旗じるしは愛 雅歌2章1~7節

2021年6月13日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌2章1~7節

タイトル:「旗じるしは愛」

 

 雅歌からお話しております。きょうはその4回目となりますが、2章1節から7節までの箇所から「旗じるしは愛」というタイトルでお話します。

 

Ⅰ.茨の中のゆりの花のようだ(1-2)

 

まず、1~2節をご覧ください。1節には、「私はシャロンのばら、谷間のゆり。」とあります。

 

これは、花嫁が花婿に語っていることばです。花嫁は、自分はケダルの天幕のように黒いけれども、花婿が「あなたは女の中でもっと見美しいひとよ」と言ってくださるので、ソロモンの幕のように美しいと宣言することができました。花婿の誉め言葉はそれだけではありませんでした。1章9節では、「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。」と言いました。なんですか、馬になぞらえるなんて!という人もいるかもしれませんが、それは最高級の馬のことであり、それほど美しいということの表現でした。そればかりか、覚えていますか、15節には「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」とありましたね。鳩のように美しく、きよらかであるということです。花婿は花嫁に対して何度も「美しいひとよ」と言うものですから、花嫁はすっかり気分がよくなって、ここでこう言うのです。「私はシャロンのバラ、谷間のゆり」。人は自分が愛されていることがわかると自分のイメージが変わります。他のだれが何と言おうとも、自分が愛する方がそのように言ってくださるのです。彼女はこれまで「私は黒いけれども美しい」と言っていましたが、「私はシャロンのばら、谷間のゆり」と言うまでになったのです。

 

「シャロン」とはヨッパからカイザリヤまでの地中海沿岸の肥沃な平原のことです。砂漠の多いこの地域にあっては、花が咲き草木が生い茂る特別な場所です。そのシャロンに咲くばらのようだというのです。この「ばら」という語ですが、新改訳第三版では「サフラン」と訳しています。このことばは聖書の中では他に1か所だけに出てきます。それはイザヤ書35章1節ですが、そこには「サフラン」と訳されています。「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。」新改訳2017ではこの「ばら」に※が付いていて、欄外注の説明には「サフラン」とあります。英語のある聖書(米改定標準訳)には「クロッカス」と訳されています。おそらく、「サフラン」か「クロッカス」のどちらかではないかと思います。花がよく似ていますが、サフランのめしべの方がクロッカスのめしべに比べて著しく長いのが特徴です。どちらにしても確かなことは、この花はシャロンに咲く美しい花であるということです。

 

また、彼女は自分を「谷間のゆり」にたとえています。「ゆり」は、野にあふれていた草花でした。イエス様は新約聖書の中でこのゆりについ言及しています。マタイ6章28節です。「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」この「野の花」の「花」が「ゆり」です。第三版では「野のゆりが」と訳しています。これは野原に普通に咲いていた花でした。彼女は慎ましやかに、自分を野に咲いているありふれたゆりの花であるとしながら、ただのゆりの花ではない、谷間のゆりだと言っているのです。谷間のゆりとは何でしょうか。谷間とは、過酷な環境の中でもひっそりとたたずんだ場所です。彼女は自分がそうした野のゆりの花にすぎない者でも、そうした過酷な環境の中でもたくましく生きているゆりの花なのだと言っているのです。つまり、美しさとたくましさを備えた花であるということです。

 

まさにイエス様がそのような方でした。中世のキリスト教の多くの聖画を見ると、青い目をした色白の、弱々しい姿のイエス様の姿を描いたものが多いですが、実際はそうじゃなかったと思います。イエス様は大工の息子でしたから、もっとがっちりしていたのではないかと思います。何よりも、神の子としての栄光と神々しさに溢れていたでしょう。見た目では他の人とあまり変わりはないように見えても、この方には神の御霊が無限に注がれ、神の栄光に満ち溢れて。まさにシャロンのばら、谷間のゆりです。ここでは花嫁がそのように言われています。イエス様がそのようなお方なので、その花嫁である教会もそのようになっていくのです。

 

そんな花嫁に対して花婿はなんといっているでしょうか。2節をご覧ください。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」これは花婿のことばです。どういう意味でしょうか。

 

「茨」とはとげのある小さな草木です。その中にあってとりわけ美しいゆりの花、それが花嫁です。この茨とは他の女性たちのことを指しています。1章5節には「エルサレムの娘たち」のことが記されてありますが、彼女たちは茨のような存在と言えるでしょう。そうした娘たちの中にあってその美しさが際立っていました。確かに彼女はどこにでもあるような野のゆりにすぎないかもしれませんが、しかし、そんな彼女の美しさと比べたら、他の女性たちは茨のようだと言っているのです。それほどに花婿にとって花嫁は特別な存在であるということです。

 

実際、イエス様があなたを見るときそのように見ておられます。あなたはひときわ美しいと。あなたの周りには確かに才能に溢れた人、輝いた人がいるかもしれない。回りのみんなからちやほやされ、羨ましい限りのような人がいるかもしれない。それと比べたら自分には何の才能もなく、いたって平凡で、これといった取り柄があるわけでもないし、本当に情けないとあなたは思っているかもしれないが、そんなあなたを見てイエス様は「あなたは美しい」とおっしゃってくださるのです。「あなたと比べたら、他は茨のようだ!」と。

 

イエス様の目であなたは唯一無二の特別な存在なのです。イザヤ43章4節にこうあります。「わたし目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」このように見てくださる主に感謝したいと思います。そして、私たちの目ではなくイエス様の目で自分はどういう者なのかということを、正しく受け止めたいと思います。

 

Ⅱ.あの方の旗じるしは愛でした (3-6)

 

次に、3節から6節までをご覧ください。3節をお読みします。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです。」

 

これは、そんな花婿のことばを受けて花嫁が語っていることばです。ここで花嫁は花婿を称賛しています。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。」「林の木々」とは「雑(ぞう)木林(きばやし)」のことです。ここで若者たちが雑木林にたとえられているのです。つまり、花婿が若者たちの間におられるのは、雑木林の中に植わったりんごの木のようだと。それだけ特別な存在であるということです。

 

どのように特別なのか、その後のところで言われています。まず、「その木陰に私は心地よく座り」とあるように、その木陰で休むことができます。「寄らば大樹の陰」ということわざがあります。どうせ頼るなら、大きくて力のあるものに頼ったほうが安心できるし、なにかと得だという意味です。 雨宿りをしたり、暑い日ざしを避けようとして木陰に身を寄せるときには、大きな樹木の陰がなにかと好都合であるということです。まさに私たちの花婿は「大樹の陰」です。皆さんは何を大樹としているでしょうか。お金ですか、仕事ですか、それとも資格といった類のものでしょうか。そうしたものもある程度は必要でしょう。しかし、そうしたものが全く頼りにならないときがやってきます。こうしたものがあなたを裏切ることもあります。あれほど必死で働いてきたのに、いったいそれはどういうことだったんだろう、ということがあるのです。仕事であろうと、資格であろうと、そうしたものが役に立たないときがあるのです。しかし、私たちの花婿は、決してあなたを失望させることはありません。この方は林の木々の中のりんご、雑木林の中にしっかりとそびえ立つりんごの木のように、あなたをすべての災いから守ってくださるからです。

 

詩篇91篇お開きください。これは主に身を避ける人がいかに幸いであるのかを歌った歌です。1~2節だけとも思いましたが、とてもすばらしい詩なので、全体をお読みしたいと思います。

「1いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。

2 私は主に申し上げよう。「私の避け所、私の砦私が信頼する私の神」と。

3 主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。

4 主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。

5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も、昼に飛び来る矢も。

6 暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

7 千人があなたの傍らに、万人があなたの右に倒れても、それはあなたには近づかない。

8 あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。

9 それはわが避け所主を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである。

10 わざわいはあなたに降りかからず、疫病もあなたの天幕に近づかない。

11 主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。

12 彼らはその両手にあなたをのせあなたの足が石に打ち当たらないようにする。

13 あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。

14 「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。

15 彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与える。

16 わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」」

すばらしいですね。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は、全能者の陰に宿ります。私たちが苦しいときに主を避け所とするなら、主がいつもともにいて私たちを救ってくださいます。日本語で「お陰様で」ということばがありますが、この「お陰様で」という言葉は、辞書で調べてみると、神仏の加護の意味がある“御蔭”(おかげ)が語源とされている、とありました。この神仏とはだれでしょうか。これはこの全能者のことです。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿ります。そのおかげで完全に守られるのです。そういう意味でのりんごの木です。

 

私が福島で牧会していた時、一人の婦人が突然教会に来られました。それは土曜日の朝のことでした。「すみません、お話を聞いていただけるでしょうか」と、ご自分のことを話されました。アルコール中毒だったご主人が2階からたたき落ち、首の骨を折り1年半の間寝たきりになっていました。農家の仕事もできなくなったので農機具を処分しようと農機具屋に来ましたが、教会があるのを見て来ました、ということでした。お話をお聞きしましたが、どうしてあげることもできず、主があわれんでくださるようにと祈りました。そして、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)のみことばから、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったこと、そして三日目によみがえってくださり、私たちの救いの御業を成し遂げてくださったことをお話し、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」(ローマ10:13)とお話すると、その場でイエス様を信じました。全能者の陰に宿ったのです。

数日後にご主人が入院している病院に行きました。ご主人は気管切開し呼吸器につながれていました。「こりゃ無理だ」と内心思いましたが、神様が癒してくださるように、そしてこの苦しみから救ってくださるようにと祈りました。

イエス様を信じてからこの姉妹は意欲的に仕事を探しました。するとある営業の仕事が与えられました。「先生、仕事が与えられました。感謝します。イエス様のお陰です。」と喜びが電話から伝わってきました。「良かったですね。どんなお仕事ですか」と尋ねると、何かの営業のお仕事でした。「日曜日はお休みになれますか」と聞くと、休んでも月1回くらいということでした。それで「もう少し祈りましょう。神様は必ず良い仕事を与えてくださると思います。」と言うと、「先生ひどい!」というのです。「せっかく仕事が与えられたのに。これからのことを考えると良い仕事だと思ったのに」と。

それで彼女はどうしたかというと、もともと農家の方で、りんごとかさくらんぼとかを栽培していたのですが、りんご畑に行ってりんごの木の下で祈りました。祈ったというよりもボーっとしていたといった方がいいかもしれません。すると、ある一つのことを思い出したのです。それは義理の両親がご主人のために掛けていた生命保険のことです。病院の医師は回復の見込みが有りと診断書に書いていたので保険金は受け取れない状態になっていましたが、もしかすると無にしてくれるのではないかと思ったのです。「どう思いますか」と言うので、「こういう状態がずっと続いているので、医師に相談したらいいと思います」と言うと、医師は「あ、そうだね、回復の見込みは無いね」とあっさりと「無」にしてくれたのです。それでご両親が掛けてくれていた保険が下りて、苦しい生活から解放されたのです。

それからしばらくして、私が大田原に来てからのことですが、ご主人が奇跡的に意識を回復し立ち上がることができるまでになりました。そしてなんとか杖をついて教会にも来られるようになったのです。教会の創立30周年の時に、後ろから私の肩をたたく人がいるので誰かなぁと思ったら、そのご主人でした。ご主人は介護を受けて自立生活ができるまでになり、イエス様を信じて救われました。ご主人だけではありません。二人のお子さんも、義理のご両親もみんなイエス様を信じて救われたのです。この方に信頼する者は、だれも失望させられることがありません。主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。

すべてはあのりんごの木から始まりました。イエス様を信じて祈り、イエス様の陰に宿ったことで、イエス様が助けてくださったのです。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦私が信頼する私の神」と。

 

あなたは何の陰に宿っていますか。いと高き方の隠れ場、全能者の陰に宿る人は幸いです。ところで、いと高き方の陰に宿るといっても、りんごの木ではちょっと小さいんじゃないかと心配する方もおられるかもしれませんね。でも大丈夫です。この「りんごの木」という言葉ですが、これはヘブル語では「タプアハ」という語です。これはりんごの木というよりは杏子の木、アプリコットの木のことです。それは10mくらいになります。ですから、陰として十分なのです。しかし、これがりんごの木であろうと杏子の木であろうと、これは花婿なるキリストのことですから、主イエスの陰に宿ることが大切であるということです。主に信頼する者は失望させられることはないからです。

 

このりんごの木ですが、もう一つのことは、その実は甘いということです。3節に「その実は私の口に甘いのです」とあります。これは、5節にも「りんごで元気づけてください」とありますが、私の口に甘く、私たちを元気づけてくれる神のみことばのことを表しています。詩篇の19篇10節には、「それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」とあります。主のおしえは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘いのです。

また、詩篇119篇103節にはこうあります。「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」それは甘いのです。それはただ甘いだけではありません。それはあなたを励まし、あなたを元気づけてくれます。

 

あなたはこのみことばを味わっているでしょうか。全能者の陰に宿り、この方が与えてくださる実、みことばの実を口にすることで、あなたも元気づけられます。私たちもキリストの花嫁として、主よ、あなたは林の木々の中のリンゴのようですと、その木陰に宿り、その実を口にする者でありたいと思います。

 

そして4節をご覧ください。ここにはこうあります。「あの方は私を酒宴の席に伴ってくださいました。私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした。」

「あの方」とは、花婿のことです。花婿が花嫁を伴ってくださいました。どこに伴われましたか?酒宴の席に、です。「酒宴の席」とは、宴会とか、祝宴の席のことです。田舎娘の花嫁がこうした宴の席に出ること自体恥ずかしいことだったでしょう。身を引くような思いだったに違いありません。そんな花嫁を気遣って花婿は彼女をひときわ励まし、安心を与え、配慮しているのです。

 

その花嫁の上に翻っていた旗じるしは何でしたか。「愛」です。愛でした。「旗じるし」とは、兵士がどの部隊に属しているのかを示すものです。それは、誰が軍を率いているのかが一目でわかるような目印でもありました。強い武将なら「俺がここにいるぞ!」と相手を威圧するメリットもありました。その旗じるしが愛だったのです。それはイエス・キリストの十字架によって表された神の愛のことです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

クリスチャンはみな、この旗じるしの下に呼び集められた者です。イエス・キリストの愛に属するものとされたのです。教会のシンボルが十字架であるゆえんはここにあります。どの教会にも十字架が掲げられているのは、ここに神の愛が示されたからです。これが花嫁である教会の上に翻っていた旗じるしでした。

 

もしこの旗じるしが「愛」ではなく「聖」だったらどうでしょうか。あるいは、「義」だったらどうでしょう。誰も近づくことができなかったでしょう。私たちはあまりにも汚れているので、どんなに自分で聖くなろうとしてもなれないからです。しかし、神はそんな私たちを愛してくださいました。確かに私たちは汚れた者、罪深い者ですが、そんな私たちが滅びることがないように神はそのひとり子をこの世に遣わしてくださいました。そして、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んでくださり、それを信じる人が救われるようにしてくださったのです。それが十字架です。神は世界中どこででも、この十字架の旗じるしを掲げて、私たちが帰るのを待っておられるのです。あなたをとっても愛しておられる造り主が。

 

5節をご覧ください。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで元気づけてください。私は愛に病んでいるからです。」「干しぶどうの菓子」は「干しぶどう」とは異なります。これはケーキ状に圧縮したぶどうの菓子で、ダビデが契約の箱を運んだ者たちに与えたものの一つです(Ⅱサムエル記6:19)。これは今日でも旅人を元気づけるために与えられると言われています。それは腐らず保存が効くことで、最高の贈り物とされていました。それはイエス・キリストご自身の象徴でもあります。ヨハネ6章27節には「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」とあります。イエス様こそいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物です。私たちには、このような食べ物が与えられています。その食べ物によっていつも力づけてもらうことができるのです。

 

また、「りんごで元気づけてください」とあります。このりんごもイエス様のことを象徴しています。3節にも「その実は私の口に甘いのです」とありましたが、それは花嫁を元気づけてくれるものでした。詩篇145篇14節には、「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」とあります。主は倒れている者をみな支え、かがんでいる者をみな起こしてくださいます。マタイ11章28節には、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。有名なことばですね。おそらく教会の看板に書かれてある聖句で一番多いのがこのみことばではないかと思います。もしあなたが疲れているなら、重荷を負っているなら、イエス様のもとに来てください。そうすれば、主があなたを休ませてくださいます。りんごで元気づけてくださるのです。

 

6節をご覧ください。花嫁は続いてこう言っています。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」

直訳では「左」「右」です。それが腕なのか手なのかははっきりわかりません。新改訳第三版では、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」と訳しています。ここでは左の腕でしっかりと支え、右の手で優しく抱きしめているイメージです。それは確かな保護と細やかな愛情を表しています。毎日が不安ですという方がおられますか。今月の支払いもギリギリで、この先どうやって生きていったらいいかわかりませんと。でも大丈夫、あなたはこの方の確かな保護を受けているのですから。健康面で不安ですという方がおられますか。安心してください。主があなたを守ってくださいます。それはただ困ったときの神頼みではなく、いつでも、どんな時でも、あなたのすぐそばにいてあなたを助けてくださいます。この方はあなたの花婿なのです。力づよい御腕と細やかな愛の御手をもって守ってくださるのです。

 

私の好きなみことばの一つに、申命記33章27節のみことばがあります。「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。」

すばらしいですね。私たちの下にはこの永遠の腕があります。神が常にあなたを支える腕となってくださいます。敵に立ち向かう力を与えてくださいます。自分で戦うのではありません。死に勝利され復活されたキリストが戦ってくださるのです。私たちは、神に信頼して従ってゆくのみです。

 

Ⅲ.愛が目ざめるとき(7)

 

最後に7節を見て終わりたいと思います。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

 

これは花婿のことばです。同じことばが3章5節と8章4節にも繰り返して出てきます。この繰り返しによって一つの場面を締めくくっていると言えます。ここで花婿はエルサレムの娘たちに、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いしています。花嫁を揺り動かしたり、かき立てたりしないように。愛がそうしたいと思う時までは、そっとしてあげてくださいと。

「かもしか」や「野の雌鹿」は、非常に敏感な動物です。ちょっとした物音でも飛び跳ねて逃げて行きます。そのかもしかや野の雌鹿にかけて、花嫁を揺り起こしたり、かき立てたりしないでほしいと懇願しているのです。どうしてでしょうか。

 

愛とはそういうものだからです。愛とはだれか他の人にせかされて動くようなものではなく、そうしたいという思いが内側から起こされてはじめて動くものだからです。第三版では「愛が目ざめたいと思うときまでは」となっています。それは恣意的に起こすことがあってはいけないということです。愛は、自分から、あるいは人から強制されてつくり出せるものではないのです。「この人を絶対に愛して行きます。」「永遠に愛します」と口で言ったとしても、そうすることはできません。愛には「目ざめ」が必要なのです。この目覚めがないのにどれだけ自分の意志で愛そうと思っても、限界があります。といっても、それは花嫁自身の中からは出てくるものではありません。聖霊の助けと促しなしには「目ざめる」ことはないのです。それゆえに「愛の目ざめ」は尊いのです。しかもその愛が「目ざめる」ときには「強さ」を表します。8章6節に「愛は死のように強く」とあるとおりです。そして、その愛は大水も消すことができません(8:7)。

 

花婿なる主イエスへの愛も同じです。牧師にどれだけ強く勧められても、自分の中にそうしたいという思いが与えられなければ盛り上がることはありません。一時的に心が高まることがあるかもしれませんが、すぐにしぼんでしまうことになるでしょう。花嫁の心はかもしかや野の鹿のように繊細なので、内側から自然に愛が湧いてくるまで待たなければなりません。その中で聖霊ご自身があなたに触れてくださり、あなたに慰めと励ましを与えてくださいます。愛がそうしたいと思うとき、愛が目覚めるときがやってきます。その愛は死のように強く、大水も消すことができないほどの力となって表れるのです。

 

パウロは、エペソの教会の人たちのためこう祈りました。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:14~21)

私たちも祈りましょう。私たちの内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、私たちの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いている私たちが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますようにと。