さあ立って、出て行こう 雅歌2章8~17節

2021年6月27日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑤)

聖書箇所:雅歌2章8~17節

タイトル:「さあ立って、出て行こう」

 

 雅歌からの五回目のメッセージとなります。きょうは2章8節のところから、「さあ立って、出て行こう」というタイトルでお話したいと思います。

2章8節から新しい場面に入ります。ソロモンはこれまで結婚式当日のことを思い出して歌いましたが、ここから婚約の時代を思い起こして歌っています。これが3章5節まで続きます。ここで羊飼いである花婿は、花嫁に「さあ立って、出ておいで」と優しく語りかけています。私たちは花婿なる主の御声に応答して立ち上がり、出て行く者でありたいと思います。

 

Ⅰ.新しい季節がやって来た(8-13)

 

まず、8節から13節までをご覧ください。8~9節をお読みします。「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」

 

ここは故郷にある花嫁の家です。そこに後に花婿となる王が、迎えに来ているのです。結婚を前提に交際するために。

「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。」

春が来るのを待ちわびていた彼女は、彼が来るのを心待ちにしていました。今か、今かと待ちわびている彼女の思いが伝わってきます。そして彼の声が聞こえたとき、「ほら、あの方が来られる。」と胸をときめかしているのです。

 

彼はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「山を跳び越え、丘の上を跳ねて。」とあります。まるでかもしかや若い鹿のようにです。「かもしか」とは「ガセル」のことで、聖書では美しさの象徴として用いられています。また「若い鹿」とは、軽快に跳びはねる様を表しています。花婿なるフィアンセは、かもしかや若い鹿のように山を飛び跳ね、丘の上を跳ねてやって来るのです。

 

「ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」牢屋の外から格子越しに囚人を見ているというのではありません。久々の再会にフィアンセはすぐにドアをノックするのをためらい、彼女が何をしているのかを外から窓越しに眺めているのです。

そして、このように呼びかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」(10)この「私の愛する方」とは、花婿なるキリストのことです。もちろん花嫁とは教会のことです。花婿なるキリストは、私たちを「わが愛する者、私の美しいひとよ。」と呼んでくださいます。私たちはそのような者ではありません。自分勝手な者で、罪に罪を重ねるような者ですが、主そんな私たちをそのように言ってくださるのです。感謝ですね。そしてこう言われます。「さあ立って、出ておいで」

 

その理由の一つが、11節から13節までに述べられます。「ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」

 

それは冬が去り、雨も過ぎて行ったからです。つまり、新しい季節が訪れたからです。イスラエルでは、私たち日本人が言う四季のうち「春」とか「秋」という季節を表す言葉がありません。夏と冬だけです。先日フィリピンの姉妹とお話していたら、フィリピンでは夏だけだそうです。一年中夏。日本は春、夏、秋、冬があってとてもきれいだとおっしゃっていました。イスラエルも春と秋がなく、夏と冬だけです。夏は4月から10月頃まで続く長い「乾季」の期間で、冬は11月頃から3月頃までの「雨季」の期間です。11節に「雨も過ぎて行ったから」の「雨」とは、12~2月頃にかけて降る激しい雨のことで、「後の雨」と呼ばれているものです。

 

イスラエルでは雨のシーズンでも、日本で言うところの秋のはじめに降る「先の雨」と冬の終わりに降る「後の雨」があります。申命記11章14節には「わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。」とあります。この「初めの雨」とは「先の雨」のことで、この雨は乾季で岩のように硬くなった地を柔らかくしてくれる働きがあります。そのように柔らかくなった地を耕して種を蒔くのです。

一方、「後の雨」とは12~2月にかけて間欠的に激しく降る雨のことです。やがて春(夏)の収穫時期が近づくと、穀物を十分に実らせるために激しく降るのです。この「先の雨」と「後の雨」が降らなければ、種まきも刈り入れもできません。それは冬の季節の終わりと夏の季節の始まりを意味していました。

 

その激しい雨の季節が過ぎて行き、地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来たのだから、山鳩の声が国中に聞こえるようになったのだから、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放つようになったのだから、さあ立って、出ておいで、というのです。

 

この「花」は複数形になっています。「花々」ですね。冬が過ぎ春がやって来ると、地には花が咲き乱れます。アネモネ、アドリス、ヒナゲシ、チューリップといった真っ赤な花や、蘭やシクラメン、野生のアイリス、クロッカス、キルナスといった青やピンクの花など、色とりどりです。先日、那須フラワーワールドに行きましたが、そこにも花が咲き乱れていました。ハナビシソウ、ルピナス、ネモフィラ、ヒナゲシ、ハルジオンなどです。那須の山々をバックにした景色は最高でしたね。イスラエルでは三千種類もの植物が生息していますから、それ以上です。それらの花が一気に咲き乱れるわけです。

 

「刈り入れの季節」とは、欄外の説明にもあるように「歌」と訳される言葉で、第三版では「歌の季節がやって来た」と訳しています。前後の文脈を見ると、そのように訳した方が適当かと思います。山鳩の声が国中に響き渡るのです。皆さんは「山鳩」の声を聴いたことがありますか。ネットで検索して聴いてみたら、「トルットゥルール、トルットゥルール」と同じリズムで鳴いていました。それはまさに歌を歌っているようです。真冬の寒く冷たい雨が降っているような時には聞くことができませんが、冬が過ぎて春が来ると、こうした山鳩やキジ鳩が一斉に歌い始めるのです。

 

冬の大雨の季節が過ぎ去り、春の収穫の季節がやってきたのだから、「さあ立って、出ておいで」というのです。おそらく、花嫁は家の中に座っていたか、ベッドに横たわっていたのでしょう。なかなかやって来ないフィアンセにやきもきしていたのかもしれません。しかし冬が過ぎて春(夏)がやってきたのだから、これまでの自分の殻を脱ぎ捨て、新しいステージに出て行かなければなりません。そうです、これは実を結ばない季節の終わりと、花婿との新しい季節の始まりに対する招きなのです。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来たのだから、さあ立って、出ておいでと。

 

私たちの人生にも新たな始まりの季節があります。心機一転、過去を振り払い、新しい恵みのステージに一歩踏み出す時があるのです。でもそのためにはだれでも冬を通らなければなりません。それは激しい雨が降る厳しいシーズンかもしれません。しかし、私たちの人生にもそうした雨季が必要なのです。神様は私たちが実を結ぶために、そうしたシーズンを通されるのです。アブラハムやモーセ、ダビデもそうでした。荒野を通るシーズンがありました。その中で養われ整えられていったのです。私たちも同じです。実を結ばないシーズンがあります。それはそれでいいのです。そのシーズンを通って実を結ぶ季節へと変えられていくのですから。無理に結ぼうとしないでください。見せかけは必要ありません。荒野のカチカチと乾いた地面の中で、ふさわしい時が来るまでじっと待てばいいのです。その中で神様が後の雨を与え、地を潤してくださいます。それが過ぎ去ったら、一気に花が咲き乱れます。どんなにずさんな状態でも構いません。ほんの小さな信頼でもいいですから神様を信じて立ち上がればいいのです。そこからすべてが始まります。うめくときもあります。しかし、その中で自我が砕かれていきます。痛みも経験することがあるでしょう。でもそこから、私たちは希望を見い出すことができます。あなたが神の愛に目覚めるとき季節が変わるのです。この時から新しい季節が始まるのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

冬は過ぎ去り、雨も過ぎて行きました。あなたにも新しい季節が到来しています。地には花が咲き乱れ、山鳩の歌が国中に聞こえ、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放っているのですから、私たちは愛する主の御声に応答して、立ち上がって、出て行こうではありませんか。

 

Ⅱ.岩の裂け目にいる鳩(14)

 

花嫁が立って、出てく理由が、もう一つあります。14節をご覧ください。「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」」

 

また出ました!「私の鳩よ」。ここで花婿は花嫁を「私の鳩よ」と呼んでいます。鳩は、美しさと清らかさの象徴でした。1章15節にも出てきましたね。「あなたの目は鳩。」このような表現は5章2節、12節、6章9節にも出てきます。「嫌だ!鳩だなんて」という方もいらっしゃるかもしれませんが、これは最高の誉め言葉です。それほどあなたは美しく、清らかであるということですから。それは聖霊のシンボルとしても使われていることからもわかります。

 

なぜそんなに美しいのでしょうか。なぜなら、彼女は岩の裂け目、崖の隠れ場にいるからです。ですから、岩なる主がかくまってくださるのです。ですからここに、「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる鳩よ。」と呼び掛けられているのです。出エジプト記33章20~23節をお開きください。「また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

これはモーセが主の栄光を私に見せてくださいと祈ったときに、主が仰せられたことです。信仰者であればだれも願うことではないでしょうか。主の御顔を拝したいと。しかし主は「できない」と言われました。人は主の顔を見て、なお生きていることはできないからです。

しかしそんな彼に主は、うしろ姿を見せてくださると言われました。どのようにしてかというと、主が通り過ぎるとき、彼を岩の裂け目に入れてくださることによってです。主が通り過ぎるまで、主の手でおおってくださるので見ることはできませんが、主が手をのけると、うしろ姿を見ることができるというのです。私たちはこの目で主を見ることはできません。神と交わることも、神とともに歩むこともできません。神はあまりにも聖いお方だからです。でもその神を見ることができ、神と交わり、神とともに歩む方法があります。それは、モーセのように岩の裂け目に入れていただくことです。その岩とはだれのことでしょうか。

 

その岩とはイエス・キリストのことです。Ⅰコリント10章4節には「その岩とはキリストです。」とあります。そうです、この岩とはイエス・キリストのことなのです。あなたが岩なるキリストの裂け目に入れていただくなら、あなたは神を見ることができるのです。神と交わり、神とともに生きることができます。

 

ここで「私の鳩よ」とありますね。「鳩」は美しさの象徴、清らかさの象徴だと申し上げました。ここでは花嫁がその鳩にたとえられています。どうして花嫁が鳩のように美しいのでしょうか。それは岩の裂け目にいるからです。岩なるイエス・キリストにかくまってもらっているからなのです。花嫁だけを見れば、そんなに美しくないかもしれません。なかなか花婿が迎えに来てくれない、いつになったら来てくれるのかと、モジモジして引きこもっていました。ベッドに横になってみたり、縦になってみたりして落ち着かなかったと思います。お世辞にも美しいとは言えなかったでしょう。でも彼女は岩なるお方の裂け目、崖の隠れ場にいたので、「私の鳩よ」と呼んでもらえたのです。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしいと、言っていただけたのです。

 

それは私たちも同じです。私たちが美しいのは、私たちが美しいからではありません。私たちがすばらしいのは、私たちがすばらしいからではないのです。私たちが美しいのは、私たちがどこにいるかで決まります。私たちが岩の裂け目にいるなら、崖の隠れ場にいるから美しいのです。すなわち、岩なるイエス・キリストの内にいるなら、あなたは美しく、麗しいのです。そして自信をもってこう言うことができます。「私は黒いけれども美しい」(1:5)と。なぜ?なぜなら、岩なるキリストがかくまってくださるからです。私たちの罪、咎、汚れの一切をきよめてくださるからです。自分自身を見たら、とてもそのようには言えません。穴があったら入りたいくらいです。

 

使徒パウロも自分の姿に打ちのめされてこう言いました。「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。」(ローマ7:18-21)

彼はここで、自分の内には善なるものは一つもないと言っています。善は住んでいないと告白せざるを得ませんでした。しかし、彼はそんな罪深い自分の姿を見たのではなく、その罪を覆ってくださるイエス・キリストのうちに、いのちの御霊の原理を見出しました。それがいのちの御霊の原理です。

 

「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:1-11)

 

重要なのは、あなたがどこにいるかということです。もしあなたが岩なるキリストのもとに身を避け、神の御霊があなたのうちに住んでおられるなら、この御霊によってあなたの死ぬべきからだも生かされるのです。「私は黒いけれども美しい」と告白することができます。クリスチャンになることのすばらしさがここにあります。クリスチャンになることのすばらしさは、イエス・キリストがあなたの内に住み、あなたがイエス・キリストの内にいるということです。それゆえ、あなたがどんなに汚れていても、どんなにパッとしなくても、「さあ立って、出ておいで」と言われる花婿のことばに応答して、出て行くことができるのです。

 

Ⅲ.狐を捕らえてください(15-17)

 

そのためにはどうしたら良いのでしょうか。15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

これは10節から続く花婿のことばなのか、それとも、花婿のことばを受けての花嫁のことばなのかはっきりしていません。新改訳聖書2017では14節までが花婿のことばになっていますが、第三版では15節までが花婿のことばになっています。前後の文脈と意味を考えると、おそらくこれは10節からの花婿のことばではないかと思います。なぜなら、ここに「狐を捕らえてください」とあるからです。これはどういうことでしょうか。

 

「狐」はヘブル語で「シュアール」と言います。意味は「手のひら、一握り、少量の」です。つまり、「狐」は小さいものの象徴なのです。「かもしか」は美しさの象徴、「鳩」は美しさと清らかさの象徴でしたが、「狐」は小さいものの象徴です。その性格は、陰険でずる賢いことから、ずる賢いものの代名詞としても使われるようになりました。イエス様もヘロデのことを「あの狐」(ルカ13:32)と呼んでいます。狐のように小さくてずる賢いものが侵入して来て、ぶどう畑を荒らすのです。その狐を捕らえてくださいというのです。

 

当時、ぶどう畑は石垣に囲まれていました。それは外敵からぶどうの実を守るためです。しかし、狐は小さいのでその隙間から入り込み、中のぶどうをかじることがあったのです。その狐を捕らえてくださいというのです。なぜ?「私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

ぶどう畑は、二人だけの語り合いの場であり、触れ合いの場です。これまで離れ離れになっていましたが、今やっとその恋が実る時がやってきました。まさに今が花盛りです。ですから、二人だけの時を妨げるものは取り除いてください、というのです。では、二人の関係を妨げる狐とは何でしょうか。

 

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」どういうことでしょうか。

 

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と言っています。すばらしいですね。私たちが主に「あなたは私のもの、私はあなたのものです」と告白できるのは、それほど親密な関係であるということです。これが夫婦の関係です。使徒パウロは、夫婦になった男女の互いの体はもはや自分だけのものではないと言っています。コリント第一7章4節には、「妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」とあります。

このように互いが互いの中にいる状態は、小羊の妻である天のエルサレムで実現します。「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、」(黙示21:3)私たちは神と小羊と、霊において一体になるのです。

 

しかし、注意しなければならないことがあります。それは、自分の思いが強くなることです。花婿の働きを、自分の思いでコントロールし、制限してしまうことがあります。その後のところを見てください。16節の最後から17節にかけてのことばです。「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」

 

「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」ということから、花婿が羊飼いであることがわかります。この方は羊飼いである王なのです。ですから、ゆりの花の間で羊の群れを飼っているわけですが、その花婿に対して花嫁は、そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでには戻って来てくださいと言っています。日本的に言うなら、日が暮れるまでには帰って来てね、ということでしょうか。その頃までには帰って来て、愛を確かめたいというのです。ある注解者はこれを、「夫がしている仕事について、夫と離れている時でも、それを疑うことがない」と解説していますが、そうでしょうか。私はその逆だと思います。夫の仕事に入りすぎています。ちょっとでも離れると、落ち着かなくなっているのです。日が暮れるまでには帰って来てください。険しい山々の上のかもしかや若い鹿のように跳んで帰ってくるのよ、とせかしているように感じます。これでは仕事になりません。

 

15節のところで、花婿は花嫁に「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえてください」と言いましたが、その「狐」とは、このことではないかと思うのです。つまり、花婿を自分の思うままにしたいという利己的な思い、独占欲です。花婿と花嫁の麗しい関係を破壊する狐は外側にいるのではなく、自分内側にいるということです。そうした「狐」を捕らえなければなりません。花婿を信頼し自分のすべてをゆだねることこそ花嫁の務めであり、そうすることによって二人の関係はより親密で麗しいものとなるのです。それが本当の意味での、私はあの方のもの、あの方は私のものということなのではないでしょうか。

 

ヤコブ4章2~3節にこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」  

私たちは願っても自分のものにならないと、人殺しをするのです。でも本当の問題はどこにあるのでしょうか。それは願いに答えてくれない主にではなく、私たちの側です。私たちの主は、この天地を造られた方、創造主です。主はあなたを造られました。この方は完全な方であり、完全な計画を持っておられます。それなのに私たちは、自分の思い通りにならないと、人殺しをするのです。争ったり、戦ったりします。私たちが良かれと思ってしていることが必ずしも正しいとは限りません。意外と自分の思い込みにすぎないことがあります。大切なのは、私たちがどう思うかではなく、花婿なる主が何と言われるかです。

 

「あなたがたは狐を捕らえてください。」そうすることで、私たちの花盛りのぶどう畑が守られることになります。主イエスの麗しい関係が保たれます。私たちの狐を捕らえましょう。そして、花婿の招きに心から応答しようではありませんか。花婿はあなたを招いておられます。「さあ立って、出ておいで」と言って。新しい季節がやってきました。どんなことがあっても岩なるキリストが、あなたを守ってくださいます。主の御声に応答して、立ち上がり、出て行きたいと思います。

善にはさとく、悪にはうとく ローマ人への手紙16章17~27節

2021年6月20日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙16章17~27節

タイトル:「善にはさとく、悪にはうとく」

 

ローマ人への手紙最後のメッセージです。パウロはこの最後の章の16節までのところで、偉大な同労者たちの名前を挙げて挨拶を送りました。ですから、そこで終わっても良かったのですが、その挨拶を書き送る中で、まだ彼らに伝えていない大切なことがあると思ったのでしょう。それをここに述べています。それは、異端者に注意するようにということです。このローマ教会の中には使徒たちの教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者が入り込んでいました。そういう者たちを警戒し、そこから遠ざかるようにと勧めたのです。

 

私たちの信仰生活を自動車の管理にたとえると、そこには二つのタイプがあるのではないかと思います。一つは整備型で、もう一つは修理型です。整備型の人は、車が故障したり、何か問題が起こる前に常に整備をしておく人で、ほとんど故障することがないので、安全に、かつ快適に運転することができます。一方、修理型というのは、何か問題が起こるまで対策しようとしない人です。たとえば、雪が降るまでタイヤを交換しないとか、どんなにタイヤの溝がすり減っていても、パンクするまで交換しません。車が故障するまでほとんど整備しないのです。壊れてから考えればいいと思っているからです。ですから、重大な時に車が動かなくなったり、故障して、大変な思いをすることがあります。

 

私たちの信仰生活も同じで、常に祈りとみことばによってしっかりと備えている人と、そうでない人がいます。何かトラブルが起こるまで何もせず、トラブルが起こってから対処すればいいと考えるのです。皆さんはどちらのタイプでしょうか。主が望んでおられるのは前者のタイプです。何かが起こってしまってからだと取り返しがつかないことがあります。勿論、どんなに備えていても避けられない問題もあります。しかし、何があっても大丈夫なようにみことばと祈りによってしっかりと備えておくことが肝心です。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.善にはさとく、悪にはうとく(17-19)

 

まず17~19節をご覧ください。「兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」

前回の最後の節、16節でパウロは、「あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。」と言いましたが、そうした主にある親密な交わりを破壊するものが、間違った教え、異端の考えです。そうした教えは教会に分裂とつまずきを与え、その親密な交わりを破壊してしまうことになります。ですからパウロは、死とたちの教えに背き、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒するように、彼らから遠ざかるようにと、強く勧めています。

 

パウロは、信仰の教えについて他の面では比較的に寛容であるのに対し、このように間違った教え、異端者の教えに対してはかなり厳しく、断固した態度を取るようにと言っています。たとえば、同じローマ人への手紙14章には食べ物に関する教えが語られていますが、その中で彼は「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(14:1)と言っています。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。でも、食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をたばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのだからです。大事なことは、信仰の本質的なことです。神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びなのですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めるべきで、他の部分に関しては、いわゆるグレーゾーンについては、それぞれが持っている信仰の確信に従って行動すべきだと言っています。しかし、この異端の教えについてはそうではなく、警戒するように、また、彼らから遠ざかるようにと厳しく命じています。

 

パウロは、ガラテヤ人への手紙1章6~8節ではこのように言っています。「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」と言っています。

 

パウロはここで、そのような教えを「ほかの福音」と呼んでいます。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではありません。福音のような装いはしていても本当の福音とは違う教えことです。そういう教えが結構あります。よく話を聞いていると、聖書の話をしているようだけれどもどこか違っていたり、あからさまに福音を否定するようなことを言う人たちもいます。

 

先週、教会に次のようなメールが届きました。

「突然のメール、失礼いたします。ぜひ、読んで下さって、返信していただければ幸いです。よろしくお願い致します。

今は、イエス様の再臨の時であり、収穫の時です。収穫の知らせを伝えます。神様の種(御言葉)で生まれた人たち(受けた人たち)を収穫します。神様の種で生まれた人は、収穫の働き手に出会って、収穫されて来る事を願っています。今は、各枝派が、黙示録(啓示録)の預言と、その成し遂げられた実体をあかししています。知りたいと思われる方は、参加できます。

イエス様の再臨は、新約の四福音書の預言と黙示録の預言で約束した、約束の牧者に来られます。新約の黙示録の預言の成就の時は、イエス様が成し遂げられて、約束の牧者は、それを、すなわち、成し遂げられる事を、黙示録1章~22章まで全て見て聞いた者です。イエス様が黙示録を成し遂げられる事を、1章から22章まで、一章、一章全て見た者が、黙示録全章をあかしします。収穫されなかった人が、収穫の知らせを聞いても関心のない人たち、啓示録の預言が成し遂げられているとしても、感動しない人たち、信じない人たち。啓示録を加減すれば、天国に入れず、災害を受けます(啓22:18-19)。これを知りながらも、黙示録を知ろうとしないという事は、まことの信仰ではなく、形式的な信仰であり、このような人は、狼が羊のなりをした人です。

教会と牧者と教徒たちに教理、すなわち、御言葉がないのは、御言葉であられる神様とイエス様がない証拠です。天地の間に、聖書に精通する所は、ただ、新天地イエス教会と、その聖徒たちだけです。来て見て下さい。そして、聞いて見て下さい。」

 

何を言っているのかわかりませんね。意味不明です。確かに、今は再臨の時であり、収穫の時であるのは間違いないです。また、その時どのような人たちが収穫されるのかは、神の御言葉によって新しく生まれた人たちです。しかし、だからといって、黙示録を知ろうとしない人はまことの信仰ではなく、形式的な信仰であり、狼が羊のなりをした人たちであるということはありません。なぜなら、収穫される人たちは黙示録を知ろうとしているかどうかではなく、御言葉を通して神の御子イエス・キリストを信じた人たちだからです。また、それを知っているのは天地の間に、聖書に精通している新天地イエス教会と、その聖徒たちだけであるというのも極端です。自分たちだけが正しく、そうでない者たちは間違っていると主張すること自体、間違っていると言えるからです。

 

この新天地イエス教とは何者か調べてみると、この団体は1984年にイ・マンヒという人によって創設された新興宗教です。正式名は”新天地イエス教証しの幕屋聖殿”(新天地イエス教証幕屋聖殿)と言います。昨年韓国で新興宗教の施設でコロナのクラスターが発生したというニュースがありましたが、それがこの新天地イエス教会の一つの施設です。その教えの特徴は、聖書の中でもヨハネの黙示録を重要視し、聖書の内容を新天地独自の例えや比喩、例示を使って解き明かします(間違った解釈)。また、教祖のイ・マンニという人物を再臨のイエス・キリストだと教えています。主イエスは、世の終わりには自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。(マタイ24:5)と預言されましたが、まさに聖書が教えている偽キリストであることがわかります。

現在、信者数は25万人くらいいます。驚くことは、近年1年間で10万人もの人たちが入信したと言われています。どうしてそんなに多くの人たちがこ信じるのでしょうか。その手口がかなり巧妙です。新天地は、キリスト教会に潜り込んで、自分の正体を隠して教会員になります。そして熱心に奉仕をして役員クラスになり、教会をのっとることを計画し実行するのです。そうやってキリスト教会を破壊させ、新天地に導くのが彼らのやり方であり、成長の秘訣です。韓国では新天地が潜り込んでいない教会はないといわれるほど、手を伸ばしており、現在、統一教会以上に被害を及ぼし、警戒されています。
 日本でも活発に活動していて、多くの若者が大都市を中心に集まっています。一昨年、私たちの教会で洗礼を受けた1人の姉妹は、この新天地に通っていましたが、教祖が再臨のイエスだと聞き、何だかおかしいなぁと別のクリスチャンに相談して教会に来られました。もし来なかったら今頃新天地の幹部になっていたかもしれません。恐ろしいことです。

 

また、最近教会によくセミナーの案内を送ってきたり、電話で勧誘する人グループがあります。キリスト教福音浸礼会と言います。このグループは「グッドニュース宣教会」という名前で活動しているので、プロテスタント、しかも福音派の仲間ではないかと思ってしまいますが、実はそうではなく、その正体は「救援派(クオンパ」というキリスト教の異端です。グッドニュース宣教会、キリスト教福音浸礼会は、朴玉洙(パク・オクス)という人が代表ですが、その教えの特徴は、本当の救いは「救いを悟る」ことによってのみ得られるもので、救いを悟っていない多くのクリスチャンは救われていないとするものです。悔い改めを繰り返すのは救われていない証拠であり、悔い改める必要もない、と言います。救われた者は罪を犯すことはないので悔い改める必要がありません。悔い改める人は地獄の子で、自分を罪人と思っている多くのクリスチャンは死後地獄に行くわけで、救いを悟っている人はそういうことがないのだから、「私は義人だ」と告白するべきである、というのです。律法は完全に撤廃されたので、盗み・殺人・姦淫などを犯しても罪にあたらないとい言います。

どう思いますか。聖書の教えを知らない人は「あ、そうなんだ」と思うかもしれませんが、聖書ではそのように教えられていません。私たちはイエス・キリストを信じることで救われ天国への切符を受けることができますが、でも地上にいる間は不完全な者なので罪を犯すわけです。しかし、そのような者も赦されていると約束されているので、悔い改めて神の御心に歩むのです。

 

このように、ちょっと聞いただけではどこが間違っているのかわからないかもしれませんが、聖書が教えている福音の教えと違うことを教える人たちがいます。そういう人たちを警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。そうでないと、やがて教会全体が根底から揺さぶられてしまうことになります。教会にとって本当に恐ろしいことは外側からの攻撃よりも、内側にはびこる異端的な教えです。外からの攻撃があると、不思議なことに教会は燃え上がりますが、内側からの異端的な教えが内部に広がると、教会は分裂して倒れてしまうことになります。それは収穫の時に現れるいなごの群れのようです。一年間しっかりと農作業をやってきたのに、突然いなごの群れがやってきて、すべての穀物を食い尽くしてしまうのです。これまで汗と涙を流して伝えた神のみことばを全部揺さぶって、神の民を悪魔のしもべに変えてしまうことになるのです。これが、みことばをねじ曲げて伝える異端のやっていることです。そのような人たちを警戒しなければなりません。だからパウロは、そのように誤った教えを宣べ伝える人たちがいるとしたら、そういう人はのろわれるべきだと言っているのです。

 

18節をご覧ください。ここには、そのような人たちの特徴が記されてあります。「そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。」

そういう人たちは主イエスに仕えているのではなく、自分の欲望に仕えています。この「欲望」と訳されていることばですが、これは原語では「腹」と訳されることばです。キリストの十字架に従うのではなく、自分の欲望と自分の考えに従って歩んでいるのです。これが福音だと言いながら、福音をねじ曲げてしまうのです。しかも彼らは滑らかなことば、へつらいのことばで迫ってくるので、それが異端かどうかを判別するのが難しいのです。まさに羊のなりをした狼ですね。このような教えを警戒し、彼らから遠ざからなければなりません。

 

「警戒しなさい」とか「遠ざかりなさい」というは、いかにも消極的な対処法であるかのように見えます。なぜ「戦いなさい」とか「対処しなさい」ではないのでしょうか。それは、こうしたこれこそ異端に対して最も有効な対処法だからです。たとえば、ヨハネ第二の手紙1章10~11節には、「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」とあります。ですから、私たちは異端を教える人たちから遠ざかることが賢明なのです。そうでないと間違った教えを持っている人たちは、極めて巧妙に私たちを自分の側に引き入れようとするからです。

 

以前、私の家にエホバの証人の方がよく来られました。玄関のインターホンを鳴らすと、「私たちは聖書の教えをお知らせしているものですが、ご主人は聖書に興味はございませんか?」と言われるのです。少なくとも、私の家は教会ですよ。看板もあれば、十字架も掲げてあります。そういうところにやって来て「聖書に興味はありませんか」と言われるのですから、相当の自信と度胸があるのだと思います。むしろ、相手がクリスチャンであれば、ある程度聖書を知っているので都合がいいのです。またクリスチャンは人がいいので、このような人たちを無碍に断らないということを知っていので、そういう弱みに付け込んでやって来るのです。

もちろん、「ございます」ので、「わかりました。ちょっとお待ちください」とできるだけ爽やかな服装で、満面の笑みをうかべながら、「お待たせしました。」と玄関のドアを開けると、そこには実に優しそうなご婦人が二人おられるではありませんか。上品な笑顔と、上品な服装をして。一人の人が話すのを、もう一人の人が静かに聞いておられます。「ご主人、この世の現状を見てどのように思われますか。」

「この地上の楽園に入るためには神を信じなければなりません。イエスは神に近い人間ですが神ではありません。唯一まことの神を信じなければなりません。」

それで私が「聖書には何と書いてあるでしょうか。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。イエス様こそ人となられたまことの神であって、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたことで救いの御業を成し遂げてくださいました。なぜなら、この方は神が約束されたメシヤ、救い主、神ご自身であられるからです。だれでもこの方を信じる人は救われるのです。」とお話すると、初めは穏やかに接してくれていた方が、だんだん険しい顔になってきて、ついには口から泡をふいて、「こんなに聖書を勉強している牧師さんに会ったことがない」と言って去って行かれました。こんなに聖書を勉強している牧師がいないのではなく、こんなに真面目に相手をする牧師はいないということでしょう。残念ながら、それ以来、私のところには来なくなりました。要注意人物のリストに上げられているのでしょう。教会を避けて行くようになりました。

私はずっと前からエホバの証人の方が熱心に伝道している姿を見ていて、もしかすると、あっちの方が正しいのではないかと思ったことがありまして、そして、自分の信じていることが間違っていたら大変だと思い、エホバの証人方と10回にわたり論じたことがあります。残念ながら、その時も5回くらいやった後で体調が良くないということで最後まで続けることができませんでした。その時も「こんなに聖書を勉強していると思わなかった」と言っておられました。彼らの教えがどのようなものなのかを学ぶことで、自分が信じていることが正しいということを確信を持つことができて本当に良かったと思っています。しかし、聖書では、一番良い対策は、彼らと論じるのではなく、彼らを警戒し、彼らから遠ざかることです。

 

19節でパウロは、「あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」と言っています。従順であるだけでは危険です。私たちはこの世の中で信仰者としてしっかり立っていくためには、「善にはさとく、悪にはうとく」なければなりません。「善にはさとく、悪にはうとく」とはどういうことでしょうか。「さとく」とは、「賢く」とか「鋭く」ということです。一方「うとく」とは、疎遠であることです。ですから、「善には賢く、悪には疎遠であれ」という意味になります。一般的な傾向として、私達は悪いことには賢く、善をなすことには知恵が回らないものです。コロナの給付金を巡っても、いろいろな手口でだまし取ろうとする犯罪があとを絶ちません。つくづく,この世の人は悪事に賢いなあと感心させられますが、ここでは逆です。善に対して賢く、悪に対してはうとくなければなりません。

 

Ⅱ.平和の神(20)

 

第二のことは、神にゆだねることです。20節をご覧ください。ここには、「平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」とあります。

 

17~19節において、私たちが注意すべきことについて教えられてきましたが、ここでは、それと同時に神の助けが必要であることが述べられています。神の助けがなければ、私たちは悪魔に勝利することはできません。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」という表現は、創世記3章15節で預言されたことですが、異端の元祖とも言うべきサタンに対する神の究極的な勝利が実現するという意味です。その創世記3章15節をご覧ください。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、女の子孫から出るキリストが、敵である悪魔を踏み砕くという預言です。聖書に一番最初に出てくる福音の預言なので、「原始福音」と呼ばれています。主イエスは十字架と復活によってそれを成就してくださいました。しかし、最終的には主が再臨する時まで待たなければなりません。ですからここに「すみやかに」とあるのです。パウロは、終末的な神の勝利が「すみやか」に来ると信じていました。

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」(Ⅱテサロニケ1:8-10)

 

パウロは、ここに希望を持っていました。皆さん、私たちの真の希望はどこにあるのでしょうか。ここにあります。主は確かに来られます。その時が近づいています。これこそ私たちの真の希望です。この希望を握りしめている時、私たちは主を喜び、賛美をささげることができます。そうでいなと、目の前のことに心と思いが奪われ、落胆したり、絶望したりすることになります。この世にある矛盾とか葛藤というのは、私たちの力や方法によって解決できるものではありません。けれども、主が再び来られるとき、それらのすべてを正しくさばいてくださいます。ですから、この方にすべてをゆだねることができます。

 

クリスチャンにとっての最高の使命は、日々、目を覚まして、この再臨の主を待ち望むところにあります。日々の生活において不義なことや傷つくことがあっても、落胆したり絶望したりしないで、主がすべてのことを正しくさばいてくださると信じて、待ち望まなければなりません。それこそ確かな希望であり、真の解決なのです。私たちに必要なのはこの世の不条理に対してあくせくすることではなく、サタンを踏み砕く主にゆだねることです。

 

Ⅲ.福音に生きる(25-27)

 

第三のことは、福音に生きることです。25~27節をご覧ください。パウロはこの手紙の最後のところで、「〔私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって──永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。〕」と言って、この手紙を結んでいます。

 

これは頌栄です。頌栄というのは、神の栄光をほめたたえることですが、このローマ人への手紙のしめくくりとしての頌栄は、内容が盛りだくさんというか、文章が長いので、その意味があまりハッキリしません。いったいパウロはここで何を言いたいのでしょうか。27節にあるように、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえにありますように。」ということです。ではこの知恵に富む唯一の神とはどのようなお方なのかというと、その前の26節に書かれてあるように、「あなたがたを堅く立たせることができる方」です。ではどのように堅く立たせることができるのかというと、またまたその前に書かれてあるように、「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、です。すなわち、25節にあるように、私の福音とイエス・キリストの宣教によってであります。

 

パウロは、自分に示され、自分が宣べ伝えた福音こそまことの福音であるということを知ってほしいのです。この福音によってです。ですからここでパウロが言いたかったことはどういうことかというと、パウロが宣べ伝えていた福音によってあなたがたを堅く立たせることのできる知恵に富む唯一の神に、栄光がとこしえにありますように、ということなのです。

 

皆さん、福音こそ私たちを信仰に堅く立たせてくださることができるのです。パウロは、この手紙の最初のところで次のように宣言しました。1章16節です。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」

 

皆さん、福音は力です。単なる概念ではありません。それは、救いを得させる神の力なのです。たとえ私たちの周りが偶像で溢れ、神の教えをねじ曲げるような人たちがいても、あるいはそのことによって教会が、社会がどんなに枯れた骨のような状況であっても、福音は信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。それは二千年前に伝えられた昔話ではなく、今も生きて働き、私たちのたましいを変え、人生を変える力なのです。

 

皆さんは「バウンティ号」という船をご存知じでしょうか。この船は1787年にイギリス政府が南洋諸島の一つであるタヒチという島にパンの木の栽培のために100人ほどの人たちを送り込んだのですが、その際に乗り込んだ船の名前です。その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはみな魅力的でした。

しかし、彼らは次第に堕落してしまい、本国からの命令を無視するようになり、口やかましい船長に反抗して、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのです。

その後彼らは本国から逮捕させるのを恐れ、ピトケアン(Pitcairn)という島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶ生活を始めました。そうなると彼らの間でけんかが絶えなくなりました。特に熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのけんかがひどくなり、殺し合いまでするようになりました。そして最後にたった一人ジョン・アダムズという人だけが残されたのです。

すべての西洋人がいなくなり、多くの混血の子どもだけが生まれ育つようになりました。しかし、それから30年後、そこを通りかかったアメリカの船がその島に上陸してみると、驚くべき光景を目にしたのです。そこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。いったい何があったのでしょうか。

仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いで死んでしまったある日、力が強かったがゆえに多くの人を殺して生き残ったジョンは、難破した「バウンティ号」に戻ってみると、そこに一冊の聖書を見つけました。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引きつけられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつの間にか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして悔い改め、彼は神の人に変えられました。

その後聖霊の導きによって、その島の子どもたちに字を教え、神のみことばである聖書を教えました。住民たちも彼を尊敬し、彼を王様にし、彼に従いました。そしてその島はパラダイスのようになったのです。これは福音の力、一冊の聖書の力によるものでした。

 

神のことばは生きていて力があります。この神のことば(福音)によって私たちは救われ、変えられ、信仰に堅く立つことができるのです。そして、あらゆるサタンの攻撃に打ち勝つことができるのです。今、私たちに求められていることは、この福音に生きることです。パウロはローマ人への手紙8章35節で、次のように問いかけています。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」

この問いに対する答えはこうです。続く37節でパウロは次のように言っています。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

もし私たちが自分の人生を主の御手にゆだね、復活の主に信頼するなら、何が起こっても途方に暮れることはありません。どんなことがあっても、私たちがそれに飲み込まれたり、滅ぼされてしまうことはないのです。圧倒的な勝利者になるのです。これが復活の力であり、福音のメッセージです。

 

皆さんはどうでしょう。何に頼って生きていますか。自分の考えとか自分の力でしょうか。でもそれだけでは私たちは折れてしまうことがあります。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストに信頼して生きることによってのみ、私たちはあらゆる困難を乗り越えることができるのです。

 

1968年に、ある科学者がインディアンの墓で、600年前に作られたと思われる、種でできた首飾りを発見しました。その科学者がその種の一つを取って植えたところ、何と芽を出し成長を始めたのです。600年間も休眠状態であったはずのその種には生命力が宿っていたのです。大切なのはその種を植えることです。あなたの心に福音の種を植えるなら、どんなに休眠状態にあろうとも、あなたも芽を出し、成長し、豊かな人生の実を結ぶことができるのです。この種には驚くべき偉大な神の力が宿っているからです。さあ、この福音の種をあなたの心に、また私たちの住んでいる社会に植えましょう。そうすればあなたの人生に全能の神が働いて、偉大な御業を成してくださるのです。

 

旗じるしは愛 雅歌2章1~7節

2021年6月13日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌2章1~7節

タイトル:「旗じるしは愛」

 

 雅歌からお話しております。きょうはその4回目となりますが、2章1節から7節までの箇所から「旗じるしは愛」というタイトルでお話します。

 

Ⅰ.茨の中のゆりの花のようだ(1-2)

 

まず、1~2節をご覧ください。1節には、「私はシャロンのばら、谷間のゆり。」とあります。

 

これは、花嫁が花婿に語っていることばです。花嫁は、自分はケダルの天幕のように黒いけれども、花婿が「あなたは女の中でもっと見美しいひとよ」と言ってくださるので、ソロモンの幕のように美しいと宣言することができました。花婿の誉め言葉はそれだけではありませんでした。1章9節では、「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。」と言いました。なんですか、馬になぞらえるなんて!という人もいるかもしれませんが、それは最高級の馬のことであり、それほど美しいということの表現でした。そればかりか、覚えていますか、15節には「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」とありましたね。鳩のように美しく、きよらかであるということです。花婿は花嫁に対して何度も「美しいひとよ」と言うものですから、花嫁はすっかり気分がよくなって、ここでこう言うのです。「私はシャロンのバラ、谷間のゆり」。人は自分が愛されていることがわかると自分のイメージが変わります。他のだれが何と言おうとも、自分が愛する方がそのように言ってくださるのです。彼女はこれまで「私は黒いけれども美しい」と言っていましたが、「私はシャロンのばら、谷間のゆり」と言うまでになったのです。

 

「シャロン」とはヨッパからカイザリヤまでの地中海沿岸の肥沃な平原のことです。砂漠の多いこの地域にあっては、花が咲き草木が生い茂る特別な場所です。そのシャロンに咲くばらのようだというのです。この「ばら」という語ですが、新改訳第三版では「サフラン」と訳しています。このことばは聖書の中では他に1か所だけに出てきます。それはイザヤ書35章1節ですが、そこには「サフラン」と訳されています。「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。」新改訳2017ではこの「ばら」に※が付いていて、欄外注の説明には「サフラン」とあります。英語のある聖書(米改定標準訳)には「クロッカス」と訳されています。おそらく、「サフラン」か「クロッカス」のどちらかではないかと思います。花がよく似ていますが、サフランのめしべの方がクロッカスのめしべに比べて著しく長いのが特徴です。どちらにしても確かなことは、この花はシャロンに咲く美しい花であるということです。

 

また、彼女は自分を「谷間のゆり」にたとえています。「ゆり」は、野にあふれていた草花でした。イエス様は新約聖書の中でこのゆりについ言及しています。マタイ6章28節です。「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」この「野の花」の「花」が「ゆり」です。第三版では「野のゆりが」と訳しています。これは野原に普通に咲いていた花でした。彼女は慎ましやかに、自分を野に咲いているありふれたゆりの花であるとしながら、ただのゆりの花ではない、谷間のゆりだと言っているのです。谷間のゆりとは何でしょうか。谷間とは、過酷な環境の中でもひっそりとたたずんだ場所です。彼女は自分がそうした野のゆりの花にすぎない者でも、そうした過酷な環境の中でもたくましく生きているゆりの花なのだと言っているのです。つまり、美しさとたくましさを備えた花であるということです。

 

まさにイエス様がそのような方でした。中世のキリスト教の多くの聖画を見ると、青い目をした色白の、弱々しい姿のイエス様の姿を描いたものが多いですが、実際はそうじゃなかったと思います。イエス様は大工の息子でしたから、もっとがっちりしていたのではないかと思います。何よりも、神の子としての栄光と神々しさに溢れていたでしょう。見た目では他の人とあまり変わりはないように見えても、この方には神の御霊が無限に注がれ、神の栄光に満ち溢れて。まさにシャロンのばら、谷間のゆりです。ここでは花嫁がそのように言われています。イエス様がそのようなお方なので、その花嫁である教会もそのようになっていくのです。

 

そんな花嫁に対して花婿はなんといっているでしょうか。2節をご覧ください。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」これは花婿のことばです。どういう意味でしょうか。

 

「茨」とはとげのある小さな草木です。その中にあってとりわけ美しいゆりの花、それが花嫁です。この茨とは他の女性たちのことを指しています。1章5節には「エルサレムの娘たち」のことが記されてありますが、彼女たちは茨のような存在と言えるでしょう。そうした娘たちの中にあってその美しさが際立っていました。確かに彼女はどこにでもあるような野のゆりにすぎないかもしれませんが、しかし、そんな彼女の美しさと比べたら、他の女性たちは茨のようだと言っているのです。それほどに花婿にとって花嫁は特別な存在であるということです。

 

実際、イエス様があなたを見るときそのように見ておられます。あなたはひときわ美しいと。あなたの周りには確かに才能に溢れた人、輝いた人がいるかもしれない。回りのみんなからちやほやされ、羨ましい限りのような人がいるかもしれない。それと比べたら自分には何の才能もなく、いたって平凡で、これといった取り柄があるわけでもないし、本当に情けないとあなたは思っているかもしれないが、そんなあなたを見てイエス様は「あなたは美しい」とおっしゃってくださるのです。「あなたと比べたら、他は茨のようだ!」と。

 

イエス様の目であなたは唯一無二の特別な存在なのです。イザヤ43章4節にこうあります。「わたし目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」このように見てくださる主に感謝したいと思います。そして、私たちの目ではなくイエス様の目で自分はどういう者なのかということを、正しく受け止めたいと思います。

 

Ⅱ.あの方の旗じるしは愛でした (3-6)

 

次に、3節から6節までをご覧ください。3節をお読みします。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです。」

 

これは、そんな花婿のことばを受けて花嫁が語っていることばです。ここで花嫁は花婿を称賛しています。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。」「林の木々」とは「雑(ぞう)木林(きばやし)」のことです。ここで若者たちが雑木林にたとえられているのです。つまり、花婿が若者たちの間におられるのは、雑木林の中に植わったりんごの木のようだと。それだけ特別な存在であるということです。

 

どのように特別なのか、その後のところで言われています。まず、「その木陰に私は心地よく座り」とあるように、その木陰で休むことができます。「寄らば大樹の陰」ということわざがあります。どうせ頼るなら、大きくて力のあるものに頼ったほうが安心できるし、なにかと得だという意味です。 雨宿りをしたり、暑い日ざしを避けようとして木陰に身を寄せるときには、大きな樹木の陰がなにかと好都合であるということです。まさに私たちの花婿は「大樹の陰」です。皆さんは何を大樹としているでしょうか。お金ですか、仕事ですか、それとも資格といった類のものでしょうか。そうしたものもある程度は必要でしょう。しかし、そうしたものが全く頼りにならないときがやってきます。こうしたものがあなたを裏切ることもあります。あれほど必死で働いてきたのに、いったいそれはどういうことだったんだろう、ということがあるのです。仕事であろうと、資格であろうと、そうしたものが役に立たないときがあるのです。しかし、私たちの花婿は、決してあなたを失望させることはありません。この方は林の木々の中のりんご、雑木林の中にしっかりとそびえ立つりんごの木のように、あなたをすべての災いから守ってくださるからです。

 

詩篇91篇お開きください。これは主に身を避ける人がいかに幸いであるのかを歌った歌です。1~2節だけとも思いましたが、とてもすばらしい詩なので、全体をお読みしたいと思います。

「1いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。

2 私は主に申し上げよう。「私の避け所、私の砦私が信頼する私の神」と。

3 主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。

4 主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。

5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も、昼に飛び来る矢も。

6 暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

7 千人があなたの傍らに、万人があなたの右に倒れても、それはあなたには近づかない。

8 あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。

9 それはわが避け所主を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである。

10 わざわいはあなたに降りかからず、疫病もあなたの天幕に近づかない。

11 主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。

12 彼らはその両手にあなたをのせあなたの足が石に打ち当たらないようにする。

13 あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。

14 「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。

15 彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与える。

16 わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」」

すばらしいですね。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は、全能者の陰に宿ります。私たちが苦しいときに主を避け所とするなら、主がいつもともにいて私たちを救ってくださいます。日本語で「お陰様で」ということばがありますが、この「お陰様で」という言葉は、辞書で調べてみると、神仏の加護の意味がある“御蔭”(おかげ)が語源とされている、とありました。この神仏とはだれでしょうか。これはこの全能者のことです。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿ります。そのおかげで完全に守られるのです。そういう意味でのりんごの木です。

 

私が福島で牧会していた時、一人の婦人が突然教会に来られました。それは土曜日の朝のことでした。「すみません、お話を聞いていただけるでしょうか」と、ご自分のことを話されました。アルコール中毒だったご主人が2階からたたき落ち、首の骨を折り1年半の間寝たきりになっていました。農家の仕事もできなくなったので農機具を処分しようと農機具屋に来ましたが、教会があるのを見て来ました、ということでした。お話をお聞きしましたが、どうしてあげることもできず、主があわれんでくださるようにと祈りました。そして、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)のみことばから、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったこと、そして三日目によみがえってくださり、私たちの救いの御業を成し遂げてくださったことをお話し、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」(ローマ10:13)とお話すると、その場でイエス様を信じました。全能者の陰に宿ったのです。

数日後にご主人が入院している病院に行きました。ご主人は気管切開し呼吸器につながれていました。「こりゃ無理だ」と内心思いましたが、神様が癒してくださるように、そしてこの苦しみから救ってくださるようにと祈りました。

イエス様を信じてからこの姉妹は意欲的に仕事を探しました。するとある営業の仕事が与えられました。「先生、仕事が与えられました。感謝します。イエス様のお陰です。」と喜びが電話から伝わってきました。「良かったですね。どんなお仕事ですか」と尋ねると、何かの営業のお仕事でした。「日曜日はお休みになれますか」と聞くと、休んでも月1回くらいということでした。それで「もう少し祈りましょう。神様は必ず良い仕事を与えてくださると思います。」と言うと、「先生ひどい!」というのです。「せっかく仕事が与えられたのに。これからのことを考えると良い仕事だと思ったのに」と。

それで彼女はどうしたかというと、もともと農家の方で、りんごとかさくらんぼとかを栽培していたのですが、りんご畑に行ってりんごの木の下で祈りました。祈ったというよりもボーっとしていたといった方がいいかもしれません。すると、ある一つのことを思い出したのです。それは義理の両親がご主人のために掛けていた生命保険のことです。病院の医師は回復の見込みが有りと診断書に書いていたので保険金は受け取れない状態になっていましたが、もしかすると無にしてくれるのではないかと思ったのです。「どう思いますか」と言うので、「こういう状態がずっと続いているので、医師に相談したらいいと思います」と言うと、医師は「あ、そうだね、回復の見込みは無いね」とあっさりと「無」にしてくれたのです。それでご両親が掛けてくれていた保険が下りて、苦しい生活から解放されたのです。

それからしばらくして、私が大田原に来てからのことですが、ご主人が奇跡的に意識を回復し立ち上がることができるまでになりました。そしてなんとか杖をついて教会にも来られるようになったのです。教会の創立30周年の時に、後ろから私の肩をたたく人がいるので誰かなぁと思ったら、そのご主人でした。ご主人は介護を受けて自立生活ができるまでになり、イエス様を信じて救われました。ご主人だけではありません。二人のお子さんも、義理のご両親もみんなイエス様を信じて救われたのです。この方に信頼する者は、だれも失望させられることがありません。主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。

すべてはあのりんごの木から始まりました。イエス様を信じて祈り、イエス様の陰に宿ったことで、イエス様が助けてくださったのです。いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦私が信頼する私の神」と。

 

あなたは何の陰に宿っていますか。いと高き方の隠れ場、全能者の陰に宿る人は幸いです。ところで、いと高き方の陰に宿るといっても、りんごの木ではちょっと小さいんじゃないかと心配する方もおられるかもしれませんね。でも大丈夫です。この「りんごの木」という言葉ですが、これはヘブル語では「タプアハ」という語です。これはりんごの木というよりは杏子の木、アプリコットの木のことです。それは10mくらいになります。ですから、陰として十分なのです。しかし、これがりんごの木であろうと杏子の木であろうと、これは花婿なるキリストのことですから、主イエスの陰に宿ることが大切であるということです。主に信頼する者は失望させられることはないからです。

 

このりんごの木ですが、もう一つのことは、その実は甘いということです。3節に「その実は私の口に甘いのです」とあります。これは、5節にも「りんごで元気づけてください」とありますが、私の口に甘く、私たちを元気づけてくれる神のみことばのことを表しています。詩篇の19篇10節には、「それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」とあります。主のおしえは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘いのです。

また、詩篇119篇103節にはこうあります。「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」それは甘いのです。それはただ甘いだけではありません。それはあなたを励まし、あなたを元気づけてくれます。

 

あなたはこのみことばを味わっているでしょうか。全能者の陰に宿り、この方が与えてくださる実、みことばの実を口にすることで、あなたも元気づけられます。私たちもキリストの花嫁として、主よ、あなたは林の木々の中のリンゴのようですと、その木陰に宿り、その実を口にする者でありたいと思います。

 

そして4節をご覧ください。ここにはこうあります。「あの方は私を酒宴の席に伴ってくださいました。私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした。」

「あの方」とは、花婿のことです。花婿が花嫁を伴ってくださいました。どこに伴われましたか?酒宴の席に、です。「酒宴の席」とは、宴会とか、祝宴の席のことです。田舎娘の花嫁がこうした宴の席に出ること自体恥ずかしいことだったでしょう。身を引くような思いだったに違いありません。そんな花嫁を気遣って花婿は彼女をひときわ励まし、安心を与え、配慮しているのです。

 

その花嫁の上に翻っていた旗じるしは何でしたか。「愛」です。愛でした。「旗じるし」とは、兵士がどの部隊に属しているのかを示すものです。それは、誰が軍を率いているのかが一目でわかるような目印でもありました。強い武将なら「俺がここにいるぞ!」と相手を威圧するメリットもありました。その旗じるしが愛だったのです。それはイエス・キリストの十字架によって表された神の愛のことです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

クリスチャンはみな、この旗じるしの下に呼び集められた者です。イエス・キリストの愛に属するものとされたのです。教会のシンボルが十字架であるゆえんはここにあります。どの教会にも十字架が掲げられているのは、ここに神の愛が示されたからです。これが花嫁である教会の上に翻っていた旗じるしでした。

 

もしこの旗じるしが「愛」ではなく「聖」だったらどうでしょうか。あるいは、「義」だったらどうでしょう。誰も近づくことができなかったでしょう。私たちはあまりにも汚れているので、どんなに自分で聖くなろうとしてもなれないからです。しかし、神はそんな私たちを愛してくださいました。確かに私たちは汚れた者、罪深い者ですが、そんな私たちが滅びることがないように神はそのひとり子をこの世に遣わしてくださいました。そして、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んでくださり、それを信じる人が救われるようにしてくださったのです。それが十字架です。神は世界中どこででも、この十字架の旗じるしを掲げて、私たちが帰るのを待っておられるのです。あなたをとっても愛しておられる造り主が。

 

5節をご覧ください。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで元気づけてください。私は愛に病んでいるからです。」「干しぶどうの菓子」は「干しぶどう」とは異なります。これはケーキ状に圧縮したぶどうの菓子で、ダビデが契約の箱を運んだ者たちに与えたものの一つです(Ⅱサムエル記6:19)。これは今日でも旅人を元気づけるために与えられると言われています。それは腐らず保存が効くことで、最高の贈り物とされていました。それはイエス・キリストご自身の象徴でもあります。ヨハネ6章27節には「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」とあります。イエス様こそいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物です。私たちには、このような食べ物が与えられています。その食べ物によっていつも力づけてもらうことができるのです。

 

また、「りんごで元気づけてください」とあります。このりんごもイエス様のことを象徴しています。3節にも「その実は私の口に甘いのです」とありましたが、それは花嫁を元気づけてくれるものでした。詩篇145篇14節には、「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」とあります。主は倒れている者をみな支え、かがんでいる者をみな起こしてくださいます。マタイ11章28節には、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。有名なことばですね。おそらく教会の看板に書かれてある聖句で一番多いのがこのみことばではないかと思います。もしあなたが疲れているなら、重荷を負っているなら、イエス様のもとに来てください。そうすれば、主があなたを休ませてくださいます。りんごで元気づけてくださるのです。

 

6節をご覧ください。花嫁は続いてこう言っています。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」

直訳では「左」「右」です。それが腕なのか手なのかははっきりわかりません。新改訳第三版では、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」と訳しています。ここでは左の腕でしっかりと支え、右の手で優しく抱きしめているイメージです。それは確かな保護と細やかな愛情を表しています。毎日が不安ですという方がおられますか。今月の支払いもギリギリで、この先どうやって生きていったらいいかわかりませんと。でも大丈夫、あなたはこの方の確かな保護を受けているのですから。健康面で不安ですという方がおられますか。安心してください。主があなたを守ってくださいます。それはただ困ったときの神頼みではなく、いつでも、どんな時でも、あなたのすぐそばにいてあなたを助けてくださいます。この方はあなたの花婿なのです。力づよい御腕と細やかな愛の御手をもって守ってくださるのです。

 

私の好きなみことばの一つに、申命記33章27節のみことばがあります。「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。」

すばらしいですね。私たちの下にはこの永遠の腕があります。神が常にあなたを支える腕となってくださいます。敵に立ち向かう力を与えてくださいます。自分で戦うのではありません。死に勝利され復活されたキリストが戦ってくださるのです。私たちは、神に信頼して従ってゆくのみです。

 

Ⅲ.愛が目ざめるとき(7)

 

最後に7節を見て終わりたいと思います。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

 

これは花婿のことばです。同じことばが3章5節と8章4節にも繰り返して出てきます。この繰り返しによって一つの場面を締めくくっていると言えます。ここで花婿はエルサレムの娘たちに、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いしています。花嫁を揺り動かしたり、かき立てたりしないように。愛がそうしたいと思う時までは、そっとしてあげてくださいと。

「かもしか」や「野の雌鹿」は、非常に敏感な動物です。ちょっとした物音でも飛び跳ねて逃げて行きます。そのかもしかや野の雌鹿にかけて、花嫁を揺り起こしたり、かき立てたりしないでほしいと懇願しているのです。どうしてでしょうか。

 

愛とはそういうものだからです。愛とはだれか他の人にせかされて動くようなものではなく、そうしたいという思いが内側から起こされてはじめて動くものだからです。第三版では「愛が目ざめたいと思うときまでは」となっています。それは恣意的に起こすことがあってはいけないということです。愛は、自分から、あるいは人から強制されてつくり出せるものではないのです。「この人を絶対に愛して行きます。」「永遠に愛します」と口で言ったとしても、そうすることはできません。愛には「目ざめ」が必要なのです。この目覚めがないのにどれだけ自分の意志で愛そうと思っても、限界があります。といっても、それは花嫁自身の中からは出てくるものではありません。聖霊の助けと促しなしには「目ざめる」ことはないのです。それゆえに「愛の目ざめ」は尊いのです。しかもその愛が「目ざめる」ときには「強さ」を表します。8章6節に「愛は死のように強く」とあるとおりです。そして、その愛は大水も消すことができません(8:7)。

 

花婿なる主イエスへの愛も同じです。牧師にどれだけ強く勧められても、自分の中にそうしたいという思いが与えられなければ盛り上がることはありません。一時的に心が高まることがあるかもしれませんが、すぐにしぼんでしまうことになるでしょう。花嫁の心はかもしかや野の鹿のように繊細なので、内側から自然に愛が湧いてくるまで待たなければなりません。その中で聖霊ご自身があなたに触れてくださり、あなたに慰めと励ましを与えてくださいます。愛がそうしたいと思うとき、愛が目覚めるときがやってきます。その愛は死のように強く、大水も消すことができないほどの力となって表れるのです。

 

パウロは、エペソの教会の人たちのためこう祈りました。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:14~21)

私たちも祈りましょう。私たちの内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、私たちの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いている私たちが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますようにと。

 

ただ一つの願い 雅歌1章9~17節

2021年5月30日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌1章9~17節(雅歌シリーズ③)

タイトル:「ただ一つの願い」

 

 雅歌から学んでいます。きょうはその3回目となります。これは花婿と花嫁の関係を歌った歌ですが、神とイスラエル、また、キリストと教会との関係をたえとて歌われています。前回のところで花嫁は、「私は黒いけれども美しい」と言いました。なぜなら、花婿がそのように見てくださるからです。自分がどんなに汚れた者だと思っていても、花婿なる主が、「女の中で最も美しいひとよ」と呼んでくださる。それゆえ、花嫁なるクリスチャンは、黒くても美しい、と告白できるのです。きょうはその続きです。

 

Ⅰ.わが愛する者よ(9-11)

 

まず9~11節をご覧ください。「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。そこに銀をちりばめて。」

 

これは、花婿のことばです。「わが愛する者よ」という呼びかけは、雅歌全体で9回も用いられています。これが雅歌における重要な概念です。花婿にとって花嫁は「愛する者」なのです。

 

花婿はここで花嫁をファラオの戦車を引く雌馬になぞらえています。当時エジプトの馬は最高の馬でした。それは王だけが乗ることができる馬だったのです。今で言うと、ロールスロイスとかベントレーといった車です。ロールスロイスとかベントレーといっても皆さんはわからないでしょう。これらは、ロイヤルファミリーが乗る世界最高の乗り物です。ネットで調べてみたら実に美しい車で、価格は何と16億円もします。女性を乗り物になぞらえるなんて嫌だ!という方もおられるかもしれませんが、それほど美しいということです。最高であると。私たちは時々自分を見て「私はなんて黒いんだろう」と思うことがありますが、イエス様はそんなあなたを見て「ファラオの雌馬のように美しい」と言ってくださるのです。

 

10節をご覧ください。ここには「飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。」とあります。どういうことでしょうか。これは、ファラオの雌馬を飾り立てられていた装飾品のことでしょう。ファラオの雌馬には様々な装飾品が飾り立てられていました。そのように、花嫁も種々の装飾品を身に着け美しく輝いています。

 

11節には、「私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。それに銀をちりばめて。」とあります。「金の飾り輪」とは、王宮の皇族が身に着けるものです。現代で言うなら「ティアラ」のようなものです。日本でも皇族の女性方が美しいドレスとティアラの装飾を身に着けている姿を見ることがありますが、とてもきれいですね。ここには銀をちりばめた金の飾り輪を作ろうとあります。どういうことでしょうか。聖書では「銀」は贖いの象徴として用いられています。また「金」は神性の象徴です。つまり、キリストの贖いによって救われ火で精錬することによって、神のご性質に作り変えるということです。

 

時として私たちは火で精錬されるような痛みや苦しみを負うことがありますが、それはいったい何のためかというと、金の飾り輪を作るため、すなわち、そのことによって、あなたを神のご性質に似た者として造り変えるためであるということです。神はあなたを美しく飾るために、あえて精錬されることがあるのです。それは私たちの罪に対する刑罰ではなく、私たちをキリストに似た者とするためなのです。私たちの罪の刑罰は、キリストが十字架で代わりに受けてくださいました。キリストが贖いとなってくださったので、私たちはもう裁かれることはありません。神が私たちを打たれるのは、私たちをもっときよめてくだるためなのです。

 

Ⅰペテロ3章3~4節には、「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」とあります。神の御前で価値あるものは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりといった外面的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄です。こうしたもので飾ってくださるのです。

 

ところで、ここに突然「私たちは」とあります。急に複数形になっているのです。いったいどういうことでしょうか。これは花婿のことばですから、「私は」となるはずなのに「私たち」と複数形になっているのです。ある人たちはこれを、1章3節の「おとめたち」のことではないかと考えています。つまり、花婿がおとめたちと一緒に金の飾り輪を作ると言っているのではないかというのです。またある人たちは、これを尊厳の複数といって、ヘブル語では尊厳なものを表現する時には複数形をとることがあるので、「私たち」と言っているのではないかと考えています。

 

しかし、そうではありません。ここで花婿が「私たち」と言っているのは、実際に花婿がそのような方であられるからです。そうです、ここで「私たち」と複数形になっているのは、花婿はキリストのことですから、三位一体の神を表しているのです。旧約聖書にはこのような表現が他にもあります。たとえば、創世記1章26節には、神が人を造られたとき「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」と言われました。神はここでご自分のことを「われわれ」と言われたのです。なぜ「わたし」ではなく「われわれ」なのでしょうか。神様は三人おられるからです。三人ですが一人、これが三位一体です。神様は三位一体なるお方なのです。エホバの証人の方はこれを受け入れることができないので、これを尊厳の複数だと考えています。神様は尊厳な方なので「わたし」とは言わないで「われわれ」と言われたのだと。しかし、そうではありません。神は三位一体のお方なので「われわれ」と言われたのです。花嫁を金の飾り輪で美しく飾ってくださるのは花婿なるキリストの御業ですが、それは父なる神と子なる神キリスト、聖霊なる神の、三位一体の神による共同の御業なのです。三位一体の神が、金の飾り輪であなたをさらに美しく飾ってくださいます。銀をちりばめて。イエス・キリストの贖いを通して、私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。感謝ですね。

 

であれば、私たちが人生の中で試練や困難に直面したとき、それは三位一体の神が私たちをさらに美しく整えるためになされている愛の御業であると受け止め、神がなさることに期待して、すべてを神に任せなければなりません。

 

Ⅱ.私の愛する方は(12-14)

 

次に12~14節をご覧ください。「王が長椅子に座っておられる間、私のナルドは香りを放っていました。私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」

 

これは花嫁のことばです。「王が長椅子に座っている間」とは、婚宴のテーブルについている間ということです。そのテーブルに着いている間、花嫁が放つナルドの香りは、王である花婿をうっとりさせるほど放たれていました。ナルドとは、ヒマラヤやチベットといった標高の高いところに生息する植物で、古代からインド人により、薬用や香料として使われてきました。それが油に混ぜ合わされたものがナルドの香油です。それは標高が高いところに生息していたことから、非常に高価なものでした。「ナルド」という名前には、「かぐわしい」という意味があります。

 

新約聖書を見ると、ベタニヤのマリヤが十字架を目前にイエス様に注いだのは、このナルドの香油でした。彼女がこの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でめぐったとき、家は香油の香りでいっぱいになったとありますが(ヨハネ12:3)、それほど強い香りでした。それは簡単に消えるものではありませんでした。ですから、イエス様が十字架に付けられたときも、また死んで葬られたときにも残っていたでしょう。マリヤがイエス様に香油を注いだのはそのためでした。彼女はイエス様の埋葬の備えにと、前もってイエスのからだに香油を塗ったのです。もっともマリヤは自分ではそんな意識はなかったでしょう。しかし、結果的にそうなりました。それはイエス様にとってどれほどの大きな慰めであったでしょうか。ひとり十字架に付けられたときに、このナルドの香油が慰めとなり、その苦しみを乗り越える一助となったに違いありません。

 

このナルドの香油は、花婿を祝福するものです。それがこの宴の席で放たれました。花嫁は花婿を愛するがゆえに、自分にとって大切な宝物である高価なナルドの香油をささげたのです。あなたはどうでしょうか。あなたは、あなたを愛して自分のいのちをささげてくださった花婿に何をささげるでしょうか。

 

そればかりではありません。13節には、「私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。」とあります。何でしょうか、「乳房の間に宿る没薬の袋」とは。これは当時の習慣からきています。当時、婦人たちは体臭を消すために没薬の袋を胸の間に潜めていました。没薬は、着物や体によい香りを付けるために用いられたものです。今でいうと柔軟剤のようなものでしょうか。中には強力に消臭するだけでなく、良い臭いがずっと持続するものもあります。しかし、これは単に体臭を消すためではなく、あることを預言していました。それはイエスの死です。というのは、イエス様が誕生したときも、十字架で死なれたときもこの没薬が用いられたからです。

 

イエス様が誕生したとき東方の博士たちがイエスに幼子イエスに贈り物を持ってやって来ました。黄金、乳香、没薬です。なぜ黄金と乳香と没薬だったのでしょうか。黄金は、キリストが王であることを表していました。ですから、王なるキリストにとってふさわしい贈り物でした。乳香は、一般の家庭では用いられず神殿での礼拝に用いられていたことから、神にとってふさわしい贈り物でした。そして没薬は、死体が腐るのを防ぐ防腐剤として埋葬の際に用いられていました。すなわち、これはキリストが犠牲的な死によって人々を救いに導く方、救い主であることを表していたのです。ですから、キリストがお生まれになられたとき東方の博士たちが黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのは、まことに王であり、神であり、救い主であるキリストにふさわしいものだったのです。

 

ここでは、その没薬です。これは常に死と関わりがある香りでした。これが乳房の間に宿したのは、そのことを忘れないためです。つまり、イエス様が私たちを救うために十字架で死んでくださったことを忘れないためです。本当にイエス様を愛する人は、このことを忘れません。いつも自分の胸に刻むのです。それは女性が首につけるネックレスのロケットのようなものです。ロケットとは飛行機のロケットのことではなく、チャームが開閉式になっていて中に写真や薬などを入れられるようになっているものです。よくバレンタインとか、バプテスマ式とか、婚約式とかに贈り物として贈られます。愛する人の写真をその中に入れてネックレスにしていつも胸の間に置くわけです。遺骨の一部をその中に入れている人もいます。イエス様を愛する人はそのことを忘れません。自分の真っ黒い罪のために十字架で死んでくださったという神の恵みを、いつも心に留めるのです。

 

「恵」という漢字は、十字架を思うと書きます。十字架を忘れません。常に胸の間に十字架があるのです。十字架のネックレスのようですね。十字架が神と私たちのアクセスとなりました。このことを思うのです。このことを思うことが、私の乳房の間に宿る没薬の袋です。

 

さらに、花嫁は花婿にこのように言っています。14節をご覧ください。「私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」

「ヘンナ樹」とは「へんな木」のことではありません。これはエジプト、インド、北アフリカ、イランなどの乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、ミソハギ科の植物で、3メートルから6メートルほどの常緑低木です。白またはピンク系の花を咲かせます。ここにはエン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹とありますね。エン・ゲディは、死海の西岸にある荒野です。かつてダビデがサウルに追われて隠れたのがこのエン・ゲディの荒野でした。それは、荒野にある唯一のオアシスでした。いのちがみなぎるところ、それがエン・ゲディです。

 

このヘンナ樹ですが、この木は長さ2センチ、幅1センチほどの楕円形の小さな葉をつけます。主にマニュキュアとかタトゥーなどの染料として使用されます。ヘナの白髪染めがありますが、それがこのヘンナ樹です。ですから変な木ではありません。花はバラの花のような甘い香りがします。それを求めて花嫁は花婿に引き寄せられるのです。

 

ところで、この「ヘンナ樹」ですが、へブル語では「コーフェル」(כֹּפֶר)と言います。ですから、新共同訳ではこれを「コフェルの花房」と訳しています。この「コーフェル」(כֹּפֶר)ということばは、創世記6章14節では「やに」とか「樹脂」表す「タール」と訳されています。また、詩篇49篇8節では、「贖いの代価」と訳されています。「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:8)この「贖いの代価」が「コーフェル」です。つまり、この「コーフェル」という語は、贖いという概念をもっているのです。ですから、ここで花嫁が花婿のことを「ヘンナ樹の花房」と言うとき、それは花嫁なる教会が花婿なるキリストの血によって贖い出された存在であることをも表しているのです。イエス様は私たちにとってヘンナ樹の花房なのです。ご自身の尊い血によって贖い出してくださいました。そのように麗しいお方であるからこそ、私たちはこの方を慕い求めるのです。

 

Ⅲ.私たちの家(15-17)

 

最後に15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」

これは、花婿が花嫁に語っていることばです。ここで花婿は花嫁に、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と言っています。皆さんは自分の奥さんにこんなことばかけたことがあるでしょうか。「ああ、あなたは美しい。わが愛する妻よ。」アメリカでは自分の気持ちを正直にことば表現しますが、日本人はことばで表現するのが苦手です。「あなたは私を愛しているの」と聞かれると「言わなくてもわかるでしょ」とか、「もうそんな年じゃないよ」などと言うのです。でもここで花婿は花嫁に対して「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と呼び掛けています。すごいですね。何がそんなに美しいのでしょうか。目です。

 

花婿はここで、「あなたの目は鳩」と言っています。ポッ、ポッ、ポッ、鳩ポッポです。「嫌だ!鳩なんて」と思われる方もいるかもしれませんが、鳩は美しいものを形容しているのです。それほど美しい、それほど清らかであるということです。目は人の心を映し出す鏡とも言われますから、あなたの目は鳩というとき、それは最高の誉めことばでもあるのです。あなたの目は「蛇」なんて言われたらどうでしょう。どうも人を惑わしそうなイメージがあって気持ち悪いですが、あなたの目は鳩と言われると、なんだか素直な人のようでうれしいいんじゃないですか。

 

興味深いことに鳩には、一夫一婦という習性があります。鳩ですから一雌一雄となるでしょうか、その人だけという習性です。その人だけをじっと見つめます。他の相手に目もくれません。その相手だけです。一生涯同じパートナーだけを見つめます。そのように花婿だけを一点に見つめる花嫁の一途な瞳に、花婿の心が奪われるのです。イエス様だけを見つめて離れない花嫁の目がどれほど麗しいかがわかります。

 

そして、何といっても聖書において鳩は聖霊のシンボルでもあります。ですから、花婿があなたの目は鳩のようだというとき、それは単に私たちの目が鳩のように美しいというだけでなく、私たちの中に住まわれる聖霊様の聖さ、聖霊様の美しさを見ておられるのです。見た目が美しいということ以上に、その内側の美しさを見られるのです。なぜなら、あなたの内側には聖霊様がおられるからです。花婿であられる主イエスは私たちの醜さ、愚かさ、汚さを見るのではなく、私たちの内におられる聖霊様をみておられるのです。それを見て、あなたは美しい、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。ここにおられる方々にも同じように言われます。なぜなら、イエス様はあなたの内におられるご自身のいのちを見ておられるからです。

 

これが、主があなたを見られるときのまなざしです。主はあなたを見下げたり、白い目で見たり、けなしたりすることは全くありません。ただ誉めことばと励ましのことばだけです。私たちの目はかすんだり、曇ったりしていてそんなにきれいじゃありませんが、主はそんなあなたの目を見て、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。

 

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方。ああ、あなたはなんと美しく、慕わしい方。私たちの寝床も青々としています。私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」

これは花嫁が花婿に歌っていることばです。「私たちの寝床も青々としています」彼女は花婿にほめられたことで、ますます彼を恋い慕っています。肉体的に感情的に燃えているのです。寝床が青々としているというのは、そのことを表現しています。別にベッドが青いということではありません。肉体が一体となることを求めているのです。これは詩篇23篇2節にもあります。「主は私をみどり牧場に付させ、いこいのみぎわに伴われます。」主は私を緑の牧場に付させるとは、その交わりの豊かさを表しているのです。

 

ではその家はどうでしょうか。花嫁はこう言っています。「私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」

これは、私たちの家は最高の家であるということです。当時、杉の木は最高の建材でした。花婿と花嫁の家は、この杉の木でできていました。垂木とは、屋根の下地になる建材です。屋根の一番高い棟木から桁(けた)にかけて、斜めに取り付けられる部材のことです。屋根を拭く材料の重さによっても違いますが、和式の家の標準的な間隔は45㎝です。「屋根の善し悪しは垂木で決まる」と言われるほど重要な木です。その垂木が糸杉でできています。つまり、朽ち果てたボロ家ではないということです。欠陥住宅ではありません。しっかりとした作りで、安心して住める堅固な家です。いつ倒れるかわからないような心配もありません。これが、花婿が建ててくださる家です。

 

その家とは何でしょうか。ヨハネの福音書14章1~3節をご覧ください。私たちの花婿であられるキリストは、私たちのためにこのような家を用意してくださると言われました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

すばらしいですね。私たちにはこのような家が用意されています。この地上にあっては、部屋が狭いとか、気密性が悪いとか、フローリングが剥がれるとか、害虫が入り込んでくるとか、不便なこともありますが、イエス様が私たちのために天に用意しておられる家は、完璧です。虫やさびで傷物になったり、泥棒が壁に穴を開けて盗みに入り込むこともありません。また、強風で倒れる心配があるような貧弱なものではなく、どんな嵐が襲ってきてもびくともしない堅固な家です。

 

それはかつて主がダビデに約束されたことでした。主はダビデにこう言われました。「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル記7:13) それはとこしえまでも堅く立つ王国、ダビデの子として生まれるキリストによって立てられる天の御国です。この家を用意してくださいました。これは杉の木でできた梁、糸杉でできた垂木の最高の家です。どんなに大きな嵐が襲ってきてもビクともすることがありません。これほど安心できる家はありません。私たちの愛する方は、私たちをこの家に導いてくださるのです。

 

であれば、私たちに求められていることは何でしょうか。それはこの花婿を慕い求めることです。鳩のように、花婿だけを見つめて生きることなのです。ダビデはこう言いました。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

あなたは何を求めていますか。ダビデは、ただ一つのことを主に願いました。それはいのちの日の限り主の家に住むことです。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすためです。私たちも一つのことを求めましょう。いのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。これが花婿なるキリストが私たちに願っておられることです。あなたが花婿のために何をするかではなく、花婿があなたのために何をしてくださったのかということです。花婿なるキリストは、私たちのために一つの家を建ててくださいました。そして私たちがその家に住むために、私たちの罪を贖ってくださいました。十字架の上で。それゆえに、私たちは美しいと言っていただけるのです。

 

ですから、私たちに求められているのはこの花婿を慕い求め、見つめて離すことなく、主の家に住まうことです。そこで花婿なるキリストし親しい交わりを持つことなのです。ベッドも青々としています。それは杉の木の梁、糸杉の垂木でできた堅固な家です。この方と一つになることを求めましょう。主との交わりがさらに祝福され、豊かなものになりますように。

黒いけれども美しい 雅歌1章5~8節

2021年5月16日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌1章5~8節

タイトル:「黒いけれども美しい」

 

 前回から雅歌を学んでいます。きょうは、1章5節から8節までの箇所から「黒いけれども美しい」という題でお話します。「雅歌」とは「歌の中の歌」という意味です。これは花婿と花嫁の最高の愛の歌です。2節から花婿に対する花嫁の歌が続いています。2節には「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」とあります。どうしてですか。花婿がそれほど麗しい方だからです。2節の後半には「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく」とあります。主イエスが与えてくださる愛は、この世が与える喜びや楽しみよりもはるかにすばらしいのです。

 

3節には、「あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は注がれた香油のよう。」とあります。これは、神に献げられた芳しい香りです。キリストは、神でありながらご自身を虚しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえに神は彼を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになられました。捧げ尽くすところにいのちの祝福があります。キリストはご自分のいのちを献げられたので、その香油は香り芳しいのです。

 

4節には「私を引き寄せてください」とあります。この方は私たちを引き寄せてくださる方です。私たちが神を愛したのではありません。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があります。神が私たちを引き寄せてくださいました。私たちはキリストの花嫁として、花婿であられるキリストとの関係に入れられたのです。何という恵みでしょうか。しかし、そればかりではありません。花嫁の花婿に対する愛の歌はまだ続きます。

 

Ⅰ.私は黒いけれども美しい(5-6)

 

まず5~6節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。ケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、私は黒いけれども美しい。あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」

 

花嫁はエルサレムの娘たちに語りかけています。「ケダルの天幕」とは、黒やぎの毛でできたテントのことです。「ケダル」とは、創世記25章13節に出てくるイシュマエルの子どもの一人です。イシュマエルとはアブラハムと妻サラの女奴隷ハガルとの間に生まれた子どもです。その次男がケダルです。彼は、今日のアラブ民族の祖先となります。彼らは遊牧民となりましたが、黒やぎの毛で作られた天幕に住みました。それは黒く、汚れていました。花嫁は自分の姿を見て、そのケダルの天幕のように黒いと言ったのです。しかし、ただ黒いのではありません。ここには「黒いけれども美しい」とあります。それはソロモンの幕のようです。「ソロモンの幕」とは、神殿の聖所と至聖所を仕切る垂れ幕のことです。この垂れ幕については、出エジプト記26章31節にこうあります。「また青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。」これはイエス・キリストご自身を表していた、最も美しい幕でした。ですからここで花嫁が言っていることは、自分はケダルの天幕のように黒く汚れているけれども、ソロモンの幕のように美しいということです。

 

どうして彼女はそのように言うことができたのでしょうか。それは花婿がそのように見てくれるからです。8節を見てください。ここには「女の中で最も美しいひとよ」とあります。これは花婿の言葉です。確かに彼女は真昼の日照りの中で畑の見張りをさせられ、日に焼けて浅黒くなっていたかもしれませんが、花婿にとっては最も美しく、愛すべき最高の花嫁だったのです。だから彼女は、「私は黒いけれども美しい」と言うことができたのです。

 

これは私たちにも言えることです。私たちもケダルの幕のように黒く罪に汚れた者ですが、主はそんな私たちを見てこうおっしゃってくださる。「女の中で最も美しいひとよ」それゆえ、私たちも「私は黒いけれども美しい」と言うことができるのです。大切なのは私たちが自分をどのように見るかではなく、主がどのように見てくださるかということです。人がどのように見るかではなく、神さまがどのように見てくださるかということなのです。神さまが見られるその姿こそ私たちの正確な姿であり、私たちが持つべきアイデンティティーなのです。

 

それにしても、彼女はどうしてそのように見ることができたのでしょうか。6節にはその理由があります。「あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」

花嫁はここで、自分がこのように黒くなったのは生まれつきではないと言っています。日に焼けたからだと。母の息子たち、すなわち兄弟たちが、私をぶどう畑の番人にしたので、炎天下にさらされた結果、日焼けして浅黒くなってしまったのです。

 

でもそうでしょうか。確かに日に焼けて黒くなったということもあるでしょうが、でも普段生活するうえではそんなに気にならなかったでしょう。彼女が自分は黒いということをこんなに意識しているのは、実は花婿であられる王の前に出たからなのです。彼女は透き通るように美しく光輝いた王の前に出たとき、自分があまりにも黒いということに気付かされたのです。私たちも主の御前に立つとき、自分がいかに黒いのか、汚れているのかがはっきりわかります。暗闇の中にいると自分の黒さには気付きません。光の中に立たされて初めてその黒さに気付かされるのです。

 

あの預言者イザヤもそうでした。彼は自分が預言者としてイスラエルの民の姿を見たとき、「わざわいだ」と何度も非難し断罪しましたが、高く上げられた御座に着いておられる主を見たとき、そのものすごい聖さに打ちのめされてしまいました。そしてこう言ったのです。「ああ、私は滅んでします。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)彼はイスラエルの民と自分を比較していたときには気付きませんでしたが、主の聖さに触れたとき、自分がいかに汚れているかということに気付かされたのです。そうです、人は闇の中にいると自分汚れには気付きませんが、主の前に立たされたときに初めて、その黒さに気付かされるのです。

 

あのパウロもそうでした。彼は自分のことを「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)と言っています。新約聖書の中の13もの手紙を書いたパウロですら、神の聖さ、神の恵みの大きさが分かったとき、「罪人のかしら」であると告白せざるを得なかったのです。

 

神に近づけば近づくほど、光に近づけば近づくほど、影は伸びるものです。ですから、クリスチャンとして霊的に成熟すればするほど自分の汚れ、罪深さ、醜さが示されるのは当然のことなのです。どんなに自分が熱心に信仰に励み、信仰歴も長く、それなりに立派にやってきたと思っていても、主の御前に立たされるなら、「私は黒い」と言わざるを得なくなるのです。

 

けれども美しい!のです。なぜ?花婿なるキリストがそのように見てくださるからです。主はそんな私たちの汚れを、ご自身の血をもってきよめてくださいました。その血によって、しみや、しわや、そのようなものが何一つない者としていただいたのです。

エペソ5章26~27節にはこうあります。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」「キリストがそうされたのは」とは、キリストが教会のためにご自分をささげられたのはということです。キリストがそうされたのは、教会をきよめて聖なるものとするためでした。罪や汚れを洗いきよめ、しみや、しわや、傷や、そのようなものが何一つない栄光の教会を、ご自身の御前に立たせるためだったのです。ここに「ご自分で」とありますね。それは私たちがすることではありません。それは主がなさることです。私たちは自分の手で自分をきよめることなどできません。きよめてくださるのは主なのです。

 

ですから、私たちは、見た目には確かに黒いかもしれません。自分の罪深さに「これでもか」と打ちのめされそうになることがあるのですが、主はそのような私たちをきよめてくださり、「女の中で最も美しいひとよ」と言ってくださるのですから、私たちも「私は黒いけれども美しい」と告白することができるのです。これが私たちの姿です。あなたもイエス・キリストを信じるなら、このように告白できるようになります。ぜひ信じていただきたいと思います。

 

Ⅱ.私のたましいの恋い慕う方(7)

 

次に7節をご覧ください。「私のたましいの恋い慕う方。どうか私に教えてください。どこで羊を飼っておられるのですか。昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。なぜ、私はあなたの仲間の羊の群れの傍らで、顔覆いをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

 

ここで花嫁は花婿を「私のたましいの恋い慕う方」と呼んでいます。新改訳第3版では「私の愛している人」と訳しています。口語訳では「わが魂の愛する者よ」となっています。ここではただ愛している方というよりも、「私のたましいの恋い慕う方」とか「わが魂の愛する者よ」というのが適切だと思います。というのは、ただ愛しているのではないからです。たましいから愛しているのです。たましいから愛するとはどういうことでしょうか。それは最も深いレベルで愛するということです。それは最大の愛の表現です。極みの愛です

 

マタイ22章37~38節には、「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。」とあります。これはある律法の専門家が「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねたことに対して、イエスが答えられたことです。ここで主イエスは彼に「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われました。この「いのちを尽くして」が「たましいを尽くして」ということです。それはいのちがけの愛です。いのちがけで愛しなさいというのです。これは最大の愛の表現なのです。ですから、ここで花嫁が花婿に対して「私のたましいの恋い慕う方」と言うとき、それは自分のたましいから恋い慕っている方、いのちをかけて愛するほどの方だと告白しているのです。

 

人はだれを愛するのかによって、また、何を愛するのかによって、その人生が決まります。それによって人生観も決まるのです。もしあなたが自分自身を愛するなら、そのような人生になります。いつも自分が願うようにならないと気が済まなくなるので、不平不満とかつぶやきに満たされることになります。まさに「フロイトの快楽の原則の通り」です。現代の精神医学や心理学の問題はここにあります。

生きる意味を失ってしまい、迷っていたある若者が、ある日、精神病院を訪ね、医者と相談しました。ところが、その精神科の医者は、フロイトの快楽の原則の通りに、「あなたが願う通りに快楽を楽しんでみなさい」とアドバイスしました。そのアドバイスに従って青年は、歓楽街へと行き、女遊びに明け暮れました。青年は二度と医者の所へは戻ってきませんでした。彼は、自分に嫌気がさして自殺したのです。

この世の快楽だけでは、決して解決できない精神的空虚と不安のために、人々のたましいは疲れ果てています。もしあなたが自分を愛するなら、自分の願う通りに行かない現実に嫌気がさして、何をしても満たされることはないでしょう。

しかし、神を愛するなら、感謝と喜びに溢れるようになります。なぜなら、神は完全であられるからです。この神を愛し、神に従うなら、神があなたの必要を満たし、歩むべき確かな道を示し、あなたの思いを越えたすばらしい結果をもたらしてくださるので、あなたは平安と喜び、感謝を得るようになります。大切なのは、自分を愛することではなく、神を愛することです。イエス様は「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われました。これが第一の戒めです。

 

私たちの主は、たましいを尽くして愛するのにふさわしい方です。なぜなら、主は私たちのためにご自身のいのちを与えてくださったからです。ヨハネ15章13節を開いてください。ここには、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。主はそのような愛で私たちを愛してくださいました。これ以上の愛はありません。私たちはこの愛で愛されているのです。それゆえ、この方をたましいの愛で、いのちがけの愛で愛するのは当然のことなのです。あなたはどうでしょうか。あなたはだれを愛していますか。何を愛しているでしょうか。そのことによってあなたの価値観が決まります。あなたの人生が決まるのです。

 

花嫁はここで自分がこのように黒いのは家族のせいだとずっと恨んでいました。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人したので、私はこんなに浅黒くなったんだと苦々しい思いでいました。しかし、花婿に目を留め、花婿をたましいからの愛で愛したとき、そうした恨み辛みから解放されました。そしてこう尋ねているのです。「どうか私に教えてください。どこで羊を飼っているのですか。」

 

ここで花嫁は、花婿である王が羊飼いであることを示唆しています。ある人はここから、主な登場人物が3人いると考えます。すなわち、王である花婿と羊飼い、そして花嫁です。このように考える人は、羊飼いのような身分の低い人が高貴な王であるはずがないと考えます。常識的にはそうかもしれません。しかし、王でありながら、同時に羊飼いであられる方がいます。だれでしょうか?イエス・キリストです。イエス・キリストは王の王、主の主でありながら、同時に羊飼いであられます。黙示録19章16節にはこうあります。「その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。」「その衣」とは、白い馬に乗っておられる方で、「確かで真実」と呼ばれ、義をもってさばかれる方です。その方は血に染まった衣をまとい、「神のことば」という名で呼ばれていた方とありますから、この方はイエス・キリストです。イエス様は「王の王、主の主」と呼ばれる方なのです。

 

しかし、同時にこの方は羊飼いでもあられます。ヨハネ10章11節をご覧ください。ここには「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」とあります。これはイエス様のことばです。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。イエス様は羊飼いでもあられるのです。また、また、ヨハネ10章14節には「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」とあります。これもイエス様のことばです。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。

ですから、イエス様は王の王、主の主であられますが、同時に羊飼いでもあられるのです。その羊飼いである花婿に対して花嫁はここで、私のたましいの恋い慕う方よ、あなたはどこにおられるのですかと尋ねています。どこで羊を飼っているのですか、教えてください、と言っているのです。彼女は羊飼いであられる花婿と一緒にいたいのです。片時も離れることができません。離れたくないのです。花婿が一緒にいなければ満足することができません。羊の群れと一緒にいるだけでは満足することができません。彼女にとっては花婿が必要であり、いつも花婿と一緒にいたいといのです。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは花婿なる主と一緒にいたいという切なる願いがあるでしょうか。そのことを求めているでしょうか。教会に行ける時には行きますとか、時間があれば聖書を読みます、祈ります、ということはないでしょうか。そのような思いでは行くことはできません。読めません。祈れません。人は何を愛するかによってその行動が決まるからです。ダビデは、このように言いました。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27:4)

私たちも一つのことを主に願いましょう。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮でふける、そのために。心を尽くし、たましいを尽くし、力を尽くして主を愛しましょう。いつも主と一緒にいることを切に求めたいと思います。

 

Ⅲ.羊の群れの足跡を追って出て行き(8)

 

そのような花嫁の願い、叫びに対して、王である花婿は何と答えているでしょうか。8節をご覧ください。「女の中で最も美しいひとよ。あなたが知らないのなら、羊の群れの足跡を追って出て行き、羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」

 

「女の中で最も美しいひとよ。」これは先ほども述べたように、花嫁である教会、私たちクリスチャンのことです。私たちは確かに黒くて醜い者ですが、花婿であられるキリストの目には最も美しいものと映っているのです。たとえ自分が黒い者だと思っていても、たとえ自分が同じ罪を繰り返すような情けない者であっても、あなたはイエス様にとってかけがえのない存在なのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言ってくださるのです。そのお方がどこにいるのかあなたが知らないのなら、わたしがどこにいるのかを本当に知りたいと思うなら、どうすれば良いかを教えています。それは、「羊の群れの足跡を追って出て行き、羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」ということです。どういうことでしょうか。

 

ここでは二つのことが言われています。第一に、「羊の群れの足跡を追って出て行きなさい」ということです。これは、いわゆる1匹狼のようなクリスチャンは存在しないということです。クリスチャンはみな羊です。羊は群れで行動します。もし単独で行動するとどうなるでしょうか。あの1匹の迷える子羊のたとえにあるように、どこかに迷子になってしまいます。聖書には教会はキリストのからだにたとえられていますが、からだはバラバラでは存在しません。キリストを頭として、からだ全体が一つとなってこそ機能します。それと同じです。私は群れが苦手だから自分で信仰を守りますとか、礼拝に行かなくても大丈夫です、どこでも礼拝できますから。自分で聖書を読んで祈りますと言われる方がおられますが、本当にできるでしょうか。もうそんなことは何年もやってきたので卒業しました。イエス・キリストだけでいいんです。こういうのは、聞こえはいいですがこれほど非聖書的なことはありません。なぜなら、聖書はそのようには教えていないからです。もしあなたがイエス様を知らないと思うなら、羊の群れの足跡を追って行かなければなりません。羊の群れとは何でしょうか。それは、キリストの教会のことです。もしあなたが、花婿がどこにいるのかを知りたいなら、羊の群れである教会の足跡に着いて行かなければなりません。

 

へブル10章25節には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。私たちはある人たちのようにいっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合うことが必要です。かの日とはキリストの再臨の日のことですが、その日が近づいています。それを見てますますそうしなければなりません。私たちはみな群れについて行く必要があります。群れの一員として行動することが求められているのです。そうすれば花婿がどこにいるかがわかります。花婿がどのようなお方なのかがわかるのです。それがキリストのご計画なのです。

 

Ⅰペテロ2章5節にも同じことが言われています。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」神に喜ばれる霊のいけにえとは、神に喜ばれる礼拝のことです。どうしたら神に喜ばれる礼拝をささげることができるのでしょうか。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられることによってです。「霊の家」とは教会のことです。ですから、本当に神に喜ばれる礼拝をささげたいと思うなら、私たち一人ひとりが生ける石となって、霊の家である教会の上に築き上げられなければなりません。これが神のご計画であり、神のみこころなのです。独立した石ではなく、組み合わされて一つとなってはじめて、神に喜ばれる礼拝をささげることができるのです。勿論、一人で祈ることもできます。でもあなたが本当に主との麗しい関係を求めているのなら、主と一緒にいることを願っているなら、羊の群れである教会に集う必要があるのです。

 

花婿なる主がどこにいるのかをあなたが知りたいならどうしたらいいのでしょうか。第二のことは、その後にあるように、「羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」ということです。どういうことでしょうか。

イエス様が復活された後で弟子たちにご自身の姿を現わされたとき、同じことをペテロに言われました。イエス様がペテロに「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と問われると、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。するとイエスは彼に「わたしの子羊を飼いなさい。」と言われました。どうしてイエス様はペテロにそのように言われたのでしょうか。

J.C.ライルという聖書注解者はこう述べています。「他者に対して有用な者となることは、愛を試す主要なテストであり、キリストのために奉仕することは、真にキリストを愛する立派な証拠である。・・・それは大声で話すことでも、立派な信仰告白をすることでもなく、がむしゃらで衝動的な熱心さや、剣を脱いで戦う用意をすることですらない。それは、この世に散らばっているキリストの小羊たちのために、堅実で、忍耐強い、骨の折れる努力をすることである。そしてこれこそが、忠実な弟子であることの最善の証拠なのである。これがキリスト者のすばらしさの本当の秘訣である。」(「ライル福音書講解ヨハネ4」p491-492)

ここで、ライルが言っていることは、この雅歌において花婿が言っていることにも当てはまります。すなわち、あなたがキリストの花嫁としてキリストを本当に愛しているのなら、この世に散らばっているキリストの小羊のために労することこそ、その愛を証明することになるということです。それは忍耐強い、骨の折れる努力をすることですが、それによってより深く主を知り、主との深い主との交わりへと導かれるのです。なぜなら、花婿は羊飼いであられるからです。

 

私たちの人生には辛いと感じるときや、主がどこへ行ってしまったのかわからないほどの試練に直面することがあります。そのような時私たちに必要なのは、羊の群れの足跡を追って行くことです。そして、あなたの子やぎに食べさせてあげることです。どんなに辛くても羊の群れから離れてはなりません。どんなに忙しくても教会に来ることをやめてはならないのです。また主を知らない人たちに、あるいは、主を信じたばかりの若い子やぎを養わなければなりません。そうすれば、あなたは花婿である主を見出し、花婿であられる主との深い交わりの中に入れられるでしょう。

 

あなたが神の家族の一員として神の民に属するとき、あなたの本当の人生の目的が明らかになります。神の家族の中で、自分がどこから来て、どこへ向かっているのか、生きる意味を知ることができます。そのときあなたは、あなたに対する主のみこころが何であるのかを深く知るようになるのです。私は黒いけれども美しい。女の中で最も美しいひとよと言ってくださる花婿に、私たちのたましいの愛をささげたいと思います。

歌の中の歌 雅歌1章1~4節

2021年5月2日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌1章1~4節

タイトル:「歌の中の歌」

 

 きょうから、雅歌に入ります。皆さんは「雅歌」という言葉を聞いたことがありますか。「雅歌」というと一般に絵を描く「画家」を思い浮かべるのではないかと思いますが、その「画家」ではなく「雅歌」です。この「雅歌」という言葉を広辞苑で調べてみると、①俗歌に対して、格式の正しい歌。みやびな歌。②旧約聖書中に収められた男女の恋愛歌。とあります。やはり、どちらかというとこの聖書の中の「雅歌」を念頭に説明されているようです。

 

 1節には「ソロモンの雅歌」とあります。これはソロモンが書きました。この「雅歌」という言葉には※印がついていて、下の説明を見ると、直訳「歌の中の歌」とあります。ヘブル語では「シール・ハッシリーム」と言います。意味は「歌の中の歌」です。「歌」はヘブル語で「シール」といいますが、このように「シリーム」と伸びると複数形になります。ですから、ただの歌ではなく「歌の中の歌」です。英語では「The Song of Songs」となっています。このように「歌の中の歌」という表現は、「主の主」、「王の王」という表現のように最上級を表しています。つまり、「雅歌」とは「歌の中の歌、最上級の歌」という意味です。この歌を書いたのはソロモンです。彼は伝道者の書も書きました。前回までその伝道者の書を学びましたが、その書の中で彼は「空の空、すべては空」と言いました。この世において私たちの心を満たすものは神以外にはありません。神を知らない生き方は虚しいのです。その神とはどのようなお方なのでしょうか。その伝道者の書に続いてこの雅歌があるのは意義深いと思います。つまり、神を知るということは、 神の愛を知ることなのです。

 

 この雅歌を読んでいくとわかりますが、ちょっと難解です。何回読んでもわかりません。その理由の一つには、ここに登場する2人の男女が誰のことを指しているのかはっきりわからないことです。伝統的にはこの2人の男女に関しては3つの解釈があります。第一に、これは実在した2人の男女で、この雅歌はこの男女の愛を歌った歌であるという考えです。つまり、これは神が用意してくださった理想的な男女の愛の関係とはどういうものなのか、夫婦の関係とはどういうものなのかを歌った歌だというのです。

第二に、これは単なる男女の恋愛の歌ではなく、神とイスラエル民族との関係を比喩的に表したものであるという考えです。ほとんどのユダヤ人の学者と一部の福音派の学者はそのように理解していて、これをイスラエルに対する神の愛の物語だと考えています。

第三に、比喩は比喩でもこれはキリストと教会との関係を表わしているという考えです。多くの福音派の学者がそのように理解しています。新約聖書には教会はキリストの花嫁とありますから、そのように解釈するのは自然ではいかと思います。ここでは「花婿なるキリスト」と「花嫁なる教会」との基本的な愛の関わりを預言的に歌った「愛の歌」と理解してお話しを進めていきたいと思います。

 

 Ⅰ.ぶどう酒にまさって麗しい愛(1-2)

 

それでは、早速本文を見ていきましょう。まず1~2節をご覧ください。「ソロモンの雅歌 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、」

 

2節から本文が始まります。2節から7節までが花嫁のことばです。それにしても、最初からドキッとしますね。いきなり「口づけ」の話です。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」

口づけは、愛の親密感を表しています。そもそも「口づけ」するということは、花婿と花嫁が顔と顔を合わせる行為です。花嫁がその熱い口づけを求めているのは、花婿の心と思いを知ろうとする熱意の表れなのです。その口づけは、複数形で表されています。何度も口づけしてくれたらいいのに、という意味です。ルカの福音書15章に放蕩息子のたとえ話がありますが、その話の中で父親は放蕩して帰って来た息子に何度も口づけしました。それと同じです。それは親密な愛の表現であるだけでなく、尽きることのない愛を表わしています。それは何回も与えられるものなのです。昨日だけでなく今日も、明日も与えられます。それはいつも新鮮なのです。私たちは昨日の「口づけ」ではなく、日々与えられる新しい「口づけ」を求めることができるのです。

 

花嫁はなぜこのような親密な関係を求めているのでしょうか。その理由が2節の後半にあります。「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しい」花婿の愛はぶどう酒にまさって美しいからです。どういうことでしょうか。聖書では「ぶどう酒」は人生の楽しみや喜びを象徴しています。たとえば、詩篇4篇8節には「あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。」とあります。この穀物と新しいぶどう酒は喜びを象徴しています。主が与えてくださる喜びは、この世が与えてくれる喜びにまさっているということです。また、詩篇104篇15節にも「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、パンは人の心を支えます。」とあります。この「ぶどう酒」とか「パン」は、この世が与える喜びと言ってもいいでしょう。すなわち、花婿の愛はこの世が与える喜びや楽しみよりもはるかにすばらしい、はるかに勝っているという告白なのです。

 

先ほど歌った賛美は「なんて素晴らしいイエスの名は」(What A Beautiful Name)という賛美です。イエスの名がなんて素晴らしいものなのかを歌った歌です。

  1. 神と共にあった はじめの言葉 あなたの栄光は 地に満ちている

なんて麗しい なんて麗しい イエス・キリストの その麗しい名に 勝るものはない

なんて麗しい イエスの名は

 

  1. 私の罪も全部 包んだ愛により 私をあなたから 離すものはない

なんて素晴らしい  なんて素晴らしい イエス・キリストの その素晴らしい名に勝るものはない なんて素晴らしい イエスの名は

 

永遠の初めからあったことば。そのことばは神とともにありました。ことばは神であり、神の栄光に満ちていました。その栄光の神が、すべての人を照らすまことの光として、この世に来られたのです。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この方はご自分の民のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れませんでした。それなのに神さまは、ご自分に敵対していたこの世を救うためにこの方を遣わしてくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架に付けてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方の愛によって、私たちは神の子とされ、栄光の御国を相続する者とされました。だれもこの愛から引き離すものはありません。なんて麗しい愛でしょうか。

 

使徒パウロは、この方の愛を次のように言いました。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6-8)

 私たちがまだ罪人であったときとは、私たちが神さまに背き、神さまに敵対していたときのことです。そのようなときにキリストは私たちのために十字架で自分のいのちを与えてくださいました。そのことによって、私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださったのです。何と麗しい愛でしょうか。あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛。この世にはいろいろな愛がありますが、これほどの愛はありません。これは自分を与える愛です。相手が良い人であるかとか、悪い人であるかといったことは全く関係ありません。そのようにしてイエスさまはご自身の愛を明らかにしてくださったのです。それは私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この永遠のいのちとは、死んでから受けるいのちだけでなく、イエス・キリストによってもたらされる罪の赦しと永遠のいのちです。聖霊による神さまとの交わりです。神さまがいつも共におられます。この地上にあっても、神さまが与えてくださる平和と喜びに満たされることができるのです。何とすばらしいことでしょうか。

 

 このキリストが与えてくださる神さまとの交わりは、この世が与えるどんな喜びよりもはるかにすばらしい。そういっているのです。それは永続する喜びです。主イエスは言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)この水を飲む人は、また渇きます。しかしイエス様は、決して渇くことのない水を与えてくださるのです。それはこの世にあるものと比べることができません。イエスが与える愛、イエスが与える喜びにまさるものはありません。それはあまりにも大きく、あまりにも豊かで、あまりにもすばらしいので、この世のものと比べることができないのです。

 

 思い出してください。皆さんが救われた時のことを。思い出してみてください。一人主の御前にひれ伏して祈っているときに神の臨在があなたに臨んだ瞬間のことを。それはまさに天にも上るような思いだったはずです。思い出してみてください。兄弟姉妹と一緒に声を合わせて賛美しているときのことを。それは、ヘルモンから、シオンの山々に降りる露のようです。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからです。それは何にもまさる喜びです。キリストの愛は、ぶどう酒にまさって麗しいのです。

 

Ⅱ.注がれた香油のような名 (3)

 

次に3節をご覧ください。ここには「あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は、注がれた香油のよう。そのため、おとめたちはあなたを愛しています。」とあります。なぜ、おとめたちはそんなに彼を愛しているのでしょうか。それは花婿の愛が香油のように芳(かぐわ)しいからです。この香りはとのような香りでしょうか。散歩していると、ふと花の香りが漂ってきて思わず足をとどめることがあります。その香りに季節の変わり目を感じるのです。沈丁花に春の香りを、クチナシの花に梅雨のしっとりさを、金木犀の香りには秋の深まりを感じます。そんな風情がなんともいえません。ではキリストの香りには何を感じるのでしょうか。

 

パウロはⅡコリント2章15節で、「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」と言っています。この香りは神に献げられた芳しい香りです。ここに「あなたの名は、注がれた香油のよう」とあるのはそのことです。キリストの名が香油のように芳しいのは、キリストがご自身を神に献げられたからなのです。

 

ピリピ2章6~11節にこのようにあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

何ゆえに神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのでしょうか。それは、キリストは神の御姿であられる方なのに、神としてのあり方を捨てることはできないとは考えないで、自分を無にして仕える者の姿をとり、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたからです。キリストはご自分を神に完全にささげてくださったので、神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。十字架上のキリストの犠牲は、究極的な「神に捧げる香り」であって、私たちの罪の赦しのために、神に受け入れられるものです。

 

捧げ尽くすところにいのちの祝福があります。「あなたの名は注がれた香油のよう。」です。キリストはご自分のいのちを献げので、香油のように香り芳しいのです。そのため、おとめたちは彼を愛するのです。

 

Ⅲ.引き寄せてくださる方(4)

 

第三に、この方は私たちを引き寄せてくださいます。4節をご覧ください。「私を引き寄せてください。私たちはあなたの後から急いで参ります。王は私を奥の間に伴われました。私たちはあなたにあって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえます。あなたは心から愛されています。」

花嫁は花婿に「私を引き寄せてください」と言っています。私たちは、引き寄せてもらわなければ花婿のもとに行くことができません。引き寄せられて初めてその後について行くことができるのです。

 

私は、18歳の時、高校3年生の時に教会に行きイエス様を信じました。生きる目的がわからず地に足が着いていないような生活をしていた時、後に結婚することになりますが、一人の宣教師に誘われて教会に行きました。初めは冗談のつもりでしたが、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)のみことばを聞いて、キリストにある新しい人生をスタートすることができました。それからずっとイエス様を信じて歩んできましたが、ずっと自分がイエス様を信じたとばかり思っていました。でも実際はそうではなかったのです。イエス様が私を引き寄せてくださったのです。そうでなかったら信じることもできなかったでしょう。それは信じるということばかりでなく、その後のことを考えてもそうです。イエス様を信じてからも実にいろいろなことがありましたが、それでも信じ続けることができたのは、イエス様が私を引き寄せてくださったからなのです。どんなに神から離れても、どんなに神に背を向けていても、神の方から御手を伸ばしてくださいました。

 

この神の愛について使徒ヨハネはこう述べています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

ここに愛があります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

預言者エレミヤは、このことをこう述べています。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)すばらしいですね。主は永遠の愛をもって愛してくださいました。過去、現在、未来において、主があなたを愛さなかったことは一度もありません。生まれる前から、そして生まれてからもずっと愛し続けてくださいました。私たちが人生で最悪だと思うようなときでも、神さまはずっとあなたを愛し続けておられたのです。クリスチャンになってからだけでなくクリスチャンになる前も、ノンクリスチャンの時ですら愛しておられました。あなたは、この永遠の愛で愛されているのです。

 

ここには、主は遠くから私に現れたとあります。どういうことでしょうか。主が遠くにおられるということではありません。主は私たち人間が近づくことなど決してできないお方であるということです。この方は創造主であられます。聖なる方です。「聖なる」というのは「分離している」という意味があります。この世と完全に分離しているのです。光が闇と交わることがないように、私たちと神様との間には到底近づくことができない淵があるのです。それが、罪がもたらした悲劇です。もし罪深い人間がちょっとでも近づこうものなら、たちまちその場に倒れてしまうことになります。それが「遠くから」という意味です。預言者イザヤはその聖なる方に触れたとき、「ああ、私は滅んでしまう。」と叫びました。「万軍の主である王をこの目で見たのだから。」と(イザヤ6:5)。しかし、そんな罪深い私たちを、主は永遠の愛をもって愛してくださいました。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた、とエレミヤは言ったのです。

 

ヨハネ15章16節には、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあります。

私たちが主イエスを選んだのではありません。主が私たちを選び、任命してくださいました。これを「先行的恵み」と言います。私たちが求める前から、主が先行して私たちを選んでくださいました。私たちの側から神さまに近づいたのではありません。神の方から私たちに近づいてくださったのです。これが最初のクリスマスです。クリスマスとは、神が私たちに近づいてくださった日です。神が私たちを引き寄せてくださいました。だから、私たちは主の後からついて行くことができるのです。感謝ですね。

 

ところで、ここには「王は私を奥の間に伴われました」とありますね。どういうことでしょうか。ここから場面が変わります。これは花婿と花嫁の結婚式を表しています。花婿に引き寄せられて花嫁が宮殿に向かいそこで結婚式が行われますが、花嫁は父親から離れて花婿のもとへ近づいて行くのです。そこで二人は結ばれます。これは結婚式において二人が結ばれた瞬間です。結婚式のクライマックスは二人が神の前に誓約をするときですが、これはちょうど結婚式において誓約がなされた直後のことです。二人は正式に夫婦として認められます。そのしるしとしてキスが交わされたり指輪の交換がなされますが、ここでは王である花婿が花嫁を奥の間に伴われるのです。そこは二人だけのプライベートルームです。そこで二人は親密な交わりへと導かれるのです。つまり、花嫁が花婿を王として、また主として認めることによって二人は結ばれ、親密な関係に入っていくということです。どういうことかというと、もしあなたが花婿であられる主イエスと麗しい関係、親密な関係を持ちたいと願うなら、この方を王として、また主として認める必要があるということです。もしあなたがこの方をあなたの王として、また主として認め、この方にすべてをゆだねるなら、王である花婿はあなたを奥の間に伴われ、より深い交わりと喜びを楽しむことができるようになるのです。

 

私たちはそのように告白したはずです。ローマ10章9~10節にこうあります。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

もしあなたがあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたも救われます。奥の間へと伴われ、そこで花婿なるキリストとの深い交わりと喜びを楽しむことができるのです。それが礼拝です。礼拝とは何でしょうか。礼拝とは英語でWorshipと言いますが、Worship とは神さまを「最も価値あるものとみなす」という意味があります。主イエスを最も価値あるものとみなすなら、あなたの心に主への愛が満ち溢れ、主と麗しい関係を持つようになります。これがキリストの花嫁である教会の心です。教会の心とは神を愛する心であり、礼拝を喜びます。教会にとってこれが生命線あり、いのちです。このWorshipの関係、愛の関係がないなら、どんな働きをしても虚しいだけです。神さまの愛がわからないと神さまを愛するということがわかりません。その人にとって礼拝は愛をささげることではなく義務となります。愛の関係が義務となると、神さまとのすべての関係が義務的になってしまいます。みことばも、祈りも、献金も、生き方も、です。

 

先週、韓国から宣教師として来日して東京で伝道しておられる崔先生と電話でお話ししました。先生は1979年に来日すると、みことばと祈りに基づく教会形成に励んできました。みことばと祈りに基づいてという言葉はだれでも口にする言葉ですが、先生はこれを実践しておられます。毎週金曜日は午前10時から午後3時まで祈り会をもっておられるのです。午前10時から午後3時までの5時間です。それを毎週続けておられる。1時間祈ったら10分くらい休憩してまた祈ります。そのようにして5時間祈るのです。そこでは日曜日に聞いたみことばをどのように自分の生活の中に実践しているのかの分かち合いもします。みことばを聞くだけではなく、それを実行しなければなりません。その聞いたみことばをどのように実行したか、あるいは、どのようにしたら実行できるのかを分かち合って祈るのです。それを10年続けています。それまでは徹夜で祈っていましたが、今は日中持つようになりました。5時間と聞くと長いように感じますがあっという間です。先生はいつも祈っています。道を歩いても、聖霊様が「祈りなさい」というと、その場でひざまずいて祈ります。するとあとでどうして聖霊様がそのように導いてくださったのかを示してくださるのだそうです。

どうして先生はこんなに祈れるのでしょうか。それは主を愛しておられるからです。まだ日本に来る前に早天祈祷会で祈っていたとき、聖霊のバプテスマを受けました。これはペンテコステ派が言っているような異言の伴う聖霊のバプテスマのことではなく、圧倒的な聖霊の満たしでした。人生の価値観が全く変えられたのです。後でそれが聖霊のバプテスマだったということに気付かされたのです。聖霊のバプテスマ、あるいは、聖霊の満たしを受けると、人生の考え方、価値観が全く変えられます。主を心から愛するようになるのです。水のバプテスマだけでは変わりません。聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしが必要です。それはイギリスの伝道者ロイド・ジョーンズも言っていることです。聖霊の満たしを受けると、主を愛せずにはいられなくなります。主を礼拝せずにはいられなくなるのです。

先生は毎日、目で聖書を読み、耳で聞く聖書を聞き、口で祈りながら聖書を読みます。すごいですね。目と耳と口で同時に聖書を読むのです。日々主の臨在に溢れているのです。雨が降ってもハレルヤです。問題があっても、すべて主にゆだねて祈ります。病院で治療できないと宣告された病も癒されました。どんなに病気になっても長くて3日で癒されると言います。バッグをなくしたとき、「主よ、財布だけでも戻してください」と祈ったら、本当に財布だけ交番に届けられたそうです。本当に主との交わりをエンジョイしているんですね。これが礼拝です。これが花嫁の心です。花嫁の心とは主を愛する心であり、主を礼拝する心です。この愛の関係、Worshipの関係こそ、私たちにとっていのちなのです。

 

Ⅰコリント13章3節に、「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」とあります。愛は関係です。「愛しなさい」と言われても愛はわかりません。愛が分かる唯一の方法は、無条件に愛されていることを知ることです。それは完全に赦されていることを知る経験かもしれません。イエスさまの十字架の贖いが、聖霊さまによってはっきり心に刻まれるとき、真の悔い改めと同時に、その計ることのできない神の愛が私たちの内に注がれます。それが主への賛美と変えられるのです。これが花嫁の心です。多く赦された者は多く、いや、よけいに愛するようになるのです。

 

あなたはどうでしょうか。主はあなたを引き寄せてくださいました。主は永遠の愛をもってあなたを愛されました。その主の愛に感謝し、この方こそ私の主ですと告白し、この方にすべてをささげようではありませんか。そのときあなたも香油が注がれたような麗しい主の愛の中へと導かれます。親密で深い交わりを持つことができるのです。主は麗しいお方です。主は香油のように香り芳しいお方です。主はあなたを引き寄せてくださいます。私たちも、「イエスさま、あなたは主です。あなたは私の罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。あなたに私の人生のすべてをささげます」と祈りましょう。そして、主との麗しい愛の関係、礼拝の心を持たせていただこうではありませんか。

偉大な同労者たち ローマ人への手紙16章1~16節

聖書箇所:ローマ人への手紙16章1~16節

タイトル:「偉大な同労者たち」

 

きょうはローマ人への手紙16章から「偉大な同労者たち」というテーマでお話したいと思います。

 

 聖書を見ますと、名前ばかり書かれてある箇所がいくつかあります。たとえば、マタイの福音書1章はそうですね。誰が誰を産んで・・・という表現がずっと続きます。中にはせっかく聖書を読み始めたのに、これではつまらないと、読むのをあきらめてしまう人もいます。ルカの福音書3章もそうですね。名前の羅列です。特に読むのに骨が折れるのは歴代誌です。歴代誌第一は1章から9章にわたって名前ばかり出てきます。このような文章を読むのは牧師でさえ大変です。そのような記録はおまけの記録みたいで、何の意味もないと考えてしまうのも無理はありません。ですから、すぐに次の章に行ってしまいたくなるのです。しかし、このローマ人への手紙16章は、無意味な記録ではありません。ここにはパウロの働きを助けた偉大な同労者たちの記録が記されてあるからです。

 

 きょうは、この偉大な同労者たちの働きを三つのポイントで学んでいきたいと思います。第一に、多くの人を助けたフィベという女性について見たいと思います。第二に、忠実な同労者であったプリスキラとアクラです。第三に、そこに偉大な同労者たちの働きがあったということについて見ていきたいと思います。

 

 Ⅰ.多くの人を支援したフィベ(1-2)

 

  まず、1節と2節をご覧ください。「私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。」

 

 パウロは、この手紙の最後のところで、ローマの教会にいる多くの人たちにあいさつを送っています。ここに出てくる名前だけでも28人にも及びます。まだ一度も行ったことのないローマの教会に、これだけ多くの知人、友人がいたことには驚かされますが、それ以上に驚かされるのは、そうした一人一人に対するパウロの行き届いた心遣いです。

 

 その最初に紹介されているのがフィベという女性です。この人はケンクレアにある教会の奉仕者でした。ケンクレアとはコリント地方にあった町です。ここには「教会の奉仕者である」とあります。新改訳聖書第三版では、「執事」と訳しています。「ケンクレヤにある教会の執事で」。この「奉仕者」とか「執事」ということばは元々「しもべ」を意味する言葉であることから、今でいうところの教会の役員や執事のことを指しているのかどうかはわかりませんが、多くの人々の面倒をよく見ていたことは確かです。2節には、「彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです」とあります。そういう意味では、執事としての務めを立派に果たしていたと言えるでしょう。

 

 このフィベという女性はどんな人だったのでしょうか。2節を見ると、ここに「どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し」とあることから、彼女がコリントで書かれたこのローマ人への手紙をローマまで行ったのではないかと考えられています。私たちが今手にしているこのローマ人への手紙は、このフィベによって運ばれたものなのです。今でこそページ数で見ればほんの16章の薄い読み物ですが、当時はすべて巻物に記録されていたため、たぶん風呂敷包みで二つぐらいになったであろうと思います。私たちは誰かに手紙を託すとき、「いいか、しっかり頼むぞ!」と言って手渡すのではないかと思いますが、そのことばには相当の信頼が込められています。フィベという女性はパウロが尊い手紙をゆだねるほど、大いに信頼されていた女性だったのです。女性に対して人権意識が薄かったこの時代にこれだけの信頼を受けていたというのは、まさに革命的なことでした。

 

 もう一つこのフィベについて紹介されていることは、彼女が「多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人、支援者であったということです。このことばは、彼女が経済的な支援者であったことを示しています。使徒パウロは、初めテントメーカーをして自ら生活費を稼ぎながら宣教をしていましたが、次第に主の働きが忙しくなるにつれて、稼ぐことができなくなりました。そのようなときに、パウロの経済的な必要を満たしてくれたのがこのフィベだったのです。いやパウロだけではありません。彼女は自分に与えられた財で、主に仕えていた多くの働き人を助けていたのです。

 

 イエス様と弟子たちが伝道していたとき、どのくらいの生活費が必要だったでしょうか。そんなことを計算した経済学者がいますが、その人の試算によると、まず1ヶ月の食費は、1食300円として一度にかかる費用が3,900円、1ヶ月なら30万円を超えます。それが1年続くと360万円にもなるのです。イエス様は神の御子でしたが、この地上で御国の福音を伝えるために何も食べなくても大丈夫だったのかというとそうではなく、ちゃんと食べなければなりませんでした。ではその食費はどうしていたのでしょうか?どこから捻出していたのでしょうか?その辺に転がっていた石に向かって、「エイ、お金になれ!」と命じたわけではありません。ルカの福音書8章3節を見ると、その背後には多くのスポンサーがいたことがわかります。それは「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たち」です。多くの女たちが、イエス様と弟子たちの働きを支えていたのです。そのような人たちの献身があったからこそ、イエス様とその弟子たちの宣教の働きが可能だったのです。

 

 フィベも同じです。彼女はパウロをはじめ多くの働き人を経済的に支えました。そうした支えがあったからこそパウロは何も妨げられることなく、また、そうしたことで心配することなく伝道に専念することができたのです。彼女のこうした貢献は、パウロにとって大きいものがありました。今日も彼女のような献身的な人たちを通して、神様のみわざは大きく前進しているのです。

 

 Ⅱ.忠実な同労者プリスカとアキラ(3-5a)

 

  次に、3~5節までをご覧ください。ここには忠実な同労者プリスキラとアクラについて紹介されています。「キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。」

 

 このプリスカとアキラは夫婦です。プリスカが妻でアキラが夫です。最初はアキラとプリスカと紹介されていたのですが、次第にプリスカとアキラと紹介されるようになりました。いつの間にかプリスカの名前がアキラよりも前に挙げられるようになったのです。なぜそのようになったのかはわかりませんが、どうも夫のアキラより妻のプリスカの方がパウロが語る福音の理解において鋭いものがあったのか、あるいは、彼女の方が伝道において熱心だったからではないかと考えられています。しかし、たとえプリスカの方が福音の理解において優れていても、またその働きにおいて熱心であったとしても、これはあくまでも夫婦二人の働きによるのだということを聖書は示しているよう思います。パウロが彼らと初めて出会ったのは、第二次伝道旅行で彼がコリントを訪れた時でした。そのことは使徒の働き18章に記されてありますが、彼らもローマからそこにやって来ていて、そこでパウロと出会ったのです。彼らも同じテントメーカーをしていたので、パウロは彼らの家に住みそこで一緒に仕事をしたほどの仲です。

 

 このプリスカとアキラについて語られていることは、自分のいのちの危険を冒してまでパウロのいのちを守ってくれた人たちであるということです。彼らは、パウロの命のためには自分の首さえも差し出すほどだったと言っているのです。パウロがそう感じるほど、このプリスカとアキラは忠実な同労者でした。天国に行ってからパウロに「あなたが一番忘れがたい同労者は誰ですか?」と尋ねたら、きっと「プリスカとアキラです」と答えることでしょう。もう既に天国に行っていますから、おそらくそう言ったのではないかと思いますが・・・。それほど忠実に神に献身していた夫婦だったのです。このような夫婦の存在は、牧師にとってどれほど大きな慰めであり、励ましでしょうか。皆さんもそういう人になってください。自分を主張し、自分の思い通りにいかないとすぐに嫌になっては不満をぶちまけ足を引っ張るような人ではなく、「彼らは命の恩人」だと言わしめるほどの忠実な同労者になっていただきたいと思うのです。

 

 家内は1979年にアメリカのカリフォルニアにあるカルバリーバプテスト教会(アメリカンバプテスト)から遣わされて来日しました。この教会の牧師は当時、キースターという牧師でしたが、先生には5~6人の子供さんがおられましたが、最後のお子さんが1歳になられた頃、奥様に癌があることがわかり、しばらくして天国に召されました。すると、この教会は500~600人くらいの大きい教会でしたが、一緒に主に仕えていた教育牧師のDr.カールソンご夫妻が一緒に住みましょうと申し出られたのです。Dr.カールソン夫妻にも4~5人の子供さんがおられたので、全部で10人くらいの子供を育てながらキースター牧師を支えたのです。退職後、子供たちは全員巣立って行きましたが、3人はヨセミテ国立公園近くのオーカーストという町で一緒に暮らし、リンゴ栽培をしながら地域の牧師たちを支えました。

キースター牧師とDr.カールソンの奥様グレースさんは十年くらい前に召されましたが、Dr.カールソンは一昨年前に92歳で召されました。6年前に渡米した際、老人ホームに入所していたDr.カールソンを訪問した際に、一生懸命に自分が牧師をしていたとき日本に宣教師として行った姉妹がいました。と熱く語ってくれました。それは家内のことでしたがすっかり忘れていたようで、「そうですか、そんな人もいたんですね」と会話しました。いつまでも私たちのことを忘れないで覚えていて祈っていてくれたことに感謝しました。

帰国後、そのDr.カールソンも天に召されたことを聞きました。「ああ、今は3人で天国で仲良く暮らしているのかと思うと、なんとも微笑ましく感じます。もし天国にいるキースター先生に、「あなたの人生において一番忘れがたい同労者はだれですか」と質問したら、きっと同じような答えが返ってくることでしょう。「ケンとグレースです。彼らは人生をかけて私を支えてくれたのですから。」まさにプリスカとアクラは、パウロにとってそのような存在だったのです。

 

このプリスカとアキラ夫婦について、ここでもう一つ重要なことが紹介されています。それは5節にありますが、「また彼らの家の教会によろしく伝えてください」ということばです。彼らの家が教会だったということです。家の教会です。今日のように、教会が会堂に集まるようになったのはこの時から大分後になってからのことで、2世紀になってからのことです。当時は建物を持つ教会はほとんどありませんでした。ですから、このように信者の家が教会として用いられたのです。すべてが家の教会でした。開放された家庭でイエス・キリストの御名によって人々が集まれば、それが教会となったのです。プリスカとアキラ夫婦は行く先々で家庭を開放し、礼拝をささげる場所にしていたのです。

 

 これが教会なのか、家庭集会なのかは別として、ここで教えられることは、私たちの家庭が開放されるとき、そこに主のすばらしいみわざが起こるということです。クリスチャンが礼拝や交わりのために家庭を開放することは大きな祝福であり、そのこと自体が立派な神様の働きなのです。特に、どの教会もまだ開拓伝道に等しいような日本の教会においては、この家の教会の存在が極めて重要だと言えます。そこが福音の発信地、宣教の突破口となるということです。このようにクリスチャンの家庭が開放されそこで福音の種が蒔かれることによって、やがてそれが大きな実を結んでいくのです。それが教会になるかどうかはともかく、私たちもプリスカとアキラ夫妻のように、主の働きのために与えられた家庭が開放されるように祈っていきたいと思います。

 

 Ⅲ.偉大な同労者たち(5b-16)

 

  最後に、5節後半~16節までをご覧ください。ここにはフィベやプリスカとアキラ以外に、パウロに仕えた人たちの名前が列挙されています。パウロは胸に刻まれた、忘れられない同労者たちを思い浮かべながら、ローマ教会の聖徒たちに、彼らに「よろしく伝えてください」と言うのです。

 

 まず5節には、「私の愛するエパイネトによろしく」とあります。この人は「キリストに献げられたアジアの初穂である」とあります。アジアで最初にキリストを信じた人でした。このアジアとは、ローマ帝国のアジア州のことです。今のトルコです。パウロにとっては忘れることのできない人の一人だったのでしょう。

 

 次に出てくるのはマリアです。この人については「あなたがたのために非常に労苦した」とあります。フィベもそうでしたがこのマリアも女性です。私たちは、この安否を尋ねるあいさつの冒頭から、女性の名前が出てくることに驚きを感じます。フィベ、プリスカとアキラのプリスカ、このマリアと続き、その後の7節に「ユニア」もそうです。12節の「トリフォサ」もそうです。さらに12節後半に出てくる「ペルシス」、13節の「ルフォスの母」もそうです。また15節の「ネレウスとその姉妹」とあります。記録された人物中の約3分の1が女性です。これはパウロが生きていた当時の時代背景からすると、画期的なことです。ユダヤ人の男たちは朝ごとに「神様感謝します。私が女として生まれず、私が異邦人として生まれないようにしてくださった神様に栄光をささげます」と祈ったほどです。その当時、女性たちはとても卑しい人生を送っていました。当時のローマの哲学者セネカは「女も人なのか」という問題を巡って論争したと書いてあります。今の時代、こんなことを言ったら大変なことになります。それほど女性に対する人権意識が低い時代だったのです。そのような時代にパウロは、大胆にあいさつ文の最初から女性の名前を入れたのです。女性たちがパウロの働きを支えるということにはどれほどの労苦が伴ったことかと思いますが、そうした中で彼女たちはパウロの働きを支えていたのです。

 

 それから7節を見ると、ここに「私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく」とあります。彼らはパウロといっしょに投獄された経験を持っていて、使徒たちの間でもかなりよく知られていた人たちでした。福音のために苦楽を共にした思い出がよみがえってきたのでしょう。しかも彼らは「わたしよりも先にキリストにある者となっていた」という言い方をして、自分よりも先にクリスチャンになっていた人たちです。そうした信仰の先輩に対する敬意も表そうとしていたようです。

 

 また10節には「アペレ」という人のことが紹介していますが、彼は「キリストにあって認められている人」でした。この「認められている」という言葉は、第三版では「練達した」と訳されています。元々の意味は「テスト済みの」という意味です。彼はどこへ出しても大丈夫とだれからも太鼓判を押されるような立派なクリスチャンだったのです。

 

 ローマの教会にはこのような人たちがたくさんいたのです。そしてこれらの人たちの中には、おそらくパウロがまだ一度も会ったことのない人々も含まれていました。そのようにまだ一度も会ったことのない人でも、彼の中では主にある同労者であるという意識があったのです。つまり、彼らがパウロとどういう関係があったのかという見方ではなく、主にあって、キリストにあって、同労者であるという理解を持っていたのです。

 

 人はどんな人でも、自分に合う人と合わない人がいるものです。おそらくパウロにとってもそうであったに違いありません。けれども彼は、自分の思いを優先させるようなことはしませんでした。あくまでもキリストを通して見ていたのです。キリストにあって、主にあって見るとき、たとえ自分に合わないような人であってもその人もまた主にある同労者であり、主にあって選ばれた聖徒たちであると認識していたのです。だからこそ彼は、そういう人たちを用いて、そういう人たちといっしょに労することができたのです。

 

皆さん、ここに多くの聖徒たちの名前が列挙されているのは、そのことを私たちに教えるためだったのです。つまり神様の働きは決して一人でできるものではないということです。使徒パウロとてそうでした。皆さんはパウロに対してどのような印象を持っているでしょうか?とても強靱で、ただイエス様のためだけに生きた、ひたむきな人というイメージがあるかもしれません。数百人で取り掛かってもやり遂げられないようなことを、一人で成し遂げたスーパースターというイメージがあるかもしれません。アジアとヨーロッパを回りながら教会のない所に教会を建て、悪魔が支配する所に十字架の旗を立てていく、神様が願うとおりに用いられた英雄というイメージがあるかもしれません。

 

 しかし、このところを見ると、彼があれほど多くのことを成し遂げられたのは、こうした人たちの助けがあったからなのです。ここには少なくとも28人の名前が出てきます。ローマの教会に書き送った手紙の中だけで、記録する必要のあった人だけでそんなにいたのですから、彼の生涯全般にわたり彼と関わりのあった同労者たちの数はどれほど多くいたかわかりません。パウロの働きは彼一人の力によって成し遂げられたのではなく、その陰にいた多くの同労者たちの助けによって支えられていたのです。いわば彼らとともに働くチームミニストリーであったということです。このように教会が一つのチームとして機能するとき、一人でなし得る何倍もの働きができるようになるのです。

 

 使徒の働き6章4節を見ると、エルサレムの教会にやもめの配給のことで問題が起こったとき、使徒たちは兄弟たちの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い七人の人を選び、その人たちにこの問題に当たってもらうことにし、彼らは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励んだとあります。これは祈りとみことばだけすればいいということではなく、使徒たちは祈りとみことばに力を入れられるように残りの教会の仕事を他の人にゆだねてやってもらったということです。やらないということではなく、他の人を用いて、ほかの人といっしょに働いたのです。そのとき何倍もの力となって表れるからです。事実、教会がそのようにみんなで一緒に働いたことで、エルサレム教会は弟子の数が非常に増えていっただけでなく、何と多くのユダヤ教の祭司までもが信仰に入ったとあります。(同6:7)私たちの教会もそうですね、今年西山宣教師が牧師補佐として立っていただきましたが、教会でプリンターを導入し、週報等の印刷も行うようになりました。その他、受付の方、司会の方、奏楽の方、献金の方、音響の方、お掃除の方、その他のミニストリーにおいても、それぞれ重荷を負い合うことで、キリストのからだとしての教会が立て上げられています。祈りとみことばを土台として、こうした一つ一つの働きがチームとして機能するとき、そこに大きな主のみわざと栄光が現れるのです。これが信仰です。

 

 先週まで伝道者の書から学びましたが、そこにはこうありました。「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」(4:9)また、4章12節には、「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一番強い糸とはどんな糸なのでしょうか。一番強い糸とは太い糸ではなく、三つ撚りの糸なのです。牧師が信徒と一緒になって撚り糸のようになって伝道するとき、本当に強い力、大きな力になるのです。

 

 皆が皆、牧師にならなければならないということはありません。皆が皆、神学校に行って学ばなければならないということでもありません。しかし、皆が皆、隣人を助ける同労者にならなければなりません。信徒として立派に神様の働きをすることができます。神様はそのような献身者を求めておられるのです。いわゆるレイマンと呼ばれる人たちです。「レイマン」とは信徒伝道者のことです。こういう人たちが起こされることを願っておられるのです。牧師が忠実に主に仕えることは当然のことですが、こうした信徒のリーダーが同労者として神様の前に忠実に仕えるとき、教会は多くの祝福を受け、力強く前進していくのです。

 

 パウロはそうした一人一人の主にある同労者たちを覚えて「彼らによろしく」と言っています。この「よろしく」というのは単なるあいさつではありません。これは「彼らの労苦を認め、心から尊敬しなさい」ということです。主に仕えることには多くの労苦が伴いますが、そこにはこうした報いも約束されているのです。どうかそれぞれが神様から与えられた使命を果たし、主に用いられる偉大な同労者となりますように。そして皆さんがだれかの胸に、忘れられない恵みを与えてくれた人として刻まれますように。いや、誰よりも主のお心に、その名前が忘れられない刻まれる人になりますようにお祈りします。

神を恐れ、神の命令を守れ 伝道者の書12:1~14

伝道者の書12章をお開きください。伝道者の書からの最後のメッセージとなります。伝道者は、最後にこの書の結論を述べます。それは13節にありますが、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである。」ということです。

伝道者はこれまで「生きる」をテーマに人生の意味や目的について語ってきました。そしてわかったことは、「すべては空」であるということです。「空の空。すべては空。」です。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の役になると言うのでしょうか。なりません。伝道者はそれを知ろうとしてあらゆる知識や知恵を増し加えようとしました。思う存分快楽も味わってみました。事業を拡張して自分のために邸宅を建て、いくつもの庭園を造り、毎晩のようにエンターテーメントショーを催して楽しみました。しかし、そうしたことで彼の心の空白を埋めることができたかというとそうでなく、できませんでした。その時には満たされているように感じても、次の瞬間にはまた空しさが襲ってきたのです。最終的にすべての人は同じ結末を迎えます。みな死んで行くのです。であれば、生きるということにいったい何の意味があるというのでしょうか。

 あります!それは、この天地万物を造られ、私たちを造られた神を信じ、神を喜び、神のために生きることです。すべては神の御手の中にあります。人はどんなに頑張ってもすべてのことを見極めることができません。明日何が起こるかもわからないのです。自分ではどうすることもできないことがあります。ですから、すべてを支配しておられる神を認め、神にゆだねて生きることこそが最善なのです。つまり、神を恐れ、神の命令を守ることです。これが人間にとってすべてなのです。今日はこの伝道者の書の結論から、私たちの人生の幸いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(1-8)

 まず、1節から8節をご覧ください。1節をお読みします。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

伝道者ソロモンは、11章9節で「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。」と言いました。これは「心の赴くままに生きなさい」ということではありません。その逆で、神様のみこころに歩めということです。神のみこころならば思い切ってチャレンジしたらいい、ということですね。ですから、9節の後半部分ではちゃんと釘が刺されていて、「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ」とあるのです。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。そのことをしっかりと覚えておきなさいというのです。

ですから、若いからと言って何をしても良いというわけではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴うことがあるのです。そういうことで人生を台無しにしてはいけません。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。それは、どのような生き方なのでしょうか。それがこの1節にあるように、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。あなたが若い時に、あなたの造り主を心に刻みなさい、ということです。

画家のゴーギャンは地上の楽園を目指して旅立ち、タヒチ島に辿り着きました。しかし、そこも彼にとって楽園とはなりませんでした。彼は自分の最後の作品に、自分の心の内を表すかのようなタイトルを付けました。そのタイトルとは、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」というものでした。

私たちがこの問いに対する答えを見出すためには、私たちにいのちを与え、私たちの人生にすばらしい計画を持っておられる創造主なる神を知らなければなりません。

ここでは、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」とあります。どういう意味でしょうか。旧約時代の平均寿命は40歳にも満ちませんでした。青春期の若者があとどれくらい生きられるか、時はごく限られていたのです。20歳になった若者の平均寿命が七十年、八十年という現代の日本とは全く意味が違います。終わりまでの時間はごくわずかでした。その終わりを前にして今のこの時を創造主から与えられたかけがえのない賜物として受け止めなさい、という意味が込められているのだと思います。そういう意味では、この聖句は必ずしも若者だけへの呼びかけられているメッセージではありません。むしろ高齢になってあとどれくらい生きられるのかを考える多くの人たちへのメッセージでもあるのです。

ここには、「わざわいの日が来ないうちに」とあります。「また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」とあります。創造主訳聖書では、これを「老人になって、希望が無いという日が来ないうちに」と訳しています。老人になると希望がないというわけではありませんが、若い時のように心で願うことを元気にやり遂げる力はありません。苦しみの日々が来ないうちに、「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに、創造主なる神を心に留めよ、というのです。

伝道者は2節からその年月とはどのようなものであるかを説明しています。2節には、「太陽と光、月と星が暗くなる前に、また雨の後に雨雲が戻って来る前に。」とあります。「太陽と光、月と星が暗くなる」とは、肉体的にも精神的にも言えることです。老年になると、目はかすみ、心は悲観的になりがちです。「また雨の後に雨雲が戻って来る前に」とありますが、この場合の「雨」とは、人生の試練のことを指していると思われます。青年期にも雨がありますが、老年期になるとそれが頻繁に現れるという意味です。

3節をご覧ください。「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」

「家を守る者は震え」とは、高齢になって手足が震えることのたとえです。また「力のある男たちは身をかがめ」とは、足腰が弱くなって身をかがめるようになることです。かつてまっすぐに伸びていた足腰が体重を支えることができなくなり、腰が曲がってしまいます。みんなそうです。「粉を引く女たちは少なくなって仕事をやめ」おもしろいですね。これはおそらくこれは歯が抜けてしまうことを表現しているのだと思います。粉が少なくなると女たちの仕事ができなくなるように、歯が少なくなると噛み合わせができなくなるということです。歯本来の仕事ができなくなります。おもしろいことに、この「粉をひく女」は英語では「The grinders」と言いますが、臼歯(きゅうば)も同じ「grinders」という言葉を使うそうです。「grinders」が少なくなると仕事にならないのです。「窓から眺めている女たちの目は暗くなる」とは、高齢によって視力が低下することを表現しています。

そればかりではありません。4節をご覧ください。高齢になるとどうなりますか?「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみな、うなだれる。」

「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり」とは、耳が遠くなるということです。周りの人の声が聞こえなくなります。騒々しい音も気にならなくなるのです。「鳥の声に起き上がり」とは、朝の目覚めが早くなるということです。鳥の鳴き声でも起きてしまうからです。私の寝室の隣は小さなベランダになっていますが、しばらく前に2羽の鳩がひっきりなしにやって来るようになりました。そして朝から唸っているのです。それで私は目が覚めてしまいます。歳をとったということでしょうか?「歌を歌う娘たちはみな、うなだれる」とは、歌を歌っても低くなったり、弱くなったりするということです。つまり、高齢になると声がかすれ、高い音程が出せなくなり、歌う能力が低下するのです。

さらに5節にはこうあります。「人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」

「高いところを恐れる」とは、高所恐怖症のことです。若い時は何でもなかったのに、年を取ると、はしごを上ったり、高い所に立ったりするのが怖くなります。「道でおびえる」とは、坂道を歩くのが怖くなり、道を歩くことに困難が生じるということです。創造主訳聖書ではそのことをわかりやすく訳しています。「息切れがして、坂道を上るのが大義になり、足の自由がきかず、立ち往生し」と訳しています。

「アーモンドの花は咲き」とは、頭が白くなることです。アーモンドは白い花を咲かせるのですが、それが満開に咲くように、頭が白くなります。私の頭もアーモンドの花のようになりました。

「バッタは足取り重く歩き」とは、老人の歩き方を表現しています。確かに老人になると若い時のようにシャキシャキと歩くことは困難になります。バッタが歩いているのを見るとわかりますが、バッタが歩く時はよろよろ歩きますが、そのように身をかがめてよろよろ歩くようになるということです。

「風鳥木は花を開く」これも難解です。「風鳥木」とはスパイスに用いる「ケッパー」の木のことです。へブル語で「ハパックス」と言います。これが「欲望する」という意味の「アーバー」に由来していることから、これは食欲とか、性欲のことを意味していると考えられています。また、「開く」という語ですが、へブル語で「ターフェール」という語です。これは「しぼむ」を意味する「パラル」という語に由来していることから「開く」ではなく「しぼむ」ではないかと考えられているのです。ですから風鳥木は花を開くとは、食欲や性欲が減退することを意味しているのではないかと考えられます。口語訳ではそのように訳しています。口語訳では、「その欲望は衰え」となっています。また、創造主訳聖書でも「性欲もなくなり」と訳しています。さらに、英語の訳はすべてそのように訳しています。

「And desire no longer is stirred.」(NIV)

「And desire fails.」(NKJV)

「and all desire will be gone.」(TEV)

これが、ここで言わんとしていることでしょう。人は老年になると、食欲も性欲も減退し、何の楽しみも見出せなくなります。

そして、「人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」これは、死を迎えるということです。「泣く者たちが通りを歩き回る」とは、葬儀に参列した人たちが死を悼み悲しみ、葬送の列に加わっている様子を語っています。

6節をご覧ください。「こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。」(6)こうして、ついには死がやって来るということです。歳月が経つと人の肉体は老い、衰え、ついには死に至ります。この地上で、死を免れることができる人はひとりもいません。死はすべての人に平等に訪れるのです。

では、人は死んだらどうなるのでしょうか。7節には、「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。人は死んだら、肉体は土から造られたので土に帰りますが、霊はこれを与えてくださった神のもとに帰ります。もちろん、神が提供された救いを信じた人とそうでない人とでは行き先が異なります。信じた人は神がおられる天国へ、それを拒否した人は神がいない所、ハデスに行くことになります。

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。「わざわいの日が来ないうちに」。わざわいの日が来ないうちに、神に会う備えをしなければなりません。人は死んだらどうなるのでしょうか。へブル9章27節には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。人は死んだら神の前に立つようになります。神の御前に立って人生の精算する時がやって来るのです。死んでもまた救われるチャンスがあるというのは間違っています。わざわいの日が来ないうちに、あなたの創造者を覚え、あなたの救い主を信じなければなりません。その日に備えて生きることこそ真に知恵のある生き方なのです。そのような人は、この世の富や栄誉に執着することをしません。そして、自分にいのちを与えてくださったいのちの源であられる神を認め、神を恐れて生きるのです。

あなたはどうですか。神ではないほかのものに全精力を注いではいないでしょうか。もうそうであるなら、あなたの人生においてどんな調整が必要でしょうか。やがて老年期を迎え、肉体は衰えて行きます。ついには銀のひもが切れ、金の器は打ち砕かれることになります。しかし、いつまでも変わらないものがあります。それはあなたを創り、あなたにいのちを与えてくださった創造主なる神です。これこそ、私たちが真に追い求めていくべきものなのです。ですからあなたは、あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えなければなりません。

Ⅱ.真理のことば(9-12)

次に9節から12節までをご覧ください。9節と10節をお読みします。「伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。」

伝道者は知恵ある者でした。そのうえ、その知恵を民に教えました。彼は思索し、探求して、多くの箴言をまとめました。箴言とは人生論のことです。また、真の祝福と喜びを与え、人生を有意義にするための真理のことばです。それは、箴言としてまとめられた聖書のことばのことです。それは神から出たものであり、伝道者の書もまた聖霊によって記された神のことばです。

11節と12節です。「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。」(11-12)

ここには「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの」とあります。「突き棒」とは士師記3章31節には「牛を追う棒」とありますが、牛が後ろに下がると当たって痛くなるように付けてある棒のことです。それで土を耕すようにするわけです。そのように、鈍い者を教え、正しい道に導くという意味です。「よく打ち付けられた釘のよう」とは、よく打ち付けられた釘はしっかりしていることから、信頼に値するという意味です。これらは一人の牧者によって与えられました。この牧者とは誰でしょうか。ここでは伝道者ソロモンのことですが、ソロモンを通して語られた神の知恵、イエス・キリストのことです。私たちにはこのような真理のみことばが与えられているのです。ですから、私たちはこの真理のことばに耳を傾け、従わなければなりません。

伝道者は、さらにもう一つのことを注意しています。それは、彼は多くの書物を書くこともできましたが、どんなに多くの本を書いてもきりがないということです。むしろ、そうしたものに没頭すると、かえって疲れ果ててしまうことになります。学びにはきりがありません。あれもこれも学ぼうとするあまり、大切なものを見失ってしまうことになります。本当に大切なのは神によって与えられた聖書です。聖書以外のものをいくら学んでも、結局のところ疲れ果ててしまうことになります。これで十分なのです。

箴言30章5節には、「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。」とあります。神のことばには力があります。私たちは日々様々なプレッシャーやストレスに押しつぶされそうになることがありますが、そうしたプレッシャーに押しつぶされることなく、耐える力を与えてくれるのは、これが神によって与えられた神のことばだからです。この神のことばが私たちを生かすのです。

以前、ある教会の礼拝で説教をした時、礼拝後に一人の女性が私の所に来て「昨日、聖書を買いました。表紙の裏に私に相応しいことばを何か書いてください」と言いました。その人は教会に初めていらしたという方だったので、どんなことばがいいかなぁと考えながらその方のお顔を見ていると、ある一つのみことばが思い浮かびました。それは、イザヤ書43章4節のみことばです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」それで、そのみことばを書いて渡すと、その方はしばらくそれをじっと眺めていましたが、それを胸に抱くようにして帰って行かれました。それから数カ月後に、その方からメールが来ました。

「実はあの日、私は先生が書いてくださったことばがどんなことばであろうと神様からのことばとして受け取る覚悟でした。実は私はあの時、売春の仕事をしていました。こんな汚れた自分にふさわしいことばとは、どんなことばだろうと思って待っていました。すると先生は驚くべきことばを書いて下さいました。こんな私が「高価で尊い」なんて信じられませんでした。「神に愛されている」なんてとても思えませんでした。しかしあのことばで私の心は救われました。最近、私はイエス・キリストを信じました。仕事も会社の事務をしています。あの聖書のことばが私の人生を変えてくれました。」

聖書のことばは、私たちに生きる力を与えてくれます。私たちは、この神のことばに生きるものでありたいと思います。私たちの周りにはたくさんの書物がありますが、でも、学びに没頭すると、からだは疲れます。しかし、神のことばは私たちを生かしてくれます。私たちが信頼するのは、一人の牧者、神の子イエス・キリストによってもたらされた神のことばなのです。

Ⅲ.神を恐れ、神の命令を守れ(13-14)

最後に、13節と14節を読んで終わりたいと思います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

結局のところ、私たちの人生にとって最も重要なことは何なのでしょうか。それは、「神を恐れよ。神の命令を守れ。」ということです。なぜなら、神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからです。最終的なさばき主である神を恐れ、神の命令を守ることこそ、すべての人にとって知恵ある人生であると言えるのです。

ルカの福音書12章16~21節に、イエス様が話された愚かな金持ちのたとえ話があります。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

この金持ちはどういう点で愚かだったのでしょうか。それは「ピント外れの価値観」を持っていた点です。彼は大豊作の作物を、新しい倉を建ててその中に十分に蓄えました。そして自分のたましいにこう言いました。

「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」

これは単なる独り言や心の中のつぶやきではありません。これは彼の人生観そのものでした。物がたくさん貯まったことで、たましいの安全までも保障されたと思ったのです。彼は「物でたましいの安全を買うことはできない」という大原則を忘れていました。ですから神から「愚か者」と叱責されたのです。「愚か者」とは「感覚を失った者」という意味です。彼は人生における正しい感覚を失ってしまっていたのです。

そんな彼に神は言われました。「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と。その「今夜」とは、まさに宴会の真最中のことです。「もう大丈夫、安心だ、楽しもう」と言っていたその時です。「今夜」つまり、人生の終わりは誰にでもやって来ます。しかし、それがいつ来るかは誰にも分かりません。

しかし、神の前に富む者は、この人生の終わりにしっかりと備えています。「肉体の死」ということに出会っても、失わないものをちゃんと持っているのです。それはまことのいのち、永遠のいのちです。死ぬ時に手放さなければならないものをいくらっていても、それは本当の豊かさではありません。死を越えてもなおその手に残るもの、それは永遠の神との関係です。イエス・キリストを救い主として信じる者に与えられる永遠のいのちです。

同じルカの福音書16章19~31節には、「金持ちとラザロ」の話が出て来ますが、「ラザロ」はその永遠のいのちを得た人です。金持ちは毎日贅沢に暮らし、神様を求めようともせず、自分中心の生活をしていました。一方ラザロは惨めな生活で、神様の助けなしには生きられない存在でした。それは「ラザロ」という名前からもわかります。「ラザロ」という名前は「神は助け」という意味があります。彼は神の助けなしには生きていけないと告白していたのです。彼らの死後、金持ちはハデスに、ラザロはアブラハムの懐、つまりパラダイスにいました。私たちの人生は、死んで終わりではありません。生きている間の行いに応じて、神様の裁きがあり、天国と地獄に振り分けられるのです。人は、誰でも心に罪を持っています。神様

信じない自己中心的な人生を送った人は天国には行けません。しかし、イエス様は今から2000年前に十字架にかかられ、私たちを罪の束縛から解放して下さいました。罪を悔い改め、十字架の贖いと復活を信じるなら、その罪は赦され、罪のない者として永遠のいのちを受けることができます。たとえ死んでも天国に行くことが出来るのです。


 このような人こそ、神を恐れ、神の命令に歩む人です。創造者である神を信じ、神と共に歩む時、私たちの霊は満たされます。もはや、むなしい生き方ではなく、天に希望を置き、意味のある生き方が始まるのです。重要なのはスピードよりも方向です。どの方向に向かって生きているのかということです。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいが来ないうちに。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

あなたはどうですか。あなたの人生が後悔や嘆きではなく感謝と賛美に満たされたものとなるように、ここで伝道者ソロモンが見いだした知恵を心に刻んでいただきたいと思います。すべてを支配しておられる神を認め、神を恐れ、この神とともに意味のある人生を送らせていただこうではありませんか。

平安があなたがたにあるように ヨハネの福音書20章19~21節

2021年4月4日(日)イースター礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネの福音書20章19~21節

タイトル:「平安があなたがたにあるように」

 

 イースターおめでとうございます。きょうはイースターをお祝いしての礼拝ですが、私たちがこうしてイースターをお祝いするのは、イエス・キリストの復活の出来事が私たちにとって重要な出来事だからです。私たちは毎年クリスマスを盛大にお祝いますが、このイースターはクリスマス以上に重要な出来事だと言えるかもしれません。確かにクリスマスは神様が私たちを愛し、私たちを罪から救うためにひとり子イエスをこの地上に送って下さった日ですからとても重要な日ですが、イースターは、その御子が十字架でなされ罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださったということが真実であることを保証するものですから、そういう意味ではもっと重要な出来事だと言えます。イエス様が死からよみがえらなかったなら、私たちはどうやって罪から救われたと確信することができるでしょうか。どうやって天国に行くことができると確信することができるでしょうか。というのは、ローマ人への手紙6章23節には「罪から来る報酬は死です」とあるからです。もしキリストが死んで復活しなかったら、キリストにも罪があったということになるのです。そうであれば、私たちが救われたというのは単なる思い込みにすぎず、盲信でしかないということになります。しかし、イエス様はよみがえられました。イエス様が復活されたことで、聖書が言っているとおり、この方を信じる者は永遠のいのちを持ち、天の御国で永遠に神とともに生きるようになるという希望を持つことができるのです。もう死を恐れる必要はありません。確かに死は怖いですが、死は永遠の入り口にすぎず、イエス様を信じる人は、やがて栄光の御国に入るのです。それはイエス様が復活してくださったからです。イエス様が復活されたので、私たちは確信をもって死の不安と恐怖から解放され、永遠のいのちの希望に生きることができるのです。きょうは、このすばらしいキリストの復活の出来事から、キリストにあるいのちと希望をいただきたいと思います。

 

 Ⅰ.弟子たちの真中に立たれたイエス(19-20)

 

まず、19~20節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

 

「その日」とは、マグダラのマリヤが復活の主イエスに会った日のことです。それは週の初めの日、すなわち、イエス様が十字架につけられてから三日目の日曜日のことでした。マグダラのマリヤは、その日、朝早くまだ暗いうちに、イエスのお体に香油を塗ろうと墓に行くと、そこに置かれていた石が取り除けられているのを見ました。だれかが墓から主を取って行ったのだと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとヨハネに告げます。それを聞いたペテロとヨハネは急いで墓に向かいましたが、墓に着いてみると、そこには亜麻布は置かれてありましたが、主イエスのお体はありませんでした。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを理解していなかったので、まさか主がよみがえられたとは思いもしませんでした。

 

一方、マリヤも何が起こったかがわからず、墓の外でたたずんでいましたが、そんな彼女に主が現れてくださり、「マリヤ」と声をかけられました。その声を聴いたときマリヤはすぐにそれがイエス様だということがわかり、イエス様にすがりつこうとしましたが、イエス様は「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのもとに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(17)と言われました。それで彼女は行って弟子たちにそのことを告げたのです。「その日」のことです。

 

その日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていました。弟子たちは、イエスに従っていた自分たちも捕らえられ、裁判にかけられるのではないかと恐れていたのです。復活したキリストが、自分たちのところに来て姿を見せてくださるまで、弟子たちは完全に恐れに打ちのめされていました。彼らはいつもイエス様と一緒にしてそのすばらしい御業を見たり、聞いたりしていましたが、いざイエス様が十字架で処刑されると、どうしたらいいのか、何を信じたらいいのかわからなくなってしまったのです。

 

今は亡き毒舌落語家に、立川談志(たてかわだんし)という方がおられました。彼はとにかく、自分の目で見たもの以外は信用しないという人でした。著書の中で、テレビはやらせ、新聞はウソと言い放っています。「ものごとってなぁ、自分が見たものだけが本物だ。あとは全部うわさ話よ。」とよく言っていました。しかし、どうして人の話を、頭から信じないようになったのかというと、それは日本の敗戦にありました。

子供のころ談志さんは、日本軍は連戦連勝を続けているという、この大本営発表を信じ切っていましたが、それなのに、日本の本土は簡単に空襲を受けたのです。まだ小学生だった彼は、東京大空襲を経験し、その目で、その耳で、地獄を経験するのです。母と兄の3人で避難する途中、川の中から聞こえてくる「助けてくれ」という声と、土手からの「助けてやれない」という声が交差する中を必死で走り回ったといいます。信じ切っていた発表が、真っ赤な嘘だとわかったとき、それから彼は疑い深い人間になったというのです。

 

主イエスこそ人となった神であり、全能の救い主だと信じていた弟子たちは、このイエスが死刑にされ、墓にまで埋葬されてしまったとき、もうすべてが終わった、いったい自分たちが信じてきたことは何だったのかと、頭が混乱していたに違いありません。彼らは意気消沈し、また同時に、次に当局は自分たちを捕らえに来るかもしれない、と恐れていたのです。

 

すると、そこにイエスが来られました。イエスが来て彼らの真ん中に立たれると何と言われましたか?「平安があなたがたにあるように。」と言われました。閉まっていた戸を通り抜けることができたのは、イエス様のからだが地上での物理的制約を受けない霊のからだであったことを示しています。復活されたイエス様のお体は物質的な障壁を越えられるものであったということです。しかしそれは単なる霊ではなくちゃんとした肉体をもっていました。ルカの福音書24章には、復活したイエス様を見て幽霊だと思った弟子たちに対して、イエス様が「なぜ取り乱しているのですか。わたしにさわって、よく見なさい。」と言われました(24:38-39)。「幽霊なら肉や骨はありません。でも私にはあります。」そう言って、彼らに手と脇腹を見せられたのです。手と脇腹というのは、イエス様が十字架につけられた時の釘の跡と槍の跡のことです。ですから、復活されたイエスは確かに肉や骨がありましたが、それはこの肉体とは違い、物理的な障壁を越えられるものだったのです。

 

そして、こう言われました。「平安があなたがたにあるように。」イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。この言葉は、ギリシャ語で「シャローム」という言葉です。これは今もユダヤ人があいさつで使っている言葉ですが、「平安があなたがたにあるように」とか「ごきげんよう」といったニュアンスの言葉です。しかし、ここでイエス様が彼らに「シャローム」と言われたのは単なるあいさつではなく、それ以上の意味がありました。それは不信仰に陥り不安と恐れに脅えていた彼らの信仰を回復し、彼らにメシヤの到来を告げ知らせることによって、喜びと平安をもたらすためだったのです。

 

このとき彼らは不信仰に陥っていました。第一に、彼らはイエス様からガリラヤに行くようにと言われていたのにもかかわらず、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていました。第二に、彼らはイエス様があらかじめ語っておられた復活の預言を信じていませんでした。第三に、イエス様が復活されても、自分たちは幽霊を見ているのではないかと思っていました。

このように彼らはイエス様が言われたことを信じることができなかったため、恐れと不安に脅えていたのです。

 

しかし、イエス様が彼らの真中に立たれ「平安があなたがたにあるように」と言われ、その手と脇腹を示されたとき、彼らは主を見て喜びました。あの恐れと不安が、喜びに変えられたのです。復活した主イエスが現れ「平安があなたがたにあるように」とみことばをかけてくださることによって、その手と脇腹を示されることによって、彼らに再び信仰が与えられたのです。イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえると言われていたことばを思い出したのです。弟子たちはそれを見て喜んだのです。

 

皆さん、信仰の対極にあるのは何でしょうか?信仰の対極にあるのは恐れとか不安です。恐れや不安は霊の眼を閉ざしイエス・キリストを見えなくさせます。反対に信仰は、喜びと希望を与えてくれます。不安と恐れのどん底にいた弟子たちが喜ぶことができたのは、復活したイエス様が現れて「平安があなたがたにあるように」と御声をかけてくださったからです。それはイエス様の恵み以外の何ものでもありません。イエス様は恐れと不安で何も見えなくなっていた彼らに「シャローム」と言われ、彼らの信仰を回復させてくださいました。同じように主は今も、この時の弟子たちのように不安と恐れに苛まれている私たちに現われてくださり、同じように御声をかけておられるのです。「シャローム」「平安があなたがたにあるように。」あなたが不安や悲しみでどんなに落ち込んでいても、主があなたの前に立っておられることを認め、そのみことばを聞くならば、あなたも弟子たちのようにそれを見て喜ぶことができます。いや、あなたが落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなるのです。

 

生涯現役の医師として活躍された日野原重明さんが、2017年に天国に召されました。たくさんの本を残されましたが、その一冊に学生時代の思い出について書かれたものがあります。

京都大学の医学部を受験した日野原さんは、合格発表を見に行くため、家を出ようとしていました。するとそこに友人から電話がかかってくるのです。彼は日野原さんの受験番号を知っていました。そして自分の合格を確認するだけではなく、ついでに日野原さんの合否を見に行ってみたというのです。その結果「番号はなかったよ」というのです。内心自信があった日野原さんは、本当にがっかりしました。誰も近づくことができない程に落ち込んだのですが、やがて大学から連絡が入りました。「合格しているのにどうして手続きに来ないのですか?」
 どういうことか。実は当時の医学部受験には、二つのコースがあったのです。友人はそれを知らずに、もともと日野原さんが受けていない方のコースの合格掲示板を見て、早合点したのです。もう一つの方にはちゃんと受験番号がありました。それが分かったとき、喜びが爆発したそうです。がっかりした気持ちが深かった分、それをくつがえす事実に向き合ったとき、天にも昇るような気持ちだったと言います。

 

それは私たちも同じです。私たちも辛くて、悲しくて、不安で、落ち込むことがあります。でも落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなります。信仰によって復活の主イエスを見るとき、私たちの悲しみは喜びに変えられるからです。あなたはどうでしょうか。あなたの心は不安や悲しみでいっぱいになっていませんか。もしそうであるならば、復活されてあなたの前に立ち、「平安があるように」と言われる主の御声を聞いてください。死から復活して今も生きておられる主を信じ、主のみことばを聞くとき、あなたも喜びに満たされるようになるのです。

 

Ⅱ.わたしもあなたがたを遣わします(21-23)

 

次に、21~23節をご覧ください。「イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 

この喜びと平安によって眠っていた弟子たちの使命感が、はっきりと呼び覚まされます。それは、罪の赦しの宣言のために遣わされるということです。イエスは彼らにこう言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

イエス様はここで再び彼らに「平安があなたがたにあるように。」と言われました。どうしてでしょうか。このときの「平安があなたがたにあるように」ということばは、19節で言われたことと意味が違います。19節で言われた時は弟子たちの信仰を回復させ、恐れと不安の中にあった彼らに喜びをもたらすためでしたが、ここではそうではありません。別の目的で語られているのです。それは、彼らを福音宣教の使命に遣わすためでした。父なる神は、ご自身の権威をもって御子イエスを派遣されましたが、それと同じように、今度は主イエスの権威によって彼らが遣わされるのです。そのために必要だったことは何でしょうか。それは神との平安です。罪責感を負ったままでは、主の使命を果たすことはできません。ですからここで主は再び「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

 

そればかりではありません。イエス様はそのように言われると、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

これはペンテコステに起こった聖霊降臨のことではありません。この「息を吹きかける」という言葉は、創世記2章7節にもありますが、そこには、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とあります。ここには、土地のちりで形造られた人間に神が息を吹きかけることで、人は生きるものとなったとあります。この「息」という言葉と「霊」という言葉はヘブル語では同じ言葉(ヘルアッハ)が使われています。つまりイエス様が弟子たちに息を吹きかけたのは、そのことによって彼らが生きるものとなるためだったのです。そのことで弟子たちは、新しく生まれ変わったのです。ですからここで「聖霊を受けなさい」と言われているのです。聖霊を受けるとは、その人の罪が赦され、神のいのちが与えられるということです。つまり、この時キリストは彼らの罪を赦し、ご自身の聖なる霊を彼らに与えられたのです。これはイエスを信じるすべての人にされることです。神はイエスを信じるすべての人の罪を赦し、ご自分の聖なる御霊を与えてくださいます。それが「救われる」ということです。

 

そのことによって、私たちは神から与えられた使命を全うすることができます。その使命とは何でしょうか。罪の赦しの宣言です。23節にこうあります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

もちろんこれは私たちがだれかの罪を赦したり、残したりする権威があるということではありません。罪を赦すことができるのは神だけです。私たちにはそのような権威はありません。しかし私たちにはその神が決定されたことを宣言する役割が与えられているのです。その権威が与えられているということです。聖霊を受け、主イエスが父なる神から権威が与えられたように、そのイエスの権威によって遣わされる者にも同じ権威、罪の赦す権威が与えられているのです。すごいですね。信じられないことですが、聖霊によって新しく生まれ変わった私たちには、そのような権威が与えられているのです。私たちもこの時の弟子たちのように不信仰な者で、罪深い者にすぎませんが、復活のイエス様を信じることでイエス様に息を吹きかけられ、聖霊によって新しく生まれ変わった者であることを覚え、この神の権威と聖霊の導きによって、きょうも周りの人々に神の愛と罪の赦しの福音を伝えていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.キリストの復活がもたらしたもの

 

最後に、このキリストの復活がもたらしたものを考えてみたいと思います。このあと弟子たちはこの罪の赦しの宣言を伝えて行くことになります。その様子は使徒の働きを見るとわかりますが、彼らはいのちがけで伝えていきました。それで初代教会のクリスチャンたちは破竹の勢いで広がっていき、ついにはヨーロッパ大陸全土がキリストの福音に圧倒されていきます。いったいその原動力は何だったのでしょうか。それは、キリストの復活がもたらしたものです。キリストは私たちの罪を背負い十字架で死んで下さった後に、三日目に復活してくださいました。この復活によって死を滅ぼされたという歴史的事実が、彼らにそのような力を与えたのです。それが原動力となったのです。つまり、この復活の事実こそが、キリストが死から復活したということが迷信ではなく、実際にあった事実であったということを物語っているのです。

 

私は最近、「言霊信仰」に関する本を読みました。日本人は昔から起こって欲しくないことを言葉にして出すと、本当にそれが実現すると信じているところがあります。ですから、結婚式では「切れる」とか「別れる」とか「割れる」といったことばは禁句です。受験生がいる家では「すべる」とか「落ちる」がタブーですね。逆に、むかしから「勝つ」と「カツ」をかけて、勝負や試験の前に「豚カツ」を食べる験担ぎになっています。そんなのバカバカしいと思っている人でも、実は知らず知らずの間に使っているのです。たとえば、会合や宴会などを終えるとき「お開きにする」という言い方をしますが、本当は「おしまいにする」とか「会を閉める」なのです。でも、それでは縁起が悪いと考えて、あえて反対の「開く」という言い方をするようになり、それがすっかり定着するようになったのです。

こういう現象は日本社会では随所に見受けられます。しかしこれこそが日本の安全保障の障害になっているのではないか、と指摘する人もいるのです。起こって欲しくないことは考えないようにすることによって、万が一のことに備えることができなくなってしまうからです。

 

これは個人の人生についても言えることで、その代表が、死につながることをいっさい隠すということです。ですから病院では4号室や、4番ベッドはなく、飛行機には4番シートがありません。それは縁起の悪いものがあったら、本当に死んでしまうかもしれない、と恐れるからです。しかし4という数字をどんなに使わないようにしていても、死は必ずやって来るのです。必ずやって来るものについては、考えないようにするのではなく、そのためにしっかりと準備しておくことの方が賢明です。しかし、死に対する準備などできるのでしょうか。できます!

 

キリストは私たちの罪を背負って、十字架で死んで下さった後、三日目に復活することで、死を滅ぼしてくださいました。これは迷信でも何でもなく、この歴史の中で実際に起こった事実です。それは、私たちの罪が赦され、永遠のいのちを与えるために神が成してくださった神のみわざです。この神のみわざを受け入れる者、すなわち、この方を信じる者は罪が赦されて、死んでも生きる永遠のいのちが与えられるのです。

 

キリストはあなたのために死なれました。そして文字通りよみがえられました。あなたの前に立って「平安があなたがたにあるように」と言っておられます。どうぞ、この復活された主イエス・キリストを信じてください。そして、あなたの人生が天国に向かう喜びと平安なものになってほしいと思います。主はよみがえられました。復活の主の力と喜びがあなたにもありますように。「平安があなたがたにあるように。」

 

最大の恵み ローマ人への手紙15章14~21節

2021年3月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙15章14~21節

タイトル:「最大の恵み」

 

 きょうは「最大の恵み」というタイトルでお話したいと思います。このローマ人への手紙は、使徒パウロからローマの教会の人たちに書き送った手紙です。パウロはこの手紙も終わりに近づいたころ、もう一度これを書いた目的を述べています。それは異邦人に福音を宣べ伝えることです。そのためにローマの教会の人たちに祈ってほしかったのです。パウロは神から恵みを受けた者として、異邦人の使徒として召されました。使徒というのは「遣わされた者」という意味です。ユダヤ人ではない人たちを異邦人と言いますが、その異邦人に福音を伝えるという使命が与えられていました。それで、聖霊の助けによって熱心に主に仕え、エルサレムから始めてイルリコに至るまで、宣教のわざを続けてきました。イルリコというのは、現在のクロアチア、アドリヤ海に面した地域のことです。パウロは「エルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡りキリストの福音をくまなく伝えた」と言っています。その距離約二千二百キロメートルです。大雑把にとらえれば、北海道の端から沖縄の端まででしょうか。当時の旅のゆっくりしたこと、また様々な危険があったことを考えれば福音を広めるパウロの苦労は大変なものであったことでしょう。しかしパウロはそのような苦労をものともせず、「もうこの地方には私が働くべき場所はなくなりました」(15章23節)と言うほどに徹底して伝道して歩いたのです。

 

そして、当時ローマ帝国の果てと言われていたイスパニヤ、これは今のスペインのことですが、そこにも趣いて行きたいと考えていました。そのためには祈りが不可欠です。そうした伝道の計画をローマの教会の人たちに伝え、そのために祈ってほしかったのです。パウロにとっての最大の喜びは、イエス・キリストの福音を伝えることでした。神様がそのために自分を用いてくださるということが最大の恵みだったのです。それは私たちにも言えることです。私たちにとっても最大の喜びは、イエス・キリストの福音を伝えることです。この福音こそ多くの人々の人生を変える喜ばしい知らせなのです。

 

私の友人がアフリカでNPO団体の職員として働いていた時のこと、自分たちが立ち入らないような奥地にまでキリスト教の宣教師たちが入っていって熱心に福音宣教を進めている姿に驚かされたと言います。不便な生活をし、犠牲を払いながら、一体何を語っているのだろうか。興味を持った友人は、教会に通い始めました。そしてついにイエス・キリストにある罪の赦しときよめの祝福を理解するようになり、信仰を持ったというのです。そして、たばこをくゆらし、ただボーッと過ごすだけの人生から、神を喜び神の御心に沿って歩む、活き活きした人生へと脱出することができたと言います。キリストの福音は、私たちの人生を、このように変える力があるのです。

きょうは、パウロがどのようにこの福音を異邦人に宣べ伝えていたのかを、三つのポイントでお話ししたいと思います。

 Ⅰ.神が与えてくださった恵みのゆえに(14-17)

 

 第一に、14~17節までをご覧ください。ここには、パウロに与えられた使命がどのようなものであったかが記されてあります。「私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。」

 

 パウロは、これから語ろうとしていることをローマのクリスチャンたちに語るにあたり彼らを責めるような口調や態度ではなく、彼らを認めることから始めています。14節には、「私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。」と言っているのです。人が励まされ、強められるために一番重要なことは、その人が認められることです。人は認められるとき、自分の命までもささげ、与えられた使命を成し遂げようとします。パウロはまさにこの原則を用いて、彼らを認めることから始めているのです。それは何とかして彼らに、これから語ることを理解してほしかったからです。それは神の福音を宣べ伝えることについての神の計画です。

 

16節には、「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」とあります。

パウロが受けた恵みとは何でしょうか?それはイエス・キリストによる救いです。これまでパウロは、旧約聖書にある神の律法を守らなければ救われないと、律法による救いを徹底的に説いてきました。しかし、すべての人は罪人なので神の律法を完全に行うことはできず、律法によっては義とみとられることがないとわかったとき、律法ではない、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを信じることによって、価なしに義と認められるということがわかりました。そしてその恵みを受け入れたとき、その恵みのゆえに、異邦人に福音を伝える者となったのです。それは異邦人が、聖霊によって聖なる者とされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。創造主訳聖書には、「異邦人を聖霊によって聖められた、創造主に受け入れられるものとするためである。」と訳されてあります。つまり、異邦人もまた聖霊によって聖められて、神に受け入れられるようにするために、異邦人の使徒となったということです。その恵みを受けた者として、今度はその恵みを分け与える者となったのです。

 

 皆さんは、「恵み」というとどんなことを思い浮かべるでしょうか。どちらかというと、好いことがたくさんあったりとか、物質的に恵まれること、行く先々で道が開かれるといったことを考えるのではないかと思いますが、恵みとはそういうことではありません。恵みの意味を広辞苑で調べてみると、

1.めぐむこと。恩恵。また、いつくしみ。「自然の恵み」「天の恵み」

  1. キリスト教で、原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済をいう。聖寵 (せいちょう)。

とあります。辞書にはちゃんとキリスト教での恵みの意味も書いてありますね。でも、実はここに書いてある内容では、恵みの本質を説明しているとは言えません。恵みとは、ただ恩恵を受けたり、何かの利益を得ることではありません。また、”原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済”という説明にも、大切なポイントが抜けています。そのポイントは何かというと、『無条件で与えられる』ということです。恵みは、行いによってでも、対価を払うことでもなく、タダで与えられるものなのです。これは頑張ることを美徳にしている日本人には、理解するのが難しいことです。私たち日本人は、実は恵みとは反対の報いという考え方が強い民族性なのです。報いとは、行いや対価に応じて、与えられるものですが、無条件で与えられる恵みとは、全く逆のものです。例えば働けば報酬として、給料を貰うことができます。お金を払えば、物を買うことができます。誰かに親切にすることで、ご褒美が貰えるかもしれません。また、逆に悪いことをすれば、罰を受けます。犯罪を犯せば、罰金や懲役刑を受けます。これらは良くも悪くも、全て何かの行いや対価に応じて、自分に返ってくるものなので、全て報いです。けれども、恵みとは全く逆で、無条件で与えられるものです。無条件で何かを得ることを期待するなんて、怠け者で悪いことだと考えられてしまいますが、聖書では、全く救われるに値しない者に対して、神が一方的に与えてくださったもの、それがイエス・キリストの救いです。

 

ですから、キリスト教の救いは恵みなのです。これがキリスト教の神髄とも言えることです。だから、この恵みを完全に受け入れることができた人の先にあるのは、「これで大丈夫なんだ!」という平安な心なのです。パウロはこの恵みを受けたのです。彼は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったのです。

 

パウロは、Ⅰテモテ1章12~16節で次のように言っています。「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」

 

パウロが、キリスト・イエスに感謝をささげているのはなぜでしょうか?それは、キリストが彼をこの務めに任命して、彼を忠実な者として認めてくださったからです。彼は以前、神を汚す者であり、クリスチャンを迫害するような者でした。いわば、神の敵として歩んでいたのです。まさに罪人のかしらのような人間でした。そんな者が赦されるはずがありません。しかし、彼は神のあわれみによって罪が赦され、キリストの福音を宣べ伝える者にされました。それこそ、ことばに言い尽くせない恵みだと、パウロは感激に溢れて告白しているのです。神様のために用いられることが幸せなのです。神様は自分よりも育ちも良く、頭も良くて、人格的にも立派な人を差し置いて、私のような者を用いてくださるとしたら、それこそ恵みではないでしょうか。

 

「驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れる我(われ)に」(新聖歌233)。教会に行ったことがない人も、どこかで耳にしたことがあるでしょう。「アメージング・グレース」です。この歌は、ジョン・ニュートン(1725〜1807)によって1779年に発表されました。「アメージング・グレース」は、今日も教団教派を超えて歌い継がれている定番の賛美歌となっていますが、この讃美歌にはニュートン自身の劇的な回心の経験がその根底に流れています。

 

母親は熱心なクリスチャンでしたが、7歳にして母を亡くしたニュートンは11歳で父と共に船に乗るようになり、さまざまな経緯を経て奴隷貿易に携わるようになりました。その頃のニュートンの評判は、反抗的で、罰当たり、不親切というものだった。

しかし、ニュートンが22歳の時に転機が訪れます。1748年5月10日、激しい嵐が船を襲い、転覆の危機にあった船中でニュートンは神の憐みを求めて必死に祈りました。船は奇跡的に嵐を免れ、この経験がニュートンの回心の「始まり」となったのです。1754〜55年の間に、ニュートンは奴隷貿易をやめ、その代わりに神学を学び始める。そして1764年、ついに英国国教会の牧師になりました。その後彼は、黒人たちをまるで家畜のように扱う奴隷貿易に携わったことを罪を悔い改め、そのような者でさえも赦してくださった神の恵みに感謝して、この歌を造ったのです。アメージング・グレース。あっという恵み。その恵みのゆえに、彼もまたイエス・キリストの福音を伝える者となったのです。

 

パウロは、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったのです。それは私たちも同じです。Ⅰペテロ2章9~10節はこうあります。  「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」

 

私たちはみな祭司となったのです。これを万人祭司と言います。パウロはここで、「祭司の務めを果たしています」と言っていますが、私たちも神の祭司として、その務めがゆだねられているのです。それは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けたからです。アメージング・グレース。驚くほどの恵みを受けた者として無今度はその恵みに応答し、キリスト・イエスに仕える者となったのです。

 

 Ⅱ.御霊の力によって(18-19)

 

 次に18~19節を見てみましょう。「私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。」

 

 ここには、パウロがどのようにして異邦人への伝道を成し遂げていったのかが書かれてあります。「キリストはことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。」その結果、彼はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えることができたのです。

 

イルリコというのは、先ほども申し上げたように現在のクロアチア、アドリヤ海に面した地域のことです。エルサレムからは直線距離にして2,200㎞ほどあります。彼は、エルサレムから始めて、そうした地方に至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。そればかりではありません。23節には「しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、」と言っています。イスパニヤというのは今のスペインのことです。当時の世界の西のはずれと言われていました。そのイスパニア、スペインまで福音を伝えたいと思っていたのです。今日のように交通機関が発達していなかった時代に、よくもまあこんなに福音を伝えることができたものだと感心しますが、いったいその力は何だったのでしょうか?それはキリストの力によるものでした。キリストがことばと行いによって、また、しるしと不思議によって、さらに御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。それはパウロの力ではなかったのです。キリストがパウロを用いて、ご自身のみわざを成し遂げてくださったのです。

「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 

 聖霊があなたがたの上に望まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。そして、力強い主の証人となることができます。その行く先々で、しるしと不思議を行ってくださいます。福音が伝えられる現場では、こうしたこうしたみわざが現れるのです。

 

 使徒の働き13章には、パウロとバルナバがアンテオケ教会から遣わされてキプロス島に渡った時、そこで魔術師エルマと戦ったことが記されてあります。パウロの話を聞いていた総督セルギオ・パウロが神のことばを聞いていると、彼を信仰の道から遠ざけようとして、邪魔をしました。するとパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、「あらゆるよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができないようになる。」と言うと、たちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は見えなくなってしまいました。この出来事に驚いた総督は、主の力ある教えに驚いて信仰に入ったのであります。

 

 ルステラではこんなことがありました。生まれつき足のきかない人がすわっていましたが、どのようにしてかわかりませんけれども、彼がパウロの話を聞いていると、パウロは彼にいやされる信仰があるのを見て、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言いました。すると彼は飛び上がって、歩き出したのです。驚いた群衆は、パウロとバルナバがギリシャの神々だと思っていけにえをささげようとしましたが、パウロがあわてて、そんな馬鹿なことはやめてください。私たちも皆さんと同じ人間なんですよ。このようなむなしいことを捨てて、天と地を造られた生ける神様を信じてください、というと、大勢の者たちが信仰に入ったのです。

 

 第二次伝道旅行でピリピという町に行った時のことです。占いの霊にとりつかれていた若い女奴隷から悪霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人たちがパウロとシラスを訴えて牢屋に入れてしまいました。パウロとシラスが獄中で祈りつつ、賛美の歌を歌っていると、奇跡が起こりました。大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち全部の扉が開いてしまったのです。それを見た看守は、「もうだめだ」と思って自害しようとしましたが、そこにいたパウロとシラスが「自害してはならない。私たちはここにいる」という、彼らは恐る恐るひれ伏しながら、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言ったので、パウロはこう言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)するとこの看守とその家族はイエス様を信じて全員救われたのです。

 

 ローマに向かう船が難破して、奇跡的に救い出され、マルタ島についた時も、パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出て来て、彼の手にとりつきましたが、「何だ、この蛇は!」と言ったかどうかわかりませんが、パウロが火の中に振り落としても、何の害も受けませんでした。

 

 使徒の働きを見ると、こうしたしるしや奇跡は山ほど出てきます。まさに、イエス様が言われたように、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)これはまさに御霊なる主、聖霊のお働きによるのです。

 

 ある人々は、このようなしるしと不思議を行う力は二千年前に終わったと言います。しかし、福音を携えていくところには、確かに奇跡が起こるのです。今も南米で、アフリカで、中国で、インドネシアで、世界中の至るところでこうしたしるしや不思議をなす力によって、福音がものすごい勢いで広がっています。使徒の働きに記されているすべてのわざは、今日も福音が宣べ伝えられる所で、私たちを通して行われるのです。それはこの日本も例外ではありません。みことばが宣べ伝えられるところではどこでも、このような神の力が現れるのです。それがパウロの宣教の力だったのです。

 

 Ⅲ.開拓者精神(20-21)

 

 最後に、こうしたパウロの異邦人伝道の原動力について見て終わりたいと思います。20~21節をご覧ください。「このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」」

 

 「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝える」とは、それは異邦人の世界のことで、まさに世界宣教のことです。また、「他人の土台の上に建てないように」とか「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる」というのは、文字通り開拓伝道のことです。パウロは、こうした世界宣教と開拓伝道のビジョンに燃えていました。今日のように交通機関が発達していなかった時代です。でも彼らはこのような宣教のビジョンを持っていました。しかし、もっと驚くべきことは、実際に彼はそれを達成しようとしていたことです。こうした彼の開拓者精神はどこから出ていたのでしょうか?それは、彼がいつも神の視点で物事を見ていたことです。常に神のみこころは何かを考え、そこに生きようとしていたからです。21節には、「こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」とあります。これはイザヤ書を52章からの引用です。このように書かれてある聖書のことばが成就すると信じていたのです。

 

 それが自分にできるかどうかということではありません。神のみこころは何か。そしてそれが神のみこころならば、何としてもそれを達成しなければならないという情熱から出ていたことだったのです。Ⅰテモテ2章4節には、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあります。神のみこころは、すべての人が救われて真理を知るようになることです。まだキリストの福音を聞いたことのない人たちが聞き、神を知るようになることを望んでおられます。そのためにどうあるべきなのかを求めた結果がこれだったわけです。今、私たちに求められているのは、こうした神様の目で物事を見、それを行っていくということではないでしょうか。

 

 戦後、この日本に福音が伝えられた背後には、多くの宣教師たちの犠牲がありました。日本が戦いに破れ、精神的に虚脱状態に陥っていたとき、多くの宣教師たちが来日してキリストの福音を伝えてくれたのです。

 その先駆者となったのがF・B・ソーリーという宣教師です。ソーリー宣教師は、1948年に来日し、焼け跡の東京の街角に立ってエネルギッシュに福音を伝えました。アコーデオンをかなでながら歌を歌い、通訳を用いて説教したと伝えられています。東京での宣教の働きを終えると、今度は和歌山に移って意欲的に天幕伝道を始めました。「どうして和歌山なんですか?温泉があるからですか」と泉田昭先生(日本バプテスト教会連合練馬教会名誉牧師)が冗談に尋ねると、ソーリー宣教師は、にっこりと笑いながらこう言ったと言います。「アイム、ソーリー」というのは冗談で、「調べてみると、日本でクリスチャンが最も少ない地方は富山県と和歌山県であることがわかりました。富山県ではカナダから来た宣教師たちが伝道することになったので、私たちは和歌山県で伝道することにしたのです。」

 何というスピリットでしょうか。戦後日本の宣教は、こうした開拓者精神に溢れた宣教師たちによって、福音が伝えられて行ったのです。それは、栃木県も同じではないでしょうか。日本で最もクリスチャンが少ない地方は栃木県さくら市です。

 

 イギリスからやってきていたP・ウィルスという宣教師は、「キリストを信ずれば、馬が行灯(あんどん)をくわえたような、長い不景気な顔をした人でも、かぼちゃのように、にこにこした笑顔に変わります」と巧みな日本語で、熱心に語ったそうです。あんどんとは、木などで枠を作って紙を張り、中に油の皿を置いて点灯するものですね。だからぼんやりしているわけですが、そんな馬が行灯をくわえたような不景気な顔をしている人でも、イエス様を信じると、かぼちゃのような顔になるなんて、すごい表現だと思うんです。イエス様を信じると、私たちの不幸の原因である罪が赦され、永遠のいのちがあたえられるのです。

 

 今、時代は大きく変わりました。しかし、どんなに時代が変わってもいつまでも変わらない原則があります。それは、この救霊の情熱です。まだキリストの福音が伝えられていない所に何とかして福音を伝えたいという情熱です。私は国内開拓伝道会というところでご奉仕させていただいておりますが、その委員のお一人に日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会牧師の中島秀一先生がおられます。中島先生は80を過ぎておられる先生で、ご自身の教会も300人くらいの大きな教会ですが、この先生が言われる野です。「日本の教会はまだまだ開拓伝道です」と。中島先生のスピリットに触れると、本当に励まされます。

 

日本の現状を見ると、それは必ずしも容易なことではありませんが、しかし、神はこの福音宣教の使命を、私たちクリスチャンにゆだねておられるのです。それは神が与えてくださった恵みのおえに、神の御霊の力によって、神のみことばの約束に基づいてなされていくものです。

 

私たちの教会は今日、創立5周年を迎えることかできました。この礼拝の後で君島兄がまとめてくださった5年間の歩みを間ながら、ここまで守り、導いてくださった主に感謝しつつ、この教会がこの福音宣教の使命を担っていく教会となるように祈りたいと思います。