力尽きたバビロン エレミヤ51章47-64節

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聖書箇所:エレミヤ書51章47~64節(旧約P1395、エレミヤ書講解説教87回目)
タイトル:「力尽きたバビロン」
これまでずっとエレミヤ書を学んできましたが、いよいよ最終章に近づいてきました。エレミヤ書は52章までありますが、52章はこれまで学んできたユダ王国の滅亡に関するバビロン捕囚の出来事が改めて記録されてありますが、その部分は誰かによって後にエレミヤ書に付加されたものです。従って、エレミヤのことばとしては今回が最後となります。64節の最後に、「ここまでが、エレミヤのことばである。」とある通りです。エレミヤの最後のことばは何だったのでしょうか。64節にはこうあります。
「このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして、彼らは力尽きる。」
それはバビロンの滅びでした。バビロンは沈み、浮かび上がることはありません。彼らは主がもたらすわざわいを前にして、力尽きるのです。この「彼らは力尽きる」という言葉ですが、新改訳第三版では「彼らは疲れ果てる」とあります。意味は同じですが、「疲れ果てる」の方がわかりやすいかもしれませんね。バビロンは沈み、浮かび上がることはありません。彼らは主がもたらすわざわいのために、疲れ果てるのです。
しかし、神の民はそうではありません。神の民はどんなに沈められても再び浮かび上がります。七転び八起きということわざがありますが、まさに七転び八起きです。決して力尽きることはありません。疲れ果てることはないのです。バビロン捕囚ならぬ罪の束縛から解放された者は、もう罪に悩んだり、苦しんだりすることはないからです。今日はこのことについて3つのことをお話します。
第一に、その時代が来るということです。その時代とは、バビロンが滅びる時のことです。その時バビロン捕囚から解放された者は、エルサレムに帰還することになります。ですから、立ち止まってはなりません。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に思い浮かべなければなりません。
第二のことは、それは必ずなるということです。なぜなら、主は報復の神だからです。主はバビロンに報復されるので、バビロンは必ず力尽きることになります。それは主がなさることです。私たちがすべきことではありません。ですから、私たちは先走った判断をして人をさばくようなことをしないで、さばきを主にゆだねなければなりません。
第三のことは、バビロンは沈み、力尽きても、神の民であるクリスチャンは決して力尽きることはないということです。イエス・キリストがその重荷を負ってくださったからです。だからこそ私たちはイエス様から力をいただいて、天のエルサレムに向かって進んで行くことができるのです。
Ⅰ.その時代が来る(47-53)
まず、47~53節をご覧ください。47~48節には、「51:47 それゆえ、見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはバビロンの彫像を罰する。この全土は恥を見、刺し殺された者はみなそのただ中に倒れる。51:48 天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからだ──【主】のことば──。」とあります。
「その時代が来る」とは、バビロンが倒れる時代が来るということです。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからです。これはメディアとペルシャの連合軍のことを指しています。彼らはバビロンに来てこれを荒らすので、バビロンは倒れることになるのです。すると、天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌うことになります。なぜでしょうか。
その理由が、49~51節にあります。それは、バビロンがイスラエルをさんざん苦しめたからです。これはその報復なのです。神は必ず復讐されるのです。それは過去においてそうだったというだけでなく、未来においてもそうなるということです。「その時代が来る」というのは終末において起こることをも預言しているからです。黙示録18:2に「倒れた。大バビロンは倒れた。」とありますが、それはこのことです。世の終わりにまると、悪の象徴であるバビロンは滅びるのです。その時、天にあるものは、黙示録19章にあるように主をほめたたえ、喜び踊るようになるのです。子羊との婚礼の時が来たからです。ですから、50節にこうあるのです。
「剣を逃れた者よ、行け。立ち止まるな。遠くから【主】を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。」
剣を逃れた者とはユダの民、イスラエルのことです。彼らは神のさばきから逃れることができました。それゆえ、ただちにその地を出なければなりません。立ち止まってはならないのです。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に思い浮かべなければなりません。捕囚の民にとってエルサレムを思い浮かべることは辛いことでした。なぜなら、他国人が主の宮に入り、そこを汚したからです。しかし、52節と53節にあるように、主は必ずバビロンの偶像を罰するという約束を与え、民を慰めます。「51:52 それゆえ、見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはその彫像を罰する。刺された者がその全土でうめく。51:53 たとえバビロンが天に上っても、たとえ、砦を高くして近寄りがたくしても、わたしのもとから荒らす者たちがそこへ行く。──【主】のことば。」
それは、私たちにも言えることです。罪の束縛から解放された者は、そこに立ち止まってはなりません。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に浮かべて前進しなければならないのです。そこに辿り着くまでにはいろいろなことがあるでしょう。踏みにじられたり、馬鹿にされたり、あからさまに罵られることもあるかもしれません。そういう思いをしながらも、遠くから主を思い出し、天のエルサレムを心に思い浮かべ、て前進しなければならないのです。
皆さんは「天路歴程」という本を読んだことがありますか。この本は、17世紀にジョン・バンヤンという人によって書かれた本です。バンヤンは許可なく説教をしたという罪で投獄されましたが、その獄中で書いたのがこの本です。
この物語の主人公のクリスチャンは、「自分の汚れた魂を救うためにはいったいどうすればよいか」と悩みます。すると一人の伝道者に出会いアドバイスをもらうんですね。「あの希望の光を目指してまっすぐに進みなさい」と。それで彼は「滅びの町」から逃れて天国への旅を始めますが、その中でイエス・キリストと出会い、自分の重荷をすべて十字架の御許に下すことができました。クリスチャンになったのです。しかし、天国への旅はさらに続きます。その途中で様々な試練や誘惑に直面します。最後の試練は、死の川を渡ることでした。それは辛く、苦しい川でしたが、「あなたが水の中を過ぎる時も、わたしはあなたとともにてる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)の御言葉に励まされ、ついにあの希望の光、天のエルサレムにたどり着くのです。
こうしてクリスチャンの巡礼の旅は終わりますが、これを書き終えた時、ジョン・バンヤンは次のようなことばを書き残しています。
 「私はまだこの荒野にたたずんでいたのです。私はため息をついた後で祈りました。ああ、神様、私の巡礼の旅を早く終わらせ、無事に天の御国に導いてください。」
 ジョン・バンヤンは、まさに主に思いを馳せ、天のエルサレムを心に思い浮かべてこの地上の生涯を歩んだのです。
それは私たちも同じです。私たちもやがて天に帰ります。そこには神がともにおられ、あなたの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。もはや死はなく、悲しみも、叫び、苦しみもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。ここに真の希望があります。だからこそ、私たちは今、前に進むことができるのです。確かにこの地上にあっては困難や苦難を避けることはできません。でも、約束の地、天のエルサレムに辿り着くことができるなら、すべてのことが喜びに変えられるでしょう。
私たちは今、「天路歴程」、その巡礼の旅を続けているのです。今の悲しみはいつまでも続くものではありません。その時代は必ず来ます。バビロンは倒れ、私たちは天のエルサレムに帰るのです。そのことを忘れないでください。この世というバビロンから解放された者として、遠くから主を思い出し、エルサレムに思いを馳せて、進んでいかなければならないのです。
Ⅱ.主は報復の神(54-58)
次に、54~58節をご覧ください。バビロンから、破滅の音が聞こえてきます。それは大波が襲う時のような響きです。荒らす者が攻めて来て、その勇士たちは捕えられ、その弓も折られるからです。主はその首長たちや知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせ、永遠の眠りにつかせるので、彼らは目覚めることはありません。
58節をご覧ください。ここには、「万軍の【主】はこう言われる。「バビロンの厚い城壁は完全にくつがえされ、その高い門にも火が放たれる。国々の民は無駄に労し、諸国の民は、ただ火に焼かれて、力尽きる。」とあります。
このようにして、バビロンは完全に崩壊することになります。難攻不落と呼ばれたバビロンも完全にくつがえされ、ただ火に焼かれて、力尽きるのです。注目すべきことは、どうしてそのようなことが起こるのかということです。56節をご覧ください。ここには「主は報復の神であり、必ず報復されるからだ。」とあります。
皆さん、主は報復の神です。自らを神と等しい位置に置く者に対して、必ず復讐されるのです。このことはこれまでも何度も語られて来たことです。そのバビロンへの報復として主が成さるわけです。それなのに、私たちは自分で報復しようと思うことがあります。しかし、それは私たちがすることではなく、神ご自身がなさることです。さばきを主にゆだねなければなりません。そうすれば、主はご自分の時に、ご自分の方法でさばいてくださいます。それがたとえ自分の方法やタイミングとは違っても、主は完璧なタイミングで、完璧な方法でなさってくださるのです。
パウロもローマ人への手紙の中でこう言っています。「12:19愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。12:20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」12:21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)
私たちは、人に批判されたり、中傷されたり、理不尽な扱いを受けたりする時、怒りが湧き上がってくることがあります。どうしても感情的になってしまうのです。そんな時どうすれば良いのでしょうか。自分で報復するのではなく、神の怒りに任せるのです。怒りは罪ではありませんが、罪へと誘われやすいからです。
ダビデは、親切にしたナバルが自分を罵(ののし)っている事を耳にすると、すぐさま、報復の行動を取ろうとしました。しかし、賢明なナバルの妻アビガイルの機転と進言によって、自分で復讐し神の前に罪を犯す事を思いとどまりました。怒りは、底に憎しみが潜み、周囲に害毒を撒き散らします。ナバルがダビデを罵(ののし)った事も、神の許しのもとで起きたことでした。ダビデが神の視点に立ち、それを見ていたなら、軽率な行動に走る事から守られたでしょう。しかしこの事でダビデは学びました。後にシムイに呪われた時、冷静に対処することができました。報復しようとする部下に「放っておけ。彼に呪わせよ。主が彼に命じられたのだから」と言えたのです。これはダビデが学んだことです。「復讐はわたしのする事である。わたしが報いる」と。だから神の怒りに任せよと。さらには、善をもって悪に打ち勝ち、侮辱をもって侮辱に報いず祝福を与えよと。それは自分には不可能なことですが、内におられる聖霊がして下さいます。私たちはすべてを知りませんが、主はすべてを知っておられます。私たちは限られた情報とか、限られた知識で判断して、さばこうとしますが、主はすべてのことを完全に知っておられるので、正しいさばきをすることができます。
ですから、自分で復讐してはいけません。復讐は主がなさいます。神のさばきにゆだねなければなりません。このバビロンに対するさばきは、主の報復だったのです。
Ⅲ.力尽きたバビロン(59-64)
最後に、59~64節をご覧ください。ここまでが、エレミヤのことばです。エレミヤは、58節までにバビロンに対する預言を語り終えますが、その後で、この巻き物をある人物に託します。それは59節に出てくる「マフセヤの子ネリヤの子セラヤ」という人です。この人はエレミヤの書記をしていたバルクの兄弟だと思われます。というのは、バルクの父親の名前も「ネリヤ」だったからです。ネリヤという同じ父を持つ兄弟がバルクとこのネリヤだったのでしょう。ここには、彼が「宿営の長であった」とありますから、政治的に近い地位にある人物であったことがわかります。
エレミヤは、バビロンに下るすべてのわざわいが記された1つの巻物をセラヤに託してこう言いました。61~64節です。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、51:62 こう言いなさい。『【主】よ。あなたはこの場所について、これを滅ぼし、人から家畜に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てた地とする、と語られました。』51:63 そしてこの書物を読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、51:64 こう言いなさい。『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。』」
エレミヤはこれまでもいろいろな実物を使って預言しました。それは行動預言と呼ばれるもので、その行動を通して神のことばを預言するというものです。時には縄とかせを作り、それを首につけてゼデキヤ王とユダの民に「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。」(27:12)と語ったこともありました。ここでも、セラヤがゼデキヤとともに捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたら、そこでバビロンについて主が語られたことばが書き記された一つの書物を注意深く読み、それを読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、「このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。」と言うようにと命じました。それは、バビロンは沈み、二度と浮かび上がれないということを象徴していました。あれほど権勢を誇ったバビロンでも、最終的には力尽きるということを、彼らの印象に残るように語られたのです。
しかし、それとは対照的に、主を待ち望む者は新しく力を得て、鷲のように翼をかって上ることができます。どんなに沈められても必ず浮かび上がります。もう滅ぼされた、もう二度と浮かび上がることはないだろうと思われても、必ず浮かび上がるのです。それはイスラエルの歴史を見てもわかります。彼らはA.D.70年にローマ帝国の迫害によって全世界に散らされて祖国を失うと、もう再起ができない状態になりましたが、何とそれから1900年後に再び祖国に戻り国を復興したのです。考えられません。1900年間も世界中に散り散りバラバラになっていた流浪の民が、もうだれもがイスラエルという国名も忘れていたのに、1900年という時空を経て再興するなんて。でも、本当にそうなりました。どうしてそのようになったのでしょうか。神が約束しておられたからです。神の約束は一つも違わずみな成就します。それは近い未来においてばかりでなく、遠い未来においてもそうです。現代の私たちの時代にも成就しているのです。
イスラエルに敵対した国々はことごとく滅ぼし尽くされました。これも聖書に書かれてある通りです。神はアブラハムに対して「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」と約束されましたが、そのとおりになったのです。聖書に記された神のことばの通り、すべての歴史が動いているのです。それはこれからも同じです。必ずその通りになります。神のことばの通りにバビロンは力尽きましたが、神のことばの通りにイスラエルは復興しました。ですから、神の民は疲れ果てることはないのです。これは特に罪について言われていることです。イエス様はこう言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
救い主イエスを信じている人は何と幸いでしょうか。その人は、疲れ果てることがないからです。イエス様がその重荷を負ってくださいました。十字架の上で。イエス様が十字架で死んでくださったのは、あなたを罪から解放するためでした。ですから、あなたがイエス様を信じるなら、あなたは罪というバビロンから解放されるのです。もう罪に悩むことはありません。苦しむことはありません。あなたは罪から解放されたからです。ギリシャ語ではそれを「εὐαγγέλιον,エウアンゲリオン」と言います。これは、「良い(eu- エウ、”good”)知らせ(-angelion アンゲリオン、”message”)」、”good news” という意味で、「福音」のことです。皆さん、何が良い知らせなんですか。これが良い知らせです。あなたは罪から解放されました!これが良い知らせです。あなたのすべての罪は赦されました。あなたはもう疲れ果てることはありません。罪責感に苛(さいな)まれることもありません。いつまでも過去のことでくよくよしたり、後悔したり、苦々しい思いを抱いたり、恨み、つらみ、憤りにかられる必要はないのです。そういう生活は疲れ果てます。あなたから精力を奪っていきます。前に進むどころか、後ろ向きにしか生きることができません。でもあなたはそこから解放されました。イエス様があなたを招いてくださったからです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と。
これはすべての疲れた人、重荷を負っている人に呼び掛けられていることばです。どんな人でも、どんな罪でも赦されます。どんな罪の重荷を抱えていても、イエス・キリストがその罪を負ってくださいました。十字架の上で。ですから安心してください。そして、この招きに応答してください。そうすれば、あなたも疲れ果てた人生から、力尽きた人生から、すぐに解放されます。あなたの疲れから回復はリポビタンDではなく、イエス様からもたらされます。それはたましいの回復からもたらさるからです。そしてイエス様があなたを休ませてくださいます。
ここはまだ真の意味での神の住まいではありません。これは仮の住まいです。教会は神の家ですが、究極的な神の家ではありません。究極的な神の家は天にあります。そこが私たちのほんとうの住まい、私たちの家です。私たちはそこを目指して生きています。そしてそこを目指して生きる人は、決して疲れ果てることはありません。この地上で生きなければならないとしたら、疲れ果てるでしょう。そこにはどこにも心休まるところはないからです。
でも私たちにはこのすばらしい知らせが与えられています。イエス様がたましいの疲れを休ませてくださいます。真の回復をもたらしてくださいました。このすばらしい知らせを、一人でも多くの人に知らせたいですね。あなたはこう罪から解放されました。バビロン捕囚から解放されたんですよ。バビロンは沈み、力尽きました。浮かび上がることはありません。でもあなたは大丈夫です。必ず回復します。あなたがイエスを信じるなら、沈んでも、必ず再び浮かび上がります。何度転んでも、起き上がります。七転び八起きの人生が、あなたにも約束されているんです。それはあなたがイエス様を救い主と信じたから。信じて罪から解放されたからです。それはこれからも同じです。あなたの巡礼の旅、天のエルサレムへの旅には様々な試練や苦難もあるでしょう。でも、あなたは必ず乗り越えることができます。だってイエス様がともにおられるんだから。ともにいて力を与えて助けてくださるんだから。あなたは決して疲れ果てることはありません。そんな人生があなたにも約束されているのです。このすばらしい人生の旅を、イエス様とともに、天の御国を目指して、歩ませていただきましょう。