住民とそれに属する村々、エン・ドルの住民とそれに属する村々、タアナクの住民とそれに属する村々、メギドの住民とそれに属する村々はマナセに属している。その三番目は高地である。17:12 しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの地に継続して住んだ。17:13 イスラエル人が強くなったときにはカナン人を苦役につかせたが、彼らを追い払うことはなかった。」

ここには、マナセ族が受けた相続地の地域がリストアップされています。しかし、何度も述べてきたように、相続地が与えられたとは言ってもそこにはまだカナン人が住んでおり、このカナン人と戦って獲得しなければ、それを自分たちの土地にすることはできませんでした。かくしてマナセ族はカナン人の原住民と戦い、次々とその地を占領していきました。しかし12節を見ると、マナセの子孫はこれらの町々を取ることができなかったので、カナン人は長くこの地に住み通しました。つまり、実際にはかなり多くの地を占領できずにいたのです。けれども、長い戦いの時を経て、彼らは次第に力をつけて強くなって行くと、やがて、完全にカナン人を征服するに至りました。13節には、「イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」とあります。どういうことでしょうか。
彼らは戦いに勝って、やっとその地を占領することができました。しかし、占領した時、彼らはカナン人をどのように扱ったかというと、カナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことはしませんでした。なぜでしょうか。その地を占領したならば、その地の住人を追い払うか、あるいは聖絶するようにというのが、主の命令であったはずです。それなのに彼らはそのようにしませんでした。カナン人に苦役を課したが、追い払ってしまうまでしなかったのです。どうしてでしょうか。

ある学者は、ここはイスラエルの人道主義の表れだと評価します。長い間定住地を持っていなかったイスラエルの民にとって、その厳しい生活を顧みる時に、カナン人たちに対して、自分たちが歩んできたと同じ運命を担わせるにはあまりにも忍びなかったのだといいます。苦難が私たちにもたらす大切な意味の一つは、自らが経験した苦労や苦悩によって他者への思いやりを持つことができることだというのです。

しかし、そうではありません。ここでマナセ族が強くなってもその地に住むカナン人を追い払わなかったのは、彼らが神の命令を割り引いて受け止めてしまったからです。苦役を課していれば追い払わなくてもいいだろうと、それでも自分たちは神に従っていると思い込んでいたのです。しかし、神の命令は聖絶することでした。その地の住人を追い払い、その地の偶像を完全に破壊し、その地において神の民として聖く生きることだったのです。それなのに、彼らはカナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことをしませんでした。

その結果、イスラエルがどうなったかを、私たちはイスラエルの歴史を通して見ることができます。彼らは自分たちの目で良いと思われるようなことをしたので、後になってそのカナン人からの攻撃によって苦しみ、その苦しみの中から叫ぶことで、神はさばきつかさ(士師)を送りイスラエルを救い出されました。そうやってイスラエルが神に従い、安定し、豊かになると、彼らは再び神を忘れて自分勝手に行動し、自らそのさばきを招くことになってしまうのです。その結果、国が二つに分裂し、北も南も諸外国によって攻撃されてしまいます。ほんの小さなほころびが、大きな滅亡を招くことになったのです。

これは私たちも注意しなければなりません。自分では神に従っていると思っていても、ただそのように思い込んでいるだけで、この時のイスラエル人のように徹底的に神に従っているのでなければ、実際には従っていないことになるのです。それは信仰の敗北を招くことになってしまいます。99%従っていても1%従っていなければ、従っているとは言えません。誰も完全に主に従うことなどできませんが、その中にあってこうしてみことばに教えられながら、ご聖霊の助けをいただいて、神のみこころにかなった者となるように努めていきたいと思います。

Ⅳ.信仰の目で見る(14-18)

最後に14節から18節までを見て終わりたいと思います。「17:14 ヨセフ族はヨシュアに告げた。「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほど数の多い民になるまで、【主】が私を祝福してくださったのに。」17:15 ヨシュアは彼らに言った。「あなたが数の多い民であるのなら、森に上って行きなさい。そこでペリジ人やレファイム人の地を切り開くがよい。エフライムの山地はあなたには狭すぎるのだから。」17:16 ヨセフ族は言った。「山地は私たちに十分ではありません。しかし、平地に住んでいるカナン人はみな、ベテ・シェアンとそれに属する村々にいる者も、イズレエルの平野にいる者も、鉄の戦車を持っています。」17:17 ヨシュアはヨセフの家、すなわち、エフライムとマナセに言った。「あなたは数の多い民で大きな力がある。あなたには、くじによる割り当て地が一つだけではいけない。17:18 山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」」

ヨセフ族の子孫エフライム族とマナセ族に対する土地の分配が終わると、そのヨセフ族がヨシュアのところに来てこう言いました。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」
これはどういうことかというと、自分たちは主が祝福してくださったので、こんなに数の多い民となったのになぜただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのか、ということです。つまり、彼らはこれでは不十分だと、ヨシュアに不満を訴えたのです。何ということでしょう。彼らが与えられたのはカナンの地の中心部分の最良の地でした。しかも最も広大な土地が与えられたのです。しかもそれは彼らが何かをしたからではなく、彼らの先祖ヨセフの遺徳のゆえでした。どれほど感謝してもしきれないはずなのに彼らは深く感謝したかというとそうではなく、逆に不満タラタラ訴えたのです。

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちにそれぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろいことに調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もう少し収入がほしい」と回答しました。人間の欲望は止まるところを知らないようで、「満足です」というよりも「もう少しほしい」と思っているのです。このヨセフの子孫たちもまた、この調査結果にあるように、神の恵みによって与えられた土地なのに、これでは足りない、もっと欲しいと言いました。

それに対してヨセフは何と言ったでしょうか。16節には、「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」とあります。だったら自分たちで上って行って山地を切り開いたらいいじゃないか、と言うのです。

するとヨセフ族が言いました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」
なるほど、彼らがヨシュアに不満を漏らすのもわかります。確かに彼らが受けた相続地は良い地でありその領地は最も広くても、そのほとんどが山岳地帯であり、しかもそこには強い敵が住んでいたので、その領地を自分たちのものとするには、極めて困難だったのです。山岳地帯であり、住むのに適さず、しかも強力な敵がいたので、「この地を与える」と言われても、実際に彼らが使用できる土地、支配することができた土地はほんの僅かしかありませんでした。そこで彼らは、「もっと別の領地を、もっと広い地を・・」と願い出たのです。

彼らの気持ちはわかります。けれども、カナンの地であればどこにでもカナン人は住んでいたはずであって、それはマナセとエフライムだけではなく、他のどの部族も同じことでした。そのカナン人と戦って与えられた相続地を自分たちのものにしなければならなかったのです。それなのに彼らは、そうした問題点を見つけてはヨシュアに文句を言い、自分で切り開くということをしませんでした。むしろ彼らはその広い土地が与えられていることを喜び、感謝して、敵と戦ってその地を自分のものにしなければならなかったのです。彼らに欠けていたのは、こうした信仰であり、開拓者精神だったのです。

それは日本の教会にも言えます。確かに地方での伝道は困難を極めます。人口が減少しているというだけでなく、因習との戦いもあります。都会で伝道すればどんなに楽かという同労者の声をどれほど聞いたことでしょう。けれども、都会には都会の悩みもあります。都会で一定の土地を確保しようとしたらどれほど大変なことでしょう。しかし、地方では都会と比べてそれほど困難ではありません。都会ではできないようなダイナミックな伝道ができるのです。要するにどこで伝道しているかということではなく、どこで伝道しても、どこに遣わされても、自分たちに与えられている使命を確認して、その置かれた地で咲くことなのです。

それに対してヨシュアはどのように答えたでしょうか。17節と18節をご覧ください。ここには、「するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

まずヨセフの子孫たちが訴えた、自分たちは数が多い民であるので、山地は自分たちが住むのには十分ではないということに対しては、何を言っているんですか、数が多いということはそれだけ力があるということですから、その力で山地を切り開いていくべきではないか、と言いました。
また、ヨセフの子孫たちが、自分たちが住んでいる所にはカナン人がいて、彼らは鉄の戦車を持っていて強い、と言うと、敵が強いということ、鉄の戦車を持っているということは、神の全能の力が働く余地があるということだから、その神に信頼して、その信仰によって敵を打ち破ることができる、と言いました。
このように、ヨシュアから見るとヨセフの子孫たちが挙げた不利な条件は、むしろ有利な条件だったことがわかります。ヨシュアは不利と思われる状況の中に有利な条件を見出して、それを神のみこころを行っていく力へと転換していったのです。神を信じるということはこういうことです。信仰を持つとはこういうことなのです。

私たちもこの世の目で見れば不利だと思える条件を信仰の目で見て、それを有利な条件へと転換し主の力に支えられながら、大胆に神のみこころを行う者とさせていただこうではありませんか。

ヨシュア記16章

ヨシュア記16章

きょうはヨシュア記16章から学びます。

 Ⅰ.ヨセフ族の相続地(1-4)

 まず1~4節までをご覧ください。「1 ヨセフ族にくじで当たった地の境界線は、エリコのあたりのヨルダン川からエリコの泉の東側へ、そして荒野の方へ向かい、エリコから上って山地のベテルに至り、2 ベテルからルズに出てアルキ人の領土アタロテを過ぎ、3 西の方、ヤフレテ人の領土に下り、下ベテ・ホロンの地境、さらにゲゼルに至る。その終わりは海である。4 ヨセフ族、マナセとエフライムは自分たちの相続地を受け継いだ。」

15章から、イスラエルのそれぞれの部族への相続地の分割が始まりました。最初に分割の恵みに与ったのはユダ族でした。長男がルベン、次男がシメオン、三男がレビ、そして四男がユダです。その四番目であったユダ族がどうして最初に土地の分割に与ることができたのかというと、長男のルベンは、父ヤコブのそばめ、ビルハと寝たことで、長男としての特権を失ってしまったからです。また、二男のシメオンと三男のレビも妹のディナがヒビ人のシェケムという男に辱められたことに怒り、彼らと親戚関係を結ぶと偽って彼らを虐殺してしまいました。ですから、その次のユダが最初に相続地の分割に与ることができたのです。
しかし、それは兄たちに問題があったからというだけでなく、ユダ族はそれにふさわしい部族でもあったからです。彼らは信仰の勇者カレブに代表されるような、信仰の大胆さと勇気を持っていました。それゆえ、創世記49章10節に「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない」とあるように、後にユダの部族からは支配者、王が出ることになったのです。事実このユダ族から後にダビデ王が誕生し、さらにその子孫からやがて真実の王なるイエス・キリストが誕生することになります。イエス様こそ、ユダ族から出た獅子なのです。このようなユダ族の優位性が暗示される中で、彼らが土地の割り当ての最初に来ているのでしょう。
しかしそればかりでなく、15章で学んだように、ユダが自分のいのちをかけてとりなしをしました(創世記44:33-34)彼は、若い頃ヨセフに対しても父ヤコブに対しても何の配慮もせず、むしろ、ヨセフを奴隷として売ろうと兄弟たちを説得し、ヤコブには兄弟たちと共に嘘をつきました。そのユダがここでヨセフに、ベニヤミンの身代わりとしてヨセフの奴隷になることを申し出、あの子を父のもとに返してほしいと訴えたのです。自分のいのちをかけてとりなしたのです。ここに真実の愛を見出すことができます。それはイエスによって現わされた十字架の愛を表していました。そのように考えると、ユダ族こそ約束の土地を最初に相続する者としてふさわしい者であったと言えるでしょう。それゆえ、主は彼らを祝福し、彼らが最初に土地の相続に与るようにしてくださったのです。

ユダ族の次に相続地の分割に与ったのはヨセフ族でした。ヨセフ族がくじで割り当てられた地の境界線は、1~4節までに記されてある土地でした。これは彼らが相続した土地の南側の境界線です。それは聖書の巻末にある地図を見ていただくとわかりますが、ちょうどカナンの地の中央部に当たります。それは最も良い地であり、しかも、最も広大な地でした。ユダ族は最初に相続地の分割に与るという特権が与えられましたが、ヨセフ族には二倍の分け前、マナセ族とエフライム族の二部族に相続地が与えられました。彼らは他のどの部族にもまさって大きな祝福を受けました。いったいなぜ彼らはそれほど大きな祝福を受けたのでしょうか。それは先祖ヨセフの功績のゆえです。マナセとエフライムの先祖ヨセフは真実なる生涯を送ったので、その祝福は彼のみならず、彼の子孫にまでもたらされることになったのです。

 創世記に登場するヨセフは、どのような点で真実な生涯を送ったのでしょうか。彼は、その生涯の中で苦難や悲運の中にあっても尚、神に対して怒ったり、不信仰に陥ったりしませんでした。彼は兄たちの策略によりエジプトに売られて行きましたが、それでも一切呟いたりせず、常に主なる神を信頼し続け、徹底的に神に従いました。彼には従順という徳が豊かに備わっていました。彼の前半の半生は奴隷としての生涯でしたが、それでも決して神を呪ったり、人を恨んだりしませんでした。いつも主の御心は何かを求め、主とともに歩みました。また、様々な誘惑にも決して屈しませんでした。しかも、自分を陥れた人々を訴えたりすることもせず、常に真実であり続けたのです。ある時は濡れ衣を着せられ、囚人としての人生を歩まなければなりませんでしたが、そのような絶望的な状況の中でも常に神を賛美し、真実であり続けました。これはすごいことです。最近冤罪で刑務所に20年以上も服役していた人の再審が認められ、逆転無罪判決を受けた人のニュースを見ましたが、刑務所にいる間はもちろんですが、刑務所から出てからもそれがトラウマになってなかなかうまく社会に適応できなくて苦しんでおられるということでした。そう簡単に赦せることではありません。しかし、彼は自分をひどい目に会わせ、苦しい目に会せた人たちを赦し、自分をエジプトに売り飛ばした兄たちをも救い出したのです。
 
 このようなヨセフの生涯に、真実な愛と赦しという徳が見事に現われているのを見ます。このヨセフの高尚な生涯は、遂に彼自身をエジプトの王ファラオの次の座にまで上りつめらせただけでなく、その子孫に対する遺徳となって祝福と繁栄をもたらしていったのです。このヨセフに見られるように、ひとりの人が神を信じ心から神に仕えて生きるなら、その徳はその人ばかりでなくその子孫に受け継がれ豊かな祝福と繁栄をもたらしていくのです。

 このヨセフの生涯は、イエス・キリストご自身を指し示していました。イエス・キリストも徹底的に父なる神に従い、その全生涯に渡って真実の愛と赦しに徹せられました。キリストは神であられる方なのに、神であるという考えを捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われました。キリストの十字架の贖いは、その総括として成された御業だったのです。イエス・キリストの十字架は従順のしるしであり、真実のしるしであり、そして愛と赦しのしるしでした。ヨセフの生涯は、このキリストの生涯のひな型だったのです。

であれば、このヨセフの子孫がどのような祝福と繁栄を受けたかを知るとき、キリストの子孫である私たちが、どのような祝福と繁栄を受けるかを知ることができます。その子孫マナセとエフライムが最良の地、しかも最大の地を受け継いだように、最高の祝福を受けることになるのです。

同志社大学の創設者新島襄については、日本で広く知られています。上州安中藩に生まれた彼は、若い頃聖書と出会い、キリスト教の感化を受け、西洋のキリスト教社会への非常な憧れから、密かにアメリカへ渡ったと言われています。しかし良く調べてみると、実際はそうではなかったようです。彼が初めてキリスト教信仰に触れたのはアメリカに渡ってからのことで、それまではキリスト教には触れていませんでした。ではどうして密かに出国したのか。それは、ある時酒を飲んで酔っぱらった彼は、仲間と喧嘩をしてその相手を殺傷してしまったからです。その追求が怖くて、そこから逃れるために密出国したのです。その逃亡先のアメリカでキリスト教信仰に触れて入信し、帰国後彼は日本の教育にキリスト教信仰を取り入れることで救いをもたらしたいという志と情熱を抱きました。そして、帰国後京都に同志社大学を設立したのです。彼の眉間には、深い刀の傷跡が残っていましたが、それは喧嘩によって相手を殺した時に、同時に彼が受けた傷なのです。言うならば、新島襄は決して聖人君子ではなく、むしろ卑怯者、臆病者と言われてもしかたがないような人物だったのです。しかしそんな彼がキリストを信じたことで全く変えられ、同志社大学を設立したばかりでなく、彼の門下からは、次世代を担う大変優れた指導者が多く輩出されていきました。一人の人がキリストと出会って救われることで、その人が天の御国を相続するという祝福を受けたばかりか、その祝福は後代にまで大きな影響をもたらしていったのです。キリストを信じて神の子どもとされるということは、このように大きな祝福なのです。それは恵みの高嶺、その頂きを手に入れるということなのです。

それならばなぜ、同じキリストを信じていながら、あるクリスチャンは恵まれ、あるクリスチャンはそうでないのか。ここで言うところの恵まれるということは、決して裕福な生活を送っているとか、何かすばらしい業績を残したかといったことではなく、神との関係における豊かさのことです。それは信仰のあり方に違いがあるからです。主イエスがどのような方であるのかを本当の意味で理解していないからなのです。

それはあのルカ15章にある放蕩息子の話を見るとわかります。放蕩三昧をして帰って来た弟息子を父親は赦し、盛大な祝宴を設けて彼の帰宅を喜びました。一方、兄の方はこつこつと一生懸命に働き、少しも間違ったことはしない模範的人間でした。しかし、その兄は家に帰って弟のために宴会が設けられているのを見て、嫉妬し、ひがみ、祝宴の場に入ろうとせず、父親に文句を言いました。「私は何年もあなたに仕えてきたのに、ただの一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友達と楽しむために子ヤギ一匹もくださったことはありませんでした。それなのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました。」
 すると父親は彼に言いました。「子よ、あなたはいつも私と一緒にいるではないか。私のものは全部あなたのものだ。しかし、この息子は、死んでいたのに行き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」

この譬え話が教えているころは、父なる神は私たちに最高の祝福を与えようとされるけれども、しかしそれは、私たちが人間的に立派だからではなく、また優れた業績を残したからでもなく、ただ神の恵みによって、イエス・キリストを主と信じたからです。その祝福は神の恵みにより、無条件でもたらされたのです。父なる神とは実にそのようなお方なのです。注意しないと、信じ方を間違えると、私たちもこの兄のようになってしまいます。兄は、自分自身の中に救いの根拠を作ろうとしました。この兄は律法主義的な信仰者の典型です。律法主義的なクリスチャンとは品行方正な生き方をし、真面目であり、物事に一生懸命取り組みますが、しかし、その努力の結果を自分の業の結果として、自分の内に救いの根拠を作ろうとしやすいのです。しかし、そのように努力をすればするほど、私たちの内側が重くなってしまいます。そして逆に、神の祝福を手に入れることができなくなってしまうのです。

しばらく前、日本相撲協会は日馬富士の暴行問題から、そのあり方が問われました。そこには「相撲道」とはどのようなものかという誤解があったといいます。相撲界は数年前から外国の力士たちも受け入れるようになりました。今その大半をモンゴルの力士たちが占めています。実に4人の横綱のうち3人がモンゴル出身です。その力士たちに日本の相撲道がわからないからと、それを何とか教えてやらなければならないと、考えている親方もいます。それに対して、モンゴルから来日した元横綱朝青龍が、「もういいじゃないですか。この問題をいつまでも長く引きずらないで、みんなで仲良くすればいいと思いますよ。だって相撲界は一つの家族なんだから。相撲協会も、親方も、力士も、ファンもみんなファミリー、そういう近い関係を築き上げることが大切だと思いますよ。」と言いました。
私はそれを聞いていて、なるほどと思いました。だれが加害者で、だが被害者だということではなく、みんな家族であり、仲間だという意識を持ち、みんな仲良くやっていくことが大切だというのは、相撲界だけでなくすべての業界に言えることではないかと思ったのです。あまりにも「相撲道」を追求しすぎると、見えるものまで見えなくなってしまうこともあります。そのような考えは祝福を失うことになってしまいます。そうでなくて、私たちはみなこの放蕩息子のようにどうしようもない者であったにもかかわらず、神の恵みによって、一方的に救っていただいたことを喜び、感謝するなら、必ずそれが外側に溢れるようになるのではないでしょうか。ですから、信仰において最も重要なことはこの主イエスの救いを知ることです。これが神を知るということです。知るというのは単に頭で知るということ以上のことです。それは体験的に知るということです。本当に主イエスを知るなら、そこに神のいのちが満ち溢れ、それが外側にも現われるようになるからです。

私たちは、そのように自分自身の力によって救いの根拠を得て救われようとするのではなく、イエス・キリストの十字架を信じる信仰によってのみ、ただ一方的な神の恵みによってのみ、救われることに徹し、ただひたすら感謝して歩みたいものです。そして、この神の恩寵に心を開き、ゆだねていきたいと思うのです。その信仰に生きるなら、私たちはイエス・キリストの子どもとされ、キリストの豊かな祝福に与ることができるばかりか、その祝福を子孫へと継承していくことができるのです。私たちはヨセフの子孫として、イエス・キリストの子孫として、最上で、最高の祝福を受け継ぐ者となったことを感謝したいと思います。

Ⅱ.エフライム族の地域(5-9)

次に、5~9節までをご覧ください。ここにはエフライム族が受けた相続地が記されてあります。「5 エフライム族の諸氏族の地域は、次のとおりである。彼らの相続地の領域は東の方、アテロテ・アダルから上ベテ・ホロンに至る。6 そして境界線は西に向かい、さらに北方のミクメタテに出る。そこから境界線は東に回ってタアナテ・シロに至り、そこを過ぎてヤノアハの東に進み、7 ヤノアハからアタロテとナアラに下り、エリコに達し、ヨルダン川に出る。8 また境界線はタプアハから西へ、カナ川に向かう。その終わりは海である。これがエフライム部族の諸氏族の相続地である。9 そして、マナセ族の相続地の中に、エフライム族のために取り分けられた町々、そのすべての町とそれらの村々がある。」

エフライムは、ヨセフの二人の子どもの弟の方です。生まれた順で言えばマナセ、エフライムとなりますが、弟のエフライム族から先に相続地が分割されています。どうしてでしょうか?これは、創世記48章の出来事と関係しています。ヤコブは年老いて病気になった時、ヨセフの子を祝福するために呼び寄せました。ヨセフはその際父ヤコブの右手が長男マナセの上に来るように子供たちを配置しましたが、ヤコブは手を交差させて、弟のエフライムの上に置きました。ヨセフはあわてて父の右手を長男の上に移そうとしましたが、ヤコブは「わかっている、わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」(創世記48:19)と言いました。どういうことでしょうか。
聖書には弟が兄に勝るという記事が結構あります。カインとアベル、エサウとヤコブ、放蕩息子の話もそうです。そういう箇所が読まれると、神は兄ではなく弟を愛し、特別に選んでおられるのかと思いますが、そういうことではありません。ここで兄が弟に仕えるというのは、神は人間のしきたりや考え方に縛られないお方であるということです。言い換えると、神の私たちに対する取り扱いは、ただ一方的な神の恵みによるということです。人間の社会の中では長男が後継ぎとして大事にされ、重く見られるのが普通ですが、そのように長男がいつも特別な立場に置かれるとしたらどうなってしまうでしょうか。おそらく、知らず知らずのうちに高慢になってしまうでしょう。自分が祝福されるのは当然であると思い込み、感謝もせず、自分と自分の立場を誇るようになります。しかし聖書は、しばしば兄よりも弟をより祝福します。それは神の祝福はただ恵みによるものであることを教えるためであって、兄がへりくだって歩むためなのです。神は無に等しい者、何の功績もない者を、恵みによって祝福して下さるのです。このメッセージを真に理解するなら、どんな人でも望みを持つことができます。私たちがどういう立場にあろうと、どんな卑しい者であっても、神は恵みによって祝福してくださるからです。大切なのは、私たちがどんな立場であってもただこの恵みに感謝し、へりくだって歩むことです。

さて、エフライムが受けた相続地については、5節から8節までに記されてあります。1~4節にあるヨセフ族全体の境界線が、そのままエフライム族の南の境界線となります。エフライム族の残りの境界線が5節から記されます。5節は、今見た1~4節の要約です。6~8節が北側の境界線となっています。

Ⅲ.エフライム族の失敗(10)

最後に10節を見て終わりたいと思います。このエフライムの相続地を記すにあたり、10節に、ヨシュアは特筆すべきことを書きました。それは、「10 ただし、彼らは、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかった。カナン人はエフライムのただ中に住んだ。今日もそうである。カナン人は強制労働に服すことになった。」ということです。

エフライムの諸氏族は、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいました。彼らはエフライムに服する奴隷となったのです。どういうことでしょうか。
これまで何回も見てきたように、モーセによる神の命令はカナンに住む人たちを聖絶することでした。容赦してはなりません。それは、彼らがその地の偶像に心を奪われて罪を犯すことがないための神の配慮でもありました。それなのに彼らは聖絶しませんでした。なぜでしょうか。カナン人を奴隷とすることで彼らを征服していると思ったからです。それで十分だと思った。それで主に従っていると思ったのです。しかし、どんなに追い払っていると思っても聖絶しなければ、神に従っているとは言えません。妥協は許されないのです。

それは、今日に生きる私たちにとっては、私たちの魂に戦いを挑む肉の欲との戦いのことです。Ⅰペテロ2章11節には、「愛する人たち、あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」とあります。これがこの地上での生活を旅人として生きるクリスチャンに求められていることです。旅人であり寄留者である私たちは、この世でどのように生きていけばいいのでしょうか。どのように振舞うべきなのでしょうか。ここには、「たましい戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」とあります。この肉の欲を避けるというのは、肉の欲を抑えて、禁欲的な生活をしなさいということではありません。そうした肉の欲を殺してしまいなさいということです。なぜなら、この肉の欲とはあれこれの欲望のことを言っているのではなく、堕落した人間の罪の本質のことを言っているからです。それはイエス・キリストを信じたことで、私たちの古い罪の性質が十字架につけられたからです。死んでしまったのであれば、再び何かをするということはありません。パウロは、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)と言いました。偶像礼拝は何も、目に見える偶像だけではありません。地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。これらのものこそ、たましいに戦いを挑む肉の欲なのです。ここでは、そうしたものに対して殺してしまいなさいと言われています。うまく共栄共存しなさいとか、支配しなさいというのではなく、殺してしまいなさい、と言われているのです。それらと分離しなければなりません。それが聖絶ということです。

私たちは自分たちの肉の問題を完全に支配していると思っているかもしれませんが、もし奴隷にしているだけであれば、聖絶しているとは言えません。それはこのイスラエル人と同じです。やがてその小さなほころびから信仰の敗北を招くことになってしまいます。そういうことがないように、ここまで従っていれば十分だろうというのではなく、主が命じていることに徹底的に従うことが求められているのです。このように徹底的に主に従うことで、この新しい一年が主の勝利と祝福に満たされた年となるように祈ります。

陶器師の手の中で エレミヤ書18章1~12節陶器師の手の中で 


聖書箇所:エレミヤ書18章1~12節(エレミヤ書講解説教37回目)
タイトル:「陶器師の手の中で」

エレミヤ書18章に入ります。きょうは、18章前半から「陶器師の手の中で」でというタイトルでお話したいと思います。聖書には、神様とイスラエル、あるいは神様と私たちの関係がいろいろなたとえで表現されています。たとえば、「羊飼いと羊」とか、「ぶどうの木とその枝」、「夫と妻」、「花婿と花嫁」などです。きょうの箇所では、陶器師と粘土のたとえで表現されています。陶器師の手の中にある粘土は、陶器師の思いと願い、また意思と判断によって、どのような器になるかが決まります。そして陶器師の手によってその器は完成へと導かれていくわけです。
  17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている」とありました。それは癒しがたい、変えられないと。しかし、陶器師であられる神様はそんな心さえも変えることがおできになります。ただの土くれ、粘土にすぎない私たちは、陶器師であられる主の御手の中でへりくだり、砕かれ、練られ、火の中を通るというプロセスを通って、主の似姿に変えられていくのです。

Ⅰ.ろくろで仕事をする陶器師(1-3)

 まず、1~3節をご覧ください。「1 主からエレミヤに、このようなことばがあった。2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」3 私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。」

主からエレミヤに主のことばがありました。それは、立って、陶器師の家に下れ、というものでした。そこで主はエレミヤにご自身のことばを聞かせる、と。皆さんは、陶器師がろくろの上に粘土を置いて、その粘土のかたまりから器を作るのを見たことがありますか。よくテレビで見ることがありますが、実に興味深いですね。まるでマジックを見ているかのようです。エレミヤの時代、陶器作りは日常生活の一部になっていました。ですから、エレミヤが陶器師の家で見たことや彼が語るメッセージは、当時のイスラエルの人たちもよく理解することができました。

彼が陶器師の家に下って行ったとき、そこで見たものは何でしょうか。それは、陶器師がろくろで仕事をしている姿でした。陶器師は遊んでいたわけではありません。ろくろの上で泥遊びをしていたわけではないんです。ちゃんと仕事をしていました。陶器を作っていたのです。何の器かはわかりませんが、陶器師が気に入るものを作っていました。この陶器師は父なる神のことを表しています。そしてこの器とは、私たち人間のことを表しています。つまり、私たちは陶器師であられる神の御手によって作られる神の作品であるということです。
  エペソ2章10節を開いてください。ここにはこうあります。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
  私たちは神の作品です。神は愛をもって、また目的をもって私たち一人一人を作ってくださいました。この「作品」という言葉はギリシャ語で「ポイーマ」という言葉ですが、これは「ポエム」の語源になった言葉です。皆さんもポエムをご存知でしょう。「詩」ですね。でも、元々この「ポイーマ」は、芸術作品全般を指していました。詩のポエムもそうですし、美しい陶器もそうです。絵とか音楽といったものも含めて、そうした芸術作品全般がこのポイーマという言葉で表されていたのです。私たちは神のポイーマです。神によって造られた神の作品なのです。しかも、それは世界にたった一つしかない芸術作品、最高傑作品です。誰が何と言おうと、人がどのように見ようと、また、自分自身が自分のことをどう思っていようと、私たちは神によって造られた最高の芸術作品なのです。

旧約聖書のイザヤ書の中にはこうあります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」(64:7)ここには、私たちは父なる神様の御手のわざだと言われています。その神様の御手による作品であるゆえに、私たちは皆、神様にとってはかけがえのない価値ある芸術作品であると言えるのです。

 ですから、イザヤ書43章4節ではこう言われているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神様の目には、私たちは価値のある、尊い存在です。なぜ?なぜなら、私たちはその神の御手をもって、愛を込めて造られたものだからです。人間の物差しで見たらどのように思われるかわかりませんが、神様の物差しで見たならば、私たちは皆、一人ひとり、神様のお気に入りの愛する自慢の作品なのです。なぜなら、私たちは神によって創られた神の作品だからです。あなたは神の自慢の作品なんです。

では、神様はどのようにして作品を造られたのでしょうか。ここには、「私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところであった」とあります。彼は「ろくろ」で仕事をしていました。皆さんはろくろを見たことがありますか。ろくろとは、回転可能な円形の台のことです。2枚の石を木の軸で支え、下の石をコロコロ回すと上の石が連動して回る仕組みになっています。その上の石の部分にこねた粘土を置いて、それを水に濡らした手で陶器師が思いのままに形にしていくのです。粘土はその上でぐるぐる 回ります。「ろくろ」の原理は回転の繰り返しです。そのようにして粘土はバランスのとれた形に仕上がって行くのです。これは私たちの日々の生活にたとえることができます。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で神の御手によって神のみこころにあったものとして形作られていきます。毎日毎日同じことの繰り返しのようです。でもそこで私たちは神様の取り扱いを受けるのです。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で時には指で押されたり、手のひらでグッと押し付けられることがあります。水をかけられて散々こねくり回されるようなことがあるわけです。そういう状況が続くと、キツイな、苦しいな、もう嫌だなあと、そこから逃げ出したくなったりしますが、ろくろがずっと回っているので逃げることができません。それでもあまりにも苦しくなるともう嫌だ、もうたくさんです、もうこりごりですと、ろくろから飛び降りたくなります。あの「泳げたい焼きくん」のように。皆さん、「泳げたい焼きくん」をご存知ですか。

  彼は、毎日毎日鉄板の上で焼かれるのが嫌になって、ある朝店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込みました。初めて泳いだ海の底はとっても気持ちがいいものです。お腹のアンコは重いけど、海は広いぜ、心が弾む!でも一日泳ぐと腹ペコになり、目玉もくるくる回っちゃう!たまにはエビでも食わなけりゃ、塩水ばかりじゃ老けてしまう。岩場の陰から食いつけば、それは小さな釣り針だった。どんなにどんなにもがいても、針がのどから取れないよ。浜辺で見張らぬおじさんが、ぼくを釣り上げてびっくりした。やっぱりぼくはたい焼きさ。少し焦げあるたい焼きさ。おじさんつばを吞み込んで、ぼくをうまそうに食べたのさ。

泳げたい焼きくんです。粘土も同じです。もう嫌だ、もうたくさんだとそこから飛び降りると、地面に落ちてペチャンコになってしまいます。もうそこから動けなくなってしまうのです。全く惨めです。すると嘆くわけですね。「助けてください」と。すると陶器師はその粘土をかき集め、再び丸めてろくろの上に乗せてこねくり回わします。すると粘土はまた嫌になって、もうこりごりです、もう耐えられません、そう言ってまたジャンプするわけです。すると地面に落ちてペチャンコになって動けなくなってしまいます。それで「助けてください」と叫ぶと、また陶器師がやってきて黙ってそれを拾い上げ、再びろくろの上に乗せてこねくり回します。その繰り返しです。これが私たちクリスチャンの人生です。そのようにして神様はご自身の作品を作ってくださるのです。神様は私たちをシェイプアップしようとろくろでこねくり回すと、私たちはそれに耐えきれなくなってギブアップし、地面に落ちてペチャンコになります。すると主がそれをピックアップして再びろくろの上に置いてシェイプアップしてくださる。その連続です。シェイプアップ、ギブアップ、ピックアップ。その繰り返しです。これが、神様が私たちをご自身の作品に作り上げてくださる方法なのです。そうやって神様は私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。だから、ろくろから逃げてはいけないのです。逃げたらたい焼きくんになってしまいます。逃げたらペチャンコになってしまいます。ろくろの上でこねくり回さることは時には辛いこともありますが、陶器師の手にゆだねることで、あなたは美しい器に造り上げていただくことができるのです。

Ⅱ.陶器師の手にゆだねて(4-6)

次に、4~6節をご覧ください。「4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。5 それから、私に次のような主のことばがあった。6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主のことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

エレミヤは、陶器師の家に行き陶器師がろくろで仕事をしているのを見ました。すると、陶器師が粘土で製作していた器は陶器師の気に入らなかったようで、すぐにそれを壊し、自分の気に入るほかの器に作り替えました。どういうことでしょうか。陶器師は粘土に対して絶対的な権威を持っているということです。陶器師は、自分が好きなようにその粘土を取り扱うことができるということです。形も、大きさも、デザインも、陶器師が好きなように自由に作り、気に入らなければそれを壊して別のものに作り替えることができるのです。陶器師は自分の意のままに何でもすることができるのです。これを何というかというと、「主権」と言います。神の主権は、神が絶対的な主権をもってご自身が好きなようにできるということです。神にはそのような権利と自由があるのです。それが6節で言われていることです。

「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主ことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」

粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家は主の御手の中にあります。陶器師は自分で好きなように壊したり、作り替えたりすることができます。でもそうされたからと言って粘土には何も文句を言う権利はありません。粘土はあくまでも陶器師の手の中にあり、陶器師の意のままに形作られるものだからです。それなのに、土くれにすぎない粘土が造り主である陶器師に文句を言うことがあります。たとえば、イザヤ45章9節にはこうあります。「ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。」。
  陶器は土の器の一つにすぎないのに、不遜にも形造る方、陶器師に抗議することがあるのです。「何を作るのか」とか、「あなたは自分のやっていることが全然わかっていない」と。粘土がそれを形造る陶器師に向かってですよ。全然わかっていないのは粘土の方なのに、その粘土が自分を形造る方に向かって「どうしてこんなところに手をつけるのか」とか、「センスが悪い」と言うのです。どうしてこんなところに手を付けるのかって、それは陶器師がそうしたいからしているのであって、それは陶器師の自由であるはずです。陶器師にはその権利があるのです。それにイチイチ文句をつける方がおかしいのです。

パウロはこれをローマ9章18~21節で引用してこう言っています。「18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」
  神は人をみこころのままにあわれみ、またみここころのままに頑なにされます。ここではエジプトの王ファラオのことを言っていますが、神には人をみこころのままにあわれんだり、頑なにされるのです。そのような権利を持っていらっしゃるのです。神は主権者であって、だれもこの神の意図に逆らうことはできません。できるのは、その神の主権を認めるということだけです。
  それは陶器師と粘土にも言えることであって、陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いものに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利をもっておられるのです。花瓶であろうと尿瓶(しびん)であろうと、食器であろうと便器であろうと、陶器師は自分の好きなものを造る権利を持っているのです。それに対して「私は尿瓶は嫌だ、花瓶がいい」とか、「便器は毎日使うので役に立つけど、どうせ毎日使うものだったら食器の方がいい」とかと言う権利はないのです。その権利を持っているのは造られる方、陶器師だけです。

それなのに、そのように文句を言ったり不満を垂らしたりすることがあるとしたら、それは自分の立場を忘れているということです。いつの間にか自分が陶器師であるかのように錯覚しているのです。自分が神様であるかのように思い込んでいることがあるのです。自分の人生は自分のものだと、だから花瓶になってなんで悪いんだと。食器になったっていいじゃないかと主張するのです。そういうのを何と言うかというと、「主客(しゅかく)転倒(てんとう)」と言います。皆さん、ご存知ですね。「主客転倒」。主客転倒とは、主人と客のあるべき立場が入れ替わり、あべこべになることです。 そこから転じて、人や物事の立場、順序が逆転することを言います。私たちが主ではありません。私たちはただの土くれ、粘土にすぎません。陶器師ではないのです。その身分相応の立場をわきまえなければなりません。私たちはただの粘土で踏みにじられて当然の者、捨てられて当然の者、無価値だと言われて当然の者なのです。でも驚くべきことに、そんな無価値な私たちを、この陶器師が名器に作り替えてくれます。測り知れない価値ある者に作り替えてくれるのです。だから、その神の主権を認め、神がなさりたいように自由になさっていただく。これがベスト、最善なのです。

言い換えると、これは「みこころのままに」ということです。みこころがなりますようにという祈りです。私たちはそう祈っていますよね。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。主の祈りの一節です。実は、これが究極の祈りです。すべての祈りがこれに至ります。御みこころがなりますように。これがすべてと言っても過言ではありません。神の主権を認めるとは、まさにみこころがなりますようにと祈ることなのです。神の主権を認め、神がなさりたいようになさっていただく。「主よ、私はまな板の鯉です。主よ、あなたが望まれるように如何様にもしてください。あなたにすべてをお任せします。」これが、私たちに求められていることなのです。

それは6節を見てもわかります。ここには「イスラエルの家よ」ということばが2回繰り返して使われています。繰り返しているということは、これが強調されているということです。皆さん、「イスラエル」って何ですか。イスラエルとは、神に支配された者、神に治められた者という意味です。神を支配する者ではありません。神に支配される者です。神が主権者だから、当然神が治められるわけです。このような者のことを「イスラエル」というのです。神が主権者であることを認める人たち。神が王であることを認める人たち。神が陶器師であることを認める人たち。それがイスラエルです。それがクリスチャンです。このイスラエルが粘土であるように、霊的イスラエルである私たちクリスチャンも粘土にすぎません。それをどのように作るのかは、主権者であられる神だけが知っていることであって、私たちがとやかく言うことではないのです。確かに先が見えないと不安になります。でも、この陶器師がどのような方であるかを知れば、あなたは安心してこの方にすべてをゆだねることができるでしょう。この方はあなたのためにいのちを捨ててくださった救い主であられます。それほどまでにあなたを愛してくださいました。この方があなたのためにひどいことをされるでしょうか。されません。この方はあなたのために最善を成してくださいます。そう信じて、みこころのままにと、すべてを陶器師なる神さまの御手にゆだねようではありませんか。

Ⅲ.思い直される神(7-12)

ですから第三のことは、陶器師であられる主の御手の中で、あなたも新しく作り替えていただくことができるということです。7~12節をご覧ください。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。11 さあ今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え出し、策をめぐらしている。さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。』12 しかし、彼らは言う。『いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います。』」

これが陶器師と粘土のたとえを通して主が伝えたかった結論です。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
  主は一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったことを思い直すこともおできになります。これは1章10節で既にエレミヤに告げられたことです。主権者であられる主は、イスラエルを如何様にも取り扱うことができるということです。主はイスラエルに下そうと思っていたわざわいを思い直すと言われました。主は頑なで悔い改めない南ユダの人々に、神のさばきを宣告されました。それはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。バビロン捕囚ですね。それでも彼らが悔い改めるなら、主はそのわざわいを思い直されるのです。ここにはそのための条件が示されています。何でしょうか?「その民が立ち返るなら」です。もし、主がわざわいを予告したその民が立ち返るなら、主は下そうと思っていたわざわいを思い直されるのです。

この「思い直す」ということばは、ヘブル語で「ナハム」ということばですが、これは「悔い改める」という意味のことばです。でも神が悔い改めるというのは意味が通らないので「思い直す」としたのです。新共同訳では「思いとどまる」と訳しています。神は下そうと思っていたわざわいを思い直してくださいます。どういうことでしょうか。粘土は陶器師を変えることはできませんが、陶器師は粘土を作り替えることができるということです。下そうと思っていたわざわいを思い直すことができるのです。ここで問題になっていたのは何かというと、17章9節で言われていたことです。そこには、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」とありました。人の心は何よりも陰険なのです。だれもそれを作り替えることはできません。でも、陶器師であられる神は替えることかできます。イスラエルが神に立ち返るなら、陶器師であられる神はイスラエルを全く別のものに作り替えることができるのです。

しかし、残念ながら彼らは神に立ち返りませんでした。彼らは自分の計画に従って歩み、それぞれ頑なで心のままに行いました。まさに主客転倒だったのです。自らが神であるかのように思い込んでいました。自分が望むことは何でもできると思っていた。それゆえ、彼らに神のわざわいが下ることになります。具体的にはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。でも、彼らが主に立ち返るなら、主は彼らの心を変え、下そうと思っていたわざわいを思い直すことができました。全く新しいものに作り変えていただくことができたのです。

それは、人にはできないことです。人の心は何よりも陰険だからです。何よりもねじ曲がっています。それは癒しがたいものです。しかし、神にはどんなことでもできます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造り変えられます。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。

以前、フレミング先生がメッセージの中で金継(きんつ)ぎの話をされました。何の話だったかよく覚えていませんが、PPTで見せてくれた金継ぎの写真を忘れることができません。

 

 

 

 

 

写真は違いますが、このような写真でした。「金継ぎ」というのは、割れたりヒビが入ってしまったりした陶磁器を、漆(うるし)を使って丁寧にくっつけて、金の粉で装飾して仕上げる、日本古来の修復技法です。この「金継ぎ」をすることで、壊れてしまった器はより美しく甦り、金継ぎを施された器は、より芸術性の高いものとして文化財に指定されることもあるそうです。陶磁器が割れたり、ヒビが入ってしまうと、もう修復不可能だと思えますが、そんな器でも、神は修復してくださるだけでなく、もっとすばらしい器へ作り変えることができるのです。

ですから、神に立ち返りましょう。あなたが神に立ち返るなら、神は下そうと思っていたわざわいを思い直されるばかりか、金継ぎされた器のように、さらに美しい価値ある器に替えていただくことができるのです。

Ⅱコリント4章7節には、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。土の器に過ぎない私たちの内に、宝なるキリストが住まわれるとき、この測り知れない神の力があなたの心に働かれ、あなたは全く新しい者に変えられます。キリストの御霊、神の聖霊は、生ける神の御手として不要な肉の性質を削り取ったり、また逆に霊的に必要なものを与えたりして、私たちをキリストの似姿へと変えてくださるのです。

ですから、陶器師であられる主のもとに立ち返りましょう。粘土であるあなたは、自分では何もすることができません。でもあなたが陶器師であられる神に立ち返り、神の主権を認め、神の御手に完全にゆだねるなら、あなたの中におられる宝が、あなたを全く新しい者へと変えてくださるのです。

最後に、もう一度イザヤ書64章8節を読んで終わります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」
  私たちは粘土で、私たちの主は陶器師です。私たちはこの陶器師の手の中にあります。陶器師であられる主が、私たちをキリストの似姿に変えてくださるように、陶器師なる主にすべてをおゆだねしたいと思います。

主を見上げて エレミヤ書17章11~27節主を見上げて 

聖書箇所:エレミヤ書17章11~27節(エレミヤ書講解説教36回目)
タイトル:「主を見上げて」

きょうは、エレミヤ書17章後半からお話します。タイトルは、「主を見上げて」です。エレミヤは、13節で「イスラエルの望みである主よ」と告白しています。また、14節では「あなたこそ、私の賛美だからです」と言っています。さらに17節でも「あなたは、わざわいの日の、私の避け所です」と告白しています。エレミヤは神の預言者として神のことばを語ったことでユダの民から蔑まれ、激しい痛みと孤独に苛まれていました。そのような中で彼は主を見上げ、信仰の目をもって、真の希望がどこから来るのかをしっかり見ていたのです。
  それは私たちも同じです。私たちもクリスチャンとして生きることは、必ずしも楽なことではありません。時にエレミヤのように孤独とか不安に苛(さいな)まれることがあります。でも、そのような中にあっても信仰をもって主を見上げるなら真の希望が与えられ、それを克服することができます。肺に酸素が必要なように、私たちのたましいにも希望が必要なのです。希望の灯が消えると、私たちのたましいも死んでしまいます。
  きょうは、この希望の灯をともし続けるために、目を天に向けて、希望の源であられる主を、しっかり見るようにというお話をしたいと思います。

Ⅰ.主はイスラエルの望み(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得る者がいる。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、その末は愚か者に終わる。12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」」

「しゃこ」とは鳥のことです。キジ科の鳥で、日本のキジと鶉(うずら)の中間くらいの大きさの鳥です。あまり飛ぶことはしません。地面を走り回るといった感じです。エビなどの甲殻類の「しゃこ」ではありません。寿司ネタのしゃこではありません。あるいは、世界最大の二枚貝の「シャコ」でもありません。もちろん、車の車庫でもありません。鳥のしゃこです。かわいいですね、しゃこちゃん。これはなかなか身近にいない鳥なのでピンとこないかもしれませんが、ここでは、公正によらないで富を得る者、すなわち、不正に富を集めた人が、自分の産まなかった卵を抱く「しゃこ」にたとえられているのです。この「しゃこ」の特性が、不正に富を集める人に似ているのです。その末路はどうなるでしょうか。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、離れ去ることになります。つまり、孵化した雛が偽の親鳥から離れて行くように、不正な方法で蓄えた財も、突然その人の手からすり落ちてしまうことになります。それはまことに愚かなことです。

いったいどうしてここにいきなり富の話、お金の話が出てくるのでしょうか。前回のところには、人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は、とありましたが、それとこのしゃこの話がどのような関係があるのか。それはお金に対する価値観や考え方が、その人の祝福を決めるということです。財政が霊性を表しているということです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とある通り、金銭を愛する者は愚かです。それは前回の言葉で言うなら、まさに人間に信頼する者です。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者です。そのような者は荒れ地の灌木、幸せが訪れても出会うことがなく、焼けついた荒地、住む者のいない塩地に住むようになります。

私が何歳の頃だったかよく覚えていませんが、たぶん3歳か4歳か5歳かまだ小さい頃、可愛い子どもだった頃のことです。母と道を渡ろうと信号に止まっていたとき、そこに千円札が落ちているのを見つけました。どうするのかなぁと思って見ていたら、母の行動は素早かったですね。その千円札をさっと拾うと自分のエプロンのポケットに入れたのです。そして、私にこう言いました。「いいがい、トミちゃん、お金がすべてだがらない」今でもよく覚えています。あの光景を。忘れることができません。それ以来、私はずっとお金がすべてだと思って生きてきました。
  それは母に限ったことではありません。それは、この世の一般的な価値観です。すべての物事を、お金を基準に考えています。その結果、しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得ようとするということが起こってくるのです。問題は富に執着することです。それは愚か者に終わると聖書は言うのです。

では、どうすればいいのでしょうか。12~13節をご覧ください。「12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」

私たちは、初めから高く上げられた栄光の王座を見なければなりません。そこには、イスラエルの望みである方がおられます。その方を見上げなければなりません。そこに希望があるからです。
  エレミヤはここで、信仰の目を上げて、真の希望がどこから来るのかを確認しています。そして、神殿があるエルサレムこそ、神の栄光が宿る王座だ、と言いました。そして、主こそイスラエルの望みであると告白したのです。この主を捨てる者は、みな恥を見ます。この主から離れるなら、希望は残されていません。でも、主に信頼する者は恥を見ることはありません。失望することはないのです。こうやって見ると、ここも前回の箇所とつながっていることがわかります。

パウロはコロサイ3章2節でこう言っています。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」上にあるものを求めなさい。地にあるものを求めてはならないと。なぜですか。そこにはよみがえられたキリストが神の右の座に着いておられるからです。このキリストこそ真の希望であられるお方だからです。キリストが再び来られるとき、私たちは朽ちることのない栄光のからだに復活することになります。これこそが究極の望みのです。この望みがあるなら、この地上のどんな問題も乗り越えることができます。

あなたが見ている所はどこですか。この地上にあるものでしょうか。それとも上にあるものですか。上にあるもの、イスラエルの望みである主を見上げましょう。真の希望はそこから来るからです。

Ⅱ.主はイスラエルの賛美(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。「14 「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。15 ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』16 しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。17 私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。18 私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。彼らがうろたえ、私がうろたえることのないようにしてください。彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。」」

これはエレミヤの祈りです。エレミヤはここで三つのことを祈っています。第一に彼は、心が癒されることを願いました。14節には、「私を癒してください。主よ。そうすれば、私は癒されます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。」とあります。ということは、彼はこの時ピンチの状態に置かれていたということです。エレミヤは「偽預言者」のレッテルを貼られていました。それは彼がエルサレムの滅亡を預言していたからです。しかしそれがいつまでたっても実現しなかったので、人々は彼のことばをあざ笑うようになっていました。15節には、そんなエレミヤに対する彼らの嘲りのことばが記されてあります。 「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」これは、彼らの嘲りのことばです。結果的に、エレミヤの預言が実現するのは、この時から約40年後のことです。その間、彼はどんなに苦しかったかと思いますね。16節には、「しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。」とあります。彼は言いたくで言ったわけではありません。主に従う牧者として、主が語れとおっしゃられたから語っただけなのに、結果的に民に憎まれてしまいました。それで彼はとても傷ついていたのです。だから彼は主に、「癒してください」、「救ってくださいと」と祈ったのです。

でもここで重要なのは、なぜエレミヤはそのように祈ったのかということです。その理由なり、目的が14節の最後のところにあります。ここには、「あなたこそ、私の賛美だからです。」とあります。エレミヤがそのように祈ったのはどうしてですか。それは彼が癒されて楽になるためではありませんでした。彼がピンチから救われるためではありませんでした。勿論、それもあったでしょう。でもそれ以上に、あるいは最終的には、ここに「あなたこそ、私の賛美だからです」とあるように、それによって主がほめたたえられるためだったのです。

私たちも同じように祈らなければなりません。「主よ、私を癒してください。」何のためですか?それによって主がほめたたえられるためです。主こそ、私の賛美だからです。
  「私を救ってください。そうすれば、私は救われます。」何のためですか。もうこんな生活は嫌だから、こんな状態には耐えられないからではなく、そのことによって、主の御名があがめられるためです。主が私の賛美となるためです。
  すばらしですね。皆さん、考えたことがありますか。私の癒し、私の救い、私の願い、それを通して主が崇められるようになるということを。そのことを通して主が賛美されるようになることを。私たちの祈りのすべては、主の御名があがめられるようになるためなのです。まさに主の祈りの中にある「御名があがめられるように」です。それがすべての動機とならなければなりません。それこそ、みこころにかなった祈りだと言えるでしょう。これをすべての祈りの中心にしたいですね。

第二に、エレミヤは「私を恐れさせないでください。」と祈りました。17節です。ここには、「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」とあります。ということは、この時エレミヤには恐れに苛まれていたということです。エレミヤとて、私たちと同じ人間でした。神の預言者として大胆にいのちをかけでみことばを語っていましたが、そういう人には何の恐れもないのかというとそうではなく、そのような人であってもいろいろな不安や恐れを抱えているのです。ですから、預言者としての使命を全うするためには、主の助けとあわれみが必要だったのです。祈りによってそれを克服していく必要がありました。だからエレミヤは「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」と祈ったのです。

それは、使徒パウロも同じでした。彼は、エペソ6章19節で、「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」と言っています。あのパウロが「祈ってください」と祈りを要請しています。パウロほどの人物ならば何も怖いものなどなかったんじゃないかと思うかもしれませんが、彼にも恐れがあったのです。だから、大胆に語れるように祈ってくださいと言ったのです。自分の力ではとても無理です。とても敵の前で大胆に語ることなどできません。私には祈りが必要です。私には神の力が必要なのです。どうか私のために祈ってください、そうお願いしたのです。彼は自分の弱さを認めていました。だから、祈ってくださいと素直に言うことができたのです。パウロは本当に謙遜な人だなあと思います。謙遜じゃないとこのように言うことはできません。どちらかというと、私はなかなかこのように言えない弱さがあるなぁと思います。高慢なんですね。自分で何とかしようとする。自分の力で頑張るという意識が強いのです。でも、パウロのように、自分の弱さを率直に認めて祈ることが大切です。私にはできないので、主よ、あなたが助けてください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所ですと。

第三に、エレミヤは敵が恥を見て、私が恥を見ることがないようにしてください、と祈りました。18節です。ここには「彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください」とあります。まさに倍返しです。しかし、これはエレミヤの個人的な復讐心から出たものではありません。神の義が全うされるようにという願いです。「あなたこそ、私の賛美だからです。」主こそ彼の賛美でした。神の義が全うされることによって、神の御名があがめられるようにという祈りが、このような表現となったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちもエレミヤのようにピンチに陥ることがあります。恐れに苛まれることがある。苦しくて逃げ出したくなるような時があります。先のことが見えなくて不安になることもあるでしょう。そのような時、そうした恐れや不安に勝利するために必要なことは何でしょうか。祈ることです。詩篇121篇
 1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。
 3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
 4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
 5 【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
 6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
 7 【主】は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
 8 【主】は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

先が見えない不安の中で、この詩篇の作者は山に向かって目を上げると言いました。なぜなら、彼は真の助けはそこから来ると信じていたからです。天地を創られた主から来ると。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰です。昼も、日があなたを討つことがなく、夜も、月があなたを討つことはありません。主は、すべての災いから、あなたを守り、あなたの命を守られます。この方を見上げるのです。主を見上げるのです。先が見えない不安の中でも、それをだれか人のせいにしたり、何かのせいにするのではなく、山に向かって目を上げ、そこから助けを求める。それが、私たちに求められていることです。それが不安や恐れを克服していくために必要なことなのです。

Ⅲ.主は契約を守られる方(19-27)

第三に、主は契約を守られる神であるということです。19~27節をご覧ください。「19 主は私にこう言われる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、20 彼らに言え。『これらの門の内に入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ、主のことばを聞け。21 主はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。22 また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。23 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、うなじを固くする者となって聞こうとせず、戒めを受けなかった。
  24 もし、あなたがたが、本当にわたしに聞き従い─主のことば─安息日にこの都の門の内に荷物を持ち込まず、安息日を聖なるものとし、この日にいかなる仕事もしないなら、25 ダビデの王座に就く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この都の門の内に入り、この都はとこしえに人の住む所となる。26 ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地やシェフェラから、また山地やネゲブから、全焼のささげ物、いけにえ、穀物のささげ物、乳香を携えて来る者、また感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。27 しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日を聖なるものとせず、安息日に荷物を運んでエルサレムの門の内に入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くし、消えることがない。』」

ここで主はエレミヤを通して安息日の問題について語っておられます。その内容は、安息日に荷物を運ぶな、労働するな、安息日を聖く保てというものでした。彼らの先祖たちはその命令を無視し、かたくなな心で歩んできました。そして今、新しい世代の者たちに、再度この安息日を守れるようにと命じているのです。

なぜ安息日なのでしょうか。なぜなら、これが神との契約の中心だったからです。十戒にもありますね。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト記20:8)ただ休めというのではなく、これを聖なるものとしなければなりませんでした。これが神との契約のしるしだったのです。神との契約のしるしがもう一つあります。それは何かというと割礼です。ですから、この安息日を守るというのは、割礼を受けることと合わせて、ユダヤ人をユダヤ人たらしめる、ユダヤ人ならではのしるしだったのです。ですから、このエレミヤのメッセージは、神との契約関係に帰れということだったのです。もしユダの民がその声に聞き従い、安息日を守るなら、彼らの心に悔い改めの心が生じたということがわかります。しかし、そうでなければ、その他の律法も守ることはできません。
  しかし彼らはそれを守るどころか、むしろ、安息日に休むのはもったいないと荷物を運び入れ、ビジネスを展開していました。その結果、どのようなことがもたらされるのでしょうか。27節です。主はエルサレムの門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くすことになります。エルサレムは崩壊するということです。これはバビロン捕囚のことを意味しています。バビロンによってエルサレムは完全に崩壊することになります。
  神はイスラエルの民に何度も悔い改めの機会を提供されましたが、彼らはことごとくそれを拒否しました。その結果、この民を懲らしめる方法としては、バビロン捕囚しか残されていなかったのです。神の恵みを拒み続けると、自らの上にのろいを招くようになります。しかし、神との契約を守る者には、神の祝福がもたらされるのです。

問題は、あなたがどこを見ているかということです。あなたの心はどこにあるかということです。あなたの心が主から離れていれば、あなたは荒れ地の灌木、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むようになります。しかし、あなたの心が主につながっているなら、そういう人は水のほとりの植えられた木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さ知らず、葉は茂って、日照りの年も心配なく、実を結ぶことをやめません。だから、あなたがどこを見ているのかは重要なことなのです。泥だらけの地面を見るのではなく、あなたの目を天に向け、イスラエル神がどのようなお方なのかをしっかりと見て、そこから助けをいただきましょう。この神と心のベルトをしっかりかけて、希望の灯をともしていただこうではありませんか。そういう人は、何が起こってもあわてることがありません。

最後に、暗黒大陸アフリカへの宣教師として召されたデイビッド・リヴィングストンのお話をして終わりたいと思います。彼の1856年1月14日の日記には、「今日は私の16年間のアフリカ滞在中最大の危機を迎えた」と記しています。実は、彼ら一行を現地人が待ち伏せしていて、いのちをねらっているという情報が入って来たのです。リヴィングストンの仲間は「行くのを止めよう」とか「迂回しよう」と提案しましたが、リヴィングストンは「私たちを守ってくださる方は、必ず約束を守る紳士である。この紳士のことばを私は信じる」。そう言って、マタイの福音書28章20節のことばを引用しました。そこで、イエス・キリストは、次のように約束しています。
  「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
  そして、リヴィングストンたちは予定通りのコースを白昼堂々と進んで行ったのです。待ち伏せしていた現地人たちは何かに縛られたように動けず、自分たちの目の前を通り過ぎるリヴィングストンたちをただ見送るだけでした。

確かな方に繋がっている、この方に支えられているという確信がある人は、何があっても動じることはありません。主はあなたを守る方、イスラエルの望みです。この方を見上げましょう。そうすれば、主があなたを守ってくださいます。主はあなたの賛美、わざわいの日の、身の避け所なのです。

神に信頼する人の幸い エレミヤ書17章1~10節神に信頼する人の幸い 

聖書箇所:エレミヤ書17章1~10節(エレミヤ書講解説教35回目)
タイトル:「神に信頼する人の幸い」
エレミヤ書17章に入ります。きょうは、1節から10節までの箇所から、「神に信頼する人の幸い」というテーマでお話します。神に信頼するのか、人に信頼するのか、ということです。神に信頼する者は祝福されますが、人に信頼する者にはのろいがあります。どうしてでしょうか。9節にあるように、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。新改訳改訂第3版ではこの「ねじ曲がっている」という言葉を「陰険」と訳しています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」それは直りません。誰にも直すことができません。そんな人間に信頼したらどうなるでしょうか。裏切られ、失望することになります。しかし、神はその心を変えることができます。ですから、この方に信頼するなら、この方が祝福してくださいます。祝福は、あなたの心にかかっているのです。
Ⅰ.消し去ることのできないユダの罪(1-4)
 まず、1~4節をご覧ください。「1 「ユダの罪は、鉄の筆と金剛石の先端で記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。2 彼らの子たちまでもが、その祭壇や、高い丘の青々と茂る木のそばにあるアシェラ像を覚えているほどだ。3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」」
ここには、ユダの罪が彼らの心の奥深くにまで刻み込まれていると言われています。1節に「鉄の筆」とか「金剛石の先端」とありますが、これは堅いものに何かを刻む時に使われるものです。新共同訳では「金剛石」を「ダイヤモンド」と訳しています。他の多くの英語の訳も「ダイヤモンド」と訳しています。よっぽど堅いものに文字を刻むんだなあと思ったら、刻むものは「彼らの心の板」と「彼らの祭壇の角」です。彼らの心があまりにも頑ななので、堅すぎて普通の筆では書くことができないというのです。その心には二度と消えることのない文字が刻まれています。それは彼らの根深い罪です。彼らの心には罪の性質が深く刻みこまれているということです。遺伝子の中に組み込まれているDNAのように、彼らの心には、決して消し去ることができない彼らの罪が深く刻まれているのです。
ここには、「彼らの心」だけでなく「彼らの祭壇の角」にとあります。祭壇の角とは、罪のためのいけにえの血を塗って罪の赦しを祈る青銅の祭壇のことです。それは神の幕屋の門から入ると外庭の中心に置かれてありました。その祭壇の四隅には角が作られていますが、そこに彼らの罪が刻まれているというのは、神の御前でその罪が決して赦されることがないという意味です。彼らの罪はそれほど深く刻まれていたのです。もはや消しゴムなどでは消すことができません。修正液でごまかすこともできません。堅すぎて削り落とすこともできません。入れ墨ならレーザーで消すこともできるでしょう。でも心の刻印、罪の入れ墨は何をもってしても消すことができないのです。
創世記6章5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」とあります。ノアの時代の人たちの姿です。その時代の人たちの心に図ることはみな、いつも悪に傾いていました。これがまさに鉄の筆と金剛石の先端で記されている罪です。ノアの時代の人たちはよっぽど悪(わる)だったんだなぁと思うかもしれませんが、これはノアの時代の人だけではなく今の人も同じです。イエス様は再臨の前兆として、人の子が来るのもノアの日と同じようだと言われました。現代もノアの時代と同じように、いやそれ以上に悪が増大し、その心に図ることがみな悪いことだけに傾いています。まさにその心に鉄の筆と金剛石によって罪が刻み込まれているのです。そのやること成すこと全部的外れ、神の御心を損なっています。それが今の時代です。それは何をもってしても消すことができません。
2節をご覧ください。ここには、その罪の影響が彼らの子どもたちまでに及んでいると言われています。子どもたちまでも偶像礼拝に関わっていました。彼らはイスラエルの神、主を礼拝していましたが、それにプラスして他の神々も拝んでいました。その一つがここにあるアシェラ像です。アシェラ像は豊穣の女神、繁栄の神です。彼らは、イスラエルの神を拝みながら豊穣の神を求めて拝んでいたのです。現代の人に似ています。私たちも確かに聖書の神を信じていますが、それで満たされないと他の神々も拝みます。ビジネスの成功と繁栄を求めて、自分の心を満たすものを求めて、真実の神以外に別の神も求めてしまうのです。それによって自分の子どもたちにも影響を受けてしまうのです。親がしていることを子どもが真似するからです。それほど子どもは親の影響を受けやすいのです。
その結果、どうなったでしょうか。3~4節をご覧ください。「3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」
「野にあるわたしの山」とは、シオンの山のこと、つまりエルサレムのことです。主はエルサレムの意たるところで犯した彼らの罪のゆえに、彼らのすべての財宝、すべての宝物を、戦利品として引き渡します。
そればかりではありません。4節には、主が彼らに与えたゆずりの地も手渡すことになります。ゆずりの地とは相続地のことです。主から賜った約束の地、乳と蜜の流れるすばらしい地を手放すことになってしまいます。どこに?バビロンです。4節に「あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる」とあふりますが、これはバビロンのことを指しています。エルサレムは、バビロンによって炎上することになります。それは神が怒りの火をつけられるからです。それは彼らの罪のゆえでした。ユダの罪は、鉄の筆と金剛石(ダイヤモンド)の先端で彼らの心に深く刻まれていました。それを消すことは不可能です。それは消し去ることができないほどの罪でした。
私たちは、自分の心に鉄の筆と金剛石の先端で自分の罪が刻まれていると思うと、その罪の深さにショックを受けるかもしれません。自分はこんなにひどい人間なのかと。こんなに汚れたものなのかと。自分自身にあきれるでしょう。あまりにも絶望して死を選ぶ人もいるかもしれません。
でもここに希望があります。ここに良い知らせがあります。それは、私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちの罪がどんなに深く刻みこまれていても、その罪を洗いきよめることができます。完全に消し去ることができるのです。
主はこう言われます。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
主は、ご自身の血をもって、私たちの罪、咎のすべてを洗いきよめてくださいます。私たちのどうしようもない罪に汚れた心を、全く新しく造り変えてくださることができるのです。
Ⅱ.神に信頼する者の幸い(5-8)
次に、5~8節をご覧ください。「5 主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。6 そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。7主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。8 その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。」
ユダの罪は偶像礼拝ということでしたが、それは人に信頼し、肉の力に頼っていたことが原因でした。そういう人たちの特徴は、心が神から離れているということです。心がピッタリと神に寄り添っていないのです。神に寄り添っている時というのは人を信頼しません。肉の力を頼みとしないのです。いろいろな人があなたを助けてくれることがあっても、その人に依存することをしません。助けてもらったら感謝はしますが、その人たちがいなければ自分は何もできないとは考えないのです。そのように考えているとしたら、それは神から離れている証拠です。
当時のユダの人たちは、まさにここにある通り、人に信頼していました。肉なる力を自分の腕としていました。自分たちは、自分たちの力で何とかできると思っていたのです。具体的には、当時バビロン軍が攻めて来ていましたが、エジプトを後ろ盾にしました。たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、自分たちにはエジプトという同盟国がバックにいるから問題ないと思っていたのです。この時、彼らはエジプトと軍事同盟を結んでいました。だからいざとなったエジプトが助けてくれると思っていたのです。
でも心が主から離れ、人に信頼し、肉なる力を自分の腕とするなら、のろわれてしまうことになります。具体的には6節にあるように、そのような者は荒れ地の灌木となります。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むことになります。
「荒れ地の灌木」とは裸の木のことです。完全に枯れた木ですね。完全に渇ききってしまいます。そこにはいのちがありません。完全に不毛地帯となるのです。これがのろいです。そういう人の人生には、実が成りません。たとえあなたがクリスチャンであっても、神に信頼しないで人に信頼し、肉の力を頼みとするなら、あなたものろわれてしまうことになります。たとえあなたが物理的には神に寄り添っているようでも、その心が神から離れているなら、のろわれてしまうことになるのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの心は神から離れていないでしょうか。物理的にはここにいても、心は神から遠く離れていることがあります。こうして礼拝していながらも、あなたの心があなたの宝のところに行っていることがあるのです。イエス様はこう言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)と。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあります。そのようにして、いつしか心が神から離れてしまうのです。心が神から離れ、人を信頼し、自分の肉に頼る人は、のろわれることになります。必ず失望することになるのです。
一方、主に信頼し、主を頼みとする人はどうでしょうか。7節には、「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」とあります。そこには、祝福があります。その人は、水のほとりに植えられた木のようです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。どこかで聞いたことがあるよフレーズですね。そうです、これは詩篇1篇3節からの引用です。詩篇1篇1節からお読みします。「1 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。2 主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。3 その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:1-3)
すばらしい約束ですね。主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、流れのほとりに植えられた木のようになります。時が来ると実を結び、その葉は枯れることがありません。その人は何をしても栄えます。なぜでしょうか。なぜなら、その人は主に信頼したからです。主を頼みとし、他のものを頼みとしませんでした。そういう人は日照りの年も心配なく、いつまでも実を結ぶことをやめません。

イエス様は、そのことを一つのたとえを用いて語られました。ぶどうの木と枝のたとえです。ヨハネ15章5節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝です。枝が木につながっているなら、その人は多くの実を結びます。枝自身が必死になって努力しなくても、自然に実を結ぶのです。枝にとって必要なことは何かというと、自分で実を結ぼうとすることではなく、木につながっていることです。枝が木につながっているなら、木の根が養分を吸い上げて枝に届けるので、自然に枝が成長して実を結ぶようになります。そのためには「時」が必要です。時が来れば実がなります。自分のタイミングでは実を結ばないかもしれませんが、時が来れば必ず実を結ぶようになるのです。でも、そのために力む必要はありません。ただイエスにとどまっていればいいのです。つながっていればいい。そうすれば、自然に実を結ぶようになります。これが主に信頼するということです。これが主を頼みとするということです。これが祝福です。
でも、イエスにつながっていなければ何もすることができません。何の実も結ぶことができない。不毛な人生となります。どんなに頑張っても、どんなに汗水流しても、すべてが徒労に終わってしまいます。これがのろいです。神から心が離れ、人に信頼する者、肉の力を頼みとする者は、不毛な人生となるのです。こんなに時間をかけたのに、こんなにお金をかけたのに、こんなに信頼したのに、全部裏切られた、全部水の泡となったと、がっかりするようになります。失望させられることになるのです。
人間に信頼しない、肉なる者を自分の腕としないで、主に信頼する人は幸いです。言い換えると、自分を頼みとする人は高慢な人です。枝だけで何でもできると思い込んでいるわけですから。でも枝だけでは実を結ぶことはできません。実を結ぶために必要なことはたった一つ。それはつながるということ。ただそれだけです。木につながること。イエス様にとどまること。そういう人は多くの実を結びます。それが主に信頼するということ、主を頼みとするということなのです。
Ⅲ.人の心は何よりもねじ曲がっている(9-10)
どうして人に信頼する者、肉なる者を自分の腕とする者はのろわれるのでしょうか。ここが今日の中心となるところです。第三に、それは、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。何よりも陰険だからです。9~10節をご覧ください。「9 人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。10 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。人の深層をよく表していると思います。新改訳改訂第3版では、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳しています。「ねじ曲がっている」という語を「陰険」と訳したんですね。「陰険」とは表面的にはよく見せても、裏ではこっそり悪いことをする、という意味です。「あの人は陰険だ」という時はそのような意味で使っていますけど、悪くないと思います。原意からそれほど離れていません。新共同訳では、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と訳しています。「とらえ難く病んでいる」これもいいですね。人の心はとらえがたく病んでいます。そういう意味です。でも一番原意に近いのは「偽るもの」です。口語訳ではこれを「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」と訳しています。心はよろずのもの、万物ですね、それよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっています。つまり、何よりも偽るものであるという意味です。創造主訳でもそのように訳しています。「人の心はどんなものよりも偽るもので、直すことが難しい」。すばらしいですね。口語訳とほぼ同じですが、こういう意味です。一番ストンときます。
ちなみに、この「ねじ曲がっている」の原語は、ヘブル語の「アーコーブ」という語です。皆さん、聞いたことがありませんか。「アーコーブ」。これは「ヤーコーブ」、つまり、あの「ヤコブ」の語源となった語です。意味は何でしたか。意味は「かかとをつかむ者」です。つまり、騙す者、偽る者、嘘つき、悪賢いということです。人の心というのは、騙すもの、偽るもの、嘘をつくもの、悪賢いもの、人を出し抜くものであるということです。表面ではよく見せていても、裏では悪事を働きます。陰険ですね。外側では良い人を装っても、内側では人を見下しています。それは人の心が「アーコーブ」だからです。陰険だから、ねじ曲がっているから、偽るものだから、何にもましてとらえがたく病んでいるからです。それが人の心です。あなたの心です。そんな人間を信頼したらどうなりますか。あなたをがっかりさせ、あなたを傷つけ、あなたを苦しめ、あなたを怒らせることになるでしょう。だからこそ、そんな人間を信頼してはいけない、肉なる者を自分の腕としてはいけない、と神は言われるのです。
イザヤは、こう言いました。イザヤ書28章20節です。「まことに、寝床は身を伸ばすには短すぎ、覆いも身をくるむには狭すぎる。」当時、北からアッシヤ帝国が北王国イスラエルに迫って来ていましたが、彼らはエジプトと同盟を結べば大丈夫だと思っていました。しかし、そのエジプトも身を伸ばすには短いベッドにすぎず、身をくるむには狭すぎるブランケットだと言ったのです。彼らは自分たちをカバーしてくれるものをエジプトに求めました。自分たちを覆ってくれるもの、守ってくれる存在、保護してくれる存在を神ではなく、エジプトに求めたのです。エジプトはこの世の象徴です。肉なるものの象徴ですが、そのようなものがあなたを救うことはできません。イザヤ書2章22節にある通りです。「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。」
鼻で息をする人間には、何の値打ちもありません。いつも心がコロコロ変わっているから「心」と言うんだと聞いたことがありますが、人の心はいつもコロコロ変わります。何よりも陰険です。とらえ難く病んでいます。それは癒しがたいものです。そんな人間に頼っていったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。いつも自分の心に騙され続けることになります。
大体、自分がまともな人間だと思っているのは人と比較しているからです。他の人と比べて自分の方がマシだと思っています。自分の夫と比べて、隣の人と比べて、あの人と比べて、「私はそんなひどい人間じゃない」「あの人ほど悪じゃない」と思っています。でも、聖書の基準に照らし合わせたらどうでしょうか。もう顔を覆いたくなるのではないですか。あまりにもいい加減な自分の姿を見せられて。
では、どうしたら良いのでしょうか。それが9節の後半で問いかけていることです。ここには「だれが、それを知り尽くすことかできるだろうか」とあります。どうしたらいいのかということです。人類は自分の努力によって、さまざまなものを考え、文明の利器を作り出してきましたが、どんなに努力しても変えられないものがあります。それが、自分の心です。それは何よりも陰険でねじ曲がっています。それは癒しがたい。だれが、それを変えることができるのでしょうか。それがおできになるのは主なる神様だけです。10節をご覧ください。ここに、こうあります。「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
人の心は何よりもねじ曲がっているので、それを変えることは誰にもできません。精神分析とか、自己分析とか、自己評価とか、他己評価とか、そういったことで見極めることはできませんが、神様はおできになります。神は私たちの心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方によって、行いの実にしたがって報いてくださいます。
へブル4章12節にはこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」
神のことばは生きていて、力があります。それは両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。人の心の思いやはかりごとを判別することができます。正しい分析をすることができるのです。神のことばという判断基準をもって。これはいつまでも変わることがありません。人間の心はコロコロと変わりますが、神のことばは変わることがありません。神のことばは、書かれてから三千数年以上経っていますが、時代によって書き変えたり、付け加えたり、削除されたりしていません。ずっと同じです。いつまでも変わることがありません。ですから、神のことばは確かなものであると言えるのです。それは信頼に足るものです。書き換えられていないというのは完全なものだからです。ですから、私たちがすべきことはこれです。詩篇139篇23~24節です。「23 神よ、私を探り私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。24 私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
これが私たちのすべきことです。まず自分の心がどれほど陰険で、罪に汚れているかを知り、それは人には直せない、どうすることもできないもの、自分の力でも、人に頼っても、どうすることもできない、と認めなければなりません。しかし、ここに私たちの心を探り、私たちの心を知っておられる方がおられる。この方にすべてをゆだね、私の心を調べ、その思い煩いを知ってもらわなければなりません。そして、とこしえの道に導いていただくことです。そのお方とはだれでしょうか。それは、私たちの主イエス・キリストです。
黙示録2章23節には、復活の主がフィラデルフィアの教会に書き送った手紙がありますが、その中にこうあります。「また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。」
ここに、「こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る」とあります。イエス・キリストは人の思いと心を探られる方です。人の心を造り変えることがおできになる方です。宇宙一の名医、文字通り、神の手を持つ医者なのです。この方の手にかかれば、何よりもねじ曲がった、何よりも陰険で、何よりもとらえ難くやんでいる、どんなものよりも偽るあなたの心も癒していただけるのです。だからこの方に信頼しなければならないのです。
最後に、まとめとして、ニューヨークの風船売りの話をして終わります。彼は、まず白い風船を空中に浮かばせ、赤や黄色の風船も次々と浮かばせました。しばらくすると、子どもたちが集まって来ました。ところが、風船を見つめていた黒人の少年が聞きました。「おじさん、黒い色の風船も空中に浮かぶ?」すると風船売りは少年を見つめて言いました。「もちろんだよ。風船が空中に浮くのは色ではなく、中に入っているガスのおかげだから。」
同じように、人は心が美しいなら、外見に関わりなくすばらしい人生を生きることができます。人生の祝福は、あなたの心にかかっているのです。あなたの心が肉なる者を自分の腕とし、主から離れている人はのろわれますが、主に信頼するなら祝福されます。その人は、水のほとりに植えられた木のようになるのです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。そのような祝福に満ち溢れた人生を歩ませていただきましょう。

ヨシュア記15章

ヨシュア記15章

きょうはヨシュア記15章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ユダ族の相続地の境界線(1-12)

 まず1~12節までをご覧ください。「1 ユダ部族の諸氏族がくじで割り当てられた地は、エドムの国境に至り、その南端は、南の方のツィンの荒野であった。2 南の境界線は、塩の海の端、南に面する入江から3 アクラビムの坂の南に出てツィンを過ぎ、カデシュ・バルネアの南を上ってヘツロンを過ぎ、アダルへ上ってカルカへ回り、4 アツモンを過ぎてエジプト川に出る。境界線の終わりは海である。これがあなたがたの南の境界線となる。5 東の境界線は塩の海で、ヨルダン川の河口までとなる。北側の境界線は、ヨルダン川の河口、海の入江から始まる。6 その境界線はベテ・ホグラを上り、ベテ・ハ・アラバの北を過ぎる。それから境界線はルベンの子ボハンの石を上る。7 さらに境界線はアコルの谷間からデビルに上り、谷の南のアドミムの坂の反対側にあるギルガルに向かって北上する。それから境界線はエン・シェメシュの水を過ぎ、その終わりはエン・ロゲルであった。8 さらに境界線はベン・ヒノムの谷を上ってエブス、すなわちエルサレムの南の傾斜地に至る。それから境界線は、ヒノムの谷を見下ろす西の方の山の頂、レファイムの谷間の北の端を上る。9 さらに境界線は、この山の頂からメ・ネフトアハの泉の方に折れ、エフロン山の町々に出る。それから境界線はバアラ、すなわちキルヤテ・エアリムの方に折れる。10 さらに境界線はバアラから西へ回ってセイル山に至り、エアリム山の傾斜地、すなわちケサロンの北側を過ぎ、ベテ・シェメシュに下り、ティムナを過ぎる。11 そして境界線はエクロンの北の傾斜地に出る。それから境界線はシカロンの方に折れ、バアラ山を過ぎ、ヤブネエルに出る。境界線の終わりは海である。12 西の境界線は大海とその沿岸である。これがユダ族の諸氏族の周囲の境界線である。」

いよいよイスラエルの民は、占領したカナンの地の相続地の分割を始めます。その最初の分割に与ったのはユダ族でした。なぜユダ族だったのでしょうか。それは14章でもお話ししたように、信仰の勇者カレブに代表されるように、ユダ族が一番信仰による勇気と大胆さを持っていたからです。元来、ユダ族の先祖ユダは、ヤコブの4番目の子どもでした。長男はルベン、次男はシメオン、三男はレビ、そして四男がユダです。ですから、長子の特権という面からすれば、ルベン族が最初に分割に与っていいはずなのに、四番目のユダ族が最初にこの特権に与かりました。いったいどうしてでしょうか。

まず長男のルベンは、父ヤコブのそばめ、ビルハと寝るという罪を犯したため、その特権を失ってしまいました。創世記49章3節には、「ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。彼は私の寝床に上った。」とあります。

二男のシメオンと三男のレビも、父に大きなショックを与える罪を犯しました。妹のディナがヒビ人のシェケムという男に辱められたことに怒り、その町の住民に復讐したことです。彼らはその町の男たちに割礼を要求し、彼らの傷が痛んでいる頃を見計らって、全滅させました。ヤコブはこの二人について、同じく創世記49章5~7節で、「シメオンとレビとは兄弟。彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」と言いました。

ですから、4番目のユダが最初に相続地の分割に与ったのです。それは兄たちに問題があったからというだけでなく、ユダ族はそれにふさわしい部族でした。それは、信仰の勇者カレブに代表されるような信仰の勇気と大胆さを持っていた点です。創世記49:9~12節のヤコブの遺言の中に、彼について語られていることは勝利、リーダーシップ、繁栄と良いことばかりです。ルベンから取り上げられた長子の権利はヨセフに行きましたが、後にユダの部族からは支配者、王が出ると宣言されました。創世記49章10節には、「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。」とあります。そして事実、このユダ族から後にダビデ王が誕生し、さらにその子孫から、やがてまことの王イエス・キリストが誕生するのです。イエス様はこのユダ族から出た獅子なのです。このようなユダ族の優位性が暗示される中で、彼らが土地の割り当ての最初に来ているのでしょう。

また、創世記44章33~34節には、ユダが自分のいのちをかけてとりなしたことが記されてあります。彼は若い頃、ヨセフに対しても父ヤコブに対しても何の配慮もせず、むしろ、ヨセフを奴隷として売ろうと兄弟たちを説得し、ヤコブには兄弟たちと共に嘘をつきました。そのユダがここでヨセフに、ベニヤミンの身代わりとしてヨセフの奴隷になることを申し出、あの子を父のもとに返してほしいと、そして父の苦しむ姿を見たくないと訴えたのです。このユダの訴えには心が打たれます。自分のいのちをかけてとりなしているのだから。ここに真実の愛を見出すことができます。それはイエスによって現わされた十字架の愛を表していました。そのように考えると、ユダ族こそ約束の土地を最初に相続する者としてふさわしい者であったと言えるでしょう。

さて、ユダ族はどの地を相続したのでしょうか。1~12節までにその境界線が記されてあります。巻末の聖書の地図をご覧いただくとわかりますが、ユダ族が、他の部族の中で、もっとも広い土地を相続したことがわかります。まず南の境界線については1~4節に記されてあります。それは、塩の海、すなわち死海の南端からエジプト川に出て、海、すなわち地中海までです。東の境界線については5節の前半にあります。それは塩の海、すなわち死海の沿岸そのもので、ヨルダン川の河口までです。北の境界線については5節後半~11節までにありますが、ヨルダン川が死海に注ぐ入江から始まり、少々複雑に入り組んでいて、最後は海、すなわち地中海に至ります。西の境界線は12節にありますが、地中海の沿岸そのものです。

いったいこの地はどのようにしてユダ族に分割されたのでしょうか。1節を見ると、「ユダ族の諸氏族が、くじで割り当てられた地は・・」とあるように、これはくじで割り当てられました。確かに14章には、カレブがヨシュアのもとにやって来てこの山地を与えてくださいと要求したので、ヨシュアがカレブに与えたかのような印象がありますが、実際にはくじで決められました。ユダ族はくじによってカナンの地の南側が与えられたのです。

ところが、この南部の山岳地帯は不毛の地です。イスラエルの地は北側によく肥えた緑の地が多く、南に行けば行くほど岩や砂が多い荒地となっています。ユダ族は最初にくじを引くという特権が与えられたにもかかわらず、彼らが得た地は南の最も環境が悪く、住むのに適さない土地でした。そこは農耕にも適さない、荒地だったのです。いったいなぜこのような地を、主はユダ族に与えたのでしょうか。

そこには、神様のすばらしいご計画がありました。この土地をくじで引いた時、おそらくユダ族の人々は心の中で不平を言ったに違いありません。「せっかく最初にくじを引くことができたのに、こんなひどい土地が当たってしまった。何と運の悪いことだ」と。しかし、そのような地理的に環境が悪いがゆえに、彼らは偶像崇拝の悪しき影響から免れ、宗教的な純粋さを保つことができたのです。北部の肥えた地は、確かに環境的には申し分がありませんでしたが、それに伴って農耕神、豊穣神と呼ばれるバアル宗教がはびこっており、こうした偶像との戦いを強いられることになりました。
しかしユダ族は、こうした環境的困難さのゆえに、唯一の神、ヤハウェから離れることなく、常に純粋な信仰を保ち続けることができたのです。それだけではありません。この環境的困難さのゆえに、ユダ族はさらに強くたくましい民族へと育て上げられて行きました。やがてイスラエルが二つに分裂した時、南王国は何と呼ばれたでしょうか。「南王国ユダ」と呼ばれました。すなわち、このユダ部族が南に住んでいた全部族を代表して呼ばれるほどに、強力な部族になっていったのです。

時として私たちは自分が願わない望まない困難な状況に置かれることがありますが、そこにも神のご計画と導きがあることを覚えなければなりません。それゆえに自らの不遇な状況を嘆いたりしてはならないのです。「ああ、私は貧乏くじを引かせられた」と言って、自己憐憫になってはいけません。むしろ、その所こそ、主があなたに与えてくださった場所なのだと信じて、主を賛美しなければなりません。他の人と比較して、ひどい状況であるならば、それはむしろ幸いなのです。そこに神が生きて働いてくださるからです。また逆に、私たちが他の人よりも優って良い場所が与えられたという時には、自分自身に気を付けなければなりません。高ぶって、自分が神のようにならないように、注意しなければなりません。

私たちは、祈りつつ、信仰によって決断しつつも、なお困難な状況に置かれることがあるとしたら、それは主の御計画であり、主が私たちを通して御旨を成し遂げようとしておられると信じて、主をほめたたえ、喜んでその困難な状況の中で果たすべき役割というものを、しっかりと果たしていきたいと思うのです。

Ⅱ.水の泉を求めて(13-19)

次に13~19節までをご覧ください。ここにはユダ族の代表であるカレブについてのエピソードが記されています。「13 ヨシュアは自分への主の命により、エフンネの子カレブに、ユダ族の中でキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナクの父である。14 カレブはそこからアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。これらはアナクの子である。15 そして彼は、そこからデビルの住民のところに攻め上った。デビルの名は、かつてはキルヤテ・セフェルであった。16 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを討って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」17 カレブの同族ケナズの子オテニエルがそれを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。18 嫁ぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるようにしきりに促した。彼女がろばから降りると、カレブは「あなたは何が欲しいのか」と彼女に言った。19 アクサは言った。「私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧き水を下さい。」そこでカレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。」

カレブについてはすでに14章で見ましたが、彼は85歳になっていましたが、アナク人の町ヘブロンを攻め取ると願い出ました。そしてそれを成し遂げた記録がこれです。カレブは14節にある通り、ヘブロンからアナクの3人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払います。一人でも恐ろしいはずの敵を3人もまとめてやっつけたのです。14章12節でカレブは、「主が私とともにいてくだされば、私は彼らを追い払うことができましょう。」と言いましたが、カレブの素晴らしい点は目の前の状況を見たのではなく、主の視点で状況を見ていたことです。人間的にはとても不可能に思えても、そこに主の約束があり、主がともにいてくださるなら、主が御業を成し遂げてくださると信じて前進したのです。その結果彼は85歳にもなっていましたが、本当にアナクの子孫を追い払うことができました。これぞイスラエルの模範であり、信仰に歩む私たちの模範でもあります。

しかし、彼がヘブロンからデビル、すなわちキルヤテ・セフィルに攻め上って行ったとき、ある限界に達していました。16節には、その際彼は、「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言っています。軍隊の将軍が、このように報償をぶら下げて、ある町を攻略する戦士を募るというのは古代オリエントでは良く見られた習慣でした。「デビル」という町は「至聖所」という意味です。すなわち、人間が入ることができない聖なる場所という意味です。従って、かなり堅固な要塞の町であったことがわかります。いわば「難攻不落」の町だったのです。それはこれまでの歴戦を信仰によって勝利してきたカレブでさえも攻めあぐねるほどの町だったのです。それで窮地に陥っていたカレブは、このように言って勇士を募ったのです。

これに対してカレブの同族ケナズの子オテニエルが名乗りを上げました。彼は次の士師記においてイスラエルの最初のさばきつかさとなる人です。その彼が見事にデビルを攻め取ったので、カレブは約束通りに娘のアクサを、彼に妻として与えました。これはカレブの信仰が良い意味で彼に伝染したということです。その模範にならったオテニエルは祝福を手にすることができました。

ところで、カレブの娘アクサがとつぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるようにしきりに促しました。新改訳第三版、口語訳、新共同訳では、夫のオテニエルが彼女をそそのかして、自分の父に畑を求めるように勧めたとあります。創造主訳聖書もそのように訳しています。英語の聖書では、NIVやKJVでは彼女が夫をそそのかしてとなっていますが、Today’s English Versionでは、オテニエルが彼女をそそのかしてと訳しています。この箇所の解釈は非常に難しいところです、同じことが士師記1章14節にもありますが、ここも意見が分かれています。そんなのどうでもいいじゃないかと思うかもしれませんが、それによって適用が異なるため、どう解釈するかはとても重要です。私は、第三版の訳を採用して適用したいと思います。するとこうなります。

すると、父のカレブが彼女に「あなたは何かほしいのか」と尋ねたので、彼女は「私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧き水を下さい。」と言ったので、カレブは、娘のこの要求を非常に喜び、上の泉だけでなく下の泉も与えました。この泉とはため池のことです。ため池は、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などでは、農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう人工的に造成された池のことです。恐らく、このため池を与えたのでしょう。泉を与えると言っても泉は自然のものですから、それをどこかに持っていくことはできません。娘の要求に対して過分とも思えるこの措置は、父カレブの言い知れない感動と喜びを表しています。いったいなぜカレブはこんなにも喜んだのでしょうか。それは娘の要求が実に理にかなったものであり、深い真理が隠されていたからです。このネゲブの地は乾燥した地域であり、畑の収穫のためより一層の水を必要とした地でした。つまりオテニエルが要求した「畑」とは収穫をするその場所そのもののことですが、それに対してアクサが求めたのは、その収穫をもたらすために必要な、より根源的なものでした。

これは私たちの信仰にとっても大切なことが教えられています。私たちはとかく表面的なもの、たとえば、クリスマスの時期になるとどんな飾りつけにして、何をするかといった表面的なことに関心が向きがちですが、もっと重要なのはより本質的なものです。それは祈りとみことばであり、そこから湧き出てくる神のいのち、聖霊の満たしであるということです。私たちはまずそれを求め、そこに生きるものでなければなりません。それを優先していかなければならないのです。そうしていくなら、実際的な事柄や、現実的な事柄は必ず変えられていき、私たちのうちに神の御業が現われるようになります。そうでないと、私たちの信仰は極めて表面的で、薄っぺらいものになってしまいます。そして、人間としての本来の在り方というものを失ってしまうことになります。そのようにならないようにいつも信仰の本質的なもの、根源的なものを求めていかなければなりません。それが祈りとみことばです。また、そこから溢れ出る神のいのち、聖霊の臨在なのです。アクサはそれを求めたのです。それでカレブは非常に喜んだのです。私たちもこの神のいのちを求めるなら、神は喜んでそれを与えてくださいます。

Ⅲ.相続した町々(20-63)

最後に、ユダ族が相続した町々を見て終わりたいと思います。20~63節までをご覧ください。これはユダ族の相続地で、神がユダ族に与えられた町々がリストです。カナンの地で最も広い領域であったこの地に、ユダ族はどんどんと勢力を伸ばし、これらの町々を占領していきました。しかし、その中でただ一つだけ占領できない町がありました。どこですか?そうです。それは後のイスラエルの都、エルサレムです。そこにはエブス人がおり、ユダの人々は、このエブス人をエルサレムから追い払うことができませんでした。なぜでしょうか。10章では、イスラエル軍はこのエブス人の王アドニツェデク率いる連合軍を打ち破り、11章では、エブス人を含むパレスチナの連合軍を打ち破っています。また15章13~19節においては、カレブ率いるユダ族は、カナンの中で最も強力な力を誇っていたアナク人でさえも打ち破っています。あの巨人ゴリヤテは、このアナク人の子孫です。それにもかかわらず、それほど強くもないエブス人をなぜエルサレムから追い払うことができなかったのでしょうか。

それは、神があえてそうされなかったからです。つまり、神がエブス人に力を与えて、ユダの人々の敵対者として、わざわざそこに置かれたからなのです。私たちには理解を超えた、時として神は、このように私たちの身近にあえて敵対者を置かれることがあるのです。それは未熟な私たちを整え、成熟させるためです。私たちはこうした敵対者によってさらに訓練されて、その信仰をますます強められていくようになるのです。

それは人間ばかりでなく、植物などにも同じです。植物学者の宮脇明氏はその著書「植物と人間」において、このように言っています。「対立者あるいは障害物というものがなくなると、それは生物にとって最も危険な状態だ。敵対者がいなくなることは、その植物を休息に衰退に追いやることだ。」これは霊的にも言えることであって、自分に敵対してくる人の存在があってこそ、人は鍛えられ、強められ、さらに引き上げられていくのです。であれば、私たちもたとえ自分の思うように事が進まなくても、そこに依然として自分に敵対する人がいたとしても、それは自分の成長にとって欠かす事ができないことであると受け取る、感謝しなければなりません。

その後、このエブス人はどうなったでしょうか。これほどイスラエルを手こずらせ、その手の内に落とし得なかったエブス人でしたが、しかし実はダビデが天下を治めた時に、このエルサレムからあっけなく追い出されていきました。もう必要なくなったからです。ダビデの時代はイスラエルにとっての黄金時代であり、絶頂を極めた時でした。それはイスラエルがこのヨシュアの時代からこうした敵によって鍛えられ、成熟させられた結果であったとも言えます。しかし、イスラエルが天下を治めた時はもうその必要がなくなりました。彼らは強められ、神の御心にかなった成長を遂げることができたので、もはや敵対者を置く必要はなくなったからです。あれほど打ち破ることができない困難な敵であったにもかかわらず、イスラエルの黄金時代の幕開けと共に、彼らは滅んでいったのです。これらはすべて神がイスラエルのために計画されたことだったのです。

私たちの人生にも困難や苦難が置かれることがあります。また、私たちを悩ませる人々が置かれることがありますが、それらは私たち自身が練り鍛えられ、強くされ、神のみこころにかなったものに造り変えていただくための神の御業であることを覚え、そのことを信仰をもって謙虚に受け入れ、それらの苦難や困難から、また敵対してくる人々から学び、よく多くのものを習得していく者でありたいと思います。そうするなら、神は私たちをさらに引き上げてくださり、やがて時至ったならば、主ご自身がそうした困難や苦難を取り去ってくださり、私たちをさらに一段と飛躍した信仰者に成熟させてくださるのです。

ヨシュア記14章

きょうはヨシュア記14章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨセフの子孫マナセとエフライム(1-5)

 まず1~5節までをご覧ください。「1 イスラエルの子らがカナンの地でゆずりとして受け継いだのは、次のとおりである。祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、イスラエルの子らの部族の一族のかしらたちは、その地を彼らに2 相続地としてくじで割り当てた。 主がモーセを通して、九部族と半部族について命じられたとおりである。3 二部族と半部族には、ヨルダンの川向こうにモーセがすでに相続地を与え、レビ人には彼らの間に相続地を与えていなかった。4 ヨセフの子孫はマナセとエフライムの二部族になっていたからである。また、レビ族には、住む町と所有する家畜の放牧地以外には、何の割り当て地も与えなかった。5 イスラエルの子らは主がモーセに命じられたとおりに行い、その地を相続地として割り当てた。」

前回は、ヨルダン川の東側の相続地の分割について見ました。今回は、ヨルダン川のこちら側、すなわち、西側における土地の分割のことが記録されてあります。まず1節から5節まではその前置きです。この作業に携わったのは祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア、それとイスラエル人の部族の一族のかしらたちでした。祭司エルアザルはアロンの第三子です。彼がこの作業に関わることはモーセの時代に主によって命じられていました(民数記34:17)。この祭司エルアザルと、ヨシュアと、イスラエルの部族のそれぞれの代表が集まってくじを引いて相続地を割り当てたのです。くじを引くというのは意外な感じのする方もいるかもしれませんが、これは主のみこころを伺う方法であり、この土地の分割を決定する方法として主が前もって指定しておられたものでした(民数記26:55)。箴言16章33節に、「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。」とあるように、まさにこれこそ主が決められる方法だったのです。

それで、ヨルダン川のこちら側の土地、すなわち西側の土地は、主がモーセに命じたとおりに、9つの部族と半部族とにくじによって割り当てられたのです。ところで、イスラエルは12部族であるはずなのに、なぜ9つの部族と半部族とに割り当てられたのでしょうか。その理由が3節にあります。
「二部族と半部族には、ヨルダンの川向こうにモーセがすでに相続地を与え、レビ人には彼らの間に相続地を与えていなかった。」
ここまで読むと納得したかのように感じますが、よく考えると、イスラエルの部族は全部で12部族であり、そのうちの2部族と半部族には既に相続地を与え、それにレビ族はイスラエルの各地に散って礼拝生活を助けるため、自分たちの相続地は持たないということであれば、残りは9部族と半部族ではなく、8部族と半部族になります。それなのにここに9部族と半部族とあるのはどういうことなのでしょうか?その理由が4節にあります。「ヨセフの子孫が、マナセとエフライムの二部族になっていたからである。」
すなわち、ヨルダン川の向こう側が2部族と半部族に与えられ、レビ族は特別な待遇となって相続地を受けなかった分を、ヨセフ族がマナセとエフライムの二つの部族が相続地を受けたのです。なぜヨセフ族がこのような祝福を受けたのでしょうか。その経緯については創世記48章5節にあります。
「今、私がエジプトに来る前に、エジプトで生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子となる。」
この「あなたのふたりの子」の「あなた」とはヨセフのことです。ヤコブはその死を前にして、このヨセフの二人の息子マナセとエフライムに対して特別の祈りをささげ、二人の孫は単なる孫ではなく、自分の12人の子どもと同じように自分の子どもとなる、と宣言したのです。子どもであれば、親の相続を受けることになります。ですから、このヨセフの二人の息子は、他のヤコブの子どもと同じようにそれぞれ相続地を受けることになったのです。このことは、モーセがその死に際してこのヨセフ族に与えた特別の祝福を見てもわかります(申命記33:13~17)。いったいなぜ神は、これほどまでにヨセフを祝福したのでしょうか。

それは、あのヨセフが極めて高尚な生涯を送ったからです。ヨセフについては創世記37章から50章までのところに詳しく書かれてありますが、兄たちにねたまれてエジプトに売られ、そこで長い間奴隷として生活し、無実の罪で獄屋に入れられることがあっても兄たちを憎むことをせず、ついにはエジプトの第二の地位にまで上りつめました。それは、主が彼とともにいてくださったからです。ヨセフの生涯を見ると、彼には三つの優れた点がありました。第一に、彼はどんな苦難や悲運の中にあっても、決して神に呟かず、神に信頼し続け、そして神に従ったということです。第二に、彼はどんな誘惑にも屈せず、しかも自らを陥れた人々を訴えたりしなかったということ、そして第三に、彼は自分を奴隷として売り飛ばし、ひどい目に遭わせた兄たちに対して彼らを赦し、彼らを救ったということです。そのような信仰のゆえにヨセフは彼ばかりではなく、彼の子孫までもがその祝福を受けることになったのです。彼の子孫は、イスラエル12部族のうち2部族を占めたばかりでなく、その内の一つであるエフライムは非常に強力な部族となり、やがて旧約聖書においては、「北王国イスラエル」のことを、「エフライム」と呼ぶほどに、北王国10部族の中でも、最も優れた部族となっていきました。

このヨセフの生涯は、キリストの予表、型でした。キリストもご自分の民をその罪から救うためにこの世に来てくださったのに十字架に付けられて死なれました。キリストは、十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください」と、自分を十字架につけた人たちのために祈られました。全く罪のない方が、私たちの罪の身代わりとなって自分のいのちをお捨てになられたのです。それゆえ、神はこの方を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。

ということは、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムが神から多くの祝福を受けたように、キリストを信じ神の子とされた私たちクリスチャンも、キリストのゆえに多くの祝福を受ける者となったということです。私たちは、キリストのゆえに、すばらしい身分と特権が与えられているのです。であれば、私たちはさらにこの主をあがめ、主に従い、主を賛美しつつ、キリストから与えられる祝福を受け継ぐ者となり、その祝福を、私たちの子孫にまで及ぼしていく者でなければなりません。

Ⅱ.主に従い通したカレブ(6-12)

次に6~12節をご覧ください。その地の割り当てにおいて、最初にヨシュアのところに近づいて来たのはユダ族です。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアにこのように言いました。6~12節までの内容です。「6 ユダ族の人々がギルガルのヨシュアのところにやって来た。その一人ケナズ人エフンネの子カレブがヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて神の人モーセに話されたことを、あなたはよくご存じのはずです。7 主のしもべモーセがこの地を偵察させるために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は自分の心にあるとおりを彼に報告しました。8 私とともに上って行った私の兄弟たちは民の心をくじきました。しかし私は、私の神、主に従い通しました。9 その日、モーセは誓いました。『あなたの足が踏む地は必ず、永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが私の神、主に従い通したからである。』10 ご覧ください。イスラエルが荒野を歩んでいたときに、主がこのことばをモーセに語って以来四十五年、主は語られたとおりに私を生かしてくださいました。ご覧ください。今日、私は八十五歳です。11 モーセが私を遣わした日と同様に、今も私は壮健です。私の今の力はあの時の力と変わらず、戦争にも日常の出入りにも耐えうるものです。12 今、主があの日に語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます。」」

カレブとは、イスラエルがエジプトを出てシナイ山から約束の地に向かって旅をし、その入り口に当たるカデシュ・バルネアで、カナンの地を偵察するためにモーセが遣わした12人のスパイの一人です。モーセは、イスラエルの12部族のかしらにその地に入って偵察してくるように命じましたが、エフライム族のかしらがヨシュアで、ユダ族のかしらがこのカレブでした。カレブは今、その時のことを思い起こさせています。

当時、カレブは40歳でした。そしてそれから45年間という長い歳月をかけて、ヨシュアとともに民を指導してきました。このカレブの特徴は何かというと、8節にあるように、「主に従い通した」ということです。9節にもあります。彼はその生涯ずっと主に従い通しました。エジプトを出た時は40歳でした。あれから45年が経ち、今では85歳になっていましたが、彼はその間ずっと主に従い通したのです。そのように言える人はそう多くはありません。ずっと長い信仰生活を送ったという人はいるでしょうが、カレブのように、ずっと主に従い通したと言える人はそれほど多くはありません。私たちも彼のような信仰者になりたいですね。

そんなカレブの要求は何でしたか。12節を見ると、彼はヨシュアに、「どうか今、主があの日に約束されたこの山脈を私たちに与えてください。」ということでした。ずっと長い間主に従い通してきたカレブの実績からいっても、この要求はむしろ当然のことであり、決して無理なものではありませんでした。しかし、このカレブの要求には一つだけ問題がありました。何でしょうか。そうです、そこにはまだアナク人がおり、城壁のある大きな町々がたくさんあったということです。まだイスラエルの領地になっていなかったのです。ですから、彼がその地の割り当てを願うということは、生易しいことではありませんでした。彼はその地を占領するために強力なアナク人を打ち破り、その土地を奪い取らなければならなかったからです。それは自らに対する厳しい要求でもあったのです。

この問題に対して、カレブは何と言っているでしょうか。彼はこう言いました。12節の後半です。「主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」すごいですね、この時カレブは何歳でしたか?85歳です。でも、主が共にいてくだされば年齢なんて関係ない、必ず勝利することができると宣言したのです。11節を見ると、「しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」と言っています。この時彼は何ですか?85歳です。普通なら、もう85です、そんな力はありません。若い時は良かったですよ、でも今はそんな力はありません・・、と言うでしょう。でもカレブは違います。今も壮健です。私の今の力は、あの時と同じです。ちっとも変っていません。まだまだ戦えます。問題ありません、そう言っているのです。強がりでしょうか?いいえ、違います。事実です。主がともにいてくだされば、主が約束されたように、彼らを追い払うことができます。私は弱くても、主は強いからです。これは事実です。こういうのを何というかというと、「信仰の目を持って見る」と言います。確かに人間的に見れば若くはないかもしれません。力もないでしょう。体力、気力、記憶力も衰えます。何もいいところがないかのように見えますが、しかし、信仰の目をもって見るなら、今でも壮健なのです。主がそのようにしてくださいますから、主が戦ってくださいますから、まだまだ戦うことができるのです。私たちもこのカレブのような信仰の目をもって歩みたいですね。

カレブはこの時だけでなく、若い時からそうでした。あのカデシュ・バネアからスパイとして遣わされた時も、他の10人のスパイは、「カナンの地は乳と密の流れる大変すばらしい地です。しかしあそこには強力な軍隊がいて、とても上っていくことなんてできません。そんなことをしようものなら、たちまちのうちにやられてしまうでしょう。」とヨシュアに報告したのに対して、彼はそうではありませんでした。彼はヨシュアとともに立ち、こう言いました。「いやそうではない。我々には主なる神がついている。だから私たちが信仰と勇気を持って戦うなら、かならずそれを占領することができる。」(民数記13:30)
12人のスパイの内、10人の者たちは目の前の現実に対して、人間的な計算と考えの中でしか物事を捉えることができず、肉の思いで状況を判断しましたが、ヨシュアとカレブは信仰の目を持って神の可能性を信じ、主によって道は開かれると確信し、その状況を判断したのです。その結果、主はこの信仰によって判断した2人を大いに祝福し、この2人が約束の地カナンに入ることを許し、信仰の目を持たなかった他の10人の者たちは、カナンの地に入ることができませんでした(民数記14:30)。

私たちは、現実的な消極主義者にならないで、信仰的な積極主義者にならなければなりません。神のみこころが何かを求め、それがみこころならば、人間的に見てたとえ不可能なことのように見えても、神の可能性に賭け、神のみこころを果たしていかなければなりません。現実を見るなら、確かにそれは困難であり不可能に思えるかもしれませんが、しかし、私たちの信じる神は全能の神、この天地宇宙を統べ治めておられる偉大な方なのです。私たちはこの主により頼み、さらに信仰の目をもって、積極的にありとあらゆる事柄に雄々しく立ち向かっていかなければなりません。

かつて、私が福島で牧会していた時、会堂建設に取り組んだことがあります。それは人間的に見たら全く不可能なことでした。その土地は市街化調整区域といって、建物が立てられない場所であり、福島県ではそれまで宗教法人が市街化調整区域に開発許可を得た例は一度もありませんでした。さらに、建築資金もありませんでした。銀行からの融資も制限されていました。どうみても人間的には全く不可能でした。しかし、主が私たちとともにいてくださったので、その一つ一つの壁を乗り越えることができ、立派な会堂を建ててくださいました。この会堂建設を通して私が学んだことは、会堂は資金があれば建つのではなく、信仰によって建つということです。それが神のみこころならば、神がともにいてくださるなら、たとえ人間的には不可能に見えても、神が建ててくださるのです。神がともにいてくださるなら不可能なことはありません。

今、私たちの前には同じような問題が横たわっています。私たちは2025年までに7つの教会を生み出すというビジョンが与えられそれに向かって前進していますが、霊的不毛の地であるかのようなこの地でそれを実現していくことは困難であるかのように見えます。しかし、カレブのように主がともにいてくだされば、主が約束されたように、私たちは彼らを追い払うことができましょうと言ったように、私たちもそのように言うことができるのです。

聞いたことがあるかと思いますが、一つの有名な逸話があります。アフリカの新興国に、アメリカから二人の靴製造会社の社員が調査のため派遣されました。この二人の社員は、そのアフリカの新興国を訪れた時に、国民がまだ靴を履いていないという現実に見て、本国に電報を送り、それぞれ違う報告をしました。一人の社員は、「この国の住民は靴を履かない。だから市場開拓は不可能だ」。しかしもう一人の社員はこう打電しました。「この国の住民は靴を履かない。だから大いに可能性あり。」と。

またかつて日本の伝道が非常に困難だと嘆いていた一人の牧師がいました。彼は韓国を訪れた時、韓国の牧師たちの前で、そのことを嘆いてこう言いました。「日本はこのような状況です。日本の伝道はとても難しいです。しかし韓国はいいですね。」
しかしそれに対して韓国の一人の牧師はこう言いました。「いいえ韓国では教会がもうどこへ行ってもあります。飽和状態です。私たちが見るならば、むしろ日本が羨ましい。日本では、いくらでもその可能性が広がっているのですから。」

私たちはどちらの人でしょうか。現実の困難を見て嘆き、「もうだめだ」と悲観的になるでしょうか。それとも、むしろ現実がそのような状況だからこそ神の助けを求めてこの現状を打ち破り、神の御業がなされることを求めて祈る人でしょうか。カレブのように正しい信仰を確立し、神の偉大な御力に信頼して、みこころを行っていく者となりたいと思います。

Ⅲ.主に従い通したカレブ(13-15)

最後に、その結果を見て終わりたいと思います。その結果どうなったでしょうか。13~15節までをご覧ください。「13 ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。14 このようにして、ヘブロンはケナズ人エフンネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。
14:15 ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。これは、アルバがアナク人の中の最も偉大な人物であったことによる。こうして、その地に戦争はやんだ。」

ヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。ヘブロンはかつてアブラハムが住んでいた場所であり、アブラハムが死んだサラを葬るために購入した土地があるところです。主がアブラハムに現われてくださったところです。そこは、以前はキルヤテ・アルバと呼ばれていました。「アルバ」というのは、アナク人の中の最も偉大な人物でしたが、敵がどんなに偉大な人物であったとしても、主の前にも風が吹けば飛んでいくもみがらにすぎません。主はどんな敵をも追い払ってくださいます。カレブはその地を求めたのです。

こうして、ヘブロンはカレブの相続地となりました。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからです。私たちも、主がともにいてくださることを信じ、主が約束したことを、信仰によって勝ち取っていく者でありたいと思います。

 

主は生きておられる エレミヤ書16章1~21節主は生きておられる 

聖書箇所:エレミヤ書16章1~21節(エレミヤ書講解説教34回目)
タイトル:「主は生きておられる」
きょうは、エレミヤ書16章から学びたいと思います。タイトルは「主は生きておられる」です。14~15節をご覧ください。
「それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
「そのとき」とは、イスラエルの子らが、北の地、これはバビロンのことですが、バビロンから彼らの土地に帰るときのことです。そのとき、彼らは「主は生きておられる」というようになります。それはイスラエルの子らだけではありません。19節には諸国の民とありますが、これは異邦人のことです。それを見た異邦人も、自分たちが先祖から受け継いだものは何の役にも立たない空しいものばかりであり、そのような神は神ではない。真の神はイスラエルの神、主であることを知るようになるというのです。
Ⅰ.主を捨てたイスラエル(1-13)
 まず、1~9節をご覧ください。「1 次のような主のことばが私にあった。2 「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」5 まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。6 この地の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らを悼み悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪も剃らない。7 死者を悼む人のために、葬儀でパンが裂かれることはなく、父や母の場合でさえ、悼む人に慰めの杯が差し出されることもない。8 あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に座って食べたり飲んだりしてはならない。」9 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」」
何のことを言っているのか訳の分からないような内容です。私たちは、13章で、主がエレミヤに亜麻布の帯を買ってそれを腰に締めるように、そして、その帯をユーフラテス川の岩の割れ目に隠しておくようにと命じたことを学びました。覚えていらっしゃいますか。エレミヤがその通りにすると、その帯はどうなりましたか。腐ってボロボロになりました。ボロボロの帯です。それはイスラエルの姿を現わしていました。エレミヤはそれを自分の行動をもって現わしたのです。これを行動預言と言います。きょうの箇所でもエレミヤは行動を通して語るように命じられています。ここでエレミヤは三つのことを命じられました。
第一のことは、妻をめとるな、ということです。2節にあります。「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」どういうことでしょうか。結婚するなということです。エレミヤの時代は結婚することは普通のことでした。特に旧約聖書を信じていたユダヤ人にとって、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とか、「あなたの子孫を海の砂、星の数のようにする」という約束の実現のためにも、結婚することが祝福だと考えられていました。それなのに、ここで主はエレミヤに「あなたはこの場所で、妻をめとるな、息子や娘も持つな。」と言われました。どうしてでしょうか。
その理由が3節と4節にあります。「3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」」
子どもをもうけても、その子どもが虐殺されることになるからです。具体的には、バビロンがやって来て略奪するとき、その子どもたちは病気で死んだり、剣と飢饉で滅ぼされることになります。こうした悲惨な目に遭うなら、むしろ子どもを生まないほうがましだというのです。
第二に、主がエレミヤに言われたのは、弔いの家に入ってはならない、悼みに行ってはならない、ということでした。つまり、葬式に参列してはならないと言われたのです。5節にこうあります。「まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。」
葬式は、いわゆる人生における大切な儀式です。当時、喪中の家に行かないことは、隣人に対する無関心と考えられていました。その葬式に行ってはならないというのです。どうしてでしょうか。それは5節の後半にあるように、これはただの死ではないからです。神のさばきによる死だからです。神がこの民から恵みとあわれみを取り去られました。そのそばきによる死がありにも多すぎて、彼らの死を悲しむ者がだれもいなくなるのです。
第三に、神はエレミヤに結婚式などの祝宴に出るなと言われました。9節です。「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」それらの喜びが、一瞬にうちに取り去られるようになるからです。
いったい何が問題だったのでしょうか。それは、10節と11節にあるように、彼らの先祖が主を捨て、ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、主を捨てて、主の律法を守らなかったことです。皆さん、主を捨てることが罪です。彼らの先祖も、彼ら自身も主を捨てて、ほかの神々に仕えました。主を捨てることが罪なのです。
日本語のことわざに、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。自分に愛想をつかして相手にしてくれない人もいる反面、親切に助けてくれる人もいる。だから、困ったことがあっても、くよくよするなという意味です。これは、日本は八百万の神、神道の国だからこそ存在することわざと言えるでしょう。あなたを捨てる神があれば、あなたを拾う神もある。でも実際は逆です。神があなたを捨てるのではなく、あなたが神を捨てるのです。人間の方が八百万もある神々の中から都合のいい神を拾って、それでご利益がなく何のメリットもなければ捨ててしまうのです。
エレミヤの時代もそうでした。イスラエルの神、主と他の神々を天秤にかけ、自分たちにメリットをもたらしてくれる神を選り好みして拝んだり、必要なくなったら捨てたり、必要であればまた拾ったりしていたのです。忙しいですね。神々の方もたまったもんじゃありません。捨てられたり、拾われたりと、人間様のご都合によってあしらわれるわけですから。
でも、主を捨てるということがどんなに恐ろしい罪か。彼らの先祖たちは、約束の地カナンに入ったときに既に教えられていました。ヨシュア記24章20節にこうあります。「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
これは、イスラエルの民が約束の地に入ったばかりの時に語られたことばです。約800年も前にちゃんと警告されていたのです。もし主を捨てて他の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼすと。それがアッシリヤ捕囚によって、またバビロン捕囚によって実現することになります。
主を捨てるということは最悪のことです。これ以上の罪はありません。これ以上の害はありません。南王国ユダの人たちは、これを、身をもって知ることになります。主を捨てるとはどういうことなのかを。信仰から離れてこの世の神に身をゆだねることがどんな弊害をもたらすことになるのか、この世の流れに従って行くことがどんなに悪く、苦々しいことなのかを知るようになるのです。
それは具体的には律法を守られないこと、主のみことばを守らないことです。主のみことばに従わないことです。主を捨てるとは、すなわち、主のみことばに従わないことなのです。このように考えると、これは何もエレミヤの時代のユダの民だけの問題ではありません。これは私たちにも問われていることです。というのは、私たちは主のことばに従わないことが多いからです。私たちはしょっちゅう主を捨てていることになります。ですから、これは私たちとかけ離れた問題ではないのです。むしろ、日常茶飯事に犯している罪と言えるでしょう。いったい何が問題だったのでしょうか。
12節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」
ここには「自分たちの先祖以上に悪事を働き」とありますが、これは、ヒゼキヤ王の子マナセから始まった偶像礼拝のことを指しています。マナセ王はこのエレミヤの時代から50年ほど前に南ユダを治めた王ですが、南ユダ史上最悪の王でした。彼についてはⅡ歴代誌33章1~9節にあるので後で確認していただけたらと思いますが、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行ないました。しかし、このエレミヤの時代のユダの民は、そのマナセよりも悪事を働いていたのです。もう手のつけようがありませんでした。しかも、頑なで悪い心のままに歩んでいました。つまり、問題は彼らの心だったのです。頭の問題ではなく心の問題です。これが主に聞き従えなくしていたのです。英語のKJV(King James Version:欽定訳聖書)では、この頑な心を「imagination」(イマジネーション)と訳しています。「思い」ですね。ハート(心)というよりイマジネーション(思い)です。これがいろいろな情報によって歪められて偶像化し、一つのイメージが出来上がり、結果、神から離れていくようになり、主を捨てることになりました。主のみことばに聞き従いたくないのも、問題はこの心が頑なだったからです。だから、パウロはローマのクリスチャンたちに何と勧めたかというと、この思いを一新しなさいと言いました。ローマ12章1~2節です。 「1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
ここでは「心を新たにすることで」とありますが、それはこの「思いを新たにすること」「思いを一新すること」です。思いを一新することによって、神のみこころは何かを知ることができます。神に喜ばれることは何か、何が完全であるのかを見分けることができるようになるのです。その助けになるのが神のことばです。神のことばによって私たちの思いが一新することによって、そこから良いものが生まれてくるからです。
あなたの心はどうでしょうか。石のように頑な、頑固になっていないでしょうか。へりくだって神のことばを聞き、心と思いを一新させていただきましょう。そうすることで主のことばに従うことができるようになります。主を捨てるのではなく、主を愛する者になるのです。
Ⅱ.第二の出エジプト(14-18)
次に、14~18節をご覧ください。16節までをお読みします。「14 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
エレミヤはこれまで行動預言を通して南ユダの真っ暗な闇を預言してきましたが、ここで希望を語ります。14節の「それゆえ、見よ、その時代が来る。」とは、希望的未来預言を語る時のことばです。エレミヤ書にはこの表現が15回出てきます。ここでエレミヤはどんな希望を語っているのでしょうか。その後にこうあります。
「そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはなく、」
どういうことでしょうか。「そのとき」とは、イスラエルの子らがバビロンから解放されるときのことです。バビロンから帰還させられる時です。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。なぜ?なぜなら、そのときは、あの出エジプトの出来事と比べることができないくらい偉大な出来事だからです。皆さん、出エジプトといったらものすごい出来事でした。イスラエルの民は400年もの間エジプトの奴隷して捉えられていましたが、主はそこから彼らを救い出してくださいました。それが出エジプトの出来事です。すばらしい主の救い、解放の御業を成されました。エレミヤの時代から遡ること約900年前のことです。
しかし、これから主が成そうとしていることは、その過去の偉大な出エジプト以上の、それをはるかにしのぐ解放の御業なのです。15節には、それがこのように表現されています。「ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」          「北の地から」とは、もちろん北海道のことではありません。バビロンのことです。彼らはバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、その70年の後に、主はそのバビロンから彼らを連れ上り、彼らの先祖たちに与えた土地に帰らせるというのです。そのとき彼らは、何と言うようになるでしょう。彼らは「イスラエルの神、主は生きておられる」と言うようになります。
ですから、これはバビロンからの帰還の約束が希望として語られているのです。それほど偉大な出来事であると。彼らがバビロンに捕え移されたのは、永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わりません。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえ色あせてしまうほど、すばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトと言えるでしょう。でも新約時代に生きる私たちにとっては。それすら大したことではありません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによる罪からの解放を知っているからです。これこそ真の第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、第二の出エジプトと言ってもいいこのバビロンからの解放も大したことはありません。それはただのひな型にすぎないからです。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事なのです。これ以上の救いの御業はありません。
しかし、エレミヤの時代においては、出エジプトの出来事はすごいことでした。偉大な出来事だったのです。でもバビロンからの解放、バビロンからの救いはもっとすごかった。それは出エジプトの記憶が薄れ、民は「イスラエルの子らを北の地から、彼らが散らされてすべての地方から上らせた主は生きておられる」と言うようになるほどの偉大な御業だったのです。つまり、あの時もすごかったけど、このときの方がもっとすごいということです。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神でもあります。その神は今も生きておられます。その神はあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられることで、あなたをすべての罪から解放してくださいました。その方は今も生きておられるのです。今あなたを生き地獄からも救ってくださいます。あなたを罪の束縛から、バビロン捕囚から解放してくださるのです。何というすばらしいことでしょうか。その希望がここで語られているのです。
皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることかできます。あなたはどのような希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。あの出エジプトの出来事よりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちの希望です。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのは希望です。神はその希望をあなたに与えてくださるのです。希望がないのではありません。確かに希望はあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いということです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられるかもしれませんが、しかし、覚えておいてください。それはあなたを永遠の罪に定めるためではないということを。永遠の罪に定めるための悲劇ではないのです。この悲劇は悲劇で終わらないのです。この悲劇は希望で終わるものなのです。それを経験するときあなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。
しかし、その前に、罪に対するさばきが行われなければなりません。16~18節にそのことが記されてあります。「16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして─主のことば─彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいものの屍で汚し、忌み嫌うべきことで、わたしが与えたゆずりの地を満たしたからである。」」
神様は敵をあらゆる場所に送り込み、彼らを用いてさばきを行います。その様が、漁夫が網を打ってさかなを捕るさまと、狩人が獲物を獲るさまにたとえられています。神のさばきを免れる者は一人もいないということです。アッシリヤとかバビロンはその道具として用いられるわけです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。しかし、忘れないでください。そんな者でも神様は救ってくださるということを。それで終わりではありません。そこからの回復の希望があります。神のあわれみは尽きることはないのです。
Ⅲ.異邦人までも主を知るようになる(19-21)
最後に、19~21節をご覧ください。「19 「主よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。20 人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」21 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」
これは、驚くべき神のあわれみの宣言です。イスラエルの民の回復が、異邦人の回心、異邦人の救いにつながるということが語られています。19節の「諸国の民が」は、異邦人を指しています。イスラエルの民がバビロンから解放されるのを見た異邦の民が主のもとにやって来てこう言うようになるのです。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではないと。」すごいですね。異邦人が自分たちの偶像礼拝の空しさ、愚かしさに気付いて、本物の神、生きている神に立ち返るようになるということです。
「私たちの父祖が受け継いだもの」とは、偶像のことです。それはただの偽りのもので、何の役にも立たない空しいものだ、そのようなものは神ではない、と言うようになるのです。
日本人であれば、父祖から受け継いだものに仏壇がありますが、これは徳川時代に押し付けられたものにすぎません。すべての家には檀家制度が強いられ、そして寺請制度によってどの家にも仏壇が置かれるようになりました。どの家でも死者が出たら仏式で葬式を行わなければならないようにしてキリシタンを締め出そうとしたのです。ただそれだけの理由で強制的に置かれたのです。信仰なんて全く関係なく、先祖たちから受け継いだものにすぎません。形だけです。しかも「仏様」はご先祖様ではありません。仏様とは本尊のことです。ですから、仏壇に手を合わせるというのは、先祖に手を合わせることではなく、そこに祀られている仏様、本尊に手を合わせることなのです。しかし、その本尊は息のないただの偶像にすぎません。仏壇を大切にしないのはご先祖様を大切にしないことというのは嘘です。お坊さんに聞いてもらうとわかります。そこにご先祖様なんて祀られていませんから。それはただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものであり、そのようなものは神ではありません。
エレミヤの時代、そうした周辺諸国の民、異教徒たちが、イスラエルがバビロンから解放されたという驚くべき事実を知り、真の神を求めるようになります。
イスラエルの民は自らの悪い心のゆえに主を捨て、偶像礼拝をし、その結果、神にさばかれてすべてを失い、祖国を失い、バビロン捕囚の民となりました。でも、そのバビロンで70年という期間が終わったとき、驚くべきことに、主は彼らを解放し、祖国に帰してくださいました。神様しかできない御業を成されたのです。
そして今度は、それを目の当たりにした周辺諸国の民はただ驚き、本当にイスラエルの神は生きておられる。自分たちの偶像はこの神と比べたら何の役にも立たないただの造形物にすぎない。しかしイスラエルの神はそうではない。祖国を失ったイスラエルをバビロンから解放し、彼らの土地に帰らせてくださった。これは神にしかできないこと。まさに神業です。イスラエルの主は生きておられる、と認めたのです。皆さん、これが生きた証です。
主はあなたを通してこのような生きた証をなさりたいのです。主はなぜ私にこんな仕打ちをされるのか。なぜこんなにつらい目に遭わせるのか、なぜこんな厳しい扱いをされるのか、と思うことがあるかもしれません。でも、そのようなことを通してまだイエス様を知らない周囲の人たちが、「主は生きておられる」と言うようになるのです。彼らも、自分たちが信じてきた、すがって来た、先祖たちから受け継いだものが空しいものばかり、何の役にも立たないと言うようになります。神は本当にいらっしゃる。聖書の神は本物だというようになるのです。そのような驚くべき主の御業が、あなたを通してもなされるのです。ハレルヤ!すばらしいですね。それが自分の罪の結果通らざるを得なかった悲惨な生涯であっても、です。また、クリスチャンであるがゆえに理不尽な扱いを受けたものであったとしても、です。どのような形であれ、主はそれを用いてあなたを生きた証人とし、あなたの周りの人たちが神を知るようにしてくださるのです。神様のご計画は何とすばらしいでしょうか。そのために主はあなたをちゃんと守ってくださいます。捕囚から解放に至るまであなたを捉えていてくださいます。その苦しみを乗り越えさせてくださる。だからあきらめないでください。捕囚になったらもうだめだ、もう絶望だと言わないでください。主の前にへりくだって、この捕囚はいつか必ず終わるんだ、こういう辛い時がいつまでも続くことはないと信じていただきたいのです。
有名なⅠコリント10章13節のみことばにこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
アーメン!神様はあなたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。すばらしいですね。それは気休めで言っているのではありません。きょうのみことばにあったように、神様はもう既に先取して回復の希望を御言葉の中でちゃんと約束しておられるからです。ですから、私はこれを信じますと、受け入れるだけでいいのです。それが自分の招いたことであろうと、そうでないものであろうと、どちらにしても、主は最後まであなたが耐えられるように守ってくださいますから。最後まで通り抜けることができるように、最後まで乗り越えることができるように、最後まで打ち勝つことができるように、ちゃんと取り計らってくださる。その後で、私たちは変えられて金のように精錬されて出て来て、主の生きた証人とされるのです。あなたを見る者が「主は生きておられる」と言うようになります。偶像礼拝をしていた異教徒が「イスラエルの主はまことの神だ」といつの日かそう信仰告白する日がやってくるのです。
主はあなたにあの出エジプト以上のことをしてくださいます。それは救いの喜びに戻ってくるどころじゃない、さらなる喜びで増し加えてくださいます。あなたを罪から救ってくださった主は生きておられます。そして今もあなたを通してすばらしい御業を成しておられると信じて、このみことばの約束、回復の希望に堅く立ち続けていきたいと思います。

ヨシュア記13

2023年4月26日(水)バイブルカフェ

きょうはヨシュア記13章から学びたいと思います。

 Ⅰ.まだ占領すべき地がたくさん残っている(1-7)

 まず1節から7節までをご覧ください。「1 ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。2 残っている地は次のとおりである。ペリシテ人の全地域、ゲシュル人の全土。3 エジプトの東のシホルから、北は、カナン人のものと見なされているエクロンの国境まで、すなわち、ペリシテ人の五人の領主が支配する、ガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地と、南のアビム人の地。4 カナン人の全土とシドン人のメアラ、アモリ人の国境のアフェクまでの地。5 ゲバル人の地と、ヘルモン山のふもとのバアル・ガドからレボ・ハマテまでの、レバノンの日の昇る方の全域。6 レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地の全住民、すなわちすべてのシドン人。わたしは彼らをイスラエルの子らの前から追い払う。わたしがあなたに命じたとおり、あなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。7 今、この地を九部族とマナセの半部族に相続地として割り当てよ。」」

ヨシュアは、モーセの後継者としてカナン征服という神の使命のために走り抜いてきましたが、そのヨシュアも年を重ねて老人になりました。モーセの従者として40年、そしてモーセの後継者としてイスラエルの民を導いて20年、エジプトを出た時は30歳くらいの若者だったヨシュアも、すでに90歳を越える老人になっていました。それほど主に仕えてきたのですからもう十分でしょう。ゆっくり休ませてあげるのかと思いきや、主はヨシュアにこう仰せられました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」
まだまだ占領すべき地がたくさん残っているので、その地を占領するようにと。神が与えた使命に向かって前進するようにと言われたのです。

その残っている地は2~7節までにあるように、南は海岸地域のペリシテ人が住んでいるガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地等、北はヘルモン山のふもとのバアル・ガドから、レボ・ハマテまでのゲバル人の地、およびレバノンの東側全部。レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地のすべての住民、すなわちシドン人の全部です。こうやってみると、まだかなりの地が残っていることがわかります。その地を占領し、主が彼らに命じたとおりに、その地を九つの部族と、マナセの半部族とに、相続地として割り当てるようにと言われたのです。

人間的に考えるならば、何とも酷なように感じるかもしれませんが、実は、年を重ねても、神の使命のために働き続けるようにという神の言葉の中にこそ、神の深い愛が溢れているのです。というのは、人間にとって幸福とは、至れり尽くせりの世話をし、何もしないで休息のみを与えられることではないからです。それは老人になっても同じで、自分で好きなことをしていることが必ずしも幸せなことではありません。むしろ老年期こそ素晴らしい可能性に満ちた時代であり、その時こそ主のために仕える最高の時でもあるのです。

上智大学のアルフォンス・デーケンという教授が「第三の人生」という本を書いておられますが、デーケン教授はその本の中でこのように言っています。それは「人間が一生涯で発揮する力は、その持っている力のたかだか10%程度にすぎず、残りの90%は眠ったままで使われずにほとんどの人がその一生を終えていきますが、この老年期こそその90%の部分に手がつけられ、大いなる可能性が開花する時です。というのは、若い時にはどうしても自分の意識的な働き、自我が全面的に出てしまうためこの力を発揮することができにくいが、老人になると、体力が失われ、自分の限界に気づくようになるので、そうした無意識の部分が開発されやすくなるのです。しかも若い時には、どうしても自分の願望や欲望に振り回されて、ほんとうに大切な事柄に集中できない傾向がありますが、老年期においては、大切な事柄に集中して取り組むことができるゆとりが生まれるのです。更に、若い時にはどうしても自分の力により頼みがちになるために、ほんとうの意味で神に信頼することができにくいが、しかし、自分の力の限界をわきまえるようになる老年期には、真実な神への信頼や、ゆだねることが可能になるのです。かくして老年期に近づくほど、残された90%へのチャレンジの道が開かれてくるのです。」皆さんはどう思いますか?

聖書を見ると、確かに神はご自身の御心を遂行するにあたり、度々老人を召し出されていることがわかります。たとえば、モーセがイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地へ彼らを導くように召されたのは80歳の時でした。また、アブラハムも75歳の時に、約束の地へ出で行くようにとの召しを受けました。神は老人に大きな使命を与え、そのために用いておられるのです。そして、その召しを受けた老人たちは驚くべき力を発揮して、その使命を遂行しました。

このように、老年期は大きな可能性を秘めた時期でもあるのです。ですから、年を重ねて老人になったと悲観的に捉えるのではなく、年を重ねて老人になった今こそ、今までできなかったことができる大きな可能性に満ちた時と信じて、その使命の実現に向かって前進していかなければなりません。

私たちが神から与えられている約束はたくさんあります。その与えられた約束を自分のものにするに、信仰によってその一歩を踏み出さなければならないのです。ヨシュアは年を重ねて老人になりましたが、彼には占領すべき地がたくさん残されていました。私たちも占領すべき地がまだまだ残されています。何歳になっても、その神が約束された残された地を、信仰によって相続していきましょう。

 Ⅱ.モーセが与えた相続地(8-14)

次に8~14節までをご覧ください。「8 ルベン人とガド人はマナセの残りの半部族と並んで、ヨルダンの川向こうである東側で、モーセが自分たちに与えた相続地を受け取っていた。主のしもべモーセが彼らに与えたとおりである。9 アルノンの渓谷の縁にあるアロエルから、その渓谷にある町、またディボンまでのメデバの全台地、10 ヘシュボンで王であったアモリ人の王シホンの、アンモン人との国境までのすべての町、11 ギルアデ、ゲシュル人とマアカ人の領土、ヘルモン山全域、サルカまでのバシャン全域、12 アシュタロテとエデレイで王であった、バシャンのオグの王国全域。オグはレファイムの生き残りであった。モーセは彼らを討ち、追い払った。13 しかし、イスラエルの子らは、ゲシュル人とマアカ人を追い払わなかったので、ゲシュルとマアカはイスラエルのただ中に住んだ。今日もそうである。14 モーセは相続地をレビ部族だけには与えなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への食物のささげ物こそが彼らへのゆずりの分である。」

8節に「ルベン人とガド人はマナセの残りの半部族と並んで、ヨルダンの川向こうである東側で、モーセが自分たちに与えた相続地を受け取っていた。主のしもべモーセが彼らに与えたとおりである。」とあるように、ここには、ヨルダン川の向こう側、すなわち東側のほうで、モーセがマナセの半部族とともにルベン人とガド人に与えた相続地について記されてあります。モーセは、ヨルダン川の向こう側にいたエモリ人の王シホンと、またゴラン高原であるバシャンのオグの王国を打ち、彼らを追い払い、そこを彼らに相続地として与えました。しかし、13節をご覧いただくとわかりますが、ゲシュル人とマアカ人とを追い払いませんでした。それでどうなったかというと、彼らはイスラエルの中に住むようになったのです。

Ⅱサムエル13章37~38節をお開きください。そこには、ダビデの息子アブシャロムが王の怒りを買った時、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げたことが記されてあります。なぜゲシュルに逃げたのか?ダビデの妻の一人がゲシュル人だったからです。また、Ⅱサムエル20章14~15節には、ダビデに謀反を起こしたシェバも、マアカ人の住むところに逃げていたことがわかります。
このように、イスラエルにとって、この時彼らを追い払わなかったことが、後で悩みの種になっていることがわかります。イスラエルは相続地が与えられたのに、主の命令に従ってすべての敵を追い払うことをせず、一部の住民をそこに住むことを許したことで、自らに悩みを招くことをしたのです。

それは、自分の肉を追い払わないでそのままにしておくと、信仰に死を招くことになるということを示しています。ガラテヤ5章24~25節には、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。また、コロサイ3章8節には、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりがそのまま偶像礼拝なのです。」とあります。自分の肉は改善してよくなるものではないので、殺してしまいなさい、と命令されているのです。ぼろ雑巾はいくら洗濯しても、真っ白にはならないので捨てるほかないように、神は私たちの肉という「ぼろ雑巾」を洗って下さるのではなく、キリストの十字架によってきっぱりと捨て去り、全く新しい心、新しい霊を与えて下さるのです。この肉が対処されていないと、ある時は喜んで「ハレルヤ」と叫び、舞い上がっていても、翌日になると、些細なことで苛立ったり、気がくじかれたりして、喜べなくなってしまうことになります。エルサレムに入城したイエス様を迎えた群衆も、初めは「ホサナ。ホサナ。」と叫んでイエス様を歓迎しましたが、数日後には、一変して「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫んでしまいました。これがみじめな人間の肉の姿なのです。キリストはこのような「肉」を殺し、「新しいいのち」に生かすために十字架にかかって死んで下さいました。ですから、私たちは信仰によって肉を捨て去り、キリストのいのち、聖霊の恵みに生かされていかなければなりません。信仰に、妥協は禁物なのです。多少残しておいても、さほど問題ではないという思いが、後で大きな問題へと発展していくのです。

ところで、14節には、「ただレビの部族だけには、相続地が与えられなかった。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であった。」とあります。このことは、33節にも言及があります。
このレビ人の相続地については21章に詳しく記されてありますが、彼らには相続地はなく、住むべき町々と、家畜のために放牧地とが与えられました。なぜでしょうか。主が約束されたとおり、イスラエルの神、主への火によるささげ物、それが彼らの相続地だったからです。つまり、彼らは他のイスラエル人が携えてくるいけにえの分け前を受け取ることによって、生活が支えられていたということです。33節には、「主が彼らの相続地」であったとあります。つまり、神そのものが彼らの受け継ぐべき相続地であったというのです。どういうことでしょうか。レビ人は他のイスラエル人のように見える形での相続地よりも、神ご自身によってもたらされる圧倒的な主の臨在、主の栄光を受けるということです。それは、主への礼拝の奉仕に専念できるということです。この世の仕事ではなく主の仕事に直接携わり、主に集中して生きることができる。しかも、この世の生活もちゃんと保証されているのです。これほどすばらしい相続はありません。レビ族はそのすばらしい相続を受けるのです。

一体、レビ族とはどういう部族なのでしょうか。出エジプト記32章を開いてください。あの40年の荒野の時代に、イスラエルの民はしばしば不信仰に陥りました。真実な神をないがしろにし、偶像崇拝に陥る時もありました。このエジプト記32章には、その時の出来事が記されてあります。モーセが神に祈るためにシナイ山に上って行ったとき、イスラエルの民はモーセがなかなか戻って来ないのに嫌気がさし、先だって行く神を造ってくれと、金の子牛を造って拝みました。それを見たモーセは怒りを燃やし、宿営の入口に立って、こう言いました。「だれでも、主につく者は、私のところに」、するとこのレビ族がみな、彼のところに集まったのです。そして、宿営の中を行き巡り、偶像崇拝をしている者を殺したのです。レビ族は、モーセのことばどおりに行いました。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れました(出エジプト記32:26~28)。つまり、この時レビ族だけは主に対する忠実さを失わず、モーセの教えを守り、その指導に従って、堕落していった人々を粛正していったのです。これがレビ族です。そしてこの時、モーセはこれを非常に喜び、彼らは以後神の祝福を得、祭司を始めとする主の聖なる務めにあずかる群れとして、引き上げていったのです。イスラエル12部族の中で、このレビ族はその信仰のゆえに、神に直接仕えるという仕事を専門にするようになったのです。

ゆえにこのレビ族は「聖なる部族」なのです。彼らは神に直接仕える仕事に与ったため、他の部族のように生産活動というものをしませんでした。それに対して、残りの十一の部族は生産活動を行い、それによって得た農産物、あるいは家畜の十分の一を神に献げました。そしてその十一部族の献げ物によってレビ族は養われていったのです。とすれば、単純に計算すると、レビ族は他の部族よりも豊かであったということになります。他の部族は1割を神に献げ、残りの九割で生活しましたが、レビ族は十一部族分、すなわち十一分が与えられていたことになります。しかし、その領地の分配ということにおいては、彼らは何の割り当て地も受けませんでした。

いったいなぜレビ族には相続地が与えられなかったのでしょうか。それは主が彼らの相続地であったからです。つまり、神がすべてを与え、満たしてくださるからです。この世の物によって養われるのではなく、主なる神の御手によってのみ養われなければならないという意味です。ですから、神の業に直接携わる者は、神からのみ養われるという姿勢が求められるのであって、この世の仕事に心を動かされたり、手を染めるようなことがあってはならないのです。ただ神様を仰ぎ求め、神様からその糧を得ていくべきなのです。確かに、パウロは生活の糧が得られなかった時にテントメーカーとして働きましたが、それは必ずしも正しいことであったというよりも、そのような必要があったからです。パウロがそのようにしたのは、あくまでも献金について理解していなかった人をつまずかせることがないようにという配慮からだったのです。働き人がその報酬を得るのは当然のことなのです(Ⅰコリント9:10)。神の業に携わる人に求められるのは、レビ人がその務めに専念したように、もっぱら神の働きに集中することなのです。

であれば、イスラエルの残りの十一の部族の心構えも大切です。レビ族以外の部族は収穫の十分の一を捧げて、レビ族の生活を豊かに支えました。従って同じように信徒は喜んで十分の一を捧げ、主の働きに携わっている人々を支えていかなければなりません。このルベン、マナセなどの十一部族が十分の一を献げてレビ族を養ったように、真剣に主に献げて主の働き人を支えていかなければならないのです。なぜなら、その献げるということは単にお金や物を献げるというだけでなく、自分自身を主に献げるという行為だからです。つまり、自分自身を主に差し出す「献身」ということなのです。だとしたら、私たちは喜んで精一杯の献げ物、できれば十分の一の献げ物を持って主に御前に出て行くべきではないでしょうか。そして喜んで主の前に献身しようではありませんか。

Ⅲ.ルベンの半部族、ガド族、マナセの半部族に与えられた相続地(15-33)

次に、15~23節までをご覧ください。「15 モーセは、ルベン部族の諸氏族に相続地を与えた。16 彼らの地域は、アルノンの渓谷の縁にあるアロエルから、その渓谷にある町、またメデバの全台地、17 ヘシュボンと、台地にあるすべての町、ディボン、バモテ・バアル、ベテ・バアル・メオン、18 ヤハツ、ケデモテ、メファアテ、19 キルヤタイム、シブマ、谷間の丘にあるツェレテ・ハ・シャハル、20 ベテ・ペオル、ピスガの傾斜地、ベテ・ハ・エシモテ、21 台地のすべての町、ヘシュボンで王であったアモリ人の王シホンの全王国。モーセはシホンと、その地に住む、シホンの首長であったミディアンの君主たち、すなわち、エウィ、レケム、ツル、フル、レバを討った。22 これらの刺し殺された者に加えて、ベオルの子、占い師バラムをイスラエルの子らは剣で殺した。23 ルベン族の地域は、ヨルダン川とその地域である。これがルベン族の諸氏族の相続地で、その町々とそれらの村々である。」

ここには、モーセがルベンの半部族に与えた相続地について言及されています。彼らは、ちょうど死海の東側、モーセが最後に上ったネボ山があるところに割り当てられました。
ところで、22節には、「イスラエル人は、これらを殺したほか、ベオルの子、占い師のバラムをも剣で殺した。」とあります。ここでわざわざ、ベオルの子、占い師のバラムのことが言及されています。この占い師バラムについては、民数記22章に登場しますが、イスラエルを呪うためにモアブの王であったバラクから雇われた人物です。しかし、彼はイスラエルを呪うどころかイスラエルを祝福してしまいました。そこまではよかったのですが、ついつい金に目がくらみ、モアブの王バラクに助言して、イスラエルの宿営にモアブの娘を起こり込ませてしまいました。その結果、イスラエルの民はモアブの娘たちとみだらなことをし、娘たちの神々バアル・ペオルを慕い、それを拝んでしまいました(民数記25:1-2)。それで主の燃える怒りが彼らに臨み、そのバアル・ペオルを拝んだイスラエルの民の2万4千人が神罰で死んだのです。ほんとうに恐ろしい事件でした。その事件を招いたのがこのバラムだったのです。彼は、金によって盲目になってしまいました。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とパウロは言いましたが、こうした貪りは、神の厳しいさばきを招くことになるのです。

23節には、「ルベン人の地域は、ヨルダン川とその地域であった。これはルベン族の諸氏族の相続地であり、その町々と村々であった。」とあります。ご存知のように、ルベンはヤコブの最初の子どもです。長子は二倍の分け前を受け取ることになっていますが、彼はヤコブのそばめビルハと寝たために、その祝福を失ってしまいました。創世記49章4節には、父ヤコブが死ぬ前に子どもたちを祝福した際、ヤコブはルベンに対して、「あなたは他をしのぐことはない。」(創世49:4)と預言しましたが、そのとおりに、ルベン族ではなく、ヨセフ族がマナセとエフライムの二部族によって、二倍の分け前を受けました。

次に、24~28節までをご覧ください。「24 モーセは、ガド部族、すなわちガド族の諸氏族に相続地を与えた。25 彼らの地域はヤゼル、ギルアデのすべての町、アンモン人の地の半分で、ラバに面するアロエルまで、26 ヘシュボンからラマテ・ハ・ミツパとベトニムまで、マハナイムからデビルの国境まで。27 谷間ではベテ・ハ・ラム、ベテ・ニムラ、スコテ、ツァフォン。ヘシュボンの王シホンの王国の残りの地、すなわち、ヨルダン川とその地域では、ヨルダンの川向こう、東の方、キネレテ湖の端まで。28 これがガド族の諸氏族の相続地で、その町々と村々である。」

ここには、ガド族に与えられた相続地について記されてあります。彼らに与えられた地域は、ヤゼルとギルアデのすべての町々、アモン人の地の半分で、ラバに面するアロエルまでの地、ヘシュボンからラマテ・ハツミバドとベトニムデまで、マナハイムからデビルの国境まで。谷の中ではベテ・ハ・ラムと、ベテ・ニムラと、スコテと、ツァフォン。ヘシュボンの王の王国の残りの地、ヨルダン川とその地域でヨルダン川の向こう側、東のほうで、キネレテ湖の端まででした。巻末の地図「12部族に分割されたカナン」を見ていただくと一目瞭然です。

最後に、29~33節までをご覧ください。「29 モーセは、マナセの半部族に相続地を与えた。それはマナセの半部族の諸氏族に属する。30 彼らの地域はマハナイムからバシャン全域、バシャンの王オグの全王国、バシャンのハボテ・ヤイル全域にある六十の町、31 ギルアデの半分、バシャンのオグの王国の町アシュタロテとエデレイ。これらは、マナセの子マキルの子孫、すなわち、マキル族の半分の諸氏族に属する。32 これらは、ヨルダンの川向こう、エリコの東側にあるモアブの草原で、モーセが割り当てた相続地である。33 レビ部族にはモーセは相続地を与えなかった。主が彼らに約束されたとおり、イスラエルの神、主が彼らへのゆずりである。」

ここには、マナセの半部族に与えられた相続地について記されてあります。マナセの半部族は、ガド族のさらに北の地域、バシャンの土地を得ました。そして、32節と33節には、モーセがヨルダンの向こう側、東のほうのモアブの草原で、彼らに与えた相続地の総括が述べられています。

このように、ヨシュアが割り当てをする前に、すでにモーセによってルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族に、割り当て地が与えられていました。なぜ彼らにだけ与えられていたのでしょうか。思い出してください。そこは肥沃な地で、家畜を放牧するのに適していたので、彼らはぜひともそこが欲しいとモーセに要求したからです。すなわち、それは主によって命じられたからではなく、彼らの欲望から出た一方的な要求だったのです。

そのような人間の思いから出たことは、結局、その身に滅びを招くことになります。これらの地域はモアブ人やアモン人、アラム人などの外敵に常にさらされることになり、ついにはアッシリヤによって最も早く滅ぼされてしまうことになります。そして完全に異邦人化されてしまうのです。どんなに人間の目で見た目には良くても、神の判断を待たないと、破滅にもっとも近いところになってしまうということでしょう。アブラハムの甥のロトもそうでした。彼が選択した地は人の目にとても潤っていたかのように見えたソドムとゴモラの近くでしたが、そこはやがて神によって滅ぼされてしまいました。

ここから学ぶ教訓は何でしょうか?それは、たとえそれが人の目でどんなに肥沃で潤っているような地でも、神が導いてくださるところでなければ、それは空しいということです。
「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」(詩篇16:6)
この信仰によって、ますます主に拠り頼み、主が与えてくださる地を、心から待ち望むものでありたいと思います。

 

堅固な青銅の城壁とする エレミヤ書15章15~21節堅固な青銅の城壁とする 


聖書箇所:エレミヤ書15章15~21節(エレミヤ書講解説教33回目)
タイトル:「堅固な青銅の城壁とする」
きょうは、エレミヤ書15章後半から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節に「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」とあります。
前回のところでエレミヤは自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔したほどでした。それはエルサレムの滅亡という極めて残酷で悲惨な預言を、ユダの民に語らなければならなかったからです。そして、それを語ったとき国中が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。
それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
アーメン!すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。主は必ず彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。
しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。ここで彼は再び神に不平をもらしています。それが15~18節の内容ですが、それに対する神の答えが、この「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」ということでした。
 私たちはクリスチャンになって予期せぬ出来事、試練に直面すると、「主よ、どうしてですか」と問いかけたくなることがあります。きょうの個所で、エレミヤはまさにそのような気分になっていました。そして神を疑い、神に不平をもたらしたのです。しかし神はそんなエレミヤを受け入れ、ご自身のもとに帰らせ、この約束のことばを与えてくださったのです。きょうは、この主の約束のことばから、共に主の励ましと慰めを受けたいと思います。
Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

 まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」
これは、エレミヤの祈りです。この祈りも実に正直で、ストレートな祈りです。自分の感情を露わにして、言葉で飾るようなことはしていません。自分の思いの丈をぶつけるような祈りです。
15節には、あなたのために私はそしりを受けていますと言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えています。
16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したのです。そしたら、それは彼にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。皆さんも体験しているでしょう。神のみことばが、楽しみとなり、喜びとなります。リビングバイブルでは「有頂天となった」と意訳していますが、そういう意味です。原語では、「心の喜びとなり」は、飛んで、跳ねて、踊って喜ぶというエキサイティングな喜びの様を表していますから。みことばを食べたそのあまりの美味しさに、そしてそれが自分の身になって、それによって生きることがあまりにも楽しくて、もう小躍りするくらいエキサイティングな人生だというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。
でもそれは患難や苦難や試練が無くなるということではありません。神のみことばを食べて、それを楽しみ、小躍りして喜んでも、患難や苦難、試練があなたを襲うことがあります。人々から疎(うと)まれたり、バカにされたり、憎まれたり、蔑まれたりすることが。でも違うのは、そのような中に置かれても、みことばがあなたを支えてくれるということです。エレミヤは神のみことばによって支えられていました。彼が神のみことばを食べて、喜んで、心の楽しみを味わっていなければ、簡単に潰れていたでしょう。
それは私たちにも言えることです。みことばを食べて、みことばを味わい、みことばを楽しみ、みことばを心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!教会に行くのを止めます!クリスチャン止めます!人生止めます!となってしまいます。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかもその倒れ方はひどいものでした。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは、イエス様のみことば、神のみことばです。イエス様のことばを聞いて、それを食べ、それを楽しみ、それを喜ぶ人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることはありません。
それでも、エレミヤは傷ついていました。主のみことばを食べ、それを楽しみ喜んでも、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言います。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」
これはどういうことかというと、「あなたは噓つきだ!」ということです。エレミヤは神様に対して、あなたは嘘つきじゃないですか。なぜ私はこんな目に遭わなければならないのですか。あなたは約束されたじゃないですか。あなたはいのちの水の泉だと。でもあなたに頼っても、欺く小川の流れじゃないですか。この「小川」とは、ワディと言われる水なし川のことです。この川は、雨季は氾濫することがありますが、乾季は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういうことです。あるようでない。あるように見せかけて実際にはありません。エレミヤは、神をこの当てにならない小川にたとえたのです。当てになるいのちの水の泉だと思ったのに、何の役にも立たないじゃないですか。祈っても答えてくれない。何にも変わらない。全くの期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきだ」なんて。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼にもなっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いの丈を正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信頼し続けていていいんですかと。私たちもこのようなことがあります。祈っても、祈っても答えられないとき、落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることが。でもエレミヤのようにそれを正直に、ストレートに神に訴えることがなかなかできません。隠してしまいます。もう相手を赦せない、憤りや怒りでいっぱいなのに、それを押し殺して、敬虔に祈らなければならないと思っているのです。
「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛めています。このような目に遭って非常に苦しんでいます。でも、私は何としてもあなたのみことばに従ってあの人を赦し、あの人を愛し、あの人のために祈りたいと願っています。主よ、どうか、あなたの力を与えてください。あなたの聖霊を注いでください。アーメン」
すばらしい祈りだと思います。でも本音はどうかというと、憎らしいのです。赦せないのです。ムカついてムカついてしょうがないのです。それなのに、時に私たちは心にないことを言ってしまうことがあります。それを何というかというと「偽善」と言います。偽善的にはなりたくないと思っていますが、でも自分を騙して、自分を欺いて美辞麗句を並べ、いかにも敬虔なふりをしていることがあるのです。でも内心はもう腹が立って、赦す気などみじんもありません。でも一応クリスチャンだから、そう祈っておかないといけないから、表面的に祈るわけです。でもそれは口先だけの祈りにすぎません。ただきれいな言葉を並べているだけです。でも神様はあなたの心の中を全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はないのです。あなたの正直な気持ちを神様にぶつけていいんです。なかなか祈れないという人は、正直になっていないからです。何かいいことを言わなければならないと思っているのです。なんか高尚なこと、霊的なこと、敬虔なことを祈らなければならないと思っています。聖書的な言葉使いをしなければならないと思っている。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。他の人の前でも、そんな感情を露わになんてできないので自分の本音で祈れないのです。だから、祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。なかなか正直になれなくて、偽りのもう一人の自分が祈っているかのような、そんな二重人格の感覚さえ抱いてしまうのです。でも、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりなんてする必要がありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に神様にぶつけていいのです。
1993年と2000年に、私は韓国に行く機会がありました。韓国の教会では、こういう祈りが多かったと思います。当時ホーリネス系の教会では世界で一番大きいと言われていたソウルにある光林教会では大きな祈祷院を持っていて、そこに宿泊していたのですが、人々が徹夜祈祷のために毎晩のようにやって来るのです。何を祈っているのかわかりませんが、犬の遠吠えのように「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っているのです。私も隣の部屋で祈っていましたが、うるさくて祈れないのです。担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈ることですと。韓国人はそういう国民性なんですかね。韓国の方はとてもよくおもてなしをしてくれますが、祈る時は他の人は関係ありません。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会で行われていた徹夜祈祷会に行った時は驚きました。礼拝形式で集会が持たれると、その後で自由な祈りの時が持たれるのですが、多くの兄姉が「チュよ、チュよ」と講壇にひざまずいて祈るのです。飢えた魚がえさを求めるように。あれは祈りを越えていました。叫びです。周りの人がどう思うかなんて関係ないのです。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。
それでいいんです。というのは、このエレミヤの不平不満、疑い、つぶやきに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんな私を疑うなんてとんでもないヤツダ!とか、もうお前のような者はわたしのことばを語る資格などない!とか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを喜んで受け入れてくれました。正直によく言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。嘘、偽りがありません。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それがエレミヤと神とのコミュニケーションでした。祈りとは、まさにコミュニケーション(対話)ですね。それがこの中に見られるということです。
私たちはこのようなコミュニケーションを神様と取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈りますという通り一辺倒の祈りではなかったか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わっていなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に生身の人間に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあります。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださいますから。
ローマ8章26節にそのように記されてあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
 感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。そして、たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエス様が、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
ですから、決して神に対して不正直にならないでください。仮面を被ってごまかさなくてもいいのです。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢できません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」
でも、これで終わってはいけません。これを神に訴えるとはどういうことかというと、だから助けてください!ということです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにするということではなく、神に助けを求めるのです。神はあなたの本音を知っておられます。正直な気持ちを知っておられます。それをまず神にぶつけない限り何も始まりません。それを隠したままでことば巧みに自分自身を何か霊的な者であるかのように見せかけるというのは、神が忌み嫌うべきことなのです。
Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)
次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。エレミヤは、「どうしてですか、主よ、私の痛みはいつまでも続き、私の傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは嘘つきです。あの欺く小川の流れ、当てにならない流れのようになられるのですか。」と赤裸々に訴えると、主はエレミヤにこう言いました。19節です。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」
エレミヤのつぶやき、不平に対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神を疑ったからではありません。神に本音で訴えたからではありません。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであることに対して失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていたからです。いっそのこと、民といっしょになったほうがよっぽど楽ではないかと思っていました。
そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは、それが疑いとなって現れていました。神は欺く小川のようなのか、だったらもう何も信じられない。そういう思いです。それは預言者として失格です。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていました。これは、エレミヤの生涯で最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないで、まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。
毎週日曜日の礼拝で私たちは主の祈りをします。大切な信仰告白です。でも問題は、この告白の内容を信じることができずに、立ち止まってしまうとき、人生の重さに押さえつけられてこれ以上信じられないとき、エレミヤが経験したように信仰が崩れ落ちるのを経験するとき、一体これが何を意味するのかということです。深い疑いに陥ることがあります。そのようなとき、イエス様は「わたしはあなたがたのために祈ります」と語り掛けてくださいます。信仰が保たれるように、私たちの信仰が無くならないように、イエス様が私たちのために祈ってくださるのです。最後まで私たちは信じることができます。なぜなら、私たちのためにイエス様が祈ってくださるからです。私たちのためにイエス様が信じておられるからです。これは「驚くべき恵み」です。自分の信仰が実につまらなく、取るに足らないと感じるときがあります。まさにそのとき、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈ってくださるキリストのリアリティーを体全体で知ることになります。このような経験こそ、あなたのたましいと体に、鳥肌の立つほどの最も大きな慰めとなるのです。
それから、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、「彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」という言葉です。どういうことでしょうか。彼は神の代弁者として、民に影響を与えるはずであり、民に影響されるべきではないということです。
Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)
最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えておられます。20~21節をご覧ください。それは、主はあなたを堅固な青銅の城壁とするということです。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」
エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。
使徒パウロは、Ⅱコリント4章7~9節でこのように言っています。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
この「宝」とはイエス・キリストご自身のこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「の」を取ってしまうと、ただの「土器」です。私たちは皆「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。
私たちの人生にはポッカリ穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇します。「突然病気になった」あるいは、「事故に遭ってしまった」「会社が倒産した」「会社は大丈夫だけれども、自分が失業した」「愛する人を突然亡くした」というようなことがあります。
そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明け、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。