善にはさとく、悪にはうとく ローマ人への手紙16章17~27節

2021年6月20日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙16章17~27節

タイトル:「善にはさとく、悪にはうとく」

 

ローマ人への手紙最後のメッセージです。パウロはこの最後の章の16節までのところで、偉大な同労者たちの名前を挙げて挨拶を送りました。ですから、そこで終わっても良かったのですが、その挨拶を書き送る中で、まだ彼らに伝えていない大切なことがあると思ったのでしょう。それをここに述べています。それは、異端者に注意するようにということです。このローマ教会の中には使徒たちの教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者が入り込んでいました。そういう者たちを警戒し、そこから遠ざかるようにと勧めたのです。

 

私たちの信仰生活を自動車の管理にたとえると、そこには二つのタイプがあるのではないかと思います。一つは整備型で、もう一つは修理型です。整備型の人は、車が故障したり、何か問題が起こる前に常に整備をしておく人で、ほとんど故障することがないので、安全に、かつ快適に運転することができます。一方、修理型というのは、何か問題が起こるまで対策しようとしない人です。たとえば、雪が降るまでタイヤを交換しないとか、どんなにタイヤの溝がすり減っていても、パンクするまで交換しません。車が故障するまでほとんど整備しないのです。壊れてから考えればいいと思っているからです。ですから、重大な時に車が動かなくなったり、故障して、大変な思いをすることがあります。

 

私たちの信仰生活も同じで、常に祈りとみことばによってしっかりと備えている人と、そうでない人がいます。何かトラブルが起こるまで何もせず、トラブルが起こってから対処すればいいと考えるのです。皆さんはどちらのタイプでしょうか。主が望んでおられるのは前者のタイプです。何かが起こってしまってからだと取り返しがつかないことがあります。勿論、どんなに備えていても避けられない問題もあります。しかし、何があっても大丈夫なようにみことばと祈りによってしっかりと備えておくことが肝心です。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.善にはさとく、悪にはうとく(17-19)

 

まず17~19節をご覧ください。「兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」

前回の最後の節、16節でパウロは、「あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。」と言いましたが、そうした主にある親密な交わりを破壊するものが、間違った教え、異端の考えです。そうした教えは教会に分裂とつまずきを与え、その親密な交わりを破壊してしまうことになります。ですからパウロは、死とたちの教えに背き、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒するように、彼らから遠ざかるようにと、強く勧めています。

 

パウロは、信仰の教えについて他の面では比較的に寛容であるのに対し、このように間違った教え、異端者の教えに対してはかなり厳しく、断固した態度を取るようにと言っています。たとえば、同じローマ人への手紙14章には食べ物に関する教えが語られていますが、その中で彼は「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(14:1)と言っています。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。でも、食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をたばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのだからです。大事なことは、信仰の本質的なことです。神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びなのですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めるべきで、他の部分に関しては、いわゆるグレーゾーンについては、それぞれが持っている信仰の確信に従って行動すべきだと言っています。しかし、この異端の教えについてはそうではなく、警戒するように、また、彼らから遠ざかるようにと厳しく命じています。

 

パウロは、ガラテヤ人への手紙1章6~8節ではこのように言っています。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」と言っています。

 

パウロはここで、そのような教えを「ほかの福音」と呼んでいます。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではありません。福音のような装いはしていても本当の福音とは違う教えことです。そういう教えが結構あります。よく話を聞いていると、聖書の話をしているようだけれどもどこか違っていたり、あからさまに福音を否定するようなことを言う人たちもいます。

 

先週、教会に次のようなメールが届きました。

「突然のメール、失礼いたします。ぜひ、読んで下さって、返信していただければ幸いです。よろしくお願い致します。

今は、イエス様の再臨の時であり、収穫の時です。収穫の知らせを伝えます。神様の種(御言葉)で生まれた人たち(受けた人たち)を収穫します。神様の種で生まれた人は、収穫の働き手に出会って、収穫されて来る事を願っています。今は、各枝派が、黙示録(啓示録)の預言と、その成し遂げられた実体をあかししています。知りたいと思われる方は、参加できます。

イエス様の再臨は、新約の四福音書の預言と黙示録の預言で約束した、約束の牧者に来られます。新約の黙示録の預言の成就の時は、イエス様が成し遂げられて、約束の牧者は、それを、すなわち、成し遂げられる事を、黙示録1章~22章まで全て見て聞いた者です。イエス様が黙示録を成し遂げられる事を、1章から22章まで、一章、一章全て見た者が、黙示録全章をあかしします。収穫されなかった人が、収穫の知らせを聞いても関心のない人たち、啓示録の預言が成し遂げられているとしても、感動しない人たち、信じない人たち。啓示録を加減すれば、天国に入れず、災害を受けます(啓22:18-19)。これを知りながらも、黙示録を知ろうとしないという事は、まことの信仰ではなく、形式的な信仰であり、このような人は、狼が羊のなりをした人です。

教会と牧者と教徒たちに教理、すなわち、御言葉がないのは、御言葉であられる神様とイエス様がない証拠です。天地の間に、聖書に精通する所は、ただ、新天地イエス教会と、その聖徒たちだけです。来て見て下さい。そして、聞いて見て下さい。」

 

何を言っているのかわかりませんね。意味不明です。確かに、今は再臨の時であり、収穫の時であるのは間違いないです。また、その時どのような人たちが収穫されるのかは、神の御言葉によって新しく生まれた人たちです。しかし、だからといって、黙示録を知ろうとしない人はまことの信仰ではなく、形式的な信仰であり、狼が羊のなりをした人たちであるということはありません。なぜなら、収穫される人たちは黙示録を知ろうとしているかどうかではなく、御言葉を通して神の御子イエス・キリストを信じた人たちだからです。また、それを知っているのは天地の間に、聖書に精通している新天地イエス教会と、その聖徒たちだけであるというのも極端です。自分たちだけが正しく、そうでない者たちは間違っていると主張すること自体、間違っていると言えるからです。

 

この新天地イエス教とは何者か調べてみると、この団体は1984年にイ・マンヒという人によって創設された新興宗教です。正式名は”新天地イエス教証しの幕屋聖殿”(新天地イエス教証幕屋聖殿)と言います。昨年韓国で新興宗教の施設でコロナのクラスターが発生したというニュースがありましたが、それがこの新天地イエス教会の一つの施設です。その教えの特徴は、聖書の中でもヨハネの黙示録を重要視し、聖書の内容を新天地独自の例えや比喩、例示を使って解き明かします(間違った解釈)。また、教祖のイ・マンニという人物を再臨のイエス・キリストだと教えています。主イエスは、世の終わりには自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。(マタイ24:5)と預言されましたが、まさに聖書が教えている偽キリストであることがわかります。

現在、信者数は25万人くらいいます。驚くことは、近年1年間で10万人もの人たちが入信したと言われています。どうしてそんなに多くの人たちがこ信じるのでしょうか。その手口がかなり巧妙です。新天地は、キリスト教会に潜り込んで、自分の正体を隠して教会員になります。そして熱心に奉仕をして役員クラスになり、教会をのっとることを計画し実行するのです。そうやってキリスト教会を破壊させ、新天地に導くのが彼らのやり方であり、成長の秘訣です。韓国では新天地が潜り込んでいない教会はないといわれるほど、手を伸ばしており、現在、統一教会以上に被害を及ぼし、警戒されています。
 日本でも活発に活動していて、多くの若者が大都市を中心に集まっています。一昨年、私たちの教会で洗礼を受けた1人の姉妹は、この新天地に通っていましたが、教祖が再臨のイエスだと聞き、何だかおかしいなぁと別のクリスチャンに相談して教会に来られました。もし来なかったら今頃新天地の幹部になっていたかもしれません。恐ろしいことです。

 

また、最近教会によくセミナーの案内を送ってきたり、電話で勧誘する人グループがあります。キリスト教福音浸礼会と言います。このグループは「グッドニュース宣教会」という名前で活動しているので、プロテスタント、しかも福音派の仲間ではないかと思ってしまいますが、実はそうではなく、その正体は「救援派(クオンパ」というキリスト教の異端です。グッドニュース宣教会、キリスト教福音浸礼会は、朴玉洙(パク・オクス)という人が代表ですが、その教えの特徴は、本当の救いは「救いを悟る」ことによってのみ得られるもので、救いを悟っていない多くのクリスチャンは救われていないとするものです。悔い改めを繰り返すのは救われていない証拠であり、悔い改める必要もない、と言います。救われた者は罪を犯すことはないので悔い改める必要がありません。悔い改める人は地獄の子で、自分を罪人と思っている多くのクリスチャンは死後地獄に行くわけで、救いを悟っている人はそういうことがないのだから、「私は義人だ」と告白するべきである、というのです。律法は完全に撤廃されたので、盗み・殺人・姦淫などを犯しても罪にあたらないとい言います。

どう思いますか。聖書の教えを知らない人は「あ、そうなんだ」と思うかもしれませんが、聖書ではそのように教えられていません。私たちはイエス・キリストを信じることで救われ天国への切符を受けることができますが、でも地上にいる間は不完全な者なので罪を犯すわけです。しかし、そのような者も赦されていると約束されているので、悔い改めて神の御心に歩むのです。

 

このように、ちょっと聞いただけではどこが間違っているのかわからないかもしれませんが、聖書が教えている福音の教えと違うことを教える人たちがいます。そういう人たちを警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。そうでないと、やがて教会全体が根底から揺さぶられてしまうことになります。教会にとって本当に恐ろしいことは外側からの攻撃よりも、内側にはびこる異端的な教えです。外からの攻撃があると、不思議なことに教会は燃え上がりますが、内側からの異端的な教えが内部に広がると、教会は分裂して倒れてしまうことになります。それは収穫の時に現れるいなごの群れのようです。一年間しっかりと農作業をやってきたのに、突然いなごの群れがやってきて、すべての穀物を食い尽くしてしまうのです。これまで汗と涙を流して伝えた神のみことばを全部揺さぶって、神の民を悪魔のしもべに変えてしまうことになるのです。これが、みことばをねじ曲げて伝える異端のやっていることです。そのような人たちを警戒しなければなりません。だからパウロは、そのように誤った教えを宣べ伝える人たちがいるとしたら、そういう人はのろわれるべきだと言っているのです。

 

18節をご覧ください。ここには、そのような人たちの特徴が記されてあります。「そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。」

そういう人たちは主イエスに仕えているのではなく、自分の欲望に仕えています。この「欲望」と訳されていることばですが、これは原語では「腹」と訳されることばです。キリストの十字架に従うのではなく、自分の欲望と自分の考えに従って歩んでいるのです。これが福音だと言いながら、福音をねじ曲げてしまうのです。しかも彼らは滑らかなことば、へつらいのことばで迫ってくるので、それが異端かどうかを判別するのが難しいのです。まさに羊のなりをした狼ですね。このような教えを警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。

 

「警戒しなさい」とか「遠ざかりなさい」というは、いかにも消極的な対処法であるかのように見えます。なぜ「戦いなさい」とか「対処しなさい」ではないのでしょうか。それは、こうしたこれこそ異端に対して最も有効な対処法だからです。たとえば、ヨハネ第二の手紙1章10~11節には、「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」とあります。ですから、私たちは異端を教える人たちから遠ざかることが賢明なのです。そうでないと間違った教えを持っている人たちは、極めて巧妙に私たちを自分の側に引き入れようとするからです。

 

以前、私の家にエホバの証人の方がよく来られました。玄関のインターホンを鳴らすと、「私たちは聖書の教えをお知らせしているものですが、ご主人は聖書に興味はございませんか?」と言われるのです。少なくとも、私の家は教会ですよ。看板もあれば、十字架も掲げてあります。そういうところにやって来て「聖書に興味はありませんか」と言われるのですから、相当の自信と度胸があるのだと思います。むしろ、相手がクリスチャンであれば、ある程度聖書を知っているので都合がいいのです。またクリスチャンは人がいいので、このような人たちを無碍に断らないということを知っていので、そういう弱みに付け込んでやって来るのです。

もちろん、「ございます」ので、「わかりました。ちょっとお待ちください」とできるだけ爽やかな服装で、満面の笑みをうかべながら、「お待たせしました。」と玄関のドアを開けると、そこには実に優しそうなご婦人が二人おられるではありませんか。上品な笑顔と、上品な服装をして。一人の人が話すのを、もう一人の人が静かに聞いておられます。「ご主人、この世の現状を見てどのように思われますか。」

「この地上の楽園に入るためには神を信じなければなりません。イエスは神に近い人間ですが神ではありません。唯一まことの神を信じなければなりません。」

それで私が「聖書には何と書いてあるでしょうか。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。イエス様こそ人となられたまことの神であって、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたことで救いの御業を成し遂げてくださいました。なぜなら、この方は神が約束されたメシヤ、救い主、神ご自身であられるからです。だれでもこの方を信じる人は救われるのです。」とお話すると、初めは穏やかに接してくれていた方が、だんだん険しい顔になってきて、ついには口から泡をふいて、「こんなに聖書を勉強している牧師さんに会ったことがない」と言って去って行かれました。こんなに聖書を勉強している牧師がいないのではなく、こんなに真面目に相手をする牧師はいないということでしょう。残念ながら、それ以来、私のところには来なくなりました。要注意人物のリストに上げられているのでしょう。教会を避けて行くようになりました。

私はずっと前からエホバの証人の方が熱心に伝道している姿を見ていて、もしかすると、あっちの方が正しいのではないかと思ったことがありまして、そして、自分の信じていることが間違っていたら大変だと思い、エホバの証人方と10回にわたり論じたことがあります。残念ながら、その時も5回くらいやった後で体調が良くないということで最後まで続けることができませんでした。その時も「こんなに聖書を勉強していると思わなかった」と言っておられました。彼らの教えがどのようなものなのかを学ぶことで、自分が信じていることが正しいということを確信を持つことができて本当に良かったと思っています。しかし、聖書では、一番良い対策は、彼らと論じるのではなく、彼らを警戒し、彼らから遠ざかることです。

 

19節でパウロは、「あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」と言っています。従順であるだけでは危険です。私たちはこの世の中で信仰者としてしっかり立っていくためには、「善にはさとく、悪にはうとく」なければなりません。「善にはさとく、悪にはうとく」とはどういうことでしょうか。「さとく」とは、「賢く」とか「鋭く」ということです。一方「うとく」とは、疎遠であることです。ですから、「善には賢く、悪には疎遠であれ」という意味になります。一般的な傾向として、私達は悪いことには賢く、善をなすことには知恵が回らないものです。コロナの給付金を巡っても、いろいろな手口でだまし取ろうとする犯罪があとを絶ちません。つくづく,この世の人は悪事に賢いなあと感心させられますが、ここでは逆です。善に対して賢く、悪に対してはうとくなければなりません。

 

Ⅱ.平和の神(20)

 

第二のことは、神にゆだねることです。20節をご覧ください。ここには、「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」とあります。

 

17~19節において、私たちが注意すべきことについて教えられてきましたが、ここでは、それと同時に神の助けが必要であることが述べられています。神の助けがなければ、私たちは悪魔に勝利することはできません。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」という表現は、創世記3章15節で預言されたことですが、異端の元祖とも言うべきサタンに対する神の究極的な勝利が実現するという意味です。その創世記3章15節をご覧ください。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、女の子孫から出るキリストが、敵である悪魔を踏み砕くという預言です。聖書に一番最初に出てくる福音の預言なので、「原始福音」と呼ばれています。主イエスは十字架と復活によってそれを成就してくださいました。しかし、最終的には主が再臨する時まで待たなければなりません。ですからここに「すみやかに」とあるのです。パウロは、終末的な神の勝利が「すみやか」に来ると信じていました。

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」(Ⅱテサロニケ1:8-10)

 

パウロは、ここに希望を持っていました。皆さん、私たちの真の希望はどこにあるのでしょうか。ここにあります。主は確かに来られます。その時が近づいています。これこそ私たちの真の希望です。この希望を握りしめている時、私たちは主を喜び、賛美をささげることができます。そうでいなと、目の前のことに心と思いが奪われ、落胆したり、絶望したりすることになります。この世にある矛盾とか葛藤というのは、私たちの力や方法によって解決できるものではありません。けれども、主が再び来られるとき、それらのすべてを正しくさばいてくださいます。ですから、この方にすべてをゆだねることができます。

 

クリスチャンにとっての最高の使命は、日々、目を覚まして、この再臨の主を待ち望むところにあります。日々の生活において不義なことや傷つくことがあっても、落胆したり絶望したりしないで、主がすべてのことを正しくさばいてくださると信じて、待ち望まなければなりません。それこそ確かな希望であり、真の解決なのです。私たちに必要なのはこの世の不条理に対してあくせくすることではなく、サタンを踏み砕く主にゆだねることです。

 

Ⅲ.福音に生きる(25-27)

 

第三のことは、福音に生きることです。25~27節をご覧ください。パウロはこの手紙の最後のところで、「〔私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。〕」と言って、この手紙を結んでいます。

 

これは頌栄です。頌栄というのは、神の栄光をほめたたえることですが、このローマ人への手紙のしめくくりとしての頌栄は、内容が盛りだくさんというか、文章が長いので、その意味があまりハッキリしません。いったいパウロはここで何を言いたいのでしょうか。27節にあるように、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえにありますように。」ということです。ではこの知恵に富む唯一の神とはどのようなお方なのかというと、その前の26節に書かれてあるように、「あなたがたを堅く立たせることができる方」です。ではどのように堅く立たせることができるのかというと、またまたその前に書かれてあるように、「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、です。すなわち、25節にあるように、私の福音とイエス・キリストの宣教によってであります。

 

パウロは、自分に示され、自分が宣べ伝えた福音こそまことの福音であるということを知ってほしいのです。この福音によってです。ですからここでパウロが言いたかったことはどういうことかというと、パウロが宣べ伝えていた福音によってあなたがたを堅く立たせることのできる知恵に富む唯一の神に、栄光がとこしえにありますように、ということなのです。

 

皆さん、福音こそ私たちを信仰に堅く立たせてくださることができるのです。パウロは、この手紙の最初のところで次のように宣言しました。1章16節です。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

 

皆さん、福音は力です。単なる概念ではありません。それは、救いを得させる神の力なのです。たとえ私たちの周りが偶像で溢れ、神の教えをねじ曲げるような人たちがいても、あるいはそのことによって教会が、社会がどんなに枯れた骨のような状況であっても、福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。それは二千年前に伝えられた昔話ではなく、今も生きて働き、私たちのたましいを変え、人生を変える力なのです。

 

皆さんは「バウンティ号」という船をご存知じでしょうか。この船は1787年にイギリス政府が南洋諸島の一つであるタヒチという島にパンの木の栽培のために100人ほどの人たちを送り込んだのですが、その際に乗り込んだ船の名前です。その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはみな魅力的でした。

しかし、彼らは次第に堕落してしまい、本国からの命令を無視するようになり、口やかましい船長に反抗して、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのです。

その後彼らは本国から逮捕させるのを恐れ、ピトケアン(Pitcairn)という島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶ生活を始めました。そうなると彼らの間でけんかが絶えなくなりました。特に熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのけんかがひどくなり、殺し合いまでするようになりました。そして最後にたった一人ジョン・アダムズという人だけが残されたのです。

すべての西洋人がいなくなり、多くの混血の子どもだけが生まれ育つようになりました。しかし、それから30年後、そこを通りかかったアメリカの船がその島に上陸してみると、驚くべき光景を目にしたのです。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。いったい何があったのでしょうか。

仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに多くの人を殺して生き残ったジョンは、難破した「バウンティ号」に戻ってみると、そこに一冊の聖書を見つけました。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引きつけられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改め、彼は神の人に変えられました。

その後聖霊の導きによって、その島の子どもたちに字を教え、神のみことばである聖書を教えました。住民たちも彼を尊敬し、彼を王様にし、彼に従いました。そしてその島はパラダイスのようになったのです。これは福音の力、一冊の聖書の力によるものでした。

 

神のことばは生きていて力があります。この神のことば(福音)によって私たちは救われ、変えられ、信仰に堅く立つことができるのです。そして、あらゆるサタンの攻撃に打ち勝つことができるのです。今、私たちに求められていることは、この福音に生きることです。パウロはローマ人への手紙8章35節で、次のように問いかけています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」

この問いに対する答えはこうです。続く37節でパウロは次のように言っています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

もし私たちが自分の人生を主の御手にゆだね、復活の主に信頼するなら、何が起こっても途方に暮れることはありません。どんなことがあっても、私たちがそれに飲み込まれたり、滅ぼされてしまうことはないのです。圧倒的な勝利者になるのです。これが復活の力であり、福音のメッセージです。

 

皆さんはどうでしょう。何に頼って生きていますか。自分の考えとか自分の力でしょうか。でもそれだけでは私たちは折れてしまうことがあります。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストに信頼して生きることによってのみ、私たちはあらゆる困難を乗り越えることができるのです。

 

1968年に、ある科学者がインディアンの墓で、600年前に作られたと思われる、種でできた首飾りを発見しました。その科学者がその種の一つを取って植えたところ、何と芽を出し成長を始めたのです。600年間も休眠状態であったはずのその種には生命力が宿っていたのです。大切なのはその種を植えることです。あなたの心に福音の種を植えるなら、どんなに休眠状態にあろうとも、あなたも芽を出し、成長し、豊かな人生の実を結ぶことができるのです。この種には驚くべき偉大な神の力が宿っているからです。さあ、この福音の種をあなたの心に、また私たちの住んでいる社会に植えましょう。そうすればあなたの人生に全能の神が働いて、偉大な御業を成してくださるのです。