砕かれた器 エレミヤ書19章1~15節砕かれた器 


聖書箇所:エレミヤ書19章1~15節(エレミヤ書講解説教38回目)
タイトル:「砕かれた器」
きょうは、エレミヤ書19章から「砕かれた器」というタイトルでお話します。前回は、18章から、陶器師と粘土の話でしたね。覚えていらっしゃいますか?神様は、神様とご自身の民との関係を陶器師と粘土のたとえで語ってくださいました。そして神様というのは陶芸家の陶器師のようであられて、その神様に対して私たちはろくろに乗せられた粘土のようなものであるというたとえですね。そして陶器師であられる神様は、土くれにすぎない私たちをろくろで美しい人に作り変えてくださるということでした。私たちはみな、陶芸師であられる神様の手の中にあって、神様はご自身の目的に従って、私たちを美しい人に作り上げてくださいます。
今日の箇所には、その逆のことが言われています。主はエレミヤに、行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老や年長の祭司たちとベン・ヒノムの谷に出かけ、同行している人たちの前で、その瓶を砕くようにと言われます。そして彼らにこう告げなければなりませんでした。11節、「万軍の主はこう言われる。「陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。」
これは、イスラエルの民が修復不可能なまでに砕かれるということを象徴しています。砕かれた器は二度と直すことはできません。ですから、その前に悔い改めなければなりません。今日は、このことについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.ベン・ヒノムの谷で(1-9)
まず、1~9節をご覧ください。6節までをお読みします。「1 主はこう言われる。「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、2 陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。3 『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。4 彼らがわたしを捨てて、この場所を見知らぬ所としたからである。彼らはこの場所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々に犠牲を供え、この場所を咎なき者の血で満たし、5 バアルのために自分の子どもたちを全焼のささげ物として火で焼くため、バアルの高き所を築いた。このようなことは、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかった。6 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば──。そのとき、もはやこの場所はトフェトとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。」
主はエレミヤに、「行って、土の焼き物の瓶を買い、民の長老と年長の祭司のうちの数人とともに、陶片の門の入り口にあるベン・ヒノムの谷に出かけ、そこで、わたしがあなたに語ることばを叫べ。」と言われました。ベン・ヒノムの谷は、エルサレムの南にある谷で、それは「陶片の門」と呼ばれる門の入り口にありました。この「陶片の門」は、新改訳聖書第三版では「瀬戸のかけらの門」と訳されています。陶器師が瀬戸物のかけらを捨てていた場所です。これはおそらくネヘミヤ記に出てくる「糞の門」のことではないかと思われます(2:13)が、今でも、エルサレムの城壁の南の入口が「糞の門」と呼ばれています。そこは最も低い位置にあって、瀬戸物のかけらとか排泄物、その他のごみが焼却される場所になっています。そこに出かけて行って、彼らに主のことばを語るようにと言われたのです。
それはどのような内容でしょうか。3節にこうあります。「『ユダの王たちとエルサレムの住民よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ、わたしはこの場所にわざわいをもたらす。だれでもそのことを聞く者は、両耳が鳴る。」
神がユダの地にわざわいをもたらすというのです。その理由は4~6節にあるように、彼らが神を捨てて偶像に仕え、罪のない者の血を流し、バアルに子どもたちを全焼のいけにえとしてささげたからです。人をいけにえとしてささげること、人身御供(ひとみごくう)とも言いますが、これは、神が最も忌み嫌われる罪です。このような不従順の結果、ベン・ヒノムの谷は「虐殺の谷」と呼ばれるようになります。主はそんなことを命じたこともなく、語ったこともなく、思い付きもしなかったのに、彼らは平気でそのようなことをしたからです。新約聖書では、これが「ゲヘナ」を意味する言葉として用いられるようになりました。地獄ですね。それは永遠に苦しむ場所を象徴しています。神様が命じたこともなく、語ったことでもなく、思いつきもしなかったことを行った結果、このような結果を招くことになってしまったのです。
それは具体的には、7~9節にあるように、バビロン捕囚のことを指しています。「7 また、わたしはこの場所で、ユダとエルサレムのはかりごとを打ち砕く。わたしは敵の前で彼らを剣で倒し、また、いのちを狙う者の手によって倒し、その屍を空の鳥や地の獣に餌食として与える。8 また、わたしはこの都を恐怖のもと、また嘲りの的とする。そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見てあざ笑う。9 またわたしは、包囲と、彼らの敵、いのちを狙う者がもたらす窮乏のために、彼らに自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。彼らは互いに、その友の肉を食べ合う。』」
「ユダとエルサレムのはかりごと」とは、ユダの民の考えや計画のことです。神様は、不従順な人々の考えや計画を打ち砕かれます。彼らの知恵までもむなしくされます。民は剣で殺され、その死体は動物の餌食となり、町はあざけりの的となります。そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見てあざ笑うようになります。そればかりではありません。そうしたことによってもたらされる窮乏のために、何と自分の息子の肉、娘の肉を食べるようになるというのです。まさに、生き地獄です。そこはまさにゲヘナ、地獄のようです。果たしてこれが実際に起こることになります。彼らはバビロンによって虐殺され、殺された民の死体がそこを覆うようになるのです。また、彼らのいのちを狙う者がもたらす窮乏のために、自分の息子、娘の肉を、その友の肉を食べるようになります。エレミヤが書いた哀歌4章10節には、こうあります。「あわれみ深い女たちが、自分の手で自分の子を煮た。娘である私の民が破滅したとき、それが彼女たちの食物となった。」このようなおぞましいことが実際に行われるようになりました。
アダムとエバが神のみことばに従わず、神との分離、つまり霊的な死を味わったように、ユダの民も死とわざわいを味わうようになるのです。イスラエルは、元々、国々の中から神の栄光を現わす特別な民として召されましたが、不従順によって恥とあざけりの対象へと転落してしまいました。世のすべての主権と権威は神の御手の中にあります。神は高くもされるし低くもされます。私たちはその神の御前に恐れおののき、すべてのことにおいてみことばに従って生きる者でなければなりません。祝福とのろいは、みことばに従うかどうかにかかっているのです。
それは子どもが生まれる時も同じです。子どもが生まれるとき、親は子どもに何も要求しません。親が責任をもって愛情をたっぷり注いで育てます。しかし、子どもが成長していくにつれ、少しずつ話を理解し、分別がつくようになると、親は子どもに従うことを求めます。「お父さんとお母さんの言うことをよく聞くように。」と。もし親がこのようなことを一切求めないなら、子どもは何が正しいかを判断することができなくなるからです。子どもが従わない時には、時にむちで打つこともあります。そのように従うことを学ぶことによって、子どもは立派な人に成長していくことができるからです。
神様も同じです。神は私たちをご自身の子として扱っておられます。神は私たちをご自分の子としてくださったとき、つまりイエス様を信じたとき、何も要求なさいませんでした。エペソ1章にあるように、神様は、世界の基の置かれる前から、キリストにあって私たちを選び、ご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ救われるように定めておられました。私たちがイエスによる救いを受けることができるように道を開いていてくださったのです。アーメン!また、聖霊を送り、信じる心を起こさせ、「イエスは私の救い主です」と告白できるようにしてくださいました。アーメン!そして、自分でもわからないうちに全く新しく生まれ変わり、神の前に新しく造られた者にしてくださいました。アーメン!すべては神の恵みです。私たちの力や努力によるのではありません。ただ神が私たちを憐れんで、私たちがイエス様を信じることができるようにしてくださったのです。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。エペソ2章8節には「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」とあります。それは私たちから出たことではなく、神からの賜物、一方的な恵みなのです。
しかし、一端イエス様を信じて新しく生まれ変わった神の子どもには、従うことが求められます。神の子どもなのですから、父なる神の御心と一致した生き方が求められるのです。勿論、それさえも神の助けがなければできません。聖霊の助けと力がなければ、神に従うことができないのです。それさえも聖霊の働きによるのです。
ですから、使徒パウロはこう言っているのです。「3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:16-18)
  これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。御霊なる主が私たちを主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、私たちに求められていることは何かというと、主に向くということです。主に向くなら、心に掛かっているおおいが取り除かれるからです。心のおおいが取り除かれる秘訣は、「主に向く」ことなのです。主に向かないでどんなに聖書を読んでも、おおいが取り除かれることはありません。神のことばに従うことができないのです。
みなさんは、太宰治という作家をよくご存知だと思います。彼は、日本の作家の中でも一番聖書を愛読した人ではないかと思いますけれども、彼の作品には、しばしば聖書の言葉が引用されています。彼はイエス・キリストの言葉に感動して、その教えに必死に従おうとしました。ある意味で、太宰治はほとんどクリスチャンでした。でも、ほとんどクリスチャンというのとクリスチャンであるというのでは、とても近いようでも全然違います。
彼はほとんどクリスチャンでした。でも、本当の意味でクリスチャンにはなれませんでした。彼は、最後までイエス・キリストの十字架の意味が分かりませんでした。あのキリストの十字架が自分の罪のためであったことに気付かなかったのです。だから、彼はキリストの復活も、キリストの昇天も、キリストの再臨も信じることができなかったのです。
彼がいかに聖書を愛し、いかに聖書に精通していても、いかにキリストの教えに感動して従おうとしても、聖書が教える唯一の救いの道であるイエス・キリストとの個人的な関係を持たなければ、クリススチャンになることはできません。イエス・キリストを救い主として心の中に受け入れること、つまり、「主に向く」ことをしなかったために、太宰治は、聖書の周りをただぐるぐる、ぐるぐる回るだけで終わってしまったのです。
それは、私たちも同じです。どんなに聖書の話を聞いても、どんなに聖書を研究しても、たとえ聖書を全部丸暗記したとしても、聖書が私たちに与えてくれる新しい命を私たちの内側に受け取るまでは何も起こりません。神に従うこともそうです。それさえも、御霊なる主の働きによるのです。そのために必要なことは何か。「主に向く」ことです。どんなに自分の力で神に従がおうとしてもできないからです。でもあなたが主に向くなら、あなたがイエス・キリストに心を向けるなら、その時、あなたの心のおおいは取り除かれて、あなたは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。キリストにある新しい命の歩みが始まっていくのです。それが霊的に成熟している人です。
Ⅱ.砕かれた瓶(10-13)
次に、10~13節をご覧ください。「10 そこであなたは、同行の人たちの目の前でその瓶を砕いて、11 彼らに言え。『万軍の【主】はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。12 わたしはこの場所と─主のことば─その住民にこのようにする。わたしはこの都をトフェトのようにする。13 エルサレムの家々とユダの王の家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚される。』」
神のことばが目に見える形で伝えられます。こういうのを何というかというと、オブジェクトレッスンと言います。実物教育ですね。言葉で行ってもわからないので、それを目に見える形で見せるのです。百聞は一見にしかずということばがありますが、まさにそうです。聞かせるだけでなく実際に見させるのです。前回は陶器師が粘土をこねて新しい器に作り上げるということを示すオブジェクトレッスン、今回は逆です。造り上げる陶器師が作り上げた物を砕くのです。それが、焼き物の瓶を砕くという行為です。この焼き物は、イスラエルの民を象徴していました。彼らは柔らかい粘土ではなく堅い器になっていました。主はエレミヤに、その瓶を同行した人たちの前で砕くようにと言われました。砕かれた器は、二度と元に戻すことがきません。そのようにイスラエルの民ももう二度と元に戻ることはできません。その頑なさのゆえに修復不可能なほどに砕かれるのです。たとえ陶器師が水をかけても無理です。こういうのを何というかというと「不憫」(不瓶)と言うんです。瓶は瓶でも不憫です。これがエルサレムとその住民に降りかかる運命です。神様は、この神の都エルサレムをトフェトのようにすると言われました。まさに火で焼かれ、廃墟と化します。
エルサレムの家々、すなわち、屋上で天の万象に犠牲を供え、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いだすべての家々は、トフェトの地のように汚されることになります。勿論、罪を認めて神に立ち返り、悔い改めるなら、このような神のさばきを免れることができます。私たちはいつ滅ぼされてもおかしくない者です。それなのに、そんな私たちがまだ生かされているとしたら、それは想像もできないほどの神のあわれみと、人知をはるかに超えた神の恵みによるのです。
「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
これを逃したら、もしかしたら明日は来ないかもしれません。この恵みの時、救いの日に神に立ち返らなければなりません。神のあわれみ、神の恵みを無駄にしてはならないのです。
 実は、この言葉は、旧約聖書イザヤ書49章8節からの引用です。イザヤはやがてイスラエルがバビロンに捕えられ捕虜として連れて行かれかれることを預言しました。その時彼らは奴隷として、何の希望も見いだせない日々を過ごしていました。
そんな時に失望のどん底にいたイスラエルの民に向かってイザヤは、「そうではない。神の解放の日がやって来るのだ。必ず神の解放の日がやって来る。」そう言って彼らを励ましたのです。
パウロはそのことばを受け取って、「今はイエス・キリストにあって、すべての人が解放される日なのだ。すでに神の祝福が、あなたの目の前にある。だから今、それをつかみなさい。今を生きるべきだ。」と勧めたのです。
私たちは誰でも、過去と現在と未来を持っています。過去がない人も、未来がやって来ない人もいません。しかし、確かなことは、過去はもう過ぎ去ったということ、そして、未来はまだ来ていないということです。あるのは今だけです。今だけが、私たちの目の前にあるのです。今は恵みの時、今は救いの日です。
でも、ある人は過去に生きようとします。「昔は良かった。あの時、あんなことをしていなかったら」と。でも、私たちは二度と過去には戻ることはできないのです。
ある人は未来に生きようとします。「こういうふうになったら、もっと頑張るんだけど」とか、「今に頑張るぞ。今はできないけど、そのうち頑張るさ。」だったら今頑張ればいいのに、そのうち、未来にはと、未来のことしか見ようとしないのです。そこには何の根拠もありません。未来に向かってただ望みを置いているだけです。過去も未来も神の御手の中にあり、神が私たちに委ねていらっしゃるのは「今」だけなのです。私たちは今しか生きることかできません。今は恵みの時、今は救いの日なのです。この「今」が与えられていることは感謝なことなのです。神があわれみと忍耐をもって、私たちの帰りを待っておられるということですから。この恵みの時、救いの日に神に立ち返らなければなりません。神のあわれみ、神の恵みを無駄にしてはならないのです。
ところで、新約聖書の中にも、器に関する言及がいくつかあります。たとえば、パウロが弟子のテモテに書き送った手紙の中にこのようなことばがあります。「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。」(Ⅱテモテ2:21)
神はあなたという器を用いることを望んでおられます。あなたという器が有益なものとして用いられるために必要なことは何でしょうか。ここには、「ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、」とあります。これらのものとは、この文脈では俗悪な無駄話とか、真理から外れてしまった教え、また不義な行いを指して言われています。これらのことから離れて自分自身をきよめるなら、あなたは尊いことに用いられる器となるのです。
神はエレミヤにユダの民の目の前でその瓶を砕き、陶器師の器が砕かれると、二度と戻すことはできない、と言われました。私たちは不義だらけな器ですが、イエス・キリストによって義の器に変えられました。ですから、そうした不義から離れ、聖霊の恵みとあわれみと助を受けて、自分自身をきよめ、尊いことに用いられる器とさせていただきましょう。
Ⅲ.だから、あきらめないで(14-15)
ですから、第三のことは、だから、あきらめないで、ということです。14~15節をご覧ください。「14 そこでエレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトから帰って、主の宮の庭に立ち、民全体に言った。15 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」」
エレミヤは、主が預言のために遣わしたトフェトからエルサレムに帰ってきて、主の宮に立ち、神の民全体にこう言いました。15節です。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。見よ。わたしはこの都とすべての町に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじを固くする者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。」(15)
たとえ神の民であっても、主のことばに聞き従わなかったら退けられてしまうことになります。
でも覚えておいていただきたいことは、神はご自身の民である南ユダがここまで落ちぶれても、最後の最後までチャンスを与え続けたということです。ここまで頑なになっても、最後まであきらめませんでした。エレミヤもこんなメッセージをしたら憎まれて、嫌われて、殺されるかもしれないという恐怖の中で、最後まで語り続けました。しかし、それ以上に、神は、この民がどんなに神を見捨ててほかの神々に走って行っても、最後まで悔い改めるチャンスを与えてくださいました。 
神は同じことを私たちにしてくださいます。神は最後まであなたのことをあきらめません。もしかするとこの中には泳げたい焼きくんのようにろくろから飛び降りた人もいるかもしれません。ろくろから落ちて地面にへばりついているという人が。地面と一体化して、この世にどっぷりと浸かっているという人がいるかもしれません。でもそういう人でも陶器師に「助けてください!」「あわれんでください!」と叫ぶなら、陶器師なる主は土くれにすぎないあなたを、地面から拾い上げて、再び水の洗いと聖霊の豊かな泉によって潤してくださいます。そして再びたたき、再び回し、再び指で押さえつけ、ご自身の意のままに、私たちを練り上げてくださり、美しい人に作り上げてくださいます。だから、あきらめないでください。あきらめたらすべてが台無しになってしまいます。あなたはやり直すことができます。もう一度やり直せばいいのです。神は最後の最後まであなたを見捨てることはなさらないからです。
これはアフリカへ派遣されたジェームズ・キングという宣教師が報告している実話です。
キング師が仕えていた教会に、すべての集会に欠かさず出席していた婦人がいました。彼女には愛犬がいて、この愛犬もいつも教会について来ました。この婦人はいつも通路側の席にすわり、犬は説教の間、静かにその傍にすわっていました。集会の終わりに、牧師が祈ってほしいと希望する人を講壇の前に招くと、この婦人はいつも前に行き、犬もそれについて行きました。
この婦人は、夫の暴力に悩まされていました。ある日、妻がクリスチャンとして生活していることに腹を立てた夫は、この婦人を殴り殺してしまいました。彼は、牧師がキリスト教式の葬儀を挙げることを赦しませんでした。妻は埋葬され、家には、夫と犬だけが残りました。
水曜日の夜7時になると、この犬はどこかへいなくなりますが、2時間くらいすると帰って来ます。日曜日にも同じことが起こりました。
不思議に思った夫は、犬のあとをつけてみることにしました。すると犬は、小さな教会に入り、集会の間、静かに通路にすわっていました。集会が終わりに近づいたとき、彼は犬が講壇の前に出て行くのを会場の後ろのほうから見ていました。すると犬は、妻がいつも祈りをささげていた場所にすわったのです。その光景を見た夫は、たましいが揺さぶられるような感動を覚え、自分も前に進み出て、その場でイエス様に人生を明け渡しました。そして、次の日からは、犬は新しい主人について教会に来るようになったのです。
だから、あきらめてはなりません。神は最後の最後まであなたを見捨てることはなさいません。あなたがどんなに落ちぶれても、どんなに頑なになっても、最後の最後までチャンスを与えてくださいます。たとえ焼き物の瓶が砕かれても、神はあなたに回復の希望を約束しておられます。でも、できれば神はあなたにそんなさばきを下したくはないのです。焼き物の瓶を砕きたくはありませ。二度と直すことができないような器にはしたくないのです。その前に立ち返ってほしい。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めことを願っておられるからです。
「さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。」(18:11)今がその時です。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのです。それぞれ悪の道から立ち返り、生き方と行いを改めましょう。