朝のこない夜はない エレミヤ書23章1~8節朝のこない夜はない 


聖書箇所:エレミヤ書23章1~8節(エレミヤ書講解説教43目)
タイトル:「朝のこない夜はない」
エレミヤ書23章に入ります。きょうは「朝のこない夜はない」というタイトルでお話します。これは、小説家の吉川英治(1892~1962)が言ったことばです。「朝のこない夜はない」、今日の箇所は、まさにこのことばに集約されるような内容です。
私たちはこれまでずっとエレミヤ書を学んできましたが、そのほとんどがさばきのメッセージで、とてもヘビーな内容でしたが、そんな中にも例外的に希望のメッセージが語られたことがあります。それは、3章16~18節の終わりの日の回復の預言です。そして今日の箇所にもその希望のメッセージが語られています。人間の力が尽きても、神にある希望がなくなることはありません。むしろ、万策尽きたところから、神の御業が始まると言ってもいいでしょう。預言者エレミヤはここでさばきのメッセージを語るだけでなく、神にある希望を語り、ご自身の民を励まします。朝のこない夜はありません。苦しい状況はいつまでも続くものではなく、いずれ必ず回復するのです。
Ⅰ.主の群れの残りの者(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。
「23:1 「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち──【主】のことば。」23:2 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、私の民を牧する牧者たちについてこう言われる。「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いを罰する──【主】のことば──。23:3 しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──【主】のことば。」
1節に「わたしの牧場の群れ」とあります。「わたしの牧場の群れ」とは、南ユダ王国の国民のことを指しています。その国民の上に立つのが「牧者たち」です。「牧者」というと今で言う教会の牧師のことを連想する方も多いのではないかと思いますが、もともとは指導者全般を表す言葉でした。文脈によってそれが王たちであったり、預言者や祭司たちといった霊的指導者であったりしますが、ここでは22章で取り上げた南ユダ王国の最後の4人の王たちのことを指しています。それは、エホアハズ、エホヤキム、エコンヤ(エホヤキン)、そしてゼデキヤのことです。彼らは主の羊の群れを守り、養なわなければならなかったのに、追い散らしていました。牧者が羊を養わなかったらどうなるでしょう。羊はやせ衰えて死んでしまいます。南ユダはそのような状態だったのです。
しかし、私たちの真の牧者であられる主イエスはその逆で、追い散らした群れの残りの者を集めてくださる方です。3節と4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。
「しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──主のことば。」
ここに「しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧者に帰らせる。」とあります。これが3章16~18節でも語られたいた希望のメッセージです。主は、ご自身の残りの者を、追い散らしてすべての地から集め、元の牧者に帰らせてくださいます。これは「残りの民」という思想です。これはエレミヤ書全体で19回使われています。英語では「remnant」(レムナント)と言いますが、神学用語になっています。これはどんなに罪深い社会にあっても、主は必ず残りの者を残しておられるという思想です。どんなに神に背き、神から離れ、腐敗した社会であっても、神の言葉に聞き従おうとする残りの者を残しておられるのです。
使徒の働き18章には、パウロがコリントで伝道した時の様子が記録されていますが、それは激しい迫害が伴いました。果たしてイエス様を信じる人がこの町にいるだろうかという不安と恐れの中にいたとき、主はある夜、幻によってパウロに語られました。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒18:9-10)
そこでパウロはそこに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けたところ、幾人かの人たちが信仰に入りました。これが「レムナント」、「残りの民」です。神はどんなにご自身に背いているような腐敗した社会であっても、神の言葉に聞き従おうとする残りの者を必ず残しておられるのです。
実際、このあとバビロンがやって来て南ユダは壊滅されてしまいます。住民は皆、バビロンへと引き連れて行かれていくわけですが、神様はその中にもわずかながらこの残りの者を残しておられました。70年間のバビロン捕囚の帰還が終わった時、そのわずかな残りの者が再びエルサレムに帰って来て、もう一度エルサレムを再建し始めるのです。それが3節にある預言です。エレミヤがこの預言を語った時はまだバビロンに捕えられ移されていませんでした。しかし、それは必ず起こるし、避けられないことでした。でもその70年後に主はその中の残りの者を再び集め、元の牧場に帰らせると約束してくださったのです。そこで彼らは多くの子を生んで増えるようになると。
皆さん、朝の来ない夜はありません。苦しい状況はいつまでも続くものではないのです。いずれ必ず好転します。人間の力が尽きても、神にある希望がなくなることはありません。むしろ、万策尽きたところから、神の御業が始まると言ってもいいくらいです。
実際、70年のバビロン捕囚後に約5万人がエルサレムに帰ることができました。バビロンに捕らえ移されたユダの民は約200万でしたから、それは本当にわずかな人たちでした。彼らはこの神のことばを信じていたので、エルサレムに帰り、神の都を再建しました。でも大抵の人たちは帰らないでバビロンに残りました。今さらエルサレムに帰っても意味がない。ここには家族もいれば、仕事もある。確かに生活は楽ではないが、何とかそれなりに生きて行くことが出来る。エルサレムに帰るよりもここにとどまっていた方がずっと良いと思ったのです。それが普通の考えかもしれません。でも、残りの者たちはそうではありませんでした。彼らはバビロンに築き上げたすべてのものを捨てて、神の約束を信じて、目に見える祝福ではなく、目に見えない永続する神の祝福を求めてエルサレムに帰って来たのです。
それは私たちも同じです。私たちは約束の地を受け継ぐようにと神によって選ばれた残りの者です。そんな残りの者に求められていることは、アブラハムが神から召しを受けたとき、どこに行くのかもわからなくても信仰によって出て行ったように、彼は神の約束を信じて、目に見える祝福ではなく、目に見えない永続する神の祝福を求めて出て行くことです。

Ⅱ.主は私たちの義 (5-6)
次に、5~6節をご覧ください。しかし、祝福の預言はそこで終わっていません。さらにその先のことが語られます。 「23:5 見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。23:6 彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『【主】は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である。」
「見よ、その時代が来る。」これは預言書の中のキーワードの一つです。「その日」とか「その時代」とは、世の終わりの時を指し示している言葉です。そのとき、主はダビデに一つの正しい若枝を起こします。これは、ダビデ王家に正しい王を起こすということです。これまでの王たちは、ダビデ王家の血筋を持ちながらも正しくありませんでした。彼らは公正と正義を行わないで、自分のやりたい放題、好き勝手に振る舞っていました。
しかし、世の終わりに来られる真の王は、この地に公正と正義をもたらされます。6節にあるように、彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住むようになるのです。その方は「主は私たちの義」と呼ばれます。その名はエホアハズではありません。エホヤキムでもない。エホヤキンでもなく、ゼデキヤでもありません。その名は、「主は私たちの義」です。この王は、公正と正義を行い、ありとあらゆる腐敗を是正されるのです。そのお方とは誰でしょう。そのお方こそやがて来られるメシヤ、救い主イエス・キリストです。そうです、ですからこれはメシヤ、救い主イエス・キリストがやって来られることを預言していたのです。5節に「ダビデに一つの正しい若枝を起こす」とありますが、これもそうです。これもやがて来られる救い主のお名前です。その名は「正しい若枝」です。これもイエス・キリストのことを預言していました。世の終わりに主はダビデの家系から一つの正しい若枝を起こし、彼が王となって治め、栄えて、この地に公正と正義を行うのです。その時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住むようになります。そのお方は「主は私たちの義」と呼ばれるようになります。そのお方とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは、「主は私たちの義」と呼ばれるようになるのです。
キリスト教に異端と呼ばれるグループがありますが、その一つにエホバの証人というグループがあります。そのエホバの証人にとってこれは都合の悪い箇所です。というのは、エホバの証人は、主とは父なる神のことだと考えているからです。しかし、ここでは明らかにこの「主」(ヤハウェ)とはやがて来られるメシヤ、救い主、すなわちイエス・キリストのことを指して言われているからです。そのイエス・キリストがここでは「主」「ヤハウェ」と言われています。エホバとヤハウェは同じです。そして、この「一つの正しい若枝」とはエホバではなくイエス・キリストのことであり、そのイエス・キリストが「主」、「エホバ」、「ヤハウェ」と呼ばれているのです。「主は私たちの義」、「エホバは私たちの義」だと。
皆さん、主が私たちの義です。私たちが義なのではありません。義なるお方は主イエス・キリストなのです。イザヤ64章6節にこうあります。「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」
皆さん、私たちはみな、汚れた者のようです。私たちの義、私たちの義、私たちの行いはみな、不潔な衣のようなのです。神様の目にはそのようでしかありません。ローマ3章10~12節にはこうあります。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」 義人はいない。一人もいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となりました。でも、主が私たちの義となってくださるのです。
Ⅱコリント5章21節を開いてください。ここにこうあります。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
アーメン!神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。これが良い知らせです。グッド・ニュースです。私たちの義は、神の目には不潔な着物でしかありませんが、神は私たちをイエス・キリストにあって義としてくださいます。ですから、ローマ8章1節にこのように約束されているのです。 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
アーメン!すばらしいですね。私たちの罪が罪のない方、イエス・キリストに転嫁されたので、私たちの罪は贖われて罪のない者とされました。罪が贖われるために必要なのは罪のない方の代価ですが、この地上にはそんな人など一人もいませんから絶望しかありませんが、しかしキリストは違います。イエス・キリストは人となられた神であり、全く罪のない方ですから罪を贖うことができるのです。私たちの罪を贖うことができるのは、ただ一人、人となられた神、イエス・キリストだけです。イエス・キリストだけがあなたの罪を贖うことができます。だから、聖書はこう言っているのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
  私たちは、このイエス・キリストによって神の義とされました。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。今、私たちは神の目には義と認められました。私たちがどんなに汚れていても、このイエス・キリストによって聖なる聖なる聖なる神の御前に立つことができるのです。主イエス・キリストが罪を贖ってくださったから。主は私たちの義であられる方なのです。
ところで、この預言は、最終的には終末の時代にイエス・キリストの再臨によって成就するものです。今から二千年前にキリストは救い主として到来しましたが、これはその時のことではなく、私たちもまだ経験していないキリストの再臨の時に成就することです。英語では、二千年前の到来をFirst Comingと言い、世の終わりの再臨をSecond Comingと言います。このSecond Comingによって成就する預言です。イエス・キリストは、今から二千年前に私たちを罪から救う救い主としてこの世に来られましたが、世の終わりには、この世をさばくために来られるのです。腐敗していた南ユダを裁くために神がご介入されたように、この世の終わりにも、腐敗したこの世界を裁くためにご介入されるのです。具体的には、王の王、主の主と呼ばれるキリストが来られて、神の国をこの地上に樹立してくださいます。それが千年王国と呼ばれているものです。主は再びこの世に来られるとき、すべての悪を一掃され、悪によって壊滅状態になってしまった地球をあの天地創造の時のように再創造されるのです。この地球全体があのエデンの園のように回復するのです。そして私たちはキリストとともにこの地球を千年間治めるようになるのです。復活のからだをもって。これが私たちの真の希望です。やがてその時がやって来ます。今はイエス様を信じて罪が贖われ、神に義と認められましたが、この世にあっては患難があります。不条理なこと、理不尽なことがあって、悩みは尽きないわけですが、やがてダビデの王家から出る一つの正しい若枝によって、すべてが正しくさばかれる時がやって来ます。それが私たちの真の希望です。私たちはここに希望を置かなければなりません。そして、この地上での様々な問題をただしく裁かれる主にゆだね、主が私たちの義となってくださったことを感謝し、この主にすべてをお委ねしたいと思うのです。
Ⅲ.ここに希望を置いて(7-8)
ですから、第三のことは、ここに希望を置きましょうということです。7節と8節をご覧ください。「23:7 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた【主】は生きておられる』と言うことはなく、23:8 『イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた【主】は、生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。ここには、そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる」ということはなく、「イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられる」と言って、自分たちの土地に住むようになります。どういうことでしょうか。
これは、16章14節、15節で語られたことと同じ内容です。出エジプトの出来事は、エレミヤの時代から遡ること900年も前の出来事ですが、それはイスラエルがエジプトの支配から解放されたすばらしい主の御業です。それはイスラエルの歴史においては偉大な神の救いの御業を語る象徴的な出来事で、イスラエルはこの出来事を忘れることがないように過越の祭りを祝うことによってその子孫に語り伝えてきました。それは、イスラエルの歴史における最大の出来事と言っても良いでしょう、その出エジプトの出来事が、そのときには、もはや人々は、主は生きておられるということはないというのです。なぜなら、もっとすばらしい主の御業が行われるからです。それが第二の出エジプトと言われるバビロン捕囚からの解放です。この「北の地」はそのバビロンのことを指しています。北海道のことではありません。そのバビロンからの解放の御業があまりにもすばらしいので、そのとき、もはや人々は、イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる」ということはなく、イスラエルの末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられると言って、自分たちの土地に住むようになるというのです。
しかし、実はこれはバビロン捕囚からの解放の預言だけでなく、今も、またこれからも、最終的には終末において起こることの預言でもあります。実際に、今も世界中に散らされているユダヤ人が祖国イスラエルに帰還しています。A.D.70年にローマの将軍ティトスによって破壊され、世界中に散らされたユダヤ人は、この預言の通り、散らされたすべての地から彼らを上らせ、何と1948を年にイスラエル共和国として独立を果たしました。考えられないことです。1900年もの間流浪の民として世界中に散らされていたユダヤ人が、ユダヤ人というアイデンテティーを失うことなく守られ、自分たちの土地に戻ってくるようになるなんて考えられません。でも、神はご自分が語られた通りにしてくださいました。そしてそれは今も続いています。今も毎年毎年大勢のユダヤ人が世界中から自分たちの土地、約束の地に帰還しているのです。ということはどういうことかというと、今は世の終わりに限りなく近いということです。もうすぐそこまで世の終わりが来ています。そして、神が語られたことは100%成就するということです。バビロン捕囚から帰還して自分たちの土地に住むようになると約束してくださった主は、遠い未来においても、この約束を成就してくださるということです。つまり私たちの神は、このユダの民をバビロンから解放したように、あなたにも解放の御業を成してくださるということです。
中には、そんなことが私の人生に起こるはずがない、考えておられるかもしれません。ほとんどの人がそう思っているかもしれない。それは聖書の話であって、遠い中東で起こった昔ばなしにすぎないと思っているかもしれません。でもそうではありません。聖書の神は同じ神です。いつまでも変わることのない永遠の神です。出エジプトの時代にイスラエルをエジプトから解放してくださった神は、今も同じ御業を行ってくださいます。バビロン捕囚から解放してくださった神は、今も同じ御業を行ってくださるのです。さすがに現代には神様をもってしても解決できない問題がある。これは複雑すぎるだろうと考えておられるかもしれませんが、バビロンから解放してくださった主は、今も同じ力をもって働いておられるのです。あなたは、あまりにも神を過小評価しすぎています。イスラエルをエジプトから救い出された神は、あなたにも出エジプトさせることができます。イスラエルをバビロンから解放してくださった神は、あなたを縛るあらゆる問題からも解放することができるのです。もしあなたが神に叫ぶなら、神はあなたの叫びに耳を傾けてくださり、第二のモーセと言われるイエス・キリストをあなたのために解放者として立ててくださるのです。イエス・キリストによって私たちは、今も救われ続けるのです。イエス・キリストによってあなたも出エジプトできるようにしてくださるのです。
イスラエルの民は、神の小羊として過越しの小羊の血をほふり、それを家のかもいと門柱に塗ることで神のさばきを免れて出エジプトが出来ました。同じように、あなたがあなたの心に子羊なるキリストの血を塗るなら、あなたも神の裁きを免れて、出エジプトすることができるのです。エジプトを出て救われ、神の助けをいただいて、約束の地へと導き入れられるのです。そしてそこで、私たちをそこへ上らせた主は生きておられると言って主をほめたたえ、その土地に住むようになるのです。それはイスラエルという約束の地よりもはるかにすばらしい、乳と蜜の流れる本当に素晴らしい神の国です。その神の国へと導かれて行くのです。ハレルヤ!
これはファンタジーでも何でもありません。これは聖書の預言であり、神の約束です。かつてイスラエルの歴史に起こった出エジプトの出来事、バビロン捕囚からの解放という出来事は、歴史の事実です。その事実は、私たちの救いの物語のひな型になっているということです。来るべき救い主のひな型になっています。来るべき救い主はどのようなお方なのか、どのようにして私たちを罪の奴隷から解放して約束の地に導いてくださるのか、そのひな型となっているのです。そして、それが聖書の中に預言されていて100%その通りに成就したということは、これから先のことにおいても成就するということ、実現するということを物語っているのです。私たちはやがて聖書にある通りにイエス・キリストが再臨されるそのとき、死者の中からよみがえり、あるいは、まだ死なないで地上に生き残っているなら、そのまま空中に挙げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。これが私たちの慰めであり、真の希望です。たとえこの世がどんなに暗くても、私たちには、このような希望の光が与えられているのです。
「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)
「これらのことば」こそ、やがて来るべきキリストの再臨のことです。これらのことばが私たちの真の希望です。これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。これらのことばから目を離さないようにしましょう。やみの中に輝いている真の希望をもって、この世の終わりの時代を生きて行きましょう。ここに真の慰めと希望があるからです。