ヨシュア記24章

ヨシュア記24章

 いよいよヨシュア記の最後の学びとなります。まず1~13節までをご覧ください。

 Ⅰ.神の恵みを思い起こして(1-13)

「1 ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集め、イスラエルの長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せた。彼らが神の前に立ったとき、2 ヨシュアは民全体に言った。「イスラエルの神、【主】はこう告げられる。『あなたがたの父祖たち、アブラハムの父でありナホルの父であるテラは昔、ユーフラテス川の向こうに住み、ほかの神々に仕えていた。3 わたしはあなたがたの父祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来てカナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。4 そして、わたしはイサクにヤコブとエサウを与え、エサウにはセイルの山地を与えてそれを所有させた。一方、ヤコブと彼の子たちはエジプトに下った。5 わたしはモーセとアロンを遣わし、エジプトに災害を下した。わたしがそのただ中で行ったとおりである。その後、わたしはあなたがたを導き出した。6 わたしはあなたがたの父祖たちをエジプトから導き出した。あなたがたが海まで来たとき、エジプト人は、戦車と騎兵であなたがたの父祖たちを葦の海まで追いつめた。7 彼らは【主】に叫び求め、主はあなたがたとエジプト人の間に暗闇を置き、海に彼らを襲わせ、彼らをおおわせた。あなたがたの目は、わたしがエジプトで行ったことを見た。そして、あなたがたは長い間、荒野に住んだ。8 わたしは、ヨルダンの川向こうに住んでいたアモリ人の地に、あなたがたを導き入れた。彼らはあなたがたと戦ったが、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、あなたがたは彼らの地を占領した。わたしはあなたがたの前から彼らを一掃した。9 モアブの王、ツィポルの子バラクは立ってイスラエルと戦い、あなたがたを呪うために、人を遣わしてベオルの子バラムを呼び寄せた。10 しかし、わたしはバラムに耳を傾けようとしなかった。彼はかえって、あなたがたを祝福し、こうして、わたしはあなたがたをバラクの手から救い出した。11 あなたがたはヨルダン川を渡り、エリコに来た。エリコの住民やアモリ人、ペリジ人、カナン人、ヒッタイト人、ギルガシ人、ヒビ人、エブス人はあなたがたと戦った。しかし、わたしは彼らをあなたがたの手に渡し、12 あなたがたの前にスズメバチを送ったので、スズメバチがアモリ人の二人の王をあなたがたの前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、あなたがたの弓にもよらなかった。13 わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。』」

ここでもヨシュアは決別の言葉を再び語っています。しかし前章とは異なり、全イスラエルをシェケムに集めて語っています。シェケムは、いろいろな意味で霊的に重要な場所です。前章の最後のところに、「【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。」(23:14)とありますが、主がこの地を子孫に与えるとアブラハムに約束されたのは、このシュケムの町でした(創世記12:7)。それでアブラハムはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。また、アブラハムの孫ヤコブが兄エサウから逃れ叔父のラバンのもとに行ったとき、その帰路の途中でエサウに会いましたが、その祈りと葛藤の中で主に拠りすがりすべての障壁を乗り越えた時、ここに祭壇を築きました(創世記33:20)。

このように霊的に非常に重要な場所でヨシュアがイスラエルの民に語った最初のことは、イスラエルの歴史の回顧でした。いったいなぜヨシュアはイスラエルの過去を回顧したのでしょうか。2節からの内容を見てわかることは、そこに神の恵みが想起されているということです。ヨシュアは過去の歴史を語ることを通して、神がいかに素晴らしいことをしてくださったか、いかに慈しみに満ち、恵み深いかを思い起こさせたのです。

まず2~4節にはアブラハムの選びを取り上げています。ここで注目すべきことは、アブラハムが父の家にいたとき、ほかの神々に仕えていたということです。信仰の父と呼ばれているアブラハムは私たちと同じように偶像礼拝者だったのに、そこから一方的に選び出されたのです。また、5~7節にはイスラエルの民がエジプトから救われたことが、また、8~10節までにはヨルダンの東側における戦いでの勝利が、そして11~13節には、ヨルダンのこちら側、すなわち、カナンにおける戦いと征服の記録が語られています。これらのことに共通して言えることは何でしょうか。これらすべてのことは神の恵みによるものであったということです。

13節には「わたしは、あなたが労したのではない地と、あなたがたが建てたのではない町々をあなたがたに与えた。あなたがたはそこに住み、自分で植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑から食べている。」とあります。それは決して彼らが何もしなかったということでありませんが、それ以上にこうしたイスラエルの民の努力や勝利も実は神の恵みによるのであって、神の支えと助けなくしては成し遂げられなかったということであり、そのことを常に思い起こし、肝に銘じるようにと語っているのです。

実にイスラエル民族の偉大さは、神の恵みを常に思い起こして感謝し、それを記念し、祝祭化して、心に深く刻みつけていったという点です。私たちも常に神の恵みを思い起こし、感謝をささげなければなりません。そしてここにこそ神の大きな祝福が注がれるということを覚えなければなりません。

Ⅱ.決断と選択(14-28)

次に14~28節までをご覧ください。まず14~18節をお読みします。「14 今、あなたがたは【主】を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、【主】に仕えなさい。15 【主】に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は【主】に仕える。」16 民は答えた。「私たちが【主】を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。17 私たちの神、【主】は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。18 【主】はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」」

ヨシュアはイスラエルの民に対して神の恵みを思い起こさせると、続いて、この民に向かってこの主に従うかどうかの決断と選択を迫ります。人生は出会いで決まると言われますが、同時に、決断と選択によって決定されます。その典型的な例が結婚でしょう。人はだれと結婚するかによって人生が大きく左右され、決定的な影響を受けることになります。

しかし、人間にとって結婚以上に重要な選択があります。それはいかなる神を信じるかという信仰の問題です。だから宗教は嫌いなんですと、自分が無宗教であることをことさら強調する人がいますが、そういう人は実は自分という神を信じていることに気付いていないだけのことです。自分の考えや思いに従って生きています。つまり、自分が神となっているのです。ですから無宗教というのはあり得ないわけです。そしてどの宗教を信じるかによってその人の生涯のみならず、死後の在り方や永遠の生き方さえも決定されてしまうことになります。ここでヨシュアはイスラエルの民に、この重要な選択と決断を迫りました。あなたがたは真実な神、主に仕えるのか、それとも偶像の神々に仕えるのか、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい、と言っています。信仰の選択に妥協はありません。それぞれの責任による選択と決断を迫り、ヨシュア自らは、「私と私の家とは主に仕える。」と宣言するのです。

これに対して16節以下のところに、イスラエルの民の応答が記されてあります。民は答えて言いました。「16私たちが【主】を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にあり得ないことです。17 私たちの神、【主】は、私たちと私たちの先祖たちをエジプトの地、奴隷の家から導き上られた方、そして、私たちの目の前であの数々の大きなしるしを行い、私たちが進んだすべての道で、また私たちが通ったあらゆる民の中で、私たちを守ってくださった方だからです。18 【主】はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、【主】に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」
主がこれだけのことをしてくださったのに、なぜ主を捨てることができるでしょうか。絶対にそんなことはできません。この方が自分たちの神ですからと、宣言したのです。こうした信仰の宣言と決断はとても重要なことです。ややもすると私たちは、どっちつかずの方が融通が利くというか、家族との間に波風を立たせずに済ませることができるので曖昧にしがちになりますが、このように決断することによって自分が依って立っているものが何であるのかが明確になり、それまで以上に主に仕えることができるようになります。

しかし、それに対するヨシュアの答えは以外なものでした。19節をご覧ください。「ヨシュアは民に言った。「あなたがたは【主】に仕えることはできない。主は聖なる神、ねたみの神であり、あなたがたの背きや罪を赦さないからである。」
どういうことでしょうか?ヨシュアは選択を迫り、民が主に仕えると表明するやいなや、今度はあなたがたにはできないと否定するのです。ヨシュアがこのように言ったのは、イスラエルの民が自分の意思や自分の力に頼って信仰の決断をしたことを見抜いていたからです。自分の肉の力に頼っていたのでは主に従うことはできません。必ず失敗します。ヨシュアはそれを見て取ったのです。そしてヨシュアの予想とおり、ヨシュアの死後、士師記の時代に入るやいなや、イスラエルの民は何度も何度も主に背き、偶像に仕えることになります。神を捨てたイスラエルは神の刑罰を受け、異邦の民の侵略を受け、苦しみの中に落ち込み、やがて悔い改めて神に立ち返るということを繰り返すのです。なぜそのようなことになるのでしょうか。ここでこんなにも強く決心したにもかかわずそんなに簡単に手のひらを返すようなことになるとは考えられません。実はそれほど私たちの意思や決意はそれほど弱いのです。何かあるとすぐに躓いてしまうほどもろいものなのです。

十字架を目前にして、イエスが弟子たちに「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。」と言うと、ペテロは勢い込んで「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)と言いました。しかしイエスは彼に「今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」と預言されると、そのとおりになりました。ペテロはどんなにかショックだったかと思います。しかし、人間の意思の力はそれほどもろいのなのです。彼はそのことに気付いていなかっただけです。人はつい簡単に約束をしたり決断したりします。このようにしようと堅く心に誓いますが、そのたびに裏切ってしまうのです。それほどに人間の肉の力は弱いのです。ヨシュアはそのことを重々知っていました。だから彼はここで「あなたがたはできない。」と言ったのです。

それではどうしたらいいのでしょうか。使徒パウロはこう言っています。「1 こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。3 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。4 それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。10 キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:1-11)
パウロには深い悩みがありました。それは、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているということでした。自分がしたいと思う事ができないのです。それは自分の中に住んでいる罪のためです。いったいどうしたらいいのか、だれがこの死のからだから自分を救ってくれるのでしょうか。パウロはそのように嘆きつつ、ここにその解決を見出しました。それが、いのちの御霊の原理です。確かに自分の内に罪と死の法則があって、自分の力ではどうすることもできませんが、イエス・キリストを信じたことで与えられた主の御霊、キリストにある命の御霊の原理が働いているので、このいのちの御霊の原理によって勝利することができると言ったのです。

このキリストにあるいのちの御霊の原理は、キリストを信じた時に私たちに与えられた原理です。キリストを信じていのちの御霊が私たちのうちに住まわれると、その御霊の力が肉の力に勝利し、死ぬべきからだをも生かしてくださいます。なぜなら、それはキリストを死者の中からよみがえらさせたほどの力ですから。これが私たちの信仰生活であるということをパウロは発見したのです。つまり、もし人が救われてクリスチャンになったなら内なる罪と死の原理がすべて消滅し、そこから完全に解放されるというのではなく、そのところに新しくいのちの御霊の法則が働き始めて、御霊の力によって勝利することができるのです。

私たちはキリストを信じたときキリストとともに十字架につけられ、もはや私が生きているのでなく、キリストが私のうちに生きているのですと告白しましたが、罪の力に敗北し、悪魔に誘惑されて罪を犯してしまうことがあります。それは決して意思が弱いからではなく、むしろ意思の力に頼りすぎているからです。もし自分の意思を過信するなら、それはパウロがここで嘆いたように、いつも敗北感を味わいながら生きることになるでしょう。しかし、うちに住んでおられる御霊にゆだねるなら、御霊の力によって勝利することができるのです。

ヨシュア記に戻りましょう。ヨシュアが、「あなたがたは主に仕えることはできない。」と言うと、民はヨシュアに言いました。「いいえ。私たちは主に仕えます。」それでヨシュアは民に言いました。「主を選んで、主に仕えることの証人はあなたがたです。」すると彼らは「私たちが証人です。」と言いました。それでヨシュアは、だったら「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と勧めました。そうでないと、主を主とすることができないからです。人はだれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を軽んじて他方を軽んじることになるからです。(マタイ6:24)ですから、まず自分たちの中から偶像を取り除かなければなりません。偶像を取り除き主に心を傾けることによって、主に仕えることができるからです。すると民はヨシュアに言いました。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」

こうしてヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで彼らのために掟と定めを置きました。そして、イスラエルが主に聞き従うと言ったことばを石に書き記し、主の聖所にある樫の木の下にそれを立てました。それは彼らが主を礼拝しに来たときに、確かに自分が主に聞き従うといったことを彼らが思い出すためです。私たちも自分の意思によってはすぐ神との契約さえも破ってしまうような弱い者ですが、このような契約を御霊によって心に刻み、いつも心から主に従う者でありたいと思います。

Ⅲ.ヨシュアの死 (29-33)

最後に29~33節までを見て終わります。「29 これらのことの後、【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。30 人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・セラフに葬った。31 ヨシュアがいた間、また、【主】がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは【主】に仕えた。32 イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。33 アロンの子エルアザルは死んだ。彼は、自分の子ピネハスに与えられた、エフライムの山地にあるギブアに葬られた。」

これらの出来事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは110歳で死にました。ここには簡単にヨシュアが110歳で死んだとありますが、これはヨシュアが果たすべきことのすべてをなし終えた後で召されたということを示しています。それは、ヨシュアの生涯が神のしもべとして神の御旨のために一切を捧げ尽くした生涯であったことを意味しています。彼は自らの使命、目的を明確に自覚し、そのために自分を徹底的に捧げたのです。彼に与えられた使命はこのヨシュア記の冒頭に記されてあります(1:1-9)。彼はこれを自らの生きる目的、使命として受け取り、その使命の達成のために生きたのです。私たちも、ヨシュアのごとく人生に明確な使命、明確な目的を持ち、それに向かって前進していくものでありたいと思います。

31節には、「ヨシュアがいた間、また、【主】がイスラエルのために行われたすべてのわざを経験して、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、イスラエルは【主】に仕えた。」とあります。どういうことでしょうか。ヨシュアが生きている間、また主のわざを見た長老たちが生きている間は、イスラエルは主に従っていましたが、この世代がいなくなると彼らは他の神々に心を寄せるようになっていくということです。私たちはこのような弱さを持っています。指導者がいれば主に従うことができても、いなくなったら簡単に主から離れてしまうのです。そうならないためにはどうしたらいいのでしょうか。主を体験するということです。主のわざを見て、主のみことばの真実、力、知恵、満たしなど、自分自身で体験するのです。そうすれば、たとえ指導者がいなくなっても、主に従うことができるようになります。

32節をご覧ください。ここには、「イスラエルの子らがエジプトから携え上ったヨセフの遺骸は、シェケムの地、すなわち、ヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子たちから買い取った野の一画に葬った。そこはヨセフ族の相続地となっていた。」とあります。ここに突然イスラエルの父祖ヤコブの息子、ヨセフの遺骨がこのシェケムの地に葬られたことが語られています。なぜここに何百年も前に死んだヨセフの遺骸の葬りのことが記されているのでしょうか。

これを解く重要な聖書の記述は、創世記50:24~25節にあります。「24 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」25 ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください」と言った。」つまり、このヨシュア記24:32のメッセージは、このヨセフの預言の成就であり、そのことを銘記するようにということを伝えたかったのです。
イスラエルのカナン征服は、もとよりヨシュア一人の力によるものではありませんでした。それは既に数百年も前に神がヨセフに約束されていたことであり、それ故にエジプトの苦難の中にあっても、それはイスラエル民族にとって希望であり続けました。そしてそれが時至りモーセに受け継がれ、ヨシュアに受け継がれて、その偉大な救済の御業は、イスラエルの歴史の中で着々と進められ、遂に成就し実現したのです。このことを忘れてはならないというのです。

それは罪が贖われ、約束の地に向かっている私たちクリスチャンにとっても言えることです。私たちはまさに今イスラエルの民がモーセやヨシュアに導かれてカナンの地に向かって進んでいるように、神の約束の地に向かって進んでいるものです。時には目の前の困難のゆえに、本当にそれが実現するのだろうかと疑ってみたり、それよりもこの世での生活が満たされていればそれでいいのではないかという思いにかられることがありますが、神が約束してくださったことは必ず成就するのです。私たちはこのイスラエルの歴史を通して、その中に働かれた神の御業を見ながら、ますます熱心に御国を待ち望まなければなりません。イエス・キリストによってなされた贖いに感謝して、主の大いなる使命のために、全力で進んでいこうではありませんか。

最後はアロンの子エルアザルの死をもって、この書が閉じます。なぜ最後がエルアザルの死で終わっているのでしょうか。ヨシュア記を読むと、随所に「祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア」という表現が出てくるが、それはヨシュアの勝利の陰に、陰の功労者として祭司エルアザルの存在があったことを強調したかったからと思われます。彼は表面にはあまり出てこない、きわめて地味な人物でしたが、しかし彼の祈りを通してヨシュアの働きが支えられました。この陰での祈りなしには、カナン征服の偉業は成し遂げられなかったのです。すべての目に見える業の陰にあって、しかし目に見えない祈りの力が、イスラエルをカナンに導いたことを忘れてはなりません。

それは主の教会にも言えることです。ある面で牧師はヨシュアのように民の前面に立って導くような者かもしれませんが、その働きを成功に導くのは主ご自身であられます。その主の助けと支えを願って陰でとりなしてくださる信徒の方々の祈りがあってこそ、それが主の大いなる力を引き出し、偉大な御業となって現われてくるのです。もしかすると祭司エルアザルのように地味で、陰での働きに徹するような存在かもしれませんが、こうした存在があってこそ主の御業が前進していくということを忘れてはなりません。イスラエルのカナン征服という偉大な御業は指導者ヨシュアとこのような陰での祈りというパートナーシップがあってこそ実現した御業だったのです。

70年の終わりに エレミヤ書25章1~14節70年の終わりに 

聖書箇所:エレミヤ書25章1~14節(エレミヤ書講解説教47回目)
タイトル:「70年の終わりに」
エレミヤ書25章に入ります。今日は1~14節から「70年の終わりに」というタイトルでお話します。このことばは14節から取りました。「七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──【主】のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」
ユダの民は、主のことばに聞き従わなかったのでバビロンの王に七十年間仕えることになります。しかし、その七十年の終わりに、主はそのバビロンを滅ぼし、これを永遠に荒れ果てた地とします。そして代わりに世界を治めたペルシャによって、彼らは主のことばのとおり、約束の地に帰還することになるのです。それは期間限定の捕囚、期間限定の神のさばきでした。その70年の終わりに、主はご自身の約束のとおり、彼らを元の場所に帰らせます。確かに苦難、困難があるでしょう。でも、その先をしっかり見ている人は幸いです。国の滅亡のかなたに希望がある、回復があるということを見つめている人は、どんな苦難に遭っても堅く信仰に立ち続けることができます。今日は、そのことを考えながら、この箇所を読んでいきましょう。
Ⅰ.しきりに語りかけたのに(1-7)
まず、1~7節をご覧ください。1節には「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年、バビロンの王ネブカドネツァルの元年に、ユダの民全体についてエレミヤにあったみことば。」とあります。
ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年とは、B.C.605年のことです。この年に、ネブカドネツァルがバビロンの王に即位しました。その元年に、主がエレミヤを通して、ユダとエルサレムの民全体に語られたことばがこれです。24:1には、「バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕え移してバビロンに連れて行ったあとのこと」とありますが、それは、B.C.597年のことでした。ですから、ここでは時代が遡っていることがわかります。本来であれば、年代順で言えば、この25章は21章の前に来る内容ですが、それがどういうわけか、ここに納められているのです。
エレミヤは、その年に主が語られたことばをユダの民全体とエルサレムの全住民に語りました。その内容は3~7節にあることです。「3 「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に【主】のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。4 また、【主】はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび遣わされたのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けもしなかった。5 主は言われた。『さあ、それぞれ悪の道から、あなたがたの悪い行いから立ち返り、【主】があなたがたと先祖たちに与えた土地に、いつまでも、とこしえに住め。6 ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。あなたがたが手で造った物によって、わたしの怒りを引き起こしてはならない。そのようにすれば、わたしも、あなたがたにわざわいを下さない。7 しかし、あなたがたはわたしに聞き従わなかった──【主】のことば──。そして、あなたがたは手で造った物でわたしの怒りを引き起こし、身にわざわいを招いた。』」
ヨシヤ王の治世の第十三年とは、B.C.627年のことです。エレミヤはその年に預言者として召され、主が語られることばを語り続けてきました。その期間は23年間です。彼は23年間主がユダの民に語られることばを絶えず、しきりに語りかけたのに、彼ら聞きませんでした。それはどういう内容だったかというと、5節と6節にあるように、いたってシンプルなものでした。それは、それぞれ悪の道から立ち返り、主が彼らの先祖たちに与えた土地に、いつまでも、とこしえまでも住むように、というものでした。ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んではならない。ただ神を愛し、神のみことばに従って歩むようにという、実にシンプルなメッセージでした。
しかし、彼らはそのエレミヤが語る主のことばを聞きませんでした。彼が23年間もしきりに語りかけたのに、だれも彼の話に耳を傾けなかったのです。だれも彼の招きに応えようとしませんでした。エレミヤは23年間もしきりに主のことばを語ったのに収穫はゼロでした。だれも彼のことばに耳を傾けようとしなかったのです。それは、エレミヤにとってどれだけ忍耐を要することであったかと思います。いや、神にとってどれほど忍耐を要することだったでしょう。私は牧会を始めて40年になりますが、もしだれも神に立ち返らなかったら、だれも神を信じなかったらどうしただろうと考えると、おそらく牧師を辞めていたんじゃないかと思います。やっていられない・・と。それはそうでしょう。だれも聞いてくれない、だれも信じようとしないとしたら、いったい何のために語っているのかわからなくなってしまいます。や~めた!と、早々に辞めていたと思いのです。でもエレミヤはそうではありませんでした。彼は23年間主のことばをしきりに語りかけ、だれも聞かなくても神のことばを語り続けました。たとえ目に見える収穫がなくても、たとえ目に見える成果がなくても、彼は語り続けたのです。しきりにかたりかけたのに、彼らは聞きませんでした。それは実のところは神が語りかけておられたことでした。神がエレミヤを通して語っておられたのです。だれもご自身に立ち返らなくても、神はずっと語り続けてくださいました。ここに、神がどれほど忍耐深い方であられるか、どれほどあわれみに富んでおられる方であるかがわかります。そして、そのようにして私たちがご自身の下に立ち返るのを待っていてくださったということを思うと、感動で胸が熱くなります。こんな自分勝手で罪深い者のために、神に立ち返るためにしきりに語りかけ、忍耐してずっと待っておられたのですから。十字架を立てて。新聖歌188番に「救い主は待っておられる」という讃美歌がありますが、その歌詞にあるとおりです。救い主はずっと待っておられました。あなたが心の戸を開くのを、ずっとずっと待っておられたのです。それこそ23年間どころじゃない、もっともっと長い間待っておられたのです。
神が私たちに願っておられることは、私たちが聞き従うことです。聞き従うことはいけにえにまさります。それなのに彼らは聞き従いませんでした。しきりに語りかけたのに、です。この「聞かなかった」ということばに注目してください。ここには「聞かなかった」とか、「耳を傾けなかった」ということばが繰り返して出てきます。それが強調されています。8節にも「聞き従わなかった」ということばがあります。皆さん、イスラエルの歴史は、一言で言えば、神への反逆の歴史です。あなたの歴史はどうでしょうか。あなたの生活はどうでしょうか。あなたの人生はどうですか。しきりに神が語りかけているのに聞かないということはないでしょうか。いつも聖霊に逆らっている歴史、逆らっている毎日、逆らっている人生であるということはないでしょうか。
リビングライフというディボーションの月刊誌の中に、こんなエッセイがありました。これはキム・ウォンテという韓国の牧師が書いたものです。
サハラ砂漠の西側には「サハラの中心」と呼ばれる小さな町があり、多くの旅行客がこの町を訪問しようと砂漠を訪れます。しかし、レビンという人がこの町に来る前までは、その町は全く開放されていない立ち遅れた場所でした。町の人々は一度も砂漠を出たことがありませんでした。何もない砂漠から出ようと試みましたが、一度も成功できませんでした。レビンは町から抜け出せない理由を尋ねました。すると、返ってくる答えはすべて同じでした。「どこに向かって歩いても、出発した場所に戻って来てしまうのです。」
そこでそれが本当かを試すために、レビンは北に向かって歩きました。すると三日で砂漠を抜け出すことができました。では、なぜ町の人々は抜け出すことができなかったのでしょうか。次にレビンは町の青年を一人連れて、青年が行く方向について行きました。昼も夜も歩き、11日目には再び町に戻ってきました。ついに、レビンはその町の人々が砂漠を抜け出せない理由を見つけました。誰も北極星を知らなかったのです。レビンは前回の実験に参加した青年に、昼は十分休んで、夜になったら北極星の後についていくようにと言いました。その青年がレビンの言葉通りにすると、3日で砂漠を抜け出すことかできたのです。後日、青年は砂漠の開拓者となり、開拓地の中心には彼の銅像が立てられました。その銅像にはこのような文字が刻まれているそうです。「新しい人生は、方向をしっかりと見つけた時に始まる!」
皆さん、これは私たちの人生にも言えることではないでしょうか。新しい人生は、方向をしっかりと見つけた時に始まります。私たちの歴史は、イスラエルの民のように神への反逆の歴史です。神がしきりに語りかけているのに聞こうとしないで、神に逆らい続けています。でもそんな不従順な道から立ち返り、神のもとに帰れば、いつでも主は私たちをいやし、触れてくださり、もう一度神の子どもらしく歩めるように回復してくださいます。あなたに求められていることは、主のみことばに聞き従うことです。主が遣わされた預言者たち、主の働き人たちの権威を認めて、彼らが伝えることばに耳を傾けて従うことなのです。新しい人生は、方向をしっかり見つけた時に始まります。私たちはその方向を軌道修正し、神に立ち返り、神のことばに従って歩んでいかなければなりません。そうすれば、あなたは神の取り扱いを受けることができ、神にしかできない御業があなたの内になされ、あなたは良いものに変えられるのです。初なりのいちじくのように、みずみずしく、魅力的で、本当に価値のある、美味しい実に作り変えられるのです。
Ⅱ.70年のバビロン捕囚(8-11)
次に、8~11節をご覧ください。エレミヤが主のことばを絶えず、しきりに語りかけたのに、それを聞かなかったユダの民に対して、主はどうなさるでしょうか。9~11節にこうあります。「9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる──【主】のことば──。わたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せて、この国とその住民、その周りのすべての国々を攻めさせ、これを聖絶して、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とする。10 わたしは彼らから楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光を消し去る。11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。」
そうしたユダの民の不従順に対して、主はバビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せて、その国とその住民、その周りのすべての国々を攻めさせて、これを聖絶し、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とします。その結果、10節にあるように、それまで日常で普通になされていた営みが、すべて消えてしまうことになります。楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともしびの光が消えてしまうことになるのです。ひき臼の音とは、結婚して料理を作る時、包丁でまな板を叩きますよね、その音です。それはまさに平和な暮らしのシンボルのような音ですが、その音が消えてしまうのです。現代風に言うならば、電子レンジの「チン」が聞こえなくなるということでしょうか。ご飯を温める時に60秒にセットして、出来上がったら「チン」と音がして「できた!」となるあの「チン」の音が聞こえなくなってしまうのです。あるいは、お湯が沸いた時に鳴る「ピー、ピー、ピー」という音でしょうか、そういう台所の音が聞こえなくなってしまいます。バビロンによってそうした平和な生活が破壊されてしまうからです。
また、ここには「ともしびの光を消し去る」とあります。これは部屋を明るく照らしていた電気が消えて暗くなってしまうということです。もうそこに住んでいる人はいなくなります。そこはすっかり廃屋となってしまうのです。それは、彼らが主のことばに聞き従わなかったから、聞き従わなかったからです。その結果、バビロンの王ネブカデネツァルによる70年に及ぶ支配に甘んじることになるのです。
ところで、ここにはバビロンの王ネブカデネツァルのことが、「わたしのしもべ」と呼ばれています。4節にも「主のしもべである預言者たち」ということばが使われています。主の預言者であれば「主のしもべ」と言われても納得できますが、異教の王、しかもユダの民を虐殺するような悪辣で非道な者が神のしもべと呼ばれていることには少なからず抵抗を感じるかもしれません。いったいこれはどういうことでしょうか。確かにダニエル書4章を見ると、ネブカドネツァルはダニエルを通してダニエルが信じていた真の神を信じて回心します。そしてこの神をあがめ、賛美し、ほめたたえるようになります。そういう意味では、確かに彼は神のしもべであったと言えるでしょう。でもここで彼が「主のしもべ」と呼ばれているのはそういう意味ではなく、あくまでも神のさばきを実行する器として「主のしもべ」と呼ばれているのです。ということはどういうことかというと、主なる神の支配は、こうした異教の指導者にも及ぶということです。神は、こうした異教の指導者さえも用いてまでも、ご自身の民を懲らしめられるのです。それは彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。神のみこころは5節にあるように、いつでも、とこしえに、彼らが約束の地に住むことだったのに、そんな神のみこころを踏みにじり、神のことばに聞き従わないことを選んだために、自らにわざわいを招いてしまったのです。その神の懲らしめ、神のさばきの道具の一つが、バビロンの王ネブカドネツァルだったのです。そういう意味で彼は「主のしもべ」と呼ばれているのです。
それはユダの民だけに言えることではありません。私たちにも言えることです。もし私たちが口先では、「神様愛します」「あなたをあがめます」と言いながら、心にたくさんの偶像を抱え、神がしきりに警告を語りかけてもそれを全く無視して背信に背信を重ねるなら、神はご自身のしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルを呼び寄せて、あなたを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖のもと、嘲りの的、永遠の廃墟とします。神はありとあらゆるものを道具として、ご自身に背く神の民を懲らしめるのです。そういう意味では、今あなたが抱えている苦しみも、その結果であると言えるかもしれません。
でも、安心してください。あなたのその苦しみは、あなたが神に愛されているという証拠でもあるのですから。それは、あなたが神の子どもであることの証拠でもあるのです。そうでなかったら、懲らしめや訓練を与えることはなさいません。神はあなたを愛しておられるのでむちを加えられるのです。へブル12:5~6にこのように書いてあり通りです。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
だから、悲観しないでください。だから、私はもうだめだと思わないでください。私にはもう希望がないと言わないでください。あなたが素直になって神のことばに聞き従うなら、あなたは神の御取り扱いを受け、義という平安の実を結ぶことになるからです。
Ⅲ.70年の終わりに(12~14)  
最後に、12~14節をご覧ください。「12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──【主】のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。13 わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」
ここに「70年の終わりに」とあります。バビロンは、イスラエルを懲らしめる器、道具として神に用いられますが、そのバビロンも70年の終わりには、彼らの咎のゆえに罰せられ、永遠に荒れ果ててしまうことになります。一時は権勢を振るったバビロンも、創造主なる神のことばに聞き従わなければ、さばかれることになるのです。そして主は、バビロンの次に、世界を治めたペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせ、ユダの民をエルサレムへ帰還させる道を開かれます(エズラ1:1-4)。主は、ユダの民ばかりでなく、すべての国民、すべての国を治めておられるお方なのです。
ところで、ここには「70年の終わりに」とあります。ユダの民がバビロンで捕囚の生活を送るのは70年間であると預言されているのです。それは期間限定の捕囚、期間限定の懲らしめであったということです。この期間限定というのがいいですね。今は秋ですが、秋の期間限定のスイーツが販売されています。期間限定のマロンケーキとか、期間限定の紫芋フラペチーノとか、なんだかスイーツばかりですが、甘いものが大好きな私は、この期間限定のスイーツが大好きです。そしてここにも期間限定が登場します。ユダの民がバビロンに捕えられる期間です。それは70年と定められていました。それがいつまでなのかわからないと、忍耐のない私たちにはお先真っ暗となってしまいますが、主は本当に優しい方ですね。捕囚という悲劇が起こる前に、その期間をちゃんと定めておられました。70年間です。これはユダの民にとってどんなに大きな希望だったでしょうか。確かに70年という年月は途方もない年月ですが、それはいつまでも続くものではない、その先には回復がある、希望があるという約束は、彼らにとって大きな励ましとなったに違いありません。
ところで、皆さん、この70年という期間がどのようにして定められたかご存知ですか。ある人は、この「7」が完全数であり、「10」も完全数なので、これは神のさばきの完全さと徹底さを表している象徴的な数字だと考えていますが、そうではありません。これは、律法の書に予め定められていた期間でした。Ⅱ歴代誌36:21を開いてください。ここにはこうあります。「これは、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た。」
イスラエルの民が約束の地に入ってから490年間ずっと破り続けてきた掟がありました。それがこの安息年の定めです。それはレビ記25章にありますが、7年ごとに農地を休ませなければならないという規定です。それなのに彼らは、約束の地に入ってから490年の間、ずっとこれを破り続けてきました。それで神は490年を7年で割った年数、すなわち70年間をバビロン捕囚の期間として定められたのです。この規定を破ればどうなるかということを、この中で定めておられたわけです。ですからこれは人の思い付きでも、偶然その期間になったというのでもなく、予め神が定めておられた期間だったのです。
でも、だれもこの70年間というエレミヤの預言を信じていませんでした。ただ捕囚の民としてバビロンに連れて来られたという悲惨な現実を呪うばかりでした。しかしそんな中でこのエレミヤの預言に目を留め、信じ、しっかりと待ち望んでいた人物がいました。誰ですか。ダニエルです。ダニエルは、第一次バビロン捕囚の時(B.C.605)にネブカドネツァル王によってバビロンに連れて行かれ、ずっとそこにいました。その後、バビロンはメド・ペルシャ帝国によって滅ぼされ、メド・ペルシャの時代になりますが、ダニエルはそこでもペルシャの王たちに仕えました。そのダニエルに、このエレミヤのことばが大きな影響を与えたのです。ダニエル書9:2にはこうあります。「すなわち、その治世の第一年に、私ダニエルは、預言者エレミヤにあった【主】のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が満ちるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。」
捕囚の民としてバビロンにいたダニエルはペルシャの王ダレイオスが、カルデア人の国の王となったその元年、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃の期間が70年であることを悟ったのです。それが、今私たちが見ているエレミヤ書25:11~12のみことばです。彼は私たちが今見ている同じエレミヤ書の箇所を見ていたのです。そこで彼はその期間が70年であることを悟り、そのメッセージをしっかりと心に留めて、その期間をずっと待ち続けたのです。これは期間限定の懲らしめであるということ、国が滅亡したかなたに希望があるということ、回復があるということを信じたのです。だからダニエルはどんな迫害に遭っても堅く信仰に立ち続けることができたのです。たとえライオンの穴の中に投げ入れられてもへっちゃらでした。神のことばによってその先が見えていたからです。
これは私たちにも言えることです。私たちの人生にもいろいろな苦しみや困難があるでしょう。でもみことばによってそれがどういうことなのかを悟り、その先にあるものをしっかりと見るなら、そこにどんな苦難があってもそれを乗り越えることができます。パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:18)と言っています。確かに、将来に希望を持っている人は、試練を乗り越えることができるのです。ダニエルがみことばによって今まさに自分がそこにいることを知り、奮い立ったように、私たちもみことばによって自分がいる場所を知り、それがどういうことなのかを悟るなら、どんな境遇にあっても奮い立つことができるのです。
その代表的な聖句を見て終わりたいと思います。エレミヤ29:10~14です。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」
この29:11は非常に有名な箇所です。この聖句がどのような文脈で語られているのかというと、この70年の期間限定が満ちる時、彼らを約束の地に帰らせるという神のご計画がいかに将来と希望を与えるものなのかを伝えることの中で語られたことでした。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだと。あなたもこの神のご計画を知るなら、それがわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものであることを知ることかできるでしょう。
ですから、私たちも主のことばを読んで、主がいま何を考えておられるかを知り、すべてを主にゆだね、その約束がなるようにと祈り、心を尽くして主を求めるようになります。そして、たとえ試練の中にあっても神のことばは必ず成ると信じて、将来に希望を持つことができるのです。その人の信仰は、生きて働くからです。

二かごのいちじく エレミヤ書24章1~10節二かごのいちじく 

聖書箇所:エレミヤ書24章1~10節(エレミヤ書講解説教46目)
タイトル:「二かごのいちじく」
エレミヤ書24章に入ります。今日は、「二かごのいちじく」というタイトルでお話します。いちじくはイスラエルを代表する木で、その葉と実を含め、聖書によく登場します。エレミヤはある時、主の神殿の前で、このいちじくの幻を見せられるのです。それは、二かごに盛られたいちじくでした。主はその幻を通して、当時のユダの民に大切な真理を語ろうとされたのです。それは、主のみこころに従う者を、主は初なりのいちじくのようにするということです。反対に、主のみこころに従わない者は、腐って、非常に悪いいちじくのようにするということです。
Ⅰ.エレミヤが見た幻(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、【主】は私にこのように示された。見よ、【主】の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。2 一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。3 そのとき、【主】が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」」
それは、バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エコンヤ(エホヤキン)と、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のことです。バビロン捕囚は、計3回にわたって行われました。一回目はB.C.605年です。この時、ネブカデネザルはエルサレムを完全に包囲し南ユダを属国としましたが、陥落させるまではいかず、多くのユダの民を捕虜としてバビロンに連れて行くことにとどまりました。この時、ダニエルと3人の友人たちも捕虜として連れて行かれることになります。二回目はB.C.597年です。この時、エゼキエルもバビロンに捕え移されます。そして三回目がB.C.586年です。これが最終的な捕囚です。この時、エルサレム神殿は完全に崩壊し、神殿も破壊されます。この24章の出来事は、その二回目の捕囚直後の出来事です。このとき、ユダの王、エコンヤと、ユダの高官たち、鍛冶職人といった技術者たちが、エルサレムに連れて行かれました。詳しいことはⅡ列王記24章に記されてありますが、かなり大がかりな捕囚だったようです。何といっても、この時ユダの王エコンヤ(エホヤキン)と、彼の母、彼の妻たち、その宦官たち、この国の主だった人々が、捕囚の民としてエルサレムからバビロンに連れて行かれたというのは大きかったと思います。それでネブカドネツァルは、エホヤキンのおじのゼデキヤをエホヤキンの代わりに王としたのです。そのゼデキヤはやがてネブカデネザルに反逆してクーデターを起こしますが失敗し、目をえぐり取られて殺されるという悲惨な結果を招くことになります。
ですから、この24章の出来事は、第二回目のバビロン捕囚直後の出来事なのです。その時、何がありましたか。主がエレミヤに一つの幻を示されました。それは、主の神殿の前に、二つのかごのいちじくが置かれてあったというものです。
一つのかごにあったのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようでした。初なりのいちじくというのは、とっても美味しくて、貴重で、高価ないちじくという意味です。イスラエルでは、いちじくは年2回に分けて収穫されます。1回は6月頃で、もう1回は8~9月頃です。ここには初なりのいちじくとありますから、6月頃に収穫されるいちじくのことです。これは本当に良いいちじくで、美味しく、非常に高価で貴重なものでした。
もう一つのかごにあったのは、非常に悪いいちじくでした。悪いというのは腐っていてという意味です。もう腐っていてとても食べられるものではありませんでした。これは2回目に収穫されるいちじくのことではなく、収穫されないでそのままいちじくの木に残されていたものです。収穫されてないでそのままにしておくとどうなるかというと、完熟して地面に落ちてしまいます。いちじくは繊細で傷みやすい果物なので、そのままにしておくとあっという間に腐ってしまうのです。ここで言われている非常に悪いいちじくとは、そのようないちじくのことです。それは非常に悪いもので、もう食べられなくなっていました。非常に対照的ないちじくが、二つのかごに盛ってありました。エレミヤはそのような幻を見たのです。いったいこれは何を表していたのでしょうか。
Ⅱ.良いいちじく(4-7)
まず良いいちじくから見ていきましょう。4~7節をご覧ください。「4 すると、私に次のような【主】のことばがあった。5 「イスラエルの神、【主】はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。6 わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。7 わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」
主はこう言われました。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」(5)
「カルデア人」とは「バビロン人」のことです。ですから、ユダの捕囚の民とはバビロン捕囚となった民のことを指しています。その民を良いいちじくのようにしよう、良いものであると見なそうというのです。つまり良いいちじくとは、バビロンへ捕え移された捕囚の民のことを表していたのです。これは不思議なことです。なぜなら、彼らはバビロンによって侵略され、みじめにも降伏して、捕虜となっていたからです。どう見たってみじめです。それなのに主は、そんな者を良いいちじくのように、初なりのいちじくのように見なそうと言われたのです。ちょっとピンときません。合点がいかないという方もおられるでしょう。いったいどうしてそれが良いいちじくなのか。逆じゃないですか。敵に敗れ、捕虜として連れて行かれ、奴隷として生きなければならないとしたら、それこそ腐ったいちじくのようなものです。かつては良かったかもしれません。しかし、今は地面に落ちて腐ってしまい、とても食べることなどできなくなった悪いいちじくのようです。イメージとしてはこっちの方がピッタリくると思います。でも、神はそうじゃないとおっしゃられました。バビロン捕囚として連れて行かれたユダの民こそ良いいちじくであると言われたのです。これは人間的な物の見方、考え方と全く逆です。
聖書を読んでいるとこういうことが往々にしてあります。たとえば、イエス様は山上の説教の冒頭でこう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)不思議なことばですね。心が豊かな者、心が満ちている者は幸いですというのならわかりやすいのですが、心の貧しい者は幸いですと言われたのです。それは勿論心の卑しい人とか心の狭い人のことではありません。神様の前に自分の霊的貧しさを知っている人、すなわち、自分の心の貧しさを正直に認め、心が砕かれた人のことを指しています。神様が忌み嫌われるリストが聖書の中にあるのですが、その一番最初に来るのが高ぶる者、すなわち、傲慢さや高慢さです。自分の傲慢さを認めることは勇気が必要です。しかし、それを認めてへりくだる者にこそ、神様は本当の幸いを与えてくださるということなのですが、このように説明されると「あっ、そういうことですね」とわかりやすいのですが、そうでないと「えっ」と首をかしげたくなります。このように聖書の中には、神様の驚くべき物の捉え方というか考え方、価値観が、いたるところに記されてあるのです。
ここもそうです。敵の攻撃に敗れ、捕虜として、捕囚の民として連れて行かれたら不幸なはずなのに、神の目ではそういう人が幸いであって、良いいちじくのようだ、というのです。いったいどうしてそれが良いいちじくのようなのでしょうか。
第一に、それが神のみこころだったからです。5節にこうあります。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」
確かに彼らは神に背き、悔い改めなかったので、バビロンに捕え移されるという懲らしめを受けることになりましたが、神のご計画はそれで終わりませんでした。そのことを通して彼らをもっと良いものにしようと考えておられたのです。そのことは、既に21:8-10で語られていたことでした。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。「10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ──【主】のことば──。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
ここで主は彼らの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。いのちの道とは、捕囚の民としてバビロンに行くことです。逆に死の道とは、エルサレムにとどまることでした。最後まで徹底抗戦してバビロンと戦い、エルサレムに留まることです。一見最後までとどまって戦った方がいのちの道のようですが、そうではなく、それは死の道を選択することでした。なぜなら、彼らがバビロンの捕虜として連れて行かれることが神のみこころだったからです。神のみこころに従うことがいのちの道です。逆に従わないことが死の道です。彼らが神のことばに従わなかったので神はバビロンという国を用いて彼らを懲らしめようとされたのです。それが神のみこころだったのです。まさにヘブル12:11にある通りです。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」で言われていることです。」
神のみこころは彼らを滅ぼすことではなく、彼らを良いものにすることだったのです。そのためには訓練が必要でした。それがバビロン捕囚だったのです。それは神からの訓練、神からの懲らしめだったのです。その懲らしめを通して神は彼らを良いものにしようとされたのです。それは彼らにとっては喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思えることでしたが、しかし後になると、これによって鍛えられた人たちに、義という平安の実を結ばせることになるのです。
これが神のご計画でした。ですからバビロンによって捕囚の民として連れて行かれることは悲惨なようですが、実際はその逆で、そのことによって彼らは鍛えられ、もっと良いものにされたのです。初なりのいちじくのように。
第二のことは、彼らがバビロンに捕え移されても、それで終わりではなかったからです。主はやがて彼らを約束の地に帰らせ、その国を永遠に確立すると約束されました。6節にこうあります。「わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。」(6)
何とすばらしい約束でしょうか。ここで主は彼らを幸せにしようと彼らに目をかけると言われました。どういうことでしょうか。彼らを幸せにするために懲らしめを与えるということです。そうです。バビロン捕囚は、彼らに対する神の懲らしめだったのです。彼らを痛めつけるために懲らしめるのではありません。彼らを幸せにするために、彼らを良いものにするための懲らしめです。その幸せとは何というと、彼らをこの地に帰らせ、立て直し、壊すことなく、飢えて、引き抜くことはないということです。すなわち、イスラエルは永遠に堅く立てられるということです。そのためにはこのバビロン捕囚が必要だったのです。これは、彼らがバビロンに連れて行かれてから70年後にそこから解放されるということを通して実現しますが、そればかりではなく、世の終わりにおいて全面的に成就することになります。事実、今でもこれが実現しています。世界中に散らされたユダヤ人が、約束の地に戻って来ているのです。1948年にはイスラエルが国として独立しました。そういう神様の深いご計画があったのです。
第三に、このバビロン捕囚という出来事を通して、神様は彼らに主こそ神であるということを知る心を与えるからです。彼らが心を尽くして主に立ち返るためです。7節にこうあります。「わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」
これもすばらしい約束です。私たちが主を知ることができるのは、主が、ご自身を知る心を与えくださるからです。そうでなければ、主を知ることはできません。というのは、この「知る」という語は単に頭で知るということ以上のことだからです。これはヘブル語で「ヤダー」という語であることは何度も言っていますが、これは深く知るという意味です。単に知識で知るという以上のことで、人格的に知るということです。それは主がそのような心を与えてくださって初めてできることです。そしてこの神を知ることこそ、永遠のいのちそのものなのです。
ヨハネ17:3をご覧ください。ここにはこうあります。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」
皆さん、永遠のいのちとは何ですか。ここには、永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです、とあります。神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠のいのちです。ですから、主を知る心をいただくということは、永遠のいのちをいただくということ、すなわち、救いをいただくということなのです。神との回復をいただくということ、神の子としていただくということです。失われていた神との関係を回復し、神との親しい交わりの中にいれていただくことなのです。
Ⅰヨハネ5:20にはこうあります。「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
イエス・キリストこそ、まことの神、永遠のいのちです。私たちはどうやってそれを知ることができたのでしょうか。それは神の御子イエス・キリストが来て、真実な方を知る理解力を与えてくださることによってです。自分の力で知ることはできません。自分の力で永遠のいのちを獲得することはできないのです。神がこの心を与えてくれない限り知ることはできません。逆に言うと、どんなに聖書がわからない人でも、神様がこの心を与えてくださるならだれでも知ることができます。だれでも救われるのです。だから、聖書の教える救いは神の恵みでしかないわけです。
それを、自らの罪の結果バビロン捕囚という憂き目にあった彼らに与えられたのです。彼らにはそんな資格はありませんでした。自分の力では主を知ることなんて全くできなかったのに、バビロン捕囚という出来事を通して彼らにその心が与えられたのです。それは恵みではないでしょうか。
このように、絶望的に見えるバビロン捕囚は、かえって主に目をかけられ、信仰が立て直されるきっかけとなったのです。人の目には悪く見えても、捕囚という試練、懲らしめは主から見ると「良いいちじく」なのです。それはまさしくイザヤ書55:8~9で言われていることです。ご一緒に読みましょう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
当時、大部分の人は、幸いなのはエルサレムに残った人たちであると思ったことでしょう。しかし、神の思いは異なっていました。神の思いは全く逆だったのです。神のみこころは、神のことばを信じて、バビロンの捕囚の民としてエルサレムからカルデア人の地、すなわちバビロンに捕え移されることだったのです。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。であれば、私たちがどう思うか、どう考えるかということではなく、神の思いは何なのかを知り、それに従うことこそ幸いな道であり、良いいちじくとなるということがわかります。
それは私たちにも言えることです。一見、悪いと思える出来事が良き導きのきっかけとなる場合があります。逆に、見せかけの平安や幸せが、悲劇につながることもあるのです。ですから、私たちは目先の結果に揺さぶられることなく、「すべてのことを働かせて益としてくださる主」に信頼し、主のみこころに歩まなければなりません。
Ⅲ.悪いいちじく(8-10)
最後に、悪いいちじくを見て終わりたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことに【主】は言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。9 わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。10 わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」」
ここには悪くて食べられない、悪いいちじくについて言及されています。それは南ユダ王国の最後の王であるゼデキヤをはじめとする、エルサレムに残った人たちのことを指しています。ゼデキヤについては先ほども述べたように、エホンヤ(エホヤキン)がバビロンに連れて行かれた後、バビロンの王ネブカデネザルによって擁立された王です。彼が南ユダ最後の王となります。彼は本来バビロンのパペット、操り人形にすぎませんでしたが、後にバビロンに反旗を翻しクーデターを起こしました。しかしその結果、ネブカドネツァルに殺されることになります。目の前で息子が虐殺され、その目をえぐり取られたのです。ですから、彼が最後に見たものは、息子が虐殺されるというシーンでした。何とも惨めな死に方です。その前にバビロンに捕えられ、幽閉されたエコンヤ、エホヤキンとは大違いです。いったいなぜ彼はこんな惨めに死んで行ったのでしょうか。神のみこころに従わなかったからです。神のみこころは、彼らがバビロン捕囚として懲らしめを受けることだったのに、それをしなかったからです。
一方、その前にバビロンに連れて行かれたエコンヤはどうなったでしょうか。22:30では、彼は「子を残さず、一生栄えない男」と記録せよ、とのろいを宣告されたにもかかわらず、バビロンに移されてから37年目に、バビロンの王エビル・メロダクによって牢獄から呼び出され、優しいことばをかけられ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされます。彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも主の前で食事をすることが許されたのです。彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されました(Ⅰ列王記25:27-30)。

いったいこの差はどこから生じたのでしょうか。それは、神のみこころに従ったかどうかという一点です。エコンヤも決して敬虔な王ではありませんでした。でもバビロン捕囚に素直に従ったので、彼は後に良いいちじくに、良いものに変えられたのです。そして、このエコンヤの子孫にイエスの養父ヨセフが生まれることになります。エコンヤの息子たちは王位に就くことはありませんでしたが、でも彼らはバビロン捕囚によって殺されることなく、投獄されましたが最後は良い目に遭いました。一生奴隷のように扱われて、獣のように鎖につながれて惨めに檻の中で死んで行ったのではなく、そこから出されて再び王宮に住むことが許されたのです。大どんでん返しが起こったのです。なぜでしょうか。それは6節にあるように、主が彼を幸せにしようと、良いものにしようと目をかけてくださったからです。彼は悔しいけれども従いました。納得いかなかったけれども従いました。神の希望の約束があったから。その先が見えていたからです。
皆さん、神のみこころは物事が順調に行くこととは限りません。神のみこころは、目の前の困難に常に勝利し続けるということとは限りません。神のみこころは、時に敗北したかのように見えることもあり得るのです。でも神のみこころなら、それが勝利につながるという大どんでん返しが起こり得るのです。
ですから、結論はこれです。Ⅰペテロ5:5~7を開いてください。ご一緒に読みましょう。「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みを与えられます。神のみこころはバビロンに捕虜として連れて行かれることなのに、そんなの嫌だと、自分たちの知恵と力で最後まで抵抗した人たちは腐って食べられない悪いいちじくになってしまいました。一方、へりくだる者には恵みを与えてくださいます。バビロン捕囚は、神が繰り返し警告しておられたことなのに、それを受け入れないで自分勝手に歩んだ結果がこれ。今さらジタバタしても無駄なこと。むしろ、このバビロン捕囚を招いてしまった自分たちの罪を嘆き、本当に神に申し訳ないことをしてしまった。この屈辱を、この悔しさを、この涙を、この苦しみを、この悲しみを、この痛みを甘んじて受けよう。これがへりくだる者の姿です。そして、このようにへりくだる者に、神は恵みを与えてくださいます。彼らを幸せにしようと彼らに目をかけてくださり、良いいちじくに、初なりの最高のいちじくにしてくださるのです。
ですから、私たちに求められていることは、神の力強い御手の下にへりくだることです。そうすれば、ちょうど良い時に神が高くしてくださいます。たとえあなたが承服できなくても、たとえあなたが納得できなくても、たとえ屈辱的な扱いを受けたとしても、たとえすべてを失うことがあったとしても、たとえどんな悲しみに落ちようと、主は良いものにしてくださるという約束を信じて、力強い神の御手の下にへりくだらなければならないのです。多くの場合、納得がいかないと神に従がおうとしません。すべてを失うのは嫌です。でもそれが神のみこころなら、たとえ納得できなくても、たとえ理解することができなくても、たとえ悔しくても、それでも従わなければならないのです。その向こうに希望があるからです。
皆さん、私たちの前には常に二者択一の選択が置かれています。いのちの道を選ぶか死の道を選ぶか、初なりの非常に良いいちじくになるかそれとも、腐って食べられない悪いいちじくになるのかです。バビロンに降伏することは大変屈辱的なことのようですが、それが神のみこころならやがて良いいちじくとなるのです。なぜなら、主があなたを幸せにしようとあなたに目をかけておられるからです。この力強い主の御手の下にへりくだり、主のみこころに従いましょう。あなたにも初なりの良いいちじくのように、良いものであると見なしていただこうではありませんか。

ヨシュア記23章

2023年9月27日(水)バイブルカフェ
聖書箇所:ヨシュア記23章

きょうは、ヨシュア記23章から学びます。

Ⅰ.あなたがたのために戦ったのは主である(1-5)

まず1~5節をご覧ください。「1 【主】が、周囲のすべての敵からイスラエルを守って安息を与えられてから、多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。2 ヨシュアは全イスラエル、その長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて老人になった。3 あなたがたは、自分たちの神、【主】が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、【主】である。4 見よ。私はヨルダン川から日の入る方の大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が絶ち滅ぼしたすべての国々を、相続地としてあなたがたの部族にくじで分けた。5 あなたがたの神、【主】ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、【主】があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。」

前回までのところで見てきたように、カナンにおけるイスラエルの戦いは終結し、イスラエルはその割り当てに従って安息が与えられました。それから多くの日がたち、ヨシュアは年を重ねて老人になっていました。そこで彼は全イスラエルを呼び寄せて、その長老たち、かしらたち、さばきつかさたちに語ります。いうならば、これはヨシュアの遺言です。高齢になり自分の死が近いことを悟ったヨシュアはイスラエルの民を集めて、これからのイスラエルの状況を予測しながら、主の深い御旨を語ったのです。

その内容とは、まず、彼らのために戦われたのは、彼らの神、主であるということでした(3)。主なる神がイスラエルに対していかに良いことをしてくださったか、いかに恵み深くあられたかと言うことです。新聖歌172番には、「数えてみよ 主の恵み」という賛美がありますが、まさにヨシュアはこのところでまず、主が成してくださった数々の良きことを思い起こすようにと語っているのです。

カナンの地を占領するために、ヨシュアは実に多くの労苦を強いられてきました。時には死に直面したこともありました。明日の命はもうないかもしれないと、眠れない夜を過ごしたこともありました。そのような戦いが続く中で、ヨシュアはイスラエルの民を率いて敵を打ち破り、ついにカナンの地を勝ち取ることができました。にもかかわらず、ヨシュアはここで自分たちがどれほど苦労したか、また自分たちの功績がいかに大きかったかということを全く語らず、むしろ、それらを成してくださったのは、「あなたがたの神、主である」と語ったのです。1節の初めの言葉もそうですね。「主が周囲のすべての敵からイスラエル守って安息を与えられた」とあります。主がどれほどすばらしいことをしてくださったかということです。主語はいつでも「主」です。主が良い事を始めてくださり、主がそれを完成させてくださいました。自分たちは、主がしなさいと命じることに従っただけです。

ここにヨシュアの徹底した謙遜さをみます。彼は神の前で決して自分自身の功績を数え上げず、それらは全て主の業であると、主に栄光を帰したのです。それゆえに彼は主と共にあって大胆に事をなすことができたのです。私たちもこのことを忘れてはなりません。私たちのために戦われたのは主であって、主が数々の良き業を成してくださったことを覚え、主に感謝するものでありたいと思います。

Ⅱ.十分気を付けて(6-13)

次に6~13節をご覧ください。「6 また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、7 これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。8 ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、【主】にすがりなさい。9 【主】は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、【主】ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。11 だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、【主】を愛しなさい。12 しかし、もしも、あなたがたが再び堕落して、これらの異邦の民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っているこれらの者たちと親しく交わり、彼らと姻戚関係に入り、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来ることがあれば、13 あなたがたは、このことをしっかりと知らなければならない。あなたがたの神、【主】は、もはやこれらの異邦の民をあなたがたの前から追い払われない。彼らはあなたがたにとって、罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。そして、あなたがたは自分たちの神、【主】がお与えになったこの良い地から滅び失せる。」

ここには、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならないとあります。モーセの律法の書とは創世記から申命記までのモーセが書いた書ですが、ここでは特にモーセによって語られた神の律法のことです。ヨシュアは、モーセを通して主がお命じになったことをことごとく行いました。これからもこのモーセによって語られた神の命令を守り行わなければなりません。ここには、「断固として」とか、「右にも左にも外れず」とあります。徹底的にそれに従わなければならないということです。どうしてでしょうか。7節には、その理由として次のように記されてあります。「これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。」ヨシュアが懸念していたことは、そこに残された異邦の民と交わってしまうのではないか、ということでした。なぜそれが問題だったのでしょうか。そのことによってイスラエルの民が彼らの神々の名を口にするようになり、それらを拝んだり、仕えたりするようになるからです。

ここに「これらの異邦の民と交わらないようにするためである」とありますが、この「交わる」という言葉は「共有する」とか「一つになる」という意味です。単に接触するということではありません。もし、この世は汚れているからこの世と接触してはならないと命じられているとしたらどうでしょう。私たちはこの世から出て行かなければなりません。けれども、神はそのようなことを命じられているのではなく、この世と妥協して、この世と交わることがないようにと命じられたのです。キリスト者は、この世の中に生きる者ですが、この世のものではないということです。ヨハネは、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(Ⅰヨハネ2:15)と言いました。またパウロは、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14)と言いました。ですから、私たちはこの世にいて、この世との関わりの中で生きてはいますが、この世と一つとなってはならないのです。私たちはこの世のものではなく、神のものだからです。その神にすがり、神の命令を守り行わなければなりません。なぜでしょうか。
9~11節にこうあります。「9 【主】は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われた。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかった。10 あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、【主】ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。11 だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、【主】を愛しなさい。」
主は、大きくて強い異邦の民をあなたがたの前から追い払われました。だから今日まで、あなたがたの前に立ちはだかることのできる者は、一人としていなかったのです。この主が絶対的な勝利の秘訣です。だから彼らは自分自身に十分気を付けて、彼らの神、主を愛さなければならないのです。

ここには、「あなたがたは一人で千人を追うことができる。」とありますが、これは決して大げさな表現ではありません。私たちはもうすぐ士師記を学びますが、そこにはギデオンという士師が出てきます。彼はたった三百人の戦士で、十三万五千人のミデヤン人を打ち破ることができました。ですから、人数や強さは主にあって問題ではなりません。問題は、何にすがるのか、だれと共に歩むのかということです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)主がともにおられるなら、必ず勝利がもたらされます。それは彼らのこれまでの歩みを見てきてもわかるでしょう。主がともにおられるなら、私たちは一人で千人を追うことができるのです。

ですから、もしも、堕落して、これらの異邦の民の生き残っている民と親しく交わり、彼らと婚姻関係に入るようなことがあるとしたら、それが罠となり、落とし穴となり、彼らの脇腹にむちとなり、目のとげとなり、やがて主がお与えになったこの良い地から滅び失せることになるのです。後にバビロンがイスラエルを攻めたときに、このことばが実現しました。エルサレムは破壊され、バビロンへの捕囚の民となりました。

Ⅲ.主が約束されたことは一つもたがわずみな実現した (14-16)

最後に14~16節までをご覧ください。「14 見よ。今日、私は地のすべての人が行く道を行こうとしている。あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。あなたがたの神、【主】があなたがたについて約束されたすべての良いことは、一つもたがわなかったことを。それらはみな、あなたがたのために実現し、一つもたがわなかった。15 あなたがたの神、【主】があなたがたに約束されたすべての良いことが、あなたがたに実現したように、【主】はまた、すべての悪いことをあなたがたにもたらし、ついには、あなたがたの神、【主】がお与えになったこの良い地からあなたがたを根絶やしにされる。16 主があなたがたに命じられた、あなたがたの神、【主】の契約を破り、行ってほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに対して燃え上がり、あなたがたは、主がお与えになったこの良い地から速やかに滅び失せる。」」

14節には「見よ。今日、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。」とあります。これはヨシュアが自らの死が間近に迫っていることを自覚していたことを示しています。人が最後に語ることばはその人が本当に言いたかったことで、最も重要なことばであると言えます。その最後の最後にヨシュアが語ったことはどんなことだったのでしょうか。

ヨシュアはまず、「あなたがたは心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい。」と言っています。何を知るのでしょうか。それは、「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことです。それは一つもたがわず、みな、彼らのために実現しました。ここでヨシュアは、「一つもたがわず」と繰り返して語ることで、神の約束の完全性、確実性を強調しています。自分たちが信じる神は、約束されたすべてのことを完全に果たしてくださったお方。その一つも欠けることなく、一つもたがわず、みな実現してくださった。これはすばらしい証しです。主が言われたことはすべて実現し、何一つ実現しなかったものはなかったというのですから。私たちにもたくさん神からの約束が与えられていますが、神は一つもたがわず、みな実現してくださいます。
しかし、ヨシュアが肝に銘じておくようにと言われる内容は、神が約束された良いことが彼らに実現したように、主はまたすべての悪いことを彼らにもたらし、ついには主が彼らにお与えになられた地から彼らを根絶やしにされるということでした。すなわち、「主があなたがたに命じたあなたがたの神、主の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、主の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」ということです。どういうことでしょうか。

ヨシュアは人間にとっていかなる時が一番危険であるかを知っていました。つまり、神の約束が完全に成就したかのように思われる時こそ、最も危険な時でもあるということです。だから彼は残る民に警告を発することを忘れませんでした。私たちにとって最大の危機とは、困難に直面した時ではありません。どんなに辛く苦しくても、それは決定的な危機ではないのです。なぜなら、そのような困難に直面する時、私たちはそれを乗り越えようと苦しみの中でもがき祈るため、神の助けによってそれを乗り越えることができるからです。私たちの人生における最大の危機は、むしろその困難が去り、問題が解決して、すべてが順調にいっていると思われる時なのです。

イスラエルの民は長年の夢を果たし、約束の地を獲得することができました。これからさらにどんな素晴らしいことが起こるかと人々は期待していたことでしょう。民はまさに祝福の絶頂期にあり、成功と喜びに酔いしれていたわけですが、実はそのような時こそ最も危険な時であったのです。ヨシュアはそのことを感じてここで警告したのです。「勝って兜(かぶと)の緒をしめよ」ということわざがありますが、勝利したと思える時こそ決して有頂天にならず、兜の緒をしっかりとしめなければなりません。悪魔は知恵があり、どのような時が一番つけ込みやすいのか、いつ攻撃すればよいのかをよく知っているのです。そして、このように勝利に酔いしれている時こそ、彼らにとっての最も大きなチャンスであるということを熟知しているのです。

ですから、私たちは誘惑に陥らないように祈っていなければなりません。神に従うことこそが、悪魔の策略を打ち破る最も友好的な手段であることを覚え、順境の時、成功の中にある時こそ主を覚え、主を第一とし、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。これこそ私たちの人生における危機を乗り越え、真に成功に導かれていくために必要なことなのです。

もしあなたが今、失敗と挫折の中にいるなら主を賛美しましょう。主はあなたの内に働かれ、そのご計画を遂行されることによってやがてあなたは困難を克服し、素晴らしい祝福にあずかることでしょう。しかし、もしあなたが今、成功と勝利の中にあるならばそのことを感謝するとともにますます主に撚り頼み、主を第一として歩みましょう。そのときあなたは神に喜ばれる者として、神の祝福された人生を歩んでいくことができるのです。

真の預言者とにせ預言者を見分ける エレミヤ書23章23~40節

聖書箇所:エレミヤ書23章23~40節(エレミヤ書講解説教45目)
タイトル:「真の預言者とにせ預言者を見分ける」
今回は前回に続いて、どうしたら真の預言者とにせ預言者とを見分けることができるかを見ていきたいと思います。真の預言者とにせ預言者とでは、どのような違いがあるのでしょうか。どうしたらそれを見分けることができるのでしょうか。どちらも、自分は主からの預言者だと主張しています。どちらも主の御名によって預言しています。ですから、外見上それを見分けるのはなかなか困難です。にせ預言者の問題は、何も昔の話ではなく、極めて現代的なテーマでもあります。今日の箇所から、真の預言者の特徴を見ていきたいと思います。
Ⅰ.麦と藁(わら)のたとえ(23-29)
まず、23~24節をご覧ください。「23 わたしは近くにいれば、神なのか。─【主】のことば─遠くにいれば、神ではないのか。24 人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。─【主】のことば─天にも地にも、わたしは満ちているではないか。─【主】のことば。」
にせ預言者たちの特徴の一つは、物理的に近い偶像の存在は認めても、目に見えなくてもどこにでもおられる神の存在を認めることができなかったという点にあります。ですから、隠れたところに身を隠せば、神の目から逃れられると考えていたのです。最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて罪を犯したとき、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。そのとき神である主は、人に呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」神である主は彼らがどこにいるのかわからなかったのでしょうか。いいえ、彼らがどんなに身を隠しても、彼らがどこにいるのかをちゃんと知っていました。その上で「あなたはどこにいるのか」と言われたのです。そこはあなたのいるところではない。あなたがいるところはここだと。どんなに隠れたところに身を隠しても、神の目からのがれることができません。なぜなら、神はどこにでもおられる方だからです。神はあらゆるところにおられます。ダビデは、詩篇139篇でこう言っています。「7 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。8 たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。9 私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも10 そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:7-10)
たとえ天に上っても、そこにも主はおられます。たとえよみに床をもうけても、そこにも主はおられます。たとえ海の果てに住んでも、主はそこにもおられます。主はどこにでもおられるのです。ですから、たとえ隠れ場に身を隠したとしても、神の目から隠れることはできません。神はすべてをお見通しなのです。それなのに彼らは、隠れたところに身を隠せば、神の目から逃れられるのではないかと考えていました。神は、近くにいても、遠くにいても神です。神は、天にも地にも満ちておられます。彼らはそれを認めることができませんでした。それがにせ預言者の特徴の一つです。彼らは神の存在を認めていないのです。神を恐れていません。
次に、25~28節をご覧ください。「25 わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。26 いつまで、あの預言者たちの心に偽りの預言があるのか。心の偽りごとを語る預言者たちのうちに。27 彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように、彼らはそれぞれ自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、企んでいるのか。28 夢を見た預言者は夢を語るがよい。しかし、わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦は藁と何の関わりがあるだろうか。─【主】のことば─」
にせ預言者たちの特徴の第二のことは、自分たちの見た夢をあたかも神からの啓示であるかのように語るということです。25節には、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。」とあります。ここで特徴的なのは、「私は夢を見た」ということばを繰り返して言われていることです。どうして彼らは繰り返して言っていたのでしょうか。それを強調したかったからです。このように強調することによって、あたかもそれが本当であるかのように訴えるためです。
確かに神は夢や幻を通しても語られます。たとえば、創世記28章にはヤコブが夢を見たことが記されてあります。それは天から地に向かって一つのはしごがかけられていたというものでした。そして、そのはしごの上を神の御使いが上り下りしていました。これは、ヨハネ1:51を見ると、天から地に向けてかけられた架け橋であられるイエス・キリストのことを示していたことがわかります。このように、確かに神様は夢を通しても語られることもありますが、だからと言って、夢を見たらそれがすべて神からの啓示なのかというとそうではありません。伝道者の書5:3には「仕事が多いと夢を見る」とあります。仕事が多いと夢を見るようになります。あれもやらなければならない、これもやらなければならないということが多くなると、神経が高ぶって寝つきが悪くなり、夢を見ることが多くなるというのです。でもそれがすべて神からの啓示なのかというとそうではありません。それなのに、にせ預言者たちは、あたかもそれが神から与えられた啓示であるかのように語っていました。するとどうなりますか。27節に「彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように」とあるように、かえって神から離れてしまうことになります。主につながるどころか、かえって信仰から離れさせてしまうことになるのです。コロサイ2:18には、「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(新改訳改定第3版)とあります。「かしら」とはキリストのことです。彼らは夢や幻を見ることによって、かしらであるキリストに堅く結びつくことをしませんでした。その結果、キリストから離れてしまったのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。神のことばをベースにしていなかったということです。だから、やたらと自分たちの見た夢を強調していたのです。夢そのものが悪いのではありません。私もよく夢を見ます。「いつでもゆ~めを♪いつでもゆ~めを♪」夢を見ることは別に悪いことではありません。問題は夢を見たかどうかということではなく、夢を見てもそれがすべて神からの啓示ではないのに、そのように断言することです。ですから、夢と神からの啓示というものを分けて考えなければなりません。夢を見たらそれがすべて神の啓示というのではなく、本当にそれが神からのものなのかどうかを、神のことばによって吟味しなければならないのです。そうでないと、夢とか、幻とか、神のことば以外で受けたものをすべて神の啓示にしてしまう誤りを犯してしまいます。夢を見た預言者は夢を語ればいいでしょう。でも、神のことばを受けた預言者は、神のことばを語ります。これが真の預言者とにせ預言者の違いです。
そのことが、麦と藁(わら)のたとえでわかりやすく表現されています。28節をご覧ください。ここに「麦は藁と何の関わりがあるだろうか。」とあります。どういうことでしょうか。麦は栄養のある部分です。藁は、脱穀する時に出てくる殻のことですね。そこには栄養はありません。神の言葉は麦であり、夢は殻でしかないということです。神のことばは力となり、栄養となり、それによって生きることができますが、夢はただの幻であり、中身がないということです。栄養もありません。従って、それによって生きることはできないということになります。真の預言者とそのメッセージは麦ですが、にせ預言者とそのメッセージは藁のようです。にせ預言者のメッセージは、人に何の益ももたらさないのです。
同じことが、火と金槌のたえによっても表現されています。29節には、「わたしのことばは火のようではないか─【主】のことば─。岩を砕く金槌のようではないか。」とあります。神のことばが火にたとえられています。どういう点で火のようなのでしょうか。不純物を焼き尽くすという点においてです。私たちの心の隠された汚れを焼き尽くして清めるのです。
ここには、さらに神のことばが岩を砕く金槌のようだともあります。どういうことでしょうか。どんなに堅いものでも粉々に砕くことができるということです。皆さんはダイヤモンドを持っていますか。ダイヤモンドは世界で一番堅いものだと言われていますが、でも金槌で叩いたらどうなるでしょうか。あまりお勧めしませんが、もし皆さんがダイヤモンドを持っていたなら、試してみるといいと思います。粉々に砕けますから。神のみことばの金槌のようで、どんな堅いものでも粉々に砕くことができます。あなたの心もそうです。あなたの心がどんなに頑なでも、神のことばはそれを砕くことができるのです。神は砕かれた心、砕かれた悔いた心を求めておられます。私たちの頑な心も砕いていただきましょう。
このように、真の預言者のメッセージは麦のようであり、また火のようであり、金槌のようです。それは真に人を生かします。それは力があり、人を励まし、人を満たすのです。でも、にせ預言者のメッセージは違います。それは中身のない藁のようなものです。いかにも神のことばであるかのように見せかけますが、それはただ聞く人の耳に心地よいだけで、何の役にも立ちません。ただの空しい話にすぎません。
Ⅱ.神のことばを利用するにせ預言者(30-32)
真の預言者と偽りの預言者をどうやったら見分けることができるでしょうか。もう一つのポイントは、にせ預言者は神のことばを利用して、それがあたかも主から与えられたものであるかのように語るということです。30~32節をご覧ください。「30 それゆえ、見よ─【主】のことば─。わたしは、互いにわたしのことばを盗み合う預言者たちの敵となる。31 見よ。わたしは─【主】のことば─自分の舌を操って、これがみことばだ、と言う預言者たちの敵となる。32 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる─【主】のことば─。彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らは、この民にとって何の役にも立たない─【主】のことば。」
彼らは神のことばを利用して、いかにもそれが神のことばであるかのように語ります。32節には、「彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている」とあります。この「自慢話」と訳された言葉は、新共同訳で「気まぐれ」と訳されています。彼らは気まぐれで話をしていました。聖書が何を言っているのかなど関係ありません。ただ自分が言いたいことを、聖書を利用して語っていただけでした。その結果、民の心はカラカラに渇いてしまいました。アモス書8:1にこうあります。「見よ、その時代が来る。─【神】である主のことば─そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことの飢饉である。」(アモス8:1)
パンに飢える飢饉ではありません。水に渇く飢饉でもないのです。みことばを聞くことの飢饉です。神のみことばが語られないと、私たちの心がカラカラに渇いてしまうのです。皆さんも、そういうことを経験したことがあるんじゃないですか。講壇からみことばが語られない。牧師の経験談とか自慢話、気まぐれな話は語られても、肝心な神のみことばが語られないので渇いてしまったということが。そういう意味では、毎週講壇から語られる牧師の説教がどれほど重要であるかがわかるかと思います。私もあまり他の牧師の説教を聞くことがありませんが、聞いていて感動する時というのは、その牧師がよく準備して、神のことばを神のことばとして語っている時です。神様ってすごいなぁと改めて教えられ、主をほめたたえます。どんなに楽しいお話でも、どんなに含蓄のあることばでも、神のことばを利用して自分の言いたいことを語るような説教はあまり心が動かされることはありません。皆さんはいかがでしょうか。
主なる神さまもそのようにおっしゃっておられます。30節、31節、32節には3回も繰り返して、そのようなにせ預言者に対して「わたしは彼らの敵となる」と、主は語っておられるのです。神が敵となることが一番恐ろしいことです。でも、もし神のことばを盗んで自分たちの教えに勝手に利用するようなことがあるとしたら、あるいは、講壇から神のことばではなく、偽りや自慢話といった気まぐれで語られるようなことがあるとしたら、神が敵となられます。
あなたは、どのようにして真の預言者とにせ預言者を見分けていますか。ある人たちは、夢で見た内容、たとえば死後の世界とか、天国と地獄のことなどを書物に現わし、あたかもそれが福音の真理であるかのように語っています。しかし、それをそのまま信じてはいけません。最終的な権威は、聖書にあるので、聖書に照らして吟味しなければならないのです。
Ⅲ.主の宣告とは何か(33-40)
次に、33~40節をご覧ください。「33 この民、あるいは預言者か祭司が、『【主】の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに言え。『あなたが、宣告とは何かと言うので、わたしはあなたがたを捨てる─【主】のことば。』34 預言者でも、祭司でも、民でも、【主】の宣告と言う者があれば、わたしはその者とその家を罰する。」35 あなたがたは互いに「【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか」と言うがよい。36 しかし、【主】の宣告ということを二度と述べてはならない。その宣告自体がそれを言う人自身のことばであり、あなたがたが、生ける神、万軍の【主】、私たちの神のことばを曲げることになるからだ。37 「あの預言者たちにこう言え。『【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか。38 もし、あなたがたが【主】の宣告と言うなら、それに対して、【主】はこう言われる。わたしはあなたがたに、【主】の宣告と言うなと言い送ったのに、あなたがたは【主】の宣告というこのことばを使っている。39 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、40 永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」
33節の「あなたに」とはエレミヤのことです。ユダの民、あるいは預言者や祭司が、エレミヤに「主の宣告とは何か」と尋ねたら、エレミヤよ、あなたは彼らにこう言うようにと主は言われました。「あなたが、宣告とは何かというので、わたしはあなたを捨てる─主のことば。」どういうことでしょうか。
下の欄外には、この「宣告」ということばには※が付いていて、これはヘブル語で「マサ」と言いますが、これは「重荷」とも訳す、とあります。つまり、「主の宣言とは何か」と尋ねられたら、「あなたが重荷だ」と言うように、というのです。実は、ここには語呂合わせが見られるのです。「宣告」と「重荷」です。神様はこの語呂合わせを用いて、ユダの祭司や預言者がエレミヤをからかって、「主の宣言は何か」と尋ねたら、「あなたが重荷だ」「あなたが重荷となっている」と語られたのです。
これは高度なダジャレです。神様がダジャレを使うので私もダジャレを使いますが、こんなに高度なダジャレは使えません。「マサ」、宣告を重荷にかけてご自分の伝えたいことを明確に伝えるなんて、マサに御業です。神のことばを利用しながら、主の宣告、マサは何かというのに対して、マサに、それが彼らのマサになっていくのです。重荷となっていくのです。すごいですね。まさかあの有名な牧師が語っていたことが聖書に逸脱しているとは思わなかった・・・。まさかあのベストセラーに書いてあることが非聖書的だなんて思わなかった・・・。てっきり主の宣告だと思っていたのに、でも気付いてみたらそれが重荷となっていくのです。
マタイ11:28~30に、イエス様の有名なことばがあります。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
すばらしい約束ですね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」主があなたを休ませてあげます。主は心優しくへりくだっているから、あなたがたも主のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」「くびき」というのは、2頭の牛とか馬の首の後ろにかける横木のことです。それは自由を束縛するものです。そのくびきを負って、主から学ぶなら、たましいに安らぎが来ます。なぜ?「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と、主はおっしゃいました。
主イエスのくびきは負いやすく、その荷は軽いのです。主のことばは私たちを束縛するどころか、それは私たちを真に自由にします。それは決して重荷とはなりません。神のことばをベースにして働くなら、必ずあなたは休ませていただくことができます。リフレッシュして力を受けることができるのです。でも神のことばをベースにしなければ、自分の考えとか、自分の思いで突っ走ろうとすると、だんだん疲れて来て、もうその重荷に耐えることかできなくなってしまいます。にせ預言者たちの宣告がこれでした。彼らの宣告は神のことばをベースにしていなかったので、くびきをさらに重くしていたのです。
35節をご覧ください。「あなたがたは互いに「【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか」と言うがよい。」
これがこの箇所のまとめとなります。これが最も重要なことです。主は何と答えられたか。主は何と言われたかということです。その預言者が何と言おうと、その有名な牧師が何と言おうと、そのベストセラー本に何と書いてあろうと関係ありません。主はどう答えられたか、主しどう語られたかが重要です。それを聞かなければなりません。それを主のことば、聖書のことばによって検証しなければならないのです。鵜呑みにしてはいけないのです。
使徒の働き17:11には、ベレヤの教会について紹介されています。ベレヤの人たちは非常に熱心にみことばを受け入れ、果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べました。新約聖書の半分以上を書いたパウロ先生のメッセージを鵜呑みにしないで、パウロ先生が語ったみことばが、果たしてそのとおりであるかどうか、毎日聖書を調べたのです。そんな彼らのことをパウロは良い人だと称賛しました。非常に熱心にみことばを聞いていたというだけでなく、その聞いたみことばが本当にそのとおりかどうか調べていたのです。吟味していました。
逆に、吟味することを怠る人はわきまえのない人です。箴言14:15にはこうあります。「浅はかな者はどんなことばも信じるが、賢い人は自分の歩みを見極める。」浅はかな人は、わきまえのない人は、何でも鵜呑みにします。いくら聖書を熱心に読んでも、いくらあちこちのセミナーに通っても、いろいろなメッセンジャーのことばを聞いて回っても、聖書によって吟味しなければただのわきまえのない人になってしまいます。主は何と答えられたか、主は何と言われたかを、問わなければなりません。吟味しなければならないのです。
そのように問うなら、にせ預言者たちは沈黙せざるをえません。なぜなら、彼らの預言はにせものであることが明らかになるからです。それでも、彼らが「主の宣告」ということがあるとしたらどうなるでしょうか。39節と40節です。「それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」
「全く忘れる」というのは、彼らが行なったことを全く認めていないということです。イエス様が、終わりの時に偽預言者について、「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7:23)と言われている箇所がありますが、彼らが主の名によって預言をして、悪霊を追い出しても、「全然知らない」と言われるのです。
主に反抗するなら、私たちは「主の重荷」となって、主に捨てられてしまうことになります。しかし、主に信頼するなら、逆に、主が私たちの重荷を担いでくださいます。先ほど引用したマタイ11:28にはこうありましたね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
また、詩篇55:22にはこうあります。「あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(新改訳改訂第3版)
また、詩篇68:19にはこうあります。「ほむべきかな主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。」
皆さん、私たちは主の重荷となるのではなく、重荷を主に下ろさなければなりません。ゆだねなければなりません。あなたの重荷は何ですか。あなたの心配事は何ですか。それを主にゆだねなければならないのです。あなたのすべての重荷を主にゆだねるなら、主はあなたのことを心配してくださいます。主があなたに真の休息を与えてくださいます。それは真の預言者のことば、神のことばを聞き、そこに生きることからもたらされるのです。

ヨシュア記22章

2023年9月13日(水)バイブルカフェ
聖書箇所:ヨシュア記22章

 きょうは、ヨシュア記22章から学びます。

 Ⅰ.同胞を捨てず(1-9)

まず1~9節までをご覧ください。「1 そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、2 彼らに言った。「あなたがたは、【主】のしもべモーセがあなたがたに命じたことをことごとく守り、私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。3 今日まで、この長い間あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、【主】の命令に対する務めを果たしてきた。4 今あなたがたの神、【主】は、約束したとおりに、あなたがたの兄弟たちに安息を与えられた。今、【主】のしもべモーセがヨルダンの川向こうであなたがたに与えた、自分たちの所有地、自分たちの天幕に引き返しなさい。5 ただ、【主】のしもべモーセがあなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、【主】を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守り、主にすがり、心を尽くし、いのちを尽くして主に仕えなさい。」6 ヨシュアが彼らを祝福し、送り出したので、彼らは自分たちの天幕に行った。7 マナセの半部族にはモーセがバシャンに所有地を与えたが、残りの半部族には、ヨシュアがヨルダン川の反対側、すなわち西の方に、彼らの兄弟たちと並んで所有地を与えた。ヨシュアは彼らを天幕に送り出すとき、彼らを祝福して、8 こう言った。「あなたがたは多くの財、つまり、非常に多くの家畜と銀、金、青銅、鉄、たくさんの衣服を持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの兄弟たちと分け合いなさい。」9 ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエルの子らと別れ、モーセを通して示された【主】の命により、彼らが得た自分の所有地、すなわちギルアデの地へ帰って行った。」

前章のところで、ヨシュアはすべての部族に占領した土地の割り当てを行ない、また、のがれの町と、レビ人の町々を定め、すべての仕事を終えました。そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言いました。それが2節から5節までに記されてある内容です。彼らはすでにヨルダンの東側に相続地が与えられていました。ですから、人間的に考えるなら、わざわざ戦いに出て行く必要はなかったわけです。しかし、ヨシュアは、ヨルダン川を渡る前にこれら2部族と半部族に、妻子と家畜を残し成年男子の勇士たちはともにヨルダン川を渡って戦いに参加するように命じました。そして、すべての戦いが終わり安住することができるようになったら、自分たちの所有地に戻りなさい、と言ったのです。彼らはその命令を最後まで守り通しました。それに対してヨシュアはここで、その働きの功績に対してねぎらいのことばを語っているのです。ヨシュアはヨルダンの東側の土地が割り当てられていた彼らがモーセの命令を守り、わざわざ川を渡ってまで同胞イスラエルを助けるために労を惜しまなかったことに対して、深く感謝しました。そして多くの財宝とともに彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕へと帰って行きました。

パウロはピリピ人への手紙の中でテモテの働きについてこう言っています。「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20-22)
自分のことを考えれば、人はばらばらになります。けれども、キリスト・イエスを求めるとき、自分を無にして他の人々のことを考えることができるようになり、そこで思いを一つにすることができるようになるのです。私たちに求められているのは、このキリスト・イエスを求めることです。キリスト・イエスを求めることで一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしたいものです。

Ⅱ.戦いの危機(10-20)

次に10節から20節までをご覧ください。ルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族がヨルダンの東側の自分たちの領地に帰って行ったとき、ある一つの事件が起こります。まず、10~12節までをご覧ください。「10 ルベン族、ガド族、マナセの半部族はカナンの地のヨルダン川の流域まで来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは遠くから見えるほど大きな祭壇であった。11 イスラエルの子らは、「ルベン族、ガド族、マナセの半部族がカナンの地の国境、ヨルダン川のイスラエルの子らの側の流域に、祭壇を築いた」と聞いた。12 イスラエルの子らがそれを聞いたとき、イスラエルの全会衆は彼らと戦おうとシロに集まった。」
ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そのヨルダン川のそばに一つの祭壇を築きました。しかもそれは大きな祭壇で、遠くからも見えるものでした。いったいなぜ彼らはヨルダン川のほとりにそんなに大きな祭壇を築いたのでしょうか。また、そのことがなぜイスラエル民族に戦いをもたらす程の重大な事だったのでしょうか。

13~20節までをご覧ください。「13 イスラエルの子らは、ギルアデの地のルベン族、ガド族、マナセの半部族のところに祭司エルアザルの子ピネハスを送った。14 彼に同行したのは、イスラエルの全部族の中から一族につき族長一人ずつ、計十人の族長であった。彼らはみな、イスラエルの分団の中で一族のかしらであった。15 彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げた。16 「【主】の全会衆はこう言っている。『これは何事か。あなたがたが今日、【主】に従うことをやめてイスラエルの神の信頼を裏切るとは。あなたがたは自分のために祭壇を築いて、今日、【主】に反逆したのだ。17 ペオルでの不義は、私たちにとって小さなことだっただろうか。私たちは今日まで、あの不義から身をきよめていないではないか。そのために神の罰が【主】の会衆の上に下ったのだ。18 あなたがたは今日、【主】に従うことをやめようとしている。あなたがたは今日、【主】に反逆しようとしている。明日、イスラエルの全会衆に向かって主は怒られるだろう。19 ただし、あなたがたの所有地が汚れているのなら、【主】の幕屋が建つ【主】の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、【主】の祭壇のほかに自分たちのために祭壇を築いて、【主】に反逆してはならない。私たちに反逆してはならない。20 ゼラフの子アカンが、聖絶の物のことで主の信頼を裏切り、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼一人ではなかった。』」」

ここを見ると、なぜ他のイスラエルの部族がそれを問題にしたのかがわかります。それは、ヨルダンの東側のイスラエル人たち、すなわち、ルベン人、ガド人、マナセの半部族が、シロにある幕屋の祭壇ではない祭壇をつくり、自分たちで勝手に、イスラエルの神ではない異なる神にささげものをしようとしていると思ったからです。イスラエル人たちは、自分たちの中に罪があれば、大変なことになることを知っていました。それは彼らだけの問題ではなく自分たちの問題でもあり、イスラエル全体に影響を及ぼすものであると考えていました。ですから、彼らが主に背いて罪を犯すなら、彼らと戦わなければいけないと思ったのです。それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせました。

イスラエル人の偉大さは、そのことを聞いたときシロに集まってルベン族、ガド族、マナセの半部族と戦うために上って行こうとしましたが、すぐに上って行ったのではなく、まずその事実関係を確かめたことです。彼らはまずその調査団をギレアデに派遣しました。その団長はピネハスという人物でしたが、彼は信仰的にも人格的にも大変優れた人物であって、常に神様のみこころを求めていた人でした。私たちは人のうわさ話によってすぐに翻弄されてしまいものですが、こうして事実関係を調べ事実を正しく把握することは極めて重要であることです。

そのピネハスを団長にイスラエルの10の部族から一人ずつ、全部で十人の族長とギルアデの地の彼らのところに出かけて行くと、彼らはルベン族、ガド族、マナセの半部族の人たちに、自分たちが危惧していたことを告げました。それはイスラエルの神に対して不信の罪を犯すことであり、主に反逆していることだと。なぜこのことが不信の罪を犯すことなのでしょうか。なぜなら、レビ17:8~9こう書いてあるからです。「イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。」
シロにおける主の幕屋の祭壇以外のところでいけにえをささげたら、その人は断ち切られる、つまり神にさばかれる、ということです。神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝すべきであって、どこで礼拝するかは関係ありません。しかし、神は礼拝する場所を定めておられるのです。自分の気持ちや感情、好き勝手なことをすることは、神が喜ばれることではありません。そのようなことは神に不信の罪を犯すことであり、主に反逆することなのです。そうなれば、彼らだけでなく、イスラエル全体に神罰が下ることになります。

彼らはそのようなことをかつて経験していました。17節をご覧ください。ここに、「ペオルで犯した不義」とあります。これはイスラエルの民が荒野で放浪していた時に、モアブの地のペオルでバアルを礼拝したことを指しています(民数記25:1-9)。彼らは偽りの預言者バラムの策略によってモアブの娘たちとみだらな行為をしたことで、彼らが慕っていたバアル・ペオルを慕うようになってしまいました。それに対して主の怒りガイスラエルに対して燃え上がり、偶像礼拝に陥った者たち2万4千人が神罰で死んだのです。それと同じことにならないように、主に反逆してはならないと言ったのです。そればかりではありません。20節には、ゼラフの子アカンが聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に神の怒りが下ったことを示し、それが彼だけでなくイスラエル全体に影響を及ぼしたように、自分たちにも影響が及ぶのではないかと懸念しています。

それなのに、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、なぜこのように大きな祭壇を築いたのでしょうか。21~29節までをご覧ください。ここで彼ららがなぜそのようにしたのか理由が記されてあります。「21 ルベン族、ガド族、マナセの半部族はイスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。22 「神の神、【主】よ、神の神、【主】はご存じです。イスラエルもこれを知りますように。もしこれが、【主】に対する反逆や不信の罪をもってなされたのなら、今日、私たちをお救いにならないでください。23 私たちが祭壇を築いたことが、【主】に従うのをやめることであるなら、あるいは、その上で全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げるため、あるいはその上で交わりのいけにえを献げるためであるなら、【主】ご自身が私たちを責めてくださいますように。24 しかし、私たちがこのことをしたのは次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが、私たちの子らに次のように言うかもしれません。『あなたがたとイスラエルの神、【主】との間に何の関係があるのか。25 【主】はヨルダン川を、私たちと、あなたがたルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは【主】のうちに取り分がない。』こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、【主】を恐れることをやめさせるかもしれません。26 私たちは考えました。さあ、私たちは自分たちのために祭壇を築こう、と。全焼のささげ物のためではなく、いけにえのためでもありません。27 それは、私たちとあなたがたとの間、私たちの後の世代との間の証拠となり、私たちが全焼のささげ物といけにえと交わりのいけにえを献げて、主の前で【主】への奉仕をするためです。こうすれば、後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに『あなたがたは【主】のうちに取り分がない』と言うことはないでしょう。28 私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫がそう言われたとしても、私たちはこう言うことができる。『私たちの父祖が造った【主】の祭壇の型を見よ。これは全焼のささげ物のためでもなく、いけにえのためでもなく、私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ』と。29 私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、【主】の祭壇のほかに、全焼のささげ物や穀物のささげ物や、いけにえを献げる祭壇を築いて、今日、【主】に反逆して【主】に従うことをやめるなど、絶対にあり得ないことです。」」

彼らが大きな祭壇を築いたのは、あることを恐れたからです。それは、後になってヨルダン川の西側の子孫たちが東側の子孫たちに対して、「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか・・・・。こうしてあなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれない。」と思ったことです。つまり彼らが祭壇を築いたのは、ヨルダンの東側に住んでいるために、将来自分たちの子孫がイスラエルの同胞であることを忘れ去られ、除外されるかもしれないという恐れからであり、そういうことがないように、イスラエル民族の一員であるという連帯のしるしを示そうと思ったからだったのです。だから、この祭壇は自分たちがヨルダンの西側のイスラエル民族と一つであることの象徴であって、決してそこでシロの祭壇と同様の宗教儀式を行うためではありませんでした。東側の人たちにとっては自分たちが善意で良いことだと思ってしたことが、思いもかけず、西側の人々の誤解を受け、危うく戦いに発展するところでした。

時として私たちも、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあります。善意や好意でよかれと思ってしたことが、かえって仇となり悪い結果をもちらしてしまうことがあるのです。その根底にはやはり彼らの中に少なからずうしろめたさがあったのは否めません。彼らが住んでいたヨルダンの東側は放牧地として最適の地でした。多くの家畜を飼っていた彼らにとってその地は都合のよい場所であり、是が非でも手に入れたい場所でした。一方、ヨルダンの西側のカナンの地は山間部が多く、放牧には適していませんでした。そこで彼らは半ば奪い取るようにしてモーセに頼み込み、その地を受けました。つまり、彼らは自分たちの勝手な願い、肉的な願望によって、神に従うよりも、自分たちの願いを優先したわけです。その後ろめたさが不安を呼び起こし、もしかしたら自分たちはイスラエルの選民からも除外されるのではないかという恐れとなって行きました。

私たちも自分の肉的な思いから自分を優先してしまい、その結果、不安と恐れにさいなまれることがありますが、忘れてならないことは、主なる神はそのような失敗をも益に変えてくださるということです。主の十字架の出来事がそのことを物語っています。神のひとり子が十字架で死なれるという出来事は、この人類の歴史の中で最悪の出来事でした。しかし、神はその最悪の出来事を通して、人類に救いをもたらしてくださいました。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。(ローマ8:28)

ですから、私たちは自らの罪のゆえに、また弱さのゆえに、時として間違った行動を起こし、誤った選択をし、そんな中で翻弄されて悩み苦しむことがありますが、この十字架のみもとに行く時、神はそのすべてのことを働かせて益としてくださるのです。確かに、私たちの肉的な選択や人間的な決断は、苦しみをもたらすことになりますが、しかし、神はそれで終わらせないで、やがて大きな祝福へと変えてくださるのです。だから、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあっても、神はそれさえも益に変えてくださると信じて、神に信頼して歩み続けることが大切です。

Ⅲ.神をほめたたえたイスラエル(30-34)

「30 祭司ピネハス、会衆の上に立つ族長たち、彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちはルベン族、ガド族、マナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。31 エルアザルの子、祭司ピネハスはルベン族、ガド族、マナセ族に言った。「今日、私たちは、【主】が私たちの中におられることを知った。あなたがたが【主】の信頼を裏切らなかったからである。あなたがたは今、イスラエルの子らを【主】の手から救い出した。」32 エルアザルの子、祭司ピネハスと族長たちは、ルベン族およびガド族と別れ、ギルアデの地からカナンの地のイスラエルの子らのところに帰り、このことを報告した。33 イスラエルの子らはこれに満足した。彼らは神をほめたたえた。そしてもはや、ルベン族とガド族が住んでいる地を滅ぼすために戦をしよう、とは言わなかった。34 ルベン族とガド族はその祭壇に「これは私たちの間での、【主】が神であることの証しだ」と言って名をつけた。」

祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足しました。そして、彼らにこう言いました。「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」(31)
主が私たちの中におられる、という言葉はいい言葉ですね。主を愛している者たちの間には、このような誤解や悲劇はよく起こります。意思伝達が上手くいかずそこに誤解が生じて互いに対峙したり、敵対したりすることさえありますが、主がその中にいてくださり、主がその会話を導いてくださると信じて、愛と忍耐をもって和解することに努めていきたいものです。

こうして、ピネハスとその一行はカナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告しました。そこで、イスラエル人はこれに満足し、一つとなって神をほめたたえました。私たちのうちには、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派といった肉の思いがあるために、必ずこのような問題が生じますが、しかし、聖書に書かれてある方法で主にあって語るなら、悪魔に自分の思いをそそのかされることなく、必ず互いに理解し合うことができるだけでなく、そのことを通しても主に栄光を帰することができるのです。

預言者たちについて エレミヤ書23章9~22節預言者たちについて 

聖書箇所:エレミヤ書23章9~22節(エレミヤ書講解説教44目)
タイトル:「預言者たちについて」
前回は、23章1~8節から回復の希望について語りました。ユダの民はバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、神はそこに「残りの者」を残しておかれ、70年にわたる期間の後に元の場所に帰らせてくださるということでした。勿論、これはバビロンからの帰還だけでなく世の終わりにおける回復の預言でもあます。世の終わりに神は世界中に散らされているユダヤ人を再び約束の地に帰らせてくださるという預言です。それが今の時代にも成就していることを思うと、本当に聖書の預言はすごいなぁと感じます。神様はご自分が語られたことを必ず成就してくださるのですから。
今日はその続きです。9節には、「預言者たちについて」とあります。この「預言者たち」とは、にせ預言者たちのことです。ここで神はにせ預言者たちに対するさばきを語られるのです。なぜにせ預言者について語られるのでしょうか。私たちは、その前のところでイスラエルの残りの者について学びましたが、彼らはバビロンへと散らされた人たちでした。なぜ?牧者たちがちゃんと牧場の群れを牧会していなかったからです。彼らは、神の牧場の群れを滅ぼし散らしていました。1節にあるとおりです。そして、この「牧者たち」というのは、具体的には南ユダ王国の王たちのことでした。彼らは、牧場の群れを牧さなければならないのに滅ぼし散らしていたのです。いわばにせの牧者だったのです。ここではそれに対応して、牧者ではなく預言者のことが取り上げられているのです。にせ牧者ならぬ、にせ預言者です。彼らは神が語ってほしことではなく、民が聞きたいこと、民の耳さわりの良いことを語っていました。その結果、ユダはどうなってしまったでしょうか。その結果、北王国イスラエルも南王国ユダも共に滅びてしまうことになりました。ですから、この預言のことばをどう受け止めるかということは、とても重要なことなのです。それは国の将来を決めることになります。今日の箇所には、そのにせ預言者に対して、私たちはどのように対処したら良いかが教えられています。
Ⅰ.酔いどれのようになったエレミヤ(9-14)
まず、9~14節をご覧ください。9~10節をお読みします。「9 預言者たちについて──私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。【主】と、主の聖なることばのために。10 地が姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧場は乾ききる。彼らの走る道は悪で、その力は正しくないことに使われる。」
「私の心」とはエレミヤの心のことです。にせ預言者たちのことで彼の心はうち砕かれ、彼の骨は震えました。このにせ預言者たちの甘いことばにユダの民がすっかり魅了され、惑わされていたからです。その民がエレミヤを嫌い除け者にしていました。なぜなら、彼のことばが厳しかったからです。エレミヤが語ることばが真理のことばだったからです。彼のことばは民の心にグサッと突き刺さりました。神のことば、真理のことばは、人の心に突き刺さります。でも、にせ預言者たちのことばは心に突き刺さるどころか、それは実に耳さわりの良いことばでした。「あなたはそのままいいんですよ」「心配する必要はない」「あなたはありのままで愛されている」と、包み込むような、安心感を与えるようなことばです。そのにせ預言者たちのことばにマインドコントロールされたユダの民は、エレミヤが語ることばに耳を貸しませんでした。耳さわりの悪いことばだったからです。そんなことばは聞きたくない。エレミヤはすっかり嫌われ、孤独を体験していたのです。そのエレミヤの嘆きがこれです。
 「私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。」
エレミヤはすっかり打ちひしがれてしまいました。酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになりました。もう立っているのがやっとです。まともに歩くことができません。酔っぱらってフラフラした状態になりました。これは文字通り酒に酔っていたということではなく、自分の力では歩けないほど弱りきっていたというニュアンスです。「主と、主の聖なることば」のことを考えると、あまりにも逸脱したにせ偽預言者たちのことばに、立っていることができないほどのショックと憤りで満たされたのです。
その結果、ユダはどうなったでしょうか。姦通する者で満ちるようになりました。主に背き、偶像を拝む者でいっぱいになりました。また、地はのろわれて乾ききり、作物は実らなくなってしまいました。人々は悪に走り、その力は正しくないことに使われるようになりました。すなわち、不正な力により頼むようになったのです。
11~14節をご覧ください。「11「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見出した。──【主】のことば──12 それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──13 サマリアの預言者たちの中に、わたしはごまかしを見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた。14 エルサレムの預言者たちの中に、わたしはおぞましいことを見た。彼らは姦通し、嘘をついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせない。彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ。」」
「預言者」とか「祭司」とは、霊的リーダーたちのことです。彼らもすっかり汚れていました。「わたしの家」とは神の家のこと、つまり、エルサレムの神殿のことです。その神の家である神殿の中にも悪が横行していました。教会も神の家と呼ばれています。世の終わりになると、その神の家である教会にも悪が横行すると言われています。Ⅱペテロ2章1節にこうあります。「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」
「御民の中には」とはイスラエルの中にもということですが、イスラエルの中ににせ預言者が出たように、あなたがたの中にも偽教師が現れるようになります。「あなたがた」とは神の教会のことを指しています。神の教会の中にもにせ教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。何と自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くようになるというのです。異端というエホバの証人とかモルモン教をイメージするかもしれませんが、これはそうした異端のことでありません。ここに「あなたがたの中にも」とあるように、教会の中にそうした偽教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。
その原因を作ったのが2種類のにせ預言者たちでした。それはサマリアの預言者たちとエルサレムの預言者たちです。「サマリアの預言者たち」とは、北王国イスラエルの預言者たちのことです。この時北王国はすでにアッシリアによって滅ぼされていました。彼らはバアルによって預言し、イスラエルの民を惑わしました。その結果、アッシリアによって滅ぼされてしまったのです。しかし、さらに悪いのがエルサレムの預言者たちでした。「エルサレムの預言者たち」とは、南ユダの預言者たちのことです。北王国の預言者たちはバアルの名によって預言しましたが、南ユダは、主の御名によってかたりましたが、主が語っていないことを預言しました。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせませんでした。 悪を行う者を糾弾するどころか、むしろ、それに加担しそれを助長するようなことをしたのです。
その結果、どうなったでしょうか。12節です。「それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──」
それゆえ、彼らは暗闇の滑りやすい道のように、そこで転び、倒れてしまうことになります。これがこの後で起こるバビロン捕囚という出来事です。B.C.586年のことです。南ユダ王国、エルサレムもバビロンによって完全に滅ぼされてしまうことになるのです。
どのような分野でも指導者には大きな責任が伴います。一握りの権力者たちの誤った判断が、国を戦争と破滅に導き、社長の甘い経営判断が、企業を倒産に追い込みます。また、医者の誤った判断が、患者の命を危険にさらします。同じように、預言者や祭司といった霊的指導者の誤った指導が、国全体に混乱と破滅をもたらすことになるのです。 
ところで、ここに、「主のことば」ということばが何回も繰り返して使われているのにお気づきになられたでしょうか。実にこの23章だけで17回も使われています。(1、2、4、5、7、11、12、そして23、24に2回、28、29、30、31、32に2回、33です。なぜこんなにも繰り返して使われているのでしょうか。それは、そこに主の御名で語る者が大勢いたからです。神の御名を利用して語る偽預言者が大勢いたので、真の預言者であるエレミヤは、そうじゃない、これが主のことばであると強調しているのです。たとえそれが耳さわりの悪いことばであっても、これが主のことばだ!と強調しているのです。そして主のことばに従うなら祝福があり、そうでなければのろいがもたらされることになります。主のことばに従わないなら、そこはソドムとゴモラのようになってしまいます。これが主のことばです。エレミヤはそれを強調しているのです。私たちはとかく耳さわりの良いことばには心を開きますが、そうでないことば、たとえば、警告とか忠告といったことばには心を閉ざしてしまう傾向があります。しかし、この主のことばをしっかりと聞かなければなりません。そうでないとかつての北王国や南ユダ王国のようになってしまいます。
Ⅱ.預言を吟味する (15-17)
次に、15~17節をご覧ください。 「15 それゆえ、万軍の【主】は、預言者たちについてこう言われる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ。」16 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは【主】の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。17 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『【主】はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」」
それゆえ、万軍の主はにせ預言者たちに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。これは神のさばきです。「苦よもぎ」は麻酔としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものです。つまり、彼らが神のみことばを捨て、自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。なぜなら、不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからです。それだけ預言者が語ることばの影響は大きいということです。
16節には、そうした偽預言者たちのことばを聞くなと言われています。なぜなら、彼らはあなたがたを空しいものにしようとしているからです。口語訳と新共同訳聖書では、これを「あなたがたに、むなしい望みをいだかせ、」と訳しています。それは空しい望み、空しい希望です。希望があるかのようでも、そこには実体がありません。ただの気休めのことばにすぎないのです。たとえば、彼らは神を侮る者に対してさえ、「主はあなたがたに平安があると告げられた」としきりに言ったり、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、「あなたがたにはわざわいが来ない」とか言っていましたが、それは主のことば、主の御口から出たことではなく、単に自分の心の幻を語っているにすぎません。どうして彼らはこのようなことを語るのでしょうか。聞こえがいいからです。聞く人に喜んでもらえるからです。聞く人が嫌がることは避けようとします。でも真の預言者は聞く人が喜ぶかどうかよりも、その人が主にある真の幸福を得るために、滅びから救い出すメッセージを語るのです。でも、偽りの預言者たちはそうではありません。彼らは主の御口から出たことではなく、自分の心の幻を語るのです。自分の心に浮かんだことやアイディアですね。そういうことを語るのです。
皆さんは聞いたことがありますか。「預言カフェ」というのを。よくマスコミでも取り上げられています。この預言カフェに行くと預言してもらえるのです。私たちから見たらただの占いにすぎませんが、それが正当なプロテスタントの教会のブランチでやっているので、しかもそこには牧師もいるので、神からの導きを受けることができると、みんな安心して出かけて行くのです。あなたは今、どうしたらいいか判断に迷っていませんか。だったら個人預言をしてやりますから予約してください。費用は一切かかりません。但し、席上献金があります。預言をしてもらって感謝したいなら、感謝のいけにえとして献金してくださいというのです。
いったいそれが神からのことばであるかどうかをどうやって判断することができるのでしょうか。それは聖書によってです。それが主の御口によって語られたことばであるかどうかは、神のことばである聖書によって吟味されなければなりません。それが聖書のことばと一致していなければ、それは単なるひとりごとか、その人の心に宿ったただの思い付きにすぎません。いずれにせよ、それが本当に神から出たものなのかどうかは、聖書に照らし合わせて吟味しなければならないのです。それが私たちクリスチャンに与えられた役割であり、責任です。鵜呑みにしてはいけません。
こうした預言には、大きく分けて三つの要素があります。それは神から来たものか、それとも人から来たものか、あるいは、自分の思いでしゃべっているのに、あたかもそれが神からきたかのように錯覚して大胆に語っているかの三つです。神から来た預言とは、このエレミヤのように神から受けた啓示を、そっくりそのまま正確に伝えます。人から来た預言とは、ここでも言われているように、それが神から来たものではないのに、あたかも神から来たものであるかのように語るのです。たとえば、主を侮る者たちに向かって、「主はあなたがたに平安があると告げられた」とか、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、「あなたがたにはわざわいが来ない。」というようなことを告げるのです。その方が聞こえがいいからです。そしてもう一つの神からの預言だと錯覚して語るというのは、確かにその人は真の預言者で、大抵の時は大丈夫ですが、急にどこで血迷ったのか、とんでもないようなことを言ってしまうというケースです。そういうこともあります。あんなに立派な説教をする牧師なのに、時々とんでもないことを言うことがあるということが。人間だから、そういう間違いもあります。でも、あの牧師が言うことは間違いないという先入観があると、その牧師が言ったことを鵜呑みにしてしまうことがあるのです。だから吟味しなければならないのです。それが神から来ているのか、人から来ているのかを。にせ預言者は悪霊からきているのでわかりやすいのですが、真の預言者でも時には肉的になることがあります。極めて人間的になることがあるのです。だから私たちは吟味しなければなりません。神のことばだからと鵜呑みにしてはいけないのです。
Ⅰヨハネ4章1節にこう勧められています。「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」
霊だからと言ってすべて信じてはいけません。その霊が神からのものであるかどうかを吟味しなければなりません。にせ預言者がたくさん世に出て来ているからです。
また、Ⅰテサロニケ5章20~21節にもこうあります。「預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。」
  皆さん、預言を軽んじてはいけません。預言とは、神のことばを預かることです。ですから、とても重いことです。ただし、すべてを吟味しなければなりません。すべてを吟味して、良いものを見分けて、本当に良いものをしっかり保たなければなりません。堅く守らなければならないのです。ちゃんと検証するように、ちゃんと吟味するようにということです。もしそれが本当に神からきているものであるならば、必ず神のことばと一致しているはずです。神のことばである聖書は聖霊によって書かれてあるので、それが神の霊、聖霊から来ているならば、必ず聖書の裏付けがあるからです。それは聖書のここに書いてあるから神から来た預言だと証明することができるのです。でも聖書に書いていなければ、あるいは、聖書に書いてあることに反しているなら、それは神からきた預言であるということはできません。それは偽りの預言です。
いずれにせよ、それがどこからきているのかをしっかり吟味しなければなりません。そしてその際の基準になるのが神のことばです。もしそれが神から出たことであるならば、絶対に聖書に相反することはありません。聖書に矛盾するようなことは、聖霊は絶対にしないからです。みことばと聖霊は切っても切り離せない関係があります。だからパウロはこう言ったのです。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。実に聖霊に満たされるとは、みことばに満たされることです。みことばに満たされたら御霊に満たされます。そうすれば、知恵を尽くして互いに教え、戒め、詩と賛美の歌をもって、感謝をもって心から神に向かって歌うことができます。あなたは空しい希望を抱かせられることはありません。空しいものに振り回されることはないのです。
Ⅲ.主との親しい交わりに加わる(18-22)
ですから、第三のことは、主との交わりを大切にしましょう、ということです。18~22節をご覧ください。「18 しかし、だれが、【主】との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。19 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。荒れ狂う暴風が悪者の頭上で荒れ狂う。20 【主】の怒りは、その心の御思いを行って成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟る。21 「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続ける。わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。22 わたしとの親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから立ち返らせたであろうに。」
18節に、「だれが、主との親しい交わりに加わり」とありますが、新改訳第3版、並びに口語訳、新共同訳では「主の会議」と訳しています。「だれが、主との会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」ということです。にせ預言者たちの問題はここにありました。この主との親しい交わりに加わっていなかったことです。そこで、主のことばを見聞きしませんでした。
皆さん、天でも会議があるのを知っていましたか。それは王である神が玉座に着いて、その左右に天の万軍が集まっている会議です。たとえば、Ⅰ列王記22:19~23にその様子が描かれています。イスラエルの王アハブは約四百人の預言者を集めて、ラモテ・ギルアデに上って行くべきか、それとも、やめるべきか尋ねますが、イスラエルの預言者たちは皆アハブ王が喜ぶことしか告げなかったので、おかしいと思った南ユダの王ヨシャファテは、「ここには、われわれのみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのか」と言うと、ミカヤという預言者が連れて来られました。でもアハブ王は彼があまりすぎではありませんでした。というのは、彼はアハブについて良いことは預言しないで、いつも悪いことばかり預言していたからです。いわゆる、目の上のたんこぶみたいな存在だったわけです。でも、まあそう言わないでミカヤの言うことも聞いてみましょうと言うと、彼はこの天上での会議で見聞きしたことを告げるのです。それは、悪霊は偽預言者を用いてアハブを惑わすというものでした。この時預言者ミカヤは天上で行われていたこの会議に参加していたので、そこで主が語られることを見聞きしたのです。
でも、エレミヤの時代の預言者たちはこの会議に参加していなかったので、主のことばを見聞きしていませんでした。だから、彼らは主が語っておられることがどういうことなのかを知らなかったのです。知らなかったのに走り続けたので、主のさばきを受けることになりました。
22節をご覧ください。もしこの主との親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、主の民に主のことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから、立ち返らせることができたでしょう。でも、そうでなかったので、彼らは預言者としての役割りを果たすことができませんでした。
皆さん、これが最も大切なことです。もし私たちも主との親しい交わりに加わっていなかったら、主のことばではなく自分のことば、自分の心の幻を語ってしまうことになります。イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられました(マルコ1:35)。なぜでしょうか。この会議に加わるためです。父なる神と親しい交わりを持つためです。
詩篇143篇8節にはこうあります。「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
  この詩篇の作者は、「私はあなたに信頼して祈っていますから」と言っています。彼は、神と交わり、神に期待して祈っていたのです。また、「行くべき道を示してください」と言っています。自分の道、自分の思いではなく、神に信頼し、神の道が示されることを求めて祈りました。このような人に神のみこころが示されないわけがありません。神との親しい交わりに加わり、その中で神のことばを聞き、神に信頼して祈るなら、確かに神はご自身のみこころを示してくださるのです。
すべてのクリスチャンに、福音を伝えるという責任が与えられています。そのために最も重要なことは何かというと、どのように福音を伝えるかということではなく、この主との親しい交わりに加わるということです。そこでみことばに耳を傾け、御霊の声を聞くことを学ぶことです。どんなに不評を買っても、神のことばを真っ直ぐに伝えなければなりません。
パウロは、若き伝道者テモテにこう書き送りました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:2-5)
世の終わりが近くなると、人々は健全な教えに耳を傾けなくなったり、自分に都合がいいようなみことばを聞こうと、自分の好みにしたがって教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くようになります。けれどもそれに屈してはいけません。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさいと、パウロはテモテに命じたのです。そのためには、私たちがいつも主の会議に連なること、主との親しい交わりに加わり、主との親しい交わりの中で、主のことばを聞かなければなりません。
最近、アメリカのカリフォルニア沿岸のモントレーという浜に、ペリカンの天国があったという話を読みました。漁師たちは網にかかった小さな魚をその浜に捨てていたので、それがペリカンのえさになり、大量のペリカンが集まっていたのです。そこにいたペリカンたちは、何の苦労もなくえさが食べられるので、魚を捕まえる方法を徐々に忘れていきました。しかし、いつからか漁師たちが捨てた小さな魚が商業用に利用されるようになると、えさにしていた魚がなくなってしまいました。しかし、ペリカンたちは相変わらず、捨てられた魚を求めて浜をさまよいました。時間が経つと、ペリカンは1羽、2羽と死に始めました。そこで漁師たちはペリカンたちを助けるために、別の場所にいる自らえさを探すことができるペリカンを連れて来て、放しました。新しくやってきたペリカンは、海に放たれると上手にえさを取り始めました。この姿を見たモントレーのペリカンも必死に飛び回って、えさを取り始めたのです。
このペリカンの話は、誰かが投げてくれたえさに慣れてしまい、自らたましいの糧を求めようとしない、今日の私たちの姿を物語っています。キリスト教は、みことばの宗教、聖書の宗教であるともいえます。モントレーのペリカンのように、1週間に1度投げてもらえるみことばを食べることに満足していないか、自分自身を振り返ってみなければなりません。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。(コロサイ3:16)主との親しい交わりに加わる、これが真の預言かにせ預言かを吟味するために必要なことであり、真理のみことばをまっすぐに解き明かすために必要な鍵なのです。

ヨシュア記21章

2023年8月23日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:ヨシュア記21章

 

 きょうは、ヨシュア記21章から学びます。

 

 Ⅰ.執り成すことの大切さ(1-7)

 

まず1~7節までをご覧ください。「21:1 レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、21:2 カナンの地のシロで彼らに告げた。「【主】は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」21:3 イスラエルの子らは【主】の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。21:4 ケハテ人諸氏族のためにくじが引かれた。ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族から、くじによって十三の町がレビ人の祭司アロンの子らのものになった。21:5 エフライム部族の諸氏族、ダン部族、マナセの半部族から、くじによって十の町が、残りのケハテ族のものになった。21:6 イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、くじによって十三の町がゲルション族のものになった。21:7 ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ人の諸氏族のものになった。」


 「そのとき」とは、ヨシュアが主の命令に従ってイスラエル人に「のがれの町」を定めるようにと命じたときのことです。そのとき、レビ人の一族のかしらたちが祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、ある一つの願い事をしました。その願いというのは、自分たちの住む居住地と家畜を飼うための放牧地を与えてほしいということでした。この要求は民数記35章において、すでにモーセがレビ人たちに与えていた要求に基づくものでした。レビ人はかつてイスラエルが荒野を放浪していた時に、イスラエルの民が不信仰に陥り、金の子牛を作って偶像礼拝した時でもモーセの命令を守り、またモーセに従って決して偶像礼拝に走らなかった民です。その結果、神はこのレビ人を祝福し、祭司をはじめとした聖なる仕事に携わるように選ばれました。それ故レビ人は聖なる部族なのです。したがってこの部族は神から直接に養われるべく相続地を持っていませんでしたが、イスラエルの民への相続地の分割が終わった時に自分たちの居住地と放牧地を与えてほしいと申し出たのです。

 このレビ族には大きく分けて、三つの部族がありました。ゲルション族、コハテ族、メラリ族です。これは彼らの父祖レビの三人の子供の名前に由来します。長男がゲルションであり、次男がコハテ、そして三男がメラリでした。これらの三つの氏族に対する領地の分割を見ていくと、6節にゲルション族は13の町を与えられ、コハテ族には23の町が(4-5)、そしてメラリ族には12の町が与えられました(7)。

 ところで、レビの長男はゲルションなのに、このゲルションよりも次男のコハテ族の方が先に、しかも多くの領地が与えられていることに気づきます。ゲルションが13の町、メラリ族には12の町しか与えられなかったのに、コハテ族には23もの町が与えられているのです。いったいどうしてコハテ族の方が優遇されたのでしょうか。

 その理由については、4節に少しだけ説明されています。それは、彼らがアロンの子孫であったからです。しかし、アロンの子孫であるからというだけで、なぜこのように優遇されたのでしょうか。実はアロンの弟モーセもまたコハテ族であるのに、そのモーセについては何も言及されておらず、ただアロンの子孫であることが強調されているのです。旧約聖書を見るとモーセこそイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地に導いた偉大な預言者です。アロンはいつもそのモーセの陰に隠れていてあまり目立たない人物でした。それどころか、アロンは指導者として相応しくない優柔不断な面もありました。そうです、モーセがシナイ山に登り、なかなか降りて来なかった時に、待ちくたびれた民が偶像礼拝に走っていったのにそれを止められなかったばかりか、自分が先頭に立ってそれを導きました。アロンにはそうした弱さがあり目立たない人物であったのに、ここにはモーセのことについては何も触れられておらずただ祭司アロンの出身氏族であったことだけが述べられているのです。これはどういうことでしょうか。それはこのアロンが祭司であったがゆえです。アロンは決して偉大な人物ではありませんでしたが、祭司であったというこのただ1点において、コハテ族が優遇されたのです。いったいこのことはどんなことでしょうか。

 そもそも祭司とは何でしょうか。旧約聖書には預言者という人物が出てきます。預言者は神の言葉を語り、民はその言葉を聞いて悔い改めるわけです。それに対して祭司はあまりぱっとしません。むしろ地味で、日常的な人物が祭司です。また祭司は預言者のように民の罪を指摘して悔い改めを迫るということはしません。むしろ神と民との間に立って犠牲をささげ、民のためにとりなして祈るのです。祭司は預言者のような激しさや厳しさはありませんが、にもかかわらず、罪深く弱い私たち人間にとっては、不可欠な仲保者としての役割を持つのです。

 コハテ族はこの祭司職であったアロンの直系であったがゆえに、特別に重んじられたのです。そして、この祭司一族は単に居住地を多く受けたというだけでなく、イスラエル12部族によってささげられた生産物の十分の一の、そのまた十分の一を得ることが許されたのです。このアロンの一族は極一握りであったことを考えると、いかに彼らが優遇されていたかがわかります。それは、彼らが神と民との間に立って、それを執り成す務めがゆだねられていたからです。

 このことから、執り成すという働きが、私たち人間にとっても、きわめて重要な意味を持っていることがわかります。Ⅰペテロ2章9節には、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」とあります。クリスチャンにはみな、この祭司の務めがゆだねられているのです。私たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるために、神とこの世の人々を執り成すという務めです。とりわけ牧師には、この務めがゆだねられています。牧師には神の言葉を語るという預言者的な側面もありますが、基本的には、神の祭司としてとりなす者でなければなりません。カトリック教会や聖公会では牧師を司祭と呼ぶのは興味深いことだと思います。祭司としての務めを司る者という意味があるのでしょう。それは牧師も同じであり、すべてのクリスチャンにも言えることです。私たちはみな司祭(祭司)なのです。そのすばらしい務めをゆだねられた者として、これを全うしていかなければなりません。

聖書には、イエス・キリストのことが祭司と呼ばれています。へブル人への手紙の中には、「私たちの大祭司」とあります。イエス様は預言的な務めもされましたが、それ以上に大祭司として、私たちのすべての罪を負って十字架で死んでくださいました。ご自分の身も心もすべて犠牲にしてささげ、私たちのためにとりなしてくださったのです。そればかりか、この大祭司であられるイエス様は、今もなお天で私たちのためにとりなしておられます。そのとりなしのゆえに、私たちのすべての罪は赦され、立ち上がり、生きることができるのです。このことのゆえに、私たちも他者のためにとりなす者となっていきたいと思います。ただ口先だけでなく、行動をもって、人々のためにとりなしの業に励もうではありませんか。

Ⅱ.イスラエルの居住地とのがれの町(8-42)

次に、8~42節までをご覧ください。「21:8 イスラエルの子らは、【主】がモーセを通して命じられたとおりに、次の町々とその放牧地をくじによってレビ人に与えた。21:9 ユダ部族、シメオン部族からは次に名を挙げる町を与えた。21:10 これらは、レビ族に属するケハテ人諸氏族の一つ、アロンの子らのものになった。最初のくじが彼らに当たったからである。21:11 彼らにはユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。アルバはアナクの父である。21:12 しかし、この町の畑と村々はエフンネの子カレブに、その所有地として与えた。21:13 祭司アロンの子らに与えられたのは、殺人者の逃れの町ヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、21:14 ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、21:15 ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、21:16 アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。これら二部族から与えられた九つの町である。21:17 またベニヤミン部族の中からのギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、21:18 アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地の四つの町である。21:19 アロンの子らである祭司たちの町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:20 レビ人であるケハテ人諸氏族に属する、ケハテ人の残りには、エフライム部族から、くじによって次の町々が与えられた。21:21 彼らに与えられたのは、エフライムの山地にある殺人者の逃れの町シェケムとその放牧地、ゲゼルとその放牧地、21:22 キブツァイムとその放牧地、ベテ・ホロンとその放牧地の四つの町。21:23 またダン部族からエルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、21:24 アヤロンとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の四つの町。21:25 またマナセの半部族からタアナクとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の二つの町。21:26 残りのケハテ族の諸氏族には、全部で十の町とその放牧地が与えられた。21:27 レビ人の諸氏族の一つゲルション族に与えられたのは、マナセの半部族から、殺人者の逃れの町バシャンのゴランとその放牧地、ベエシュテラとその放牧地の二つの町。21:28 またイッサカル部族からキシュヨンとその放牧地、ダベラテとその放牧地、21:29 ヤルムテとその放牧地、エン・ガニムとその放牧地の四つの町。21:30 またアシェル部族からミシュアルとその放牧地、アブドンとその放牧地、21:31 ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地の四つの町。21:32 またナフタリ部族から、殺人者の逃れの町であるガリラヤのケデシュとその放牧地、ハモテ・ドルとその放牧地、カルタンとその放牧地の三つの町。21:33 ゲルション人の諸氏族の町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:34 レビ人の残りのメラリ人諸氏族に与えられたのは、ゼブルン部族から、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、21:35 またディムナとその放牧地、ナハラルとその放牧地の四つの町。21:36 またルベン部族からベツェルとその放牧地、ヤハツとその放牧地、21:37 ケデモテとその放牧地、メファアテとその放牧地の四つの町。21:38 ガド部族から殺人者の逃れの町、ギルアデのラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、21:39 ヘシュボンとその放牧地、ヤゼルとその放牧地、これら四つの町すべて。21:40 これらの町はすべて、レビ人の諸氏族の残りの、メラリ族の諸氏族のものであり、くじによって与えられた十二の町である。21:41 イスラエルの子らの所有地の中で、レビ人の町は全部で四十八の町とその放牧地である。21:42 これらの町はそれぞれその周囲に放牧地があった。これらの町はすべてそうであった。」

ここには、1~7節までの記述を受けて、レビ族に対する居住地と放牧地がくじによって与えられたことが列挙されています。彼らの町は一つのところに集まっておらず、それぞれの部族の相続地にまんべんなく散らばっていることがわかります。これを地図で見ると、のがれの町と同じように、イスラエルの土地全体に、広がっているのを見ることができます。また、20章において定められたあの6つののがれの町が、彼らの居住地に置かれていたこともわかります。このことは何を表しているのでしょうか。イスラエル全体に、レビ人たちの霊的奉仕の影響が、まんべんなく広がっていたということです。レビ人たちの霊的奉仕とは何でしょうか。それは、神に仕え、神と人との間の仲介者として、とりなしをすることです。言い換えるならば、彼らの役割は、人々にもう一度やりなおす機会を与えることであり、そのために励ましを与え立ち直らせていくことです。これは単に聖職者であるレビ人だけにゆだねられた務めではなく、私たちの教会にもゆだねられている務めでもあります。イエス・キリストはご自身のからだを通して贖いの御業を成し遂げられました。そしてこの世を罪から救い、この世のさまざまな束縛から解放し、また癒されました。教会はキリストの体としてこのキリストの贖いの御業を継承し、この地上において実現していくという役割が与えられているのです。罪を犯した者、失敗した者、悪魔の手にある者たちをもう一度引き上げて、やり直しさせていくという務めがゆだねられているのです。

Ⅲ.神の約束は一つもたがわずみな実現する(43-45)

最後に、43~45節をご覧ください。「21:43 【主】は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。21:44 【主】は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。【主】はすべての敵を彼らの手に渡された。21:45 【主】がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。」

レビ族に対する居住地並びに放牧地の割り当てが成され、これを以って、イスラエルの12部族すべての相続地の割り当てが完了しました。それはかつて主がイスラエルの家に約束されたことであり、主はその約束したとおりのことをしてくださいました。主は、イスラエルに約束したすべての良いことを、一つもたがわずみな実現したのです。これだけを見ると、何もかもめでたし、めでたしであるかのようなイメージがありますが、この後の士師記を見ると、イスラエルのパレスチナの占領は必ずしもこれで終わったわけではなかったことがわかります。イスラエルのカナン人に対する戦いは継続して行われていて、戦いに次ぐ戦いの連続なのです。特に士師記3章を見ると、占領すべき地がまだたくさんあったことが明記されています。ということは、この箇所は、事実に反する記述をしているということなのでしょうか。

そうではありません。確かに、まだ占領すべき地はたくさん残っていましたが、神の側から見ればすべては完了していたということです。つまり、これは事実的描写ではなく、信仰的描写なのです。実際にはまだそうではなくとも、信仰的にはもうすでに完了していたのです。主なる神の側においては、この時点において一切合切その通りに成ったのです。このように、信仰とは実に、この神の側での完成を受け取り、その上で私たちが最大限の努力を成していくことであるということがわかります。時としてそのように努力していく時、事が成就するどころかむしろ逆の方向に進んでいくような場面に遭遇することがあります。神が約束を反故にされたのではないかと思えるような事態に対して、私たちはなぜこうなってしまったのか、主は確かにみことばを通して私に語ってくださったはずではないか、あれはただの思い違いであったのかと悩むことがあります。時にはそのことで不信仰に陥ってしまうことさえあります。実はこの時が肝心です。神は約束してくださったことを必ず実現されますが、時としてそれとはまったく逆の事態に遭遇することがあるのは、それが本当に神のみこころなのかどうかを吟味するためであり、むしろ、そのことをバネにして、さらに大きく飛躍するためでもあるのです。丁度、私たちがジャンプをする前に、一旦、屈むようなものであって、大きくジャンプをしようとすればするほど、身を低くしなければならないのと同じです。

ですから、そうした見せかけの困難に騙されてはならないのです。主が約束されたことは、決して変わることなく、事態がまったく違う方向へ向かって進んでいるように見える場合にも、必ず実現するのです。逆風はより素晴らしい成就に至るために通るべき試練なのです。

大切なのは、神はみことばを通して私たちにどんなことを約束してくださったかということであり、それは必ず実現すると信じることです。困難があるのは、神の御力は私たちが考えているよりもはるかに大きく、高く、広いということを示すためであり、私たちの信仰を取り扱ってくださるためであって、神の側ではもうすでにみな実現していることなのです。主がイスラエルに約束されたすべての良いことは一つもたがわず、みな実現したように、神があなたの人生に約束されたすべての良いことは、一つもたがわずみな実現するのです。私たちの目ではそれとは逆に進んでいる現実を見て落ち込むことがありますが、神の目をもって物事をとらえ、一つもたがわず、みな実現したことを信じて前進させていただきましょう。

朝のこない夜はない エレミヤ書23章1~8節朝のこない夜はない 


聖書箇所:エレミヤ書23章1~8節(エレミヤ書講解説教43目)
タイトル:「朝のこない夜はない」
エレミヤ書23章に入ります。きょうは「朝のこない夜はない」というタイトルでお話します。これは、小説家の吉川英治(1892~1962)が言ったことばです。「朝のこない夜はない」、今日の箇所は、まさにこのことばに集約されるような内容です。
私たちはこれまでずっとエレミヤ書を学んできましたが、そのほとんどがさばきのメッセージで、とてもヘビーな内容でしたが、そんな中にも例外的に希望のメッセージが語られたことがあります。それは、3章16~18節の終わりの日の回復の預言です。そして今日の箇所にもその希望のメッセージが語られています。人間の力が尽きても、神にある希望がなくなることはありません。むしろ、万策尽きたところから、神の御業が始まると言ってもいいでしょう。預言者エレミヤはここでさばきのメッセージを語るだけでなく、神にある希望を語り、ご自身の民を励まします。朝のこない夜はありません。苦しい状況はいつまでも続くものではなく、いずれ必ず回復するのです。
Ⅰ.主の群れの残りの者(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。
「23:1 「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち──【主】のことば。」23:2 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、私の民を牧する牧者たちについてこう言われる。「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いを罰する──【主】のことば──。23:3 しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──【主】のことば。」
1節に「わたしの牧場の群れ」とあります。「わたしの牧場の群れ」とは、南ユダ王国の国民のことを指しています。その国民の上に立つのが「牧者たち」です。「牧者」というと今で言う教会の牧師のことを連想する方も多いのではないかと思いますが、もともとは指導者全般を表す言葉でした。文脈によってそれが王たちであったり、預言者や祭司たちといった霊的指導者であったりしますが、ここでは22章で取り上げた南ユダ王国の最後の4人の王たちのことを指しています。それは、エホアハズ、エホヤキム、エコンヤ(エホヤキン)、そしてゼデキヤのことです。彼らは主の羊の群れを守り、養なわなければならなかったのに、追い散らしていました。牧者が羊を養わなかったらどうなるでしょう。羊はやせ衰えて死んでしまいます。南ユダはそのような状態だったのです。
しかし、私たちの真の牧者であられる主イエスはその逆で、追い散らした群れの残りの者を集めてくださる方です。3節と4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。
「しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──主のことば。」
ここに「しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧者に帰らせる。」とあります。これが3章16~18節でも語られたいた希望のメッセージです。主は、ご自身の残りの者を、追い散らしてすべての地から集め、元の牧者に帰らせてくださいます。これは「残りの民」という思想です。これはエレミヤ書全体で19回使われています。英語では「remnant」(レムナント)と言いますが、神学用語になっています。これはどんなに罪深い社会にあっても、主は必ず残りの者を残しておられるという思想です。どんなに神に背き、神から離れ、腐敗した社会であっても、神の言葉に聞き従おうとする残りの者を残しておられるのです。
使徒の働き18章には、パウロがコリントで伝道した時の様子が記録されていますが、それは激しい迫害が伴いました。果たしてイエス様を信じる人がこの町にいるだろうかという不安と恐れの中にいたとき、主はある夜、幻によってパウロに語られました。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒18:9-10)
そこでパウロはそこに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けたところ、幾人かの人たちが信仰に入りました。これが「レムナント」、「残りの民」です。神はどんなにご自身に背いているような腐敗した社会であっても、神の言葉に聞き従おうとする残りの者を必ず残しておられるのです。
実際、このあとバビロンがやって来て南ユダは壊滅されてしまいます。住民は皆、バビロンへと引き連れて行かれていくわけですが、神様はその中にもわずかながらこの残りの者を残しておられました。70年間のバビロン捕囚の帰還が終わった時、そのわずかな残りの者が再びエルサレムに帰って来て、もう一度エルサレムを再建し始めるのです。それが3節にある預言です。エレミヤがこの預言を語った時はまだバビロンに捕えられ移されていませんでした。しかし、それは必ず起こるし、避けられないことでした。でもその70年後に主はその中の残りの者を再び集め、元の牧場に帰らせると約束してくださったのです。そこで彼らは多くの子を生んで増えるようになると。
皆さん、朝の来ない夜はありません。苦しい状況はいつまでも続くものではないのです。いずれ必ず好転します。人間の力が尽きても、神にある希望がなくなることはありません。むしろ、万策尽きたところから、神の御業が始まると言ってもいいくらいです。
実際、70年のバビロン捕囚後に約5万人がエルサレムに帰ることができました。バビロンに捕らえ移されたユダの民は約200万でしたから、それは本当にわずかな人たちでした。彼らはこの神のことばを信じていたので、エルサレムに帰り、神の都を再建しました。でも大抵の人たちは帰らないでバビロンに残りました。今さらエルサレムに帰っても意味がない。ここには家族もいれば、仕事もある。確かに生活は楽ではないが、何とかそれなりに生きて行くことが出来る。エルサレムに帰るよりもここにとどまっていた方がずっと良いと思ったのです。それが普通の考えかもしれません。でも、残りの者たちはそうではありませんでした。彼らはバビロンに築き上げたすべてのものを捨てて、神の約束を信じて、目に見える祝福ではなく、目に見えない永続する神の祝福を求めてエルサレムに帰って来たのです。
それは私たちも同じです。私たちは約束の地を受け継ぐようにと神によって選ばれた残りの者です。そんな残りの者に求められていることは、アブラハムが神から召しを受けたとき、どこに行くのかもわからなくても信仰によって出て行ったように、彼は神の約束を信じて、目に見える祝福ではなく、目に見えない永続する神の祝福を求めて出て行くことです。

Ⅱ.主は私たちの義 (5-6)
次に、5~6節をご覧ください。しかし、祝福の預言はそこで終わっていません。さらにその先のことが語られます。 「23:5 見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。23:6 彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『【主】は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である。」
「見よ、その時代が来る。」これは預言書の中のキーワードの一つです。「その日」とか「その時代」とは、世の終わりの時を指し示している言葉です。そのとき、主はダビデに一つの正しい若枝を起こします。これは、ダビデ王家に正しい王を起こすということです。これまでの王たちは、ダビデ王家の血筋を持ちながらも正しくありませんでした。彼らは公正と正義を行わないで、自分のやりたい放題、好き勝手に振る舞っていました。
しかし、世の終わりに来られる真の王は、この地に公正と正義をもたらされます。6節にあるように、彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住むようになるのです。その方は「主は私たちの義」と呼ばれます。その名はエホアハズではありません。エホヤキムでもない。エホヤキンでもなく、ゼデキヤでもありません。その名は、「主は私たちの義」です。この王は、公正と正義を行い、ありとあらゆる腐敗を是正されるのです。そのお方とは誰でしょう。そのお方こそやがて来られるメシヤ、救い主イエス・キリストです。そうです、ですからこれはメシヤ、救い主イエス・キリストがやって来られることを預言していたのです。5節に「ダビデに一つの正しい若枝を起こす」とありますが、これもそうです。これもやがて来られる救い主のお名前です。その名は「正しい若枝」です。これもイエス・キリストのことを預言していました。世の終わりに主はダビデの家系から一つの正しい若枝を起こし、彼が王となって治め、栄えて、この地に公正と正義を行うのです。その時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住むようになります。そのお方は「主は私たちの義」と呼ばれるようになります。そのお方とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは、「主は私たちの義」と呼ばれるようになるのです。
キリスト教に異端と呼ばれるグループがありますが、その一つにエホバの証人というグループがあります。そのエホバの証人にとってこれは都合の悪い箇所です。というのは、エホバの証人は、主とは父なる神のことだと考えているからです。しかし、ここでは明らかにこの「主」(ヤハウェ)とはやがて来られるメシヤ、救い主、すなわちイエス・キリストのことを指して言われているからです。そのイエス・キリストがここでは「主」「ヤハウェ」と言われています。エホバとヤハウェは同じです。そして、この「一つの正しい若枝」とはエホバではなくイエス・キリストのことであり、そのイエス・キリストが「主」、「エホバ」、「ヤハウェ」と呼ばれているのです。「主は私たちの義」、「エホバは私たちの義」だと。
皆さん、主が私たちの義です。私たちが義なのではありません。義なるお方は主イエス・キリストなのです。イザヤ64章6節にこうあります。「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」
皆さん、私たちはみな、汚れた者のようです。私たちの義、私たちの義、私たちの行いはみな、不潔な衣のようなのです。神様の目にはそのようでしかありません。ローマ3章10~12節にはこうあります。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」 義人はいない。一人もいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となりました。でも、主が私たちの義となってくださるのです。
Ⅱコリント5章21節を開いてください。ここにこうあります。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
アーメン!神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。これが良い知らせです。グッド・ニュースです。私たちの義は、神の目には不潔な着物でしかありませんが、神は私たちをイエス・キリストにあって義としてくださいます。ですから、ローマ8章1節にこのように約束されているのです。 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
アーメン!すばらしいですね。私たちの罪が罪のない方、イエス・キリストに転嫁されたので、私たちの罪は贖われて罪のない者とされました。罪が贖われるために必要なのは罪のない方の代価ですが、この地上にはそんな人など一人もいませんから絶望しかありませんが、しかしキリストは違います。イエス・キリストは人となられた神であり、全く罪のない方ですから罪を贖うことができるのです。私たちの罪を贖うことができるのは、ただ一人、人となられた神、イエス・キリストだけです。イエス・キリストだけがあなたの罪を贖うことができます。だから、聖書はこう言っているのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
  私たちは、このイエス・キリストによって神の義とされました。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。今、私たちは神の目には義と認められました。私たちがどんなに汚れていても、このイエス・キリストによって聖なる聖なる聖なる神の御前に立つことができるのです。主イエス・キリストが罪を贖ってくださったから。主は私たちの義であられる方なのです。
ところで、この預言は、最終的には終末の時代にイエス・キリストの再臨によって成就するものです。今から二千年前にキリストは救い主として到来しましたが、これはその時のことではなく、私たちもまだ経験していないキリストの再臨の時に成就することです。英語では、二千年前の到来をFirst Comingと言い、世の終わりの再臨をSecond Comingと言います。このSecond Comingによって成就する預言です。イエス・キリストは、今から二千年前に私たちを罪から救う救い主としてこの世に来られましたが、世の終わりには、この世をさばくために来られるのです。腐敗していた南ユダを裁くために神がご介入されたように、この世の終わりにも、腐敗したこの世界を裁くためにご介入されるのです。具体的には、王の王、主の主と呼ばれるキリストが来られて、神の国をこの地上に樹立してくださいます。それが千年王国と呼ばれているものです。主は再びこの世に来られるとき、すべての悪を一掃され、悪によって壊滅状態になってしまった地球をあの天地創造の時のように再創造されるのです。この地球全体があのエデンの園のように回復するのです。そして私たちはキリストとともにこの地球を千年間治めるようになるのです。復活のからだをもって。これが私たちの真の希望です。やがてその時がやって来ます。今はイエス様を信じて罪が贖われ、神に義と認められましたが、この世にあっては患難があります。不条理なこと、理不尽なことがあって、悩みは尽きないわけですが、やがてダビデの王家から出る一つの正しい若枝によって、すべてが正しくさばかれる時がやって来ます。それが私たちの真の希望です。私たちはここに希望を置かなければなりません。そして、この地上での様々な問題をただしく裁かれる主にゆだね、主が私たちの義となってくださったことを感謝し、この主にすべてをお委ねしたいと思うのです。
Ⅲ.ここに希望を置いて(7-8)
ですから、第三のことは、ここに希望を置きましょうということです。7節と8節をご覧ください。「23:7 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた【主】は生きておられる』と言うことはなく、23:8 『イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた【主】は、生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。ここには、そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる」ということはなく、「イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられる」と言って、自分たちの土地に住むようになります。どういうことでしょうか。
これは、16章14節、15節で語られたことと同じ内容です。出エジプトの出来事は、エレミヤの時代から遡ること900年も前の出来事ですが、それはイスラエルがエジプトの支配から解放されたすばらしい主の御業です。それはイスラエルの歴史においては偉大な神の救いの御業を語る象徴的な出来事で、イスラエルはこの出来事を忘れることがないように過越の祭りを祝うことによってその子孫に語り伝えてきました。それは、イスラエルの歴史における最大の出来事と言っても良いでしょう、その出エジプトの出来事が、そのときには、もはや人々は、主は生きておられるということはないというのです。なぜなら、もっとすばらしい主の御業が行われるからです。それが第二の出エジプトと言われるバビロン捕囚からの解放です。この「北の地」はそのバビロンのことを指しています。北海道のことではありません。そのバビロンからの解放の御業があまりにもすばらしいので、そのとき、もはや人々は、イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる」ということはなく、イスラエルの末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられると言って、自分たちの土地に住むようになるというのです。
しかし、実はこれはバビロン捕囚からの解放の預言だけでなく、今も、またこれからも、最終的には終末において起こることの預言でもあります。実際に、今も世界中に散らされているユダヤ人が祖国イスラエルに帰還しています。A.D.70年にローマの将軍ティトスによって破壊され、世界中に散らされたユダヤ人は、この預言の通り、散らされたすべての地から彼らを上らせ、何と1948を年にイスラエル共和国として独立を果たしました。考えられないことです。1900年もの間流浪の民として世界中に散らされていたユダヤ人が、ユダヤ人というアイデンテティーを失うことなく守られ、自分たちの土地に戻ってくるようになるなんて考えられません。でも、神はご自分が語られた通りにしてくださいました。そしてそれは今も続いています。今も毎年毎年大勢のユダヤ人が世界中から自分たちの土地、約束の地に帰還しているのです。ということはどういうことかというと、今は世の終わりに限りなく近いということです。もうすぐそこまで世の終わりが来ています。そして、神が語られたことは100%成就するということです。バビロン捕囚から帰還して自分たちの土地に住むようになると約束してくださった主は、遠い未来においても、この約束を成就してくださるということです。つまり私たちの神は、このユダの民をバビロンから解放したように、あなたにも解放の御業を成してくださるということです。
中には、そんなことが私の人生に起こるはずがない、考えておられるかもしれません。ほとんどの人がそう思っているかもしれない。それは聖書の話であって、遠い中東で起こった昔ばなしにすぎないと思っているかもしれません。でもそうではありません。聖書の神は同じ神です。いつまでも変わることのない永遠の神です。出エジプトの時代にイスラエルをエジプトから解放してくださった神は、今も同じ御業を行ってくださいます。バビロン捕囚から解放してくださった神は、今も同じ御業を行ってくださるのです。さすがに現代には神様をもってしても解決できない問題がある。これは複雑すぎるだろうと考えておられるかもしれませんが、バビロンから解放してくださった主は、今も同じ力をもって働いておられるのです。あなたは、あまりにも神を過小評価しすぎています。イスラエルをエジプトから救い出された神は、あなたにも出エジプトさせることができます。イスラエルをバビロンから解放してくださった神は、あなたを縛るあらゆる問題からも解放することができるのです。もしあなたが神に叫ぶなら、神はあなたの叫びに耳を傾けてくださり、第二のモーセと言われるイエス・キリストをあなたのために解放者として立ててくださるのです。イエス・キリストによって私たちは、今も救われ続けるのです。イエス・キリストによってあなたも出エジプトできるようにしてくださるのです。
イスラエルの民は、神の小羊として過越しの小羊の血をほふり、それを家のかもいと門柱に塗ることで神のさばきを免れて出エジプトが出来ました。同じように、あなたがあなたの心に子羊なるキリストの血を塗るなら、あなたも神の裁きを免れて、出エジプトすることができるのです。エジプトを出て救われ、神の助けをいただいて、約束の地へと導き入れられるのです。そしてそこで、私たちをそこへ上らせた主は生きておられると言って主をほめたたえ、その土地に住むようになるのです。それはイスラエルという約束の地よりもはるかにすばらしい、乳と蜜の流れる本当に素晴らしい神の国です。その神の国へと導かれて行くのです。ハレルヤ!
これはファンタジーでも何でもありません。これは聖書の預言であり、神の約束です。かつてイスラエルの歴史に起こった出エジプトの出来事、バビロン捕囚からの解放という出来事は、歴史の事実です。その事実は、私たちの救いの物語のひな型になっているということです。来るべき救い主のひな型になっています。来るべき救い主はどのようなお方なのか、どのようにして私たちを罪の奴隷から解放して約束の地に導いてくださるのか、そのひな型となっているのです。そして、それが聖書の中に預言されていて100%その通りに成就したということは、これから先のことにおいても成就するということ、実現するということを物語っているのです。私たちはやがて聖書にある通りにイエス・キリストが再臨されるそのとき、死者の中からよみがえり、あるいは、まだ死なないで地上に生き残っているなら、そのまま空中に挙げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。これが私たちの慰めであり、真の希望です。たとえこの世がどんなに暗くても、私たちには、このような希望の光が与えられているのです。
「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)
「これらのことば」こそ、やがて来るべきキリストの再臨のことです。これらのことばが私たちの真の希望です。これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。これらのことばから目を離さないようにしましょう。やみの中に輝いている真の希望をもって、この世の終わりの時代を生きて行きましょう。ここに真の慰めと希望があるからです。

ともしびは消されなかった エレミヤ書22章20~30節ともしびは消されなかった 

聖書箇所:エレミヤ書22章20~30節(エレミヤ書講解説教42回目)
タイトル:「ともしびは消されなかった」
前回は、エレミヤ書22章前半から「人生の目的を知る」というテーマでお話しました。きょうは、22章後半から「ともしびは消されなかった」というタイトルでお話します。
Ⅰ.若い頃からのあなたの生き方(20-23)
まず、20~23節をご覧ください。
「22:20 「レバノンに上って叫び、バシャンで声をあげ、アバリムから叫べ。あなたの恋人たちがみな、砕かれたからだ。
22:21 あなたが平穏であったときに、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『私は聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若いころからのあなたの生き方だった。
22:22 あなたの牧者たちはみな風に追い立てられ、あなたの恋人たちは捕らわれの身となって行く。そのとき、あなたは自分のすべての悪のゆえに、恥を見、辱めを受ける。
22:23 レバノンの中に住み、杉の木の中に巣ごもりする女よ。あなたに陣痛が、産婦のような激痛が襲うとき、あなたはどんなにうめくことだろう。」」
20節の「あなたの恋人たち」とは、南ユダと同盟関係にあった近隣諸国のことです。南ユダは主なる神とパートナーにならないで、近隣諸国とパートナーになりました。この世とつり合わぬくびきを負ったのです。その結果どうなりましたか?その結果、その恋人たちはみな、粉々に砕かれてしまいました。ここでは、それを、「レバノンに上って叫び、バシャンで声をあげ、アバリムから叫べ。」と命じられています。「レバノン」とは、エルサレムから見て北方にある高い山々のことです。「バシャン」は、ガリラヤ湖の北東にある高原地帯です。そして「アバリム」とは、ヨルダン川の東にある山々です。そうした地域に行って叫ぶようにというのです。つまり、あらゆる所に行って叫べというのです。あなたの恋人たちがみな砕かれたということを。これは、具体的には、バビロンによって滅ぼされることを示しています。そうした近隣諸国はバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民として引き連れて行かれることになるのです。22節の「あなたの牧者たち」とは、国の指導者たちのことです。彼らもまた捕囚の民として連れて行かれることになります。
23節にある「レバノンの中に住み」とは、エルサレムの住民のことを指しています。彼らがバビロンに捕囚の民として引き連れて行かれるようになったのは、21節にあるように、彼らが平穏であったときに、主が彼らに語り掛けたのに、彼らが「私は聞かない」と言って主のことばを退けたからです。聞く耳を持ちませんでした。そして、主なる神以外の偶像や近隣諸国に頼り、それらを自らの恋人としたのです。これが若いころからの彼らの生き方でした。つまり、彼らは若い時からずっと不信仰であったということです。あなたはどうでしょうか。
私たちもうまくいっている時、平穏な時、繁栄している時、順風満帆なとき、何不自由のない生活をしている時は、そのようになりがちです。神様があなたに語りかけても、「私は聞かない」と言って主のことばを退けようとするのです。そういう時、神様は何をなさいますか。あえて試練を与えるようなことをなさいます。試練が与えられて初めて目が覚めるようになるからです。ようやく神様に目が向くようになります。そして、神の声に耳を傾けるようになるのです。ですから、詩篇の作者はこう言ったのです。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇 119:71)
苦しみはできたら避けて通りたいものです。苦しみが与えられてうれしい人など誰もいません。それなのになぜ神は試練や苦しみを与えられるのでしょうか?それは、そうした試練や苦しみを通して私たちが自らの限界を悟り、神に向くようになるからです。その時、はじめて神のことばがただ頭だけでなく体験として知るようになります。神を知るとはそういうことなのです。
平穏な時でも神はあなたに語りかけてくださいました。何も語っていなかったのではありません。何度も語っておられました。それなのに、あなたは聞きませんでした。「私は聞かない」と言って。だから聞こえなかったのです。仕事が順調だったからです。特に問題がなかったからです。万事うまくいっていると思っていました。でも、試練に直面してようやく気付かされました。自分は神のことばを全然聞いていなかったということを。それでようやく神の声に耳を傾けるようになったのです。初めて神のことばをもっと知りたいと思うようになりました。試練に直面して初めて、神のことばが今までとは違って心に迫るようになったのです。何度も何度も読んだはずなのに、なぜかみことばが心に響くようになりました。平穏な時には気付かなかったのに、試練に直面して初めて理解できるようになりました。まさに、苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。それによってあなたのおきてを学ぶようになるからです。
それなのに、彼らは神の声を聞きませんでした。その結果、彼らはどうなりましたか。彼らは大きな苦悩を経験するようになります。23節に「あなたに陣痛が、産婦のような激痛が襲うとき、あなたはどんなにうめくことだろう。」とあります。それは産婦に激痛が襲うような苦しみでした。バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼすことになります。そして、捕囚の民として連れて行かれるのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの人生に試練や困難が襲うとき、あなたは何に信頼していますか。目に見えない神に信頼していますか、それとも、この時のイスラエルのように近隣諸国と同盟を結んで安全を確保しようとしますか。現実の問題を抱えた時こそ、本当の意味で信仰が試される時でもあります。イスラエルの民は常に後者の道を選んでいました。彼らは神ではなく恋人たちに信頼したのです。それが彼らの生き方でした。その結果、彼らの恋人たちはみな打ち砕かれ、捕らわれの身となって連れて行かれることになってしまったのです。
平穏な時から、あなたの人生が順風満帆の時から、あなたの人生が繁栄している時から、神の声に聞き従うべきです。何かがあったからではなく、何もない平穏な時こそ主のことばに聞き従う時です。また、こうした危機に直面したとき、それはあなたの信仰を発揮する良い機会であると信じて、その試練の中ですべてを働かせて益としてくださる神を見上げなければなりません。ローマ8章28節にある通りです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28新改訳改訂第3版)
Ⅱ.右手の指輪を抜き取られた王(24-27)
次に、24~27節をご覧ください。「22:24 「わたしは生きている──【主】のことば──。ユダの王、エホヤキムの子エコンヤは、わたしの右手の指輪の印ではあるが、わたしは必ずあなたを指から抜き取り、22:25 あなたのいのちを狙う者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王ネブカドネツァルの手、カルデア人の手に渡し、22:26 あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。22:27 彼らが帰りたいと心から望むこの地に、彼らは決して帰らない。」」
ユダの王エホヤキムの子「エコンヤ」に対するさばきの宣告です。エコンヤは、別名「エホヤキン」と言います。彼は、B.C.598年に18歳で南ユダの王に即位しました。しかし、その在位期間はわずか3か月と10日でした。なぜなら、神が彼を王位から退けたからです。それは、彼が神を退けたからです。彼の父親はエホヤキムという王でしたが、エホヤキムは、エレミヤの預言が記された巻物を切り裂いて火で焼き、神のことばを冒涜しました(36:23,32)。その結果、より厳しいさばきを受けることになってしまいました。その息子がこのエコンヤ(エホヤキン)です。彼は父を反面教師にすべきでした。それなのに彼はしませんでした。父エホヤキム同様、主のことばをないがしろにしたのです。また、彼は青年時代、エレミヤが語る神のことばも聞いていたはずなのに、そこから学ぼうとしませんでした。バビロンの王ネブカデネザルの脅威が迫る中、主に信頼すればよかったのに、逆に主の目の前に悪を行いました。それで彼はわずか3か月で王位から退けられてしまうことになったのです。
そのことがここではこう言われています。24~26節です。「わたしの右手の指輪の印ではあるが、わたしは必ずあなたを指から抜き取り、あなたのいのちを狙う者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王ネブカドネツァルの手、カルデア人の手に渡し、あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。」
「右手の指輪の印」とは、王の権威のシンボルです。それは公式文書に法的な効果を持たせるために用いられる非常に大切なものでした。いわゆる実印のようなものです。エコンヤ(エホヤキン)は神の指輪の印のように尊く権威ある存在でした。しかし、神はご自分の指輪の印であるエコンヤ(エホヤキン)を抜き取り、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡すと言われたのです。このことがなぜ重要なのかというと、エコンヤがバビロンに捕虜として連れて行かれそこで死ぬということは、ダビデ王家が絶たれてしまうということを意味していたからです。実はエコンヤの後にゼデキヤが王として立てられますが、ゼデキヤはエコンヤの叔父にあたります。でも、彼はダビデの血筋ではありませんでした。ですから、神の右手の指輪の印であるエコンヤが引き抜かれるということは、彼だけの問題ではなく、ユダ王国全体、強いて言うなら、それはダビデ王家が絶たれてしまうということですから、ダビテの子孫として生まれるはずのメシヤ、救い主がやって来るという神の救いのご計画全体に関わる問題だったのです。それが絶たれてしまうのです。
「私は聞かない」と神の御声に聞き従わないで、この世の声に従って生きる人は、神の恵みが閉ざされることになるということを覚えておかなければなりません。決して栄えることはありません。この世の王には、究極的な望みがないからです。私たちの王はただ一人、それはイエス・キリストだけです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。確かに、私たちが生まれる状況を選ぶことはできません。しかし、生まれた後で、自分に与えられた環境の中で学ぶことはできます。そういう自由が与えられているのです。神はどんな人にも、この方を知る機会を与えておられます。残念ながら、ここに出てくるエコンヤは、そのような機会が与えられていたにも関わらず、その機会を生かすことができませんでした。私たちはこのエコンヤのようにならないように注意しなければなりません。機会を十分に生かして用いなければならないのです。
Ⅲ.ともしびは消されなかった(28-30)
最後に、28~30節をご覧ください。「22:28 この人エコンヤは、蔑まれて砕かれる像なのか。だれにも顧みられない器なのか。なぜ、彼とその子孫は投げ捨てられ、見も知らぬ地に投げやられるのか。22:29 地よ、地よ、地よ、【主】のことばを聞け。22:30 「【主】はこう言われる。この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」」
エコンヤ(エホヤキン)は、神から与えられた機会を用いようとせず、父エホヤキムの失敗から学ばなかった結果、バビロンに連れて行かれ、その地に放り出されて死ぬことになります。30節には、このエコンヤ(エホヤキン)について次のように言われています。「【主】はこう言われる。この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」
エコンヤ(エホヤキン)は、「子を残さず、一生栄えない男」と記録されることになります。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着く者はいなくなるということです。Ⅰ歴代誌3章17~18節を見ると、彼には7人の息子がいたことがわかりますが、その7人とも彼の後を継ぐことはありませんでした。なぜなら、神が彼を退けたからです。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着く者はいませんでした。ということは、この時点でダビデ王家が滅亡してしまうことになります。350年近く続いたダビデ王家の血筋は、ダビデの後にソロモンが、そしてその後はソロモンの子どもたちによってずっと引き継がれてきましたが、このエコンヤ(エホヤキン)を最後に絶たれてしまうことになるのです。
サタンはどれほど喜んだことでしょう。というのは、サタンは知っていましたから。ダビデの王家からやがてメシヤが生まれるということを。Ⅱサムエル記7章11~16節に、そのことがはっきりと語られています。ダビデが主の家を建てようと考えていた時、主は預言者ナタンを通してこのように言われました。
「7:11 それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る、と。
7:12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。
7:14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。
7:15 しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。
7:16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」
12節の「彼の王国」とは、メシヤによって支配される王国、神の国のことです。これはダビデの子と呼ばれるメシヤによって確立される王国のことです。これは、メシヤがダビデの子によって神の国がもたらされるというメシヤ預言です。メシヤ、救い主は、このダビデの家系から生まれて来るのであって、それ以外から来ることはありません。ところが、エコンヤが神のことばを聞かなかったせいで、その約束が頓挫することになってしまいました。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいなくなるのです。つまり、神の救いのご計画が頓挫してしまうのです。サタンにしてみればヤッター!!!ですよね。救い主の到来を阻むことが出来たのですから。大喜びです。
でも、神様はそこで終わっていません。大どんでん返しをされるのです。ともしびは消されなかったのです。それは、イエス・キリストの系図を見るとわかります。
イエス・キリストの系図はマタイ1章とルカ3章に記されてありますが、そこにはいくつかの違いが見られます。たとえば、マタイは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とあるように、アブラハムからイエスに至るまでの系図を記しているのに対して、ルカは「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、」(ルカ3:23)と、イエスからアダムまでさかのぼった系図を記しています。また、マタイはヨセフの家系を辿って記録しているのに対して、ルカはマリヤの家系を辿って記録しています。こういう違いが見られます。でも、どちらにも共通しているのは、イエスはアブラハムの子、ダビデの子であるということです。救い主はダビデの身から出ているという点です。
けれども、そのダビデからイエスまでの系図が全く違うのです。マタイは、 「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、ソロモンがレハブアムを生み」(マタイ1:6-7)と、いわゆる南ユダの王国の王の家系を記しているのに対して、ルカは南ユダの王たちの家系を全く記していません。つまり、マタイはイエスの系図に、ソロモンからエコンヤのライン(マタイ1:6-12)を載せているのに対して、ルカはイエスの系図に、ナタンからネリを載せているということです。(ルカ3:27-31)。いったいこれはどういうことでしょうか。別にこれを書いたルカがこの流れを知らなかったということではありません。この系図はⅠ歴代誌3章5~16節にもありますから、彼はこの事実をちゃんと知っていたはずです。それなのに彼はイエスの系図に南ユダの王たちの家系を載せなかったのです。なぜなら、ダビデ王家の家系はこのエコンヤで途切れてしまったからです。確かにエコンヤの後にも子どもたち生まれましたが、彼らが王位に着くことはありませんでした。
ですから、マタイでさえ1章16節でこう記しているのです。 「ヤコブがマリヤの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリヤからお生まれになった。」
マタイはここで、「キリストと呼ばれるイエスは、このヨセフからお生まれになった」ではなく、「このマリヤからお生まれになった」と記しています。イエスはヨセフではなくマリヤから生まれました。なぜこのヨセフからお生まれになったと書かなかったのでしょうか。それは、実際にはイエスとヨセフは血のつながりがなかったからです。そして、ダビデ王家はエコンヤで途絶えていたので、その子孫であるヨセフをダビデの子としては描くことができなかったからです。
では、救い主がダビデの子孫から出てくるという神様の救いのご計画は頓挫してしまったのでしょうか。そうではありません。神は別の方法を通してダビデの子として生まれるメシヤ、救い主を誕生させてくださいました。それがルカ3章に見られるイエスの系図なのです。ルカ3章23節には「ヨセフはエリの子で、さかのぼると」とありますが、実際にはヨセフはエリの子ではありません。エリの子はマリヤです。当時、ユダヤ人は女性の系図を使わなかったので、マリヤの夫であるヨセフの系図になっているだけです。でも実際はマリヤの系図です。そのマリヤの系図をたどっていくと、31節にダビデが出てきますが、その子は「ナタン」となっています。「メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ」(ルカ3:31)です。ルカは逆からたどっているので、ダビデがナタンの子どものように見えますが、実際は「ナタン」がダビデの子どもです。この「ナタン」はダビデとバテ・シェバの間に生まれた三番目の息子でした(四番目がソロモン)。でも実際にダビデの後を継いだのはソロモン王でした。そして、そのソロモンの息子たちが南ユダの王として代々ダビデ王家を継承していったのです。でもダビデには別の子どもがいました。それがナタンです。そのナタンの子孫がマリヤなのです。イエスはこのマリヤから生まれました。つまり、エコンヤが神を退けたので、彼は一生栄えない男になってしまいました。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者は出ませんでしたが、神は別のラインから同じダビデの血筋であるナタンのラインによって救い主をこの世に送ってくださったのです。それがマリヤの系図が示していることなのです。すごいですね!これは驚くべき神の救いのご計画です。
一度はエコンヤのせいで人類は呪いを宣告されましたが、神はご自身の救いの計画をそれで頓挫させることをせず、人知をはるかに超えた方法でダビデの血筋をキープしながらこのナタンの家系からイエスが生まれるという大どんでん返しをなさったのです!!!これはサタンも思いもつかないような方法でした。そんな方法があったのかとびっくりするような方法でした。人間の思いをはるかに超えたとんでもない方法で神はご自身の救いの御業を成し遂げてくださったのです。これこそまさに神業です。確かにイエスはダビデの子として生まれた救い主であるということを、サタンも否定できなかったでしょう。
Ⅱ歴代誌21章7節にこうあります。「しかし、【主】はダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると約束されたからである。」主は与えると約束されたともしびを消されなかったのです。主はどこまでも真実な方、約束を守られる方です。私たちは真実でなくても、神様は常に真実な方で、契約を守られるお方なのです。
神は、この驚くべき方法をあなたのためにもしてくださいました。あなたのために御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
イエス・キリストはあなたのために天から下って来てくださったのです。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。確かに、聖書には「木にかけられた者はみな、呪われている」(ガラテヤ3:13)とありますが、しかし、神はその呪いを祝福に変えてくださいました。その死からよみがえられることによって。木にかけられた者は呪われた者ですが、キリストはその死からよみがえることによって、その死に打ち勝つことによって、その呪いを祝福に変えてくださったのです。ですから、あなたがキリストにあるならどんな呪いでも祝福に変えられるのです。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)どんなに闇が深くても、闇は光に打ち勝ことはできません。光は闇の中に輝いているのです。
もしかすると、あなたはもうダメだ!と思っているかもしれません。エコンヤのように、自分は人生に失敗したと。もうダメだ!呪われていると思っていると、そう思っているかもしれない。お先真っ暗だ。もうどうにもならない。だってあんなことをしたんだから。こんなことをしたんだから。もう希望はない。そう思っているかもしれません。でも神はこのエコンヤの呪いを驚くべき方法によって祝福に変えてくださったように、敗北にしか思えない十字架と復活という方法によって救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、キリストにあるならどんな呪いでも祝福に変えられるのです。
これが良い知らせです。悪い知らせとは、神と神のことばを退ける者には呪いがあるということです。そこには未来はありません。あるのは呪いだけ。さばきだけ。破滅だけです。そこには何の希望もありません。しかし、ここに良い知らせがあります。イエス・キリストを信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを持つということです。ここに希望があるのです。あなたがどんなに呪われたような人生を送って来ても、あなたがイエスを救い主として信じるなら、あなたの呪いは希望に変えられるのです。私たちが真に頼れる王は、真の王であられるイエス・キリストだけです。ここに出てきた王たちは1人として頼りにはなりません。私たちはこの方、私たちの救い主イエス・キリストだけを王としなければならないのです。
あなたの王は誰ですか?あなた自身ですか、それともあなた以外の別の人でしょうか。あるいはそれは人ではなく財産であったり物かもしれません。そういうものを頼りにしても何の役にも立ちません。そのようなものがあなたの心の王座に置くなら、あなたは失望することになります。それはあなたが一番よく知っていることです。それがあなたの若い時からの生き方だったからです。何でも自分の思うように、好きなようにと生きてきた結果、そこにはただ呪いがあるだけでした。神と神のことばを退けるものに希望を置いたらあなたは必ず失望することになります。でも、王の王であられるイエス、主の主であられるイエス、ダビデの子と呼ばれるイエス・キリストに全幅の信頼を置くなら、その方にあなたを任せるなら、あなたは守られます。まことの王の国民として永遠の祝福を受けることになるのです。神はあなたの期待を裏切ることはなさいません。あなたは神から永遠の祝福を受けることになるのです。まことの王であられるイエスをあなたの心の王座に迎えてください。