2020年10月18日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:ローマ人への手紙14章1~12節
タイトル:「さばいはいけません」
きょうは「さばいてはいけません」というタイトルでお話したいと思います。ある有名なキリスト教雑誌が、牧師たちを対象にアンケート調査をしました。それは「教会で一番困る人はどういう人ですか?」というアンケートでした。そして、第一は「四十日間断食をした人」、二位が「徹夜祈祷をよくする人」、三位は「神学を勉強した人」でした。断食、徹夜、神学の勉強、これらのことは個人の霊的成長にとってとても重要なものです。それなのに、なぜこれらのことが問題になったのでしょうか?それはこれらのことを経験したかなり多くの人が、その恵みを自分の成長に適用するのではなく、他人に適用してさばいてしまうためです。四十日間も断食祈祷をすれば、どんなに恵まれることでしょうか。それなのに断食祈祷が終わるとすぐに、「うちの牧師は恵みがないなぁ」とか、「うちの役員たちはもっと祈らなくちゃ」と言ってしまうのです。祈ったのであればより謙遜に、よりへりくだり、より恵みに溢れるはずなのに、かえって人をさばいてしまいやすくなるのです。私たちはみな心配するか、批判するかのどちらかに傾きやすい性格を持っています。比較的に弱い人は心配し、強い人は批判しやすいのです。人が集まるところには必ず問題が生じます。人によって性格も違えば考え方も違いますし、育った環境や年代、培われてきた信仰の背景、信仰生活のカラーなどが違うからです。十人十色ということばがありますが、十人いれば十人の色や考え方があるわけですから、違って当然なのです。大切なのは、そうした違いを批判したり、責めたりするのではなく認め合うことです。
きょうは、この「さばいてはいけません」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一に、クリスチャンが他人をさばいてしまう原因の一つは、信仰の理解に差があるためです。何でも食べてよいと信じている人もいれば、野菜の他には食べないという人もいます。第二のことは、他の人をさばかないために必要なことは、自分の立場をわきまえることです。第三のことは、クリスチャンにとって最も重要なことは何のためにするのかということです。すなわち、クリスチャンは主のために生きているという意識をしっかりと持つことです。
Ⅰ.食べる人と食べない人(1~4)
まず1~4節までをご覧ください。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」
ここでパウロが触れている問題はどういうことかというと、信仰の弱い人と強い人との摩擦の問題です。1節には、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。この弱い人とは体の弱い人のことではなく、信仰の弱い人のことです。その人は信仰がないわけではなく、信仰はあるのですが弱いのです。イエス・キリストを信じたことによって救われていますが、それでも信仰が弱い人たちがいます。どういう人たちでしょうか。
信仰の共同体の中で他人をさばいてしまう原因の一つは、聖書の理解、信仰の差があるためです。この手紙が書き送られたローマはその当時世界の中心都市でしたから、そこにはいろいろな人々が集まっていました。ユダヤ教から回心した人がいれば、ギリシャ的な背景のある人、ローマ的な背景の人、あるいは肌の色もさまざまで、奴隷もいれば、高貴な人もいました。また、教養のある人もいれば、ない人など、実にさまざまな人々いたのです。いろいろな人がいればいろいろな考え方があって当然ですが、ここで問題になっていたのは、聖書の解釈に基づく違いに原因がありました。2,3節には食べ物の問題が、そして5,6節には日の問題があげられていますが、こうした問題に関しての理解に違いがあったのです。
まず食べ物についてですが、ある人たちは何でも食べてよいと信じている人がいれば、野菜よりほかに食べてはならないと信じている人がいました。それは、いわゆる菜食主義の人たちのように健康的な理由から主張していたのではなく、宗教的な理由からそのように主張していたのです。当時、いわゆる信仰が強いという人々は、キリストの福音によって旧約の律法と伝統から自由になったと信じていたので、旧約聖書のレビ記(11~16節)には汚れた食べ物に関する規定がありましたが、そういうことを気にせず食べていました。また、コリント人への手紙第一8章4節に出てくる「偶像にささげられた肉」についても、偶像の神がいるわけじゃないし、そんなことを気にしていたら何も食べることができないと、何でも食べていいと信じていました。このような人たちは福音がもたらした自由というものがどういうものであるかをよく知っていましたので、そうしたことにこだわっている人たちを見下げていたのです。
あるいは、5,6節を見ると、ある人たちはある日を、他の日に比べて大事だと考える人たちもいましたが、どの日も同じだと考える人もいました。これはクリスチャンになっても依然として安息日をはじめとした旧約聖書に規定されている日を特別な日として守っていた人たちのことだと思われますが、律法から解放されたと信じていたクリスチャンにとっては、いまだに律法に捕らわれた生き方をしていた彼らの生き方、考え方を受け入れることができず、さばいていたのです。
しかし、そのように信仰において意見や考え方が違ってもさばいてはいけません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけないのです。神がその人を受け入れてくれたからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことでさばき、滅ぼすようなことがあっては神様に申し訳ありません。神が受け入れてくださったのであれば、私たちも受け入れることは当然です。
しかし、自分はクリスチャンだと自認している人でも、神に受け入れられていない人もいます。どういう人でしょうか?それは、こうした食べ物や飲み物についてではなく、救いに関して間違った教理を持っている人です。救いは主イエスにあります。そのイエスを主と告白しなければ救われません。にもかかわらず、イエス様を神と認めなかったり、イエス様を信じるだけでは救われないと言う人たちがいるのです。いわゆるリベラル派の人たちです。自由主義神学と言います。リベラル派の中にもいろいろな人たちがいるので一概にこうだとは言えませんが、その特徴の一つは、聖書の無謬性、無誤性を信じていないことです。聖書の無謬性とか無誤性というのは、聖書は誤りのない神のことばであるということです。それを信じていません。ですから、たとえば天地創造とか、ノアの箱舟、バベルの塔の物語があるでしょ。そうした物語は科学的・歴史的に事実ではなく、宗教的に有益な神話であるとみなすのです。一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも否定するのです。そんなの関係ないのです。大切なのはそれが事実であるかどうかではなく、そこから何を読み取るのか、何を学ぶのかということです。この自由主義神学の立場に立つドイツの神学者にルドルフ・ブルトマンという人がいますが、彼は聖書の非神話化に取り組んだ人です。聖書の中から神話的な要素を取り除き、それが意味していることを信仰によって受け入れるという取り組みでしたが、その結果何も残りませんでした。聖書はそれほど人間の想像を超えた記述に満ちているということです。その内容を受け入れないとしたら、それはもはやキリスト教だとは言えなくなってしまいます。だって聖書の信条や、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に逸脱することになるからです。それは異端というより、その宗教そのものが根本から問われることになります。ですから、こういうのは論外です。クリスチャンであると言いながら、こうした聖書の救いに関する基本的な教えを曲解したり、受け入れていないとしたら、そのような教えの風やだましごとの哲学には、断固反対すべきです。
1910年にエディンバラで世界宣教会議が行われましたが、その時の資料の中に「腐った鰯(いわし)は肥やしになるが、腐った教会はごみ捨て場からも拒否される」ということばがありました。しかし、それは事実です。本当に神様はいらっしゃる、イエス様の十字架の血潮が救ってくださる、イエス様以外に救いはないと、神様を、イエス様を、聖霊様を、そして、イエス様の十字架の贖いを信じない教えは腐っているとしか言いようがありません。私たちは毎週礼拝で使徒信条を唱えていますが、それは聖書の基本的な信条だからです。そのことばを信じることによって救われるのであって、それ意外に救われる道はありません。このような根本的な問題については、はっきり間違っている人と、私たちは袂(たもと)を分かたなければならないのです。
しかし、グレーな部分があります。たとえば、バプテスマのやり方などはそうでしょう。ある人たちは、バプテスマは水を垂らすだけでいい、これを滴礼と言いますが、そう人たちがいれば、いやバプテスマというのはもともと「浸める」という意味だから全身を水に浸さなければならないと主張する人たちもいます。私たちが属している保守バプテスト同盟はバプテストの流れを汲んでいますから、中には滴礼で洗礼を受けた人が教会の会員として加わる時にもう一度バプテスマを受けてもらう教会もあります。しかし、大切なのはどのような方法で洗礼を受けたかということではなく、信じてバプテスマを受けるということです。信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。たとえ、そのやり方が違っても信じてバプテスマを受けたのであればそれは神様に喜ばれることであると、私たちは考えています。ですから、このようなことで考え方が違うからと言ってさばいてはいけないのです。
このようなことは、バプテスマのやり方ばかりでなく、クリスチャン生活のこまかな点でも言えることです。ある人は、クリスチャンはお酒やたばこを飲んではならないと考える人がいれば、そうしたことは自由だと考える人もいます。コーヒーや紅茶など、カフェインが入っている飲み物を飲んではならないと主張するクリスチャンがいれば、映画館や劇場に入ってはならないとか、男女の交際をしてはならないと考えているクリスチャンもいます。ひどいのになると、女性はズボンをはいてはならないと主張するクリスチャンもいます。もし女性がズボンをはいてはならないとしたら、クリスチャンの女性の方はスカートをはいて田植えをするのでしょうか?それも大変です。しかし、そのように考えている人もいるのです。しかし、それはその人の考えであって、その意見をさばいてはいけません。受け入れなければならないのです。
アメリカのチャールズ・スウィンドルという牧師は、クリスチャンが他の人を批判してはいけない七つの理由を次のように述べました。
1.私たちはすべての事実をみな知らない。2.私たちはその動機を完全に理解できない。3.私たちは完全に客観的な考えをすることはできない。4.その状況にいなければ正確に知ることはできない。5.私たちには見えない部分がある。6.私たちには偏見があり、視野が薄れていることがある。7.私たちは不完全で、一貫性がない。です。
考えてみると、ほんとうに私たちが知っていることは一部分であり、自分に都合がいいようにしか受け取らない傾向があります。自分を中心に物事を見ていく癖があるのです。そのような私たちが、ほかの人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。
イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われました。(マタイ7:1~5)私たちがさばかなければならないのは他の人ではなく、自分自身です。まず自分の目から梁を取り除かなければなりません。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができるでしょう。
信仰の共同体(教会)の中にはいろいろな人がいます。そこにいろいろな違いがあってもそれをさばくのではなく、互いに認め合い、互いに受け入れ合うべきなのです。自分の考えだけが正しいと言える人は誰もいません。黙想に慣れている人は、一斉に大きい声で祈る人々を狂信的だと言わないでください。また、いつも叫んで祈っている人は、静かに祈る人を見て、霊的に冷え切っているなどと言わないでください。叫んで祈ろうが、黙想して祈ろうが、祈ればいいのです。ただ「自分とは違うスタイルで恵みを受けているんだ」と考えることです。それが寛容であるということではないでしょうか。
Ⅱ.自分の立場をわきまえる(4)
第二のことは、私たちは自分の立場をわきまえなければならないということです。4節をご覧ください。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」
なぜ、信仰の弱い人を受け入れなければならないのでしょうか?なぜ、その意見をさばいてはならないのでしょうか?そのことを教えるためにパウロはここで、私たちがどのような身分、立場であるかに目を向けさせています。それはしもべにすぎないということです。それなのになぜ、他人のしもべをさばくのですか?この「しもべ」ということばは家の使用人のことです。ある人の家で使われている使用人について、他人がとやかく言う権利があるでしょうか?ありません。もしあるとしたら、それはその家の主人だけです。ましてや同じしもべの身分にすぎない者が、他の家のしもべについて何かを言う権利などありません。もしそのようなことがあるしたら、それこそ自分の立場をわきまえない証拠です。それは神のみわざに対する中傷であり、越権行為です。越権行為とは、自分の権利を超えているということです。そのようなことを平気でしているとしたら、それこそ罪であり、厳に戒められなければならないのです。
Ⅲ.主のために生きる(5-8)
ではどうしたらいいのでしょうか?ですから第三のことは、主のために生きなさいということです。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり根本的なことです。5~8節までをご覧ください。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」
ここには「・・のために」ということばが7回も出てきます。つまり、食べるとか食べない、日を守るとか守らないということが大切なのではなく、何のために食べ、何のために食べないのか、何のために日を守り、何のために守らないのかということが重要であるということです。そしてクリスチャンにとって重要なことは、それが「主のために」ということです。食べる人は主のために食べるのであって、食べない人も主のために食べないのです。日を守る人も主のために守り、主のために守らないのです。それぞれどのように行動するかは自分の心の中で確信を持って行動すべきであって、何よりも重要なことは、それが主のためなのかどうかです。私たちが主のために生き、主のために死ぬのかどうか、そこにかかっているのです。
パウロはローマ人への手紙6:12で、「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」と言いました。いったいなぜ、私たちの体を罪の支配にゆだねて、情欲に従ってはいけないのでしょうか?その理由をパウロは、その後のところで次のように言っています。6:18です。「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」イエス・キリストを信じ、キリストにつぎ合わされ、キリストの奴隷、義の奴隷となったのですから、罪の支配にゆだねてはならないのです。ガラテヤ2:20にはこうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」キリストとともに十字架につけられ、キリストとともに古い罪の生活に死に、キリストにあって生きる者へと変えられたので、私たちはそのように生きるのです。主のために生きる者に変えられた。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり、根本的なことなのです。
皆さんは何のために生きていらっしゃいますか?クリスチャンはだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ。そう告白して生きるのがクリスチャンなのです。
先週も紹介しましたが、ドイツの有名な音楽家ヨハネ・セバスチャン・バッハですね、彼はあるとき宗教改革をしたマルチン・ルターに手紙を書き送りました。その中で彼は「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と言いました。少なくともバッハはそう思ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後のところにはいつも「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。その言葉とは「Soli Deo Gloria」です。これはラテン語でが、「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は新しい曲を作るたびに、この曲が神の栄光を現すものでありますように、そしてこれを聴く人の魂が新たにされますようにという祈りを込めて、曲を作っていたのです。バッハの目的は、神の栄光が現されることだったのです。
白衣の天使と言われたナイチンゲールは、クリミア戦争中にスパイとして追われ死刑に処せられました。敵は治療するな、という軍の命令に逆らったためです。そのナイチンゲールが死刑に処せられる直前に語ったこと言葉があります。それは「愛国心だけでは足りません」という言葉です。愛国心だけでは足りません。もっと大きな愛が必要です。そう言って彼女は敵、味方関係なく傷ついた人々を介抱しました。その結果、スパイとして処刑されましたが、この言葉は、私たちクリスチャン一人一人が心に刻まなければならない叫びです。正義だけでは足りません。愛がなければなりません。正しい人であるだけでは駄目です。受け入れる広い心が必要です。クリスチャンには広い心が必要です。批判せずに寛容でなければなりません。信仰の弱い人を受け入れるべきです。その意見をさばいてはいけないのです。そのような生き方の中にこそ、神の栄光が現されるのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものですと告白しながら生きるクリスチャンにとって、それは難しいことではないのです。