キリストにあって歩みなさい 伝道者の書7章15~29節

2020年1月3日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書7章15~29節(旧約P1147)

タイトル:「キリストにあって歩みなさい」

 

 主の2021年、明けましておめでとうございます。この新しい年、皆さんはどのような御言葉が与えられたでしょうか。私は詩篇92:13の御言葉が与えられました。「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神のおお庭で花を咲かせます。」悪者は青草のように萌え出でますが、主を愛する者は、主の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせます。この新しい年も、主の大庭、主の幕屋の庭で花を咲かせる年になりたいと思います。

 

さて、この朝私たちに与えられている御言葉は、伝道者の書7章15節からの御言葉です。伝道者は7章前半のところには、何が人のために良いことなのかを、知恵のある者と愚かな者の対比を通して学びました。その中心は何かというと、13節にあるように「神のみわざに目を留めよ」ということでした。神が曲げたものをだれもまっすぐにすることはできません。すなわち、神の成されたことをだれも変更することはできないのですから、それをありのままに受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのがベストです。どのように受け入れれば良いのでしょうか?14節にあるように、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」ということでしたね。なぜなら、「順境日も」も「逆境の日」も共に神がお与えになられたものだからです。これもあれも、神のなさることなのです。ですから、そのすべてが神の主権によって成されていることを覚え、その神にすべてをゆだねることが求められているのです。今回はその続きとなります。

 

Ⅰ.正しすぎてはならない、悪すぎてはいけない(15-20)

 

 まず、15~20節までをご覧ください。「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」

 

 非常に含蓄のある言葉ではないでしょうか。この新年礼拝にふさわしい御言葉だと思います。15節の「すべてのことを見てきた」とは、人生におけるすべてのことです。その中には考えられないようなこと、信じられないようなこともあります。何とも理不尽だなぁ思えるようなことも含まれています。たとえば、その後にあるように「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」というようなことです。私たちもこのような現実に直面することがあるのではないでしょうか。そして、その度に、イエス様を信じ、神様に信頼して歩むことにいったいどんな意味があるのだろうかと考えさせられるわけです。中には、そのような不条理を経験する中で、「聖書はもういらない」と信仰から離れてしまう人もいます。しかし、そのような現実の中にあっても、神を恐れて生きることを学ばなければなりません。

 

伝道者ソロモンは、その理由を次のように語るのです。16~18節です。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」

 

どういうことでしょうか。正しい人が正しいのに滅び、逆に、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがありますが、これもあれも、神がなさることなのです。私たちにはわからないことがあります。そうかといって正しい人であることが問題なのではありません。たとえ、正しい人が滅びていくかのように見えても、正しい人であること、イエス様を信じて義と認めていただくことは、神に受け入れていただく唯一の道であることに変わりはありません。問題は、自分で義と認めてもらおうとあくせくすることです。ですからここには「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。」とあるのです。そうかと言って、悪すぎればいいのかというとそうでもありません。正しすぎるのはよくありませんが、悪すぎてもいけないのです。なぜなら、自分を滅ぼしてしまうことになるからです。

 

それが18節で言っていることです。「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」この「一つをつかみ」とは、正しすぎることであり、知恵ありすぎることです。そして「もう一つを手放さないのがよい」の「もう一つ」とは、悪すぎることであり、愚かであることです。どちらも手放さないで、両方持っているのが良いのです。つまり、神に信頼し、すべてを神にゆだね、神がなさることを受け入れて、神に感謝して生きることです。それが神を恐れて生きる人なのです。

 

20節にその理由が述べられています。「この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」この地上には正しい人など一人もいないからです。それなのに、自分を正しい者とするなら、あの律法学者やパリサイ人たちのように、人をさばいてしまうことになります。彼らは自分たちには神の律法が与えられているので、優れた者、正しい者だと思い込んでいました。その結果、そうでない人たちをさばいていたのです。そのようなことが私たちにもあります。私たちももし自分を正しい者とするなら、同じ誤りに陥ってしまいます。それは最初の人アダムの罪そのものです。彼の問題は何だったのでしょうか。それは自分を善悪の基準としたことです。神ではなく自分を基準にしました。その結果、神から「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と問われたとき、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と答えたのです。あろうことか、神と妻のエバとを非難したのです(創世記3:11,12)。

 

残念ながら、今も「あなたのせいで・・・」と罵り(ののしり)合う夫婦喧嘩がどれほどあるでしょう。問題は、正しすぎることです。「私は正しい。悪いのはあなただ」と徹底的に主張するなら、結婚関係は破綻してしまいます。それはすべての人間関係、また国と国との関係にも当てはまることです。そのようにして自分を滅ぼすことになってしまうのです。

 

また、「知恵がありすぎる」のも問題です。そこには大きな落とし穴があります。ソロモン王はこの世の誰よりも知恵がありましたが、多くの妻を持つことで妻たちの偶像崇拝に陥り、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、神と人のありがたさを忘れさせるきっかけになってしまい、人を滅ぼしてしまうことになります。

 

そうかといって、悪すぎるのもよくありません。ここには、「あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。」とあります。これは、悪すぎなければ多少の悪は赦されるということではありません。これは、悪や愚かさであることを開き直ることは危険であるという意味です。「どうせ、私は・・なんだから」と開き直るなら、自分を滅ぼしてしまうことになります。また、「神のかたち」に造られたすべての人には良心があり悪いことをしたら心が痛みますが、悪いことをし過ぎると、それさえも感じなくなってしまいます。その結果、生ける屍のような状態になってしまうわけです。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。Ⅰヨハネ2:1をご覧ください。ここに解決があります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」

私たちはキリストによって罪が贖われ、神の前に義人とされました。しかし、私たちが罪を犯さずに生きることは不可能です。作家の三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことなどできないのです。…正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、内側の醜さに心を痛めずにはいられません。しかし、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方がおられます。その方は義なるイエス・キリストです。ですから、あなたが罪を犯したなら、その罪を悔い改めて、神に立ち返り、キリストにとどまることです。そうすれば、あなたの罪は赦されるのです。

18節に「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。」とあるのは、このことです。つまり、正し過ぎるのではなく、かといって悪すぎるのでもなく、謙虚になって自分の罪を認め、神の恵みとイエス様のとりなしに生きることこと、これが神の知恵であるということです。神を恐れる者は、この両方を持って出て行くのです。

 

あるとき、一人の若いクリスチャンの女性が、自分の弱さを率直に認めながら、真心から「私はイエス様なしには生きてゆけない・・」と言っているのを聞いたことがありますが、その謙遜な姿にとても感動したのを覚えています。自分を義とするのではなく、神の義、イエス・キリストの義に生きること、それが神の知恵なのです。

 

19節をご覧ください。「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。」この知恵は、十人の権力者よりも、知恵ある者を力づけます。もっと力があるという意味です。なぜでしょうか?この地上に罪を犯さない人などひとりもいないからです。義人はいない。一人もいない。みんな罪を犯さずには生きていくことができません。そのような日々の歩みの中で私たちを真に力づけるのはこの神の知恵なのです。

 

Ⅱ.人の語ることばをいちいち心を留めてはならない(21-22)

 

次に、21~22節をご覧ください。ここにもう一つの知恵が語られています。「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。」

人の語ることばをいちいち心に留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気が奪われてしまうことになります。それを気にしてどれだけ多くの人々が心を痛めていることでしょうか。ネットの書き込みで自殺する人も跡を断ちません。しかし、悪意ある者のことばは気まぐれです。そんなことばにいちいち躓き、心をかき乱されるのも馬鹿馬鹿しいことです。イギリスの有名な牧師チャールズ・スポルジョンはこう言いました。「人の舌を止めることはできない。だったら、自分の耳を閉じて、話されたことを気にしないことである」と。

22節には、どうして人の語ることばをいちいち心に留めてはならないのか、その理由が書かれてあります。それは「あなた自身が他人を何度もののったことを、あなたの心は知っているのだから。」です。なるほど、考えてみると、自分自身もよく人の悪口を言ってしまいます。自分も他人をののしるのだから、他人もあなたをののしるのは当然じゃないかというのです。自分は人から批判されたり、非難されたりするのが嫌なのに、自分は平気で人の悪口を言ってしまう。これが人間の性です。

 

大川従道先生が、ご自身の説教集「風は己が好む所に吹く」という本の中で、聖霊がご自身の教会を好んでいない、ということを感じた時があったと言っておられます。それは、先生がよく信徒を裁いていたことが原因でした。少し長いですが、その部分を引用させていただきます。

「私は鈴木健二さんの気くばりの本が出る前から、「気くばり牧師」と言われていました。日曜日、朝から晩まで私は気を配っていたのです。絶対に人から後ろ指さされないように気をつかっていたのです。老人には優しくし、青年にも仕え、人間的な努力で、電話の取り方、言葉づかい、カウンセリング、あらゆることに配慮していました。

日曜日の夜は疲れきり、コカコーラとスルメを買ってきて、妻を相手に信徒の悪口を言うのが楽しみでした。若い牧師が一生懸命頑張っているのだから、日曜日の夜くらい信徒の悪口を言わせてもらわなければ、と思っていたのです。

「あの役員は言うことは言うけれど金は出さないね。いつになったら給料上がるかね」

「婦人会の彼女はしゃべること喋ること。ありゃ、口から生まれてきたのかね」

「今の若者はしつけがなってないねえ。親の顔が見たい」信徒を裁くと溜飲(りゅういん)が下がり、「スカッとさわやかコカコーラ」でした。そして、また月曜日からさわやかに伝道する、というのを繰り返していました。

その点を、私は主から厳しく指摘されました。

・・・

しかし、私は神様から言われました。

「何を言うか。お前に必要だから、この人をここに置くのだ」

・・・

私は主の御前に涙を流しながら、「イエス様、ごめんなさい。あなたの愛する信徒を裁いていました。あなたが置いてくださったのに、「あいつの根性が悪い」などと思っておりました。赦してください!」

気持ちが変わらないうちに、次の日曜日にこんな説教をしました。

「愛する皆さん、私に御言葉が与えられました。この御言葉通りに生きれば絶対に祝福されると思います。それは、「風は己が好む所に吹く」という御言葉です。聖霊様は人格を持っておられて、人を裁くことがお嫌いです。それを示されました。皆さんの中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんけれど、私はけっこう皆さんを裁いておりました」

うなずいている人がいました。

「私はそれがいけないことだと分かりましたから、もう、どんなことがあっても皆さんを裁かない牧師になります。どうか私を赦してください。ところで、皆さんも、事によると、私を裁いていたでしょう」

またうなずいている人がいました。

・・・

それから教会に人が増え始め、試練もありましたが、ものすごく祝福され、教会堂も建てられました。大川先生いわく、祝福の原点は何でしょう。「裁き合わない」ことです。神様がくださった人生を裁き合わないことです。そうすれば、聖霊様は喜んでくださり、私たちの人生を祝福してくださいます。

 

私たちも他人を何度ののしったことでしょう。だから、他人があなたをののしるのは当然なことなのです。でもそのようなことにいちいち心を留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気を遣わなければならなくなるからです。むしろ、私たちは人をののしるのではなく神の愛で人を評価し、その人の良さを見つけ、その人のためにとりなしの祈りをささげていくべきです。そのように人を否定的な眼ではなく、肯定的な眼で見るなら、あなたもそのように観られるようになるでしょう。人の悪口、陰口は、自分に返ってくるものです。

 

米国の伝道者スタンレー・ジョーンズが、ある国の有力な将軍と話をしていたときのことです。この将軍は密かに女を囲っていました。

彼はしきりに、他のクリスチャンの悪口を言い出しました。ジョーンズは、このような状態の人のことをよく知っていました。

「悪意の背後には、自分自身の堕落を隠そうとする動機があるということ」を。

そこでジョーンズは、将軍の語る批判の言葉をさえぎって言いました。

「将軍、ペテロがヨハネについて『主よ、この人はどうですか』とイエスに尋ねたとき、主はこう言われました。『それがあなたと、何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従ってきなさい。』(ヨハネ21:22)」

すると将軍は素直に、「どうも負けました」と自分の非を認めました。

 

大切なのは、他の人があなたのことを何と言っているかということではなく、主があなたに何と言っておられるかということであり、主に従っていくことです。

 

Ⅲ.キリストにあって歩みなさい(23-29)

 

最後に、23~29節をご覧ください。まず、23~25節までをお読みします。「私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。」

伝道者は、人生におけるすべてのことを見極めるために知恵を得ようと決心しましたが、それは無理なことでした。知恵は遠いかなたにあって、だれもそれを見出すことはできないからです。そこで、彼は知恵と物事の道理を追及し、捜し求めました。すると、そこにあったのは人間の悪行と狂気の愚かさばかりでした。

 

その一つが26節にあることです。「私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」

ここをちょっと見ると、女性の皆さんは憤慨してしまうかもしれませんね。でもこれは女性を蔑視したり、差別しているのではなく、私たちが陥りやすい罠について警告しているのです。それが「女」であり、「男」であるということです。つまり「異性」です。この「女」という言葉ですが、これは「娼婦」のことを指しています。伝道者は、こうした娼婦が死より苦々しいということを実感したのです。ソロモンには千人もそばめがいましたから、それがどれほど男を捕らえる罠であり、網であり、手かせであるのかを実感していたのでしょう。

 

しばらく前に、NHKBSプレミアムで「洞窟おじさん」というスペシャルドラマを放映しました。これは、親の虐待から逃れ13歳で家出をした少年が、43年間も洞窟で生活したという実話です。山奥の洞窟で一体どうやって43年間も1人で生活することができたのでしょうか。この少年はヘビや木の実で食いつなぎながら、やがて山の幸を売って大金を稼ぐ知恵を身につけていくのです。その中に自力でイノシシを狩るシーンが出て来るのですが、どうやって狩るのかというと罠を使ってです。土を深く掘りそこに竹を槍の形に鋭く切ったものを並べ、その上にうっすらと土をかぶせて元のように見せかけるのです。そして、イノシシの前に自分の姿を現して襲わせるのです。逃げるふりをした少年はその罠のそばを駆け抜け、イノシシがその罠に落ちるようにするのです。自分が落ちたら大変ですが、そうやってイノシシを捕まえて食いつないだのです。まさに女は罠であり、その心は網、その手は、かせです。神に喜ばれる者は女の罠から逃れますが、罪に陥る者は女に捕らえられるのです。

 

27~28節をご覧ください。「伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。」

「道理」とは、物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道のことです。伝道者はこの道理を見いだそうと一つ一つ当たりましたが、何も見出すことができませんでした。彼が見出したのは、千人のうちで心の真実な人は、男はせいぜい一人ぐらいしかいないということ、女の人に至っては一人もいませんでした。なんだ、やっぱり女性蔑視ではないかと思われるかもしれませんが、それは今の私たちの感覚とはかけ離れています。というのは、聖書は男女が等しい価値感を持っていると教えているからです。いずれにせよ、人として行うべき正しい道を知っている人はほとんどいませんでした。

 

そこで伝道者はこういうのです。29節をご覧ください。これが伝道者の結論です。ご一緒に読みましょう。「私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。」

伝道者は、知恵の探求の結果、正しい結論に至りました。それは、神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということです。どういうことでしょうか。神は人を真っ直ぐな者として創造されたが、人は勝手に向きを変え、罪の生活へと向かって行った、ということです。「真っ直ぐな者に造られた」とは、正しい者に造られたという意味です。それは神のかたちに造られたということです。神を愛し、神と交わり、神の栄光を現す者として私たち人間を造られたのに、人は、本来造られた目的から離れて自分勝手な道に向かってしまいました。

 

これこそが、人間の本当の問題です。私たちの根本的な問題は神から離れてしまったことです。聖書ではこれを罪と言っています。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは「的外れ」を意味します。本来なら神という的に向かって矢が放たれなければならないものを、その的を外してしまいました。それが「罪」です。その本質は「自分中心」です。神中心ではなく自分中心であること、それが罪です。罪を英語で書くと「SIN」と書きますが、真中にあるのは何でしょうか?「I」、「私」です。これが罪の本質なのです。

 

ですから、もし私たちが本当に満たされたいと願うなら、この罪を解決し、再び元々の状態、真っ直ぐな者に造り変えていただかなければなりません。神のかたちに再創造していただく必要があるのです。どうしたら新しく造り変えていただくことができるのでしょうか。Ⅱコリント5:17にこう約束されてあります。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。罪という古い性質が過ぎ去って、すべてが新しくされます。もしあなたが人生に答えを見出したいなら、満ち足りた人生を送りたいと願っているなら、キリストにあって神が造られた元の状態に造り変えられなければならないのです。

 

それは自力ではできません。ソロモンもそうでした。彼も自分の力で何とかしようとしましたができませんでした。日の下でどんなに労苦しても、「空の空。すべては空。」なのです。しかし、ここにソロモンよりも偉大な方がおられます。私たちを「真っ直ぐな者」、「正しい者」に造り変えてくださる方がおられるのです。それはイエス・キリストです。だれでも、キリストのうちにあるなら、新しく造り変えられます。それは完全無欠な人間に変えられるということではありません。神の目には、イエス・キリストのうちにいる者とされるということです。私たちはイエス・キリストのうちにいなければただの罪人にすぎません。しかし、イエス・キリストのうちにいるなら、私たちの罪が覆われるのです。キリストという義の衣を着せられるからです。イエス・キリストの義の衣を着て、神に再び受け入れられた者となり、本来の姿に造り変えられるのです。それ以外にいかなる理屈を探しても答えは見つかりません。唯一の答えは、イエス・キリストにあります。コロサイ2:3に「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」とありますが、このキリストに知恵と知識の宝がすべて隠されているからです。

 

あなたはどこに知恵を求めていますか。神の知恵はこの方、イエス・キリストにあります。ですから、このキリストを求め、キリストによって新しく造り変えられ、キリストの知恵に生きる者とさせていただきたいと思います。これが私たちの教会の今年の目標です。「キリストにあって歩む」。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)

このキリストにあって歩むお一人お一人の上に、神の知恵と知識が豊かに満ち溢れますようにお祈りします。

知恵ある者と愚かな者 伝道者の書7章1~14節

伝道者の書7章に入ります。伝道者ソロモンは、6章の終わりで、何が人のために良いことなのかを、誰も告げることはできない、と言いました。しかし、この7章では、何が人にとって良いことなのかについて、よいものと、よりよいもの、知恵ある者と愚かな者の対比を用いて語っています。

Ⅰ.死ぬ日は生まれる日にまさる(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。1節には、「名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。」とあります。名声とは、その人の性質であり、評判のことです。また、良い香油とは、高価な香油のことです。つまり、よい評判を得ることは、高価な香油を持つよりもまさっているということです。リビングバイブルでは、「良い評判は、最高級の香水より値打があります。」と訳しています。では良い評判とはどのような評判なのでしょうか。

1節の後半を見てください。ここには、「死ぬ日は生まれた日にまさる。」とあります。ギョッとするような言葉です。私たちは普通命が誕生した時ほど喜ばしい日はないと思っています。ですから、その人の誕生日を記念してHappy Birthday!と祝福するわけですが、ここでは、その生まれた日よりも死ぬ日のほうがまさっているというのです。どういうことでしょうか。「死ぬ日は生まれる日にまさる」とは、生きるよりも死ぬ方が良いという意味ではありません。むしろ、私たちの人生は死によって終わるということをきちんと受け止めることが重要であるということです。ですから、良い評判を得る人とは、人生には終わりがあるということをきちんと認識し、死について真剣に考える人のことなのです。私たちはどちらかというと名声よりも良い香油を求めてしまいます。すなわち、裕福で何不自由のない生活、社会的な地位を得ること、あるいは、教会の奉仕に勤しむことなどです。それらのことが悪いと言っているのではありません。それよりももっと良いものがあると言っているのです。それは何か、それは名声です。良い評判です。あなたの中身の方が大切なのです。あなたが死について真剣に考え、それに備えた生き方をすることの方がずっとまさっているのです。

それは、2節を見てもわかります。2節には、「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」とあります。祝宴に行くよりも、葬式に行くほうがよい、というのです。なぜでしょうか?「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから」です。これは、決して結婚披露宴などどうでも良いということではありません。結婚披露宴も良いものです。イエス様もカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。しかし、それよりもよいのは、喪中の家に行くことです。なぜなら、死について深く考えさせられるからです。人生の終わりが死であることを意識する人は、日々の生活を律し、有意義な地上生涯を送るようになるからです。

私は、いろいろな式に関わることがありますが、正直、お葬式の時が一番考えさせられます。実際、多くの人が聖書の話に真剣に耳を傾け、人生観とか、死生観について考えるのではないでしょうか。その一方で祝宴となると、どんなに聖書の話をしても、ほとんどの人が耳を貸そうとしません。もう冗談を言ったり、茶化したり、受け流したりするわけです。しかし、お葬式になると他人事のように話を聞くということがほとんどありません。死という現実が目の前に突きつけられて、真剣に考えざるを得ないのです。だから、祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよいのです。

3節をご覧ください。「悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。」どういうことでしょうか。尾山令仁先生が訳された創造主訳聖書では、「悲しみは笑いに勝る。悲しみによって、心は良くなる。」と訳されています。つまり、人は悲しみを体験することによって人生の意味について深く考えるようになるということです。そして、生きていることのありがたさを思うようになるということです。

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:3-4)

これは、イエス様が教えられた「至福の教え」です。「至福の教え」といっても、自分の腹を肥やす「私服の教え」ではありません。どのような人が幸いな人なのかという意味の至福の教えです。イエス様はこの中で8つの事を教えておられますが、その一部がこれです。それは、心の貧しい者であり、悲しむ者です。この貧しさとか、悲しみというのは単に物質的な貧しさとか、感情的な悲しみのことではなく霊的な貧しさ、霊的な悲しみのことです。一般に人はこうし貧しさや悲しみを避けようとする傾向がありますが、こうした貧しさや悲しみを体験することによって、人生の意味を考えるようになり、たましいの救いを求めるようになります。また、神を信じる者にとっては、そうした悲しみや苦難の中に神の目的と意味を見出すきっかけとなります。ですから、詩篇の作者は、このように言っています。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのみおしえを喜んでいます。」(詩篇119:71)

アメリカの主婦の方で、メアリー・ネメック・ドーレマスという方がおられますが、彼女はウイルスに冒されてからだが麻痺し、全身が機能不全に陥りました。

彼女は、車いすの生活をしながら、日中は30分おきに薬を飲み、夜間も数回飲むことによって、かろうじて全身麻痺から守られています。しかし、私はいったいどうしてこんな目にあうのかを、神さまに尋ねることはしませんでした。むしろ私は、いつもこういうふうに祈りました。

「神様、私に何をお望みなのでしょうか。私はどこへ行くことになっているのでしょうか。」と。

人生には目的があり、しかるべき時にそれが示されることを知りました。私は理由を知りたいという気持ちを放棄しましたが、この態度は自分にとってとても健康的なことでした。

彼女は、こうした苦しみの中で、その神との関係が深められ、信仰が強められていったのです。まさに、苦しみにあったことはわたしにとって幸せでした。それにより、神のみおしえを学ぶからです。

それに対して、笑いは一時的なものであり、単に時間を浪費するだけの結果で終わってしまいます。 6節には「愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。」とあります。

皆さん、茨を燃やしたことがありますか。茨を燃やすとすぐによく燃えますが、残念なことにすぐに燃え尽きてしまいます。ですから、たとえ鍋の下に置いてもパチパチとはじけるだけで、大した火力とはならないのです。愚か者の笑いも同じです。その時だけです。その時は一時的に元気になったかのように感じてもすぐに元に戻ってしまいます。それは空しいことです。すべての笑いがそうだと言うわけではありませんが、愚か者の笑いはそうなのです。そんな笑いを求めてあくせくするよりも、人生で経験する様々な悲しみ、苦しみから学ぶことのほうがどれほどよいでしょう。

4節をご覧ください。「知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。」

これは2節でも言われてきたことと同じことです。知恵ある者の心は喪中に向きます。なぜなら、彼の人生観は、死を前提として築き上げられているからです。しかし、愚か者の心はそうではありません。死の現実を直視することができないので、楽しい家にしか心が向きません。人生の空しさや虚無感に浸っているよりも、おもしろおかしく生きたほうがましだと思っているからです。そんなことを考えても暗くなるばかりだし、どうせ考えても答えなんか出ないのだから、だったらおもしろおかしくい生きればいいんじゃないかというのです。でも聖書は、こういう人は愚かな人だと言っています。

あなたの心はどこに向いていますか。神の人モーセはこう祈りました。「どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

喪中の家に行くとは、人生には限りがあるということを悟り、その限られている時間の中で、神様から知恵をいただき、また導いていただいて、与えられている一日一日を、一瞬一瞬を大切に生きていくことにほかなりません。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。このことを心に留めて、自分の日を正しく数え、知恵の心を得させていただきたいものです。

Ⅱ.忍耐は、うぬぼれにまさる(5-12)

次に、5~12節までをご覧ください。5節をお読みします。「知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。」

知恵のある者の叱責とは、建設的な批判や助言のことです。そのような声に耳を傾けるなら、その人はより成長し栄誉を得ることになります。しかし、それとは逆に、愚かな者の歌をいくら聞いても何も残るものありません。この愚か者の歌とは何を指しているのかわかりません。ある人は、これは酔っ払いの歌ではないかという人がいますが、それが酔っ払いの歌とようよりも、「知恵の初め」である神様抜きの、人間中心の歌と理解するのが良いと思います。そのような歌は何の益ももたらしません。

7節をご覧ください。「虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす。」どういうことでしょうか。虐げとは、虐待とか辛い出来事のことです。こういうものがあると知恵のある者を狂わせてしまいます。つまり、判断力を失い、愚かにふるまうようになってしまうということです。知恵のある者を狂わせてしまうもう一つのものは、賄賂です。賄賂は人の心を狂わせます。リビングバイブルでは、「わいろは人の判断力を麻痺させる」と訳しています。正しい判断ができなくなってしまうのです。ではどうしたらいいのでしょうか。最初から賄賂を受け取らないことです。政治の世界では贈賄事件があとを断ちません。それは必ず明るみに出ます。ですから、一番良いのは最初からそれを拒否することです。それがまことの知恵なのです。

8節をご覧ください。「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。」「事の終わりは、その始まりにまさり」とは、1節から4節で語られてきたことに通じるところがあります。つまり、事の結果を見るまでは軽はずみに物事の判断をすべきではないということです。人生の終わりとは何ですか。それは死です。その死の結果を見るまでは、その人の人生がどうであったのかを判断することはできません。たとえ生きている間にどれほど裕福であったとしても、真のいのちを損じたら何の意味もありません。イエス様はこのことを、畑が豊作であったあの金持ちのたとえで教えられました。彼は作物が豊作だったとき、自分のたましいにこう言いました。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。そうだ!倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をすべてしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:17-19)

しかし、神は彼にこう言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)

彼の問題はどこにあったのでしょうか。人のいのちが財産にあると思ったことです。けれども、そのいのちが取り去られるとしたら、いったいそこにどんな意味があるというのでしょうか。そのいのちの良し悪しは、事が終わってみないとわからないのです。この地上での生涯は苦労が絶えないものであっても、その生涯の中で救い主イエス・キリストと出会い、天の御国に引き上げられる終わりであるなら、その人の終わりは、その始まりにまさるのです。私は、そのような人を何人も見てきました。たとえその人の生涯がどんなに悲惨なものであったとしても、それが天につながる生き方であるなら、それこそ幸いな一生であったと言えるのではないでしょうか。

ですから、事の結果を見るまでは忍耐すべきで、軽々しく心を苛立たせてはなりません。あなたは心をイラってしていませんか。私たちはちょっとしたことですぐにイライラしてしまいます。それは愚か者の心に宿るものです。でも知恵のある者は違います。知恵のある者の心に宿るのは、忍耐です。「忍耐はうぬぼれにまさる。」とあります。忍耐して後悔することはありませんが、うぬぼれると、高ぶると破滅の一途をたどることになります。箴言16:18には、「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とあります。それは、罪の性質の一つなのです。私たちはうぬぼれではなく、忍耐を身につけましょう。軽々しく心を苛立たせるのではなく、イエス・キリストによって神との平和が与えられていることを感謝し、この平和が心を支配するように祈ろうではありませんか。

心が平和であるために必要なもう一つのことは何かというと、今に感謝し、今を大切に生きることです。10節をご覧ください。ここには、「「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。」とあります。

「昔のほうがよかった」というのは、過去に生きている人の口癖です。昭和の古き良い時代を知っている人は、ついつい言ってしまいます。「昔のほうがよかった」と。しかし、それは過去に生き続けていることです。確かに、昭和の時代の方が良かったなあと思います。私は別に昭和の初期から生きているわけではありませんが、そのように感じることがよくあります。でも、それは知恵によるのではありません。愚問にすぎません。なぜなら、どんなに過去が良くても、私たちは今を生きなければならないからです。であれば、今がいかに困難な状況であっても、この今をどのように生きるかを考えることのほうがもっと重要なのです。もしこのように言うことがあるとしたら、何が問題なのでしょうか。どこに原因があるのでしょうか。それは終わりまで待つことができずイライラしてしまう心と、すぐにそのように判断してしまう思いです。だから伝道者は8節で、「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」と言ったのです。私たちは「待てない」のです。すぐに結果を求めてしまいます。すぐに判断してしまうのです。そんな私たちに聖書は、「あわてない、あわてない。一休み、一休み」と問いかけているようです。事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまるのですから。私たちはすぐに結果を求めるのではなく、事の終わりがどうなのかを見て判断しなければなりません。終わり良ければすべて良し、です。それまでは神の平安の中でじっと忍耐し、神に示されることをコツコツと行っていけばいいのです。大切なのは自分がどう思うのか、どう感じるのかではなく、永遠に変わらない神のことばである聖書が何と言っているのかであり、そのみことばに堅く立ち続けることです。

11節と12節をご覧ください。「資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」

「資産を伴う知恵は良い」とはどういう意味でしょうか。新共同訳では、「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。」と訳しています。創造主訳聖書では、「知恵は、相続財産のように価値がある。いやそれ以上に、人々に有益だ。」と訳しています。ここでは10節の「知恵によるのではない」にかけて、知恵をたたえているのです。それは遺産に劣らず価値があり、いや、それ以上に人々にとって有益であるということです。

なぜでしょうか。その理由が12節にあります。それは、金銭と同様に人を守ってくれるからです。「陰」というのはそういうことですね。金銭は、たとえば病気をしたり、災害にあったりした時にとても役に立ちます。そういう意味で守ってくれるわけです。「金銭の陰にいるようだ」というそういう意味です。それと同じように、知恵はその人を道徳的堕落から守ってくれます。いや、知恵はその持ち主を生かすという点でもってすぐれています。考えてみるとそうですよね。どんなに資産があっても、どんなに金銭があっても、それが人を生かすことにはなりません。むしろ、その人をダメにしてしまうことさえあります。しかし、そこに知恵が伴うことによってそうした資産や金銭が生かされるだけでなく、ひいてはその人自身を生かすことになります。そういう点で、知恵は金銭よりもさらにまさっていると言えるのです。

皆さん、私たちにはこの知恵が与えられています。コロサイ2:3には「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されています。」とあります。どこに知恵と知識の宝が隠されているのですか。「このキリストのうちに」です。神の恵みによってキリストを信じ、キリストのうちにある者とされた私たちは、この知恵と知識が与えられているのです。それは金よりも、純金よりも慕わしいものです。それなのにどうしてあなたは金がないと嘆くのでしょうか。私たちには金よりももっとすぐれた知恵と知識が与えられていることを覚え、日々感謝と喜びをもってキリストに聞き従う者でありたいと思うのです。

Ⅲ.順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(13-14)

最後に、13節と14節を見て終わりたいと思います。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」

それゆえ、伝道者はこのように勧めるのです。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。」神のみわざを、だれも変更することはできません。起こったことは受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのです。それが知恵のある人です。

でも、私たちの人生には順境の日ばかりではなく、逆境の日もありますね。そういう時にはどうしたらよいのでしょうか。ここには、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ。」とあります。新改訳聖書第三版では、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」となっています。私はこちらの訳のほうが好きですね。順境の日には喜び、逆境の時には反省すればいいのです。なぜなら、「順境」も「逆境」も共に神がお与えになるからです。どうせなら「順境の日」ばかりだといいのですが、そういうわけにはいきません。私たちの人生には「順境の日」も、「逆境の日」もあります。どうして神様は順境の日ばかり与えてくれないのでしょうか。それは、もし順境の日ばかりなら、人は反省することを忘れて高慢になり、神をないがしろにするからです。逆に、逆境の日ばかりならば、人は喜びと希望を失い失意に沈み込んで、神を忘れてしまうでしょう。ですから神は、私たちの人生に順境の時と逆境の時をバランスよく与えてくださり、すべての主権が神にあることを教え、神に信頼することを求めておられるのです。

順境の日と逆境の日、あなたは今、どちらの日を迎えていますか。順境の日には喜び、逆境の日なら反省しましょう。それがどちらであっても、それも神のみわざであることを思い、神の主権を認め、神に信頼したいと思うのです。

過去の偉人たちも挫折を乗り越えて成功に導かれています。エイブラハム・リンカーンは小学校を中退し、若いときには、ピジネスのトラブルにより無職になります。恋人が病気で亡くなると鬱になり、州議会、上院、下院選挙に立候補するも計8回落選しました。しかし、最後に彼は大統領になりました。51歳の時です。

彼は、このような言葉を残しています。「転んでしまったことなど気にする必要はない。そこからどうやって立ち上がるかが大事なのだ。」まさに、逆境の日には反省せよ、ですね。彼がそのようにして立ち上がることができたのは、彼が神に信頼し、聖書を通して神の知恵に生きていたからです。

発明王として有名なトーマス・エジソンは、若いころ「生産性がなさすぎる」という理由で解雇されました。電球の発明のために失敗を繰り返しますが、「千回の失敗をしたのではなく、千回のステップを経て電球の発明ができた」と語ったそうです。

ウォルト・ディズニーといえば、今では知らない人はいません。しかし、彼は若いころ、新聞社を解雇されましたが、「彼は想像力に欠け、良い発想は全くなかった」と言われていました。彼は、ディズニーランドを建てる前に何度も倒産を経験しています。

偉人たちの生涯をみると、大きな働きをする人ほど、周りに理解されず辛い日々を過ごしていたように思います。しかし、周囲の評価に左右されない信念を持っていたことが分かります。

イスラエルには砂漠の花園と呼ばれる地域があります。普段は砂漠で全く何もないような所ですが、いったん雨が降ると、一週間後には一面の花園が出現します。雨が降らなければ、2年でも3年でも花を咲かせるために待機するのです。私たちの人生にも砂漠の時、逆境の時があります。けれども、時がくれば、必ずや神様が花を咲かせてくださいます。大切なのは、その逆境の時をどのように過ごすのかということです。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。どんな日でも共にいてくださる神様に目を留め、神のみわざに期待しながら、神のみことばに学び、根を深く張っていきたいと思います。それが聖書の言う、知恵のある者の生き方なのです。

大きな喜びの知らせ ルカ2:8-12

2020年12月20日(日)クリスマス礼拝メッセージ

聖書:ルカ2:8-12(新約P110)

タイトル:「大きな喜びの知らせ」

 

 主の年2020年のクリスマスを迎えました。おめでとうございます。聖書には、イエス・キリスト誕生という驚くべきニュースが最初に伝えられたのは、ユダヤの田舎のベツレヘムという町で、羊を飼っていた羊飼いたちのところでした。彼らが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていると、突然、主の使いが彼らのところに来て、こう告げたのです。

 

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカ2:10-12)

 

 どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。救い主が生まれたからといって、彼らの人生が劇的に変わるわけではありません。救い主が生まれようが生まれまいが、彼らは依然として羊飼いを続けていかなければなりません。いったいなぜこれが喜びの知らせなのでしょうか。 きょうは、その三つの理由を見ていきたいと思います。かなわち、第一に、キリストはダビデの町でお生まれになられたということ、第二に、キリストは飼い葉桶に寝かせられたということ、そして第三に、あなたの救い主としてお生まれになられたということです。

 

 Ⅰ.ダビデの町で生まれた救い主(11)

 

 まず、11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。

キリストは、どこで生まれのでしょうか。ダビデの町です。ダビデの町とは、ユダヤのベツレヘムという小さな町です。実は、旧約聖書においては、「ダビデの町」はいずれもエルサレムでした。Ⅱサムエル5:7には、「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である」とあります。「シオン」とは「エルサレム」のことです。ですから、ダビデの町というのはエルサレムのことなのです。それなのに、ここには「ベツレヘム」とあります。どうしてルカはベツレヘムをダビデの町と言ったのでしょうか。それは、このベツレヘムこそダビデが生まれた出身地であったからです。Ⅰサムエル記17:11をご覧ください。ここには「 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。」とあります。元々、ダビデとはダビデの出身地のベツレヘムでしたが、ダビデがエルサレムを攻め取ったとき、そこをイスラエルの政治的、宗教的な中心地としたことから、これをダビデの町と呼ぶことにしたのです。しかし、ルカはそうではなく、ベツレヘムであることを強調しました。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが生まれるのはペレツへ無でなければならなかったからです。旧約聖書にそのように預言されていたました。ミカ書5:2を開いてください。ここには「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)」とあります。

 これは、キリストが生まれる約700年前に預言されたものですが、ここには、イスラエルの支配者となる者が、ベツレヘムから出ると預言されてありました。イスラエルの支配者とはイスラエルを治める者のことですが、それはユダ族のベツレヘムという小さな町から出ると言われていたのです。それはダビデの家系につながる方ですが、ダビデ王とは違いダビデの家系から将来出てくる支配者のことです。つまり、キリストはエルサレムではなくベツレヘムから生まれるという預言だったのです。それは、昔から、永遠の昔から定めでした。キリストはそのとおりにお生まれになられたのです。ということはどういうことかと申しますと、この方こそ間違いない救い主であるということです。

 

 まさか偶然でしょう、と思われる方もいるかもしれません。しかしこれは偶然ではありません。もしこの預言だけが的中したというのなら、あるいは偶然だと言えるかもしれません。しかし、キリストに関する預言の成就はここだけでなく、聖書の至るところに見ることができます。たとえば、キリストの誕生に関して言うなら、皆さんもご存知のように処女から生まれると預言されていましたが、その通りになりました。イザヤ書7:14です。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」有名な「インマヌエル」預言です。この預言のとおりに、キリストは処女マリヤからお生まれになられました。

そればかりではありません。イザヤ書9:6~7には、この方がどのような方であるかも預言されてありました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。やがて来られるみどりごは、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。その方はダビデ王のように王座に就きますが、ただの王座ではなくとこしえの王座です。その王座に就いて、王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支えるのです。だれがこんなことができるでしょう。だれもできません。しかし、神はおできになります。万軍の主の熱心がこれをするのです。その方はだれでしょう。そうです、神の子イエス・キリストです。

 

 このように、キリストに関する預言は旧約聖書の中にたくさんあります。直接的な預言だけで少なくても300以上あります。間接的なものも含めると、実に400以上あります。そのすべての預言が成就したのは、この人類の歴史上、イエス・キリスト以外にはおられません。イエス・キリストこそ、永遠の昔から、神が定めておられた救い主なのです。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

 

皆さんはあまり見たことがないと思いますが、1万円札の肖像となっている人物が誰だかわかりますか?そうです、福沢諭吉です。慶応義塾大学の創設者ですね。彼は、私たちが思っている以上に聖書の影響を受けていました。自分の子どもたちに、日々の教えという人生訓を書き残しましたが、そこには、天地万物を造られた神を敬うようにと書いていました。

それはともかく、彼が生まれたのは大阪にあった中津藩の蔵屋敷でした。彼の活躍を称えて、大阪の中津藩蔵屋敷があったところには福沢諭吉誕生の地という石碑が建っています。

偉大な生涯を歩んだ人の誕生を記念する、というのはよくありますが、約束通りに生まれたことを確認し、それを喜ぶためにお祝いするというようなことは聞いたことがありません。けれども、キリストは旧約聖書に約束された通りに生まれ、その通りの生涯を歩まれました。偉大な生涯を歩んだためにその人の誕生を記念する、というのではなく、約束通りに生まれたことを確認し、喜ぶためにお祝いするのがクリスマスなのです。

 

 Ⅱ.飼い葉桶に寝ているみどりご(12)

 

 第二のことは、キリストは飼い葉桶で生まれたということです。12節に、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりごを見つけます。」とあります。飼い葉桶で生まれたことが、どうして大きな喜びなのでしょうか。

 

皆さんは、飼い葉桶という言葉を聞くと、家畜小屋に置かれた家畜のえさを入れる箱を思い浮かべるかと思いますが、当時の飼い葉桶は、桶といっても大きな石や岩に細い溝が掘られただけのものでした。そこに動物のエサになる藁が敷かれてあったのです。その上にキリストは寝かされました。また、飼い葉桶があったということは、そこが家畜小屋であったことを意味していますが、当時の家畜小屋も私たちが想像しているような木で作られた小屋ではなく、一般に洞穴を掘って作られただけのものでした。その中に家畜を入れていたのです。キリストが生まれたのはそのような所でした。それがどうして喜びなのでしょうか。最悪じゃないですか。皆さんに待望の赤ちゃんが生まれたら、そんなところに寝かせるでしょうか。だれでも暖かくて柔らかいベッドに寝かせたいと思うでしょう。それなのに、キリストは冷たくて堅い、しかも汚いベッドに寝かせられました。ベッドじゃありません。エサ置きですよ。キリストはそんなところで生まれてくださったのです。どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。ここには、「それが、あなたがたのためのしるしです。」とあります。これは羊飼いたちにとってのしるしだったのです。どんなしるしだったのでしょうか。

 

第一に、それはだれでも、どんな人でもこの方の許に行くことができるというしるしです。もしイエス様が王宮のような所で生まれたなら、羊飼いたちは行くことかできなかったでしょう。そこに行くことができるのは本当に限られた人だけです。しかしイエス様は飼い葉桶に寝かせられました。ですから、社会的に最も低い職業であると思われていた羊飼いでも、行くことができました。どんなに汚れた人でも、どんなにみじめな人でも、どんなに貧しい人でも、どんなに孤独な人でも、どんなに問題を抱えている人でも行くことができたのです。

 

昨日は、スーパーキッズのクリスマスがありまして、「したきりすずめのクリスマス」を劇でやりました。そこには、欲張りなばあさんや人を殺した罪人をはじめ、自分は正しいと思っていたじいさんなど、いろいろな人物が登場するのですが、イエス様はそのすべての人の罪を負って十字架にかかり、死んでくださいました。だからこそ、すべての人の悩み、すべての人の苦しみ、すべての人のも問題を解決することができるのです。へブル2:10には「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者(イエス様)を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」とあります。それはイエス様にふさわしいことでした。多くの子たちを栄光に導くために、キリストは多くの苦しみを通られたのです。もしキリストがこうした苦しみや痛みを通らなかったら、そのような人たちを十分理解することも、助けることもできなかったでしょう。けれども、キリストは飼い葉桶で生まれてくださいました。それは、そのような境遇の中いるすべての人々を助け、救うことができるためです。

 

キリストが飼い葉桶に寝かせられたことのしるしの第二は、そのことによってイエス様がどのようなお方であるのかを示していました。先ほど、当時の家畜小屋は天然の洞窟を掘って作られたものであると申し上げましたが、これらの洞穴にはもう一つの使い道がありました。何だと思いますか。そうです、お墓です。当時ユダヤ人は遺体を布に包んで天然の洞穴の中に安置しました。イエス様が葬られたのもこのようなお墓でした。ですから、その入口に大きな石が置かれてあったのです。そして、ここでは赤ん坊のイエス様が布に包まれて天然の洞穴に寝かされていました。それは当時の人々の目には墓場に置かれた遺体を連想させるものでした。どうしてこれが喜ばしい知らせなのでしょうか。キリストは人々から喝采を受けるためではなく、人々の罪を背負い、十字架にかかって死ぬために来られたということを示していたからです。このことによって、いかなる罪人も赦されるという道が開かれたのです。

 

ここに、神様の愛が表されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

また、マルコ10:45には、「人の子(イエス様)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」とあります。

イエス様が来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるため、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだったのです。この全宇宙の創造主であられる方が人の姿を取ってこの世に来てくださったというだけでも奇跡なのに、そればかりか、私たちを救うために十字架にかかって死んでくださいました。これこそクリスマスの奇跡です。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

 

Ⅲ. あなたのための救い主(11)

 

第三のことは、キリストはあなたの救い主として生まれてくださったということです。11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。この方は、あなたのために救い主として生まれてくださいました。

 

先日NHKの番組で「サードマン現象」を扱うものを見ました。「サードマン」というのは「第三の人」という意味です。実はこの世界には崩壊するビルの中から一人脱出できたり、深海の洞窟の中で命綱を失ったのに戻って来ることが出来たり、宇宙空間でトラブル続きのステーションで落ち着きを与えられたりして、九死に一生を得た人々が沢山いらっしゃいます。彼らは皆、異口同音に「ピンチの時、誰かの声に導かれて平安を取り戻し、すべきことが分かり、正しい選択を奇跡的に積み重ねて脱出することが出来た」と証言しています。この声を彼らにかけた存在をサードマン、第三の人と呼んでいるのです。 それは、私たちの人生においても言えることで、私たちが絶体絶命のピンチに陥った時、このような存在がいたら、どれほど大きな助けとなることでしょう。この助けこそ、あなたのために生まれてくださったキリストです。キリストは、単にピンチの時に助けというだけでなく、私たち人間の本質的な問題である罪を解決し、その罪から救ってくださるためにこの世に来てくださいました。これこそ、私たちにとっての真の希望です。

 

今は「イベントオリエンテッド」の時代であると言われています。これは、人々は、何か楽しみをもたらすできごとやイベントがあってはじめて喜びを感じることができる、というものです。そしてそれが過ぎ去ってしまうと、急に虚しさがやって来るのです。「イベント」やお金の多い少ないといった外側のものに喜びの基礎があるなら、ジェットコースターのように喜んだかと思ったら次の瞬間には落ち込んでしまうことの繰り返しになります。しかし、キリストが与える喜びは罪の赦しによってもたらされる神との平和であり、神がいつも私とともにいて、私を支えてくださるという喜びです。それは永続的なものですから、いつでも喜びで満たされていることができます。のどが渇けば水を飲めば潤されますが、また渇きます。しかし、キリストが与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがなく、その人の中で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでるのです。

 

2018年のノーベル医学・生理学賞を受賞したのは、京都大学の本庶佑教授でした。薬物療法、手術治療、放射線治療に続く第4の手法として免疫療法を確立した功績が評価されたのです。彼の発見はガン免疫治療薬オプジーボの開発に繋がりました。この薬でガンを克服できた方がインタビューに答えて「命の恩人です。感謝し尽くせません。」と言っていました。その気持ちがよくわかります。しかし、キリストはそれ以上です。なぜなら、キリストは肉体だけでなく、永遠のいのちの恩人だからです。

 

2015年に同じ分野でノーベル賞を受賞した大村智教授も、メクチザンという薬の開発に貢献しました。この薬は、河川盲目症に対する特効薬です。この病気はアフリカ、中南米の熱帯地域に蔓延していて、毎年1800万人が感染、そのうち約27万人が失明し、50万人が視覚障害になってしまうという恐ろしい感染症でした。ところがこの薬を飲むと一回で完全にその感染症を防ぐことができるのです。

大村さんと製薬会社は、この薬を感染地域の人々にプレゼントし、当時は3億人の人々を失明の危機から救ったと言われています。この大村さんがアフリカのガーナに行き、子どもたちとお話をしたことがありました。ジャパンとかトウキョウと言っても、誰も知らないそうですが、でもメクチザンという薬の名前を出すと、みんな「知ってる!」と言うのです。通訳の人が「この人がメクチザンを造った先生です。」と紹介するとひときわ高く、歓声が上がり「メクチザン、メクチザン」と口々にはやし立てました。子どもたちの喜ぶ顔が目に浮かぶようですね。人類の命を守る働きに貢献した人を称え、記念に覚えることは当然のことでしょう。しかしここに、肉体のいのちだけでなく、霊的ないのち、肉体は朽ちても永遠に生きる真のいのちを人類にもたらした方がおられます。それがイエス・キリストです。

 

あなたは、この喜びを受け取られたでしょうか。多くの人にとって自分の主人は自分自身です。あなたのために生まれてくださったのに、多くの人たちは「いらないよ」とか、「No, Thank you」と言うのです。しかし自分を超えた本物の救い主を信じ、この方にあなたの人生の舵取りをしていただくなら、あなたもこの喜びを得ることができます。

 

10節には、「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」とあります。私たちにもいろいろな恐れと不安があります。孤独だという方もおられるでしょう。まさに一寸先は闇です。しかし、この世がどんなに暗くても恐れることはありません。きょう、ダビデの町であなたのために救い主がお生まれになりました。この方が主キリストです。この方はあなたの心の闇を照らすまことの光です。どうぞこの方をあなたの救い主として心に迎えてください。また、既にこの方を信じておられる方は、あなたの人生の舵取りをしてくださる主としてください。あなたの心が家畜小屋のようにどんなに汚れていても、また、どんなに酷い状態であっても、キリストあなたの心に喜びを与えてくださいます。クリスマスの奇跡は2000年前のことだけではなく、今もあなたに起こる大きな喜びの知らせなのです。

 

心を一つにして ローマ人への手紙15章1~6節

2020年12月13日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙15章1~6節

タイトル:「心を一つにして」

 

 きょうは、「心を一つにして」という題でお話したいと思います。今、読んでいただいた箇所は、14章の続きです。14章でパウロは、信仰の弱い人を受け入れるようにと命じました。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。弱い人は、クリスチャンになってもまだ旧約聖書の律法に縛られていたので、食べてはならないと信じていたのです。しかし、キリストの福音によってそうした律法から解放されたと信じていたクリスチャンは、信仰が強い人と呼ばれていましたが、何でも食べても良いと信じていました。そして、そのようにまだ律法に縛られている弱い人たちをさばいていたのです。そこでパウロは、互いにさばき合うことがないように、いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい、と勧めたのです。

 

きょうのところでは、そうしたパウロの願いは祈りになって溢れています。5,6節をご覧ください。ここには、「どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。」とあります。

「互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」とか、「そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえるように。」と、そのように意見の違い、考え方が違っても、その中にあって互いに同じ思いを持つとか、心を一つにして神をほめたたえることができるようにと祈っているのです。教会が一つになるということは、きわめて重要な問題です。それは教会がキリストのからだであり、神の家族だからです。からだの各器官が、「自分はそう思わない、それはおかしい、だから自分は関係ない」と言ったら成り立つでしょうか。成り立ちません。分裂してしまいます。それは家族も同じです。それぞれ違いがあっても互いに同じ思いを抱き、心を一つにすることで成り立っているのであって、そうでなかったら成り立ちません。

 

このローマ人への手紙は、大きく分けると二つに分けられるとお話ししました。すなわち、1~11章の教理の部分と12章から終わりまでの実践の部分です。その実践の勧めの締めくくりとなる部分が、この箇所です。

きょうは、この教会の一致について三つポイントでお話したいと思います。第一のことは、信仰の強い人は、弱い人の弱さを担うべきであるということです。第二のことは、それが可能になるのは、聖書が与える忍耐と励ましによってであるということ。第三のことは、その目的です。教会が一致するのはどうしてなのでしょうか?それは神の栄光のためです。心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえられるためなのです。

 

 Ⅰ.弱さを担う(1-3)

 

 第一に、力のある人は、力のない人たちの弱さをになうべきです。1~3節をご覧ください。「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。」

 

 1節の「力のある者」とは、14章で言われていた「信仰の強い人」のことです。このような人たちは旧約聖書の律法から完全に解放されていると信じていた人たちで、キリストの恵みによって自由にされていました。ですから、食べ物についても律法の規定にある汚れたものとか汚れていないものといった規定にとらわれることなく、何でも食べていました。

 

一方、「力のない人たちと」は、信仰の弱い人たち」のことで、彼らはとてもナイーブな人たちで、食べ物や日に関する旧約聖書(律法)の規定からなかなか抜け切れていないでいました。こういう人たちは、イエス様を信じても、なおそうした律法の規定を守らないと救われないのではないか考えていたのです。そして、何でも食べている人たちを見て、つまずいてしまうことがあったのです。ここでパウロは、「私たち力のある者は」と言っていますから、パウロ自身は力のある者たちに属していると思っていたことがわかりますが、そのように力のある者はどうすべきなのかを、その使命について語るのです。それは、「力のない人たちの弱さをになうべき」であるということです。この「担う」ということばは、「自分のものとして受け入れる」という意味があります。弱い人の弱さを自分の弱さと思って背負うことです。神様が私たちを強くしてくださったのは、弱い者の弱さを担わせるためだったのです。

 

その良い模範がイエス様です。パウロはここで、イエス様がどのように私たちの弱さを担ってくださったのかを述べています。3節です。「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。」

イエス様は強い方として、私たちの弱さを担ってくださいました。イエス様はご自分を喜ばせることをなさらず、私たちの弱さを担われたのです。それが「あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりです。」という意味です。イザヤ書53章4節には、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。」とあり、続く6節には、「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」と、主の苦難を解釈しています。イエス様はまず、ご自分の体をもって弱さを担うということがどういうことなのかを示してくださいました。それは、私たちが担うべきものを担われ、私たちの悲しみを代わりに背負ってくださるということです。そして、私たちのすべての罪を引き受けられたのです。これこそ、強い者が果たすべき使命です。このように私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきです。

 

 皆さんの中には、「私は健康だけが取り柄です」という方がおられると思います。なぜ神様はその健康を下さったのでしょうか?それは、健康でない人の弱さを担うためです。たくさんの物質的祝福を受けている肩もおられるでしょう。それは、贅沢をするためではなく、それによって人々を助けるためです。信仰の賜物もそうです。それは賜物ですから、賜物とは、神様からのプレゼントですよね。それはそれを誇るためではなく、その賜物をもって互いに仕え合うためです。これが力のある者に与えられている使命なのです。中には、隣人を喜ばせるために自分の喜びを犠牲にしなければならないのなら、信仰生活ほどつまらないものはないと考える人がいますが、そうではありません。というのは、私たちの喜びは与えることによってもたらされるからです。ルカ6:38に「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」とあります。人を図る量りで、自分も量り返してもらえるのです。

 

 皆さんの中で時間に余裕のある方がいますか?その時間をむなしく過ごさないでください。神様の御国の拡大のために、その時間が与えられていることを、肝に命じにければなりません。先週、80過ぎの姉妹を訪ねて訪問しました。十数年前に骨盤を悪くしてから車いすの生活になり、自宅での生活でも大変なのに、ご主人も脳梗塞で2回入院し、そのご主人の介護もしなければならないという状況の中でも、「私は本当に感謝しているんです。大変になったらイエス様って呼ぶことができるし、いつもイエス様と一緒にいられるから・・」「よく80、90になって何もすることがないという人がいるけれども、それは間違い!祈ることができる!80、90になったからできることがあるんです。先生。」と言われて、「アーメン」と言いました。私などは毎日走り回っていますから、あまり祈る時間が取れないんですけれども、80、90になったからできることがあるんですね。ゆっくり祈ることができます。

 皆さんの中で賛美の賜物のある方がいますか?その方は賛美を通して神の栄光を現し、福音伝道に用いてください。ある方は、人並み以上の頭脳を持っておられる方がいます。その頭脳で神様の働きをなさってください。

 夫を誇り、妻を誇り、子供を誇っている方がおられますか。そのような方は、神様が下さったその祝福をもって、神様の御国のために用いてください。私たちに与えられた祝福は、すべて神が私たちに与えてくださった使命を成し遂げるために神から与えられた賜物なのです。そのような方に、神様は想像を絶する祝福をもって報いてくださいます。

 

 Ⅱ.聖書の与える忍耐と励ましによって(4-5)

 

 第二のことは、いったいどうしたらそのように力のない人たちの弱さを担うことができるのかということです。4,5節をご覧ください。「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」

 

 「かつて書かれたものは」とは、旧約聖書のことです。パウロは、キリストについて預言された旧約聖書(詩篇)から引用すると、その聖書の効用について教えています。つまり、聖書は私たちに忍耐と励ましを与え、希望をもたらしてくれるということです。皆さん、いったい私たちは何のために聖書を読むのでしょうか?そこに書かれてあることによって忍耐と励ましをいただき、希望を持つためです。

 

 一人の姉妹が相談に来られました。フィリピンにいる夫のおじいちゃんが、奥様の介護に疲れて自殺したことで、夫は、おじいちゃんは自殺をしたから地獄に行ったと嘆いているのですが、どうなのでしょうか?おじいちゃんは信仰に熱心で、イエス様を心から愛していたのですが・・・。皆さんだったら何と答えるでしょうか。

とても難しい繊細な問題です。人の永遠のいのちに関して私たちは自分の思い付きで答えることは控えるべきです。でも、聖書に何と書かれてあるのかを知り、自分の信仰の確信を持つべきです。私は、このみことばを開いてお話ししまた。

一つは、イザヤ書43:1~4のみことばです。「だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」

だれでも、救い主イエス・キリストを信じた人は、神のイスラエル、ヤコブです。そのイスラエルに対して言われたことばがこれなのです。それは、どんなことがあっても、あなたを離れず、あなたを見捨てないということです。たとえ、火の中、水の中です。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡る時も、あなたは押し流されず、火の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なるもの、あなたの救い主であるからだ。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛していると、言われる主がそのように言われるのです。それは、あなたがどのように思うおうと、どのように感じようと、関係ありません。神のことばである聖書がそのように約束しておられるのです。確かに、自分のいのちを断つことは赦されないことです。しかし、その罪のためにイエス様が身代わりとして死んでくださいました。その主はいつまでも、どこにでもともにいてくださるのです。

 

もう一つのみことばは、ヨハネ10:28~29のみことばです。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」

これは、イエス様を信じ、イエス様について来る人に対して、イエス様が言われたことばです。イエス様はご自身を信じた人に対して、永遠のいのちを与えます、と約束してくださいました。そればかりか、そのように信じた人たちは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも、何も、彼らをイエス様の手から奪い去ることはできません。どんなことがあっても、キリスト・イエスにある神の愛から離れることはないのです。じゃ、信じてから信仰から離れてしまう場合はどうですか。たとえ信仰から離れてしまうことがあっても、本当にイエス様を信じたなら、その人は必ずイエス様の元に戻って来ます。もし、戻って来ないなら、そういう人は最初から信じていなかったということです。あのイスカリオテのユダがそうでした。彼はイエス様の12弟子の一人でしたが、最後はイエス様を裏切って首を吊って死にましたが、最後まで悔い改めませんでした。信じていなかったからです。信じていれなら必ず主のもとに戻ってきます。信じている人は、どんなことがあっても永遠のいのちを奪い取られることはありません。重要なのは罪を犯したかどうかということではなく、救い主イエス様を信じていたかどうかです。イエス様を信じる人はみな救われます。どんなことがあっても見離されたり、見捨てられたりすることはありません。

 

その姉妹が帰宅後、メールをくださいました。「私もやはり相談して良かったです!!お祈りできなくなってから、礼拝に出ながらも、どこかモヤモヤしていました。両手を広げて歓迎してくださるイエス様を今感じることが出来ています!正直、不思議な感覚と同時に、とても尊くありがたいお方だと、身にしみています!本当にありがとうございました。」彼女は、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けることができたのです。

 

 この「忍耐」という言葉は、ただじっと耐えているという意味ではありません。これは、解決する力をもっている神が、その解決をもたらしてくれることを期待して待つことを意味します。その忍耐を与えてくれるのが聖書のみことばなのです。また、弱っている人が慰められ、励まされて、力付けられるには、その人の傍らにいて励ますことが必要です。何もしなくても、ただ一緒にいてくれる、傍らにいてくれるということが大きな慰めであり、励ましです。何も言わなくてもいいのです。何も言わなくても、共にいることが励ましなのです。その慰めと励ましを与えてくださる神が、聖書のみことばを通して働いてくださるのです。

 

  弱い人にとって必要なのは希望を持つことです。その希望はどこから来るのでしょうか?聖書です。聖書が与える忍耐と励ましによって、希望を抱くことができます。ですから、5節には「どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。」とあるのです。

 

 皆さん、私たちの人生には苦しみや悲しみがたくさんあります。しかし、そのような中で私たちが経験するのは、神様が忍耐と励ましを与えてくださるということです。そのことを誰よりも経験したのはこのパウロ自身でしょう。彼はキリストを信じ、キリストの福音を宣べ伝えたことで、石で打たれたり、牢屋に入れられたり、鞭で叩かれたり、盗賊の難、同族の難、難破の難など、あらゆる困難に遭いましたが、そうした困難の中で、彼は神様が忍耐と励ましの神であることを深く知りました。どんな状況の中でも、神は志を立てさせ、事を行わせてくださることを知ったのです。

 

 私たちも同じなのです。私たちの人生にも困難があります。自分自身の弱さ、仕事のこと、家庭のこと、周りの人々との人間関係など、たくさんあります。それらの問題は絶えることがないでしょう。しかしながら、忍耐と励ましの神が私たちを励ましてくださり、希望を持つことができるようにしてくださいます。教会においても、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださるのです。

 

 Ⅲ.神の栄光のため(6)

 

  第三に、その目的です。強い者が弱い者を受け入れ、互いに同じ思いを抱くようになるのはどうしてなのでしょうか。それは神の栄光のためです。6節をご覧ください。「そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。」第三版では、「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」となっています。こちらの方が正しいです。すなわち、それは、私たちが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。

 

 皆さん、私たちは何ために互いに同じ思いを持ち、心を一つにし、志を一つにするのでしょうか?それは私たちが声を合わせて神をほめたたえるためです。私は自分で説教している間に、いつの間にかそれが祈りになっているということがありますが、パウロもここで、いつの間にか祈りになっているのです。いや、祈らざるを得なかったのでしょう。「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。」

 

 パウロの祈りは、教会が一つになることです。いろいろな人がいてもいい、いろいろな考えを持っていても構いません。しかし、根本的には同じ思いを持ち、心を一つにして、声を合わせて、神をほめたたえ、神を証しするような、そういう教会になってほしいという願いがあったのです。それは神のみこころです。それが祈りになったのです。

 

 それは、イエス様の祈りでもありました。ヨハネ17:21には、「父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」とあります。イエス様は十字架を前にして、弟子たちに最後の説教をされると、目を天に向けて祈られました。まずご自分のために祈られ、次に、弟子たちのために祈られると、最後に、すべてのクリスチャンのためにこのように祈られたのです。わたしと父とが一つであるように、教会がイエス様と一つになるように。そして、キリストのからだを構成しているクリスチャン一人一人が一つになるようにと祈られたのです。それは、このことによって、神様がいらっしゃるということ、そして、イエス様が神から遣わされた救い主であるということを、この世が信じるためです。信じて永遠のいのちをいただき、そうして、父なる神様の栄光が現されるためです。教会が一つであるということは、それほど力があることなのです。

 

 ところで、この「心を一つにして」ということばですが、これはローマ人への手紙の中にはここにしか使われていないことばです。しかし、このことばは実は、使徒の働きの中には何回も何回も出てくることばなのです。そして、この「心を一つにして」ということばが出てきた時に、そこに驚くべき神様のみわざが行われ、教会が著しく進展していったことが記録されています。たとえば、使徒2:46~47には、「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」とあります。彼らが心を一つにして、毎日宮に集まり、家々で喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美していたとき、すべての民に好意を持たれ、毎日救われる人々が仲間として加えられていったのです。

また、使徒4:24~32には、ペテロとヨハネが生まれながらの足なえをいやしたことでユダヤ教当局に捕らえられますが、どんなに彼らに脅され、イエスの名によって語ったり教えたりしてはならないと言われても、二人は「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うことの方が、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たり聞いたりしたことを話さないわけにはいきません」と言うと、彼らは二人を釈放しないわけにはいきませんでした。釈放されたペテロとヨハネが仲間のところに行って、祭司長たちや長老たちから言われたことを残らず報告すると、それを聞いた人々は心を一つにして、神に向かって祈りました。「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(使徒4:31)のです。

また5:12~14には「さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」とあります。ほか人々は、だれもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、そうした人々でも、彼らを尊敬していたのです。彼らが心を一つにして祈り、心を一つにして神をほめたたえるときに、そこにものすごい神の力と栄光が現されるようになるのです。

 

 教会に初めて来られた方に「きょうの礼拝はいかがでしたか?」と尋ねてみると、ほとんどの人がこのように言われます。「こじんまりとした温かい雰囲気で良かったです!また来たいと思います。」そこかよ思いますが、そこなんです。「いや、今日の説教から教えられた」というのはあまりありません。そのように言うのは、しばらくしてからです。最初は教会の雰囲気だとか、人々の表情とか振る舞いとかです。優しく、親切な振る舞いに感動したとか、そういうところです。

以前、塩釜聖書バプテスト教会の大友幸一先生が大田原の礼拝に来てお話ししてくださったことがありましたが、先生のプロフィールを見ていたら、小さい頃からの夢だった造船会社に入り、そこで設計の仕事に携わるようになりましたが、仕事には満足していましたが、心の底からの満足が得られないでいたとき、電柱に貼ってあったキリスト教会の集会案内を見て教会に行かれたそうです。その時のことをこう書いておられます。「初めての聖書の話は全然わからなかったが、そこに温かいものを感じて、そして教会に通うようになり、イエス・キリストを救い主として受け入れた」。

やはり、温かいものです。言い換えると、教会にこの温かさがないと続かないということになります。では、この温かいものはどこから生まれてくるのでしょうか?ここに、「心を一つにして、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえるように」とあります。ここから生まれてくるのです。

 

 使徒の働き13章の出来事は、パウロにとって忘れることができない事だったでしょう。1~3節です。「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。」

 

 パウロはその時アンテオケ教会で奉仕していました。バルナバがパウロを引き出してくれました。バルナバという名前は「慰めの子」という意味ですが、その名のごとく傷ついた人を慰め、励ます賜物がありました。かつてバリバリのパリサイ人で、クリスチャンを迫害していたパウロを信用し受け入れるクリスチャンが少ない中で教会から信頼されていたバルナバは、このアンテオケ教会の建て上げのために彼を連れてきたのです。そこにはいろいろな人たちがいました。まず「ニゲルと呼ばれるシメオン」です。「ニゲル」というのは現在のニグロのことで、肌の色が黒かったことを表しています。おそらく、アフリカ系の黒人だったのでしょう。それから「クレネ人ルキオ」です。使徒の働き11章20節をみると、この人たちはステパノの迫害のことでフェニキア、キプロス、アンテオケと進んできましたが、それまではユダヤ人以外にはだれにもみことばを語らなかったものの、このアンテオケに来てからギリシャ人にも語りかけたので、ギリシャ人をはじめ多くの異邦人も主に立ち返りました。キリストの弟子たちが、このアンテオケで初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったのは、彼らの影響が大きかったことでしょう。その他、国王ヘロデの乳兄弟でマナエンという人もいました。これはヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスと同じ宮殿で育てられたという意味です。今でいうと皇族の一人といった感じです。かなり高い身分の出身でした。そういう人たちがいたのです。しかし、彼らはそうした社会的地位や身分を越え、信仰によって一致していました。そうした彼らがパウロとバルナバを世界宣教へと送り出したのです。こうしたことは一流の人物がいるからできることではありません。気のあった仲間がいればできるということでもないのです。そうした人たちが信仰によって一つになり、人間的な偏見や障害を乗り越えて、初めてできることです。このアンテオケ教会には聖霊による一致がありました。ですから、彼らが心を一つにして祈っていたとき、聖霊が、バルナバとサウロをわたしが召した任務につかせなさい、という神の声を聞いたのです。そして、彼らはその声に従って送り出したのです。教会が心を一つにして祈ったとき、そこに大きな神様のみわざと栄光が現されたのです。

 

 私たちの教会も、アンテオケ教会のようにいろいろな人かいます。しかし、私たちが聖書が与える忍耐と励ましによって希望を持ち、この忍耐と励ましの神によって互いに同じ思いを持ち、心を一つにするとき、そこに神のみわざと栄光が現されるのです。信じましょう。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。それは、あなたがたが、心を一つにしし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。神に栄光がありますように。そのために、私たちは互いの弱さを負い合い、その弱さを担い、心を一つにして、声を合わせて、主をほめたたえたいと思います。

人のために良いこと 伝道者の書6章1~12節

2020年12月6日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書6章1~12節(旧約P1145)

タイトル:「人のために良いこと」

 

 伝道者の書6章に入ります。きょうのタイトルは、「人のために良いこと」です。12節に「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。」とあります。何が人のために良いことなのでしょうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを知ることが出来る人はそれほど多くはいません。でも私たちは神のことばである聖書を通して、それを知ることができます。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.楽しめない財産(1-6)

 

 まず、1~6節までをご覧ください。1節には「私が日の下で見た悪しきことがある。それは人の上に重くのしかかる。」とあります。 新改訳第三版では、「私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。」と訳しています。これまで伝道者は、日の下での労苦を見て、「空の空。すべては空。」と語ってきましたが、ここで彼は、もう一つの悪しきことがあるのを見たのです。「もう一つの悪しきこと」とは、「もう一つの不幸」のことです。それはどんなことでしょうか。それは、神から与えられた富を楽しむことができず、ほかの人がそれを奪ってしまうことです。2節には「神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ。」

とあります。

「見ず知らずの人」とは「他人」のことです。神から与えられた富と財産が見ず知らずの他人に全部持って行かれてしまうのです。たとえば、自分の土地と建物が差し押さえになったり、競売にかけられたりするというケースです。自分の望む富と名誉をすべて手に入れても、それを楽しむことができないばかりか、それを見ず知らずの人の手に渡ってしまうとしたら、どんなに空しいことでしょうか。

 

 そればかりではありません。3節をご覧ください。「もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。彼よりも死産の子のほうがましだと。」

 子宝に恵まれ、長寿を全うすることができたらどうでしょう。それは大きな祝福ですが、それでももしその人が人生に満足することなく死に、しかも自分の子供たちから蔑まれ、墓に葬られることもないとしたら、悲しいことです。不幸です。伝道者は言います。それは、日の目を見ずに死産で生まれた子どものほうがはるかにましです。死産で生まれてくるというのは最初から日の目を見ることができないわけですから、それほど悲しいことはないかと思うのですが、そのほうがましだというのです。それほどひどいということです。

このようなことは、4:2~3でも言われていました。4:2には「いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。」とあります。これは日の下で行われている一切の虐げを見てのことばです。いのちがあっても、虐げられながら生きるのなら、死んだほうがましだということです。それほど苦しいということです。4:3でも「また、この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」とあります。「この両者」とは、「いのちがあって生きながらえている人」と「すでに死んだ死人」のことを指していますが、この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、最初から生まれて来なかった者だというのです。最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることがないからです。同じようにこの6章でも、もし富と財と誉が与えられていても、それを楽しむことができず、他人がそれを楽しむようなことになったり、どんなに子宝に恵まれても、その子供たちから蔑まれ、人生を楽しむことなく死ぬような人のことを指しています。親にとって子供は自分のいのちよりも大切だと思って育てても、その気持ちが子供に伝わっているかというと必ずしもそうではなく、むしろ、その子供に蔑まれるようなことがあるなら、死産の子のほうがましだ、日の目を見ないほうがましだというのです。これは伝道者がこの世に存在することを否定しているのではなく、日の下で行われている現実がいかに空しいものであるのかを誇張して述べているのです。最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることはないし、虐げられることもないからです。

 

旧約聖書に出てくるヨブも全ての財産を失い、足の裏から頭の天辺まで、悪性の腫物で打たれました。その時彼は自分が生まれた日を呪って言いました。「私が生まれた日は滅び失せよ」(ヨブ3:3)と。ここで伝道者が「死産の子のほうがましだ」とか、4節で「この子の方が彼より安らかだ」と言っているのは、それだけ、酷いことであるということです。

 

 6節をご覧ください。ここには「彼が千年の倍も生きても、幸せな目にあわなければ。両者とも同じ所に行くではないか。」とあります。「千年の倍」とは二千年です。すなわち、どれだけ長く生きても、その命に幸せを見出することができなければ、両者とも同じところに行くわけですから、全く意味がない、と言っています。「両者とも」とは、長寿を全うした人と、死産の子のことです。同じところとは、死ぬことを指しています。どんなに長寿を全うしても、そこに幸せを見出すことができなければ、全く意味はありません。命はその長さではなく質だからです。たとえ千年の倍、二千年生きたとしても同じなのです。

 

 このように、すべてのものを神から与えられていてもそれを楽しむことができないとしたら、そのような人の一生は何と不幸なことでしょうか。私たちはこの地上のことであれこれと関心を払い、一生懸命に富を蓄え、健康を維持し、長寿を全うしようとありとあらゆる努力を重ねますが、もしそこに神がいなければ、すなわち、神を無視して生きるとしたら、それは不幸なものなのです。1節には「日の下で」とありますが、それはこのことを指しています。神を無視し、神がいない生涯は、前回のところで学んだように、闇の中で食事をするようなものなのです。それゆえ、私たちは私たちの目を、日の下から日の上に向けなければなりません。この地上にありながら天の御国、永遠のいのちに心を留め、神とともに生きる生活を始めていかなければならないのです。

 

 米国の先住民伝道にその若き生涯をささげ、29歳でこの世を去ったデイビット・ブレイナードは、死の床でこう語りました。

 「私は永遠の世界へ行きます。永遠を生きることは、私にとって快いことです。

永遠に続くということが、懐かしさを感じさせるのです。

しかし、邪悪な人々の永遠は、いったいどうでしょう。

私はそれを説明したり、考えたりすることができません。

それを考えること自体が、あまりにも恐ろしいことです。」

 

 邪悪な人々の永遠は暗闇です。それが地獄です。それはこの地上ですでに始まっています。もし、神がともにいなければ、暗闇の中を生きるようになります。ですから、罪を悔い改めて神に立ち返らなければなりません。救い主イエス・キリストを信じて、心に受け入れなければならないのです。デービッド・ブレイナードの生涯は29年という短いものでしたが、実に快いものでした。充実していました。なぜなら彼は、永遠を見つめていたからです。日の下での生涯、この地上の生涯は、まばたきをするようにほんの一瞬にすぎません。しかし、永遠の世界はいつまでも続きます。その永遠に目を向けて生きることで、神から与えられたものに満足し、それを楽しむことができるようになります。神が与えてくださった日常の中で、御言葉と祈りを通して人生の意味を見出し、与えられたものに感謝しながら、大いに楽しむことができるのです。

 

 Ⅱ.満たされない食欲(7-9)

 

次に、7~9節をご覧ください。「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう。人の前でどう生きるかを知っている貧しい人も、何がまさっているだろうか。目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

 

「人の労苦はみな、自分の口のためである。」これはどういうことかというと、人はみな食うために働いている、ということです。私はよく「あなたは何のために生きていますか」と聞くことがありますが、その答えで一番多いのがこれです。「私は食うために生きている」。しかし、不思議なことに、その食欲が満たされることは決してありません。収入が増えれば、それだけ欲しいものも増えるからです。ですから、どんなに働いても欲望が満たされることはないのです。

 

「知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう」知恵がある者も、愚かな者も同じである、ということです。どんなに知恵があっても、欲望を押さえることができなければ、愚か者となんら変わりがありません。貧しい人々の中にも、いかに生きるべきかを知っている人がいますが、しかし、そのような人でさえ、より多くの物を所有したいという欲望に打ち勝つことができなければ、結局のところ愚か者と同じことなってしまいます。

 

結局、「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。」のです。どういうことでしょうか。これは謎めいた言葉です。新改訳改訂第3版ではこれを、「目が見るところは、心があこがれることにまさる。」と訳しています。「欲望のひとり歩き」を、「心があこがれること」と訳したんですね。どうですか、皆さん、わかりますか?もうちょっとわかりやすいかもしれませんね。目で見えるものに満足することは、心であこがれることを追い求めることよりもまさる、ということです。

もっとわかりやすいのは新共同訳ではないかと思います。新共同訳ではこのように訳しています。「欲望が行きすぎるよりも 目の前に見えているものが良い。」つまり、もっと良いものを、もっと良いものをと、もう少し上の贅沢を追い求めて生きるよりも、目の前に置かれた食事で満足するほうが良い、ということです。まあ、これを何も食事に限定することはないと思います。食事でも、物でも、置かれた状況でも同じです。つまり、自分に与えられているものです。ことわざに、「隣の芝生は青く見える」ということわざがありますが、他人が持っているものは、自分のものよりよく見えるものです。それでもっと良いものを、もっと良いものをと、欲望が満たされることを求めて走り回りがちですが、それよりも今自分に与えられたものを感謝して生きることのほうがずっと良いのです。

 

どうでしょう、現代は本当に忙しい時代ですね。少しも心休まる時がありません。一つの事が終わったらまた次のことをしなければなりません。次から次にやらなければならないことがあるのです。いったい何が問題なのでしょうか。「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる」です。もっと欲しい、もっと欲しいと、欲望が満たされることを求めて走り回ることです。あれも、これもしようと思えば、どんなに時間があっても足りません。私はいつもいろいろな機会に言うのですが、私たちの指は10本しかありません。その10本の指を何に使うかを考えなければならないのです。もし10本の指をすべて仕事のために使えば、残りの指は無くなってしまいます。限られたもの、時間なり、お金なり、体力といったものを何に使うのかよく祈って求めなければなりません。イエス様はこう言われました。「まず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)まず、神の国とその義を求めなさい。まず、神の国とその義を求めるのです。そのために、何本の指を使うかわかりませんが、まず神の国とその義のために使い、食べ物や飲み物、着物など残りのことのために、残りの指をバランスよく用いなければなりません。そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられます。大切なのは時間があるか、ないかということではありません。何のために用いるかということです。神のために、神との交わりのために用いるなら、それに加えて、すべてのものが与えられます。そのためには、自分に与えられたものを感謝し、それを満足することを学ばなければなりません。

 

人は何かを手に入れることで満足を得られるのではないかと考えますが、実際にはそうではありません。人の満足というのは何かを手に入れることによって得られるものではなく、その心がどうであるかで決まります。それは条件の問題ではなく、心の問題だからです。基本的な欲求は神から与えられたものですが、それを越えた欲望、貪欲は、神から離れた空白から生じます。ですから、あらゆるものをつかんでも、次から次に空しさや飢え渇きが襲ってくるのです。ですから、目の前に置かれた食事で満足するほうが、もっと良いものを、もっと良いものをと、欲望がひとり歩きするよりも良いのです。

 

箴言17:1には、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」とあります。これは私が好きな御言葉の一つです。日本の多くの家庭では外面的には物であふれていて、一見、幸せそうに見えますが、実際には争いが絶えず、本当に平和な家庭は稀にしかないというのが現実です。人間は対物ではなく対人関係の中に生きていますから、対人関係が良くないとどんなに物が溢れていても幸せではないのです。その対人関係が豊かであるためには神を恐れ、神の知恵をいただき、その知恵に生きることが必要です。そうでなければ、空しく、風を追うような人生となってしまいます。その知恵、神の知恵とは何でしょうか。「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる」ということです。ぜひこのことを心に留めていただきたいと思います。

 

おそらくこれは、だれよりもこの伝道者ソロモン自身が痛感していたことでしょう。彼は、美しい宮殿に住み、多くの女性に囲まれながら、毎日のように贅沢な生活をしていましたが、それでも心が満たされませんでした。彼はおいしいご馳走をいっぱい食べても、争いに満ちた家に住むよりも、心の底からの平安を求めていたのです。

 

それは、ソロモンだけではありません。ご馳走なんてなくてもいい、豪邸になんか住まなくてもいい、本当の平和な家庭が欲しい!と思っている人は、案外と多いのではないでしょうか。家庭の平和と真の幸福は、決して物質の豊かさにあるのではない、と聖書は教えています。人間が神と和解するために、神がお遣わしになった救い主イエス・キリストを信じ受けて入れる時に心に平和と喜びと満足が与えられ、神との交わりを楽しむことができ、また、他人の過ちや失敗を心から赦し、愛することができるようになります。

 

少し前に「赦しの力」という映画を観ました。素晴らし映画です。ぜひ皆さんにも観ていただきたいと思いますが、この映画は、高校でクロスカントリー競技をしていたハンナという少女の話です。彼女はある時コーチのジョンから父親が病院に入院していることを聞きます。彼女の父親もかつてクロスカントリーをやっていて、州で3位に入るほどの実力者でしたが、次第に傲慢になり、酒と麻薬と女に溺れ、人生のどん底に落ちてしまいました。当然、妻とも別れ、生まれたばかりの娘ハンナも妻の母親に預けたのです。

あれから15年、彼は、神のあわれみによって神に立ち返ることができ、悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ、すべての罪が赦され、神の子とされて新しい人生を歩むことができました。しかし、その代償は大きく、糖尿病などの合併症によって両目の視力を失ったばかりか、今は死を待つばかりの状態になっていました。

驚いたのはハンナの方です。というのは、彼女は、両親は彼女が生まれるとすぐ死んだと祖母から聞かされていたからです。自分を捨てていなくなったなんて寝耳の水でした。今さらそんな父親を赦すことなどできません。それでも父親に会いに病院に行ったハンナは、彼にはっきりと言うのです。「私は、あなたを赦しません」それはそうでしょう。自分を捨てた父親を赦すことなどできません。父親は、どんなことがあったのかを正直に話し、そんな自分を神があわれんでくださったので神に立ち返ることができたことを伝えました。

そんな時、彼女が通う学校の校長先生から、神がどれほどハンナを愛しておられるのかを聞くのです。神はそのためにご自分の御子イエス・キリストを与えてくださったと。それを聞いたハンナは、自分の罪を認め、イエス様を信じて心に受け入れました。そして校長先生のアドバイスにしたがってエペソ書1,2章を読みながら自分が何者であるかをノートに書き止めるのです。自分は罪が贖われた者、罪が赦された者、神の子、クリスチャン。彼女は罪が赦されたその大きな神の愛のゆえに、父親を赦そうと決心しました。そして、病院に行ってみると彼はICUに入っていましたが、そのことを告げたのです。

そして、クロスカントリーの州大会で、コーチのジョンはある秘策を思いつきました。レースをイメージさせて父親に彼女へのアドバイスを録音させたのです。それを聞きながら走った彼女は、奇跡的に州大会で優勝するのです。そして、金メダルを病院のベッドにいる父親の首にかけてやるのですが、神に赦された、赦しの力がどれほど大きなものであるかを強く感じました。

 

イエス・キリストは、あなたの罪のために、身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そして、三日目によみがえられました。この方を信じる時、あなたのすべての罪は神の前に赦され、本当の意味で幸福な者となることができます。当然、その結果として家庭にも平和が訪れるのです。そうした貪欲からも解放されます。目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさるという、このみことばを実践できるようになるのです。

 

Ⅲ.神は知っている(10-12)

 

最後に、10~12節をご覧ください。「存在するようになったものは、すでにその名がつけられ、それが人間であることも知られている。その人は、自分より力のある者と言い争うことはできない。多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」

 

存在しているものはすべて名前がつけられています。それは「人間」についても言えることです。人間とはどのようなものなのかも神に知られているのです。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きるものとなったのです(創世記2:7)。ですから、地のちりにすぎない者が、創造主に対して言い争うことなどできません。この「自分より力ある者」を「死」と解釈し、人は死に逆らうことはできないと理解する人もいますが、ここでは「神」のことであると解釈すべきです。というのは、その後の11節には「多く語れば、それだけ空しさを増す」とあるからです。これは、神の定めにいくら言い逆らったとしても、それはただ空しさを増すだけだという意味です。つまり、ここで伝道者が言わんとしていたことは、私たち人間がどのような者であるかを知っておられる神と言い争っても、何の意味もないということです。

 

それなのに、私たちは愚かにもこの「力ある方」と言い争うことがあります。なぜですか?なぜこのようなことが起こるのでしょうか。なぜ夫は私を捨てたのですか。なぜ仕事に失敗したのでしょうか。なぜこんな災いがふりかかったのですか。なぜですか・・と。しかし、どんなに神と言い争っても事態は何も変わりません。むしろ、多く語れば語るほど、それだけ空しくなるだけです。それは、人にとって何の益にもなりません。むしろ、人間の限界を悟り、その人間を造られた神を恐れることです。そして、変わらない神の真実に目を向けることです。神はあなたをどんなに愛しておられるか、そのために、神はご自分の御子をあなたに与えてくださいました。自分のいのちよりも大切な御子イエス・キリストをお与えになられたのです。それほどまであなたを愛しておられるのです。ヨハネ3:16には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。

神はそれほどまでに、あなたを愛しておられるのです。何があっても私は愛されている。そのために御子を与えてくださったほどに愛されているんだと、この事実に目を留めて、神と言い争うのを止めなければなりません。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。私たちの心に平安がないのはこの御言葉の約束の上に立たないで、自分の感情の上に立っているからです。それで、神様どうしてですか、と神と言い争うのです。でも事態は何も変わりません。結果的に、自分がみじめになるだけです。ではどうしたら良いのでしょうか。12節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」

 

影のように過ぎて行く、短く、むなしい人生において、何が人のために良いことなのでしょうか。そのことを人に告げることができる人はだれもいません。だれも将来何が起こるのかを教えてくれることもできません。でも神は知っています。何が人のために良いことなのかを。何が人にとって必要なことなのかを。何が人にとっての真の幸福なのかを。神は私たちに対する完全なご計画を持っておられるのです。そこには痛みや悲しみもあるかもしれませんが、それは神のご計画の一部でしかありません。私たちに求められているのは、私たちは神と言い争ったり、神を呪ったりするのではなく、神を恐れ、すべてを神にゆだねて生きることです。これが、この書全体の結論です。12:13、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」

 

パウロはこのことを、陶器師と陶器のたとえで説明しています。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っています。造られた者が造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」などと言うことはできません。どのように造るかは、それを造る陶器師の手(思い)にかかっているからです。私たちにできることは、その陶器師であられる神によって造られていることを感謝し、その神を恐れ、神のみこころに生きることです。それこそ真の満足が与えられる、幸せで祝福された人生なのです。

 

あなたはどうですか。自分より力ある方と言い争ってはいませんか。「主よ、どうしてですか。どうしてこのようなことを見て難ともお思いにならないのですか。どうしてこのようなことが起こるのですか・・・。」しかし、私たちの主は私たちを造られた創造主です。その方にすべてをゆだね、この方を恐れて生きること、それこそ私たち人間にとってすべてなのです。

幸せな人 伝道者の書5章10~20節

2020年11月22日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書5章10~20節(旧約P1144)

タイトル:「幸せな人」

 

 きょうは、伝道者の書5章後半から、「幸せな人」というタイトルでお話しします。20節に、「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」とあります。どういう人が、自分の生涯のことをあれこれ思い返さないのでしょうか。どういう人が、神によって心を喜びで満たされる人なのでしょうか。私たちはいつも自分の生涯のことをあれこれ思い返しては、心を煩わせることがあるのではないでしょうか。しかし聖書は、「こういう人は」神によって心を喜びで満たされると言っています。それはどういう人なのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 

 Ⅰ.どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人(10-12)

 

 第一に、どんな境遇にあっても満足することを学ぶ人です。10~12節までをご覧ください。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた空しい。 財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」

 

「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。」金銭を愛することへの警告です。金銭そのもの、富そのものは決して悪いものではありません。仕事をする時に、その労働の対価として与えられる恵みを感謝し、喜びを味わうことは自然なことです。ところが、その富を愛することが様々な災いをもたらすことになると、聖書は教えています。その一つが金銭に満足しない、収益に満足しないということです。いくら富を蓄えても、それで満足することがありません。いつも、まだ足りない、まだ足りない、もっともっと、と欲しがるのです。欲張り、貪欲です。そのことからわかることは、富によっては決して「満足」を買うことはできないということです。商売の利益、銀行の利子、株の配当、株の売買益など、これら一切がさらに欲望をかきたてるのです。

 

この「金銭」と訳されたことばは、へブル語では「銀」ということばです。ですから、新共同訳ではこれを「銀を愛する者は銀に満足することがない。」と訳しているのです。銀に満足しなかった人はだれですか。そう、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダです。彼は銀貨30枚でイエス様を売り渡しました。彼は銀貨を愛していました。弟子たちの会計係として金入れを預かっていましたが、そこからいつも銀貨を盗んでいたのです。そして、遂には銀貨30枚のために自分の主であったイエスを売り渡してしまいました。それで彼は満足したでしょうか。いいえ、最後に彼はその銀貨を神殿に投げ込むと、出て行って首を吊って死んでしまいました。銀貨を愛する者は銀貨に満足しないのです。

 

Ⅰテモテ6:10には、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」とあります。また、へブル13:5には、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。」とあります。大切なのは金銭を愛することではなく、今持っているもので満足することです。確かに、「生活に不安がある」状態では満足を得られないかもしれません。かといって、不安から解放されれば満足できるかというとそうでもないのです。なぜなら、真の満足はどれだけ持っているかとか、どのような境遇にあるかによって決まるのではなく、どのような心を持っているかによって決まるからです。

 

古代ペルシャに古くから伝わる伝説です。昔、神様が「幸せの鍵」を、お作りになられました。これを一生懸命捜して見つけた人に「幸せの扉」を開けさせたいと考えたのです。

そこで「幸せの鍵」をどこに隠すかという話になりました。天使たちがいろいろアイデアを出し合いました。

「高い山の上がいいんじゃないか」「地の深い所にしよう」「深い海の底はどうか」しかし、どのアイデアもいま一つでした。誰でも見出せるけれど、なかなか見つけられない所はないのか。

そして、とうとう理想的な場所を見つけ出しました。それは「人間の心の中」に隠すことでした。

 

 そうです、幸せの鍵は私たちの心の中に眠っているのです。それを掘り出して、用いる人が豊かな人生を歩むことができます。そのことをパウロはピリピ人への手紙の中でこう言っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:11-13)

パウロは、どんな境遇にあっても満ち足りることを学んだと言っています。貧しさの中でも、富んでいても、そのような境遇が彼の幸せを奪うことはありませんでした。なぜなら、彼はイエス・キリストを知っていたからです。イエス・キリストによってどんな境遇にあっても満ち足りることを学んでいたのです。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。これもまた空しいことです。しかし、イエス・キリストにあるなら、どんな境遇にあっても満足することかできます。これは幸いなことではないでしょうか。

 

11節をご覧ください。「財産が増えると、寄食者も増える。持ち主にとって何の成功だろう。それを目で眺めているだけだ。」

財産が多くなると、それをあてにして群がる者たちが現われるということです。そのために出費が増え、財産の所有者はその恩恵に与ることができません。彼にできるのは、せいぜい預金通帳の数字を目で眺めていることくらいです。これもまた空しいことです。

 

12節には、「働く者は少し食べても多く食べても、心地よく眠る。富む者は満腹しても、安眠を妨げられる。」とあります。働く者が少し食べても多く食べても、心地よく眠ることができるのは、心配がないからです。貧乏人は失うものがないので怖いものがありません。株価が上がろうが下がろうが関係ないのです。でも財産がある人はそういうわけにはいきません。満腹しても、心配事が山のようにあるため、安眠することができないのです。彼は床の中で、資産の運用のことや、税金の支払い、財産が盗まれるのではないかと不安になり、よく眠ることができません。皆さん、寝る前にいろいろ考えない方がいいでよ。考えると眠れなくなりますから。というか、皆さんは考える必要もないようですね。でも、そんなに持っていなくても、もっと増やそうと貪欲になると眠れなくなりますよ。

 

以前、関西に住んでおられる方から電話で相談がありました。その方は、自分のおこずかいの中から株を始めたのですが、前年に大失敗をして大きな損失を出してしまい、どうしたら良いものかと夜も眠れないというのです。それで、お金ではなくもっと大切なものを持つといいですよと言うと、後日、こんなメールがきました。

「お金より大事なものって、結局何なのでしょうか・・・?大きなお金を失ってまで気づく大事な事はあるのでしょうか。今朝目をつけていて、でも買わなかった株が、今日一日で10万円以上上がっていて、買っておけばよかったと、まだ思ってしまい、、、昨年の失敗をいい教訓に、これから慎重に銘柄を選んだり、頑張れば少し取り戻すことはできるのではないかと、少し思いますが、時間はとられます。今、損をしたままやめてしまっても、このあとの人生、そういうものが見つかると思っていいのでしょうか?もし、分かりやすい言葉で、それが何か教えていただけるのであれば、教えていただきたいと思いまして、大変厚かましいのですが、メールをさせていただきました。本当に申し訳ありません。」

 

この方は寝ても覚めても株なのです。株のことが気になって仕方がないのです。それで、星野富弘さんの「いのちよりも大切なもの」という詩を送りました。

「命がいちばんだと思っていたころ 生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」

短い詩ですが、とても大切なことが教えられると思うのです。「いのち」とは肉体のいのちのことです。そのいのちがいちばん大切だと思っていたころは、生きるのが苦しかった。でも、そのいのちよりも大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しくなった。いのちよりもたいせつなものとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストにあるいのち、永遠のいのちのことです。それがあると知った日、生きるのが嬉しくなりました。そうしたものに執着しなくてもよくなったからです。神が与えられたいのちに生きればいい、そう思うと生きるのが嬉しくなります。

 

すると、彼女からメールがありました。「よく分かりました。頑張って、教会に通ってみたいと思います。星野さんがイエス・キリストに出会われていたことも知りませんでした。詩集も読んでみます。」

まあ、頑張って行く必要もありませんが、その方にとって教会は初めての所ですから敷居が高かったんでしょうね。頑張って行ってみます。

すると、しばらくしてメールがありました。「おかげさまで、近くの教会に昨日で3回目行かせていただきました。星野富弘さんの本も、図書館で数冊読み、感動しました。その中で奥様との出会いや家族の方々の優しさにも感動しました。 

今朝、突発的に全部の持ち株を処分してしまったのは、昨日も残っている資金で株を買い、少し下がると怖くなって売り、1万6000円の損を出し、懲りずに今朝も買った株が下がりだし・・

その株を売ると同時に、持ち株全部、衝動的に処分したわけなのですが、その時、昨日も今日も、失敗を重ね、「これでもまだやめないのか」「これでもまだ分からないのか」って、ふと神様に言われているような気がして、本当に衝動的に全部売ってしまいました。全く、まだ売るつもりもやめるつもりもなかったのに、です。

1月からも、買っては小さな損をする、を繰り返していて、「これでもまだ懲りないのか」って、あまりの失敗続きに、失敗を重ねるたびそう言われているような気がなんとなくしていました。考えすぎでしょうか?神様がこれほどの大きな損失を出さないと分からない私を正してくださったのでしょうか?

 とにかく、そう思って、これからは、だんだん生活と私自身の心を改善させていくよう、努力したいと思います。」

 

その後、どうなったかはわかりませんが、近くの教会に通い、そこでいのちよりもたいせつなもの、イエス・キリストのいのち、永遠のいのちを得ることができたらと願っていますが。金銭を愛する者は金銭に満足しません。富を愛する者は収益に満足しないのです。そのような人は満腹してよく眠ることができません。むしろ、すべてを豊かに与えてくださる神に感謝し、イエス・キリストと共にあることこそ、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣であることを覚え、そこに目を留めたいと思うのです。

 

Ⅱ.なくならない食物のために働く人(13-17)

 

ここで教えられる幸せの第二の鍵は、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物のために働く人です。13~17節をご覧ください。まず13節と14節をお読みします。「私は日の下に、痛ましいわざわいがあるのを見た。所有者に守られていた富が、その所有者自身に害を加えることだ。その富は不運な出来事で失われ、息子が生まれても、その者の手もとには何もない。」

 

「痛ましいわざわい」とは、単なる悪しきことというレベルではなく、恐ろしい悪、決定的な打撃のことです。金持ちがいかに心を労し、富を守ろうとしても、その富が所有者自身に害を加えることがあります。たとえば、突然不幸な出来事が襲って、その富が一挙に失われ、子どもに残してやる財産すら無くなってしまうとかです。私たちは時々そのようなことを耳にします。株価や市場の暴落によって、持っていた財産の価値がなくなってしまったというニュースを。そのようにニュースに触れるたびに、できれば多くの財産を持っていたいと思う反面、経済って本当に怖いなあと思い知らされます。明日どうなるかなんてだれにもわからないのですから。伝道者自身、金持ちが突然の不幸に襲われ、一夜にして貧困のどん底に投げ込まれるのを目撃したのでしょう。このような経験から、伝道者は、次のような結論に導かれるのです。15,16節です。「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行く。自分の労苦によって得る、自分の自由にすることのできるものを、何一つ持って行くことはない。これも痛ましいわざわいだ。出て来たときと全く同じように去って行く。風のために労苦して何の益になるだろうか。」

 

人はこの世に裸で生まれてきました。同じように、この世を去る時何一つ携えて行くことはできません。それがこの世の定めなのです。にもかかわらず、人はこの地上生涯においてその富を蓄積するために労苦するわけです。これも痛ましいわざわいです。それはまさに風のために労苦するようなものです。何の益もないのです。

 

そればかりではありません。17節には、「しかも、人は一生、闇の中で食事をする。多くの苛立ち、病気、そして激しい怒り。」とあります。どういうことでしょうか。これは夜中、ごはんを食べる話ではありません。その一生は、多くの苛立ち、病気、そして激しい怒りが伴うということです。それが闇の中で食事をするということです。

ここで伝道者が警告しているのは、神を信じないで、自分のために労苦する一生の空しさです。13節には「日の下に」ということばがありますが、それは、神様抜きの、神様無しの、神を除外したという意味です。神を除外して自分のために富を得ようとあくせく働くことがもたらす悲劇とはこのようなものであるというのです。

 

しかし、日の上には、喜びと楽しみがあります。その人の一生は、闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになります。主イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

主イエスの招きに応じて心の戸を開き、主イエスを心の中に迎えるなら、主がその人の中に入ってその人とともに食事をし、その人もまた彼とともに食事をします。苦痛も、病気も、怒りも、嘆きもありません。闇の中で食事をするのではなく、光の中で食事をするようになるのです。神の聖霊があなたに臨み、あなたのすべての罪が赦され、あなたは神の子とせられ、神との親しい交わりを持ちことができます。あなたの一生は、良いもので満たされるのです。

 

ですから、大切なのは何のために働くのかということです。あなたは、何のために働いていますか。なくなる食べ物のためにあくせくと働いてはいないでしょうか。イエス様は言われました。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(ヨハネ6:27)

富のために労苦するなら、その富がわざわいをもたらすことになります。それは風のために労苦するようなものです。何の益にもなりません。そのような人の一生は、苛立ちであり、病気であり、激しい怒りです。闇の中で食事をするようなものです。けれども、日の上には喜びがあります。神が共におられるからです。富のためではなく、神のために、なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きましょう。それこそ、人の子が与えてくださる食べ物なのです。

 

Ⅲ.主の恵みを数える人(18-20)

 

ですから、結論は何かというと、幸せな人とは神が与えてくださる恵みを数え、それを喜び楽しむ人であるということです。18~20節をご覧ください。「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととは、こうだ。神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

 

「見よ。私が良いと見たこと、好ましいこととはとは、こうだ」とは、伝道者がこれまで語って来たことを受けての結論です。それは、神によって与えられた日々の生活を楽しむということです。そうすれば、何が起こっても、人生の喜びを奪い去られることはありません。人生は短いのだから、神によって与えられているものを思う存分楽しむのが、最善の策であるというのです。このような思想は、2:24や3:13にもありましたが、伝道者はここでそのことを繰り返して語っているのです。繰り返して語っているというのは、それだけ重要なことであるということです。なぜこのことが重要なのでしょうか。それは、神がどのような方であるかを示しているからです。そうです、神は私たちに必要なものを与え、これを楽しむことを許してくださる方なのです。18-20節には、「神」の名が4回も出てきていますが、いずれの場合も、「神」は「与える方」として表現されています。

 

19節には、「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」とあります。何が神の賜物なのでしょうか。これこそ神の賜物です。神は食べたり飲んだりするだけでなく、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされました。これこそが神の賜物なのです。

 

伝道者はここで、神というものを強く意識し、また、これを読む者に神から与えられた人生がどれほどすばらしいものであるかに目を向けさせているのです。であれば、私たちはこのことを理解し、自分が神よって受ける分を喜ぶことが求められています。そういう人は、自分に与えられた労苦(仕事)を、自分にゆだねられたものとして楽しむことができるようになりますが、そうでないと、自分の置かれた境遇を嘆き、文句タラタラ言いながら生きることになってしまいます。本当に不思議ですね。同じ境遇でも一方はそれを感謝して、前向きに受け止めることができる人がいれば、一方ではいつも周りの人と自分を比較して、自分に無いものに目を留めて失望したり、不平不満に陥っている人がいます。いったいその違いはどこにあるのでしょうか。それは神によって与えられた賜物を、自分の分としてしっかり受け止めることができるかどうかです。

 

新聖歌172番に「望みも消え行くまでに」という賛美があります。

1. 望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき 数えてみよ 主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん

数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

2. 主の賜いし十字架を 担いきれず沈むとき  数えてみよ 主の恵み つぶやきなど如何であらん
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

3. 世の楽しみ 富 知識 汝が心を誘うとき 数えてみよ 主の恵み 天つ国の幸に酔わん
数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み

 

この賛美は、E.O.エクセルという人によって作られました。エクセルという人は、この歌の題を「Count your blessings」と名付けています。「Count your blessings」。文字通り、「あなたに賜った恵みを数えなさい」という意味です。望みも消えそうになるほどの この世の嵐に悩むとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心は安らぎ得るでしょう。主から賜った十字架を担いきれず 心沈むようなとき 数えてみてください 主の恵みを。あなたの心からつぶやきなど消え去るでしょう。この世の楽しみ 富 知識が あなたの心を誘惑するとき 数えてみてください 主の恵みを。さながら天国のような心地に 心躍るでしょう。数えよ 主の恵み 数えよ 主の恵み 数えよ 一つずつ 数えてみよ 主の恵み。

 

魂に平安がなく、私たちの内に不平不満が絶えない原因は、問題が大きいからではありません。エジプトを脱出した後のイスラエルの民に呟きが絶えなかったのは、あの救いの御業を忘れてしまったからです。詩篇103:2には、「わがたましいよ 主をほめたたえよ 主がよくしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。主が良くしてくださったことを何一つ忘れないこと、そうです、主が良くしてくださったことを一つ一つ数えて感謝すること、それが幸福の秘訣なのです。

 

毎年11月第四木曜日は、アメリカではサンクスギビングを迎えます。1620年9月16日、信教の自由を求め102名の人を乗せて英国のプリマスを出航した船は、66日間の航海の後11月21日にアメリカ東部マサチューセッツ州プリマスに到着しました。慣れない土地で、森の木を切り、丸太で家を建て生活を始めますが、多くの人は都会育ちで農業に慣れておらず、新天地での生活は困難を極めました。冬の半年間に約半数の人たちが飢えと寒さで死にました。春に親しくなったインディアンから、トウモロコシやえんどう豆、小麦、大麦などの種まきを教えてもらい、2度目の秋には沢山の収穫が与えられたことから、秋の収穫物を前にインディアンの友を招き、神の恵みに感謝して収穫感謝礼拝を行ったのです。あれから400年、アメリカ人はそのことを忘れないようにと、毎年盛大にこれをお祝いするのです。というわけで、私はアメリカ人ではありませんが、家内がどうしてもというので、今週はターキーを焼いて盛大にお祝いすることになっています。

 

それはアメリカだけてのことではなく、私たちの人生においても言えることです。食べたり、飲んだりすることは日常茶飯事です。普段、食事がことさら楽しいと感じることはないでしょう。しかしその日常の小さな幸いこそが「神の賜物」であり、「幸福」なのです。私たちの人生は神に与えられた短い人生の日々です。残りわずかな人生の日々に、汗をかいて労し、食事ができることは、なんと幸いなことでしょう。それを神の賜物として受け入れ、喜んで生きることが大切なのです。

 

20節をご覧ください。「こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」

こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返しません。自分が不幸だとか、神は不公平だとか、人生は悲劇で満ちているとか、思わなくなるのです。つまり、自分の人生をくよくよ思わなくなるということです。なぜ?神が彼の心を喜びで満たされるからです。その人の心には、神が下さる喜びが満ちているからです。

結局のところ、私たちの幸いは自分にどれだけの富や財産があるかとか、どんな仕事をしているか、どのようにうまくいっているかということではなく、神によって心が喜びで満たされているかどうかで決まるのです。自分に与えられたすべてのものが神の賜物であると受け止め、これを喜び、楽しみましょう。こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返すことはしません。まことに幸いな人だと言えるのです。

クリスチャンの生き方の原則 ローマ人への手紙14章13~23節

2020年11月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙14章13~23節

タイトル:「クリスチャンの生き方の原則」

 

 テキサス州アントニオにあるオーク・ヒルズキリスト教会牧師で「たいせつなきみ」という絵本を画いたマックス・ルケードは、子供にも大人にも好まれる作品を書くベストセラー作家です。その彼の著書「特別な愛」の中で、こんなエピソードを紹介しています。彼の奥さんの名前はデナリンといいますが、デナリンさんにはある一つの癖がありました。それは車庫に車を駐車する時、真ん中に駐車してしまうということです。ですから、夫のマックスが車庫の扉を開けると、彼が駐車するスペースの半分くらいを占領していることがあるのです。優しい夫のマックスは、そのような時には何気なくヒントを投げかけます。「どこかの車がうちの車庫の真ん中に居座っているね。」このようなことを言うと、日本では「何それ、嫌み?」なんて言われるので、このようなアプローチはなかなかできませんが、アメリカでは通じるのです。

 ある日、少し強い口調で彼が言うと、奥さんがどのようにそれを受け止めたかはわかりませんが、そのときから駐車するときには気をつけるようになりました。ある日、娘が母親に「ママ、どうして車を真ん中に駐車しないの?」と聞くと、彼女はこう答えました。「そうね。ママはあまり気にならないんだけど、パパが嫌いらしいのよ。パパが嫌がることはママも嫌なの。」自分が気にならないことでも相手が嫌なことはしない。それがキリストの弟子としての生き方の大切な一つのポイントです。

きょうのところでパウロはこう言っています。14、15節です。「私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。」

彼は、食べ物のことで、それ自体で汚れているものは何一つないと考えていました。しかし、そのことで気になる人もいて、そのことで心を痛めている人がいるなら、もはや愛によって歩んでいるとは言えません。その人への配慮が必要であるということです。

 

 Ⅰ.愛の配慮を(13-16)

 

 まず、13~16節までをご覧ください。「こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。」

 

 前回の箇所でパウロは、信者相互の対人関係において、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(1)と勧めました。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。十人十色で、教会には実にさまざまな考えを持った人がいます。それが聖書の教えと反しない限り、そうした考えを受け入れることが求められているのです。ここには「信仰の弱い人」とありますが、それは、律法に囚われてキリストにある自由を享受できないでいた人たちです。食べ物や日のことで、「こうしなければならない」という教えに縛られていました。しかし、信仰の強い人はそうではなく、生きるにしても、死ぬにしてもキリストのために生きているわけですから、律法を完全に成就された主に喜ばれることは何かを求めて生きていたので、そうした律法に囚われた生き方から解放されていました。真の意味でキリストにある自由を享受していたのです。しかし、そうでない人たちもいたのです。その人たちは、「信仰が弱い人たち」と言われていますが、そういう人たちをさばいてはいけないし、受け入れるようにいなければならないのです。

 

 きょうのところでは、13節ですが、ここでは、「いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。」とあります。兄弟に対して妨げになるものとか、つまずきになるものとは、そうした自分の考えこそ正しくて、相手の考えは間違っていると断罪することによって、その人が信仰につまずいてしまう、信仰から離れてしまうようになることです。そのように妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい、と言うのです。

 

 パウロ自身はどうであったかというと、旧約聖書には汚れた食べ物について記されてありますが、彼自身は食べ物それ自体で汚れているものは何一つないと考えていました。それが彼の確信だったのです。言わば、彼は信仰が強い類の人に分類される人でした。そうした律法には捉われることはなく、何を食べても、何を飲んでも問題ない、問題は何のために食べ、何のために飲むのかということです。ですから、彼はⅠコリント10:31でこう言っているのです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにする。それが彼の生きる目的であり、基準でした。だから、そうした律法からは完全に解放されていたのです。

 

 しかし、一方でそうでない人たちもいました。何かが汚れていると考える人には、汚れているのです。それがレビ記にある「汚れた動物」のことなのか、コリント書にある「偶像にささげられた肉」のことなのかわかりませんが、そうした宗教的な理由から、それらのものを食べようとしないクリスチャンがいたのです。そして、もし食べ物のことで、その人たちが心を痛めているならば、それは愛によって行動しているとは言えないのです。なぜなら、キリストはその人のためにも代わりに死んでくださったのであり、そのような人を、食べ物のことで滅ぼすようなことがあるとしたら、愛によって行動しているとは言えないからです。先ほどのマックス・ルケードの例で言えば、奥さんにとっては車庫の真ん中に駐車することはあまり気にならないことだけれども、そのことでもし夫が気になっていり、嫌に思っているならば、そのようなことはしないと決心することこそ、思いやりであり、愛の配慮であるということです。

 

 パウロがここで教えている原則は、教会においては、信仰の強い人は弱い人のことを配慮しなければならないということです。この原則はきわめて重要であって、教会における一致は、いつでも強いと思われている者が譲歩することによって図られるべきであるということです。これは何度も言うようですが、あくまでも、聖書の原則に照らし合わせてみて、聖書もその行動を避難していないという確信の下でのことです。

 

 アメリカのチャールズ・スウィンドル牧師は、次のように言っています。「神の被造物はそれ自体良いもので、私たちはその被造物を十分楽しむ権利を持っています。しかし、信仰が成熟していない人々にとって妨げとなる場合には、私たちの権利を自制しなければなりません。そうする必要がある時は、愛が、私たちの自由を制限するように命令します。クリスチャンの自由の使用が、神の御業を損なう恐れがあるときには、まことの愛による分別力をもって、私たちの自由を用いなければなりません。」

 

 15章3節を見ると、「キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。」とあります。キリストご自身も自分の権利を自制されました。いや、放棄されました。キリストは神でありながら神であるという考え方に固執しないで、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。キリストが十字架につけられた時、それをながめていた民衆は「おい、おまえが救い主なら、自分を救ってみろ」とののしりましたが、彼はそのようにはしませんでした。できなかったからではありません。キリストがその気だったら十字架から飛び降りて、そのように言う人を裁き、地獄に送ることもできたでしょう。しかし、キリストはそのようにはされませんでした。なぜなら、そんなことをしたらキリストは十字架にかかって死ななければならないという神のみことばが実現しないからです。キリストはまだだれも経験したことがない、神に捨てられ、神にさばかれるということによって信じる者がみな永遠のいのちを受けたるために、十字架で死なれる道を選ばれたのです。つまり、キリストが十字架で死なれたのは私たちの益のためであったということです。キリストは自分を喜ばせるためではなく、私たちのために、私たちの益となることを考えてそうされたのです。これが愛によって行動するということです。つまり、自分の考えによって行動するのではなく信仰の弱い人のことを考え、その人の益のために行動するということです。それはその人もまたキリストが代わりに死んでくださったほどの人だからです。それなのに、食べ物のことでその人を滅ぼすようなことがあるとしたら、それこそ愛によって行動しているとは言えません。

 

 Ⅱ.大切なのは本質的なこと(17-19)

 

 第二のことは、信仰の本質とは何か、神の国の本質とは何なのかを考えるということです。17~19節までをご覧ください。なぜ私たちは信仰の弱い人を配慮すべきなのでしょうか?ここには、「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」(17節)とあります。

 

 パウロがここで強い関心を抱いていることは、神の国とは何なのかということです。神の国の本質は飲み食いすることではなく、聖霊による義と平和と喜びなのです。義とは神様との正しい関係のことです。つまり、キリストの福音によって神様との正しい関係に入れられたことです。平和と喜びとは、その結果得られる神との関係、そして人との関係のことです。これが神の国の本質的なことなのです。何を食べるのかとか、何を飲むかということではありません。であれば、飲み食いのことで多少意見の違いがあったとしてもそれはある意味どうでもいいことであって、時には譲歩しなければならない時もあるわけです。この本質的なこととそうでないことの判断基準間違うと、教会が混乱してしまうことになります。そして、教会では意外とこのようなことで争いが起こることが多いのです。

 

 1994年に山形県米沢市で、東北リバイバルミッションが行われました。会場は、米沢市の郊外にある恵泉キリスト教会のミーコ記念ホールでした。私も実行委員の一人として準備に当たっていましたが、その中で意外なことが話題になりました。それは、当日の夕食をどうするかということでした。遠くから来られる方もいるので、夕食のことも考えておいた方が良いのではないかというのです。まさに五つのパンと二匹の魚です。「こんなへんぴな所でそれだけの人数分の食事を用意するのは大変ですよ。めいめいが食べるにしても、周りにはコンビニ一つありません。すると、実行委員長をしておられた千田次郎先生がこう言われたのです。「いや、食べ物が大切なんだよね。意外とみんな食べ物のことを気にしているのよ。そして、結構こういうことで問題になることが多いから、ちゃんと用意した方がいいんじゃないですか」

そんなものかなぁと思って夕食も準備し当日を迎えましたが、千田先生が言われたとおりでした。食べ物になるとみんな目の色が変わるのですね。食べ物なんてどうでもいいことなのに、意外と深刻な問題になるケースが多い。そういえば、初代教会で最初に起こった問題も食べ物のことでした。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、へブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申し立てたのです。それは、彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。このように、食べ物のことでは問題が起こりやすいのです。あるいは、食べ物のようなことでは問題が起こりやすいと言った方がいいかもしれません。しかし、このときは千田先生の経験から出た知恵によって美味しい食事を用意したこともあって、とても和やかな、温かい集会になりました。

 

 しかし、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。それが教会の本質的なことなのです。ですから、本質的なことにおいては決して曲げたり譲ったりしなくとも、そうでないことについてはできるだけ丁寧に、忍耐強く対処しなければなりません。そして、時には相手に一歩譲るといった広い心が求められるのです。すなわち、19節にあるように、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていかなければならないということです。

 

  Ⅲ.信仰によって生活する(20-23)

 

第三のことは、自分の信仰の確信によって行動しなさいということです。20~23節をご覧ください。「食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。 あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」

 

 パウロの確信は、食べ物のことで汚れているものは何一つないということでした。しかし、そのことで兄弟が心を痛めるようなことがあるとしたら、もはや愛によって行動しているとは言えません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことで滅ぼしてしまうことになるからです。ですから、本質的でない事柄については譲歩することも必要なのです。

 

それとは逆に、食べてはいけないと思っていたのに食べても全く問題がないのよと説得された場合はどうしたら良いのでしょうか。自分で納得して食べたのであれば問題はありませんが、そうでないのに食べるということがあるとすると、良心に責めを感じてしまうことになります。その場合の原則は、22節にあるとおりです。「あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。」

 

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなければなりません。前回のことばで言うと、5節にあります。「それぞれ自分の中で確信を持ちなさい。」ということばです。人から言われたからと言って、疑問を抱きながら食べるとしたら、それは罪です。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪なのです。ですから、自分の確信を持っていなければなりません。そういう意味では、だれかほかの人が何と言ったかということが重要ではなく、自分自身が聖書の言うところの「自由」の教理をよく理解し、それをバランスよく自分自身に適用しなければなりません。そのようにして、自分の確信を持っていなければならないのです。そうすれば、ほかの人が言ったことばに振り回されることなく、自分の確信として行動することができるようになるはずです。

 

 今、C-BTEの学びが行われていますが、ちょうど先週の木曜日で取り扱った箇所が、このローマ14章でした。そこでは、私たちの信仰は、規則という土台の上に建て上げられているか、原則という土台の上に建て上げられているかで決まるということを学びました。原則を理解して初めて、他人の意見に左右されずに、信仰に建て上げられるようになるからです。そして、この箇所をその原則に生き、キリストにある自由を守るための大事な箇所として学んだわけです。その原則とは何か、それは、それぞれが神の御前で自分の信仰としての確信を持っているということです。そうすれば、つまずいたり、さまたげられることもありません。

 

 以前、福島で牧会していたとき、ある人から「先生、クリスチャンがカラオケに行くのはどうなんですかね」と聞かれたことがありました。私は一度もカラオケに行ったことがないので、正直のところ、カラオケがどういうところなのかわからないのです。それで、ある日曜日の礼拝後に青年たちが集まって討論することになりました。テーマは「カラオケは罪か」です。おもしろかったですね。いろいろな意見が出ました。カラオケに行くには問題ないけれども、そこで飲んだり、騒いだりするのはどうかとか、カラオケに行くなら、自分の家で賛美した方がいいんじゃないかとか、いや、友達に伝道するためにそうした付き合いで行くのは問題ないんじゃないかとか、です。皆さん、どうですか。カラオケは罪ですか。

 今日の聖書の箇所は、このように「白黒の判断をつけることが難しい領域」に直面した時、どうしたら良いかのヒントを与えてくれます。それは、神の御前で自分の信仰の確信を持っていなさい、ということです。しかも、その確信を相手に押し付けるのではなく、相手の考えも受け入れなければなりません。キリストはその人も哀詞、その人のために変わりに死んでくださったほどの人だからです。その人の意見をさばくのではなく、尊重しなければなりません。それは、神の国は食べたり、飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。これをカラオケに適用するとしたら、神の国はカラオケに行っても良いかどうかということではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めるべきです。

 

 どうですか、何だからスッキリしませんか。私たちはとかくこれをしても良いのか悪いのか、そうした規則という土台の上に立ちがちですが、大切なのは、この福音の原則に立つことです。その中から、私たちはどうすべきなのかを判断することです。そういう意味で重要なのは、私たちが福音をどのように理解しているか、聖書の自由の教理をどのように理解し、それをバランスの取れた、成熟した適用をしているかどうかということです。そして、そこにはたえず信仰の仲間がいるわけで、不必要にその人たちの感情を害さないようにその自由を控えめに、無理に人に押し付けることをせずに用いるということです。

 

 皆さんの行動の基準は何でしょうか?クリスチャンは正しい人でなければなりませんが、正しい人であるというだけでは駄目です。正しい人であると同時に広い心、寛容な心を持っていなければなりません。批判するのではなく受け入れることが必要です。それは教会も同じで、教会は福音の真理の上に立たなければなりません。しかし、それだけではだめです。それと同時に、兄弟姉妹に対して寛容でなければなりません。互いにさばきあうのではなく、互いに平和に役立つこと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めていこうではありませんか。

神は天に、あなたは地に 伝道者の書5章1~9節

2020年11月8日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書5章1~9節(旧約P1143)

タイトル:「神は天に、あなたは地に」

 

 伝道者の書5章に入ります。伝道者は、日の下で益になるものはないかといろいろと探究しましたが、日の下には人の益になるものは何もありませんでした。「空の空。すべては空。」です。結局のところ、人は神から離れて、だれも食べたり、楽しんだりすることはできません。

 しかし、伝道者の探究はこれで終わりません。であれば、宗教はどうなのか。熱心に宗教をすれば心が満たされるのではないかと思うのです。しかし、残念ながらそうではありません。大切なのは、宗教に熱心であることではなく、宗教が目指している神との関係がどうであるかということです。すなわち、神と正しい関係を持つことです。この伝道者のことばで言えば、7節にありますが、「ただ、神を恐れよ」ということです。きょうは、このことについてお話ししたいと思います。 

 

 Ⅰ.神の宮へ行くときは(1-3)

 

 まず、1節から3節までをご覧ください。「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」

 

「神の宮へ行くときは、自分の足に来につけよ。」とは、教会に行くときには、車の運転に気を付けよ、という意味ではありません。まあ、車の運転には十分気をつけてほしいと思いますが、そういうことではないのです。神の前に立つ時には、その態度に気をつけるようにということです。つまり、神を礼拝する時の姿勢について語られているのです。どういうふうに気をつけなければならないのでしょうか。

 

 その後のところには、「近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。」とあります。どういうことでしょうか。信仰において大切なのは、近寄って聞くことだということです。どんなにいけにえを献げたとしても、主が自分に何を語っておられるのかを知り、それに聞き従うのでなければ何の意味もありません。イスラエルの最初の王サウルの問題はここにありました。彼は預言者サムエルを通して、「行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。」(Ⅰサムエル15:3)と命じられましたが、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで、これらを聖絶しませんでした。後でサムエルが彼のもとに来て羊や牛の鳴き声を聞いたとき、「この声は何ですか」と尋ねると、彼は、「あなたの神、主にいけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを取っておきました。しかし、残りのものは聖絶しました。」(Ⅰサムエル15:15)と答えました。それは主にいけにえを献げるために取っておいたと言ったのです。もったいないから。でも神様の命令は何でしたか。すべてのものを聖絶せよ、ということでした。すべてのものですから、最も良いものもそうでないものもすべてです。しかし、彼はその命令を守りませんでした。自分に都合が良いように受け止めたのです。

それに対してサムエルは何と言ったでしょうか。彼はこう言いました。

「主はあなたに命じて言われました。「行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。」なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」(Ⅰサムエル15:18-19)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)
 主の御声に聞き従うことは、いけにえにまさります。自分がどんなに献げものをしたからといっても、主の御声に従うことがなければ何の意味もありません。

 

人は本能的に宗教的なものを求めています。宗教といえば、一般にキリスト教もその一つと言えるでしょう。いわゆる宗教としてのキリスト教はあります。けれども、教会に通いながらもなおキリストにある神との生きた関係を持つのでなければ、どんなにそれに付随したことに熱心であっても、それは空振りに終わってしまいます。そのような宗教は、ソロモンが他の分野に求めたもの、たとえば、知恵、知識、富、名誉、財産といったものと同じように空しい結果をもたらすことになります。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからです。それもまた風を追うようなものです。信仰生活において大切なのは、近くに行って聞くこと、主の御声に聞き従うことです。あなたはどうでしょうか。主の御声を聞いておられるでしょうか。聞いて従っているでしょうか。

 

2節をご覧ください。ここには、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。」とあります。

神の前ではどうあるべきか、ということです。ここには、「神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな」とあります。どういうことでしょうか。神の前では、それが誓いであれ、祈りであれ、軽率なことばは控えるべきであるということです。私たちが神に対して熱心であればあるほどことば数も多くなります。賛美であれ、祈りであれ、感謝であれ、多くの言葉を口にするのです。そのこと自体は悪いことではありませんが、注意しないと、それがただ口先だけの表面的なものになってしまうことがあります。私たちにとって必要なのは、神の前で心焦ってことばを出すことではなく、神の声を聞くことなのです。

 

そのことについてイエス様は、山上の説教の中でこのように教えられました。少し長いですが、引用したいと思います。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」(マタイ6:1-8)

偽善者たちの問題は何だったのでしょうか。それは人に見せようとしたことです。自分を人に見せようと思うとことば数が多くなります。自分の前でラッパを吹いてしまうわけです。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っていますが、実際のところはそうではありません。大切なのはことば数の問題ではなく、それが真実な祈りであるかどうかということです。伝道者はその理由を次のように言っています。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」どういうことでしょうか。これはきょうのメッセージのタイトルです。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」つまり、神は天におられ、私たちに必要なものが何であるかを知っておられるからです。私たちは地にいますが、神は天におられます。そして、私たちに必要なもののすべてを知っておられるのです。であれば、私たちはこの神にすべてをゆだねて、人前ではなく、隠れたところにおられる主に、心から祈りをささげるべきではないでしょうか。

 

3節をご覧ください。「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」これは2節で語られたことを強調するために引用した格言です。仕事が多いと悪夢にうなされます。それと同じようにことば数が多い人は、愚かなことばを口にするようになるということです。それは祈りにおいても、日常会話においても同じです。言わなくてもいいようなことをついつい言ってしまいます。新約聖書のヤコブ書にもありますが、舌は小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。それを制御することは簡単なことではありません。馬を御するためには、その口にくつわをはめればできますが、この舌を制御することはなかなかできません。だからこう祈りなさいと、イエス様は教えてくださいました。それが主の祈りです。

「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:9-13)

 

私たちも神の宮へ行くときは、このことに心を留めたいと思います。神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すのではなく、逆に、神の近くに行って神の御声を聞き、心からの祈りをささげたいと思います。

 

Ⅱ.神に誓願を立てるときには(4-6)

 

次に4~6節をご覧ください。私たちは神の前でどうあるべきなのか、次に、伝道者が取り上げるのは「誓願」についてです。「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。あなたの口が、あなた自身を罪に陥らせないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。」

 

ここには、神に誓願を立てるときにはどうしたら良いかについて教えられています。「誓願」とは、広辞苑を見ると、神や仏に誓いを立て、物事が成就するように願うこと、とあります。その誓願を立てるときは、それを果たすのを遅らせてはなりません。人は安易に、「主よ。もし・・のことをしてくださるなら、私は・・のことをします」と誓いますが、いざとなると、それを果たすことを忘れてしまったり、先延ばしにしてしまうことがあります。しかし、誓っても果たさないなら、誓わないほうがましです。なぜなら、そのように誓うことによって、あなたの口が罪を犯すことになるからです。申命記23:21-23にはこうあります。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。なぜなら、あなたの神、主は必ずあなたからそれを要求し、こうしてあなたが罪責を負うことになるからである。 誓願をやめる場合、あなたに罪責は生じない。あなたの唇から出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行わなければならない。」

 

聖書にはこの誓願に関していくつかの例が見られます。たとえば、ハンナの誓願ですね。彼女は夫エルカナに愛されながらも、胎は閉じられていて、子どもがありませんでした。しかし第二夫人であったペニンナには多くの息子と娘たちがいて、夫に愛されているハンナを憎み彼女をいらだたせるようなことをしていました。それでハンナの心は痛み、主の宮で主に祈って激しく泣きました。そのとき、彼女は主に誓願を立てました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(1サムエル1:11)

すると、このハンナの祈りは聞かれ、男の子が与えられました。そして生まれた男の子の名前をサムエルと名づけました。第一子は母親にとって最も大切な存在です。その子が乳離れした頃、彼女は主に誓ったとおりに主にささげたのです。具体的には、祭司エリのもとに預けました。このようにして、誓願を立てて与えられたサムエルは、やがてイスラエルの歴史の舵取りをしていく者となったのです。

 

また、エフタの誓願もあります。士師記に出てきます。イスラエルの士師、さばきつかさであったエフタはアンモン人と戦っていましたが、その戦いがいよいよ激しくなったとき、彼は主に誓願を立てて言いました。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。」(士師11:30-31)

すると、主はアンモン人をエフタの手に渡されたので、彼はアンモン人に勝利することができました。しかし、彼が戦いに勝って自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らして、踊りながら迎えに出て来たのです。エフタは唖然としました。もしアンモン人に勝利することができたら、自分が無事に家に帰ったとき、その戸口から最初に自分を迎えに出て来た者を、主への全焼のいけにえとしてささげると誓っていたからです。いったい彼はどうしたでしょうか。聖書にはこうあります。「父は誓った誓願どおりに彼女に行った。」(士師11:19)彼は誓ったとおりに彼女に行ったのです。このことについては、文字通り全焼のいけにえとしてささげたということなのか、終生幕屋で仕えるために主に捧げられたということなのか意見が分かれるところですが、はっきり言えることは、彼は自分が誓ったとおりに行ったということです。

 

それにしても、人はなぜこのように誓願をするのでしょうか。ハンナにしても、エフタにしても、それだけ強い願いがあったからでしょう。ハンナは何としても子どもがほしいという思いがあったでしょうし、エフタにしても、アンモン人との戦いが激しさを増したとき、何としても勝利したいという気持ちが強かったのだと思います。それが、このような誓いという形になって出てきたのでしょう。でもまさか自分の娘が戸口から出てくるなんて思ってもいませんでした。いや、もしかしたらそのような可能性も考えられたかもしれませんが、それよりも勝ちたいという思いが、性急な誓いという形となって出て来たのではないでしょうか。

しかし、こうした性急な誓いは後悔をもたらします。また、神へ誓いは、神に何かをしていただくためではなく、すでに受けている恵みに対する応答としてなされるべきです。ですから、エフタの誓願は、信仰の表れというよりは、むしろ彼が抱いていた不安の表れにすぎなかったのです。

 

このように軽々しく誓うことが私たちにもよくあります。それが自分の力ではどうすることもできないと思うような困難に直面したとき、「神様助けてください。もし神様がこの状況を打開してくださるのなら、私は・・・をささげます」というようなことを言ってしまうのです。イエス様は「誓ってはいけません。」と言われました。誓ったのなら、それを最後まで果たさなければなりません。果たすことができないのに誓うということは、神との契約を破ることであり、神の呪いを招くことになります。ですから、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言うべきです。それ以上のことを口にするのはよくないことです。サタンの罠にかかる恐れがあるからです。エフタは自分の直面している困難な状況を、誓願を通して乗り越えようとしましたが、軽々しく誓うべきではなかったのです。

 

私たちはきょう「プリンセス」の献児式を行いました。献児式とは何でしょうか。献児式とは、神から賜った我が子を神様にお返しする式です。それは神のものですから神にお返しするのです。その中で、神から授かった子として神のみこころにかなった子どもとなるように大切に育てていく責任が両親に与えられているのです。ただのセレモニーではありません。「プリンセス」は神に献げられた神のものですから、両親はこの子を神から託された大切な子として神の愛をもって育てていかなければなりません。そして、やがてこの子が神を信じて神のもとに帰ることができるように、私たちも常に祈るものでありたいと願います。

 

Ⅲ.ただ神を恐れよ(7-9)

 

神の前でどうあるべきなのか、第三のことは、だから、ただ神を恐れよ、ということです。7-9節をご覧ください。「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。ある州で、貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからだ。国にとっての何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」

 

「夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。」とは、3節のことばを受けてのことでしょう。「仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。」非現実的にことばを多く発するよりも、神を恐れることを学べということです。

預言者ヨエルは、やがて聖霊が降るとき、息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る、と言いました。しかし、それが神に栄光を帰すためではなく、神なしに見る夢は空しいだけで、悪夢にすぎません。

私が小さい頃、「いつでも夢を」という歌が流行っていました。橋幸夫さんと吉永小百合さんがデュエットです。

「星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも 歌ってる
声が聞こえる 淋しい胸に 涙に濡れた この胸に
言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を
星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも 歌ってる

 歩いて歩いて 悲しい夜更けも あの娘の声は 流れ来る
すすり泣いてる この顔上げて きいてる歌の 懐かしさ
言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を
歩いて歩いて 悲しい夜更けも あの娘の声は 流れ来る」

 

これは、昭和37年、日本レコード大賞グランプリに輝いた曲ですが、グランプリに輝いた、と云う割りに、あまり内容のない歌詞ですね。場面のイメージが湧いてきません。タイトルだけが独り歩きしているような感じです。とある人は言っています。神なしに見る夢には空しさがあるのです。

 

また、ことばが多いところにも空しさがあります。先ほども言いましたが、口を制御しない無節制なことばの習慣は、自分の過ちをあらわにします。多くの夢とことばに縛られて忙しく生きるより神を恐れて生きること、それが最も重要なことなのです。

 

それは、8-9節を見てもわかります。ある地域で貧しい者が虐げられ、権利と正義が踏みにじられているのを見ても、そのことに驚く必要はないと伝道者は言っています。なぜなら、その上役には、それを見張るもう一人の上役がいて、彼らよりももっと身分が高い者たちもいるからです。これは、堕落した官僚制度のことです。それぞれの段階で、各人が何らかの利益を得ています。上役には下の者を監視する役割が与えられているのに、現実にはそのようになっていません。しかし、虐げる者たちの上には、彼らよりもさらに高い神がおられ、すべてを見ておられます。

 

9節には「国にとって何にもまさる利益は、農地が耕されるようにする王がいることである。」とありますが、何のことを言っているのかよくわかりません。この聖句は、伝道者の書の中でも最も難解な箇所の一つだと言われています。へブル語の原文の確定が難しいからです。その中で最も意味が通じる訳は、英語訳(NIV)ではないかと思います。英語訳(NIV)では、「王もまた農地の収穫から利益を得ている」となっています。この場合、下級官僚から王に至るまで、腐敗の官僚体制が出来ているという意味になります。その点に関しては、ソロモンの王国も例外ではありませんでした。彼の王国も重税によって民は苦しめられていました。それはソロモンの時代だけではありません。現代でも言えることです。それはいつの時代でも横行している悪なのです。子どもの7人に1人が貧困に喘ぐ今の日本にあって、いったいどこに希望があるのでしょうか。

 

 ソロモンは、その現実を見てこう言うのです。「ただ、神を恐れよ」と。「神は天におられ、あなたは地にいるからだ。」私たちにとっての希望は、天におられる神が、地にいる私たちの歩みをご覧になっておられるということです。「主は天から目を注ぎ人の子らをすべてご覧になる。御座が据えられた所から地に住むすべての者に目を留められる。」(詩篇33:13-14)だから、ただ神を恐れ、神に従うこと、これがすべてです。これが唯一の希望であり、救いであり、神の御前における正しい人間の姿、神との正しい在り方なのです。

 

箴言14章27節には「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。」とありますが、私たち一人ひとりを生かし、治めておられる主を知ること。人のいのちとたましいに対する権威を唯一持っておられる方を恐れて生きること。それを抜きにして人は真の平安を得ることはできません。神は天におられ、あなたは地にいるからです。この神を恐れ、神に聞き従いましょう。これが人間にとってすべてであり、神の前にある正しい姿なのです。

三つ撚りの糸は簡単には切れない 伝道者の書4章1~16節

2020年11月1日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書4章1~16節(旧約P1142)

タイトル:「三つ撚りの糸は簡単には切れない」

 

 伝道者の書4章に入ります。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」と、日の下での労苦、神様抜きの、神様無しの労苦がいかに空しいものであるかを語ってきた伝道者ですが、その中にも光る言葉というか、含蓄のある言葉が散りばめられています。今日のみことばもその一つでしょう。「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」今日は、この「三つ撚りの糸は簡単には切れない」というテーマでお話ししたいと思います。

 

 Ⅰ.片手を満たして憩いを得る(1-6)

 

 まず、1節から6節までをご覧ください。3節までをお読みします。「私は再び、日の下で行われる一切の虐げを見た。見よ、虐げられている者たちの涙を。しかし、彼らには慰める者がいない。彼らを虐げる者たちが権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」

 伝道者は改めて、日の下で行われている一切の虐げを見ました。虐げる者たちが力で人々を虐げ、ねじ伏せているのです。虐げられている人たちは無力で、何の抵抗もできません。彼らはただ涙するだけで、立ち上がることすらできないのです。しかも、そんな彼らを慰める者もいません。どうしようもない非情な社会です。

この伝道者の生きていた時代がどういう時代であったのかわかりませんが、伝道者が見ていた状況は、現代にとても似ています。この伝道者の時代も格差社会だったのでしょう。今、日本では経済的格差がどんどん広がり、富める人はますます富み、貧しい人は貧しいまま、負のスパイラルから抜け出せずにいます。

 

伝道者はこうした現実を見てこう言います。2節です。「いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。」いのちがあって虐げられながら生きている人よりは、死んだ人のほうがましだということです。死人は、地上での労苦から解放されているからです。生きていても虐げから逃れることができず、涙するしかないのであれば、むしろ死んだ人の方が幸いではないか、というのです。これはいじめられた人がよく口にすることです。「こんなことなら死んだ方がましだ」。いじめや虐待は、それほど辛いものなのです。

 

それだけではありません。3節には、「また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」とあります。すごいことばです。「この両者」とは、「いのちがあって生きながらえている人」と「すでに死んだ死人」のことを指しています。この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、最初から生まれて来なかった者だと言うのです。なぜなら、最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることがないからです。虐げられることもありません。しかし、これは伝道者がこの世に存在することを否定しているのではなく、日の下で行われている現実を見て、それがいかに空しいものであるのかを述べているだけです。いったい問題はどこにあるのでしょうか。それは、彼が日の下の現実だけを見ていたことです。1節には「日の下で行われる一切の虐げを見た」とありますし、3節にも「日の下で行われる悪いわざ」とあります。「日の下で」ということが強調されているのです。すなわち彼は、日の上を見ませんでした。

 

伝道者はここで、虐げられている者には慰める者がいないと言っていますが、果たしてそうでしょうか。確かに「日の下」だけを見たらそうでしょう。しかし、「日の上」には慰めがあります。そうした虐げられている人たちの背後には神がおられ、彼らの嘆きの声を聞き、その歩みを守っておられるのです。詩篇10:17-18にはこうあります。「主よ。あなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや彼らをおびえさせることがないように。」

 

「それでも夜は明ける」という映画を観ました。原作は「トゥエルブ・イヤーズ・ア・スレーブ」ですが、奴隷制度がはびこっていたアメリカを舞台に、自由の身でありながら拉致され、南部の綿花農園で12年間も奴隷生活を強いられた黒人男性の実話を描いた映画です。主人公が体験した壮絶な奴隷生活と、絶望に打ち勝つ希望を描き出している映画です。実際はもっとひどかったんだろうなあと思いながら観ていましたが、こんな人生なら死んだ方がましだと思ったことでしょう。「日の下」の現実だけをみたらそうなんです。どこにも希望など見いだすことなどできません。しかし、日の上を見るなら、そこに貧しい者たちを顧みてくださる神がおられます。そして、その神が慰めと希望、耐える力を与えてくださいます。それが「ゴスペル」です。ゴスペルは、そんな黒人の奴隷たちが、神の助けとあわれみを求めて魂を注ぎ出して歌った歌なのです。その映画の中にも奴隷生活を強いられていた人たちが魂を注ぎ出して神に歌うシーンがあって、とても印象的でした。

 

キリストはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)この方は、あなたを休ませてくれます。この地上でどんなに虐げられていても、その人を自由にし、罪から解放してくださいます。あなたがこの方のもとに来るなら、あなたも虐げという苦しみから解放され、平安と慰めを得ることができるのです。

 

次に、4節をご覧ください。4節には「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」とあります。

次に伝道者は、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見ました。しかし、それは人間同士のねたみと嫉妬が動機で行われているのを知るのです。ある人がすべての才能を用いて努力し、労苦して成功すると、周りの人々はそれを喜ぶどころかかえってねたむという現象が生じます。そこには、相手を蹴落とさなければ生き残れないという競争原理が働いているからです。しかし、あらゆる労苦とあらゆる仕事の目的が、そのように人間同士が競い合うことにあるとしたら、何と空しいことでしょうか。それもまた風を追うようなものです。

 

5-6節をご覧ください。「愚かな者は腕組みをし、自分の身を食いつぶす。片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」どういうことでしょうか。

その反面、怠惰で愚かな者は、何もしないでただ傍観し、自分のからだを弱らせるだけだということです。5節の「愚かな者は腕組みをし、自分の身を食いつぶす。」は、新改訳改訂第3版では、「愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。」となっています。「手をこまねく」とは、「怠ける」という意味です。ですから、愚かな者は怠けて、自分の身を食いつぶす、すなわち、自滅するのです。

 

しかし、それとは反対に、賢い人の生き方があります。それが6節にあることです。「片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」どういうことでしょうか。新共同訳ではここを、「片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良い。」と訳しています。つまり、あれも欲しいこれも欲しいと、両手ですべてをつかみ取ろうとしてあくせく働くよりも、片手でもいいから得られるもので満足し憩いを得る方がずっと良い、ということです。今あるもので満足するという知恵です。箴言30:8には、「むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。」とあります。貧しさも富も私に与えないで、ただ、私に定められた食物で、私を養ってくださいとは、このことです。自分に与えられたもので満足するということです。皆さんはどうでしょうか。自分に与えられたもので満足しているでしょうか。それとも、もっと良いものをと、両手に労苦を満たしているでしょうか。

 

ヘブル13:5にはこうあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」」いま持っているもので満足するのです。古代ギリシャの哲学者ソクラテスはこう言いました。「いま持っているものに満足しない者は、ほしいものを手に入れても満足しない」満足とは欲しいものを得ることではなく、今あるもので十分だと思うことです。片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良いのです。片手を満たして憩いを得る人生を、いま持っているもので満足する、そういう人生を求めたいと思います。

 

Ⅱ.三つ撚りの糸は簡単には切れない(7-12)

 

第二のことは、共同体の力についてです。7節から12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。「私は再び、日の下で空しいことを見た。ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」

伝道者は再び、日の下で空しいことを見ました。それは、ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人です。その人は朝から晩まで仕事、仕事、仕事と、仕事に依存的になっています。その労苦には終わりがありません。しかもそれは世のため、人のためではなく、自分のため、自分の富を得るためです。もっと多くの富を持とうと目をギラギラさせ、ただ労苦して働く毎日です。1年365日、寝ても覚めても仕事のことばかり。ひたすら働き続ける企業戦士というイメージです。そこには飽くなき欲望があります。

しかも、「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」と自ら問うこともしません。つまり、自分は何のために働いているのか、だれのためにこんなに自分を犠牲にしているのか」と考えることすらしないのです。いわゆる思考停止状態です。現代に生きる私たちに対する警鐘と受け取れる言葉ではないでしょうか。

 

いったいどこに問題があるのでしょうか。ひとりで労苦していることです。ひとりで労苦するよりも、人と力を合わせて生きる方がどんなに美しいでしょう。家族や信仰の共同体もなく、ひとりで生きることは辛いことです。孤独に生きて絶えず働いても、自分のものに満足できず、財産や名誉に執着して神に与えられた人生を味わえないなら、それはとても不幸でむなしい人生です。

 

ですから、伝道者はそのことを勧めるために、次のように語るのです。9節から12節です。ご一緒に読みたいと思います。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

 

「二人は一人よりもまさっている。」という言葉は、よく結婚式で引用される言葉です。人はひとりでは生きられない、という共に生きることのすばらしさを教えてくれます。しかし、これは結婚においてだけ言えることではなく、この社会全体に言えることです。一人よりも二人、二人よりも三人と、共に生きて互いに力を合わせるほうがまさっています。なぜでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。

「二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」その方がもっと良い報酬が得られます。また10節には、「どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。」とあります。二人なら、どちらか一人が倒れても、もう一人がその仲間を支えて起こしてあげることができます。さらに11節には「二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。」とあります。寒い日に寝るとき温まることができます。だんだん朝晩が寒くなってきました。足が冷たいとなかなか寝付かれません。ひどい時には一晩中眠れないこともあります。でも、どうでしょう。そんな時でも妻の足で暖めてもらうとよく寝ることができます。妻は「や~だ、冷たい!」と嫌がりますが、聖書は何と言っているかというと、二人が一緒に寝ると温かくなる、と教えています。これが戦争などの場合であれば、もっと実感するでしょう。兵士たちが寒さをしのぐために身を寄せ合って寝るなら、温かく寝ることができるでしょう。つまり、一人よりも二人、二人よりも三人です。互いに力を合わせて一つになれば、ひとりでいる時よりも強い力を発揮することができるのです。これにもし神が結び合わされたらとしたらどうでしょう。それは強力な絆になります。簡単には切れません。

 

12節をご覧ください。ここには、「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。さらにそこに神がともにおられるなら、その絆はもっと強くなります。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。これは夫婦関係においても、家族においても、学校や職場、社会全体においても、そして信仰の共同体である教会にも言えることです。どんなことがあっても分かち合って共に歩む信仰の共同体は、神が私たちに与えてくださったすばらしい贈り物なのです。

 

地球上で最大の哺乳動物と言われているシロナガスクジラは、ジェットエンジンよりも大きな声で歌うことで有名です。驚いたことに、全世界のシロナガスクジラが同時に同じ歌を歌えるそうです。実験の結果、太平洋のシロナガスクジラが歌を変えると、大西洋のシロナガスクジラも歌を同じように変えることがわかりました。まるで指揮官がいるように合唱するのです。

神は、私たちがひとりでどれほどうまくやれるかを見ておられるのではなく、それぞれ任されたパートをしっかりと演奏し、一つの美しいハーモニーを奏でるオーケストラのように、共同体の中で一致することを望んでおられるのです。

「自分ひとりで」信仰生活をするほうが楽だと言う人がいます。集まること自体が負担で時間の浪費だと考えるのです。しかし、ひとりで信仰生活をしようとする人は、苦難の波が襲ってくる時もひとりで耐えなければなりません。私たちの人生はそれほど簡単なものではありません。時には倒れ、時につまずき、時には苦しむことがあります。そんな時起こしてくれる人がいないとしたら、どんなに大変なことでしょうか。二人は一人よりもまさっています。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。

 

ずっとうまくいっていた事業が破綻した中年男性が、次のように言いました。「事業の失敗によって経済的損失を被ったことはもちろんつらいですが、周りの人々がみな自分を無視して去って行き、ひとり残されたことが最もつらいです。」

つらいとき、そばにいてくれる人がいるだけでも慰められ、苦難を克服する力になります。信仰の共同体の中にいるなら、つまずいたり倒れたりしても、周りの兄弟姉妹たちが支えてくれる力によってもう一度立ちあがることができます。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。

 

Ⅲ.人の評判を気にしない(13-16)

 

第三のことは、人の評判を気にしないということです。なぜなら、人気とか評判といったものは、人の気まぐれによっていつでも変わるものだからです。13節から16節までをご覧ください。13節と14節をお読みします。「貧しくても知恵のある若者は、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王にまさる。そのような若者は、牢獄から出て王になる。たとえ、その王国で貧しく生まれた者であっても。」

 

伝道者はここで、貧しくても知恵のある若者と、年老いた王を比較しています。この若者には何の影響力もありませんが、彼には知恵がありました。一方、年老いた王は、若い時に幾多の試練を乗り越え、ついに王位に就きましたが、しかし年をとると頑固になり、他人からの忠告に耳を貸さなくなりました。受け入れなくなったのです。年を取ると丸くなるというのは間違いです。年をとればとるほど反対に頑固になっていきます。丸くなるというのはいちいち口論したり、抵抗したりするのが面倒くさくなるのでそのように見えるだけです。でも心の中では全くもって納得できず、逆に苦々しい思いを持ってしまうのです。自分でも気づかないうちに頑固になっていきます。この年老いた王がソロモン自身なのかわかりませんが、もしかすると、自分の経験から言ったのかもしれません。いずれにせよ、そのように貧しくても知恵のある若者と、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王ではどちらがまさっているでしょうか。貧しくても知恵のある若者です。たとえ彼が牢獄から出て王になったとしても、あるいは、その王国で貧しく生まれた者であったとしても、です。

 

しかし、事はそれだけでは終わりません。15節と16節をご覧ください。「私は見た。日の下を歩む生きている者がみな、王に代わって立つ、後継の若者の側につくのを。その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」どういうことでしょうか。

これは、ちょっとわかりづらい訳です。新共同訳では16節をこのように訳しています。「民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。」つまり民衆は、先の王に代わった後継の若い王に対して、最初のうちは期待してその若者の側につくかもしれませんが時間が経つうちに不満を抱くようになり、次第に彼を喜ばなくなる、ということです。初めは賢くていい王だなぁと思っていても、慣れてくると、やっぱりこの王も幼いところがあるなとか、ああいう考えはおかしいなどと批判するようになるのです。民衆はそのようなことを限りなく続けているわけです。「その民すべてに終わりがない」とはそういうことです。明後日はアメリカの大統領選ですね。トランプかバイデンか、どちらが大統領になるかわかりませんが、どちらが大統領になっても言えることは、評判がいいのは最初のうちだけで、そのうち批判されるようになるということです。飽きてくるのです。国民はそういうことを限りなく続けています。それを見た伝道者は何と言っていますか。これもまた空しく、風を追うようなものだ。あんなにすばらしいと絶賛した人を、今度はこき下ろすかのように忌み嫌う民衆の態度に空しさを覚えているのです。

 

いったい何が問題なのでしょうか。15節にあるように、彼の心が日の下のことに奪われていることです。日の下を歩む人たちはみな、そうなのです。そのすべてに終わりがありません。それは果てしなく続くのです。なぜでしょうか。人の心とはそのようなものだからです。人の心はそれほど移ろいやすく、気まぐれなものであり、頼りないものなのです。人の心はコロコロ変わるからこころと言うんだ、と言った人がいますが、人の心はそれほど変わりやすいものなのです。そんな人の評判を気にし、それを人生の最終目標とするなら、そこには何の満足も安心も得られないでしょう。私たちは、日の下のそうした人の評判や評価ではなく、神の評価、神の評判を求めなければなりません。

 

一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。神を中心とした共同体の中で、兄弟姉妹の語る神の声に耳を傾けながら、神の評価を求めながらいきていく、そういう人生こそ真に幸いな人生であり、いつまでも人々の尊敬を受ける知恵ある生き方なのではないでしょうか。

人は獣にまさっているのか 伝道者の書3章16~22節

2020年10月25日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書3章16~22節(旧約P1142)

タイトル:「人は獣にまさっているのか」

 

 きょうは、伝道者の書3章後半から学びます。前回のところで伝道者は、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある」と語りました。そして、神のなさることのすべてを私たちは見極めることができませんが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のだから、その神にすべてをゆだね、永遠の今を生きることが大切だと言いました。

 

けれども、その目を一旦日の下に向けると、上向いた伝道者の心がまたダウンします。さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見たからです。それでは獣と同じではないか、人は獣にまさっているのか、まさっていない、と結論付けるのです。皆さん、どうですか、人は獣にまさっているのでしょうか。よく「あの人は動物以下だ」というのを聞くことがありますが、人は動物以下の存在なのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。きょうは、このことについてご一緒に考えてみたいと思います。

 

 Ⅰ.神のさばき(16-17)

 

 まず、16節と17節ご覧ください。16節、「私はさらに日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。」

 神のなさることは、すべて時にかなって美しいと、神の計画の完全さを述べた伝道者は、ここではそれとは裏腹に、日の下で行われている空しさの一つの事例を取り上げています。それは、さばきにおいて不正が行われているという現実です。この「さばきの場」とは、正義が行使されるはずの法廷のことを指しています。その後の「正義の場」とは、これも「さばきの場」と同じ意味です。ある人(G・A・バートン)はこの「正義の場」を「さばきの場」と区別して、「正しい人の場」、つまり、神との関係においての正しい場のことであると解釈していますが、そういう意味ではありません。むしろ、同じことを、異なった言い方で二度繰り返して強調することによって、正義のみが行使されるはずの法廷において、不正がはびこっているということを訴えているのです。法律が曲げられている。法律が機能していません。そういう社会の現実を見たのです。

 

 17節、「私は心の中で言った。「神は正しい人も悪しき者もさばく。そこでは、すべての営みとすべてのわざに、時があるからだ。」

このような社会の矛盾を見て、伝道者は心の中でこう考えました。神は悪者を決して見逃しはしない。いつか正しい人も悪者も裁かれるが、それは人間が考える時ではなく、神が定めた時である。今それがなされないのは、すべての営みと、すべてのわざには、神の時があるからだと。

 

皆さん、すべての営みには時があります。これは前回のテーマでもありました。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」(3:2-8)

神が裁きを行われることにも時があります。たとえ、この地上で不正が見逃されたとしても、最終的に神のさばきがあります。へブル9:27には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。最終的な神はさばきの時に、すべての正しい人と悪しき者の行いを義によってさばかれるのです。世のさばきは正しくなくても、神のさばきは正しく行われます。であれば私たちは、正しくさばかれる神の御前に、しっかりと備えておかなければなりません。どのようにして備えていたら良いのでしょうか。イエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神の子としていただくことです。イエス様を信じる者はさばかれることがありません。

 

使徒パウロは、ローマ2:16で「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」と言っています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われます。それが明らかにされるのはいつでしょうか。終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、神の義であられるイエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神に喜ばれる歩みを求めて生きなければなりません。

 

アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身の伝道者がいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やすほどの悪人で、淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは何一つありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼は、自分が望むすべてのものを手に入れることができました。にもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋に幾つもの鍵をかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視していなければなりませんでした。絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも度々ありました。心の孤独と悲しみやつらさに、来る日も来る日も身震いしながら過ごしていたのです。イザヤ48:22に「悪者どもには平安がない」とありますが、彼には平安がなかったのです。これが裁きです。

 

数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が犯した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまったのです。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったことは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」ということでした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼には平安がありませんでした。

 

終わりの日に受ける神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対して、明確な解決を持っていない人はみな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きていかなければならないのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

 

あなたは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられますか。キリストの下に来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何も恐れることはありません。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちが与えられ、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、神の怒りと憤りがくだるのです。そのさばきがいつであるかはわかりません。すべての営みと、すべてのわざに、神の時があるからです。しかし、それがいつであっても「備えあれば憂いなし」です。確かな神のさばきに備えて、救い主イエス・キリストを信じ、神の御心に歩もうではありませんか。

 

Ⅱ.人は獣にまさっているのか(18-21)

 

次に、18-21節までをご覧ください。18節には、「私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試みて、自分たちが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」とあります。

正義の場に不正がはびこり、それが当然のような社会が存在するのはどうしてなのか、伝道者はここでもう一つの理由を述べています。それは、人間を試みて、彼らが獣にすぎないということに気付かせるためです。人間と動物は何ら変わらない、同じだというのです。

 

皆さん、どう思いますか。輪廻転生を信じている人は、「そのとおり」と言うかもしれませんね。彼らは、死んであの世に行った霊魂は、また生まれ変わってくると信じています。つまり、輪廻と転生を繰り返すと考えているのです。どんな世界に生まれ変わるのかというと、仏教では人の生まれ変わりには、生前の悪行が関連していて、それに応じて六道のいずれかに生まれ落ちると言います。つまり、必ずしもまた人に生まれ変われるとわけではないのです。もしかすると、動物に生まれ変わるかもしれません。「ワン、ワン」、「ニャーン」です。「あら、また会いましたニャン」とか、「元気でしたワン」とか言うのです。

 

しかし、これはウソです。人間は動物とは全く違います。なぜ伝道者はそのように言っているのでしょうか。19節と20節をご覧ください。ここには、伝道者がそのように言う理由が記されてあります。「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。」

なぜ、人と獣は何ら変わらないのか、伝道者は、その結末が同じだからだと言います。これも死ねば、あれも死ぬ。どちらも同じ所に行きます。すなわち、すべてのものは土から出て、土に帰るからです。つまり、人も獣も、どちらも最終的には死を迎えるということです。

 

さらに、21節には「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に昇り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」とあります。これは伝道者が死という点では同じだが、その霊の行き着く所は人の子らと獣とでは違うと言っているのではありません。実際にはそのとおりで、人の子らと獣が行くところは違いますが、この時点で伝道者がそのように悟っていたわけではないのです。ここで伝道者が言いたかったことは、「人の子らの霊が上に昇るかどうか、また、獣の霊が下に降りて行くかどうかを、だれが知るだろうか、だれも知らない。」ということです。つまり、人間の行きつくところと獣の行きつくところ、その運命は同じであるということです。それゆえ、人は獣にまさっているのかというとそうではありません。まさっていない。人も獣も同じです。すべては空しいからです。これが、伝道者の結論でした。

 

けれども、そうでしょうか。注意して見てください。この時、伝道者の信仰はバックスライドしていました。日の下で行われる一切のことを見て、すべては空だと思っていました。この世の何をもってしても自分の心を満たすものがないのを見て、すべてが空しいと感じていたのです。何のために生きているのかがわかりませんでした。人生に失望し、落胆していたのです。信仰によって物事を見ることができませんでした。ですから彼は、この世の人たちと何ら変わらない目しか持っていなかったのです。その目で見たら、人も獣もみな同じでしょう。人が獣よりもまさっているのは何もないと思ったのです。

 

しかし、そうでしょうか。これは完全に間違っています。もし進化論に立てばそうかもしれません。進化論では、宇宙の起源を物質と考えています。進化論者たちは、宇宙と人間の起源が、水や火、土、空気、原子、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと考えています。ですから、すべては偶然であり、人生や宇宙には何の意味もないということになります。試験管を振ったら偶然にいのちが生まれたというようなものです。すべては偶然なのです。だとしたら、それは空しいことです。

 

一方、聖書では何と言っているのかというと、聖書は、人間は決して偶然の産物ではなく、神様によって造られたと教えています。神様は天と地と海と、その中に住む一切のものを造られ、最後に人を創造されました。しかし、人はそれまで造られたものとは全く違います。それは、神のかたちに造られたという点です。創世記1:26には、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」とあります。そして、こう仰せられました。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(1:27)。

神のかたちとして造られたとはどういうことでしょうか。それは霊を持つ者として造られたということです。この霊をもって神に祈り、神に感謝し、神を賛美し、神と交わりを持つためです。そうです、私たち人間は、霊的に造られたのです。私たちは肉体と精神を持っていますが、そればかりではなく、霊を持つ者として創造されました。ですから、どの時代の、どの民族であれ、どんな人でもみな手を合わせて生きてきたのです。それがどういう神であるかは別として、人はみな神を礼拝する者として造られているのです。これが動物とは決定的に違う点です。動物は肉体と本能を持っていますが、この霊を持っていません。これは人間にだけ与えられているものです。皆さん、動物が祈っているのを見たことがありますか。かわいい犬が手を組んで「ワン、ワン」と祈ったり、猫が目を閉じて「ニャン、ニャン」と祈っているのを見たことがあるでしょうか。ないでしょう。もしかると、祈っているのかなと思うような行動をしているのを見たことがあるかもしれませんが、それは単に甘えているか、じゃらけれているだけです。祈っているのではありません。しかし、人はいつの時代でも、どんな人でも、手を合わせます。なぜ?そのように造られているからです。11節には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とありますね。第三版では、「永遠の思いを与えられた」となっています。人にはそのような思いが与えられているのです。

 

娘が小学生の時、バスケットボールの試合で青森に行く機会がありました。先生や父兄の方々は飲み会ばかりやっていましたが、あまりおもしろくなかったので、一人で青森市内にある三内丸山遺跡を見に行きました。三内丸山遺跡は、日本最大級の縄文時代の集落跡です。今から約4,000年から~5,000年前の人々はどんな暮らしをしていたのかとても興味がありました。

行ってみると、その集落の真中に大きなやぐらが建っていました。地面に穴を掘って、直径1mもあるクリの木を6本立て、それを組み合わせて作ったものです。高さは15mくらいありました。いったいどうして集落の真中にこんなに大きなやぐらが建てたのかと不思議に思いガイドさんに尋ねてみたら、それはいろいろな用途のために作られたようですが、中でもそこで暮らす人たちが農業の収穫に感謝して、神を礼拝する祭りのために作られたのではないか、と教えてくれました。

今から5,000年も6,000年も前の人たちはすでに、神に祈ることをしていたのです。それは、人は神によってそのように造られているからであり、永遠を思う心が与えられているからです。そのように造られた人によってむしろそれは自然の営みなのです。

 

ですから、人は死んだら肉体はちりに帰りますが、霊はこれを造られた神に帰るのです。伝道者も、後でこのことに気付きます。12:7に「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。しかし、この時点ではまだそのことに気付いていませんでした。全部一緒じゃないか。人も獣もみんな一緒。すべてのものは土から出て、土に帰る。人が獣にまさっていることなど何もない・・と。

 

しかし、そうではありません。人は神の計画によって、特別に神のかたちに造られました。そして、やがてその霊は神のもとに帰るのです。ですから、伝道者の「それでは、人は獣にまさっているのか。」という問いに対しては、私たちはこのように答えることができます。「Yes,人は獣にまさっています。神の計画によって、特別に神のかたちに造られたのですから。」決して人の子と獣の結末は同じではありません。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」のです。

 

であれば私たち人間には、私たちを造られた方、創造者の目的があるはずです。それは何でしょうか。それは神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。ウエストミンスター小教理問答書第一問にはこうあります。

「人のおもな目的は何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」

これが私たちに与えられた人生の目的です。この目的に従って生きるとき、私たちの心は真の満たしを受けます。そうでしょ、たとえば、ここにマイクがありますが、このマイクは何のためにあるのかというと、ここで話をする人の声を大きくし、聞きやすくするためです。もしこれが故障していてその役割を果たさなかったら、逆に、ハウリングを起こして使いものにならないとしたら何の意味もありません。同じように、私たちも私たちを造られた創造主なる神の目的に従って生きるとき、すべては空しいのではなく、真の喜びと満足を得ることができるのです。

 

Ⅲ.だれが、これから後に起こることを見せてくれるか(22)

 

 最後に22節をご覧ください。「私は見た。人が自分のわざを楽しむことにまさる幸いはないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」

人生の目的がわからなかった伝道者は、ここで一つの結論を見出します。それは、生きているうちに楽しむ以外に良いことはないということです。それにまさる幸いはないと。なぜなら、これから後に起こることを見せてくれる人がいないからです。「これから後に起こること」とは、これから後の将来のことという意味もありますが、むしろ、死後のことを意味しています。人は死んだらどうなるかということです。人は死んだらどうなるかなんてだれもわからないのだから、生きている今を思う存分楽しむしかない、それが人の幸いというものだ、というのです。それが人の受ける分であるからだ。果たしてそうでしょうか。

 

もしこれから後に起こることがわからなければ、そうかもしれません。この先どうなるのかがわからなければ今を存分に楽しむしかないでしょう。しかし、もしこれから後に起こること、死んだらどうなるのかを見せてくれる人がいるとしたら、そしてそれが真実であると受け止めることができるなら、そのような価値観は一変し、それに備えた生き方をするようになります。そして、「これから後に起こること」を見せてくれることができる方がおられます。だれですか。そうです。死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。

 

キリストはソロモンよりも偉大な方です。ソロモンは偉大な知恵の持ち主で、シェバの女王がその知恵を聞くためにはるばる地の果てからやって来たほどですが、そのソロモンさえわからなかったことを、キリストは知っておられるのです。なぜなら、この方は天から来られた方だからです。ヨハネ3:13には「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来られた者、人の子は別です。」とあります。キリストは天から下って来られました。永遠の神であられるお方が人の姿を取って、この地上に来てくださったのです。ですから、この方は別格です。この方は生も死も、また永遠の世界も、また三位一体の神の関係についても、目に見えない世界のこと、天地創造以前の世界についてもすべてご存知であられました。ソロモンとは比較にならないほどの知恵を持っておられた方なのです。この方は、死からよみがえられました。ですから、これから後こと、すなわち、死後のことまでも完全に知っておられたのです。このような方は他にはいません。確かに、これまで死んで蘇生した人はいます。しかしそのような人たちは、やがてまた死んで行きました。けれども、キリストは死からよみがえられただけでなく、永遠に死ぬことのないからだによみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。

 

伝道者ソロモンはここで、「だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」と言っていますが、キリストはこの問いに対する明確な答えをもっておられるのです。私たちはよく「死ぬのが怖い」と言いますが、なぜ怖いのでしょうか。先が見えないからです。死んだらどうなるのかがわかりません。だから怖いと感じるのです。しかし、私たちにはそれを見せてくださる方がいます。だから、私たちは不安に苛まれる必要はありません。恐怖に脅える必要もないのです。イエス・キリストが答えです。神はイエス・キリストを信じる者に永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって、死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

 

プロテスタントのホーリネス系の団体で日本宣教会という団体がありますが、その創立者の一人で、相田登代という先生がおられました。この方は新潟県の有名な神社の神主の娘でしたが、キリストを信じ、さらに伝道者とて歩まれました。先生はお元気な時に、説教の中で「死を恐れてはなりません。一階から二階に上がるように、私達にとって死は、この地上の住まいから、天の御国に移ることなのです。」と言いました。

 

すばらしいですね。死は一階から二階に上がるように、この地上の住まいから、天の御国に移ることです。確かに、愛する者との一時的な離別では悲しみが伴いますが、それは永遠の離別ではありません。天に於いて、再び、愛する者と再会します。そして永遠に、喜びと祝福、そして愛に満ちている御国に住むのです。神はイエス・キリストを信じる者にこの永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

 

私たちはイエス・キリストを通して、この希望を持っているのですから、ここで伝道者ソロモンが言っているようにこの地上で楽しむことがすべてだと言わなくても良いのです。私たちはイエス・キリストによって永遠のいのちが与えられていることを感謝し、この地上での生涯を、日々神と交わりながら、すべてを神にゆだねて生きていくことができるのです。