ヨハネの手紙第一3章1~10節「何とすばらしい愛」

ヨハネの手紙第一3章に入ります。ヨハネはこれまで「神は光である」というテーマで語ってきました。3章から新しいテーマに入ります。それは「愛」です。「神は愛である」というテーマです。これが4章まで続き、最後の5章で「神はいのちである」と伝えて、この手紙を閉じます。ヨハネはこの手紙を通してこの手紙の受取人であるクリスチャンたちに、神がどのような方かを知ってほしかったのです。この「知る」というのは単に知識として知るということではなく体験的に深く知ることです。言い換えるならば、神と深く交わるということです。神について頭で知ることはできますが、頭で知ることと体験することは違います。ヨハネが願っていたのはこの体験することでした。神と向き合い、神と語り合い、神と交わり、神を体験することで、この神がどんなにすばらしい方であるかを知ってほしかったのです。

 

それでヨハネはまず「神は光です」と言い、神が光であるというのはどういうことなのかを語りました。そしてこの3章からは神は愛ですと、神がどのように私たちを愛してくださったのかを語り、その愛に生きるとはどういうことなのかを語るのです。

 

Ⅰ.私たちは神の子どもです(1)

 

まず1節をご覧ください。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」

 

ここのポイントは「考えなさい」ということです。人は何を見るか、何を考えるかによってその行動が決まります。だから「考える」というのはとても重要なことです。ここで私たちが考えなければならないのはどんなことでしょうか。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか、注いでくださったかということです。

ヨハネの福音書1章12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。この方とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストを信じる人たちに、神の子どもとされる特権が与えられました。これは特権なのです。考えてみてください。神の子どもとされるというのは神の家族に加えられるということです。父なる神の家族に加えていただける。神の家族に養子として迎えていただけるのです。それまではどこの馬の骨ともわからないような者が、神の子どもとされたのです。何とも不遇な人生を送ってきた者が、王の王、主の主であられる方の子どもとされたのです。これはすごいことではないでしょうか。よく孤児院に捨てられた子どもが大金持ちの家に養子として引き取られたという話を聞くことがありますが、神は大金持ちどころかこの天地万物を創られた方です。この方を自分の父と呼ぶことができるのです。すごいことです。

 

ですからここには、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」とあるのです。この愛を考えてほしい、見てほしい、知ってほしい。そうすればあなたの生活は変わりますから。イエス様を信じたのにちっとも変わらないとしたらどこかおかしいのです。それは本当の意味でこの愛を知っていないか、あるいは知っているつもりでもただ知識として知っているだけで、本当の意味では知っていないかのどちらかです。神の愛を知るなら必ず変えられるはずです。では御父の愛とはどのような愛なのでしょうか。どんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょうか。

 

まずエペソ1章3~5節を開いてください。ここには、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基の置かれる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。

神は世界の置かれる前から、私たちを救いに選んでいてくださいました。私たちは生まれる前から、いや世界が置かれる前から、神の子どもとなるように神によって見出され、神によって選ばれ、神によって愛されていたのです。ただそれを知らなかっただけです。でもイエス様がこの世に来てくださりそのことを示してくださったので、知ることができました。私の好きなみことばの一つに申命記33章27節のみことばがあります。それは、「永遠の腕が下に」というみことばです。私たちの下にはいつも永遠の腕があります。私たちが赤ちゃんであった時にはいつもお母さんの腕がありました。少し大きくなって体重が重くなるとお母さんには持てないので、お父さんの腕に抱っこされました。両親の腕に抱き抱えられるとき私たちは平安があります。少しずつ大人になるにつれそうした母の腕や父の腕に抱えられるが少なくなりました。今度は自分の力で生きていきなさいと、いつまでも甘えていないで自分の足で立って歩きなさいと、突っぱねられるようになりました。それはそれで大切なことですが時に不安を覚えることもあります。しかしそのようなとき、永遠の腕が下にあるということはなんと心強いことでしょうか。人生の嵐の中にも、いつも神様の腕があります。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」(エレミヤ31:3)あなたはこの永遠の愛をもって愛されているのです。

 

この愛についてヨハネは4章10節でこのように言っています。ちょっと先取りして読んでみたいと思います。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」いったいどこに愛があるのでしょうか。ここにあります。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされたことの中にあります。神はそのためにご自身のひとり子を与えてくださいました。神は、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つために、実に、そのひとり子を与えてくださいました。それほどまでに愛してくださいました。ひとり子と言えば自分の命よりも大切な存在です。その大切なひとり子を与えるほどに愛してくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。

 

しかも、ローマ5章8節にこうあります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

神はどのようにしてご自身の愛を明らかにしてくださったのでしょうか。私たちがまだ罪人であったとき、私たちのために死んでくださったことによってです。罪人のために死ぬ人がいるでしょうか。いません。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいないでしょう。善良な人、情け深い人のためにならあるいはいるかもしれません。であれば、罪人のために死ぬ人などどこにもいません。しかし、キリストは私たちが罪人であったときに私たちのために死んでくださいました。罪人であったときにとは、私たちが最低の状態、最悪の状態であったときにということです。あなたは、こんな汚れた者が愛される資格はないと思うかもしれません。しかし、神は私たちが聖いから愛してくださったのではありません。正しいから愛してくださったのではないのです。罪に汚れ、愛される資格などないにもかかわらず愛してくださいました。これが神の愛なのです。

 

皆さん、神の愛は途切れることがありません。永遠の愛をもって愛してくださいました。私たちは生まれるずっと前からこの永遠の愛で愛されていました。私たちがどんなに神に背き、どんなに罪に堕ちても、神はなおも愛し続けてくださいました。私たちが自分勝手に生きていた時でも、神はずっと寄り添ってくださいました。ヨハネはこの愛を考えなさい、と言うのです。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさいと。原文ではここは「見よ、何という神の愛。」となっています。私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを見なさい、考えなさいというのです。なぜなら、もしあなたがこの愛を見たら、あなたの生き方や考え方というものが根本的に変えられるからです。私たちの生き方や考え方というのは、この事実から出てくるものなのです。

 

この世はこの愛を知りません。しかし、私たちは知りました。イエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架で死んでくださることによってその愛を示してくださいました。それは永遠の愛でした。あなたが何者であれ、過去にどんなことをしたかとか、今、何をしているか、またこれから先どんなことをするかということと関係なく、この愛はいつもあなたに注がれているのです。なぜなら、神の愛は永遠だからです。だからこれは人知を超えた愛なのです。これ以上の愛はありません。どうかこの愛を知ってください。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えてください。そうすれば、あなたの生き方は必ず変わるのです。

 

Ⅱ.キリストに似た者となります(2)

 

第二のことは、神の子どもとされた私たちは、やがてキリストに似た者となるということです。2節をご覧ください。

「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」

 

私たちは今すでに神の子どもです。そのように見えないかもしれませんが、イエス様を信じる人はみな例外なく神の子どもなのです。隣の人を見てください。とても神の子どものように見えないかもしれませが、イエス様を信じたのであれば間違いなく神の子どもとされています。そして神の子どもとされた私たちは、やがてキリストに似た者になっていきます。ここには神の子どもとされた者は、やがてどのようになるかが示されています。「やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。」

 

今はそのように見えなくても、やがて必ずキリストに似た者となります。なぜなら、あなたは神によって生まれたからです。神によって生まれたのであれば、やがて必ず神のようになるのです。それはちょうど生まれたばかりの赤ちゃんのようです。生まれたばかりの赤ちゃんは確かにかわいいですが、顔はしわくちゃで、お世辞にもイケメンだとか、美人だとは言えません。でもそんな赤ちゃんが大人になると、驚くほどのイケメンになったり、美人になったりします。その時はわかりませんが、後で明らかになります。それは霊的にも同じで、クリスチャンになっても今はしみだらけ、傷だらけで、全然神の子のようには見えないかもしれませんが、いつか必ずにキリストに似た者となるのです。ヨハネはここでそのことを「知っている」と言っています。わかっています。必ずそうなるのです。

 

なぜそのように言えるのでしょうか。なぜならそのとき、私たちはキリストをありのままに見るからです。その時とはキリストが現れる時、すなわち、キリストの再臨の時です。その時イエス様を信じている人は空中に一挙に引き上げられ空中で主と会うようになります。そして、そこで顔と顔とを合わせて主を見るようになるのです。すごいでしょう。でももっとすごいのは、その時イエス様の姿をみた時です。その時私たちの姿がイエス様の姿と同じ姿であるのを見るのです。まさに「おったまげ~」です。その時私たちは一瞬のうちに朽ちないからだ、栄光のからだに変えられるのです。

Ⅰコリント15章52~53節には次のように書かれてあります。

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」(Ⅰコリント15:52-53)

終わりのラッパが鳴り響くとき、キリストが天から下ってこられます。そのときクリスチャンはたちまちのうちに空中に引き挙げられ、空中で主と会うのです。まずキリストにあって死んだ人たちが、次にキリストにあって生き残っている者たちです。一挙に引き上げられ空中で主と会うのです。そのようにして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがクリスチャンの希望です。だから私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているからです。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストが現れるときに、この栄光のからだによみがえります。この肉体は塵に帰りますが、霊のからだ、栄光のからだによみがえるのです。そういう希望があるのです。

 

Ⅰコリント13章12節には、「今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ていますが、そのときには顔と顔とを合わせて見るようになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになります。」とあります。「そのとき」というのが、キリストが現れるときのことです。そのときに私たちは一挙に空中に引き上げられ、顔と顔とを合わせて主を見るようになるのです。その時には完全に主を知るようになります。今は一部分しか見ていません。それはちょうど鏡に映るのをぼんやりと見ているようなものです。おぼろげながらにしか見ることができません。それでも十分感動していますが、でもその日には顔と顔とを合わせて見るようになるので、イエス様がどんなにすばらしい方であるかをはっきりと見ます。そのとき私たちは主と同じ姿に変えられているのを見るのです。ピリピ3章21節にはこうあります。

「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21)

 

でもそれは私たちが携挙される時だけでなく、この地上に生かされている間もそうです。私たちがこの地上にいる間も、少しずつ、徐々にではありますが、着実にキリストの似姿に変えられていくのです。これを聖化と言います。聖なる姿に変えられるので「聖化」と言うのです。それは御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3章18節にはこうあります。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を写しつつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

主の御霊が私たちを、栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えてくださいます。きのうよりも今日、今日よりも明日へと、キリストの姿に変えられていくのです。そしてキリストが現れるとき、完全に変えられます。すばらしいではありませんか。ですから日々神のみことばを読み、主の御霊に身をゆだねて歩んでいこうではありませんか。

 

パウロはローマ8章28~29節で次のように言っています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。その益とは何でしょうか。29節には、それは御子と同じ姿に変えてくださることであると言われています。私たちの人生に起こるすべての出来事には辛いことがあれば苦しいこともありますが、神はそうしたすべてのことを働かせて益としてくださるのです。そうしたすべての出来事を働かせて、私たちをご自身の姿に変えてくださるのです。益としてくださるとはそういうことです。

 

ですから、もし皆さんが今、試練に直面しているとしたら期待してください。皆さんはそのことを通してイエス様の姿に変えられているのでから。もし皆さんの人生に問題があるなら感謝しましょう。なぜなら、主はその問題を用いて私たちをご自身の栄光の姿に変えてくださるのですから。皆さんの中で病気の方がおられますか。そのような方は祈りましょう。その病気が癒されるようにというだけでなく、そうした苦しみに耐えることができるように、そしてその苦しみを通して、主と同じ姿に変えられていくことができるようにと。

 

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、祈りの詩が刻まれています。これは「病者の祈り」として有名な詩です。

大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに

慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった

 

より偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことができるようにと、病弱を与えられた

 

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと、貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった

 

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった

 

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた

 

神の意にそぐわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

 

私はあらゆる人の中でも、最も豊かに祝福されたのだ

「病者の祈り」作者不明

 

皆さん、私たちも祈ろうではありませんか。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられたのです。神はすべてのことを働かせて益としてくださいました。人間的にすべてが不幸であるかのような出来事を通して、神は私たちをご自身の姿に、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださるのです。

 

Ⅲ.キリストに望みを置いている者(3-10)

 

第三のことは、キリストにこの望みをおいている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。3節から10節をご覧ください。3節をお読みします。

「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」

 

「この望み」とは何でしょうか。それはこれまで語ってきたように、キリストに似た者となるという望みです。すなわち、再臨の希望です。今はどうであれ、イエス・キリストが戻って来られるときには、すべてが希望に変わります。この希望を抱く者はみなキリストが清い方であるように、自分を清くするのです。具体的には4節以降に書かれてあるように、罪を犯すことがないということです。4節には、「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。」とあります。6節には、「キリストにとどまる者はだれでも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。どういうことでしょうか。

 

それは、クリスチャンは罪を犯すことがないというではありません。私たちは確かに罪を赦されましたがまだ罪の性質が残っていて、罪を犯さないで生きることはできないのです。ですから1章8節のところでヨハネは、「もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。」と言ったのです。大切なのは罪を犯さないということではなく、罪を犯さずには生きてはいけない存在であることを認め、神の前にその罪を悔い改めることです。それこそ神と交わりを持つ土台であり、光の中を歩むクリスチャンの根本的な生き方なのです。では、ここでヨハネが言っている罪を犯さないとはどういうことなのでしょうか。

 

この「罪を犯さなない」ということばですが、これは現在完了形で書かれてあります。現在完了形というのは継続を表しています。つまり、この「罪を犯している者」とは継続的に罪を犯している者のことを意味しているのです。それが習慣となっていて、罪を犯しても何とも思わないことです。痛くも痒くもありません。どうしてかというと救われていないからです。それは神から生まれた者ではないという証拠なのです。9節には、「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」とあります。神から生まれた者は罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているので、罪を犯すことができないのです。「神の種」とは、神のいのちのこと、聖霊のことです。クリスチャンはイエス・キリストを信じて神のいのちをいただきました。クリスチャンのうちには神の聖霊が住んでおられるのです。だから罪を犯すことができないのです。これは全く罪を犯さないということではなく、意識的に、常習的に罪を犯すことができないという意味です。罪を犯したり、少しでも神のみこころに反したりすると、良心が痛むからです。うちに住んでおられる聖霊が悲しまれるのです。クリスチャンも罪を犯すことはありますが、罪を犯すと「どうして自分はこんなことをしちゃったんだろう」と後悔したり、「ああ、私はほんとうに駄目な人間だなぁ」と落ち込んだりします。それは神から生まれた者だからです。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことがない、できないのです。

 

日本ケズィック・コンベンションの産みの親である、故ポーロ・リース師が箱根のケズィック・コンベンションでこんな話をされました。18世紀にフランス革命が起こり、王と王妃が処刑されました。ところが人々は、王子に対して別の取り扱いをしました。彼らは幼い王子を有名な悪党に預け、あらゆる手段を用いて王子の品性を破壊しようとしました。しかし歴史はこの王子について興味深いことを伝えています。悪党が王子に悪事をさせようとするたびに、彼はこう答えたと言います。「ぼくにはできない。ぼくは王となるために生まれたのだから。」

 

神から生まれた者は神の子どもです。神の王子です。神の王子たる者がどうして罪の内を歩むことができるでしょうか。10節前半はこれまで述べてきたことの要約です。「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。」「このこと」とは何ですか。自分を清くするか、それとも反対に罪を犯すか、罪のうちに歩むかということです。そのことによって、神の子どもなのか、それとも悪魔の子どもなのかがはっきりわかります。つまりその人が神によって新しく生まれた者なのかどうかがはっきりわかるのです。その具体的な表れが兄弟を愛するということですが、そのことについては次回お話ししたいと思います。

 

私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったでしょう。私たちはこの愛によって新しく生まれました。私たちのうちにはこの神の種、神のいのちである聖霊がとどまっています。だから私たちは罪を犯すのではなく、この望みに希望を置き、キリストが清い方であるように、自分を清く保つのです。すべては、この事実から出ています。この事実が私たちの歩みを変えるのです。どうかこのこと考えてください。ここに目を留めてください。あなたが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったのかを。「見よ、何という愛」。この愛を見るとき、あなたも確実に変えられていくのです。