迫害する者を祝福しなさい ローマ人への手紙12章14~21節

2020年6月21(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙12章14~21節

タイトル:「迫害する者を祝福しなさい」

 

 ローマ人の手紙は大きく分けると二つに分けられます。1~11章までの教理の部分所と、12~16章までの実践的な部分です。パウロは11章までのところで信仰による義について語ると、12章から、その信仰によって救われたクリスチャンは、この世の中でどのように歩むべきかを語ります。その基本は12章1~2節にあるように、あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた供え物としてささげるということでした。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。

 

そして、その基本は何かというと愛です。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい、ということです。また、兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさいということです。

 

そして、今日の箇所にはその愛の具体的な適用が述べられています。つまり、どのようにして愛し合うのかということです。特に、自分に敵対する人に対してどのような態度を持つべきであるかということです。それに対して聖書は、自分に敵対する者たちを祝福しなさい、と教えています。14節には、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」とあります。これが、クリスチャンが持つべき態度です。神に愛され、罪を赦していただいた者が持つべき態度なのです。

 

きょうは、このことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。第一に、クリスチャンは自分の敵を愛し、迫害する者を祝福しなければならないということです。第二に、とはいうものの、こちらがどんなに努力しても相手の態度が一向に変わらない場合があります。そのようなときにはどうしたらいいのでしょうか。そのような時には、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことを求めなければならないということです。第三に、それでも相手が悪意をもって向かってくる時、私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか。神の怒りに任せなさいということです。

 

 Ⅰ.迫害する者を祝福しなさい(14-17)

 

 まず、第一に、自分の敵を愛し、迫害する者を祝福しなさいということについてです。14-17節をご覧ください。「14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」

 

聖書は、あなたがたを迫害する者を祝福しなさい、と教えています。祝福すべきであって、のろってはいけません。だれに対してでも、悪に対して悪をもって報いるのではなく、すべての人が良いと思うことを心がけなければなりません。これは、私たちが生来持っている自然な態度に逆行するものです。というのは、もと私たちは悪いことをされると、もっと大きな悪で復讐しようとする気持ちが働くからです。本日からTBS日曜劇場にあの「半沢直樹」が帰ってきまが、彼のお決まりのセリフは、「やられたら、やり返す。倍返しだ!」それが、観ている人の気持ちをスカッとさせるのはなぜかというと、もともと人間にはそういう習性があるからです。

 

 旧約聖書の律法には、「目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、」(出21:24)とあります。これは、「やられたらやり返す」を意味する復讐の教えであるかのようなイメージがありますが、そうではありません。これは「正義」を示している教えなのです。そこには愛のひとかけらも感じられないと思うかもしれませんが、しかし、ここにこそ神のあわれみが存分に示されているのです。というのは、もし誰かが誰かの歯を折ったとしたらどうでしょう。折られた人は自分の歯を折ってしまった人に対して歯を折るだけでは気が収まらず、殺してしまいたいとさえ思うのではないでしょうか。目が潰されたら、潰した相手の目をえぐり取るくらいでは収まらず、首まで切ってしまいたいと思うでしょう。これが人間なんです。ですから、「目には目を、歯には歯を」の中にこそ正義があるのです。これは、簡単に言えば、犯した罪とそれに対して与えられる罰とが釣り合った状態を正義としています。従って「やられたらやり返す、倍返しだ!」は正義に反することになります。なぜなら「やられたこと」に対して「倍返し」をするわけですから、「やられたこと」と「やり返したこと(倍返し)」の両者を天秤にかけた場合、釣り合いがとれず片方に傾くことになります。

 

しかしここには、その神の義が本当の意味で全うされる道が示されています。あなたを迫害する者を迫害するのではなく、祝福しなさいという教えです。「悪に対して悪をもって報いることをせず」というのです。イエス様はこう言われました。「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」(マタイ5:38-40)

そんなの無理です。自分に悪意をもって向かってくる相手をどうやって赦すことができるでしょうか。まして祝福するなどできるはずがありません。しかし、クリスチャンはそうすべきなのです。なぜ?イエス・キリストによってすべての罪を贖っていただいた者だからです。神に敵対していた私たちは神にさばかれても致し方なかったのに、神はそんな私たちをさばいたのではなく、祝福しました。そんな者のために愛する御子を与え、この御子を十字架にお掛けになることによってすべての罪を赦してくださったのです。

 

イエス様は、マタイの福音書5章43-48節のところでこうも言われました。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。異邦人でも同じことをします。しかし、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ってこそ、天におられる父の子どもになれるのです。敵を赦す程度ではなく、迫害する者のために祈れ、祝福せよ、これが主のみこころであり、神様が私たちに願っておられることなのです。

 

 皆さんは、淵田美津雄(ふちだ・みつお)という人のことを聞かれたことがあるでしょうか。この人は元真珠湾攻撃の隊長で、戦後クリスチャンになった人です。どのようにして救われたのかを「真珠湾からゴルゴダへ」(ともしび社、1954年)という本の中で証ししています。少し長いですが、その部分を抜粋してお読みします。

 

いま私の胸に去来することは、私は祖国日本を愛し、火のような敵愾心(てきがいしん)を抱いて戦ってきたが、それはいわれなき憎悪(ぞうお)ではなかったか。祖国愛と見たなかに偏狭にして独善なものがなかったか。人類を、そして世界を理解することを忘れていたのではなかったのか。その祖国愛が、愛する民族をこの塗炭(とたん)の苦しみに追いやる始末になったのではなかったのかということです。終戦とともに、日本は人類の悲願である戦争放棄を世界にさきがけて宣言して、「灰燼(かいじん)の中から再建へ」とスタートしました。戦争放棄の理念を裏返して見れば、そこには日本が全人類への憎悪に終止符を打ったことを意味するのでなければならないと、私は思うのです。

 しかし、理念では憎悪に終止符を打つことは分っていても、私の感情は別でした。そのころ私は戦犯裁判の証人として、横浜の占領軍軍事法廷に喚問されていました。被告はC級戦犯の人たちで、連合軍の捕虜を虐殺した罪に問われていたのです。

 戦犯裁判は、国際正義の名において人道に反した者を裁くのだと言っていましたが、私はこれを勝者が敗者に対して行う、法に名を借りた復讐であると見て、反感と憎悪で胸を燃やしていたのです。


するとそこへアメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。私

は浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしました。ところが、いろいろと話を聞き回っているうちに、あるキャンプにいた捕虜たちから次のような美しい話をするのを聞き、心を打たれました。

 この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるのです。まず病人への看護から始まりました。やがて二週間たち、三週間と経過しても、このお嬢さんのサービスには一点の邪意も認められなかったのです。

 やがて全員はしだいに心を打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、やがて返事をなさいました。その返事はなんと意外でした。「私の両親が日本軍隊によって殺されましたから」

 両親が日本軍によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは、話は逆です。「詳しく聞かせてくれ」と私は膝(ひざ)を乗り出しました。

 話はこうでした。このお嬢さんの両親は宣教師で、フィリピンにいました。日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていました。やがて三年、アメリカ軍の逆上陸となって、日本軍は山中に追い込まれて来ました。そしてある日、その隠れ家が発見されて、日本軍は、この両親をスパイだと言って斬(き)るというのです。「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというのなら仕方がない。せめて死ぬ支度をしたいから三十分の猶予(ゆうよ)をください」そして与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈って斬(ざん)につきました。

 やがて、事の次第はアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤(いきどお)りのため、眼は涙でいっぱいであったに違いありません。父や母がなぜ斬られなければならなかったのか。無法にして呪わしい日本軍隊、憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いであったでしょう。

 だが静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、その祈りは何であったかをお嬢さんは思いました。するとお嬢さんの気持ちは憎悪から人類愛へ転向したというのです。私はその美しい話を聞きましたが、まだよく分かっていなかったのです。

 

そしてしばらくの月日が流れました。ある日、私は所用があって渋谷駅に下車しました。駅前に出ると、一人のアメリカ人が道行く人々にパンフレットを配っていました。私も行きずりに渡されたので、眺めて見ると「私は日本の捕虜でした」と題してあり、一人のアメリカの軍曹の写真が掲載されてあったのです。

 それはかつて東京爆撃隊の爆撃手であった、J・デシーザーの入信手記でした。私の心は動きました。特にデシーザーが捕らわれて獄中で虐遇されているときに、彼はなぜ人間同士がこうも憎み合わなければならないのかと考え、「人類相互のこうした憎悪を真の兄弟愛に変えるキリストの教えというものについて、かつて聞いたことに心が向き、聖書を調べてみようという不思議な欲求にとらわれた」と言っていることばが、同じ心境にある私の心を捕らえたのでした。

 ひとつ、私も聖書を読んでみようと思い立ち、早速、聖書を買い求めて、あちらこちらとさぐり読みをしているうちに、ルカの福音書二十三章三十四節、「父よ、彼らを赦(ゆる)したまえ、その為(な)す所を知らざればなり」のところで、私はハッと、あのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいたのでした。

 これは十字架上からキリストが、自分に槍(やり)をつけようとする兵士たちのために、天の父なる神さまにささげたとりなしの祈りです。敵を赦しうる博愛、今こそ私はお嬢さんの話がはっきりと分かりました。斬られる前の、お父さんやお母さんの祈りに思い至ったのです。「神さま、いま日本軍隊の人々が私たちの首をはねようとするのですが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争など起こるから、このようなこともついてくるのです」私は目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬(ほお)を伝いました。私はゴルゴダの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直りました。その日、私はイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。


「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」
(Ⅱコリント五・一七)

 

 自分の敵を赦し、迫害する者のために祈ること、これが、神が私たちクリスチャンに求めておられることです。それはただ十字架の上で祈られたイエス・キリストの愛を知った者にしかできない祈りなのです。

 

 いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。ここにはそのために必要な二つのことが教えられています。もちろん、敵を赦し、迫害する者のための祈ることは、ただキリストの十字架の愛と赦しがなければ決してできません。その前提に立ちながら、ここにはそのためには二つの心が必要だと教えられているのです。その一つは15節にありますが、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」ということです。これはどういうことかというと、相手の身になって考えるということです。相手の身になって考える心からそうした敵をも赦す愛が生まれてくるのです。

 

 しかしどうでしょうか、泣く者といっしょに泣くことはできても、喜ぶ者といっしょに喜ぶことはなかなかできることではありません。悲しみの中にいる人とともに泣いてあげることはそれほど難しいことではありませんが、隣人がうまくいっているのを見て喜ぶことは意外と難しいものです。親のいない子どもたちをみてかわいそうに思ったり、身体に障害を抱えている人が、それに負けずに生きている人のドキュメントを観て涙を流すことはあっても、大きな祝福にあずかっている人を見て、心から喜ぶことは簡単なことではありません。

 

 人類最初の殺人事件はどうして起こったのでしょうか?それは妬みによってです。弟アベルのいけにえは神に受け入れられたのに、自分のいけにえが受け入れられなかったのを妬んだ兄のカインが、弟アベルを殺してしまったのです。それはカインだけのことではありません。私たちも他の人が祝福されているのを見るといっしょになって喜ぶどころか、嫉妬心を抱いてしまいます。。ですから、ここには喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしに泣きなさいとあるのです。兄弟姉妹の家族が祝福されるのを見て「ほんとうに良かったですね」と心から言ってあげられるとしたら、どんなにすばらしいでしょう。クリスチャンはひがんだり、妬んだりせずにいっしょに喜び、いっしょに悲しんであげられる。相手の身になって考えられることが大切です。そうした心が敵対する者をも祝福するという態度へとつながっていくのです。

 

 もう一つのことは16節にあります。ここには、「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」とあります。自分を誇りたい心、砕かれたくない心は誰にでもあります。自分をよく見せようと思えば、ついつい嘘をつくこともあるでしょう。ですからここには、「互いに一つ心になりなさい」と勧められているのです。英語の訳ではこれを「Live in Harmony」となっています。つまり、調和をもって生きなさいということです。どういう人が調和をもって生きられるのでしょうか。謙遜な人です。自分こそ知者だなどと思っていない人です。心が高ぶった人は、人と調和は持つことができません。自分こそ知者だなどと考えている人は、なかなか砕かれることができないのです。自己主張をして、相手を尻に敷くような毒のような言葉ばかり口にしてしまうので、すぐに調和が乱れてしまうのです。そういう人が行くところではどこでも平和が崩れてしまうのです。逆に自らを低くしへりくだった心で自分は知者ではないと思うならば、人々から認められ、愛され、平和に暮らすことができます。

 

ガラテヤ5:22-23には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」とあります。これらは御霊の実なのです。決して私たちの力や努力によって得られるものではありません。聖霊が私たちに注がれて初めて愛することができ、喜ぶことができ、平安を得ることができ、忍耐することができるのです。親切、善意、柔和、自制といった実を保つことができるのです。

 

 私たちの生まれながらの力では迫害する者を祝福したりすることはできません。私たちの力では自らを低くして、自分こそ知者だなどと思わない心を持つことはできないのです。ただ主の前にひざまずき、主が私のために十字架でご自身のいのちをささげてくださったほどに愛してくださったことを知って、初めてできることなのです。

 

 Ⅱ.すべての人と平和を保ちなさい(18)

 

  第二のことは、とはいうものの、こちらがどんなに努力しても相手の態度が一向に変わらない場合があります。そのようなときにはどうしたらいいのでしょうか。そのような時には、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことを求めなければならないということです。18節をご覧ください。ここには、「 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 

「自分に関する限り」とは、「自分に出来ることにおいては」という意味です。私たちがどれほど善意で接しても、私たちを悪く言ったり、敵対したり、悪口雑言を言ったりする人はいるものです。しかし、他の人がどうであろうとも、私たちは自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保とうとする姿勢が必要です。相手が悪意を持っていれば本当の平和を持つことは難しいですが、せめて自分に関する限り、自分に出来ることにおいては、平和を保つようにしなければなりません。これも実際の生活においては簡単なことではありません。私たちは日々の生活の中で平和が保てなくなったとき、「あの人が悪かったんだ」とすぐ人のせいにしたくなるからです。人はいつでもだれかのせいにしないと自分を保つことができません。しかし、そのような時でも、少なくとも、自分の中では平和を保つようにベストを尽くさなければなりません。

 

 ダビデはそうでした。ダビデは、サウルが妬みのゆえに自分を殺そうとしていても、自分からサウルに手を出すことはしませんでした。あるときサウルはダビデを追ってエン・ゲディの荒野に行きました。するとそこに洞穴があったので彼は用をたすためにその中に入って行くと、その洞穴の奥の方にダビデとその部下が座っていました。それはサウルを殺す絶好のチャンスでしたが、ダビデは立ち上がるとサウルの上着の裾をこっそりと切り取り、後にそれをサウルに見せてこう言いました。「わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着をよくご覧ください。あなたの上着の裾を切りましたが、あなたを殺しませんでした。それによって、私の手に悪も背きもないことを、お分かりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私のいのちを取ろうとねらっています。」(Ⅰサムエル24:11)

 サウルはダビデを殺そうとしていましたが、ダビデはサウルがどんな人でれ、主に油を注がれた方でからといって殺そうとしませんでした。自分に関する限り、自分にできることにおいては、平和を保つことを心掛けました。そのように私たちも自分に関するかぎり、すべての人と平和を保つことを心がけなければなりません。

 

 Ⅲ.神の怒りに任せなさい(19-20)

 

 最後に、19-20節をご覧ください。それでも一向に状態が改善せず、相手が悪意をもって向かって来る時、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。ここには、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」

とあります。

 

自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せるのです。もちろん私たちが不当な仕打ちを受けたり、間違ったことをされたりする場合は、公の機関に訴えることもできます。訴えた方がいい場合もあるかもしれません。しかし、それでも大切なことは、神様にゆだねることです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いる」と主は言われるからです。復讐は私たちがすることではありません。それは神様がなさることです。神様は正しくさばかれる方です。その神にさばきにゆだねなければならないのです。

 

 そればかりではありません。20節には、「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いたのなら飲ませよ。」とあります。「なぜなら、そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」とあります。飢えた敵に食べ物を与え、水を飲ませるというのは、愛とあわれみの対応です。どうせ言っても無駄だからと無視するのではなく、愛によって対応しなさいというのです。そうすることによって、彼の頭に燃える炭火を積むことになるからです。これはどういうことでしょうか?これは神のさばきを望むということではありません。これは敵に恥ずかしい思いをさせるという意味です。相手の悪い行為にもかかわらず、クリスチャンのあなたが親切をもって応対すれば、相手は良心にいたたまれないような痛みを覚え、恥ずかしい思いになるということです。何ということでしょう。これが、神が示してくださった勝利の道です。

 

 イエス様がご自分を十字架につけた人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたとき、その横にいた強盗が救われ、神の愛が立証されました。あのステパノが迫害され、殉教した時も、「彼らを赦してください」と祈ったとき、その祈りを通してパウロが救いに導かれ、傑出した異邦人の使徒となりました。旧約聖書に出てくるヨセフも自分をエジプトに売り渡した兄弟たちを赦し、神様はここに導かれたのですと告白したとき、彼は復讐したいという誘惑に打ち勝ち、勝利者としての人生を全うすることができました。私たちは祝福すべきであって、のろってはなりません。このみことばに生きるとき、私たちが神様から恵みをいただき、祝福に満たされた、勝利ある人生を送ることができるのです。

 

デズモンド・ムビロ・ツツは南アフリカの平和運動家であり、聖公会のケープタウン大主教でもあります。彼は反アパルト政策運動の指導者として1984年にノーベル平和賞を受賞しました。その彼が「赦しなしに平和ない」という著書の中で、このように逸話を紹介しています。

南アフリカでは、長期にわたって支配階級の白人と抑圧された黒人の紛争が絶えなかった。白人による支配が終わり、ネルソン・マンデラが大統領になった時、この国は、どのような未来像を描けば良いかという問題に直面した。私は友人たちと協力して、「真実と平和のための委員会」を設立した。その目的は、白人も黒人も委員会の前で過去に犯した罪や受けた傷を告白することであった。委員会はその先にあるゴールも示した。白人と黒人が赦し合い、和解することがゴールである。

白人も黒人も、委員会の場に出て自らの罪(暴行、殺人、テロ行為)を告白した。その内容はまるで地獄絵のようであった。その中で特に感動的なストーリーがあった。

カラタ夫人の夫は黒人活動家であったが、彼は何度も逮捕され拷問に会った。そして、ある日を境にその姿を消してしまった。新聞の一面に彼の車が燃えている写真が掲載された。カラタ夫人とその娘は委員会の前に出て、夫を殺害した犯人を見つけてほしいと泣きながら嘆願した。当時幼かった娘は、今では成人している。彼女は「私たちは犯人を赦したいのです。しかし誰を赦せばいいのか分からないのです。」と言った。

しばらくして、数人の警官が名乗り出た。カラタ夫人とその娘は、夫/父親を拷問して殺した犯人たちを赦した。なぜなら、それこそクリスチャンがなすべきことだからである。赦すということは、裁きを神にゆだねることである。神の代理者である私たちの使命は、憎しみの鎖を断ち切ることである。神がキリストにあって私たちを赦されたように、私たちも他の人たちを赦すのである。」

 

 これが十字架の道であり、祝福に満たされた勝利ある人生の秘訣です。この社会の中で、あるいは家庭の中で、私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。当然ながら、それは教会も例外ではありません。ここでは、クリスチャンではない人たちと平和を保ちなさいと教えていますが、これはどんな人間関係においても言えることです。それは、あなたがたを迫害する者たちを祝福するということです。祝福すべきであって、呪ってはいけません。喜んでいる人たちとともに喜び、泣いている人たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなければなりません。それでも解決しない時は、神の怒りにゆだねなければなりません。飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませなければなりません。そうすれば、あなたは彼の頭の上に燃える炭火を積むことになります。

 私たちは、自分に対して悪をもって向かってくる相手をなかなか赦すことができない者ですが、この十字架の原則に従って勝利する者でありたいと思います。だれに対してでも、悪に悪をもって報いることをせず、すべての人が良いと思うことをしていきましょう。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝たなければなりません。これが、聖書が私たちに教えている勝利の道なのです。