ヨハネの福音書1章14~18節「恵みとまことに満ちた方」

ヨハネの福音書からメッセージをしております。きょうはその第四回目となりますが、「恵みとまことに満ちた方」というタイトルでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.恵みとまことに満ちた方(14-15)

 

まず、14節と15節をご覧ください。14節をお読みします。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

 

「ことば」とは、イエス・キリストのことです。そのことばが人となって、私たちの間に住まわれました。この「人」と訳されているギリシヤ語は「サルクス」という言葉で、下の欄外の説明にもあるように、直訳すると「肉」です。ことばが肉体を取って私たちの間に住まわれた。当時の人々にとって「肉」は弱いもので、すぐに朽ち果てていくものという考えがありました。ですから、ことばである神が人となるということは考えられないことでした。けれども、神は肉体を取って現われてくださいました。これを書いたヨハネは1章1節から5節までの箇所で、この方は永遠の初めから存在し、すべてのものを造られ、いのちの源、人の光であられたと言っておりますが、そのお方が人となって現われてくださったのです。これは奇跡です。私たちは毎年クリスマスをお祝いしていますが、それはこの奇跡をお祝いしているのです。神の栄光に満ちた方が人として生まれてくださり、実に飼い葉桶にまで下ってくださいました。これは奇跡できないでしょうか。いったい神はなぜ人となられたのでしょうか。

 

14節のその後のところにこうあります。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

それはこの方の栄光を見るためです。ひとり子としての栄光です。その栄光を見るなら、この方がどんなに恵みとまことに満ちておられるかがわかるでしょう。それはちょうど旧約聖書の時代にイスラエルの民が荒野を旅していた時、栄光の雲として現れてくださったようにです。この「住まわれた」ということばには「幕屋を張る」という意味があって、そのことを表しています。つまり、神があの会見の天幕(幕屋)で彼らと共に住まわれ栄光の雲として現れてくださったように、キリストと人となって私たちの間に住んでくださることによって、神の栄光を見ることができるということです。キリストは、そのために人となって私たちの間に住んでくださいました。そのことによって神がどんなに栄光に輝いておられる方であるか、恵みとまことに満ちた方であるかを示すためです。この方を信仰の目をもって見る人々には、この神の栄光を見ることができます。そして、その栄光は、恵みとまことに満ちていました。

 

恵みとまことに満ちておられたとはどういうことでしょうか。この「恵みとまことと」という言葉は、旧約聖書の「ヘセッド」と「エメット」というへブル語が背景にありますが、この二つの言葉が一緒に出てくる箇所を見てみると、これらは、いずれも神との契約において用いられていることがわかります。そしてこれは、神は契約を守ることにおいて真実であられるということを表しているのです。

 

皆さん、神様は契約を守られる方です。約束されたことは必ず果たされます。神様は、私たち人間に対して救いの約束をしてくださいました。その救いの約束というのは、神が御子をこの世に遣わして私たちが受けなければならない罪のさばきを代わりに受けることによって、私たちを罪から救ってくださるというものでした。その驚くべき救いの約束を果たすために、神はご自身のひとり子をこの世に遣わしてくださったのです。ですから、キリストが人となって私たちの間に住まわれたということ自体、神が真実な方であるということを表しているわけです。神様は、約束されたことを必ず守られるのです。

 

皆さんもよくご存知の「あしあと」という詩があります。マーガレット・F・パワーズというクリスチャンが書きました。この詩を見ると、本当に主は真実な方であることを感じます。

 

あしあと

「ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

 

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

イエス様は、決してあなたを捨てることはありません。なぜなら、そのように約束してくださったからです。マタイの福音書の最後に書かれてある大宣教命令にはこうあります。

「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」(マタイ28:19-20)

これがイエス様の約束です。そして、イエス様は約束されたことを必ず果たしてくださいます。私たちはそうではありません。「こうします」「ああします」と約束しても、自分の都合が悪くなると簡単に約束したことを破ってしまいます。私たちの約束はいとも簡単に破られてしまいます。「約束は破るためにある」という言葉を聞いたことがありますが、本当にそうですね。破るためにあるようなものです。しかし、イエス様はそうではありません。約束されたことは必ず果たされるのです。なぜなら、この方は真実な方だからです。パウロは、こう言っています。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)

 

私たちもこのような人になりたいですね。箴言3章3節には、「恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。」とあります。いったいどうしたらこのような人になれるのでしょうか。この方を見てください。この方は恵みとまことに満ちておられます。この方は父なる神のみもとから私たちのところへ来てくださいました。私たちと同じ人となってくださり、私たちの間に住んでくださいました。だから、この方を見るとき、私たちも恵みとまことに満ちた者になることができます。

 

宗教改革者ジャン・力ルヴァンはこう言っています。「キリストこそは恵みとまことの泉であり、汲みつくされ得ないほどに豊かな泉である。私たちすべてはその泉から汲み取るべきである」
私たちが恵みとまことに生きたいと願うなら、キリストの元へ行かなければなりません。それは、イエス・キリストという泉から汲むことによって私たちに及んでくるからです。

 

ヨハネはこの方について証しして、こう叫んで言いました。15節です。「『私の後から来られる方は、私にまさる方です。私より先におられるからです』と私が言ったのは、この方のことです。」

この「ヨハネ」とは、バプテスマのヨハネのことです。彼については前回のメッセージでお話ししました。彼は、自分の後から来られる方は、自分よりもまさる方だと言いました。なぜなら、自分よりも先におられたからです。どういうことですか?

ヨハネは、イエスの従兄弟にあたり、イエス様がマリヤから生まれる6ヶ月前にすでに生まれていました。それなのに私より先におられたというのは、この方が永遠の初めからおられたということ、つまり、この方は神のひとり子であられるということです。ヨハネは偉大な預言者で、女の中から産まれた者の中で、彼よりも偉大な者はいないと認められていたほどの人物ですが、そのヨハネが、「私はその方のくつのひもを解く値打ちがない」と言わしめるほど偉大なお方、それが神のひとり子キリストだったのです。

 

この方には神の栄光がありました。この方は恵みとまことに満ちておられました。ですから、あなたもこの方の元に行くなら、あなたも恵みとまことに満たされることができるのです。

 

Ⅱ.恵みの上にさらに恵みを受ける(16-17)

 

次に、16節と17節をご覧ください。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 

キリストは恵みとまことに満ちておられる方なので、この方を信じて歩む私たちも、その満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けることができます。ところで、この「恵みの上にさらに恵みを受けた」とはどういうことでしょうか?これは原文では「恵みの代わりに恵みを受けた」となっています。これはどういうことかというと、一つの恵みを受けたらそれでおしまいということではなく、その代わりにまた新しい恵みを受けるということです。ちょうど泉から水がこんこんと湧き出て来るように、神の恵みは尽きることがありません。

 

しかし、そればかりではありません。私たちの人生には、次々と問題が起こってくるものですが、たとえどんなに問題が起こっても、その問題に対する解答としての恵みがとめどなく与えられるということでもあります。いや、問題そのものさえも恵みとなります。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すということを知っているからです。問題さえも恵みであればすべてが恵みとなります。皆さん、キリストに信頼して歩む人生は、すべてが恵みなのです。どうしてそのように言えるのでしょうか。その理由が17節にあります。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

 

 

 

しかし、どうでしょう。私たち人間の中で完全にこれを守ることのできる人などいるでしょうか。いません。私たち人間は自らの罪と弱さのために神の戒めを完全に守ることはできないのです。自分の力でどんなに頑張ってみても、神が求めておられる基準に達することはできません。律法は本来良いものであり、神の恵みとまことを受けるための手段として神が与えてくださったものですが、だれも行うことができないのです。

 

皆さん、律法って何でしょうか?律法とは、神の「教え」や「戒め」のことです。内容的には、神に対して私たちが成すべき責任から、私たちがこの社会の中で生きていく上で守らなければならない道徳的、倫理的教えを包んでいます。申命記7章6節以下によると、イスラエルの民は神の一方的な恵みによって諸国民の中から特別に選ばれた神の民なので、この神の命令を守る者なら祝福を与えると約束してくださいました。

その代表的な律法に「十戒」と呼ばれるものがあります。もし彼らが神の声に聞き従い。神との契約を守るなら、彼らはあらゆる民族の中にあって、神の宝となると約束されました。出エジプト記20章3~17節に以下のようにあります。

①あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
②あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 ・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
③あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
④安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
⑤あなたの父と母を敬え。
⑥殺してはならない。
⑦姦淫してはならない。
⑧盗んではならない。
⑨あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
⑩あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

しかし、どうでしょう。どんなに神と約束しても、この命令を守ることのできる人がいるでしょうか。私は、いつも隣人の家を欲しがっていますから、もうアウトです。先日、アメリカの大学で学んでいる娘からラインで成績表が送られてきました。なぜ送ってよこしたのかわかりません。おそらく、これだけがんばっているよ!と伝えたかったのでしょう。何の科目なのかよくわかりませんが、ある科目は95.65%、別の科目は75.25%、他77.27%、80%、一つだけ57%というものがありました。その成績表はとてもわかりやすく、90%以上は鮮やかなグリーンの色で示してありました。80%以上は薄いグリーンの色です。70%以上は黄色。60%以下はレッドです。アメリカの大学では60%以下はレッドですが神の基準はとても高く、90%でないと鮮やかなグリーン色にはなりません。ちょっとでもミスをするとレッド色になってしまいます。まして神の律法は90点以上だけではだめなのです。常に100%でなければなりません。

しかし、どうでしょう。私たち人間の中で完全にこれを守ることのできる人などいるでしょうか。いません。私たち人間は自らの罪と弱さのために神の戒めを完全に守ることはできないのです。自分の力でどんなに頑張ってみても、神が求めておられる基準に達することはできません。律法は本来良いものであり、神の恵みとまことを受けるための手段として神が与えてくださったものですが、だれも行うことができないのです。

しかし、この律法とは別に、律法と預言者によって証しされた神の義が示されました。それがイエス・キリストです。キリストはこの律法を完全に行うことができた方であるというだけでなく、この律法が本来、指し示していた方でした。このキリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったことによって、この方を信じるすべての人の罪は赦され、神の前に義と認められるようになったのです。これが「恵み」です。「恵み」とは何ですか?恵みとは、受けるに値しない者に対する神の一方的な恩寵です。これはグッドニュース、福音です。

エペソ人への手紙2章1~5節にはこうあります。

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」

 

私たちは、かつては背きと罪の中に死んでいた者です。死んでいたわけですから、自分ではもう何もすることができません。死んだ人がヨイショと起き上がって動き出すことができるでしょうか。できません。しかし、神はそのような者をあわれんでくださり、一方的に救いの御手を差し伸べてくださいました。背きの中に死んでいた者を、キリストとともに生かしてくださったのです。これが恵みです。この恵みは、イエス・キリストによって実現しました。それは私たちから出たことではなく、神からの賜物なのです。

 

そればかりではありません。この方を信じ、この方に結びつくことによって、恵みの上にさらに恵みを受けることができるようになりました。なぜなら、この方の恵みは満ち満ちておられるからです。この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを、尽きない恵みを受けるようになったのです。

 

Ⅲ.父のふところにおられるひとり子の神(18)

 

最後に18節を見て終わりたいと思います。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

 

これまで私はよく色々な人から「神がいるなら見せてくれ」と言われたことがあります。「神がいるなら見せてくれ」と言われても、神は霊ですから私たちの肉眼で見ることはできません。ではどうしたら神を知ることができるのでしょうか。ここでヨハネはこう言っています。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

 

神は私たちの肉眼で見ることはできませんが、そんな私たちでも神を知ることができるように、神はご自身の御子を人としてこの世に送られ、神がどのような方であるのかを私たち人間にはっきりと啓示してくださったのです。

 

ですから、もしだれかに「あなたが信じている神様はどういうお方ですか」と聞かれたら、「イエス・キリストを見ればわかります」と答えることができます。「いや、イエス・キリストご自身が私たちの信じている神様です」と答えることができます。なぜなら、キリストは父のふところにおられたひとり子の神なので、完全に神を説き明かすことができたからです。

 

「父のふところにおられるひとり子の神」とは、イエス・キリストが父なる神と不断の親しい交わりを持っておられたということを表しています。父なる神といつも一緒にいて親しく交わっておられたので、父なる神がどのような方かがよくわかりました。人間の親子でもそうでしょ。子どもであれば、親がどのような人かがよくわかります。いつも一緒にいるからです。うちの娘は私のことをよく知っています。いつも一緒にいてみているからです。でもその交わりにも限界があります。知っているつもりでも知らないこともあるのです。「親の心、子知らず」ということわざのとおりです。けれども、三位一体の神の交わりはそうではありません。神は完全な交わりを持っておられます。ですから、ひとり子の神が、神を完全に神を説き明かすことができたのです。

 

イエス様の弟子の一人ピリポはイエス様にこう言いました。

「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)これは私たちの持っている願いと同じですね。それに対して、イエス様はこのように言われました。

「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9)

私たちも、神を見ることができたらと思うことがあります。しかしイエス様は、「わたしを見た人は、父を見たのです。」と言われました。キリストを見れば、父なる神を見ることができるのです。キリストを見るということは神を見るということ、キリストを知るということは神を知るということなのです。

 

あなたはどれだけ神を知っておられるでしょうか。私たちの信仰生活は、この神をどれだけ深く知っているかにかかっています。ですから、私たちはこのイエス・キリストをよく知らなければなりません。イエス・キリストについては聖書の中に、特に四つの福音書に詳しく書かれています。聖書を通してキリストをよく知り、この方との生きた交わりを通して、まぐみとまことを豊かに頂き、さらに大きく成長させていただきたいと思います。