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ローマ人への手紙4章1~25節「アブラハムの信仰」

きょうは、「アブラハムの信仰」についてご一緒に学びたいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪を取り上げ、すべての人が神の前に罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないと語ってきました。神様の御前ではだれも、何一つ誇れるものはありません。人は、救われるためにいろいろな方法を試してみますが、こうした試みは、人間の罪を解決する上で何の助けにもならないのです。人間の力では決して神様のみもとに行くことはできません。従って人間に残されているものは絶望と落胆しかありません。

しかしあわれみ豊かな神様は、そんな人間が救われるために一つの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。3章21節には、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」とあります。神様は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって義としてくださると約束してくださったのです。

このように信仰によって義と認められることを、「信仰義認」(Justification by faith)と言います。つまり、信仰によって義とされ、救われたと見なされる、という意味です。しかし、人々はこのことを理解できないと言って、なかなか信じようとしません。救いがただで与えられるということがピンとこないのです。「ただ」ということに慣れていないからです。特に私たち日本人にとってはそうでしょう。「ただほど怖いものはない」というように、「ただ」で受けることに抵抗感を持っています。ですから「お返し」という習慣があるのです。何か自分の体を動かして、一生懸命に努力して受け取ることで、安心します。それが人間の本性なのです。

しかし、聖書では、ただ神の恵みにより、信仰によってのみ救われると教えられています。その一つの例がアブラハムです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(3:23~24)とパウロが語ると、ユダヤ人のある人たちから、「そんなことはない。アブラハムは行いによって義と認められたではないか」という疑問が起こりました。

そこでパウロはこのアブラハムの例を取り上げながら、救いはただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられるということを論証するのです。

 

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一に、アブラハムが義と認められたのは彼が神を信じたからであって、割礼やその他何らかの行いをしたからではありません。

第二のことは、ではそのアブラハムの信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。それは死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神を信じる信仰、あるいは、望み得ないときに望みを抱いて信じる信仰でした。

第三のことは、その信仰とは主イエス・キリストを信じる信仰であったということです。

 

Ⅰ.神を信じたアブラハム(1-16)

 

まず第一に、アブラハムが義と認められたのは神を信じたからであって、何らかの行いをしたからではないということについてみていきたいと思います。1~16節までのところに注目したいと思いますが、まず1~3節までのところをご覧ください。

「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」

 

ここでパウロは、自分たちの先祖アブラハムはどうだったのかについて取り上げています。なぜなら、アブラハムこそ自分たちの民族のルーツだと考えていたからです。そのアブラハムが義と認められたのはどうしてか?彼が神の命令を行ったときなのか、それとも神をただ信じたときだったのか?もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば誇ることもできますが、実はそうではありませんでした。なぜなら、聖書には、「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあるからです。

これは創世記15章6節のみことばです。アブラハムは約束の地カナンに入って15年が経っており、だいたい90歳になっていましたが、彼にはこどもがありませんでした。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:3)と約束されたのに、まだこともが与えられていなかったのです。妻のサラも80歳を越えていました。一体あの約束は何だったのでしょうか。そんなことを考えながら絶望の淵にいたアブラハムに、ある夜、主が臨まれました。神様は彼を外に連れ出してこのように言われたのです。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)

人間的にはどう考えても実現しがたい約束でした。にもかかわらず、アブラハムはこのことばを信じました。そして、主はそれを彼の義と認めてくださったのです。つまり、アブラハムの信仰が神様の心を動かし、その信仰のゆえに彼は義と認められたのです。

 

ユダヤ人たちは、救いは信仰によって得られるということを聞いたときひどく反発しました。なぜなら、アブラハムは行いによって義と認められたと信じていたからです。割礼を受けなさいと命じられたときに割礼を受け、モリヤの山でイサクをささげなさいと言われたときにも、本気で彼をほふろうとした。彼はそのように行ったからこそ救われたのであって、厳しい従順の行為こそが義と認められる根拠であったと信じていたのです。

 

そんな彼らに対してパウロは、ここで、「誤解しなさんな」と言っています。聖書の順序をよく見なさいと言うのです。彼らが割礼を受けた時やモリヤの山でイサクをささげようとしたのはいつだったのか?それは創世記17章と22章にある出来事です。つまり、アブラハムが神を信じて義と認められたという出来事の後で起こったことなのです。まず信仰によって義とされてから、その検証として割礼を受けたり、イサクをささげたのです。

 

ですからアブラハムは行いによって救われたのではなく、信仰によって救われたということになるのです。その結果、信仰の行為が生まれたのです。この順序が大切です。旧約聖書でも新約聖書でも、救いの原理はただ一つです。それは信仰によって救われるということなのです。

 

それはダビデを例にとっても言えることです。6~8節をご覧ください。ここには、「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」とあります。ダビデ王とは旧約聖書を代表するイスラエルの王様で、救い主は彼の子孫から生まれると預言されていた重要な人物です。いわば旧約聖書のキーマンとも言える人物です。

そのダビデが、罪が赦される者の幸いについてこのように告白したのでした。これはバテシェバとの姦淫のことで苦悩していたダビデが、神の御前には隠すことができるものなど何一つないことを知り、その罪を告白した時に体験したことです。

彼の罪が赦されたのは、彼が何か善行をしたり、償いをしたからではなく、神の御前に自分の罪を認め、告白したことによってでした。その時神がその罪を赦し、義と認めてくださいました。ただ悔い改めて、神の恵みに信頼しただけです。つまり、ダビデもまた信仰によって義と認められたのです。

 

ということはどういうことなのでしょうか。結論は16節です。「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」

そういうわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に保証されるためなのです。

 

新聖歌233番の曲は、「おどろくばかりの」という賛美歌です。英語では、「Amazing Grace」です。「Amazing」とは「あっとおどろくばかりの」という意味です。これを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。アフリカから英国に奴隷を運んでいました。人間のくずのような仕事です。しかしその船で帰る途上大嵐に会い、いのちからがら助け出されたとき、そこに神の不思議な御手を感じました。イギリスに戻ってから教会に行くようになり、自分の罪の大きさとその罪をも赦してくださる神の恵みに触れたとき彼は、「Amazing Grace!」と叫んだのです。こんな者でも赦してくださる神の恵みを体験したのです。

 

  1. 驚くばかりの 恵みなりき
    この身の汚れを 知れるわれに
  2. 恵みはわが身の 恐れを消し
    任する心を 起(おこ)させたり
  3. 危険をもわなをも 避け得たるは
    恵みの御業と 言うほかなし
  4. 御国に着く朝 いよよ高く
    恵みの御神を たたえまつらん

 

私たちが救われるのは、私たちの中に何か少しでも徳があるからではありません。そういうものとは全く関係なく、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によってのみ義と認められるのです。

 

人間にはじっと我慢していることができないという性質があります。ですから、何かをしてこそ、あるいは何かをがんばってこそ、安心するのです。たとえば、ここに重病の患者さんがいたとします。この方に医者が、「あなたは何もする必要はありませんよ。ただじっとしていたらいいんです。じっとしていたら治ります」とでも言うものなら、この患者さんはひどく落胆するのでしょう。「ああ死ぬ時が来たんだ。だから医者はそんなことを言うんだ。もう望みはないんだ」と。その結果、病状がかえってひどくなってしまうこともあるのです。

 

ところが治らない病気でも、消化剤を与えられ、「これで全快しますよ」と言われると、一生懸命飲んで治ろうとします。不思議なことに、治らないと思われていた病気が、それで治ってしまうということさえあるのです。それが人間なのです。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないことを要求する宗教に、多くの人々が列をなして入って行くのです。

 

しかし、本当の宗教は「ただ」なんです。ただ、信じれば救われるのです。それはこの救いが神様からの一方的な恵みによるためであり、すべての人が受けることができるためなのです。昔、イスラエルが荒野で不平不満を言ったとき、それを怒られた神は蛇を送られたので、多くの人たちが蛇にかまれて死にました。そのとき神様はどうされたでしょうか。高価な薬を飲まないと救われないと言ったでしょうか?お百度参りをしたら治してやろうと言われたでしょうか?いいえ、ただ青銅の蛇を一つ造り、それを仰ぎ見なさいと言われました。そうしたら救われる・・・と。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見たすべての人が癒されました。これが信仰です。この信仰によって人は義と認められるのであって、自分の努力や行いによるのではありません。そのようなものによっては、私たちは神の御前に正しいとは見なされないのです。ただ神を信じること、それ以外に道はないのです。

 

Ⅱ.アブラハムの信仰(17-22)

 

では、そのアブラハムの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。17~21節までをご覧ください。

「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

 

ここにアブラハムの信仰がよく説明されていると思います。ここには、彼の信じた神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方、とあります。そうです、アブラハムは、神はどんなことでもおできになられる全能の方であると信じていたのです。

 

私たちは、その人がどんな神様を信じているかで左右されます。死んだ神様を信じている人は、その信仰も死んだものであり、生きている神を信じている人は、その人の中に生きておられる神様のみわざがどんどん現れてきます。皆さんは自分が信じている神様が全能者であると信じていますか?今も生きておられ、できないことは何一つない方であると信じていますか。もしそうならば、何も落ち込む必要はありません。神様がともにいてくださるなら、すべてのことが可能となるからです。

 

宗教改革者のマルチン・ルターは「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが犯しがちな罪の中でも最も大きな罪は、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまうのです。その全能のお力を認めないのです。

 

私たちはしばしばこのような錯覚に陥ってしまうことがあります。「神様にも難しいことはあるだろう」本当にそうでしょうか。神様にも難しいことがあるでしょうか。たとえば、神様にとって、風邪を治すことはできても、がんを治すことは難しいことなのでしょうか。いいえ。神様にとっては、風邪を治すこともがんを治すことも朝飯前のことです。簡単なことなのです。私たちの目では、風邪がいやされることよりも、がんがいやされることの方がはるかに難しいように感じますが、神様にとってはどちらも簡単なことなのです。イエス様が死人を生き返らせた時には相当長く祈られたのではないかと思いがちですが、実際はそうではありませんでした。イエス様は簡単に死人を生き返らせました。イエス様にとって死人を生き返らせることなど簡単なことだったのです。なぜなら、イエス様はこの世のすべてのものを造られた創造主だからです。目に見えるものも、見えないものも、王座も主権も支配も権威も、すべてイエス様によって造られ、イエス様のために造られたのです。(コロサイ1:16)ですから、イエス様にとってできないことは何もありません。

 

であれば私たちは、神様にはできないことはないと信じて、いつでも大胆に主に頼って前進することが必要です。私たちの周りにどんなにかたくなな人がいたとしても、全能の神様を信じて進み出るとき、神様はそのたましいを救ってくださると信じることが大切です。18節を見ると、アブラハムは「望み得ないときに望みを抱いて信じた」とあります。彼はおよそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

 

ルカの福音書5章には、夜通し漁をしても全く魚が捕れなかったペテロに対して、イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)と言われたことが出ています。

このイエス様の御言葉は、人間の理屈には合わないことでした。第一に、そのときは網を投じる時間帯ではありませんでした。第二に、網をおろす場所が間違っています。魚は普通、プランクトンがたくさんいる浅瀬にいるのであって、深みに網をおろしてはいけないのです。第三に、このときはもう漁が終わり、網を片付けているときでした。そんな時にもう一度舟を出すことが、どんなに面倒くさいことだったかわかりません。第四に、ペテロはイエス様に指示される立場ではありませんでした。彼は漁師でした。漁のプロで、魚を捕る専門家でした。なぜに大工だったイエス様に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を捕りなさい」と言われなければならないのでしょうか。大工が漁師に漁について指図するというのは見当違いです。しかし、ペテロは「でもおことばですから、網をおろしてみましょう」と答えました。するとどうでしょうか。網が破れそうになるほどの魚が捕れたのです。

これが信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信するものです。(ヘブル11:1)神様が言われたことは必ずなると信じることなのです。アブラハムは信じました。神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。それが自分の感情や理屈に合わなくてもです。100歳にもなって、自分のからだはもう死んだも同然であり、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。この「死んだも同然」ということばは現在完了形で現されていて、「もう死んでしまった」という意味です。つまりもう死んでいて、その体には生産能力はありませんでしたが、それでも、その信仰は弱まらなかったのです。

この信仰が重要です。「神様のみことばを聞いていると心は熱くなるけれども、周りを見たらもう大変で、何にもならない。すべて夢のようだ」と落胆する時がありますが、アブラハムはそのような絶望的な状態を見ても、その信仰は弱まるどころか、反対にますます強くなって、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

 

ロサンゼルスに、有名なおばあさんがいました。このおばあさんは道を歩くとき、いつもぶづふつ言いながら歩きました。不思議に思った人が尋ねました。「おばあさん。あなたはどうしてそういうふうにぶつぶつ言いながら歩いているんですか?」するとそのおばあんが、こう答えました。「あたしゃもう年をとって、神様のお仕事をすることはできないし、子孫のためにできることもないのよ。でもヨシュア記1章3節に、「あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ってあるから、そのまま信じて従っているの」。不思議なことに、この方が足で踏んで歩いた所には、ユダヤ人の店が立ち並び、ユダヤ人たちが不動産を取得しているそうです。

 

「そのまま信じて従うこと」です。自分の理屈や常識に合わなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様の前では、理屈や常識は無用だからです。神様が用いられるのに難しい人というのは、常識を主張する人です。「それは常識的に可能でしょうか」といつも聞く人です。また何かをしようとすると、自分の経験ばかり言う人もいます。「やったこともないのにどうしようと言うのですか」と。しかし神様は、経験のあることを私たちにしろと言っておられるのではありません。全くやったことのないことや、まだ未知の領域のことでも信仰を持って出て行き、開拓するようにと呼んでおられるのです。

 

パスカルは言いました。「信仰とは理性を十字架につけることだ」と。汚染されるだけ汚染されてしまった理性を十字架に付けて、みことばどおりに信じ、従う人にならなければなりません。アブラハムはまさに、そのような信仰を持っていたのです。

 

Ⅲ.イエス・キリストを信じる信仰(23-25)

 

そして第三のことは、このアブラハムの信仰とは、イエス・キリストを信じる信仰であったということです。23~25節をご覧ください。

「しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

 

アブラハムの信仰とは、神は約束されたことを成就する力があると堅く信じる信仰でしたが、それは同時に、イエス・キリストを信じる信仰でもありました。というのはここに、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあったとあるからです。どういうことかいうと、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちもまた、その信仰によって救われるということです。つまり、アブラハムが信じた神とは、死人を生かし、無から有をお造りになることのできる方、すなわち、復活の主であったということです。キリストの十字架と復活を信じる信仰こそ、私たちの罪が赦され、神に義と認められるために必要な唯一の信仰であるという意味です。ですからパウロはコリント人への手紙の中で、これが私たちが救われるべき福音であると、次のように言ったのです。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:1~5)

 

私たちが救われるべき福音のことばとは、十字架と復活のことばです。キリストの十字架と復活なしに、私たちの救いはあり得ません。この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのであって、それ以外に道はありません。キリストの十字架と復活こそ、私たちが救われるべき方法として、神が示してくださった道なのです。なぜなら、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪の身代わりのためであり、キリストが復活されたのは、この十字架上で成し遂げられた御業を、父なる神様が完全に受け入れられたということの宣言にほかならないからです。アブラハムはこの信仰を持っていたのです。

 

今から7年前に、東日本大震災が起こりました。私は那須で行われていた聖書入門講座から帰り自宅にいましたが、激しい揺れに世の終わりが来たかと思ったほどです。後でテレビの報道で特に福島、宮城、岩手沿岸に大津波が襲いかかり、多くの方々が犠牲になられたことを知って、本当に悲しみで胸が痛みました。涙が出ました。そして、この福音を知らずして亡くなられた方々のことを思うと、心が痛みます。何とかしてこの福音を宣べ伝えなければならないと思いました。そのためにも私たちは、この福音のことばをしっかり保っていなければなりません。この国の人々が福音を信じて救われますように。この国の回復と復興が、福音を信じる信仰によって、神の恵みと全能の力によって為されていきますように。心からお祈り致します。

ローマ人への手紙3章9~31節「救いの道」

きょうは「救いの道」についてお話したいと思います。私たち人間にとっての永遠の命題の一つは、「人間はいかにしたら救われるか」ということです。もちろん、この場合の救いとは貧乏からの解放とか病気の治癒、人間関係をはじめとしたさまざまな問題の解決ということではなく、それらの問題の根本的な問題である罪からの救いのことです。人類最初の人間であったアダムが罪を犯して以来、人類はその罪の下に置かれ、罪の力に支配されるようになってしまいました。これは奴隷をつなぐ鎖のように強力なので、この鎖から解き放たれることは並大抵ではありません。いったいどうしたらこの罪の力から解放されることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、すべての人は罪人であるということです。義人はいない。ひとりもいません。すべての人が迷い出て、みな、無益な者となってしまいました。第二のことは、では救いはどこにあるのでしょうか。イエス・キリストです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから第三のことは、このイエス・キリストを信じ、十字架だけを誇りとして歩みましょうということです。

 

Ⅰ.すべての人は罪人(9-20)

 

まず第一に、すべての人は罪人であるということについて見ていきましょう。9~20節までに注目してください。まず9節をお読みします。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」

1節からのところでパウロは、ユダヤ人のすぐれたところについて語ってきました。ユダヤ人のすぐれたところは、彼らには神のことばが与えられていたということです。そこでパウロは、そうした優越性というものを一応認めたものの、それは彼らが何をしても構わないということではないと釘を打ったところで、ではどういうことなのかをここで述べます。それは、ユダヤ人もまた罪人であるということです。

 

パウロはここで、1章18節から異邦人の罪について、そして2章からはユダヤ人の罪を取り上げ、ここでその結論を語っているのです。すなわち、すべての人が罪人であるということです。ひとりとして例外はありません。この地上に生きた人で、この罪の下になかった者はひとりもいないのです。ただ神のひとり子であられ、聖霊によってお生まれになられたイエス・キリストだけは違います。キリストは聖霊の力によって生まれた「いと高き方の子」(ルカ1:35)であられるので、全く罪を持っていませんでした。しかし、キリスト以外のすべての人は、別です。異邦人であれ、ユダヤ人であれ、みな罪の下にあるのです。パウロはそのことを旧約聖書のことばを引用して裏付けています。10~18節です。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」

 

本当にそうです。人が口を開けば毒のようなことを言って殺します。それはまさに開いた墓です。また、偽りや欺き、のろいや苦々しさで満ちています。他人が血を流して倒れているのを見ても悲しむどころか、むしろそれを見て喜んでいたりしているのです。これが人間の姿です。どうして人はこんなにひどいことを言ったり、やったりするのでしょうか。罪を持っているからです。人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯してしまうのです。ダビデはこのように告白しました。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

ダビデは、自分が母の胎にいた時から罪人だったと言っています。母の胎にいた時から罪を持っていて、罪人として生まれてきたので、罪ある人生を送るようになったのだ・・・と。

私たちはよく人の悪を見ては、「なぜあの人はあんなことをしたのだろう」とか、「この」人は本当にひどい人だ」と言いますが、それは日常的なことであり、だれにでも起こり得ることなのです。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです。

 

よく教会に行くとすぐに「罪」「罪」って罪のことばっかり言われるから行きたくないの、と言われる方がおられますが、そのような方は「罪」ということばから犯罪を連想し、罪人イコール犯罪人のことであり、自分はそんなにひどい人間だと思っていないからなのです。

しかし、この世の法律を破った人が犯罪人であるならば、神の法律を破ってしまった人間は、この世の犯罪人以下であるはずがないのです。私たちはみな罪人なのです。

 

「罪」ということばはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは的外れを意味しています。神によって造られた人間は、神をあがめ、神の栄光のために生きるはずなのに、その神から離れ自分勝手に生きるようになってしまいました。これが罪です。ですから、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなったと聖書は言うのです。聖書の言う救いとはこの罪からの救いのことであって、単なる前向きで、肯定的な生き方のことではないのです。この罪から解放されることによってもたらされる喜びと心の平安のことなのです。

 

Ⅱ.イエス・キリストを信じる信仰による神の義(21-26)

 

ではどうしたらいいのでしょうか。罪ある者として生まれてきた私たちには、何の希望もないのでしょうか。いいえ、まだ希望があります。それがイエス・キリストです。律法によっては、だれひとり神の前に義と認められることのない私たちに、律法とは別の、いや、律法が本当の意味であかししていた神の義が示されたのです。21~24節をご覧ください。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

ここには「律法とは別に」とありますから、これが旧約聖書に書かれてあったこととは別の義(救い)であるかのように錯覚しがちですが、そういうことではありません。ですからその後のところに、「しかも律法と預言者によってあかしされて」とあるのです。これは旧約聖書の時代から律法と預言者によってずっとあかしされていた救いなのです。それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」です。えっ、旧約聖書の時代にはまだイエス・キリストが登場していないのに、その旧約聖書であかしされていたとはどういうことですか。預言です。預言という形であかしされていたのです。その時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、キリストを信じる信仰によって救われるということが預言という形でちゃんと示されていたのです。

 

たとえば、創世記3章15節などはその一つです。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ということばがありますが、これは人類最初の人アダムを誘惑して堕落させた蛇であるサタンに創造主なる神が語られたことばです。ここで神は蛇であるサタンに、その勢力が地を這って歩くようになり、やがて蛇の頭、すなわち、サタンを粉々に打ち砕いて勝利すると宣言されたのです。これはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって成就しました。これはイエス・キリストの十字架と復活の型だったのです。

 

また、出エジプト記12章を見ると、ここにはイスラエルがエジプトから脱出した時の様子がしるされてありますが、その時神はイスラエルに不思議なことを命じました。12章5~7節です。一歳の雄の小羊をほふり、その血を取って、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいに塗るようにというのです。いったい何のためでしょうか。しるしのためです。それは主への過越のいけにえでした。神がそのしるしを見て、滅びのわざわいを過ぎ越すためです。それは、やがて十字架に架けられて死なれたキリストを指し示すものでした。神のさばきは小羊の血を塗った家を過ぎ越していったように、イエス様の血を信じた者の上を過ぎ越されるという預言だったのです。

 

このように旧約聖書の時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、預言という形であかしされていたのです。このような預言は少なくとも350カ所、間接的な預言も含めると450カ所にも上ると言われています。古代キリスト教の神学者で説教者であったアウグスチヌス(Aurelius Augustinus,354-430)は、「旧約は新約の中に現され、新約は旧約の中に隠されている」と言いましたが、まさにそのとおりです。旧約と新約は全然別々のものではなく、相互に結びついているものなのです。イエス・キリストを信じる信仰による神の義は律法とは別のものですが、律法と預言者によってあかしされていたものだったのです。ですから23~24節にあるように、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

皆さん、イエス・キリストの血潮の力がなければ、罪を断ち切ることはできません。自分の意志や力では到底断ち切ることはできないのです。人間は罪を犯して以来、罪の奴隷として生きるようになり、罪の報酬である死を味わい、滅びるしかない存在となってしまったのです。それが私たち人間の姿であり、そこには絶望以外のなにものもないのです。それを認めなければなりません。しかし、この罪の力を打ち砕き、全く望みのない人間をその絶望と暗闇から救い出してくださる唯一の道が示されました。それがイエス・キリストを信じる信仰による救いです。罪のために全く無力になってしまった人間には何の為す術もありませんでしたが、そんな人間をあわれんで、神の方から一方的にその道を示してくださったのです。どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス・キリストが十字架に釘付けされたことによって粉々に砕かれたのです。これが、私たちが救われる唯一の道なのです。

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

先日、テレビでおもしろい番組がありました。『たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~』!!という番組です。そこでは実質的に破綻しそうな国家予算から、外交問題、少子化、若者の就職難など山積している現代の日本の問題を、「世界中の頭のいい人々」に解決してもらおうというもので、 今回、”世界の頭脳”の代表として登場したのが、「ハーバード白熱教室」で話題のマイケル・サンデル教授でした。そのスタジオで、ビートたけしはじめ、日本の芸能人・文化人を相手に初の授業が行われたのですが、その内容は今問題となっている相撲の八百長問題から始まり、北朝鮮の拉致問題など、多岐に渡りました。「大相撲の八百長」は悪いことなのかという問いに対して、初めは悪いと思っていた17人のゲストが少しずつ変わり、必ずしもそうとは言えないというふうに変わっていくのです。いろいろな視点から考えるということは大切だなぁと思いましたが、サンデル教授が最後に言ったことばがとても印象的でした。

「これが哲学だ。哲学には答えがないのだ。それを考えるのが大切なのだ」と。

なるほど、考えることは大切なのです。しかし、そこには答えがありません。それが哲学なのです。どんなにIQが200以上あっても、罪によって山積されたこの世の問題を解決することはできません。しかし、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。ここに答えがあるのです。私たちの人類の問題の根本であるところの罪の赦しは、神の恵みによって私たちに賜ったイエス・キリストにあるのです。

 

Ⅲ.十字架を誇りとして(27-31)

 

ですから、結論は何かというと、このイエス・キリストを、十字架だけを誇りとしましょうということです。27節と28節をご覧ください。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」

 

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。どこにもありません。なぜなら、私たちが義と認められるのは、律法の行いによってではなく、信仰によるからです。私たちはだれひとりとして、自分の善行や性格の良さ、頭の良さ、家柄や身分、社会的地位や財産の多さによって救われるのではありません。あるいは、難行苦行や、慈善事業をしたから救われるのでもないのです。そのような行いの原理はすでに取り除かれました。では何があるのでしょうか。信仰の原理です。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる。これが信仰の原理です。私たちが救われるためには、神からの賜物であるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちの救いも、すべての仕事も、今置かれている境遇も、これまで成し遂げてきた業も、すべてが神の恵みであって、私たちが誇れるものなど何一つないのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

 

であれば私たちはが誇りとするものは、イエス・キリストの十字架以外にはありません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。ローマ人はその帝国の民であることを誇るでしょう。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを誇ります。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、キリストは神の力、神の知恵なのです。十字架だけを誇り、十字架だけを頼りとし、十字架だけに生かされていく信仰、それが私たちの信仰なのです。それはちょうど光と影のようです。私たちが光から遠くなればなるほど影はだんだん大きくなり、逆に光に近づけば近づくほど、影は小さくなるように、キリストから遠く離れれば離れるほど、自分の誇りが大きくなり、光に近づけば近づくほど、自分の誇りはなくなります。

 

臨終を目の前にした人を見ると、私たちは皆恐れます。死とはそれほど恐ろしいものなのです。そのため私たちは、臨終を迎えようとする人に、心が安らかであるようにと話かけます。「あなたのように多くの仕事をした人はいません」「あなたは立派な方です」「どれほど多くの人々があなたを称えるでしょう」そう言って慰めようとするのですが、そのようなことばが本当にその人を安心させることができるでしょうか。私はできないと思います。その人が何を、どれだけやったのかということは、その人の平安のよりどころにはならないからです。その人が本当に安らかになれるのは、神によって罪の赦しをいただいているという確信を持てる時ではないでしょうか。ですから、もし私がだれかの臨終に立ち会うことが許されるとしたら、こう言ってお慰めしたいと思っています。

「兄弟姉妹、イエス様があなたのために死なれました。そしてあなたのすべての罪は赦されました。主があなたとともにおられます。主の懐の内に安らかに抱かれてください。」

 

イエス様だけが救いです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。「地の果てすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)ただ神を仰ぎ、キリストの十字架を誇りとして歩む者でありたいと思います。

ヨハネの手紙第二1章1~13節「真理と愛のうちに」

きょうは、ヨハネの手紙第二から学びます。ヨハネの手紙第二は、見ていただくとおわかりのように、とても短い手紙となっております。あまりにも短いので章に区切ることができず、いわば1章だけにまとめられています。そのためこの手紙は個人的な傾向が強く、教会宛てに書かれた他の手紙のように広く公の場で読まれなかったということもあって、正典に入れるべきかどうか大いに論じられたという経緯があります。しかしどんな過程をたどったとしても、この手紙が疑いのない神のことばであることは、今日全世界の福音的な教会において受け入れられていることから明らかであり、かえってそのような批判を受けたことによって、この手紙が自らの正当性を証明することになりました。

きょうはこのヨハネの手紙第二から、「真理と愛のうちに」というタイトルでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ. ほんとうに愛しています(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。」

 

この手紙は「長老から、選ばれた婦人とその子供たちへ」宛てて書かれています。長老とはヨハネのことです。ヨハネが自分を「長老」と呼んでいるのは、もちろん彼が霊的な面で教会の指導者であったということもありますが、実際にこの手紙を書いていたとき、かなりの高齢であったからでしょう。この手紙を書いた時、彼は90歳を超えていたのではないかと言われています。彼は、自分の晩年に、残された人々に伝えたい大切なことを、この手紙に託したのです。

 

それは何か?それは、真理のうちに歩むということです。ですから、この手紙の書き出しの部分には、この「真理」という言葉が何度も繰り返して書かれてあるのです。まず1節には「真理を知っている人はみな、愛しています。」とあります。また2節には、「真理は私たちのうちにとどまり」とか、「そして真理はいつまでも私たちとともにあります。」とあります。また3節にも、「父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。」とあります。

 

これは、「選ばれた婦人とその子どもたちへ」宛てて書かれました。選ばれた婦人とその子どもたちとはだれのことを指しているのかははっきりわかりません。おそらくこれは特定の婦人とその子どもたちというよりは、教会のことを指して言われていると理解して良いかと思います。というのは、教会はキリストの花嫁であり、その教会にはいろいろな霊的成長段階にある神の子どもたちがいるからです。

 

その手紙の書き出しにおいて、ヨハネはいきなり「私はあなたを本当に愛しています。」と言っています。このように言える人はあまりいないのではないでしょうか。特に、自分の気持ちをストレートに伝えるのが苦手な私たち日本人にとっては、なかなか勇気のいることです。

しかもここには「本当に愛しています」とあります。「本当に愛しています」を英語で言うとどうなるかというと、I really love you.̋です。しかし、英語の訳ではここを、̏I love in the truth̋と訳しています。つまり、真理をもって愛する、です。

ですからこれは真理に基づいた愛で、決して感情的なものではないということがわかります。どんなにすばらしい愛でも、真理にもとづいてなければ、真理に結びついていなければ、中味の薄っぺらいものになってしまいます。

残念ながら私たちの感情はいつも一定ではありません。その感情にのみ左右されているとしたら、とても「永遠の愛」と呼べません。そのような愛が長続きすることは望めないからです。

ヨハネがここで「私はあなたを本当に愛しています」と言っているのは、その愛が真理に基づいていることを前提にしたものだったのです。

 

では「真理」とは何でしょうか。古今東西、多くの哲学者や宗教家、賢人と言われる人たちがこの答えを模索してきましたが、彼らが到達した答えは、あのピラトのように「真理とは何ですか?」という疑問符でしかありませんでした。

しかし、聖書にはその答えがはっきりと示されてあります。それはイエス・キリストです。ヨハネの福音書14章6節には、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とあります。「わたし」とはだれのことでしょうか?イエス様です。イエス様こそ真理そのものであられます。そして、その真理についてあかしするためにこの世に来られました。ですから、イエス様を見れば真理がわかります。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:17)

ヨハネは、このイエス様を見て、真実の愛とはどのようなものなのかがわかりました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

ヨハネがここで、「本当に愛しています」というとき、それはこの真理に基づいたものだったのです。このような愛こそいつまでも残るものであり、いつまでも長続きするものです。

パウロはコリント第一13章の中で、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(Ⅰコリント13:13)と言っていますが、このような真実な愛こそ何ものにもまさって尊いものなのです。

 

このように、この手紙の書き出しが愛の呼びかけによって綴られていることは、まことに興味深いものがあります。というのは、ここに、私たちの人間関係の土台が何であるかがはっきりと示されているからです。それは身分の違いや金銭関係によって結びついたものではなく、愛という一番すぐれているものを土台にしているということです。愛によってこそ最高の人間関係が成り立つのであって、愛がなければこうした人間関係が築き上げられることはありません。これは夫婦関係や友人関係など、あらゆる関係において言えることです。

 

ですから、もしあなたが人間関係で悩んでいるとしたら、ここから点検する必要があります。自分は聖書の言う真実の愛を持っているだろうか。自分のことしか考えられないということはないか、

この本当の愛を土台とした人間関係を築いていかなければなりません。ヨハネが「私はあなたを本当に愛しています。」と言っているように、私たちも「あなたを本当に愛しています」と堂々と言える愛の実践家になりたいものです。

 

Ⅱ.互いに愛し合いましょう(4-6)

 

第二のことは、そのような真実な愛をもって互いに愛し合いましょう、ということです。4節 から6節までをご覧ください。

「御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。」

 

ヨハネは、「あなたの子どもたちの中に」、すなわち、選ばれた婦人の子どもたちの中に、真理のうちに歩んでいる人たちがいるのを知って非常に喜んでいました。「歩んでいる」というのは、生活スタイルそのものです。それは単なる知識ではなく、その中を生きているということです。

 

それをベースに、ヨハネは彼らにお願いしています。それはヨハネが新しい命令として書いているのではなく、初めから持っていた命令ですが、互いに愛し合いましょう、ということです。これこそ、神の命令に従って歩むということです。愛のうちに歩むこと、それが神の命令だからです。

 

明治の文豪、徳富蘆花(Tokutomi Roka)は、「天に星あり。地に花あり。人には愛無かるべからず」と言いました。星があってこそ天の雄大さを見ることができます。花があってこそ地上は美しく彩られます。そして愛があってこそ人と人との交わりや社会生活が健全に営まれます。その愛が無ければならない、と言ったのです。

 

パスカルは「パンセ(瞑想録)」の中でこう言っています。「彼は十年前に愛した婦人を、もはや愛さない。そのはずである。彼女は以前とは同じではなく彼も同じではない。彼も若かったし、彼女も若かった。今や彼女は別人である。彼は、彼女が昔のようであったら今なお愛したかもしれない。」つまり、十年前とは容姿がすっかり変わってしまったため、もはや愛さない、というのです。

皆さん、どうですか。このような愛ほど不安定なものはないですね。だれでも年を取れば老けていくものです。昔のような美しさを保つのは不可能だとは言いませんが、かなり困難なことです。それなのに、そうなったら愛さないというのではたまったものではありません。

 

しかし聖書が私たちに示している愛とは、そのようなものではありません。それはイエス様によって表された、人知をはるかに越えた愛です。それはどこまでも赦し、どこまでも受け入れ、どこまでも与えて行く愛です。よくキリスト抜きの愛は「だからの愛」だと言われます。「美しいから愛する」とか「性格が良いから愛する」、「親切にしてくれるから愛する」といった条件付きの愛です。

しかし神の愛は違います。神の愛はこうした条件を一切付けずに相手を無条件で受け入れ、与える愛です。「汚いども愛します」「ひどい食べ方だけれども愛します」「いつまでたっても悪い癖が治らないけど愛します」という「けれどもの愛」です。それが、主イエス様が十字架で示してくださった愛です。ヨハネは十字架の下でその愛を見ました。ここに愛があるということがわかったのです。

 

イエス様は、自らの特権を主張されることなく、十字架の死をもってすべてを与えてくださいました。私たちは「~だから愛する」というのに値しない者であるにもかかわらず愛してくださったのです。何という愛でしょう。だから私たちもこの愛をもって互いに愛し合うべきなのです。

 

札幌キリスト福音館の牧師だった三橋萬利(Mitsuhashi Kazutoshi)先生は、3歳のとき小児麻痺にかかり、両足と右手の機能を失いましたが、21歳の時にイエス様の御言葉を聞いてクリスチャンになりました。その後、教会で出会った幸子夫人と結婚されると、2004年までの50年間、教会で牧師をしながら幸子夫人に背負われて、国内、国外で幅広い伝道活動をされました。結婚当初は今のように乗用車が少ない時代でしたので、リヤカーに乗った萬利先生を幸子夫人がそのリヤカーを自転車にくくって伝道するという凄まじいものでした。

それにしても幸子夫人はよく萬利先生の伝道活動を支えたものです。というか、よく結婚を決断されたなぁと思います。幸子夫人が萬利青年と結婚したのは、二十歳の誕生日を迎える二日前のことでした。当時看護学生だった彼女は、両親や兄弟たちの猛烈な反対の中を、看護学校を中退して結婚されました。小児麻痺のため片手と両足の自由を失っていた相手です。生活するにも経済力がありませんでした。そんな相手と結婚して、一生夫を背負って生きていかなければならない娘の行く末を案じない親などいません。勘当までしてその結婚に反対した肉親の気持ちを踏みにじるようにして相手との結婚に踏み切ったのは、幸子夫人の方でした。何が彼女をそうさせたのでしょうか。

実は、その頃、三橋先生は教会員の兄弟姉妹たちによって、送り迎えされていたのですが、幸子夫人はそのお手伝いをしていました。お手伝いをしているうちに、「もしこの人に手足となる良い助け手が与えられたら、彼自身の持つすばらしさがもっと引き出されて、生かされていくのではないだろうか」と思っていました。そしてあるクリスチャンの姉妹を思いながら、「あの人が三橋さんの良い助け手となるといいなぁ」と思って祈りはじめたら、その祈りとは裏腹に、「あなたはどうですか?あなたは?」とのささやきを神様から受けました。いいえ、私はできません、と反論しましたが、聖書のみことばが与えられました。

「人がその友のために自分のいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)

幸子夫人にとっては、自分の都合や計画を主張することをやめ、相手を受け入れ相手の益を図ることがいのちを捨てることに通じる愛だと思いました。

人を受け入れるのに自分を主張していたのではどうしようもありません。相手を認め、相手を受け入れ、自分を与えていくところに愛の行為が生まれてくるのです。

 

主イエス様は、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)と言われました。ご自分の御子をお与えになったほどに世を愛され、一人も滅びることを望まれない神の御旨を自らの心の内にはっきりとどめて歩む者、それがクリスチャンの性質であると言えるでしょう。それが神の命令です。それは新しい命令ではなく、初めから与えられていた命令です。これがクリスチャンの本質です。神の命令を心から受け入れそれに従って生きる者だけが、「私は神を愛しています」と言える者なのです。すぐにはそうなれないかもしれませんが、少しずつでもその愛に生きる者となるように祈り求めていきたいと思います。

 

Ⅲ.キリストの教えにとどまる(7-13)

 

最後に7節から13節までを見て終わりたいと思います。まず11節までをお読みします。

「こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」

 

「こう命じるのは」とは、その前で勧められてきたこと、すなわち、互いに愛し合いなさい、という命令です。こう命じるのはなぜか、ここにはその理由が述べられています。すなわち、「人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。」

 

ヨハネの第一の手紙のメッセージでもお話ししましたが、この手紙が書かれ当時、危険な教えとして警戒していたグノーシス主義の教えが教会の中に入り込んでいました。グノーシス主義は、霊は善であり物質は悪であるという極端な二元論を唱えていました。この教えに立つと、霊である神が物質である肉体をとってこの地上に生まれるはずがないということになります。7節の「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たち」というのは、こうした教えが背景にあっての警告です。神が肉体をとって人間として生まれてくるはずはないし、人の姿をしたイエスが神であるわけがないというのは、昔も今も変わらない人間の哲学的思想なのです。

 

このような人を惑わす者たち、反キリストに対して、私たちはどうあるべきなのでしょうか。8節には、「気を付けなさい」とあります。「気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。」彼らの特徴の一つは、私たちが労して得たものを失わせる、すなわち台無しにするところにあります。「労苦して得たもの」とは、イエス・キリストの御名による救いのことです。これが無駄になってはいけません。これは神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに与えられたものです。この恵みが無駄にならないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなければなりません。初めに信じるだけでなく、それを最後まで保たなければなりません。そこに大きな意義があります。

 

9節の「先を行って」とは「行き過ぎ」のことです。「境界線がある領域から出て行く」ことを意味します。行き過ぎはよくありません。ではその境界線とはどこでしょうか。ここには、「キリストの教え」とあります。「キリストとの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています」

キリストがどのような方なのか、その本性についての教えは、私たちが御父と御子を持っているのか、いないのか、つまり永遠のいのちを持っているのか、いないのかの重大なに分かれ目です。ここを逸脱してはいけません。キリストの教えにしっかりととどまっていなければなりません。

 

この「教え」と訳されたことばは「教理」とも訳せますが、私たちはどちらかというと教理を軽視しがちです。もう分かっていることだ。神さまとの出会いと体験が大事なのであって、聖書を体系的に知的に理解するのは信仰を死なせる、というのです。違います。キリストの教えは、知的ではなく、霊的なのです。この教えにとどまっていれば、御父と御子を持っている、つまり交わりがある、ということです。キリストの教えにとどまっていなければ、どんなにすばらしい体験でも全く無意味なのです。

 

では、このような反キリストに対して、人を惑わす者たちに対して、どのように対処したらいいのでしょうか。10節と11節をご覧ください。ここには、「あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」とあります。

ちょっと厳しすぎるんじゃないですか。愛がありません。クリスチャンならもっと優しくすべきです。家に受け入れてはいけないとか、あいさつのことばをかけてもいけない、そういう人にあいさつをすれば、その悪い行いをともにすることになるというのは、ちょっと狭いんじゃないですか。

皆さん、どうでしょう。意外とこういうことばにつまずかれる方も少なくありません。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

当時は家々で礼拝が行われていました。ですから、この「家」というのは、一般的な私たちの「家」とは違い、そうした信者たちが集まっているところにキリストの教えを持っていない者が入り込んで来たらということです。そういう時には断固とした態度を取らなければなりません。伝道者だから、牧師だから、教師、預言者だからと、簡単に受け入れてはならないということです。私たちはとかく「イエス様」の御名を使っていれば大丈夫だろうと、何でも安易に受け入れてしまうことがありますが、それは必ずしも安全だというわけではありません。

最近の異端は羊のなりをした狼のように、まるで私たちと同じ格好で教会に入り込み、十分に安心させてから、ごっそりと奪っていくというケースが少なくないのです。お隣の韓国ではそうしたケースが横行しているとよく聞きます。

 

ですから、「イエス」という名を使っていれば安心だというわけではないのです。キリストの教えの核心について間違った教えをしているのであれば、それは偽りであって、本物のイエス・キリストとは似ても似つかぬものなのです。そうした者たちを受け入れてはなりません。あいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになるからです。

これは新しくクリスチャンになった人には、特に必要なことです。安易に受け入れてしまうと、こちらの弱点を突いてどんどん入り込まれてしまうことになります。彼らはそうした訓練を受けているのですから。

 

キリスト教の代表的な異端の一つにエホバの証人というグループがありますが、彼らは教会にまで来て伝道します。教会の前には「大田原キリスト教会」と書かれた看板があるのに、その教会に堂々とやって来るのです。なぜ教会まで来るのか不思議に思い聞いたみたことがありました。「どうして教会にまで来られるんですか」すると、二人のうちの一人がこう言われました。「教会の牧師はあまり聖書を知らないと聞いているので良い知らせを伝えたいと思いまして・・」エホバの証人の方々は、キリスト教会の人たちはほとんど聖書を学んでいないので、一番ターゲットにしやすいと思っているのです。

しかし、その人が帰り際に言われました。「でも、こちらの教会の牧師は聖書をよく知っておられるので驚きました。一般の教会の牧師さんはこれほど知りません。」いや、一般の教会の牧師さんは聖書を知らないのではなく、ただ相手にしないだけです。でも私は心優しくへりくだっているので、できるだけわかってほしいと、すべての人に接しているので知っているかのように見えただけのことです。

 

ですから、もしこちらが曖昧な態度を持っていたら、相手はそこを付いて攻撃してくるでしょう。柔和で、優しい態度で・・。危険です。キリストの教えを持っていない者は、神を持っていません。そのような人が訪ねて来た時は、丁重に断りつつも、毅然(きぜん)とした態度で臨むべきです。そして、人が何と言おうと、人間が救われる道は、まことに神であられ、まことに人であって、あの十字架で死なれ、三日目によみがえられた主イエス・キリスト以外にはないということを、天下に示さなければなりません。

 

異なった教えに惑わされず、健全なキリストの教えにとどまることを、ヨハネはどれほど強く願っていたことでしょうか。

今日の私たちも、ちまたのさまざまな教えに惑わされずに、唯一のキリストの教えにとどまって、主に喜ばれる信仰生活を全うしていきたいものです。

 

最後に12節と13節をご覧ください。ここには最後のあいさつが書かれてあります。「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。」

愛の使徒と呼ばれるヨハネは、キリストの教えを持っていない者、いわゆる反キリストや、惑わす者に対しては、あいさつをしてもいけない、と警告しましたが、キリストの教えを持っているクリスチャンに対してはそうではありません。ここには、「たくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。」とその心情を綴っています。

それは何のためでしょうか。ここには、それは「私たちの喜びが満ち溢れるために」とあります。

 

これがキリストの愛の中にある者同士の姿です。キリストの愛を信じ、その愛に生かされているクリスチャンは、互いに交わりを求め、互いに祈り、共に喜び合うのが自然なのです。へブル10章25節には、「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。」とありますが、それはむしろ、キリストの愛の中に入れられた者であれば当然すぎるほど当然なことなのです。

 

もし互いに愛し合っているなら、夫婦でも、親子でも、友人でも、愛のある交わりを求めることでしょう。クリスチャンでありながら同じ主にある兄弟姉妹たちとの交わりに対して無関心であるとしたら、その愛はどこか間違っていることに気付かなければなりません。そして、キリストの愛の中に入れられた者として、その集いを尊び、その交わりに積極的に関わりながら、ますます篤く愛し合う者でありたいと思います。

ヨハネのように、紙と墨ではしたくありません。あなたがたのところに行って、直接お話ししたい。喜びも、悲しみも共有したいと言える、そんな交わりを求めていきたいと思うのです。それがキリストによって救われた者の、真理と愛に生きる者の姿なのです。

ヨハネの手紙第一5章13~21節「まことの神、永遠のいのち」

ずっとヨハネの手紙第一からメッセージしてきましたが、きょうはその最後です。前回の箇所でヨハネは、神ご自身の証について語りました。イエスが神の御子であり、救い主であられるという証です。その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

 

ヨハネはこのことを知ってほしかったのです。ですから、きょうの箇所には、この「知る」とか「分かる」ということが何回も繰り返されているのです。13節には「分からせるためです」とあり、15節には「分かるなら」とか、「分かります」とあります。また、18節、19節、20節にも「知っています」とあります。ヨハネが福音書を書いた目的は何だったでしょうか。それは、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」(ヨハネ20:31)でしたが、同じヨハネがこの手紙を書いた目的は、信じた彼らにそのことを分からせるため、つまり、確信を持たせるためでした。

 

私たちはイエスが神の御子であると信じるだけでなく、その事実について確信を持たなければなりません。そうすれば、私たちは神との深い交わりの中に入れられるのです。

きょうは、私たちが持たなければならない三つの確信についてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.救いの確信(13)

 

第一に、私たちが知らなければならないことは、私たちがイエスを信じて永遠のいのちを持っているという確信です。13節をご覧ください。「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」

 

先ほども申し上げたように、ヨハネがこの手紙を書いた目的は、神の御子を信じている彼らが、永遠のいのちを持っているということを、分からせるためでした。そのことを確信することによって、この世に鬱かつことができるからです。5章4、5節をご覧ください。ここには、こうありました。5章5節です。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

何が世に打ち勝つことができるのでしょうか。私たちの信仰です。これこそ、世に打ち勝った勝利です。その信仰とは何か。それは、イエスが神の御子と信じることです。ただ信じるというのではありません。そのことについて確信を持っていなければなりません。ただ頭で「そうか」と理解するだけでなく、そのことを自分のこととして受け止めてほしかった。ヨハネは、そのためにこの手紙を書いたのです。

 

どうしたらその確信を持つことができるのでしょうか。ヨハネはその前の12節のところでこう言い増した。「御子を持つ者はいのちをもっており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」また4章9節では、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。」と述べました。ですから、この御子を持つ者は、いのちを持っていると確信することができるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。皆さんは神の御子を持っていますか?持っているとは信じているということです。イエスを神の御子と信じて、このイエスによって成し遂げられた救いの御業を受け入れておられるでしょうか。もしそうであるなら、皆さんは永遠のいのちを持っています。

なぜそのように言うことができるのでしょうか。ここに、そのように約束してあるからです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持ちない者はいのちを持っていません。この御子を持っているということの根拠のゆえに、永遠のいのちを持っていると確信することができるのです。

もしだれかがあなたに「あなたはキリストを信じ、受け入れたというが、まさかそれだけで救われ、罪が赦されたなんて思っていないだろうね」と言っても、「いいえ、こんな者でも罪赦されて永遠のいのちを持っています。」とはっきりと言うことができます。なぜなら、神の御子を信じているからです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。聖書にこのように約束されているので、これでも私は救われて永遠の命を持っているのですと、はっきりと言うことができるのです。

 

私は、18歳の時イエス様を信じてバプテスマを受けましたが、正直のところ、救われているという実感がありませんでした。確かに、イエス様を自分の罪からの救い主信じましたが、その救いとはどのようなものかはっきりわかりませんでした。いわゆるグッとくるものがなかったのです。

当時、私が通っていた教会では、この後で賛美しますが、新聖歌262番の「わが生涯は」という賛美歌が歌われていました。

「わが生涯は改まりぬ イエスを信ぜしより

わが旅路の御光なる イエスを信ぜしより

イエスを信ぜしより イエスを信ぜしより

喜びにて胸はあふる イエスを信ぜしより」

皆さん、どうですか?アーメンですか?アーメンですね。でも私の中では、喜びにて胸はあふる、という感じではありませんでした。確かにイエス様を信じて罪が赦されたというのが頭ではわかりましたが、喜びにて胸はあふる、という心境ではありませんでした。教会の牧師も、兄弟姉妹も、みんな喜んで賛美していたので、どうしたらそんなに喜びにあふれるのですか、と聞くこともできず、若き大橋富男青年はひとり悩んでいました。それで一生懸命に奉仕をすればそうした心境になれるに違いないと、礼拝の司会から日曜学校の教師、青年会のリーダーと、与えられた奉仕をことごとくしましたが、それでも喜びにて胸はあふる、という心境にはなりませんでした。

 

そのような私が救いの確信を得られたのは、後日国際ナビゲーターで出版している「確信の学び」という教材を使って聖書を学んでいた時でした。そこには、「信仰生活の確信は、自分の意思や感情から来るというより、神のことば、すなわち聖書の真実さから来るものです。自分がどう思うかより、聖書が保証している確かさに基づいています。」と書いてありました。その中でこのみことばに触れたのです。

「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」

そして、このみことばを心に深く刻み込んだとき、主イエスが私の内にいてくださり、永遠のいのちを与えてくださっていることを確信することができたのです。ちょうどきれいな花が咲くためには種を蒔かなければならないように、救われたという確信は、神のことばという種を蒔いた結果もたらされるのです。自分の感情に頼らないで、神のみことばに信頼することです。そのことを分かっていただきたいのです。

 

Ⅱ.祈りの確信(14-17)

 

第二に、私たちが知らなければならないとは、何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということです。14節から17節までをご覧ください。まず14節と15節をお読みします。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」

 

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちが信仰生活を続ける上でよく受ける攻撃のもう一つのことは、祈りに関することです。すなわち、「祈ったって無駄だ、何の意味もない」ということです。悪魔はあなたの耳元でこうつぶやくでしょう。「あなたのことを神が心配してくれるはずがない。神はあなたの祈りが届くことがない遠いところにおられるのであって、祈りに答えてくれることはない」その結果、祈ることを止めてしまい、神とのいきいきとした関係が薄れてしまうのです。神に期待することもなくなり、ただ惰性で信仰生活を続けてしまうことになるのです。

 

しかし、私たちはイエス・キリストを信じたことで神の子としての特権が与えられました。私たちが神の子どもであるということは、神が私たちに、また私たちが必要としていることに関心を持っておられということです。ですから、子どもである私たちの願いを無視したり、耳をふさいだりするようなことはされません。私たちのすべての思いは神の耳に届いているのです。何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださいます。これこそ神に対する私たちの確信です。

 

ところで、ここには「何事でも」とあります。私たちは祈るとき、「こんなことを祈っても大丈夫だろうか」とか、「まさかこんなことは聞いてくださらないだろう」と思い、祈ることを躊躇してしまうことがありますが、ここには「何事も」とありますから、何事でも祈ることが大切です。ヤコブは、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」(ヤコブ4:2)と言いました。私たちは、自分たちで何とかしようとして、神に祈らないことが多いのです。しかし、何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、神に対する私たちの確信なのです。

 

しかし、ここには一つだけ条件があげられています。それは「神のみこころにしたがって願うなら」ということです。ほらみなさい。やっぱり無理じゃないですか。だって、神のみこころにしたがって願うならと言われても、神のみこころが何だかさっぱり分かりません。神のみこころだと思って祈っていても、結局のところ、自分の思いで祈っているということが結構ありますから。ですから、神のみこころにしたがって願うなんて無理ですよ。だから祈らなければならないのです。そのようにして祈るなら、少しずつ神のみこころがわかってくるからです。

 

私たちもそうでした。信仰に導かれた頃は何が神のみこころなのかもわからなかったので、とんでもないようなことを祈っていました。今思い返すと本当に恥ずかしくなったり、身震いをしたりしますが、祈っているうちに、だんだんと神のみこころがわかるようになりました。また、たとえそれが自分の思いのようであっても、それが答えられなかったり、別の形で答えられたりするのを見て、「ああ、これが神様のみこころだったんだ」と、はっきりわかりました。ですから、それが神のみこころなのかどうかわからなくても、とにかく何事でも祈ることが大切です。

 

神が求めておられるのは私たちが私たちの願いを申し上げるということ以上に、神との親しい交わりを持つことなのです。それがどんなにつらないことであっても、それを聞いて関係を持ちたいと願う親のように、天の父である神様は、私たちとの交わりを求めておられるのです。

 

主イエスはこう言われました。「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(ヨハネ16:24)

私たちの喜びが満ちあふれるようになるために必要なことは何でしょうか。イエスの名によって祈ることです。イエスの名によって祈るなら、受けます。それはそのことによって私たちの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

皆さんはどうでしょうか。日々のいろいろなことで意気消沈しておられないでしょうか。神様に祈っても何の意味もないと、あきらめていないでしょうか。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。この確信を捨ててはなりません。

 

15節をご覧ください。ここには、「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」とあります。どういうことですか?私たちが願うことは何でも神が聞いてくださるということが分かるなら、それはもう叶えられているということです。もちろん、これは私たちの要求が何でもそのとおりになるということではありません。そうではなく、神に願ったら、神は最善の結果に導いてくださるということがわかるので、安心して結果をゆだねることができるという意味です。

ヤコブは「疑わずに、信じて願いなさい」(ヤコブ1:6)と言っていますが、これも神様との信頼関係を示しています。神様は私たちの父です。父であれば自分の子どものことを愛していて、子どもが必要としておられるものを与えてくれます。でも有害なものは与えません。良いものしか与えないわけです。私たちがその良いものを神に求めるなら、その求めたことは何でも、神は与えてくださいます。これこそ神に対する私たちの確信なのです。

 

ところで、16節と17節には、その祈りの確信を兄弟愛に適用するようにと勧められています。

「だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。17 不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。」

 

ここは難解な箇所です。だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、どうしたらよいのでしょうか。ここには「神に求めなさい」とあります。

兄弟愛がなければ見て見ぬふりをするか、内心軽蔑するか、他の人にその人のうわさ話をするかのいずれかでしょう。しかし、クリスチャンはそうであってはならないというのです。

5章1節には、「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたものです。」とあります。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者、すなわち兄弟姉妹をも愛するのです。それがクリスチャンの特徴です。もちろん、感情的になかなか受け入れられないという人もいるでしょう。しかし、少なくともそのように努力します。なぜなら、生んでくださった方を愛しているからです。それが生んでくださった方のみこころであり、命令だからです。私たちは神を愛するので、神の命令に従うのです。では、その神の命令とは何でしょうか。それは互いに愛し合いなさい、ということです。

ここでは、その愛するということがどういうことなのかがきっきりと示されています。それは、「兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、神に求めなさい。」ということです。そうすれば神はその祈りを聞いて、罪を犯している人を悔い改めに導き、いのちを与えてくださいます。これは、兄弟を滅びにいかせないで、最終的に永遠のいのちに至らせてくださるという意味です。

 

ヤコブ5章19、20節には、「私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。」とあります。物質をもって兄弟姉妹を助けることも大切なことですが、このように真理の道から迷い出た者のために祈り、そこから連れ戻すことも大切な愛の奉仕なのです。

 

ところで、ここには、それは死に至らない罪を犯している人たちの場合であって、死に至る罪を犯している場合はその限りではないと言われています。これについては、願うようにとは言いません、とあります。どういうことでしょうか。死に至る罪と死に至らない罪の違いとは何でしょうか。

イエス様はマタイの福音書12章31節と32節でこのように言われました。「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」

イエス様はここで、人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、聖霊を冒涜する罪だけは赦されないと言われました。聖霊を冒涜する罪とはどのような罪でしょうか。それは聖霊の働きを否定し、聖霊の働きを拒むことです。なぜ聖霊を冒涜する罪だけは赦されないのでしょうかというと、聖霊は神への救いに導く案内人ですから、それを拒むということは悔い改めを拒むということであり、悔い改めを拒むということは救いを拒むということになるからです。そのような人が赦されることはありません。ですから、そのような人については、願うようにとは言いません、とあるのです。

 

ヨハネはこのことについて、既にこの手紙の中で述べてきました。1章7節から10節です。

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」

御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。それなのに、頑なになり、聖霊の働きを拒んで、自分には罪がないと言うなら、つまり、悔い改めないとしたら、その人のうちには真理はありません。もはや神のいのちは残されていないのです。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

私たちは頑なになって聖霊の働きを拒んだりせず、神の御前にへりくだって、自分の罪を悔い改め、神のいのちに与るものとなりましょう。そして、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、神に求め、兄弟をその滅びの道から立ち返るように祈りましょう。それこそ愛の業なのです。

 

Ⅲ.勝利の確信(18-21)

 

第三に、18節から21節までを見て終わりたいと思います。

「神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」

 

ここには何度も「知っています」ということばが繰り返されています。何を知っているのでしょうか?神から生まれた者はみな罪を犯さないことです。罪を犯さないということは、全く罪を犯さない完全な者になるということではありません。罪に支配されることはないということです。クリスチャンでも罪を犯します。しかし、その罪を悔い改め、神のみこころにかなった歩みをしたいと願うので、その罪に支配された生活を続けることはないということです。神から生まれた方、これはイエス様のことですが、イエス様がその人を守っておられるからです。イエス様が守っておられるので、悪い者、これは悪魔のことですが、悪魔はその人に指一本触れることができないのです。これはどういう意味でしょうか。これは、クリスチャンは悪霊に取りつかれることはないということです。

 

ある人たちはクリスチャンでも悪霊に取りつかれることがあるので、悪霊を追い出してもらわなければならないと主張する人がいますが、それは違います。なぜなら、ここに、神から生まれた方がその人を守っておられるので、悪い者はその人に触れることはできない、とあるからです。「私たちの内におられる方は、この世にいるあの者よりも強い」(4:4)のです。キリストの霊、聖霊と悪霊が同居するということは絶対にありません。そんなことをしたらキリストの霊、聖霊の方がはるかに強いので、悪霊は追い出されてしまうことになります。ですから、イエス様を信じその内に聖霊が住んでおられるクリスチャンには、悪魔は指一本触れることはできないのです。ですから、どうぞ安心してください。あなたがイエスを持っているなら、イエスを神の御子と信じているなら、悪霊に取りつかれるということは絶対にありませんから。もし、まだイエスを信じていないという方がおられるなら、今、イエスをあなたの罪からの救い主として信じ、心に受け入れてください。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。そうすれば、悪魔はあなたを支配することはありません。

 

でも、クリスチャンでも悪魔に惑わされることがあります。悪魔に誘(いざな)われることがあるのです。イエス様も悪魔の誘惑を受けられました。同じように、私たちも悪魔に取りつかれることはありませんが、悪魔の誘惑を受けることはあるのです。どうしたらいいでしょうか。マルチン・ルターはこう言いました。

「悪魔と論争するな。彼は五千年の経験を積んでいるのだ。彼はアブラハムやダビデにあらゆる術策を十分にためしてきて、正確に弱点を知っている。悪魔は素手で向かったら絶対に勝ち目のない相手である。キリストに頼れ。キリストはペテロのために祈られたように、私たちのためにも折にかなった助けを与えてくださる。」(「われここに立つ」聖文舎)

そうです、私たちの力では絶対に勝ち目はありません。しかし、私たちには、私たちを守ってくださる方がおられます。この方に頼ることです。そうすれば、この方が勝利を与えてくださいます。

 

私たちの人生にはいろいろな患難があります。神がおられるならどうして・・・と思うような出来事が起こります。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは世全体が悪い者の支配下にあるからです。これが現実なのです。だからこそその現実にしっかりと向き合っていかなければなりません。神から生まれた者はみな、神から生まれた方が守ってくださるという確信を持たなければなりません。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(5:5)イエスを神の御子と信じる者は必ず勝利することができます。イエス様が私たちを守ってくださいますから。

 

20節をご覧ください。ここには、私たちがこのように神から生まれた者とさせていただいたのは、神の御子が来て、その理解力を与えてくださったからだ、とあります。それは、私たち自身によっては理解できるものではありませんでした。そしてその理解力によって今、私たちは御子イエス・キリストのうちにいるのです。すなわちこの方との交わりの中に入れられているのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

 

この言葉ほど、イエス様の神性をはっきりと言い表している箇所はないでしょう。この方こそ、まことの神です。永遠のいのちです。この方がすべてであり、この方から離れては、何もありません。イエス・キリストを離れた人生や哲学はみな、空しいのです。

伝道者ソロモンは、それをこう言いました。「空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」(伝道者1:2-3)

この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。すべてはこの方にあり、この方を中心にすべてが動いています。私たちはイエス・キリストを知ることこそが、そのすべてであり、永遠のいのちなのです。

 

ですから、ヨハネは最後にこう勧めるのです。「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」

手紙の終わり方としては、変な言い方ですね。手紙の最後に、「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」なかなか言いません。だから祈っていますよ、とか、いつも主が共にいてくださいますように、と言うのが普通であって、「偶像から自分を守りなさい」言いません。しかし、ヨハネは今「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」と言ったので、それ以外のものが偶像であると指摘して、この方のみをあがめるべきであり、それ以外を神とすべきではない、と言っているのです。

 

偶像礼拝は何も木や石で造られたものを拝むだけではありません。パウロはコロサイ3章5節で、「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」と言っています。貪欲とか、むさぼることが偶像礼拝だというのです。つまり、まことの神を愛し、この神を第一とすることを妨げるものがあれば、それこそ偶像礼拝だと言っているのです。

 

まことの神とはだれでしょう。それはイエス・キリストです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。本物のいのちはイエス・キリストの中にしか見出せません。本当の喜び、本当の幸せ、本当の希望、本当の平安、本当の満たしは、イエス・キリストにあるのです。それに代わるどんなものも、どんな活動、どんな遊び、どんな学問、どんな趣味、どんな仕事も、あなたにいのちをもたらすことはできません。ただ神が人として来られたイエスを信じ、この方との交わりの中にのみ、永遠のいのちがあるのです。だから、この方を第一にして歩んでほしいと勧めて、ヨハネは筆を置くのです。

 

今回でヨハネの手紙第一を終わります。この手紙のテーマは、「いのちのことばについて」でした。それはイエス・キリストのことでしたね。イエス・キリストが人となって来られ、私たちのために救いとなってくださいました。そのイエスを信じる者は神のいのち、永遠のいのちを持ちます。それは世に打ち勝つ力です。私たちの信仰の歩みにも、それを妨げようとするいろいろな力が働きますが、このイエスを信じる信仰によって、勝利ある人生を歩ませていただきましょう。この方こそ、真の神、永遠のいのちなのです。

士師記6章

士師記6章を学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

Ⅰ.主の声に聞き従わなかったイスラエル(1-10)

 

1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行った。そこで、主は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。

2 ミディアン人の勢力がイスラエルに対して強くなったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟や洞穴や要害を自分たちのものとした。

3 イスラエルが種を蒔くと、いつもミディアン人、アマレク人、そして東方の人々が上って来て、彼らを襲った。

4 彼らはイスラエル人に向かって陣を敷き、その地の産物をガザに至るまで荒らして、いのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばもイスラエルに残さなかった。

5 実に、彼らは自分たちの家畜と天幕を持って上り、いなごの大群のように押しかけて来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。彼らは国を荒らそうと入って来たのであった。

6 こうして、イスラエルはミディアン人の前で非常に弱くなった。すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。

7 イスラエルの子らがミディアン人のゆえに主に叫び求めたとき、

8 主は一人の預言者をイスラエルの子らに遣わされた。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、

9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。

10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

 

デボラとバラクによって四十年の間、穏やかだったイスラエルでしたが、彼らは再び主の目に悪であることを行いました。せっかく主がカナン人の王ヤビンの支配から解放してくださったというのに、再び主の目に悪を行ったのです。これが人間の姿です。どんなに偉大な主の御業を見ても、その御業をすぐ忘れてしまい、すぐに自分勝手な道に歩もうとするのです。

 

そこで、主は七年間、彼らをミディアン人の手に渡されました。ミディアン人の勢力があまりにも強かったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟やほら穴や要害に住むことを余儀なくされました。

イスラエル人がどんなに種を蒔いても、いつもミディアン人やアマレク人がやって来て、彼らを襲ったので、イスラエルにはいのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばも残りませんでした。5節にあるように、彼らはすなごの大群のように押しかけて来たので、そんな彼らの前にイスラエルは何の成す術もありませんでした。

 

こうしてイスラエル人はミディアン人の前に非常に弱くなったのです。その結果、イスラエルはどうしたでしょうか?6節をご覧ください。「すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。」だったら初めから主の目に正しいことを行っていれば良かったのに、その主の目の前に悪を行ったので、このような結果となってしまったのです。しかし、それでも彼らは主に叫び求めた時、主は彼らに答えてくださいました。8節から10節をご覧ください。

「8イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

 

どういうことでしょうか?彼らは今、ミディアン人によって圧迫されているので主に叫んでいるのに、主の使いは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷の家から解放されたことと、その後約束の地を彼らに与えてくださったことを思い起こさせています。それは、彼らがこのようにミディアン人によって圧迫されている原因がどこにあるのかを告げるのです。

それは、「あなたがたが住んでいる地のアモン人の神々を恐れてはならない」と言われた主の声に、彼らが従わなかったことです。つまり、主との契約を破り、自分勝手に歩んだことが原因だと言っているのです。「わたしは主、あなたがたの神である。」主がついているならどんな敵も恐れることはありません。主は全能の神であって、どんな敵も討ち破られるからです。それなのに彼らは目の前のアモリ人を恐れ、主を忘れてしまいました。それが問題だったのです。彼らはまずこのことをしっかり受け止めなければならなかったのです。

 

それは私たちにも言えることです。私たちも何か問題が起こったり、置かれている状況が悪くなったりすると、その問題の原因をどこか別のところに持っていこうとしますが、その原因は他でもない自分自身にあることが多いのです。自分が神様に背いているために起こっているのに、そのことになかなか気づきません。イスラエルは主の御声に聞き従っていませんでした。それが問題だったのです。

 

Ⅱ.ギデオンの召命(11-16)

 

それで主はどうされたでしょうか。そこで主はイスラエルに五人目の勇士を送ります。それがギデオンです。11節から18節までをご覧ください。ここには、主がギデオンを士師として召されたときの様子が描かれています。

「11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。

12主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」

13 ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」

14 すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」

16主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」

 

11節にある「ぶどうの踏み場」とは、酒ぶねのことです。ぶどうの実を足で踏みつぶして、ぶどうの汁を出しました。ギデオンはそこで小麦の脱穀を行なっていました。ミディアン人に見つかるとみな荒らされてしまうので、彼らに見つからないようにこっそりと、静かに小麦を脱穀していたのです。彼もまた他のイスラエル人同様、ミディアン人を恐れていました。ギデオンという名前を聞くと、学校やホテルなどで聖書を配布している「ギデオン協会」のことを思い浮かべることもあって、勇士だったのではないかというイメージがありますが、実は、彼は臆病で、敵に対してびくびくしているような小さな存在でした。

 

そんな彼を主はご自身の働きへと召されました。12節をご覧ください。主の使いが彼のところに現れて、「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」と告げました。ギデオンは、これはいったい何のことかと思ったでしょうね。全く考えられないことです。敵を恐れて隠れているような者ですよ。そんな臆病な者が大それたことができるわけがありません。

 

それでギデオンは御使いに言いました。13節です。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」

これはどういうことかというと、主がともにおられるのであれば、なぜこのようなことが起こるのですか。確かに過去においてエジプトで主が行なってくださった偉大な御業のことは聞いています。ではなぜそのような御業を私たちには行なってくださらないのですか。主がともにおられるのなら、こんなはずがありません。これは主がともにおられないということの確たる証拠ではありませんか。

このような疑問はだれでも抱きます。神がともにおられるのなら、どうして主はこのようなことを赦されるのか・・・。しかし、それは主がイスラエルを捨てたからではなく、イスラエルが主を捨てて自分勝手に歩んだからです。だから、主は敵の手の中に彼らを引き渡さざるを得なかったのです。

 

すると主は何と仰せになられたでしょうか。14節です。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

すると主は、ギデオンの疑問に一切答えることをせず、「行け。あなたのその力で。」と言われました。どういうことでしょうか。それは、彼の力が強かろうが弱かろうが、そんなことは全く関係ないのであって、彼に求められていたことは、主の命令に従って出て行くということでした。なぜなら、主が彼を遣わされるからです。主が遣わされるのであれば、主が最後まで責任を取ってくださいます。むしろ、「私が、私が」という人はあまり用いられません。神様の力が働きにくくなるからです。大切なのは自分にどれだけ力や能力があるかということではなく、自分を遣わしてくださる方がどのような方であるかということ、そして、その方が自分とともにいてくださるかどうかということなのです。

 

私は18歳で信仰に導かれ、信仰に導かれるとすぐにテモテへの手紙第二4章2節のみことばが示されました。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(Ⅱテモテ4:2)

しかし、どのようにみことばを宣べ伝えていったらいいのかわからず、与えられた奉仕を手あたり次第しました。やがて青年のスモールグループをリードするようになって、もしかすると神様は牧師に召しているのではないかと思うようになりました。でも私の夢は社会でバリバリ働いてお金持ちになり、豊かな生活をすることでしたので、そういうことではないと思いましたし、小さい頃から勉強があまり好きではなかったので、そちらの方に進むことに抵抗がありました。というか、あまり自信がなかったのでしょうね。

家内と結婚する時に言いました。「私は、牧師にならないかもしれないけれども、それでもいいんですか。」。すると家内が何を思ったのか、「私はモーセであなたはアロンです。」と言いました。要するに、口べたな私のために話してください、ということでした。それもありかなということで教会を始めたわけですが、救われてバプテスマを受ける人たちが出てくるとそこから逃げられなくなってしまいました。それまでは、いつでも逃げられると思ってやっていたのに、もう逃げられないと思ったとき、主にすべてをゆだねようと、決心しました。それから神学校での学びをしながら牧会するようになりました。

要するに、私がどのような者であるかとか、どれだけ牧師にふさわしい者であるのかということではなく、だれが私を遣わされるのかということです。主が遣わしてくださるなら、主が最後まで責任を持ってくださいます。たとえ私がどんなに小さな者であっても、主が御業を成してくださるのです。私たちはただ主の召しに従えばいいのです。

「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

私たちもギデオンのように臆病で、弱い者かもしれませんが、主が私たちを遣わしておられるのです。そう信じて、その力で出て行かなければなりません。

 

それに対してギデオンはどのように応答したでしょうか?15節をご覧ください。

「ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」

自分にはできないという言い訳です。モーセもそうでした。モーセは、イスラエルの子らをエジプトから救い出せ、との命令を神から受けたとき、「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに生き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト3:11)と言いました。とても無理です。だれか別の人を遣わしてくださいというモーセに対して、「あなたの手に持っているものは何か。」と言って、その杖を地に投げるように命じられました。するとそれは蛇になりました。

続いて主は、「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と命じると、それは手の中で杖になりました。それは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が彼に現れたことを、彼らが信じるためでした。

するとモーセは何と言ったでしょう。「ああ、わが主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が思いのです。」(出4:10)と言いました。言い訳です。最初からそんなに流暢に語れる人なんていません。また、語れるからといって、必ずしも神のことばを語れるとは限りません。問題は、だれが語るのかということです。語るのはモーセではなく神です。そのことを示すために主はモーセにこう言いました。

「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。」(4:11)

それでもぐずくずしているモーセに対して主は、彼の兄アロンを備えてくださいました。アロンは雄弁なので、彼に語り、彼の口にことばを置け、というのです。そこまでして神はモーセを励まし、ご自身の働きに遣わしてくださいました。

ギデオンも同じです。彼は、自分がマナセの中で最も弱く、彼の父の家で一番若いということを理由に、とても自分にはイスラエルを救うことなんてできないと言ったのです。

 

すると主は何と言われたでしょうか。16節をご覧ください。「主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」

主は彼とともにいるので、彼はあたかも一人の人を倒すようにミディアン人を打つ、というのです。主がともにおられるなら、一人を打つように敵を打つことができます。大切なのは、あなたがどのような者であるかということはではなく、あなたはだれとともにいるのかということです。主がともにおられるなら、あなたは敵を打つことができます。あなたがどれほど小さいく、弱い者であっても、あなたは敵に勝利することができるのです。

 

Ⅲ.しるしを求めたギデオン(17-40)

 

それに対してギデオンはどのように応答したでしょうか。彼はそれでも安心できず、自分と話しておられる方が主であるというしるしを求めます。17節から24節までをご覧ください。

「17 すると、ギデオンは言った。「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。

18 どうか、私が戻って来るまでここを離れないでください。贈り物を持って来て、御前に供えますので。」主は、「あなたが戻って来るまで、ここにいよう」と言われた。

19 ギデオンは行って、子やぎ一匹を調理し、粉一エパで種なしパンを作った。そして、その肉をかごに入れ、また肉汁を壺に入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て差し出した。

20 神の使いは彼に言った。「肉と種なしパンを取って、この岩の上に置き、その肉汁を注げ。」そこで、ギデオンはそのようにした。

21 主の使いは、手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種なしパンに触れた。すると、火が岩から燃え上がって、肉と種なしパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。

22 ギデオンには、この方が主の使いであったことが分かった。ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」

23 主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたは死なない。」

24 ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。」

 

ギデオンは、自分と話しておられる方が主であることを確認するために、また、主が彼とともにおられるということを確信するためにしるしを求めました。すると主の使いは、子やぎ一匹を調理し、粉一エパで種なしパンを作り、また肉汁を壺に入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来るように命じました。そして、その肉と種なしパンを取って、岩の上に置き、その肉汁を注ぐようにと言ったので、そのとおりにすると、主の使いが手にしていた杖の先を伸ばして、肉とパンに触れました。すると、火が岩から燃え上がって、肉と種なしパンを焼き尽くしたので、この方が主の使いであることがわかりました。

 

彼はそのことがわかったとき、こう言いました。「ああ、神、主よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」

ギデオンは、主を見たことを恐れました。なぜなら、主を見る者は殺されなければならなかったからです。(出19:21,33:20)けれども、主は「安心しなさい」と言われました。それでギデオンは、そこに主のための祭壇を築き、「アドナイ・シャロム」と名付けました。意味は「主は平安」です。主は、ギデオンが平安を求めたとき、平安を与えてくださいました。主は平安を与えてくださる方なのです。

 

するとその夜、主はギデオンに言われました。25節、26節です。「25 その夜主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛で、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を壊し、そのそばにあるアシェラ像を切り倒せ。

26 あなたの神、主のために、その砦の頂に石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のささげ物を献げよ。」

どういうことでしょうか? イスラエル人たちは、主とともにバアルやアシェラ像を拝んでいました。あるときは主を礼拝し、そしてまたある時はバアルを拝んでいたのです。その祭壇を壊しなさい、というのです。そして、あの第二の雄牛を取り、その壊した偶像の木で全焼のいけにえとして献げるように、と言われたのです。それは主なる神がバアルやアシェラといった偶像とは違ってはるかに力ある方であることを示すためでした。

 

ギデオンはどうしたでしょうか?27節をご覧ください。ギデオンは自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにしました。しかし、彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間はそれをしないで、夜に行いました。どんなに主がともにおられるということがわかっていても、そんなことをしたら殺されるのではないかと思うと、恐れが生じたのでしょう。しかし主は、そんな弱いギデオンさえも用いてくださいました。

 

それがどれほどの怒りであったかは28節から30節までをご覧ください。町の人々は、「だれがこのようなことをしたのか」と調べて回り、それがギデオンであるということがわかったとき、父親のヨアシュにこう言いました。「おまえの息子を引っ張り出して殺せ。あれはバアルの祭壇を打ちこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」

 

すると、ギデオンの父ヨアシュは自分に向かって来たすべての者に言いました。「あなたがたは、バアルのために争おうというのか。あなたがたは、それを救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺される。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が打ち壊されたのだから、自分で争えばよいのだ。」

これはどういうことかというと、なぜあなたがたはバアルのために争おうとするのか、バアルが神であるなら、どうして我々がバアルを救ってあげなければならないのか、おかしいではないか、そんなの神ではない。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が壊されたんだから、自分で争えばいいのであって、そのために我々が争うというのはおかしい、ということです。

 

よく考えてみるとおかしな話です。神は我々を助ける存在なのに、我々に助けてもらわなければならないというのは変です。でも、このような変なことを比較的多くの人々が何の矛盾も感じることなく信じています。偶像の神々は、我々が守らなければ壊されてしまうような、はかないものなのであって、そのようなものが神であるはずがありません。神はわれわれが守ってあげなければならないような方はなく、我々をはじめ、この世界のすべてを創造され、我々をいつも守ってくださる方なのです。

 

こうして、その日、ギデオンの父ヨアシュは、「バアルは自分で彼と争えばよい。なぜなら彼はバアルの祭壇を打ち壊したのだから」と言って、ギデオンをエルバアルと呼びました。

 

33節から35節をご覧ください。一方、ミディアン人やアマレク人、また東方の人々が連合してヨルダン川を渡り、イズレエルの平野に陣を敷いたとき、主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従いました。またギデオンはマナセの全域にも使者を遣わしたので、彼らもまた、ギデオンに従いました。その他、アシェル、ゼブルン、ナフタリも上って来て合流しました。

 

なぜこんなに大勢の人々が集まることができたのでしようか。それはギデオンに力があったからではありません。34節にはこうあります。「主の霊がギデオンをおおったので」。主の霊がギデオンをおおったので、多くの人々が、彼に従ったのです。つまり、主の霊によってギデオンが戦うと決断したので、多くの人々がつき従ったのです。私たちも時としてなかなか決断できない時がありますが、そうした決断さえも主が与えてくれるものです。ギデオンのように主がともにおられるなら、主の霊が彼をおおったように私たちをもおおい、そうした決断も与えてくれるのです。

 

36節から40節までをご覧ください。

「35 ギデオンはマナセの全域に使者を遣わしたので、彼らもまた、呼び集められて彼に従った。また彼は、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わし、彼らも上って来て合流した。

36 ギデオンは神に言った。「もしあなたが言われたとおり、私の手によってイスラエルを救おうとされるのなら、

37 ご覧ください。私は刈り取った一匹分の羊の毛を打ち場に置きます。もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら、あなたが言われたとおり、私の手によって、あなたがイスラエルをお救いになると私に分かります。」

38 すると、そのようになった。ギデオンが翌日朝早く、羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。

39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一度だけ言わせてください。どうか、この羊の毛でもう一度だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りるようにしてください。」

40 神はその夜、そのようにされた。羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りていたのであった。」

 

ここにきてギデオンは、主にもう一つのしるしを求めました。それは、本当に主が言われたとおり、主は自分の手によってイスラエルを救おうとしておられるのかを知るためでした。そこで彼は、羊一頭分の毛を打ち場に置き、もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら、主が言われたとおり、自分の手によってイスラエルをお救いになるということです。

すると、そのようになりました。それはちょっとの露ではありませんでした。鉢がいっぱいになるほどの水でした。

 

するとギデオンは、再び主に言いました。その羊の毛でもう一度だけ試させてください、と。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体に露が降りるようにしてくださいと言ったのです。いったいなぜギデオンは何度もしるしを求めたのでしょうか。

これはギデオンが不信仰だったからではありません。34節には、彼は主の霊におおわれていたとあります。主が彼とともにおられることはわかっていました。しかし、その戦いが本当に主から出たものなのかどうかを確かめたかったのです。私たちも主の働きを行なうとき、はたしてこれは自分の思いから出たことなのか、それとも神のみこころなのかがわからなくなることがあります。そのようなときに、それが神のみこころであると確信することは大切です。ギデオンが主のみこころを求めて祈ったように、私たちも主のみこころを求めて慎重に祈り求めていくことが認められているのです。

 

主イエスは言われました。「7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

これは私たちにも求められていることです。私たちは、主のみこころを求めてもっと祈るべきです。求めるなら与えられます。ギデオンは主に確信を祈り求めた結果、その確信を得ることができました。だからこそ彼は、大胆に出て行くことができたのです。私たちも主のみこころを求めて求めましょう。探しましょう。たたきましょう。そうすれば、主は与えてくださいます。それによってもっと大胆に主の御業を行うことができるのです。

ヨハネの手紙第一5章6~12節「その証しとは」

きょうは、「その証しとは」というタイトルでお話しします。その証とは何でしょうか。11節、その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。つまり、イエスが神の子、救い主であるという証しです。いったいそれをどうやって証明することができるでしょうか。それが、今日のテーマです。今日の箇所には「証し」という言葉が何回も出てきます。「証し」というのは法廷用語で、「証言」のことです。つまり、神の御子イエス・キリストについて、いろいろな証言がある、ということです。

 

普通、証言の数が多ければ多いほど、それが真実であるということが確かになります。ですから、旧約聖書の申命記19章15節には、こうあるのです。「いかなる咎でも、いかなる罪でも、すべて人が犯した罪過は、一人の証人によって立証されてはならない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証言、または三人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」つまり、何かを立証するためには、一つの証言だけではなく、複数の証言が必要だ、ということです。
そこで、ヨハネは、今日の箇所で、イエス様がまことの救い主であるということを立証するために、複数の証言をもって立証しています。それは何でしょうか。8節には、それは御霊と水と血です、とあります。この三つは一致しています。つまり、三つの証言は、完全に調和のとれた証言であり、また、そのうちの一つでも欠けてはならないということです。いったいこれはどういうことでしょうか。今日は、この神の証言についてご一緒に見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.神の証言(6-8)

 

まず6節をご覧ください。ここには、「この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。」とあります。ここには、イエスが水と血によって来られた方である、とあります。この水と血は、いったい何を指しているのでしょうか。

 

そこで、まず「水」ですが、イエスが水によって来られたということを理解するために、イエスが公生涯の初めに何をされたのかを思い出していただきたいと思います。イエスは公生涯の初めにヨルダン川に行かれ、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。30歳になられた時のことです。

 

いったい、イエス様はなぜバプテスマを受けられたのでしょうか。バプテスマのヨハネが授けていたバプテスマとは罪を悔い改めるためのバプテスマであって、神の御子であられたキリストには全く罪がなかったわけですから、本来ならば、受ける必要などなかったはずです。

 

そのことは、バプテスマのヨハネ自身がよくわかっていました。彼は、以前、ユダヤの宗教指導者たちから「あなたはキリストですか」という質問をされたとき、このように答えていました。

「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履物のひもを解く値打ちもありません。」(ヨハネ1:26-27)

そして、その後、実際にイエス様が彼のもとに来られた時、「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:15)と言いました。
ですから、イエス様がバプテスマを受けたいと申し出た時、彼はびっくりしたのです。そして、「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」と言ったのです。

イエスはバプテスマを受けなければならなかった理由など全くありません。しかし、イエス様は、「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」と言って、バプテスマを受けられました。

すると、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に下られました。そして、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という父なる神の声が聞こえたのです。これは何を表していたのかというと、イエスが神の御子救い主であり、そのイエス様がバプテスマを受けることは神の計画でり、父なる神と聖霊が承認なさったということです。

今日の箇所でイエスが水によって来られたとか、水があかしするとあるのは、この

バプテスマのことを指していたのです。本来ならば、イエスはバプテスマを受ける必要などありませんでしたが、それでもあえて受けられたのはイエスに罪があったからではなく、ご自分が人として来られたことを示すためであり、それが神のみこころであったことを示すためだったのです。

 

それは血についても同じです。この方は水だけでなく、水と血によって来られました。血によって来られたとはどういうことでしょうか?

聖書で「血」が象徴するものといえば、それはもちろん十字架です。イエスは十字架の上で血を流してくださいました。それによって私たちの罪が赦されました。それは、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、この世全体の罪のためでした。ですから、血によって来られたとか、血があかしするというのは、イエス様が血を流されたあの十字架の出来事を指していたのです。イエス様が十字架で死なれたという事実こそ、彼がキリスト、救い主であるということを証言している、というのです。

 

というのは、ヘブル人の手紙9章22節には、「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」とあるからです。律法によれば、私たちの罪が赦されるためには血が流されなければなりませんでした。旧約聖書の時代には、そのために毎年多くの動物が犠牲となりました。けれども、動物の血は人の罪を完全に贖うことができませんでした。そのためには全く罪のない完全ないけにえが求められました。それがイエス・キリストの十字架での贖いでした。キリストが、ただ一度十字架に架かり、私たちの罪のためのいけにえとして血を流してくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されました。私たちは神様の目にきよい者とされたのです。ヘブル9章26節に「しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。」と書かれているとおりです。

ですから、バプテスマのヨハネは、イエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(ヨハネ1:29)と言ったのです。イエス様ご自身が、私たちの罪のためのいけにえの小羊となって、十字架で血を流してくださるからです。

 

すなわち、イエス様が血によって来られたというのは、イエス様が十字架で血を流してくださったことにより、イエス様がまことの救い主であることを証ししているのだ、ということなのです。

 

きょうは、このあとで聖餐式が行われますが、いったい聖餐式は、何のために行うのでしょう。それは、イエス様の十字架の出来事を思い起こし、イエス様こそ罪を赦し救いを成し遂げてくださった救い主であることを覚え、神様の愛と赦しの恵みを味わうためです。
イエス様は、十字架につけられる前、弟子たちとの最後の晩餐の時に、ぶどう酒の杯を手にしてこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と。イエス様が十字架についてくださることによって私たちは、神様と新しい契約を結ぶことができるようになったのです。イエスを救い主として信じることによって、私たちのすべての罪が赦され、永遠のいのちを受けて、神様と親しい関係の中に入れられるという契約です。つまり、イエス様の十字架こそ、はるか昔から預言されていた神様の救いのご計画を成就するものなのです。

 

先々週、講壇交換のため宇都宮の教会を訪問しました。「礼拝後、求道者クラスがあるので先生も入ってください」と言われたので、2階のお部屋に行ってみると、そこに62歳になる男性とその娘さんがおられました。すると男性の方がこう言われました。「家内が約30年前にクリスチャンになったけど、自分はなぜキリストを信じなければならないのかわからない。」別にキリストでなくてもいいんじゃないかと思っている・・と。

そこで、「せっかくだから聖書を開いてみましょう」と、あのヨハネの福音書3章にあるニコデモの箇所を読みました。ニコデモはとても優秀な人で、真面目に生きて来た人ですが、一つだけどうしても分からないことがありました。それは、どうしたら神の国を見ることができるか、ということでした。どうしたら救われ天国に行くことができるのかということです。

イエス様はそんなニコデモに、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。どうしたら新しく生まれることができるのでしょうか?それは決して人間の努力や功績によってではありません。御霊によって生まれなければなりません。それではどうしたら御霊によって生まれることができるのでしょうか?

イエス様は、旧約聖書にある一つの出来事を引用して教えられました。それはかつてイスラエルがエジプトを出て約束の地に向かっていた時のことです。途中荒野でパンもなく、水もなかったとき、イスラエルの民は神とモーセに逆らったので、神様はイスラエルの民の中に燃える蛇を送られました。それで、多くの人がそれにかまれて死んだのです。民はモーセのところに来て悔い改め、主に祈ってくれるように願ったので、モーセが民のために祈ると、神は不思議なことを言われました。それは、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」(民数記21:8)ということでした。

それでモーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けました。すると蛇がかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。その青銅の蛇とは何でしょうか。それはイエス・キリストの十字架でした。聖書に、「木にかけられた者は呪われた者である」とありますが、イエス様は呪われた者となって木にかけられたのです。それは蛇にかまれたイスラエルの民が救われたように、神に背いたことで神に呪われた私たちを救うためでした。これが神様の救いの方法でした。それは旧約聖書の時代から、神様によって示されていた救いの道だったのです。それゆえ、何でもいいから信じれば救われるというのではなく、救われるためにはこのイエスを信じなければなりません。それが、神様が永遠の昔からこの人類の救いのために用意しておられた計画だったのです。

 

そして、このことをはっきりとあかしするのが、三つ目の聖霊です。6節には、「御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。」とあります。三つのものが証しします。それは御霊と水と血です。この三つは一致しています。ですから、水だけでなく、また水と血だけでなく、御霊も証しします。御霊が証しするとはどういうことでしょうか?

 

ここで7節と8節の訳についてちょっと触れておきたいと思います。新改訳聖書には、「三つのものが証しをします。御霊と水と血です。」とありますが、英語のKing James Versionでは次のように訳しています。

7 For there are three that bear witness in heaven: the Father, the Word, and the Holy Spirit; and these three are one.

8 And there are three that bear witness on earth: the Spirit, the water, and the blood; and these three agree as one.

これを日本語に訳すとどうなるかというと、「7 天において証しをするものが三つある。それは父と、ことばと、聖霊である。そしてこれら三つは一つである。8 地において証しをするものが三つある。それは御霊と水と血である。これら三つは一致している。」

どういうことですか?訳が全然違います。これは写本の違いから生じています。聖書は原本が残っていないため、それを書き写したいくつかの写本から復元しているのですが、新改訳聖書をはじめほとんどの聖書が採用しているのは、バチカン写本やシナイ写本といった聖書校訂本と言われるものであるのに対して、英語の欽定訳(KJV)は、公認本文と呼ばれている写本を採用しています。どうして新改訳聖書は聖書校訂本を用いているのかというと、その写本の方が古いからです。単純に考えれば、古い写本の方がよりオリジナルに近いと考えられるので、聖書校訂本の方がオリジナルに近いものと考えているのですが、果たしてそうでしょうか。

 

新改訳聖書を見る限り、その写本にない文章、もしくは、このヨハネの手紙のように文章が欠けている箇所がいくつかあります。

代表的なのは、マルコの福音書16章9節から終わりまでと、ヨハネの福音書7章53節から8章11節まででしょう。マルコの福音書の16章はマルコの福音書の最後の箇所ですが、ここには有名な、「全世界に出て行って、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ。」もあります。しかし、新改訳聖書には本来欠けている内容です。でもないと不自然なので( )して加えてあるのです。

ヨハネの福音書7章53節から8章11節までには、あの姦淫の現場で捕らえられた女の話があります。しかし、新改訳聖書には本来無い内容です。ですから( )して加えてあるのです。

他に、ヨハネの福音書5章4節もそうです。ここには、38年もの長い間病に伏していた人がいやされたことが書かれてありますが、この節がないと、なぜ多くの病人がベテスダの池の周りに伏せていたのかわかりません。しかし、欽定訳にはその理由として4節があるのですが公認本文には無いため、 欄外に4節としての説明が書かれてあるのです。

その他、ローマ8章1節もそうです。しかし、たとえ写本に違いがあっても聖書の重要な教理にはほとんど影響がないことから問題にしてこなかったのですが、このヨハネ第一の手紙5章7節と8節は、大切な三位一体の教理を擁護するものとしてとても重要な箇所です。というのは、父なる神とことばなるキリスト、そして聖霊なる神の三つが一つであると書かれてあるからです。

また、このイエス・キリストが神の御子と証しするものが、天において三つあり、それが父と御子と聖霊であるというのは、完全な証であることを示していることからです。したがって、この箇所の写本をどこから取るかは極めて重要であるよう思います。

 

しかし、新改訳聖書では、イエス・キリストが神の御子であることの地における証しとしての水と血と御霊の三つの証言を取り上げていますので、そのことに焦点を絞ってみていきたいと思います。

 

それで、イエス様について証しするもう一つのもの、御霊について見ていきたいと思います。7節と8節には、「三つのものが証しをします。御霊と水と血です。この三つは一致しています。」とあります。御霊が証しするとはどういうことでしょうか?

ヨハネの福音書15章26節には、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」とあります。ここにははっきりと、真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます、とあります。その方とはどの方でしょうか?そうです、真理の御霊です。聖霊です。その方が来ると、その方がイエス様について証してくださるのです。

 

その後、イエス様は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、四十日の間多くの弟子たちの前に復活の姿を示されてから、天に昇って行かれました。そして、その十日後に弟子たちの上に、イエス様が約束した、真理の御霊であられる聖霊が下ったのです。あのペンテコステの出来事です。
「使徒の働き」2章にその時の出来事が記されてあります。「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」(使徒2:1-4)

 

この出来事をきっかけに、弟子たちの姿は大きく変化していきました。以前は、自分のことしか考えられないばかりか、イエス様の教えを十分に理解することができず、弱く臆病だった彼らが、聖霊を受けてからは、まるで別人に生まれ変わり、確信をもって大胆に、イエス様がまことの救い主であり、よみがえって今も生きておられることを宣べ伝えるようになりました。
このヨハネとマタイは、イエス様の生涯の記録である福音書を書きました。また、パウロをはじめとした多くの弟子たちが、各地にある教会に手紙を書き送りました。その福音書や手紙をまとめたものが新約聖書です。

 

聖霊が弟子たちにイエス様についてあかししてくださったからこそ、福音が全世界に伝わり、私たちも今のような形で聖書を手にすることできるようになったのです。聖書は「イエスは神が人となってこられたまことの救い主だ」ということを告げる書物であり、聖書がこうしてあること自体が、聖霊の働きを証明するものなのです。
また、聖霊は、私たち一人一人にもイエス様が救い主であることをあかししてくださいます。聖霊の助けによって、私たちは、自分が神様から離れた罪人であるということに気付かされ、イエス様を救い主として信じ、神様の愛と恵みを知り、聖書のことばによって養われ、成長していくことができるのです。

 

Ⅱ.人の証しにまさる神の証し(9)

 

第二のことは、この神の証しは人の証しにまさるということです。9節をご覧ください。「私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。」

ここでヨハネは、もし私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものであると、と言っています。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。つまり、「水」と「血」と「聖霊」の三つのあかしは、神様が私たちに示してくださったあかしだというのです。

 

ヨハネの福音書8章18節で、イエス様は次のように言っておられます。「わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」ここには、イエス様ご自身と、父なる神様がイエスは救い主であることを証ししているとあります。

また、先ほど見たように、ヨハネの福音書15章26節には、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」(ヨハネ15:26)とあります。すなわち、聖霊もイエス様が救い主であることを証しされるのです。ということは、父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神が一致した証言をしておられる、ということです。

これは7節のKJVの訳にも通じますね。三位一体の神がそのことを証ししておられるのです。それは、人間の証しにまさる完全な証しです。神様は、ご自分の中に完全な証を持っておられ、その証しは人間の証言いかんによって変わってしまうようなものではありません。人間の考えや感情に左右されることもありません。永遠に変わらないものなのです。

 

私たちはイエス様を救い主と信じていますが、時々、自分が落ち込んだり、悩んだり、問題に直面しますと、信じていることに疑問を持ったり、聖書の約束が変わってしまうかのような錯覚を持つことがありますが、しかし、神様ご自身の証しがあるのですから、イエス様がまことの救い主であり、私たちの罪を赦し、世の終わりまでいつまでも共にいてくださるということは決して変わりません。私たちの信仰の在り方で、神様の計画が変わるというようなことはないからです。

 

聖書に書かれている通り、神様は、「水」と「血」と「聖霊」によってイエス様が救い主であることを証ししておられます。その証しにどのように応答するかによって、おのずと結果も決まってきます。

 

Ⅲ.神の御子を信じる者(10-13)

 

ですから、第三のことは、その証を受け入れる者は永遠のいのちを持つということです。これが、ヨハネが伝えたかったことです。10節から12節までをご覧ください。10節には、「神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。」とあります。

 

神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っており、神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。

その証とは何でしょうか。その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

 

あなたは、神の証を受け入れて、その証しに基づいてイエスを救い主として信じているでしょうか。それとも、神の証しを信じないで、神を偽り者としているでしょうか。どちらにするのかは、あなたの選択にかかっています。信じない者にならないで、信じる者になってください。なぜなら、神の証しは、人の証しよりもはるかにまさる確かなものだからです。この証しは信頼に値するものなのです。

 

イエス様は、ご自分が復活した後で復活を疑っていたトマスにこう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)信じない者にならないで、信じる者になりましょう。信じて、永遠のいのちを持つ者となりましょう。それが、ヨハネがこの手紙を書いた目的だったのです。

私たちは、イエス様がまことの救い主であることを示す神の確かな証を持っているのですから、この神の証しに信頼し、イエス様の十字架によって罪赦され、神様のいのちが与えられているということを確信して、日々信仰に歩みましょう。

士師記5章

士師記5章を学びます。ここにはデボラの賛美の歌が記されてあります。デボラはバラクを励まし、カナンの王ヤビンを滅ぼし、イスラエルに40年間、平和をもたらしました。そのデボラが敵に勝利した時、主に向かってほめ歌を歌いました。

 

Ⅰ.主をほめたたえるデボラ(1-11)

 

まず1節から5節までをご覧ください。

 

1 その日、デボラとアビノアムの子バラクは、こう歌った。

2 「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身を献げるとき、主をほめたたえよ。

3 聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。私、この私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。

4 主よ。あなたがセイルから出て、エドムの野から進んで行かれたとき、大地は揺れ、天も滴り、密雲も水を滴らせました。

5 山々は主の前に流れ去りました。シナイさえもイスラエルの神である主の前に。1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。

 

デボラは、なぜ主を賛美しているのでしょうか。2節には、イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身をささげるとき」とあります。この「かしらたちが先頭に立ち」ということばは、「髪の毛を伸びるままにするとき」という意味の言葉です。これはどういうことかというと、イスラエルのかしらたちがなり振り構わず自ら進んで身をささげて戦ったということです。

あるいは、これは民数記6章にあるナジル人の誓願のことだったのかもしれません。つまり、イスラエルが苦しんでいる状況を悲しみ、主が助けてくれるようにと、主に献身して祈る人々がいたということです。

いずれにせよ、デボラを通して語られた主の御声に、イスラエルの民は自ら進んで戦いに出て行きました。いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに出ていきました。デボラは、そのような信仰を与えてくださった主をほめたたえているのです。なぜなら、そのようなところに、主の偉大な御業が現されるからです。

 

4節をご覧ください。イスラエルがキション川で勝利したとき、天候がそれを左右しました。天候を変えたのは主ご自身に他なりません。主は密雲も水も滴らせ、イスラエルに勝利を与えてくださいました。

 

6節から8節までをご覧ください。

6 アナトの子シャムガルの時代、またヤエルの時代に、隊商は絶え、旅人は脇道を通った。

7 農夫は絶えた。イスラエルに絶えた。私デボラが立ち、イスラエルに母として立ったときまで。

8 新しい神々が選ばれたとき、そのとき、戦いは門まで及んでいたが、イスラエルの四万人のうちに、盾と槍が見られただろうか。

 

デボラはイスラエルに母として立ちました。その時までイスラエルはカナンの国々にひどく圧迫されていました。アナトの子シャムガルは3章に出て来る士師です。ヤエルは4章に出て来る女性ですが、有名だったのでしょう。彼女は、カナンの王ヤビンの軍の将軍シセラのこめかみに杭を打ち込んで殺しました。その時代はハツォルの王の勢力が強く、安心して商業や農業ができない状態でした。恐ろしくて、主要な道路を歩くことができませんでした。彼らの心はしなえ、盾と槍を取る者もいませんでした。

 

しかし、デボラが立ち、イスラエルに主のことばを語ったとき、イスラエルは立ち上がりました。 10節の、「茶色の雌ろばに乗る者たち、敷き物の上に座す者たち、道を歩く者たち」とは、イスラエルのすべての人たちのことを指しています。「茶色の雌ろばに乗る者たち」とはいわゆる金持ちのことです。また、「敷き物の上に座す者たち」とは裁判官たちのことです。第三版では、「さばきの座に座する者」と訳しています。そして、「道を歩く物たち」とは道を歩く一般の人たちのことです。ですから、ここにはすべてのイスラエルの人たちのことが語られているのです。

 

どんなことを語っているのでしょうか。11節には、「水飲み場で水を分ける者たちの声を聞いて。そこで彼らは主の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえる。そのとき、主の民は城門に下って行った。」とあります。平穏な暮らしが戻ってきたということです。そのことをほめたたえています。

 

Ⅱ.共に戦った者たち(12-23)

 

その戦いに出て行った人たちはどのような人たちだったでしょうか。12節から23節までをご覧ください。

12 目覚めよ、目覚めよ、デボラ。目覚めよ、目覚めよ、歌声をあげよ。起きよ、バラク。捕虜を引いて行け、アビノアムの子よ。

13 そのとき、生き残った者は貴人のように下りて来た。主の民は私のところに勇士のように下りて来た。

14 エフライムからはその根がアマレクにある者が下りて来た。ベニヤミンはあなたの後に続いてあなたの民のうちにいる。マキルからは指導者たちがゼブルンからは指揮を執る者たちが下りて来た。

15 イッサカルの長たちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵たちとともに平地に送られた。ルベンの諸支族の決意は固かった。

16 なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。

17 ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。

18 ゼブルンは、いのちを賭して死をいとわぬ民。野の高い所にいるナフタリも。

19 王たちはやって来て戦った。そのとき、カナンの王たちは戦った。メギドの流れのそばのタアナクで。彼らが銀の分捕り品を取ることはなかった。

20 天から、もろもろの星が下って来て戦った。その軌道から離れて、シセラと戦った。

21 キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。

22 そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する。

23 主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士たちとともに、主の手助けに来なかったからだ。』 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼と一緒に上った。

 

12節では、デボラとバラクが自分たち自身に目をさませと呼びかけています。そして13節以降には、自分たちとともに戦ったイスラエル部族が列挙されています。それはエフライム、ベニヤミン、マキル、マキルというのはマナセの総称です。そしてゼブルンも参戦しました。イッサカルも同じく戦いました。

 

しかし、ルベンは参戦しませんでした。どうしてでしょうか?彼らは鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたからです。この二つの鞍袋とは何を指しているのかは不明です。創世記49章14節には、イッサカルについて「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」とあり、それはおそらくマナセの二つの領土に挟まれる形で住むことを表していたのではないかと思われますが、そうであれば、このルベンの鞍袋とは何のことでしょうか?おそらくこれは家畜に適した場所のことを指していたのでしょう。ヨルダン川の東側は家畜に適した場所でした。それゆえ、イスラエルがカナンを占領するために出かけて行こうとした時、マナセの半部族とガド族は行こうとしませんでした。彼らは多くの家畜を有していたので、ぜひともその地を相続したかったからです。ルベン族も同じくヨルダン川の東側で、家畜に適した場所だったので、彼らは戦いに行くことを嫌ったのでしょう。

しかし、イスラエルが大勝利を収めたという知らせを聞いて、彼らはひどい良心のとがめを感じました。深く後悔したのです。

 

それはギルアデも同じでした。ギルアデは、ヨルダン川東岸のガドやマナセの一部ですが、彼らも参戦しませんでした。同じ理由からでしょう。ダンは自分の水産業の仕事をしていたので、戦いに行くのは煩わしいと思ったようです。アシェルも同様です。

 

しかし、ゼブルンとナフタリは、いのちを賭して戦いました。いのちを賭してとは、いのちをかけてという意味です。彼らはいのちをかけて戦いました。この違いは何でしょうか。

パウロは、テモテに対してこのように書き送りました。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)」同じ思いは、自分ではなくキリストを求めるところから出ます。主に用いられる人は自分の利益よりも、他者のことを、神のことを考えるのです。

 

彼らはどのように戦ったのでしょうか。19節からのところをご覧ください。20節の「天から、もろもろの星が下って来て戦った。」というのは、天使のことではないかと思われます。聖書には天使のことを指して「星」と表現しているところが多くあります。ですから、ここは主が何千、何万という天使の軍勢を遣わして、シセラと戦ったということを意味しているものと思われます。

22節の「馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する」というのは、敵の戦車が全く使いものにならず、敗走する様を表しています。

つまり、イスラエルはこの勝利に、精鋭部隊も、最新装備も持ちえなかったということです。まさに神の介入によってキション川が敵を押し流し、一人の女の手によって敵将シセラが殺されたのです。

 

23節では、「メロズをのろえ」とあります。メロズの町の位置は不明です。「メロズをのろえ」とあるのは、この町の住民が主の手助けに来なかったからです。

ヨーロッパには、この記事についての有名な絵があります。ある安全な山上近くに、メロズの町があり、谷底では神の戦いが行われているのです。その間中、神がイスラエルを助けられますが、メロズの人々は、その城壁を頼みに、これをはるかに見下ろしている。
それはまるで、劇場にいるかのように、神の戦いを遊び半分に、怠惰な気持ちで傍観しているのであり、その戦いぶりについて、愉快そうに語り合い、主のためには指一本動かそうとはしないのです。ですから、神の使いは、深く怒り、呪いの言葉すら口にしたのです。「メロズを呪え、その住民を激しく呪え」!

これはどんなことを意味しているのかというと、この世で人々のたましいを救うための戦いへ参与するようにということです。神は、かつてイスラエルの民にそうされたように、わたしたちの敵と抑圧者に対抗して、その戦いを導かれておられます。人間を閉じ込めている罪や悲しみ、運命や死に、神の子は、自ら挑まれました。神は、わたしたち人間が、もはや古きものに留まることがないようにされたのです。イエス・キリストが、「神の国は近づいた」と宣言されたとき、それはまさに、神様による公式の宣戦布告であったのです。その戦いに私たちも招かれているのであって、それをただ傍観していてはならないのです。

 

Ⅲ.ケニ人ヘベルの妻ヤエル(24-31)

 

その中でも主から大いに祝福されたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルです。24節から31節までに、彼女に対する祝福が語られています。

24女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。

25 シセラが水を求めると、彼女は乳を与え、高価な鉢で凝乳を差し出した。

26 ヤエルは杭を手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。

27 彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れ、横たわった。彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れた。膝をついた場所で、倒れて滅びた。

28 窓から見下ろして、シセラの母は格子窓から見下ろして嘆いた。『なぜ、あれの車が来るのは遅れているのか。なぜ、あれの戦車の動きは鈍いのか。』

29 知恵のある女官たちは彼女に答え、彼女も同じことばを繰り返した。

30 『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。勇士それぞれには一人か二人の娘を、シセラには染め織物を分捕り物として。分捕り物として、刺?した染め織物を、刺?した染め織物二枚を首に、分捕り物として。』

31 このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」こうして、国は四十年の間、穏やかであった。

 

天幕を作るのは、当時、女性の仕事でした。それで彼女は槌をかざし、シセラのこめかみに杭を打ちつけて彼を殺しました。とはいえ、 失敗したら自分のいのちが危ないことは重々知っていたはずです。だから相当恐れがあったはずです。それなのに、彼女の行動からはそのような恐れは微塵も感じられません。彼女は、主のみこころを確信していたので、信仰によって行動することかできたのです。それで彼女は、主から誉れを受けました。

 

28節から30節までは、シセラの母親の嘆きです。シセラがなかなか戻らないのをどうしているかと心配しているシセラの母を、女たちが励ましているのです。

 

31節は、デボラの告白の祈りです。「このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」すばらしい励ましです。主を愛する人が輝き、敵は滅びるようにと祈っています。一般的に主を愛する者が輝くようにと祈ることはできても、敵が滅びるようにとまではなかなか祈れません。しかし、デボラは「あなたの敵がみな滅びるように」と大胆に祈りました。

 

ダビデは、詩篇68篇1節から3節までのところで、「1 神は立ち上がりその敵は散り失せる。神を憎む者たちは御前から逃げ去る。:2 煙が追い払われるように追い払ってください。ろうが火の前で溶け去るように悪しき者が神の御前から滅び失せますように。3 しかし正しい者たちは小躍りして喜ぶ。神の御前で喜び楽しむ。」と祈っています。

また、パウロも、「主を愛さない者はみなのろわれよ。主よ、来てください。(Ⅰコリント16:22)」と言っています。

 

イスラエルの民は常に、外敵と外圧にさらされ、その中で、いつも信仰を持って、主の民として戦うように召しだされていました。その召しに、信仰を持って応える者もあれば、そうでない民もいました。それは今日も同じです。主の招きがあり、それに応じることなくして、主の与えられる勝利を味わうことはできません。主の招きに応じることがなければ、主の御業を見ることも、信仰それ自体も強くされることもないのです。主を愛し、主に応じて初めて闇が過ぎ去り、光が力強く差し出ることになるということを覚え、信仰をもって神の召しに応答していきたいものです。

そのようにしてこそ、イスラエルは四十年間、穏やかであったように、私たちも主の勝利のゆえに、穏やかであることができるのです。

ヨハネの手紙第一5章1~5節「信仰は勝利」

ヨハネの手紙第一から学んでおります。きょうは最後の5章の最初の部分から「信仰は勝利」という題でお話ししたいと思います。ヨハネの手紙を読んでいくと、大切な信仰の告白が二つ出てくるのがわかります。一つはイエスが神の御子であり、救い主であるということ(2:22、3:23)、もう一つは、そのイエスが人となって来られた(4:2)ということです。

 

ヨハネがこの手紙を書き記した当時、偽りの教師たちがいて、このイエス様に対する信仰の告白を真っ向から否定しました。しかし、もしこの告白を否定するなら信仰の土台が破壊されることになり、教会はいのちを失ってしまうことになります。そして、クリスチャン一人一人の信仰も揺らいでしまいます。

 

イエス様はピリポ・カイザリヤの地方に行かれた時、弟子たちに、「人々は人の子をだれだと言っているか」と尋ねました。すると弟子たちは、「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もいます。また、ほかの人たちはエレミヤだとか、預言者のひとりだとか言っています。」と答えると、イエス様は弟子たちに、「ではあなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と質問しました。

すると、ペテロは「あなたは、生ける神の子キリストです」と答えました。すると、イエス様はペテロにこう言いました。とても重要なことばです。

「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。」(マタイ16:17-18)

 

イエス様は、「この岩の上に、わたしの教会を建てます」と言われました。この「岩」とは何でしょうか。この「岩」とはペテロのことではなく、ペテロが発した信仰の告白のことです。ペテロが告白した信仰の内容とは、「人の子として来てくださったイエス様は生ける神の御子であり、救い主です」という告白でした。この告白の上に教会を建てると言われたのです。そして、この告白の上に建てられた教会は、よみの門も打ち勝つことができないほど揺るぎないものなのだ、と宣言されたのです。

ですから、このイエス様に対する信仰の告白は非常に重要です。きょうはこの信仰による勝利についてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.神から生まれた者(1)

 

まず第一に、イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれた者であるというヨハネのことばを見たいと思います。1節をご覧ください。

「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。」

 

イエスがキリストであると信じる者とはだれのことでしょうか。そうです、それは私たちクリスチャンのことです。クリスチャンはみな神から生まれました。それは血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってではなく、ただ、神によって生まれたのです。

 

ヨハネの福音書3章に、ニコデモという人の話があります。ニコデモは、厳格なユダヤ教徒でユダヤ人の指導者でした。サンヘドリンと呼ばれていたユダヤの最高議会のメンバーであり、教師でした。そんな彼がある夜、人目を避けて、こっそりとイエス様のもとにやって来ました。なぜなら、彼にはどうしてもわからないことがあったからです。それは、どうしたら神の国を見ることができるかということでした。彼は、旧約聖書の教えにも精通しており、自分の出来る範囲で模範的な生活を送っていましたが、どうしてもそのことがわからりませんでした。。そこで、思い切ってイエス様のもとにやって来たのです。
イエス様は、そんなニコデモにはっきりと言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)
しかし、ニコデモは、この「新しく生まれる」ということがどういうことなのか理解できませんでした。そして、「自分のような年寄りが、どうやって新しく生まれることができると言うのですか。もう一度、母の胎内に戻って生まれ直すということですか。」と答えました。
でも、イエス様が言われた「新しく生まれる」というのは、肉体が生まれ変わるということではありまません。この「新しく生まれる」という言葉は、「上から生まれる」とも訳すことができますが、「上から生まれる」とは、神様によって人の内側、つまり霊の部分が新しく生まれることを意味していました。人は神の命令に背いたことで罪を犯したことで心の奥底にある霊の部分が神様から離れて死んでしまったので、その霊が神様のいのちを受けて新しく生まれる必要があるというのです。それは、人の努力や頑張りによって出来ることではありません。神様の力が必要です。「救いとは上から差し伸ばされた手である」と言った方がいますが、神様が上から差し伸ばしてくださった手によって、人は新しく生まれ、神様との関係を回復することができるのです。
イエス様は、ニコデモに言われました。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:13-15)これはどういうことかというと、天から下って人となってくださったイエス様が、これから人々の救いのために十字架にかかってくださるので、そのイエス様を信じるならば、永遠のいのちを持ち、新しく生まれて神の国に属する者になれる、ということです。
つまり、イエス様は、ニコデモに「あなたは立派な生活をしてきたが、それによって神の国に入ることはできない。わたしを信じて神様から永遠のいのちを受け取ることによって、新しく生まれるのだ」と言われたわけです。
それは赤ちゃんが生まれるときのようです。赤ちゃんは自分の力や努力によって生まれてくるわけではありません。それと同じように、私たちも自分の努力や頑張りによってではなく、ただ神様によって新しく生まれることができるのです。

 

ですから、私たちの努力や功績は、救いとはまったく関係ありません。もし、人間の努力や功績などで救いを得ることができるなら、その救いは限られた一部の人たちだけのものとなるでしょう。それに、人の力で獲得できる程度の救いは、相当安っぽいものです。しかし、神様が与えてくださる救いは、神様のひとり子イエス・キリストのいのちと引き替えにしたほどに高価で尊いものです。あまりにも高価なので私たちが代価を支払うことなど到底できません。その高価な贈り物を神様は私たちに無償で差し出してくださいました。神様は、それほどまでに私たちを愛してくださったのです。

 

私たちは、その差し出された贈り物に対してどういう態度を取ったらいいのでしょうか。その贈り物に対して、ただ「ありがとうございます」と感謝して受け取ることを神様は願っておられます。それが神から生まれた者です。「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです」、つまり、イエス様がキリストであると信じるだけで、神によって生まれることができるのです。それが福音の素晴らしさです。

 

そして、そのように神から生まれた者は、同じように神から生まれた者を愛します。1節の後半をご覧ください。ここには、「生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者を愛します。」とあります。

「生んでくださった方」とはもちろん神のことです。そして「その方から生まれた者」とはクリスチャンのことを指しています。この「その方から生まれた者」という言葉が単数形であることから、ある人たちは、これはイエス様のことを指しているのではないかと考えていますが、前後の文脈から考えると、これは神から生まれた者たち、すなわち、クリスチャンのことであると言えます。神から生まれた者は自分を生んでくださった方を愛し、またその方から生まれた者をも愛するようになるのです。父親を愛する者が、その子どもである兄弟姉妹を愛するのは当然のことです。この人間の社会に見られる原則は、霊的な世界においても「然り」であると言うことが言えるのです。

 

Ⅱ.神の命令は重荷とはならない(2-3)

 

では、どのようにしたら兄弟を愛することができるのでしょうか。次に2節と3節をご覧ください。ここには、「このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」とあります。神を愛することと、神の命令を守ることは切り離すことができません。というのは、神を愛することは、神の命令を守ることだからです。

 

イエス様はヨハネの福音書15章9節~12節でこう言われました。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

「あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」とあるように、神を愛するとは、神の戒めにとどまることであり、神の戒めを守ることなのです。その神の戒めとは何でしょうか。それは互いに愛し合うことです。

 

このように、クリスチャンが互いに愛し合うというのは、クリスチャンが神を愛し、その命令を守ることの表れであって、単なる人間的な感情によるものではないということがわかります。このことをよく理解していないと、教会の中でもこの世の一般社会と同じような人間的な親しさや、家族的な甘え、気心の知れた人々との楽しいおしゃべり、傷のなめ合いといった閉鎖的なものになってしまいます。しかし、聖書が言っているクリスチャン同士の愛とは、いつでも神を愛しその命令を守るという神を中心としたものがその土台にあるということを忘れてはなりません。このことが土台になって初めて本物の愛となるのです。

 

ですから、3節にはこうあるのです。「神の命令を守ること、それが神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」神の命令を守ること、それが神を愛することです。

神の命令とは何でしょうか。それは、私たちが互いに愛し合うことです。3章23節にそのことがはっきりと語られています。「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」これが神の命令です。

神の命令とは、私たちがイエス・キリストの名を信じて、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うことです。神を愛すると言いながら兄弟を憎むということはありません。もしそういうことがあるとしたら、その人は偽り者となってしまいます。なぜなら、兄弟を愛することが神の命令だからです。それなのに、兄弟を愛さないとしたら、神を愛していないし、神の命令をも守っていないことになります。

 

神を愛する者は、その命令に喜んで聞き従います。それは重荷とはなりません。「しょうがないな、やりたくないし、面倒くさいけど、命令だからやらなければならなくちゃいけない」とか、「悪いのは相手であって相手が折れるべきであって、自分から頭を下げるなんてもってのほかだ」というのではなく、喜んでその命令に従うのです。

 

それはちょうど結婚したばかりの夫婦のようです。結婚したばかりの夫婦はそうでしょう。お互いに喜んで従ったはずです。「こうしてほしい」と言われたら、「はい、わかりました。喜んでやりますよ」と言っていたのに、あれから40年、あの新婚当初のフレッシュな気持ちはどこかへ行ってしまったのでしょうか。「自分でやってよ」となってしまいました。「自分のことは自分でやって、人に迷惑かけないでほしい・・・」とかと言うようになってしまいました。

 

しかし、神を愛するなら、神の命令は重荷とはなりません。この「重荷」と訳された言葉は「重い」という言葉から出たもので、「難しい、実行困難」という意味です。「御子イエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合いなさい」という神様の命令は、重くありません。難しくないし、実行できないことではありません。なぜなら、まずイエス様が私を愛してくださったからです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。この愛を知りました。だから私たちは互いに愛し合うことができるのです。

 

もちろん、まだ完全にされているわけではありませんから、愛せないと思うこともあるでしょう。苦手だという人もいるかもしれません。しかし、イエス様のように愛せる者へと変えられているのです。私たちの内に住む聖霊がその愛を育ててくださっています。その御業に期待したいと思います。そして、今、自分にできる範囲で愛を示していこうではありませんか。人と比べて自分をさばいたり、他人をさばいたりする必要はありません。人に見せるために何かをするわけでもありません。ただ自分に関わりのある人々の最善を願い、自分なりの方法で神様の愛に応えていくのです。ですから、互いに愛することは、決して実行困難ではないのです。神の命令は重荷とはならないのです。

 

Ⅲ.世に勝つ者(4-5)

 

どうしたら神の命令は重荷とはならないのでしょうか?4節と5節にもう一つの理由が記されてあります。

「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

 

神の命令を守ることが重荷とならないもう一つの理由は、神から生まれた者は世に勝つからです。世とは何でしょうか。ここにある「世」とは神に反抗する、いっさいのこの世の勢力のことです。あるいは、イエス・キリストを否定する偽りの教師たちとその教えのことであるとも言えます。また、「世」には、「神様抜きの秩序」という意味がありますから、私たちを神様から引き離そうとする様々な働きを指しているといってもいいでしょう。この世はあらゆる面からクリスチャンを攻撃してきます。それは強大であり、強力ですから、そうしたこの世の様々な攻撃に翻弄されたり、不安や心配に悩まされることもあります。しかし、この世の力がどんなに強くても、神から生まれた者はみな、世に打ち勝つのです。それは私たちに力があるからではありません。そうではなく、イエスをキリストと信じる者には、神の聖霊が与えられているからです。聖霊が与えられているということは、父なる神様、子なるイエス様も共にいてくださるということです。それは、「わたしはあなたを離れず決してあなたを捨てない」という約束の成就でもあります。神様がいつも私たちと共にいてくださるので、私たちは、この神の力によって勝利することができるのです。

 

このことをパウロはローマ人への手紙8章37~-39節のところで、このように言っています。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

私たちを神様の愛から引き離そうとするいろいろな力が襲ってきます。しかし、私たちは私たちを愛してくださる神様によって、これらすべてのものの中にあっても圧倒的な勝利者となるのです。

 

今、山中さんが闘病中にありますが、皆さんで寄せ書きをすることになりました。私たちの祈りを何らかの形らしたいということで、色紙を用意しました。その真中には先生が書いてくださいとハートの形のシールを渡されたので、何を書こうかと考えましたが、自分の言葉よりも聖書の言葉の方が励ましになると思い、この言葉が与えられました。「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

山中さんは決してひとりではありません。主がともにいてくださいます。これほど力強い約束はないでしょう。

それは山中さんだけではありません。私たちクリスチャンのすべて、イエスがキリストであると信じる者、神によって生まれた者はみな、同じ約束が与えられているのです。

 

この信仰こそ勝利のかぎです。この信仰が私たちをキリストに結びつけ、キリストから勝利する力を受け取らせてくれます。イエス様が十字架でその勝利を獲得してくださいました。私たちはこのイエスこそ神の御子、救い主と信じる信仰によってイエス様に結びついて一つとなり、この世に勝利することができるのです。

 

私たちには日々戦いがあります。私たちの内には肉の思いや欲との戦いがあり、外にはこの世で生きる上での思い煩いや不安、恐れ、プレッシャー、また病気との戦いなど、実に多くの戦いがあります。しかし、イエス様がすでに勝利してくださいました。私たちはこのイエスを神の御子、キリスト(救い主)と告白することによって、そうした戦いに勝利することができるのです。

 

イエス様はこう言われました。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

 

皆さん、イエス様はすでに世に勝利されました。このイエス様があなたとともにおられます。あなたがこのイエスをキリストであると信じることによって、イエスを神の御子と信じることによって、あなたも勝利者となるのです。だったらどうして下ばかり見ているのでしょうか。どうしてまるで敗残兵のように落ち込んでいるのでしょうか。あなたは神から生まれた者です。だったらあなたは世に勝つことができるのです。イエスを神の御子と信じる者に敗北者は一人もいません。イエスをキリストと信じる信仰によって、イエスを神の御子と信じる信仰によって、本当に弱い私たちですが、イエス様によって勝利することができるのです。イエスがキリストであると告白して、それぞれの置かれたところで力強く歩ませていただきましょう。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利なのです。

士師記4章

士師記4章を学びます。まず1節から9節までをご覧ください。まず1節から5節までをお読みします。

 

Ⅰ.女預言者デボラ(1-5)

 

1 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。

2 【主】は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡された。ヤビンの軍の長はシセラで、ハロシェテ・ハ・ゴイムに住んでいた。

3 すると、イスラエルの子らは【主】に叫び求めた。ヤビンには鉄の戦車が九百台あり、そのうえ二十年の間、イスラエルの子らをひどく圧迫したからである。

4 ラピドテの妻で女預言者のデボラが、そのころイスラエルをさばいていた。

5 彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめ椰子の木の下に座し、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た。

 

前回3章で、三人の士師たちについて学びました。オテニエル、エフタ、シャムガルです。この三人にはそれぞれ特徴がありました。オテニエルは勇士で、主の霊が彼の上に臨み、力強い戦いをしたので、彼はアラムの王クシャン・リシュアタイムを抑え、40年間イスラエルを穏やかに治めました。

そしてエフタは左利きであることが強調されていました。彼はそうした人と異なる点を有効に用いてモアブの王エグロンを打ち破り、イスラエルに平穏をもたらしました。

それからもう一人はシャムガルです。彼は牛を追う棒でペリシテ人六百人を撃ち殺しました。牛を追う棒とは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒でしたね。そうです、シャムガルは普段農作業をしていた普通の人でしたが、主はそのような人をも用いられたのです。

今回の箇所にはデボラという人が登場します。この人の特徴は何かというと、女性であったということです。主はイスラエルの解放のために女性も用いられました。

 

1節を見ると、イスラエルの子らは、主の目の前に悪であることを重ねて行ったとあります。エフデは死んでいました。エフデは自分に与えられた利点を用いてモアブの王エグロンを打ち破り、八十年もの間イスラエルに平和をもたらしましたが、そのエフタが死ぬとイスラエルはおのおの自分勝手なことをして、主の目の前に悪を行うようになったのです。

 

すると主は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手にイスラエルを売り渡されました。ヤビンの軍の長はシセラという人でしたが、彼はイスラエルの子らをひどく圧迫しました。ヤビンには鉄の戦車が九百台もあったので、イスラエルは彼らの前に何の成す術もなかったのです。それでイスラエルはどうしたかというと、主に叫び求めました。人は苦しくなると主に叫び求めるようになります。そうでないと主を振り向くこともしないのに、しかし苦しくなると主に助けを求めて叫ぶようになるのです。イエス様は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)と言われましたが、まさに心が貧しくされるような時、人は神に救いを求めやすくなるのです。そういう意味では、イスラエルが敵に圧迫されるという経験は、彼らが主に向くチャンスの時でもあったと言えます。

 

すると主はひとりの士師を彼らのもとに送りました。誰ですか?デボラです。4節を見ると、「ラピトデの妻で女預言者デボラが、そのころイスラエルをさばいていた。」とあります。彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるなつめ椰子の木の下に座しており、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来ていたのです。デボラの特徴は何かというと、女性であったということです。女預言者です。このように聖書にはしばしば女預言者が登場します。たとえば、モーセの姉ミリヤムは預言者でした。また、Ⅱ列王記22章14節には、女預言者でフルダという人が登場しています。彼女は、ヨシヤが南ユダの王であったとき、預言を行なっていました。そしてイエス様がお生まれになったとき、エルサレムにはアンナという女預言者がいました(ルカ2:36)。それから使徒の働き21章10節には、伝道者ピリポには四人の娘がいたことが記されてありますが、彼女たちは預言をしていました。そしてコリント第一11章6節には、女が預言をしたり祈るとき、と書かれてあります。

このように女性も神のみことばを語るために用いられていたことがわかります。ですから、女性はいっさい神のみことばを教えてはならないというのは誤った教えです。女性も主の働きに用いられるのです。しかしながら、聖書にはそこには神の秩序があることが教えられています。1コリント11章3節から11節までを開いてください。

3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。

4 男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。

5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。

6 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。

7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。

8 男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。

9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。

10 それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。

11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。

ここには、すべての女のかしらは男であり、男のかしらはキリストであり、キリストのかしらは神です、とあります。これが神の秩序です。男性が女性よりも偉いとか、能力があるということではありません。多くの場合男性よりも女性の方が能力が高い場合があります。特に霊的な面においてはそうです。しかしだからといって女性が勝手に預言してもよいのかというとそうではなく、そこには男性の権威があるということをわきまえなければなりません。このことが女預言者デボラにも見られます。彼女はバラクが戦いに出るように彼を励ましていることがわかります。そのために用いられているのです。自分がかしらとなるのではなく、そのかしらを手助けする働きに徹しているのです。彼女はどのようにバラクを励ましたでしょうか。6節から9節までをご覧ください。

6 あるとき、デボラは人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、【主】はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。

7 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」

8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」

9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。【主】は女の手にシセラを売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った。

 

デボラは人を遣わしてバラクを呼び寄せると、彼に、「イスラエルの神、【主】はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」と言いました。ここでデボラは、「主はこう仰せられる」と言わず、「命じられたではありませんか」とバラクに念を押しています。なぜなら、おそらくバラクにも同じような主のことばがあったからです。しかし、バラクはなかなかその重い腰をあげませんでした。そこでデボラは「主はこう命じられたではありませんか」と言って彼を励まし、それを行なうようにと勧めているのです。これは女性ならではのいい方ではないでしょうか。男性だったら、「ダメじゃないか。主はこう言っておられるのにどうしてやらないんだ」と言うでしょう。そうするとそれを受けた人はもうやる気を失せてしまいます。しかし、デボラのように「こう言われたではありませんか」と優しく念を押した上で、だからこうするようにと主はお語りになっておられますよ、と言われると、「そうか、じゃ行くとしようか」となります。

8節を見ると案の定バラクは彼女にこう言っています。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」デボラが一緒に行ってくれるのなら大丈夫だという確信を得ているのです。それほどデボラに励まされているのです。言い換えるなら、バラクはデボラの手のひらの上で転がされていたのです。デボラは男性の扱いをよく心得ていたのですね。

 

そのようにせがむバラクに対してデボラは、「私は必ずあなたと一緒に行きます。」と約束しました。「ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。」どういうことでしょうか。

確かにバラクはデボラに励まされて戦いに出て行きますが、彼が信頼していたのは主ではなくデボラであったということです。ですからここで一つの条件を付けているのです。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。」主が彼に求めていたことはこうした条件を付けることではなく、絶対的に従うことでした。神の国とその義とをまず第一に求めなければなりません。そうすれば、それに加えて、すべてのものは備えられるからです。それなのに彼は神ではなくデボラを求めました。それゆえに、彼は誉れを受けることはできなかったのです。

 

私たちも神さまに呼ばれるとき、必要な物や必要な人がいます。けれども、その必要が満たされなければ神の命令に従わないというのは神のみこころではありません。主が私たちを呼ばれるとき、無条件で従うことが求められます。必要な物がなくても、必要な人がいなくても、主が「こうしたなさい」と言われるのなら、無条件でそれに従っていかなければならないのです。そうすれば、それに加えてすべてのものが備えられるのです。

 

Ⅱ.主の御業(10-16)

 

その結果どうなったでしょうか。次に、10節から16節までをご覧ください。

10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼と一緒に上った。

11 ケニ人ヘベルは、モーセのしゅうとホバブの子孫のケニ人たちから離れて、ケデシュに近いツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。

12 一方シセラに、アビノアムの子バラクがタボル山に登ったと知らされた。

13 シセラは自分の戦車すべて、すなわち鉄の戦車九百台と、彼と一緒にいた兵をみな、ハロシェテ・ハ・ゴイムからキション川に呼び集めた。

14 デボラはバラクに言った。「立ち上がりなさい。今日、【主】があなたの手にシセラを渡される。【主】があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」そこで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼の後に従った。

15 【主】は、シセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を、剣の刃をもってバラクの前で混乱させられた。シセラは戦車から飛び降り、自らの足で逃げた。

16 それでバラクは、戦車と陣営をハロシェテ・ハ・ゴイムまで追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者は一人もいなかった。

 

バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上って行きました。もちろん、デボラも一緒です。するとシセラは自分の戦車のすべて、すなわちあの鉄の戦車九百台と、彼と一緒にいた兵をキション川に呼び集めました。

するとデボラはバラクに言いました。「立ち上がりなさい。今日、【主】があなたの手にシセラを渡される。【主】があなたに先立って出て行かれるではありませんか。」ここでも彼女は、「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか」と言って主のみことばを語って励ましています。本当に励ましの人です。

それで、バラクはタボル山から下り、一万人の兵とともに出て行くと、何と主がシセラとそのすべての戦車とすべての陣営の者を混乱させたので、敵はみな剣の刃に倒れ、残された兵は一人もいませんでした。シセラも戦車から飛び降り、自らの足で逃げ去りました。

 

強大な戦力であったはずの戦車がかえって戦いの邪魔になってしまいました。主が混乱させたからです。主はその強さを逆に弱さにされました。逆に、主は弱さを強さに変えてくださいます。私たちは時々不利な状況を見て戦うことができないと思うことがありますが、主はそれを強さに変えてくださいます。こんな田舎で伝道してどれだけのことができるかわかりません。しかし、主はそれを利点に変えてくださいます。主がともにいてくださるなら、どのような状況も最善なのです。主は宣教のことばの愚かさを通して、そこから救われる人を起こしてくださるからです。

 

Ⅲ.ヤエルの鉄の杭(17-24)

 

最後にその結末を見たいと思います。17節から24節までをご覧ください。

17 しかし、シセラは自らの足でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げた。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家は友好関係にあったからである。

18 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人様。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼を布でおおった。

19 シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてくれ。喉が渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋を開けて彼に飲ませ、また彼をおおった。

20 シセラはまた彼女に言った。「天幕の入り口に立っていてくれ。もしだれかが来て、ここにだれかいないかと尋ねたら、いないと言うように。」

21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の杭を取ると、槌を手にしてそっと彼に近づき、そのこめかみに杭を打ち込んで地に突き刺した。彼は疲れて熟睡していたのである。こうして彼は死んだ。

22 ちょうどそのとき、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て言った。「おいでください。あなたが捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに行くと、なんと、シセラが倒れて死んでおり、そのこめかみには杭が刺さっていた。

23 こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させた。

24 イスラエル人の勢力は、カナンの王ヤビンに対してますます強くなり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。

 

シセラの兵はみな剣の刃に倒れ、残された者は一人もいませんでしたが、シセラだけは戦車から飛び降りて、自らの足で逃げました。彼が逃げたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕でした。

ケニ人というのは11節にあるようにモーセの義兄弟の子孫です。モーセはエジプトを逃れてミデアンの荒野へ行き、そこでチッポラ(ツィポラ)という女性と結婚しました。その兄弟がホパブです。そしてその子孫がケニ人です。ヘベルは、ケニ人から離れて、ケデシュに誓ツァフアニムの樫の木のそばで天幕を張っていたのですが、シセラはそこへ逃げ込んだのです。それはハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家は友好関係にあったからです。シセラがヤエルの家に逃れると、彼を布でおおい、水を飲ませました。そして彼がヤエルに「天幕に立ってくれ・・」と言うと、彼女は天幕の杭を取って、彼のこみかめに打ち込み、地に突き刺しました。彼は疲れて熟睡していたのです。こうしてシセラは死にました。こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させました。

 

こうしてデボラの言ったあの預言が成就しました。つまり、「あなたに誉れは与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです。」とバラクに言ったあの預言です。カナンの王ヤビンの将軍シセラと戦ったのはバラクでしたが、誉れを受けたのはヘベルの妻ヤエルでした。彼女は天幕の杭でシセラを地に突き刺しました。当時天幕を張るのは女性の仕事でした。ですから鉄の杭も槌(つち)もいつも使っているものだったのです。シャムガルと同じですね、普段使っているもので戦っています。台所で調理しているような普通の主婦が、あの強靭なシセラを倒すために用いられたのです。このように神はご自身の働きのために女預言者デボラばかりでなく普通の主婦も用いられました。か細い女性であっても主の御手の中にあることによって、主はご自身のために用いてくださるとのです。そのことを覚えて、私たちもいつもへりくだって主に主に仕えて行きたいと思います。

 

 

ヨハネの手紙第一4章7~21節「ここに愛がある」

きょうは「ここに愛がある」というタイトルでお話しします。ヨハネは偽りの教師たちが間違った教えを教会の中に持ち込み教会が混乱する中、そうした教えに惑わされることがないようにこの手紙を書きました。そのために必要なことは何でしょうか。それは、神がどのような方であるのかを知ることです。そこで彼は1章と2章で神は光であると述べました。ですから、神のうちにとどまっている人は、神が光であられるように光の中を歩まなければなりません。3章と4章のテーマは愛です。神は愛です。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったでしょうか。その愛を考えなければなりません。

 

きょうの箇所は、その続きです。16節にははっきりと「神は愛です」(16)とあります。神は愛を持っている方であるとか、愛なる方であるというのではなく、愛そのものだというのです。その神を信じた人はどうあるべきでしょうか。当然その愛に生きるべきです。11節には、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」とあります。きょうはこの「神の愛」について三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.ここに愛がある(7-10)

 

まず7節から10節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。

「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。なぜなら、神は愛だからです。」

 

ヨハネはここで再び互いに愛し合うことを勧めています。なぜ私たちは互いに愛し合うのでしょうか?3章11節には、それは私たちが初めから聞いている教えであり、それによって私たちが神から生まれた者であることがわかるからだとありましたが、ここには別の理由が上げられています。それは、愛は神から出ているからです。愛はどこから出ているのでしょうか。それは人の心の中からでも、この世の何かからでもなく、神からです。したがって愛がある者はみな神から生まれ、神を知っていますが、愛のない者には神がわかりません。なぜなら、「神は愛だからです。」神は愛です。愛そのものなのです。ですから、この神を知っているならば当然互いに愛し合うはずですし、知らなければ愛し合うことはできません。私たちが兄弟を愛するのはこの神の愛の性質のゆえであり、その結果なのです。

 

では神はこの愛をどのように示されたのでしょうか。9節と10節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 

皆さん、愛はどこにあるのでしょうか?聖書は「ここある」と言っています。神がそのひとり子を遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。そのことの中にあるというのです。この「神はそのひとり子を世に遣わし」というのは、神の御子が人となって来てくださったことを意味しています。神の御子が人となって来られ、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かって死んでくださいました。その事実のことです。それは、私たちがこの方を信じていのちを得るためでした。同じヨハネが書いた福音書には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)とあります。

 

私たちが神を愛したのではありません。「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」この「宥めの供え物」についてはすでに2章2節で説明しましたが、罪に対する神の怒りを宥めるものという意味で、つまり、キリストの十字架のことを表しています。「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、全世界の罪のための宥めのささげ物です。」(2:2)

キリストの十字架は、私たちの罪に対する神の怒りを完全になだめてくれました。イエス・キリストが十字架にかかってくれたことで、私たちの罪に対する神のすさまじい怒りが完全になだめられたのです。それはイエス・キリストが神の怒りを宥めるために、神が要求するすべてのものを満たすものであったということです。それゆえ、このキリストの十字架の死によって、私たちの罪はすべて赦されました。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいました。」(Ⅰヨハネ1:7)もう愛を求めて探し求めて走り回る必要はありません。ここに愛があるからです。

 

私の知っている方に薬学を極めた方がおられまして、その方はWHOでも働いたという経歴をお持ちの方ですが、長年難病の治療薬の研究に携わり、世界中を巡回して薬草と言われるものを求めて、薬の原料になりそうなものを捜し回ったそうです。しかしそれはなかなか大変で当たり外れが大きい仕事であったようです。薬は人間にとって必要なものですが、それを見出すのは簡単なことではありません。しかし、「愛」を求めて捜し回る必要はありません。愛はここにあるからです。ここにしかありません。それは既に神がしてくださり、私たちがいつでも受け取ることができる十字架の事実の中にあるのです。

 

先ほど、チルドレンズタイムのお話しの中で紹介されたショーンは、ほんとうの愛を探し求めました。愛し合うはずの両親がどうしていつも言い争ったり、けんかばかりするのか、そして離婚することを決意した両親に仲良くなってもらいたいと、ほんとの愛探しが始まりました。もしほんとうの愛を見つけることができたら、両親を助けてあげる事ができると思ったのです。

どこを探したら良いのか、と思いました。彼のクラスの先生は、答えは辞書の中にあると言っていたから、きっとその中に答えがあるはずだと、翌日教室の大きな辞書を開きましたが、そこにはこう書かれてありました。「愛とは、あるものに引き付けられ、それを慕い、あるいは慈しみ、可愛がる気持ち」全く意味不明です。ショーンはため息をつきました。どうしたらその愛を手に入れることができるのか、辞書はその答えを教えてくれませんでした。余計に分からないことが増えただけでした。

それで彼は別のところを探さなければなりませんでした。どこを探したら良いだろう。そうだ、以前パパがママに愛してるって伝える時には、カードのお店に行って「愛してます」というカードを買っていたから、そこに行けば答えが見つかるかもしれないと思いました。

それで彼は赤い自転車を走らせて、近くのカードのお店に行きました。「すみません」とショーンはお店の人に言いました。「本当の愛を教えてくれる特別なカードが欲しいんです。」するとお店の人はにっこりと笑って「こちらが一番素晴らしいカードになっています。お探しのものが見つかればいいのですけれど。」と案内してくれました。ショーンはその中から何枚かのカードを読んでみました。その中の一枚にはこんな風に書いてありました。「愛は一日を一緒に過ごすこと。」なるほど、パパとママはずっと一緒に過ごしてはきたけれど、していた事はけんかばかりだな。今では、家族として一緒に住んでさえいない。別のカードにはこうありました。「愛はごめんなさい、ということ。」ショーンはこれがパパたちに必要な事だと思いました。「ごめんなさい」と言って仲直りしないと。

しかし、彼は自分に必要な答えのカードを見つけることができませんでした。でもあきらめないぞと彼は思いました。両親のためにほんとうの愛をみつけなければならないと思いました。

次の日、学校に行く途中で友達のタイソンが近寄って来て言いました。「なんだか元気がないようだけれど、どうしんだい?君を元気づけるためにぼくにできることないかい?」

「ないと思うよ、元気になれる方法は一つしかないんだ。本当の愛は何か、どうやったらそれを手に入れることができるかってことだから。」

するとタイソンは大きな笑みを浮かべて言いました。「それなら僕、助けられると思うよ。」

「助けられる?どうやって?」

「僕と一緒にグッドニュースクラブに行こうよ。先週ネルソン先生が、今日のバレンタイン・パーティーで今まで聞いたこともないようなすばらしい愛のお話しをしてくれるって言ってた。本当の話なんだって。」

それで、ショーンは急いでパーティーに行くと、先生が言うことを一言も逃さないように、一番前の席に座りました。

するとネルソン先生は、本当の愛のお話しは神様の本、聖書の中に書いてありますと言って、イエス様のお話しをしました。イエス様は神の御子で、神様はこのイエス様を特別な目的のために天国からこの世に送ってくださったということ、そして、その目的とは私たちが罪の罰を受けることがないように身代わりとなって十字架で死んでくださるということでした。ショーンは、みんなが幸せになる愛のお話しだというので来たのに、死ぬだなんて悲しくなっちゃうと思いましたが、それは私たちが死ぬことがないためであったと言うことを知り、イエス様がどんなに自分の事を愛してくださったかが、分かってきました。そして、自分のためにイエス様が死んで、よみがえってくださったことを感謝し、イエス様に救い主となってくださるようにお願いしました。ショーンは、本当の愛とそれがどこから来るのかが分かってとてもうれしくなりました。

そして、急いで家に帰ってそのことをママにお話しすると、その午後ママもイエス様を信じて受け入れたのです。そしてその週の週末に自分を迎えに来たお父さんにそのことを話すと、お父さんは、残念ながら、「ショーン、悪いけどお父さんは神様やお前が話している愛について興味がないんだよ。」と言って拒絶しました。お父さんが受け入れてくれなかったことは残念でしたが、彼は、いつかお父さんも神様からの特別な贈り物を受け取ることができるようにと祈り、本当の愛がどこから来るのかを見つけることができたことを感謝しました。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためにご自分の御子を遣わされたのです。ここに愛があるのです。もう愛を求めて探し回る必要はありません。それは神がすでに神の側でしてくださった十字架の御業にあります。私たちはいつでもその愛を見出し、受け取ることができるのです。

 

Ⅱ.互いに愛し合うなら(11-16)

 

第二に、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。11節から16節までをご覧ください。11節と12節をお読みします。

「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」

 

ここでヨハネは神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです、と言っています。ヨハネは、私たちがこれほどまでに神に愛されたのだから、私たちも神を愛すべきですとは言っていません。神を愛するというのは確かにそうですが、しかし、神を愛することは兄弟を愛する事であり、そのことによって表されるというのです。

 

20節と21節にはそのことが明確に語られています。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けているのです。」

ですから、神を愛するという者は兄弟をも愛すべきなのです。それによって、私たちが神を愛しているかどうかがわかるからです。ここに愛の流れがあることがわかります。愛は神から私たちへと流れ、そしてその愛は、今度は私たちから兄弟へと流れていくのです。その時神が私たちのうちにおられることがわかります。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、もし私たちが兄弟を愛するなら神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちにうちに全うされるのを見ることができるのです。

 

ソ連のある博物館にガガーリンの写真が飾られていて、その下に次のようなことばが書いてあるそうです。それは、「彼は宇宙へ行った最初の人間である。彼はそこで周囲を見渡したが神は見えなかった。故に、われわれは神が存在しないと確信する。」(ハンス・クリスチャン「鉄のカーテンと十字架」、いのちのことば社)

どうでしょう、確かに肉眼で神を見た者はだれもいません。しかし、それで神がいないということの証明にはなりません。なぜなら、私たちが愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちの内に全うされるからです。それを見ることができます。

 

以前、私が福島で牧師をしていた時、町内会の会長さんが教会にやって来て、よくこう言われました。「いや、お宅のところに来ている若い人たちは大したもんだ。会うたびにニコニコして挨拶してくれんだもの。」「なかなかいねぞい!」「まあ大したもんだ」

またある日全く知らないおばあさんが教会にやって来て、お茶菓子の包みを差し出すと、「これ、キリストの神様に供えてくれ」と言いました。「何ですか、これは?」と聞くと、「いやない、ここに来てる○○さんっていっぺした。あの人ない、ここに来るようになってから愚痴一つ言わなくなったんだぞい。キリストの神様は大したもんだ!」

いまだかつてだれも神を見た者はいません。しかし、私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 

そればかりではありません。13節をご覧ください。ここには、「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」とあります。どういうことですか?今、私たちは互いに愛し合うことによって、神の愛が私たちのうちにとどまっているのを見ることができると言いましたが、そればかりではなく、神が私たちに与えてくださった御霊によって、そのことが分かるというのです。他の人に、「神がいるなら見せてみろ」と言われても、神は目で見ることができない方ですから見せることができません。しかし、私たちは確かに神はおられることを知っています。それは神が私たちに与えてくださった御霊によってです。御霊によって神が私たちのうちにおり、私たちも神のうちにいることが分かるのです。

 

ヨハネは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証をしました。そしてその証を受け入れる人、すなわち、イエスが神の御子であることを心に受け入れ、また告白する人に、ご自身の御霊を与えてくださいました。この御霊によって確かに神が私たちのうちにおられ、私たちも神のうちにいることを見ることができるのです。

 

16節はヨハネの確信です。ご一緒に読んでみましょう。

「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」

神が私たちのうちにおられ、私たちが神のうちにいることを確信することができるのは、私たちがこの愛にとどまっているかどうかによってです。神は愛ですから、この愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられるのです。

 

あなたはこの愛を信じていますか?この愛にとどまっているでしょうか?神は愛です。もしあなたがこの愛にとどまるなら、あなたは神のうちにおり、神もあなたのうちにいてくださいます。いまだかつて神を見た者はいません。しかし、私たちが互いに愛し合うなら、その神をはっきりと見ることができるのです。

 

Ⅲ.全き愛は恐れを締め出す(17-21)

 

第三のことは、その結果です。それは、愛は恐れを締め出すということです。17節と18節をご覧ください。

「こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」

 

こうして神の愛が私たちに全うされます。「こうして」とは、神の愛が神から出て私たちの内にあふれ、その愛が兄弟に向かって流れて行くことによって、神は生きておられるということがすべての人に証されることによってということです。その結果どうなるのでしょうか。その結果、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。何ですか、さばきの日とは?聖書にはさばきについて二つのことが言われています。一つは、永遠の行き先を決めるさばきです。主イエスを信じて罪赦され、いのちの書に名前が書き記された人は永遠のいのちに、しかしこのいのちの書に書き記されていない人は、火の池に投げ込まれます(黙示録21:15)。

 

もう一つは、神の国に入れられた人たちの中で行われる、報いを決めるためのさばきです。Ⅱコリント5章10節には、「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」ここで言う「私たち」とは、クリスチャンのことを指しています。また「さばきの座」というのは、その人が天国にふさわしい人なのか地獄にふさわしい人なのかを決めるさばきのことではありません。そこに集められた人はみんなクリスチャンですから、天国に行くことは決まっているのです。ただ、その人が、与えられた命や人生を、神のためにどのように使ったのかが試さる時があるのです。そのさばきのことです。もっと言うなら、目に見える兄弟を愛することによって、目に見えない神を愛したかどうかが試されるのです。

 

みなさんは、テレビで美人コンテストを見たことがあると思います。美人コンテストに参加している人はみな美人です。あれは、美人かどうかを決めるコンテストではありません。もうすでにみんな美人なのです。あとは、その人の持っている特技とか内面性をアピールして、どの人が一番美人かを決めるためのコンテストです。このさばきの座に似ています。クリスチャンはみな義人です。ただ、クリスチャンがその与えられた永遠のいのちを、この地上でどのように神と人々のために使ったのかを評価されるのです。神の栄光のためにしたのか、自分の栄誉のためにしたのか、神の喜びのために生きたのか、自分の喜びのために生きたのかが問われるのです。だからパウロはⅠコリント15章58節でこのように勧めているのです。

「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

イエス様も、「自分のために、天に宝を蓄えなさい。」(マタイ6:19)と言われましたが、神の恵みによって救われた私たちは、この地上にあって、天に宝を蓄える者でありたいと思います。

 

ヨハネがここで言っているさばきとは、この二つの神のさばきの両方のことを言っています。もしあなたが神の愛を知り、神の御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うなら、確信を持つことができます。大胆でいられるのです。このことについてはすでに3章19節と20節でも語られました。「そうすることによって、私たちは自分自身が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。」「ああ、また失敗しちゃった、何であんなことをしてしちゃったんだろう。なぜあんたなことを言っちゃったんだろう。こんな者でも天国に行けるだろうか。」と、私たちは自分を責めることがあります。しかし、私たちがイエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合うなら、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。そういう確信を持つことができます。なぜなら、その次のところに理由が記されてありますが、「この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。」つまり、神の愛が全うされることによって、私たちはこの世にあってキリストに似た者としての歩みをしていることになるからです。

 

このように、愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。全き愛にはさばきを恐れる心がないのです。したがって、今恐れがあるという人の愛は全き者となっていないということになります。やがて神の御前に立たされる時どのような宣告を受けるのか、どのような報いを受けるのかがわからないので不安なのです。それは10節と14節にある神の愛を受けていないのか、それともそれを受けていてもその人の中にその流れを妨げるものがあって、互いに愛し合うという神の命令を行っていないかのどちらかです。そのような人は、主が再び来られるときその御前に立つ日が恐ろしくて不安でしょう。けれども兄弟を愛するなら、こうした恐れは消え去ります。全き愛は恐れを締め出すからです。この神の愛に生きるなら、さばきの日に確信を持つことができるばかりか、この地上にあって日々喜びと平安をいただき、大胆に生きることかできるのです。

 

日本で最初にバプテスマを受けたプロテスタントの信者は矢野元隆という人です。彼は医者で、幕府の紹介によりブラウン、バラといった宣教師の日本語教師となりました。1864年11月4日、彼はバラからバプテスマを受けましたが、翌月12月5日に結核のためこの世を去りました。バプテスマを受けた翌日、彼はバラ夫妻に言いました。「私は間もなくイエス様にお会いします。その時あなたがたが私にしてくださったことをイエス様にお話ししましょう。」するとバラ夫妻は、「イエス様に私たちの名が告げられること以上に貴いものがこの世にあるだろうか」と言って喜んだそうです。矢野はバラ宣教師を通して神の愛を受けました。バラ宣教師は神から受けた愛を矢野に伝えたのです。そして共々イエスの御名をあがめました。両者は共々にさばきの日の確信を持つことができました。それは共々に神の全き愛の中にとどまっていたからです。

 

ですから、結論は何かというと、私たちは互いに愛し合いましょう、ということです。なぜなら、神がまず私たちを愛してくださったからです。私たちはその愛を神から受けたのです。であれば、その神への愛は、兄弟への愛となって現われるはずです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者となります。目に見える兄弟を愛さない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。それは一致していません。神への愛と人への愛は一つでなければならないからです。祈りのことばと人へのことば、教会での態度と家庭での態度がバラバラであるなら、その人の行動はなかなか理解できません。神を愛しているとは言っても、実際には愛していません。この「目に見える兄弟」とは「ずっと見ている兄弟」という意味で、一番身近なクリスチャンのことです。一番身近なクリスチャンを愛していない、すなわちすぐできることをしていないのに、神を愛しているなどとはとても言えないのです。神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。私たちはこの愛にとどまり、この愛に生きる者となりましょう。それこそ、神が私たちに求めておられることなのです。