民数記24章

 きょうは民数記24章から学びます。

 Ⅰ.イスラエルを三度も祝福したバラム(1-9)

まず1節から9節までをご覧ください。「1 バラムはイスラエルを祝福することが主の目にかなうのを見て、これまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた。

2 バラムが目を上げると、イスラエルがその部族ごとに宿っているのが見えた。すると、神の霊が彼の上に臨んだ。3 彼は、彼の詩のことばを口にして言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目の開かれた者の告げたことば。4 神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、ひれ伏し、目の開かれた者の告げたことば。5 なんとすばらしいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。6 それは、広がる谷のよう、また川のほとりの園のようだ。主が植えたアロエのよう、また水辺の杉の木のようだ。7 その手桶からは水があふれ、種は豊かな水に潤う。王はアガグよりも高くなり、王国は高く上げられる。8 彼をエジプトから導き出された神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼は自分の敵の国々を食い尽くし、彼らの骨をかみ砕き、矢をもって撃ち砕く。9 雄獅子のように、また雌獅子のように、彼は身を伏せ、横たわる。だれがこれを起こせるだろう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」」

 

イスラエルを呪ってもらおうとバラムを裸の丘に連れて行ったバラクでしたが、バラムはイスラエルを呪うどころか祝福してしまいました。それでバラクはたぶん場所が悪かったんだろうと、今度は彼をビスガの頂に連れて行きました(23:14)。しかし、バラクの思惑とは裏腹に、バラムはまたもやイスラエルを祝福しました。それで彼は、もう一つ別の場所へ彼を連れて行きました。それはペオルの頂上でした(23:28)。「三度目の正直」ということばがありますが、今度こそイスラエルをのろってくれるだろうと期待したのです。しかし、バラムはイスラエルを祝福することが主のみこころにかなうことであるのを見て、これまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けました。

 

2節には、「バラムが目を上げると、イスラエルがその部族ごとに宿っているのが見えた。すると、神の霊が彼の上に臨んだ。」とあります。なぜ彼が部族ごとに宿っているのを眺めたとき、神の霊が彼の上に臨んだのでしょうか。2章を学んだ時、荒野に宿営していたイスラエルがどんな形をしていたか覚えていますか。東西南北に三つの部族がそれぞれ神の幕屋の周りに宿営していました。それを上から見たらどんな形だったかというと、十字架の形だったわけです。だから、バラムがそれを見たとき、神の霊が臨まれたのです。

 

3節から9節までには、バラムのことば詩の形でまとめられています。ここでバラムが告げていることは、イスラエルの美しさでした。5節と6節をご覧ください。ここには、「なんとすばらしいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、広がる谷のよう、また川のほとりの園のようだ。主が植えたアロエのよう、また水辺の杉の木のようだ。」とあります。それは広がる谷のようであり、川のほとりの園のようでした。また主が植えたアロエのように、水辺の杉の木のように、麗しい姿をしていました。以前、那須塩原にある回顧(みたらし)の滝を見に行ったことがありますが、とてもきれいでした。回顧(みたらし)の吊り橋から見るあれは箒川でしょうか、川辺の緑の美しさに、とても感動したのを覚えています。バラムが見たイスラエルの宿営はもっと美しかったことでしょう。詩篇1章3節には、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ人は、水路のそばに植わった木のようだとあります。まさにイスラエルは水路のそばに植えられた木のように、神のいのちにあふれていました。

 

そして7節から9節には、イスラエルの強さが歌われています。「王はアガグよりも高くなり」とありますが、「アガク」とは、サムエル記第一に出てくるサウル王が戦うアマレク人の王のことではないかと考えられています(Ⅰサムエル15:8)。もしかしたら、それは王の称号だったのかもしれません。イスラエルはそうした諸国の王よりも高く、あがめられるということです。

また8~9節には「彼をエジプトから導き出された神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼は自分の敵の国々を食い尽くし、彼らの骨をかみ砕き、矢をもって撃ち砕く。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼は身を伏せ、横たわる。だれがこれを起こせるだろう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」とあります。「野牛の角」とか「雄獅子」、「雌獅子」とは23章にも出てきた表現ですが、それは強さを表していました。また、「獅子」とは百獣の王ライオンです。ライオンのように諸国の中で第一の地位を占めるようになると言われています。これはダビデの時代にある程度実現しますが、究極的にはダビデの子孫から生まれるメシヤ、キリストにおいて実現します。そして最後に、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」というアブラハムへの神の言葉を述べられています。ですからバラクがやっていたことは、自らに呪いを招くことだったのです。イスラエルを呪おうとしたのですから。

 

Ⅱ.モアブに対する預言(10-19)

 

次に10節から19節をご覧ください。「10 バラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵に呪いをかけてもらうためにおまえを招いたのに、かえっておまえは三度までも彼らを祝福した。11 今、おまえは自分のところに引き下がれ。私は手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」12 バラムはバラクに言った。「私は、あなたが遣わした使者たちにも、こう言ったではありませんか。13 『たとえバラクが私に銀や金で満ちた彼の家をくれても、主のことばに背くことは、良いことでも悪いことでも、私の心のままにすることはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。』14 今、私は自分の民のところに帰ります。さあ、私は、この民が終わりの日にあなたの民に行おうとしていることについて、あなたに助言を与えます。」15 そして彼の詩のことばを口にして言った。「ベオルの子バラムの告げたことば。目の開かれた者の告げたことば。16 神の御告げを聞く者、いと高き方の知識を知る者、全能者の幻を見る者、ひれ伏し、目の開かれた者の告げたことば。17 私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。その敵、エドムは所有地となり、セイルも所有地となる。イスラエルは力ある働きをする。19 ヤコブから出る者が治め、残った者たちを町から絶やす。」」

 

イスラエルを呪うどころか三度も祝福したバラムに対して、バラクは激しい怒りを燃やしました。「手を打ち鳴らす」というのは、極めて強い怒りを表しているしぐさです。そしてバラムに言いました。「私の敵に呪いをかけてもらうためにおまえを招いたのに、かえっておまえは三度までも彼らを祝福した。今、おまえは自分のところに引き下がれ。私は手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ。」もう堪忍袋の緒が切れたという感じですね。

 

 それに対してバラムは何と言いましたか。最初からちゃんと言ったではありませんか。たとえ金や銀で家をもらっても、主のことばに背くことは、できないと。そして、「終わりの日」にバラクに対して主が行おうとしていることを告げるのです。それが15節から19節にある内容です。それは私たちの時代を越えて神の国が立てられるまでの驚くべき幻です。

 

「ヤコブから一つの星が上る」(17)とは、メシヤ預言です。これはまさしくイエス・キリストのことを表しています。メシヤ、救い主はヤコブから上ります。マタイの福音書には、東方の博士たちがユダヤ人の王が出現するというしるしを、星の動きによって突き止めたということが出てきますが、それはおそらくこの後バラムが故郷に戻り、ユダヤ人の王、メシヤのしるしが星であることを伝えたからでしょう。東方の博士たちはこれらの知識を基に、エルサレムで当時「ユダヤ人の王」と自称していたヘロデ王に謁見したのです。またその後も、ダニエルがバビロンにいた時、彼はメシヤが諸国を打ち砕いて、神の国を打ち立てることを預言しました(ダニエル2:44-45)。

 

また「一本の杖」(17)とは、羊飼いのことを表していますが、これは後に民を治めるメシヤがどのような方であるかを示しています。それは、羊飼いなる方であるということです。イエス様はこう言われました。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨て捨てます。」(ヨハネ10:11,14)また、ダビデも主を、「私の羊飼い」と呼びました(詩篇23:1)。それゆえ、「私は乏しいことがありません。」と。私たちの主イエスは、まことの羊飼いであられるのです。

 

そして、主はモアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕きます(17)。モアブが打ち砕かれるという預言は、後にイザヤ、エレミヤ、そしてエゼキエルも預言します。イザヤ書15~16章、エレミヤ48章、そしてエゼキエル25章にも出てきます。モアブは後にアッシリヤ、バビロン、そしてギリシヤなどによって、時代の中で滅ぼされ消えていきます。

エドムに対しても主は、後の時代にそこをご自分がイスラエルによって支配されることを告げられました(マラキ1:3-5)。エドムとはエサウの子孫です。ヘロデ王はエドムの末裔です。当時はイドマヤ人と呼ばれていましたが、この預言にあるように、その後消えてしまいました。

 

Ⅲ.諸国に対する預言(20-25)

 

そして、20節から25節には、その他の諸国に対する預言が語られています。「20 彼はアマレクを見渡して、彼の詩のことばを口にして言った。「アマレクは国々の中で最高のもの。しかし、その終わりは滅びに至る。」21 彼はケニ人を見渡して、彼の詩のことばを口にして言った。「あなたの住みかは堅固で、あなたの巣は岩間に置かれている。22 しかし、カインは滅ぼし尽くされ、ついにはアッシュルがあなたを捕虜とする。」23 また彼は、彼の詩のことばを口にして言った。「ああ、神が定められたなら、だれが生き延びられるだろう。24 船がキティムの岸から来て、アッシュルを苦しめ、エベルを苦しめる。これもまた、滅びに至る。」」

 

まず、アマレクに対してです。「アマレク」とは、イスラエルが荒野の旅をしていた時に襲ってきた民です(出エジプト17:8-16)。このアマレクとの戦では、モーセが手を上げることで勝利することができました。それは主が戦ってくださったということです。そのためにモーセの手が下りないように、一方の手をアロンが、もう一方の手をフルが支えました。現代でも、このように手を支える人が必要です。このアマレクも滅びに至ります。エステル記に登場するハマンは、このアマレクの末裔でした。彼はユダヤ人絶滅を企みましたが、結果は彼とその家族が取り除かれ、ユダヤ人を殺そうとした者がかえって殺されてしまいました。

 

「ケニ人」は、ミディアン人のところに住んでいた遊牧民です。モーセのしゅうとのイテロもケニ人でした。そして、モーセたちと共に移動してきて、イスラエルの中に住むようになったのです。けれども、彼らはずっと後にアッシリヤによって捕え移されることになります。22節の「アッシュル」とはアッシリヤのことです。ですからバラムはここで、この後700年も後に起こるアッシリヤ捕囚のことを預言していたのです。

ちなみに22節の「カインは滅ぼし尽くされ」の「カイン」とは誰のことを指しているのかわかりません。アダムとエバの息子であったカインのことなのか、それとも、創世記5章10節に登場しているセツの孫「ケナン」から来た名前なのかはっきりわかりません。しかし、確かなことは、ここでカインは滅ぼし尽くされるということです。あのアダムとエバの息子であったカインに代表される悪が滅ぼし尽くされるということでしょう。

 

23節と24節には、さらに驚くべき遠い将来の預言がバラムによって語られます。24節の「キティム」とはキプロス島のことですが、これは西からの勢力のことを指しています。つまり、西の方から敵がやって来てアッシリヤとそれに続く東方の国々を苦しめ滅ぼすという預言です。それは、ペルシヤがギリシヤによって倒れ、そしてローマが世界を支配するという預言です。「エベル」とはヘブル人のこと、つまりユダヤ人のことですが、ユダヤ人はギリシヤによってもローマによっても悩まされますが、しかし、最後にはローマもメシヤによって滅ぼされるのです。ダニエル書が預言している通りです。こうやって見ると、バラムの口によって、ものすごい預言が語られたのです。

 

こうやって見ると、聖書って本当にすごいなぁと思います。何がすごいかって、その預言です。たとえば、先月ロシアがウクライナに侵攻しましたが、いったいこれはどういうことなのかを考えると、これもまた聖書の預言と関係あることがわかります。すなわち、エゼキエル38章に記されてある預言の成就とみることができるということです。エゼキエル38:1には「人の子よ、メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言せよ。」とありますが、この「大首長」こそ「ロシア」のことです。ヘブル語では「ルーシ」という言葉ですが、これは「ロシア」の語源になった言葉です。また、「ゴグの地」とは、ロシアの南西部、今のカスピ海沿岸地域の国々のことです。その主張である「ゴグ」こそ「ロシア」なのです。それは15節にあるように、「北の果てから」多くの国々の民とともに、イスラエルを攻めて来ます。ダニエル7:7には、それは10の国々からなる連合軍です。それは2節の「メシェク」(モスクワ)、「トバル」(ジョージアのトビリシ)、5節、「ペルシャ」(イラン)、「クシュ」(エチオピア)、「プテ」(リビア)、6節「ペテ・トガルマ」(トルコ)といった国々です。それらの国々の下にはシリアがあります。その下がイスラエルです。メギドの丘はすぐそこなのです。これらの国々は最近ロシアと非常に近い関係にあります。これらの国々が北の果てからイスラエルを攻めてきたら、まそに「終わりの時」が近いということです。今回はイスラエルではなくウクライナに侵攻しましたが、いつイスラエルを攻めて来てもおかしくない状況なのです。ですから、今回の出来事は、この預言の前兆としての出来事であると言えるのです。

 

また、2020年からのコロナウイルス感染症も、今回のロシアのウクライナへの侵略と合わせて考えると、100年前の第一次世界大戦(1914年)、これは世界で初めて職業軍人ではなく一般の民衆が動員された戦争ですが、それはイエス様がマタイの福音書24章で預言されたことの成就とみることができます。イエス様はこう言われました。「民族は民族に、国は国に手滝泰して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。」(マタイ24:7)

100年前はこの世界大戦を皮切りに、1918~1919年にスペイン風邪が流行しました。全世界で5,000万人もの人が死んだのです。そしてその10年後の1929年には世界恐慌、その10年後の1939年には第二次世界大戦が起こりました。その時と本当に似ているのです。そして1948年にはイスラエルが建国されました。2000年もの間世界中に散らされていた民が国を再興したのです。人間的には考えられないことです。しかし、現実に起こりました。どうしてこんなことが起こったのでしょうか。聖書に預言されていたからです。

そしてあれから100年が経った今、2011年には大地震が発生しました。東日本大震災です。また地球温暖化による異常気象と飢饉、コロナウイルス感染症(疫病)、ロシアのウクライナ侵攻と、もしかすると第三次世界大戦に発展するかもしれないという危機の中にあります。これらのことは何を物語っているのかというと、世界は確実に聖書の預言の通りに、終末に向かっているということです。もうその前兆に入っていると言えるでしょう。ものすごい時代を迎えているのです。

このように、聖書の預言はことごとく成就していることがわかります。それがバラムによって語られたものか、イザヤ、エレミヤによって語られたものか、あるいはヨハネの黙示録によって語られるのはともかく、聖書にはこのようにものすごい預言が語られているのです。

 

であれば、私たちはこの終末においてどのように生きるべきかが示されます。それは、この神が聖書によって語られた確かなことばに従って生きるということです。そうすれば、不安やおそれはありません。神を信じる者を、神が守ってくださるからです。これも聖書にある約束のことばです。

 

それからバラムは自分のところへ帰って行きました。バラクもまた帰途に着きました。けれども、この話はここで終わりません。25章に入ると、ペオルの事件が起こります。イスラエルの民がモアブの女たちにそそのかされてバアル・ペオルという偶像を拝んだので、神罰が下るのです。なんと二万四千人が死に絶えることになります。その事件にバラムが深く関わっていくのです。このことについては次回学びたいと思いますが、このバラムの預言を通して、神に祝福されるように選ばれた民は誰であるかがはっきりと示されました。それはイスラエルです。イスラエルを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。そして、私たちはこの神の祝福の中に入れられているのです。そのことを覚えて、このすばらしい恵みの中に導き入れてくださった主に心から感謝し、この方のみこころに歩ませていただきたいと思います。