どうして、どうして、どうしてエレミヤ書12章1~6節

聖書箇所:エレミヤ書12章1~6節(エレミヤ書講解説教26回目)
タイトル:「どうして、どうして、どうして」

きょうは、エレミヤ書12章前半の箇所からお話します。説教題は、「どうして、どうして、どうして」です。すごい題ですね。でも、皆さん、いつもこのように叫んでいるんじゃないですか。「どうして、どうして、どうして」と。
 エレミヤのメッセージは、11章から第三のメッセージに入りました。その最後のところ、つまり、11:18には、主がエレミヤの暗殺計画について知らせてくださいました。何とエレミヤの出身地のアナトテの人たちが、彼を殺そうと企んでいたのです。彼は同胞の救いのために涙をもって神からのことばを語ってきたのに、故郷の人たちはそれを快く思わなかったばかりか、彼を殺そうと企んでいたのです。それを知ったエレミヤはどうしたでしょうか。

彼はそのさばきを主にゆだねました。11:20にあるように、主は正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試される方だからです。しかし、彼の心は晴れませんでした。いったいどうしてこのようなことになるのか、自分の中で悶々とする中で、主に祈るのです。それが今日の箇所です。

ですから、これはエレミヤの祈りですが、祈りというよりも嘆きです。1節には、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」とあります。主よ、どうしてですか。納得できません。おかしいじゃないですか、と叫んでいるのです。エレミヤの心情を知れば、そのように叫びたくなるのも理解できます。神様からのことばを真面目に伝えているのにそれを受け入れるどころか、かえってそれを語っている自分を殺そうとしているのですから。エレミヤのような偉大な預言者でも神様にぼやくことがあります。弱さのあまりついつい愚痴ってしまうことがあるのです。

それはエレミヤに限ったことではありません。私たちも同じです。私たちも自分が納得できないことがあると、このように叫ぶのではないでしょうか。「主よ、どうしてですか」。そのような時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにしてそれを解決することができるのでしょうか。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの訴え(1-2)

まず、エレミヤの訴えを見ましょう。1~2節です。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。2 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

ここでエレミヤは主に訴えています。彼ははまず、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」と言っています。彼は神が正しい方であることを認めています。だれが神の正しさを疑うことができるでしょうか。神様は全く聖なる方であり、義なる方です。ですから、どんなに神様と論じ合ったとしても、神様の方が正しいのは明らかです。それでも、彼はさばきについて神に聞きたかったのです。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかでいるのかということを。どこかで聞いたことがあるフレーズですね。「なぜ、悪者が栄えるのか」。

これは、古今東西、すべての人に共通している問いです。旧約の聖徒たちもこの問題と格闘しました。ヨブ記全体が、これらの疑問に答えるために書かれています。また、ダビデは詩篇37篇で、アサフは詩篇73篇で、このテーマと格闘しています。多くの聖徒たちがこの問題にぶち当たったのです。それは現代の私たちも例外ではありません。理不尽だと思うようなことがあると、「主よ、どうしてですか。なぜ、悪者が栄えるのですか」と叫びたくなります。これはすべての人に共通している疑問なのです。神が正しい方であるならば、どうして悪者が栄え、裏切り者が安らかでいるのか。どうして正しくさばいてくださらないのか。おかしいじゃないですか。納得いきません。そう思うのです。ましてそれが自分の身に振りかかる問題であれば黙ってなどいられません。どうして私が仕事を失わなければならないのですか。どうして病気にならなければならないのでしょう。どうしてこんなひどい目に合わなければならないのですか。どうして陰で噂され、除け者にされなければならないのですか。どうして自分ばかりこんな惨めな生活をしなければならないのですか。どうして、どうして、どうして・・・と。

ここでエレミヤが言っていることは、確かに神は正しい方であるというのはわかっています。それは間違いありません。でも現実はどうかというと、その正しさがなされていないのではないかということです。悪者が栄えています。それはおかしいんじゃないですか。神様が義なる方であられるならば、どうしてその義を実現なさらないのか。むしろ悪の方が栄えています。どうしてそういうことが許されるのでしょうか。これは私たちもぶち当たる疑問です。

2節をご覧ください。「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

「彼ら」とは、アナトテの人たちのことです。「あなたは彼らを植え」とは、神が彼らを植えられたということです。神が彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って、実を結ぶことができました。つまり、すべての出来事の背後には神がおられるということです。今この世に存在している悪でさえも神の御手の中にあり、神が支配しておられるということです。どんなにおぞましいことでも神が見ておられないこと、神が知らないことはありません。このように、エレミヤはこうした状況の背後に神の主権があることを認めているのです。

でも、その彼らは神に対してどうだったでしょうか。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」どういうことでしょうか。彼らは口先では神を敬っているようでも、その心は神から遠く離れていたということです。口先では神に祈り、賛美し、礼拝しているようでも、その心は神から遠く離れていました。彼らの信仰は見せかけだったのです。そんな彼らが栄えていいんですか。それはおかしいじゃないですか。どうしてあなたはそれを許されるのですか。これが、エレミヤが抱いていた疑問だったのです。

Ⅱ.エレミヤを試された主(3-4) 

それに対して主はどのようにお答えになられたでしょうか。3~4節をご覧ください。「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これはエレミヤの祈りです。まだ神は何も答えていません。しかし、エレミヤは自分の祈りの中で一つのヒントを得ました。それは、主がエレミヤの心を試しておられるのではないかということです。ここには、「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。」とあります。神様がこのようなことを許される一つの理由は、エレミヤ自身の心を試すためであったということです。事実、エレミヤの質問に対して神様は一言も答えていません。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかというエレミヤの疑問に対して、「それはね、これ、これ、こういう理由だからだよ」という答えは一切ありません。それはエレミヤだけでなく他の聖徒たちの問いに対しても同じです。たとえば、ヨブ記を見ても、ヨブの訴えに対して神様は何も答えていません。答えたところで、私たちのようなちっぽけな者には理解できないからです。

でも、神様がもっと関心をもっておられることがあります。何でしょうか。それは私たち自身です。あなた自身です。神様の関心は私たちの質問に対して答えることではなく、私たち自身にあるのです。神様は私たち自身に、私たちの心に、私たちの信仰に関心を持っておられるのです。このことを通して私たちはどうなって行くのか、この出来事、あの出来事をあなたがどのように受け止め、どのように応答し、どのように成長していくのかということに関心を持っておられるのです。神は私たちが疑問に思うことに全く関心がないとはいいませんが、それよりもむしろ、私たち自身に関心を持っておられるのです。これは大事なポイントです。神様の焦点はあなたがどのような状況にあるかとか、どのような問題に置かれているかということではなく、あなた自身にあるということです。あなたがそれをどのように受け止め、どのように変えられようとしているかということにあるのです。未熟な私たちにはそれがわからないので、自分が嫌なことや苦しいこと、理解できないことがあると、すぐに「主よ、これはどういうことですか」と説明を求めるのですが、しかし、それはこのことに気付いていないからです。

私には3人の娘がいますが、まだ2~3歳の頃、よく「お父さん、どうして?」と聞いてきました。

「遊んだら片付けるように」 「どうして?」

「食べる前には手を洗うこと」 「どうして」

「お友達には親切にすること」 「どうして?」

何かつけ「どうして?」と聞いてくるのです。最初のうちは「これはね、これこれこういうことだからだよ」と丁寧に答えていましたが、今度はその説明に対して「どうして」と聞いてくるのです。「なぜ」とか「どうして」という問いに答えることは、ある面で子供に何かを教えていくチャンスでもあり、その子の成長につながることですが、どんなに答えても完全に納得できるかというとそうではありません。どんなに答えても親が考えているすべてのことを理解することはできないのです。

最近、面白い話を聞きました。有限な人間と無限の神の例話です。人間は有限であり、無限の神様を理解できない事も多くあります。例えば象の爪しか見えない蟻が、象全体を理解するのは困難です。その象が住んでいる、ジャングル全体を理解しようとしても不可能です。

子どもが親の考えのすべてを知ることができないのも同じです。有限な人間が無限の神を理解することはできないのです。

ですから神は最低限必要なことは答えても、何でもかんでも答えることはしないのです。大切なのは私たち人間が納得できるかどうかということではなく、誰がそのように言っておられるのかということです。それが神様であるなら、私たちが納得できてもでなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様が主権者だからです。主権者であられる神に従うかどうかが重要であって、神様はそれを試しておられるのです。

3年前に召されましたが、アメリカにウォーレン・W・ワーズビー(Warren Wendel Wiersbe)という牧師がおられました。「喜びにあふれて」とか、「試練を勝利に」という本を書いて日本語にも翻訳されています。ワーズビー牧師は、アメリカの教会成長論で幅をきかせていた統計による数量的増加というものが一般的風潮の中にあって、教会の霊的働きは統計だけでは量れないということを指摘し、量は質を保証するものではない、とまで言い切った人です。簡単に言うと、教会が大きいから質がいいというわけではない、ということです。それは、ワーズビー牧師がそれだけ聖書の真理に忠実であり、その真理に正しく生かされてきた証拠ではないかと思いますが、そのワーズビー牧師が次のように言いました。

「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」

含蓄のある言葉ではないでしょうか。神のしもべ(クリスチャン)は説明によって生きるのではありません。約束によって生きるのです。「主よ、どうしてですか」といろいろ神様に尋ね、答えをいただいてから「あっ、そういうことだったら私は従います。」とか、「こういう理由だったら従いません。」というのは違うというのです。それは神のしもべの態度ではありません。神のしもべは、主人である神から言われたことに対して有無を言わさず、文句もつけず、疑問も抱かず、そのとおりにします。それがどういう意味であろうと、自分が納得できてもできなくても従うのです。それが神のしもべであるということです。神のしもべは説明によって生きるのではなく、約束によって生きるとはそういうことです。

いろいろな疑問があります。納得いかないこともあるでしょう。説明を求めてなかなか前に進めなくなってしまうこともあります。状況が呑み込めないこともある。どうしてこんなことになってしまったのか、なぜうまくいなかいのか、なぜこの人たちはこんなに私に敵対してくるのか、なぜこんなに悪が栄え、裏切りを働く者たちがみな安らかなのか、それがわからなくて、ついつい立ち止まってしまうこともあります。でも、前に進むことを止めてはなりません。

神のしもべは、成熟すればするほど次のように受け止めることができるようになります。すなわち、私のような者にはすべてを理解することはできないが、でも私は全知全能の神様に信頼している。そして神様の約束を信じて、そこに希望を置いている。だから納得できてもできなくても、好むと好まざると、神様が言われることは間違いないので、信じて従います。これが、神のしもべである私たちクリスチャンのあるべき態度なのです。

エレミヤは、自分の心が試されていることを知っていました。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを見て、どうして悪者が栄え、裏切る者が安らかなのか納得できませんでした。しかし彼は、これは主が与えておられる試験であることを知り、何とかそれに合格したいと、彼らに対するさばきを主にゆだねました。それが3節後半~4節にあることです。「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これは、彼らの不正を神が正してくださるようにといことです。それは4節にあるように、彼らの罪によって、約束の地が荒れ果てているからです。彼らの罪のために、そこに住むすべての畑が枯れています。そこに住む者たちの悪のために、家畜も取り去られています。このままでは土地は呪われて荒れ果ててしまうことになります。だから主よ、すみやかにさばきを下してください、主が復讐してください、と祈っているのです。自分の置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とぼやいていたエレミヤでしたが、問題はそうでなく自分自身にあるということに気付かされて、そのすべてをゆだねて祈ることができたのです。

Ⅲ.神の答え(5-6)

第三に、5~6節をご覧ください。「5 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」

これは、エレミヤの疑問に対する神の答えです。しかしよく見ると、全然答えになっていません。エレミヤは「主よ、どうしてですか」と尋ねているのに、主は、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」と答えているからです。どういうことでしょうか。主はエレミヤの疑問に対して、別の形で答えているのです。

この「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに」とは、エレミヤが今直面している困難のことを指しています。エレミヤは今、故郷アナトテという町にいました。彼らに憎まれ、(うと)まれ、まさに殺されそうになっていました。彼はただ神のことばを忠実に語っただけなのに、嫌われて、命までも狙われていたのです。しかも6節には、「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ」とあるように、自分の家族や親族からも裏切られていたのです。自分の愛する者たちのためにいのちを賭けて仕えているのに、その愛する者からも裏切られ、殺されそうになっていましました。それは本当に辛いことでした。それはまさに徒歩の者と競争して疲れていた者の姿でした。

しかし神は、そんなエレミヤにこう言われました。「どうして馬と走り競うことができるだろうか」。これはどういうことかというと、徒歩の人と競争して疲れているのに、どうやって馬と走って競争することができるのかということです。できません。徒歩の人と競争して疲れているのに、馬と競争できるはずがありません。この馬と競争するというのは、これから先に起こる困難のことを指しています。来るべきさらなる試練のことです。具体的にはバビロン捕囚という出来事のことです。エレミヤは今、試練の真只中にいました。故郷のアナトテの人たちから裏切られ、殺されそうになっていました。なぜこんなことが起こるのかどうしても納得いかないと、神に食ってかかっていたわけです。そんなエレミヤに対して主は、あなたは今、徒歩の者と競争して疲れているのに、どうやって馬と競争することができるのか、と言われたのです。つまり、確かに今辛いかもしれけれども、これから先もっと辛いこと起こるわけで、であったらどうやってそれに耐えられるのかというのです。神に向かって「どうしてですか」と愚痴る暇があったら、将来の苦難に備えて信仰を増し加えるべきではないかというのです。

5節のその後のことばも同じです。「平穏な地で安心して過ごしているのに」とは、今の状態のことです。確かにアナトテの人たちはエレミヤを裏切るようなひどい人たちかもしれないが、それはまだ序の口です。平安の地で安心に過ごしているにすぎません。しかし、これからヨルダンの密林で過ごすようになります。ヨルダンの密林とは、まさに人が住めないような危険なところを意味しています。アナトテよりよっぽどひどいところです。バビロンに連れて行かれることになります。こんな平穏な地で安心して過ごしているのに、どうやってヨルダンの密林で過ごすことができるか。できません。だったらそれに備えて、信仰を増してくださいと祈るべきではないかというのです。

全く答えになっていません。何の慰めにもなりません。それはエレミヤが期待していた答えではありませんでした。彼が期待していたのは「これこれ、こういうわけだから、今はこうだけど、やがてこうなるよ」といったちゃんとした答えというか、納得できるような答えでした。あるいは、「そうだよね。本当に辛いと思うよ。頑張ってね。」というような慰めのことばだったと思います。それなのに神から示された答えは全く意外なものでした。それは、エレミヤを叱咤激励するような厳しいものだったのです。「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

皆さん、どう思いますか。私はハッとさせられました。というのは、まさに今の自分はエレミヤのようだと思ったからです。以前のような体力がなくなりました。5年前にできたことができません。人の名前も思い出せなくなりました。自分に自信を無くしたというか、この先どうやってやっていけばいいんですかと、つぶやくようになりました。そんな時に与えられたのがこの御言葉でした。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

こんなことで音を上げていてどうするんですか。これから先もっと大変なことが起こるんだよ。今はまだ平安な地で過ごしているようなものじゃないですか。これからヨルダンの密林で過ごすようになります。だから今を感謝し、ますます主に信頼して、将来に備えていかなければなりません。まさに目から鱗でした。これからもっと大変な時代がやって来るのであれば、今は恵みの時であって、多少の衰えで悲観している場合ではないと思ったのです。そう思ったら俄然力が満ち溢れるようになりました。これが主の答えだったのです。

本当に主はすばらしい答えをもっておられます。それは、私たちの想像をはるかに超えた答えです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。納得できるまで従わないのではなく、納得できてもできなくても、すべてを支配し治めておられる主の主権を認め、そのことばに従わなければならないのです。まさにウォーレン・W・ワーズビーが言ったように、「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」。説明によってではなく、神のことば、神の約束によって生きなければなりません。

その究極の約束こそ、主が再臨されるということです。その時、主イエスを信じる者は墓からよみがえり、朽ちることのない栄光のからだをもって、主のみもとに引き上げられることになります。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これが神の僕である私たちクリスチャンにとっての究極の希望です。世の終わりが近づくと、戦争や戦争のうわさを聞くことになります。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると、イエス様は言われましたが、今まさにそのような時代を迎えてこいます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。イエス様が再臨されるその時、栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになります。これがクリスチャンの究極の希望なのです。ですから、Ⅰテサロニケ4:18にはこのように勧められているのです。

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)

それゆえ私たちは、この困難な時代を耐え抜いて、生き抜いて、希望をもって生きることができるのです

ですから、もう疲れたとか、もうだめだと言わないでください。もう終わりだと言わないでください。失業することもあるかもしれません。失恋することもあるかもしれない。病気になることもあるでしょう。愛する人を失うこともあるかもしれない。自分自身が死ぬこともあるかもしれません。でも、あきらめないでください。イエス様はこう言われました。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

人生に苦難はつきものです。「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われました。なぜなら、「わたしはすでに世に勝ったからです。」イエス様はすでに世に勝利されました。

もしあなたが神のしもべとして説明によって生きることを止め、約束によって生きることを始めるなら、すでに世に勝利された主イエスの恵みと力によって、この世の苦難を必ず乗り越えることができます。

「あなたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはありません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたは今、どのような試練の中にありますか。それがどのような試練であれ、神はあなたを耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えることができるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どうぞ、神の約束を信じてください。主よ、どうしてですかと、説明を求めることを止めて、神の約束によって生きることを始めるなら、神はあなたに必ずご自身を現わしてくださるのです。

実りの良い、緑のオリーブの木 エレミヤ書11章11~23節


聖書箇所:エレミヤ書11章11~23節(エレミヤ書講解説教25回目)
タイトル:「実りの良い、緑のオリーブの木」

きょうは、エレミヤ書11章後半の部分からお話します。タイトルは「実りの良い、緑のオリーブの木」です。16節のみことばから取りました。ここには「主かつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。」とあります。主はかつてイスラエルを、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれましたが、その木が焼かれて、枝が台無しになってしまいました。どうしてでしょうか。それは彼らが悪を行い、神の怒りを引き起こしたからです。

それは私たちにも言えることです。どんなに実りの良い、オリーブの木として植えられても、主の前に悪を行い、主の怒りを引き起こすようなことがあると、焼かれてしまうことになります。ですから、私たちは「あなたを植えた万軍の主」とあるように、主が私たちを植えてくださったという事実を忘れないで、へりくだって主のみこころを歩まなければなりません。

Ⅰ.聞かれない祈り(11-13)

 

まず11~13節をご覧ください。「11 それゆえ─主はこう言われる─見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。12 ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。13 『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

 

「それゆえ」とは、11章前半で語って来たことを受けてということです。10節には「イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った」とあります。それゆえ、主は彼らにわざわいを下すと宣告されました。それは「彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」ということです。彼らの祈りを聞かないということは7:16でもありましたが、ここでもう一度繰り返して告げられています。

これは本当に悲惨なことです。祈りが聞かれるというのは神の民の特権だからです。Ⅰヨハネ5:14にはこうあります。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

神は、私たちの祈りを聞いてくださるということ、これこそ、神に対する私たちの確信です。それなのに、その祈りが聞かれないとしたらどんなに悲しいことでしょうか。たとえ祈っても単なる独り言になってしまうのです。本当に悲しいことです。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。

 

「それゆえ」です。それは彼らが神の言うことを聞かなかったからです。神の言うことを聞かないのに自分のことは聞いてくれというのは虫のいい話です。もしあなたの子どもがあなたの言うことを散々無視して、何一つあなたの言うことを聞かないのに、「俺の言うことを聞け」と言ったらどうしょうか。「何言ってるんだ、お前!」となります。それと同じです。イザヤ59:1~2にこうあります。

「1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

神様の耳は、あなたのように遠くはありません。最近、耳が遠くなって、幸い嫌なことも聞かなくなって良かったという人もおられるかもしれませんが、しかし神様は、私たちのどんな小さなささやきにも、ちゃんと耳を傾けて聞いてくださいます。でも、もし私たちに罪があるなら、その罪が私たちと神との仕切りとなり、聞いてくださらないのです。昔であれば電話線が切れたような状態です。今でいうと、電波が届かないと言ったらいいでしょうか。どんなに最新のスマホを持っていても、電波が届かなければ何の役にも立ちません。その電波障害を引き起こす原因が罪です。その罪が神との仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのです。

ですから、神様は意地悪だなぁと思わないでください。これは裏を返せば、あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返るなら、あなたの祈りは聞かれるということなのですから。Wi-Fiが復旧して障害が無くなったら、またつながるようになります。

 

12節をご覧ください。「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。」

これは、少しわかりづらい訳です。原文では、この節の冒頭に「Then」という語があります。「それで」とか「そこで」です。「そこで、ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない。」第三版はこのように訳しています。
 つまり、ユダの町々とエルサレムの住民は自分たちの祈りが聞かれないので、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶということです。これは偶像礼拝のことです。困ったときの神頼みですね。でも、偶像に頼っても、これらはあなたを救ってはくれません。それは10:5にあったように「きゅうり畑のかかし」のようなもので、ものも言えず、歩くこともできず、だれかに運んでもらわなければ動くことができません。何の頼みにもならないのです。そんなものに頼ってどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。ただ失望するだけです。でも彼らは、天地を造られたまことの神、主に祈っても答えてもらえないと、今度は偶像にお願いしました。

 

私たちにもこういうところがあるのではないでしょうか。こっちがだめならあっち、あっちがだめならこっちと、自分の願望が叶えられるまで、あちらこちらと走り回ることが。こういうのを何というかというと、ご利益信仰と言います。教会に来て礼拝し一生懸命に祈っても、自分の願いが叶わないと、この世の神々にお願いするわけです。これは何も当時のイスラエル、ユダの町々とエルサレムの住民だけのことではありません。この日本にいる私たちにもあり得ることなのです。でも、そうした偶像に頼っても無駄です。それらはあなたを救うことはできないからです。まことの神を捨てて他に満たしを求めても、それはただ徒労に終わるだけです。あなたに罪がある限り何をしても解決にはなりません。真の解決は、あなたが罪を悔い改めて神に立ち返ることです。そのことを忘れないでください。

 

13節をご覧ください。「『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

彼らの神々は、彼らの町の数ほどありました。これがいつのことだったかを思い出してください。これは、ヨシヤ王の宗教改革後のことです。その時、ユダの町々のすべての偶像は排除されたはずなのです。それなのに、ヨシヤ王の死後、再び偶像が造られました。それは彼らの町の数ほどになっていたのです。元に戻ってしまいました。ということはどういうことかというと、彼らの信仰は本物ではなかったということです。ヨシヤ王の宗教改革も、民の内面を変えるまでには至りませんでした。民が神殿で行った宗教的儀式は、心のこもっていない、表面的なものにすぎなかったのです。

 

これは私たちも注意しなければなりません。よく「リバイバル」と叫ばれます。リバイバルとは何でしょうか。リバイバルとは、信仰復興のことです。信仰の原点に立ち返ろうとすることです。では、私たちの信仰の原点とは何でしょうか。それは十字架につけられたイエス・キリストです。この方と一つにされることなのです。それがなくて信仰復興はあり得ません。パウロはⅠコリント2:2でこう言っています。

「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」

これが私たちの信仰の原点です。十字架につけられたキリストこそ福音の核心であり、このキリストと一つに結び合わせられることが信仰の原点なのです。人生の問題であれ、信仰上の問題であれ、あるいは神学上の問題であれ、行き詰まったら、この原点に帰ってくることが大切です。私たちには、ここにしか帰るところはありません。ここが力の源であり、希望の拠り所なのです。これを見失ったらリバイバルも何もありません。当時のユダの町々とエルサレムの住民のように、心のこもっていない、形式的で、表面的な信仰になってしまいます。そうならないように、いつもみことばを通して私たちの信仰の原点である十字架のキリスト、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにしたいと思います。

 

Ⅱ.焼かれる緑のオリーブの木(14-17)

 

次に14~17節をご覧ください。14~15節をお読みします。「14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。15 『わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。聖なるいけにえの肉が、わざわいをあなたから過ぎ去らせるのか。そのときには喜び躍るがよい。」

 

これはすごいことばです。主は、イスラエルの民の祈りを聞かないというだけでなく、彼らのために祈ってはならないというのですから。主はエレミヤに、彼らのためにとりなしの祈りをしてはならないと言われました。それは彼らが神との契約を破棄したからです。

 

15節には、「わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。」とあります。何のために神殿に来たのかと問うているのです。彼らは、表面的には神殿にいけにえを携えて来ましたが、一方では、バアルやアシュタロテといった偶像も拝んでいました。ですから、ここでその動機が問われているのです。いったい何のために神殿に来たのか、そこで何をしているのか、何を企んでいるのかと。彼らの神殿で行う宗教的儀式というものは、彼らの心から出たものではなく、表面的なものにすぎませんでした。主はそれをご覧になられたのです。まさに、人はうわべを見るが、主は心を見られます。

 

16~17節をご覧ください。「主はかつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。17 あなたを植えた万軍の主が、あなたにわざわいを告げる。イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに犠牲を供え、わたしの怒りを引き起こしたからである。』」

 

「実りの良い、緑のオリーブの木」とは、イスラエルの民のことを指しています。ところが、この美しいオリーブの木が焼かれて、その枝が台無しになってしまいます。彼らを植えた万軍の主が、彼らにわざわいを告げられたからです。それは、彼らが悪を行い、主の怒りを引き起こしたからです。

 

オリーブの木が焼かれることについては、パウロがローマ人への手紙で語っている、「折られたオリーブの枝」を思い出させます。ちょっと開いてみましょう。ローマ11:17~21です。

「17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」

 

折られたオリーブの枝とは、イスラエルのことです。そのオリーブの枝が折られたのは、彼らが不信仰であったからですが、神様はそのことを通して何と野生のオリーブである異邦人が救われるように計画してくださいました。すなわち神は、不信仰によって折られたオリーブの枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、異邦人が救われるようにしてくださったのです。接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。たとえば、「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これは梨の木にりんごの木を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つりんごで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごなのです。そのように、不信仰なオリーブの枝であるイスラエルが折られ、その折られた枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、神は異邦人も神の民に加えてくださったのです。すごいですね。神様の救いのご計画は。神様は私たちが到底考えつかないような驚くべき方法によって、異邦人である私たちを救ってくださったのです。

 

にもかかわらず、「実りの良い、オリーブの木」が焼かれ、その枝は台無しになってしまいます。なぜでしょうか。ここに「あなたを植えた万軍の主」とあります。彼らは主によって植えられた者であるという事実を忘れてしまったからです。彼らは自分を植えてくださった主を忘れ、バアル礼拝をして、主の怒りを引き起こしてしまったのです。

 

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちがこのように救われて今日があるのは神が支えてくださったからなのに、あたかも自分の力でそうなったかのように誇ってしまうことがあるのです。そういうことがあるとしたら、このユダの民のように「実りの良い、緑のオリーブの木」が、折られてしまうこということを覚えなければなりません。すべては神の恵みなのです。自分の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょうか。私たちはそのことを忘れてしまうのです。この「支えられている」という事実を忘れてはなりません。私たちが神様に支えられているからこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満が消え去り、感謝が満ち溢れるようになるでしょう。

 

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(18-23)

 

最後に18~23節を見て終わります。「18 「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。それからあなたは、彼らのわざを私に見せてくださいました。19 私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して計略をめぐらしていたことを、私は知りませんでした。『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と。20 しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」21 それゆえ、主はアナトテの人々について、こう言われる。「彼らはあなたのいのちを狙い、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかって、あなたが死なないように』と言っている。22 それゆえ─万軍の主はこう言われる─見よ、わたしは彼らを罰する。若い男は剣で死に、彼らの息子、娘は飢えで死に、23 彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。」」

 

「主が私に知らせてくだったので」とか、「彼らのわざわいを私に見せてくださいました」とは、エレミヤに対する暗殺計画についてです。しかもそれを計画していたのは、エレミヤの出身地アナトテの人たちでした。最初エレミヤは、その計画に気付いていませんでした。「屠り場に引かれて行くおとなしい子羊」とは、間もなく殺されることも知らず、おとなしくしている子羊のことで、エレミヤのことを指しています。また、「木を実とともに滅ぼう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」とは、エレミヤとその働きを完全に破壊するという意味です。神はエレミヤにその暗殺計画を知らせくださったのです。

 

主の働きに携わっている人で、他の人からの批判や中傷を受けたことのない人はいないと思います。どんなに一生懸命にやっても、必ず批判やその類のことばはあるものです。私も理屈に合わないような批判を受けることがたまにありますが、しかし不思議なことに、その直後に、別の人から励ましの手紙やメールを受けることがよくあります。そんな時、神様は私たちの心を本当によくご存知であられるなぁと思わされます。

 

いったいエレミヤの出身地アナトテの人たちは、どうして彼を殺そうとしたのでしょうか。バイブルナビに、その理由が4つ挙げられています。

  • 経済的理由。彼の偶像礼拝に対する非難は、偶像を造る者たちの商売に損失を与えたから。
  • 宗教的理由。破滅と闇のメッセージは、人々を憂うつにさせ、罪悪感を起こさせた。
  • 政治的理由。彼は公に偽善的な政治を非難した。
  • 個人的理由。民は自分たちが間違っていると指摘されたので、彼を嫌った。

皆さんはどう思いますか。恐らく、この4つのすべての理由が絡んでいたのだと思いま

す。というのは、パウロも言っているように、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思う人は、必ず迫害に遭うからです(Ⅱテモテ3:12)。

 

問題は、そのような迫害があるとき、どうしたら良いかということです。20節に戻ってください。ここでエレミヤは何と言っていますか。彼はこう言っています。「しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」

これはエレミヤの祈りです。暗殺計画を知ったエレミヤは、神様に祈りました。彼には二つの選択肢がありました。逃げて隠れるか、それとも神様に拠り頼むかのどちらかです。彼は神に拠り頼むことを選択しました。それで神に祈ったのです。ここには、「あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。」とありますが、彼は、自分のために復讐を求めたのではありません。神の復讐がなされるように、つまり、神の義が守られるようにと祈ったのです。また、彼はすべてのさばきを神にゆだねました。復讐は、神のなさることだからです。

 

その結果、神はエレミヤの祈りに応えてくださいました。それは21~23節にあることですが、この計画に加わったアナトテの人々にわざわいを下すということです。23節には「残る者がいなくなる」とありますが、それはアナトテの人たちがすべて死ぬということではなく、この暗殺計画に加わった者たちが完全に滅び去るという意味です。

 

あなたは、不当に扱われたり、迫害を受けたりしたとき、どのように対処していますか。逃げて隠れますか、それとも、神様に拠り頼みますか。神に拠り頼み、神様に助けを求めますか。逃げて隠れることは本当の解決にはなりません。なぜなら、同じ問題がいつも起こるからです。本当の解決はすべてを主にゆだね、主に信頼することです。あなたも問題は違ってもエレミヤのように神への熱心のあまり反対勢力に直面することがあるかと思いますが、どんな問題に直面しても唯一の解決は主にゆだねることです。詩篇にこうあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主はすべてをご存知です。あなたのすべてを主にゆだねましょう。

この契約のことばを聞け エレミヤ書11章1~10節

聖書箇所:エレミヤ書11章1~10節(エレミヤ書講解説教24回目)
タイトル:「この契約のことばを聞け」

エレミヤ書11章に入ります。ここから、エレミヤの第三のメッセージが始まります。第一のメッセージは2~6章にありましたが、そこでは、神から離れたイスラエルに対して、神に立ち返れと語られました。第二のメッセージは7~10章にありますが、そこには、神のことばに従わないイスラエルに対する神のさばきが語られました。そしてこの11章から第三のメッセージが語られます。その中心が、この「契約のことばを聞け」ということです。

結論から申し上げますと、この契約のことばに完全に聞き従うことは無理です。これに従おうとすることは大切なことですが、完全に行うことができる人など一人もいないのです。ではどうすればいいのでしょうか。それがきょうのポイントです。この契約のことばが指し示していたものをしっかり見て、そこに歩むことです。それがイエス・キリストです。イエス様の十字架の贖いを受け、神の聖霊をいただいて、新しい契約に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。きょうはこのことについてみことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.この契約のことばを聞け(1-5)

 

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ。3 『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。5 それは、わたしがあなたがたの父祖たちに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことを、今日のとおり成就するためであった。』」私は答えた。「アーメン。主よ。」

 

再びエレミヤに主の言葉がありました。これがいつのことなのか学者によって見解が分かれます。恐らく、南ユダ王国のヨシヤ王が死んだ後のことではないかと思います。ヨシヤ王の時代、大祭司でヒルキヤという人が神殿で律法の書を発見すると(B.C621)、それがきっかけとなって宗教改革につながっていきました。しかし、それは長くは続かずB.C.609年にヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死んでしまうと、ユダの民は元の状態に逆戻りしてしまいました。その時に語られたのがこれです。「この契約のことばを聞け。これをエルサレムの住民に語れ。」(2)

 

この「この契約のことば」とは、かつて神がモーセを通してイスラエルの民と結ばれたあの契約のことば、シナイ契約のことです。それはイスラエルの民がエジプトを出てシナイ山までやって来た時、彼らと結ばれた契約です。ですから、4節に「これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。」とあるのです。その契約を結んだ舞台がシナイ山だったので、この契約を「シナイ契約」と言うのです。シナイ契約といっても、契約をしないということではありません。ちゃんと契約をしましたが、シナイ契約と言います。この契約については出エジプト記19:4~5のところに、前提として次のように言われています。

「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

もし彼らが主の声に聞き従い、この契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の宝の民となると約束されていました。つまり、この契約のことばを守るなら祝福されるということです。これがイスラエルの原点でした。ですから、ここで神がエレミヤを通して語っておられることは、この原点に立ち返りなさいということです。そうすれば、祝福されると。それは彼らの父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことが成就するためでした。その約束通り主は、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださいました。しかし、その地に住むことと、その地に住んで祝福を味わうこととは別のことです。もしイスラエルの民がその契約を守るなら祝福を味わうことができますが、そうでなければ、のろわれることになります。それが3節で言われていることです。「『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。」

これが、モーセを通して神がイスラエルに約束してくださったことばです。この契約のことばを聞く者は祝福されますが、そうでなければのろわれることになります。

 

しかし残念ながら今、ヨシヤ王が死に人々が再び偶像礼拝に走って行ったことで、主は「もうここまで」と言われたのです。契約のことばを聞かなかった彼らに、のろいがもたらされると宣告をしているのです。奇しくも、申命記28:63のことばが実現しようとしていました。そこにはこうあります。「あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。」(申命記28:63)
 それが今、実現しようとしていました。神の民であるユダヤ人が約束の地から引き抜かれて、彼らの知らない異邦人のところ、つまり、バビロンに捕え移されようとしていたのです。

 

それに対してエレミヤは何と答えていますか。5節後半のところで彼は、「アーメン。主よ。」と答えています。「アーメン」とは、「その通りです」という意味です。そうなりますように、まことにそうです、ということです。つまり、契約にはペナルティーが伴うということです。もし神のことばに聞き従うなら神の祝福を受けますが、そうでなければのろいを招くことになります。その主のことばに対してエレミヤは、「アーメン、主よ。」と答えたのです。

 

私の妻は、1979年にカリフォルニア州のガーディナという町にあるカルバリーバプテストという教会から日本に遣わされました。その教会の牧師はアール・キースターという人でしたが、世界宣教、特にアジアの宣教に非常に重荷を持っていました。それは教会を退職してからも同じで、退職後はカールソンという教育担当の牧師をしていた御夫妻とオーカーストという町に移り住み、そこでりんごを栽培しながら後身の指導に当たっておられました。ですから、私たちが行くといつも大歓迎してくれて、私たちの日本での働きについて関心をもって聞いてくれました。

そのオーカーストという町のすぐ近くにアメリカでも有名な「ヨセミテ国立公園」があります。そこは岩肌がとても美しい大自然です。これはそのヨセミテで、1999年10月22日に起こった悲劇です。

この日、プロのパラシューダー(パラシュートを使って地上に曲芸的に降りる人)であるジャン・デイビス夫人が、事故で亡くなりました。ベース・ジャンプという大変危険なスポーツがありますが、彼女は、そのスポーツを行っていたのです。

その日、5人のジャンパーが、960mの絶壁から下に飛び降りる予定でした。彼女は、その4番目でした。しかし、パラシュートが開かないまま20秒間落下し、そのまま岩盤に叩きつけられたのです。彼女の夫は、その様子をビデオに納めていました。他に、数名の記者も同行していました。彼らは、その惨劇に、自分の目を疑いました。

そこは、この危険なスポーツであるベース・ジャンプは禁止されていました。というのも、それまでに6人もの人がそのスポーツでいのちを落としていたからです。

その日集まった5人のジャンパーたちは、ヨセミテ国立公園でのベース・ジャンプが禁止されているのを知っていましたが、皮肉なことに、彼らはベース・ジャンプが危険なものではないことを証明するために、あえて飛んだのです。彼らは、このスポーツの危険性だけでなく、違法性までも知っていました。ジャン・デイビスは、いのちの代価を払ってその償いをしたのです。

 

それはイスラエルの民も同じです。彼らもこの契約のことばを聞かなければどうなるかということをちゃんと知っていました。にもかかわらず、彼らはそれに聞き従いませんでした。その結果、神ののろいを受けることになってしまったのです。それは、私たちにも言えることです。この契約のことばを聞くなら祝福されますが、そうでなければのろわれてしまうことになるのです。

 

あるテレビの番組で、最近の若者の文化について特集していました。そこでは、最近の若者は「約束の時間を守らない、借りた物を返さない」ことが特徴だと言っていました。つまり、「いいかげん」な文化であるというのです。このままでは日本の将来が思いやられると嘆いていました。約束を守るということは、住みやすい社会を作るための基本的なルールです。神様と私たちの関係も同じで、約束(契約)というルールで成り立っています。神はイスラエルの民と契約を結ばれました。それは彼らが幸せに生きるためであって、その契約を守るなら祝福されますが、そうでなければのろわれることになるのです。

 

Ⅱ.わたしの声を聞け(6-8)

 

それに対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。6~8節をご覧ください。「6 すると、主は私に言われた。「これらのことばのすべてを、ユダの町々と、エルサレムの通りで叫べ。『この契約のことばを聞いて、これを行え。7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。』」

 

「この契約のことばを聞け」ということが、何度も繰り返されています。「聞け」というのはただ聞くというだけでなく、聞き従うこと、聞いてそれを行うということです。聞いたらメモをしておこうではありません。聞いたら自分の感じたことをシェアしなさいということでもありません。聞いたら、それを実行しなさいということです。

 

7節をご覧ください。ここには、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。」とあります。新改訳聖書第三版では「しきりに戒めてきた」と訳しています。主は今日まで「わたしの声を聞け」と、しきりに、しばしば戒めてきました。2~3回ということではありません。しきりに、しばしば、です。何回も、何回も、忍耐をもって戒めてきたのです。なぜなら、やがて聞けなくなる時がやって来るからです。それがいつなのかはわかりません。しかし、その日は間違いなくやって来ます。このエレミヤの時代も、バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼそうとしていました。そうなったらもう聞けなくなってしまいます。私たちの時代でいえば、イエス様の再臨の時はそうでしょう。イエス様が再臨してからでは遅いのです。聞きたくても聞けなくなります。ですから、その前に聞かなければなりません。神様がこうやって戒めてくださるのは、本当に幸いなことなのです。ですから、「わたしの声を聞け」という主のことばをスルーしないでください。「いつかそのうちに」とか、「今のところはまだ」などと言わないでください。「今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)とあるように、主の御声を聞いていただきたいと思います。

 

いったいなぜ主は「わたしの声を聞け」と言われるのでしょうか。それはあなたを責めるためではありません。また、あなたを叱るためでもないのです。それは、あなたに信仰を与えたいからです。というのは、信仰は聞くことから始まるからです。ローマ10:17にこうあります。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

皆さん、信仰は聞くことから始まります。神はあなたに、イエス・キリストに対する信仰を与えたいのです。神が語られるとき、それは時として耳に痛いことばかもしれません。とても聞くに耐えられないと思うかもしれない。このエレミヤのことばもそうでした。当時のユダヤ人にとっては非常に厳しい言葉だったので、故郷アナトテの人たちは彼を殺そうとしたほどです。もう聞きたくないと思いました。でも、信仰は聞くことから始まります。どんな言葉であろうと、どんな内容であろうと、聖書のことばを聞くことを止めないでいただきたい。聞くことを止めてしまったら、あなたは信仰に立ち続けることができなくなってしまいます。でも聞き続けるなら、あなたはしっかりと立つことができます。ですから、主のことばを聞くことを止めないでください。ヤコブ1:21には、「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなければなりません。その御言葉が、あなたのたましいを救うことができるからです。あなたの考えがあなたを救うのではありません。神の御言葉があなたを救うのです。神の御言葉は完全だからです。詩篇19:7~10にこうあります。「7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ 主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで人の目を明るくする。9主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」

 

8節をご覧ください。「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」

しかし、イスラエルの民は聞かず、耳を傾けませんでした。そして、頑なな悪い心のままに歩みました。それゆえ、主はこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませました。臨ませたとは、実現させたということです。つまり、神のことばを聞かない者はのろわれるということばを実現させたということです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。約束の地から引き抜かれることになります。それは主が行うようにと命じられたのに、彼らが行わなかったからです。

 

Ⅲ.契約のことばを破ったイスラエル(9-10)

 

では、どうしたらいいのでしょうか。9~10節をご覧ください。「9 主は私に言われた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。10 彼らはわたしのことばを聞くことを拒んだ自分たちのかつての先祖の咎に戻り、彼ら自身もほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った。」

 

6~8節で言われたことが、ここでも繰り返されています。こうやって見ると、イスラエルの民はいつも罪を犯していることがわかります。でもこれはイスラエルの民だけのことだけでありません。私たちも同じなのです。私たちもいつも罪を犯しています。私たちはあからさまにバアルとかアシェラといった偶像を拝むことはしないかもしれませんが、テレビやネットなどの情報を信じてまことの神から心が離れてしまうことがあります。つまり、どの時代の人でも本質的にはみな罪人なのです。聖書に「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:11)と書いてある通りです。だれ一人として神の律法を守り行うことができる人などいないのです。であれば、この契約ことば、律法にいったいどんな意味があるというのでしょうか。

 

この問題について取り上げているのが、ガラテヤ人への手紙3章です。この中でパウロは次のように言っています。「10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10-13)

 

律法の行いによるならば、人はみなのろわれた者です。なぜなら、義人はいない、一人もいないのですから。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないのです。しかし、信仰によるのであれば別です。信仰によるなら義と認めていただくことができます。「義人は信仰によって生きる」とあるからです。そのために、キリストはご自分がのろわれた者となって、十字架にかかって死んでくださいました。それは、罪のために神ののろいを受けて死ななければならない私たちの代わりとなって、私たちを律法ののろいから贖い出すためでした。木にかけられる者はのろわれた者なのです。律法を行うことができなくてのろわれた者となった姿こそ、この木にかけられた者の姿なのです。これが私たちの本来の姿です。しかし、律法をすべて行うことができる方、全く罪のない完全な神の御子イエス・キリストが代わりにのろいを受けてくださることによって、この方を信じる者を義と認めてくださったのです。

 

これが、永遠の神の救いのご計画でした。これが「新しい契約」と呼ばれているものです。新しい契約があるということは古い契約もあるということですが、その古い契約こそ、このシナ契約です。つまり、このシナイ契約が指し示していたもの、シナイ契約の先にあったのもの、それがこの新しい契約だったのです。それは新約聖書で明らかにされたのではなく、このエレミヤの時代にすでに啓示されていました。たとえば、エレミヤ31:31~33にこうあります。「31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい時代に、主がイスラエルと結ばれる新しい契約は、エジプトの地から導き出された日に、彼らと結んだような古い契約とは違います。それは、彼らの心に書き記される律法です。それは行いによるのではなく、神の真実に基づくものであって、イエス・キリストが流された血によって結ばれる契約なのです。イエス様がこのように言われました。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:20)

 

したがって、ここでは私たちクリスチャンにとって非常に重要なことが教えているのです。それは、人は律法の行いによっては救われないということです。「この契約のことばを聞け」とか、「わたしの声を聞け」とありますが、残念ながら私たちは聞き従うことができないのです。律法を守り行おうとすることは大切なことですが、その律法によってはだれも罪から救われないということです。結果、神ののろいを受けるしかありません。

 

では、この契約のことばにいったいどんな意味があるというのでしょうか。何のために律法が与えられたのでしょうか。それは、私たちが罪人であることを示すためです。そして、その罪から救われたいという願いを起こすためです。律法があるからこそ、私たちは神の前にどのような者であるかがわかります。律法は、いわば私たちの姿を写し出す鏡なのです。それがなかったら、義人はいない、一人もいないと言われても、ピンとこないでしょう。 「いや、私はそんなに悪い人間ではありません」とか、「隣の人を見てください。その人の方がよっぽど悪い人ですよ」となります。

 

でも、この律法の前に置かれたらどうでしょうか。神様の前に顔向けできなくなります。目も合わせることもできません。違反が示されるからです。律法が与えられた目的はここにあります。ガラテヤ3:22にこうあります。「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。」つまり、律法は私たちを罪の下に閉じ込めてしまうのです。ですから、律法によっては救われないことは明らかです。律法によるなら、のろわれるしかありません。だからこそ神は、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。それは、私たちが律法を行うことによってではなく、信仰によって義と認められるためです。律法の行いによっては永遠にのろわれて当然な者なのに、神は救い主を私たちのところへ送り、この救い主を信じる信仰によって救おうとしてくださいました。永遠ののろいから、永遠の祝福へと移してくださったのです。ですから、主イエスを信じるならだれでも救われるのです。

 

大切なのは、何を信じるのか、だれを信じるのかということです。今、あなたが信じているものは何でしょうか。それは大丈夫ですか。それはあなたを救うことができるでしょうか。あなたが愛して止まないもの、あなたが頼りにしているものは、あなたを裏切らないでしょうか。ほんとうに困ったとき、あなたを助けてくれるでしょうか。あなたに永遠のいのちを与えてくれるでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。

 

しかし、イエス様を信じる者は、だれでも救われます。何かをしなければならないということではありません。ただ信じるだけでいいのです。イエス・キリストを信じる者はみな救われます。律法によってはのろわれた者でしかない私たちを、神は救ってくださいました。十字架の贖いによって。この神の救い、イエス様の十字架の贖いを受け、神が与えてくださる聖霊の力によって、神のみことばに従う者とさせていただきましょう。自分の力、肉の力では限界があります。神が与えてくださる聖霊の力こそ、私たちが神のみことばに従う秘訣なのです。それは神の救い、イエス・キリストの贖いを受けることから始まります。この契約ことばは、イエス・キリストによって結ばれる新しい契約を指示していたのです。

あなたの道を主にゆだねよ エレミヤ書10章17~25節


聖書箇所:エレミヤ書10章17~25節(エレミヤ書講解説教23回目)
タイトル:「あなたの道を主にゆだねよ」

きょうは、エレミヤ書10章後半から、「あなたの道を主にゆだねよ」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは23節から取りました。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」
 ここには、人にはその歩む道を確かにする力はないと言われています。ではどこにその力があるのでしょうか。勿論、それは主なる神様です。ここにはそれが省略されていますが、言わんとしていることは明らかです。箴言にはこのことがもっとはっきりと言われています。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)
 であれば、私たちは自分の道をすべて主にゆだねなければなりません。そうすれば、主が成し遂げてくださいます。それは必ずしも平坦な道ではないかもしれません。しかし、それが主が定めておられる道ならば、主が確かなものにしてくださいます。
 きょうは、そのことを悟れなかったユダと、それを悟った預言者エレミヤの姿を対比しながらお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの嘆き(17-21)

 

まず17~21節までをご覧ください。17節と18節をお読みします。「17 包囲されている女よ、あなたの荷物を地から取り集めよ。18 まことに主はこう言われる。「見よ。わたしはこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめる。彼らが思い知るためだ。」」

 

「包囲されている女」とは、エルサレムの住民のことです。そのエルサレムの住民に対して主は、「あなたの荷物を地から取り集めよ」と命じています。なぜでしょうか。なぜなら、これから旅に出ることになるからです。それは温泉旅行のような優雅な旅ではなく、バビロンまで捕虜として歩いていかなければならないという過酷な長旅です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされてしまうからです。でも彼らは信じられませんでした。まさかそんなはずはないと。今はアッシリヤ帝国がオリエント世界を支配しているではないか。どうやってバビロンなどという新興国がアッシリヤを倒して、南ユダを滅ぼすことができるというのか。そんなことあり得ない。しかも、ここには主の宮がある。契約の箱もあれば、主の律法もある。大祭司もいれば、レビ人たちもいる。そんな我々を、どうやって滅ぼすことができるというのか。そんなことは絶対にあり得ないと、高をくくっていたのです。しかしそれは彼らの単なる思い込みにすぎませんでした。18節にあるように、主はこの国の住民を今度こそ放り出して苦しめます。「今度こそ」というのは、今までもそうだったが、ということです。今までもユダとエルサレムは敵の侵略を受け、荒らされ、科料を取り立てられることがありましたが、今度はそれだけではないということです。今度は、放り出されて苦しむことになります。これは勿論、捕囚の民としてバビロンに連行されることを示しています。力ずくで町から追い出され、捕虜として連れ去られることになるのです。

 

それを知ったエレミヤはどうなったでしょうか。19~20節をご覧ください。「ああ、私は悲しい。この傷のために。この打ち傷は癒やしがたい。しかし、私は言った。「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」20 私の天幕は荒らされ、そのすべての綱は断たれ、私の子らも私から去って、もういない。もう私の天幕を張る者はなく、その幕を広げる者もいない。」

エレミヤは、深い悲しみに打ちひしがれました。それは天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られ、神の民が捕囚の民として連れて行かれることになるからです。天幕が荒らされ、そのすべての綱が断ち切られるというのは、約束の地が踏みにじられるという意味です。エレミヤは、エルサレムがそのような状態になることを聞いて、嘆いているのです。それは癒しがたい傷だと。

 

ここで注目していただきたいのは、エレミヤがそれを自分のこととして受け止めていることです。たとえば、19節で彼は、「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ。」と言っています。また20節でも「私の天幕は荒らされ」とか「私の子らも私から去って、もういない」と言っています。彼らの天幕が荒らされるとか、彼らの子らが彼らから去ってというのではなく、自分の天幕が荒らされ、自分の天幕の綱が断ち切られ、自分の子らが取り去られるといっているのです。エレミヤは、ユダの滅びを完全に自分のものとして受け止めていました。

いったいなぜ彼はここまで彼らと一体となっていたのでしょうか。それは前にもお話したように、同胞であるユダの民をこよなく愛していたからです。自分はここから離れたいと思っても、決して離れることができない愛の絆で結ばれていたのです。

 

そしてそれは、神の私たちに対する愛と同じです。神は罪に苦しむ私たちを見て、癒しがたい傷をご覧になり、こう言ってくださいます。「まことに、これこそが私が負わなければならない病だ。」と。そしてその通りに主は、私たちの罪の病を負ってくださいました。それが私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちが負わなければならない病をその身に負ってくださいました。それが十字架です。そのことが、キリストが生まれる700年も前に、預言者イザヤによって預言されていました。イザヤ書53章は、メシヤ預言として、来るべきメシヤがどのような方なのかを、イザヤが預言した箇所ですが、その中に次のようにあります。

「4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4-6)

私たちの主イエスは、悲しみの人で、私たちの病を負ってくださいました。その打ち傷によって私たちは癒されたのです。本来、私たちが受けるべき罪の刑罰を、キリストが代わりに負ってくださったので、その打ち傷によって私たちは癒されたのです。感動ですね。

 

クリスチャンのシンガーソングライターに岩渕まことさんという方がおられますが、岩渕さんがクリスチャンとなって7年目に、愛する8歳の娘さんを天に送られました。その経験を通して、父なる神さまの苦しみを改めて感じられたそうです。わが子イエスを十字架につける神さまの苦しみは、どれだけ深かったことでしょう。しかしその十字架は、私たち人間に対する神さまの愛の証しでした。それを歌った詩があります。それが「父の涙」という詩です。

心にせまる父の悲しみ
愛するひとり子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう
愛を知らずに今日も過ぎて行く
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

父が静かにみつめていたのは
愛するひとり子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い
父よかれらを赦してほしいと
十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛

十字架からあふれ流れる泉
それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉
それはイエスの愛
(作詞・作曲 岩渕まこと、アルバム『HEAVENLY』より)

 

恐らく、岩渕さんは娘さんが病気になって苦しんでいるのを見て、できれば代わってやりたいと思ったことでしょう。代わりに自分が病気になれたらと。願っても叶わない歯がゆさを覚えたに違いありません。でも神はそれをしてくださいました。死にかけている子たちのために、死にかけている神の子たちをあわれんで、代わりに病を負ってくださったのです。あなたを生かすために。すばらしい神さまです。

 

プロのナレーターに中村啓子さんという方がおられます。「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません・・・」とか、「留守番電話サービスセンターへおつなぎします。」など、携帯電話を利用していると、毎日耳にする声ですが、それが中村啓子さんの声です。その中村さんから、一年ほど前にメールをいただきました。中村さんは、46歳でイエス様を信じて、洗礼を受けると、これまでの経験を生かして主に仕えたいと願うようになり、聖書朗読のネット配信を始めたのです。新約を全て読み終え、旧約を朗読しておられましたが、その朗読のために聖書の意味を理解するために、私がホームページにアップしているつたないメッセージを参考に学ばれたそうです。イザヤ書を朗読しておられました。そして、兼ねてから、53章をアップ出来た時に感謝を伝えたいと思っておられたそうですが、その時が訪れたのでとメールをくださったのです。それは「しあわせのありか」という番組に録音されていますが、聞いていて鳥肌が立ったというか、心が震えました。イエス・キリストの十字架の御苦しみと圧倒的な神の恵みが心に迫ってきました。

 

これこそわたしが負わなければならない病だと、キリストがその病を負ってくださいました。その打ち傷のゆえに、私たちは癒されたのです。何という恵みでしょうか。これが神の愛です。神さまはあなたを愛し、あなたのために涙を流して祈っておられるのです。そして、そのために愛するひとり子を与えてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ほんとうに偉大な神の愛です。この神の愛に、あなたはどのように応答されますか。

 

21節をご覧ください。ここには「牧者たちは愚かで、主を求めなかった。それゆえ、彼らは栄えず、彼らが飼うものはみな散らされる。」とあります。

いったいなぜこんなことになってしまったのでしょうか。それはユダの牧者たちが愚かで、主を求めなかったからです。この「牧者たち」とは、南ユダの政治的、軍事的、霊的指導者たちのことです。彼らは愚かにも主を求めませんでした。それゆえ、彼らは栄えず、みな散らされることになってしまったのです。

 

どのリーダーに従うかで、皆さんの運命が決まります。ですから、リーダーの責任は重いのです。特に牧師の責任は重いと言えるでしょう。なぜなら、牧者たちは、羊の群れのたましいの責任を負っているからです。バビロン捕囚の道連れにされてしまうかもしれません。ですから多くの人が教師になってはならないと、ヤコブ3:1にあるのです。格別、厳しいさばきを受けることになるからです。しかし、それは同時にすばらしい働きを求めることでもあるともⅠテモテ3:1にあります。ですから、霊的指導者、たましいの牧者は、その責任の重さをしっかりと理解し、主を求め、主の御声を正しく受け止めなければなりません。

 

Ⅱ.エレミヤの悟り(22-23)

 

次に22~23節をご覧ください。「22 声がする。見よ、一つの知らせが届いた。大いなるざわめきが北の地から来る。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするために。23 主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

 

ここでエレミヤは、一つの声を聞きます。第三版では「うわさ」と訳しています。どんな声を聞くのでしょうか。それは、大いなるざわめきが北から来るという声です。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするためにです。

それに対してエレミヤは何と言っていますか。23節、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

どういうことでしょうか。エレミヤは、ユダの滅びを前にして、自分の道を主にゆだねているのです。エレミヤは知っていました。人には、歩むべき道を決定することも、その歩みを確かなものにする力もないということを。その人の歩みを確かなものにするのはたせれでしょうか。そうです、主です。主によってのみ、人の道は確かなものとなるのです。

箴言16:9にはこうあります。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(新改訳改訂第3版)

また詩篇37:23~24にはこうあります。「23 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」

すばらしい約束です。人は、神によって定められた道を歩むとき、神がその人を支えてくださいます。たとえ倒れることがあってもまっさかさまに倒れることはありません。主が支えておられるからです。だから皆さん安心してください。

 

あなたはどのようにはどうでしょうか。主がすべてを支配していると認め、主にすべてをゆだねておられるでしょうか。それとも、まだ自分の悟りに頼っているでしょうか。詩篇37:5に「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とあります。また、箴言3:5-6には「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)とあります。

 

ある人が、主に示された進路に進もうとした時に、未信者の親族たちから猛反対されました。代わるがわる説得され、何やかやと言われる。しかしこの事は主の御心だと思え、祈りに祈っていました。しかしなかなか道が開かれず、なおも祈り続けていました。 

でも周囲からの反対は変わらず、こんなに祈っているのに、どうして道が開かれないのか。しかし更に祈り続けました。するとその祈りの中で、心が探られ内側が照らされました。確かにそれは主の御心ではあるのだが、周囲の余りの反対に、反発心が起きて、心の中では反抗的になり、意地になっている自分に気づかされたのです。

心が頑なになっていて、何としてでも、自分の意志と力で突き進もうとしていました。主の栄光などではなく、自我そのものであったのです。心から悔い改めて、今一度主に自分自身を明け渡しました。真に主の御心が成りますようにと祈ると、心に平安が与えられました。

そして、すべてを主に委ねて祈っていると、時満ちて、門が開かれたのです。時と共に周囲も認めてくれて、御心の道へと進む事ができました。とにかく祈りに持って行くなら、間違った動機も、態度も教えられます。そして祈りも軌道修正されながら、御心へと導かれていくのです。

 

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主を認め、主に拠り頼む人は、何と幸いでしょうか。主がその人の道をまっすぐにしてくださいます。自分の悟りではなく、主に拠り頼みましょう。主によって定められている道を、歩もうではありませんか。

 

Ⅲ.エレミヤの祈り(24-25)

 

最後に24~25節をご覧ください。「24主よ、私を懲らしめてください。御怒りによらないで、ただ、公正をもって。そうでなければ、私は無に帰してしまいます。25 あなたを知らない国々の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。」

 

これはエレミヤの祈りです。人は神の恵みと助けがなければ一歩も動けないことを悟ったエレミヤは、民のために泣きながら祈ります。御怒りによるのではなく、ただ、公正をもって懲らしめてくださいと。これはどういうことかというと、神のさばきがイスラエルの民が滅亡するような厳しいさばきではなく、立ち上がることができる程度の懲らしめであるようにということです。また、25節には、イスラエルの民を攻撃する敵、これはバビロンのことですが、そのバビロンの上に神の憤りを注いでくださいと祈っています。彼らはヤコブを食らい、これを食らって滅ぼし、その牧場を荒らしたからです。これはどういうことかというと、バビロンはやりすぎたということです。彼らはユダの民を懲らしめるための単なる神の道具にすぎなかったので、ヤコブを食らって滅ぼそうとしました。それはやりすぎだと、エレミヤは訴えているのです。だから彼らの上に神さまの憤りを注いで、彼らを滅ぼしてくださいと祈っているのです。それはひいてはユダの救いにつながることになりますから。直接的には、ユダの救いのために祈っていませんが、敵の滅びを祈ることで、間接的にというか、遠回しにユダの救いを祈っているのです。

 

それにしても不思議です。というのは、私たちは先に7:16を見ましたが、そこには「この民のために祈ってはならない。」とあったからです。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。とりなしてはならないとありました。それなのにエレミヤはここで民のためにとりなしています。これはどういうことでしょうか。

しかし、よく見ると、エレミヤは民のためにではなく、自分ために祈っていることがわかります。たとえば、24節には「主よ、私を懲らしめないでください。」と祈っています。「そうでなければ、私は無に帰してしまいます」と。これはどういうことかというと、ユダの民の代表としての「私」です。ですから直接的にはユダの民のためには祈っていませんが、その民の代表としての「私」のために祈ることによって、結局のところ、民のために祈っているわけです。ここにエレミヤの知恵があります。そんなの屁理屈だという人もおられるかもしれませんが、神から与えられたエレミヤの知恵なのです。なぜなら、神ご自身もそのように願っておられたからです。神さまは、ご自身の民を冷たく突き放す方ではありません。事実、神は御子イエス・キリストを与えてくださいました。それほど愛しておられるのです。結局、神さまはあなたのために祈っておられるのです。あなたを助けたいのです。あなたを滅びから救いたのです。私たちの神さまはそういうお方なのです。ここまで願ってくださるのが私たちの神さまなのです。ここまで考えてくださるのが私たちの神さまなのです。すごいですね。ほんとうに恵みの神です。

 

これほどまでの愛のメッセージを聞かされて、ユダの民はさぞ感動したのではないかと思いますが、どうだったでしょうか。26:8~11をご覧ください。ここに、彼らの反応がはっきり書かれてあります。開いてみてみましょう。「8 主が民全体に語れと命じたことをみな、エレミヤが語り終えたとき、祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえて言った。「あなたは必ず死ななければならない。9 なぜ、この宮がシロのようになり、この都がだれも住む者のいない廃墟となると、主の名によって預言したのか。」そこで、民全体は主の宮のエレミヤのところに集まった。10 これらのことを聞いてユダの首長たちは、王の宮殿から主の宮に上り、主の宮の新しい門の入り口で座に着いた。11 祭司たちと預言者たちは、首長たちと民全体に次のように言った。「この者は死刑に当たる。彼がこの都に対して、あなたがたが自分の耳で聞いたとおりの預言をしたからだ。」」
 主が語れと命じられたことをエレミヤがすべて語り終えると、何と祭司と預言者とすべての民は彼を捕らえ、死刑を宣告するのです。驚きですね。でも神さまが特別にエレミヤを守ってくださったので、死から逃れることができましたが。これほどすばらしいメッセージを聞いてもそれを拒絶されるだけでなく、迫害されることもあるのです。神さまを信じて、神さまの道に歩もうとする時、それを快く思ってくれない人がいるわけです。もしかすると、それはあなたのごく親しい人かもしれません。あなたの夫とか、妻とか、息子、娘かもしれない。必ずしも、みながこの救いのメッセージを受け入れるとは限らないのです。

 

9月10日、11日と、保守バプテスト同盟のチームが、福島県西会津町の教会未設置町に宣教に行った時の報告書を見ました。そこは、かつてイギリス人の婦人宣教師のパルマー先生が、47歳で召を受け、会津若松で10年間仕えたのち、移り住んだ町です。80歳で帰国するまで22年間一度も帰国せずに開拓伝道に取り組みました。私も毎年夏、近くの金山町にある沼沢湖に家族でキャンプに行ったとき、日曜日の礼拝に何度か行ったことがありますが、そこには1人の兄弟とまだ洗礼を受けていない2~3名の婦人たちが集まっていました。22年間の伝道で救われた人がたった1人です。80歳を過ぎてパルマー先生は帰国しなければならなくなったとき、恵泉キリスト教会の会津チャペルがその働きを引き継ぎました。

バルマー先生によって22年間の種まきがなされてきたこともあって、刈り入れるばかりになっていると信じて、9月10日と11日の2日間、21名の兄姉が数名のチームに分かれて訪問伝道を繰り広げたのです。

その結果、あるチームは40軒以上訪問して、ほぼ全て断られました。結局、167軒を訪問して、返事なしが60件、拒否57件、ただの受け入れ10件、祈りの受け入れ8件、キリストを受け入れると表明したのはたった1人だったそうです。たった1人でも、そこにキリストの福音を聞き、受け入れるという人がいたことはすばらしいことですが、これがこの世の現実なのです。

 

こんなにすばらしい救いなのに、こんなにすばらしい神さまなのに、受け入れるのはごくわずかなのです。それは決して平坦な道のりではありません。でもそれがどんなに茨の道でも、主はエレミヤにこう約束してくださいました。「18 見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。19 彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救い出すからだ。」」(エレミヤ1:18-19)

どんなに人々があなたを拒み、あなたを憎み、あなたを弾圧することがあっても、がっかりしないでください。主はあなたとともにいて、あなたを助け出してくださいますから。あなたが一人ぼっちになっても、主はあなたを見捨てることはなさいません。あなたとともにいて、あなたを守ってくださいます。あなたを助け、あなたを強くしてくださるのです。あなたに求められているのは、彼らを恐れないで、主が語れと言われたことを語ることです。あなたは、神によって定められている道を歩まなければなりません。自分の悟りに頼ってはなりません。人の道はその人によるのではなく、その歩みを確かにするのは、主ご自身であられるからです。その主の道を歩もうではありませんか。主があなたに求めておられるのは、主を求め、主の道に歩むことです。どれだけ立派なことをしたかということではなく、あなたが主に忠実であったかどうか、誠実であり続けたかどうが問われているのです。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。この約束を握りしめながら、すべてを主にゆだね、主が示される道を歩もうではありませんか。

偶像か、まことの神か エレミヤ書10章1~16節

聖書箇所:エレミヤ書10章1~16節(エレミヤ書講解説教22回目)
タイトル:「偶像か、まことの神か」

エレミヤ書10章に入ります。きょうのメッセージのタイトルは、「偶像か、まことの神か」です。エレミヤはここで、偶像とまことの神を対比しながら、まことの神を信じるようにと勧めています。最初の比較は、1~7節までにあります。第二の比較は、8~10節まで、第三の比較は、11~13節まで、そして第四の比較は、14~16節までに見られます。この中でエレミヤは偶像とまことの神について交互に語るわけです。エレミヤがこのように語るのは、人は何を信じるかによってその生き方が決まるからです。偶像を信じ、偶像に信頼すれば、偶像と同じように空しい生き方となります。しかし、まことの神を信じて生きるなら、その神の恵みと祝福を受けることになります。ですから、私たちは偶像か、それともまことの神を信じるかを選択しなければならないのです。

 

Ⅰ.諸国の道を見習うな(1-7)

 

早速、本文を見ていきましょう。まず、1~2節をご覧ください。「1 イスラエルの家よ、主があなたがたに語られたことばを聞け。2 「主はこう言われる。諸国の道を見習うな。天のしるしにうろたえるな。諸国がそれらにうろたえても。」

 

「諸国の道」と訳された言葉は、第三版と口語訳では「異邦人の道」、新共同訳では「異国の道」と訳しています。これは生き方や考え方、ライフスタイルのことで、具体的には異国の宗教のことを指しています。彼らは「天のしるしに」うろたえていました。これは、天に現れるさまざまな現象のことです。天の星を見た異邦人は、そういう現象があると、自分たちに何か影響を及ぼすのではないかと恐れていました。そうした天のしるしをはじめ、その土地の偶像礼拝など、あらゆる迷信的な世界観にとらわれていたのです。そうした異国の宗教に見習うな、天のしるしにうろたえるなと言うのです。

 

なぜでしょうか。3~5節をご覧ください。ここにその理由が語られています。「3 国々の民の慣わしは空しいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで作った物にすぎない。4 それは銀と金で飾られ、釘や槌で、ぐらつかないよう打ち付けられる。5 それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」

 

それは、異国の民の習わしは空しいからです。それは森から切り出された木にすぎません。木工が、なたで刻んで作った物でしかないのです。それは銀と金で飾られ、釘と金槌で、ぐらつかないように打ち付けられたものです。それは、きゅうり畑のかかしのようです。おもしろいですね、きゅうりの畑のかかしのようであると言われています。それはどういうことかというと、中身が無いということです。皆さんも「かかし」をよく見かけると思います。田んぼとか畑の中に立っています。あれは作物を荒らす烏などの害獣を追い払うための仕掛けですが、竹やわらなどで作った人形を立てておくわけです。それはただの木でしかありません。竹とかわらでしかありません。偶像は見た目では立派でも、中身はかかしと同じなのです。

 

この近くには、幸福の科学の総本山があります。「幸福の科学那須精舎」と言います。皆さん、行ったことありますか?ないですよね、私もありません。行ったこともなければ、行きたいとも思いませんが、大田原の家を建ててくれた工務店の方が、この那須精舎の建築に関わったようで、教会の修繕に来る時によく話をされるのです。「あの幸福の科学の建物はすごいぞい。金ピカだ!たまげたよ」なんて。私の前で言うのです。いかにも教会はみすぼらしいということを言っているかのように聞こえます。まあ、一般の人にはわかりません。一般の人は見た目でしか判断することができないですから。とんなに金ピカでも、それはかかしと同じです。森から切り出した木を刻み、金箔を塗って、いかにも豪華に見えますが、きゅうり畑のかかしと同じなのです。

 

どうして偶像はきゅうり畑のかかしと同じなのでしょうか。エレミヤはここで、偶像の本質を見抜いています。そして、それを「・・できない」という否定の言葉を持って暴きます。5節をご覧ください。まず偶像はものも言えず、歩くこともできません。ですから、誰かに運んでもらわなければならないのです。また、害になることも益になることもできません。良いことも悪いことも何もできないのです。それは全く無能で、無益であるということです。3節には「国々の民の習わしは空しいからだ。」とありますが、それは空しいだけです。この「空しい」という言葉は伝道者の書に何回も使われていました。「空」ということばです。へブル語では「へーベル」と言います。「空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)その空です。それは「空っぽ」という意味です中身がありません。偶像は中身がないのです。

 

そんなものを拝んでいったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。詩篇115篇4~8節には、こうあります。「4 彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。5 口があっても語れず目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。7 手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。8 これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。」

おもしろいですね。偶像は口があっても語れず、目があっても見ることができません。鼻があっても嗅げず、手があってもさわることができず、足があっても歩くことができません。問題はこれを造る者も、これに信頼する者も、みなこれと同じであるということです。これとは偶像のことです。偶像を造り、偶像を拝む者は、偶像と同じだというのです。だから、何を礼拝するかということはとても重要なことなのです。それがあなたの生き方、あなたのライフスタイルを決めるからです。

 

それに対して、まことの神はどのようなお方でしょうか。6~7節にそのことが展開されています。「6 主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。7 国々の王である方、あなたを恐れない者がいるでしょうか。そのことは、あなたにとっては当然のことです。まことに、国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、あなたに並ぶものはありません。」

 

偶像は林から切り出された木にすぎず、木工が、なたで作った物にすぎません。それは銀と金で飾られ、ぐらつかないように釘や槌で打ち付けられたものです。きゅうり畑のかかしのようで、ものを言えず、歩くことができません。

しかし、まことの神はそのようなものではありません。まことの神は、大いなる方です。その御名は力ある大いなるものです。国々の王であられ、この方を恐れない者はいません。国々のすべての知恵ある者の中にも、そのすべての王国の中にも、この方に並ぶものはありません。この方はまさに比類なき方なのです。

 

「リビングプレイズ」という賛美デボーションシリーズ2の中に、あるクリスチャンの証が載っていました。この方は、ニクソン・ショック以来、ご主人が経営する会社が急に経営不振に陥り、不渡り手形を毎月、何百枚となく出すようになりました。しかも利害関係で結ばれた親族間のみにくい人間関係が急に露骨になり、家庭はまっくらになりました。毎日、死にたいと思いました。そんなある日、神や仏からの御利益が著しく現れるというお不動さんを紹介され、毎日その前で祈ることにしました。ところが、いくら祈っても、自分の思いが届きません。本当の神であったら来るはずの平安が、いっこうに感じられませんでした。そこでそのお不動さんに、こう祈ったのです。「あなたには、わたしの願いが届きません。あなたでは、だめです。あなたの背後にあり、しかもわたしを造り、天地を造られた神に、わたしの思いを伝えてください。」

それからしばらくして教会に行くようになりました。そしてそこで天地を造られたまことの神さまに出会いました。すると、それまでの、死んで自分の何もかも消滅させたいと思っていた自己否定感が無くなり、生きることに積極的になりました。主の愛と臨在を感じ、不思議な平安が心を覆うようになったからです。それだけでなく、死んだのちも神とともにある永遠のいのちをいただくわけですから、死も恐れなくなりました。(P14)

 

皆さん、お不動さんではだめです。お不動さんはあなたを救うことはできません。あなたを救うことができるのは、あなたの救い主イエス・キリストだけです。この方以外には、だれによっても救いはありません。この方だけが、あなたを救うことができる大いなる方、他に並ぶものはないのです。

 

Ⅱ.主はまことの神(8-10)

 

次に8~10節をご覧ください。まず、8~9節をお読みします。「8 彼らはみな間抜けであり、愚かなことをする。空しい神々の訓戒──それは木にすぎない。9 銀箔はタルシシュから、金はウファズから運ばれる。これは木工と金細工人の手のわざ。これらの衣は青色と紫色、すべて名匠の作。」

エレミヤは、偶像を造りそれを拝む者がいかに間抜けであり、愚かであるかを語ります。「タルシシュ」は、今のスペインの南部にある町です。鉱物が採掘できるところです。そして「ウファズ」は、どこなのかはっきりわかりません。アラビヤのどこかではないかと考えられています。いずれにせよ、そこからは金が採掘されました。衣は、青色や紫色に染められた鮮やかな色彩で、ここには「名匠の作」とあります。そうですね芸術的、美術的に見れば、高度なものがたくさんあります。日本のお寺などでも芸術作品としては見事です。けれども、その礼拝対象はあくまでも木なのです。外国から運ばれて来た金銀を、木の上にかぶせたにすぎません。そこにはいのちがないのです。

 

しかし、まことの神はそうではありません。10節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。「しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その御怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。」

しかし、皆さん、主はまことの神です。「生ける神」であり、「とこしえの王」であられます。見た目では金箔や銀箔がかぶせられ、芸術的も美術的にもすばらしいものでも、木にすぎないいのちのないものと違って、生きておられる神なのです。これがまことの神、わたしたちの主であられます。それなのに、人間は弱いですね。見た目に騙されてしまいます。見た目が豪華だと、中身もすごいものだと錯覚してしまうのです。聖書は、そんな彼らは間抜けであり、愚かであると断言します。

 

絶滅の危機に瀕しているアホウドリを救うために、伊豆諸島のある島に、木で作った「おとりのアホウドリ」が100個、設置されました。そこにアホウドリを集め、繁殖を促そうとしたのです。

デコいうあだ名のついた5歳の鳥は、2年間も「おとりのアホウドリ」に求愛し続けました。デコは見事な巣を作り、競争相手を追い払い、涙ぐましい努力を続けました。観察者の報告では、彼は1日中「おとりのアホウドリ」のそばを離れなかったそうです。研究員の佐藤文男氏は、デコの求愛についてこう語りました。

「この鳥は、本物のアホウドリには全く関心を示さないんですよ。」

偶像に目が奪われる人もこのアホウドリのようです。彼らは、本当の神には全く関心を示さないで、もの言わぬ偶像に求愛しているのですから。

 

あなたはどうでしょうか。本物の神には関心を示さないで、もの言わぬ偶像に求愛しているということはないでしょうか。しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの神です。あなたが求愛すべき方は、生けるまことの神なのです。

 

Ⅲ.天と地を造られた方(11-13)

 

第三の対比は、11~13節にあります。11節をお読みします。「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」

これは、非常に興味深い節です。これを語っておられるのは神様です。まことの神様が、そうでない神々を拝んでいるすべての民に語っているのです。おもしろいことに、ここには※があります。欄外を見るとここに、「この節はアラム語で記されている」とあります。アラム語はアッシリヤ帝国の言葉で、その後バビロニア帝国でも使われるようになります。そして、当時の世界の共通語として使われるようになりました。イスラエルの民は、バビロン捕囚によってバビロンに70年間とらえられますが、その間にこのアラム語を使うことが強要されました。ですから、新約時代になってもこのアラム語がよく使われていたのです。イエス様もアラム語も使われました。「アバ父よ」の「アバ」はアラム語です。でも、どうしてここだけアラム語が使われているのでしょうか。おそらく、イスラエルに対してだけでなく、すべての国民に宣言することを意図しておられたからではないかと思います。外国人にはわからないので、外国人でもわかる世界共通語のアラム後で語られたのです。それは、この日本に住んでいる私たちも例外ではありません。私たちの住むこの国は八百万の神を拝んでいます。しかし、それはまことの神ではありません。あれも神、これも神、たぶん神、きっと神と、すべてを神にして拝んでいるわけですが、そうしたものは神ではあり得ないのです。なぜなら、まことの神は人の手によって造られたものではなく、この天と地を造られたお方だからです。天と地を造らなかったものは、地からも、天からも滅びてしまうことになります。それは何も手でこしらえたものだけのことではありません。あなたが神様以上に愛しているものがあるならば、神様以上に大切にしているものがあるならば、それがあなたの偶像となります。ですから、そうしたものも、地からも天からも滅びてしまうことになるのです。神様はそのことを全世界の人々に宣言するかのように、特に、八百万の神々を拝んでいる私たち日本人にもわかるように、アラム語で語られたのです。

 

12~13節をご覧ください。それに対して、まことの神はどのようなお方なのかが語られています。「12 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。13 主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。」

皆さん、まことの神はどのようなお方でしょうか。偶像は天と地を造らなかった神々で、人の手によって造られたものですが、まことの神は、この天と地を創造された方です。そして、今も雨を降らせ、わたしたちの生活を守っておられるお方なのです。

今年も世界中で猛暑が続き、干ばつの災害のニュースがネットやテレビを騒がせました。「記録的」とか「過去最高」、「いままで経験したことのない」といったフレーズを、頻繁に聞くようになりました。いったいどうしてこうした干ばつが起こるのでしょうか。どうして記録的な猛暑になるのでしょうか。さまざまな要因がありますが、その中でも最も大きな原因の一つが、人間活動による温室効果ガスの影響で地球の平均気温が上昇していることがあげられています。地球温暖化です。神様が造られたこの世界を、人間が破壊しているのです。いったいこの先どうなるのでしょうか。神様が天と地を創造され、神様がこれを守っておられるのに、そこに住む人間がこれをぶち壊しているのです。この天地を造られた方ではなく、そうでないものを拝むようになってしまったからです。いわば、これは人間の罪が引き起こしている結果なのです。

 

Ⅳ.万軍の主(14-16)

 

第四の比較は、14~16節にあります。14~15節には、偶像の特徴についてこのようにあります。「14 すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。15 それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。」

偶像には息がありません。それは偽りの神なのです。それを造る者も、それに信頼する者も、ともに恥を見るようになります。

それに対してまことの神は、16節にあるように、万物を創る方、万軍の主です。ここで注目していただきたいのは、「ヤコブの受ける分はこのようなものではない。」という言葉です。これはイスラエルが受ける分のことです。神の民イスラエルが受ける分は、そのようなものではありません。ヤコブの受ける分はどのようなものでしょうか。ここには「イスラエルは主のゆずりの民」とあります。これはちょっとわかりづらいですね。下の欄外の説明には「ゆずり」とは「相続」のこと、「民」とは「部族」のこととあります。これはどういうことかというと、イスラエルは主ご自身の民であるということです。イスラエルが相続するのは神ご自身であるということなのです。これほどすばらしい相続はありません。私たちは一等地の広い土地と建物を相続できたらどんなにすばらしいものかと思うかもしれませんが、イスラエルが相続するものはそんなものではないのです。もっとすばらしいもの、それはこの世が与えるものとは比べようのないものなのです。それは天の御国です。神ご自身です。それを相続することができるということです。この世が与える恩恵とは比較のしようがありません。それは超自然的な恵みです。その恵みの究極が、神のひとり子イエス・キリストご自身なのです。神様はそれを与えてくださるのです。主イエスと比べたら、この世のものはすべて色あせてしまいます。パウロは、それらは「ちりあくた」だと言ったほどです。イエス・キリストこそ、まことの神から賜った世界最高の、最上のギフトなのです。この以上の恵みは他にないということです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

これは、他の宗教では得られない恵みです。まことの神を信じない者には体験できない、到達しえない恵みなのです。これがヤコブの分け前、私たちが相続するものなのです。

 

それなのに、人はどうして、まことの神と偶像の違いに気が付かないのでしょうか。それは、この世の神が不信者の目におおいをかけているからです。この世の神とは悪魔のことです。このことについてパウロはこう言っています。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

ですから私たちは、私たちの心の目が開かれ、まことの神がどのような方であるかを知り、この神の偉大さをほめたたえなければなりません。私たちはいのちに満ちた生けるまことの神を信頼して生きるのか、それとも、人間の造った偶像を頼って生きるのかを選ばなければならないのです。私たちの前にはこの二者択一が置かれているのです。それによってあなたの道が、あなたの生き方が、あなたのライフスタイルが決まります。このどちらかを選ばなければならないのです。

イエス様は「だれも二人の主人に仕えることはでません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて、他方を軽んじることになるからです。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」(マタイ6:24)と言われました。神と富とに仕えることはできません。この「富」を、「偶像」に置き換えてもいいと思います。まことの神と偶像に仕えることはできません。

でも、残念ながら神の民イスラエルは、この選択に失敗しました。まことの神を選べばいいのに、よりにもよって、偶像を選んでしまったのです。その結果、滅びてしまうことになってしまいました。バビロンという国の捕囚の民となってしまったのです。

あなたは偶像か、まことの神か、どちらを選びますか。このイスラエルの民のようにならないために、私たちはしっかりとまことの神を選びましょう。そして、この世では得られない神の恵みと祝福を味わいたいと思います。

誇る者は主を誇れ エレミヤ書9章17~26節

2022年9月18日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書9章17~26節(エレミヤ書講解説教21回目)
タイトル:「誇る者は主を誇れ」

今日は、エレミヤ書9:17~26のみことばから、「誇る者は主を誇れ」というタイトルでお話します。今日のメッセージのタイトルは、24節から取りました。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」皆さんは、何を誇っていますか。「いや~、私は誇るものなんて何もない」と思っていらっしゃる方もおられると思いますが、この「誇る」というのは、「頼る」ということでもあります。そうすると、私たちは皆何かに頼りながら生きているわけですから、その何かが何であるかということです。「私は何も信じない」「頼るのは自分だけだ」という人は、自分を誇っているわけです。その誇っているものは何かということです。それは、普段は気付かないかもしれませんが、いざという時に見えてきます。

この9章には、主を知る事を拒んだユダの民に対する神のさばきが語られてきました。7節には「それゆえ、万軍の主はこう言われる。『見よ、わたしは彼らを精錬して試す。』」とあります。それは具体的には、バビロンという国によってエルサレムを滅ぼすということです。完全に滅ぼし尽くすということではありません。ユダが悔い改めるために、神はそのような懲らしめを与えられるのです。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜に至るまで、すべて逃げ去ってしまいます。主はエルサレムを石ころとし、ジャッカルの住みかとするのです。主は彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませることになります。そして、ついには、彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、彼らを断ち滅ぼしてしまうのです。

それは彼らが主を知らなかったからです。彼らは、自分では知っていると思っていました。知っているつまりでしたが、それは表面的なもので、実際には知りませんでした。彼らが誇っていたのは主ではなく、自分自身でした。自分の知恵、自分の力、自分の富を誇っていたのです。大切なのは、主を知ることです。主を知っていることを誇り、この主に信頼することなのです。今日は、このことについて三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.やがて起ころうとしている悲劇(17-22,25-26)

 

まず、17~22節と、25~26節をご覧ください。まず、17~19節をお読みします。「17 万軍の主はこう言われる。「よく考えて、泣き女を呼んで来させよ。人を遣わして、巧みな女を来させよ。」18 彼女たちを急がせて、私たちのために嘆きの声をあげさせよ。私たちの目から涙を流れさせ、私たちのまぶたに水をあふれさせよ。19 シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、ひどく恥を見た。私たちが地を見捨て、自分たちの住まいが投げ捨てられたからだ。」

 

ここには「よく考えて、泣き女を呼んで来させよ。」とあります。これは万軍の主のことばです。この「泣き女」とは、泣くことを商売としていたプロの泣き屋のことです。こうした泣き屋を呼んでくることで、葬儀の時などに知人や友人が訪問した際、その人たちも心動かされて泣きやすくしたのです。新約聖書ヨハネ11章には、イエス様と親しかったマルタとマリヤの兄弟ラザロが死んだとき、死んだラザロのところに行かれると、マリヤを慰めていたユダヤ人の人たちが泣いていたとあります(ヨハネ11:33)が、そういう人たちいたと思います。そうした泣き女を呼んで来て、嘆きの声をあげさせよというのです。

なぜでしょうか。なぜなら、ユダの状況があまりにも悲惨だからです。19節には、「シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、ひどく恥を見た。私たちが地を見捨て、自分たちの住まいが投げ捨てられたからだ。」とあるように、バビロン軍がやって来て、エルサレムを踏みにじることになるからです。こうした泣き女たちの嘆きの声は、略奪された祖国の悲しみをより一層深いものにしたことでしょう。

 

21節と22節をご覧ください。ここでエレミヤは「死」を擬人化することによって、やがて起ころうとしている悲劇がどのようなものなのかを、生き生きと描いています。21節には、「死が私たちの窓によじ登り、私たちの高殿に入り、道端では幼子を、広場では若い男を断ち滅ぼすからだ」とあります。ここでは、死が窓によじ登るとか、高殿に入ってくるとありますが、それはそのことです。敵が攻めて来ると、道端で幼子を、広場で若い男を虐殺することになるからです。その結果、22節にあるように「人間の死体は、畑の肥やしのように、刈り入れ人のうしろの、集める者もない束のように落ちる」ことになります。これはどういうことかというと、死体があちらこちらに放置されるということです。それが腐って畑の肥やしのようになるわけです。だれも葬ることができほど大量に虐殺され、そのまま捨て置かれることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。

 

25~26節をご覧ください。ここでは、それが別のことばで表現されています。「25 「見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26 エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」」

「その時代が来る」とか「その日が来る」というのは、終末の預言が語られる時の特徴的なことばです。こうした預言は、近い未来に起こることと遠い未来に起こることが山のように重なり合っています。この場合、近い未来においてはバビロン軍がやって来て南ユダを滅ぼすということですが、遠い未来においては、世の終わりの究極的な神のさばきのことを示しています。神の救い、キリストを拒絶する世界に対する神のさばきです。そのとき主は、すべて包皮に割礼を受けている者を罰することになります。割礼とはこれまで何度もお話しているように、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。それは神の民であることの大切なしるしでした。ですからユダヤ人の男性は、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。ここではそのように割礼を受けている者を罰すると言われています。なぜでしょうか。たとえ肉体の割礼を受けていても、受けていないような歩みをしているとしたら、それは割礼を受けていない人と何ら変わりがないからです。大切なのは、心に割礼を受けるということです。このことについては、すでに4章で見てきました。4:4には、「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とありましたね。どんなに割礼を受けていても、それが形だけの表面的なものであるならば、それは受けていない者、すなわち、異邦人と何ら変わりはありません。それが26節で言われていることです。ここには、エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人とあります。これを見て、何かお気付きになりませんか。エジプトとかエドム、アンモン、モアブといった異邦人の中に、神の民であるユダが並記されています。異邦人たち、すなわち、無割礼の者たちと同列に置かれているのです。同等に扱われているということです。なぜでしょうか。それは今申し上げた通り、どんなに割礼を受けていても、自分たちはアブラハムの子孫だといって悔い改めないなら、他の異邦人と何ら変わりはないからです。やがて滅ぼされてしまうことになります。

 

使徒パウロも、このことについてこう述べています。ローマ2:25~29です。「25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

重要なのは、肉体に割礼を受けているかどうかということではなく、心に割礼を受けているかどうかです。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、内面のユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼です。すなわち、心にイエス・キリストを信じて、神の御言葉に従って生きているかどうかが問われているのです。

 

あなたはどうでしょうか。心に割礼を受けていらっしゃいますか。自分はバプテスマ(洗礼)を受けているから大丈夫だと思っていませんか。バプテスマ(洗礼)を受けることはとても重要なことです。でも、バプテスマを受けていれば自動的に天国に行けるわけではありません。勿論、悔い改めるなら、神は赦してくださいます。でも悔い改めなければ、その限りではありません。エジプト、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住民のように、自分の罪の中に滅んでいくことになります。ノンクリスチャンと同じさばきを受けることになるのです。大切なのは心に割礼を受けるということです。私たちは心に割礼を受けているかどうかを、もう一度考えなければなりません。

 

Ⅱ.自分を誇るな(23)

 

次に、23節をご覧ください。「─主はこう言われる─知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」

 

そんな神の民イスラエルに対して、主はこう仰せられました。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」

彼らの問題は、自分を誇っていたことでした。自分の知恵を誇り、自分の力を誇り、自分の富を誇っていました。こうしたものを誇るのは愚かなことです。なぜなら、こうしたものは神様が私たちに与えてくださる恵みであり、祝福だからです。その神様ではなく自分を誇っていたら本末転倒です。

 

皆さんは、どうでしょうか。自分の知恵、自分のち~、自分の富を誇っていませんか。こういうものはだれでも誇りたくなるものです。神様を知らなければ自然とそうなります。現代で言うならそれは学歴とか、地位とか、名誉とか、財産といったものになるでしょうか。どこどこの大学を出て、どのような地位にあり、どれだけの財産があるかということが、その人の価値を決めるとみんな思っています。だから一生懸命勉強して、少しでもいい学校に入り、いいところに就職し、いい人と結婚して、立派な家を建て、豊かに生きようと躍起になっているのです。それが人生の成功であり、幸福だと思っています。でも、主はそうしたものを誇るなと言っています。誇るなとは、頼りにするなということです。それを自分の栄光にしてはならないのです。

 

それは、エデンの園の中央にある木の実のようなものです。創世記3:6には、「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」とあります。それはいかにも好ましいものでした。しかし神は、その木の実について、それを食べてはならないし、それに触れてもいけないと、アダムとエバに警告していました。それを食べると、死んでしまうことになるからです。

しかし、蛇に誘惑されたエバは、それを見るともう我慢することができませんでした。もうどうにもとまらない、です。それはほんとうに目に麗しく、賢くしてくれそうで好ましかったので、食べてしまいました。自分だけだと悪いので夫にも与えたので、夫も食べてしまいました。

その結果、どうなりましたか。罪が全人類にもたらされ、その結果、全人類が真でしまいました。この死とは霊的死のことを指していますが、その結果、肉体も死ぬことになってしまいました。それは目に麗しく、賢くしてくれそうで、いかにも好ましく見えますが、死をもたらすのです。

 

東京オリンピックの巡る汚職事件が広がっています。多くの企業がスポンサー契約を巡って、贈賄容疑で取り調べを受けています。何が問題なのでしょうか。こうした大きな大会には多額のお金が絡むということです。その利権を巡って多くの人たちが動くわけです。それはどの企業にとっても魅力的なものですから。しかし、それは死をもたらすことになります。「自分の知恵を誇るな。自分の力を誇るな。自分の富を誇るな。」と聖書にあるとおりです。

 

ヨハネはこのことについて、Ⅰヨハネ2:16~17でこう言っています。「16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」

肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったものは、神から出たものではなく、この世から出たものです。そうしたものは、結局のところ、過ぎ去ることになります。これさえ手に入れば自分は幸せになれる、繁栄する、満たされると私たちが信じて疑わないもの、それは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢であって、そうしたものは、やがて消えて無くなってしまうことになります。ですから、こうしたものを誇ってはならない。頼ってはならないのです。

 

Ⅲ.誇る者は主を誇れ(24)

 

では、何を誇ったらいいのでしょうか。それが24節にあることです。ご一緒にお読みしましょう。「24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。─主のことば。』」」

 

原文では、24節の冒頭には、「むしろ」とか「それとは反対に」という意味の接続詞があります。英語の聖書では「しかし」と訳されていますが、正確には「むしろ」とか「それとは反対に」です。つまり、23節で語られたことに対して、むしろ、それとは反対に、という意味になります。つまり、人は自分の知恵を誇り、自分の力を誇り、自分の富を誇りますが、それとは反対に、むしろ「誇るものは、ただ、これを誇れ」と言うのです。それは何ですか。その次にあります。それは、「悟りを得て、わたしを知っていることを。」です。つまり、主を誇れというのです。なぜなら、主は神であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからです。これは、イスラエルの民が持っているものとは正反対のものでした。

 

たとえば「恵み」ですが、「恵み」とは「ヘッセド」というヘブル語が使われています。これは「誠実」とか「真実」という意味で、契約に基づいた愛のことです。皆さん、誠実な愛とはどういう愛でしょうか。それは、約束を守る愛です。どんなことがあっても見離したり、見捨てたりしません。それが誠実であるということです。今週、粟倉兄と石黒姉の結婚式が行われますが、結婚生活において最も重要なのはこれです。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は、決して絶えることはありません。それは、このヘッセドに基づいているからです。私たちがヘッセドなのではなく、神がヘッセドなのです。私たちは真実でなくても、神は真実なのです。どんなことがあっても決してあなたを裏切ったりはしません。

 

ここでは、その永遠に変わることがない神の愛が、イスラエル民の移り気と対比されています。そして主は、その契約に基づく愛を神の民であるイスラエルに、そして私たちに求めておられるのです。それは決して裏切らない愛、真実な愛です。知恵や力や富を求める人たちは、こうした恵みとか公正、正義といったものを疎かにする傾向があります。こうしたものを軽んじ、こうしたものに何の価値も見出そうとしないのです。こうしたものを捨ててまでも自分の知恵や、自分の強さ、自分の富を求めようとするのです。でも私たちは、悟りを得て、主を知ることを求めなければなりません。主を知らなければ、恵みと公正と正義を行うことはできないからです。それは、主から出ているものなのです。だから、主がどのような方であるのかを知って初めて、私たちは契約に基づいた神の愛、神の恵みを知ることができるのです。主を知って初めて、公正とは何かを知ることができます。また、正義とは何かを知ることができるのです。そうでなければ、すべて自分勝手な愛と公正と正義になってしまいます。ですから、私たちは主を知ることを求めなければならないのです。主を知ることを誇りとしなければなりません。

 

預言者ホセアは、こう言っています。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア6:6)。皆さん神様が喜びとするのは「真実な愛」です。いけにえではありません。形式的なささげもの、全焼のいけにえではないのです。神が求めておられるのは真実な愛です。この愛は、先ほどから述べている「ヘッセド」のことです。全焼のささげ物よりもむしろ、神を知ることを主はそれを喜ばれる。いったい私たちは何のためにきょうここに来たのでしょうか。それはただ全焼のささげものをささげるためではありません。ただ日曜日だから教会に行かなければならないと、しょうがなくて来たのではありません。そうではなく、神の御言葉を通して主がどのような方なのかを知り、その主と交わるために来たのです。そうでしょ?主がそれを喜ばれるからです。

 

イエス様はこう言われました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

皆さん、永遠のいのちとは何でしょうか。永遠のいのちとは、唯一まことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。これが永遠のいのちです。この「知る」ということばは「ギノスコー」というギリシャ語ですが、これは前回もお話したように「ヤダー」というヘブル語と同じ意味の言葉です。主を知るということが、私たちが誇りとすべきもの、私たちの人生において目標にすべきものなのです。それは単に知的に知るということではなく、人格的に、体験的に深く知るということです。いったいあなたは何のために生きておられるのでしょうか。それは自分の知恵を誇るためではありません。自分の力、自分の富を誇るためでもないのです。それはむしろ、主を知るためです。主と人格的に交わりを持つためなのです。それが永遠のいのちです。永遠のいのちは、死んでからもたらされるものではありません。それは生きている今、この地上にあって体験することができるものです。それは唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることによってもたらされます。イエス・キリストのうちにあり、キリストと深く交わること、それが永遠のいのちです。主があなたとともにおられること、これほどすばらしい体験はありません。そしてこれは一時的なものではなく、永遠に続きます。だから、主を知ることは誇りなのです。それが一時的なものであり永続しないもの、滅んでしまうようなものならば、どうして誇りにすることができるでしょうか。それはただ空しいだけです。滅んでしまうもののために人生をかけることはできないでしょう。そのようなものを誇るとしたら、人生に何の意味があるでしょうしかし、それが永遠に続くものならば、永遠のいのちにつながるものならば、それこそ価値があります。それを誇りとすることは正しいことです。そのために人生を費やすのならば意味があるのです。

 

パウロはそのことを、ピリピ3:7~9でこう言っています。「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

 

パウロは、自分にとって得であると思っていたこれらすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。「これらすべてのもの」とは、肉において誇れるようなものすべて、ということです。たとえば、その前のところには、彼が、律法についてはパリサイ人と言っていますが、そのようなものです。彼はユダヤ教の中では超エリートに属する者でした。ユダヤの最高議会の議員の一人であったラビ・ガマリエルに師事し、そのガマリエルから、もう教えることは何もないと言わしめたほどの者です。パウロはユダヤ教の指導者の中でも最高峰の教師として君臨し、歴史に名を残すほどの人物だったのです。しかし、パウロはそのようなものを損と思うようになりました。いや、ちりあくたとさえ思うようになったのです。それは彼が復活のキリストに出会ったからです。出会ってしまった!と言ってもいいでしょう。そのキリストを知っていることのすばらしさのゆえに、もうそんな過去の栄光とか栄華などどうでもよくなってしまった。そんなものは全く色あせてしまいました。ちりあくただと考えるようになったのです。皆さん、「ちりあくた」ってなんだかご存知ですか。「ちりあくた」とは、ちりと、あくたのことです。広辞苑には、「値うちのないもの、つまらないものなどのたとえ。ごみくず。」とあります。ごみくずです。それまで自分が目指してきた知恵とか、力とか、富とか、そういったものはごみくずに思えたのです。復活の主イエスと出会い、その栄光の輝きを見たら、そうした自分の知恵、力、富などはすべて、ちりあくたたにしか見えなかったのです。それほどイエス・キリストに魅了されたということです。

 

あなたはどうでしょうか。それほどにイエス・キリストに魅了されているでしょうか。自分が今まで大事だと思って来たもの、これさえあれば、あれさえあればと思って来たもの、自分が頼りにしてきたもの、そうしたものが主イエスを知ってからはもうどうてもいいと思えるほど、キリストに魅了されているでしょうか。

 

パウロは、Ⅰコリント1:26~31で、このエレミヤ書9:24を引用してこう言っています。「26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

これは旧約聖書だけのメッセージではありません。旧約聖書も新約聖書も含めて、聖書全体が私たちに語り掛けているメッセージなのです。人間的に見れば、私たちは本当に取るに足りない者です。しかし、神はこのように取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を選んでくださいました。何のために?それは、有るものを無いものとするためにです。肉なる者がだれも誇ることがないためです。しかし、私たちは神によってキリスト・イエスのうちにある者とされました。このキリスト・イエスこそ、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。ですから、パウロのように主がどのような方であるかを知っているなら、主だけを誇るようになります。もうすべては「ちりあくた」となるからです。

 

皆さんはどうでしょうか。皆さんは何を誇っていますか。まだこの世の知恵、力、富を誇りとしていますか。それらは「ちりあくた」です。主がどのような方であるかを知っているならば、です。ですから、私たちは主を知ることを求めなければなりません。主を知ることを、他のどんな活動よりも大切にしなければなりません。主を知ることを他の何よりも優先し、何よりも誇りとしなければならないのです。他のことで自慢してはなりません。それらは何も残らないからです。むしろ、主を知っていることのすばらしさを誇りとしてほしいと思います。まさに、「誇る者は主を誇れ」とあるとおりです。

 

私たちの人生には、時として、ユダの民が経験したような絶望的な瞬間がやって来ることもあるでしょう。でもそのような時、あなたは何を誇り、何に信頼すればいいのか。そのように時、私たちはキリスト・イエスのうちにあること、主なる神を知っていること誇り、その主に信頼しようではありませんか。

どうしてこの国は滅びたのか エレミヤ書9章10~16節

聖書箇所:エレミヤ書9章10~16節(エレミヤ書講解説教20回目)
タイトル:「どうしてこの国は滅びたのか」

今日は、エレミヤ書9:10~16の短い箇所から、「どうしてこの国は滅びたのか」というタイトルでお話します。これは12節から取りました。ここには「何のために、この国は滅びたのか。荒野のように滅ぼされ、通人もいないのか」とあります。第三版では「どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われて、通る人もないのか。」と訳されています。この「どうして」「なぜ」という問に答えることはとても重要です。それによって悟りを得ることができるからです。神の恵みは悟ることから始まります。どうしてエルサレムは滅びたのか、この問いに対する答えを見出す中で、私たちが滅びないためにはどうしたらよいか、神の恵みに生きるためにどうしたらよいかを、主のみことばから聴きたいと思います。

 

Ⅰ.神が懲らしめを与える目的(10-11)

 

まず、10~11節をご覧ください。「10 私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧場のために哀歌を歌う。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ。11 「わたしはエルサレムを石ころの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てた地とし、住む者のいない所とする。」」

 

10節の「私」は、エレミヤのことです。エレミヤは、愛する祖国ユダの崩壊を思い、泣き声を上げて嘆いています。青草を茂らせていた牧場は焼き払われ、不毛の地となるからです。羊やヤギの群れは逃げ去り、空の鳥までもいなくなります。そこは石ころの山となり、ジャッカルの住みかとなるのです。「ジャッカル」とは小さい山犬のような動物ですが、聖書では荒廃してだれも住む人がいないような所に棲む動物として描かれています。完全に廃墟となってしまうのです。それは彼らの罪が招いた結果でした。神のさばきによって南ユダが滅ぼされてしまうのです。そのことをエレミヤは、泣き声をあげて嘆いているのです。これは他人事のように聞こえるかもしれませんが、私たちにも言えることなのです。ですから、どうぞ自分のこととして受け止めていただいたいと思います。

 

しかし、11節を見ると、これが単なるさばきではないことがわかります。というのは、ここに「わたし」とあるからです。この「わたし」とは神様のことです。つまり、これは神様が与えたさばきなのです。このさばきは、神様が許されたことであるということです。それは神の民である南ユダを滅ぼすためではなく、彼らを矯正するために、彼らを建て上げるために神が与えた懲らしめであるということです。前回のところでも申し上げましたが、これは希望に満ちた言葉なのです。

 

聖書には、神様は真実な方であるとあります。Ⅱテモテ2:13です。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」皆さん、私たちが真実でなくても、神様は常に真実な方です。私たちがいくら約束を破ろうとも、神様は決して約束を破るようなことはなさいません。ということは、もし神様が何か罰を与えるようなことがあるとしたらそれは滅ぼすことが目的ではなく、建て上げることが目的であるということです。真実なる神、決して民を見捨てない方がなさることなので、滅ぼし尽くされることはありません。痛い思いはするでしょう。辛い思いもします。悲劇にも見舞われることもあるかもしれません。すべてを失うかもあるかもしれない。でも、それによって滅ぼし尽くされることはありません。こうしたレッスンを通して、それは高い授業料かもしれませんが、もう一度神様に立ち返るために、あえてこのような懲らしめを与えられるのです。

 

二番目の娘が小学生の時、歯の矯正をしたことがあります。「八重歯」と言うんですか、上の「糸切り歯」が歯並びから飛び出していたのです。それは、骨の大きさとそれぞれの歯の大きさとの間のバランスが悪くてそのようになるということで、ワイヤーのような矯正装具を付けました。驚いたのはその治療費です。たった1本の歯を矯正するめために何十万円もかかりました。牧師の給料ではとても支払えるような額ではありませんでした。幸い当時開いていた英会話クラスに歯科医の方がいて、その方に矯正歯科クリニックを紹介していただいたので、分割で支払うことができました。痛かったですよ。それは矯正装具を付けた娘もそうですが、私たちの懐も。でも、お陰できれいな歯並びになりました。

 

神様が私たちを矯正するのも同じです。神様は私たちを滅ぼすためではなく、私たちを建て上げ、もう一度神様に立ち返るために、あえてこのようなさばきをなさるのです。ヤコブがイスラエルに戻ることが神様のみこころです。「ヤコブ」とは「押しのける者」、「イスラエル」とは「神に支配される者」とい意味でしたね。ヤコブがイスラエルに、押しのける者が神に支配される者となるために、神様はあえてこのようなことをなさるのです。人を押しのけて自分を神とするような傲慢な民を砕き、柔らかくして新しく作り変えるために、懲らしめを与えるのです。そのためにバビロンという国を用いるのであって、それはいわゆる私たちを懲らしめるためのスパンク棒にすぎません。神様はあなたをいじめたり、滅ぼしたりするために試練や災難を与えるのではありません。そうではなく、あなたを建て上げるためにそうなさるのです。そのことをどうか忘れないでください。私たちは真実でなくても、神は常に真実なのです。

 

Ⅱ.どうしてこの国は滅びたのか(12-14)

 

いったいどうしてこの国は滅んでしまったのでしょうか。次に、12~14節をご覧ください。ここに、その理由が語られています。「12 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が自分に語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか。何のために、この国は滅びたのか。荒野のように滅ぼされ、通る人もいないのか。13 主は言われる。「それは、彼らが、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、律法に歩まず、14 彼らの頑なな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルの神々に従って歩んだからだ。」」

 

12節は、エレミヤの嘆きです。実際には、主がエレミヤを通して嘆いておられるとも言えます。知恵があってこれを悟ることができる者はだれか。どうしてこの国は滅んでしまったのか、どうして荒野のように滅ぼされ、そこを通る者はだれもいないのかと。恵みは悟ることから始まります。そのためにはこの「どうして」という問いに答えがなければなりません。どうしてこの国は滅びてしまったのか。8:8には、彼らが「私たちには知恵ある者、私たちには主の律法がある」と豪語していました。であれば、この問にも答えることができるはずです。しかし、彼らは答えることができませんでした。

 

そこで主ご自身が答えられます。13と14節がそうです。「主は言われる。「それは、彼らが、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、律法に歩まず、彼らの頑なな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルの神々に従って歩んだからだ。」

これが答えです。これは驚きですね。ここまで頑なであれば、もう言うのも無駄だ、何を言っても仕方がないと思ってしまいますが、主はそうではありません。それでもまだ語り続けるのです。頑なな民にとってはしつこいな、うるさいなと思ったかもしれませんが、でも主は何度も何度も語ってくださいます。主はあきらめないで、なおも警告を与えておられるのです。

 

どうしてこの国は滅びたのでしょうか。どうしてエルサレムに神のさばきが臨み、聖なる地が滅ぼされ、荒野のようになったのでしょうか。それは、彼らが主のみことばを捨てたからです。神はモーセを通して、子どもたちに神のみことばに誠実であるようにと何度も語られました。たとえば、レビ26章にこうあります。「3 もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、4 わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。5 あなたがたの麦打ちはぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れは種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。・・・・

14 しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら、15 また、わたしの掟を拒み、あなたがた自身がわたしの定めを嫌って退け、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、16 わたしもあなたがたに次のことを行う。わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは種を蒔いても無駄である。あなたがたの敵がそれを食べる。17 わたしはあなたがたに敵対してわたしの顔を向ける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。あなたがたを追う者がいないのに、あなたがたは逃げる。18 もし、これらのことが起こっても、あなたがたがなおもわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍重く懲らしめる。19 わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。20 あなたがたの力は無駄に費やされる。あなたがたの地は産物を出さず、地の木々も実を結ばない。・・・・

31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたの芳ばしい香りをかぐことはしない。」(レビ26:3~5,14~20,31)

 

これはまだイスラエルが約束の地に入る前に、モーセがイスラエルの民に語ったことです。主はモーセの時代から何度も何度も語って来られたのです。それは、主のみことばに聞き従い、それを守り行えということです。皆さん、わかりますか?主のみことばに従い、それを守り行うことです。もっと簡単に言うと、この聖書のみことばに従いなさいということです。簡単でしょ?言っていることは。でも彼らは理解することができませんでした。彼らは主のみことばを捨て、頑なな心のままに歩、主の声に聞き従うのではなく、バアルの神々に仕えたのです。

 

皆さん、悟ることが必要です。神の恵みは、悟ことから始まるからです。勿論、毎週礼拝に来ることは重要なことです。毎日家で聖書を読んで祈るということも助になります。しかし、ただそのようにしていれば自動的に悟ことができるのかというとそうではありません。悟るためには、イエス様がしてくださったこと、また、イエス様が今もしておられることを理解することによってもたらされます。

 

ちょうど、前回のC-BTE(Ⅲ)の学びでこのことを学びました。コロサイ3:16に、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」とあります。それです。キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住まわせなければなりません。言い換えるなら、それはキリストのようになるということです。そのためには、キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住むようにしなければなりません。

 

そのことをパウロはエペソの教会に書き送った手紙の中で、このように祈っています。「17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

ここでパウロは、彼らの心の目がはっきり見えるようになってと言っています。心の目がはっきり見えるとはどういうことでしょうか。それは単なる経験ではありません。主が語っておられることがどういうことなのかがストンと落ちるというか、みことばがわかるということです。すなわち、キリストによって心が圧倒されるということです。それは、聖霊に満たされることによってもたらされます。それによって、キリストが私たちのためにどのようなことをしてくださったのか、また、してくださっているのかを知ることができます。そして、キリスト(神)を知ることによって私たちの考え方が変わるのです。私たちの考え方が変わると私たちの動機が変わります。動機が変わると、行動が変わるのです。その人の中に神のみことばが生きて働くからです。そのみことばに喜んで従いたいと思うようになります。それは私たちの力ではできません。それは神の御霊である聖霊が、神のみことばをもって私たちの心と思いに働くことによって始めて可能となるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

だから、パウロは祈ったのです。彼らの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光にとんだものか、神の大能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるのかを、知ることができるようにと。

 

ちょうどこのメッセージを書いていた時、一本の電話がありました。三重県で牧会しておられる80歳を過ぎた牧師先生からでした。それは、Ⅱサムエル記24章にダビデが人口調査の罪を犯した結果が記されてありますが、その解釈についてのお尋ねでした。その罪の結果神様はダビデに7年間の飢饉か、3か月間の敵からの敗走か、3日間の疫病か、どれか一つを選ぶようにと言われました。結局、ダビデは3か間の疫病を受け入れた結果、イスラエルの中で7万人が疫病で死んだわけですが、お尋ねは何かというと、この「7年間」の飢饉が他の訳では「3年間」と訳してあるんですね。これをどう整合性を取ったらよいかということでした。いろいろと悩み調べていた時、私がホームページにアップしているメッセージを見て光が与えられたというのです。確かに3年間の飢饉とした方が、3か月間の敗走と3日間の疫病ということになり、「3、3、3」と語呂合わせがいいのですが、必ずしもそのようにする必要はありません。原文がどうであるかということが重要です。原文に「7年間」とあれば、そのように訳せばいいだけのことです。また、仮に「3年間」であったとしても、ここで重要なのはダビデが罪を犯した結果、どのように大きな悲惨がもたらされたかということを理解することではないかとお話したら納得されました。

で、どうしてこの牧師先生がこんなことを聞いてきたのかというと、これはこの牧師先生が気づいたのではなくて、4番目の娘さんと同級生の男性の方が、小さい頃からよく知っている方だそうですが、刑務所に入ったので創造主訳聖書を読むように送ったら、それを読んで手紙を送ってくれたのです。その中に「なぜ7年でなく3年なのか」という質問が書いてあったそうです。確かに創造主訳聖書を見ると「3年間」と訳されてあるんですね。でも、原語では「7年間」となっています。それがどうしてなのか、いろいろ調べているうちに私が書いたものに行き着いたらしいのです。

それにしても、刑務所に服役中の方がそういうところに気付くなんて不思議だと思いますが、何よりもその方自身に大きな変化があって、誰が見ても変わったと思えるくらい変わったらしいのです。それで、このような質問にもきちんと答えて、彼の更生を助けてあげたかったのです。「何がきっかけでその方は変わり始めたのですか」と尋ねると、先生がこう言いました。

「聖書のことばがはっきりわかるようになったんです。」

これまでも聖書は読んでいましたが、そこまで心に迫って来なかったようですが、今回は違うのです。誰が見てもそう見えるのです。聖書を何度も何度も読む中で、聖霊が働いて、はっきり見えるようになったのです。

 

それは私たちも同じです。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある。」と思い違いをしていると、先の者が後の者になってしまいます。そうではなく、主の御前にへりくだり、柔らかい素直な心を持って主のみことばに向かうなら、神の御霊が働いて、あなたの心の目が見えるようになり、主のみことばに従うことができるようになるのです。

 

Ⅲ.罪から来る報酬は死です(15-16)

 

最後に、その結果どうなったかを見て終わりたいと思います。15~16節をご覧ください。「15 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。16 彼らも先祖も知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶ち滅ぼす。」」

 

それゆえ、主は彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。「苦よもぎ」は、麻酔としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものです。つまり、彼らが神のみことばを捨て、自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。それは16節にあるように、彼らも先祖たちも知らなかった国々に散らされ、剣を彼らのうしろに送り、ついには断ち滅ぼされることになるということです。これはバビロン捕囚という出来事によって成就します。罪の結果、死に至るということです。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)とあるとおりです。

 

この「死」とは、第一に、霊的死、すなわち、神なき人生のことです。そのような人は、生きてはいるけど死んでいる、です。その結果、仕事は行き詰まったり、家庭が崩壊したり、政治生命が断たれたりするというところに辿りついてしまいます。

第二に、それは肉体的な死です。人は死ぬと、霊は肉体を離れて、それぞれ生前の行いに相応しいところへと、行くことになります。

第三に、それは永遠の滅びのことです。人は一度肉体的に死ぬことと、肉体の死後にさばきを受けることが定まっていますが、そのとき、神さまは私たちが体にあったときに、心の中で思ったこと、口にしたことば、手で行ったことなどあらゆることをご存知ですから、その行いにしたがって公正な裁きを行なわれます。その時、神さまに背を向けて、神などいない、いらないという人たちは、望み通りに神のいない所に永遠に住むことになるのです。それがゲヘナです。地獄です。聖書はこれを永遠の死と呼んでいます。そこには悪魔も落とされています。「罪から来る報酬は死です。」神の前に罪の問題が解決されていなければ、人は今の世にあって、その心の思いと、ことばと、手足でもって、いろいろな罪を犯しながら、神さまを無視し、的を外れたむなしい人生を歩み、最後には永遠の滅びに陥ってしまうのです。

 

では、どうしたら良いのでしょうか。ローマ6:23の続きにはこうあります。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

永遠の滅びではなく、永遠のいのちに入る道があります。それは、神が与えてくださる賜物で、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

永遠のいのちとはなんでしょうか?いのちとは、死とは反対のことを意味しています。 聖書のいう「死」とは、第一に、神なき人生、第二に、肉体の死、第三に永遠の滅びを意味していました。ですから、永遠のいのちとはその反対で、すなわち、第一に神とともに生きる人生、第二に、からだの復活、第三に永遠の祝福のことです。

 

私自身、かつて、神様などいるはずがないと思って生きていた時がありました。ところが、18歳の時教会に導かれ、イエス様を信じて、神さまとともに生きる人生を歩むようになりました。何が変わったでしょうか?

まず、人生の目的がわかりました。それまでは、「結局、人は死んでしまうだけなら、人生はむなしいなあ」と感じていましたが、私は神様によって造られ、神の栄光を現わすように歩むことを期待していることがわかったとき、生き甲斐のある人生となりました。

第二に、神様がいつも共にいてくださることがわかりました。イエス様を信じて、イエス様の十字架と復活によって、私のすべての罪が赦されたので、神が私と共に、私の心の中に住んでおられることがわかったのです。いつ死んでも天国です。

第三に、永遠の祝福、天国の希望がわかりました。やがて最後の審判で、神様の前に出る時、イエス様が「あなたの罪の呪いは、すべてわたしが十字架で背負いました」と言ってくださるので、無罪であることが宣告されるだけでなく、天国というすばらしい住まいに入れていただくことができるのです。

 

イエス様を信じて罪赦された者であるとはいえ、まるで不十分であることを認めざるを得ませんが、そんな者でもイエス様を信じて生活するうちに、少しずつ変えられていることがわかります。今年61歳になりました。イエス様を信じて43年間、本当によかったなあと思います。この先、この世に何年住まうかは、神のみぞ知るですが、行く先が神の永遠の住まいであることは、ほんとうに安心です。私は、今確信をもって自分の子どもにこう言うことができます。イエス様を信じて、イエス様の声に聞き従いなさいと。それが永遠のいのちです。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

あなたは、天国と地獄、永遠のいのちと永遠の死、どちらに行き着きたいですか。神様はあなたに、主キリスト・イエスにある永遠のいのちを与えてくださいました。それはここに「賜物」とあるように、神からの一方的なギフトなのです。あなたも、このギフトを受け取ってください。苦よもぎや毒の水ではなく、永遠のいのちに生きていただきたいと思います。

主を知るということ エレミヤ書9章1~9節

聖書箇所:エレミヤ書9章1~9節(エレミヤ書講解説教19回目)
タイトル:「主を知るということ」

主の御名を賛美します。今朝も、主のみ言葉を聴きましょう。今日は、エレミヤ9:1~9のみ言葉です。タイトルは「主を知るということ」です。

前回は、「エレミヤの涙」というタイトルでお話しました。エレミヤは、同胞が滅ぼされると聞いて、涙に打ちひしがれました。彼はそれを聞いたとき、いてもたってもいられなかったのです。それはきょうの箇所にも見られます。1節には「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」とあります。これは、どれほど泣いても泣き足りないという意味です。新共同訳では、これを8:23としていますが、そのようにも分けることもできます。ここにもエレミヤと神様の、民に対する心の痛みがよく描かれています。

「優」という漢字は、「人と憂」の合成語ですが、人のために泣く人は優しい人です。エレミヤは「ああ」と叫んで、神への背信行為を続ける同胞イスラエルのために泣きました。いったいなぜユダの民は背信行為を続けたのでしょうか。いったいなぜ滅びなければならなかったのでしょうか。

きょうのところに、その原因が語られています。それは、主を知らなかったからです。3節後半と6節後半に、そのことが繰り返して語られています。主を知らなかったので、彼らは悪の道へと突き進んで行きました。いったい主を知るとはどういうことなのでしょうか。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.不真実な民(1-3a)

 

まず、1~3a節をご覧ください。「1 ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。2 ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。3 「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。」

 

今お話したように、エルサレムの崩壊を告げられたエレミヤは、敵の侵略によって殺される人たちの悲惨さを思い、涙を流します。「私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、昼も夜も、泣こうものを。」とは、どれほど泣いてもなき足りないという彼の思いを表しています。

 

ところが、2節で彼はこう言っています。「ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。」どういうことでしょうか。とてもエルサレムには住んでいられないということです。そこには姦通する者、裏切る者たちがいるので、そんな彼らとは一緒に住めない。だから、もし荒野に旅人の宿を持っていたら、そこに行って、彼らから距離を置きたい、そう言っているのです。あれっ、たった今、彼らのことをあわれんで、どんなに泣いても泣き切れないと言ったばかりなのに、今度は、そんな彼らから距離を置きたいと言っています。ここにエレミヤの心の動きというか、彼の心情がよく表われています。彼らが滅ぼされることを考えると本当にかわいそうで、かわいそうで、何とかならないものかともがいていますが、でも、いくら言っても聞こうとしない彼らには、ほとほと疲れ果てているのです。できれば少し離れたい。だれもいない静かなところで過ごしたい。もし荒野に旅人の宿があったら、そこに逃れて暮らしたい。そういっているのです。そんな彼のジレンマがよく表れているのではないでしょうか。

 

なぜエレミヤは彼らから距離を置きたいと思ったのでしょうか。それは、彼らはみな姦通する者であり、裏切り者だからです。そこには真実がありません。たとえば、ここに「姦通者」とありますが、姦通者とは何かというと、夫や妻を裏切る者のことです。そこには真実の愛がありません。イスラエルの民は、彼らの神、主という夫を裏切る者、姦通者でした。そこには主に対する真実な愛がありませんでした。彼らは裏切り者の集まりだったのです。

 

また、3節には、「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ」とあります。「舌をつがえて」という言い方はあまり聞きませんね。「つがえる」というのは元々、弓に矢をかけることです。それが総じて「曲げる」になりました。ですから、これは「舌を曲げて偽りを言う」ということです。第3版ではそのように訳しています。「彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる」彼らは舌を弓のように曲げて、真実ではなく、偽りをもって地にはびこっていました。嘘つきであったということです。「嘘も方便」という言葉がありますが、方便どころか嘘ばかり言っていました。

 

このどちらにも共通しているのは、真実ではないということです。主が私たちに求めておられるのは何でしょうか。真実であるということです。どれだけ大きなことをしたかとか、とけだけ多くのものをささげたか、どれだけ伝道したかということではなく、真実であること、誠実であること、忠実であるということです。

イエス様はこう言われました。「21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-22)

彼らとは、偽預言者たちのことです。彼らは主の名によって預言し、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって多くの奇跡を行いました。しかし、主はそんな彼らにこう言われるのです。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」恐ろしいです。全然知らないというのですから。個人的に何の関係もなければ、話をしたこともありません。彼らはイエス様を知っているつもりでしたが、イエス様の方では全然知らないと言われるのです。彼らは口では「主よ、主よ」と言っていましたが、そこに真実がなかったからです。偽りだったからです。

 

あなたはどうでしょうか。主があなたをご覧になられる時、何と言われるでしょうか。そこに偽りはないでしょうか。主が荒野に退きたい、あなたから距離を置きたいと思うような、不真実はないでしょうか。主があなたに求めておられるのは真実なのです。

 

「ある夜,ある男が隣人の畑からトウモロコシを盗もうと出かけて行きました。幼い息子を連れて行き,柵の上に座らせて,人が通りかかったときには警告するんだぞと告げて,見張りをさせました。男は大きな袋を腕に抱えて柵を飛び越え,トウモロコシを取り始める前にまず一方を見て,反対を見て,袋に詰めるところを目撃している人がいないか見渡しました。すると,息子が叫びました。

『お父さん,まだ見ていない方向があるよ!・・・上を見忘れてるよ!』」

だれもが受ける誘惑ですが,不誠実であるように誘惑されるとき,だれにも分からないと思うかもしれませんが、でも、天の神様はいつも見ておられます。私たちに必要なことは正直であることです。そうすれば、主はいつも私たちとともにいてくださいます。

 

ピリピ4:8にはこうあります。「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」

どうすれば、神があなたとともにいてくださるのですか。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、また、何か徳とされることや称賛に値することに心を止めることによってです。そうすれば、平和の神があなたとともにいてくださいます。神があなたから離れて荒野にある旅人の宿に住みたいと言われることがないように、真実、全き心をもって主に仕えていきたいと思います。

 

Ⅱ.主を知ることを拒んだ民(20-21)

 

いったいなぜイスラエルの民は不真実の民、偽りの民となってしまったのでしょうか。次に、3b~6節をご覧ください。ここに、その最大の原因が語られています。それは彼らが主を知らなかったからです。「悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。──主のことば──4 それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。5 彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。6 あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む。──主のことば。」」

 

彼らが真実でなかったのは、彼らが主を知らなかったからです。この「知る」ということばは、ヘブル語で「ヤダー」と言います。皆さんは言わないでください。「ヤダー」。神様は「ヤダー」と言いませんが、私たちはよく「ヤダー」と言います。「宿題しなさい」、「ヤダー」。「手を洗いなさい」、「ヤダ―」。「部屋を片付けなさい」、「ヤダー」。「お手伝いしなさい」、「ヤダー」。何を言っても「ヤダー」です。

この言葉が聖書の中で最初に使われているのは、創世記4:1です。ここには、「人は、その妻を知った。」とあります。この「知った」がそうです。この「人」とはアダムのことです。最初の人アダムは、その妻エバを知りました。この「知った」という言葉が「ヤダー」です。これはただ対面してエバという存在を知ったというレベルではなく、もっと親密なレベルで、個人的に、人格的に知ったということです。それが夫婦であれば、性的関係を持つことを表現しています。これ以上に親密なレベルでの知り方はありません。

 

エレミヤの時代、イスラエルの民は主を知っていると思っていました。彼らには主の宮がありました。また、祭司やレビ人がいて、主なる神に動物のいけにえがささげられていました。しかし、確かにそこで宗教的な儀式は行われていたかもしれませんが、それは表面的ものにすぎませんでした。知識としては知っていましたが、自分の伴侶を知るというような深いレベルでは全然知らなかったのです。

 

主を知らないとどうなるでしょうか。4~6節には、その結果三つの状況に陥ると言われています。第一に、人間関係がギクシャクします。4節には、「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。」とあります。

ユダの民は、神様との関係が完全に崩壊していました。神様を個人的、人格的なレベルで深く知っていたのではなく、ただ表面的に知っているにすぎませんでした。そのように神との関係が崩壊すると、人間関係も崩壊することになります。神様との愛の関係が壊れると、それぞれ互いの愛の関係も壊れてしまうことになるのです。神を信じられないので、人も信じられなくなるのです。ここには「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。」とあります。互いに不信感を抱くようになるのです。皆さん、どうして人間関係がうまくいかないのでしょうか。どうして人間関係がギクシャクするのでしょうか。それは神様との関係がうまくいっていないからです。神との関係がギクシャクすると、人との関係もぎくしゃくします。ですから、人間関係がうまくいかない時に考えてほしいことは、あなたと相手との関係がどうかということではなく、あなたと神様との関係がどうかということです。もしあなたと神様と関係が良ければ、人との関係もうまくいきます。

 

4節には「どの兄弟も出し抜き」とありますね。この「出し抜き」という言葉は、ヘブル語で「アーコーブ」と言います。どこかで聞いたことがある言葉じゃないですか。「アーコーブ」、そうです、あの「ヤコブ」という名前の語源となった言葉です。ご存知のように、ヤコブはイスラエルの先祖になった人物です。「ヤコブ」という名前がイスラエルに改名されました。その子孫がイスラエル人です。この「ヤコブ」という名前は、「出し抜く」とか「押しのける」という意味なのです。双子の弟ヤコブは、お母さんのおなかの中で兄のエサウのかかとをつかんで、エサウを出し抜きにいて、押しのけて先に出てこようとしました。長男の座を奪おうとしたのです。それは生まれてからもそうでした。彼は押しのける者だったのです。

そんなヤコブが砕かれる時がやって来ます。叔父のラバンのところで20年間も仕えて、家族と一緒に故郷に戻ってくると気のことです。ヤボクの渡し場で一晩中神と格闘したのです。その時彼のももの関節が外れてしまいました。そのとき、神は彼に言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)彼はヤコブからイスラエルへ、押しのける者から神によって支配される者へと変えられました。名は体を表します。名前が変わったということは、古い性質から新しい性質に代わったことを表しています。これまでは自分が主人となって人を押しのけ、ただ自分だけを信じ、自分の力、自分の思いですべてを成そうとしていました。そんなヤコブが神によって支配される者に変えられたのです。人を押しのけるという古い性質が、神によって砕かれて、神によって支配される者に変えられたのです。

 

それなのに、ヤコブの子孫であるイスラエルは、古い性質に逆戻りしていました。「イスラエル」ではなく「ヤコブ」に戻ってしまったのです。その結果、人を信用できなくなってしまいました。どの兄弟も出し抜き、どの友も中傷して歩き回るようになっていました。人間関係がギクシャクし、完全に崩壊していたのです。それは神を知らなかったからです。神を知らなかったので、人間関係まで崩壊してしまったのです。

 

第二に、神様を知らなかった結果、疲れきるまで悪事を働くようになりました。5節、「彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。」

「疲れきるまで悪事を働く」とは、悪を働くことに熱心であるという意味です。悪を働くことに一生懸命なのです。汗水たらして悪事を働きます。それでも悔い改めません。それほど腐っていたのです。まさにうなじのこわい民です。頑固な民でした。ここまで来たら救いようがありません。そういう状態にまで堕ちていたのです。

 

第三に、神様を知らなかった結果、彼らは人を欺くというだけでなく、自分も欺いていました。6節には「あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む。──主のことば。」とあります。彼らが住んでいたのは欺きの世界でした。うそで懲り固められた世界だったのです。人にも嘘をつくし、自分にも嘘をつきます。嘘だらけです。何一つ本当のことはありません。頭ではわかっていても、それとは裏腹のことをしていたのです。皆さんもそういうことありませんか。何が正しいかがわかっていても、それとは反対の行動を取ってしまうということが。

 

なぜでしょうか。それは、彼らが主を知ることを拒んだからです。知りたくないのです。知識で知っていればそれで十分です。それを心まで引き下げようとしませんでした。そんなことしようものなら、へりくだることが求められるからです。そのためにはプライドを捨てなければなりません。やりたくないこともやらなければならないのです。自分の意志を殺してでも、神のみこころを行わなければならないからです。そんなの嫌です。ヤダモン!となるわけです。イエス様は言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自 分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)

そんなことしたくありません。それは大変なことです。イエス様はゲッセマネの園で、「父よ。みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られました。それは汗が血のしずくのように地にしたたり落ちるほどの壮絶な祈りでした。

でも、同じことが私たちにも求められているのです。私の思いではなく、あなたのみこころのとおりにしてください。これが私たちに求められている祈りです。これが主を知るということなのです。それでも神を人格的に、個人的に知りたいと願う人は、それを厭いませんと。どんな犠牲を払ってでも、神様に近づきたいと願うのです。肉においては拒否反応があっても、霊においてはもっと神様に近づきたい、神様を知りたい、神様と深い関係を持つことを求めるのです。

Ⅲ.最後の希望(7-9)

 

最後に、7~9節をご覧ください。「7 それゆえ、万軍の主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らを精錬して試す。いったい、娘であるわたしの民に対してほかに何ができるだろうか。8 彼らの舌はとがった矢。人を欺くことを言う。口先では友に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む。9 これらについて、わたしが彼らを罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」」

 

それゆえ、万軍の主は彼らを精錬して試されます。彼らを炉の中で精錬されるのです。ちょうど金属の不純物を火で溶かして取り除くように精錬されるのです。本当に価値あるもの、ピュアなものだけを抽出するように、神のさばきを通して彼らを精錬されるのです。

 

いったい、ほかに何ができるというのでしょうか。娘である神の民が神に立ち返るために、ほかにどんなことができるというのでしょうか。彼らの舌はとがった矢です。人を欺くことを言います。口先では友に向かって平和を語りますが、心の中ではそうではありません。心の中では待ち伏せを企みます。常に悪意に満ちているということです。顔ではニコニコしていても、また友達のフリをしながら、いつでも裏切る準備をしているのです。怖いですね。人間というのは。何を考えているのかわかりません。常に悪意を心に含んでいるわけです。そのような人たちは神のさばきを免れることはできません。でもそれは、神のあわれみを尽くした結果だということを忘れてはなりません。最初からさばきを宣告しているのではありません。何度も何度も警告しても心をかたくなにして悔い改めず、神に反抗する者に対しては、さばきしか残されていないということです。

 

しかし、そのさばきの目的は何でしょうか。それは彼らを精錬することです。そのことを忘れてはなりません。神様からの忠告を再三無視し、悔い改めることを拒み、自分勝手な道に進んでいった結果、神は最終的にさばかれるわけですが、そのさばきでさえ、彼らを炉の中で精錬するように聖め、再び建て上げるためなのです。いわば、それは神の民にとって最後の希望なのです。それは具体的には、バビロンによって滅ぼされるということですが、神の民はそれで終わりではありません。神は70年という時を経て、回復の御業を成されるのです。

 

それは私たちも同じです。神に背き、いつまでも頑なに神を拒み続けることでさばきを受けることがありますが、それで終わりではありません。それは私たちを聖めるための神の愛の御業です。いわば、それは私たちにとっての最後の希望なのです。精錬されるのはだれでもイヤです。でもそれで不純物が取り除かれるならば、幸いなのです。

 

ハリソン・フォード主演の映画「心の旅」をご覧になられた方もおられるでしょう。ハリソン・フォード演じる主演のヘンリーが、ある日タバコを買いに行くと、店に押し入った強盗にピストルで撃たれてしまいます。一命は取りとめたものの、すべての記憶を失ってしまいました。昨日まではNYを代表する有能な弁護士。でも今は、自分の家族の顔もわからず、文字も読めないリハビリに励む一人の男です。そんな彼のリハビリを担当した理学療法士がブラッドリーという黒人です。彼は明るく陽気な性格で、ヘンリーが記憶喪失になってからの彼の良き理解者となります。やがて自宅に戻り、職場復帰を果たしたヘンリーですが、以前の自分とのギャップに苦しみ、落ち込んでいる彼を励ますために、ヘンリーの家にやって来ます。実のところ、ヘンリーの妻が彼にお願いしたのですが。そこで彼は、自分がどうして理学療法士になったのかを語るのです。

「おれは大学でフットボール選手だったが、膝の故障で選手生命を断たれた。しかしそのおかけでリハビリ師に出会い仕事を得た。あんたにも会えたし歩かせることもできた。あんたも状況が変化し、別の人生が始まったんた。あれは試練だったんだ。」

ヘンリーはこの言葉に勇気づけられ閉じこもり生活に終止符を打つことができたのです。

 

私たちも、挫折や試練を遭遇すると、これで自分の人生も終わりだと思うことがあるかもしれません。しかし、それは神があなたの人生から信仰の不純物を取り除くために、神が与えてくださった試練なのです。私たちは試練に会うと辛いので、早くこの時を終わらせてくださいと祈りますが、神様は私たちの最善をご存知であって、その痛みを無駄にされないのです。

ですから、このことをぜひ覚えていただきたいのです。たとえあなたの人生の中で精錬されるようなことがあったとしても、それで終わりではないということを。それはあなたを聖めるために、あなたが本当の意味で神を知るようになるための、神の手段であるということを。神は今でもあなたが神のもとに帰って来ることを待っておられます。救い主から離れないようにしましょう。神の慰めと平安が豊かにありますように。

クリスチャンの励まし Ⅰテサロニケ3章1~13節

聖書箇所:Ⅰテサロニケ3章1~13節

タイトル:「クリスチャンの励まし」

 

 きょうは、長谷川先生の説教の予定でしたが、先々週から体調を崩して自宅で療養しておられるため、代わりに私がみ言葉からお話したいと思います。長谷川先生の連行が守られるようにお祈りいただけましたら幸いです。

 

 それではまず、この時間の祝福を覚えてお祈りしたいと思います。

 

本日、私たちに与えられているみ言葉は、テサロニケ人への手紙 第一3章です。この手紙は、パウロがテサロニケにいるクリスチャンに宛てて書いた手紙です。パウロは、第二回伝道旅行でこのテサロニケの町を訪れて伝道しましたが、多くの人たちがパウロとシラスに従ってイエス様を信じました。ところが、そこにいたユダヤ人たちはみたみに駆られ、暴動を起こしたので、パウロ一行はそこにとどまっていることができず、わずか3週間余りで退き、次の宣教地であるベレアに向かうことになりました。信じたばかりのクリスチャンたちのことを考えると気が気でなかったパウロは、何とか彼らのところに行って励まそうとしましたが、なかなかその道が開かれなかったので、自分たちはアテネに残り、弟子のテモテを遣わしたのです。

すると、テモテがすばらしい知らせを持ち帰ってくれました。それは、彼らがそうした激しい迫害の中にあっても信仰に堅く立ち、マケドニアとアカヤのすべての信者の模範になっているということでした。この時パウロ一行は、次の伝道地のコリントにいましたが、その知らせを聞くと飛び上がるほどうれしかったというか、大いに慰めを受けたのです。

このことから、クリスチャンの励ましとはどのようなものなのかを知ることができます。

 

 Ⅰ.ほかの人のことを顧みる(1-5)

 

第一に、クリスチャンの励ましとは、常に他の兄弟姉妹たちのことに心を配り、その霊的状態を覚えて祈るものであるということです。まず、1節から5節までをご覧ください。「1 そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、2 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。4 あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。5 そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。」

 

1節の「そこで」とは、今お話したように、迫害の中にいるテサロニケのクリスチャンを励まそうと、パウロは何とかして彼らのところに行こうしましたが、サタンが彼らを妨げたので(2:18)行くことができなかったので、という意味です。そこで、パウロはもはや耐えきれなくなって、自分だけがアテネにとどまり、弟子のテモテをテサロニケに遣わしたのです。パウロはなぜそんなにも彼らの顔を見たいと思ったのでしょうか。彼らのことが心配だったからです。イエス様を信じたことでユダヤ人からの激しい迫害に遭い、果たして彼らは大丈夫だろうか、中には信仰を捨てて元の生活に逆戻りする人が出ているのではないだろうか、そうしたことが心配だったのです。イエス様が弟子たちを宣教に遣わす時、それは狼の中に羊を送り出すようなものだと言われましたが、まさにクリスチャンがこの世にあって生きるのは、狼の中に羊を送り出すようなものなのです。様々な出来事によって、信仰が揺さぶれることが多いのです。まして救われたばかりの信者たちがそうした艱難に遭ったら、ひとたまりもありません。ですから、パウロはテモテを彼らのところに遣わし、そうした苦難の中でもだれも動揺することがないように強め励まそうとしたのです。

 

このことから、クリスチャンの励ましとはどういうものなのかがわかります。それは、常に他の兄弟姉妹たちのことに心を配り、その霊的状態を覚えて祈るものであるということです。そして、様々なことで動揺して信仰から離れてしまいそうな人たちを励ますものであるということです。

 

今、C-BTEを学んでおりますが、C-BTEと聞いて、「何だろう、C-BTEとは?」という人もおられるかと思います。C-BTEとは、Church Beast Theological Education」の頭文字を取ったもので、日本語では「教会主体の神学教育」と言います。聖書の教えの核となる基本的な原則を学ぶものです。先週もこのC-BTEがありまして、そこでのテーマは「福音の進展のために投資する」というテーマでした。福音が進展していくために、私たちはどうしたら良いかということです。その鍵は、ピリピ2:2にあります。それは、「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、」(ピリピ2:2)ということです。

まず、同じ思いとなること。そして、同じ愛の心を持つこと、また、心を合わせ、最後に思いを一つにすることです。しかし、これがなかなかできないんですね。それは教会だけではありません。それが家族であっても、職場であっても、何らかの仲間であってもそうです。なかなか一つになることができません。皆が一つとなったらどれほど大きな力が表れることでしょうか。しかし、それができない。どうしてだと思いますか。どうして一つになることができないのでしょうか。その原因はどこにあるのでしょうか。

ピリピ人への手紙2章には、続いてこう記されてあります。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:3-4)

つまり、自己中心、無関心であることです。これが、一致を妨げる最大の要因です。それぞれ意見や思いが違っていてもいいのです。そうした違いがあっても、その中で一つになることができるのです。それは、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことによってです。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みることによってです。そうすれば、同じ思いを持つことができます。へりくだるというのは、「ああ、自分はだめな人間だ」と自己卑下することではありません。へりくだるとは、自分のことだけでなく、他の人のことを顧みることです。互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことなのです。そうすれば、一つになることができます。

その究極的な模範を、イエス様のうちに見ることができます。ピリピ2章では続いて、こうあります。「6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」

キリストは神であられる方なのに、神であるという考え方に固執しないで、自分を捨て、実に十字架の死にまでも従われました。それは私たちを罪から救うためです。これが真に謙遜であるということです。イエス様は私たちのことを顧みて、私たちを罪から救うために、実に十字架の死にまでも従われたのです。それは私たちの模範です。同じように、私たちも自己中心や虚栄ではなく、互いに人を自分よりもすぐれた者と思わなければなりません。自分ことだけでなく、他の人のことも顧みなければなりません。それがクリスチャンの励ましです。

皆さんは、どれだけ教会の他の兄弟姉妹のことを顧みているでしょうか。どれだけそのために祈っておられるでしょうか。

 

5節には、「誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思い、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです」とあります。パウロはちゃんと知っていました。彼らがそうした事態に直面したときどんなに気弱になるのかを。また、その弱さに付け込んで誘惑者である者、これはサタンのことですが、サタンがどんなに巧妙に働きかけてくるのかを。私たちは全能の神を信じる者として、神がいつもともにいて助けてくださるということを信じていますが、そうした事態に置かれるとすぐに躓いてしまいやすいのです。羊のようにか弱い存在なのです。特に、誘惑者であるサタンは、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っています。私たちには、そうしたサタンの誘惑に勝利するだけの力はありません。神様は力ある方だと信じていても、その神から離れてしまえば、私たちには何の力もないのです。そのような時、いったい私たちはどうやって信仰に立ち続けていることができるでしょうか。互いに励ますことによってです。クリスチャンは互いの信仰の状態や戦いについて無関心であってはなりません。おせっかいにならないように注意しなければなりませんが、お互いの霊的状態に心を配りながら、動揺することがないように、堅く信仰に立ち続けることができるように励まし合わなければならないのです。

 

 無理です!私は自分のことで精一杯なんですから。とても他の人のことまで気を配る余裕なんてありませんと言われる方もおられるでしょう。しかし、実際は逆です。あなたが聖書のみ言葉を信じて、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みるなら、あなた自身が恵まれ、強められていくことになるのです。それが愛です。

 

信仰から離れていく人は、ある日突然そうなるのではありません。実はそれ以前からその兆候が見られるのです。礼拝が休みがちになったり、クリスチャンとの交わりを避けるようになります。そういうシグナルを事前に送っているのです。それを早期に発見して、手遅れにならないように励ましていれば、その中の相当数の方々は信仰にとどまっていることができたのではないかと思います。ですから私たちは他のクリスチャンの霊的状態に常に心を配りながら、励ましていかなければならないのです。

 

ところで、2節に「励まし」ということばですが、これはギリシャ語で「パラクレオー」ということばです。この「パラクレオー」という言葉は、神の聖霊を表す「助け主」(パラクレートス)の動詞形で、「パラ」と「カレオー」の合成語です。「パラ」という言葉は「そばに」という意味で、「カレオー」は「呼ぶ」です。つまり、その人にとってキリストがそばにおられることを確信できるようになるとき、その人は本当の意味で励ましを受けることができるということです。パウロはどのようにその励ましを与えようとしたのでしょうか。

 

3節を見ると、彼は「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように」テモテを遣わしたとあります。また、5節でも、「あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。」とあります。初代教会の交わりの豊かさは、このように実際に会って目に見える形での交わりにあずかりたいと熱心に願っていたことにあります。彼らはただメールでのやりとりとか、「祈っています」といったお決まりの挨拶程度の交わりではありませんでした。彼らの交わりは、実際に会って顔と顔とを合わせ、手と手を握りしめ、互いに声を掛け合う交わりだったのです。使徒ヨハネはそのことを次のように述べています。「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」(Ⅱヨハネ12)

 

また10節には、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」とあります。彼らの交わりは、顔と顔を合わせての交わりだったのです。私たちはメールやLINE、ZOOMといった様々な通信手段がありますが、そうした様々な通信手段の中でこうした交わりの原則を忘れがちになりがちですが、顔と顔を合わせての交わりの豊かさと祝福というものを大切にしていきたいものです。

へブル人への手紙10章25節にはこうあります。「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」なぜいっしょに集まることをやめたりしてはならないのでしょうか。それは、この顔と顔を合わせての交わりが重要だからです。いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそのようにすることを、聖書は勧めているのです。

 

 また、そればかりではなく、パウロはテサロニケの人たちにこう言っています。3節、「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」 どういうことでしょうか。ここでパウロははっきりと、クリスチャンの苦難は「定められている」と言っています。それは思いがけないことではなく、当然のことであるというのです。また4節にあるように、それはまたテサロニケに滞在していた時に前もって言っておいたことですが、それが今、果たしてその通りになっただけのことなのです。すなわち、こうした苦難は先刻承知のことであるということです。ですから、決してあわてふためいたり、信仰をぐらつかせてはならないのです。

 

以前、小中学生がいとも簡単に自殺するという事件が相次いだ時がありました。いったい原因はどこにあるのかとその理由を調べてみると、たとえば、ほしい物を買ってもらえなかったとか、教師や親に厳しく叱られたことが引き金になって、自殺するというケースが多いということがわかりました。それで、人生には自分の思うようにいかないことが多いということ、そしてそれに耐えることも大切であるということを教えなければならないと結論付けました。しぶとく生きる気構えを常日頃から植えつけられていないことが、あまりにももろく、あまりにも早く死に急ぐ子供たちが続出していることの背景にあるのではないかという反省がなされたのです。困難なことにぶつかったとき、それに対する心構えがあるかないかで、困難を乗り切る力が大きく左右されるというのです。

 

それはある意味で信仰生活にも言えることです。新たに信じた人や求道中の人に向かって私たちはよく「クリスチャンになるとすべてがうまくいくよ」ということがありますが、実際はそうではありません。むしろ、そうでないことの方が多いのです。私たちはこのような苦難にあうように定められているのですから。そういうことを最初から覚悟しつつ、困難に対する心構えも同時に持つように勧めていく必要があります。その中で、キリスト教の救いがどんな確かで、苦難に勝ち得てあまりあるものであるすばらしいものなのかをあかしして、励ましていかなければならないのです。

 

 Ⅱ.一方通行ではない(6-10)

 

第二に、クリスチャンの励ましとは、一方通行ではないということです。それは、良いものを分かち合う励ましであるということです。6~10節をご覧ください。「6 ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。7 こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。8 あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。9 あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。10 私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」

 

テモテがテサロニケからパウロのところに戻ったのは、パウロがコリントにいた時でした(使徒18:5)。そして、テモテの報告はパウロたちに大きな喜びをもたらしてくれました。それは、テサロニケの人たちがパウロの予想をはるかに越えて、主にあって堅く信仰に立っていたからです。そればかりか、彼らの互いの間に愛が満ち溢れていたからです。また将来の、キリストの再臨の希望を持っていました。テサロニケの教会には、信仰と希望と愛に溢れていたのです。

 

仮にテモテが、テサロニケには大勢のクリスチャンがいたけれども、何だかちょっと変なんだよな、パウロが宣べ伝えた福音とは少し異なるものを信じていたとか、彼らは迫害に意気消沈して、次から次に信仰から離れて行ったということを聞いたらどうだったでしょう。ひどく落ち込んだのではないかと思います。あるいは、彼らが互いにいがみあい、仲たがいをしていたということを聞いたら、深く悲しんだに違いありません。けれども今、テモテが持ち帰った報告は、こうした心配や不安を一掃するすばらしい知らせでした。

 

また、彼らはパウロたちのことをいつも考えていて、パウロたちが彼らに会いたいと思っているように、彼らもしきりにパウロたちに会いたがっているということを聞いて、慰めを受けました。それは遠く離れていても、彼らもまた祈りの中でパウロたちのことを思っているということがわかったからです。

 

 このようなわけで、パウロはテサロニケの人たちの信仰によって、逆に慰めを受けました。パウロの宣教の働きは苦しみの連続でしたが、そうした押しつぶされそうなプレッシャーやストレスとの中でも、こうした彼らの信仰は、オアシスのような慰めをもたらしたのです。

 

このことから、クリスチャンの励ましについてのもう一つの大切な原則が教えられます。それはクリスチャンの励ましというのは、一方通行ではないということです。クリスチャンの励ましは、互いに良いものを分かち合う関係なのです。ちょうど愛情を注いで子供を育てると、その子供からも多くの喜びと慰めを受けるように、クリスチャンの励ましも互いに良いものを分かち合う関係なのです。パウロほどの人物であれば、直接神から慰めを受けているのだから十分だろう、人間からの慰めや励ましなど必要ないと考えられがちですが、そうではありません。パウロもまた励ましを必要としていました。パウロはピレモンに書いた手紙の中で、「あなたの愛から多くの喜びと慰めを受けました。」(ピレモン7)と言っていますが、激しい霊的戦いの中に置かれ、大きな責任を持っている人ほど、その孤独で厳しい働きのゆえに他の人からの励ましと慰めを誰よりも必要としているのです。それは牧師も例外ではありません。牧師も励ましと慰めを必要としています。その慰めと励ましは、何よりも教会の一人一人がイエス様、神様を心から愛し、信仰に堅く立ち、喜んで主のみこころに歩む姿を見ることでしょう。

 

そして、こうしたテサロニケの人たちのような信仰の姿を見ることは、彼にとっての生きがいでもありました。8節には、「あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。」とあります。第三版では、「あなたがたが主にあって固く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。」と訳されています。パウロの生きがいは、人々が主にあって堅く立っているということでした。それは何にも代えがたいほどの力と励ましを彼に与えてくれたのです。パウロにとって他の兄弟姉妹の信仰の成長を見ることなしには、生きる目的も喜びもありませんでした。彼は自分だけの信仰が保たれ、神との交わりが満たされて満足するような信仰ではありませんでした。主にある兄弟姉妹とのよき信仰の分かち合いを離れては、クリスチャンとして存在価値を見いだせないと思うほど、他の兄弟姉妹のことを思い、彼らが主にあって堅く信仰に立っていてくれることを生きがいとしていたのです。

 

あなたの生きがいは何ですか。私たちはパウロの生きがいを生きがいとしたいものです。自分の喜びや満足ではなく、他の兄弟姉妹が信仰に堅く立っていてくれることを喜び、そのことを切に祈り求める者になりたいと思うのです。

 

Ⅲ.パウロの祈り(11-13)

 

 第三に、パウロの祈りです。11~13節までをご覧ください。「11 どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12 私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。13 そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」

 

テモテの報告を聞き、テサロニケの人たちの信仰を知ったパウロは、喜びに満ち溢れ、神への感謝と祈りへと導かれました。パウロはここで三つのことを祈っています。

 

第一に、11節にあるように、彼らがテサロニケに行くことができるように、主がその道を開いてくださるようにということです。これは2:18で、パウロたちが彼らのところに行こうとしても行けないのはサタンがそれを妨げているからだと言っていますが、その障害を取り除いてくださるのは全能の神ご自身です。パウロは、人間のどのような熱い思いや願いをもってしても、神が道を開いてくださらなければそれは不可能であることを知っていました。また、逆に、それがどんなに難しい状況にあっても神様が道を開いてくださるなら、必ずそれは可能になると信じていました。すべては神のご計画と導きの内になされるのです。私たちも私たちの置かれている環境の中で、神様が道を開いて導いてくださるように祈らなければなりません。

 

第二に、パウロは12節にあるように、彼らの互いの間の愛が増し加えられるようにと祈っています。苦難の中にある教会は、その問題が解決し良い方向へ動き出すと、兄弟姉妹相互の結束が深められ、これまでにない愛の一致が生み出されます。しかし、同時にそれは逆の作用を生み出すこともあります。たとえば、迫害する者に対して憎しみを持つことが正当化されたり、そうした苦しみの中で動揺する弱い信仰者をさばいたりといったことです。心にゆとりを与えないほどの困難な事態は、兄弟姉妹の間にさまざまな軋轢を引き起こしやすいのです。だからパウロは、「あなたがたの互いの間の愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と祈っているのです。苦難だけが満ちて愛が失われた教会は悲惨ですが、苦難が増すにつれて愛に満ちていく教会は、決して動揺したり倒れたりすることなく、そこに神の栄光が豊かに現されていくからです。

 

第三にパウロは、キリストの再臨についても祈っています。13節です。真の愛に満ちたクリスチャン生活とは、主が再び来られる日に備えて、聖く、責められるところのない者として整えられていく生活だからです。主イエスは終末の前兆として、多くの人たちの愛が冷えると言いました(マタイ24:12)。また、パウロは終わりの日にやってくる困難な時代には、自分を愛したり、金を愛したり、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者が出てくると言いました(Ⅱテモテ3:1-3)。まさに今はそのような時代ではないでしょうか。愛と聖さが急速に失われている時代です。そういう時代にあって私たちは、この二つの特質をしっかりと追い求め、キリストの再臨に備えて主にある信仰の友がしっかりと整えられるように祈り求めていかなければならないのです。

 

私たちはますます、主によって心を強めていただかなければなりません。苦難は必ず訪れます。しかし、たとえ苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように励ましていく。それがクリスチャンの真の交わりです。私たちが目指す教会は、そのように互いに励まし合って、しっかりと信仰に立ち続け、主が私たちに与えてくださった大宣教命令を担う教会なのです。

エレミヤの涙 エレミヤ書8章18~22節

聖書箇所:エレミヤ書8章18~22節(エレミヤ書講解説教18回目)
タイトル:「エレミヤの涙」

きょうは、エレミヤ書8章後半から「エレミヤの涙」というタイトルでお話します。前回のところで主は、エレミヤを通して「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか」と、自然の法則を用いて語られました。しかし、彼らは主のもとに帰ろうとしませんでした。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言って、主のことば、主の招きを拒んだのです。その結果、主は彼らにさばきを宣告されました。12節にあるように、「彼らは倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる」ことになったのです。具体的には、バビロン軍がやって来て、エルサレムとその住民を食らうことになります。17節にある「まじないの効かないコブラや、まむし」とはそのことです。神様はバビロン軍を送って、彼らを食い尽くすと宣言されたのです。

それを聞いたエレミヤはどうなったでしょうか。18節をご覧ください。ここには「私の悲しみは癒されず、私の心は弱り果てている。」と言っています。エレミヤは、同胞イスラエルの民が滅びることを思って死ぬほどの悲しみに押しつぶされました。彼はとても複雑な心境だったと思います。こんなに神様のことばを語っているのに受け入れず、耳を傾けようとしなかったのですから。普通なら「だったら、もう勝手にしなさい!」とさじを投げてもおかしくないのに、その悲惨な民の姿を見てエレミヤ自身が涙しているのです。それは、エレミヤがユダの民と一体となって民の苦しみを、自分の苦しみとして受け止めていたからです。それは神に背き続ける民に心を痛め、嘆きながらも、それでも彼らをあきらめずに愛される神様の思いそのものを表していました。きょうはこのエレミヤの涙から、神に背き続ける民に対する神の思い、神の愛を学びたいと思います。

 

Ⅰ.民の思い違い(18-19)

 

まず、18~19節をご覧ください。「18 私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。

8:19 見よ。遠い地から娘である私の民の叫び声がする。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」」

 

19節の「遠い地から」とは、バビロンのことを指しています。ユダの民はバビロンに連行されて行くことになります。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。実際にはこの後に起こることですが、エレミヤは預言者として、その時のユダの民の姿を幻で見ているのです。彼らはそこで悲しみ、嘆いています。そして、このように叫ぶのです。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」どういうことでしょうか。

「シオン」とはエルサレムのことです。これは7章に出てきた民のことばに対応しています。7:4で彼らは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫びました。エルサレムには主の宮があるではないか、だったら滅びることがないという間違った思い込みです。これは彼らの勝手な思いに基づくものでした。そこにどんなに主の名が置かれている神殿があったとしても、主のことばに従い、行いと生き方を改めなければ何の意味もありません。それなのに彼らは、ここには主の宮があるから大丈夫だ、絶対に滅びることはないと思い込んでいたのです。それなのにそのシオンは滅ぼされ、神の民はバビロンに連行されて行きました。いったいどうしてそのようになったのか、主はシオンにおられないのかと嘆いているのです。

 

それに対して主は何と言われたでしょうか。19節の次の「」のことばを見てください。ここには、「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」とあります。これは主なる神様の御声です。民の叫び、嘆きに対して、主が答えておられるのです。つまり、主がシオンにおられるかどうかということが問題なのではなく、問題は、彼らが犯していた偶像礼拝にあるというのです。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、主の怒りを引き起こしていました。それなのに、「主はいないのか」というのはおかしいじゃないかというのです。思い違いをしてはいけません。主の宮があれば何をしてもいいということではありません。たとえそこに主の宮があっても、偶像礼拝をしていたら、むしろ神の怒りを引き起こすことになります。それは神様の問題ではなく、神の民であるイスラエルの問題であり、彼らの勝手な思い違いによるものだったのです。

 

このことは、私たちにも言えることです。時として私たちも何らかの問題が起こると、自分の問題を棚に上げ神様のせいにすることがあります。「もし神様がおられるのなら、どうしてこのようなことが起こるんですか」「神様が愛のお方なら、このようなことを許されないでしょう。」と叫ぶことがあります。でも私たちはそのような問いが正しいかどうかを、自分自身に問うてみなければなりません。自分が神様に従っていないのに、あたかも問題は自分にではなくだれか他の人であったり、神様のせいにしていることがあるのではないでしょうか。

 

たとえば、ここには偶像礼拝について言及されていますが、イスラエルの民は、それぞれ自分の思いつくものを拝んでいました。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、神の怒りを引き起こしていました。2:27には「彼らは木に向かって、『あなたはわたしの父』、石に向かって『あなたはわたしを生んだ』と言っている。」とありますが、木や石に向かってそのように言っていました。当時のイスラエルは農業に依存していたので、私たち以上に天気には敏感だったでしょう。ですから、神の民が約束の地に入った時も、土着の宗教であったバアルやアシュタロテといった偶像に惹かれて行ったのも理解できます。自分たちの生活とかいのちに直接影響を与えるようなものに、しかも目に見えるものに、だれでも頼りたくなりますから。これは昔だけでなく今でもそうです。たとえば、健康のことや経済のこと、あるいはこれから先のことで多くの人は不安を抱えています。だからこそこの天地を造られた神様を頼ればいいものを、そうは問屋は降ろさないわけです。目に見える何かに頼ってしまいます。昔ならバアルやアシュタロテといった偶像でしょうが、現代ではそれが姿を変え、たとえば自分の力や努力であったり、お金であったり、健康であったりするわけです。母が生きていた時の口癖があります。それは「健康が一番だ!」という言葉です。クリスチャンになってからもしょっちゅう言っていました。「健康一番!」確かに健康は大切なものですが、その健康でさえ神様からの贈り物だということをすっかり忘れています。健康も経済も、すべて神からの賜物なのです。詩篇127:1~2にこうあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きは空しい。あなたが朝早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(詩篇127:1-2)

新改訳改訂第3版では、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」と訳されています。主は愛する者には、眠っている間に、このように添えてくださるのです。

 

今週は修養会が持たれますが、テーマは「教会を建て上げる喜び」です。教会が神の家族としてしっかりと建て上げられるように、そして、神様のご計画の中心であるより多くの教会を建て上げていくための心構えを学びます。そのためには働き人が必要ですね。イエス様も言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 と。ですから、私は毎日そのために祈っていますが、これってそう簡単なことではありません。

しかし、先月娘の結婚式でシカゴに行ったとき、日曜日に近くの教会に行った時のことです。Faith Bible Churchという教会でした。すると礼拝後に、1人の若い青年が私たちのところに来て挨拶してくれました。彼はHenryという名前の人で、高校を卒業したばかりでこれからムーディー聖書カレッジで学ぶために備えているということでした。彼は小さい時から宣教師になるように召されていて、その少し前にも南米エクアドルに短期宣教に出かけて帰って来たばかりだと話していました。でも自分の母親がラオスの出身ということで、いつかアジアの国々、特に中国か、韓国か、日本に、宣教師として行きたいと教えてくれました。礼拝後に昼食会があったので参加したら彼のお母さんがやって来て、彼にどんなにタラントが与えられているかを教えてくれました。語学は英語とスペイン語のほかにラオス語、中国語ができます。スポーツも得意で特にバレーボールでは全米の大会に出場したほどです。そればかりか音楽も得意でヴァイオリンも弾くことができ、大学に行ってからは交響楽団に所属することになっていると教えてくれました。何でもできる優秀に人材を、神様は宣教師のために備えておられることを知ったとき、私は、あの聖書のことばを思い出したのです。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」私たちは何でも自分の力で何とかしようとしますが、そこには神様がいません。主が家を建てるのでなく、自分で建てようとしている。それは偶像礼拝と同じです。そうした偶像を抱えながら、「主はシオンにおられないのか」と言うのはおかしいのです。

 

私たちはそうした思い違いをしないように気を付けなければなりません。神様を自分の手の中に収められるかのように思いそれを言い訳にして嘆くのではなく、神様を神様として、その神様を恐れ、神様に従っているかどうかということを吟味しなければならないのです。

 

Ⅱ.エレミヤの涙(20-21)

 

次に、20~21節をご覧ください。イスラエルの民の嘆きが続きます。次に彼らはこのように嘆いています。20節、「20 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

エレミヤは、さらに預言者の目で将来を見ています。ユダの民は、捕囚の民となった自らの運命をこう嘆いています。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

何とも悲しい詩です。これほど悲しい詩はありません。「刈り入れ時」とは、春の刈り入れ時のことを指しています。春の刈り入れの時が過ぎ、夏が過ぎても私たちは救われていないと嘆いているのです。収穫の時が来ているのに収穫の喜びがありません。つまり、捕囚の状態から解放されていないということです。

 

その民の嘆きを見たエレミヤは何と言っていますか。21節です。彼はこう言っています。「娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる。」

エレミヤは、民が傷ついているのを見て、深い悲しみに襲われました。決して他人事とは思えないのです。民が傷ついているのを見て、自分も傷つき、悲しみに打ちひしがれました。もう感情を抑えることなどできません。そのこみ上げてくる感情を、ここでさらけ出しているのです。涙とともに・・。

 

9:1を見ると、そのことがよくわかると思います。9:1でエレミヤはこう言っています。「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」

エレミヤは民の救いのために生きていました。それなのに、その民が目の前で死んでいくのです。それを見た彼は、ただ泣くしかありませんでした。彼が泣き虫だったからということではありません。同胞が死んでいくのを見てあまりにも悲しくて涙が止まらなかったのです。私はあまり泣きません。あまり泣かないので涙腺が乾いてドライアイになったほどです。時々テレビを見ていて感動して涙を流すことがありますが、そういう時でも妻にわからないようにそっと鼻をすすります。まして、人前で泣くことはほとんどありません。どこか恥ずかしいという思いがあるんでしょうね。でもエレミヤはそういうレベルではありませんでした。泣くとか、泣かないとかということではなく、泣かずにはいられなかったのです。同胞イスラエルの民のことを思うとあまりも悲しくて、あまりにも辛くて、涙が溢れてきたのです。信仰ってこういうことだと思うのです。信仰とはただことばだけではなく、それを全身で受け止めるというか、心で感じることなのです。

 

エレミヤは、4:19で何と言いましたか。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と言いました。それはこういうことだと思うんです。彼はユダの民に対する神のさばきが下るということを聞いたとき、はらわたが悶えると表現しました。はらわたが引き裂かれるような思いであったということです。それはエレミヤにとって耐えがたいほどの苦しみであり、耐えがたいほどの悲しみだったからです。エレミヤはそれを、自分の苦しみとして受け止めたのです。

 

それは私たちの主イエスもそうでした。ルカ19:41には、「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。」とあります。都とはエルサレムのことです。イエス様はラザロが死んだときも涙を流されましたが、ここでも、神の都エルサレムのために泣かれました。やがてエルサレムが滅ぼされてしまうことを知っておられたからです。この「泣く」とことばは、テレビを見て感動して涙を流すというようなレベルではなく、大声を出して泣くという意味です。一人の男が皆の前で、大声で泣いているのです。それは、エルサレムが滅ぼされることになるからです。実際エルサレムは、イエス様がこの預言を語られてから30年後に、ローマによって滅ぼされることになります。そのことを知っておられたイエス様は大声で泣かれたのです。エレミヤもそうでした。エレミヤも、この時から約20年後にエルサレムがバビロンによって滅ぼされ、神の民が捕囚の民としてバビロンで苦しむ姿を見た時、大声で泣いたのです。ただイエス様の場合は、それを見て深く悲しみ、涙を流されただけではありませんでした。イエス様は人々の痛みや悲しみをその身に負われました。ツァラアトという重い皮膚病の人がご自分の前に来た時には、感染するかもしれないという恐れの中でも、深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、こう言って癒されました。「わたしの心だ、きよくなれ。」(マルコ1:41)いわゆる濃厚接触ですね。コロナの感染が収まらずソーシャルディスタンスが叫ばれている今では考えられないことです。またイエス様は、当時差別されていた罪人や取税人たちと一緒に食事をされました。これも濃厚接触です。イエス様は罪に病んでいる人を見てただあわれまれたというだけでなく、その傷を癒すために、自ら肉体を取ってこの地上に来てくださり、その痛みを一身に受けられたのです。イエス様は天国からテレワークをされたわけではありません。イエス様は神様ですからテレワークも出来たでしょう。でも神の子は罪人と同じ姿を取られ、罪人に触れて罪人を癒してくださいました。そして最後はその罪をご自身の両肩に十字架を負ってくださり、神の怒りを私たちに代わって死んでくださいました。それが私たちの主イエスです。ただ遠くから見つめているだけではありませんでした。痛み、悲しみ、悩み、苦しんでいる人と同じ姿となりそれを共に担うこと、それが愛です。それが信仰なのではないでしょうか。エレミヤがここでこんなにも痛み、苦しみ、うなだれ、絶望したのは、民の痛みを負い、それを自分のこととして担ったからでした。あなたはどうでしょうか。そのような魂への情熱があるでしょうか。そのような愛を実践しているでしょうか。

 

1800年代半ば、南アフリカで宣教したアンドリュー・マーレ―は、宣教を「教会の究極のもの」と考え、南アフリカのリバイバルに貢献しました。そのアンドリュー・マーレ―が、次のようなことばを残しています。

「ああ、魂が滅びつつあるというのに、私は何と安楽に満足して生活していることだろうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちは何と少ししか感じることができなかったのだろうか。私たちの心に休むことができなかったほどに、魂への情熱が満ち溢れていたならば、私たちは今の私たちと非常に違った存在になったであろうに。」

アンドリュー・マーレ―のことばです。魂が滅びつつあるというのに、私たちは自分さえよければいいと思っています。自分さえ天国に行けるならそれでいいと思っているのです。あとは気楽に何不自由のない生活ができればそれでいいと。でも実際にイエス様を信じなければ、彼らの魂は滅んでしまいます。それなのに、何と安楽に満足した生活をしていることでしょうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちはあまり感じてはいないのではないでしょうか。魂への情熱が満ち溢れていたら、今の自分とは非常に違った存在になるのではないかと、アンドリュー・マーレ―は言ったのです。あなたはどう思いますか。

 

第二次世界大戦時に、ナチスによって処刑されたドイツの神学者にボンヘッファーという人がいました。彼はヒトラーの暗殺計画に関わって、ドイツ敗戦の直前に39才の若さで処刑されました。ヒトラー暗殺計画ですから殺人計画に加わったということになります。そのことについて彼は後にこう言っています。「目の前に暴走しているトラックがあり、そのトラックが次々と人を跳ねていたら、その運転席から運転手を引きずり降ろさないだろうか。あなたはどう思うか。」そういう言い方をしています。私たちも彼の生き方をどう捉えるかが問われるわけです。

実は、彼はアメリカに亡命するチャンスがありました。1936年6月に、アメリカの著名な神学者にラインホルド・二―バーという人がいて、彼に招かれてアメリカに渡りました。そこで仕事を紹介され、働く道も用意されていました。それは、若くて将来が期待されていたボンヘッファーが殺されてしまうことを心配したニーバーが、配慮してくれたことによるものでした。その時の日記が残っています。1939年6月13日の日記にボンヘッファーはこう記しています。

「今まで蛍など見たことがなかった。全くファンタジーに溢れた光景だ。非常に心のこもった、肩ひじ張らないもてなしを受けた。にもかかわらず、ここで自分に欠けているのは、ドイツと兄弟たちだった。初めて一人で過ごした時間が、重苦しくのしかかってくる。どうしてここに自分がいるのか理解に苦しむ。たとえそれに深い意味があったとしても、また、償って余りあろうとも、毎晩最後に行き着くところは、聖書日課と故郷に残してきた仕事への思いである。祖国(ドイツ)のことについて何の知らせも受けずに過ごすようになってから、かれこれもう2週間になる。これはほとんど耐え難いことだ。」

ボンヘッファーには、ドイツの人たちを祖国に残してアメリカに来たことに対する疑問と、自責の念があったのです。それで彼はドイツに戻る決断をします。そして、ニーバーに宛てて手紙を書き送るのです。そこにはこう書きました。

「もし私がこの時代の試練を同胞と共に分かち合うことをしなかったら、私は戦後のドイツにおけるキリスト教の再建に与る権利を有しないでしょう。」
 彼は、旧約聖書と新約聖書の聖書日課を読んでいましたが、ある日読んだ聖書箇所にこう書かれてありました。「何とかして冬になる前に来てください。」(Ⅱテモテ4:21)これはパウロがテモテに宛てて書いた手紙のことばです。「冬になる前に来てほしい」。ボンヘッファーは、これを自分に語られたことばとして受け止めたのです。

彼はドイツ人の苦しみを背負って生きようとしました。私たちも小さなキリスト者ですが、キリスト者という名前を持っている者です。エレミヤは預言者として民の苦しみを負って生きましたが、私たちも小さなキリスト者として、この社会であったり、自分の家であったり、教会であったり、それぞれ置かれたところで、その破れ口に立ち、その痛みや苦しみを共に負い、祈り、キリスト者としての務めを全うさせていただきたいと思うのです。

 

エレミヤはこの苦しみを背負うことで、お腹が痛くなったり、もだえ苦しんだり、泣けてきたりしましたが、苦しみや悲しみを負うということはそういうことだと思うんです。私たちはそこから逃れることはできないし、逃れてはいけないと思います。なぜなら、イエス様は私たちのために十字架を負ってくださったからです。そのイエス様に従って行く者に求められているのは、十字架を負うということだからです。イエス様はご自分についてくる者に、その心構えとしてこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

私たちにも、それぞれ自分の十字架があります。エレミヤもそうでした。その十字架を負ってイエス様について行くことが求められています。イエス様は十字架を通って復活されました。十字架を通らなければ復活の栄光に至ることはできません。私たちも十字架を通って復活の栄光に至る者になりたいと思うのです。

 

Ⅲ.ここに真の医者がいる(22)

 

最後に、22節をご覧ください。「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。」

これもエレミヤのことばです。「乳香」とは、傷を癒す薬として用いられていました。「ギルアデ」は、ヨルダン川の東側の地域のことです。そこには傷を癒す乳香がありましたが、その乳香がないのか、どうして癒すことができないのかと、そのもどかしさを表現しているのです。また、傷口を癒すことができる医者はいないのかと嘆いています。皆さん、どうですか。民の傷を癒す薬はないのでしようか。その傷を癒すことができる医者はいないのでしょうか。います!それは私たちの主イエス・キリストです。私たちの主イエスは、私たちの罪のための苦しみ、すべての傷をいやすことができます。なぜなら、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださったからです。私たちは、ギルアデの乳香によってではなく、主イエスの打たれた傷、流された血潮によって癒されるのです。その結果、私たちは罪と悪魔の支配から完全に解放されます。

 

それなのに私たちはなかなか主の許に行こうとしません。目の前に治療の手段があるのに、それを用いようとしないのです。残念ですね。救いは目の前にあるのに、癒しは目の前にあるのに、罪の赦しはすぐそこくにあるのに、解決は目の前にあるのに、それを受け取ろうとしないのです。

神様はどんな病気でも癒すことができます。どんな罪でも赦すことができます。どんな問題やトラブルでも解決することかできます。でも神様がどんなに薬を提供しても、どんなにすばらしい治療を約束しても、それを受けなければ癒されることはできません。

 

イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)

これは、健康な人には医者はいらないということではありません。というのは、すべての人が罪という病にかかっているからです。すべての人に魂の医者が必要です。しかし、その癒しを求めて医者のもとに行こうとする人はごく僅かです。自分が病気だと認めなければその必要性を感じないからです。病気なのに病気じゃないと思っている。そういう人は気が付いたときにはもう手遅れになってしまいます。もっと早く診てもらっていたらこんなことにはならなかったのに、ちゃんと検査していたらもっと早く発見して治療することができたのに、後悔してもしきれません。自分が病気だと認めさえすれば、もっと素直になっていれば、治るものもあったのです。病気を認めようとしない人たち、罪を認めようとしない人たちは、自分の罪の中に死んでいくことになります。イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来られました。そのイエス様があなたの目の前におられるのです。ですから、いつでもすがることができるし、いつでも助けを求めることができます。もしあなたが頑なにならないで、心を開いて、素直になるなら、主はあなたの傷も癒してくださるのです。

 

あるセミナーでの話です。講師が、講演の冒頭で20ドル紙幣を見せて、「欲しい人は手を上げてください。」と言いました。すると何人もの人が手を上げました。

「これをだれかに差し上げようと思いますが、まずこれをさせてください。」と、講師が言うと、講師はその紙幣をくしゃくしゃにしました。そして、「これでも欲しい人はいますか?」と聞きました。たくさんの人が手を上げました。

そこで講師は、その紙幣を床に落として、靴で踏みつけ、それから汚くなった紙幣を拾って言いました。

「さあ、これでも欲しい人がいますか?」」

すると、それでもたくさんの人が手を上げました。

それを見て、講師はこう言いました。

「今みなさんは、非常に大切な教訓を学ばれました。私がこの紙幣に何をしても、みなさんはそれを欲しいと言われました。紙幣の価値が減ったわけではないからです。私たちの人生も、くしゃくしゃになったり、踏みつけられたり、汚れたりすることがあります。時には、自分は無価値だと思うこともあるでしょう。しかし、何が起ころうとも、神様から見たあなたの価値は変わりません。私たちのいのちは、神にとってかけがいのないものなのです。

 

そうです、私たちのいのちは、神にとってかけがえのないものです。神様は、あなたがどんなに落ちても、決してあきらめたりしません。あなたを助け、あなたを癒し、あなたを救いたいのです。必要なのは、あなたがへりくだって主の御前にへりくだり、主にすがることです。そうすれば、主はあなたの傷を癒し、あなたを罪から救ってくださいます。そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。主は今もあなたのために悲しみ、痛みを負ってくださいます。その主に感謝して、主に信頼して、あなたの傷も癒していただきましょう。