すべては神のみわざ 伝道者の書8章9~17節

2021年1月31日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章9~17節(旧約P1149)

タイトル:「すべては神のみわざ」

 

 きょうは、伝道者の書8章後半の御言葉から学びます。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者は知恵のある者とされるのにあさわしいのはだれかを、正しい者と悪しき者を対比して語っています。きょうの箇所でも、知恵のある者とはどのような者なのかを、三つのポイントで語っています。すなわち、第一に、知恵のある者は、神を恐れ、神の御前に生きる人であるということです。第二に、私たちの人生は矛盾に満ちているかのように見えることが多いですが、すべてのことが神のご支配の中で起こっているわけですから、神が与えてくださることに感謝し、満足する生き方を学ばなければなりません。そして第三のことは、すべては神のみわざであって、人は神のみわざを見極めることはできません。ですからすべてを神にゆだね、神に信頼して歩まなければなりません。そのような人こそ知恵のある者なのです。

 

Ⅰ.悪しき者には幸せがない(9-13)

 

 まず、9~13節をご覧ください。9節と10節をお読みします。「私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」

 

「このすべて」とは、この地上で行われるすべてのことです。伝道者は、そのすべてを見て、心を注ぎました。すると、そこに人を支配し、傷つけている人がいるのを見たのです。また、10節、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見ました。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられます。これもまた空しい。どういうことでしょうか。実はここはちょっと難解な箇所です。「聖なる方のところ」とは「神」のこと、あるいは、「神の宮」のことを指しています。その聖なる方のところから悪しき者が離れ去って行くことはありません。なぜなら、彼らは元々神から離れているからです。またここには、悪しき者がわざを行ったその町で忘れられるとありますが、それは結構なことなのに、ここには「空しい」とあるのです。どういうことでしょうか。

 

そこで口語訳聖書は、この「忘れられる」という言葉、へブル語で「イシュタッケフー」という言葉ですが、これを「ほめられる」という言葉、へブル語の「イシュタッベフー」に修正し、次のように訳しました。「彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。」と「忘れられる」を「ほられる」に修正したんですね。そうすれば、悪しき者がほめられるのはおかしいですから、「これもまた空しい」ということになります。つながるわけです。

 

しかし、これはそういうことではありません。14節に「悪者」と「正しい者」とか対比されているように、ここでも悪者と正しい者が対比されているのです。つまり、悪しき者たちが葬られて去っていくことと、正しい者が、聖なる方の所を去り、そして、町で忘れられてしまうということです。ですから、新改訳第三版ではこのように訳しているのです。「そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。」ですから、この「彼ら」を「悪しき者」ではなく、「正しい者」と理解したわけです。これが、本文が語っていることです。この新改訳2017では「忘れられる」という原語を修正しなかったのは良かったのですが、主語を「彼ら」としたため、これが「悪しき者」を指しているように訳したため、意味が通じなくなってしまいました。正しい者が、聖なる方のところから離れ去り、その町で忘れられることがあるとしたら、それもまた空しいではないでしょうか。

 

そればかりではありません。11~12節前半までを見てください。「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。悪を百回行っても、罪人は長生きしている。」

この世では悪い行いに対する宣告がすぐに下されるどころか、むしろ、悪人が称賛されることがあります。それを見て人の子らの心は悪を行う心で満ちるのです。彼らは悪を百回行っても、長生きしています。そんなことってありますか?あるんです。あの人はあんなに悪いことばかりしているんだから、罰が当たってすぐに死んでしまうだろうと思いきや、意外と長生きしているのです。しかも、祝福されたりして・・。そのような状況を見ると、何とも不条理な世の中だと思ってしまいます。だったら悪いことをしていた方が得じゃないかとさえなります。

 

しかし、伝道者はそのような不条理を嘆きつつ、悪者には真の幸せがないと強調しています。それが12節の真中にある「しかし」です。12節の「しかし」から13節までを読んでみましょう。「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」

悪者に対して神のさばきが下るどころか、もっと栄えているかのように見えることで、人々は大胆に悪を行っていますが、その生涯を影のように長くすることはできません。神の御前での恐れがないからです。しかし、神を恐れ、真実に生きる人を、神は必ず顧みてくださいます。そして、彼らの生涯を美しいものにしてくださるのです。

 

大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後、千葉県の東葛飾中学校で英語の教師をしていましたが、大正15年、28歳の時、肺結核を発病し30歳で天に召されました。

しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。

「私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に一人の人に出会いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。ここにおいて、私の自らの心の問題、広く人生に対する問題が、氷が解けるように解けていくのを感じました。」

八木重吉は、イエス・キリストとの出会いによって、神を見出し、神の御前で恐れ、幸せであることを体験したのです。その八木重吉が、「雨」という詩を残しています。

雨の音がきこえる
 雨が降っていたのだ
 あの音のようにそっと 

世のためにはたらいていよう

雨があがるように

しずかに死んでいこう

とても含蓄のある詩だと思います。雨の音のように そっと世のために働いていよう、雨があがるように、しずかに死んでいこう。この世と真逆ですよね。この世ではいかに自分を見せるかと、自分が中心の世界ですが、キリストと出会った重吉は、神を恐れ、神の御前で生きる生涯へと変えられたのです。神を恐れて生きる人の人生を、神はこのように美しいものにしてくださるのです。

 

Ⅱ.神が与えてくださるささやかな幸せ(14-15)

 

次に、14~15節ご覧ください。14節には、「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」とあります。

ここで伝道者は、なおもこの世にはあまりにも不条理なことが多いことを嘆いています。例えば、悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受けたり、正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受けるというようなことです。これまでも伝道者は一般原則と例外的な事例とが頻繁に逆転するのを見て、人生の空しさを覚えてきましたが、ここでも同じです。悪しき者が受けるべき報いを悪しき者が受け、正しい人が受けるべき報いを正しい人が受けるとすれば納得できるのですが、そうでないことが起こると、人生は本当に空しいなぁと感じます。

 

そのような空しさを見た伝道者は、次のような結論に至ります。15節です。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」

そうでしょう、そんな不条理なことがまかり通るのであれば、いったい私たちの人生にはどんな意味があるというのでしょうか。ここで伝道者が言っているように、日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない、ということになります。伝道者はこれまでも同じことを語ってきました。3章22節や5章18節にも、繰り返して語られてきました。人生には何の目的も、意味もなければ、食べて飲んで楽しむよりほかに、何の楽しみもありません。ここには「快楽を賛美する」とありますが、そういう人生になってしまいます。

 

実際、この世はそうじゃないですか。私も学校を出て4年間この世の企業で働いたことがありますが、みんなそうでしたよ。「大橋君、今晩は飲みにでも行こうか、パッと行こうぜ」。私はその頃はもうクリスチャンになっていたので別に行きたいわけではありませんでしたが、これも社会勉強になるかなぁと思ってついて行くと、みんな会社にいるときとは全然違う顔になるんです。快楽を賛美しているのです。これもまた空しいことです。酔っぱらっていい気分になったかと思ったら、また翌日には厳しい現実が載っていて、悪い気分になるのですから。

 

しかし、日の上には喜びがあります。神への賛美で溢れています。黙示録4:11には、天国での賛美の様子が描かれています。24人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、また、自分たちの冠を御座の前に投げ出してこう言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)

救い主イエスを信じ、「神共にいまし」を体験した人は、日の下にあっても、このような神への賛美と感謝に満ち溢れた生活を送ることができるのですから。

 

パウロの時代にも、同じように快楽を賛美していた人たちがいました。彼らは、自分たちはどうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないと考えていたのです。そんな彼らに対してパウロはこのように言いました。「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」(Ⅰコリント15:32-33)

もし、どうせ死ぬのだから、という考えに立つなら、生きることにどんな意味があるというのでしょうか。何の意味もありません。であれば、生きている間、おもしろおかしく生きるしかありません。「さあ、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」ということになります。

 

けれども、私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。霊のからだに復活するということです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストがご再臨されるとき、朽ちないからだ、霊のからだによみがえるのです。そんなことあるはずないじゃないですか。あるなら、だれかが証明しているはずです。そう言うでしょう。そうです、ある方がそれを証明してくださいました。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたことで、キリストを信じる者が同じように復活するということを証明してくださったのです。聖書ではそれを「初穂」という言葉で表しています。イエス様はその初穂でした。同じように、私たちも復活するのです。

ですから、死は終わりではありません。死は永遠の入口にすぎないのです。死んでからのいのちがあります。そのいのち、永遠のいのちを与えるためにキリストはこの世に来てくださり、十字架に掛かって死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

 

死んでからのいのちがあるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があるのです。天からの報いを期待することができますから。この地上で行われていることだけを見たら、この世の矛盾に失望するだけでしょう。ここでソロモンが言っているように、「これもまた空しい」ということになります。「さあ、食べて飲んで楽しもう」ということになるのです。だって、それ以外に楽しみがないのですから。

しかし、日の上には喜びが満ち溢れています。ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と賛美しましたが、神の御前には喜びと楽しみが溢れています。であれば、たとえこの世がどんなに矛盾と混乱に満ちていても、私たちは神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足して生きることができるのです。

 

ナポレオンの時代に、シャネットという男が無実の罪で牢獄に入れられました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。

その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、驚いたことに固い土の中から小さな草が芽を出しているのにシャロネットは気が付きました。彼にはそれが、神が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫色と白色の花を咲かせました。

この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼は疑いが晴れて釈放され、自由の身になったのです。

私たちも同じです。日の下だけを見るなら自暴自棄になるでしょう。しかし、そこからわずかに差し込む神の光、神の恵みに感謝して生きるなら、そこに人生の意味を見出し、快楽ではなく神を賛美する人生へと変えられるのです。

 

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。

「今日は感謝な日だった。まず強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことを感謝する。さらに全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことを感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」

こうやってみると、私たちが心の目を開くとき、私たちには感謝すべき材料がいくらでもあることに気付きます。神は、あなたの一生の間にも、その労苦に添えて豊かな恵みを注いでおられるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足しながら、神を賛美する人生を歩ませていただきましょう。

 

Ⅲ.すべては神のみわざ(16-17)

 

第三に、16~17節をご覧ください。「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」

 

伝道者は、不眠不休でこの地上で行われている人の営みを見極めようとしましたが、できませんでした。人はどんなに労苦して探し求めても、神がなさることを見極めることはできないのです。こうした人間の知恵の限界は、神のみわざがどれほど不思議なものであるのかを教えています。本当に神がなさることは不思議ですね。それは、私たちの考えや思いをはるかに超えています。

 

例えば、旧約聖書の中にエステル記という書があります。もちろん、主人公はエステルという一人の女性です。彼女の人生は時代の流れに翻弄されるところから始まります。祖国イスラエルはバビロンという国の捕囚の身となり強制移住させられ、彼女もその一人として流れ着きます。しかも両親は早くに亡くなり、養父モルデカイのもとで暮らす不幸な身の上でした。そんな彼女が、ペルシャ帝国下でやがて世界に君臨した王の妃として立てられるのです。

まさか自分がペルシャ王の王妃に選ばれようとは、夢にも思わなかったでしょう。ところが、「まさかそんな大それたことを、自分が」と叫びたくなるような事件に巻き込まれていくのです。

養父モルデカイがユダヤ人のため、当時の権力者であった王の家来ハマンに頭を下げなかったことで、ユダヤ人皆殺しの法令が発布されてしまったのです。

ユダヤ民族絶滅の危機に際して、もし救えるとしたら、王のすぐ隣の席にいたユダヤ人の王妃エステルしかいませんでした。逃げられない袋小路のような重圧の中で、彼女は信仰によってジャンプします。いくら王妃とはいえ、当時、王の許可なく勝手に王の許に進み出るようなことをすれば、死刑に処せられました。けれども、彼女はそのことを百も承知で、ユダヤ民族救出のために決心したのです。

「たとい法令に背いても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

その結果、ユダヤ人絶滅を謀ったハマンは、自らがユダヤ人モルデカイをつけるために作った処刑柱にかけられ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われたのです。悲しみが喜びに、敗北が勝利に一変しました。

ユダヤ人はこのことを記念してプリムの祭りを制定し、今日でも祝い続けています。このエステル記には神ということばも奇跡も出てきませんが、背後に神がおられるとしか説明のしようがない、不思議な神のみわざが記されてあるのです。

 

そうです、すべては神のみわざなのです。であれば、私たちに出来ることは何でしょうか。私たちに出来ることは、私たちの人生も神が用意されたパズルであることを覚え、すべてを神にゆだね、神が定められたことに従って生きていくことです。そのとき、私たちの思いをはるかに超えた、神の偉大なみわざが、私たちの人生にも現されることになります。

 

昔、殿様のお気に入りの梅の絵を描くために、有名な絵師が城に招かれました。いざ描こうとした時、猫が一匹現れて真っ白い紙の上をトコトコ駆け抜けて行きました。紙の上には猫の足跡がくっきりと残りました。

家来たちは大慌てで、切腹を覚悟した者もいました。しかし、その時、絵師は何事もなかったかのように筆を取り、絵を描き始めました。すると名人の手によって、ある足跡は梅の花びらに用いられ、ある足跡は梅の木の節目に用いられ、絵が完成した時、どこに猫の足跡があったか全く分からなくなりました。

 

同じように、私たちが全能なる神の御手に人生で起こるすべてのことを委ねるなら、苦しみも悲しみも痛みもすべてが益と変えられ、私たちの人生にすばらしい彩り(いろどり)を添えてくれるのです。すべては神のみわざです。理解できないこの世の不条理すらすべて益としてくださる神に信頼し、神にすべてを委ねましょう。神はあなたを顧みてくださり、あなたの生涯を必ずや美しいものにしてくださるからです。

希望の神 ローマ人への手紙15章7~13節

2021年1月17日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙15章7~13節

タイトル:「希望の神」

 

 きょうは、「望みの神」というタイトルでお話したいと思います。クリスチャンが一致することについてかなりのスペースを割いて語ってきたパウロは、いよいよここでその結論を語ります。それはどういうことかというと、目の付け所を間違えないようにということです。すなわち、神に目を向け、神に信頼しなさいというのです。なぜなら、神は望みの神だからです。13節をご覧ください。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」

 教会における一致は、人間の努力や方策によってもたらされるものではなく神が与えてくださるものですから、互いの違いに目を留めるのではなく神に目を向け、神に信頼しなければならないということです。

 

 きょうは、この望みの神について三つのことをお話したいと思います。第一に、キリストが受け入れてくださったように、私たちも互いに受け入れ合わなければならないということです。第二のことは、キリストが私たちを受け入れてくださったのは神の栄光があがめられるためでした。ですから、第三のことは、この希望の神に目を留めましょう、ということです。

 

 Ⅰ.キリストが受け入れてくださったように(7)

 

 まず、7節をご覧ください。「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」

 

 「ですから」とは、これまでパウロが語って来たことを受けてのことです。これまでパウロは長いスペースを割いてクリスチャンの一致について語ってきました。その前のところでは、力のある者たちは、力のない者たちの弱さを担うべきである、と語りました。私たちは一人一人自分を喜ばせるために生きているのではなく互いの霊的成長のために、互いの益のために生きています。であれば、私たちは互いの喜びのために生きるべきです。その良い模範がキリストでした。キリストは自分を喜ばせることはなさいませんでした。3節にあるように、むしろ、「あなたがたを嘲る者たちのあざけりが、わたしに降りかかった」とあるように、私たちが受けるべき苦難を受けられました。この言葉は詩篇69:9からの引用ですが、主が私たちが負うべき苦しみを代わりに負ってくださったことを表しています。イエス様は、イエス様は私たちの弱さを担ってくだったのです。これが力のある者にゆだねられている使命です。であれば私たち力ある者も、力のない者の弱さを担うべきです。キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、互いに受け入れ合いなさい、と聖書は教えているのです。

 

キリストは、どのように私たちを受け入れてくださったのでしょうか?私たちは既に14章でそのことを学んできましたが、14:15には「キリストが代わり死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください」とあります。キリストは、信仰が弱い人たちのためにも死んでくださったのです。キリストはそのように信仰の弱い人たちのために、いや、信仰の強い人たちのためにも、すべての人のために死んでくださいました。ご自分のいのちを捨てるほど愛してくださったほどの人をさばくようなことがあるとしたら、それはほんとうに神に申し訳ないことです。

 

 私は、イエスさまを信じるまで、いや信じてからも、しばらくの間このキリストの十字架の愛を実感することができませんでした。頭ではわかっていましたが、それがどれほど大きな愛なのかは、本当の意味でわかっていませんでした。しかし、信じてしばらくするうちに、自分の罪、自分の弱さに直面して、初めてわかるようになりました。新聖歌106番に、「虫にも等しき者のために、主はかくもむごき目に遭いしか」という賛美がありますが、まさにこんな虫けら同然の者を、限りない愛をもって一方的に愛してくださった主の愛を知ることができたのです。この愛こそ私たちの交わりの土台なのです。キリストがこれほどまでに愛してくださったのに、その人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ大きな問題ではないでしょうか。教会においてはとかく自分と違う人をさばきがちになりますが、それは私たちのうちに今もなお残っている罪の残骸のせいであって、この事実を忘れているからなのです。

 

イエス様は、マタイの福音書の中でこのことを次のように言っています。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。」(マタイ7:1-5)

自分の目の中に梁があるのにそのことに気付かないで、兄弟の目の中にあるちりが気になるのです。そして、「それを取り除かせてください」と言うのです。でも、自分の目の中には大きな梁があります。その梁を取り除くことの方が先決です。もちろん、それを自分で取り除くことなどできませんから、兄弟の目の中にあるちりを取り除かせてくださいというのは、おこがましい話です。それなのに、そのように言うとしたら、自分の姿が見えていないということになります。

 

 皆さん、私たちはお互いに罪人であって、欠点も短所も弱さも持ち合わせている生身の人間です。イエス様を信じて罪赦されても、聖人君子になったわけではありません。完全な人など一人もいないのです。ですから、兄弟に嫌なことや、受け入れられないこと、なかなか好きになれないことがあっても当然なのです。にもかかわらず、キリストはそんな私たちを受け入れてくださいました。それは私たちも互いに愛し合い、受け入れ合うためです。問題は、私たちがなかなかこの十字架の愛に立つことができないことです。

 

イエス様は、このように言われました。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)「わたしがあなたを愛したように」これが互いに受け入れ合う鍵です。こんな者でもイエス様に受け入れられたことを思うとき、私たちも互いに愛し合う力が与えられるのです。

 

 先日、「祈りのちから」という映画を観ました。これもすばらしい映画です。この映画の原題は、War Room(ウォー・ルーム)。「戦いの部屋」です。これは、これは祈りによって肉の性質と戦って勝利した2人の女性の物語です。

エリザベスは、不動産業界で成功している女性でした。夫のトニーもやり手の製薬会社セールスマンで、2人の間には小学生のダニエルという娘さんもいて、理想的な生活を営んでいました。

しかし、エリザベスの妹婿が失業し、金銭的援助を惜しまないエリザベスをトニーは批判します。いつの間にか喧嘩が絶えなくなり、いがみあう2人を目にする娘のダニエルは悲しんでいました。二人ともクリスチャンで、日曜日には教会に通っていましたが、なかなか互いを受け入れることができず、出てくる言葉は相手に対する不平と不満ばかりでした。

そんなある日、エリザベスは売家の交渉で1人の老婦人と出会い、彼女を通して「祈りの力」を学ぶのです。それは「相手を変えるのではなく、自分が変わる」ということでした。それが祈りです。自分で何とかしようとするのではなく、神に働いてもらうのです。

結局、エリザベスの祈りに神は答えてくださり、まず妻が砕かれました。そして妻の祈りを通して夫も悔い改めに導かれ、二人とも神に立ち返ることができました。その結果、互いに受け入れることができ、幸せに家庭を取り戻すことができたのです。

 

私たちも互いに受け入れることは簡単なことではありません。けれども、主がこんな者でも受け入れてくださったことを考えると、互いに受け入れることができるようになります。まさにそれは祈りの力なのです。

 

 Ⅱ.大切なのは神の栄光があがめられること(8-12)

 

 次に、8~12節までをご覧ください。ここには、パウロが別の視点からクリスチャンが一致する必要性を語っています。それは何かというと、神の栄光が現されるためにということです。「私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。「それゆえ、私は異邦人の間であなたをほめたたえます。あなたの御名をほめ歌います」と書いてあるとおりです。また、こう言われています。「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」さらに、こうあります。「すべての異邦人よ、主をほめよ。すべての国民が、主をたたえるように。」さらにまたイザヤは、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方が。異邦人はこの方に望みを置く」と言っています。」

 

 ここには、キリストがどのように受け入れてくださったのかが記されてあります。まず8節を見ると、キリストは、神の真理を現すために割礼のある者たちのしもべとなられました、とあります。どういうことかというと、キリストはユダヤ人の子孫として、ユダヤ人の中に生まれてくださったということです。なぜなら、旧約聖書の中にそのように約束されていたからです。ユダヤ民族こそ神様が選ばれた民でした。そのユダヤ民族を通してキリストが誕生されたのは、彼らに与えられた約束が実現するためだったのです。

 

 しかし、キリストが受け入れられたのはユダヤ人たちに対してだけではありません。異邦人に対してもそうでした。9節には、「また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。」とあります。キリストが十字架にかかって死なれたのはユダヤ人だけでなく、すべての人が救われて真理を知るようになるためです。ユダヤ人も異邦人も一つになって、心を一つにし、声を合わせて、イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためだったのです。そのことを証明するためにパウロは、9~12節までの中で旧約聖書の四つの箇所を引用してこれを説明しています。

 

まず9節後半のことばですが、これは詩篇18篇49節からの引用です。かつてダビデは異邦人の中で主の御名があがめられるようになると預言していました。主の御名は、異邦人の中でもほめたたえられるのです。それが主のみこころでした。また10節には、「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」とあります。これは申命記32章43節からの引用ですが、そこには、異邦人も神の民とともに喜ぶようになるとあります。また11節と12節のみことばもそうです。11節のみことばは詩篇117篇1節からの引用であり、12節はイザヤ書11章10節からの引用ですが、これも異邦人も神を賛美するようになるという預言でした。特に12節にある「エッサイの根」とは、やがて来られるメシヤのことですが、このメシヤは異邦人のために、異邦人の希望のために、異邦人の救いのために来られるということが、ずっと昔から預言されていたのです。今まで生けるまことの神を知らなかった異邦人までもが神を知り、神をほめたたえるようになるということです。つまり、キリストはユダヤ人も異邦人も受け入れてくださり、心を一つにして、声を合わせて、神の栄光がほめたたえるようにしてくださったということです。

 

 ここでお気づきになられた方もおられるかと思いますが、これまでパウロは信仰の強い人と弱い人が互いに受け入れ合うようにというテーマで語ってきましたが、ここでは強い人とか弱い人というレベルを越えてユダヤ人と異邦人が一つになるというテーマに移っています。ユダヤ人と異邦人が一つになるということは考えられないことでした。それはまさに水と油のように相容れない関係でした。しかし、キリストが十字架にかかってくださることによって隔ての壁が取り除かれました。敵意は廃棄され、平和が実現したのです。エペソ書でこのように言われているとおりです。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。」(エペソ2:14~18)

 

どこかで聞いたみことばですね。そうです、先週のC-BTEの学びのテーマがこれでした。キリストこそ私たちの平和です。二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。ですから、このキリストによらなければ一つにはなることはできません。つまり、重要なのは神があがめられることを求めることであるということです。それがすべてなのです。

 

 皆さん、小さな考え方の違いはあってもいいのです。しかし、大切なことは、もっと偉大なものに目を向けることです。本当に偉大なことに目が向けられると、小さなことなどどうでもよくなるからです。その重要なこととは、神があがめられることです。このことを求めて生きるなら、人間の間の些細な違いなどは全く気にならず、互いに受け入れ合うことができるようになるのです。

 

 Ⅲ.望みの神に目を向ける(13)

 

 ですから第三のことは、この神に目を向けましょうということです。お互いの違いや、自分の感情に振り回されるのではなく、この神に目を向けなければならない、ということです。なぜなら、神は望みの神だからです。13節をご覧ください。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」

 

 パウロは、ここで神を「希望の神」と呼んでいます。5節では、「忍耐と慰めとの神」と言いました。忍耐と励ましの神が、希望を持たせることができる・・・と。皆さん、私たちの信じる神は、「望みの神」なのです。「望みの神」というのは、私たちに望みを与えることができる神であるということです。人はみな何らかの希望によって生きています。希望がなかったら、生きていくことなどできません。生きていたとしても、それは生ける屍のようなものになってしまうでしょう。

 

 第二次世界大戦中に、ドイツのナチスによって大勢のユダヤ人が強制収容所に送り込まれ、そこで殺され、死んでいきました。その中で数少ない生き残った人々は、ほとんど例外なく、将来に対するしっかりした希望を持っていたと言われています。「神が必ず救い出してくださる」、「なんとかしてこのようなことが二度と起こらないような社会を建設するのだ」、「どうしても家族や恋人にもう一度会いたい」等々、希望を持ち続けた人々が、最後まで生き残ったのです。希望こそ私たちに生きる力を与えてくれるのです。

 

 しかし、希望といってもいろいろな希望があります。たとえば、「お金持ちになりたい」とか、「もっと有名になりたい」、「もっと楽な生活がしたい」というものもあるでしょう。そのような願望や野望といったものは一時的な満足は与えてくれるかもしれませんが、いつまでも続くものではありません。したがって、そうした希望は失望に終わってしまうのです。しかし、神が与えてくださる希望はそのような一時的なものではなく、神との関係によってもたらされる永続的なものです。主イエスはこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

それは、決して渇くことがありません。途切れることがありません。ですから、決して失望に終わることがないのです。ローマ5:5~10を見ると、このように約束されてあります。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。」(ローマ5:5~10)

 

 この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。これは神の愛によってもたらされた希望なのです。キリストは、正しい人のためではなく、罪人を招いて救うために来られました。「敵で」さえも愛してくださいました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を明らかにしてくださったのです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことなのではないでしょうか。この神の愛が、聖霊によって、あなたの心に注がれているのです。

 

 さらに、私たちの希望が「失望に終ることがない」という決定的な根拠は、キリストの復活の事実にあります。キリストが死からよみがえられたのは、キリストにある希望が何ものにも閉じこめられることがないことを示すためでした。ですから、キリストに望みをおく者は、決して失望に終ることはないのです。

 

 神は、この希望を与えてくださいます。そしてパウロは、この望みの神がローマの教会の人たちの信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに溢れされてくださるとようにと祈っています。彼らの努力によって、そうした希望、喜び、平安を持つようにではなく、信仰によって、聖霊によって持つようにと言っているのです。あくまでも与えてくださるのは神であって、私たちの力や努力によるのではありません。私たちは、その神に信頼しなければならないのです。私たちの希望を失ってしまうほど問題が起こり、失望落胆してしまいそうな時でも、この希望の神に信頼することによって、そこから喜びと平安が与えられ、聖霊の力によって望みに溢れることができるようになるのです。

 

 それは教会だけではありません。私たちの人生には、たびたび失望するような事が起こりますが、そのような時にも、希望の神は、聖霊の力によって、私たちに希望を与え続けてくださるのです。問題は、私たちがどこを見ているかです。そうした問題に目が向けば失望するでしょうが、神に目を向けると、希望が与えられるのです。

 

  たとえば、ダビデがそうでした。ダビデはサウル王に憎まれ、命を狙われ、ユダの荒野を10年間も彷徨っていた時、人生の試練の中で、どこに希望と救いがあるのかを思い、次のように告白しました。詩篇62篇1~8節です。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」

 

 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。ダビデは神に目を留め、黙って、ただ黙って神を待ち望んだのです。それがダビデの勝利の秘訣だったのです。目に見える現実に心が奪われ、神の前に静まることを忘れると、人の顔色ばかりを気にするようになります。そして平安を失ってしまうことになるわけです。ですから、私たちは目に見える背後におられる神に目を向けなければなりません。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐらら。神は、われらの避け所なのです。この方に目を向け、この方に信頼することによって、完全な解決が与えられるのです。

 

 皆さんの目はどこを見ているでしょうか?何に信頼しているでしょうか。ダビデがただ黙って神を待ち望んだように、私たちも神に信頼し、黙って神を待ち望もうではありませんか。それは私たちの神は希望の神であり、聖霊の力によって、望みに溢れさせてくださるからです。

知恵のある者はだれか 伝道者の書8章1~8節

2021年1月10日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章1~8節(旧約P1148)

タイトル:「知恵のある者はだれか」

 

 きょうは、伝道者の書8章前半から「知恵のある者はだれか」というタイトルでお話しします。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とあります。だれが知恵のあるような人となり、物事の道理を悟ることができるのでしょうか。きょうは、このことについて御言葉から学びたいと思います。

 

Ⅰ.人の知恵はその人を輝かせる(1)

 

 まず1節をご覧ください。「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる。」

 伝道者は、これまで人の知恵によっては人生の諸問題を解決することはできないと語ってきました。しかし、知恵のある者のすばらしさを称賛しています。たとえば、7:19では「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける」と述べました。知恵は、それほど力があるのです。ここには、その知恵のすばらしさを別の言葉で表現しています。それは、「人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」ということです。「和らげる」という言葉は、欄外を見ると、直訳「変える」とあります。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔を変えるのです。整形手術をするということではありません。その顔の固さが和らかくなるということです。輝くのです。内面が変わると外面も変わります。そういう意味では、私たちの顔は内面を映す鏡のようなものなのです。

 

 皆さんは、自分の顔がお好きでしょうか。1912年にノーベル賞を受賞したフランスの物理学者アレキシス・カレルは、著書「人間 ─ この未知なるもの」の中で次のように述べています。

 「私たちの知らない間に、私たちの顔つきは、心の状態によって少しずつ造られていく。そして年齢を経るにつれて、それは増々はっきりとし、人間としての私たちの感情・欲望・希望など、すべてのものを表す看板のようになる」

ですから、私たちの顔は、私たちの心を映す鏡であるというのは本当なのです。

 

 アブラハム・リンカーンもこのように言いました。「男は四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなければならない」それで、リンカーンが人を雇う時は、その人が四十歳以上の人であれば、その人の顔を見て選んだそうです。その人がどれほど有能であるかとか、どんな経験をしてきたかとかといったことではなく、その人がどんな顔かによって選びました。それは、その人がどんなにハンサムであるかとか器量がいいかといったことではなく、どのような表情をしているかということです。その表情が柔らかくて、輝いている人を選びました。なぜなら、その人の顔にその人の心の状態が映し出されることを知っていたからです。四十歳と言えばある意味で人格的にも成熟している年齢です。その心の持ちようが表情に表れるということを経験として学んでいるはずですから、その心を制御することができないとしたら良い仕事をすることもできないでしょう。それで彼は、男は四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなければならない、と言ったのです。

 では、その人の顔を輝かせ、その顔を和らげるものは何でしょうか。ここには、人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる、とあります。ですから、その人の知恵がどれほど重要であるかがわかります。

 

 このことは詩篇でも言われています。詩篇10:4には、「悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです」とあります。ここでは悪しき者の顔がどのような顔なのかが表現されています。悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。彼らは「神はいない」と言うのです。天地万物を造られた創造主なる神を信じないし、信じようともしません。これが不信者の顔です。その特徴は何かというと「高慢」であるということです。ですから、どんなに自分が器量のいい人間であるかを装っても、本質的に高慢なので顔が固いのです。そんな顔でどうやって輝かせることができるでしょうか。どんなに顔にフェイスクリームを塗ってもだめです。高慢が顔に表れるからです。

 

 箴言15:13も開いてください。ここにも「喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある」とあります。新改訳改訂第3版では、「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ」となっています。心に喜びがあれば顔色を良くしますが、心に憂いがあれば気はふさぎます。その人の心が表情に一番よく表われるというわけです。ですから、あの人何だか元気がなさそうだなぁという時には、やはり心に悩みがあるわけです。隠そうとしてもだめです。すぐに顔に表れますから。表情によってその人の心の状態をある程度判別することができるのです。

 

 箴言27:19も開いてください。ここには、「顔が、水に映る顔と同じであるように、人の心は、その人に映る」とあります。顔が鏡にたとえられているのです。顔が、水に映る時と同じように、その人の心は、その人の顔に映ります。ですから、顔を見ればその人の心がどういう状態であるかを知ることができるのです。

 

 ですから、自分がどれだけ立派な者であるかとか、どれだけ器量のいい人間であるかをアッピールする必要はありません。それよりも、自分の品性を磨くことの方が重要です。ですから、聖書はこう言っているのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)その根源である心を見守ることが重要なのです。まさに知恵は、その心を磨くものなのです。

 

 イソップ物語に、「金の卵を産むガチョウ」の話があります。このガチョウは、毎日1個ずつ金の卵を産んでくれるのですが、若者は早く金持ちになりたいと思い、このガチョウを殺し、お腹の中を探しました。しかし何も出て来ませんでした。この物語は「欲張りの人は結局損をする」「今を感謝しない人は大切なものを失ってしまう」ということを教えてくれます。知恵がどれほど重要であるかがわかるのではないでしょうか。

 

 私たちは毎日何気なく仕事をしていますが、この仕事をすることについても、その態度には三つの段階があると言われています。

 一番下の段は「仕事をさせられている」と思いながら働いている人です。こういう人は一日の終わりには疲労感がどっと押し寄せてきます。

 次の段は「仕事をしてやっている」と思いながら働いている人です。これらの人々は、自分の収入や労働環境について、いつも不平不満でいっぱいです。仕事を喜びとすることができないのです。

 一番上の段は「仕事をさせていただいている」という感謝の心に満ちている人です。これらの人々は、仕事を喜びとし、置かれている環境を感謝して受け取ります。

 どの段階の人が、輝きを放っているかは一目瞭然です。一番上の段にいる人です。人の知恵は、その人を輝かせ、その顔の固さを和らげるからです。

 

 ですから、聖書はこう教えているのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18) 

 あなたの心に喜びがあるなら、また、あなたの心に祈りがあるなら、そして、あなたの心に感謝があるなら、あなたの顔は輝き、力がみなぎるようになります。いのちの泉はそこからわくからです。あなたは、この知恵によって生きていらっしゃるでしょうか。

 

いったいこのような知恵は、どこから来るのでしょうか。Ⅱコリント3:18を開いてください。ここには、「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。どうしたら鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのでしょうか。これは、まさに御霊なる主の働きによるのです。自分の力でできることではありません。御霊なる主の働きによるのです。もし自分の力で輝こうとすれば、偽善者のようになってしまいます。そうではなく、主の向かい、主と交わりを持つことによって、主と同じ姿に変えられていくのです。これはまさに、御霊なる主の働きによるからです。

 

実は、このみことばは、出エジプト記34章の出来事が背景となっています。そこには、モーセが神と交わるためにシナイ山に登って行ったことが記されてありますが、モーセが山から下ると彼の顔が輝いていました。つまり、それはモーセが神と親密な交わりを持った結果与えられたものだったのです。

それは、今の私たちも同じです。私たちが主に向かい、主と親密な交わりを持つことによって、私たちの顔は輝きを放つようになるのです。そんなにフェイスクリームを塗らなくても大丈夫です。それよりも、主イエスと交わることによってピカピカと輝き、すべすべとした柔らかなお肌となります。なぜなら、主イエスこそ、神の知恵であられるからです。人の知恵でもその人の顔を輝かせるなら、神の知恵は、どれほどその人を輝かせることでしょうか。

 

ですから、もしあなたが輝いていないとしたら、それは、あなたの心がキリストに向いていないからであって、自分に向いているからです。また、御霊なる主にゆだねないで自分の力で輝こうとしているからです。人の知恵は、その人を輝かせ、その顔の固さを和らげます。あなたの心がどこを向いているかを点検し、今、主のもとに立ち返らせていただきましょう。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく」からです。

 

Ⅱ.知恵のある者は神の命令を守る(2-5a)

 

第二に、知恵のある者は神の命令を守ります。2~5節の前半までをご覧ください。「私は言う。王の命令を守れ。神への誓約があるから。王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。王のことばには権威がある。だれが、王に「何をするのか」と言えるだろうか。命令を守る者はわざわいを知らない」

伝道者は、知恵のある者は、王の命令を守れ、と命じています。ここでの「王」とは、地上の王と解釈することもできますし、神と解釈することもできますが、どちらも同じ意味になります。というのは、ここでは権威に対する従順が命じられているからです。「神への誓約があるから」とは、神の御前で忠誠を誓ったのだからという意味です。神の御前で忠誠を誓った以上、その誓いを果たすのは当然のことです。つまり、王の命令を守るとは、その王を立てたのは神ご自身の命令を守ることであり、そのような人こそ知恵のある者とされるふさわしい人であるということなのです。

 

このことはローマ13章で教えられていることです。ローマ13:1-2には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます」とあります。

上に立つ権威とは、職場であれば上司のことであり、家庭であれば夫であり、父親のことです。また、もっと広い意味で言うなら、それは市長のことであり、県知事のことでもあります。また、この国の政府のことでもあります。伝道者の書ではこれを「王」に置き換えられているのです。人はみな、上に立つ権威に従うべきです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。たとえあなたの上に立つ者が尊敬できないような人であっても、たとえあなたの上司がノンクリスチャンであったとしても、へりくだってその権威に従うべきです。なぜなら、その権威は神によって立てられたものだからです。そうでないと、神の御前に過ちを犯してしまうことになります。これは知恵のないことです。

 

ちょうど今、祈祷会でⅡサムエル記を学んでいますが、ダビデはその模範者であると言えるでしょう。ダビデは、サウル王に妬まれそのいのちを狙われて逃げ回っていましたが、その中で何度も彼を殺すチャンスがありました。けれども彼は一切サウルに手を出そうとはしませんでした。なぜなら、サウルは主に油注がれた者であり、主によって立てられた王であったからです。主に油注がれた者に手を出すことは主に背くことになると考えていたのです。ダビデは、上に立つ権威が神によるものだということを認識していました。ですから、自分の力でサウルに取って代わろうともしませんでしたし、サウルを非難したり、攻撃したりもしませんでした。神が立てられたのであれば、神が取り去ることもあると信じ、そのすべてを神にゆだねたのです。ですから、サウルが死んだということを聞いた時もほっとしたとか、安心したというのではなく、むしろその死を悼み悲しみました。それは、サウルが神に立てられた王であると受け止めていたからです。私たちも、自分の上に立つ者に不平不満があっても、たとえその人が問題だらけで間違いを犯すような人物であっても、あるいは、理不尽な人であっても、それは神によって立てられた権威であると認め、あとはすべて神にゆだねるべきなのです。神が立てたのであれば、神は取り去ることもあるからです。自分で手を出すべきではありません。

 

いったいダビデはどうしてサウルに従うことができたのでしょうか。ここには「神への誓約があるから」とあります。つまり、ダビデは、その背後には神がおられるということを見ていたのです。詩篇16:8にはこうあります。「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。」これはダビデのミクタムです。「ミクタム」とは、「最高に美しい詩」という意味です。その詩の中でダビデは、「私はいつも主を前にしています」と告白していたのです。新改訳改訂第3版では「私はいつも、私の前に主を置いた」となっています。ダビデはいつも自分の目の前に主を置いたのです。サウルにいのちを狙われている時でも、敵の領地に逃げ込まなければならない苦境の時でも、いつも目の前に主イエスを置いていました。つまり、主イエスをフィルターとして見ていたのです。主イエスを通して向こうにいるサウルを見ていたのです。

 

皆さんの上司との関係、夫や妻との関係、上に立つすべての権威との関係も同じです。いつも主イエスを置いて見なければなりません。そうすれば、主に従うように夫に従うことができるはずです。主に仕えるように上に立つ権威にも仕えることができます。「嫌だなぁ、あの上司、最悪!」と思えても、主に従うように喜んで従うことができるようになるのです。

 

3節には、「王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。」とあります。これは、王の前から慌てて退出するなということです。つまり、王の言葉や態度に怒ったり、驚いたり、失望して、王の前を去ってはならないということです。また、悪事に荷担して、王への反逆を企ててもなりません。どうしてでしょうか?それは先ほども申し上げたように、神によって立てられた権威だからです。しかしそれだけではなく、ここにもう一つの理由が記されてあります。それは、王は自分の望むままを行うからです。つまり、王は絶対的な権威を持っており、それを自分の思うままに用いることができるからです。王に対して「何をするのですか」とか、「どうしてそのようなことをするのですか」とか、「このようにした方がいいんじゃないですか」などと言うことはできません。王には絶対的な権威があるからです。

 

これは、私たちと神との関係にも言えることです。究極的な王であられる神は、絶対的な権威をもっておられます。神は主権者であって、その権威を自由に用いることかできるのです。その神に向かって「どうしてこんなことを許されるのですか」とか、「どうしてこんなことが私の人生にふりかかるのですか」ということはできません。なぜなら、神は主権者であられるからです。その方が何を成さろうと、どのように成さろうと、それは神がお決めになられることであって、私たちが口をはさむことではないのです。私たちにできることは、その方の権威を認めて、その方にすべてをおゆだねすることです。

 

パウロは、このことをローマ9:20-21で、陶器師と陶器のたとえを用いてこのように言っています。「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」

まさに、私たちは土のかたまりにすぎません。そのような者が陶器師に対して「どうして私をこんなふうに造ったんですか」と言うことはできません。私たちにはそのような権利はないからです。陶器師がどのように造るかは陶器師の自由であって、私たちが口をはさむことではないからです。それなのに私たちはすぐに「どうしてですか」と理由を問いたくなるわけです。知らないと気が済みません。知っても気が済みませんが、知らないともっと気が済みません。それで「どうしてですか」と問うわけです。「主よ、どうしてですか・・・」しかし、私たちはそのような立場にはないのです。私たちは陶器にすぎないものです。であれば、陶器師であられる主がなさることに信頼し、それがどうしてなのかがわからなくても、なぜこんな理不尽なことが起こるのかという時でも、すべてを主にお任せすればいいのです。あなたのために愛する御子を惜しまずに与えてくださった方が、あなたのために酷いことをするはずはありません。あなたのために最善のことをしてくださるでしょう。ですから、私たちはこの神の愛に信頼して「主よ、どうしてですか」と問うことを止め、「主よ、あなたにゆだねます」と祈るべきなのです。

 

5節の前半をご覧ください。「命令を守る者はわざわいを知らない。」どういう人がわざわいを知らないのでしょうか。命令を守る者です。王の命令を守る者、すなわち、神の命令を守る者です。そういう人はわざわいを知りません。わざわいがないと言っているのではありません。クリスチャンにもわざわいはあります。でもそれはわざわいとはならないのです。なぜなら、そのようなわざわいさえも神は益としてくださるからです。この世の人から見たら何と不幸だと思うようなことでも、クリスチャンはそのような中にも幸いを見つけることができるのです。ローマ8:28に、このような約束があります。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

ここに「すべてのことを働かせて」とあります。この「すべてのこと」の中には、良いことも悪いこともすべてです。ですから私たちは、わざわいの中でも益を見出すことができます。それゆえ、神の命令を守る者はわざわいを知らないのです。

 

Ⅲ.知恵のある者は神の時と方法を見分ける(5b-8)

 

第三に、知恵のある者は神の時と方法を見極めます。5b~8節をご覧ください。「知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない。」

 

すべての営みには時があることについては、3章で語られました。すべてのことには定まった時期があります。天の下のすべての営みには時があるのです。知恵のある者の心は、その時とさばきを知っています。この「さばき」とは「方法」のことです。創造主訳聖書では「知恵がある人の心は、時と方法を知っている」と訳しています。つまり、知恵のある人の心は、どのようなタイミングで、またどのような方法で王に従えばよいのかを知っている、ということです。

 

それは、王に従うことだけではありません。すべての営みにおいて言えることです。6節には「すべての営みには時とさばきがある」とあります。知恵のある人は、その時と方法を見分けることができるのです。知恵に欠ける者は、それを見分けることができません。なぜなら、すべてのことの適切な時期や方法を知るためには、神からの分別力をいただかなければならないからです。しかし、どんなに知恵がある者でもわからないことがあります。たとえば何でしょうか、7節には「何が起こるかを知っている者はいない」とあります。将来何が起こるのか、いつそのようなことが起こるのか、について知っている人はいません。だれも告げることができないのです。

 

また、8節には「風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない」とあります。

「風」と訳されていることばには※印が付いていますが、欄外の説明を見ると、あるいは「霊」「息」とあります。「風」も「霊」も同じ原語が使われているのです。ですからこれを、霊を支配し、霊をとどめておくことのできる人はいない、と訳すこともできます。そのように訳すと、次のみことばとのつながりが見えてきます。つまり、人は、自分のいのちをとどめておくこともできなければ、死の日を支配することができません。つまり、将来何が起こるのか、いつ起こるのかがわからないだけでなく、自分のいのちのことさえも自分で決めることができないということです。しかも、この戦いから逃れることができる人はひとりもいません。そして、悪は悪の所有者を救い得ないのです。どんなに悪に傾こうが、悪は悪を行う者を救うことができない、という意味です。つまり、善人でも悪人でも、死に対する戦いに勝利することができる人は一人もいないのです。

 

しかし、この死に勝利できる方がおられます。だれですか?そうです、死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。主は、実際に十字架に掛かって死なれましたが、三日目によみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。イエス様は死に勝利されました。ですからこのように宣言されたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

何と力強い約束でしょうか。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」この死との戦いから逃れることができます。主を信じる者は主と同じようによみがえり、天の御国に入れられるからです。これこそ真の希望です。人は希望がなければ前に進むことができません。しかし、ここに希望があります。死からよみがえられ、死に勝利された方、主イエス・キリストを信じる者は死んでも生きることができるのです。この方に信頼して歩めることは何と幸いなことでしょうか。

 

知恵のある者とされるにふさわしいのはだれでしょうか。その人は力の限り、見張って、心を見守ります。知恵の源であられる主との交わりを欠かしません。また、その人は神の命令を守ります。それが自分に理解できないことであっても、主は最善に導いてくださると信じているからです。そして、すべての営みには神の時とさばき(方法)があると信じて、神にすべてをゆだねるのです。なぜなら、神は人の死さえも支配しておられる方だからです。すなわち、神を恐れ、神の視点で人生を見ることのできる人、それこそ知恵のある人なのです。

 

作家のサン・デグジュペリは「星の王子さま」の中で、地球について王子さまに次のように言わせています。

「みんな特急列車に乗り込むけれど、今はもう何を探しているのかわからなくなっている。だから皆ソワソワしたり、堂々巡りしたりしているんだ。」

「大切なものは目に見えない。肝心なことは心で見ないと見えないんだよ。」

 

これはまさに、現代の社会に向けて語られているメッセージではないでしょうか。みんな特急列車に乗り込んでいるように忙しくしているけれども、何を探しているのかわからなくなっています。だから皆ソワソワしたり、堂々巡りしたりしているわけです。でも、大切なものは目には見えません。肝心なことは心で見ないと見えないのです。それは、神の視点で見るということです。

 

知恵のある者とさせていただきましょう。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9:10)主を恐れることから始めましょう。聖なる方を知ることから始めましょう。この方の視点で人生を見つめ、その命令を守り、そのみわざにすべてをゆだねることを大切にしていきたいと思います。いのちの泉はここからわくからです。この主を恐れ、へりくだって主のみこころに歩もうとする人に、主はご自身の知恵で満たしてくださり、その顔を輝かせてくださるようにお祈りします。

キリストにあって歩みなさい 伝道者の書7章15~29節

2020年1月3日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書7章15~29節(旧約P1147)

タイトル:「キリストにあって歩みなさい」

 

 主の2021年、明けましておめでとうございます。この新しい年、皆さんはどのような御言葉が与えられたでしょうか。私は詩篇92:13の御言葉が与えられました。「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神のおお庭で花を咲かせます。」悪者は青草のように萌え出でますが、主を愛する者は、主の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせます。この新しい年も、主の大庭、主の幕屋の庭で花を咲かせる年になりたいと思います。

 

さて、この朝私たちに与えられている御言葉は、伝道者の書7章15節からの御言葉です。伝道者は7章前半のところには、何が人のために良いことなのかを、知恵のある者と愚かな者の対比を通して学びました。その中心は何かというと、13節にあるように「神のみわざに目を留めよ」ということでした。神が曲げたものをだれもまっすぐにすることはできません。すなわち、神の成されたことをだれも変更することはできないのですから、それをありのままに受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのがベストです。どのように受け入れれば良いのでしょうか?14節にあるように、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」ということでしたね。なぜなら、「順境日も」も「逆境の日」も共に神がお与えになられたものだからです。これもあれも、神のなさることなのです。ですから、そのすべてが神の主権によって成されていることを覚え、その神にすべてをゆだねることが求められているのです。今回はその続きとなります。

 

Ⅰ.正しすぎてはならない、悪すぎてはいけない(15-20)

 

 まず、15~20節までをご覧ください。「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」

 

 非常に含蓄のある言葉ではないでしょうか。この新年礼拝にふさわしい御言葉だと思います。15節の「すべてのことを見てきた」とは、人生におけるすべてのことです。その中には考えられないようなこと、信じられないようなこともあります。何とも理不尽だなぁ思えるようなことも含まれています。たとえば、その後にあるように「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」というようなことです。私たちもこのような現実に直面することがあるのではないでしょうか。そして、その度に、イエス様を信じ、神様に信頼して歩むことにいったいどんな意味があるのだろうかと考えさせられるわけです。中には、そのような不条理を経験する中で、「聖書はもういらない」と信仰から離れてしまう人もいます。しかし、そのような現実の中にあっても、神を恐れて生きることを学ばなければなりません。

 

伝道者ソロモンは、その理由を次のように語るのです。16~18節です。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」

 

どういうことでしょうか。正しい人が正しいのに滅び、逆に、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがありますが、これもあれも、神がなさることなのです。私たちにはわからないことがあります。そうかといって正しい人であることが問題なのではありません。たとえ、正しい人が滅びていくかのように見えても、正しい人であること、イエス様を信じて義と認めていただくことは、神に受け入れていただく唯一の道であることに変わりはありません。問題は、自分で義と認めてもらおうとあくせくすることです。ですからここには「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。」とあるのです。そうかと言って、悪すぎればいいのかというとそうでもありません。正しすぎるのはよくありませんが、悪すぎてもいけないのです。なぜなら、自分を滅ぼしてしまうことになるからです。

 

それが18節で言っていることです。「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」この「一つをつかみ」とは、正しすぎることであり、知恵ありすぎることです。そして「もう一つを手放さないのがよい」の「もう一つ」とは、悪すぎることであり、愚かであることです。どちらも手放さないで、両方持っているのが良いのです。つまり、神に信頼し、すべてを神にゆだね、神がなさることを受け入れて、神に感謝して生きることです。それが神を恐れて生きる人なのです。

 

20節にその理由が述べられています。「この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」この地上には正しい人など一人もいないからです。それなのに、自分を正しい者とするなら、あの律法学者やパリサイ人たちのように、人をさばいてしまうことになります。彼らは自分たちには神の律法が与えられているので、優れた者、正しい者だと思い込んでいました。その結果、そうでない人たちをさばいていたのです。そのようなことが私たちにもあります。私たちももし自分を正しい者とするなら、同じ誤りに陥ってしまいます。それは最初の人アダムの罪そのものです。彼の問題は何だったのでしょうか。それは自分を善悪の基準としたことです。神ではなく自分を基準にしました。その結果、神から「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と問われたとき、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と答えたのです。あろうことか、神と妻のエバとを非難したのです(創世記3:11,12)。

 

残念ながら、今も「あなたのせいで・・・」と罵り(ののしり)合う夫婦喧嘩がどれほどあるでしょう。問題は、正しすぎることです。「私は正しい。悪いのはあなただ」と徹底的に主張するなら、結婚関係は破綻してしまいます。それはすべての人間関係、また国と国との関係にも当てはまることです。そのようにして自分を滅ぼすことになってしまうのです。

 

また、「知恵がありすぎる」のも問題です。そこには大きな落とし穴があります。ソロモン王はこの世の誰よりも知恵がありましたが、多くの妻を持つことで妻たちの偶像崇拝に陥り、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、神と人のありがたさを忘れさせるきっかけになってしまい、人を滅ぼしてしまうことになります。

 

そうかといって、悪すぎるのもよくありません。ここには、「あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。」とあります。これは、悪すぎなければ多少の悪は赦されるということではありません。これは、悪や愚かさであることを開き直ることは危険であるという意味です。「どうせ、私は・・なんだから」と開き直るなら、自分を滅ぼしてしまうことになります。また、「神のかたち」に造られたすべての人には良心があり悪いことをしたら心が痛みますが、悪いことをし過ぎると、それさえも感じなくなってしまいます。その結果、生ける屍のような状態になってしまうわけです。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。Ⅰヨハネ2:1をご覧ください。ここに解決があります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」

私たちはキリストによって罪が贖われ、神の前に義人とされました。しかし、私たちが罪を犯さずに生きることは不可能です。作家の三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことなどできないのです。…正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、内側の醜さに心を痛めずにはいられません。しかし、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方がおられます。その方は義なるイエス・キリストです。ですから、あなたが罪を犯したなら、その罪を悔い改めて、神に立ち返り、キリストにとどまることです。そうすれば、あなたの罪は赦されるのです。

18節に「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。」とあるのは、このことです。つまり、正し過ぎるのではなく、かといって悪すぎるのでもなく、謙虚になって自分の罪を認め、神の恵みとイエス様のとりなしに生きることこと、これが神の知恵であるということです。神を恐れる者は、この両方を持って出て行くのです。

 

あるとき、一人の若いクリスチャンの女性が、自分の弱さを率直に認めながら、真心から「私はイエス様なしには生きてゆけない・・」と言っているのを聞いたことがありますが、その謙遜な姿にとても感動したのを覚えています。自分を義とするのではなく、神の義、イエス・キリストの義に生きること、それが神の知恵なのです。

 

19節をご覧ください。「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。」この知恵は、十人の権力者よりも、知恵ある者を力づけます。もっと力があるという意味です。なぜでしょうか?この地上に罪を犯さない人などひとりもいないからです。義人はいない。一人もいない。みんな罪を犯さずには生きていくことができません。そのような日々の歩みの中で私たちを真に力づけるのはこの神の知恵なのです。

 

Ⅱ.人の語ることばをいちいち心を留めてはならない(21-22)

 

次に、21~22節をご覧ください。ここにもう一つの知恵が語られています。「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。」

人の語ることばをいちいち心に留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気が奪われてしまうことになります。それを気にしてどれだけ多くの人々が心を痛めていることでしょうか。ネットの書き込みで自殺する人も跡を断ちません。しかし、悪意ある者のことばは気まぐれです。そんなことばにいちいち躓き、心をかき乱されるのも馬鹿馬鹿しいことです。イギリスの有名な牧師チャールズ・スポルジョンはこう言いました。「人の舌を止めることはできない。だったら、自分の耳を閉じて、話されたことを気にしないことである」と。

22節には、どうして人の語ることばをいちいち心に留めてはならないのか、その理由が書かれてあります。それは「あなた自身が他人を何度もののったことを、あなたの心は知っているのだから。」です。なるほど、考えてみると、自分自身もよく人の悪口を言ってしまいます。自分も他人をののしるのだから、他人もあなたをののしるのは当然じゃないかというのです。自分は人から批判されたり、非難されたりするのが嫌なのに、自分は平気で人の悪口を言ってしまう。これが人間の性です。

 

大川従道先生が、ご自身の説教集「風は己が好む所に吹く」という本の中で、聖霊がご自身の教会を好んでいない、ということを感じた時があったと言っておられます。それは、先生がよく信徒を裁いていたことが原因でした。少し長いですが、その部分を引用させていただきます。

「私は鈴木健二さんの気くばりの本が出る前から、「気くばり牧師」と言われていました。日曜日、朝から晩まで私は気を配っていたのです。絶対に人から後ろ指さされないように気をつかっていたのです。老人には優しくし、青年にも仕え、人間的な努力で、電話の取り方、言葉づかい、カウンセリング、あらゆることに配慮していました。

日曜日の夜は疲れきり、コカコーラとスルメを買ってきて、妻を相手に信徒の悪口を言うのが楽しみでした。若い牧師が一生懸命頑張っているのだから、日曜日の夜くらい信徒の悪口を言わせてもらわなければ、と思っていたのです。

「あの役員は言うことは言うけれど金は出さないね。いつになったら給料上がるかね」

「婦人会の彼女はしゃべること喋ること。ありゃ、口から生まれてきたのかね」

「今の若者はしつけがなってないねえ。親の顔が見たい」信徒を裁くと溜飲(りゅういん)が下がり、「スカッとさわやかコカコーラ」でした。そして、また月曜日からさわやかに伝道する、というのを繰り返していました。

その点を、私は主から厳しく指摘されました。

・・・

しかし、私は神様から言われました。

「何を言うか。お前に必要だから、この人をここに置くのだ」

・・・

私は主の御前に涙を流しながら、「イエス様、ごめんなさい。あなたの愛する信徒を裁いていました。あなたが置いてくださったのに、「あいつの根性が悪い」などと思っておりました。赦してください!」

気持ちが変わらないうちに、次の日曜日にこんな説教をしました。

「愛する皆さん、私に御言葉が与えられました。この御言葉通りに生きれば絶対に祝福されると思います。それは、「風は己が好む所に吹く」という御言葉です。聖霊様は人格を持っておられて、人を裁くことがお嫌いです。それを示されました。皆さんの中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんけれど、私はけっこう皆さんを裁いておりました」

うなずいている人がいました。

「私はそれがいけないことだと分かりましたから、もう、どんなことがあっても皆さんを裁かない牧師になります。どうか私を赦してください。ところで、皆さんも、事によると、私を裁いていたでしょう」

またうなずいている人がいました。

・・・

それから教会に人が増え始め、試練もありましたが、ものすごく祝福され、教会堂も建てられました。大川先生いわく、祝福の原点は何でしょう。「裁き合わない」ことです。神様がくださった人生を裁き合わないことです。そうすれば、聖霊様は喜んでくださり、私たちの人生を祝福してくださいます。

 

私たちも他人を何度ののしったことでしょう。だから、他人があなたをののしるのは当然なことなのです。でもそのようなことにいちいち心を留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気を遣わなければならなくなるからです。むしろ、私たちは人をののしるのではなく神の愛で人を評価し、その人の良さを見つけ、その人のためにとりなしの祈りをささげていくべきです。そのように人を否定的な眼ではなく、肯定的な眼で見るなら、あなたもそのように観られるようになるでしょう。人の悪口、陰口は、自分に返ってくるものです。

 

米国の伝道者スタンレー・ジョーンズが、ある国の有力な将軍と話をしていたときのことです。この将軍は密かに女を囲っていました。

彼はしきりに、他のクリスチャンの悪口を言い出しました。ジョーンズは、このような状態の人のことをよく知っていました。

「悪意の背後には、自分自身の堕落を隠そうとする動機があるということ」を。

そこでジョーンズは、将軍の語る批判の言葉をさえぎって言いました。

「将軍、ペテロがヨハネについて『主よ、この人はどうですか』とイエスに尋ねたとき、主はこう言われました。『それがあなたと、何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従ってきなさい。』(ヨハネ21:22)」

すると将軍は素直に、「どうも負けました」と自分の非を認めました。

 

大切なのは、他の人があなたのことを何と言っているかということではなく、主があなたに何と言っておられるかということであり、主に従っていくことです。

 

Ⅲ.キリストにあって歩みなさい(23-29)

 

最後に、23~29節をご覧ください。まず、23~25節までをお読みします。「私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。」

伝道者は、人生におけるすべてのことを見極めるために知恵を得ようと決心しましたが、それは無理なことでした。知恵は遠いかなたにあって、だれもそれを見出すことはできないからです。そこで、彼は知恵と物事の道理を追及し、捜し求めました。すると、そこにあったのは人間の悪行と狂気の愚かさばかりでした。

 

その一つが26節にあることです。「私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」

ここをちょっと見ると、女性の皆さんは憤慨してしまうかもしれませんね。でもこれは女性を蔑視したり、差別しているのではなく、私たちが陥りやすい罠について警告しているのです。それが「女」であり、「男」であるということです。つまり「異性」です。この「女」という言葉ですが、これは「娼婦」のことを指しています。伝道者は、こうした娼婦が死より苦々しいということを実感したのです。ソロモンには千人もそばめがいましたから、それがどれほど男を捕らえる罠であり、網であり、手かせであるのかを実感していたのでしょう。

 

しばらく前に、NHKBSプレミアムで「洞窟おじさん」というスペシャルドラマを放映しました。これは、親の虐待から逃れ13歳で家出をした少年が、43年間も洞窟で生活したという実話です。山奥の洞窟で一体どうやって43年間も1人で生活することができたのでしょうか。この少年はヘビや木の実で食いつなぎながら、やがて山の幸を売って大金を稼ぐ知恵を身につけていくのです。その中に自力でイノシシを狩るシーンが出て来るのですが、どうやって狩るのかというと罠を使ってです。土を深く掘りそこに竹を槍の形に鋭く切ったものを並べ、その上にうっすらと土をかぶせて元のように見せかけるのです。そして、イノシシの前に自分の姿を現して襲わせるのです。逃げるふりをした少年はその罠のそばを駆け抜け、イノシシがその罠に落ちるようにするのです。自分が落ちたら大変ですが、そうやってイノシシを捕まえて食いつないだのです。まさに女は罠であり、その心は網、その手は、かせです。神に喜ばれる者は女の罠から逃れますが、罪に陥る者は女に捕らえられるのです。

 

27~28節をご覧ください。「伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。」

「道理」とは、物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道のことです。伝道者はこの道理を見いだそうと一つ一つ当たりましたが、何も見出すことができませんでした。彼が見出したのは、千人のうちで心の真実な人は、男はせいぜい一人ぐらいしかいないということ、女の人に至っては一人もいませんでした。なんだ、やっぱり女性蔑視ではないかと思われるかもしれませんが、それは今の私たちの感覚とはかけ離れています。というのは、聖書は男女が等しい価値感を持っていると教えているからです。いずれにせよ、人として行うべき正しい道を知っている人はほとんどいませんでした。

 

そこで伝道者はこういうのです。29節をご覧ください。これが伝道者の結論です。ご一緒に読みましょう。「私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。」

伝道者は、知恵の探求の結果、正しい結論に至りました。それは、神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということです。どういうことでしょうか。神は人を真っ直ぐな者として創造されたが、人は勝手に向きを変え、罪の生活へと向かって行った、ということです。「真っ直ぐな者に造られた」とは、正しい者に造られたという意味です。それは神のかたちに造られたということです。神を愛し、神と交わり、神の栄光を現す者として私たち人間を造られたのに、人は、本来造られた目的から離れて自分勝手な道に向かってしまいました。

 

これこそが、人間の本当の問題です。私たちの根本的な問題は神から離れてしまったことです。聖書ではこれを罪と言っています。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは「的外れ」を意味します。本来なら神という的に向かって矢が放たれなければならないものを、その的を外してしまいました。それが「罪」です。その本質は「自分中心」です。神中心ではなく自分中心であること、それが罪です。罪を英語で書くと「SIN」と書きますが、真中にあるのは何でしょうか?「I」、「私」です。これが罪の本質なのです。

 

ですから、もし私たちが本当に満たされたいと願うなら、この罪を解決し、再び元々の状態、真っ直ぐな者に造り変えていただかなければなりません。神のかたちに再創造していただく必要があるのです。どうしたら新しく造り変えていただくことができるのでしょうか。Ⅱコリント5:17にこう約束されてあります。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。罪という古い性質が過ぎ去って、すべてが新しくされます。もしあなたが人生に答えを見出したいなら、満ち足りた人生を送りたいと願っているなら、キリストにあって神が造られた元の状態に造り変えられなければならないのです。

 

それは自力ではできません。ソロモンもそうでした。彼も自分の力で何とかしようとしましたができませんでした。日の下でどんなに労苦しても、「空の空。すべては空。」なのです。しかし、ここにソロモンよりも偉大な方がおられます。私たちを「真っ直ぐな者」、「正しい者」に造り変えてくださる方がおられるのです。それはイエス・キリストです。だれでも、キリストのうちにあるなら、新しく造り変えられます。それは完全無欠な人間に変えられるということではありません。神の目には、イエス・キリストのうちにいる者とされるということです。私たちはイエス・キリストのうちにいなければただの罪人にすぎません。しかし、イエス・キリストのうちにいるなら、私たちの罪が覆われるのです。キリストという義の衣を着せられるからです。イエス・キリストの義の衣を着て、神に再び受け入れられた者となり、本来の姿に造り変えられるのです。それ以外にいかなる理屈を探しても答えは見つかりません。唯一の答えは、イエス・キリストにあります。コロサイ2:3に「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」とありますが、このキリストに知恵と知識の宝がすべて隠されているからです。

 

あなたはどこに知恵を求めていますか。神の知恵はこの方、イエス・キリストにあります。ですから、このキリストを求め、キリストによって新しく造り変えられ、キリストの知恵に生きる者とさせていただきたいと思います。これが私たちの教会の今年の目標です。「キリストにあって歩む」。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)

このキリストにあって歩むお一人お一人の上に、神の知恵と知識が豊かに満ち溢れますようにお祈りします。

知恵ある者と愚かな者 伝道者の書7章1~14節

伝道者の書7章に入ります。伝道者ソロモンは、6章の終わりで、何が人のために良いことなのかを、誰も告げることはできない、と言いました。しかし、この7章では、何が人にとって良いことなのかについて、よいものと、よりよいもの、知恵ある者と愚かな者の対比を用いて語っています。

Ⅰ.死ぬ日は生まれる日にまさる(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。1節には、「名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。」とあります。名声とは、その人の性質であり、評判のことです。また、良い香油とは、高価な香油のことです。つまり、よい評判を得ることは、高価な香油を持つよりもまさっているということです。リビングバイブルでは、「良い評判は、最高級の香水より値打があります。」と訳しています。では良い評判とはどのような評判なのでしょうか。

1節の後半を見てください。ここには、「死ぬ日は生まれた日にまさる。」とあります。ギョッとするような言葉です。私たちは普通命が誕生した時ほど喜ばしい日はないと思っています。ですから、その人の誕生日を記念してHappy Birthday!と祝福するわけですが、ここでは、その生まれた日よりも死ぬ日のほうがまさっているというのです。どういうことでしょうか。「死ぬ日は生まれる日にまさる」とは、生きるよりも死ぬ方が良いという意味ではありません。むしろ、私たちの人生は死によって終わるということをきちんと受け止めることが重要であるということです。ですから、良い評判を得る人とは、人生には終わりがあるということをきちんと認識し、死について真剣に考える人のことなのです。私たちはどちらかというと名声よりも良い香油を求めてしまいます。すなわち、裕福で何不自由のない生活、社会的な地位を得ること、あるいは、教会の奉仕に勤しむことなどです。それらのことが悪いと言っているのではありません。それよりももっと良いものがあると言っているのです。それは何か、それは名声です。良い評判です。あなたの中身の方が大切なのです。あなたが死について真剣に考え、それに備えた生き方をすることの方がずっとまさっているのです。

それは、2節を見てもわかります。2節には、「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」とあります。祝宴に行くよりも、葬式に行くほうがよい、というのです。なぜでしょうか?「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから」です。これは、決して結婚披露宴などどうでも良いということではありません。結婚披露宴も良いものです。イエス様もカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。しかし、それよりもよいのは、喪中の家に行くことです。なぜなら、死について深く考えさせられるからです。人生の終わりが死であることを意識する人は、日々の生活を律し、有意義な地上生涯を送るようになるからです。

私は、いろいろな式に関わることがありますが、正直、お葬式の時が一番考えさせられます。実際、多くの人が聖書の話に真剣に耳を傾け、人生観とか、死生観について考えるのではないでしょうか。その一方で祝宴となると、どんなに聖書の話をしても、ほとんどの人が耳を貸そうとしません。もう冗談を言ったり、茶化したり、受け流したりするわけです。しかし、お葬式になると他人事のように話を聞くということがほとんどありません。死という現実が目の前に突きつけられて、真剣に考えざるを得ないのです。だから、祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよいのです。

3節をご覧ください。「悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。」どういうことでしょうか。尾山令仁先生が訳された創造主訳聖書では、「悲しみは笑いに勝る。悲しみによって、心は良くなる。」と訳されています。つまり、人は悲しみを体験することによって人生の意味について深く考えるようになるということです。そして、生きていることのありがたさを思うようになるということです。

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:3-4)

これは、イエス様が教えられた「至福の教え」です。「至福の教え」といっても、自分の腹を肥やす「私服の教え」ではありません。どのような人が幸いな人なのかという意味の至福の教えです。イエス様はこの中で8つの事を教えておられますが、その一部がこれです。それは、心の貧しい者であり、悲しむ者です。この貧しさとか、悲しみというのは単に物質的な貧しさとか、感情的な悲しみのことではなく霊的な貧しさ、霊的な悲しみのことです。一般に人はこうし貧しさや悲しみを避けようとする傾向がありますが、こうした貧しさや悲しみを体験することによって、人生の意味を考えるようになり、たましいの救いを求めるようになります。また、神を信じる者にとっては、そうした悲しみや苦難の中に神の目的と意味を見出すきっかけとなります。ですから、詩篇の作者は、このように言っています。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのみおしえを喜んでいます。」(詩篇119:71)

アメリカの主婦の方で、メアリー・ネメック・ドーレマスという方がおられますが、彼女はウイルスに冒されてからだが麻痺し、全身が機能不全に陥りました。

彼女は、車いすの生活をしながら、日中は30分おきに薬を飲み、夜間も数回飲むことによって、かろうじて全身麻痺から守られています。しかし、私はいったいどうしてこんな目にあうのかを、神さまに尋ねることはしませんでした。むしろ私は、いつもこういうふうに祈りました。

「神様、私に何をお望みなのでしょうか。私はどこへ行くことになっているのでしょうか。」と。

人生には目的があり、しかるべき時にそれが示されることを知りました。私は理由を知りたいという気持ちを放棄しましたが、この態度は自分にとってとても健康的なことでした。

彼女は、こうした苦しみの中で、その神との関係が深められ、信仰が強められていったのです。まさに、苦しみにあったことはわたしにとって幸せでした。それにより、神のみおしえを学ぶからです。

それに対して、笑いは一時的なものであり、単に時間を浪費するだけの結果で終わってしまいます。 6節には「愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。」とあります。

皆さん、茨を燃やしたことがありますか。茨を燃やすとすぐによく燃えますが、残念なことにすぐに燃え尽きてしまいます。ですから、たとえ鍋の下に置いてもパチパチとはじけるだけで、大した火力とはならないのです。愚か者の笑いも同じです。その時だけです。その時は一時的に元気になったかのように感じてもすぐに元に戻ってしまいます。それは空しいことです。すべての笑いがそうだと言うわけではありませんが、愚か者の笑いはそうなのです。そんな笑いを求めてあくせくするよりも、人生で経験する様々な悲しみ、苦しみから学ぶことのほうがどれほどよいでしょう。

4節をご覧ください。「知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。」

これは2節でも言われてきたことと同じことです。知恵ある者の心は喪中に向きます。なぜなら、彼の人生観は、死を前提として築き上げられているからです。しかし、愚か者の心はそうではありません。死の現実を直視することができないので、楽しい家にしか心が向きません。人生の空しさや虚無感に浸っているよりも、おもしろおかしく生きたほうがましだと思っているからです。そんなことを考えても暗くなるばかりだし、どうせ考えても答えなんか出ないのだから、だったらおもしろおかしくい生きればいいんじゃないかというのです。でも聖書は、こういう人は愚かな人だと言っています。

あなたの心はどこに向いていますか。神の人モーセはこう祈りました。「どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

喪中の家に行くとは、人生には限りがあるということを悟り、その限られている時間の中で、神様から知恵をいただき、また導いていただいて、与えられている一日一日を、一瞬一瞬を大切に生きていくことにほかなりません。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。このことを心に留めて、自分の日を正しく数え、知恵の心を得させていただきたいものです。

Ⅱ.忍耐は、うぬぼれにまさる(5-12)

次に、5~12節までをご覧ください。5節をお読みします。「知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。」

知恵のある者の叱責とは、建設的な批判や助言のことです。そのような声に耳を傾けるなら、その人はより成長し栄誉を得ることになります。しかし、それとは逆に、愚かな者の歌をいくら聞いても何も残るものありません。この愚か者の歌とは何を指しているのかわかりません。ある人は、これは酔っ払いの歌ではないかという人がいますが、それが酔っ払いの歌とようよりも、「知恵の初め」である神様抜きの、人間中心の歌と理解するのが良いと思います。そのような歌は何の益ももたらしません。

7節をご覧ください。「虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす。」どういうことでしょうか。虐げとは、虐待とか辛い出来事のことです。こういうものがあると知恵のある者を狂わせてしまいます。つまり、判断力を失い、愚かにふるまうようになってしまうということです。知恵のある者を狂わせてしまうもう一つのものは、賄賂です。賄賂は人の心を狂わせます。リビングバイブルでは、「わいろは人の判断力を麻痺させる」と訳しています。正しい判断ができなくなってしまうのです。ではどうしたらいいのでしょうか。最初から賄賂を受け取らないことです。政治の世界では贈賄事件があとを断ちません。それは必ず明るみに出ます。ですから、一番良いのは最初からそれを拒否することです。それがまことの知恵なのです。

8節をご覧ください。「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。」「事の終わりは、その始まりにまさり」とは、1節から4節で語られてきたことに通じるところがあります。つまり、事の結果を見るまでは軽はずみに物事の判断をすべきではないということです。人生の終わりとは何ですか。それは死です。その死の結果を見るまでは、その人の人生がどうであったのかを判断することはできません。たとえ生きている間にどれほど裕福であったとしても、真のいのちを損じたら何の意味もありません。イエス様はこのことを、畑が豊作であったあの金持ちのたとえで教えられました。彼は作物が豊作だったとき、自分のたましいにこう言いました。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。そうだ!倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をすべてしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:17-19)

しかし、神は彼にこう言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)

彼の問題はどこにあったのでしょうか。人のいのちが財産にあると思ったことです。けれども、そのいのちが取り去られるとしたら、いったいそこにどんな意味があるというのでしょうか。そのいのちの良し悪しは、事が終わってみないとわからないのです。この地上での生涯は苦労が絶えないものであっても、その生涯の中で救い主イエス・キリストと出会い、天の御国に引き上げられる終わりであるなら、その人の終わりは、その始まりにまさるのです。私は、そのような人を何人も見てきました。たとえその人の生涯がどんなに悲惨なものであったとしても、それが天につながる生き方であるなら、それこそ幸いな一生であったと言えるのではないでしょうか。

ですから、事の結果を見るまでは忍耐すべきで、軽々しく心を苛立たせてはなりません。あなたは心をイラってしていませんか。私たちはちょっとしたことですぐにイライラしてしまいます。それは愚か者の心に宿るものです。でも知恵のある者は違います。知恵のある者の心に宿るのは、忍耐です。「忍耐はうぬぼれにまさる。」とあります。忍耐して後悔することはありませんが、うぬぼれると、高ぶると破滅の一途をたどることになります。箴言16:18には、「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とあります。それは、罪の性質の一つなのです。私たちはうぬぼれではなく、忍耐を身につけましょう。軽々しく心を苛立たせるのではなく、イエス・キリストによって神との平和が与えられていることを感謝し、この平和が心を支配するように祈ろうではありませんか。

心が平和であるために必要なもう一つのことは何かというと、今に感謝し、今を大切に生きることです。10節をご覧ください。ここには、「「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。」とあります。

「昔のほうがよかった」というのは、過去に生きている人の口癖です。昭和の古き良い時代を知っている人は、ついつい言ってしまいます。「昔のほうがよかった」と。しかし、それは過去に生き続けていることです。確かに、昭和の時代の方が良かったなあと思います。私は別に昭和の初期から生きているわけではありませんが、そのように感じることがよくあります。でも、それは知恵によるのではありません。愚問にすぎません。なぜなら、どんなに過去が良くても、私たちは今を生きなければならないからです。であれば、今がいかに困難な状況であっても、この今をどのように生きるかを考えることのほうがもっと重要なのです。もしこのように言うことがあるとしたら、何が問題なのでしょうか。どこに原因があるのでしょうか。それは終わりまで待つことができずイライラしてしまう心と、すぐにそのように判断してしまう思いです。だから伝道者は8節で、「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」と言ったのです。私たちは「待てない」のです。すぐに結果を求めてしまいます。すぐに判断してしまうのです。そんな私たちに聖書は、「あわてない、あわてない。一休み、一休み」と問いかけているようです。事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまるのですから。私たちはすぐに結果を求めるのではなく、事の終わりがどうなのかを見て判断しなければなりません。終わり良ければすべて良し、です。それまでは神の平安の中でじっと忍耐し、神に示されることをコツコツと行っていけばいいのです。大切なのは自分がどう思うのか、どう感じるのかではなく、永遠に変わらない神のことばである聖書が何と言っているのかであり、そのみことばに堅く立ち続けることです。

11節と12節をご覧ください。「資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」

「資産を伴う知恵は良い」とはどういう意味でしょうか。新共同訳では、「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。」と訳しています。創造主訳聖書では、「知恵は、相続財産のように価値がある。いやそれ以上に、人々に有益だ。」と訳しています。ここでは10節の「知恵によるのではない」にかけて、知恵をたたえているのです。それは遺産に劣らず価値があり、いや、それ以上に人々にとって有益であるということです。

なぜでしょうか。その理由が12節にあります。それは、金銭と同様に人を守ってくれるからです。「陰」というのはそういうことですね。金銭は、たとえば病気をしたり、災害にあったりした時にとても役に立ちます。そういう意味で守ってくれるわけです。「金銭の陰にいるようだ」というそういう意味です。それと同じように、知恵はその人を道徳的堕落から守ってくれます。いや、知恵はその持ち主を生かすという点でもってすぐれています。考えてみるとそうですよね。どんなに資産があっても、どんなに金銭があっても、それが人を生かすことにはなりません。むしろ、その人をダメにしてしまうことさえあります。しかし、そこに知恵が伴うことによってそうした資産や金銭が生かされるだけでなく、ひいてはその人自身を生かすことになります。そういう点で、知恵は金銭よりもさらにまさっていると言えるのです。

皆さん、私たちにはこの知恵が与えられています。コロサイ2:3には「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されています。」とあります。どこに知恵と知識の宝が隠されているのですか。「このキリストのうちに」です。神の恵みによってキリストを信じ、キリストのうちにある者とされた私たちは、この知恵と知識が与えられているのです。それは金よりも、純金よりも慕わしいものです。それなのにどうしてあなたは金がないと嘆くのでしょうか。私たちには金よりももっとすぐれた知恵と知識が与えられていることを覚え、日々感謝と喜びをもってキリストに聞き従う者でありたいと思うのです。

Ⅲ.順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(13-14)

最後に、13節と14節を見て終わりたいと思います。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」

それゆえ、伝道者はこのように勧めるのです。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。」神のみわざを、だれも変更することはできません。起こったことは受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのです。それが知恵のある人です。

でも、私たちの人生には順境の日ばかりではなく、逆境の日もありますね。そういう時にはどうしたらよいのでしょうか。ここには、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ。」とあります。新改訳聖書第三版では、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」となっています。私はこちらの訳のほうが好きですね。順境の日には喜び、逆境の時には反省すればいいのです。なぜなら、「順境」も「逆境」も共に神がお与えになるからです。どうせなら「順境の日」ばかりだといいのですが、そういうわけにはいきません。私たちの人生には「順境の日」も、「逆境の日」もあります。どうして神様は順境の日ばかり与えてくれないのでしょうか。それは、もし順境の日ばかりなら、人は反省することを忘れて高慢になり、神をないがしろにするからです。逆に、逆境の日ばかりならば、人は喜びと希望を失い失意に沈み込んで、神を忘れてしまうでしょう。ですから神は、私たちの人生に順境の時と逆境の時をバランスよく与えてくださり、すべての主権が神にあることを教え、神に信頼することを求めておられるのです。

順境の日と逆境の日、あなたは今、どちらの日を迎えていますか。順境の日には喜び、逆境の日なら反省しましょう。それがどちらであっても、それも神のみわざであることを思い、神の主権を認め、神に信頼したいと思うのです。

過去の偉人たちも挫折を乗り越えて成功に導かれています。エイブラハム・リンカーンは小学校を中退し、若いときには、ピジネスのトラブルにより無職になります。恋人が病気で亡くなると鬱になり、州議会、上院、下院選挙に立候補するも計8回落選しました。しかし、最後に彼は大統領になりました。51歳の時です。

彼は、このような言葉を残しています。「転んでしまったことなど気にする必要はない。そこからどうやって立ち上がるかが大事なのだ。」まさに、逆境の日には反省せよ、ですね。彼がそのようにして立ち上がることができたのは、彼が神に信頼し、聖書を通して神の知恵に生きていたからです。

発明王として有名なトーマス・エジソンは、若いころ「生産性がなさすぎる」という理由で解雇されました。電球の発明のために失敗を繰り返しますが、「千回の失敗をしたのではなく、千回のステップを経て電球の発明ができた」と語ったそうです。

ウォルト・ディズニーといえば、今では知らない人はいません。しかし、彼は若いころ、新聞社を解雇されましたが、「彼は想像力に欠け、良い発想は全くなかった」と言われていました。彼は、ディズニーランドを建てる前に何度も倒産を経験しています。

偉人たちの生涯をみると、大きな働きをする人ほど、周りに理解されず辛い日々を過ごしていたように思います。しかし、周囲の評価に左右されない信念を持っていたことが分かります。

イスラエルには砂漠の花園と呼ばれる地域があります。普段は砂漠で全く何もないような所ですが、いったん雨が降ると、一週間後には一面の花園が出現します。雨が降らなければ、2年でも3年でも花を咲かせるために待機するのです。私たちの人生にも砂漠の時、逆境の時があります。けれども、時がくれば、必ずや神様が花を咲かせてくださいます。大切なのは、その逆境の時をどのように過ごすのかということです。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。どんな日でも共にいてくださる神様に目を留め、神のみわざに期待しながら、神のみことばに学び、根を深く張っていきたいと思います。それが聖書の言う、知恵のある者の生き方なのです。

大きな喜びの知らせ ルカ2:8-12

2020年12月20日(日)クリスマス礼拝メッセージ

聖書:ルカ2:8-12(新約P110)

タイトル:「大きな喜びの知らせ」

 

 主の年2020年のクリスマスを迎えました。おめでとうございます。聖書には、イエス・キリスト誕生という驚くべきニュースが最初に伝えられたのは、ユダヤの田舎のベツレヘムという町で、羊を飼っていた羊飼いたちのところでした。彼らが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていると、突然、主の使いが彼らのところに来て、こう告げたのです。

 

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカ2:10-12)

 

 どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。救い主が生まれたからといって、彼らの人生が劇的に変わるわけではありません。救い主が生まれようが生まれまいが、彼らは依然として羊飼いを続けていかなければなりません。いったいなぜこれが喜びの知らせなのでしょうか。 きょうは、その三つの理由を見ていきたいと思います。かなわち、第一に、キリストはダビデの町でお生まれになられたということ、第二に、キリストは飼い葉桶に寝かせられたということ、そして第三に、あなたの救い主としてお生まれになられたということです。

 

 Ⅰ.ダビデの町で生まれた救い主(11)

 

 まず、11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。

キリストは、どこで生まれのでしょうか。ダビデの町です。ダビデの町とは、ユダヤのベツレヘムという小さな町です。実は、旧約聖書においては、「ダビデの町」はいずれもエルサレムでした。Ⅱサムエル5:7には、「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である」とあります。「シオン」とは「エルサレム」のことです。ですから、ダビデの町というのはエルサレムのことなのです。それなのに、ここには「ベツレヘム」とあります。どうしてルカはベツレヘムをダビデの町と言ったのでしょうか。それは、このベツレヘムこそダビデが生まれた出身地であったからです。Ⅰサムエル記17:11をご覧ください。ここには「 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。」とあります。元々、ダビデとはダビデの出身地のベツレヘムでしたが、ダビデがエルサレムを攻め取ったとき、そこをイスラエルの政治的、宗教的な中心地としたことから、これをダビデの町と呼ぶことにしたのです。しかし、ルカはそうではなく、ベツレヘムであることを強調しました。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが生まれるのはペレツへ無でなければならなかったからです。旧約聖書にそのように預言されていたました。ミカ書5:2を開いてください。ここには「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)」とあります。

 これは、キリストが生まれる約700年前に預言されたものですが、ここには、イスラエルの支配者となる者が、ベツレヘムから出ると預言されてありました。イスラエルの支配者とはイスラエルを治める者のことですが、それはユダ族のベツレヘムという小さな町から出ると言われていたのです。それはダビデの家系につながる方ですが、ダビデ王とは違いダビデの家系から将来出てくる支配者のことです。つまり、キリストはエルサレムではなくベツレヘムから生まれるという預言だったのです。それは、昔から、永遠の昔から定めでした。キリストはそのとおりにお生まれになられたのです。ということはどういうことかと申しますと、この方こそ間違いない救い主であるということです。

 

 まさか偶然でしょう、と思われる方もいるかもしれません。しかしこれは偶然ではありません。もしこの預言だけが的中したというのなら、あるいは偶然だと言えるかもしれません。しかし、キリストに関する預言の成就はここだけでなく、聖書の至るところに見ることができます。たとえば、キリストの誕生に関して言うなら、皆さんもご存知のように処女から生まれると預言されていましたが、その通りになりました。イザヤ書7:14です。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」有名な「インマヌエル」預言です。この預言のとおりに、キリストは処女マリヤからお生まれになられました。

そればかりではありません。イザヤ書9:6~7には、この方がどのような方であるかも預言されてありました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。やがて来られるみどりごは、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。その方はダビデ王のように王座に就きますが、ただの王座ではなくとこしえの王座です。その王座に就いて、王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支えるのです。だれがこんなことができるでしょう。だれもできません。しかし、神はおできになります。万軍の主の熱心がこれをするのです。その方はだれでしょう。そうです、神の子イエス・キリストです。

 

 このように、キリストに関する預言は旧約聖書の中にたくさんあります。直接的な預言だけで少なくても300以上あります。間接的なものも含めると、実に400以上あります。そのすべての預言が成就したのは、この人類の歴史上、イエス・キリスト以外にはおられません。イエス・キリストこそ、永遠の昔から、神が定めておられた救い主なのです。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

 

皆さんはあまり見たことがないと思いますが、1万円札の肖像となっている人物が誰だかわかりますか?そうです、福沢諭吉です。慶応義塾大学の創設者ですね。彼は、私たちが思っている以上に聖書の影響を受けていました。自分の子どもたちに、日々の教えという人生訓を書き残しましたが、そこには、天地万物を造られた神を敬うようにと書いていました。

それはともかく、彼が生まれたのは大阪にあった中津藩の蔵屋敷でした。彼の活躍を称えて、大阪の中津藩蔵屋敷があったところには福沢諭吉誕生の地という石碑が建っています。

偉大な生涯を歩んだ人の誕生を記念する、というのはよくありますが、約束通りに生まれたことを確認し、それを喜ぶためにお祝いするというようなことは聞いたことがありません。けれども、キリストは旧約聖書に約束された通りに生まれ、その通りの生涯を歩まれました。偉大な生涯を歩んだためにその人の誕生を記念する、というのではなく、約束通りに生まれたことを確認し、喜ぶためにお祝いするのがクリスマスなのです。

 

 Ⅱ.飼い葉桶に寝ているみどりご(12)

 

 第二のことは、キリストは飼い葉桶で生まれたということです。12節に、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりごを見つけます。」とあります。飼い葉桶で生まれたことが、どうして大きな喜びなのでしょうか。

 

皆さんは、飼い葉桶という言葉を聞くと、家畜小屋に置かれた家畜のえさを入れる箱を思い浮かべるかと思いますが、当時の飼い葉桶は、桶といっても大きな石や岩に細い溝が掘られただけのものでした。そこに動物のエサになる藁が敷かれてあったのです。その上にキリストは寝かされました。また、飼い葉桶があったということは、そこが家畜小屋であったことを意味していますが、当時の家畜小屋も私たちが想像しているような木で作られた小屋ではなく、一般に洞穴を掘って作られただけのものでした。その中に家畜を入れていたのです。キリストが生まれたのはそのような所でした。それがどうして喜びなのでしょうか。最悪じゃないですか。皆さんに待望の赤ちゃんが生まれたら、そんなところに寝かせるでしょうか。だれでも暖かくて柔らかいベッドに寝かせたいと思うでしょう。それなのに、キリストは冷たくて堅い、しかも汚いベッドに寝かせられました。ベッドじゃありません。エサ置きですよ。キリストはそんなところで生まれてくださったのです。どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。ここには、「それが、あなたがたのためのしるしです。」とあります。これは羊飼いたちにとってのしるしだったのです。どんなしるしだったのでしょうか。

 

第一に、それはだれでも、どんな人でもこの方の許に行くことができるというしるしです。もしイエス様が王宮のような所で生まれたなら、羊飼いたちは行くことかできなかったでしょう。そこに行くことができるのは本当に限られた人だけです。しかしイエス様は飼い葉桶に寝かせられました。ですから、社会的に最も低い職業であると思われていた羊飼いでも、行くことができました。どんなに汚れた人でも、どんなにみじめな人でも、どんなに貧しい人でも、どんなに孤独な人でも、どんなに問題を抱えている人でも行くことができたのです。

 

昨日は、スーパーキッズのクリスマスがありまして、「したきりすずめのクリスマス」を劇でやりました。そこには、欲張りなばあさんや人を殺した罪人をはじめ、自分は正しいと思っていたじいさんなど、いろいろな人物が登場するのですが、イエス様はそのすべての人の罪を負って十字架にかかり、死んでくださいました。だからこそ、すべての人の悩み、すべての人の苦しみ、すべての人のも問題を解決することができるのです。へブル2:10には「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者(イエス様)を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」とあります。それはイエス様にふさわしいことでした。多くの子たちを栄光に導くために、キリストは多くの苦しみを通られたのです。もしキリストがこうした苦しみや痛みを通らなかったら、そのような人たちを十分理解することも、助けることもできなかったでしょう。けれども、キリストは飼い葉桶で生まれてくださいました。それは、そのような境遇の中いるすべての人々を助け、救うことができるためです。

 

キリストが飼い葉桶に寝かせられたことのしるしの第二は、そのことによってイエス様がどのようなお方であるのかを示していました。先ほど、当時の家畜小屋は天然の洞窟を掘って作られたものであると申し上げましたが、これらの洞穴にはもう一つの使い道がありました。何だと思いますか。そうです、お墓です。当時ユダヤ人は遺体を布に包んで天然の洞穴の中に安置しました。イエス様が葬られたのもこのようなお墓でした。ですから、その入口に大きな石が置かれてあったのです。そして、ここでは赤ん坊のイエス様が布に包まれて天然の洞穴に寝かされていました。それは当時の人々の目には墓場に置かれた遺体を連想させるものでした。どうしてこれが喜ばしい知らせなのでしょうか。キリストは人々から喝采を受けるためではなく、人々の罪を背負い、十字架にかかって死ぬために来られたということを示していたからです。このことによって、いかなる罪人も赦されるという道が開かれたのです。

 

ここに、神様の愛が表されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

また、マルコ10:45には、「人の子(イエス様)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」とあります。

イエス様が来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるため、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだったのです。この全宇宙の創造主であられる方が人の姿を取ってこの世に来てくださったというだけでも奇跡なのに、そればかりか、私たちを救うために十字架にかかって死んでくださいました。これこそクリスマスの奇跡です。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

 

Ⅲ. あなたのための救い主(11)

 

第三のことは、キリストはあなたの救い主として生まれてくださったということです。11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。この方は、あなたのために救い主として生まれてくださいました。

 

先日NHKの番組で「サードマン現象」を扱うものを見ました。「サードマン」というのは「第三の人」という意味です。実はこの世界には崩壊するビルの中から一人脱出できたり、深海の洞窟の中で命綱を失ったのに戻って来ることが出来たり、宇宙空間でトラブル続きのステーションで落ち着きを与えられたりして、九死に一生を得た人々が沢山いらっしゃいます。彼らは皆、異口同音に「ピンチの時、誰かの声に導かれて平安を取り戻し、すべきことが分かり、正しい選択を奇跡的に積み重ねて脱出することが出来た」と証言しています。この声を彼らにかけた存在をサードマン、第三の人と呼んでいるのです。 それは、私たちの人生においても言えることで、私たちが絶体絶命のピンチに陥った時、このような存在がいたら、どれほど大きな助けとなることでしょう。この助けこそ、あなたのために生まれてくださったキリストです。キリストは、単にピンチの時に助けというだけでなく、私たち人間の本質的な問題である罪を解決し、その罪から救ってくださるためにこの世に来てくださいました。これこそ、私たちにとっての真の希望です。

 

今は「イベントオリエンテッド」の時代であると言われています。これは、人々は、何か楽しみをもたらすできごとやイベントがあってはじめて喜びを感じることができる、というものです。そしてそれが過ぎ去ってしまうと、急に虚しさがやって来るのです。「イベント」やお金の多い少ないといった外側のものに喜びの基礎があるなら、ジェットコースターのように喜んだかと思ったら次の瞬間には落ち込んでしまうことの繰り返しになります。しかし、キリストが与える喜びは罪の赦しによってもたらされる神との平和であり、神がいつも私とともにいて、私を支えてくださるという喜びです。それは永続的なものですから、いつでも喜びで満たされていることができます。のどが渇けば水を飲めば潤されますが、また渇きます。しかし、キリストが与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがなく、その人の中で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでるのです。

 

2018年のノーベル医学・生理学賞を受賞したのは、京都大学の本庶佑教授でした。薬物療法、手術治療、放射線治療に続く第4の手法として免疫療法を確立した功績が評価されたのです。彼の発見はガン免疫治療薬オプジーボの開発に繋がりました。この薬でガンを克服できた方がインタビューに答えて「命の恩人です。感謝し尽くせません。」と言っていました。その気持ちがよくわかります。しかし、キリストはそれ以上です。なぜなら、キリストは肉体だけでなく、永遠のいのちの恩人だからです。

 

2015年に同じ分野でノーベル賞を受賞した大村智教授も、メクチザンという薬の開発に貢献しました。この薬は、河川盲目症に対する特効薬です。この病気はアフリカ、中南米の熱帯地域に蔓延していて、毎年1800万人が感染、そのうち約27万人が失明し、50万人が視覚障害になってしまうという恐ろしい感染症でした。ところがこの薬を飲むと一回で完全にその感染症を防ぐことができるのです。

大村さんと製薬会社は、この薬を感染地域の人々にプレゼントし、当時は3億人の人々を失明の危機から救ったと言われています。この大村さんがアフリカのガーナに行き、子どもたちとお話をしたことがありました。ジャパンとかトウキョウと言っても、誰も知らないそうですが、でもメクチザンという薬の名前を出すと、みんな「知ってる!」と言うのです。通訳の人が「この人がメクチザンを造った先生です。」と紹介するとひときわ高く、歓声が上がり「メクチザン、メクチザン」と口々にはやし立てました。子どもたちの喜ぶ顔が目に浮かぶようですね。人類の命を守る働きに貢献した人を称え、記念に覚えることは当然のことでしょう。しかしここに、肉体のいのちだけでなく、霊的ないのち、肉体は朽ちても永遠に生きる真のいのちを人類にもたらした方がおられます。それがイエス・キリストです。

 

あなたは、この喜びを受け取られたでしょうか。多くの人にとって自分の主人は自分自身です。あなたのために生まれてくださったのに、多くの人たちは「いらないよ」とか、「No, Thank you」と言うのです。しかし自分を超えた本物の救い主を信じ、この方にあなたの人生の舵取りをしていただくなら、あなたもこの喜びを得ることができます。

 

10節には、「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」とあります。私たちにもいろいろな恐れと不安があります。孤独だという方もおられるでしょう。まさに一寸先は闇です。しかし、この世がどんなに暗くても恐れることはありません。きょう、ダビデの町であなたのために救い主がお生まれになりました。この方が主キリストです。この方はあなたの心の闇を照らすまことの光です。どうぞこの方をあなたの救い主として心に迎えてください。また、既にこの方を信じておられる方は、あなたの人生の舵取りをしてくださる主としてください。あなたの心が家畜小屋のようにどんなに汚れていても、また、どんなに酷い状態であっても、キリストあなたの心に喜びを与えてくださいます。クリスマスの奇跡は2000年前のことだけではなく、今もあなたに起こる大きな喜びの知らせなのです。

 

心を一つにして ローマ人への手紙15章1~6節

2020年12月13日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙15章1~6節

タイトル:「心を一つにして」

 

 きょうは、「心を一つにして」という題でお話したいと思います。今、読んでいただいた箇所は、14章の続きです。14章でパウロは、信仰の弱い人を受け入れるようにと命じました。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。弱い人は、クリスチャンになってもまだ旧約聖書の律法に縛られていたので、食べてはならないと信じていたのです。しかし、キリストの福音によってそうした律法から解放されたと信じていたクリスチャンは、信仰が強い人と呼ばれていましたが、何でも食べても良いと信じていました。そして、そのようにまだ律法に縛られている弱い人たちをさばいていたのです。そこでパウロは、互いにさばき合うことがないように、いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい、と勧めたのです。

 

きょうのところでは、そうしたパウロの願いは祈りになって溢れています。5,6節をご覧ください。ここには、「どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。」とあります。

「互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」とか、「そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえるように。」と、そのように意見の違い、考え方が違っても、その中にあって互いに同じ思いを持つとか、心を一つにして神をほめたたえることができるようにと祈っているのです。教会が一つになるということは、きわめて重要な問題です。それは教会がキリストのからだであり、神の家族だからです。からだの各器官が、「自分はそう思わない、それはおかしい、だから自分は関係ない」と言ったら成り立つでしょうか。成り立ちません。分裂してしまいます。それは家族も同じです。それぞれ違いがあっても互いに同じ思いを抱き、心を一つにすることで成り立っているのであって、そうでなかったら成り立ちません。

 

このローマ人への手紙は、大きく分けると二つに分けられるとお話ししました。すなわち、1~11章の教理の部分と12章から終わりまでの実践の部分です。その実践の勧めの締めくくりとなる部分が、この箇所です。

きょうは、この教会の一致について三つポイントでお話したいと思います。第一のことは、信仰の強い人は、弱い人の弱さを担うべきであるということです。第二のことは、それが可能になるのは、聖書が与える忍耐と励ましによってであるということ。第三のことは、その目的です。教会が一致するのはどうしてなのでしょうか?それは神の栄光のためです。心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえられるためなのです。

 

 Ⅰ.弱さを担う(1-3)

 

 第一に、力のある人は、力のない人たちの弱さをになうべきです。1~3節をご覧ください。「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。」

 

 1節の「力のある者」とは、14章で言われていた「信仰の強い人」のことです。このような人たちは旧約聖書の律法から完全に解放されていると信じていた人たちで、キリストの恵みによって自由にされていました。ですから、食べ物についても律法の規定にある汚れたものとか汚れていないものといった規定にとらわれることなく、何でも食べていました。

 

一方、「力のない人たちと」は、信仰の弱い人たち」のことで、彼らはとてもナイーブな人たちで、食べ物や日に関する旧約聖書(律法)の規定からなかなか抜け切れていないでいました。こういう人たちは、イエス様を信じても、なおそうした律法の規定を守らないと救われないのではないか考えていたのです。そして、何でも食べている人たちを見て、つまずいてしまうことがあったのです。ここでパウロは、「私たち力のある者は」と言っていますから、パウロ自身は力のある者たちに属していると思っていたことがわかりますが、そのように力のある者はどうすべきなのかを、その使命について語るのです。それは、「力のない人たちの弱さをになうべき」であるということです。この「担う」ということばは、「自分のものとして受け入れる」という意味があります。弱い人の弱さを自分の弱さと思って背負うことです。神様が私たちを強くしてくださったのは、弱い者の弱さを担わせるためだったのです。

 

その良い模範がイエス様です。パウロはここで、イエス様がどのように私たちの弱さを担ってくださったのかを述べています。3節です。「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。」

イエス様は強い方として、私たちの弱さを担ってくださいました。イエス様はご自分を喜ばせることをなさらず、私たちの弱さを担われたのです。それが「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。」という意味です。イザヤ書53章4節には、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」とあり、続く6節には、「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」と、主の苦難を解釈しています。イエス様はまず、ご自分の体をもって弱さを担うということがどういうことなのかを示してくださいました。それは、私たちが担うべきものを担われ、私たちの悲しみを代わりに背負ってくださるということです。そして、私たちのすべての罪を引き受けられたのです。これこそ、強い者が果たすべき使命です。このように私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきです。

 

 皆さんの中には、「私は健康だけが取り柄です」という方がおられると思います。なぜ神様はその健康を下さったのでしょうか?それは、健康でない人の弱さを担うためです。たくさんの物質的祝福を受けている肩もおられるでしょう。それは、贅沢をするためではなく、それによって人々を助けるためです。信仰の賜物もそうです。それは賜物ですから、賜物とは、神様からのプレゼントですよね。それはそれを誇るためではなく、その賜物をもって互いに仕え合うためです。これが力のある者に与えられている使命なのです。中には、隣人を喜ばせるために自分の喜びを犠牲にしなければならないのなら、信仰生活ほどつまらないものはないと考える人がいますが、そうではありません。というのは、私たちの喜びは与えることによってもたらされるからです。ルカ6:38に「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」とあります。人を図る量りで、自分も量り返してもらえるのです。

 

 皆さんの中で時間に余裕のある方がいますか?その時間をむなしく過ごさないでください。神様の御国の拡大のために、その時間が与えられていることを、肝に命じにければなりません。先週、80過ぎの姉妹を訪ねて訪問しました。十数年前に骨盤を悪くしてから車いすの生活になり、自宅での生活でも大変なのに、ご主人も脳梗塞で2回入院し、そのご主人の介護もしなければならないという状況の中でも、「私は本当に感謝しているんです。大変になったらイエス様って呼ぶことができるし、いつもイエス様と一緒にいられるから・・」「よく80、90になって何もすることがないという人がいるけれども、それは間違い!祈ることができる!80、90になったからできることがあるんです。先生。」と言われて、「アーメン」と言いました。私などは毎日走り回っていますから、あまり祈る時間が取れないんですけれども、80、90になったからできることがあるんですね。ゆっくり祈ることができます。

 皆さんの中で賛美の賜物のある方がいますか?その方は賛美を通して神の栄光を現し、福音伝道に用いてください。ある方は、人並み以上の頭脳を持っておられる方がいます。その頭脳で神様の働きをなさってください。

 夫を誇り、妻を誇り、子供を誇っている方がおられますか。そのような方は、神様が下さったその祝福をもって、神様の御国のために用いてください。私たちに与えられた祝福は、すべて神が私たちに与えてくださった使命を成し遂げるために神から与えられた賜物なのです。そのような方に、神様は想像を絶する祝福をもって報いてくださいます。

 

 Ⅱ.聖書の与える忍耐と励ましによって(4-5)

 

 第二のことは、いったいどうしたらそのように力のない人たちの弱さを担うことができるのかということです。4,5節をご覧ください。「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」

 

 「かつて書かれたものは」とは、旧約聖書のことです。パウロは、キリストについて預言された旧約聖書(詩篇)から引用すると、その聖書の効用について教えています。つまり、聖書は私たちに忍耐と励ましを与え、希望をもたらしてくれるということです。皆さん、いったい私たちは何のために聖書を読むのでしょうか?そこに書かれてあることによって忍耐と励ましをいただき、希望を持つためです。

 

 一人の姉妹が相談に来られました。フィリピンにいる夫のおじいちゃんが、奥様の介護に疲れて自殺したことで、夫は、おじいちゃんは自殺をしたから地獄に行ったと嘆いているのですが、どうなのでしょうか?おじいちゃんは信仰に熱心で、イエス様を心から愛していたのですが・・・。皆さんだったら何と答えるでしょうか。

とても難しい繊細な問題です。人の永遠のいのちに関して私たちは自分の思い付きで答えることは控えるべきです。でも、聖書に何と書かれてあるのかを知り、自分の信仰の確信を持つべきです。私は、このみことばを開いてお話ししまた。

一つは、イザヤ書43:1~4のみことばです。「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」

だれでも、救い主イエス・キリストを信じた人は、神のイスラエル、ヤコブです。そのイスラエルに対して言われたことばがこれなのです。それは、どんなことがあっても、あなたを離れず、あなたを見捨てないということです。たとえ、火の中、水の中です。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡る時も、あなたは押し流されず、火の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なるもの、あなたの救い主であるからだ。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛していると、言われる主がそのように言われるのです。それは、あなたがどのように思うおうと、どのように感じようと、関係ありません。神のことばである聖書がそのように約束しておられるのです。確かに、自分のいのちを断つことは赦されないことです。しかし、その罪のためにイエス様が身代わりとして死んでくださいました。その主はいつまでも、どこにでもともにいてくださるのです。

 

もう一つのみことばは、ヨハネ10:28~29のみことばです。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」

これは、イエス様を信じ、イエス様について来る人に対して、イエス様が言われたことばです。イエス様はご自身を信じた人に対して、永遠のいのちを与えます、と約束してくださいました。そればかりか、そのように信じた人たちは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも、何も、彼らをイエス様の手から奪い去ることはできません。どんなことがあっても、キリスト・イエスにある神の愛から離れることはないのです。じゃ、信じてから信仰から離れてしまう場合はどうですか。たとえ信仰から離れてしまうことがあっても、本当にイエス様を信じたなら、その人は必ずイエス様の元に戻って来ます。もし、戻って来ないなら、そういう人は最初から信じていなかったということです。あのイスカリオテのユダがそうでした。彼はイエス様の12弟子の一人でしたが、最後はイエス様を裏切って首を吊って死にましたが、最後まで悔い改めませんでした。信じていなかったからです。信じていれなら必ず主のもとに戻ってきます。信じている人は、どんなことがあっても永遠のいのちを奪い取られることはありません。重要なのは罪を犯したかどうかということではなく、救い主イエス様を信じていたかどうかです。イエス様を信じる人はみな救われます。どんなことがあっても見離されたり、見捨てられたりすることはありません。

 

その姉妹が帰宅後、メールをくださいました。「私もやはり相談して良かったです!!お祈りできなくなってから、礼拝に出ながらも、どこかモヤモヤしていました。両手を広げて歓迎してくださるイエス様を今感じることが出来ています!正直、不思議な感覚と同時に、とても尊くありがたいお方だと、身にしみています!本当にありがとうございました。」彼女は、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けることができたのです。

 

 この「忍耐」という言葉は、ただじっと耐えているという意味ではありません。これは、解決する力をもっている神が、その解決をもたらしてくれることを期待して待つことを意味します。その忍耐を与えてくれるのが聖書のみことばなのです。また、弱っている人が慰められ、励まされて、力付けられるには、その人の傍らにいて励ますことが必要です。何もしなくても、ただ一緒にいてくれる、傍らにいてくれるということが大きな慰めであり、励ましです。何も言わなくてもいいのです。何も言わなくても、共にいることが励ましなのです。その慰めと励ましを与えてくださる神が、聖書のみことばを通して働いてくださるのです。

 

  弱い人にとって必要なのは希望を持つことです。その希望はどこから来るのでしょうか?聖書です。聖書が与える忍耐と励ましによって、希望を抱くことができます。ですから、5節には「どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」とあるのです。

 

 皆さん、私たちの人生には苦しみや悲しみがたくさんあります。しかし、そのような中で私たちが経験するのは、神様が忍耐と励ましを与えてくださるということです。そのことを誰よりも経験したのはこのパウロ自身でしょう。彼はキリストを信じ、キリストの福音を宣べ伝えたことで、石で打たれたり、牢屋に入れられたり、鞭で叩かれたり、盗賊の難、同族の難、難破の難など、あらゆる困難に遭いましたが、そうした困難の中で、彼は神様が忍耐と励ましの神であることを深く知りました。どんな状況の中でも、神は志を立てさせ、事を行わせてくださることを知ったのです。

 

 私たちも同じなのです。私たちの人生にも困難があります。自分自身の弱さ、仕事のこと、家庭のこと、周りの人々との人間関係など、たくさんあります。それらの問題は絶えることがないでしょう。しかしながら、忍耐と励ましの神が私たちを励ましてくださり、希望を持つことができるようにしてくださいます。教会においても、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださるのです。

 

 Ⅲ.神の栄光のため(6)

 

  第三に、その目的です。強い者が弱い者を受け入れ、互いに同じ思いを抱くようになるのはどうしてなのでしょうか。それは神の栄光のためです。6節をご覧ください。「そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。」第三版では、「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」となっています。こちらの方が正しいです。すなわち、それは、私たちが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。

 

 皆さん、私たちは何ために互いに同じ思いを持ち、心を一つにし、志を一つにするのでしょうか?それは私たちが声を合わせて神をほめたたえるためです。私は自分で説教している間に、いつの間にかそれが祈りになっているということがありますが、パウロもここで、いつの間にか祈りになっているのです。いや、祈らざるを得なかったのでしょう。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

 

 パウロの祈りは、教会が一つになることです。いろいろな人がいてもいい、いろいろな考えを持っていても構いません。しかし、根本的には同じ思いを持ち、心を一つにして、声を合わせて、神をほめたたえ、神を証しするような、そういう教会になってほしいという願いがあったのです。それは神のみこころです。それが祈りになったのです。

 

 それは、イエス様の祈りでもありました。ヨハネ17:21には、「父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」とあります。イエス様は十字架を前にして、弟子たちに最後の説教をされると、目を天に向けて祈られました。まずご自分のために祈られ、次に、弟子たちのために祈られると、最後に、すべてのクリスチャンのためにこのように祈られたのです。わたしと父とが一つであるように、教会がイエス様と一つになるように。そして、キリストのからだを構成しているクリスチャン一人一人が一つになるようにと祈られたのです。それは、このことによって、神様がいらっしゃるということ、そして、イエス様が神から遣わされた救い主であるということを、この世が信じるためです。信じて永遠のいのちをいただき、そうして、父なる神様の栄光が現されるためです。教会が一つであるということは、それほど力があることなのです。

 

 ところで、この「心を一つにして」ということばですが、これはローマ人への手紙の中にはここにしか使われていないことばです。しかし、このことばは実は、使徒の働きの中には何回も何回も出てくることばなのです。そして、この「心を一つにして」ということばが出てきた時に、そこに驚くべき神様のみわざが行われ、教会が著しく進展していったことが記録されています。たとえば、使徒2:46~47には、「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。彼らが心を一つにして、毎日宮に集まり、家々で喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していたとき、すべての民に好意を持たれ、毎日救われる人々が仲間として加えられていったのです。

また、使徒4:24~32には、ペテロとヨハネが生まれながらの足なえをいやしたことでユダヤ教当局に捕らえられますが、どんなに彼らに脅され、イエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと言われても、二人は「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うことの方が、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たり聞いたりしたことを話さないわけにはいきません」と言うと、彼らは二人を釈放しないわけにはいきませんでした。釈放されたペテロとヨハネが仲間のところに行って、祭司長たちや長老たちから言われたことを残らず報告すると、それを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって祈りました。「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(使徒4:31)のです。

また5:12~14には「さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」とあります。ほか人々は、だれもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、そうした人々でも、彼らを尊敬していたのです。彼らが心を一つにして祈り、心を一つにして神をほめたたえるときに、そこにものすごい神の力と栄光が現されるようになるのです。

 

 教会に初めて来られた方に「きょうの礼拝はいかがでしたか?」と尋ねてみると、ほとんどの人がこのように言われます。「こじんまりとした温かい雰囲気で良かったです!また来たいと思います。」そこかよ思いますが、そこなんです。「いや、今日の説教から教えられた」というのはあまりありません。そのように言うのは、しばらくしてからです。最初は教会の雰囲気だとか、人々の表情とか振る舞いとかです。優しく、親切な振る舞いに感動したとか、そういうところです。

以前、塩釜聖書バプテスト教会の大友幸一先生が大田原の礼拝に来てお話ししてくださったことがありましたが、先生のプロフィールを見ていたら、小さい頃からの夢だった造船会社に入り、そこで設計の仕事に携わるようになりましたが、仕事には満足していましたが、心の底からの満足が得られないでいたとき、電柱に貼ってあったキリスト教会の集会案内を見て教会に行かれたそうです。その時のことをこう書いておられます。「初めての聖書の話は全然わからなかったが、そこに温かいものを感じて、そして教会に通うようになり、イエス・キリストを救い主として受け入れた」。

やはり、温かいものです。言い換えると、教会にこの温かさがないと続かないということになります。では、この温かいものはどこから生まれてくるのでしょうか?ここに、「心を一つにして、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえるように」とあります。ここから生まれてくるのです。

 

 使徒の働き13章の出来事は、パウロにとって忘れることができない事だったでしょう。1~3節です。「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。」

 

 パウロはその時アンテオケ教会で奉仕していました。バルナバがパウロを引き出してくれました。バルナバという名前は「慰めの子」という意味ですが、その名のごとく傷ついた人を慰め、励ます賜物がありました。かつてバリバリのパリサイ人で、クリスチャンを迫害していたパウロを信用し受け入れるクリスチャンが少ない中で教会から信頼されていたバルナバは、このアンテオケ教会の建て上げのために彼を連れてきたのです。そこにはいろいろな人たちがいました。まず「ニゲルと呼ばれるシメオン」です。「ニゲル」というのは現在のニグロのことで、肌の色が黒かったことを表しています。おそらく、アフリカ系の黒人だったのでしょう。それから「クレネ人ルキオ」です。使徒の働き11章20節をみると、この人たちはステパノの迫害のことでフェニキア、キプロス、アンテオケと進んできましたが、それまではユダヤ人以外にはだれにもみことばを語らなかったものの、このアンテオケに来てからギリシャ人にも語りかけたので、ギリシャ人をはじめ多くの異邦人も主に立ち返りました。キリストの弟子たちが、このアンテオケで初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったのは、彼らの影響が大きかったことでしょう。その他、国王ヘロデの乳兄弟でマナエンという人もいました。これはヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスと同じ宮殿で育てられたという意味です。今でいうと皇族の一人といった感じです。かなり高い身分の出身でした。そういう人たちがいたのです。しかし、彼らはそうした社会的地位や身分を越え、信仰によって一致していました。そうした彼らがパウロとバルナバを世界宣教へと送り出したのです。こうしたことは一流の人物がいるからできることではありません。気のあった仲間がいればできるということでもないのです。そうした人たちが信仰によって一つになり、人間的な偏見や障害を乗り越えて、初めてできることです。このアンテオケ教会には聖霊による一致がありました。ですから、彼らが心を一つにして祈っていたとき、聖霊が、バルナバとサウロをわたしが召した任務につかせなさい、という神の声を聞いたのです。そして、彼らはその声に従って送り出したのです。教会が心を一つにして祈ったとき、そこに大きな神様のみわざと栄光が現されたのです。

 

 私たちの教会も、アンテオケ教会のようにいろいろな人かいます。しかし、私たちが聖書が与える忍耐と励ましによって希望を持ち、この忍耐と励ましの神によって互いに同じ思いを持ち、心を一つにするとき、そこに神のみわざと栄光が現されるのです。信じましょう。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにしし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。神に栄光がありますように。そのために、私たちは互いの弱さを負い合い、その弱さを担い、心を一つにして、声を合わせて、主をほめたたえたいと思います。

人のために良いこと 伝道者の書6章1~12節

2020年12月6日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書6章1~12節(旧約P1145)

タイトル:「人のために良いこと」

 

 伝道者の書6章に入ります。きょうのタイトルは、「人のために良いこと」です。12節に「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。」とあります。何が人のために良いことなのでしょうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを知ることが出来る人はそれほど多くはいません。でも私たちは神のことばである聖書を通して、それを知ることができます。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.楽しめない財産(1-6)

 

 まず、1~6節までをご覧ください。1節には「私が日の下で見た悪しきことがある。それは人の上に重くのしかかる。」とあります。 新改訳第三版では、「私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。」と訳しています。これまで伝道者は、日の下での労苦を見て、「空の空。すべては空。」と語ってきましたが、ここで彼は、もう一つの悪しきことがあるのを見たのです。「もう一つの悪しきこと」とは、「もう一つの不幸」のことです。それはどんなことでしょうか。それは、神から与えられた富を楽しむことができず、ほかの人がそれを奪ってしまうことです。2節には「神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ。」

とあります。

「見ず知らずの人」とは「他人」のことです。神から与えられた富と財産が見ず知らずの他人に全部持って行かれてしまうのです。たとえば、自分の土地と建物が差し押さえになったり、競売にかけられたりするというケースです。自分の望む富と名誉をすべて手に入れても、それを楽しむことができないばかりか、それを見ず知らずの人の手に渡ってしまうとしたら、どんなに空しいことでしょうか。

 

 そればかりではありません。3節をご覧ください。「もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。彼よりも死産の子のほうがましだと。」

 子宝に恵まれ、長寿を全うすることができたらどうでしょう。それは大きな祝福ですが、それでももしその人が人生に満足することなく死に、しかも自分の子供たちから蔑まれ、墓に葬られることもないとしたら、悲しいことです。不幸です。伝道者は言います。それは、日の目を見ずに死産で生まれた子どものほうがはるかにましです。死産で生まれてくるというのは最初から日の目を見ることができないわけですから、それほど悲しいことはないかと思うのですが、そのほうがましだというのです。それほどひどいということです。

このようなことは、4:2~3でも言われていました。4:2には「いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。」とあります。これは日の下で行われている一切の虐げを見てのことばです。いのちがあっても、虐げられながら生きるのなら、死んだほうがましだということです。それほど苦しいということです。4:3でも「また、この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」とあります。「この両者」とは、「いのちがあって生きながらえている人」と「すでに死んだ死人」のことを指していますが、この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、最初から生まれて来なかった者だというのです。最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることがないからです。同じようにこの6章でも、もし富と財と誉が与えられていても、それを楽しむことができず、他人がそれを楽しむようなことになったり、どんなに子宝に恵まれても、その子供たちから蔑まれ、人生を楽しむことなく死ぬような人のことを指しています。親にとって子供は自分のいのちよりも大切だと思って育てても、その気持ちが子供に伝わっているかというと必ずしもそうではなく、むしろ、その子供に蔑まれるようなことがあるなら、死産の子のほうがましだ、日の目を見ないほうがましだというのです。これは伝道者がこの世に存在することを否定しているのではなく、日の下で行われている現実がいかに空しいものであるのかを誇張して述べているのです。最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることはないし、虐げられることもないからです。

 

旧約聖書に出てくるヨブも全ての財産を失い、足の裏から頭の天辺まで、悪性の腫物で打たれました。その時彼は自分が生まれた日を呪って言いました。「私が生まれた日は滅び失せよ」(ヨブ3:3)と。ここで伝道者が「死産の子のほうがましだ」とか、4節で「この子の方が彼より安らかだ」と言っているのは、それだけ、酷いことであるということです。

 

 6節をご覧ください。ここには「彼が千年の倍も生きても、幸せな目にあわなければ。両者とも同じ所に行くではないか。」とあります。「千年の倍」とは二千年です。すなわち、どれだけ長く生きても、その命に幸せを見出することができなければ、両者とも同じところに行くわけですから、全く意味がない、と言っています。「両者とも」とは、長寿を全うした人と、死産の子のことです。同じところとは、死ぬことを指しています。どんなに長寿を全うしても、そこに幸せを見出すことができなければ、全く意味はありません。命はその長さではなく質だからです。たとえ千年の倍、二千年生きたとしても同じなのです。

 

 このように、すべてのものを神から与えられていてもそれを楽しむことができないとしたら、そのような人の一生は何と不幸なことでしょうか。私たちはこの地上のことであれこれと関心を払い、一生懸命に富を蓄え、健康を維持し、長寿を全うしようとありとあらゆる努力を重ねますが、もしそこに神がいなければ、すなわち、神を無視して生きるとしたら、それは不幸なものなのです。1節には「日の下で」とありますが、それはこのことを指しています。神を無視し、神がいない生涯は、前回のところで学んだように、闇の中で食事をするようなものなのです。それゆえ、私たちは私たちの目を、日の下から日の上に向けなければなりません。この地上にありながら天の御国、永遠のいのちに心を留め、神とともに生きる生活を始めていかなければならないのです。

 

 米国の先住民伝道にその若き生涯をささげ、29歳でこの世を去ったデイビット・ブレイナードは、死の床でこう語りました。

 「私は永遠の世界へ行きます。永遠を生きることは、私にとって快いことです。

永遠に続くということが、懐かしさを感じさせるのです。

しかし、邪悪な人々の永遠は、いったいどうでしょう。

私はそれを説明したり、考えたりすることができません。

それを考えること自体が、あまりにも恐ろしいことです。」

 

 邪悪な人々の永遠は暗闇です。それが地獄です。それはこの地上ですでに始まっています。もし、神がともにいなければ、暗闇の中を生きるようになります。ですから、罪を悔い改めて神に立ち返らなければなりません。救い主イエス・キリストを信じて、心に受け入れなければならないのです。デービッド・ブレイナードの生涯は29年という短いものでしたが、実に快いものでした。充実していました。なぜなら彼は、永遠を見つめていたからです。日の下での生涯、この地上の生涯は、まばたきをするようにほんの一瞬にすぎません。しかし、永遠の世界はいつまでも続きます。その永遠に目を向けて生きることで、神から与えられたものに満足し、それを楽しむことができるようになります。神が与えてくださった日常の中で、御言葉と祈りを通して人生の意味を見出し、与えられたものに感謝しながら、大いに楽しむことができるのです。

 

 Ⅱ.満たされない食欲(7-9)

 

次に、7~9節をご覧ください。「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう。人の前でどう生きるかを知っている貧しい人も、何がまさっているだろうか。目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

 

「人の労苦はみな、自分の口のためである。」これはどういうことかというと、人はみな食うために働いている、ということです。私はよく「あなたは何のために生きていますか」と聞くことがありますが、その答えで一番多いのがこれです。「私は食うために生きている」。しかし、不思議なことに、その食欲が満たされることは決してありません。収入が増えれば、それだけ欲しいものも増えるからです。ですから、どんなに働いても欲望が満たされることはないのです。

 

「知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう」知恵がある者も、愚かな者も同じである、ということです。どんなに知恵があっても、欲望を押さえることができなければ、愚か者となんら変わりがありません。貧しい人々の中にも、いかに生きるべきかを知っている人がいますが、しかし、そのような人でさえ、より多くの物を所有したいという欲望に打ち勝つことができなければ、結局のところ愚か者と同じことなってしまいます。

 

結局、「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。」のです。どういうことでしょうか。これは謎めいた言葉です。新改訳改訂第3版ではこれを、「目が見るところは、心があこがれることにまさる。」と訳しています。「欲望のひとり歩き」を、「心があこがれること」と訳したんですね。どうですか、皆さん、わかりますか?もうちょっとわかりやすいかもしれませんね。目で見えるものに満足することは、心であこがれることを追い求めることよりもまさる、ということです。

もっとわかりやすいのは新共同訳ではないかと思います。新共同訳ではこのように訳しています。「欲望が行きすぎるよりも 目の前に見えているものが良い。」つまり、もっと良いものを、もっと良いものをと、もう少し上の贅沢を追い求めて生きるよりも、目の前に置かれた食事で満足するほうが良い、ということです。まあ、これを何も食事に限定することはないと思います。食事でも、物でも、置かれた状況でも同じです。つまり、自分に与えられているものです。ことわざに、「隣の芝生は青く見える」ということわざがありますが、他人が持っているものは、自分のものよりよく見えるものです。それでもっと良いものを、もっと良いものをと、欲望が満たされることを求めて走り回りがちですが、それよりも今自分に与えられたものを感謝して生きることのほうがずっと良いのです。

 

どうでしょう、現代は本当に忙しい時代ですね。少しも心休まる時がありません。一つの事が終わったらまた次のことをしなければなりません。次から次にやらなければならないことがあるのです。いったい何が問題なのでしょうか。「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる」です。もっと欲しい、もっと欲しいと、欲望が満たされることを求めて走り回ることです。あれも、これもしようと思えば、どんなに時間があっても足りません。私はいつもいろいろな機会に言うのですが、私たちの指は10本しかありません。その10本の指を何に使うかを考えなければならないのです。もし10本の指をすべて仕事のために使えば、残りの指は無くなってしまいます。限られたもの、時間なり、お金なり、体力といったものを何に使うのかよく祈って求めなければなりません。イエス様はこう言われました。「まず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)まず、神の国とその義を求めなさい。まず、神の国とその義を求めるのです。そのために、何本の指を使うかわかりませんが、まず神の国とその義のために使い、食べ物や飲み物、着物など残りのことのために、残りの指をバランスよく用いなければなりません。そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられます。大切なのは時間があるか、ないかということではありません。何のために用いるかということです。神のために、神との交わりのために用いるなら、それに加えて、すべてのものが与えられます。そのためには、自分に与えられたものを感謝し、それを満足することを学ばなければなりません。

 

人は何かを手に入れることで満足を得られるのではないかと考えますが、実際にはそうではありません。人の満足というのは何かを手に入れることによって得られるものではなく、その心がどうであるかで決まります。それは条件の問題ではなく、心の問題だからです。基本的な欲求は神から与えられたものですが、それを越えた欲望、貪欲は、神から離れた空白から生じます。ですから、あらゆるものをつかんでも、次から次に空しさや飢え渇きが襲ってくるのです。ですから、目の前に置かれた食事で満足するほうが、もっと良いものを、もっと良いものをと、欲望がひとり歩きするよりも良いのです。

 

箴言17:1には、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」とあります。これは私が好きな御言葉の一つです。日本の多くの家庭では外面的には物であふれていて、一見、幸せそうに見えますが、実際には争いが絶えず、本当に平和な家庭は稀にしかないというのが現実です。人間は対物ではなく対人関係の中に生きていますから、対人関係が良くないとどんなに物が溢れていても幸せではないのです。その対人関係が豊かであるためには神を恐れ、神の知恵をいただき、その知恵に生きることが必要です。そうでなければ、空しく、風を追うような人生となってしまいます。その知恵、神の知恵とは何でしょうか。「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる」ということです。ぜひこのことを心に留めていただきたいと思います。

 

おそらくこれは、だれよりもこの伝道者ソロモン自身が痛感していたことでしょう。彼は、美しい宮殿に住み、多くの女性に囲まれながら、毎日のように贅沢な生活をしていましたが、それでも心が満たされませんでした。彼はおいしいご馳走をいっぱい食べても、争いに満ちた家に住むよりも、心の底からの平安を求めていたのです。

 

それは、ソロモンだけではありません。ご馳走なんてなくてもいい、豪邸になんか住まなくてもいい、本当の平和な家庭が欲しい!と思っている人は、案外と多いのではないでしょうか。家庭の平和と真の幸福は、決して物質の豊かさにあるのではない、と聖書は教えています。人間が神と和解するために、神がお遣わしになった救い主イエス・キリストを信じ受けて入れる時に心に平和と喜びと満足が与えられ、神との交わりを楽しむことができ、また、他人の過ちや失敗を心から赦し、愛することができるようになります。

 

少し前に「赦しの力」という映画を観ました。素晴らし映画です。ぜひ皆さんにも観ていただきたいと思いますが、この映画は、高校でクロスカントリー競技をしていたハンナという少女の話です。彼女はある時コーチのジョンから父親が病院に入院していることを聞きます。彼女の父親もかつてクロスカントリーをやっていて、州で3位に入るほどの実力者でしたが、次第に傲慢になり、酒と麻薬と女に溺れ、人生のどん底に落ちてしまいました。当然、妻とも別れ、生まれたばかりの娘ハンナも妻の母親に預けたのです。

あれから15年、彼は、神のあわれみによって神に立ち返ることができ、悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ、すべての罪が赦され、神の子とされて新しい人生を歩むことができました。しかし、その代償は大きく、糖尿病などの合併症によって両目の視力を失ったばかりか、今は死を待つばかりの状態になっていました。

驚いたのはハンナの方です。というのは、彼女は、両親は彼女が生まれるとすぐ死んだと祖母から聞かされていたからです。自分を捨てていなくなったなんて寝耳の水でした。今さらそんな父親を赦すことなどできません。それでも父親に会いに病院に行ったハンナは、彼にはっきりと言うのです。「私は、あなたを赦しません」それはそうでしょう。自分を捨てた父親を赦すことなどできません。父親は、どんなことがあったのかを正直に話し、そんな自分を神があわれんでくださったので神に立ち返ることができたことを伝えました。

そんな時、彼女が通う学校の校長先生から、神がどれほどハンナを愛しておられるのかを聞くのです。神はそのためにご自分の御子イエス・キリストを与えてくださったと。それを聞いたハンナは、自分の罪を認め、イエス様を信じて心に受け入れました。そして校長先生のアドバイスにしたがってエペソ書1,2章を読みながら自分が何者であるかをノートに書き止めるのです。自分は罪が贖われた者、罪が赦された者、神の子、クリスチャン。彼女は罪が赦されたその大きな神の愛のゆえに、父親を赦そうと決心しました。そして、病院に行ってみると彼はICUに入っていましたが、そのことを告げたのです。

そして、クロスカントリーの州大会で、コーチのジョンはある秘策を思いつきました。レースをイメージさせて父親に彼女へのアドバイスを録音させたのです。それを聞きながら走った彼女は、奇跡的に州大会で優勝するのです。そして、金メダルを病院のベッドにいる父親の首にかけてやるのですが、神に赦された、赦しの力がどれほど大きなものであるかを強く感じました。

 

イエス・キリストは、あなたの罪のために、身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そして、三日目によみがえられました。この方を信じる時、あなたのすべての罪は神の前に赦され、本当の意味で幸福な者となることができます。当然、その結果として家庭にも平和が訪れるのです。そうした貪欲からも解放されます。目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさるという、このみことばを実践できるようになるのです。

 

Ⅲ.神は知っている(10-12)

 

最後に、10~12節をご覧ください。「存在するようになったものは、すでにその名がつけられ、それが人間であることも知られている。その人は、自分より力のある者と言い争うことはできない。多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」

 

存在しているものはすべて名前がつけられています。それは「人間」についても言えることです。人間とはどのようなものなのかも神に知られているのです。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きるものとなったのです(創世記2:7)。ですから、地のちりにすぎない者が、創造主に対して言い争うことなどできません。この「自分より力ある者」を「死」と解釈し、人は死に逆らうことはできないと理解する人もいますが、ここでは「神」のことであると解釈すべきです。というのは、その後の11節には「多く語れば、それだけ空しさを増す」とあるからです。これは、神の定めにいくら言い逆らったとしても、それはただ空しさを増すだけだという意味です。つまり、ここで伝道者が言わんとしていたことは、私たち人間がどのような者であるかを知っておられる神と言い争っても、何の意味もないということです。

 

それなのに、私たちは愚かにもこの「力ある方」と言い争うことがあります。なぜですか?なぜこのようなことが起こるのでしょうか。なぜ夫は私を捨てたのですか。なぜ仕事に失敗したのでしょうか。なぜこんな災いがふりかかったのですか。なぜですか・・と。しかし、どんなに神と言い争っても事態は何も変わりません。むしろ、多く語れば語るほど、それだけ空しくなるだけです。それは、人にとって何の益にもなりません。むしろ、人間の限界を悟り、その人間を造られた神を恐れることです。そして、変わらない神の真実に目を向けることです。神はあなたをどんなに愛しておられるか、そのために、神はご自分の御子をあなたに与えてくださいました。自分のいのちよりも大切な御子イエス・キリストをお与えになられたのです。それほどまであなたを愛しておられるのです。ヨハネ3:16には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。

神はそれほどまでに、あなたを愛しておられるのです。何があっても私は愛されている。そのために御子を与えてくださったほどに愛されているんだと、この事実に目を留めて、神と言い争うのを止めなければなりません。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。私たちの心に平安がないのはこの御言葉の約束の上に立たないで、自分の感情の上に立っているからです。それで、神様どうしてですか、と神と言い争うのです。でも事態は何も変わりません。結果的に、自分がみじめになるだけです。ではどうしたら良いのでしょうか。12節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」

 

影のように過ぎて行く、短く、むなしい人生において、何が人のために良いことなのでしょうか。そのことを人に告げることができる人はだれもいません。だれも将来何が起こるのかを教えてくれることもできません。でも神は知っています。何が人のために良いことなのかを。何が人にとって必要なことなのかを。何が人にとっての真の幸福なのかを。神は私たちに対する完全なご計画を持っておられるのです。そこには痛みや悲しみもあるかもしれませんが、それは神のご計画の一部でしかありません。私たちに求められているのは、私たちは神と言い争ったり、神を呪ったりするのではなく、神を恐れ、すべてを神にゆだねて生きることです。これが、この書全体の結論です。12:13、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」

 

パウロはこのことを、陶器師と陶器のたとえで説明しています。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っています。造られた者が造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」などと言うことはできません。どのように造るかは、それを造る陶器師の手(思い)にかかっているからです。私たちにできることは、その陶器師であられる神によって造られていることを感謝し、その神を恐れ、神のみこころに生きることです。それこそ真の満足が与えられる、幸せで祝福された人生なのです。

 

あなたはどうですか。自分より力ある方と言い争ってはいませんか。「主よ、どうしてですか。どうしてこのようなことを見て難ともお思いにならないのですか。どうしてこのようなことが起こるのですか・・・。」しかし、私たちの主は私たちを造られた創造主です。その方にすべてをゆだね、この方を恐れて生きること、それこそ私たち人間にとってすべてなのです。

幸せな人 伝道者の書5章10~20節

2020年11月22日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書5章10~20節(旧約P1144)

タイトル:「幸せな人」

 

 きょうは、伝道者の書5章後半から、「幸せな人」というタイトルでお話しします。20節に、「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」とあります。どういう人が、自分の生涯のことをあれこれ思い返さないのでしょうか。どういう人が、神によって心を喜びで満たされる人なのでしょうか。私たちはいつも自分の生涯のことをあれこれ思い返しては、心を煩わせることがあるのではないでしょうか。しかし聖書は、「こういう人は」神によって心を喜びで満たされると言っています。それはどういう人なのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

 Ⅰ.どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人(10-12)

 

 第一に、どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人です。10~12節までをご覧ください。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。 財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」

 

「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」金銭を愛することへの警告です。金銭そのもの、富そのものは決して悪いものではありません。仕事をする時に、その労働の対価として与えられる恵みを感謝し、喜びを味わうことは自然なことです。ところが、その富を愛することが様々な災いをもたらすことになると、聖書は教えています。その一つが金銭に満足しない、収益に満足しないということです。いくら富を蓄えても、それで満足することがありません。いつも、まだ足りない、まだ足りない、もっともっと、と欲しがるのです。欲張り、貪欲です。そのことからわかることは、富によっては決して「満足」を買うことはできないということです。商売の利益、銀行の利子、株の配当、株の売買益など、これら一切がさらに欲望をかきたてるのです。

 

この「金銭」と訳されたことばは、へブル語では「銀」ということばです。ですから、新共同訳ではこれを「銀を愛する者は銀に満足することがない。」と訳しているのです。銀に満足しなかった人はだれですか。そう、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダです。彼は銀貨30枚でイエス様を売り渡しました。彼は銀貨を愛していました。弟子たちの会計係として金入れを預かっていましたが、そこからいつも銀貨を盗んでいたのです。そして、遂には銀貨30枚のために自分の主であったイエスを売り渡してしまいました。それで彼は満足したでしょうか。いいえ、最後に彼はその銀貨を神殿に投げ込むと、出て行って首を吊って死んでしまいました。銀貨を愛する者は銀貨に満足しないのです。

 

Ⅰテモテ6:10には、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」とあります。また、へブル13:5には、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。」とあります。大切なのは金銭を愛することではなく、今持っているもので満足することです。確かに、「生活に不安がある」状態では満足を得られないかもしれません。かといって、不安から解放されれば満足できるかというとそうでもないのです。なぜなら、真の満足はどれだけ持っているかとか、どのような境遇にあるかによって決まるのではなく、どのような心を持っているかによって決まるからです。

 

古代ペルシャに古くから伝わる伝説です。昔、神様が「幸せの鍵」を、お作りになられました。これを一生懸命捜して見つけた人に「幸せの扉」を開けさせたいと考えたのです。

そこで「幸せの鍵」をどこに隠すかという話になりました。天使たちがいろいろアイデアを出し合いました。

「高い山の上がいいんじゃないか」「地の深い所にしよう」「深い海の底はどうか」しかし、どのアイデアもいま一つでした。誰でも見出せるけれど、なかなか見つけられない所はないのか。

そして、とうとう理想的な場所を見つけ出しました。それは「人間の心の中」に隠すことでした。

 

 そうです、幸せの鍵は私たちの心の中に眠っているのです。それを掘り出して、用いる人が豊かな人生を歩むことができます。そのことをパウロはピリピ人への手紙の中でこう言っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13)

パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学んだと言っています。貧しさの中でも、富んでいても、そのような境遇が彼の幸せを奪うことはありませんでした。なぜなら、彼はイエス・キリストを知っていたからです。イエス・キリストによってどんな境遇にあっても満ち足りることを学んでいたのです。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。これもまた空しいことです。しかし、イエス・キリストにあるなら、どんな境遇にあっても満足することかできます。これは幸いなことではないでしょうか。

 

11節をご覧ください。「財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。」

財産が多くなると、それをあてにして群がる者たちが現われるということです。そのために出費が増え、財産の所有者はその恩恵に与ることができません。彼にできるのは、せいぜい預金通帳の数字を目で眺めていることくらいです。これもまた空しいことです。

 

12節には、「働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」とあります。働く者が少し食べても多く食べても、心地よく眠ることができるのは、心配がないからです。貧乏人は失うものがないので怖いものがありません。株価が上がろうが下がろうが関係ないのです。でも財産がある人はそういうわけにはいきません。満腹しても、心配事が山のようにあるため、安眠することができないのです。彼は床の中で、資産の運用のことや、税金の支払い、財産が盗まれるのではないかと不安になり、よく眠ることができません。皆さん、寝る前にいろいろ考えない方がいいでよ。考えると眠れなくなりますから。というか、皆さんは考える必要もないようですね。でも、そんなに持っていなくても、もっと増やそうと貪欲になると眠れなくなりますよ。

 

以前、関西に住んでおられる方から電話で相談がありました。その方は、自分のおこずかいの中から株を始めたのですが、前年に大失敗をして大きな損失を出してしまい、どうしたら良いものかと夜も眠れないというのです。それで、お金ではなくもっと大切なものを持つといいですよと言うと、後日、こんなメールがきました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり、頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。本当に申し訳ありません。」

 

この方は寝ても覚めても株なのです。株のことが気になって仕方がないのです。それで、星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩を送りました。

「命がいちばんだと思っていたころ 生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」

短い詩ですが、とても大切なことが教えられると思うのです。「いのち」とは肉体のいのちのことです。そのいのちがいちばん大切だと思っていたころは、生きるのが苦しかった。でも、そのいのちよりも大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しくなった。いのちよりもたいせつなものとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストにあるいのち、永遠のいのちのことです。それがあると知った日、生きるのが嬉しくなりました。そうしたものに執着しなくてもよくなったからです。神が与えられたいのちに生きればいい、そう思うと生きるのが嬉しくなります。

 

すると、彼女からメールがありました。「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。」

まあ、頑張って行く必要もありませんが、その方にとって教会は初めての所ですから敷居が高かったんでしょうね。頑張って行ってみます。

すると、しばらくしてメールがありました。「おかげさまで、近くの教会に昨日で3回目行かせていただきました。星野富弘さんの本も、図書館で数冊読み、感動しました。その中で奥様との出会いや家族の方々の優しさにも感動しました。 

今朝、突発的に全部の持ち株を処分してしまったのは、昨日も残っている資金で株を買い、少し下がると怖くなって売り、1万6000円の損を出し、懲りずに今朝も買った株が下がりだし・・

その株を売ると同時に、持ち株全部、衝動的に処分したわけなのですが、その時、昨日も今日も、失敗を重ね、「これでもまだやめないのか」「これでもまだ分からないのか」って、ふと神様に言われているような気がして、本当に衝動的に全部売ってしまいました。全く、まだ売るつもりもやめるつもりもなかったのに、です。

1月からも、買っては小さな損をする、を繰り返していて、「これでもまだ懲りないのか」って、あまりの失敗続きに、失敗を重ねるたびそう言われているような気がなんとなくしていました。考えすぎでしょうか?神様がこれほどの大きな損失を出さないと分からない私を正してくださったのでしょうか?

 とにかく、そう思って、これからは、だんだん生活と私自身の心を改善させていくよう、努力したいと思います。」

 

その後、どうなったかはわかりませんが、近くの教会に通い、そこでいのちよりもたいせつなもの、イエス・キリストのいのち、永遠のいのちを得ることができたらと願っていますが。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。そのような人は満腹してよく眠ることができません。むしろ、すべてを豊かに与えてくださる神に感謝し、イエス・キリストと共にあることこそ、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣であることを覚え、そこに目を留めたいと思うのです。

 

Ⅱ.なくならない食物のために働く人(13-17)

 

ここで教えられる幸せの第二の鍵は、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物のために働く人です。13~17節をご覧ください。まず13節と14節をお読みします。「私は日の下に、痛ましいわざわいがあるのを見た。所有者に守られていた富が、その所有者自身に害を加えることだ。その富は不運な出来事で失われ、息子が生まれても、その者の手もとには何もない。」

 

「痛ましいわざわい」とは、単なる悪しきことというレベルではなく、恐ろしい悪、決定的な打撃のことです。金持ちがいかに心を労し、富を守ろうとしても、その富が所有者自身に害を加えることがあります。たとえば、突然不幸な出来事が襲って、その富が一挙に失われ、子どもに残してやる財産すら無くなってしまうとかです。私たちは時々そのようなことを耳にします。株価や市場の暴落によって、持っていた財産の価値がなくなってしまったというニュースを。そのようにニュースに触れるたびに、できれば多くの財産を持っていたいと思う反面、経済って本当に怖いなあと思い知らされます。明日どうなるかなんてだれにもわからないのですから。伝道者自身、金持ちが突然の不幸に襲われ、一夜にして貧困のどん底に投げ込まれるのを目撃したのでしょう。このような経験から、伝道者は、次のような結論に導かれるのです。15,16節です。「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」

 

人はこの世に裸で生まれてきました。同じように、この世を去る時何一つ携えて行くことはできません。それがこの世の定めなのです。にもかかわらず、人はこの地上生涯においてその富を蓄積するために労苦するわけです。これも痛ましいわざわいです。それはまさに風のために労苦するようなものです。何の益もないのです。

 

そればかりではありません。17節には、「しかも、人は一生、闇の中で食事をする。多くの苛立ち、病気、そして激しい怒り。」とあります。どういうことでしょうか。これは夜中、ごはんを食べる話ではありません。その一生は、多くの苛立ち、病気、そして激しい怒りが伴うということです。それが闇の中で食事をするということです。

ここで伝道者が警告しているのは、神を信じないで、自分のために労苦する一生の空しさです。13節には「日の下に」ということばがありますが、それは、神様抜きの、神様無しの、神を除外したという意味です。神を除外して自分のために富を得ようとあくせく働くことがもたらす悲劇とはこのようなものであるというのです。

 

しかし、日の上には、喜びと楽しみがあります。その人の一生は、闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになります。主イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

主イエスの招きに応じて心の戸を開き、主イエスを心の中に迎えるなら、主がその人の中に入ってその人とともに食事をし、その人もまた彼とともに食事をします。苦痛も、病気も、怒りも、嘆きもありません。闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになるのです。神の聖霊があなたに臨み、あなたのすべての罪が赦され、あなたは神の子とせられ、神との親しい交わりを持ちことができます。あなたの一生は、良いもので満たされるのです。

 

ですから、大切なのは何のために働くのかということです。あなたは、何のために働いていますか。なくなる食べ物のためにあくせくと働いてはいないでしょうか。イエス様は言われました。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(ヨハネ6:27)

富のために労苦するなら、その富がわざわいをもたらすことになります。それは風のために労苦するようなものです。何の益にもなりません。そのような人の一生は、苛立ちであり、病気であり、激しい怒りです。闇の中で食事をするようなものです。けれども、日の上には喜びがあります。神が共におられるからです。富のためではなく、神のために、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。それこそ、人の子が与えてくださる食べ物なのです。

 

Ⅲ.主の恵みを数える人(18-20)

 

ですから、結論は何かというと、幸せな人とは神が与えてくださる恵みを数え、それを喜び楽しむ人であるということです。18~20節をご覧ください。「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

 

「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととはとは、こうだ」とは、伝道者がこれまで語って来たことを受けての結論です。それは、神によって与えられた日々の生活を楽しむということです。そうすれば、何が起こっても、人生の喜びを奪い去られることはありません。人生は短いのだから、神によって与えられているものを思う存分楽しむのが、最善の策であるというのです。このような思想は、2:24や3:13にもありましたが、伝道者はここでそのことを繰り返して語っているのです。繰り返して語っているというのは、それだけ重要なことであるということです。なぜこのことが重要なのでしょうか。それは、神がどのような方であるかを示しているからです。そうです、神は私たちに必要なものを与え、これを楽しむことを許してくださる方なのです。18-20節には、「神」の名が4回も出てきていますが、いずれの場合も、「神」は「与える方」として表現されています。

 

19節には、「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」とあります。何が神の賜物なのでしょうか。これこそ神の賜物です。神は食べたり飲んだりするだけでなく、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされました。これこそが神の賜物なのです。

 

伝道者はここで、神というものを強く意識し、また、これを読む者に神から与えられた人生がどれほどすばらしいものであるかに目を向けさせているのです。であれば、私たちはこのことを理解し、自分が神よって受ける分を喜ぶことが求められています。そういう人は、自分に与えられた労苦(仕事)を、自分にゆだねられたものとして楽しむことができるようになりますが、そうでないと、自分の置かれた境遇を嘆き、文句タラタラ言いながら生きることになってしまいます。本当に不思議ですね。同じ境遇でも一方はそれを感謝して、前向きに受け止めることができる人がいれば、一方ではいつも周りの人と自分を比較して、自分に無いものに目を留めて失望したり、不平不満に陥っている人がいます。いったいその違いはどこにあるのでしょうか。それは神によって与えられた賜物を、自分の分としてしっかり受け止めることができるかどうかです。

 

新聖歌172番に「望みも消え行くまでに」という賛美があります。

1. 望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ 主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん

数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

2. 主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき  数えてみよ 主の恵み つぶやきなど如何であらん
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

3. 世の楽しみ 富 知識 汝が心を誘うとき 数えてみよ 主の恵み 天つ国の幸に酔わん
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

 

この賛美は、E.O.エクセルという人によって作られました。エクセルという人は、この歌の題を「Count your blessings」と名付けています。「Count your blessings」。文字通り、「あなたに賜った恵みを数えなさい」という意味です。望みも消えそうになるほどの この世の嵐に悩むとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心は安らぎ得るでしょう。主から賜った十字架を担いきれず 心沈むようなとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心からつぶやきなど消え去るでしょう。この世の楽しみ 富 知識が あなたの心を誘惑するとき 数えてみてください 主の恵みを。さながら天国のような心地に 心躍るでしょう。数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み。

 

魂に平安がなく、私たちの内に不平不満が絶えない原因は、問題が大きいからではありません。エジプトを脱出した後のイスラエルの民に呟きが絶えなかったのは、あの救いの御業を忘れてしまったからです。詩篇103:2には、「わがたましいよ 主をほめたたえよ 主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。主が良くしてくださったことを何一つ忘れないこと、そうです、主が良くしてくださったことを一つ一つ数えて感謝すること、それが幸福の秘訣なのです。

 

毎年11月第四木曜日は、アメリカではサンクスギビングを迎えます。1620年9月16日、信教の自由を求め102名の人を乗せて英国のプリマスを出航した船は、66日間の航海の後11月21日にアメリカ東部マサチューセッツ州プリマスに到着しました。慣れない土地で、森の木を切り、丸太で家を建て生活を始めますが、多くの人は都会育ちで農業に慣れておらず、新天地での生活は困難を極めました。冬の半年間に約半数の人たちが飢えと寒さで死にました。春に親しくなったインディアンから、トウモロコシやえんどう豆、小麦、大麦などの種まきを教えてもらい、2度目の秋には沢山の収穫が与えられたことから、秋の収穫物を前にインディアンの友を招き、神の恵みに感謝して収穫感謝礼拝を行ったのです。あれから400年、アメリカ人はそのことを忘れないようにと、毎年盛大にこれをお祝いするのです。というわけで、私はアメリカ人ではありませんが、家内がどうしてもというので、今週はターキーを焼いて盛大にお祝いすることになっています。

 

それはアメリカだけてのことではなく、私たちの人生においても言えることです。食べたり、飲んだりすることは日常茶飯事です。普段、食事がことさら楽しいと感じることはないでしょう。しかしその日常の小さな幸いこそが「神の賜物」であり、「幸福」なのです。私たちの人生は神に与えられた短い人生の日々です。残りわずかな人生の日々に、汗をかいて労し、食事ができることは、なんと幸いなことでしょう。それを神の賜物として受け入れ、喜んで生きることが大切なのです。

 

20節をご覧ください。「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返しません。自分が不幸だとか、神は不公平だとか、人生は悲劇で満ちているとか、思わなくなるのです。つまり、自分の人生をくよくよ思わなくなるということです。なぜ?神が彼の心を喜びで満たされるからです。その人の心には、神が下さる喜びが満ちているからです。

結局のところ、私たちの幸いは自分にどれだけの富や財産があるかとか、どんな仕事をしているか、どのようにうまくいっているかということではなく、神によって心が喜びで満たされているかどうかで決まるのです。自分に与えられたすべてのものが神の賜物であると受け止め、これを喜び、楽しみましょう。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返すことはしません。まことに幸いな人だと言えるのです。

クリスチャンの生き方の原則 ローマ人への手紙14章13~23節

2020年11月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙14章13~23節

タイトル:「クリスチャンの生き方の原則」

 

 テキサス州アントニオにあるオーク・ヒルズキリスト教会牧師で「たいせつなきみ」という絵本を画いたマックス・ルケードは、子供にも大人にも好まれる作品を書くベストセラー作家です。その彼の著書「特別な愛」の中で、こんなエピソードを紹介しています。彼の奥さんの名前はデナリンといいますが、デナリンさんにはある一つの癖がありました。それは車庫に車を駐車する時、真ん中に駐車してしまうということです。ですから、夫のマックスが車庫の扉を開けると、彼が駐車するスペースの半分くらいを占領していることがあるのです。優しい夫のマックスは、そのような時には何気なくヒントを投げかけます。「どこかの車がうちの車庫の真ん中に居座っているね。」このようなことを言うと、日本では「何それ、嫌み?」なんて言われるので、このようなアプローチはなかなかできませんが、アメリカでは通じるのです。

 ある日、少し強い口調で彼が言うと、奥さんがどのようにそれを受け止めたかはわかりませんが、そのときから駐車するときには気をつけるようになりました。ある日、娘が母親に「ママ、どうして車を真ん中に駐車しないの?」と聞くと、彼女はこう答えました。「そうね。ママはあまり気にならないんだけど、パパが嫌いらしいのよ。パパが嫌がることはママも嫌なの。」自分が気にならないことでも相手が嫌なことはしない。それがキリストの弟子としての生き方の大切な一つのポイントです。

きょうのところでパウロはこう言っています。14、15節です。「私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。」

彼は、食べ物のことで、それ自体で汚れているものは何一つないと考えていました。しかし、そのことで気になる人もいて、そのことで心を痛めている人がいるなら、もはや愛によって歩んでいるとは言えません。その人への配慮が必要であるということです。

 

 Ⅰ.愛の配慮を(13-16)

 

 まず、13~16節までをご覧ください。「こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。」

 

 前回の箇所でパウロは、信者相互の対人関係において、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(1)と勧めました。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。十人十色で、教会には実にさまざまな考えを持った人がいます。それが聖書の教えと反しない限り、そうした考えを受け入れることが求められているのです。ここには「信仰の弱い人」とありますが、それは、律法に囚われてキリストにある自由を享受できないでいた人たちです。食べ物や日のことで、「こうしなければならない」という教えに縛られていました。しかし、信仰の強い人はそうではなく、生きるにしても、死ぬにしてもキリストのために生きているわけですから、律法を完全に成就された主に喜ばれることは何かを求めて生きていたので、そうした律法に囚われた生き方から解放されていました。真の意味でキリストにある自由を享受していたのです。しかし、そうでない人たちもいたのです。その人たちは、「信仰が弱い人たち」と言われていますが、そういう人たちをさばいてはいけないし、受け入れるようにいなければならないのです。

 

 きょうのところでは、13節ですが、ここでは、「いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」とあります。兄弟に対して妨げになるものとか、つまずきになるものとは、そうした自分の考えこそ正しくて、相手の考えは間違っていると断罪することによって、その人が信仰につまずいてしまう、信仰から離れてしまうようになることです。そのように妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい、と言うのです。

 

 パウロ自身はどうであったかというと、旧約聖書には汚れた食べ物について記されてありますが、彼自身は食べ物それ自体で汚れているものは何一つないと考えていました。それが彼の確信だったのです。言わば、彼は信仰が強い類の人に分類される人でした。そうした律法には捉われることはなく、何を食べても、何を飲んでも問題ない、問題は何のために食べ、何のために飲むのかということです。ですから、彼はⅠコリント10:31でこう言っているのです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにする。それが彼の生きる目的であり、基準でした。だから、そうした律法からは完全に解放されていたのです。

 

 しかし、一方でそうでない人たちもいました。何かが汚れていると考える人には、汚れているのです。それがレビ記にある「汚れた動物」のことなのか、コリント書にある「偶像にささげられた肉」のことなのかわかりませんが、そうした宗教的な理由から、それらのものを食べようとしないクリスチャンがいたのです。そして、もし食べ物のことで、その人たちが心を痛めているならば、それは愛によって行動しているとは言えないのです。なぜなら、キリストはその人のためにも代わりに死んでくださったのであり、そのような人を、食べ物のことで滅ぼすようなことがあるとしたら、愛によって行動しているとは言えないからです。先ほどのマックス・ルケードの例で言えば、奥さんにとっては車庫の真ん中に駐車することはあまり気にならないことだけれども、そのことでもし夫が気になっていり、嫌に思っているならば、そのようなことはしないと決心することこそ、思いやりであり、愛の配慮であるということです。

 

 パウロがここで教えている原則は、教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないということです。この原則はきわめて重要であって、教会における一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって図られるべきであるということです。これは何度も言うようですが、あくまでも、聖書の原則に照らし合わせてみて、聖書もその行動を避難していないという確信の下でのことです。

 

 アメリカのチャールズ・スウィンドル牧師は、次のように言っています。「神の被造物はそれ自体良いもので、私たちはその被造物を十分楽しむ権利を持っています。しかし、信仰が成熟していない人々にとって妨げとなる場合には、私たちの権利を自制しなければなりません。そうする必要がある時は、愛が、私たちの自由を制限するように命令します。クリスチャンの自由の使用が、神の御業を損なう恐れがあるときには、まことの愛による分別力をもって、私たちの自由を用いなければなりません。」

 

 15章3節を見ると、「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。」とあります。キリストご自身も自分の権利を自制されました。いや、放棄されました。キリストは神でありながら神であるという考え方に固執しないで、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。キリストが十字架につけられた時、それをながめていた民衆は「おい、おまえが救い主なら、自分を救ってみろ」とののしりましたが、彼はそのようにはしませんでした。できなかったからではありません。キリストがその気だったら十字架から飛び降りて、そのように言う人を裁き、地獄に送ることもできたでしょう。しかし、キリストはそのようにはされませんでした。なぜなら、そんなことをしたらキリストは十字架にかかって死ななければならないという神のみことばが実現しないからです。キリストはまだだれも経験したことがない、神に捨てられ、神にさばかれるということによって信じる者がみな永遠のいのちを受けたるために、十字架で死なれる道を選ばれたのです。つまり、キリストが十字架で死なれたのは私たちの益のためであったということです。キリストは自分を喜ばせるためではなく、私たちのために、私たちの益となることを考えてそうされたのです。これが愛によって行動するということです。つまり、自分の考えによって行動するのではなく信仰の弱い人のことを考え、その人の益のために行動するということです。それはその人もまたキリストが代わりに死んでくださったほどの人だからです。それなのに、食べ物のことでその人を滅ぼすようなことがあるとしたら、それこそ愛によって行動しているとは言えません。

 

 Ⅱ.大切なのは本質的なこと(17-19)

 

 第二のことは、信仰の本質とは何か、神の国の本質とは何なのかを考えるということです。17~19節までをご覧ください。なぜ私たちは信仰の弱い人を配慮すべきなのでしょうか?ここには、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(17節)とあります。

 

 パウロがここで強い関心を抱いていることは、神の国とは何なのかということです。神の国の本質は飲み食いすることではなく、聖霊による義と平和と喜びなのです。義とは神様との正しい関係のことです。つまり、キリストの福音によって神様との正しい関係に入れられたことです。平和と喜びとは、その結果得られる神との関係、そして人との関係のことです。これが神の国の本質的なことなのです。何を食べるのかとか、何を飲むかということではありません。であれば、飲み食いのことで多少意見の違いがあったとしてもそれはある意味どうでもいいことであって、時には譲歩しなければならない時もあるわけです。この本質的なこととそうでないことの判断基準間違うと、教会が混乱してしまうことになります。そして、教会では意外とこのようなことで争いが起こることが多いのです。

 

 1994年に山形県米沢市で、東北リバイバルミッションが行われました。会場は、米沢市の郊外にある恵泉キリスト教会のミーコ記念ホールでした。私も実行委員の一人として準備に当たっていましたが、その中で意外なことが話題になりました。それは、当日の夕食をどうするかということでした。遠くから来られる方もいるので、夕食のことも考えておいた方が良いのではないかというのです。まさに五つのパンと二匹の魚です。「こんなへんぴな所でそれだけの人数分の食事を用意するのは大変ですよ。めいめいが食べるにしても、周りにはコンビニ一つありません。すると、実行委員長をしておられた千田次郎先生がこう言われたのです。「いや、食べ物が大切なんだよね。意外とみんな食べ物のことを気にしているのよ。そして、結構こういうことで問題になることが多いから、ちゃんと用意した方がいいんじゃないですか」

そんなものかなぁと思って夕食も準備し当日を迎えましたが、千田先生が言われたとおりでした。食べ物になるとみんな目の色が変わるのですね。食べ物なんてどうでもいいことなのに、意外と深刻な問題になるケースが多い。そういえば、初代教会で最初に起こった問題も食べ物のことでした。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、へブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申し立てたのです。それは、彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。このように、食べ物のことでは問題が起こりやすいのです。あるいは、食べ物のようなことでは問題が起こりやすいと言った方がいいかもしれません。しかし、このときは千田先生の経験から出た知恵によって美味しい食事を用意したこともあって、とても和やかな、温かい集会になりました。

 

 しかし、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。それが教会の本質的なことなのです。ですから、本質的なことにおいては決して曲げたり譲ったりしなくとも、そうでないことについてはできるだけ丁寧に、忍耐強く対処しなければなりません。そして、時には相手に一歩譲るといった広い心が求められるのです。すなわち、19節にあるように、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていかなければならないということです。

 

  Ⅲ.信仰によって生活する(20-23)

 

第三のことは、自分の信仰の確信によって行動しなさいということです。20~23節をご覧ください。「食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」

 

 パウロの確信は、食べ物のことで汚れているものは何一つないということでした。しかし、そのことで兄弟が心を痛めるようなことがあるとしたら、もはや愛によって行動しているとは言えません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことで滅ぼしてしまうことになるからです。ですから、本質的でない事柄については譲歩することも必要なのです。

 

それとは逆に、食べてはいけないと思っていたのに食べても全く問題がないのよと説得された場合はどうしたら良いのでしょうか。自分で納得して食べたのであれば問題はありませんが、そうでないのに食べるということがあるとすると、良心に責めを感じてしまうことになります。その場合の原則は、22節にあるとおりです。「あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。」

 

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなければなりません。前回のことばで言うと、5節にあります。「それぞれ自分の中で確信を持ちなさい。」ということばです。人から言われたからと言って、疑問を抱きながら食べるとしたら、それは罪です。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪なのです。ですから、自分の確信を持っていなければなりません。そういう意味では、だれかほかの人が何と言ったかということが重要ではなく、自分自身が聖書の言うところの「自由」の教理をよく理解し、それをバランスよく自分自身に適用しなければなりません。そのようにして、自分の確信を持っていなければならないのです。そうすれば、ほかの人が言ったことばに振り回されることなく、自分の確信として行動することができるようになるはずです。

 

 今、C-BTEの学びが行われていますが、ちょうど先週の木曜日で取り扱った箇所が、このローマ14章でした。そこでは、私たちの信仰は、規則という土台の上に建て上げられているか、原則という土台の上に建て上げられているかで決まるということを学びました。原則を理解して初めて、他人の意見に左右されずに、信仰に建て上げられるようになるからです。そして、この箇所をその原則に生き、キリストにある自由を守るための大事な箇所として学んだわけです。その原則とは何か、それは、それぞれが神の御前で自分の信仰としての確信を持っているということです。そうすれば、つまずいたり、さまたげられることもありません。

 

 以前、福島で牧会していたとき、ある人から「先生、クリスチャンがカラオケに行くのはどうなんですかね」と聞かれたことがありました。私は一度もカラオケに行ったことがないので、正直のところ、カラオケがどういうところなのかわからないのです。それで、ある日曜日の礼拝後に青年たちが集まって討論することになりました。テーマは「カラオケは罪か」です。おもしろかったですね。いろいろな意見が出ました。カラオケに行くには問題ないけれども、そこで飲んだり、騒いだりするのはどうかとか、カラオケに行くなら、自分の家で賛美した方がいいんじゃないかとか、いや、友達に伝道するためにそうした付き合いで行くのは問題ないんじゃないかとか、です。皆さん、どうですか。カラオケは罪ですか。

 今日の聖書の箇所は、このように「白黒の判断をつけることが難しい領域」に直面した時、どうしたら良いかのヒントを与えてくれます。それは、神の御前で自分の信仰の確信を持っていなさい、ということです。しかも、その確信を相手に押し付けるのではなく、相手の考えも受け入れなければなりません。キリストはその人も哀詞、その人のために変わりに死んでくださったほどの人だからです。その人の意見をさばくのではなく、尊重しなければなりません。それは、神の国は食べたり、飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。これをカラオケに適用するとしたら、神の国はカラオケに行っても良いかどうかということではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めるべきです。

 

 どうですか、何だからスッキリしませんか。私たちはとかくこれをしても良いのか悪いのか、そうした規則という土台の上に立ちがちですが、大切なのは、この福音の原則に立つことです。その中から、私たちはどうすべきなのかを判断することです。そういう意味で重要なのは、私たちが福音をどのように理解しているか、聖書の自由の教理をどのように理解し、それをバランスの取れた、成熟した適用をしているかどうかということです。そして、そこにはたえず信仰の仲間がいるわけで、不必要にその人たちの感情を害さないようにその自由を控えめに、無理に人に押し付けることをせずに用いるということです。

 

 皆さんの行動の基準は何でしょうか?クリスチャンは正しい人でなければなりませんが、正しい人であるというだけでは駄目です。正しい人であると同時に広い心、寛容な心を持っていなければなりません。批判するのではなく受け入れることが必要です。それは教会も同じで、教会は福音の真理の上に立たなければなりません。しかし、それだけではだめです。それと同時に、兄弟姉妹に対して寛容でなければなりません。互いにさばきあうのではなく、互いに平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていこうではありませんか。