生き方と行いを改めよ エレミヤ書7章1~15節

聖書箇所:エレミヤ書7章1~15節(エレミヤ書講解説教15回目)
タイトル:「生き方と行いを改めよ」

エレミヤ書7章に入ります。7章から、エレミヤの第二のメッセージになります。第一のメッセージは1~6章までの内容でした。それはエレミヤが預言者として召命を受けてすぐあとの若い頃に語られたものでした。この7章からの第二のメッセージは、それから約15~20年くらい後に語られたものです。なぜなら、7:2に「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。「主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。」とありますが、これが26:2と同じ内容だからです。26:2には「主はこう言われた。「主の宮の庭に立ち、主の宮に礼拝しに来るユダのすべての町の者に、わたしがあなたに語れと命じたことばを残らず語れ。」あります。ですから、この二つの内容は同じ背景で語られたものであることがわかるのです。そして、これはいつ語られたものかというと、26:1に「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの治世の初めに、主から次のようなことばがあった。」とあります。このエホヤキムの治世の初めはB.C.609年ですから、エレミヤが預言者として召命を受けたB.C.627年から18年後であることがわかります。それがこの7章の内容なのです。この時エレミヤは40歳を少し過ぎたくらいだったのではないかと思われますが、これまで南ユダ王国を治めてきたヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死に、代わってパロ・ネコによって立てられたエホヤキムが王として立てるという不安定な社会の中で、このことばを語ったのです。それはこれを聞いたユダの宗教指導者たちから反発を招き、捕らえられ、殺されそうになるほどの厳しいメッセージでした。それは、「生き方と行いを改めよ」という内容でした。。

 

Ⅰ.「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」(1-7)

 

まず1~7節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「主の宮の門に立ち、そこでこのことばを叫べ。『主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、主のことばを聞け。3 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたがたの生き方と行いを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの場所に住まわせる。4 あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼してはならない。5 もし、本当に、あなたがたが生き方と行いを改め、あなたがたの間で公正を行い、6 寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。」

 

これは、主の宮の門でエレミヤが語った主のことばです。だれに対して語ったのでしょうか。2節には「主を礼拝するために、これらの門に入るすべてのユダの人々よ、」とあります。エレミヤは、主の宮、エルサレムの神殿で礼拝をするためにやって来たすべてのユダの人々に対して語ったのです。

 

それはどのような内容だったかというと、3節にあるように、あなたがたの生き方と行いを改めよということでした。なぜなら、4節にあるように、彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」という偽りのことばに信頼していたからです。どういうことでしょうか。

ここには「主の宮、主の宮、主の宮だ」と、「主の宮」という言葉が3回も繰り返して発せられています。この「主の宮」とはエルサレムの神殿のことです。その神殿に向かって、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と連呼していたわけです。ここに、当時のユダの民と宗教指導者たちの思いが表れています。つまり、この「主の宮」さえあれば大丈夫という信仰です。これまでエレミヤが語って来たことを思い起こしてください。エレミヤは神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、悔い改めて神に立ち返るようにとずっと語ってきました。そうでないとあなたがたは滅びると。具体的には北から一つの国、バビロン軍がやって来て、いなごが穀物を食い尽くすようにすべてを食い尽くすということでした。これは、その警告に対する反論です。「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」。つまり、たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、たとえ飢饉があっても問題ない、この主の宮が立っているエルサレムが滅ぼされるはずがないという主張です。それほど彼らはエルサレムにあった神殿、「主の宮」を過信していたのです。ここにはこんなに立派な神殿があるではないか、この神殿が滅ぼされるはずはない。神が共にいて必ず守ってくださると。

 

彼らがこのように叫んだのには、根拠がなかったわけではありません。第一に、このエルサレムは自然の要塞に囲まれていた堅固な町でした。ですから、どんな敵が攻めて来ても簡単には落とせなかったのです。第二に、このエルサレム神殿は約350年前にソロモン王によって建てられたものですが、その奉献式でソロモンは、この神殿には主なる神様の名が置かれている、と言いました。つまり、神様が共にいて守ってくださると信じられていました。第三に、何といってもこの時から約100年前に、アッシリヤの王セナケリブが攻め上って来た時も、主は守ってくださいました。当時の王様はヒゼキヤという王様でしたが、彼が主の前に悔い改め、主に助けを祈り求めると、主はさばきを思いとどまり、奇跡的に彼らを助け出されました(イザヤ36~37章)。日本でも「神風が吹く」ということばがありますが、まさに神風が吹いたわけです。ですから、他の町が滅びることがあってもこのエルサレムだけは大丈夫!絶対に滅びないという確信があったのです。それがこの「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばに表れていたわけです。

 

しかしキリスト教信仰とは、勢いでもなければ迷信的なものでもありません。鰯の頭も信心からと、どんなにつまらないと思えるようなものでも信じればご利益があるというものではありません。その中身が問われるわけです。彼らは表向きには礼拝をささげ敬虔に振る舞っているようでしたが、その中身は神から遠く離れていました。こうした外面的なこと、すなわちハードな面を重視して、もっとも重要なこと、つまり、主の御声に聞き従うという本質的なことをなおざりにしていたのです。皆さん、信仰の中身、信仰の本質とは何でしょうか。それは何度もお話しているように、主の御声に聞くということです。それはただ礼拝で説教を聞くということ以上のことです。主の御声に聞き従うということです。彼らにはそれがありませんでした。

 

それは、5~7節を見るとわかります。彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言っていながら、生き方と行いが伴っていませんでした。たとえば、5~7節には「あなたがたが生き方を改め、あなたがたの間で公正を行い、寄留者、孤児、やもめを虐げず、咎なき者の血をこの場所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、7 わたしはこの場所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住まわせる。」とあります。「公正」とは神のことばに基づく正義のことです。彼らには神のことばに基づく行いが伴っていませんでした。ただ「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と叫んでいただけだったのです。ですから、寄留者、孤児、やもめを虐げ、咎なき者の血を流し、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしていました。彼らは、自分では神を信じていると言いながら、その行いは神のみこころにかなったものではなかったのです。彼らが拠り所としていたのは神様ご自身ではなく神の宮、神殿にすぎませんでした。そこにいれば大丈夫、そこに属していれば問題ないと思い込んでいたのです。

 

これは私たちにも言えることです。たとえば、自分が伝統のある立派な教会に通っているというだけで安心したり、聞けば誰でもすぐにわかるような有名な牧師であるというだけで、自分たちの信仰は正しいものだと思い込んでいることがあります。それはここでユダの民が「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と叫んでいるようなものです。そのような人たちは神ご自身に信頼しているよりも、教会の伝統とか、教会の建物、牧師といった表面的なもので自分の信仰を正当化しているにすぎません。幸い、キリスト教には迷信とかお守りといったものはありません。しかし、もし私たちが表面的な儀式を行うことで自分を安心させていることがあるとしたら、それは迷信と何ら変わりがありません。

 

新約聖書ヤコブ2:14にはこうあります。「私の兄弟たちは。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」

このようなことばを聞くと、ああ、私は救われていないのではないかと心配される人もおられるかもしれませんが、そういう方はどうぞ心配しないでください。それだけご自分が本気で信仰のこと、救いのことを考えているということなのですから。ここでヤコブが言っていることは、まさにこうした形式的な信仰に対するチャレンジです。自分には信仰があると思っても、その人に行いがないとしたら、そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。信仰には行いが伴うからです。その行いとは、神の御声に聞き従うということです。それは自分の力でできることではなく神の恵みによるわけですから、その神の恵みに応答して生きているかどうかということです。それが、生き方と行いを改めるということです。そうすれば、主はあなたを主が約束してくださった場所に住まわせてくださいます。

 

今日は、4名の兄姉がバプテスマを受けられました。うれしいですね。しかも、その内3名は小学3年生です。聖書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(伝道者の書12:1)とありますが、本当に若い日にイエス様を信じて、信仰のスタートを切ることができて、そのように導いてくださった主に感謝します。しかもこの中には私の孫もいて、感無量ですね。ところで、その孫が先ほど証をしてくれましたが、事前にチェックしたところ、こうなっていました。「だから、バプテスマを受けて、私は天国行きのきっぷをもらいたいと思います。」 それを読んだ時「ん?」と思いました。バプテスマを受ければ天国に行くんですか?勿論、バプテスマを受けることは大切なことです。けれども、ただバプテスマを受ければいいということではなく、イエス様を信じてバプテスマを受けるのでなければ意味がありません。多くの人はバプテスマが天国行きの切符であるかのように思っていますが、そうではありません。天国に行くことができるのは、イエス様を信じることによってです。イエス様を信じてバプテスマを受けるなら、だれでも救われます。天国に行くことができます。だから、「イエス様を信じて」ということばを加えてもらいました。イエス様を信じているのでバプテスマを受けるのです。なぜなら、それが神様の御声、イエス様の命令だからです。イエス様はこう言われました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

バプテスマはすばらしい恵みです。しかし、バプテスマを受けたから大丈夫という信仰は、ここでユダの民が、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫んでいるのと変わりありません。バプテスマはイエス様の御声に聞き従うことの応答の一つであって、そのスタートの時なのです。今日バプテスマを受けた4名の兄姉も、既にバプテスマを受けて神の恵みに歩んでいる人も、どうかこのことを覚えて、ますます主の御声に聞き従う歩みをしていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.強盗の巣にしてはならない(8-11)

 

次に、8~11節をご覧ください。「8 見よ、あなたがたは、役に立たない偽りのことばを頼りにしている。9 あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。10 そして、わたしの名がつけられているこの宮の、わたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言うが、それは、これらすべての忌み嫌うべきことをするためか。11 わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──主のことば──。」

 

また出てきましたよ、ユダの民の首長が。10節にこうあります。「私たちは救われている」これも先ほどの「主の宮、主の宮、主の宮だ。」と言っているのと同じです。

エレミヤはここで、悔い改めないイスラエル、ユダの民に対して、その罪を責め立てています。9節には、「あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに犠牲を供え、あなたがたの知らなかったほかの神々に従っている。」とあります。これは律法の中心である十戒を破っているということです。たとえば、「あなたは盗み」とありますが、これは第8戒の「盗んではならない」(出エジプト記20:15)を破る罪です。また「人を殺し」は、第6戒の「殺してはならない」(出エジプト記20:13)です。同様に「姦淫し」は、第7戒の「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)を破る罪であり、「偽って誓い」は、第9戒の「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。」(出エジプト記20:16)を破る罪です。そして「ほかの神々に従っている」とは、第1戒の「あなたには、わたしの以外に、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト記20:3)を破る罪です。このように彼らは、ことごとく律法の中心である十戒を破っていました。にもかかわらず彼らは、主の宮の神様の前にやって来て、「私たちは救われている」と言っていたのです。どういうことでしょうか。彼らの礼拝の姿勢がズレていたということです。彼らは「私たちは救われている」と言いながら、あらゆる忌むべきことを行っていたのです。すなわち、そこには真の悔い改めが伴っていなかったということです。それは主に受け入れられるものではありません。「私たちは救われている」というのはただの思い込みであって、実際はそうではなかったということです。

 

それに対して主はこう言われます。11節です。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた。」

「あなたの名がつけられているこの家」とは、主の宮のことです。神を礼拝するはずの神殿が、強盗の巣になっているというのです。「強盗の巣」とは「強盗のアジト」のことです。強盗が自分のアジトに逃げ帰るように、神殿に逃げ帰っている、神殿が律法を違反する者の隠れ家になっているというのです。

 

実は、新約聖書の中にこのことばが引用されています。聖書を読んでいる方はすぐにピンときたかと思いますが、引用されたのはイエス様ご自身です。イエス様は宮きよめの時にこのことばを引用されました。マタイ21:12~13です。「12それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」」

このようなイエス様の姿を見て、中には「ちょっと理解できないなあ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。神殿で売り買いしている人たちを見て、気が狂ったかのようにその人を追い出したり、両替人の台とか、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されたのですから。ちゃぶ台をひっくり返すということばがありますが、まさにそんな光景です。エレミヤの場合はただことばで指摘しただけですが、イエス様の場合はことばだけでなく実際に行動に移されました。文字通りちゃぶ台をひっくり返されたわけです。神殿で商売をしていた人たちを追い出して、宮をきよめられました。心の中では商売人たちの姿を見て「それはどうかなぁ」と思うことはあっても、実際にそこまでする人はほとんどいないのではないかと思います。事実、これが決定的な出来事となってイエス様は十字架に付けられることになります。それほど激しい行為だったのです。いったいなぜイエス様はそこまでされたのでしょうか。それは「祈りの家」であるはずの神殿が「強盗の巣」になっていたからです。神の家は祈りの家でなければならないのに、そうではなかったのです。いけにえさえささげればよいと、不当な利益をむさぼり、神殿を強盗の巣としていた彼らに対して激しく憤ったのです。

 

それは私たちにも言えることであって、私たちも口では「私たちは救われている」と言いますが、彼らと同じようなことをしていることがあるのではないでしょうか。

聖書の解説と適用が付いている「バイブルナビ」というのがありますが、その中に次のように解説されてありました。的を得た解釈と適用だと思いましたので引用したいと思います。「ユダの民がどのように神殿を扱ったかということと、現代人が教会をどのように扱うかということの間には、いくつかの類似がある。①彼らは神殿を毎日の生活の一部にしなかった。私たちは崇拝にふさわしく準備された美しい教会堂に行くかもしれないが、週日は神の存在を離れて忘れてしまっていることが多い。(いわゆるサンデークリスチャンということですね)②神殿の概念の方が信仰の中身よりも大切になっていた。教会に通い、団体の一員であるということの方が、神のために自分の生活を変えることよりも大切になっている。③民は神殿を避難所にした。多くの宗教団体を隠れ家として、それが悪い問題から守っていれると考えている。」。

どうでしょうか。よくまとまった解釈と適用ではないでしょうか。

 

信仰生活は、神との人格的な関係であるということを覚えておきたいと思います。そして、神との人格的な交わる中で神のみこころに従い、神の愛に応答することこそがその本質なのです。神殿に入るだけの形式的なものではありません。イエス様とつながり、イエス様の中で実を結ぶ者でありたいと思います。

 

Ⅲ.シロの教訓から学べ(12-15)

 

最後に、12~15節をご覧ください。「12 だが、シロにあったわたしの住まい、先にわたしの名を住まわせた場所へ行って、わたしの民イスラエルの悪のゆえに、そこでわたしがしたことを見てみよ。13 今、あなたがたは、これらのことをみな行い──主のことば──わたしがあなたがたに、絶えずしきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかったので、14 わたしの名がつけられているこの家、あなたがたが頼みとするこの家、また、わたしが、あなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの場所に対して、わたしはシロにしたのと同様のことを行う。15 わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。』」

 

では、どうすればいいのでしょうか。第三のことは、シロの教訓から学べということです。12節には、シロにあったわたしの住まいを見て来なさいと呼び掛けられています。「シロ」とは犬の名前ではありません。そこはかつてイスラエルの礼拝が行われていた中心地でした。そこはエルサレムから北に30㎞ほど行ったところにありますが、ヨシュアがカナンを占領したとき、そこに会見の天幕を立てました(ヨシュア18:1)。それ以来この「シロ」が、イスラエルの礼拝の中心地となったのです。ところが預言者サムエルの時代にペリシテ人との戦いに敗れ、その神の箱が奪われてしまったのです。彼らは神の箱があれば大丈夫、絶対に勝利できると戦いの最前線に持って来たのですが、結果は散々たるものでした。このエレミヤの時代から500年も前のことです。そのサムエルの時代とこのエレミヤの時代には一つの共通点がありました。それは主の箱を持って行きさえすれば戦いに勝利できる、この宮さえあれはば大丈夫だと思思い込んでいたことです。それを絶対的な拠り所としていたのです。しかし、それは単なる思い込みにすぎませんでした。そのことを知るためにシロに行って、そこで主がなさったことを見て来なさいと言われたのです。シロが廃墟となったように、今エルサレムに対しても同様のことをすると。それは彼らが表面的なものを拠り所にして、本質的なものを見ていなかったからです。

 

そればかりではありません。15節には「わたしは、かつて、あなたがたのすべての兄弟、エフライムのすべての子孫を追い払ったように、あなたがたをわたしの前から追い払う。」とあります。「エフライム」とは北イスラエル王国のことです。北イスラエル王国、エフライムはアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。B.C.722年のことです。かつて彼らの兄弟北イスラエル王国がアッシリヤによってその地から追い払われたように、彼らも主の前から追い払われることになると言われたのです。つまりエレミヤはここで、冷静に歴史的事実として現わされた神のさばきに目を留めるようにと言っているのです。そこから学ぶように・・・と。皆さん、歴史は繰り返します。歴史を学ぶ大切さはそこにあります。過去にどんなことがあったのかを学び、それを教訓にして、将来に向かっていくのです。

 

このようにユダの民は10年以上もエレミヤから神のことばを聞いてきたのにもかかわらず全く聞こうししなかったので、シロのように、またエフライム、北イスラエルのように神のさばきが彼らを襲うようになると告げられたのです。

 

このことからどのようなことが言えるでしょうか。真の安全を得る方法は、形式的な信仰や儀式的な張りぼてのような中身が伴わない信仰では得られないということです。そうした生き方と行いを改めて、神のことばに従って生きなければならないということです。

 

では、どうしたらそのような生き方ができるのでしょうか。もう一度12節をご覧ください。ここには、シロにあった神様の住まいのことが言及されていました。それは「わたしの名を住まわせた場所」と言われています。それは神が住まわれる所という意味です。しかしよく考えてみると、この天地万物を創られた神が、人間が作った幕屋に住まわれるはずがありません。事実、この神殿を建てたソロモン自身も、奉献式の祈りの中でこのように言っています。「それにしても、神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」(Ⅰ列王記8:27)

そうです、実に、天も、天の天も、神様をお入れすることなどできません。しかし、それを可能にした方がおられます。それは私たちの主イエス・キリストです。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、勿論イエス様のことです。イエス様は世の初めから神とともにおられた神です。すべてのものは、この方によって造られました。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。この方こそまことの神であり、救い主であられます。この方が人となって、私たちの間に住まわれたので、私たちは神と出会うことができるのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)つまり、キリストを通して私たちは神と出会い、神が私たちの間に住まわれたということです。「住まわれた」ということばは「幕屋を張られた」という意味ですが、まさに神がキリストを通して私たちの間に幕屋を張られた、私たちの間に住まわれたのです。

 

しかしよく考えてみると、罪に汚れた人間の間に神が住むことはできません。神は聖なる方であり、ほんの小さなしみやしわでも交わることができないからです。しかしその神の方からその道を開いてくださいました。一方的な恵みによって幕屋を張ってくださったのです。ことばが人となって、私たちの間に住まわれたのです。それが十字架でした。イエス様が十字架に付けられ、無実の人の血が流されたことによって、その尊い犠牲によって、本当は誰も近づくことができない神様と交わる道が開かれ、神が住まわれる、「神ともにいまし」という神の約束が実現したのです。神の宮である教会は、一方的な恵みによって神が私たちと出会うところなのです。それをあたかも人間が作った神殿に神様を閉じ込めておけるかのような錯覚を持つのは間違っています。ここに儀礼的というか、形式的な礼拝が生じてくる原因があったのではないでしょうか。

 

そうならないために必要なことは何でしょうか。私たちが神と出会うように導いてくださったまことの神であられるイエス様を信じ、イエス様から目を離さないことです。イエス様から目を離すと、神への恐れと感謝を忘れてしまい、こうした形式的な礼拝に陥ってしまうことになります。自分は毎週礼拝に来ているから大丈夫だ、バプテスマ(洗礼)を受けたからもう安心だ、奉仕もしているし、献金もささげているから問題ないというのは、神様が望んでおられるまことの礼拝ではありません。勿論、こうしたことも大切なことですが、それが信仰の中心ではないのです。神が願っておられる信仰とは、私たちの罪のために十字架で死なれ、その血によって罪を贖い、ご自身のみもとへと引き寄せてくださった神の御子イエス・キリストに感謝し、その神の恵みに応答して、神のことばに従って生きることなのです。それが生き方と行いを改めるということなのです。イエス様によって与えられたこの恵みを無駄にしないようにしましょう。神への感謝と恐れが私たちの中に本当にあるならば、それに応答して生きようとする思いが必ず生まれてくるのではないでしょうか。

幸いな道はどれか エレミヤ書6章16~30節

聖書箇所:エレミヤ書6章16~30節(エレミヤ書講解説教14回目)
タイトル:「幸いな道はどれか」

きょうは、エレミヤ書6章の後半の箇所から「幸いな人はどれか」というタイトルでお話します。この6章は、預言者として神のことばを語ったエレミヤの最初の預言のまとめとなる箇所です。神に背いたイスラエル、ユダの民に対して、神に立ち返るようにと語りますが、民は全く聞こうとしませんでした。それに対して神は滅びを宣告されました。北からのわざわい、バビロン軍がやって来て彼らをことごとく破壊すると。それでも彼らは聞こうとしなかったのです。彼らは頑なで、どんなに悪を取り除こうとしても取り除くことができませんでした。それで神は彼らを捨て去ることになります。きょうの聖書箇所の30節には「彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」とあります。彼らに必要だったことは、へりくだって、悔い改めることでした。幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいの安らぎを見出すことだったのです。

 

Ⅰ.「私たちは歩まない」(16-20)

 

まず16~20節までをご覧ください。「16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。19 この国よ、聞け。見よ、わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らの企みの実。彼らがわたしのことばに注意を払わず、わたしの律法を退けたからだ。20 いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」

 

「道の分かれ目に立って」とは、新改訳聖書第三版では「四つ辻(つじ)に立って」と訳しています。「四つ辻」とは、十字路のことです。東西南北に視界が開けた場所のことを指しています。四方とも開けているので、どの方角にも進むことができるわけですが、そこに立って見渡すようにというのです。幸いな道はどれであるかを。しかし往々にして私たちは、自分がどちらの道を進んで行ったらよいのか迷います。それで主はこう言われます。「いにしえからの通り道、幸いな道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。」

「いにしえからの道」とは、昔からの道という意味で、これは神の律法のことを指しています。この道はすでにイスラエルの歴史を通して、そこに歩めば幸いな人生を送ることができると実証されていた道でした。にもかかわらず、彼らは何と言いましたか。彼らは「私たちは歩まない」と言いました。こういうのを何というんですかね。こういうのを反抗的と言いますね。彼らは実に反抗的だったのです。

 

「律法」と聞くと、私たちの中にも否定的なイメージを抱く人がおられるのではないでしょうか。でも「律法」そのものは良いものです。それは、人間が正しく歩ために神が与えてくださった道しるべです。それは、私たちを幸いな道へと導いてくれるものなのです。しかし残念なことに、この律法の要求を完全に満たすことができる人はだれもいません。ですから、律報によって義と認められることはできません。もしそのように求めるなら、律法が本来目指しているものからずれてしまうことになります。いわゆる律法主義となってしまうのです。律法主義は、律法を行うことによって救いを得ようとすることであって福音ではありません。でも律法そのものは救い主イエス・キリストへと導いてくれる養育係です。イエス・キリストこそ、律法本来が指し示していた方であり、私たちが救われる唯一の道なのです。そのイエスに導くもの、それが律法です。律法によって私たちは自分の罪深さを知ることで、そこからの救いを求めるようになるのです。ですから、律法は良いものであり、幸いな道なのに、彼らは、「私たちは歩まない。」と頑なに拒んだのです。

 

17節に「見張り人」とありますが、これは預言者のことです。神は預言者を立て、迫り来る神のさばきからのがれるようにと警告したのに、彼らは何と言いましたか。彼らは「注意しない」と言いました。また出ましたよ。「こうしなさい」というと、必ずそれと反対のことを言う。こういうのを何というかというと、「あまのじゃく」と言います。人の言うことやすることにわざと逆らう人のことです。ひねくれ者です。「角笛に注意しなさい」というと「「注意しない」と言いました。反抗期のこともが親に逆らうように逆らったのです。

 

18節と19節をご覧ください。それゆえ、諸国の民は聞かなければなりませんでした。何を?彼らに対する神のさばきの宣告を、です。それは彼らの企みの実、たくらみの結果でした。身から出た錆であったということです。彼らが主のことばに注意を払わず、それを退けたからです。

 

20節のことばは、少し唐突な感じがしますね。18節と19節で言われていることと、どんな関係があるのかわかりません。「いったい何のために、シェバから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のささげ物は受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしには心地よくない。」どういうことでしょうか。

「シェバ」とは、今のサウジアラビアの南部、イエメンの辺りにある国です。聖書には「シェバの女王」として有名です。そこから乳香が、また、遠い国から香りの良い菖蒲がささげられます。そうです、「乳香」とか「菖蒲」とは、礼拝のために用いられた香りだったのです。いったい何のためにこれらをささげるのかと、神は問うておられるのです。こうした香りのささげものや彼らの全焼のささげものは受け入れられず、彼らのいけにえは、主にとっては心地よくないものだからです。それは主に喜ばれるものではありませんでした。つまり彼らが当たり前にしていることが的を外していたのです。彼らが当たり前にしていた礼拝が、神に受け入れられるものではなかったということです。それはただ形だけの、形式的なものにすぎませんでした。彼らは形では神を礼拝していましたが、その心は遠く離れていたのです。なぜでしょうか?神のみことばから離れていたからです。神のことばを聞こうとしていなかったからです。ですから、神が何を求めておられるのかがわからなかったのです。

 

皆さん、これは大切なことです。信仰生活においてこの一番大切なことを忘れると、その中心からズレると、このように周りのことというか、それに不随するものに心が向いてしまうことになります。皆さん、教会にとって最も大切なことは何でしょうか。それは祈りとみことばです。つまり神のみことばを聞いてそれに従うことです。それが祈りです。教会の中心は美しく立派な会堂でもなければ、どれだけの人が集まっているかということではありません。どれだけ地域社会に奉仕しているかとか、どれだけすばらしい賛美がささげられているかということでもないのです。教会の中心は、信仰生活の中心は、神のみことばを聞いてそれに従うことです。そのみことばに生きるということなのです。

 

イスラエルの最初の王様はサウルという人物でしたが、彼はこの中心からズレてしまいました。彼は神様からアマレク人を聖絶するようにと命じられたのに、しませんでした。聖絶というのは、完全に破壊するという意味です。どんなに価値があるように見える目ものでも、神が聖絶せよと言われるなら聖絶しなければならないのにしませんでした。彼は肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶しました。それゆえ、サウルは王としての立場から退けられることになってしまったのです。その時、主が言われたことはこうでした。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)

いったいサウルは何を間違えたのでしょうか。何を履き違えたのでしょうか。礼拝とは何であるかということです。その本質が何であるかということをはき違えたのです。サウルは、立派なものをささげることで神が喜んでくださると思い込んでいましたが、神が喜ばれることはそういうものではありませんでした。神が喜ばれることは、ご自身の御声に聞き従うことだったのです。聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさるのです。

 

この時のイスラエルの民もそうでした。彼らは、外国からの高価な香りや多くの立派なささげ物を神が喜んでくださると思っていましたが、それは全くの彼らの勘違いでした。神が喜んでくださるのは、神のみことばに聞き従うことなのに、それがないのに、どんなに高価なささげものをしても全く意味がないのです。神のことばを拒むことによって彼らの礼拝がダメになってしまった、崩れてしまいました。つまり、人生の中心部分が壊れてしまったわけです。その結果、いにしえからの通り道、幸いな道を見失うことになってしまいました。

 

皆さん、私たちも注意しなければなりません。人生の中心部分を見間違うと大変なことになってしまいます。私たちの人生の中心とは何ですか。それは何度もお話しているように、神を喜び、神の栄光を現わすことです。ウエストミンスター小教理問答書にはこうあります。

「人の主な目的は、何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

皆さん、これが私たちの人生の中心です。神は人をそのように造られました。ですから、この人生の中心部分が壊れると、幸いな道を失ってしまうことになります。

 

英国の有名な神学者C・S・ルイスは、50年前に幸福を次のように定義しました。「車はガソリンで走るようにできているのであって、それ以外のものでは走れない。神は人間という機械が神によって走るように設計された。私たちは、神ご自身が燃料となり、食する糧となるように設計された。私たちには、他に頼るものはない。だから、宗教を度外視し、私たちのやり方で幸せにしてくださいと神に願うのは正しくない。神が、ご自分と無関係に幸せや平和を私たちに下さるなどということはあり得ない。そのようなものは、存在しないのだから。」

まあ、現代はガソリンに代わる新しい燃料が研究されていますが、今から50年前はガソリンしか考えられなかったわけで、その燃料こそ神ご自身だと言ったのです。それ以外のものを燃料としようものなら、走ることはできません。神との関係こそ、私たちが走ることができる燃料なのであって、その中心を外してはならないのです。その中心は、神のことばに聞くことなのです。

 

Ⅱ.恐怖が取り囲んでいる(21-26)

 

第二のことは、その結果です。21~26節をご覧ください。「21 それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」22 主はこう言われる。「見よ、一つの民が北の地から来る。大きな国が地の果てから奮い立つ。23 彼らは弓と投げ槍を固く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく。娘シオンよ。彼らは馬にまたがり、あなたに向かい、一団となって陣を敷いている。」24 私たちは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみが私たちをとらえた。産婦のような激痛が。25 畑に出るな。道を歩くな。敵の剣がそこにあり、恐怖が取り囲んでいるからだ。26 娘である私の民よ。粗布を身にまとい、灰の中を転げ回れ。ひとり子を失ったように喪に服し、苦しみ嘆け。荒らす者が突然、私たちに襲いかかるからだ。」

 

その結果、彼らはどうなったでしょうか。21節には「それゆえ、主はこう言われる。「見よ、わたしはこの民につまずきを与える。父も子も、ともにこれにつまずき、隣人も友人も滅びる。」」とあります。その結果、主は彼らにつまずきを与えます。「つまずき」とは、22節にある北から攻めて来る大きな国がやって来るということです。これはバビロンのことです。彼らは残忍で、あわれみがありません。情け容赦なく攻め寄せてきます。彼らは馬にまたがり、一致団結して攻め寄せてくるのです。

 

そのようなうわさを聞いたユダの民はどうなったでしょうか。24節、彼らは、そのうわさを聞いて気力を失い、苦しみ悶えました。産婦のような激痛が走ったのです。それは、恐怖が彼らを取り囲んだからです。これがエレミヤ書のキーワードの一つです。このことばは他に、20章3節、10節、46章5節、49章29節にも出てきます。繰り返して語られています。たとえば、20章3節には、「主はあなたの名をパシュフルではなく、「恐怖が取り囲んでいる」と呼ばれる」。と」(エレミヤ20:3)とあります。これはエレミヤが偽預言者のパシュフルに語ったことばです。「パシュフル」という名前には「自由」という意味がありますが、偽りのことばを語るパシュフルは自由ではなく不自由だ、「恐怖が取り囲んでいる」と言ったのです。それはパシュフルだけではありません。神に背を向けたすべての人に言えることです。神に背を向けたすべての人にあるのは「恐怖」です。恐怖が彼らを取り囲むようになるのです。

 

まさに預言者イザヤが言ったとおりです。イザヤ書57章20~21節にはこうあります。「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。」

皆さん、悪者どもには平安がありません。「悪者ども」とは悪いことをしている人たちというよりも、神を信じない人たちのことです。神の救いであるイエスを信じない人たちです。そのような人たちは自分を信じ、自分の思う道を進もうとしています。そういう人はあれ狂う海のようです。常にイライラしています。決して満たされることがありません。言い知れぬむなしさと罪悪感で、心に不安を抱えているのです。水が海草と泥を吐き出すように、彼らの口から出るのは泥なのです。口汚くののしり、いつも高圧的な態度で人を怒鳴りつけています。それが悪者の特徴です。心に平安がないからです。平安がないので、常に人を攻撃していないと気が済まないのです。仕事で成功しても、どんなにお金があっても、何一つ足りないものがないほど満たされていても平安がありません。心に罪があるからです。罪が赦されない限り、平安はありません。常に恐怖が取り囲んでいるのです。それは荒れ狂う海のようで、静まることがありません。泥を吐き出すしかありません。

 

26節には、それはひとり子を失ったようだと言われています。これは最悪の悲しみを表しています。なぜなら、自分の名を残せなくなるのですからです。自分たちの将来が無くなってしまいます。このように神から離れ、神のみことばを聞かなくなった結果、彼らは恐ろしい神のさばきを受けるようになったのです。

 

Ⅲ.心を頑なにしてはいけない(27-30)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、心をかたくなにしてはいけないということです。27~30節をご覧ください。「27 「わたしはあなたを、わたしの民の中で、試す者とし、城壁のある町とした。彼らの行いを知り、これを試せ。」28 彼らはみな、頑なな反逆者、中傷して歩き回る者。青銅や鉄。彼らはみな、堕落した者たちだ。29 吹子で激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、無駄だった。悪いものは除かれなかった。30 彼らは捨てられた銀と呼ばれる。主が彼らを捨てられたのだ。」

 

これが、エレミヤが1~6章まで語ってきた内容の結論です。27節の「試す者」とはエレミヤのことを指しています。主はエレミヤを試す者として立てられました。それで彼は神のことばを語っていろいろと試してみたわけです。たとえば、5章ではエルサレムの通りを行き巡り、そこに正しい人、真実な人がいるかどうかを探し回りました。でも結果はどうでしたか?そういう人は一人もいませんでした。「義人はいない、一人もいない」です。

 

次にエレミヤは、別の方法で彼らを試しました。それは彼らを懲らしめて悔い改めるかどうかということです。しかし、彼らはみな頑なな反逆者でした。そうした彼らが、ここでは青銅や鉄、また銀にたとえられているわけです。銀を精錬するように、神の民を懲らしめてみたらどうなるでしょうか。当時、鉱石から銀を取り除くためには炉の中に鉱石を入れ、吹子で吹いて、鉛を溶かしたそうです。そのように彼らを精錬して悪を取り除こうとしましたが、残念ながら無駄でした。鉛は溶けましたが、悪いものは取り除けなかったのです。いくら精錬しても、不純物、銀かすが残ったのです。それゆえに彼らは、「捨てられた銀」と呼ばれ、廃棄物として取り扱われることになってしまいました。

 

皆さん、神は愛する者を精錬されます。へブル人への手紙にはこうあります。「6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」(へブル12:6-7)

主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられます。ですから、訓練と思って耐え忍ばなければなりません。そして、イスラエルの民のように、心を頑なにしないで、神のことばに聞き従わなければなりません。聖書にこうあるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(へブル3:7-8)

 

あなたはどうでしょうか。あなたはどのような御声を聞いておられますか。もし、今日御声を聞くなら、心を頑なにしてはいけません。その御声に聞き従ってください。なぜなら、主ご自身があなたのために先ず十字架で死んでくださったからです。主が懲らしめを受けてくださいました。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを受けるためです。この方があなたの救い主です。その方がこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)これが真理の道、いのちの道、幸いの道なのです。

 

イザヤ書30章21節にはこうあります。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」

あなたが人生を歩むとき、右に行ったらいいのか、それとも左に行ったらいいのか悩む時があるでしょう。しかし、これが道です。これがいのちの道、幸いな道なのです。主は聖霊を通して、「これが道だ。こけに歩め」と言っておられます。どうか道を間違えないでください。永遠に変わることがない神のみことばこそ、真理の道なのです。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることはない。どうかこの道を歩み、たましいにやすらぎを見出してください。特に若い方々には自分がやりたいと思うことがたくさんあるでしょう。でもそのすべてが正しいとは限りません。どうか道を踏み外さないでください。もし踏み外したと思ったら、すぐに主に立ち返り、主が示される道を歩んでください。あなたがへりくだって主のみことばに従い、幸いな人生を送ることができるように祈ってやみません。

偽りの平安 エレミヤ書6章1~15節

聖書箇所:エレミヤ書6章1~15節(エレミヤ書講解説教14回目)
タイトル:「偽りの平安」

エレミヤ書6章に入ります。今日のタイトルは「偽りの平安」です。14節に「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」とあります。「彼ら」とはエレミヤの時代の預言者たちのことです。彼らはみな偽りを言っていて、本当は平安じゃないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。いわゆる「偽りの平安」です。世の終わりが近づくとこうした偽りの預言者が現れ、平安がないのに「平安だ、平安だ」と言いますが、そうしたことばに騙されないで、聖書が言っていることはどういうことかをよく聞いて、主が与えてくださる本物の平安をいただきながら歩みたいと思います。

三つのことをお話します。第一に、平安ではなかった神の民、エルサレムの姿です。彼らは悪に満ちていたので、神は彼らに大いなる破壊を宣言されました。その悪は何と井戸水が湧き出るようにコンコンと湧き出ていました。

第二のことは、その原因です。それは、彼らの耳が閉じたままになっていたからです。ですから、主のことばを聞くことができませんでした。聞き従うためには耳が開かれていなければなりません。耳に割礼を受けなければならないということです。

第三のことは、そのためにどうしたらよいかということです。そのためにはイエス・キリストに聞かなければなりません。真の平安は、平和の君であられるイエス・キリストによってもたらされるからです。

 

Ⅰ.湧き出る悪(1-8)

 

まず、1~8節までをご覧ください。5節までをお読みします。「1 ベニヤミンの子らよ、エルサレムの中から逃れ出よ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。わざわいが北から見下ろしているからだ。大いなる破壊が。2 娘シオンよ、おまえは麗しい牧場にたとえられるではないか。3 そこに羊飼いたちは自分の群れを連れて行き、その周りに天幕を張り、群れの羊は、それぞれ自分の草を食べる。4 「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」5 「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」

エレミヤは預言者としての召命を受けると、2章から神のことばを語ります。それは神に立ち返れという内容でした。彼らは妻が夫を裏切るように、主に背いて自分勝手な道に走って行きました。そんなエルサレム、ユダに対して主は、北からわざわいを起こすと宣告されました。バビロンによる破壊です。きょうの箇所にはそのわざわいがどれほど破壊的なものなのかが、具体的な描写をもって語られています。この6章は、2章から語られてきたエレミヤの最初の預言のまとめとなる部分です。

 

1節には「ベミヤミンの子らよ」とあります。「ベミヤミン」とは、エルサレムに住んでいた人々のことを指しています。というのは、エルサレムはもともとベニヤミン部族の領土にあったからです。それがユダ部族のダビデによってイスラエル統一王国の首都となったので、いつしかユダ部族の領土であるかのように思われていますが、もともとベニヤミンの領土にありました。ですから、これはエルサレムの住民のことを指しているわけです。そのベニヤミンの子らに、エルサレムの中から逃れ出よ、と言われています。

 

また「テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。」とあります。「テコア」とは、エルサレムの南約20㎞に位置している町です。また「ベテ・ハ・ケレム」は、はっきりとした位置はわかりませんが、エルサレムとそのテコアの間にあった町ではないかと考えられています。そのテコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしをあげよというのです。なぜでしょうか。北からわざわいが見下ろしているからです。大いなる破壊が迫っていることを知らせなければならなかったのです。「のろし」は10~20Km先からも見えたと言われています。この「のろし」を上げて、北からわざわいが迫って来ているよと知らせ、それに備えるようにと言われたのです。いわば緊急地震速報のようなものです。地震が起きると、その数秒前に「地震です。地震です。」とスマホが知らせます。それが夜中だったりするとびっくりして起き上が、何があったのかとすぐにテレビをつけて確かめますが、それと同じように、北からわざわいが、大いなる破滅が迫って来ていることを、角笛を吹いて、のろしを上げて警告するようにというのです。

 

2節をご覧ください。「娘シオンよ」とあります。「シオン」とは、「エルサレム」の別の呼び方です。ですからこれは、1節の「ベニヤミン」とも同義語でもあるわけですが、そのシオンが、ここでは「麗しい牧場」にたとえられています。そこに暮らす民は美しい羊たちでした。本来であれば、羊飼いたちは自分の群れの羊たちを連れて行き、その周りに天幕を張り、そこで草を食べるよことができるようにするわけですが、今回はそうではありません。そのシオンに向かって聖戦を布告せよ、と言われているのです。4節と5節です。「「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」どういうことでしょうか。

聖書では、「羊飼い」というとイスラエルの王や預言者といった霊的リーダーたちのことを指していますが、ここでは別の人のことを指して言われています。それはバビロンの王ネブカデネザルのことです。彼は羊たちを緑の牧場にふさせ、いこいのみぎわに伴うどころか、その麗しい牧場、神の民に対して聖戦を布告するのです。そのように命じているのは誰かというと、イスラエルの神、主です。主がバビロンの王ネブカデネザルに対して、イスラエルに向かって聖戦を布告するように、と言われたのです。ですからここに「聖戦」とあるのです。「聖戦」とは神の戦いのことです。一般的には神の民が外国の民に対して行うものですが、ここでは逆です。バビロンが神の民に対して戦う戦いを聖戦と呼んでいます。なぜなら、それは聖なる神によって命じられたものだからです。そうです、これは神が主導された神の戦いなのです。神の民であるイスラエルを懲らしめるために、神が外国のバビロンを用いられるのです。それはどのような戦いでしょうか。

 

4節には「われわれは真昼に上ろう」とあります。そして5節には「われわれは夜の間に上って」とあります。通常、戦闘は夜明けとともに始まり夕暮れには終わりましたが、日中はかなり暑くなるので少し休んだりするわけですが、この敵はそうではありません。ここに「真昼に上ろう」とあるように、真昼の暑い中でも休まずに攻撃してくるのです。それは通常ではあり得ないことです。そんなあり得ない力を持っているということを表しているのです。また「夜の間に上って」とは、昔は懐中電灯のようなものがなかったので夜の間に戦うことはできませんでしたが、この敵は違います。夜の間も上って来ます。ものすごいパワーです。そんな敵が攻め寄せて来たら、たまったものではありません。

 

6節をご覧ください。ここで万軍の主がこう言われます。「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。これは罰せられる都。その中には虐げだけがある。」

これは誰に対して語られているのでしょうか。そのバビロンに対してです。バビロンに対して「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。」というのです。「塁」とは、英語で「mounds」(マウンド)です。盛土とか、土手、土塁のことですね。野球のピッチャーが投げるところをマウンドと言いますが、それは盛土された所だからです。ここでは土ではなく木でそれを築くようにと命じられています。木を切って、エルサレムに向かって塁を築くようにと。エルサレムは城塞都市でしたから、たやすく攻めることができませんでした。それで木を切って、それで城壁よりも高い物見やぐらのようなものを作り、そこから侵入を試みるのです。いわゆる「塁」を築くわけです。これを命じておられるのは万軍の主です。万軍の主である神様が、ご自分の民であるエルサレムを攻撃するために、その戦術をバビロンに命じているのです。4節に「聖戦を布告せよ」とありましたが、これは皮肉でも何でもなく、エルサレム、ユダの民に対する神の戦い、聖なる戦争だったのです。主はそのためにバビロンを用いました。主は外国の敵を用いて神の民を罰しようとされたのです。なぜなら、彼らは罪と悪によって腐敗していたからです。

 

その悪がどのようなものであったかが7節に記されてあります。「井戸が水を湧き出させるように、エルサレムは自分の悪を湧き出させた。暴虐と暴行がその中に聞こえる。病と打ち傷がいつもわたしの前にある。」

井戸の水が湧き出るように、エルサレムは自分の悪を湧き出させていました。神が彼らをさばかれるのは、彼らの中に井戸水のように悪がコンコンと湧き出ていたからです。表面的にではなく、根っこの部分が腐っていたわけです。彼らの内側は暴虐と暴行で満ちていました。それが病と打ち傷となって、こんこんと外側に溢れ出ていたのです。悪は外側からではなく内側から出るものです。イエス様は、マルコ7章14~23節でこのように言われました。「14イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」」

皆さん、人を汚すのは外から入ってくるものではありません。人の内側から出るものです。人の内側から出るものが人を汚すのです。悪いことをするから罪人なのではなく、罪人なので悪いことをするのです。それは心から、内側から溢れ出てきます。見た目にはいくらでもよく見せることができますが、神は心を見られます。心は人の努力ではきよめることはできません。心をきよめることができるのは、イエス・キリストだけです。イエス・キリストによってその心をきよめていただかなければならないのです。

 

私たちの心は、悪が井戸水のようにこんこんと湧き出てくるようなものですが、神はこんな私たちをあきらめることはなさいません。そんな者でも癒してくださると約束しておられるのです。イザヤ書1章5~6節にこうあります。「あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている。足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」しかし、主はこう仰せられます。「さあ、来たれ。論じ合おう。─主は言われる─たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。足の裏から頭のてっぺんまで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷が絶えず、絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえないような者でも、主はそんなあなたを招いておられるのです。そして、その罪を雪のように白くしてくださいます。羊の毛のようにしてくださるのです。その声を聞いて、神に立ち返る人は何と幸いでしょうか。

 

8節をご覧ください。「エルサレムよ、懲らしめを受けよ。そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。」

これは神の懲らしめ、Disciplineです。ここには親が子どもをしつけるというニュアンスがあります。愛する子がダメにならないように叱る親のように、神様はご自分の子に懲らしめを与えられるのです。子どもに向かって親が「きちんとしなさい」と言うように、神はご自分の民に言われるのです。「そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も少ない荒れ果てた地とする。」からです。原文では「そうでないと」ということばが2回使われています。「そうでないと、わたしの心はお前から離れ、そうでないと、おまえを、人もすまない荒れ果てた地とする。」ここまで来てもなお、あきらめない神の御思いが表れています。神様はギリギリまで待っていてくださるのです。

 

ここで注目していただきたいことばは「離れ」ということばです。これは脱臼するという意味の語で、聖書には、ここともう1箇所にしか出てこない珍しい言葉です。神と民がどれほど深く結びついているかが表されているのです。それほどまでに、神が民をさばくということは辛いことなのです。不本意ながらも離さなければならないという、神様の悲痛な思いが伝わってきます。なぜなら、彼らが汚れたままであることを選ぶからです。自分の悪を悔い改めことを拒むからです。

 

神様はきよい方であられます。罪や汚れと交わることはできません。ですから、私たちの罪がきよめられなければならないのです。そうすれば、神から離れることはありません。脱臼することはないのです。強く結びついたままでいることができます。あなたはどうですか。脱臼していませんか。この神の思いを受け止めて、神に立ち返り、罪を赦していただいて、神と深く交わる者でありたいと思います。

 

Ⅱ.閉じたままの耳(9-10)

 

第二のことは、彼らがこのように悪に満ちるようになった原因です。いったいどうして彼らは神から離れてしまったのでしょうか。それは、彼らの耳が閉じられていたからです。9~10節をご覧ください。「9 万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ。」10 私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

 

「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。」とは、ぶどうを収穫する際に隅々まで摘むように、イスラエルの民をすっかり摘み取れということです。ユダの民はバビロンの攻撃によって完全に滅ぼされ、その住民はバビロンへと連れて行かれることになります。この「イスラエルの残りの者」とは、4章7節や5章18節に出てきた「残りの者」、「レムナント」のことではありません。ここで言われていることは、バビロンの破壊は徹底的であるということです。エルサレムはもう完全にバビロンの手に落ちるのです。

 

10節をご覧ください。それを聞いたエレミヤはこう言っています。「私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

エレミヤは彼らに主のことばを語りましたが、だれも聞こうとしませんでした。聞く耳を持たなかったのです。完全に耳を塞いでいました。そんな人たちにエレミヤは40年以上も語り続けるのです。どれほど大変だったことかと思います。39年前の今日、私は福島で最初の礼拝をスタートしました。1年半ほど前から開いていたフライデーナイトという聖書を学ぶ小さなグループのメンバーと教会をスタートすることを決め、その最初の礼拝が39年前の今日だったわけです。若干22歳の若造が何を語ったのかさっぱり覚えていませんが、それから半年後の11月23日に最初の受洗者が与えられて教会を設立しました。あれから40年は経ちませんが、39年間いろいろなことがありましたが、神様のあわれみと助によってとにかく語り続けてきたわけですが、エレミヤは40年以上です。どんなに大変だったことかと思います。10節にあるように、主のことばは彼らにとってそしりの的となっていたわけですから。彼らはそれを喜ぶどころか、馬鹿にして、嘲笑っていたのです。

 

ここで注目していただきたいのは、「耳は閉じたままで」ということばです。これは下の欄外の説明にあるように、直訳では「耳に割礼がなく」という意味です。無割礼なのです。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。ユダヤ人の男子はみな、自分たちが神の民であるというしるしに、生まれて8日目にこの儀式を行いました。その耳に割礼がないというのです。実は4章4節にも、この割礼のことが語られていました。「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」大切なのは肉体の割礼ではなく心に割礼を受けるということです。いくら肉体に割礼を受けていても心が肉で覆われていたら、神のことばが心に響かないからです。何を言っているのかさっぱりわかりません。理解できない。ここでも同じことが言われています。耳が肉で覆われていると何を言っているのかわかりません。聞こえないのです。音声としては聞こえますが、それがどういうことかがわからないということです。聞く耳を持っていなかったからです。聞こうとしていませんでした。それが「耳に割礼がない」ということです。「耳が閉じられたまま」の状態のことです。まさに耳は、従順さとか服従さが表れる場所なのです。聞いたら従うのです。聞いても従っていないというのは、それは聞いていないということです。聞こえていないのです。

 

あなたの耳はどうでしょうか。だんだん耳が遠くなってきたと感じることがありますか。でもそれは年のせいではありません。心が神から遠く離れているということです。「前はもっとはっきり聞こえたけど、今は耳が遠くなって何を言っているのかわかりません」「以前は聖書を読むとピンときたのに、今はどこを読んでも無味乾燥です。全然響かないんです」というのは、実は耳が肉で覆われているからなのです。耳かすがたまっているからではありません。耳が肉で覆われているからなのです。ですから、耳に割礼を受けなければなりません。そうすれば、よく聞こえるようになります。

 

イエス様は種まきのたとえの中でこう言われました。「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)ここに「みことばを聞くが、みことばをふさぐため、実を結ばない」とあります。ふさぐものは何ですか。ここでは、この世の思い煩いとか、富の惑わしとあります。そうしたものがみことばをふさぐため、聞いても実を結ばないのです。

 

私たちにはいろいろな思い煩いがあります。仕事のことや家庭のこと、自分の健康のことや人間関係の問題、あるいは最近は特にコロナや戦争のことで不安を抱えているという人もおられると思います。でもそうしたものに捉われていると、みことばが聞こえなくなってしまいます。それらのものがみことばをふさいでしまうからです。だから聖書はこう言っているのです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)

神があなたがたのことを心配してくださいます。ですから、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねてください。そうすれば、神のことばが聞こえてきます。私たち人間には、どうすることもできないことがたくさんあります。それらのことを心配するのではなく、神に信頼しなければなりません。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、神の御声が聞こえてくるのです。

 

Ⅲ.平和の君イエス・キリスト(11-18)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、イエス・キリストに聞きなさいということです。11~18節をご覧ください。「11 主の憤りで私は満たされ、これを収めておくのに耐えられない。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。夫はその妻とともに、年寄りも齢の満ちた者も、ともに捕らえられる。12 彼らの家は、畑や妻もろとも、他人の手に渡る。わたしがこの地の住民に手を伸ばすからだ。─主のことば─13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。14 彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。15 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。─主は言われる。」16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。」

 

みことばを聞こうとしないユダの民に対して、エレミヤの心は主の憤りで満たされました。もうそれを自分の心に収めておくことができなくなりました。だれも聞いてくれないのです。完全にバーン・アウトしたわけです。疲れ果ててしまいました。皆さんもよくあるでしょう。疲れ果てた・・・・ということが。

するとエレミヤに主のことばがありました。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。」と。「それ」とは主の憤りのことです。それを道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎだすようにというのです。幼子や若い男たちだけではありません。夫も妻も、年寄りも、非常に齢の満ちた者、これはかなりのご老人にもということですね。彼らも捕えられることになります。さらに彼らの家と畑は、妻もろとも奪われ、他人の手に渡ることになります。

 

どうしてでしょうか。13節にその理由が述べられています。「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」

身分の高い人とか低い人までみんな自己中心になっていたからです。そしてその腐敗が宗教的なリーダーたちにまで及んでいました。彼らはみな偽りを行っていました。たとえば、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていました。これはある種のマインドコントロールです。主はそのように言っていないのに、そのように言っているかのように装うからです。私たちも注意しなければなりません。彼らは神の民の傷をいいかげんに癒していました。民は元気じゃなかったのに表面的に治療して「大丈夫、元気、元気!」と言い聞かせ、思い込ませていました。いわゆるやぶ医者と一緒です。ちゃんと治療しないのです。ここでは医者というよりも祭司とか預言者のことですから、やぶ牧師です。神様が言っていないのに「大丈夫だよ。神様はあなたのありのままを愛しているから」とか、いいかげんに語るのです。その方が相手も心地よいからです。それはやぶ医者と同じです。神の民の傷をいいかげんに癒しているにすぎません。しかし、真の牧者は民の傷をいいかげんに扱うことはしません。神のことばが言わんとしていることはどういうことなのかをしっかりと受け止め、みことばと祈りによって癒すのです。たとえそれがどんなに聞こえが良くないことでも、神のことばにしっかりと立つことが真の解決につながると信じているからです。

 

ところで、この「平安」ということばですが、これはヘブル語では「シャローム」と言います。「シャローム」とは、単に戦争がないとか、心が平安であるというだけでなく、その本質は「何の欠けもない理想的な状態」のことを意味しています。ですから、争いがなければ平和となるし、病気がなければ健康となるわけです。問題が解決すれば勝利となり、祝福に満たされていれば繁栄となります。欠けがあれば完全ではありません。でもこの「シャローム」は何の欠けもない完全な状態を意味しています。

 

あなたはどうでしょうか。あなたには何か欠けがありますか。その欠けが「シャローム」によって満たされるのです。他のもので満たされることはありません。お酒やギャンブル、仕事、お金、趣味などであなたの心が満たされることはありません。あなたの心を満たすのは、シャロームなる方、平和の君イエス・キリストだけです。イザヤ書9章6節にこうあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ひとりのみどりごとはイエス・キリストのことです。キリストは生まれる700年も前から、私たちを救う救い主として来られることが預言されていました。その名は何でしょうか。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。イエス・キリストはその名の通り、私たちの罪を赦すために十字架にかかられ、三日目によみがえられたことで、この平和をもたらしてくださいました。

また、エペソ2章14~19節にもこうあります。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」

ですから、イエス・キリストだけがシャローム、真の平和をもたらすことができます。イエス・キリストだけが救いをもたらすことができます。勝利を、繁栄を、満たしをもたらすことができるのです。それ以外に平和を得る方法はありません。だから、キリストはこう言われたのです。「28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんの中に、疲れている人がいますか。重荷を負っている人がいますか。そういう人はイエス様のもとに来てください。イエス様があなたを休ませてあげます。なぜなら、イエス様は柔和でへりくだっておられる方だからです。イエス様はあなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。それはあなたがいのちを得るためです。ここに「そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。「安らぎ」「平安」それはイエス・キリストにあるからです。

 

偽預言者は平安がないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。彼らは表面的で安易な平安を約束しましたが、そこには本当の平安はありませんでした。悪者には平安がないからです(イザヤ48:22)。真の平安を得るためには、その罪、汚れをきよめていただかなければなりません。そのために神は救い主を送ってくださいました。その救い主の贖いの業によって罪の赦しが実現したのです。平和がもたらされました。ですから、あなたが真の平安を得たいと思うなら、キリストのもとに来て罪をきよめていただかなければなりません。これが真のシャロームです。この方に聞くべきです。

世の終わりが近くなると、こうした偽預言者たちが安易な平安を約束しますが、そのようなことばに騙されてはいけません。平安がないのに、「平安だ、平安だ」ということばに聞いてはならないのです。真の平和はイエス・キリストにあります。この平和の君なるイエス・キリストに聞き従いましょう。それが神のさばきから免れ、神の平安をいただき、幸いな人生を送るキーなのです。

あなたはどうするつもりなのか エレミヤ書5章20~31節

聖書箇所:エレミヤ書5章20~31節(エレミヤ書講解説教13回目)
タイトル:「あなたはどうするつもりなのか」

きょうは、エレミヤ書5章の後半からお話します。タイトルは「あなたはどうするつもりなのか」です。このタイトルは、31節の最後のことばから取りました。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか」。「あなたがた」とは、南ユダ王国の人たちのことです。イスラエル王国は、ソロモン王の後で北王国イスラエルと南ユダ王国に分かれました。B.C.931年のことです。北王国イスラエルはすでにB.C.722年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされてしまいました。そして今、B.C.627年頃ですが、預言者エレミヤは南ユダ王国の民に向かって、神のことばを語っているのです。テーマは「神に立ち返れ」です。

ユダの民は神との契約を破り、神でないものによって誓っていました。いわゆる偶像礼拝です。霊的姦淫ですね。その背信はすさまじいものでした。エルサレム中のどこを探しても、公正と真実を求める人は一人もいませんでした。5章1節には「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。」とあります。でも、そういう人はエルサレム中どこを探しても一人もいませんでした。義人はいない。一人もいない、です。
  それで主は、さばきを宣告されました。遠くの地から一つの国を来させて、彼らを食らうと言われたのです。それはバビロン軍のことです。17節には、「彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、あなたが拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。」とあります。まさにいなごがすべてを食い尽くすように、バビロン軍によってユダのすべてを食い尽くすと宣告されたわけです。しかし、すべてを滅ぼし尽くすことはなさいません。そこにわずかながら残りの民を残してくださるとも約束されました。このような神のさばきの宣告に対して、結局、あなたがたはどうするつもりなのか、と問い掛けられているのです。

 

三つのことをお話します。第一のことは、どこまでも主を恐れないユダの民の姿です。彼らには強情で逆らう心がありました。それで彼らは神から離れて行きました。

第二のことは、その結果です。彼らの悪事は社会全体に及んでいきました。それは彼らの咎と罪のゆえです。社会悪の根本的な原因はここにあるのです。

そして第三のことは、このようなことに対する神のさばきです。神は黙ってはおられません。必ずその悪を罰します。それに対して、あなたはどうするつもりなのかということです。

 

Ⅰ.神を恐れない民(20-25)

 

まず、20~25節までをご覧ください。「20 ヤコブの家にこれを告げ、ユダに言い聞かせよ。21 さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。22 あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。23 しかしこの民には、強情で逆らう心があった。それで彼らは離れて行った。24 彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。25 あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

21節では、ユダの民を「愚かで思慮のない民よ」と呼び掛けられています。なぜこのように呼び掛けられているのでしょうか。神を恐れていなかったからです。神の民である共同体が神を恐れない。本当の神がいらっしゃるのに、恐れないのです。聖書には、「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10)とありますが、その一番大切な主を恐れるということを捨ててしまったわけです。それで「愚かで思慮のない民」になりました。新共同訳では「心ない民」と訳されています。「愚かで、心ない民よ」。心に神様の導きを求めないということです。心は私たちと神様が結ばれる所です。エレミヤは4章4節のところで、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言いました。大切なのは肉体の割礼ではなく心の割礼です。心が神様と結ばれるということが大事なのです。でもその大切な心がだめになっていました。23節のことばでいうなら、強情になってしまったのです。出エジプト記にはよく「うなじのこわい民」とありますが、まさにうなじのこわい民となりました。神に対してコチコチに固まっていたのです。神に逆らい、神を無視して生きるようになってしまいました。

 

その結果、どうなりましたか。21節には「彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。」とあります。詩篇135篇15~18節にはこうあります。「15 異邦の民の偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。16 口があっても語れず目があっても見えない。17 耳があっても聞こえずまたその口には息がない。18 これを造る者もこれに信頼する者もみなこれと同じ。」
 偶像を拝むことで偶像のようになってしまいます。目があっても見えず、耳があっても聞こえません。偶像に頼る者はみなこれと同じです。目があっても見えず、耳があっても聞こえなくなります。本当の神様のことばがわからなくなってしまうのです。

 

彼らがどれほど強情であっかが22節にあります。「あなたがたは、わたしを恐れないのか。──主のことば──わたしの前で震えないのか。わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることはできない。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。」どういうことでしょうか。

創造主訳聖書には「わたしは海と陸を分け、それぞれの地域を定めた」とあります。神が天と地を創造されました。神はそこに海と陸の境界を設けられたわけです。被造物全体は、その神が定められた境界を越えることはありません。すべては神が定めた秩序と法則によって保たれているのです。どんなに波が荒れ狂っても勝てず、鳴りとどろいても越えられません。自然界のすべては神の定めに従います。境界を越えることはないのです。しかし、この民はそうではありません。この民には逆らう心がありました。神を恐れ、神に従うどころか、自分勝手な道に向かって行ったのです。
  

ヨハネ1章10~11節には「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあります。「この方」とは、イエス様のことです。イエス様はもとからこの世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この世はすべてイエス様によって造られたのですから、被造物であるこの世は、当然イエス様を受け入れるはずなのにそうではありませんでした。神に逆らい、創造主であるイエス様を受け入れませんでした。別のことばで言うと、境界を越えてしまったということです。それはこのユダの民だけではありません。私たちも同じです。

 

そればかりではありません。24節と25節をご覧ください。「彼らは心の中でさえこう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、初めの雨と後の雨を、時にかなって与え、刈り入れのために定められた数週を守ってくださる』と。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」

「初めの雨」と「後の雨」とは、下の欄外の説明にあるように「秋の雨」と「春の雨」のことです。「初めの雨」が「秋の雨」、「後の雨」が「春の雨」です。このようにイスラエルには年2回雨季がありました。この雨がイスラエルを潤し、豊かな収穫をもたらしてくれたのです。それなのに彼らには、神に対する恐れも、感謝もありませんでした。その結果、25節にあるように、この恵みの雨がとどめられてしまいました。25節の「良いもの」とは、この恵みの雨のことです。エレミヤ書14章1~6節を見ると、南ユダに干ばつがあったことがわかります。14章1節には「日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。」とあります。

「2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」(エレミヤ14:2-6)

もちろん、水道もない時代ですから、干ばつになると食料も十分に用意することができず、いのちの危険がありました。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる」というのは、そういう状態を表しているのだと思います。それは、この恵みの雨がとどまったからです。いったいどうしてこの恵みの雨がとどまってしまったのでしょうか。
  25節にその理由が記されてあります。それは「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」ということです。神があなたに良いものを拒んでいるのではありません。あなたの咎がこれを追いやり、あなたの罪がこの良いものを拒んだのです。罪によって雨が降らなくなったのです。

私たちは天気予報という技術があって、今年の夏は暑くなりそうだとか、台風がもうすぐ来るのでそれに備えた方がいいという報道を聞いて行動するわけです。私たちの生活のかなりの部分が、こうした科学技術に頼ることで成り立っているわけです。でも、たとえば、今年の夏は罪によって酷暑になるでしょうと言われても、あまりピンとこないのではないかと思います。でもここではそういうことが言われているわけです。

 

エレミヤの時代、天気がどうなるかは、私たちよりも深刻だったはずです。彼らはまことの神である主を信じてエジプトを出て約束の地にやってきましたが、そこに元々の宗教、土着の宗教がありました。それはバアルと呼ばれる宗教で、豊穣をもたらすと信じられていました。私たちはバアル宗教というと遠い宗教のようで、自分たちとは全く関係ないと思っていますが、それは私たちにとっても身近なものだと思います。というのは、バアル宗教が求めていたのは豊かさであったからです。私たちも豊かさを求めているという点では同じではないでしょうか。手段は違います。でも科学技術というものを絶対的なもののように頼って豊かさを求めているとするなら、バアル神を信じている人たちと何ら変わらないのです。真の神を捨てて、雨を降らせると言われるバアル神に、神の民が反れて行ってしまったわけです。それで干ばつがやって来ました。雨の神、豊穣の神を信じていたのに干ばつで飢饉がやって来たというのは何とも皮肉な話です。つまり、バアルには本当の力がないわけです。世界を創られたのは聖書の神様です。世界を創り、それを保っておられるのは真の神様ただ一人なのです。この神様がいのちの源です。いのちの源から反れて行くということは切り離されるということであって、結果的に民は飢えと渇きに襲われることになったのです。近年、毎年のように異常気象が起きるようになって、異常が普通のようになって来ていますが、その原因はどこにあるのかというと、聖書はこういうのです。「あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのだ。」と。

 

人間の罪によってこの気象が壊れていると言っても過言ではないのです。詩篇34篇9~10節にこうあります。「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。若い獅子も乏しくなり飢える。しかし、主を求める者は良いものに何一つ欠けることがない。」

主を恐れる者には、何一つ欠けることはありません。もし良いものに欠けることがあるとしたら、それは私たちの罪がその良いものを拒んでいるからなのです。神は良い方ですから、良いものを与えてくださるのは当然なのです。天のお父さんは、私たちを祝福したいと願っておられるのです。でも、その祝福を私たちが自分の罪によって拒んでいるのです。折角、お父さんとお母さんが子どもに良いものを与えたいと思っているのに、子どもの方で拒んでいるとしたら悲しい限りです。こんなに子どもを愛しているのに、こんなに子どもに与えたいのに、子どもの方で「いらない」と拒む。「欲しくない」と言う。残念です。

 

Ⅱ.根本的な原因(26-28)

 

次に、26~28節をご覧ください。ユダの民の罪が列挙されています。「26 それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野鳥を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる。27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きで満ちている。だから、彼らは大いなる者となり、富む者となる。28 彼らは肥えてつややかになり、悪事において限りがない。孤児のために正しいさばきをして幸いを見させることをせず、貧しい人々の権利を擁護しない。」

 

ここには、ユダの社会全体に悪が溢れているような状態が描かれています。彼らの中には悪しき者たちがいて、鳥を捕まえるように人を捕まえて、わなをかける人がいました。つまり、社会的弱者の人たちが、搾取されていたわけです。彼らは弱者を食べてしまって、自分たちは太っていました。不正な手段で富を築き、私腹を肥やしていたのです。単に霊的姦淫を犯して偶像礼拝に走っていたというだけでなく、それが社会全体にも大きく反映していました。エレミヤはこのような状態を見て、こう言っています。30節、「恐怖とおぞましいことがこの国に起こっている。」恐ろしいこと、おぞましいことが、この国に起こっていると言ったのです。

 

いったいどうしてこのようなおぞましい社会になってしまったのでしょうか。それは南ユダだけでなく、現代の世界にも言えることです。おぞましい社会、おぞましい世界になってしまいました。いったいどうしてこのような社会になってしまったのでしょうか。それは社会ということよりも、一人一人の罪に起因しているのです。その罪の最たるものは、神を神として崇めないということです。神を認めない、感謝もしない、そして、神以外のものを神とすることです。つまり、神を恐れないということです。ここに原因があります。これがすべての社会悪の根本原因なのです。ここにスポットを当てずにいくら社会改革をしようとしてもできません。政治の力、経済の力、福祉の力、慈善活動によって、それをしようとしても限界があるし、究極的な解決にはならないのです。根本的な原因が処理されなければ解決できません。次から次に悪が生まれてきます。オレオレ詐欺が後を絶ちません。次から次に新しい技を繰り出してきます。頭がいいんですね。そんなことに頭を使うなら、もっと良いことのために使えばいいのにと思いますが、実に巧妙に手を変え品を変えて襲ってきます。政権が交代しても何も変わりません。だから、人々は失望するのです。だれがやっても同じだというあきらめになってしまいます。あなたがたの咎がこれを追いやり、あなたがたの罪がこの良いものを拒んだのです。

 

Ⅲ.あなたはどうするつもりか(29-31)

 

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて神に立ち返れということです。29~31節をご覧ください。「29 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。30 荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」」

 

こうした状況に対して主はどうされるでしょうか。29節には、主は必ず罰せられると言われます。神様はこの状況を把握していないのではありません。見て見ぬふりをしているのでもありません。主はこのような状況を十分知っておられ、それに対して必ずさばきをなさるのです。黙認するということは絶対にありません。水に流すとか、帳消しにするといったことはなさらないのです。なぜなら、神は正義の神であり、聖なる方だからです。罪を放置するなどとてもできない方なのです。必ず罰せられるのです。

 

30節と31節は、神様の驚きを表しています。荒廃とおぞましいことがこの国に起こっています。預言者たちは偽りの預言をし、神に仕えるはずの祭司は自分勝手に治めています。そればかりか、ユダの民はそれを喜んでいるのです。このことに神は驚かれ、嘆いておられるのです。こうした彼らの罪、咎には、必ず神の審判がくだることになります。結局、あなたはどうするつもりなのか、と神はチャレンジしておられるのです。

 

でも、どうぞこのことを覚えておいてください。神様がこのようにチャレンジしているということは、その前に悔い改めのチャンスを与えているということです。だから警告を与えているのです。今ならまだ間に合います。今ならまだやり直せます。あなたにも神のあわれみがあるのです。あなたもやり直すことができます。あなたには罪の赦しが提供されているのです。罪の滅びから免れる道が用意してあるのです。その道とは何でしょうか。イエス・キリストです。イエス様は言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

イエスのことばを聞いて、イエスを遣わされた方を信じる者は、さばきに会うことはありません。永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っているのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

 

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。

「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。

『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」これが、クリスチャンが抱く希望です。

 

あなたには、この希望があるでしょうか。どんなに恐ろしい神の審判があっても、私は神のさばきに会うことがなく、死からいのちに移っているという確信があるでしょうか。イエス・キリストを信じるなら、だれも、また何も、キリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできません。「結局、あなたがたはどうするつもりなのか。」神のさばきに会うことがないように、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じてください。そういう人はさばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。また、そのような人の人生を神が祝福し、初めの雨と後の雨をもって潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。

 

あなたの過去には取り返しがつかないこともあるでしょう。人から絶対に許さないと言われたこともあるかもしれない。自分でも自分を赦せないと思うこともあるでしょう。でも、全然関係ありません。神には赦せない罪など一つもないからです。もう罪悪感や罪責感に苛(さいな)まれる必要もありません。人を責める必要もなければ、人に攻められる必要もありません。イエス・キリストがあなたの代わりに罰を負ってくださったからです。罰せられるべきあなたの代わりに罰せられたので、あなたには赦しが提供されているのです。

神のさばきは確実に及んできます。でもそれは神の本意ではありません。神の本意は、あなたが罪を悔い改めて神に立ち返り、神のさばきから免れることなのです。今は恵みの時、今は救いの日です。あなたには神のあわれみが注がれています。その神の慈愛が、あなたを悔い改めに導くのです。

 

あなたはどうするつもりなのか。この神のチャレンジに、今のうちに応答してください。神の赦しと神の救いを受け取ってください。そうすれば、神のさばきに会うことはありません。必ずバビロンがどこからかやって来ます。想像もつかないような破壊と喪失がもたらされます。でもイエス様を信じる者は救われます。それを決断するのはいつですか。今なのです。

 

義人はいない、一人もいない エレミヤ書5章1~19節

聖書箇所:エレミヤ書5章1~19節(エレミヤ書講解説教12回目)

タイトル:「義人はいない、一人もいない」

 

エレミヤ書5章に入ります。きょうは、エレミヤ5章1~17節から「義人はいない、一人もいない」というタイトルでお話します。これは有名な聖書のみことばの一つです。この世には何十億という人がいますが、神の目にかなう正しい人は一人もいません。それゆえ、私たちは自分もまたその罪人の一人であることを自覚して、イエス様によって与えられる神の義をまとい、イエス様の御声に聞き従う者でありたいと思います。

 

きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、義人はいない、一人もいないということです。第二のことは、神を求めない者に対する神の訴えです。第三に、そのような者に対する神のさばきの実行です。

 

Ⅰ.義人はいない、一人もいない(1-5)

 

まず、1~5節までをご覧ください。「1 「エルサレムの通りを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場を探し回って、もしも、だれか公正を行う、真実を求める者を見つけたなら、わたしはエルサレムを赦そう。2 彼らが、主は生きておられる、と言うからこそ、彼らの誓いは偽りなのだ。」3 「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」4 私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」

きょうのところでエレミヤは、エルサレムの町を行き巡るようにと命じられています。何のためでしょうか?そこに公正を行う、真実を求める人がいるかどうかを見つけるためです。「公正を行う、真実を求める人」とはどういう人でしょうか。それは、神の目にかなった人のことです。単にいい人であるとか、優しい人であるというのではなく、聖書の基準に従って生きている人、神の目にかなった正しい人のことです。

 

彼らは、口先では「主は生きておられる」と言っていました。これは4章2節にも出てきましたが、中身が伴っていませんでした。ただ口先だけの、偽りの誓いにすぎなかったのです。「偽り」ということばは、「真実」の反対語で、「空っぽ」という意味です。つまり、彼らの誓いは空っぽでした。信じてはいるがその通りには生きていませんでした。主が求めておられたのは、そのような空っぽの信仰ではなく中身が伴った真実の信仰です。そのような人が1人でもいれば、主はその人のゆえに、エルサレムのすべての人を赦そうと言われたのです

 

この話で思い出すのは、創世記18章で、神がアブラハムに語られたことばです。ソドムとゴモラの罪は非常に大きいので、それを見た主は彼らを滅ぼし尽くそうとされましたが、その時アブラハムは、必死にとりなします。そこに甥のロトが住んでいたからです。それでアブラハムはこう言います。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。もしかすると、その町の中に正しい人が50人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる50人の正しい者のために、その町をお許しにならないのですか。」(創世記18:23-24)と。

すると主は、「もしソドムで、わたしが正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」(18:26)と言われました。

じゃ45人だったらどうですか、30人だったら、20人だったら、10人だったら・・・と、その人数を少なくしていきます。値切るように神様と交渉するわけです。おそらく、ロトの家族だけでも10人くらいはいたので、10人くらいにすれば大丈夫だろうと思ったのでしょう。すると主は言われました。もし10人でも、そこに正しい者がいけば、滅ぼさない、と。

しかし、結局、ソドムとゴモラは滅ぼされました。10人もいなかったのです。でもきょうのところには10人どころじゃありません。1人です。もしも、そこに公正と真実を求める正しい人が1人でもいたら、その人のゆえにエルサレムを赦そうと言われたのです。つまり、神様はどこまでも愛の神様であるということです。たった1人でも正しい人がいれば赦してくださる。そしてその1人を最後まであきらめずに捜してくださるのです。本当に小さな可能性まで捜そうとされるわけです。

 

そうしてエレミヤは町に行きました。その結果どうだったでしょうか?3節をご覧ください。「主よ、あなたの目は真実に届かないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けることを拒みました。彼らは顔を岩よりも硬くして、立ち返ることを拒みました。」

そこでエレミヤが見たのは、コチコチになった民の姿でした。神様から悔い改めるようにと懲らしめを受けても、悔い改めようとしませんでした。堅い甲羅をまとったアルマジロのように、顔を硬くして、立ち返ることを拒んだのです。人が深刻な病気をして、命からがら助かった人が、その病気の前と後で生活が変ったという人は、だいたい10人に1人くらいしかいないそうです。ここでも、イスラエルは神様から深刻なさばきを受けても全然変わらず、はねつけてしまうだけでした。神様のさばきが悔い改めの機会とならなかったのです。

 

ところでここには、「顔を岩よりも硬くして」とありますが、顔は私たちの意志とか思いが表れる場所でもあります。つまり彼らは心が表れる顔を、岩のように堅くしたのです。別のことばで言うと、信仰が顔に出ていたということです。神様との関係が顔に出ていたのです。頑なな顔ですね。カチカチで、堅い顔になっていました。皆さんの顔はどうでしょうか。カチカチになっていませんか。

 

いったいどうしてか。エレミヤは考えます。そして彼は思いました。4~5節をご覧ください。「4私は思った。「彼らは、卑しい者たちにすぎない。しかも愚かだ。主の道も、自分の神のさばきも知らない。5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、その人たちと語ろう。彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているから」と。ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」

エレミヤは思いました。公正と真実を求める正しい人を見つけることができなかったのは、卑しい者たちの中から探していたからだ。もっと身分の高い人たちのところへ行って探せば、きっと見つかるはずだと。なぜなら、彼らなら、主の道も、自分の神のさばきも知っているはずだからです。この「主の道」とか「神のさばき」とはいうのは類似語で、神のことばのことを意味しています。貧しい者たちは、仕事とか食べることで忙しくて、聖書を学んでいる暇がないのだから、主の道を知らないのも無理もないでしょう。でも身分の高い人たちは、お金に余裕があるのでそんなに働かなくてもいいし、その分聖書を学ぶことができるので、神様のことを、神様の道を知っているに違いない。そういう人たちのところに行って探せば、きっと見つかるに違いない。そう思ったのです。実際、エルサレムには神のことばを学ぶ学校があったそうです。そういうところで祭司とか、預言者とか、レビ人たちは学んでいました。そういう人たちならきっと知っているに違いないと考えたのです。

 

この「身分の高い者」という言葉ですが、原文には定冠詞が付いています。英語の「The」ですね。「その人」とか「あの人」です。英語のKing James Versionでは、「The great man」と訳しています。「あの身分の高い人」です。きっとエレミヤの心の中には、だれだかわかりませんが、思い浮かぶ人がいたのかもしれません。あの人のところに行けば、きっとわかっているに違いない。

 

結果はどうでしたか?5節をご覧ください。5節の後半には、「ところが彼らもみな、くびきを砕き、かせを断ち切っていた。」とあります。「くびき」とか「かせ」というのは、神の教え、律法、聖のことです。それは、神の民が成長していくうえで欠かすことができないものでした。イエス様も「わたしのくびを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)と言われました。しかしユダの民はこのくびきを砕き、かせを断ち切っていました。ないがしろにしたのです。

 

このようにユダの民は、神の民であるにもかかわらず、意識的に、また無意識的に神の教えを無視し、神に逆らっていました。そこには公正と真実を求める人が一人もいなかったのです。それはユダの民、イスラエルだけのことではありません。私たちも同じです。公正と真実を求める人は一人もいません。神の目にかなう正しい人はだれもいないのです。このことを使徒パウロは聖書を引用してこう言いました。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)

 

ノーマン・ビンセント・ピール牧師が書いた「聞かれない祈り」という本の中で、こんな逸話が紹介されています。

ピール牧師がまだ少年だったころ、彼は1本の大きくて真黒なシガレットを拾いました。彼は、面白半分に、路地裏に隠れてそのシガレットに火をつけました。味は悪かったのですが、なんとなく大人になったような気がしました。

ところが、近づいてくる父親の姿が目に入りました。彼は急いでシガレットをうしろに隠し、平静を装いました。

父親の感心を他のことに向けるために、彼はサーカスの宣伝が載った大きな広告板を指さしました。

「行っていい?お父さん。この町にサーカスが来たら、行こうよ。」

父親の答えは、ピール少年にとって、一生忘れられない教訓となりました。

父親は静かな声で、しかし、威厳を込めてこう言いました。

「息子よ。不従順の煙がくすぶっている間は、決して願い事をしてはいけないよ。」

 

皆さん、おわかりでしょうか。私たちは、この少年のように不従順の煙がくすぶらせているのに、「主は生きておられる」と平気で誓うのです。しかし、そのような偽りの誓いのゆえに、神のさばきを受けることになります。「すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはでき」(ローマ3:23)とあるように、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないのです。それはあなたも例外ではありません。義人はいない。一人もいないのです。

 

Ⅱ.神の告訴状(6-13)

 

それゆえ、ユダに神のさばきが下ります。6~13節をご覧ください。6節には「そのため、森の獅子が彼らを殺し、荒れた地の狼が彼らを荒らす。豹が彼らの町々をうかがい、町から出る者をみなかみ裂く。彼らは背くことが多く、その背信がすさまじいからだ。」とあります。

「森の獅子」とか「地の狼」、「荒れ地の豹」とは、バビロン軍のことを指しています。意識的であろうが、無意識的であろうが、神に背いたイスラエルの民に対して、神はバビロン軍を送り、侵略させるというのです。

 

このような神のさばきに対して、中には、「えっ、神様はそんなに厳しい方なんですか」「神は愛です、と聖書で言っているのに、それは嘘なんですか」と言う方がおられるかもしれません。しかし、そうじゃないんです。神様は赦したいのです。しかし、ユダがそれを拒んでいるのです。それが7~13節で語られていることです。いわばこれは神様の告訴状ということができると思います。

「7 「これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせると、彼らは姦通し、遊女の家で身を傷つけた。8 彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。9 これらについて、わたしが罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。10 ぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせ。ただ、根絶やしにしてはならない。そのつるを除け。それらは主のものではないからだ。11 実に、イスラエルの家とユダの家は、ことごとくわたしを裏切った。──主のことば──12 彼らは主を否定してこう言った。『主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない』と。13 預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」」

「これでは」というのは、神が警告を与えたのに、それでもかたくなって拒み、なおも罪を犯し続けるのでは、ということです。甚だしいにも程があると。これでは、どうして、あなたを赦すことができるだろうか。できません。これは、裏を返せば赦したいということです。神様は彼らを赦したいのです。助けたいのです。でも彼らの側でそれを受け入れないのです。むしろ、悪に悪を重ねるようなことをしました。

 

7節から、その悪が具体的に挙げられています。まず、彼らは神を捨て、神でないものによって誓っていました。これは偶像礼拝のことです。このようにまず、神を礼拝するということが破壊されていたわけです。

それでも神は、なおも驚くべき恵みをもって彼らを満ち足らせると、今度は姦淫を犯し、遊女の家で身体を傷つけました。これは文字通り姦淫を犯したということと、霊的に姦淫したということの両方を含んでいます。というのは、こうした霊的姦淫、偶像礼拝には、肉体的姦淫が伴っていたからです。

 

さらに8節には「肥え太ってさかりのついた馬のように、それぞれ隣の妻を慕っていななく。」とあります。「いななく」とは、馬が声高く鳴くことです。それは発情した状態を指しています。理性を失って、完全に情欲、欲望に支配された状態のことです。もうどうにもとならない、です。十戒の最後、第十戒は、「あなたの隣人の家を欲してはならない。」(出エジプト20:17)ですが、これは第十戒の違反です。むさぼりの罪です。欲望ですね。このように、神様との垂直の関係が壊されると、人同士の横の倫理関係が成り立たなくなります。

 

ですから、9節で主は「これらについて、わたしは罰しないだろうか」と言われるわけです。この9節の最後のところに、「このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」とありますが、この「国」と訳された語は、「異邦人の国」を指すことばです。神の民が神にとって、もう異邦人のようになってしまっているわけです。このような民を、どうして赦すことができるだろうか。どうして罰しないでおられるだろうか。復讐しないでおられるだろうか。それはできない、というのです。どこまでもかたくなになって神に背き、罪を犯し続けるなら、神様は罰せずにはおられないのです。罰したくなくても、罰するしかないわけです。それは神様からしたら不本意なことです。なぜなら、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。Ⅰテモテ2章4節にこうあります。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」でも、神の慈愛を無視し、悔い改めずに罪を犯し続けるなら、罰せずにはおられないのです。

 

続く10節にはぶどう畑が出てきますが、この「ぶどう畑」とは、イスラエルのことを指しています。このぶどう畑の石垣に上り、それをつぶせと言われるのは神様ご自身です。神様はぶどう畑であるイスラエルの石垣に上り、それをつぶすようにと、バビロンに命じているのです。

 

その理由が11節にあります。イスラエルの家とユダの家はが、ことごとく主を裏切ったからです。イスラエルの家とは北イスラエル王国のこと、ユダの家とは、南ユダ王国のことです。北王国イスラエルは既に滅ぼされていました。B.C.722年に、アッシリヤによって滅ぼされました。そして、それが今南ユダ王国にも語られているのです。この後B.C586年に、彼らもバビロンに滅ぼされてしまうことになります。それは彼らがことごとく神様を裏切ったからです。神様は真剣に彼らに向き合おうとしておられたのに、神の民の方は、自分たちのしていることを深刻に受け止めていませんでした。

 

それは12節を見るとわかります。彼らは主を否定してこう言いました。「主は何もしない。わざわいは私たちを襲わない。剣も飢饉も、私たちは見ない。」

どういうことでしょうか。どんなに主が警告を与えても、それをまともに受けませんでした。わざわいが来る、さばきがあると言われても、そんなことは起こらないと、悠々自適に生きていたわけです。やりたい放題、好き勝手に生きていたのです。

 

そればかりではありません。13節には「預言者たちは風になり、彼らのうちにみことばはない。彼らはそのようにされればよい。」とあります。「風になり」とは実体がないということです。預言者たちの存在はあってないようなもの、風のようなものだと揶揄しているのです。

この12節と13節のことばは、エレミヤが預言者として何回も聞かされて来た、自分が体験してきたことばだったのでしょう。彼が預言者として神様のことばを伝えても、民の方は「なに、預言者か、あいつらは風みたいなもんだ」と馬鹿にしていたのです。それはこのエレミヤが預言のことばを語った時代、それはヨシヤ王の時代ですが、政治的には強大なアッシリヤ帝国がちょっと力が弱まって、政治的な空白ができた時代でした。そのためユダは比較的に平穏だったのです。だからエレミヤのことばを民は真剣に受け止めなかったのです。風のように流していたわけです。しかし、神様は侮られるような方ではありません。神のことばが無に帰することはないのです。神のことばは必ず成し遂げられます。必ず、実現するのです。

 

アメリカの有名なリバイバリストであったD・L・ムーディーは、イエス様を信じて生まれ変わり、最初のうちは喜びに満たされていました。ところがいくらもたたないうちに、生まれ変わった喜びはなくなり、世の楽しみを求め始めました。そこで彼は山に登って一週間の断食祈祷をして、恵みに満たされて山から下りてきました。しかし、その恵みもしばらくすると消えてしまいました。彼はひどく落胆し、「主よ、私は捨てられた者です」と嘆きました。そんなある日、聖書を読んでいると「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)というみことばに目が留まりました。その瞬間、彼の心が熱くなりました。「私は聖書を読んでいなかった。だから信仰が育たず、成熟できなかったんだ。」その時から彼は聖書を一生懸命に読みました。すると、彼の生活が代わり始めました。罪と世のことが消え去り、心が聖められて聖霊に満たされていったのです。

 

信仰生活の基本は、神が生きておられると信じることです。そして、その神のことばに生きることなのです。神のみことばに満たされると、みことばが生きて働き、その人を変えていきます。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。そして、そのみことばに従うとき、私たちの生活が変わっていくのです。イスラエルの問題はここにありました。みことばを聞きませんでした。主のことばを否定していたのです。つまり、はみことばがなかったのです。自分の思いのままに、勝手気ままに生きていました。その結果、神のさばぎか彼らに臨んだのです。神が生きておられると信じるなら、神の御前で生きるようになり、罪を捨てる人生へと導かれていきます。そして、すべてのことにおいて神を認める信仰は、みことばを毎日黙想して従う生活に現れるのです。

 

Ⅲ.イスラエルを攻める遠くから来る一つの国(14-19)

 

しかし、主は侮られる方ではありません。「主は何もしない」と言っている間に、民は自分の頭の上に神の怒りを積み上げていました。そして、ついに神の堪忍袋の緒が切れる時がやってきます。神様がみことばで語られた通り、民に対するさばきが実行に移されます14~19節をご覧ください。まず14節には「それゆえ、万軍の神、主はこう言われる。「あなたがたがこのようなことを言ったので、見よ、わたしはあなたの口にあるわたしのことばを火とする。この民は薪となり、火は彼らを焼き尽くす。」とあります。

ユダの民がそのようなことを言ったので、主はエレミヤの口から出ることばを火炎放射器のように、彼らに浴びせます。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くすのです。それは神様による神の民への徹底したさばきです。具体的には外国が襲ってくるわけです。15~17節をご覧ください。「イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めるために、遠くの地から一つの国を来させる。──主のことば──それは古くからある国、昔からある国、その言語をあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国。その矢筒は開いた墓のよう。彼らはみな勇士たち。彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、あなたが拠り頼む城壁のある町々を剣で打ち破る。」

神様は神の民をさばくために、外国を道具として用いられわけです。「古くからある国」とか「昔からある国」とはバビロン帝国のことです。この時は新バビロニア帝国でしたが、それは昔からありました。旧バビロニア帝国です。その起源は、創世記11章のバベルの塔にまで遡ります。あの「バベル」とは「バビロン」のことです。人類はここから地の全面に散らされていきました。ですから、歴史は古いのです。ユダの民はその言語を知りません。何を話しているのか聞き取れない国、それがバビロンです。主はイスラエルを攻めるために、この外国のバビロンを用いるのです。

「その矢筒は開いた墓のよう」とは、その放つ矢によって確実に死ぬということです。つまり、バビロン軍の破壊力を表しているのです。それはスピーディーで、パワフルで、すべてを食い尽くすいなごのようです。17節には「食らい」ということばが4回も繰り返して用いられています。「彼らは、あなたの収穫とパンを食らい、あなたの息子と娘を食らい、羊の群れと牛の群れを食らい、ぶどうといちじくを食らい、」彼らはすべてを食らい、エルサレムを廃墟とするのです。

まさにモーセが警告した通りです。モーセは約束の地に入るイスラエルの民に、もし彼らが主の御声に聞き従わず、モーセが彼らに命じた、主のすべての命令と掟を守り行わなければ、すべてのわざわいが彼らに臨み、彼らをとらえると言いましたが(申命記28:15)、その通りになったのです。

 

18~19節をご覧ください。ここには、「18 しかし、その日にも──主のことば──わたしはあなたがたを滅ぼし尽くすことはない。」とあります。19『われわれの神、武捨は、何の報いとして、これらすべてのことを私たちにしたのか』と尋ねられたら、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、自分の地で異国の神々に仕えたように、あなたがたは自分の地ではない地で、他国の人に仕えるようになる。』」とあります。

19節のことばは、自業自得ということです。「主は、何の報いとして、こんなことを私たちにしたのか」それは、彼らの神、主を捨てて、異国の神々に仕えたからです。それは神様の問題ではなく、身から出た錆なのです。

18節のことばは、10節にもありましたが、滅ぼし尽くすこときしないという約束です。そのような徹底した神のさばきの中にも、神は残りの民を残してくださるという約束です。ここに希望があります。絶望的に見えますが、ここにかすかな希望が残されているのです。神は、ユダが絶滅することを赦されたのではありません。敵の攻撃に、一定の制限を設けられました。それはすでに4章27節でも語られたとおりです。そこでは「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない」とありました。ここでも同じことを語っておられます。神様は、アブラハムの約束のゆえに、イスラエルをお守りになられるのです。まさに「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)とある通りです。

 

きょうのところをまとめると、ずっと罪のリストが挙げられて、最終的に外国からバビロン軍がやって来て、その国を食い尽くすわけです。その結果、社会の崩壊に至ります。彼らの安心した暮らしが破壊され、混乱に陥ります。今の日本も同じではないでしょうか。表面的には安心を装っていても、社会は崩壊し、混乱をきたしています。いつ崩壊するかわかりません。いったい何が問題なのでしょうか。その悲惨の原因をずっと辿って行くと、公正と真実、正義と真実を求めなかったからではないかということが、きょうのところが教えていることです。公正と真実を求めなかった民の行き着く先が、彼らのおかれている社会状況の大変さ、悲惨さに至るのです。逆に言えば、公正と真実を一人一人が求めるなら、このような悲惨な結果を招くことはないと言えます。

 

「大草原の小さな家」というアメリカのテレビドラマがありますが、その中にこんな話がありました。舞台は19世紀のアメリカの西部の開拓された小さな田舎町です。その小さな町には、人口も少ないので、小さな教会がありましたが、日曜日は教会がありますが、ウイークデイは子どもたちの小学校になっていました。

ある日曜日の礼拝が終わって、牧師が提案するのです。私たちの教会ももうそろそろ会堂の入り口のところに鐘を付けたらどうかと。集まった教会の人たちは、その提案をそれぞれ喜んで受け入れ、みんなうれしそうにしていました。ところが、そのドラマでよく出てくる雑貨屋を営んでいる金持ちの家庭がいて、奥さんがすごく見栄っ張りなんです。「じゃ、私が全部寄付しますわ。思いっきり隣町に負けないようないい鐘を付けましょう」と言うんですね。「その代わり私が寄付をしたというプレートを下に付けてください」と言うわけです。その発言で、教会のメンバーが一気にその意見が割れてしまいました。自分はお金が無いから、寄付は受けてプレートはつけていいという人がいれば、教会にそんな寄付した人の名前を彫り込むなんていうのは滅相もないという人の意見が、喧々諤々となってしまいました。その結果礼拝出席が半分くらいになってしまいます。半分くらいいなくなってしまったのです。牧師は提案した責任を感じて辞任することが決まりました。

その話を聞いていた目立たないおじさんがいました。ジョーンズさんという人なんですが、彼は話すことができない障害を持った方でした。彼の仕事は鋳物師で、鉄とかを溶かしてやかんとか鍋とかを作る仕事でした。彼は子どもたちに人気者でした。鋳物でキリンとかウマとかを作ったりしてプレゼントをしていたからです。そこで彼は考えました。子どもを集めて、話すことができないので黒板に書いて、子供たちに指示をするんです。すると、学校が終わった子どもたちがワァーとジョーンズさんの家に集まって来て、こそこそと指示を受けたら自分たちの家に帰って、家にある鉄のものをジョーンズさんのところにこそっと持って行くのです。灯油缶とかやかんとか使われていないものを持って行くわけです。ジョーンズさんはそれを溶かして鐘にするんですね。

しばらく経って、牧師が辞任のあいさつをする時です。日曜日の朝でした。小さな町全体に鐘の音が鳴り響きました。大人はびっくりして音のする方向に馬車を走らせて行きます。教会の上に鐘が付いていて、紐を引っ張ってジョーンズさんが鐘を鳴らしていました。大人たちは何となく気付いていたんですが、自分の家から鉄の物が無くなった理由がやってわかったわけです。そして子供たちが喜ぶ姿を見て、自分たちの過ちを認めました。

 

私はこのドラマを見て思ったことは、それは大草原の小さな家に出てくる教会だけでなく私たちの教会も、私たちの家庭も、いや、私たちのこの社会すべてに言えることではないかということです。その原因は何か、自分は正しいと思い込んでいることです。そのことに気付かないのです。しかし義人はいない、一人もいない。神様の前に正しい人は一人もいないのです。きょうの箇所にあったように、私たちの中にはだれ一人として正しい人はいないのです。しかし、聖書が言うのは、ただ一人の正しい人がおられたということです。イエス様だけが公正と真実を求めて、ひたすらそこに生き抜いてくださいました。この方が勝ち取ってくださった正しさを、私たちは身にまとうことが許されています。会堂の入り口に高く掲げられたこのジョーンズさんの鐘が、和解の調べを告げたように、十字架につけられたイエス様から私たちは、和解のことばを聞くことができるのです。イエス様は十字架の上からこう言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないからです。」(ルカ23:34)

私たちは、自分でも知らないうちに、また知りながら、罪を重ねて行きます。しかしそれを全部知った上で赦してくださった方がおられます。罪で死に、罪で滅ぼし尽くしかねなかった私たちを救ってくださったイエス様、このイエス様の御声を私たちは聞き、これを信じ従っていきたいと思います。

さあ、朝の食事をしなさい ヨハネ21章1~14節

聖書箇所:ヨハネ21章1~14節

タイトル:「さあ、朝の食事をしなさい」

 

主の御名を賛美します。今年も主の復活に感謝し、共に主を礼拝できることを感謝します。全世界はいまコロナウイルスに加え、ロシアのウクライナ侵攻、またそれに伴う食糧難、暴動、地震とまさに闇の中に置かれていますが、このキリストの復活のメッセージが、暗闇の中にある人たちにとって希望の光となることを祈ります。今日は、ヨハネの福音書21章から「さあ、朝の食事をしなさい」という題でお話しします。

 

Ⅰ.私は漁に行く(1-3)

 

まず1~3節をご覧ください。「その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。」

 

イエス様は、ユダヤ人たちのねたみによって十字架に付けられて死なれ、墓に葬られました。しかし、キリストを墓の中に閉じ込めておくことはできませんでした。キリストは、聖書が示す通りに、三日目に死人の中からよみがえられました。復活によって、ご自身が神の御子、救い主であることを公に示されたのです。そして40日にわたり弟子たちにご自身を現わされ、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを示されました。

 

イエス様が最初にご自身を現わされたのは、マグダラのマリアに対してでした。20章1節には、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来たとあります。何のためでしょうか。イエスの遺体に香油を塗るためです。ところが墓へ行ってみると、墓から石が取りのけられてありました。よみがえられたのです。でもイエスのからだがありませんでした。マリアが途方に暮れて泣いていると、復活の主が彼女に現れ「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と言われました。彼女は、それを園の管理者だと思いましたが、やがて、それが愛する主イエスだということがわかりました。彼女はそのことを弟子たちに告げると、弟子たちにはたわごとのように思われました。しかし、その日の午後、エマオに向かっていた二人の弟子たちに現われると、その日の夕方には、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて集まっていた弟子たちのところに現われてくださいました。イエス様が手と脇腹を彼らに示されると、「弟子たちは主を見て喜んだ。」(20:20)とあります。

 

しかしそこに、12弟子の1人でデドモと呼ばれるトマスがいませんでした。彼は疑い深い人で、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」と言っても、「私は決して信じません。その手に釘の跡を見て、そこに指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」(21:25)と言いました。本当に疑い深い人ですね。私たちの回りにもそういう人たちが結構いるのではないでしょうか。いや、私たちもかつてはそうでした。見ないと信じない。

 

しかし、その1週間後のことですが、弟子たちが集まっていたところに、再び主が現れてくださいました。今度はトマスも一緒でした。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(20:27)と言われました。するとトマスは、「私の主、私の神よ。」と言ってひれ伏し、主を礼拝しました。主はそんな彼にこう言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる者は幸いです。」(21:29)見ないで信じる人は幸いです。

 

きょうの箇所はその後の出来事です。その後、イエスはティベリア湖畔で再び弟子たちにご自分を現われてくださいました。ティベリア湖とはガリラヤ湖のことです。ティベリア湖とは、ガリラヤ湖のローマ風の呼び方なのです。そこで主は再び弟子たちにご自分を現われてくださったのです。その現わされた次第はこうです。

 

舞台は、エルサレムからガリラヤに移っています。なぜ弟子たちはこの時ガリラヤ湖にいたのでしょうか。主がそのように言われたからです。「ガリラヤに行くように。そこであなたがたに会う」(マタイ28:10)と。

ガリラヤ湖は彼らの故郷でした。彼らは、このガリラヤ湖で漁をしながら生計を立てていました。そこは彼らが小さい頃から慣れ親しんだ場所だったのです。しかし3年半ほど前に、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)と言われ、すべてを捨ててイエス様に従って行きました。ところが、イエス様は十字架に付けられて死んでしまいました。それで彼らは完全に望みを失ってしまったのです。これまで主として、先生として仰いできたイエス様が死んでしまったのですから。しかし、イエス様は三日目によみがえられました。その復活された主イエスが彼らに現われ、ガリラヤに行くようにと言われたのです。

 

2節をご覧ください。そこにいたのは、シモン・ペテロとデドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナの出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子がいました。おそらく一人はペテロの兄弟アンデレでしょう。そしてもう一人はナタナエルを誘ったピリポではないかと思います。とにかく全部で7人です。彼らはかつて漁をしていたガリラヤ湖畔にいたのです。

 

すると、シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言いました。なぜ彼はこのように言ったのでしょうか。わかりません。ある学者は、このときペテロは伝道者としての生活をやめ、元の仕事に戻ろうとしていたのではないかと言っています。また他の人は、いや、その日の食料を求めて漁に行っただけだという人もいます。はっきりしたことはわかりません。しかし彼がそのように言うと、他の弟子たちも「私たちも一緒に行く」と言いました。一つだけ確かなことは、このとき彼らは無力で、みじめな状態であったということです。なぜなら、自分の仕事まで捨てて従って行ったイエスが十字架につけられて死んでしまったのですから。いったい今までのことは何だったのか、そういう思いに駆られていたのではないかと思います。そして、自分たちの最も得意な領域で自分たちの存在というものを確かめたのではないでしょうか。それが「私は漁に行く」という言葉に現れたのだと思います。彼らはもともと漁師でしたから、これが自分の本業だと思ったのでしょう。ちょうど牧師が以前の仕事のことを思い出して懐かしむ姿に似ているかもしれません。それがうまくいなかいと元の仕事に戻りたいと、牧師なら一度や二度思うことがあります。「人間をとる漁師にしよう」と言われてイエス様について行ったのは良かったけれども、その結果がこれです。「これこそ自分のライフワークだ」と、以前の状態に引き戻されたのだと思います。

 

結果はどうでしたか?3節後半をご覧ください。「彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。」収穫ゼロです。漁をするには一番いい時間であったはずです。彼らは漁のプロでしたから、そんなことくらい百も承知でした。それなのに何も捕れなかったのです。なぜでしょうか?漁から離れていた3年半の間にすっかり腕が鈍ってしまったからではありません。それは彼らの本来の仕事ではなかったからです。彼らの本来の仕事は何ですか?人間をとる漁師です。それなのにそれを見ないかのようにして、自分の思いと自分の力で何とかしようとしたのです。その結果がこれだったのです。

 

ここからどんなことを学ぶことができるでしょうか?神のみこころから離れた努力は空しいということです。努力をすることは大切なことです。聖書にも「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12:11)とあります。箴言には、怠けないで、勤勉であるようにと勧められています。勤勉に働くことによって家族を養うことができます。世の光、地の塩としての役割を果たすことができます。しかしそれがどんなに良いことでも優先順位を間違えると、それは神に喜ばれません。ペテロは何も悪いことをしたわけではありません。漁に行くこと自体は良いことですし、熱心に働くことは悪いことではありません。しかし、彼に対する神の使命は、魚をとることはなく人間をとる漁師になるということでした。これが彼に対する神のみこころだったのです。それなのに彼は、神のみこころではなく自分の思い、肉の力を優先しました。その結果がこれだったのです。

 

私たちも神のみことばに従わないと、以前の生活に逆戻りしやすくなります。自分の力が、肉の力が働きやすくなるのです。だんだん祈らなくなります。神に信頼するよりも自分で頑張ろうとするのです。自分のやりたいことを、自分のやりたいときに、自分のやりたいようにやろうとするわけです。神のみこころを求めるのではなく、「私はやります」となるのです。ここでペテロは「私は漁に行く」と言いましたが、それと同じようになるのです。神様が何を願っておられるのかではなく、あくまでも「私」がしたいと思うこと、私の思いが強くなるのです。たから日曜日ごとに教会に来て主を礼拝することが重要なのです。そこで自分が拠って立っているもの、自分が信頼しているものが何であるのかを確認することができるからです。漁に行くこと自体は問題ではありません。でも彼に求められていたのは漁に行くことではなく、イエス様のことばに従って待つことだったのです。彼は主のことばに従わないで自分で判断して物事を決め、自分の力でやり遂げようとしました。主のことばに従わないと祈らなくなり、自分の判断で物事を決め、自分の力でやり遂げようとするようになります。

 

その結果、どうでしたか?夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。空振りに終わってしまいました。こんなに頑張っているのになぜ?優先順位が間違っていたのです。人生の優先順位を間違えると、実を結ぶことができません。イエス様が言われたことばを思い出します。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)イエス様を離れては何もすることはできません。その夜は何も捕れませんでした。それはこの時の弟子たちの心を象徴していたかのようです。イエス様を離れては実を結ぶことはできません。しかし、そんな暗い夜にも明るい朝がやって来ます。

 

Ⅱ.湖に飛び込んだペテロ(4-8)

 

4~8節をご覧ください。「4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。」

 

弟子たちは夜通し漁をしたのに何も捕れませんでした。その夜が明け始めていたころ、イエス様は岸辺に立っておられましたが、弟子たちにはそれがイエス様だとはわかりませんでした。見てはいましたが、わからなかったのです。なぜでしょうか?もしかすると弟子たちは湖の上にいたので、遠くてよく見えなかったのかもしれません。しかしそれは距離が遠かったからではありません。距離以上に彼らの心が遠く離れていたからです。だから主を見ていても、それが主だとわからなかったのです。

 

でも感謝ですね。そんな弟子たちにイエス様の方から声をかけてくださいました。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」それに対して弟子たちは答えました。「ありません。」ここで弟子たちは、自分の弱さというか、無力さを素直に認めています。しかし、そのように素直に認めたとき、彼らに新しい道が開かれました。どういう道でしょうか。それはイエス様の恵みに生きる道です。6節をご覧ください。イエス様は彼らにこう言われました。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」これが主のことばです。「舟の右側に網を打ちなさい。」舟の右側に打てって、もうとっくりやりましたよ。夜通しやったんです。でも何も捕れませんでした。今さらやっても無駄です。捕れるはずがありません。と弟子たちは言いませんでした。彼らは一言も反論せず、ただ主が言われたとおりにしました。

 

するとどうでしょう。おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き揚げることができませんでした。ガリラヤ湖は魚の豊富な淡水湖です。魚が群れをなして湖面近くに現れるとき、水面は、遠くから見ると夕立にたたかれたように波立って見えたといいます。まさにそんな光景だったかもしれません。おびただしい数の魚のために、もはや彼らには引き上げることができませんでした。7人の侍ならぬ7人の漁師でも引き上げることができないほどの大漁だったのです。自分の力で頑張った時には100%力を出し切ってもだめだったのに、主のことばに従い、主が言われたとおりにしたとき、想像することもではないほどの大漁が与えられたのです。

 

イエス様はこう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:30)まず神の国とその義とを第一に求めることです。そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられます。聖書はそう約束しています。私たちは自分の必要を満たそうとあくせくしていますけれども、空回りしないように注意しなければなりません。第一のことを第一にしなければなりません。第一のことを第一にするなら、あとのことは主が満たしてくださいます。これが、聖書が約束している聖書の原則です。

 

それでイエスに愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言いました。イエスが愛されたあの弟子とは、これを書いているヨハネのことです。彼は自分のことをみるとき、主に愛されている者であるというイメージを持っていました。これは正しいセルフイメージではないでしょうか。他の人があなたをどのように見るかではなく、神があなたをどのように見ておられるかということです。ヨハネは自分のことを、イエスが愛された者とみていました。私たちも同じです。確かに罪だらけな者です。同じ失敗を繰り返すような愚かな者ですが、そんな者を主は愛してくださったのです。私は、あなたは、主に愛された者なのです。

 

そのヨハネが、「主だ」と言いました。どうして彼はそのように言ったのでしょうか?ここには「それで」とあります。「それで」とは、その様子を見て、ということです。おびただしい数の魚のためにもはや彼らには網を引き上げることができなかったのを見て、「主だ」と叫んだのです。なぜでしょうか。なぜなら、彼の中に決して忘れ得ぬ一つの記憶が一気によみがえってきたからです。それはルカの福音書5章にある出来事です。イエス様がペテロの舟に乗ると、「深みに漕ぎ出して、網を下して魚を捕りなさい。」(ルカ5:4)と言われました。しかし、彼らは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですからと、網を下してみると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになったのです。あの出来事です。感受性の鋭いヨハネは、この二つの出来事の関連性というものを瞬時に分析し、結論を下したのです。「主だ」と。

 

それを聞いたペテロはどのように反応したでしょうか?彼は「主だ」と聞くと、すぐに湖に飛び込みました。おもしろいですね。ヨハネは、この二つの関連性を瞬時に分析してそのように結論づけましたが、ペテロは何も考えないで湖に飛び込みました。ペテロは理性よりも感性、感覚で生きるような人間でした。ですから「主だ」と聞いただけで、からだが反応したのです。本当に純粋で、行動的な人でした。すぐに反応しました。何だか自分の姿を見ているようです。どうして彼はすぐに飛び込んだのでしょうか。一刻も早く主のもとに行こうと思ったからです。舟は陸地から二百ペキスほどの距離でした。二百ペキスとは100m足らずです。下の欄外の説明には「約90メートル」とあります。そのくらいの距離だったらもう少し待っても良かったのに、彼は待てませんでした。なぜ?確かに彼は行動的な人間でしたが、それ以上に主を愛していたからです。90メートルほど舟が進むのを待つことができなかったのです。一刻も早く主のもとに行きたかった。そういう思いが、こうした行動となって現われたのです。しかし彼は裸だったので、上着をまとって飛び込みました。これもおもしろいですね。普通は反対です。泳ぐ時は上着を脱ぎます。でも彼は上着を来て飛び込みました。主にお会いするのに、せめて身なりだけでも整えようと思ったのでしょう。そばにあった上着まとうと、急いで湖に飛び込んだのです。

 

皆さん、これが愛です。愛とはこういうものなのです。距離など関係ありません。後先の計算もしません。とにかく飛び込むのです。とにかくそばに行きたい。とにかくそばにいたいのです。あれから40年・・・、皆さんも40年前はそのような経験をしたことがあるのではないでしょうか。主を愛する思いが、ペテロをこのような行動に駆り立てたのです。

 

あなたはどうですか?ペテロのような主への燃える愛があるでしょうか。冷静に分析することも必要でしょう。客観的に考えることも大切です。でも、分析だけで終わってしまうことがないように、客観的に考えるだけで終わることがないようにしたいですね。それが主だとわかったら、ペテロのようにとにかく飛び込むという情熱も必要です。主は、私たちがそのような愛を持つことを願っておられます。特に愛が冷えている現代においてはなおさらのことです。ペテロのように熱心に主を愛する者でありたいと思います。

 

Ⅲ.さあ、朝の食事をしなさい(9-14)

 

さあ、彼らが陸地に上がると、どんな光景が待っていたでしょうか。9~14節をご覧ください。「9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。」

 

弟子たちが岸に上がると、そこには炭火が起こされていました。そこで魚とパンが焼かれていたのです。それはイエス様が用意してくださったものでした。イエス様がバーベキューをして待っていてくださったのです。その魚とパンはどこから来たのでしょうか?それは弟子たちが捕ったものではありません。彼らが来る前に用意してあったのですから。それはイエス様が用意してくださったものです。イエス様ご自身がどこかで魚をとって来て、彼らのために用意してくださったのです。

 

すると、イエス様は彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われました。何のためでしょうか?イエス様があらかじめ用意してくださった魚に、彼らがとって来た魚を何匹か加えるためです。それでペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げました。すると、魚は網には何匹ありましたか?153匹です。網は153匹の大きな魚でいっぱいでした。おもしろいですね、ここには魚の数まで詳細に記録されています。なぜ153匹という数字が記録されているのでしょうか。ある人たちは、この153という数字が何かを象徴していたと考えています。たとえば、153という数字は3分の1を代表していることから、三位一体の神の完全性を象徴しているのではないかとかです。でも、それは読み込み過ぎです。そういうことではありません。これを書いたヨハネは、これを生涯忘れることができない数字として記録したのです。あのノアの箱舟の虹が人類への神の約束を思い起こさせるように、いくつかの具体的な数字をもって、確かに私は主にお会いしたという事実を、心に深く刻み付けようとしたのです。そういう意味では、8節の「二百ペキス」もそうです。わざわざ「二百ペキス」と書かなくても、比較的近くまで来たという表現でも良かったはずです。あまり離れていなかったとか。でもあえてこのように書き記したのは、確かに主はよみがえられて、自分たちに会ってくださったということを、その心に深く刻み込もうとしたからなのです。

 

Ⅰヨハネ1章1節でヨハネ自身が、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と言っているとおりです。これは、いのちのことばであられるイエス・キリストについて彼が自分で聞いたもの、自分の目で見た者、じっと見つめ、自分の手でさわったものなのです。確かに主はよみがえられたのです。14節に「イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自身を現わされたのは、これですでに三度目である。」とありますが、これはイエス様が死人の中からよみがえられて、三度目に弟子たちに現われてくださった出来事として、彼が自分で経験したことを、確信をもって伝えたかったのです。ですから、この「153匹の大きな魚でいっぱいであった」というのは、「ほら、見てください。そこには153匹の大きな魚があったんですよ。これは紛れもない事実です。」と言わんばかりです。そうしたヨハネの息づかいが聞こえて来そうです。

 

もう一つ重要なのは、それほどたくさんの魚でいっぱいだったのに、網は破れていなかったということです。どういうことでしょうか?それは、弟子たちが「私は漁に行く」「私たちも一緒に行く」と言って夜通し働きましたが何も捕れなかったことと対比されています。すなわち、彼らがイエスに従ったとき多くの収穫を見たということです。しかも、収穫したものは少しも漏れていませんでした。それはあのルカの福音書5章で経験したことと同じです。イエスが言われたとおりに網を下すと、おびただしい数の魚が入り、網は破れそうになれましたが、破れませんでした。そうです、イエス様のことばに従うとき、多くの収穫がもたらされるだけでなく、その網は破れないのです。主が支えておられるからです。これが主に従う者にもたらされる祝福です。

 

そればかりではありません。ヨハネはここに一つの重要な出来事を記録しています。それは、復活したイエスが、弟子たちを食事に招いてくださったという事です。12節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。『さあ、朝の食事をしなさい。』」

一緒に食事をするということは、それが親しい関係であることを表しています。弟子たちは、主のことばに従いませんでした。以前の生活に戻ろうとしていました。彼らが求めていたのは食べること、自分の生活を守ることでした。それで自分の力で頑張って漁に出ましたが、結果は惨憺(さんたん)たるものでした。何も捕れなかったのです。けれども主が約束されたとおりに彼らに現れてくださり、彼らが主のことばに従ったとき、豊かな収穫を見させてくださいました。そればかりでなく、彼らのために朝食まで用意してくださったのです。そして「さあ、朝の食事をしなさい。」と招いてくださいました。ここではイエス様がウエイターのようになって弟子たちに給仕してくださっています。パンと魚を焼いて、自らがそれを取り、彼らに与えられたのです。

これが私たちの主イエスです。このことによって主は、彼らを受け入れておられるということをはっきり示してくださいました。そのことは彼らもよく理解したことでしょう。イエス様との親しい交わりが回復したのです。

 

あなたはどうですか?イエス様との交わりを回復しているでしょうか。イエス様と共に食事をしていますか。親しく交わっているでしょうか。敵対関係があると親しく交わることができません。でも主は本当に優しい方です。愛のお方です。なかなか主に従えない、そんな私たちのために自ら歩み寄ってくださり、朝食を用意して待っていてくださいます。そして「さあ、朝の食事を食べよう」と招いてくださるのです。そのために主は自ら十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださいました。私たちを神から引き離す罪を赦し、神との平和、永遠のいのちを与えるためです。親しい交わりを回復するためには神との平和を持たなければなりません。すなわち、自分の罪を赦してもらわなければなりません。「御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:7)。このことを覚えてください。そして、もしあなたが今神から離れているならば、御子イエスのもとに来てください。主は喜んであなたを赦してくださいます。赦されることによって、神と親しい交わりを回復することができるのです。

 

昨日、S姉の家を訪問しました。86歳になるお父さんが月曜日に特別老人ホームに入所することになったので、その前にもう一度イエス様のことをお話してもらいたいということでした。もう一度ということは以前にも何度か訪問してお話させていただいたことがあるということです。しかしその時は薬が効いていたためか、私を無視していたのかわかりませんが、話しかけてもすぐに眠ってしまう状態でしたので、よくお話することができませんでした。仕方がなかったので、その時にはイエス様のお話をして帰りましたが、姉妹として入所するにあたりきちんとイエス様のお話を聞いてほしかったのです。

約束の時間に伺いましたがお父さんはデイサービスに行っていて留守でした。もう少しで帰宅するというので、姉妹とお話をしながら「お父さんに天国のお話をしてもいいですか」と確認したら、「ええ、是非。最近「死ぬ、死ぬ」と叫んでいるので、地獄に行くと思っているんだと思います。だから、イエス様を信じるようにお話していただけだと思います。イエス様を信じて、同じお墓に入るということを確認したいのです。」と言われました。「お墓のことならその後でもいいんじゃないですか」と言うと、「いや、きちんと父親の確認を取ってきたいのです。」というので、「わかりました」と私も覚悟を決めました。

するとお父さんがデイサービスから帰って来られました。「きょうはお父さんにキリストのお話をしてくれると、私が行っている教会の牧師さんが来てくれたから、お話聞いてない」と言うと、車いすに乗ってキッチンに連れて来られました。するとテーブルをそばに置いて、私のためにお父さんの左側に椅子を置いてくれました。左の耳が聞こえるので、あえてそのように配置してくれたのです。

私は心の中で主に祈りながら、「お父さん、デイサービスはどうでしたか。気持ちよかったでしょ。きょうは暖かかったし、お風呂に入れたから。お顔がキュキュッとしてますよ。」と言うと、わかったんでしょうね、にこっとして「ニコっときょうはあったかかったから」と言われました。「ところで、お父さん、お父さんはこれから先のことで不安なことはないですか。私はS妹が行っているキリスト教会の牧師なんですが、お父さんにもぜひ天国に行ってほしいと思ってるんです。どうしたら行けるかわかりますか。天国に行くにはイエス様を信じなければなりません。イエス様は神様なのに今から二千年前に私たちと同じような姿でこの世に生まれてくださり、何も悪いことをしなかったのに十字架で死んでくださいました。それはお父さんの悪い心、罪の身代わりのためです。でも三日目によみがえってくださいました。だから、このイエス様を信じるとお父さんのすべての罪が赦されて、天国に行くことができるんです。お父さんもイエス様を信じて天国に行きましょう。」と言うと、じっと私の顔を見て、ウンともツンともしませんでした。するとS姉妹がお父さんの耳元で、「お父さん、わかった?お父さんはいつも地獄に行くと言ってるでしょ。でもキリストを信じると、キリストが十字架にかかってお父さんの罪をかぶってくれたから、地獄に行かなくてもいいの。天国の行くの。そして私と同じお墓に入るんだよ。信じようね。わかった?」と言うと、「わかった!」とはっきり言われました。ハレルヤ!それで私は、「まことに、まことにあなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:47)と宣言して祈りました。祈り終えるとS姉の目は真っ赤になっていました。認知がひどく何もわからないと思ったお父さんが、はっきりと信じて救われたからです。主の深いあわれみに心から感謝します。

 

そして主は、毎朝、あなたも朝の食事に招いておられます。その招きに応答して、主とともに心の朝食をとりましょう。これは、イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現わされた三度目の出来事でした。確かに主はよみがえられたのです。主は今も生きておられます。すべては主の御手にあります。私たちのために復活してくださり、親しい交わりを回復してくださった主に心から感謝します。

エレミヤの苦悩 エレミヤ書4章19~31節

聖書箇所:エレミヤ書4章19~31節(エレミヤ書講解説教11回目)

タイトル:「エレミヤの苦悩」

 

きょうは、エレミヤ4章19節から31節までの箇所から、「エレミヤの苦悩」というタイトルでお話します。エレミヤは、前回のところでユダの民に、「悪から心を洗いきよめよ」と勧めました。彼らの生き方と彼らの行いが、彼らの身に滅びを招いたからです。その滅びから救われるためには、悪から心を洗いきよめなければなりません。ユダの民に神のさばきを伝えなければならなかったエレミヤの心境は、いかばかりであったかと思います。

 

きょうの箇所には、その預言者エレミヤの苦悩が描かれています。きょうはエレミヤの苦悩について三つのことをお話します。第一に、エレミヤの苦悩は、はらわたが引き裂かれるような激しいものでした。第二に、この神のさばきの結果です。そこには何もなく、あったのはただの絶望だけでした。第三のことは、だから神に立ち返れ、ということです。この神のさばきから救うことができるのは、イエス・キリストだけです。

 

Ⅰ.私のはらわた、私のはらわたよ(19-22)

 

まず、19節から22節までをご覧ください。「19 私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。私のたましいが、角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからだ。20 破滅に次ぐ破滅が知らされる。まことに、地のすべてが荒らされる。突然、私の天幕が、一瞬のうちに私の幕屋が荒らされる。21 いつまで私は旗を見て、角笛の音を聞かなければならないのか。22 「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」」

ユダの不従順に対する神のさばきは、バビロンを用いて彼らをさばくというものでした。それを示されたエレミヤは、こう叫びました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」

ドキッとしますね。「私のはらわた、私のはらわたよ」と叫ぶのですから。「はらわた」とは、人間の感情の中心があるところという意味です。日本語にも「はらわたが煮えくり返る」という表現がありますね。言いようがないほど激しく腹を立てることです。それほど悶えたということです。なぜエレミヤはそれほど悶えたのでしょうか?ユダに対する角笛の音と戦いの雄叫びを聞いたからです。それはバビロンによってエルサレムに破滅がもたらされるということです。エレミヤはそれを聞いたとき、はらわたが引き裂かれるような思いになったのです。

 

エレミヤの愛国心、そして祖国の滅亡を告げられた悲しみは、いかばかりだったかと思います。ロシアがウクライナに軍事侵攻しましたが、ウクライナの人たちはどれほどの痛みと悲しみはいかばかりかと思います。彼らが何か悪いことをしたから侵攻されたわけではありません。一方的なロシアの策略によって侵略されているのです。しかも、もしNATOやアメリカが軍事参入すれば第三次世界大戦に発展しかねないということで、ウクライナ軍が自国防衛のためにも戦っているのです。かわいそうです。でもこれは今回のロシアのウクライナ侵攻だけのことではありません。いつ、いかなる時にこのような事が起こるかわからないのです。それはある日突如として襲ってきます。もしあなたが、2011年3月11日に東日本大震災が発生するということがわかっていたら、あるいは2001年9月11日に同時多発テロが起こることを事前に知っていたら、必死になって同胞たちに警告を発したのではないでしょうか。でも、だれひとり耳を傾けてくれないのです。それがこの時エレミヤが体験した苦悩でした。彼は、民がこの後もずっと悔い改めなければユダの国は滅びると聞いたとき、はらわたが悶え、「黙っていられない」と叫んだのです。

 

使徒パウロも同じでした。彼は、同胞のユダヤ人がイエス・キリストを拒否し、イエス・キリストの福音を信じようとしないのを見て、こう言いました。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:2-3)

ユダヤ人は神に選ばれた民なのに、神の救いであるイエス・キリストを受け入れようとしませんでした。それどころか、信じているユダヤ人を迫害したのです。パウロもかつてはそうでした。まさか十字架につけられたイエスがメシヤであるはずがないと思っていました。しかし彼はダマスコに向かう途中で復活の主と出会って変えられました。「サウロ。サウロ。どうして私を迫害するのか。とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことだ・・・。」そのとき、彼の目からうろこが落ちました。彼は、このイエスこそキリスト、救い主であるということがはっきりわかったのです。そして彼の名は「サウロ」から「パウロ」へと変えられました。意味は「小さい者」です。イスラエルの最初の王であった「サウロ」という名前から、だれよりも小さな者、罪深い者という意味の「パウロ」になったのです。そして、それまではクリスチャンを迫害していましたが、今度はキリストを伝える者になりました。

彼はどこへ行っても、「イエスこそキリスト、救い主。この方を信じる人はだれでも救われる」と語りました。けれども、同胞のユダヤ人たちは信じようとしませんでした。それどころか、パウロを憎み、激しく迫害したのです。同胞のユダヤ人が信じようとしないのを見たパウロは、大きな悲しみがあり、絶えず痛みがありました。いや、「自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよい」とさえ思ったほどです。

この時のエレミヤと同じです。それは、一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っていたからです。

 

あなたはどうでしょうか。羊飼いのいない羊のように弱り果てている隣人を見て、どのような思いをいだいているでしょうか。エレミヤは、「私のはらわた、私のはらわたよ。私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と叫びました。イエス様も、そのような群衆を見て、羊飼いのいない羊のような彼らを、深くあわれまれました。私たちも同じです。神様を信じないで自分勝手に生きている人を、聖書では罪人と言っていますが、そうした人たちには永遠の滅びがあることを知ったなら、黙ってなどいられないはずです。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と、嘆かずにはいられないはずなのです。

 

スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」の最後のシーンで、シンドラーが自分の指輪などの貴重品を見ながらこう叫びます。「ああ、これでもう一人の命を救うことができたのに・・・。」シンドラーは自分の身分を利用してナチスから多くのユダヤ人を救ったにもかかわらず、さらに多くの人を救えなかったことを後悔して涙を流したのです。

 

エレミヤも、ユダが神に背き続けた結果彼らにもたらされる神のさばき、具体的にはバビロンに滅ぼされるということですが、その宣告を示された時、もう黙ってなどいられませんでした。彼のはらわたは激しく引き裂かれました。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と言って、嘆いたのです。これこそ、神のさばきの宣告を示された者の自然な応答ではないでしょうか。

 

なぜイエス様は死んだラザロの墓の前で泣かれたのでしょうか。ラザロが生き返ることを知っておられたのに・・。それは、ラザロが死んだことを悲しんだ人々の涙をご覧になられたからです。それは罪によってもたらされたものです。「罪の報酬は死です。」(ローマ6:23)とある通り、それは永遠の死に至ります。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

イエス様が永遠のいのちを与えてくださいました。それなのに、罪の中にとどまり、このいのちを失うことがあるとしたらどんなに悲しいことでしょうか。イエス様が群衆を見て、羊飼いのいない羊のようであるのを見て悲しまれたように、罪によって滅んでいくたましいを見て、このエレミヤのように「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える」と言って、悲しむのではないでしょうか。最近、自分以外の人たちのために痛み、苦しんだことがあるでしょうか。罪によって滅んでいくたましいのために痛み、悲しみ、一人も滅びることがないように、涙をもって祈る者でありたいと思います。

 

Ⅱ.私が見ると(23-28)

 

次に、23節から28節までをご覧ください。「23 私が地を見ると、見よ、茫漠として何もなく、天を見ると、その光はなかった。24 私が山々を見ると、見よ、それは揺れ動き、すべての丘は震えていた。25 私が見ると、見よ、人の姿はなく、空の鳥もみな飛び去っていた。26 私が見ると、見よ、豊かな地は荒野となり、町々は主の前で、その燃える怒りによって打ち壊されていた。27 まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。28 このため地は喪に服し、上の天は暗くなる。わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない。」」

 

バビロンの侵略によってユダに下る惨状が語られます。ここには、「私が見ると」ということばが何回も繰り返されています。23節には「私が地を見ると」とあります。また「天を見ると」とあります。24節にも「私が山々を見ると」、25節にも「私が見ると」、26節にもあります。「私が見ると」。何回も「見ると」ということばが繰り返されてあるのです。なぜ何回も繰り返しているのでしょうか?これを語っているのはエレミヤです。エレミヤはバビロンの侵略によってユダがどうなったのかを見て、それを具体的に伝えようとしたのです。エレミヤが見たのは、まず地と天でした。彼が地を見ると、そこは茫漠として何もなく、天を見ると、そこに光はありませんでした。山々を見ると、それは揺れ動き、すべての丘が震えていました。つまり、神のさばきが下った時の状態が、天地が創造される以前の混沌とした状態にたとえられているのです。

 

創世記1章2節には、「地は茫漠として何もなく、闇が大水の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」とあります。これと同じです。茫漠としていました。「茫漠」とは、混沌としている状態のことを言います。新改訳聖書第2版では「地は形がなく、何もなかった。」と訳しましたが、実際には何もなかったのではなく「混沌としていた」ので、新改訳聖書第3版からは「茫漠」と訳すようにしました。2017版でもそうです。茫漠として何もない状態になるのです。

 

次にエレミヤは、カメラがズームインしたかのように、ひとりの人間もいなくなり、空の鳥も飛び去った状態を描いています。25節です。さらにエレミヤは、あの乳と蜜が流れる豊かな地は荒野となり、町々は、打ち壊されているのを見ました。つまり、そこに見たのは絶望であったということです。悔い改めない者にもたらされる結末は、恐れと絶望なのです。それは主の燃える怒りによってもたらされたものです。28節には「わたしが語り、企てたからだ。わたしは悔いず、やめることもしない」とあります。この「語り」、「企て」、「悔いず」、「やめることはしない」という四つの動詞は、それが確実に起こる事を示しています。

 

しかし、このところをよく見ると、そのようなさばきの中に、救いの希望が語られていることがわかります。27節をご覧ください。「まことに、主はこう言われる。「全地は荒れ果てる。ただし、わたしは滅ぼし尽くしはしない。」どういうことでしょうか?これは、全地は荒れ果てるが、滅ぼし尽くすことはしないということです。つまり、ユダの民がすべて滅ぼし尽くされるわけではないということです。残された者がいるのです。主は、アブラハムと交わした約束のゆえに、ご自身の民を完全に滅ぼすことはなさらないのです。ユダの民がバビロンに捕囚の民として連れて行かれても、少数の残りの者たちを残し、約束の地に帰らせてくださり、そこで国を再建できるようになさるのです。すごいですね。ここに希望があります。エレミヤはユダの荒廃と破滅のみを見ていましたが、その中に希望も含まれていたのです。それが滅ぼし尽くしはしない、ということだったのです。

 

この預言のとおり、イスラエルはB.C.586年にバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれますが、主は彼らを滅ぼし尽くすことはなさらないで、70年後に彼らをイスラエルに帰還させてくださいました。残りの者を残してくださるのです。

 

つまり、神がイスラエルをさばかれるのは、彼らをさばくためではなく、彼らを救うためなのです。時として、神様は私たちに鞭を与えることがあります。神の鞭は非常に痛いものです。適当に打つのではなく、強い力で振り下ろします。それは、私たちをさばいて死に至らしめるためではなく、私たちへの深い愛のためなのです。このようにして神は、ご自身の救いのご計画を成し遂げてくださるのです。ですから私たちは、難しい状況ではなく神ご自身を見つめるとき、神が鞭を与えられる究極的な目的を知り、喜ぶことができるのです。まさに、神がバビロンを通してイスラエルをさばかれたのは、彼らを滅ぼすためではなく、救うためだったのです。

 

あなたはこの神の救いのご計画と摂理を信じていますか。さばきの中にも神のあわれみがあると受け止めましょう。その中にある神の愛と慰めのメッセージを、しっかりと受け止めたいと思います。

 

Ⅲ.神に立ち返れ(29-31)

 

ですから、第三のことは、神に立ち返れということです。29節から31節までをご覧ください。「29 騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った。すべての町が捨てられ、そこに住む人はいない。30 踏みにじられた女よ、あなたはいったい何をしているのか。緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を塗って大きく見せたりして。美しく見せても無駄だ。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとしている。31 まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」」

 

実際に、どのように神の審判が下るのでしょうか。ここには、騎兵と射手の雄叫びに、町中の人は逃げ去り、草むらに入り、岩によじ登った、とあります。すべての町が捨てられ、そこに住む人は一人もいなくなります。「踏みにじられた女」とはユダのことです。その時彼らは何をしていましたか。彼らは緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたて、目を大きく見せたりして、美しく見せようとしていました。どうしてこんなことをしていたのでしょうか。「緋の衣」とは、高級ブランド品のドレスのことです。「目を塗って大きく見せる」とは、化粧をして美しく見せようとすることです。つまり、ここではユダの姿を、緋の衣や化粧で自分を飾り立てる遊女にたとえているのです。この遊女はかつての恋人たち、つまりバビロンに媚(こ)びを売って助かろうとしますが、そんなことをしても無駄です。その滅びから免れることはできません。恋人たちはあなたを嫌い、あなたのいのちを取ろうとするからです。

 

結局のところ、彼らはバビロンの攻撃によって、悲惨な状況に陥ることになります。それが、31節にあることです。「まことに、私は、産みの苦しみにある女のような声、初子を産む女のようなうめき、娘シオンの声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸ばして言う。「ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。」

ここでは、ユダの最後が二つのたとえで表現されています。一つは初子を産む女のようなうめきで、もう一つは、敵の手によって殺される者の姿です。「殺す者たち」とは、バビロン軍のことです。その攻撃によって気力さえも失ってしまうほどの、何もかも空しくなってしまうような状態になるということです。まさに廃人のようになるのです。

 

これが罪のもたらす結果です。ですから、いつまでも罪の中にとどまっていてはいけない。神の忍耐を軽んじて、神に背き、自分が好むように、自分の好き勝手に生きるというのでだめなのです。もしそういうことがあるとしたら、このイスラエルやユダのように、神のさばきを受けてしまうことになってしまいます。そして、そのような状態から自力で救済しようとしてもできません。だから、神に立ち返らなければならないのです。もっと具体的に言うならば、神の救いを受け入れなければなりません。それは、私たちの救い主イエス・キリストです。私たちを罪から解放できるのは、イエス・キリストだけです。ローマ5章9節にこうあります。「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」

キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によっての怒りから救われるのは、なおさらのことなのです。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ですから、あなたがキリストを通して神に立ち返るなら、あなたは義と認められ、この神の怒りから救われることができるのです。キリストを通して、神に立ち返りましょう。そして、神の怒りから救われたことを感謝しようではありませんか。

 

私は小さい頃から口笛が下手で、あまりうまく吹くことができませんが、無意識に口笛を吹いたり、口ずさむときがあります。最もよく口ずさむ賛美は、新聖歌268番です。

  • 悲しみ尽きざる 憂き世にありても 日々主と歩めば 御国のここちす

ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

  • かなたの御国は 御顔のほほえみ 拝する心の 中にも建てらる

ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

  • 山にも谷にも 小屋にも宮にも 日々主と住まえば 御国のここちす

    ハレルヤ 罪とが消されしわが身は いずくにありとも 御国のここちす

 

この世を歩んでいると、誰でもさまざまな苦しみを味わいます。しかし、人間のまことの苦しみと不幸は、外の環境によって生まれるものではありません。それは私たちの中に神がおられないために生まれるのです。

悲しみの多いこの世では、高い山、荒野、粗末な家などが、私たちにとって不幸と苦しみになることがあります。しかし、この聖歌の歌詞のように罪の荷を降ろし、主とともに歩むなら、それはどこにあっても御国となるのです。

この世の多くの苦しみと悩みが私たちを不幸にするのではありません。私たちの心にイエス・キリストがおられないために、不幸になるのです。

しかし、イエス・キリストの血によって義と認められるなら、どんなに不幸のように見えても、さながら天国のようになります。聖霊によって、神の愛があなたの心に注がれるからです。このキリストを通して神に立ち返りましょう。これが、私たちが神の怒りから救われる唯一の道です。このキリストによって、私たちは高らかに神を賛美し、神に感謝をささげましょう。

心を洗いきよめよ エレミヤ書4章5~18節

聖書箇所:エレミヤ書4章5~18節(エレミヤ書講解説教10回目)

タイトル:「心を洗いきよめよ」

 

 きょうは、エレミヤ書4章5節から18節までのみことばから「心を洗いきよめよ」というタイトルでお話します。前回は、その前の1節から4節までのところから「心の包皮を取り除け」というメッセージでしたね。神から離れたイスラエルに向かって主は、「背信の子らよ、立ち返れ。」と語りました。そうすれば、主はあなたの背信を癒そうと。それで前回の箇所では、もし主に帰るというのなら、わたしのもとに帰れ、と言われたのです。主に立ち返るとはどういうことなのかを、「もし」ということばを用いて説明されたわけです。そしてそれは口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めが求められるということでした。ただ表面的でうわべだけのものではなく、心から「主は生きておられる」と告白することが求められていたのです。

 

そのためには、三つのことが求められていました。一つは3節にあるように、「耕地を開拓せよ。」ということでした。耕地というのは、かたくなな心のことでしたね。その耕地に鍬とか鋤を入れて柔らかくしなければなりません。なぜなら、そのようにカチカチと凝り固まった心にどんなに種をまいても実を結ぶことはないからです。種が育つためにはまず、心の耕地を耕さなければなりません。

第二のことは、「茨の中に種を蒔くな」ということでした。茨の中に種を蒔いたらどうなりますか。どんなに芽が出ても成長することができません。茨がそれをふさいでしまうからです。ですから、茨の中に種を蒔いてはなりません。

そして第三のことは、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」ということでした。割礼とは男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。ユダヤ人は、自分たちが神の民であることのしるしとして、生まれて8日目にこの割礼を受けました。しかし、ここで言われているのはただの割礼ではなく「心の割礼」のことでした。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」(ローマ2:28-29)大切なのは、心に割礼を受けるということ、御霊による心の割礼です。すなわち、彼らの心に焦点が当てられていたのです。

 

きょうの箇所はその続きです。きょうの箇所でも、彼らの心に光が当てられています。14節には「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。」とあります。「いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。」と。神のことばを聞いたのなら、あなたの心を洗いきよめなければならない、というのです。

 

きょうはこのことについて3つのポイントでお話したいと思います。第一のことは、そのためには、身を慎み、目を覚ましていなければなりません。そうでないと、あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているからです。

第二のことは、神が何と言っておられるのかをよく聞き分けなければなりません。そうでないと、偽りの教えに騙されてしまい、滅びを招いてしまうことになるからです。

第三のことは、その滅びから救われるために、悪から心を洗いきよめよ、ということです。

 

 Ⅰ.身を慎み、目を覚ましていなさい(5-9)

 

まず、5節から9節までをご覧ください。「5「ユダに告げ、エルサレムに聞かせて言え。国中に角笛を吹け。大声で叫べ。『集まれ。城壁のある町に逃れよう』と。6シオンに向けて旗を掲げよ。自分の身を守れ。立ち止まるな。わたしが北からわざわいを、大いなる破滅をもたらすからだ。7獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出て来る。あなたの地を荒れ果てさせるために。あなたの町々は滅び、住む者はいなくなる。」8このことのために、粗布をまとって悲しみ嘆け。主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ。9「その日には-主のことば-王の心や、高官たちの心は萎え、祭司は唖然とし、預言者はたじろぐ。」」

ユダに対するさばきの宣言です。「角笛を吹く」とは、危険が迫っていることを示しています。「城壁のある町に逃れよう」とは、城壁など防備のある町に逃れるようというということです。エルサレム以外のユダの町々に住む人々に、侵入して来る敵の軍隊に備えて、防備のある町々に避難するようにと呼び掛けられているのです。なぜなら、北からわざわいが、大いなる破滅が襲い掛かって来るからです。それは神がもたらしたものでした。「北から」とは、バビロンのことを指しています。7節には「獅子」とありますが、それはバビロンのことを象徴しています。「獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出てくる。」そうです、バビロンがやって来てユダに襲いかかり、破滅をもたらそうとしていたのです。それはユダの民が、預言者を通して語られた神のことばを聞いても、神に立ち返らなかったからです。それで主の燃える怒りが、彼らに向けられたのです。その日には、王の心や、高官たちの心は萎え、祭司は唖然とし、預言者はたじろぐことになります。

 

その神のさばきから逃れる唯一の道は何でしょうか。8節には「このことのために、粗布をまとって悲しみ嘆け。」とあります。つまり、罪を悔い改めて神に立ち返ることです。それなのに彼らには、そのようにしませんでした。彼らには、そのような信仰が欠如していたのです。

 

新約聖書には、サタンが獅子にたとえられています。Ⅰペテロ5章8節には、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。敵である悪魔に勝利する秘訣は、「身を慎み、目をさましている」こと、つまり、信仰の目をさましていることです。そうでないと、獅子がユダを食い尽くしたように、霊的な獅子である悪魔があなたを食い尽くしてしまうことになります。あなたは、神のことばによって養われていますか。神のことばが聞こえているでしょうか。

 

先週もC-BTE(教会主体の神学教育)が持たれましたが、前回はテトスの手紙1章から学びましたが、そこには、パウロが開拓したクレテの教会を破壊する者たちがいました。彼らは反抗的な者、無益な話をする者であり、人を惑わす者たちで、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家々をことごとく破壊していました(テトス1:10-11)。彼らは神を知っていると公言していましたが、行いでは否定していたのです(同1:16)。そういう者たちが家々に入り込むとどうなるでしょうか。家々が破壊されてしまうことになります。夫婦関係に亀裂が生じ、家族はバラバラになり、教会が破壊されてしまうことになります。なぜなら、家族は教会構成している最小単位だからです。それがバラバラになれば、当然それを構成している教会の共同体も崩壊してしまうことになります。特に初代教会では、家々が教会でしたから、家々が破壊されるということは、教会が破壊されることだったのです。ですから、夫婦とか家族というのはとっても大切なのです。しかし、その夫婦なり家族に関する教えが、神のことばに従った健全なものではなく、この世の考え方やこの世の教えに従ったものであるなら、知らないうちに家々が崩壊していくことになります。

 

ですから、神のことばである主の教え、健全な教えを聞いて、それに養われていないと、霊的獅子である悪魔に食い尽くされてしまうことになります。いつの間にか信仰から離れ、この世にどっぷりと浸かった状態に陥ってしまうのです。ですから、注意しなければなりません。いつも身を慎み、目を覚ましていなければならないのです。私たちの心を見張っていなければなりません。

 

 Ⅱ.神のことばを聞き分ける(10-13)

 

第二のことは、神が何と言っておられるのかをよく聞き分けなければならないということです。10節から13節までをご覧ください。10節をお読みします。「10 私は言った。「ああ、神、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私たちの喉に触れています。」」

 

「私」とは、エレミヤのことです。エレミヤは、ここで主に言っています。「あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。」なぜなら、「あなたがたには平和が来る」と言われたのに、平和どころか剣が喉に触れているからです。どういうことでしょうか。

 

「あなたがたには平和が来る」と言ったのは偽預言者たちです。ここも二重の『』になっています。これは、当時の偽預言者たちが語っていた言葉です。そのメッセージを信じた結果、欺かれることになってしまいました。それは主なる神が悪かったのではなく民が悪かったからです。神はエレミヤを通して、神に立ち返らないとさばきが来ると宣告していたのに、ユダの民はそれを受け入れませんでした。聞きたくなかったのです。耳障りが悪いからです。そしてそれとは反対の偽預言者たちの言葉を信じました。「自分たちは大丈夫、神のさばきなんか来ないから」「侵略なんてされることはない、自分たちは要塞のあるエルサレムで平和に暮らすことができる」と、まんまと騙されていたのです。

彼らが聞きたかったのはさばきのメッセージではなく、救いのメッセージ、平和のメッセージでした。ですから、どんなに悔い改めて神に立ち返れと言われても、そうでないと神のさばきを免れることはできないと聞いても、そうした言葉には耳を塞ぎ、「あなたがたには平和がくる」という偽預言者たちの語るメッセージを喜び、受け入れていました。つまり、問題は彼らの不信仰にあったのです。

 

それは彼らだけではなく、私たちにも言えることです。人は皆、こうした偽りの平安や表面的な気休めの言葉を求めています。家内安全、商売繁盛、といった現世的な利益とか、病気が癒される、人間関係が良くなるといった言葉を求めているのです。それ自体は悪いことではありません。でももっと本質的なものを見ていないと、このユダの民のように欺かれてしまうことになります。もっと本質的なものとは何かというと、神との関係です。永遠のいのちです。神との関係がないのに、いくら「平和だ、平和だ」と言っても、それは表面的なものにすぎません。どんなに健康であっても、どんなに問題が解決しても、神との関係がなかったら地獄です。何にもなりません。でも、たとえ病気であっても、たとえ貧しくても、たとえ問題があっても、神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じている人はどんなに幸いでしょうか。最終的に、神の国、天国に行くのですから。皆さん、騙されてはいけません。「平安だ、平安だ」という言葉に簡単に飛びついてはいけないのです。あまりにも簡単にそうしたものに飛びつくと、今さえ良ければいいという生き方になってしまい、必ず失望することになってしまいます。まず天を定めることです。そこから上下左右のバランスをとっていくのです。これが生け花の基本だと、以前誰かから聞いたことがあります。まず天を定めて、現在を見ていくのです。神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられることなのかを求め、心の一新によって自分を変えることです。そうすれば偽りの言葉に騙されることはありません。

 

11節から13節までをご覧ください。「11 そのとき、この民とエルサレムに告げられる。「荒野にある裸の丘から、熱風は、娘であるわたしの民の方に吹く。ふるい分けるためでも、より分けるためでもない。12 それよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今や、わたしが彼らにさばきを下す。」13 見よ、それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう。その馬は鷲よりも速い。ああ、私たちは荒らされる。」

 

そのとき、この民とエルサレムに、主のことばが告げられました。それはユダに対して、もっと激しい神のさばきが下されるということでした。それが「熱風」という言葉で表されています。「熱風」とは、砂漠から吹いてくる「シロッコ」と呼ばれる夏の季節風のことです。この「熱風」が、娘である神の民イスラエルの方に吹くのです。何のためですか?これはふるい分けるためでも、より分けるためでもありません。脱穀のようにもみ殻をふるい分ける時にも風が用いられますが、そのようにふるい分けるためでも、より分けるためでもありません。それよりも、もっと激しい風が、神のために吹くのです。それは、神が彼らにさばきを下すための風で、彼らを滅ぼすためのものでした。この熱風は、いったん吹けばすべての植物を枯らしてしまいます。それは戦車のつむじ風のようで、その馬は鷲よりも早いのです。鷲よりも早いのですから、そうとう早い馬です。それは誰のことでしょうか?それは北からのわざわい、バビロンのことです。バビロンがやって来て、ユダを激しく滅ぼし尽くすのです。それが彼らの目前まで迫っていました。なぜなら、彼らが悔い改めなかったからです。偽りの預言者たちのことばに騙されて不信仰に陥っていたからです。

 

今から4年前に天に召された世界的な伝道者ビリー・グラハム師は、1989年のゴードン・コンウェル神学校の設立記念礼拝のメッセージの中で、次のように言いました。

「世の中には、これは常に正しいと言えるものと、これは常に正しくないと言えるものがある。この単純な事実を、私たちは見失ってしまった。つまり、私たちは判断基準を失ってしまったのだ。この国には、自分たちの生活を防御するための論理的哲学がない。それゆえ、何かが起きなければ、私たちの生活はより重大な危機に陥るだろう。その何かというのは、霊的リバイバルである。」(ビリー・グラハム,クリスチャニティトゥデイより)

 

私たちに求められているのは、この「霊的リバイバル」です。神に立ち返ることです。神のことばに生きることです。私たちが聖書に書かれてあることを知らなければ、いとも簡単に、聖書とは違うメッセージを信じてしまうことになります。その結果、私たちの心が神から離れてしまうのです。神を信じていると思っていても、いつの間にか、それとは違う方向へ進んでいくことになります。そこには、神との親しい交わりはありません。

 

ですから、私たちは注意しなければなりません。自分に都合がいい、耳障りがいいことばではなく、神のことばを聞かなければならないのです。神は何とおっしゃっているのかを聞き、それに従わなければなりません。そうでないと熱風が吹いて来てすべてを枯らしてしまうことになります。

 

 Ⅲ.悪から心を洗いきよめよ(14-18)

 

 ですから、第三のことは、救われるために、悪から心を洗いきよめよ、ということです。14節から18節までをご覧ください。「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。15 ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。

4:16 国々に語り告げよ。さあ、エルサレムに告げ知らせよ。包囲する者たちが遠くの地から来て、ユダの町々に対して、ときの声をあげる。17 彼らは畑の番人のように、ユダを取り囲む。それは、ユダがわたしに逆らったからだ。-主のことば-18 あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」」

 

 それゆえ、主なる神は、ユダの人々が救われるために、主の前に悔い改めるように、そして「悪から心を洗いきよめよ」と命じています。

「心を洗う」とはどういうことでしょうか。それは心を入れ替えるということではありません。心を洗うことは、自力ではできないのです。ですから、心を洗うためには、心を神に向け、神に洗ってもらわなければなりません。

旧約聖書に出てくるダビデは、主なる神によって心を洗われるという経験をしました。詩篇51篇7節で、彼はこう言っています。「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」

「ヒソプ」とは、壁や岩などに生えるシソ科の植物です。モーセの律法の中に、過越の祭りでほふった小羊の血をそのヒソプの束によって、鴨居と門柱につけるように命じられていました(出エジプト12:22)。ですから、ヒソプで私の罪を除いてくださいというのは、その小羊の血によって、きよめてくださいということです。そうすれば、雪よりも白くなります。これは真っ白になるということです。完全に洗いきよめていただくことができるのです。預言者イザヤはこう言いました。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)主がきよめてくだされば、雪よりも白くなることができます。心を洗いきよめることができるのです。

また、彼はこうも言っています。「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)きよい心を造り、揺るがない霊を与えてくださるのは、神なのです。

 

いったい神はどのように私たちの心を洗いきよめてくださるのでしょうか。それは小羊の血を心に塗ることによって、すなわち、神の御子イエス・キリストを心に信じることによってです。Ⅰヨハネ1章7節にこうあります。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、聖書はこう言うのです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

もしあなたが自分の罪を告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から洗いきよめてくださいます。ハレルヤ!何という約束でしょうか。私たちも日々神に背き、罪を犯す者ですが、私たちが御子イエスに向くなら、そして、自分の罪を告白するなら、主はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

 

アメリカに有名な伝道者で、リバイバリストであったチャールズ・フィニーという人がいました。最初に「リバイバル」という言葉を使った人で、「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれている人です。

彼がある町で伝道していた時のことです。人相の悪い男に「今晩、わしの店まで来てくれ」と言われました。彼は恐る恐る彼の店に行ってみると、急にピストルを取り出して言いました。「昨晩あんたの言ったことは本当か。」

「どんなことを言いましたか。」

「キリストの血がすべての罪からきよめると言ったさ。」

「それは私のことばではなく、神のことばです。」

「実は、この酒場にある秘密のギャンブルの部屋で、わしは多くの男を最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「そうです、すべての罪はキリストの血によってきよめられます。」

「ちょっと待ってくれ。支払いができない奴は、殺し屋を雇い、このピストルで殺させた。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「私に言えるのは、聖書には、すべての罪が赦されると書いてあるということだけです。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいる。ところがわたしはこの16年間、妻をののしり続けてきた。先日は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、やけどを負わせた。こんな男でも神は赦してくれるのか。」

すると、フィニーは立ち上がり、その男の手を握りました。そして、こう言いました。「これまで聞いたことのない恐ろしい話を聞きました。しかし聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

すると、その男は言いました。「それを聞いて安心した。」

翌朝、太陽が昇るころ、その男は立ち上がって自宅に帰りました。そして自分の部屋に幼い娘を呼び、ひざに乗せて「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起こったのかと不審に思って中を覗いていた妻の頬に、涙が流れ落ちました。彼はその妻を呼ぶとこう言いました。「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」そして彼は酒場を閉め、その町にとって大の恩恵者になったのです。

キリストの血は、どんな罪でも赦し、きよめ、私たちを神と和解させます。キリストの愛はどんな人でもその人の内側から変え、神の平安で満たしてくれるのです。

 

ですから、もしあなたが神に帰るのなら、キリストのもとに行かなければなりません。そして救われるために、悪から心を洗いきよめていただかなければならないのです。いつまで、自分のためによこしまな思いを宿らせているのですか。今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしないでください。主イエスの血によって、あなたの心をきよめていただきたいのです。

 

15節には、「ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。」とあります。「ダン」とは、北イスラエルの最北端にある町です。「エフライムの山」とは、南ユダの最北端にある山です。ですから、これは全イスラエルに告げ知らせよということです。イスラエルのすべての人に悔い改めるようにと勧告されているのです。いや、イスラエルばかりではありません。16節には「国々に語り告げよ。」とあります。それは異教の国々も含むすべての国々のことです。すべての国の、すべての人に対して勧められているのです。何を?悔い改めることです。救われるために悪から心を洗いきよめることです。そうでないと、包囲する者たちがやって来て、ユダの町々に対して、ときの声をあげるようになります。あなたを包囲する者たちがやって来て、あなたを滅ぼしてしまうことになるのです。

 

それは神に原因があるからではありません。18節にあるように、「あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いた」のです。神が好んでしているわけではないのです。あなたの生き方と、あなたの行いが、これをあなたの身に招きました。これは、神に背いた生き方、神に背いた行いのことです。聖書では、これを罪と呼んでいます。罪とは的はずれ、神という的を外した生き方、行いです。言い換えると、それは自己本位の生き方のことです。これがあなたの身にわざわいをもたらすのです。それはあなたの心臓にまで達しているとあります。それは文字通り、健康にもよくありません。罪はあなたの心と体を蝕むのです。その行き着くところは死です。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

罪の報酬は死です。しかし、神がくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。このようなすばらしい賜物を与えてくださった主に心から感謝します。ですから、もしあなたがまだこの賜物を受けていなのであれば、どうか今、自分の罪を認め、神に立ち返ってください。あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを信じてください。そうすれば、あなたの罪は赦され、すべての悪から心をきよめていただくことができます。

 

ユダの民は、「自分の心を見つめるように」という神からの語りかけを、真摯に受け止めませんでした。その結果、エレミヤがこの預言を語ってから20年後に、結局バビロン捕囚の憂き目にあいました。罪を犯す根源である心を点検しましょう。そして、キリストによってすべての悪から心を洗いきよめていただき、救いの恵み、永遠のいのちをいただき、神とともに新しい人生を歩ませていただきましょう。

心の包皮を取り除け エレミヤ書4章1~4節

聖書箇所:エレミヤ書4章1~4節(エレミヤ書講解説教9回目)

タイトル:「心の包皮を取り除け」

 

エレミヤ書4章に入ります。きょうは、4節の「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」というみことばから、「心の包皮を取り除け」というタイトルでお話します。「包皮を取り除く」とは、イスラエルの民が先祖からの教えとして継承してきた割礼のことです。創世記17章10、11節に、こうあります。「10次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。」

これは、神がアブラハムに語られた約束のことばです。彼らの中の男子はみな、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることですが、それが神の民であることのしるしだったわけです。

しかしここではただの割礼を受けるようにと言われているのではありません。心の割礼、心の包皮を取り除け、と言われているのです。心に焦点が当てられているのです。

 

イエス様は、律法の中で一番重要な戒めは、心を尽くして、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛することだと言われました。しかし、心が包皮で覆われていると、心から神を愛することができません。ですから、心を覆っている包皮を切り取らなければならない、取り除かなければならないのです。

 

きょうは、このことについて三つのことをお話します。第一のことは、信仰には真実な行いが伴うということです。もし神に立ち返るというのならば、悔い改めにふさわしい実を結ばなければなりません。第二に、そのためには心を開墾しなければならないということです。茨の中に種を蒔いてはなりません。そのような種は、決して実を結ぶことはできないからです。第三のことは、主のために割礼を受け、心の包皮を取り除けということです。

 

 Ⅰ.もし帰るのなら(1-2)

 

まず1~2節をご覧ください。「1 「イスラエルよ、もし帰るのなら、-主のことば-わたしのもとに帰れ。もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら、2 また、あなたが真実と公正と義によって『主は生きておられる』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」」

ここには、「もし」ということばが繰り返して書かれてあります。1節には「イスラエルよ、もし帰るのなら」とありますし、また、「もし、あなたが忌まわしいものをわたしの前から取り除き、迷い出ないなら」とあります。また、2節には「もし」ということばはありませんが、「『主は生きておられ』と誓うなら、」というのは、「もし、誓うなら」ということです。ですからここには3回も、「もし」ということばが使われているのです。

 

なぜでしょうか。なぜ「もし」ということばを繰り返して使っているのでしょうか。それは、主がイスラエルに口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めを求めておられたからです。確かにこのエレミヤの時代、南ユダ王国はヨシヤ王が宗教改革を行ったりと、表面的には神に立ち返ったかのように見えましたが、それはあくまでも表面的なもので、実際にはそうではなかったのです。まだ偶像礼拝が続けられていました。神殿で主なる神を礼拝していたかと思ったら、一方では偶像礼拝もしていました。つまり彼らの悔い改めは、実に表面的なもの、形式的なものにすぎなかったのです。

 

ですから主は、「イスラエルよ、もし帰るなら、わたしのもとに帰れ。」と言っているのです。主のもとに帰るということがどういうことなのかを、この「もし」ということばを使って具体的に示そうとされたのです。本当に神のもとに立ち返るというのなら、具体的な行動で示せというのです。神殿で礼拝をしていれば神に立ち返ったということではありません。口先で「主よ、愛します」とか、「主を賛美します」と言っても、そこに心が伴っていなければ、それは本当の賛美ではありません。悔い改めるというのなら、ことばだけではなく、行動によって示さなければならないのです。2節に「真実と公正と義によって『主は生きておられると誓うなら』」とありますが、それはそのことを表しています。ただ表面的に、うわべだけの信仰ではなく、真実と公正と義によって、心から「主は生きておられる」と告白することが求められるのです。なぜなら、人はうわべを見るが、主は心を見られるからです(Ⅰサムエル16:7)。

 

この『主は生きておられる』ということばですが、二重の『』になっています。これは文の途中だからということではなく、当時の決まり文句であったことを表しています。この後でエレミヤ書を見ていくとわかりますが、やたらめった出てきます。それは本当にすばらしい信仰の告白なのに、そのように告白していながら、まるで主が死んでいるかのように生きているとしたら、何の意味もありません。それはただうわべだけの信仰となってしまいます。それはたましいを離れたからだのように、死んだものなのです。

 

新約聖書のヤコブ書には、そのことについてこのように言っています。「たましいを離れたからだが、死んだものであると同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)行いのない信仰は死んでいるのです。それはたましいを離れたからだと同じなのです。死ぬとは、からだからたましいが離れることです。それと同じように、信仰に行いが伴っていなかったら、その信仰は死んでいるのです。それは行いがなければ救われないということではありません。私たちが罪から救われるのは私たちの行いによるのではなく、一方的な神の恵みによるものです。私たちの罪のために十字架で死んでくださったイエス・キリストを、私たちの救い主として信じるだけで救われるのです。しかし、本当にそのように信じたのであれば、当然そこには良い行いがついてくるものです。それが無いとしたら、それはたましいを離れたからだのように死んでいることになります。

 

これは、バプテスマのヨハネが強調していたことです。ヨハネは、バプテスマを受けようとしていて出て来た群衆にこう言いました。「7まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」(ルカ3:7-9)

ドキッとしますね。「まむしの子孫たち」と呼ばれたら。「だれが、迫り来る御怒りから逃れるようにと教えたのか」と迫って来るんですから。そうならないように、悔い改めて出て来ているんじゃないですか。それなのに、「まむしの子孫たち」呼ばわりはひどい!と言いたくなります。

でも、ここでバプテスマのヨハネが言いたかったことは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」ということでした。自分たちはアブラハムの子孫だ、神の民だと言っても、それにふさわしい実を結ばなければ、そんな木は切り倒されてしまうというのです。よく「私はクリスチャンホームで生まれ育ちました」とか、「親も、またその親も、みんなクリスチャンでした」という方がおられますが、すばらしいですね。それは本当に神様の恵みです。しかし、たとえクリスチャンホームに生まれて来たからといっても、それで自動的にクリスチャンになるわけではありません。イエス様がニコデモに言われたように、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」のです、ですから、たとえクリスチャンホームに生まれて来ても、そこに真の悔い改めがなければ、悔い改めにふさわしい実を結ばなければ、切り倒されて、火に投げ込まれることになるのです。

 

では、悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、どういうことなのでしょうか。ヨハネは具体的にこう述べています。「11「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」12 取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」13 ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」14 兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」」(ルカ3:11-14)

どういうことでしょうか。下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげるとか、食べ物を持っている人も同じようにしなさいというのは。つまり、神のみことばに生きるということです。神のみことばに従って生きなさい、ということです。「もし帰るのなら」、本当に神に立ち返るというのなら、あなたの心から偶像を取り除き、真実と公正と義によって、「主は生きておられる」と誓わなければならないのです。言い換えるなら、それは「心から悔い改める」ということです。真実な悔い改めは、水と御霊によって新しく生まれるという心の変革によってもたらされ、それは必ず行動という見える形で表されるのです。

 

2節後半の「国々は主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。」とは、異邦人の救いのことです。イスラエルが本当に神に立ち返るなら、その祝福は異邦人にまで及び、異邦人も救いに導かれるという大きな祝福をもたらすようになるのです。この預言はまだ成就していません。なぜなら、イスラエル人はまだ本当に悔い改めていないからです。救い主イエス・キリストを信じていません。でもこれは必ず起こります。世の終わりになると、イスラエル人が自分の胸を打って悲しみ、イエス・キリストを信じるようになるのです。主はそのために「残りの者」を残しておられるのです。彼らによってイスラエルがイエスを信じるためです。そして、異邦人の満ちる時、イスラエルはみな救われるのです。パウロはそのことをローマ人への手紙9章から11章までのところで展開していますが、特に11章25節のところでそれを「奥義」として語っています。すばらしいですね。神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神の救いのご計画はこのようにして成し遂げられるのです。

 

であれば、私たちはその奥義を知らされている者として、真実と公正と義によって「主は生きておられる」と誓わなければなりません。主は死んでおられるのではなく生きておられるということを、行いと真実をもって告白しなければなりません。あなたが、もし本当に主に立ち返るというのなら、主のもとに帰らなければならないのです。

 

Ⅱ.耕地を開拓せよ(3)

 

第二のことは、ではそのためにはどうしたらよいかということです。3節をご覧ください。「まことに、主はユダとイスラエルにこう言われる。「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」

「耕地」とは、何も生えていない処女地のことです。その「耕地を開拓せよ」というのです。「開拓せよ」という言葉は、「砕く」という意味のことばです。かたくなになった心の耕地に鍬(くわ)とか鋤(すき)を入れて柔らかく耕すようにということです。なぜなら、そうしたカチカチと凝り固まったところにどんなに種をまいても実を結ぶことはないからです。そういう意味では「開拓せよ」というよりも、「開墾せよ」の方がわかりやすいですね。開墾して心を耕さなければなりません。

 

まだ上の娘が幼稚園の頃でした。「こどもチャレンジ」の付録に「植物の種を蒔こう」というのがありました。それで家庭菜園をすることになったのですが、私は野菜を育てたことがなかったので、どうやって育てたらいいかわかりませんでした。そんな時、どこからか「だったらかぼちゃがいい」という声を聞きました。「かぼちゃならバカでも育つ」と。だったら私でも大丈夫かと思い、ルンルンしながらかぼちゃの種を植えたのですが、一向に芽が出てきませんでした。どうしてかなぁと思ってある人に聞いたところ、「そんなところに植えちゃだめだ」と言われました。そんなとこというのは玄関のちょうど前のところでした。あと植える場所がなかったのです。

私たちは福島で教会を開拓した時、6畳二間と4畳半の借家で始めましたが、子供が生まれるとそこが狭くなったので、近くに中古の一軒家を購入しました。しかし、駐車場をなるべく広く取りたかったので、空いている土地のほとんどをコンクリートにしたのです。それで土の部分は限られていました。ちょうど玄関の前に2~3坪の土地があったのでそこに植えたのです。

子供のシャベルで土を掘り、種を植えて土を被せました。そしてジョウロで水をあげながら、かぼちゃができるのを楽しみにしていました。しかし、一向に芽が出てこない。「バカでも育つ」と言ったのに、全然育ちません。あれっ、どうしたんだろうと思って、ある人に聞いたところ、「それじゃだめだ!」と言うのです。ちゃんと土を耕して種を植えないと、バカでも育つかぼちゃでも育たない・・と。そうなんです。まず土を耕さなければなりません。鍬とか鋤まではいかなくても、土が柔らかくなるまで耕さなければならないのです。考えてみたら、そこは玄関の真ん前で、みんなの足で踏み固められた所でした。しかも硝子の破片とか金属片などが混ざっている土でした。そんな所で育つはずがありません。種が育つにはまず良い土地でなければならないのです。

私はすっかり自信を無くしてしまい、こういうことは私には向いてないと、それ以来、畑はやらないことにしました。

 

これは霊的にも言えることです。みことばの種が育つには、まず心を耕さなければなりません。堅い心を柔らかくして、みことばの種が成長するようにしなければならないのです。これは具体的には、神のみことばを聞く時には、心を柔らかくして、素直に心に受け入れなければならないということです。へブル3章7~8節にこうあります。「ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」

聖霊があなたの心に鍬を入れ、鋤を入れて耕してくださいます。みことばの種を受け入れることができるように。それなのに私たちは罪が指摘されるとそれを拒む傾向があります。砕かれたくないのです。でもそのままではいくら種を蒔いても育ちません。不毛のままです。ですから、もしあなたが御声を聞くなら、心をかたくなにしないで、聖霊の導きに従わなければなりません。

 

これが預言者エレミヤに与えられていた使命でした。1章10節を振り返ってみましょう。エレミヤが預言者として召命を受けたとき、主はその目的をこのように言われました。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」

建てるためには壊されなければなりません。植えるためには鍬を入れて、また鋤を入れて耕さなければならないのです。その堅い土を砕かなければなりません。なぜ?そうでないと植えられないからです。その結果、滅んでしまうことになります。だから、人々がどんなに嫌でも、エレミヤは伝えなければならなかったのです。彼らの心を耕すためです。

 

同じように、聖霊は今も私たちに語っておられます。それはあなたの耳に痛いことかもしれません。厳しく感じるかもしれない。でもそのようにして聖霊があなたの心を耕しておられるのです。ですから、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」のです。耕地を開拓せよ。あなたは心を開拓しなければなりません。神のみことばを受け入れることができるように、開墾しなければならないのです。

 

また、ここには「茨の中に種を蒔くな。」とあります。茨の中に種を蒔くとはどういうことでしょうか。茨の中に種を蒔くとは、種が芽を出して成長しようとしても茨がそれをふさぐので成長できないということです。それはどんな茨でしょうか。イエス様は、種まきのたとえの中でそれを教えてくれました。それはこの世の思い煩いや富の惑わしなどです。そのような心だと、それが心を塞ぐので実を結ぶことができません。ですから、「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」と言われるのです。

 

あなたの心はどのような畑、どのような土地でしょうか。道端のように人々の足で踏み固められたような堅い土ですか。それとも、岩地のように薄い土地ですか。あるいは、いばらのようにこの世の思い煩いと富の惑わしでふさがれているような畑でしょうか。耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。あなたの心を耕して、良い畑となって、神のみことばの種を受け入れ、多くの実を結ぶものでありたいと思います。

 

 Ⅲ.心の包皮を取り除け(4)

 

第三のことは、心の包皮を取り除け、ということです。4節をご覧ください。「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」

 

悔い改めのもう一つの要素は、主のために割礼を受け、神のもとに帰るということです。ここには、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とあります。これは心の割礼のことです。

「割礼」については先ほどお話したように、イスラエルの民が神の民であることのしるしとして、生まれて8日目に必ず割礼を受けなければならないものでした。それは男性の性器の先端を覆っている皮を切り取るというものです。イスラエルの民は皆、必ずこの割礼を受けなければならなかったのです。

しかしここで言われているのは、そうした肉体的、外見的な割礼のことではなく、心の割礼のことです。確かに彼らは肉体的には割礼を受けていたかもしれませんが、心においてはそうではありませんでした。表面的にはユダヤ教の儀式を行い、神殿礼拝を行っていましたが、その心は神から遠く離れていたのです。それはちょうど私たちがバプテスマを受け、毎週礼拝を守り、献金もし、奉仕をしていても、心が神から離れているのと同じです。ですから、主は「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」と言われたのです。大切なのは心に割礼を受けることです。

 

パウロはこのことをローマ人への手紙2章28~29節でこのように言っています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」とあります。皆さん、わかりますか。たとえ外見上からだに割礼を受けていたとしても、それが本当の意味での割礼ではありません。大切なのは、心に割礼を受けるということ、御霊による心の割礼なのです。実に「心の包皮を取り除く」とは、この神の御霊による心の割礼を受けるということです。もし心が包皮で覆われているとどうなるでしょうか。霊的な事柄に鈍感になります。何を言われてもピンときません。心に割礼を受けていないので、心が肉で覆われていると、メッセージを聞いてもわからないのです。

 

先週フレミング先生がメッセージで語っていたのは、このことです。聞いてもわかりません。悟ることができないのです。心が肉で覆われているからです。イエス様の時代にもそういう人たちがいました。イエス様が「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」(ヨハネ6:53)と言うと、弟子たちのうちのある者はこう言いました。「これはひどい話だ。たれが聞いていられるだろう。」(ヨハネ6:60)

何が問題だったのでしょうか。心が肉で覆われていたことです。心に割礼を受けていないと、そんな人食いなんて恐ろしい話で聞いていられないとか、トンチンカンなことを言ってしまうのです。だから、心の包皮を取り除かなければなりません。心に割礼を受けている人は、確かに聖書のメッセージは難しいかもしれませんが、ピンときます。「ああ、本当に私は罪深い人間だなぁ。でも、イエス様がこんな私の罪も赦してくださるんだ。本当に感謝します!」と。聖霊が教えてくださるからです。不思議ですね。まだバプテスマを受けたばかりの人でも、いや、まだ受けていなくても、イエス様を信じ、もっとイエス様のことを知りたいと願っている人にはわかるんです。そして、少しづつ変えられていきます。イエス様の似姿に。

 

ピリピ人への手紙3章2~3節を開いてください。ここでパウロは心に割礼を受けている人の特徴を、このように語っています。「2 犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。3 神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」

その人はまず、神の御霊によって礼拝します。つまり、うわべだけの、形式的な礼拝ではなく、神を愛し、神を喜び、心から神を礼拝するのです。イエス様はサマリヤの女とお話をされた時、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)と言われました。それはこのことです。第二にその人は、人間的なものを誇るのではなくキリスト・イエスを誇ります。第三にその人は、肉に頼らないで神に頼ります。

 

デレク・プリンスという以前、東アフリカにある大学の学長をしておられ、その後、伝道者になった方ですが、彼はその大学にいた優れたアスリートたちを前にこう言いました。「君たちは自分がとても強く元気だと思っているだろうが、ほんの小さな一匹のマラリア蚊に刺されると、24時間以内に震えが襲って来るだろう。あなたは震え、熱に苦しみ、事実上何もできなくなるだろう。たった一匹の小さな虫がすべてを変えてしまうことがあり得るのです。」(Derek Prince Ministries Japan)

本当にそうですよね。私たちはどんなに自分の肉体を誇っても、たった一匹の蚊に刺されるだけで死んでしまうこともあるのです。それほど脆弱な者でしかないのです。けれども、私たちを造られた方、私たちの主イエスは、私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。この方は死に勝利され今も生きておられる救い主であられます。私たちが頼りとするのは、この主イエス・キリストです。

 

あなたは何を頼りとしていますか。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」外見上がどうかということではなく、心に割礼を受けているかどうかが問われています。「耕地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。」「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しましょう。これが、神が私たち一人一人に求めておられる真実な悔い改めなのです。

信じる者に働く神のことば Ⅰテサロニケ2章13~20節

聖書箇所:Ⅰテサロニケ2章13~20節

タイトル:「信じる者に働く神のことば」

 

きょうは、テサロニケ人への手紙第一2章の後半からお話したいと思います。この手紙は、1章1節にあるように、パウロ、シルワノ、テモテから、テサロニケの教会に宛てて書かれた手紙です。

 

このテサロニケの教会は、パウロが第二回伝道旅行でテサロニケを訪れた時、そこで神の福音を語った結果生まれた教会です。パウロたちは、いつものように安息日、これは土曜日のことですが、ユダヤ人たちは土曜日に会堂に集まって礼拝をしていたので、その安息である土曜日にユダヤ教の会堂に行って、聖書に基づいて彼らと論じました。聖書と言っても、この時は旧約聖書しかありませんでしたから、旧約聖書から論じたわけですが、何を論じたのかと言いますと、イエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されていた救い主であるということです。この救い主のことを旧約聖書では「メシヤ」と言いますが、そのメシヤ、キリスト、救い主こそイエスであると論証したのです。

 

すると、それを聞いた大勢の人たちが信じて、キリストに従うようになりました。しかし、そこにいたユダヤ人たちは妬みに駆られ、暴動を起こしたので、パウロたちはそこに留まっていることができず、次のベレヤという町に逃れなければなりませんでした。結局、パウロたちがテサロニケにいたのはわずか3週間余りでした。その後彼らはベレヤ、アテネへと向かって行ったわけですが、彼らが気がかりだったのは、テサロニケに残したクリスチャンたちのことでした。あまり長くとどまることができませんでしたから、聖書のことをそんなに深く教えることができませんでした。まだイエス・キリストを信じたばかりです。そのような彼らに、ユダヤ人たちからあのような激しい迫害が加えられたひとたまりもありません。彼らの信仰は大丈夫だろうか、中には信仰から離れてしまう人もいるのではないか。それでパウロはアテネから弟子のテモテをテサロニケに遣わすのです。

 

すると、テサロニケから戻ってきたテモテは、パウロたちにすばらしい知らせをもたらしました。それは彼らがそうした激しい迫害の中でも、信仰に堅く立っているということ、そしてパウロたちと再会することを心待ちにしているということでした。それを聞いた時パウロは、次の伝道地のコリントという町にいたのですが、とても喜んで感謝の手紙を書きました。それがこのテサロニケ人への手紙です。

1章1節で、パウロは彼らにあいさつを書き送ると開口一番このように言いました。1章2節、3節です。書き送りました。「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」

 

激しい迫害の中にあって、彼らはどうして堅く信仰に立ち続けることができたのでしょうか。それは神のことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れたからです。そして、その神のことばが彼らのうちに働いたからなのです。神のことばは信じる者に働くのです。きょうは、このことについてお話したいと思います。

 

Ⅰ.信じる者に働く神のことば(13)

 

まず13節をご覧ください。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」

 

「こういうわけで」というのは、パウロがこれまで語ってきたことを受けてのことです。パウロはこれまでどんなことを語ってきたのかというと、彼がどのような動機で神のことば、福音を語ってきたのかということです。2章3節と4節には、「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」とあります。彼は、福音をゆだねられた者として、それにふさわしく語ってきたのです。こういうわけで・・・です。

 

こういうわけで、パウロたちもまた、絶えず神に感謝していました。それは彼らが、パウロたちのことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。神のことばとして受け入れるとは、ただ単に頭で理解するということではありません。神のことばとして受け入れるとは、それを絶対的な真理として受け入れるということです。つまり、そのことばに生きるということです。神のことばを聞いても、中には「ある人たちにとってはそうかもしれないけど、必ずしもそれがすべてではない」とか、「そういう考え方もあるけど、一般の大多数はそうでない」と言って、あくまでも自分の考えやこの世の価値観に従って生きていこうとする人がいます。いや、大半がそうかもしれません。牧師が語る聖書の言葉を聞いても、「なるほどいい話だった」とか「感動的な話だった」というレベルに留まっていて、そのことばに従って生きるところまで行かないのです。

 

昨年、お亡くなりになった瀬戸内寂聴さんは、岩手県二戸市浄法寺町(じょうぼうじまち)の天台寺で住職をされておられた時、あおぞら説法という法話をなさっていまして、それがまたおもしろいのです。あなたの仏様は、ほら、側にいるカレですよ、とか、幸せの早道は“今日はいい日”と信じることよ、夫婦とは縁なのです。添い遂げてこそ美しい、美しい、幸せなボケ方もありますなど、実におもしろいのです。また心に染みます。人に寄り添うってこういうことなんだなぁと教えられます。そのあおぞら説法には、1万人もの人々が全国各地から集まるのです。浄法寺町の人口が約5千人ですから、町の人口の2倍もの人たちが、その法話を聞くためにやって来るのです。

どうしてそんなに多くの人たちがやって来るのでしょうか。みんな癒されたいと思っているからです。確かにおもしろいと、心に染みます。でもそれ以上に、みんな癒されたいのです。そのためにわざわざ全国からやって来る。

でも、残念ながらそれは真理ではありません。真理は、イエス・キリストなのですから。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われました。ですからどんなに感動的な話でも、そこには真理はありません。確かに心が癒されるかもしれませんが、それは心に染みる話のレベルであって、人間のことばとして受け止められているにすぎないのです。

 

しかし、テサロニケの人たちはそうではありませんでした。彼らは、パウロのことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実通り神のことばとして受け入れました。ただ耳で聞いて感じたというのではなく、その聞いたことばのとおりに生きようとしていました。聞いたみことばを自分の生活の中に具体的に適用したのです。それを自分の生活の中に生かしました。それを自分たちが従うべき絶対的な真理として受け入れたのです。

 

私たちの教会では今、C-BTEという聖書の学びをしていますが、その目的はここにあります。聞いたみことばをただ頭で理解するだけでなく、自分の生活の中に実際に適用するのです。それは単に神様との個人的な関係を深めるという個人の信仰においてだけでなく、夫婦の関係や親子の関係、神の家である教会の中でどのようにふるまったらいいのか、教会の使命である宣教に対する考え方、社会における未信者との接し方など、あらゆる領域に至ります。それは別にC-BTEの学びだけでなく、どのような学びであっても、その目的はここにあるのです。みことばに生きること、それを自分の生活に適用することで、神のことばがその人の中に働き、目に見える形でイエス様のように変えられていきます。そのような姿を見るとき、ああ、ほんとうに神様は生きておられる!ということを実感させられます。

 

このテサロニケの人たちもそうでした。彼らはパウロたちから神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神の言葉として受けたとき、その神のことばが、信じている彼らのうちに働いたのです。この「働いている」ということばですが、これは「作用する」とか「動く」という意味があります。神のみことばがその人を動かして変化をもたらしたということです。リビングバイブルではここを、「信じる者の生活を一変させるのです」と訳しています。皆さん、神のことばは、それを信じる者たちの生活を一変させるのです。

 

1790年のことですが、イギリス政府が南洋諸島の一つであるカイキという島に、ゴムの栽培のために100人ほど送ったことがありました。その船の名前は「バウンティ号」でした。

その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようでした。特に住民の女性たちはとても魅力的で、彼らはしだいに堕落し、本国からの命令を無視して、口やかましい船長に反抗し、船長を縛り小舟に乗せて、海の中で死ぬように追い出してしまいました。

それから彼らは本国から逮捕されるのを恐れ、隣のピカテリンという島に移り住むようになり、住民の女性たちをもてあそぶようになりました。そうなると喧嘩が絶え間なくなり、特にズームという熱帯植物で作ったお酒を飲むようになってからは、殺し合いまでするようになりました。そして最後に、ジョン・アダムズという人だけが残りました。

それから30年が経ち、そこを通りかかったアメリカの舟がその島に上陸したところ、目の前に驚くべき光景が広がっていました。何とそこには礼拝堂が建てられていて、ジョン・アダムズが牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父親のような存在でした。いったい何があったのか。彼はその島で起こったことを話してくれました。

彼の話によると、仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いで死んでしまったある日、一人残った彼は、乱破した「バウンティン号」に戻ってみると、そこで1冊の聖書を見付けたのです。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引き付けられていき、ついにイエス・キリストを信じクリスチャンになりました。

その後聖霊の導きによって、島の子供たちを集めて字を教え、神のみことばである聖書を教えたのです。住民たちも彼を尊敬し、彼を王様にし、彼に従いました。そしてその島は、まことのパラダイスのようになりました。これは、ひとえに一冊の聖書の力によるものでした。神のことばは信じる者に働き、驚くべき力と変化をもたらすのです。

 

大田原の教会に、今年90歳になられるYさんという姉妹がおられます。10年ほど前から介護施設に入所しておられますが、以前介護施設にYさんを訪問したとき、救われた時のお話を聞いたことがあります。今年90歳ということは、1932年のお生まれということになりますが、三人兄弟の末っ子として生まれたYさんは、実にわがままに生きていたと言います。そんな時一番上のお兄さんが結核で亡くなるのです。まだ10代前半の頃でした。とても優秀なお兄さんで、自分のこともとてもよくかわいがってくれたお兄さんだったので、そのお兄さん亡くなったとき、心にぽっかりと穴が開いたような感じになりました。いったい自分は何のために生きているのかわからず、とても空しい日々を送っておられました。

そんな時、渋谷の駅前で行われていたキリスト教の路傍伝道に出会いました。それはユース・フォー・クライスト、青年をキリストへ、という団体がやっていたものでしたが、そこで歌われていた賛美歌を聞いていると、なぜか胸がスーってするのを感じました。それで教会に行っていた友達に誘われて教会に行くようになり、イエス様を信じることができました。

しかし戦後間もない日本では、キリスト教は耶蘇教と言われていた時代です。ご両親の反対はなかったのですかと尋ねると、全然なかったと言います。むしろ、応援してくれた、と言います。なぜなら、イエスさまを信じてからYさんの生活が一変したからです。それまでは両親に反抗的だった彼女が、イエスさまを信じてからは、両親の言うことをよく聞くようになったので、両親はとても喜ばれ、「キリスト教はいい宗教だ」と応援してくれたというのです。そればかりか自分たちも教会に行ってみたいと言うほどでした。それはYさんの生活が一変したからです。神のことばは、それを信じる者たちのうちに働いて、その人の生活を一変させる力があるのです。

 

そのことをパウロはこのように言っています。「私は福音を恥とはしません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)皆さん、福音はただの知識ではありません。福音は神の力です。ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力なのです。ですから、どのように聞くのかが重要です。聞き方に注意しなければなりません。どのように聞くのかによって、その結果が決まります。イエス様はそれを種まきのたとえで教えてくださいました。

「3種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13:3~8)

神のことばを聞いても悟らないと、烏が来てその人の心に蒔かれたものを奪っていきます。アホ-、アホ-と言って。道端に蒔かれるとはこのような人たちのことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くとすぐに喜んでそれを受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。またいばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くがこの世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばないのです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことです。そのような人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

この神のことばは、信じている人のうちに働くのです。三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせます。神のことばがその人のうちに働くからです。ですから、どのようにみことばを聞くのかが重要です。良い心でみことばを聞くなら、その人は本当に豊かな実を結びます。神のことばが、信じているあなたがたのうちに働くからです。ですから、良い心でみことばを聞かなければなりません。良い心でというのは、このテサロニケの人たちのように、聖書を通して語られた神のことばを、人間のことばとしてではなく、事実そのとおりに神のことばとして聞くということです。そのとき、神が働いてくださるのです。

 

これがクリスチャンです。クリスチャンとは人間が与える影響とか感動とかによってではなく、根本的には神のみことばによって内面が変えられ続ける者です。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされていきます。この信じる者のうちに働くみことばの力にどれだけあずかっているかによって、クリスチャンの霊的成長の度合いも違ってくるのです。テサロニケのクリスチャンたちは、神のことばによって変えられ続けました。神のことばが彼らのうちに働いて、彼らの生活を一変させたのです。

 

Ⅱ.神の諸教会に倣う者(14-16)

 

次に14節から16節までをご覧ください。「14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。15 ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。16 彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。」

 

ここでパウロは、テサロニケのクリスチャンたちをユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となった、と言っています。どういうことでしょうか。実は原文では、14節の「倣う者となりました」の後に、「なぜなら」という言葉があります。なぜなら、彼らが同胞のユダヤ人に苦しめられたように、彼らも同胞のユダヤ人に苦しめられたからです。

 

ユダヤのイエス・キリストにある神の諸教会といったら、代表的な教会はエルサレム教会でしょう。エルサレム教会のクリスチャンは迫害によって殉教したり、各地に散らされたりしました。例えば、エルサレムにある教会では、ステパノが初めに殉教者となりました。なぜクリスチャンは迫害を受けるのでしょうか。それは、クリスチャンはこの世に属していないからです。イエス様はこう言われました。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害します。」(ヨハネ15:20)クリスチャンはこの世に属しているのではなくキリストに属しているのです。ですから、この世がキリストを迫害したのであれば、クリスチャンをも迫害するのは当然のことです。もしクリスチャンがこの世と同じだったら、迫害されることはないでしょう。すなわち、この世と同じように肉的で、富や名誉を愛するなら、迫害されることはありません。しかし、クリスチャンはこの世に属していないので、この世はクリスチャンを迫害するのです。そのことを使徒パウロはこう言いました。「確かに、キリスト.イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、迫害を受けます。ですから、それはクリスチャンにとっては勲章でもあるのです。テサロニケの人たちも、ユダヤの諸教会がユダヤ人たちから苦しめられたように、彼らも苦しめられたことで、彼らはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となったのです。これほどの誉め言葉があるでしょうか。正真正銘のクリスチャンになったというのですから。

 

そして、そうした中にあっても、彼らは信仰に堅く立ち続けことができました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの中に神のことばが働いていたからなのです。つまり、彼らが迫害の中でも信仰に堅く立ち続けることができたことが、神のことばが彼らの中に働いていたということの証明にもなったということです。神のことばが彼らの内に働いて新しく造り変え、聖め、養い、神にみこころにかなった者へと変えてくださったのです。確かにこの世にあって信仰の闘いはありますが、そのような闘いの中にあっても、神のことばは慰めと励ましを与え、いよいよイエス・キリストへの信頼に立たせてくれるのです。詩篇119篇50節に「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」とあります。これこそ、悩みのときの私たちの慰めです。私たちをまことに生かすみことばに導かれ、養われて、信仰の勝利の内を歩ませていただきたいと思うのです。

 

Ⅲ.私たちの望み、喜び、誇りの冠(17-20)

 

最後に17節から20節をご覧ください。「17 兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。そのため、あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。」

 

パウロたちがテサロニケに滞在していたのは3週間くらいでしたが、彼らは何とかしてテサロニケに行って彼らに会いたいと切に願っていました。それで彼らは一度ならず二度までもそのことを試みましたが、できませんでした。サタンが彼らを妨げたからです。どういうことでしょうか?サタンが妨げるとは。サタンか妨げるというようなことがあるのでしょうか?あるのです。サタンは私たちの目で見ることはできませんが、いろいろな形で神の働きを妨害してくるのです。そして、私たちをキリストから引き離そうと躍起になっているのです。

 

それは私たちもよくあることです。たとえば、教会に行こうとしたら急に来客があって行けなくなったとか、聖書を読もうとしたら電話があって読めなかった、祈ろうとしたらどうも体がだるくて祈れない、そういったことがあります。ですから、私たちの背後にはサタンの巧妙な妨げや策略があるということを覚えて、絶えず目を覚まして祈っていなければなりません。

 

この時のサタンの妨害が実際に何を指しているのかはわかりません。ある人たちは、それはパウロが抱えていた肉体のとげ(Ⅱコリント12:7)ではないかと考えています。別にパウロの肉体にとげがあったということではありません。これは病気のことです。パウロは眼の病を患っていたので、そのために行くことが出来なかったのではないかと考えているのです。またある人は、テサロニケ市当局の厳しい監視の目があったのではないかと考えています。またある人は、パウロたちがこの後でアテネ、コリントへと伝道を進めて行くわけですが、その過程で生じた様々な問題のために、その対応に追われて行けなかったのではいかと考えています。はっきりしたことはわかりませんが、それがいずれの理由であったにせよ、パウロはその背後に神の働きを妨害しようとするサタンの存在と巧妙なしわざであったと見て取っていたのです。

 

しかし、そのような困難にもかかわらず、パウロは決して落胆しませんでした。たとえ彼らの顔を見ることができなくても、感謝することができました。なぜでしょうか?なぜなら、たとえ今彼らに会うことができなくても、やがて主イエスが再び来られる時、必ず再会できるという希望を持っていたからです。19節にこうあります。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。」

 

いますぐに会うことはできないかもしれない。さまざまな妨げによって会えないでいるが、でも必ず再会する時がやってくる。いつですか。イエス・キリストが再び来られる時です。これは、イエス・キリストの再臨のことを意味しています。聖書には、その時どんなことが起こるのかを次のように言っています。Ⅰコリント15章53節です。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:53)

イエス・キリストが再び来られる時、キリストを信じて死んだ人たちは、たちまち、一瞬のうちに変えられます。朽ちないからだ、栄光のからだによみがえるのです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。よみがえるのです。イエス様が再び来られるとき、朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、いつまでも主とともにいるようになります。主にある兄弟姉妹と一緒に。だからクリスチャンは死んでも「さようなら」ではないのです。「また会いましょう」です。また会うことができるのです。「また会う日まで」です。ですから、クリスチャンは、たとえ今会う事ができなくても、たとえ困難や迫害の中にあっても、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。そのことをパウロは、このように勧めています。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

「ですから」とは、今お話したように、私たちはよみがえるという希望があるのですから、ということです。その時には一瞬のうちに朽ちることがないかせだによみがえり、顔と顔とを合わせて会うことができます。そのとき彼らは、神の御前で、パウロたちの望み、喜び、誇りとなります。すばらしいですね。わくわくします。クリスチャンにはこのような希望が与えられているのです。これが究極的な希望です。ですから、いつも主にあって励みなさいと勧められているのです。

 

それは、私たちにも言えます。私たちも、主が再び来られるとき、神の御前で、主の望み、喜び、誇りの冠となります。なぜなら、神のことばに生きているからです。聖書のことばを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れました。そして、そのことばが、信じている私たちのうちに働いているからです。皆さんはどうでしょうか。主が再び来られるとき、神の御前で望み、喜び、誇りの冠となるでしょうか。これが最も重要なことです。

 

先週、北京オリンピックが閉幕しましたが、オリンピックの最終日に行われたのは女子カーリングの決勝でした。日本は予選で敗退したかと思ったら、韓国が負けたために準決勝に進むことができまして、予選で負けたスイスに勝利して決勝に進みました。決勝ではイギリスを相手に3-10で負けましたが、表彰台では5人のメンバーがそれぞれの首に銀メダルをかける姿が印象的でした。それぞれがそれぞれを称え合っていました。特に、最後にスキップの藤沢五月選手からメダルをかけてもらったのは、リザーブと言って控えの石崎琴美さんでした。彼女は、チーム最年長の43歳ですが、2013年に競技の第一線を退いていました。しかし、5人目が必要ということで、彼女に白羽の矢が立ったのです。

しかし、リザーブは選手に故障などがない限り、試合には出場しません。試合中はコートのそばの席でプレーを分析し、夜間には翌日に使用する石を実際に投げて石の曲がり具合などをチェックする「ナイトプラクティス」という作業も担当します。目立つポジションではありませんが、それでも、4人をいかに気持ちよくプレーさせるかを心掛けてきたのです。

そんな彼女の献身的な姿に、チームの合言葉は「琴美ちゃんにメダルを!」になりました。そして、その合言葉の通り、チームは銀メダルを獲得することができたのです。

 

私たちもやがて、私たちの主イエスが再び来られるとき、よみがって栄光のからだに変えられますが、そのとき、神の御前で神の望み、喜び、誇りの冠とさせていただくことができるのです。これこそ、最高の喜びではないでしょうか。なぜなら、それこそ私たちの究極的な希望なのですから。それは神のことばを神のことばとして受け入れるところから始まります。この神のことばは、信じている私たちのうちに働くからです。私たちも、主イエスが再び来られるとき、御前で望み、喜び、誇りの冠とさせていただきましょう。