今日から後のことをよく考えよ ハガイ書2章10~19節

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聖書箇所:ハガイ書2章10~19節(旧約P1610)
タイトル:「今日から後のことをよく考えよ」

ハガイ書からメッセージしております。今日は2章10~19節から、「今日から後のことをよく考えよ」というタイトルでお話します。
主はバビロンから帰還したユダの民に「仕事に取りかかれ」と言われました。仕事とは、もちろんエルサレム神殿を再建することです。B.C.586年にバビロンによって破壊されたあのエルサレムの神殿を再建するようにと言われたのです。しかし、彼らは「時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は」と言って、そこから逃れていました。16年間も、です。何が問題だったのでしょうか。優先順位です。優先順位が間違っていました。彼らは神様のことよりも自分のことを優先していたのです。だから敵が妨害する中では再建工事を進めるなんてできない、今はその時じゃないと言い逃れをしていたのです。神殿の基礎は完了していました。でも建物はまだ建てられないでいました。16年間も工事が中断したままだったのです。
そんな彼らに対して主が語られたことは、「仕事に取りかかれ」ということでした。2章4節です。
「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」

わたしがあなたがたとともにいるから、わたしはもう一度、天と地、陸と海を揺り動かすから、わたしはこの宮を栄光で満たすから、この場所に平和を与えるから、仕事に取りかかれ、と言われたのです。それはペルシャのダレイオス王の第二年(西暦B.C.520年)の第七の月の二十一日のことです(1:14-15)。

それから二か月後の、第九の月の二十四日に、再び預言者ハガイを通して主のことばがありました。これが今日の箇所です。これはハガイ書の中では三回目のメッセージとなります。ハガイ書には全体で4回のメッセージがまとめられていますが、これが第三回目のメッセージです。一回目は1:1~16まで。二回目は2:1~9、そして三回目がこれです。ちなみに四回目、第四のメッセージは、その後の2:20~23にある内容です。主はここでハガイを通して何を語られたのでしょうか。

Ⅰ.汚れているのはなぜか(10-14)

まず、10~14節をご覧ください。「2:10 ダレイオスの第二年の第九の月の二十四日、預言者ハガイに次のような【主】のことばがあった。2:11 「万軍の【主】はこう言われる。律法について、祭司たちに尋ねよ。2:12 人が聖なる肉を自分の衣の裾に入れて運び、その裾がパンや煮物、ぶどう酒や油、またはどんな食物にでも触れた場合、それは聖なるものとなるか。」祭司たちは「否」と答えた。2:13 そこでハガイは言った。「もし死体によって汚れた人が、これらのどれかに触れたら、それは汚れるか。」祭司たちは「汚れる」と答えた。2:14 それに応じてハガイは言った。「この民も、この国も、わたしにとってはそれと同じ。──【主】のことば──彼らの手が作ったすべての物もそれと同じ。そこで彼らが献げる物も汚れている。」

これは、一見9節までの内容と趣を異にしているかのような感があります。1~9節までの内容は、ますダレイオス王の第二年の第七の月の二十一日にハガイを通して語られたことばですが、そこには「仕事にとりかかれ」と勧められていました。わたしがあなたとともにいるから、私は天と地、海と陸を揺り動かすから、わたしはこの宮を栄光で満たすから、この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさるから、あなたがたは仕事に取りかかれと命じられました。それなのに、ここでは話が急に律法にある聖なるものと汚れに関する内容になっています。これはどういうことでしょうか。

第一回目のメッセージが語られて、彼らが仕事にとりかかったのはダレイオス王の第六の月の二十四日のことでした。そして今この第三のメッセージが語られたのは、第九の月の二十四日ですから、彼らが仕事に取りかかってから三か月が経っていたということになります。主はここで、彼らが主のことばに聞き従うことがいかに重要であるかを語られたのです。それは神から離れているならどんなにささげものをしても、汚れているということです。その結果、そこには祝福はありません。

11~12節の内容は、モーセの律法に関する質問です。それは、「人が聖なる肉を自分の衣の裾に入れて運び、その裾がパンや煮物、ぶどう酒や油、またどんな食物にでも触れた場合、それは聖なるものとなるか。」という内容でした。これはレビ6:26~27に記されてあることですが、罪のきよめのささげ物に関する規定です。すなわち、「6:26 罪のきよめのささげ物を献げる祭司はそれを食べる。それを聖なる所、会見の天幕の庭で食べる。6:27 その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。」という規定です。ここには、聖なるものとなった肉に触れるものはみな聖なるものとなる、とあります。ではその聖なる者とされた裾に触れる者は聖められるのか。それがここで問われていることです。いわゆる、その聖さは移るのかということです。祭司たちは何と答えましたか。彼らは「否」と答えました。移りません。たとえ聖なるものに触れても、その聖さは伝染しないのです。

では、汚れの場合はどうでしょうか。もし死体によって汚れた人が、これらのどれかに触れたら、それは汚れるでしょうか。旧約聖書には、死んだ人に触れる者は汚れるとあります。その人は夕方まで汚れていて、その人が触った者も汚れると定められてあります。ですから、この質問は、もし死体によって汚れた人が何かに触れたら、その汚れは移るのかということです。祭司たちは何と答えましたか。「汚れる」です。これも正解です。汚れたものに触れたら汚れます。つまり、汚れは伝染するのす。聖さは伝染しませんが、汚れは伝染します。たとえば、病気の人が健康な人と一緒にいることによってその病気が治るということはありませんが、その逆はあります。どんなに健康な人でも感染力の強い病人と一緒にいたら、その病気が移ってしまいます。私は比較的に感染症にかからないタイプなのかいままでに一度もインフルエンザに罹ったことがかりませんが、かとて、もしインフルエンザにかかっている人のそばにずっといたらかかってしまうでしょう。もしかすると今までもかかっていたのかもしれません。ただそれに気付かなかっただけなのかもしれません。たとえ自分は汚れていなくても汚れたものに触れるなら、その触れたものはすべて汚れてしまうのです。つまり、彼らは汚れていたので、彼らのすべてのものも汚れていたのです。これはどういうことでしょうか。

確かに、彼らは形では主に献げものを捧げているかのようでしたが、その心はそうではなかったということです。汚れていました。その心は神から遠く離れていたのです。聖書では、神から離れている状態を「汚れ」ていると言っています。彼らは神の民、聖なる国民として神によって選ばれた民なのに、そうした自分たちの立場を忘れて神から離れていたのです。その汚れが彼ら自身だけでなく、彼らがささげる物にまで伝染していました。すべてが汚れていたのです。神から神殿を再建せよと言われても、自分のことしか考えられませんでした。自分のことで精一杯で、神のことは後回しになっていたのです。汚れていたとはそういうことです。その結果、そこには神の祝福がありませんでした。それはまさに穴の開いた袋にお金を入れるようなものでした。稼いでも、稼いでも、すべてが霧のように消えてなくなっていたのです。

では、聖なる者となるにはどうすればよいのでしょうか。神に繋がらなければなりません。聖なる方につながらなければならないのです。私たちはどこか聖そうな人と一緒に交わっていたら、そういう人の近くにいると自分までも聖くなるような錯覚をしがちですが、そういうことはありません。聖さは伝染しないからです。でも神に繋がるなら、神が聖めてくださいます。Ⅰヨハネ1章9節にこうあります。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
なぜなら、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(同1:7)からです。
私たちを聖めてくれるのは、御子イエスの血潮だけです。だから、この御子の血潮に信頼して、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめていただけるのです。つまり、イエスに繋がっているなら、その人はきよめられるということです。そのような人は何をしても栄えます。なぜなら、神様が祝福してくださるからです。イエス様はこう言われました。
「15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4-5)
聖なる主イエス様にとどまるなら、あなたは多くの実を結びますが、聖なる主イエス様から離れては、あなたがたは何もすることはできません。あなたはどうですか。あなたはイエス様につながっていますか。その愛にとどまっていますか。それとも、自分の力で実を結ぼうとしていませんか。あなたが多くの実を結ぶ秘訣は、このイエスにとどまっているかどうかです。自分の罪を悔い改めて、キリストの血潮によって罪をきよめていただき、この方にとどまるなら、あなたも多くの実を結ぶことができるのです。

Ⅱ.今日から後のことをよく考えよ(15-17)

だから第二のことは、今日から後のことを考えよということです。15~17節をご覧ください。「2:15 さあ今、あなたがたは、今日から後のことをよく考えよ。【主】の神殿で石が積み重ねられる前、2:16 あなたがたはどうであったか。二十の麦束が積んであるところに行っても、あるのは十束。ぶどう酒五十杯を汲もうと石がめに行っても、あるのは二十杯。2:17 わたしはあなたがたを、あなたがたの手が作ったすべての物を、立ち枯れと黒穂病と雹で打った。しかし、だれ一人わたしに帰って来なかった。──【主】のことば──」

1:5には「あなたがたの歩みをよく考えよ」とありましたが、ここでは「今日から後のことをよく考えよ」と言われています。これまでのことはともかく、これからのことを考えるように、というのです。

そこで主は、かつて彼らが主から離れていた時、どのような結果がもたらされたのかを思い出させています。15節後半から16節前半にかけて、「主の神殿で石が積み重ねられる前、あなたがたはどうであったか。」とあります。「主の神殿で石が積み重ねられる前」とは、神殿再建工事に着手しながらそれを放置していた16年間のことを指しています。その間、彼らの生活はどうだったでしょうか。そのことをよく考えよというのです。そういう意味では、これは1章5節の「あなたがたの歩みをよく考えよ」「あなたがたの現状をよく考えよ」と言われていることと同じ意味ということになります。神殿の基礎工事は完了していました。しかし、度重なる敵の妨害によって工事の中断を余儀なくいたわけですが、彼らは神の時はまだ来ていない。神殿を再建する時はと言い訳をしていました。その時の彼らの状態はどうだったのでしょうか。

16節と17節に、その時のことが描かれています。20の麦束が積んであるところに言っても、あるのは10束だけでした。つまり、半分しかありませんでした。50杯のぶどう酒を汲もうと酒ぶねに行っても、20杯分しかありませんでした。半分もなかったという意味です。半分以下でした。なぜですか。17節にその理由が述べられています。「わたしはあなたがたを、あなたがたの手が作ったすべての物を、立ち枯れと黒穂病と雹で打った。」からです。つまり、不作の原因は民の不信仰にありました。彼らが汚れていたからです。神から遠く離れたままで、だれ一人として神に帰って来ませんでした。主に立ち返るなら聖められるのに、だれ一人帰りませんでした。だから神は育った作物を、立ち枯れと黒穂病、雹で打たれたのです。

皆さん、汚れたままではいいことは一つもありません。本来味わえるものを味わうことができません。本来得られるものも得られません。本来受けるはずの祝福も受けられないのです。半分にも満ちません。いや、半分以下です。なぜなら、あなたが主のもとに帰らなかったからです。主から離れたままだったから、主から遠ざかった状態では実を結ぶことはできないのです。だから何をしても満たされなかったのです。これはどういうことかというと、主から離れた状態ではどんなに信仰生活を送っても、多くの実を結ぶことはできないということです。期待外れです。立ち枯れとか、黒穂病とか、雹といったものでダメージを受けることになるからです。働けど働けど徒労に終わってしまいます。毎日忙しいという割にはあまり実がありません。何のために働いているのかさえわからなくなります。心が満たされることがありません。それがあなたの人生でしょうか。それがあなたの信仰生活ですか。

彼らは16年間も不従順でした。神殿の基礎が出来たのに、そこから先に進もうしませんでした。いろいろな事情があったのは確かです。敵の妨害もありました。でも神のみこころは神殿を再建することでした。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、それが彼らに与えられていたミッションだったのです。それが神のみこころだったのです。それなのに彼らは自分のことで精一杯になり、もうダメだ、もう疲れた、今はその時じゃないと言って、やるべきことをやりませんでした。神の命令に聞き従わなかったのです。神のもとに立ち返りませんでした。その結果がこれだったのです。半分以下です。あんなに頑張ったのに半分も満たされませんでした。空しいです。そのことをよく考えるようにというのです。

でもよく考えると、これもまた主のあわれみだと思います。なぜなら、それによって彼らがよく考える機会となったからです。そうでしょ。そうでもなかったらやりたい放題です。何の気付きも与えられることなく、滅びの道をただひたすら突っ走っていたことでしょう。でも半分しかないことで、半分にも満たないことで、どうしてこんな結果になったのかと考えるきっかけとなりました。そういう意味では、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます。すべてのことを、です。もしあなたがこのような状態であるなら、これは神が与えてくださったチャンスだと信じて受け止めましょう。大切なのは、なぜ半分なのか、なぜ半分以下なのかという現実を見て、よくよく考えることです。それは主から離れていたからだと。主のもとに帰らなかったからだと。聖書は、主から離れては、枝だけで実を結ぶことはできないと教えています。これは本当だと気付いて、そこから方向転換すれば良いのです。そうすれば、多くの実を結ぶことになります。

Ⅲ.今日から後、わたしは祝福する(18-19)

最後に、そのことに気付いて主に立ち返るならどうなるかを見て終わりたいと思います。18~19節をご覧ください。「2:18 さあ、あなたがたは今日から後のことをよく考えよ。第九の月の二十四日、【主】の神殿の基が据えられた日から後のことをよく考えよ。2:19 種はまだ穀物倉にあるのか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないのか。今日から後、わたしは祝福する。」」

ここでも「今日から後のことをよく考えよ」とあります。すなわち、このメッセージが語られている今日、第九の月の二十四日、主の神殿の基が据えられた日から後のことをよく考えるようにということです。皆さん、よく考えてください。ここでは、1章15節のところで彼らは神殿の再建工事に取り掛かりましたが、その日から今日(第九の月の二十四日)までの3か月間のことをよく考えるようにということです。この3か月間は、民が主のことばに従い神殿工事を行った期間です。その間どのようなことがあったか。19節をご覧ください。
「種はまだ穀物倉にあるのか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないのか。」
その間も、豊かな収穫はありませんでした。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木には、まだ実を結んでいませんでした。ところが、その後で主はこう言われました。「今日から後、わたしは祝福する。」
この「今日」とは、このメッセージが語られている第九の月の二十四日のことです。このメッセージが語られている第九の月の二十四日、今日から後、主は祝福してくださるというのです。3か月間実を結びませんでした。でも、今日から後、実を結びます。主が祝福してくださるからです。これはイザヤ書37:30で言われていることに似ています。「あなたへのしるしは、こうである。『今年は、落ち穂から生えたものを食べ、二年目は、それから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。』」ユダの家の中の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶのです。
このユダの民も、ダレイオス王の第二年、第六の月に語られた主のことばに応答して仕事に取りかかりました。そしてそれから一か月後の第七の月に、恐れや不安の中にあってもそれを継続しました。そして第三回目のメッセージ、この第九の月の二十四日、主はそんな彼らに、「今日から後、わたしは祝福する」と約束されたのです。

それは、同じように主のみことばを聞いて悔い改め、主の恵みに従い続けているあなたに対しても語られていることです。今、このメッセージが語られている今日、2026年2月15日から後、主はあなたを祝福してくださいます。なぜ?このハガイのメッセージを聞いて悔い改め、主に立ち返ったからです。この3ヶ月という期間を経ても、主への信頼を表明しているからです。
主のみことばを聞いてもう一度やり直すなら、主はその時から祝福してくださいます。すばらしい約束ですね。今まではそうではありませんでした。聞いても、聞いても、従いませんでした。その結果、何の実も結びませんでした。でも今日主のみことばを聞いて悔い改めるなら、主に立ち返って、もう一度主に従うと決心するなら、その時から主はあなたを祝福してくださいます。主にとって悔い改めるに遅すぎることはありません。今からでも間に合います。あなたが今、もう一度主に立ち返るなら、主はあなたを祝福してくださるのです。へブル4章7~8節にあるとおりです。
「ですから、聖霊が言われるとおりです。『今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。』」
「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないように気をつけなければなりません。私たちはキリストにあずかる者となっているからです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。

先週、四国に住むあるクリスチャンの男性から電話がありました。自分は職場でも教会でも嫌なことがあると、その人に暴言を吐き続けてしまうのですが、こういう者は救われないでしょうか。その人の前では言わないですよ。でも家に帰って来てから、その人のことを思い出しては嫌み、辛み、悪口雑言、ありったけの罵声を吐くのです。するとスッキリするのです。そういう自分を喜んでいる自分がいるんです。という内容でした。そんな自分が嫌で地元の教会の牧師にも相談したのですが、それは被害妄想だと言われたんです。こんな自分でも救われているのでしょうか。皆さん、こういう人でも救われるのでしょうか。
私は携帯で彼に尋ねました。
「あなたはイエス様を信じていますか?」
すると彼は「はい、信じています」とも、「いいえ、信じていません」とも言わないで、「だから思うんですよね、自分って救われているのかなって。」話をたぶらかせるのです。そこで私はもう一度聞きました。
「私が質問しているのは、あなたはイエス様を信じていますか、ということです。」それでも、彼ははっきり答えないのです。
私はかつてイエス様がペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と3回尋ねたように、もう一度尋ねました。
「あなたはイエス様を信じていますか。」
すると彼はこう言いました。「はい、信じてはいるんだけど・・・」
だから、私は言ったのです。そこが問題だと思いますよ。イエス様を信じるなら、イエス様があなたを救ってくださいます。もし、あなたが自分の罪を言い表すなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださいます。イエス様は決してあなたを見離すことはありません。見捨てることはなさいません。どんなことがあっても、です。ただあなたがイエス様から離れているだけです。でも、あなたが今日、罪を悔い改めるなら、イエス様はあなたの罪を赦してくださいます。大切なことは、もう一度やり直すことです。何度でもやり直すことです。そうすれば、あなたはその罪からも解放されますから。お祈りしています。

それは私たちにも言えることです。もしあなたがイエス様を信じるなら、あなたは、今日から後、祝福されます。もしあなたがイエス様から離れていたとしても、今日、御声を聞いてイエス様に立ち返るなら、あなたは祝福されます。過去のことでくよくよしないでください。大切なのはこれからです。今日から後がどうであるか、です。今日から後、あなたが主に立ち返るなら、あなたは祝福されるのです。信じましょう。

16年間、土台だけを作って神殿再建を放置していた彼らは、手つかずの状態でした。主に従っていませんでした。もうあきらめていました。投げ出していました。でも、従順に主の御声に聞き従うなら、その時から主は彼らを祝福すると約束してくださったのです。

あなたも同じです。あなたが悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを祝福してくださるのです。主よ、私は今まであなたの御声に聞き従っていませんでした。成すべき正しいことが分かっていても、いろいろな言い訳をしてしませんでした。こうだから、ああだからと、言い訳ばかりでした。そして何年も、何年も、ずっとそれを放置していました。どうか許してください。でも、今日あなたの御声を聞き、もう一度あなたに立ち返ると決心しました。弱い私をお許しください。あなたのあわれみによって立ち上がらせてください。と祈るなら、主はあなたを回復してくださいます。Restorationですね。そしてそこに驚くほどの恵みと祝福が注がれるのです。信じましょう。そしてもう一度主に立ち返りましょう。何度も主に立ち返りましょう。そして、主がどんな祝福を注いでくださるかを期待しましょう。今日から後のことをよく考えよ。今日から後、わたしはあなたを祝福するからです。