わたしを呼べ エレミヤ書33章1~13節


聖書箇所:エレミヤ書33章1~18節(旧約P1355、エレミヤ書講解説教62回目)
タイトル:「わたしを呼べ」
きょうは、エレミヤ33章前半の箇所から、「わたしを呼べ」というタイトルでお話したいと思います。
Ⅰ.わたしを呼べ(1-9)
まず1~3節をご覧ください。「1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような【主】のことばがあった。2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」
エレミヤは、ユダの王最後の王ゼデキヤによって監視の庭に監禁されていました。それは、ゼデキヤがバビロンの王の手に渡されるということをエレミヤが預言をしたからです。ゼデキヤにとってエレミヤは、ユダにとって不幸なことしか預言しない不吉な預言者のように思えたのでしょう。そのエレミヤがまだ監視の庭に監禁されていたとき、再びエレミヤに主のことばがありました。それは2節と3節にある内容です。「2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」
主はエレミヤに「わたしを呼べ」と言われました。英語では「Call to me」、わたしを呼び求めよ、です。そうすれば、主はあなたに答え、あなたが知らない大いなることを、あなたに告げてくださいます。「大いなること」とは何でしょうか。これはエルサレムの回復のことです。神は、エルサレムの住民たちがカルデア人と戦っても、必ず敗北すると告げられました。なぜなら、5節にあるように、彼らのすべての悪のゆえに、主がエルサレムから御顔を隠されたからです。しかし、神は彼らを懲らしめて終わりではありません。そんな彼らを赦し、彼らを初めのように回復させ、建て直してしてくださるというのです。それが6~9節にある内容です。「6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」
ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直すなんてあり得ないことです。しかし、たとえ人間の目で不可能なことでも、神にはどんなことでもおできになります。あなたが神を呼び求めるなら、神はあなたの知らない理解を超えた大いなること、すなわち、エルサレムを初めのように回復させ、建て直してくださいます。もしあなたが神を信じ、神とともに歩み、神との交わりの中にいるなら、神はあなたが考えられないような偉大なことをしてくださるのです。でも私たちはそれを信じられないのでこういうのです。「ウッソ!」無理、無理、無理ですよ、どうやってそんなことができるんですか・・・。
このときのエレミヤもそうでした。神さまはイスラエルがバビロンに連れて行かれてから70年後に再び祖国に戻すとは聞いていましたが、いったいどのようにしてそれを無そうとしているのかはわかりませんでした。前回のアナトテの畑を買うこともそうです。神様は監禁されていたエレミヤに、アナトテにある畑を買いなさいと言われました。いったいどうして?崩壊寸前になっていたアナトテの畑を買ったって二束三文です。なぜ買わなければならないのか、さっぱりわかりませんでした。そんなエレミヤに、神さまはその理由を告げられるんですね。それが32章15節のみことばです。「なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』」つまり、彼らはそのバビロンから解放されて祖国に戻り、再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからです。いったい誰がそんなことを考えることができたでしょうか。70年ですよ、そんなに長い間バビロンで奴隷として生きていた彼らが、どうやって祖国に戻ることなどできるでしょうか。しかし、そんなエレミヤに神はこう言われました。「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』それはあなたにはわからないことです。しかし、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたに答え、あなが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げてくださいます。なぜなら、神さまは全能者であられるからです。
2節をご覧ください。ここには、「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。」とあります。主はこの天地を創られた創造主です。この方にとってできないことは一つもありません。ヨブは自分に降りかかる数々の災難がどうして起こるのかがわからず、そのことを神に問うわけですが、その中で彼が見出した答えは、これでした。神にはどんなことでもできるということです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)神にはどのような計画も不可能ではありません。そのこと信じなければなりません。神に「どうしてですか」と問う前に、あなたは神を呼び求めなければならないのです。そしてその声を聞かなければなりません。そうすれば、主はあなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。
人は目先の現象に一喜一憂しやすいものです。しかし、自分には分からないことが沢山あることを謙虚に認めて主を呼ばなければなりません。そうすれば、主は、私たちの理解を超えた大いなることを告げてくださいます。
  たとえば、アブラハムが99歳になったとき、主はアブラハムと契約を結ばれました。それは彼が多くの国民の父となるということでした。でも彼にはまだ子どもがいませんでした。どうやって多くの国民の父になることができるでしょうか。そのとき神さまは具体的に彼に直系の男の子が与えられ、その名は「イサク」と言いますが、彼を通してその契約を成し遂げてくださると明かしてくれました。まさか100歳の者にどうやって子どもが与えられるでしょう。サラだって90歳になっていました。考えられません。なかなか信じられません。そんなアブラハムとサラに主はこのように言われました。「14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(創世記18:14)
皆さん、主にとって不可能なことは一つもありません。たとえあなたにとって不可能なことでも、主にとっては何でもないことです。あなたにとって必要なことは、この全能者であられる主を呼ぶことなのです。
6~9節をご覧ください。この時、主はエレミヤにエルサレムの傷を癒やし、回復し、彼らに平安と真実を豊かに示すと言われました。7節には、分断されていたユダとイスラエルを回復させるとあります。彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、咎を赦すと約束させ、以前のように彼らを建て直というのです。主は、彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らの背いた咎をすべて赦してくださいます。でもこれらは彼らが良いことをしたからではありません。それは新しい契約に基づく神の一方的な恵みによるものです。 新しい契約については31章で見たように、御子イエスの血によって、信じるすべての者をきよめてくださるという神様の一方的な恵みの契約でした。御子イエスを信じる者は、すべての罪、咎がきよめられ、神がいつまでも共にいてくださいます。あなたがどんなにひどい罪を犯したとしても、あなたがその罪を認め、神に立ち返るなら、神はあなたを捨てることは絶対にありません。どんなに自分でこすり落とそうとアタックを使っても、あなたの罪は決して拭い落とせるものではありませんが、神さまはキリストの血によってそれを行なってくださったのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)とある通りです。御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。何という恵みでしょうか。神はキリストによって彼らと新しい契約を結んでくださいました。神はキリストによってあなたとこの契約を結んでくださいました。ですから、どんなことがあってもあなたが滅びることはありません。あなたが神を呼ぶとき、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをしてくださることを信じましょう。
Ⅱ.その恵みはとこしえまで(10-11)
次に、10~11節をご覧ください。「10 【主】はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」」
人も家畜もいない廃墟となった場所で、人も住民も家畜もいない荒れすたれたユダの町が、いったいどうして楽しみと喜びの声が聞かれるようになるのでしょうか。それは、主がそうされるからです。主がこの地を回復させ、以前のようにされるのです。それは人の理解をはるかに超えた驚くべき大いなること、大いなる神の恵みでした。あれほど廃墟となった町が再び建て直されるなんて考えられないことです。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか。主がそれをしてくださいます。主は約束を反故にされ方ではありません。主が語られたことは必ず実現してくださるのです。主はそのように約束してくださいました。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」(イザヤ30:3) それはここだけではありません。エレミヤはバビロンに連れて行かれたユダの民が祖国に帰り、そこを元通りにすると何度も何度も語られました。主はそのことばりのとおりにされたのです。
アメリカに自動車を欲しがる息子がいました。彼は父親に大学の入学祝いに自動車を買ってくれとせがみました。父親は「自動車もいいが、みことばを読み、祈る生活をしなさい。」と言いました。そして、みことばと祈りには、自動車だけでなく人生に必要なすべてが込められていると言って、自動車の代わりに聖書をプレゼントしました。息子は大学の寮に入って学校が始まってからも父親からもらった聖書に一度も目を通しませんでした。父親が自動車を買ってくれなかったことに対する不満でいっぱいだったからです。
 休みで家に戻って来た息子は、まだ父親に腹を立てていました。そのことを察した父親は息子に、なぜ聖書を読まないのかと尋ねました。息子は「自動車を買ってくれないのに、なぜお父さんの言うことを聞かなければならないんですか」と反発しました。父親は「息子よ、ピリピ4章9節を開いてみなさい。そこには自動車があるはずだ」と言いました。そこで息子は大学の寮に帰ると、聖書を手に取り、ピリピ4:19を開きました。驚いたことに、そのページに自動車が買える小切手がはさまれてあったのです。そして、その箇所には線まで引いてあったのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:9)
廃墟となった町が、再び喜び踊る人々で満ち溢れるようになる。なんという劇的な変化でしょうか。主はご自身のあわれみと、ご自身のお約束のゆえに、必ずそれを実現してくださいます。私たちの嘆きを賛美に、悲しみを楽しみと喜びに変えてくださるのです。それは人にはできません。でも神にはどんなことでもできるのです。たとえあなたが今深い泥沼に沈んでいても、たとえ先が見えない絶望の中に置かれていても、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたの声に答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをあなたに告げてくださるのです。11節に、「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とありますが、私たちもこの万軍の主に感謝し、賛美と感謝をささげようではありませんか。主はかならずあなたに大いなることをしてくださるからです。
Ⅲ.満ち満ちた神の恵み(12-13)
最後に、12~13節をご覧ください。「12 万軍の【主】はこう言われる。「人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできる。13 山地の町々でも、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通り過ぎる──【主】は言われる。」」
人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできるようになります。回復の範囲が、約束の地の全行に及ぶようになります。山地の町々でも、シェフェラの町々でも、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通りすぎようになるのです。これは牧者が羊の数を数える場面を思い浮かべますが、これはユダの全地で羊を飼うことが日常化し、家畜が豊かにあふれることを表しています。神がなされる回復は完全であるということです。あなたの人生がどんなに荒廃していても、物質的に不足を感じることがあっても、ダビデが「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。」(詩篇23:6)と告白したように、神はあなたを豊かに満たしてくださるのです。神を読んでください。そうすれば、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げてくださいます。
ある人が、神さまを信じてからも、古い習慣が根強く残っていました。それは、何かあるとすぐに人に頼り、聞いてもらい、答えを得る事でした。それで彼女は聖書の学びを通して、まず主に祈る事にしました。それまでは何か問題が起こると、その頃はまだ携帯が無かったので、次々と友人たちに電話をしました。ところが次々と電話しても、何と全員が出かけていて留守録だったのです。
 その時彼女はハッとして、このみことばを思い出しました。まず人に頼るのでなく、主に頼り、祈る事だと。主の示しを感じました。その問題をまず祈りに持って行きました。するとその祈りが次々と答えられるのを体験しました。ある時は経済的苦境に陥りました。突然の大変な出費があり、給料前で手元にお金が無くなった。赤ん坊のミルクとオムツが無い。どうしようもなく、未信者の夫が、友人に少し借りて来ると言いました。給料日にすぐに返せるからと。でも彼女は、まず主に祈り、主に頼りたかったのです。そして心の中でその事を祈りました。すると夫が、行く前に、近くに住む一人暮らしの義父をのぞいて来ると言いました。主に感謝して、夫が出た時間、必要を求めて、心を注ぎ出して祈りました。長く祈っていて、ふと背後に人の気配を感じました。すると何と夫が、両手にミルク缶とオムツの袋を持ち、立っていた。驚いて聞くと、行くと丁度、職場の上の人が義父の見舞いに来てくれ、見舞金を置いて行ったというのです。とりあえず必要な物を買って来たと。即、祈りに答えられ心から感謝しました。そして主のご愛に触れて、心は喜びで満ちたのです。
どうしてこういうことが起こってしまったのかと思うとき、あなたは自分で悩み、落ち込み、自分で解決することを止めて主を呼ぶことです。 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」主があなたのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだと信じて、主を呼び求めましょう。主に祈り、主に信頼して歩みましょう。主があなたも知らない、あなたの理解をはるかに超えた大いなることをあなたに告げてくださるからです。

アナトテの畑を買ったエレミヤ エレミヤ書32章1~44節

聖書箇所:エレミヤ書32章1~44節(旧約P1352、エレミヤ書講解説教61回目)
タイトル:「アナトテの畑を買ったエレミヤ」」
前回は、エレミヤ書ばかりか聖書全体のテーマである新しい契約についてお話しました。きょうは、この31章の最後の箇所となります。きょうは、この箇所から「イスラエルは滅びない」というテーマでお話します。
私たちは前回「新しい契約」について学びました。それは古い契約とは違います。どのように違うのかと申しますと、古い契約はモーセを通して与えられたシナイ契約のことですが、それは、もしイスラエルの民が神の声に聞き従い、神との契約を守るなら彼らは祝福されますが、そうでなければ、呪われるというものでした。でも、神との契約を完全に守ることができる人など一人もいないわけで、そういう意味ではそれはイスラエルも同じで、彼らは神の呪いを受けなければならない存在となってしまいました。でもそれでは困るわけです。もし神の民であるイスラエルが滅びてしまったらイスラエルを通して全世界を救おうとしておられた神の計画が頓挫してしまうことになってしまうからです。そこで神はどうされましたか?神は彼らに新しい契約与えてくださいました。それは古い契約が破棄されたというわけではありません。むしろ、その古い契約を実行する力を与えてくださったということです。それがイエス・キリストです。神はイエス・キリストを信じる者に神の聖霊を与えてくださり、その聖霊によって彼らの心に神の律法を書き記してくださったのです。もし石の板に書き記されたものならば、彼らは強制的にそれを行わなければならないということになりますが、彼らにはそんな力はありませんでした。そこで神はひとり子イエスをこの世に与え、この方を信じる者の心に聖霊を与えてくださり、それを成し遂げる力を与えてくださったのです。もう神の掟を守らなければならないというのではありません。もう守りたくて、守りたくてしかたがない。神様に喜ばれるように歩みたいと願うようになったのです。それが新しい契約です。これがイエス・キリストを通して神が私たちに与えてくださった一方的な恵みの契約なのです。ですから、私たちはあれもしなければならない、これもしなければならないといった律法から解放されて、聖霊の助けによって自発的に喜んで神に従うことができるようになったのです。それはイエスが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださったからです。これが新しい契約です。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じた人の心には、聖霊なる神が住んでおられるのです。そしてこの聖霊を受けた人はどんなことがあっても救いを失うことは絶対にありません。これはあなたが救われていることの保証でもありますから。イエス・キリストを信じて罪が赦され、永遠のいのちを受けたのであれば、どんなことがあってもあなたは救いを失うことは絶対にありません。
「そんなことでは、救いが取り去られますよ」と言われて、不安に苛まれたことのあるクリスチャンも少なくないと思います。確かに自堕落な生活はしているし、信仰とは言っても名ばかりで、こんな汚れた者が救われるはずがないと思うことがあります。いったいどこまで奉仕をしたら認められるのか。信仰生活は苦しいことばかりで、疲れ切ってしまった…。そんな相談を度々受けることがあります。特に、カルト化している教会も少なくなく、そういった教会では、例外なく、救いが失われることもあると言うのです。でも自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを信じて救われた人が、その救いを失うことは絶対にありません。
このことについて聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、あなたの状態やあなたの行いと関係なく、もしあなたが悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるなら、神はあなたをすべての悪からきよめてくださると約束しています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
これが聖書の約束です。そして聖霊が神のことばと神の思いをその人の心にしっかり刻んでくださるので、もはや外側からの圧力やプレッシャーを受けることなく、あるいは人から何かを強要されることもなく、喜んで自分から神のことばに従いたいと思うようになるのです。
その結果、どのようなことが起こるのでしょうか。その結果、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に向かって、「主を知れ」と言って教えることはなくなります。彼らはみな、身分の低い者から高い者まで、一人一人の内におられる聖霊によって主を知るようになるからです。また、主が彼らの罪を赦してくださるだけでなく、もう二度と彼らの罪を思い起こすことはありません。完全な赦しを受けるのです。すばらしいですね。これが福音です。
きょうの箇所には、この新しい契約の有効期限はいつまで続くのかについて語られています。皆さんはクレジットカードを持っておられると思いますが、そのカードには必ず有効期限が書かれてあります。そのカードの有効期限がいつまでなのか、何年何月までと記載してあるのです。もしその有効期限が切れていたらどうなるでしょうか。全く使い物になりません。カードとしての機能を果たすことができないわけです。おなじように、神は私たちと契約を結んでくださいました。それはクレジットカードのようなものではなく聖書の中に記されてあるわけですが、そこには何と書いてありますか。31章3節には「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」とあります。神様はあなたを永遠の愛をもって愛してくださいました。永遠ということは期限がないということです。ですから、延長保証などをする必要もりません。最近、家内が交通事故を起こし全損扱いとなってしまいました。保険会社からき、入っている車両保険の分をお支払いするので、その範囲内で車をお求めくださいと言われました。ところが、車の保険って高いんですね。大抵は1年間の保証は付いているのですが、それが2年、3年と伸ばすと一気に高くなるのです。また、1年間走ってみて問題なければそれでいいかと思ったら、担当のセールスマンの話では、その後が危ないというではありませなか。1年経った頃からいろいろ出てくると言うのです。確かにそうかもしれません。だから保険も高くなるんだろうと思いますが、その度に保険に入っていたら多額の保険料が必要になってしまいます。ですから、神様が守ってくださると信じて1年間の保険に入ることにしましたが、神様の契約は1年どころではありません。2年、3年でもない。それはずっと続きます。それは永遠の保証、永遠の契約なのです。このイスラエルの民に対する神の約束は永遠に破られることはありません。もしもあなたがこの天地を破壊することができるなら、つまり、神が定められた自然の法則を破ることができるなら、あるいは破られるということもあるかもしれませんが、実際にはそういうことはありません。であれば、イエス・キリストによってもたらされたこの神との新しい契約が破られるということは絶対にないのです。
Ⅰ.イスラエルは絶対に滅びない(35-37)
まず、35~37節をご覧ください。「35 【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。36 「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──【主】のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」37 【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
どういうことでしょうか。36節には「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら、主のことば、イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」とあります。「これらの掟」とは、その前の35節にある「太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる」という、いわゆる自然法則のことです。もしもそうした掟が主の御前から去るようなことがあるなら、イスラエルの子孫も絶えてしまうことがあるもしれません。主の前にいつまでも一つの民であることはできないでしょう。でも実際そういうことは絶対にありません。これらの法則を与えられた神だからです。その神がここで言われている「これらの掟」すなわち、自然の法則を破らないかぎり、イスラエルの民が神によって滅ぼされるということは絶対にありません。イスラエルが神の前から退かれることは絶対にないのです。もしそのようなことがあるとしたら、それこそイスラエルの民が滅びる時ですが、そういうことは絶対にありません。つまり、神が与えてくださる新しい契約が破られることは絶対にないのです。
これはイスラエルに対する驚くべき神の約束です。イスラエルが滅びることは絶対にないというのですから。もしもイスラエルに対する約束を無効にしたいなら、その人はまず、太陽と月と星をミサイルとか何かで破壊しなければならないことになります。海流や波をすべて止めなければなりません。そんなことできますか?できません。神がイスラエルと結ばれた約束は同じです。絶対に破られることはありません。それほど強いのです。
皆さんも子どものころ何気なく口ずさんだことがあると思いますが、「指きり拳万、嘘ついたら針千本飲ます」ですね。これは恐ろしい誓いです。というのは、約束を破ったら「拳で1万回殴られ」、それに追加して「針を千本飲まされる」のですから。でも私たちは平気で破ってきました。もう拳で1万回殴られても仕方ないのです。針を千本飲まされても仕方ありません。だって約束を破ったんですから。でも聖書の神は違います。そういうことは絶対にありません。聖書の神は約束されたことは必ず守られます。それが私たちの信じている神です。ここにはその名が太字で「主」とありますが、この「主」と訳されている語はヘブル語では「ヤハウェ」と言って、「契約の神」であることを表しています。聖書の神はどんなことがあっても約束を守られる方なのです。太陽、月、星、海、波といった自然の法則が破られないように、主がイスラエルと結ばれた契約は絶対に破られることはありません。
37節をご覧ください。「【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
「上の天が測られ、下の地の基が探り出される」ことは、人間には不可能な事です。それはこの天地を創造された神にしかできない事です。もしも人間にそのようなことができるとしたら、神もイスラエルと結ばれた約束を退けることもあるかもしれませんが、人間にはこのようなことはできません。だれが上の天を測り、下の基を探り出すことなどできるでしょうか。だれもできません。ということはどういうことかというと、主がイスラエルに与えた祝福の約束は必ず実現するということです。だって、人間にはそのようなことはできないのですから。ですから、イスラエルが滅びたり、退けられたりすることは絶対にありません。あなたが神の救いを失うことは絶対にないのです。
これが31章3節で語られたことです。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」。主は永遠の愛をもって彼らを愛されました。永遠の愛をもってあなたを愛されました。永遠の愛とは何ですか。永遠の愛とは永遠の愛です。そこには終わりがありません。それはいつまでも続く愛です。人間にはこのような愛はありません。しかし主はこの永遠の愛をもってイスラエルを愛してくださいました。彼らがどのような状態になろうとも、どんなに神に背いても、神はずっと彼らを愛してくださいました。つまり、どんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、そうした状態とは関係なく、ずっと愛してくださるということです。神の愛は永遠に変わることがないのです。ずっとイスラエルの上に注がれているのです。
これはヘブル語で「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいましたが、それはどんなことがあっても決して破られることがありません。たとえイスラエルが神に背き神との契約を破ったとしても、神は破ることはありません。神は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。それは彼らが善人だったからではありません。あるいは優れていたからでもありません。それはただ神が愛されたからです。申命記7章7~8節にそうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」主が彼らを愛されたのは、彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。神が彼らを愛されたのは、ただ主が彼らを愛されたから。また彼らの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。ですから、主は力強い御手をもってイスラエルをエジプトから救われたのです。ですから、どんなことがあっても、彼らが救いを失うことは絶対にないのです。
これが神がクリスチャンである私たちと結ばれた約束でもあります。神は私たちを、イエス・キリストを通して、この永遠の救いの中に入れてくださいました。ですから、あなたが救いを失うことは絶対にないのです。たとえあなたが罪を犯し神に背くことがあったとしても、あなたの救いが無効になってしまうことはありません。というのは、私たちの救いは私たちの行いや私たちの状態に基づいているものではないからです。そうではなく、それは主と主のみことばの約束に基づいているものだからです。私たち自身や私たちの行いをみたらもう目も当てられないくらいひどいもので、とても信頼できるものはありませんが、私たちの救いはそうした自分自身の行いによるのではなく、一方的な主の恵み、十字架と復活という主の救いの御業にあるので永遠に変わることがないのです。だから信頼することができるのです。ですから、あなたがいつでも罪を認めて悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたをすべての罪からゆるしてくださるのです。あなたが本当にイエスを救い主と信じたのなら、あなたは絶対に救いを失うことはありません。
イエスはこう言われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 永遠の命とは、決して失われることのない、永遠の救いそのものです。いのちのパン(福音)を食べ、いのちの水(聖霊)を飲んだ者は、いつまでも飢えることも、渇くこともありません(ヨハ6:25,4:13~14)。
イエスはまたこう言われました。「28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28-29)
 福音を信じた者はすべて主の御手の内にあります。神は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることはなく、だれも彼らを主の御手から奪い去ることはできません。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできないのです。それが永遠のいのちなのです、私たちが一旦イエスを信じたなら、イエスは決してあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたがイエスを見離さない、見捨てない限り、イエスは絶対にあなたを見離すことはしないのです。
何度か紹介している マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
あなたが主を捨てても、主はあなたを捨てることはありません。あなたが主に背いても、主はあなたに対して常に真実であられます。それが永遠のいのちです。神はあなたを永遠に愛してくださいました。だからどんなことがあっても、あなたが滅びることは絶対にありません。あなたが自分の罪を認めて神に立ち返るなら、神はあなたのすべての罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。それは神が堅固であるのと同様に確かな救いなのです。
神がイスラエルと結ばれた新しい契約とは、このようなものです。彼らはこのような神の愛で愛されているのです。それは私たちも同じです。私たちもイエスを信じたことで、この神の愛を受けました。だから、いつでも私たちは神に立ち返ることができるのです。どん底からも這い上がることができます。どんなに失敗を繰り返しても、あなたはやり直すことができるのです。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができます。イスラエルは神に背いたことでバビロン捕囚の憂き目に会いましたが、それは彼らを滅ぼすことが目的ではありませんでした。それは彼らを回復し、建て直すことが目的だったのです。その日には、すなわち、イエスの血によって新しい契約が結ばれるとき、彼らは神の民として永遠に生き続けるようになります。イスラエルが滅びることは絶対にありません。イエスを信じる者が滅ぼされることは絶対にないのです。あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神にすがるなら、神はあなたの罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。そして、あなたは永遠のいのちを受け、いつまでも主と共に生きるようになるのです。だれもあなたをキリストの愛から引き離すことはできません。
Ⅱ.新しいエルサレム(38-40)
最後に38~40節をご覧ください。それはイスラエルに対する約束だけでなく、イスラエルの都、神のエルサレムに対する約束について語られています。「38 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、【主】のために建て直される。39 測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。40 死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな【主】の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。これも終末のことを預言する特徴的な言葉です。「そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される」ことになります。どういうことでしょうか。エルサレムは東西南北の隅々にまで再建されるということです。
そこには「死体と灰の谷の全体」と、「東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑もふくまれますが、それらはみな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされ、壊されることはないのです。「死体と灰の谷の全体」とは、これはヒノムの谷(ゲヘナ)のことです。そこでは人身供養が行われていました。最も主が忌み嫌うべきことが行われていた場所なのです。そのヒノムの谷でさえもきよめられ、主の栄光を現わす場所に変えられていくのです。
これがご自身の契約に基づいて、神がイスラエルに約束されたことです。イスラエルとエルサレムは永遠に滅びることはないのです。それは私たち異邦人クリスチャンにも約束しておられることです。私たちもイエス・キリストを通して、神の永遠の守りの中に入れられました。どんなに罪に汚れた人であっても、やがて新しいエルサレムのように聖別され、神の栄光を現わす存在となるのです。これがイエス・キリストの十字架の血をもって神があなたと結んでくださった新しい契約です。 神の一方的な恵みによってこの契約の中に入れて入れられていることを感謝し、どんなに汚れた者であっても、神の栄光を現わす存在とさせていただきましょう。

イスラエルは滅びない エレミヤ書31章35~40節 


聖書箇所:エレミヤ書31章35~40節(旧約P1351、エレミヤ書講解説教60回目)
タイトル:「イスラエルは滅びない」
前回は、エレミヤ書ばかりか聖書全体のテーマである新しい契約についてお話しました。きょうは、この31章の最後の箇所となります。きょうは、この箇所から「イスラエルは滅びない」というテーマでお話します。
私たちは前回「新しい契約」について学びました。それは古い契約とは違います。どのように違うのかと申しますと、古い契約はモーセを通して与えられたシナイ契約のことですが、それは、もしイスラエルの民が神の声に聞き従い、神との契約を守るなら彼らは祝福されますが、そうでなければ、呪われるというものでした。でも、神との契約を完全に守ることができる人など一人もいないわけで、そういう意味ではそれはイスラエルも同じで、彼らは神の呪いを受けなければならない存在となってしまいました。でもそれでは困るわけです。もし神の民であるイスラエルが滅びてしまったらイスラエルを通して全世界を救おうとしておられた神の計画が頓挫してしまうことになってしまうからです。そこで神はどうされましたか?神は彼らに新しい契約与えてくださいました。それは古い契約が破棄されたというわけではありません。むしろ、その古い契約を実行する力を与えてくださったということです。それがイエス・キリストです。神はイエス・キリストを信じる者に神の聖霊を与えてくださり、その聖霊によって彼らの心に神の律法を書き記してくださったのです。もし石の板に書き記されたものならば、彼らは強制的にそれを行わなければならないということになりますが、彼らにはそんな力はありませんでした。そこで神はひとり子イエスをこの世に与え、この方を信じる者の心に聖霊を与えてくださり、それを成し遂げる力を与えてくださったのです。もう神の掟を守らなければならないというのではありません。もう守りたくて、守りたくてしかたがない。神様に喜ばれるように歩みたいと願うようになったのです。それが新しい契約です。これがイエス・キリストを通して神が私たちに与えてくださった一方的な恵みの契約なのです。ですから、私たちはあれもしなければならない、これもしなければならないといった律法から解放されて、聖霊の助けによって自発的に喜んで神に従うことができるようになったのです。それはイエスが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださったからです。これが新しい契約です。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じた人の心には、聖霊なる神が住んでおられるのです。そしてこの聖霊を受けた人はどんなことがあっても救いを失うことは絶対にありません。これはあなたが救われていることの保証でもありますから。イエス・キリストを信じて罪が赦され、永遠のいのちを受けたのであれば、どんなことがあってもあなたは救いを失うことは絶対にありません。
「そんなことでは、救いが取り去られますよ」と言われて、不安に苛まれたことのあるクリスチャンも少なくないと思います。確かに自堕落な生活はしているし、信仰とは言っても名ばかりで、こんな汚れた者が救われるはずがないと思うことがあります。いったいどこまで奉仕をしたら認められるのか。信仰生活は苦しいことばかりで、疲れ切ってしまった…。そんな相談を度々受けることがあります。特に、カルト化している教会も少なくなく、そういった教会では、例外なく、救いが失われることもあると言うのです。でも自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを信じて救われた人が、その救いを失うことは絶対にありません。
このことについて聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、あなたの状態やあなたの行いと関係なく、もしあなたが悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるなら、神はあなたをすべての悪からきよめてくださると約束しています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
これが聖書の約束です。そして聖霊が神のことばと神の思いをその人の心にしっかり刻んでくださるので、もはや外側からの圧力やプレッシャーを受けることなく、あるいは人から何かを強要されることもなく、喜んで自分から神のことばに従いたいと思うようになるのです。
その結果、どのようなことが起こるのでしょうか。その結果、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に向かって、「主を知れ」と言って教えることはなくなります。彼らはみな、身分の低い者から高い者まで、一人一人の内におられる聖霊によって主を知るようになるからです。また、主が彼らの罪を赦してくださるだけでなく、もう二度と彼らの罪を思い起こすことはありません。完全な赦しを受けるのです。すばらしいですね。これが福音です。
きょうの箇所には、この新しい契約の有効期限はいつまで続くのかについて語られています。皆さんはクレジットカードを持っておられると思いますが、そのカードには必ず有効期限が書かれてあります。そのカードの有効期限がいつまでなのか、何年何月までと記載してあるのです。もしその有効期限が切れていたらどうなるでしょうか。全く使い物になりません。カードとしての機能を果たすことができないわけです。おなじように、神は私たちと契約を結んでくださいました。それはクレジットカードのようなものではなく聖書の中に記されてあるわけですが、そこには何と書いてありますか。31章3節には「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」とあります。神様はあなたを永遠の愛をもって愛してくださいました。永遠ということは期限がないということです。ですから、延長保証などをする必要もりません。最近、家内が交通事故を起こし全損扱いとなってしまいました。保険会社からき、入っている車両保険の分をお支払いするので、その範囲内で車をお求めくださいと言われました。ところが、車の保険って高いんですね。大抵は1年間の保証は付いているのですが、それが2年、3年と伸ばすと一気に高くなるのです。また、1年間走ってみて問題なければそれでいいかと思ったら、担当のセールスマンの話では、その後が危ないというではありませなか。1年経った頃からいろいろ出てくると言うのです。確かにそうかもしれません。だから保険も高くなるんだろうと思いますが、その度に保険に入っていたら多額の保険料が必要になってしまいます。ですから、神様が守ってくださると信じて1年間の保険に入ることにしましたが、神様の契約は1年どころではありません。2年、3年でもない。それはずっと続きます。それは永遠の保証、永遠の契約なのです。このイスラエルの民に対する神の約束は永遠に破られることはありません。もしもあなたがこの天地を破壊することができるなら、つまり、神が定められた自然の法則を破ることができるなら、あるいは破られるということもあるかもしれませんが、実際にはそういうことはありません。であれば、イエス・キリストによってもたらされたこの神との新しい契約が破られるということは絶対にないのです。
Ⅰ.イスラエルは滅びることはない(35-37)
まず、35~37節をご覧ください。「35 【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。36 「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──【主】のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」37 【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
どういうことでしょうか。36節には「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら、主のことば、イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」とあります。「これらの掟」とは、その前の35節にある「太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる」という、いわゆる自然法則のことです。もしもそうした掟が主の御前から去るようなことがあるなら、イスラエルの子孫も絶えてしまうことがあるもしれません。主の前にいつまでも一つの民であることはできないでしょう。でも実際そういうことは絶対にありません。これらの法則を与えられた神だからです。その神がここで言われている「これらの掟」すなわち、自然の法則を破らないかぎり、イスラエルの民が神によって滅ぼされるということは絶対にありません。イスラエルが神の前から退かれることは絶対にないのです。もしそのようなことがあるとしたら、それこそイスラエルの民が滅びる時ですが、そういうことは絶対にありません。つまり、神が与えてくださる新しい契約が破られることは絶対にないのです。
これはイスラエルに対する驚くべき神の約束です。イスラエルが滅びることは絶対にないというのですから。もしもイスラエルに対する約束を無効にしたいなら、その人はまず、太陽と月と星をミサイルとか何かで破壊しなければならないことになります。海流や波をすべて止めなければなりません。そんなことできますか?できません。神がイスラエルと結ばれた約束は同じです。絶対に破られることはありません。それほど強いのです。
皆さんも子どものころ何気なく口ずさんだことがあると思いますが、「指きり拳万、嘘ついたら針千本飲ます」ですね。これは恐ろしい誓いです。というのは、約束を破ったら「拳で1万回殴られ」、それに追加して「針を千本飲まされる」のですから。でも私たちは平気で破ってきました。もう拳で1万回殴られても仕方ないのです。針を千本飲まされても仕方ありません。だって約束を破ったんですから。でも聖書の神は違います。そういうことは絶対にありません。聖書の神は約束されたことは必ず守られます。それが私たちの信じている神です。ここにはその名が太字で「主」とありますが、この「主」と訳されている語はヘブル語では「ヤハウェ」と言って、「契約の神」であることを表しています。聖書の神はどんなことがあっても約束を守られる方なのです。太陽、月、星、海、波といった自然の法則が破られないように、主がイスラエルと結ばれた契約は絶対に破られることはありません。
37節をご覧ください。「【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
「上の天が測られ、下の地の基が探り出される」ことは、人間には不可能な事です。それはこの天地を創造された神にしかできない事です。もしも人間にそのようなことができるとしたら、神もイスラエルと結ばれた約束を退けることもあるかもしれませんが、人間にはこのようなことはできません。だれが上の天を測り、下の基を探り出すことなどできるでしょうか。だれもできません。ということはどういうことかというと、主がイスラエルに与えた祝福の約束は必ず実現するということです。だって、人間にはそのようなことはできないのですから。ですから、イスラエルが滅びたり、退けられたりすることは絶対にありません。あなたが神の救いを失うことは絶対にないのです。
これが31章3節で語られたことです。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」。主は永遠の愛をもって彼らを愛されました。永遠の愛をもってあなたを愛されました。永遠の愛とは何ですか。永遠の愛とは永遠の愛です。そこには終わりがありません。それはいつまでも続く愛です。人間にはこのような愛はありません。しかし主はこの永遠の愛をもってイスラエルを愛してくださいました。彼らがどのような状態になろうとも、どんなに神に背いても、神はずっと彼らを愛してくださいました。つまり、どんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、そうした状態とは関係なく、ずっと愛してくださるということです。神の愛は永遠に変わることがないのです。ずっとイスラエルの上に注がれているのです。
これはヘブル語で「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいましたが、それはどんなことがあっても決して破られることがありません。たとえイスラエルが神に背き神との契約を破ったとしても、神は破ることはありません。神は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。それは彼らが善人だったからではありません。あるいは優れていたからでもありません。それはただ神が愛されたからです。申命記7章7~8節にそうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」主が彼らを愛されたのは、彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。神が彼らを愛されたのは、ただ主が彼らを愛されたから。また彼らの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。ですから、主は力強い御手をもってイスラエルをエジプトから救われたのです。ですから、どんなことがあっても、彼らが救いを失うことは絶対にないのです。
これが神がクリスチャンである私たちと結ばれた約束でもあります。神は私たちを、イエス・キリストを通して、この永遠の救いの中に入れてくださいました。ですから、あなたが救いを失うことは絶対にないのです。たとえあなたが罪を犯し神に背くことがあったとしても、あなたの救いが無効になってしまうことはありません。というのは、私たちの救いは私たちの行いや私たちの状態に基づいているものではないからです。そうではなく、それは主と主のみことばの約束に基づいているものだからです。私たち自身や私たちの行いをみたらもう目も当てられないくらいひどいもので、とても信頼できるものはありませんが、私たちの救いはそうした自分自身の行いによるのではなく、一方的な主の恵み、十字架と復活という主の救いの御業にあるので永遠に変わることがないのです。だから信頼することができるのです。ですから、あなたがいつでも罪を認めて悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたをすべての罪からゆるしてくださるのです。あなたが本当にイエスを救い主と信じたのなら、あなたは絶対に救いを失うことはありません。
イエスはこう言われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 永遠の命とは、決して失われることのない、永遠の救いそのものです。いのちのパン(福音)を食べ、いのちの水(聖霊)を飲んだ者は、いつまでも飢えることも、渇くこともありません(ヨハ6:25,4:13~14)。
イエスはまたこう言われました。「28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28-29)
 福音を信じた者はすべて主の御手の内にあります。神は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることはなく、だれも彼らを主の御手から奪い去ることはできません。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできないのです。それが永遠のいのちなのです、私たちが一旦イエスを信じたなら、イエスは決してあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたがイエスを見離さない、見捨てない限り、イエスは絶対にあなたを見離すことはしないのです。
何度か紹介している マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
あなたが主を捨てても、主はあなたを捨てることはありません。あなたが主に背いても、主はあなたに対して常に真実であられます。それが永遠のいのちです。神はあなたを永遠に愛してくださいました。だからどんなことがあっても、あなたが滅びることは絶対にありません。あなたが自分の罪を認めて神に立ち返るなら、神はあなたのすべての罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。それは神が堅固であるのと同様に確かな救いなのです。
神がイスラエルと結ばれた新しい契約とは、このようなものです。彼らはこのような神の愛で愛されているのです。それは私たちも同じです。私たちもイエスを信じたことで、この神の愛を受けました。だから、いつでも私たちは神に立ち返ることができるのです。どん底からも這い上がることができます。どんなに失敗を繰り返しても、あなたはやり直すことができるのです。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができます。イスラエルは神に背いたことでバビロン捕囚の憂き目に会いましたが、それは彼らを滅ぼすことが目的ではありませんでした。それは彼らを回復し、建て直すことが目的だったのです。その日には、すなわち、イエスの血によって新しい契約が結ばれるとき、彼らは神の民として永遠に生き続けるようになります。イスラエルが滅びることは絶対にありません。イエスを信じる者が滅ぼされることは絶対にないのです。あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神にすがるなら、神はあなたの罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。そして、あなたは永遠のいのちを受け、いつまでも主と共に生きるようになるのです。だれもあなたをキリストの愛から引き離すことはできません。
Ⅱ.新しいエルサレム(38-40)
最後に38~40節をご覧ください。それはイスラエルに対する約束だけでなく、イスラエルの都、神のエルサレムに対する約束について語られています。「38 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、【主】のために建て直される。39 測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。40 死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな【主】の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。これも終末のことを預言する特徴的な言葉です。「そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される」ことになります。どういうことでしょうか。エルサレムは東西南北の隅々にまで再建されるということです。
そこには「死体と灰の谷の全体」と、「東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑もふくまれますが、それらはみな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされ、壊されることはないのです。「死体と灰の谷の全体」とは、これはヒノムの谷(ゲヘナ)のことです。そこでは人身供養が行われていました。最も主が忌み嫌うべきことが行われていた場所なのです。そのヒノムの谷でさえもきよめられ、主の栄光を現わす場所に変えられていくのです。
これがご自身の契約に基づいて、神がイスラエルに約束されたことです。イスラエルとエルサレムは永遠に滅びることはないのです。それは私たち異邦人クリスチャンにも約束しておられることです。私たちもイエス・キリストを通して、神の永遠の守りの中に入れられました。どんなに罪に汚れた人であっても、やがて新しいエルサレムのように聖別され、神の栄光を現わす存在となるのです。これがイエス・キリストの十字架の血をもって神があなたと結んでくださった新しい契約です。 神の一方的な恵みによってこの契約の中に入れて入れられていることを感謝し、どんなに汚れた者であっても、神の栄光を現わす存在とさせていただきましょう。

士師記13章

士師記13章

 士師記13章から学びます。

 Ⅰ.マノアとその妻(1-7)

まず1~7節までをご覧ください。「1 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。そこで【主】は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。2 さて、ダンの氏族に属するツォルア出身の一人の人がいて、名をマノアといった。彼の妻は不妊で、子を産んだことがなかった。
13:3 【主】の使いがその女に現れて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。4 今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。5 見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」6 その女は夫のところに行き、次のように言った。「神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いのようで、たいへん恐ろしいものでした。私はその方がどちらから来られたか伺いませんでした。その方も私に名をお告げになりませんでした。7 けれども、その方は私に言われました。『見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。今後、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子は胎内にいるときから死ぬ日まで、神に献げられたナジル人だから』と。

イスラエル人は、再び主の目の前に罪を行いました。それで主は40年間、彼らをペリシテ人の
手に渡されました。ペリシテ人は地中海に面している地域に住んでいた民族で、イスラエルの地においてもガザやアシュケロンなど、沿岸地域に住んでいました。そのペリシテ人の手に渡されたのです。しかも、40年の長きに渡ってです。これは、預言者サムエルがペリシテ人に勝利する時まで続きます(Ⅰサムエル7章)。サムソンが士師として活躍するのは20年間ですが、それはペリシテ人による圧政の期間の間に入る出来事です。

 ところで、ダン族に属するマノアという人がいました。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがありませんでした。当時は、子どもがいないということを神の呪いと受け止められていたので、そのことは彼らにとってとても悲しい出来事でした。そんな彼女に、ある日主の使いが現れて、男の子を産む、と告げました。それゆえ、ぶどう酒や強い酒を飲んだり、汚れた物をいっさい食べないように気を付けよ、と告げたのです。また、その子の頭にかみそりを当ててはならない、とも言いました。なぜなら、その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人であるからです。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始めるというのです。
 
 ナジル人とは、「聖別されたもの」という意味です。民数記6章1~8節には、このナジル人について、次のように記されてあります。「主はモーセに告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。また、ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも、干したものも食べてはならない。ナジル人としての聖別の全期間、彼はぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。主のものとして身を聖別している間は、死人のところに入って行ってはならない。父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らとの関わりで身を汚してはならない。彼の頭には神への聖別のしるしがあるからである。ナジル人としての聖別の全期間、彼は主に対して聖なるものである。」

ここにはナジル人に対して、三つの命令が与えられています。一つは、ぶどう酒や強い酒を飲んではならないということ、二つ目のことは、ナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりをあててはならないということ、そして三つ目のことは、死人のところに入って行き、死人に触れてはならないということです。ぶどう酒や強い酒を飲んではならないというのは、生活の楽しみを自発的に断ち、神への献身を表明することを表していました。また、頭にかみそりをあてないというのは、そのことで軽蔑されるようなことがあっても、神への献身のゆえにどのような軽蔑をも甘んじて受けることを表していました。当時の人は前髪を短く刈っていたので、ナジル人の誓願をすることで前髪が伸び、人々から軽蔑されるということもあったのです。しかし、どんなに軽蔑されても、神に献身した者はそれさえも甘んじて受けなければなりませんでした。そして、死体に近づくことは、汚れを避けることを意味していました。たとえそれが肉親であっても、死体に近づいて身を汚すことは許されませんでした。その厳格さは、大祭司と同等のものでした。一般の祭司でさえ、肉親の死体に近づくことは許されていたのです(レビ記21:1-4,10-11)。
このナジル人の誓願には、一定期間で終わるものと、終生の誓願とがありましたが、サムソンは終生のナジル人でした。しかし、彼の父母も一定期間ナジル人として生きることが求められたのです。

聖書の中には、生まれながらのナジル人が3人います。このサムソンと預言者サムエル(Ⅰサムエル1:11)、そして、バプテスマのヨハネ(ルカ1:15)です。彼らは、主のために聖別された僕としての人生を歩みました。そして、主イエスもこのナジル人としての生涯を歩まれました。主イエスは、この世から分離し、父なる神に完全に従うことによって、聖別された生涯を歩まれたのです。そして、そのイエスを信じ、イエスにつながり、イエスに従う私たちにも、霊的には、このナジル人とされたと言ってもよいでしょう。ですから、クリスチャンはみな、ナジル人として生きることが求められているのです。

パウロはⅡコリント6章14~18節で、次のように言っています。「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」」
ここで勧められていることは、まさにこのナジル人として生きなさいということです。それはこの世から隔離された修道院のような生活をしなさいということではありません。この世にいながらも、この世のものではなく、神のものとして、この世と分離して生きなさいということです。それは主イエスがこの世から分離し、父なる神に完全に従ったように生きるということです。なぜなら、私たちはこの世から救い出され、神のものとされたものだからからです。神のものとされた者は、この世にあっても神のものとして聖別し、世の光、地の塩として生きていかなければならないのです。

Ⅱ.マノアに現れた主の使い(8-14)

次に8~14節までをご覧ください。「8 そこで、マノアは【主】に願って言った。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」9 神はマノアの声を聞き入れられた。それで神の使いが再びこの女のところに来た。彼女は畑に座っていて、夫マノアは彼女と一緒にはいなかった。10 この女は急いで走って行き、夫に告げた。「早く来てください。あの日、私のところに来られたあの方が、また私に現れました。」11 マノアは立ち上がって妻の後について行き、その人のところに行って尋ねた。「この女にお話しになった方はあなたなのですか。」その人は言った。「わたしだ。」12 マノアは言った。「今にも、あなたのおことばは実現するでしょう。その子のための定めと慣わしはどのようなものでしょうか。」13 【主】の使いはマノアに言った。「わたしがこの女に言ったすべてのことに気をつけなければならない。14 ぶどうからできる物はいっさい食べてはならない。ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。汚れた物はいっさい食べてはならない。わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」

それで女は夫のところに行き、そのことを告げると、マノアは主に願って言いました。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」
マノアは妻の報告を聞き、主に願って言いました。神が遣わされた神の人を再び遣わして、生まれてくる子に何をすれば良いか教えてくれるように・・・と。
すると、神はマノアの祈りを聞かれたので、神の使いが再び彼の妻のところに来ました。その時マノアは彼女と一緒にいなかったので、彼女はすぐに夫を呼びに行き、その人のもとに連れて来ました。おもしろいですね。マノアが懇願したのに、神の使いはまたマノアのところではなく妻のところにやって来ました。また、マノアが妻に連れられてその神の人のところへ行ったとき、その神の使いが言ったことは、以前彼の妻に告げたことを繰り返しただけでした。つまり、「わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。」(13)ということだけだったのです。なぜでしょうか?それはその必要がなかったからです。神のみこころはすでにマノアの妻に告げられました。彼にとって必要だったことは、そのことに聞き従うことだったのです。

時として、私たちも、既に与えられている御言葉で満足できず、もっと先のことや新しいことを知りたいと願うことがありますが、大切なのは、先のことが見えなくても、新しい情報が示されなくても、今与えられていることに感謝し、目の前に示されたことを忠実に行っていくことです。そうすれば、次にすべきことが示されるようになるでしょう。

Ⅲ.わたしの名は不思議(15-25)

次に、15~23節までをご覧ください。「15 マノアは【主】の使いに言った。「私たちにあなたをお引き止めできるでしょうか。あなたのために子やぎを料理したいのですが。」16 【主】の使いはマノアに言った。「たとえ、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のささげ物を献げたいなら、それは【主】に献げなさい。」マノアはその方が【主】の使いであることを知らなかったのである。17 そこで、マノアは【主】の使いに言った。「お名前は何とおっしゃいますか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちはあなたをほめたたえたいのです。」18 【主】の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」19 そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で【主】に献げた。主のなさる不思議なことを、マノアとその妻は見ていた。20 炎が祭壇から天に向かって上ったとき、【主】の使いは祭壇の炎の中を上って行った。マノアとその妻はそれを見て、地にひれ伏した。21 【主】の使いは再びマノアとその妻に現れることはなかった。そのときマノアは、その人が【主】の使いであったことを知った。22 マノアは妻に言った。「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから。」23 妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、【主】は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」

マノアとその妻は、その時点でも主の使いが誰なのかを理解していませんでした。彼らはその人を預言者のひとりだと思っていたのです。そこで、その人をもてなしたいと思い、彼らの家に留まってもらうようにお願いしました。しかし、その人は、たとえ留まっても、食事のもてなしは受けないと断りました。そして、もし全焼のささげ物を献げたいなら、主に献げなさい、と命じたのです。

するとマノアは、その人に名前を尋ねました。「お名前は何とおっしゃいますか。」彼としては、このことが成就したら、預言者としてその人をほめたたえようと思ったのでしょう。すると、主の使いは、「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」と言いました。「不思議」という名前は不思議な名前です。しかし、それはその人物が神であることを指していました。というのは、不思議を行うことができるのは神だからです。神は不思議な方です。そして、その不思議を千年以上も後にご自身の御子イエス・キリストを通して表してくださいました。まさに、神のなさった最高・最大の「不思議」は神の御子が人となってこの世に来られ、その十字架の御業によって救いの道が開いてくださったことです。預言者イザヤはそのことを前もって預言し、やがて来られるメシヤがどのような方であるのかをこう告げました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」。(イザヤ9:6)

そして、主はマノアとその妻に不思議な御業を見せてくださいました。マノアが主の使いに言われるとおり子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主に献げると、炎が祭壇(岩)から出てきて捧げ物を焼き尽くしたかと思ったら、主の使いが天に向かって上って行ったのです。それで、マノアとその妻は地にひれ伏しました。自分たちは死ぬのではないかと思ったのです(出エジプト記33:20)

しかし、マノアの妻は、こう言いました。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のささげ物と穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。また、これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、今しがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったはずです。」
それはそうです。彼らを殺すつもりであれば、彼らがささげた全焼のいけにえをお受けになられるはずはありません。主が全焼のいけにえをお受けになられたというのは、主が彼らの祈りを聞かれたことを示していました。ですから、マノアの妻の言っていることは正しいのです。妻の方が霊的な目が開かれていました。

私たちもクリスチャンになってからでも、このように神のさばきを恐れてしまうことがあります。けれども、神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためです(ヨハネ3:17)。もし神が私たちを滅ぼすつもりなら、私たちに御子を与えられるはががありません。神は私たちを救い、私たちに永遠のいのちを与えるために、御子を与えてくださいました。私たちは、御子にあって、神の御救いに入れていただいたのです。この神の愛を受け取り、安心して主の道を歩ませていただきましょう。

最後に24節と25節をご覧ください。「24 この女は男の子を産み、その子をサムソンと名づけた。その子は大きくなり、【主】は彼を祝福された。25 【主】の霊は、ツォルアとエシュタオルの間の、マハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」

主の使いの言ったとおり、マノアの妻は男の子を産み、その子を「サムソン」と名づけました。「サムソン」という名前は、「太陽」という意味の言葉から来ています。いわば、「太陽の子」という意味です。それはまた、彼の使命を象徴している名前でもありました。彼はイスラエルの民をペリシテ人の圧政から救い出す太陽となるからです。主が彼を祝福してくださったので、彼は大きく成長して行きました。それは肉体的にというだけでなく、知的にも、霊的にも、です。そして、彼が大きく成長して行ったとき、主の霊が彼を揺り動かしました。「マハネ・ダン」とは、「ダンの陣営」という意味です。主はダンの陣営で、彼を揺り動かし始めたのです。

このサムソンの姿には、いくつかの点でイエス・キリストとの類似点があります。たとえば、その出産が通常とは違っていたという点です。サムソンの母は不妊の女でしたが、主の助けによって男の子を身ごもりました(ルカ1:34-35)。そして、主イエスの母マリヤも処女でしたが、いと高き方の力、聖霊の力によって男の子を宿しました。また、サムソンは「太陽の子」という意味の名前でしたが、イエス・キリストは、「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)と呼ばれました。さらに、サムソンが主の祝福を受けて成長したように、主イエスも、神の恵みがその上にあったので、成長し、強くなり、知恵に満ちて行きました(ルカ2:40)。そして何よりも、サムソンも主イエスも、主の霊に揺り動かされて活動されました。つまり、サムソンは来るべきメシヤのひな型であったのです。私たちも、主の霊に揺り動かされ、主の霊に満たされて、神から与えられた使命を全うさせていただけるように祈りましょう。

新しい契約 エレミヤ書31章31~34節

聖書箇所:エレミヤ書31章31~34節(旧約P1351、エレミヤ書講解説教59回目)
タイトル:「新しい契約」

Ⅰ.古い契約(31-32)

■出エジプト19章5節
「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

Ⅱ.新しい契約(33)

■ローマ3:10-12
「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」

■レビ記17章11節
「いのちとして宥めを行うのは血である。」

■ローマ10:10
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

■エレミヤ書31章3節
「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」

Ⅲ.神を知るようになる(34)

■カール・ヒルティー
「赦すとは忘れることである。赦しはするが忘れないというのは、赦していないということなのである。」

■榎本保朗牧師
「自分が赦された存在であるということを忘れるところから、人を赦さないという行為が出てくるのである。」

■コロサイ3章13節
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなたがたもそうしなさい。」

■ヨハネ13:34
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

士師記12章

士師記12章

 士師記12章からを学びます。

 Ⅰ.エフライム人との内紛(1-7)

まず1~7節までをご覧ください。「1 エフライム人が集まってツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。」2 エフタは彼らに言った。「かつて、私と私の民がアンモン人と激しく争ったとき、私はあなたがたに助けを求めたが、あなたがたは彼らの手から私を救ってくれなかった。3 あなたがたが救ってくれないことが分かったので、私はいのちをかけてアンモン人のところへ進んで行った。そのとき、【主】は彼らを私の手に渡されたのだ。なぜ、あなたがたは今日になって、私のところに上って来て、私と戦おうとするのか。」4 エフタはギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これは、エフライムが「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったからである。5 ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が「渡らせてくれ」と言うとき、ギルアデの人々はその人に、「あなたはエフライム人か」と尋ね、その人が「そうではない」と答えると、6 その人に、「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺した。こうしてそのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。7 エフタはイスラエルを六年間さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。」

エフタがアンモン人との戦いを終えると、エフライム人がツァフォンに進み、エフタに詰め寄って来てこう言いました。「なぜ、あなたは進んで行ってアンモン人と戦ったとき、一緒に行くように私たちに呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう。」
彼らの不満は、エフタがアンモン人と戦う際になぜ自分たちに声をかけなかったのかということでした。エフライム族は、マナセ族とともにヨセフ族から枝分かれした部族です。そのエフライム族が、どうしてここでエフタに不満を述べたのでしょうか。それは彼らには、自分たちこそ卓越した部族であるという自負心があったからです。その自負心が高ぶりとなって表面化することがたびたびありました。

たとえば、ヨシュア記17章14節のには、土地の分割の際にヨシュアに詰め寄り、「あなたはなぜ、私たちにただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほどの数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったのに。」と言っています。自分たちは主に祝福された特別な部族だと主張したわけです。それに対してヨシュアは、「あなたが数の多い民であるなら、森に上って行って行きなさい。そこでペリジ人やレファイム人の地を切り開くがよい。エフライムの山地はあなたには狭すぎるのだから。」(ヨシュア17:15)と答えました。ヨシュアが言ったことはもっともなことでした。そんなに主に祝福されたのなら、そんなに数の多い民であるなら、自分たちで切り開けばいいではないか。それなのに、そのことでつべこべ言っているのは、彼ら自身の中に問題があるからではないかと諫めたわけです。

また、士師記8章1節でも、ギデオンがミディアン人との戦いを終えた後で彼のところに詰め寄り、「あなたは私たちに何ということをしたのか。ミディアン人と戦いに行くとき、私たちに呼びかけなかったとは。」(8:1)と激しく責めました。この時はギデオンが彼らをなだめ、平和的な解決を図りましたが、今回は違います。エフタは強硬な姿勢で対応しました。

2節と3節を見ると、そうしたエフライム人のことばに対して、かつてエフタがアンモン人と戦った際にエフライム族に呼びかけたものの彼らが出て来なかったからだと語り、自分を脅迫するのは筋違いだと反論しています。そして、ギルアデの人々をみな集めてエフライムと戦い、彼らを打ち破ったのです。それは、エフライムが、「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったからです。エフライムはギルアデ人のことを侮辱して、逃亡者呼ばわりしたのです。それは、異母兄弟たちから追い出され逃亡者となった経験があったエフタにとっては断じて受け入れられることではなく、逆に彼の神経を逆なですることになりました。

ついに、あってはならない部族間の内紛が勃発しました。ギルアデの人々はエフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取り、エフライムの逃亡者が「渡らせてくれ」と言うとき、その人がエフライム人かどうかを方言によって見分け、もしエフライム人ならその場で殺しました。すなわち、その人に「『シボレテ』と言え」と言い、その人が「スィボレテ」と言って正しく発音できないと、その人を捕まえてヨルダン川の渡し場で殺したのです。こうして四万二千人のエフライム人が倒れました。

元はと言えば、エフライム人の高ぶりがこの悲劇の原因でした。箴言16章18節に、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」とあります。心の高慢は隣人との間に争いを生み、やがてその人を滅ぼすことになります。あなたはどうでしょうか。隣人との間に平和がありますか。もし争いがあるとしたら、あなたの中にエフライムのような自負心や高ぶりがあるからかもしれません。へりくだって.自分の心を点検してみましょう。

Ⅱ.9番目の士師イブツァン(8-10)

次に8~10節までをご覧ください。ここには、9番目の士師でイブツァンのことが記されてあります。「8 彼の後に、ベツレヘム出身のイブツァンがイスラエルをさばいた。9 彼には三十人の息子がいた。また、彼は三十人の娘を自分の氏族以外の者に嫁がせ、息子たちのために、よそから三十人の娘たちを妻に迎えた。彼は七年間イスラエルをさばいた。10 イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。」

「イブツァン」という名前の意味は「速い」です。その名に相応しく、彼についての言及はわずか3節だけです。彼はベツレヘムの出身で、三十人の息子と、三十人の娘がいました。それだけ彼は裕福であり、権力を持っていたということです。しかし、何と言っても彼の特徴は、その三十人の娘たちを自分の氏族以外の者に嫁がせ、自分の息子たちのためには、よそから三十人の娘たちを迎えたという点です。なぜこんなことをしたのでしょうか。彼は息子と娘たちを他の氏族と結婚させることによって争いを回避し、平和を確保しようとしたのです。いわば、それは政略結婚でした。このようなことは日本の戦国時代ではよく行われていたことでしたが、当時の士師たちの間では珍しいことでした。彼はこのようなことによって氏族の結束を強めようと思ったのかもしれません。

Ⅲ.10番目の士師エロンと11番目の士師アブドンの時代(11-15)

最後に、10番目の士師エロンと11番目の士師アブドンを見て終わります。11~15節までをご覧ください。「11 彼の後に、ゼブルン人エロンがイスラエルをさばいた。彼は十年間イスラエルをさばいた。12 ゼブルン人エロンは死んで、ゼブルンの地アヤロンに葬られた。13 彼の後に、ピルアトン人ヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。14 彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。彼は八年間イスラエルをさばいた。15 ピルアトン人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山地にあるエフライムの地ピルアトンに葬られた。」

エロンについての言及はもっと短いです。彼については、彼がゼブルン人で、十年間イスラエルをさばいたということ、そして、ゼブルンの地アヤロンに葬られたということだけです。つまり、彼の出身地と士師としてさばいた期間、そして葬られた場所だけです。

そして、彼の後に登場するのはピルアトン人ヒレルの子アブドンです。彼についての言及も同じで、彼についてもその出身地と生活、そしてさばいた年数、葬られた場所しか記されてありません。
「ピルアトン」とは「丘の頂」という意味で、その町はエフライムにありました。ですから、彼はエフライムの出身でした。彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていたとあります。当時ろばは高貴な人が乗る動物だったので、ここから彼は非常に裕福で社会的地位が高かった人物であったことがわかります。彼が士師としてさばいたのはわずか8年間でした。しかしそれは、平和と繁栄の時代でした。

このエロン、アブトンがイスラエルをさばいたのはわずか18年間という短い期間でしたが、それは10章1~5節で見てきたトラやヤイルの時代のように、平和と繁栄の時代でした。それはトラとヤイルの時のように特記すべきことが少ない平凡な日々の積み重ねであったかもしれませんが、それこそが神の恵みだったのです。それは何よりも神が与えてくださった秩序の中で、互いに神を見上げ、神とともに歩んだということの表れでもあります。何気ない当たり前の平凡な日々中に隠されている主の恵みに目を留める者でありたいと思います。そして、そのような中で一生を終えてこの世を去っていく人こそ、本当に幸いな人生を歩んだ人と言えるのです。あなたにとっての幸いな人生とは、どのような人生でしょうか。

あなたのたましいを満たす神 エレミヤ書31章23~30節

聖書箇所:エレミヤ書31章23~30節(エレミヤ書講解説教58回目)
タイトル:「あなたのたましいを満たす神」
エレミヤ書31章から学んでいますが、きょうは、この31章23~30節から、「あなたのたましいを満たす神」というテーマでお話します。25節に「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」とあります。前回の箇所で、主はご自身のもとに立ち返るイスラエルの民に一つの新しいことを創造されると約束されました。それは何ですか。それは22節にあるように、「女の優しさが一人の勇士を包む」ようになるということです。これは女であるイスラエルが、一人の勇士である主を求めるようになるということでした。それまではまったく自分のことしか考えられなかった者が、神を求めるようになるのですから。そんなイスラエルを神は祝福してくださいます。主が疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あなたのたましいはいかがですか。疲れていませんか。しぼんでいませんか。主はそんなあなたのたましいを満ち足らせてくださるのです。
Ⅰ.わたしが彼らを元どおりにする(23-26)
まず、23~26節をご覧ください。「23 イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき、彼らは再び次のことばを、ユダの地とその町々で語る。『義の住まい、聖なる山よ、【主】があなたを祝福されるように。』24 ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む。25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」26 ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」
ここからユダ、イスラエルに対する回復のメッセージが語られます。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とは、バビロンによって破壊されたユダの町々を元通りにする、ということです。そのとき、ユダの町々は主によって回復し、復興し、再び繁栄を取り戻すことになります。そのとき彼らはユダの地とその町々で、次のように語ることになります。「義の住まい、聖なる山よ、主があなたを祝福されるように。」。
「義の住まい」とは、具体的にはエルサレムの神殿のことです。また、「聖なる山」とは、シオンの山のこと、つまり、エルサレムのことです。ですから、この「義の住まい」と「聖なる山」という語は同義語で使われているわけです。かつてエルサレムには神殿が建っていましたが、バビロンの王ネブカドネツァルによって前586年に完全に破壊されてしまいました。それが元どおりになるというのです。具体的には、70年の捕囚の期間を経て南ユダは祖国を取り戻し、復興するということです。神殿も再建されます。それは預言者エレミヤによって預言されていたことでした。つまり、神の預言は必ず成就するということです。
24節をご覧ください。「ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む」。エルサレムに帰還し元通りの生活を営むようになるということです。いったいどうしてそのようなことになるのでしょうか。
25節にこうあります。「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」それは帰還民が頑張ったからではありません。ここにはひらがなで「わたしが」とありますが、聖書にひらがなで「わたし」とある時は、主なる神のことを指して言われています。つまり、主が彼らの疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あくまでも、主語は「わたし」なのです。この主語が大切です。誰が回復を与えてくださるのかというと、「わたし」であるということ、「主」であるということです。これは23節でも言われていることです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき・・」。イスラエルの神、万軍の主が彼らを元通りにしてくださいます。勿論、ユダの民も頑張ったでしょう。あの3.11の後で「ガンバレ!東北」を合言葉に震災復興に取り組んだように、「ガンバレ!イスラエル」を合言葉に、必死に復興に取り組んだことでしょう。でも、彼らの頑張りだけではどうすることもできませんでした。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とあるように、そこに主が働いてくださったから、主がそれを成し遂げてくださったので出来たのです。私たちの働きではなく、徹頭徹尾、主の働きによるのです。自分の罪の結果、自分の人生、自分の家庭、自分の持ち物、自分の何もかもすべて失ってしまった、台無しにしてしまったという人がいるなら、ここから慰めを受けてほしいと思います。自分でその失ったものを取り戻そうものなら、自分でその壊れたものを修復しようものならとても無理だと諦めるしかないでしょう。でも、神があなたを元どおりにしてくださいます。神があなたの繁栄を取り戻してくださるのです。ここに希望があります。彼らの回復は神主導であったということです。そのことを忘れないでください。あなた主導ではありません。わたし主導でもない。神主導なのです。神主導ならば、神が成し遂げてくださいます。私たちはただ神に任せればいいのです。神にはおできにならないことは一つもありません。無から有を創造された方は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。
ヨブはまさにそうでした。彼はすべてのものを失いました。自分の家族、財産、健康、何もかも。それは彼の罪によってではなく、神から与えられた試練によってでしたが、後に彼はその目で神を見たとき、ちりと灰の中で悔い改めました。すると主はヨブを元どおりにされました。主はヨブの財産をすべて、二倍にされたのです。その時、ヨブはこのように祈りました。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)
そうです、神にはどんなことでもおできになります。どのような計画も不可能ではありません。だから神は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。
特に25節には、「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせる」とあります。神だけが、あなたのたましいを潤すことができます。神だけが、あなたのしぼんだたましいを満たすことができるのです。この世の何であろうと、また誰であろうと、あなたのたましいを完全に潤すことができるものはありません。ただ神だけが満たすことができるのです。
ヨハネ4章13~14節にこうあります。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」これはイエスのことばです。イエスはある日サマリヤのスカルという所で、たましいに飢え渇いた、一人の女の人に出会いました。その女の人はかつて人生の幸せを求め5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできませんでした。しかし、泉のほとりでイエスに出会い、イエスと話し合い、イエスを信じたとき、飢え渇いたたましいを、いのちの水で満たしていただくことができました。イエス・キリストはたましいを満たすことができるお方なのです。イエス・キリストだけが、あなたの疲れたたましいを潤し、疲弊しきったしぼんだたましいを満ち足らせることができるのです。だからイエスは、このように言われたのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
皆さん、遠慮する必要はありません。あなたのたましいを完全に満たすことができるイエスが、あなたを招いておられるのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と。「わたしがあなたを休ませてあげます」と。いや、私のような者はとても無理です。あなたの前には出られるような者ではありません。だって私はこんな者ですから・・・。過去にこんなことをやったんですよ。そんな者が赦されるはずがないじゃないですか・・。でも、あなたが疲れていると自覚しているなら、あなたが病んでいると自覚しているなら、イエスのもとに行ってください。イエスがあなたを休ませてくださいますから。なぜなら、イエスはまさにそのような人のために来られたのですから。イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)
 丈夫な者に医者はいりません。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく罪人です。イエスは、その罪人のために来られたのです。もしあなたが罪人であると自覚しているなら、もしあなたが自分は病んでいると自覚しているなら、もしあなたが疲れていると自覚しているなら、イエスのもとに来てください。イエスがあなたを休ませてあげます。イエスがあなたのたましいを潤し、あなたのしぼんだたましいを満ち足らせてくださいます。あなたのたましいを潤すことができるのは、あなたのたましいの救い主、イエス・キリストだけなのです。
ユダの民は、バビロン捕囚によってすべてを失ってしまいました。親も、子も、孫も、財産も、国も、すべてです。でも一つだけ失わないものがありました。何ですか?そうです、神です。彼らは神だけは失いませんでした。神を失うと希望はありません。でも、すべてを失っても神を失わなければ希望があります。そしてあなたが神を信じるなら、あなたは神を失うことは決してありません。どんなことがあっても、神はあなたを見捨てることはないからです。いつまでもあなたと共にいてくださいます。それが、聖書が約束していることです。だからあなたには希望があるのです。あなたが本当に神を信じているなら、あなたがイエス・キリストを信じて救われているなら、あなたがクリスチャンなら、神はいつまでもあなたとともにいてくださいます。これが私たちの希望です。
26節をご覧ください。「ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」「私」とはエレミヤのことです。ここでエレミヤは目を覚ましました。彼は夢の中で神から啓示を受けていたのです。それは心地よかったとあります。なぜそんなに心地よかったのでしょうか?ぐっすり眠ることができたということもあるでしょうが、それよりも、今回の啓示は祝福のメッセージだったからです。これまではずっとイスラエルに対してさばきのメッセージばかりだったのに、今回は祝福のメッセージでした。さばきのメッセージを語ることはタフなことですが、祝福のメッセージを語ることは心地よいことです。エレミヤはユダの民イスラエルに対して、主が彼らを元どおりにするという祝福のメッセージを語ったのです。
Ⅱ.今度は、彼らを立て直し、また植える(27-28)
次に、27~28節をご覧ください。「27 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。28 かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──【主】のことば──。」
ここからは、エレミヤが目を覚ましてから語った預言です。「見よ、その時代が来る」。これは世の終わりに起こることを示す特徴的なことばです。それは、イエス・キリストが王の王、主の主、さばき主として再びこの世に来られる時のことです。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に何をなさいますか。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔かれます。どういうことでしょうか?
28節には、「かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る」とあります。「かつて」とは、以前にとか、過去においてという意味です。かつて主はイスラエルの民を引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいをくだそうと見張っておられましたが、今度は違います。今度は彼らを立て直し、また植えるために見張られます。それはアッシリアとバビロン捕囚によって成就しましたが、今度は、そんな彼らを立て直し、また植えるために見張られるのです。覚えていますか、エレミヤが召命を受けた時、主は、「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、建て、また植えるために」(1:10)と言われましたが、主がイスラエルに計画しておられたことは引き抜き、引き倒し、滅ぼすことだけでなく、立て直し、再び植えることであったのです。つまり、彼らが引き抜かれたのは、これは具体的にはバビロンに捕囚のことですが、バビロンによって彼らを滅ぼすためではなく、そこから彼らを解放してエルサレムに帰還させるため、すなわち、新たに植えるためであったのです。それと同じようなことが世の終わりにも起こります。キリストが再び来られる時、彼らは建て直されることになるのです。
それは遠い未来のことではありません。というのは、もう既に1948年5月14日にイスラエルが国家として認められたからです。1900年もの間流浪の民として世界中に散らされていたユダヤ人が祖国に帰還し、建国を果たしたのです。それは全く考えられない出来事でしたが、その考えられないことが実際に起こったのです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それはここにそうなると預言されていたからです。イスラエルの家とユダの家は、建て直され、また植えられると。
でも、この預言はイスラエルが国として建て直されるということだけでなく、さらにその後に起こることも示しています。すなわち、キリストが再臨する時、彼らの先祖がやりで突き刺したキリストを自分たちがメシヤとして認め、悔い改めて信じるようになるということです。こうしてイスラエルはみな救われるという聖書の預言が実現することになります。それがローマ人への手紙11章で言われていることです(11:26)。近い将来、その日が必ずやって来ます。
であれば、私たちはそれに備えていなければなりません。それに備えるとはどういうことかというと、ここに「今度は、彼らを立て直し、また植えるために見張る」とあるように、たとえ今あなたの人生が引き抜かれ、打ち倒され、打ち壊されているようであっても、神は再び建て直し、また植えてくださると信じて、ただ神のみこころを求めて歩まなければならないということです。
Ⅲ.だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く(29)
最後に29~30節をご覧ください。その日には、イスラエルの家が建て直され、植えられるだけではありません。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く、と言うようになります。「29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」
ここにも「その日には」とあります。これも未来的預言です。その日にはどんなことが起こるのでしょうか。「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。」どういうことでしょうか?これは当時よく使われていた格言、ことわざです。エゼキエル書18章2~4節にもありますが、父が(親が)犯した罪のために、子どもが苦しむ、という意味のことわざです。日本のことわざにも「親の因果が子に報い」ということばがありますが、これと同じです。たとえば、自分が何らかのわざわいを受けるとき、自分は何も悪いことをしていないのにどうしてこういうことになるのかと原因を究明して、それを親のせいにするのです。親が悪いからこんなことになったんだと。これは実際、捕囚の民として連れて行かれたユダの民が使っていました。彼らは自分たちが捕囚になったのは先祖たちのせいだと嘆いていまたのです。自分たちが悪いんじゃない。悪いのは親たちで、親のせいでこんな目に遭っているんだと。確かにそういう面もありますが、でも子どもたち自身も罪を犯しているというのも事実でした。
でもその日には、「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」とは言わないで、こう言うようになります。「人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」と。これは申命記24章16節で言われていることです。「父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。」父が子のために殺されたり、子が父のために殺されたりということがあってはなりません。人が殺されるのは自分の罪のためであって、父親や子供の犯した罪のためではないからです。
これは世代間における罪の報いは存在しないということを示しています。日本人ではこのような考えが根強くあります。先祖代々いろいろな汚れを背負って来ているからたたりがあるんだからと、何かお清めをしないといけない。御祈祷もしてもらわないと。お祓いをしなければならない。そう考えるのです。これが人間の作った宗教です。そのような人間のことわざや考えに付け込んで、人間がそれをビジネスにするのです。それが宗教です。それがほとんどの日本の古来の宗教や新興宗教に見られるものです。ここでは親と子の連帯責任が問われていますが、親子間において連帯責任はありません。ですから、クリスチャンはこのことをちゃんと理解しておく必要があります。確かに親の悪い影響を子どもが受けることはありますが、でも必ずしもそれによって子どもの歯が浮くわけではありません。子どもが不幸になるということはないのです。子どもには子どもの人格なり意志というものがあるので、悪い影響を受け入れるかどうかは、子ども自身が決めなければならないことなのです。ですから、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮くことはありません。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬのです。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのです。
それはイエス様が言われたことでもあります。イエス様が通りすがりに生まれたときから目の見えない人をご覧になったとき、弟子たちはイエス様に尋ねました。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともこの人の両親ですか。するとイエス様はこう言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)そして地面に唾をして、その唾で泥を作られその泥を彼の目に塗って、「シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。すると彼見えるようになりました。
であれば、問題は、その自分の咎をどのように清めるのかということです。というのは、だれも完全な人などいないわけで、人はみな自分の咎を負って生きているからです。だれでも、酸いぶどうを食べるので、歯が浮くことになります。歯が浮くというのは入れ歯だからじゃないのです。罪を犯すからなのです。人はそれぞれその咎のため死ななければなりません。どんなに自分で清めようとしてもできません。どうしたらいいのでしょうか。
ここに救いがあります。神はそんな私たちの咎を負うために、御子をこの世に送ってくださいました。それがイエス・キリストです。キリストはあなたが担い切れない罪、払いきれない贖いの代価として、十字架で死んでくださいました。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ヨハネ3章16~18節にこうあります。「16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネ3:16~18)
ですから、あなたが御子イエスを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されるのです。イザヤ書45章25節に「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」とありますが、あなたの罪はもう二度と思い出されることはありません。これが良い知らせ、これが福音です。その日には、彼らはもはや、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯は浮くとは言いません。人はそれぞれ自分の咎のために死にます。でも、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪を贖うために十字架で死なれたキリストを見上げるなら、あなたは死ぬことはありません。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためだからです。
イギリスに、チャールズ・H・スポルジョンという牧師、伝道者がいました。彼は1834年生まれですから、今から190年も前の人です。200年近く昔の人なのに今も生きて語りかける偉大なキリスト教の伝道者です。
 彼は15歳の時に信仰に入り、20歳の時にはロンドンでも有数な教会、ニューパーク・ストリート教会の牧師になり、40年近く牧会して1万3千人の大教会となりました。毎年平均438人が新しくクリスチャンとなったと言われています。そして今でも彼の著した著書によって数千、数万、何百万という人々が救われているという人です。彼が救われたということは世界的に大きなことでした。
 彼は吹雪きの日、家の近くの10人か15人ぐらいが集まっている小さな教会に行きました。痩せ型の牧師が立ち上がって説教しました。スポルジョン一人に呼び掛けるように、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)「Look! Look! Look! 」と叫びました。スポルジョンは彼に向かってストレートに呼び掛けるこの声を活ける神の声として受け止め、パチッと目を開けて十字架上のイエス・キリストに心の目を開けたのです。その日彼は救われました。そして彼を通して数限りのない人々が救いに導かれるようになったのです。
あなたも十字架のキリストに心の目を開いてください。イエス・キリストは、あなたを罪から救うことができるお方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」イエス・キリストを仰ぎ見てください。イエス・キリストは、あなたをすべての罪から救ってくださいます。「その日には」とありますが、今がその時なのです。

士師記11章

士師記11章

 士師記11章からを学びます。

 Ⅰ.第8番目の士師エフタ(1-11)

まず1~11節をご覧ください。「1 さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。2 ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子どもたちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の息子だから、私たちの父の家を継いではならない。」3 そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。エフタのもとには、ならず者が集まっていて、彼と一緒に出入りしていた。4 それからしばらくして、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきた。5 アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきたとき、ギルアデの長老たちはトブの地からエフタを連れ戻そうと出かけて行き、6 エフタに言った。「来て、私たちの首領になってください。そしてアンモン人と戦いましょう。」7 エフタはギルアデの長老たちに言った。「あなたがたは私を憎んで、父の家から追い出したではないか。苦しみにあったからといって、今なぜ私のところにやって来るのか。」8 すると、ギルアデの長老たちはエフタに言った。「だからこそ、今、私たちはあなたのところに戻って来たのです。あなたは私たちと一緒に行き、アンモン人と戦って、私たちギルアデの住民すべてのかしらになってください。」9 エフタはギルアデの長老たちに言った。「もしあなたがたが私を連れ戻してアンモン人と戦わせ、【主】が彼らを私に渡してくださったなら、私はあなたがたのかしらとなろう。」10 ギルアデの長老たちはエフタに言った。「【主】が私たちの間の証人となられます。私たちは必ずあなたの言われるとおりにします。」11 エフタがギルアデの長老たちと一緒に行き、民が彼を自分たちのかしらとし、首領としたとき、エフタは自分が言ったことをみな、ミツパで【主】の前に告げた。」

ギデオンの子アビメレクの死後、イスラエルを救うために立ちあがったのは、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラでした。彼について聖書は多くを語っていませんが、彼は23年間イスラエルをさばきました。それは平凡な日々の積み重ねであったかもしれませんが、そうした平凡な中にも主の恵みがあったのです。

そして次に立ちあがったのがギルアデ人ヤイルでした。彼は非常に裕福で、権力がありましたが、何といっても彼がギルガルから出たということは特質すべきことでした。ギルアデはヨルダン川の東側の地にあり、早くに異教化していった地であるからです。そんなギルアデから士師が出たということは、主はそのような人たちをも忘れていなかったということです。イスラエルは彼によって 22年間、平和な時代を過ごしました。

しかし彼が死ぬと、イスラエルはめいめい主に背き、主の目の前に悪を行いました。それはこれまでのバアルやアシュタロテといった神々に加え、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテの神々と、カナンの住民が拝んでいたほとんどすべての神々に仕えるという異常なほどの背きでした。
そんなイスラエルの態度に主はあきれかえり、彼らが悔い改めて主に立ち返り、主に叫んでも、「わたしはこれ以上あなたがたを救わない」(10:13)と言われました。しかし、彼らが真に悔い改めたとき、すなわち、彼らの中から異国の神々を取り除いて主に仕えたとき、主は彼らの苦しみを見るのが忍びなくなり、彼らを救われました。そのために用いられたのがギルアデ人「エフタ」です。彼は八番目の士師となります。

1節を見ると、彼の生い立ちについて記されてありますが、彼は遊女の子でした。父親のギルアデ゙には妻がいたので、彼女は男の子たちを産みその子どもたちが成長したとき、彼らはエフタを追い出しました。それで彼は兄弟たちのところから逃げてトブの地に住みました。彼の周りにはならず者が集まっていましたが、これが彼らに戦闘の経験を与えることになりました。彼らは生活のために敵の領土に侵入し、食物や生活の必需品などを略奪していたのです。

人は、その人自身の生き方や生活によって評価されるべきであって、両親の地位や家系によって判断されるべきではありません。そういう意味でエフタは不幸な取り扱いを受けましたが、主はそんなエフタを顧みてくださり、イスラエルの士師として立ててくださいました。それは、その人の生き方はその人の家柄や両親の地位とは全く関係ないことを示しています。

さて、アンモン人がイスラエルに戦争をしかけてきたとき、ギルアデの長老たちはトブの地からエフタを連れ戻そうと出かけて行きました。彼らは、この戦いに勝利するためには、強力なリーダーが必要であると感じていたからです。エフタは当初、その申し出に反発しました。「あなたがたは私を憎んで、父の家から追い出したではないか。それなのに、苦しみにあったからと言って、今なぜ私のところにやってくるのか。」(7)と。しかし、彼はギルアデの長老たちのお詫びの言葉を聞いて怒りを鎮めました。そして、もし主が彼らを自分に渡してくれたのなら、自分がギルアデ人のかしらになることを条件に、アンモン人との戦いに出て行くことを了承しました。

もしエフタが命がけでアンモン人と戦いギルアデ゙人を救うことができたなら、彼がギルアデ人のかしらになることは当然のことです。なぜなら、彼は命をかけてたたかったからです。それは主イエスにおいても言えることです。主イエスは私たちのために命を捨ててくださり、罪人の救い主となられました。であれば、イエスによって救われた者がこの方を主(かしら)として受け入れるのは当然のことです。あなたは、あなたの救い主を主(かしら)として仰いでおられるでしょうか。

Ⅱ.アンモン人との戦い(12-28)

次に12~28節をご覧ください。「12 エフタはアンモン人の王に使者たちを遣わして言った。「あなたは私とどういう関わりがあるのですか。私のところに攻めて来て、この国と戦おうとするとは。」13 すると、アンモン人の王はエフタの使者たちに答えた。「イスラエルがエジプトから上って来たとき、アルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの私の土地を取ったからだ。今、これらの地を穏やかに返しなさい。」14 エフタは再びアンモン人の王に使者たちを遣わして、15 こう言った。「エフタはこう言う。イスラエルはモアブの地も、アンモン人の地も取ってはいない。16 イスラエルはエジプトから上って来たとき、荒野を通って葦の海まで歩き、それからカデシュまで来た。17 そこでイスラエルはエドムの王に使者たちを遣わして言った。『どうか、あなたの国を通らせてください』と。ところが、エドムの王は聞き入れなかった。同様にモアブの王にも使者たちを遣わしたが、彼も受け入れなかったので、イスラエルはカデシュにとどまった。18 それから荒野を行き、エドムの地とモアブの地を迂回し、モアブの地の東まで来て、アルノン川の対岸に宿営した。しかし、モアブの領土には入らなかった。アルノンはモアブの国境だったからだ。19 そこでイスラエルは、ヘシュボンの王で、アモリ人の王シホンに使者たちを遣わして言った。『どうか、あなたの国を通らせて、目的地に行かせてください』と。20 しかし、シホンはイスラエルを信用せず、その領土を通らせなかったばかりか、兵をみな集めてヤハツに陣を敷き、イスラエルと戦った。21 イスラエルの神、【主】が、シホンとその兵全員をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは彼らを打ち破った。そしてイスラエルは、その地方に住んでいたアモリ人の全地を占領した。22 こうしてイスラエルは、アルノン川からヤボク川まで、および荒野からヨルダン川までのアモリ人の全領土を占領したのだ。23 今すでに、イスラエルの神、【主】が、ご自分の民イスラエルの前からアモリ人を追い払われたというのに、あなたはその地を取ろうとしている。24 あなたは、あなたの神ケモシュがあなたに占領させようとする地を占領しないのか。私たちは、私たちの神、【主】が、私たちの前から追い払ってくださる者の土地をみな占領するのだ。25 今、あなたはモアブの王ツィポルの子バラクよりもまさっているだろうか。彼はイスラエルと争ったり、戦ったりしたことがあったか。26 イスラエルが、ヘシュボンとそれに属する村々、アロエルとそれに属する村々、アルノン川の川岸のすべての町に三百年間住んでいたのに、なぜあなたがたは、その間にそれを取り戻さなかったのか。27 私はあなたに罪を犯していないのに、あなたは私に戦いを挑んで、私に害を加えようとしている。審判者であられる【主】が、今日、イスラエル人とアンモン人の間をさばいてくださるように。」28 しかし、アンモン人の王はエフタが送ったことばを聞き入れなかった。」

エフタはアンモン人の王に使者を遣わして、「あなたは私とどういうかかわりがあるのですか。私のところに攻めて来て、この国と戦おうとするとは。」と問いかけました。
するとアンモン人の王はエフタの使者たちに答えます。イスラエルがエジプトから上って来たとき、アルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの土地を取ったからだと。その地を今すぐ、穏やかに返しなさい・・と。巻末の地図をご覧いただくとわかりますが、アルノン川とは死海に向かって流れている川、ヤボク川とはその北にありヨルダン川に流れている川です。その間に、ルベン族とガド族の相続地があります。アンモン人の王は、イスラエルがその土地を取ったからだ、と訴えているのです。

そこでエフタは再びアンモン人の王に使者たちを遣わし、歴史を回顧して、そうではないことを伝えます。モーセに率いられてイスラエルが戦ったのは、アモリ人の二人の王シホンとオグであって、アンモン人やモアブ人、エドム人ではなかったと。彼らがイスラエルを信用せず、その領土を通らせなかったので、仕方なく戦わざるを得なかったが、イスラエルの神、主が、シホンとその兵全員をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは彼らを打ち破ることができました。その地方に住んでいたアモリ人の全域、すなわち、アルノン川からヤボク川まで、および荒野からヨルダン川までのアモリ人の全領土を占領するようになったのです。だから、それはアンモン人とは全く関係のない話です。

このようにしてみると、エフタはイスラエルの歴史に精通していたことがわかります。つまり、モーセの律法をよく学んでいたということです。神は幼子のような素直な信仰を喜ばれますが、決して、無知であることを望んではおられるのではありません。Ⅰペテロ3章15節には、「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあります。私たちも、信仰に関する質問を受けた時、いつでも弁明できるように備えておかなければなりません。

エフタの説明はこれだけで終わりません。彼はイスラエルの神、主がアモリ人の王シホンとその勢力を追い払われたのであって、アンモン人がその地を奪い返そうとするのは間違いであること、それに25節を見ると、モアブの王ツィポルの子バラクでさえ、イスラエルと戦うことを断念したというのに、それよりも劣るアンモン人が戦いを挑んでくるなんて考えられない。そんな無茶なことはすべきではない、と言いました。

さらに、26節と27節には、イスラエルがカナンに定住して以来、ヨルダンの東側の地に三百年も住んでいたのだから、もしアンモン人に不満があったのなら、なぜもっと早く申し立てて土地を取り戻さなかったのか、今になって無理難題を押し付けてくるのはおかしいのではないか、と言うのです。

こうしたエフタの順序立てた説明を聞いても、アンモン人の王は聞き入れませんでした。どうしてでしょうか。それは、主なる神への挑戦であったからです。心を頑なにし、神の警告や説得に耳を傾けようとしない人は愚か者です。このような人は、必ず自らが下す愚かな判断の刈り取りをすることになります。あなたはどうでしょうか。心を柔らかくして神のことばを聞いているでしょうか。

Ⅲ.エフタの誓願(29-40)

次に、29~40節までをご覧ください。「29 【主】の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ギルアデのミツパを経て、そしてギルアデのミツパからアンモン人のところへ進んで行った。30 エフタは【主】に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、31 私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を【主】のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」32 こうして、エフタはアンモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。【主】は彼らをエフタの手に渡された。33 彼はアロエルからミニテに至るまでの二十の町、またアベル・ケラミムに至るまでを非常に激しく討ったので、アンモン人はイスラエル人に屈服した。34 エフタがミツパの自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子で、エフタには彼女のほかに、息子も娘もなかった。35 エフタは彼女を見るや、自分の衣を引き裂いて言った。「ああ、私の娘よ、おまえは本当に私を打ちのめしてしまった。おまえは私を苦しめる者となった。私は【主】に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」36 すると、娘は父に言った。「お父様、あなたは【主】に対して口を開かれたのです。口に出されたとおりのことを私にしてください。【主】があなたのために、あなたの敵アンモン人に復讐なさったのですから。」37 娘は父に言った。「このように私にさせてください。私に二か月の猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、自分が処女であることを友だちと泣き悲しみたいのです。」38 エフタは、「行きなさい」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちと一緒に行き、山々の上で自分が処女であることを泣き悲しんだ。39 二か月が終わって、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った。彼女はついに男を知らなかった。イスラエルではしきたりができて、40 年ごとに四日間、イスラエルの娘たちは出て行って、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うのであった。」

主の霊がエフタに下った時、彼はギルアデとマナセを通り、ギルアデのミツパを経て、そしてギルアデのミツパからアンモン人のところへ進んで行きました。その時彼は誓願を立てて言いました。誓願とは何でしょうか。誓願とは、神に誓いをたて事の成就を願うことです。30節、31節をご覧ください。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」
すると主はエフタの願いどおり彼らをエフタの手に渡されました。問題は、エフタがミツパの自分の家に帰った時です。なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来たのです。彼女はひとり娘で、エフタにはほかに息子も娘もいませんでした。その彼女が家から最初に出てきたのです。
エフタは唖然としました。なぜなら、彼は自分がアンモン人のところから無事に帰ることができたなら、自分の家の戸口から自分を迎えに出てくるものを、全焼のいけにえとして主にささげると誓ったからです。娘をささげるということは、娘が子を産まなくなるということであり、それは自分の名が途絶えることを意味していました。これは私たちが想像する以上の呪いでした。エフタは彼女を見るや、自分の衣を引き裂いて嘆きました。

いったいなぜ彼はそのような誓願をしたのでしょうか。おそらく、自分が家に帰ったとき、自分の家の戸口から迎えに出てくるのは自分のしもべたちの内のだれかだと思ったのでしょう。まさか娘が出てくるとは思わなかったのです。それにアンモン人との戦いは激しさを増し、何としても勝利を得たいという気持ちが、性急な誓いとなって出てきたのでしょう。
こうした性急な誓いは後悔をもたらします。また、神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきです。ですから、エフタの誓願は信仰の表明というよりは、むしろ、彼が抱いていた不安の表れにすぎなかったのです。

私たちも、このように軽々しく誓うことがあります。それが自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私の・・・をささげます」というようなことを言って誓うことがあるのです。イエス様は「誓ってはいけません」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになってしまいます。エフタは自分の直面している困難な状況を誓願を通して乗り越えようとしましたが、軽々しく誓うべきではなかったのです。

ところで、旧約聖書の律法によれば、この時エフタは娘をささげなくても良かったのです。というのは申命記12章31節には、「あなたの神、主に対して彼らのように礼拝してはならない。彼らは主が憎むあらゆる忌み嫌うべきことをその神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために火で焼くことさえしたのである。」とあるからです。
ではどうすれば良かったのでしょうか。そこで律法では、もし人間そのものをささげたいのであれば、その評価額として金銭を神殿にささげるようにと定められていたのです。それはレビ記27章1~8節にあります。「1 【主】はモーセにこう告げられた。2 「イスラエルの子らに告げよ。人が人間の評価額にしたがって【主】に特別な誓願を立てるときには、3 その評価額を次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男子なら、その評価額は聖所のシェケルで銀五十シェケル。4 女子なら、その評価額は三十シェケル。5 五歳から二十歳までなら、その男子の評価額は二十シェケル、女子は十シェケル。6 一か月から五歳までなら、男子の評価額は銀五シェケル、女子の評価額は銀三シェケル。7 六十歳以上なら、男子の評価額は十五シェケル、女子は十シェケル。8 その人が落ちぶれていて評価額を払えないなら、その人を祭司の前に立たせ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じて彼を評価する。」

それなのに、エフタはどうして娘をささげようとしたのでしょうか?それは彼が無知であったか、あるいは頑なであったかのどちらかによります。彼は戦いについては、イスラエルの神が戦ってくださることをよく知っていました。またイスラエルの歴史もよく知っていました。彼は神への信仰と、神のことばである律法をきちんと持っていました。それなのに彼が娘を神にささげたのは、この聖書の理解が足りなかったからか、それとも彼の心が頑なだったからかです。

結局、彼女はどうなりましたか。彼女は二か月の猶予をもらい、自分の友達と一緒に山へ行き、自分が処女であることを嘆き悲しみました。そして二か月が終わると、父のところに帰ったので、エフタは誓ったとおりのことを彼女に行いました。
ここにはエフタは誓願どおりに娘に行ったとありますが、誓願どおりにしたとはどういうことなのでしょう?二つの解釈があります。一つは、彼女は文字通り全焼のいけにえとしてささげられた(殺された)ということ、そしてもう一つは、彼女は終生幕屋で仕えるために主に捧げられたということです。どちらが正しいかはわかりません。しかし37節以降の娘の言動を見ると、処女であることを悲しんだことが強調されてあるので、終生神の幕屋で仕えるために主にささげられたのではないかとも考えられます。それにこれが「主の霊がエフタの上に降ったとき」(29)に立てられた誓願であることや、モーセの律法自体が、人間のいけにえを禁じているということから考えても、主がそのようないけにえを喜ばれるはずがないからです。
しかし、この士師時代の混迷していた時代のことを考えると、やはり文字通り全焼のいけにえとしてささげられたと考えるのが自然だと思います。それは神が喜ばれることではありませんでしたが、エフタは神に誓ったとおりに彼女を全焼のいけにえとしてささげたのです。

いずれにせよ、エフタは勢いに任せて安易に神に誓ったことは確かです。その結果、彼は後悔することになりました。私たちは、自ら発する言葉に注意し、いつも主の言葉に従って生きる者とさせていただきましょう。

 

あなたの将来には望みがある エレミヤ書31章15~22節

聖書箇所:エレミヤ書31章15~22節(エレミヤ書講解説教57回目)
タイトル:「あなたの将来には望みがある」
エレミヤ書31章から学んでいます。29書から31章にかけてはエレミヤ書の中心部です。31章1節には「そのとき」とありますが、これは近い未来に起こることとしてはバビロン捕囚から解放される時のこと、遠い未来においては、世の終わりの患難時代を通り抜けたイスラエルの民が、再臨のキリストを見て悔い改め彼こそ自分たちのメシヤ、救い主であると信じる時のことです。そのとき何が起こるのでしょうか。「そのときー主のことばーわたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」という神の約束が実現することになります。その約束が実現するのです。
Ⅰ.あなたの目の涙を止めよ(15-17)
まず、15~17節をご覧ください。「15 【主】はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──【主】のことば──彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
15節には「ラマ」という地名と、「ラケル」という人名があります。「ラマ」はエルサレムの北方8㎞にある町です。「ラケル」は、ヤコブの最愛の妻でした。このラケルにはヤコブとの間に二人の息子がいました。ヨセフとベニヤミンです。しかし、下の弟ベニヤミンが生まれた時、ラケルは死んでしまいました。息子を産むと同時に死んでしまったのです。そのラケルが葬られた所が「ラマ」でした。それはあまりにも悲しいことでした。せっかく命をかけて産んだのに、産んだとたんに死んでしまったのですから。ここにはその悲しみが表現されているのです。そのような悲しみがバビロン捕囚の時にも起こるということです。
興味深いことに、この箇所はマタイ2章17~18節に引用されています。「17そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」」
このエレミヤを通して語られたことというのが、この31章15節のことばです。このマタイの福音書の前後の文脈を読んでいただくとわかりますが、これはメシヤについての預言が成就したことを表しています。キリストが生まれた時、それがユダヤの王として来られたと聞いたヘロデ大王はキリストを殺し損ねたので、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしました。バビロン捕囚の時に嘆き悲しんだ母親たちの嘆きが、ヘロデ大王によって皆殺しにされた母親たちの悲しみによって成就したということです。ですから、これは一読しただけですとバビロン捕囚の嘆き悲しみが語られているかのようですが、実はメシヤ預言について語られている深い箇所なのです。それは何を示しているのかというと、こうした悲しい出来事の先にキリストが生まれたということです。悲しみの先に希望があるということです。確かに悲しみは避け通れません。でもその悲しみの向こうに希望があるということがわかっていたらどうでしょうか。その悲しみを乗り越えることが出来ます。確かにバビロン捕囚は悲しい出来事ですが、その70年後に彼らは祖国に帰ることができるのです。それはイスラエルの民にとって大きな希望だったのです。それはイスラエルの民だけのことではありません。私たちクリスチャンにとっても同じです。私たちはイエス・キリストを信じたことで、この世というバビロンから解放されて天の御国に帰るのです。それこそ真の希望です。これほどすばらしい希望はありません。であれば私たちは、この世では悲しい出来事があっても、その先にある希望に目を留めることによって、喜びと感謝をもってこの地上の旅路を全うすることができるのです。
だから主はこう言われるのです。16節と17節をご覧ください。「あなたの目の涙を止めよ」と。「16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。─【主】のことば─彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。─【主】のことば─あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
あなたの目の涙を止めなければなりません。どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、あなたの将来には望みがあるからです。敵の地から帰って来るようになります。あなたの子らは自分の土地に帰って来るのです。確かに彼らは罪を犯したことでその刈り取りをしなければなりませんが、その労苦は報われることになります。その「労苦」とはバビロン捕囚のことを指しています。それは報われることになるのです。あなたの将来には希望があるのです。
この希望については、既に29章11節で語られました。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
神はあなたのために計画を立てておられます。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。この「将来と希望」ということばは、最後は希望だということだと説明しました。最後は希望なんです。私たちの人生にはいろいろなことがあるでしょうが、最後は希望なのです。終わり良ければすべて良し!です。それが、神が私たちのために立てている計画です。ですから、たとえ今どんなに辛くても、どんなに苦しくても、どんなに時間がかかっても、最後は希望なんだという神様の約束を信じて、あなたの目の涙を止めなければならないのです。
Ⅱ.エフライムは、わたしの大切な子(18-20)
いったいなぜ神はあなたの将来にこのような希望を与えてくださるのでしょうか。それは、あなたをこよなく愛しておられるからです。18~20節をご覧ください。「18 わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ、あなたは私の神だからです。19 私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。20 エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば─」
ここには、主はエフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた、とあります。エフライムとは北イスラエルのこと、総じてイスラエル全体のことを指すようになりました。主はイスラエルが嘆き悲しむのを聞きました。これは自己憐憫の嘆きでありません。悔い改めの嘆きです。ルカの福音書に放蕩息子の話がありますが、彼が父のところに行って「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:18-19)と悔い改めように、イスラエルもまた自分の罪を嘆き悔い改めているのです。主はそのような悔い改めの嘆きを聞き逃すことはありません。必ず聞いてくださいます。あなたがひとたび悔い改めて嘆き悲しむなら、神様は確かに聞いてくださるのです。
18節をご覧ください。ここには「私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。」とあります。これはどういうことかというと、私たちは自分の力では神のもとに帰れないということです。自分の力では悔い改めることはできないのです。悔い改めは神の賜物であり、神の御業です。私たちは自分の意志で悔い改めますが、それさえも実は悔い改めるようにと神が促してくださるから出来ただけのことであって、自分の力ですることはできません。私たちの中には悔い改める気持ちなんてサラサラないからです。それが私たち人間です。エレミヤ17章9節のことばを覚えていらっしゃいますか。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」皆さん、人の心は何よりも陰険なのです。それは直りません。パウロはローマ人への手紙7章で、私たちの心には善は住んでいないと言っています。自分では良いことをしたいという願いがあるのに、したいと願う善を行わないでしたくない悪を行ってしまうからです。これは正直な告白ではないでしょうか。私たちの内には善が住んでいないのです。だから、悔い改める気持ちなんて微塵もないのです。それほどねじ曲がっています。もうどうしようもない、救いようがありません。でも神は、そんな私たちに悔い改めの心を起こしてくださいます。これは実に神の御業でしかないのです。
いったい私たちはなぜ悔い改めて神に立ち帰ることができるのでしょうか。18節の後半にこうあります。「主よ、あなたは私の神だからです。」ここに「私の神」ということばが使われています。これは神様と個人的な関係がなければ言えないことばです。神は私の神だから、私を帰らせてください。そうすれば、私はあなたのもとに帰ります。神は「私の神」です。あなたの神は誰ですか?聖書の神を「私の神」と、はっきり宣言することができるでしょうか?それほど親しい交わりをもっていらっしゃるでしょうか。聖書の神、イスラエルの神が私の神ですと、胸を張ってそう言えるかどうかが問われているのです。
19節をご覧ください。ここはすばらしい箇所です。神は私たちが悔い改めることができるように、「もも」を打たれます。ここに「私は立ち去った後で悔い、悟った後でももを打ちました」とあります。これは原語では、男性の性器を打ったという意味です。同じことばが創世記32章に出てきます。叔父ラバンの下で20年間仕えたヤコブは、自分の家、自分故郷に帰ることになりました。しかし、兄のエサウとの対面を前にして非常な不安と恐れに苛まれました。そこで彼はヤボクの渡しの所まで来たとき、そこで神と一晩中格闘しました。それは祈りの格闘をしたということです。ヤコブは言いました。「私を祝福してください。祝福してくださるまではあなたを去らせません。」それは執拗なまでの祈りでした。その結果彼は神に勝利して神の祝福を受けましたが、その代償にもものつがいを打たれ、足をひきずって歩くことを余儀なくされました。自分の力では歩けない状態になってしまったのです。それは人を出し抜いて、人を騙して生きるような性質が打ち砕かれたことを表していました。彼は自分の知恵や力では生きていくことはできない。神様に寄りすがって、神の支えがなければ一歩も進めないということを知ったのです。それで彼の名は「イスラエル」となりました。「イスラエル」とは神によって勝利する者、神の力、神の支えによって生きる者という意味です。ももを打たれるとはそういうことです。
しかし、これはとても痛いことです。それは男性の性器を打たれるような痛みです。男性が急所を打たれたらどうなるか、女性の皆さんにはわからないかもしれませんが、非常に痛いんです。聞いたところによると、それは陣痛よりも痛いそうです。「ちょっとためしてみますか」なんて言わないでください。悶絶すると思いますから。私は先週の日曜日にこれと似た経験をしました。痛いです。尿管結石は。何とか礼拝でのご奉仕をしてからと我慢していたのですが、あまりにも痛くて我慢することができませんでした。その痛みにのたうちまわりました。大橋富男は救急車とは無縁の男だと思っていらっしゃる方が多いかと思いますが、これは痛い。死ぬかと思うほどの痛みでした。まあ、私もももを打たれたわけですね。そういう一撃を受けました。そういう痛い思いをしたのです。でも確かにそれは痛いことですが、その痛みによって彼は自分の罪の悲しみ、嘆きを知ったのです。イエス様は山上の説教の中で「悲しむ者は幸いです」と言われましたが、まさに罪に悲しむ人は幸いです。その人は慰められるからです。
20節をご覧ください。ここには「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。─【主】のことば─」とあります。
これもすばらしいことばです。これまでエレミヤは一貫として神の怒りと裁きを語って来ましたが、その時主はどのような思いでいらっしゃったのかが描かれています。主はイスラエルの罪を責めるたびに、ますます彼らのことを思い起こしたおられました。主は彼らを責めるたびに知らんぷりしていたのではありません。お前なんてもうどうなったっていい、勝ってにしやがれ!なんていう気持ちではありませんでした。ますます彼らのことを思い起こしておられたのです。神様の頭の中、心の中は、もう彼らのことで一杯だったのです。
「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」これが、私たちの信じている神様です。これが私の神、これがあなたの神です。神は厳しい裁きを宣告されるかもしれませんが、その都度、神はあなたのことを思っておられるのです。ますます思い起こしてくださる。常に思っていてくださいます。それは「はらわたがわななくほど」だとあります。はらわたが煮えくりかえるのではありません。はらわたがわななくほどです。「断腸の思い」という言葉がありますが、まさに腸が引きちぎれるような思いをしておられるのです。ルターはこれを「彼のゆえに、私の心臓は破れる。」と訳しました。胸が張り裂けるような思いです。西欧では感情の座はお腹ではなく胸にあるという感覚を持っているので、心臓が張り裂けるような思いと訳したのです。でもはらわたがわななくような思いにせよ、心臓が張り裂けるような思いにせよ、言っていることは同じです。これが、神が私たちに感じておられる思いなのです。神が厳しいさばきを宣告する時、神はあなたのことを思って、もうはらわたがわななくような思い、引きちぎれるような思いになっておられるのです。もう死んでしまいたいと思うほど痛い思いをしているのです。もうあわれまずにはいられません。想像もつかないほどあなたのことを思っていらっしゃるのです。これが神の愛です。神はそれほどまでにあなたをあわれんでおられるのです。ですから、私たちはこの神のもとへ帰るべきです。「帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。」そう宣言して、神のもとに帰らせていただきましょう。
Ⅲ.一つの新しいことを創造される(21-22)
最後に、21~22節を見て終わります。「21 あなたは自分のために標識を立てて道しるべを置き、あなたが歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。22 背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。【主】はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む。」」
ここには「標識」とか「道しるべ」を置くようにと言われています。なぜでしょうか?なぜなら、その道のりは長いからです。その道のりとは、バビロン捕囚からの帰還の道のりです。その道のりは長いので、どこから来たのかを忘れないために標識や道しるべを置かなければならないのです。その道のりを忘れてはいけません。彼らは必ず敵の地から帰ってくるようになるからです。だから、イスラエルよ、帰れ、と呼び掛けられています。いつまで彷徨っているんですか。あなたは自分の町に帰ることになるのです。
彼らが帰るとき、どんなことが起こるのでしょうか。22節をご覧ください。ここには、「主はこの地に、一つの新しいことを創造される。」とあります。主はその地に一つの新しいことを創造されます。この「創造する」ということばはヘブル語で「バーラー」と言いますが、これは、何もないところから何かを創造する時に使われることばです。たとえば、創世記1章1節には「はじめに、神が天と地を創造された。」とありますが、この「創造された」ということばが「バーラー」です。神は何もないところに天と地を創造されました。既にあるものに何かを使って作り直すということではありません。それは「アーサー」という別のヘブル語が使われます。でも、ここでは「アーサー」ではなく「バーラー」です。つまり、以前には全くなかったものを新しく創造するということです。それは何でしょうか。
22節の最後のことばを見てください。ここには「女の優しさが一人の勇士を包む」とあります。どういうことでしょうか。これは難解な箇所です。新改訳第3版では、「ひとりの女がひとりの男を抱こう」と訳しています。口語訳も「女が男を保護することである」と訳しています。新共同訳も同じです。「女が男を保護するであろう」です。
英語の訳もほとんど同じです。NIVは、「a woman will surround a man」、NKJVは「A woman shall encompass a man.」、TEVは「a woman protecting a man.」です。
英語でも守るとか、囲むとか、保護するという意味にとらえています。でも、ひとりの女がひとりの男を守る、とはどういうことなのか。
 新聖書注解書では、これは女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くようになることだと説明しています。女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くとはどういうことなのでしょうか。そこで古い注解者たちの中には、これは処女マリヤがその胎内に男の子を抱くということを意味していると考える学者もいますが、それは少し読み込みすぎだと思います。
この箇所を最も適切に訳していると思われるのは創造主訳聖書です。創造主訳聖書ではここを「イスラエルがわたしを求めるようになる」と訳しています。これは新しいことです。なぜなら、これまで反逆に反逆を重ねてきたイスラエルがまことの神を愛し、まことの神を求めるようになるのですから。それは彼らが新しく創造されなければできないことです。人の心は何よりも陰険だと申し上げましたが、神はそんなイスラエルを新しく造り変えてくださるとしたら、それこそ新しい創造です。主はこの地にそのようなすばらしい御業を成してくださるのです。

ダビデは詩篇51篇10節で「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」と言っていますが、まさにそのことです。それは人にはできないことです。でも神にはどんなことでもできます。神は何もないところから全く新しいものを造り出すことができる方であり、あなたの心を新しくすることがおできになるのです。神はあなたにきよい心を与え、揺るがない霊を、あなたのうちに新しくすることがおできになるのです。バカは死んでも直らないということわざがありますが、死ななくても直すことができます。神があなたを新しく造り変えることによって。あなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたも新しく造り変えていただくことができるのです。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
私たちは、キリスト・イエスにあって新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。女の優しさが一人の勇士を包む、すなわち、私たちが神を愛し、神を慕い求める者、神によって勝利する者、イスラエルとして、神とともに歩むようになるのです。いや、無理です。これは親から引き継いだ性格だからどうしようもないんです。変わりようがありません。あなたはそう言われるかもしれませんが、神はそんなあなたの心さえも新しく造り変えることができるのです。主は創造主、この地に、一つの新しいことを創造することができるお方なのです。
ですから、この神を信じてください。神はあなたも新しく創造してくださいます。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたが想像することもできないようなことをしてくださるのです。全く新しい人に作り変えてくださいます。神はあなたが願っている以上のことをしてくださるのです。そのことを信じて、今、神のもとに帰らせていただきましょう。あなたの将来には望みがあるからです。

士師記10章

士師記10章

 士師記10章からを学びます。まず1~5節までをご覧ください。

 Ⅰ.アビメレクの後に立ちあがった士師たち(1-5)

「アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった。彼はエフライムの山地にあるシャミルに住んでいた。彼は二十三年間イスラエルをさばき、死んでシャミルに葬られた。彼の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間イスラエルをさばいた。彼には三十人の息子がいた。彼らは三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていた。それらは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある。ヤイルは死んでカモンに葬られた。」

「アビメレク」とはギデオンの息子です。彼は弟ヨタム以外のすべての兄弟を皆殺しにし、イスラエルの王として君臨しました。しかし神は、アビメレクが兄弟七十人を殺して自分の父に行った、その悪の報いを彼に送られたので、彼もまたテベツの町でやぐらの上から一人の女が投げた石で頭蓋骨が砕かれて死にました。

アビメレクが死んだ後、イスラエルを救うために立ちあがったのがイッサカル人、ドドの子プアの息子トラでした。彼は6番目の士師としてイスラエルを治めました。彼はアビメレクの後のイスラエルの混乱期を鎮めた人物ですが、彼について聖書はあまり多くを語っていません。彼については、エフライムの山地にあるシャミルに住んでいたことと、23年間イスラエルをさばいていたということ、そして、死んでシャミルに葬られたということだけです。どうしてでしょうか。おそらく、士師記の著者にとってはその後に登場する勇士エフタに大きな関心があったからではないかと思います。エフタについては11章1節~12章7節まで続きます。そういう意味でこの10章は、エフタが登場するまでのエピソードがまとめられているのです。

3節にはヤイルが登場します。彼は7番目の士師です。彼についてはたった3節しか言及されていません。彼がギルアデ人の出身であったということ、また22年間イスラエルをさばいたということ、そして30人の息子がいたということ、また三十頭のろばと三十の町を持っていたということです。ろばは高貴な身分の人の乗り物ですから、彼の息子たちがろばに乗っていたということは、ヤイルがそれだけ富と権力を兼ね備えた人物であったということを示しています。また彼はギルアデの出身とありますが、ギルガルとはヨルダン川の東側の地域にあります。そこから士師が出たということは、主が東側の部族も忘れておられなかったことを表しています。

トラとヤイルは、アビメレクのように王になろうとはしませんでした。彼らは主からゆだねられた使命を忠実に果たし、イスラエルに富と繁栄をもたらしました。それは特筆すべきことのない平凡な時代だったかもしれませんが、だから悪いわけではありません。それはむしろ歓迎すべきことです。私たちの人生のほとんどは特筆すべきことのない平凡な日々の積み重ねですが、それこそ神の恵みなのです。何気ない「当たり前」の中に隠されている主の恵みに目を留める者でありたいと思います。

Ⅱ.苦境に立たされたイスラエル(6-9)

次に6~9節までをご覧ください。「イスラエルの子らは再び、主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルやアシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをペリシテ人の手とアンモン人の手に売り渡された。彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、十八年の間、ヨルダンの川向こう、ギルアデにあるアモリ人の地にいたすべてのイスラエル人を虐げた。アンモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったので、イスラエルは大変な苦境に立たされた。そのとき、イスラエルの子らは主に叫んだ。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルの神々に仕えたのです。」」

ヤイルが死んでカモンに葬られると、イスラエルは再び主の目の前に悪を行い、もろもろのバアルやアシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々に仕え、主を捨て、主に仕えませんでした。ここには、彼らの霊的状況がさらに悪化していることがわかります。以前から拝んでいたバアルやアシュタロテといった神々に加え、アラムの神々やモアブの神々、アンモンの神々、ペリシテ人の神々にも仕えるようになっているからです。アラムとは北の方のシリアのことです。また、シドンとは北の地中海沿岸地域、今のレバノンの地域です。それからモアブとはヨルダン川の東側の地域、アンモンは死海の東側の地域のことです。さらにペリシテ人の地域とは、地中海の沿岸地域のことです。つまりカナンのすべての神々に仕えていたと言ってよいでしょう。彼らは主を捨て、主に仕えるのではなく、こうした神々に仕えたのです。

それで主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアンモン人の手に渡されました。ペリシテ人については13章からのところに出てきます。あの有名なサムソンが戦ったのはこのペリシテ人です。そしてアンモン人については、11章と12章に出てきます。

ペリシテ人とアンモン人はイスラエル人を打ち砕き、18年の間、ヨルダン川の川向う、ギルアデにあるアモリ人の地にいたすべてのイスラエル人を虐げ、アンモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったので、イスラエルは大変な苦境に立たされました。
ここにも士師記に見られるイスラエルのサイクルが見られます。これで6回目です。彼らが主に背いたのは。その度に彼らは苦しみ、主に叫び、何度も主に助けられたという経験をしてきたにもかかわらず、それでもまた同じことを繰り返しました。

これはイスラエル人に限ったことではありません。これは私たちにも見られることです。私たちも何度も主に背き、その度に苦境に陥り、主に助けを叫び求めることで、何度も主に助け出されたにもかかわらず、それでもまた同じことを繰り返してしまいます。まさに、のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。背信、それに対する神のさばき、苦悩の中からの叫び、というのが士師記に見られるサイクルです。民が悔い改める時、神は必ず恵みをもって臨んでくださいます。この時のイスラエルの叫びに、主はどのように対応されたでしょうか。

Ⅲ.主のあわれみは尽きない(10-18)

10節から18節までをご覧ください。「10そのとき、イスラエルの子らは主に叫びました。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルの神々に仕えたのです。」11主はイスラエルの子らに言われた。「わたしは、かつてエジプト人、アモリ人、アンモン人、ペリシテ人から、12また、シドン人、アマレク人、マオン人があなたがたを虐げてあなたがたがわたしに叫んだとき、あなたがたを彼らの手から救ったではないか。13 しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。14行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦しみの時には、彼らが救ってくれるだろう。」15イスラエルの子らは主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください。ただ、どうか今日、私たちを救い出してください。」16彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。17このころ、アンモン人が呼び集められて、ギルアデに陣を敷いた。一方、イスラエル人も集まって、ミツパに陣を敷いた。18ギルアデの民や、その首長たちは互いに言い合った。「アンモン人と戦いを始める者はだれか。その人がギルアデの住民すべてのかしらとなるのだ。」

イスラエル人の叫びに対して主は、「わたしはこれ以上あなたがたを救わない。」(13)と言われました。なぜなら、これまで何度もイスラエルが敵に虐げられて主に叫んだとき、主は敵の手から救い出してくださったのに、イスラエルは主を捨てて、ほかの神々に仕えたからです。だったら自分たちで解決すればいい、自分たちが選んだ神々に叫べばいいのではないか、そうすれば、そうした神々があなたがたを救ってくれるだろうから、というのです。何とも皮肉な話です。

ここで大切なのは、主がイスラエルを突き放したのは彼らを愛していないからではなく、救われた彼らが異国の神々のところに行ってしまったからです。もしそのようなことをするのであれば、救うということ自体に何の意味もなくなってしまいます。彼らが救われたのは彼らが主の民として主に仕えるためなのに、その主をないがしろにして他の神々に走っていくというようなことをするのであれば、そうした神々に助けを求めればよいと言うのは当然のことです。

神は真実な方であって、ご自身が約束されたことを破られる方ではありません。どんなことがあっても最後まで契約を守られる方です。しかしいくら神がそのような方であってももう一方がその愛に真実に応えるのでなければ、その契約自体が成り立ちません。不真実なのは神の側ではなく、イスラエルの側、私たち人間の側なのです。

するとイスラエルの民は、自らの罪の深さを悟り悔い改めました。「イスラエルの子らは主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください。ただ、どうか今日、私たちを救い出してください。彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。」
それが真の悔い改めであったことをどうやって知ることができるでしょうか。それは、彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に立ち返り、主に仕えたからです。真の悔い改めには、行動が伴わなければなりません。イスラエルの民は自分たちのうちから外国の神々を取り除き、主に仕えました。

これがただ悲しむことと、悲しんで悔い改めることの違いです。パウロはこのことをコリント第二コリント7章10~11節でこう言っています。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。」
後にイスラエルは平和な状況の中で、また主に背いてしまうかもしれません。すぐに心変わりするかもしれない。でも、この時、イスラエルは真剣に悔い改め、切実に助けを求めました。

するとどうでしょう。それをご覧になられた主は心を動かされました。16節の後半部分には、「主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなった。」とあります。神はその心の叫びを聞いてくださいました。また裏切られるかもしれません。いやきっとそうなるでしょう。でも何度裏切られても、イスラエルが苦しみ、心から悔い改めるなら、主はその姿を見て忍びなくなるのです。

主のあわれみは、尽きることがありません。それは時代でも同じです。主は悔い改めるにあわれみを注いでくださるのです。主は怒るにおそく、あわれみ深い方です。そのあわれみのゆえに、私たちも滅びないでいられるのです。私たちもイスラエルのようにどうしようもない弱さ、愚かさがありますが、そんな者でも悔い改めて神に助けを叫ぶなら神があわれんでくださるのです。

哀歌3章22~23節にこのようにあります。「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」
それは朝ごとに新しい恵み、あわれみです。尽きることのないあわれみなのです。ヨハネの福音書1章16節にもあります。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」「恵みの上にさらに恵みを受ける」とは、「恵みの代わりに恵みを受ける」という意味で、一つの恵みを受けたらそれで終わりということではなく、その代わりに新しい恵みを受けるということです。神の恵みは尽きることがありません。主の私たちに対する恵み、あわれみは尽きることがないのです。
だから私たちには望みがあるのです。私たちはこの神のあわれみによりすがり、いつも悔い改めて、新しい一歩を踏み出させていただきましょう。