ローマ人への手紙2章1~16節「神のさばきに備えて」

投稿日: 2018/04/28 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「神のさばきに備えて」というタイトルでお話したいと思います。1章後半のところでパウロは、神を神としてあがめず、感謝もしない人々に対して、神の怒りが天から啓示されていると語りました。それは特に異邦人に対してでありましたがそれは異邦人だけでなく、神の選民であるユダヤ人に対しても同じです。きょうのところにはそのユダヤ人の罪に対する神のさばきについて述べられています。きょうはこのユダヤ人に対する神のさばきについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。第一のことは、神は正しくさばかれる方であるということです。第二のことはその理由です。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。第三のことは、ですから神のさばきの日に備え、悔い改めてイエス・キリストを信じ、神のみこころにかなった歩みをしましょうということです。

 Ⅰ.神は正しくさばかれる(1-5)

まず第一に、神は正しくさばかれる方であるということについて見ていきたいと思います。ここにはユダヤ人の罪に対する神のさばきが述べられています。それは他人をさばいてしまうことです。1~5節までのところに注目してください。まず1節です。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

 異邦人の場合は、自分が罪を犯しているだけでなく、罪を犯している人の姿をみてそれを行っている人に心から同意しているのですが、では選民ユダヤ人はどうかというと、そのように罪を犯している人をさばきながら、自分自身も同じこと(罪)を行っていました。いわゆる「善人意識」です。彼らは、自分は正しい者だと思い込み、他の人をさばいたのです。言い換えると、彼らはみことばを自分に適用するのではなく、他人に適用していたわけです。

 自分が正しいと思っている人は、罪の話をしてもなかなか心に響きません。自分には関係ないと思っているからです。1章に出てきた神の怒りと刑罰について聞いても目の色一つ変えないでしょう。なぜなら、そのみことばは罪人たちに語られたことばであって、自分に対してではないと思うからです。善人意識をもっている人の問題はここにあります。罪の話は全部他人のことだと思うので、有罪宣告をなさる神の前に膝をかがめることができないのです。ですから、そのような人の信仰生活には悔い改めがありません。その結果、信仰が実に淡々としたものとなってしまい、罪が赦されという感激がないのです。私たちの信仰が成長していくために必要なことは悔い改めです。罪の自覚と悔い改めがあるところに神の聖霊が臨み、信仰的に、人格的に成長していくことができるのですが、悔い改めがないと、なかなか成長していくことができません。

 よく説教をしていると、その語ったみことばに対して反応を示してくださる方がおられます。牧師として、語ったみことばに対してそのような反応があるというのはうれしいことです。語ってもうんともつんともないと、「あれっ、きょうの説教はあまり響かなかったかな」とか思って悩むこともあるのですが、後で何らかの反応があると、少なくともその人の心には届いていたんだと安心するのです。ところが、中にそのみことばを自分にではなく、他の人に適用される方がおられるんです。「先生、今日のお話はとても恵まれました。今日の説教は○○さんにぜひとも聞いてほしかったですね。来られなくて残念です。」と。この方にとってみことばは、自分に適用するものとしてではなく、他の人に適用するものとして聞いていたのです。このようなことは意外と多いのです。たとえば「妻は夫に従い、夫は妻を愛しなさい」と説教すると、それを自分に適用しないで、相手に適用してしまうのです。「ねえ、あなた聞いた?今日牧師さんが、夫は妻を愛しなさいと言ったでしょ。それなのにあなたは一体何よ」と食ってかかるのです。すると夫も夫で、「おまえこそ、妻は夫に従えとあっただろう。それなのに服従のかけらさえないじゃないか」と言い返すのです。神のみことばが夫婦喧嘩の火種になってしまうこともあるのです。それを自分にではなく他の人に適用してしまうからです。

 皆さん、みことばは他人に適用するものではなく、自分に向かうもの、自分を変えるものとならなければなりません。祝福とは何でしょうか。祝福とは、神のみことばを聞くとき、それによって自分の心に悔い改めの心が生じることです。心が刺されるという思いをすることなのです。ペンテコステの時、ペテロが説教を聞いた人たちは、どんな態度をしたでしょうか。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(使徒2:37)

 彼らは心を刺され、「兄弟たち、私たちはどうしたらいいのでしょうか」と言ったのです。それを他の人に適用するようなことはしませんでした。「そうだ。祭司長たちは悔い改めるべきだ」とか「これはパリサイ人たちに必要なことだ」とか、そのようには言わず、これを聞いて心を刺され、みことばの前に自分の罪を告白したのです。そのとき、ペテロもはっきりと言いました。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(同2:38)
それゆえに、彼らは悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われたのです。

 しかし、善人意識にとらわれている人は、それを他人に適用するので、他人をさばいてしまうのです。このような人は、自分自身のあやまちには寛大ですが、他人のあやまちに対しては敏感で、それを大きく見る傾向があります。自分の罪は見ないでいつも他人の罪ばかり見て、それを問題にするのです。イエス様はこのような人に対して、次のように言われました。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3~5)

 ルカの福音書18章には、祈るために宮に行ったパリサイ人と取税人の姿が出ています。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをささげました。
「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」(ルカ18:11)
一方、取税人はというと、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」(ルカ18:13)

どちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者が高くされるからです。パリサイ人は、自分の罪を見ないで他人の罪を見ました。ですから彼には恵みがなかったのです。一方の取税人は、自分の罪を持って神様の御前に出、その罪を嘆いて、神様の恵みにおすがりしました。ですから彼は罪の赦しと恵みを受けたのです。皆さん、最高の恵みは、すべてのみことばが自分に向けられているとように聞こえることなのです。そして、そのように信じることこそ祝福なのです。

 いったいユダヤ人はなぜそのように受け止めていたのでしょうか。それは自分たちの中に、神様によって特別に選ばれた者であるという特権意識があったからです。4節をご覧ください、

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

 彼らは、自分たちが神によって特別に選ばれた神の民なのだから、その慈愛と寛容と忍耐によって、自分たちは異邦人たちのようにはさばかれるようなことはないだろうと考えていました。しかし、それはとんでもない誤解でした。神は正しい方であって、そのさばきはそのようなことを行っている人々に必ず下るのです。もし神がそのさばきを控えておられるとしたら、それこそ慈愛と忍耐と寛容によるものであって、悔い改めの機会が与えられているからなのです。決して神のさばきから逃れられることではありません。神は正しくさばかれる方だからです。

 しかし、それはこのユダヤ人だけのことではありません。すでにイエス様を信じて神の子とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちは主イエス・キリストによって神の子とされ、神の特別の恵みを受けました。まさに慈愛と忍耐と寛容です。しかし、それは何をしても神様は許してくださるということではありません。彼らのように他人をさばいて自分も同じようなことをしているとしたら、そこには異邦人同様、神の怒りが下るのです。恵みによって救われた以上、どんな生活をしても構わないのだという考え方は、少なくとも聖書の中にはありません。聖書ははっきりと、わたしたちの行いに対してさばきがあるということを示しているのです。それは行いだけでなく、ことばと思いをも含めたすべての面においてです。であれば私たちは、自分たちは結構善い人間だという意識を捨て、神の前にさばかれてもしょうがないほど汚れた者であるということを認め、あの取税人のように、胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と言うような、へりくだった者でなければならないのです。

 Ⅱ.神にはえこひいきなどない(6-11)

第二のことはその理由です。なぜ神様はそのようにさばかれるのでしょうか。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。6~11節までですが、6節をご覧ください。ここには、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」とあります。ユダヤ人だからとか、ギリシャ人だからといった区別はありません。ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、どんな人であっても、神は、ひとりひとりに、その行いに従って報いをお与えになるのです。これはどういうことでしょうか。これは何回読んでも難解な聖句です。パウロはここで、救われるためには善いわざが必要だと言っているのではありません。もしそうだとしたら、信仰によって義と認められるという福音の中心的な真理が損なわれてしまうことになります。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。おそらく、ここでは信仰によって救われるとか、福音の恵みとか、そういうことを論じているのではなく、ひとりひとりの行いに従って報いがあるという一般的な原則が述べられているのです。つまり、

「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。」(7~10)

ということです。このような原則は、聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、マタイの福音書16章27節には、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」とありますし、Ⅱコリント5章10節にも、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。また、ガラテヤ6章7~9節にも、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。

 ですから、ここでパウロが言いたかったのは行いによって救われるということではなく、善を行えば、時期が来て、その刈り取りをするようになるという原則だったのです。パウロが信じていたことは人は行いによっては救われず、ただ神の義であるイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるということであり、福音のうちにこそその神の義が啓示されているということでした。ただ、終わりの日に受ける報いについては、ユダヤ人やギリシャ人といったことと関係なく、その人の行いに従って報いが与えられるということでした。それは神にはえこひいきがないからであり、その報いは、善を行うか、それとも悪を行うかによって決まるからです。

 Ⅲ.神のさばきの日に備えて(12-16)

ですから第三のことは、この神のさばきに備えましょうということです。とはいえ、何が善で、何が悪であるかということを、いったいどうやって知ることができるのでしょうか。ユダヤ人ならば律法が与えられていましたから、その律法によって善悪の判断を下すことができましたが、異邦人の場合はそういうわけにはいきません。彼らは神の律法など持っていないからです。では、異邦人が善を行うということはできないのでしょうか。いいえ、できます。14、15節には、

「―律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」

とあります。確かに異邦人は律法を持たない者ですが、しかし、律法の命じる行いができるのです。どうやって?良心によってです。異邦人はユダヤ人のように神の律法を持っていませんが、心の中の良心によって何が善であり、何が悪なのかといった判断ができるだけでなく、悪に対してはそれを退けようとする働きがあるのです。「良心が痛む」という表現がありますが、人間は紛れもなく道徳的な存在であり、神がその良心をとおして私たちの心の中であかししておられるのです。14節の「自分自身が自分に対する律法なのです」というのは、そういう意味です。しかし、罪深い人間の良心はゆがめられ、その判断力は必ずしも正しいものではありません。たとえば、殺人を犯せばだれでも良心が痛みますが、偶像礼拝に対してそうではないというのは、罪によって良心がゆがんでしまったからなのです。良心はある面で「神の声のエコー」ですが、人間の罪によってそれがはっきり聞こえなくなっているのです。とは言え、それでもこの良心によって異邦人にも律法の知識があるのは明らかですから、すべての人はその善を行うことができるのであって、その行いによってさばかれるのです。ですから結論は何かというと、16節です。

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」

 ここには神のさばきについてはっきりと言及されています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。それが明らかにされるのはいつかというと、終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているのです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、神の義にお頼りしながら、神に喜ばれる歩みを求めていかなければなりません。

 アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身の伝道者がいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やす(きもをひやす:驚き恐れてひやりとすること)ほどの悪人で、淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは一つもありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼が欲しいすべてのものを手に入れました。それにもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋には鍵を幾つもかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視せずにはいられませんでした。いつも絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも数え切れないほどありました。心の孤独と悲しみ、つらさに、来る日も来る日も身震いしながら暮らしていたそうです。平安がなかったのです。イザヤ書48章22節にあるように、まさに「悪者どもには平安がない」のです。

 数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が犯した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまいました。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったのは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」でした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼に安息はありませんでした。

 終わりの日に受けるであろう神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対する、明確な解決を持っていない人はみんな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きているのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

 皆さんは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられるでしょうか。キリストのところに来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何の恐れもないのです。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りをくだされるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるからです。



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