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士師記8章

士師記8章

 士師記8章からを学びます。まず1~9節までをご覧ください。まず3節までをお読みします。

 Ⅰ.仲間からの敵対心(1-9)

まず、1~9節までをご覧ください。まず、3節までをお読みします。「1 エフライムの人々はギデオンに言った。「あなたは私たちに何ということをしたのか。ミディアン人と戦いに行くとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。2 ギデオンは彼らに言った。「あなたがたに比べて、私が今、何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが良かったではありませんか。3 神はあなたがたの手にミディアン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べて、私が何をなし得たというのですか。」ギデオンがこのように話すと、彼らの怒りは和らいだ。」

「エフライムの人々」とは、イスラエル12部族の一つですが、彼らはギデオンに対して激しく責めました。それは、ギデオンがミディアンとの戦いに出て行ったとき、彼らに呼びかけなかったからです。このような人が意外と多くいます。たとえそれがどんなにすばらしいことでもそこに自分が関わっていないと喜ぶことができないのです。逆に、うまくいくと苦々しい思いを抱いてしまいます。それは生まれながらの肉の性質です。

それに対してギデオンは何と言いましたか。2節と3節には、「あなたがたに比べて、私が今、何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが良かったではありませんか。神はあなたがたの手にミディアン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べて、私が何をなし得たというのですか。」 とあります。
どういうことでしょうか。彼らの手柄に比べたら、自分の働きなど何でもないということです。アビエゼルとは、ギデオンが属していた家系のことです。つまり、ギデオンのぶどうの収穫よりも、エフライムの人たちのぶどうの収穫の方がずっと良かったではないか、というのです。それは何を意味しているのかというと、彼らが殺したミディアン人の二人の首長オレブとゼエブのことです。つまり、ギデオンが倒した相手よりもエフライムの人たちが殺した二人の首長たちの方が、ずっと価値があったということです。

すると、彼らの怒りは和らぎました。ギデオンは、彼らの自尊心を傷つけないように細心の注意を払ったからです。すごいですね。同胞からこんな非難をされたらすぐにカッとなってしまうところですが、彼はそうしたことに対して忍耐し、寛容な心で受け止めました。箴言15章1節にはこうあります。「柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。」彼は柔らかな答えで怒りを鎮めたのです。私たちもこうした状況の中で怒りを鎮めるというのは難しいことですが、自分の感情をしっかりとコントロールし、主に喜ばれる人間関係を求めていきたいですね。

しかし、いつもそうした態度だけが望ましいのではなく、時としては毅然とした態度で臨まなければない時があります。それが4~9節で言われていることです。「4 それからギデオンは、彼に従う三百人とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。5 彼はスコテの人々に言った。「どうか、私について来た兵に円形パンを下さい。彼らは疲れているからです。私はミディアン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです。」6 すると、スコテの首長たちは言った。「おまえは今、ゼバフとツァルムナの手首を手にしているのか。われわれがおまえの部隊にパンを与えなければならないとは。」7 ギデオンは言った。「そういうことなら、【主】が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野の茨やとげで、おまえのからだを打ちのめす。」8 ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに話した。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々と同じように彼らに答えた。9 そこでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。「私が無事に帰って来たら、このやぐらを打ち壊す。」

次に、ギデオンに心無い態度を取ったのはスコテの人々でした。スコテの人々とは、ガド族の割り当て地の中、ヨルダン川を渡ってすぐの所にあります。ギデオンは確かに大勝利を収めましたが、まだミディアン人の王ゼバフとツァルムナを追っていました。ギデオンは、彼に従う三百人とヨルダン川を渡り、かなり疲れてはいましたが、追撃を続けていたのです。そこでスコテの人々に、この三百人の兵に円形のパンを下さい、とお願いると、スコテの人々は「おまえは今、ゼパフとツァルムナの手首を手にしているのか。」と言って、その申し出を断わりました。ゼバフとツァルムナの首を手にしているのなら与えてもよいが、そうでないのに与えることなどできないというのです。たかが三百人の兵士で敵を打ち破ることができるという考えは甘い。ゼバフとツァルムナが武装していつ逆襲してくるかわからない。パンを与えるとしたら完全に敵に勝利してからであって、それまでは少しのパンでも分けてやることはできないと、見下すような態度を取ったのです。考えてみると、彼らは、デボラとバラクの戦いの時にも参戦しませんでしたが(5:15-17)、この戦いに勝算があるかどうかわからなかったからでしょう。

このように、彼らはいつも日和見的な判断に終始し神のみこころに積極的に関わろうとしないばかりか、そういう人たちを軽んじては神の民の一致を破壊していました。そのような者は、神のさばきを受けることになります。7節には、このような彼らの態度に対して、ギデオンはこう言いました。
「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野の茨やとげで、おまえのからだを打ちのめす。」
厳しいことばです。パンを与えなかっただけでどうしてこれほどのさばきを受けなければならないのでしょうか。それはただギデオンを見下げたというよりも、神を見下げたことになるからです。というのは、ギデオンをイスラエルの士師としてお立てになったのは神ご自身であられるからです。そうしたリーダーへの不平不満、非難は、神への非難であって、そのような態度には神の厳しいさばきが伴うということを覚えなければなりません。神は高ぶる者には敵対視、へりくだった者には恵みを与えられる。」(Ⅰペテロ5:5)のです。

それは、ペヌエルの人たちも同じでした。ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように言うと、彼らはスコテの人々と同じように答えました。そこでギデオンはペヌエルの人々にも言いました。「私が無事に帰って来たら、このやぐらを打ち壊す。」

ペヌエルは、かつてヤコブがエサウに会う前に神と格闘した場所です。その時ヤコブは顔と顔とを合わせて神を見たので、その場所を「ペヌエル」と名付けたのに、そのペヌエルの人たちもギデオンの要請に応じませんでした。それでギデオンによりその町は破壊され、住民は虐殺されることになりました。

Ⅱ.報復(10-21)

次に10~21節までをご覧ください。まず、17節までをお読みします。「10 ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千人からなる陣営の者もともにいた。これは東方の民の陣営全体のうち、生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていた。11 そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の、天幕に住む人々の道を上って行き、陣営を討った。陣営は安心しきっていた。12 ゼバフとツァルムナは逃げたが、ギデオンは彼らの後を追った。彼は、ミディアンの二人の王ゼバフとツァルムナを捕らえ、その全陣営を震え上がらせた。13 こうして、ヨアシュの子ギデオンは、ヘレスの坂道を通って戦いから帰って来た。14 彼はスコテの人々の中から一人の若者を捕らえて尋問した。すると、その若者はギデオンのために、スコテの首長たちと七十七人の長老たちの名を書いた。15 ギデオンはスコテの人々のところに行き、そして言った。「見よ、ゼバフとツァルムナを。彼らは、おまえたちが私をそしって、『おまえは、今、ゼバフとツァルムナの手首を手にしているのか。おまえに従う疲れた者たちに、われわれがパンを与えなければならないとは』と言ったあの者たちだ。」16 ギデオンはその町の長老たちを捕らえ、また荒野の茨やとげを取って、それでスコテの人々に思い知らせた。17 また彼はペヌエルのやぐらを打ち壊して、町の人々を殺した。」

ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約1万五千人からなる陣営の者もともにいました。すでに12万人がギデオンによって倒されていました。残されたのはたった1万五千人でした。ギデオンは果敢に彼らの天幕に上って行き、陣営を打ちました。ゼバフとツェルムナは逃げましたが、ギデオンはその後を追って行き、ついにこの二人の王を捕らえ、ヘレスの坂を通って帰って来ました。

すると、ギデオンはスコテの人々の中から一人の若者を捕らえて、スコテの首長たちと長老たちの名前を尋問したので、彼はその名前を書きました。すると、ギデオンはスコテに行き自分たちをそしった者たちと長老たちを捕らえ、荒野の茨やとげを取って、スコテの人々に思い知らせました。また彼はペヌエルのやぐらを打ち壊して、町の人々を殺しました。

18~21節です。「18それから、ギデオンはゼバフとツァルムナに言った。「おまえたちがタボルで殺した者たちはどんな人たちだったか。」彼らは答えた。「彼らはあなたによく似ていました。どの人も王子のような姿でした。」19 ギデオンは言った。「私の兄弟、私の母の息子たちだ。【主】は生きておられる。おまえたちが彼らを生かしておいてくれたなら、私はおまえたちを殺しはしなかったのだが。」20 そしてギデオンは自分の長男エテルに「立って、彼らを殺しなさい」と言ったが、若者は自分の剣を抜かなかった。彼はまだ若く、恐ろしかったからである。21 そこで、ゼバフとツァルムナは言った。「あなたが立って、私たちに討ちかかりなさい。人の勇気はそれぞれ違うのだから。」ギデオンは立って、ゼバフとツァルムナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを取った。」。

それから、ギデオンが、ゼバフとツァルムナに、「おまえたちがタボルで殺した者たちはどんな人たちだったか。」と尋ねると、彼らが「彼らはあなたによく似ていました。どの人も王子のような姿でした。」と答えたので、それが自分の兄弟であることを知り、彼らを殺します。ギデオンは自分の長男エテルに「立って彼らを殺しなさい」といいましたが、彼らは剣を抜くことができませんでした。彼はまだ若く、恐ろしかったからです。そこでギデオンが彼らを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを取りました。

Ⅲ.罠(22-35)

最後に、22~35節までを見て終わりたいと思います。まず、22~23節をお読みします。「22 イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミディアン人の手から救ったのですから。」23 しかしギデオンは彼らに言った。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。【主】があなたがたを治められます。」

ギデオンがミディアン人に完全に勝利すると、イスラエルの人々が彼にいました。「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミディアン人の手から救ったのですから。」
これはどういうことかというと、世襲制による支配のことです。政治でも政治家の世襲というのが話題になっていますが、ここでもギデオンの世襲による支配が求められたのです。
これに対してギデオンはきっぱりと断りました。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。」なぜなら、彼らを収められるのは主であられるからです。これはすごいことです。だれでも成功を収めると、それを自分の支配に置きたいと思うものです。そして、自分だけでなく、自分の子孫に継がせたいと考えるものですが、ギデオンは、そのようには考えませんでした。なぜなら、神の民を治められるのは神ご自身であられるからです。

ここに真のリーダーの姿を見ることができます。ギデオンは、イスラエルを守り導いたのは自分ではなく、神の恵みであることをよくわかっていました。だから自分が治めるのでも自分の子孫たちでもなく神が治めるべきであって、その神に目を向けさせたのです。自分の地位に執着するのではなく、そうした支配欲から解放されていたギデオンの態度は立派であったと言えます。

しかし、そんな彼にも弱さがありました。24~28節までをご覧ください。「24 ギデオンはまた彼らに言った。「あなたがたに一つお願いしたい。各自の分捕り物の耳輪を私に下さい。」殺された者たちはイシュマエル人で、金の耳輪をつけていた。25 彼らは「もちろん差し上げます」と答えて、上着を広げ、各自がその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。26 ギデオンが求めた金の耳輪の重さは、金千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、耳飾りや、ミディアンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首に掛けてあった首飾りなどもあった。27 ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって罠となった。28 こうしてミディアン人はイスラエル人の前に屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。

どういうことでしょうか?敵の部族はイシュマエル人で、金の耳輪をつける風習がありました。イスラエル人は、それらをたくさんぶんどってきていたのです。人々は、「もちろん差し上げます」と、金の耳輪をどっさり差し出しました。その重さは金千七百シェケル、約20㎏もありました。このほかにも、いろいろな飾り物類や、ミディアンの王たちが着ていた豪華な服や首飾りなどが差し出しました。

いったい何のためにギデオンはこうした物を求めたのでしょうか。27節には、「ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。」とあります。エポデとは、大祭司の装束の一部であって、胸当てのようなものであったり、占いの道具であったり、様々な形で使われたものです。大祭司でもなかったギデオンが、なぜエポデを作ろうと考えたのかはわかりません。おそらく、勝利のしるしに記念に残したかったのではないかと思います。偉そうに王様として君臨することは望まなかったギデオンでしたが、神が自分に語り、自分を通して勝利を与えてくださったことを記念に残しておきたかったのでしょう。
しかし、そのことがギデオンとその一族にとって大きな罠となりました。イスラエルの人々はみなそれを慕って、そこで淫行を行うようになったからです。つまりイスラエルの民は神の与えてくださった定めとおきてから目を背けてしまい、神に示された正しいことではなく、間違ったこと、おぞましい行いをするようになってしまったのです。
この「罠となった」という言葉は、「落とし穴となった」という意味です。第三版にはそのように訳されてあります。気づかないうちにいつのまにか深く掘られ、普通に歩いているつもりで一歩を踏み出した先に待ち受けていて人を飲み込んでしまいます。私たちは日々神に守られています。ですから、信仰によって歩むなら、神が勝利を与えてくださいます。けれども、油断してはなりません。喜びに気持ちが高ぶる時こそ、静かに祈ることが大切なのです。日々、神さまが示してくださるみことばに淡々と従い、自分や自分の過去、役割に執着しないで、いつも新しい道を示してくださる神に従うことが求められているのです。

それだけではありません。29~35節までをご覧ください。「29 ヨアシュの子エルバアルは帰り、自分の家に住んだ。30 ギデオンには彼の腰から生まれ出た息子が七十人いた。彼には大勢の妻がいたからである。31 シェケムにいた側女もまた、彼に一人の男の子を産んだ。そこでギデオンはアビメレクという名をつけた。32 ヨアシュの子ギデオンは幸せな晩年を過ごして死に、アビエゼル人のオフラにある父ヨアシュの墓に葬られた。33 ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、もろもろのバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分たちの神とした。34 イスラエルの子らは、周囲のすべての敵の手から救い出してくださった彼らの神、【主】を、心に留めなかった。35 彼らは、エルバアル、すなわちギデオンがイスラエルのために尽くしたあらゆる善意にふさわしい誠意を、彼の家族に対して尽くさなかった。」

ギデオンの支配した40年間、イスラエルは平和でしたが、彼の死後、悲劇が起こりました。彼には大勢の妻がいたため、息子が70人もいました。そのうちの一人が、国を我がものにしたいという欲望にかられ、残りの兄弟を皆殺しにしたのです。名前はアビメレクです。そればかりか、ギデオンが死ぬと、イスラエルの子らはすぐに元に戻り、あっと言う間にバアルを慕って淫行を行い、バアル・ベリテを自分の神とし、主を、心に留めることはありませんでした。

何ということでしょうか。主が、周囲のすべての敵の手から彼らを救い出してくださったというのに、また元の状態に戻ってしまったのです。いったいどうしてでしょうか?どんなに信仰の勝利を体験したとしても、そのような体験はすぐにどこかへ吹っ飛んで行ってしまうからです。大切なのは、神のみことばに従い、神の霊、聖霊に満たされ、聖霊に従って生きることです。

パウロは、このことを次のように言っています。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:24-25)
パウロはここで、キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたといっています。十字架につけたというのは、もう死んでいるということです。死んでするのですから何もすることができません。そのとき、自分ではなく神の御霊に支配されて生きることができます。それが御霊によって生きるということです。そうするなら、一時的な平穏ではなく、永続する平和を見ることができるでしょう。神は私たちにそのように歩むことを願っておられるのです。

永遠の愛をもってあなたを愛した エレミヤ書31章1~6節


聖書箇所:エレミヤ書31章1~6節(エレミヤ書講解説教55回目)
タイトル:「永遠の愛をもってあなたを愛した」
今日は、エレミヤ書31章前半から、「永遠の愛をもってあなたを愛した」というテーマでお話します。前回もお話したように、この30章と31章はエレミヤ書全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所です。30章には、ヤコブには苦難の時がやって来ますが、彼らはそこから救われるということが語られました。彼らの受けた傷は癒されがたい傷ですが、主はそんな彼らの傷を治し、打ち傷を癒されます(30:17)。主は彼らを引き裂きましたが、また、いやし、彼らを討ちましたが、また、包んでくださるのです。神の怒りの目的は、彼らをさばくことではなく、彼らの霊的な回復にあったからです。今日の箇所はその続きです。
Ⅰ.出て行って休みを得よ(1-2)
まず、1~2節をご覧ください。「1 「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」2 【主】はこう言われる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを見出す。イスラエルよ、出て行って休みを得よ。」」
1節の「そのとき──【主】のことば──わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」というのは、30章22節でも語られたことです。神との正しい関係が修復されて、回復するということです。これがキリスト教です。キリスト教はまさに神との関係です。「そのとき」とは、二重の預言を表しています。それは近い将来においては、バビロンに捕らえられたユダの民がその捕囚から回復するということであり、遠い未来においては、バビロン捕囚のような出来事、つまり想像を絶するような世の終わりの患難時代を通過したイスラエルの民が悔い改めて神に立ち返り、神との関係を回復するということです。世の終わりに、キリストが再臨される時、イスラエルの民は自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆くようになります。ゼカリヤ12章10節にある通りです。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)彼らは自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は自分たちの先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったという事実に出会い、この再臨のメシヤを通して、神に立ち返ることになるのです。「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)こうして「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束が実現するのです。すばらしいですね。彼らは神との関係を破棄しても、神は彼らを見捨てるようなことはなさいません。「そのとき」悔い改めて神に立ち返ることができるようにしてくださるのです。
2節の「剣を免れて生き残った民」とは、その患難時代を通過したイスラエルの民のことを指しています。これも二重の預言になっています。バビロン捕囚によって滅びずに生き残った人たちと、世の終わりの大患難、ヤコブの苦難から生き残った人たちのことです。ゼカリヤ3章8~9節によると、それはイスラエル全体の三分の一に相当する人たちです。彼らは荒野で恵みを見出すようになります。この「荒野」とは、黙示録12:6によると、1260日の間、すなわち患難時代の後半の3年半の間、恵みを得るように神によって養われる場所のことです。それはイザヤ63章1節によると、エドム周辺の荒野、ボツラ周辺の荒野、今のヨルダンのペトラ周辺の荒野であることがわかります。というのは、そこにこうあるからです。「エドムから来る方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を来て来る方は。」イスラエルの民は、患難を避けてこの荒野に逃れて来て、そこで恵みを見出すのです。そこで彼らは休みを得るようになります。この休みとは、たましいの救いから来る安息のことです。
それはクリスチャンも同じです。主イエスはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
イエスのもとに行くなら、たましいの救い、たましいのやすらぎを得ることができます。イエスこそわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神です。わが盾、わが救いの角、わがやぐらです。この方に身を避けるなら、私たちは剣を免れて生き残ることかでできます。荒野で恵みを見出し、出て行って休みを得ることができるのです。
あなたはどこに身を避けていらっしゃいますか。あなたが身を避けるべきところ、それは高き方の隠れ場、全能者の陰、あなたのたましいの救い主イエス・キリストです。この方のもとに身を避けるなら、あなたも恵みを見出すことができます。休みを得ることができるのです。
Ⅱ.永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した(3)
次に、3節をご覧ください。いったい神はどうしてイスラエルをそこまでして守られるのでしょうか。ここにその理由が述べられています。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」
イスラエルが守られる理由は、永遠の愛をもって、神が彼らを愛されたからです。主はこう言われます。「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」主は永遠の愛をもってあなたを愛されたので、あなたを滅ぼし尽くすことはなさらないのです。この愛は、私たちの状況によってコロコロと変わるようなものではないからです。これは「永遠の愛」なのです。永遠の愛とは、いつまでもというのは勿論のことですが、常時、継続的にという意味でもあります。継続的に愛し続けるという愛です。神の愛とはこういうものなのです。つまり、私たちがどんなに堕落しようとも、私たちが取り返しのつかないような罪を犯しても、私たちの状態とは関係なく、ずっと愛してくださるという愛です。神の愛は永遠に変わることなくあなたに注がれているのです。
一方、人間の愛はどうでしょうか。人間にはこのような愛はありません。まず人間自身が永遠の存在ではありませんから。人間は有限な存在にすぎません。口では永遠の愛を誓いますが、それは不可能です。夫婦の愛ですら永遠ではありません。天国に行ったら嫁ぐこともめとることもないと、聖書は教えています。(マタイ22:30)それはあくまでもこの地上での限られた期間においてのことであって、永遠においてではないのです。それはすべて一時的なものであり、移り変わり、やがて絶えてしまうものです。
しかし、神の愛は違います。神の愛はいつまでも続きます。ここに有名な聖書のことばがあります。結婚式では必ずといってよいほど読まれる箇所です。それはⅠコリント13章13節のみことばです。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
皆さん、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。この愛こそ神の愛、アガペーの愛、永遠の愛です。それは人間にはない愛です。そこには初めも終わりもありません。そもそも永遠には時間がありませんから、始まりとか終わりはないのです。神はこの永遠の愛をもってあなたを愛しました。神があなたを愛さなかった瞬間は、これまで一度もなかったのです。これまでもそうですし、これからもずっと、神はあなたを愛しておられるのです。
ローマ5章8節を開いてください。ここには、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」とあります。ここには、「私たちがまだ罪人であったとき」とあります。私たちがまだ罪人であったときでさえ、神はあなたを愛しておられました。ただあなたが知らなかっただけです。神はあなたがまだ罪人であったときでさえあなたを愛し、あなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。そのことによって、あなたに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのです。これ以上の愛はありません。この愛は考えられない愛です。これは私たちの考えをはるかに超えた愛なのです。
エペソ1章3~5節を開いてください。「3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」
ここにも、神がどれほどあなたを愛しておられるかが書かれてあります。それは何と世界の基の置かれる前から、キリストにあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたほどです。天地創造の前から、あなたは神に愛されていたのです。神に見出されていました。それは人知をはるかに超えた愛です。そしてパウロは、この人知をはるかに超えたこのキリストの愛を知ることかできるようにと祈りました(エペソ3:19)。これは矛盾していることです。人知をはるかに超えた愛を知ることなんてできません。それは知りようもないほどの愛なんですから。でも知ることかできます。どうやって?祈りによってです。人には理解できないこのキリストの愛を、祈りによって知ることができます。だからパウロはこう祈っているのです。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:14-19)
それは人知をはるかに超えた愛です。でも、祈りによって神が聖霊を注いでくださり、その聖霊の力によって内なる人が強められ、キリストの愛に根差し、愛に基礎を置くなら、その愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるようになります。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるようになるのです。
この愛は、ヘブル語では「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいました。それが1節のことばです。30章22節にもあります。それは「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」です。これは神がアブラハム、イサク、ヤコブと個人的に結ばれた契約ですが、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救い出され、シナイ山までやって来たとき、そこでイスラエルの民と契約を結ばれました。そこで主はこのように言われました。「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:4-6)
ここで主は、もし彼らが主の声に聞き従い、主との契約を守るなら、主は彼らをあらゆる民族の中にあって、ご自身の宝の民とされると言われました。これは、神にとって大切な財産、特別な宝、神と特別な関係と価値を有するものとなるという意味です。そればかりではありません。「祭司の王国、聖なる国民となる」と言われました。「祭司の王国」とは、イスラエルの民が神と他の民族との間の仲介者となり、全世界にいる他の民族を神に導くためのとりなしの祈り手とされるということです。また、「聖なる国民」とされるというのは、神のために特別にきよめ分たれた国民にされることを意味しています。つまり、神の民となるということです。
その結果、どうなったでしょうか。ご存知のように、イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩み、簡単に神との契約を破棄してしまいました。でも神は違います。神はどこまでも誠実な方であって、どんなことがあっても、一度約束したことを破棄することはなさらないのです。それが「ヘッセド」ということばの意味です。私たちがどんな人間であろうと、過去に何をしようと、何者であろうと全く関係なく、無条件で愛してくださるのです。それは今に始まったことはでありません。世界の基の置かれる前からです。それは愛する対象の変化によってコロコロ変わるものではありません。昔はこの人も優しかったのに、今とは全然違う。こんなはずじゃなかった。もうこんな人と一緒にいるのは嫌!私たちはそうなりますが、神様は違います。神様は対象の変化と関係なく、どこまでも愛してくださるのです。
箴言19章22節に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とありますが、私たちが求めているのはこの愛です。変わらない愛、色あせない愛、永遠の愛です。私たちはこのような愛を求めています。でも残念なことに、このような愛を人間に求めることはできません。人間の中にはこの愛はないからです。これは神にしかない愛です。でもこの神の愛、ヘッセドの愛、アガペーの愛が、あなたに注がれていることがわかるとき、あなたはこの愛に行かされるようになるのです。
あなたはこの愛で愛されているのです。それはあなたが他の人よりも頭がいいから、良い人だからではありません。優れているからでもないのです。それはただ神があなたを愛されたからです。申命記7章7~8節にこうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」
主があなたを慕い、あなたを愛されたのは、あなたがどの民よりも数が多かったからではありません。優れていたからでもない。主があなたを慕われたのは、主があなたがたを愛されたからです。またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。それは一方的な愛なのです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。
この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることかできます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができる。回復することができるのです。イスラエルも壊滅的な状況でしたが、でもこの愛によってもう一度建て直されます。もう一度神に立ち返り、やり直すことができるのです。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。
この永遠の愛をもって愛したというのは、神に対して忠実に信仰生活を送っている人にだけ語られていることばではありません。逆です。もうどうしようもない人、反逆に反逆を重ね、自ら墓穴を掘っているような人にも語られています。バビロン捕囚になったような、まさに惨めな人たちに語られているのです。そんな彼らに対して、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」と言われているのです。ですから、今、私はバビロン捕囚の憂き目にあっていますという人にも希望があることを知っていただきたいのです。勿論、罪を犯さないで生きることができるならそれに越したことはありません。極力、蒔いた種を刈り取るというようなことはしない方がいいのは当然のことです。でも、たとえ失敗したとしても、神の永遠の愛が変わらずに注がれていることを知ってほしいのです。この愛によってあなたはやり直すことができるのです。
Ⅲ.あなたは建て直される(4-6)
ですから、第三のことは、あなたは建て直されるということです。4~6節をご覧ください。「4 おとめイスラエルよ。再びわたしはあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び踊る者たちの輪に入る。5 再びあなたはサマリアの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植え、その初物を味わう。6 エフライムの山で、見張る者たちが『さあ、シオンに、私たちの神、【主】のもとに行こう』と呼びかける日が来るからだ。」」
イスラエルの民がバビロン捕囚の時もそうですが、世の終わりの患難時代の剣を逃れて生き残り、荒野で恵みを見出すことができるのは、出て行って休みを得ることかできるのは、一方的な神の愛のゆえであるということが語られました。永遠の愛をもって神が彼らを愛したので、真実の愛を尽くしつづけたので、彼らは守られることができたのです。その結果どうなったでしょうか。ここには、イスラエルに与えられる数々の祝福が列挙されてあります。
第一に、4節にあるように、彼らは「おとめイスラエルよ」と呼ばれるようになります。これはどういうことかというと、霊的姦淫を犯した淫婦ではなく、おとめ、処女とよばれるようになるということです。それは、イスラエルの罪がメシヤによって完全にきよめられるからです。第二に、4節後半にあるように、彼らは再び建て直されることになります。第三に、彼らは喜びをもって戻ってくるようになります。4節の「タンバリンで身を飾り」とは、その様子を表しています。第四に、再び彼らは安心してぶどう畑を作り、それを収穫するようになります。5節にありますね。第五に、シオン、これはエルサレムのことですが、そこが霊的に復興します。6節にあるとおりです。ここに「エフライムの山」とありますが、これは北イスラエルのことです。ここはかつてエルサレムに対抗して偶像礼拝の宮が立てられました。金の子牛です。北イスラエルの民がわざわざ南ユダ、エルサレムに上って礼拝しなくても良いように、北はダンに、南はベテルに金の子牛の偶像を造り、これがイスラエルの神だと言って拝ませたのです。北イスラエルの最初の王であったヤロブアムⅠ世の時代です。それ以来北イスラエルではずっとダンとベテルで金の子牛を拝んでいました。しかし、世の終わりに剣を免れて生き残った民は、もうその必要は全くなくなります。彼らは真の神である主イエスに立ち返り、霊とまことをもって礼拝するようになるからです。エフライムの山で見張っていた者たちが、「さあ、シオンに、私たちの神、主のもとに行こう」と呼びかけるようになるからです。」これはいわば霊的復興のことです。リバイバルです。神の愛によって大患難時代を生き残った民は、神の民として再び建て直されるのです。
これは私たちにも言えることです。永遠の愛をもって愛されている私たちも、再び建て直されます。人生をやり直すなんて無理ですと思っておられる方もいらっしゃるかもしれません。確かに過去が戻って来ることはありません。失ったものを取り戻すことはできません。でもあなたはやり直すことができるんです。神があなたを立て直してくださるからです。永遠の愛をもって、神はあなたを愛してくださいました。それはあなたも例外ではありません。この愛はあなたにも注がれているのです。神は決してあなたを見捨てることはありません。なぜなら、この永遠の愛をもってあなたを愛しておられるからです。神が結ばれた契約はどんなことがあっても破られることはありません。神は最後の最後まで、永遠にあなたを愛しておられます。だから、あなたは安心してやり直すことができるのです。神に立ち返ってください。神は再びあなたを立て直し、あなたは建て直されます。この神の永遠の愛に応答することができるように。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように。その愛が今もあなたに注がれていることを知ることかできますように。

士師記7章

士師記7章

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 Ⅰ.3百人で十分(1-8)

 まず1~8節までをご覧ください。「エルバアルすなわちギデオンと、彼とともにいた兵はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミディアン人の陣営は、その北、モレの丘に沿った平地にあった。主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。今、兵たちの耳に呼びかけよ。『だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ』と。」すると、兵のうちの二万二千人が帰って行き、一万人が残った。主はギデオンに言われた。「兵はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをより分けよう。わたしがあなたに、『この者はあなたと一緒に行くべきである』と言うなら、その者はあなたと一緒に行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたと一緒に行くべきではない』と言うなら、だれも行ってはならない。」そこでギデオンは兵を連れて、水辺に下って行った。主はギデオンに言われた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にせよ。また、飲むために膝をつく者もすべてそうせよ。」すると、手で口に水を運んですすった者の数が三百人であった。残りの兵はみな、膝をついて水を飲んだ。主はギデオンに言われた。「手で水をすすった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。」そこで三百人の者は、兵の食糧と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引きとどめた。ミディアン人の陣営は、彼から見て下の方の平地にあった。」

神のみこころを求めてしるしを求めたギデオンでしたが、主の霊に満たされ、神のみこころを確信すると、ミディアンとの戦いのために立ちあがりました。きょうの箇所には、ギデオンがどのように敵と戦ったのかが記録されてあります。

ギデオンは、ミディアン人と戦うためにハロデの泉のそばに陣を敷きました。一方ミディアン人は、その北、モレの山沿いの平野に陣を構えました。それはちょうどイスラエルが、敵の連合軍を上から見下ろす布陣です。

その時、主はギデオンに言われました。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。」イスラエルの民が多すぎるとはどういうことでしょうか?この時イスラエル兵は3万2千人でした。一方、ミディアン人の連合軍の兵力はというと、13万5千人です。どうして13万5千人であったことがわかるのかというと、8章10節にそのようにあるからです。13万5千人に対して3万2千人でも足りないのに、主はさらなる兵力の削減を求めたのです。なぜでしょうか?ここにその理由が記されてあります。それは、「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。」人は愚かにも、ちょっとでも成功したり勝利したりすると、あたかもそれを自分の手で成し遂げたかのような錯覚を持ちがちです。そのようにして主に対して誇ることがあるとしたらそれは本末転倒です。これは主の戦いであり主が勝利を与えてくれるのだから、主に栄光を帰さなければなりません。

それで主はどうされたかというと、3節です。兵士たちに呼びかけ、「だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデの山から離れよ。」と言われました。その最初のテストは「恐れおののく者」であるかどうかでした。「恐れおののく者」は帰らなければなりませんでした。なぜなら、戦いにおいて恐れおののく者は戦力にならないからです。すると2万2千人が帰って行き、1万人が残りました。

すると主は、ギデオンにこう言われました。「まだ多すぎる。」えっ、たったの1万人しかいないのにそれでもまだ多すぎるとはどういうことですか。これ以上少なくなったら戦いになりません。私たちなら思うでしょう。しかし、主のお考えはそうではありませんでした。主にとっては兵力がどれだけいるかなんて関係ないのです。主にとって大切なことは、主を恐れ、主に従う信仰の勇士がどれだけいるかということです。なぜなら、主はその兵士を用いて圧倒的な勝利をもたらしてくださるからです。

そこで、主が用いられた次のテストは、彼らを水辺に連れて行き、彼らをより分けるということでした。すなわち、ハロデの泉で水を飲む際にどのように飲むかによって分けました。すなわち、犬がなめるように、舌で水をなめる者、膝をついて飲む者は、水を飲むことに夢中になってしまい、回りの状況に全く気付かないため、敵の攻撃に対して無防備となってしまいます。そのような兵士は戦力にならないのでだめです。手で水をすくってなめた者だけが残されました。そのような者は、敵からの不意の攻撃にも備えることができます。そういう人は絶えず回りの状況を見極めつつ自分の渇きにも対処することができます。そのような兵士がよりわけられたのです。

すると、兵力は3百人に絞られました。それはまさに焼け石に水です。人間の目には何の役にも立たないかのように思われたでしょう。しかし、主はギデオンに、「手で水をすくった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。」と言われました。
そこで、ギデオンはイスラエル人をみなそれぞれ自分の天幕に送り返し、3百人だけを引きとどめました。3百人の兵力で13万5千人の陣営に攻め下るというのは無謀なことです。しかし神のみこころは、どんなことにおいても従うことが求められます。全ての勝利は神から与えられるものだからです。たとえそれが人の常識を超えたことであっても、ただ神の命令に従うことが求められるのです。

Ⅱ.勝利を与えてくださる主(9-23)

さあ、いったいどうなったでしょうか。その戦いの様子を見ていきましょう。9~23節までをご覧ください。「その夜、主はギデオンに言われた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。 もし、あなたが下って行くことを恐れるなら、あなたの従者プラと一緒に陣営に下って行き、 彼らが何を言っているかを聞け。その後、あなたの手は強くなって、陣営に攻め下ることができる。」ギデオンと従者プラは、陣営の中の隊列の端まで下って行った。ミディアン人やアマレク人、またすべての東方の民が、いなごのように大勢、平地に伏していた。彼らのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。ギデオンがそこに来ると、ちょうど一人の者が仲間に夢の話をしていた。「聞いてくれ。私は夢を見た。見ると、大麦のパンの塊が一つ、ミディアン人の陣営に転がって来て、天幕に至り、それを打ったので、それは崩れ落ちて、ひっくり返った。こうして天幕は倒れてしまった。」すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣でなくて何であろうか。神が彼の手に、ミディアン人と全陣営を渡されたのだ。」ギデオンはこの夢の話と解釈を聞いたとき、主を礼拝し、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたがたの手に渡された。」 彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせて、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもしなければならない。私と、私と一緒にいるすべての者が角笛を吹いたら、あなたがたもまた、全陣営を囲んで角笛を吹き鳴らし、『主のため、ギデオンのため』と言わなければならない。」真夜中の夜番が始まるとき、ギデオンと、彼と一緒にいた百人の者が陣営の端に着いた。ちょうどそのとき、番兵が交代したばかりであったので、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていた壺を打ち壊した。三隊の者が角笛を吹き鳴らして、壺を打ち砕き、左手にたいまつを、右手に吹き鳴らす角笛を固く握って「主のため、ギデオンのための剣」と叫んだ。彼らはそれぞれ持ち場に立ち、陣営を取り囲んだので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は陣営全体にわたって同士討ちが起こるようにされたので、軍勢はツェレラの方のベテ・ハ・シタや、タバテの近くのアベル・メホラの岸辺まで逃げた。」

主はギデオンに、「立って、あの陣営に攻め下れ。」と命じました。なぜなら、主が「それをあなたの手に渡したからです。」とは言っても、主はギデオンがそのことを恐れるということを十分承知のうえで、「もし、あなたが下って行くことを恐れるなら、あなたの従者プラと一緒に陣営に下って行き、 彼らが何を言っているかを聞け。その後、あなたの手は強くなって、陣営に攻め下ることができる。」と言われました。それは、敵陣の戦力や配置を知り、作戦を練るためではありません。ギデオンの心によぎる恐れを解消するためでした。どのようにして解消されたでしょうか?敵が陣営の中で何を言っているのかを聞くことによってです。それで、ギデオンと従者プラが陣営の中の隊列の端まで下って行くと、そこにミディアン人やアマレク人、またすべての東方の民が、いなごのように大勢、平地に伏しているのを見ました。彼らのらくだは、海辺の砂のように多くで数えきれませんでした。そしてギデオンがそこに来ると、ちょうど一人の者が仲間に夢の話をしていました。それは、「大麦のパンの塊が一つ、ミディアン人の陣営に転がって来て、天幕に至り、それを打ったので、それは崩れ堕ちて、ひっくり返った。こうして天幕は倒れてしまった。」というものでした。大麦とは貧しい人が食べるパンですが、それは貧弱なイスラエルを指し、天幕とは遊牧民のミディアン人を指していました。ほんの小さなイスラエルの群れが、いなごのようなミディアンの大群を打ち倒すというのです。主は戦う前から敵にギデオンと戦う前にそのような思いを植え付け、恐れを抱くようにしておられたのです。

それを聞いたギデオンは、主を礼拝し、イスラエルの陣営に戻って言いました。「立て。主はミディアン人の陣営をあなたがたの手に渡された。」
圧倒的な敵の兵力の前に恐れていたギデオンでしたが、主が戦ってくださると言うこと、そして、必ず勝利を与えてくださると確信したので、彼は立ち上がることができたのです。私たちも置かれた状況を見れば恐れに苛まれますが、主が顧みてくださるということがわかるとき立ち上がることができます。

昨日、さくらチャーチで創世記21章から学びました。アブラハムの下から追い出されたハガルとイシュマエルは荒野で食べ物と飲み水が尽きると、イシュマエルが死ぬのを見たくないと、一本の灌木の下に彼を放り出し、自分は弓で届くぐらい離れたところに座り、声をあげて泣きました。そのときです。神の使いは天からハガルを呼んでこう言われました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神が、あそこにいる少年の声を聞かれたのだから。立って、あの少年を起こし、あなたの腕でしっかり抱きなさい。ほたしは、あの子を大いなる国民とする。」(創世記21:17-18)
するとどうでしょう。神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけて残ました。それまでは、そこに井戸があるのに気付きませんでした。目が閉じられていたからです。
私たちも現状ばかりに気が捕らわれていると目が閉じられてしまいます。しかし、そこに主がおられるということ、そして、主が戦ってくださるということがわかるとき、主が勝利を与えてくださると確信して起き上がることができます。

さて、恐れが解消されたギデオンはどうしたでしょうか。16節をご覧ください。ギデオンは、三百人を三隊に分け、全員の手に角笛と空の壺を持たせ、その壺の中にたいまつを入れさせました。空の壺は、敵に近づくまでたいまつを隠し、近づいたところでその壺を一斉に割り、大きな音を立てるために用意したものです。そうすれば、三百人しかいないイスラエル軍が、数多くの軍隊のようにと見せることができるからです。ギデオンは三百人に武器を取って戦うようにと言いませんでした。そんなの必要なかったのです。必要なのは主が戦ってくださると信じ、ただ主の命令に従うことでした。

それは18節のことばを見ればわかります。敵はギデオンを恐れていました。すでにギデオンの名前は広まっていました。でも全陣営が角笛を吹き鳴らす時に叫ばなければならなかったのは、「主のため、ギデオンのため」ということでした。なぜなら、これは主の戦いだったからです。

19節をご覧ください。真夜中の夜番が始まるとき、ギデオンと、彼と一緒にいた百人の者が陣営の端に着きました。ちょうどそのとき、番兵が交代したばかりだったので、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていた壺を打ち壊して、「主のため、ギデオンのための剣」と叫んで、宿営に乱入しました。
するとどうでしょう。陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げて行きました。それは三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は陣営全体にわたって同士討ちが起こるようにされたので、軍勢はツェレラの方のベテ・ハ・シタや、タバテの近くのアベル・メホラの岸辺まで逃げたからです。

神への完全な信頼と、神の御業による奇跡的な大勝利です。まさにⅠサムエル14章6節にあるように、「おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」のです。
神が私たちの味方であるかどうかが勝負の分かれ目です。恐怖におののいた心では戦うことはできません。たとえ勝ち目がない戦いであっても、主が勝利を約束してくださったものは、必ずそのように導かれます。私たちは、主に信頼し、主の勝利に与る者となりましょう。

Ⅲ.エフライムへの応援の要請(23-25)

最後に、23~25節を見て終わりたいと思います。「イスラエル人は、ナフタリ、アシェル、また全マナセから呼び集められて、ミディアン人を追撃した。ギデオンはエフライムの山地全域に使者を遣わして言った。「下りて来て、ミディアン人を迎え撃て。彼らから、ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取れ。」エフライム人はみな呼び集められ、ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取った。彼らはミディアン人の二人の首長オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で殺し、ゼエブをゼエブのぶどうの踏み場で殺した。こうしてエフライム人はミディアン人を追撃したが、オレブとゼエブの首は、ヨルダン川の反対側にいたギデオンのところに持って行った。」

ミディアンの軍勢がツェレラの方のベテ・ハ・シタや、タバテの近くのアベル・メホラの岸辺まで逃げたので、ナフタリ、アシェル、全マナセが呼び集められて、ミディアン人を追撃しました。また、ギデオンはエフライム山地全域にも使者を遣わして、ミディアン人を追撃するために応援を要請しました。それは、エフライムがマナセの南に相続地を割り当てられていたので、彼らの土地を通ってミディアン人が逃げて行くのを阻止するためです。ヨルダン川の向こう側に行かれては困るので、そこで彼らを攻め取ろうとしたのです。

彼らはミディアン人の二人の首長オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で殺し、ゼエブをゼエブのぶどうの踏み場で殺しました。こうしてエフライム人はミディアン人を追撃しましたが、オレブとゼエブの首は、ヨルダン川の反対側にいたギデオンのところに持って行きました。ふたりの首長オレブとゼエブを打ち倒したことは、詩篇83篇11節とイザヤ10章26節に決定的な打撃を敵に対して与えた出来事として記されています。

こうしたナフタリ、アシェル、また全マナセもそうですが、その中には先に帰って行った人々も含まれていたことでしょう。初めは恐れがあっても、後に勇気が与えられて、再び立ち上がる人たちもいます。今だめだからもう何もできないというのではなく、神に用いられる時に備えて待ち望むことも大切です。しかし、ギデオンとあの三百人の勇士のように、主のために立ちあがり、霊的突破口を開いていく人たちが求められています。彼らのように、主が共におられるなら必ず勝利が与えられると信じて、主の戦いに勤しむ者でありたいと思います。

あなたの傷を癒される主 エレミヤ書30章12~24節


聖書箇所:エレミヤ書30章12~24節(エレミヤ書講解説教54回目)
タイトル:「あなたの傷を癒される主」
今日は、エレミヤ書30章後半から、「あなたの傷を癒される主」というタイトルでお話します。イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいます。それは近い将来においてはバビロン捕囚という出来事のことであり、遠い未来においてはヤコブの苦難と呼ばれる世の終わりに起こる7年間の患難時代のことを指しています。しかし、神はそんなヤコブ、イスラエルを見捨てることなく、赦し、救い出してくださるとおっしゃられました(30:7)。神は懲らしめを与えますが、彼らを滅ぼし尽くされることはありません。罪ゆえに大きな痛みや傷、苦しみを与えられますが、その後には赦しと救いを用意してくださるのです。いったい神はどのようにしてそれを行われるのでしょうか。
今日の箇所には、その方法が明確に記されています。それは、彼らの中から出る権力者、その支配者によってです。21節には、「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあります。いのちをかけて神に近づく者はだれでしょうか。そうです、それは神の御子イエス・キリストです。エレミヤはここで命をかけて神に近づき、民の受けるべき罰を担ってくださる方を預言しているのです。イエス・キリストによって私たちのすべての罪咎は赦され、赦しと救いを受けることができるのです。今日は、私たちのすべての傷を癒してくださる主イエス・キリストの救いについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.癒されがたい傷(12-17)
まず、12~17節をご覧ください。「12 まことに【主】はこう言われる。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。13 あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。14 あなたの恋人たちはみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、容赦なくあなたを懲らしめたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。15 なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは癒やされがたい。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために、わたしはこれらのことを、あなたにしたのだ。」
主はエレミヤを通してイスラエルの民にこう言われました。「あなたの傷は癒やされがたく、あなたの打ち傷は痛んでいる。あなたの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、あなたを癒やす者もいない。」彼らの傷は、癒されがたいものでした。彼らの訴えを擁護する者もなく、腫れものに薬を付けて、癒す者もいないからです。14節の「あなたの恋人たち」とは、同盟関係を結んでいた周辺諸国のことです。そうした同盟国もヤコブを見捨てることになるのです。彼らはあなたを忘れ、あなたを尋ねようともしません。あなたの傷をいやすことも解決することもできないのです。全く頼りになりません。それは普通の傷ではないからです。それは主が敵を打つように彼らを打ち、容赦なく彼らを懲らしめたものだからです。彼らの咎が大きく、罪が重いからです。それは罪から来る痛み、傷だからです。まさに、ローマ6:23aに「罪から来る報酬は死です。」とある通り、罪から来る報酬なのです。罪、咎から来る傷は、だれも癒すことができないのです。それは死をもたらすだけです。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23b)しかし、イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちが与えられます。この永遠のいのちは、あなたの恋人が癒すことができない傷や病すら癒すことができるのです。それが16節と17節で言われていることです。「16 それゆえ、わたしは言う。あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、捕らわれの身となって行き、あなたから略奪した者は、略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える。17 まことに、わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。──【主】のことば──まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」
主は、「わたしはあなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒やす。」と言われます。主があなたの傷を治し、あなたの打ち傷を癒されます。あなたの傷を癒すことができる人はいません。精神科医でも無理です。そこで処方される薬でも癒すことはできないのです。勿論、肉体的な病気であれば、神は薬を用いて癒すこともできますが、ここで言われている傷はそういう傷ではなく、罪から来ているものなので、人には癒すことができないのです。それは神にしかできないことです。罪を赦すことができるのは神にしかできないからです。
マルコ2章に、中風の人が癒されたことが書かれてありますね。人々が彼をイエスの下に連れて来たとき、イエスは何と言われましたか?イエスはその中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました(マルコ2:5)。イエスはなぜそのように言われたの-でしょうか?罪を赦すことができるのは神しかいないからです。神以外にだれも罪赦すことはできません。だからイエスは、彼らに罪が赦される信仰があるのを見て、そのように言われたのです。あなたを罪から救うことができるのは、あなたを永遠の滅びから救うことができるのは、イスラエルの神以外にはいません。イスラエルの救いイエス・キリスト以外にはいないのです。
使徒4章12節にはこうあります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
「この方」とは、イエス・キリストのことです。イエス・キリスト以外には、だれによっても救いはありません。この方以外には、イスラエルの同盟国であろうと、イスラエルが慕った偶像であろうと、この世のあらゆる国家権力であろうと、いかなる富であろうと、あなたを救うことはできません。私たちが救われるべき名は、人間には与えられていなからです。イエス・キリストだけが救われるべき唯一の道、真理、いのちです。イエス・キリストを通してでなければ、だれ一人、父のみもとに行くことはできないのです。
いったいなぜ主はヤコブ、イスラエルを癒してくださるのでしょうか。17節後半をご覧ください。ここに「─主のことば─まことに、あなたは『捨てられた女』、『尋ねる者のないシオン』と呼ばれた。」とあります。それは彼らが「捨てられた女」、「尋ねる者のないシオン」と呼ばれたからです。どういうことですか?これは、彼らの絶望的な状況を見た者たちあざけって言ったことばです。確かに主はヤコブの罪のゆえに懲らしめを与えられますが、滅ぼし尽くすことはなさいません。異邦人たちが神の選びの民を見下しているのを見て、決して黙っておられることはないのです。彼らの傷を治し、打ち傷を癒され、立てあがらせてくださるのです。
それは私たちにも言えることです。私たちも自分の罪、咎のゆえに神から懲らしめを受けることがあるかもしれません。それは癒されがたく、時として絶望を感じることもあるでしょう。でも私たちの神はヤコブを見捨てることなく彼らの傷を治し、打ち傷を癒されたように、私たちの罪、咎を赦し、傷を癒してくださいます。あなたを救ってくださるのです。Ⅱコリント4章8~9節にこうある通りです。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
ある方はこれを、ノックダウンすることはあってもノックアウトすることはない、と言いました。まさにその通りです。何度もノックダウンすることはあってもノックアウトすることはありません。これがイエス・キリストを信じる者に与えられている約束です。神が私たちに立てておられる計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。最後は希望です。その約束をしっかり握りしめていなければなりません。私たちに求められているのは、この信仰です。絶望と思える中にあっても、真心から主に信頼し、パウロが持っていた確信を持ち続けていただきたいと思うのです。
Ⅱ.ヤコブの回復(18-22)
次に、18~22節をご覧ください。「18 ──【主】はこう言われる──見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に建て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。19 彼らから、感謝の歌と、喜び笑う声が湧き上がる。わたしは人を増やして、減らすことはない。わたしが尊く扱うので、彼らは小さな者ではなくなる。20 その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。21 その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。──【主】のことば──22 あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」」
ここにも、近い将来における預言と遠い未来における預言が二重の預言になって語られています。「見よ。わたしはヤコブの天幕を回復させ、その住まいをあわれむ。都はその丘の上に立て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。」とは、近い将来においてはバビロン捕囚からの解放のことであり、遠い未来においては、寄留者となって全世界に散らされているイスラエルの民が、約束の地に帰還するようになることを預言しています。
「ヤコブの天幕」とは、一時的な住まいのことです。バビロンでの彼らの生活は、まさに天幕生活でした。それは外国で仮設生活をしているようなもので、不自由さがありました。しかし、祖国に帰って自宅に住むようになります。やっぱり我が家はいいなあ、落ち着くなあということになるわけです。彼らは祖国に帰り、廃墟となった場所に都を建て直し、宮殿はその定められていた場所に建つようになります。人の数も増え、大いに繁栄するようになります。もし彼らを攻撃する者があれば、主がその者たちを罰するとあるように、そこには主の守りがあるのです。
これと同じことが私たちにも言えます。私たちも地上では旅人ですが、それがいつまでも続くことはありません。この地上では肉体の衰えはもちろん、自分がしたいことではなく、したくない悪を行ってしまうという不自由さ、生きづらさというものがあります。でもそれがいつまでも続くのではありません。私たちもやがてこの地上の幕屋を脱ぎ捨てて天の住まいに帰る時がやって来るのです。そこは永遠の住まいで、感謝の歌と、喜び笑う声が沸き上がるのです。それが「天国」です。
Ⅱコリント5章1~2節にはこうあります。「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。」
 これが天の住まいです。「私たちの地上の住まいである幕屋」とは、私たちの肉体のことを指しています。この地上の住まいである幕屋は、いつか朽ちて滅んでしまいます。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。外なる人、この地上の住まいである幕屋、肉体は日々衰えていきますが、神がくださる建物は、人手によらない永遠の住まいです。決して衰えることはありません。病気になることもなく、障害を負うこともなく、老いることもなく、罪を犯すこともない完全なからだをいただくのです。そのような住まいが天に用意してあるのです。そしていつか私たちはそこへ帰ることになります。この地上の天幕を脱ぎ捨てて神の住まいを着るのです。キリストと同じ姿に復活する。そしてキリストと共に住むようになるのです。そこには感謝の歌と、喜び笑う声が沸き上がります。そのような約束が与えられているのです。すばらしいですね。
そのような祝福に導いてくださるのはだれでしょうか。21節をご覧ください。「その権力者は彼らのうちの一人、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。─主のことば─」
これは、メシヤ預言です。イスラエルの民に約束された祝福は、メシヤを通して与えられます。「その支配者はその中からでる」とあるように、メシヤはイスラエルの中から出ると言われています。これは近未来の預言では、バビロン捕囚からの解放された後に現れる権力者であり、支配者のことで、具体的にはダビデ王家の「ゼルバベル」という総督と、彼をサポートする「大祭司ヨシュア」のことです。彼らのことについては、エズラ記やゼカリヤ書に記録されてあるので、後で読んで確認しておいてください。
でも遠い未来のことで言うと、これはダビデの子イエス・キリストのことを指しています。それはここに「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。いのちをかけてわたしに近づく者は、いったいだれか。」とあることからもわかります。神に近づくことができるのは祭司と呼ばれる人たちですが、イエス・キリストは大祭司と呼ばれています。へブル4章15~16節をご覧ください。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
「私たちの大祭司」とは、イエス・キリストのことです。キリストは私たちに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じような試みを受けられました。それは私たちの弱さを知っておられるということです。ですから、私たちの最も身近な存在として、どんな時でも寄り添ってくださることができるのです。あなたの気持ちを誰よりも理解してくださる方、あなたよりももっと深い闇の中にまで下りて行ってくださったお方です。ですから、あなた以上に苦しまれた方、あなた以上に理不尽な扱いをされました。人から裏切られ、友からも裏切られました。全世界が彼の敵となりました。そして最後は十字架にかけられ死なれたのです。何一つ罪を犯さなかったのに。文字通り、イエスはいのちをかけてくださったのです。この方が私たちの大祭司としてとりなしてくださるので、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。「あなたのその罪も、過ちも、失敗も、すべてわたしが命をかけて贖った。だから、あなたは罪贖われた者として生きなさい。」と語りかけてくださる。ですから、神の裁きや懲らしめにおびえることなく、主によって救われた喜びと平安の中で生きることができるのです。
イスラエルの民は、このメシヤを通して神に立ち返るようになるのです。それが世の終わりに起こることです。22節、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」とある通りです。世の終わりに、キリストが再臨される時、イスラエルの民は、自分たちの先祖が突き刺した者を見て激しく嘆き、主に立ち返るようになるのです。そのことがゼカリヤ12章10節と黙示録1章7節にこう預言されてあります。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12章10節)
「見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。しかり、アーメン。」(黙示録1章7節)
キリストが再臨される時、全世界の人々がこの方を仰ぎ見るようになりますが、ユダヤ人にとっては、それは特に驚愕の出来事になります。それは、自分たちのために戦ってくださっている、自分たちが待ち望んでいた主、ヤハウェは、実は先祖たちが突き刺したナザレ人イエスだったということを知るようになるからです。そして、彼らは胸をたたいて悲しみ、悔い改めて神に立ち返るようになります。イスラエルのすべての人たちがイエスを救い主として信じ受け入れるようになるのです。こうして、神の約束が成就することになります。その約束とは、「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)という約束です。それがこの「あなたがたは私の民となり、わたしはあなたの神となる」という約束です。すばらしいですね。
これは、神と民との契約です。神を信じる者は、神の民となります。そして、神が私たちの個人的な神となってくださいます。これが神との関係です。これがキリスト教です。キリスト教とは神との関係なんです。この契約を結んだ者がクリスチャンです。この契約を結んだ者がイスラエルの民でした。でも、この契約は私たち人間の罪によって一方的に破棄されてしまいました。その結果、契約に違反して自らの身に呪いを招いてしまいました。
でも、神様は私たちを見捨てられませんでした。神様は最初からわかっていたのです。どんなに契約を結んでも裏切られるということを。でも神様は絶対に約束を破ることはなさいません。最後まで誠実に守られるのです。そしてその壊れた関係を修復するために、私たちに出来ないことをしてくださいました。それがイエス・キリストです。神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に送り、その契約違反の罪をこの方に負わせて、十字架につけてくださったのです。未だかつてだれも見たこともない、聞いたこともない驚くべき方法によって、神は人類に救いの道を与えてくださったのです。私たちはそのことによって救われたのです。
Ⅲ.神に立ち返れ(23-24)
ですから、第三のことは、神に立ち返れ、ということです。23~24節をご覧ください。「23 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。渦巻く暴風が悪者の頭上に荒れ狂う。24 【主】の燃える怒りは、去ることはない。主が心の思うところを行って、成し遂げるまでは。終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」
24節に「終わりの日に」とあるので、ここでも世の終わりの患難時代のことが語られていることがわかります。それは、キリストを拒絶する者に対する神の怒りが注がれる時です。ヤコブの苦難と呼ばれているものです。それがここでは「主のつむじ風」とか、「渦巻く暴風」ということばで表現されています。これらは、終末にイスラエルの民を襲う患難の激しさを描写しています。主の燃える怒りは、去ることはありません。主が心の思うことを行って、成し遂げるまでは。つまり、その暴風は途中で止むことなく、主が命じたことを最後まで成し遂げるということです。患難時代がいかに困難なものであるかがわかります。しかし、神の怒りの目的は、イスラエルを滅ぼすことではなく、イスラエルを悔い改めに導くことでした。それが、「終わりの日に、あなたがたはそれを悟る。」とあることです。そして、31章1節の、「そのとき、主のことば、わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる」ということです。これは22節でも語られたことですが、ここでもう一度語られています。実はこの31章1節のことばは30章に含まれることばです。つまり、そのとき、イスラエルは神の懲らしめの意味を悟り、主に立ち返るようになるということです。つまり、神の怒りの目的が、イスラエルの霊的な回復であったことが明らかになるのです。それは預言者ホセアが預言していることでもあります。「1 さあ、【主】に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。3 私たちは知ろう。【主】を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:1-3)
このことから言えることは、私たちの人生において遭遇する患難、苦難は、危機であると同時に主に立ち返るチャンスの時でもあるということです。ですから、今もし苦難に会っている方がおられたら、それを通して神が何を語っておられるのかを聞かなければなりません。その苦難がチャンスに変えられるように祈らなければなりません。あなたが神に立ち返り神との関係の回復を望むなら、神はいくらでもやり直しの機会を与えてくださいます。回復を与えてくださるのです。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)
その脱出の道こそ、悔い改めて、神に立ち返ることです。そうするなら、神はあなたとの関係を修復してくださり、燃える神の怒りから、あなたも救われるのです。今がそのとき、今が恵みの時、今が救いの日です。そのとき、あなたは神の怒りではなく、神の赦しと救いをいただき、あなたの傷も完全に癒されることになるのです。

士師記6章

士師記6章

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 Ⅰ.主の声に聞き従わなかったイスラエル(1-10)

 まず1~10節までをご覧ください。「1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行った。そこで、主は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。2 ミディアン人の勢力がイスラエルに対して強くなったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟や洞穴や要害を自分たちのものとした。3 イスラエルが種を蒔くと、いつもミディアン人、アマレク人、そして東方の人々が上って来て、彼らを襲った。4 彼らはイスラエル人に向かって陣を敷き、その地の産物をガザに至るまで荒らして、いのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばもイスラエルに残さなかった。5 実に、彼らは自分たちの家畜と天幕を持って上り、いなごの大群のように押しかけて来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。彼らは国を荒らそうと入って来たのであった。6 こうして、イスラエルはミディアン人の前で非常に弱くなった。すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。
7 イスラエルの子らがミディアン人のゆえに主に叫び求めたとき、8 主は一人の預言者をイスラエルの子らに遣わされた。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

 デボラとバラクによって四十年の間、穏やかだったイスラエルでしたが、彼らは再び主の目に悪であることを行いました。せっかく主がカナン人の王ヤビンの支配から解放してくださったというのに、再び主の目に悪を行ったのです。これが人間の姿です。どんなに偉大な主の御業を見ても、それをすぐ忘れてしまい、自分勝手な道に歩もうとするのです。

そこで、主は七年間、彼らをミディアン人の手に渡されました。ミディアン人の勢力があまりにも強かったので、イスラエル人はミディアン人を避けて、山々にある洞窟やほら穴や要害に住むことを余儀なくされました。
イスラエル人がどんなに種を蒔いても、いつもミディアン人やアマレク人がやって来て、彼らを襲ったので、イスラエルにはいのちをつなぐ糧も、羊も牛もろばも残っていませんでした。5節にあるように、彼らはすなごの大群のように押しかけて来たので、そんな彼らの前にイスラエルは何の成す術もなかったからです。

こうしてイスラエル人はミディアン人の前に非常に弱くなりました。それでイスラエルはどうしたかというと、「イスラエルの子らは主に叫び求めた。」(6)これが士師記に見られるサイクルです。イスラエルが主の目の前に悪を行うと、神は敵を送り彼らを懲らしめられるので、苦しくなったイスラエルは主に叫び求めます。すると主は彼らにさばきつかさ、士師を遣わしてそこから救い出してくださり平穏をもたらされます。しかし、それでイスラエルの民が気が緩み再び主の目に悪であることを行うと、主はまた彼らに強力な敵を送り彼らを苦しめられます。それでイスラエルは主に叫び求めるのです。その繰り返しです。

この時もそうでした。彼らがミディアン人によって苦しめられ非常に弱くなったので主に叫び求めると、主はどのように答えてくださいましたか?8~10節をご覧ください。「8イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、9 エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。10 わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」
どういうことでしょうか?彼らは今、ミディアン人によって圧迫されているので主に叫んでいるのに、主の使いは、かつてイスラエルがエジプトの奴隷の家から解放されたことと、その後約束の地を彼らに与えてくださったことを思い起こさせています。それは彼らがこのようにミディアン人によって圧迫されている原因がどこにあるのかを告げるのです。それは、「あなたがたが住んでいる地のアモン人の神々を恐れてはならない」と言われた主の声に、彼らが聞き従わなかったことです。つまり、主との契約を破り自分勝手に歩んだことが原因だったと言っているのです。「わたしは主、あなたがたの神である。」主がついているならどんな敵も恐れることはありません。主は全能の神であってどんな敵も討ち破られるからです。それなのに彼らは目の前のアモリ人を恐れ、主を忘れてしまいました。それが問題だったのです。彼らはまずこのことをしっかり受け止めなければならなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも何か問題が起こったり、置かれている状況が悪くなったりすると、その問題の原因をどこか別のところに持っていこうとしますが、その原因は他でもない自分自身にあることが多いのです。自分が神様に背いているために起こっているのに、そのことになかなか気づきません。イスラエルは主の御声に聞き従っていませんでした。それが問題だったのです。

Ⅱ.ギデオンの召命(11-16)

それで主はどうされたでしょうか。そこで主はイスラエルに五人目の勇士を送ります。だれですか?そうです、ギデオンです。11~16節までをご覧ください。ここには、主がギデオンを士師として召されたときの様子が描かれています。「11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。12主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」13 ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」14 すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」16主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」

11節にある「ぶどうの踏み場」とは、酒ぶねのことです。ぶどうの実を足で踏みつぶして、ぶどうの汁を出しました。ギデオンはそこで小麦の脱穀を行なっていました。ミディアン人に見つかるとみな荒らされてしまうので、彼らに見つからないようにこっそりと、静かに小麦を脱穀していたのです。彼もまた他のイスラエル人同様、ミディアン人を恐れていました。ギデオンという名前を聞くと、学校やホテルなどで聖書を配布している「ギデオン協会」のことを思い浮かべる人も多いのではないかと思いますが、実は、彼は臆病で、敵に対してびくびくしているような小さな存在でした。

そんな彼を主はご自身の働きへと召されました。12節をご覧ください。主の使いが彼のところに現れて「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」と告げました。ギデオンは、これはいったい何のことかと思ったでしょうね。全く考えられないことです。敵を恐れて隠れているような者ですよ。そんな臆病な者が大それたことができるわけがありません。

それでギデオンは御使いに言いました。13節です。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」
これはどういうことかというと、主がともにおられるのであれば、なぜこのようなことが起こったのかということです。確かに過去においてエジプトで主が行なってくださった偉大な御業のことは聞いています。ではなぜそのような御業を私たちには行なってくださらないのですか。主がともにおられるのなら、こんなはずがありません。これは主がともにおられないということの確たる証拠ではありませんか。
このような疑問はだれでも抱きます。神がともにおられるのなら、どうして主はこのようなことを許されるのかと。しかしそれは主がイスラエルを捨てたからではなく、イスラエルが主を捨て自分勝手に歩んだからです。だから、主は敵の手の中に彼らを引き渡さざるを得なかったのです。

すると主は何と仰せになられたでしょうか。14節です。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
すると主は、ギデオンの疑問に一切答えることをせず、「行け。あなたのその力で。」と言われました。どういうことでしょうか。それは、彼の力が強かろうが弱かろうが、そんなことは全く関係ないのであって、彼に求められていたことは、主の命令に従って出て行くということでした。なぜなら、主が彼を遣わされるからです。主が遣わされるのであれば、主が最後まで責任を取ってくださいます。むしろ、「私が、私が」という人はあまり用いられません。神様の力が働きにくくなるからです。大切なのは自分にどれだけ力や能力があるかということではなく、自分を遣わしてくださる方がどのような方であり、その方が自分とともにいてくださるという確信です。

それに対してギデオンはどのように応答したでしょうか?15節をご覧ください。「ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」自分にはできないという言い訳です。
モーセもそうでした。モーセは、イスラエルの子らをエジプトから救い出せ、との命令を神から受けたとき、「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに生き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト3:11)と言いました。とても無理です。だれか別の人を遣わしてくださいと言いました。その時主は彼に「あなたの手に持っているものは何か。」と言って、その杖を地に投げるように命じられました。するとそれは蛇になりました。続いて主は、「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と命じると、それは手の中で杖になりました。それは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が彼に現れたことを、彼らが信じるためでした。
するとモーセは何と言ったでしょう。「ああ、わが主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が思いのです。」(出4:10)と言いました。言い訳です。最初からそんなに流暢に語れる人なんていません。また、語れるからといって、必ずしも神のことばを語れるとは限りません。問題は、だれが語るのかということです。語るのはモーセではなく神です。そのことを示すために主はモーセにこう言いました。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。」(4:11)
それでもぐずくずしているモーセに対して主は、彼の兄アロンを備えてくださいました。アロンは雄弁なので、彼に語り、彼の口にことばを置け、というのです。そこまでして神はモーセを励まし、ご自身の働きに遣わしてくださいました。
ギデオンも同じです。彼は、自分がマナセの中で最も弱く、彼の父の家で一番若いということを理由に、とても自分にはイスラエルを救うことなんてできないと言ったのです。

すると主は何と言われたでしょうか。16節をご覧ください。「主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」
主は彼とともにいるので、彼はあたかも一人の人を倒すようにミディアン人を打つ、というのです。主がともにおられるなら、一人を打つように敵を打つことができます。大切なのは、あなたがどのような者であるかということはではなく、あなたはだれとともにいるのかということです。主がともにおられるなら、あなたは敵を打つことができます。あなたがどれほど小さいく、弱い者であっても、あなたは敵に勝利することができるのです。

Ⅲ.しるしを求めたギデオン(17-40)

それに対してギデオンはどのように応答したでしょうか。彼はそれでも安心できず、自分と話しておられる方が主であるというしるしを求めます。17~24節までをご覧ください。「17 すると、ギデオンは言った。「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。18 どうか、私が戻って来るまでここを離れないでください。贈り物を持って来て、御前に供えますので。」主は、「あなたが戻って来るまで、ここにいよう」と言われた。
19 ギデオンは行って、子やぎ一匹を調理し、粉一エパで種なしパンを作った。そして、その肉をかごに入れ、また肉汁を壺に入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て差し出した。20 神の使いは彼に言った。「肉と種なしパンを取って、この岩の上に置き、その肉汁を注げ。」そこで、ギデオンはそのようにした。21 主の使いは、手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種なしパンに触れた。すると、火が岩から燃え上がって、肉と種なしパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。22 ギデオンには、この方が主の使いであったことが分かった。ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」23 主は彼に言われた。「安心せよ。恐れるな。あなたは死なない。」24 ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。」

ギデオンは、自分と話しておられる方が主であることを確認するために、また、主が彼とともにおられるということの確信を得るためにしるしを求めました。すると主の使いは、子やぎ一匹を調理し、粉一エパで種なしパンを作り、また肉汁を壺に入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来るように命じました。そしてその肉と種なしパンを取って岩の上に置き、その肉汁を注ぐようにと言ったのでそのとおりにすると、主の使いは、手にしていた杖の先を伸ばし肉とパンに触れました。すると火が岩から燃え上がり肉と種なしパンを焼き尽くしたので、この方が主の使いであることがわかりました。

彼はそのことがわかったとき、こう言いました。「ああ、神、主よ。私は顔と顔を合わせて主の使いを見てしまいました。」
ギデオンは、主を見たことを恐れました。なぜなら、主を見る者は殺されなければならなかったからです。(出19:21,33:20)けれども、主は「安心しなさい」と言われました。それでギデオンは、そこに主のための祭壇を築き、「アドナイ・シャロム」と名付けました。意味は「主は平安」です。主は、ギデオンが平安を求めたとき、平安を与えてくださいました。主は平安を与えてくださる方なのです。

するとその夜、主はギデオンに言われました。25節、26節です。「25 その夜主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛で、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を壊し、そのそばにあるアシェラ像を切り倒せ。26 あなたの神、主のために、その砦の頂に石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のささげ物を献げよ。」
どういうことでしょうか?イスラエル人たちは、主とともにバアルやアシェラ像を拝んでいました。あるときは主を礼拝し、そしてまたある時はバアルを拝んでいたのです。その祭壇を壊しなさい、というのです。そして、あの第二の雄牛を取り、その壊した偶像の木で全焼のいけにえとして献げるように、と言われたのです。それは主なる神がバアルやアシェラといった偶像とは違い、はるかに力ある方であることを示すためでした。

ギデオンはどうしたでしょうか?27節をご覧ください。ギデオンは自分のしもべの中から10人を引き連れて、主が言われたとおりにしました。しかし、彼は父の家の者や町の人々を恐れたので、それを昼間ではなく夜に行いました。どんなに主がともにおられるということがわかっていても、そんなことをしたら殺されるのではないかと思うと、恐れが生じたのでしょう。しかし、主はそんな弱いギデオンさえも用いてくださいました。
それがどれほどの怒りであったかは28節から30節までを見るとわかります。町の人々は、「だれがこのようなことをしたのか」と調べて回り、それがギデオンであるということがわかったとき、父親のヨアシュにこう言いました。「おまえの息子を引っ張り出して殺せ。あれはバアルの祭壇を打ちこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」

すると、ギデオンの父ヨアシュは自分に向かって来たすべての者に言いました。「あなたがたは、バアルのために争おうというのか。あなたがたは、それを救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺される。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が打ち壊されたのだから、自分で争えばよいのだ。」
これはどういうことかというと、なぜあなたがたはバアルのために争おうとするのか、バアルが神であるなら、どうして我々がバアルを救ってあげなければならないのか、おかしいではないか、そんなの神ではない。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が壊されたんだから、自分で争えばいいのであって、そのために我々が争うというのはおかしい、ということです。

よく考えてみると本当におかしな話です。神は我々を助ける存在なのに、我々に助けてもらわなければならないというのは。でも、このような変なことを比較的多くの人々が何の矛盾も感じることなく信じています。偶像の神々は、我々が守らなければ壊されてしまうようなはかないものなのであって、そのようなものが神であるはずがありません。神はわれわれが守ってあげなければならないような方はなく、我々をはじめ、この世界のすべてを創造され、我々をいつも守ってくださる方なのです。こうして、その日、ギデオンの父ヨアシュは、「バアルは自分で彼と争えばよい。なぜなら彼はバアルの祭壇を打ち壊したのだから」と言って、ギデオンをエルバアルと呼びました。

33~35節をご覧ください。一方、ミディアン人やアマレク人、また東方の人々が連合してヨルダン川を渡り、イズレエルの平野に陣を敷いたとき、主の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従いました。またギデオンはマナセの全域にも使者を遣わしたので、彼らもまた、ギデオンに従いました。その他、アシェル、ゼブルン、ナフタリも上って来て合流しました。

なぜこんなに大勢の人々が集まってきたのでしようか。それはギデオンに力があったからではありません。34節にはこうあります。「主の霊がギデオンをおおったので」。主の霊がギデオンをおおったので、多くの人々が彼に従ったのです。つまり、主の霊によってギデオンが戦うと決断したので、多くの人々がつき従ったのです。私たちも時としてなかなか決断できない時がありますが、そうした決断さえも主が与えてくれるものです。ギデオンのように主がともにおられるなら、主の霊が彼をおおったように私たちをもおおい、そうした決断も与えてくれるのです。

36~40節までをご覧ください。「36 ギデオンは神に言った。「もしあなたが言われたとおり、私の手によってイスラエルを救おうとされるのなら、37 ご覧ください。私は刈り取った一匹分の羊の毛を打ち場に置きます。もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら、あなたが言われたとおり、私の手によって、あなたがイスラエルをお救いになると私に分かります。」38 すると、そのようになった。ギデオンが翌日朝早く、羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一度だけ言わせてください。どうか、この羊の毛でもう一度だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りるようにしてください。」40 神はその夜、そのようにされた。羊の毛だけが乾いていて、土全体には露が降りていたのであった。」

ここにきてギデオンは、主にもう一つのしるしを求めました。それは、本当に主が言われたとおり、主は自分の手によってイスラエルを救おうとしておられるのかを知るためでした。そこで彼は、羊一頭分の毛を打ち場に置き、もしその羊の毛だけに露が降りていて、土全体が乾いていたら、主が言われたとおり、自分の手によってイスラエルをお救いになるということです。
すると、そのようになりました。それはちょっとの露ではありませんでした。鉢がいっぱいになるほどの水でした。

するとギデオンは、再び主に言いました。その羊の毛でもう一度だけ試させてください、と。今度はこの羊の毛だけが乾いていて、土全体に露が降りるようにしてくださいと言ったのです。するとそのようになりました。神はその夜、そのようにされたのです。
いったいなぜギデオンは何度もしるしを求めたのでしょうか。これはギデオンが不信仰だったからではありません。34節には、彼は主の霊におおわれていたとあります。主が彼とともにおられることはわかっていました。しかし、その戦いが本当に主から出たものなのかどうかを確かめるためでした。私たちも主の働きを行なうとき、はたしてこれは自分の思いから出たことなのか、それとも神のみこころなのかがわからなくなることがあります。そのようなときに、それが神のみこころであると確信することは大切です。ギデオンが主のみこころを求めて祈ったように、私たちも主のみこころを求めて慎重に祈り求めていくことが認められているのです。

主イエスは言われました。「7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)
これは私たちにも求められていることです。私たちは、主のみこころを求めてもっと祈るべきです。求めるなら与えられます。ギデオンは主に確信を祈り求めた結果、その確信を得ることができました。だからこそ彼は、大胆に出て行くことができたのです。私たちも主のみこころを求めて求めましょう。探しましょう。たたきましょう。そうすれば、主は与えてくださいます。それによってもっと大胆に主の御業を行うことができるのです。

だが、ヤコブはそこから救われる エレミヤ書30章1~11節だが、ヤコブはそこから救われる 

聖書箇所:エレミヤ書30章1~11節(エレミヤ書講解説教53回目)
タイトル:「だが、ヤコブはそこから救われる」
今日は、エレミヤ書30章からお話します。今日のメッセージのタイトルは、「だが、ヤコブはそこから救われる」です。7節から取りました。ここには「だが、彼はそこから救われる」とあります。「そこから」とは、その前に「それはヤコブには苦難の時」とあるように、苦難から救われるということです。ヤコブ、イスラエルは、その日大いなる苦難を受けますが、彼らはそこから救われるのです。それは私たちクリスチャンへの約束でもあります。私たちも患難を受けますが、そこから救われるのです。何という慰めに満ちた約束でしょうか。
前回もお話したように、エレミヤ書は29章から33章までが全体の中心部、まさに心臓部に当たる箇所となります。29章10節には、バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダの民、イスラエルを顧みて、いつくしみを施し、彼らを祖国に帰らせるとありましたが、この30章には、それが具体的にどのようになされるのかが語られます。
Ⅰ.その時代が来る(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 イスラエルの神、【主】はこう言われる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。3 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」」
主はエレミヤに、「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。」と言われました。書き記す内容は、主がエレミヤに語ったすべてのことばです。それはエレミヤ書全体を指しますが、特に30章と31章の内容となります。そして、その中心的な内容がこの3節のことばです。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」
ここでは、「見よ、その時代が来る」とか「そのとき」ということばが強調されています。新改訳第3版では、どちらも「その日」と訳しています。このように、聖書に「その時代」とか「その日」という表現がある時は、未来のことを預言する時に使われています。つまり、ここでは山が何重にも重なって見えるように、バビロン捕囚からの回復と同時に世の終わりに起こることが二重の預言として語られているのです。神はエレミヤに近い将来に起こることだけでなく、遠い未来に起こることも見せてくださいました。近い将来に起こることとは、70年間のバビロン捕囚からの解放のことです。彼らはバビロン捕囚から解放され、神がその父祖に与えた地に帰ることができるようになります。そればかりか、遠い未来においては、全世界に離散したイスラエルの民が祖国に帰還し、そこを所有するようになるというのです。
ここには「イスラエルとユダ」とあります。当時イスラエルは統一国家ではなく、北と南に分かれていました。北王国イスラエルと南王国ユダです。この時、北王国イスラエルは既にアッシリヤ帝国によって滅ぼされていました。B.C.722年のことです。それで北王国イスラエルの民はアッシリヤの捕囚となったり、周辺の国々に避難して行きました。いわゆる離散の民となったのです。これを何というかというと「ディアスポラ」と言います。「離散の民」です。その後、バビロンという新興国が起こりアッシリヤ帝国を呑み込むと、今度はそのバビロンが南王国ユダを滅ぼしました。しかし、ユダの人たちはバビロン捕囚となっても70年後には必ず祖国に帰れると預言されていて、それがB.C.539年に実現します。しかし、北イスラエルの民はアッシリヤによって滅ぼされて以来、世界中に散らされたままになっていますが、その北イスラエルの民も祖国に帰るようになるというのです。
果たして、それが実現することになります。いつですか?ここには「その日」とあります。それは驚くことなかれ、今私たちが生きているこの時代に起こったのです。1948年5月14日に、イスラエルは国連によって独立国家として認められたのです。それは1900年ぶりの奇跡でした。A.D.70年にローマ帝国の属国となっていたイスラエルは、ローマの激しい迫害によって国を失うと、世界中に散らされて行きました。それで北イスラエルだけでなく南ユダも離散の民となるのです。しかし、1800年代後半頃から世界中に離散していたイスラエルの民が急速に戻り始めると、これをシオニズム運動と言いますが、第一次世界大戦でトルコが負けイギリスの統治下に置かれ、第二次世界大戦を経て奇跡的に国として再興を果たすのです。信じられないことが起こりました。1900年の時空を超えて、神は再びイスラエルとユダを祖国に帰らせたのです。それは世界中の誰もが目を疑うような出来事でした。1900年もの間世界中に散らされていた民族が、再び祖国を取り戻したというような話など聞いたことがありません。でもそれが実際に起こったのです。それはどういうことかというと、今は世の終わりの時でもあるということです。
マタイ24章には、世の終わりにはどのようなことが起こるのかその前兆となることを、イエスが弟子たちに話されましたが、世の終わりになると、戦争や戦争のうわさを聞くようになると言われました。飢饉と地震が起こります。偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。もうこれだけでも、現代が世の終わりに限りなく近いことがわかります。でも、イエスは、このようなことが起こってもうろたえないようにしなさいと言われました。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではないからです。世の終わりの前には世界中に散らされた選びの民が再び集められるようになるからです。
ですから、イエスはこう言われたのです。「人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」(マタイ24:31)
「選びの民」とはイスラエルの民のことです。世の終わりになると、神は選びの民であるイスラエルを集められます。これはエレミヤ書29章と30章で預言されていることです。そのことがここで預言されているのです。ですから、32節にこう言われているのです。「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出てくると、夏が近いことがわかります。」(マタイ24:32)
いちじくの木は、イスラエルのシンボルです。そのいちじくの木の枝がやわらかくなって葉が出てくるということは、イスラエルが復興するということです。そのようになると夏が近いことがわかります。夏とは、いちじくの実を収穫する時、すなわち、イエスが再び来られる時のことです。その前にイスラエルの民が再び集められるのです。これらのことをすべて見たら、人の子が戸口まで近いことを知りなさいと、言われたのです。それが起こったのです。1948年に。ということは、もうイエスの再臨、世の終わりがすぐそこまで来ているということです。世の終わりのカウントダウンが始まったのです。私たちはそういう時代に生きているのです。
でも、まだイエスは再臨していないじゃないですか。あれからもう70年が経っていますよ。それなのにそれが実現してないのは、聖書には誤りがあるということですか?あるいは、聖書は信頼に値しない書物であるということですか?そうではありません。本来であれば、もういつ来てもいいのです。ただ、そうされなかったというだけです。それは一重に神が忍耐しておられるからです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるからです。もしその時にイエスが再臨されすべての悪を一掃されたとしたらどうでしょう。ここにいる多くの人たちは救われなかったでしょう。でも神はひとりも滅びることを望んでおられないので、未だに時を延ばしておられるのです。しかし、それはいつまでも続くものではありません。それはもうギリギリのところまで来ています。それがまだ来ていないというだけのことです。もうすぐ起こります。神のことばはすべて必ず実現するからです。神の民イスラエルとユダは回復し、父祖たちに与えた地に帰り、それを所有するようになるのです。今はどんなに荒れ果てていても、必ず回復するのです。
これは慰めではないでしょうか。それが私たちにも与えられている約束です。神が私たちに立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。最後は希望なのです。必ず回復の時が来ます。この約束を信じて、神とそのことばに希望を置く者でありたいと思います。
Ⅱ.ヤコブには苦難の時(4-7a)
次に、4~7a節をご覧ください。「4 【主】がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。5 まことに【主】はこう言われる。「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ。平安がない』と。6 さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。7 わざわいだ。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。」
ここには、その時どんなことが起こるかが書かれてあります。それが「ヤコブの苦難」です。ここも二重の預言になっています。「その日」とか「大いなる日」とあるからです。聖書においてこのことばが使われる時は、例外なしに終末時代を指しています。これは近い将来においてはバビロン捕囚によって成就しますが、遠い未来においては世の終わりの患難時代に起こることを指しています。
その日には大いなる患難が襲ってきます。5節には「恐れてわななく声」とか「恐怖だ。平安がない声」とありますが、それはまさにそのことを表現しています。男に子が産めるはずがないのに「男に子が産めるか、尋ねてみよ」とあるのは、男が産婦のように産みの苦しみをするようになるということです。私は痛風の痛みしか経験したことがありませんが、人間にとって最も激しい痛みは子どもを出産する時の痛み、産みの苦しみだそうです。その日には、男も激痛で腰に手を当て、顔が青ざめるようになります。実にその日は大いなる日で、他に比べようもない日なのです。前代未聞の日です。それはバビロン捕囚の比どころではありません。もっと恐ろしい、もっと激しい苦難が襲うようになるのです。それが世の終わりに起こる患難時代です。それがここでは「ヤコブには苦難の時」と言われています。ヤコブとはイスラエルのことです。イスラエルは世の終わりに激しい患難時代を通るようになるということです。それはバビロン捕囚のように苦痛が伴うものですが、それとも比較できないほどの苦痛、まさに陣痛のように激しい痛みが伴うのです。ゼカリヤ書によると、「その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る」(ゼカリヤ13:8)と言われています。これは反キリストの迫害によって世界中のユダヤ人の三分の二が死に絶えるということです。第二次世界大戦時に、あのヒトラーによって約600万人のユダヤ人が虐殺されましたが、それは全世界のユダヤ人の三分の一でした。ですから、それ以上の患難が襲うということです。私たちはあのホロコーストの悲劇を知っています。あれほど恐ろしいことがあるかと思うほど恐ろしいことですが、世の終わりにもたらされる患難はそれ以上のもの、もっと恐ろしい患難です。それがユダヤ人を襲うことになるのです。これが黙示録6~19章に描かれている内容です。黙示録6章16~17節には、それがあまりにもひどい患難なので、地の王たち、高官たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞窟と山の岩間に身を隠し、山々や岩に向かってこう叫ぶほどです。
「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」
このことについては、イエスご自身も語られました。マタイ24章15~21節をご覧ください。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ──16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。17 屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。18 畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。19 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。20 あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい。21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」
これがエレミヤ書で言われている「ヤコブの苦難」です。それはこれまで経験したことがないような、また今後も決して経験しないような大きな苦難です。ユダヤ人たちが反キリストによって迫害されるからです。なぜ彼らが迫害されるのかというと、ユダヤ人は反キリストを絶対に拝まないからです。反キリストは自分を現人神であると宣言するのですが、ユダヤ人は真の神以外を拝まないので迫害されるのです。ここに「荒らす忌むべきものが聖なるところに立っているのを見たら」とありますが、それはこの7年間の患難時代のちょうど半分、1260日、3年半が経った時のことです。反キリストはユダヤ人のためにエルサレムに神殿を建てるので、ユダヤ人たちはすっかり騙されて彼をメシヤだと信じるのですが、3年半が経ったとき彼は神殿の最も聖なるところに立ち、「我こそ神である」と宣言するようになります。その時になってユダヤ人たちは自分たちが騙されたことに気付くのですが時すでに遅しで、激しい迫害を受けるようになるのです。それがこのヤコブには苦難の時のことです。
その時には山に逃げるようにと言われています。この「山」とは、旧約聖書では「ボツラ」と呼ばれている山で、現在の「ペトラ」という町のことだと考えられています。ここは今、世界遺産になっています。岩だらけで何もない場所ですが、「逃れの町」としての役割を担ってきたところです。そこは岩だらけで、難攻不落の天然の要塞となっています。イスラエルの民はそこでかくまわれることになります。その間に反キリストは逃げないユダヤ人を追い回し、迫害して虐殺するのです。それが世界のユダヤ人の全人口の三分の二に相当するのです。他の三分の一は山に逃れて助かります。ここに「逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」とあるのは、冬は雨期なのでぬかるんで歩けないからです。また、安息日というのは、旅行が許されていないので、歩ける距離が律法で決まっていたからです。
この患難時代は、それほど苦しい時です。それはまさに出産の時の激しい痛み、いやそれ以上の苦痛です。ヤコブ、イスラエルはそこを通るようになります。しかし、イエス・キリストを信じる者はこの患難を受けることはありません。イエス・キリストが私たちの岩であり、隠れ場であり、避け所であり、砦、大盾となって、私たちを匿ってくだるからです。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(詩篇91:1)とある通りです。
主はその前に再臨され、ご自身を信じる者を引き上げてくださいます。これを「携挙」と言います。主が天から下って来られます。そしてまず、キリストにあって死んだ人が墓からよみがえり、次に、生き残っているクリスチャンが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがⅡテサロニケ4章16~17節で言われていることです。もし引き上げられなければ大変なことになります。それはあなたが重い思いからではありません。あなたが主イエスを信じなかったからです。これはもう死にたいと思うくらい苦しい患難です。でもこの患難時代の前に携挙が起こり、私たちはそこから救われるのです。これがⅠテサロニケ5章9節で約束されていることです。ご一緒に読みましょう。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」
神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださいました。この御怒りとは、この患難時代にもたらされる苦難のことです。私たちは主イエス・キリストによって、神の御怒りから救われるように定められているのです。ですから、恐れることはありません。
Ⅲ.だが、彼はそこから救われる(7b-11)
第三に、だが、彼はそこから救われます。7節後半~11節をご覧ください。「7bだが、彼はそこから救われる。8 その日になると──万軍の【主】のことば──わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。9 彼らは彼らの神、【主】と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。10 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。11 わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」」
だが、ヤコブには希望があります。それはヤコブには苦難の時ですが、彼はそこから救われることになるからです。その様子が8節以降に語られています。「その日になると─万軍の【主】のことば─わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。」
その日、主は反キリストをさばき、ヤコブを解放されます。他国人が再び彼らを奴隷にすることはありません。彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えるようになります(9)これはどういうことかというと、千年王国で復活したダビデとともにイスラエルを統治するようになるということです。
10節をご覧ください。ヤコブは、散らされた先の国々から約束の地に帰還し、そこで安らかに住まうようになります。ヤコブ、イスラエルは、何度も神に背く罪を犯し、神から懲らしめの罰を受け、そこで苦しみを味わいますが、滅ぼし尽くされることはありません。その罪のゆえに大きな痛みや傷、苦しみを味わったあとには、赦しと救いを用意しておられるのです。なぜ?なぜなら、神がそのように約束してくださったからです。
11節をご覧ください。ここには、「わたしがあなたとともにいて─主のことば─あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」とあります。これもすばらしい約束です。確かに、ヤコブは主に背き自分勝手な道に歩んだので、主は決して彼らを罰せずにおくことはしませんが、だからと言って滅ぼし尽くすことはありません。それはヤコブには苦難の時ですが、その苦難は母鳥が心地よい巣をわざと壊し、雛鳥たちを何もない空間に落とすことによって雛鳥が高く飛ぶことを学ぶことができるようにするように、ご自分の民を懲らしめるために与えるのです。
ですから、彼らが滅ぼし尽くされることはありません。神はこの約束に基づいて、大きな痛みや苦しみを味わった後に、赦しと救いを与えてくださるのです。神は約束を守られる方です。もしイスラエルが滅びたり、国が完全に失われることがあるとしたら、それは約束違反をしたことになりますが、神はそういう方ではありません。神はご自身の約束に基づいて、イスラエルを滅ぼし尽くすことは絶対になさらないのです。逆に、イスラエルに敵対する者は滅ぼし尽くされることになります。
そして世の終わりに、これが成就することになります。ゼカリヤ12章10節を開いてください。ここには、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」とあります。これはどういうことかというと、ヤコブの苦難を通して悔い改めたイスラエルが、信仰を持って再臨のイエスを迎えるようになるということです。
「こうして、イスラエルはみな救われるのです。」(ローマ11:26)
だから、イスラエルの平和のために祈らなければなりません。イスラエルの救いがイエスの再臨の条件となっているからです。
だれが、こんなことを考えることができるでしょうか。主のご計画は、人間の思いをはるかに超えています。イスラエルは自分たちの罪ゆえに神から懲らしめを受けますが、それはヤコブには苦難の時です。でも、彼はそこから救われます。それは私たちも同じです。私たちも神に背くことで神から懲らしめを受けますが、その懲らしめを通して神に立ち返り、悔い改めてイエス・キリストを受け入れることによって、そこから救われることになります。
ですから、恐れないでください。おののかないでください。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。患難の先にある希望を見上げ、主イエスを信じ、主とともに歩む決断をしようではありませんか。あなたの上に、主が恵みと哀願の霊を注いでくださいますように。その霊によって主を仰ぎ見て、主が与えておられる約束を受け取ることができますように。

士師記5章

士師記5章

 士師記5章を学びます。ここにはデボラの賛美の歌が記されてあります。デボラはバラクを励まし、カナンの王ヤビンを滅ぼし、イスラエルに40年間、平和をもたらしました。そのデボラが敵に勝利した時、主に向かってほめ歌を歌いました。

 Ⅰ.主をほめたたえるデボラ(1-11)

 まず1~5節までをご覧ください。「1 その日、デボラとアビノアムの子バラクは、こう歌った。2 「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身を献げるとき、【主】をほめたたえよ。3 聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。私、この私は【主】に向かって歌う。イスラエルの神、【主】にほめ歌を歌う。4 【主】よ。あなたがセイルから出て、エドムの野から進んで行かれたとき、大地は揺れ、天も滴り、密雲も水を滴らせました。5 山々は【主】の前に流れ去りました。シナイさえもイスラエルの神である【主】の前に。」
デボラは、なぜ主を賛美しているのでしょうか。2節には「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身をささげるとき」とありますが、これは下の欄外にもあるように、「髪の毛を伸びるままにするとき」という意味の言葉です。これはどういうことかというと、イスラエルのかしらたちがなり振り構わず自ら進んで身をささげて戦ったということです。デボラを通して語られた主の御声に、イスラエルの民は指導者たちが先頭に立つと、自ら進んで戦いに出て行きました。いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに。デボラは、そのような信仰を与えてくださった主をほめたたえているのです。なぜなら、そのようなところに、主の偉大な御業が現されるからです。

4節をご覧ください。イスラエルがキション川で勝利したとき、天候がそれを左右しました。その天候をも治めておられたのは主ご自身に他なりません。主は密雲も水も滴らせ、イスラエルに勝利を与えてくださいました。

6~11節までをご覧ください。「6 アナトの子シャムガルの時代、またヤエルの時代に、隊商は絶え、旅人は脇道を通った。7 農夫は絶えた。イスラエルに絶えた。私デボラが立ち、イスラエルに母として立ったときまで。8 新しい神々が選ばれたとき、そのとき、戦いは門まで及んでいたが、イスラエルの四万人のうちに、盾と槍が見られただろうか。9 私の心はイスラエルの指導者たちに、民のうちの進んで身を献げる者たちに向かう。【主】をほめたたえよ。10 茶色の雌ろばに乗る者たち、敷き物の上に座す者たち、道を歩く者たちよ、語り伝えよ。11 水飲み場で水を分ける者たちの声を聞いて。そこで彼らは【主】の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえる。そのとき、【主】の民は城門に下って行った。」
デボラはイスラエルに母として立ちました。その時までイスラエルはカナンの国々にひどく圧迫されていました。アナトの子シャムガルは3章に出て来る士師です。ヤエルは4章に出て来る女性ですが、有名だったのでしょう。彼女は、カナンの王ヤビンの軍の将軍シセラのこめかみに杭を打ち込んで殺しました。その時代はハツォルの王の勢力が強く、安心して商業や農業ができない状態でした。恐ろしくて、主要な道路を歩くことができませんでした。彼らの心はしなえ、盾と槍を取る者もいませんでした。

しかし、デボラが立ち、イスラエルに主のことばを語ったとき、イスラエルは立ち上がりました。10節の「茶色の雌ろばに乗る者たち、敷き物の上に座す者たち、道を歩く者たちよ」とは、イスラエルのすべての人たちのことを指しています。「茶色の雌ろばに乗る者たち」とはいわゆる金持ちのことです。また「敷き物の上に座す者たち」とは裁判官たちのことです。第三版では、「さばきの座に座する者」と訳しています。そして「道を歩く物たち」とは、道を歩く一般の人たちのことです。ですからこれは、すべてのイスラエルの人たちのことが語られているのです。

そのすべてのイスラエルの民について、どんなことが語られているのでしょうか。11節には、「水飲み場で水を分ける者たちの声を聞いて。そこで彼らは【主】の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえる。そのとき、【主】の民は城門に下って行った。」とあります。平穏な暮らしが戻ってきたということです。そこで彼らは主の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえているのです。

Ⅱ.共に戦った者たち(12-23)

その戦いに出て行った人たちはどのような人たちだったでしょうか。12~23節までをご覧ください。「12 目覚めよ、目覚めよ、デボラ。目覚めよ、目覚めよ、歌声をあげよ。起きよ、バラク。捕虜を引いて行け、アビノアムの子よ。13 そのとき、生き残った者は貴人のように下りて来た。【主】の民は私のところに勇士のように下りて来た。14 エフライムからはその根がアマレクにある者が下りて来た。ベニヤミンはあなたの後に続いてあなたの民のうちにいる。マキルからは指導者たちがゼブルンからは指揮を執る者たちが下りて来た。15 イッサカルの長たちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵たちとともに平地に送られた。ルベンの諸支族の決意は固かった。16 なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。17 ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。18 ゼブルンは、いのちを賭して死をいとわぬ民。野の高い所にいるナフタリも。19 王たちはやって来て戦った。そのとき、カナンの王たちは戦った。メギドの流れのそばのタアナクで。彼らが銀の分捕り品を取ることはなかった。20 天から、もろもろの星が下って来て戦った。その軌道から離れて、シセラと戦った。21 キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。22 そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する。23 【主】の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは【主】の手助けに来ず、勇士たちとともに、【主】の手助けに来なかったからだ。』」

12節では、デボラとバラクが自分たち自身に目をさませと呼びかけています。そして13節以降には、自分たちとともに戦ったイスラエル部族が列挙されています。それはエフライム、ベニヤミン、マキル、マキルというのはマナセの総称です。そしてゼブルンも参戦しました。イッサカルも同じく戦いました。

しかし、ルベンは参戦しませんでした。どうしてでしょうか?彼らは鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたからです。この二つの鞍袋とは何を指しているのかは不明です。創世記49章14節には、イッサカルについて「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」とありますが、おそらくそれはマナセの二つの領土に挟まれる形で住むことを表していたのではないかと思われます。そうであれば、このルベンの鞍袋とは、家畜に適した場所のことを意味しているのではないかと思われます。ヨルダン川の東側は家畜に適した場所でした。それゆえ、イスラエルがカナンを占領するために出かけて行こうとした時、マナセの半部族とガド族は行こうとしませんでした。彼らは多くの家畜を有していたので、ぜひともその地を相続したかったからです。ルベン族も同じく、彼らの割り当て地がヨルダン川の東側にありそこが家畜に適した場所だったので、彼らは戦いに行くことを嫌ったのでしょう。
しかし、イスラエルが大勝利を収めたという知らせを聞いて、彼らはひどい良心のとがめを感じました。深く後悔したのです。

それはギルアデも同じでした。17節をご覧ください。ギルアデはヨルダン川東岸のガドやマナセの一部ですが、彼らも参戦しませんでした。どうしでしょうか?同じ理由からでしょう。ダン族については「なぜ船に残ったのか」と言われていますが、彼らは漁の仕事をしていたので戦いに行くのが煩わしいと思ったのでしょう。それはアシェルも同じです。アシュルも「浜辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた」と言われています。しかし、ゼブルンとナフタリは、いのちを賭して戦いました。いのちを賭してとは、いのちをかけてという意味です。彼らはいのちをかけて戦いました。この違いは何でしょうか。
パウロは、テモテに対してこのように書き送りました。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)」同じ思いは、自分自身のことばかりではなく、キリストを求めるところから生まれます。主に用いられる人は自分の利益よりも他者のことを、神のことを考えるのです。

彼らはどのように戦ったでしょうか。19節からをご覧ください。カナンの王たちは、メギドの泉の近くのタナアクで戦いましたが、勝つこつができませんでした。なぜなら、「天から、もろもろの星が下って来て戦った」からです。この天から下って来たもろもろの星とは天使のことではないかと思われます。聖書には、天使のことを「星」と表現しているところが多くあるからです。ですからこれは、主が何千、何万という天使の軍勢を遣わして、シセラと戦ったということを意味です。また、キション川の逆巻く流れが、彼らを押し流しました。
22節の「馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する」とは、戦車が使い物にならないということです。敵の戦車が全く使いものにならず、敗走したのです。つまり、イスラエルはこの勝利に精鋭部隊も最新装備もなかったのに勝利したということです。どうやって?神のご介入によってです。神のご介入によってキション川が敵を押し流し、一人の女の手によって敵将シセラが殺されたのです。

23節では、「メロズをのろえ」とあります。メロズの町の位置は不明です。「メロズをのろえ」とあるのは、この町の住民が主の手助けに来なかったからです。ヨーロッパには、この記事についての有名な絵があります。ある安全な山上近くに、メロズの町があり、谷底では神の戦いが行われています。その間、神がイスラエルを助けられますが、メロズの人々はその城壁を頼みに、これをはるかに見下ろしているのです。それはまるで劇場にいるかのように、神の戦いを遊び半分に眺めているようです。彼らはその戦いぶりを愉快そうに語り合い、主のためには指一本動かそうとはしないのです。ですから主の使いは怒り、呪って言われたのです。「メロズを呪え、その住民を激しく呪え」と。

これは何を意味しているのかというと、この世で人々のたましいを救うための戦いに参与するようにということです。傍観者であってはいけないのです。神は、かつてイスラエルの民にそうされたように、私たちがたましいの救いのために戦うように導いておられます。イエスは、「神の国は近づいた」と宣言されたとき、それはまさに神による公の宣戦布告であったのです。その戦いに私たちも招かれているのです。それをただ傍観していてはならないのです。

Ⅲ.ケニ人ヘベルの妻ヤエル(24-31)

その中でも主から大いに祝福されたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルです。24~31節までに、彼女に対する祝福が語られています。「24 女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。25 シセラが水を求めると、彼女は乳を与え、高価な鉢で凝乳を差し出した。26 ヤエルは杭を手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。27 彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れ、横たわった。彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れた。膝をついた場所で、倒れて滅びた。28 窓から見下ろして、シセラの母は格子窓から見下ろして嘆いた。『なぜ、あれの車が来るのは遅れているのか。なぜ、あれの戦車の動きは鈍いのか。』29 知恵のある女官たちは彼女に答え、彼女も同じことばを繰り返した。30 『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。勇士それぞれには一人か二人の娘を、シセラには染め織物を分捕り物として。分捕り物として、刺?した染め織物を、刺?した染め織物二枚を首に、分捕り物として。』31 このように、【主】よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」こうして、国は四十年の間、穏やかであった。」

天幕を作るのは、当時、女性の仕事でした。それで彼女は槌をかざし、シセラのこめかみに杭を打ちつけてヤビンの軍の長であったシセラを殺しました。とはいえ、失敗したら自分のいのちが危ないことは重々知っていたはずです。だから相当恐れがありました。それなのに彼女の行動からはそのような恐れは微塵も感じられません。彼女は主のみこころを確信していたので、信仰によって行動したからです。それで彼女は、主から誉れを受けました。

28~30節までは、シセラの母親の嘆きです。シセラがなかなか戻らないのをどうしているかと心配しているシセラの母を、女たちが励ましているのです。
31節は、デボラの告白の祈りです。「このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」すばらしい励ましです。主を愛する者は、力強く昇太陽のように輝くようにと祈らなければなりません。

このように、イスラエルの民は常に外敵と外圧にさらされていましたが、その中でいつも信仰を持って主の民として戦うように召し出されていました。その召しに信仰を持って応える者もあれば、そうでない者もいたのです。それは今日も同じです。主の招きがあり、それに応じることなくして、主の与えられる勝利を味わうことはできません。主の招きに応じることがなければ主の御業を見ることも信仰それ自体も強くされることもないのです。主を愛し、召しに応答して初めて闇が過ぎ去り、光が力強く輝くことを体験することができます。そのようにしてこそ、イスラエルは四十年間、穏やかであったように、私たちも主の勝利のゆえに、穏やかであることができるのです。

驚くべき神の計画 エレミヤ書29章1~14節驚くべき神の計画 


聖書箇所:エレミヤ書29章1~14節(エレミヤ書講解説教52回目)
タイトル:「驚くべき神の計画」
今日は、エレミヤ書29章からお話します。ここは、まさにエレミヤ書の中心的なメッセージです。心臓部となる箇所でもあります。ここには、世界中のクリスチャンから愛されている聖句も出てきます。29章11節のみことばです。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
これは、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査で、世界で二番目に人気のある聖書の一節に選ばれた聖句です。ちみに、一番人気があったのは、新約聖書のヨハネによる福音書3章16節でした。それほどよく知られている、もっとも愛されている聖句ですが、前後の文脈から外れて理解されていることが多いのも事実です。今日は、この箇所から「驚くべき神の計画」について、ご一緒に見ていきたいと思います。
Ⅰ.その町のために祈れ(1-9)
まず、1~9節をご覧ください。1~3節をお読みします。「1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。2 この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、3 ユダの王ゼデキヤが、バビロンの王ネブカドネツァルのもと、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、そのことばは次のとおりである。」
これは、エルサレムからバビロンに捕囚の民としては引いて行かれたユダの民に対して、エレミヤが書き送った手紙です。2節に、この手紙は、エコンヤ王、王母、宦官たち、ユダとエルサレムの首長たち、職人、鍛冶がエルサレムを去った後、とあるように、第二回目のバビロン捕囚が行われた後に書かれたものです。バビロン捕囚は全部で3回行われました。第一回目がB.C605年、第二回目がB.C597年、第三回目がB.C.586年です。ユダの王エコンヤが捕囚の民として連れて行かれたのは第二回目の時です。この第二次バビロン捕囚が行われたB.C.597年頃に、そこにいた捕囚の民に宛ててエレミヤが手紙を書き送ったのです。この時エレミヤはエルサレムに留まっていました。彼は直接バビロンに行って神からのメッセージを語ることはでませんでしたが、手紙という方法をもって神のメッセージを伝えようとしたのです。このように、直接神のことばを語ることができなくても、手紙とかメールといった間接的な方法を用いて語ることができます。現代はメールという手段もありますので大変便利ですね。神様はいろいろな媒体を用いてご自身のみことばを語ってくださいます。離れているから何もできないというのではなくて、どんな方法でも伝えることができるのです。どんな方法でもいいので、私たちも神からメッセージを託された者として、それをしっかりと取り次いでいく必要があります。
さて、エレミヤがバビロンに捕囚の民に書き送った手紙の内容はどのようなものだったでしょうか。4~7節をご覧ください。「4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』」
どういうことでしょうか?この時エレミヤは、バビロンにいた捕囚の民を憂いでいました。なぜなら、偽預言者が横行していたからです。そこには本物の預言者もいましたが、それ以上に偽預言者が多くいました。彼らの言うことはすべて甘いことばでした。その典型が28章に出て来たハナンヤです。彼は何と言っていましたか?彼はバビロンに連れて行かれたユダの民は2年のうちに戻ってくると言いました。ユダの民ばかりじゃない、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから奪い取ってバビロンに運んだ主の宮のすべての器も、2年のうちにエルサレムに戻ってくるといったのです。でも、それは事実ではありませんでした。エレミヤが語ったように、それは70年が経たないと帰って来ることはありません。70年後に神は彼らを顧みて、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムから奪って行ったすべてのものが戻されることになります。2年と70年では大分開きがあります。70年と聞くと、人々は失望するでしょう。あまりにも長すぎます。だからハナンヤは人々が喜ぶように、そして希望を持てるように2年と言ったのですが、それは事実ではありませんでした。偽りでした。しかし、そのような偽預言者のことばに魅了され騙されて淡い希望を抱いている人たちが、バビロン捕囚の民の中にいたのです。そんな彼らのことを憂いで、エレミヤはこの手紙を書いたのです。なぜなら、そうした偽預言者の甘いことばを信じた人たちの中には、そのことばの影響を受けてライフスタイルにも影響を受けていたからです。彼らは、2年で帰れるんだったら別に仕事なんてしなくてもいいんじゃないか、定職につく必要なんてない。家のことなんてどうでもいい。だって2年のうちに帰れるんだから。その間、適当に生活していればいい。そう思っていたのです。非聖書的なことばや耳障りのいいことばかり聞いていると、それはその人のライフスタイルにまで影響を及ぼすことになります。それは、ただの教えでは済まないのです。その教えの影響は計り知れません。その人の生活にも影響が及ぶことになるのです。
ですからエレミヤは、ここでエルサレムからバビロンへ引いて行かれたすべての捕囚の民にこう言っているのです。「家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。」(5-6)
  70年は祖国に帰れないんだから、70年間何もしないで生きていくことはできない。だから、少なくとも定職についてある程度安定した生活を心がけなければならない。定住することも考えなければなりません。結婚して家庭を築き、エルサレムに帰還してから後のことに備えるようにと。つまり、地に足を付けて生活しなさい、ということです。浮足立っていてはいけません。夢見る者たちのことばに騙されてはいけません。落ち着いて生活しなさい。
あるいは、70年ということを聞いて、中には意気消沈している人もいたでしょう。がっかりして、もうだめだ、自分はバビロンで死ななければならない。もう何も希望もない。そういう人たちには、この後のところに出てきますが、そうじゃない、あなたがたにはすばらしい神のご計画がある。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだ、と言って、彼らを励まそうとしたのです。
4節と7節をご覧ください。ここには「わたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に」とあります。どういうことですか?これは、つまりバビロン捕囚は、神ご自身がなされたことであるということです。人間的に考えると、それはバビロンの王ネブカドネツァルがしたことですが、神の目から見るとそうではありません。それは「わたしが引いて行かせた」こと、すなわち、神が引いて行かせたことなのです。誰を中心に物事を見ていくのか、今の状況を捉えていくのかはとても重要なことです。人間の目で見るなら失望してしまいます。でも、すべてを支配しておられる神の目を通してみるなら、そこに神様の特別な計画があることを知り励まされます。確かに今の状況は神の警告を無視した結果かもしれない。でもたとえそうであっても、神は私たちを見捨てるお方ではなく、いつまでも共におられる方です。蒔いた種は刈り取らなければなりませんが、しかし、そうした作業の中にも神は共にいて下さり驚くべきことをしてくださるのです。そこには驚くべき神の計画があるのです。まさにバビロン捕囚という出来事は、驚くべき神の深い計画によるものだったのです。エレミヤは、バビロンの捕囚になった民に対してそれを明かそうとしているのです。言うならば、これは彼らを滅ぼすための刑罰ではなく、むしろ、彼らを鍛え上げ、もっと良いものに帰るための神の懲らしめ、訓練なのだと。誰も自分の子どもの成長を願わない親はいません。これは父が子を思うからこその訓練なのであって、それがバビロン捕囚だったのです。ですから、これは神が深い意図をもって許された出来事であって、それが「わたしが引いて行かせた」ということです。
ですから、あなたはそうした偽預言者たちのことばにだまされて、浮足立った生活をしてはいけない。夢見る者になったりしないで、むしろ、その地にしっかりと足をつけ、落ち着いて生活しなければなりません。定職を持ち、家族を形成して、家を建て、バビロンでの生活に定着しなければなりません。いや、それどころか、7節にあるように、主が引いて行ったそのバビロンの町の平安を求め、その町のために主に祈らなければなりません。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるからです。いや、とても無理です。バビロンで精一杯生きろというのならわかります。でも、バビロンの祝福を求めて祈ることなどできません。だれが自分に敵対する暴虐なネブカドネツァルのために祈ることができるでしょうか。とても無理です。あなたはそう思うでしょう。
この「平和」ということばは、原語では「シャローム」です。「シャローム」という語は、何の欠けもない理想的な状態を意味しています。エレミヤはバビロンに引いて行かれた民に対して、あなたがたの存在がバビロンの祝福となるように、あなたがたがバビロンに引いて行かれたから、バビロンは以前にも増して繁栄したと、もっと良い国になったと思ってもらえるように祈りなさい、と言ったのです。
皆さん、これが神の計画です。普通は反対でしょう。そんな酷いことをした人たちが呪われるように祈れというところでしょうが、神は、そんなバビロンの平安を求め、その町の祝福を祈れと言ったのです。なぜ?それは神によってもたられた事だから。神の計画によることですから。その町の平安を祈ることによって、あなたが平安を得ることになるからです。
Ⅰテモテ2章1~4節をご覧ください。ここにはこうあります。「1 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。2 それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。3 そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」
ここには、すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために祈り、とりなし、感謝をささげるようにと言われています。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活をするためです。そうすることが、私たちの平安のためだと言われています。このような祈りは、神の前に良いことであり、正しいことです。なぜなら、神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです。そのように祈ることによって、すべての人が救われるという神のみこころが成し遂げられることになるのです。つまり、ユダの民がバビロンに引いて行かれたのは、そのことによってバビロンに平和がもたらされるためだったのです。そのためには適当に生きていてはいけません。ユダの民が捕囚の民として自分たちのために祈ってくれるから、自分たちは何の欠けもない完全な状態、繁栄が与えられているんだと納得できるような生き様をしなければなりません。究極的には、その平安が自分たちのところに返ってくることになるからです。
これは私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはこの地上では旅人、寄留者にすぎません。私たちもここを祖国としてはいますが、この地の繁栄のために祈るべきです。クリスチャンがいるから、この町は繁栄している。クリスチャンがここにいるから、この家庭にいるから、この職場に、このクラスに、この地域にいるから祝福されているという存在にならなければならないのです。イエス様は、「あなたがたは地の塩です」(マタイ5:13)と言われました。また、「あなたがたは世の光です」(マタイ5:14)とも言われました。クリスチャンがいるからこの世は明るいと言われるようにならなければなりません。クリスチャンがいなかったらこの世は真っ暗闇です。クリスチャンがいるからこの家は、この職場は、この地域は明るいと言われるようにならなければならないのです。これが伝道です。伝道とは、まさに私たちの生き様なのです。福音を伝えることも大切なことです。しかし、それ以上に私たちの生き方そのものが証となるのです。これがあれば、遅かれ早かれあなたの家族、友人、地域の人たちは、こぞって同じ信仰を持ちたいと思うようになるでしょう。これがユダの民がバビロンに引いて行かれた大きな理由の一つです。これが神の驚くべき計画だったのです。これが、あなたがこの世に置かれている神の計画なのです。すばらしいですね。
Ⅱ.あなたのために立てている神の計画(10-11)
次に、10節と11節をご覧ください。「10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
いよいよ、中心的なみことばに来ました。10節には「あなたがたを顧み」とありますが、これは「訪れる」という意味です。また、「いつくしみの約束を果たして」とは、「約束のことばを実現して」という意味です。すなわち、バビロン捕囚の民に対して、神の時が来たら、神ご自身が訪れてくださり、神が与えた約束のことばを実現してくださるということです。その約束とは、この場所に帰らせる、ということです。祖国に帰れるのです。神の家で再び礼拝することができるようになります。しかし、それは自分たちのタイミングによるのではありません。それは神のタイミングによります。神のタイミングで、神の力と神の方法によって実現してくださるのです。それは「バビロンに七十年が満ちるころ」です。それが68年なのか、71年なのかはわかりません。でも、大体70年が満ちるころです。それは既に25章11節でも語られていました。この70年とは、いつからいつまでなのかははっきりわかりません。ある人は、ヨシヤ王が死んだ.C.609年からペルシャの王キュロスによってエルサレムに帰還してもいいという勅令が出されたB.C.539年までの70年間だと言い、ある人は、最後にバビロン捕囚が行われエルサレムの神殿が崩壊したB.C.586年から、神殿が再建されたB.C.516年までの70年間だという人がいますが、いずれにせよ、かなりの年月になります。仮に、539年までだとすると、この時はB.C.597年ですから、この時から58年後となります。仮に516年だとすれば82年後となります。ここに58歳の方がおられますか。82歳の方はどうでしょう。その人の一生涯分の年月を待たなければならないのです。それでも、58年後には、あるいは82年後には、完全に神の約束が実現することになるのです。エルサレムに戻ることができる。神殿も再建されるのです。神の約束は、たとえ時間がかかっても成就するのです。そのことをしっかりと受け止めていなければなりません。焦ってはいけません。神のタイミングがあります。自分のタイミングと神のタイミングは違います。自分のタイミングとか自分の時ほどあてにならないものはありません。なぜなら、私たちはあまりにも無知だからです。私たちの時というのはせいぜい有限な時間の中での時にすぎませんが、神の時は時間のない世界、無限な世界の中での時です。過去とか、現在とか、未来とか、全く関係ありません。その永遠の時の中で語られていることですから、私たちの知恵をはるかに超えているのです。その神のタイミングだから、ベストであるに決まっているのです。まさに、伝道者の書3章11節に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」とある通りです。私たちの計るタイミングは、私たちがベストだと思っているだけで、それは有限な世界でのちっぽけな概念の中でしか思いつかないことですが、神が計るタイミングは、無限な世界での神の知恵に基づいたものですから、完全であり、ベストなのです。ですから、どんなに時間がかかろうとも、自分の時とかけ離れたとしても、それでも神のなさることはベストであるということを信じなければなりません。神は、時にかなって美しいということを信じなければならないのです。
11節をご覧ください。ですから、神はこう言われるのです。「わたし自身、あなたがたのために建てている計画をよく知っている。」
これは、私たちが立てている計画ではなく、神が私たちのために立てておられる計画です。私たちは自分のために立てている計画を知っていると思っていますが、実際には何も知っていません。だから、計画倒れということが起こってくるのです。「ご利用は計画的に」なんて言われるのです。でも、神は違います。神は私たちのために立てている計画をよく知っておられます。その計画とは何でしょうか。その後のところをご一緒に読みましょう。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
皆さん、これが神の計画です。神の計画は平安を与える計画、シャローム計画です。将来と希望を与える計画です。「平安」とは、何の欠けもない満ち足りた状態と言いましたが、ただ平安ではありません。そこには繁栄も含まれています。健康も、祝福も、成功も含まれた理想的な状態です。そういう計画をお持ちなのです。でも忘れてはならないのは、これは神の目におけるシャロームであるということです。私たちの目におけるシャロームではありません。神の目におけるシャローム計画なのです。それは何ですか?ピリピ4章6~7節をご覧ください。「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
ここに「すべての理解を超えた神の平安」とあります。それは、人のすべての考えにまさる神の平安なのです。神の平安は、私たちのすべての考えにまさるものです。それは想像を絶するもの、私たちの頭では到底想像できないような驚くべき計画です。それが神のシャローム計画です。
ここではそれは何を指しているのかというと、何とそれはバビロン捕囚のことです。神が彼らのために立てておられた平安の計画とは、彼らがバビロンに引いて行かれ、70年間バビロンの奴隷として生きるということです。何でそれが平安を与える計画なんですか?そんなのわさわいではないですか。だからここに、但し書きがあるんです。「それはわざわいではなく」と。それはわざわいではないのです。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものなのです。なぜこれが平安を与える計画なのでしょうか?そのことによって、神はあなたに真の平安を与えてくださるからです。それは私たちにはわざわいにしか見えませんが、神はそのわざわいにしか見えないような事を通して、将来と希望を与えてくださるのです。
この「将来」という語は、「終わりに」とか「最後に」、「~後に」という意味の語です。つまり、最後は希望だということです。神があなたのために立てている計画の最後は希望なのです。絶望ではなく希望。神に従う者の最後は、途中経過はどうであれ、最後は希望なのです。途中経過は失望のようでも終わってみれば、それが希望だったということがわかります。なぜなら、神はいつも私たちの益のために働いておられるからです。
ローマ8章28~29節をご覧ください。ここには、「28 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。29 神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」
とあります。これも有名なみことばですが、ここにも「知っている」とあります。私たちは神のご計画については知らないのに、ここには「知っている」とあります。何を知っているのでしょうか?神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということです。そのことは知っているのです。最後は益です。これは私もあなたも知っていることです。バビロン捕囚も含めて、神はあなたの苦しみも、あなたの悲しみも、あなたの辛さも、全部ひっくるめて益としてくださるのです。そのことは知っているのです。では、その益とは何でしょうか?
29節には「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。」とあります。つまり、御子と同じ姿に変えてくださるということです。これが益です。これが究極的な益です。究極的な益は、那須塩原駅ではありません。究極的な益は、私たちが神の似姿に変えられるということです。このことは私たちも知っているのです。バビロン捕囚も全く同じです。神がご自身の計画をもって彼らを召されました。それはバビロンから逃れるということではなく、またバビロンと戦うということでもなく、バビロンの軍門に下るということ、バビロン捕囚に従うということです。それで彼らは苦しめられ、卑しめられ、傷つけられますが、その中で彼らは砕かれ、練られ、すべての不純物を取り除かれて、神の民として、神の国に入るためにふさわしい者となって、最後にはバビロンを出て行くことになるのです。そのことを通して、神は彼らを御国の民としてふさわしい者として整えてくださったのです。ほら、益でしょ。これは彼らにとって益だったのです。
それは私たちも同じです。ジョン・バニヤンは「天路歴程」という本を書きましたが、私たちも天の御国に着くまでには実に様々なことがありますが、最後には御子と同じ姿となってこの世というバビロンを出て行くことになります。そして、神が約束された地、天の御国へと引き上げられていくのです。それが私たちのバビロン捕囚です。すべてのことはこのためです。それがどのように機能するのか私たちにはわかりません。このバビロン捕囚のような出来事が、このような悲劇、損失、状況が、本当に私をキリストの似姿に変えてくれるものになるのかどうかわかりませんが、わかっていることは、神は知っておられるということです。神はご自身の考えで、ご自分の方法で、私たちをご自分の御子と同じ姿に変えてくださるのです。だから、神があなたのために立てている計画というのは良いことばかりでなく、辛いなぁ、苦しいなあと思うようなことも含めてすべてです。それは私たちにはわかりません。でも、一つだけわかることは、神を愛する人々、すなわち、神のご計画のために召されたすべての人たちのために、神は働いて益としてくださるということです。そのことを通して、最後には将来と希望です。御子と同じ姿に変えられるようになるからです。それがこのみことばが語っている意味です。
よく、人生は刺繍のようなものだ、と言われます。刺繍は、表と裏を見ると全然違います。裏を見ればほころびだらけです。何の絵柄が描かれているのか全然わかりません。検討もつきません。まるでカオスです。そこにはいろいろな色の糸があるだけで、ただごちゃごちゃしているだけのように見えます。しかし、裏面を表にしてみるとどうでしょうか。そこには理路整然とした美しい絵柄が浮かび上がっています。これが将来、私たちに約束されている表の面です。今は裏面しか見ていないので理解できませんが、でも苦難の裏側には神の美しい栄光に満ちた計画が既に織り込まれているのです。
ですから、裏面ばかりを見て文句ばかり言うのではなく、その表の方を絶えず意識しなければなりません。どんな絵柄が浮かび上がってくるのかを楽しみに、主がどんなことをなそうとしておられるのか、どんな結果をもたらしてくださるのかを楽しみにして、今置かれている状況をわざわいとしてではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものだと受け止めなければならないのです。
昨年の修養会でご奉仕してくださった米沢の千田先生は、あの3.11が起こったとき、だれもが何と悲惨なことが起こったのか、もう神も仏もないと落ち込んでいたとき、私にこう言われました。「もっと良くなる。」私は一瞬耳を疑いながらお話を聞いていたら、先生はこう言われました。「だって、聖書の中で神様は、ご自身を愛する者のために、すべてのことを働かせて益としてくださる、と言っておられるんだから、これも益としてくださるはずだ。」と。先生は、この御言葉を文字通り信仰によって受け止めておられたんですね。今目の前で起こっている出来事はすべて神が私たちの益のために成しておられること。たとえそれが辛く苦しいこと、悲しいことであっても、それさえも神は益に変えてくださる。そのことを通して、私たちの私たちを御子と同じ姿に変えてくださるという神の約束からすれば、本当にその通りなのです。私たちの人生の途中ではわからないことばかりですが、でも終わってみれば希望です。それが私たちの人生です。終わってみないとわかりません。私たちが完全に御子と同じ姿に変えられるとしたら、それは本当にすばらしい希望ではないでしょうか。
だからクリスチャンはみんなワクワクしているのです。その途中、辛いところを通っていてもワクワクしています。それは終わりの時に用意されている救いをいただくということを知っているからです。その時には神の御子と同じ姿に完全に変えられるということを知っているからです。この世の人たちはそうではありません。自分の置かれた状況を見て一喜一憂しています。なぜなら、終わりを知らないからです。今がよくても終わりに何があるか知りません。だから不安になってしまうわけですが、クリスチャンは違います。今しばらくの間、様々な試練の中で苦しみ悲しまなければなりませんが、喜んでいます。なぜなら、天に蓄えられた生ける望み、将来と希望を持つ者とされたことを知っているからです。そんなクリスチャンをみたらどうでしょう。この世はバビロンの象徴だと言いましたが、バビロンの人たちはみんなびっくりするのではないでしょうか。なんだこの人たちは。祖国を失い、外国の支配を受けて惨めな生活を強いられているというのに、なんでこんなに輝いているんだ・・・と。その秘訣を知りたい。自分もそうなりたいと。神の計画は、本当にすばらしい、驚くような計画なのです。私たちはその驚くべき神の計画の中を生きているのです。
Ⅲ.神を呼び求めよ(12-14)
では、バビロンにいる70年間はじっと我慢していればいいんですか?そうではありません。それは人生の訓練の時ですから、そのような時こそ神を捜し求めなければなりません。12~14節をご覧ください。「12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』」
教会がないから祈れないということはありません。エルサレムから一千キロも離れたバビロンで、たとえ神殿がなくても、たとえ悲劇の真只中にあっても、たとえ苦難の真最中においても、そこで神を呼び求めよ、というのです。そうすれば、あなたはわたしを見つけることができます。そして、やがて神の不思議を見るようになる、というのです。具体的には、あなたが引かれて行った先から元の場所へ帰らせるのです。夢も希望もないんじゃない。あなたは元の場所に戻るから。神殿までも新しくなるという未来があるんだから、がっかりしないで、遠く離れた場所で祈れ。神様との関係をしっかり築きなさい、というのです。
米国クリスチャン・ジャーナリスト、フィリップ・ヤンシーが、「光の注がれる場所」という自伝を書いています。これは自らの半生を回想したものですが、「痛むとき、神はどこにいるのか」「祈りは本当に聞かれるのか」という問いかけを持つにいたった理由が明かされているのです。彼の半生は壮絶なものでした。記憶にない父親の死の秘密、過剰なまでの母親の期待、トレーラーハウスでの貧しい生活、白人至上主義に立つ教会とバイブルカレッジ……と。そうした状況をどのように乗り越え、心の癒やしをたどってきたのか。それは、この場所に光が注がれていると信じることによってです。
それはこの捕囚の民も同じでした。遠く離れたエルサレムから一線キロも離れたこの場所にも光が注がれていると信じることができたからこそ、これが彼らに与えられている神の深いご計画だと信じることができたからこそ、彼らは耐えることができたのです。
それは私たちも同じです。あなたにも神の光が注がれています。神はあなたのために最善の計画を持っておられるのです。それはわざわいではありません。それは平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。それによってあなたは揺るぎない信仰を築くことができます。そういう経験がなかったら、あなたはこういう信仰にはならなかったでしょう。ですから、これが神の計画であると信じて、浮足立つのではなく、夢見る者には気を付けて、置かれた所で地に足を付けて、落ち着いた生活を心がけなければなりません。そこで神を呼び求めなければならないのです。そうすれば、あなたは神を見出すようになるでしょう。そして、やがて70年がやって来ますよ。その時あなたは信じられない奇跡を見ますよ。あなたの思いをはるかに超えた神の不思議を見るようになるのです。

まず神の国と神の義を求めなさい マタイ6章25~34節

聖書箇所:マタイ6章25~34節
タイトル:「まず神の国と神の義を求めなさい」
主の2024年、明けましておめでとうございます。皆さんは、どのような思いで新年を迎えられたでしょうか。こうしてこの新しい年も主への賛美と礼拝をもって始めることができることを感謝します。
毎年1年の始まりの時に、今年神様は教会にどんなことを願っておられるのかと祈り求めますが、しばらく前から私の中に与えられていたみことばが、マタイ6章33節のみことばでした。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
今年は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めなさい、というテーマで歩みたいと願っています。でも、神の国と神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。このみことばはクリスチャンであれば1度は聞いたことがある有名なみことばですが、その意味を知っているかどうかは別です。今日は、このみことばから、まず神の国と神の義を求めるということについて3つのことをお話したいと思います。
Ⅰ.神の国を第一に求めるとは(33)
まず、神の国を第一に求めるとはどういうことかについて考えてみたいと思います。皆さん、神の国を求めるとはどういうことですか?「神の国」とは「天国」とか、「御国」とも言われますが、昨年の賛美フェスタのテーマもこれでしたね。「御国がこの地に」でした。神の御国がこの地に来ますようにというテーマでした。それは何を意味しているかというと、「神の支配」のことです。神の支配がこの地にありますように、ということです。すなわち、神の国とは「神が支配するところ」のことです。ですから、もし私たちが心から神を信じ、神に従いたいと願い、そのように生きるなら、そこが神の国となるわけです。神を信じ、神に従う人の心に神の国が宿るのです。それは目には見えませんが、目に見える形となって実際に現れます。
イエスは神の国はパン種のようだと言われました。パン粉にパン種を入れるとどうなりますか?それはパンパンに大きく膨らみます。それと同じように、神の国も目には見えないほど小さなものですが、それが私たちの心に入ると大きく膨らんで行くのです。
また、イエスは神の国はからし種のようだとも言われました。皆さんは、からし種を見たことがありますか?私はイスラエル旅行に行った方が現地で購入したというからし種を見せてもらったことがありますが、本当に小さな種です。胡椒のように小さい種ですが、それが生長すると3~4メートルもの大きな木になるのです。
このように神の国は目に見えない小さなものですが、これが私たちの中に宿すと大きな力をもって広がっていきます。それはイエスがこの地上でなされた御業を見ればわかります。イエスは目の見えない人の目を開かれ、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにし、足の萎えた人を癒されました。ヨハネの福音書5章には、38年間も病気で伏せていた人を癒されたことが記されてありますが、それはどういうことかというと、神の国が地上に来ているということを表していました。イエスが来られたことによって神の国がやって来たのです。ですから、イエスはこう言われたのです。「この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。」(マタイ4:17)
「天の御国が近づいた」。どのようにして近づいたのでしょうか?イエスが来られたことによってです。イエスは神の国をもたらすためにこの地上に来てくださったのです。それは目に見えないほど小さなものですが、神の力となって現れました。それは、死んでから入るところだけでなく、生きている今、この地上で体験することができるもの、神が支配しているところなのです。
では、この神の国を第一に求めるとはどういうことでしょうか?これは自分の力でたぐり寄せるということではありません。神の国は人間の力でたぐり寄せることができるようなものではないからです。その必要もありません。神の国はそれ自体、力をもって私たちのところにすでに押し寄せてきているからです。この神の国を謙虚に受け入れることです。そして、神がこの世のすべて治め、生きて働いておられると信じて、神に賭けるというか、へりくだって神を求め、神に祈り、神に信頼して生きることです。
この正月にディボーションでエズラ記を読みました。ペルシャの王キュロスの命令によってバビロンからエルサレムに帰ったユダの民は、さまざまな妨害に遭いながらもついに神殿建設を完成しました。そして神はアルタクセルクセス王の心を動かし、神の律法を行わせるためにエズラをリーダーとする一団をエルサレムに遣わします。その数男だけで1500人、女、子供も合わせると3,000人に達しました。バビロンからエルサレムまでは約1,450キロと、かなりの長旅です。しかも彼らは現在の価値で約10億円もの金や銀を持っていました。どこで敵に襲われるかわかりません。しかし、エズラは道中の敵から自分たちを助ける部隊と騎兵たちを、王に求めませんでした。それは、神は、神を尋ね求めるすべての者を守ってくださると信じていたからです。それで彼はこのことのために断食して祈り、へりくだって、道中の無事を神に願い求めました。すると、神は彼らの願いを聞き入れてくださいました。神の恵みの御手が彼らとともにあったので、その道中、敵の手、待ち伏せしている者の手から救い出していただくことができたのです。このように、へりくだって神を求め、神に祈り、神に賭ける信仰、それこそ、神の国を第一に求めるということなのです。
よく「神さまとか、信仰とか言っても、それは余裕のある人がすることであって、現実はもっと厳しいですよ」と言うことを聞くことがあります。確かに現実は厳しいものです。だからこそその厳しい現実の中で、さらに確かな神の国の現実に目を留めるために、私たちはこうして教会の礼拝に来たり、互いに交わりを持って励まし合っているのではないでしょうか。どんな苦しみの中でも神が生きて働き、この世を支配しておられるということを信じるためです。自分自身との格闘の中で、人生を導いてくださる神に自分を明け渡していく。それが「神の国を求める」ということなのです。それを第一に求めなければなりません。
Ⅱ.神の義を第一に求めるとは(33)
では、神の義を第一に求めるとはどういうことでしょうか。イエスは、まず神の国を求めなさいと言われただけでなく、神の義を求めなさいとも言われました。「神の義」とは何でしょうか。それは、神の前での正しさのことです。ローマ14章17節に、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」とあります。神の国は「聖霊による義と平和と喜び」です。ですから、正しくない人は、神の国に入ることが出来ません。では、人はどうしたら神の前に正しい者、義と認めていただくことができるのでしょうか。
ここで注目したいのは、マタイ5章20節のみことばです。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」
イエスは、あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、決して天の御国に入れない、と言われました。どういうことでしょうか?律法学者やパリサイ人たちは、旧約聖書の律法を守ることによって神の前に義と認められると考えていました。それで彼らは一つの掟にいくつもの細則を付け加え、膨大な規則集を作りあげました。その数なんと六百以上もあったと伝えられています。そして、彼らはそれを守っていると自負していました。だから、自分たちは正しい者であって、神の国にふさわしい者だとうぬぼれていたのです。でも、彼らは最も大切な戒めを忘れていました。最も大切な戒めとは何ですか。そうです、申命記6章5節のことばですね。「シェマー」、「聞きなさい」ということばで有名なみことばですね。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」です。また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」という戒めも、これと同じように大切です。すなわち、神と隣人を愛するということです。これが律法の中心であり、戒めの中で最も大切なものなのに、これを忘れていたのです。つまり、彼らは自分では聖書の戒めを守っていると思っていましたが、それは形式的なものにすぎなかったということです。それでイエスは「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国にはいることはできない」と言われたのです。それは律法学者やパリサイ人たちのようにうわべだけを取り繕ったもの、つじつま合わせをしただけのものではなく、神の目にどうなのか、神の目に正しい者、神に義と認められる者でなければならないということです。
でも、どうでしょうか。神に義と認められるということは簡単なことではありません。たとえば、その後のところでイエスは、「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:20-21)と言っておられますが、この観点から見たら、私たちは皆お手上げではないでしょうか。確かに私たちは人を殺すようなことなどしません。でも、兄弟に対してはよく「ばか者」とか「愚か者」と言っていないでしょうか。私などはしょっちゅうですよ。嫌なことや変なことがあると、つい心の中で「ばかだなぁ」と思ってしまいます。だから、私は最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれてしまいます。私だけではありません。皆さんだってそうです。兄弟に対して腹を立てない人がいますか?兄弟にひどいことを言われ放題言われたら、「いい加減にして」と腹を立てるじゃないですか。「バカ野郎」とか「マヌケ」と言うんじゃないですか。ですから、皆さんもアウトです。最高法院でさばかれることになります。火の燃えるゲヘナに投げ込まれるのです。だから聖書は「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と言っているのです。
しかし、律法学者やパリサイ人たちは、そのことに気付いていませんでした。そして自分は正しい者であって、神の国にふさわしい者だと錯覚していたのです。そういう律法学者やパリサイ人たちの義にまさっていなければ、私たちも決して天国に入ることはできません。では、どうしたらそのような義を持つことができるのでしょうか。
神が与えてくださる義を求めなければなりません。神の目から見れば正しい人など一人もいません。しかも、だれも自分でその不義をきよめることはできないのです。今、旧約聖書のエレミヤを学んでいますが、エレミヤ書には、それは豹がその斑点を変えることが出来ないのと同じだと言われているとおりです(エレミヤ13:23)。しかしそのような私たちのために神はイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。キリストが私たちの罪を負い、十字架で死なれたことによって、罪人の私たちが義と認めていただくためです。神はご自分のひとり子を罪人として死なせることによって、御子イエスを信じる者にイエスの持っておられた義を与えてくださるのです。私たちの罪がキリストのところに行き、キリストの義がわたしたちのところに来るためです。神はイエス・キリストを信じる者が罪を赦され、神の前に正しい者として立つことができるようにしてくださったのです。私たちが求めるべき「神の義」とは、この義、神が与えてくださる「イエス・キリストの義」なのです。
この「神の義」をまず求めなければなりません。神の国が信仰によって受け取るものであるように、神の義も信仰によって受け取るものです。イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と言われました。罪ある私たちは神の国から遠く離れていました。しかし、神の国が罪の赦しと神の義を伴って、罪ある私たちのところ来てくださいました。ですから私たちは自分の不義を認め、告白し、悔い改め、へりくだった心でこれを受け取らなければなりません。そして、その義に生きることを求めなければなりません。
イギリスに一人の尊敬されている軍曹がおりました。とても立派なのである人が「どうしてそのように人から好かれるようになったのですか」と尋ねると、「つい最近まではそうではなかったのです」と答えると、それがどうしてそうなったのかを話してくれました。彼の部隊に一人だけクリスチャンがいたそうです。そのクリスチャンは他の人からの嫌がらせを受けていましたが、じっと耐えていました。ところがある時、この軍曹の隣に寝ることになりました。彼はいつも寝る前に祈りの時間を持っていました。軍曹は軍隊の重い靴で彼の頭を叩いたそうです。でも彼は何もいいませんでした。そればかりか次の朝起きて見ると自分の靴が綺麗に磨かれておいてあったのです。それを見た時この軍曹は、自分は負けたと思いました。軍曹は即座にイエス様を信じ、その時から変わったのです。
イエスはこう言われました。「43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)
これが神の義を求めるということです。それは私たちにはできないことです。しかし、神の義であられるイエス・キリストによって与えられた義によって、私たちはこの義に生きることができるのです。
Ⅲ.まず神の国と神の義を第一に求める(33)  
第三のことは、まず神の国と神の義を求めなさい、ということです。イエスは、この神の国と神の義をまず、第一に求めなさい、と言われました。どういうことでしょうか?これを最優先にしなさいということです。この優先順位がとても重要です。私たちは、自分の中にある優先順位に従って生きています。私たちの人生には、大切なものがたくさんあります。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったこともそうですし、それに加えて経済的な問題や対人関係の悩み、健康上の問題、仕事ことそうです。そんな時そうした目の前の問題で頭がいっぱいになり、神様のことがどこかに吹っ飛んでしまうことがあります。優先すべき順序が逆になり、生活する上で必要な様々なものを第一に求めてしまうのです。そのために走り回り、あたふたし、不安に呑み込まれ、不安が不安を呼び、思い煩いでどうにもならなくなってしまうことがあります。でも聖書はこう言っています。「まず神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
それは、他のことは何もしなくても良いということではありません。学生なら勉強に専念しなければなりませんし、仕事を持っている人ならしっかり働かなければなりません。英語に “bring home the bacon” ということわざがあります。しっかり働いて家族を支えるという意味です。イエスが「まず、第一に」と言われたのは、第二、第三にも、果たすべき義務があることを示しています。ある修道院の記録映画を観ましたが、山奥でくらす修道士たちでさえ、祈りの生活の他に労働の時間があって、それで日々の糧を得ていました。また、スポーツや趣味を楽しむ時間も持っていました。神の国と神の義を求めるということは、神がお与えくださったこの世での義務や、私たちのこころやからだに必要なものを無視するということではないのです。それは、神の民として生き、神に仕えることを第一にする、神の義という、私たちにとって一番必要なものをまず第一にすることです。そして、神のことを第一にするとき、その後に続くさまざまな義務は、感謝と喜びをもって果たすことができるようになります。その他の必要もおのずと満たされていくのです。
その他の必要とは、たとえば何を食べるかとか、何を飲むか、何を着るかといったことです。神の国とその義とを第一に求めるなら、神はそれに加えて、これらのものをすべて与えてくださいます。なぜなら、天の父である神様は、これらのものが私たちに必要であることを知っておられるからです。空の鳥を見てください。種まきもせず、刈り入れもしません。倉に納めることもしない。でも、天の父はこれを養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があります。野の花を見てください。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、どうしてあなたがたのためには、もっと良くしてくださらないことがあるでしょうか。神は、ご自身の国とその義を第一にする者を、守ってくださるのです。
クリスチャンの実業家で五十嵐健治さんと言う方がおられました。彼はクリーニング業界最大手の「白洋舎」の創業者です。それまで三越に勤めていた彼がなぜ洗濯屋を家業としたのか。その転身した一番大きな理由は、「日曜礼拝や伝道に妨げにならないもの」でした。さらに、キリスト教倫理観として「嘘や駆け引きのいらぬもの」「人の利益となって害にならぬもの」でした。彼はその創業にあたり、次のように言っています。「汚れた罪を一身に引き受けて、十字架の苦しみと恥辱を受け給うキリストを思ったとき、自分のごとき人間が人様の垢を洗うことが何で恥ずかしいことがあろう。洗濯業は神から与えられた職業である。」と。そして、汚れたもの清潔にし、破れたるものを繕い、以て衛生に資し、家庭経済を助けるものと考えて、1906年に日本橋呉服町に開業したのです。
彼は自分のお店を持つとき、教会の近くがいい、そうしたら、祈り会などに参加できるからと考え、教会の近く、川の土手沿いの物件を手に入れました。そこは町から遠く、「そんなところで店を開いても、お客さんは来ないよ」と回りの人から言われたそうです。ところが、しばらくたって、川の土手が整備されて、自転車や歩行者のための道路になりました。大勢の人がその道を利用して、通勤、通学をするようになりました。それで、彼の店に立ち寄るお客さんが増えました。彼の丁寧な仕事が評判になり、さらに多くの固定客を得るようになりました。この人の、もっと神に近づきたい、神のことを第一にしたいという思いが報われ、目に見える形でも祝福が与えられたのです。神の国と神の義を第一にする人には、この世においても大きな祝福が与えられるのです。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」第一のことが第一になるなら、第二、第三のことは、かならず備えられていきます。それはほんとうのことです。イエスは私たちを、この祝福の人生へと招いていてくださっています。この一年、この神の国と神の義を第一に求めていきましょう。主のみことばに従い、神の国の義と平和と聖霊による喜びで満たされた一年となるように祈り求めていきたいと思います。

神のことばにとどまるように エレミヤ書28章1~17節神のことばにとどまるように 


聖書箇所:エレミヤ書28章1~17節(エレミヤ書講解説教51回目)
タイトル:「神のことばにとどまるように」
今日は、今年最後の礼拝です。この一年も教会とそれぞれの生活においていろいろなことがありましたが、すべてが主の恵みと信じて、主に感謝し心から御名をあがめます。
今年最後の礼拝で主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書28章のみことばです。ここには、エレミヤとは全く異なる預言をしていたハナンヤという預言者が登場します。今日は、このにせ預言者ハナンヤとエレミヤとの対決を通して、私たちが拠り頼むものは何か、それは神のみことばであるということ、だからこのことばにとどまるようにというお話したいと思います。
Ⅰ.人を喜ばせようとするのではなく神を(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。「1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、【主】の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。3 二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪い取ってバビロンに運んだ【主】の宮のすべての器をこの場所に戻す。4 バビロンに行ったユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの場所に帰らせる──【主】のことば──。わたしがバビロンの王のくびきを砕くからだ。」」
「その同じ年」とは、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年のことです。ゼデキヤが王として即位したのはB.C.597年ですから、これはB.C.593年になります。ギブオン出身の預言者で、アズルの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、エレミヤに語って言いました。イスラエルの神、万軍の主は、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを砕き、2年のうちに、彼がこの場所、これは主の宮、エルサレム神殿のことですが、ここから奪い取ってバビロンに運んだすべての器をこの場所に戻すと。そればかりではありません。バビロンに連れて行かれたユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、この場所に帰らせると。彼の預言は、ユダの民にとって喜ばしい内容でした。しかも「2年のうちに」ということばは、明るい兆しを感じる魅力的なものです。でもこれはエレミヤが預言したこととは異なることでした。エレミヤは何と言っていましたか。25章11~14節をご覧ください。エレミヤはこのように預言していました。
「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」
エレミヤが預言していたのは「2年のうちに」ではありません。70年の終わりに、です。ユダの民は廃墟となって荒れ果て、バビロンの王に70年間仕えようになります。その70年の終わりに、主はバビロンの王とその民を彼らの咎のゆえに罰し、永遠に荒れ果てた地とし、代わりにペルシャの王クロスを用いて、ユダの民が元の場所に帰ることができるようにするというものでした。それが27章22節で言われている「わたしがそれを顧みる日」のことです。それまでバビロンの王によって運び去られた主の宮の器はそこにありますが、70年後に主がユダを顧みられる日に、主はそれらを携え上り、この場所エルサレムに戻すようにするのです。それが、主がエレミヤを通して言われたことでした。だから2年のうちにではないのです。70年後のことです。最初のバビロン捕囚があったのはB.C.609年ですから、それから70年後というのは、B.C.539年になります。
果たしてどちらの預言が正しかったでしょうか?歴史を見ればわかります。ハナンヤが言った「2年のうちに」というのは偽りでした。むしろ、その数年後のB.C.586年には3回目のバビロン捕囚が行われることになります。その時エルサレムは陥落し、神殿は完全に崩壊することになります。主の宮にまだ残っていた器も、すべてバビロンに運び去られることになるのです。つまり、ハナンヤの預言は間違っていたということです。彼はにせ預言者でした。それなのに彼はエレミヤを捕らえて祭司たちと民全体の前で、エレミヤが間違っていると豪語しました。2年のうちにバビロンの王のくびきは砕かれ、バビロンがエルサレムから奪い取ったものはすべて戻されるし、すべての捕囚の民も帰るようになると言ったのです。
この両者の名前には、どちらにも「ヤ」が付いていますが、これは「ヤダー」の「ヤ」ではなく、「ヤハウェ」の「ヤ」です。つまり、主の御名で語る者です。それなのに、預言の内容は全く違うものでした。しかも、ハナンヤは「ギブオンの出身の預言者」とありますが、ギブオンはエレミヤの出身地のアナトテと同じベニヤミン族の領地にある祭司の町でした。ですから、彼はエレミヤと同じように祭司の家系だったのではないかと思われます。エレミヤと同じようなバックグランドを持っていた彼が、エレミヤとは全く違う預言をしていたのです。
さらに2節を見ると、彼は「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」と言っていますが、本物の預言者が使うような言い回しをしています。それがあたかも本当に主から出たことばであるかのように語っていたのです。
でも、一つだけ違いがありました。それは何かというと、エレミヤは主が語れと言われることを語ったのに対して、ハナンヤは民が聞きたいことを語ったという点です。人々が望むようなことばかり、都合の良いことばかり、耳障りの良いことばかり語っていたのです。ホッ、ホッ、ホタル来い、ではありませんが、彼の言葉は甘い言葉の集大成のようなものだったのです。
しかし、真の預言者は人を喜ばせようとして語るのではなく、神に喜んでいただこうと語らなければなりません。Ⅰテサロニケ2章3~4節にこうあります。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」
人を喜ばせようとしてではなく、神を喜んでいただこうとして語る。これが真の預言者です。つまり、焦点がだれに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。人を気にすると、文字通り人気取りになってしまいます。でも私たちが気にしなければならないのは人ではなく神です。神に喜ばれているかどうか、神がどう思っていらっしゃるのか、ということです。私たちはついつい人に喜ばれたいことを語ってあげたいと思いますが、それでは本末転倒になってしまいます。
先日、以前大田原教会のメンバーで、仕事でオーストラリアのパースに移られた西田兄が、15年ぶりに来会されました。ずっと日本で働きたいと願っていましたがその願いが叶い、家族をパースに残し、今年東京で働くようになりました。オーストラリアというとワーシップで有名なメガ・チャーチが各地にありますが、その教会に行っているのではないかと思い尋ねると、以前はそこに行っていましたが、今は違うシンガポール系の教会(Faith Community Church)に行っているということでした。なぜなら、毎週の礼拝のメッセージがいつも同じで、どちらかといえば求道者やクリスチャンになったばかりの人に受け入れやすくい内容ばかりで、聖書からの教えがなかったからです。じゃ、スモール・グループに行けば聖書を学ぶことができるかなと思って行ってみると、そこでもお茶を飲んで楽しく雑談するだけで聖書の学びがありませんでした。それでもっと聖書をしっかり教えている教会に行こうと、現在の教会に導かれたということでした。
確かに求道者に配慮することは大切ですが、あまりにも配慮しすぎるあまり、本来配慮しなければならない神がどこかに行ってしまうことがあります。よく教会は敷居が高いと言われますが、敷居が高いとはどういうことなのでしょうか。それは求道者を意識しての視点です。求道者ができるだけ心地よく礼拝に参加できるように、彼らが興味を持ってくれるような話題とか聞きたいと思っているような話を、できるだけおもしろく、おかしく、たまにジョーク混ぜながらお話しできたらいい。ひどいのになると聖書も使わない方がいいんじゃないかと言う人もいます。聖書は難しいから。最初から礼拝に来ると難しいと感じて躓いてしまうから、最初はクッキングクラスとかコンサートなどに誘った方がいいんじゃないですか。そうすれば敷居が低くなって求道者も気やすくなるから。
皆さん、どう思いますか。もちろん宣教の方策として、礼拝以外のこうした集会を持つことはあると思いますが、私たちが伝道する目標点を見失わないように注意しなければなりません。焦点がどこに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。私たちは人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを求めなければならないということです。では神が喜んでおられることは何か。勿論、神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それだけではありません。それは一つの通過点にすぎないからです。神が望んでおられることはすべての人が救われて真理を知るようになるだけでなく、救われた人がその救いにとどまっていること、そして今度は神に向かって生きるようになることです。神を喜び、永遠に神をほめたたえて生きる神の民となることなのです。それなのにいくらクッキングクラスで人を救いに導き、教会形成に向かおうとしても、それは容易なことではありません。目標点が違うからです。自分の喜びや楽しみと神の栄光とでは、全然違います。
ですから、私たちはその目標点見失ってはいけないわけです。そのためにはどうしても神のみことばが必要となります。なぜなら、「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができる」(使徒20:32)からです。ですから、大切なのは敷居を低くすることでなく、誰に喜んでもらうのかということです。人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを考え、求めなければなりません。
Ⅱ.平安を預言する預言者について(5-9)
それに対してエレミヤは何と言いましたか?5~9節をご覧ください。「5 そこで預言者エレミヤは、【主】の宮に立っている祭司たちや民全体の前で、預言者ハナンヤに言った。6 預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに【主】がしてくださるように。あなたが預言したことばを【主】が成就させ、【主】の宮の器と、すべての捕囚の民をバビロンからこの場所に戻してくださるように。7 しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語ろうとするこのことばを聞きなさい。8 昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。9 平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に【主】が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」」
エレミヤは、ハナンヤのことばに対して「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。」と言いました。これはエレミヤがハナンヤの語ったことばに同意しているのではありません。自分もハナンヤの預言どおりになることを望まないわけではない。主が祖国に祝福をもたらすことをどんな願っていることか。バビロンによって奪い去られた主の宮の器とすべての捕囚の民をバビロンからこの場所にすぐに戻してくれることをどんなに願っていることか、という意味です。
しかし、主が語っておられることはそういうことではありません。主が語っておられることは、この民に戦いとわざわいと疫病がもたらされるということです。つまり、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということです。バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える人々を、主はその土地にとどまらせるということでした。それは昔から、エレミヤと、彼の先に出た預言者たちの預言と一致していて、これこそ主から出た主のことばです。
しかし、ハナンヤはそれとは異なり、平安を預言しました。平安を預言すること自体は問題ではありません。問題は、それが本当にもたらされるかということです。平安を預言する預言者については、その預言のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だということが証明されるのであって、その預言の成就を待たなければなりません。どんなに人々が喜ぶ内容でも、それが成就しなければ空しいことになります。人はハナンヤのように、周囲の人たちの願望を、まるで神からのことばであるかのようにすり替えてしまうことがあります。しかし、エレミヤは人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別することができました。ここが重要なポイントです。人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主からのことばを語らなければなりません。
エレミヤは平安が来ないと言っていたのではありません。27章7節で彼は「彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。」と預言していました。「彼」とはバビロンの王ネブカドネツァルのことです。すべての国が彼に仕えるのは、「彼の地に時が来るまで」です。それまでは彼とその子と、その子の子に仕えますが、しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。「その子の子」とは、ネブカデネツァルの孫のベルシャツァル王のことです。その時代になるときまで、ユダはバビロンに仕えますが、その時が来れば、そこから解放されるようになります。平安が来ると預言したのです。エレミヤは、平安は真の悔い改めと、神との契約に対して従順でなければ来ないことを知っていたのです。ハナンヤのような平安の預言は、むしろ真の悔い改めを妨害するもの以外の何ものでもありません。
今の時代でも、平安を安売りする預言者がたくさんいます。エレミヤのこうした態度から、私たちも学ぶ必要があります。私たちも人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主が望んでおられることが何なのかを知るために、この世と調子を合わせるのではなく、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるように、心を新たにしていただかなければなりません。
Ⅲ.偽りに拠り頼まされないように(10-17)
第三のことは、だから神のことばにとどまるようにということです。10~17節をご覧ください。10~11節をお読みします。「10 しかし預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。11 そしてハナンヤは、民全体の前でこう言った。「【主】はこう言われる。このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」
ハナンヤはエレミヤが語ったことばを聞いて、よほど激怒したのでしょう。エレミヤの首についていた木のくびきを取って砕いてこう言いました。「主はこう言われる。このとおり、わたしは2年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」(11)
これは1つのデモンストレーションです。覚えていますか?27章2節で、主はエレミヤに「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。」と言われたことを。それは、ユダがバビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということでした。ですから、エレミヤの首には木のかせが付いていたのですが、ハナンヤはそのかせを砕き、「このとおりになる」つまり、バビロンのくびきから解放されると言ったのです。
それに対して、エレミヤは何と言いましたか?彼は何も言いませんでした。何も言わないで彼はそのままそこを立ち去ったのです。これは賢いことです。別に対抗することはないからです。時期に明らかになるでしょう。どちらが正しかが。
でもエレミヤが語らなくても、主が語ってくださいました。12~14節をご覧ください。「12 預言者ハナンヤが預言者エレミヤの首からかせを取って砕いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「行って、ハナンヤに次のように言え。『【主】はこう言われる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。14 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは彼に仕える。野の生き物まで、わたしは彼に与えた。』」
主が言われたことは、ハナンヤは木のかせを砕いたが、その代わり鉄のかせを作ることになるということでした。ユダは捕囚から解放されるどころか、より深刻な事態を迎えるようになるということです。ハナンヤの預言は、神の民に自由ではなく、鉄のくびきをもたらすものとなるのです。「鉄のくびき」とは、「木のくびき」に比べ、一層厳しい状況になることを象徴していました。
そこでエレミヤは、ハナンヤにこう言いました。15~16節です。「ハナンヤ、聞きなさい。【主】はあなたを遣わされていない。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。16 それゆえ、【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたを地の面から追い出す。今年、あなたは死ぬ。【主】への反逆をそそのかしたからだ。」
ハナンヤがしたことは、民を偽りに拠り頼ませるということでした。主ではなく、偽りに拠り頼ませたのです。恐ろしいですね。民を何に拠り頼ませるかは、預言者に託された大きな責任です。だから、主は彼をこの地の面から追い出されるのです。彼はその年のうちに死ぬことになります。ハナンヤは2年のうちに、ユダの民は解放されると預言しましたが、皮肉にも彼はこれを預言した2か月後に死ぬことになるのです。恐ろしいですね。というか、預言者の働きがどれほど重大であるかがわかります。もしエレミヤが語ったこのことばが成就しなかったら、エレミヤがにせ預言者となって殺されなければなりません。本当に預言者の働きは厳粛な働きだなぁと思います。だからこそ、牧師、伝道者、宣教師のためにとりなしの祈りをささげてほしいのです。民を偽りに拠り頼ませるのではなく、主に拠り頼ませるために、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただくために、神のことばを語ることができるように。
17節をご覧ください。「17 預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死んだ。」預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死にました。1節には、彼がこれを語ったのは「第四年の第五の月」とありますから、彼はこれを語ったわずか2か月後に死んだことになります。2年ではなく2か月後に死んでしまったのです。エレミヤはハナンヤに、「今年、あなたは死ぬ」と預言しましたが、エレミヤが預言したとおりになりました。これは、エレミヤが真の預言者であることが証明されたということです。そして、にせ預言者の最期は、このように空しいものです。
このエレミヤの時代と私たちの時代は、そうかけ離れていません。主イエスも言われたように、今は終わりの時代ですから、にせ預言者がそこかしこに横行しています。もしかすると、私たちはそれを知らずに信奉しているかもしれません。ネットでたまたま見た有名な牧師の話を間に受けたり、ベストセラーの本を読んで虜になったりして。魅力的な集会に飛びついて、喜んで参加して、ハナンヤのようなにせ預言者に騙されていることん゛あるかもしれません。いつの間にか、偽りに拠り頼むようにさせられているかもしれないのです。その背後には、偽りの父と言われているサタンの存在があることも忘れてはなりません。サタンは光の御使い、天使のように変装してやって来ます。義のしもべの姿でやって来るのです。
ですから、しっかりと霊を見分けて、この時代のしるしを見分けて、ますますもって主のことばに目を留めなければなりません。これは、昔から変わらないものです。ここから離れたら神から離れてしまうことになります。もし、にせ預言者に惑わされていたり、騙されたりして、偽りに拠り頼んでいたという人がいたら、もう一度主の言葉に立ち返って、これからはエレミヤのように終わりの時代になっても神のことばをしっかりと受け取って、それを誰に対しても恐れずに語っていく者になってほしいと思います。たとえそれで自分にとって不利益に働いたとしても、エレミヤが語り続けたように、神のことばにとどまり、神のことばをまっすぐに語り続ける者でありたいと思うのです。
今日は、今年最後の礼拝となりましたが、この最後の礼拝において主が私たちにチャレンジしておられることは、昔から変わらない、いつまでも変わらない神のことばにしっかりととどまり続けるように、この神のことばに生きるようにということです。それが古いようで新しいいつまでも新鮮に、私たちが主のうちにとどまっている秘訣であるということです。新しい年も、この神のことばにとどまって神に喜ばれる道を歩ませていただきましょう。