ヨハネの手紙第三1章1~15節「真理のうちに歩む」

これまでヨハネの手紙からずっと学んできましたが、きょうは、そのヨハネの手紙全体の最後の説教です。この手紙は第二の手紙同様、短い内容になっています。この中にガイオとディオテレペス、デメテリオという三人の名前が出ておりますので、きょうはこの三人にスポットを当ててお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.真理のうちに歩んだガイオ(1-8)

 

まずガイオについて見ていきましょう。1節から8節までを注目してください。まず4節までをお読みします。

「長老から、愛するガイオへ。私はあなたを本当に愛しています。愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。」

 

この手紙は長老ヨハネから、ガイオに宛てて書き送られました。「ガイオ」という名前は、当時はありふれた名前で、新約聖書にも何人か出てきます。

まず、ローマ16章23節に、「私と教会全体の家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。」とあります。このガイオはコリントでパウロからバプテスマを受け(Ⅰコリント16:23)、後に教会全体の家主になっていました。

次に、パウロの第三回伝道旅行に同伴し、エペソにある期間滞在していたマケドニヤ人ガイオです。エペソにデメテリオという銀細工人がいて、アルテミスの神殿の模型を作りかなりの収入を得ていましたが、パウロがエペソで伝道したことで自分のたちの評判が悪くなることを恐れ、その仲間たちといっしょにパウロに同行していたこのマケドニヤ人ガイトとアリスタルコを捕らえ、一団となって劇場になだれ込みました(使徒19:29)。

それから、同じくパウロの第三回伝道旅行に同行していたデルベ人ガイオです(使徒20:4)。この手紙の受取人であったガイオがこの三人のうちのだれかなのか、それともこの三人以外のガイオなのかはっきりわかりません。ただ一つだけ言えることは、この手紙を書いたヨハネと親しい間柄にあったということです。それは間違いないでしょう。

 

では、このガイオはどのような人物だったのでしょうか。2節には、「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。

もしかすると彼はたましいに幸いを得ていましたが、健康に問題があったのかもしれません。そんな彼のためにヨハネは、たましいたけでなく、すべての点で幸いであるように、また健康であるようにと祈るのです。どちらかというとクリスチャンは、貧しくて下っ端でいることが美徳であるかのように考え、このようにすべての点で幸いを得るようにと祈ることに罪悪感というか、抵抗を覚えている人も少なくないのではないかと思います。けれども、そのような中にあっても、良い環境にあることを願うことは何も悪いことではありません。もちろん私たちの信仰はご利益宗教ではありませんが、むしろそうした中にあって、すべての点で幸いを得るように、また健康であるようにと祈ることは大切なことなのです。

 

2節と3節をご覧ください。

「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。」

 

「兄弟たちがやって来ては」とは、巡回伝道者たちのことです。そうした人たちがヨハネのところにやって来ては、このガイオについて証してくれたので、ヨハネは大いに喜んでいました。なぜなら、ガイオが真理のうちに歩んでいたからです。ヨハネにとって、自分の子どもたちが真理のうちを歩んでいるということを聞くこと以上に大きな喜びはありませんでした。

 

私が福島で伝道していた時最初に信仰を決心してバプテスマを受けたのは、私と同じ当時22歳の女性でした。彼女は市内のデパートに勤めていましたが、毎週金曜日の夜、私の家で開いていた聖書研究会に参加していたので、仕事の帰りに彼女の職場に迎えに行き聖書研究会に連れて行き、終わってからは自宅まで送って行くということを続けていました。

そんなある晩のこと、聖書研究会が終わって自宅まで送る車の中で、彼女がこう言ったのです。「私、イエス様信じたいと思っているんだけど、信じると華やかな生活ができなくなるんじゃないかと思うと信じられないんです。」彼女は、どうもイエス様を信じる=貧しくなるというイメールを持っていたようなのです。「そんなことないよ。イエス様を信じて豊かになることは全然問題ないし。華やかな生活もいい。大切なのは、どういう生活であってもイエス様と一緒に歩むことだよ。」と言うと、彼女はあっさりと「じゃ信じます!」と言ってイエス様を受け入れました。

私はその晩のことを忘れることができません。それは私を通してイエス様のもとに導かれた最初の人だったからです。彼女を送って帰宅してから家内に話すと、家内もとても喜んでくれました。それで私たちは教会を設立することにしたのです。それは1983年11月23日のことでした。

それから20年が経ち私たちが大田原に移転した年、彼女は山形の教会の兄弟と結婚しました。時々、その教会の牧師とお会いすることがありますが、その度に、「いや、いい姉妹を送ってくれてありがとうございました。教会のためによく仕えてくださっています。」と言ってくださいます。私たちにとってそのようなことをお聞きすることは、本当にうれしいことです。

先日、久しぶりにお電話があり、なんだろうと思って出てみたら、「間違いました。すみません。」と言うので、「間違うくらい慕われているんだなぁ」と感謝しました。

ヨハネはここで、「私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。」と言っていますが、その気持ちがよく分かるような気がします。ガイオは真理のうちを歩んでいたのです。

 

でもそれは具体的にどのような歩みだったのでしょうか。5節から8節までにはこうあります。

「愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています。彼らは教会の集まりで、あなたの愛について証ししました。あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。」

 

「兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働き」とは、巡回伝道者たちへのもてなしのことです。6節には、「あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。」とありますが、ガイオは巡回伝道者たちをそのような仕方で送り出していたのです。今のように旅館やホテルが整っていた時代ではありません。旅人をもてなすことは現代以上に必要なことであり、大切な愛の業だったのですが、ガイオはそれを喜んで行っていたのです。

 

ですから、へブル13章2節には、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。」とあるのです。

この「ある人たち」とはアブラハムのことです。創世記18章にあります。主が二人の御使いとともにアブラハムに現れたとき、アブラハムはそれが御使いであるとも気が付かず丁重にもてなしました。それが板についていたのです。それほど信仰に生きていました。だからこそ主はアブラハムにご自身がしようとしていたことを話さずにはいられなかったのです。またアブラハムも親しい友に話すかのように、甥のロトのために必死でとりなしの祈りをしました。それゆえに彼は神の友と呼ばれたのです。旅人をもてなすというアブラハムの姿を、主がとても喜ばれたのです。

 

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。ガイオもまたそのような信仰を持っていました。その立派な行いが、ここで称賛されているのです。それはガイオだけに限らず、主イエスを信じ、その真理に歩むすべてのクリスチャンにも求められていることです。というのは、そのようなことによって、私たちも真理のために働く同労者となれるからです。

 

8節に、そのように約束されてあります。「私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。」これはどういうことかというと、たとえ自分が宣教に出かけて行けなくても、そのために祈り、またささげることによって宣教師の同労者になることができるということです。ガイオは、そういう人々を迎え、もてなし、送り出すという地味な黒子に徹した働きをしていました。実際に各地を巡回して福音を伝える人たちも必要でしたが、その人々を背後で支援するガイオのような働きもなくてはならないものでした。福音が伝えられていくためには、伝える人とその人を支え送り出す人の両輪が必要であるということです。宣教の第一線に立つ働きもあれば、その働きを背後で支える働きもあります。何も伝道に出て行くことだけが伝道ではありません。ガイオのようにその働きを陰で支えることもまた立派な伝道の働きであり、そのことによって真理のために働く同労者となれるのです。

 

Ⅱ.ディオテレペスに警戒して(9-10)

 

次に9節と10節をご覧ください。ここには、ディオテレペスという人物について書かれてあります。

「私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません。ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。」

 

このディオテレペスの特徴は、彼らの中でかしらになりたがっていたということです。人間はだれでも人の上に立ちたがるものですが、教会の中にもそのような人がいるということはまことに残念なことです。ディオテレペスは、そういう人でした。彼は人々の言うことを聞き入れず、他の人をののしり、相手を受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出していました。言うまでもないことですが、人間社会は人と人との関わりによって成り立っています。そこには秩序があり、ルールがあります。ところがかしらになりたがる人はこのルールを無視し、秩序を乱します。それは自分の思いや欲望のままに事をなそうとするからです。

 

たとえば、天使が堕落して悪魔になったときもそうでした。明けの明星、暁の子であった天使が、どうして天から堕ちたのでしょうか。それは彼が心の中で、「天に上ろう。・・・いと高き方のようになろう。」(イザヤ14:13-14)と言ったからです。すなわち、高ぶったからです。彼はもともと神の栄光を現すために造られたのに、その目的、秩序を逸脱し、混乱をもたらしました。ルールを守られないところには当然混乱が生じます。なぜなら、神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。この神に反逆し神のルールに従わなければ、そこには当然混乱が生じるのです。

 

民数記16章にこの秩序を無視し、モーセとアロンを非難した人たちがいました。誰でしょうか?そうです、コラの子たちです。彼らはイスラエルが荒野を彷徨っていたとき、モーセとアロンに詰め寄ってこう言いました。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」(民数記16:3)これはどういうことかというと、モーセとアロンだけが特別な存在なのではなく、主の民残らず聖なる者なのだから、あなたが人々の上に立っているのはおかしいというものです。なるほど、民主主義という観点からすればそうでしょう。特に会衆政治を重んじるバプテスト派の強調点の一つは皆同じということですから、そういう意味では彼らが言っているのも理解できます。

しかし、ここに欺瞞があります。ローマ13章1、2節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。 したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」とあります。それは神によって立てられた権威であって、それが神によって立てられたものであるなら、それを神からのもとして尊重し、また尊敬することが必要であり、これを無視することこそ、高慢そのものなのです。

ですからモーセがコラの子たちに言いました。「レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」(民数記16:7)それはコラの子たちが一番になりたくて言ったことであり、コラの子たちがかしらになりたがっていたことが問題だったのです。

それゆえ神はお怒りになり、コラとその家族に属する者たちをさばかれました。地面が割れ、地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物をのみ込んだので、彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下って行きました。神の権威に反抗し、その定めに逆らう者に対して、主はそのようにされたのです。

 

教会は、キリストをかしらとする秩序ある群れであると同時に、主の御旨を行うキリストのからだという有機体です。このキリストのからだには調和があります。けれどもサタンは癌細胞が調和のとれた体の組織を破壊するように、ディオテレペスのような人物を用いて、教会の働きや成長を妨げようとするのです。そのような人は、ディオテレペスのように人の言うことを聞こうとせず、人との調和も考えず、自分の意見や考えのとおりに行動しようとします。その結果、教会の中に混乱とが引き起こされるのです。教会がなかなか成長しない要因の一つには、このような背景があるからです。

ヨハネはここで、「私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。」と言っていますが、教会の健全な成長を願うなら、ディオテレペスのような人物が出ないように常に警戒しておくことが求められます。

 

感謝なことに、私たちの教会は主の恵みによって守られてきました。それは私たちの伝道と牧会の中で、常にこのことを大切にしてきたからだと思います。ディオテレペスのようなクリスチャンが出ないように、あるいはディオテレペスのようにならないようにみことばから学び、警戒してきました。キリストにある自由の中で、主のみことばにはへりくだって従うこと、自分を主張しないで、兄弟姉妹と心を合わせること、神の秩序を重んじること、教会形成のために一致を大切にすることを強調してきました。それはこれからも同じです。教会には絶えずいろいろな形の自由が入り込んできますが、かしらになりだったディオテレペスのような出現によって教会の秩序が乱されることがないように注意したいと思います。

 

Ⅲ.善を行ったデメテリオ(11-15)

 

最後に11節から15節までを見て終わりたいと思います。ここにはもう一人の人デメテリオについて記されてあります。11節と12節をお読みします。

「愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。デメテリオについては、すべての人たちが、また真理そのものが証ししています。私たちも証しします。私たちの証しが真実であることは、あなたも知っています。」

 

ここでデメテリオについてはどのようなことが言われているでしょうか。それは、彼は善を行っている良い模範であるということです。どうしてそのように言えるのでしょうか。12節には、それはすべての人が証ししていることであり、また真理そのものが証ししていることです。さらに、私たちも証ししています。イスラエルでは、二人また三人の証言によって真実であると証明されました。このデメテリオの正しさは、すべての人たちから、また真理そのものから、さらにヨハネたちからその正しさが証言されていました。彼は模範的なクリスチャンだったと言えるでしょう。彼とその前のディオテレペスを比較すると、同じクリスチャンでも、本当にピンからキリまでいろいろな立場のクリスチャンがいるものだなぁと驚かされます。

 

いったい彼はなぜすべての人が認めるほど善を行うことができたのでしょうか。その鍵は11節にあると思います。すなわち、「愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。」とあるように、善を模範としていたことです。もし皆さんが健全なクリスチャンとして成長したいと願うのなら、良い模範を見習う必要があります。

 

今年の6月末、パット先生を宣教師として送り出してくださった時のアメリカの教会の教育牧師であったカールソン先生が天に召されました。このカールソン先生ご夫妻は、主任牧師のキュースター先生と30年以上その教会を牧会されました。キュースター先生とカールソン先生ご夫妻は、生涯一つの家族のように過ごされました。というのは、キュースター先生がまだ若い頃奥様が癌で召されたとき、カールソンご夫妻はキュースター先生家族といっしょに生活し、キュースター先生の子どもたちも育てられたからです。

キュースター先生も、カールソン先生も、そして今は既に天に召された奥様のグレース・カールソンも、本当にすばらしいクリスチャンでした。約千人の教会の牧師として本当に多忙であったでしょうに、私たちがアメリカに行くたびに温かくもてなしてくれました。忙しいことを感じさせないくらい個人的に時間をとって祈ったり、励ましてくれました。それは私たちにだけではなく、すべての人に対してそうでした。特にグレース・カールソンは教会のお母さんのような存在で、教会で悩んでいる人たちがいればいつも耳を傾け、励ましておられました。

そればかりか、宣教の情熱は衰えることなく、教会を退職後もヨセミテ国立公園近くのオーカーストという町で過ごしておられましたが、地元の教会に仕えるだけでなく、世界宣教のために熱心に祈っておられました。

ある晩、このキュースター先生が1枚のボロボロになった紙切れをもってリビングにいた私たちのところにやって来て、「これはずっと前にパットからもらった祈りのリクエストだけど、答えられたものがありますか。もっと付け加えるものがあったら教えてください。祈りたいから。」と言いました。私たちはびっくりしました。もう何十年も前に渡した祈りのリクエストを、ボロボロになるまで毎日祈っていてくれたと言うことを思うと、あついものがこみ上げて止まりませんでした。

どんなに離れていても、祈りによって励ましと祝福を与えてくれる。こんなすばらしい生き方があるだろうか。ここに私たちの信仰の模範があります。私たちは、イエス・キリストの生きた証人であるキュースター先生やカールソン先生ご夫妻のように、祈りとみことばによって、人々に励ましと祝福を与える人になりたいと思っています。

 

愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。へブル12章1節、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

私たちの回りにはすばらしい証人たちが昔も今もいます。デメテリオのように悪を見習わないで、善を見習ったように、私たちも善を見習って、善を行う者となろうではありませんか。

 

最後に13節から15節までをご覧ください。

「あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。平安があなたにありますように。友人たちが、あなたによろしくと言っています。そちらの友人たち一人ひとりによろしく伝えてください。」

 

結びのことばです。墨と筆で書きたくないというのは第二の手紙と同じです。ヨハネはガイオと顔と顔を合わせて直接語りたかったのです。それは主にあって愛し合っている者同士であれば当然のことでしょう。一人ひとりのクリスチャンの間にこの麗しい交わりが深められ、主の弟子としてのあかしがこの世に対してなされていくことを強く願うものです。

ヨハネがガイオと会う日を強く待ち望んでいるように、私たちの愛する主イエスは、私たちに会いに来られることを強く望んでおられます。「しかり、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)と言われる主に、私たちも「アーメン。主イエスよ、来てください。」という切に待ち望むものでありたいと思います。