士師記1章

士師記1章

 今回から士師記の学びに入ります。士師記は「ヨシュアの死後」から始まります。そしてサムエルが没するまでの約300年間(B.C.1381-1050)、イスラエルの民がどのような歩みをしていたのかの歴史が記されてあります。

「士師」とは、「さばきつかさ」のことです。それは一言でいえばイスラエルの指導者のことです。イスラエルが敵によって苦しめられているとき、軍事的指導者として戦い、また行政的にも司法的にも指導的役割を果たしました。

 Ⅰ.アドニ・ベゼク(1-21)

 それでは、早速1章を見ていきたいと思います。まず1節から21節までをご覧ください。まず7節までをお読みします。「1 ヨシュアの死後、イスラエルの子らは【主】に尋ねた。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」2 すると、【主】は言われた。「ユダが上って行くべきである。見よ、わたしはその地を彼の手に渡した。」3 ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私と一緒に、私に割り当てられた地に上ってください。私たちはカナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地に一緒に行きます。」そこでシメオンは彼と一緒に行った。4 ユダが上って行くと、【主】はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を討ち取った。5 彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会い、彼と戦ってカナン人とペリジ人を討った。6 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らは後を追って捕らえ、その両手両足の親指を切り落とした。7 アドニ・ベゼクは言った。「かつて、両手両足の親指を切り落とされた七十人の王たちが、私の食卓の下でパン屑を拾い集めていたものだ。私がしたとおりに、神は私に報いを返された。」彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行き、彼はそこで死んだ。」

ヨシュアの死後、イスラエル人は主に尋ねました。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」
なぜイスラエル人はこのように主に尋ねたのでしょうか。イスラエルには、まだ占領すべき地が残っていたからです。イスラエルはカナン人と戦って勝利し、既にヨシュアによってその地の割り当て地が与えられていましたが、完全に占領していたというわけではなく、まだ占領すべき地が残っていたのです。ヨシュア記13章1節には「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」とあります。神の約束にしたがって、確かにヨシュアはその地を自分たちのものにすることができましたが、それでもなお占領すべき地は残っていたのです。ですから、ヨシュアが死んだ後も彼らは戦い続けなければならなかったのです。

「すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。」」ユダ族はカレブによって導かれた最も勇敢な部族です。ですから、上って行ってその地の住民と戦うのに最もふさわしい部族だったのでしょう。それでユダは兄弟シメオンと一緒に上って行きました。シメオン族はユダ族に吸収されるかのように、ユダ族の中に割り当て地を受けていたので、ユダとしては兄弟の中でも特に親しみを感じていたのでしょう。兄弟の中の兄弟という感覚があったに違いありません。

それで彼らが上って行くと、主がカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らは1万人を討ちました。ベゼクとは、マナセ族の領地のちょうど真ん中ぐらいにある町です。すなわちユダとシメオンは北上してこの町の王アドニ・ベゼグと戦ったのです。そして、そこに住んでいたカナン人とペリジ人を討ったのです。

ところが、その時アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らは後を追って捕らえ、その両手両足の親指を切り落としました。これは何とも残虐な行為のようですが、相手を戦うことができないよう状態にしたということです。手の親指がなければ剣を持って戦うことができないし、足の親指がなければ、体全体のバランスをとることができず、立って歩くこともできません。結局彼はエルサレムに連れて行かれて死にました。

その時彼が言ったことばに注目してください。7節です。彼は「私がしたとおりに、神は私に報いを返された」と言いました。かつて自分が行なった罪深い行為の報いを受けていると思ったのです。かつて70人の王たちにした報いを受けて、自分の同じようにされていると思いました。確かに神は人の悪を憎まれます。そしてその悪に対して正しく報いを与えられます。しかし、もし彼が神は愛と憐れみの満ちておられる方であると知っていたら、同じ状況になっても違うことを言ったのではないでしょうか。「神様、私は罪人です、私の罪を許して下さい。私の両手両足の親指が失われた事は自業自得です。でも、私の人生はあなたのものですし、あなたが始められたのですから、たとえ人が私の親指を奪い去っても、あなたの愛と計画を持ち去ることは出来ないでしょう。あなたはきっと私の人生を癒して生き返らせて下さいます。どうか私を助けて下さい。」その時、彼の指は回復しなかったとしても彼の霊的な手足は回復して、失意から希望に変えられたに違いありません。私たちも自業自得というようなことがよくありますが、それでも神は愛と憐みに満ちた方であると信じて、この神の前にへりくだり、神のあわれみを受ける者でありたいと思います。

次に8節から15節までをご覧ください。「8 ユダ族は、エルサレムを攻めてこれを取り、剣の刃で討って町に火を放った。9 その後、ユダ族は、山地やネゲブやシェフェラに住んでいるカナン人と戦うために下って行った。10 ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを討った。11 彼らは、そこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は、かつてはキルヤテ・セフェルであった。12 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを討って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」13 カレブの同族ケナズの子オテニエルがそれを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。14 嫁ぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるよう、しきりに促した。彼女がろばから降りると、カレブは「何が欲しいのか」と彼女に言った。15 アクサは彼に言った。「どうか私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧き水を下さい。」そこでカレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。」

その後、ユダ族はエルサレムを攻めてこれを取りました。そこにはエブス人という強力な敵がいましたが、そこも攻め取りました。その後彼らは南下して、山地やネゲブやシェフェラに住んでいたカナン人を攻めました。ネゲブとは砂漠地帯、シェフェラとは山地と平地の間の丘陵地帯、すなわち、低地のことです。ですからこれは、ユダ族が山地と低地と砂漠地帯一体で戦いを繰り広げたということです。そしてヘブロンに住んでいたカナン人も攻めました。ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバと言います。ヨシュア記14章15節には、このアルバという人物はアナク人の中で最も偉大な人物であったとあります。そのアルバの三人の息子シェシャイとアヒマンとタルマイが住んでいましたが、それも攻めて討ちました。

しかし、そんなカレブでしたが、かなり厳しい戦いを強いられました。それはキルヤテ・セフェルとの戦いです。その戦いにおいてカレブはこう言いました。「キルヤテ・セフェルを討って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」(12)と言って、自分の娘を褒美として与えてまでもこの地を攻め取ろうとしたのです。そのとき手を上げたのがケナズの子オテニエルでした。彼はこのキルヤテ・セフェルを攻め取ったので、カレブは彼に自分の娘のアクサを妻として与えました。

彼女が嫁ぐとき、彼女は夫に畑を求めるようにしきりに促すも、彼女が求めたものは湧き水でした。それでカレブは彼女に、上の泉と下の泉を与えました。どうして彼女は畑ではなく湧き水を求めたのでしょうか。それは15節にあるように、そこがネゲブの地、すなわち、砂漠地帯だったからです。どんなに畑を求めてもその畑を耕して収穫を得るためには水が必要です。それでアクサは湧き水を求めたのです。カレブは娘のこの要求を非常に喜び、上の泉だけでなく下の泉も与えました。この泉とはため池のことです。ため池は、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などでは農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう、人工的に造成されました。カレブはこの泉を与えたのです。

これは私たちの信仰生活においてとても重要なことです。すなわち、私たちには土地が必要ですが、収穫のためにはより根源的なものが必要であるということです。ではより根源的なものとは何でしょうか。それが泉なのです。とかく私たちは表面的なものに関心が向き、それを求めがちですがもっと重要なのはより本質的なもの、より根源的なものです。それは、祈りとみことばであり、そこから湧き出てくる神のいのち、聖霊の満たしです。私たちがまず求めなければならないものはこの神の国とその義であって、そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられ、神の御業があらわされるようになります。そうでないと、私たちの信仰は極めて表面的で、薄っぺらなものになってしまいます。そして人間としての本来の在り方というものを失ってしまうことになってしまうことになります。そのようにならないように、私たちはいつも私たちの中に祈りの祭壇を築き、神のいのちに満ち溢れることを求めていかなければなりません。

次に16節から21節までをご覧ください。「16 モーセのしゅうとがその一族であるケニ人たちは、ユダ族と一緒に、なつめ椰子の町からアラドの南にあるユダの荒野に上って行き、そこの民とともに住んだ。17 ユダは兄弟シメオンと一緒に行って、ツェファテに住んでいたカナン人を討ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。18 ユダは、ガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。19 【主】がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、平地の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払えなかった。20 モーセが約束したとおり、ヘブロンはカレブに与えられ、カレブはそこからアナクの三人の息子を追い払った。21 エルサレムに住んでいるエブス人に関しては、ベニヤミン族がこれを追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族とともにエルサレムに住んでいる。」

モーセは、ミデヤンの祭司イテロのところに住み、そこでチッポラを妻としました。ですからモーセにはイテロの息子たちである義兄弟がいたのです。それがケニ人です。そのケニ人の子孫がユダ族といっしょになつめやしの町からアラドの南にある荒野に上って行き、そこの民とともに住みました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。エリコから南にあるユダの荒野に上って行きました。彼らにとって荒野の方が住みやすかったのでしょう。

ユダ族の快進撃は続きます。今度は兄弟シメオンと一緒に行って、ツェファテに住んでいたカナン人を討ち、そこを聖絶しました。さらにアシュケロンとその地域、エクロンとその地域も攻め取りました。このアシュケロン、エクロンは海岸地域です。後にペリシテ人が住むようになる土地です。ですから、彼らはかなり広範囲にわたって攻め取ったことがわかります。どうしてこのように広範囲にわたって攻め取ることができたのでしょうか。それは主がともにおられたからです。主がともにおられたので、ユダは山地を占領することができました。しかし、平地の住民は追い出すことができませんでした。鉄の戦車を持っていたからです。けれども、それは理由になりません。主がともにおられるのであれば、たとえ敵が鉄の戦車を持っていても何の問題もないからです。それなのに追い出すことができなかったのは、神の約束よりもその置かれた状況を見て恐れたからです。主ご自身よりも鉄の戦車の方が大きくなってしまったのです。主ご自身がともにおられその敵と戦われるのですから、彼らにとって必要だったのはただ主に聞き従うことだったのです。それなのに彼らは敵の戦車を見て恐れてしまいました。ユダは完全に聞き従わなかったのです。

このようなことが私たちにもあります。主に従ってはいるけれども中途半端な従い方をしてしまうということが・・・。私たちは、自分で克服できる問題には信仰をもって対処しますが、克服できないと思うことに対しては逃げてしまうことがあるのです。ちょうど「鉄の戦車があるから」という言い訳をしてしまうのです。けれども、このように信仰において妥協があると、最終的に肉が共存し、自分自身を苦しめてしまうことになってしまいます。

21節をご覧ください。それはベニヤミン族も同じでした。ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住むようになりました。エルサレムも、谷にいた住民のように、地形的に敵が入り込めないようになっており、自然の要塞となっていました。けれども、それでエブス人を倒すことができないという言い訳にはなりません。彼らには全能の主がついておられたのですから。実際に後にダビデがエブス人と戦うようになりますが、その時まで何百年も本当は攻略することができたのに攻略せず、戦いを先延ばしにしていただけなのです。私たちは逃げることはできません。ただ前進して戦うのみです。主がともにおられるなら、主が勝利を与えてくださいます。それを信じて前進するかどうかです。鉄の戦車を見ておびえてはなりません。難攻不落の要塞を見てあきらめてはならないのです。主が戦ってくださることを信じて、主の命令に従って前進しなければならないのです。

Ⅱ.ヨセフの一族によるべテル奪回(22-26)

次に22節から26節までご覧ください。ここにはヨセフ一族によるベテルの奪回のことが記されてあります。「22 ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。【主】は彼らとともにおられた。23 ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は、かつてはルズであった。24 見張りの者たちは、その町から出て来た人を見て言った。「この町に入るところを教えてほしい。そうすれば私たちも、あなたに誠意を尽くすから。」25 彼が町の出入り口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を討った。しかし、その人とその氏族の者はみな自由にしてやった。26 その人はヒッタイト人の地に行って町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。」

「ヨセフの一族」とは、マナセ族とエフライム族のことです。彼らはベテルに上って行きました。ベテルはエルサレムの北19キロに位置し、ベツレヘムとエフライムの境にある町です。以前は、ルズと呼ばれていました。しかし、ヤコブが兄エサウのもとから逃れてハランに住む叔父ラバンのもとへ向かう途中ここで天からのはしごの夢を見たことで、ここをベテル、「神の家」と呼ぶようになりました。かつてアブラハムもネゲブに向かう途中でこのベテルに滞在して、祭壇を築きました。そういう意味ではとても霊的に重要な町です。

ヨセフ一族はこのベテルを攻略するにあたりその町を探るも、なかなか攻略の糸口が見つかりませんでした。そこで彼らはその町から出てきた人を見て、「この町に入るところを教えてほしい。」と言います。「そうすれば私たちも、あなたに誠意を尽くすから。」と。かつてイスラエルがエリコを攻略した際にラハブにしたように、です。するとその人は町の出入り口を教えてくれたので、彼らは剣の刃でこの町を討ちました。しかし、教えてくれたその人とその氏族の者はみな約束したとおり自由にしてやりました。自由になったその人はどうしたかというと、ヒッタイト人の地に行って町を建て、その町をルズと呼びました。

Ⅲ.カナン人を追い払い得なかった村落のリスト(27-36)

最後に27節から36節までを見て終わりたいと思います。ここにはマナセ、エフライム、ゼブルン、アシェル、ナフタリ、ダンといったカナンの中部と北部に定住した部族がカナン人を追い払わなかった村落のリストが記されてあります。

まずマナセ部族です。27節と28節をご覧ください。「27 マナセは、ベテ・シェアンとそれに属する村々、タアナクとそれに属する村々、ドルの住民とそれに属する村々、イブレアムの住民とそれに属する村々、メギドの住民とそれに属する村々は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住み続けた。28 イスラエルは強くなったとき、カナン人を苦役に服させたが、彼らを完全に追い払うことはしなかった。」

エフライムも同じです。29節です。「29 エフライムはゲゼルの住民であるカナン人を追い払わなかったので、カナン人はゲゼルで彼らのただ中に住んだ。」
マナセとエフライムはカナン人を苦役に服させましたが、完全に追い払うことをしませんでした。苦役に服させるのと追い払うのでは大きな違いがあります。私たちは、肉を十字架につけて殺してしまわなければいけません。それなのに、その肉をそのままにして表面的に対処しようとすると、それが共存して逆にそれによって悩まされることになってしまうのです。彼らはいつもこうした弱さがありました。ヨシュア記17章16節にも、かつてヨシュアがマナセとエフライムに「戦いなさい」と鼓舞したのに、彼らはヨシュアにこういう言い訳をしました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(ヨシュア17:16)」
鉄の戦車が問題なのではありません。問題はだれとともに戦うのかということです。主が共に戦ってくださるのであれば何の問題でもありません。しかし、彼らは自分たちにできるかできないかを計算することで、信仰によって踏み出すことをしませんでした。

次はゼブルンです。30節には、彼らはキテロンの住民とナハロルの住民を追い払わなかったので、カナン人は彼らのただ中に住み、苦役に服しました。

次はアシェルです31,32節をご覧ください。彼らもアッコの住民やシドンの住民などを追い払わなかったので、その土地の住民の中に住みました。ここではカナン人が彼らの中に住んだのではなく、彼らがカナン人の中に住んだとあります。霊と肉が逆転しています。追い払うことをしないと支配していると思っていても、逆に支配されるようになってしまいます。

次はナフタリです。33節です。彼らもベテ・シェメェシュの住民やベテ・アナトの住民を追い払わなかったので、その土地に住むカナン人の中に住みました。

最後はダン族です。34節から36節です。「34 アモリ人はダン族を山地に追いつめ、平地に下りることを許さなかった。35 こうしてアモリ人は、ハル・ヘレス、アヤロン、そしてシャアルビムに住み続けたが、ヨセフの一族が勢力を増すと、彼らは苦役に服した。36 アモリ人の領地は、アクラビムの坂からセラを経た上の方であった。」
ダン族がもっとも状況がひどいです。彼らは自分たちの割り当て地に住むことさえできませんでした。追い払うのではなく、追い払われてしまいました。ヨセフの一族とはエフライム族のことです。彼らが強くなったとき、エモリ人を苦役に服させました。

モーセ(申命記7章)とヨシュア(ヨシュア記23章)の警告を聞き入れなかった結果が、この士師記の種々のエピソードにつながっていきます。どんなに自分の目で良いと思えることでもそれが神の命令にかなったものでなければ、神に従うべきです。「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(ヨシュア23:11)とヨシュアは警告したが、真に、私たちは自らの霊性を守る歩みが求められています。そのことに気づかされ、この世の倫理、この世の考え方に流されず、それらを超えた聖書の教えに立つことができるように、祈り歩ませていただきましょう。