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背信の子らよ、立ち返れ エレミヤ書3章6~18節

聖書箇所:エレミヤ書3章6~18節(エレミヤ書講解説教7回目)

タイトル:「背信の子らよ、立ち返れ」

 

 今日は、エレミヤ書3章6~18節までから「背信の子らよ、立ち返れ」というとタイトルでお話します。エレミヤは3章1節で、「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものとなったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。」と問いかけました。それに対する答えは、No , but Yesでした。神の律法ではNoです。しかし、神は律法を越えたお方です。律法では、他の男たちと姦通した妻を去らせ、彼女がほかの男のものとなったら、先の夫のもとに戻ることはできませんでした。汚れているとされたからです。しかし、神はそのように汚れた者でも、もう一度受け入れてくださるというのです。それは神が律法をないがしろにしているというのではなく、神ご自身がそれを書のしてくださったからです。罪は罪として処理しなければなりませんが、その罪の処理を、罪を犯した本人ではなく、神の御子イエス・キリストの十字架で負わせてくださったのです。ですから、この御子を信じる者はそのすべての罪がきよめられ、全く罪を犯したことがない者とみなされるのです。すごいですね。これが神のあわれみです。ですから、もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものとなっても、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださるのです。受け入れてくださる。だから、「わたしに帰れ」と言われるのです。

 

 今回はその続きです。神は、背信の子らに、立ち返れ、と呼び掛けておられます。12節に「背信のイスラエルよ、帰れ。」とあります。また、14節にも「背信の子らよ、立ち返れ」とあります。ここでのキーワードは「帰れ」です。どんなに罪に汚れていても、悔い改めて神に立ち帰るなら、神は赦してくださいます。神はいつまでも怒っておられる方ではありません。神は恵み深いのです。ですから、私たちは自分の咎を素直に認め、悔い改めて神に立ち返らなければなりません。

 

 きょうはこのことについて、三つのことをお話します。第一に、彼らが罪に陥った原因です。それは彼らが、歴史から何も学ばなかったからです。第二に、神に立ち返る理由ですね。それは、主は恵み深い方であられるからです。第三に、その結果です。罪を悔い改めて神に立ち返る者に、神は回復と祝福を与えてくださいます。

 

 Ⅰ.歴史から学べ(6-10)

 

まず、イスラエルが神に背くようになった原因を見てみましょう。6~10節をご覧ください。「6 ヨシヤ王の時代に、主は私に言われた。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。7 わたしは思った。彼女がこれらすべてを行った後で、わたしに帰って来るだろうと。しかし、帰っては来なかった。そして裏切る女、妹のユダもこれを見た。8 背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も行って淫行を行ったのをわたしは見た。9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した。10 このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち返らず、ただ偽ってそうしただけだった-主のことば。」

「ヨシヤ王の時代」、これが、エレミヤ書が書かれた背景にあるものです。具体的には1章2節にありますが、「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことで」す。それはBC627年のことでした。その年にエレミヤは預言者として召命を受けるのです。ですから、この3章6節の出来事は、それから数年後のことです。おそらくBC625年頃のことでしょう。その時、主がエレミヤに言われました。「あなたは、背信の女イスラエルが行ったことを見たか。彼女はあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行った。」

この「イスラエル」とは、北王国イスラエルのことです。イスラエル王国はソロモン王の死後、北と南に分裂しました。北王国イスラエルと南王国ユダです。BC931年のことです。その北王国イスラエルはここで「背信の女」と呼ばれています。彼らはあらゆる高い山の上、青々と茂るあらゆる木の下に行き、そこで淫行を行いました。これは偶像礼拝のことです。霊的姦淫ですね。しかし主は、イスラエルが悪行の限りを尽くした後で、ご自身のもとに帰って来るだろうと思っていましたが、彼らは帰って来ませんでした。その結果どうなったでしょうか。8節にこうあります。「背信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した。」これはBC722年に起こったアッシリヤ捕囚と呼ばれている出来事です。北王国イスラエルはアッシリヤの攻撃を受けて滅び、捕囚の民として連れて行かれたのです。

 

問題はそれを見ていた南王国ユダです。ここでは南王国ユダが、北王国イスラエルの妹として描かれています。その妹のユダが、姉のイスラエルがたどった歩みを見ても、悔い改めることをしませんでした。8節には「しかし、裏切る女、妹のユダが恐れもせず、自分も淫行を行った」とあります。この「恐れもせず」とは、神様を恐れもしなかった、ということです。神様を恐れない者は罪を止めることをしません。9節には、「彼女は、自分の淫行を軽く見て、地を汚し、石や木と姦通した」とあります。すなわちユダはイスラエルと同じように、偶像礼拝を行ったのです。ですから10節で彼らは「裏切る女」と呼ばれているのです。姉の北王国イスラエルは「背信の女」でしたが、妹の南王国ユダは「裏切る女」です。背信の女もひどいですが、「裏切る女」もひどいです。いや、背信よりも裏切りの方がひどいでしょう。なぜなら「背信」とは神に背を向けることですが、「裏切り」とは顔と顔を合わせていながら、なおかつ背信行為をすることだからです。それが10節で言われていることです。彼らは「このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心のすべてをもってわたしに立ち帰らず、ただ偽ってそうしただけだった」のです。どういうことかというと、彼らは一応エルサレムの神殿で礼拝をしていましたが、それはただの形だけのものであって、心からのものではなかったということです。一応エルサレムの神殿に身を置いていましたが、そこに身を置きながら、同時に偶像を拝んでいたのです。それはちょうどクリスチャンが一応教会には来てはいるけれど、そこに心が全く伴っていないようなものです。教会には来るけれどもそれは極めて形式的であり、儀式的なものであって、心は全く別のところにあるようなものです。何とかその時間をやり過ごせばいい、とりあえず教会に通うといった感じです。心のすべてをもって主に立ち返るのではなく、ただ偽ってそうしているだけだったのです。

 

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼らが歴史から何も学ばなかったことです。妹のユダは、姉のイスラエルがたどった道を見て、神に背くとどうなるかを学ぶべきでした。というのは、7節に「妹のユダもこれを見た」とありますが、彼らは姉の北王国イスラエルが主に背いた結果どうなったのかを見ていたからです。北王国イスラエルは神に背いた結果、アッシリヤによって滅ぼされ、捕囚の民として連行されました。BC722年のことです。あれから100年が経っていました。それは南ユダにとって大きな警告となるはずだったのに、学ぶべき教訓がたくさんあったにもかかわらず、彼らは何も学ばなかったのです。それどころか、妹のユダもまた偶像礼拝にふけり、聖なる目的のために与えられた約束の地を汚してしまいました。確かにヨシヤ王の時代(BC640~609年)、一時的なリバイバルが起こりましたが、それさえも表面的な宗教改革であって、内面的な悔い改めには至らなかったのです。その結果、彼らもまた離縁状を渡されることになります。それがBC587年のバビロン捕囚です。

 

それは南ユダだけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも過去の歴史から学ぶべきです。「人が歴史から学んだことがあるとすれば、それは、人は歴史から何も学ばないということである」と言った人がいますが、その通りだと思います。私たちは過去の歴史から学ぼうとしません。

 

たとえば、今オミクロン株でコロナウイルス感染が爆発的に拡大していますが、これは今に始まったことではなく、これまでの歴史の中でも何回も繰り返されてきていることです。たとえば、100年前に「スペイン風邪」が流行し、世界中で多くの死者を出しました。今回のコロナウイルスでも本当に多くの方が亡くなっておりますが、このことはいったい私たちに何を教えているのでしょうか。それはこうしたパンでミックに対する最大の備えは、すべてを治めておられる創造主なる神を恐れて生きるということです。もちろん、こうした疫病に対する治療法などの研究も重要です。しかし、こうした疫病に対して私たちができることは限られているのです。そのことを認め、私たちの知恵を越えたところで支配しておられる創造主を恐れることが求められているのです。しかし人類は、それは反対に神を無視し人間の力、科学の力だけで乗り越えようとしています。歴史から学ぼうとしないのです。

 

歴代誌第二7章13~15節には何とあるでしょうか。「13 わたしが天を閉ざして雨が降らなくなったり、あるいはわたしがバッタに命じてこの地を食い尽くさせたりして、わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには、14 わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」

ここに、「わたしがわたしの民に対して疫病を送ったときには」どうすればよいかが記されてあります。そのときには、「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」とあります。歴史から教えられることは、このような疫病が起こったときには、主の民が自らへりくだり、祈りをささげ、主の顔を慕い求めてその悪い道から立ち返ることです。そうすれば、主は親しく天から聞いて、私たちの罪を赦し、この地を癒してくださいます。これが主の約束です。これが歴史の中で教えていることです。ワクチンも大切でしょう。でもそれ以上に大切なのは、主の前にへりくだり、悔い改めて主に立ち返ることです。そうすれば、主は天から聞いて、この地を癒してくださいます。この歴史から学ぶべきです。

 

南王国ユダは、北王国イスラエルの失敗から学ぶべきでした。その悪いお手本から、それを半面教師として学ぶ必要があったのです。でも彼らは学びませんでした。こうした経験から学ぶことは大きいことです。それだけのことを自分で体験しようと思ったら、かなり高くつくことになります。しかし、他の人の経験や、他の人の失敗から学ぶなら、そうした代償を払う必要はありません。私たちはそれを歴史の先人たちや聖書から学ぶことができるのです。これはありがたいことです。にもかかわらず、そこから学ぼうとしなかったら残念です。もし南ユダが北イスラエルから学んでいたら、偶像礼拝をして、堕落して、神から捨てられる必要など全くなかったでしょう。それなのに、彼らは学びませんでした。それが彼らの問題だったのです。

 

 Ⅱ.背信のイスラエルよ、帰れ(11-13)

 

次に、11~13節をご覧ください。ここには悔い改めの招きと、その理由が語られています。「主は私に言われた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。12 行って、次のことばを北の方に叫べ。『背信の女イスラエルよ、帰れ。-主のことば- わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。わたしは恵み深いから。-主のことば- わたしは、いつまでも恨みはしない。13 ただ、あなたはあなたの咎を認めよ。あなたはあなたの神、主に背いて、青々と茂るあらゆる木の下で、他国の男と勝手なまねをし、わたしの声に聞き従わなかった。-主のことば。」

 

主はエレミヤに言われました。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。」別に北王国イスラエルが正しかったということではありません。南王国ユダよりも正しかったということで、あくまでも彼らは「背信の女」であることには変わりはありません。ただユダよりも罪が軽かったのです。なぜなら、ユダにはイスラエルという反面教師がいたのに、そこから学ばなかったからです。イスラエルにはそれがありませんでした。ただそれだけのことです。北王国イスラエルも悪かったのです。

 

それで主はエレミヤに、「行って、北の方に叫べ」と言われました。「背信のイスラエルよ、帰れ。」と。「帰れ」ということばは、この書におけるキーワードの一つです。それは裏切りという罪を悔い改めて、もう一度神に立ち返れということです。つまり、偶像礼拝を止めて、主のみを神として崇めて生きるように、ということです。そうすれば、主は赦してくださいます。ここには「わたしはあなたがたに顔を伏せはしない。」とあります。「顔を伏せはしない」は、新改訳第三版では「しからない」、新共同訳では「怒りの顔を向けない」と訳しています。口語訳でも「怒りの顔をあなたがたに向けない」と訳しています。つまり、主はいつまでも怒っていないのです。たとえイスラエルが「背信の女」と呼ばれても、たとえ離縁状を渡して追い出した妻であっても、「帰れ」と言われるのです。それは、主は恵み深いからです。主は不正や罪を見逃さずに怒られる方ですが、いつまでも怒り続けることはしません。あなたが自分の咎を素直に認めて主に立ち返るなら、主はあなたの背きの咎を赦してくださるのです。

 

あの放蕩息子は、父親から財産の分け前をもらって遠い国に旅立ち、そこで放蕩して、財産を湯水のように使い果たすと、食べることにも困り果て、ついには豚の食べるいなご豆でお腹を満たしたいほどになりましたが、その時彼ははっと我に返るのです。「父のところには、パンのあり余っている雇人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行ってこう言おう。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:17-19)

こうして彼が立ち上がり、父のもとへ向かうと、父親は彼を見付け、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけしました。「よく帰って来た」と。そればかりではありません。父親は急いで一番良い着物を持って来て着せると、手に指輪をはめ、足に履き物をはかせました。そして肥えた子牛を引いて来て屠り、お祝いしたのです。父親はどれほどうれしかったことか。その喜びが溢れています。

 

人間の父親でさえ、こんなにも愛しているのに、父である神の愛が、これよりも劣ると思いますか。私たちに対する神の愛は、海のように深く、空のように高いのです。ここには「わたしは恵み深いから」とあります。主は恵み深いのです。いつまでも怒ってはおられません。ただ、あなたはあなたの咎を認めなければなりません。悔い改めて、神に立ち帰らなければならないのです。神が用意してくださったひとり子イエス・キリストを信じなければならなりません。これが、神が用意してくださった救いの道です。もしあなたが主の御声に従い、主に立ち返るなら、主はあなたの背きを癒し、豊かな恵みを注いでくださるのです。

 

 Ⅲ.悔い改める者にもたらされる恵み(14-18)

 

 第三に、悔い改める者にもたらされる神の恵みがどほど大きなものであるのかを見て終わりたいと思います。14~18節をご覧ください。「14 背信の子らよ、立ち返れ-主のことば-。わたしが、あなたがたの夫であるからだ。わたしはあなたがたを、町から一人、氏族から二人選び取り、シオンに連れて来る。15 また、あなたがたに、わたしの心にかなう牧者たちを与える。彼らは知識と判断力をもってあなたがたを育てるだろう。16 あなたがたが地に増えて多くの子を生むとき、その日には-主のことば- 人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。彼らがそれを思い出すことも、調べることもなく、それが再び作られることもない。17 そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。18 その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来る。」

 

 14節には、主がイスラエルに向かって「背信の子らよ、立ち返れ」と言われますが、ここにその理由が記されてあります。それは「わたしが、あなたがたの夫であるからだ。」この聖句には、ことばの遊びというか、偶像の神バアルに対する明白な挑戦が見られます。というのは、この「夫」と訳されている言葉は、ヘブル語で「バアル」という言葉なんです。ここで主は、神として権威を持っているまことの夫は誰なのか、それは「バアル」ではなくこのわたしであると強調しているのです。

 

 そして14節後半において、「わたしはあなたがたを、一つの町から一人、一つの氏族から二人選び取って、シオンの丘に、契約の箱が置かれている聖所に連れて来る」と言っておられます。これは文字通り一人、二人ということではなく、わずかながらも、ということです。わずかながらも、神に立ち帰ろうとする人たちがいて、その人たちをシオンに連れて来るというのです。これはイスラエルの「残りの者」のことです(イザヤ10:22,28:5)。神はイスラエルを完全に滅ぼすことはなさいません。わずかながらも残りの者を備えてくださり、そこから回復されるのです。滅び去って当然の民の中に「残りの者」を残し、その一人をもって新たなる救いの歴史の出発点とされるのです。これは、彼らの時代的に見るなら、アッシリヤとかバビロン捕囚から解放のことですが、それはこれから起こることの預言でもあります。すなわち、イエス・キリストが再びこの世に戻って来られるときにもたらされる救いの完成のことです。それは16節に「その日」とありますし、17節にも「そのとき」とあります。また18節にも「その日」とあることからわかります。この「その日」とか「そのとき」というのは、世の終わりの終末預言のキーワードです。すなわち、エレミヤはここで、単にイスラエルがアッシリヤやバビロン捕囚から解放されて戻って来た人たちによってイスラエルの新たな救いの歴史の1ページを始めていくということを語っているだけでなく、はるか遠い未来にイエス・キリストが再びこの世に戻って来られるとき、主はその残りの者を通してイスラエルの民に完全な解放をもたらしてくださることを預言していたのです。

 

 そのときどんなことが起こるのでしょうか。16節には「その日には、主のことば。人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない。」とあります。また17節には「そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない。」とあります。

 これはどういうことかというと、そのとき、イエス・キリストは王の王、主の主として、エルサレムに御座を設けられるので、エルサレムは「主の御座」と呼ばれ、そこでイエス・キリストが治めてくださるということです。ですから、もう主の契約の箱は必要ありません。主の契約の箱には十戒が刻まれた2枚の石の板が収められていましたが、それは神の臨在の象徴でした。でも、それはもう必要ないのです。なぜなら、主イエス・キリストがそこにおられるからです。神がそこに臨在しておられるのです。本物があればその模型は必要ありません。主の契約の箱は、いわばイエス・キリストの影のようなものでした。本人が目の前にいるので、もはや影は必要ないのです。本人が目の前にいるのに、いつまでもその人の写真を大事に扱う人はいません。目の前に本人がいれば、それで十分なのです。たとえば、皆さんに夫がいて、その夫のことをとても愛しているとします。だから、その夫の写真を肌身離さず持っているわけですが、その夫が家に帰ってきらどうしますか。夫には知らんふりして、その写真に必死に語り掛けるようなことをするでしょうか。あなたのダーリンがあなたのそばにいるのに、ダーリンの写真に向かって「ハ~イ、ダーリン」なんて言いません。本物がいるからです。本物がいなければ写真に語り掛けるということもあるでしょうが、本物がいればそれで十分なのです。主の契約の箱は、主イエス・キリストの影のようなものでした。ですからイエス・キリストがいる今、もう契約の箱は必要ないのです。契約の箱について語ることも、それが心に上ってくることもありません。イエス様がそこにおられるからです。

 

そのとき、エルサレムは主の御座と呼ばれ、万国の民がこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、彼らは二度と頑なな悪い心のままに歩むことはしません。その日、ユダの家はイスラエルの家に加わり、彼らはともども、北の国から、わたしが彼らの先祖に受け継がせた地に帰って来るのです。「北の国から」とは北海道のことではありません。それはイスラエルの北の国のことで、アッシリヤとかバビロンのことを指しています。それは先ほども申し上げたように、彼らの時代から見ればアッシリヤとかバビロン捕囚から解放のことですが、遠い未来のことで言うなら、イスラエルが世界の果てから集められるということであり、やがてイエス・キリストが再臨されるとき、私たちを含むすべての民、万国の民がこの御座、エルサレムに集められ、二度と頑なな悪い心のままに歩むことはない、ということです。

 

いつかそういう時がやって来ます。それはそう遠くないように感じます。そのときには一切の罪が取り除かれ、また、罪によって腐敗な世界が回復されるのです。そういう時がやって来ます。すばらしい約束です。これこそ真の希望です。この世にあってはコロナのような問題や戦争の不安、病気の苦しみ、人間関係のトラブル、経済の苦しみなど心が休まりません。けれども、そうした中にあってイエス・キリストが来られあなたの心を治めてくださるとき、そうした不安や恐れから解放され、神の臨在と平和の中を生きることができるのです。そのために私たちに求められているのは何でしょうか。13節、「ただ、あなたが自分の咎を認めよ」です。ただ、あなたの咎を認め、悔い改めて主に立ち返るなら、あなたもこのような恵みを受けるのです。もう宗教的な儀式とか、プログラムとか、奉仕とか、活動に頼らなくてもいいのです。ただ、あなたはあなたの咎を認めるだけでいいのです。あなたが神に立ち立ち返るなら、あなたは主イエスの御支配を受け、さながら天国のような人生を歩むことができるのです。私たちにはこのようなすばらしい約束が与えられているのですから、主の招きに応答して、ただ、あなたの咎を認めて、主に立ち返りましょう。主の驚くべき恵みが、あなたにも豊かに注がれますように。

わたしに帰れ エレミヤ書3章1~5節

聖書箇所:エレミヤ書3章1~5節(エレミヤ書講解説教6回目)

タイトル:「わたしに帰れ」

 

 今日は、エレミヤ書3章1~5節から「わたしに帰れ」とタイトルでお話します。エレミヤは2章1節から最初の預言を語って来ましたが、今日の箇所はその最後の部分です。その中でエレミヤは、神の民イスラエルに対する神の悲痛な叫びを、10のたとえを用いて語りました。まず1~8節では不誠実な妻のたとえです。そして9~13節のところでは、壊れた水溜のたとえです。そして14~19節では、奴隷としてのイスラエルのたとえ、そして前回はもうどうにも止まらないと、次から次にいろいろなたとえをもって彼らの姿を描きました。20節では、自分のくびきを負わないかたくなな家畜です。21節では、質の悪い雑種のぶどうですね。22節では、たとえ重曹やたくさんの灰汁を使っても落ちない汚れ、23~25節では発情期の家畜、26~28には、見つかった時に恥を見る盗人、29~30節では反抗的な子どもの姿、そして36~37節では捕虜として連行される姿です。実に10のたとえをもって、イスラエルに対する神の悲痛な叫びが語られたのです。

 

今日の箇所はその最後の部分です。エレミヤは姦淫の女のたとえを用いて「わたしに帰れ」と語ります。神はご自身の民がその忠告を無視したり、受け止めようとしないなら、同じように悲しまれます。私たちは神の呼びかけに素直に応答して、神に立ち帰る者でありたいと思います。

 

 Ⅰ.再び戻れるか(1)

 

 まず1節をご覧ください。「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。そのような地は大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか。-主のことば-」

 

不誠実な妻のたとえは2章1節から8節までのところでも語られましたが、ここでもう一度イスラエルの姿を、不誠実な妻として描きます。ただ、2章と違うのは、2章では真実の愛を裏切ってただ夫のもとから離れて行った妻の姿が強調されていましたが、ここでは、そのようにして汚れた妻をもう一度受け入れることができるか、ということが問われています。「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。」ということです。

 

皆さん、考えてみてください。もし人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、その女が彼のもとに戻って来たからと言って受け入れることができるでしょうか。できません。それは単に感情的に受け入れられないというだけでなく、神の律法でそれが禁じられていたからです。申命記24章1~4節を開いてください。ここには「1 人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、2 そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、3 さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、4 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」とあります。

 

この「何か恥ずべきこと」とは「不貞」のことです。妻が何か不貞を働かせ気に入らなくなった場合、夫は妻に離婚状を書いて渡し、彼女を家から去らせることができました。問題はその後です。その後で、その妻が別の男と結婚したが、その男も彼女を嫌って家から去らせた場合、あるいは、後の男が死んだ場合、先の夫は彼女を再び自分の妻にすることができませんでした。なぜでしょうか?なぜなら、彼女は汚れてしまったからです。他の男と関係を持つことで、汚れてしまったというのです。それは、主が忌み嫌われることでした。ですから、彼らが相続地に入ってからは、そのようなことをしてその地を汚してはならないと命じられていたのです。しかもこのエレミヤ書3章1節には、「あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか」とあります。不倫どころじゃありません。彼らには多くの愛人がいたのです。誰でもいいから声をかけて、まさに娼婦のようにいろいろな男たちと寝ていました。そのような人のもとに戻れるでしょうか。戻れません。

神はこれをご自身とイスラエルとの関係に当てはめているのです。離縁された妻とはイスラエルのこと、その妻が他の神々、他の偶像と結ばれて再婚しました。でもそれでも満たされず、「やっぱりもとの旦那の方のところに戻ろう」と言っても、戻ることはできないのです。

 

ところが、神はそのように多くの愛人と淫行を行った妻に「帰れ」と言われるのです。12節には「背信のイスラエルよ、帰れ。」とあります。14節にも「背信の子らよ、立ち返れ。」と言われるのです。律法で禁じられていても、神はもう一度迎え入れてくださるというのです。これは驚くべきことです。なぜなら、律法に矛盾しているからです。律法は神のことばですから、神ご自身がそれを破るなんて考えられません。どういうことでしょうか。それは神が律法を破るというのではなく、その律法の刑罰をご自身で負ってくださったということです。確かに律法ではそのような者は石打ちの刑罰を受けなければなりませんでした。しかし神はその刑罰をご自身が受けることによって、その罪を解決してくださったのです。私たちは知っています。神はこのようなことをなさる方であるということを。神はそのひとり子イエス・キリストを十字架につけて、私たちのふしだらのすべての罪を負ってくださいました。それによって、この方を信じるすべての人の罪を、律法によっては受け入れられない私たちのすべての罪を赦し、きよめてくださったのです。そして、全く罪を犯したことがない者とみなしてくださいました。すごいですね。そうなれば、そこには矛盾は無くなります。罪が贖われているならば、過去の罪が持ち出されることはありません。それはもう神の記憶にも残っていないのです。

 

イザヤ書43章23節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしい約束です。罪の記憶は自分を苦しめます。「どうしてあんな事を」と思い悩み、自分を責め、自己弁護し、自己嫌悪し・・。しかし、神を信じ神に立ち返る者に対して、神様はすでに赦しを与えておられるのです。過去の罪で私たちが責められることはありません。それどころか、その罪の記憶さえも捨て去ってくださるのです。「わたしはあなたの罪を思い出さない」と明言してくださる。神様さえも責められない過去の罪で、自分を責める必要はありません。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死によって、全ての罪が赦されたからです。だから神は背信の女イスラエルに「帰れ」と言われるのです。

 

 ホセア書のテーマは、まさにこの「赦し」です。ホセアは、不貞の女を妻として迎え入れるようにと神から命じられます。その言葉どおり、彼は彼女、ゴメルを妻としますが、やがて妻は夫を捨てて家を出、かつての罪の世界に戻っていきました。ホセアはどれほど傷ついたことでしょう。しかし、その傷がまだ癒えないうちに、神様は再びホセアに語りかけるのです。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」(ホセア3:1)

何ですって!再び行って、他の男たちと姦通している妻を愛せというのですか。このことばを聞いた時、彼はどんなに悩み苦しんだことかと思います。他の男に愛されている女、姦淫を行っている妻を愛し、自分のもとに連れ戻しなさい、というのですから。いったい神様はどうしてこんなことを言われるのか。でもホセアはこのことばを受けて彼女を自分のもとに連れ戻しました。

 

いったいなぜ神はホセアにこのように命じられたのでしょうか。それは、神がどのような方であるかを示すためでした。神はこのゴメルのように何度も何度も夫に背き、他の愛人たちのところへ行って淫行を行うような妻を、何度でも受け入れてくださる方なのです。たとえ律法に背き、落ちるところまで落ちてしまった者でも、神はそこから引き上げてくださるのです。

 

ですから、もし人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先のもとには戻れるだろうか、という問いに対する答えは、No, but Yesです。通常では考えられないことですが、神はそれを可能にしてくださいました。あなたが多くの愛人と淫行を行ったとしても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦し受け入れてくださいます。何とすばらしい知らせでしょうか。驚くべき知らせです。これが福音です。グッド・ニュースです。ですからあなたも、この神の招きに応答して、神に立ち返っていただきたいと思います。

 

 Ⅱ.雨はとどめられる(2-3)

 

次に2~3節をご覧ください。「2目を上げて裸の丘を見よ。あなたが共寝しなかったところがどこにあるか。荒野のアラビア人がするように、あなたは道端で相手を待って座り込み、淫行と悪行によって、この地を汚した。3それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」

 

ここにはイスラエルの罪と、その結果が記されてあります。「裸の丘」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。彼らはそこで文字通り裸になって性的な祭儀を行っていました。こうした偶像礼拝には神殿娼婦と呼ばれる女たちがいて、実際に淫行が行われていたのです。ですから、彼らはあちらこちらで共寝していたと言われているのです。彼らが共寝しなかったところはどこにも見当たりませんでした。

 

「荒野のアラビア人がするように」とは、荒野のアラビア人が、砂漠を通過する商人たちを襲うようにという意味です。そのように彼らは、淫行を行う機会を絶えず伺っていました。遊女のようになって、あちらことらで偶像礼拝をして霊的姦淫の罪を犯していたのです。

 

その結果どうなったでしょうか。3節には「それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」とあります。 

乾燥地帯において、雨は恵みの雨です。これがなかったら作物は育ちません。したがって食べることができず、生きていくことができないのです。「後の雨」とは、3~4月にかけて降る「春の雨」のことです。イスラエルには10~11月に降る「先の雨」と、3~4月に降るこの「後の雨」がありますが、それ以外は乾季となります。ですからこの時期に雨が降らないと、干ばつや日照りで飢饉となり、危機的な状況に陥ってしまうのです。民は死に絶えてしまいます。

 

このようになることはすでに、律法の何で警告されていました。申命記11章16~17節にこうあります。「16 気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。17 そうでないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる。こうしてあなたがたは、主が与えようとしているその良い地から、たちまち滅び去ることになる。」

これはイスラエルが約束の地カナンに入る時に、モーセを通して神が語られたことです。エレミヤの時代からさかのぼること700年も前のことです。既に神は彼らに警告を与えていました。それは、あなたがたの心が横道に反れて、ほかの神々に仕え、それを拝むようなことがあると、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、天を閉ざして、雨が降らなくようになるということでした。その結果、その地は産物を出さなくなり、最終的には、たちまち滅び去ることになると。こういう警告が与えられていたにも関わらず、彼らはそれを無視し、自分たちは大丈夫、聖書にそのように書いてあってもそれは自分たちにはあてはまらないと高をくくっていたのです。気をつけなければなりません。

 

これは、私たちにも言えることです。もし私たちが聖書の神、主イエス・キリストを捨ててほかの神々に走るなら、このような結果を招くことになります。クリスチャンでもほかの神々に走ることがあります。クリスチャンでも偶像崇拝をしていることがあるのです。それは貪欲という偶像礼拝です。コロサイ3章5節を開いてください。そこには「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。

偶像礼拝とは、ただ偶像を拝むことだけではありません。貪欲が偶像礼拝なのです。私たちが神様以上に愛するもの、神様以上に頼りにするものがあるとしたら、それがあなたの偶像礼拝なのです。あなたが神様以上に情熱を燃やし、多くの時間を割き、労力を注ぐものがあるとしたら、それがあなたの神になる危険性があります。それが聖書の神であれば幸いです。この神を愛し、神を第一とし、心を尽くして神を愛すること、それが本当の礼拝です。聖書にこうあるからです。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これが、重要な第一の戒めです。」(マタイ22:37-38)これが、重要な第一の戒めです。心を尽くして、いのちを尽くして、知性を尽くして、力を尽くして、あなたの神を愛すること、それが本物の礼拝です。それが神様以外であるなら、イエス・キリスト以外であるなら、それはあなたの偶像礼拝となるのです。その結果、大雨はとどめられ、後の雨は降らなくなります。つまり、あなたの心はまさに雨が降らない状態となり、完全にドライになり、カラカラの状態に乾ききってしまいます。

 

私たちは時々、私はなぜクリスチャンなのにこんなにも心がカラカラなんだろうと思うことがあります。全然潤っていない、満たされていない、喜びがない、平安がない、イキイキしていないと、その原因をいろいろ探したりしますが、一番大きな原因はここにあります。偶像礼拝をしていることです。神様ではなく他のものを大切にしたり、優先したりしていることです。そうであればあなたの心が満たされることはありません。砂漠のように渇ききってしまいます。いくら祈っても、いくら聖書を読んでも、心が満たされることはありません。実際、このエレミヤの時代のイスラエルの民はエルサレムの神殿で主を礼拝していましたが、それなのに、同時に偶像礼拝をしていました。完全に断ち切っていませんでした。それは「主よ、主よ」と祈りながら、同時に偶像礼拝していたのです。勿論、私たちは教会に通いなが同時に神社を参拝することはないと思います。でもなかなか自分を捨てることができないことがあります。神様以上に自分を愛し、自分の欲望を満足させようとしているなら、それが偶像礼拝であり、心はカラカラに渇ききってしまうことになります。

 

イエス様はこのように言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:24-25)

だれでもイエス様について行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、従って行かなければなりません。そうでないと、イエス様につい行くことはできません。キリストの弟子にはなれないのです。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、主のためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

 

ある方からお電話がありました。精神的にとても落ち込んでいると。教会の方が召されたり、家族が病気になったり、仕事が思うようにいかなくて悩んでいたとき、カウンセラーに相談したそうです。するとカウンセラーから、「聖書に、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』とあるので、まず自分を愛することが大切だ」と言われたそうです。それで自分を愛そうと、自分の生い立ちを振り返ってみました。するとずっとセルフイメージが低く、自分を否定していたことに気付きました。でも自分の気持ちを自分に向けるほどもっと落ち込んでしまった、というのです。皆さん、どう思いますか。それはそうです。というのは、聖書には自分を愛しなさいなんて一言も言っていないからです。自分を大切にすることは必要です。でもそれは自分を愛することではありません。聖書が教えていることはその逆で、自分を捨てなさい、ということです。自分を捨て、自分の十字架を負って、そしてキリストに従いって来なさいと。そうすれば、いのちを見出すと。もしあなたが自分、自分と自分のことばかり見ているなら、いつまで経ってもその穴から抜け出すことはできません。でもあなたの目を神に向け、キリストの十字架を負って、キリストに従うなら、神と隣人を愛するなら、あなたはいのちを見出すことになります。人に相談してはならないということではありません。しかしあなたがあなたの前に主を置いて、主のみこころは何かを考え、主に従うなら、あなたはいのちを見出すことになるのです。問題を見てはいけません。神を見て、神に信頼しなければなりません。

 

もし私たちが神を信じていても、同時に偶像礼拝をするなら、必ず大雨はとどめられ、心は渇き、弱り果て、干ばつや日照りで作物は取れず、不毛の人生を送るようになります。神は私たちにそのような者になることを望んでいません。だから主は私たちに「戻って来なさい」「帰って来なさい」と言われるのです。私たちは、大雨がとどめられないように、後の雨が降るように、もう一度、私たちの状態を顧みて、もし偶像を拝んでいるようであるならば、それを悔い改めて、今、神に立ち帰ろうではありませんか。

 

 Ⅲ.神への正しい祈り(4-5)

 

 最後に4~5節をご覧ください。「4 今でもあなたは、わたしにこう呼びかけているではないか。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。5 いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのですか」と。なんと、あなたはこう言っていながら、あらん限りの悪を行っている。』」

 

 「今でも」とは、多くの愛人と淫行を行っている「今でも」ということです。今でも彼らは主にこう呼びかけていました。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。」

 ユダヤ人の女性は、自分の夫のことを「父」と呼んでいました。ですから、この「父」とは、前の夫のことです。前の夫に対して、「あなたは私の若いころの恋人です」と言っているのです。この「恋人」とは、口語訳では「友」、新共同訳では「夫」と訳しています。新改訳第三版では「連れ合い」と訳しています。おもしろいですね、それぞれの訳によって微妙にニュアンスが違います。どちらかというと新共同訳と新改訳第三版では同じような意味で訳しています。「夫」、あるいは「連れ合い」のことです。彼らは多くの愛人、すなわち、多くの偶像を礼拝しながら、主に「あなたは私の夫です」と呼び掛けていたのです。皆さんどう思いますか。愛人と関係を持ちながら、「あなたは私の夫です。」イスラエルの民は主なる神と契約を結んでいたので、このように叫んでいるのです。それは私たちが、「私たちはまさにクリスチャンです」というようなものです。

 

 5節をご覧ください。彼らはあらん限りの悪を行っていながら、「いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのです」と言っています。彼らの問題は何だったのでしょうか。彼らの問題は、言行が一致していなかったということです。言っていることとやっていることが一致していなかったのです。彼らは、口では信仰的なことを言いながら、行いではあらん限りの悪を行っていました。

 

 このような過ちを私たちも犯すことがあります。口では「主よ、わたしはあなたのものです。わたしはあなたを心から愛します」と言いながら、一方では他の神々を慕っているということがあるのです。イエス様は「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」(マタイ15:8)と言われましたが、そういうことがあるわけです。その結果、雨がとどめられ、窮地に立たせられると、もう苦しい時の神頼みで、「神様、助けてください」と叫ぶのです。藁をもすがるように、イエス様にすがろうとするのです。そのこと自体は問題ではありませんが、そのようにしながらも、一方ではあらん限りの悪を行うという、何ともチグハグなことをしているのです。偶像を捨てません。あきらめられないのです。こういうのを何というかというと、虫のいい信仰と言います。

 

 もし悔い改めて他の偶像を捨て、まことの神に立ち帰ったのであれば、「主よ、いつまで怒っておられるのですか。永久に怒っておられるのですか。どうぞあわれんでください。その怒りを鎮めてください。」と祈ることができます。そして、神様はあわれみをもってその祈りに答えてくださいますが、しかしこのイスラエルの民のように自分たちの罪を認めずそれを棚に上げてますます悪を行うなら、大雨はとどめられることになります。しかし、あなたが悔い改めて神に立ち帰るから、神はあなたに恵みの雨を与えてくださいます。

 

 4世紀に活躍したアウグスティヌスと言えば、古代の教会の教父、また哲学者、神学者として知られ、今なお、多くの人々から尊敬を受けている人物ですが、このアウグスティヌスも、若いころは、とんでもない生活をしていました。彼は、16歳の時、親もとを離れて、北アフリカのカルタゴという街に行きますが、そこで、ひとりの女性と同棲し子どもをもうけるようになるのです。おまけに、母から受けた信仰の教えを捨てて、当時のローマ世界にいきわたっていた「マニ教」という宗教に入信してしまうのです。

 母のモニカは、マニ教に走って行った息子のことで悩み、教会の司教アンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは「息子さんをそのままにしておきなさい。ひたすら彼のために主に祈りなさい。息子さんは彼らの書物を読んでいるうちに、それが何という間違った教えであるかを、いつか悟るでしょう。」と、モニカに話すのですが、それでも、彼女は泣き続けました。その時、この司教は言いました。「さあ、お帰りなさい。大丈夫ですよ。このような涙の子が滅びるはずはありません。」この言葉の通り、アウグスティヌスは母モニカの涙の祈りによって、不道徳と、誤った教えから立ち返ったのです。

 

 それはあなたにも言えることです。神は、ひとりも滅びることを望んではおられません。すべての人が救われることを願っておられます。すべての人が神に立ち帰ることを待っておられるのです。主イエスの十字架によって赦されない罪はありません。主イエスの十字架の血潮は、どんな罪でも赦すことができるのです。この主の御腕の中に飛び込みましょう。「わたしに帰れ」とイスラエルを招かれた主は、今あなたをも招いておられるのです。

 

民数記20章

民数記20章

 

きょうは民数記20章から学びます。

 

Ⅰ.メリバの水(1-13)

 

まず1~6節までをご覧ください。「1 イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に入った。民はカデシュにとどまった。ミリアムはそこで死んで葬られた。2 そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。3  民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが主の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。4 なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。5 なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主栄光が彼らに現れた。」

 

イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着きました。ツィンの荒野とは、あの12人のスパイたちをカナン偵察のために遣わしたカデシュ・バネネアという町がある地です。彼らはそこで不信仰のゆえに40年間も荒野をさまようことになりました。1節に「第一の月」とありますが、これはイスラエルがエジプトを出て40年目の「第一の月」のことです。なぜなら、33章38節にアロンの死のことが記されてありますが、それは、イスラエルの子らがエジプトの地を出てから40年目のことでした。この章の最後の箇所にもアロンの死のことが記されてありますが、これはエジプトを出てから40年目のことです。第一の月にツィンの荒野に着き、その年の第五の月の一日にアロンはホル山で死んだのです。すなわち、これは彼らが不信仰によって荒野をさまようようになってから38年後のことなのです。彼らはもう一度このツィンの荒野までやって来たのです。

 

そこでどんなことが起こりましたか。まずモーセの姉の「ミリアム」が死にました。彼女はすでに約133歳になっていたと思われます。というのは、モーセが生まれたとき彼女は13歳だったからです。この時モーセは120歳でしたので、モーセの姉はだいたい133歳くらいであったことがわかるのです。その他の人々はほとんどが新しい世代の人たちです。古い世代の人たちはみな死に絶えてしまいました。

 

そこで一つの事件が起こりました。イスラエルの民がモーセとアロンに逆らったのです。なぜ彼ら逆らったのでしょうか?水がなかったからです。水がなかったので、穀物やくだものが育たないというだけでなく、彼らの家畜にも飲ませることができませんでした。荒野で水がないというのは致命傷です。それは死を意味していました。それで彼らはモーセとアロンにつぶやいたのです。ここで興味深いことは、彼らのつぶやきは、この民数記14章1~4節でかつて彼らの親たちがつぶやいた内容とそっくりであるということです。また16章12~13節にはコラの事件がありましたが、その時にエリアブの子ダタンとアビラムが言ったこととも同じです。人間はいつの時代も同じです。またそのような言葉を聞いて育った子どもは、同じような言葉を使うようになるのです。そこに水がなかったのでそれを契機に彼らは、このような不平を鳴らしたのでした。おそらく、ミリアムが死んだという悲しみがあったでしょうし、かつてここから偵察を遣わしたという記憶もよみがえってきたのではないかと思います。私たちは普段は希望を持っていても、いざ状況が悪くなるとすぐに不満を漏らしやすい者であるということを肝に銘じ、主の恵みを覚えていなければなりません。それでモーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏すと、の栄光が彼らに現れました。モーセとアロンは、どれほど苦々しい思いを抱いていたかと思いますが、彼らが立派だったのはそのような時にはいつも主の前にひれ伏したことです。

 

7~13節をご覧ください。「7 主はモーセに告げられた。8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。10 モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」13 これがメリバの水である。イスラエルの子らが主と争った場所であり、主はご自分が聖であることを彼らのうちに示されたのである。」

 

すると主は何と仰せになられたでしょうか?杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そうすれば岩は水を出す、と。その水を会衆とその家畜とに飲ませるようにと告げられたのです。そこでモーセは、主が命じられたとおりに主の前から杖を取り岩の前に召集したイスラエル人に、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言い、杖で岩を二度打ちました。すると、岩からたくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲むことができました。

 

しかし、そのとき主はモーセとアロンにこう言われました。12節です。「しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

どういうことでしょうか?彼らは、神に命じられたとおりにしたのに、主に信頼しなかった、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現わさなかった、というのです。それだけならまだしも、そのことのゆえに、彼らはそのイスラエルの会衆を、約束の地に導き入れることはできないというのです。これは大変なことです。いったい何が問題だったのでしょうか。実は、彼らは主が命じられたとおりに行ったように見えますが、実際はそうではありませんでした。モーセはただ岩に命じればよかったのに、岩を打ってしまったからです。しかも二度も。いったいなぜモーセは岩を二度打ってしまったのでしょうか。それはモーセの中に怒りがあったからです。何度も何度も自分たちに逆らうイスラエルの会衆に対して憤りを抑えることができなかったのです。それで岩を打ったのです。それでも主は民をあわれみ水が出るようにされましたが、そのことは主のみこころを損なわせることだったので、モーセとアロンはこの会衆を約束の地に導き入れることはできないと言われたのです。このことが原因で彼らは約束の地に入ることができませんでした。この出来事はそれだけ重要な出来事だったのです。

 

このことは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。Ⅰコリント10章4節をお開きください。ここには、この岩がキリストを表しているとあります。「(私たちの先祖は)みな、同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」この岩とはキリストを現わしていたのです。その岩から水を飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを現わしています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのに、モーセは岩を打ってしまいました。すなわち、神の命令に従わなかったのです。つまり、主のことばを信じませんでした。モーセは自分の思い、自分の感情、自分の方法に流されてしまいました。それは信仰ではありません。信仰とは神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはできません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れることです。すなわち、御霊の岩であるイエス・キリストを信じる以外にはありません。これが、私たちが救われるために神が用意してくださったことでした。それなのに彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたのです。それでこの水はメリバの水と呼ばれました。意味は「争う」です。彼らは神に従ったのではなく、神と争ったのです。それが問題だったのです。

 

私たちはここから、神に従うことの大切さを学びます。そして、そのためには自分の感情を抑制することが求められます。自分の感情に流されて神に従うことができないことがよくあります。たとえ自分の感情がどうであれ、御霊によって歩み、御霊に導かれて歩まなければなりません。そうすれば、肉の欲求を満足させることはない、すなわち、肉に支配されることはありません。

 

Ⅱ.エドムの反抗(14-21)

 

次に14~21節までをご覧子ください。「14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを遣わして言った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。15 私たちの先祖はエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖を虐待しました。16 私たちが主に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、一人の御使いを遣わし、私たちをエジプトから導き出されました。今、私たちはあなたの領土の境界にある町、カデシュにおります。17 どうか、あなたの土地を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは『王の道』を行き、あなたの領土を通過するまでは、右にも左にもそれません。」18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。通るなら、私は剣をもっておまえを迎え撃つ。」19 イスラエルの子らはエドムに言った。「私たちは大路を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。歩いて通り過ぎるだけですから、何事でもないでしょう。」20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせることを拒んだので、イスラエルは彼のところから向きを変えた。」

 

カデシュから直接、約束の地に入ることが御心ではないことを知っていたモーセは、ヨルダン川の東から、ヨルダン川を渡って入ることを考えていました。ゆえに死海を迂回して、死海の北にあるヨルダン川に向かいました。そこにはエドムの地が広がっていたので、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送り、彼らの地を通らせてほしいと願いました。しかし、彼らの答えは「ノー」でした。「通ってはならない。通るなら、剣をもって迎え撃つ」と、頑なに拒んだのです。なぜでしょうか?

 

エドムとはもともとヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルの兄弟です。それゆえ、主はモーセに対してエドム人と争ってはいけないという命令を出していました(申命記23:7)。それは「彼は同族であるから」です。ヤコブの兄であったので戦ってはいけない、と言われたのです。それでモーセは平和的な解決を求めてエドムの王に通行許可を願いましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。それどころか、戦争も辞さない姿勢で向かってきたのです。それは彼らがイスラエルの神に恐れを抱きながらも、最終的には自分たちの思いを優先していたからです。あのエサウが一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利をヤコブに譲ったように、霊的なことに目が開かれることなく、いつも肉的に考えていたからです。それはこの時からずっと続いています。彼らはイスラエルに決して服することをせず、何かあれば、イスラエルに敵対しました。イスラエルが苦しめられていても何のお構いなしで、彼らを助けようとせず、自分たちを中心に行動したのです。その結果、このエドムには永遠の廃墟という預言が与えられました。いつまでも悔い改めず、神に敵対する者がどうなってしまうのかを、この箇所はよく教えていると思います。

 

Ⅲ.アロンの死(22-29)

 

最後に22~29節を見て終わります。「22 イスラエルの全会衆はカデシュを旅立ち、ホル山に着いた。23 主は、エドムの国境に近いホル山で、モーセとアロンにお告げになった。24 「アロンは自分の民に加えられる。彼は、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命に逆らったからである。25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。26 アロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せよ。アロンは自分の民に加えられ、そこで死ぬ。」27 モーセは、主】命じられたとおりに行った。彼らは、全会衆の見ている前でホル山に登って行った。28 モーセはアロンの衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。アロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から下りて来たとき、29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。」

 

こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着きました。ホル山はエドムの領地にあります。ですから、彼らは明らかに直線の道を通らずに、エドムの領土を廻っていく道を進んで行ったことがわかります。そのホル山で、主はモーセとアロンに仰せられました。そこでアロンは死ぬと。それでアロンの子エルアザルに大祭司の装束を着せて引き継ぎが行なわれ、彼はそこで死にました。その理由は、先ほどのメリバの水のことで、主の命令に逆らったからです。

 こうしてアロンはホル山で息を引き取りました。厳しい現実です。しかし、このことを通して、主はいかにキリストの御業が完全であり、キリストに従うことの重要性を示しておられるかがわかります。すなわち、キリストの御業こそ完全であって、それが私たちを完全に救うことができるということです。それ以外に救いはありません。もし、それを妨げるものがあれば、こうした厳しい結果を招くことになります。たとえ、それが自分の目でどんなに正しいことであるかのように見えても、それは私たちを救うことはできません。神が要求されることは、私たちがただ神の贖いを受け入れることです。それ以外には方法はありません。神が示された救いの御業を受け入れ、それに信頼して歩む者でありたいと思います。

 

もうどうにもとまらない エレミヤ書2章20~37節

聖書箇所:エレミヤ書2章20~37節(エレミヤ書講解説教5回目)

タイトル:「もうどうにもとまらない」

 

 エレミヤ書から学んでいます。今日は、2章20~37節からお話します。タイトルは、「もうどうにも止まらない」です。エレミヤは2章において、背信のイスラエルの姿をいろいろな比喩を用いて表してきました。その一つが不誠実な妻の姿であり、また、壊れた水溜であり、売られた奴隷の姿でした。そして、ここからさらに痛々しいくらい、彼らの背信の姿を、次から次に語ります。もうどうにもとまりません。

 

 Ⅰ.もうどうにもとまらない(20-25)

 

 まず、20~25節までをご覧ください。「20 実に、遠い昔にあなたは自分のくびきを砕き、自分のかせを打ち砕いて、「私は仕えない」と言った。まさしく、あなたはすべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っている。21 わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。22 たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。-神である主のことば-23 どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。24 また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。25 裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。」

 

 20節に「くびき」とか「かせ」とありますが、これは、神から与えられた律法のことです。かつてイスラエルは神と契約を結びました。もし彼らが神の声に聴き従い、神の契約を守るなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の民となると。その律法のことです。結婚関係でいうと誓約ですね。でも彼らはそれを砕いて、すべての高い丘の上や、青々と茂るあらゆる木の下で、寝そべって淫行を行っていました。「すべての高い丘」とか「青々と茂る木の下」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。そこで彼らは寝そべって淫行を行っていたのです。実際的、霊的に姦淫を行っていました。

 

主イエスはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

イエス様は、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。しかし、そのくびきを負いたくないのです。イエス様のくびきは負いやすく、その荷は軽いのに、「私は仕えない」、「ヤダモン!」と言って、神に反抗したのです。

 

 私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私たちイエス様を信じてイエス様と一つに結ばれたのにもされたにもかかわらず、私は好きなように生きたい、束縛されたくないと言って、くびきを砕き、かせを打ち砕いていることがあります。キリストを信じるとは、キリストの死と復活に一つにされること、すなわち、キリストを人生の主として生きることであるということを、しっかりと受け止めたいと思います。

 

 21節をご覧ください。「わたしは、あなたをみな、純種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのか。」

 次は質の悪いぶどうのたとえです。彼らは純粋で良質のぶどうとして植えられたのに、質の悪いぶどうに変わってしまいました。それは神の期待を全く裏切るようなものでした。神はどれほど悲しまれたでしょうか。イザヤ書5章1~4節には、その神の嘆きが語られています。

「1 「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。2 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。3 今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。4 わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。」

神はよく肥えた山腹にぶどう園を持っていて、苦労してそこを掘り起こし、石を取り除いたりして良いぶどうを植え、それはせかりか、その中にやぐらを立て、ぶどうの踏み場まで掘って、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、ところが、何と酸いぶどうが出来てしまいました。本来は甘い良い実が出来るはずなのに、酸いぶどうが出来てしまったのです。あなたはどのような実でしょうか。

 

 22節には、もう一つのたとえが描かれています。それは何をもっても拭うことができない垢、汚れです。「たとえ、あなたが重曹で身を洗い、たくさんの灰汁を使っても、あなたの咎は、わたしの前に汚れたままだ。」

 「重曹」という語は、第三版訳と口語訳では「タンサン」と訳しています。炭酸水素ナトリウムのことです。簡単に言うと、万能お掃除グッズです。クエン酸と一緒に使うと汚れを落としピカピカにすることができます。電気ケトルを洗う時などは、このクエン酸を使うとよく落ちるそうですが、私はやったことはありません。しかし、その重曹であなたのからだを洗っても、あなたの垢を落とすことはできません。それはあなたのからだにこってりとこびりついているので、どんな洗剤を使っても落とすことができないのです。たくさんの「灰汁」を使っても同じです。「灰汁」とは植物質のアルカリのことです。その灰汁を使っても、あなたの咎は汚れたままなのです。つまり、どんなに強い洗剤を使っても、あなたの罪の染みは取れないということです。アタックを使ってもだめです。アリエールでもあり得ません。どんな重曹を使っても、どんな灰汁を使っても、あなたのがんこな汚れ、あなたの罪の染みは抜けないのです。

 

 では、どうしたらいいのでしょうか。どうしたら罪の汚れを落とすことができるのでしょうか。それはただイエス・キリストの十字架の血潮によります。1ヨハネ1章7~9節にこうあります。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。どんなガンコな汚れでも洗い清めることができるのです。すばらしいですね。これが聖書を通して神が私たちに約束しておられることです。御子イエスの血がすべての罪をきよめてくださいます。キリストの血潮できよめられない汚れはありません。キリストの血は、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。

イザヤ1章18節にはこうあります。「さあ、来たれ。論じ合おう。主は言われる。たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」あなたが御子イエスを信じるなら、御子の血が、あなたのがんこな汚れを完全に洗いきよめてくださるのです。

 

23~25節をご覧ください。「どうしてあなたは、「私は汚れていない。バアルの神々に従わなかった」と言えるのか。谷の中でのあなたの行いを省み、自分が何をしたかを知れ。あなたは、あちらこちら道を走り回るすばやい雌のらくだ。24 また、欲情に息あえぐ荒野に慣れた野ろばだ。さかりのとき、だれがこれを制し得るだろう。これを探す者は苦労しない。発情の月に見つけることができる。25 裸足にならないように、喉が渇かないようにせよ。しかし、あなたは言う。「あきらめられません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます」と。」

 ここでは、イスラエルがさかりのついた「雌のらくだ」や「野ろば」にたとえられています。このような動物は本能のままに生きるので、自分を抑制することができません。もうどうにも止まらない!です。自分の欲情を満たしてくれるものを探して、あちらこちら走り回るのです。

 

 私が小さい頃、山本リンダさんという歌手が「どうにもとまらない」という歌を歌いました。「うわさを信じちゃいけないよ 私の心はうぶなのさ いつでも楽しい夢を見て 生きているのが好きなのさ・・ああ蝶になる ああ花になる 恋した夜は あなたしだいなの ああ今夜だけ ああ今夜だけ もうどうにもとまらない」彼らは霊的、肉体的淫行を求め、もうどうにもとまらないくらい走り回っていたのです。

 

 25節にある「裸足にならないように」とか「喉が渇かないようにせよ」というのは、荒野で行き倒れにならないようにという意味です。それは荒野を旅する者にとっての最低の注意でしたが、その声さえも彼らの耳には入りませんでした。そして、「あきらめません。他国の男たちが好きなので、私は彼らについて行きます。」と言うのです。「他国の男たち」とはバアルの神々のことです。それが好きなので、私は彼らについて行きますと、ついて行ったのです。

 

皆さんは、どう思いますか。このまま行けば荒野で行き倒れになってしまうように身を滅ぼしてしまうということが分かっていても、あきらめられないのです。そうした忠告に耳を傾けることはできないでしょうか。できます。なぜなら、皆さんはイエス様を信じているので、そうしたものに固執する必要はないからです。イエス様を信じる人には、神の聖霊が与えられているからです。聖書はこうあります。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。」(ガラテヤ5:16)

 

内なる戦いがあります。肉との戦いですね。この戦いに勝利するのは至難の業ですが、私たちはそれに勝利することができるのです。それは私たちの力によってではなく、神が与えてくださった御霊の力によってです。御霊によって歩むなら、決して肉の欲望を満足させることはありません。私たちには負けるしかない運命の中にいるのではなく、それに勝つことができるように、神は御霊の力と逃れの道を備えていてくださるのです。

 

 Ⅱ.身勝手なイスラエル(26-28)

 

次に26~28節をご覧ください。「26 盗人が、見つかったときに恥を見るように、イスラエルの家も恥を見る。彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちも。27 彼らは木に向かって「あなたは私の父」、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言っている。実に、彼らはわたしに背を向け、顔を向けない。それなのに、わざわいのときには「立って、私たちを救ってください」と言う。8 では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには彼らが立って救えばよい。ユダよ、あなたの神々はあなたの町の数ほどもいるではないか。」

 

今度は、盗人が見つかったときに恥を見るたとえです。私たちはよくテレビのニュースで窃盗犯が捕まって警察の車両で連行される場面を見ることがありますが、何ともみじめです。「ショーシャンクの空に」という映画の主人公のように、20年間もロックハンマーで刑務所の壁を掘り続け、ついに脱獄したというのならカッコいいのですが、それはあくまでも映画の話で、実際には不可能です。見つかって捕らえられ、恥を見ることになります。それと同じようにイスラエルも恥を見るようになるのです。

 

それは彼らの王たち、首長たち、祭司たち、預言者たちも同じです。彼らは木に向かって「あなたは私の父」と言い、石に向かって「あなたは私を生んだ」と言います。それなのに、わざわいの時になると手のひらを返したかのように、主に向かって「立って、私たちを救ってください」と言うのです。

 

こういう人を、皆さんはどう思いますか。全く身勝手な人だと思いませんか。神様も同じです。28節には、神様が皮肉たっぷりにこう言われます。「では、あなたが造った神はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるではないか。」

あなたが造った神々に願ったらいいじゃないか、あなたの神々はどこにいるのか。彼らが立って救えばよい。しかし、そうした偶像があなたを救うことはできません。ここには、「ユダよ、あなたの神々はあなたの町の数ほどもいるではないか」とあります。日本にも八百万の神といって、八百万の神々がいると言われていますが、そうしたものがいざというとき、本当にあなたを助けてくれるでしょうか。あなたを救ってくれるでしょうか、そのことをよく考えなければなりません。

 

詩篇115篇4~8節にこうあります。「4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。5 口があっても語れず、目があっても見えない。6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。」

おもしろいですね、偶像は目があっても見えず、耳があっても聞こえません。口があっても語れず、鼻があってもかぐことができません。手があってもさわれず、足があっても歩くことができないのです。そんな偶像を造り、それを拝むことにいったいどんな意味があるのでしょうか。全くありません。そうした偶像は何の役にも立たないのです。無益なのです。

 

しかし、まことの神は違います。まことの神は、あなたを救うことができます。まことの神は、あなたのためにご自分のいのちを捨ててあなたを救ってくださった方、私たちの主イエスです。この方は、あなたが困ったときにちゃんと助けてくださいます。ご自分のいのちを捨てるほど愛してくださった方が、それといっしょにすべてのものを与えてくださらないわけがありません。神はそれほどあなたを愛しておられるのです。この神が一番頼りになるのはいうまでもありません。この神を恐れ、この神を礼拝しなければなりません。

 

 Ⅲ.神と争うイスラエル(29-37)

 

 次に29~37節までをご覧ください。「29 なぜ、あなたがたはわたしと争うのか。あなたがたはみな、わたしに背いてきた。-主のことば-30 わたしはあなたがたの子らを打ったが、無駄だった。彼らはその懲らしめを受け入れなかった。あなたがたの剣は、食い滅ぼす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした。31 あなたがた、この時代の人々よ。主のことばに心せよ。わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。32 おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。33 あなたが愛を求める方法は、なんと巧みなことか。そのようにして、あなたは悪い女にさえ、巧みに自分の方法を教えたのだ。34 あなたの裾に見つかるのは、咎なき貧しい人たちの、いのちの血。彼らが押し入るのを、あなたが見たわけでもないのに。しかも、これらすべてのことにもかかわらず、35 あなたは言う。「私は潔白だ。確かに、御怒りは私から去った」と。あなたが「私は罪を犯してはいない」と言うので、今、わたしはあなたをさばく。36 あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリヤによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。37 そこからも、あなたは両手を頭に置いて出て来るだろう。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。」

 

 ここでは、イスラエルを反抗的な子どもの姿にたとえています。主は彼らに何度も警告を与え、彼らを打ったり、懲らしめたりしましたが、彼らはその懲らしめを全く受け入れませんでした。「打つ」とは、神が剣とか、もききん、疫病などでその民を罰することを指しています。また、「懲らしめ」とは、預言者たちの警告と神の処罰の両方を含むものです。しかし、彼らはこうした懲らしめを受け入れるどころか、神のことばを語った預言者たちを食い尽くしたのです。彼らは預言者が語る神の言葉を受け入れることができなかったので、食い尽くす獅子のように、預言者たちを食い尽くしたのです。

 

しかし、神様が彼らを打ったり、懲らしめたりしたのは何のためだったのでしょうか。それは彼らを傷つけるためではありませんでした。それは、彼らを子として扱っておられたからです。へブル12章6~11節にこうあります。「6主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

 

しかし、イスラエルの民は受け入れることができませんでした。それで主は彼らにこう言われます。31節、「わたしはイスラエルにとって荒野であったのか。あるいは暗黒の地であったのか。なぜわたしの民は、「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません」と言うのか。」

「荒野」とか「暗黒」とは、イスラエルがかつてエジプトの奴隷であった時のように、何の喜びもない、がんじがらめの生活のことです。イスラエルは、荒野から導き出してくださった神を忘れ、神ご自身が荒野であるかのように思い、または暗黒であるかのように錯覚して、元の状態に戻ろうとしていました。「私たちは、さまよい歩きます。もうあなたのところには行きません。」と言って・・。悲しいですね。でも、実際にこのように考えて、信仰から離れ元の状態に戻ろうとする人もいます。

パウロはガラテヤ人への手紙の中でこう語っています。「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)あなたは、クリスチャンになる前の生活に戻ろうとしていないでしょうか。ですから、堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされることがないように注意しなければなりません。

 

さらにイスラエルの罪が糾弾されます。32節です。「おとめが自分の飾り物を、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れた。その日数は数えきれない。」

この「飾り物」とは、おとめがその身に飾る物です。日常生活において、「おとめがその身を飾るものを忘れる」ことはありえません。また、「花嫁の飾り物」とは、愛する人からの贈り物である花嫁の「晴れ着の帯」のことです。イスラエルは主の花嫁として美しい晴れ着もその帯も与えられていました。それほど主に愛されている存在であったのに、その主を忘れてしまいました。

 

33節では、辛辣な皮肉を込めて、情事の比喩によって、宗教的な民の無節操が取り上げられています。「愛を求める方法」とは、情事に誘い込む方法のことです。それは本当に巧みで、今では、悪い女、遊女にさえ、そのやり方を教えるほどになりました。

 

また、34~35節を見ると、彼らは、罪のない貧しい人たちの血を流してきました。自分が欲することを求めるあまりに、多くの人々が傷ついても、そんなのお構いなしで、何の罪意識も持つことはありませんでした。そしてこう言ったのです。「私は潔白だ」。確かに、御怒りは私から去った」と。」どういうことでしょうか。罪の自覚が全くありません。これは、ヨハネ9章41節でイエス様が指摘しておられることです。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」罪の自覚がないということは本当に恐ろしいことです。私には罪がない。それは神を偽りものとすることです。

 

その結果どうでしょう。36~37節をご覧ください。「あなたはなんと簡単に自分の道を変えることか。アッシリヤによって恥を見たのと同様に、あなたはエジプトによっても恥を見る。そこからも、あなたは両手を頭に置いて出て来るだろう。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたが彼らによって栄えることは決してない。」

アッシリヤとかエジプトといったこの世の力と手を組んで、人間的に解決しようとしても、何の良い結果も得られません。両手を頭に置いて出てくるとは、降参するということですが、結局、バビロンの前に屈服し、彼らの捕虜となります。バビロン捕囚のことです。アッシリヤに頼ろうと、エジプトに頼ろうと、これを避けることはできません。バビロンは確かにやって来ます。主が、あなたの拠り頼むものを退けられるので、あなたは滅びる。決して栄えることはない、というのです。この世に頼るならあなたは裏切られ、失望することになります。必ず失敗し失望します。それは昔も今も変わりません。この世に頼ろうとするならば、この世の力にすがろうとするならば、神以外のものに満たしを求めようとするならば、必ず失望することになります。しかし、主に信頼する者は、決して失望させられることはありません。

 

かつてデンマークに一人の男の子が生まれました。彼が生まれたのは棺桶の中でした。お母さんは他人の汚れ物を洗って生計を立てていました。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていました。本当に貧しい家に生まれ、極貧の生活の中で彼は育ちました。彼は大人になって恋をしましたが、恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばかりでした。ついに彼は生涯独身で過ごしました。彼は70歳まで生きて、最後に言ったことばは、こうでした。

「私の人生は童話のように幸せでした。」

そうです、この彼とはアンデルセンのことです。アンデルセンはなぜこのように言うことができたのでしょうか。その秘訣を彼はこう言っています。

「私を愛し、私を助けてくださるイエス・キリストがいつも共にいて下さったからです。」

正しい価値観は、状況や環境が変わっても、それでもなお、私たちに喜びや平安や希望を与えてくれます。これこそ、神が私たちに求めておられることです。神に立ち返りましょう。そして、神に信頼してください。そうすれば、神がイエス・キリストを通して、あなたと共にいて、あなたに真の喜びと平安を与えてくださるのです。

民数記19章

きょうは民数記19章から学びます。

 

Ⅰ.傷のない完全な、赤い雌牛(1-10)

 

まず、1~10節をご覧ください。「1 主はモーセとアロンに告げられた。2 「主が命じるおしえの定めは、こうである。イスラエルの子らに告げよ。まだくびきを負わせたことがなく、傷のない完全な、赤い雌牛をあなたのところに引いて来るようにと。3 あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡す。そして宿営の外に引き出し、彼の前で屠る。4 祭司エルアザルは指で血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七度振りまく。5 その雌牛は彼の目の前で焼き、皮と肉と血を汚物とともに焼く。6 祭司は、杉の木とヒソプと緋色の撚り糸を取り、雌牛が焼かれている中に投げ入れる。7 祭司は自分の衣服を洗い、からだに水を浴びる。その後、宿営に入ることができる。しかし、この祭司は夕方まで汚れる。8 これを焼いた者も、自分の衣服を水で洗い、からだに水を浴びる。彼は夕方まで汚れる。9 それから、きよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置く。そして、イスラエルの会衆のために、汚れを除く水を作るために保存しておく。これは罪のきよめのささげ物である。10 この雌牛の灰を集めた者は、自分の衣服を洗う。彼は夕方まで汚れている。これは、イスラエルの子らと、あなたがたの間に寄留している者にとって永遠の掟となる。」

 

ここで主はモーセとアロンに、まだくびきを負わせたことがない、傷のない完全な、赤い雌牛を彼らのところに連れて来るように命じました。何のためでしょうか。罪のきよめのささげ物としてささげるためです。イスラエルの子らが引いて来た赤い雌牛をモーセとアロンが祭司エルアザルに渡すと、彼はそれを宿営の外に引き出し、屠らなければなりませんでした。そしてその血を取り、会見の天幕の正面に向かって、七度振りまかなければなりませんでした。その雌牛はそこで焼き、皮と、肉と、血も、汚物とともに焼かなければなりませんでした。祭司は、杉の木と、ヒソプと、緋色の撚り糸を取り、雌牛が焼かれている中に投げ入れました。それから、祭司は自分の服を洗い、その体に水を浴びてから、宿営に入ることができました。しかし、彼は夕方まで汚れているとされました。そして、汚れていないほかの人が、その雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエルの民のために、汚れを清める水を作るために、この灰を保存しておかなければなりませんでした。これは罪をきよめるためです。この雌牛の灰を集めた者も、自分の服を洗わなければなりませんでした。彼も夕方まで汚れた者とされました。これは、イスラエル人であろうと、外国人であろうと、皆同様に守らなければならない永遠の掟となりました。

 

いったいなぜこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。ここで思い出してください。この時、イスラエルの宿営には至る所に死体がころがっていました。コラの子たちがモーセとアロンに反逆したことで神の怒りが彼らに下り、生きたままよみに投げ入れられると(16:31-33)、それに同情したイスラエルの民もモーセに反抗して罪を犯したためそれに対する神罰が下り、彼らの中からもたくさんの死者が出たのです。コラの事件で死んだ者とは別に、その神罰で14,700人が死にました(16:49)。しかし、この後に出てくるように、死体に触れる者は汚れた者とされました(19:11~)。そのことは、6章6~12節、9章6~12、レビ記21:1~4にも記されてあります。それで主は、死体に触れて汚れた者がきよめられるために必要な方法を示されたのです。それがこの「傷のない完全な赤い雌牛」を屠り、それを焼いた灰によって作られた水を注ぎかけるという儀式だったのです。このようにして、コラの反逆によってもたらされた被害を、主は完全にきよめようとされたのです。つまり、傷のない完全な、赤い雌牛をほふり、その灰によってきよめの水を作り、それを汚れた人に注ぎかけることによって、死体に触れて汚れた人のすべてがいやされたのです。

 

 ここには、その水の作り方が示されています。まず、まだくびきを負ったことがない赤い雌牛が屠られ、灰にされました。「傷がなく」というのは、全く欠陥がない(罪がない)ということです。そして、「くびきを負わされたことのない」というのは、罪のくびき(罪の奴隷)を負わされたことがないという意味です。「赤い雌牛」の「赤」は、血といのちを象徴していました。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴なのです。つまりこれは、やがて来られるイエス・キリストのことを指し示していたのです。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕に向かって七度振りかけました。「七度」は完全数です。

 

そして、その雌牛は彼の目の前で焼かれました。またその皮と肉と血を、その汚物とともに焼かなければなりませんでした。宿営の外で・・。そして6節にあるように、祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れました。この杉の木とヒソプ、緋色の糸は何を象徴しているのでしょうか。ある人は、杉の木は十字架の象徴しており、ヒソプは罪のきよめを、そして緋色の糸はキリストの血を象徴していると考えています。確かに、ヒソプはイスラエル人がエジプトで過ぎ越しのいけにえの血を自分たちの家の2本の戸柱と戸口の上部に塗った時に用いられました(出12:21-22)。また,以前らい病にかかっていた人や家を清める儀式(レビ14:2‐7,48‐53。)や,「清めの水」に使われる灰を準備する際に使われ,その水を特定の物や人に注ぎかけるときにも用いられました(民19:6,9,18)。ですからダビデは、ヒソプをもって罪からきよめてくださいと祈ったのです(詩51:7)。また、緋色についても、キリストの血を表すものとして、出エジプト記の中の幕屋の垂れ幕や大祭司の服に刺繍されていました。しかし、ここではそれを火の中に投げ入れました。それを赤い雌牛と一緒に焼かなければならなかったのです。とすれば、それは十字架や罪のきよめ、血の象徴と全く逆の意味として使われていることになります。

 

調べてみると、杉の木は力や富、権力、栄光の象徴として用いられていることがわかります。そしてⅠ列王記4章33節には、ソロモンが草木のことを論じた際に「杉の木からヒソプにまで及んだ」とあります。ヒソプというのはとても低い草ですが、杉の木のように高くて大きな木から、ヒソプのように低くて小さな草に至るまでという意味で、それは植物全体を意味していました。言い換えると、それらは全世界ということです。では、緋色の撚り糸は何を表していたのでしょうか。この言葉はイザヤ書1章18節にも使われています。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。ここで緋色の撚り糸は、私たちの罪を表しています。すなわち、この杉の木とヒソプ、緋色の撚り糸は、大きな罪から小さな罪まで、全ての罪を象徴していたのです。それを火の中に投げ入れました。ですからこれは、全世界の罪が、赤い雌牛を神にささげた時、赤い雌牛とともにすべてが焼き尽くされたことを意味していたのです。

 

Ⅱ.きよめの水(11-19)

 

次に、11~19節までをご覧ください。「11 死人に触れる者は、それがどの人のものであれ、七日間汚れる。12 その者は三日目と七日目に、先の水で身の汚れを除いて、きよくなる。三日目と七日目に身の汚れを除かなければ、きよくならない。13 死人、すなわち死んだ人間のたましいに触れ、身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は汚れを除く水を振りかけられていないので汚れていて、その者の中になお汚れがあるからである。14 人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れる。15 ふたをしていない口の開いた器もみな、汚れる。16 また、野外で、剣で刺し殺された者、死人、人の骨、墓に触れる者はみな、七日間汚れる。17 この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いて作った灰を取り、器に入れ、それに新鮮な水を加える。18 きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、すべての器の上に、そこにいた者の上に、また骨、刺し殺された者、死人、墓に触れた者の上にかける。19 そのきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかけ、七日目にその人の汚れを除くことになる。その人は衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方にはきよくなる。」

 

死体に触れるは、だれでも七日間汚れるとあります。しかし、汚れてから三日目と七日目に、先の灰で作った水を振りかけられるならば、だれでもきよめられました。三日目と七日目が何を象徴しているのかわかりませんが、神の完全性を表しているのではないかと思われます。しかし、この水で身の汚れを除かない者はみな、主の幕屋を汚すとされました。そのような者はイスラエルから断ち切られることになります。その者には、なお汚れがあるからです。

 

14節をご覧ください。人が天幕の中で死んだ場合はどうでしょうか。その天幕に入る者と、天幕の中にいる者はみな、七日間汚れるとされました。ふたをしていない口の開いた器もみな、汚れました。また野外で、剣で刺殺されたりした人の骨や墓に触れる者もみな、七日間汚れました。

 

この汚れた者がきよめられるためには、罪のきよめのために焼いて作った灰を取り、それを器の中に入れ、それに新鮮な水を加えたものに、きよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを天幕に、またすべての器の上に、そこにいた者の上、骨、刺殺された者、死人、墓に触れた者に飢えに注ぎかけなければなりませんでした。そうすれば、七日目にその人の汚れを取り除くことができました。その人は衣服を洗い、水を浴びれば、夕方にはきよくなりました。いったいこれは何を表していたのでしょうか。

 

ヘブル人への手紙9章13~14節を開いてください。ここには、「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」とあります。そうです、これはキリストの十字架の血によるきよめを指し示していたのです。この灰を死体にふれた人々に注ぎかけるということは、十字架で犠牲となられたキリストの血を、罪の中に死んでいる人々に注ぎかけることを象徴していました。そうすれば汚れはなくなり、すべての罪はきよめられ、完全なきよめが果たされるのです。それほど、キリストの血には力があるのです。しかも、この赤い雌牛の犠牲は、これ以前にも、これ以降にも、一度限りです。完全な一度限りのいけにえです。主イエスのいけにえも、全人類のための完全な一度限りの犠牲であり、いけにえなのです。主イエスの死によって私たちは、神の怒りから解放され、罪の赦しを得、罪の支配からも解放されたのです。実に、このように雌牛が人の罪を赦し、きよいものとするならば、尊いキリストの犠牲はどんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょうか。

 

ここには、キリストの血がどれほど力あるのかを、三つの点で語られています。第一に、キリストの血は良心をきよめます。ここに、「どんなにか私たちの良心をきよめて」とあります。人間の良心は、罪によって汚されており、汚れた良心は、人にとって負い目となります。パウロは自らの中にある罪を認めてこう言いました。「私には自分のしていることがわかりません。私には自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことをしているからです。」(ローマ7:15)人は無意識的にそうした良心の咎めを持っています。どんなに言い訳や弁解、仕事や趣味、宗教、善行に没頭してそれを繕おうとしても、その「良心の呵責」があれば真の自由を得ることはできません。しかしキリストの血はそのような「良心の呵責」から完全に解放してくれるのです。

 

第二に、キリストの血は生き方を変える力があります。ここには、「死んだ行いから離れさせ」とあります。キリストの血潮は、人を縛っている罪のくびきから解放することができるのです。ザアカイはその一人です。彼はキリストと出会ったその日から新しい人に変えられました。人の心を罪が支配している間は、人は死んだ行いの奴隷です。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。キリストの血潮と御霊による新生は、人を全く新しい人に造り変えます。使徒ペテロもこう語っています。「あんたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、・・傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:19)

 

第三に、キリストの血は人を生かす力です。ここにはまた、「生ける神に仕える者とする」とあります。キリストの血は神から離れた人を神に連れ戻すだけでなく、新しい歩みをさせる力を与えます。「古い生き方」から解放され罪を離れるならば、「神に仕える」という新しい目標、真の生きがいをもつようになります。「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)とパウロは言いました。主の死にあずかるならば、主のよみがえりの力にもあずかることができ、そのような人は神の前に立つことができ、神のために実を結ぶ生涯へと導かれるのです(ローマ6:5, 22)

 

このようにキリストの血の力を知ることは、私たちをして責められることなく、臆することなく、大胆に、神の前に立つことができ、破格の恵みによって歩くことのできる力を与えられるのです。

 

Ⅲ.永遠の贖い(20-22)

 

最後に、20~22節見て終わります。「20 汚れた者が身の汚れを除かなければ、その人は集会の中から断ち切られる。主の聖所を汚したからである。汚れを除く水がその人に振りかけられなかったので、その人は汚れている。21 これは彼らに対する永遠の掟となる。汚れを除く水をかけた者は、その衣服を洗わなければならない。汚れを除く水に触れた者は夕方まで汚れる。22 汚れた者が触れるものは、すべて汚れる。それに触れた者も夕方まで汚れる。」」

 

これは彼らに対する永遠の掟です。私たちの主イエスが、永遠のきよめを成し遂げてくださいました。イスラエルの民は、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されたので、絶えず繰り返してささげなければなりませんでしたが、これらのささげものの実体であられるキリストが、ただ一度ささげられたことにより、私たちは永遠にきよいものとされたのです。それゆえに、私たちは、イエスの血が心に振りかけられた者として、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けましょう。

いつも主を前に置いて エレミヤ書2章14~19節

聖書箇所:エレミヤ書2章14~19節(エレミヤ書講解説教4回目)

タイトル:「いつも主を前に置いて」

 

 新しい年を迎えました。この新しい年を、皆さんはどのような思いで迎えられたでしょうか。箴言4章23節に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いのちの泉は私たちの心からわいてきます。ですから、力の限り、見張って、あなたの心を見守らなければなりません。新しい年も神の御言葉によって、心の井戸を深く掘っていきたいと思います。

 

この新年の礼拝で、主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書2章14~19節の御言葉です。前回もお話したように、この2章には神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿を、いくつかの比喩をもって語られています。1~8節までには不誠実な妻の姿を通して、また9~13節には、壊れた水溜のたとえをもって描かれてきました。

 

きょうのところには、奴隷としてのイスラエルの姿を通して語られています。イスラエルは奴隷なのか、それとも家に生まれたしもべなのか、ということです。だから、知り、見極めよ、と。何を見極めるのでしょうか。19節の後半にこうあります。「あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。」主を捨てて、主を恐れないことは、いかに苦しいことであるのかを、です。すなわち、主を恐れないこと、主に信頼しないことが、いかに悪いことであり苦しいことであるかということです。このことを見極めなければなりません。この新しい年、私たちはこのことを見極め、真に主を恐れ、主に信頼して歩む年でありたいと思います。

 

 Ⅰ.イスラエルは奴隷なのか(14-16)

 

 まず14節から16節までをご覧ください。「14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。15 若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。16 メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。

 

 ここで預言者エレミヤは、イスラエルの背信がどのような結果を招くのかを語っています。イスラエルは神に背いた結果、どうなったでしょうか。14節には「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。」とあります。

当時、奴隷には二つの種類がありました。お金で買われて奴隷になった者と、奴隷の両親の間に生まれた、生まれながらの奴隷です。イスラエルは神の民として贖われた者ですから、自由な民であるはずです。まして生まれながらの奴隷であるはずがありません。それなのに、彼らの状態はもっと悪くなっていました。戦争によって捕虜となり、獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になっていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。いうまでもなく、彼らが自分の神を捨てて偶像に仕え、外交や武力によって自分たちの安全を保つことができると考えたからです。その結果、どうなったでしょうか。

 

 15節をご覧ください。「若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。」

 「若獅子」とはライオンのことです。聖書では、イスラエルを荒らす敵の比喩としてしばしば用いられています。文脈によってそれはアッシリヤであったり、エジプトであったり、バビロンであったりしますが、ここではバビロンのことを指しています。バビロンがイスラエルに向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせるというのです。その町々は焼かれて、住む者がいなくなります。エレミヤがこれを語った約40年後に、実際にこのことが起こります。バビロン捕囚という出来事です。B.C586年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻め落とし、そこに住んでいた者たちを捕囚の民としてバビロンに連れて行きました。

 

それはバビロンだけではありません。エジプトもそうです。16節にある「メンフィスとタフパンヘス」は、ともにエジプトにある都市です。つまり、もし彼らがエジプトに保護を求めるなら、彼らがあなたの頭の頂を剃り上げるようになるというのです。ユダヤ人にとって髪を剃り上げることは、恥を見ること、悲しみに打ちひしがれることを表わしていました。イスラエルはせっかく神によって贖われ自由の民とされたのに、その神に背きメンフィスやタフパンスに助けを求めたことで、再び奴隷の状態に陥り獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になったのです。私たちもせっかく主イエス・キリストによって罪から解放され自由の民とされたのにその神に背くなら、若獅子の獲物にされてしまうことになります。頭の頂を剃り上げられることになるのです。

 

1ペテロ5章8節にこうあります。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ここでは、悪魔がほえたける獅子のようだと言われています。悪魔は、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩き回っています。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。そうでないと、当時のイスラエルのように若獅子の獲物にされてしまいます。頭の頂を剃り上げられてしまうことになるのです。そういうことがないように、身を慎み、目をさましていなければなりません。エレミヤは、かつてB.C.722年に北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたことを思い起こしながら、南ユダ王国の人々に、注意しないとあなたがたもライオンの餌食にされてしまいますよ、と警告しているのです。

 

それは今を生きる私たちにも言えることです。注意しないと、私たちもライオンの餌食にされてしまいます。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない人です。悪魔なんてやっつけてやるという人ほど簡単にコロリとやられてしまいます。私たちは若獅子の餌食にならないように身を慎み、目をさましていなければなりません。

 

Ⅱ.なぜ、獲物にされたのか(17~19a)

 

いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。なぜ彼らは若獅子の獲物にされてしまったのでしょうか。次にその理由について考えたいと思います。17~19節前半をご覧ください。「17 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリヤへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。「あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。」

 

いったいなぜ彼らは獲物にされてしまったのでしょうか。それは彼らが主を捨てたからです。彼らの神、主が彼らに道を進ませたとき、彼らが主を捨てたので、このようになったのです。どうしてナイル川の水を飲みにエジプトへ向かうのでしょうか。どうして大河ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤへ向かうのでしょうか。それは彼らが自分たちの神、主に助けを求めないで、エジプトやアッシリヤに助けを求めたからです。その悪が彼らを懲らしめ、彼らの背信が彼らを責めたのです。

 

私たちも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書ではエジプトはこの世の象徴として描かれています。また、アッシリヤは超大国の象徴として描かれています。私たちもイエス様を信じていてもにっちもさっちもいかなくなると、目に見えるこの世のもので安心を得ようとすることがあります。しかし、そのような水をいくら飲んでもまた渇くと、イエス様は教えてくださいました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

また使徒パウロは、そうした頼りにならないものに望みを置かないようにと警告しています。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように、と(1テモテ6:17)。そのようなものに望みをおくと、結局のところ、裏切られてしまうことになります。皆さんもそういう経験があるでしょう。

 

実際、イスラエルの王であったヨシヤ王も、この後B.C.609年にエジプトに攻め込まれて死んでしまうことになります。メギドの戦いです。エレミヤがこれを警告したのはB.C.627年のことですから、実に18年後のことになります。彼らはエジプトに助けを求めたのに、そのエジプトによって滅ぼされてしまうのです。まさに、頭の頂を剃り上げられたのです。その後、新興国であるバビロン帝国が台頭して来て、エジプトも、アッシリヤも、そしてこの南ユダ王国も滅ぼされしまうことになります。そして、バビロンの奴隷として、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになるのです。どんなにエジプトを頼っても、どんなにアッシリヤを頼っても、そうしたものは何の助けにもならないのです。

 

預言者イザヤは、そんなイスラエルの姿を短い毛布にたとえてこう言いました。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」(イザヤ28:20)皆さん、わかりますか。エジプトという寝床は、身を伸ばして寝るには短すぎます。アッシリヤという毛布は、身をくるむには狭すぎるのです。私の妻はいつも毛布に身をくるんで寝ていますが、見ると足がベッドからはみ出しています。背中には毛布がかかっていません。短じかすぎるのです。狭すぎるのです。そのようなものは安全のための何の保障にもなりません。それなのに、どうしてエジプトやアッシリヤへの道に向かうのでしょうか。どうして主なる神に背を向けて、この世に向かって走って行くのでしょうか。

 

あなたがこの世に向かって走るなら、結果的に神に背を向けることになります。その結果、懲らしめや責めを受けることになるのです。勿論、それはこの世を捨てるということではありません。この世を憎むということでもありません。神はこの世を愛されました。神は一人も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにひとり子をこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためです。ですから、私たちは神がこの世を愛されたように、私たちもほかの人々を愛するべきです。

 

しかしそれは、この世の考えやこの世を優先することではありません。神様以上にこの世を愛してはならないと、イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

神の子とされた者、クリスチャンは、その優先順位を神の価値観に従って、選択すべきです。誰も二人の主人に仕えることはできないからです。神とこの世に同時に仕えることはできません。その優先順位において神よりもこの世を優先するなら、それは神に背を向けてしまうことになります。その悪があなたを懲らしめ、その背信があなたを責めることになるのです。

 

皆さん、私たちが歴史から学ぶことは何でしょうか。それはたった一つのことです。それは、人類は歴史から何も学ばないということです。本来、彼らは学ぶべきでした。彼らと同じことをすれば自分たちはどうなるのかということを。自分たちもそうなるということ。しかし、彼らは何も学びませんでした。そして同じように痛い目に遭ってしまったのです。どんな人でも最初の一歩を間違えると、どんどん神から離れていってしまいます。しかし、信仰によって小さな一歩を踏み出すと、その人の人生は神によって祝福されたものへと導かれます。

 

1969年7月16日、アメリカの有人ロケット「アポロ11号」が月に着陸して、初めて人間が月を歩いた時、ニール・アームストロング船長はこのように言いました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」

それはあなたにとって小さな一歩かもしれません。しかし、それはあなたの人生にとって偉大な一歩となるのです。その信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

 

Ⅲ.だから、知り、見極めよ(19b)

 

では、どうすればよいのでしょうか。最後に19節の後半を見て終わりたいと思います。「だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。-万軍の主のことば。」

この箇所のまとめです。私たちにとって必要なのは、このことを知り、見極めることです。アッシリヤやバビロンの奴隷になるという悲惨さの原因は、指導者の政策が悪いからではありません。それは神を捨て、神を恐れないことです。これが最も根本的な原因なのです。悲惨の原因が自らの罪であることを知らないことが最大の悲惨でありますこのことを知り、見極めるようにと、エレミヤは教えているのです。あなたはこのことを知り、見極めているでしょうか。

 

昨年からサムエル記を通してダビデの生涯を学んでいますが、ダビデはこのことを知り、見極めていました。主が彼を、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼は主に向かってこのように歌いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル記22:7)ダビデはいつも苦しみの中で主を呼び求め、主に叫びました。すると主は彼の声を聞かれ、彼は助け出されたのです。

 

私たちの人生に何が起こるか、だれも予測することはできません。突然、病気や事故や災いに襲われることがあります。まさに人生という舞台に、大きな穴がポッカリと開くような出来事に遭遇することがあるのです。そんなときに、ある人は穴を見て絶望し、運命を呪い、悲しみに暮れます。またある人は、穴を見ないふりをして、現実から逃避しようとします。しかしダビデは、その穴から神を見ました。神を見て、神に信頼し、神に叫んだのです。そして、その穴から救われるという経験をしたのです。すなわち、その穴から、穴が開かなければ、決して見ることがない新しい世界をしっかり見つめたのです。なぜなら、彼はいつも、主を恐れ、主に信頼していたからです。

 

彼は、詩篇16篇で次のように告白しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)すばらしいですね。これを、今年の教会の目標聖句にしたいと考えています。「私の前に主を置く」とは、いつも主の助けと導きを仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と告白することができました。彼はサウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でした。また、その後イスラエル王となってからも、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には神様との強い絆がありました。だから彼は揺るがされなかったのです。それは、彼がいつも主に信頼し、主を前に置いていたからです。

 

17世紀に、フランスの修道院において台所の奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいますが、彼は「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)の中でこう言っています。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静けさの中に住み給う神を持っている」

彼は、それが仕事の時であろうと、祈りの時であろうと、いつも神の臨在の中にいるようでした。それは彼が大切にしていたのは、そうした事柄の背後にある動機であったからです。つまり、いつも自分の前に主を置いているかどうか、そして、何をするにしても、その主への愛に対する応答であるかどうかということです。

彼はダビデのように、いつも自分の前に主を置いていたのです。

 

新しく迎えたこの2022年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、私たちが知り、見極めなければならないことは、主を恐れ、主に信頼し、心を尽くして主を求めることです。ダビデのように「私の前に主を置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。

博士たちのクリスマス マタイの福音書2章1~12節

2021年12月19日(日)クリスマス礼拝

聖書箇所:マタイの福音書2章1~12節

タイトル:「博士たちのクリスマス」

 

メリークリスマス!イエス・キリストのお誕生を、心よりお祝い申し上げます。本日、皆様と共に、クリスマスの礼拝を献げられる恵みを感謝いたします。

 

クリスマスは、人類の救いのためにイエス・キリストがこの世に来られたことを記念する日です。新約聖書、ヨハネの福音書1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、イエス・キリストのことです。父なる神のひとり子であられる神が、今から二千年前に、人となられたのです。おとぎ話のようですが、本当の話です。神さまは人類にいのちのメッセージを送ってくださいましたが、それは紙に書いた文字による手紙ではなく、神のひとり子自らがこの世界に人間として誕生してくださることによって示してくださいました。

 

この歴史的事実を記念するのがクリスマスです。いったいなぜキリストは人となられたのでしょうか。それは、私たち人間を罪から救うためです。聖書の中にキリストの誕生を告げ知らせた御使いが話すことばが出てきます。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:20)

 

この世にはいろんな問題が次から次へと出てきます。健康の問題、貧しさ、人間関係のトラブル、仕事上の問題、家庭が抱える問題、本当に次から次に起こってきます。しかし、こうした問題の最も根本的な原因は、私たち一人一人の内側に居座っている罪なのです。そして、この罪の最終的な結末が死です。その根本原因は、神という命のルーツから離れているこの罪にあるのです。キリストは私たちをこの罪から救ってくださるために人となってこの世に来てくださいました。罪を取り除く薬は口から飲む薬ではありません。キリストがあなたの罪をご自分の上に引き受けて、十字架の上で永久に処分することによって取り除いて下さいました。


「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神

の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)もし、あなたがこの方を、あなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたの罪も赦されます。せっかくのクリスマスです。どうぞこの機会にあなたのために人となられた救い主、イエス・キリストを信じ受け入れてください。

 

今日は、キリストが生まれた時、キリストを求めてはるばる東方の国からやって来た博士たちの物語から、クリスマスの意味についてご一緒に考えたいと思います。

 

 Ⅰ.東方の博士たち(1)

 

それでは、新約聖書、マタイの福音書2章をお開きください。まず1節をご覧ください。ここには、「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあります。

 

クリスマスのストーリーにおいて独特の存在感を示しているのが、この東の方からやって来た博士たちです。「東の方」とはペルシャ、あるいはバビロニヤの地方を指していると考えられています。

 

また「博士」と訳された言葉はギリシャ語で「マゴス」と言いますが、「マゴス」は「マジック」のもとになった言葉で、直訳すれば魔術師です。当時の社会においては天文学、薬学、占星術、魔術などを通して、人の運命や世界情勢について占う人々のことを指していました。新共同訳ではこれを「占星術の学者たち」と訳しています。それは星の運行を通して世界の行く末を見極める人たちだったからです。その彼らが救い主の誕生を星の出現を通して知ったとき、はるばる東の国からエルサレムにやって来たのです。

 

彼らは自分たちの国ではそれなりの地位や立場を持っていた人たちでしたが、クリスマスの舞台から見ると、はるばる東の国からやって来た異邦人、その周辺の人たちにすぎませんでした。本来ならユダヤの民こそが真っ先に自分たちが待ち望んでいた救い主、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の誕生を知るべきなのに、神の民ではない異邦人たちによってその大切な知らせを受け取ることになるのです。

 

新約聖書、ルカの福音書には、救い主キリストの誕生の知らせが真っ先に知らされたのは、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちのところであったと記されていますが、この羊飼いたちもまた、ユダヤの社会では底辺にいるような人たちでした。そしてここでも、神の民から遠く離れていた異邦人、東方の博士たちが、真っ先に救い主キリスト誕生の知らせを知り、礼拝するためにやって来たのです。クリスマスの出来事の中心にやって来たのです。

 

どれほど遠くに離れていても、イエス・キリストは私たちをご自分のもとへ招いてくださいます。救い主イエス・キリストを礼拝する道は開かれているのです。これこそが御子イエス・キリストの訪れのもつ喜びの力です。彼らは偶然のようにして救い主到来の星を見付けたわけではありません。その星の出現をずっと待ち続けていた人たちでした。彼らの仕事は人々の行く末や世界の情勢を見定め、そこで起こり得る事態を時には案じ、時には憂い、そしてそれら起こり得る出来事への対処を人々に助言することでした。他の人々よりも一歩前に世界の行く末を見つめていたのです。

 

それは、他の人々からすれば「博士」と呼ばれ、あるいは「学者」と呼ばれて羨(うらや)ましがられるような立場であったかもしれませんが、しかしそれは同時に他の人々よりも一歩前に世界の悲惨さや悲しみを知り、他の人々よりも人一倍その憂いや悩みを心に抱くことをも意味していたのです。

 

だからこそ、彼らは礼拝することを求めたのです。救い主の星を待つ人、それは救いを待つ人です。暗闇が増し、人々から希望を奪い去るような出来事が続く世界の只中にあって、なお希望を捨てずに夜空を見上げ、天を仰いで、救い主到来を告げる星を待つ彼らに、ついにその星は姿を表し、その頭上に照り輝いたのです。あなたももし救い主を待ち望むなら、あなたの頭上にも輝く星が照り輝くのです。問題は、あなたがこの救いを求めているかどうか、救い主を待ち望んでいるかどうかです。

 

Ⅱ.礼拝するためにやって来た博士たち(2-11)

 

次に、2~11節までをご覧ください。2節には、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」とあります。

彼らはエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねました。彼らは、その星が昇るのを見たので旅立ったのです。ことばにすれば数行のことですが、見ることと旅立つことの間には、相当の距離があったのではないかと思います。しかし、彼らは星を見るだけでは満足しませんでした。その星の出現を知っただけでよしとはしなかったのです。彼らにとって決定的に大切だったのは、その星に導かれて旅立つことでした。そして何よりも「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」、救い主イエス・キリストに出会い、この方を礼拝することだったのです。

 

これを聞いたヘロデ王は動揺しました。エルサレム中の人々も同様でした。動揺したということです。彼らは、ユダヤ人の王として新しい王が生まれたのであれば、自分たちはどうなってしまうのだろう、それによって世の中が変わってしまうのではないかと思って不安になったのです。

 

しかし、果たして、それだけでしょうか。実は、彼ら自身も気付いていなかったかも知れませんが、彼らの感じた不安というのは、もっと奥深いところにありました。それは、神の御前にある自分の存在です。人間が最も恐ろしいと感じるのは、不信仰が、神の現実に触れる時に起こるものです。言い換えると、死んだら自分はんどうなるのかということです。

 

人は死んだらどうなるのでしょうか。本当に神がおられるのであればこの神の御前に立つことになります。そうしたら自分はどうなってしまうのでしょう。彼らは、その不安を抱いたのです。この人たちはこんなにまでして、真剣に救いを探し求めているのに、自分はこのままでいいのだろうか。そういう不安です。事実、聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(へブル9:27)とあります。人は、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。

しかし、どこまでやれば義と認められるのかわかりません。だから自分なりに一生懸命にやるのですが、それで本当に救われているのかというと、そういう保証はどこにもありません。それに比べて彼らは、その星を礼拝するために来たのです。その方を信じることが、その方を礼拝することによって救わるんだとはっきり告げたのです。不安になるのも当然のことでしょう。

 

それでヘロデ王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました。すると、ユダヤのベツレヘムであることがわかりました。預言者によってそのように預言されていたからです。

 

それでヘロデ王は博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時間について詳しく聞くと、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出しました。

 

9~11節をご覧ください。「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9-11)

 

博士たちは、王が言ったことを聞いて出て行きました。すると、かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまったのです。彼らはその星を見て、この上もなく喜びました。それから家に入って、母マリアとともにいる幼子を見て、ひれ伏して礼拝しました。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです。

 

ここに礼拝する人間の姿が表されています。彼らは星を見てこの上もなく喜びました。そしてひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げたのです。この「喜び」、「ひれ伏し」、「献げる」という一連の姿に、礼拝する人間の姿が表れています。礼拝とは何でしょうか。それは神の御子イエス・キリストとの出会いの喜びです。その喜びは、これ以上もない大いなる喜びです。彼らは幼子イエスのお姿を見る前に、その幼子を照らす星の光を見て喜んでいました。そしてついに、その星の光のもとで御子イエス・キリストと出会い、幼子を見て、ひれ伏して礼拝したのです。彼らは「なんだ貧しい幼子ではないか」と言って落胆しませんでした。期待はずれだと言いませんでした。彼らは主イエスの到来を旧約の預言を通して確信し、星の輝きの導きを信頼して、そうしてついに救い主、神の御子との出会いを果たしていったのです。

 

 彼らは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げました。黄金は、王なるキリストへの冠です。乳香とは、神なるキリストへの芳ばしい香りです。そして没薬とは、贖い主なるキリストへの葬りを象徴するものでした。いずれの献げものも、まさしく神の御子、まことの王の王、私たちのための救い主イエス・キリストに献げられるもっともふさわしい贈り物でした。

 

 この博士たちの贈り物は、ある小説のモデルになっています。ご存知の方もおられると思いますが、O.ヘンリーという人が書いた「賢者の贈り物」です。

これは、ニューヨークの片隅の、安アパートに住む、ジムとデラという、若い夫婦の物語です。

彼らは、貧しいながらも、愛し合い、助け合って、暮らしていました。とても貧乏でしたが、二人には、大切な宝物が二つありました。一つは、ジムの家に代々伝わってきた、金の懐中時計です。もう一つは、膝にまで届くほど長い、デラの自慢の髪の毛でした。

クリスマスイブの夜、二人は、愛するパートナーに、密かにプレゼントを贈ろうとしますが、何しろ貧しくて、どうにもなりません。デラは、ジムの懐中時計に付けるプラチナの鎖を、どうしても買いたいと思いました。そのために、自分の自慢の髪の毛を、かつら屋に売って、プラチナの鎖を買いました。

一方ジムは、デラの美しい髪の毛をとかすための、櫛のセットを買いたいと思っていました。それは、デラの髪にぴったりの、宝石をちりばめた、見事な櫛でした。ジムは、その櫛を買うために、自分の懐中時計を売ってしまったのです。

その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然とします。無くなってしまったデラの髪の毛をとかすための櫛。そして、売ってしまった懐中時計のための鎖。今や、両方とも、役に立たなくなってしまった物です。

なんとも愚かな贈り物です。バカな二人です。しかしこの小説の著者である、O.ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「賢者」と呼ばれるに相応しい、と言っているのです。なぜなら、彼らはクリスマスを迎える者として、最も相応しい贈り物をしたからです。

これと同じようにこの博士たちも、この方こそまことの王、まことの神、まことの救い主であることを示す贈り物を献げました。ここに、私たちは異邦人の礼拝者たちの姿を通して、真実な礼拝者の姿を見ることができるのです。

 

あなたはどうですか。あなたはキリストの到来を喜んでいますか。なんだ、こんなものか、期待はずれだったと言ってはいませんか。あなたの救い主との出会いを喜び、この方の前にひれ伏し、この方にふさわしいささげものを献げているでしょうか。クリスマスが本当の意味でクリスマスになるということ、それは、キリスト誕生の事実が、私たちの生活を動かすということです。「キリストのご降誕が、この私のためである」ということを知って、それをこの上もなく喜び、ひれ伏し、自分を献げるという、自分の生き方に変化が生じることです。それは、生きた礼拝を生み出すのです。

 

Ⅲ.別の道から帰って行った博士たち(12)

 

最後に12節をご覧ください。ここには「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」とあります。

 

これが、マタイの福音書が示す博士たちの最後の姿です。彼らは自分たちの国へ帰って行きました。それは自分たちの住む異邦人の地です。あのいつもの日常の中へ帰って行ったのです。それは「悔い改め」を示す象徴的な姿でもあります。というのは、聖書が語る悔い改めとは、新しい歩みへの方向転換だからです。つまり、神から遠く離れた地から神の臨在のもとへ立ち返ることです。それが悔い改めだというのです。東方の博士たちにとっては、自分の国へ帰って行くことは主なる神から遠く離れることではなく、むしろ主の臨在のもとへ立ち返る新しい旅路であったのです。

 

それは、ここに「別の道から帰って行った」とあることからもわかります。夢の中で、ヘロデのとこへは戻らないようにと警告されていたからです。それは、もはや同じ道をたどることはしないということを象徴していました。救い主イエスに出会い、ひれ伏して礼拝した彼らにとっては、そこから新しい道、主の道を生きる人生の旅路が始まるのです。

 

礼拝とは、私たちが新しくされることです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と罪の赦しの宣言を受け取って、主イエスにあって新しくされて、今日、ここから遣わされていくのです。いつも通い慣れた道も、明日からの仕事場も、学校も、家庭も、いつものあの人々との交わりも、私たちにとっては主イエス・キリストにあって新しく遣われていく場所であって、そこもまた私たちにとっての礼拝の場なのです。その道を今日、ここから歩み出していくのです。そのようにして私たちの礼拝の旅路は続き、ついには天の御国に至ります。それまでは星を見ての歩みです。けれどもその時には、私たちはこの目でイエス・キリストの御顔を仰ぎ、そこで御子イエス・キリストを礼拝するのです。その日に向けての旅路を今日、ここから始めていくのです。

 

救いの星を探し求める人は多くいます。そしてその星について知ろうとする人、学ぼうとする人、観察し、評価する人も多いかもしれません。しかし、肝心なことはそこから先の事柄です。あそこに救いがある、あそこに希望がある、あそこに人生の意味がある。それで終わってはならないのです。それを自らのものとしなければなりません。それを自らのものとしてこそ、それが私にとっての救いとなり、私にとっての希望となり、そして、私の人生の意味となるのです。

 

天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人でした。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行の基礎となっています。その彼がこう言いました。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい。」

彼は、星の運動についての法則だけでなく、その先にある事柄、すなわち、父である神の御名があがめられることを求めたのです。それは彼がその星を造られたイエス・キリストの救いを、自分のものとしていたからです。

 

主イエス・キリストはこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストと出会うこと、イエス・キリストを受け入れること、イエス・キリストを礼拝すること。これが私たちの人生の旅路の一番の目的であり、ゴールです。その人生を自らのものとするために、私たちは「見る」から「旅立つ」へまで進まなければなりません。

 

今はまだ無理、今はまだ時ではない。あれがすんでから、これに目処がついてから、あの問題を解決してから、この支度が出来てから、自分自身がもう少し落ち着いたらと、あれこれと私たちの旅路を遅らせたり、思いとどまらせたりする事柄があるでしょう。しかし、あの星を見たならば、私たちは今置かれているところから、今抱えているさまざまな重荷を置き、心によぎる思いを置いて、旅立たなければなりません。クリスマスの星、その星の輝きに導かれて、救い主イエス・キリストとの出会いに向かって進んで行こうではありませんか。あなたもイエス・キリストをあなたの罪の救い主として受け入れてください。あなたの心にもクリスマスの星が燦燦と照り輝きますように、そして、その星に導かれて人生を歩んで行かれますようにお祈りします。

いのちの水の泉 エレミヤ書2章1~13節

聖書箇所:エレミヤ書2章1~13節(エレミヤ書講解説教3回目)

タイトル:「いのちの水の泉」

 

 今日はエレミヤ書2章1~13節からお話します。タイトルは、「いのちの水の泉」です。いよいよエレミヤの預言者としての活動が始まります。最初の預言が、ここから3章5節まで続きます。そこには神から遠く離れ、空しいものに従って行くイスラエルの姿がいつかの比喩をもって示されています。その一つが壊れた水溜めです。13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。」とあります。彼らはいのち水の泉である神を捨て、自分のために壊れた水溜めを掘りました。神はそんなイスラエルの姿を見て嘆かれ、いのちの泉であるご自身のもとに帰るようにと語られるのです。

 

 Ⅰ.覚えておられる神(1-3)

 

 まず1節から3節までをご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。-主のことば-」

 

 預言者エレミヤに次のような主のことばがありました。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。」彼はエルサレムから北東に4キロほど離れたアナトテという村に住んでいましたが、そのエレミヤにエルサレムへ行って、彼らに主のことばを宣言するようにというのです。その内容は、「わたしは、あなたの若いころの真実な愛、婚約時代の愛、種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている」ということでした。

 

「若いころの真実な愛」とは、イスラエルが神と契約を交わした、まさにその頃の愛のことです。具体的には出エジプト記20章にあるシナイ契約のことです。モーセの十戒ですね。それはエジプトを脱出後に、シナイ山で神様とイスラエルとの間に交わされた愛の契約でした。その頃のことを思い起こしているのです。皆さんは、結婚式で誓ったあの時のことを覚えていますか。来週もジョセフ兄とダフニ姉の結婚式が行われますが、そこでは誓約が交わされます。

「あなたはこの人と結婚し、神の定めに従って、夫婦になろうとしています。あなたは常にこの人を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、乏しき時も、いのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますか。」「はい、誓います。」

そんなこと言ったっけ?なんて言わないでください。確かに、皆さんもそう誓ったはずです。それなのに、そぐに忘れてしまいます。中には、自分の結婚記念日でさえ覚えていないという人もいます。しかし、神様は決して忘れることはありません。全部覚えていらっしゃるんです。あの時は何と麗しい関係だったでしょうか。あなたが若いころの愛は、どんなことがあっても守るという誠実さがありました。真実な愛があったのです。それは、約束に対して誠実であるということです。あのシナイ山で約束した契約に対する忠実さのことであります。約束は破るためにあるということばがありますが、そうではありません。約束は守るためにあるのです。イスラエルは若かったころ、神と結んだ愛の契約を忠実に守ろうとする真実な愛がありました。神はそれを覚えているのです。

 

またここには「婚約時代の愛」とあります。これは、イスラエルがエジプトを出てからシナイ山で契約を結ぶまでの期間と考えられます。出エジプト記で言うと、12章~19章に該当します。彼らはエジプトに430年もの間奴隷として生活していましたが、その苦しみの中で主に叫び求めると、主は彼らをそこから救い出してくださいました。しかし、彼らが導かれたのは荒野でした。そこには食べ物も飲み物もなかったので、指導者であったモーセとアロン向かって不平を言いました。すると主は、彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出させてくださいました。さらに、アマレクという敵が攻めて来ると、何の防備もなかったイスラエルにとって戦いは困難を極めましたが、主が戦ってくださったので、勝利することができました。これが婚約時代にあったことです。婚約時代には辛いこと、苦しいこともありましたが、一番楽しい時でもありました。なんだかんだ言っても、愛によって乗り越えようとする必死さがありました。主はそんな彼らの婚約時代の愛も覚えておられました。

 

そればかりではありません。「種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順」も覚えていました。「種もまかれていなかった地」とは、荒野のことを指しています。彼らはカデシュ・バルネアまで来たとき、約束の地まであとわずかという時に、主の命令に背いて上って行かなかったので、結局40年間荒野を彷徨うことになりました。しかし主は、そのような中でも、昼は雲の柱夜は火の柱をもって彼らを導いてくださいました。約束の地を目の前にしてモーセは、その40年間を振り返りこのように言いました。「この40年間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(申命記8:4)

主が彼らを守ってくださいました。それは主がイスラエルに対して忠実であられたからです。それはイスラエルが主に対して従順であったということの表れでもあります。確かに彼らは荒野で何度となく不平を鳴らしましたが、その根底には主がイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分のものとされたという愛の関係がありました。神はそのようなイスラエルの姿を覚えておられるのです。それなのに彼らは、神から離れてしまいました。初めの愛から離れてしまったのです。

 

これは、イエス様を信じて神の民とされた私たちも同じです。黙示録2章4節には、「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」とあります。これはイエス様がエペソの教会に書き送った手紙です。エペソの教会はよく忍耐して、主のために耐え忍び、疲れませんでした。しかし、彼らには責めるべきことがありました。何ですか?初めの愛から離れてしまったことです。初めの愛、結婚当初の愛、婚約時代の愛から離れてしまいました。エペソという地名は「最愛の人」という意味がありますが、それが色あせてしまったのです。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい、というのです。

 

皆さんはどうでしょうか。それは私たちで言えばまさにイエス様と出会い、洗礼を受け、クリスチャン生活を始めたばかりのあの頃のことです。何もかもが新鮮でした。何もかもが感動的でした。溢れるばかりの喜びと感謝がありました。とにかく教会に来るのが楽しかった、信仰に熱心だったあの頃です。「だった」と言っているのは、初めの愛から離れてしまったということを念頭に語っています。そんなことはありません。あの時よりももっと燃えています。もっとイエス様を愛しています、もっと主を求めていますというのならすばらしいですが、もし「だった」というのであれば、このエペソの教会と同じであると言えます。信仰生活が重荷なんです。日曜日だから教会に行かなければならない。何となく面倒くさい。家にいてひっくり返っていた方がいい、ゴロゴロしていた方がいいと思っているなら、初めの愛から離れているのです。主があなたにとってすべてであったあの頃の愛から離れているのです。本来ならばあの時よりももっと今の方が主を愛していますとなるはずなのに、あの頃もすばらしかったけど、今の方がもっとすばらしいとなるはずなのに、あの頃の方が燃えていたというのであれば、それは信仰がバックスライドしているということです。初めの愛から離れているのです。もしそうであるならば、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなければなりません。

 

私たちは本当に忘れっぽいですね。昨日何をしたか、何を食べたかさえも忘れています。しかし、私たちは初めの愛を思い起こさなければなりません。それが聖餐式の意味です。聖餐式では、「わたしを覚えてこれを行いなさい」とありますが、これとはパンとぶどう酒のことです。それはイエス様の血と肉を表しています。イエス様が私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。そのことを覚えるために、パンとぶどう酒をいただくのです。あなたはどうでしょうか。この神の愛、イエス様の愛を覚えていますか。もし忘れているなら、悔い改めて、初めの愛に立ち返りましょう。これが私たちの信仰の原点だからです。

 

 Ⅱ.イスラエルの背信(4-8)

 

 次に、4~8節をご覧ください。6節までをお読みします。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」」

 

 1~3節では、イスラエルの若いころの真実な愛が語られましたが、この箇所では主に背いたイスラエルが糾弾されています。神ご自身の失恋の叫び、と言ってもよいかもしれません。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。」ということばには、イスラエルに対する神の切実な思いが込められています。なぜ自分から離れて、空しいものに従って行ったのか。空しいものとは、偶像のことです。このとき、イスラエルは一応、神殿礼拝の形は保っていましたが、敷地にはさまざまな偶像やその祭壇がありました。まあ、クリスマスとお正月をごちゃまぜにしているような感じですね。クリスマスに教会に来たかと思ったら、お正月には神社に初詣に行くような感じです。いったいわたしがあなたに何をしたというのか、何か悪いことでもしたというのかと、主は問うているのです。

 

 日本の代表的なクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼はこう言っています。「神に拠り頼んで恥辱を受けたことはない。」あなたが神に拠り頼んで裏切られたことがあるでしょうか。辱めを受けたことがありますか。聖書にも「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)とあります。神はあなたにどんな悪いことをしたでしょうか。あなたをがっかりさせたことがありますか。あなたを傷つけたことがあるでしょうか。ないでしょ。それなのに、なぜあなたは離れていくのですか。こんなにあなたを愛しているのに、こんなにあなたのことを思っているのに、どうして離れていくのですかと、訴えているのです。この悲痛な神の叫びにしっかりと耳を傾けていただきたいと思います。

 

 6節には、「彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」とあります。

 偶像を求めて空しくなった民は、契約の神をもはや心に留めず、求めることもせず、無関心になってしまいました。もうどうでもいいのです。出エジプトと荒野の旅における神の特別な導きは、イスラエルの民が常に覚えて、主なる神への信仰の告白としなければならなかったことなのに、もうどうでもよくなってしまったのです。その神を求めることさえしなくなりました。

 

7節と8節をご覧ください。「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。」

 

 約束の地に入った後の状態です。荒野で反抗した民は滅ぼされましたが、新しい世代の人々は、約束の地に導き入れられました。そこは乳と蜜の流れる、実り豊かな地で、その地で彼らは良い実を食べることができました。ところが彼らは、その地を忌み嫌うべきものにしました。偶像で汚してしまったのです。

さらに、国の指導者たちは、自らの責任を果たそうとしませんでした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、主を知らず、牧者たちも主に背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行きました。

 

 いったい何が問題だったのでしょうか。イスラエルの神、主を忘れてしまったことです。彼らは、過酷な荒野の旅を終えたときに、それが神の一方的な恵みであったことを認めず、感謝もしませんでした。その結果、カナンの地に入ってからは、真実の神、主を忘れ、自分たちにご利益をもたらすような偶像に走って行ったのです。聖書はこのようなものを「無益なもの」と呼んでいます。それは何の役にもたたないのです。偶像は本当に空しいものですが、不思議なことに、それに従って行けば幸せになれるのではないかと思い込ませます。たとえば、8節にはバアルという偶像が出てきますが、これは無病息災や商売繁盛の神です。この神を拝めばご利益があります。人生が繁栄し、成功を収めることができます。どうですか、拝みたくなったでしょう。こうしたものに人間は本当に弱いですね。ご利益があると聞くと、すぐに飛びつきたくなります。でもそれは空しいもの、無益なもの、何の役にも立たないものです。私たちを真に満たすのは、私たちを造り、私たちのために御子イエス・キリストを与えてくださるほど愛してくださったまことの神です。この方は私たちの根本的な問題である罪から救い、真の幸福をもたらしてくださいます。

 

 皆さんは、「世界一幸せな国」をご存知でしょうか?知っています、ブーダンでしょう?という方は、ちょっと古い人です。南アジアにあるブータンは、発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり、“世界一幸せな国”として知られるようになりましたが、2019年度版では156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場しなくなりました。幸せな国ではなくなったのです。どうしてだと思いますか?それは、スマホが普及したせいです。これまで入って来なかった情報が入って来るようになったおかげで、他国と比較するようになったからです。つまり、隣の芝生が青く見えるようになったからなのです。

ちなみに日本はというと、例年、順位が振るいませんで、2021年の最新ランキングでも56位と、G7(先進7か国)の中でも最下位になっています。それはブータン同様、幸せを他の人と比較しているからです。いつの時代もどの国でも他人の持っている物や言動が気になってしょうがないのです。それは決して幸せには繋がらないと分かっていても、隣の芝生の青さやまたその欠点に目を注いでしまうのです。それが日本人の国民性なのです。私たちが幸せになるために必要なことは、私たちが何を見るか、ということです。他の人がどうかではなく、神があなたにどんなによくしてくださったのかを見て、それを感謝することなのです。

 

砂山(いさやま)節子という方がおられます。この方は戦前、夫の砂山貞夫という牧師と結婚し満州に赴いて福音宣教に従事していましたが、戦後、夫と次女を失い、ご自分も両目の視力を失うという状況の中で、ある日、暗澹たる思いで手探りしながら壁伝いに部屋の中を移動している時、思いもかけずこの賛美歌の一節が、心に浮かび、口をついて出てきたと言います。「数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、主の恵み、・・」。彼女は指を折って数えました。私には二人の子供がいるではないか、教会の信徒さんたちもいる、イエス様がずっと一緒にいて下さったではないか・・と。そして、心の平安を得たといいます(「熱河宣教の記録」より)。

砂山さんはどのような状況でも、私たちは神の恵みを数える事ができると教えています。私たちもまた、自分の置かれている状況ではなく、その中で働いておられる主の恵みを数えて歩んでいきたいものです。

 

 Ⅲ.いのちの水の泉(9-13)

 

第三に、9~13節をご覧ください。「それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。-主のことば-また、あなたがたの子孫と争う。キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。-主のことば-わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

 

「それゆえ」とは、イスラエルが神との契約を破り、空しい偶像に走って行ったのでということです。それゆえ、主はなお、イスラエルと争われるのです。この「争う」という語は、法廷用語で、神がイスラエルを法廷に訴えている様子を表しています。訴えられているのはイスラエルです。これほどの愛と恵みを受けながら、その神から離れていくという例は、世界中どこにも見出せません。

 

10節にある「キティム」とは地中海に浮かぶキプロス島のことです。「ケダル」とはアラビヤ半島の北部に住む人々のことです。彼らはそれぞれ、自分たちの偶像を持っていました。しかし、それを他の神々に取り変えたりはしません。それはキティムやケダルだけでなく、どの国でもそうでしょ。いいか悪いかは別として、そう簡単に自分たちの神々を他のもの取り替えるようなことはしないのです。日本でもそうでしょ。日本は昔から八百万の神といって何でも神にしちゃいますが、その神々でさえ簡単に取り替えたりするようなことはしません。それなのに、イスラエルの民はなぜ簡単に変えてしまうのか?と、主はとてつもない皮肉を語っておられるのです。

 

彼らの罪は何だったのでしょうか。ここで主は非常に重要なことを語られます。それは13節にあるように、彼らが二つの悪を行ったということです。一つはいのちの泉である主を捨てたということです。そしてもう一つは、多くの水溜めを自分のために掘ったということです。それは水を溜めることができない、壊れた水溜です。それは、自分たちを救うことができない偶像のことを指しています。

 

彼らはいのちの水の泉であるイスラエルの神、主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜を掘ったのです。この「いのちの水の泉」は、第三版では「湧き水の泉」と訳しています。私たちの主は「湧き水の泉」、「いのちの水の泉」です。あらゆるいのちの源泉であられます。主イエスは言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

 

他の偶像はすべて「水溜め」です。確かに水はあるでしょうが、いつか尽きてしまう水溜めです。しかもここでエレミヤは、その溜まっている水でさえ、岩の裂け目から水がもれてしまって、少しずつなくなる、と言っています。自分の生きがいとしていたものがまことの神でなかったら、それが宗教であれ、他のどんな活動であっても、尽きて無くなるしかない溜め水を飲んでいるのと同じことなのです。それは本当に空しいことではないでしょうか。

 水溜めは、一枚岩になっているところを切り削して造ります。とても長い期間をかけて造った、非常に大きな水溜めも見つかっています。けれども、もしその岩に裂け目があったらどうでしょう。水溜めの役目を果たさなくなります。これまで削り取ってきた労苦は無駄になってしまいます。

 ここでは「いのちの水の泉」と「壊れた水溜め」が対比されています。私たちは、あからさまに偶像礼拝をしないかもしれませんが、あからさまに偶像礼拝をしなくても、神以外のものを拝むことはあります。いや神に関する、その周囲にあるものを大事にして、神ご自身をあがめることをしないということがしばしばあります。

 

あなたはどうでしょうか。あなたは、「いのちの水」を下さる主イエス・キリストから飲んでいますか。それとも、壊れた水溜めを自分のために掘っていないでしょうか。ある人は、「私たちは祝福を求めるが、祝福の源を忘れる。」と言いましたが、まさにその通りです。祝福を求めますが、祝福の源を忘れるのです。私たちに必要なのは、「主はどこにおられるのか」という心からの叫びです。

 

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」(詩篇103:2~5)

 来週はクリスマス、そして、もうすぐこの1年も終わります。私たちは、私たちの一生を良いもので満ち足らせる主を認め、主に感謝し、主に拠り頼んで、日々歩んでまいりましょう。

民数記18章

民数記18章

 

民数記18章から学びます。

 

Ⅰ.祭司の務め(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。「1 そこで、主はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所に関わる咎を負わなければならない。また、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、あなたがたの祭司職に関わる咎を負わなければならない。2 また、あなたの父祖の部族であるレビ部族の、あなたの身内の者たちも、あなたの近くに来させよ。彼らがあなたに連なり、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務に当たる。しかし彼らは、聖なる用具と祭壇に近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないようにするためである。4 彼らはあなたに連なり、天幕の奉仕のすべてに関わる、会見の天幕の任務に当たる。資格のない者があなたがたに近づいてはならない。5 あなたがたは、聖所の任務と祭壇の任務を果たしなさい。そうすれば、イスラエルの子らに再びわたしの激しい怒りが下ることはない。6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの子らの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために主に献げられた者として、あなたがたへの贈り物とする。7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについて自分の祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職の奉仕を賜物として与える。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」」

 

 「そこで」とは、16章と17章の出来事を受けて、ということです。17章には、コラの反抗とその結果について記されてありました。コラはレビ人であり、かつケハテ族に属していましたが、彼はアロンの祭司職を欲しがって、モーセとアロンに反抗しました。「あなたがたは分を越えている」と。そんなコラに対してして、主は彼と彼の家族を生きたまま陰府に投げ込むというさはぎを行いました。それを見たイスラエル人たちは、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、それゆえ、主はイスラエルの民に罰を下され、何とイスラエルの民の中から14,700人ものたちが死に絶えました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営の中に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立ったとき、その神罰が止みました。イスラエル人たちはアロンのとりなしによって救われたのです。

 そして18章には、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせ、イスラエルの民がアロンこそ選ばれた大祭司であることをお示しになられました。しかし、イスラエルの民は、ここに現わされた神のあわれみを理解せず、「私たちも滅びる。私たちも滅びる」と言って、パニック状態になってしまいました。それは、彼らが神の恵みとあわれみを理解していなかったからです。彼らは祭司の務めによってそうした神の怒りから救われるということです。主はさばきを行なわれる方ですが、主は、祭司という仲介者をとおして、ご自分の怒りをなだめ、彼らに罪の赦しと和解を与えようとされるのです。そこで主は、その祭司の務めについて語られたのです。

 

1節をご覧ください。主はアロンに、彼と彼の子たち、すなわちアロンの家族が、聖所にかかわる咎を負わなければなせない、と言われました。「聖所にかかわる咎」とは、聖所が汚された場合の責任のことです。同じように、祭司職にかかわる咎とは、祭司職にかかわる違反がなされた場合の責任のことです。それを負わなければなりませんでした。つまり、アロンとその家族こそ、祭司職を担う者たちであることを確認されたのです。ちょっと前にコラの家族とそれにくみする者たちが反抗したことによってイスラエル全体に混乱が起こりましたが、ここでもう一度、だれが祭司の務めを果たすのかを明確に示されたのです。

 

2節には、アロンの家族以外のレビ人たちの立ち位置についても言及されています。レビ人は、聖所でアロンの祭司の務めを助ける奉仕を行なうことはできましたが、祭壇で献げ物をささげることはできませんでした(1:47-53,3:5-10)。それがレビ人に与えられた役割だったのです。その任務に忠実であることを神は求めておられるのです。コラの罪はこの役割を忘れ、アロンの祭司職まで要求したことでした。

 

3節から5節までのところには、神がそのようにされる(祭司の務めと、レビ人の奉仕について確認している)理由を語られます。それは、イスラエル人が死ぬことがないようにするためです。コラたちが受けたような激しい神の御怒りを二度と受けることがないようにするためです。

 

6節と7節には、このアロンの祭司職は、彼とその家族が自分たちで手に入れたのではなく、神の恵みの賜物として与えられたことが教えられています。それは彼らを助けるレビ人も同じです。レビ人もアロンたちが会見の天幕の奉仕をするために、主にささげられた彼らへの贈り物として、神から与えられたものなのです。

 

私たちが自分たちの奉仕について考えるとき、このことはとても重要なことです。これらすべて神からの贈り物、賜物なのです。それは私たちの救いがもともと神からの賜物であることと同じです。エペソ2章8節に「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」とあります。これは神の賜物なのです。そして、神の一方的な恵みによって救いを与えてくださった主は、その後の奉仕においても恵みの賜物を与えてくだり、私たちがしなければならない務めを与えてくださったのです。その分を越えてはいけません。それぞれが神から与えられた信仰の量に応じて、慎み深く、仕えなければならないのです。

 

 Ⅱ.永遠の分け前(8-24)

 

 次に8節から24節までをご覧ください。「主はまたアロンに言われた。「今わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエルの子らのすべての聖なるささげ物について、これをあなたが受け取る分とし、またあなたの子たちへの永遠の割り当てとする。9 火による最も聖なるもののうちで、あなたのものとなるのは次のとおりである。わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物、これらすべては、あなたとあなたの子たちにとって最も聖なるものである。10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。すべての男子は、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。11 また次の物もあなたのものとなる。イスラエルの子らの贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与え、永遠の割り当てとする。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。12 最良の新しい油、新しいぶどう酒の最良のものと穀物、人々が主に供えるこれらの初物すべてをあなたに与える。13 彼らの地のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。14 イスラエルのうちで聖絶の物はみな、あなたのものになる。15 人でも家畜でも、主に献げられるすべての肉なるもので、最初に胎を開くものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の長子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。16 その贖いの代金として、生後一か月たってから、一シェケル二十ゲラの聖所のシェケルで、銀五シェケルを払わなければならない。17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものだからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、脂肪を食物のささげ物、主への芳ばしい香りとして、焼いて煙にしなければならない。18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸肉や右のもも肉と同様にあなたのものとなる。19 イスラエルの子らが主に献げる聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与えて、永遠の割り当てとする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」20 主はまたアロンに言われた。「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。21 さらに、レビ族には、わたしは今、彼らが行う奉仕、会見の天幕での奉仕に報い、イスラエルのうちの十分の一をみな、ゆずりのものとして与える。22 これからはもう、イスラエルの子らは、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪責を負って死ぬことのないようにするためである。23 会見の天幕の奉仕をするのはレビ人であり、レビ人が彼らの咎を負う。これは代々にわたる永遠の掟である。彼らはイスラエルの子らの中にあって相続地を受け継いではならない。24 それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。」」

 

 8節には、「主はまたアロンに言われた。「今わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエルの子らのすべての聖なるささげ物について、これをあなたが受け取る分とし、またあなたの子たちへの永遠の割り当てとする。」とあります。どういうことでしょうか?

これは、アロンの家族たちが、祭司としてイスラエルが神に対してささげたささげものの一部を、受け取ることができるということです。イスラエルは、神に動物のいけにえや穀物のささげものなどをささげましたが、それを受け取ることができるということです。それは祭司としての彼らの任務なのです。ここに「聖なるささげ物」とありますが、これは主ご自身のものを自分たちが受け取ることによって、主と自分たちが交わることを意味しています。祭司たちは、主のものを共有することによって主と交わることができたのです。それは、私たちが行う聖餐式と同じです。私たちはイエス・キリストの血と肉を食することによって主との+交わりを持ちますが、それはキリストにあって一つになることができるからです。それは、アロンとその家族に対する「永遠の分け前」なのです。

 

9~10節をご覧ください。ここには、最も聖なるものとして、穀物のささげもの、罪のきよめのささげ物、代償のささげ物を食べなければならないとあります。なぜこれらが最も聖なるものなのでしょうか?それは、罪のいけにえによって、神と人との関係を妨げている罪が取り除かれ、神との和解がもたらされるからです。その肉を食べるということは、神との和解を受け入れ、神と親しい交わりを持つことになるからです。

 

しかし、ヘブル書を見ると「雄牛ややぎの血は、罪を除くことができません。」(ヘブル10:4)とあります。そうした動物のいけにえは、罪を取り除くことはできません。では何が私たちの罪を取り除くことができるのでしょうか。その後のところには、それは、神の御子イエス・キリストです。「キリストは、つみのために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」(ヘブル10:12)とあります。私たちが神と和解し、神と一つとなるためには、神のひとり子であられるキリスト以外にはないのです。イエス様が罪のためのいけにえとなってくださったことによって、私たちの罪のすべてを負ってくださいました。それ故に、このイエスを信じることによって、私たちは完全な罪の赦しを得ることができるのです。イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ6:54)と言われました。ですから、祭司が最も聖なるものとしてそれを食べるということは、キリストを信じて神の祭司とされた私たちクリスチャンが、神と親密な交わりを持つことを表しているのです。

 

11節には、その他の奉納物や奉献物は、彼らの息子たち、また娘たちにも与えられるとあります。罪のきよめのささげ物は聖所で奉仕を行なう男子だけが食べることができましたが、その他の奉納物や奉献物は、息子たちや娘たちも食べることができました。しかし、ここにはそれも「永遠の分け前」であると言われています。これは時間が経てば効力を失ってしまうような一時的なものではなく、永遠に続くものであるということです。言い換えれば、完全な分け前であり、欠けたものがないものであるということです。それはまた繰り返す必要のない、ただ一度の出来事であるという意味です。それは神の贖いのわざも同じです。キリストが十字架で血を流され、死なれたことによって、贖いの御業は完成しました。救われるために必要な御業は、他に何もありません。したがって、キリストの成し遂げられた贖いは永遠に続くものであり、再び繰り返される必要はないのです。

 このことについてヘブル人への手紙9章11節にはこうあります。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

 

これが、私たちの救いです。私たちはキリストのただ一度の贖いによって、永遠の救いを受けたのです。私たちの過去、現在、未来のすべての罪が、二千年前のキリストの十字架の贖いによってすべて取り除かれたのです。ですから、自分の罪が赦されるために祈ったり、聖書を読んだり、奉仕をし足りする必要はありません。また、自分をもっと聖めたいと思って、こうした宗教的な行いをする必要もないのです。イエス・キリストを信じるなら、あなたは完全に聖められているからです。キリストの贖いの御業は完成しました。イエス様が十字架で死なれる直前に言われたことばは、そのことを表しています。イエス様は死の直前何と言われたでしょうか。「完成した」。それは、救いの御業が完成したということです。ですから、祭司たちが神からいただく分け前は「永遠の分け前」なのです。

 

12節と13節には、「最良の新しい油、新しいぶどう酒の最良のものと穀物、人々が主に供えるこれらの初物すべてをあなたに与える。彼らの地のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。」とあります。
 イスラエル人は、罪のきよめのささげ物や代償のささげ物だけではなく、収穫物の初物を幕屋に携えてきました。それは最良の新しい油、最良のぶどう酒や穀物と、人々が主に供えるこれらの初物のすべてです。それらを自分たちの分け前とすることができました。これらも罪のきよめのささげ物と同じように、キリストご自身を表していました。キリストが彼を信じるすべての人たちの初物となってくださったということです。それゆえキリストを信じるすべての人は、キリストと同じようになるのです。キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも生き、キリストが死なれて葬られたように、キリストにつく者は古い人に対して死に、キリストが神からすべてのものを相続しているように、キリストのうちにある者も、神からの相続を受けるのです。ですから他の個所では、キリストはすべての兄弟の長子となられた、と書いてあります。神の祭司とされた私たちは、初物であるキリストを心に受け入れているからです。

 

14節には、「イスラエルのうちで聖絶の物はみな、あなたのものになる。」とあります。聖絶のものはすべて神のものであり、すべて神の宝物倉に入れておかなければなりませんが、その聖絶のものが彼らのものとなったのです。神と一つにされたからです。

 15節には、「人でも家畜でも、主に献げられるすべての肉なるもので、最初に胎を開くものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の長子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。」とあります。
 植物の初物が祭司のものになったように、人の長子や動物の初子も祭司のものとなります。ただし、イスラエルに初めに生まれてきた男の子が祭司のものになるのではありません。初子はすべて主のものですが、人の場合はお金を払って買い取らなければなりませんでした。16~17節には、その贖いの代価が示されています。生後一ヶ月以上であれば聖所のシェケルで銀五シェケルと定められていました。ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖うことができませんでした。なぜなら、それらは火によるささげものとして、主にささげなければならなかったからです。しかし、その肉はみな祭司たちのものとなりました(18)。

 

19節には再び「永遠の分け前」が出てきます。ここには、この分け前についてのまとめが記されてあります。これは永遠の分け前であり、永遠の塩の契約なのです。「永遠の塩の契約」とは、解消されることのない契約である、という意味です。これは、物理的に祭司職が続くということではなく、先ほど述べたように、キリストの永遠の祭司職を指し示しています。

 

20節から24節までには、相続地に関する規定が記されてあります。祭司たちは、約束の地において自分たちが所有となる土地が与えられませんでした。それは彼らにとって主が割り当て地であり、彼らへのゆずりであるからです。どういうことですか。主ご自身が彼らが相続するものであるということです。いや、ちゃんと相続地が欲しいなぁと思われるでしょうか。でも、主はすべてを所有しておられる方です。ですから、この方を相続するというのは、すべてのものを相続するということなのです。これほどすばらしい相続はありません。すべての霊的富を与えられるのです。

 

私たちも、新約時代の祭司としてこのように告白しなければなりません。私たちにとってイエス様がゆずりの地です。イエス様だけで十分ですと告白し、イエス様に拠り頼んでいるでしょうか。パウロはこう告白しました。「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:12-13)

すばらしいですね。私たちも主が私たちのゆずり、相続地であることを感謝し、このように告白したいものです。

 

それはレビ人も同じでした。主はレビ人にも相続地を与えられませんでした。その代わりに、イスラエル人が携えてくる十分の一をみな受け取ることができました。それは、レビ人が幕屋の奉仕をすることができるようになるためであり、それによって、イスラエル人が幕屋の中に入ったりしなくても良いためです。レビ人はそれによって生活が支えられ、フルタイムで主に仕えることができたのです。

 Ⅲ.祭司の報酬(25-32)

 

最後に25節から32節までを見て終わりたいと思います。「主はモーセに告げられた。26 「あなたはレビ人に告げなければならない。わたしがあなたがたに相続のものとして与えた十分の一をイスラエルの子らから受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、主への奉納物として献げなさい。27 これは、打ち場からの穀物や、踏み場からの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物と見なされる。28 こうして、あなたがたもまた、イスラエルの子らから受け取るすべての十分の一の中から、主への奉納物を献げなさい。その中から主】の奉納物を祭司アロンに与えなさい。29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれの最上の部分で聖別される分から主へのすべての奉納物を献げなさい。30 また、あなたは彼らに言え。あなたがたが、その中からその最上の部分を献げるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、踏み場からの収穫と見なされる。31 あなたがたとその家族は、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。32 あなたがたが、その最上の部分を献げるとき、そのことで罪責を負うことはない。ただし、イスラエルの子らの聖なるささげ物を汚して、死ぬようなことがあってはならない。」」

 

レビ人は、受け取った十分の一のすべてを自分たちのものとすることはできませんでした。その中から十分の一を取り、それを主への奉納物としてささげなければなりませんでした。それを、アロンの家族に与えたのです。それは祭司の家族が生活に困ることなく、祭壇と聖所における奉仕に専念することができるようにするためでした。こうしてアロンの家族は、レビ人を含むイスラエル人すべてを代表して主に奉仕をし、礼拝をささげました。物質的な必要が支えられることによって、神と人との仲介の役を果たし、イスラエル人が幕屋に近づいて殺されなくてもすむようにしたのです。

 

これが神の計画でした。神はイスラエルが聖所の器具と祭壇に近づいて死ぬことがないようにするために、このように配慮してくださったのです。それは今日も同じです。神は教会に牧師、長老、監督といった働き人を与え、彼らによってこの働きを担うことができるようにしておられます。Ⅰテモテ5章18節に、「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」とあるとおりです。教会は、主の働き人がその働きに専念できるように、彼らの物質的な必要が満たされるように配慮することが求めてられけているのです。

あなたは何を見ているのか エレミヤ書1章11~19節

聖書箇所:エレミヤ書1章11~19節(エレミヤ書講解説教2回目)

タイトル:「あなたは何を見ているのか」

 

 今日は、エレミヤ書1章11~19節の御言葉から、「あなたは何を見ているのか」というタイトルでお話します。エレミヤが預言者として召命を受けた後、最初の預言を発するまでの間に、主はエレミヤに対する召しを確かなものとするために、二つの幻を見せられました。それがアーモンドの枝と煮え立った釜の幻です。

 

 Ⅰ.アーモンドの枝(11-12)

 

 まず、11節と12節をご覧ください。「主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」」

 

 エレミヤの預言者としての働きは、アーモンドの枝を見ることから始まります。「アーモンド」は、ヘブル語で「シャケデ」と言います。意味は「目覚める」とか「見張る」です。イスラエルでは、アーモンドの木は春になると一番先に花をつけました。日本で言えば梅の木でしょうか。とてもよく似ています。梅の花のように白い花をつけるのです。

春が来るとカラカラに乾いた冬の終わりを告げます。そのときアーモンドの木に一斉に花が咲き始めるのです。エレミヤはそれを見ていました。先ほども申し上げたように「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」、意味は「目覚める者」とか「見張る者」です。彼は預言者として神が語ることばが実現するかどうか見張る者として、神から召されました。この「見張る」というヘブル語は「ショケデ」と言いますが、ここに語呂合わせが見られます。「シャケデ」と「ショケデ」です。「アーモンド」と「見張る」です。私はよくおやじギャグを言って顰蹙(ひんしゅく)をかうことがありますが、神の語呂合わせは見事ですね。ショケデがシャケデを見ているのです。エレミヤは、自分が預言者として召されたことを感慨深く思っていたに違いありません。それはまさに自分のことではないか。私はアーモンドだ!と思っていたかもしれません。

 

その時彼に、主のことばがありました。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」。口語訳では「何を見るか」です。つまり、あなたは何を見ようとしているのかということです。何を見ているのかって、アーモンドの枝です。しかし、本当に彼が見なければならなかったものは何だったのでしょうか。私たちの目にはいろんなものが映りますが、その中で何を見ているのか、何を見ようとしているのかは重要なことです。目で見ているからといっても、必ずしも見ているわけではないからです。耳で聞いているからといっても、必ずしも聞いているわけではないのです。

 

マルコの福音書8章14~19節には、弟子たちがパンを持ってくるのを忘れて舟に乗り込んだ時の出来事が記されてあります。そのとき、イエス様が彼らに「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(マルコ8:15)と言われたのです。それを聞いた弟子たちは焦りました。自分たちがパンを持ってくるのを忘れたことについて、イエス様から非難されたと思ったからです。それで彼らは互いに議論し始めました。

するとイエス様はそのことに気がついてこう言われました。「なぜ、パンをもっていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか。悟らないのですか。心をかたくなにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは覚えていないのですか。」(マルコ8:17-18)

「あなたがたは覚えていないのですか」とは、その前にイエス様が行った七つのパンの奇跡のことです。イエス様は、七つのパンで四千人の男の人たちの腹を満腹にさせました。パンの問題はもうその奇跡で解決済みでした。そのパンの奇跡によってイエス様が示そうとしたことは、人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きるのだということです。つまり、人は神の恵みによって生きるのだということです。それなのに、パンを持って来るのを忘れたからといって、パンパカパーンと叱責されるはずがありません。でも弟子たちにはそれがわかりませんでした。彼らは本気でパンのことで叱られていると思ったのです。問題は何でしょうか。よく見ていなかったということです。よく聞いていなかった。目があっても見ない、耳があっても聞かない、悟らない。心をかたくなにしていたのです。

 

私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。いろんな経験をしても、ただぼんやりとしていたら、その経験、つまり見たもの、聞いたものは、何も見たことにはなりません。聞いたことにはならないのです。どんなにイエスの奇跡を体験しても、それを体験すればするほど、私たちの心は鈍くなり、御利益的信仰しか養われないで、心が鈍くなっていくということがあるのです。神様を信じていれば、必ずいいことばかりくるのだという程度のことしか期待できなくなっているのです。

 

ですから、私たちが何を見るか、何を見ようとしているかは大事なことなのです。私たちが日常生活において、いつも心を研ぎ澄まして、本質的なものは何か、一番大事なものは何なのか、今、しなければならないことは何か、なくてならないものは何かと、注意深く見ようとしていないと、見えるものも見えてこなくなります。

 

エレミヤは今、預言者とし召されたばかりでした。その時にアーモンドという花を見ていたのか、見せられたのかわかりませんが、じっと見ていました。それはただ見ていたというよりも、そこから悟りを得るかのように見ていたのです。アーモンドの枝は他の花に先駆けて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ目覚めの花ともいわれています。エレミヤは思ったかもしれません。自分は他のだれにも先駆けてこの時代の先駆者にならなければならない。この時代を見張らなくてはならないと。特に彼は神に召された時に、神から「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために」と言われました。厳しいさばきを民に伝えなければならないという意気込みがあったでしょう。普通ならばなんでもないアーモンドの枝でも、いつもとは違ったものとして見ていたのかもしれません。

 

すると主が彼に言われました。「あなたの見たとおりだ。」新共同訳では「よくぞ見たものだ」と訳しています。つまり、主はエレミヤが見ているものをほめているのです。喜んでいるんです。「よくぞ見たものだ」と。預言者として召されたエレミヤが見るべきもの、それはアーモンドの枝を通して見る神の御思いだったのですが、彼はそれをしっかりと見ることができたのです。それは目覚め、見張るという彼に与えられていた使命でした。

 

しかしそのあとで主は、思いがけないことを言われました。それは「わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている」ということです。つまり、見張っているのは、エレミヤではなく、神ご自身であるということです。確かにエレミヤは預言者として召されたからには、この世に先駆けて目を覚まし、この世を見張らなくてはならないと思っていたでしょうが、しかし、それ以前に、神ご自身が見張っているというのです。何を見張っているかと言うと、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」というのです。ここで言われている「わたしのことば」というのは、神がエレミヤを通して語られる神のことばです。エレミヤに託された主のことばが、どのように実現するのかをご自身が見張っているというのです。これを聞いた時エレミヤはどんなに肩の力がぬけたことかと思います。ヨッシャー!と思って立ち上がったら、「いや、それはあなたがするんじゃなくてこのわたしだ」と言うのですから。ガクッと来ますよね。ではそのことばとはいったいどのようなことばなのでしょうか。

 

 Ⅱ.煮え立った釜(13-16)

 

 それが次に出てくる煮え立った釜の幻です。13~16節をご覧ください。「再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている-主のことば-彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。」

 

 これがエレミヤを通して語られた主のことばです。先のアーモンドの枝の幻を見てから幾日か経ってからのことでしょう。再びエレミヤに主のことばがありました。「あなたは何を見ているのか。」エレミヤは答えました。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています」と。

 

 「煮え立つ釜」とは、神の煮え立つような怒りのことです。それが「北から傾いている」とは、バビロン軍が北の方からやって来るということです。彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダの城壁のすべての町に向かってそれぞれ王座を設けるのです。いったいなぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは16節にあるように、彼らがイスラエルの神、主を捨てて、ほかの神々にいけにえをささげたり、自分たちの手で作った物を拝んだからです。その悪に対して主がさばかれるからです。これが主のことばです。主は、このことばを実現しようと見張っているのです。

 

 でもどうやってこれが起こるのでしょうか。というのは、エレミヤが預言者として召されたのはB.C.627年のことでした。当時、周辺諸国を支配していたのはアッシリヤ帝国です。アッシリヤ帝国によってオリエント世界は完全に支配されていたのです。バビロンなんていう国は聞いたこともありませんでした。事実、バビロンはアッシリヤの支配下にありました。ですから、世界最強のアッシリヤ帝国が消滅して、名もないバビロン帝国が世界の覇者になると聞いても、ピンときませんでした。だれも信じることができなかったのです。今で言えば超大国のアメリカが消えて無くなり、どこの名もないような国が急に世界の覇者になるようなものです。考えられません。そのバビロンがやって来てどうやってエルサレムを滅ぼすというのでしょうか。そんな時に、エレミヤはこの預言のことばを語れと言われたのです。語れと言われても、それは突然天から聞こえてきたというよりもエレミヤの思いの中に、そのような思いが与えられたということでしょう。

 彼は夕飯を待ちながら、グツグツと煮え立つ釜を見ていると、その釜が突然北の方から傾いてきてこぼれそうになりました。そのとき、「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。」という主の御声を聞いて、神のことばを悟ったのです。つまりエレミヤは夕飯の用意をしながら、グツグツと煮え立つ釜を身ながら、偶像礼拝をしているイスラエルのあり方を身ながら、こんなことをしていたら、きっと神のさばきがくると考えたのです。それが北からやって来るバビロン帝国でした。

 まだ人々はバビロンという国さえ知らない時代です。まだ北からの驚異を少しも感じていないとき、そんな時に人々にこんな罪の生活をしていたから、必ず北から攻められる、それは神のさばきだと人々に語らなければならないのです。だれが信じるでしょうか。だれも信じられなかったでしょう。バカじゃないか、そんなことあるはずがないじゃないか、もっとマシな話をしろと、鼻で笑われたに違いありません。これが神のことばだと告げれば告げるほど人々から笑われ、そんなことを言って脅かすなと非難されていたのです。17章の15節からのところをみると、エレミヤの嘆きの言葉が記されています。「ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。」(17:15-18)

エレミヤが「北から攻められて、自分たちの国は滅びる」、これは主のことばだと語れば語るほど、お前の言った言葉はちっとも実現しないではないかとからかわれていたのです。

 

 そのエレミヤに対して主は、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」と言われました。お前がこれは主のことばだといって語ったことは、わたしが責任をもって実現させる、そのために見張っているのだと、神はエレミヤに語られたのです。だからお前は安心して主のことばを語れというのです。わたしがお前が語ったことばを実現させるからと。これはエレミヤにとってどんなに心強い言葉であったかと思います。

 

 そして、事実、このことばが実現します。主がこれをエレミヤに語られた翌年のB.C.626年に、バビロンの王ナボポラッサルがアッシリヤに反乱を企て独立を果たすのです。これが新バビロニア帝国です。そしてそのまま破竹の勢いで勢力を伸ばすと、B.C.612年には、ついにアッシリヤ帝国の首都ニネベを陥落させるのです。つまり、バビロンがアッシリヤに代わって世界の覇者となるのです。それは、主がエレミヤに語られたてら15年後のことでした。

そして、それからさらに7年後の605年に、このバビロン軍が南ユダに侵攻します。エレミヤがこれを預言したのがB.C.627年ですから、それから実に22年後のことです。その年にバビロンが南ユダに侵略し、ダニエルを始めとした優秀な人材をバビロンに連行するのです。これが第一次バビロン捕囚です。それはユダの王エホヤキムの治世の第三年のことでした(ダニエル1:1)。

それから19年後のB.C.586年には、これが最も有名なものですが、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲し、陥落させるのです。その中心にあったエルサレム神殿は破壊され、エルサレムは瓦礫の山となり、エルサレムの住民はバビロンへと連行されます。これが究極のバビロン捕囚です。ここで主がエレミヤに語られたとおりになるのです。ユダの人々がそんなこと考えられないと鼻で笑ったことを、主は実現されるのです。これが主のなさることです。主はご自分が語られたことを実現しようと見張っておられるのです。

 

聖書にはたくさんのことが書かれていますが、実にその3分の1は預言です。ですから聖書は預言の書と言われているわけですが、その預言は、これまでの歴史においてことごとく実現してきました。その中には1,900年もの間失われていたイスラエルが、世の終わりに再建されるというのもあります。考えられません。しかし、1948年5月にこれが実現します。イスラエルという国が建国されたのです。これは20世紀最大の奇跡と言われていますが、現実に起こったのです。

 

ですから、未来のことについて信じ難いことでも、私たちはこの神のことばを信じなければなりません。世間が何と言おうとも、変わることがない神のことばを信じなければならないのです。勿論、それは預言ばかりでなく聖書に書かれてあるありとあらゆることです。たとえそれが常識では考えられないことでも、理性的に受け入れられないことでも、この世の価値観からあまりにもかけ離れていることであっても、聖書は神によって語られた神のことばであり、神は必ずそれを実現してくださるのです。

 

エレミヤの時代の人々は信じることができませんでした。まさか22年後にバビロンがやって来て人々を連れて行くなんて考えられませんでした。しかし、主はご自身が語られたことばを実現しようと見張っておられます。大切なのは、見ないで信じることです。イエスはトマスに言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)見ないで信じる者は幸いです。見ないで信じましょう。主が語られたことばは、必ず実現するからです。

 

 Ⅲ.腰に帯を締めて立ち上がれ(17-19)

 

ですから、第三のことは、腰に帯を締めて立ち上がれということです。17~19節をご覧ください。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、-主のことば-あなたを救い出すからだ。」」

 

主はエレミヤに二つの幻の意味を説明すると、腰に帯を締めて立ち上がり、主が命じるすべてのことを語れ、と言われました。帯を締めて立ち上がるとは、働きやすいように着物の裾をまくり上げて腰の帯で締めることです。主が語るように命じられたことをすべて語ることができるように用意しておきなさいということです。あなたはその用意が出来ているでしょうか。監督から声が掛かったらいつでもベンチから飛び出していく野球の選手のようにウォーミングアップが出来ているでしょうか。監督の考えや戦略を熟知していて、すぐにそれに対応できるように準備しているでしょうか。

 

Ⅰペテロ1章13節に、「腰に帯を締める」と同じことばが使われています。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

この「心を引き締め」ということばです。あなたの心は緩んでいないでしょうか。考えがあっちに行ったりこっちに行ったりしていないですか。あのことを考えたりこのことを考えたりして集中できないということはないでしょうか。聖書のことばに集中して生きるのか、この世の価値観に流されて生きるのかということです。人の言うことに振り回されていないでしょうか。そうではなく、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられている恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

 

彼らの顔を恐れてはなりません。さもないと、主があなたを彼らの顔の前でおびえさせることになります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)とあるとおりです。エレミヤが語ることばは、彼らにとって歓迎されるようなことばではありませんでした。むしろ訝(いぶか)られたり、拒絶されたりするようなことばでした。しかしそれでも彼は、人々の顔を恐れず主が語れと命じられたことを語らなければなりませんでした。人の顔色を見て神のことばを薄めたり、ゆがめたり、へつらったり、オブラートに包んだりしないで、ストレートに語らなければならなかったのです。

 

そうすれば、主は彼を「要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする」と約束されました。「要塞の町」とか「鉄の柱」、「青銅の城壁」とは、揺るぐことがない堅固な町という意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。恐れてはならない、おののいてはならない。主が語られたすべてを大胆に語るように。なぜなら、主があなたとともにいて、あなたを救い出されますから。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。自分で弁護するのでもないのです。人に取り入られようとへつらう必要もありません。全部主が成し遂げてくださいます。あなたは絶対に潰されることはありません。倒れることはないのです。主があなたを要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁としてくださるからです。

 

エレミヤの預言者としての活動は実に40年間にわたるものでしたが、たとえ40年間だれ一人あなたの語ることばに見向きもしなくても、だれ一人あなたのことばに耳を傾けなくても、それでもあなたは語り続けなさい。わたしがともにいるから。そう語られたのです。これを信じたエレミヤは、40年以上も神の働きを続けることができました。それはこの世の人々の目には不毛のように見えたかもしれません。しかし、神の目ではそうではありませんでした。アーモンドの枝のように、死んでいるように見えても花を咲かせていたのです。ですからエレミヤは、どんなに反対されても、忍耐して、忠実に語り続けることができたのです。

 

あなたはどうでしょうか。人にどう思われるが気になりますか。そんなこと言ったら変に思われるんじゃないかとか、バカにされるんじゃないか、仲間外れにされるんじゃないかと心配になってはいないでしょうか。ストレートに言ったら反って相手の気分を損なわせてしまうことになるのではないか。それでは逆効果だと思うかもしれない。でも恐れないでください。主はきょうあなたにこう言われます。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」と。

 

なかなかわかってもらえないかもしれません。拒まれるかもしれない。逆ギレされるかもしれません。それによって人間関係を失うかもしれません。でも彼らの顔を見ておびえないでください。主があなたともにいて、あなたを救い出してくださいますから。これが主の約束です。主のことばはとこしえに堅く立ちます。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに立つ。主のことばに信頼して、あなたも腰に帯を締めて立ち上がり、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。

 

エレミヤはアーモンドの枝をみながら、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」という主のことばを聞いて力づけられ、また肩の力を抜くことができましたが、それはエレミヤばかりでなく、あなたに対しても語られている主のことばなのです。