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どうしてこの国は滅びたのか エレミヤ書9章10~16節

聖書箇所:エレミヤ書9章10~16節(エレミヤ書講解説教20回目)
タイトル:「どうしてこの国は滅びたのか」

今日は、エレミヤ書9:10~16の短い箇所から、「どうしてこの国は滅びたのか」というタイトルでお話します。これは12節から取りました。ここには「何のために、この国は滅びたのか。荒野のように滅ぼされ、通人もいないのか」とあります。第三版では「どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われて、通る人もないのか。」と訳されています。この「どうして」「なぜ」という問に答えることはとても重要です。それによって悟りを得ることができるからです。神の恵みは悟ることから始まります。どうしてエルサレムは滅びたのか、この問いに対する答えを見出す中で、私たちが滅びないためにはどうしたらよいか、神の恵みに生きるためにどうしたらよいかを、主のみことばから聴きたいと思います。

 

Ⅰ.神が懲らしめを与える目的(10-11)

 

まず、10~11節をご覧ください。「10 私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧場のために哀歌を歌う。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ。11 「わたしはエルサレムを石ころの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てた地とし、住む者のいない所とする。」」

 

10節の「私」は、エレミヤのことです。エレミヤは、愛する祖国ユダの崩壊を思い、泣き声を上げて嘆いています。青草を茂らせていた牧場は焼き払われ、不毛の地となるからです。羊やヤギの群れは逃げ去り、空の鳥までもいなくなります。そこは石ころの山となり、ジャッカルの住みかとなるのです。「ジャッカル」とは小さい山犬のような動物ですが、聖書では荒廃してだれも住む人がいないような所に棲む動物として描かれています。完全に廃墟となってしまうのです。それは彼らの罪が招いた結果でした。神のさばきによって南ユダが滅ぼされてしまうのです。そのことをエレミヤは、泣き声をあげて嘆いているのです。これは他人事のように聞こえるかもしれませんが、私たちにも言えることなのです。ですから、どうぞ自分のこととして受け止めていただいたいと思います。

 

しかし、11節を見ると、これが単なるさばきではないことがわかります。というのは、ここに「わたし」とあるからです。この「わたし」とは神様のことです。つまり、これは神様が与えたさばきなのです。このさばきは、神様が許されたことであるということです。それは神の民である南ユダを滅ぼすためではなく、彼らを矯正するために、彼らを建て上げるために神が与えた懲らしめであるということです。前回のところでも申し上げましたが、これは希望に満ちた言葉なのです。

 

聖書には、神様は真実な方であるとあります。Ⅱテモテ2:13です。「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」皆さん、私たちが真実でなくても、神様は常に真実な方です。私たちがいくら約束を破ろうとも、神様は決して約束を破るようなことはなさいません。ということは、もし神様が何か罰を与えるようなことがあるとしたらそれは滅ぼすことが目的ではなく、建て上げることが目的であるということです。真実なる神、決して民を見捨てない方がなさることなので、滅ぼし尽くされることはありません。痛い思いはするでしょう。辛い思いもします。悲劇にも見舞われることもあるかもしれません。すべてを失うかもあるかもしれない。でも、それによって滅ぼし尽くされることはありません。こうしたレッスンを通して、それは高い授業料かもしれませんが、もう一度神様に立ち返るために、あえてこのような懲らしめを与えられるのです。

 

二番目の娘が小学生の時、歯の矯正をしたことがあります。「八重歯」と言うんですか、上の「糸切り歯」が歯並びから飛び出していたのです。それは、骨の大きさとそれぞれの歯の大きさとの間のバランスが悪くてそのようになるということで、ワイヤーのような矯正装具を付けました。驚いたのはその治療費です。たった1本の歯を矯正するめために何十万円もかかりました。牧師の給料ではとても支払えるような額ではありませんでした。幸い当時開いていた英会話クラスに歯科医の方がいて、その方に矯正歯科クリニックを紹介していただいたので、分割で支払うことができました。痛かったですよ。それは矯正装具を付けた娘もそうですが、私たちの懐も。でも、お陰できれいな歯並びになりました。

 

神様が私たちを矯正するのも同じです。神様は私たちを滅ぼすためではなく、私たちを建て上げ、もう一度神様に立ち返るために、あえてこのようなさばきをなさるのです。ヤコブがイスラエルに戻ることが神様のみこころです。「ヤコブ」とは「押しのける者」、「イスラエル」とは「神に支配される者」とい意味でしたね。ヤコブがイスラエルに、押しのける者が神に支配される者となるために、神様はあえてこのようなことをなさるのです。人を押しのけて自分を神とするような傲慢な民を砕き、柔らかくして新しく作り変えるために、懲らしめを与えるのです。そのためにバビロンという国を用いるのであって、それはいわゆる私たちを懲らしめるためのスパンク棒にすぎません。神様はあなたをいじめたり、滅ぼしたりするために試練や災難を与えるのではありません。そうではなく、あなたを建て上げるためにそうなさるのです。そのことをどうか忘れないでください。私たちは真実でなくても、神は常に真実なのです。

 

Ⅱ.どうしてこの国は滅びたのか(12-14)

 

いったいどうしてこの国は滅んでしまったのでしょうか。次に、12~14節をご覧ください。ここに、その理由が語られています。「12 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が自分に語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか。何のために、この国は滅びたのか。荒野のように滅ぼされ、通る人もいないのか。13 主は言われる。「それは、彼らが、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、律法に歩まず、14 彼らの頑なな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルの神々に従って歩んだからだ。」」

 

12節は、エレミヤの嘆きです。実際には、主がエレミヤを通して嘆いておられるとも言えます。知恵があってこれを悟ることができる者はだれか。どうしてこの国は滅んでしまったのか、どうして荒野のように滅ぼされ、そこを通る者はだれもいないのかと。恵みは悟ることから始まります。そのためにはこの「どうして」という問いに答えがなければなりません。どうしてこの国は滅びてしまったのか。8:8には、彼らが「私たちには知恵ある者、私たちには主の律法がある」と豪語していました。であれば、この問にも答えることができるはずです。しかし、彼らは答えることができませんでした。

 

そこで主ご自身が答えられます。13と14節がそうです。「主は言われる。「それは、彼らが、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、律法に歩まず、彼らの頑なな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルの神々に従って歩んだからだ。」

これが答えです。これは驚きですね。ここまで頑なであれば、もう言うのも無駄だ、何を言っても仕方がないと思ってしまいますが、主はそうではありません。それでもまだ語り続けるのです。頑なな民にとってはしつこいな、うるさいなと思ったかもしれませんが、でも主は何度も何度も語ってくださいます。主はあきらめないで、なおも警告を与えておられるのです。

 

どうしてこの国は滅びたのでしょうか。どうしてエルサレムに神のさばきが臨み、聖なる地が滅ぼされ、荒野のようになったのでしょうか。それは、彼らが主のみことばを捨てたからです。神はモーセを通して、子どもたちに神のみことばに誠実であるようにと何度も語られました。たとえば、レビ26章にこうあります。「3 もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、4 わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。5 あなたがたの麦打ちはぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れは種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。・・・・

14 しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら、15 また、わたしの掟を拒み、あなたがた自身がわたしの定めを嫌って退け、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、16 わたしもあなたがたに次のことを行う。わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは種を蒔いても無駄である。あなたがたの敵がそれを食べる。17 わたしはあなたがたに敵対してわたしの顔を向ける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。あなたがたを追う者がいないのに、あなたがたは逃げる。18 もし、これらのことが起こっても、あなたがたがなおもわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍重く懲らしめる。19 わたしは、自分の力を頼むあなたがたの思い上がりを打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。20 あなたがたの力は無駄に費やされる。あなたがたの地は産物を出さず、地の木々も実を結ばない。・・・・

31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたの芳ばしい香りをかぐことはしない。」(レビ26:3~5,14~20,31)

 

これはまだイスラエルが約束の地に入る前に、モーセがイスラエルの民に語ったことです。主はモーセの時代から何度も何度も語って来られたのです。それは、主のみことばに聞き従い、それを守り行えということです。皆さん、わかりますか?主のみことばに従い、それを守り行うことです。もっと簡単に言うと、この聖書のみことばに従いなさいということです。簡単でしょ?言っていることは。でも彼らは理解することができませんでした。彼らは主のみことばを捨て、頑なな心のままに歩、主の声に聞き従うのではなく、バアルの神々に仕えたのです。

 

皆さん、悟ることが必要です。神の恵みは、悟ことから始まるからです。勿論、毎週礼拝に来ることは重要なことです。毎日家で聖書を読んで祈るということも助になります。しかし、ただそのようにしていれば自動的に悟ことができるのかというとそうではありません。悟るためには、イエス様がしてくださったこと、また、イエス様が今もしておられることを理解することによってもたらされます。

 

ちょうど、前回のC-BTE(Ⅲ)の学びでこのことを学びました。コロサイ3:16に、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」とあります。それです。キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住まわせなければなりません。言い換えるなら、それはキリストのようになるということです。そのためには、キリストのことばが、私たちのうちに豊かに住むようにしなければなりません。

 

そのことをパウロはエペソの教会に書き送った手紙の中で、このように祈っています。「17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)

ここでパウロは、彼らの心の目がはっきり見えるようになってと言っています。心の目がはっきり見えるとはどういうことでしょうか。それは単なる経験ではありません。主が語っておられることがどういうことなのかがストンと落ちるというか、みことばがわかるということです。すなわち、キリストによって心が圧倒されるということです。それは、聖霊に満たされることによってもたらされます。それによって、キリストが私たちのためにどのようなことをしてくださったのか、また、してくださっているのかを知ることができます。そして、キリスト(神)を知ることによって私たちの考え方が変わるのです。私たちの考え方が変わると私たちの動機が変わります。動機が変わると、行動が変わるのです。その人の中に神のみことばが生きて働くからです。そのみことばに喜んで従いたいと思うようになります。それは私たちの力ではできません。それは神の御霊である聖霊が、神のみことばをもって私たちの心と思いに働くことによって始めて可能となるのです。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

だから、パウロは祈ったのです。彼らの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光にとんだものか、神の大能の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるのかを、知ることができるようにと。

 

ちょうどこのメッセージを書いていた時、一本の電話がありました。三重県で牧会しておられる80歳を過ぎた牧師先生からでした。それは、Ⅱサムエル記24章にダビデが人口調査の罪を犯した結果が記されてありますが、その解釈についてのお尋ねでした。その罪の結果神様はダビデに7年間の飢饉か、3か月間の敵からの敗走か、3日間の疫病か、どれか一つを選ぶようにと言われました。結局、ダビデは3か間の疫病を受け入れた結果、イスラエルの中で7万人が疫病で死んだわけですが、お尋ねは何かというと、この「7年間」の飢饉が他の訳では「3年間」と訳してあるんですね。これをどう整合性を取ったらよいかということでした。いろいろと悩み調べていた時、私がホームページにアップしているメッセージを見て光が与えられたというのです。確かに3年間の飢饉とした方が、3か月間の敗走と3日間の疫病ということになり、「3、3、3」と語呂合わせがいいのですが、必ずしもそのようにする必要はありません。原文がどうであるかということが重要です。原文に「7年間」とあれば、そのように訳せばいいだけのことです。また、仮に「3年間」であったとしても、ここで重要なのはダビデが罪を犯した結果、どのように大きな悲惨がもたらされたかということを理解することではないかとお話したら納得されました。

で、どうしてこの牧師先生がこんなことを聞いてきたのかというと、これはこの牧師先生が気づいたのではなくて、4番目の娘さんと同級生の男性の方が、小さい頃からよく知っている方だそうですが、刑務所に入ったので創造主訳聖書を読むように送ったら、それを読んで手紙を送ってくれたのです。その中に「なぜ7年でなく3年なのか」という質問が書いてあったそうです。確かに創造主訳聖書を見ると「3年間」と訳されてあるんですね。でも、原語では「7年間」となっています。それがどうしてなのか、いろいろ調べているうちに私が書いたものに行き着いたらしいのです。

それにしても、刑務所に服役中の方がそういうところに気付くなんて不思議だと思いますが、何よりもその方自身に大きな変化があって、誰が見ても変わったと思えるくらい変わったらしいのです。それで、このような質問にもきちんと答えて、彼の更生を助けてあげたかったのです。「何がきっかけでその方は変わり始めたのですか」と尋ねると、先生がこう言いました。

「聖書のことばがはっきりわかるようになったんです。」

これまでも聖書は読んでいましたが、そこまで心に迫って来なかったようですが、今回は違うのです。誰が見てもそう見えるのです。聖書を何度も何度も読む中で、聖霊が働いて、はっきり見えるようになったのです。

 

それは私たちも同じです。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある。」と思い違いをしていると、先の者が後の者になってしまいます。そうではなく、主の御前にへりくだり、柔らかい素直な心を持って主のみことばに向かうなら、神の御霊が働いて、あなたの心の目が見えるようになり、主のみことばに従うことができるようになるのです。

 

Ⅲ.罪から来る報酬は死です(15-16)

 

最後に、その結果どうなったかを見て終わりたいと思います。15~16節をご覧ください。「15 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの民に苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。16 彼らも先祖も知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶ち滅ぼす。」」

 

それゆえ、主は彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。「苦よもぎ」は、麻酔としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものです。つまり、彼らが神のみことばを捨て、自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。それは16節にあるように、彼らも先祖たちも知らなかった国々に散らされ、剣を彼らのうしろに送り、ついには断ち滅ぼされることになるということです。これはバビロン捕囚という出来事によって成就します。罪の結果、死に至るということです。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)とあるとおりです。

 

この「死」とは、第一に、霊的死、すなわち、神なき人生のことです。そのような人は、生きてはいるけど死んでいる、です。その結果、仕事は行き詰まったり、家庭が崩壊したり、政治生命が断たれたりするというところに辿りついてしまいます。

第二に、それは肉体的な死です。人は死ぬと、霊は肉体を離れて、それぞれ生前の行いに相応しいところへと、行くことになります。

第三に、それは永遠の滅びのことです。人は一度肉体的に死ぬことと、肉体の死後にさばきを受けることが定まっていますが、そのとき、神さまは私たちが体にあったときに、心の中で思ったこと、口にしたことば、手で行ったことなどあらゆることをご存知ですから、その行いにしたがって公正な裁きを行なわれます。その時、神さまに背を向けて、神などいない、いらないという人たちは、望み通りに神のいない所に永遠に住むことになるのです。それがゲヘナです。地獄です。聖書はこれを永遠の死と呼んでいます。そこには悪魔も落とされています。「罪から来る報酬は死です。」神の前に罪の問題が解決されていなければ、人は今の世にあって、その心の思いと、ことばと、手足でもって、いろいろな罪を犯しながら、神さまを無視し、的を外れたむなしい人生を歩み、最後には永遠の滅びに陥ってしまうのです。

 

では、どうしたら良いのでしょうか。ローマ6:23の続きにはこうあります。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

永遠の滅びではなく、永遠のいのちに入る道があります。それは、神が与えてくださる賜物で、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

永遠のいのちとはなんでしょうか?いのちとは、死とは反対のことを意味しています。 聖書のいう「死」とは、第一に、神なき人生、第二に、肉体の死、第三に永遠の滅びを意味していました。ですから、永遠のいのちとはその反対で、すなわち、第一に神とともに生きる人生、第二に、からだの復活、第三に永遠の祝福のことです。

 

私自身、かつて、神様などいるはずがないと思って生きていた時がありました。ところが、18歳の時教会に導かれ、イエス様を信じて、神さまとともに生きる人生を歩むようになりました。何が変わったでしょうか?

まず、人生の目的がわかりました。それまでは、「結局、人は死んでしまうだけなら、人生はむなしいなあ」と感じていましたが、私は神様によって造られ、神の栄光を現わすように歩むことを期待していることがわかったとき、生き甲斐のある人生となりました。

第二に、神様がいつも共にいてくださることがわかりました。イエス様を信じて、イエス様の十字架と復活によって、私のすべての罪が赦されたので、神が私と共に、私の心の中に住んでおられることがわかったのです。いつ死んでも天国です。

第三に、永遠の祝福、天国の希望がわかりました。やがて最後の審判で、神様の前に出る時、イエス様が「あなたの罪の呪いは、すべてわたしが十字架で背負いました」と言ってくださるので、無罪であることが宣告されるだけでなく、天国というすばらしい住まいに入れていただくことができるのです。

 

イエス様を信じて罪赦された者であるとはいえ、まるで不十分であることを認めざるを得ませんが、そんな者でもイエス様を信じて生活するうちに、少しずつ変えられていることがわかります。今年61歳になりました。イエス様を信じて43年間、本当によかったなあと思います。この先、この世に何年住まうかは、神のみぞ知るですが、行く先が神の永遠の住まいであることは、ほんとうに安心です。私は、今確信をもって自分の子どもにこう言うことができます。イエス様を信じて、イエス様の声に聞き従いなさいと。それが永遠のいのちです。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

あなたは、天国と地獄、永遠のいのちと永遠の死、どちらに行き着きたいですか。神様はあなたに、主キリスト・イエスにある永遠のいのちを与えてくださいました。それはここに「賜物」とあるように、神からの一方的なギフトなのです。あなたも、このギフトを受け取ってください。苦よもぎや毒の水ではなく、永遠のいのちに生きていただきたいと思います。

主を知るということ エレミヤ書9章1~9節

聖書箇所:エレミヤ書9章1~9節(エレミヤ書講解説教19回目)
タイトル:「主を知るということ」

主の御名を賛美します。今朝も、主のみ言葉を聴きましょう。今日は、エレミヤ9:1~9のみ言葉です。タイトルは「主を知るということ」です。

前回は、「エレミヤの涙」というタイトルでお話しました。エレミヤは、同胞が滅ぼされると聞いて、涙に打ちひしがれました。彼はそれを聞いたとき、いてもたってもいられなかったのです。それはきょうの箇所にも見られます。1節には「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」とあります。これは、どれほど泣いても泣き足りないという意味です。新共同訳では、これを8:23としていますが、そのようにも分けることもできます。ここにもエレミヤと神様の、民に対する心の痛みがよく描かれています。

「優」という漢字は、「人と憂」の合成語ですが、人のために泣く人は優しい人です。エレミヤは「ああ」と叫んで、神への背信行為を続ける同胞イスラエルのために泣きました。いったいなぜユダの民は背信行為を続けたのでしょうか。いったいなぜ滅びなければならなかったのでしょうか。

きょうのところに、その原因が語られています。それは、主を知らなかったからです。3節後半と6節後半に、そのことが繰り返して語られています。主を知らなかったので、彼らは悪の道へと突き進んで行きました。いったい主を知るとはどういうことなのでしょうか。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.不真実な民(1-3a)

 

まず、1~3a節をご覧ください。「1 ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。2 ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。3 「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。」

 

今お話したように、エルサレムの崩壊を告げられたエレミヤは、敵の侵略によって殺される人たちの悲惨さを思い、涙を流します。「私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、昼も夜も、泣こうものを。」とは、どれほど泣いてもなき足りないという彼の思いを表しています。

 

ところが、2節で彼はこう言っています。「ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を置いて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通する者、裏切り者の集まりなのだ。」どういうことでしょうか。とてもエルサレムには住んでいられないということです。そこには姦通する者、裏切る者たちがいるので、そんな彼らとは一緒に住めない。だから、もし荒野に旅人の宿を持っていたら、そこに行って、彼らから距離を置きたい、そう言っているのです。あれっ、たった今、彼らのことをあわれんで、どんなに泣いても泣き切れないと言ったばかりなのに、今度は、そんな彼らから距離を置きたいと言っています。ここにエレミヤの心の動きというか、彼の心情がよく表われています。彼らが滅ぼされることを考えると本当にかわいそうで、かわいそうで、何とかならないものかともがいていますが、でも、いくら言っても聞こうとしない彼らには、ほとほと疲れ果てているのです。できれば少し離れたい。だれもいない静かなところで過ごしたい。もし荒野に旅人の宿があったら、そこに逃れて暮らしたい。そういっているのです。そんな彼のジレンマがよく表れているのではないでしょうか。

 

なぜエレミヤは彼らから距離を置きたいと思ったのでしょうか。それは、彼らはみな姦通する者であり、裏切り者だからです。そこには真実がありません。たとえば、ここに「姦通者」とありますが、姦通者とは何かというと、夫や妻を裏切る者のことです。そこには真実の愛がありません。イスラエルの民は、彼らの神、主という夫を裏切る者、姦通者でした。そこには主に対する真実な愛がありませんでした。彼らは裏切り者の集まりだったのです。

 

また、3節には、「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ」とあります。「舌をつがえて」という言い方はあまり聞きませんね。「つがえる」というのは元々、弓に矢をかけることです。それが総じて「曲げる」になりました。ですから、これは「舌を曲げて偽りを言う」ということです。第3版ではそのように訳しています。「彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる」彼らは舌を弓のように曲げて、真実ではなく、偽りをもって地にはびこっていました。嘘つきであったということです。「嘘も方便」という言葉がありますが、方便どころか嘘ばかり言っていました。

 

このどちらにも共通しているのは、真実ではないということです。主が私たちに求めておられるのは何でしょうか。真実であるということです。どれだけ大きなことをしたかとか、とけだけ多くのものをささげたか、どれだけ伝道したかということではなく、真実であること、誠実であること、忠実であるということです。

イエス様はこう言われました。「21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-22)

彼らとは、偽預言者たちのことです。彼らは主の名によって預言し、主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって多くの奇跡を行いました。しかし、主はそんな彼らにこう言われるのです。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」恐ろしいです。全然知らないというのですから。個人的に何の関係もなければ、話をしたこともありません。彼らはイエス様を知っているつもりでしたが、イエス様の方では全然知らないと言われるのです。彼らは口では「主よ、主よ」と言っていましたが、そこに真実がなかったからです。偽りだったからです。

 

あなたはどうでしょうか。主があなたをご覧になられる時、何と言われるでしょうか。そこに偽りはないでしょうか。主が荒野に退きたい、あなたから距離を置きたいと思うような、不真実はないでしょうか。主があなたに求めておられるのは真実なのです。

 

「ある夜,ある男が隣人の畑からトウモロコシを盗もうと出かけて行きました。幼い息子を連れて行き,柵の上に座らせて,人が通りかかったときには警告するんだぞと告げて,見張りをさせました。男は大きな袋を腕に抱えて柵を飛び越え,トウモロコシを取り始める前にまず一方を見て,反対を見て,袋に詰めるところを目撃している人がいないか見渡しました。すると,息子が叫びました。

『お父さん,まだ見ていない方向があるよ!・・・上を見忘れてるよ!』」

だれもが受ける誘惑ですが,不誠実であるように誘惑されるとき,だれにも分からないと思うかもしれませんが、でも、天の神様はいつも見ておられます。私たちに必要なことは正直であることです。そうすれば、主はいつも私たちとともにいてくださいます。

 

ピリピ4:8にはこうあります。「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」

どうすれば、神があなたとともにいてくださるのですか。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いこと、また、何か徳とされることや称賛に値することに心を止めることによってです。そうすれば、平和の神があなたとともにいてくださいます。神があなたから離れて荒野にある旅人の宿に住みたいと言われることがないように、真実、全き心をもって主に仕えていきたいと思います。

 

Ⅱ.主を知ることを拒んだ民(20-21)

 

いったいなぜイスラエルの民は不真実の民、偽りの民となってしまったのでしょうか。次に、3b~6節をご覧ください。ここに、その最大の原因が語られています。それは彼らが主を知らなかったからです。「悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。──主のことば──4 それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。5 彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。6 あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む。──主のことば。」」

 

彼らが真実でなかったのは、彼らが主を知らなかったからです。この「知る」ということばは、ヘブル語で「ヤダー」と言います。皆さんは言わないでください。「ヤダー」。神様は「ヤダー」と言いませんが、私たちはよく「ヤダー」と言います。「宿題しなさい」、「ヤダー」。「手を洗いなさい」、「ヤダ―」。「部屋を片付けなさい」、「ヤダー」。「お手伝いしなさい」、「ヤダー」。何を言っても「ヤダー」です。

この言葉が聖書の中で最初に使われているのは、創世記4:1です。ここには、「人は、その妻を知った。」とあります。この「知った」がそうです。この「人」とはアダムのことです。最初の人アダムは、その妻エバを知りました。この「知った」という言葉が「ヤダー」です。これはただ対面してエバという存在を知ったというレベルではなく、もっと親密なレベルで、個人的に、人格的に知ったということです。それが夫婦であれば、性的関係を持つことを表現しています。これ以上に親密なレベルでの知り方はありません。

 

エレミヤの時代、イスラエルの民は主を知っていると思っていました。彼らには主の宮がありました。また、祭司やレビ人がいて、主なる神に動物のいけにえがささげられていました。しかし、確かにそこで宗教的な儀式は行われていたかもしれませんが、それは表面的ものにすぎませんでした。知識としては知っていましたが、自分の伴侶を知るというような深いレベルでは全然知らなかったのです。

 

主を知らないとどうなるでしょうか。4~6節には、その結果三つの状況に陥ると言われています。第一に、人間関係がギクシャクします。4節には、「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。どの兄弟も人を出し抜き、どの友も中傷して歩き回るからだ。」とあります。

ユダの民は、神様との関係が完全に崩壊していました。神様を個人的、人格的なレベルで深く知っていたのではなく、ただ表面的に知っているにすぎませんでした。そのように神との関係が崩壊すると、人間関係も崩壊することになります。神様との愛の関係が壊れると、それぞれ互いの愛の関係も壊れてしまうことになるのです。神を信じられないので、人も信じられなくなるのです。ここには「それぞれ互いに友を警戒せよ。どの兄弟も信用してはならない。」とあります。互いに不信感を抱くようになるのです。皆さん、どうして人間関係がうまくいかないのでしょうか。どうして人間関係がギクシャクするのでしょうか。それは神様との関係がうまくいっていないからです。神との関係がギクシャクすると、人との関係もぎくしゃくします。ですから、人間関係がうまくいかない時に考えてほしいことは、あなたと相手との関係がどうかということではなく、あなたと神様との関係がどうかということです。もしあなたと神様と関係が良ければ、人との関係もうまくいきます。

 

4節には「どの兄弟も出し抜き」とありますね。この「出し抜き」という言葉は、ヘブル語で「アーコーブ」と言います。どこかで聞いたことがある言葉じゃないですか。「アーコーブ」、そうです、あの「ヤコブ」という名前の語源となった言葉です。ご存知のように、ヤコブはイスラエルの先祖になった人物です。「ヤコブ」という名前がイスラエルに改名されました。その子孫がイスラエル人です。この「ヤコブ」という名前は、「出し抜く」とか「押しのける」という意味なのです。双子の弟ヤコブは、お母さんのおなかの中で兄のエサウのかかとをつかんで、エサウを出し抜きにいて、押しのけて先に出てこようとしました。長男の座を奪おうとしたのです。それは生まれてからもそうでした。彼は押しのける者だったのです。

そんなヤコブが砕かれる時がやって来ます。叔父のラバンのところで20年間も仕えて、家族と一緒に故郷に戻ってくると気のことです。ヤボクの渡し場で一晩中神と格闘したのです。その時彼のももの関節が外れてしまいました。そのとき、神は彼に言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)彼はヤコブからイスラエルへ、押しのける者から神によって支配される者へと変えられました。名は体を表します。名前が変わったということは、古い性質から新しい性質に代わったことを表しています。これまでは自分が主人となって人を押しのけ、ただ自分だけを信じ、自分の力、自分の思いですべてを成そうとしていました。そんなヤコブが神によって支配される者に変えられたのです。人を押しのけるという古い性質が、神によって砕かれて、神によって支配される者に変えられたのです。

 

それなのに、ヤコブの子孫であるイスラエルは、古い性質に逆戻りしていました。「イスラエル」ではなく「ヤコブ」に戻ってしまったのです。その結果、人を信用できなくなってしまいました。どの兄弟も出し抜き、どの友も中傷して歩き回るようになっていました。人間関係がギクシャクし、完全に崩壊していたのです。それは神を知らなかったからです。神を知らなかったので、人間関係まで崩壊してしまったのです。

 

第二に、神様を知らなかった結果、疲れきるまで悪事を働くようになりました。5節、「彼らはそれぞれ、互いに友をだまして、真実を語らない。偽りを語ることを自分の舌に教え、疲れきるまで悪事を働く。」

「疲れきるまで悪事を働く」とは、悪を働くことに熱心であるという意味です。悪を働くことに一生懸命なのです。汗水たらして悪事を働きます。それでも悔い改めません。それほど腐っていたのです。まさにうなじのこわい民です。頑固な民でした。ここまで来たら救いようがありません。そういう状態にまで堕ちていたのです。

 

第三に、神様を知らなかった結果、彼らは人を欺くというだけでなく、自分も欺いていました。6節には「あなたは欺きのただ中に住み、欺きの中でわたしを知ることを拒む。──主のことば。」とあります。彼らが住んでいたのは欺きの世界でした。うそで懲り固められた世界だったのです。人にも嘘をつくし、自分にも嘘をつきます。嘘だらけです。何一つ本当のことはありません。頭ではわかっていても、それとは裏腹のことをしていたのです。皆さんもそういうことありませんか。何が正しいかがわかっていても、それとは反対の行動を取ってしまうということが。

 

なぜでしょうか。それは、彼らが主を知ることを拒んだからです。知りたくないのです。知識で知っていればそれで十分です。それを心まで引き下げようとしませんでした。そんなことしようものなら、へりくだることが求められるからです。そのためにはプライドを捨てなければなりません。やりたくないこともやらなければならないのです。自分の意志を殺してでも、神のみこころを行わなければならないからです。そんなの嫌です。ヤダモン!となるわけです。イエス様は言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自 分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)

そんなことしたくありません。それは大変なことです。イエス様はゲッセマネの園で、「父よ。みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られました。それは汗が血のしずくのように地にしたたり落ちるほどの壮絶な祈りでした。

でも、同じことが私たちにも求められているのです。私の思いではなく、あなたのみこころのとおりにしてください。これが私たちに求められている祈りです。これが主を知るということなのです。それでも神を人格的に、個人的に知りたいと願う人は、それを厭いませんと。どんな犠牲を払ってでも、神様に近づきたいと願うのです。肉においては拒否反応があっても、霊においてはもっと神様に近づきたい、神様を知りたい、神様と深い関係を持つことを求めるのです。

Ⅲ.最後の希望(7-9)

 

最後に、7~9節をご覧ください。「7 それゆえ、万軍の主はこう言われる。「見よ、わたしは彼らを精錬して試す。いったい、娘であるわたしの民に対してほかに何ができるだろうか。8 彼らの舌はとがった矢。人を欺くことを言う。口先では友に向かって平和を語るが、心の中では待ち伏せを企む。9 これらについて、わたしが彼らを罰しないだろうか。──主のことば──このような国に、わたしが復讐しないだろうか。」」

 

それゆえ、万軍の主は彼らを精錬して試されます。彼らを炉の中で精錬されるのです。ちょうど金属の不純物を火で溶かして取り除くように精錬されるのです。本当に価値あるもの、ピュアなものだけを抽出するように、神のさばきを通して彼らを精錬されるのです。

 

いったい、ほかに何ができるというのでしょうか。娘である神の民が神に立ち返るために、ほかにどんなことができるというのでしょうか。彼らの舌はとがった矢です。人を欺くことを言います。口先では友に向かって平和を語りますが、心の中ではそうではありません。心の中では待ち伏せを企みます。常に悪意に満ちているということです。顔ではニコニコしていても、また友達のフリをしながら、いつでも裏切る準備をしているのです。怖いですね。人間というのは。何を考えているのかわかりません。常に悪意を心に含んでいるわけです。そのような人たちは神のさばきを免れることはできません。でもそれは、神のあわれみを尽くした結果だということを忘れてはなりません。最初からさばきを宣告しているのではありません。何度も何度も警告しても心をかたくなにして悔い改めず、神に反抗する者に対しては、さばきしか残されていないということです。

 

しかし、そのさばきの目的は何でしょうか。それは彼らを精錬することです。そのことを忘れてはなりません。神様からの忠告を再三無視し、悔い改めることを拒み、自分勝手な道に進んでいった結果、神は最終的にさばかれるわけですが、そのさばきでさえ、彼らを炉の中で精錬するように聖め、再び建て上げるためなのです。いわば、それは神の民にとって最後の希望なのです。それは具体的には、バビロンによって滅ぼされるということですが、神の民はそれで終わりではありません。神は70年という時を経て、回復の御業を成されるのです。

 

それは私たちも同じです。神に背き、いつまでも頑なに神を拒み続けることでさばきを受けることがありますが、それで終わりではありません。それは私たちを聖めるための神の愛の御業です。いわば、それは私たちにとっての最後の希望なのです。精錬されるのはだれでもイヤです。でもそれで不純物が取り除かれるならば、幸いなのです。

 

ハリソン・フォード主演の映画「心の旅」をご覧になられた方もおられるでしょう。ハリソン・フォード演じる主演のヘンリーが、ある日タバコを買いに行くと、店に押し入った強盗にピストルで撃たれてしまいます。一命は取りとめたものの、すべての記憶を失ってしまいました。昨日まではNYを代表する有能な弁護士。でも今は、自分の家族の顔もわからず、文字も読めないリハビリに励む一人の男です。そんな彼のリハビリを担当した理学療法士がブラッドリーという黒人です。彼は明るく陽気な性格で、ヘンリーが記憶喪失になってからの彼の良き理解者となります。やがて自宅に戻り、職場復帰を果たしたヘンリーですが、以前の自分とのギャップに苦しみ、落ち込んでいる彼を励ますために、ヘンリーの家にやって来ます。実のところ、ヘンリーの妻が彼にお願いしたのですが。そこで彼は、自分がどうして理学療法士になったのかを語るのです。

「おれは大学でフットボール選手だったが、膝の故障で選手生命を断たれた。しかしそのおかけでリハビリ師に出会い仕事を得た。あんたにも会えたし歩かせることもできた。あんたも状況が変化し、別の人生が始まったんた。あれは試練だったんだ。」

ヘンリーはこの言葉に勇気づけられ閉じこもり生活に終止符を打つことができたのです。

 

私たちも、挫折や試練を遭遇すると、これで自分の人生も終わりだと思うことがあるかもしれません。しかし、それは神があなたの人生から信仰の不純物を取り除くために、神が与えてくださった試練なのです。私たちは試練に会うと辛いので、早くこの時を終わらせてくださいと祈りますが、神様は私たちの最善をご存知であって、その痛みを無駄にされないのです。

ですから、このことをぜひ覚えていただきたいのです。たとえあなたの人生の中で精錬されるようなことがあったとしても、それで終わりではないということを。それはあなたを聖めるために、あなたが本当の意味で神を知るようになるための、神の手段であるということを。神は今でもあなたが神のもとに帰って来ることを待っておられます。救い主から離れないようにしましょう。神の慰めと平安が豊かにありますように。

民数記34章

きょうは民数記34章から学びます。

 

Ⅰ.相続となる地カナンの境界線(1-15)

 

まず、1~2節をご覧ください。「1 主はモーセに告げられた。2 「イスラエルの子らに命じて彼らに言え。あなたがたがカナンの地に入るときには、あなたがたへのゆずりとなる地、カナンの地とその境界は次のとおりである。」

 

主は、イスラエルが約束の地に入って行ってから彼らに与えられる相続地の境界が示されました。まず南側の境界が3~5節に記されてあります。「3 あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東の方の塩の海の端に始まる。4 その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンの方に進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。またハツァル・アダルを出て、アツモンへと進む。5 さらに境界線は、アツモンから回ってエジプト川に向かい、その終わりは海である。」

南側の境界は、エドムに接するツィンの荒野、すなわち、塩の海の端に始まります。そしてアクラビムの丘陵地帯の南側から回ってツィンの荒野の方に進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南です。それからエジプト川まで続き、地中海に達します。これが南の境界線です。

 

6節には西の境界線が記されてあります。「6 あなたがたの西の境界線は、大海とその沿岸である。これをあなたがたの西の境界線としなければならない。」

西の境界線は、地中海とその沿岸です。西には他に何もありませんので、これはよくわかります。

 

では北側の境界線はどうでしょうか。7~9節にあります。「7 あなたがたの北の境界線は、次のとおりにしなければならない。大海からホル山まで線を引き、8 さらにホル山からレボ・ハマテまで線を引く。その境界線の終わりはツェダデである。9 そして境界線はジフロンに延び、その終わりはハツァル・エナンである。これがあなたがたの北の境界線である。」

ホル山やツェダデがどこなのかその位置が明確ではありません。ただハツァル・エナンの場所はある程度特定されているので知ることができますが、それは驚くことに今のレバノンの北、そしてシリヤのところにまで及んでいるのがわかります。イスラエルに約束された地は、かなりの領域にわたっていたことがわかります。

 

そして東の境界線については10~12節にあります。「10 あなたがたの東の境界線としては、ハツァル・エナンからシェファムまで線を引け。11 その境界線は、シェファムからアインの東方のリブラに下り、それから境界線は、そこから下ってキネレテの海の東の傾斜地に達する。12 さらに境界線はヨルダン川を下り、その終わりは塩の海である。以上が境界線によって周囲を区切られた、あなたがたの地である。」」

キネレテの海とはガリラヤ湖のことです。そこからヨルダン川を下り、その終わりが塩の海までの領域です。ヨルダンの東側については既にガド族とルベン族、マナセの半部族が相続していたので、それを除く残りの9部族と半部族が受け継ぐべき地が示されているものと思われます。

 

そして、残りの2部族とマナセの半部族については、13~15節までをご覧ください。「13 モーセはイスラエルの子らに命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする地である。主がこれを与えよと命じられたのは、九部族と半部族に対してである。14 ルベン部族は一族ごとに、ガド部族も一族ごとに、そしてマナセの半部族も、自分たちの相続地を受け取っているからである。15 この二部族と半部族は、ヨルダン川の、エリコをのぞむ対岸、東の方、日の出る方に、自分たちの相続地を受け取っている。」」

イスラエルに約束された相続地は、くじによって決められました。これは箴言16:33に「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る。」あるように、そのすべての決定は主から来るとあるからです。彼らは自分たちによって決定するのではなく、その決定のすべてを主にゆだねたのです。

 

ここで創世記15:18~21を開いてください。「15その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、20 ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、21 アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」」

ここには神がアブラハムに与えると言われた土地が記されています。そして、何とここにはエジプト川からユーフラテス川までとあります。ユーフラテス川というのはアラビヤ半島へ注ぎ込むユーフラテス川の上流域のことです。それはこの相続地の北の境界線にありました。ですから、彼らはアブラハムに約束された地のほとんどを相続するようになったことがわかります。つまり、主が約束したことが成就したということです。

 

Ⅱ.土地分配の仕方(16-29)

 

次に、16~29節までをご覧ください。「16 主はモーセに告げられた。17 「あなたがたにその地を相続地として受け継がせる者たちの名は、次のとおりである。すなわち、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア。18 あなたがたは、その地を受け継ぐため、それぞれの部族から族長一人ずつを選ばなければならない。19 その人たちの名は次のとおりである。ユダ部族からは、エフンネの子カレブ。20 シメオン部族からは、アミフデの子サムエル。21 ベニヤミン部族からは、キスロンの子エリダデ。22 ダン部族からは、族長として、ヨグリの子ブキ。23 ヨセフの子孫からは、マナセ部族から、族長として、エフォデの子ハニエル、24 またエフライム部族から、族長として、シフタンの子ケムエル。25 ゼブルン部族からは、族長として、パルナクの子エリツァファン。26 イッサカル部族からは、族長として、アザンの子パルティエル。27 アシェル部族からは、族長として、シェロミの子アヒフデ。28 ナフタリ部族からは、族長として、アミフデの子ペダフエル。29 これが、カナンの地でイスラエルの子らへの相続地を受け継がせるようにと、主が命じた人たちである。」」

 

ここには、この地をどのように相続すべきかについて、もう一つの点が記されています。それは、相続地として受け継がせる者を選び、彼らを通して割り当てがなされていったということです。今でいうと遺言執行人のようなものと言えるでしょう。それが祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアでした。彼らの下にイスラエルのそれぞれの部族から族長が一人ずつ割り当てられました。日本でもそうですが、遺産相続をめぐっては本当に多くの問題が生じます。そのことが原因で家族がいがみ合って、憎み合うというケースに発展することも少なくありません。そういうことがないように、遺言執行人を定め、公正に遺産を相続するようにしたのです。

 

 さて、このようにして神が約束してくださった地の相続が行われましたが、ここで私たちが覚えておかなければならないことは、私たちにも神からの相続地が割り当てられているということです。それは私たちの想像を絶するような霊的遺産、天の御国です。それが私たちに約束されているのです。

 

 であれば、ガド族やルベン族のように「ここは居心地が良いからここに留まっていたい」と主張したり、この地上のものに執着して神が約束してくださったものを見失うことがないように注意すべきです。いつも与えられた約束の地を見て、そこを目指してただ前進していかなければなりません。

 

 皆さんも、童話「ウサギとカメ」のお話をよくご存知だと思います。ウサギとカメが競争して、カメが勝利する話です。いったいどうしてウサギはカメに負けたのでしょうか。どうしてカメがウサギに勝ったのか、知っていますか?一般には、ウサギは油断して昼寝をしてしまったのに対して、カメはコツコツと歩みを進めて、ウサギを追い抜いてしまった。 しかし、これが思わぬ結果をもたらした本当の理由ではありません。では、いったい本当の理由は何だったのでしょうか。

 それは、ウサギとカメでは「見ているところが違った」からです。ウサギは何を見ていたのか。ウサギは、カメを見ていました。だから、ノロノロとやってこないカメに、油断をしてしまったのです。

 対するカメは何を見ていたか。ゴールを見ていました。カメがウサギを見ていたら、昼寝をしているウサギを見て、自分も休んでしまったかもしれません。しかし、カメはそうしませんでした。ゴールを見ていたからです。

言わんとしているところはどういうことかというと、ゴールは何かをしっかり見極め、競争相手に惑わされることなく、ゴールを見ることの重要性です。レースの本質を、しっかり捉えよ、ということです。カメはゴールを見ていたから歩みは遅かったけれど、足の速いウサギに勝つことができました。「見ているところが違った」から、この結果が生じたのです。「見ているところ」は正しいか、ということです。

 私たちもゴールを見ずに、隣ばかり、周囲ばかりを見てしまうことがあります。しかし、それがもたらすのは、カメに負けたウサギ同様、残念な結果の可能性があるのです。

 私たちのゴールは何でしょうか。私たちのゴールは、イエス・キリストです。へブル12:1にこうあります。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストこそ、私たちの人生のゴールです。この方から、目を離してはなりません。

 

使徒パウロは、こう言いました。「13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」(ピリピ3:13-14)

 

私たちには、約束の地、天の御国が与えられています。主は必ずそこへ導いてくださいます。それゆえ、主イエスキリストにあって神が上に召してくださるという、その目標を目指して、ひたむきに前のものに向かって進み、一心に走る者でありたいと思います。

クリスチャンの励まし Ⅰテサロニケ3章1~13節

聖書箇所:Ⅰテサロニケ3章1~13節

タイトル:「クリスチャンの励まし」

 

 きょうは、長谷川先生の説教の予定でしたが、先々週から体調を崩して自宅で療養しておられるため、代わりに私がみ言葉からお話したいと思います。長谷川先生の連行が守られるようにお祈りいただけましたら幸いです。

 

 それではまず、この時間の祝福を覚えてお祈りしたいと思います。

 

本日、私たちに与えられているみ言葉は、テサロニケ人への手紙 第一3章です。この手紙は、パウロがテサロニケにいるクリスチャンに宛てて書いた手紙です。パウロは、第二回伝道旅行でこのテサロニケの町を訪れて伝道しましたが、多くの人たちがパウロとシラスに従ってイエス様を信じました。ところが、そこにいたユダヤ人たちはみたみに駆られ、暴動を起こしたので、パウロ一行はそこにとどまっていることができず、わずか3週間余りで退き、次の宣教地であるベレアに向かうことになりました。信じたばかりのクリスチャンたちのことを考えると気が気でなかったパウロは、何とか彼らのところに行って励まそうとしましたが、なかなかその道が開かれなかったので、自分たちはアテネに残り、弟子のテモテを遣わしたのです。

すると、テモテがすばらしい知らせを持ち帰ってくれました。それは、彼らがそうした激しい迫害の中にあっても信仰に堅く立ち、マケドニアとアカヤのすべての信者の模範になっているということでした。この時パウロ一行は、次の伝道地のコリントにいましたが、その知らせを聞くと飛び上がるほどうれしかったというか、大いに慰めを受けたのです。

このことから、クリスチャンの励ましとはどのようなものなのかを知ることができます。

 

 Ⅰ.ほかの人のことを顧みる(1-5)

 

第一に、クリスチャンの励ましとは、常に他の兄弟姉妹たちのことに心を配り、その霊的状態を覚えて祈るものであるということです。まず、1節から5節までをご覧ください。「1 そこで、私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、2 私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、3 このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。4 あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。5 そういうわけで、私ももはや耐えられなくなって、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。それは、誘惑する者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦が無駄にならないようにするためでした。」

 

1節の「そこで」とは、今お話したように、迫害の中にいるテサロニケのクリスチャンを励まそうと、パウロは何とかして彼らのところに行こうしましたが、サタンが彼らを妨げたので(2:18)行くことができなかったので、という意味です。そこで、パウロはもはや耐えきれなくなって、自分だけがアテネにとどまり、弟子のテモテをテサロニケに遣わしたのです。パウロはなぜそんなにも彼らの顔を見たいと思ったのでしょうか。彼らのことが心配だったからです。イエス様を信じたことでユダヤ人からの激しい迫害に遭い、果たして彼らは大丈夫だろうか、中には信仰を捨てて元の生活に逆戻りする人が出ているのではないだろうか、そうしたことが心配だったのです。イエス様が弟子たちを宣教に遣わす時、それは狼の中に羊を送り出すようなものだと言われましたが、まさにクリスチャンがこの世にあって生きるのは、狼の中に羊を送り出すようなものなのです。様々な出来事によって、信仰が揺さぶれることが多いのです。まして救われたばかりの信者たちがそうした艱難に遭ったら、ひとたまりもありません。ですから、パウロはテモテを彼らのところに遣わし、そうした苦難の中でもだれも動揺することがないように強め励まそうとしたのです。

 

このことから、クリスチャンの励ましとはどういうものなのかがわかります。それは、常に他の兄弟姉妹たちのことに心を配り、その霊的状態を覚えて祈るものであるということです。そして、様々なことで動揺して信仰から離れてしまいそうな人たちを励ますものであるということです。

 

今、C-BTEを学んでおりますが、C-BTEと聞いて、「何だろう、C-BTEとは?」という人もおられるかと思います。C-BTEとは、Church Beast Theological Education」の頭文字を取ったもので、日本語では「教会主体の神学教育」と言います。聖書の教えの核となる基本的な原則を学ぶものです。先週もこのC-BTEがありまして、そこでのテーマは「福音の進展のために投資する」というテーマでした。福音が進展していくために、私たちはどうしたら良いかということです。その鍵は、ピリピ2:2にあります。それは、「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、」(ピリピ2:2)ということです。

まず、同じ思いとなること。そして、同じ愛の心を持つこと、また、心を合わせ、最後に思いを一つにすることです。しかし、これがなかなかできないんですね。それは教会だけではありません。それが家族であっても、職場であっても、何らかの仲間であってもそうです。なかなか一つになることができません。皆が一つとなったらどれほど大きな力が表れることでしょうか。しかし、それができない。どうしてだと思いますか。どうして一つになることができないのでしょうか。その原因はどこにあるのでしょうか。

ピリピ人への手紙2章には、続いてこう記されてあります。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:3-4)

つまり、自己中心、無関心であることです。これが、一致を妨げる最大の要因です。それぞれ意見や思いが違っていてもいいのです。そうした違いがあっても、その中で一つになることができるのです。それは、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことによってです。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みることによってです。そうすれば、同じ思いを持つことができます。へりくだるというのは、「ああ、自分はだめな人間だ」と自己卑下することではありません。へりくだるとは、自分のことだけでなく、他の人のことを顧みることです。互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことなのです。そうすれば、一つになることができます。

その究極的な模範を、イエス様のうちに見ることができます。ピリピ2章では続いて、こうあります。「6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」

キリストは神であられる方なのに、神であるという考え方に固執しないで、自分を捨て、実に十字架の死にまでも従われました。それは私たちを罪から救うためです。これが真に謙遜であるということです。イエス様は私たちのことを顧みて、私たちを罪から救うために、実に十字架の死にまでも従われたのです。それは私たちの模範です。同じように、私たちも自己中心や虚栄ではなく、互いに人を自分よりもすぐれた者と思わなければなりません。自分ことだけでなく、他の人のことも顧みなければなりません。それがクリスチャンの励ましです。

皆さんは、どれだけ教会の他の兄弟姉妹のことを顧みているでしょうか。どれだけそのために祈っておられるでしょうか。

 

5節には、「誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思い、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです」とあります。パウロはちゃんと知っていました。彼らがそうした事態に直面したときどんなに気弱になるのかを。また、その弱さに付け込んで誘惑者である者、これはサタンのことですが、サタンがどんなに巧妙に働きかけてくるのかを。私たちは全能の神を信じる者として、神がいつもともにいて助けてくださるということを信じていますが、そうした事態に置かれるとすぐに躓いてしまいやすいのです。羊のようにか弱い存在なのです。特に、誘惑者であるサタンは、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら歩き回っています。私たちには、そうしたサタンの誘惑に勝利するだけの力はありません。神様は力ある方だと信じていても、その神から離れてしまえば、私たちには何の力もないのです。そのような時、いったい私たちはどうやって信仰に立ち続けていることができるでしょうか。互いに励ますことによってです。クリスチャンは互いの信仰の状態や戦いについて無関心であってはなりません。おせっかいにならないように注意しなければなりませんが、お互いの霊的状態に心を配りながら、動揺することがないように、堅く信仰に立ち続けることができるように励まし合わなければならないのです。

 

 無理です!私は自分のことで精一杯なんですから。とても他の人のことまで気を配る余裕なんてありませんと言われる方もおられるでしょう。しかし、実際は逆です。あなたが聖書のみ言葉を信じて、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みるなら、あなた自身が恵まれ、強められていくことになるのです。それが愛です。

 

信仰から離れていく人は、ある日突然そうなるのではありません。実はそれ以前からその兆候が見られるのです。礼拝が休みがちになったり、クリスチャンとの交わりを避けるようになります。そういうシグナルを事前に送っているのです。それを早期に発見して、手遅れにならないように励ましていれば、その中の相当数の方々は信仰にとどまっていることができたのではないかと思います。ですから私たちは他のクリスチャンの霊的状態に常に心を配りながら、励ましていかなければならないのです。

 

ところで、2節に「励まし」ということばですが、これはギリシャ語で「パラクレオー」ということばです。この「パラクレオー」という言葉は、神の聖霊を表す「助け主」(パラクレートス)の動詞形で、「パラ」と「カレオー」の合成語です。「パラ」という言葉は「そばに」という意味で、「カレオー」は「呼ぶ」です。つまり、その人にとってキリストがそばにおられることを確信できるようになるとき、その人は本当の意味で励ましを受けることができるということです。パウロはどのようにその励ましを与えようとしたのでしょうか。

 

3節を見ると、彼は「このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように」テモテを遣わしたとあります。また、5節でも、「あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを遣わしたのです。」とあります。初代教会の交わりの豊かさは、このように実際に会って目に見える形での交わりにあずかりたいと熱心に願っていたことにあります。彼らはただメールでのやりとりとか、「祈っています」といったお決まりの挨拶程度の交わりではありませんでした。彼らの交わりは、実際に会って顔と顔とを合わせ、手と手を握りしめ、互いに声を掛け合う交わりだったのです。使徒ヨハネはそのことを次のように述べています。「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」(Ⅱヨハネ12)

 

また10節には、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」とあります。彼らの交わりは、顔と顔を合わせての交わりだったのです。私たちはメールやLINE、ZOOMといった様々な通信手段がありますが、そうした様々な通信手段の中でこうした交わりの原則を忘れがちになりがちですが、顔と顔を合わせての交わりの豊かさと祝福というものを大切にしていきたいものです。

へブル人への手紙10章25節にはこうあります。「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」なぜいっしょに集まることをやめたりしてはならないのでしょうか。それは、この顔と顔を合わせての交わりが重要だからです。いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそのようにすることを、聖書は勧めているのです。

 

 また、そればかりではなく、パウロはテサロニケの人たちにこう言っています。3節、「あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。」 どういうことでしょうか。ここでパウロははっきりと、クリスチャンの苦難は「定められている」と言っています。それは思いがけないことではなく、当然のことであるというのです。また4節にあるように、それはまたテサロニケに滞在していた時に前もって言っておいたことですが、それが今、果たしてその通りになっただけのことなのです。すなわち、こうした苦難は先刻承知のことであるということです。ですから、決してあわてふためいたり、信仰をぐらつかせてはならないのです。

 

以前、小中学生がいとも簡単に自殺するという事件が相次いだ時がありました。いったい原因はどこにあるのかとその理由を調べてみると、たとえば、ほしい物を買ってもらえなかったとか、教師や親に厳しく叱られたことが引き金になって、自殺するというケースが多いということがわかりました。それで、人生には自分の思うようにいかないことが多いということ、そしてそれに耐えることも大切であるということを教えなければならないと結論付けました。しぶとく生きる気構えを常日頃から植えつけられていないことが、あまりにももろく、あまりにも早く死に急ぐ子供たちが続出していることの背景にあるのではないかという反省がなされたのです。困難なことにぶつかったとき、それに対する心構えがあるかないかで、困難を乗り切る力が大きく左右されるというのです。

 

それはある意味で信仰生活にも言えることです。新たに信じた人や求道中の人に向かって私たちはよく「クリスチャンになるとすべてがうまくいくよ」ということがありますが、実際はそうではありません。むしろ、そうでないことの方が多いのです。私たちはこのような苦難にあうように定められているのですから。そういうことを最初から覚悟しつつ、困難に対する心構えも同時に持つように勧めていく必要があります。その中で、キリスト教の救いがどんな確かで、苦難に勝ち得てあまりあるものであるすばらしいものなのかをあかしして、励ましていかなければならないのです。

 

 Ⅱ.一方通行ではない(6-10)

 

第二に、クリスチャンの励ましとは、一方通行ではないということです。それは、良いものを分かち合う励ましであるということです。6~10節をご覧ください。「6 ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。7 こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。8 あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。9 あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。10 私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。」

 

テモテがテサロニケからパウロのところに戻ったのは、パウロがコリントにいた時でした(使徒18:5)。そして、テモテの報告はパウロたちに大きな喜びをもたらしてくれました。それは、テサロニケの人たちがパウロの予想をはるかに越えて、主にあって堅く信仰に立っていたからです。そればかりか、彼らの互いの間に愛が満ち溢れていたからです。また将来の、キリストの再臨の希望を持っていました。テサロニケの教会には、信仰と希望と愛に溢れていたのです。

 

仮にテモテが、テサロニケには大勢のクリスチャンがいたけれども、何だかちょっと変なんだよな、パウロが宣べ伝えた福音とは少し異なるものを信じていたとか、彼らは迫害に意気消沈して、次から次に信仰から離れて行ったということを聞いたらどうだったでしょう。ひどく落ち込んだのではないかと思います。あるいは、彼らが互いにいがみあい、仲たがいをしていたということを聞いたら、深く悲しんだに違いありません。けれども今、テモテが持ち帰った報告は、こうした心配や不安を一掃するすばらしい知らせでした。

 

また、彼らはパウロたちのことをいつも考えていて、パウロたちが彼らに会いたいと思っているように、彼らもしきりにパウロたちに会いたがっているということを聞いて、慰めを受けました。それは遠く離れていても、彼らもまた祈りの中でパウロたちのことを思っているということがわかったからです。

 

 このようなわけで、パウロはテサロニケの人たちの信仰によって、逆に慰めを受けました。パウロの宣教の働きは苦しみの連続でしたが、そうした押しつぶされそうなプレッシャーやストレスとの中でも、こうした彼らの信仰は、オアシスのような慰めをもたらしたのです。

 

このことから、クリスチャンの励ましについてのもう一つの大切な原則が教えられます。それはクリスチャンの励ましというのは、一方通行ではないということです。クリスチャンの励ましは、互いに良いものを分かち合う関係なのです。ちょうど愛情を注いで子供を育てると、その子供からも多くの喜びと慰めを受けるように、クリスチャンの励ましも互いに良いものを分かち合う関係なのです。パウロほどの人物であれば、直接神から慰めを受けているのだから十分だろう、人間からの慰めや励ましなど必要ないと考えられがちですが、そうではありません。パウロもまた励ましを必要としていました。パウロはピレモンに書いた手紙の中で、「あなたの愛から多くの喜びと慰めを受けました。」(ピレモン7)と言っていますが、激しい霊的戦いの中に置かれ、大きな責任を持っている人ほど、その孤独で厳しい働きのゆえに他の人からの励ましと慰めを誰よりも必要としているのです。それは牧師も例外ではありません。牧師も励ましと慰めを必要としています。その慰めと励ましは、何よりも教会の一人一人がイエス様、神様を心から愛し、信仰に堅く立ち、喜んで主のみこころに歩む姿を見ることでしょう。

 

そして、こうしたテサロニケの人たちのような信仰の姿を見ることは、彼にとっての生きがいでもありました。8節には、「あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。」とあります。第三版では、「あなたがたが主にあって固く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。」と訳されています。パウロの生きがいは、人々が主にあって堅く立っているということでした。それは何にも代えがたいほどの力と励ましを彼に与えてくれたのです。パウロにとって他の兄弟姉妹の信仰の成長を見ることなしには、生きる目的も喜びもありませんでした。彼は自分だけの信仰が保たれ、神との交わりが満たされて満足するような信仰ではありませんでした。主にある兄弟姉妹とのよき信仰の分かち合いを離れては、クリスチャンとして存在価値を見いだせないと思うほど、他の兄弟姉妹のことを思い、彼らが主にあって堅く信仰に立っていてくれることを生きがいとしていたのです。

 

あなたの生きがいは何ですか。私たちはパウロの生きがいを生きがいとしたいものです。自分の喜びや満足ではなく、他の兄弟姉妹が信仰に堅く立っていてくれることを喜び、そのことを切に祈り求める者になりたいと思うのです。

 

Ⅲ.パウロの祈り(11-13)

 

 第三に、パウロの祈りです。11~13節までをご覧ください。「11 どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。12 私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。13 そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。」

 

テモテの報告を聞き、テサロニケの人たちの信仰を知ったパウロは、喜びに満ち溢れ、神への感謝と祈りへと導かれました。パウロはここで三つのことを祈っています。

 

第一に、11節にあるように、彼らがテサロニケに行くことができるように、主がその道を開いてくださるようにということです。これは2:18で、パウロたちが彼らのところに行こうとしても行けないのはサタンがそれを妨げているからだと言っていますが、その障害を取り除いてくださるのは全能の神ご自身です。パウロは、人間のどのような熱い思いや願いをもってしても、神が道を開いてくださらなければそれは不可能であることを知っていました。また、逆に、それがどんなに難しい状況にあっても神様が道を開いてくださるなら、必ずそれは可能になると信じていました。すべては神のご計画と導きの内になされるのです。私たちも私たちの置かれている環境の中で、神様が道を開いて導いてくださるように祈らなければなりません。

 

第二に、パウロは12節にあるように、彼らの互いの間の愛が増し加えられるようにと祈っています。苦難の中にある教会は、その問題が解決し良い方向へ動き出すと、兄弟姉妹相互の結束が深められ、これまでにない愛の一致が生み出されます。しかし、同時にそれは逆の作用を生み出すこともあります。たとえば、迫害する者に対して憎しみを持つことが正当化されたり、そうした苦しみの中で動揺する弱い信仰者をさばいたりといったことです。心にゆとりを与えないほどの困難な事態は、兄弟姉妹の間にさまざまな軋轢を引き起こしやすいのです。だからパウロは、「あなたがたの互いの間の愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」と祈っているのです。苦難だけが満ちて愛が失われた教会は悲惨ですが、苦難が増すにつれて愛に満ちていく教会は、決して動揺したり倒れたりすることなく、そこに神の栄光が豊かに現されていくからです。

 

第三にパウロは、キリストの再臨についても祈っています。13節です。真の愛に満ちたクリスチャン生活とは、主が再び来られる日に備えて、聖く、責められるところのない者として整えられていく生活だからです。主イエスは終末の前兆として、多くの人たちの愛が冷えると言いました(マタイ24:12)。また、パウロは終わりの日にやってくる困難な時代には、自分を愛したり、金を愛したり、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者が出てくると言いました(Ⅱテモテ3:1-3)。まさに今はそのような時代ではないでしょうか。愛と聖さが急速に失われている時代です。そういう時代にあって私たちは、この二つの特質をしっかりと追い求め、キリストの再臨に備えて主にある信仰の友がしっかりと整えられるように祈り求めていかなければならないのです。

 

私たちはますます、主によって心を強めていただかなければなりません。苦難は必ず訪れます。しかし、たとえ苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないように励ましていく。それがクリスチャンの真の交わりです。私たちが目指す教会は、そのように互いに励まし合って、しっかりと信仰に立ち続け、主が私たちに与えてくださった大宣教命令を担う教会なのです。

民数記33章

きょうは民数記33章から学びます。

 

Ⅰ.イスラエル人の旅の行程(1-49)

 

  1. 出エジプト(1-4)

 

まず1節から4節までをご覧ください。「1 モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとにエジプトの地から出て来たイスラエルの子らの旅程は次のとおりである。2 モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書き記した。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。3 彼らは第一の月、その月の十五日に、ラメセスを旅立った。すなわち過越のいけにえの翌日、イスラエルの子らは、全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。4 エジプトは、彼らの間で主が打たれたすべての長子を埋葬していた。主】彼らの神々にもさばきを下された。」

 

ここには、イスラエルがエジプトを出てから今の時点、すなわちヨルダン川の東側のエリコの向かいにあるモアブの草原までどのように導かれてきたかの旅程が記されてあります。まず4節までのところには、彼らがエジプトを出た時のことがまとめられています。まずイスラエルは、モーセとアロンの指導のもとに軍団ごとにエジプトから出発しました。それは、1年後にシナイの荒野で整備されたような整えられたものではありませんでしたが、ある程度の秩序を保っていたことがわかります。そうでないと約60万人の男子と、女子、それに子供を加えて200万人を超える人たちと、多くの家畜を引き連れて一夜のうちに旅立つことは困難だったからです。ここで強調されていることは、彼らは「全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。」ということです。それは主が力強い御手によって連れ出されたからです(出エジプト13:9,14,16)。

 

  1. 第一段階~エジプトからシナイの荒野まで~(5-15)

 

次に、5節から15節までをご覧ください。「5 イスラエルの子らはラメセスを旅立ってスコテに宿営し、6 スコテを旅立って荒野の端にあるエタムに宿営した。7 エタムを旅立ってバアル・ツェフォンの手前にあるピ・ハヒロテの方に向きを変え、ミグドルの前で宿営した。8 ピ・ハヒロテを旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい、エタムの荒野を三日路ほど行ってマラに宿営した。9 マラを旅立ってエリムに行き、そこに宿営した。エリムには十二の泉と、七十本のなつめ椰子の木があった。10 それから、彼らはエリムを旅立って葦の海のほとりに宿営し、11 葦の海を旅立ってシンの荒野に宿営した。12 シンの荒野を旅立ってドフカに宿営し、13 ドフカを旅立ってアルシュに宿営し、14 アルシュを旅立ってレフィディムに宿営した。そこには民の飲む水がなかった。15 それから、彼らはレフィディムを旅立ってシナイの荒野に宿営し、」

 

ここにはエジプトを出てからシナイ山までの旅程が記されてあります。ここではまず8節の「ピ・ハヒロテから旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい」ということばが強調されています。これは出エジプト記14章にある出来事ですが、イスラエルがエジプトを出た後、背後からエジプト軍が追ってきました。目の前は紅海で全く逃げ場を失うという絶対絶命のピンチの中で、主が奇跡的なみわざによって海の真ん中に乾いた道を作られ、それを通って救われました。

 

それから9節の、「エリムには12の泉と、70本のなつめやしの木があり、そこに宿営した」ということも強調されています。そこではどんなことがあったでしょうか。これは出エジプト15章にある出来事ですが、彼らは荒野の旅の中で水がなく苦しんでいたときマラという所に来て水を見つけました。しかし、その水は苦くて飲むことができませんでした。それでモーセが主に叫ぶと、主が1本の木を示されたのでそれを水の中に投げ入れました。するとそれは甘くなり、飲むことができるようになりました。それで彼らはエリムに到着することができました。それは、彼らが主の命令に聞き従うなら主は彼らをいやし、なつめやしの木のように潤してくださることを教えるためのものでした。

 

そして、14節の「レフィデム」に宿営したことについて、それぞれ簡単な出来事が記録されています。そこでも彼らは、飲み水がなく大変苦しみました。しかし、モーセがホレブの岩の上に立ち岩を打つと、そこから水が流れ出ました。彼らは主を信じることができず主と争ったため、そこはマラ(争う)と名付けられました。大切なことはどんな時でも主の御声に従うことであるということです。そして、レフィデムではもう一つの大切な出来事がありました。それはアマレクとの戦いです。ヨシュアが戦い、モーセが祈りの手を上げて祈ったことで、彼らは勝利することができました。

 

  1. 第二段階~シナイの荒野からリマテまで~(16-18)

 

次に16節から18節までをご覧ください。「16 シナイの荒野を旅立ってキブロテ・ハ・タアワに宿営した。17 キブロテ・ハ・タアワを旅立ってハツェロテに宿営し、18 ハツェロテを旅立ってリテマに宿営した。」

 

ここには、シナイの荒野からリマテまでの旅程が記されてあります。ここから民数記に記録されてある内容です。彼らはシナイの荒野で律法が与えられ、幕屋が与えられ、また大掛かりな人口調査が行われ、軍隊が編成されて、神の民として整えられてシナイの荒野からカナンの地に向かって出発しました。それはエジプトを出た第二年目の第二の月の二十日のことでした(民数記10:11)。

 

キブロテ・ハ・タアワでは、イスラエルの民が食べ物のことでつぶやいたので、うずらが与えられましたが、主は彼らの欲望に対して怒りを燃やし、激しい疫病で民を打たれたので、欲望にかられた民はそこで死に絶えました。ここで印象的なみことばは、民数記11:23の「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」というみことばです。主の御手が短いことはありません。主はどんなことでもおできになる方です。私たちに求められていることは、この主にただ従うことなのです。

また、ハツェロテでは、ミリヤムとアロンがモーセに逆らったのでミリヤムは神に打たれてらい病になりました。

 

そして、18節にはリテマに宿営したとありますが、このリテマとはどこにあるのかがよくわかりません。ハツェロテの後で、この荒野の旅程で最も悲劇的な事件が起こりました。それは、カデシュ・バルネアでの出来事です。約束の地まで間もなくというところにやって来たとき、イスラエルはその地を偵察すべく12人のスパイを送るのですが、そのうちの10人は否定的な情報をもたらし、そのことを信じたイスラエルの民は嘆き悲しみました。彼らは主のみことばに従いませんでした。主は「上って行って、そこを占領せよ。」と言われたのに、彼らは民のことばを信じておびえてしまったのです。それでイスラエルはその後38年間も荒野をさまよってしまうことになりました。ただヌンの子ヨシュアとカレブだけが主に従い通したので、後に約束の地に入ることができましたが、その他の20歳以上の男子はみな荒野で死に絶えてしまいました。しかし、その出来事がここには全く記録されていません。不思議です。いったいなぜでしょうか。民数記12:16には、「ハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した」とあり、13:26には、「パランの荒野のカデシュ」とあるので、この二つの荒野の近くにあったのがこのリテマではないかと考えられているからです。つまり、このリテマこそがカデシュ・バルネアではないかと考えられているからなのです。

 

  1. 第三段階~リテマからホル山~(19-40)

 

次に、19節から40節までをご覧ください。「19 リテマを旅立ってリンモン・ペレツに宿営し、20 リンモン・ペレツを旅立ってリブナに宿営した。21 リブナを旅立ってリサに宿営し、22 リサを旅立ってケヘラタに宿営し、23 ケヘラタを旅立ってシェフェル山に宿営した。24 シェフェル山を旅立ってハラダに宿営し、25 ハラダを旅立ってマクヘロテに宿営した。26 マクヘロテを旅立ってタハテに宿営し、27 タハテを旅立ってテラフに宿営し、28 テラフを旅立ってミテカに宿営した。29 ミテカを旅立ってハシュモナに宿営し、30 ハシュモナを旅立ってモセロテに宿営した。31 モセロテを旅立ってベネ・ヤアカンに宿営し、32 ベネ・ヤアカンを旅立ってホル・ハ・ギデガデに宿営し、33 ホル・ハ・ギデガデを旅立ってヨテバタに宿営し、34 ヨテバタを旅立ってアブロナに宿営し、35 アブロナを旅立ってエツヨン・ゲベルに宿営した。36 エツヨン・ゲベルを旅立ってツィンの荒野、すなわちカデシュに宿営し、37 カデシュを旅立ってエドムの国の端にあるホル山に宿営した。38 祭司アロンは主の命によりホル山に登り、そこで死んだ。それは、イスラエルの子らがエジプトの地を出てから四十年目の第五の月の一日であった。39 アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。40 カナンの地のネゲブに住んでいたカナン人、アラドの王は、イスラエル人がやって来るのを聞いた。」

 

ここには、そのリテマからホル山までの旅程が記されてあります。これがいつの出来事なのかははっきりしていませんが、おそらくカデシュ・パルネアでの出来事の後の38年に及ぶ旅程ではないかと思われます。エジプトを出てから40年目の第五の月の一日に、アロンはこのホル山で死にました。それはメリバの水の事件(民数記20:11)で、モーセとアロンが主に従わなかったからです。それで彼らは約束の地に入ることができませんでした。

 

  1. 第四段階~ホル山からモアブの草原まで~(41-49)

 

イスラエルの旅程の最後は、ホル山からモアブの草原までの道のりです。41節から49節までをご覧ください。「41 それから、彼らはホル山を旅立ってツァルモナに宿営し、42 ツァルモナを旅立ってプノンに宿営し、43 プノンを旅立ってオボテに宿営し、44 オボテを旅立ってモアブの領土のイエ・ハ・アバリムに宿営した。45 イイムを旅立ってディボン・ガドに宿営し、46 ディボン・ガドを旅立ってアルモン・ディブラタイムに宿営した。47 アルモン・ディブラタイムを旅立って、ネボの手前にあるアバリムの山々に宿営し、48 アバリムの山々を旅立って、エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原に宿営した。49 すなわち、ヨルダン川のほとり、ベテ・ハ・エシモテからアベル・ハ・シティムに至るまでのモアブの草原に、彼らは宿営した。」

 

彼らはホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った(民数記21:4)ので、まず南に下り、エツヨン・ゲベルまで南下して、次いで、エドムを避けながらプノンまで北上したものと思われます。そして、やっとの思いで今、約束の地に入る手前まで来たのです。

 

それにしても、いったいなぜここで40年間の荒野の旅路を書き記す必要があったのでしょうか。これは主の命令であったとありますから、そこには何らかの主の意図があったものと思われます。おそらくそれは、それが力強い主の御手によって導かれたことを示すねらいがあったのでしょう。それは「旅立って、宿営した」という言葉が何回も繰り返されていることからもわかります。彼らは雲の柱と火の柱によって導かれました。彼らはその時は、雲しか見えなかったかもしれません。夜は火の柱しか見えません。けれども、振りかえれば、主が行なわれた道を辿ることができたのです。

 

また、これが私たちの信仰の歩であることを示すためだったのでしょう。私たちの信仰生活は、このイスラエルの荒野の40年の旅程に見られるように、まさに「旅立って、宿営し、そして所有する」生活なのです。へブル11:8には、アブラハムが信仰によって相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行ったことが記されてあります。なぜでしょうか。彼は堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいただければからです。「13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」(へブル11:13~16)

これが、私たちの信仰生活です。私たちは、この地上では旅人であり、寄留者であるにすぎません。私たちが目指すのは、天の故郷です。そこに至るまでには実にさまざまな出来事が起こりますが、それでも私たちが前進して行くのは、もっと良い故郷、天の故郷を目指しているからです。ですから、たとえこの地上でさまざまなことが起こっても、それでも私たちは天の故郷を目指して、「旅立って、宿営し、そして所有する」のです。この地上の旅で一喜一憂してはなりません。それよりもはるかにすぐれた天の故郷を仰ぎ見て、この地上の旅路を進んでいかなければならないのです。

私たちにはわからないことがあります。でも、確かに主は雲の柱と火の柱をもって導いておられます。主の御手がいつも私たちの上に置かれているのを見て、信仰をもってそれにすべてをゆだねつつ、信仰の旅路を歩ませていただきたいと思います。

 

Ⅱ.カナンの地に入るとき(50-56)

 

 最後に50節から56節までをご覧ください。「50 エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げられた。51 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがヨルダン川を渡ってカナンの地に入るときには、52 その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払って、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳像をすべて粉砕し、彼らの高き所をすべて打ち壊さなければならない。53 あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住め。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。54 あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地とせよ。大きい部族には、その相続地を大きくし、小さい部族には、その相続地を小さくしなければならない。くじで当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。55 もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、脇腹の茨となり、彼らはあなたがたが住むその土地であなたがたを苦しめる。56 そしてわたしは、彼らに対してしようと計画したとおりを、あなたがたに対してすることになる。」」

 

ここには、カナンの地に入る時に守るべき事項が語られています。それは、その地の住民をことごとく彼らの前から追い払うようにということです。彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造もすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、打ち壊さなければなりません。なぜでしょうか?それは、それが主の土地であって、彼らが所有するように、主が彼らに与えてくださったものだからです。すなわち、それは主の聖なる地であるからです。そこに、他の神々があってはならないのです。だから、それらを徹底的に粉砕しなければなりません。そうでないと、その偶像が彼らを悩ますようになるからです。事実、ヨシュアの死後、彼らはその地の住民を追い払わなかった結果、偶像礼拝に引きずり込まれる結果となりました(士師2:11,12)。敵に苦しめられ、神にさばきつかさが与えられますが、やがてまた偶像に引かれていくことを繰り返すようになるのです。それは特に士師の時代に著しいですが、イスラエルが偶像と全く縁を切ることができなかったことはその歴史が証明しています。

 

私たちの住むこの日本の社会のおいても、こうした異教的な風習がたくさんありますが、主に贖われたものとして、聖なる者として、そうしたものに心が奪われることがないように、それらを取り除いていくことが求められています。このくらいはいいだろうと妥協せず、汚れから離れ、何が良いことで、神に受け入れられるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。(ローマ12:2、Ⅱコリント6:14-18)。

民数記32章

民数記32章

 

きょうは民数記32章から学びます。

 

Ⅰ.ルベン族とガド族の願い(1-15)

 

まず1~5節をご覧ください。「1 ルベン族とガド族は、多くの家畜を持っていた。それは、おびただしい数であった。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所は家畜に適した場所であった。2 そこでガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザル、および会衆の上に立つ族長たちのところに来て、次のように言った。3 「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン、4 主がイスラエルの会衆の前で打ち滅ぼされたこれらの地は、家畜に適した地です。そして、しもべどもには家畜がいます。」5 また言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうか、しもべどもがこの地を所有地として賜りますように。私たちにヨルダン川を渡らせないでください。」

 

26章から、イスラエルが約束の地に入るための備えが語られていますが、その時、ルベン族とガド族からモーセと祭司エリアザルに一つの願いが出されました。それは、ヨルダン川の東側にあったヤゼルの地とギルアデの地を自分たちに与えてほしいということでした。なぜなら、そこは家畜に適した地だったからです。彼らは非常に多くの家畜を持っていたので、ヨルダン川を渡らないでその地に住むことができればと思ったのです。前回学んだように、彼らはミデヤン人たちからの戦利品として多くの家畜が与えられました。「ヤゼルの地とギルアデの地」は、彼らがエモリ人シホンを打ち破った時に占領したところです。モアブの地であるアルノン川からヤボク川までがヤゼル、ヤボク川からガリラヤ湖の南端へ走っているヤムルク川までがギルアデの地です。

 

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。6~15節までをご覧ください。「6 モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたはここにとどまるというのか。7 どうして、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか。8 あなたがたの父たちも、私がカデシュ・バルネアからその地を調べるために遣わしたとき、そのようにふるまった。9 彼らはエシュコルの谷まで上って行って、その地を見たとき、イスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地に入って行かないようにした。10 あの日、主は怒りに燃え、誓って言われた。11 『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはない。わたしに従い通さなかったからである。12 ただ、ケナズ人エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らが主に従い通したからである。』13 事実、主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを四十年の間、荒野をさまよわせ、主の目に悪であることを行ったその世代の者たちは、ついに、みな死に絶えた。14 そして今、あなたがたが、罪人の子らとしてあなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りを増し加えようとしている。15 あなたがたが背いて主に従わないなら、主は再びこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたは、この民全体に滅びをもたらすことになるのだ。」」

 

モーセは怒って言いました。彼らの兄弟たちは戦いに出て行くというのに、彼らはそこにとどまろうとすることで、イスラエル人の意気をくじくことになると思ったからです。それはかつてカデシュ・バルネアからその地をさぐらせるために12人の偵察隊を遣わしたときの振る舞い同じです。神が、上って行ってそこを占領せよと仰せられたのに、彼らは従いませんでした。10人の偵察隊は、そこには大きくて、強い敵がいるから難しいと言って、彼らの戦意をくじきました。その結果彼らは、四十年の間荒野をさまようことになってしまいました。それと同じだというのです。もし主のみことばに背いて従わなければ、主はまたこの民を見捨てられることになります。それは、全く自己中心的な願いでした。

 

主がヨルダン川東岸の民を追い出されたのは、彼らがそこに定住するためではありませんでした。それは彼らがイスラエルに敵対し、戦いを挑んできたためです。また、主が彼らの家畜を増やされたのもそこに住むためではなく、彼らが約束の地で生活するためでした。彼らが住むところはあくまでもヨルダン川を渡った先にあるカナン人の地でした。それなのに彼らは、たまたまその地が住むのに良さそうだからという理由で、それを自分のものにしようとしたのです。

  このようなことは、私たちにもよくあるのではないでしょうか。神様のみこころよりも、自分の思いや都合を優先してしまうことがあります。でも、もし自分の願いを優先して主のみこころに蔦川無ければ、それはこのルベン族やガド族と同じです。今の状態のままでいたい、前進する必要はない。このままここに留まっていたいというのは、ここでルベン族とガド族が言っていることと同じことなのです。私たちはもう一度考えなければなりません。自分が救われたのは何のためかを。それは自分の願いをかなえるためではなく、神のみこころを行うためなのです。

 

Ⅱ.ルベン族とガド族の誓い(16-32)

 

それに対して、彼らは何と言ったでしょうか。16~19節をご覧ください。「16 彼らはモーセに近寄って言った。「私たちはここに、家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。17 しかし私たちは、イスラエルの子らを彼らの場所に導き入れるまで、武装して先頭に立って急ぎ進みます。子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。18 私たちは、イスラエルの子らがそれぞれその相続地を受け継ぐまで、自分の家に帰りません。19 ヨルダン川の向こう側では、彼らとともに相続地を持ちません。私たちの相続地は、このヨルダンの川向こう、東の方になります。」」

 

それを聞いた彼らは、自分たちはイスラエルが約束の地に入るまで、武装して、先頭に立って戦うと明言しました。イスラエル人がおのおのその相続地を受けるまで、自分たちの家には帰らないと言ったのです。皆さん、どう思いますか。これは一見、主のみこころに従っているようですが、根本的なところでは全然変化がありません。結局、ヨルダン川東岸を自分の土地にしたいという思いに変わらないのですから。自分たちを完全に明け渡していないのです。もし完全に明け渡していたならば、自分の思いは脇に置いておいて、まず主のみこころに従って前進して行ったことでしょう。その後で、主は何を願っておられるのかを祈り求めて行動したはずです。それなのに彼らは、あくまでも自分たちの土地を確保した上で、ヨルダン川を渡って行こうとしました。それは条件付きの従順です。それは主が求めておられることではありません。主が求めておられるのは、無条件で従うことです。その後のことは主が最善に導いてくださると信じて、主にすべてをゆだねることなのです。

 

このようなことは、私たちにも見られます。なかなか自分を主に明け渡すことができません。そしてこのように条件を付けて、少し距離を取りながら、自分の願いをかなえようとすることがあります。そして付け足すかのように少しお手伝いをして、あたかも主に仕えているかのように振る舞うのです。表面的には主に従っているようでも、実際には自分の思いを捨てることができないのです。人はうわべを見るが、主は心を見られます。大切なのは、私たちがどのような動機で主に仕えているかということです。聖霊によって心の深いところにある動機を探っていただく必要があります。そして、純粋に主に従う者でありたいですね。

 

それでモーセはどうしたでしょうか。20~32節をご覧ください。「20 モーセは彼らに言った。「もしあなたがたがそのことを実行するなら、すなわち、もし主の前で戦いのために武装し、21 あなたがたのうちの武装した者がみな主の前でヨルダン川を渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、22 その地が主の前に征服され、その後であなたがたが帰って来るなら、あなたがたは主に対してもイスラエルに対しても責任を解かれる。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。23 しかし、もしそのように行わないなら、そのとき、あなたがたは主の前に罪ある者となり、自分たちの身に降りかかる罪の罰を思い知ることになる。24 あなたがたは、自分の子どもたちのために町々を建て、自分の羊のために囲い場を作るがよい。自分の口から出たことを実行しなさい。」25 ガド族とルベン族はモーセに答えた。「しもべどもは、あなたが命じられるとおりにします。26 私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての動物は、あそこ、ギルアデの町々にとどまります。27 しかし、しもべども、戦のために武装した者はみな、あなたがおっしゃるとおり、渡って行って、主の前で戦います。」28 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエルの諸部族の一族のかしらたちに命令を下した。29 モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の、戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダン川を渡り、主の前で戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。30 しかし、もし彼らが武装してあなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」31 ガド族とルベン族は答えた。「主があなたのしもべたちに語られたことを、私たちは実行いたします。32 私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行き、私たちの相続の所有地を、このヨルダンの川向こうとします。」」

 

それでモーセは、もし彼らが主の前に戦いの武装をし、ヨルダン川を渡って、その敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服された後に帰るのであればいいと、彼らの申し出を受け入れました。これはどういうことでしょうか。なぜモーセは彼らの申し出を受け入れたのでしょうか。はっきりした理由はわかりません。しかし、20~23節に何回も繰り返して使われていることばがあります。それは「主の前に」ということばです。

「もしあなたがたがそのことを実行するなら、すなわち、もし主の前で戦いのために武装し、あなたがたのうちに武装した者がみな主の前でヨルダン川を渡り、・・・その地が主の前に征服され、・・・そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。しかし、もしそのようなことを行わないなら、そのとき、あなたがたは主の前に罪ある者となり、・・・」

つまり、彼らが「主の前に」どうであるかが問われていたのです。その主にすべてをゆだねたのです。

私たちもイスラエルのように、自分に都合がいいように考え、自分に都合がいいように行動するような者ですが、最終的に「主の前に」どうなのかが問われているのです。

 

Ⅲ.新しい名を付けたガド族とルベン族 (33-42)

 

その結果どうなったでしょうか。33~42節をご覧ください。「33 そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族に、アモリ人の王シホンの王国とバシャンの王オグの王国、すなわち町々がある地と、周辺の地の町々がある領土を与えた。34 そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、35 アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、36 ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。37 また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、38 および、後に名を改められたネボとバアル・メオン、またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。39 マナセの子マキルの子らはギルアデに行って、そこを攻め取り、そこにいたアモリ人を追い出した。40 モーセがギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住んだ。41 マナセの子ヤイルは行って、彼らの町々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。42 ノバフは行って、ケナテとそれに属する村々を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。」

 ここに、ヨセフの子マナセの半部族も加わっていることがわかります。モーセは、ガド族とルベン族とマナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土を与えました。彼らは自分たちのために町を建て、その建て直した町々に新しい名をつけましたが、それはすべて自分たちの名前にちなんでつけました。神ではなく自分の名前です。ここに彼らの本心が表れています。主のみこころを求めるのではなく、自分のことで満足しているとしたら、結局それは自分自身を求めていることになります。

 

そうした自分中心の信仰には、やがて必ず主のさばきがあることを覚えておかなければなりません。彼らはモーセに約束したように、確かにヨルダン川を渡って、他の部族とともに戦いました。そして、ヨルダン川の東側を自分たちの所有としました。しかし、その後どうなったでしょうか。イスラエルがカナンを占領して後、ダビデ王による統一王国となりますが、その後、国は二分され(B.C.931)、ついにアッシリヤ帝国によって滅ぼされることになります(B.C.722)。その時最初に滅ぼされたのがガド族とルベン族でした。彼らはイスラエル12部族の中で最初に捕囚の民となったのです。そして主イエスの時代には、そこはデカポリスという異邦人の地になっていました。マルコの福音書5章には、イエスがゲラサ人の地に行ったときそこで汚れた霊につかれた人から霊を追い出し、それを豚に乗り移させたという記事がありますが、それがこのデカポリス地方、ゲラサ人の地、ガダラ人の地だったのです。この「ガダラ人の地」とはガド族の人々の土地という意味で、そこには悪霊がたくさんいました。そこはユダヤ人が豚を飼うほど異教化していたのです。

 

ですから、私たちの信仰生活においても、自分の満足を求めるだけで神のみこころに歩もうとしなければ、このガド族やルベン族が歩んだのと同じ道をたどることになります。そのことを覚えて、ますます主のみこころに歩んでいきたいと思います。

エレミヤの涙 エレミヤ書8章18~22節

聖書箇所:エレミヤ書8章18~22節(エレミヤ書講解説教18回目)
タイトル:「エレミヤの涙」

きょうは、エレミヤ書8章後半から「エレミヤの涙」というタイトルでお話します。前回のところで主は、エレミヤを通して「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか」と、自然の法則を用いて語られました。しかし、彼らは主のもとに帰ろうとしませんでした。「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言って、主のことば、主の招きを拒んだのです。その結果、主は彼らにさばきを宣告されました。12節にあるように、「彼らは倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる」ことになったのです。具体的には、バビロン軍がやって来て、エルサレムとその住民を食らうことになります。17節にある「まじないの効かないコブラや、まむし」とはそのことです。神様はバビロン軍を送って、彼らを食い尽くすと宣言されたのです。

それを聞いたエレミヤはどうなったでしょうか。18節をご覧ください。ここには「私の悲しみは癒されず、私の心は弱り果てている。」と言っています。エレミヤは、同胞イスラエルの民が滅びることを思って死ぬほどの悲しみに押しつぶされました。彼はとても複雑な心境だったと思います。こんなに神様のことばを語っているのに受け入れず、耳を傾けようとしなかったのですから。普通なら「だったら、もう勝手にしなさい!」とさじを投げてもおかしくないのに、その悲惨な民の姿を見てエレミヤ自身が涙しているのです。それは、エレミヤがユダの民と一体となって民の苦しみを、自分の苦しみとして受け止めていたからです。それは神に背き続ける民に心を痛め、嘆きながらも、それでも彼らをあきらめずに愛される神様の思いそのものを表していました。きょうはこのエレミヤの涙から、神に背き続ける民に対する神の思い、神の愛を学びたいと思います。

 

Ⅰ.民の思い違い(18-19)

 

まず、18~19節をご覧ください。「18 私の悲しみは癒やされず、私の心は弱り果てている。

8:19 見よ。遠い地から娘である私の民の叫び声がする。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」」

 

19節の「遠い地から」とは、バビロンのことを指しています。ユダの民はバビロンに連行されて行くことになります。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。実際にはこの後に起こることですが、エレミヤは預言者として、その時のユダの民の姿を幻で見ているのです。彼らはそこで悲しみ、嘆いています。そして、このように叫ぶのです。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、そこにおられないのか。」どういうことでしょうか。

「シオン」とはエルサレムのことです。これは7章に出てきた民のことばに対応しています。7:4で彼らは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。」と叫びました。エルサレムには主の宮があるではないか、だったら滅びることがないという間違った思い込みです。これは彼らの勝手な思いに基づくものでした。そこにどんなに主の名が置かれている神殿があったとしても、主のことばに従い、行いと生き方を改めなければ何の意味もありません。それなのに彼らは、ここには主の宮があるから大丈夫だ、絶対に滅びることはないと思い込んでいたのです。それなのにそのシオンは滅ぼされ、神の民はバビロンに連行されて行きました。いったいどうしてそのようになったのか、主はシオンにおられないのかと嘆いているのです。

 

それに対して主は何と言われたでしょうか。19節の次の「」のことばを見てください。ここには、「なぜ、彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」とあります。これは主なる神様の御声です。民の叫び、嘆きに対して、主が答えておられるのです。つまり、主がシオンにおられるかどうかということが問題なのではなく、問題は、彼らが犯していた偶像礼拝にあるというのです。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、主の怒りを引き起こしていました。それなのに、「主はいないのか」というのはおかしいじゃないかというのです。思い違いをしてはいけません。主の宮があれば何をしてもいいということではありません。たとえそこに主の宮があっても、偶像礼拝をしていたら、むしろ神の怒りを引き起こすことになります。それは神様の問題ではなく、神の民であるイスラエルの問題であり、彼らの勝手な思い違いによるものだったのです。

 

このことは、私たちにも言えることです。時として私たちも何らかの問題が起こると、自分の問題を棚に上げ神様のせいにすることがあります。「もし神様がおられるのなら、どうしてこのようなことが起こるんですか」「神様が愛のお方なら、このようなことを許されないでしょう。」と叫ぶことがあります。でも私たちはそのような問いが正しいかどうかを、自分自身に問うてみなければなりません。自分が神様に従っていないのに、あたかも問題は自分にではなくだれか他の人であったり、神様のせいにしていることがあるのではないでしょうか。

 

たとえば、ここには偶像礼拝について言及されていますが、イスラエルの民は、それぞれ自分の思いつくものを拝んでいました。彼らは自分たちが刻んだ像、異国の空しいものによって、神の怒りを引き起こしていました。2:27には「彼らは木に向かって、『あなたはわたしの父』、石に向かって『あなたはわたしを生んだ』と言っている。」とありますが、木や石に向かってそのように言っていました。当時のイスラエルは農業に依存していたので、私たち以上に天気には敏感だったでしょう。ですから、神の民が約束の地に入った時も、土着の宗教であったバアルやアシュタロテといった偶像に惹かれて行ったのも理解できます。自分たちの生活とかいのちに直接影響を与えるようなものに、しかも目に見えるものに、だれでも頼りたくなりますから。これは昔だけでなく今でもそうです。たとえば、健康のことや経済のこと、あるいはこれから先のことで多くの人は不安を抱えています。だからこそこの天地を造られた神様を頼ればいいものを、そうは問屋は降ろさないわけです。目に見える何かに頼ってしまいます。昔ならバアルやアシュタロテといった偶像でしょうが、現代ではそれが姿を変え、たとえば自分の力や努力であったり、お金であったり、健康であったりするわけです。母が生きていた時の口癖があります。それは「健康が一番だ!」という言葉です。クリスチャンになってからもしょっちゅう言っていました。「健康一番!」確かに健康は大切なものですが、その健康でさえ神様からの贈り物だということをすっかり忘れています。健康も経済も、すべて神からの賜物なのです。詩篇127:1~2にこうあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の働きは空しい。あなたが朝早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に、主は愛する者に眠りを与えてくださる。」(詩篇127:1-2)

新改訳改訂第3版では、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」と訳されています。主は愛する者には、眠っている間に、このように添えてくださるのです。

 

今週は修養会が持たれますが、テーマは「教会を建て上げる喜び」です。教会が神の家族としてしっかりと建て上げられるように、そして、神様のご計画の中心であるより多くの教会を建て上げていくための心構えを学びます。そのためには働き人が必要ですね。イエス様も言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 と。ですから、私は毎日そのために祈っていますが、これってそう簡単なことではありません。

しかし、先月娘の結婚式でシカゴに行ったとき、日曜日に近くの教会に行った時のことです。Faith Bible Churchという教会でした。すると礼拝後に、1人の若い青年が私たちのところに来て挨拶してくれました。彼はHenryという名前の人で、高校を卒業したばかりでこれからムーディー聖書カレッジで学ぶために備えているということでした。彼は小さい時から宣教師になるように召されていて、その少し前にも南米エクアドルに短期宣教に出かけて帰って来たばかりだと話していました。でも自分の母親がラオスの出身ということで、いつかアジアの国々、特に中国か、韓国か、日本に、宣教師として行きたいと教えてくれました。礼拝後に昼食会があったので参加したら彼のお母さんがやって来て、彼にどんなにタラントが与えられているかを教えてくれました。語学は英語とスペイン語のほかにラオス語、中国語ができます。スポーツも得意で特にバレーボールでは全米の大会に出場したほどです。そればかりか音楽も得意でヴァイオリンも弾くことができ、大学に行ってからは交響楽団に所属することになっていると教えてくれました。何でもできる優秀に人材を、神様は宣教師のために備えておられることを知ったとき、私は、あの聖書のことばを思い出したのです。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」私たちは何でも自分の力で何とかしようとしますが、そこには神様がいません。主が家を建てるのでなく、自分で建てようとしている。それは偶像礼拝と同じです。そうした偶像を抱えながら、「主はシオンにおられないのか」と言うのはおかしいのです。

 

私たちはそうした思い違いをしないように気を付けなければなりません。神様を自分の手の中に収められるかのように思いそれを言い訳にして嘆くのではなく、神様を神様として、その神様を恐れ、神様に従っているかどうかということを吟味しなければならないのです。

 

Ⅱ.エレミヤの涙(20-21)

 

次に、20~21節をご覧ください。イスラエルの民の嘆きが続きます。次に彼らはこのように嘆いています。20節、「20 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

エレミヤは、さらに預言者の目で将来を見ています。ユダの民は、捕囚の民となった自らの運命をこう嘆いています。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。しかし、私たちは救われない。」

何とも悲しい詩です。これほど悲しい詩はありません。「刈り入れ時」とは、春の刈り入れ時のことを指しています。春の刈り入れの時が過ぎ、夏が過ぎても私たちは救われていないと嘆いているのです。収穫の時が来ているのに収穫の喜びがありません。つまり、捕囚の状態から解放されていないということです。

 

その民の嘆きを見たエレミヤは何と言っていますか。21節です。彼はこう言っています。「娘である私の民の傷のために、私は傷ついた。うなだれる中、恐怖が私をとらえる。」

エレミヤは、民が傷ついているのを見て、深い悲しみに襲われました。決して他人事とは思えないのです。民が傷ついているのを見て、自分も傷つき、悲しみに打ちひしがれました。もう感情を抑えることなどできません。そのこみ上げてくる感情を、ここでさらけ出しているのです。涙とともに・・。

 

9:1を見ると、そのことがよくわかると思います。9:1でエレミヤはこう言っています。「ああ、私の頭が水であり、私の目が涙の泉であったなら、娘である私の民の殺された者たちのために昼も夜も、泣こうものを。」

エレミヤは民の救いのために生きていました。それなのに、その民が目の前で死んでいくのです。それを見た彼は、ただ泣くしかありませんでした。彼が泣き虫だったからということではありません。同胞が死んでいくのを見てあまりにも悲しくて涙が止まらなかったのです。私はあまり泣きません。あまり泣かないので涙腺が乾いてドライアイになったほどです。時々テレビを見ていて感動して涙を流すことがありますが、そういう時でも妻にわからないようにそっと鼻をすすります。まして、人前で泣くことはほとんどありません。どこか恥ずかしいという思いがあるんでしょうね。でもエレミヤはそういうレベルではありませんでした。泣くとか、泣かないとかということではなく、泣かずにはいられなかったのです。同胞イスラエルの民のことを思うとあまりも悲しくて、あまりにも辛くて、涙が溢れてきたのです。信仰ってこういうことだと思うのです。信仰とはただことばだけではなく、それを全身で受け止めるというか、心で感じることなのです。

 

エレミヤは、4:19で何と言いましたか。「私のはらわた、私のはらわたよ、私は悶える。私の心臓の壁よ、私の心は高鳴り、私は黙っていられない。」と言いました。それはこういうことだと思うんです。彼はユダの民に対する神のさばきが下るということを聞いたとき、はらわたが悶えると表現しました。はらわたが引き裂かれるような思いであったということです。それはエレミヤにとって耐えがたいほどの苦しみであり、耐えがたいほどの悲しみだったからです。エレミヤはそれを、自分の苦しみとして受け止めたのです。

 

それは私たちの主イエスもそうでした。ルカ19:41には、「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。」とあります。都とはエルサレムのことです。イエス様はラザロが死んだときも涙を流されましたが、ここでも、神の都エルサレムのために泣かれました。やがてエルサレムが滅ぼされてしまうことを知っておられたからです。この「泣く」とことばは、テレビを見て感動して涙を流すというようなレベルではなく、大声を出して泣くという意味です。一人の男が皆の前で、大声で泣いているのです。それは、エルサレムが滅ぼされることになるからです。実際エルサレムは、イエス様がこの預言を語られてから30年後に、ローマによって滅ぼされることになります。そのことを知っておられたイエス様は大声で泣かれたのです。エレミヤもそうでした。エレミヤも、この時から約20年後にエルサレムがバビロンによって滅ぼされ、神の民が捕囚の民としてバビロンで苦しむ姿を見た時、大声で泣いたのです。ただイエス様の場合は、それを見て深く悲しみ、涙を流されただけではありませんでした。イエス様は人々の痛みや悲しみをその身に負われました。ツァラアトという重い皮膚病の人がご自分の前に来た時には、感染するかもしれないという恐れの中でも、深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、こう言って癒されました。「わたしの心だ、きよくなれ。」(マルコ1:41)いわゆる濃厚接触ですね。コロナの感染が収まらずソーシャルディスタンスが叫ばれている今では考えられないことです。またイエス様は、当時差別されていた罪人や取税人たちと一緒に食事をされました。これも濃厚接触です。イエス様は罪に病んでいる人を見てただあわれまれたというだけでなく、その傷を癒すために、自ら肉体を取ってこの地上に来てくださり、その痛みを一身に受けられたのです。イエス様は天国からテレワークをされたわけではありません。イエス様は神様ですからテレワークも出来たでしょう。でも神の子は罪人と同じ姿を取られ、罪人に触れて罪人を癒してくださいました。そして最後はその罪をご自身の両肩に十字架を負ってくださり、神の怒りを私たちに代わって死んでくださいました。それが私たちの主イエスです。ただ遠くから見つめているだけではありませんでした。痛み、悲しみ、悩み、苦しんでいる人と同じ姿となりそれを共に担うこと、それが愛です。それが信仰なのではないでしょうか。エレミヤがここでこんなにも痛み、苦しみ、うなだれ、絶望したのは、民の痛みを負い、それを自分のこととして担ったからでした。あなたはどうでしょうか。そのような魂への情熱があるでしょうか。そのような愛を実践しているでしょうか。

 

1800年代半ば、南アフリカで宣教したアンドリュー・マーレ―は、宣教を「教会の究極のもの」と考え、南アフリカのリバイバルに貢献しました。そのアンドリュー・マーレ―が、次のようなことばを残しています。

「ああ、魂が滅びつつあるというのに、私は何と安楽に満足して生活していることだろうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちは何と少ししか感じることができなかったのだろうか。私たちの心に休むことができなかったほどに、魂への情熱が満ち溢れていたならば、私たちは今の私たちと非常に違った存在になったであろうに。」

アンドリュー・マーレ―のことばです。魂が滅びつつあるというのに、私たちは自分さえよければいいと思っています。自分さえ天国に行けるならそれでいいと思っているのです。あとは気楽に何不自由のない生活ができればそれでいいと。でも実際にイエス様を信じなければ、彼らの魂は滅んでしまいます。それなのに、何と安楽に満足した生活をしていることでしょうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情したのと同じ感情を、私たちはあまり感じてはいないのではないでしょうか。魂への情熱が満ち溢れていたら、今の自分とは非常に違った存在になるのではないかと、アンドリュー・マーレ―は言ったのです。あなたはどう思いますか。

 

第二次世界大戦時に、ナチスによって処刑されたドイツの神学者にボンヘッファーという人がいました。彼はヒトラーの暗殺計画に関わって、ドイツ敗戦の直前に39才の若さで処刑されました。ヒトラー暗殺計画ですから殺人計画に加わったということになります。そのことについて彼は後にこう言っています。「目の前に暴走しているトラックがあり、そのトラックが次々と人を跳ねていたら、その運転席から運転手を引きずり降ろさないだろうか。あなたはどう思うか。」そういう言い方をしています。私たちも彼の生き方をどう捉えるかが問われるわけです。

実は、彼はアメリカに亡命するチャンスがありました。1936年6月に、アメリカの著名な神学者にラインホルド・二―バーという人がいて、彼に招かれてアメリカに渡りました。そこで仕事を紹介され、働く道も用意されていました。それは、若くて将来が期待されていたボンヘッファーが殺されてしまうことを心配したニーバーが、配慮してくれたことによるものでした。その時の日記が残っています。1939年6月13日の日記にボンヘッファーはこう記しています。

「今まで蛍など見たことがなかった。全くファンタジーに溢れた光景だ。非常に心のこもった、肩ひじ張らないもてなしを受けた。にもかかわらず、ここで自分に欠けているのは、ドイツと兄弟たちだった。初めて一人で過ごした時間が、重苦しくのしかかってくる。どうしてここに自分がいるのか理解に苦しむ。たとえそれに深い意味があったとしても、また、償って余りあろうとも、毎晩最後に行き着くところは、聖書日課と故郷に残してきた仕事への思いである。祖国(ドイツ)のことについて何の知らせも受けずに過ごすようになってから、かれこれもう2週間になる。これはほとんど耐え難いことだ。」

ボンヘッファーには、ドイツの人たちを祖国に残してアメリカに来たことに対する疑問と、自責の念があったのです。それで彼はドイツに戻る決断をします。そして、ニーバーに宛てて手紙を書き送るのです。そこにはこう書きました。

「もし私がこの時代の試練を同胞と共に分かち合うことをしなかったら、私は戦後のドイツにおけるキリスト教の再建に与る権利を有しないでしょう。」
 彼は、旧約聖書と新約聖書の聖書日課を読んでいましたが、ある日読んだ聖書箇所にこう書かれてありました。「何とかして冬になる前に来てください。」(Ⅱテモテ4:21)これはパウロがテモテに宛てて書いた手紙のことばです。「冬になる前に来てほしい」。ボンヘッファーは、これを自分に語られたことばとして受け止めたのです。

彼はドイツ人の苦しみを背負って生きようとしました。私たちも小さなキリスト者ですが、キリスト者という名前を持っている者です。エレミヤは預言者として民の苦しみを負って生きましたが、私たちも小さなキリスト者として、この社会であったり、自分の家であったり、教会であったり、それぞれ置かれたところで、その破れ口に立ち、その痛みや苦しみを共に負い、祈り、キリスト者としての務めを全うさせていただきたいと思うのです。

 

エレミヤはこの苦しみを背負うことで、お腹が痛くなったり、もだえ苦しんだり、泣けてきたりしましたが、苦しみや悲しみを負うということはそういうことだと思うんです。私たちはそこから逃れることはできないし、逃れてはいけないと思います。なぜなら、イエス様は私たちのために十字架を負ってくださったからです。そのイエス様に従って行く者に求められているのは、十字架を負うということだからです。イエス様はご自分についてくる者に、その心構えとしてこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

私たちにも、それぞれ自分の十字架があります。エレミヤもそうでした。その十字架を負ってイエス様について行くことが求められています。イエス様は十字架を通って復活されました。十字架を通らなければ復活の栄光に至ることはできません。私たちも十字架を通って復活の栄光に至る者になりたいと思うのです。

 

Ⅲ.ここに真の医者がいる(22)

 

最後に、22節をご覧ください。「乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。なぜ、娘である私の民の傷は癒えなかったのか。」

これもエレミヤのことばです。「乳香」とは、傷を癒す薬として用いられていました。「ギルアデ」は、ヨルダン川の東側の地域のことです。そこには傷を癒す乳香がありましたが、その乳香がないのか、どうして癒すことができないのかと、そのもどかしさを表現しているのです。また、傷口を癒すことができる医者はいないのかと嘆いています。皆さん、どうですか。民の傷を癒す薬はないのでしようか。その傷を癒すことができる医者はいないのでしょうか。います!それは私たちの主イエス・キリストです。私たちの主イエスは、私たちの罪のための苦しみ、すべての傷をいやすことができます。なぜなら、イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださったからです。私たちは、ギルアデの乳香によってではなく、主イエスの打たれた傷、流された血潮によって癒されるのです。その結果、私たちは罪と悪魔の支配から完全に解放されます。

 

それなのに私たちはなかなか主の許に行こうとしません。目の前に治療の手段があるのに、それを用いようとしないのです。残念ですね。救いは目の前にあるのに、癒しは目の前にあるのに、罪の赦しはすぐそこくにあるのに、解決は目の前にあるのに、それを受け取ろうとしないのです。

神様はどんな病気でも癒すことができます。どんな罪でも赦すことができます。どんな問題やトラブルでも解決することかできます。でも神様がどんなに薬を提供しても、どんなにすばらしい治療を約束しても、それを受けなければ癒されることはできません。

 

イエス様はこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)

これは、健康な人には医者はいらないということではありません。というのは、すべての人が罪という病にかかっているからです。すべての人に魂の医者が必要です。しかし、その癒しを求めて医者のもとに行こうとする人はごく僅かです。自分が病気だと認めなければその必要性を感じないからです。病気なのに病気じゃないと思っている。そういう人は気が付いたときにはもう手遅れになってしまいます。もっと早く診てもらっていたらこんなことにはならなかったのに、ちゃんと検査していたらもっと早く発見して治療することができたのに、後悔してもしきれません。自分が病気だと認めさえすれば、もっと素直になっていれば、治るものもあったのです。病気を認めようとしない人たち、罪を認めようとしない人たちは、自分の罪の中に死んでいくことになります。イエス様は、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来られました。そのイエス様があなたの目の前におられるのです。ですから、いつでもすがることができるし、いつでも助けを求めることができます。もしあなたが頑なにならないで、心を開いて、素直になるなら、主はあなたの傷も癒してくださるのです。

 

あるセミナーでの話です。講師が、講演の冒頭で20ドル紙幣を見せて、「欲しい人は手を上げてください。」と言いました。すると何人もの人が手を上げました。

「これをだれかに差し上げようと思いますが、まずこれをさせてください。」と、講師が言うと、講師はその紙幣をくしゃくしゃにしました。そして、「これでも欲しい人はいますか?」と聞きました。たくさんの人が手を上げました。

そこで講師は、その紙幣を床に落として、靴で踏みつけ、それから汚くなった紙幣を拾って言いました。

「さあ、これでも欲しい人がいますか?」」

すると、それでもたくさんの人が手を上げました。

それを見て、講師はこう言いました。

「今みなさんは、非常に大切な教訓を学ばれました。私がこの紙幣に何をしても、みなさんはそれを欲しいと言われました。紙幣の価値が減ったわけではないからです。私たちの人生も、くしゃくしゃになったり、踏みつけられたり、汚れたりすることがあります。時には、自分は無価値だと思うこともあるでしょう。しかし、何が起ころうとも、神様から見たあなたの価値は変わりません。私たちのいのちは、神にとってかけがいのないものなのです。

 

そうです、私たちのいのちは、神にとってかけがえのないものです。神様は、あなたがどんなに落ちても、決してあきらめたりしません。あなたを助け、あなたを癒し、あなたを救いたいのです。必要なのは、あなたがへりくだって主の御前にへりくだり、主にすがることです。そうすれば、主はあなたの傷を癒し、あなたを罪から救ってくださいます。そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。主は今もあなたのために悲しみ、痛みを負ってくださいます。その主に感謝して、主に信頼して、あなたの傷も癒していただきましょう。

倒れたら起き上がる、離れたら帰って来る エレミヤ書8章4~17節

聖書箇所:エレミヤ書8章4~17節(エレミヤ書講解説教17回目)
タイトル:「倒れたら起き上がる、離れたら帰って来る」

きょうは、エレミヤ書8:4~17のみことばからお話したいと思います。タイトルは、「倒れたら起き上がる、離れたら帰って来る」です。7章からエレミヤの第二のメッセージが語られています。語っているのは、主の宮の門のところです。エレミヤは、主の宮の門に立ち、主を礼拝するために神殿に入るすべてのユダの人々に語っています。その内容は、生き方と行いを改めよということでした。また、主の御声に聞き従えということでした。なぜなら、彼らは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言いながら、主のことばに耳を傾ないで、頑なな悪い心で歩んでいたからです。その結果彼らは、前進どころか後退していました。

今回はその続きです。信仰が後退していた彼らに、主は次のように呼び掛けられました。4節と5節です。「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか。なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。彼らは偽りを握りしめ、帰って来ることを拒む。」

神の民イスラエルは、神から離れてしまいました。神に背いてしまったのです。ではどうすれば良いのでしょうか。ここには、「人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか」とあります。それが自然の道理です。人は倒れたら起き上がり、離れたら、帰って来ます。倒れたままずっとそこにいるようなことはしません。勿論、起き上がりたくても起き上がれない場合は別ですが。しかし、そのような時でも立ち上がろうとします。けれども、神の民、ユダの民はそうではありませんでした。彼らは倒れたら倒れっぱなし、離れたら離れっぱなしでした。それはおかしいじゃないかというのです。倒れたら起き上がり、離れたら帰ってくる。それが自然の定めなのです。

「帰って来る」という言葉は、ヘブル語で「シューブ」と言いますが、実はこの4節と5節に5回も使われています。日本語で読むとわかりませんが、4節の「離れたら」という言葉がそうです。また、その後の「帰って来るものではないか」もそうです。それから、5節の「背信者」、その後の「いつまでも背信を続けているのか」、「帰って来ることを拒む」、これらはすべて「シューブ」という言葉が使われています。つまり、このことが強調されているのです。この言葉には元々「最初の出発点に戻るために反対の方向を見る」という意味があります。すなわち、本来あるべき方向から反対の方に向かって行ったら、向きを変えてかえって来るべきではないかということです。それなのに、ユダの民はかえって来ませんでした。

皆さん、私たちの人生には、つまずき倒れたり、神から離れてしまうことがあります。でも重要なのは、つまずき倒れたか、離れたかということではなく、その時にどうしたかということです。倒れたら起き上がり、離れたら立ち返ればいいのです。いったいどうしたら起き上がることができるのでしょう。どうしたら立ち返ることができるのでしょうか。きょうは、そのために必要な三つのことをお話します。

 

Ⅰ.主の定めを知る(6-7)

 

第一のことは、主の定めを知るということです。6~7節をご覧ください。「6 わたしは気をつけて聞いたが、彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って自分の悪を悔いる者は、一人もいない。彼らはみな、戦いに突き進む馬のように、自分の走路に走り去る。7 空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。」

「わたしは気をつけて聞いていたが」とは、神様のことです。神様は耳を傾けて注意深く聞いておられました。神様はいつでも耳を傾けてくださるお方です。私たちが背信者になっても、私たちが何を言うのか、何を語るのかを、注意深く聞いておられるのです。私たちは、罪を犯したり、神様から離れたりすると、なかなかこのようなイメージを持つことができません。むしろ主は遠くにおられ、自分から距離を置き、何か忌み嫌うようなものを見るような冷たい目で見ているのではないかといったイメージを持っています。しかしそうではありません。主は怒るのに遅く、あわれみ深い方です。私たちが主から離れても、主は気を付けて、私たちの叫びを聞いておられるのです。

 

それなのに、彼らはどうだったでしょうか。彼らは正しくないことを語り、「私は何をしたというのか」と言って、自分の悪を悔いようとしませんでした。むしろ、戦いに突き進む軍馬のように、滅びの道に向かって突っ走って行きました。本当に自分は情けない者だ。ふがいない。なぜこんなバカなことをしてしまったのだろう。とり返しのつかないことをしてしまった。本当に神様に申し訳ないと、悪を悔いるのではなく、自分の道に向かって走って行ったのです。

 

7節をご覧ください。ここにも、主の定めに背くユダの民の姿が描かれています。「空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。」

「こうのとり」とか、「山鳩」、「燕」、「鶴」とは、渡り鳥ことです。こうした渡り鳥は、移動する季節や自分の巣に帰る時を知っています。これは渡り鳥だけではなく、多くの動物にも言えることですが、それらはみな帰巣本能を持っているわけです。「巣」に「帰る」と書いて「帰巣本能」と言います。伝書鳩などは、1000㎞も離れたところからでも戻ってきます。カーナビもなければグルーグルナビもありません。どうやってできるのか科学的にはまだ解明されていませんが、神様がそのように造られたからです。そして人間にも帰巣本能があります。人間もこれを造られた方のもとに帰るように造られているのです。それによって、生きる意味や目的を持つことができます。皆さん、人は何のために生まれ、何のために生きているのでしようか。それは私たちを造られた神を喜び、神の栄光を現わすためです。創世記1:27に「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とあります。人は神のかたちに創造されました。ですから、これを造られた神に帰るのです。神を喜び、神の栄光を現わすために生きるのです。ですから、聖書によって生きる意味と目的を見出した人は、その目的に従って生きることができますが、そうでないと、空しい人生を生きることになります。

 

先日、二番目の娘が結婚しました。結婚した相手はデザインエンジニアとって、物を作る際のデザインをする仕事をしています。たとえば、皆さんが腰かけている椅子も、こういうものを造ろうと考えてデザインした人がいるからできたわけです。それが製品となるわけです。今はゴルフ場をデザインしていると言っていました。へぇ、ゴルフ場って自然に出来るのではないのかと思っていたらそうじゃなく、そういう人たちによってちゃんとデザインされているのです。このコースは、ここにバンカーを作り、ここに池を作ろうとか、グリーンの傾斜は何度にしようとか、ギャラリーはこのエリアに作ろうとか、全部デザインされているのです。

 

それは私たち人間も同じです。私たちは創造主であられる神の作品であって、良いことをするように、あらかじめ神によってデザインされているのです。どのように?永遠を慕い求めるように、です。伝道者の書3:11にこうあります。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

神様はまた、人に永遠を与えられました。私たちはこの地上がすべてではありません。人は死んで終わりではないのです。何かこれ以上のものがあるに違いないという思いを持っているのです。それが永遠の思いです。それが帰巣本能です。ですから、心の中にポッカリ穴が開いているような感覚があるのです。哲学者のパスカルはこう言いました。「人の心には、本当の神以外には満たすことができない、真空がある。」これは科学では証明できませんが、事実です。人の心の中には、本当の神様しか満たすことができない真空があるのです。

 

であれば、私たちはそのように造られた創造主なる神様の定めを知り、それに従って生きることが求められているのです。思い出してください。5:22には何とありましたか。「わたしは砂浜を海の境とした。それは永遠の境界で、越えることができない。波が逆巻いても、鳴りとどろいても越えられない。」神は砂浜を海の境としました。どんなに波が渦巻いても勝てないし、鳴りとどろいてもても越えることはできません。神がそのように定められたからです。神によって造られた者はみな、この神の定めを知らなければなりません。そして、この神に立ち返らなければならないのです。

 

しかし、神の民イスラエルはそうではありませんでした。彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って、自分の悪を悔いることをしませんでした。彼らに求められていたのは、自分は神に立ち返るように造られているという神の定めを知り、その定めに従うことだったのです。あなたの心には、どんな神の声が聞こえていますか。もしあなたが倒れているなら起き上がりましょう。離れているなら立ち返りましょう。それが、神が定めておられる自然の道なのです。

 

Ⅱ.主のことばに聞き従う(8-12)

 

主に立ち返るにはどうしたら良いのでしょうか。第二のことは、主のことばに聞き従うということです。8~9節をご覧ください。「8 どうして、あなたがたは、「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言えるのか。だが、見よ、書記たちの偽りの筆が、それを偽りにしてしまった。9 知恵ある者たちは恥を見、うろたえて、捕らえられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろうか。」

 

どうしてイスラエルの民は、神に背いてしまったのでしょうか。自分たちは知恵のある者、主の律法があると思っていたからです。ここに「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」とあります。これは、当時神の民が言っていたことばです。これは7:4に出てきた「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばと同じです。単にそのように思い込んでいただけです。

当時、南ユダ王国は、ヨシヤ王の時代に宗教改革が行われましたが、その時に神殿の内部から律法の書が発見されました。長らく失われていたトーラー(律法)が発見され、読み上げられたことで、国全体にリバイバルがもたらされました。彼らはその律法を誇らしげに思っていたのです。それがこの「私たちは知恵がある者、私たちには主の律法がある」という言葉に表れています。でもこれは迷信というか、単なる思い込みです。どんなに主の律法があっても、それに従わなければ何の意味もありません。でも彼らは、自分たちが律法を持っているというだけで、あたかも立派な信仰者であるかのように思い込んでいたのです。

 

私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。聖書を持っているというだけで、何だか自分がクリスチャンであるかのように思ってしまうことがあります。私は高校生の時、国際ギデオン協会の方々が校門で配布していた聖書を手にしました。クラスメートの多くはそれを教室のごみ箱に捨てていましたが、私はできませんでした。家に持ち帰って読もうと思った。「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み・・・。」(マタイ1:1-2)何だ、これ?と思って、それで読むのを止めてしまいました。でもその聖書を捨てることができませんでした。それは赤いカバーのポケットサイズの新約聖書でした。なんだかそれを持っているだけで天国に行けるような気がしたのです。それで何回か引っ越しをしましたが、それでもその聖書を大切にし、いつも本棚に飾っておきました。まさか、やがて妻と出会い、教会に導かれるなんて思ってもいませんでしたが、ずっと聖書を手放すことができなかったのです。

 

皆さんも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書を持っているというだけで、何だか自分の罪がきよめられるような気がして、それをずっと持っているということが。でも、聖書を持っているだけでは意味がありません。勿論、全然読んでいないというわけではないでしょう。事実、こうやって礼拝に来て聖書の言葉を聞いているのですから。家にいてもできる限り聖書を読んでおられるのではないかと思います。でもどんなに聖書を読んでも聖書に従うのでなければ意味がありません。あるいは、自分に都合がいいように聖書を勝手に解釈しているとすれば、聖書読みの聖書知らずということになってしまいます。大切なのは、その聖書に従うことです。

 

イエス様は何と言われましたか。イエス様はこのように言われました。「わたしに向かって「主よ、主よ」という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:20)

どんなに「主よ、主よ」と叫んでも、天の神様のみこころを行うのではなければ、天の御国に入ることはできません。あなたを救うのは、あなたのために十字架で死んで、三日目によみがえってくださった主イエスを信じることによってのみです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)そして、その人が本当にイエス様を信じたかどうかは、その実によって見分けると、主は言われました。茨からぶどうは採れないし、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶからです。

 

皆さん、天国と地獄の距離がどのくらいあるかご存知でしょうか。天国と地獄の距離、それはたったの30cmです。つまり頭、脳のところと、心、心臓の距離です。それが約30cmです。つまり、どんなに頭でわかっていてもそれが心に落ちなければ、神のことばに従って生きるのでなければ天国に行くことができないということです。その距離はたった30cmです。たった30cmと思うかもしれませんが、それが永遠を分けてしまうのです。

 

8月末に、那須の小島楓君と凜さんがバプテスマを受けることになりました。3年前に受洗された小島兄夫妻の息子さんと娘さんです。今年20歳と16歳になります。先日バプテスマ準備クラスをしているとき、お二人に尋ねました。どうして二人はイエス様を信じようと思ったんですか?すると二人とも同じことを言いました。それは親が変わったからですち。イエス様を信じたら、両親とも優しくなった・・・。特に父親は怒るとすぐに物を投げつけていて怖かったんですが、イエス様を信じてからそういうことがなくなりました。前はひどかったですよ。テレビのリモコンがあるじゃないですか、そのリモコンを投げたらテレビに当たって壊してしまったんです。でもイエス様を信じたら、本当に穏やかになったんですよと、教えてくれました。それは、両親が神のみことばをただ頭で学んでいるだけでなく、それを自分の生活に適用しているというか、みことばに生きているからです。

その楓君と凜ちゃんに、将来どのように生きていきたいですかと尋ねると、こう言いました。「主に自分をささげたいです」。すばらしいですね。本当に素直です。これが信じるということではないでしょうか。ただ「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」というのではなく、自分を主にささげ、主のみこころのままに生きること、それこそ信仰の本質なんだと思うのです。

 

10~12節をご覧ください。「10 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に、彼らの畑を侵略者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」彼らはわたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。12 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──主は言われる。」

 

ここには神の民に対する神のさばきが宣言されています。「他人」とか「侵略者」とは、バビロンのことを指しています。バビロンは、妻や畑、財産を奪い去って行きます。それは、神の民が神のことばに従わないで、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っていました。

 

その具体的な一つの例が11節に書かれてあります。彼らは神の民の傷を適当に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていました。平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていたのです。これは嘘です。なぜなら、イザヤ48:22に「悪しき者には平安がない」とあるからです。皆さん、悪しき者には平安がありません。

 

先週、タイヤが盗まれました。家の駐車場の軒先に置いておいたスタッドレスタイヤですが、2台分8本です。安いタイヤなので別に被害届を出さなくてもいいかなと思いましたが、もしかすると後でタイヤが出てきたとき、被害届を出しておけば自分たちのところに戻るかもしれないと思い、警察に連絡しました。すると、地域課のおまわりさんが3人と刑事課の刑事さん2人計5人も来て、現場を検証してくれました。道の向かい側にはコンビニがあるのでもしかすると防犯カメラに写っているかもしれないと調べてくれましたが、残念ながら防犯カメラには映っていませんでした。すると、被害届を書いてくれた刑事さんが言いました。「きっと犯人は気が気じゃないと思いますよ。いつ捕まるかと不安なはずです」と。そうです。悪者には平安はありません。

 

Ⅲ.機会を逃さない(13-17)

 

どうしたら神に立ち返ることができるでしょうか。第三のことは、機会を逃さないということです。13~17節をご覧ください。13節には「わたしは彼らを刈り入れたい。──主のことば──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。』」とあります。

ここでイスラエルの民が、再びぶどうの木にたとえられています。主は彼らから実を刈り取りたいのです。しかし、ぶどうの木には、ぶどうがありません。いちじくの木には、いちじくがありません。その葉しおれているのです。しかも、主はそれらをそのままにしておくと言と言われます。どういうことでしょうか。敵の攻撃のなすがままにされるということです。本当に悲しいことです。いったい何が問題だったのでしょうか。

 

14節と15節にこうあります。「14 「何のために私たちは座っているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで滅んでしまおう。私たちの神、主が、私たちを滅びに定め、主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが主に罪を犯したからだ。15 平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」」

ここに至って、ユダの民は自らの罪にやっと気付きます。これは彼らのことばです。彼らは、偽預言者たちのことばが偽りであったことに気付きました。しかし、時すでに遅し、でした。悔い改めのタイミングを失ってしまったのです。それで絶望した彼らは、城壁のある町々に逃げ込み、そこで滅んでしまおうと言っているのです。だからと言って、そこに希望があるわけではありません。彼らがどんなに平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、恐怖しかないのです。

 

これは私たちにも言えることです。後になってどんなに平安を待ち望んでも、得られず、癒しの時を待ち望んでも、恐怖しかありません。ですから、その前に自分の罪を悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。機会を逃してはならないのです。今がその時です。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)とあります。この恵みを無駄にしてはなりません。今ならまだ間に合います。しかし、やがて後ろの戸が閉ざされる時がやって来ます。その時になってから、「私がばかだった。なぜ神様の言うことを聞かなかったんだろう。なぜ聖書に書かれてある通りにしなかったんだろう」と嘆いても遅いのです。救いの門が開かれているうちに悔い改めて、神に立ち返らなければなりません。機会を逃さないようにしなければなりません。

 

ルカの福音書15章には、有名な放蕩息子の話があります。彼は父親の元から離れ遠い国に旅立ち、そこで放蕩して、湯水のように財産を使い果たしました。すると、食べるのに困り果てた彼は、そこである人のところに身を寄せますが、その人は彼を畑に送って、豚の世話をすることになりました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時です。彼はこう思いました。「父のところには、パンのあり余っている雇人が、大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。あなたの雇人の一人にしてください。」(ルカ15:17-19)

そして、彼はお父さんのもとに帰ります。家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、何回も口づけしました。そして、しもべたちに、急いで一番良い着物をもって来させて彼に着せ、また、手には指輪をはめ、足には履き物をはかせ、そして、肥えた子牛を引いて来て屠り、こう言ってお祝いしました。「」この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」

 

彼は、自分が堕ちるのを見てはっと我に返りました。この体験が重要です。はっと我に返ったら、あなたも自分に問うてみなければなりません。「私はいったいここで何をしているのか。父のところにはあり余っている恵みが溢れているではないか。それなのに私はここで飢え死にしようとしている。そうだ、父のもとに帰ろう。そしてこう言おう、「私はあなたの前に罪を犯しました。私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。しかし、どうか私をあわれんでください。」と」そうすれば、主は喜んであなたを受け入れ、あなたに恵みの冠をかぶらせてくださいます。

 

もし今日、御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。神様から離れていると感じているなら、信仰が後退していると感じているなら、どうか神に立ち返ってください。神様はあなたが帰って来るのを、首を長くして待っておられます。そのために神の定めを知り、神のみことばに聞き従い、神の機会を逃さないでください。確かに今は恵みの時、今は救いの日なのです。

民数記31章

きょうは民数記31章から学びます。

Ⅰ.主の復讐(1-24)

まず、1~24節までをご覧ください。「1 主はモーセに告げられた。2 「あなたは、イスラエルの子らのために、ミディアン人に復讐を果たせ。その後で、あなたは自分の民に加えられる。」3 そこでモーセは民に告げた。「あなたがたのうち、男たちは戦のために武装せよ。ミディアン人を襲って、ミディアン人に主の復讐をするためである。4 イスラエルのすべての部族から、部族ごとに千人を戦に送らなければならない。」5 それで、イスラエルの分団から、部族ごとに千人、すなわち、合計一万二千人の、戦のために武装した者たちが選ばれた。6 モーセは部族ごとに千人を戦に送った。また彼らとともに、祭司エルアザルの子ピネハスを、聖なる用具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、戦に送り出した。7 彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミディアン人に戦いを挑み、その男子をすべて殺した。8 その殺された者のほかに、彼らはミディアンの王たち、すなわち、エウィ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミディアンの王たちを殺した。また、ベオルの子バラムを剣で殺した。9 イスラエル人は、ミディアン人の女たちと子どもたちを捕らえ、またその動物、家畜、財産をことごとく奪い取り、10 彼らの居住していた町々や陣営をすべて火で焼いた。11 そして人でも動物でも、略奪したものや分捕ったものすべてを取り、12 エリコをのぞむヨルダン川のほとりのモアブの草原の宿営にいる、モーセと祭司エルアザルとイスラエルの会衆のところに、その捕虜や分捕り物、略奪品を携えてやって来た。13 モーセと祭司エルアザル、およびすべての会衆の上に立つ族長たちは出て行って、宿営の外で彼らを迎えた。14 モーセは、軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から戻って来た千人の長や百人の長たちに対して激怒した。15 モーセは彼らに言った。「女たちをみな生かしておいたのか。16 よく聞け。この女たちが、バラムの事件の折に、ペオルの事件に関連してイスラエルの子らをそそのかし、主を冒?させたのだ。それで主の罰が主の会衆の上に下ったのだ。17 今、子どもたちのうちの男子をみな殺せ。男と寝て男を知っている女もみな殺せ。18 男と寝ることを知らない若い娘たちはみな、あなたがたのために生かしておけ。19 あなたがたは七日間、宿営の外にとどまれ。あなたがたでも、あなたがたの捕虜でも、人を殺した者、あるいは刺し殺された者に触れた者はだれでも、三日目と七日目に身の汚れを除かなければならない。20 衣服、皮製品、やぎの毛で作ったもの、木製品はすべて汚れを除かなければならない。」21 祭司エルアザルは、戦いに行った兵士たちに言った。「主がモーセに命じられたおしえの掟は次のとおりである。22 ただ、金、銀、青銅、鉄、すず、鉛など、23 すべて火に耐えるものは、火の中を通せば、きよくなる。ただし、それは汚れを除く水で汚れを除かなければならない。火に耐えないものはみな、水の中を通さなければならない。24 また、あなたがたは七日目に自分の衣服を洗うなら、きよくなる。その後で、宿営に入ることができる。」」

 

この31章は、26章から続く約束の地に入る備えが語られています。1節から3節には、主がモーにミディアン人に復讐するようにと命じておられます。その後彼は彼らの民に加えられます。つまり、その後でモーセは死んで、先祖たちの墓に加えられるということです。いわば、これがモーセの最後の務めであったわけです。これから約束の地に入ろうとしていたイスラエルに、いったいなぜこのようなことが命じられたのでしょうか。

 

その背景には、25章の出来事がかかわっています。25:1には、イスラエルがシティムにとどまっていた時、モアブの女たちと淫らなことをしたことが記録されています。これは偽りの預言者バラムの助言によってモアブの王バラクがモアブの女たちをイスラエルの宿営に送り、彼らと不品行を行わせることで、偶像礼拝の罪を犯させました。そのためイスラエルに神罰が下り、イスラエル人2万4千人が死にました。この時のモアブの女たちこそ、モアブにいたミディアンの女たちです。このことは主を大いに怒らせたので、主ご自身がミディアン人を襲って復讐すると言われたのです。ですからこれは個人的な恨みではなく、神ご自身の復讐でした。

 

4節をご覧ください。このために主はイスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつを戦いに送るようにと命じました。そして祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともに戦いに送りました。それはこの戦いが単なる軍事的な戦いではなく、主の聖なる戦い、聖戦であったからです。彼らは、主がモーセに命じられたとおりミディアン人と戦って、ミディアン人の男子をすべて殺しました。また、その他にミディアン人の5人の王たち、エウィ、レケム、ツル、フル、レバを殺しました。そして、この事件の張本人であったベオルの子バラムを剣で殺しました。また、ミディアン人の女と子どもたちを捕らえ、その獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼き払いました。そして、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに帰って来ました。

 

するとどうでしょう。宿営の外で彼らを出迎えたモーセは、戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して激怒しました(14)。なぜでしょうか?女たちを生かしておいたからです。通常の戦いであれば、捕虜として捕えた女や子どもたちは生かしておきますが、今回の事件はそういうわけにはいきません。なぜなら、イスラエルに偶像礼拝がもたらされたのは、その女たちが原因であったからです。その原因となったものを徹底的に取り除くことを求められたのです。

 

主イエスは山上の説教の中でこのように言われました。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:29-30)

信仰のつまずきとなるものがあれば、それを取り除かなければならないということです。それなのに彼らは、その女たちを生かしておきました。それでモーセは激怒したのです。それで、男子はもちろんのこと、男と寝て男を知っている女もみな殺さなければなりませんでした。ただ男と寝ることを知らない若い娘たちだけを生かしておきました。罪のきよめの期間は七日間です。ミディアン人を殺した者たち、あるいは捕虜でも、だれでも、人を殺した者、あるいはその死体に触れた者はみな、三日目と七日目に身をきよめなければなりませんでした。火に耐えるものは火できよめ、耐えられないものは水によってきよめました。

 

Ⅱ.分捕り物の分配(25-47)

 

次に、25~47節をご覧ください。「25 主はモーセに言われた。26 「あなたと祭司エルアザル、および会衆の氏族のかしらたちは、人でも家畜でも捕らえて分捕ったものの総数を調べ、27 その分捕ったものを、戦に出た者たちと全会衆の間で二分せよ。28 戦に出た戦士たちからは、人、牛、ろば、羊の中からそれぞれ五百のうち一を、主への貢ぎとして徴収せよ。29 彼らが受けるその半分の中から取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。30 イスラエルの子らが受けるもう半分の中から、人、また牛、ろば、羊、それぞれの家畜から、それぞれ五十のうち一を取り出して、主の幕屋の任務に当たるレビ人に与えなければならない。」31 そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行った。32 従軍した人たちが奪った戦利品を除く分捕り物は、羊六十七万五千匹、33 牛七万二千頭、34 ろば六万一千頭、35 人は、男と寝ることを知らない女が全部で三万二千人であった。36 この半分が戦に出た者たちの分け前で、羊の数は三十三万七千五百匹。37 その羊のうちから主への貢ぎは六百七十五匹。38 牛は三万六千頭で、そのうちから主への貢ぎは七十二頭。39 ろばは三万五百頭で、そのうちから主への貢ぎは六十一頭。40 人は一万六千人で、そのうちから主への貢ぎは三十二人であった。41 モーセは、主がモーセに命じられたとおりに、その貢ぎ、すなわち、主への奉納物を祭司エルアザルに渡した。42 モーセが戦に出た者たちに折半して与えた残り、すなわち、イスラエルの子らのものであるもう半分、43 すなわち会衆のものであるもう半分は、羊三十三万七千五百匹、44 牛三万六千頭、45 ろば三万五百頭、46 人は一万六千人であった。47 モーセは、イスラエルの子らのものであるもう半分から、人も家畜も、それぞれ五十のうち一を取り出して、主がモーセに命じられたとおりに、主の幕屋の任務に当たるレビ人に与えた。」

 

 すべてのきよめをした後で、捕虜として分捕ったものは、戦に出た兵士たちと、イスラエルの全会衆との間で二分されました。そのように二分されたもののうち、戦に出た戦士たちから、五百のうちの一つを主のための貢ぎとして徴収し、それを祭司エルアザルに渡さなければなりませんでした。また、イスラエルの民からは五十のうちの一つを貢ぎとし、主への奉納物としてレビ人に与えなければなりませんでした。それは農耕による収穫物だけでなく、戦いで略奪した物もすべてでした。祭司とレビ人が受けるためです。レビ人の取り分が祭司の取り分よりも多いのは、それだけ人数が多かったからでしょう。主はこのようにして、神に仕える者たちもちゃんと受けられるように配慮されたのです。一般には忘れられがちな彼らのことも、主はちゃんと覚えておられたのです。

 

 さて、彼らが略奪した戦利品を見てみましょう。ものすごい量です。羊が70万頭近く、他の家畜も万単位です。そして男と寝ることを知らない女も全部で3万2千人いました。主の怒りと復讐が、いかに大きかったかを物語っています。そして、これらのものが、軍人と会衆との間で二分されました。

 

 Ⅲ.指揮官たちのささげ物(48-54)

 

最後に、48節から終わりまでを見たいと思います。「48 すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、49 モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの総数を数えました。私たちのうち一人も欠けていません。50 それで、私たちは、各自が手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来ました。主の前で私たち自身のための宥めとしたいのです。」51 モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。52 千人の長や百人の長たちが主に献げた奉納物の金は、全部で一万六千七百五十シェケルであった。53 従軍した人たちは、それぞれ、戦利品を自分のものとした。54 モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前における、イスラエルの子らのための記念とした。」

 すると、軍団の指揮官たちはモーセのもとに進み出て、自分たちが手に入れた金の飾り物などを持って来て、それを主の前で、自分たち自身の贖いとしたいと申し出ました。どういうことでしょうか?彼らはミディアンという大敵に対して、わずか1万2千人の兵で戦い、しかもイスラエルの側にはただの一人の犠牲者も出なかったことを、主に心から感謝しているのです。それは主の特別な助けと守りがなければあり得ないことでした。それはまさに主の戦いだったのです。そのことを実際に体験して、自分たちが得た戦利品は自分たちのものではなく主のものであると、自分たちの贖いの代価として、その一部を主にささげたのです。

 

モーセと祭司エルアザルは、彼らからのささげ物を喜んで受け取りました。それらの金は装飾品だったので、あらゆる種類の細工が施されていました。その重さは全部で1万6千7百50シェケルでした。1シェケルが11.4gですから、その総数は180キログラムとなります。莫大な量でした。それほど彼らは圧倒的な主の力を体験したのです。モーセと祭司エリアザルはそれを天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念としました。この驚くべきすばらしい主の助けと救いを記念するものとして、これらの金を会見の天幕の主の前に納めたのです。

 

あなたは、彼らのように、主の圧倒的な救いと助けを経験しているでしょうか。自分たちの側には全く犠牲者が出ず、これだけの戦利品を手に入れることができたのは、ただ神の驚くべき御業によります。私たちの信じている神はこのようなお方なのです。そして、私たちはいつか主がこの地上に再臨されるそのとき、このことを目の当たりにするでしょう。そのことがコロサイ人への手紙2:13~15までのところに記されてあります。「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

その時、神は初めに人を造られた時に与えられたものを、そして罪によって失われたものを奪還してくださいます。そして、それらを捕虜として凱旋の行列に加えてくださるのです。これが私たちの信じている神であり、やがて世の終わりに行われることです。その勝利の凱旋の中に、私たちも含まれているのです。このすばらしい神の救いと力ある御業を覚え、私たちも神に感謝して、喜びと真心をもって主に自分自身をささげていく者でありたいと思います。

 

後退ではなく前進を エレミヤ書7章16~34節

聖書箇所:エレミヤ書7章16~34節(エレミヤ書講解説教16回目)
タイトル:「後退ではなく前進を」

エレミヤ書7章後半からお話します。タイトルは「後退ではなく前進を」です。24節には、「しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退した。」とあります。彼らとは、イスラエル、ユダの民のことです。彼らは預言者エレミヤが神のことばを語っても聞かず、耳を傾けようともしないで、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退していました。これは当時のユダの民だけでなく、私たちにも言えることです。私たちも信仰が後退することがあります。しかし、それでも前進していくにはどうしたら良いのでしょうか。きょうは、信仰が後退するのではなく前進していくために必要な三つのポイントでお話したいと思います。

 

Ⅰ.心を尽くして神を愛する(16-20)

 

第一のことは、心を尽くして神を愛することです。16~20節までをご覧ください。「16 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。17 彼らがユダの町々や、エルサレムの通りで何をしているのか、あなたは見ていないのか。18 子どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』のための供えのパン菓子を作り、また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こそうとしている。19 わたしの怒りを彼らが引き起こしているというのか──主のことば──。むしろ、自分たちを怒らせ、自分たちの恥をさらすことになっているのではないか。」20 それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所に、人と家畜、畑の木と地の産物に注がれ、それは燃えて、消えることがない。」」

 

ここに驚くべきことが語られています。それは「この民のために祈ってはならない」ということです。「この民」とは、もちろん、ユダの民、イスラエルの民のことです。主は預言者エレミヤに、この民のために祈ってはならないと言われました。預言者の大切な働きの一つにとりなしの祈りがあります。アブラハムは甥のロトのために必死にとりなしをしました。モーセも何度も神につぶやいて滅ぼされそうになったイスラエルの民のために命がけでとりなしました。サムエルに至っては、「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。」(Ⅰサムエル12:23)と言いました。つまり、預言者がその民のために祈らないことは罪なのです。

 

それなのに、ここでは「祈るな」と命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、神様はイスラエルの民をさばくと決められたからです。いくら祈っても神のさばきが変更されることはありません。もう聞かれないのです。なぜなら、神様はこれまで何度も涙しながら「わたしのもとに帰れ」と命じられたのに、彼らは一向に振り向こうともせず、ずっと神の心を踏みにじってきたからです。ずっと突っぱねて来ました。心をかたくなにして悔い改めようとしなかったのです。それなのに、どうして赦すことができるでしょうか。悔い改めるなら神様は赦してくださいます。けれども、悔い改めなければ赦すことができません。それなのに彼らは悪に悪を重ね、神様の怒りを引き起こしてきたのです。

 

その具体的な例が17節と18節にあります。彼らはユダの町々や、エルサレムの通りで何をしていましたか。子どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』のための供えのパン菓子を作っていました。また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいました。「天の女王」とは、バビロンの女神イシュタルのことです。彼らは家族ぐるみで天の女王を拝んでいたのです。主はかつて、モーセを通して大切な戒めを語られました。それは申命記6:4~5のみことばです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」有名なみことばです。ここれは大切なみことばです。聖書全体の中心です。あまりにも大切なみことばなのでユダヤ人はこれを忘れることがないように、それを自分の手に結び付け、記章として額の上に置きました。また、家の戸口の柱に刻み込みました。それを自分たちの子どもたちにもよく教え込まなければなりませんでした。それなのに彼らは家族ぐるみで天の女王を拝んでいたのです。家族ぐるみで主を礼拝していたのではなく、天の女王を礼拝していました。そのようにして神の怒りを引き起こしていたのです。彼らは、自分たちの信仰が子どもたちの将来にどんな影響を与えるのかを全く考えていませんでした。皆さんはいかがですか。自分たちの信仰が子どもたちに与える影響がどれほど大きいものであるかを考えたことがあるでしょうか。子どもは親の背中を見て育つと言われますが、まさに親の信仰の在り方が子どもに大きな影響を及ぼすのです。家族ぐるみで主を礼拝する、そんな家族を目指したいですね。

 

それは家族だけのことではありません。20節には、その影響が家族を越え、家畜とか畑の木、地の産物にまで及ぶとあります。人々が神から離れ、神に反逆するなら、地の産物にまで影響をもたらすことになります。見てください。今、世界中で食糧不足が深刻な問題となっています。その一つの要因はロシアのウクライナ侵攻です。それによって穀物や天然資源の供給が滞り、世界中にインフレが起こっているのです。まさに神から離れた人間の悪行によって弊害が引き起こされているのです。私たちは神の怒りを引き起こすのではなく、神の恵みとみことばで心を美しく育てなければなりません。心が罪によってかたくなにならないように注意しなければならないのです。そして、神が私たち自身と私たちの家族、そして、教会と社会において主人となるように祈り、その使命をしっかりと果たさなければなりません。

 

Ⅱ.主の御声に聞き従う(21-26)

 

次に21~26節をご覧ください。どうすれば信仰が前進するのでしょうか。第二のことは、主の声に聞き従うということです。「21 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「あなたがたの全焼のささげ物を、いけにえに加え、その肉を食べよ。22 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何も語らず、命じもしなかった。23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』24 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退した。25 あなたがたの先祖がエジプトの地を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを早くからたびたび遣わしたが、26 彼らはわたしに聞かず、耳を傾けもせず、うなじを固くする者となり、先祖たちよりも悪くなった。」

 

21節では、全焼のささげ物を、いけにえに加えて、その肉を食べるようにと言われています。「全焼のいけにえ」とは、文字通り動物のいけにえを灰にするまで全部焼くことです。ですから、肉は一つも残らないわけですが、ここではその肉を食べるようにと言われているのです。どういうことでしょうか。これは皮肉です。灰にしても無駄だということです。だから、もったいないから食べなさいと言われているのです。創造主訳ではこれを簡潔にこう訳しています。「あなたがたのいけにえを受け入れない。」わかりやすいですね。そういう意味です。彼らがどんなに全焼のいけにえをささげても、神様はそれを受け入れません。なぜなら、神様が喜ばれるいけにえとは全焼のささげものではないからです。確かに「全焼のささげもの」は主が命じられたことですが、もっと重要なことは23節にあるように、主の御声に聞き従うことなのです。それこそ主が彼らの先祖をエジプトの地から導きだされたとき、主が彼らに命じられたことでした。たとえば、出エジプト記19:4~5をご覧ください。ここには「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

これはイスラエルがエジプトを出てシナイ山までやって来た時、主がモーセをご自身のみもとに呼び寄せて言われたことばです。ここには、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。」とあります。これが、彼らが神の民として幸せに生きる秘訣だったのです。ですから、神の命令に聞き従うことがすべてであって、その神との交わりの中でいけにえをささげることが求められていたのに、いつしかその本質を見失い、全焼のいけにえをささげることが中心になってしまいました。。

 

しかし、信仰の中心は全焼のいけにえをささげることではなく、神の御声に聞き従うことです。これこそ、神が最も望んでおられることなのです。これが信仰です。皆さん、信仰とは何でしょうか。信仰とは神のみことばに聞き従うことです。ローマ10:17にこうあります。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」信仰とは聞くことから始まり、それは、キリストのついての福音を聞くことにほかなりません。このみことばを聞くことなしに信仰生活はあり得ません。聖書が私たちに教えていることは、これが私たちの信仰生活において最も重要なことだということです。

 

私たちは毎週のようにエレミヤ書から学んでいますが、中にはもう聞き飽きたという人もおられるかもしれません。毎回、毎回、悔い改めて神に立ち返れとか、神のことばに聞き従えとか、聞いていると心が沈みそうになることばばかりだと。できればもっと優しいことばはないのか、心にジ~ンとくるみことばならいいのに、そういうことばがあまり出てきません。心にズキズキ突き刺さるようなことばばかりです。でも、これも神のことばです。主のみ言葉は 私を生かし 私を導き 私を照らします。主のみ言葉は 力があります。私を励まし 私を満たします。英語では「説教」のことを「Sermon」と言います。魚のサーモンのことではありません。「突き刺す」という意味があります。ブツブツと突き刺すのです。みことばによって心が突き刺されること、それが説教の本質と言えるでしょう。人のことばにはそのような力はありません。しかし主のことばには力があります。それは両刃の剣のごとく、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。ですから聖書にはエレミヤ書のように厳しく感じるみことばもありますが、これも神のみことばなのであって、この神の御声を聞いて神を全面的に信頼しそれに従って行くというのが求められるのです。

 

へブル書の著者はこう言っています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。その信仰とは何でしょうか。それは神の御声に聞き従うことです。これこそ神が最も喜んでくださることなのです。

 

それなのにイスラエルの民はそのみことばを聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩みました。その結果、信仰が前進どころか後退したのです。信仰とは何かを理解していなかったからです。信仰とは神のみことばを聞くことから始まるのに、その神のことばを聞こうとしませんでした。それで前進ではなく後退したのです。まあ、私たちは不完全なものですから後退することもあるでしょう。しかし、一歩後退しても二歩前進すればいいのです。二歩後退しても三歩前進すればいいのです。そうすれば結果的に前進することになります。私の好きな著書に、アメリカのチャールズ・スウインドルという牧師が書いた「三歩前進二歩後退」という本があります。『三歩前進二歩後退』。二歩後退しても三歩前進すれば、少しずつ前進していくことになります。逆に二歩前進しても三歩後退したら「後退」していくことになります。後退ではなく前進していきたいですね。どうしたら前進して行くことができるのでしょうか。

 

23節に「そうすれば」とあります。「わたしの声に聞き従え。」そうすれば、、、です。それなのに彼らは頑なな心で拒みました。それで前進どころか後退したのです。「頑なな心」とは、心が硬直している状態のことを指します。エレミヤと同時代の預言者であったエゼキエルは、この頑なな心を「石の心」と呼びました。石の頭ではありません。石の心です。エゼキエル36:26~27にこうあります。「26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」

主は彼らがご自身の御声に聞き従うために、新しい心を与えると言われました。それは石のような頑なな心ではありません。主ご自身の霊というやわらかい肉の心を与えると約束されたのです。それは神が与えてくださる新しい霊のことです。私たちは自分の力では神に従うことができません。しかし、聖霊があなたがたに臨むとき力を受けます。そして喜んで神に従いたいという願いが起こされるのです。それは一方的な神の恵みである主イエスを信じることによって与えられるものです。イエス様はこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の4億底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)だれでも救い主イエスを信じるなら、この新しい霊、新しい心が与えられ、神の命令に喜んで従うことができるようになります。

イエス様は弟子たちに、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)と言われました。愛が自分を突き動かす動機になります。主を愛するがゆえに、その戒めを守りたいという願いが起こされ、自発的に従うことができるのです。

 

ですから、私たちは自分の心に問うてみなければなりません。私は本当にイエス様を愛しているのかどうかを。本当にイエス様を愛しているなら、それは重荷とはなりません。しかし、愛していなければそれは重荷であり、苦痛以外の何ものでもありません。使徒ヨハネはこう言いました。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」(1ヨハネ5:3)そうです、神を愛しているのなら、神の命令は重荷とはなりません。むしろそれは喜びとなります。神を愛するとは、神の御声に聞き従うことであって、決して感情的なことではありません。そういう人は本当に幸せな人です。信仰から信仰へと前進していくことができるからです。パウロがピリピ書で言っているように、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)と、告白しながら生きることができるのです。

 

Ⅲ.主の懲らしめを受け入れる(27-34)

 

第三のことは、神の懲らしめを受け入れるということです。27~34節をご覧ください。特に29節までをお読みします。「27 あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えない。28 そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受け入れなかった民だ。真実は消え失せ、彼らの口から断たれた。29 『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を歌え。主が、御怒りを引き起こした世代を退け、捨てられたからだ。』」

 

イスラエルの民は、主の懲らしめを受け入れませんでした。主は愛する者に懲らしめを与えられます。それは主が彼らを愛しているからであって、訓練するためです。箴言3:11~12にはこうあります。「11 わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。12 父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。」主は愛する者を叱られます。それは彼らを子として扱っておられるからです。自分の子供でなかったらどうでしょうか。放っておくでしょ。デパートやスーパーで「あれ買って、これ買って」と床にふんずり返ったり、転げ回ったりしているのを見ても何とも思いません。しかしそれが我が子であったらどうでしょう。どうしたらいいかわからなくてパニックになります。いくら泣いてもさわいでも心を鬼にして買ってやりません。そうでないと子どもがわがままになってしまうからです。だから、だめなものはだめと言って譲らないわけです。そこには大きな葛藤が生じますが断固とした態度を貫きます。それは子どもを愛しているからです。へブル12:11にこうあります。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」すべての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義と言う平安の実を結ばせます。なのにイスラエルの民はその懲らしめを受け入れませんでした。

 

その結果、どうなったでしょうか。29節には「『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を歌え。主が、御怒りを引き起こした世代を退け、捨てられたからだ。』」とあります。これは悲しみの歌、哀歌です。彼らが主の懲らしめを受け入れなかったので、彼らは神のさばきを受けることになるというのです。「あなたの長い髪を切り捨て」とは、女性の長い髪の毛は女性の美しさであり誉です。その長い髪を切るということは単に悲しみの表現にとどまらず、恥のしるしでした。また「裸の丘の上で哀歌を歌え」とは、バアル礼拝が行われていた裸の丘、恥の場所で、イスラエルがその恥をあらわにされたことを嘆くことを表しています。神殿に群衆があふれ、犠牲のいけにえが絶えずささげられ、祭司が規定どおりに奉仕しているのを見れば、人々はこれこそイスラエルの栄光だと思ったことでしょう。しかし預言者はここで、そのようなきらびやかなものがはぎ取られた後の醜い姿を見ているのです。

 

それはユダの子らが主の前に悪を行ったからです。彼らは主の宮に偶像を置き、これを汚しました。また、ムベン・ヒノムの谷にあるトフェトに高い所を築き、自分の息子や娘を焼くようなことをしました。それは主が忌み嫌われることでした。主はそんなことを命じたこともなく、考えたこともなかったのに、彼らは平気でそのようなことをしたのです。それゆえ、そこはベン・ヒノムの谷とは呼ばれません。そこは「虐殺の谷」と呼ばれます。新約聖書では、そこが「ゲヘナ」と呼ばれるようになりました。それは永遠に苦しむ場所の象徴です。神様に従わない結果、このような恐ろしいさばきを受けることになるのです。

34節には、「わたしは、ユダの町々とエルサレムの通りから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。この地が廃墟となるからである。」とあります。私たちが日常生活において楽しんでいるその場面は一切なくなるというのです。永遠のいのちを持っていなければ、持っているものまで取り上げられることになるからです。

 

しかし、神に従い、神が命じるすべての道に歩む人は幸いです。そのような人には神のさばきではなく、神の救い、永遠のいのちがもたらされます。イエス様はこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24) イエスのことばを聞いて、そのことばに聞き従う者、すなわち、イエスを遣わされた方を信じる者は、さばきに会うことがなく、永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っているのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

 

「幸せの黄色いリボン」という映画があります。刑期を終えた男が、刑務所を出て、バスで家に向かっていました。しかし彼には、かつて自分を愛してくれた妻が、果たして喜んで自分を迎えてくれるかどうか、確信がありませんでした。悪いのは、自分のほうだとわかっていたからです。そこで彼は、手紙を出しておきました。

「もし、自分を許してくれるなら、あの樫の木に黄色いリボンを結んでおいてくれ。」と。もし黄色いリボンがなかったら、彼はそのまま遠くに行くつもりでした。

家が近づいてきました。彼の頭には、あの樫の木しかありませんでした。家に着いたとき、樫の木に黄色いリボンがついているだろうか。彼は自分で見る勇気がなくて、車中で知り合った男に見てもらいます。するとどうでしょう。樫の木には一つだけでなく、100個の黄色いリボンがついていたのです。彼の妻は、彼を赦しただけでなく、歓喜をもって彼を迎えたのです。

 

バスに乗ったあの男のように、私たちも死とその先にあるものを恐れます。自分の醜さを知っている私たちは、神は赦してくださるだろうかと不安になります。ましてや、神が私たちの到着を歓迎されるとは考えられないかもしれません。しかし聖書は、神が私たちを歓迎してくださると教えています。いくつもの黄色いリボンが、あなたを待っています。だから主はこう言われるのです。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。」

私たちもさばきではなくいのちを、不幸ではなく幸福を、後退ではなく前進する者となりましょう。それは主が命じるすべての道に歩むことによってもたらされることを覚えて、いつもへりくだって、神の御声に聞き従う者でありたいと思います。