民数記26章

きょうは、民数記26章から学びます。

Ⅰ.人口調査をせよ(1-4a,52-56)

 まず1節と2節をご覧ください。1節、2節にはこうあります。「1 この主の罰の後のことであった。主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに告げられた。2 「イスラエルの全会衆について、一族ごとに、二十歳以上で、イスラエルで戦に出ることができる者すべての頭数を調べなさい。」」

「この主の罰」とは、25章で見た神罰のことです。バラムの企みによってイスラエルにモアブの女たちを忍び込ませ不品行を行い、偶像礼拝を行ったことで、なんとイスラエル人二万四千人が死にました。その神罰の後に、主はモーセと祭司エルアザルに、イスラエルの全会衆の中から父祖の家ごとに、二十歳以上で、イスラエルで戦いに出ることのできる者すべての人口調査をするようにと命じられました。いったいなぜ神はこのようなことを命じられたのでしょうか。

人口調査については、この民数記の1章ですでに行われました。それはエジプトを出て二年目の第二の月のことでしたが、イスラエルがシナイの荒野に宿営していたとき、やはり氏族ごとに二十歳以上の男子で、戦いに出ることができる人数が数えられたのです。それは戦うためでした。戦うためには軍隊を整えなければなりません。それで主はイスラエルの軍隊を組織させ、その戦いに備えさせたのです。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられました。しかし、ここではそのためではありません。あれから38年が経ち、イスラエルは今ヨルダン川の東側までやって来ました。彼らはもうすぐ約束の地に入るのです。いわば荒野での戦いは終わりました。それなのに、いったいなぜ人口を調査する必要があったのでしょうか。

それは約束の地に入るために備えるためです。52~56節までをご覧ください。「52 主はモーセに告げられた。53 「これらの者たちに、その名の数にしたがって、地を相続地として割り当てなければならない。54 大きい部族にはその相続地を大きくし、小さい部族にはその相続地を小さくしなければならない。それぞれ登録された者に応じて、その相続地は与えられる。55 ただし、その地はくじで割り当てられ、彼らの父祖の部族の名にしたがって受け継がれなければならない。56 その相続地は、大部族と小部族の間で、くじによって決められなければならない。」
ここには、これから入る約束の地において、その地をそれぞれの部族の数にしたがって相続するようにと命じられています。大きい部族には大きい相続地を、小さい部族にはその相続地を少なくしました。彼らはその人数によって相続地を割り当てたのです。

このように、主は荒野で戦いに備える前に人口を調査し、今度は約束の地に入るための準備として相続地を割り当てるために人口調査をしたのです。それは決して自らの数を誇るためではありませんでした。これから先の行動に備えるためだったのです。彼らが約束の地に入るには、まだ先住民と戦わなければなりませんでした。その後で相続地の割り当てが行われます。しかし主はそれに先立ち、すでにこの時点で相続地の分割を考えておられたのです。それはまさに先取りの信仰ともいえるものです。主の約束に従い、それを信じて今それを行っていくのです。そうなると信じて、たとえ今はそうでなくとも、そのように行動していかなければならないのです。

Ⅱ.イスラエルの人口(4b-51,57-62)

さて、そのイスラエルの人口ですが、38年前(民数記2章)と比較してどうなったでしょうか。5節から51節までにそれぞれの部族の人口が記録してあります。「5 イスラエルの長子ルベン。ルベン族は、ハノクからはハノク族、パルからはパル族、6 ヘツロンからはヘツロン族、カルミからはカルミ族。7 これらがルベン人諸氏族で、登録された者は、四万三千七百三十人であった。8 パルの子孫はエリアブ。9 エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラム。このダタンとアビラムは会衆から召し出された者であったが、コラの仲間としてモーセとアロンに逆らい、主に逆らった。10 そのとき、地は口を開けて、コラとともに彼らを呑み込んだ。それは、その仲間たちが死んだときのこと、火が二百五十人の男を食い尽くしたときのことである。こうして彼らは警告のしるしとなった。11 ただし、コラの子たちは死ななかった。
12 シメオン族の諸氏族は、それぞれ、ネムエルからはネムエル族、ヤミンからはヤミン族、ヤキンからはヤキン族、13 ゼラフからはゼラフ族、シャウルからはシャウル族。14 これらがシメオン人諸氏族で、登録された者は、二万二千二百人であった。
15 ガド族の諸氏族は、それぞれ、ツェフォンからはツェフォン族、ハギからはハギ族、シュニからはシュニ族、16 オズニからはオズニ族、エリからはエリ族、17 アロデからはアロデ族、アルエリからはアルエリ族。18 これらがガド人諸氏族で、登録された者は、四万五百人であった。
19 ユダの子はエルとオナン。エルとオナンはカナンの地で死んだ。20 ユダ族の諸氏族は、それぞれ、シェラからはシェラ族、ペレツからはペレツ族、ゼラフからはゼラフ族。21 ペレツ族は、ヘツロンからはヘツロン族、ハムルからはハムル族であった。22 これらがユダ諸氏族で、登録された者は、七万六千五百人であった。
23 イッサカル族の諸氏族は、それぞれ、トラからはトラ族、プワからはプワ族、24 ヤシュブからはヤシュブ族、シムロンからはシムロン族。25 これらがイッサカル諸氏族で、登録された者は、六万四千三百人であった。
26 ゼブルン族の諸氏族は、それぞれ、セレデからはセレデ族、エロンからはエロン族、ヤフレエルからはヤフレエル族。26:27 これらがゼブルン人諸氏族で、登録された者は、六万五百人であった。
26:28 ヨセフ族の諸氏族は、それぞれ、マナセとエフライム。29 マナセ族は、マキルからはマキル族。マキルはギルアデを生んだ。ギルアデからはギルアデ族。30 ギルアデ族は次のとおりである。イエゼルからはイエゼル族、ヘレクからはヘレク族、31 アスリエルからはアスリエル族、シェケムからはシェケム族、32 シェミダからはシェミダ族、ヘフェルからはヘフェル族。:33 ヘフェルの子ツェロフハデには息子がなく、娘だけであった。ツェロフハデの娘の名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。34 これらがマナセ諸氏族で、登録された者は、五万二千七百人であった。
35 エフライム族の諸氏族は、それぞれ、次のとおりである。シュテラフからはシュテラフ族、ベケルからはベケル族、タハンからはタハン族。36 シュテラフ族は次のとおりである。エランからはエラン族。37 これらがエフライム人諸氏族で、登録された者は、三万二千五百人であった。これがヨセフ族の諸氏族である。
26:38 ベニヤミン族の諸氏族は、それぞれ、ベラからはベラ族、アシュベルからはアシュベル族、アヒラムからはアヒラム族、39 シュファムからはシュファム族、フファムからはフファム族。40 ベラの子はアルデとナアマン。アルデからはアルデ族、ナアマンからはナアマン族。41 これらがベニヤミン族の諸氏族で、登録された者は、四万五千六百人であった。
42 ダン族の諸氏族は次のとおりである。シュハムからはシュハム族。これらがダン族の諸氏族である。43 シュハム人の全諸氏族で、登録された者は、六万四千四百人であった。
44 アシェル族の諸氏族は、それぞれ、イムナからはイムナ族、イシュウィからはイシュウィ族、ベリアからはベリア族。45 ベリア族のうち、ヘベルからはヘベル族、マルキエルからはマルキエル族。46 アシェルの娘の名はセラフであった。47 これらがアシェル人諸氏族で、登録された者は、五万三千四百人であった。
48 ナフタリ族の諸氏族は、それぞれ、ヤフツェエルからはヤフツェエル族、グニからはグニ族、49 エツェルからはエツェル族、シレムからはシレム族。50 これらがナフタリ族の諸氏族で、登録された者は、四万五千四百人であった。
51 以上が、イスラエルの子らの登録された者で、六十万一千七百三十人であった。」

まずルベン族は、43,730人です。38年前のシナイの荒野にいた時は46,500人でしたから、2,770人少なくなっています。ここには、16章のコラの事件に加担した者ダタンとアビラムの名前があります。彼らはこのルベン族に属する者たちでした。ダタンとアビラムは会衆に選ばれた者でしたが、コラ(レビ族ケハテの子)の仲間に入り、モーセとアロンに逆らい、主に逆らったのです。その結果、彼らはコラとともに滅びました。ただし、コラの子らは死にませんでした。2,770人少ないというのは、こうしたことが影響したいものと思われます。

次は、シメオン族です。シメオン族で登録された者は、22,200人でした。シナイの荒野にいた時は59,300人でしたので、半分以下になりました。

次は、ガド族です。ガド族で登録された者は、40,500人でした。シナイの荒野にいた時は45,650人でしたので、ガド族も少なくなっていることがわかります。

次は、ユダ族です。ユダ族で登録された者は、76,500人でした。シナイの荒野にいた時は74,600人でしたので、ユダ族も若干少なくなっています。

次は、イッサカル族です。イッサカル族で登録された者は、64,300人でした。シナイの荒野にいた時は54,400人でしたので、イッサカル族は増えています。

次は、ゼブルン族です。ゼブルン族で登録された者は、60,500人でした。シナイの荒野にいた時は57,400人でしたので、ゼブルン族も少しですが増えています。

次は、マナセ族です。マナセ族で登録された者は、52,700人でした。シナイの荒野にいた時は32,200人でしたので、かなり増えていることがわかります。

次は、エフライム族です。エフライム族で登録された者は32,500人でした。シナイの荒野にいた時は40,500人でしたので、かなり増えていることがわかります。

次は、ベニヤミン族です。ベニヤミン族で登録された者は45,600人でした。シナイの荒野にいた時は35,400人でしたので、大きく増えています。

次はダン族です。ダン族で登録された者は64,400人でした。シナイの荒野にいた時は62,700人でしたので、ほとんど同じ人数になっています。

次はアシェル族です。アシェル族で登録された者は53,400人でした。シナイの荒野にいた時は41,500人でしたので、大きく増えています。

最後はナフタリ族です。ナフタリ族で登録された者は45,400人でした。シナイの荒野にいた時は53,400人でしたので、大きく減りました。ちょうどアシェル族と逆です。

以上が、イスラエルの子らの登録された者で、合計601,730人でした。38年前にシナイの荒野で数えられた時の合計は603,550人でしたから、ほとんど同じ数です。ここからも、荒野の生活がかなり過酷であったことがわかります。イスラエルは神の祝福によってたちまち増え続けてきましたが、この荒野の40年はほとんど増えませんでした。かろうじてほぼ同じ人口は保つことができましたが、それは試練と忍耐の時であったのです。

次にレビ族の人数が記されてあります。レビ族にはゲルション、ケハテ、メラリという三つの氏族がありました。ここで特筆すべきことは、ケハテから生まれたアムラムとその妻ヨケベテとの間にアロンとモーセとその姉妹のミリヤムが生まれたということです。そして、このアロンにはナダブとアビフ、エルアザルとイタマルという四人の息子がいましたが、ナダブとアブフは主の前に異なった火をささげたので死にをささげたため、つまり、大祭司しか入ることができなかった至聖所に入っていけにえをささげたので殺され(レビ10:1-3)、その弟エルアザルが大祭司となりました。

それから、このレビ族の記録でもう一つ重要なことは、彼らの場合は二十歳以上の男子ではなく一か月以上のすべての男子が登録されたということです。そして、彼らは、ほかのイスラエル人の中に登録されませんでした。なぜなら、彼らはイスラエル人の間で相続地を持たなかったからです。神ご自身が彼らの相続地だったのです。

Ⅲ.シナイの荒野で登録された者はひとりもいなかった(63-65)

最後に63節から終わりまでを見たいと思います。「63 以上が、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、モーセと祭司エルアザルがイスラエルの子らを登録したときに登録された者たちである。64 しかし、この中には、シナイの荒野でモーセと祭司アロンがイスラエルの子らを登録したときに登録された者は、一人もいなかった。65 それは主がかつて彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたからである。彼らのうち、ただエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかには、だれも残っていなかった。」

これがこの章のまとめです。また、民数記全体の要約でもあります。イスラエルの民は約束の地に入るためにエジプトから出てきたのに、その地に入ることができたのはヨシュアとカレブだけでした。それ以外は誰も入ることができませんでした。彼らは約束のものを受けていたにみかかわらず、その約束にあずかれなかったのです。なぜでしょうか?神は彼らを約束の地に導くと行ったのに彼らが信じなかったからです。信じないで十度も主を試みたので、主は彼らに「彼らは必ず荒野で死ぬ」(14章)と言われたのです。

これは本当に厳粛な話です。私たちがどんなに信仰の恵みに預かっても、不信仰になって主を何度も試みるようなことがあれば、約束の地に入ることはできません。パウロはこのことを第一コリント10章でこう言っています。「1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。7 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。8 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。9 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。10 また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:1-13節)

ここでパウロは、彼らの父祖たち、すなわち、イスラエルの民が御霊によって神の約束のものを手に入れたのに、最終地まで到達することなく荒野で滅ぼされてしまったのは、私たちへの戒めのためであると言って、7節からその要因を列挙しています。それは金の子牛を造ってそれを拝んだことや、バラムのたくらみによってモアブの女たちと姦淫を行い、その結果、モアブの神々を拝んでしまい、一日に二万三千人が死んだという出来事、さらには、ある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいたりしたことです。これはコラたちの事件のことでしょう。私たちはこれらの出来事一つ一つを見てきました。それらのことによって、イスラエルの民はせっかく神から約束のものを受けていたのに、それを手にすることができなかったのです。そしてそれは私たちへの教訓のためでした。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気を付けなければなりません。

私たちは今、世の終わりの時代に生きています。世の終わりになると困難な時代がやって来るということをイエス様も語っています。いつ倒れてもおかしくない状況に置かれているのです。自分は大丈夫だと思っていても、そうした傲慢な思いが神様のみこころにかなわない場合があります。それなのにいつまでもかたくなになっていると、この時のイスラエルのように約束の地に入ることかできなくなってしまいます。倒れてしまう可能性があるのです。けれども神は倒れないようにするための約束も与えておられます。それが13節です。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

神が与えておられる試練は必ず耐えることができるものです。耐えられないような試練は与えません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。この約束を信じて、いつまでも神様の道に歩まなければなりません。もしその道から外れてしまうことがあったら、すぐに悔い改めて、もう一度立ち返る必要があります。そうすれば、主はあなたを赦し、あなたを受け入れてくださいます。いつまでもかたくなになって悔い改めないなら、かつてイスラエルが荒野で滅びたように、約束のものを手に入れることはできません。それがヘブル人への手紙3章13節から19節までのところに進められていることです。「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」

私たちは、この世の歩みにおいていろいろな試練を受けますが、しかし、「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしたいと思います。そして信じた時に与えられた最初の確信を最後まで保ちたいと思います。聞いていてもその御言葉が信仰によって結び付けられることなく滅んでしまうことがないように、いつも柔らかな心をもってみことばに聞き従う者でありたいと思います。

民数記25章

 きょうは民数記25章から学びます。

 Ⅰ.バアル・ペオルの事件(1-9)

まず1節から9節までをご覧ください。「1 イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと淫らなことをし始めた。:2 その娘たちが、自分たちの神々のいけにえの食事に民を招くと、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。3 こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした。すると、主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった。4 主はモーセに言われた。「この民のかしらたちをみな捕らえて、主の前で、白日の下にさらし者にせよ。そうすれば、主の燃える怒りはイスラエルから離れ去る。」5 そこでモーセはイスラエルのさばき人たちに言った。「あなたがたは、それぞれ自分の配下でバアル・ペオルとくびきをともにした者たちを殺せ。」6 ちょうどそのとき、一人のイスラエル人の男がやって来た。彼は、モーセと、会見の天幕の入り口で泣いているイスラエルの全会衆の目の前で、一人のミディアン人の女を自分の兄弟たちに近づかせた。7 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、槍を手に取り、8 そのイスラエル人の男の後を追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人の男とその女の二人を、腹を刺して殺した。するとイスラエルの子らへの主の罰が終わった。9 この主の罰で死んだ者は、二万四千人であった。」

 

三度目の正直もならず、イスラエルを呪うようにお願いしたバラクでしたが、バラムは逆にイスラエルを祝福しました。むしろイスラエルがバラクの民族であるモアブのこめかみを打ち砕くと預言したので、二人は喧嘩別れのように、それぞれ自分のところへ帰って行きました。

 

けれども、バラムの話はこれで終わりません。25章に入ると、話はイスラエルの民そのものに戻りますが、実はここにもバラムの陰が見られます。「シティム」は、ヨルダン川の東にある所ですが(巻末の地図6参照)、イスラエルがそのシティムに宿営していた時、ある一つの事件が起こりました。その宿営の中にモアブ人の女たちが入って来たので、イスラエルの民はその女たちとみだらなことを行っただけでなく、彼女たちが持ち持ち込んだ神々「バアル・ペオル」を拝んだのです。「バアル・ペオル」というのは、ペオルにある「バアル」という意味です。バアルはモアブの地で礼拝されていた豊穣神ですが、イスラエルはこの偶像を拝むようになってしまったのです。いったいなぜこんなことになってしまったのでしょうか。

 

おそらく約束の地を前にして、気が緩んだのでしょう。もうすぐ神が約束してくださったカナンの地に入るということで、心に隙間が生じたのです。このことは長い間信仰生活を送り、天国が間近に近づいたクリスチャンにも言えることです。まさかそんなところに落とし穴があるなんて考えられません。しかし意外とそのような時に、私たちを信仰から引き離すさまざまな誘惑が待っているのです。このような時こそ信仰の原点に立ち返り、幼子のような素直な信仰をもって主に従うことが求められるのです。

 

しかし、ここには書いてありませんが、このようにイスラエルがモアブの女たちと結婚し、彼らの偶像を拝むようになった背後には、あのバラムのたくらみがあったことがわかります。31章16節を見ると、そこでモーセは、「よく聞け。この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒涜させたのだ。それで主の罰が主の会衆の上に下ったのだ。」と言っています。新改訳聖書では「バラムの事件」となっていますが、口語訳ではこれを「バラムのはかりごと」と訳しています。実はこちらの方が正しいです。これはバラムによって仕組まれた企みだったのです。自分のところに帰って行ったはずのバラムでしたが、実は戻って来てバラクに悪知恵をさずけ、イスラエルを罪に陥れたのです。何のためでしょうか。不義の報酬のためです。彼は一時悔い改めて神のことばを語りましたが、その後また罪に陥り、不義の報酬を愛してしまったのです。

 

えっ、嘘でしょう。確かにⅡペテロ2章15節には、彼は不義の報酬を愛したとありますが、それはバラクに頼まれてイスラエルを呪えと言われた時であって、その後彼は立派に悔い改めたじゃないですか。そして、主が語ることしか語りませんでした。そのため彼はイスラエルを呪うどころか祝福したのです。その彼が再びこのような事件を引き起こすなんて考えられません。でも、これは本当なのです。新約聖書そのように記れてありますから。黙示録2章14節ご覧ください。ここには「けれども、あなたには少しばかり責めるべきことがある。あなたのところに、バラムの教えを頑なに守る者たちがいる。バラムはバラクに教えて、偶像に献げたいけにえをイスラエルの子らが食べ、淫らなことを行うように、彼らの前につまずきを置かせた。」とあります。そうです、このペオル・バアルの事件のことです。バラムは不義の報酬を愛してバラクの所に戻り、どうしたらイスラエルをそそのかすことができるのかを教えたのです。そして、それがモアブの女たちを用いることだったのです。

 

こうやって見ると、バラムはひどい人間です。神に従ったかと思ったら、次の瞬間にはまた罪に陥ってしまいました。彼はどこまでも不義の報酬を愛していました。そこから離れることができませんでした。しかし、それはバラムだけことではありません。私たちも同じではないでしょうか。私たちもこうした信仰と罪の狭間で、たえず揺れ動いています。だからこそ、こうしたバラムの不信仰から学び、堅く信仰に立ち続けることができるように祈り求めなければなりません。箴言4章23節には、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。」とあります。私たちはいつも私たちの心を力の限り、見張って、見守らなければならないのです。

 

さて、こうしたイスラエルの罪に対して、主の怒りが彼らに対して燃え上がりました。それで主はモーセに、この民のかしらたちをみな捕えて、白日のもとに彼らを主の前にさらし者にするようにと命じました。それで彼はさばきつかさたちに、ペオル・バアルを慕った者たちを殺すようにと言いました。それはイスラエルにどれほど大きな悲しみをもたらしました。あのコラの事件の時にも何万人という民が神罰で死にましたが、今回の事件でも多くの者たちが、実に2万4千人もの民が殺されてしまうことになります。

 

モーセとイスラエルの全会衆は、このことで天幕の入り口で泣いていると、そこにひとりのイスラエル人が、ひとりのミディアン人の女を連れてやって来ました。ミディアン人とは、アブラハムと後妻のケトラとの間に出来た子供の子孫です(創世記25:1-4)。ここでは、ヨルダン川の東側に住んでいた民族の総称のことでしょう。この時ミディアン人はモアブの王によって治められていたとも考えられるので、これはモアブ人の女と言ってもいいのです。自分たちが罪を犯したことを主の前で悔い改め泣いて祈っていたところに、公然とモアブの女を連れてやってきたのです。何のためですか?みだらなことをするためです。

 

そこで祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、それを見るや会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女のふたりとも、腹を刺し通して殺しました。するとイスラエル人への神罰がやみました。この神罰で死んだ者は、二万四千人でした。

 この神罰については、使徒パウロはⅠコリント10章8節でこう言っています。「また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。」

二万三千人という数字が、この民数記25章にある二万四千人と異なりますが、コリント人への手紙では、「一日に」二万三千人とありますから、残りの千人は、次の日か、その後の日に死んだものと思われます。

  このようにして、イスラエルは、バラムによる、どのようなのろいからも守られていましたが、自分たちが罪を犯したときに弱くなってしまいました。私たちは迫害とか、苦難とかといった外からの攻撃にはそれなりに対処できますが、こうした内側からの攻撃には弱いものです。そして敵である悪魔はこうした私たちの内側にある肉の欲に引き込み、そこから信仰を崩しにかかるのです。ですから、私たちは、自分の心を力の限り、見張らなければなりません。

 

 Ⅱ.主のねたみ(10-13)

 

 次に10節から13節までをご覧ください。「10 主はモーセに告げられた。11 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。:12 それゆえ、言え。『見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。13 これは、彼とその後の彼の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは、彼が神のねたみを自分のものとし、イスラエルの子らのために宥めを行ったからである。』」

 

 ここで主は、祭司エルアザルの子ピネハスがした行為について語っています。それは神のねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたということです。どういうことですか。神に代わって、イスラエルの民を罰したということです。それは7~8節にある行為ですが、ミディアン人の女二人と淫らなことを行うためにテントの奥の部屋に入っていたイスラエル人と、そのイスラエル人の腹を刺して殺したということです。そのピネハスがした行為は、永遠の義に値することでした。それで、ピネハスからの祭司職が、今後ずっと続くと約束されたのです。

 

しかし、彼のした行為は一見、残虐であるようにも見えかねません。そこまでしなくてもと思われるかもしれませんが、このことは私たちの霊的な歩みにおいてきわめて大切なことなのです。コロサイ書3章5節にはこうあります。「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」ここでパウロは「殺してしまいなさい」と命じています。これらのことを丁重に扱いなさいとか、押さえつけなさいということではなく「殺してしまいなさい」と言っているのです。これが、私たちクリスチャンが唯一これらの誘惑を退けることが出来る方法なのです。すなわち、殺すのです。自分に死ぬのです。それらはもう死んでいるとみなさなければならないのです。90%は死んだけれども、10%は残っているというのではなく、すべて殺さなければならないのです。それがバラムの問題でした。彼は、90%は従ったかもしれませんが、残りの10%が死んでいませんでした。ですから彼は引き返して来たのです。自分の中にこうしたむさぼりが出てきたとき、これらの情欲に対しては、私はすでに死んでいると宣言していかなければなりません。キリストはすでに私たちの肉の欲望と情欲とともに十字架につけられたのですから、私たちが信仰をもって自分が死んでいるとみなすとき、その誘惑に抵抗する力が与えられるのです。

 

Ⅲ.偽教師たちに注意して(14-18)

 

最後に、14~18節をご覧ください。「14 その殺されたイスラエル人の男、すなわちミディアン人の女と一緒に殺された者の名は、シメオン人の一族の長サルの子ジムリであった。15 また殺されたミディアン人の女の名はツルの娘コズビであった。ツルはミディアンの父の家の諸氏族のかしらであった。16 主はモーセに告げられた。17 「ミディアン人を襲い、彼らを討て。18 彼らは巧妙に仕組んだ企みによって、ペオルの事件であなたがたを襲ったからだ。ペオルの事件の主の罰の日に殺された彼らの同族の女、ミディアンの族長の娘コズビの一件だ。」

 ここには、公然とミディァン人の女を連れて来て殺されたイスラエル人の名前が記されてあります。それはシメオン人の父の家の長サルの子ジムリでした。また、殺されたミディアン人の女の名前は、ツルの娘コズビでした。ツルもミディアン人の父の家のかしらでした。ですから、どちらもそれぞれの一族の長の息子・娘だったのです。

 

それでモーセはミディアン人を襲い、彼らを打つようにと命じました。彼らが巧妙に仕組んだたくらみによって、ペオルの事件を引き起こしたからです。でもこの事件の本当の黒幕は誰でしたか?バラムです。バラムは自分の故郷に戻りましたが、またモアブに戻ってきました。そして不義の報酬を得るためにバラクに悪知恵を授け、イスラエル人を惑わしたのです。彼は、表面的には「神が言われることだけしか言いません。」とか、「銀や金の満ちた家は受け取らない」などと言いながら、ろばに乗っていた時のように下心がありました。不義の報酬を愛しました。それで彼は正しいことを語りながら偽教師となってしまったのです。

 

この偽教師については、パウロも警戒するように注意していました。たとえば、使徒20章29-30節には「私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。」とあります。また、ペテロはⅡペテロ2章1-3節でこのように言っています。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。」とあります。

 

民数記22章から24章まで読むと、バラムは悔い改めた預言者、イスラエルの神の啓示を受けた異邦人のように見えますが、自分の貪欲を優先させた結果、人々を滅びに招き入れた張本人となったのです。そしてやがてミディアンの5人の王たちとともにつるぎで殺されてしいます(民数31:8)。彼はイスラエル人がミディアン人を殺す時に、いっしょに殺されました。その富はあまりにもはかなく、空しいものでした。

 

ですから、私たちも注意しなければなりません。主のことばを学びながら、そのみことばに応答するための心の備えができていなければ、バラムのように、正しいことを語っていながら自分が自分の身に滅びを招いてしまうことになります。そういうことがないように、心の中のむさぼりを捨てなければなりません。そして神のことばに従って生きていかなければならないのです。そのためにはいつも自分を見つめ、自分の行ないを悔い改め、神に立ち返り、神のみこころに歩んでいるかどうかを絶えず点検しなければなりません。力の限り、見張って、あなたの心を見守りましょう。

民数記24章

 きょうは民数記24章から学びます。

 Ⅰ.イスラエルを三度も祝福したバラム(1-9)

まず1節から9節までをご覧ください。「1 バラムはイスラエルを祝福することが主の目にかなうのを見て、これまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。

2 バラムが目を上げると、イスラエルがその部族ごとに宿っているのが見えた。すると、神の霊が彼の上に臨んだ。3 彼は、彼の詩のことばを口にして言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目の開かれた者の告げたことば。4 神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏し、目の開かれた者の告げたことば。5 なんとすばらしいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。6 それは、広がる谷のよう、また川のほとりの園のようだ。主が植えたアロエのよう、また水辺の杉の木のようだ。7 その手桶からは水があふれ、種は豊かな水に潤う。王はアガグよりも高くなり、王国は高く上げられる。8 彼をエジプトから導き出された神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼は自分の敵の国々を食い尽くし、彼らの骨をかみ砕き、矢をもって撃ち砕く。9 雄獅子のように、また雌獅子のように、彼は身を伏せ、横たわる。だれがこれを起こせるだろう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」」

 

イスラエルを呪ってもらおうとバラムを裸の丘に連れて行ったバラクでしたが、バラムはイスラエルを呪うどころか祝福してしまいました。それでバラクはたぶん場所が悪かったんだろうと、今度は彼をビスガの頂に連れて行きました(23:14)。しかし、バラクの思惑とは裏腹に、バラムはまたもやイスラエルを祝福しました。それで彼は、もう一つ別の場所へ彼を連れて行きました。それはペオルの頂上でした(23:28)。「三度目の正直」ということばがありますが、今度こそイスラエルをのろってくれるだろうと期待したのです。しかし、バラムはイスラエルを祝福することが主のみこころにかなうことであるのを見て、これまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けました。

 

2節には、「バラムが目を上げると、イスラエルがその部族ごとに宿っているのが見えた。すると、神の霊が彼の上に臨んだ。」とあります。なぜ彼が部族ごとに宿っているのを眺めたとき、神の霊が彼の上に臨んだのでしょうか。2章を学んだ時、荒野に宿営していたイスラエルがどんな形をしていたか覚えていますか。東西南北に三つの部族がそれぞれ神の幕屋の周りに宿営していました。それを上から見たらどんな形だったかというと、十字架の形だったわけです。だから、バラムがそれを見たとき、神の霊が臨まれたのです。

 

3節から9節までには、バラムのことば詩の形でまとめられています。ここでバラムが告げていることは、イスラエルの美しさでした。5節と6節をご覧ください。ここには、「なんとすばらしいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、広がる谷のよう、また川のほとりの園のようだ。主が植えたアロエのよう、また水辺の杉の木のようだ。」とあります。それは広がる谷のようであり、川のほとりの園のようでした。また主が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように、麗しい姿をしていました。以前、那須塩原にある回顧(みたらし)の滝を見に行ったことがありますが、とてもきれいでした。回顧(みたらし)の吊り橋から見るあれは箒川でしょうか、川辺の緑の美しさに、とても感動したのを覚えています。バラムが見たイスラエルの宿営はもっと美しかったことでしょう。詩篇1章3節には、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人は、水路のそばに植わった木のようだとあります。まさにイスラエルは水路のそばに植えられた木のように、神のいのちにあふれていました。

 

そして7節から9節には、イスラエルの強さが歌われています。「王はアガグよりも高くなり」とありますが、「アガク」とは、サムエル記第一に出てくるサウル王が戦うアマレク人の王のことではないかと考えられています(Ⅰサムエル15:8)。もしかしたら、それは王の称号だったのかもしれません。イスラエルはそうした諸国の王よりも高く、あがめられるということです。

また8~9節には「彼をエジプトから導き出された神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼は自分の敵の国々を食い尽くし、彼らの骨をかみ砕き、矢をもって撃ち砕く。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼は身を伏せ、横たわる。だれがこれを起こせるだろう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」とあります。「野牛の角」とか「雄獅子」、「雌獅子」とは23章にも出てきた表現ですが、それは強さを表していました。また、「獅子」とは百獣の王ライオンです。ライオンのように諸国の中で第一の地位を占めるようになると言われています。これはダビデの時代にある程度実現しますが、究極的にはダビデの子孫から生まれるメシヤ、キリストにおいて実現します。そして最後に、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」というアブラハムへの神の言葉を述べられています。ですからバラクがやっていたことは、自らに呪いを招くことだったのです。イスラエルを呪おうとしたのですから。

 

Ⅱ.モアブに対する預言(10-19)

 

次に10節から19節をご覧ください。「10 バラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵に呪いをかけてもらうためにおまえを招いたのに、かえっておまえは三度までも彼らを祝福した。11 今、おまえは自分のところに引き下がれ。私は手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」12 バラムはバラクに言った。「私は、あなたが遣わした使者たちにも、こう言ったではありませんか。13 『たとえバラクが私に銀や金で満ちた彼の家をくれても、主のことばに背くことは、良いことでも悪いことでも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。』14 今、私は自分の民のところに帰ります。さあ、私は、この民が終わりの日にあなたの民に行おうとしていることについて、あなたに助言を与えます。」15 そして彼の詩のことばを口にして言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目の開かれた者の告げたことば。16 神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏し、目の開かれた者の告げたことば。17 私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。その敵、エドムは所有地となり、セイルも所有地となる。イスラエルは力ある働きをする。19 ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から絶やす。」」

 

イスラエルを呪うどころか三度も祝福したバラムに対して、バラクは激しい怒りを燃やしました。「手を打ち鳴らす」というのは、極めて強い怒りを表しているしぐさです。そしてバラムに言いました。「私の敵に呪いをかけてもらうためにおまえを招いたのに、かえっておまえは三度までも彼らを祝福した。今、おまえは自分のところに引き下がれ。私は手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」もう堪忍袋の緒が切れたという感じですね。

 

 それに対してバラムは何と言いましたか。最初からちゃんと言ったではありませんか。たとえ金や銀で家をもらっても、主のことばに背くことは、できないと。そして、「終わりの日」にバラクに対して主が行おうとしていることを告げるのです。それが15節から19節にある内容です。それは私たちの時代を越えて神の国が立てられるまでの驚くべき幻です。

 

「ヤコブから一つの星が上る」(17)とは、メシヤ預言です。これはまさしくイエス・キリストのことを表しています。メシヤ、救い主はヤコブから上ります。マタイの福音書には、東方の博士たちがユダヤ人の王が出現するというしるしを、星の動きによって突き止めたということが出てきますが、それはおそらくこの後バラムが故郷に戻り、ユダヤ人の王、メシヤのしるしが星であることを伝えたからでしょう。東方の博士たちはこれらの知識を基に、エルサレムで当時「ユダヤ人の王」と自称していたヘロデ王に謁見したのです。またその後も、ダニエルがバビロンにいた時、彼はメシヤが諸国を打ち砕いて、神の国を打ち立てることを預言しました(ダニエル2:44-45)。

 

また「一本の杖」(17)とは、羊飼いのことを表していますが、これは後に民を治めるメシヤがどのような方であるかを示しています。それは、羊飼いなる方であるということです。イエス様はこう言われました。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨て捨てます。」(ヨハネ10:11,14)また、ダビデも主を、「私の羊飼い」と呼びました(詩篇23:1)。それゆえ、「私は乏しいことがありません。」と。私たちの主イエスは、まことの羊飼いであられるのです。

 

そして、主はモアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕きます(17)。モアブが打ち砕かれるという預言は、後にイザヤ、エレミヤ、そしてエゼキエルも預言します。イザヤ書15~16章、エレミヤ48章、そしてエゼキエル25章にも出てきます。モアブは後にアッシリヤ、バビロン、そしてギリシヤなどによって、時代の中で滅ぼされ消えていきます。

エドムに対しても主は、後の時代にそこをご自分がイスラエルによって支配されることを告げられました(マラキ1:3-5)。エドムとはエサウの子孫です。ヘロデ王はエドムの末裔です。当時はイドマヤ人と呼ばれていましたが、この預言にあるように、その後消えてしまいました。

 

Ⅲ.諸国に対する預言(20-25)

 

そして、20節から25節には、その他の諸国に対する預言が語られています。「20 彼はアマレクを見渡して、彼の詩のことばを口にして言った。「アマレクは国々の中で最高のもの。しかし、その終わりは滅びに至る。」21 彼はケニ人を見渡して、彼の詩のことばを口にして言った。「あなたの住みかは堅固で、あなたの巣は岩間に置かれている。22 しかし、カインは滅ぼし尽くされ、ついにはアッシュルがあなたを捕虜とする。」23 また彼は、彼の詩のことばを口にして言った。「ああ、神が定められたなら、だれが生き延びられるだろう。24 船がキティムの岸から来て、アッシュルを苦しめ、エベルを苦しめる。これもまた、滅びに至る。」」

 

まず、アマレクに対してです。「アマレク」とは、イスラエルが荒野の旅をしていた時に襲ってきた民です(出エジプト17:8-16)。このアマレクとの戦では、モーセが手を上げることで勝利することができました。それは主が戦ってくださったということです。そのためにモーセの手が下りないように、一方の手をアロンが、もう一方の手をフルが支えました。現代でも、このように手を支える人が必要です。このアマレクも滅びに至ります。エステル記に登場するハマンは、このアマレクの末裔でした。彼はユダヤ人絶滅を企みましたが、結果は彼とその家族が取り除かれ、ユダヤ人を殺そうとした者がかえって殺されてしまいました。

 

「ケニ人」は、ミディアン人のところに住んでいた遊牧民です。モーセのしゅうとのイテロもケニ人でした。そして、モーセたちと共に移動してきて、イスラエルの中に住むようになったのです。けれども、彼らはずっと後にアッシリヤによって捕え移されることになります。22節の「アッシュル」とはアッシリヤのことです。ですからバラムはここで、この後700年も後に起こるアッシリヤ捕囚のことを預言していたのです。

ちなみに22節の「カインは滅ぼし尽くされ」の「カイン」とは誰のことを指しているのかわかりません。アダムとエバの息子であったカインのことなのか、それとも、創世記5章10節に登場しているセツの孫「ケナン」から来た名前なのかはっきりわかりません。しかし、確かなことは、ここでカインは滅ぼし尽くされるということです。あのアダムとエバの息子であったカインに代表される悪が滅ぼし尽くされるということでしょう。

 

23節と24節には、さらに驚くべき遠い将来の預言がバラムによって語られます。24節の「キティム」とはキプロス島のことですが、これは西からの勢力のことを指しています。つまり、西の方から敵がやって来てアッシリヤとそれに続く東方の国々を苦しめ滅ぼすという預言です。それは、ペルシヤがギリシヤによって倒れ、そしてローマが世界を支配するという預言です。「エベル」とはヘブル人のこと、つまりユダヤ人のことですが、ユダヤ人はギリシヤによってもローマによっても悩まされますが、しかし、最後にはローマもメシヤによって滅ぼされるのです。ダニエル書が預言している通りです。こうやって見ると、バラムの口によって、ものすごい預言が語られたのです。

 

こうやって見ると、聖書って本当にすごいなぁと思います。何がすごいかって、その預言です。たとえば、先月ロシアがウクライナに侵攻しましたが、いったいこれはどういうことなのかを考えると、これもまた聖書の預言と関係あることがわかります。すなわち、エゼキエル38章に記されてある預言の成就とみることができるということです。エゼキエル38:1には「人の子よ、メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言せよ。」とありますが、この「大首長」こそ「ロシア」のことです。ヘブル語では「ルーシ」という言葉ですが、これは「ロシア」の語源になった言葉です。また、「ゴグの地」とは、ロシアの南西部、今のカスピ海沿岸地域の国々のことです。その主張である「ゴグ」こそ「ロシア」なのです。それは15節にあるように、「北の果てから」多くの国々の民とともに、イスラエルを攻めて来ます。ダニエル7:7には、それは10の国々からなる連合軍です。それは2節の「メシェク」(モスクワ)、「トバル」(ジョージアのトビリシ)、5節、「ペルシャ」(イラン)、「クシュ」(エチオピア)、「プテ」(リビア)、6節「ペテ・トガルマ」(トルコ)といった国々です。それらの国々の下にはシリアがあります。その下がイスラエルです。メギドの丘はすぐそこなのです。これらの国々は最近ロシアと非常に近い関係にあります。これらの国々が北の果てからイスラエルを攻めてきたら、まそに「終わりの時」が近いということです。今回はイスラエルではなくウクライナに侵攻しましたが、いつイスラエルを攻めて来てもおかしくない状況なのです。ですから、今回の出来事は、この預言の前兆としての出来事であると言えるのです。

 

また、2020年からのコロナウイルス感染症も、今回のロシアのウクライナへの侵略と合わせて考えると、100年前の第一次世界大戦(1914年)、これは世界で初めて職業軍人ではなく一般の民衆が動員された戦争ですが、それはイエス様がマタイの福音書24章で預言されたことの成就とみることができます。イエス様はこう言われました。「民族は民族に、国は国に手滝泰して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。」(マタイ24:7)

100年前はこの世界大戦を皮切りに、1918~1919年にスペイン風邪が流行しました。全世界で5,000万人もの人が死んだのです。そしてその10年後の1929年には世界恐慌、その10年後の1939年には第二次世界大戦が起こりました。その時と本当に似ているのです。そして1948年にはイスラエルが建国されました。2000年もの間世界中に散らされていた民が国を再興したのです。人間的には考えられないことです。しかし、現実に起こりました。どうしてこんなことが起こったのでしょうか。聖書に預言されていたからです。

そしてあれから100年が経った今、2011年には大地震が発生しました。東日本大震災です。また地球温暖化による異常気象と飢饉、コロナウイルス感染症(疫病)、ロシアのウクライナ侵攻と、もしかすると第三次世界大戦に発展するかもしれないという危機の中にあります。これらのことは何を物語っているのかというと、世界は確実に聖書の預言の通りに、終末に向かっているということです。もうその前兆に入っていると言えるでしょう。ものすごい時代を迎えているのです。

このように、聖書の預言はことごとく成就していることがわかります。それがバラムによって語られたものか、イザヤ、エレミヤによって語られたものか、あるいはヨハネの黙示録によって語られるのはともかく、聖書にはこのようにものすごい預言が語られているのです。

 

であれば、私たちはこの終末においてどのように生きるべきかが示されます。それは、この神が聖書によって語られた確かなことばに従って生きるということです。そうすれば、不安やおそれはありません。神を信じる者を、神が守ってくださるからです。これも聖書にある約束のことばです。

 

それからバラムは自分のところへ帰って行きました。バラクもまた帰途に着きました。けれども、この話はここで終わりません。25章に入ると、ペオルの事件が起こります。イスラエルの民がモアブの女たちにそそのかされてバアル・ペオルという偶像を拝んだので、神罰が下るのです。なんと二万四千人が死に絶えることになります。その事件にバラムが深く関わっていくのです。このことについては次回学びたいと思いますが、このバラムの預言を通して、神に祝福されるように選ばれた民は誰であるかがはっきりと示されました。それはイスラエルです。イスラエルを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。そして、私たちはこの神の祝福の中に入れられているのです。そのことを覚えて、このすばらしい恵みの中に導き入れてくださった主に心から感謝し、この方のみこころに歩ませていただきたいと思います。

民数記23章

 きょうは民数記23章から学びます。まず1節から12節までをご覧ください。

 

 Ⅰ.イスラエルを祝福したバラム(1-12)

 

「1 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七匹の雄羊をここに用意してください。」2 バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムは、祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一匹を献げた。3 バラムはバラクに言った。「あなたは、あなたの全焼のささげ物のそばに立っていてください。私は行って来ます。おそらく、主は私に会ってくださるでしょう。主が私にお示しになることを、あなたに知らせましょう。」そして彼は裸の丘に行った。4 神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。「私は七つの祭壇を整え、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一匹を献げました。」5 主はバラムの口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰って、こう告げなければならない。」6 彼がバラクのところに帰ると、見よ、バラクはモアブのすべての長たちと一緒に、自分の全焼のささげ物のそばに立っていた。7 バラムは彼の詩のことばを口にして言った。「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から私を連れて来た。『来て、私のためにヤコブをのろえ。来て、イスラエルを責めよ』と。8 私はどうして呪いをかけられるだろうか。神が呪いをかけない者に。私はどうして責めることができるだろうか。主が責めない者を。9 岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ、この民はひとり離れて住み、自分を国々と同じだと見なさない。10 だれがヤコブのちりを数え、イスラエルの四分の一さえ数えられるだろうか。私が心の直ぐな人たちの死を遂げますように。私の最期が彼らと同じようになりますように。」

11 バラクはバラムに言った。「あなたは私に何ということをしたのですか。私の敵に呪いをかけてもらうためにあなたを連れて来たのに、今、あなたはただ祝福しただけです。」12 バラムは答えた。「主が私の口に置かれること、それを忠実に語ってはいけないのですか。」

 

バラムがバラクのところにやって来ると、バラクは彼を連れ出し、バモテ・バアルに上らせました。(22:41)そこからイスラエルの民の一部を見ることができたからです。

バモテ・バアルに上ると、バラムはバラクに、「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意してください。」と頼みました。なぜでしょうか。神に全焼のささげ物をささげるためです。「七」は、聖書では完全数です。また、雄牛と雄羊は、イスラエルのささげものの中でも最も高価なものでした。それを神にささげようとしたのです。それは、バラムが神からの御告げを受けるにあたり、必要なささげものをささげようと思ったからです。彼らは最善を尽くして、神の好意を得ようとしたのです。以前は、あくまでも自分の思いを通そうとして神の御怒りを招くことになったバラムですが、ろばが人間のことばをしゃべる出来事を通して、彼の心は砕かれていました。神の前にへりくだり、神がお語りくださることを期待する彼の姿が現れています。それは3節の彼のことばを見てもわかります。彼はバラクに、「あなたは、あなたの全焼のいけにえのそばに立っていなさい。私は行って来ます。たぶん、主は私に現れて会ってくださるでしょう。そうしたら、私にお示しになることはどんなことでも、あなたに知らせましょう。」と言いました。彼は、主がお語りくださることは、何でも知らせますと言っています。そして、彼は「裸の丘」に行きました。「裸の丘」とは、見晴らしの良い高くそびえた山で、草木の生えていない所です。当時の占い師は、こうした場所を好んで用いたようです。そこで神はバラムに会われ、彼の口にことばを置かれました。「バラクのところへ帰れ。あなたはこう言わなければならない。」(5)いったい神はバラムにどんなことを告げられたのでしょうか。

 

7節から10節までにその内容が書かれてあります。バラムはそれを詩のことばにして言いました。それは、主がイスラエルをのろってはおられないのだから、のろえと言われてものろえないということでした。また、この民は滅びるどころか神が他の諸国の民から選ばれた特別な民であり、神に祝福されて大いに増え広がった民であると言い、私も彼らの一人に加えられたいものだ・・と願ったのです。10節の「私が心の直ぐな人たちの死を遂げますように。私の最期が彼らと同じようになりますように。」とは、このことです。


このことからわかることは、神が祝福されたものを呪うことはできないということです。神はイスラエル

を特別な民として選び、これを祝福されました。彼らはアブラハムが約束された通りの民となったのです。そのイスラエルを呪おうとしても呪うことはできません。神が祝福しておられるからです。

それは、神を信じる私たちも同じです。私たちは神の子イエス・キリストを救い主として信じたことで神の子とされました。神の特別な祝福の中に入れられたのです。だから、だれかが私たちを呪おうとしても決して呪うことなどできないし、逆に、神が約束してくださったとおり神の祝福によって大いに増え広がるのです。

 

バラクからイスラエルを呪い、イスラエルに滅びを宣言するようにと依頼されたバラムでしたが、彼は逆にイスラエルを祝福することばを言いました。イスラエルが滅びるどころか、イスラエルは他の諸国の民から選ばれた特別な民であると宣言したのです。その宣言は、神の民である私たちにも向けられているのです。

 

 Ⅱ.バラムの二度目のことば(13-24)

 

それでバラクはどうしたでしょうか。次に13節から26節までをご覧ください。「13 バラクは彼に言った。「では、私と一緒に彼らを見ることができる別の場所へ行ってください。その一部を見るだけで、全体を見ることはできませんが。そこから私のために彼らに呪いをかけてください。」14 バラクはバラムを、セデ・ツォフィムのピスガの頂に連れて行き、そこで七つの祭壇を築き、どの祭壇にも雄牛一頭と雄羊一匹を献げた。15 バラムはバラクに言った。「あなたはここで、自分の全焼のささげ物のそばに立っていてください。私はあちらで主にお会いします。」16主はバラムに会い、その口にことばを置き、そして言われた。「バラクのところに帰って、こう告げなければならない。」17 それで、彼はバラクのところに帰った。すると、彼はモアブの長たちと一緒に、自分の全焼のささげ物のそばに立っていた。バラクは言った。「主は何をお告げになりましたか。」18 バラムは彼の詩のことばを口にして言った。「立て、バラクよ。そして聞け。私に耳を傾けよ。ツィポルの子よ。19 神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。20 見よ、私は、祝福せよとの命を受けた。神が祝福されたのだ。私はそれをくつがえすことはできない。21 ヤコブの中に不法は見出されず、イスラエルの中に邪悪さは見られない。彼らの神、主は彼らとともにおられ、王をたたえる声が彼らの中にある。22 彼らをエジプトから導き出された神は、彼らにとって野牛の角のようだ。23 まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神が何をなさるかは、時に応じてヤコブに、すなわちイスラエルに告げられる。24 見よ、一つの民を。それは雌獅子のように起き上がり、雄獅子のように身を持ち上げ、休むことはない。獲物を食らい、殺されたものの血を飲むまでは。」」

 

バラクは「場所が悪かった」と思ったのか、場所を変えて再びイスラエルを呪わせようとしました。そして今度は「ピスガの頂」に連れて行きました。後にモーセが死ぬ所です。そこからはヨルダンの低地全体を見渡すことができました。イスラエルの宿営の全体を見ることはできませんが、その一部を見ることができたのです。バラクはバラクをそこに連れて行けば、きっと彼らを呪うだろうと思ったからです。

 

それでバラムは再び七つの祭壇を築き、雄牛と雄羊のささげ物を用意するという念入りな儀式を繰り返し、神に会いに行きました。すると主はバラムに現れ、彼の口にことばを置いて、言われました。しかし、今度はイスラエルに関することではなく、バラクの神に対する考え方の間違いを正すものでした。その内容は19節から24節までに書かれてあります。

それはまず、神は人間ではなく、偽りを言うことがないお方であるということ。そして、人の子ではないので、悔いることがありません。また、神は約束されたことを成し遂げられるお方であるということでした。その神がバラムに「祝福せよ」と命じたので祝福するのであって、自分はそれをくつがえすことはできない、ということでした。

ここでバラムは、神の義と真実を明確に語っています。つまり、神の義と真実を取り消すことは誰もできないということです。神は他の何にも依存することなく、ご自身のみこころを最後まで成し遂げられるお方です。神が祝福されたのであれば、だれもそれをくつがえすことはできないのです。

 

ここに、私たちが神を信頼する根拠があります。またここに、イスラエルが神に守られ、神の御心を成し遂げてきた理由があります。バラムは、イスラエルが敵を完全に打ち破る力を持っていることを告げています。それは彼らの中に主がともにおられるからです。だから彼らは野牛の角のように強いのです。野牛の角というのは「強い」ことを表しています。また、イスラエルにはまじないはなく、占いもありません。なぜなら、神が彼らに直接語ってくださるからです。彼らは雌獅子のように起き上がり、雄獅子のように立ち上がり、休むことなく獲物を食らいます。

 

これは、私たちに対する約束のことばでもあります。神が私たちに祝福を命じておられるのですから、私たちはいかなることがあろうとも完全に勝利することができるのです。神が私たちとともにおられるからです。だから私たちは、人がなんだかんだ言うことであたふたする必要は全くありません。いつでも、肝が据わった状態でいることができるのです。神が私たちとともにおられ、約束されたことを成し遂げてくださるからです。この神が野牛の角をもって勝利を与えてくださるからです。私たちが成すべきことは、私たちをキリストにあって祝福すると約束された神に信頼し、日々、忠実に神のみことばに従って生きることだけです。そうすれば、主が私たちを成功させてくださるのです。

 

 Ⅲ.バラクの三度目の挑戦(25-30)

 

それでバラクはどうしたでしょうか。25節から30節までをご覧ください。「25 バラクはバラムに言った。「彼らに呪いをかけることも祝福することも、決してしないでください。」26 バラムはバラクに答えた。「私は、主が告げられることはみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」27 バラクはバラムに言った。「では、私はあなたを、もう一つ別の場所へ連れて行きましょう。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らに呪いをかけることができるかもしれません。」28 バラクはバラムを、荒れ野を見下ろすペオルの頂上に連れて行った。29 バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七匹の雄羊をここに用意してください。」30 バラクはバラムが言ったとおりにして、祭壇に雄牛と雄羊を献げた。」

 

バラクはバラムに、「彼らに呪いをかけることも祝福することも、決してしないでください。」と言いました。するとバラムはバラクに答えて言いました。「私はが告げられたことをみな、しなければならない、とあなたに言ったではありませんか。」

 するとバラクは、今度は彼をもう一つの別のところへ連れて行きました。しつこいですね。そこはイスラエル全体を見下ろすことができるペオルの頂でしたが、もしかしたら、そこが神の御目にかなって、彼らを呪うようになるかもしれないと思ったのです。そして、バラムが言ったとおりそこに祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を用意して、雄牛と雄羊を一頭ずつささげました。

 

しかし、どんなに場所を変えても神の御思いが変わることはありません。神はイスラエルを祝福しておられるので、彼らを呪うことはできないのです。24章1節を見ると、「バラムはイスラエルを祝福することが主の目にかなうのを見て、これまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。」とあります。

バラムは度重なるバラクからの圧力にも屈せず、ただ神が告げられたことだけをバラクに伝えました。バラクはモアブの王でしたが、たとえ相手がどんなに偉い王であっても、バラムこびる事をしませんでした。その結果、王がだんだん気弱になっていく様子が分かります。

 

これは神の民として生きる私たちの姿でもあります。ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。いやむしろ何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とありますが、私たちはこの社会に属しながら歩んでいても、この社会の一員としての責任を果たしつつ、クリスチャンとしてのアイデンティティーを損なうようなことがないように、ただ神が告げよと言われることだけを告げる、神の言葉に忠実なクリスチャンでありたいと思います。

民数記22章

 

きょうは民数記22章から学びます。

 

 Ⅰ.イスラエルの民を恐れたモアブの王バラク(1-6)

 

 まず1節から6節までをご覧ください。「1 イスラエルの子らは旅を続け、ヨルダンのエリコの対岸にあるモアブの草原に宿営した。2 ツィポルの子バラクは、イスラエルがアモリ人に行ったすべてのことを見た。3 モアブは、イスラエルの民の数が多かったので非常におびえた。それでモアブはイスラエル人に恐怖を抱いた。4 モアブはミディアンの長老たちに言った。「今、この集会は、牛が野の青草をなめ尽くすように、われわれの周りのすべてのものをなめ尽くそうとしている。」ツィポルの子バラクは当時、モアブの王であったが、5 同族の国にある、あの大河のほとりのペトルにいるベオルの子バラムを招こうと、使者たちを遣わして言った。「見なさい。一つの民がエジプトから出て来た。今や、彼らは地の面をおおい、私の目の前にいる。6 今来て、私のためにこの民をのろってもらいたい。この民は私より強い。そうしてくれれば、おそらく私は彼らを討って、この地から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることを、私はよく知っている。」」

 

ホルマでカナン人アラドの王に勝利したイスラエルは、そのまま約束の地カナンに入るのかと思ったらそうではなく、ホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に立ちました(21:4)。そこは厳しい荒野で、パンもなく水もない状況下で、その苦しみに耐えかねたイスラエルの民は、神とモーセに逆らった結果、燃える蛇にかまれて多くの民が死に絶えるという悲惨な出来事がありました。けれども、神が示された救いの道、青銅の蛇を旗さおに掲げそれを仰ぎ見た者たちは救われ、破竹の勢いで前進していきました。アモリ人の王シホンに勝利し、バシャンの王オグも打ち破ると、さらに進んで、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原にまで来ることができました。この「エリコ」はヨルダン川の西岸にある町で、死海の北端から少し北にある町です。ヨシュア記において、ヨシュア率いるイスラエルが初めに占領する町です。

 

そのモアブの地までやって来たとき、ツィポルの子バラク、これはこのモアブの王ですが、イスラエルがアモリ人に行ったことを見ておびえ、ユーフラテス川流域にあったペトルという町に住んでいたベオルの子バラクを招こうと、使者たちを送りました。イスラエルをのろってもらうためです。彼が祝福する者は祝福され、彼がのろう者はのろわれるということを知っていたからです。

 

このバラムとは、どのような人物だったのでしょうか。ここには「あの大河のほとりのペトルにいる」とあります。申命記23章4節を見ると「アラム・ナハライムのペトル」とあります。このアラム・ナハライムというのは「二つの川のアラム」という意味で、チグリス、ユーフラテス川に囲まれたメソポタミア地域を指しています。それは、このモアブの地から約650㎞も離れていました。そこはかつてヤコブの伯父ラバンが住んでいたところです。創世記11章にはテラの歴史が記されてありますが、テラはその息子のアブラハムと、ハランの子で自分の孫のロトと、アブラハムの妻である嫁のサライとを伴い、カルデヤのウルからハランまで来て、そこに住み着いたとあります(創世記11:31)。そのハランの辺りです。アブラハムはそこからさらに旅立ってカナンへと出て行くわけですが、アブラハムの兄弟ナホルは、そこに住み続けました。それで後にアブラハムの子イサクが結婚する際に、このナホルの家族から嫁をめとるようにと、その娘リベカと結婚するのです。そして、やがてヤコブがエサウから逃れて行ったのは、このリベカの兄弟、すなわち、伯父ラバンのところだったのです。

 

このハランがどういう所であったのかについては創世記31章を見るとわかりますが、そこにはティラフィムという偶像がありました。それは占いで使っていたものです。それをラケルがそこから出て行くときに盗み出して問題になりました。すなわち、そこは、ヤハウェなるイスラエルの神を知りつつも、他の偶像も拝んでいた地であったのです。ですから、バラムもおそらくそのような人物であったのではないかと考えられます。ヤハウェなる神は知っていましたが、他の神々とも交流する占い師だったのです。

 

そして興味深いのは、バラクがバラムの呪いの力を次のように信じていたことです。「あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれる」。これはどこかで聞いたことがある言葉です。そうです、これは創世記12章3節で、神がアブラムに語った言葉です。そこには「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、呪う者をのろう。」とあります。ですから、バラムの呪いがどんなに強力なものであっても、全能者であられる神の御前には立ち向かうことはできません。仮にイスラエルを呪うようなことがあれば、神はその人をも呪われるからです。神はすべてにまさって偉大なお方だからです。

 

民数記に戻ってください。それにしても、なぜバラクはバラムにこのようなことを願ったのでしょうか。それは3節にあるように、イスラエルの民の数が多かったので、非常に恐れたからです。しかしモアブの王バラクは、恐れる必要など全くありませんでした。なぜなら、申命記を見ると、エドム人やアンモン人と同じようにモアブ人とは戦ってはならないとあるからです。なぜイスラエルはエドム人やアンモン人、モアブ人と戦ってはいけなかったのでしょうか。それは、エドム人はイスラエルの先祖ヤコブの兄弟エサウの子孫であり、アンモン人とモアブ人はアブラハムの甥ロトの二人の娘の子孫だからです。ヤハウェの一方的な憐れみのゆえにソドムとゴモラにいたロトは、滅びから免れました。アブラハムのゆえです。そのロトのふたりの娘の子供たちがアンモン人とモアブです。ですから、彼らもまたこのアブラハムの約束のゆえに、神の祝福の中に置かれていたのです。実際、このモアブ人の女の一人を、イエス・キリストの先祖にしています。誰ですか。モアブの女ルツです。ですから、モアブ人は恐れる必要はなかったのです。それなのに彼らが恐れてしまったのは、神の約束ではなく、自分を守ろうとしていたからです。自分で自分を守ろうとすると恐れを抱くことになります。そして、恐れに支配されると攻撃的になるのです。ですから、アブラハム契約のゆえに主を信じる者を主が守ってくださると信じて、主にすべてをおゆだねすることが必要なのです。

 

Ⅱ.不義の報酬を愛したバラム(7-22)

 

次に、7節から20節までをご覧ください。「7 モアブの長老たちとミディアンの長老たちは、占い料を手にしてバラムのところに行き、バラクのことばを告げた。8 バラムは彼らに言った。「今夜はここに泊まりなさい。主が私に告げられるとおりに、あなたがたに返答しましょう。」モアブの長たちはバラムのもとにとどまった。9 神はバラムのところに来て言われた。「あなたと一緒にいるこの者たちは何者か。」10 バラムは神に言った。「モアブの王ツィポルの子バラクが、私のところに使いをよこし、11 『今ここに、エジプトから出て来た民がいて、地の面をおおっている。さあ来て、私のためにこの民に呪いをかけてくれ。そうしたら、おそらく私は彼らと戦って、追い出すことができるだろう』と申しました。」12 神はバラムに言われた。「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。また、その民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」13 朝になると、バラムは起きてバラクの長たちに言った。「あなたがたの国に帰りなさい。主は私があなたがたと一緒に行くことをお許しにならないから。」14 モアブの長たちは立ってバラクのところに帰り、そして言った。「バラムは私たちと一緒に来ることを拒みました。」

15 バラクはもう一度、先の者たちよりも大勢の、しかも位の高い長たちを遣わした。16 彼らはバラムのところに来て彼に言った。「ツィポルの子バラクはこう申しました。『どうか私のところに来るのを断らないでください。17 私はあなたを手厚くもてなします。また、あなたが私に言いつけられることは何でもします。どうか来て、私のためにこの民に呪いをかけてください。』」18 しかし、バラムはバラクの家臣たちに答えた。「たとえバラクが銀や金で満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。19 ですから、あなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げくださるかどうか、確かめましょう。」20 夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らと一緒に行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」21 バラムは朝起きて、自分のろばに鞍をつけ、モアブの長たちと一緒に行った。22 しかし、彼が行こうとすると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちはだかった。バラムはろばに乗っていて、二人の若者がそばにいた。」

 

 7節には、モアブの長老たちだけでなくミディアンの長老たちもバラムのところに行ったとあります。なぜここにミディアン人が登場するのでしょうか。ミディアンは、エドムのずっと南方にあるアラビヤ半島にいた民族です。モーセがエジプトの王ファラオから逃れたのがこのミディアンの地でした。そのミディアンの長老たちも一緒にバラムの所へ行ったのです。それは思惑が一致したからでしょう。彼らはアラビヤ半島から今のヨルダンにかける南北の広範囲に住んでいたようで、後にヨルダン川の西側のイスラエルの相続地にも入ってきて、ギデオンが生きていた時代にイスラエルを苦しめたりしていました。ですから、モアブ王バラクとミディアンの利害が一致して、共にバラムのところに行ったのです。

 

彼らがパラムのところに行き、バラクのことばを告げると、バラムは「主が私に告げられるとおりに、あなたがたに返答しましょう」と言っています。この主とは、神の個人名である「ヤハウェ」です。新改訳聖書では、その「主」を太字で表しています。つまり、バラムはイスラエルの神にも祈っていたのです。また9節の「神」もイスラエルの神を表すヘブル語の「エロヒーム」ですから、彼はイスラエルの神に祈っていたことがわかります。その神が、「彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」(12)と言われたので、彼らと一緒に行くことはしませんでした。

 

モアブの長たちはバラクのところに帰り、それをバラクに告げると、バラクはもう一度と、先の者たちよりも大勢の、しかも位の高い長たちを遣わしました。もっと大勢の、もっと位の高い長たちを遣わしたというのは、もっと多くの金銀が積まれたということです。ですからバラムは18節で、「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても・・・」と言っているのです。どんなに金銀を積まれても、自分は神のことばに背いては何もすることはできません、と断言したのです。立派ですね。金銀に目がくらむということがなかったのですから。

しかし19節を見ると、「ですから、あなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私にほかのことをお告げくださるかどうか、確かめましょう。」と言っています。なぜ彼はこんなことを言ったのでしょうか。主のことばに背いては何もすることはしないと言うのなら、その時点できっぱりと断ればいいのに、今晩ここにとどまりなさい、と言っているのです。未練があったからです。表面的には「どんなに金銀を積まれても・・・みたいなことを言っていますが、どこかに期待していたところがあったのです。ですから、彼は19節で「もしかすると、主が別のことを語られるかもしれませんから・・・。」と告げたのです。すると、その夜、神がバラムに現れて、立って、彼らとともに行け、と告げられました。それで、彼らといっしょに出かけていくことにしたのです。

 

これだけを見ると、バラムはいかにも神の命令に従っているかのようですが、実際はそうではありませんでした。それは次の箇所を見るとわかります。翌朝明けて、モアブの長たちと一緒にバラムが行こうとすると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちはだかった、とあります。主がバラムに「立って彼らと一緒に行け」と言われたのであれば、なぜ神の怒りが燃え上がり、主の使いが道に立ちはだかったのでしょうか。それは彼が不義の報酬を愛したからです。

ペテロ第二の手紙2章15~16節を開いてください。ここには、「彼らは正しい道を捨てて、さまよっています。ベオルの子バラムの道に従ったのです。バラムは不義の報酬を愛しましたが、自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」とあります。ここではイスラエルの中から出た偽預言者のことについて言及されているのですが、彼らは正しい道を捨てて貪欲に走りました。そして、その一つの実例としてこのバラムのことが取り上げられているのです。バラムは口では実にすばらしいことを言っていましたが、その心は、報酬をむさぼっていたことがわかります。これが不義の報酬です。だからバラムは自分の罪をとがめられ、口をきけないろばが人間の声で話して、バラムの狂った振る舞いをはばんだのです。

 

ではなぜ神はバラムに、「彼らと一緒に行け」と言われたのでしょうか。そんなことを言わなければ誤解もされなかったと思うのですが、それは神が積極的にそうするようにと命じておられたのではなく、仕方なくそう言われたのです。つまり、これは突き放している言葉なのです。主が彼に対して、「彼らと一緒に行ってはならない」と命じたにもかかわらず、バラムはそれを受け入れず、「主がなにかほかのことをお告げくださるかどうか、確かめましょう」と執拗に求めたので、そのように言われたのです。彼は表面的には主に尋ねているようですが、実際には金銭を貪っており、心の中で彼らと一緒に行くことを望んでいたのです。このように、自分の意志を強く固めている人に対しては、誰もそれを止めることはできません。神さえも止めることはできないのです。それは神が無力なのではなく、神は人をご自身のかたちに似せて自由意志を持つ者として造られたからです。ですから、神の御心がわかっていても、その御心に反して自分の思いを通してしまうということがあるわけです。神の御心を行ないたいと口では言いながら、自分の思うままに生きていきたいと願っているのです。それは不義の報酬を愛したバラムと同じです。

 

 Ⅲ.ろばの口を通して語られた主(23-41)

 

最後に23節から41節まで見て行きたいと思います。30節までをお読みします。「23 ろばは、主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちはだかっているのを見た。ろばは道からそれて畑に入って行ったので、バラムはろばを打って道に戻そうとした。24 すると主の使いは、両側に石垣のある、ぶどう畑の間の狭い道に立った。25 ろばは主の使いを見て、石垣にからだを押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、バラムはさらにろばを打った。26 主の使いはさらに進んで行って、狭くて、右にも左にもよける余地のない場所に立った。27 ろばは主の使いを見て、バラムを乗せたまま、うずくまってしまった。バラムは怒りを燃やし、杖でろばを打った。28 すると、主がろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたが今日この日までずっと乗ってこられた、あなたのろばではありませんか。私がかつて、あなたにこのようなことをしたことがあったでしょうか。」バラムは答えた。「いや、なかった。」」

 

バラムが出かけて行くと、主の怒りが燃え上がりました。なぜでしょうか。先に述べたように、彼が行くことは主の御心ではなかったからです。ですから、主の使いが彼に敵対して道をふさいだのです。それでろばは、道からそれて畑の中に行きました。その主の使いが抜き身の剣を手にもって道をふさいでいたからです。するとバラムは、ろばを打って道に戻そうとしました。彼はそれが神からの警告であることも知らずに、自分の意志を貫こうとしたのです。しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていたので、ろばは石垣に身を押し付けバラムの足を押し付けたので、バラムはさらにろばを打ちました。すると主の使いはさらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立ったので、ろばは主の使いを見てバラムを乗せたままうずくまってしまいました。そこでバラムは怒りを燃やし、杖でろばを打ちました。すると、主がろばの口を開かれたので、ろばがしゃべったのです。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」バラムはびっくりしたと思います。ろばが人間のことばをしゃべったのですから。しかし彼はろばに言いました。「おまえが私をばかにしたからだ。もし剣を持っていたら殺してしまうところだ」。すると、ろばはまたバラムに言いました。「私は、あなたが今日この日までずっと乗ってこられた、あなたのろばではありませんか。私がかつて、あなたにこのようなことをしたことがあったでしょうか。」ありません。バラムは答えました。

 

いったいろばが人間のことばを話すということがあるのでしょうか。普通はありません。聖書の中で動物が人間のことばを話したというのは、ここと創世記の蛇だけです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。これは事実、その通り起こったことです。ペテロはこう言っています。「自分の不法な行いをとがめられました。口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」(Ⅱペテロ2:16)

勿論、ろばは、人の言葉を話すことはありませんが、この時は話すことができました。それは全能者であられる神が、このようにしてバラムに罪を示したかったからです。神はこのように特別な方法で、それが異様であるかのような光景を通して語られることがあるのです。そのようにしてまでバラムが自分のしていることがどういうことなのかを悟らせようとしたのです。

 

31~41節をご覧ください。「31 そのとき、主はバラムの目の覆いを除かれた。すると彼は、主の使いが道に立ちはだかり、抜き身の剣を手に持っているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。32 主の使いは彼に言った。「何のために、あなたは自分のろばを三度も打ったのか。わたしが敵対者として出て来ていたのだ。あなたがわたしの道を踏み外していたからだ。33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を避けた。もし、ろばがわたしから身を避けていなかったなら、わたしは今すでに、あなたを殺して、ろばを生かしていたことだろう。」34 バラムは主の使いに言った。「私は罪を犯していました。あなたが私をとどめようと道に立ちはだかっておられたのを、私は知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」35 主の使いはバラムに言った。「その人たちと一緒に行け。しかし、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ。」そこでバラムはバラクの長たちと一緒に行った。

36 バラクはバラムが来たことを聞いて、彼を迎えに、国境の端にあるアルノンの国境のイル・モアブまで出て来た。37 バラクはバラムに言った。「私はあなたを迎えようと、人を遣わさなかったでしょうか。なぜ、私のところに来てくださらなかったのですか。私には、あなたをおもてなしすることが、本当にできないのでしょうか。」38 バラムはバラクに言った。「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」39 バラムはバラクと一緒に行き、キルヤテ・フツォテに着いた。40 バラクは牛と羊をいけにえとして献げ、それをバラムおよび彼とともにいた長たちにも贈った。41 朝になると、バラクはバラムを連れ出し、彼をバモテ・バアルに上らせた。バラムはそこからイスラエルの民の一部を見た。」

 

そのとき、主がバラムの目の覆いを除かれたので、彼は主の使いが道に立ちはだかり、抜き身の剣を手に持っているのを見ました。それですぐにひざまずき、伏し拝んだのです。すると主は、バラムが道を踏み外していたので、ろばを用いてそのことを示されたことを告げました。

するとバラムは、「私は罪を犯しました」と悔い改めました。そして、今、もしこれが神の御心でなければ引き返す、と言いました。すると主は、「この人たちと一緒に行け」と言われました。神は、不義の報酬を愛したバラムを用いて、ご自分の言葉を語らせようとしたのです。

 

 このようにしてバラムはバラクのところへやって来ました。「なぜ、すぐに来てくださらなかったのですか。」というバラクに対して、バラムは、「神が私の口に置かれることばを語らなければなりません。」と言いました。不義の報酬を愛したバラムですが、ろばが人間のことばを話すことによって砕かれ、教えられ、神の道に立つことができたのです。

41節には、バラクがバラムをバモテ・バアルに上らせたとあります。バモテ・バアルとは、「バアルの高台」という意味で、そこはバアル礼拝が行われていた丘でした。この丘からバラムはイスラエルの民を見下ろしたのです。

 

私たちも不義を愛したバラムのように、表面的には神に従っているようでも、その心は貪りを愛するような者です。しかし神はそんな私たちを何とか正そうとして、あの手この手を使ってご自身の御心を示しておられるのです。時にはバラムにしたように、ろばのことばを通して語られることもあります。ですから、私たちはいつも柔和な心で神の御言葉を聞き、それに従う者でありたいと思います。

民数記21章

民数記21章

 

きょうは民数記21章から学びます。

 

Ⅰ.青銅の蛇(1-9)

 

まず1~9節をご覧ください。3節までをお読みします。「1 ネゲブに住んでいたカナン人アラドの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来たと聞いた。彼はイスラエルと戦い、その何人かを捕虜として捕らえた。2 そこでイスラエルは主に誓願をして言った。「もし、確かにあなたが私の手に、この民を渡してくださるなら、私は彼らの町々を聖絶いたします。」3 主はイスラエルの願いを聞き入れ、カナン人を渡されたので、イスラエルはカナン人とその町々を聖絶した。そしてその場所の名をホルマと呼んだ。

 

イスラエルの民は、ホル山でアロンが死に彼をそこに葬ると、そこから北上しネゲムに向かいました。下の地図をご覧ください。

 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「出エジプトの経路」(出典:新改訳聖書第3版、日本聖書刊行会)

 

ネゲブはカナン人の地の南方の地域のことです。その最大の都市はベエル・シェバという町ですが、そこから東に約35㎞のところにアラドという町がありました。そこは神がアブラハムに約束されたカナン人の地に近いところでした。そのアラドの王は、イスラエルがアタリムの道を進んで来ると聞いて、イスラエルと戦い、何人かを捕虜として捕らえたのです。そこでイスラエルは主に誓願を立てて祈りました。もし、主がイスラエルの民の願いを聞き入れ、彼らを渡されるなら、彼らの町々を聖絶すると。「聖絶」とは、神のものとするということです。すると主はイスラエルの願いを聞き入れ、彼らに勝利を与えられたので、イスラエルはカナンとその町々を聖絶しました。それで、その町の名をホルマと呼びました。意味は「聖絶する」です。

 

かつてイスラエルがカデシュ・バルネアにいたとき、約束の地カナンの地を偵察させるために12人のスパイを送りましたが、彼らは不信仰になって神の命令に背きその地に上って行こうとしませんでした。それで主はイスラエルに40年間荒野で彷徨わせると言われると、今度は手のひらを返したかのように「とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう」(14:40)と言いました。すると主は「上っていってはならない」と言われました。なぜなら、主は彼らのうちにおられなかったからです。もし上って行こうものなら、彼らは敵に打ち負かされるであろうと警告したのです。それでも彼らは主の言うことを聞かず上って行くと、山地に住んでいたカナン人に打ち負かされ、このホルマまで追い散らされたのです。もう39年も前の話です。しかし、今度は違います。今度は主が彼らの願いを聞き入れられたので、彼らの町々を聖絶することができました。一方では、彼らの願いは聞かれられず、今回は聞き入れられるという、いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

それは、神がともにおられるかどうかということです。彼らは自分たちの思いで、「とにかく上って行ってみよう」と言った時に、主は彼らとともにはおられませんでした。なぜなら、主のみこころは「上って行ってはならない」ということだったからです。しかし、あれから39年、肉の欲望にかられ、不信仰に陥り、さらに反逆までしたイスラエルの民はみな死に絶えてしまいました。そこには新しい民の姿がありました。そんな新しいイスラエルが主に誓願を立てて祈ると、主はその祈りを聞いてくださいました。主がともにおられたので、彼らに勝利することができたのです。問題は、主がともにおられるかどうかです。かつてだめだったから今度もだめだということではありません。かつてだめであってもその原因がどこにあったのかを振り返り、悔い改めて、主に立ち返るなら、主は勝利を与えてくださるのです。

 

次に4節から9節までをご覧ください。「4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」6 そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。8 すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。」

 

イスラエルの民は、ホル山からエドムの地を迂回して葦の海の道に旅立ったとき、途中で我慢できなくなり、神とモーセに逆らって言いました。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」(5)

イスラエルはまたもやモーセに逆らいました。何が問題だったのでしょうか。パンもなく、水もなかったのです。ついちょっと前にも同じことがありました。彼らがツィンの荒野に入ったときパンもなく、水もありませんでした。しかし神は彼らの叫びを聞かれ、岩から水が流れ出るようにされました(20:1~13)。彼らは水のことで神と争ったので、そこは「メリバの水」と呼ばれました(20:13)。それなのに彼らはそこから何も学びませんでした。また不平不満を鳴らしたのです。彼らはちょっとでも嫌なこと苦しいことがあると我慢することができず、すぐに不満をぶちまけたのです。

 

それで主はどうされたでしょうか。そこで主は民の中に燃える蛇を送られました。そして蛇が民にかみついたので、イスラエルの多くの人が死んでしまいました。この「燃える蛇」とは何でしょうか。おそらく、かまれると焼けつくような痛みと激しい毒のゆえにこのように呼ばれていたのではないかと思われます。この蛇は複数形で書かれているので、何匹もうじゃうじゃしていたのだと思います。私は蛇が大嫌いで、1匹でも気持ち悪いのに何匹もいたらたまったものではありません。しかも毒蛇です。それが民にかみついたので、多くの人々が死んでしまいました。

 

それで民はモーセのところに来て言いました。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」彼らはそれが神の罰であることに気付き、自分たちの非を認め、モーセに助けを求めたのです。

それでモーセは民のために祈りました。すると主はモーセに興味深いことを仰せられました。それは、青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ、ということでした。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば生きる、というのです。

モーセは命じられた通り、一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けました。すると、蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。いったいこれはどういうことでしょうか。これは、信仰の従順による癒しと救いです。これは青銅の蛇自体に救う力があったということではなく、この神のことばを信じてそれを仰ぎ見た者だけが、死の毒を免れて救われることができたということです。

 

この出来事について、イエス様はニコデモに対して語られました。ヨハネの福音書3章14~15節です。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

人の子が上げられるとは、イエス様が十字架に上げられることを表しています。ヨハネの福音書12章32~33節でヨハネは、このイエス様が言われたことをこう説明しています。「32 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」33 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。」

ニコデモはイスラエルの指導者でした。ユダヤ人の教師です。ですからこの話を十分に知っていました。イエス様は、モーセが荒野で上げた青銅の蛇のように、十字架に上げられることを語られたのです。

 

まず、蛇が彼らに死をもたらしたことに注目しましょう。エバを惑わしたのも蛇でした。黙示録12章9節によると、この蛇は悪魔であることが分かります。そして主は蛇に対してその子孫のかしらが、女の子孫によって打ち砕かれると約束されました(創世記3:15)。蛇の子孫は女の子孫のかかとをかみつくが、女の子孫は蛇の頭を打ち砕きます。これは十字架と復活の預言です。すなわち蛇は女の子孫として来られたキリストを十字架につけて殺すことに成功しますが、それはまさにかかとにかみつくことです。しかしキリストは三日目に死から復活しました。それは敵の頭を踏み砕くことです。それはキリストによって敵である悪魔に対する完全な勝利を表していました。

「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(ヘブル2:14-15)

つまり、蛇が死をもたらしたのは、罪が死をもたらしたと言い換えることができます。そして青銅で蛇を作りなさいというのは、その罪に対する神のさばきを表していました。覚えていますか、祭壇が青銅で作られていたのを・・。そこで罪のためのいけにえが焼かれました。それは、罪に対する神の裁きを表していたのです。つまり、罪が裁かれたことを表していたのです。しかもそれが旗ざおという木の上で裁かれました。キリストは十字架にかけられ、青銅の蛇となって、全人類の罪のさばきをその身に負われたのです。そのキリストを仰ぎ見る者が救われるのです。それが信じるということであり、ニコデモに対してイエス様が語られた「御霊によって新しく生まれなければならない」ということだったのです。

 

Ⅱ.ピスガの頂へ(10-20)

 

次に10節から20節までをご覧ください。「10 イスラエルの子らは旅立って、オボテで宿営した。11 彼らはオボテを旅立ち、日の昇る方、モアブに面した荒野にあるイエ・ハ・アバリムに宿営した。12 彼らはそこを旅立ち、ゼレデの谷に宿営し、13 さらにそこを旅立って、アモリ人の国境から広がっている荒野にある、アルノン川の対岸に宿営した。アルノン川は、モアブとアモリ人との間にあるモアブの国境だったからである。14 それで、『主の戦いの書』にもこう言われている。「スパのワヘブとアルノンの谷川とともに、15 アルの定住地に達する谷川の支流は、モアブの領土を支えている。」16 彼らはそこからベエルに向かった。それは主がモーセに、「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われた井戸である。17 そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。「井戸よ、湧きいでよ。あなたがたは、これに向かって歌え。18 笏をもって、杖をもって、君主たちが掘り、民の尊き者たちが掘り下げたその井戸に。」彼らは荒野からマタナに進み、19 マタナからナハリエルに、ナハリエルからバモテに、20 バモテからモアブの野にある谷に行き、荒れ野を見下ろすピスガの頂に着いた。」

 

10節には、「イスラエルは旅立って」とありますが、どこから旅立ったのかはわかりません。おそらくエドムを迂回して南下し、モアブの草原に向かって北上して行った途中の地点だったのではないかと思われます。そしてオボテまでやって来ました。このオボテは地中海の南方、エドムとの境界にある町です。そこからさらにイエ・ハ・アバリム、ゼレデの谷に宿営し、エモリ人の国境から広がっている荒野にあるアルノン川の向こう側に宿営しました。それはアルノン川がモアブ人とエモリ人との間の、モアブの国境であったからです。すなわち、彼らはアルノン川の北のエモリ人の地に宿営したのです。

 

それからベエルに向かいました(16)。「ベエル」がどこにあるのかはわかりませんが、そこは主がモーセに「民を集めよ。わたしが彼らに水を与える」と言われたところです。彼らは井戸を求めていたからです。その井戸についての歌が17節と18節にあります。乾燥地帯の砂漠にあってこうした井戸が与えられたことは、どれほど大きな癒しと励ましとなったことでしょうか。彼らはそこで主に感謝の歌をささげました。すばらしいですね。不平を鳴らすのではなく、感謝の歌を歌うのです。私たちも聖霊によって生きるなら、感謝の歌をささげるようになります。なぜなら、主は聖霊によって私たちの心に永遠に渇くことがない水を与えてくださるからです。こうして彼らはピスガの頂にまでやってきました。後にモーセがそこから約束の地を見下ろし、死ぬ場所です。

 

Ⅲ.勝利ある人生(21-35)

 

次に21節から35節までをご覧ください。「21 イスラエルは、アモリ人の王シホンに使者たちを遣わして言った。22 「あなたの土地を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にもそれて入りません。井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは『王の道』を通ります。」23 しかし、シホンはイスラエルが自分の領土を通ることを許さなかった。シホンはその兵をみな集めて、イスラエルを迎え撃つために荒野に出て来た。そしてヤハツに来てイスラエルと戦った。24 イスラエルは剣の刃でシホンを討ち、その地をアルノン川からヤボク川まで、アンモン人の国境まで占領した。アンモン人の国境は堅固だった。25 イスラエルはこれらの町々をすべて取った。そしてイスラエルは、アモリ人のすべての町、ヘシュボンとそれに属するすべての村に住んだ。26 ヘシュボンはアモリ人の王シホンの町であった。彼はモアブの以前の王と戦って、その手からその全土をアルノンまで奪っていた。

27 それで、詩のことばを語る者たちも言っている。「来たれ、ヘシュボンに。シホンの町は建てられ、堅くされている。28 ヘシュボンから火が出た。シホンの町から炎が。それはモアブのアルを、アルノンにそびえる高地を焼き尽くした。29 モアブよ、おまえはわざわいだ。ケモシュの民よ、おまえは滅び失せる。その息子たちは逃亡者、娘たちは捕らわれの身。アモリ人の王シホンの手によって。30 しかし、われわれは彼らを投げ倒し、ヘシュボンはディボンに至るまで滅び失せた。われわれはノファフまで荒らし、それはメデバにまで至った。」

31 こうしてイスラエルはアモリ人の地に住んだ。32 そのとき、モーセは人を遣わしてヤゼルを探り、ついにそれに属する村々を攻め取り、そこにいたアモリ人を追い出した。33 さらに彼らが向きを変えてバシャンへの道を上って行くと、バシャンの王オグが、エデレイで戦うために、そのすべての兵とともに彼らの方に出て来た。34 主はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての兵とその地をあなたの手に与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたアモリ人の王シホンに行ったように、彼にも行え。」35 そこで彼らは、彼とその子たちとそのすべての兵を討ち、一人の生存者も残さなかった。こうして彼らはその地を占領した。」

 

ピスガの頂まで来たとき、イスラエルはアモリ人の王シホンに使者たちを送りました。そこに彼らの土地だったからです。それでモーセたちはエドム人に対するのと同じように、ただ通過させてほしいと頼んだのですが、アモリ人の王シホンは、イスラエルが自分たちの領土を通ることを許しませんでした。それどころか、イスラエルと戦うために出てきたのです。なぜ彼らはモーセの依頼を断ったのでしょうか。イスラエルに敵対していたからです。後に北イスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国の人々は、ハムの子カナンの子孫であるこのアモリ人でした(創世記10:16)。彼らはアッシリア一帯を征服し、その周辺の支配者となっていたのです。このようにアモリ人は常にイスラエルに敵対する民でした。それでイスラエルが通ることを許さなかったのです。それどころか彼らが攻撃してきたので仕方なくイスラエルは応戦し、その結果、彼らを打ち破り、アムノン川からヤボク川までを占領したのです。

 

こうやって見ると、神の民にはいつも戦いがあることがわかります。こちらが平和的な解決を望んでいても、相手も必ずしもそうだとは限りません。このように戦いを挑んでくるようなケースがあるのです。それはこの世が悪魔に支配されているからです。神の御業の前進好まないのです。ですからありとあらゆる形で妨害し、それを拒もうとするわけです。しかし、主はわたしたちとともにいて戦ってくださいます。そしてそのことによってかえってご自分の御業を進めておられるのです。主は悪魔が行なう仕業をも飲み込み、ご自分の勝利に変えてくださるのです。

 

その大勝利の歌が27~30節までにあります。「へシュボン」とはアモリ人の王、シホンの町でした。彼らは以前モアブの王と戦って、その全土を取っていました。けれども今、そのヘシュボンはイスラエルによって奪い取られたのです。主は勝利を治めてくださいました。この歌はそっくりそのままイスラエルの勝利の歌となったのです。

 

31節をご覧ください。こうしてイスラエルはアモリ人の地に住みました。さらに彼らはバシャンへの道を上って行きました。つまり、そのまま北上して行ったということです。それでバシャンの王オグはエデレイで戦うために、そのすべての民とともに出てきました。しかし、主はモーセに言われました。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての兵とその地をあなたの手に与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたあのアモリ人の王シホンに行ったように、彼にも行え。」そこでイスラエルは彼らとその子らとすべての民とを打ち殺し、その地を占領しました。

 

このようにして主は、すでに約束の地に入る前に約束の地における主の勝利を見せてくださったのです。彼らは不平不満によって燃える蛇を送られ、死に絶えるという神のさばきを受けましたが、その罪を悔い改め、神が言われたとおりにすることによって、つまり、旗さおに掲げられた青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われると、たとえ行く手にどんなに強力な敵がいようとも、破竹の勢いで前進していくことができたのです。そこに主がともにおられたからです。

 

それは私たちも同じです。私たちも自分の罪を悔い改め、神が仰せられた通りに救いを受け入れる時、その罪が赦され、永遠のいのちが与えられるだけでなく、たとえ目の前にどんな敵がいても勝利することができるのです。神がともにおられるからです。これが私たちの信仰生活において最も重要なことです。神がともにおられるかどうか。神がともにおられるなら、私たちは圧倒的な勝利者になることができます。ということは、クリスチャンにとって最も恐ろしいことは、罪の中にとどまっていることです。神は罪の中には決しておられないからです。であれば、私たちはいつでも罪を悔い改めて神に立ち返ること、神がともにいてくださることを求めなければなりません。

 

まだ約束の地に入ってはいなくても、主は確実に勝利をもたらしてくださいます。私たちの信仰の歩みは、まさにイスラエルの荒野の旅と同じなのです。大切なのはどのように進んでいくかということではなく、だれとともに行くのかということです。神がともにおられるなら、何も恐れることはありません。必ず勝利することができるからです。イエス・キリストによって与えられた神の恵みを受け入れ、信仰をもってこの旅路を進んでいきたいと思います。

民数記20章

民数記20章

 

きょうは民数記20章から学びます。

 

Ⅰ.メリバの水(1-13)

 

まず1~6節までをご覧ください。「1 イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。2 そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。3  民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが主の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。4 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。5 なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主栄光が彼らに現れた。」

 

イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着きました。ツィンの荒野とは、あの12人のスパイたちをカナン偵察のために遣わしたカデシュ・バネネアという町がある地です。彼らはそこで不信仰のゆえに40年間も荒野をさまようことになりました。1節に「第一の月」とありますが、これはイスラエルがエジプトを出て40年目の「第一の月」のことです。なぜなら、33章38節にアロンの死のことが記されてありますが、それは、イスラエルの子らがエジプトの地を出てから40年目のことでした。この章の最後の箇所にもアロンの死のことが記されてありますが、これはエジプトを出てから40年目のことです。第一の月にツィンの荒野に着き、その年の第五の月の一日にアロンはホル山で死んだのです。すなわち、これは彼らが不信仰によって荒野をさまようようになってから38年後のことなのです。彼らはもう一度このツィンの荒野までやって来たのです。

 

そこでどんなことが起こりましたか。まずモーセの姉の「ミリアム」が死にました。彼女はすでに約133歳になっていたと思われます。というのは、モーセが生まれたとき彼女は13歳だったからです。この時モーセは120歳でしたので、モーセの姉はだいたい133歳くらいであったことがわかるのです。その他の人々はほとんどが新しい世代の人たちです。古い世代の人たちはみな死に絶えてしまいました。

 

そこで一つの事件が起こりました。イスラエルの民がモーセとアロンに逆らったのです。なぜ彼ら逆らったのでしょうか?水がなかったからです。水がなかったので、穀物やくだものが育たないというだけでなく、彼らの家畜にも飲ませることができませんでした。荒野で水がないというのは致命傷です。それは死を意味していました。それで彼らはモーセとアロンにつぶやいたのです。ここで興味深いことは、彼らのつぶやきは、この民数記14章1~4節でかつて彼らの親たちがつぶやいた内容とそっくりであるということです。また16章12~13節にはコラの事件がありましたが、その時にエリアブの子ダタンとアビラムが言ったこととも同じです。人間はいつの時代も同じです。またそのような言葉を聞いて育った子どもは、同じような言葉を使うようになるのです。そこに水がなかったのでそれを契機に彼らは、このような不平を鳴らしたのでした。おそらく、ミリアムが死んだという悲しみがあったでしょうし、かつてここから偵察を遣わしたという記憶もよみがえってきたのではないかと思います。私たちは普段は希望を持っていても、いざ状況が悪くなるとすぐに不満を漏らしやすい者であるということを肝に銘じ、主の恵みを覚えていなければなりません。それでモーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏すと、の栄光が彼らに現れました。モーセとアロンは、どれほど苦々しい思いを抱いていたかと思いますが、彼らが立派だったのはそのような時にはいつも主の前にひれ伏したことです。

 

7~13節をご覧ください。「7 主はモーセに告げられた。8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」13 これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。」

 

すると主は何と仰せになられたでしょうか?杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そうすれば岩は水を出す、と。その水を会衆とその家畜とに飲ませるようにと告げられたのです。そこでモーセは、主が命じられたとおりに主の前から杖を取り岩の前に召集したイスラエル人に、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言い、杖で岩を二度打ちました。すると、岩からたくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲むことができました。

 

しかし、そのとき主はモーセとアロンにこう言われました。12節です。「しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

どういうことでしょうか?彼らは、神に命じられたとおりにしたのに、主に信頼しなかった、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現わさなかった、というのです。それだけならまだしも、そのことのゆえに、彼らはそのイスラエルの会衆を、約束の地に導き入れることはできないというのです。これは大変なことです。いったい何が問題だったのでしょうか。実は、彼らは主が命じられたとおりに行ったように見えますが、実際はそうではありませんでした。モーセはただ岩に命じればよかったのに、岩を打ってしまったからです。しかも二度も。いったいなぜモーセは岩を二度打ってしまったのでしょうか。それはモーセの中に怒りがあったからです。何度も何度も自分たちに逆らうイスラエルの会衆に対して憤りを抑えることができなかったのです。それで岩を打ったのです。それでも主は民をあわれみ水が出るようにされましたが、そのことは主のみこころを損なわせることだったので、モーセとアロンはこの会衆を約束の地に導き入れることはできないと言われたのです。このことが原因で彼らは約束の地に入ることができませんでした。この出来事はそれだけ重要な出来事だったのです。

 

このことは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。Ⅰコリント10章4節をお開きください。ここには、この岩がキリストを表しているとあります。「(私たちの先祖は)みな、同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」この岩とはキリストを現わしていたのです。その岩から水を飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを現わしています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのに、モーセは岩を打ってしまいました。すなわち、神の命令に従わなかったのです。つまり、主のことばを信じませんでした。モーセは自分の思い、自分の感情、自分の方法に流されてしまいました。それは信仰ではありません。信仰とは神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはできません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れることです。すなわち、御霊の岩であるイエス・キリストを信じる以外にはありません。これが、私たちが救われるために神が用意してくださったことでした。それなのに彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたのです。それでこの水はメリバの水と呼ばれました。意味は「争う」です。彼らは神に従ったのではなく、神と争ったのです。それが問題だったのです。

 

私たちはここから、神に従うことの大切さを学びます。そして、そのためには自分の感情を抑制することが求められます。自分の感情に流されて神に従うことができないことがよくあります。たとえ自分の感情がどうであれ、御霊によって歩み、御霊に導かれて歩まなければなりません。そうすれば、肉の欲求を満足させることはない、すなわち、肉に支配されることはありません。

 

Ⅱ.エドムの反抗(14-21)

 

次に14~21節までをご覧子ください。「14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを遣わして言った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。15 私たちの先祖はエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖を虐待しました。16 私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、一人の御使いを遣わし、私たちをエジプトから導き出されました。今、私たちはあなたの領土の境界にある町、カデシュにおります。17 どうか、あなたの土地を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは『王の道』を行き、あなたの領土を通過するまでは、右にも左にもそれません。」18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。通るなら、私は剣をもっておまえを迎え撃つ。」19 イスラエルの子らはエドムに言った。「私たちは大路を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。歩いて通り過ぎるだけですから、何事でもないでしょう。」20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせることを拒んだので、イスラエルは彼のところから向きを変えた。」

 

カデシュから直接、約束の地に入ることが御心ではないことを知っていたモーセは、ヨルダン川の東から、ヨルダン川を渡って入ることを考えていました。ゆえに死海を迂回して、死海の北にあるヨルダン川に向かいました。そこにはエドムの地が広がっていたので、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送り、彼らの地を通らせてほしいと願いました。しかし、彼らの答えは「ノー」でした。「通ってはならない。通るなら、剣をもって迎え撃つ」と、頑なに拒んだのです。なぜでしょうか?

 

エドムとはもともとヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルの兄弟です。それゆえ、主はモーセに対してエドム人と争ってはいけないという命令を出していました(申命記23:7)。それは「彼は同族であるから」です。ヤコブの兄であったので戦ってはいけない、と言われたのです。それでモーセは平和的な解決を求めてエドムの王に通行許可を願いましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。それどころか、戦争も辞さない姿勢で向かってきたのです。それは彼らがイスラエルの神に恐れを抱きながらも、最終的には自分たちの思いを優先していたからです。あのエサウが一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利をヤコブに譲ったように、霊的なことに目が開かれることなく、いつも肉的に考えていたからです。それはこの時からずっと続いています。彼らはイスラエルに決して服することをせず、何かあれば、イスラエルに敵対しました。イスラエルが苦しめられていても何のお構いなしで、彼らを助けようとせず、自分たちを中心に行動したのです。その結果、このエドムには永遠の廃墟という預言が与えられました。いつまでも悔い改めず、神に敵対する者がどうなってしまうのかを、この箇所はよく教えていると思います。

 

Ⅲ.アロンの死(22-29)

 

最後に22~29節を見て終わります。「22 イスラエルの全会衆はカデシュを旅立ち、ホル山に着いた。23 主は、エドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンにお告げになった。24 「アロンは自分の民に加えられる。彼は、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命に逆らったからである。25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。26 アロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せよ。アロンは自分の民に加えられ、そこで死ぬ。」27 モーセは、主】命じられたとおりに行った。彼らは、全会衆の見ている前でホル山に登って行った。28 モーセはアロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。アロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から下りて来たとき、29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。」

 

こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着きました。ホル山はエドムの領地にあります。ですから、彼らは明らかに直線の道を通らずに、エドムの領土を廻っていく道を進んで行ったことがわかります。そのホル山で、主はモーセとアロンに仰せられました。そこでアロンは死ぬと。それでアロンの子エルアザルに大祭司の装束を着せて引き継ぎが行なわれ、彼はそこで死にました。その理由は、先ほどのメリバの水のことで、主の命令に逆らったからです。

 こうしてアロンはホル山で息を引き取りました。厳しい現実です。しかし、このことを通して、主はいかにキリストの御業が完全であり、キリストに従うことの重要性を示しておられるかがわかります。すなわち、キリストの御業こそ完全であって、それが私たちを完全に救うことができるということです。それ以外に救いはありません。もし、それを妨げるものがあれば、こうした厳しい結果を招くことになります。たとえ、それが自分の目でどんなに正しいことであるかのように見えても、それは私たちを救うことはできません。神が要求されることは、私たちがただ神の贖いを受け入れることです。それ以外には方法はありません。神が示された救いの御業を受け入れ、それに信頼して歩む者でありたいと思います。

 

民数記19章

きょうは民数記19章から学びます。

 

Ⅰ.傷のない完全な、赤い雌牛(1-10)

 

まず、1~10節をご覧ください。「1 主はモーセとアロンに告げられた。2 「主が命じるおしえの定めは、こうである。イスラエルの子らに告げよ。まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な、赤い雌牛をあなたのところに引いて来るようにと。3 あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡す。そして宿営の外に引き出し、彼の前で屠る。4 祭司エルアザルは指で血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七度振りまく。5 その雌牛は彼の目の前で焼き、皮と肉と血を汚物とともに焼く。6 祭司は、杉の木とヒソプと緋色の撚り糸を取り、雌牛が焼かれている中に投げ入れる。7 祭司は自分の衣服を洗い、からだに水を浴びる。その後、宿営に入ることができる。しかし、この祭司は夕方まで汚れる。8 これを焼いた者も、自分の衣服を水で洗い、からだに水を浴びる。彼は夕方まで汚れる。9 それから、きよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置く。そして、イスラエルの会衆のために、汚れを除く水を作るために保存しておく。これは罪のきよめのささげ物である。10 この雌牛の灰を集めた者は、自分の衣服を洗う。彼は夕方まで汚れている。これは、イスラエルの子らと、あなたがたの間に寄留している者にとって永遠の掟となる。」

 

ここで主はモーセとアロンに、まだくびきを負わせたことがない、傷のない完全な、赤い雌牛を彼らのところに連れて来るように命じました。何のためでしょうか。罪のきよめのささげ物としてささげるためです。イスラエルの子らが引いて来た赤い雌牛をモーセとアロンが祭司エルアザルに渡すと、彼はそれを宿営の外に引き出し、屠らなければなりませんでした。そしてその血を取り、会見の天幕の正面に向かって、七度振りまかなければなりませんでした。その雌牛はそこで焼き、皮と、肉と、血も、汚物とともに焼かなければなりませんでした。祭司は、杉の木と、ヒソプと、緋色の撚り糸を取り、雌牛が焼かれている中に投げ入れました。それから、祭司は自分の服を洗い、その体に水を浴びてから、宿営に入ることができました。しかし、彼は夕方まで汚れているとされました。そして、汚れていないほかの人が、その雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエルの民のために、汚れを清める水を作るために、この灰を保存しておかなければなりませんでした。これは罪をきよめるためです。この雌牛の灰を集めた者も、自分の服を洗わなければなりませんでした。彼も夕方まで汚れた者とされました。これは、イスラエル人であろうと、外国人であろうと、皆同様に守らなければならない永遠の掟となりました。

 

いったいなぜこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。ここで思い出してください。この時、イスラエルの宿営には至る所に死体がころがっていました。コラの子たちがモーセとアロンに反逆したことで神の怒りが彼らに下り、生きたままよみに投げ入れられると(16:31-33)、それに同情したイスラエルの民もモーセに反抗して罪を犯したためそれに対する神罰が下り、彼らの中からもたくさんの死者が出たのです。コラの事件で死んだ者とは別に、その神罰で14,700人が死にました(16:49)。しかし、この後に出てくるように、死体に触れる者は汚れた者とされました(19:11~)。そのことは、6章6~12節、9章6~12、レビ記21:1~4にも記されてあります。それで主は、死体に触れて汚れた者がきよめられるために必要な方法を示されたのです。それがこの「傷のない完全な赤い雌牛」を屠り、それを焼いた灰によって作られた水を注ぎかけるという儀式だったのです。このようにして、コラの反逆によってもたらされた被害を、主は完全にきよめようとされたのです。つまり、傷のない完全な、赤い雌牛をほふり、その灰によってきよめの水を作り、それを汚れた人に注ぎかけることによって、死体に触れて汚れた人のすべてがいやされたのです。

 

 ここには、その水の作り方が示されています。まず、まだくびきを負ったことがない赤い雌牛が屠られ、灰にされました。「傷がなく」というのは、全く欠陥がない(罪がない)ということです。そして、「くびきを負わされたことのない」というのは、罪のくびき(罪の奴隷)を負わされたことがないという意味です。「赤い雌牛」の「赤」は、血といのちを象徴していました。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴なのです。つまりこれは、やがて来られるイエス・キリストのことを指し示していたのです。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕に向かって七度振りかけました。「七度」は完全数です。

 

そして、その雌牛は彼の目の前で焼かれました。またその皮と肉と血を、その汚物とともに焼かなければなりませんでした。宿営の外で・・。そして6節にあるように、祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れました。この杉の木とヒソプ、緋色の糸は何を象徴しているのでしょうか。ある人は、杉の木は十字架の象徴しており、ヒソプは罪のきよめを、そして緋色の糸はキリストの血を象徴していると考えています。確かに、ヒソプはイスラエル人がエジプトで過ぎ越しのいけにえの血を自分たちの家の2本の戸柱と戸口の上部に塗った時に用いられました(出12:21-22)。また,以前らい病にかかっていた人や家を清める儀式(レビ14:2‐7,48‐53。)や,「清めの水」に使われる灰を準備する際に使われ,その水を特定の物や人に注ぎかけるときにも用いられました(民19:6,9,18)。ですからダビデは、ヒソプをもって罪からきよめてくださいと祈ったのです(詩51:7)。また、緋色についても、キリストの血を表すものとして、出エジプト記の中の幕屋の垂れ幕や大祭司の服に刺繍されていました。しかし、ここではそれを火の中に投げ入れました。それを赤い雌牛と一緒に焼かなければならなかったのです。とすれば、それは十字架や罪のきよめ、血の象徴と全く逆の意味として使われていることになります。

 

調べてみると、杉の木は力や富、権力、栄光の象徴として用いられていることがわかります。そしてⅠ列王記4章33節には、ソロモンが草木のことを論じた際に「杉の木からヒソプにまで及んだ」とあります。ヒソプというのはとても低い草ですが、杉の木のように高くて大きな木から、ヒソプのように低くて小さな草に至るまでという意味で、それは植物全体を意味していました。言い換えると、それらは全世界ということです。では、緋色の撚り糸は何を表していたのでしょうか。この言葉はイザヤ書1章18節にも使われています。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。ここで緋色の撚り糸は、私たちの罪を表しています。すなわち、この杉の木とヒソプ、緋色の撚り糸は、大きな罪から小さな罪まで、全ての罪を象徴していたのです。それを火の中に投げ入れました。ですからこれは、全世界の罪が、赤い雌牛を神にささげた時、赤い雌牛とともにすべてが焼き尽くされたことを意味していたのです。

 

Ⅱ.きよめの水(11-19)

 

次に、11~19節までをご覧ください。「11 死人に触れる者は、それがどの人のものであれ、七日間汚れる。12 その者は三日目と七日目に、先の水で身の汚れを除いて、きよくなる。三日目と七日目に身の汚れを除かなければ、きよくならない。13 死人、すなわち死んだ人間のたましいに触れ、身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は汚れを除く水を振りかけられていないので汚れていて、その者の中になお汚れがあるからである。14 人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れる。15 ふたをしていない口の開いた器もみな、汚れる。16 また、野外で、剣で刺し殺された者、死人、人の骨、墓に触れる者はみな、七日間汚れる。17 この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いて作った灰を取り、器に入れ、それに新鮮な水を加える。18 きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、すべての器の上に、そこにいた者の上に、また骨、刺し殺された者、死人、墓に触れた者の上にかける。19 そのきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかけ、七日目にその人の汚れを除くことになる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方にはきよくなる。」

 

死体に触れるは、だれでも七日間汚れるとあります。しかし、汚れてから三日目と七日目に、先の灰で作った水を振りかけられるならば、だれでもきよめられました。三日目と七日目が何を象徴しているのかわかりませんが、神の完全性を表しているのではないかと思われます。しかし、この水で身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚すとされました。そのような者はイスラエルから断ち切られることになります。その者には、なお汚れがあるからです。

 

14節をご覧ください。人が天幕の中で死んだ場合はどうでしょうか。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れるとされました。ふたをしていない口の開いた器もみな、汚れました。また野外で、剣で刺殺されたりした人の骨や墓に触れる者もみな、七日間汚れました。

 

この汚れた者がきよめられるためには、罪のきよめのために焼いて作った灰を取り、それを器の中に入れ、それに新鮮な水を加えたものに、きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、またすべての器の上に、そこにいた者の上、骨、刺殺された者、死人、墓に触れた者に飢えに注ぎかけなければなりませんでした。そうすれば、七日目にその人の汚れを取り除くことができました。その人は衣服を洗い、水を浴びれば、夕方にはきよくなりました。いったいこれは何を表していたのでしょうか。

 

ヘブル人への手紙9章13~14節を開いてください。ここには、「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」とあります。そうです、これはキリストの十字架の血によるきよめを指し示していたのです。この灰を死体にふれた人々に注ぎかけるということは、十字架で犠牲となられたキリストの血を、罪の中に死んでいる人々に注ぎかけることを象徴していました。そうすれば汚れはなくなり、すべての罪はきよめられ、完全なきよめが果たされるのです。それほど、キリストの血には力があるのです。しかも、この赤い雌牛の犠牲は、これ以前にも、これ以降にも、一度限りです。完全な一度限りのいけにえです。主イエスのいけにえも、全人類のための完全な一度限りの犠牲であり、いけにえなのです。主イエスの死によって私たちは、神の怒りから解放され、罪の赦しを得、罪の支配からも解放されたのです。実に、このように雌牛が人の罪を赦し、きよいものとするならば、尊いキリストの犠牲はどんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょうか。

 

ここには、キリストの血がどれほど力あるのかを、三つの点で語られています。第一に、キリストの血は良心をきよめます。ここに、「どんなにか私たちの良心をきよめて」とあります。人間の良心は、罪によって汚されており、汚れた良心は、人にとって負い目となります。パウロは自らの中にある罪を認めてこう言いました。「私には自分のしていることがわかりません。私には自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことをしているからです。」(ローマ7:15)人は無意識的にそうした良心の咎めを持っています。どんなに言い訳や弁解、仕事や趣味、宗教、善行に没頭してそれを繕おうとしても、その「良心の呵責」があれば真の自由を得ることはできません。しかしキリストの血はそのような「良心の呵責」から完全に解放してくれるのです。

 

第二に、キリストの血は生き方を変える力があります。ここには、「死んだ行いから離れさせ」とあります。キリストの血潮は、人を縛っている罪のくびきから解放することができるのです。ザアカイはその一人です。彼はキリストと出会ったその日から新しい人に変えられました。人の心を罪が支配している間は、人は死んだ行いの奴隷です。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。キリストの血潮と御霊による新生は、人を全く新しい人に造り変えます。使徒ペテロもこう語っています。「あんたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、・・傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:19)

 

第三に、キリストの血は人を生かす力です。ここにはまた、「生ける神に仕える者とする」とあります。キリストの血は神から離れた人を神に連れ戻すだけでなく、新しい歩みをさせる力を与えます。「古い生き方」から解放され罪を離れるならば、「神に仕える」という新しい目標、真の生きがいをもつようになります。「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)とパウロは言いました。主の死にあずかるならば、主のよみがえりの力にもあずかることができ、そのような人は神の前に立つことができ、神のために実を結ぶ生涯へと導かれるのです(ローマ6:5, 22)

 

このようにキリストの血の力を知ることは、私たちをして責められることなく、臆することなく、大胆に、神の前に立つことができ、破格の恵みによって歩くことのできる力を与えられるのです。

 

Ⅲ.永遠の贖い(20-22)

 

最後に、20~22節見て終わります。「20 汚れた者が身の汚れを除かなければ、その人は集会の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである。汚れを除く水がその人に振りかけられなかったので、その人は汚れている。21 これは彼らに対する永遠の掟となる。汚れを除く水をかけた者は、その衣服を洗わなければならない。汚れを除く水に触れた者は夕方まで汚れる。22 汚れた者が触れるものは、すべて汚れる。それに触れた者も夕方まで汚れる。」」

 

これは彼らに対する永遠の掟です。私たちの主イエスが、永遠のきよめを成し遂げてくださいました。イスラエルの民は、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されたので、絶えず繰り返してささげなければなりませんでしたが、これらのささげものの実体であられるキリストが、ただ一度ささげられたことにより、私たちは永遠にきよいものとされたのです。それゆえに、私たちは、イエスの血が心に振りかけられた者として、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けましょう。

民数記18章

民数記18章

 

民数記18章から学びます。

 

Ⅰ.祭司の務め(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。「1 そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所に関わる咎を負わなければならない。また、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、あなたがたの祭司職に関わる咎を負わなければならない。2 また、あなたの父祖の部族であるレビ部族の、あなたの身内の者たちも、あなたの近くに来させよ。彼らがあなたに連なり、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務に当たる。しかし彼らは、聖なる用具と祭壇に近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないようにするためである。4 彼らはあなたに連なり、天幕の奉仕のすべてに関わる、会見の天幕の任務に当たる。資格のない者があなたがたに近づいてはならない。5 あなたがたは、聖所の任務と祭壇の任務を果たしなさい。そうすれば、イスラエルの子らに再びわたしの激しい怒りが下ることはない。6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの子らの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために主に献げられた者として、あなたがたへの贈り物とする。7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについて自分の祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職の奉仕を賜物として与える。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」」

 

 「そこで」とは、16章と17章の出来事を受けて、ということです。17章には、コラの反抗とその結果について記されてありました。コラはレビ人であり、かつケハテ族に属していましたが、彼はアロンの祭司職を欲しがって、モーセとアロンに反抗しました。「あなたがたは分を越えている」と。そんなコラに対してして、主は彼と彼の家族を生きたまま陰府に投げ込むというさはぎを行いました。それを見たイスラエル人たちは、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、それゆえ、主はイスラエルの民に罰を下され、何とイスラエルの民の中から14,700人ものたちが死に絶えました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営の中に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立ったとき、その神罰が止みました。イスラエル人たちはアロンのとりなしによって救われたのです。

 そして18章には、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせ、イスラエルの民がアロンこそ選ばれた大祭司であることをお示しになられました。しかし、イスラエルの民は、ここに現わされた神のあわれみを理解せず、「私たちも滅びる。私たちも滅びる」と言って、パニック状態になってしまいました。それは、彼らが神の恵みとあわれみを理解していなかったからです。彼らは祭司の務めによってそうした神の怒りから救われるということです。主はさばきを行なわれる方ですが、主は、祭司という仲介者をとおして、ご自分の怒りをなだめ、彼らに罪の赦しと和解を与えようとされるのです。そこで主は、その祭司の務めについて語られたのです。

 

1節をご覧ください。主はアロンに、彼と彼の子たち、すなわちアロンの家族が、聖所にかかわる咎を負わなければなせない、と言われました。「聖所にかかわる咎」とは、聖所が汚された場合の責任のことです。同じように、祭司職にかかわる咎とは、祭司職にかかわる違反がなされた場合の責任のことです。それを負わなければなりませんでした。つまり、アロンとその家族こそ、祭司職を担う者たちであることを確認されたのです。ちょっと前にコラの家族とそれにくみする者たちが反抗したことによってイスラエル全体に混乱が起こりましたが、ここでもう一度、だれが祭司の務めを果たすのかを明確に示されたのです。

 

2節には、アロンの家族以外のレビ人たちの立ち位置についても言及されています。レビ人は、聖所でアロンの祭司の務めを助ける奉仕を行なうことはできましたが、祭壇で献げ物をささげることはできませんでした(1:47-53,3:5-10)。それがレビ人に与えられた役割だったのです。その任務に忠実であることを神は求めておられるのです。コラの罪はこの役割を忘れ、アロンの祭司職まで要求したことでした。

 

3節から5節までのところには、神がそのようにされる(祭司の務めと、レビ人の奉仕について確認している)理由を語られます。それは、イスラエル人が死ぬことがないようにするためです。コラたちが受けたような激しい神の御怒りを二度と受けることがないようにするためです。

 

6節と7節には、このアロンの祭司職は、彼とその家族が自分たちで手に入れたのではなく、神の恵みの賜物として与えられたことが教えられています。それは彼らを助けるレビ人も同じです。レビ人もアロンたちが会見の天幕の奉仕をするために、主にささげられた彼らへの贈り物として、神から与えられたものなのです。

 

私たちが自分たちの奉仕について考えるとき、このことはとても重要なことです。これらすべて神からの贈り物、賜物なのです。それは私たちの救いがもともと神からの賜物であることと同じです。エペソ2章8節に「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」とあります。これは神の賜物なのです。そして、神の一方的な恵みによって救いを与えてくださった主は、その後の奉仕においても恵みの賜物を与えてくだり、私たちがしなければならない務めを与えてくださったのです。その分を越えてはいけません。それぞれが神から与えられた信仰の量に応じて、慎み深く、仕えなければならないのです。

 

 Ⅱ.永遠の分け前(8-24)

 

 次に8節から24節までをご覧ください。「主はまたアロンに言われた。「今わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエルの子らのすべての聖なるささげ物について、これをあなたが受け取る分とし、またあなたの子たちへの永遠の割り当てとする。9 火による最も聖なるもののうちで、あなたのものとなるのは次のとおりである。わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物、これらすべては、あなたとあなたの子たちにとって最も聖なるものである。10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。すべての男子は、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。11 また次の物もあなたのものとなる。イスラエルの子らの贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与え、永遠の割り当てとする。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。12 最良の新しい油、新しいぶどう酒の最良のものと穀物、人々が主に供えるこれらの初物すべてをあなたに与える。13 彼らの地のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。14 イスラエルのうちで聖絶の物はみな、あなたのものになる。15 人でも家畜でも、主に献げられるすべての肉なるもので、最初に胎を開くものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の長子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。16 その贖いの代金として、生後一か月たってから、一シェケル二十ゲラの聖所のシェケルで、銀五シェケルを払わなければならない。17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものだからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、脂肪を食物のささげ物、主への芳ばしい香りとして、焼いて煙にしなければならない。18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸肉や右のもも肉と同様にあなたのものとなる。19 イスラエルの子らが主に献げる聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与えて、永遠の割り当てとする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」20 主はまたアロンに言われた。「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。21 さらに、レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。22 これからはもう、イスラエルの子らは、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪責を負って死ぬことのないようにするためである。23 会見の天幕の奉仕をするのはレビ人であり、レビ人が彼らの咎を負う。これは代々にわたる永遠の掟である。彼らはイスラエルの子らの中にあって相続地を受け継いではならない。24 それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。」」

 

 8節には、「主はまたアロンに言われた。「今わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエルの子らのすべての聖なるささげ物について、これをあなたが受け取る分とし、またあなたの子たちへの永遠の割り当てとする。」とあります。どういうことでしょうか?

これは、アロンの家族たちが、祭司としてイスラエルが神に対してささげたささげものの一部を、受け取ることができるということです。イスラエルは、神に動物のいけにえや穀物のささげものなどをささげましたが、それを受け取ることができるということです。それは祭司としての彼らの任務なのです。ここに「聖なるささげ物」とありますが、これは主ご自身のものを自分たちが受け取ることによって、主と自分たちが交わることを意味しています。祭司たちは、主のものを共有することによって主と交わることができたのです。それは、私たちが行う聖餐式と同じです。私たちはイエス・キリストの血と肉を食することによって主との+交わりを持ちますが、それはキリストにあって一つになることができるからです。それは、アロンとその家族に対する「永遠の分け前」なのです。

 

9~10節をご覧ください。ここには、最も聖なるものとして、穀物のささげもの、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物を食べなければならないとあります。なぜこれらが最も聖なるものなのでしょうか?それは、罪のいけにえによって、神と人との関係を妨げている罪が取り除かれ、神との和解がもたらされるからです。その肉を食べるということは、神との和解を受け入れ、神と親しい交わりを持つことになるからです。

 

しかし、ヘブル書を見ると「雄牛ややぎの血は、罪を除くことができません。」(ヘブル10:4)とあります。そうした動物のいけにえは、罪を取り除くことはできません。では何が私たちの罪を取り除くことができるのでしょうか。その後のところには、それは、神の御子イエス・キリストです。「キリストは、つみのために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」(ヘブル10:12)とあります。私たちが神と和解し、神と一つとなるためには、神のひとり子であられるキリスト以外にはないのです。イエス様が罪のためのいけにえとなってくださったことによって、私たちの罪のすべてを負ってくださいました。それ故に、このイエスを信じることによって、私たちは完全な罪の赦しを得ることができるのです。イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:54)と言われました。ですから、祭司が最も聖なるものとしてそれを食べるということは、キリストを信じて神の祭司とされた私たちクリスチャンが、神と親密な交わりを持つことを表しているのです。

 

11節には、その他の奉納物や奉献物は、彼らの息子たち、また娘たちにも与えられるとあります。罪のきよめのささげ物は聖所で奉仕を行なう男子だけが食べることができましたが、その他の奉納物や奉献物は、息子たちや娘たちも食べることができました。しかし、ここにはそれも「永遠の分け前」であると言われています。これは時間が経てば効力を失ってしまうような一時的なものではなく、永遠に続くものであるということです。言い換えれば、完全な分け前であり、欠けたものがないものであるということです。それはまた繰り返す必要のない、ただ一度の出来事であるという意味です。それは神の贖いのわざも同じです。キリストが十字架で血を流され、死なれたことによって、贖いの御業は完成しました。救われるために必要な御業は、他に何もありません。したがって、キリストの成し遂げられた贖いは永遠に続くものであり、再び繰り返される必要はないのです。

 このことについてヘブル人への手紙9章11節にはこうあります。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 

これが、私たちの救いです。私たちはキリストのただ一度の贖いによって、永遠の救いを受けたのです。私たちの過去、現在、未来のすべての罪が、二千年前のキリストの十字架の贖いによってすべて取り除かれたのです。ですから、自分の罪が赦されるために祈ったり、聖書を読んだり、奉仕をし足りする必要はありません。また、自分をもっと聖めたいと思って、こうした宗教的な行いをする必要もないのです。イエス・キリストを信じるなら、あなたは完全に聖められているからです。キリストの贖いの御業は完成しました。イエス様が十字架で死なれる直前に言われたことばは、そのことを表しています。イエス様は死の直前何と言われたでしょうか。「完成した」。それは、救いの御業が完成したということです。ですから、祭司たちが神からいただく分け前は「永遠の分け前」なのです。

 

12節と13節には、「最良の新しい油、新しいぶどう酒の最良のものと穀物、人々が主に供えるこれらの初物すべてをあなたに与える。彼らの地のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。」とあります。
 イスラエル人は、罪のきよめのささげ物や代償のささげ物だけではなく、収穫物の初物を幕屋に携えてきました。それは最良の新しい油、最良のぶどう酒や穀物と、人々が主に供えるこれらの初物のすべてです。それらを自分たちの分け前とすることができました。これらも罪のきよめのささげ物と同じように、キリストご自身を表していました。キリストが彼を信じるすべての人たちの初物となってくださったということです。それゆえキリストを信じるすべての人は、キリストと同じようになるのです。キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも生き、キリストが死なれて葬られたように、キリストにつく者は古い人に対して死に、キリストが神からすべてのものを相続しているように、キリストのうちにある者も、神からの相続を受けるのです。ですから他の個所では、キリストはすべての兄弟の長子となられた、と書いてあります。神の祭司とされた私たちは、初物であるキリストを心に受け入れているからです。

 

14節には、「イスラエルのうちで聖絶の物はみな、あなたのものになる。」とあります。聖絶のものはすべて神のものであり、すべて神の宝物倉に入れておかなければなりませんが、その聖絶のものが彼らのものとなったのです。神と一つにされたからです。

 15節には、「人でも家畜でも、主に献げられるすべての肉なるもので、最初に胎を開くものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の長子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。」とあります。
 植物の初物が祭司のものになったように、人の長子や動物の初子も祭司のものとなります。ただし、イスラエルに初めに生まれてきた男の子が祭司のものになるのではありません。初子はすべて主のものですが、人の場合はお金を払って買い取らなければなりませんでした。16~17節には、その贖いの代価が示されています。生後一ヶ月以上であれば聖所のシェケルで銀五シェケルと定められていました。ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖うことができませんでした。なぜなら、それらは火によるささげものとして、主にささげなければならなかったからです。しかし、その肉はみな祭司たちのものとなりました(18)。

 

19節には再び「永遠の分け前」が出てきます。ここには、この分け前についてのまとめが記されてあります。これは永遠の分け前であり、永遠の塩の契約なのです。「永遠の塩の契約」とは、解消されることのない契約である、という意味です。これは、物理的に祭司職が続くということではなく、先ほど述べたように、キリストの永遠の祭司職を指し示しています。

 

20節から24節までには、相続地に関する規定が記されてあります。祭司たちは、約束の地において自分たちが所有となる土地が与えられませんでした。それは彼らにとって主が割り当て地であり、彼らへのゆずりであるからです。どういうことですか。主ご自身が彼らが相続するものであるということです。いや、ちゃんと相続地が欲しいなぁと思われるでしょうか。でも、主はすべてを所有しておられる方です。ですから、この方を相続するというのは、すべてのものを相続するということなのです。これほどすばらしい相続はありません。すべての霊的富を与えられるのです。

 

私たちも、新約時代の祭司としてこのように告白しなければなりません。私たちにとってイエス様がゆずりの地です。イエス様だけで十分ですと告白し、イエス様に拠り頼んでいるでしょうか。パウロはこう告白しました。「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:12-13)

すばらしいですね。私たちも主が私たちのゆずり、相続地であることを感謝し、このように告白したいものです。

 

それはレビ人も同じでした。主はレビ人にも相続地を与えられませんでした。その代わりに、イスラエル人が携えてくる十分の一をみな受け取ることができました。それは、レビ人が幕屋の奉仕をすることができるようになるためであり、それによって、イスラエル人が幕屋の中に入ったりしなくても良いためです。レビ人はそれによって生活が支えられ、フルタイムで主に仕えることができたのです。

 Ⅲ.祭司の報酬(25-32)

 

最後に25節から32節までを見て終わりたいと思います。「主はモーセに告げられた。26 「あなたはレビ人に告げなければならない。わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一をイスラエルの子らから受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として献げなさい。27 これは、打ち場からの穀物や、踏み場からの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物と見なされる。28 こうして、あなたがたもまた、イスラエルの子らから受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を献げなさい。その中から主】の奉納物を祭司アロンに与えなさい。29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれの最上の部分で聖別される分から主へのすべての奉納物を献げなさい。30 また、あなたは彼らに言え。あなたがたが、その中からその最上の部分を献げるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、踏み場からの収穫と見なされる。31 あなたがたとその家族は、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。32 あなたがたが、その最上の部分を献げるとき、そのことで罪責を負うことはない。ただし、イスラエルの子らの聖なるささげ物を汚して、死ぬようなことがあってはならない。」」

 

レビ人は、受け取った十分の一のすべてを自分たちのものとすることはできませんでした。その中から十分の一を取り、それを主への奉納物としてささげなければなりませんでした。それを、アロンの家族に与えたのです。それは祭司の家族が生活に困ることなく、祭壇と聖所における奉仕に専念することができるようにするためでした。こうしてアロンの家族は、レビ人を含むイスラエル人すべてを代表して主に奉仕をし、礼拝をささげました。物質的な必要が支えられることによって、神と人との仲介の役を果たし、イスラエル人が幕屋に近づいて殺されなくてもすむようにしたのです。

 

これが神の計画でした。神はイスラエルが聖所の器具と祭壇に近づいて死ぬことがないようにするために、このように配慮してくださったのです。それは今日も同じです。神は教会に牧師、長老、監督といった働き人を与え、彼らによってこの働きを担うことができるようにしておられます。Ⅰテモテ5章18節に、「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」とあるとおりです。教会は、主の働き人がその働きに専念できるように、彼らの物質的な必要が満たされるように配慮することが求めてられけているのです。

民数記17章

民数記17章

 

今日は、民数記17章から学びます。前回のところでは、コラとその仲間たちがモーセに反抗した結果、生きたままよみに下るという神のさばきを受けたことを学びました。神が祭司として選ばれたのはアロンの家系であって、彼らはそれを認め受け入れなければならなかったのです。今日の箇所には、そのことをさらに別の方法で示されます。それが有名なアロンの杖です。

 

 Ⅰ.族長たちの杖(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。「1 主はモーセに告げられた。2 「イスラエルの子らに告げ、彼らから杖を、部族ごとに一本ずつ、彼らの部族のすべての族長から十二本の杖を取れ。その杖に各自の名を書き記さなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書き記さなければならない。彼らの部族のかしらにそれぞれ一本の杖とするからだ。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中の、わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」6 モーセがイスラエルの子らにこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、部族ごとに、族長一人に一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、主の前、すなわちあかしの天幕の中に置いた。」(1-7)

 

主はモーセに、イスラエルの子らに、彼らから杖を部族ごとに一本ずつ、全部で12本を取り、その杖に自分の名前を書き記すように言われました。それを会見の天幕の中の、あかしの箱の前に置くようにと言われたのです。何のためですか。神が祭司として選びお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。

 

「杖」は、イスラエル人が日常的に使っていたものです。たとえば、創世記38章18節には、ユダが息子のエルと結婚したタマルに「しるしとして何をやろうか」と言うと、彼女は「あなたの印章とひもと、あなたが手にしている杖」と答えています。

また、出エジプト記4章2節では、ミデヤンの荒野で羊を追っていたモーセが神に召されたとき、主が彼に、「あなたが手にしている杖を地に投げよ。」と言われました。それは羊飼いの杖であると同時に、神の御業を行う杖であったのです。その杖を取るようにと言われました。勿論、それらは枯れ木でした。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置くと、神が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。まさに「枯れ木に花を咲かせましょう」というわけです。枯れ杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司として選んでおられる者であるということをはっきり示そうとされたのです。

 

それで族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖12本を渡したので、モーセはそれらを会見の天幕の中の、あかしの箱の前に置きました。

 

Ⅱ.アロンの杖(8-13)

 

するとどうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがそれらの杖をみな、主の前からすべてのイスラエルの子らのところに持って来たので、彼らは見て、それぞれ自分の杖を取った。10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」11 モーセはそのようにした。主が命じられたとおりにしたのである。」(8-11)

 

その翌日のことです。モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいました。イスラエルではアーモンドは春を告げる花として、1月から2月に咲きます。それが一晩で花を咲かせ、実を結ばせたのです。これは明らかに創造主なる神の御業でした。枯れた木からいのちを芽生えさせることは神にしかできないことだからです。ある人は、切り取ったばかりの生木を置いたのではないかと言う人もいますが、決してそうではありません。たとえそうであっても、水のない所で一夜のうちに実を結ぶことなどあり得ないことです。これは5節にあるとおり、主が大祭司として選んでおられるのはアロンであることをイスラエルの子らに示し、彼らがモーセとアロンに向かって言い立てている不平を遠ざけるために成された神の御業だったのです。主はそれを彼らが目で見える形で証明してくださいました。いくら言葉で説明しても納得しない彼らに、目に見える形で示してくださったのです。「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」と言いますが、意味は、「目覚める」とか「見張る」です。すなわち、主がこれを見張っている、はっきりと見つめているということです。

 

神は、死んだような枯れた木からも花を咲かせ、実を結ばせることのできる方です。それは死者の中からキリストを復活させてくださった神の御業を現わしていました。神は十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせてくださったのです。すなわち、このアーモンドの杖はキリストご自身を予表していたのです。それは、このあかしの箱の中に入れられたものをみてもわかります。10節には、このアロンの杖があかしの箱の中に収められたとあります。あかしの箱、すなわち、契約の箱には他に、契約の板とマナが治められていました。契約の板は、モーセがシナイ山で神から授けられた、十戒を記した二枚の石の板のことです。またマナは、神の民が荒野で飢えていたとき、神が40年間の荒野での旅の間中、毎朝、降らせてくださったもので、神の慈しみを示すものです。それと一緒にこのアロンの杖が収められたのは、アロンが類い稀な大祭司としての使命を持っていることを示すと同時に、それがイエス。キリストご自身を指示していたからなのです。考えてみると、この契約の箱自体がイエス・キリストを指し示すものでした。その中に二枚の石の板とアロンの杖、マナの入った金の壺が収められていたのは、これらすべてがイエス様を指示していたからなのです。その枯れたような杖から芽が出て、花が咲き、実を実らせました。

 

皆さんはアーモンドというと何を思い出すでしょうか。私はアーモンドチョコレートを思い出します。美味しいですよね。別にチョコレートでなくてもアーモンドの実自体が美味しいです。キリストによってつける実も同じです。ガラテヤ5章22~23節には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。これらはキリストを信じることによってもたらされる御霊の実です。それらは実に麗しいものです。私たちにはキリストを信じ、キリストの結び合わされることによって、復活のいのちが与えられ、麗しい実をつけることができるのです。

 

主はアロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。それは逆らう者たちへの戒めのためでした。しるしとして保管しておくためです。これもまた実物教育でした。主がアロンの家系を選んで祭司職に召しておられるという証拠として、逆らう者たちへの戒めとしたのです。また彼らが主に対して不平を漏らすことをなくし、彼らが死ぬことがないようにするためです。このように主の前に証拠物件を置くということは、事件が決着したことを意味していました。そして、この配慮は、イスラエルの民が二度とこのような過ちを犯して死の罰を受けることがないように、というものだったのです。

 

Ⅲ.神の恵みにお頼りして(12-13)

 

それに対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。12節と13節をご覧ください。「12 しかし、イスラエルの子らはモーセに言った。「ああ、われわれは死んでしまう。われわれは滅びる。全員が滅びるのだ。13 すべて近づく者、主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは。ああ、われわれはみな、死に絶えなければならないのか。」」(12-13)

 

ここでイスラエルの子らは、自分たちは滅んでしまうと叫んでいます。どうしてでしょうか。すべて主に近づく者、主の幕屋に近づく者は死ななければならないと、律法にあるからです。それなのに彼らは、自分たちも祭司として神に近づくことができると言い張ってしまいました。しかし、神に選ばれた者でない者が主の幕屋に近づこうとするならば、主の恐るべき裁きを受けることになります。主に反抗して神に近づこうとすることがいかに恐ろしいものであるかを痛感したのです。それで彼らは叫んだのです。それは言い換えると、彼らは主の恵みを理解していなかったからであると言えます。祭司を通して与えられる恵みがどれほど大きなものなのを理解せせず、あくまでも自分の力で神に近づこうとしていたのです。彼らにとって必要だったことは、神がどれほど深く、あわれみ深い方であるかを知ることでした。そして、その主の恵みにお頼りし、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れることだったのです。つまり、信仰を持つことです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人はいつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。「だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」

全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白する者です。そういう者は恐れがありません。なぜなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れが締め出されるからです。

 

そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司イエス・キリストです。へブル4章14~16節をご覧ください。「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちは神の子イエスという偉大な大祭司によって、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。なぜなら、まことの大祭司であられるイエスが、私たちのために神にとりなしてくださるからです。それは私たちの力や行いによるのではなく、大祭司イエスのとりなしによるのです。

 

そのことに彼らは気づきませんでした。神がアロンを大祭司としてお立てになったのは、彼らが死ななくても良いようにとりなしの働きをするためでした。ですから、彼らはその神の権威を受け入れ、神が立ててくださったアロンの祭司職を認めなければならなかったのです。しかし、そうでなかったので、彼らは自分たちが滅びてしまうのではないかと怯えていたのです。

 

それはイスラエルの子らだけではありません。ややもすると、私たちも彼らと同じような過ちを犯してしまうことがあります。自分の力で神に近づこうと考えてしまうことがあります。しかし、神は行いによってではなく、恵みによって私たちを救ってくださいました。神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活の御業を信じる信仰によって救われ、大胆に恵みの御座に近づくことができるようにしてくださったのです。そのために立てられたのが、大祭司イエスです。キリストのとりなしによって私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられたがゆえに、私たちはキリストに信頼し、そのとりなしをいただいて、神に近づく者でありたいと思うのです。