士師記18章

士師記18章からを学びます。

 Ⅰ.ダン部族の偵察隊(1-10)

 1~10節をご覧ください。まず6節までをお読みします。「18:1 そのころ、イスラエルには王がいなかった。ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった。18:2 そこでダン族は、彼らの諸氏族全体の中から五人の者を、ツォルアとエシュタオルから勇士たちを派遣し、土地を偵察して調べることにした。彼らは五人に言った。「行って、あの地を調べなさい。」五人はエフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこで一夜を明かした。18:3 ミカの家のそばに来たとき、彼らはあのレビ人の若者の声に気づいた。そこで、彼らはそこに立ち寄り、彼に言った。「だれがあなたをここに連れて来たのですか。ここで何をしているのですか。ここに何の用事があるのですか。」18:4 彼は、ミカがこれこれのことをして雇ってくれたので、ミカの祭司になったのだ、と言った。18:5 彼らは言った。「どうか神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」18:6 その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、【主】がお認めになっています。」」

1節に再び、「そのころ、イスラエルには王がいなかった」とあります。17章において、王がい
なかった時代、イスラエルがどのような状態であったかを見ました。それは「混乱」でした。何をしているのかわからない状態でした。彼らはそれぞれが自分の目に正しいと見えることを行っていたからです。自分では正しいと思うことであっても、実際には神のみこころから外れたことを行っていたのです。前回はそれをミカという人物を通して学びましたが、今回はダン族の堕落を通して学びたいとし思います。

1節には、「ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった」とあります。ヨシュア記を見ると、ダン部族にはすでに相続地が割り当てられていたことがわかります(ヨシュア19:40-48)。それなのに、ここにはダン部族には相続地が割り当てられていなかったとあるのはどういうことでしょうか。地図をご覧ください。

 

 

 

(地の塩港南キリスト教会文書伝道部 まなべあきらの聖書メッセージ「聖書の探求(250,251) 士師記17~18章 ミカの偶像、偶像の略奪、ダン部族のパレスチナ北端の地への移住」より引用)

彼らに与えられた相続地はペリシテ人が住む地中海沿岸の地域であったことがわかります。それで彼らはその地を征服することができないでいたのです。相続地はあくまでも神からの約束であって、実際には自分たちでその地を征服しなければなりませんでした。しかし、彼らにはそれができないでいたのです。それで彼らは別の場所に相続地を得るために、5人の偵察隊を派遣して候補地を探らせることにしました。すると彼らは、エフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこに泊まりました。

彼らがミカの家のそばに来たとき、あのレビ人の若者の声がするのに気づきました。以前どこかで会って面識があったのでしょうか、すぐにあのレビ人の声だと気付きました。彼らは、この若者がミカの家の祭司になっていることを知ると、自分たちの旅が成功するかどうか、神に伺ってほしいと頼みます。神の幕屋が設置されたシロが近くにあったにもかかわらず、です。彼らは大祭司を通してお伺いを立てることを無視し、このレビ人に尋ねたのです。

するとミカの祭司は彼らに言いました。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」これもいい加減な答えでした。なぜなら、主は彼らがしているこの旅を認めていなかったからです。主が願っておられたのはその地の住人を追い払うことであって、他に土地を求めることではありませんでした。それなのに彼は適当なことを言ったのです。彼はアロンの家系ではなかったので元々祭司の資格もありませんでしたが、たとえ祭司であったとしても、その務めは神のみこころを正しく伝えることであって、単に人々のしていることを神の名によって認めることではありません。ここにも一つの混乱が見られます。神の名によって人々の願望を宗教的に認めようとする肉の性質が現れているからです。

次に7~10節をご覧ください。「18:7 五人の者たちは進んで行ってライシュに着き、そこの住民が安らかに住んでいて、シドン人の慣わしにしたがい、平穏で安心しきっているのを見た。この地には足りないものは何もなく、彼らを抑えつける者もいなかった。彼らはシドン人から遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかった。18:8 五人の者たちが、ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、身内の者たちは彼らに、どうだったか、と尋ねた。18:9 彼らは言った。「さあ、彼らに向かって攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実にすばらしい。あなたがたはためらっているが、ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。18:10 あなたがたが行くときは、安心しきった民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡してくださった。その場所には、地にあるもので欠けているものは何もない。」」

その5人の者たちは北に進みライシュに着きました。ライシュはヘルモン山の南側の麓近くあります。そこの住民は安らかに住んでいて、どことも軍事同盟を結んでいる様子もなく、戦う用意もなかったので、征服するには最適であるように見えました。そこで彼らはダン部族の領内ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、「あの地を占領しよう」と報告しました。それは彼らが安心しきっているというだけの理由ではありませんでした。その地は実にすばらしく、広々としており、何と言っても、神がそれをあなたがたの手に渡してくださったというのがその理由でした。

しかし、ここにも誤解がありました。神がその地を与えてくださったというのは勝手な思い込みにすぎず、神から出た信仰の戦いはヨシュアによって割り当てられた地を占領することだったからです。ですから、このダン部族の戦いは、彼らの不信仰によってもたらされた勝手な戦いにすぎませんでした。状況が良いからといってそれが必ずしも神の御心であるとは限りません。信仰の土台がしっかりしていなければ、結局のところ、それは信仰の誤解で終わってしまうことになります。

Ⅱ.混乱(11-20)
 
次に、11~20節をご覧ください。「18:11 そこで、ダンの氏族の者六百人は、武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、18:12 上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営した。それゆえ、その場所は今日に至るまで、マハネ・ダンと呼ばれている。それはキルヤテ・エアリムの西部にある。18:13 彼らはそこからさらにエフライムの山地へと進み、ミカの家に着いた。18:14 ライシュの地を偵察に行っていた五人は、身内の者たちに告げた。「これらの建物の中にエポデやテラフィム、彫像や鋳像があるのを知っているか。今、あなたたちは何をすべきか分かっているはずだ。」18:15 そこで、彼らはそこに行き、あのレビ人の若者の家、ミカの家に来て、彼の安否を尋ねた。18:16 武具を着けた六百人のダンの人々は、門の入り口に立っていた。18:17 あの地を偵察に行った五人の者たちは上って行き、そこに入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は、武具を着けた六百人の者と、門の入り口に立っていた。18:18 これら五人がミカの家に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取ったとき、祭司は彼らに言った。「何をしているのですか。」18:19 彼らは祭司に言った。「黙っていなさい。手を口に当てて、私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか。」18:20 祭司の心は躍った。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。」

そこで、ダン族の者600人は武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営しました。彼らは、部族の先鋒として群れの先頭に立っていたのでしょう。そして、そこからさらにエフライムの山地にあるあのミカの家に到着しました。そして、先にライシュを偵察に行った5人の者が、ミカの家にエポデやテラフィム、彫像や鋳造があることを告げると、全員でそこに上って行き、それらを略奪しました。これらの物は、元々ミカが母親から盗んだ銀によって作られたものですが、今度はそれが他の人の手によって盗まれてしまったのです。何とも皮肉な結果です。それにしてもダン族もイスラエル部族の一つです。その部族がこんな偶像を略奪していったい何になるというのでしょうか。彼らは、ミカの家にあった偶像に心を魅かれていたのです。これが自分たちのお守りになると思っていました。まことの神を信じている者にとっては考えられないことですが、こういうことが起こるのです。

そればかりではありません。彼らは祭司もミカから奪いました。祭司も祭司です。「あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか」と尋ねられると、「祭司の心は踊った」とあります。ミカの家にいるときはお金に引き寄せられましたが、今度は栄誉に引き寄せられました。部族や氏族の祭司になることができるという言葉に魅かれたのです。それでこの祭司は、主人を裏切り、エポデとテラフィムと彫像を盗み、彼らの中に入って行きました。

 何が起こっているのかさっぱり理解できません。すべてが混乱しています。人の手で作った偶像が、自分たちを守ってくれるはずがありません。それなのに、ダン族の者たちはこれらの偶像に心が魅かれていましたし、祭司も祭司で、地位や名誉に心が魅かれ、主人ミカを裏切ったばかりか、そこにあった偶像を盗みました。この祭司は、所詮雇われた祭司にすぎません。彼は裏切り者で、盗人でした。すべてが混乱しています。異常事態です。いったい何が問題だったのでしょうか。それは、「イスラエルには王がいなかった」ことです。彼らはただ自分の目に良いと見えることを行っていたのです。それが問題でした。彼らはイスラエルの神を捨てていたわけではありません。自分たちでは信じているつもりでした。しかし、神の御言葉に聞かなかった結果、カナンの神々を礼拝するという混合宗教に陥っていたのです。しかし、これは何もイスラエルの民だけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも神の御言葉に聞き従うのではなければ、自分の目に良いと見えることを行うようになり、同じような過ちに陥ってしまうことになります。

  Ⅲ.ダン族がもたらした不幸(21-31)

  最後に、21~31節までを見て終わりたいと思います。まず、21~26節までをご覧ください。「18:21 彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行った。
18:22 彼らがミカの家からかなり離れたころ、ミカは近所の家の者たちを集めて、ダン族に追いついた。18:23 彼らがダン族に呼びかけると、ダンの人々は振り向いて、ミカに言った。「あなたはどうしたのだ。人を集めたりして。」18:24 ミカは言った。「あなたがたは、私が造った神々と、それに祭司を奪って行きました。私のところには何が残っているでしょうか。私に向かって『どうしたのだ』と言うとは、いったい何事です。」18:25 ダン族はミカに言った。「あなたの声が私たちの中で聞こえないようにしなさい。そうしないと、気の荒い連中があなたがたに討ちかかり、あなたは、自分のいのちも、家族のいのちも失うだろう。」18:26 こうして、ダン族は去って行った。ミカは、彼らが自分よりも強いのを見てとり、向きを変えて自分の家に帰った。」

「彼ら」とはダン族のことです。彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行きました。するとミカは、近所の家の者たちを集めて、ダン族の後を追いかけます。彼らはダン族に呼びかけますが、多勢に無勢です。逆に脅しをかけられ、そのまま引き下がるしかありませんでした。これはミカの罪に対する神のさばきです。ミカが所有していた偶像は、そもそも彼が母親から盗んだ銀によって造られた物でした。その偶像が今度は他人に盗まれてしまったのです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。神を恐れない人の人生は、結局のところ、このような結果を招くことになるのです。

彼は、この事件から何を学んだでしょうか。もし彼がこれをきっかけに真の神に立ち帰ったのであれば、この出来事は彼にとっては幸いであったと言えるでしょうが、もし何も学ぶことがなかったら、それこそ悲劇です。誰でも失敗は付きものです。大切なのは、そこから何を学ぶかということです。その失敗から学び、神に立ち帰らせていただきましょう。

最後に、27~31節までをご覧ください。「18:27 彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪い、ライシュに行って、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼いた。18:28 だれも救い出す者はいなかった。その町はシドンから遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかったからである。その町はベテ・レホブの近くの平地にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。18:29 彼らは、イスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。しかし、その町の名は、もともとライシュであった。18:30 さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、その地の捕囚のときまで、ダン部族の祭司であった。18:31 こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた。」

彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪うと、ライシュに行って、その民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼きました。その町はシドンから遠く離れていたため、誰も助けてくれなかったので、簡単に征服することができました。それで彼らは町を建て、そこに住みました。彼らは、その町の名を自分たちの先祖ダンの名にちなんで「ダン」という名をつけました。これがイスラエル12部族の北限の所有地となります。この時以来、全イスラエルを指すときに「ダンからベエル・シェバまで」という表現が使われるようになりました。

彼らはそこに自分たちのために彫像を立てました。恐らく神の宮も建て、そこに彫像を安置したことでしょう。31節には、「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた」とあります。神の宮はシロに設置されるはずでしたが、この時以来、このダンにも設置されたのです。そして、後にイスラエルが南北に分裂すると、北王国イスラエルの王ヤロブアムは、このダンとベテルに金の子牛を置くようになります。ヤロブアムは、ダン部族が彫像を立てた場所に金の子牛を置いたのです。それは、北王国がB.C.722年にアッシリア帝国によって滅ぼされるまで続きます。彼らは、ミカの家にあった偶像を手に入れたことは神の祝福だと思っていましたが、実はそうではなく、逆にそれが彼らを束縛するもとになりました。このようなことが私たちにも起こります。祝福だと思っていたことが、災いの原因になることがあります。そういうことがないように、常に御言葉に聞き従い、神のみこころを求めて歩みましょう。

士師記17

士師記17

士師記17章から学びます。17~21章までは、この士師記の後書きです。私たちはこれまで、士師の時代がどのような時代だったのかを学んできましたが、その間に起こった典型的な出来事がまとめられています。その特徴は何かというと、6節にあるように、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」ということです。その時代がどのような時代であったのかを見ていきたいと思います。

 Ⅰ.自分の息子の一人を祭司にしたミカ(1-6)

まず、1節から6節までをご覧ください。 「17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「【主】が私の息子を祝福されますように。」17:3 彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して【主】にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。 17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」

エフライムの山地の出身で、ミカという名の人がいました。ミカというのは、「誰が主のよう
であろうか」という意味ですが、彼はその名とは裏腹に、主に反した行動を取ります。彼は母から銀1,100枚を盗みました。しかし、その銀貨が盗まれた時、母親がのろいを誓い、それが彼の耳にも届いて恐ろしくなったのか、彼は「実は、その銀は私が持っています」と告白し、それを母に返しました。こうしたのろいの誓いは、呪われた人の上に留まるとされていたからです。

すると母親は何と言ったでしょうか。母はこのように言いました。「主が私の息子を祝福され
ますように。」
どういうことでしょうか。自分の銀を盗んだ息子を祝福してくれるようにと祈るとは・・。ここに一つの混乱が見られます。自分の息子がお金を盗んだのであれば、たとえ息子がそれを告白したとしても、「なんでこんなことをしたのか。このようなことはしてはならない」と叱るのが親でしょう。それなのに彼女は、「主が私の息子を祝福してください」と言ったのです。普通ではありません。

そればかりではありません。息子が母親にその銀1,100枚を返すと、母はその銀を主に献げ、その中から銀200枚を取り、自分の息子のために彫像と鋳像を作るのです。「彫像」とは、へブル語で「ペセル」という言葉から派生した言葉ですが、「彫る」とか「刻む」という意味です。おそらく、木や石や青銅などを彫って作った偶像のことでしょう。「鋳像」とは、へブル語で「マッセーカー」という言葉から派生した言葉ですが、意味は「地金を注ぐ」です。つまり、鉄や青銅、錫(すず)、鉛、アルミニウムなどの金属を溶かし、鋳型に流し込んで作られた偶像のことです。出エジプト記34章17節には、「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」と禁じられていますが、それは明らかに十戒で禁じられていた「偶像を作ってはならない」という主の律法に違反することでした。

さら5節には、「このミカという人には神の宮があった。」とあります。これも律法に違反しています。というのは、神の宮は、主が命じられた場所に置かなければならなかったからです。この当時は、それはエフライム領内のシロという場所にありました。

それだけではありません。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を祭司に任命していました。エポデとは祭司用の服のことです。またテラフィムとは家の守護神のことです。これも律法に違反しています。祭司はアロンの家系から選ばれなければならず、だれもが勝手になれるというものではありませんでした。

これらのことからどういうことが言えるでしょうか。6節です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」
確かに彼らは自分の目で良いと思えることを行っていましたが、それが必ずしも正しいことであったとは限りませんでした。それが神のみこころに反していることもあったのです。というか、かなり的を外していたことがわかります。彼らは決してイスラエルの神、主を捨てたわけではありませんでしたが、彼らの信仰はいつしかカナンの習慣に迎合し、神の民としてのあり方から大きくズレてしまっていたのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

ここには、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあります。民を導く指導者がいなかったのです。それで彼らは、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。神の指導者がいない民は、実に悲惨であることがわかります。常に聖書から神のみこころを語り、民を導く羊飼いがいないということは混乱を招くことになります。日本にも様々な事情により無牧の教会がたくさんありますが、群れを牧する羊飼いがいないことは羊にとって致命的な結果を招くことがあります。たとえ牧師がいたとしても、その牧師が正しく神のみことばを語り、みことばによって羊を養わなければ同じことです。群れを導くリーダーのために祈らなければなりません。

Ⅱ.祭司を雇ったミカ(7-13)
 
次に7節から13節までをご覧ください。「17:7 ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。 17:8 その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、 17:9 ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」 17:10 そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。 17:11 このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。 17:12 ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。 17:13 そこで、ミカは言った。「私は【主】が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」

 7節には、ユダのベツレヘム出身の一人の若者が登場します。彼はレビ人でそこに寄留していました。どういうことかというと、彼はユダのベツレヘム出身のレビ人でしたが、ユダ族に属している人ではなかったということです。ただそこに寄留していただけです。というのは、レビ人はイスラエルに相続地を持っていなかったからです。神ご自身が彼らの相続地でした。彼らに与えられていたのは住む町と放牧地だけでした。ですから、この「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する」というのは、ユダのベツレヘムに居住していたレビ族出身の人という意味です。彼は滞在する所を求めて、ユダの町であるベツレヘムを出て、旅を続けていました。そして、エフライムの山地にあるミカの家までやって来たのです。

するとミカは、彼がベツレヘムから来たレビ人であることを知ると、「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。」と懇願しました。この「父」というのは、その家の主人ということではなく、霊的導き手という意味です。そして、その対価として提示したのは、毎年、銀10枚と、衣服一そろいと、それに食料を差し上げるということでした。つまり、生活費を支給するということです。これはレビ人にとって大きな誘惑だったことでしょう。というのは、それだけあれば生活の安定が得られるからです。すると、このレビ人は一つ返事で同意しました。それでミカの家で一緒に住むことにしました。彼はミカの息子の一人のようになりました。するとミカは何と言ったでしょうか。13節に「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」とあります。どういうことでしょうか?

これまでミカは息子の一人を祭司に任命していましたが、今や本物の祭司がミカの個人的な祭司になったということです。それで彼は喜んでいるのです。しかも彼はここで、それをしてくださったのは「主」だと言っています。「主が私を幸せにしてくださることを知った」と。それが主からの祝福であると勝手に思い込んだのです。しかし、これは大きな誤解でした。レビ人だからというだけで祭司になれるわけではないからです。下記のレビ族の家系図をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(「レビ族の家系」、空知太栄光キリスト教会ホームページより引用)

 これを見ていただくとわかるように、祭司になることができるのはレビ族の中でもアロンの家系から出る者だけでしたが、彼はそうではありませんでした。

レビ族とは、ヤコブの3番目に生まれた息子レビから始まっている一族です。レビ族は神にとって特別な存在でした。つまり、彼らは神のために聖別された部族であったのです。そのため神は、レビ族の各氏族(ゲルション族、ケハテ族、メラリ族)に聖所の務めを果たすという重要な務めを与えられました。そして、それぞれの氏族に専門の任務を与えたのです。すなわち、ゲルション族には、聖所の幕に関する部分(天幕のおおい、会見と入口の垂れ幕、幕と幕をつなぐひもなど)の管理と運搬、ケハテ族には、聖所にある器具の一切(契約の箱、机、燭台、祭壇、それらに関する用具など)の管理と運搬、メラリ族には、聖所を支える部分(板、横木、柱、台座、釘など)です。各氏族に与えられた任務はそれぞれ独立したものであり、他の部族の任務を兼用したり、代替えすることは許されませんでした。それぞれが専門職として割り当てられたのです。

祭司とレビ人はもともと同じレビ族から派生していますが、祭司とその職はレビの2番目の息子であるケハテから生まれた最初の子であるアロンの家系から出た者たちで、いわば、特別職でした。祭司たちはすべてアロンの家系で世襲制でした。祭司たちは会見の天幕における礼拝を実際に取り仕切っていく者たちでした。そして、この祭司を支えたのがレビ人なのです。つまりレビ人は祭司の指導の管理下にあったのです。礼拝を取り仕切る祭司のもとで仕える存在、それがレビ人たちだったのです。民数記3章5~7節で神はモーセに次のように告げています。「主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。」
ですから、レビ人は神に仕え、祭司に仕え、そしてイスラエルの人々に仕える者たち(奉仕者)だったのです。また、彼らが祭司職にかかわることは一切許されませんでした。民数記3章10節には「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とあります。それほどに祭司職は特別な職であったのです。
それなのにミカは、自分勝手に神の宮を設置し、そこに偶像を安置して、さらに資格のないレビ人を祭司に任命しました。こうしたことは、主の目には忌むべきことでしたが、ミカはそれを主からの祝福だと勘違いしたのです。

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。続く18章1節をご覧ください。ここにも出てきます。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」それで、彼らは自分の目で良いと見えることを行っていたからです。このことは6節でも言われていたことです。このことが何度も繰り返して記されています。この士師記の著者は、このミカの行為が、士師時代の無法状態を表す良い例としてあげているのです。イスラエル人の信仰は、祭司制度の混乱にまで及んでいたのです。

しかし、これは何も当時のイスラエル人だけの問題ではありません。現代の私たちクリスチャンにも問われていることです。自分の目に良いと見えることを行っている人は、すなわち、勝手な信仰生活をしている人は、偶然にも良いことがあると、それを神からの祝福を受けている証拠だと受け止めて喜びますが、それはただの勘違いであり、聖書信仰とは相入れないものです。そのような信仰は、遅かれ早かれ、神のさばきをその身に招くようになり、結局、信仰からも離れてしまうことになります。こんなはずではなかったのに・・・と。

次の18章を見るとわかりますが、やがてミカもそのさばきを受けることになります。自分が雇った祭司に裏切られ、彼が所有していた偶像が奪われてしまうことになるのです。彼が母親から盗んだ銀によって作られた偶像が、今度は他の人の手によって盗まれるというのは、何とも皮肉な話です。私たちはそういうことがないように、自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求めましょう。主のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。そのためにはよく聖書のことばを学び、主のみこころを求めましょう。自分の中にミカのように都合の良い信仰はないかどうか、吟味しなければならないのです。

 

ペリシテ人についての預言 エレミヤ書47章1~7節

2025年6月8日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書47章1~7節(旧約P1379、エレミヤ書講解説教78回目)
タイトル:「ペリシテ人についての預言」
エレミヤ書47章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はペリシテ人に対する預言が語られます。
 Ⅰ.ペリシテ人の破滅(1-5)
まず、1~5節までをご覧ください。1節をお読みします。「47:1 ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった【主】のことば。」
これは、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことばです。ファラオとはエジプトの王の称号です。そのファラオがガザを討つ前に、主はペリシテ人についてエレミヤに語っておられたのです。それはB.C.605年頃だと思われます。何度かお話していますが、その年、バビロンが台頭を恐れたファラオは、バビロンと戦うためにパレスチナに北上しました。そこでバビロン軍と戦うわけです。それはユーフラテス河畔のカルケミシュというところで行われた戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれていますが、結果は、エジプト軍の惨敗でした。しかし、パレスチナに北上したエジプト軍は、ペリシテ人最大の都市ガザを討ちました。その前に、主がペリシテ人について語られたエレミヤに語られた預言がこれです。
それはどのような内容だったでしょうか。2~5節をご覧ください。「47:2 【主】はこう言われる。「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流す。人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶ。47:3 荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。47:4 すべてのペリシテ人を破滅させる日、ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来たからだ。まことに【主】は、ペリシテ人を、カフトルの島の残りの者を破滅させる。47:5 ガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙らされる。平地の残りの者よ、いつまで、おまえは身を傷つけるのか。」
2節にある「北から水が上って来て」とは、バビロン軍のことです。その水はあふれる流れとなって、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流します。それは洪水のように襲ってきて、ペリシテの町々を呑み込むのです。すでにガザはエジプトの王ファラオによって討たれていましたが、今度はそのファラオを討ったバビロンによってすべての町が吞み込まれることになります。ですから、ペリシテ人はエジプトとバビロンのどちらからも攻め込まれて破滅することになるのです。まさにWパンチです。
その光景は、実に悲惨でした。3節には「荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。」とあります。荒馬、戦車の音に、人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶことになります。父親たちは気力を失い、自分の子どもたちを顧みる余裕さえありません。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからです。
4節には、その日には生き残ってツロとシドンを助けようとする者もみな、断ち滅ぼされることになるとあります。ツロやシドンはペリシテの同盟国だったので、生き残って、彼らを助けようとするわけですが、助けようとしても助けることができないのです。ツロとシドンを助けようとする生き残りのすべての者もみな、断ち切られることになるからです。
また4節には「カトフルの島」という名称が出てきますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。そこがペリシテ人の出身地でした。彼らは元々そこに住んでいましたが、パレスチナの海岸地帯に移り住むようになったのです。ちなみに、パレスチナという地名は、このペリシテという名前に由来しています。パレスチナに移り住んだペリシテ人は、ユダヤ人と対立しながら現在のガザ地区のアラブ人となっていったのです。そのカフトルの島の残りの者を破滅させるというのは、ペリシテ人を根絶やしにするということです。
5節にある「ガザ」と「アシュケロン」は、ペリシテを代表する都市です。そのガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙されることになります。それは深い悲しみと嘆きを表現しています。なぜそれほど深く嘆き悲しむのでしょうか。徹底的に滅ぼされることになるからです。ペリシテ人はすべて滅び失せることになるということです。
 これが、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について主が預言者エレミヤに告げられたことばです。いったいなぜペリシテ人は、そのように破滅することになったのでしょうか。
Ⅱ.ペリシテ人が滅ぼされた理由(6-7)
6~7節をご覧ください。ここには、「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」とあります。
ここには、それは主の剣だとあります。主が剣に命じたのでこのようになったのです。それは彼らが主のみこころに従わなかったからです。いったいどのような点で主のみこころに叶わなかったのでしょうか。
ここで、創世記12章1~3節を開きたいと思います。「12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
これはイスラエルの父祖アブラハムに対して主が語られたことばです。アブラハム契約と呼ばれているものです。それはアブラハムが主の命令に従い、自分の父の家を離れ、主が示す地へ行くなら、主は彼を祝福し、彼の名を大いなるものとするというものでした。3節には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。この約束のとおり、神はアブラハムの子孫から出るメシヤによって、この約束を成就してくださいました。その方とはだれでしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。神はこのイエスによって地上のすべての民族を祝福する、すなわち、救いに導くという計画を持っておられたのです。そのためにアブラハムは選ばれました。神はこの祝福の基として特別にアブラハムを選ばれたのです。このアブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われることになります。これが聖書の原則なのです。しかし、ペリシテ人はこの原則に従いませんでした。神によって選ばれたアブラハムの民族、神の民を呪ったのです。それゆえ、神様から呪われることになったのです。もし彼らがイスラエルを祝福したのであれば、祝福されたでしょう。しかし、彼らはイスラエルに敵対し、絶えず攻撃しました。それゆえ、彼らは滅ぼされることになったのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
ここで地図をご覧ください。「ペリシテ人の地(新改訳聖書第三版、地図6)」


ペリシテ人について特筆すべきことは、彼らがどこに住んでいたかという点です。下の黒い楕円で囲まれた地域がペリシテ人の地です。ガザはその中にある赤い円で囲まれた町。その上は5節に出てきたアシュケロンです。ガザは今もイスラエルと戦闘状態にありますが、アシュケロンと合わせペリシテ人の5大都市の一つでした。ペリシテを代表する都市です。そのずっと上、北の方にある2つの黒い円で囲まれた町は、4節に出てきたツロとシドンです。このペリシテ人の地と隣り合わせにあるのがユダの地です。ペリシテの東側にある四角で囲まれた血です。その右斜め上にあるのがエルサレムです。つまり、ペリシテ人の地はユダの地と隣り合わせにあったということです。もうほとんど入り混じっています。それで彼らは絶えずイスラエルに侵入してはイスラエルを支配しようとしたのです。イスラエルにとってはまさに「肉のとげ」のような存在だったのです。
旧約聖書を読むと、彼らに対する言及は古くはアブラハムの時代に遡りますが、顕著に出てくるのは士師記の時代です。今、さくらチャーチでは士師記を学んでいますが、サムソンが戦ったのがこのペリシテ人でした。その後もサムエル、サウル、ダビデの時代も彼らはイスラエルを悩まし続けます。最終的にダビデがペリシテ人を討ち、征服しました。ダビデが戦ったのはゴリヤテというペリシテ人の大男でした。1サムエル記17章4節によると、彼の身長は6キュビト半もありました。1キュビトは44.5cmですから、6キュビト半は289cmになります。ほんとかいな?と首をかしげたくなります。あのジャイアント馬場でさえ209cmでしたから、相当大きかったことがわかります。でもダビデはその巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。それでペリシテ人はイスラエルに屈することになったのです。ソロモンの時代になると、ペリシテ人は完全にイスラエルに仕えるようになります。しかし、B.C.931年にイスラエルが北と南に分裂するとペリシテ人は再び勢力を回復し、イスラエルを悩ますことになります。そんなペリシテ人を、神は徹底的に滅ぼされるのです。なぜでしょうか?神に選ばれた民に敵対したからです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
それは、この人類の歴史を見てもわかります。先日、いつも教会にお米を届けてくださる方が、「先生、最近、高原剛一郎先生が書かれた『世界は聖書で出来ている』という本が出版されたのでプレゼントします」と言ってわざわざ持って来られました。どれどれとめくって見たら、このことについて書かれてありました。詳細は触れませんが、過去500年の人類の歴史を見ると、世界の覇権を握った国々は、すべてユダヤ人を祝福した国だったというのです。それはスペインでありポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカです。これらの国の興隆と没落を振り返ると、そこにはこの原則が流れていたというのです。特に第一次世界大戦前後のイギリスと、第二次世界大戦後のアメリカを見るとよくわかります。ヨーロッパの辺境にある島国が、やがて「7つの海を支配する」大英帝国に成長した背景には、このようなユダヤ人への支援と協力があったからなのです。
また、戦後アメリカが超大国に成長した背景にも、第一次世界大戦後ヨーロッパで難民となったユダヤ人を受け入れたという事実がありました。アメリカに移住したユダヤ人たちは、背水の陣で生き残りをかけ、並外れた努力を重ねた結果、他のどの移民集団よりも短期間で成功を収め、金融、不動産、映画産業、マスコミ、医学、法律、自然科学、そして芸術、文化に至るまで、他を圧倒しました。第二次世界大戦後アメリカは、世界の超大国として君臨したのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるという聖書の原則が働いていたのです。
しかし、これは必ずしもユダヤ人という民族に限ったことではありません。それは私たちクリスチャンのことでもあるからです。いやむしろ霊的な意味では、私たちこそアブラハムの子孫、霊的イスラエルです。なぜなら、アブラハムの子孫から出るメシヤ、救い主なるイエス・キリストを信じたことで、神の民とされた者だからです。Ⅱペテロ2章9~10節にはこうあります。
「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた人たちのことです。ペテロはそのように選ばれた人たちに対して、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民だと言っているのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者であると言ったのです。そう、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた私たちも、このアブラハムの子孫であり、真のイスラエルなのです。ですから、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。私たちは祝福すべきであって、呪うべきではありません。もし神に選ばれた者を呪うことがあるとしたら、ペリシテ人のように呪われることになります。なぜなら、アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
以前、米沢の恵泉キリスト教会牧師の千田次郎先生からこんなお話を聞いたことがあります。それは、かつて全日本リバイバルミッションが盛んに行われていた頃のことですが、主催者の滝元明先生から、東北で決起集会をしたいので協力してほしいと要請があったそうです。しかし、千田先生はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、伝道は大きな集会を開くことではなく、マタイ28章にあるように、あらゆる国の人々を弟子とすることだからです。そのために行って福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、主が命じたことを守るようにみことばを教えなければなりません。必ずしも大きな伝道集会を開くことが必要ではない。そういう思いがありました。
しかし、ある日御言葉を読みながら祈っていると、このことが示されたのです。「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」。そしてアブラハムとは誰だろうと思い巡らしていると、それは滝元先生ではないか。滝元先生は神によって選ばれた神の器だと。その滝元先生を祝福することこそ、神様が望んでおられることだと確信し、その働きの祝福を覚えて祈るようになったということでした。
私はそのお話を聞いたとき、すごいなぁと思いました。というのは、人は自分の考えと違うとなかなか受け入れることができないものですが、神のみこころを求めて祈る中で、たとえそれが自分の考えと違っても神のみこころなら従うということを実践されておられたからです。それこそ神様に喜ばれることであり、神様が祝福してくださる信仰だと思いました。私はまだそれほど長い信仰生活を送ってきたわけではありませんが、確信をもって言えることは、神の御言葉に従う者を神は豊かに祝福してくださるということです。それは霊的な面においても、精神的においても、肉体的な面においても、物質的においても、経済的においても、社会的な面においても、すべての面においてです。Ⅱ歴代16章9節に、「【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」とある通りです。問題は、私たちの心が主の心と一つになっているかどうかです。もし一つになっているなら、主はそのような人々に御力をあらわしてくださいます。それはこの点においても言えることです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。
先日、私は64回目の誕生日を迎えましたが、この64年を振り返りながら、このような人生を与えてくださった主に感謝しました。なかなかないと思うんですよ。18歳で信仰に導かれ、22歳で伝道者として召され、以後42年にわたりイエス様一筋に仕えることができるなんて。私は長嶋茂雄さんにはなれなかったし、マイケル・ジョーダンにもなれなかったけど、キリストのしもべとして歩み続けることができました。それは一重に神様のあわれみだったと思います。そのために神様は選んでくださいました。そう感じます。
しかしそのように祈っていたら、神様からの御声がありました。「違う」と。「えっ、どういうことですか」と尋ねると、主は私にこう語っておられるように感じました。
「確かに、わたしはあなたを選んだが、それ以上にパットを選んだのだ」と。「パットがアブラハムで、あなたはそのアブラハムに仕えるしもべにすぎない。」と。
これはどういうことだろうと思い巡らしていると、神様が言われることがわかるような気がしました。
家内が宣教師として来日したのは1979年ですから、今から46年前になります。一般に、宣教師は母国のサポーターから献金を募り、何らかの宣教団体を通して遣わされてきますが、家内はそうしませんでした。献金を集めるのがあまり得意じゃないということもありましたが、何よりもそうすれば4年に一度デブテーションで戻らなければなりません。自分をサポートしてくれている教会に報告しなければならないからです。伝道の途中で1年間も空けることは宣教にとって大きな妨げになるのではないかと考えたのです。ですから彼女は宣教団を通してではなく、セルフサポートといって自分で働きながら宣教する道を選びました。それは自由に宣教できるというメリットはありますが、老後のことを考えると厳しい選択でもありました。というのは、働きを終えて帰国する時、何の保障もないからです。でも彼女はアブラハムのように「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」との召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかも知らずに、ただ信仰によって来日しました。そこで私と出会って結婚に導かれたのです。それは老後の保障どころか、帰国の路が閉ざされることを意味していました。日本に骨を埋めることを覚悟したということです。それほどの覚悟で来たのは、神様が彼女を選ばれたからです。パットがアブラハムで私はそのしもべにすぎないと言われる主のことばの意味がわかるような気がしました。そういえば、来日したばかりの頃、彼女はよく言っていました。「私は口下手なのでモーセですが、あなたはよく喋るのでアロンだ」と。主はご自身の御業のためにモーセを選んだように、パットを選ばれたのです。
であれば、私がすべきこと何でしょうか。このアブラハムを祝福することではないかと思ったのです。アブラハムを祝福する者は祝福されるからです。
それはパットだけでなく、神の民とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはお互いに神に選ばれた神の民なのです。であれば、祝福すべきであって呪ってはいけません。喜んでいる者とともに喜び、泣く者と一緒に泣く。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちに順応しなければなりません。そういう人を、神様は祝福してくださるからです。ペリシテ人はそうではありませんでした。イスラエルを祝福したのではなくイスラエルに敵対し、いつも戦いを挑みました。それゆえ、神から厳しい裁きを受けることになったのです。私たちはそういうことがないように、この御言葉に従わなければなりません。神に選ばれた神の民を、愛する兄弟姉妹を心から祝福しなければなりません。祝福すべきであって呪ってはいけないのです。
Ⅲ.主のみことばの剣(6-7)
第三のことは、だから神のことばに従いましょう、ということです。6~7節をもう一度ご覧ください。「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」
ここには単にペリシテがバビロンによって討ち破られたというだけでなく、その背後に神の力と支配があったことがわかります。6節は、平安がないことを嘆くペリシテ人の嘆きです。「ああ、主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」
ここで注目していただきたいことは、エレミヤが「主の剣」と言っていることです。実際にはペリシテもエジプトと同様に、目に見えるところではバビロンの攻撃によって討ち破られたわけですが、エレミヤはその出来事の背後に、主の力と支配があることを認めていました。
7節もそうです。「どうして、休めるだろうか。主が剣に命じられたのだ。」とあります。主が命じられたのだから、主のみこころが実現するまでは休むことはありません。彼らに求められていたことは、それが主の剣であると認め、主の前にへりくだり、ペリシテの神ダゴンではなくイスラエルの神、主を信じることだったのです。
それはペリシテ人だけのことではありません。私たちにも言えることです。聖書には、文字通り武具としての剣だけでなく、主なる神が語られる「みことばの剣」について言及されています。へブル4章12節です。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
神のことばはそれほどまでに鋭いのです。人の心の奥深くに光を当て、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。それは両刃の剣よりも鋭いのです。ですから、この神のことばによって罪が示されたのなら、「いたたっ!さやに収まり、静かに休め」と言うのではなく、私の罪のために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストの御前に進み出て、砕かれた、悔いた心をもって、罪の赦しを求めなければなりません。そして御言葉によって励まされ、慰められ、強められ、教えられ、助けられて、御国を継ぐ者とさせていただかなければなりません。それがペリシテ人に対して語られた主のことばを通して教えられることです。神のことばに従いましょう。神のことばに従ってアブラハムを祝福しましょう。イスラエルを祝福しましょう。主にある兄弟姉妹を祝福しましょう。祝福すべきであって、呪ってはいけません。神のことばに生きるとき、必ずあなたも祝福の基となることができます。それこそ、あなたが世の光、地の塩としてこの世に遣わされている目的だからです。

士師記17章

士師記17

士師記17章から学びます。17~21章までは、この士師記の後書きです。私たちはこれまで、士師の時代がどのような時代だったのかを学んできましたが、その間に起こった典型的な出来事がまとめられています。その特徴は何かというと、6節にあるように、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」ということです。その時代がどのような時代であったのかを見ていきたいと思います。

 Ⅰ.自分の息子の一人を祭司にしたミカ(1-6)

まず、1節から6節までをご覧ください。 「17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「【主】が私の息子を祝福されますように。」17:3 彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して【主】にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。 17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」

エフライムの山地の出身で、ミカという名の人がいました。ミカというのは、「誰が主のよう
であろうか」という意味ですが、彼はその名とは裏腹に、主に反した行動を取ります。彼は母から銀1,100枚を盗みました。しかし、その銀貨が盗まれた時、母親がのろいを誓い、それが彼の耳にも届いて恐ろしくなったのか、彼は「実は、その銀は私が持っています」と告白し、それを母に返しました。こうしたのろいの誓いは、呪われた人の上に留まるとされていたからです。

すると母親は何と言ったでしょうか。母はこのように言いました。「主が私の息子を祝福され
ますように。」
どういうことでしょうか。自分の銀を盗んだ息子を祝福してくれるようにと祈るとは・・。ここに一つの混乱が見られます。自分の息子がお金を盗んだのであれば、たとえ息子がそれを告白したとしても、「なんでこんなことをしたのか。このようなことはしてはならない」と叱るのが親でしょう。それなのに彼女は、「主が私の息子を祝福してください」と言ったのです。普通ではありません。

そればかりではありません。息子が母親にその銀1,100枚を返すと、母はその銀を主に献げ、その中から銀200枚を取り、自分の息子のために彫像と鋳像を作るのです。「彫像」とは、へブル語で「ペセル」という言葉から派生した言葉ですが、「彫る」とか「刻む」という意味です。おそらく、木や石や青銅などを彫って作った偶像のことでしょう。「鋳像」とは、へブル語で「マッセーカー」という言葉から派生した言葉ですが、意味は「地金を注ぐ」です。つまり、鉄や青銅、錫(すず)、鉛、アルミニウムなどの金属を溶かし、鋳型に流し込んで作られた偶像のことです。出エジプト記34章17節には、「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」と禁じられていますが、それは明らかに十戒で禁じられていた「偶像を作ってはならない」という主の律法に違反することでした。

さら5節には、「このミカという人には神の宮があった。」とあります。これも律法に違反しています。というのは、神の宮は、主が命じられた場所に置かなければならなかったからです。この当時は、それはエフライム領内のシロという場所にありました。

それだけではありません。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を祭司に任命していました。エポデとは祭司用の服のことです。またテラフィムとは家の守護神のことです。これも律法に違反しています。祭司はアロンの家系から選ばれなければならず、だれもが勝手になれるというものではありませんでした。

これらのことからどういうことが言えるでしょうか。6節です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」
確かに彼らは自分の目で良いと思えることを行っていましたが、それが必ずしも正しいことであったとは限りませんでした。それが神のみこころに反していることもあったのです。というか、かなり的を外していたことがわかります。彼らは決してイスラエルの神、主を捨てたわけではありませんでしたが、彼らの信仰はいつしかカナンの習慣に迎合し、神の民としてのあり方から大きくズレてしまっていたのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

ここには、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあります。民を導く指導者がいなかったのです。それで彼らは、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。神の指導者がいない民は、実に悲惨であることがわかります。常に聖書から神のみこころを語り、民を導く羊飼いがいないということは混乱を招くことになります。日本にも様々な事情により無牧の教会がたくさんありますが、群れを牧する羊飼いがいないことは羊にとって致命的な結果を招くことがあります。たとえ牧師がいたとしても、その牧師が正しく神のみことばを語り、みことばによって羊を養わなければ同じことです。群れを導くリーダーのために祈らなければなりません。

Ⅱ.祭司を雇ったミカ(7-13)
 
次に7節から13節までをご覧ください。「17:7 ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。 17:8 その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、 17:9 ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」 17:10 そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。 17:11 このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。 17:12 ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。 17:13 そこで、ミカは言った。「私は【主】が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」

 7節には、ユダのベツレヘム出身の一人の若者が登場します。彼はレビ人でそこに寄留していました。どういうことかというと、彼はユダのベツレヘム出身のレビ人でしたが、ユダ族に属している人ではなかったということです。ただそこに寄留していただけです。というのは、レビ人はイスラエルに相続地を持っていなかったからです。神ご自身が彼らの相続地でした。彼らに与えられていたのは住む町と放牧地だけでした。ですから、この「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する」というのは、ユダのベツレヘムに居住していたレビ族出身の人という意味です。彼は滞在する所を求めて、ユダの町であるベツレヘムを出て、旅を続けていました。そして、エフライムの山地にあるミカの家までやって来たのです。

するとミカは、彼がベツレヘムから来たレビ人であることを知ると、「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。」と懇願しました。この「父」というのは、その家の主人ということではなく、霊的導き手という意味です。そして、その対価として提示したのは、毎年、銀10枚と、衣服一そろいと、それに食料を差し上げるということでした。つまり、生活費を支給するということです。これはレビ人にとって大きな誘惑だったことでしょう。というのは、それだけあれば生活の安定が得られるからです。すると、このレビ人は一つ返事で同意しました。それでミカの家で一緒に住むことにしました。彼はミカの息子の一人のようになりました。するとミカは何と言ったでしょうか。13節に「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」とあります。どういうことでしょうか?

これまでミカは息子の一人を祭司に任命していましたが、今や本物の祭司がミカの個人的な祭司になったということです。それで彼は喜んでいるのです。しかも彼はここで、それをしてくださったのは「主」だと言っています。「主が私を幸せにしてくださることを知った」と。それが主からの祝福であると勝手に思い込んだのです。しかし、これは大きな誤解でした。レビ人だからというだけで祭司になれるわけではないからです。下記のレビ族の家系図をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レビ族の家系」、空知太栄光キリスト教会ホームページより引用

 これを見ていただくとわかるように、祭司になることができるのはレビ族の中でもアロンの家系から出る者だけでしたが、彼はそうではありませんでした。

レビ族とは、ヤコブの3番目に生まれた息子レビから始まっている一族です。レビ族は神にとって特別な存在でした。つまり、彼らは神のために聖別された部族であったのです。そのため神は、レビ族の各氏族(ゲルション族、ケハテ族、メラリ族)に聖所の務めを果たすという重要な務めを与えられました。そして、それぞれの氏族に専門の任務を与えたのです。すなわち、ゲルション族には、聖所の幕に関する部分(天幕のおおい、会見と入口の垂れ幕、幕と幕をつなぐひもなど)の管理と運搬、ケハテ族には、聖所にある器具の一切(契約の箱、机、燭台、祭壇、それらに関する用具など)の管理と運搬、メラリ族には、聖所を支える部分(板、横木、柱、台座、釘など)です。各氏族に与えられた任務はそれぞれ独立したものであり、他の部族の任務を兼用したり、代替えすることは許されませんでした。それぞれが専門職として割り当てられたのです。

祭司とレビ人はもともと同じレビ族から派生していますが、祭司とその職はレビの2番目の息子であるケハテから生まれた最初の子であるアロンの家系から出た者たちで、いわば、特別職でした。祭司たちはすべてアロンの家系で世襲制でした。祭司たちは会見の天幕における礼拝を実際に取り仕切っていく者たちでした。そして、この祭司を支えたのがレビ人なのです。つまりレビ人は祭司の指導の管理下にあったのです。礼拝を取り仕切る祭司のもとで仕える存在、それがレビ人たちだったのです。民数記3章5~7節で神はモーセに次のように告げています。「主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。」
ですから、レビ人は神に仕え、祭司に仕え、そしてイスラエルの人々に仕える者たち(奉仕者)だったのです。また、彼らが祭司職にかかわることは一切許されませんでした。民数記3章10節には「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とあります。それほどに祭司職は特別な職であったのです。
それなのにミカは、自分勝手に神の宮を設置し、そこに偶像を安置して、さらに資格のないレビ人を祭司に任命しました。こうしたことは、主の目には忌むべきことでしたが、ミカはそれを主からの祝福だと勘違いしたのです。

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。続く18章1節をご覧ください。ここにも出てきます。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」それで、彼らは自分の目で良いと見えることを行っていたからです。このことは6節でも言われていたことです。このことが何度も繰り返して記されています。この士師記の著者は、このミカの行為が、士師時代の無法状態を表す良い例としてあげているのです。イスラエル人の信仰は、祭司制度の混乱にまで及んでいたのです。

しかし、これは何も当時のイスラエル人だけの問題ではありません。現代の私たちクリスチャンにも問われていることです。自分の目に良いと見えることを行っている人は、すなわち、勝手な信仰生活をしている人は、偶然にも良いことがあると、それを神からの祝福を受けている証拠だと受け止めて喜びますが、それはただの勘違いであり、聖書信仰とは相入れないものです。そのような信仰は、遅かれ早かれ、神のさばきをその身に招くようになり、結局、信仰からも離れてしまうことになります。こんなはずではなかったのに・・・と。

次の18章を見るとわかりますが、やがてミカもそのさばきを受けることになります。自分が雇った祭司に裏切られ、彼が所有していた偶像が奪われてしまうことになるのです。彼が母親から盗んだ銀によって作られた偶像が、今度は他の人の手によって盗まれるというのは、何とも皮肉な話です。私たちはそういうことがないように、自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求めましょう。主のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。そのためにはよく聖書のことばを学び、主のみこころを求めましょう。自分の中にミカのように都合の良い信仰はないかどうか、吟味しなければならないのです。

 

エジプトについての預言 エレミヤ書46章1~28節


聖書箇所:エレミヤ書46章1~28節(旧約P1376、エレミヤ書講解説教77回目)
タイトル:「エジプトについての預言」
今日は、エレミヤ書46章全体から学びます。44章までにおいて、エレミヤ書におけるユダの民とエルサレムに対する預言は終わりました。そして前回の45章では、エレミヤの書記をしていたバラクに対する励ましのメッセージが語られました。ここからは、諸国に民に対する預言が語られます。エレミヤは預言者としての召命を受けたとき、ユダの民に対する預言だけでなく、国々への預言者としても召されていました。1章5節にはこうあります。 
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
  それが、ここから終わりまで続くわけです。その最初がエジプトに対する預言です。そしてそれはペリシテ、モアブ、アンモン、エドムと続き、最後にバビロンに対して語られます。それは人の目には偉大で力強く見えるこうした国々も、実は、主なる神様の主権と支配によって成り立っていることを示すためです。私たちはとかく、信仰や教会に関すること以外においては、神様はあまり関わっていないかのように思いますが、そうではなく、この世のすべての領域において神様は主権をもって働いておられるのです。その神様の働きをご一緒に見ていきたいと思います。
 Ⅰ.何ということか、この有様は(1-12)
まず、エジプトについての預言です。1~12節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「46:1 諸国の民について、預言者エレミヤにあった【主】のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について。ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った。」
ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とは、前回の45章にもありましたが、B.C.605年のことです。その年にバビロンの王ネブカドネツァルがエジプトの王ファラオの軍勢と戦ってこれを打ち破りました。これはユーフラテス河畔のカルケミシュという町で起こった戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれています。バビロンはアッシリアと戦ってその首都ニネベを打ち破ると、その後アッシリアの残党がこのカルケミシュに移ったので、それを追ってカルケミシュに向かいました。しかし、そのバビロンの台頭を恐れたエジプトがバビロンに戦いを挑んだのです。それがこのカルケミシュでの戦いです。結果はエジプトの惨敗でした。その時の様子が3節以降に描かれています。
「46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵たちよ、馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて配置につけ。槍を磨き、よろいをまとえ。46:5 何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。──【主】のことば──46:6 足の速い者も逃げられない。勇士たちも逃れられない。北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。46:7 ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。46:8 エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』46:9 馬よ、進め。戦車よ、走れ。勇士たちは出陣せよ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引くルデ人よ。46:10 その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日。剣は食らって満ち足り、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の【神】、主に、いけにえが献げられる。46:11 おとめである娘エジプトよ、ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を用いても無駄だ。おまえには癒やしがない。46:12 国々は、おまえの恥辱のことを聞く。おまえの哀れな叫び声は地に満ちる。勇士が勇士につまずき、ともに倒れるからだ。」
5節には、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。─【主】のことば─」とありますが、このことばにエジプトの悲惨な状況が映し出されています。彼らはおじ惑い、うしろに退きます。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去ることになるのです。恐怖が彼らを囲むからです。エジプトを代表するのはナイル川ですが、彼らはかつてナイル川のように湧き上がり、地をおおうほどの勢力があると言って誇っていましたが、バビロン軍に敗北し、哀れな叫び声が地に満ちることになります。有志が有志につまずき、ともに倒れるのです。いったい何が問題だったのでしょうか。
10節をご覧ください。ここには「その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日」とあります。これは主が敵に復讐する日なのです。それは単にバビロン軍との戦いというのではなく、主が成された主との戦いなのです。主との戦いですから、エジプトがどんなに強くても勝てるはずがありません。その戦いの背後には、偉大な主の御手が働いているからです。
ところで、この「敵に復讐する日」とは何を指しているのでしょうか。何に対する復讐なのでしょうか。多くの学者は、これはこの戦いの4年前(B.C.609年)に、ユダの王のヨシヤがエジプトの王ファラオ・ネコに殺されるという事件があったのですが、それに対する復讐ではないかと考えています。しかしここではもっと広い意味での復習、エジプトが神に対して行った傲慢な態度に対する復讐であったと見た方が良いと思います。というのは、ここから諸国の民に対する預言が語られるわけですがそれをずっと見ていくと、どの国々に対しても共通している三つのことがあることがわかります。一つは、そうした国々は自分の財産や軍事力など、物質的な力に拠り頼んでいたという点です。二つ目のことは、彼らは天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいたという点です。そして三つ目のことは、イスラエルやユダに対して敵対したということです。エジプトの場合は、ヨシヤ王を殺したということがその中に含まれますが、それだけでなくこうした国々は他の点でも神に敵対しました。そのことに対する復讐なのです。
7節には、エジプトの軍隊はナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻いていたとあります。皆さん、「奔流」ってわかりますか? ゴーゴーと音をたてて激しく流れる川のことです。それは恐ろしさを感じるほどです。それだけ勢いがあるということです。それは全地を覆うほどの勢いです。8節には、「エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』」とあります。それは全地をおおい、町も住民も滅ぼし尽くすほどの勢いなのです。
しかしいくら強力な軍事力を誇り、この世を支配するほどの勢力があっても、それらのすべては神様のご支配の中にあることを覚えておかなければなりません。神様がエジプトに病を下せば、どれほど効き目のある薬を使っても何の役にも立ちません。神様が低くすれば、国々の中では辱めを受けることになるのです。国や民族を栄えさせたり衰えさせたりするのは神様であられるからです。ですから、自分の人生がどれほど栄えているようなときでもへりくだり、逆にどれほど低い位置に置かれているようなときでも落胆せず、神に信頼しなければなりません。最近、アメリカの大統領が各国に相互関税を科し世界経済が不透明な中、自国民を守ることは大切なことですが、自分たちの力を誇り、世界中の国々を自分たちに従わせようとする言動は、厳に慎まれなければなりません。聖書に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18、新改訳第3版)とあるように、そのような国は、やがて滅びていくことになるからです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。
あなたはどうですか。すべてのことがうまくいっていると思うとき、へりくだって神の主権を認めているでしょうか。逆にうまくいかず辛い中にあるとき、落胆せずに神を信頼していますか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)あなたがどこにいても、すべての道で主を認めましょう。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。
また、それは同時に、神の御心に反してエジプトというこの世と同盟を結ぼうとしたユダの民に対する復讐でもあったと言えます。彼らは主なる神ではなくエジプトに頼り、エジプトに下って行きました。そのユダの不従順に対する報復でもあったのです。神様に頼らず、この世とその力に頼るとき、神様は彼らが頼るものを滅ぼされるのです。この世の力、この世の富、この世の権力に頼ることは、崩れる城壁の上に立っていることと同じことなのです。私たちが頼るべきお方はすべてを支配しておられる主だけです。ただ生を見上げ、主に拠り頼みましょう。
Ⅱ.その名を万軍の主という王のことば(13-26)
次に、13~26節までをご覧ください。エジプトに対するさばきことばが続きます。13節には「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を討つことについて、主が預言者エレミヤに語られたことば。」とあります。12節までには、B.C.605年のカルケミシュの戦いにおいてエジプトがバビロンに敗北する様子が預言されていましたが、ここには、エルサレムが陥落後、バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトを打つことについての預言が記されてあります。
14節には、「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聴かせて言え。」とありますが、それは、エジプトはもちろんのこと、ミグドル、メンフィス、タフパンヘスといったエジプトが支配していた都市にもバビロンの勢力が及びます。
15節には「なぜ、お前の押す牛は押し流されるのか。それは踏みとどまり得ない。主が彼を突き倒されたからだ。」とありますが、「おまえの雄牛」とは、偶像のことです。バビロンによって、エジプトが頼りとしていた雄牛の像が押し流されて立てなくなるという意味です。ここでは、偶像の空しさが露呈されているのです。
また19節には「メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ。と、メンフィスがエジプトに住む娘にたとえられていますが、そうした美しい娘のようなメンフィスは荒れ果て廃墟となり、住む人が誰もいなくなるというのです。
20節の表現はおもしろいですね。「エジプトは、かわいらしい雌の子牛。しかし北からアブが襲って来る。」とあります。「かわいらしい雌の子牛」とはエジプトのことです。そして「北から襲って来るアブ」とはバビロンのことを指しています。アブであるバビロンが北からやって来て、雌の子牛であるエジプトを刺すのです。アブないです。これは、バビロンの軍勢がエジプトを襲い征服するという比喩的表現です。
22節もおもしろいです。「「彼女の声は逃げ去る蛇の音のようだ。敵が軍勢を率い、木こりのように、斧を持って入って来るからだ。」とあります。「彼女の声」とは敗走するエジプト軍が立てる音ですが、それが逃げ去る蛇の音のようだというのです。敵であるバビロン軍が木こりのように斧を手に持ち、森の木々を切り倒すように、エジプト人を切り倒すからです。そのようにエジプトはバビロンによって辱められ、彼らの手に渡されることになるのです。
問題は、なぜそのようなことになるのかということです。15節に戻ってください。3行目にこうあります。「主が彼を突き倒されたからだ」。また26節にもこうあります。「わたしは彼らを、そのいのちを狙う者たちの手に、バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す。」
皆さん、お気づきになりましたか。これは主ご自身がなさることなのです。私たちは歴史の中で起こったことや今、この時起こっていることについて、なぜこんなことになったのかとその原因を分析したり考えたりしますが、実は、そうした出来事の背後には主の御手があるのです。そこにも主が働いておられるということです。このことは、私たちをより謙虚にさせてくれるのではないでしょうか。すべてのことは主の御心のままに導かれているのです。それが良いことであっても悪いことであっても。それは、そこにすべてのことを働かせて益としてくださるという主ご自身のご計画があるからです。それがどういうことなのか私たちにはわからなくても、そこに主が働いておられることを認め、その主にすべてをゆだねることが、私たちも想像もできないほどの神様の栄光が現わされていくことにつながっていくのです。
今週も聖書の学びとお祈り回がありますが、たとえばそれは、前回学んだエズラ記6章にも見られることでした。そこにはバビロン捕囚から帰還したユダの民が預言者ハガイとゼカリヤが語る神のことばに励まされて神殿再建を始めたわけですが、そぐに妨害が入りました。その地の総督タテナイやシェタル・ボゼナ、その同僚たちの妨害に遭って工事が難航するわけです。彼らはペルシャの王ダレイオスに書状を送って、キュロス王からの命令が下った事実を調べてほしいと訴えました。すると、ダレイオス王はエクバタナというところで一つの巻物を発見し、そこに確かにキュロス王によって命令が下されたことを確認したダレイオス王は、タテナイたちに、神の宮の工事をそのままやらせておくようにと命じただけでなく、何とその宮の完成のために、彼らが取り立てた税金の中からその費用を支払って、間違いなくそれが完成するようにせよ、と命じたのです。まさに災い転じて福となる、です。タテナイたちは立てなくなってしまいました。彼らのそうした妨害のお陰でユダの民はますます確信が与えられ、必要も満たされて、ダレイオス王の第6年についに神の宮を完成させることができたのです。いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖書はこう告げています。
「これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」(エズラ6:22)
それは主が成されたからです。その背後に主が働いておられたのです。すべては主のご計画によるのです。
「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)
であれば、私たちはそこに主の御手があることを認め、主が働かれ、事を行わせてくださることを信じなければなりません。
それがこの46章18節で言われていることです。ここには、「わたしは生きている。­その名を万軍の主という王のことば ­」とあります。どういうことですか。ここには3人の王の名前が出ています。バビロンの王と、エジプトの王、そしてこの万軍の主という王です。バビロンの王とはだれですか。ネブカドネツァルです。ではエジプトの王は誰でしょうか。ファラオ・ネコです。しかし、それだけではありません。ここにはもう一人の王がおられます。それは万軍の主という王です。それは、神の御座の右で全世界を治めておられる王の王であられる主イエス・キリストです。バビロンの王ネブカドネツァルは、神の道具となってエジプトを攻撃するために用いられました。エジプトの王ファラオの名声と権威は一時天に届く勢いでしたが、今や彼の時代は過ぎ去りました。しかし、万軍の主という王は、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、エジプトの王や将軍、兵士たちを退けました。この方こそ王の王、主の主であられる方なのです。この方が、これらすべてのことをなされるのです。私たちは、神の御座で全世界を納めておられる万軍の主という王であられるイエスを信じて、この方に拠り頼まなければなりません。
あなたの人生のまことの王は誰ですか。イエス様だけがあなたを救うことができます。イエス様だけがあなたに神の国をもたらすことができるまことの王なのです。
Ⅲ.ヤコブよ、恐れるな(27-28)
ですから第三のことは、恐れるな、ということです。27~28節をご覧ください。「46:27 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、だれにも脅かされずに平穏に安らかに生きる。46:28 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
エジプトに対するさばきを語られた後で主は、イスラエルに回復のメッセージを語られます。それは27節にあるように、彼らの子孫を捕囚の地から救い出すという約束です。神様は全世界をさばいても、ご自身の選びの民を必ず救われます。神の救いの御業は、さばきと並行してなされるのです。それは1枚の紙の両面のような関係です。エジプトはさばかれますが、イスラエルは回復の恵みにあずかるということが、対照的に語られているのです。エジプトは滅ぼし尽くされても、イスラエルが滅ぼし尽くされることはありません。だから恐れるなと。エジプトに対する激しい神様のさばきの預言の中で、イスラエルに対する慰めのことばが語られているのはこのためです。この世はさばかれることはあっても、神の契約の民は必ず救い出されるのです。31章3節にこうあります。
「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」
これが神様の愛です。神様の愛は永遠の愛なのです。永遠の愛とは、いつまでも、です。それは止まることがありません。神の愛はどんなことがあっても止まることがないのです。あなたがどんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、ずっと愛してくださいます。あなたの状態とは関係ありません。あなたがどんなに堕ちても、だれもあなたを受け入れない状況でも、神の愛は永遠にあなたに注がれているのです。それはあなたが優れているからではありません。あなたが良い人だからでもない。それはただ神があなたを愛されたからです。
この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることができます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができるのです。回復することができます。イスラエルもバビロン捕囚という憂き目に遭いましたが、この愛によってもう一度回復することができるのです。いい言葉ですね。「回復」。英語では「restoration」と言います。もう一度神に立ち返り、やり直すことができる。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。
このみことばを読んだ後で、もしあなたが神様のみことばは真理であると信じているなら、神様はイスラエルを見捨ててはおられないということ、あなたを見捨ててはおられなんいということを信じなければなりません。そして「恐れるな」、「おののくな」と言われる神様のことばに信頼しなければなりません。どんなにエジプトにさばきが下っても、あなたは恐れてはならないのです。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。
それが28節で約束されていることです。「わたしが、あなたとともにいるからだ」。この主があなたとともにおられます。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。それなのに恐れたり、心配しているとしたら、それはあなたがこの神のことばを信じていないということです。ただ頭だけで信じているだけです。救い主であり、全能者であられる主が私の人生にも働いておられるということを信じていないのです。主は私たちのたましいだけでなく、私たちの人生も救ってくださいます。病んだ心も肉体もいやしてくださいます。さまざまな生活の問題にも答えを与えてくだいます。それなのに、熱心に教会に通い、神様を信じていると言いながら、神様がいないかのような生き方をしているとしたら、それは観念的に信じているだけであって、実際の生活において神様が生きて働いておられることを信じられないのです。口では主は全能者であると言いながら、実際には「でも、さすがにこれは無理でしょ」とか思っているわけです。
主はイスラエルの歴史において働かれ、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトをさばかれ、イスラエルに懲らしめを与えただけでなく、その中から救い出してくださいました。そしてやがてそこから救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。その主がこのように約束してくださいました。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
主は今も生きておられます。今も生きてあなたとともにおられ、あなたの人生のただ中に働いておられるのです。あなたが成功しても失敗しても、健康な時も病気の時も、主はあなたとともにおられます。であれば、何を恐れる必要があるでしょう。その名を万軍の主という王がともにおられるなら、私たちは失望落胆する必要はないのです。
ただ、一つのことを覚えておかなければなりません。それは28節の最後にあるように、懲らしめはあるということです。「ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
 神様は、あなたとともにいて、あなたを救ってくださいますが、あなたが犯した罪については懲らしめを与えられます。それはあなたを滅ぼすためではなく、あなたを聖めるためです。懲らしめを喜ぶ人はいないでしょう。しかし、懲らしめがもたらす結果を喜ぶことはできます。その結果とは回復と聖めだからです。へブル12章11節にこうあります。
「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」
すべての懲らしめや訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。回復と聖めがもたらされます。それによって、主は私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてくださるのです。それこそクリスチャンとしての本望です。ですからそこに希望を置き、たとえ現状が苦しくてもそこから逃げないで、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けたいと思うのです。

分のために大きなことを求めるな エレミヤ書45章1~5節


聖書箇所:エレミヤ書45章1~5節(旧約P1376、エレミヤ書講解説教76回目)
タイトル:「自分のために大きなことを求めるな」
今日はエレミヤ書45章から、「自分のために大きなことを求めるな」というタイトルでお話します。これは、エレミヤの書記をしていたバルクに対して語られた主のことばです。5節に「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」とあります。バルクが求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。なぜそれを求めてはなかったのでしょうか。
 Ⅰ.バルクの嘆き(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。2 「バルクよ、イスラエルの神、【主】は、あなたについてこう言われる。3 『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」」
1節に「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年」とあります。これは、B.C.605年のことです。前回見た44章はユダの民に対するエレミヤの最後のメッセージでしたが、この45章はそれから30年後のことです。B.C.586年にバビロンによって滅ぼされた南ユダの民は、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれました。残りの民はエレミヤを通して語られた主のことばに背きエジプトに下って行きましたが、そのユダの民に語られたことばが44章にあったわけです。ですから44章との連続性はなく、むしろ内容的には36章の出来事の後のことです。36章にはどんなことが書かれてありましたか。ちょっと振り返ってみましょう。36章1~8節をご覧ください。
「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻物に書き記した。5 エレミヤはバルクに命じた。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。6 だから、あなたが行って、あなたが私の口述によって巻物に書き記した【主】のことばを、断食の日に【主】の宮で民の耳に読み聞かせよ。また、町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。7 そうすれば、【主】の前で彼らの嘆願が受け入れられ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからだ。」8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの書物を読んだ。」
ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときというのは、このときのことなのです。エレミヤは主から巻物を取って、イスラエルとユダとすべての国についてわたしがあなたに語ったすべてのことばをみな、書き記せと言われたので、書記のバルクを読んで、それをことごとく巻物に記しました。そのときエレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行くことができなかったので、代わりにバルクが行って、それを民に読み聞かせました。するとそれが王の耳にも入ることになりました。するとどうなったでしょうか。
それを聞いたエホヤキム王は激怒し、何とその巻物を数行ごとに小刀で切り裂き、暖炉の火の中に投げ入れ、すべてを燃やしてしまったのです。それを書き留めるのにどれほどの時間と労力を要したことでしょう。何せ、エレミヤがヨシヤ王の時からずっと預言してきたことを書き記してきたものですから。その期間、約22年間です。私が大田原に来てみことばを語って今年で22年になります。これまでの21年間に語ったメッセージは全部取ってありますが、それが焼かれたらどんな気持ちになるでしょう。おそらく、自分の存在が消し去られたような気持ちになるのではないかと思います。バルクはまさにそのような目に遭ったのです。そればかりか、エホヤキム王はバルクとエレミヤを捕らえようとしました。しかし主が彼らを隠されたので、彼らは難を逃れることができたばかりか、さらに多くのことばも加えて、もう一度エレミヤのことばを書きしました。とはいえ、この時のバルクの失望はいかばかりだったかと思います。その時の彼の思いが、ここに記されてあるのです。3節をご覧ください。
「『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」
ヨブのことばで言うなら、「生まれて来ない方が良かった」です。それほど辛い経験をヨブはしたわけですが、バルクも同じです。バルクはヨブほどの苦難を味わったわけではありませんが、心境は同じです。「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」と嘆きました。バルクの痛みとは何でしょう。それは心の痛みでした。主はそれに悲しみを加えられました。それが先ほど36章の出来事です。主のことばを語ってもだれも聞き入れてくれない。それどころか、それを語った自分さえも抹殺しようとしたのです。折角、書き留めた主のことばさえ火で焼き尽くしてしまいました。そんな状況に彼はホトホト疲れ果て、何の憩いも見いだせないと言ったのです。彼はエレミヤの秘書として、苦しみと試練を共にしてきました。それはエレミヤの信仰に共感すればこそのことですが、いざ自分のお尻に火が付くと、改めて自分の置かれた現実に目が覚めて、信仰が揺るがされたのです。
それはバルクに限らず私たちも同じではないでしょうか。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24)と言うのでイエス様を信じたんじゃないですか。それなのに死からいのちにどころか、いのちから死に移っているのではないかと思えたるような時、あるいは、「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:2-3)とあるから、その通りに従って来たのに、実を結ぶどころか枯れていきそうだと感じる時、私たちもバルクのように、主は私の痛みに悲しみを加えられた、私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せないとつぶやいてしまうことがあるのではないでしょうか。
最近、あるクリスチャンの姉妹から電話がありました。土地のことでトラブルになったが、神様のみこころはどうしたらわかるのでしょうかという内容でした。固定資産税のことを考えると一日も早く地目変更をして売却した方がいいと思い自分なりに必死に取り組みましたが、逃げるに逃げられない状況になってしまったというのです。そんな時、ディボーションで私たちの教会のホームページからサムエル記のメッセージをずっと読み続ける中でダビデの信仰に触れ、どうしてもお聞きしたいということでした。1時間半の間ひたすらお話を聞きながら、この方が、ここは自分の思いで動かないでしばらく待つことにしたと言われました。確かに固定資産税は心配ですが、それも神様にゆだねることにしました。そう決めたら平安があるんですと。でもこの方には2人のノンクリスチャンの妹さんがおられるのですが、責められるんだそうです。
「お姉ちゃん、何やってるの。早くしないと固定資産税が大変になるじゃない。クリンチャンライフって大変だね。こんな状況になっても神様を信じるの?神様を信じて何になるのよ。神様って何?」
これが普通でしょ。でもみことばに従って神の時を待つことにしたら、神様は不思議な方法で滞納していた税金分のお金を与えてくださいました。ですから、彼女は「これだ!」という確信があるのですが、このまま神様が示してくださるまで待っていて良いのでしょうか、ということでした。
信仰生活を送る上で、自分の身が危うくなりそうな状況になったらどんなことばが口をついて出てくるでしょう。その思いが、神とエレミヤの目に留まりました。それで主はエレミヤを通してバルクに対することばを語られたのです。ですから、これは今日のあなたに対する主の励ましのことばでもあるのです。
Ⅱ.自分のために大きなことを求めるな(4-5a)
そんなバルクに対して主が語られたことはどんなことだったでしょうか。それは、自分ために大きなことを求めるなということでした。4節と5節の前半までをご覧ください。
「4エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『【主】はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。」
主がエレミヤを通してバルクに語られたことは、自分のために大きなことを求めるな、ということでした。これはどういうことでしょうか。彼が自分のために求めていた大きなこととは、いったい何だったのでしょうか。新聖書注解という注解書の中で安田吉三郎先生は、このように解説しています。
「バルクは何を期待していたのであろうか。彼が預言者エレミヤに従った時、この預言者の働きによって国の運命は転換し、その結果彼は新しいイスラエルにおいて名声と高い地位と富が得られると考えたのであろうか。名門の出のバルクにとって、このような野心は無縁だとは言い切れない。エレミヤの預言を書に記し、これを神殿で人々に朗読した時、バルクは、人々の心の中に革命が起こると期待したかもしれない。さらに自分の巻物が首長たちに読まれ、その上王の前で朗読されると聞いた時、彼の心は恐れと期待におののいていたのではないだろうか。」
これは安田吉三郎先生の憶測ですが、的を得ていると思います。というのは、その前後の文脈をみると、そのようにあるからです。4節には、主はご自分が建てたものを自分で壊し、植えたものを自分で引き抜かれる方であると言われています。つまり、主は主権者であられるということです。そしてそのように言われた後で、5節に「見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ─主のことば──」と言われました。つまり、それはバルクが思い描いたようにはならないということです。
バルクは預言者エレミヤの口述筆記者という名誉ある役割が与えられていました。1節には、彼はネリヤの子とありますが、彼は名門の出身で、教養も豊かな人物でした。エレミヤ51章59節には、彼の兄セラヤはゼデキヤ王の時に高官だったことがわかります。恐らく彼は、兄と同じような地位に就くことを願っていたのでしょう。もし預言者エレミヤについて行き、エレミヤの預言によって王や首長たちが悔い改めるなら、ユダ王国に新しい未来が開かれることになります。そうなったらエレミヤは国の中で重要な地位に就くことでしょう。それは、エレミヤの書記である自分の昇進をも意味していました。ちょうどイエス様の弟子でゼベダイのふたりの子ヤコブとヨハネがイエス様に、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(マルコ10:37)と願ったように、です。
しかし、彼の期待は見事に裏切られることになります。事態は彼が願ったようにはいかなかったのです。むしろ逆でした。エホヤキム王やユダの首長たちは悔い改めるどころか、逆に彼らの怒りをかうことになり、口述筆記した巻物は切り裂かれ、暖炉の火で燃やしてしまいました。それどころか、彼の身にも危害が加えられる恐れがありました。彼の夢は脆くも崩れ去ってしまったのです。それは主がご自身に立ち返ろうとしない民にわざわいを下そうとしておられたからです。バルクがどんなに高貴な家の出で、優秀な者であっても、彼は一つのことを理解しなければなりませんでした。それは、主は私たちが関わるすべての物事の主権者であられるということです。4節の「わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。」ということばは、この真理を明らかにしています。それなのに彼は、自分ために大きなことを求めていたのです。
何事でも「自分のために」という思いが強すぎると、実際に思うようにいかない時、バルクのように嘆き、失望し、疲れ果ててしまうことになります。大切なのは、主が私たちに関わるすべての物事の主権者であられると認め、自分はそのための管にすぎないことを自覚することです。そうでないと、自分のしたことに一喜一憂することになるからです。イエス様は弟子たちにこう言われました。
「17:9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)
これがイエス様のしもべである私たちに求められている姿勢です。もしあなたが主に命じられたことをすべて行ったら、こう言うべきです。「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。それは、この世の価値観とは全く逆です。この世では、自分のしたことに対して、その報いがあるかないかを尺度にして生きています。たとえば、それをやったらどれだけ報酬があるかとか、どれだけ昇進するかといったことです。けれども、そのような生活は失望や落胆、また有頂天になることの繰り返しで、疲れ果ててしまうことになります。自分のために大きなことを求めるのではなく、主のために大きなことを求めなければなりません。それは主に対して忠実であること、ただ主が言われていることを行っているということ、そして成果ではなく、主との関係、主との交わりを喜び、これを求めることです。そうすれば、目先の報いに左右されることはなくなります。
こんなコラムを読みました。ご主人が出張で数日間家を留守にする時、4歳の息子が、「パパはあと何個寝たら帰って来るの?パパは今どこにいるの?何をしているの?」と一日に何度も尋ねてきたそうです。公園で遊んでいても、美味しいおやつを食べていても、どんなに楽しいことをしていても、息子の頭の中にあるのは常に「お父さんは?」でした。
 そんな息子の姿を見ながら、自分は息子のように神様のことを求めているか」と考えさせられたそうです。
聖書に、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)とあります。自分の願い、自分の計画、自分の必要ばかりに意識を向けていたら、気付かないうちに、この世と調子を合わせてしまうことになります。神様のみこころだけが、私たちを暗やみから光へと引き上げてくれます。だから、神のみこころに焦点を合わせなければなりません。忙しくて、お皿洗いながらしか祈れない時もあります。疲れ切って聖書を読んだり、祈れない時もあるでしょう。しかしそのような時こそ、より深いところへ進んでいくための神からの招きの時なのです。神様と共にありたいという奥深い心の飢え渇きを満たしてくれる時なのです。
 3Dのイラストをじっと集中して一点を見続けていると、絵が浮かび上がって立体的に見えてきます。そのようにいったん手を止めて、全神経を集中させ、神様を求め、探し、たたく時間が私たちに必要なのです。
Ⅲ.神の約束(5b)
しかし、そんなバルクに対して主は、一つの報いを与えると約束してくださいました。それは彼のいのちを守られるということです。5節後半をご覧ください。
「しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」
神はバルクに、この世での成功は約束されませんでしたが、彼のいのちが守られることを保証されました。「あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」とは、そういう意味です。リビングバイブルでは「わたしはこの民に大きなわざわいを下すが、あなたには報いとして、あなたがどこへ行っても、あなたのいのちを守る」とあります。バルクが受ける報いは、ただ彼のいのちを保つということでしたが、これほど素晴らし約束があるでしょうか。神の使命を忠実に成し遂げた後の報いは、この世の富や名誉で測ることができるものではありません。それはいのちを保つということ、永遠のいのちに与るということです。
バルクは、エレミヤたちとともにエジプトに連れて行かれましたが、彼にとっては、どこに行くかは大きな問題ではありませんでした。どこにいても、いのちを守られる主がともにおられるということ、この真実に心を留めることが大切だったのです。
バルクは、エルサレム陥落を目撃し、エレミヤに同行してエジプトに下り、そこでエレミヤの死を見届けました。その過程で彼は、自らの使命に目覚めたのです。それは自分のために大きなことを求めるのではなく、これらいっさいの事柄の証人となり、それを後世に伝えることでした。そしてエレミヤの預言を「エレミヤ書」という形にまとめたのです。自分に対する預言をエレミヤ書のこの箇所に置いたのも彼です。明確ではありませんが、エレミヤは、このバルクへのことばを、晩年になって彼に伝えたのかもしれません。バルクは、預言者エレミヤの死後も生きて、この記録を預言者エレミヤの生涯の記録のあとに、そっと補足として加えたのだろうと考えられています。44章でエレミヤの生涯の預言を書き終えた後に、どうしてこの記事がここに挿入されているのかは、そのような理由からでしょう。個人的に成功するかどうかは、主のみこころがなるかどうかに比べたら、取るに足りない小さなことではありませんか。バルクはその生涯の中で、このことを学んだのです。
それは私たちも同じです。私たちにとって大切なのは、自分のために大きなことを求めることではなく、自分の身を通して神の栄光が現わされること、みこころが天で行われるように、地でも行われますようにと祈り求めることなのです。

エレミヤの最後の預言 エレミヤ書44章15~30節

聖書箇所:エレミヤ書44章15~30節(旧約P1374、エレミヤ書講解説教75回目)
タイトル:「エレミヤの最後の預言」
前回から、エレミヤ書44章から学んでいます。これはエレミヤがユダの民に語った最後の預言、最後のメッセージです。最後のメッセージということは、とても重要なメッセージであるということです。そうでしょ、皆さんも最後に何かを語るとしたら本当に大切なことを語るのではないでしょうか。皆さんが最後に家族に言うことがあるとしたら何を伝えますか。昨日は、本当にいい天気だったね、なんて言わないと思います。イエス様が最後に語ったことばはマタイ28章18~20節にありますが、それは、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい、ということでした。大宣教命令ですね。これが、イエス様が最後に弟子たちに言われたことです。ですから、あらゆる国の人々を弟子とするということは、私たちクリスチャンにとってとても重要なことです。ではエレミヤを通して主が語られた最後のメッセージはどのようなことだったのでしょうか。
 Ⅰ.それって、本当ですか?(15-19)
まず、15~19節をご覧ください。「44:15 そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。44:16 「あなたが【主】の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。44:18 だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」44:19 「私たち女が、天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、夫をなおざりにしてのことだったでしょうか。」
「そのとき」とは、その前の14節までに語られていたときのことです。それはユダの町々とエルサレムが滅ぼされたのは、彼らの先祖たちが主に背いてほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えたからでした。彼らは心砕かれず、神を恐れず、神から与えられた律法と掟に歩みませんでした。それなのになぜ、あなたがたは同じことをするのか。それで主は、エジプトに下って行ったユダの民を絶ち滅ぼすと宣言されました。「そのとき」です。
そのとき、自分の妻たちがほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っていた女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民が、エレミヤにこう言いました。16節です。
「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」
エジプトに下って行ったユダの民は、改めてエレミヤによって語られた主のことばに従わないと言いました。この時従おうとしなかったのは、ユダの指導的な立場にあった人たちだけではありません。エジプトに移り住んだすべての民です。
エレミヤは、かつて「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(17:9)と言いましたが、この時の彼らの態度は、まさにそれを証明していました。彼らはかつて、自分たちも父祖たちも、自分たちの王も首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲(いけにえ)をささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたいと言ったのです。なぜでしょうか?17節後半から18節をご覧ください。ここで彼らはこのように言っています。
「私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」
えっ、それって本当ですか?彼らも彼らの父祖たちも、エルサレムの通りで行っていたように、天の女王にいけにえを備え、注ぎのぶどう酒を注いでいたとき、パンに満ち足りて幸せだったんですか?それを止めたときから、万事に不足し、剣と飢饉によって滅ぼされたんですか?ウソです。それは事実ではありません。実際は逆です。彼らがその身にわざわいを招くようになったのは、彼らが彼らの神、主の警告を無視して天の女王に犠牲を供えて仕えたからです。
この「天の女王」については、すでに7章18節に出てきましたが、古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていた神々のことです。たとえば、カナンではアシュタロテという神です。これは女神です。バビロンではイシュタル、ギリシャではアフロデテ、ローマではビーナスなどです。彼らはそうした偶像に仕えていたから自分たちはわざわいにあわなかったと言っていますが、実際には、彼らがわざわいにあわなかったのは、主が彼らをあわれんでおられたからです。彼らはそのことに全く気付いていませんでした。つまり、彼らの過去に対する認識とか歴史観というのは、目の前の一時的な現象だけを見て判断する、いわゆるこの世のご利益信仰と何ら変わらないものだったのです。物事がうまくいっているときはハレルヤと賛美しても、そうでないと、いとも簡単に神様を捨て去り、ほかの神々を求めたのです。このような自分の欲望を満たすことを基準にした信仰は、過去の事実さえも歪めてしまうことになるのです。
かつてエジプトから脱出したイスラエルの民もそうでしたね。彼らは、エジプトを出て荒野に導かれたとき、モーセとアロンに向かって不平を言いました。
「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)
それって、本当ですか?エジプトにいた時、彼らは本当に幸せだったのでしょうか。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていましたか。違います。彼らは奴隷として酷い仕打ちを受けていました。それなのに彼らはそのことをすっかり忘れていたのです。なぜでしょうか?自分の欲望を満たすものを神だと思い込んでいたからです。
それは私たちにも問われていることです。私たちも信仰をそのように捉えていると、目の前に試練や苦難が起こったり自分の思うようにいかなかったりすると、あたかも神様を信じていなかった時の方が良かったと錯覚するのです。でも、それって本当ですか?違います。15、16、17と私の人生暗かった・・・。イエス様に出会う前は、皆さんも暗かったんじゃないですか。確かに自分が好きなように自由に生きていたかもしれません。でもその結果は、自分が何をしているのかもわからない空しい人生だったはずです。私は今でも覚えていますよ。私の人生の華は高校時代でしたから。自分が好きなように、それこそ自分の肉と欲と心の望むままに生きていました。でもその結果は、空しさでした。エペソ2章1節には、それは、自分の背きと罪との中に死んでいた者であり」と言われています。そうです、これぞ我が人生と思っていた人生は、死んでいたものだったのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きと罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。ハレルヤ!
それなのに、神様を信じる前の方が良かった、この世の神、天の女王にささげものを捧げていた時の方が幸せだったと主張するのはナンセンスです。正しくありません。
私はチューリップというバンドが好きでよくCDを聴くのですが、その中に「夏の終わり」という歌があります。
「夏は冬にあこがれて、冬は夏に帰りたい。
あの頃のこと今では すてきにみえる。」
まさに、ないものねだりの子守歌ですね。夏になると冬にあこがれ、冬になると夏がすてきに見えます。でも実際は、夏は夏で厳しい暑さに苦しみ、冬は冬で凍てつくような寒さに苦しむのです。でも暑いと冬はいいなぁと感じ、寒いと夏がいいなあと思うのは、その現象だけを見て判断するからです。でも神によって救われた恵みを基準にして進む人は違います。そういう人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができます。今、自分に降りかかっている災難と思えるようなことさえも、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じているからです。
ですから、自分の感情や気分といったものを当てにしないで信じることです。そういうものは体の調子や周囲の事情、さては天候によっても左右されるものだからです。しかし私たちの信仰はけっして人間の側の何かによってもたらされるものではなく、神様の言葉によって保証されるものです。ですから、真実な神の約束である聖書の御言葉を信じる時、そこに神が約束されていることを知ることによって、揺れ動くことのない確かな信仰の土台を築くことができるのです。
あなたは自分が置かれている状況を、どのように理解していますか。神様の言葉を基準にして、神様の視点で解釈しているでしょうか。自己中心的な解釈は神の語りかけを締め出し、祝福の機会を失うという結果をもたらすのです。
Ⅱ.神のさばきの宣言(20-28)
そんな考え方をしていた彼らに、エレミヤは何と言いましたか。20~28節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「44:20 そこでエレミヤは、そのすべての者、すなわち、男たちと女たち、また彼に口答えした者たち全員に言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムの通りで、あなたがたや、あなたがたの先祖、王たち、首長たち、また民衆が犠牲を供えたことを、【主】が覚えず、心に上らせなかったことがあるだろうか。44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌み嫌うべきことのために、もう耐えることができず、それであなたがたの地は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖のもと、ののしりの的となったのだ。44:23 あなたがたが犠牲を供えたため、また、【主】の前に罪ある者となって、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と掟と証しに歩まなかったために、今日のように、あなたがたにこのわざわいが起こったのだ。」」
そのように主張するユダの民に対してエレミヤは、正しい認識を示します。つまり、ユダの町々やエルサレムにわざわいが下ったのは、彼らが天の女王を拝むことを止めなかったからです。そのことを主はちゃんと覚えておられ、もう耐えることができなくなられたからです。
そんなエレミヤのメッセージに耳を傾ける者など一人もいませんでした。それでもなお、エレミヤは、すべての民、すべての女たちに真実を語り続けます。それが24~28節の内容です。これがエレミヤの最後の預言、最後のメッセージとなります。それは次の4つのことでした。
まず25節をご覧ください。ここには、「『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束し、自分の手で果たしてきた。あなたがたは、天の女王に犠牲を供えて彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐという誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かなものとし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』」とあります。
 ここには、あなたがたが天の女王に誓った誓願を必ず果たせ、とあります。これは皮肉的な勧めです。その語調には、挑戦とも、あきらめともとれるようなニュアンスが見られます。
二つ目のことは、26節です。「それゆえ、エジプトの地に住むすべてのユダの人々よ、【主】のことばを聞け。『見よ、わたしはわたしの大いなる名によって誓う──【主】は言われる──。エジプトの全土において、「【神】である主は生きておられる」と、わたしの名がユダの人々の口に上ることはもうなくなる。」
これは、彼らが主に立ち返って赦されることは二度とないということです。いわば決定的なさばきの宣告です。主はどんな罪でも赦してくださいます。しかし、悔い改めなければ、赦したくても赦すことはできません。
そして三つ目のことは27節です。「見よ、わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの地にいるすべてのユダの人々は、剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せる。」
どういうことですか?エジプトにいるすべてのユダヤ人は、不信仰のゆえに剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せるということです。
しかし28節を見ると、もう一つのことが記されてあります。それは、「剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」ということです。この「剣を逃れる少数の者」とは、イスラエルの残りの者たちのことです。どの預言者も、ユダに対する神のさばきだけでなく、そこにさばきを逃れる少数の者たちがいることを預言しています。神にあっては、絶望的な状況の中にも希望があるということです。そこからやがて救い主が遣わされることになります。ですから、悔い改めができなくなるほどまで罪に染まり切ってはなりません。主にあっては、必ず希望があるからです。その希望を見上げて救いの道を歩ませていただこうではありませんか。
Ⅲ.神のことばは必ず成就する(29-30)
最後にエレミヤは、神からのしるしを彼らに伝えます。これがエレミヤの最後のメッセージの最後です。これが、主がエレミヤを通して伝えたかったことです。29~30節をご覧ください。「44:29 これが、あなたがたへのしるしである──【主】のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』44:30 【主】はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」」
これが彼らに対するしるしです。すなわち、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されたように、エジプトの王ファラオ・ホフラも彼のいのちをねらう敵の手に渡されるというのです。これがしるしです。何のしるしかというと、エジプトで主が彼らを罰すると語られたことばが必ず成就することのしるしです。この預言の通り、この時から18年後にバビロンがエジプトに侵入し、エジプトの王ファラオ・ホラフは将軍アマシスの謀反によって殺されることになります。B.C.565年のことです。主のことばは必ず成就するのです。だから神のことばに従うようにと、エレミヤは語るのです。これがエレミヤの最後の最後のメッセージでした。
エレミヤはすべての者たちから見捨てられてもなお、神のことばに絶対的な信頼を寄せていました。彼はおそらく自分に言い聞かせるような思いで、これがあなたがたへのしるしだと告げたのでしょう。イエス様はこう言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31) 
天地は滅び去ります。しかし、主のことばは決して滅び去ることはありません。たとえ天地が滅び去り、すべてが無くなったとしても、主のことばは決して滅びることはないのです。必ず成就します。これこそ、私たちにとって真の慰めではないでしょうか。
預言者イザヤはこう言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7-8)
すべての人は草のようです。その栄光は花のようです。それはすぐに枯れてしまい、しぼんでしまいます。朝に生え出たかと思ったら、夕べにはしおれてしまいます。人はそんなの草や花のようなのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って自分の顔を鏡でよく見てください。いつの間にか白髪が増えたなぁと気が付くでしょう。しみやしわが増えたことがわかります。あんなに若々しかったのに、いつの間にか老けてしまいました。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきました。あんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせてしぼんでしまいました。あの人は教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、その人生は70年か80年で終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。人生はあっという間に過ぎ去ります。ソロモンはこれを「空の空。すべては空」だと言いました。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。
祗園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘(かね)の声(こえ)、諸行無常(むじょう)の響きあり。
娑(さ)羅(ら)双樹(そうじゅ)の花の色、 盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)の理(ことわり)をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、唯(ただ)春(はる)の夜の夢のごとし。
たけき者(もの)も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。(平家物語)
祇園精舎の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがあります。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるということを表しています。どんなにこの世で栄えても、その栄えはずっとは続きません。まさに春の夜の夢のようです。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じなのです。そう詠ったのです。実に空しい存在です。
こんなこと言われても全然慰めになりません。そうです、この世には、真の慰めはないのです。ですから、この現実をしっかりと見つめそれを額面通り受け止めるなら、それが慰めになります。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれません。決して受け入れたくないでしょう。でも、これが現実なのです。事実を事実として受け止められるなら慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだと。いつまでも咲き誇っているわけではない。いつかしぼんでいきます。やがて死んでいく。それは明日かもしれません。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれない。人生はそんなに長くないのです。草花のようにすぐにしぼんでいくものでしかありません。その事実を受け入れその先にある希望をしっかり見つめて生るなら慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、人は慰めを受けるのです。
詩篇102篇25~28節にはこうあります。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」
この地上のものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美しさも、失われる時がやってきます。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生をかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないからです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。この方に信頼すれば慰めを得られるのです。
主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
これこそ慰めではないでしょうか。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなっても、神は約束を違(たが)える方ではありません。そのおことばの通りにあなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはありません。
ですからパウロはこう言ったのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちは天の御国で永遠に生き続けるからです。しかも、先週はイースター礼拝でフレミング先生から私たちはやがて栄光のからだに復活するということが語られましたが、イエス・キリストが再び来られる時、永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえるのです。そうしていつまでも主とともにいるようになります。ここに希望があります。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられているのです。その御霊によって私たちはやがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができるのです。主はそのために初穂としてよみがえられました。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わることのない神のことば、聖書のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいと思うのです。これが真の慰めのメッセージです。これが、主がエレミヤを通してユダの民に伝えたかった最後のメッセージだったのです。

 

エレミヤの最後の預言 エレミヤ書44章15~30節


聖書箇所:エレミヤ書44章15~30節(旧約P1374、エレミヤ書講解説教75回目)
タイトル:「エレミヤの最後の預言」
今日は、エレミヤ書44章後半からお話します。これはエレミヤがユダの民に語った最後の預言、最後のメッセージです。最後のメッセージということは、とても重要なメッセージであるということです。そうでしょ、皆さんも最後に何かを語るとしたら本当に大切なことを語るのではないでしょうか。皆さんが最後に家族に言うことがあるとしたら何を伝えますか。昨日は、本当にいい天気だったね、なんて言わないと思います。イエス様が最後に語ったことばはマタイ28章18~20節にありますが、それは、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい、ということでした。大宣教命令ですね。これが、イエス様が最後に弟子たちに言われたことです。ですから、あらゆる国の人々を弟子とすることが救われたクリスチャンにとってとても重要であることがわかります。ではエレミヤを通して主が語られた最後のメッセージはどんなことだったのでしょうか。
 Ⅰ.それって、本当ですか?(15-19)
まず、15~19節をご覧ください。「44:15 そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。44:16 「あなたが【主】の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。44:18 だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」44:19 「私たち女が、天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、夫をなおざりにしてのことだったでしょうか。」
「そのとき」とは、その前の13節までのことが語られた時のことです。それはユダの町々とエルサレムが滅ぼされたのは、彼らの先祖たちが神に背きほかの神々のところに行って、犠牲を供えて仕えたからだ、ということでした。彼らは心砕かれず、神を恐れず、神から与えられた律法と掟に歩みませんでした。それなのになぜ、あなたがたは同じことをするのか。それで主はエジプトに下って行ったユダの民を絶ち滅ぼすと宣言されました。「そのとき」です。
そのとき、自分の妻たちがほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民が、エレミヤにこう言いました。16節です。
「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」
この時、エレミヤの預言に従おうとしなかったのは、ユダの指導的な立場にあった人たちだけではありません。エジプトに移り住んだすべての民です。
エレミヤは、かつて「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(17:9)と言いましたが、この時の彼らの態度は、まさにそれを証明していました。彼らはかつて、自分たちも父祖たちも、自分たちの王も首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲(いけにえ)をささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたいと言ったのです。なぜでしょうか?17節と18節で彼らはこのように言っています。
「私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」
えっ、それって本当ですか?ウソです。それは事実ではありません。実際は逆です。彼らがその身にわざわいを招くようになったのは、彼らが彼らの神、主の警告を無視して天の女王に犠牲を供えて仕えたからです。この「天の女王」については、すでに7章18節に出てきましたが、古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていた神々のことです。たとえば、カナンではアシュタロテ、バビロンではイシュタル、ギリシャではアフロデテ、ローマではビーナスなどです。彼らはそうした偶像に仕えていたから自分たちはわざわいに遭わなかったと言っていますが、実際にはそうではなく、主が彼らをあわれんでおられたからです。彼らはそのことに全く気付いていませんでした。つまり、彼らの過去に対する認識とか歴史観というのは、一時的な現象だけを見て判断する、いわゆるこの世のご利益信仰そのものだったのです。物事がうまくいっているときはハレルヤと主をほめたたえても、そうでないといとも簡単に神様を捨て去ったのです。このような自分の欲望を満たすことを基準にした信仰は、過去の事実さえも歪めてしまうことになるのです。
出エジプトしたイスラエルの民もそうでしたね。彼らは、エジプトを出て荒野に導かれたとき、モーセとアロンに向かって不平を言いました。
「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)
それって、本当ですか?エジプトにいた時、彼らは本当に幸せだったのでしょうか。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていましたか。違います。彼らは奴隷として酷い仕打ちを受けていました。それなのに彼らは、そのことをすっかり忘れていたのです。なぜでしょうか?彼らは自分の欲望を満たすものを神だと思い込んでいたからです。
それは私たちにも問われていることです。私たちも信仰をそのように捉えていると、目の前に試練や苦難が起こると、神様を信じていなかった時の方が良かったと、以前の生活に逆戻りしてしまうことが起こります。でも、それって本当ですか?違います。15、16、17と私の人生暗かった・・・ではないですが、イエス様に出会う前は、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であり、この世の流れに従い、悪魔の権威を持つ支配者の霊に従って歩んでいました。その結果、自分の肉の欲と心の望むままに生き、神の怒りを受けるべき子らでした。それは本当に空しい人生でした。しかし、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過と罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。ハレルヤ!それなのに、神様を信じる前の方が良かった、この世の神、天の女王にささげものを捧げていた時の方が幸せだったと主張するのは正しくありません。
私はチューリップというバンドが好きでよくCDを聴くのですが、その中に「夏の終わり」という歌があります。
「夏は冬にあこがれて、冬は夏に帰りたい。
あの頃のこと今では すてきにみえる。」
まさに、ないものねだりの子守歌ですね。夏になると冬にあこがれ、冬になると夏がすてきに見えます。でも実際は、夏は夏で厳しい暑さに苦しみ、冬は冬で凍てつくような寒さに苦しむのです。でも、暑いと冬はいいなぁと感じ、寒いと夏がいいなあと思うのは、その現象だけを見て判断するからです。でも、神によって救われた恵みを基準にして進む人は違います。そういう人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができる。今、自分に降りかかっている災難と思えるようなことさえも、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じているからです。
ですから、自分の感情や気分といったものを当てにしないで信じることです。そういうものは体の調子や周囲の事情、さては天候によっても左右されるものだからです。しかし私たちの信仰はけっして人間の側の何かによってもたらされるものではなく、神様の言葉によって保証されるものです。ですから、真実な神の約束である聖書の御言葉を信じる時、そこに神が約束されていることを知ることによって、揺れ動くことのない確かな信仰の土台を築くことができるのです。
あなたは自分が置かれている状況を、どのように理解していますか。神様の視点から解釈しているでしょうか。自己中心的な解釈は神の語りかけを締め出し、祝福の機会を失うという結果をもたらすのです。
Ⅱ.神のさばきの宣言(20-28)
そんな考え方をしていた彼らに、エレミヤは何と言いましたか。20~28節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「44:20 そこでエレミヤは、そのすべての者、すなわち、男たちと女たち、また彼に口答えした者たち全員に言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムの通りで、あなたがたや、あなたがたの先祖、王たち、首長たち、また民衆が犠牲を供えたことを、【主】が覚えず、心に上らせなかったことがあるだろうか。44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌み嫌うべきことのために、もう耐えることができず、それであなたがたの地は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖のもと、ののしりの的となったのだ。44:23 あなたがたが犠牲を供えたため、また、【主】の前に罪ある者となって、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と掟と証しに歩まなかったために、今日のように、あなたがたにこのわざわいが起こったのだ。」」
天の女王礼拝を主張する彼らに、エレミヤは正しい認識を示します。つまり、ユダの町々やエルサレムにわざわいが下ったのは、彼らが天の女王を拝むことを止めたからではなく、彼らが主の律法を無視して、預言者たちの警告を退けたからだと。それで、主は彼らの不信仰と偶像礼拝に耐えられなくなられたのです。
そんなエレミヤのメッセージに耳を傾ける者など一人もいなかったでしょう。それでもなお、エレミヤは、すべての民、すべての女たちに真実を語り続けます。それが24~28節の内容です。これがエレミヤの最後のメッセージとなります。それは以下の4つのことでした。
まず25節をご覧ください。ここには、「『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束し、自分の手で果たしてきた。あなたがたは、天の女王に犠牲を供えて彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐという誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かなものとし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』」とあります。
 ここには、あなたがたが天の女王に誓った誓願を必ず果たせ、とあります。これは皮肉的な勧めです。その語調には、挑戦とも、あきらめともとれるようなニュアンスが見られます。
二つ目のことは、26節です。「それゆえ、エジプトの地に住むすべてのユダの人々よ、【主】のことばを聞け。『見よ、わたしはわたしの大いなる名によって誓う──【主】は言われる──。エジプトの全土において、「【神】である主は生きておられる」と、わたしの名がユダの人々の口に上ることはもうなくなる。」
これは、彼らが主に立ち返って赦されることは二度とないということです。決定的なさばきの宣告です。主はどんな罪でも赦してくださいます。しかし、悔い改めなければ、赦したくても赦すことはできません。
そして第三のことは、27節にあります。「見よ、わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの地にいるすべてのユダの人々は、剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せる。」
どういうことですか?エジプトにいるすべてのユダヤ人は、不信仰のゆえに剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せるということです。
しかし28節を見ると、もう一つのことが記されてあります。それは、「剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」ということです。これはイスラエルの残りの者たちのことです。どの預言者も、神のさばきを逃れる少数の者たちがいることを預言しています。神にあっては、絶望的な状況の中にも希望があります。ですから、悔い改めができなくなるほどまでに、罪に染まり切ってはなりません。主にあっては、必ず希望があるからです。その希望を見上げて救いの道を歩ませていただこうではありませんか。
Ⅲ.神のことばは必ず成就する(29-30)
最後にエレミヤは、神からのしるしを彼らに伝えます。これがエレミヤの最後のメッセージの最後です。これが主がエレミヤを通して心から伝えたかったことです。29~30節をご覧ください。「44:29 これが、あなたがたへのしるしである──【主】のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』44:30 【主】はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」」
これが、彼らに対するしるしです。すなわち、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されたように、エジプトの王ファラオ・ホフラも彼のいのちをねらう敵の手に渡されるというのです。これがしるしです。このしるしは、エジプトで主が彼らを罰するという主のことばが必ず成就することのしるしですが、この預言の通り、この預言から18年後にバビロンがエジプトに侵入し、エジプトの王ファラオ・ホラフは、将軍アマシスの謀反によって殺されることになります。B.C.565年のことです。主のことばは必ず成就するのです。
エレミヤは、すべての者たちから見捨てられても、なおも、神のことばに絶対的な信頼を寄せていました。エレミヤは、おそらく自分に言い聞かせるような思いで、これが、あなたがたへのしるしであると告げたのでしょう。イエス様はこう言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31) 
天地は滅び去ります。しかし、主のことばは決して滅び去ることはありません。たとえ天地が滅び去り、すべてが無くなったとしても、主のことばは決して滅びることはないのです。必ず成就します。これこそ、私たちにとって最高の慰めではないでしょうか。
預言者イザヤは、こう言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7-8)
すべての人は草のようです。その栄光は花のようです。それはすぐに枯れてしまい、しぼんでしまいます。朝に生え出でて栄えたかと思ったら、夕べにはしおれてしまいます。人はみなこの草や花のようなのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って自分の顔を鏡でよく見てください。いつの間にか白髪が増えたなぁと気が付くでしょう。しみやしわが増えたことがわかります。あんなに若々しかったのに、いつの間にか老けてしまいました。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきました。あんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせて、しぼんでしまいました。だれだれは大学を出て教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、その人生は70年か80年で終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。人生はあっという間に過ぎ去ります。本当に空しいです。ソロモンはこれを「空の空。すべては空」と言いました。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。
祗園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘(かね)の声(こえ)、諸行無常(むじょう)の響きあり。
娑(さ)羅(ら)双樹(そうじゅ)の花の色、 盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)の理(ことわり)をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、唯(ただ)春(はる)の夜の夢のごとし。
たけき者(もの)も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。
祇園精舎の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがあります。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるということを表しています。どんなにこの世で栄えても、その栄えはずっとは続きません。まさに春の夜の夢のようです。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じなのです。そう詠いました。人間は、実に虚しい存在なのです。
こんなこと言われても全然慰めになりません。そうです、この世には、真の慰めはないのです。ですから、この現実をしっかりと見つめ、それを額面通り受け止めるなら、それが慰めになります。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれませんし、決して受け入れたくないでしょう。でも、これが事実なのです。事実を事実として受け止められるなら慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだと。いつまでも咲き誇っているわけではない。いつかしぼんでいきます。やがて死んでいくのです。それは明日かもしれない。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれません。人生はそんなに長くないのです。草花のようにすぐにしぼんでいく者でしかありません。その事実を受け入れその先にあるものを希望として生きていくなら、慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、人は慰めを受けるのです。
多くの人たちは草や花であるのに、いつまでもゴージャスな花を咲かせようと躍起になっています。健康を保とうと、美しさを保とうとあれこれやるのはいいですが、やりすぎて疲れ果てているのです。しかし、このことを受け止めることができれば、もうこの世の一時的なことのために躍起にならなくてもよくなります。そんなに時間やお金や労力をかけなくてもいいのです。もちろん、健康を管理することは大切なことですが、そうした目に見えるものばかりに気がとらわれ、まるでそこにすべてのものがあるかのように思い込んでいると、慰められなくなってしまいます。
詩篇102篇25~28節にはこうあります。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」
この地上のものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美しさも、失われる時がやってきます。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生をかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないからです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。この方に信頼すれば慰めを得られるのです。
主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
これこそ慰めではないでしょうか。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなっても、神は約束を違(たが)えることはなさいません。その語られたことばの通りに、あなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはありません。
パウロはこう言いました。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちの魂は天の御国で永遠に生き続けます。しかも先週はイースター礼拝でフレミング先生から、私たちはやがて栄光のからだに復活するということが語られましたが、イエス・キリストが再び来られる時、永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえり、いつまでも主とともにいるようになるのです。ここに希望があります。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられているのです。その御霊によって私たちは、やがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができます。主はそのために初穂としてよみがえられました。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして、目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わることのない神のことば、聖書のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいのです。これが真の慰めのメッセージです。これが、主がエレミヤを通してユダの民に伝えたかった最後のメッセージだったのです。

それなのに、なぜ エレミヤ書44章1~14節

聖書箇所:エレミヤ書44章1~14節(旧約P1373、エレミヤ書講解説教74回目)
タイトル:「それなのに、なぜ」
今日は、エレミヤ書44章1~14節から、「それなのに、なぜ」というタイトルでお話します。この44章は、エレミヤがユダの民に語った最後の預言です。確かに46章でもエジプトに関する言及がありますが、エレミヤの預言者としての生涯という観点では、この44章がエレミヤの最後の預言となります。晩年になり、エジプトの地に強制的に連れて来られ、その地でいのちある限り預言者として忠実に仕えたエレミヤの最後のメッセージは何だったのでしょうか。それは、「それなのに、なぜ」でした。過去の失敗から学ぶように。同じ過ちを繰り返すなということです。
 Ⅰ.神の目で過去の出来事を見る(1-6)
まず、1~6節をご覧ください。1節をお読みします。
「44:1 エジプトの地に住むすべてのユダヤ人、すなわちミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住む者たちに対する、エレミヤにあったことばは、次のとおりである。」
43章では、バビロンによって滅ぼされたユダの残りの民が、神のことばに逆らってエジプトにやって来たことを見ました。今日の箇所には、それから数年が経ちエジプトに定住するようになった彼らに対して、エレミヤが語った主のことばが記されてあります。
彼らはミグドル、タフパンヘス、メンフィス、およびパテロス地方に住んでいました。ミグドル、タフパンヘスはエジプト北部にある国境の町です。メンフィスは、そこから南に150キロほど下ったナイル川流域のエジプト北部の中心都市です。これらの町々は下エジプトと呼ばれるエジプトの北部にある町々です。一方、パテロス地方というのは、ナイル川のはるか上流にあるテーベという都市の南にある地域で、上エジプトと呼ばれている地域です。すなわち、タフパンヘスまでやって来たユダの民は、そこからエジプト全域に分散して住むようになっていたということです。そのユダの民に対してエレミヤを通して主が語られたことばがこれです。2~6節をご覧ください。
「44:2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『あなたがたは、わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわいを見た。見よ。その町々は今日、廃墟となって、そこに住む者もいない。44:3 彼らが悪を行って、わたしの怒りを引き起こしたためだ。彼らは、自分自身も、あなたがたも、父祖たちも知らなかったほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えた。44:4 それで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わして、わたしの憎むこの忌み嫌うべきことを行わないように言ってきたが、44:5 彼らは聞かず、耳を傾けず、ほかの神々に犠牲を供えることをやめて悪から立ち返ることはなかった。44:6 そのため、わたしの憤りと怒りが、ユダの町々とエルサレムの通りに注がれて燃え上がり、それらは今日のように廃墟となって荒れ果てている。』」
「わたしがエルサレムとユダのすべての町に下した、あのすべてのわざわい」とは、バビロンによってエルサレムが滅ぼされた出来事のことです。当時のユダの王はゼデキヤでしたが、ゼデキヤの2人の息子たちは虐殺され、彼自身も両目をつぶされ、足には青銅の足かせをはめられて、バビロンに連れて行かれました。エルサレムにあった王宮や民の家も火で焼かれ、城壁は打ち壊されて、都に残されていた残りの民は、バビロンへ捕え移されました。彼らは、そのすべてのわざわいを見たのです。その町々は今どうなっていますか?その町々は、廃墟となっています。そこに住む者は誰もいません。なぜですか。それは3節にあるように、彼らが悪を行って、主の怒りを引き起こしたからです。彼らは、自分たちの知らないほかの神々に犠牲を捧げて仕えました。偶像に仕えたということです。それは主が最も忌み嫌うことでした。主がモーセを通して彼らと結ばれた契約、十戒の第一の戒めは何でしたか。それは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)でした。自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んでも、それらに仕えてもならない。それなのに彼らはその戒めを破り、ほかの神々のところに行って仕えたのです。主はその忌み嫌うべきことを行わないようにと、早くからたびたび預言者たちを遣わして警告したにも関わらず、彼らはそれを聞こうとしませんでした。それで主の憤りと怒りとが、ユダの町々とエルサレムとに注がれたのです。これはどういうことでしょうか。
過去の歴史をよく見なさい、ということです。過去に何があったのかを見て、なぜそれが起こったのかを考えるようにということです。エレミヤはここで、過去に起こった出来事を振り返り、それがどういうことなのかを、神の視点で語っているのです。このように過去の歴史を振り返り、それがどういうことなのかを理解することは、極めて重要なことです。なぜなら、それによって未来が決まるからです。なぜ、エルサレムは滅んだのでしょうか。その理由なり、その解釈は、人によって違いますが、神の目では、それは彼らがほかの神々のところに行って仕えたことが原因でした。また、それを止めるようにとたびたび預言者たちを遣わしたのに、それを聞かないで悪から立ち返ることをしませんでした。それが原因でした。
皆さん、私たちも皆それぞれ過去がありますが、それをどのように見るか、どのように受け止めるか、どのように解釈するかはとても重要です。以前、ユダヤ人の時間に対する見方を紹介しましたが、彼らは人生をどのように見るかというと、現在から過去を見て未来を見ます。ちょうどボートに乗って向こう岸に行くのと同じです。未来は見えません。見えるのは過去だけです。まっすぐに進むために目印となるのはこれまで進んできた航跡(こうせき)なのです。それによって起動を修正しながら前に進んで行くのです。それは私たちも同じです。自分が歩んできた過去を見て、それがどういうことなのかを神の目で見るというか、霊的に解釈することによって前に進んで行くことができるのです。
先週、Y姉の告別式を行いました。私はY姉の92年の生涯を振り返り、Y姉の生涯はどのような生涯だったのかを思いめぐらしたとき、それは神によって運ばれ、神によって導かれ、神によって恵みと祝福に満ち溢れた生涯だったのではないかと思いました。まさに詩篇23篇6節にあるように、「いつくしみと恵みとが私を追ってくるでしょう」とダビデが告白したように、いつくしみと恵みとが追ってくるような生涯でした。なぜなら、Y姉は自分で頑張って道を切り開きその道を歩んできたのではなく、神が用意してくださった道を、「それならあなたに従いますのでよろしくお願いします」と、ただ従って歩まれたからです。そういう生涯を神様が祝福してくださいました。それはまさにAbundantlyな生涯だったのです。だから、私たちもそのように神様によって運ばれ、神様によって導かれ、神様によって恵みに満ち溢れる生涯を歩ませていただきたいと、告別式でお話しさせていただいたのです。それはY姉の生涯を神様の目で、霊的な視点で見ることによって示されたことでした。
皆さんもご存知の三浦綾子さんは、小説を書くことを通して主の栄光を現わされました。おそらく、日本のキリスト教宣教において最も大きな影響を与えた人の一人ではないかと思いますが、それは三浦綾子さんがすべての出来事を神の目を通して捉えておられたからではないかと思います。三浦綾子読書会の代表の森下辰衛さんは、このように言っておられます。
70歳で難病のパーキンソン病を発症し症状が進んで来たころ、三浦綾子さんは「書きたいことはあるけれど、もうその体がわたしにはない。でも、わたしにはまだ死ぬという仕事がある」(三浦光世「死ぬという大切な仕事」より)と言いました。老いて不自由になり何もできなくなった、ではなくて、死ぬということも大切な仕事であり、使命だという緊張感があるのですと。
中学教師だったAさんは、妻が40代で多発性脳梗塞になり全身麻痺、言葉も失い、寝たきりとなりました。以来、長年の介護で体はボロボロになりました。AさんがステージⅣの癌とも診断されました。気持ちが折れそうになり、介護殺人が心をよぎります。そんなある日、妻の容態が悪化し救急車で運ばれました。そのときAさんは「妻が死ぬ。これで介護地獄から解放される!」と思ったそうです。
妻が入院中、一人で夕食をしながら、テレビをつけると三浦光世さんと綾子さんの老々介護の様子が紹介されていました。光世さんは虫眼鏡とピンセットで魚の骨を一本一本抜いて綾子さんに食べさせていたました。夜、多い日は7回もトイレに連れて行くのです。
それでも光世さんは、「綾子、介護するよりも介護される方が辛いに決まってるんだから、もっとわがまま言っていいんだよ」と語りかけていました。そして「苦難にあわないのが良いことではなく、苦難は試練であり、与えられた使命です」と言っていました。こんな世界があったのかと、Aさんは泣きました。そして不思議に心が変わっていきました。やがて妻が退院し介護が再開しましたが、おしめを換えるのも辛くはありません。「すっきりしたか」と声を掛けると、話せない妻がニッコリと笑顔で返してくれるのが、心からいとしくなったそうです。
三浦夫妻は、老々介護だけの日々になっても、こんなにも夫婦の愛を示して、小説を書いていた時とおなじくらい、多くの人を励ますという務めを果たしました。
「死ぬという大切な仕事がある」と言えるのは、そこに死を超えた方の眼差しがあるからです。私を産まれさせ、生かし、老いるという仕事も死ぬという仕事も与えて下さり、見守ってくださり、全部用いてくださる方がおられる。そんな信頼があるからです。」(ともしび2025春号 三浦綾子読書会 相談役 森下辰衛)そして、死ぬということを、神様の目で、霊的視点で見ておられたからです。私たちも過去の出来事を、いや、今置かれている状況を神様の目で、霊的な視点で見るなら、「こんな世界があったのか」と思うような驚きと励ましをいただき、不思議に心が変えられ、考えが変えられ、行動が変えられていくのです。
あなたはどうですか。あなたは自分の過去の出来事をどのように受け止めていらっしゃいますか。そこから何を学んでおられるでしょうか。それは思い出すにはあまにも辛いことかもしれません。でも神様はその出来事を通してもあなたに語っておられるのです。ですから、それを神様の眼差しで見つめ直し、そこにこめられた神様の思いを受け止めて、神様があなたの人生を丸ごと抱きしめるように愛して責任をとってくださると信じて、すべてをおゆだねしたいと思うのです。それが、奪われることのない人生の祝福の基盤だからです。
Ⅱ.過去の失敗から学ぶ(7-14)
第二のことは、失敗から学ぶということです。エレミヤはこれまでのユダの失敗、ユダの過ちを踏まえて、何が神のみこころなのかを語ります。7~14節の内容です。まず7節と8節をご覧ください。
「44:7 今、イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。『なぜ、あなたがたは自分自身に大きなわざわいを招き、ユダの中から男も女も、幼子も乳飲み子も断って、残りの者を生かしておかないようにするのか。44:8 なぜ、あなたがたは、寄留しようとしてやって来たエジプトの地でも、ほかの神々に犠牲を供えて、自分の手のわざによってわたしの怒りを引き起こすのか。こうして、あなたがたは自分たち自身を絶ち滅ぼして、地のすべての国々の中で、ののしりとそしりの的になろうとしている。」
これほどの悲劇を体験しながらも、偶像礼拝を好むという民の性質は何も変わっていませんでした。彼らは寄留したエジプトの地でもほかの神々に香をたいて、神の怒りを引き起こしていました。そんな彼らに対して神が語られたことは、「それなのに、なぜ」ということでした。7節と8節には、「なぜ」ということばが強調されています。なぜエルサレムは滅んだのでしょうか。なぜユダの町々が廃墟となったのでしょうか。それは彼らが神の怒りを引き起こしたからです。それなのになぜ、あなたがたはエジプトの地でも同じ過ちを繰り返して、わたしの怒りを引き起こすのか、と訴えているのです。これはもはや神の悲痛な叫びと言えるでしょう。
いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが過去の失敗から学ばなかったことです。彼らは過去においてバビロン捕囚という神の審判を現実に体験しそれを見たのみならず、実際に自分たちも今、エジプトの地に離散させられているにもかかわらず、なおも先祖たちと同じようにほかの神々に仕え、神の怒りを引き起こしていました。彼らはわざわいの原因となった行動を断ち切らなかったのです。そうした彼らに対して主は、「それなのに、なぜ」と嘆いておられるのです。それは彼ら自身に大きなわざわいを招くことでした。それなのになぜ、彼らは神に立ち返らなかったのでしょう。
二つの理由がありました。一つは9節にあるように、彼らが、かつてユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪をすっかり忘れていたことです。9節にはこうあります。「あなたがたは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れたのか。」
彼らは、ユダの地とエルサレムの通りで行った、自分たちの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、自分たちの悪、自分たちの妻たちの悪を忘れていました。まさに、のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。
このことについて、バイブルナビはこのように解説しています。「私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負う。ユダの民はこのことについて苦労していた。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことにつながる。失敗から学ばないと、未来にもまた失敗することが確実になる。あなたの過去は経験の学校である。あなたの過ちが、あなたを神の道へと導いてくれるようになるでしょう。」
皆さん、私たちが学ぶことを忘れたり、学ぶことを拒否したりすると、同じ間違いを犯すリスクを負うことになります。自分の過去の罪を忘れることは、同じ過ちを繰り返すことになるのです。「あなたの過去は、経験の学校である。」いいことばですね。「イエス・キリストを信じるなら、すべての問題は解決して、平坦な道を歩むことができる」ということばを聞くことがありますが、それはうそです。クリスチャンは成功と安逸な人生だけを約束されているのではなく、依然として失敗と苦しみも経験します。しかし違うのは、その失敗と苦しみを通して学び成長することができるということです。あなたの過去は経験の学校なのです。そこから学ぶことによって、あなたは確実に成長を遂げることができるのです。
聖書の中でよく失敗した人物といえばペテロでしょう。アメリカのニューヨーク州グレースチャペルの牧師レスリー・B・フリン(Leslie B. Flynm)はペテロを「ガリラヤ湖のような人だ」と表現しました。ガリラヤ湖は海かと思うほど大きな湖です。ある時は静かで穏やかですが、あっという間に荒れ狂います。いつ波が起こるかわからない、それがガリラヤ湖です。そのガリラヤ湖で魚を捕っていたせいか、ペテロの性格もまた、ガリラヤ湖のようでした。いつどうなるかわからない、落ち着きのない性格だったのです。「静かにしていなさい」と言うと騒ぎ出し、「目を覚ましていなさい」と言えば眠りこけ、「眠れ」と言えば起きて動き出しました。「勇気を持て」と言えば卑屈になって閉じこもり、「進み出ろ」と言うと走り込みました。イエス様も彼のことが、気が気ではなかったのではないかと思います。
でも、イエス様が「人々は人の子をだれだと言っているか」とお尋ねになられたとき、弟子たちは「エリヤだと言っています」とか「バプテスマのヨハネです」と答えたので、「では、あなたがたはわたしをだれだと言うか」と12弟子に尋ねられると、ペテロは待っていましたと言わんばかりに、「あなたは、生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と正確に答えました。それを聞かれたイエス様は大いに感動されて、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明かしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」(マタイ16:17)とペテロを祝福されました。
しかし、その後イエス様が、やがてご自分が十字架にかかって死なれることを語られると、ペテロは、今度はイエス様をわきにお連れして、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」(21節)と言って、イエス様をいさめたのです。これに大いに失望なされたイエス様は彼に、「下がれ。サタン」(23節)とおっしゃいました。このことは、数日の間に起こった出来事ではありません。同じ場所で、数分の間に起こったことなのです。人を感動させたかと思うとすぐに失望させる、そんなめまぐるしく浮き沈みをする人生がペテロの人生でした。
そんなペテロの生涯の中でも最も大きな失敗は、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と豪語したにもかかわらず、イエス様が捕らえられた時、人々が「あなたもイエスと一緒にいたではないか」と言うと、すべての人の前でそれを否んだことです。「そんな人など知らない」と。
しかしそんな問題だらけのペテロでしたが、やがて信仰に堅く立ち、不動の者とされていきました。どうしてでしょうか。それは復活のイエス様に出会ったからです。復活のイエス様と出会って、主が完全にしてくださるという事実を信じたからなのです。イエス様は完全なペテロに向かって「あなたはペテロ(岩)です」と言われたのではありません。彼はもともと「シモン」でした。「シモン」という名前は「葦」という意味があります。あの揺れ動く葦です。イエス様はそのシモンに「岩」という意味の「ペテロ」という名前をお付けになられたのです。ペテロがまだ弱かったとき、彼の性格を知り、彼の過去を知り、彼の未来を知っておられる主が、「あなたをペテロとする」と言って、彼を変えてくださったのです。
変えられない人など、一人もいません。たとえあなたの気質がペテロのようで、ペテロのような弱さがあるとしても、イエス様に出会い、聖霊に満たされるなら、あなたも変えられるのです。それが、ペテロが学んだことです。変えられない人は一人もいないということです。彼は後に書いた手紙の中でこう言っています。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:10)
彼は、主が完全にしてくださるという事実を信じたのです。同じように、主はあなたを必ず変えてくださいます。この世に完全な人などいるでしょうか。いません。ペテロも不完全な者でしたが、主が長い時間をかけて整え、用いられました。私たちも自分の弱さに失望してはなりません。また、他の人を罪に定めることもしてはなりません。大切なのは失敗から学ぶことです。ペテロが「主が完全にしてくだる」と言ったように、たとえ今、不完全でも、やがて完全にされ、堅くされ、強くされると信じて、神様の約束にゆだねるなら、あなたも確かに変えられるのです。
 ユダの民が主に立ち返らなかったもう一つの理由は、彼らの心が頑なで、砕かれていなかったことです。10節にこうあります。
「彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがとあなたがたの先祖たちの前に与えたわたしの律法と掟に歩まなかった。」
人は環境が変わっても、心からの悔い改めない限り、本質的に変わることはありません。神のさばきによって、ある者たちはバビロンに引いて行かれ、ある者たちは神の警告を無視してエジプトに来たからと言って、彼らの心が変わることはありませんでした。彼らの心が変わるためには、過去の失敗から学び、心砕かれ、神を恐れなければなりませんでした。ダビデはそうでした。彼はバテ・シェバと姦淫し、その夫ウリヤを戦場の最前線に出させて死なせるという罪を犯しましたが、預言者ウリヤによってその罪が示されたとき、心から悔い改めました。彼は詩篇51篇17節で次のように言っています。
「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」(詩篇51:17)
神へのいけにえは砕かれた霊。砕かれた、悔いた心です。神はそれを蔑まれません。ダビテは心砕かれて、神の御前に心から悔い改めましたので、神の赦しを受けたのです。
私たちもありのままの姿で主の御前に進み出なければなりません。弱さが多く、足りないことは、私たちにイエス様が必要であることを意味しているからです。長所のゆえにイエス様の前に進み出ることのできる人など、一人もいません。弱さのゆえに主のもとに進み出て、自分の弱さを告白するようになるのです。
イエス様が最も嫌われた人々はだれでしょうか。パリサイ人です。パリサイ人たちは外側を美しく飾ることに懸命になっていました。内側は腐っているのに、それに気付かないで、包装紙だけを小ぎれいにしていたのです。しかし主が願われるのは、そのような仮面を被った人ではなく、正直に、ありのままの姿で、主のもとに進み出る人です。
「主よ!私は罪人です。主よ!私はお天気屋です。主よ!私は意志が弱いです。主よ!私は整えられていない者です。主よ!私は矛盾だらけな者です。」と、主の御前に自分のありのままの姿を告白できる人です。多くの人は、自分の弱点を自分で見ることができません。そういう人は回復に時間がかかります。自分の弱さを見て、主の御前にそれをさらけ出すことができる人こそ、主の取り扱いを受けて回復し、立ち上がることができるのです。
Ⅲ.絶望の中でも希望が残されている(11-14)
それなのにユダの民は過去の罪、過ちから何も学ぼうとしませんでした。同じ過ちを繰り返しただけでなく、それを悔い改めようともしませんでした。それゆえ、主はエジプトにいたユダの民にこう宣告されたのです。11~14節をご覧ください。
「44:11 それゆえ、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『見よ。わたしはあなたがたに顔を向け、わざわいを下し、ユダのすべての民を絶ち滅ぼす。44:12 わたしは、エジプトの地へ行ってそこに寄留しようと決意したユダの残りの者を取り分ける。彼らはみな、エジプトの地で、剣と飢饉に倒れて滅びる。身分の低い者も高い者もみな、剣と飢饉で死に、のろいと恐怖のもと、ののしりとそしりの的となる。44:13 わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。44:14 エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き残る者もいない。彼らはそこに帰って住みたいと心から望んでいるが、わずかな逃れる者以外は帰らない。』」」
エジプトでも相変わらず心が頑ななユダの民に対して主は、「わたしは、エルサレムを罰したのと同じように、エジプトの地に住んでいる者たちを、剣と飢饉と疫病で罰する。」と宣告されました。エジプトの地に寄留した後、ユダの地へ帰ろうとしているユダの残りの者には、逃れる者も生き帰る者もいません。彼らがそこに帰って住みたいと心から望んでも、それが叶うことはありません。ただわずかな者だけが帰ることができます。ほとんどの民は、かつてエルサレムの住民が味わった恐怖を体験することになります。なぜなら、彼らが主のことばに聞き従わなかったからです。彼らの先祖たちが犯した罪の結果を見ても、そこから何も学ぼうとせず、同じ過ちを犯してしまいました。
私たちはこのユダの失敗から学ぶべきです。もし聖霊によって示さる罪があるなら、心砕かれて、悔い改めなければなりません。へブル3章7~8節にこのようにあるとおりです。
「ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」
しかし、14節をよく見ると、ここに「わずかな者は逃れて帰るだろう」とあります。ほとんどすべての民が滅びることになりますが、本当に少数の者ですが逃れることができます。ここに神様のあわれみがあります。この「わずかな逃れる者」が、「イスラエルの残れる者」です。神はイスラエルに審判をくだされますが、滅ぼし尽くすことはありません。そこから人類に救いの道を備えておられたのです。つまり、神はどのような悲劇の中にでも、必ず恵みと希望を備えておられるということです。もう終わりだと思うような時でも、まだ希望が残されているのです。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)
神があなたに立てておられる計画はわざわいではなく、将来と希望を与えるためのものです。悔い改めるに遅すぎることはありません。神の恵みと希望は残されているのです。たとえどんなに絶望的な状況の中にあっても、神を信じる者にとって絶望はありません。大切なのは、神に立ち返ることです。確かに今が恵みの時、今が救いの日です。過去の失敗から学びましょう。もし聖霊によって罪が示されたなら、頑なにならないで、砕かれた、悔いた心をもって主に立ち返ろうではありませんか。あなたがどんなに落ちても、救い主はあなたが立ち返るのをずっと待っておられるのです。

ヨシュア記12章


聖書箇所:ヨシュア記12章

きょうはヨシュア記12章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨルダン川の向こう側の占領(1-6)

 まず1~6節までをご覧ください。「1 ヨルダンの川向こう、日の昇る方で、アルノン川からヘルモン山までの全東アラバにおいて、イスラエルの子らが討ち、占領した地の王たちは次のとおりである。2 ヘシュボンに住んでいた、アモリ人の王シホン。彼はアルノンの渓谷の縁にあるアロエルから、その渓谷の中、およびギルアデの半分、そしてアンモン人の国境ヤボク川まで、3 またアラバ、すなわち、キネレテ湖の東まで、またアラバの海すなわち塩の海の東まで、ベテ・ハ・エシモテへの道まで、そして南はピスガの傾斜地のふもとまでを支配していた。4 アシュタロテとエデレイに住む、レファイムの生き残りの一人である、バシャンの王オグの領土。5 彼はヘルモン山、サルカ、ゲシュル人とマアカ人との国境に至るバシャンの全土、ギルアデの半分、ヘシュボンの王シホンの国境までを支配していた。6 主のしもべモーセとイスラエルの子らは、彼らを討った。主のしもべモーセはルベン人とガド人と、マナセの半部族に、その地を所有地として与えた。」

ここにはイスラエルの民がカナンを征服し、神の約束のごとく、その地がイスラエルのものとなるに至った征服の記録が要約されています。1~6節まではヨルダン川の向こう側、すなわち東側において、モーセの指導の下に占領された地でのことが記されています。そこではエモリ人の王シホンと、バシャンの王オグの二人の王を打ち破り、それをルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、相続地として与えました。

Ⅱ.ヨルダン川のこちら側の占領(7-24)

次に7~24節までをご覧ください。「7 ヨルダン川のその反対側、西の方で、レバノンの谷のバアル・ガドから、セイルへ上るハラク山までで、ヨシュアとイスラエルの人々が討ったその地の王たちは、次のとおりである。ヨシュアはイスラエルの部族に、彼らへの割り当てにしたがって、この地を所有地として与えた。8 この王たちは山地、シェフェラ、アラバ、傾斜地、荒野、ネゲブに住んでいて、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人であった。9 エリコの王、一人。ベテルの隣のアイの王、一人。10 エルサレムの王、一人。ヘブロンの王、一人。11 ヤルムテの王、一人。ラキシュの王、一人。12 エグロンの王、一人。ゲゼルの王、一人。13 デビルの王、一人。ゲデルの王、一人。14 ホルマの王、一人。アラドの王、一人。15 リブナの王、一人。アドラムの王、一人。16 マケダの王、一人。ベテルの王、一人。17 タプアハの王、一人。ヘフェルの王、一人。18 アフェクの王、一人。シャロンの王、一人。19 マドンの王、一人。ハツォルの王、一人。20 シムロン・メロンの王、一人。アクシャフの王、一人。21 タアナクの王、一人。メギドの王、一人。22 ケデシュの王、一人。カルメルのヨクネアムの王、一人。23 ドルの高地の、ドルの王、一人。ギルガルのゴイムの王、一人。24 ティルツァの王、一人。全部で三十一人の王である。」

これは、ヨシュアとイスラエル人とがヨルダン川のこちら側、すなわち西側において打ち破った王たちの名前です。何と彼らは31人の王を打ち破り、その地を占領しました。こうやって見ると、彼らは、今のイスラエルの南方の国々、そして北方の国々を重点として、その中部のいくつかの国々をも占領し、これらを所有地としてイスラエルの部族に割り当て地として与えたことがわかります。これが主のしもべモーセとヨシュアが、主にあって成し遂げたことでした。このことは、私たちにどのような教訓を与えてくれるでしょうか。

ヨシュア記は13章を境にして前半と後半に分かれます。前半を総括する12章の終わりに記されていることは、ヨシュアたちがヨルダン川の西側の31人の王たちを打ち破ったということでした。これらの征服した王たちの記録は、ヨシュアたちの霊的な歩みの継続的な戦いの結果と言えます。一回一回の真剣な戦いの積み重ねの記録であって、決して一朝一夕にしてなされたものではありません。そのことを心に刻む必要があります。そして13章1節には、「ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。「あなたは年を重ね、老人になった。しかし、占領すべき地は非常にたくさん残っている。」とあります。
主はヨシュアに、あなたは年を重ねて老人になったが、まだ占領すべき地がたくさんの残っていると言われました。ヨシュアは110歳(24:29)まで生きましたが、おそらくこの時100歳くらいになっていたのではないかと思われます。そのヨシュアに対して、「あなたには、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」と言われたのです。神が備えられたカナンの地はまだまだ占領されていない地があり、それを自分の所有地とするようにヨシュアにチャレンジされたのです。これは「あなたは年を取ったが、その人生において私が与えようとしている祝福は無限にある」という意味です。ですから、その地の占領に向けて継続的に戦っていかなければならないのです。

これをパウロのことばで言うなら、内なる人が日々新たにされるという継続的な積み重ねが求められるということです。Ⅱコリント4章16節をご覧ください。ここには、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」とあります。内なる人が日々新たにされ続けるなら、その延長線上に円熟した輝き、熟年の輝きがもたらされます。それは、一回一回の真剣な霊的戦いの継続的な積み重ねの結果なのです。

それはまた、私たちにゆだねられている福音宣教の使命においても言えることです。主は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われました。まだ占領すべき地がたくさん残っているのです。イエス様のからだである教会を建て上げ、その教会を通してすべての造られた者に福音を宣べ伝えていくために、私たちはこのすばらしい働きを止めてはいけないのです。前進し続けなければなりません。私もあと何年できるかわかりませんが、110歳までにはまだまだあります。救い主イエス様のみこころに従い、生涯、主イエス様の弟子として、福音の宣教のために、神の国の到来のために「主よ、私を用いて」と祈りつつ、その働きを全うしたいと思います。

Ⅲ.ヨルダン川を渡る(1-24)

ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。ここで、1~6節でと、7~24節を比較してみましょう。これまで見てきたように、1~6節にはヨルダン川の東側においてモーセの指導のもとに二つの王国を征服したことが記されてありました。一方、7~24節には、ヨルダン川のこちら側、すなわち西側においてヨシュアの指導のもとに31の王国が打ち破られてきたことが記録されてあります。モーセの下ではアモン人の王シホンとバシャンの王オグの二人の王を打ち破られたのに対して、ヨシュアの下では31人の王が打ち破られました。いったいこの差は何なのでしょうか。これは指導者の優秀さの差ではありません。というのは、指導性という点ではモーセの方がヨシュアよりもずっと優れていたからです。申命記34章10節には、「モーセのような指導者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」とあります。モーセはイスラエルにおいて最高の指導者でした。彼は主と顔と顔とを合わせて選び出されました。彼は旧約聖書において最高の指導者だったのです。ですから、この結果は指導者の優劣によるものではないことは明らかです。では、この差はどこから生まれたのでしょうか。それは、ヨルダン川を渡ったか渡らなかったかの違いです。それは物理的な意味ではなく霊的な意味においてです。

ご存知のように、イスラエルの民はかつてエジプトで奴隷とされていました。しかし、神はモーセを選び出し、その奴隷の中から贖い出してくださいました。彼らはエジプトの捕らわれの身から解放されて紅海を渡り、栄光の脱出を成し遂げたのです。これが出エジプトです。このイスラエルの民がエジプトから解放されたという出来事は、私たちが罪に捕らわれていた状態からイエス・キリストによって救い出されたことを表わしています。イエス・キリストの十字架と復活によって、罪と死の支配から解放されたのです。バプテスマはそのことを表しています。私たちはイエス・キリストを信じバプテスマを受けることで罪から救われ、永遠のいのちを受けることができました。

しかし、罪から救われた私たちはそこに留まっているだけでなく、神が与えてくださった約束の地に入るために前進していかなければなりません。乳と密の流れる地に入るためには、さらにもう一つの川を渡らなければならないのです。それがヨルダン川です。いったいこのヨルダン川を渡るというのはどういうことでしょうか。それは、聖霊を受けるということです。もちろん、イエス様を信じた人はみな聖霊を受けています。聖霊によらなければだれもイエスを主と告白することはできません(Ⅰコリント12:3)。また、コリント人への手紙第一12章13節には、「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの聖霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの聖霊を飲むものとされたからです。」とあります。だれでもイエスを主と告白するなら、聖霊を受けているのです。しかし、この聖霊のことがわからない人がいます。聖霊を受けているのに、受けていない人であるかのように歩んでいることがあるのです。

使徒19章1~3節をご覧ください。ここには、パウロが第三回伝道旅行でエペソにやって来たとき、幾人かの弟子たちに出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたことが記されてあります。どうしてパウロはこんなことを質問したのでしょうか。明らかに彼らの言動がキリストを信じる信仰とは相いれないものを感じたからでしょう。どうもおかしかったのです。それでパウロはこのように質問したのです。

これに対する彼らの答えは「いいえ」でした。「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」彼らは、聖霊が与えられることについて曖昧な理解しか持っていなかったのです。クリスチャンなら、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストが身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたことを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。つまり、神の聖霊が与えられたことを知っているはずなのに、彼らはそのことを知らなかったし、聞きもしなかったのです。つまり、彼らはイエス様を信じていましたが、その信仰は福音の正しい理解を欠いたものだったということです。

では、彼らはどんなバプテスマを受けたのでしょうか。3節を見ると、彼らは、「ヨハネのバプテスマです」と答えています。「ヨハネのバプテスマ」とは何でしょうか。マタイの福音書3章11節には、「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火のバプテスマをお授けになります。」とあります。つまり、ヨハネのバプテスマとは救い主イエス・キリストを受け入れるための備えとしての、悔い改めのバプテスマのことです。彼らはこのバプテスマは受けていましたが、イエス・キリストによって与えられる聖霊のバプテスマを受けてはいませんでした。聖霊のバプテスマについてはそのことさえわかりませんでした。彼らは、聖霊によってもたらされる救いの恵みと喜びを知らなかったのです。
そこで、パウロはこの聖霊のバプテスマについて話し、主イエスの御名によってバプテスマを授けると、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりしました。

ですから、ここでは、よくペンテコステ派の人たち強調しているような、救われた後に受ける第二の恵みとしての聖霊のバプテスマや、そのしるしとしての異言について教えているのではありません。彼らは、主イエスを信じていても、聖霊について知らなかったし、聖霊に満たされてもいませんでした。聖霊の喜びや力、平安を知らなかったのです。

このようなことは、私たちにもあります。イエス・キリストを救い主と信じるならだれでも天国に行けると聞き、信仰によってイエス様を主と信じて受け入れても、その結果もたらされる聖霊の恵みと力がどれほどすばらしいものであるのかを知らないで歩んでいるということがあるのです。イエス様を信じて罪というエジプトから脱出できても、乳と密の流れる豊かな地に入るためにヨルダン川を渡っていないことがあるのです。

イエス様はこのように言われました。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)
この「生ける水の川」とは聖霊のことです。だれでもイエス様のもとに来て、飲むなら、すなわち、イエス様を信じるなら、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。この「心の奥底から」というのは、「腹の底から」という意味です。イエス様を信じるなら、表面的な喜び、表面的な平安ではない、腹の底からの、ほんとうの喜び、ほんとうの平安が与えられるのです。

この異言と預言についてパウロは、Ⅰコリント14章2~3節でこのように言っています。「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」(Iコリント14:2,3)
つまり、エペソの人たちは(使徒19:6-7)が異言を語ったり、預言したりしたというのは、この時から彼らが、これまでの堅い殻に閉じこもった禁欲的な生活から、神に向かって喜びをもって祈り、賛美し、人に向かっては熱心にみことばの勧めとあかしをするクリスチャンへ変えられたということです。孤立的分派主義的な信仰から積極的な礼拝と交わり、伝道の生活へと変えられたということです。陰気な禁欲主義が、喜びに満ちた賛美の生活へと変えられました。そうして、それこそが、パウロの福音の結果だったのです。人は聖霊によって新しく生まれ変わるとき、ここで彼らが経験したような、生活へと変えられるのです。

私が言うところのヨルダン川を渡るというのはこういうことです。あなたは聖霊を受けていますか。受けているなら、あなたの人生はすばらしく豊かなものとなります。31人の王を打ち破り、その王国を占領するようになるのです。しかし、受けていながらもその信仰生活に大きな変化がないとしたら、もしかすると、聖霊に満たされていないということになります。聖霊に対してどのような態度を持っているかをもう一度点検する必要があります。聖霊に心を開き、常に御言葉に聞き従い、聖霊に導かれ、満たされて歩むなら、それまでとは比較にならないほどの大きな恵みと祝福に満たされていくのです。

あなたはヨルダン川のどちら側にいますか。こちら側ですか、それとも向こう側ですか。ヨルダン川を渡ってください。そして、聖霊に満たされ、御霊に導かれて歩もうではありませんか。そうすれば、聖霊の豊かな実を結ぶようになります。また、すでにヨルダン川を渡った人はそのことで高慢にならず、むしろ謙遜に日々聖霊に満たされ、主が求めておられることは何かを御言葉から聞き、さらに豊かな実を結ぶ者とさせていただきたいと願います。