偽りのない愛で ローマ人への手紙12章9~13節

2020年3月29日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙12章9~13節

タイトル:「偽りのない愛で」

 きょうは「偽りのない愛で」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、12章からのクリスチャン生活の実際的な歩みについて勧めています。「こういうわけですから、兄弟たち、私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(12:1)それはまず、私たち自身を神に受け入れられる聖い、生きた供え物としてささげるということから始まります。そして、私たちは一人一人キリストのからだの器官として、各自に分け与えられた信仰の量りに応じて、慎み深く考えなければなりません。すなわち、預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧める人であれば勧め、分け与える人であれば分け与え、指導する人であれば熱心に指導し、慈善を行う人であれば喜んでそれを行いなさいということ(12:3-8)でした。

 

今回は、その3回目となりますが、ここでは兄弟姉妹の基本的なあり方について言及されています。それは愛です。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。」とあります。新改訳第三版では、「善に親しみなさい。」です。

 

クリスチャンの基本的なあり方、それは愛に生きるということです。クリスチャンがキリストのからだである教会において一つになるとき、それがほんとうの意味でキリストのからだとなるのです。どんなにすばらしい賜物が与えられていても、もしそこに愛がなかったら何の意味もありません。このように賜物について教えた後で愛について語るというケースは、コリント人への第一の手紙13章と同じです。12章で賜物について語ったパウロは、続く13章でこう述べています。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)

 

 たとえ異言の賜物が与えられていても、たとえ預言の賜物が与えられていても、またあらゆる奥義と知識とに通じ、山を動かすほどの信仰をもっていても、愛がなければ、何の値打ちもありません。愛こそ、すべての働きや賜物をその根底において支えるものであり、すべてを結ぶ帯なのです。きょうは、この「偽りのない愛で」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、愛には偽りがあってはいけないということです。クリスチャンは本物の愛で愛さなければなりません。第二のことは、クリスチャンは兄弟愛をもって心から互いに愛し合わなければなりません。第三のことは、そのためには望みを抱いて喜びましょうということです。

 

 I.愛には偽りがあってはいけません(9)

 

  まず第一に、愛には偽りがあってはならないということです。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善にから離れないようにしなさい。」とあります。

 

 パウロはまず、愛には偽りがないようにと勧めています。この「偽りがあってはなりません」という言葉は、役者が演技をすることを表す言葉です。つまり、演技をするように愛してはならないという意味です。この世の中には演技の愛が何と多いことでしょうか。いかにも愛しているかのように見せかけて、実際にはただ演技をしているだけということがあります。表面的には愛しているようでも、心の中ではそうでないケースが多いのです。しかし、愛には偽りがあってはなりません。つまり、偽りのない愛、本物の愛で愛さなければならないのです。

 

 では本物の愛とはどのようなものなのでしょうか。ここにはその一つの特質が描かれています。それは、「悪を憎み、善から離れない」ということです。皆さん、本当の愛は、悪を憎み、善に親しみます。不正を喜ばずに真理を喜ぶのです。

 

 ある時、一人のお母さんが、子どものことで相談に見えました。中学生になったばかりの娘が急に反抗的になったが、その理由がよく分からない、ということでした。今度は、その娘さんを呼んで話を伺うと、一つのことを話してくれました。小学校を卒業して春休みに入り、いよいよ中学生になるという時でした。四月になって、母親の実家のおばあちゃんに会いに行こうと、二人で電車に乗るために切符を買おうとしたら、母親がこう言ったのです。「あんたはまだ小さいから小学生の料金で乗れるわよ」と。4月1日を過ぎれば自分はもう中学生だからと、「今日から私は大人の料金」と思っていたのですが、お母さんが「あんたは小さいから子どもの料金でも大丈夫。聞かれたら小学生って言うのよ」と言われて、子供料金で乗せられたのです。その時彼女はえらく傷つきました。「大人ってずるいなぁ」と。そのことでこの母親は、娘の信頼を失ってしまったのです。たった何百円かを節約するために、大切な娘の信頼を失ってしまったのです。本物の愛は、悪を憎み、善から離れません。

 

 こうやって見ると、聖書が教える愛とこの世で言う愛とには、大きなギャップがあることがわかります。聖書で言う愛とはその動機に注目しますが、この世で言う愛は行いと結果に注目するからです。世の中では貧しい人たちにお金を与え、飢えている人たちに食べ物を分け与える人たちを、愛に満ちた人、道徳的な人だと考えますが、聖書では愛がある人というのはそうした行為や結果だけでなく、動機まで問われるのです。したがって、どんなに美しい行為をしたとしてもその動機が適切でなければ、それは愛とは言えないのです。聖書の観点から見るならば、本当の愛とは神との関係によって与えられる愛を動機として現れるものです。なぜなら、愛は神にあるからです。何回も引用しますが、ヨハネの手紙の第一4:9-10には、こうあります。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4:9-10)

 

 本当の愛は神にだけあるのです。神がそのひとり子をこの世に遣わしてくださり、私たちのためになだめの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。ここにとは、十字架にということです。神は、そのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったということの中に、神の愛が示されました。この愛に満たされることによって初めて周りの人たちと喜びと悲しみを分かち合うことができるのです。そうでなかったら、その人が意識しても、しなくても、それはただ自己満足のための、打算的な愛になってしまいます。そのような愛の中には、決して真実な愛が芽生えることはありません。

 

 Ⅱ.兄弟愛をもって互いに愛し合う(10)

 

  第二のことは、兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさいということです。10節をご覧ください。ここでパウロは、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」と言っています。

 

「兄弟愛」という言葉の原語は、ギリシャ語の「フィラデルフィア(Philadelphia)」です。これは9節に出てくる「愛」とは違います。9節に出てくる「愛」は「アガペー」という言葉で、私たちに対する神の愛を表していますが、この10節に出てくる「兄弟愛」は、クリスチャン相互において現れる愛のことです。つまりここでパウロが言わんとしていることは、教会において互いに愛し合うことができるのは、一方的な神の愛と恵みを知った者であるということです。神の愛を知った者は、今度はその愛を兄弟姉妹の中で「兄弟愛」として実践しなさいということです。この「互いに愛し合う」という言葉は、先週の礼拝でのテーマでした。イエス様は十字架につけられる前夜、弟子たちに新しい戒めを与えました。何でしたか。「互いに愛し合いなさい」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。「互いに愛し合う」というのは、家族的な親しい愛を表わす言葉です。世のすべての交わりの中で家庭こそ安心といこいの場ではないでしょうか。なぜなら、そこには麗しい愛の交わりがあるからです。その愛で互いに愛し合わなければなりません。それは教会が神の家族であり、クリスチャンが互いに兄弟姉妹だからです。

 

 神様の愛を知らない人は、兄弟愛をもって互いに愛し合うことはできません。ローマ1:29-32には、神を神としてあがめず、神様に感謝もせず、自分では知者であると言いながら、愚かな者となっている人間の姿が描かれています。「29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」

 

 これらはどれも愛に反する思いや行為です。神から離れ、自分を含めた偶像を神としている社会では、自分勝手になっていく傾向があります。自分の考えが物事の判断のものさしになるのです。その結果、一つになることができません。そこには愛のひとかけらもありません。特に注目していただきたいのは31節の「情け知らずの者」という言葉です。これは「アストロゴス」という言葉ですが、12:10に出てくる「互いに愛し合い」という「ストロゴス」という言葉にそれを打ち消す「ア」という言葉が付いたものです。ですからこの「情け知らずの者」というのは、家族の愛を持っていない、家族的な愛と親しみを知らない人のことになります。それは愛に反するこの長いリストの中で、一つの要素として取り上げられています。つまり、神を知らない罪深い人間の特徴というのは、本当の家族の愛を持つことができないということです。親を親と思わず、従おうともしません。悪意、陰口、争い、欺き、悪巧みなど、自分勝手に生きようとするのです。そうした態度や行いが、彼らの家族関係の特徴となっているのです。

 

 最初の人間アダムとエバが罪を犯した時彼らの関係は破壊され、そこにあった麗しい交わりが失われたように、家族のような関係が破壊されてしまいました。それが罪深いこの世における人間関係なのです。しかし、クリスチャンはそうであってはいけません。クリスチャンは神の愛、キリストの十字架によって罪贖われた者として、互いに兄弟姉妹であり、神の家族なのですから、その愛をもって互いに愛し合わなければならないのです。

 アフリカにイーク族という部族がいるそうです。この部族は互いに話をしません。話をするとしても、それはすべて嘘です。朝起きると、男たちは遠方に目を向けて座っています。互いに言葉は交わしません。そして誰かが獲物を見つけるといきなり立ち上がって、その獲物と反対の方向に走り出します。仲間の目を騙(だま)すためです。それから獲物に近づいていきます。他人のために獲物を捕ることもしません。全部自分のためです。ですから獲物を獲って家に戻ると、まず自分が最初に食べ、妻にも与えますが、4~5歳以上の子供には与えないので、子供が死ぬことも珍しくありません。死人を葬ることをせず、老人が死ぬと蹴飛ばして横の獣道みたいなところに放置して無視するのです。そこまで動物的になってしまう社会が実際に存在しています。

 

 程度の差こそあれ、現代の社会とそんなに変わらないのではないでしょうか。みんな自分さえよければいいと思っています。今、新型コロナウイルスでマスクの品薄が続いていますが、テレビはそのマスクを自宅に何十箱と買いだめしている人を取材していました。このくらいあれば家族5人で使っても1年間は間に合う・・と。それだけあったら医療機関に提供するとか、老人介護施設に提供するとか、困っている人に差し上げればいいのにと思いますが、そのようには考えないで、どれだけ自分が助かるかと、自分のことしか考えられません。それがこの世です。このような社会に誰が住みたいと思うでしょうか。このような教会に誰が来たいと思うでしょうか。教会に行ってみたらだれも話しかけてもくれないとか、何しに来たの?というような目で見られるとしたら、ほんとうに悲しいです。

 

 今、シカゴの大学で学んでいる娘が大阪に引っ越した時、どの教会に行こうかといろいろな教会を探したところ、ある教会に行くことにしました。娘は車いすの生活をしているのでできれば礼拝堂が1階にある教会がいいなぁと思っていたら、その教会は礼拝堂が3階にあってエレベーターもありませんでした。しかし、その教会に初めて行ったとき、そこで応対してくれたおばちゃんがとても温かいというか、温かいを越えて熱い方で、大歓迎で迎えてくれたそうです。「よく来ました。あなたは私たちの家族です。何の気兼ねもいりませんよ。」と言うと、「今、仲間を連れてきましたから・・」と屈強な男たちを何人か連れて来て、娘を背負って3階まで運んでくれました。そうした熱心さは集会にも表れていて、全体的に熱いものを感じたそうです。それは本人だけでなくボランティアで一緒に行ってくれたヘルパーさんも同じように感じました。これまで別の教会にも一緒に行ったことのあるこのヘルパーさんは、「教会もいろいろあるんですね。」と言うと、「こういう教会なら来てみたい」と言いました。こういう教会なら来てみたいという、こういう教会というのは、家族愛に溢れた教会です。そういう教会にはだれでも行ってみたいと思うものです。

 

 では、そのためにはどんなことが必要なのでしょうか?パウロは、その次のところでこのように言っています。「尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」どういう意味でしょうか?ピリピ2:3-8節を開いください。ここには、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とあります。

 

 パウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と勧めています。そして、その模範としてキリストの姿を取り上げています。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。これが、人を自分よりもすぐれた者と思うということです。つまり、人を自分よりもすぐれた者と思うということは、自分と誰かを比較してその人を自分よりも優れていると思うということではなく、人を自分よりも大切だと思いなさい、ということなのです。「尊敬しなさい」という意味です。

 

イエス様は私たちのことを大切な存在だと認めてくださったがゆえに、私たちのためにこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださいました。自分の方が大切だと思っていたのであれば、そのようなことはしなかったでしょう。しかし、イエス様はご自分の栄光をかなぐり捨ててくださいました。それは、私たちのことを愛しておられたからです。それは一方的な愛でした。私たちに愛される資格があったので愛してくださったというのではなく、そうでないにもかかわらず、愛してくださいました。もし相手がすべてにおいて自分よりも優れた人であるならば、自分のいのちを捨ててもいいと思うことがあるかもしれません。しかし、キリストは私たちがまだ罪人あったとき、私たちのために死んでくださいました。そのことによって神は、私たちに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのです。イザヤ43:4に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とありますが、それはこのことです。神はその愛を十字架で示してくださいました。それが「アガペー」の愛です。「他の人のことを自分よりも大切だと思いなさい」というのは、この十字架の愛で愛しなさいということなのです。この愛があって初めて、私たちにも愛が生まれ、兄弟愛をもって互いに愛し合うということが可能になるのです。

 

 Ⅲ.望みを抱いて喜び(12)

 

 ですから第三のことは、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みましょうということです。この見える世界の現実を見たら、互いに愛し合うということなどできません。目の前の様々な現象に振り回されて怒ったり、すねたり、ひがんだりするでしょう。なぜなら、この世は戦場だからです。戦場というのは戦いの場なのです。どこに行っても戦いがあります。いろいろな問題にぶつかります。しかし、そんな戦場にいても上を見上げるなら、やがてもたらされる永遠の御国と永遠の祝福にあずかることができるという希望のゆえに、喜びと平安を得ることができるのです。

 

 パウロは8:18で、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言いました。救い主イエス・キリストを信じる者に約束されている将来は栄光です。この栄光が約束されているがゆえに、私たちは大いに喜び、患難をも乗り越えることができるのです。私たちが喜べるのは今の状況が楽しいからではないのです。たとえ今はそうでなくても、やがてそのような栄光と祝福にあずかることができるという希望があるから喜ぶことができるのです。この望みのゆえに、私たちは苦手のような人であっても兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思うことができるのです。

 

 今、新型コロナウイルス感染が世界的に拡大している中で、最も拡大が広がっているのはイタリアです。そのイタリアのロンバルデイア州(北部イタリア)の医師の証Julian Urban氏が、次のような証を書きました。


「私は、この数週間、暗い悪夢の中で、今イタリアで起きて見ていることを経験するなど

とは、今まで決して想像すらしませんでした。悪夢のせせらぎは、今や大河となってどんどん大きくなるばかりです。

 最初数人の患者が来て、それから数十人、その後数百人となりました。私たちが今しているのは、最早医療行為ではなく、誰が生き誰が死ぬべきかの決断を下す事なのです、これらの患者は、今まで生涯にわたってイタリアの健康税を払ってきたのにです。

 数週間前まで同僚と私は無神論者でした。 神の存在を除外し科学的知見に基づいて学んできた医師が、そう考えるのは珍しいことではありませんでした。ですから私も、両親が教会に行くのを心の中では嘲笑っていました。

 9日前のことですが、私たちの病院に、75歳になるある牧師が入院してきました。彼はとても親切な人でしたが、深刻な呼吸困難を発症していました。彼は聖書を持っており、彼自身が非常に困難な状況の中にあるにもかかわらず、瀕死の患者らの手を握って聖書を読んで聞かせていました。その姿に、我々は非常に驚かされ感銘を受けていました。我々医師たちは、皆疲れており、落胆し、精神的にも肉体的にも燃え尽きていたのです。そういうわけですから、私たちは時間を見つけては彼の話に聞き入っていました。我々はもう限界だった。できる事は何もなく、人々が、刻一刻、毎日死んでいるのです。完全に消耗しきっていました。すでに2名の同僚の命が失われ、他の者たちも感染していました。

  そんな極限の中で、ようやく私たちは、神に助けを求めなければならないことに気づき始めたのです。早速私たちは、2、3分でも時間を見つけては、神に祈ることを始めました。

 私たちが互いに話すとき、私たちはかつて強硬な無神論者だったにもかかわらず、信じがたいことに、今や私たちは、日々の平安を求めつつ、病人を支え続けることが出来るようにと、主の助けを乞うているのです。

  昨日, 75歳の牧師が亡くなられました。ここ3週間で120人以上の死者が出て、我々は憔悴しきっていました。彼は、自身が瀕死の状態にあり、私たちも苦境の只中にあったにもかかわらず、私たちがもはや見いだすことさえ望むことができない平安をもたらしてくれたのです。牧師は主のもとに旅立ちました。今の状況が続くなら、私たちも彼の後を追うでしょう。

 6日間家に帰れず、最後に食事をとったのがいつだったかも思い出せない状況の中で、私はこの地上に自分が置かれている意味を見出しました。今はもう、誰かを助けるためにこの命を使い果たすことができたら本望です。 私は今、困難と仲間の死との極限の中におりながら、どういうわけか、自分が神に立ち返ることができたと言う幸せに満たされているのです。どうかイタリアのために祈ってください。」

 

 私は、この75歳の老牧師の愛に感銘を受けました。この牧師は、ご自分も非常に困難な状況の中にあるにもかかわらず、瀕死の患者らの手を握って聖書を読んで聞かせたり、祈ったりして励まし続けました。そして、疲れ切っていたこの医師が主のもとに立ち返るきっかけを与えてくれました。いったいこの牧師はどうしてこのようなことができたのでしょうか。それは、神の愛を知っていたからです。偽りのない愛、真実の愛を知っていたので、苦しみの中にある人をその愛で愛することができたのです。

 

 私たちもかつては罪過と罪の中に死んでいたものです。そんな私たちを神は愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださいました。そのことによって愛がわかったのです。だから、私たちも互いに愛し合うことができるのです。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。この神の愛による関係を求めていきましょう。それは、私たちの目が自分から神の愛に、この世から天の御国に向けられることによってもたらされるのです。

ローマ人への手紙5章1~11節「神との平和」

きょうは「神との平和」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは、人は信仰によって義と認められるというテーマで語ってきました。すなわち、人はイエス・キリストの十字架の血潮を信じることで、悪魔と罪の支配から解放されるということです。これがローマ人への手紙の全体のテーマです。

 

ところで、このようにイエス様を信じて救われた人は、その後、いったいどのようになるのでしょうか。それがきょうのテーマです。きょうはこのことについて三つのポイントお話をしたいと思います。

第一に、信仰によって義と認められた人は、神との平和を持つようになります。第二のことは、それだけではなく、患難さえも喜ぶ力が与えられます。そして第三ことはその理由ですが、それは、信じる者に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

Ⅰ.神との平和(1-2)

 

まず第一に、1節と2節をご覧ください。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」

 

これまでパウロは、信仰によって義と認められるということを語ってきましたが、これまで述べてきたことを受けて、この5章ではその結果について語っています。

信仰によって義と認められるとき、私たちの人生にどのような実が現れるのでしょうか。ここには、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。これまで全くなかった神との平和が、イエス・キリストを信じることによってもたらされるのです。逆の言い方をすると、私たちは10節にあるとおり「神の敵」であったわけですが、神のひとり子であられるキリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったので神様との間にあった敵意が取り除かれ、和解が実現したのです。

 

もし神との関係が敵対関係のままであったらどうなるでしょうか。それは人間関係に置き換えてみるとよくわかると思います。たとえば夫婦の間に亀裂が生じますとお互いにイライラするだけでなく、悲惨な結果を招くことになってしまいます。家庭においてはどうでしょうか。家庭に平和がないと地獄になってしまいます。なぜなら、本来やすらぎを感じるはずの家庭にやすらぎがなくなってしまうからです。これが国家間の関係になるとどうでしょうか。国家間に平和がないと戦争が起こり、世界中が大混乱になってしまいます。職場での最も多いトラブルは何かというと、給料の額の問題ではなく人間関係のトラブルです。それは実に耐え難いものがあります。いつも嫌な人の顔を見て仕事をしなければならないことに耐えきれず、辞めてしまうことさえあるのです。それは教会でも同じです。教会に平和がないと愛も恵みも感じなくなり、絶えず争いが生じるようになります。平和は、人間が生きていく上で最も重要な原理です。その平和をもたらしてくださるのが神様です。この神との平和が基になって、この社会のさまざまな関係においても平和が生まれてくるのです。そしてこの神との平和は、私たちの主イエス・イエスキリストによって、与えられたのです。

 

それまで人間は神に対してどういう立場にあったのかというと、10節にあるように「敵」だったわけです。神様との間に平和がありませんでした。いわば神様に敵対しているような状態でした。そういう人間が神様の前に出ようものなら死ぬしかありませんでした。そのため旧約聖書の時代には、神に仕えていた祭司長ですら神の前に出ることができませんでした。神に近づくことのできる唯一の方法は、年に一度、過ぎ越しの祭りの大贖罪日に小羊の血をもって進み出ることでした。大祭司はその血を携えて、至聖所という奥の部屋に置いてあった契約の箱の上にその血を注ぎかけなければなりませんでした。なぜなら、血が注がれることがなければ、罪の赦しはないからです。その血によって、神の怒りがなだめられたのです。

その時大祭司は、二つの物を身につけて至聖所に入って行きました。一つは腰にひもを結びつけることで、もう一つは鈴です。服の下に鈴を下げて入りました。なぜなら、神様はあまりにも聖い方なので、その神の前に触れることによって死ぬ人がいたからです。聖い神の御前に出ることは、まさに命がけだったのです。そこでもし鈴がならなかったら「あっ、死んだな」とわかりました。それでも人が中に入って行くことができませんから、ひもをつかんで引っ張り出したのです。そのひもと鈴です。神に敵対した罪深い人間にとって、神様の御前に進み出るということは、それほど恐ろしいことだったのです。

 

しかし、このイエス・キリストの血潮によって、この神様との間に平和が与えられました。大胆に神様の御前に進み出ることができるようになったのです。ヘブル人への手紙10章19節には次のようにあります。

 

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」

 

イエス様が十字架で死んでくださったことによって、そのような恐れから解放され、大胆に御前に出ることができるようになったのです。そのことは、イエス様が十字架につけられた時、神殿の幕が真っ二つに裂けたという出来事によってもわかります。マタイ27章51節です。

 

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

 

それまで神様と私たちとの間を隔てていた壁が完全に取り除かれたのです。このイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入り、神様のみもとに行くことができるようになったのです。

 

パウロはこの事実を、2節のところで次のように言っています。「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」「いま私たちの立っているこの恵み」とは何のことでしょうか。このことです。神様の御前に恐れなく、大胆に進み出ることができるようになったということ。それまではまったく恐れの対象でしかなかった神が、幼子が「おとうちゃん」と言って父親の胸元に飛び込んで行くように、大胆に近づくことができるようになったことです。この「導き入れられた」ということばは「プロサゴーゲー」というギリシャ語ですが、「近づく」という意味のことばです。「連れて行って紹介する」という意味もあります。罪のために、聖い神様との関係が断絶している私たちの手を取って、父なる神様のみもとに連れて行って紹介し、父なる神様に近づくことができるようにしてくだったという意味です。その方法というか、手段が、私たちのために十字架にかかって、罪を贖ってくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰だったのです。

 

何という恵みでしょうか。私たちはイエス様によって、この恵みの中に導き入れられました。私たちが何かをしたからということではなく、何もできないにもかかわらず、ただ信じることによってその道を開いてくださったのです。それゆえに私たちは、今、イエス・キリストの御名によって大胆に神の御前に進み出て、祈ることができるようになったのです。

 

Ⅱ.患難さえも喜ぶ(3-5a)

 

第二のことは、そればかりではなく、患難さえも喜ぶことができるようになりました。3~5節をご覧ください。

 

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」

 

キリスト教信仰とほかの宗教、いわゆるご利益宗教と言われている新興宗教との大きく違う点はここにあります。すなわち、一般的に宗教と言われているグループでは、患難、苦難を悪いものと見てそこから逃れる道だけを説きますが、キリスト教ではそうではないということです。キリスト教では、患難さえも喜びます。勿論、それを歓迎しているわけではありませんが、たとえ患難があっても、それさえを喜ぶことができるのです。なぜでしょうか。「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」そして、この希望は失望に終わることがありません。失望に終わることのない希望とは何でしょうか?それは、やがて世の終わりの時にもたらされる天の御国のことです。イエス・キリストを信じる者には、この天の御国が約束されています。それは確実にもたらされるものなので失望に終わることがないのです。

 

よくテレビやドキュメントレポートの中で会社のために自分の一生を捧げ尽くした人の姿が映し出されることがあります。これまでずっと会社のために身を粉にして働いて来たのに晩年になってリストラされたり、裏切られる結果となって、いったいこれまでの人生は何だったのかと愕然とすることがあります。しかし、この希望は失望に終わることがありません。

 

そのような希望はいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。患難です。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出していくのです。だから患難さえも喜ぶことができるのです。苦しみはできたら避けて通りたいものですが、そうした苦しみが精錬された金のように私たちを一回りも二回りも大きく成長させ、やがて天国へと導いてくれるのであるから、むしろそれは喜ぶべきものなのです。ですからヤコブは次のように言っているのです。

 

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

 

信仰が試されると忍耐が生じます。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。いわば練られた品性が生み出されるのです。もしいま、練られた品性を備えられた人を見ることが出来るなら、私たちは憧れと尊敬の眼差しで見ることでしょう。この「練られた品性」ということばは「試験済みの」という意味のことばです。それは、テストに合格した状態の、円熟した性質、練達した人柄のことを指しています。ある人は鍛錬された名刀のようなものだとも言いました。その工程を見るならうなずけるに違いありません。火によって引き出され、真っ赤に熱せられた鉄は打ち付けられ、また火の中に入れられ熱せられ叩き延ばされます。何度も何度も繰り返すことによって、真の硬さと粘り強さが引き出されます。人が神によってそのように取り扱われるなら、円熟した品性が生み出されるのです。

 

聖書には、このような神の取り扱いを受けた多くの聖徒たちが登場していますが、そのひとりが創世記に登場しているヤコブでしょう。彼は生まれながらにずる賢い性格で、生まれた時にも双子の兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたほどです。そしてその生涯も自らの利益のためには他者をだましてそれを奪い取るという醜いものでした。そんなヤコブを神様は何度も何度も取り扱われました。父をだまし、兄をだまし、家を去って叔父のラバンの下に身を寄せましたが、今度はラバンからだまされます。そのような彼の前途には多くの苦しみが待ち受けていました。そうした人生の苦しみを通して彼は、神を求め、何度も何度も苦難を通らされることによって、霊的な鋭さと円熟した性格を持つに至ったのです。そこには練られた品性がありました。それがイスラエルです。彼はラバンのもとから帰る途中でヤボクの渡しというところを通ったとき、そこで一晩中神と格闘し、そのもものつがいを打って足を引きずらなくてはなりませんでしたが、そうした格闘を通して彼は、イスラエル、すなわち神こそ勝利であることを悟ったのです。

それは彼がラバンの下から出て行くときに見られます。難産の子を妻ラケルは「ベン・オニ」(私の苦しみの子)という名で呼びました。彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとしていたからです。しかし、ヤコブは何と名付けたでしょうか。「ベニヤミン」です。「(私の)右手の子」という意味です。

苦しみのさなか、誰の目から見ても耐えがたい苦しみに面していると認められるときでも彼は希望を見出したのです。そのような人こそ、熟練された人です。最愛のラケルの死は、ヤコブにとって打ちのめされる出来事でしたが、その中でもヤコブはラケルの死にあって尚希望を見出したのです。そこには神に取り扱われた者の姿がありました。

このような姿を見るとき私たちは、「練られた品性が希望を生み出す」ということに対して、アーメンと言えるのではないでしょうか。

 

口に筆をくわえて詩と絵を描いておられる星野富弘さんは、中学の体育の教師として赴任したばかりの頃、鉄棒の実演中に頭から地面に落ちて首の骨を折り、首から下が全く動かなくなりましたが、その療養中にイエス様を信じました。その時の様子を、「いのちよりも大切なもの」という本の中で紹介しておられます。

元々、体力には自信があって、いつの間にか、体を動かすことによって何でもできると錯覚していたためか、怪我をして、まったく動けなくなり、気管切開をして、口もきけなくなった時、そういう日が、幾日も幾日も続いた時、自分の弱さと言うものを、しみじみと知らされました。鍛えたはずの根性と忍耐は、けがをして一週間くらいで、どこかに行ってしまいました。

そんなある日、星野さんの治療にあたっていた看護婦さんが悲しそうな顔をして星野さんにこう言いました。「星野さん、ちくしょうなんて、言わないでね。」

「えっ、俺、ちくしょうなんて、言いましたか?」「あら、今も言ったわよ。星野さん、よく言っているわよ。」

星野さんのことを、いつもとても心配してくれている看護婦さんだったので、それからは、自分の言葉に、少し気をつけてみることにしました。すると、どうでしょう。しょっちゅう「ちきしょう」と、言っている事に気づきました。「今日は天気がいいな、ちきしょう。」「ちきしょう、腹が減った。」「今朝は、いい気分だ、ちきしょう。」などと、朝から晩まで、自分でも気づかないうちに、「ちきしょう」を口走っていたのです。

幸せな人を見れば、憎らしくなり、大けがをして病室に担ぎ込まれて来る人がいれば、仲間が出来たような気がして、ホッとしたり、眠れない夜は、自分だけが起きているのがしゃくにさわって、お母さんを起こしたり・・。熱が出れば大騒ぎをして、自分の周りに、医者や看護婦さんがたくさん集まって来るのにさえ、優越感を感じるような、情けない自分と向き合わせの毎日だったのです。

その様な時にふと聖書を開いてみると、こんな言葉が目に入りました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28~30節)

生まれてから、怪我をするまで、どのくらい嬉しい事があったか。うれしくて、うれしくて仕方がない時、その喜びを誰に感謝していただろうか。反対に、辛い事も沢山あってもそのつらさや苦しみを誰に打ち明けていたか。誰にも言えないでいたことがたくさんありました。そんな自分に「重荷を負ったそのままで、私のところに来なさい。」と言ってくださるイエス様が、何よりも、誰よりも、大きな存在であると思い、このイエス様を信じたのです。

それからというもの、星野さんの心が少しずつ変えられていきました。見方、考え方が180度変わりました。そして、神様のために詩と絵を描くようになったのです。「ことばの雫」という本の中で、星野さんは次のようなことを言っています。

 

「苦しむ者は、苦しみの中から真実を見つける目が養われ、動けない者には、動くものや変わりゆくものが良く見えるようになり、変わらない神の存在を信じるようになる。十字架に架けられたキリストは、動けない者の苦しみを知っておられるのだろう。」

 

まさに、練られた品性から生み出されたことばです。詩篇の作者は、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)と語りましたが、同じような心境に至ったのでしょう。これが福音の力です。これこそ奇跡ではないでしょうか。人間の本当の強さとはこういうところにあるのではないでしょうか。ほかの人々が耐えられないことを耐え忍び、ほかの人々がしたくないことを静かに行える。患難さえも喜べる力、それこそ本当の力です。主イエスを信じる者には、このような力が与えられるのです。

 

Ⅲ.神の愛が注がれているから(5b-11)

 

第三のことは、その理由です。どうしてこの希望は失望に終わることはないのでしょうか。なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」5節後半のところにそのようにしるされてあります。このことは、私たちが大きな患難に直面したときそれに対してどのように自分をコントロールしたらよいかということを教えているのではありません。最近ではこのような心理学的なアプローチをあたかも聖書の教えであるかのように語る人がいますが、それは福音ではありません。私たちが患難を喜ぶことができるのはそのように考え方の問題ではなく、聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているという事実に基づいているのです。聖霊によって神の愛が私たちの心に満たされるとき、平安と喜びと希望に満ち溢れ、どんな患難が襲って来ようとも、それさえも喜ぶことができるようになるのです。では、その神の愛とはどのようなものなのでしょうか。パウロはここで、その神の愛がどのようなものなのかということについて語っています。6~8節です。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 

ここでパウロが語っている神の愛の大きさは、全く愛されるに値しない者に注がれたことによって明らかにされました。パウロはここで、全く愛されるに値しない者を表すことばとして、三つのことばを使っています。一つは「弱かったとき」ということばで、もう一つは「不敬虔な者」、そしてもう一つが「罪人」です。まず「弱かった」ということばですが、これは、力が欠如していることを表していることばです。つまり、霊的に無能力であったということです。たとえば、パウロはエペソの人たちに、「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって・・」(エペソ2:1)と言っておりますが、そういう意味での弱さです。ですから、この「弱かったとき」というのは、からだが弱かったとか、意志が弱かったとか、立場が弱かったということではなく、人間として霊的本質的に欠陥があったということなのです。このような欠陥があるとどうなるかというと、いつでも外的なものでそれをごまかそうとします。たとえば地位とか権力といったもので自分を飾ろうとするのです。そうした弱さが私たちの中にります。

 

もう一つの不敬虔な者というのは、神を敬う心が欠如している人たちのことです。人は神によって造られたとき、神のかたちに造られましたが、罪に陥ったことで、それを失ってしまいました。1章のところで見てきたように、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなりました。不敬虔な者とはそういうことです。

 

それから罪人ということばですが、これはもともと「的をはずした」人のことです。人は神がお造りになられた本来の姿からそれてしまい、してはならないことをするようになってしまいました。自分の思いのままに生きるようになったのです。これが罪人の姿です。

 

このような人間には、神の怒りが天から啓示されているということについては先に述べてきたとおりですが、ここではそのような人に対して、キリストが死んでくださったことによって、ご自分の愛を明らかにしてくださったというのです。神は、罪を憎まれますが罪人を愛されるのです。そしてどんなに深く罪人を愛しておられるかということは、その尊いひとり子を犠牲にされたことによって表してくださいました。「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 

人間は、正しい人を尊敬します。権力とか財力に屈しない正しい人を英雄視するのです。しかし、だからと言って、その人のために死んであげるという人などいません。けれども、私たちのために何かをしてくれた慈善家のためなら、死んでもいいという人もいないわけではありません。しかし、正しい人でもなく、まして慈善家でもない、むしろ神に敵対し神の戒めを少しも聞こうとしない罪人のために死んでくれる人などいるわけがありません。がしかし、いたのです。それが神の御子イエス・キリストでした。そしてこのキリストの愛は、絶対に変わることがありません。その変わることのない神の愛が、聖霊によっていま私たちの心に注がれているのです。であれば、この希望が失望に終わるということがあるでしょうか。絶対にありません。心はコロコロ変わるから「心」だと言った人がいますが、神の愛は人の心のようにコロコロ変わるようなものではありません。ですからパウロはこう言うのです。9~11節です。ご一緒に読んでみましょう。

 

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」

 

ここで注目すべきことばは「なおさらのことです」ということばです。ここでは二回も繰り返して使われています。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのです。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。私たちはそれほどまでに愛されているのですから、私たちの希望は決して失望に終わることがないばかりか、この神を大いに喜ぶことができるのです。

 

私たちは時としてジレンマに陥ることがあります。「イエス様を信じてもちっとも変わらないじゃないか」「信仰によって救われたとは言っても、実際の生活は火の車だ!」とかと嘆くことがあります。しかし、実のところ私たちには、これほどの力が与えられているのです。信仰によって義と認められた私たちは神との平和をいただいているばかりか、患難さえも喜ぶことができるのです。聖霊によって、神の愛が、私たちの心に注がれているからです。この愛が私たちを生かすのです。私たちも、この神の愛によって、新しいしい一歩を踏み出させていただきましょう。

ローマ人への手紙4章1~25節「アブラハムの信仰」

きょうは、「アブラハムの信仰」についてご一緒に学びたいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪を取り上げ、すべての人が神の前に罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないと語ってきました。神様の御前ではだれも、何一つ誇れるものはありません。人は、救われるためにいろいろな方法を試してみますが、こうした試みは、人間の罪を解決する上で何の助けにもならないのです。人間の力では決して神様のみもとに行くことはできません。従って人間に残されているものは絶望と落胆しかありません。

しかしあわれみ豊かな神様は、そんな人間が救われるために一つの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。3章21節には、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」とあります。神様は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって義としてくださると約束してくださったのです。

このように信仰によって義と認められることを、「信仰義認」(Justification by faith)と言います。つまり、信仰によって義とされ、救われたと見なされる、という意味です。しかし、人々はこのことを理解できないと言って、なかなか信じようとしません。救いがただで与えられるということがピンとこないのです。「ただ」ということに慣れていないからです。特に私たち日本人にとってはそうでしょう。「ただほど怖いものはない」というように、「ただ」で受けることに抵抗感を持っています。ですから「お返し」という習慣があるのです。何か自分の体を動かして、一生懸命に努力して受け取ることで、安心します。それが人間の本性なのです。

しかし、聖書では、ただ神の恵みにより、信仰によってのみ救われると教えられています。その一つの例がアブラハムです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(3:23~24)とパウロが語ると、ユダヤ人のある人たちから、「そんなことはない。アブラハムは行いによって義と認められたではないか」という疑問が起こりました。

そこでパウロはこのアブラハムの例を取り上げながら、救いはただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられるということを論証するのです。

 

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一に、アブラハムが義と認められたのは彼が神を信じたからであって、割礼やその他何らかの行いをしたからではありません。

第二のことは、ではそのアブラハムの信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。それは死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神を信じる信仰、あるいは、望み得ないときに望みを抱いて信じる信仰でした。

第三のことは、その信仰とは主イエス・キリストを信じる信仰であったということです。

 

Ⅰ.神を信じたアブラハム(1-16)

 

まず第一に、アブラハムが義と認められたのは神を信じたからであって、何らかの行いをしたからではないということについてみていきたいと思います。1~16節までのところに注目したいと思いますが、まず1~3節までのところをご覧ください。

「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」

 

ここでパウロは、自分たちの先祖アブラハムはどうだったのかについて取り上げています。なぜなら、アブラハムこそ自分たちの民族のルーツだと考えていたからです。そのアブラハムが義と認められたのはどうしてか?彼が神の命令を行ったときなのか、それとも神をただ信じたときだったのか?もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば誇ることもできますが、実はそうではありませんでした。なぜなら、聖書には、「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあるからです。

これは創世記15章6節のみことばです。アブラハムは約束の地カナンに入って15年が経っており、だいたい90歳になっていましたが、彼にはこどもがありませんでした。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:3)と約束されたのに、まだこともが与えられていなかったのです。妻のサラも80歳を越えていました。一体あの約束は何だったのでしょうか。そんなことを考えながら絶望の淵にいたアブラハムに、ある夜、主が臨まれました。神様は彼を外に連れ出してこのように言われたのです。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)

人間的にはどう考えても実現しがたい約束でした。にもかかわらず、アブラハムはこのことばを信じました。そして、主はそれを彼の義と認めてくださったのです。つまり、アブラハムの信仰が神様の心を動かし、その信仰のゆえに彼は義と認められたのです。

 

ユダヤ人たちは、救いは信仰によって得られるということを聞いたときひどく反発しました。なぜなら、アブラハムは行いによって義と認められたと信じていたからです。割礼を受けなさいと命じられたときに割礼を受け、モリヤの山でイサクをささげなさいと言われたときにも、本気で彼をほふろうとした。彼はそのように行ったからこそ救われたのであって、厳しい従順の行為こそが義と認められる根拠であったと信じていたのです。

 

そんな彼らに対してパウロは、ここで、「誤解しなさんな」と言っています。聖書の順序をよく見なさいと言うのです。彼らが割礼を受けた時やモリヤの山でイサクをささげようとしたのはいつだったのか?それは創世記17章と22章にある出来事です。つまり、アブラハムが神を信じて義と認められたという出来事の後で起こったことなのです。まず信仰によって義とされてから、その検証として割礼を受けたり、イサクをささげたのです。

 

ですからアブラハムは行いによって救われたのではなく、信仰によって救われたということになるのです。その結果、信仰の行為が生まれたのです。この順序が大切です。旧約聖書でも新約聖書でも、救いの原理はただ一つです。それは信仰によって救われるということなのです。

 

それはダビデを例にとっても言えることです。6~8節をご覧ください。ここには、「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」とあります。ダビデ王とは旧約聖書を代表するイスラエルの王様で、救い主は彼の子孫から生まれると預言されていた重要な人物です。いわば旧約聖書のキーマンとも言える人物です。

そのダビデが、罪が赦される者の幸いについてこのように告白したのでした。これはバテシェバとの姦淫のことで苦悩していたダビデが、神の御前には隠すことができるものなど何一つないことを知り、その罪を告白した時に体験したことです。

彼の罪が赦されたのは、彼が何か善行をしたり、償いをしたからではなく、神の御前に自分の罪を認め、告白したことによってでした。その時神がその罪を赦し、義と認めてくださいました。ただ悔い改めて、神の恵みに信頼しただけです。つまり、ダビデもまた信仰によって義と認められたのです。

 

ということはどういうことなのでしょうか。結論は16節です。「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」

そういうわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に保証されるためなのです。

 

新聖歌233番の曲は、「おどろくばかりの」という賛美歌です。英語では、「Amazing Grace」です。「Amazing」とは「あっとおどろくばかりの」という意味です。これを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。アフリカから英国に奴隷を運んでいました。人間のくずのような仕事です。しかしその船で帰る途上大嵐に会い、いのちからがら助け出されたとき、そこに神の不思議な御手を感じました。イギリスに戻ってから教会に行くようになり、自分の罪の大きさとその罪をも赦してくださる神の恵みに触れたとき彼は、「Amazing Grace!」と叫んだのです。こんな者でも赦してくださる神の恵みを体験したのです。

 

  1. 驚くばかりの 恵みなりき
    この身の汚れを 知れるわれに
  2. 恵みはわが身の 恐れを消し
    任する心を 起(おこ)させたり
  3. 危険をもわなをも 避け得たるは
    恵みの御業と 言うほかなし
  4. 御国に着く朝 いよよ高く
    恵みの御神を たたえまつらん

 

私たちが救われるのは、私たちの中に何か少しでも徳があるからではありません。そういうものとは全く関係なく、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によってのみ義と認められるのです。

 

人間にはじっと我慢していることができないという性質があります。ですから、何かをしてこそ、あるいは何かをがんばってこそ、安心するのです。たとえば、ここに重病の患者さんがいたとします。この方に医者が、「あなたは何もする必要はありませんよ。ただじっとしていたらいいんです。じっとしていたら治ります」とでも言うものなら、この患者さんはひどく落胆するのでしょう。「ああ死ぬ時が来たんだ。だから医者はそんなことを言うんだ。もう望みはないんだ」と。その結果、病状がかえってひどくなってしまうこともあるのです。

 

ところが治らない病気でも、消化剤を与えられ、「これで全快しますよ」と言われると、一生懸命飲んで治ろうとします。不思議なことに、治らないと思われていた病気が、それで治ってしまうということさえあるのです。それが人間なのです。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないことを要求する宗教に、多くの人々が列をなして入って行くのです。

 

しかし、本当の宗教は「ただ」なんです。ただ、信じれば救われるのです。それはこの救いが神様からの一方的な恵みによるためであり、すべての人が受けることができるためなのです。昔、イスラエルが荒野で不平不満を言ったとき、それを怒られた神は蛇を送られたので、多くの人たちが蛇にかまれて死にました。そのとき神様はどうされたでしょうか。高価な薬を飲まないと救われないと言ったでしょうか?お百度参りをしたら治してやろうと言われたでしょうか?いいえ、ただ青銅の蛇を一つ造り、それを仰ぎ見なさいと言われました。そうしたら救われる・・・と。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見たすべての人が癒されました。これが信仰です。この信仰によって人は義と認められるのであって、自分の努力や行いによるのではありません。そのようなものによっては、私たちは神の御前に正しいとは見なされないのです。ただ神を信じること、それ以外に道はないのです。

 

Ⅱ.アブラハムの信仰(17-22)

 

では、そのアブラハムの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。17~21節までをご覧ください。

「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

 

ここにアブラハムの信仰がよく説明されていると思います。ここには、彼の信じた神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方、とあります。そうです、アブラハムは、神はどんなことでもおできになられる全能の方であると信じていたのです。

 

私たちは、その人がどんな神様を信じているかで左右されます。死んだ神様を信じている人は、その信仰も死んだものであり、生きている神を信じている人は、その人の中に生きておられる神様のみわざがどんどん現れてきます。皆さんは自分が信じている神様が全能者であると信じていますか?今も生きておられ、できないことは何一つない方であると信じていますか。もしそうならば、何も落ち込む必要はありません。神様がともにいてくださるなら、すべてのことが可能となるからです。

 

宗教改革者のマルチン・ルターは「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが犯しがちな罪の中でも最も大きな罪は、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまうのです。その全能のお力を認めないのです。

 

私たちはしばしばこのような錯覚に陥ってしまうことがあります。「神様にも難しいことはあるだろう」本当にそうでしょうか。神様にも難しいことがあるでしょうか。たとえば、神様にとって、風邪を治すことはできても、がんを治すことは難しいことなのでしょうか。いいえ。神様にとっては、風邪を治すこともがんを治すことも朝飯前のことです。簡単なことなのです。私たちの目では、風邪がいやされることよりも、がんがいやされることの方がはるかに難しいように感じますが、神様にとってはどちらも簡単なことなのです。イエス様が死人を生き返らせた時には相当長く祈られたのではないかと思いがちですが、実際はそうではありませんでした。イエス様は簡単に死人を生き返らせました。イエス様にとって死人を生き返らせることなど簡単なことだったのです。なぜなら、イエス様はこの世のすべてのものを造られた創造主だからです。目に見えるものも、見えないものも、王座も主権も支配も権威も、すべてイエス様によって造られ、イエス様のために造られたのです。(コロサイ1:16)ですから、イエス様にとってできないことは何もありません。

 

であれば私たちは、神様にはできないことはないと信じて、いつでも大胆に主に頼って前進することが必要です。私たちの周りにどんなにかたくなな人がいたとしても、全能の神様を信じて進み出るとき、神様はそのたましいを救ってくださると信じることが大切です。18節を見ると、アブラハムは「望み得ないときに望みを抱いて信じた」とあります。彼はおよそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

 

ルカの福音書5章には、夜通し漁をしても全く魚が捕れなかったペテロに対して、イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)と言われたことが出ています。

このイエス様の御言葉は、人間の理屈には合わないことでした。第一に、そのときは網を投じる時間帯ではありませんでした。第二に、網をおろす場所が間違っています。魚は普通、プランクトンがたくさんいる浅瀬にいるのであって、深みに網をおろしてはいけないのです。第三に、このときはもう漁が終わり、網を片付けているときでした。そんな時にもう一度舟を出すことが、どんなに面倒くさいことだったかわかりません。第四に、ペテロはイエス様に指示される立場ではありませんでした。彼は漁師でした。漁のプロで、魚を捕る専門家でした。なぜに大工だったイエス様に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を捕りなさい」と言われなければならないのでしょうか。大工が漁師に漁について指図するというのは見当違いです。しかし、ペテロは「でもおことばですから、網をおろしてみましょう」と答えました。するとどうでしょうか。網が破れそうになるほどの魚が捕れたのです。

これが信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信するものです。(ヘブル11:1)神様が言われたことは必ずなると信じることなのです。アブラハムは信じました。神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。それが自分の感情や理屈に合わなくてもです。100歳にもなって、自分のからだはもう死んだも同然であり、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。この「死んだも同然」ということばは現在完了形で現されていて、「もう死んでしまった」という意味です。つまりもう死んでいて、その体には生産能力はありませんでしたが、それでも、その信仰は弱まらなかったのです。

この信仰が重要です。「神様のみことばを聞いていると心は熱くなるけれども、周りを見たらもう大変で、何にもならない。すべて夢のようだ」と落胆する時がありますが、アブラハムはそのような絶望的な状態を見ても、その信仰は弱まるどころか、反対にますます強くなって、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

 

ロサンゼルスに、有名なおばあさんがいました。このおばあさんは道を歩くとき、いつもぶづふつ言いながら歩きました。不思議に思った人が尋ねました。「おばあさん。あなたはどうしてそういうふうにぶつぶつ言いながら歩いているんですか?」するとそのおばあんが、こう答えました。「あたしゃもう年をとって、神様のお仕事をすることはできないし、子孫のためにできることもないのよ。でもヨシュア記1章3節に、「あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ってあるから、そのまま信じて従っているの」。不思議なことに、この方が足で踏んで歩いた所には、ユダヤ人の店が立ち並び、ユダヤ人たちが不動産を取得しているそうです。

 

「そのまま信じて従うこと」です。自分の理屈や常識に合わなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様の前では、理屈や常識は無用だからです。神様が用いられるのに難しい人というのは、常識を主張する人です。「それは常識的に可能でしょうか」といつも聞く人です。また何かをしようとすると、自分の経験ばかり言う人もいます。「やったこともないのにどうしようと言うのですか」と。しかし神様は、経験のあることを私たちにしろと言っておられるのではありません。全くやったことのないことや、まだ未知の領域のことでも信仰を持って出て行き、開拓するようにと呼んでおられるのです。

 

パスカルは言いました。「信仰とは理性を十字架につけることだ」と。汚染されるだけ汚染されてしまった理性を十字架に付けて、みことばどおりに信じ、従う人にならなければなりません。アブラハムはまさに、そのような信仰を持っていたのです。

 

Ⅲ.イエス・キリストを信じる信仰(23-25)

 

そして第三のことは、このアブラハムの信仰とは、イエス・キリストを信じる信仰であったということです。23~25節をご覧ください。

「しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

 

アブラハムの信仰とは、神は約束されたことを成就する力があると堅く信じる信仰でしたが、それは同時に、イエス・キリストを信じる信仰でもありました。というのはここに、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあったとあるからです。どういうことかいうと、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちもまた、その信仰によって救われるということです。つまり、アブラハムが信じた神とは、死人を生かし、無から有をお造りになることのできる方、すなわち、復活の主であったということです。キリストの十字架と復活を信じる信仰こそ、私たちの罪が赦され、神に義と認められるために必要な唯一の信仰であるという意味です。ですからパウロはコリント人への手紙の中で、これが私たちが救われるべき福音であると、次のように言ったのです。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:1~5)

 

私たちが救われるべき福音のことばとは、十字架と復活のことばです。キリストの十字架と復活なしに、私たちの救いはあり得ません。この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのであって、それ以外に道はありません。キリストの十字架と復活こそ、私たちが救われるべき方法として、神が示してくださった道なのです。なぜなら、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪の身代わりのためであり、キリストが復活されたのは、この十字架上で成し遂げられた御業を、父なる神様が完全に受け入れられたということの宣言にほかならないからです。アブラハムはこの信仰を持っていたのです。

 

今から7年前に、東日本大震災が起こりました。私は那須で行われていた聖書入門講座から帰り自宅にいましたが、激しい揺れに世の終わりが来たかと思ったほどです。後でテレビの報道で特に福島、宮城、岩手沿岸に大津波が襲いかかり、多くの方々が犠牲になられたことを知って、本当に悲しみで胸が痛みました。涙が出ました。そして、この福音を知らずして亡くなられた方々のことを思うと、心が痛みます。何とかしてこの福音を宣べ伝えなければならないと思いました。そのためにも私たちは、この福音のことばをしっかり保っていなければなりません。この国の人々が福音を信じて救われますように。この国の回復と復興が、福音を信じる信仰によって、神の恵みと全能の力によって為されていきますように。心からお祈り致します。

ローマ人への手紙3章9~31節「救いの道」

きょうは「救いの道」についてお話したいと思います。私たち人間にとっての永遠の命題の一つは、「人間はいかにしたら救われるか」ということです。もちろん、この場合の救いとは貧乏からの解放とか病気の治癒、人間関係をはじめとしたさまざまな問題の解決ということではなく、それらの問題の根本的な問題である罪からの救いのことです。人類最初の人間であったアダムが罪を犯して以来、人類はその罪の下に置かれ、罪の力に支配されるようになってしまいました。これは奴隷をつなぐ鎖のように強力なので、この鎖から解き放たれることは並大抵ではありません。いったいどうしたらこの罪の力から解放されることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、すべての人は罪人であるということです。義人はいない。ひとりもいません。すべての人が迷い出て、みな、無益な者となってしまいました。第二のことは、では救いはどこにあるのでしょうか。イエス・キリストです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから第三のことは、このイエス・キリストを信じ、十字架だけを誇りとして歩みましょうということです。

 

Ⅰ.すべての人は罪人(9-20)

 

まず第一に、すべての人は罪人であるということについて見ていきましょう。9~20節までに注目してください。まず9節をお読みします。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」

1節からのところでパウロは、ユダヤ人のすぐれたところについて語ってきました。ユダヤ人のすぐれたところは、彼らには神のことばが与えられていたということです。そこでパウロは、そうした優越性というものを一応認めたものの、それは彼らが何をしても構わないということではないと釘を打ったところで、ではどういうことなのかをここで述べます。それは、ユダヤ人もまた罪人であるということです。

 

パウロはここで、1章18節から異邦人の罪について、そして2章からはユダヤ人の罪を取り上げ、ここでその結論を語っているのです。すなわち、すべての人が罪人であるということです。ひとりとして例外はありません。この地上に生きた人で、この罪の下になかった者はひとりもいないのです。ただ神のひとり子であられ、聖霊によってお生まれになられたイエス・キリストだけは違います。キリストは聖霊の力によって生まれた「いと高き方の子」(ルカ1:35)であられるので、全く罪を持っていませんでした。しかし、キリスト以外のすべての人は、別です。異邦人であれ、ユダヤ人であれ、みな罪の下にあるのです。パウロはそのことを旧約聖書のことばを引用して裏付けています。10~18節です。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」

 

本当にそうです。人が口を開けば毒のようなことを言って殺します。それはまさに開いた墓です。また、偽りや欺き、のろいや苦々しさで満ちています。他人が血を流して倒れているのを見ても悲しむどころか、むしろそれを見て喜んでいたりしているのです。これが人間の姿です。どうして人はこんなにひどいことを言ったり、やったりするのでしょうか。罪を持っているからです。人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯してしまうのです。ダビデはこのように告白しました。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

ダビデは、自分が母の胎にいた時から罪人だったと言っています。母の胎にいた時から罪を持っていて、罪人として生まれてきたので、罪ある人生を送るようになったのだ・・・と。

私たちはよく人の悪を見ては、「なぜあの人はあんなことをしたのだろう」とか、「この」人は本当にひどい人だ」と言いますが、それは日常的なことであり、だれにでも起こり得ることなのです。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです。

 

よく教会に行くとすぐに「罪」「罪」って罪のことばっかり言われるから行きたくないの、と言われる方がおられますが、そのような方は「罪」ということばから犯罪を連想し、罪人イコール犯罪人のことであり、自分はそんなにひどい人間だと思っていないからなのです。

しかし、この世の法律を破った人が犯罪人であるならば、神の法律を破ってしまった人間は、この世の犯罪人以下であるはずがないのです。私たちはみな罪人なのです。

 

「罪」ということばはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは的外れを意味しています。神によって造られた人間は、神をあがめ、神の栄光のために生きるはずなのに、その神から離れ自分勝手に生きるようになってしまいました。これが罪です。ですから、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなったと聖書は言うのです。聖書の言う救いとはこの罪からの救いのことであって、単なる前向きで、肯定的な生き方のことではないのです。この罪から解放されることによってもたらされる喜びと心の平安のことなのです。

 

Ⅱ.イエス・キリストを信じる信仰による神の義(21-26)

 

ではどうしたらいいのでしょうか。罪ある者として生まれてきた私たちには、何の希望もないのでしょうか。いいえ、まだ希望があります。それがイエス・キリストです。律法によっては、だれひとり神の前に義と認められることのない私たちに、律法とは別の、いや、律法が本当の意味であかししていた神の義が示されたのです。21~24節をご覧ください。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

ここには「律法とは別に」とありますから、これが旧約聖書に書かれてあったこととは別の義(救い)であるかのように錯覚しがちですが、そういうことではありません。ですからその後のところに、「しかも律法と預言者によってあかしされて」とあるのです。これは旧約聖書の時代から律法と預言者によってずっとあかしされていた救いなのです。それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」です。えっ、旧約聖書の時代にはまだイエス・キリストが登場していないのに、その旧約聖書であかしされていたとはどういうことですか。預言です。預言という形であかしされていたのです。その時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、キリストを信じる信仰によって救われるということが預言という形でちゃんと示されていたのです。

 

たとえば、創世記3章15節などはその一つです。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ということばがありますが、これは人類最初の人アダムを誘惑して堕落させた蛇であるサタンに創造主なる神が語られたことばです。ここで神は蛇であるサタンに、その勢力が地を這って歩くようになり、やがて蛇の頭、すなわち、サタンを粉々に打ち砕いて勝利すると宣言されたのです。これはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって成就しました。これはイエス・キリストの十字架と復活の型だったのです。

 

また、出エジプト記12章を見ると、ここにはイスラエルがエジプトから脱出した時の様子がしるされてありますが、その時神はイスラエルに不思議なことを命じました。12章5~7節です。一歳の雄の小羊をほふり、その血を取って、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいに塗るようにというのです。いったい何のためでしょうか。しるしのためです。それは主への過越のいけにえでした。神がそのしるしを見て、滅びのわざわいを過ぎ越すためです。それは、やがて十字架に架けられて死なれたキリストを指し示すものでした。神のさばきは小羊の血を塗った家を過ぎ越していったように、イエス様の血を信じた者の上を過ぎ越されるという預言だったのです。

 

このように旧約聖書の時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、預言という形であかしされていたのです。このような預言は少なくとも350カ所、間接的な預言も含めると450カ所にも上ると言われています。古代キリスト教の神学者で説教者であったアウグスチヌス(Aurelius Augustinus,354-430)は、「旧約は新約の中に現され、新約は旧約の中に隠されている」と言いましたが、まさにそのとおりです。旧約と新約は全然別々のものではなく、相互に結びついているものなのです。イエス・キリストを信じる信仰による神の義は律法とは別のものですが、律法と預言者によってあかしされていたものだったのです。ですから23~24節にあるように、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

皆さん、イエス・キリストの血潮の力がなければ、罪を断ち切ることはできません。自分の意志や力では到底断ち切ることはできないのです。人間は罪を犯して以来、罪の奴隷として生きるようになり、罪の報酬である死を味わい、滅びるしかない存在となってしまったのです。それが私たち人間の姿であり、そこには絶望以外のなにものもないのです。それを認めなければなりません。しかし、この罪の力を打ち砕き、全く望みのない人間をその絶望と暗闇から救い出してくださる唯一の道が示されました。それがイエス・キリストを信じる信仰による救いです。罪のために全く無力になってしまった人間には何の為す術もありませんでしたが、そんな人間をあわれんで、神の方から一方的にその道を示してくださったのです。どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス・キリストが十字架に釘付けされたことによって粉々に砕かれたのです。これが、私たちが救われる唯一の道なのです。

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

先日、テレビでおもしろい番組がありました。『たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~』!!という番組です。そこでは実質的に破綻しそうな国家予算から、外交問題、少子化、若者の就職難など山積している現代の日本の問題を、「世界中の頭のいい人々」に解決してもらおうというもので、 今回、”世界の頭脳”の代表として登場したのが、「ハーバード白熱教室」で話題のマイケル・サンデル教授でした。そのスタジオで、ビートたけしはじめ、日本の芸能人・文化人を相手に初の授業が行われたのですが、その内容は今問題となっている相撲の八百長問題から始まり、北朝鮮の拉致問題など、多岐に渡りました。「大相撲の八百長」は悪いことなのかという問いに対して、初めは悪いと思っていた17人のゲストが少しずつ変わり、必ずしもそうとは言えないというふうに変わっていくのです。いろいろな視点から考えるということは大切だなぁと思いましたが、サンデル教授が最後に言ったことばがとても印象的でした。

「これが哲学だ。哲学には答えがないのだ。それを考えるのが大切なのだ」と。

なるほど、考えることは大切なのです。しかし、そこには答えがありません。それが哲学なのです。どんなにIQが200以上あっても、罪によって山積されたこの世の問題を解決することはできません。しかし、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。ここに答えがあるのです。私たちの人類の問題の根本であるところの罪の赦しは、神の恵みによって私たちに賜ったイエス・キリストにあるのです。

 

Ⅲ.十字架を誇りとして(27-31)

 

ですから、結論は何かというと、このイエス・キリストを、十字架だけを誇りとしましょうということです。27節と28節をご覧ください。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」

 

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。どこにもありません。なぜなら、私たちが義と認められるのは、律法の行いによってではなく、信仰によるからです。私たちはだれひとりとして、自分の善行や性格の良さ、頭の良さ、家柄や身分、社会的地位や財産の多さによって救われるのではありません。あるいは、難行苦行や、慈善事業をしたから救われるのでもないのです。そのような行いの原理はすでに取り除かれました。では何があるのでしょうか。信仰の原理です。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる。これが信仰の原理です。私たちが救われるためには、神からの賜物であるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちの救いも、すべての仕事も、今置かれている境遇も、これまで成し遂げてきた業も、すべてが神の恵みであって、私たちが誇れるものなど何一つないのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

 

であれば私たちはが誇りとするものは、イエス・キリストの十字架以外にはありません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。ローマ人はその帝国の民であることを誇るでしょう。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを誇ります。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、キリストは神の力、神の知恵なのです。十字架だけを誇り、十字架だけを頼りとし、十字架だけに生かされていく信仰、それが私たちの信仰なのです。それはちょうど光と影のようです。私たちが光から遠くなればなるほど影はだんだん大きくなり、逆に光に近づけば近づくほど、影は小さくなるように、キリストから遠く離れれば離れるほど、自分の誇りが大きくなり、光に近づけば近づくほど、自分の誇りはなくなります。

 

臨終を目の前にした人を見ると、私たちは皆恐れます。死とはそれほど恐ろしいものなのです。そのため私たちは、臨終を迎えようとする人に、心が安らかであるようにと話かけます。「あなたのように多くの仕事をした人はいません」「あなたは立派な方です」「どれほど多くの人々があなたを称えるでしょう」そう言って慰めようとするのですが、そのようなことばが本当にその人を安心させることができるでしょうか。私はできないと思います。その人が何を、どれだけやったのかということは、その人の平安のよりどころにはならないからです。その人が本当に安らかになれるのは、神によって罪の赦しをいただいているという確信を持てる時ではないでしょうか。ですから、もし私がだれかの臨終に立ち会うことが許されるとしたら、こう言ってお慰めしたいと思っています。

「兄弟姉妹、イエス様があなたのために死なれました。そしてあなたのすべての罪は赦されました。主があなたとともにおられます。主の懐の内に安らかに抱かれてください。」

 

イエス様だけが救いです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。「地の果てすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)ただ神を仰ぎ、キリストの十字架を誇りとして歩む者でありたいと思います。

ローマ人への手紙3章1~8節「神は真実な方です」

きょうは「神は真実な方です」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪について語ってきました。神を知っていながらその神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、無知な心が暗くなった結果、してはならないことをするようになってしまった異邦人に対して、そんな異邦人をさばきながらもそれと同じようなことをしていたユダヤ人たち。彼らは自分たちが神によって特別に選ばれた者であることを誇りから形式的に律法に仕えていました。そんなユダヤ人たちに対してパウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、かえって人目に隠れたユダヤ人こそ本当のユダヤ人であると言いました。御霊による、心の割礼こそが割礼なのだと、バッサリと斬り捨てました。このようにしてパウロは、異邦人もユダヤ人もみんな罪人なのだと論じていくわけですが、その前に彼は、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、なぜ神は彼らをご自分の民として選ばれたのか、その理由を語ります。それは神が真実な方だからです。

 

きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人のすぐれたところです。第二のことは、そのようなユダヤ人の不真実に対する神の真実です。第三のことは、であれば、私たちは神の真実に応えましょう。

 

Ⅰ.ユダヤ人のすぐれたところ(1-2)

 

まず、第一に、では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったいと何かということについて見ていきたいと思います。1~2節をご覧ください。

 

「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」

 

パウロは2章で異邦人同様、ユダヤ人も罪を犯しているのなら、しかも彼らは律法を知りながらそれを破っているのであれば、律法を知らずに罪を犯している異邦人よりももっとひどいのではないかと言うと、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、と自問自答します。ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何なのか。

 

これに対してパウロは、「大いにあります」と答え、ユダヤ人のすぐれている点を語ります。それは彼らには神のことばがゆだねられていることです。これはシナイ山で与えられた十戒を中心とした神からのことばのことです。申命記4章12節には、「主は火の中から、あなたがたに語られた。」とあります。神ご自身がイスラエルに語られました。このような民族は他にはありません。これはユダヤ人にとって何よりも大きな特権でした。彼らには約束の地が与えられました。またソロモンの時代には世界で最も栄え、世界中のあこがれの的になったほどです。しかし、彼らにとって最もすばらしい特権は、この神のことばがゆだねられていたことでした。これは他のどの祝福にも優ったすばらしい祝福です。ですからここには「第一に・・・」と言われていながら、第二がないのです。「第一に・・・」しかありません。これがすべてです。これで十分です。これは他の民族にはありませんでした。これはユダヤ人だけに与えられた特権であり、他の民族はユダヤ人を通して聞かなければならなかったのです。そういう意味でユダヤ人は、神と他の民族の橋渡しをする務め、使命が与えてられていたと言えるでしょう。彼らにはこのような特権が与えられていたのです。彼らにはバビロンやペルシャのような大帝国になったり、ローマのような強力な軍隊を持ってはいませんでしたが、そのようなものよりもはるかに力ある神のことばが与えられていたのです。

 

イスラエルの長い歴史の中で彼らの祝福を一言でまとめることができるとしたら、それはこの神のことばを受けた国であったということに尽きると思います。永遠のまことの神を知ること以上に大きな祝福はないのですからです。神ご自身に関する知識は他のいかなる真理よりもすぐれたものであれば、イスラエルはギリシャの哲学やローマの法律、中国の政治の知恵よりもはるかに優る宝を所有していたと言えるのです。端的に言うならば、イスラエルは全ての国々の上に高く上げられた民族なのです。これほど偉大な特権と祝福をいただいている民は他にはいません。

 

そして、実は私たちにもこの特権がゆだねられています。第二テモテ3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)とありますが、この神のことばである聖書が与えられています。今から150年前、200年前はまだ日本語に訳されたばかりだったので、英語とか、ラテン語で読まなければなりませんでした。しかし、最近は日本語にも翻訳され、昨年も新改訳2017が出版されたように、少しずつわかりやすくなっています。訳としてまだぎこちないところもありますが、ラテン語やギリシャ語で読むよりはずっとわかりやすくなっています。いづても、だれでも、自由に、聖書のみことばを読めるようになりました。それは本当に祝福ではないでしょうか。

 

1,450年頃まではヨーロッパにも印刷機がなかったので、書物はどれもみな大変貴重なものでした。教会には聖書がありましたが、信者はそれを自由に持つことができませんでした。博物館にある聖書を見たことのある人もおられるかと思いますが当時の聖書は非常に大きなもので、すべて手書きで書かれてあり、それに盗まれないように鎖までかけられていました。教会に来て聖書を盗むのです。今では国際ギデオン協会の方々が、「どうぞ聖書を読んでください」と学校の校門で配っても、「い~らない」と言ってゴミ箱に捨てる人も多くいます。昔では考えられないことです。盗まれないように鎖をかけて、宝のように大切に保管されていたのです。それでクリスチャンはいつ聖書のことばを聞くことができたのかというと、日曜日に礼拝に集まった時だけでした。ですから、礼拝では牧師がみことばを長く朗読しました。できるだけ神のみことばを聞きたかったのです。今でも伝統的な教会に行くと、毎週の礼拝で旧約聖書と新約聖書の読む箇所が決まっていて、牧師によって朗読されることがあります。教会員は聖書を持っていなかったので、日曜日の礼拝で、みことばをたくさん読んであげなければならなかったのです。そのようにして、信者たちはみことばを聞くことができました。それほど貴重なものなのです。ですから、みことばが朗読される時には会衆は全員立って聞いていたそうです。長い時には2~3時間続きました。立っていますから居眠りなどはできません。彼らは礼拝のために礼拝堂入った時から終わって出て行く時までずっと立ちっぱなしで礼拝することも少なくなかったのです。それでもみことばが聞きたかった。みことばに飢え渇いていたのです。聖書が少なかった時代、信者たちのみことばを求める心は非常に強かったのです。

 

私たちは今、聖書を読もうと思えばいつでも読むことができます。しかも一冊だけでなく何冊も持っているという人もいるでしょう。いや私はスマホで見てるという人もいます。日本語だけでなく英語や他の国の聖書も持っているという人もいます。そうした恵まれた時代に生かされているのです。であれば私たちは神のことばが与えられていることに感謝して、みことばから教えられ、これをまだ知らない人たちに伝えていくという使命を果たしていく者でありたいと思います。ユダヤ人のすぐれたところは、この神のことばが与えられていたことだったのです。

Ⅱ.神は真実な方です(3-4)

 

次に3~4節をご覧ください。ここには、「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。

 

どういうことでしょうか。ユダヤ人にのことばが与えられていたとしても、もし彼らがそれに従わなかったとしたらどうなるのでしょうか。結局のところ、無駄になってしまうのでしょうか。パウロは力を込めて言います。「絶対にそんなことはありません。」なぜなら、たとえすべてのユダヤ人が不真実であっても、神は常に真実な方だからです。神は彼らにみことばを与え、もしこのみことばに聞き従うなら、神の宝の民となるという約束をしてくださいました(出エジプト19:5~6)。それで彼らはこのみことばに聞き従ったかというとそうではありませんでした。むしろこれを背き続けてきました。ではこの約束は全く意味がなかったということなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。なぜなら、彼らが不真実であったとしても、神は常に真実な方だからです。人間は平気で約束を破ります。どんなに神の前で誓ってもいとも簡単に破ってしまいます。しかし、神は違います。神はどんなことがあっても約束を破られる方ではありません。どこまでも守られるのです。なぜなら、神は真実な方だからです。ここに神との契約の確実性があるのです。ですからこれは一方的な神の祝福の約束であって、私たち人間の不信仰や不真実によって無効になるものではないのです。イエス様は次のように言われました。

 

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

 

キリストのことば、神のことばは、滅びることがありません。必ず成就するのです。また、イザヤ書46章3~4節にも、次のような約束が記されてあります。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

胎内いる時からになわれているだけでなく、年をとっても、いや、しらがになって、背負われるというのです。これが神の約束です。ここに神の真実が表れています。神の真実は、私たちの不真実によって無効になるようなものではありません。神の賜物と召命とは変わることがないからです。(ローマ11:29)

 

何度か紹介しましたが、マーガレット・パワーズという人が書いた「あしあと」(フット プリント)という詩は、このことを私たちに思い起こさせてくれます。

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

ひとりのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

二組のあしあとがずっとあったのに、途中で一組しかない。考えてみるとそれは自分の人生の中で最も辛く、悲しく、苦しい時でした。最も神を必要としていた時に限って、あしあとが一組しかないのです。「主よ。なぜあなたはその時にいてくださらなかったのですか。」いてくださらなかったのではありません。一緒におられました。ずっと一緒に歩いていてくださった。あしあとが一つしかなかったのは、主があなたを背負っていたからだ・・と。

 

本当に感動的な詩です。私たちは何度も何度も背負われて来たのだと思います。そして、これからも同じことをしてくださるのです。激しい試練に遭うとき、もう神に見捨てられたのではないかと思うような時でも、主は私たちの側にいてくださるのです。主は決してあなたを裏切るようなことはなさいません。あなたが不真実でも、常に真実であられます。ですから、決して人生をあきらめてはなりません。決して失望してはならないのです。

 

Ⅲ.神の真実に答えて(5-8)

 

ではこの真実な神の前に、私たちはどうあるべきでしょうか。ですから第三のことは、この神の真実に答えましょうということです。5~8節です。

 

「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか―私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」

 

このようなことを申し上げると、中には、「そのように、もし私たちの不真実が神の義を明らかにするのであれば、その神の栄光を現すために、どんどん悪いことをしようではないか」と言う人がおられます。そのことに対してパウロは、絶対にそんなことはないと言っています。このような浅はかな考え方は、神を人間と同じレベルにまで引き下げてしまうのであって、神は絶対者であってさばき主であるということがわかっていないからなのです。私たちの神様はこの世界を創造されただけでなく、この世界を動かしておられます。そして最後にこの世界をさばかれます。このさばき主の前には、このような論理は通用しないのです。いや、それは人間の社会においても、決して通用しないものでしょう。たとえば、泥棒がいることによって警察官は成り立っているのだから、警察官は泥棒を逮捕すべきではないし、むしろ感謝すべきだといった主張しても通用するはずがありません。同じことです。であれば、このような神の真実によって、その一方的な恵みによって救われたのではあれば、この神の真実、神の恵みに答えるような生き方を求めていかなければなりません。キリストの恵みによって救われたのだから、どんな生活をしても構わないのだと考え、なおも罪深い生活を続けるようなことがあるとしたら、そこにはもはや神の恵みは残されてはいません。そのように論じる人が罪に定められるのは当然なのです。もし神の私たちに対する真実、その恵みがどれほどのものであるかを本当に理解していたら、そんなことは決してできないはすです。ローマ人への手紙5章15節に、「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」とあります。

 

皆さん、神の下さる恵みは、多くの人々に満ち溢れているのです。神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことも助けてくださるんだろうか?」と疑いながら祈ることもあるでしょう。にもかかわらず神様は、私たちの思いや期待をはるかに越えて、溢れるばかりに恵みを注いでくださいます。ダビデは詩篇23篇でその恵みを、「私の杯は溢れています。」(23:5)と言いました。ペテロは夜通し漁をしても一匹の魚も捕れなかったとき、主から「深みに漕ぎだして網を降ろしなさい」と言われその通りに降ろしてみると、網が破れるほど多くの魚を捕ることができました。(ルカ5章)カナの結婚式では一瓶や二瓶ではない、庭にあった大きな石がめ六つの水をぶどう酒に変えてくださいました。男だけで五千人の人たちが腹ペコだった時には、五つのパンと二匹の魚で彼らの空腹を満たされたばかりか余ったパン屑を集めると大きなかごで十二のかごが残るほどに恵みを注いでくださいました。これが神様の恵みです。イエス・キリストを信じる者に、神は溢れほどの恵みを注いでくださいます。であれば私たちは、「だったらもっと罪を犯そう」ではなくて、恐れとおののきをもって、この主の恵みに答える者でありたいと思うのです。

 

中国の家の教会の指導者でアクラ張という牧師がおられましたが、私が福島の教会を牧会していたとき先生は二度も教会に来て説教してくださいました。一見、よれよれのおじいちゃんのようですが、一度説教が始まったら、それは火が出るような説教でした。

「私は、1948年に17歳で主の召しを受け聖書学校に入りました。卒業後は華東地区という地区の教会で伝道者として奉仕していました。しかし、1955年に国が管理する教会に加入しなければならなくなってしまったため、主の導きに従って教会を辞めました。そして、自由な立場の伝道者として仕え始めました。そのため3年後には「反革命活動」の現行犯として逮捕され、労働改造農場で23年間過ごすことになりました。

1981年に、海外への出国申請が認められたため、労働改造所を出ることが許され1982年にアメリカへ移住、その後まもなくして人民裁判所により名誉回復通知書を正式に受け取りました。

アメリカに移住後は仕事をしながら神学を学び、並行して2つの教会で奉仕を続けました。1988年に神学校を卒業しフルタイムの奉仕に入りました。中国の家の教会に仕える働きです。思い返すにつけ、父なる神の導きは実に不思議なものです。それはまさに、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5b)「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84:6)とみことばで語られている通りの体験でした。神様に感謝しました。

あっという間に私も80歳の老人の列に加わるようになりました。ガンの末期という重い病気にもかかりましたが、神様の恵みは至れり尽せりです。十分な治療の機会を与えてくださり、病を癒して、命を留めてくださいました。

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150:6)

私の救い主、わが神、いのちの主よ。あなたの道とお心を私は知っています。

「 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩篇63:3)

選ばれた民に主はこう語っておられます。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:3~4)

愛する主よ。私はこの事を特にあなたにお祈りします。

「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者につげ知らせます。」(詩篇71:18)

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:14)

「生きる限り、必ずや前線に立ち続けよう」と、かつての盟友と励まし合いました。主よ。私たちはあなたのご真実とご慈愛を仰ぎます。

残り少なくなった私たちの世代の働き人のために、どうぞお祈りください。信仰と愛と忠実さをしっかりと持ち続けて、清い晩年を全うし、主にまみえることのできますように、神よ、私たちをお守りください。アーメン!」

 

これぞ主のご真実に答えた生き方ではないでしょうか。主の恵みは溢れているのです。主はどんなことがあってもあなたを裏切ることは決してありません。この主のご真実の前に、息ある限り、信仰と愛と忠実さをもって仕えていく。それが私たちに求められていることなのです。

ローマ人への手紙2章17~29節「本当のユダヤ人」

投稿日: 2018/05/26 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「本当のユダヤ人」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1章の後半部分から、人間の罪について語ってきました。それは神を知っていながらもその神を神としてあがめようとしないばかりか、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心が暗くなって、してはならないようなことをするようになったということです。そうした人間の不敬虔と不義とに対して、神の怒りが天から啓示されるようになりました。

 では、一方のユダヤ人はどうかというと、彼らはそうした異邦人を見下し、裁いていましたが、実は彼らも、そのようにさばきながら、自分たちもそれと同じようなことを行っていたのです。彼らは神に選ばれた民であることを良いことに、その特権と恵みに甘んじて、多少の問題があっても神は大目に見てくれるだろうと錯覚していたのです。そうしたユダヤ人たちに対してパウロは、そんなにことは断じてない、神はえこひいきなどしない方であり、その終わりの日に、その人の行いに応じて報いをお与えになられると言ったのです。

 きょうのところはその続きですが、このところにもユダヤ人の罪が暴露されています。これまでもパウロはユダヤの罪を取り上げて語ってきましたが、これまではあからさまに「ユダヤ人は・・」という言い方をしないで、「すべて他人をさばく人よ」(2:1)とか、「艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも・・」(2:9)というように、一般化して語ってきました。しかし、ここからはっきりとそれがユダヤ人に対してであるということがわかるように名指しでその罪を指摘し、彼らがどういう点で間違っていたのかを示すのです。すなわち、彼らは自分たちこそ神に選ばれたユダヤ人だと自負してはいるが、そうしたことが神の民であることの証明になるのではないと言うのです。では本当のユダヤ人とはどういう人のことを言うのでしょうか。

 きょうはこのことについて三つの点でお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人たちの誇り、プライドについてです。第二のことは、そうしたユダヤ人たちの問題についてです。ですから第三のことは、本当のユダヤ人というのは外見上のユダヤ人のことではなく、心から神に従って生きる人たちのことであるということです。

 Ⅰ.ユダヤ人たちの誇り(17-20)

まず、ユダヤ人たちの誇りについて見ていきましょう。17~20節までをご覧ください。

「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」

 ここにはユダヤ人たちの誇りがしるされてあります。彼らの誇りは中途半端なものではありませんでした。なぜなら、第一に彼らには律法が与えられていたからです。神様は彼らにご自身を啓示され、みことばを与えて下さり、他の多くの民族に本当の神を証する使命を与えて下さいました。第二に、18節にあるように、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法によって教えられ、わきまえていました。ユダヤ人たちは神様からみことばが与えられていただけでなく、そのみことばによって養われていました。彼らは小さな頃からみことばの教育を受け、成人式を行う12歳になる頃には、すでにモーセ五書といって聖書の最初の五つの書を暗記していたと言われています。神様のみことばによって考え、判断する訓練が小さい頃から身に付いていたのです。他の人が外側しか見られないものでも、ユダヤ人本質を見ることができました。それはそうした神のことばによって訓練されていたからです。ノーベル賞受賞者の23%がユダヤ人だと言われていますが、それはまさに、幼いときからこうしたみことばによって訓練を受けてきたことによる祝福が大きいと言えます。小さい時からみことばによって訓練されるということはすばらしいことなのです。よく「私はクリスチャンホームに生まれ育って息苦しかった」と言う人がいますが、とんでもない、それは最も大きな祝福なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、幼い頃からそれを学んできたので、神様のみこころは何か、
すなわち、何が良いことで正しいことなのかを知っていたのです。それゆえに彼らは、そうしたことを知らない霊的盲人たちの案内人であり、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認していました。

 おそらく、この世に存在する民族の中で、もっとも誇り高き民族はユダヤ人でしょう。彼らは、自分たちは神様から特別に選ばれた民であって、いつも世界の歴史の中心にいると考えていました。そういう選民意識の虜になっていたのです。そしてそうでない人たち、すなわち異邦人を一段低い者と見なしていました。それは異邦人を「犬」と呼んでいたことからもわかります。当時のラビと呼ばれていた教師たちが書いた文章を見ると、「なぜ神様はこの地に異邦人を置かれたのか?それは地獄の燃料のためだ」と記されているほどです。時折、ユダヤ人たちが真っ赤な色の奇妙な帽子をかぶっているのをテレビで見ることがありますが、この帽子は自分たちが神様の選民であるという身分を表示するためです。この帽子にどれほどのプライドをもっていたかというと、戦争が起きても鉄かぶとの下にその帽子をかぶって行軍したほどであると言われています。

 人はそれぞれ誇りを持って生きています。誇りを持っていない人などいません。みんな何らかの誇りを持って生きているのです。そして、正当な誇りというのは私たちの人生に益をもたらしてくれます。そのような誇りは、時には自信を与え、所属意識を持たせてくれるからです。私は以前保護司をしてますが、胸につけるバッジと身分証明書がありました。一度たりとも使ったことはありませんでしたが・・・。なぜそんなものがあるのかというと誇りのためです。保護司会という会に属しているという意識を持たせるためなのです。それは国会議員も同じです。国会議員は議員バッジがあって、いつもそれを胸につけています。国会議員としての誇りのためです。会社でもロゴのついた制服を着用するのを義務付けることがありますが、それも所属意識を持たせるためです。このような正当な誇りは私たちの人生において良い役割をもたらしますが、しかしこのような誇りが、時として自分の果たすべき役割を妨げたり、将来をダメにしてしまうことも少なくありません。

 たとえば、過去の学歴や経歴を誇るあまりに、職場で少しでも気にくわない処遇を受けたりすると、「おれを誰だと思っているんだ!」と怒鳴ってみたり、「何でおれがこんなところで働いていなければならないんだ」といぶかり、会社を辞めてしまう人も少なくありません。それはこの誇りが邪魔をしているからです。自分の知っている人がテレビにでも出ようものなら、「自分はあの人のことを知っているけど、昔は大した人間じゃなかった」とか、「あいつは学生時代は全然勉強ではなかったのに」とかと言って、揶揄しりするのです。じゃ自分はどうかというと、そうしたプライドが邪魔をしてなかなか前に進めずもがき苦しんだりしているのです。

 このような誇りはむなしいものであり、人を生かすものではなく殺すものです。プライドが強くなりすぎると病的な高慢に陥ります。こういう誇りは何の助けにもならないどころか人生をだめにしてしまうのです。まさにユダヤ人の誇りはむなしく、腐ったものでした。どういう点で彼らの誇りは腐っていたのでしょうか。

 Ⅱ.ユダヤ人たちの問題(21-24)

 21~24節をご覧ください。ここには、「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。」とあります。

 彼らの問題は、神から律法が与えられ、何をすべきかを知っていながらも、それを行っていなかったことです。人に盗むなと説いておきながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、神殿のものをかすめ取っていました。律法を誇りとしていながら、その律法に違反していたわけです。

 これはクリスチャンにも通じます。「あなたはイエス様を信じているんですか」と尋ねると、「うちの父親は牧師です」とか、「親戚にクリスチャンが多いんです」とチンプンカンプンなことを言われる方がいますが、あなたがクリスチャンですかという質問と全く関係ありません。クリスチャンホームだから自動的にクリスチャンになるのではなく、親戚にクリスチャンが多ければ自分もクリスチャンなのかというとそうではありません。では、あなたは信じているんですかと尋ねると、「いや、私は信じていない」と答えたりします。これが問題です。このような人は、イエス様の十字架の血潮によって救われているのではありません。親戚にどれだけクリスチャンがいるかとか、両親が熱心なクリスチャンであるかどうかで、その人が救われるのではありません。私たちが救われるのは、イエス・キリストを信じているかどうかなのであって、そのような外見上のことが問題ではないのです。

 ユダヤ人たちが持っていた最高の誇りは、自分たちがアブラハムの子孫であるということでした。しかし、そんな彼ら対してイエス様は次のように言われました。ルカの福音書3章8節です。
「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」

 この意味は、血筋など全く関係ありません。心から神様を信じなければなりません。皆さん、ユダヤ人は今なおこのような外見上のものによって誤った確信を持っている方がおられるのです。しかし、大切なのはそうした血筋や父母の信仰ではなく自分自身がイエス様を信じているかどうかです。ヨハネの福音書1章13節には、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」とあります。イエス様を信じ聖霊によって証印を押されるまでは、どんな人であっても救いを得ることはできません。両親の信仰の遺産をよく受け継ぐなら、それは自分の財産になります。それはいくらでも誇れるでしょう。「私の家は三代にわたって主に仕え、今も熱心に仕えている。」これはすばらしい恵みです。しかし、そうした血統に頼り信仰の中身がないとしたら問題です。ユダヤ人たちは盗むなと言いながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌うと言いながら偶像崇拝のようなことをしていたのです。中身がありませんでした。彼らの宗教は外見だけの宗教だったのです。

 今はすべての権威が崩れ行く時代です。ある家で、あまりにも勉強しない息子に父親がこう言いました。「おい。少しくらいは勉強したらどうだ。リンカーンはおまえの年で独学で弁護士になったんだぞ」すると息子は何と言ったでしょうか。「何言ってんだよ。リンカーンはお父さんの年に大統領になったんだよ」。訓戒を与えようとする父親に対して、あんたなんかにそんなこと言われたくないと言って反発するのです。何が問題なのでしょうか。中身がないことです。口先だけで生きている。親が本気になってその生き方を見せるときだけ、語ることばに力を持つのです。これは親だけでなく学校の教師でも誰でも、人を指導する立場にある人ならすべての人に言えるのではないでしょうか。子どもたちに、「神様のみことばは重要だ」と何百回言っても、自分がそのみことばに生きていなければ力がありません。子どもたちは両親が何を重んじているかをちゃんと見ているのです。教会学校の聖書クイズで一番になったと報告しても、親は特に反応はしないでしょう。しかし、学校のテストで成績が一番になったと聞いたらもう大騒ぎです。友達や親戚中に話して回るのではないでしょうか。そうすると知らず知らずのうちに子どもの心に、「お父さんとお母さんは、神様を信じて従うことが一番大切だとは言うけれども、実際は学校の成績が一番になることを喜ぶんだな!」と思うようになるのです。そして、礼拝や教会のことは放っておいてもいいから、学校で一番になって両親を喜ばせなくちゃという意識を持つようになります。私たちが何を言うかではなく、どのように行うかが重要であって、そうした実際の生き方が子どもたちの心に植え付けられるのです。

 重要なのは聖書をどれだけ知っているかということではありません。重要なのはそれをどれだけ行っているかです。その生き方なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、神のみこころは何なのか、何をなすべきなのかということを知っていながら、あるいはそれを教えていながら、自分ではそれを行っていませんでした。それが問題だったのです。そのようにして彼らは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間でけがされている」というみことばのとおりになってしまいました。

 Ⅲ.本当のユダヤ人とは(25-29)

 ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、心から神を信じなさいということです。御霊によって生きましょうということです。25~29節をご覧ください。
「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

 パウロはここで、割礼の問題を取り上げています。割礼とは、男子の性器の先端の皮を切り取ることです。それは神の民であるユダヤ人のしるしであり、救いのしるしでした。割礼のない者は地獄に行くと、ユダヤ教のラビたちが教えていました。それほど割礼はユダヤ人たちにとって重要なものだったのです。その割礼についてパウロはここで何と言っているでしょうか。パウロはこう言うのです。割礼を受けているかいないかが重要なのではなく、律法を守っているかどうかが重要なのだ・・・と。すなわち、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではない。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人なのであり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼なのです。どういうことかというと、信仰というのは、内面性が重要であるということです。信仰が堕落すると外的、儀式的なことが強調されるようになり、それに力を入れ始めるようになりますが、しかし、信仰において重要なのはその内容であって、御霊によって、心から神を信じ、神に仕えていく生き方なのです。

 しかし、それはユダヤ人だけのことではありません。私たちもややもするとこうしたユダヤ人たちと同じように外見に、形式的な信仰に陥ってしまう危険性があるのではないでしょうか。たとえば、洗礼を受けさえすれば救われるといった考えです。洗礼を受けることは大切なことです。なぜなら、それは神のみこころだからです。しかし、洗礼を受けることが天国に行けるという保証ではないのです。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:17)と聖書にあるように、信じることが重要なのです。それは継続を表しています。信じ続けること、何があってもイエス様にとどまり、イエス様に従って歩んで行きますという決心です。すなわち、信仰の内面性なのです。心の中まで見通される神の前に立ち、へりくだって神を仰ぎ、神を慕い求め、神のみこころにかなった歩みをしていきたいと願う心です。その時、その誉れは、人からではなく、神から来るのです。

 アメリカにロバート・ファンクさんというアメリカ最大の牧畜業を営んでおられる方がおられます。この方はプロのホッケーチームのオーナーもしておられる方ですが、とても熱心なクリスチャンです。しかし、最初から熱心だったのかというと、そうではありません。
 この方はお母さんがクリスチャンであったことから、小さい頃からいつも教会に連れて行かれました。ところが学校を卒業してビジネスに入ったとたんに、仕事が忙しくなって教会に行かなくなってしまいました。それでも彼は、20年以上も教会に通っていたのだから、自分ではクリスチャンだと思っていました。そして、聖書のこともよく知っていると自慢していたのです。
 そんなある日、仕事の仲間に誘われてビリー・グラハムという有名な伝道者の集会に出かけて行きました。その集会には何万人も集まって来るので普通の建物ではなく、野球場で行われていました。何万人という多くの人々の中の一人として、彼は聖書の話なら大抵知っているという思いで聞いていたのです。
 ところが、ビリー・グラハムの語る一つ一つの言葉が、彼の心に新鮮な響きをもって響いてきました。そして、自分は今までクリスチャンだと思っていたけれども、もしかすると違うのではないかと思うようになりました。というのは、ビリー・グラハムが次のように言われたからです。
「本当の信仰とは、何年教会に通っているとか、聖書をどれだけ知っているかということではなく、生ける神と個人的な関係が築かれているかどうです。」
 そのとき彼は考えました。神様との個人的な関係?考えてみたら、自分は何年も教会に行って、聖書のこともよく知っているけれども、神様と個人的な関係を持っているだろうか?もしそれが本当の信仰だと言うのなら、自分にはそれがないのではないか・・・と。そして、何千人の人たちともに、イエス・キリストを主として信じて受け入れ、イエス・キリストを中心とした生き方が始まったのでした。

 Ⅱコリント5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。」というみことばがあります。この「だれでもキリストのうちにあるなら」ということばを、モファットという聖書学者は、「だれでもキリストに信頼するなら」と訳しています。つまり、たとえクリスチャンでも、キリストに信頼しないなら、キリストに信頼することを忘れていたら、新しく造られたものとしての人生を歩むことはできないのです。「新しく造られた者」とは、十字架につけられたイエス・キリストを信じて、神の子として新しく生まれることであり、その御霊によって、御霊に信頼して、日々、生ける神と個人的な関係を持って歩む人のことなのです。どんなにみことばを知って、暗唱していても、そのみことばにあるように、イエス様を信じ、御霊に従って、謙遜に歩む者でなければ意味がないのです。

 大切なのは、新しい創造です。それこそ真のイスラエルなのです。どうか、自分の知識、経験、能力といった外見だけのむなしい誇りを捨てて、イエス・キリストを信じ、その御霊によって、日々、神に従って歩んでください。そのとき、主が驚くべきみわざを成してくださることでしょう。この基準に従って進む人こそ神のイスラエル、本当のユダヤ人なのです。神はこのような人を求めておられるのです。



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ローマ人への手紙2章1~16節「神のさばきに備えて」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「神のさばきに備えて」というタイトルでお話したいと思います。1章後半のところでパウロは、神を神としてあがめず、感謝もしない人々に対して、神の怒りが天から啓示されていると語りました。それは特に異邦人に対してでありましたがそれは異邦人だけでなく、神の選民であるユダヤ人に対しても同じです。きょうのところにはそのユダヤ人の罪に対する神のさばきについて述べられています。きょうはこのユダヤ人に対する神のさばきについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。第一のことは、神は正しくさばかれる方であるということです。第二のことはその理由です。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。第三のことは、ですから神のさばきの日に備え、悔い改めてイエス・キリストを信じ、神のみこころにかなった歩みをしましょうということです。

 Ⅰ.神は正しくさばかれる(1-5)

まず第一に、神は正しくさばかれる方であるということについて見ていきたいと思います。ここにはユダヤ人の罪に対する神のさばきが述べられています。それは他人をさばいてしまうことです。1~5節までのところに注目してください。まず1節です。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

 異邦人の場合は、自分が罪を犯しているだけでなく、罪を犯している人の姿をみてそれを行っている人に心から同意しているのですが、では選民ユダヤ人はどうかというと、そのように罪を犯している人をさばきながら、自分自身も同じこと(罪)を行っていました。いわゆる「善人意識」です。彼らは、自分は正しい者だと思い込み、他の人をさばいたのです。言い換えると、彼らはみことばを自分に適用するのではなく、他人に適用していたわけです。

 自分が正しいと思っている人は、罪の話をしてもなかなか心に響きません。自分には関係ないと思っているからです。1章に出てきた神の怒りと刑罰について聞いても目の色一つ変えないでしょう。なぜなら、そのみことばは罪人たちに語られたことばであって、自分に対してではないと思うからです。善人意識をもっている人の問題はここにあります。罪の話は全部他人のことだと思うので、有罪宣告をなさる神の前に膝をかがめることができないのです。ですから、そのような人の信仰生活には悔い改めがありません。その結果、信仰が実に淡々としたものとなってしまい、罪が赦されという感激がないのです。私たちの信仰が成長していくために必要なことは悔い改めです。罪の自覚と悔い改めがあるところに神の聖霊が臨み、信仰的に、人格的に成長していくことができるのですが、悔い改めがないと、なかなか成長していくことができません。

 よく説教をしていると、その語ったみことばに対して反応を示してくださる方がおられます。牧師として、語ったみことばに対してそのような反応があるというのはうれしいことです。語ってもうんともつんともないと、「あれっ、きょうの説教はあまり響かなかったかな」とか思って悩むこともあるのですが、後で何らかの反応があると、少なくともその人の心には届いていたんだと安心するのです。ところが、中にそのみことばを自分にではなく、他の人に適用される方がおられるんです。「先生、今日のお話はとても恵まれました。今日の説教は○○さんにぜひとも聞いてほしかったですね。来られなくて残念です。」と。この方にとってみことばは、自分に適用するものとしてではなく、他の人に適用するものとして聞いていたのです。このようなことは意外と多いのです。たとえば「妻は夫に従い、夫は妻を愛しなさい」と説教すると、それを自分に適用しないで、相手に適用してしまうのです。「ねえ、あなた聞いた?今日牧師さんが、夫は妻を愛しなさいと言ったでしょ。それなのにあなたは一体何よ」と食ってかかるのです。すると夫も夫で、「おまえこそ、妻は夫に従えとあっただろう。それなのに服従のかけらさえないじゃないか」と言い返すのです。神のみことばが夫婦喧嘩の火種になってしまうこともあるのです。それを自分にではなく他の人に適用してしまうからです。

 皆さん、みことばは他人に適用するものではなく、自分に向かうもの、自分を変えるものとならなければなりません。祝福とは何でしょうか。祝福とは、神のみことばを聞くとき、それによって自分の心に悔い改めの心が生じることです。心が刺されるという思いをすることなのです。ペンテコステの時、ペテロが説教を聞いた人たちは、どんな態度をしたでしょうか。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(使徒2:37)

 彼らは心を刺され、「兄弟たち、私たちはどうしたらいいのでしょうか」と言ったのです。それを他の人に適用するようなことはしませんでした。「そうだ。祭司長たちは悔い改めるべきだ」とか「これはパリサイ人たちに必要なことだ」とか、そのようには言わず、これを聞いて心を刺され、みことばの前に自分の罪を告白したのです。そのとき、ペテロもはっきりと言いました。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(同2:38)
それゆえに、彼らは悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われたのです。

 しかし、善人意識にとらわれている人は、それを他人に適用するので、他人をさばいてしまうのです。このような人は、自分自身のあやまちには寛大ですが、他人のあやまちに対しては敏感で、それを大きく見る傾向があります。自分の罪は見ないでいつも他人の罪ばかり見て、それを問題にするのです。イエス様はこのような人に対して、次のように言われました。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3~5)

 ルカの福音書18章には、祈るために宮に行ったパリサイ人と取税人の姿が出ています。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをささげました。
「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」(ルカ18:11)
一方、取税人はというと、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)

どちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者が高くされるからです。パリサイ人は、自分の罪を見ないで他人の罪を見ました。ですから彼には恵みがなかったのです。一方の取税人は、自分の罪を持って神様の御前に出、その罪を嘆いて、神様の恵みにおすがりしました。ですから彼は罪の赦しと恵みを受けたのです。皆さん、最高の恵みは、すべてのみことばが自分に向けられているとように聞こえることなのです。そして、そのように信じることこそ祝福なのです。

 いったいユダヤ人はなぜそのように受け止めていたのでしょうか。それは自分たちの中に、神様によって特別に選ばれた者であるという特権意識があったからです。4節をご覧ください、

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

 彼らは、自分たちが神によって特別に選ばれた神の民なのだから、その慈愛と寛容と忍耐によって、自分たちは異邦人たちのようにはさばかれるようなことはないだろうと考えていました。しかし、それはとんでもない誤解でした。神は正しい方であって、そのさばきはそのようなことを行っている人々に必ず下るのです。もし神がそのさばきを控えておられるとしたら、それこそ慈愛と忍耐と寛容によるものであって、悔い改めの機会が与えられているからなのです。決して神のさばきから逃れられることではありません。神は正しくさばかれる方だからです。

 しかし、それはこのユダヤ人だけのことではありません。すでにイエス様を信じて神の子とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちは主イエス・キリストによって神の子とされ、神の特別の恵みを受けました。まさに慈愛と忍耐と寛容です。しかし、それは何をしても神様は許してくださるということではありません。彼らのように他人をさばいて自分も同じようなことをしているとしたら、そこには異邦人同様、神の怒りが下るのです。恵みによって救われた以上、どんな生活をしても構わないのだという考え方は、少なくとも聖書の中にはありません。聖書ははっきりと、わたしたちの行いに対してさばきがあるということを示しているのです。それは行いだけでなく、ことばと思いをも含めたすべての面においてです。であれば私たちは、自分たちは結構善い人間だという意識を捨て、神の前にさばかれてもしょうがないほど汚れた者であるということを認め、あの取税人のように、胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と言うような、へりくだった者でなければならないのです。

 Ⅱ.神にはえこひいきなどない(6-11)

第二のことはその理由です。なぜ神様はそのようにさばかれるのでしょうか。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。6~11節までですが、6節をご覧ください。ここには、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」とあります。ユダヤ人だからとか、ギリシャ人だからといった区別はありません。ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、どんな人であっても、神は、ひとりひとりに、その行いに従って報いをお与えになるのです。これはどういうことでしょうか。これは何回読んでも難解な聖句です。パウロはここで、救われるためには善いわざが必要だと言っているのではありません。もしそうだとしたら、信仰によって義と認められるという福音の中心的な真理が損なわれてしまうことになります。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。おそらく、ここでは信仰によって救われるとか、福音の恵みとか、そういうことを論じているのではなく、ひとりひとりの行いに従って報いがあるという一般的な原則が述べられているのです。つまり、

「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。」(7~10)

ということです。このような原則は、聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、マタイの福音書16章27節には、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」とありますし、Ⅱコリント5章10節にも、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。また、ガラテヤ6章7~9節にも、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。

 ですから、ここでパウロが言いたかったのは行いによって救われるということではなく、善を行えば、時期が来て、その刈り取りをするようになるという原則だったのです。パウロが信じていたことは人は行いによっては救われず、ただ神の義であるイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるということであり、福音のうちにこそその神の義が啓示されているということでした。ただ、終わりの日に受ける報いについては、ユダヤ人やギリシャ人といったことと関係なく、その人の行いに従って報いが与えられるということでした。それは神にはえこひいきがないからであり、その報いは、善を行うか、それとも悪を行うかによって決まるからです。

 Ⅲ.神のさばきの日に備えて(12-16)

ですから第三のことは、この神のさばきに備えましょうということです。とはいえ、何が善で、何が悪であるかということを、いったいどうやって知ることができるのでしょうか。ユダヤ人ならば律法が与えられていましたから、その律法によって善悪の判断を下すことができましたが、異邦人の場合はそういうわけにはいきません。彼らは神の律法など持っていないからです。では、異邦人が善を行うということはできないのでしょうか。いいえ、できます。14、15節には、

「―律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」

とあります。確かに異邦人は律法を持たない者ですが、しかし、律法の命じる行いができるのです。どうやって?良心によってです。異邦人はユダヤ人のように神の律法を持っていませんが、心の中の良心によって何が善であり、何が悪なのかといった判断ができるだけでなく、悪に対してはそれを退けようとする働きがあるのです。「良心が痛む」という表現がありますが、人間は紛れもなく道徳的な存在であり、神がその良心をとおして私たちの心の中であかししておられるのです。14節の「自分自身が自分に対する律法なのです」というのは、そういう意味です。しかし、罪深い人間の良心はゆがめられ、その判断力は必ずしも正しいものではありません。たとえば、殺人を犯せばだれでも良心が痛みますが、偶像礼拝に対してそうではないというのは、罪によって良心がゆがんでしまったからなのです。良心はある面で「神の声のエコー」ですが、人間の罪によってそれがはっきり聞こえなくなっているのです。とは言え、それでもこの良心によって異邦人にも律法の知識があるのは明らかですから、すべての人はその善を行うことができるのであって、その行いによってさばかれるのです。ですから結論は何かというと、16節です。

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」

 ここには神のさばきについてはっきりと言及されています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。それが明らかにされるのはいつかというと、終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているのです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、神の義にお頼りしながら、神に喜ばれる歩みを求めていかなければなりません。

 アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身の伝道者がいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やす(きもをひやす:驚き恐れてひやりとすること)ほどの悪人で、淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは一つもありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼が欲しいすべてのものを手に入れました。それにもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋には鍵を幾つもかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視せずにはいられませんでした。いつも絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも数え切れないほどありました。心の孤独と悲しみ、つらさに、来る日も来る日も身震いしながら暮らしていたそうです。平安がなかったのです。イザヤ書48章22節にあるように、まさに「悪者どもには平安がない」のです。

 数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が犯した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまいました。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったのは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」でした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼に安息はありませんでした。

 終わりの日に受けるであろう神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対する、明確な解決を持っていない人はみんな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きているのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

 皆さんは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられるでしょうか。キリストのところに来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何の恐れもないのです。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りをくだされるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるからです。



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ローマ人への手紙1章16~17節「救いを得させる神の力」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「救いを得させる神の力」というタイトルでお話したいと思います。きょうのところには、ローマ人への手紙全体の中心テーマが記されてあります。それは、救いを得させる神の力としての福音です。福音とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、福音は救いを得させる力であるということについてです。第二のことは、それを受ける手段についてです。それは信仰です。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。第三のことはその理由です。それは、この福音のうちに神の義が啓示されているからです。

 Ⅰ.救いを得させる神の力(16)

 まず第一に、福音は、救いを得させる神の力であるということについて見ていきたいと思います。16節のところでパウロは、「私は福音を恥とは思いません。」と言っています。この前のところで彼は、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と、この福音のあまりものすばらしさのゆえに、この恵みはどうしても返さなければならない負債だと語ったのに、ここに来て、「私は福音を恥とは思いません」と、一見弱々しいように宣言しているのはどうしてなのでしょうか。彼の中に福音に対してどこか恥と感じるようなことがあったのでしょうか。そうではありません。実は、このように「福音を恥とは思いません」という言い方は、一見否定的に見えるような言い方ですが、実はこれは、逆に誇っている表現なのです。このように否定的に表現することによって、逆の事柄を強調しようとしたのです。たとえば、マルコの福音書12章34節には「あなたは神の国から遠くない」とありますが、これは、神の国にごく近いところにいるということを強調しているのです。同じようにパウロがここで、「私は福音を恥じとは思わない」と言ったのは、彼が福音をどんなに高く評価し、それを誇りとしていたかの表れであったわけです。これまで福音を語ったために彼がどんなにひどい目に遭ってきたかを思うとき、このローマ帝国の首都において福音を語ることがどんな苦難が伴うことなのかくらい十分承知していたはずです。それは軽蔑以外の何ものでもなかったでしょう。皇帝崇拝が盛んに行われ、皇帝の権力があらゆる形で誇示されていたこのローマでは、それに対抗しうるものなど何一つないかのように感じたことと思います。そのようなローマで福音を語ることはある意味で人を気おくれさせ、恐れおののかせ、気恥ずかしい思いを抱かせたことでしょう。しかしそうした中にあってパウロは、「私は福音を恥とは思いません」と言って、福音を誇ったのでした。いったいパウロはなぜそのように言うことができたのでしょうか。それはこの世の政治、経済、文化がどれほど偉大であり、光り輝いたものであっても、福音にはそれにまさる価値があることを、彼がよく理解していたからです。それは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。ここに福音の価値がいかんなく言い表されていると思うのです。それは、この福音は神の力であるということです。それは単なる教訓とか、哲学、倫理ではなく、力なのです。それは、救いを得させる神の力です。

 それにしても、パウロはなぜここで福音を力だと言ったのでしょうか。それは、この救いは罪からの救いのことだからです。一般的に人は「救い」という言葉を聞くとき、それが病気の癒しや貧乏からの解放、あるいは、私たちの人生において直面している問題からの救いであるかのように錯覚しがちですが、ここで言われている救いとは、そうした問題からの救いのことではなく、そうした問題も含めたあらゆる問題の根源である罪からの救いのことだったのです。そしてこの罪からの救いは、私たちの力で解決できるようなことではありません。悪魔の支配下に置かれている人間は、どんなに跳んだり跳ねたりしても、あるいは力をふりしぼって頑張っても、徹夜で本を読んで勉強しても、その縄目から自分を救い出すことはできないのです。人が罪から救われるためには、悪魔よりもはるかに強い力がある方に解放していただかなければなりません。それは神です。そのような罪の中にいる人間を救うことができるのは全能の神以外にはいないからです。皆さん、考えてみてください。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、自分でどんなに変わろう、変わろうと思っても、なかなか変わられないというのが現実なのではないでしょうか。

 私はもう何年も牧師をしていますが、最も多く受ける質問は、「どうして私は変わることができないのか」というものです。「変わりたいと思っていても、どうしたら変わることができるかわからない。変わる力がない」ということなのです。皆さんにもそのような経験がおありでしょう。私たちはよくセミナーや大きな集会に出かけて行き、自分の人生をその場で変えてくれるような方法を探しますが、それをしてもなかなか変わりません。私は健康維持のためにふと思い立って散歩を始めたりするのですが、二週間も経つと最初の決意はどこかに行ってしまい、いつの間にか元通りになってしまいます。今、はまっているのはラジオ体操です。外に出るのは寒いので何かいい方法はないかと考えていたとき、どなたかがラジオ体操をやっていると聞いて、早速インターネットのユーチューブからダウンロードして時間の合間にやっています。これならどこにも行かなくても、自分の家で、好きな時にできるのでいなぁと思っているのですが、これだっていつまで続くかわかりません。すぐに元通りになってしまうかもしれません。変わるということは本当に難しいのです。時々、自己啓発の本を読んでみたりすることもありますが、問題は、そのような自己啓発の本は「何をすべきか」は教えてくれても、それを「実行する力」を与えてくれないことです。それらの本には「悪習慣を断ち切りなさい、前向きになりなさい。否定的にならない。」と教えますが、どうやったらそれができるかは教えてくれないのです。いったいどうしたら自分を変えることができるのでしょうか。どうしたら今の自分の殻を突き破ることができるのでしょうか。

 ここにすばらしい知らせがあります。それは「福音」です。福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。私たちが必要としているのはこの「力」ではないでしょうか。新約聖書の中には、この「力」という言葉は57回出てまいります。この言葉は、歴史上最も力強い出来事、そうです、イエス・キリストの復活の出来事を現すために使われています。人生において最も大切なことは、キリストを知り、キリストの復活の力を体験することです。この復活の力について、パウロは次のように言っています。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:19~21)

 この「力」と訳された言葉は、ギリシャ語の「デュナミス」(dunamis)という語ですが、これは英語の「ダイナマイト」(dynamite)の語源になっている言葉です。神の力は、今から二千年前にイエス・キリストを死の中からよみがえらせた復活の力であり、悪魔の要塞を完全に打ち破ることのできる力なのです。この神の力が私たちを悪魔とその罪の支配から救い出すことができるのであって、この神の力があらゆる問題に打ち勝つ力を与えてくださり、その人格を全く新しいものに造り変えることができるのです。この救いを得させる神の力が、私たちに差し出されているのです。それが福音です。

 Ⅱ.信じるすべての人に(16)

 ではどうしたらこのすばらしい神の力をいただくことができるのでしょうか。第二のことは、それは信仰によってであるということです。もう一度16節に注目してください。ここには、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とあります。

 ここで重要なのは、この神の力は、「信じるすべての人に」差し出されているということです。福音がどんなに力があっても、これを信じなければ救われることはできません。ある人はこう言うでしょう。「他の宗教における救いの可能性も排除してはいけない」と。「分け登る 麓の道は多かれど、同じ高嶺の月を見るかな」ってあるように・・・。どの宗教を信じたって、結局、行き着くところはみな同じだというのです。しかしそれは違います。十字架につけられて死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じること以外に救いはありません。このメッセージを投げ捨ててなりません。もしこれを放棄したら、それはもうキリスト教とは言えないからです。何を信じても同じだというのは一見、心が広い人であるかのように見えますが、それは真理ではありません。なぜなら、聖書は次のようにはっきりと言っているからです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 あるいは、このように言われる方もおられるでしょう。「あの人が救われるのなら、私はあの人よりももっとましな人間だから絶対救われるはずだ。」と。あるいは、「世の中の人たちはみんな罪を犯しているが、私はそんなに大きな罪を犯しているわけではないから、天国に行けるはずだ。私が行けなかったとしたら、あと誰が行けると言うのだ・・・。」と。しかし、誤解しないでください。天国は、相対的なものではありません。他の人と比較してどうなのかではなく、絶対的な神様の目で見てどうなのかということです。ほかの人と比較して少々善良であってもなくても、それは沈んでいく船の客室で、大きく揺れる絵の額を見比べて、どれが一番傾いているかを論じるのと同じで、全く的外れなことです。沈没するのは同じなのです。百人中二十人が天国に行けて、八十人は落第して地獄に行くというものではありません。信じて従うならすべての人が天国に行けるし、罪を悔い改めないでイエス・キリストを信じないなら、すべての人が地獄に行ってしまうのです。

 あるいは、私たちの中には、一生懸命に良いことをしたら天国に行けると思っている人も少なくありません。つまり、自分がたとえ40くらいの罪を犯しても、60くらいの功績を積めば20ポイントもプラスなんだから、天国に行けるはずだと考えるのです。しかし、これも間違いです。神様は、私たちがどれだけ良いことをしたかではなく、私たちの罪が清められているかどうかによって決まるのです。少しでも罪があるなら、全く聖い神様は、私たちを受け入れることはできません。そうでしょ。たとえば、きれいに透き通っていて、どんなに美味しそうな水でも、そこにほんの少しだけねずみの糞が入っていたら飲めますか。99%清くても、1%汚れているだけで全部捨てるように、ある程度清いから天国に行けるということではないのです。

 ならば、いったいだれが天国に行くことができるでしょうか。だれもいません。私たちは生まれながらに罪人であって、不完全な者なのだから、完全に聖くなることなどできないからです。しかし、あわれみ豊かな神は、その罪を赦し全く罪のない者としてくださるために、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。この方を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったことにより、この方を信じる者の罪はすべて洗い流されるのです。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ4:22)

 皆さん、私たちがキリストを信じたそのとき、それまでかすみのようにかかっていた罪がすっかりぬぐいさられるのです。神様がキリストによってその罪を贖ってくださるからです。私たちの罪が赦され、天国に行くことができるのは、ただこの救い主イエス・キリストを信じる以外にはありません。イエス・キリストを信じるなら、だれでも、どんな人でも救われるのです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。ですから、聖書は一貫して、「ただ信ぜよ。さらば救われる」と言っているのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)ただ信仰によって、この救いを受けることができるのです。

 Ⅲ.神の義は福音のうちに(17)

 ではなぜ福音を信じるだけで救われるのでしょうか。それは神の義がこの福音の中に啓示されているからです。最後にこのことについて見ていきましょう。17節をご覧ください。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

 ここで注目したいことは、この福音の中に「神の義」が啓示されているということです。福音のうちに神の義が啓示されているとは、どういうことでしょうか。実は、この「神の義」こそ聖書全体の重大なテーマであって、これを曖昧にすると、聖書で本当に言わんとしていることがつかめなくなってしまいます。それほど大切な事柄です。これがすべての根底にあるといってもいいでしょう。たとえば、皆さんは、神はどのようなお方ですかと尋ねられたとしたら、いったい何と答えるでしょうか。神は愛ですと答えるでしょう。しかし、その愛とは、実は、この義に基づいたものであって、私たちが考えるようなセンチメンタルなものではありません。ですから、神はどのようなお方ですかと問われたら、その第一のご性質は「義なる方」となるのです。神は義なる方、全く正しい方です。ここからすべてが発しているのです。ですから、救いということを考える時にも、単に肉体の癒しとか、問題の解決といった御利益が中心なのではなく、罪からの救いということが中心になるわけです。

 ところで、ここで「神の義が啓示される」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。これは神が定められた律法の要求に対する人間の正しい関係を意味しています。人はだれも自分の力によって義と認められません。神が要求している律法を完全に行う人など一人もいないからです。ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、神様はこの世にキリストを送ってくださったのです。それは私たちの義ではなく、この神のひとり子であられるキリストの完全な服従に基づいた義をいただくためです。神の律法の要求を完全に行うことができるキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったことによって、この方を信じるなら、私たちの中にその神の義が全うされるようになったというのです。私たちはこのキリストによって、神と正しい関係を持つことができるわけです。

 では、「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とはどういうことなのでしょうか。これは神との正しい関係が、信仰によって始まり、信仰によって完成されるという意味です。これは今に始まった新しい教えではなく、実は、旧約聖書の時代から一貫して流れていた真理でした。その一つの例が、「義人は信仰によって生きる」ということばです。これは旧約聖書のハバクク書2章4節からの引用ですが、イスラエルにカルデヤ人が侵略してきた時、そのような国家的危機の中で、預言者ハバククが語った言葉です。彼はその時何と言ったかというと、主に拠り頼む者は勝利を得ると言いました。一生懸命に武器を作り、どうしたら勝てるかと戦略を練れば勝利できるのではなく、主に拠り頼むことによってのみ勝利することができると言ったのです。義人は信仰によって生きるとはそういう意味です。神との正しい関係はこの信仰によってのみ得ることができ、また信仰によって全うすることができるのです。

 皆さん、私たちは自分はできると思いがちです。そして、救われるために自分で何とかしようとします。ある面でそれは大切なことでしょう。しかし、このような努力やがんばりだけでは、私たちの人生を破壊し、破滅に陥れるこの罪から救い出すことはできません。この罪の前には、私たちは何もすることができないのです。全く無力なのです。私たちができることはただ一つ。それは受け入れることです。十字架で死なれ、三日目によみがえられて、死に勝利された復活の力を受ける以外にないのです。

 ある家族が賭博で無一文になってしまいました。家中の財産をすっかり失ってしまったのです。賭博というのはどうも伝染するのか、この家はおじいちゃんが賭博で破滅しかと思ったら、お父さんも賭博で家を潰してしまったのにもかかわらず、息子まで賭博をするようになったのです。息子自身もそのことをよく知っていて、「祖父は賭博で破滅した。親父も賭博のために人生を棒にふった」と言っていたそうです。それなのに賭博をやめることができませんでした。この息子は教会に通い始めると、悲壮な覚悟を決め、牧師の前で何と斧で手の指を全部切ってしまいました。「これで二度と賭博はしない」と決心したのですが、その覚悟も長続きはせず、彼は再び賭博を始めてしましいました。指のない手でどうやってしたのか?何と足の指に花札をはさんで賭博をしたのです。これが罪の力です。これほどの罪の力を、いったいどうやって断ち切ることができるのでしょうか。イエス・キリストです。私たちにはできないことを神はしてくださいました。神はキリストをこの世に送り、十字架につけてくださって、この方を信じる者をみな、許してくださると約束してくださったのです。このイエス・キリストの血潮がなければ、誰一人、罪の力を断ち切ることはできません。私たちはただその十字架で死なれたイエス様が自分の救い主であると信じ、この方にお頼りして、忠実に生きさえすればよいのです。福音こそ、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。

 地上においた船をどんなに動かそうとしても、動かすことはできません。屈強な男たちが十人か二十人かかっても、1トンの船さえ動かすのは用意なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼子がちょっと押しただけでも動くようになります。神様が御業を行われる方法とは、まさにこのようなものです。自分の力、才覚でやろうとするのではなく、「神様、どうぞ恵みの水を送ってください。そしてこの困難を乗り越えさせてください」と主にしがみついて、重荷をゆだねるとき、私たちの取るに足らない力でも悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議に人生が転回し始めるのです。義人は信仰によって生きる。皆さんもキリストを信じる信仰によって、そのような世界を生きることができますように。



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ローマ人への手紙1章8~15節「返さなければならない負債」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「返さなければならない負債」というタイトルでお話したいと思います。先週は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに自分を紹介するにあたり、パウロが「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と紹介したことを学びました。パウロは、自分がこの福音のために選び分けられた者であるという強い自覚と使命感がありました。このような使命感があったからこそ、彼は本気で福音のために献身することができたのです。

 さて、きょうのところは先週に引き続きこの手紙全体の導入の部分ですが、きょうのところでパウロは、自分がなぜローマに行きたかったのか、その理由を述べています。11節を見るとここには、「私があなたがたに会いたいと切に望むのは」とか、13節にも、「何度もあなたがたのところに行こうとした」とか、15節のところにも、「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」とあります。いったいパウロはなぜそんなにローマに行きたかったのでしょうか。きょうはその理由を三つのポイントでお話したいと思います。

 第一のことは、それは彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。第二のことは、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと願っていたからです。そして第三のことは、それが返さなければならない負債であると思っていたからです。

 Ⅰ.全世界に言い伝えられている信仰(8)

 それではまず8節をご覧ください。パウロがローマに行きたかったのは、ローマのクリスチャンたちの信仰が全世界に伝えられていたからです。

「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

 パウロはまずローマのクリスチャンたちのことで、神に感謝しています。それは、彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。全世界に言い伝えられていた信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。これと同じようなことがテサロニケ人への手紙の中にも記されてありますのでご覧いただきたいと思います。Iテサロニケ1章8節です。

「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

 ここで言われている信仰とは、彼らの聖い生活とか、愛に満ちた生活ということではなく、神に対する信仰です。それはどのような信仰かというと、キリスト信仰のことです。キリストによって罪から救われ、新しい人生に導かれた者として、そのキリストとともに生きる信仰のことなのです。パウロはその信仰をガラテヤ人への手紙の中で次のように告白しました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 この信仰です。ローマのクリスチャンたちは、この信仰に生きていました。皇帝を神としてあがめるローマ帝国の首都にあって、この信仰に生きることはどんなに大変なことだったでしょう。けれども彼らはこの信仰に生き、キリストを立派にあかししていたのです。それはローマ全体から見たならほんの一握りの人々であったかもしれません。しかし、彼らのそうした不撓不屈(ふとうふくつ:どんな困難に出あっても心がくじけないこと)の信仰は、ほかの地にいるクリスチャンにとって大きな励ましであり、また良い模範となりました。パウロはこのローマのクリスチャンたちがそのような信仰を持つようになったことを神に感謝したのです。

 それは昔から信仰に生きた人たちに共通して見られるものです。たとえば、ダニエル書にはシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという三人の少年たちが登場しますが、彼らはバビロンの王ネブカデネザル王から、もろもろの楽器の音を聞く時には、ひれ伏して、彼が造った像を拝むようにと命じられても、決して拝もうとしませんでした。それによってたとえ火の燃える炉の中に投げ込まれてもです。その時彼らは王に次のように答えました。

「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17,18)

 「しかし、もしそうでなくても・・」というのがすばらしいと思います。私の神は、私の信じている神は、そのような火の燃える炉から救い出すことができますが、たとえそうでなくても、決して金の像を拝むようなことはしない、そう言ったのです。彼らは自分たちのいのちに優先する信仰として、どんな状況にあっても揺るがない、ただ神だけに拠り頼む、そのような信仰を持っていたのです。

 皆さんはいかがですか。皆さんには、「もし、そうでなくても」という信仰がおありでしょうか。もし自分の思うように進まなくても、もし自分の願いが叶わなくても、もし、このことによって苦難を受けるようなことがあっても、それでも私はこの神に拠り頼むという信仰がおありでしょうか。

 スウェーデンの宣教師デヴィッド・フラッドという人の伝記を読みました。彼は福音を伝えるために、妻と2歳の息子とともに1921年、アフリカのコンゴに向かいました。飢餓と病気、敵対的な部族の人々の中で困難な働きを続けました。宣教の唯一の実は、一人の幼い少年だけでした。彼はそこで毎週日曜日にその幼い少年に聖書を教えました。そんな中、妻が娘を出産して七日目に世を去ってしまったのです。度重なる困難に疲れ果てたフラッドは、妻まで失ったことで自暴自棄に陥りました。神に失望し、殉教まで覚悟していた信仰を捨てて、現地の宣教本部に娘を預け、息子だけを連れて本国に戻ったのです。
 その後、73歳になった彼は、40年ぶりにはじめて会った娘から驚くべき事実を聞くのです。娘は、父に会いに来る途中、ロンドンのある集会で黒人の牧師に会ったのですが、それがあのコンゴの少年だったのです。その少年は立派に成長して牧師になり、福音の不毛地と言われたコンゴで神に仕える器となったのです。そして今では32カ国に宣教師を送り、11万人ものクリスチャンのいる教会の牧師となりました。父の献身と母の殉教によって、コンゴに新しいいのちがたくさん生まれていたのです。娘が「お父さんのしたことは決して無駄ではなかったのです」という言葉に、フラッドは涙して悔い改めたのでした。
 主のために努力したのに、結果が思ったとおりでないとき、私たちは失望します。しかし、たとえそうでなくても、それでもただ神に従うという信仰が重要です。まことの神を信じるなら、あらゆる結果を感謝して受け入れることができるようになるのです。

 実にローマのクリスチャンたちにはそのような信仰がありました。この世のこと、この地上のものを求めてやまないこの世の人たちとは違って、神のこと、永遠のことを求めて生きていたのです。そういう原理に生きていました。信仰が生きていたのです。ローマのクリスチャンたちはパウロによって信仰に導かれたわけではありませんでしたが、彼らがそのような信仰を持って歩んでいるというあかしを聞き、そのように導かれた神に感謝をささげると同時に、そういう彼らに何とかして会いたいと願っていたのです。

 Ⅱ.ともに励ましを受けるため(9-12)

 パウロがローマに行きたかったもう一つの理由は、ともに励ましを受けたかったからです。9~12節をご覧ください。

「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」

 まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちではありますが、パウロはいつも彼らのことを思っていました。どのように?祈りによってです。祈りによって彼は、いつも彼らのことを思い、神のみこころによって、何とかして道が開かれて、彼らのところに行けるようにと願っていたのです。いったいなぜパウロはそんなにも彼らのところに行くことを切望していたのでしょうか。それは11、12節にあるように、御霊の賜物をいくらかでも彼らに分け与えて、彼らの信仰を強くしたかったからです。なぜ彼らの信仰を強くしたかったのでしょう。伝道者、牧師であればそれは当然のことです。そのために自分が用いられるのであれば、喜んでそうしたいと思うのが普通です。しかしパウロの場合はただそのような理由だけではありませんでした。この手紙の終わりの方、15章を見ていただくとわかりますが、どうも彼はもっと遠く西方に、イスパニヤ、今のスペインですね、そこまで福音を宣べ伝えたいと願っていたようです。その宣教の拠点としてこのローマ教会に立ってほしかった。そのために必要だったことは、彼らが福音によってその信仰がしっかりと立っているということでした。なぜなら、福音に力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって神の力です。その福音にしっかりととどまっていてほしかった。だからこの手紙を書いたのです。本当なら、ローマまで行って直に会い、顔と顔とを合わせて教えるのに越したことはありません。しかし今はそれができないので、こうやって手紙を書いて彼らを強めようとしているのです。

 しかし、パウロがローマに行きたかったのは、そのように彼に与えられた御霊の賜物を分け与えて、彼らを強くするためだけではありませんでした。12節、「というよりも、彼らの間にいて、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたかったからなのです。」

 皆さん、私たちクリスチャンには、それぞれ御霊の賜物が与えられています。この御霊の賜物についてパウロは、ローマ書12章3~8節のところで次のように言っています。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

 一つのからだには器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとりが互いに器官なのです。ですから、その与えられた御霊の賜物を、主に喜ばれるように、ほかの人々のために用いていかなければなりません。パウロには預言の賜物があったでしょう。教える賜物も、勧める賜物も、指導する賜物もあったかもしれません。かといって、彼がオールマイティーであったかというとそうではありません。おそらく、人を励ますという賜物は弱かったのではないかと思います。それはあのバルナバとの激しい反目をみるとわかります。彼らが第二次伝道旅行に出かけて行こうとした時、マルコを連れて行くかどうかで話し合った時、彼らの間に激しい反目が起こりました。先の伝道で途中から戻った者など伝道者としてふさわしくないと主張したパウロと、いや、人はみな弱さがあって完全ということはないんだから、そういう人をも受け入れていく必要があると主張したバルナバとの間に、激しい口論が生じたのです。結局、マルコを連れて行ったのはバルナバでした。パウロはなかなか受け入れることができなかった。もちろん、後でパウロはそのマルコさえも心から許し、受け入れましたが・・・。どちらが正しかったのかというよりも、人にはいろいろな性格や賜物、考え方があるので、そのような違いが生じてくるのです。しかし、それはやはりパウロの度量のなさというか、弱さからくる限界でした。やはり人を励ますという点ではバルナバの方が優れていました。とは言ってもみながバルナバだったらいいのかというとそうではありません。バルナバのような人がいて、パウロのような人がいて、それぞれに与えられた賜物を用いることによってともに励ましを受けることが大切なのです。神様は、そのために必要な人材してそれぞれを教会に置いてくださったのです。ですから、それぞれに与えられた賜物を用いて、互いに主に仕え合わなければなりません。そのためには、自分に与えられている霊的賜物を、ほかの兄弟姉妹に喜んで分け与えようという愛と、自分もまた教えられ、祝福を受ける必要があるということを十分認識し、そうした欠けを補いたいという謙虚さが必要です。この両者のあるところにクリスチャンの交わりがあり、それは大きな恵みをもたらしていくのです。

 19世紀のアメリカの偉大なリバイバリスト、D・L・ムーディの周りには、彼を支えた多くの人たちがいました。賛美の奉仕をしたのはサンキという人ですが、この人は生涯ムーディとともに働きました。ムーディーが行く先々で、まずサンキが賛美して人々の心を開き、熱くしました。ムーディとサンキの関係は、まさに同労者の関係でした。またムーディはサンキだけでなく、R・A・トーレイという神学者もいつも連れて行きました。この人は、それほど説教がすぐれていたわけではありませんでしたが、しっかりとした神学的背景を持っていたので、靴屋から献身し、それほど教育を受けられなかったムーディにとっては、そうした神学的知識で理路整然に文章をまとめ、説教の原稿を作ったり、バイブルスタディの教材を作ったりしてもらえたことは、大きな助けでした。

 パウロは、「あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」と言いました。私たちはこのような励ましをみな必要としているのです。お互いに心を開き、このような交わりを持つように励みたいものです。

 Ⅲ.返さなければならない負債(13-15)

 パウロがどうしてもローマに行きたかった第三の理由は、それが返さなければならない負債だったからです。13~15節までをご覧ください。ここでパウロは、

「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

と言っています。パウロは、何度もローマに行こうとしましたが、なかなかそれを果たすことができませんでした。なお妨げられていたのです。パウロがこの手紙を書いたのは、第三次伝道旅行でエペソに3年間滞在したのち、マケドニヤ、アカヤを訪れた時でした。コリントに三ヶ月間滞在していた時でした。コリントといったらローマまでひとっ飛びです。もう少しで行けるというところまで来ていましたが、マケドニヤからの献金を携えてエルサレムに行かなければなりませんでした。今なお妨げられているのです。しょうがないから彼はそこで手紙を書いて、隣町ケンクレヤの女執事フィベに託して手紙を送り届けたのです。それにしてもなぜパウロはローマに行くことをそれほど願ったのでしょうか。その理由は14節にあります。

「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

 パウロはそれを「返さなければならない負債」だと思っていました。「負債」とは、辞書で調べてみると、「他から金銭や物品を借りて、返済の義務を負うこと。また、その借りたもの。借金。債務。」とあります。それは義務なのです。ローマ人やギリシャ人に対して実際に負債を負っていたというのではなく、その人たちに返さなければならない負債を「神に対して」負っていたという意味です。つまり、神がそのことを要求しておられるとパウロは考えていたのです。

 パウロはその使命を負債のように感じていました。負債を負っている人なら、あるいはかつて負ったことのある人ならパウロの気持ちがよくわかるのではないでしょうか。それが常に重荷となってのし掛かってきます。「返さなければならない」というプレッシャーとなって日々全身に重く感じるのです。パウロがローマに行って福音を伝えたいと思ったのは、それは神から与えられた大きな恵みのゆえに、どうしても返さなければならない負債だったのです。

 ここに私たちクリスチャンのあるべき姿がよく表されているのではないかと思うのです。つまり、私たちは自分が何をしたいのか、どこに行きたいのかといった個人的な思いからあれをしよう、これをしようと選択して生きているのではなく、神が何をしてほしいのかを知り、それを行っていくことが大切であるということです。そういう基準で生きる(行動する、選択する)ことです。

 現代の人は「こうしなければならない」ということを極端に嫌います。代わりに「権利、権利」と、権利ばかりを主張するのです。しかし、すべての状態が自分の都合に合致しなければ喜べないというのは自己中心的であり、幼い人で、その心を変えなければ、いつまでたっても成長はありません。すべての事が自分の思うとおりにはいくとは限らないからです。神から与えられた仕事を、神のために、神のお喜びのためにやるという心を持つ時に、大人のような立派なクリスチャンになることができるのです。パウロはそうでした。彼はいつも神のために何が一番良いことなのかを求めて生きました。たとえばコリント第一の手紙9章には、彼は飲み食いする権利、妻を連れて歩く権利、まあ、これは結婚のことですが、それから働きのために報酬を受ける権利があるが、そのような権利を一つも用いなかったと告白しています。なぜでしょうか?より多くの人を獲得するためです。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(Iコリント9:19)

 彼はすべてのことを福音のためにしました。パウロは信仰によって、福音のために何が一番良いのかという選択をしました。それが霊的大人の考え方です。そのように考えるなら、このような義務は祝福であることがわかります。また、そのような務めが私たちに与えられているということは、神がそのような者として私たちを認め期待しておられるということの裏返しでもあるわけですから、本当に感謝なことなのです。数年前のペットの流行は「ホーランドロップ」といううさぎだそうですが、どんなにホーランドロップが癒し系のかわいいうさぎだからといって、そのうさぎに家中を掃除することを期待するでしょうか。しないです。そのようなものとして認めていないからです。家にはかわいいフェレットがいますが、このフェレットに何らかの責任を与えたりするでしょうか。「フェレットちゃん、きょうはおとなしくお留守番しているのよ」なんて言いません。そのようなことを期待していないからです。カエルにお買い物を頼みますか?「頼むから美味しい食べ物を買ってきてくれませんか」なんて・・。しません。できないからです。そんなこと言ったら、「もうカ~エル!」なんて言われるでしょう。そのように責任を与えるということは、それができると認めているからであって、できなかったら与えません。神様は私たちにそのような務めを与えてくださったというのは、そのような者として私たちを見ておられるからなのです。もし私たちが神から与えられた義務と責任をすばらしいものとしてとらえることができれば、一人の人間として、クリスチャンとして、必ず成長していくことになるのです。

 パウロは、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と言いました。「ギリシャ人にも未開人にも」とか、「知識のある人にも知識のない人にも」というのは、世界中のあらゆる人々にという意味です。パウロの関心は、世界中のどこにおいても、この福音を宣べ伝えることでした。それが自分に与えられた使命であり、どうしてもしなければならない負債だと考えたのです。それはパウロだけではありません。私たちも同じです。私たちも同じ負債を負っているのです。私たちはそれほど大きな神の恵みを受けたからです。神の御子をこの世に与え、十字架につけて死なせ、三日目によみがえらせることによって、この方を信じる者はだれでも救われるという道を開いてくださったのです。そのおかげで、私たちはたましいの救いを得ることができました。何と大きな恵みでしょうか。私たちはそれほどの恵みを受けたのならば、その恵みを何らかの形でお返ししたいと思うのが当然ではないでしょうか。パウロはその神の大きな恵みのゆえに、この福音宣教を、どうしても返さなければならない負債だと感じていたのです。それは私たちも同じです。私たちも恵みを受けたのです。ですから、これがどうしても返さなければならない負債、いや、それこそ私たちの願いであると受け止めるられるなら、神の国がますます大きく前進していくだけでなく、私たち自身の祝福ともなるのです。

 ですからパウロは何とかしてローマに行きたかった。ローマにいる彼らにも、ぜひ福音を伝えたかったのです。私たちもパウロのような情熱をもって、神のみこころに生きることを求めていきたいものです。



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ローマ人への手紙1章1~7節「神の福音」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうからしばらくローマ人への手紙からご一緒に学んでいきたいと思います。あるアメリカ人のアルコール中毒患者が、どうしても酒を断ち切ることができず、病院で二ヶ月以上治療を受けました。その治療期間が終わって退院した帰りに、ある酒場の前を通りかかりました。雀が精米所の前を通り過ぎることができないように、その人に酒の誘惑が強力に襲いかかってきて、そこを通り過ぎることができなくなってしまいました。ところがそのすぐそばに、2ドル30セントで牛乳飲み放題の「牛乳バイキング」の店がありました。そこでこの人はそのお店に入って、満腹になるまで牛乳を飲んで出てきました。そして再び酒場の前を通りかかったときには、もうお酒の誘惑は全く無くなっていました。簡単に通り過ぎることかできたのです。牛乳でお腹が一杯になったからです。

 これから学ぼうとしているローマ人への手紙全体のテーマは福音の力です。このアルコール中毒の患者が牛乳に満たされたことでアルコールに勝利したように、私たちは福音の力によって勝利ある人生を送ることができるのです。なぜなら、福音には力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(1:16)です。この福音をよく理解し、この福音に堅く立ち、福音によって生きるなら、私たちはみこころにかなった歩みをすることができるのです。

 きょうはこの福音について三つのことをお話したいと思います。第一に、パウロの召命感です。パウロは、この福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信をもっていました。第二のことはこの福音の内容です。それは御子に関することですとあるように、イエス・キリストのことです。そして第三のことは、この福音がもたらされた目的です。それは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためでした。それは、この福音であるイエス・キリストによってのみできるということです。

 Ⅰ.神の福音のために選び分けられたパウロ(1)

 まず、パウロの召命感について見ていきたいと思います。1節をご覧ください。
「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。」
 新約聖書の中にあるパウロの手紙は全部で十三ありますが、このローマ人への手紙は、その中でもきわめてユニークな手紙です。パウロのほかの手紙はすべて、彼が自分で伝道したか、あるいはパウロの弟子たちが伝道して生まれた教会に宛てて書かれた手紙ですが、このローマ人への手紙だけはそうではないからです。おそらくあのペンテコステの時に回心した人たちがローマに帰って伝道し、そういう人たちによって生まれていたのでしょう。ですから彼らとは一度も会ったことがありませんでしたし、全く面識がありませんでした。それではなぜパウロはローマの教会に手紙を書き送る必要があったのでしょうか。それは、このローマの教会が福音によってしっかりと立っていてほしかったからです。この手紙の後半の方、15章を見ると、どうもパウロはイスパニヤ、今のスペインですね、そこまで行って伝道しようと願っていたようです。その伝道を彼らに担ってほしいと考えていたのです。そのためには彼はローマに行って福音の奥義を語って教え、彼らの信仰を養うのが一番ですが、今はそれができませんでした。パウロがこの手紙を書いたのは彼が第三次伝道旅行でコリントを訪れ、そこに三ヶ月間滞在した時でした。彼はこの後でマケドニヤの諸教会から集めた献金を持ってエルサレムに行かなければなりませんでした。ローマに行くことも大切なことですが、迫害で苦しみ、経済的に困窮していたエルサレムの兄弟姉妹を助けることはもっと大切なひとでした。そこで彼はケンクレヤという隣町の女執事フィベにこの手紙を託して届けさせたのです。

その手紙の最初のところで彼は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに対して、自分のことをどのように初回したかというと、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」でした。

 「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」という表現は、きわめて珍しい言い方です。皆さんは、まだ一度も会ったことのない人に手紙を書き送る時、このような言い方をするでしょうか。ここにはパウロの強い思いと確信がにじみ出ています。それは、自分は福音宣教のために選ばれ、召し出された者であるということです。だからこそ彼は、使徒の働き20章24節に「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」と言うことができたのです。これが彼の献身の原動力だったのです。

 皆さん、なぜ私たちはここに存在しているのでしょうか。私たちは何の目的もなく、意味もなく、ただ偶然にここにいるのではありません。神様に偶然などあり得ないからです。神様は一羽の雀が地に落ちるのも知っておられ、二十万本以上あると言われている私たちの髪の毛一本一本の数まで知っておられる方です。その神様は、私たちひとりひとりの人間に、その人生の目的なり、計画を持っておられるのです。それは何かというと、神の福音を宣べ伝えることです。福音をあかしすること、それが私たちに対する神のみこころなのです。イエス様を信じるすべての人は救いを得ていますが、なぜ神様は私たちを救ってくださったのかというと、この神の福音を宣べ伝えるためなのです。この目的をしっかりと握っている人は、どんな誘惑に直面しても決して揺らぐことがありません。そして確信をもって献身することができるのです。この意識が重要です。

 毎年自殺者が3万人を越えています。その予備軍を入れたら、その数字はもっと多くなります。どうしてそんなに多くの方が自ら命を絶つのでしょうか。それは、人生の目的がわからないからです。人は何のために生きているかがわからないと、人生が虚しく感じられます。しかし、自分は何のために生きているのか、その目的が明確であればあるほど充実した人生を送ることができるのです。

以前、「この日本人がスゴイらしい」というテレビ番組で、核廃絶を世界に訴えた二重被爆者、山口彊(つとむ)さんの生涯が紹介されました。山口さんは1945年8月6日、会社の出張先の広島で被爆し、さらに8月9日、故郷の長崎でも被爆された二重被爆者です。それで左耳の聴力を失い、急性白血病となり、原爆の後遺症に苦しめられますが、被爆に対する偏見や差別などから自分が被爆者であることを隠していました。しかし妻と息子を亡くしたことがきっかけで、自分の命はいったい何のためにあるのか、ここに存在しているのは何のためなのかを考えるようになりました。そして、それはこの核の恐ろしさを世界に訴えるためではないかと、自分が二重被爆者であることを公表するわけです。そして90歳になってからアメリカへ行き、ニューヨークの国連本部で反核、世界平和について訴えたのです。それから被爆をテーマにした映画を観てみたいと、「アバター」で有名な映画監督のジェームズ・キャメロンに手紙を書き送るのです。
 すると2008年12月22日に、がんで長崎の病院に入院していた山口さんのもとに、このジェームズ・キャメロン監督がやって来て、やがて核廃絶をテーマにした映画を作ると約束したのです。その映画は「The Last Train from Hiroshima :The Survivors Look Back」というノンフィクションの著書を元にした映画で、この山口さんの体験が重要な部分を占めている映画です。
 それにしても90を過ぎてから国連で訴えたり、ジェームズ・キャメロンに手紙を書き送ったりという力はどこから生まれて来たのでしょうか。それは、自分が生きているのはこのためだという使命感からです。その使命感が山口さんを動かしたのです。それは私たちも同じです。

 パウロは、自分が神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信を持っていました。明確な目的意識があったのです。それが彼の生きる原動力だったのです。パウロはそのような召命感を持っていたので、すべてのことを犠牲にしても福音のために献身していきたいと思ったのです。

皆さんは何のために救いに導かれたのでしょうか。それはこの神の福音に仕えるためです。そのために選び分けられ、そのために召され、そのために存在しているのです。このことがわかるとき、たとえすべてのものを犠牲にしても、福音に献身するようになります。

 Ⅱ.福音はイエス・キリスト(2-4)

 では、その福音とは何でしょうか。第二のことは、その福音の内容についてです。2~4節までをご覧ください。
 パウロは自己紹介をしたのち、この手紙の受取人であるローマにいるすべての聖徒たちへ、すなわち7節に進むはずでしたが、ちょっと横道にそれて、とうとうこの手紙の中心主題である神の福音について語り始めました。彼としては、それが言いたくて、言いたくて、ムズムズしていたのでしょう。人は頭にあることを話します。食べ物のことばかり話す人は、いつも食べ物のことばかり考えているからです。人は頭で考え、心で思っていることを話します。私は24時間いつも教会のことばかり考えているので、いつも教会のことばかり話します。頭のてっぺんを押されても、横っ腹をつつかれても、足の裏をくすぐられても、その口から出てくるのは「教会」のことです。パウロが考え、パウロが思っていたことは、神の福音のことでした。彼はいつも福音のことばかり考えていたので、自己紹介からその受取人について書き記す間に、横道にそれてしまったのです。それほど彼は福音に心が捕らえられていたのです。しかし、ここではすべてを語りません。食事でいうなら前菜のようなもので、フルコースのメニューのわずかなものだけちらつかせて、フルコースへの関心をかき立てようとしているのです。では、その神の福音とはどのようなものなのでしょうか。

「―この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」 

 それは旧約聖書の預言者たちを通してずっと昔から約束されていたもので、御子に関することです。この御子は、「肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神に御子として示された方」です。「肉によれば」というのは、人間的に見ればという意味です。つまり、人間的に見れば、御子は旧約聖書の預言に記されてあるとおりダビデの子孫としてお生まれになられ方であるということです。すなわち、まことの救い主であられるということです。それだけではありません。聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方です。つまりキリストは十字架で死なれましたが、その死から復活されることによってご自身が神であることを証明されたのです。「この方が死につながれていることなどあり得ないからです。」(使徒2:24)つまり、この方は旧約聖書の預言の通りに生まれた方であり、死者の中からよみがえられることによって、神の御子であるということをはっきりと示された方であるということです。私たちは、この主イエス・キリストによって罪がきよめられるのです。これが福音です。いや、このイエス・キリストこそ福音なのです。

 皆さん、福音とは、決して観念やイデオロギーではありません。この生きておられる主イエス・キリストとの交わりなのです。この方に堅く結びついていれば、神のいのちにあふれることができます。パウロが信じていた福音とは、そのように自ら体験していたものであり、確かな力であり、いのちだったのです。16節のところで彼が、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言っているのはそういうことです。福音は単なる知らせではなく、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。

 イエス様は、ピリポ・カイザリヤというところで弟子たちに、「人々はわたしのことを誰だと言ってるか?」とお尋ねになられました。すると弟子たちは、「ある人は預言者だと言い、ある人はエリヤ、また別の人はほかの預言者だと言っています」と答えました。するとイエス様は弟子たちに向かって、「では、あなたがたはわたしを誰だと言うか?」とお尋ねになられました。他の人々の主張はそのくらいにして、それではあなたがたはわたしを誰だというのかと、彼ら自身の告白を求められたのです。
 すると弟子の一人のペテロが言いました。「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)するとイエス様は、ペテロを称賛し、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と言われました。イエス様はほかの人が何と言っているかではなく、あなたは何と言うか、あなた自身の告白を聞くことを願っておられるのです。

 しかし、私たちは自分の告白をしません。「ある人の話ですが、イエスを信じると救われるらしいです」とか、「だれかが言っていたのですが、祈ると答えられるらしいよ」と言うのです。これは福音宣教ではありません。福音宣教とは、自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを証することなのです。「イエスが力です。十字架が救いの力です。祈りは必ず答えられます。イエス様だけが唯一の望みです。」とはっきり言えなければならないのです。そのように言える自分の信仰、証がなければなりません。私が信じているイエス様、私が信じている福音、私が体験した福音を証しなければなりません。今はそうでなくても、少しずつ確信が与えられて、そのように言うことができたら幸いです。それが力の源なのです。福音には力があるので、みことばをそのまま読むだけでもすばらしい力がありますが、もっと力があるのはそのみことばを実際に味わっていることを証することです。福音はイエス・キリストであり、単なる考えや知識ではなく、力だからです。

 Ⅲ.このキリストによって(5-7)

 最後に、このようにパウロがローマの教会に福音を宣べ伝えた目的とその手段についてを見て終わりたいと思います。5-7節をご覧ください。

「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。―このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 パウロは自己紹介をしながら、横道というか、福音そのものについて少し触れましたが、巧みに話を元に戻し、差出人から宛先へと進めていきます。今ここで紹介した福音の本質とはイエス・キリストであるという話から、このキリストによって、自分が使徒としての務めを受けたのだと結びつけていくのです。ここには「恵みと使徒の務め」とありますが、これは、「恵み、すなわち使徒の務め」という意味で、「使徒の務めという恵み」のことです。パウロは福音そのものである主イエス・キリストによって、この尊い務めを受けたのです。いったいそれは何のためでしょうか。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。「信仰の従順」とは何でしょうか。「信仰の従順」ということばは、ギリシャ語では「信仰、つまり神への従順」となっています。ですから、信仰の従順とは信仰の内容である神に従う生活のことなのです。パウロが使徒の務めという恵みを受けたのは、あらゆる国の人たちがこの福音を信じ、神の用意してくださった救いを受け入れることによって、神に従う生活をすることができるようにするためだったのです。それはパウロだけではありません。「あなたがたも」、すなわち、ローマのクリスチャンたちも同じです。そしてそれは私たちも言えることなのです。なぜなら、私たちも、イエス・キリストによって召された者だからです。私たちも神に愛され、召された者として、パウロのように、あらゆる国の人々に信仰の従順をもたらしていかなければなりません。どうやってそれができるのでしょうか。ここに「このキリストによって」とあります。「このキリスト」とは、神の福音そのもののことです。ですから、これは神の福音によってということになります。神の福音によって私たちは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすことができるのです。それは決して人間の力や方策によってではないのです。

 ネヘミヤは、バビロン捕囚からエルサレムに戻ってきたイスラエルの民に何をしたでしょうか。ネヘミヤ記8章を見ると、彼は、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように学者エズラにお願いしました。それを水の門の広場に集まっていた民に、夜明けから真昼まで、朗読しました。その結果消滅していた仮庵の祭りが復活し、異邦人との婚姻が解消され、安息日を守る運動が徹底され、什一献金が行われるようになり、イスラエルに信仰の改革が起こっていったのです。これは「水の門」のところで起こったので、ウォーターゲートのリバイバルと呼ばれています。それはイスラエルが神のみことばに立ち返り、みことばに堅く立つことによってもたらされたものだったのです。。

 それは使徒の働きの中に見られる初代教会も同じです。例えば、使徒の働き19章にはパウロがエペソで伝道した時のことが記されてありますが、彼らはパウロを通してみことばを伝えられるとすぐに、魔術を行っていた人々は魔術の本を集めて燃やしてしまいました。その額なんと銀貨5万枚、今の価値で300万円相当だったと言われています。それは彼らが神のみことばを聞いて、それを理解したからです。みことばを本当に理解すると、自然と、その行動にも変化が起こってくるのです。

 1903年にウェールズで起こったリバイバルもそうでした。神様のみことばに対する覚醒が起こると、劇場や酒場が門を閉ざすようになりました。また工場の労働者たちが盗んだ品物を返しにやって来て、それが山のように積まれるようになったのです。なぜそういうことが起こったのかというと、いつもむちで虐待していた主人たちが、神の恵みを受けてからは優しくなり、ロバを抱いて涙する人までになったからです。神のみことばによって人々の内側が変革したことが社会的な改革へとつながっていったのです。

 1907年に今の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で起こったリバイバルもそうでした。みことばで目覚めた聖徒たちが日曜日になると一斉に仕事を休んだので、平壌の経済が麻痺してしまいました。10%の聖徒たちが商店の門を閉めたので、平壌全体が日曜日は一斉に休むようになったのです。クリスチャンが10%になると、社会全体に大きな影響を及ぼすようになります。

 それまでは少し忍耐が必要です。日本では今のところクリスチャンの人口は全体の1%にも満ちていませんが、これが10%になると、大きなうねりなって社会全体を変革していくことになります。その鍵は何でしょうか。神の福音です。神の福音に立ち返り、この福音にしっかりと立ち続けることであって、それ以外にはないのです。決して人間的な方法やプログラムによるものではありません。

 猪(いのしし)が最も好んで食べる物はどんぐりだそうです。猪はどんぐりに目がなく、夢中になります。しかし猪は頭が悪いのか、どんぐりがなくなると、どんぐりが地面から出てくると思って地面を掘り返してしまうのです。もし私たちが猪のことばを知っているとしたら、そんな猪に何とことばをかけてやるでしょうか?「猪さん。地面を掘ったってドングリは出て来ないよ。どんぐりは上から落ちてくるの。だからそんなにどんぐりを食べたければ、木の根元を打つか、枝を揺らさないと・・。」このように言ってやるのではないでしょうか。

 同じです。コロサイ人への手紙3章1,2節には、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」とあります。何か良い方法はないかと地面を掘ったりするのではなく、天にあるものを求めていかなければなりません。「天にあるものを求めなさい」それが私たちに求められていることです。

 私たちはこの一年がそのような年でありますようにと祈ります。「このキリストによって」「この神の福音によって」皆さんの心が奮い立たせられる一年でありますように。いつもみことばに立ち返りながら、そこから恵みと力をいただいて、このすばらしい務めを全うしていくことができますように。この教会がこの福音に堅く立ち、キリストの恵みと力によって前進していく教会でありますように。



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