心の包皮を取り除け エレミヤ書4章1~4節

聖書箇所:エレミヤ書4章1~4節(エレミヤ書講解説教9回目)

タイトル:「心の包皮を取り除け」

 

エレミヤ書4章に入ります。きょうは、4節の「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」というみことばから、「心の包皮を取り除け」というタイトルでお話します。「包皮を取り除く」とは、イスラエルの民が先祖からの教えとして継承してきた割礼のことです。創世記17章10、11節に、こうあります。「10次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。」

これは、神がアブラハムに語られた約束のことばです。彼らの中の男子はみな、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることですが、それが神の民であることのしるしだったわけです。

しかしここではただの割礼を受けるようにと言われているのではありません。心の割礼、心の包皮を取り除け、と言われているのです。心に焦点が当てられているのです。

 

イエス様は、律法の中で一番重要な戒めは、心を尽くして、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛することだと言われました。しかし、心が包皮で覆われていると、心から神を愛することができません。ですから、心を覆っている包皮を切り取らなければならない、取り除かなければならないのです。

 

きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、信仰には真実な行いが伴うということです。もし神に立ち返るというのならば、悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。第二に、そのためには心を開墾しなければならないということです。茨の中に種を蒔いてはなりません。そのような種は、決して実を結ぶことはできないからです。第三のことは、主のために割礼を受け、心の包皮を取り除けということです。

 

 Ⅰ.もし帰るのなら(1-2)

 

まず1~2節をご覧ください。「1 「イスラエルよ、もし帰るのなら、-主のことば-わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、2 また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」」

ここには、「もし」ということばが繰り返して書かれてあります。1節には「イスラエルよ、もし帰るのなら」とありますし、また、「もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら」とあります。また、2節には「もし」ということばはありませんが、「『主は生きておられ』と誓うなら、」というのは、「もし、誓うなら」ということです。ですからここには3回も、「もし」ということばが使われているのです。

 

なぜでしょうか。なぜ「もし」ということばを繰り返して使っているのでしょうか。それは、主がイスラエルに口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めを求めておられたからです。確かにこのエレミヤの時代、南ユダ王国はヨシヤ王が宗教改革を行ったりと、表面的には神に立ち返ったかのように見えましたが、それはあくまでも表面的なもので、実際にはそうではなかったのです。まだ偶像礼拝が続けられていました。神殿で主なる神を礼拝していたかと思ったら、一方では偶像礼拝もしていました。つまり彼らの悔い改めは、実に表面的なもの、形式的なものにすぎなかったのです。

 

ですから主は、「イスラエルよ、もし帰るなら、わたしのもとに帰れ。」と言っているのです。主のもとに帰るということがどういうことなのかを、この「もし」ということばを使って具体的に示そうとされたのです。本当に神のもとに立ち返るというのなら、具体的な行動で示せというのです。神殿で礼拝をしていれば神に立ち返ったということではありません。口先で「主よ、愛します」とか、「主を賛美します」と言っても、そこに心が伴っていなければ、それは本当の賛美ではありません。悔い改めるというのなら、ことばだけではなく、行動によって示さなければならないのです。2節に「真実と公正と義によって『主は生きておられると誓うなら』」とありますが、それはそのことを表しています。ただ表面的に、うわべだけの信仰ではなく、真実と公正と義によって、心から「主は生きておられる」と告白することが求められるのです。なぜなら、人はうわべを見るが、主は心を見られるからです(Ⅰサムエル16:7)。

 

この『主は生きておられる』ということばですが、二重の『』になっています。これは文の途中だからということではなく、当時の決まり文句であったことを表しています。この後でエレミヤ書を見ていくとわかりますが、やたらめった出てきます。それは本当にすばらしい信仰の告白なのに、そのように告白していながら、まるで主が死んでいるかのように生きているとしたら、何の意味もありません。それはただうわべだけの信仰となってしまいます。それはたましいを離れたからだのように、死んだものなのです。

 

新約聖書のヤコブ書には、そのことについてこのように言っています。「たましいを離れたからだが、死んだものであると同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)行いのない信仰は死んでいるのです。それはたましいを離れたからだと同じなのです。死ぬとは、からだからたましいが離れることです。それと同じように、信仰に行いが伴っていなかったら、その信仰は死んでいるのです。それは行いがなければ救われないということではありません。私たちが罪から救われるのは私たちの行いによるのではなく、一方的な神の恵みによるものです。私たちの罪のために十字架で死んでくださったイエス・キリストを、私たちの救い主として信じるだけで救われるのです。しかし、本当にそのように信じたのであれば、当然そこには良い行いがついてくるものです。それが無いとしたら、それはたましいを離れたからだのように死んでいることになります。

 

これは、バプテスマのヨハネが強調していたことです。ヨハネは、バプテスマを受けようとしていて出て来た群衆にこう言いました。「7まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(ルカ3:7-9)

ドキッとしますね。「まむしの子孫たち」と呼ばれたら。「だれが、迫り来る御怒りから逃れるようにと教えたのか」と迫って来るんですから。そうならないように、悔い改めて出て来ているんじゃないですか。それなのに、「まむしの子孫たち」呼ばわりはひどい!と言いたくなります。

でも、ここでバプテスマのヨハネが言いたかったことは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」ということでした。自分たちはアブラハムの子孫だ、神の民だと言っても、それにふさわしい実を結ばなければ、そんな木は切り倒されてしまうというのです。よく「私はクリスチャンホームで生まれ育ちました」とか、「親も、またその親も、みんなクリスチャンでした」という方がおられますが、すばらしいですね。それは本当に神様の恵みです。しかし、たとえクリスチャンホームに生まれて来たからといっても、それで自動的にクリスチャンになるわけではありません。イエス様がニコデモに言われたように、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」のです、ですから、たとえクリスチャンホームに生まれて来ても、そこに真の悔い改めがなければ、悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、切り倒されて、火に投げ込まれることになるのです。

 

では、悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、どういうことなのでしょうか。ヨハネは具体的にこう述べています。「11「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」12 取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」13 ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」14 兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」」(ルカ3:11-14)

どういうことでしょうか。下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげるとか、食べ物を持っている人も同じようにしなさいというのは。つまり、神のみことばに生きるということです。神のみことばに従って生きなさい、ということです。「もし帰るのなら」、本当に神に立ち返るというのなら、あなたの心から偶像を取り除き、真実と公正と義によって、「主は生きておられる」と誓わなければならないのです。言い換えるなら、それは「心から悔い改める」ということです。真実な悔い改めは、水と御霊によって新しく生まれるという心の変革によってもたらされ、それは必ず行動という見える形で表されるのです。

 

2節後半の「国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」とは、異邦人の救いのことです。イスラエルが本当に神に立ち返るなら、その祝福は異邦人にまで及び、異邦人も救いに導かれるという大きな祝福をもたらすようになるのです。この預言はまだ成就していません。なぜなら、イスラエル人はまだ本当に悔い改めていないからです。救い主イエス・キリストを信じていません。でもこれは必ず起こります。世の終わりになると、イスラエル人が自分の胸を打って悲しみ、イエス・キリストを信じるようになるのです。主はそのために「残りの者」を残しておられるのです。彼らによってイスラエルがイエスを信じるためです。そして、異邦人の満ちる時、イスラエルはみな救われるのです。パウロはそのことをローマ人への手紙9章から11章までのところで展開していますが、特に11章25節のところでそれを「奥義」として語っています。すばらしいですね。神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神の救いのご計画はこのようにして成し遂げられるのです。

 

であれば、私たちはその奥義を知らされている者として、真実と公正と義によって「主は生きておられる」と誓わなければなりません。主は死んでおられるのではなく生きておられるということを、行いと真実をもって告白しなければなりません。あなたが、もし本当に主に立ち返るというのなら、主のもとに帰らなければならないのです。

 

Ⅱ.耕地を開拓せよ(3)

 

第二のことは、ではそのためにはどうしたらよいかということです。3節をご覧ください。「まことに、主はユダとイスラエルにこう言われる。「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」

「耕地」とは、何も生えていない処女地のことです。その「耕地を開拓せよ」というのです。「開拓せよ」という言葉は、「砕く」という意味のことばです。かたくなになった心の耕地に鍬(くわ)とか鋤(すき)を入れて柔らかく耕すようにということです。なぜなら、そうしたカチカチと凝り固まったところにどんなに種をまいても実を結ぶことはないからです。そういう意味では「開拓せよ」というよりも、「開墾せよ」の方がわかりやすいですね。開墾して心を耕さなければなりません。

 

まだ上の娘が幼稚園の頃でした。「こどもチャレンジ」の付録に「植物の種を蒔こう」というのがありました。それで家庭菜園をすることになったのですが、私は野菜を育てたことがなかったので、どうやって育てたらいいかわかりませんでした。そんな時、どこからか「だったらかぼちゃがいい」という声を聞きました。「かぼちゃならバカでも育つ」と。だったら私でも大丈夫かと思い、ルンルンしながらかぼちゃの種を植えたのですが、一向に芽が出てきませんでした。どうしてかなぁと思ってある人に聞いたところ、「そんなところに植えちゃだめだ」と言われました。そんなとこというのは玄関のちょうど前のところでした。あと植える場所がなかったのです。

私たちは福島で教会を開拓した時、6畳二間と4畳半の借家で始めましたが、子供が生まれるとそこが狭くなったので、近くに中古の一軒家を購入しました。しかし、駐車場をなるべく広く取りたかったので、空いている土地のほとんどをコンクリートにしたのです。それで土の部分は限られていました。ちょうど玄関の前に2~3坪の土地があったのでそこに植えたのです。

子供のシャベルで土を掘り、種を植えて土を被せました。そしてジョウロで水をあげながら、かぼちゃができるのを楽しみにしていました。しかし、一向に芽が出てこない。「バカでも育つ」と言ったのに、全然育ちません。あれっ、どうしたんだろうと思って、ある人に聞いたところ、「それじゃだめだ!」と言うのです。ちゃんと土を耕して種を植えないと、バカでも育つかぼちゃでも育たない・・と。そうなんです。まず土を耕さなければなりません。鍬とか鋤まではいかなくても、土が柔らかくなるまで耕さなければならないのです。考えてみたら、そこは玄関の真ん前で、みんなの足で踏み固められた所でした。しかも硝子の破片とか金属片などが混ざっている土でした。そんな所で育つはずがありません。種が育つにはまず良い土地でなければならないのです。

私はすっかり自信を無くしてしまい、こういうことは私には向いてないと、それ以来、畑はやらないことにしました。

 

これは霊的にも言えることです。みことばの種が育つには、まず心を耕さなければなりません。堅い心を柔らかくして、みことばの種が成長するようにしなければならないのです。これは具体的には、神のみことばを聞く時には、心を柔らかくして、素直に心に受け入れなければならないということです。へブル3章7~8節にこうあります。「ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」

聖霊があなたの心に鍬を入れ、鋤を入れて耕してくださいます。みことばの種を受け入れることができるように。それなのに私たちは罪が指摘されるとそれを拒む傾向があります。砕かれたくないのです。でもそのままではいくら種を蒔いても育ちません。不毛のままです。ですから、もしあなたが御声を聞くなら、心をかたくなにしないで、聖霊の導きに従わなければなりません。

 

これが預言者エレミヤに与えられていた使命でした。1章10節を振り返ってみましょう。エレミヤが預言者として召命を受けたとき、主はその目的をこのように言われました。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」

建てるためには壊されなければなりません。植えるためには鍬を入れて、また鋤を入れて耕さなければならないのです。その堅い土を砕かなければなりません。なぜ?そうでないと植えられないからです。その結果、滅んでしまうことになります。だから、人々がどんなに嫌でも、エレミヤは伝えなければならなかったのです。彼らの心を耕すためです。

 

同じように、聖霊は今も私たちに語っておられます。それはあなたの耳に痛いことかもしれません。厳しく感じるかもしれない。でもそのようにして聖霊があなたの心を耕しておられるのです。ですから、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」のです。耕地を開拓せよ。あなたは心を開拓しなければなりません。神のみことばを受け入れることができるように、開墾しなければならないのです。

 

また、ここには「茨の中に種を蒔くな。」とあります。茨の中に種を蒔くとはどういうことでしょうか。茨の中に種を蒔くとは、種が芽を出して成長しようとしても茨がそれをふさぐので成長できないということです。それはどんな茨でしょうか。イエス様は、種まきのたとえの中でそれを教えてくれました。それはこの世の思い煩いや富の惑わしなどです。そのような心だと、それが心を塞ぐので実を結ぶことができません。ですから、「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」と言われるのです。

 

あなたの心はどのような畑、どのような土地でしょうか。道端のように人々の足で踏み固められたような堅い土ですか。それとも、岩地のように薄い土地ですか。あるいは、いばらのようにこの世の思い煩いと富の惑わしでふさがれているような畑でしょうか。耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。あなたの心を耕して、良い畑となって、神のみことばの種を受け入れ、多くの実を結ぶものでありたいと思います。

 

 Ⅲ.心の包皮を取り除け(4)

 

第三のことは、心の包皮を取り除け、ということです。4節をご覧ください。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」

 

悔い改めのもう一つの要素は、主のために割礼を受け、神のもとに帰るということです。ここには、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とあります。これは心の割礼のことです。

「割礼」については先ほどお話したように、イスラエルの民が神の民であることのしるしとして、生まれて8日目に必ず割礼を受けなければならないものでした。それは男性の性器の先端を覆っている皮を切り取るというものです。イスラエルの民は皆、必ずこの割礼を受けなければならなかったのです。

しかしここで言われているのは、そうした肉体的、外見的な割礼のことではなく、心の割礼のことです。確かに彼らは肉体的には割礼を受けていたかもしれませんが、心においてはそうではありませんでした。表面的にはユダヤ教の儀式を行い、神殿礼拝を行っていましたが、その心は神から遠く離れていたのです。それはちょうど私たちがバプテスマを受け、毎週礼拝を守り、献金もし、奉仕をしていても、心が神から離れているのと同じです。ですから、主は「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言われたのです。大切なのは心に割礼を受けることです。

 

パウロはこのことをローマ人への手紙2章28~29節でこのように言っています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」とあります。皆さん、わかりますか。たとえ外見上からだに割礼を受けていたとしても、それが本当の意味での割礼ではありません。大切なのは、心に割礼を受けるということ、御霊による心の割礼なのです。実に「心の包皮を取り除く」とは、この神の御霊による心の割礼を受けるということです。もし心が包皮で覆われているとどうなるでしょうか。霊的な事柄に鈍感になります。何を言われてもピンときません。心に割礼を受けていないので、心が肉で覆われていると、メッセージを聞いてもわからないのです。

 

先週フレミング先生がメッセージで語っていたのは、このことです。聞いてもわかりません。悟ることができないのです。心が肉で覆われているからです。イエス様の時代にもそういう人たちがいました。イエス様が「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)と言うと、弟子たちのうちのある者はこう言いました。「これはひどい話だ。たれが聞いていられるだろう。」(ヨハネ6:60)

何が問題だったのでしょうか。心が肉で覆われていたことです。心に割礼を受けていないと、そんな人食いなんて恐ろしい話で聞いていられないとか、トンチンカンなことを言ってしまうのです。だから、心の包皮を取り除かなければなりません。心に割礼を受けている人は、確かに聖書のメッセージは難しいかもしれませんが、ピンときます。「ああ、本当に私は罪深い人間だなぁ。でも、イエス様がこんな私の罪も赦してくださるんだ。本当に感謝します!」と。聖霊が教えてくださるからです。不思議ですね。まだバプテスマを受けたばかりの人でも、いや、まだ受けていなくても、イエス様を信じ、もっとイエス様のことを知りたいと願っている人にはわかるんです。そして、少しづつ変えられていきます。イエス様の似姿に。

 

ピリピ人への手紙3章2~3節を開いてください。ここでパウロは心に割礼を受けている人の特徴を、このように語っています。「2 犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。3 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」

その人はまず、神の御霊によって礼拝します。つまり、うわべだけの、形式的な礼拝ではなく、神を愛し、神を喜び、心から神を礼拝するのです。イエス様はサマリヤの女とお話をされた時、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)と言われました。それはこのことです。第二にその人は、人間的なものを誇るのではなくキリスト・イエスを誇ります。第三にその人は、肉に頼らないで神に頼ります。

 

デレク・プリンスという以前、東アフリカにある大学の学長をしておられ、その後、伝道者になった方ですが、彼はその大学にいた優れたアスリートたちを前にこう言いました。「君たちは自分がとても強く元気だと思っているだろうが、ほんの小さな一匹のマラリア蚊に刺されると、24時間以内に震えが襲って来るだろう。あなたは震え、熱に苦しみ、事実上何もできなくなるだろう。たった一匹の小さな虫がすべてを変えてしまうことがあり得るのです。」(Derek Prince Ministries Japan)

本当にそうですよね。私たちはどんなに自分の肉体を誇っても、たった一匹の蚊に刺されるだけで死んでしまうこともあるのです。それほど脆弱な者でしかないのです。けれども、私たちを造られた方、私たちの主イエスは、私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。この方は死に勝利され今も生きておられる救い主であられます。私たちが頼りとするのは、この主イエス・キリストです。

 

あなたは何を頼りとしていますか。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」外見上がどうかということではなく、心に割礼を受けているかどうかが問われています。「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しましょう。これが、神が私たち一人一人に求めておられる真実な悔い改めなのです。