出エジプト35章

2020年11月11日(水)祈祷会メッセージ

聖書箇所:出エジプト35章

 

出エジプト記35章を開いてください。金の子牛の事件によって神との契約を取り消されたイスラエルでしたが、モーセのとりなしによって神の赦しを得て、再び神との契約を結ぶことができました。モーセは40日40夜、シナイ山で主とともにいました。彼が山から降りて来ると、彼の顔が輝きを放っていました。それでモーセはイスラエルの民と話し終えると、顔に覆いを掛けました。その輝きを失わないためです。そして主と語るために主のもとに行く時は、その覆いを外していました。それは、律法の限界を示していました。確かに、律法にはそれなりの輝きがありますが、それによって救われることはありません。けれども、人が主に向くならその覆いは取り除かれます。そして鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行くのです。それが御霊の輝きです。その輝きは律法のように一時的なものではなく永続した輝きです。

 

そして35章に入ります。ここには、モーセがシナイ山で受けた幕屋と祭司の事柄について記されてあります。幕屋は神の臨在が現われる場所です。モーセは、その幕屋を建設するにあたり、主が行えと命じられたとおりに行っていきます。これは25~31章で語られた内容の繰り返しです。このように繰り返して記されてあるということは、それだけ重要であるということです。ここから私たちは、どのようにして主の働きをしていったら良いかを学びたいと思います。

 Ⅰ.安息日の規定(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください。「モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。「これは、【主】が行えと命じられたことである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は、 あなたがたにとって【主】の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。」」
 

これから幕屋の材料を集めること、幕屋を造る作業を開始させるのですが、その初めに安息日についての規定について語られました。それは、彼らが本当に大切なもの、第一にすべきものを見失わないようにするためです。本当に大切なものとは何でしょうか。主を礼拝することです。言い換えると、主ご自身を求めることです。以前にもお話ししましたが、主のための働きは主を礼拝するという行為があってこその働きです。主を礼拝することこそ本質的なことであって、それに伴う作業はその次のことなのです。

 

クリスチャン生活と教会、諸活動の中心は、主を礼拝することです。信仰生活の他の点でどんなに成長していても礼拝の生活が確立されていなかったら、あるいはまた、教会のどの活動に力を入れても、礼拝がその中心に据えられていなかったら、すべては空回りしてしまいます。礼拝こそ信仰の中心であり、礼拝によって強められ、励まされ、燃やされ、一週間の生活に遣わされていきたいと思います。


Ⅱ.進んでささげるささげ物(4-19)

 

次に、4~9節をご覧ください。まず、9節までをお読みします。「モーセはイスラエルの全会衆に告げた。「これは【主】が命じられたことである。あなたがたの中から【主】への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、【主】への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。」


モーセはイスラエルの全会衆に、主への奉納物を持ってくるように命じました、これらは25:4~7

にもあった15種類の材料です。ここでは、そのささげものを献げるにあたっての心構えが記されてあります。それは、「すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい」ということです。義理とか、義務感からではなく、心から、喜んでささげる者から受け取るようにということです。Ⅱコリント9:6~7でパウロは、このように言っています。「私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

これが献金についての原則です。献金について聖書の中で貫かれている原則は、自分自身のもの、特に自分にとって尊いものを主に献げるということと同時に、それらが自分の意思で、主体的に、喜んで献げるということです。他の人が献げているからとか、牧師にそのように言われたからとかではなく、自分の心で決めたとおりに、喜んで献げるということです。神は喜んで献げる人を愛してくださいます。実際、スラエルの民は、心から進んで献げました(35:21,22,29)。その結果、あり余るほどのささげものが献げられたのです(36:5-7)。

 

次に、10~19節をご覧ください。「あなたがたのうち、心に知恵ある者はみな来て、【主】が命じられたものをすべて造らなければならない。幕屋と、その天幕、覆い、留め金、板、横木、柱、台座、 箱と、その棒、 『宥めの蓋』、仕切りの垂れ幕、机と、その棒とそのすべての備品、臨在のパン、ともしびのための燭台と、その器具、ともしび皿、ともしび用の油、香の祭壇と、その棒、注ぎの油、香り高い香、そして幕屋の入り口に付ける入り口の垂れ幕、全焼のささげ物の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門の垂れ幕、幕屋の杭、庭の杭、そのひも、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。」」

 

 ここには、ささげられた材料を使って幕屋やその中にあるもの、あるいは祭司の装束を造るようにと言われています。誰にそのことが命じられているかというと、「心に知恵のある者」です。心に知恵のある者はみな来て、主が命じられたものをすべて造らなければなりませんでした。心に知恵のある者とはどういう人でしょうか。それは人間的な言い方をすれば職人さんたちのことでしょう。ただの職人さんではありません。これは神の知恵、神の霊に満たされた、御霊の賜物が与えられていた人たちです。このようなものを巧みに造ることができる特別な能力を神から与えられている人がいます。そのような人たちに命じられているのです。30~31節には、「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」とあります。また、「ダン部族のアヒサマクの子オホリアブ」にもそのようにされました。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神から与えられた仕事を成し遂げるためです。

 

同じように神様は、私たち一人一人を召し、主から与えられた仕事を成し遂げるために、御霊の賜物を与えてくださいました。Iコリント12章には、「奉仕にはいろいろな種類があり、働きにはいろいろな種類がありますが、主は同じ主です。みなの益になるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」(12:4-7)とあります。神から与えられている賜物は、それぞれみな違います。ちょうど人間のからだは一つでも、そこに多くの器官があるように、キリストのからだにもいろいろな種類の賜物が与えられた人たちがいるのです。それぞれに与えられた賜物を通して、主のからだである教会が建て上げられていくのです。それはどういうことかというと、第一に、私たちはそれぞれを必要としているということです(12:21)。それぞれ互いに補い合ってこそ、教会はしっかりと建て上げられていくのです。第二のことは、比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものであるということです。私たちはからだの中で比較的に尊いとみなす器官をことさらに尊ぶ傾向がありますが、神は違います。劣ったところをさらに尊んで調和させてくださいます。そうやってキリストのからだが立て上げられていくのです。

 

 Ⅲ.心を動かされた者、霊に促しを受けた者(20-35)
 

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。20~29節をご覧ください。「イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。進んで献げる心のある者はみな、男も女も、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を【主】に献げる者はみな、そのようにした。また、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物を献げる者はみな、それを【主】への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のあらゆる仕事のためにそれを持って来た。また、心に知恵ある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。部族の長たちは、エポデと胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石を持って来た。また、ともしび、注ぎの油のため、また香りの高い香のために、香料と油を持って来た。イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」

 モーセの前から立ち去った民はどのように応答したでしょうか。「心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持ってきた。」(21)

ここで繰り返して記されていることは、「心を動かされた者」、「霊に促しを受けた者」です。つまり、彼らは自分のものをささげるときに、いやいやながらではなく、また強制されてでもなく、自分でささげたいと思って、それを心から喜んでしたということです。そこには聖霊による感動がありました。それは、金の子牛の事件の罪が赦されたという感動でもありました。さらに、主の栄光が再び宿るという恵みへの感動でした。

 

 29節をご覧ください。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」とあります。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな」とあります。金の子牛を作るためにアロンが指定したのは金だけでした。金を持っていない人たちはそれに参加することができませんでした。しかし、幕屋の建設は違います。幕屋の建設のためには15種類のものが必要とされました。つまり、誰でも参加することができたのです。事実、民は主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、あり余るほどのささげものを献げました。神の事業には、全員が参加するのです。

 

それは、神の教会も同じです。教会は牧師だけの働きによって成し遂げられるものではありません。信者全員が参加することによって建て上げられていくものです。まさに全員野球です。そのことを覚え、喜んで主の働きに参与させていただきましょう。

 

 最後に、30~35節をご覧ください。「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、意匠を凝らす仕事をするためである。また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺?する者、また機織りをする者の仕事を成し遂げるためである。」

 

祭具や祭司の彫刻において細工が必要ですが、そのために主はベツァルエルを名指しで召されました。そして、彼が幕屋のあらゆる仕事を成し遂げるために、彼に知恵と英知と知識を与えました。神の霊で彼を満たされたのです。神は、ご自身の働きのために召してくださった人にこのように神の霊を与えてくださるのです。教会において、神の働きにおいて必要なのは能力がある人ではなく、神の霊に満たされた人です。神の霊、知恵と英知と知識なのです。

 

もうひとりはオホリアブという人物です。彼はベツァルエルの補助者となりました。彼はダン部族の出身でした。最大のユダ部族からベツァルエルが召され、最小のダン部族からオホリアブが召されました。ここから、神はイスラエル12部族のすべてを用いようとしておられたことがわかります。主は彼らをすぐれた知恵で満たされました。それは彼らがあらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神の幕屋を制作するという仕事を成し遂げるためです。これは主が名指しで召したとあるように、神の主権によって成されたことでした。

 

この原則は、新約の時代の教会にも言えることです。エペソ4:11~13節には、「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」とあります。

 

主は、キリストのからだを建て上げるために、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある日外たちを牧師また教師としてお立てになりました。名指しで召されたのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きを指せ、キリストのからだを建て上げるためです。ですから、他の兄姉に与えられた賜物をねたんだり、うらやましがったりする必要はありません。互いの賜物を認め合い、キリストが建て上げられていくことを求めて、自分に与えられた賜物を喜んで主に用いていただきましょう。

出エジプト記34章

2020年10月28日(水)祈祷会

聖書箇所:出エジプト記34章

 

 出エジプト記34章から学びます。まず、1~3節をご覧ください。

 

Ⅰ.主の御名(1-9)

 

「主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

 

主はモーセに、「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。」と言われました。主は、モーセが砕いた石の板にあった、あのことばをその石の上に書き記そうとされたのです。「あのことば」とは「十戒」のことです。神は、ご自分の指で書かれた二枚の石の板をモーセに授けられました(31:18)が、モーセはそれを山のふもとで砕いてしまいました(32:19)。宿営に近づくと、民が金の子牛を拝んで踊っているのを見たからです。それでモーセの怒りは燃え上がり、持っていた二枚の石の板を砕いてしまったのです。しかし、モーセの必死のとりなしによって、神は彼らとともにいて、ご自身の栄光を現してくださると約束してくださいました。

 

そして、モーセに「前のものと同じような二枚の板を切り取れ。」と言われました。その石の板の上に、前の石の板にあった、あのことばを書き記すためです。神はまた同じ祝福を、イスラエルの民に注がれようとされたのです。私たちも、一度失敗しても、神は以前と変わらずまったく同じように、私たちに祝福することがおできになります。やり直しを与えてくださる神なのです。こうしてモーセはシナイ山に登りました。

 

次に、4~5節をご覧ください。「そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」」

 

モーセは、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を取って、山に登りました。これが三度目の登頂です。毎回、40日40夜山頂にとどまりました。

すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセとともに立って、主の名を宣言されました。主の名を宣言するとは、主のご性質を明らかにされたということです。御名とは神の本質であり、それこそモーセが祈りの中で願っていたことです。モーセは祈りの中で「どうかあなたの栄光を私に見せてください。」(35:18)と祈りましたが、神はご自身のご性質を示すことによって栄光を現そうとされたのです。それが6,7節にあることです。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 

「主はあわれみ深く、情け深い方」というのは、一般の日本人が抱いている神の概念とはだいぶ違います。一般に日本人は、神は怖い方、たたりをもたらすような方恐ろしい方だと思っています。「さわらぬ神にたたりなし」なるべく神に関わらないようにしたい。人生の節目、節目にお参りして、厄払いをしてもらって、そうしたたたりが起こらないようにしようと考えているのです。

しかし、聖書の神はそのような方ではありません。「主は、あわれみ深く、情け深い方」です。このことを理解することはとても大切です。33:19にも「主の名」が出てきました。そこには「あらゆる良きものをあなたの前に通らせ」とありました。主は良い方、あらゆる恵みとあわれみに富んだ方であり、それを私たちにお与えになる方です。そのように理解することで、自ずと神に近づき、神と交わりを持つことができます。恐れがあると、必ず退いてしまいます。神が良い方であると理解していないと、神は自分を罰して、自分に意地悪をするのではないかと恐れて、神から遠ざかることになってしまいます。それではサタンの思うつぼです。神はあわれみ深く、恵み深い方であることを知っているからこそ、自ずと悔い改めに導かれ、その神のあわれみを求めて祈るように導かれるのです。

 

このことはクリスチャンにとっても大切なことです。クリスチャンの中にも間違った神概念をもっている人がいます。すなわち、旧約聖書の神は怖い神で、新約聖書の神は優しい、愛の神だといった理解です。旧約の神と新約の神を分けてしまうのです。しかし、そうではありません。旧約の神も、新約の神も同じ神です。旧約聖書にもこのように「主はあわれみ深く、恵み深い方」であることが語られているし、新約聖書にも、特に黙示録などを見ると、罪を裁かれる神として描かれています。ですから、旧約聖書と新約聖書の神は同じ神なのです。神はあわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる方。この神理解をしっかりと持つことが重要です。

 

「あわれみ深く」とは、当然受けるべきものを受けないということです。私たちは罪ゆえにさばかれても当然な者でしたが、神はそのさばきを受けないようにしてくださいました。それが「あわれみ」ということです。これに似たことばで「恵み深い」ということばがあります。これは当然受けるに値しない者が受けることです。私たちは罪深い者であるがゆえに、当然永遠のいのちを受けるに値しない者ですが、そんな者が受けるとしたら、それは恵みです。私たちはそれだけの価値などないにもかかわらず、それを受けるとしたら、それは神からの一方的な恵みでしかないのです。そう、恵みとは過分な親切とも言えます。神は、恵みとまことに富んでおられる方です。これは主イエスについても言われています。「この方は恵みとまことに富んでおられた。」(ヨハネ1:14)とあります。これが神のご性質です。

 

しかし、ここには「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」とあります。そして、父の咎を子に、子の子に、三代に、四代に報いる者である。」とあります。これはどういうことでしょうか。これは、親の犯した罪が遺伝のように子どもに受け継がれていくということではありません。エゼキエル18:1-4には、「次のような【主】のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、いったいどういうことか。わたしは生きている──【神】である主のことば──。あなたがたがイスラエルでこのことわざを用いることは、もう決してない。見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。」とあります。ですから、自分の状況が悪い時、それを親のせいにしたり、先祖のせいにするのは間違っています。

 

しかし、父の咎を受けなくとも、その影響は子どもに与えてしまいます。子どもがすることで、何でこんなことをしてしまったのかと思うとき、よく考えてみると、それがまさに自分の姿であるのを見ることがあります。自分の醜さなり、自分の弱さ、自分のあり方が子どもに受け継がれていくことがあるのです。良いことも、悪いことも。ですから、霊的なことにおいてはできるだけ子どもに良い影響を及ぼすように努めていかなければなりません。でも、たとえ悪いからといってあきらめる必要はありません。それを断ち切ることはいくらでもできます。それは断ち切る祈りをするということではなく、主のみことばを学び、謙虚に主の前にひざまずくことによってです。

 

8,9節を見ると、モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏したとあります。なぜでしょうか。主はあわれみ深く、恵み深い方であることを知り、その主のご性質に信頼して祈ろうと思ったからです。彼はこう祈りました。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」(9)

イスラエルの民はうなじのこわい民で、決して主に受け入れられるような者ではありませんでしたが、主があわれみ深い方であることを知って、どうか主が自分たちのただ中いて、進んでくださるように、と祈ったのです。

ここに礼拝者としてのモーセの姿が描かれています。モーセは神のご性質の前にひれ伏し、ありのままをさらけ出して祈る礼拝者でした。別に何も隠し立てすることなく、弱さを持ったままの人間として、それを正直に主の前に告白し、主のあわれみを求めて祈ったのです。私たちにもこの神の恵みとあわれみが差し出されています。それゆえに、モーセのように、神のあわれみを求めてひれ伏し、ひざまずいて祈ろうではありませんか。

 

Ⅱ.契約の更新(10-28)

 

次に、10~28節をご覧ください。まず、20節までをお読みします。「主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、【主】のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。わたしが今日あなたに命じることを守れ。見よ、わたしは、アモリ人、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。あなたは、ほかの神を拝んではならない。【主】は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。あなたはその地の住民と契約を結ばないようにせよ。彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く。あなたは、そのいけにえを食べるようになる。彼らの娘たちをあなたの息子たちの妻とするなら、その娘たちは自分たちの神々と淫行を行い、あなたの息子たちに自分たちの神々と淫行を行わせるようになる。」

 

主は、ご自身のご性質を示された後で、イスラエルと契約を結ぶと言われました。神との契約を守るなら、彼らがどの地にいても、どの国にいても、かつてなされたことのない奇しいことを行うというのです。その契約とはどのようなものでしょうか。その内容は20~23章に記されてあるシナイ契約にあるものと同じです。つまり、主はイスラエルの民と再びシナイ契約を結ぶと言われたのです。

 

その具体的な内容は、まず、彼らが入って行くその地の住民と契約を結ばないようにということでした(12)。いや、彼らの祭壇を取り壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければなりません。彼らの娘たちを自分のり息子にめとらせるようなことはしてはなりません。どうしてでしょうか。その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕って、みだらなことをさせるようになるからです。つまり、罠に陥ってしまうことになるからです。ここでいう罠とは、自分たちの神である主ではなく、その地の神々を慕って、みだらなことをしたり、拝んだりすることです。主はそれを忌み嫌われます。なぜなら、主はねたむ神だからです。

 

 第二のことは、自分のために鋳物の神々を造ってはならないということです。17節をご覧ください。「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」

鋳物の神々とは何でしょうか。ここには偶像と言わないで鋳物の神々と言われています。偶像は鋳物の神々のことです。自分の好きな形にかたどり、自分の欲望に合わせて造られた神、それが偶像です。しかし、真の神は違います。真の神は鋳物でかたどって造られたものではなく、私たちを造られた創造主なる神です。私たちのために命を捨てて、私たちを罪から救い出してくださった神、この方こそ真の神なのです。それ以外の神を拝んではなりません。

 

第三のことは、種を入れないパンの祭りを守らなければならないということです。18節をご覧ください。「あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。」

種を入れないパンの祭りとは、過ぎ越しの祭りに続いて行われた祭りのことです。その祭りを通して、出エジプトの出来事を思い起こし、神に感謝と賛美をささげなければならなかったのです。パン種とは罪を象徴していました。罪のない神の子キリストがあなたのために十字架に掛かって死んでくださることによって、あなたの罪を贖ってくださいました。イスラエルがエジプトから脱出したことを思い出したように、あなたが罪の奴隷から救われたことを思い出す必要があったのです。

 

第四のことは、19-20節にあります。「最初に胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜の雄の初子はみな、牛も羊もそうである。ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折る。また、あなたの息子のうち長子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。」

最初に生まれるものはすべて主に捧げなければなりません。なぜなら、最初に胎を開くものはすべて、主のものだからです。彼らの家畜の雄の初子はみな、牛も羊も主にささげなければなりませんでした。「初物」とは最高のもの、ベストなものという意味です。残りものではなく、最初のものを、良いものを、最高のものを主にささげなければなりませんでした。

ただし、ろばの初子は羊で贖われなければなりませんでした。すべての初子は、主のものですが、ろばはきよくない動物であったためいけにえとしてささげることができなかったからです。神はきよくないものを受け入れることができなかったので、贖わなければならなかったのです。それを贖ったのが羊でした。

これはどういうことかというと、私たちと救い主イエス・キリストのことを示しています。私たちはきよくないろばです。そのろばが贖われるためには贖われなければならなかったのですが、それが小羊であられるキリストだったのです。キリストが代わりに死んでくださいました。私たちは罪に汚れたものなので神に受け入れられませんでしたが、その罪を小羊であられたキリストが贖ってくださったのです。そうでなければ、私たちは永遠の死に落ちなければなりませんでした。しかし、傷のない小羊がすでに私たちのために血を流し、致命的な律法ののろいから私たちを解放してくださいました。この傷のない小羊に対する私たちの感謝を主にささげようではありませんか。

 

その後のところをご覧ください。ここには、「だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない」とあります。これはどういうことでしょうか?いつでも主にささげる用意をして、主の前に出るようにということです。私たちが普通主の前に出るのは主に祝福してもらうためだと考えています。それもあります。しかし、もっと大切なのは主にささげることです。私たちは主に賛美をささげ、主に感謝をささげ、主を喜ぶために主のもとに来るのです。だから主の栄光をほめたたえるために、私たちのすべてのものを持って、主の前に出なければならないのです。

 

第五は、安息日を守ることです。21節をご覧ください。「あなたは、六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時にも刈り入れの時にも、休まなければならない。」

安息日を守るように命じられています。それは主を覚えるためです。主の偉大な御業を覚えて礼拝するために、六日間は働き、七日目を休まなければならなかったのです。ところで、ここには「耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。」とあります。どういう意味でしょうか。最も忙しい時もということです。猫の手も借りたいような時でもです。そのような時に休むのには信仰が試されます。最も忙しい時にその手を離すことはチャレンジです。しかし、それによってだれが一番重要なのか、何を一番大切にしているのかがわかります。どんなに忙しくても本当に大切な人のためなら時間を取るはずです。それを最優先にするでしょう。何とか時間をやりくりして都合をつけるはずです。それを神のためにするようにということです。そうでないと輝きを失ってしまいます。これは決して律法ではありません。あくまでも私たちが輝くためです。忙しくて教会に行けない。忙しいとは心を亡くすと書きます。それは祝福を失ってしまうことになります。イスラエルで安息日を迎えることは私たちがお正月を迎えるようなものでした。家族そろって喜んで迎えたのです。そのように安息日を迎えなければなりません。

 

22節の、「小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の代わりには収穫祭を行わなければならない。」とは、「七週の祭り」と「仮庵の祭り」のことです。「七週の祭り」は、別名「ペンテコステ」とも言います。過越の祭りから数えて七週+1日で50日、これをペンテコステと言うのです。この日に何があったか覚えていますか?使徒2章を見ると、この日に聖霊が降臨して教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは教会が誕生した日です。初穂とは、過越の祭りから最初の日曜日に行われました。これが、主が復活した日です。主は過越しの小羊として十字架で死なれ、三日目によみがえられました。それは死んでも生きるという永遠のいのちの初穂としての復活だったのです。その記念のために七週の祭りを行うのです。教会に集まって主の復活を祝う。これがないと輝きません。なぜなら、クリスチャンには充電が必要だからです。たまにくればいいというものではなく、いつも、週ごとに集まって主の復活を祝い、主を礼拝することで、聖霊に満たされるのです。

 

それだけではありません。「年の変わり目には収穫祭を行わなければならない。」とあります。これは仮庵の祭りのことです。かつてイスラエルが荒野で40年間過ごしたことを思い出すために、神が定めてくださったお祭りです。自分たちで作った小屋(キャンプテントのような)で、神がかつてイスラエルを荒野で守ってくださったことを思い出したのです。これは主イエスが再びこの地上に戻って来て、この地上に千年王国を打ち立ててくれることの預言でもあります。そのとき完全に成就します。だから、この仮庵の祭りは、主の再臨を待ち望むことでもあるのです。このように主を待ち続ける人は幸いです。

 

これが、先の種を入れないパンの祭り(過越しの祭り)と合わせて、イスラエルの三大祭りです。イスラエルには例祭が七つあって、その中でもこの三つの祭りは重要でした。イスラエルの成人男性はみな、主の前に出なければなりませんでした。それが23節で言われていることです。ここで「男子」と言われているのは、男子が義務づけられていれば、妻やこどもたちも自動的に着いてきたからです。イスラエルは年に三度、神の前に出て、これを祝わなければなりませんでした。それはこの世俗から離れ、主の御名の栄光を求めたということです。どんなにこの世にいても自分たちは主のものであって、主に従って歩む民であるということを、このような形で示したのです。それは年に三度そのようにしなければならないということではなく、私たちの心のあり方にとって必要なことでもあります。いつも主の前に出て、主の御顔を仰ぐ者でありたいと思います。特に男性は一家の大黒柱として、いつも主の前に出て、家族の霊的祝福を祈らなければなりません。教会も牧師が主の前に出ないと、教会全体が曇ってしまいます。霊的リーダーとして建てられていることを覚えて、その務めを果たしていかなければならないのです。

 

24節には、そのように年に三度、主の前に出るために上る間、家も、土地も守られるという約束です。祭りに参加するなら、主があなたの家と土地を守ってくださるのです。

 

25~26節をご覧ください。ここには、「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンに添えて献げてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

いけにえの血とは、礼拝でささげる血のことです。それを、種を入れたパンに添えて献げてはなりませんでした。なぜなら、種は罪を象徴していたからです。礼拝でささげるものの中に罪が入っていてはならないということです。肉的な思い、自己中心的な思いからではなく、純粋に主を求め、主に礼拝を献げなければなりません。

 

26節の「最上のもの」とは、十分の一献金のことです。初穂は最上のものでした。それは主のものです。だから、それを主にささげなければならなかったのです。

「子やぎをその母の乳で煮てはならない」というのは、肉と乳製品を一緒に煮てはならないということです。それはカナン人たちの慣習であったからです。彼らは子やぎを母の乳で煮て食べました。それが豊穣の神への礼拝だったのです。だから、それは偶像礼拝を避けよということです。クリスチャンが日本の伝統行事だからといって豆まきをしたり、門松を飾ったり、鏡餅を置いたりしてはなりません。それは悪鬼を追い払う行事として行っていたもので、そのようなものから遠ざかるようにしなければなりません。

 

27,28節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「これらのことばを書き記せ。わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」モーセはそこに四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」

 

モーセは四十日四十夜、主とともにいました。彼はパンも食べず、水も飲まずにいたのです。普通は何も食べず、何も飲まないと9日で死んでしまいます。しかし、モーセは四十日四十夜、何も食べず飲みませんでした。主イエスもそうです。モーセは神と会見していたので、何も食べなくても大丈夫だったのです。それでモーセはガリガリになったかというそうではありません。彼の顔は光を放っていました(29)。私たちも主とお会いすると輝きを放ちます。神と会見し、神を礼拝したのに輝かないとしたらどこかおかしいと言えます。それは主と顔と顔とを合わせていなかったことになります。何か考え事をしていたり、全く別の世界にいたり、よからぬ事を考えたりしていると輝くことはありません。しかし、主に向くなら輝きます。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記しました。

 

Ⅲ.モーセの輝き(29-35)

 

最後に、29~35節をご覧ください。「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼は【主】がシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えると、 顔に覆いを掛けた。モーセが主と語るために【主】の前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。 外に出て来ると、 命じられたことをイスラエルの子らに告げた。イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。 モーセは、 主と語るために入って行くまで、 自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。」

 

モーセが山から降りて来ると、主と話したために顔の肌が輝きを放っていました。モーセは主の栄光を見たために、月が太陽の光を反射させるように、主の栄光を反射させていたのです。モーセ自身はそのことを知りませんでしたが、アロンと、イスラエルの子らはそれを見て、モーセに近づくのを恐れました。それで、モーセは彼らを呼び寄せて、主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じました。

 

モーセはイスラエルの民に語り終えたときに、再び顔に覆いをかけました。語っているうちにその輝きが消えていくからです。それが律法の輝きです。Ⅱコリント3:6-18には、それはやがて消え去る栄光とあります。それが律法の輝きです。古い契約は一時的なもので、やがい消え去って行くものです。しかし、新しい契約によってもたらされる栄光は、永遠に消えることがありません。モーセは消え去る栄光を見られまいとして顔に覆いを掛けましたが、福音を信じることによって与えられる御霊の務めとその栄光は決して消え反ることのない輝きです。ですから、モーセが消え失せるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けるようなことはしません。それなのに、イスラエルの人々の思いは鈍くなったので、今日に至るまで、そのおおいが取れのけられていません。古い契約が朗読されるときはいつでも、いつでも同じおおいが掛けられているのです。

しかし、人が主に向くなら、おおいは取り除かれます。それはキリストによって取りのけられるものだからです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔のおおいが取のけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。

 

モーセは「どうか、あなたの栄光を見せてください」と言いました(33:18)。私たちにとっての最高の喜びは主の栄光にあずかることです。主のご臨在。そのために必要なことは主の恵みとあわれみのご性質に基づいて祈り、主が与えてくださった恵みの契約を行っていくこと。つまり、主に向いて、主のみこころを求めて生きることです。そうすれば、主の御霊が私たちを輝かせてくださるのです。

 

出エジプト記33章

2020年10月14日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記33章

 

 出エジプト記33章を学びます。前回のところで、イスラエルの不信仰について学びました。イスラエルは金の子牛を造ってそれを拝み、その回りで踊り狂うという信じられないことをしました。山から下りて来てそれを見たモーセは、二枚の石の板を粉々に砕くと、金の子牛を砕いてそれをイスラエルの民に煎じて飲ませました。それでも反抗する民がいたので、主につく者たち(レビ族)は、公然と反抗する者たちを殺しました。そしてモーセは、もし彼らが救われるのなら、自分の名がいのちの書から消されても良いと、とりなしの祈りをします。すると主は、「わたしが告げた場所に民を導くように」と言われました。きょうの箇所は、その続きです。まず、1-6節をご覧ください。

 

Ⅰ.わたしは上らない(1-6)

 

まず、1-6節をご覧ください。3節までをお読みします。「【主】はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」」

 

主はモーセに「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。」と言われました。主は彼らを滅ぼそうとされたのではなく、約束の地に導こうとされたのです。そこは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに「これをあなたの子孫に与える」と約束された地です(創世記12:7,26:3)。主は、どのように導いてくださるのでしょうか。ここには、「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし」とあります。

「一人の使い」とは、天使のことです。23:23には「わたしの使いがあなたの前を行き」とありますが、ここでは「一人の使い」となっています。「わたしの使い」とは「主の使い」、すなわち、受肉前のキリストのことですが、ここでは「一人の使い」になっているのです。どうしてでしょうか。理由は3節にあります。彼らはうなじを固くする民なので、もし主が彼らの近くにいたら、その途中で彼らを滅ぼしてしまうことになるからです。うなじを固くするとは、強情になって神の仰せに聞き従わないことです。そのようにして罪を犯すので、聖なる神が近くにいたらたちまち滅ぼされてしまいます。そういうことがないように、民がそのまま生きているためには、聖なる神がそばにいることはできません。これは、約束された地は与えられているが、主がともにおられないということです。

 

皆さんは、これをどのように受け止めたらいいのでしょうか。別に神がいなくても約束されたものを手に入れることができればそれでいいじゃないかと思われますか。もしそのように受け止めるとしたら、それは私たちの信仰が少し歪んでいることになります。というのは、私たちの信仰は神ご自身を求めることだからです。クリスチャンがクリスチャンであることの特権と祝福は、神がともにおられることが確信できることです。主イエスは、そのためにこの世に来てくださいました。主がこの世に来られたことで「インマヌエル」、訳すと「神がともにおられる」という約束を成就してくださったのです。時が良くても悪くても、祝福の時も逆境の時も、どのような時も主がともにおられるという確信があるからこそ、私たちには平安があるのです。自分の人生がどんなに順調に進んでいるようでも、主がともにおられなかったら悲惨なのです。ダビデは詩篇27:4でこのように言っています。「一つのことを私は【主】に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り【主】の家に住むことを。【主】の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」それなのに、ここで主は「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と言われたのです。

 

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。4-6節をご覧ください。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。【主】はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。」

 

彼らはこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいませんでした。なかった。その悪い知らせを聞いて嘆き悲しんだのです。だれも飾り物を身につける者はいませんでした。それは、「飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。」と、主が命じておられたからです。

この「飾り物」とは、金の子牛の周りで踊った時に身に着けていた物です。民はそれを取り外しました。それは自らの罪の悔い改めるしるしでした。イスラエルの民は自らの罪によって主との交わりを失ったことを大いに悲しみ、悔い改めたのです。神との交わりを回復するためには、罪を悔い改め、罪から離れることが求められるのです。

 

Ⅱ.顔と顔とを合わせて(7-11)

 

 次に、7-11節をご覧ください。「さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも【主】に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。」

 

金の子牛の事件後、神と民との会見に変化が生じました。それまでは、神の栄光は宿営の中に宿っていましたが、その事件後は宿営から離れてしまいました。それでモーセは宿営から離れたところに天幕を張ったのです。これが「会見の天幕」と呼ばれるものです。モーセは主と会見するために特別な場所を設けたわけです。この天幕は幕屋とは違います。ヘブル語で幕屋を「ミシュカー」と言いますが、これはテントのことです。単なる天幕です。モーセは神と民の和解のために、神と会見する必要がありました。それが会見の天幕です。それは宿営の真ん中ではなく、宿営から離れた所、宿営の外にありました。どうして宿営の外にあったのでしょうか。それは宿営の中はうるさかったからです。静かな場所が必要でした。イエス様もよく荒野に退いて祈っておられましたが、それはそこが静かな場所だったからです。モーセはその会見の天幕に行って祈りました。それはモーセにとって簡単なことではありませんでした。何しろ300万人もの民を率いてキャンプしていたのです。毎日の忙しい業務から離れて宿営の外に行くには、かなりの犠牲が強いられたことでしょう。しかし彼はそれだけの犠牲を払っても主が言われるように宿営の外に天幕を張り、主と会うためにそこへ行ったのです。

 

主とお会いするということはそういうことです。そこには犠牲が伴いますが、日々の雑多な生活の中から身を引いて主に向き合い、ひとり静まって祈ることが必要なのです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書の学び、ディボーションを通して主に向かいますが、なぜそれが必要なのかというと、それはまさにモーセのように幕屋、テントを張るようなものだからです。あらゆる犠牲を払い会見の天幕に行かなければならないのです。

 

モーセが会見の天幕に行くとき、民はどのようにしていたでしょうか。8節には、「モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。」とあります。彼らはみな立ちあがり、自分の天幕の入口に立って、彼が天幕に入るまで見守りました。かつて民は、「あのモーセという者」と言ってモーセを蔑みましたが今は違います。モーセをリーダーとして、神の器と認めました。そして、神と民の仲介者として敬ったのです。

 

モーセが天幕に入ると、雲の柱が下りて来て、天幕の入口に立ちました。これは主が降りてこられたことのしるしです。こうして主はモーセと語られました。そのとき自分の天幕の入口にいた民も立ちあがって、それぞれ自分の天幕の入口で主を伏し拝みました。モーセが神と話しているという事実の前に、畏怖の念を感じたのでしょう。

 

11節には、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた。」とあります。これは文字通りモーセが神の顔を見たということではありません。なぜなら20節には「あなたはわたしの顔を見ることはできない」とあるし、Iヨハネ4:12にも「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とあるからです。人となられた神の子イエスを見ることはできますが、父なる神を見ることはできません。神の栄光に与ることはできますが、神を見ることはできないのです。ですから、「顔と顔を合わせて」とはそれほど親しく語られたということです。私たちが友と話をするときは顔と顔とを合わせて語ります。それと同じです。

 

モーセ以前にも、神の友と呼ばれた人がいました。アブラハムです(ヤコブ2:23,Ⅱ歴代20:7)。主は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語られましたが、同じように神はアブラハムに包み隠すことなく語られました。そしてそれはモーセやアブラハムだけでなく、私たちも同じです。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られたように、私たちを友と呼ばれ、私たちのために命を捨ててくださいました。ヨハネ15:13には、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。そのイエス様は今私たちの心に住んでおられます(エペソ3:17)。友なるイエスが、聖霊によって、私たちの心に住んでおられるのです。顔と顔とを合わせて見ることができるのです。それなのに、私たちはこの主との会見を楽しんでいるでしょうか。主との語らい、主とともにいること、主ご自身を喜んでいるでしょうか。どちらかというと、日々にことで忙しく、主ご自身と顔と顔とを合わせることを後回しにしていることはないでしょうか。クリスチャンの祝福とは、いろいろな祝福を受けることよりも、その祝福を与えてくださる主とともにいること、主と顔と顔とを合わせて語り合うことなのです。

 

Ⅲ.モーセの祈り(12-23)

 

最後に、12-23節をご覧ください。ここでモーセは、神に三つの祈りをささげています。その一つが12-14節にある内容です。「さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」」

 

第一の祈りは、「あなたの道を教えてください」というものでした。主は、「一人の使い」を使わすと言われましたが、だれを遣わしてくれるのかがわかりませんでした。そこで彼は、主がともにおられるのでなければ、自分たちは進んでいくことができない。主がともにいて行くべき道を示してほしいと言ったのです。モーセは、主が彼に約束してくださったこと、すなわち、「あなたは名指しで選び出した」とか、「あなたは特にわたしの心にかなっている」ということを取り上げ、だから、自分から離れないで、あなたの道を教えてくださいと祈ったのです。

 

 それに対して主は、こう答えました。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14)

第三版では、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」とあります。主はモーセとともにあって、彼を休ませてくださると約束してくださったのです。それは、モーセにとってどれほどの慰めであったことでしょう。

 

それでモーセはさらに主に祈ります。15-16節です。「モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

 

主のことばに対してモーセは、自分だけでなく民とともにいてほしいと訴えます。もし、神がいっしょでなければ、自分たちをここから上らせないように(15)と。ここでモーセは民と一体化しています。モーセは民のためにとりなしているのです。そして、モーセとイスラエルが、この地上の民と区別されるのは、主がともにおられるかどうかということによるのですから、どうかイスラエルとともにいてほしいと訴えたのです。

 

それに対して主は何と言われましたか。17節です。「【主】はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」」

イスラエルの民ともいっしょにいてくださるという約束です。すごいね。主がイスラエルとともにいると言われたのは、モーセのとりなしによるものでした。それと同じように、主が私たちとともにいてくださるのは、主イエスのとりなしのゆえです。私たちにはこのような祝福や特権にあずかる資格はありません。ただ主イエスのとりなしのお陰なのです。

 

第三の祈りは18-23節にあります。「モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また【主】は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

 

 するとモーセは、主がともにいてくださるというだけでなく、「あなたの栄光を見せてください」と言いました。「栄光」とはヘブル語で「シェキーナー」語です。これはどういうことかというと、主ご自身を見たいということです。これは人間には不可能なことですが、信仰者であればだれもが抱く願いではないでしょうか。自分が信じている主をおぼろげながらではなく、顔と顔とを合わせてはっきり見たい。自分を救ってくださった主を、もっと知りたいという願いです。

 

 これが信仰の本質です。信仰とは主を知ることです。主イエスは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言われました。またIヨハネ1:1にも「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」とあります。永遠のいのちとは、主を知ることです。主を知ることを求め、このことから目を離していなければ、私たちの信仰の生活は安定し充実したものになっていきます。このことから離れると、とたんに永遠のいのちがわからなくなってしまいます。自分の思い込みの信仰になり、安定性に欠けることになります。主を知ること、主を見続けること、それが信仰の歩みなのです。

 

それに対して、主は何と言われましたか。19節には「主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」とあります。

神の栄光を見せてくださいというモーセに対して、主は「わたしのあらゆる良きものをあなたの前を通らせ、主の名であなたの前に宣言する。」と言われました。どういうことでしょうか。神の栄光が現される時には必ずあらゆる良きものが見られるということです。「善」と「栄光」は切っても切り離せない関係にあります。神の栄光を体感しているという人は、神の善を体感していると言い換えることもできます。God is so Good.なのです。神の良きものを経験している人は、まさに神の栄光を見ているのです。

 

そして、「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われました。これは、神は主権者であられるということです。これはローマ人への手紙9章の主題でもあります。。神は一方的にあわれまれるということです。私たちの行いとは全く関係ありません。神の善というのは、私たちの行いには左右されないのです。あくまでもご自分の主権として一方的にあわれまれるのです。私たちの善は条件付きです。これだけのことをしたから恵みを受けるとか、これだけの人だからあわれまれて当然といったところがありますが、神は違います。一方的な神のあわれみによるのです。主の一方的な恵みとあわれみによって私たちは救われました。それはただ主の自由な意志によるのです。

 

主はまた言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」モーセは主の顔を見ることはできません。なぜなら、神の顔を見て、なお生きていることはできないからです。人間の限界性のゆえに、モーセは神の栄光のすべてを見ることはできなかったのです。聖書の中に、主の栄光を見て圧倒された人たちがいます。たとえば、イザヤ(6:5)もそうですし、ダニエル(10:8)もそうです。また、使徒ヨハネ(黙示録1:17)もそうです。主のすべてを見て、なお生きることができるのは、子なる神であられるキリストだけです(ヨハネ1:18)。Iテモテ6:16には、「人間がだれひとり見たこともない、見ることができない方」とあります。いまだかつて神を見た者はひとりもいません。モーセは神を見せてくださいと願いましたが、叶いませんでした。見たら死んでしまうからです。神はそれほど聖なる方なのです。

 

そこで主が言われたことは、「岩の上に立て」ということでした。主の栄光が通り過ぎるとき、主はモーセを岩の裂け目に入れるからです。そのとき、主がそこを通り過ぎるまで、主の手で彼をおおわれるためです。これはどういうことかというと、23節にあるように、主の手をのけるとモーセは主のうしろ姿を見るが、主の顔は決して見られないということです。チラッと見せてあげるということです。

 

しかし、新約時代に生きる私たちは、主の栄光をはっきりと見ることができます。それは、神のひとり子イエス・キリストを通してです。そして、その栄光は十字架の上に表されました。この岩とは、イエス・キリストのことです。この岩が裂けたのはキリストが十字架に掛かられたということです。その裂け目に入れると言われました。キリストの十字架という岩の裂け目に入るなら、神の栄光を見ることができます。そして、イエス・キリストの贖いを信じキリストの義の衣を着るなら、神の栄光を見ることができます。それ以外に方法はない。神の栄光を見たければ、キリストのうちにあることです。そこにいれば神に打たれることはありません。キリストがおおっていてくださるからです。

出エジプト記32章

2020年9月24日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記32章

 

 出エジプト記32章から学びます。

 

Ⅰ.金の子牛(1-6)

 

まず、1-6節までをご覧ください。「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」

 

モーセがシナイ山に登り40日40夜主と会っている間、地上ではどんなことが起こっていたでしょうか。1節には、「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」とあります。彼らの心は、モーセがいなくなると主から離れてしまいました。神の時を待つことができず、自分たちの手で神に代わるものを求めたのです。それが、過去に慣れ親しんでいたエジプトの神の一つであった子牛でした。彼らは、自分の手で安心を勝ち取ろうとしたのです。つまり、自分たちを守り導いてくれる神を造り出そうとしたのです。エジプトから救い出されたという神の救いの力を体験しても、神の臨在が感じられなくなると、過去のもの、目に見えるものに心が奪われてしまったのです。人は目に見えないものを待ち望むのができません。その代わりに目に見えるもの、手っ取り早いものを造ろうとします。それで彼らもアロンに、自分たちに先立って行く神を求めたのです。

 

それでアロンは、彼らの妻や息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外させて、自分のところに持って来るように言いました。そしてそれをのみの鋳型に流し込み、鋳物の講師にしたのです。そしてこう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」そして、翌朝その金の子牛の像に全焼のささげものを捧げ、交わりのいけにえを捧げました。

 

それにしても、どうしてアロンまでもが民の要求を受け入れ金の子牛を造ってしまったのでしょうか。アロンはそれが罪であるということを十分知っていたはずです。人を恐れたからです。「人を恐れるとわなにかかる。」(箴言29:25)とあります。アロンは人を恐れてしまいました。このままでは民は何をするかわからない。だから、民の怒りを鎮めるために彼らの気持ちを満足させなればならない。それで民が要求したとおりのことを行ったのです。しかし、彼は人ではなく、神を恐れるべきでした。神を恐れる者は守られるのです。

 

このようなことは、私たちにもよくあります。人を恐れることてしまうことがあるのです。それで、人

の顔色を伺いながら話したり、行動したりするのです。しかし、「人を恐れるとわなにかかる。しかし、

主を恐れる者は守られる。」とあるように、人を恐れるのではなく、主を恐れ、主にのみ従う者であり

たいと思います。

 

Ⅱ.モーセのとりなし(7-14)

 

 次に、7-10節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」

 

主は、そのことをモーセに伝えます。そこには、イスラエルの民に対する主の悲しみが表れています。7節には、イスラエルの民を「わたしの民」と呼ばないで、「あなたの民は」と呼んでいます。ご自分の民と呼ぶはずの親密さが無くなっているのです。そして、「堕落してしまった」と言っています。これは創世記6:12で、ノアの時代の人々が堕落した時に使った言葉と同じです。すなわち、ノアの時代の人々が水によってさばかれた時に匹敵する罪を行ったということです。

 

9節には「うなじを固くする民だ」とあります。「うなじを固くする」とは、これからもよく出てくることばですが、これは馬の乗り手が手綱で馬を引いても全然言うことをきかない状態のことを指しています。まさに彼らの心はかたくなで、どんなに神がみことばを語っても聞こうとしませんでした。

 

そのような彼らに対して、主は断ち滅ぼすと言われましたが、モーセに対しては、彼を大いなる国民と

すると言われました。これはモーセにとって大きな誘惑であったにちがいありません。彼らが滅ぼされ

ても自分は大いなる国民となるのだから。

 

 しかし、モーセはそのことを良しとせず、主に嘆願してこう言いました。11-14節です。「しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」

 

彼はまず、「ご自分の民に向かって、どうして、御怒りを燃やされるのですか。」と言いました。彼らは神が創造された民であるばかりでなく、その偉大な力と力強い御手をもってエジプトの地から導きだされた民です。それほど愛されたご自身の民なのです。その民に対してどうして御怒りを燃やされるのでしょうか。

 

そんなことをすれば、神の名がそしられることになってしまいます。12節には、「どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。」とあります。そんなことをしたらエジプト人たちが神の名をそしることになるでしょう。ですから、彼らのためだけでなく主の名誉にかけて、その名誉が傷つけられないためにも、わざわいを思い直してくださいと訴えたのです。

 

そればかりではありません。ここでモーセは神の約束にも訴えています。13節には、「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」」とあります。

 

つまり、モーセは神の贖い、神の御名、神の約束に訴えて、彼らを滅ぼさないでくださいと懇願したのです。徹頭徹尾、神を中心に、それを前面に押し出して訴えたわけです。イスラエルの民の正しさ、理屈などは一切関係ありません。ただ神の義に訴えたのです。これが神のみこころにかなった祈りです。私たちがだれかの救いのために祈るとき、それはその人がどういう人であるかということ以上に、それが神にとってどういうことなのかを考えて祈らなければなりません。

 

すると、主は何と言われましたか。14節です。「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」どういうことでしょうか。主が考え直すということがあるのでしょうか。Iサムエル15:29には、「実に、イスラエルの栄光であられる方は、偽ることもなく、悔いることもない」とあります。神は悔いることのない方です。ですから、神の御心が変わることはありません。それなのに、ここで神の御心が変わったかのような印象を与えているのは、モーセにとりなしの祈りの機会を与えるためだったのです。ここに祈りの本質があります。私たちの祈りも、神の御心を変化させるためではなく、神の御心がなるようにというものなのです。

 

Ⅲ.懲らしめ(15-29)

 

 次に、15-20節までをご覧ください。「モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。」

 

モーセが二枚の石の板を手にして山の中腹まで降りて来ると、そこに留まっていたヨシュアが麓で民が叫ぶ声を聞いて、「宿営の中にいくさの声が聞こえる」と言いました。それは何の声か?それは勝利を叫ぶ声ではなく、歌いさわぐ声でした。すなわち、民が金の子牛の前でどんちゃん騒ぎをしている声でした。モーセは宿営に近づき、そこで子牛と踊りを見るなり怒りが燃え上がり、手にしていたあの二枚の石の板を投げ捨て、山のふもとで砕いてしまいました。そして、彼らが造った子牛を火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らすと、イスラエル人に飲ませました。これはどういうことかというと、イスラエルの民が神の戒めをことごとく破ったことに対する神の怒りを表すものであり、それがどれほどこの大きな罪であるかを示し、もう二度と同じ罪を犯すことがないようにとその苦さを味わうようにさせたのです。

 

21-29節をご覧ください。「モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」アロンは言った。「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』それで私は彼らに『だれでも金を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」モーセは、民が乱れていて、アロンが彼らを放っておいたので、敵の笑いものとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも【主】につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。モーセは言った。「あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、【主】に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように。」

 

モーセがアロンに、「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」と言うと、アロンは何と答えたでしょうか。彼はまず「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。」と言いました。つまり、民は本質的に悪い性質を持っていると言い訳したのです。つまり、自分の責任逃れです。

 

さらにアロンは、民がそのことを自分に強く要求したのだ、と答えています。「彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』」(23)ここでアロンは、なかなか山から降りて来なかったモーセにも責任があるのではないかと訴えていいます。

 

極めつけは、子牛は自然に出て来たという言い訳です。「民が、自分たちに先立って行く神々を作ってほしいというので、彼らが身に着けていた金を集めて火の中に入れたところ、この子牛が出て来たのです。」(24)そんなことがあるはずないじゃないですか。アロンがのみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にしたのです。それなのに、彼は火の中に金を入れたら子牛が出て来たかのように言いました。全く反省の色がありません。なぜアロンはこのようなことを言ったのでしょうか。申9:20に、「主はアロンに向かって激しく怒り、彼を滅ぼそうとされたが・・」とあることから、彼はそれを恐れたのではないかと思います。

 

モーセは民が乱れていてアロンが彼らを放っておいたので、敵の物笑いとなっているのを見て、神のさばきを執行します。モーセについたレビ族によって、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺すというさばきを行ったのです。その日、民のうち約三千人が剣で倒れました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは、神の共同体の中に聖さがなくなれば、共同体全体が崩壊してしまうことになるからです。これは旧約聖書だけの話ではありません。新約聖書にも、アナニヤとサッピラの事件が記録されています。地所の代金の一部を自分のために取っておいたアナニヤとサッピラは、息が絶えてしまいました(使徒5:5)。また、父の妻を自分の妻にしていた者に対して、自分たちの中から取り除くべきだと言っています(Ⅱコリント5:2)。それは、わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることになるからです。その結果、どうなったでしょうか。アナニヤとサッピラの事件の時は、「これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」(使徒5:5)とあります。しかし、こうした執行は決して人間の思いとは違うので、これを行う時にはかなり注意が必要となります。

 

ところで、この時、主についたのは誰でしたか?レビ族です。彼らはモーセを通して主が語られた通りに自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺しました。愛する家族を殺すことはなかなかできません。しかし彼らは家族よりも主のみこころに立ったのです。なぜ彼らは主のみこころに立つことができたのでしょうか。それは、彼らが学んでいたからです。

 

創世記34章をご覧ください。ここには、シメオンとレビの妹ディナがヒビ人ハモルの子シェケムに犯されるという事件のことが記録されてあります。その解決のために出された条件は、互いに婚姻関係を結ぶということでした。しかし、割礼を受けていないヒビ人のところへイスラエル人をとつがせるわけにはいきません。そこで割礼を受けてイスラエルのようになるならそれを受け入れましょうと提案すると、ヒビ人はその条件を受け入れ、割礼を受けることになりました。ところが、彼らが割礼を受けて三日目になって、ディナの兄シメオンとレビが剣を取って何なくその町を襲い、ハモルとシェケム、そしてその町のすべての男子を殺してしまったのです。このことはヤコブにとって困ったことでした。なぜなら、そのことによってカナン人とペリジ人に憎まれることになったからです。シメオンとレビの問題は何だったのでしょうか。シェケムの住人を許せなかったということです。彼らはその過ちから学んだのです。

 

私たちも、主のみこころに立てず、時に失敗することがあります。しかし、その失敗をいつまでもくよくよするのではなく、そこから学ぶことが大切です。その失敗を次の機会に生かさなければなりません。レビ族はかつての失敗から学んでいました。そして、このような主のさばきを執行する苦しい局面でも、主につくことができたのです。

 

Ⅳ.神の書物(30-35)

 

 最後に、30-35節を見て終わりたいと思います。「翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は【主】のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」【主】はモーセに言われた。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。」こうして【主】は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。」

 

モーセは、罪を犯したイスラエルの民をいさめると、主のもとに上って行きました。彼らの罪の宥めをすることができるかもしれないと思ったからです。そこで彼は主のもとに上って行くと、驚くべき祈りをささげました。それはもし、主が彼らの罪を赦してくださるのなら、自分の名前を神の書物から消し去っても構わないということです。この「あなたの書物」とは何でしょうか。これは「いのちの書」のことです。ルカ10:20で主イエスは、70人の弟子たちに対してこう言われました。「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と。また黙示録3:5には、「彼の名をいのちの書から消すようなことは決してない。」と言われました。この「いのちの書」のことです。だからここでモーセが言っていることは、彼らが天国に入るために、代わりに自分を地獄に送ってくださいということだったのです。かつてパウロも同胞ユダヤ人の救いのために同じように祈りました(ローマ9:3)。モーセは、それほどの愛をもって祈ったのです。

 

 けれども主は、モーセの祈りを聞かれませんでした(33-34)。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。」と言われました。こうして主は民を打たれました。二十歳以上の男子はみな荒野で死に絶えたのです。それは35節にあるように、アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからです。アロンはモーセに代わって民を治めなければならなかったのにそれを怠り、民が欲していたこと、民が願っていたことにそのまま追従してしまいました。これは主に仕えるということではありません。主に仕えるとは主の御心を行うことです。人を恐れるとわなにかかる。しかし、主を恐れる者は守られる。この神を恐れ、神の中に人々を導いていくこと。そのために労することが求められているのです。

出エジプト記31章

出エジプト記31章から学びます。

Ⅰ.ウリの子ベツァルエル(1-5)

まず、1節から5節までをご覧ください。
「【主】はモーセに次のように告げられた。「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」

モーセは今、シナイ山の頂上で、幕屋建設に関する指示を神から受けています。これまで、幕屋の建設と、それに仕える祭司の任職式について、また、常供の香のりささげものについて、そして祭司の奉仕に必要な聖なる油注ぎについて語ってきました。しかし、ここではもっと実際的な奉仕について語られます。すなわち、幕屋を建設する人についてです。それがユダ部族に属するフルの子ウリの子のベツァルエルです。「フルの子」の「フル」とは、アマレクとの戦いにおいてモーセの手を両側から支えた2人のうちの一人です(17:8-13)。そのフルの孫にあたるのが、このベツァルエルです。主はこの幕屋の建設にあたり、彼を名指しで召されました。彼は自分がやりたいからとか、自分から望んでいたからというよりも、神が名指しで召され、神から命じられてこの働きに就いたのです。この意識はとても重要です。よく、「牧師にとって一番重要なことは何ですか」と聞かれることがありますが、私は迷わずこう答えます。「それは、主が召してくださったという召命です」と。それは神によって召された奉仕であるということです。そうでないと続けていくことはできません。自分をみたらあまりにも能力がないことに落胆して、途中でその働きを放棄してしまうことになるでしょう。しかしこれは主が召してくださったのであり、主が命じられたことである故に、主が最後までこれを成し遂げる力を与えてくださいます。それは牧師だけではありません。こうした実際的な奉仕においても言えることなのです。どんな奉仕においても、神によって召されているという確信が大切です。

3節には、主は「彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。」とあります。英語の訳では、知恵はwisdom、英知はunderstanding、知識はknowledgeとあります。こうした実践的な奉仕においても、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊に満たされる必要がありました。確かに彼には生来そうした才能が与えられていたのかもしれませんが、それだけでなく、それを成し遂げることができるように神の霊、聖霊の賜物が必要だったのです。それは幕屋建設に際しては、人間の能力以上の力が必要であったからです。

その仕事の内容に関しては、4節と5節にこうあります。「それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」

彼の働きは祭司のような霊的な奉仕とは違い、幕屋の建設という実際的な奉仕でしたが、どちらも聖霊の力が求められました。教会には祈りとみことばといった霊的な奉仕もあれば、人々がよく礼拝できるように礼拝堂を掃除したり、司会や受付、献金、会場案内、プログラムの印刷、送迎といった実際的な奉仕があります。いずれも大切な奉仕であり、そうした奉仕もまた聖霊によって成されていかなければなりません。

Ⅱ.アヒサマクの子オホリアブ(6-11)

次に6-11節をご覧ください。
「見よ。わたしは、ダン部族に属する、アヒサマクの子オホリアブを彼とともにいるようにする。わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『宥めの蓋』、天幕のすべての備品、 机とその備品、きよい燭台とそのすべての器具、香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、その子らが祭司として仕えるための装束、注ぎの油、聖所のための香り高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」

幕屋建設の統括者はベツァルエルですが、その補佐役としてオホリアブが任命されます。すなわち、アシスタントです。No2としてトップを陰で支えていた人です。このような人はとても貴重な存在です。トップはまとめ役で気遣いが必要です。あれもこれもと細かなことまで気を遣わなければなりません。それを陰で支えてくれる人がいれば、自分の働きに専念することができます。こうした補佐をする人、アシストをする人の存在が、教会ではとても重要となります。でもなかなかなれません。なぜなら、みな上に立ちたいと思うからです。そんな器じゃないのに、上に立ちたいと思うのが人間の性です。人を補佐するには謙遜が求められるのです。

オホリアブは、「ダン部族に属する、アヒサマクの子」とあります。ダン部族は12部族の中で最も小さな部族です。そこから無名の人物が選ばれました。そして、ベツァルエルとオホリアブを中心に、すべての知恵ある者たちが集められたのです。それは彼らが、主が命じられたすべてのものを作るためです。彼らは、幕屋とその中に入れる器具、祭司の装束、注ぎの油、聖所のための香り高い香を作りました。ここでの鍵は、彼らは、すべて、主が命じられたとおりに作らなければならなかったということです。自分が良いと思う方法ではなく、主の方法によって作らなければなりませんでした。信仰生活が長くなると、いつしか自分の考えややり方を通そうとする傾向になることがあります。これまでの経験から、自分がやっていることは何でも正しいと錯覚していることがあるのです。しかし大切なのは自分の考えややり方ではなく、主の考えに従わなければならないということです。そのためには、何が良いことで神に受け入れられ、正しいことなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。神の言葉をつまびらかに読み、幼子のような純粋で、謙虚な心で、御言葉に聞く必要があります。そうでないと用いられません。こうした実際的な奉仕も、祭司のような霊的奉仕と同様、どちらも大切な奉仕なのです。

Ⅲ.安息日(12-18)

次に、12-17節をご覧ください。
「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。 わたしが【主】であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは【主】が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」

今モーセは、シナイ山の山頂で神から幕屋建設に関する指示を受けているわけですが、ここで急に安息日の規定について語られます。すなわち、幕屋を建設している人も、安息日を守らなければならないということです。なぜここで急に安息日について語られたのでしょうか。幕屋建設のプロジェクトと安息日の規定は無関係のように感じますが、実はそうではありません。なぜなら、こうしたプロジェクトに取り組んでいこうとするとプロジェクトそのものに心が奪われ、大切なものが置き去りにされてしまうことがあるからです。最も重要なことが何であるかが忘れられてしまうことがあるのです。最も大切なこととは何でしょうか。それは神ご自身であり、神を礼拝することです。神を第一とするということです。たとえ神の幕屋を作る仕事であっても、神を礼拝することが最も重要なことなのです。神に対する奉仕よりも神を礼拝することの方がもっと重要なことなのです。それはイエス様がマルタに語られた通りです(ルカ10:41-42)。私たちはややもすると教会の奉仕や周りの付随的なことを優先させ、主の前に静まることを忘れてしまうことがありますが、それでは本末転倒です。まず神を第一とし、神を礼拝し、神に仕えることから始めなければなりません。それを忘れてはなりません。だからここで主は安息日の規定を語ることによって、もう一度主ご自身に目を戻すようにされたのです。

13節には、「これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。」とあります。これは神とイスラエル人との間のしるしです。ノアの契約のしるしは虹でした。また、アブラハム契約のしるしは、割礼でした。それと同じように、このシナイ契約のしるしは、安息日だったのです。安息日の規定の目的は、イスラエルの民を聖別することでした。聖別とは、神のためにこの世から区別するということです。彼らが神の民であることの一つのしるしが、この安息日を守ることだったのです。彼らは、安息日が来るたびに、自分たちは神のものであるということを思い出しました。第二の目的は、神の性質を教えることでした。すなわち、主は六日間でこの天と地を造り、七日目に休まれたことを思い出すためだったのです。そして第三の目的は、イスラエルの民の信仰を育てることでした。安息日に休息することは、神がすべての必要を満たしてくださる方であるということを信じるためでもあったのです。

この規定に違反した場合は、だれでも殺されなければなりませんでした(14)。新約時代に生きるクリスチャンは、このモーセの律法はそのまま適用されません。セブンスデーアドベンティストという団体ではこれをそのまま守らなければならないと信じ、今でも毎週土曜日に礼拝しています。しかしこれはユダヤ人に対する契約であって、それをそのままクリスチャンに適用することはできません。たとえば、アブラハム契約としての割礼も、使徒の働き15章を見ると、異邦人クリスチャンに対してこの割礼を強いることはしないことが決議されました。それはユダヤ人に対する神の定めであって、クリスチャンに対する定めではないのです。新約に生きるクリスチャンにとって大切なのは、愛によって働く信仰だけです。神を愛し、人を愛することが、この律法の要求を完全に満たすことなのです。

最後に18節をご覧ください。
「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を2枚、それは神の指で書き記された石の板でしたが、それをモーセにお授けになりました。神の指で書かれたというのは、神ご自身が書かれたということです。

パウロはこの石の板について、次のように言及しています。Ⅱコリント3:6-9にこうあります。
「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。」

パウロは、古い契約と新しい契約を比較しています。文字に仕える者と御霊に仕える者を比較しているのです。そして、「文字は殺し、御霊は生かすからです。」と言っています。さらに、罪に定める務めさえ栄光があるのなら、これはシナイ契約のことですが、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちていると語っています。「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)今は恵みの時代です。文字によってではなく、恵みによって生かされる道を求めましょう。

出エジプト記30章

2020年8月26日(水)祈祷会

聖書箇所:出エジプト記30章

 

 出エジプト記30章から学びます。ここには、幕屋の備品の中で最後の二つのもの、香をたくための祭壇と洗いのための洗盤について書かれています。まず、香をたく祭壇についてです。1~10節までをご覧ください。

 

  • 香をたくための壇(1-10)

 

「また、香をたくための祭壇を作れ。 それをアカシヤ材で作る。長さ一キュビト、幅一キュビトの正方形で、その高さは二キュビトとする。祭壇から角が出ているようにする。祭壇の上面と、側面すべて、および角には純金をかぶせ、その周りには金の飾り縁を作る。また、その祭壇のために二つの金の環を作る。その飾り縁の下の両側に、相対するように作る。これは祭壇を担ぐ棒を通すところとする。その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。それを、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前、わたしがあなたと会う、あかしの箱の上の『宥めの蓋』の手前に置く。アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整え、煙を立ち上らせる。アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、 煙を立ち上らせる。 これは、 あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。あなたがたはその上で、異なった香や全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げてはならない。 また、 その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。 アロンは年に一度、その角の上で宥めを行う。その祭壇のために、罪のきよめのささげ物の、宥めのための血によって、彼は代々にわたり、年に一度、宥めを行う。これは主にとって最も聖なるものである。」」

 

 1節から5節までに、その説明があります。まず、それはアカシヤ材で作らなければなりませんでした(1)大きさは、長さ1キュビト(約44.5㎝)、幅1キュビトの正方形で、その高さは2キュビト(89㎝)でした。そして、その祭壇のそれぞれの隅には角が出ているようにしなければなりませんでした(2)。それに純金をかぶせ、その周りには金の飾り縁を作るようにしました(3)。また、その飾り縁の下には、金でかぶせた棒を通す金の環がありました。それで香の祭壇をかついで運ぶことができました(4-5)。

 

 その香をたくための祭壇がどこに置かれたかが6節に書かれてあります。それは、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前に置かれました。その垂れ幕の向こうには何があったかというと、あかしの箱とそれを塞ぐ宥めの蓋です。「そこでわたしはあなたと会う」と主が言われたその蓋です。

 

 アロンはその上で香りの高い香をたきました。それは朝ごとに、夕ごとにたかれ、一日中煙が立ち上がらせるようにしました。(7-8)。それは「常供の香のささげ物」でした。常供とは、「日ごとの」という意味です。燭台のともし火も日ごとにささげられましたが、この香も日ごとにささげられました。これは祭司の日課であったのです。この香のささげものは、聖徒たちの祈りを表していました。黙示録5:8には、「香は聖徒たちの祈り」とあります。また、黙示録8:3には、天の御座の前の金の香の祭壇の位置について書かれてありますが、それは御座の前にある金の祭壇の前にありました。それは、この地上における幕屋の宥めの蓋が置かれてある場所と同じです。違うのは、天の御座の前には垂れ幕がないことです。天では、もはや垂れ幕は必要がないからです。なぜ香の祭壇が至聖所に向けて、至聖所に一番近くに置かれたのでしょうか。それは、私たちが神と出会い、神と交わりを持ち、生ける神を体験するためです。そのためには祈りが必要だからです。それは、絶えずささげられなければなりませんでした。Ⅰテサロニケ5:16~18には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。私たちがいつも喜び、すべてのことについて感謝するためには、絶えず祈らなければきならないのです。

 

 9節をご覧ください。ここには、この香をたく祭壇の上で、異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげものをささげてはならない、注ぎのぶどう酒を注いではならない、とあります。なぜでしょうか?なぜなら、それは庭にあった祭壇でささげられたからです。祭壇はキリストの贖いのためのいけにえがささげられました。それは既にほふられたので、もうほふられる必要はないのです。必要なのは神との交わり、つまり、祈りとみことばなのです。

 

 10節をご覧ください。アロンは年に一度、その角の上で宥めを行いました。それはどのように成されましたか?罪のきよめのためのささげ物の血を角に塗ることによってです。同じ聖所にあった備えのパンの机と燭台には、このような規定はありませんでした。これは香のための祭壇にだけ言われていることです。どうしてこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。それは、主にとって最も聖なるものであるからです。神の御子キリストを象徴していた臨在のパンも、聖霊を象徴していた燭台もきよめる必要はありませんでしたが、人間が行う最高のことである祈りを象徴する祭壇は、きよめが必要だったのです。詩篇66:18には、「もしも不義を、私たちの心のうちに見出すなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。つまり、私たちの罪は祈りを妨げてしまうのです。ですから、きよめが必要なのです。どうしたらきよめられるのでしょうか。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7)それゆえ、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)そうすることによって、私たちの罪はきよめられ、祈りは聞かれることになります。義人の祈りは働くと、大きな力があるからです。

 

この香のための祭壇の角に、宥めのための血が塗られたのはそのためです。祭壇の角は、その祭壇の上に乗っているものがその役割をするのに十分な力を持っていることを示していました。それは、祭壇にささげられたいけにえが、罪を赦す力を持っていたということです。そのように、香の祭壇の四隅の角に塗られた血は、罪を赦す力があることを示していました。そこでささげられる祈りは、どんな祈りでもかなえられるだけの力があるのです。

 

 Ⅱ.人口調査(11-16)

 

次に、11節から16節までをご覧ください。

「主はモーセに告げられた。「あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。登録される者がそれぞれ納めるのは、これである。 聖所のシェケルで半シェケル。一シェケルは二十ゲラで、半シェケルが主への奉納物である。二十歳またそれ以上の者で、登録される者はみな、主にこの奉納物を納める。あなたがたのたましいのために宥めを行おうと、主に奉納物を納めるときには、 富む人も半シェケルより多く払ってはならず、 貧しい人もそれより少なく払ってはならない。イスラエルの子らから償いのための銀を受け取ったなら、それを会見の天幕の用に充てる。 こうしてそれは、イスラエルの子らにとって、 あなたがたのたましいに宥めがなされたことに対する、主の前での記念となる。 」」

 

幕屋の備品の中で最後のものは、洗いのための洗盤です。しかし、ちょっとその前に、「贖い金」について語られています。11節には、「あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。」とあります。この贖い金を収めるのは、人口調査がある度でした。各人はその登録にあたり、自分のたましいの贖い金を主に収めなければならなかったのです。その額は、一人半シェケルです。20歳以上の男子は、全員その額を収めました。富んだ者も、貧しい者も皆同じ額です。その目的は、わざわいが起こらないためでした。どういうことでしょうか。為政者は、人口調査をすると傲慢になりやすくなります。自分の力を誇るようになるからです。Ⅱサムエル24章には、ダビデが主のみこころでない人口調査をしたことが記されてあります。その結果、主からの刑罰を受けることになってしまいました。この傲慢の罪を戒めるのが贖い金です。贖い(金)の目的は、幕屋の建設のためでした。幕屋が完成した後は、その維持運営のための資金になりました。

 

 ですから、この贖い金は、神の働きは神の民のささげ物によって支えられているという原則を教えています。Ⅰテモテ5:18には、「聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。」とありますが、それは新約聖書でも同じことです。フルタイムの献身者は、信徒たちの献金によって支えられているという原則が教えられています。私たちが霊的な祝福を受けているのなら、物質的なものでその働きを援助し、主の働き人が安心してその働きに専念できるようにしましょう。

 

Ⅲ.洗盤(17-21)

次に、17節から21節までをご覧ください。ここには、幕屋の備品の最後のもについて記されてあります。それは洗盤です。
 「主はまた、モーセに告げられた。「洗いのために洗盤とその台を青銅で作り、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。 彼らが死ぬことのないようにするためである。 また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟である。」」                                                                            

この備品も、青銅で作られました。どのような天候にも耐え、水がずっと入っていても錆びないためです。それを会見の天幕と祭壇の間に置きました。それは、アロンとその子どもたちが幕屋に入る前に、手と足を洗うためでした。それは彼らが死ぬことがないためです。このことが、20節と21節で繰り返して言われています。それは、それがどれほど重要なことであり、また、真剣に行われなければならないことであるかを示すためでした。これはどういうことでしょうか。

このことが教えていることは明らかです。つまり、手と足は私たちの日ごとの務めの事を表していました。私たちが日々の仕事をしていく時、私たちは肉体的にも霊的にも汚れ、埃をかぶってしまいます。ですから洗盤で手足を洗うのは、そうした内側の清めを表していたのです。

祭司たちは、常に主に仕えていて、その働きの中に身を沈めていたので、自分たちは霊的に大丈夫だと思いがちでした。それは現代のクリスチャンたちにとっても同じことで、自分たちはお酒を飲まないし、タバコも吸わない。悪い言葉も使わないし、そういうことをする人たちとも付き合わないので、汚れていないと考えがちですが、しかし、本当にそうなのかどうか吟味するために洗盤で洗わなければなりません。そうすると、自分がいかに汚れた者であるのかに気付かせられることになるでしょう。自分はいつも霊的に十分なのではなく、常にきよめが必要であるということを知る必要があったのです。

この洗盤(水)は、真理のみことばを象徴していました。ヨハネ15:3には、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。またヨハネ17:17には、「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」とあります。私たちは、真理のみことばによって聖め分かたれるのです。またエペソ5:26には、「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする」とあります。神のみことばを聞いて、心が洗われるのです。毎日、毎日、みことばの水を浴びなければなりません。みことばを知れば知るほど自分がいかに汚れた者であるかを知るようになります。日々、真理のみことばによって聖められ、神の御前に出て行かなければなりません。

Ⅲ.聖なる注ぎの油(22-33)

幕屋の中で、礼拝のために必要なもう二つの事が書かれてあります。それは、注ぎの油と香の祭壇で焚かれる香です。まず注ぎの油です。22節から33節までをご覧ください。
 「主はモーセにこう告げられた。「あなたは最上の香料を取れ。液体の没薬を五百シェケル、香りの良いシナモンをその半分の二百五十シェケル、香りの良い菖蒲を二百五十シェケル、桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油を一ヒン。あなたは調香の技法を凝らしてこれらを調合し、聖なる注ぎの油を作る。これが聖なる注ぎの油となる。そして、次のものに油注ぎを行う。会見の天幕、あかしの箱、机とそのすべての備品、 燭台とそのすべての器具、 香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、 洗盤とその台。こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。あなたはアロンとその子らに油注ぎを行い、彼らを聖別して、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。あなたはイスラエルの子らに告げよ。これは、あなたがたの代々にわたり、わたしにとって聖なる注ぎの油となる。これを人のからだに注いではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものでなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人に付ける者は、だれでも自分の民から断ち切られる。」」

この最上の香料とは、聖なる注ぎの油のことです。その作り方は、23節と24節にある材料を調合して作ります。そして26-28でその油を注がなければならない物は何かを示しています。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、机とそのすべての備品、 燭台とそのすべての器具、 香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、 洗盤とその台です。
 その結果は何でしょうか。29節にはこのように書かれてあります。「こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。」油注ぎを受ける前はただの備品でしたが、この聖なる油注ぎを受けた後は、それらはきよめられ、聖なるものとなったのです。どういうことですか。これらのものは物ですから、元々罪があるわけではありません。ですから、これらのものがきよめられるというのは、神聖な働きのために用いられるということです。これらの幕屋の備品は、油注ぎを受けた後で、100%主のために捧げられ用いられたのです。他の目的のために使われることはありませんでした。これが、聖なるものとなるという意味です。それはこれらのものに触れる者も同じです。聖なるものとなりました。イスラエルの民は、ただの好奇心から祭壇や洗盤に近づいて触れることは許されていませんでした。それは主と主に関わる務めに捧げられた者だけが携わることができたのです。それでアロンとアロンの子どもたちもまた、この油注ぎを受けなければならなかったのです。

32節と33節には、この聖なる油について二つの禁止令が語られています。それは、これに似たものを調合してはならないということ、そして、祭司以外のものにこれを注いではならないということです。もしこの命令に違反した場合は、イスラエルの民の中から断ち切られました。死によってか、追放されることによってかのいずれかの方法で、断ち切られたのです。これはどういうことでしょうか。

 この注ぎの油は聖霊を象徴していました。Ⅰヨハネ2:27にこうあります。「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」どういうことですか。私たちには御子から受けた注ぎの油があるので、だれにも教えてもらう必要はないということです。この注ぎの油が、すべてのことを教えてくれます。この注ぎの油こそ真理の御霊です。この御霊が、私たちにすべてのことを教えてくれるので、これに何かを調合してはならないのです。つまり偽教師から教えてもらう必要はないということです。私たちには聖霊の油が注がれているので、聖霊の助けと導きを求めて祈らなければならないのです。この油に他のものを混ぜたりしてはなりません。

Ⅳ.香の祭壇で焚かれる香(34-38)

最後に、34節から38節までを見て終わります。ここには、幕屋の中で、礼拝のために必要なもう一つの事が教えられています。それは、香の祭壇で焚かれる香です。
 「主はモーセに言われた。「あなたは香料のナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香と純粋な乳香を取れ。これらは、それぞれ同じ量でなければならない。これをもって、調香の技法を凝らして調合された、塩気のある、きよい、聖なる香を作れ。また、その一部を打ち砕いて粉にし、その一部を、わたしがあなたと会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものである。その割合で作る香を自分たちのために作ってはならない。 それはあなたにとって、主に対して聖なるものである。これと似たものを作って、これを嗅ぐ者は、自分の民の間から断ち切られる。」」

香料は、高価な材料(香料)を調合して作られました。ナタフ香、シェヘレナ香、ヘルベナ香、純粋な乳香の四種類の香料を同じ量だけ取らなければなりませんでした。これらの四種類の香料を調合法にしたがって混ぜ、香ばしい聖なる純粋な香料を作りました。この香は、聖所の中に配置された香の壇の上で、香として焚くためのものです。また、その一部を砕いて粉にし、その一部を、会見の天幕のあかしの箱に供えました。細かく砕いたのは、燃えやすくするためです。この香料に関しても、厳しい禁止事項が記されています。それは、これと似たものを、自分自身のために作ってはならないということです。どういうことでしょうか。

前述したように、この香の壇と香は、生徒たちの祈りを象徴しています。私たちの祈りは、キリストを通してのみ、父なる神の御前に香しい香りとなるのです。また、香はその日に必要なものを取り、よく砕いてから香の上で焚かれましたが、私たちの祈りも、砕かれた心で、日々御前にささげられるべきです。このような祈りを、神は決して蔑まれることはありません。

出エジプト記29章

2020年7月22(水)祈祷会メッセージ

聖書箇所:出エジプト記29章

 

 28章では、祭司の装束(祭服)について学びました。それはイエス・キリストの型であり、キリストの姿そのものでした。そこにはキリストの栄光と美が表れていました。この29章には祭司として神に仕えるための規定、任職式の規定、手順が記されています。

 

 Ⅰ.祭司として神に仕えるために(1-9)

 

 まず、1~9節をご覧ください。

「1 彼らを聖別し祭司としてわたしに仕えさせるために、彼らになすべきことは次のことである。若い雄牛一頭、傷のない雄羊二匹を取れ。

2 また、種なしパン、油を混ぜた種なしの輪形パン、油を塗った種なしの薄焼きパンを取れ。これらは最良の小麦粉で作る。

3 これらを一つのかごに入れ、そのかごと一緒に、先の一頭の雄牛と二匹の雄羊を連れて来る。

4 アロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で彼らを洗う。

5 装束を取り、長服と、エポデの下に着る青服と、エポデと胸当てをアロンに着せ、エポデのあや織りの帯を締める。

6 彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に聖なる記章を付ける。

7 注ぎの油を取って彼の頭に注ぎ、彼に油注ぎをする。

8 それから彼の子らを連れて来て、彼らに長服を着せる。

9 アロンとその子らに飾り帯を締め、ターバンを巻く。永遠の掟によって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたはアロンとその子らを祭司職に任命せよ。」

 

「彼ら」とは、アロンとその子らのことです。彼らを聖別し祭司として主に仕えさせるために、どんなことが必要だったのでしょうか。まず、そのために次のものを準備しました。すなわち、若い雄牛1頭、傷のない雄羊2頭、「傷のない」というのは、罪や汚れのないということを示しています。また、種を入れないパン。油を混ぜた種なしの輪形パン(ケーキ)を用意しました。種を入れないパンというのも、罪の混ざっていないということを示しています。また、油を塗った種なしの薄焼きパンとは、せんべいやワッフルのようなものです。

 

以上のものを準備したら、アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗いました。これは衛生的な理由ではなく、儀式的な意味がありました。前回のところで、大祭司が装束を身につけるのは、キリストを自分の身にまとうことを表していましたが、水で洗うのは、私たちがキリストを身につけるときに、御霊による洗いと聖めが行なわれたことを象徴していました。テトス3:5には、「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」とあります。神は、私たちが行った義のわざによってではなく、神のあわれみによって、この聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださったのです。

 

次に、大祭司アロンに装束を着せます。キリストを来たのです。そして、注ぎの油を頭に注ぎました。これは、聖霊の油を意味していました。つまり、大祭司は、聖霊の力によってその働きをしたということです。それは、キリストとはどのような者であるかを示していました。キリスト(メシヤ)とは、「油注がれた者」という意味です。キリストは、聖霊の油を無限に注がれた大祭司として、民に代わって神にとりなしをされるのです。また、アロンの子らも連れて来て、彼らに長服を着せました。このようにして、アロンとその子らを祭司職に任命したのです。

 

 Ⅰペテロ2:9には、「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」とあります。神の民であるクリスチャンは、この祭司としての使命を帯びています。その使命を果たすためには、聖霊の油注ぎを受けなければなりません。自分の力に頼るのではなく、聖霊の導きに信頼し、聖霊に満たされて歩むことを求めていかなければなりません。

 

 Ⅱ.動物のいけにえ(10-34)

 

 次に、10~34節をご覧ください。まず、14節までをお読みします。

「10 あなたは雄牛を会見の天幕の前に近づかせ、アロンとその子らはその雄牛の頭に手を置く。

11 あなたは会見の天幕の入り口で、主の前で、その雄牛を屠り、

12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。その血はみな祭壇の土台に注ぐ。

13 その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪を取り出し、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。

14 その雄牛の肉と皮と汚物は宿営の外で火で焼く。 これは罪のきよめのささげ物である。」

 

 ここには、罪のためのいけにえ、神へのささげものについて記されてあります。アロンとその子らは、雄牛の頭に手を置きます。これは、罪を転嫁することを象徴していました。自分の身代わりに雄牛が死ぬことを表していたのです。つまり、大祭司アロンとその子らの罪が雄牛の上に転嫁されたのです。これは、罪の赦しを与える際に重要な行為でした。

 

 次にこの雄牛を屠ります。そしてその雄牛の血を取り、指で祭壇の角につけました。祭壇の角とは、27:2で見たように、祭壇の四隅に出ている突起物のことです。それは神のさばきを象徴していました。その祭壇の四隅の角に雄牛の血が塗られたことによって、雄牛が自分たちの身代わりとなって死んだことを示していました。

 そして雄牛の内臓をおおう脂肪は、すべて祭壇の上で焼いて煙にしました。煙にするとは、芳ばしい香りとして神にささげたということです。というのは、脂肪は最良の部位とされていたからです。最高のものは神にささげられたのです。

 

 雄牛の肉と皮と汚物は宿営の外で火で焼きました。ここでのポイントは、宿営の外でということです。なぜなら、それらは汚れたものを象徴していたからです。へブル13:11~14には、「動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」とあります。

 イエス様がエルサレムの城壁の外にあったゴルゴタの丘で、十字架刑に処せられたのはそのためです。それはご自分の血によって民を聖なるものとするためでした。そのキリストの十字架の死によって私たちは救われたのです。ですから、キリストの弟子である私たちも、この世に受け入れられることではなく、宿営の外に出てキリストとともに歩む道を選ばなければなりません。私たちが求めているのは、この地上のものではなく天にあるものです。

 

 パウロはこのキリストの犠牲についてこのように言っています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)これは私たちの罪が、罪を知らない方(キリスト)に転嫁されたということを示していました。その結果、私たちの罪が取り除かれ、神との和解が成立したのです。この罪の赦し、神との和解を受けるには、キリストを救い主として認め、受け入れなければなりません。その時、大祭司の罪が雄牛に転嫁されすべての汚れからきよめられたように、すべての罪が赦され神と和解することができるのです。

 

 次に、15~18節までをご覧ください。

「15 また、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。

16 その雄羊を屠り、その血を取り、これを祭壇の側面に振りかける。

17 また、その雄羊を各部に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部位や頭と一緒にし、

18 その雄羊を全部、祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への全焼のささげ物で、主への芳ばしい香り、食物のささげ物である。」

 

 ここには、主への全焼のささげ物について記されてあります。全焼のささげ物は、神への感謝と主への献身を象徴していました。ローマ12:1には、「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」とあります。キリストによって救われた者の具体的な生活は、自分自身を主にささげることから始まるということです。

 

その全焼のささげ物は、一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の上に手を置かなければなりませんでした。手を置くというのは、すでに見てきたように、罪の転嫁を意味していました。これは、罪は命(血)によって贖われるということを示していました。

 

次に、その雄羊を屠ります。そしてその血を取り、それを祭壇の側面に振りかけました。また、その雄羊を各部位に切り分け、その内臓と足を洗い、これを他の部位や頭と一緒にして、その全部を祭壇の上で焼いて煙にしました。煙にするとは、すでに述べたように、神への芳ばしい香りとするということです。「全焼のささげ物」という呼び方は、このようにその全部を祭壇の上で焼いて煙にしたことから来ています。

 

次に、19~21節をご覧ください。

「19 もう一匹の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。

20 その雄羊を屠り、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また彼らの右手の親指と右足の親指に塗り、その血を祭壇の側面に振りかける。

21 祭壇の上の血と、注ぎの油を取って、それをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかける。こうして、彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。」

 

 初めの二つのささげ物は、祭司の任職のための前段階にすぎません。すなわち、「罪のためのいけにえ」をささげることによって祭司に任職される者の罪が贖われ、次いで、その献身が「全焼のいけにえ」によって象徴されていたのです。そして、いよいよ本来の任職のためのいけにえがささげられていきます。神と祭司との交わりを意味する「交わりのささげ物」(和解のいけにえ)です。ここには、「こうして、アロンとその装束、また、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなる。」(21)とあります。どのようにして彼らの装束が聖なるものとなったのでしょうか。

 

 ここでも、アロンとその子らは雄羊の頭の上に手を置きました。そしてその雄羊をほふり、その血をアロンとその子らにつけました。血は右の耳たぶ、右手の親指、そして右足の親指につけられました。これは、全身に血を塗ったことを象徴していました。つまり、全身が血によってきよめられ、聖別されることを示していたのです。すなわち、耳が血で聖別されるのは主のみことばに常に従うためであり、手がきよめられたのは常に主のみわざを行う用意をしているためであり、足がきよめられたのはその働きを成し続けるためです。そしてその血を祭壇の側面に振りかけられました。

 

 また、祭壇の上の血と注ぎの油を取ってそれをアロンとその装束、彼とともにいるその子らとその装束にかけました。これも祭司の任職式だけにある特異な儀式でした。これはどんなことを象徴していたのかというと、祭壇の上の血はキリストの血を、注ぎの油は聖霊のきよめを象徴していました。これがアロンとその装束、また、彼とともにいたその子らとその装束に振りかけられるとは、キリストと聖霊という相互に不可分に結合しているものが振りかけられたことによって、彼らが祭司職に関する神との契約関係に入れられたことを示していました。こうして彼とその装束、彼とともにいるその子らとその装束は聖なるものとなったのです。

 

 次に、22~28節までをご覧ください。

「22 次に、その雄羊の脂肪、あぶら尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓とその上の脂肪、また右のももを取る。これは任職の雄羊である。

23 また、主の前にある種なしパンのかごから、円形パン一つと、油を混ぜた輪形パン一つと、薄焼きパン一つを取る。

24 そして、そのすべてをアロンの手のひらとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主の前で揺り動かす。

25 それらを彼らの手から取り、全焼のささげ物とともに、主の前の芳ばしい香りとして祭壇の上で焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物である。

26 アロンの任職のための雄羊の胸肉を取り、これを奉献物として主に向かって揺り動かす。これは、あなたの受ける分となる。

27 アロンとその子らの任職のための雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸肉と、奉納物として献げられたもも肉とを聖別する。

28 それは、 アロンとその子らがイスラエルの子らから受け取る永遠の割り当てとなる。それは奉納物である。それはイスラエルの子らからの交わりのいけにえの奉納物、主への奉納物であるから。」

 

 この供え物のもう一つの特異な点は、アロンとその子らの奉納物でした。それは、脂肪と共にもも、それに穀物のささげ物を大祭司と祭司の手のひらに載せて、主に向かって揺り動かすことです。ラビの伝承によると、祭壇に向かって前後に、あちらこちらと揺り動かしました。これはどんなことを表していたのかというと、ささげものをまず神にささげ、それからそれが神から祭司に与えられることを表していました。そして、まずその脂肪と右のもも、また穀物のささげ物を、全焼のささげ物とともに、主の前の芳ばしい香りとして祭壇で焼いて煙にしました。これは主へのささげ物です。次に、雄羊の胸肉を取り、これも祭壇に向かって前後に揺り動かして後、アロンの受ける分となりました。レビ族には土地の分割がなかったのでこれが彼らの生活費となりました。それはイスラエルの子らからの交わりのささげ物(和解のいけにえ)の奉納物だったのです。

 

 29~30節をご覧ください。

「29 アロンの聖なる装束は彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて油注がれ、これを着け

て祭司職に任命される。

30 彼の子らのうちで、彼に代わって聖所で務めを行うために会見の天幕に入る祭司は、 七日間、これを

着る。」

 

大祭司の装束はアロン一代で終わりにせず、その後継者も代々用いられるようにしました。その儀式は

七日間続き、彼の子らのうちで、彼に代わって聖所で務めを行うために会見の天幕に入る祭司は、これを着なければなりませんでした。

 

次に、31-34節をご覧ください。

「31 あなたは任職のための雄羊を取り、聖なる所でその肉を煮なければならない。

32 アロンとその子らは会見の天幕の入り口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンを食べる。

33 彼らは、自分たちを任職し聖別するため、宥めに用いられたものを食べる。一般の者は食べてはならない。これらは聖なるものである。

34 もし任職のための肉またはパンが朝まで残ったなら、その残りは火で燃やす。食べてはならない。これは聖なるものである。」

 

 水によるきよめ、着衣、油注ぎ、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、任職のためのいけにえ(交わりのささげ物、和解のいけにえ)といった任職のための一連の儀式が終わると、次にいけにえの食事へと続きました。

 まず、任職のための雄羊を取り、それを聖なる所で煮なければなりませんでした。「聖なる所」とは、会見の天幕の入口のことでしょう。レビ8:31には、「会見の天幕の入口の所で、その肉を煮なさい。」とあります。アロンとその子らは会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンを食べました。この交わりの食事は、祭司の任職式を終わらせるものとして最もふさわしいものでした。というのは、これまでの儀式によって、彼らは今、主の奉仕者として、主との特別に親しい交わりの中に入れられ、また、彼らが主の祭壇で養われるようになったことを示しているからです。それは神の祭司である私たちクリスチャンの姿でもあります。キリストの十字架の贖いによって罪を赦され、自分のすべてを神にささげることによって、神との親しい交わりの中に入れられるからです。

 

 もし任職のための肉またはパンが朝まで残ったなら、その残りは火で燃やさなければなりませんでした。ほかの者は、食べてはならないということです。それは、ただ神との親しい交わりの中に入れられた者だけが食べることができるものだったのです。これは聖餐式を表しています。聖餐式は、神との親しい交わりを象徴しています。それはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦され、自分のすべてを神にささげることによってもたらされる神との親しい交わりです。それゆえ、この罪の赦しと神への献身がなければ、この神との交わりに入ることはできないのです。この神との親しい交わりの中に入れられたことを感謝しましょう。

 

Ⅲ.任職式(35-46)

 

 最後に、35~46節までを見て終わります。まず42節までをご覧ください。

「35 わたしがあなたに命じたすべてにしたがって、このようにアロンとその子らに行え。七日間、 任職式を行わなければならない。

36 毎日、宥めのために、 罪のきよめのささげ物として雄牛一頭を献げる。あなたはその上で宥めを行い、その祭壇から罪を除く。聖別するためにそれに油注ぎをする。

37 七日間、祭壇のために宥めを行い、それを聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。 祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。

38 祭壇の上に献げるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく、一歳の雄の子羊二匹。

39 朝、一匹の雄の子羊を献げ、 夕暮れに、もう一匹の雄の子羊を献げる。

40 一匹の雄の子羊には、 上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、 また注ぎのささげ物としてぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。

41 もう一匹の雄の子羊は夕暮れに献げなければならない。これには、朝の穀物のささげ物や注ぎのささげ物を同じく添えて、献げなければならない。それは芳ばしい香りのためであり、主への食物のささげ物である。

42 これは、主の前、会見の天幕の入り口での、あなたがたの代々にわたる常供の全焼のささげ物である。その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。」

 

 この箇所は、任職式と関連しているのか、関連していないのかは、はっきりわかっていません。任職式は七日間行われました。それは七が完全数であるからです。神によって完全に罪が赦されることを表していたのです。私たちも、自分の罪が完全にきよめられていることを確信しなければなりません。

 

また、常供の全焼のささげ物として、毎日絶やすことなく1歳の雄の子羊2匹を、朝と夕方にそれぞれ1匹ずつ献げなければなりませんでした。一匹の雄の子羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、注ぎのささげものとして、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられました。もう1匹の若い雄羊は、夕暮れに献げなければなりませんでした。これにも朝の穀物の献げ物や注ぎのささげ物を同じく添えて、献げなければなりませんでした。それは芳ばしい香りのためであり、主への食物のささげ物だったのです。

 

 42節には「その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る。」とあります。「その場所」とは祭壇のことです。「あなたがた」とはイスラエルの民のこと、「あなた」とはモーセのことです。主はそこでイスラエルの民と会い、そこでモーセに語られました。だから、祭壇が贖われなければならなかったのです。あなたの祭壇は贖われているでしょうか。主がそこで会ってくださいます。そこで語ってくださいます。いつでも主とお会いし、主のことばを聞くために、祈りの祭壇を築きましょう。

 

 43~46節をご覧ください。

「43 その場所でわたしはイスラエルの子らと会う。そこは、わたしの栄光によって聖なるものとされる。

44 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。

45 わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。

46 彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」

 

 この箇所は幕屋の建設と祭司職に関する規定の結びとなっています。ここにその目的が記されてあります。「その場所」とは「幕屋」のことです。神が示された方法(幕屋)を通して神に近づくなら、イスラエル人は神に近づくことができました。幕屋は、神が民と出会う恵みの場所です。また、幕屋で仕え、神との交わりのために用いられるのがアロンとその子らでした。それゆえ、幕屋も祭司も聖別される必要があったのです。そのようにして神に近づくなら、神はイスラエル人の間に住み、彼らの神となると約束されました。これが、主がイスラエルの民をエジプトから解放してくださった目的でした。イスラエル人は主が彼らの神であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出してことを知るようになります。つまり、出エジプトの目的は、イスラエルが自分たちをエジプトから導き出したのは主という御名を持った神であるということを体験的に知るようになるためだったのです。

 

 あなたはあなたとともにおられる方、あなたの中に住んでおられる方がどういう方であるかを知っているでしょうか。この方は、イスラエルをエジプトから救い出してくださった方、主であり、あなたを救うためにあなたのために十字架で死んでくださったイエス・キリストなのです。あなたはそこで神と出会います。イエス・キリストを通して神と会い、神の栄光を受けるのです。この方があなたのただ中に住み、あなたの神であることを感謝しましょう。 

出エジプト記28章

2020年7月8日(水)祈祷会メッセージ

聖書箇所:出エジプト記28章

 

今日は、出エジプト記28章から学びます。これまで幕屋の建築について見てきましたが、28章と29章には祭司について書かれています。その幕屋で人がどのように奉仕するのか、その奉仕者である祭司について学びます。今日は前半部分28章です。

 Ⅰ.祭司として仕えさせよ(1-3)

 

まず1~3節までをご覧ください。

「1 あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。2 また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。3 あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。 彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」

 

ここにはアロンとその子たちを祭司として仕えさせるようにとあります。祭司とは、簡単に言えば、神と人との仲介者のことで、神の幕屋に仕える人たちのことです。神に対して、祭司は人を代表します。とりなしの祈りをしたりすることは、祭司の務めです。そして人に対しては、神の祝福や恵みやいやしを分け与える神の代表者でもあります。祭司の働きによって、イスラエル人は神に近づくことができました。この祭司もイエス・キリストの型であり、イエス・キリストのことを表していました。イエス・キリストこそまことの大祭司です。ですから、この祭司について学ぶとキリストがどのような方であるのかがわかるのです。

 

モーセの兄アロンと彼の子どもたちが祭司として任じられました。何のためでしょうか。主に仕えるためです。ここには、「祭司としてわたしに仕えさせよ。」とあります。主に仕えるということは何か主のために特別のことをすることではなく、主が命じられたことを行うことです。

 

2節をご覧ください。ここには「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ」とあります。大祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着なければいけませんでした。普通の服装では聖所に入ることができなかったのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストを表していたからです。イエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」とありますが、栄光と美を表す聖なる装束は、この栄光のキリストを表していたのです。そのために、主が知恵の霊を満たした、心に知恵ある人たちが用いられました。

 

Ⅱ.大祭司の装束(4-39)

 

4-39節までに、栄光と美を表す聖なる装束がどのようなものであったかが記されてあります。まず、4-5節をご覧ください。

「4 彼らが作る装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らが、祭司としてわたしに仕えるために、 聖なる装束を作る。5 彼らは、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取る。6 彼らに、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、意匠を凝らしてエポデを作らせる。」

 

彼らは大祭司のために、胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を作らなければなりませんでした。なぜなら、それはイエス・キリストを指し示していたからです。大祭司はそのままの姿で、神のみもとに近づくことはできませんでした。また、自分を良くすることによっても、神に近づくことはできませんでした。イザヤ書に、「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」(64:6)とあるように、罪に汚れた者だからです。そのような者が神の幕屋に入って行き、神に近づくことができるのは、イエス・キリストの義を身に着けていなければならないのです。パウロは、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)と言いました。ですから、イエス・キリストが、私たちにとって聖なる栄光と美の装束です。私たちは、自分の正しさではなく、キリストの完全な義を身にまとうことによって神に近づくことができるのです。

 

最初はエポデを作りました。これはエプロンのような形をしており、大祭司の胸と腹の部分を覆っていました。その材質は、金色、青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布が用いられていました。金色は何を表していましたか。キリストの神性です。キリストが神であることを表していました。青色は天、神の国ですね。それは、キリストが天から来られた方であることを示していました。紫色は王としてのキリストです。緋色は赤ですが、これはキリストの十字架の血による贖いを表していました。そして亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ、キリストの義を表していました。このエポデはキリストの権威を象徴していたのです。

 

7-14節をご覧ください。これに二つの肩当てが付けられました。この肩当てはイスラエル12部族を表していました。その肩当てにはそれぞれしまめのうがはめ込まれていて、片方にはイスラエル12部族のうちの6つの部族の名前が、またもう一方には6つの部族の名が記されてありました。つまり、キリストはご自身の民であるイスラエルの12の部族(クリスチャン)を背負ってくださるということです。イザヤ46:3-4には、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とあります。私たちは、大祭司であられる主イエスに担われているのです。ずっと・・。何と感謝なことでしょうか。

 

8節をご覧ください。ここには「エポデの上に来るあや織りの帯」を作るようにとあります。材料と色はエポデを作る時と同じ色、同じ材料です。すなわち、これもイエス・キリストのことを表していました。この帯は何を象徴していたのでしょうか。出エジプト12:11には、帯を引き締めて、足にくつをはき、急いで行くようにとありますが、それは、着物がはだけないためでした。要するに、働きやすくするために帯を締めるのです。それは、しもべとしてのキリストの姿を象徴していたのです。キリストは仕えるしもべとしてこの世に来てくださいました。そして、この帯がエポデと同じ材質と色で作られなければならなかったのは、権威者であられるキリストとしもべとしてのキリストというこの二つの性質がキリストの中にあるということです。神としての権威をもっておられた方が、しもべとなって仕えてくださいました。栄光の神であられるキリストは仕えるしもべでした。これが真のリーダーです。真のリーダーとは、サーバント・リーダーなのです。

 

次に15-21節までをご覧ください。

「15 あなたはさばきの胸当てを意匠を凝らして作る。それをエポデの細工と同じように作る。すなわち、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて作る。16 それは正方形で二重にする。 長さ一ゼレト、幅一ゼレト。17 その中に宝石をはめ込み四列にする。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。18 第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。20 第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれる。21 これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表す。」

 

ここには、「さばきの胸当て」を作るようにと命じられています。この「さばき」というのは神のさばきというよりも、神のみこころは何かということを判断するさばきのことです。イスラエルが何かのさばき、判断、知恵を求めたとき、彼らは大祭司の所にやって来て、神のみこころを伺ったのです。それがさばきの胸当てです。このさばきの胸当てにはウリムとトンミムが入っていました(30)。ウリムとトンミムとはどのようなものであったかは明確ではありませんが、Iサムエル14:41には、これがくじとして用いられていたことが記されてあります。くじとして用いられていたことから、神のみこころを求めるくじのようなものであったのではないかと考えられているのです。ウリムが出たらイエス,トンミムがノーというように判断していたのでしょうす。判断がくじによって与えられるというのは、このくじは単なる偶然にではなく、神がその判断と決定をそれによって与えられるという信仰が基調にあったのです。

 

 このさばきの胸当てもエポデと同じ色、同じ材質で作られました。ということは、これもまたイエス・キリストのことを表していたということです。違うのは何かというと、この胸当てには高価な宝石がちりばめられていたということです。宝石は3個ずつ4列にしてはめ込められていました。この12の宝石は、イスラエルの12部族を表していました(21)。それがこの胸当てにはめ込まれていたのは、大祭司の心にイスラエル12部族の名前が刻まれていたということです。イエス・キリストの心にクリスチャンの名前がしっかりと刻まれているのです。彼らはそれぞれ違う石で表されていましたが、どれも皆、宝石です。どの部族も価値があります。皆、それぞれ光を持っています。光り方は違いますが、どれもみな大祭司のハートにしっかりと刻み込まれていたのです。

イザヤ49:15-16には、「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」とあります。私たちはキリストから忘れられるということは決してありません。その心にしっかりと刻まれているからです。それぞれ輝き方はみな違いますが、宝石のように価値ある者として見られているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

どの教団、どの教派、どの教会の人であっても、あなたがキリストを信じて神のものになっているのなら、神の目にあなたは高価で尊い存在なのです。宝石のように輝いていめのです。まだ輝いていないという人がいますか?そういう人がいたら、その人は宝石の原石なのです。そのうちに輝いてきますから、心配堂しないでください。

それは私たちだけでなく、あなたの隣人も同じです。あなたの隣人もキリストを信じて神のものとなったのであれば、キリストの目には同じように高価で尊いのです。私たちは、そのような目で隣人を見ていく必要があります。

 

22-29節をご覧ください。

「22また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作る。23 胸当てのために金の環を二個作り、その二個の環を胸当ての両端に付ける。24その胸当ての両端の二個の環に、二本の金のひもを付ける。25その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付ける。26さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付ける。27 また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付ける。28 胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにしなければならない。29 このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」

 ここには、胸当てを身に着けるための鎖と環について述べられています。この鎖は、純金で作られました。胸当てを体に固定するために、胸当ての四隅に金の環がつけられます。そして上の環は金の鎖で肩当ての環につなぎあわせ、下の環はエポデにつけられた環に青ひもでつなぎます。それは何のためでしょうか。胸当てがエポデからずり落ちないようにするためです。大祭司の胸当てはイエス・キリストの心です。私たちはあの宝石のように主のみ胸に抱かれて大切に守られているのです。それは決してずり落ちることはありません。

 29節には、「このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」とあります。これはキリストの愛情のしるしです。こうして大祭司はイスラエルの民族を代表して聖所で奉仕し、神と人との間のとりなしをするのです。ヘブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とありますが、キリストはこの大祭司として、私たちのために神にとりなしていてくださるのです。

 次に31-35節までをご覧ください。

「31 エポデの下に着る青服を青の撚り糸だけで作る。32 その真ん中に、首を通す口を作る。その口の周りには、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付け、よろいの襟のようにする。33 その裾周りには、青、紫、緋色の撚り糸でざくろを作る。その裾周りのざくろの間には金の鈴を付ける。34 すなわち、青服の裾周りに、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。35 アロンはこれを、務めを行うために着る。 彼が聖所に入って主の前に出るとき、 またそこを去るとき、 その音が聞こえるようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。」


 ここには、エポデの下に着る青服の作り方が記されてあります。これは青色の撚り糸で作られました。これにはそでがなく、ひざが隠れるほどの長さのものでしたが、あるものは足首にまで達する長いものでした。というのは、33節に裾のことが記されてありますが、それによると足首まである長い服であったのがわかるからです。その真ん中には頭を通す穴を開け、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付けました。その裾周りには青色、紫色、緋色の撚り糸で作ったざくろを作り、その裾の周りに付けました。また、その周りのざくろの間に金の鈴をつけました。ざくろは、多数の実を付けていることから肥沃、豊かさ、生命の象徴でした。それはキリストの生命の豊かさを表わしていました。また、金の鈴は、大祭司キリストの働きを示していました。それはとりなしの祈りです。35節を見ると、アロンが聖所での務めをするときにはこれを着なければなりませんでした。そして、彼が聖所にはいり、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにしなければならなかったのです。それは、彼が神と人とに覚えられているというしるしでした。そうしないと、彼は打たれて死んだのです。鈴の音が止まると死んだということが、神と人の両方にわかりました。

 

 36-38節をご覧ください。

「36 また、純金の札を作り、その上に印章を彫るように主の聖なるもの』と彫り、37 これを青ひもに付け、それをかぶり物に付ける。それがかぶり物の前面にくるようにする。38 これがアロンの額の上にあって、アロンは、イスラエルの子らが聖別する聖なるもの、彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。これは、彼らが主の前に受け入れられるように、絶えずアロンの額の上になければならない。」

 

 ここには、「純金の札」について記されてあります。純金の札を作り、その上に印を彫るように、「主への聖なるもの」と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物の前面にくるように付けばなりませんでした。その大きさについてはいろいろな節があります。ある伝承では幅4センチ、長さは耳から耳に届くほどの大きさであったとされています。

 しかし、最も重要なのは、そこに「主への聖なるもの」と彫られた純金の札を付けなければならなかったということです。これが、38節に「彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。」とあるように、。イスラエルの咎を負うためであったからです。イスラエル人が持ってきた物はいろいろな清めと洗いがなされていますが、完全に聖い神の御前には汚れています。そこで、民を代表するアロンは、それを額の上に置きその汚れたささげ物がすべて聖められるようにしたのです。これでイスラエル人のささげ物が、絶えず神の御前に受け入れられるようになりました。エペソ書1:7には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。」とありますが、私たちはこの大祭司であられるキリストの贖いによって罪が赦され、聖められているのです。この方にあって私たちは神に受け入れられた物、聖い者とされたのです。大祭司であられるキリストが私たちの咎を負ってくださったからです。そのことによって、私たちは大胆に神の御前に出ることができるようにされたのです。

 

 39節をご覧ください。

「さらに亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺を施して作る。」

 

 長服は亜麻布で市松模様に作られました。市松模様というのは白と黒の正方形を、互い違いに並べた基盤目模様のことです。「石畳」「あられ」などとも言われます。かぶりものは亜麻布で作られました。これは恐らく主への敬意のしるしだったのでしょう。飾り帯は刺繍で作る。大祭司の装束の中に履物についての言及がないのは、おそらく彼らがはだしで務めをしていたからと考えられます。

 Ⅲ. アロンの子らの装束 (40-43)

 最後に、40-43をご覧ください。                             「40 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表すターバンを作らなければならない。41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。42 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためである。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である。」

 大祭司アロンの働きを補佐するアロンの子らたちのためには、長服と飾り帯とターバンが作られました。ターバンは栄光と美を表していました。彼らは聖別された油を注がれて祭司に任命されました

 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作りました。それは腰からももに届くようにしました。これはアロンと彼の子らが聖所で務めを行うために祭壇に近づく時に着ました。これは彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないようにするためのものでした(20:26)。もしも彼らの裸があらわにされてしまうなら、神に打たれて死ななければならなかったからです。どういうことでしょうか。これはキリストの贖いを象徴していました。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉をつづり合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい全く役に立ちませんでした。自分の力や働きによって裸をおおうことはできません。自分の裸をおおうことができるのは、神が用意してくださった動物の皮で作られた着物でした。まさにその動物こそキリストの血を象徴していたのです。神は、そのようにして彼らの裸をおおってくださいました。同じように、私たちの裸をおおうのは亜麻布のももひきです。それはイエス・キリストを指し示していました。それを着なければならないのです。アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着ました。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためです。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟です。

 今日、完全なる大祭司であるイエス・キリスト(ヘブル3:1)が私たちのために神の前にとりなしをしていて下さいます(ヘブル7:24-27)。大祭司アロンはイエスキリストのひな型であり、イエス・キリストこそが永遠の大祭司として神の御前に私たちのためにいつもとりなしておられます。今もキリストは大祭司として真の幕屋である聖所で仕えていることを覚え(ヘブル8:1,2)、キリストによって罪を贖っていただいたことを感謝しましょう。

出エジプト記27章

2020年6月24日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記27章

 出エジプト記27章から学びます。幕屋の建設について学んでいます。「主は、「彼らにわたしのための聖所を造らせ。そうすれば、わたしは彼らの中に住む。」(25:8)と言われました。最初に作ったのは契約の箱でした。以下、宥めの蓋、臨在のパンを置く机、燭台を作り、幕屋の幕、幕屋の本体である壁、聖所と至聖所を仕切る幕、天幕の入口の幕と進んできました。幕屋の建設は、最も重要な契約の箱から作られてその周辺のものへと広げられていきました。きょうは、外庭に置く祭壇について学びます。

Ⅰ.祭壇(1-8)

まず1~8節までをご覧ください。                          「1 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの正方形とし、高さは三キュビトとする。2 その四隅の上に角を作る。その角は祭壇から出ているようにし、青銅をその祭壇にかぶせる。3 灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな青銅で作る。4 祭壇のために青銅の網細工の格子を作る。その網の上の四隅に青銅の環を四個作る。5 その網を下の方、祭壇の張り出した部分の下に取り付け、これが祭壇の高さの半ばに達するようにする。6 祭壇のために棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。7 それらの棒は環に通す。祭壇が担がれるとき、棒が祭壇の両側にあるようにする。8 祭壇は、板で、中が空洞になるように作る。山であなたに示されたとおりに作らなければならない。」

 祭壇をアカシヤ材で作ります。祭壇は、幕屋の外庭というところに置かれていたもので、幕屋に入ると最初に目にするものです。一番大きなものですぐに目に付きました。「祭壇」はヘブル語で「ミズベーアッハ」と言いますが、「動物をいけにえとしてほふる」ことを意味しています。そのサイズは、長さが5キュビト、幅も5キュビトの正方形で、高さが3キュビトありました。1キュビトは約44㎝ですから、1辺が約2.2m、高さは約1.3mの大きさです。ですから、とても大きいものでした。それをアカシヤ材で作らなければなりませんでした。

その祭壇の四隅に角を作りました。角は力の象徴です。血の持つ力を象徴していました。この祭壇の四隅にある四つの角に贖罪の血を塗ることで、あたかも神がご自身を求めようとする人の心に平安を与えることを示していたのです。その祭壇に青銅をかぶせました。3節以降を見ると、祭壇だけでなく、その道具のすべてに青銅をかぶせなければなりませんでした。それは、罪に対する神の怒りを表していたからです。つまり、それは裁きの象徴だったのです。そこで、罪のためにいけにえがささげられました。罪を贖うためのいけにえです。傷も、しみもない動物(雄牛とか、雄やぎとか、小羊)が連れて来られると、民はその動物の頭の上に手を置き、自分の罪を言い表わしました。そして、自分の罪を動物に転嫁したのです。その動物をほふり祭壇の上で焼くことによって、自分のすべての罪が贖われると信じていました。それはあまりにも残酷なことなので、それを見るともう二度と罪を犯さないようにと心に思うのですが、残念ながら人間は弱いもので、また同じような罪を犯してしまうのです。ですから、毎年かわいい動物を連れて来ては、むごたらしい残酷な全焼のいけにえの儀式を行わなければならなかったのです。

このいけにえの動物こそイエス・キリストを指し示していました。イエス・キリストは全く罪も、しみも、しわもないお方でしたが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。青銅の祭壇で神の裁きを受けて死んでくださったのです。それは私たちの罪を永遠に贖うためでした。それがヘブル書で言われていることです。(ヘブル10:1~10)雄牛ややぎの血は、人間の罪を取り除くことができません。むしろ、これらのいけにえによってかえって罪が思い出されるのです。しかし、キリストは、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。それが十字架です。なぜキリストは十字架にかかって死ななければならなかったのでしょうか?それは、キリストが神の怒りの火を受けて裁かれなければなかったからです。

民数記21:4~9をご覧ください。ここには荒野でパンもない、水もない、みじめな食物に飽き飽きしたと不平不満を言うイスラエルの態度に怒られた主が、民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死んだことが記録されてあります。その神のさばきから逃れるために、神がモーセに言われたことは、青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に掛けるということでした。すべて、これを仰ぎ見た者は生きると約束されたのです。不思議な方法です。青銅の蛇です。蛇はサタンの象徴、そして、青銅は神の裁きの象徴です。この青銅の蛇こそイエス・キリストを表していました。それはヨハネ3:14~15を見てもわかります。「人の子もあげられなければならない」とイエスは言われました。イエスは、青銅の蛇として上げられ(十字架につけられ)たのです。これを仰ぎ見る者が救われるために。それが、私たちの罪が赦されるために神が定められた方法だったのです。その通りにキリストは神の怒りを受けて裁かれたのです。

「灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿」を作りました。灰つぼは、灰を取るつぼのことで、宿営の外のきよい所に持ち出すためのものでした。これが意味することは、イエスが十字架にかかった場所が「宿営の外」でなければならなかったということです。十能と肉刺しは、いけにえを焼き尽くための器具でした。神のみこころを執行するためのものと言えるでしょう。鉢は、いけにえの血をその中に入れて持ち運ぶためのものです。火皿は、熱い炭火を運ぶためのものです。

祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作りました。まさにバーベキューの世界です。また、祭壇も、他の用具と同じように環を作り、棒が差し込まれるようにしました。この祭壇はいつでも、どこにでも運ばれたのです。このことは、私たちの罪のいけにえとしてほふられた小羊は、いつでも、どこでも、有効であるということを表しています。これは永遠の贖いなのです。キリストはただ一度、まことの聖所に入られましたが、その救いは、いつでも、どこでも、有効なのです。いつの時代でも、だれでも、この贖いを信じる者は救われるのです。

Ⅱ.掛け幕(9-19)

次に、9~19節までを見ていきましょう。

「9 次に幕屋の庭を造る。南側は、撚り糸で織った長さ百キュビトの亜麻布の庭の掛け幕を、その側に張る。10 その柱は二十本、 その台座は二十個で青銅、 その柱の鉤と頭つなぎは銀とする。11 同じように、北側も長さ百キュビトの掛け幕とする。その柱は二十本、その台座は二十個で青銅、その柱の鉤と頭つなぎは銀とする。12 また、庭の西側は幅五十キュビトの掛け幕、その柱は十本、その台座は十個とする。13 正面の、庭の東側の幅も五十キュビト。14 門の片側には十五キュビトの掛け幕、その柱は三本、その台座は三個とする。15 もう片方の側も十五キュビトの掛け幕、その柱は三本、その台座は三個とする。16 庭の門には、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いた、長さ二十キュビトの、刺?した垂れ幕を張る。その柱は四本、その台座は四個とする。17 庭の周囲の柱はみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わせ、その鉤は銀、台座は青銅とする。18 この庭は長さ百キュビト、幅五十キュビト、そして高さは撚り糸で織った亜麻布の幕の五キュビトとし、その台座は青銅とする。19 幕屋の奉仕に用いるすべての備品、すべての杭、庭のすべての杭は青銅とする。」

 ここには幕屋の庭を造る規定が記されてあります。これは外庭のことです。掛け幕で囲んで庭を造りました。そのために長さ100キュビト、約44メートルの亜麻布を張りました。幅は50キュビト、約22メートルです。亜麻布については以前学びましたが、これは聖さを象徴していました。それは人の聖さではありません。神の聖さであり、神によって罪を贖っていただいた聖徒たちの聖さです。柱は20本で、その20個の台座は青銅、柱の鉤と頭つなぎは銀でした。青銅は裁き、銀は贖いの象徴です。

13節を見ると、東に面する庭の幅も50キュビトですが、そこには門が作られたので、片側に15キュビト、もう片側に15キュビトの掛け幕が作られ、その真ん中に20キュビトの門が造られました。16節には、この門には、青色、紫色、緋色のより糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った幕を張る、とあります。この4つの色については既に学びましたが、これはイエス・キリストを表しています。イエスは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)と言われました。この門を通って入るなら救われるのです。聖所に近づく道は、この門から入る以外はありません。「すべての道は神に通じる」のではないのです。多くの人が、仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、結局、同じ神を信じているとか、良いことを行っていれば誰でも神に到達できると思っていますが、そうではありません。それはあたかも亜麻布の掛け幕から中に侵入するようなものです。そうすれば、青銅の柱また台座が表している神の裁きによって滅んでしまうだけです。神に近づくためにはこの門を通って入らなければならないのです。しかも、この門には鍵がついていませんでした。いつでもオープンです。いつでも入ることができます。神はいつでも私たちを招いておられるということです。いつでも、だれでも、この門を通って入るなら救われるのです。

 ところで、これで神に近づくための門は3つになります。一つはこの幕屋の庭に入るための門、もう一つは聖所に入るための門です。そして、もう一つは至聖所に入るための門です。これは垂れ幕のことですが、全部で3つです。しかもこの3つの垂れ幕はみな同じように作られていました。これは全部イエス・キリストのことを表していたからです。神の臨在に近づくためには、その都度イエス・キリストを通らなければならないということです。いつでも、その度ごとにイエス・キリストの十字架を忘れてはならないのです。私たちの信仰の原点、またその土台は、十字架の神の恵みなのです。パウロはコリント第一の手紙2:2で、「十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」と言いました。キリストが私たちの信仰の原点であって、いつもこの方から目を離してはいけないのです。この方から目を離した瞬間、つまずいてしまうことになります。私たちはいつもこの方を通っていかなければならないのです。

ところで、この門は東側にありました。東側から入って西側に向かいました。しかし、当時のカナン人など異教の祭壇はその反対で、西側から入って東側に向かいました。なぜかというと、東が日の出る方向なので、東から出てくる太陽を拝んだからです。それを神として崇めていたからです。しかし、イスラエルの主、神はそうではありません。まことの神をあがめる時は、その反対方向を向いて、敢えて「わたしは、主にお従いします。」という行為を取るようにさせたわけです。生きた信仰というのは、世の流れに逆らうようなものです。「死んだ魚は川の流れに流されますが、生きている魚は、流れに逆らって泳ぎます。それが生きている証拠なのです。

 幕屋の後に、ソロモンの時代には神殿が建てられますが、その時の入り口も東側にありました。そして、主が終わりの日に建ててくださる神殿がエゼキエル書に幻の中に記されていますが、東向きの門です。そしてエゼキエル書43章によると、「主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。」(43:44)とあります。メシヤがエルサレムに来られるのも、東からです。

Ⅲ.ともしび(20-21)

最後に、20節と21節を見て終わります。

「20 あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。21 会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。」

 話は外庭から、聖所の中にある燭台に戻ります。聖所に入ると、左側に金の燭台がありました。祭司はそれをいつも絶やすことなく、ともしびを整えておかなければなりませんでした。その中にあるものは、この光がなければ見ることができません。前回学んだように、その光はキリストご自身の光であり、また私たちがその光の中で歩むことを表していました。そしてその光をともすのが「油」です。聖書には「油」に関する言及が数多く出てきますが、神のために用いられる時には聖霊の働きを表しています。

この油については2つの言及があります。その一つのことは、ここに「イスラエルの子らに命じて」とあるように、イスラエルの民に命じられていたことです。彼らは、ともしび用の油を持って来なければなりませんでした。これはどういうことかというと、私たちは日々聖霊に満たされていなければならないということです。聖霊に満たされるために教会に来るのではなく、聖霊に満たされている人たちが教会に来ることによって教会は明るくなるのです。教会は、牧師が輝いていれば明るくなるのではなく、クリスチャン一人一人が神に向かい、いつも聖霊に満たされていることによって明るくなるのです。その聖霊の油を持ってくることによって明るくなるのです。もちろん、教会に来て満たされることを求めることが悪いことではありません。しかし、何かを期待してそれがかなわないと満たされないというのではなく、神を神として拝み、神を礼拝することから私たちの信仰が輝いてくることを求めなければなりません。

もう一つのことは、夕方から朝までともしびを整えておかなければならないということです。祭司は、これは私たちクリスチャン一人一人のことですが、いつも絶やすことなく、ともしびを整えておかなければなりません。夕方から朝までです。おもしろいのは、朝から夕方までではなく、夕方から朝までと言われていることです。イスラエルの一日は夕方から始まりました。安息日も、金曜日の日没から始まって土曜日の日没までとなっていました。一日の始まりは夕方から始まるのです。夕方から始まるというのはどういうことかというと、最初は暗いがだんだん明るくなっていくということです。クリスチャン生活も同じです。最初は暗いけどだんだん明るくなっていきます。聖霊の油に満たされて、それをともしび皿に注ぐので、最初は暗くてもだんだん明るくなっていきます。

これが私たちの歩みです。明るいところから暗くなっていくのではなく、最初は暗くてもだんだん明るくなっていく生涯です。純粋なオリーブ油を持って来て、それを24時間ともしびをともすことによってそのような生涯を送ることができるのです。

出エジプト記26章

2020年5月27日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記26章

 

  出エジプト記26章から学びます。前回は、幕屋の最も重要な部分である神の箱と、宥めの蓋、臨在のパンを置く机、それと燭台の作り方について学びました。今回は幕屋本体の作り方についての規定を学びます。

 

Ⅰ.幕(1-14)

 

 まず、1節から14節までをご覧ください。まず1節から6節までを見ていきましょう。

「1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。2 幕の長さはそれぞれ二十八キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビトで、幕はみな同じ寸法とする。3 五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、もう五枚の幕も互いにつなぎ合わせる。4 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に、青いひもの輪を付ける。もう一つのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにする。5 その一枚の幕に五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の端にも五十個の輪を付け、その輪を互いに向かい合わせにする。6 金の留め金を五十個作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせ、こうして一つの幕屋にする。」

 

 幕屋は10枚の幕で造らなければなりませんでした。それはおのおの亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸を用い、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければなりませんでした。この4つの撚り糸の色にはそれぞれに意味がありました。亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ表していました。マルコ9:2-3には、「それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」とあります。このキリストの聖さです。

 青色は天の色です。ヨハネ3:13には、「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。」とあります。また、3:31には、「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。すなわち、キリストは天から来られた方であるということです。

 紫は、王の色を表しています。つまり、キリストは王の王であられることを表していました。

そして、緋色ですが、これは血の色です。すなわち、私たちの罪を贖うために十字架で死なれたキリストを象徴していました。この4食は、祭司の式服にも使われました。神の幕屋ではいつもこの白、青、紫、緋色の4色の拠り糸が使用されました。

 

 そして、ここには「意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。」とあります。

このケルビムについては前にもふれましたが、神の御座を守る天使のことです。契約の箱の上の贖いのふたの上に二つの翼を広げて向かい合って座っていました。神はその間から彼らと会見すると言われました(25:22)が、そのケルビムを織り出されていたということは、そこが神の臨在と神の栄光に溢れていたことを示しています。これは、聖所と至聖所の天上部分になりました。これは、私たちが毎日、天を見上げて神の栄光を拝し、神に感謝と賛美を捧げつつ、キリストの臨在を仰ぎましょうという意味があります。コロサイ3:1-2に、「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」とあるとおりです。

 

2節と3節には、幕の長さは28キュビト、幅は4キュビトでした。1キュビトが約44cmですから、約12.32mになります。幅は4キュビトですから、約1.76mです。それを10枚つくり、その内の5枚を互いにつなぎ合わせ、もう5枚の幕も互いにつなぎ合わせるとあります。すなわち、2枚の大きな幕にしたのです。そのつなぎ合わせた幕の端に青いひもの輪を付けました(4)。この青色というのは、先程も申し上げたように天の色です。その青いひもの輪を付けたのは、この二つのものをつなぎ合わせるのは、人間の努力によっては不可能であること、そして、神によってのみ可能となることを示していました。

 

また、5,6節には、それぞれの幕に輪を50個付け、金の留め金50個でつなぎ合わせ、一つの幕にするとあります。これはどういうことでしょうか?「金の留め金」はキリストの神性と力を象徴していました。その留め金で50個の輪を結んだのです。つまり、この2枚の幕を結び付けるのは、キリストによってであるということです。では、この2枚の幕とは何を表していたのでしょうか。それは「ユダヤ人」と「異邦人」です。パウロは、神の御住まいとなる教会について、エペソ2:21~22でこのように言っています。

「21 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。22 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」

どのようにして神の御住まいである教会が建て上げられていくのでしょうか。キリストにあってユダヤ人と異邦人という2つのものがともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。ですから、この2枚の幕は「ユダヤ人」と「異邦人」のことであり、この2つがキリストにあって、御霊によって結び付けられ、神の御住まいとなるのです。ここに記されてあることは、このことを表していたのです。それは私たちの力でできることではありません。キリストにあって、御霊によってのみ可能となるのです。

 

次に、7節から14節までをご覧ください。

「7 また、あなたは、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作らなければならない。その幕を十一枚作る。8 幕の長さはそれぞれ三十キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、その十一枚の幕は同じ寸法とする。9 そのうち五枚の幕を一つに、 もう六枚の幕も一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。10 つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも五十個の輪を付ける。11 青銅の留め金を五十個作って、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。12 天幕の幕の余って垂れる部分、すなわちその余りの半幕は幕屋のうしろに垂らす。13 そして、このうち一キュビトともう一方の一キュビトの、天幕の幕の長さで余る部分は、幕屋をおおうように、その天幕の両側、手前と奥側に垂らしておく。14  天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作る。」

 

7節には、「また、あなたは、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作らなければならない。その幕を十一枚作る。」とあります。幕屋の幕は四重になっていました。最初の幕は豪華絢爛な幕でした。その上にまた別の幕が掛けられました。それは、やぎの毛で作られたものでした。やぎの毛というと白というイメージがありますが、実際は黒です(雅歌1:5)。それは罪を象徴していました。幕屋をおおう内側の二枚の幕はワンセットでした。内側の幕はキリストの栄光を象徴していましたが、その上をおおっているやぎの黒い毛で作った天幕は「罪」を象徴し、罪のために犠牲となったキリストを表していたのです。

 

8節には、その幕のサイズが記されてあります。幕の長さはそれぞれ30キュビト、幕の幅はそれぞれ4キュビトです。長さは、内側の幕よりも2キュビト長くなっています。幅は4キュビトで同じです。それは、13節にあるように、残りの2キュビトで幕屋を覆うように垂らさなければならなかったからです。また、それを11枚作らなければなりませんでした。それは12節にあるように、幕屋の後ろにも垂らさなければならなかったからです。

 

9節をご覧ください。「そのうち五枚の幕を一つに、 もう六枚の幕も一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。」とあります。内側の幕よりも1枚多かったのは、六枚目の幕を天幕の前で折り重ねるためでした。幕屋の東側の「折り重ねられたやぎの毛の幕」は、外から人々がいつも見ることのできる唯一の部分でした。それは自分たちが絶えず罪人であることを認識させるためだったのです。

 

9節から11節までをご覧ください。その5枚の幕と6枚の幕も一つにつなぎ合わせなければなりませんでした。つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には50個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも50個の輪を付けました。しかし、それを留める留め金には「青銅の留め金」が用いられました。なぜ「青銅の留め金」だったのでしょうか。内側の幕には金の留め金が用いられましたが、ここでは青銅の留め金です。それは、神のさばきを象徴していたからです。黒の幕が青銅の留め金でつなぎ合わされていたのは、人の罪に対する神のさばきを表していたからです。イエス・キリストは、まさに私たちの罪のために神のさばきを受けられたということを表していたのです。

 

次に14節をご覧ください。ここには、「天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作る。」とあります。やぎの毛の幕の上にさらに覆いが2枚用いられました。やぎの毛で作られた幕の上には、赤くなめした雄羊の皮で作られた幕が、その上にはじゅごんの皮で作った覆いが掛けられました。どういうことでしょうか。

まず「赤くなめした雄羊の皮で作られた幕」ですが、なぜ「赤くなめした雄羊の皮」だったのでしょうか。それは、雄羊が身代わりの象徴だからです。イサクの身代わりとして、「全焼のいけにえ」のための雄羊が備えられたことで、イサクは死なずに生かされました(創世記22:13~14)。この出来事は、やがて主イエスがゴルゴタで私たちの身代わりとなって十字架にかかって死ぬことを予表していました。やぎの毛でできた黒い「天幕」はすべての罪の象徴ですから、それを覆うのは「赤くなめした雄羊の皮」でなければならなかったのです。

Ⅰペテロ1:18-19には、「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、キリストの尊い血こそ、私たちの罪を贖うことができるものです。私達は、この御子の内にあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによる事です(エペソ1:7)。

 

四枚目の覆いは、じゅごんの皮で作られたものです。この「じゅごん」というのは紅海に生息していた動物で、アザラシのことではないかと考えられています。ちなみに、七十人訳聖書は、「くすぶった青の皮」と訳しています。それは、風雨にさらされても丈夫な皮です。それは、どんなに強大な人生の嵐の中でも、私たちの霊魂を守る質実剛健な屋根であることを示しています。しかし、それはとりわけ人の目を引くような魅力のあるものではありませんでした。誰も入りたいとは思えないこの幕屋のみすぼらしい外観は、イザヤが預言した、この地を歩まれたキリストの姿そのものでした。

イザヤ53:2には「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。

しかし、見た目にはみすぼらしく、人々を引きつけるには何の魅力もないようなこの幕屋が、ひとたび中に入ったら、そこは神の栄光の輝きを放っていました。全く次元の違う輝きを放っていたのです。それは人の目には隠されています。イエスは大工の息子として来られましたが、そこには神の本質と栄光の輝きが隠されていたのです。

 

ですから、私たちはイエス・キリストを、目に見えるうわべだけで判断し評価してはなりません。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。

「このキリストの内に、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3) 

あなたは、このキリストの栄光を見たでしょうか。この内側の輝きを知る事のできた人は幸いです。見みすぼらしく見える幕屋も、十字架も、イエス様の生涯も、その中に入った人には、素晴らしい神のご計画・力・栄光・・・を見る事となるのです。

 

Ⅱ.立て板(15-30)

次に、15節から30節までをご覧ください。15節から25節までをお読みします。

「15 この幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。16 一枚の板は、長さ十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。17 板一枚ごとに、はめ込みのほぞを二つ作り、幕屋のすべての板にそのようにする。18 幕屋のために板を作る。南側に二十枚。19 その二十枚の板の下に銀の台座を四十個作る。一枚の板の下に、 その二つのほぞのために二個の台座があり、ほかの板の下にも、 二つのほぞのために二個の台座を作る。20 幕屋のもう一つの側、北側に板二十枚。21 銀の台座四十個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座。次の板の下にも二個の台座。22 幕屋のうしろ、西側に板六枚を作る。23 幕屋のうしろの両隅のために板二枚を作る。24 これらは底部では別々であるが、上部では、一つの環のところで一つに合わさるようにする。二枚とも、そのようにする。これらが両隅となる。25 板は八枚、その銀の台座は十六個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座、ほかの板の下にも二個ずつの台座となる。26 また、アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、27 幕屋のもう一方の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、西側の板のために横木を五本作る。28 板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。29 その板に金をかぶせ、横木を通す環を金で作る。横木にも金をかぶせる。30 こうして、あなたは、山で示された定めのとおりに幕屋を設営しなければならない。」

 

ここには幕屋のために使われた立て板についての規定が記されてあります。これは幕屋の骨組みとなる立板(立枠、壁板)のことです。

15節には、「この幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。」とあります。「アカシヤ」は、旧約聖書では主として材木として使用されている落葉高木で、鋭いとげを持った堅い木です。幕屋における材料の木材はすべてこのアカシヤ材で作られました。アカシヤは根が深いだけでなく、まっすぐに伸びないという性質を持っていたため、このアカシヤ材で、長さ4.5mの板をまっすぐに作るということは大変な作業であったはずです。

 

16節から25節までには、1枚の板のサイズと作り方が記されてあります。長さは10キュビト、板1枚の幅は1キュビト半です。板1枚ごとに、はめ込みのほぞを2つ作り、幕屋のすべての板にそのようにしました。「ほぞ」とは、木材などを接合するときに,一方の材にあけた穴にはめこむため、、他方の材の一端につくった突起のことです。板1枚ごとに、2つのほぞを作り、すべての板にそのようにしました。

また、板1枚につき、板の下に銀の台座を2個作りました。すなわち、南側だけで合計40個の台座を取り付けました。北側と合わせると80個になります。幕屋の後ろ、西側には6枚の板が付けられました。また、幕屋全体をさらに補強するためにその(幕屋の後ろ側)両隅に2枚の板が付けられました。これらは底部では別々ですが、上部では一つの環の所で一つに合わさるようにしました。ですから、西側の板は全部で8枚、銀の台座は16個になります。

 

26節から30節までをご覧ください。

「26 また、アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、27 幕屋のもう一方の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、西側の板のために横木を五本作る。28 板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。29 その板に金をかぶせ、横木を通す環を金で作る。横木にも金をかぶせる。30 こうして、あなたは、山で示された定めのとおりに幕屋を設営しなければならない。」

ここには、板を固定するための横木の説明が書かれてあります。この横木はアカシヤ材で作られました。すなわち、幕屋の一方の側の板のために5本、もう一方の側のために5本、幕屋のうしろ、西側の板のために5本です。板の中央にある中間の横木は、端から端まで通るようになっていました。ですから、それぞれの板は連結するためにはめ込みのほぞ(2個)と、5本の横木でつなげられていました。また、その板に金をかぶせ、横木を通す間を金で作り、横木にも金をかぶせませした。

 

この金でおおわれた幕屋の板が象徴していたことはどういうことだったのでしょうか。先に、金は神の栄光をわしていると述べました。また、アカシヤは、人としてのキリストを表していました。ここでも同じです。キリストは神の栄光の表れであり、人となってこの世に来てくださいました。しかもそれが銀の台座の上に置かれたのです。銀は贖いの象徴です。キリストが地面と板との間になって贖ってくださいました。それによって私たちの罪が赦されたのです。栄光の神であられたキリストが人となって来られたのは、人と一体となり、その血という代価によって永遠の贖いをなすためだったのです。ここに金の板が地の上に置かれた「銀の台座」を必要とする必然性があったのです。キリストは永遠の贖いをとおして、今も永遠に祭司としての務めを天において成しておられますのです。天と地をつないで永遠に一つとされる方はただ一人、イエス・キリストだけです。揺るがされることのない御国の民として、王なるイエスを、さらに深く知る者となれるように祈りましょう。

 

また、ここにはこの板がこの5本の横木によって支えられているとあります。これは神が御住まいになられる教会とはどのようなものであるかを表しています。すなわち、教会はからだ全体が一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力によって、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに立てられていくということです(エペソ4:16)。29節に、横木を通す環を金で作らなければならないとありますが、それはこのことを示していました。環とは永遠のしるしです。それは愛のしるしです。横木を通す環は愛という棒によって貫かれていなければ崩壊してしまいます。愛は結びの帯として完全なものです。キリストのからだである教会も、この愛によって結ばれていなければなりません。あなたは山で示された定めのとおりに、この幕屋を建てなければなりません。

 

Ⅲ.垂れ幕(31-37)

 

31節から35節までをご覧ください。ここには、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕についての説明が記されてあります。

「31 また、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。32 この垂れ幕を、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱に付ける。その鉤は金で、柱は四つの銀の台座の上に据えられる。33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。34 至聖所にあるあかしの箱の上には『宥めの蓋』を置く。35 垂れ幕の外側には机を置く。机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。その机は北側に置く。36 あなたは天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺?を施して垂れ幕を作らなければならない。37 その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。その鉤も金である。それらの柱のために青銅の台座を五つ鋳造する。」

 

聖所と至聖所を仕切る垂れ幕は、「青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。」とあります。この4つの色については1節で説明したとおりです。そうです、この垂れ幕は、イエス・キリストご自身を象徴していたのです。

ヘブル10:19-20には、「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」とあります。「聖所」とは何でしょうか。天国のことです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちがまことの聖所である天国に入ることができる道を備えてくださったのです。それが十字架です。

 

33節には、「その垂れ幕を留め金の下に掛け、」とあります。この垂れ幕は掛けられていました。どこに掛けられたのでしょうか。十字架です。十字架にかけられて、その肉体が裂かれることによって、だれでも大胆に至聖所に行くことができるようになったのです。このことをよく表されている出来事があります。マタイ27:50-51を開いてください。「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

これはイエスが十字架に掛けられて息を引き取られた時のことです。そのとき、神殿の幕が真っ二つに裂けました。その幕こそ、この「垂れ幕」です。もちろん、これはヘロデの神殿のことで、モーセの幕屋のものとはサイズが違います(高さが18m、幅が9m、厚さ4-25㎝)が、それが上から下まで真っ二つに裂けたのは、このことを表していたのです。下から上にではなく、上から下にです。それはあまりにも高かったので、下から上に裂くことはできませんでした。それは上から下に裂かれなければならなかったのです。すなわち、この幕を裂かれたのは人でなく、神であられたということです。神はそのひとり子をこの世に遣わし、この方を十字架にかけることによって、それまで神との間の仕切りとなっていた罪の一切を負わせたのです。その仕切りが破られたことによって、この方を信じる人はだれでも、いつでも、大胆に、まことの聖所に行くことができるようになったのです。

 

それまでは、この垂れ幕の向こう側、至聖所に行くことができたのは大祭司だけでした。しかも、年に一度だけ、贖いの日と呼ばれている日だけでした。その時、大祭司は装束に鈴をつけて入って行ったと言われています。鈴が鳴っていれば「あっ、まだ生きているな」ということがわかりますが、鈴の音が消えたら、それは神によって打たれて死んだということなので、人々は大祭司につけていたロープで大祭司を引きずり出したのです。

 

私たちは旧約聖書を見ると、この神の前に立つということがいかに困難なことであるかがわかります。そのためには多くのいけにえをささげなければなりませんでした。たくさんの儀式がありました。それでも、神はあまりにも聖い方なので誰も近づくこともできませんでした。しかし、キリストが私たちの代わりに罪の罰を受けて死んでくだったので、私たちを隔てていた仕切りが取り除かれました。それで私たちは、大胆に恵みの座に出ていくことができるようになったのです。ヘロデの神殿の幕が真っ二つに裂けたのは、そのことを表していたのです。

 

このことを考えると、キリストが十字架で死なれたことがいかに尊いものであったかがわかります。神ご自身が、人間が決して近寄ることができなくしていた幕を裂いてくださったのですから。近寄ればすぐに殺されてしまうような神との隔たりはもうなくなり、大胆に恵みの御座に近づけるようになったのです。


 今は、ただイエスの御名によって、大胆に神に近づくことができます。それだけでいいのです。けれども、人間は簡単なものを複雑にします。神の恵みをそのまま受け取るのではなく、自分で規則を作って神に近づこうとします。しかし、垂れ幕はすでに引き裂かれました。神への道は大きく開かれたのです。このことを忘れないでください。間違っても、自分で幕を破ろうとしないでください。イエスは、十字架の上でこう言われました。「完了した」。もうすべてのことは完了しました。この至聖所に入るために、あなたがしなければならないことは何もありません。ただ信じるだけでいいのです。そうすれば、救われます。

 

36節と37節を見て終わりたいと思います。「36 あなたは天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺繍を施して垂れ幕を作らなければならない。37 その幕のためにアカシヤ材の柱を五本作り、これに金をかぶせる。その鉤も金である。それらの柱のために青銅の台座を五つ鋳造する。」

天幕の入口とは、聖所の入り口のことです。この入口、この門のために垂れ幕を作らなければなりませんでした。この門とは何でしょうか。それはイエス・キリストご自身のことです。この門を通って入る者は救われます。ここには、アカシヤ材で作られた5本の柱が立っており、それらには金をかぶせました。これも人としてのキリストと、神としてのキリストを表していました。また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造しなければなりませんでした。青銅は神の裁きを表していると述べました。また台座は神の恵みの象徴です。裁きと恵みが一緒に出てきます。それはキリストの裁きと恵みを表しています。キリストは神に裁かれたことによって、私たちに神の恵みをもたらしてくださいました。ですから、この方を通って入る者は救われるのです。だれでも、牧草を見付けます。私たちも、キリストを通して入り、キリストの恵みによってこの信仰が貫かれていきますように。