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あなたの傷を癒される主 エレミヤ書30章12~24節


聖書箇所:エレミヤ書30章12~24節(エレミヤ書講解説教54回目)
タイトル:「あなたの傷を癒される主」
今日は、エレミヤ書30章後半から、「あなたの傷を癒される主」というタイトルでお話します。イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいます。それは近い将来においてはバビロン捕囚という出来事のことであり、遠い未来においてはヤコブの苦難と呼ばれる世の終わりに起こる7年間の患難時代のことを指しています。しかし、神はそんなヤコブ、イスラエルを見捨てることなく、赦し、救い出してくださるとおっしゃられました(30:7)。神は懲らしめを与えますが、彼らを滅ぼし尽くされることはありません。罪ゆえに大きな痛みや傷、苦しみを与えられますが、その後には赦しと救いを用意してくださるのです。いったい神はどのようにしてそれを行われるのでしょうか。
今日の箇所には、その方法が明確に記されています。それは、彼らの中から出る権力者、その支配者によってです。21節には、「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあります。いのちをかけて神に近づく者はだれでしょうか。そうです、それは神の御子イエス・キリストです。エレミヤはここで命をかけて神に近づき、民の受けるべき罰を担ってくださる方を預言しているのです。イエス・キリストによって私たちのすべての罪咎は赦され、赦しと救いを受けることができるのです。今日は、私たちのすべての傷を癒してくださる主イエス・キリストの救いについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.癒されがたい傷(12-17)
まず、12~17節をご覧ください。「12 まことに【主】はこう言われる。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。13 あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。14 あなたの恋人たちはみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。15 なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは癒やされがたい。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために、わたしはこれらのことを、あなたにしたのだ。」
主はエレミヤを通してイスラエルの民にこう言われました。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。」彼らの傷は、癒されがたいものでした。彼らの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、癒す者もいないからです。14節の「あなたの恋人たち」とは、同盟関係を結んでいた周辺諸国のことです。そうした同盟国もヤコブを見捨てることになるのです。彼らはあなたを忘れ、あなたを尋ねようともしません。あなたの傷をいやすことも解決することもできないのです。全く頼りになりません。それは普通の傷ではないからです。それは主が敵を打つように彼らを打ち、容赦なく彼らを懲らしめたものだからです。彼らの咎が大きく、罪が重いからです。それは罪から来る痛み、傷だからです。まさに、ローマ6:23aに「罪から来る報酬は死です。」とある通り、罪から来る報酬なのです。罪、咎から来る傷は、だれも癒すことができないのです。それは死をもたらすだけです。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23b)しかし、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられます。この永遠のいのちは、あなたの恋人が癒すことができない傷や病すら癒すことができるのです。それが16節と17節で言われていることです。「16 それゆえ、わたしは言う。あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、捕らわれの身となって行き、あなたから略奪した者は、略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える。17 まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。──【主】のことば──まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」
主は、「わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。」と言われます。主があなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒されます。あなたの傷を癒すことができる人はいません。精神科医でも無理です。そこで処方される薬でも癒すことはできないのです。勿論、肉体的な病気であれば、神は薬を用いて癒すこともできますが、ここで言われている傷はそういう傷ではなく、罪から来ているものなので、人には癒すことができないのです。それは神にしかできないことです。罪を赦すことができるのは神にしかできないからです。
マルコ2章に、中風の人が癒されたことが書かれてありますね。人々が彼をイエスの下に連れて来たとき、イエスは何と言われましたか?イエスはその中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました(マルコ2:5)。イエスはなぜそのように言われたの-でしょうか?罪を赦すことができるのは神しかいないからです。神以外にだれも罪赦すことはできません。だからイエスは、彼らに罪が赦される信仰があるのを見て、そのように言われたのです。あなたを罪から救うことができるのは、あなたを永遠の滅びから救うことができるのは、イスラエルの神以外にはいません。イスラエルの救いイエス・キリスト以外にはいないのです。
使徒4章12節にはこうあります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
「この方」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。この方以外には、イスラエルの同盟国であろうと、イスラエルが慕った偶像であろうと、この世のあらゆる国家権力であろうと、いかなる富であろうと、あなたを救うことはできません。私たちが救われるべき名は、人間には与えられていなからです。イエス・キリストだけが救われるべき唯一の道、真理、いのちです。イエス・キリストを通してでなければ、だれ一人、父のみもとに行くことはできないのです。
いったいなぜ主はヤコブ、イスラエルを癒してくださるのでしょうか。17節後半をご覧ください。ここに「─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」とあります。それは彼らが「捨てられた女」、「尋ねる者のないシオン」と呼ばれたからです。どういうことですか?これは、彼らの絶望的な状況を見た者たちあざけって言ったことばです。確かに主はヤコブの罪のゆえに懲らしめを与えられますが、滅ぼし尽くすことはなさいません。異邦人たちが神の選びの民を見下しているのを見て、決して黙っておられることはないのです。彼らの傷を治し、打ち傷を癒され、立てあがらせてくださるのです。
それは私たちにも言えることです。私たちも自分の罪、咎のゆえに神から懲らしめを受けることがあるかもしれません。それは癒されがたく、時として絶望を感じることもあるでしょう。でも私たちの神はヤコブを見捨てることなく彼らの傷を治し、打ち傷を癒されたように、私たちの罪、咎を赦し、傷を癒してくださいます。あなたを救ってくださるのです。Ⅱコリント4章8~9節にこうある通りです。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
ある方はこれを、ノックダウンすることはあってもノックアウトすることはない、と言いました。まさにその通りです。何度もノックダウンすることはあってもノックアウトすることはありません。これがイエス・キリストを信じる者に与えられている約束です。神が私たちに立てておられる計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。最後は希望です。その約束をしっかり握りしめていなければなりません。私たちに求められているのは、この信仰です。絶望と思える中にあっても、真心から主に信頼し、パウロが持っていた確信を持ち続けていただきたいと思うのです。
Ⅱ.ヤコブの回復(18-22)
次に、18~22節をご覧ください。「18 ──【主】はこう言われる──見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。19 彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。20 その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。21 その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──【主】のことば──22 あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」」
ここにも、近い将来における預言と遠い未来における預言が二重の預言になって語られています。「見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に立て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。」とは、近い将来においてはバビロン捕囚からの解放のことであり、遠い未来においては、寄留者となって全世界に散らされているイスラエルの民が、約束の地に帰還するようになることを預言しています。
「ヤコブの天幕」とは、一時的な住まいのことです。バビロンでの彼らの生活は、まさに天幕生活でした。それは外国で仮設生活をしているようなもので、不自由さがありました。しかし、祖国に帰って自宅に住むようになります。やっぱり我が家はいいなあ、落ち着くなあということになるわけです。彼らは祖国に帰り、廃墟となった場所に都を建て直し、宮殿はその定められていた場所に建つようになります。人の数も増え、大いに繁栄するようになります。もし彼らを攻撃する者があれば、主がその者たちを罰するとあるように、そこには主の守りがあるのです。
これと同じことが私たちにも言えます。私たちも地上では旅人ですが、それがいつまでも続くことはありません。この地上では肉体の衰えはもちろん、自分がしたいことではなく、したくない悪を行ってしまうという不自由さ、生きづらさというものがあります。でもそれがいつまでも続くのではありません。私たちもやがてこの地上の幕屋を脱ぎ捨てて天の住まいに帰る時がやって来るのです。そこは永遠の住まいで、感謝の歌と、喜び笑う声が沸き上がるのです。それが「天国」です。
Ⅱコリント5章1~2節にはこうあります。「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。」
 これが天の住まいです。「私たちの地上の住まいである幕屋」とは、私たちの肉体のことを指しています。この地上の住まいである幕屋は、いつか朽ちて滅んでしまいます。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。外なる人、この地上の住まいである幕屋、肉体は日々衰えていきますが、神がくださる建物は、人手によらない永遠の住まいです。決して衰えることはありません。病気になることもなく、障害を負うこともなく、老いることもなく、罪を犯すこともない完全なからだをいただくのです。そのような住まいが天に用意してあるのです。そしていつか私たちはそこへ帰ることになります。この地上の天幕を脱ぎ捨てて神の住まいを着るのです。キリストと同じ姿に復活する。そしてキリストと共に住むようになるのです。そこには感謝の歌と、喜び笑う声が沸き上がります。そのような約束が与えられているのです。すばらしいですね。
そのような祝福に導いてくださるのはだれでしょうか。21節をご覧ください。「その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。─主のことば─」
これは、メシヤ預言です。イスラエルの民に約束された祝福は、メシヤを通して与えられます。「その支配者はその中からでる」とあるように、メシヤはイスラエルの中から出ると言われています。これは近未来の預言では、バビロン捕囚からの解放された後に現れる権力者であり、支配者のことで、具体的にはダビデ王家の「ゼルバベル」という総督と、彼をサポートする「大祭司ヨシュア」のことです。彼らのことについては、エズラ記やゼカリヤ書に記録されてあるので、後で読んで確認しておいてください。
でも遠い未来のことで言うと、これはダビデの子イエス・キリストのことを指しています。それはここに「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあることからもわかります。神に近づくことができるのは祭司と呼ばれる人たちですが、イエス・キリストは大祭司と呼ばれています。へブル4章15~16節をご覧ください。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
「私たちの大祭司」とは、イエス・キリストのことです。キリストは私たちに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じような試みを受けられました。それは私たちの弱さを知っておられるということです。ですから、私たちの最も身近な存在として、どんな時でも寄り添ってくださることができるのです。あなたの気持ちを誰よりも理解してくださる方、あなたよりももっと深い闇の中にまで下りて行ってくださったお方です。ですから、あなた以上に苦しまれた方、あなた以上に理不尽な扱いをされました。人から裏切られ、友からも裏切られました。全世界が彼の敵となりました。そして最後は十字架にかけられ死なれたのです。何一つ罪を犯さなかったのに。文字通り、イエスはいのちをかけてくださったのです。この方が私たちの大祭司としてとりなしてくださるので、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。「あなたのその罪も、過ちも、失敗も、すべてわたしが命をかけて贖った。だから、あなたは罪贖われた者として生きなさい。」と語りかけてくださる。ですから、神の裁きや懲らしめにおびえることなく、主によって救われた喜びと平安の中で生きることができるのです。
イスラエルの民は、このメシヤを通して神に立ち返るようになるのです。それが世の終わりに起こることです。22節、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」とある通りです。世の終わりに、キリストが再臨される時、イスラエルの民は、自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆き、主に立ち返るようになるのです。そのことがゼカリヤ12章10節と黙示録1章7節にこう預言されてあります。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12章10節)
「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」(黙示録1章7節)
キリストが再臨される時、全世界の人々がこの方を仰ぎ見るようになりますが、ユダヤ人にとっては、それは特に驚愕の出来事になります。それは、自分たちのために戦ってくださっている、自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったということを知るようになるからです。そして、彼らは胸をたたいて悲しみ、悔い改めて神に立ち返るようになります。イスラエルのすべての人たちがイエスを救い主として信じ受け入れるようになるのです。こうして、神の約束が成就することになります。その約束とは、「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)という約束です。それがこの「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束です。すばらしいですね。
これは、神と民との契約です。神を信じる者は、神の民となります。そして、神が私たちの個人的な神となってくださいます。これが神との関係です。これがキリスト教です。キリスト教とは神との関係なんです。この契約を結んだ者がクリスチャンです。この契約を結んだ者がイスラエルの民でした。でも、この契約は私たち人間の罪によって一方的に破棄されてしまいました。その結果、契約に違反して自らの身に呪いを招いてしまいました。
でも、神様は私たちを見捨てられませんでした。神様は最初からわかっていたのです。どんなに契約を結んでも裏切られるということを。でも神様は絶対に約束を破ることはなさいません。最後まで誠実に守られるのです。そしてその壊れた関係を修復するために、私たちに出来ないことをしてくださいました。それがイエス・キリストです。神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に送り、その契約違反の罪をこの方に負わせて、十字架につけてくださったのです。未だかつてだれも見たこともない、聞いたこともない驚くべき方法によって、神は人類に救いの道を与えてくださったのです。私たちはそのことによって救われたのです。
Ⅲ.神に立ち返れ(23-24)
ですから、第三のことは、神に立ち返れ、ということです。23~24節をご覧ください。「23 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。渦巻く暴風が悪者の頭上に荒れ狂う。24 【主】の燃える怒りは、去ることはない。主が心の思うところを行って、成し遂げるまでは。終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」
24節に「終わりの日に」とあるので、ここでも世の終わりの患難時代のことが語られていることがわかります。それは、キリストを拒絶する者に対する神の怒りが注がれる時です。ヤコブの苦難と呼ばれているものです。それがここでは「主のつむじ風」とか、「渦巻く暴風」ということばで表現されています。これらは、終末にイスラエルの民を襲う患難の激しさを描写しています。主の燃える怒りは、去ることはありません。主が心の思うことを行って、成し遂げるまでは。つまり、その暴風は途中で止むことなく、主が命じたことを最後まで成し遂げるということです。患難時代がいかに困難なものであるかがわかります。しかし、神の怒りの目的は、イスラエルを滅ぼすことではなく、イスラエルを悔い改めに導くことでした。それが、「終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」とあることです。そして、31章1節の、「そのとき、主のことば、わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」ということです。これは22節でも語られたことですが、ここでもう一度語られています。実はこの31章1節のことばは30章に含まれることばです。つまり、そのとき、イスラエルは神の懲らしめの意味を悟り、主に立ち返るようになるということです。つまり、神の怒りの目的が、イスラエルの霊的な回復であったことが明らかになるのです。それは預言者ホセアが預言していることでもあります。「1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:1-3)
このことから言えることは、私たちの人生において遭遇する患難、苦難は、危機であると同時に主に立ち返るチャンスの時でもあるということです。ですから、今もし苦難に会っている方がおられたら、それを通して神が何を語っておられるのかを聞かなければなりません。その苦難がチャンスに変えられるように祈らなければなりません。あなたが神に立ち返り神との関係の回復を望むなら、神はいくらでもやり直しの機会を与えてくださいます。回復を与えてくださるのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
その脱出の道こそ、悔い改めて、神に立ち返ることです。そうするなら、神はあなたとの関係を修復してくださり、燃える神の怒りから、あなたも救われるのです。今がそのとき、今が恵みの時、今が救いの日です。そのとき、あなたは神の怒りではなく、神の赦しと救いをいただき、あなたの傷も完全に癒されることになるのです。

だが、ヤコブはそこから救われる エレミヤ書30章1~11節だが、ヤコブはそこから救われる 

聖書箇所:エレミヤ書30章1~11節(エレミヤ書講解説教53回目)
タイトル:「だが、ヤコブはそこから救われる」
今日は、エレミヤ書30章からお話します。今日のメッセージのタイトルは、「だが、ヤコブはそこから救われる」です。7節から取りました。ここには「だが、彼はそこから救われる」とあります。「そこから」とは、その前に「それはヤコブには苦難の時」とあるように、苦難から救われるということです。ヤコブ、イスラエルは、その日大いなる苦難を受けますが、彼らはそこから救われるのです。それは私たちクリスチャンへの約束でもあります。私たちも患難を受けますが、そこから救われるのです。何という慰めに満ちた約束でしょうか。
前回もお話したように、エレミヤ書は29章から33章までが全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所となります。29章10節には、バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダの民、イスラエルを顧みて、いつくしみを施し、彼らを祖国に帰らせるとありましたが、この30章には、それが具体的にどのようになされるのかが語られます。
Ⅰ.その時代が来る(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 イスラエルの神、【主】はこう言われる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。3 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」」
主はエレミヤに、「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。」と言われました。書き記す内容は、主がエレミヤに語ったすべてのことばです。それはエレミヤ書全体を指しますが、特に30章と31章の内容となります。そして、その中心的な内容がこの3節のことばです。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」
ここでは、「見よ、その時代が来る」とか「そのとき」ということばが強調されています。新改訳第3版では、どちらも「その日」と訳しています。このように、聖書に「その時代」とか「その日」という表現がある時は、未来のことを預言する時に使われています。つまり、ここでは山が何重にも重なって見えるように、バビロン捕囚からの回復と同時に世の終わりに起こることが二重の預言として語られているのです。神はエレミヤに近い将来に起こることだけでなく、遠い未来に起こることも見せてくださいました。近い将来に起こることとは、70年間のバビロン捕囚からの解放のことです。彼らはバビロン捕囚から解放され、神がその父祖に与えた地に帰ることができるようになります。そればかりか、遠い未来においては、全世界に離散したイスラエルの民が祖国に帰還し、そこを所有するようになるというのです。
ここには「イスラエルとユダ」とあります。当時イスラエルは統一国家ではなく、北と南に分かれていました。北王国イスラエルと南王国ユダです。この時、北王国イスラエルは既にアッシリヤ帝国によって滅ぼされていました。B.C.722年のことです。それで北王国イスラエルの民はアッシリヤの捕囚となったり、周辺の国々に避難して行きました。いわゆる離散の民となったのです。これを何というかというと「ディアスポラ」と言います。「離散の民」です。その後、バビロンという新興国が起こりアッシリヤ帝国を呑み込むと、今度はそのバビロンが南王国ユダを滅ぼしました。しかし、ユダの人たちはバビロン捕囚となっても70年後には必ず祖国に帰れると預言されていて、それがB.C.539年に実現します。しかし、北イスラエルの民はアッシリヤによって滅ぼされて以来、世界中に散らされたままになっていますが、その北イスラエルの民も祖国に帰るようになるというのです。
果たして、それが実現することになります。いつですか?ここには「その日」とあります。それは驚くことなかれ、今私たちが生きているこの時代に起こったのです。1948年5月14日に、イスラエルは国連によって独立国家として認められたのです。それは1900年ぶりの奇跡でした。A.D.70年にローマ帝国の属国となっていたイスラエルは、ローマの激しい迫害によって国を失うと、世界中に散らされて行きました。それで北イスラエルだけでなく南ユダも離散の民となるのです。しかし、1800年代後半頃から世界中に離散していたイスラエルの民が急速に戻り始めると、これをシオニズム運動と言いますが、第一次世界大戦でトルコが負けイギリスの統治下に置かれ、第二次世界大戦を経て奇跡的に国として再興を果たすのです。信じられないことが起こりました。1900年の時空を超えて、神は再びイスラエルとユダを祖国に帰らせたのです。それは世界中の誰もが目を疑うような出来事でした。1900年もの間世界中に散らされていた民族が、再び祖国を取り戻したというような話など聞いたことがありません。でもそれが実際に起こったのです。それはどういうことかというと、今は世の終わりの時でもあるということです。
マタイ24章には、世の終わりにはどのようなことが起こるのかその前兆となることを、イエスが弟子たちに話されましたが、世の終わりになると、戦争や戦争のうわさを聞くようになると言われました。飢饉と地震が起こります。偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。もうこれだけでも、現代が世の終わりに限りなく近いことがわかります。でも、イエスは、このようなことが起こってもうろたえないようにしなさいと言われました。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではないからです。世の終わりの前には世界中に散らされた選びの民が再び集められるようになるからです。
ですから、イエスはこう言われたのです。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24:31)
「選びの民」とはイスラエルの民のことです。世の終わりになると、神は選びの民であるイスラエルを集められます。これはエレミヤ書29章と30章で預言されていることです。そのことがここで預言されているのです。ですから、32節にこう言われているのです。「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出てくると、夏が近いことがわかります。」(マタイ24:32)
いちじくの木は、イスラエルのシンボルです。そのいちじくの木の枝がやわらかくなって葉が出てくるということは、イスラエルが復興するということです。そのようになると夏が近いことがわかります。夏とは、いちじくの実を収穫する時、すなわち、イエスが再び来られる時のことです。その前にイスラエルの民が再び集められるのです。これらのことをすべて見たら、人の子が戸口まで近いことを知りなさいと、言われたのです。それが起こったのです。1948年に。ということは、もうイエスの再臨、世の終わりがすぐそこまで来ているということです。世の終わりのカウントダウンが始まったのです。私たちはそういう時代に生きているのです。
でも、まだイエスは再臨していないじゃないですか。あれからもう70年が経っていますよ。それなのにそれが実現してないのは、聖書には誤りがあるということですか?あるいは、聖書は信頼に値しない書物であるということですか?そうではありません。本来であれば、もういつ来てもいいのです。ただ、そうされなかったというだけです。それは一重に神が忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。もしその時にイエスが再臨されすべての悪を一掃されたとしたらどうでしょう。ここにいる多くの人たちは救われなかったでしょう。でも神はひとりも滅びることを望んでおられないので、未だに時を延ばしておられるのです。しかし、それはいつまでも続くものではありません。それはもうギリギリのところまで来ています。それがまだ来ていないというだけのことです。もうすぐ起こります。神のことばはすべて必ず実現するからです。神の民イスラエルとユダは回復し、父祖たちに与えた地に帰り、それを所有するようになるのです。今はどんなに荒れ果てていても、必ず回復するのです。
これは慰めではないでしょうか。それが私たちにも与えられている約束です。神が私たちに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。最後は希望なのです。必ず回復の時が来ます。この約束を信じて、神とそのことばに希望を置く者でありたいと思います。
Ⅱ.ヤコブには苦難の時(4-7a)
次に、4~7a節をご覧ください。「4 【主】がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。5 まことに【主】はこう言われる。「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ。平安がない』と。6 さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。7 わざわいだ。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。」
ここには、その時どんなことが起こるかが書かれてあります。それが「ヤコブの苦難」です。ここも二重の預言になっています。「その日」とか「大いなる日」とあるからです。聖書においてこのことばが使われる時は、例外なしに終末時代を指しています。これは近い将来においてはバビロン捕囚によって成就しますが、遠い未来においては世の終わりの患難時代に起こることを指しています。
その日には大いなる患難が襲ってきます。5節には「恐れてわななく声」とか「恐怖だ。平安がない声」とありますが、それはまさにそのことを表現しています。男に子が産めるはずがないのに「男に子が産めるか、尋ねてみよ」とあるのは、男が産婦のように産みの苦しみをするようになるということです。私は痛風の痛みしか経験したことがありませんが、人間にとって最も激しい痛みは子どもを出産する時の痛み、産みの苦しみだそうです。その日には、男も激痛で腰に手を当て、顔が青ざめるようになります。実にその日は大いなる日で、他に比べようもない日なのです。前代未聞の日です。それはバビロン捕囚の比どころではありません。もっと恐ろしい、もっと激しい苦難が襲うようになるのです。それが世の終わりに起こる患難時代です。それがここでは「ヤコブには苦難の時」と言われています。ヤコブとはイスラエルのことです。イスラエルは世の終わりに激しい患難時代を通るようになるということです。それはバビロン捕囚のように苦痛が伴うものですが、それとも比較できないほどの苦痛、まさに陣痛のように激しい痛みが伴うのです。ゼカリヤ書によると、「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」(ゼカリヤ13:8)と言われています。これは反キリストの迫害によって世界中のユダヤ人の三分の二が死に絶えるということです。第二次世界大戦時に、あのヒトラーによって約600万人のユダヤ人が虐殺されましたが、それは全世界のユダヤ人の三分の一でした。ですから、それ以上の患難が襲うということです。私たちはあのホロコーストの悲劇を知っています。あれほど恐ろしいことがあるかと思うほど恐ろしいことですが、世の終わりにもたらされる患難はそれ以上のもの、もっと恐ろしい患難です。それがユダヤ人を襲うことになるのです。これが黙示録6~19章に描かれている内容です。黙示録6章16~17節には、それがあまりにもひどい患難なので、地の王たち、高官たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞窟と山の岩間に身を隠し、山々や岩に向かってこう叫ぶほどです。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」
このことについては、イエスご自身も語られました。マタイ24章15~21節をご覧ください。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」
これがエレミヤ書で言われている「ヤコブの苦難」です。それはこれまで経験したことがないような、また今後も決して経験しないような大きな苦難です。ユダヤ人たちが反キリストによって迫害されるからです。なぜ彼らが迫害されるのかというと、ユダヤ人は反キリストを絶対に拝まないからです。反キリストは自分を現人神であると宣言するのですが、ユダヤ人は真の神以外を拝まないので迫害されるのです。ここに「荒らす忌むべきものが聖なるところに立っているのを見たら」とありますが、それはこの7年間の患難時代のちょうど半分、1260日、3年半が経った時のことです。反キリストはユダヤ人のためにエルサレムに神殿を建てるので、ユダヤ人たちはすっかり騙されて彼をメシヤだと信じるのですが、3年半が経ったとき彼は神殿の最も聖なるところに立ち、「我こそ神である」と宣言するようになります。その時になってユダヤ人たちは自分たちが騙されたことに気付くのですが時すでに遅しで、激しい迫害を受けるようになるのです。それがこのヤコブには苦難の時のことです。
その時には山に逃げるようにと言われています。この「山」とは、旧約聖書では「ボツラ」と呼ばれている山で、現在の「ペトラ」という町のことだと考えられています。ここは今、世界遺産になっています。岩だらけで何もない場所ですが、「逃れの町」としての役割を担ってきたところです。そこは岩だらけで、難攻不落の天然の要塞となっています。イスラエルの民はそこでかくまわれることになります。その間に反キリストは逃げないユダヤ人を追い回し、迫害して虐殺するのです。それが世界のユダヤ人の全人口の三分の二に相当するのです。他の三分の一は山に逃れて助かります。ここに「逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」とあるのは、冬は雨期なのでぬかるんで歩けないからです。また、安息日というのは、旅行が許されていないので、歩ける距離が律法で決まっていたからです。
この患難時代は、それほど苦しい時です。それはまさに出産の時の激しい痛み、いやそれ以上の苦痛です。ヤコブ、イスラエルはそこを通るようになります。しかし、イエス・キリストを信じる者はこの患難を受けることはありません。イエス・キリストが私たちの岩であり、隠れ場であり、避け所であり、砦、大盾となって、私たちを匿ってくだるからです。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)とある通りです。
主はその前に再臨され、ご自身を信じる者を引き上げてくださいます。これを「携挙」と言います。主が天から下って来られます。そしてまず、キリストにあって死んだ人が墓からよみがえり、次に、生き残っているクリスチャンが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがⅡテサロニケ4章16~17節で言われていることです。もし引き上げられなければ大変なことになります。それはあなたが重い思いからではありません。あなたが主イエスを信じなかったからです。これはもう死にたいと思うくらい苦しい患難です。でもこの患難時代の前に携挙が起こり、私たちはそこから救われるのです。これがⅠテサロニケ5章9節で約束されていることです。ご一緒に読みましょう。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」
神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださいました。この御怒りとは、この患難時代にもたらされる苦難のことです。私たちは主イエス・キリストによって、神の御怒りから救われるように定められているのです。ですから、恐れることはありません。
Ⅲ.だが、彼はそこから救われる(7b-11)
第三に、だが、彼はそこから救われます。7節後半~11節をご覧ください。「7bだが、彼はそこから救われる。8 その日になると──万軍の【主】のことば──わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。10 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。11 わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」」
だが、ヤコブには希望があります。それはヤコブには苦難の時ですが、彼はそこから救われることになるからです。その様子が8節以降に語られています。「その日になると─万軍の【主】のことば─わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。」
その日、主は反キリストをさばき、ヤコブを解放されます。他国人が再び彼らを奴隷にすることはありません。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えるようになります(9)これはどういうことかというと、千年王国で復活したダビデとともにイスラエルを統治するようになるということです。
10節をご覧ください。ヤコブは、散らされた先の国々から約束の地に帰還し、そこで安らかに住まうようになります。ヤコブ、イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいますが、滅ぼし尽くされることはありません。その罪のゆえに大きな痛みや傷、苦しみを味わったあとには、赦しと救いを用意しておられるのです。なぜ?なぜなら、神がそのように約束してくださったからです。
11節をご覧ください。ここには、「わたしがあなたとともにいて─主のことば─あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」とあります。これもすばらしい約束です。確かに、ヤコブは主に背き自分勝手な道に歩んだので、主は決して彼らを罰せずにおくことはしませんが、だからと言って滅ぼし尽くすことはありません。それはヤコブには苦難の時ですが、その苦難は母鳥が心地よい巣をわざと壊し、雛鳥たちを何もない空間に落とすことによって雛鳥が高く飛ぶことを学ぶことができるようにするように、ご自分の民を懲らしめるために与えるのです。
ですから、彼らが滅ぼし尽くされることはありません。神はこの約束に基づいて、大きな痛みや苦しみを味わった後に、赦しと救いを与えてくださるのです。神は約束を守られる方です。もしイスラエルが滅びたり、国が完全に失われることがあるとしたら、それは約束違反をしたことになりますが、神はそういう方ではありません。神はご自身の約束に基づいて、イスラエルを滅ぼし尽くすことは絶対になさらないのです。逆に、イスラエルに敵対する者は滅ぼし尽くされることになります。
そして世の終わりに、これが成就することになります。ゼカリヤ12章10節を開いてください。ここには、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」とあります。これはどういうことかというと、ヤコブの苦難を通して悔い改めたイスラエルが、信仰を持って再臨のイエスを迎えるようになるということです。
「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)
だから、イスラエルの平和のために祈らなければなりません。イスラエルの救いがイエスの再臨の条件となっているからです。
だれが、こんなことを考えることができるでしょうか。主のご計画は、人間の思いをはるかに超えています。イスラエルは自分たちの罪ゆえに神から懲らしめを受けますが、それはヤコブには苦難の時です。でも、彼はそこから救われます。それは私たちも同じです。私たちも神に背くことで神から懲らしめを受けますが、その懲らしめを通して神に立ち返り、悔い改めてイエス・キリストを受け入れることによって、そこから救われることになります。
ですから、恐れないでください。おののかないでください。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。患難の先にある希望を見上げ、主イエスを信じ、主とともに歩む決断をしようではありませんか。あなたの上に、主が恵みと哀願の霊を注いでくださいますように。その霊によって主を仰ぎ見て、主が与えておられる約束を受け取ることができますように。

驚くべき神の計画 エレミヤ書29章1~14節驚くべき神の計画 


聖書箇所:エレミヤ書29章1~14節(エレミヤ書講解説教52回目)
タイトル:「驚くべき神の計画」
今日は、エレミヤ書29章からお話します。ここは、まさにエレミヤ書の中心的なメッセージです。心臓部となる箇所でもあります。ここには、世界中のクリスチャンから愛されている聖句も出てきます。29章11節のみことばです。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
これは、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査で、世界で二番目に人気のある聖書の一節に選ばれた聖句です。ちみに、一番人気があったのは、新約聖書のヨハネによる福音書3章16節でした。それほどよく知られている、もっとも愛されている聖句ですが、前後の文脈から外れて理解されていることが多いのも事実です。今日は、この箇所から「驚くべき神の計画」について、ご一緒に見ていきたいと思います。
Ⅰ.その町のために祈れ(1-9)
まず、1~9節をご覧ください。1~3節をお読みします。「1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。2 この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。」
これは、エルサレムからバビロンに捕囚の民としては引いて行かれたユダの民に対して、エレミヤが書き送った手紙です。2節に、この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、とあるように、第二回目のバビロン捕囚が行われた後に書かれたものです。バビロン捕囚は全部で3回行われました。第一回目がB.C605年、第二回目がB.C597年、第三回目がB.C.586年です。ユダの王エコンヤが捕囚の民として連れて行かれたのは第二回目の時です。この第二次バビロン捕囚が行われたB.C.597年頃に、そこにいた捕囚の民に宛ててエレミヤが手紙を書き送ったのです。この時エレミヤはエルサレムに留まっていました。彼は直接バビロンに行って神からのメッセージを語ることはでませんでしたが、手紙という方法をもって神のメッセージを伝えようとしたのです。このように、直接神のことばを語ることができなくても、手紙とかメールといった間接的な方法を用いて語ることができます。現代はメールという手段もありますので大変便利ですね。神様はいろいろな媒体を用いてご自身のみことばを語ってくださいます。離れているから何もできないというのではなくて、どんな方法でも伝えることができるのです。どんな方法でもいいので、私たちも神からメッセージを託された者として、それをしっかりと取り次いでいく必要があります。
さて、エレミヤがバビロンに捕囚の民に書き送った手紙の内容はどのようなものだったでしょうか。4~7節をご覧ください。「4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』」
どういうことでしょうか?この時エレミヤは、バビロンにいた捕囚の民を憂いでいました。なぜなら、偽預言者が横行していたからです。そこには本物の預言者もいましたが、それ以上に偽預言者が多くいました。彼らの言うことはすべて甘いことばでした。その典型が28章に出て来たハナンヤです。彼は何と言っていましたか?彼はバビロンに連れて行かれたユダの民は2年のうちに戻ってくると言いました。ユダの民ばかりじゃない、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから奪い取ってバビロンに運んだ主の宮のすべての器も、2年のうちにエルサレムに戻ってくるといったのです。でも、それは事実ではありませんでした。エレミヤが語ったように、それは70年が経たないと帰って来ることはありません。70年後に神は彼らを顧みて、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから奪って行ったすべてのものが戻されることになります。2年と70年では大分開きがあります。70年と聞くと、人々は失望するでしょう。あまりにも長すぎます。だからハナンヤは人々が喜ぶように、そして希望を持てるように2年と言ったのですが、それは事実ではありませんでした。偽りでした。しかし、そのような偽預言者のことばに魅了され騙されて淡い希望を抱いている人たちが、バビロン捕囚の民の中にいたのです。そんな彼らのことを憂いで、エレミヤはこの手紙を書いたのです。なぜなら、そうした偽預言者の甘いことばを信じた人たちの中には、そのことばの影響を受けてライフスタイルにも影響を受けていたからです。彼らは、2年で帰れるんだったら別に仕事なんてしなくてもいいんじゃないか、定職につく必要なんてない。家のことなんてどうでもいい。だって2年のうちに帰れるんだから。その間、適当に生活していればいい。そう思っていたのです。非聖書的なことばや耳障りのいいことばかり聞いていると、それはその人のライフスタイルにまで影響を及ぼすことになります。それは、ただの教えでは済まないのです。その教えの影響は計り知れません。その人の生活にも影響が及ぶことになるのです。
ですからエレミヤは、ここでエルサレムからバビロンへ引いて行かれたすべての捕囚の民にこう言っているのです。「家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。」(5-6)
  70年は祖国に帰れないんだから、70年間何もしないで生きていくことはできない。だから、少なくとも定職についてある程度安定した生活を心がけなければならない。定住することも考えなければなりません。結婚して家庭を築き、エルサレムに帰還してから後のことに備えるようにと。つまり、地に足を付けて生活しなさい、ということです。浮足立っていてはいけません。夢見る者たちのことばに騙されてはいけません。落ち着いて生活しなさい。
あるいは、70年ということを聞いて、中には意気消沈している人もいたでしょう。がっかりして、もうだめだ、自分はバビロンで死ななければならない。もう何も希望もない。そういう人たちには、この後のところに出てきますが、そうじゃない、あなたがたにはすばらしい神のご計画がある。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだ、と言って、彼らを励まそうとしたのです。
4節と7節をご覧ください。ここには「わたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」とあります。どういうことですか?これは、つまりバビロン捕囚は、神ご自身がなされたことであるということです。人間的に考えると、それはバビロンの王ネブカドネツァルがしたことですが、神の目から見るとそうではありません。それは「わたしが引いて行かせた」こと、すなわち、神が引いて行かせたことなのです。誰を中心に物事を見ていくのか、今の状況を捉えていくのかはとても重要なことです。人間の目で見るなら失望してしまいます。でも、すべてを支配しておられる神の目を通してみるなら、そこに神様の特別な計画があることを知り励まされます。確かに今の状況は神の警告を無視した結果かもしれない。でもたとえそうであっても、神は私たちを見捨てるお方ではなく、いつまでも共におられる方です。蒔いた種は刈り取らなければなりませんが、しかし、そうした作業の中にも神は共にいて下さり驚くべきことをしてくださるのです。そこには驚くべき神の計画があるのです。まさにバビロン捕囚という出来事は、驚くべき神の深い計画によるものだったのです。エレミヤは、バビロンの捕囚になった民に対してそれを明かそうとしているのです。言うならば、これは彼らを滅ぼすための刑罰ではなく、むしろ、彼らを鍛え上げ、もっと良いものに帰るための神の懲らしめ、訓練なのだと。誰も自分の子どもの成長を願わない親はいません。これは父が子を思うからこその訓練なのであって、それがバビロン捕囚だったのです。ですから、これは神が深い意図をもって許された出来事であって、それが「わたしが引いて行かせた」ということです。
ですから、あなたはそうした偽預言者たちのことばにだまされて、浮足立った生活をしてはいけない。夢見る者になったりしないで、むしろ、その地にしっかりと足をつけ、落ち着いて生活しなければなりません。定職を持ち、家族を形成して、家を建て、バビロンでの生活に定着しなければなりません。いや、それどころか、7節にあるように、主が引いて行ったそのバビロンの町の平安を求め、その町のために主に祈らなければなりません。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるからです。いや、とても無理です。バビロンで精一杯生きろというのならわかります。でも、バビロンの祝福を求めて祈ることなどできません。だれが自分に敵対する暴虐なネブカドネツァルのために祈ることができるでしょうか。とても無理です。あなたはそう思うでしょう。
この「平和」ということばは、原語では「シャローム」です。「シャローム」という語は、何の欠けもない理想的な状態を意味しています。エレミヤはバビロンに引いて行かれた民に対して、あなたがたの存在がバビロンの祝福となるように、あなたがたがバビロンに引いて行かれたから、バビロンは以前にも増して繁栄したと、もっと良い国になったと思ってもらえるように祈りなさい、と言ったのです。
皆さん、これが神の計画です。普通は反対でしょう。そんな酷いことをした人たちが呪われるように祈れというところでしょうが、神は、そんなバビロンの平安を求め、その町の祝福を祈れと言ったのです。なぜ?それは神によってもたられた事だから。神の計画によることですから。その町の平安を祈ることによって、あなたが平安を得ることになるからです。
Ⅰテモテ2章1~4節をご覧ください。ここにはこうあります。「1 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。2 それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。3 そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」
ここには、すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために祈り、とりなし、感謝をささげるようにと言われています。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活をするためです。そうすることが、私たちの平安のためだと言われています。このような祈りは、神の前に良いことであり、正しいことです。なぜなら、神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです。そのように祈ることによって、すべての人が救われるという神のみこころが成し遂げられることになるのです。つまり、ユダの民がバビロンに引いて行かれたのは、そのことによってバビロンに平和がもたらされるためだったのです。そのためには適当に生きていてはいけません。ユダの民が捕囚の民として自分たちのために祈ってくれるから、自分たちは何の欠けもない完全な状態、繁栄が与えられているんだと納得できるような生き様をしなければなりません。究極的には、その平安が自分たちのところに返ってくることになるからです。
これは私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはこの地上では旅人、寄留者にすぎません。私たちもここを祖国としてはいますが、この地の繁栄のために祈るべきです。クリスチャンがいるから、この町は繁栄している。クリスチャンがここにいるから、この家庭にいるから、この職場に、このクラスに、この地域にいるから祝福されているという存在にならなければならないのです。イエス様は、「あなたがたは地の塩です」(マタイ5:13)と言われました。また、「あなたがたは世の光です」(マタイ5:14)とも言われました。クリスチャンがいるからこの世は明るいと言われるようにならなければなりません。クリスチャンがいなかったらこの世は真っ暗闇です。クリスチャンがいるからこの家は、この職場は、この地域は明るいと言われるようにならなければならないのです。これが伝道です。伝道とは、まさに私たちの生き様なのです。福音を伝えることも大切なことです。しかし、それ以上に私たちの生き方そのものが証となるのです。これがあれば、遅かれ早かれあなたの家族、友人、地域の人たちは、こぞって同じ信仰を持ちたいと思うようになるでしょう。これがユダの民がバビロンに引いて行かれた大きな理由の一つです。これが神の驚くべき計画だったのです。これが、あなたがこの世に置かれている神の計画なのです。すばらしいですね。
Ⅱ.あなたのために立てている神の計画(10-11)
次に、10節と11節をご覧ください。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
いよいよ、中心的なみことばに来ました。10節には「あなたがたを顧み」とありますが、これは「訪れる」という意味です。また、「いつくしみの約束を果たして」とは、「約束のことばを実現して」という意味です。すなわち、バビロン捕囚の民に対して、神の時が来たら、神ご自身が訪れてくださり、神が与えた約束のことばを実現してくださるということです。その約束とは、この場所に帰らせる、ということです。祖国に帰れるのです。神の家で再び礼拝することができるようになります。しかし、それは自分たちのタイミングによるのではありません。それは神のタイミングによります。神のタイミングで、神の力と神の方法によって実現してくださるのです。それは「バビロンに七十年が満ちるころ」です。それが68年なのか、71年なのかはわかりません。でも、大体70年が満ちるころです。それは既に25章11節でも語られていました。この70年とは、いつからいつまでなのかははっきりわかりません。ある人は、ヨシヤ王が死んだ.C.609年からペルシャの王キュロスによってエルサレムに帰還してもいいという勅令が出されたB.C.539年までの70年間だと言い、ある人は、最後にバビロン捕囚が行われエルサレムの神殿が崩壊したB.C.586年から、神殿が再建されたB.C.516年までの70年間だという人がいますが、いずれにせよ、かなりの年月になります。仮に、539年までだとすると、この時はB.C.597年ですから、この時から58年後となります。仮に516年だとすれば82年後となります。ここに58歳の方がおられますか。82歳の方はどうでしょう。その人の一生涯分の年月を待たなければならないのです。それでも、58年後には、あるいは82年後には、完全に神の約束が実現することになるのです。エルサレムに戻ることができる。神殿も再建されるのです。神の約束は、たとえ時間がかかっても成就するのです。そのことをしっかりと受け止めていなければなりません。焦ってはいけません。神のタイミングがあります。自分のタイミングと神のタイミングは違います。自分のタイミングとか自分の時ほどあてにならないものはありません。なぜなら、私たちはあまりにも無知だからです。私たちの時というのはせいぜい有限な時間の中での時にすぎませんが、神の時は時間のない世界、無限な世界の中での時です。過去とか、現在とか、未来とか、全く関係ありません。その永遠の時の中で語られていることですから、私たちの知恵をはるかに超えているのです。その神のタイミングだから、ベストであるに決まっているのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とある通りです。私たちの計るタイミングは、私たちがベストだと思っているだけで、それは有限な世界でのちっぽけな概念の中でしか思いつかないことですが、神が計るタイミングは、無限な世界での神の知恵に基づいたものですから、完全であり、ベストなのです。ですから、どんなに時間がかかろうとも、自分の時とかけ離れたとしても、それでも神のなさることはベストであるということを信じなければなりません。神は、時にかなって美しいということを信じなければならないのです。
11節をご覧ください。ですから、神はこう言われるのです。「わたし自身、あなたがたのために建てている計画をよく知っている。」
これは、私たちが立てている計画ではなく、神が私たちのために立てておられる計画です。私たちは自分のために立てている計画を知っていると思っていますが、実際には何も知っていません。だから、計画倒れということが起こってくるのです。「ご利用は計画的に」なんて言われるのです。でも、神は違います。神は私たちのために立てている計画をよく知っておられます。その計画とは何でしょうか。その後のところをご一緒に読みましょう。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
皆さん、これが神の計画です。神の計画は平安を与える計画、シャローム計画です。将来と希望を与える計画です。「平安」とは、何の欠けもない満ち足りた状態と言いましたが、ただ平安ではありません。そこには繁栄も含まれています。健康も、祝福も、成功も含まれた理想的な状態です。そういう計画をお持ちなのです。でも忘れてはならないのは、これは神の目におけるシャロームであるということです。私たちの目におけるシャロームではありません。神の目におけるシャローム計画なのです。それは何ですか?ピリピ4章6~7節をご覧ください。「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
ここに「すべての理解を超えた神の平安」とあります。それは、人のすべての考えにまさる神の平安なのです。神の平安は、私たちのすべての考えにまさるものです。それは想像を絶するもの、私たちの頭では到底想像できないような驚くべき計画です。それが神のシャローム計画です。
ここではそれは何を指しているのかというと、何とそれはバビロン捕囚のことです。神が彼らのために立てておられた平安の計画とは、彼らがバビロンに引いて行かれ、70年間バビロンの奴隷として生きるということです。何でそれが平安を与える計画なんですか?そんなのわさわいではないですか。だからここに、但し書きがあるんです。「それはわざわいではなく」と。それはわざわいではないのです。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのです。なぜこれが平安を与える計画なのでしょうか?そのことによって、神はあなたに真の平安を与えてくださるからです。それは私たちにはわざわいにしか見えませんが、神はそのわざわいにしか見えないような事を通して、将来と希望を与えてくださるのです。
この「将来」という語は、「終わりに」とか「最後に」、「~後に」という意味の語です。つまり、最後は希望だということです。神があなたのために立てている計画の最後は希望なのです。絶望ではなく希望。神に従う者の最後は、途中経過はどうであれ、最後は希望なのです。途中経過は失望のようでも終わってみれば、それが希望だったということがわかります。なぜなら、神はいつも私たちの益のために働いておられるからです。
ローマ8章28~29節をご覧ください。ここには、「28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」
とあります。これも有名なみことばですが、ここにも「知っている」とあります。私たちは神のご計画については知らないのに、ここには「知っている」とあります。何を知っているのでしょうか?神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということです。そのことは知っているのです。最後は益です。これは私もあなたも知っていることです。バビロン捕囚も含めて、神はあなたの苦しみも、あなたの悲しみも、あなたの辛さも、全部ひっくるめて益としてくださるのです。そのことは知っているのです。では、その益とは何でしょうか?
29節には「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。」とあります。つまり、御子と同じ姿に変えてくださるということです。これが益です。これが究極的な益です。究極的な益は、那須塩原駅ではありません。究極的な益は、私たちが神の似姿に変えられるということです。このことは私たちも知っているのです。バビロン捕囚も全く同じです。神がご自身の計画をもって彼らを召されました。それはバビロンから逃れるということではなく、またバビロンと戦うということでもなく、バビロンの軍門に下るということ、バビロン捕囚に従うということです。それで彼らは苦しめられ、卑しめられ、傷つけられますが、その中で彼らは砕かれ、練られ、すべての不純物を取り除かれて、神の民として、神の国に入るためにふさわしい者となって、最後にはバビロンを出て行くことになるのです。そのことを通して、神は彼らを御国の民としてふさわしい者として整えてくださったのです。ほら、益でしょ。これは彼らにとって益だったのです。
それは私たちも同じです。ジョン・バニヤンは「天路歴程」という本を書きましたが、私たちも天の御国に着くまでには実に様々なことがありますが、最後には御子と同じ姿となってこの世というバビロンを出て行くことになります。そして、神が約束された地、天の御国へと引き上げられていくのです。それが私たちのバビロン捕囚です。すべてのことはこのためです。それがどのように機能するのか私たちにはわかりません。このバビロン捕囚のような出来事が、このような悲劇、損失、状況が、本当に私をキリストの似姿に変えてくれるものになるのかどうかわかりませんが、わかっていることは、神は知っておられるということです。神はご自身の考えで、ご自分の方法で、私たちをご自分の御子と同じ姿に変えてくださるのです。だから、神があなたのために立てている計画というのは良いことばかりでなく、辛いなぁ、苦しいなあと思うようなことも含めてすべてです。それは私たちにはわかりません。でも、一つだけわかることは、神を愛する人々、すなわち、神のご計画のために召されたすべての人たちのために、神は働いて益としてくださるということです。そのことを通して、最後には将来と希望です。御子と同じ姿に変えられるようになるからです。それがこのみことばが語っている意味です。
よく、人生は刺繍のようなものだ、と言われます。刺繍は、表と裏を見ると全然違います。裏を見ればほころびだらけです。何の絵柄が描かれているのか全然わかりません。検討もつきません。まるでカオスです。そこにはいろいろな色の糸があるだけで、ただごちゃごちゃしているだけのように見えます。しかし、裏面を表にしてみるとどうでしょうか。そこには理路整然とした美しい絵柄が浮かび上がっています。これが将来、私たちに約束されている表の面です。今は裏面しか見ていないので理解できませんが、でも苦難の裏側には神の美しい栄光に満ちた計画が既に織り込まれているのです。
ですから、裏面ばかりを見て文句ばかり言うのではなく、その表の方を絶えず意識しなければなりません。どんな絵柄が浮かび上がってくるのかを楽しみに、主がどんなことをなそうとしておられるのか、どんな結果をもたらしてくださるのかを楽しみにして、今置かれている状況をわざわいとしてではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだと受け止めなければならないのです。
昨年の修養会でご奉仕してくださった米沢の千田先生は、あの3.11が起こったとき、だれもが何と悲惨なことが起こったのか、もう神も仏もないと落ち込んでいたとき、私にこう言われました。「もっと良くなる。」私は一瞬耳を疑いながらお話を聞いていたら、先生はこう言われました。「だって、聖書の中で神様は、ご自身を愛する者のために、すべてのことを働かせて益としてくださる、と言っておられるんだから、これも益としてくださるはずだ。」と。先生は、この御言葉を文字通り信仰によって受け止めておられたんですね。今目の前で起こっている出来事はすべて神が私たちの益のために成しておられること。たとえそれが辛く苦しいこと、悲しいことであっても、それさえも神は益に変えてくださる。そのことを通して、私たちの私たちを御子と同じ姿に変えてくださるという神の約束からすれば、本当にその通りなのです。私たちの人生の途中ではわからないことばかりですが、でも終わってみれば希望です。それが私たちの人生です。終わってみないとわかりません。私たちが完全に御子と同じ姿に変えられるとしたら、それは本当にすばらしい希望ではないでしょうか。
だからクリスチャンはみんなワクワクしているのです。その途中、辛いところを通っていてもワクワクしています。それは終わりの時に用意されている救いをいただくということを知っているからです。その時には神の御子と同じ姿に完全に変えられるということを知っているからです。この世の人たちはそうではありません。自分の置かれた状況を見て一喜一憂しています。なぜなら、終わりを知らないからです。今がよくても終わりに何があるか知りません。だから不安になってしまうわけですが、クリスチャンは違います。今しばらくの間、様々な試練の中で苦しみ悲しまなければなりませんが、喜んでいます。なぜなら、天に蓄えられた生ける望み、将来と希望を持つ者とされたことを知っているからです。そんなクリスチャンをみたらどうでしょう。この世はバビロンの象徴だと言いましたが、バビロンの人たちはみんなびっくりするのではないでしょうか。なんだこの人たちは。祖国を失い、外国の支配を受けて惨めな生活を強いられているというのに、なんでこんなに輝いているんだ・・・と。その秘訣を知りたい。自分もそうなりたいと。神の計画は、本当にすばらしい、驚くような計画なのです。私たちはその驚くべき神の計画の中を生きているのです。
Ⅲ.神を呼び求めよ(12-14)
では、バビロンにいる70年間はじっと我慢していればいいんですか?そうではありません。それは人生の訓練の時ですから、そのような時こそ神を捜し求めなければなりません。12~14節をご覧ください。「12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」
教会がないから祈れないということはありません。エルサレムから一千キロも離れたバビロンで、たとえ神殿がなくても、たとえ悲劇の真只中にあっても、たとえ苦難の真最中においても、そこで神を呼び求めよ、というのです。そうすれば、あなたはわたしを見つけることができます。そして、やがて神の不思議を見るようになる、というのです。具体的には、あなたが引かれて行った先から元の場所へ帰らせるのです。夢も希望もないんじゃない。あなたは元の場所に戻るから。神殿までも新しくなるという未来があるんだから、がっかりしないで、遠く離れた場所で祈れ。神様との関係をしっかり築きなさい、というのです。
米国クリスチャン・ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーが、「光の注がれる場所」という自伝を書いています。これは自らの半生を回想したものですが、「痛むとき、神はどこにいるのか」「祈りは本当に聞かれるのか」という問いかけを持つにいたった理由が明かされているのです。彼の半生は壮絶なものでした。記憶にない父親の死の秘密、過剰なまでの母親の期待、トレーラーハウスでの貧しい生活、白人至上主義に立つ教会とバイブルカレッジ……と。そうした状況をどのように乗り越え、心の癒やしをたどってきたのか。それは、この場所に光が注がれていると信じることによってです。
それはこの捕囚の民も同じでした。遠く離れたエルサレムから一線キロも離れたこの場所にも光が注がれていると信じることができたからこそ、これが彼らに与えられている神の深いご計画だと信じることができたからこそ、彼らは耐えることができたのです。
それは私たちも同じです。あなたにも神の光が注がれています。神はあなたのために最善の計画を持っておられるのです。それはわざわいではありません。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それによってあなたは揺るぎない信仰を築くことができます。そういう経験がなかったら、あなたはこういう信仰にはならなかったでしょう。ですから、これが神の計画であると信じて、浮足立つのではなく、夢見る者には気を付けて、置かれた所で地に足を付けて、落ち着いた生活を心がけなければなりません。そこで神を呼び求めなければならないのです。そうすれば、あなたは神を見出すようになるでしょう。そして、やがて70年がやって来ますよ。その時あなたは信じられない奇跡を見ますよ。あなたの思いをはるかに超えた神の不思議を見るようになるのです。

まず神の国と神の義を求めなさい マタイ6章25~34節

聖書箇所:マタイ6章25~34節
タイトル:「まず神の国と神の義を求めなさい」
主の2024年、明けましておめでとうございます。皆さんは、どのような思いで新年を迎えられたでしょうか。こうしてこの新しい年も主への賛美と礼拝をもって始めることができることを感謝します。
毎年1年の始まりの時に、今年神様は教会にどんなことを願っておられるのかと祈り求めますが、しばらく前から私の中に与えられていたみことばが、マタイ6章33節のみことばでした。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
今年は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めなさい、というテーマで歩みたいと願っています。でも、神の国と神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。このみことばはクリスチャンであれば1度は聞いたことがある有名なみことばですが、その意味を知っているかどうかは別です。今日は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めるということについて3つのことをお話したいと思います。
Ⅰ.神の国を第一に求めるとは(33)
まず、神の国を第一に求めるとはどういうことかについて考えてみたいと思います。皆さん、神の国を求めるとはどういうことですか?「神の国」とは「天国」とか、「御国」とも言われますが、昨年の賛美フェスタのテーマもこれでしたね。「御国がこの地に」でした。神の御国がこの地に来ますようにというテーマでした。それは何を意味しているかというと、「神の支配」のことです。神の支配がこの地にありますように、ということです。すなわち、神の国とは「神が支配するところ」のことです。ですから、もし私たちが心から神を信じ、神に従いたいと願い、そのように生きるなら、そこが神の国となるわけです。神を信じ、神に従う人の心に神の国が宿るのです。それは目には見えませんが、目に見える形となって実際に現れます。
イエスは神の国はパン種のようだと言われました。パン粉にパン種を入れるとどうなりますか?それはパンパンに大きく膨らみます。それと同じように、神の国も目には見えないほど小さなものですが、それが私たちの心に入ると大きく膨らんで行くのです。
また、イエスは神の国はからし種のようだとも言われました。皆さんは、からし種を見たことがありますか?私はイスラエル旅行に行った方が現地で購入したというからし種を見せてもらったことがありますが、本当に小さな種です。胡椒のように小さい種ですが、それが生長すると3~4メートルもの大きな木になるのです。
このように神の国は目に見えない小さなものですが、これが私たちの中に宿すと大きな力をもって広がっていきます。それはイエスがこの地上でなされた御業を見ればわかります。イエスは目の見えない人の目を開かれ、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにし、足の萎えた人を癒されました。ヨハネの福音書5章には、38年間も病気で伏せていた人を癒されたことが記されてありますが、それはどういうことかというと、神の国が地上に来ているということを表していました。イエスが来られたことによって神の国がやって来たのです。ですから、イエスはこう言われたのです。「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」(マタイ4:17)
「天の御国が近づいた」。どのようにして近づいたのでしょうか?イエスが来られたことによってです。イエスは神の国をもたらすためにこの地上に来てくださったのです。それは目に見えないほど小さなものですが、神の力となって現れました。それは、死んでから入るところだけでなく、生きている今、この地上で体験することができるもの、神が支配しているところなのです。
では、この神の国を第一に求めるとはどういうことでしょうか?これは自分の力でたぐり寄せるということではありません。神の国は人間の力でたぐり寄せることができるようなものではないからです。その必要もありません。神の国はそれ自体、力をもって私たちのところにすでに押し寄せてきているからです。この神の国を謙虚に受け入れることです。そして、神がこの世のすべて治め、生きて働いておられると信じて、神に賭けるというか、へりくだって神を求め、神に祈り、神に信頼して生きることです。
この正月にディボーションでエズラ記を読みました。ペルシャの王キュロスの命令によってバビロンからエルサレムに帰ったユダの民は、さまざまな妨害に遭いながらもついに神殿建設を完成しました。そして神はアルタクセルクセス王の心を動かし、神の律法を行わせるためにエズラをリーダーとする一団をエルサレムに遣わします。その数男だけで1500人、女、子供も合わせると3,000人に達しました。バビロンからエルサレムまでは約1,450キロと、かなりの長旅です。しかも彼らは現在の価値で約10億円もの金や銀を持っていました。どこで敵に襲われるかわかりません。しかし、エズラは道中の敵から自分たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めませんでした。それは、神は、神を尋ね求めるすべての者を守ってくださると信じていたからです。それで彼はこのことのために断食して祈り、へりくだって、道中の無事を神に願い求めました。すると、神は彼らの願いを聞き入れてくださいました。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出していただくことができたのです。このように、へりくだって神を求め、神に祈り、神に賭ける信仰、それこそ、神の国を第一に求めるということなのです。
よく「神さまとか、信仰とか言っても、それは余裕のある人がすることであって、現実はもっと厳しいですよ」と言うことを聞くことがあります。確かに現実は厳しいものです。だからこそその厳しい現実の中で、さらに確かな神の国の現実に目を留めるために、私たちはこうして教会の礼拝に来たり、互いに交わりを持って励まし合っているのではないでしょうか。どんな苦しみの中でも神が生きて働き、この世を支配しておられるということを信じるためです。自分自身との格闘の中で、人生を導いてくださる神に自分を明け渡していく。それが「神の国を求める」ということなのです。それを第一に求めなければなりません。
Ⅱ.神の義を第一に求めるとは(33)
では、神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。イエスは、まず神の国を求めなさいと言われただけでなく、神の義を求めなさいとも言われました。「神の義」とは何でしょうか。それは、神の前での正しさのことです。ローマ14章17節に、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」とあります。神の国は「聖霊による義と平和と喜び」です。ですから、正しくない人は、神の国に入ることが出来ません。では、人はどうしたら神の前に正しい者、義と認めていただくことができるのでしょうか。
ここで注目したいのは、マタイ5章20節のみことばです。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」
イエスは、あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、決して天の御国に入れない、と言われました。どういうことでしょうか?律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書の律法を守ることによって神の前に義と認められると考えていました。それで彼らは一つの掟にいくつもの細則を付け加え、膨大な規則集を作りあげました。その数なんと六百以上もあったと伝えられています。そして、彼らはそれを守っていると自負していました。だから、自分たちは正しい者であって、神の国にふさわしい者だとうぬぼれていたのです。でも、彼らは最も大切な戒めを忘れていました。最も大切な戒めとは何ですか。そうです、申命記6章5節のことばですね。「シェマー」、「聞きなさい」ということばで有名なみことばですね。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という戒めも、これと同じように大切です。すなわち、神と隣人を愛するということです。これが律法の中心であり、戒めの中で最も大切なものなのに、これを忘れていたのです。つまり、彼らは自分では聖書の戒めを守っていると思っていましたが、それは形式的なものにすぎなかったということです。それでイエスは「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国にはいることはできない」と言われたのです。それは律法学者やパリサイ人たちのようにうわべだけを取り繕ったもの、つじつま合わせをしただけのものではなく、神の目にどうなのか、神の目に正しい者、神に義と認められる者でなければならないということです。
でも、どうでしょうか。神に義と認められるということは簡単なことではありません。たとえば、その後のところでイエスは、「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:20-21)と言っておられますが、この観点から見たら、私たちは皆お手上げではないでしょうか。確かに私たちは人を殺すようなことなどしません。でも、兄弟に対してはよく「ばか者」とか「愚か者」と言っていないでしょうか。私などはしょっちゅうですよ。嫌なことや変なことがあると、つい心の中で「ばかだなぁ」と思ってしまいます。だから、私は最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれてしまいます。私だけではありません。皆さんだってそうです。兄弟に対して腹を立てない人がいますか?兄弟にひどいことを言われ放題言われたら、「いい加減にして」と腹を立てるじゃないですか。「バカ野郎」とか「マヌケ」と言うんじゃないですか。ですから、皆さんもアウトです。最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。だから聖書は「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と言っているのです。
しかし、律法学者やパリサイ人たちは、そのことに気付いていませんでした。そして自分は正しい者であって、神の国にふさわしい者だと錯覚していたのです。そういう律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、私たちも決して天国に入ることはできません。では、どうしたらそのような義を持つことができるのでしょうか。
神が与えてくださる義を求めなければなりません。神の目から見れば正しい人など一人もいません。しかも、だれも自分でその不義をきよめることはできないのです。今、旧約聖書のエレミヤを学んでいますが、エレミヤ書には、それは豹がその斑点を変えることが出来ないのと同じだと言われているとおりです(エレミヤ13:23)。しかしそのような私たちのために神はイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。キリストが私たちの罪を負い、十字架で死なれたことによって、罪人の私たちが義と認めていただくためです。神はご自分のひとり子を罪人として死なせることによって、御子イエスを信じる者にイエスの持っておられた義を与えてくださるのです。私たちの罪がキリストのところに行き、キリストの義がわたしたちのところに来るためです。神はイエス・キリストを信じる者が罪を赦され、神の前に正しい者として立つことができるようにしてくださったのです。私たちが求めるべき「神の義」とは、この義、神が与えてくださる「イエス・キリストの義」なのです。
この「神の義」をまず求めなければなりません。神の国が信仰によって受け取るものであるように、神の義も信仰によって受け取るものです。イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と言われました。罪ある私たちは神の国から遠く離れていました。しかし、神の国が罪の赦しと神の義を伴って、罪ある私たちのところ来てくださいました。ですから私たちは自分の不義を認め、告白し、悔い改め、へりくだった心でこれを受け取らなければなりません。そして、その義に生きることを求めなければなりません。
イギリスに一人の尊敬されている軍曹がおりました。とても立派なのである人が「どうしてそのように人から好かれるようになったのですか」と尋ねると、「つい最近まではそうではなかったのです」と答えると、それがどうしてそうなったのかを話してくれました。彼の部隊に一人だけクリスチャンがいたそうです。そのクリスチャンは他の人からの嫌がらせを受けていましたが、じっと耐えていました。ところがある時、この軍曹の隣に寝ることになりました。彼はいつも寝る前に祈りの時間を持っていました。軍曹は軍隊の重い靴で彼の頭を叩いたそうです。でも彼は何もいいませんでした。そればかりか次の朝起きて見ると自分の靴が綺麗に磨かれておいてあったのです。それを見た時この軍曹は、自分は負けたと思いました。軍曹は即座にイエス様を信じ、その時から変わったのです。
イエスはこう言われました。「43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)
これが神の義を求めるということです。それは私たちにはできないことです。しかし、神の義であられるイエス・キリストによって与えられた義によって、私たちはこの義に生きることができるのです。
Ⅲ.まず神の国と神の義を第一に求める(33)  
第三のことは、まず神の国と神の義を求めなさい、ということです。イエスは、この神の国と神の義をまず、第一に求めなさい、と言われました。どういうことでしょうか?これを最優先にしなさいということです。この優先順位がとても重要です。私たちは、自分の中にある優先順位に従って生きています。私たちの人生には、大切なものがたくさんあります。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったこともそうですし、それに加えて経済的な問題や対人関係の悩み、健康上の問題、仕事ことそうです。そんな時そうした目の前の問題で頭がいっぱいになり、神様のことがどこかに吹っ飛んでしまうことがあります。優先すべき順序が逆になり、生活する上で必要な様々なものを第一に求めてしまうのです。そのために走り回り、あたふたし、不安に呑み込まれ、不安が不安を呼び、思い煩いでどうにもならなくなってしまうことがあります。でも聖書はこう言っています。「まず神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
それは、他のことは何もしなくても良いということではありません。学生なら勉強に専念しなければなりませんし、仕事を持っている人ならしっかり働かなければなりません。英語に “bring home the bacon” ということわざがあります。しっかり働いて家族を支えるという意味です。イエスが「まず、第一に」と言われたのは、第二、第三にも、果たすべき義務があることを示しています。ある修道院の記録映画を観ましたが、山奥でくらす修道士たちでさえ、祈りの生活の他に労働の時間があって、それで日々の糧を得ていました。また、スポーツや趣味を楽しむ時間も持っていました。神の国と神の義を求めるということは、神がお与えくださったこの世での義務や、私たちのこころやからだに必要なものを無視するということではないのです。それは、神の民として生き、神に仕えることを第一にする、神の義という、私たちにとって一番必要なものをまず第一にすることです。そして、神のことを第一にするとき、その後に続くさまざまな義務は、感謝と喜びをもって果たすことができるようになります。その他の必要もおのずと満たされていくのです。
その他の必要とは、たとえば何を食べるかとか、何を飲むか、何を着るかといったことです。神の国とその義とを第一に求めるなら、神はそれに加えて、これらのものをすべて与えてくださいます。なぜなら、天の父である神様は、これらのものが私たちに必要であることを知っておられるからです。空の鳥を見てください。種まきもせず、刈り入れもしません。倉に納めることもしない。でも、天の父はこれを養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があります。野の花を見てください。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、どうしてあなたがたのためには、もっと良くしてくださらないことがあるでしょうか。神は、ご自身の国とその義を第一にする者を、守ってくださるのです。
クリスチャンの実業家で五十嵐健治さんと言う方がおられました。彼はクリーニング業界最大手の「白洋舎」の創業者です。それまで三越に勤めていた彼がなぜ洗濯屋を家業としたのか。その転身した一番大きな理由は、「日曜礼拝や伝道に妨げにならないもの」でした。さらに、キリスト教倫理観として「嘘や駆け引きのいらぬもの」「人の利益となって害にならぬもの」でした。彼はその創業にあたり、次のように言っています。「汚れた罪を一身に引き受けて、十字架の苦しみと恥辱を受け給うキリストを思ったとき、自分のごとき人間が人様の垢を洗うことが何で恥ずかしいことがあろう。洗濯業は神から与えられた職業である。」と。そして、汚れたもの清潔にし、破れたるものを繕い、以て衛生に資し、家庭経済を助けるものと考えて、1906年に日本橋呉服町に開業したのです。
彼は自分のお店を持つとき、教会の近くがいい、そうしたら、祈り会などに参加できるからと考え、教会の近く、川の土手沿いの物件を手に入れました。そこは町から遠く、「そんなところで店を開いても、お客さんは来ないよ」と回りの人から言われたそうです。ところが、しばらくたって、川の土手が整備されて、自転車や歩行者のための道路になりました。大勢の人がその道を利用して、通勤、通学をするようになりました。それで、彼の店に立ち寄るお客さんが増えました。彼の丁寧な仕事が評判になり、さらに多くの固定客を得るようになりました。この人の、もっと神に近づきたい、神のことを第一にしたいという思いが報われ、目に見える形でも祝福が与えられたのです。神の国と神の義を第一にする人には、この世においても大きな祝福が与えられるのです。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」第一のことが第一になるなら、第二、第三のことは、かならず備えられていきます。それはほんとうのことです。イエスは私たちを、この祝福の人生へと招いていてくださっています。この一年、この神の国と神の義を第一に求めていきましょう。主のみことばに従い、神の国の義と平和と聖霊による喜びで満たされた一年となるように祈り求めていきたいと思います。

神のことばにとどまるように エレミヤ書28章1~17節神のことばにとどまるように 


聖書箇所:エレミヤ書28章1~17節(エレミヤ書講解説教51回目)
タイトル:「神のことばにとどまるように」
今日は、今年最後の礼拝です。この一年も教会とそれぞれの生活においていろいろなことがありましたが、すべてが主の恵みと信じて、主に感謝し心から御名をあがめます。
今年最後の礼拝で主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書28章のみことばです。ここには、エレミヤとは全く異なる預言をしていたハナンヤという預言者が登場します。今日は、このにせ預言者ハナンヤとエレミヤとの対決を通して、私たちが拠り頼むものは何か、それは神のみことばであるということ、だからこのことばにとどまるようにというお話したいと思います。
Ⅰ.人を喜ばせようとするのではなく神を(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。「1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、【主】の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。3 二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪い取ってバビロンに運んだ【主】の宮のすべての器をこの場所に戻す。4 バビロンに行ったユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの場所に帰らせる──【主】のことば──。わたしがバビロンの王のくびきを砕くからだ。」」
「その同じ年」とは、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年のことです。ゼデキヤが王として即位したのはB.C.597年ですから、これはB.C.593年になります。ギブオン出身の預言者で、アズルの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、エレミヤに語って言いました。イスラエルの神、万軍の主は、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを砕き、2年のうちに、彼がこの場所、これは主の宮、エルサレム神殿のことですが、ここから奪い取ってバビロンに運んだすべての器をこの場所に戻すと。そればかりではありません。バビロンに連れて行かれたユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、この場所に帰らせると。彼の預言は、ユダの民にとって喜ばしい内容でした。しかも「2年のうちに」ということばは、明るい兆しを感じる魅力的なものです。でもこれはエレミヤが預言したこととは異なることでした。エレミヤは何と言っていましたか。25章11~14節をご覧ください。エレミヤはこのように預言していました。
「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」
エレミヤが預言していたのは「2年のうちに」ではありません。70年の終わりに、です。ユダの民は廃墟となって荒れ果て、バビロンの王に70年間仕えようになります。その70年の終わりに、主はバビロンの王とその民を彼らの咎のゆえに罰し、永遠に荒れ果てた地とし、代わりにペルシャの王クロスを用いて、ユダの民が元の場所に帰ることができるようにするというものでした。それが27章22節で言われている「わたしがそれを顧みる日」のことです。それまでバビロンの王によって運び去られた主の宮の器はそこにありますが、70年後に主がユダを顧みられる日に、主はそれらを携え上り、この場所エルサレムに戻すようにするのです。それが、主がエレミヤを通して言われたことでした。だから2年のうちにではないのです。70年後のことです。最初のバビロン捕囚があったのはB.C.609年ですから、それから70年後というのは、B.C.539年になります。
果たしてどちらの預言が正しかったでしょうか?歴史を見ればわかります。ハナンヤが言った「2年のうちに」というのは偽りでした。むしろ、その数年後のB.C.586年には3回目のバビロン捕囚が行われることになります。その時エルサレムは陥落し、神殿は完全に崩壊することになります。主の宮にまだ残っていた器も、すべてバビロンに運び去られることになるのです。つまり、ハナンヤの預言は間違っていたということです。彼はにせ預言者でした。それなのに彼はエレミヤを捕らえて祭司たちと民全体の前で、エレミヤが間違っていると豪語しました。2年のうちにバビロンの王のくびきは砕かれ、バビロンがエルサレムから奪い取ったものはすべて戻されるし、すべての捕囚の民も帰るようになると言ったのです。
この両者の名前には、どちらにも「ヤ」が付いていますが、これは「ヤダー」の「ヤ」ではなく、「ヤハウェ」の「ヤ」です。つまり、主の御名で語る者です。それなのに、預言の内容は全く違うものでした。しかも、ハナンヤは「ギブオンの出身の預言者」とありますが、ギブオンはエレミヤの出身地のアナトテと同じベニヤミン族の領地にある祭司の町でした。ですから、彼はエレミヤと同じように祭司の家系だったのではないかと思われます。エレミヤと同じようなバックグランドを持っていた彼が、エレミヤとは全く違う預言をしていたのです。
さらに2節を見ると、彼は「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」と言っていますが、本物の預言者が使うような言い回しをしています。それがあたかも本当に主から出たことばであるかのように語っていたのです。
でも、一つだけ違いがありました。それは何かというと、エレミヤは主が語れと言われることを語ったのに対して、ハナンヤは民が聞きたいことを語ったという点です。人々が望むようなことばかり、都合の良いことばかり、耳障りの良いことばかり語っていたのです。ホッ、ホッ、ホタル来い、ではありませんが、彼の言葉は甘い言葉の集大成のようなものだったのです。
しかし、真の預言者は人を喜ばせようとして語るのではなく、神に喜んでいただこうと語らなければなりません。Ⅰテサロニケ2章3~4節にこうあります。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」
人を喜ばせようとしてではなく、神を喜んでいただこうとして語る。これが真の預言者です。つまり、焦点がだれに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。人を気にすると、文字通り人気取りになってしまいます。でも私たちが気にしなければならないのは人ではなく神です。神に喜ばれているかどうか、神がどう思っていらっしゃるのか、ということです。私たちはついつい人に喜ばれたいことを語ってあげたいと思いますが、それでは本末転倒になってしまいます。
先日、以前大田原教会のメンバーで、仕事でオーストラリアのパースに移られた西田兄が、15年ぶりに来会されました。ずっと日本で働きたいと願っていましたがその願いが叶い、家族をパースに残し、今年東京で働くようになりました。オーストラリアというとワーシップで有名なメガ・チャーチが各地にありますが、その教会に行っているのではないかと思い尋ねると、以前はそこに行っていましたが、今は違うシンガポール系の教会(Faith Community Church)に行っているということでした。なぜなら、毎週の礼拝のメッセージがいつも同じで、どちらかといえば求道者やクリスチャンになったばかりの人に受け入れやすくい内容ばかりで、聖書からの教えがなかったからです。じゃ、スモール・グループに行けば聖書を学ぶことができるかなと思って行ってみると、そこでもお茶を飲んで楽しく雑談するだけで聖書の学びがありませんでした。それでもっと聖書をしっかり教えている教会に行こうと、現在の教会に導かれたということでした。
確かに求道者に配慮することは大切ですが、あまりにも配慮しすぎるあまり、本来配慮しなければならない神がどこかに行ってしまうことがあります。よく教会は敷居が高いと言われますが、敷居が高いとはどういうことなのでしょうか。それは求道者を意識しての視点です。求道者ができるだけ心地よく礼拝に参加できるように、彼らが興味を持ってくれるような話題とか聞きたいと思っているような話を、できるだけおもしろく、おかしく、たまにジョーク混ぜながらお話しできたらいい。ひどいのになると聖書も使わない方がいいんじゃないかと言う人もいます。聖書は難しいから。最初から礼拝に来ると難しいと感じて躓いてしまうから、最初はクッキングクラスとかコンサートなどに誘った方がいいんじゃないですか。そうすれば敷居が低くなって求道者も気やすくなるから。
皆さん、どう思いますか。もちろん宣教の方策として、礼拝以外のこうした集会を持つことはあると思いますが、私たちが伝道する目標点を見失わないように注意しなければなりません。焦点がどこに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。私たちは人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを求めなければならないということです。では神が喜んでおられることは何か。勿論、神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それだけではありません。それは一つの通過点にすぎないからです。神が望んでおられることはすべての人が救われて真理を知るようになるだけでなく、救われた人がその救いにとどまっていること、そして今度は神に向かって生きるようになることです。神を喜び、永遠に神をほめたたえて生きる神の民となることなのです。それなのにいくらクッキングクラスで人を救いに導き、教会形成に向かおうとしても、それは容易なことではありません。目標点が違うからです。自分の喜びや楽しみと神の栄光とでは、全然違います。
ですから、私たちはその目標点見失ってはいけないわけです。そのためにはどうしても神のみことばが必要となります。なぜなら、「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができる」(使徒20:32)からです。ですから、大切なのは敷居を低くすることでなく、誰に喜んでもらうのかということです。人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを考え、求めなければなりません。
Ⅱ.平安を預言する預言者について(5-9)
それに対してエレミヤは何と言いましたか?5~9節をご覧ください。「5 そこで預言者エレミヤは、【主】の宮に立っている祭司たちや民全体の前で、預言者ハナンヤに言った。6 預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに【主】がしてくださるように。あなたが預言したことばを【主】が成就させ、【主】の宮の器と、すべての捕囚の民をバビロンからこの場所に戻してくださるように。7 しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語ろうとするこのことばを聞きなさい。8 昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。9 平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に【主】が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」」
エレミヤは、ハナンヤのことばに対して「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。」と言いました。これはエレミヤがハナンヤの語ったことばに同意しているのではありません。自分もハナンヤの預言どおりになることを望まないわけではない。主が祖国に祝福をもたらすことをどんな願っていることか。バビロンによって奪い去られた主の宮の器とすべての捕囚の民をバビロンからこの場所にすぐに戻してくれることをどんなに願っていることか、という意味です。
しかし、主が語っておられることはそういうことではありません。主が語っておられることは、この民に戦いとわざわいと疫病がもたらされるということです。つまり、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということです。バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える人々を、主はその土地にとどまらせるということでした。それは昔から、エレミヤと、彼の先に出た預言者たちの預言と一致していて、これこそ主から出た主のことばです。
しかし、ハナンヤはそれとは異なり、平安を預言しました。平安を預言すること自体は問題ではありません。問題は、それが本当にもたらされるかということです。平安を預言する預言者については、その預言のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だということが証明されるのであって、その預言の成就を待たなければなりません。どんなに人々が喜ぶ内容でも、それが成就しなければ空しいことになります。人はハナンヤのように、周囲の人たちの願望を、まるで神からのことばであるかのようにすり替えてしまうことがあります。しかし、エレミヤは人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別することができました。ここが重要なポイントです。人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主からのことばを語らなければなりません。
エレミヤは平安が来ないと言っていたのではありません。27章7節で彼は「彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。」と預言していました。「彼」とはバビロンの王ネブカドネツァルのことです。すべての国が彼に仕えるのは、「彼の地に時が来るまで」です。それまでは彼とその子と、その子の子に仕えますが、しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。「その子の子」とは、ネブカデネツァルの孫のベルシャツァル王のことです。その時代になるときまで、ユダはバビロンに仕えますが、その時が来れば、そこから解放されるようになります。平安が来ると預言したのです。エレミヤは、平安は真の悔い改めと、神との契約に対して従順でなければ来ないことを知っていたのです。ハナンヤのような平安の預言は、むしろ真の悔い改めを妨害するもの以外の何ものでもありません。
今の時代でも、平安を安売りする預言者がたくさんいます。エレミヤのこうした態度から、私たちも学ぶ必要があります。私たちも人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主が望んでおられることが何なのかを知るために、この世と調子を合わせるのではなく、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるように、心を新たにしていただかなければなりません。
Ⅲ.偽りに拠り頼まされないように(10-17)
第三のことは、だから神のことばにとどまるようにということです。10~17節をご覧ください。10~11節をお読みします。「10 しかし預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。11 そしてハナンヤは、民全体の前でこう言った。「【主】はこう言われる。このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」
ハナンヤはエレミヤが語ったことばを聞いて、よほど激怒したのでしょう。エレミヤの首についていた木のくびきを取って砕いてこう言いました。「主はこう言われる。このとおり、わたしは2年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」(11)
これは1つのデモンストレーションです。覚えていますか?27章2節で、主はエレミヤに「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。」と言われたことを。それは、ユダがバビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということでした。ですから、エレミヤの首には木のかせが付いていたのですが、ハナンヤはそのかせを砕き、「このとおりになる」つまり、バビロンのくびきから解放されると言ったのです。
それに対して、エレミヤは何と言いましたか?彼は何も言いませんでした。何も言わないで彼はそのままそこを立ち去ったのです。これは賢いことです。別に対抗することはないからです。時期に明らかになるでしょう。どちらが正しかが。
でもエレミヤが語らなくても、主が語ってくださいました。12~14節をご覧ください。「12 預言者ハナンヤが預言者エレミヤの首からかせを取って砕いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「行って、ハナンヤに次のように言え。『【主】はこう言われる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。14 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは彼に仕える。野の生き物まで、わたしは彼に与えた。』」
主が言われたことは、ハナンヤは木のかせを砕いたが、その代わり鉄のかせを作ることになるということでした。ユダは捕囚から解放されるどころか、より深刻な事態を迎えるようになるということです。ハナンヤの預言は、神の民に自由ではなく、鉄のくびきをもたらすものとなるのです。「鉄のくびき」とは、「木のくびき」に比べ、一層厳しい状況になることを象徴していました。
そこでエレミヤは、ハナンヤにこう言いました。15~16節です。「ハナンヤ、聞きなさい。【主】はあなたを遣わされていない。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。16 それゆえ、【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたを地の面から追い出す。今年、あなたは死ぬ。【主】への反逆をそそのかしたからだ。」
ハナンヤがしたことは、民を偽りに拠り頼ませるということでした。主ではなく、偽りに拠り頼ませたのです。恐ろしいですね。民を何に拠り頼ませるかは、預言者に託された大きな責任です。だから、主は彼をこの地の面から追い出されるのです。彼はその年のうちに死ぬことになります。ハナンヤは2年のうちに、ユダの民は解放されると預言しましたが、皮肉にも彼はこれを預言した2か月後に死ぬことになるのです。恐ろしいですね。というか、預言者の働きがどれほど重大であるかがわかります。もしエレミヤが語ったこのことばが成就しなかったら、エレミヤがにせ預言者となって殺されなければなりません。本当に預言者の働きは厳粛な働きだなぁと思います。だからこそ、牧師、伝道者、宣教師のためにとりなしの祈りをささげてほしいのです。民を偽りに拠り頼ませるのではなく、主に拠り頼ませるために、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただくために、神のことばを語ることができるように。
17節をご覧ください。「17 預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死んだ。」預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死にました。1節には、彼がこれを語ったのは「第四年の第五の月」とありますから、彼はこれを語ったわずか2か月後に死んだことになります。2年ではなく2か月後に死んでしまったのです。エレミヤはハナンヤに、「今年、あなたは死ぬ」と預言しましたが、エレミヤが預言したとおりになりました。これは、エレミヤが真の預言者であることが証明されたということです。そして、にせ預言者の最期は、このように空しいものです。
このエレミヤの時代と私たちの時代は、そうかけ離れていません。主イエスも言われたように、今は終わりの時代ですから、にせ預言者がそこかしこに横行しています。もしかすると、私たちはそれを知らずに信奉しているかもしれません。ネットでたまたま見た有名な牧師の話を間に受けたり、ベストセラーの本を読んで虜になったりして。魅力的な集会に飛びついて、喜んで参加して、ハナンヤのようなにせ預言者に騙されていることん゛あるかもしれません。いつの間にか、偽りに拠り頼むようにさせられているかもしれないのです。その背後には、偽りの父と言われているサタンの存在があることも忘れてはなりません。サタンは光の御使い、天使のように変装してやって来ます。義のしもべの姿でやって来るのです。
ですから、しっかりと霊を見分けて、この時代のしるしを見分けて、ますますもって主のことばに目を留めなければなりません。これは、昔から変わらないものです。ここから離れたら神から離れてしまうことになります。もし、にせ預言者に惑わされていたり、騙されたりして、偽りに拠り頼んでいたという人がいたら、もう一度主の言葉に立ち返って、これからはエレミヤのように終わりの時代になっても神のことばをしっかりと受け取って、それを誰に対しても恐れずに語っていく者になってほしいと思います。たとえそれで自分にとって不利益に働いたとしても、エレミヤが語り続けたように、神のことばにとどまり、神のことばをまっすぐに語り続ける者でありたいと思うのです。
今日は、今年最後の礼拝となりましたが、この最後の礼拝において主が私たちにチャレンジしておられることは、昔から変わらない、いつまでも変わらない神のことばにしっかりととどまり続けるように、この神のことばに生きるようにということです。それが古いようで新しいいつまでも新鮮に、私たちが主のうちにとどまっている秘訣であるということです。新しい年も、この神のことばにとどまって神に喜ばれる道を歩ませていただきましょう。

あなたのための救い主 ルカの福音書2章11節あなたのための救い主 


聖書箇所:ルカの福音書2章11節
タイトル:「あなたのための救い主」

クリスマスおめでとうございます。私たちの救いのために生まれてくださった救い主イエス・キリストの御名を崇め、心から賛美します。
本日、このように救い主のご降誕をお祝いし、共に主を礼拝できることを感謝します。今日は、ルカの福音書2章7節のみことばから、「あなたのための救い主」という題でお話します。

日本のプロランナーの草分け的存在に、有森裕子さんという方がいらっしゃいます。バルセロナオリンピックで銀メダル、アトランタオリンピックで銅メダルと、2大会連続でメダリストとなった方です。
ある時彼女は練習のし過ぎで足を故障させてしまいます。その時、当時の小出監督はこう言いました。
「せっかく故障したんだから、今しかできないことをやろう。せっかく神様が休めと言ってくださっているんだから、しっかり休もう。どんな状況の時もせっかくと思えばいいよ。そうすれば全てが力になるから。」
せっかくのクリスマスです。ここは一つクリスマスの本当の意味を考えてみるのはいかがでしょう。

今、街を見渡すとどこもクリスマス一色です。でもクリスマスって本来何の日なのでしょうか。当然のことながら、クリスマスとはキリストの誕生をお祝いする日ですね。ポイントは「誕生日」ではなく、「誕生をお祝いする日」であるということです。同じことのように思えますが、正確には誕生日ではないということが分かりますね。
では、なぜ12月25日がクリスマスになったのでしょうか?実は、様々な説があって正確なことはわかっていないのですが、どうも「冬至」が関係しているという説が有力です。冬至といえば、北半球では一年でもっとも昼が短くなる日です。裏を返せばこの日を境に太陽の力が強まっていくということであり、それで古代ローマでは冬至の日に太陽を祝福する習慣があったのです。
そして、3世紀には皇帝アウレリアヌスが12月25日を太陽神の誕生日として制定します。キリストもまた聖書の中で「世の光」と崇められていることからこの流れと合流し、4世紀頃に12月25日がキリストの降誕祭として定着したという説が有力となっています。

聖書の中にはこのキリストの誕生を誰よりも早く知らされた羊飼いたちのことが出てきます。
彼らは御使いからこのように言われるのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
 今日は、この聖書の御言葉からクリスマスの意味について三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.ダビデの町で生まれたキリスト

第一に、神は約束を果たす方である、ということです。ここに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」とあります。
救い主はどこで生まれたのでしょうか。そうです、ダビデの町です。ダビデの町とは「ベツレヘム」という町のことですが、実は救い主はこの「ベツレヘム」で生まれるということが、前もって旧約聖書の中に予告されていました。旧約聖書のミカ書5章2節です。
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」
預言者ミカはイザヤと同時代の預言者で、紀元前735-700年に活躍した預言者ですが、彼は、やがて来られるメシヤは「ベツレヘム」で生まれると預言していました。そこはユダの氏族の中で最も小さな部族ですが、そのベツレヘムで生まれると預言されていたのです。そこは、昔イスラエルの英雄で王様であったダビデが生まれ育った場所でした。そこでベツレヘムはダビデの町とも呼ばれていたのです。やがて人類を救う救い主はダビデの家系の中から、ダビデの生まれ故郷であるベツレヘムで生まれることになる、と旧約聖書に約束されていたのです。

そして、その約束通りに今から約二千年前、イエス・キリストはベツレヘムでお生まれになりました。それは何を意味しているのでしょうか。それは、神は約束されたことを成就される方、約束を守る方であるということです。それは、神は約束を守られる方、信頼できる方であるということです。
皆さん、信頼は何によって勝ち取られるのでしょうか。それは、約束したことをどこまで果たしたかということによってです。旧約聖書の中にあるキリストの預言は、350回以上、間接的な預言も含めると450回以上もあります。いつ、どこに、誰を通して、どのようにして来られ、何のために来られ、どのように生き、何をなさり、どのように死なれ、どのようによみがえられ、どのように天に昇られるのか、そして、いつまた地上にさばき主として来られるのかということまで、具体的に預言されていたのです。そして、そのすべての預言がことごとくキリストの生涯において実現したのです。まことに聖書の神は信頼に値する神なのです。

ある歴史学の教授が何人かの学生に「今年は1985年ですが、この数字は何を現わしていますか」「人類の歴史を意味するHistoryとは、どういう意味ですか」と尋ねると、誰も答える学生がいなかったそうです。
1985年という数字はイエス・キリストがお生まれになってか1985年が経ったという意味ですね。B.C.はキリストが来られる前(Before Christ)という意味で、A.Dはキリストが地上に来られてからを意味するラテン語の「Anno Domini」という意味です。
歴史を現わすHistoryという言葉はもちろんギリシャ語のヒストリアから来ていますが、またこう言うこともできるでしょう。「His story」 「His」とは、「HIS(エイチ・アイ・エス)」のことではありません。「HIS(エイチ・アイ・エス)」は“Hide International Service”の略で、“Hide”とは同社の代表である澤田秀雄氏の名前が由来だそうです。まあ、どうでもよいことですが・・。でも「His」とは、この「HIS(エイチ・アイ・エス)」ではなく「彼の」という意味です。「彼」とは誰ですか?そうです。イエス・キリストです。ですから、歴史、Historyは彼の物語、イエス・キリストの物語、つまりイエス・キリストの生涯を通して出来上がった物語なのです。なぜなら、キリストの誕生は、人類の歴史を二分したからです。イエス・キリストの誕生を境にして歴史はB.C.とA.Dに分かれました。人類の歴史は、イエス・キリストの物語なのです。なぜ?イエス・キリストこそ歴史の中心であり、歴史の目的であり、歴史を司っておられる方であり、歴史の中に脈々と流れておられる方だからです。まさに歴史は「His Story」、「彼の物語」、イエス・キリストの物語なのです。イエス・キリストこそ、聖書に預言された通りに来られた方、約束を守られる方、真に信頼に値する神なのです。

Ⅱ.あなたのために来られたキリスト

第二に、キリストはあなたの救い主として来られた、ということです。ここに「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」とあります。
羊飼いたちは、お生まれになったみどりごが「あなたがたのための救い主」、すなわち、「私たちのための救い主」であると信じたのです。町囲みの外で、疎外された存在として生きてきた羊飼いにとって「あなたがたのため」に来たという存在は驚きであったに違いありません。しかし、まぎれもなく主イエスは「あなたがたのための」救い主です。キリストは私たちのもとに来る。救い主は私たちのもとに訪れる。いつかやがてではなく「今日」です。抽象的な誰それのためではなく「あなたがたのために」来られるのです。

キリストがあなたのために来られるとはどういうことでしょうか。それは、神はあなたをこよなく愛しておられるということです。ヨハネの福音書は、この御子イエス・キリストの誕生を、神の愛の結晶としてこう記しています。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)
クリスマスは、神の愛のこの上ない現れ、究極の愛の現れです。クリスマスとは、神の御子イエス・キリストに現わされた神の愛、そして私たちに差し出されている神の愛を受け取る時なのです。ヨハネの手紙第一4章9節がこう語るとおりです。
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4:9)

詩人の谷川俊太郎さんが「あいしてる」という詩をお書きになりました。「愛」というものの姿を見事に表現していると思います。
あいしてるって どういうかんじ?
ならんですわって うっとりみつめ
あくびもくしゃみも すてきにみえて
ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ
あいしてるって どういうかんじ?
いちばんだいじな ぷらもあげて
つぎにだいじな きってもあげて
おまけになんがも つけたいかんじ
(谷川俊太郎 「いちねんせい」小学館)
つまり、自分の一番大事にしているものを、それでも好きな人にあげてしまいたいと思うほどの気持ち。それが「あいしてる」ということだと、谷川俊太郎さんは言うのです。

クリスマスに現わされたのは、まさにこの愛です。神があなたを大切に思い、一番大切なものをプレゼントしてくださった。そうして惜しくもないほどに、あなたを愛してくださった。その愛の現れ、クリスマスに私たちのもとに来られた神の御子イエス・キリストなのです。

そしてこの愛の実現こそが、イエス・キリストの十字架の贖いの御業でした。主イエスの受難の一週間の始まりを記すヨハネの福音書13章1節にこうあります。
「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」(ヨハネ13:1)
この「最後まで愛された」という訳は、口語訳では「最後まで愛し通された」と訳しています。また、新共同訳では「この上なく愛し抜かれた。」と訳しています。英語のTodays English Versionでは「he loved them to the very end」、「最後の最後まで愛された」、文語訳に至っては「極みまで之を愛し給ヘリ」と訳しています。終わりまで、最後の最後まで、極みまで愛された。
これが神の愛です。神はあなたを極みまで愛されました。クリスマスのこの日、ご降誕のキリストとともに、あなたのための救い主として、あなたを極みまで愛された、十字架のキリストに目を留めたいと思うのです。

Ⅲ.救い主として来られたキリスト

第三に、キリストはあなたの救い主として来られた、ということです。キリストは、あなたを罪とその結果である死から救うために、天からこの世に下って来られたのです。
 
先日、私はとても興味深いレポートを読みました。アフリカの最貧国における経済をどうやったら向上させられるかというものです。
プロジェクトチームは、興味深く学べる教科書を生徒たち全員に無料で配ればみんな喜んで学校に来るようになるだろうと考えたのです。そして、それを実行に移しました。ところが期待されたような効果はほとんど出ませんでした。莫大な費用をかけた割には効き目がないのです。
ところが、意外な方法で劇的に効果が出る取組みが別にあったのです。それは寄生虫の駆除です。実は腸内の寄生虫はアフリカの子供たちを苦しめていて、学校の長期欠席を生む大きな要因となっていたのです。そして、ケニアの子供たちに虫下しの薬を処方して飲ませたところ、何と長期欠席が25%も減少したというのです。しかも虫下しの薬は非常に安上がりなのです。プロジェクトを100ドル増やすだけで、全生徒合計で10年分に相当する出席日数が増えたのです。問題は学校の建物でも場所でもテキストでもありませんでした。体の中にいて子供たちの気力を奪い取っていた寄生虫なのです。これを取り除いてやることがまず初めにしなければならないことだったのです。

この世にはいろんな問題が次から次へと出てきます。貧困も、不正も、差別も、いじめも、本当に人間をダメにしてしまうものばかりです。しかし、それらを生んでいる最も根本的な原因は人間一人一人の内側に居座って人間を狂わせている罪なのです。そして、この罪の最終的な結末は死です。そして、この死の根本原因は、神という命のルーツから離れているこの罪にあるのです。

キリストはこの罪の駆除のために人となってこの世に来られました。罪を取り除く薬は口から飲む薬ではありません。キリストがあなたの罪をご自分の上に引き受けて、十字架の上で永久処分することによって取り除いて下さったのです。もし、あなたがキリストをあなたのために死んで、墓に葬られ、三日目によみがえった救い主として信じるならば、あなたの罪は赦されます。いや既に赦されている事実をその時に受け入れることで、自分のものとすることが出来るのです。

キリスト誕生の知らせを受けた羊飼いたちは、すぐにベツレヘムに行き、主が彼らに知らせてくださったその出来事を見に出かけて行きました。そして、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てました。あなたも主が知らせくださった出来事を信じてベツレヘムに行くなら、あなたもこのみどりごを捜し当てることができます。その救いを自分のものにすることができるのです。

マタイの福音書に登場する東方の博士たちはどうだったでしょうか。彼らはまことの王の誕生を知らせる星の出現を見て、主イエスのもとにやって来ました。彼らは幼子イエスを礼拝するために、はるばる旅をしてやってきたのです。博士たちをそこまで動かしたものは何でしょうか。それは、希望の力です。彼らにとってその星は希望でした。そして、その希望の実現のために彼らは旅立ったのです。「見ること」から「旅立つこと」の間には少なからぬ距離があります。て゜も彼らは旅立ったのです。希望に押し出され、希望に引っ張られるようにして、主イエスのもとへと引き寄せられていったのです。

希望は、ただ漠然と遠くを眺めているだけでは実現しません。その希望に向かって一歩踏み出す決断が必要です。そして、その希望は単なる自己実現ではありません。博士たちの目的は主イエスを礼拝することでした。神を礼拝する人生こそが、私たちの希望であり、それこそがまことのクリスマスの過ごし方でもあるのです。そして、神はこの希望をあなたにも差し出しておられます。
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

神は約束を守られる方、信頼に値する方です。その神があなたのために救い主を与えてくだ
さいました。この方こそ主キリストです。せっかくのクリスマスです。この救い主キリストを信じ、神の愛を体験してください。そして、神の愛に感謝して心から神を礼拝したいと思います。これこそが、クリスマスにふさわしい過ごし方なのです。

士師記3章

 士師記3章を学びます。

 Ⅰ.主が残しておかれた異邦の民(1-6)

まず1~6節までをご覧ください。「1 次が、【主】が残しておかれた異邦の民である。主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、2 ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためであった。3 すなわち、ペリシテ人の五人の領主たち、またすべてのカナン人、シドン人、そしてヒビ人である。ヒビ人は、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテにまで及ぶレバノンの山地に住んでいた。4 これは、彼らによってイスラエルを試み、【主】がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうかを知るためであった。5 イスラエル人は、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、6 彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。」

 1節には「次が、主が残しておられた異邦の民である」とあります。ヨシュアの死後、イスラエルの民は神が約束された地を聖絶しなければなりませんでしたが、彼はその地の住民を追い払うことができませんでした。ここには、それは「主が残しておられた異邦の民」とあります。確かにイスラエルはその地の住民を追い払うことができませんでしたが、それは同時に主がなされたことでもありました。いったいなぜ主はその地に異邦の民を残しておられたのでしょうか。ここには、「主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らなかったすべてのイスラエルを試すためであり、ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦を教え、知らせるためであった」(1-2)とあります。そのために主は、その地に異邦の民を残し、彼らによってイスラエルを試み、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、彼らが聞き従うかどうかを知ろうとされたのです。

結果はどうだったでしょうか。5節、6節をご覧ください。残念ながら、彼らはこの信仰のテストに合格できませんでした。彼らはその地に住んでいたカナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えてしまいました。つまり彼らはその地の住民と同化してしまったのです。モーセを通して与えられた神の命令は、その地の住民と縁を結んではならないということでしたが(申命記7:3)、彼らはその命令に背いてしまったのです。なぜでしょうか。イスラエルの民にとっては、戦って町を手に入れるよりはその地の住民と結婚し、平和的に暮らした方がずっと得策のように思われたからです。しかし、その結果、イスラエルの民は、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えるようになってしまいました。

ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあります。神の民であるクリスチャンはこの世にあっても、この世と調子を合わせてはいけません。唯一まことの神を知り、その神の愛と聖さに生きる者であるならば、その光を輝かせなければならないのです。しかし、イスラエルの民は、その神の選びとその責任を忘れてしまいました。イスラエルの民の課題は、私たちの課題でもあります。聖書の真理を世に伝え、神の恵みの福音を語り伝える信仰的な戦いを意識できなければ、結局はこの世に流されてしまうことになります。神は戦いを教え、知らせようとされていることを忘れてはいけません。主がともにおられることを覚え、信仰の戦いに勝利させていただきましょう。

Ⅱ.最初の士師オテニエル(7-11)

次に、7~11節をご覧ください。「7 こうしてイスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを行い、彼らの神、【主】を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えた。8 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡されたので、イスラエルの子らは八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。9 イスラエルの子らが【主】に叫び求めたとき、【主】はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。10 【主】の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出て行くと、【主】はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡されたので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えた。11 国は四十年の間、穏やかであった。こうして、ケナズの子オテニエルは死んだ。」

「こうして」とは、イスラエルの子らがその地の住民と婚姻関係を結んだことによって、彼らがバアルやアシェラに仕えるようになって、ということです。するとどうなりましたか?主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡されたので、彼らは8年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えることを余儀なくされました。アラム・ナハライムはメソポタミアのことであり、現在のシリヤの北部に位置します。つまり、ずっと北に位置していた王がイスラエルまでやって来て、彼らを支配したのです。

前回の学びの中で、士師記の中には背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されると申し上げましたが、ここでもそれが繰り返されています。彼らは主の目に悪であることを行ったので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、敵の攻撃などによって困難な状況に陥ることになりました。

その時、イスラエルはどうしましたか?9節をご覧ください。イスラエルの子らは主に叫び求めました。それで主は、イスラエルのために一人の救助者を起こして彼らを救われます。それがオテニエルです。彼が最初の士師です。オテニエルはどんな人物だったでしょうか?彼はユダ族の出で、カレブの弟ケナズの子でした。すなわち、カレブの甥にあたります。彼については1章11節で紹介されてあります。カレブがキルヤテ・セフェルに攻め入った際その地をなかなか攻略することができなかったとき、「キルヤテ・セフェルを打って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言うと、このオテニエルが手を挙げ、それを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えました(1:13)。ですから彼はとても勇敢な者であったことがわかります。
しかし、それは彼が勇敢だったというよりも、主の霊が彼の上にあったからです。10節には、「主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。」とあります。彼には主の霊が望んでいました。ですから、彼は勝利することができたのです。主は、このオテニエルを最初の士師としてイスラエルを救うために遣わされたのです。オテニエルがイスラエルをさばいていた40年間、イスラエルは穏やかでした。しかし、オテニエルが死ぬと状況は一変します。

Ⅲ.エフデとシャムガル(12―31)

12~14節をご覧ください。「12 イスラエルの子らは、【主】の目に悪であることを重ねて行った。そこで【主】はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。彼らが【主】の目に悪であることを行ったからである。13 エグロンはアンモン人とアマレク人を彼のもとに集め、イスラエルを攻めて打ち破った。彼らはなつめ椰子の町を占領した。14 こうして、イスラエルの子らは十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた。」
オテニエルが死ぬと、イスラエルはどうなりましたか?彼らは主の目に悪であることを重ねて行うようになりました。あの図式の「背信」に当たります。そこで主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせます。

エグロンはアモン人とアマレク人を彼のもとに集めると、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領しました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。モアブはヨルダン川の東側に住んでいる民ですが、ヨルダン川の西側にまでやって来て、エリコを占拠していたのです。こうして、イスラエルの子らは18年の間、モアブの王エグロンに仕えました。するとイスラエルの民はどうしたでしょうか。

彼らは再び主に叫び求めます。15~25節をご覧ください。「15 イスラエルの子らが【主】に叫び求めたとき、【主】は彼らのために、一人の救助者を起こされた。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデである。イスラエルの子らは、彼の手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送った。16 エフデは長さ約一キュビトの両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上に帯で締め、17 モアブの王エグロンに貢ぎ物を携えて行った。エグロンはたいへん太った男であった。18 貢ぎ物を献げ終わると、エフデは貢ぎ物を運んで来た者たちを見送り、19 彼自身はギルガルのそばの石切り場のところから引き返して来て、こう言った。「王様、私はあなたに秘密のお知らせがあります。」すると王は「今は、言うな」と言ったので、そばに立っていた者たちはみな、彼のところから出て行った。20 エフデが王のところに行くと、王は、屋上にある彼専用の涼しい部屋に一人で座していた。エフデが「あなたに神のお告げがあります」と言うと、王はその座から立ち上がった。21 このとき、エフデは左手を伸ばし、右ももから剣を取り出して、王の腹を刺した。22 柄も刃と一緒に入ってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった。エフデは小窓から出た。23 エフデは廊下へ出て行き、屋上の部屋の戸を閉じた。このようにして、彼はかんぬきをかけた。
24 彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来た。彼らが見ると、屋上の部屋にかんぬきがかけられていたので、彼らは「王はきっと涼み部屋で用をたしておられるのだろう」と思った。25 しかし、いつまで待っても、王が屋上の部屋の戸を一向に開けようとしないので、しもべたちは鍵を取って戸を開けた。すると、なんと、彼らの主人は床に倒れて死んでいた。」

彼らが主に叫び求めると、主は彼らのために一人の救助者を起こされました。誰ですか?エフデです。彼は2番目の士師です。エフデにはどんな特徴がありましたか?彼はベニヤミン人ゲラの子でしたが、左利きでした。なぜここに、わざわざ左利きであったと強調されているのでしようか。左利きでも右利きでもどうでもいいじゃないか。その理由は後で明らかにされます。ここには、イスラエルの子らは、そのエフデの手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送ったとあります。

するとエフデはどうしましたか?彼は長さ約1キュビト(約44.5センチ)の両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上に帯で結びました。そしてモアブの王エグロンのもとに貢ぎ物を携えて行きました。なぜ彼は右ももの上に両刃の剣を結んだのでしょうか?エグロンを討つためです。彼に貢ぎ物を献げようと近づいた時、その剣で突き刺そうと考えていたのです。
エフデは用意周到な男でした。彼は貢ぎ物を献げ終わると、一緒に来た者たちを見送り、ギルガルの石切り場のところから引き返してエグロンのもとに戻って来て、こう言いました。「王様、私はあなたに秘密のお知らせあります」エフデは実に巧妙でした。彼はエグロンに「私はあなたに秘密のお知らせがあります」と言うことによって、そこにいた人たちを出て行かせ、エグロンと1対1になる状況を作り出したのですから。エグロンは「今は、言うな」と言いました。誰にもしられたくないと思ったのでしょう。彼はそこにいた者たちをみな彼のところから追い出すと、エフデを自分のもとに引き寄せます。

この時彼は屋上にある彼専用の涼しい部屋に一人で座っていました。その時エフデが「あなたに神のお告げがあります」と告げたので、エグロンはその場から立ち上がりました。その秘密の話を聞こうとエフデに近づいたのです。エフデはこの時を待っていました。エグロンが立って自分のそばに来たとき、例の両刃の剣を取って突き刺そうと計画していたのです。そのところをブスッです。彼はエグロンを剣で刺しました。

21節をご覧ください。彼はどのようにエグロンを刺しましたか?ここには「エフデは左手を伸ばし、右のももから剣を取り出して、王の腹を刺した」とあります。ここがミソです。右利きであれば逆です。右手を伸ばし、左のももから剣を取り出します。でもエフデは左手を伸ばし、右ももから剣を取り出して、王の腹を指しました。左利きだったからです。エフデがなぜ左利きであることが記録されていたのかがわかりますね。もし右利きだったら相手も警戒したでしょうが、左利きだったので相手は全く警戒しませんでした。それが有利に働いたのです。主はモアブの王エグロンからイスラエルを救い出すために、そのようなエフデを用いられたのです。今でこそ左利きでもあまり問題ではありませんが、昔は左利きの人は字を書く時などは右手で書くようにさせられたこともありました。その方が何かと便利だからです。また、昔は左利きの人を「ギッチョ」と差別用語で呼ぶこともありました。しかし、神はこうした人とは違うような特徴や恥ずかしいと思うような性質を、ご自分の栄光のために用いられるのです。

23節をご覧ください。エフデはエグロンを刺すと小窓から廊下に出て、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めました。時間かせぎをするためです。案の定、彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来ますが、王のいる屋上の部屋にかんぬきがかけられているのを見ると、王は涼み部屋で用をたしていると思い、戸をあけませんでした。しかし、いつまで待っても出て来ないので、しもべたちが鍵を取って戸を開けると、王は床に倒れて死んでいました。

26~30節をご覧ください。「26 エフデは、しもべたちが手間取っている間に逃れ、石切り場のところを通って、セイラに逃れた。27 到着すると、彼はエフライムの山地で角笛を吹き鳴らした。イスラエルの子らは、彼と一緒に山地から下って行った。彼がその先頭に立った。28 エフデは彼らに言った。「私の後について来なさい。【主】はあなたがたの敵モアブ人を、あなたがたの手に渡されたから。」そこで彼らはエフデの後について下り、モアブへ通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、一人もそこを渡らせなかった。29 このとき彼らは約一万人のモアブ人を討ち取った。そのモアブ人はみな、頑強で、力のある者たちだったが、一人として逃れた者はいなかった。30 こうして、モアブはその日イスラエルの手に下り、国は八十年の間、穏やかであった。」

エフデはしもべたちが手間取っている間に、石切り場のところを通って、セイラに逃れました。そしてセイラに到着すると、エフライムの山地で角笛を吹き鳴らし、イスラエルを招集しました。何のためでしょうか。28節にあるように、モアブに通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、彼らを打つためです。ヨルダン川の西側にもたくさんのモアブ人がいました。彼らが自分たちの国に戻ろうとするのをエフデは阻止しようとしたのです。そのようにしてイスラエル人は約1万人のモアブ人を討ち取りました。モアブ人はみな、頑強で、力のある者たちでしたが、一人として逃れた者はいませんでした。
このようにして、モアブはその日イスラエルの手に下り、イスラエルはエフデのもとで80年間、穏やかに過ごすことができました。これは士師の中で最も長く続いた平和の期間です。

最後に31節をご覧ください。ここに、3番目の士師が登場します。それは「シャムガル」です。「31 エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、牛を追う棒でペリシテ人六百人を打ち殺した。彼もまた、イスラエルを救った。」
エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、ペリシテ人600人を討ち殺しました。彼はどのようにペリシテ人を討ち殺しましたか?牛を追う棒によって、です。これは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒です。片方の先はとがっていて、もう一方はのみのようになっていました。シャムガルは、おそらくは農作業をしていた普通の人だったのでしょう。そのシャムガルが、牛を追う棒でペリシテ人600人を撃ち殺したのです。

これはどういうことかというと、牛を追っているような普通の人でも用いられるということです。伝道とか牧会というと、神学校を出た人でないとできないと思っている方がいますが、そうではありません。主はその置かれたところで、その人が持っているもので仕えることができるように用いてくださるのです。

エッサイの根株から新芽が生え イザヤ書11章1~9節エッサイの根株から新芽が生え 


聖書箇所:イザヤ書11章1~9節
タイトル:「エッサイの根株から新芽が生え」

今日は、アドヘント(待降節)の第1週です。キリストはある日突然生まれたのではなく、その誕生は昔から旧約聖書の中に預言されていました。たとえば、預言者イザヤは、紀元前700年ごろに活躍した預言者ですが、キリストの誕生を700年も前に預言していました。キリストの誕生以前にどこで生まれるのか、どのようにして生まれるのか、どこから出てくるのか、その名は何かなど、全ての事を詳しく預言していたのです。そして、その一つが今日の個所です。今日はこのイザヤ書11章から、主がどのように来られるのかをご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.若枝から出るメシヤ(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。
イザヤは、やがて来られるメシヤはエッサイの根株から出ると預言しました。エッサイとは、ダビデの父親の名前です。息子のダビデは非常に有名な王様でしたが、エッサイはそうではありませんでした。エッサイという名前を聞いて「おお、あれがあのエッサイか」と感動する人は、おそらく一人もいなかったでしょう。せいぜいご近所の人が知っているという程度でした。「ダビデのことは知っているけれども、エッサイのことはえっさい(一切)知らない」という感じでした。それなのに預言者イザヤは、そのエッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶと言いました。どういうことでしょうか?これには二つの意味があります。

一つは、やがて来られるメシヤはへりくだった救い主であるということです。エッサイの仕事は羊飼いでした。当時、羊飼いというのは社会的に身分の低い人たちの仕事と考えられていました。ですから、エッサイの根株から新芽が生えというのは、多少なりとも見下げられた表現だったのです。しかし、イザヤはダビデの根株から新芽が生えとは言わないで、エッサイの根株から新芽が生え、と言いました。どうせなら有名な人の名前を使った方が効果的なのに、そうではなく名もない羊飼いのエッサイの名前を使いました。それは、やがて来られるメシヤがダビデの家系から生まれるみどり子でありながら、そのようにへりくだった状態で生まれて来られるということを示すためだったのです。

もう一つの理由は、エッサイがダビデの父親の名前だと申し上げましたが、やがて来られるメシヤはダビデの家系から生まれることを伝えたかったからです。エッサイの子であるダビデ王が築いたユダ王国はその後子孫によって受け継がれて行きますが、やがて神の審判によってダビデ王朝は切り倒されて根株のようになりますが、その根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ、すなわち、メシア(救い主)が生まれるというのが、この1節で語られている預言が意味していることです。

ダビデ王朝について言えば、実はその国は永遠に続くという約束が神から与えられていました。Ⅱサムエル記7章16節にこうあります。「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」
しかし、実際の歴史はそうではありませんでした。ダビデの家と王国はB.C.586年にバビロンによって滅ぼされてしまいます。
では、ダビデに告げられた約束は嘘だったのでしょうか?神はダビデに約束してくだったことを反故にされてしまったのでしょうか?そうではありません。確かに目に見えるダビデ王朝は滅ぼされましたが、この神の約束はダビデの血を引くメシヤ、イエス・キリストによって成就したのです。それはエレミヤ書22章で学んだ通りです。神はヨセフの系図からではなくマリヤの系図を通して、このダビデの血を引くメシヤの誕生を実現してくださいました。それがイエス・キリストです。ですから、あなたの家とあなたの王国は、あなたの前に確かなものとなり、あなたの王座はとこしえに堅く立つという神の約束は、イエス・キリストによって成就することになるのです。
すばらしいですね。このことから、神は約束に忠実な方であるということを知ることができます。

ところで、イザヤはそのエッサイの家から新芽が生え、とは言いませんでした。そうではなく彼は、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」と言いました。これはどういうことでしょうか。
「根株」とは「切株」のことです。このことをよく表現しているのが10章33,34節です。ここには、「見よ、万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払われる。丈の高いものは切り倒され、そびえたものは低くなる。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒される。」(10:33-34)とあります。
これは、当時世界を治めていたアッシリア帝国に対するさばきの預言です。アッシリアは、周囲の国を次々と征服し、大帝国として栄えていました。それは神の道具として神がそのように用いたからなのに、何を血迷ったのか道具としての自分の立場を忘れ、高ぶってしまったので、神はアッシリアよりも強力な国バビロン帝国を興してアッシリアをも滅ぼそうとしたのです。万軍の主が、恐ろしい勢いで枝を切り払われます。主は林の茂みを鉄の斧で切り倒し、レバノンは力強い方によって倒されます。まさに切り倒された株、切株です。それはアッシリアだけでなくユダも同じです。主に背き続けたユダもアッシリア同様切り倒されることになります。しかし、違いがあります。それは何かというと、神はそこに「残りの者」を残してくださるということです。その残りの者は、力ある神に立ち返るようになるということです。それが10章20~22節で言われていることです。「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家の逃れの者は、もう二度と自分を打つ者に頼らず、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。壊滅は定められ、義があふれようとしている。」
そしてそのような人達の末裔からメシヤが生まれるのです。それがここで言われていることです。神はエッサイの根株から新芽を生えさせ、その根から若枝が出て実を結ぶようにしてくださるのです。

皆さん、ここに希望があります。切り倒されて切株しか残っていないような中で、だれもが絶望している時に、誰もが期待していないような中で、神の救いが現れるのです。もう何の望みもないと思われるような中に、神の救いが始まるのです。それが新芽であり、若枝なるメシヤ、救い主イエス・キリストです。

ところで、この「若枝」という言葉ですが、これはやがて来られるメシヤのことを表しています。これはヘブル語では「ネイツァー」と言いますが、「ナザレ」の語源になった言葉です。マタイ2章23節に「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。」とありますが、これはこのイザヤ11章1節の預言が成就したということを示しているのです。この預言がナザレのイエスによって成就したのです。来るべきメシヤはエッサイの根株から生える若枝として実を結ぶのです。メシヤはナザレ人と呼ばれるのです。そこには四つの意味があります。

第一に、それは王として来られるメシヤを表していました。エレミヤ23章5節に、「見よ、その時代が来る。─主のことば─そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。」とありますが、これはやがて来るメシヤが王であられることを示しています。その「若枝」、メシヤは、王となって治めるのです。
第二に、それはしもべとして来られるメシヤを表しています。ゼカリヤ3章8節には、「聞け、大祭司ヨシュアよ。あなたも、あなたの前に座している同僚たちも。彼らはしるしとなる人たちだ。見よ、わたしはわたしのしもべ、若枝を来させる。」ここでは「若枝」のことが「しもべ」と言われています。神はご自身のしもべ、若枝を来させるのです。
第三に、それは人としてのメシヤです。ゼカリヤ6章12節にこうあります。「彼にこう言え。『万軍の主はこう言われる。見よ、一人の人を。その名は若枝。彼は自分のいるところから芽を出し、主の神殿を建てる。」ここでは、この「若枝」のことが「一人の人」と言われています。
第四に、それは神としてのメシヤです。イザヤ4章2節には「その日、主の若枝は麗しいものとなり、栄光となる。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなる。」とあります。ここでは、この「若枝」のことが「主の若枝」と言われています。それは神としての若枝のことです。それは麗しいものとなり、栄光となります。地の果実はイスラエルの逃れの者にとって、誇りとなり、輝きとなるのです。

このように主の若枝には四つの意味があります。それはちょうど新約聖書にある四つの福音書が、それぞれマタイの福音書が王としてのイエスを、マルコの福音書はしもべとしてのイエスを、ルカの福音書は人としてのイエスを、そしてヨハネの福音書が神としてのイエスを表しているように、やがて来られるメシヤは王の王として、人々に仕えるしもべとなって人間の姿をとり十字架で死なれるまことの神であることを表しているのです。それは私たちを罪から救うためでした。全く罪のない神ご自身が、人となられ十字架に掛かって死んでくださいました。キリストは、エッサイの根株から出る新芽として、その根から出た若枝としてこの世に来てくださったのです。

皆さん、ここに救いがあります。もしかするとあなたの人生は切り倒され、何も残っていないかのような根株のような状態かもしれません。しかし、神はその根株からも新芽を生えさせ、若枝を出させ、実を結ぶようにしてくださいました。どんなに切り倒され、さげすまれても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。必ず回復させてくださるのです。

Ⅱ.若枝にとどまる主の霊(2-5)

次に、この若枝の性質について見ていきたいと思います。2~5節をご覧ください。2節には、「2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。」とあります。「主の霊」とは神の霊のこと、聖霊のことです。「それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である」とあるように、「七つの霊」として表現されています。それは主の霊であり、知恵と悟りの霊であり、思慮と力の霊であり、主を恐れる、知識の霊です。これは七つの霊があるということではなく、一つの聖霊に七つの働きがあるということです。「七」というのは聖書では完全数を表していますから、御霊は完全な方であるということを表していることもわかります。そして、イエス・キリスト、救い主、メシヤには、この主の霊、神の御霊に待たされた方でした。

イエスはルカ4章18~19節で、このように言われました。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」
また、ヨハネ3章34節には、「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」と言われました。イエスは神の霊に満たされたお方でした。

また、この方には「知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊」がありました。それは3~5節に「この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。」とある通りです。
人間は目に見えるところによってしばしば判断し、内に隠された問題や真理を見失ってしまう間違いを犯しますが、主はそのような方ではありません。表面に現れたものではなく、私たちの心を見られるからのです。また、聞きかじりの知識ではなくて、物事の本質によって判断されるからです。

たとえば、イエスのもとに姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られたとき、律法学者とパリサイ人は、モーセの律法には、こういう女を石打にするように命じているが、あなたは何と言われますか、という問いに、イエスはこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、女とイエスだけが残されたとき、イエスは彼女にこう言われました。「わたしもあなたにさばきをくださない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)
イエスはなぜそのように言われたのでしょうか?それはその女の心を見られたからです。人はうわべを見るが、主は心を見られます。この女は自分の罪にうちひしがれ、もうさばかれても当然、とんでもないことをしてしまった、取り返しのつかないことをしてしまった、罪に定められ石で打ち殺されてもしょうがないという思いを持っていたでしょう。それを十分承知のうえで、彼女は必死になって主のあわれみを求めたのです。主はその心を見られたのです。イエスは、その目の見えるところでさばかず、その耳の聞こえるところで判決を下されませんでした。それが私たちの主イエス・キリストです。

その一方で、いつまでも踏みにじられている人たち、弱い者、地の貧しい者たち、しいたげられている人たちがいますが、そういう人たちには、正義と公正をもって正しくさばいてくださいます。主が来られる時、主はこれを実現してくださいます。これこそ、ほんとうの希望ではないでしょうか。

Ⅲ.メシヤの支配(6-9)

最後に、このメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかを見て終わりたいと思います。6~9節までをご覧ください。「6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」

ここにメシヤによってもたらされる王国がどのようなものであるかが描写されています。それは一言でいえば「平和な世界」です。羊と狼、子やぎと豹が共に戯れ、小さな子どもが牛やライオンを追って行きます。乳飲み子がコブラと戯れ、まむしの巣に手を伸ばすのです。そんなことをしたら危ないじゃないですか、と心配する方もおられると思いますが、大丈夫です。主が支配する王国は、このような平和の国ですから。まるで地球全体がエデンの園のような状態に回復されるのです。この時代には弱肉強食の動物界に完全な平和が訪れることになります。そもそもアダムとエバが罪を犯す前は、弱肉強食などありませんでした。動物たちはみな草を食べていたのです。牛も、熊も、獅子も、みんな草を食べていました。草を食べるのはうさぎだけではありません。大きな熊もそうです。今でもパンダは竹を食べていますが、それは今に始まったことではありません。ずっと昔からそうなのです。それが変わったのは人間が罪を犯し、その罪の影響が人類ばかりではなく、こうした動物界をはじめ自然界全体に及んだからです。そうした世界に、完全な平和がもたらされるのです。

これは文字通りにはキリストが再臨された後の千年王国の時に実現するものです。しかしその本質である愛が支配する世界は、私たちがこの平和の王であられる主イエスを信じるとき、その瞬間に、私たちの中に始まるのです。どうしてですか?それは9節にあるように、主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからです。9節をご一緒に読みましょう。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」(9)
すばらしい御言葉ですね。「主を知ることが、海をおおう水のように地を満たすからである。」主を知ることとは、主を信じることと言っても良いでしょう。主を知ることが、主を信じる人たちが、海をおおう水のようにこの地を満たすとき、このような平和が訪れるのです。

ですから、大切なのは「主を知る」ということです。これは今年の教会の年間テーマでしたね。主を知るとは表面的に知るということではなく、主がどのような方なのかを深く知るということです。やがて世の終わりにもたらされる千年王国では、この主を知る知識がこの地を満たします。主が支配される千年間の平和な時代がやってくるのです。

しかし、それは千年王国においでだけではありません。それは既にもたらされているのです。もしあなたが主を知るなら、このメシヤによって支配される目に見えない千年王国が、私たちの心を支配し、神の平和があなたの心を満たすようになります。ルカ17章20~21には、パリサイ人たちが神の国はいつ来るのかという質問に対して、イエスはこう言われました。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
神の国はあなたがたのただ中にあるのです。ですから、イエス・キリストがいつ来られるかということよりも、いつ来られても大丈夫なように、このメシヤなるキリストを信じて、罪を赦していただき、主の再臨に備えておくことが大切なのです。それが主を知るということです。その時、神の平和があなたの心と思いを満たすでしょう。

あなたは、このエッサイの根株から出る新芽、その根から出る若枝を迎える準備が出来ているでしょうか。主はあなたを罪から救うために今から約二千年前にこの世に来てくださいました。そして十字架で死なれ、三日目によみがえられ、天に昇り、全能の父なる神の右に着座されました。あなたの救いの御業を完成してくださったのです。あなたがこのイエスを救い主として信じて受け入れるなら、神の国はあなたの中にあります。あなたは主のご支配の中で完全な愛と平和を受けることができます。そして、主が再び来られるとき、文字通り千年王国において、この愛と平和を生きることになるのです。あなたも、あなたのために来られたメシヤ、救い主、イエス・キリストを信じて、主の来臨に備えてください。これこそ本当のクリスマスの喜びと希望なのです。

神の時がある エレミヤ書27章1~22節神の時がある 

2023年11月19日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書27章1~22節(エレミヤ書講解説教50回目)
タイトル:「神の時がある」
きょうは、エレミヤ書27章からお話します。タイトルは、「神の時がある」です。私たちは、自分の欲しいものがあると、すぐにでも欲しいと願います。けれども、すべてのことに神の時があります。その時を待つことが大切です。そうするなら、ちょうど良い時に神は与えてくださいます。きょうは、そのことについて語っておられる主のことばを聞きたいと思います。
Ⅰ.縄とかせを作り、あなたの首に付けよ(1-8)
まず、1~8節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 【主】は私にこう言われた。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。3 そうして、エルサレムのユダの王ゼデキヤのところに来る使者たちによって、エドムの王、モアブの王、アンモン人の王、ツロの王、シドンの王に伝言を送り、4 彼らがそれぞれの主君に次のことを言うように命じよ。『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたは主君にこう言え。5 わたしは、大いなる力と伸ばした腕をもって、地と、地の面にいる人と獣を造った。わたしは、わたしの目にかなった者に、この地を与える。6 今わたしは、これらすべての地域をわたしのしもべ、バビロンの王ネブカドネツァルの手に与え、野の生き物も彼に与えて彼に仕えさせる。7 彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。8 バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」
1節に「ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの治世の初めに」とありますが、これは写本に書き写す際の間違いです。正しくは下の欄外の説明にあるように、「ゼデキヤ」の治世です。聖書は誤りがない神のことばですが、それは原本において誤りがないという意味で、このように非常に稀ですが写本において間違うことがあります。特に、エレミヤ書は年代順に書かれたわけではないので、書き写す際に間違えたのではないかと考えられています。なぜそこがゼデキヤなのかというと、前後の文脈をみるとわかりますが、ゼデキヤということばが何回も出てくるので、そのように読むのが自然だからです。
ゼデキヤは南王国ユダの最後の王です。彼が王の時にユダは滅ぼされバビロンの捕囚にされます。そのゼデキヤの治世の初めに、主からエレミヤに次のようなことばがありました。2節です。「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ」これは13章に「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」という命令がありましたが、それと同じように、エレミヤに行動によって預言を行なわせるものです。かせとは、二頭の牛の首にかけて農作業などをさせるくびきのことです。横木ですね。そこに縄を付けたものです。勿論、普通はそんなものを付けて歩いている人はいません。そんなものを首につけていたら、頭がおかしいのではないかと思われるでしょう。でも主はそのように命じられたのです。それによって主がご自分の思いを伝えるためです。その思いとはどんな思いでしょうか。
その思いが、3節から8節で具体的に語られます。それはユダと周辺諸国はバビロンの王ネブカドネツァルによって滅ぼされ、首にかせをかけられるようになるということです。すなわち、バビロン捕囚の民となるということです。しかしゼデキヤはエレミヤのことばを嫌って受け入れませんでした。3節にあるように、エドム、モアブ、アンモン、ツロ、シドンという5つの国々と軍事同盟を結んでバビロンに対抗しようとしたのです。彼はエレミヤのことばを信じようとしませんでした。バビロンによって滅ぼされるなんてあり得ない。自分たちは神の民である。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。だれも手を出すことはできないといった偽りの預言者たちのことばに騙されて、周辺諸国と手を組んでバビロンに対抗しようとしたのです。
でもそれは実に愚かなことでした。なぜなら、もう既にバビロン捕囚が始まっていたからです。バビロン捕囚は全部で3回行われましたが、既に第二回目が完了していました。もうすぐ三回目の捕囚が行われようとしていました。それはB.C.586年に起こることですが、エルサレムは完全に滅ぼされ、ユダの民は捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになります。それなのにゼデキヤは、その前のエホヤキンという王がバビロンの捕囚になると、バビロンによって擁立された王であるにも関わらず、ネブカドネツァルに反逆して、このような外交ルートを作ってバビロンに対抗しようとしたのです。だから主はエレミヤを通して、そのようなことをしても無駄であること、バビロンの王のくびきに服するようにと伝えるために、エレミヤにこのような格好をさせたのです
それはいつまでもということではありません。7節に「彼の地に時が来るまで」とあります。「彼の地」とはバビロンのことを指しています。それはバビロンに時が来るまでのことです。それまですべての国は彼とその子と、その子の子に仕えますが、その後で多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。どういうことかというと、その子とはネブカドネツァルの子のエビル・メロダク(Ⅱ列王25:27)のことで、そしてその子の子とはベルシャツァルのことでが、その子の子であるベルシャツァルまでの70年間は、すべての国がバビロンの奴隷となってバビロンに仕えることになりますが、その後は、多くの民や大王たちが、逆に彼を自分たちの奴隷にするということです。果たして、それがこの通りになります。バビロンの王ベルシャツァルは、メディヤとペルシャの連合軍との戦いに敗れ、彼らに服することになるのです。ここに書かれてあるとおりです。
いずれにしても、神の時があります。神の時が来たら、そのことがわかります。それまでは我慢しなければなりません。それまで耐え忍んでください。そうするなら、神はあなたに祝福をもたらしてくださいます。
メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーは有名ですが、彼はオックスフォード大学で学ぶと、最初は英国国教会の聖職者となりました。オックスフォード大学在学中に信仰熱心な友人たちとともに「ホーリー・クラブ」というクラブを作ると、これが「メソジスト」と呼ばれ、その後のメソジスト派の名前となっていきました。彼は、弟のチャールズ・ウェスレーやホイットフィールドとともに、英国にリバイバルをもたらす器となります。そのウェスレーの日記を見ると、その働きが必ずしも順調ではなかったことがわかります。
5月5日(日)午前、聖アンナ教会で説教する。もう二度と来なくてよい、と言われる。午後、聖ヨハネ教会で説教する。執事の一人に、「出て行け、ここに近寄るな!」と言われる。
5月12日(日)午前、聖ユダ教会で説教する。あそこにも、もう行かれない。午後、聖ジョージ教会で説教する。またつまみ出される。
5月19日(日)午前、聖ペテロ教会で説教する。執事が特別会議を開き、私は招かれざる客だ、と言い渡される。午後、路傍で説教する。路傍からも追い出される。
5月6日(日)午前、野原で説教する。説教中に野原に放たれた雄牛に追いかけまわされて、走って逃げる。
6月2日(日)、町はずれで説教する。道路から立ち退かされる。午後の集会、放牧地で説教する。なんと1万人もの人が来る!
(Bob Hartman, Plugged In Used by Permission from Preaching Today.com)
ジョン・ウェスレーは、実に忍耐深い伝道者でした。どんなに人々に無視され、拒絶されても、神を信じてあきらめませんでした。そして、神の時が来た時、神はそれを祝福に変えてくださいました。
ゼデキヤは、この神の時を見分けることができませんでした。8節に、「バビロンの王ネブカドネツァルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない国や王国があれば、わたしは剣と飢饉と疫病をもってその民を罰し──【主】のことば──彼の手で彼らを皆殺しにする。」とありますが、彼はバビロンに仕えず、バビロンに首を差し出さなかったので、彼の息子は虐殺され、彼自身も目をえぐり取られて殺されてしまうことになってしまいました。ここに警告されているとおりです。
主イエスは、パリサイ人たちやサドカイ人たちが、天からのしるしを見せてほしいと求められた時、こう言われました。「「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」(マタイ16:2-3)
「時のしるしを見分けることができないのですか」。時のしるしを見分けることができないと、この時のゼデキヤのようになってしまいます。今がどういう時なのかをしっかり見分けなければなりません。そのためには、いつもイエス様と親しく交わっている必要があります。日々のディボーションを通して自分の置かれている状況がどういう時なのかを見分け、神の時を待ち望みたいと思います。
Ⅱ.にせ預言者に聞き従ってはならない(9-18)
第二のことは、だから、にせ預言者に聞き従ってはならないということです。9~11節をご覧ください。「9 だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはないと言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者に聞き従ってはならない。10 彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは自分たちの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたは滅びることになる。11 しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。』」
だからエレミヤは、偽りの預言をしている者たちのことばを聞き従ってはならないと警告しています。彼らは自分たちに都合の良いことばかり主張していました。14節にあるように、「バビロンの王に仕えることはできない」と語っていたのです。なぜ彼らはそのように語っていたのでしょうか。それは、彼らがエレミヤのさばきの預言を聞いた時、神のことばに信頼しないで自分の感情、自分の思いに支配されていたからです。危機に直面したとき、感情的になるか、それとも、神のことばに信頼するかによって、正反対の結果が生じます。にせ預言者たちはエレミヤのことばを聞いて感情的になり、神のみこころに反する預言を語りましたが、そのような反応はただ滅びをもたらすだけでした。大切なのは感情的になることではなく、神のことばに信頼することです。
では、このときの神のことば、神のみこころは何だったのでしょうか。それは11節にあるように、バビロンの王に仕えることでした。11節をご一緒に読みましょう。
「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える国を、わたしはその土地にとどまらせる──【主】のことば──。こうして、人々はその土地を耕し、そこに住む。」
バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕えるとは、バビロンの捕囚の民となることです。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。これが彼らのすべきことでした。自分がとどまりたいところにとどまるのではなく、神がとどまらせたいところにとどまらなければなりません。自分が行きたいところに行くのではなく、神が行かせたいところに行かなければなりません。そうすれば、主はその土地にとどまらせてくださいます。新改訳第三版ではこの「とどまらせる」を「いこわせる」と訳しています。「その土地にいこわせる」と。それが私たちに求められていることです。そこにいこいがあります。それは、具体的にはバビロンの王のくびきに首を差し出すことです。バビロンの捕囚の民となることです。しかし、にせ預言者たちは反対のことを語っていました。そこにいこいはないと。あくまでも反バビロン同盟を組んでバビロンと戦うべきだと。バビロンの王に仕えることはできないし仕えるべきではない。あくまでも徹底抗戦すべきだと語っていたのです。でも神のみことばに逆らうなら、その身にわざわいを招くことになります。
16~18節をご覧ください。ここでは、祭司とすべての民に向けてメッセージが語られています。「16 私はまた、祭司たちとこの民全体に向かって語った。「【主】はこう言われる。あなたがたは、『見よ、【主】の宮の器は、バビロンから今すぐにも戻される』とあなたがたに預言している、あなたがたの預言者のことばに聞き従ってはならない。彼らはあなたがたに偽りを預言しているのだ。17 彼らに聞き従ってはならない。バビロンの王に仕えて生きよ。どうして、この都が廃墟になってよいであろうか。18 もし彼らが預言者であるなら、もし彼らに【主】のことばがあるなら、彼らは、【主】の宮、ユダの王の宮殿、またエルサレムに残されている器がバビロンに持って行かれないよう、万軍の【主】にとりなしをするはずだ。」
バビロンによって持ち去られた神殿の器について、にせ預言者たちは、祭司とユダの民のすべてに向かって偽りを預言していました。それらはすぐにバビロンから戻されると。でもそれはただの気休めのことばにすぎない偽りのことばでした。返還されるどころかさらに奪われる危機に直面していたからです。というのは、これが語られたのは第二回目のバビロン捕囚の直後(B.C.597年)でしたが、B.C.586年の第三回目の捕囚、これが最後の捕囚となりますが、この時エルサレムは完全に廃墟となり、そのすべてがバビロンにもって行かれることになるからです。ですから、もし彼らが真の預言者ならば、逆にそういうことがないように、主にとりなすはずなのにそういうことをせず、ただ自分たちに都合が良いこと、耳障りの良いことを語り、神の真理のことばを語りませんでした。でもたとえそれが心地よいことば、慰めのことばであっても、そういう偽りの預言に聞き従ってはなりません。
聖書には、世の終わりが近くなると、こうした偽りの預言をする者がたくさん現れるようになるとあります。イエス様は、マタイ24:11で「偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。」と言われました。まさに今はそういう時ではないでしょうか。聖書のことばを私的に解釈し、自分に都合が良いように語って多くの人を惑わす偽預言者が大勢現れています。
苫小牧福音教会牧師の水草修治先生は、「神を愛するための神学講座」という本を書いておられますが、その中で、主イエスが話された偽預言者の特徴を次のようにまとめておられます。
1.偽預言者は表面的には羊のように見えるが、中身は狼のように貪欲である。彼らは「私は偽預言者です」とは自己紹介しない。表面的にはとても良い人である。「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。」(2コリント12:13-15)
2.偽預言者は主イエスの名によって預言し、主イエスの名によって悪霊を追い出し、主イエスの名によって奇跡を行い、そういう行いが自分が真の預言者である証拠であると思っている。つまり偽預言者は教えの正しさよりも、ある種の霊的体験を優先する。イエスの名によって不思議なことをし、霊的体験を与えてくれるからといって、それが本物の預言者とはかぎらないから、むしろ警戒すべきである。教理よりも体験を重んじがちなタイプの信者は欺かれる。
3.偽預言者は、「悪い実」「不法」を行う。すなわち、彼らは表面的には「羊のなり」をしてよい人なのだが、注意深くその行動を見ると、「悪い実」をみのらせている。「悪い実」とはガラテヤ書で言えば「肉のわざ」である。「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。」(ガラテヤ5:19-21)
4.偽預言者は世の終わり(携挙・再臨)が何年何月何日に来ると予言する。だが主イエスは言われた。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35,36)
5.偽預言者による世の終わりの預言を信じた人は落ち着きを失ってしまうが、正しく聖書の終末預言を学んだ人は、神を愛し隣人を愛する落ち着いた生活をする。主が再び来られたときに、主のもとに引き上げられるのは、その日をあらかじめ知って騒ぎ立てている人ではなく、神を愛し隣人を愛し、地道に落ち着いた生活をしている人である。「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(1テサロニケ4:11)
実に、的を得た指摘だと思います。世の終わりになると、こういう預言者がはびこるようになります。ですから、私たちも注意しなければなりません。自分にとって都合が良いこと、心地よいこと、耳障りの良いことばではなく、神が語っておられる神のことばを聞かなければなりません。
Ⅲ.この場所に戻す(19-22)
最後に、19~22節をご覧ください。ここに真の預言者であるエレミヤのすばらしい預言のことばが記されてあります。
このようにバビロンに運ばれた神殿の器とエルサレムに残された器に付いて、エレミヤはこう預言します。19~22節をご覧ください。「19 まことに万軍の【主】は、神殿の柱、『海』、車輪付きの台、また、この都に残されているほかの器について、こう言われる。20 ──これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王、エホヤキムの子エコンヤ、およびユダとエルサレムのすべてのおもだった人々をエルサレムからバビロンへ引いて行ったときに、奪い取らなかったものである──21 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】は、【主】の宮とユダの王の宮殿とエルサレムに残された器について、こう言われる。22 『それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある──【主】のことば──。そしてわたしはそれらを携え上り、この場所に戻す。』」
19~20節には、バビロンに奪われずエルサレムに残された神殿の器について記録されています。「神殿の柱」とは、神殿の玄関に立てられた2本の青銅の柱のことです。「海」とは、鋳物でできた円形の器のこと。そこに海のようにたくさんの水がためられていました。「車輪付きの台」とは、洗盤を載せる青銅の台のことです。これらの物は、バビロンの王ネブカドネツァルがユダの王とエルサレムのおもだった人たちをバビロンへ引いて行ったときに、奪い取りませんでした。そのままエルサレムに残されたのです。それらのものは、バビロンへ持ち去られ、主が顧みる日まで、そこにとどめ置かれることになりますが、主はこれらの物をこの場所に戻してくださいます。
これが真の預言者のことばです。確かにエルサレム神殿は崩壊し、そこにあったすべての物はバビロンに奪い去られますが、主が顧みられる日に、これらの物をこの場所に戻してくださいます。真の預言者は良いことばかり預言するわけではありません。彼らの罪の結果、受けなければならない神のさばきを語りますが、同時に主の慰めと希望も語るのです。主が顧みられる時に、主は必ず戻してくださると。
エレミヤは、ユダの民がバビロンに捕囚とされて行く中で、やがて主がそれらをこの場所に戻すという希望のメッセージを語ったのです。それは今ではありません。それは主がそれを顧みる日まで、そこにあります。しかし、その日が満ちるとき、主はユダの民がそれらを携えて、この場所に戻すようにしてくださいます。すばらしい約束ですね。バビロンの支配は一時的であり、その期間が過ぎるとき、それは70年間ですが、バビロンに捕えられていた民が、これらの物を携えてエルサレムに帰ってくるようになるというのです。この預言は、確かに捕囚の70年後に成就しました(B.C.536年)。エズラ記1章に、そのとおりに成就したことが記録されてあります。
ここでエレミヤが預言したとおり、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから持ち出して、自分の神々の宮に置いていた主の宮の器が、運び出されました。この預言を聞いた祭司たちは、どんなに励まされたことでしょうか。将来の神殿の回復が約束されたからです。ですから、私たちは希望を失ってはなりません。必ず、神の約束が成就する時が来るからです。それは今ではないかもしれません。しかし、すべてのことに神の時があります。神のなさることは時にかなって美しいのです。神に信頼しましょう。神に信頼してこの時を待ち望みましょう。そうするなら、神は必ずあなたの人生にも良いことをしてくださいますから。

士師記2章

士師記2章

 士師記2章を学びます。

 Ⅰ.声を上げて泣いたイスラエル(1-5)

まず1~5節までをご覧ください。「さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」主の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で主にいけにえをささげた。」

 前回の箇所には、イスラエルの民が神の命令に反してその地の住民を完全に追い払わなかったので、多くの未占領地を残す結果となったことが記されてありました。その結果どうなったのかが今回の箇所に記されてあります。1節から3節までのところに、主の使いがギルガルからボキムに上って来て、神のみことばを伝えます。ギルガルはヨシュアがヨルダン川を渡って、エリコに行く前に宿営していたところです。そこを他の土地を占領するときの戦いの拠点にしました。そこからボキムに上って来てこう言ったのです。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」
 つまり、神がイスラエルの民をエジプトから上らせ、彼らの先祖に誓ったカナンの地に導き入れる時、イスラエルの民に命じた約束を彼らが守らなかったので、神が彼らの前から彼らを追い払わないだけでなく、彼らはイスラエルの敵となり、彼らの神々はイスラエルにとって罠となるということです。神がイスラエルに命じた命令とは申命記7章1~4節にあるように、主がその地の住民をイスラエルに渡すとき、イスラエルは彼らを必ず聖絶しなければならないということでした。彼らと何の契約も結んではなりませんでした。彼らにあわれみさえも示してはなりませんでした。それなのに彼らは神の声に聞き従わず、その地の住民を聖絶しませんでした。それゆえ神は彼らを追い払わず、彼らはイスラエルの敵となって彼らを苦しめることになるというのです。

 4節と5節を見てください。主の使いがこれらのことばを語ったとき、イスラエルの民はみな声をあげて泣きました。それでその場所の名は「ボキム」と呼ばれるようになりました。意味は「泣く者たち」です。そこでイスラエルの民は、神にいけにえを献げました。このようなことになったのは、イスラエルの民が神のみことばを完全に守らなかったからです。イスラエルの民が妥協して神の命令に従わず、偶像崇拝をするカナン人を完全に追い払わなかったからなのです。

 このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。どこか割り引いて神のことばを聞いてしまうということが。そして自分の首を絞めるようなことがあります。それは神が悪いのではありません。私たちが悪いのです。神がこのようにしなさいと命じても、そこまでしなくてもとか、そんなに熱心になる必要はない、信仰はほどほどがいいとか言って、徹底して従うことを嫌うのです。むしろ、そこまで従おうとする人たちはバランスを崩しているとか言って非難することもあります。しかしそれはこの時のイスラエルのようにカナン人が敵となり、彼らの神々が自分たちにとって罠となる結果となり、声をあげて泣くことになるのです。幸いな人とは詩篇1篇にあるように、主のおしえを喜びと死、昼も夜もその教えを口ずさむ人です。その人は水路のそばに植えられた木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄えるのです。

 Ⅱ.主を知らない別の世代(6-15)

 次に6~15節までをご覧ください。まず10節までをお読みします。「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。ヨシュアが葬られた記録です。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあそれで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。とに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」

この箇所は、ヨシュア記24章28~31節までの繰り返しとなっています。それでこの箇所はヨシュア記と士師記を直接結び付ける役割をしているのではないかと考えられています。その中心的なことは、ヨシュアが生きていた時と死んでからとでは、イスラエルの民はどのように変わったかということです。6節と7節には、ヨシュアが生きていた時のイスラエルの様子が描かれています。ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ自分の相続する土地を占領しようと出て行きました。彼らはヨシュアが生きていた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、主に仕えました。ところが、主のしもべヨシュアが死ぬと、10節にあるように、「彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない」別の世代が起こりました。つまりヨシュアが生きていたときは、みな主に仕えましたが、ヨシュアが死ぬと、そこには「主を知らず、主のわざも知らない」世代が起こったのです。この「知る」ということは抽象的な概念ではなく、出エジプトや、荒野での奇跡、ヨルダン渡河、さらにはエリコやアイといった町々を攻略した神の奇跡を体験したということ、つまり、彼らをエジプトから救ってくださった神が今も生きて働いているということを信じる信仰を持っているということです。なぜ彼らは主を知らず、主のわざも知らなかったのでしょうか。それはイスラエルの民がその子孫に信仰教育と歴史教育をきちんと行わなかったからです。

このことは信仰の継承について大切なことを私たちに教えています。先日、国際ギデオン協会の田村兄弟が来られ、西那須野教会の初期の頃のことを証してくださいました。初めは5人しかいなかったそうです。そうした中で福本先生が牧師として赴任して来られた時、これからは農業の時代だから農業を研修する施設を作らなければならないと、全県に農業研修の施設を作ろうとされました。その一つがアジア学院でした。ただ農業研修の施設を作ったのではありません。それを通して地域に福音を宣べ伝えていくというビジョンがありました。そのビジョンが教会の力となりました。ですからみんなでよく祈りました。ところが、あれから何十年と経って行く中でそうしたビジョンが無くなり、信仰が形骸化していったと言います。それはこの時のイスラエルのように主を知らない、主のわざを知らない世代が起こったからです。そういう世代になっても心から主を愛する人となるように教会は次世代を担うこどもたちにしっかりと信仰を継承していかなければなりません。

その結果、彼らはどのようになっていったでしょうか。11~15節までをご覧ください。「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。」

読んで字のごとくです。すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えました。彼らは、自分たちをエジプトの地から導き出された父祖の神、主を捨てて、ほかの神々を拝み、それらに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡されました。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらしたのです。
バアルとは、カナン人が当時拝んでいた神でした。農耕を行なっていたので、豊穣の神と考えられていました。そしてアシュタロテはバアルの妻であり、女神です。これも豊穣の神と考えられていました。アシュタロテについては、バビロンのイシュタル、ギリシヤのビーナスも同じ起源であるとされています。カナン人のバアルとアシュタロテ信仰は、それがみだらな性的行為と密接に関わっていただけでなく、自分の子供たちを火の中にくぐらせたり、建物の柱の中に入れたりして、いけにえとしてささげていました。主を忘れたイスラエルの子らは、こうしたバアルやアシュタロテに仕え、主の目の前に悪であることを行い、主の怒りをかい、彼らがどこへ行っても、わざわいを受けることになってしまいました。

イスラエルは初め、周囲の住民を追い払うことをせず、いわば、殺さないで共存しました。その結果、他の神々に仕え、それらを拝み、神の怒りを招くことになってしまいました。私たちも肉をそのままにしておくと、結果的にその肉に仕えることになり、神の怒りを受けることになってしまいます。コロサイ3:5に「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とある通りです。それらを殺さなければなりません。妥協してはならないのです。学校や職場で未信者と一緒にいるうちに、神を忘れて自堕落な生活に陥ってしまったということはないでしょうか。そうした未信者と一緒にいることも大切ですが、しかし、主を忘れてもろもろのバアルやアシュタロテに仕えるようなことがあるとしたら、この時のイスラエルのようにわざわいを招くことを覚えておかなければなりません。

Ⅲ.信仰の試練(16-23)

次に16~23節までをご覧ください。「そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかそれで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」の神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」

「そのとき」とは、主がイスラエルを略奪する者の手に渡されたので、彼らが大いに苦しんだときのことです。そのとき、主はさばきつかさを起こして略奪する者の手から彼らを救われました。ここでわかることは、神がイスラエルをさばかれるのは神が契約に不忠実な方であるとか、愛がないからではなく、どこまでも罪を憎まれるからです。にもかかわらず神は、罪と背信のイスラエルを滅ぼすことをせず、さばきつかさを起こして、彼らを救われました。具体的には3章から16章にかけて、14人の士師が出てきますが、そのたびに主はイスラエルを救い出されます。ところが19節を見ていただくと、そのさばきつかさが死ぬと彼らは元に戻ってしまいます。そして、先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝むということが繰り返されます。イスラエルはそうした頑なな生き方から離れませんでした。それゆえ、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らの前から異邦の民を追い払わないと言われたのです。その結果、彼らはまた苦しみ、叫び、助けを求めます。実に、背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されるのです。それはなぜでしょうか。22節には、「試みるためである」とあります。これは「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」どういうことでしょうか。

これは、3章1節にもあるように、イスラエルを試みるためでした。つまり、そのように異邦の民を残しておくことによって、カナンでの戦いを全く知らないイスラエルの民がどのようにそれを乗り越えるのかをテストするためだったのです。神はしばしばこのように私たちの信仰を試すことがあります。創世記22章1節には、神はアブラハムを試練にあわせられました。自分のひとり子イサクを主にささげなさいと命じました。考えられないことです。いったいなぜ神はそんなことを言われたのでしょうか。それは彼を試みるためでした。信仰の試練です。その命令に対して彼がどのように従うのかを試したのです。アブラハムはそのテストに合格しました。荒野の民もマナによって信仰を試されました(出16:4,申8:16)。このように私たちの信仰もしばしば試される時があるのです。神が起こされたさばきつかさは「家庭教師」のようなもので、イスラエルはその家庭教師に助けられている間だけ成績があがる不良学生のようなものでした。

私たちにもこうした異邦の民が残しておかれることがあります。しかし、それは私たちを倒すためではなく、反対に私たちの信仰を強くするためです。そのような試練の中で主はどのような方なのか、どのように偉大な方なのかを知り、この方にますますより頼む者となるためなのです。ヤコブ1章2~4節にはこうあります。「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところがない、成熟した、完全な者となります。」
また、へブル12章7~11節にもこうあります。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練をしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。・・・・すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

いったいどうやって私たちは主を知ることができるのでしょうか。残された異邦の民を通してです。その試練の中で主がどのような方なのかを知り、この方に心からより頼むことができるようになるのです。主を知らない別の世代が起こります。どんな世代が起こっても、彼らが主を知るようになるのはこの試練を通してであるということを覚え、試練が来るときには、それをこの上もない喜びと思って受け止めようではありませんか。