ヨシュア記6章

2023年1月11日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:ヨシュア記6章

 

きょうはヨシュア記6章から学びたいと思います。

 

 Ⅰ.城壁がくずれるために(1-11)

 

 まず1~11節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「1 エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。2 主はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」

 

主の奇跡的な御業によってヨルダン渡河を果たしたイスラエルは、まず割礼を施し、過越しのいけにえをささげました。それからヨシュアがエリコの近くにいたとき、抜き身の剣を手にした主の軍の将から、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」(5:15)と命じられ、ヨシュアはそのようにしました。すなわち、彼は主の御前に自らを明け渡し、主の命じられることに従っていく決心をしたのです。そして、カナンの地の占領に向けて突き進んで行きます。

 

その最初の取り組みは、エリコの町を攻略することでした。エリコの町はパレスチナ最古の町と言われており、その町はパレスチナの主要都市であっただけでなくパレスチナにおける交通の要所であり、軍事的にも重要な拠点でした。ですから、このエリコの町を攻略することができるかどうかは、その後のヨシュアの戦いにとって極めて重要なことでした。

 

しかし、1節に「エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。」とあるように、周囲には高い城壁が巡らされておりだれひとり出入りすることができない難攻不落の町でした。この難攻不落の要塞を前にしてヨシュアは早くも壁にぶち当たり、悩んでいたのではないかと思います。

 

そのような時主がヨシュアに語られました。2節です。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。」

ここで注目していただきたいのは、主がヨシュアに、エリコとその王、および勇士たちをあなたの手に渡したと、完了形で言われたことです。まだ起こっていない未来のことが、もう既に彼の手に渡っているということです。このことは、私たちの信仰生活において極めて重要なことを示しています。それは、たとえそれがまだ起こっていない未来のことであっても、神の約束の言葉があれば必ず成就するということです。すなわち、たとえそれが未来のことであっても完了形となるのです。ですから、私たちは何かを始めていくときまず主の前に祈り、主から約束の言葉をいただいてから始めていくことが重要です。

 

以前、礼拝後にM神学生を招聘することについて祈りと話し合いが持たれました。教会の将来のことを考えるとどうしても若い働き人が必要なことは明らかですが、経済的状況をみるとそれはとても不可能なことのように思えました。しかし、みことばを読めば読むほど神のみここはどこにあるのだろうかと祈らされるようになりました。その一つがこのヨシュア記3章にあるヨルダン川渡河の出来事でした。イスラエルの民はどのようにしてヨルダン川を渡ることができたのでしょうか。それはヨルダン川の水がせき止められたので渡ったのではなく、契約の箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、ヨルダン川の水が完全にせきとめられたので、彼らはその乾いたところを渡ることができたのです。状況的には完全に不可能なことのようでしたが、神のみこころは状況を見ることではなく、神のみことばに聞き従うことだったのです。そのとき、主の御業がなされました。ですから、私たちはまず神のみこころは何かを祈り、それに従うことが求められるのです。結局、その後にか月間祈り求めていくことになり、最終的にO教会の牧師に着任することになりました。

 

ところで、主はどのようにしてエリコの町を彼らの手に渡されたのでしょうか。次に、3~5節までをご覧ください。「3 あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。4 七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」」

 

ここで主は、大変不思議なことをヨシュアに言われました。戦士はみな町のまわりを回れ、というのです。町の周囲を一周し、それを六日間続けます。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進みます。そして七日目には、町の周囲を七回周り、祭司たちは角笛を吹き鳴らすのです。そして祭司たちが長く吹き鳴らす角笛の音を聞いたなら、民はみな大声でときの声をあげよ、というのです。そうすれば、城壁が崩れ落ちると。崩れ落ちたら、民はそれぞれまっすぐ攻め上らなければなりませんでした。

これは全く軍事的な行動ではありません。宗教的行為です。こんなことをして一体どうなるというのでしょうか。途中で敵がそれに気づいて襲ってくるかもしれないし、襲って来なくても、その行動を見てあざ笑うことでしょう。いったいなぜ、主はこのような命令を出されたのでしょうか。それは、彼らが自分たちの考えではなく神のみこころに徹底的に従うなら、神が勝利を与えてくださるということを示すためでした。

 

イザヤ55章8~9節には、このようにあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─主の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

私たちの思いと神の思いとは異なります。私たちがどんなに愚かな知恵を絞って、ああでもない、こうでもないと話し合っても、結局は複雑な迷路に落ち込み不信仰に落ち込んでいくだけですが、しかし人知をはるかに超えた神の知恵に自分自身をゆだね、あるいはその問題をゆだねるなら、そこに不思議な神の御業が現されるのです。

 

今から5年前、妻がこれまで13年間働いてきたさくら市の小学校を突然解雇されました。次年度からは担任の先生が英語を教えるようにしたいという教育委員会の方針が変わったからということでした。それにしても長年働き、来年もお願いしたいと言われていたのにどうして急に話が変わったのか、当初はなかなか受け止められませんでした。自分たちの生活を考えると、もう少し働く必要があったからです。その時、では大田原市の教育委員会に聞いてみようと電話したところ、ちょうど一人のALTが欠員になってしまったのでお願いしたいということになり、大田原の教育委員会で働くことになりました。それは3月に入ってからのことだったので考えられないことでしたが、神様は私たちをあわれんでくださり、その道を開いてくださったのです。

そればかりではありません。さくら市の小学校を解雇されたお陰で、これまでできなかった小学生への伝道ができるようになりました。教会でサマー・イングリッシュ・デイ・キャンプを行うことになったとき、それを小学校で配ることができたのです。以前働いていた小学校の教頭先生にお願いしたところ、「どうぞ配ってください」と快く了承してくれただけでなく、「たくさん集まるといいですね。」と後でお電話までくださいました。するとその翌日から申し込みが相次ぎ、結局その年のキャンプには66人の参加申込があったのです。

それを見て、私は「はっ」としました。妻が小学校を解雇されたのはこのためだったのかと思ったからです。もしそこに留まっていれば妻の写真が載ったチラシを学校で配ることはできなかったでしょう。しかしそこを完全に辞め、しかもよく知っている先生方がおられたので、むしろ効果的にチラシを配布することができました。まさに私たちの思いと神の思いとは異なり、神の道は完全であるということを実感させられました。

 

ですから、それがたとえ私たちに理解できないことであっても、あるいは、敵にあざけられるようなことであっても、主が命じておられるのであれば、そのみことばに従わなければなりません。特に、ここには「七」という数字が強調されていることに注目してください。エリコの町を七日間回ること、七日目には七度回ること、七人の祭司、七つの雄羊の角笛と「七」が強調されているのは、これが完全な神の御業としてなされることが強調されているのです。

 

それに対してヨシュアはどうしたでしょうか。6~11節をご覧ください。「6 ヌンの子ヨシュアは祭司たちに呼びかけた。「契約の箱を担ぎなさい。七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を持ち、主の箱の前を進みなさい。」7 そして民に言った。「進んで行き、町の周りを回りなさい。武装した者たちは主の箱の前を進みなさい。」

8 ヨシュアが民にそう言ったとき、七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って【主】の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱はそのうしろを進み、9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの前を行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら箱のうしろを進んだ。10 ヨシュアは民に命じた。「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」11 こうして主の箱は町の周りを回り、その周囲を一周した。彼らは宿営に帰り、宿営で夜を過ごした。」

 

ヨシュアは、主が言われたとおりにしました。イスラエルの民も、そのヨシュアの声に従いました。それは世界の戦争の歴史の中でも最も異様な光景でしたが、彼らは主が言われるとおりにしたのです。

10節に注目してください。ここには、「あなたがたはときの声をあげてはならない。声を聞かせてはならない。口からことばを出してはならない。『ときの声をあげよ』と私が言うその日に、ときの声をあげよ。」とあります。口からことばを出してはいけません。黙っていなければなりませんでした。なぜでしょうか。主の戦いに人間の声は必要ないからです。人間が口から出すことばによって、主の働きが妨げられてしまうことがあります。しかし、黙っているということはなかなかできることではありません。特に女性にとっては大変なことでしょう。ある若い婦人は、「私は夫が聞いていても、いなくても、とにかく話します」と言っておられました。話さないではいられないのです。まあ、これは女性に限ったことではありませんね。男性にも言えることです。私も良く妻に言われます。しかし、主の戦いにおいては黙っていなければなりません。

 

また、主の戦いにおいてもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、焦らないということです。11節を見ると、ヨシュアは1日に一度だけ町の回りを回らせたとあります。これはなかなか忍耐のいることです。どうせなら一日に七度回ってその日のうちに終わらせた方が効率的だと思うのですが、ヨシュアはこの点でも主に従いました。主は、私たちの思いと異なる思いを持っておられ、私たちの道と異なる道を持っておられます。ですから、私たちはに必要なのは、自分の悟りに頼らないで、主に拠り頼むことです。

 

Ⅱ.くずれた城壁(12-21)

 

次に、12節から21節までをご覧ください。「12 翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担いだ。13 七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは、彼らの先頭に立って行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら主の箱のうしろを進んだ。14 彼らは二日目も町の周りを一周回り、宿営に帰った。六日間そのようにした。15 七日目、朝早く夜が明けかかるころ彼らは起き、同じようにして町の周りを七周回った。この日だけは町の周りを七周回った。16 七周目に祭司たちが角笛を吹き鳴らしたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげよ。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。17 この町とその中にあるすべてのものは主のために聖絶せよ。遊女ラハブと、その家にともにいる者たちだけは、みな生かしておけ。彼女は私たちが送った使いたちをかくまってくれたからだ。18 あなたがたは聖絶の物には手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである。19 ただし、銀や金、および青銅や鉄の器はすべて主のために聖別されたものである。それらは主の宝物倉に入れよ。」20 民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。そこで民はそれぞれ、まっすぐに攻め上り、その町を攻め取り、21 町のものをすべて、男も女も若者も年寄りも、また牛、羊、ろばも剣の刃で聖絶した。」

 

翌朝ヨシュアは早く起き、主が言われたことを実行に移しました。すなわち、祭司たちは主の箱を担ぎ、七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らしました。武装した者たちは、彼らの先頭に立って行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら主の箱の後ろを進みました。京都の祇園祭の山鉾巡業みたいですね。「エンヤラヤー」の掛け声とお囃子の響きに合わせて神輿が進んで行きます。ただ違うのは、イスラエルの行進はエリコとの戦いのためであったということです。

イスラエルの民は、その翌日も同じように町を一周して宿営に帰り、六日間同じようにしました。いったい彼らはどんな気持ちだったでしょうか。最初のうちに希望とか期待に喜び勇んでいたかもしれませんが、それが二日、三日と続く中で無駄なことではないかという思いも芽生えていたかもしれません。しかし、そのように彼らの中に無意味とも思えることの繰り返しで希望が潰えてしまうような時に、神は勝利の合図を送られました。七週目に祭司たちが吹き鳴らす角笛の音を聞いて、大声で時の声をあげると、城壁はくずれ落ちたのです。

 

これが神の時だったのです。私たちも時として「主よ、いつまでですか」と叫ばずにはいられないような時がありますが、そのような時にこそ神は御業を成されるのです。モーセの死後、あのヨルダン渡河の奇跡と、このエリコの城壁が崩れたという奇跡によって、出エジプトの神はその大能の御手をもってヨシュアとその民と共におられるということが、ここで完全に立証されました。そして、民はまっすぐに町へ上って行き、その町を攻め取りました。

 

ところで、ヨシュアはこのエリコの町を占領するにあたり、この町のすべてのものを、主のために聖絶しなさい、と命じました。その町にあるもの、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて聖絶しなければなりませんでした。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものなので、主の宝物倉に持ち込まなければなりませんでした。

 

「聖絶」とは、ヘブル語の「ハーラム」(חָרַם)ということばで、旧約聖書に51回使われていますが、このヨシュア記には14回も使われています。それは神がすでに「与えた」と言われる約束の地カナンにおいて、そこを征服し、占領していく戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されていたからです。

この「ハーラム」(חָרַם)は英語訳では、「totally destroyed」とか「completely destroyed」と訳されています。つまり、徹底的に破壊すること、完全に破壊することです。すべてのものを打ち殺すという意味です。すなわち、神のものを神のものとするために、そうでないものを完全に破壊するということです。このことばの意味だけを考えるなら、「なんと残酷な」と思うかもしれませんが、しかしイスラエルが神の民として神の聖さを失い、他のすべての国々のようにならないようにするためにはどうしても必要なことだったのです。つまり、「聖絶」とは、神の「聖」を民に守らせる戦いなのです。

 

それは神の民であるクリスチャンにも求められています。Ⅱコリント6章17~18節に、次のようにあります。「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17)

神の民として贖われたクリスチャンも、この世から出て行き、彼らと分離しなければなりません。勿論それはこの世と何の関係も持ってはならないということではありません。この世に生きている限り、この世と関わりを持たずに生きることはできません。ここでパウロが言っていることは、この世に生きていながらもこの世から分離して神のものとして生きなければならないということです。そのためには、常に世俗的なものと戦う必要性があるのです。世俗的なものは何でしょうか。それを定義することは難しいことですが、あえて定義するとすれば、それは「神への信頼を妨げる一切のもの」と言えます。私たちがこの世に生きる限りこうした世俗的なものが絶えず襲い掛かって来て神への信頼を脅かしますが、神の民として生きるために、いつもこの世と分離しなければなりません。私たちにもこの「聖絶」(聖別)することが求められているのです。

 

Ⅲ.神のあわれみ(22-27)

 

最後に、22~27節を見たいとと思います。「22 ところで、ヨシュアはこの地を偵察した二人の男に言った。「あの遊女の家に行き、あなたがたが彼女に誓ったとおり、その女とその女に連なるすべての者を連れ出しなさい。」23 偵察した若者たちは行って、ラハブとその父、母、兄弟、彼女に連なるすべての者を連れ出した。彼女の親族をみな連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。24 彼らはその町とその中にあるすべてのものを火で焼いた。銀や金、および青銅や鉄の器だけは主の家の宝物倉に納めた。25 しかし、遊女ラハブと、その一族と、彼女に連なるすべての者をヨシュアが生かしておいたので、彼女はイスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを偵察させようとしてヨシュアが送った使いたちを、彼女がかくまったからである。26 ヨシュアは、そのとき誓った。「この町エリコの再建を企てる者は主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」27 主がヨシュアとともにおられたので、彼のうわさはこの地にあまねく広まった。」

 

エリコの町とその町の中にあるすべてのものは、主のために聖絶されましたが、遊女ラハブと、その家にいた者たちは助け出されました。それは以前ラハブが偵察したふたりの者をかくまったからです。あの時に遊女ラハブに誓ったとおり、ふたりの斥候は彼女の家に行き、彼女と彼女に属するすべての者を連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておきました。すぐに彼らを宿営の中に入れなかったのは、おそらく彼らが異邦人だったので、その前に信仰告白と割礼を受ける必要があったからでしょう。しかし、そんな異邦人であった彼らもやがて神の民の中に加えられました。そればかりか、ラハブは遊女でありながらも救い主の系図に名を連ねるという栄光に浴することになるのです(マタイ1:5)。

 

こうして旧約聖書においても神は、この世における最も卑しい者に対しても救いと恵みを与えてくださる方であることを示してくださいました。それは限りない神の恵みとあわれみの表れです。たとえ私たちが、「こんなにひどい罪を犯したのだから、決して赦されることはないだろう」と思っても、神の恵みとあわれみは尽きることがありません。神はその罪よりもさらに上回り、私たちを満たしてくださるのです。

 

26節と27節には、このエリコの町の聖絶が徹底的なものであったことが記されてあります。いや徹底的であっただけでなく、それはヨシュアの時代を超えた未来にまで及ぶまでの徹底さでした。Ⅰ列王記16章34節には、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とありますが、エリコの町を再建させようとするヒエルがエリコの町の礎を据えたとき、長子アビラムが死に、門を建てたとき末の子セクブが死んだことで、この言葉が文字通り成就しました。ここにはイスラエルをかくまったラハブと、イスラエルに敵対したエリコとの姿とが対比されています。

 

私たちも遊女ラハブのように救われるべき資格のない者でしたが、一本の赤いひもが彼女とその家族を救ったように、イエス・キリストの血に信頼することによって、神の怒りから救い出されました。そのように救い出された者として、神の民、神のものとして、神の深いご計画の中で、神に喜ばれる歩みをさせていただきたいと思います。