士師記5章

士師記5章を学びます。ここにはデボラの賛美の歌が記されてあります。デボラはバラクを励まし、カナンの王ヤビンを滅ぼし、イスラエルに40年間、平和をもたらしました。そのデボラが敵に勝利した時、主に向かってほめ歌を歌いました。

 

Ⅰ.主をほめたたえるデボラ(1-11)

 

まず1節から5節までをご覧ください。

 

1 その日、デボラとアビノアムの子バラクは、こう歌った。

2 「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身を献げるとき、主をほめたたえよ。

3 聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。私、この私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。

4 主よ。あなたがセイルから出て、エドムの野から進んで行かれたとき、大地は揺れ、天も滴り、密雲も水を滴らせました。

5 山々は主の前に流れ去りました。シナイさえもイスラエルの神である主の前に。1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。

 

デボラは、なぜ主を賛美しているのでしょうか。2節には、イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身をささげるとき」とあります。この「かしらたちが先頭に立ち」ということばは、「髪の毛を伸びるままにするとき」という意味の言葉です。これはどういうことかというと、イスラエルのかしらたちがなり振り構わず自ら進んで身をささげて戦ったということです。

あるいは、これは民数記6章にあるナジル人の誓願のことだったのかもしれません。つまり、イスラエルが苦しんでいる状況を悲しみ、主が助けてくれるようにと、主に献身して祈る人々がいたということです。

いずれにせよ、デボラを通して語られた主の御声に、イスラエルの民は自ら進んで戦いに出て行きました。いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに出ていきました。デボラは、そのような信仰を与えてくださった主をほめたたえているのです。なぜなら、そのようなところに、主の偉大な御業が現されるからです。

 

4節をご覧ください。イスラエルがキション川で勝利したとき、天候がそれを左右しました。天候を変えたのは主ご自身に他なりません。主は密雲も水も滴らせ、イスラエルに勝利を与えてくださいました。

 

6節から8節までをご覧ください。

6 アナトの子シャムガルの時代、またヤエルの時代に、隊商は絶え、旅人は脇道を通った。

7 農夫は絶えた。イスラエルに絶えた。私デボラが立ち、イスラエルに母として立ったときまで。

8 新しい神々が選ばれたとき、そのとき、戦いは門まで及んでいたが、イスラエルの四万人のうちに、盾と槍が見られただろうか。

 

デボラはイスラエルに母として立ちました。その時までイスラエルはカナンの国々にひどく圧迫されていました。アナトの子シャムガルは3章に出て来る士師です。ヤエルは4章に出て来る女性ですが、有名だったのでしょう。彼女は、カナンの王ヤビンの軍の将軍シセラのこめかみに杭を打ち込んで殺しました。その時代はハツォルの王の勢力が強く、安心して商業や農業ができない状態でした。恐ろしくて、主要な道路を歩くことができませんでした。彼らの心はしなえ、盾と槍を取る者もいませんでした。

 

しかし、デボラが立ち、イスラエルに主のことばを語ったとき、イスラエルは立ち上がりました。 10節の、「茶色の雌ろばに乗る者たち、敷き物の上に座す者たち、道を歩く者たち」とは、イスラエルのすべての人たちのことを指しています。「茶色の雌ろばに乗る者たち」とはいわゆる金持ちのことです。また、「敷き物の上に座す者たち」とは裁判官たちのことです。第三版では、「さばきの座に座する者」と訳しています。そして、「道を歩く物たち」とは道を歩く一般の人たちのことです。ですから、ここにはすべてのイスラエルの人たちのことが語られているのです。

 

どんなことを語っているのでしょうか。11節には、「水飲み場で水を分ける者たちの声を聞いて。そこで彼らは主の義と、イスラエルにいる主の村人たちの義をたたえる。そのとき、主の民は城門に下って行った。」とあります。平穏な暮らしが戻ってきたということです。そのことをほめたたえています。

 

Ⅱ.共に戦った者たち(12-23)

 

その戦いに出て行った人たちはどのような人たちだったでしょうか。12節から23節までをご覧ください。

12 目覚めよ、目覚めよ、デボラ。目覚めよ、目覚めよ、歌声をあげよ。起きよ、バラク。捕虜を引いて行け、アビノアムの子よ。

13 そのとき、生き残った者は貴人のように下りて来た。主の民は私のところに勇士のように下りて来た。

14 エフライムからはその根がアマレクにある者が下りて来た。ベニヤミンはあなたの後に続いてあなたの民のうちにいる。マキルからは指導者たちがゼブルンからは指揮を執る者たちが下りて来た。

15 イッサカルの長たちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵たちとともに平地に送られた。ルベンの諸支族の決意は固かった。

16 なぜ、あなたは二つの鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたのか。ルベンの諸支族の間には、深い反省があった。

17 ギルアデはヨルダンの川向こうにとどまった。ダンはなぜ船に残ったのか。アシェルは海辺に座り、その波止場のそばにとどまっていた。

18 ゼブルンは、いのちを賭して死をいとわぬ民。野の高い所にいるナフタリも。

19 王たちはやって来て戦った。そのとき、カナンの王たちは戦った。メギドの流れのそばのタアナクで。彼らが銀の分捕り品を取ることはなかった。

20 天から、もろもろの星が下って来て戦った。その軌道から離れて、シセラと戦った。

21 キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。

22 そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する。

23 主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士たちとともに、主の手助けに来なかったからだ。』 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼と一緒に上った。

 

12節では、デボラとバラクが自分たち自身に目をさませと呼びかけています。そして13節以降には、自分たちとともに戦ったイスラエル部族が列挙されています。それはエフライム、ベニヤミン、マキル、マキルというのはマナセの総称です。そしてゼブルンも参戦しました。イッサカルも同じく戦いました。

 

しかし、ルベンは参戦しませんでした。どうしてでしょうか?彼らは鞍袋の間に座って、羊の群れに笛吹くのを聞いていたからです。この二つの鞍袋とは何を指しているのかは不明です。創世記49章14節には、イッサカルについて「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」とあり、それはおそらくマナセの二つの領土に挟まれる形で住むことを表していたのではないかと思われますが、そうであれば、このルベンの鞍袋とは何のことでしょうか?おそらくこれは家畜に適した場所のことを指していたのでしょう。ヨルダン川の東側は家畜に適した場所でした。それゆえ、イスラエルがカナンを占領するために出かけて行こうとした時、マナセの半部族とガド族は行こうとしませんでした。彼らは多くの家畜を有していたので、ぜひともその地を相続したかったからです。ルベン族も同じくヨルダン川の東側で、家畜に適した場所だったので、彼らは戦いに行くことを嫌ったのでしょう。

しかし、イスラエルが大勝利を収めたという知らせを聞いて、彼らはひどい良心のとがめを感じました。深く後悔したのです。

 

それはギルアデも同じでした。ギルアデは、ヨルダン川東岸のガドやマナセの一部ですが、彼らも参戦しませんでした。同じ理由からでしょう。ダンは自分の水産業の仕事をしていたので、戦いに行くのは煩わしいと思ったようです。アシェルも同様です。

 

しかし、ゼブルンとナフタリは、いのちを賭して戦いました。いのちを賭してとは、いのちをかけてという意味です。彼らはいのちをかけて戦いました。この違いは何でしょうか。

パウロは、テモテに対してこのように書き送りました。「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)」同じ思いは、自分ではなくキリストを求めるところから出ます。主に用いられる人は自分の利益よりも、他者のことを、神のことを考えるのです。

 

彼らはどのように戦ったのでしょうか。19節からのところをご覧ください。20節の「天から、もろもろの星が下って来て戦った。」というのは、天使のことではないかと思われます。聖書には天使のことを指して「星」と表現しているところが多くあります。ですから、ここは主が何千、何万という天使の軍勢を遣わして、シセラと戦ったということを意味しているものと思われます。

22節の「馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬は全力で疾走する」というのは、敵の戦車が全く使いものにならず、敗走する様を表しています。

つまり、イスラエルはこの勝利に、精鋭部隊も、最新装備も持ちえなかったということです。まさに神の介入によってキション川が敵を押し流し、一人の女の手によって敵将シセラが殺されたのです。

 

23節では、「メロズをのろえ」とあります。メロズの町の位置は不明です。「メロズをのろえ」とあるのは、この町の住民が主の手助けに来なかったからです。

ヨーロッパには、この記事についての有名な絵があります。ある安全な山上近くに、メロズの町があり、谷底では神の戦いが行われているのです。その間中、神がイスラエルを助けられますが、メロズの人々は、その城壁を頼みに、これをはるかに見下ろしている。
それはまるで、劇場にいるかのように、神の戦いを遊び半分に、怠惰な気持ちで傍観しているのであり、その戦いぶりについて、愉快そうに語り合い、主のためには指一本動かそうとはしないのです。ですから、神の使いは、深く怒り、呪いの言葉すら口にしたのです。「メロズを呪え、その住民を激しく呪え」!

これはどんなことを意味しているのかというと、この世で人々のたましいを救うための戦いへ参与するようにということです。神は、かつてイスラエルの民にそうされたように、わたしたちの敵と抑圧者に対抗して、その戦いを導かれておられます。人間を閉じ込めている罪や悲しみ、運命や死に、神の子は、自ら挑まれました。神は、わたしたち人間が、もはや古きものに留まることがないようにされたのです。イエス・キリストが、「神の国は近づいた」と宣言されたとき、それはまさに、神様による公式の宣戦布告であったのです。その戦いに私たちも招かれているのであって、それをただ傍観していてはならないのです。

 

Ⅲ.ケニ人ヘベルの妻ヤエル(24-31)

 

その中でも主から大いに祝福されたのはケニ人ヘベルの妻ヤエルです。24節から31節までに、彼女に対する祝福が語られています。

24女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。

25 シセラが水を求めると、彼女は乳を与え、高価な鉢で凝乳を差し出した。

26 ヤエルは杭を手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。

27 彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れ、横たわった。彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れた。膝をついた場所で、倒れて滅びた。

28 窓から見下ろして、シセラの母は格子窓から見下ろして嘆いた。『なぜ、あれの車が来るのは遅れているのか。なぜ、あれの戦車の動きは鈍いのか。』

29 知恵のある女官たちは彼女に答え、彼女も同じことばを繰り返した。

30 『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。勇士それぞれには一人か二人の娘を、シセラには染め織物を分捕り物として。分捕り物として、刺?した染め織物を、刺?した染め織物二枚を首に、分捕り物として。』

31 このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」こうして、国は四十年の間、穏やかであった。

 

天幕を作るのは、当時、女性の仕事でした。それで彼女は槌をかざし、シセラのこめかみに杭を打ちつけて彼を殺しました。とはいえ、 失敗したら自分のいのちが危ないことは重々知っていたはずです。だから相当恐れがあったはずです。それなのに、彼女の行動からはそのような恐れは微塵も感じられません。彼女は、主のみこころを確信していたので、信仰によって行動することかできたのです。それで彼女は、主から誉れを受けました。

 

28節から30節までは、シセラの母親の嘆きです。シセラがなかなか戻らないのをどうしているかと心配しているシセラの母を、女たちが励ましているのです。

 

31節は、デボラの告白の祈りです。「このように、主よ、あなたの敵がみな滅び、主を愛する者が、力強く昇る太陽のようになりますように。」すばらしい励ましです。主を愛する人が輝き、敵は滅びるようにと祈っています。一般的に主を愛する者が輝くようにと祈ることはできても、敵が滅びるようにとまではなかなか祈れません。しかし、デボラは「あなたの敵がみな滅びるように」と大胆に祈りました。

 

ダビデは、詩篇68篇1節から3節までのところで、「1 神は立ち上がりその敵は散り失せる。神を憎む者たちは御前から逃げ去る。:2 煙が追い払われるように追い払ってください。ろうが火の前で溶け去るように悪しき者が神の御前から滅び失せますように。3 しかし正しい者たちは小躍りして喜ぶ。神の御前で喜び楽しむ。」と祈っています。

また、パウロも、「主を愛さない者はみなのろわれよ。主よ、来てください。(Ⅰコリント16:22)」と言っています。

 

イスラエルの民は常に、外敵と外圧にさらされ、その中で、いつも信仰を持って、主の民として戦うように召しだされていました。その召しに、信仰を持って応える者もあれば、そうでない民もいました。それは今日も同じです。主の招きがあり、それに応じることなくして、主の与えられる勝利を味わうことはできません。主の招きに応じることがなければ、主の御業を見ることも、信仰それ自体も強くされることもないのです。主を愛し、主に応じて初めて闇が過ぎ去り、光が力強く差し出ることになるということを覚え、信仰をもって神の召しに応答していきたいものです。

そのようにしてこそ、イスラエルは四十年間、穏やかであったように、私たちも主の勝利のゆえに、穏やかであることができるのです。