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エレミヤの召命 エレミヤ書1章1~10節

聖書箇所:エレミヤ書1章1~10節

タイトル:「エレミヤの召命」

 

 今日からエレミヤ書に入ります。エレミヤは、1節にあるように、「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子」でした。アナトテは、エルサレムの北東約4キロに位置する寒村です。昔から祭司たちが住み、祭司の村として知られていました。エレミヤは、その祭司の一人ヒルキヤの子として生まれました。すなわち、彼は子供のときから神に対する敬虔な態度を培われ、神の律法をよく学んでいたということです。

 

 このエレミヤに主のことばがありました。それはユダの王、アモンの子ヨシヤの時代のことで、その治世の第十三年のことでした。ヨシヤは8歳で王として即位したので、その治世の13年というのは、ヨシヤが21歳の時であったことがわかります。それはB.C.627年のことでした。その年にエレミヤに主のことばがあったわけです。

 

それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの民が捕囚としてバビロンに連行される時まで続いたとあります。いわゆるバビロン捕囚です。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたという出来事です。それはB.C.586年のことですから、エレミヤの預言者としての活動は、B.C.627年からB.C.586年までの、実に41年間であったということになります。長いですね。

 

 彼が預言者として活動していた時期はどのような時であったかというと、イスラエルの歴史において最も暗黒な時代であった言えるでしょう。霊的にも、道徳的にも、社会的にも堕落しており、その結果、バビロンという国に捕囚の民として連れて行かれることになったのですから。エレミヤが預言者として活動を始めた時はヨシヤ王の時代でした。彼は非常に善い王様で、父アモンによってもたらされた偶像を神殿から廃棄し、祭司ヒルキヤによって発見されたモーセの書を民の前で朗読するなどして宗教改革に取り組み、イスラエルの民を神に立ち返らようとしました。

 

しかしそれは長くは続かず、イスラエルは再び主に背き、元の状態に戻ってしまったのです。3節にヨシヤの子エホヤキムとありますが、彼は神のことばをストレートに語るエレミヤを鬱陶(うっとう)しく思い、激しく弾圧しました。その結果、エルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって陥落し、ついにはエルサレムの民がバビロンに連行されて行かれることになってしまったのです。これがバビロン捕囚という出来事です。

 

聖書には年代として覚えておきたいいくつかの出来事がありますが、その一つがこのB.C.586年のことです。ちなみに、他に覚えておきたい出来事、年代としては、たとえばアブラハムが神に示された地に出て行けということばを受けて、告げられたとおりに出て行ったという出来事があります。創世記12章にありますが、それはB.C.2,000年頃のことです。それから、モーセがイスラエルの民をエジプトから解放した出来事、出エジプトですね、これはB.C.1,400年頃のことです。さらに今祈祷会でちょうどやっているところですが、ダビデがイスラエルとユダを統一して王国を築いた出来事、これはB.C.1,000年頃のことです。また、その子ソロモンによってイスラエルが分裂した出来事、これはB.C.931年のことです。そしてイスラエルの分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた出来事、B.C.722年です。そしてこの南ユダ王国がバビロンによって捕囚の民となった出来事です。これを以ってエルサレムの民はバビロンに連れて行かれ、そこで70年の時を過ごすことになるのです。

 

その時の最後の王がゼデキヤでした。彼は両目をえぐられて、バビロンに連行されました。この出来事は、イスラエルの歴史において一大転機となります。かつてイスラエルがエジプトの奴隷として430年間囚われていたように、70年間他国に支配され、奴隷の民として過ごすことになったからです。最終的にそれは、罪の奴隷として罪の支配の中にあった私たちを救ってくださるイエス・キリストの救いにつながっていくのです。エレミヤはまさにこのバビロン捕囚を預言し目撃する人物として神から遣わされたのです。

 

それは本当に嘆かわしい出来事でした。その中でエレミヤは涙をもって、神のことばを語り続けました。エレミヤが「涙の預言者」と呼ばれる所以はここにあります。それは、ユダヤ人の宗教指導者と対峙し、激しい言葉を使いながら涙を流されたイエス様の姿でもあります。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(マタイ23:37-38)

そしてそれは、神に背を向けて自分勝手に生きている現代の私たちに対する神の叫び、神の心でもあります。私たちは、このエレミヤを通して語られる神のことばを私たちに対する神からの涙のメッセージとして受け止め、神のみこころは何かを学び、神のみこころに歩む者でありたいと願わされます。

 

 Ⅰ.エレミヤの召命(4-5)

 

 では、エレミヤが預言者として召された出来事を見ていきましょう。4節と5節をご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」」

 

 すごいことばですね。エレミヤは、生まれる前から預言者として定められていました。彼は祭司の子どもとして生まれたので祭司として召されていたというのならわかりますが、祭司としてではなく預言者として定められていました。預言者とは、言葉を預かると書きますが、文字通り神の言葉を預かり、それを語る人のことです。

 

 それは彼が母の胎内に形造られる前からのことでした。神は彼を、胎内に形造られる前から知っておられました。この「知る」ということばは、へブル語で「ヤーダー」と言います。皆さんは「ヤーダー」と言わないでください。神に知られているということはすばらしいことなのですから。あなたも生まれる前から神に知られていました。この「知る」ということばは、夫が妻を知るという時に使われることばで、夫婦の性的関係を持つ時に用いられることばです。それほど親密なレベルで知っているということです。ただ情報として知っているというだけでなく、本当に親密なレベルで人格的に、経験的に知っているのです。そのように神はあなたのすべて知っておられるのです。あなたが胎内に形造られる前から。

 

そして母の胎を出る前から、国々への預言者として定めておられました。この時点で彼はそのことを知りませんでした。しかし、時至って彼はそのことを知ることになります。10章23節で彼はこう告白しています。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

人間の道とは人の一生のことですが、人の一生はその人によって決まるのではなく、神の御手の中にあり、神によって定められているのです。皆さんもまさか自分がクリスチャンになってここにいるようになるなんて考えたこともなかったでしょう。だれも知りません。でも神はすべてのことを知っておられます。そして、その歩みを確かなものにしてくださるのです。

 

 それは私たちも同じです。私たちがクリスチャンになることは、私たちが生まれる前から、神によって定められていたことなのです。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4)とあります。私たちは、生まれる前から、いや、世界の基が据えられる前から、クリスチャンになるように選ばれていたのです。このようになるようにと定められていたのです。

 

このようなことを申し上げると、中には私はロボットではない。一人の人格を持った人間であり、何をするかといった選択の自由が与えられているのであって、定められていたというのはおかしいと言う方がおられます。しかし、そうした選択さえも予め定められているのであって、私たちがどこにあってもキリストを信じるように導かれていたのです。ですから今皆さんがここにいるのも決して偶然ではないのです。

 

私は18歳の時に今の妻と出会い、クリスチャンになりました。どうして妻に出会ったのかを考えても本当に不思議だなぁと思います。全く考えられないことでした。しかし、今になって思うことは、エレミヤが、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」と告白したように、すべてが主の導きによるものであったということです。綾小路きみまろの「あれから40年!」というフレーズが有名ですが、私のあれから40年も、まさに主の導きによるものであったと実感するのです。決して「偶然」ではなかった。そうです、人の一生は生まれる前からすでに神のみ手にあり、その使命は定められているのです。

 

ある夕方、ひとりの大学教授が机に向かって翌日の講義の準備をしていました。家政婦が置いていった書類や手紙に目を通しながら、不要なものをくずかごに捨て始めたとき、ある雑誌が目に留まりました。それは、彼の事務所に誤って配達された雑誌でした。それが床に落ちたとき、たまたまその雑誌の中の「コンゴ伝道の必要性」という記事が載ったページが開いたのです。

教授は何とはなしにその記事を読み始めると、そのとき、このことばが彼の心をとらえました。

「コンゴでの必要性は大きい。中央コンゴの北部、ガボン州を担当する人がいない。この記事を書きながら、わたしはこう祈っている。主イエスは、このために召された人物の上に、すでにその目を注いでおられる。今こそ神がその人物の上に手を置き、私たちを助けるために彼をこの地に派遣してくださるように。」

雑誌を閉じた教授は、その日の日記に書き記しました。

「私の探求は終わった。」

彼はコンゴに身をささげることにしました。この教授の名前はアルバート・シュバイツァーです。この小さな記事は、他人宛ての雑誌の中に潜んでいたものでした。その雑誌が、誤ってシュバイツァーの郵便受けに入れられていたのです。さらに、家政婦が偶然にもそれを教授の机の上に置きました。そして偶然にも教授がその記事のタイトルに気付きました。まるでタイトルの方が彼の目に飛び込んで来たかのようでした。

シュバイツァー博士は、人道主義的な分野で、20世紀を代表する偉大なひとりとなりました。彼の功績は、人類の歴史上、ほとんど他に類を見ないほどのものです。これは偶然に起こったのでしょうか。いや、これは神の摂理によるのです。(Dan Betzer 「Preaching Today.com」)

 

エレミヤは、自分は神から召されたのだという強い確信がありました。これが、いかなる困難に遭遇しても、それを乗り越えることができた理由です。神は、エレミヤが誕生する前から彼を預言者として選んでおられました。これは私たちにも言えることです。あなたは、自分が神から選ばれた者であることを知っていましたか。神が選んでくださったのであれば、最後まで必ず責任をもってくださいます。あなたは何も心配いりません。何も思い悩む必要はないのです。あなたに必要なのは、永遠の昔から神によって知られ、生まれる前から聖別され、神の栄光のために定められていると信じることなのです。

 

 Ⅱ.エレミヤの応答(6-8)

 

 次に、この神の召しに対するエレミヤの応答を見たいと思います。6~8節をご覧ください。「私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。主のことば。」私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」」

 

 神の召命に対するエレミヤの応答は、「私はまだ若くて、どう語ってよいかわかりません」というものでした。この時エレミヤが何歳だったのかははっきりわかりませんが、預言者として立つにはまだ若いと言っていることから、恐らく20代前半位だったのではないかと思われます。そんな若者がどうやって語れというんですか。そんなの無理です、できるわけがありませんと、答えたのです。もしかすると彼は、祭司の子として生まれたこともあって、預言者として召されることにためらいがあったのかもしれません。あるいは、彼の時代からさかのぼること100年前に現れて神のことばを大胆に語った預言者イザヤと比較して、自分にはとてもそんな力はないと思ったのかもしれません。いずれにせよ、自分にはできませんと答えました。

 

それに対して、主は何と言われたでしょうか。7節をご覧ください。「主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」

「まだ若い、と言うな」、これは言い訳するな!ということです。できない理由をあげたらきりがありません。自分は若くて未熟な者です。まだ訓練が十分ではありません。自分は預言者としては不適格です。しかし、そのような言い訳は一切必要ありません。というのは、神がエレミヤを預言者として召されたのは、彼に能力があったからではなく、また、知識や経験があったからでもなく、神がそのように選ばれたのだからです。従って、彼に求められていたことは何かというと、能力や知識や経験があるということではなく、ただ神に従うことでした。神が遣わされるところであればどんなところでも行き、神が命じられたことであればそれをその通りに語ることです。すなわち、神のことばに忠実であることです。この預言者の資格について元東大総長の矢内原忠雄は、聖書講義の中で次のように言っています。

「預言者の資格は年令や人生の経験によるのではなく、素直に神の示されたものを見、語られることを聞き、命じられた言葉を告げる真実な心と純粋な信仰にあります。・・預言者は神の言葉を聞いて、これに加えることなく、また減らすことなく、そのまま純粋に伝えることを任務とするため、素直で真実な性格を要求され、人の顔を恐れない勇気を必要とします。」(矢内原忠雄、「聖書講義」8:580)

まさにその通りです。たとえ若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いとか軽いとかということとは全く関係なく、神の預言者に求められているのは、神の言葉を聞き、それをそのまま伝えることです。ですから、預言者に求められることは素直で真実であることなのです。また、人の顔を恐れない勇気です。ですから、8節に次のように勧められているのです。「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」」

 

 エレミヤの問題は、人の顔を恐れていたことでした。しかし神はいつもエレミヤとともにあって救い出してくれるから、人の顔を恐れるなと言われたのです。箴言29章25節には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人を恐れるとわなにかかります。しかし、主に信頼する者は守られます。どんなに強い確信をもっていても、失望する時は必ずやって来ます。そんな時エレミヤは、神との絶えざる交わりを通して、新しい力を得ていかなければならなかったのです。

 

あなたはどうですか。人の顔を恐れていませんか。恐れは、私たちの行動を束縛します。しかし、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)とあるように、神の完璧な愛の前に、恐れは一瞬にして締め出されます。大切なのは、神様とともに歩むことです。

 

「リビングライフ」というディボーションガイドの古いものを見ていたら、数年前に天に召された韓国のオンヌリ教会のハ・ヨンシュ先生の「愛する人を慕うように」というタイトルの詩を見付けました。

「苦しみ自体は問題ではありません。

神様がともにおられないことが問題です。

苦痛がのろいではありません。

神様がともにおられないことがのろいです。

神様は神の人と毎日、毎時間、ともにおられる方です。

神様がともにおられると、恐れはありません。

失敗しても、病気になっても問題ではありません。

死さえも恐れなくなります。

主とともにいると、すべてがうまくいきます。

すべてがうまくいくとは、すべてのことがともに働いて益となるということです。

苦しみが去っていくのではなく、苦しみを打ち破って、勝ち抜く力を持つことです。

「神様が私たちとともにおられる」と思うだけで、

すべての責任を神様が取ってくださるような気がします。

それをまた別の視点で見て、「私たちが神様とともにいる」と考えると、

私たちは神様を忘れてはならないということになります。

たとえ苦痛や悩みがあっても、私たちの中には神様がおられます。

一日を神様ともに始めてください。

そして、一日中ともに行動してください。

いつも神様のことを考えてください。

神様のことを考えることが、神様とともに行動することです。

それは私たちの特権です。(ハ・ヨンジュ、「愛する人を慕うように」リビングライフ2010年4月号)

 

すばらしいですね。神とともにいるなら、恐れは全くありません。死さえも恐れなくなるというのはすごいことです。私たちにとって最も重要なのは、この神とともにいることです。神とのつながりを通して、日々新しい力を受けようではありませんか。人の顔を恐れないで、神に信頼しましょう。

 

Ⅲ.エレミヤの使命(9-10)

 

第三に、エレミヤに与えられた使命です。9~10節をご覧ください。「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」」

 

そのとき主は御手を伸ばし、エレミヤの口に触れられました。これは、イザヤが召命を受けたときの状況に似ています(イザヤ6:7)。それは彼の口がきよめられたことを表しています。それは、神のことばを語るのにふさわしい者となったということです。そんなエレミヤに対して主が言われたことは、「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。」ということでした。それは、何を話そうかと自分で考えたり、自分で編み出す必要はないということです。神が与えてくださったことばを語るだけでいいのです。預言者とは「言葉」を「預かる」と書きますが、文字通り神の言葉を預かって語る人のことです。自分がどう思うか、どう考えるかということではなく、神が語れと言われることを語ればいいのです。それは聖書に書いてありますから、聖書のことばを語るだけでいいのです。神は、その語るべきことばさえも与えてくだいます。

 

忘れもしません。私は1983年5月29日の日曜日の礼拝から、ほとんど毎週休みなしで語り続けてきました。それは私たちが結婚した翌日のことでよく覚えています。その前日の土曜日に結婚式を挙げて新婚旅行に行きましたが、翌日は家に戻って来て礼拝をスタートしました。あれから38年。まあよく喋ること、お父さんは口から生まれて来たんじゃないかとよく娘に言われますが、そんなことはありません。私は生まれた時から口が重く、口べたなんです。できれば、貝のように口を閉ざし、ずっと黙っていたいと思っているくらいなんで。誰も信じないかもしれませんが本当です。ただⅡテモテ4章2節の「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」のみことばを読んだとき、「ああ、時が良くても悪くても」語らなければならないと思いました。その使命感だけでずっと語り続けています。できれば、もっと流暢に、もっとおもしろく、もっと感動的な話ができたらなぁと思うこともありますが、そんなの関係ありません。預言者である牧師にとって必要なことはいかに上手に話をするかではなく、主が語れと言われたことを忠実に語ることだからです。何を話すのか、どのように話すのかは全く関係ないのです。語るべきことばは、主が与えてくださいますから、そのことばをストレートに語るだけでいいのです。それが私たちにゆだねられている使命なのです。

 

では、主がエレミヤに語られたのはどんなことだったでしょうか。10節をご覧ください。ここには、「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」とあります。

これはどういうことかというと「破壊」と「建設」です。「さばき」と「回復」です。エレミヤが神のことばとしてイスラエルの民に語ったことは、イスラエルの滅亡の預言と、悔い改めのメッセージでした。罪の悔い改めがなければ、神の赦しと回復はありません。まず引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊します。しかし、それで終わりではありません。主はそこからまた建て、植えられるのです。引き抜かれることがありますが、また植えられます。壊すことがありますが、また建て直してくださいます。言い換えるなら、もしあなたが今、引き抜かれ、引き倒されているような状況に置かれているなら、それはやがて植えられるために必要な過程を通されているということです。その中でこそあなたは悔い改め、やがて植えられることになるからです。ここに真の回復と希望があります。真の回復と希望は、こうした罪の悔い改めの結果もたらされるものであって、それを避けてはならないのです。

 

ある有名な映画女優が、仕事と遊びに忙しくて、家をあけてばかりいました。家には十代後半の娘がひとり、お手伝いさんといっしょに暮していました。それでも自分が母親だということは自覚していた母親は、その娘の誕生日に、旅先のローマからすばらしい花びんを送ったのです。ところがその花びんが届くと、娘はそれを床の上に投げつけて言いました。「私がほしいのは花びんじゃない。ママなのよ!」母親から離れてしまった子供は、たとえどんなにすばらしいものをたくさん持っていたとしても不幸です。ちょうど同じように、私たちは自分を創ってくださった神から離れては、どんなに財産があっても、地位が高くても、また名誉を与えられていても、本当に幸福にはなれないのです。(羽鳥順二著、「初めて聖書を開く人のための12のステップ」P48)

 

私たちもこの映画女優のような仕方で、幸福を得ようしてはいないでしょうか。神から離れたままでは真の幸福を得ることはできません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず・・・」(ローマ3:23)とあります。神から離れているという事実がわからないで、どうやって神のもとに帰ることができるでしょうか。言い換えるなら、自分が罪人であるという自覚がなければ、きよい神を知ることができないということです。先ほどの矢内原忠雄氏はこう言っています。「望遠鏡を用いないで天文学の研究をすることが愚かであるように、自分自身の罪を通さずに神を見ようとする者はおろかなことである。」

また、宗教改革者のカルヴァンも「人間の罪深さを知らないで、どうしてきよい神を知ることができようか」と言っています。そうです、私たちが自分は罪人だと気づいた時、次の聖書のことばの意味がよくわかるようになるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

 

真の回復は、破壊から始まります。真に植えられることは引き抜くことから始まるのです。罪の自覚と悔い改めなしには、真の赦しはありません。救いと希望はないのです。ですから主はエレミヤに、破壊と建設、さばきと回復のメッセージを語るようにと言われたのです。これが、私たちが語るべき福音のメッセージです。破壊的な働きは人からは好まれません。だれも聞きたくないからです。それで涙することもあるでしょう。でも、真の救いは罪の悔い改めから始まるということを覚えて、この福音のメッセージを語り続けましょう。「まだ若い」と言わないでください。主があなたを遣わすどんなところへでも行き、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。彼らの顔色を恐れるな。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。

福音をゆだねられた者 Ⅰテサロニケ2章1~12節

聖書箇所:Ⅰテサロニケ2章1~12節(テサロニケ講解2回目)

タイトル:「福音をゆだねられた者」

 

きょうはⅠテサロニケ2章から、「福音をゆだねられた者」というタイトルでお話したいと思います。1章では、このテサロニケの教会の人たちがいかに信仰に歩んでいたかが語られていました。彼らは絶えず、神の御前に、信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐をもっていました(1:3)。そのような彼らの姿は、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となりました。いや、それはマケドニヤとアカヤにとどまらず、あらゆる所に響き渡ったほどです(1:6-7)。

 

しかし、そんなにすばらしい教会にもいくつかの問題がありました。それは彼ら自身の問題というよりも、彼らを取り巻く環境の中で、テサロニケの教会を破壊しようとする外からの攻撃でした。それはパウロの働きに対する非難です。たとえば、彼が純粋な動機から神の福音を語っても、中には自分たちを支配しようとしているのではないかとか、献金をだまし取ろうとしているのではないかと言う人たちがいたのです。当時各地を回って偽りの教えを説いていた偽教師たちがいましたが、そうした者たちへの警戒からパウロたちの働きを彼らと同一視し、あしざまに非難するような人たちがいたのです。

 

神によって立てられた者がこのような非難を受けることはイエス様の時代にもあったことで驚くべきことではありませんが、そうしたことが蔓延することは神さまの御名がそしられることになり、出来たばかりのテサロニケの教会が動揺してしまう危険性があったので、どうしても解決しなければなりませんでした。

 

そこでパウロは、神さまの恵みによって成長しているテサロニケの教会がそうした愚かな非難に動揺することなく、立派に成長してほしいという思いから、自分たちは神に認められて福音をゆだねられた者であり、その働きが純粋な動機からなされていることを弁明しているのです。

 

Ⅰ.神によって勇気づけられて(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。「兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。それどころか、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。」

 

ここでパウロは、テサロニケの人たちのところに行ったことは無駄にはならなかったと言っています。「無駄」という言葉は、「空っぽ」とか「何もない」という意味です。パウロは、自分たちがテサロニケを訪れたことは無駄ではなかった、つまり実りがあった、価値があった、と言っているのです。なぜでしょうか。彼らのところに行って福音を伝えた結果、教会が誕生したからです。それがテサロニケの教会です。

 

2節には、「私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが」とあります。彼らはまずピリピで苦しみにあい、辱めを受けました。占いの霊に憑かれていた女奴隷からその霊を追い出したことで、もうける望みがなくなった女奴隷の主人から訴えられると、彼らは捉えられ、鞭で打たれ、牢に入れられたのです(使徒16:12~)。「苦しめられ」という言葉は、身体的な苦しみを受けたことを意味しています。また「辱めを受け」という言葉は、人間としての品位や名誉を傷つけられたことを意味しています。そのような苦しみと辱めを受けたことは、パウロが一人でそう思っていたことではなく、ここに「ご存知のとおり」とあるように、それはテサロニケの人たちも認めていたことでした。にもかかわらずパウロたちは、次の伝道地テサロニケに向かい、そこで神の福音を語ったのです。どうしてでしょうか。

 

ここには、「私たちの神によって勇気づけられて」とあります。彼らはそうした激しい苦闘にあっても、神によって勇気づけられていたからです。この「神によって勇気づけられて」とは、「神において勇気づけられて」と訳すこともできます。神さまが私たち一人ひとりに働きかけてくださり、その働きかけに私たちがお応えするという人格的な交わりにおいて、ということです。私たちが神様から勇気を与えられるのは、そのような神との交わりの中で起こってくることなのです。困難の中にあっても、私たちは神様との交わりの中で、神様から勇気を与えられるのです。皆さんも、そのような経験があるのではないでしょうか。それがなかったら福音宣教を続けることはできません。それを可能にしたのは、神様まとの人格的な交わりの中から与えられる勇気と力、助けと励ましがあったからなのです。

 

私たちは厳しい状況に直面すると、なんとか自分の勇気を振り絞り、その状況を打開しようとします。それは必ずしも悪いことではなく、その状況に責任感を持って真剣に向き合おうとしていることでもありますからそれ自体はいいのですが、しかし私たちは、そのようなときに、しばしば神様なしに状況を打開しようとするのです。神様との交わりの中で厳しい状況に向き合っていくのではなく、神様との交わりを放り出して、自分の力でなんとかしようとするわけです。しかし私たちが自分の力で勇気をいくら振り絞っても、その勇気はあっという間に枯渇してしまいます。それどころか、神様との交わりを持たない頑張りというのは、御心に従うためのものではなく、自分の思いを実現するためのものとなってしまうのです。ですから私たちは厳しい状況であればあるほど、神様との交わりの中に留まらなければなりません。そして、神様の語りかけを聞き、私たちも祈りにおいて神様に語りかけていかなければならないのです。その交わりにおいてこそ、私たちは勇気を与えられるからです。

 

厳しい状況の中にあって、神様との交わりにおいて勇気を与えられたパウロたちは、テサロニケの人たちに「神の福音」を語りました。1章の終わりで語られていたように、その「神の福音」によって、テサロニケの人たちは、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、御子キリストが再び来られるのを待ち望みつつ生きるようになったのです。

 

私たちもパウロたちのように、福音を宣教するにあたり厳しい状況に直面することがあります。昨年から続いているコロナ禍の状況もそうかもしれません。多くの教会では礼拝に集まることさえ制限される中で、どのようにして宣教活動を継続していったらいいのか葛藤しています。しかし、本当の問題はコロナではなく、教会とは何なのか、その本質的なことではないでしょうか。すなわち、教会とは神の家族であって、礼拝に集まったかどうか以上のことです。勿論、教会の礼拝はとても重要なことですが、それ以上に、教会は神の家族なのです。そうであれば、たとえ礼拝に集まることができなくても、何らかの形で家族としての絆を大切にし、それを求めるのではないでしょうか。もし教会が神の家族としてしっかりと結びついているなら、たとえ厳しい状況の中でも神の福音を宣べ伝えることができるはずなのです。

 

では、それを阻害するものがあるとしたら、いったいそれは何なのでしょうか。福音宣教における真の問題とは何なのか。罪です。神から離れたこの世です。特に、インターネットの影響は大きいものがあります。インターネットの進歩によって神から離れた価値観がもの凄い勢いでこの世を覆っているからです。インターネットで検索すれば、何でも調べることができます。わざわざ教会に行く必要がありません。家にいても礼拝することができるし、聖書についてわからないことがあれば調べることができます。教会がなくても自分で礼拝できると思うようになりました。個人主義と呼ばれるものです。この個人主義がもたらす影響がどのようなものかは教会のみならが、この社会全体に大きな混乱をもたらしています。そうした中で伝道することはどんなに大変ことでしょうか。

 

しかし、先週の礼拝でもお話したように、私たちがクリスチャンとして真に成長していくためには神のみことばの乳を慕い求め、神が備えてくださった霊の武具を身に着けなければなりません。そして、聖なるものとされたすべての人々とともにいることが求められるのです。それは教会のことです。そこに身を置くことが必要なのです。私たちは、自分の力でこの厳しい状況を打開しようとするのではなく、なによりもまず神様を見上げなければなりません。そして状況を打開する具体的な対策や計画を考えるよりも先に、礼拝において神様と交わり、神様の語りかけを聞く中で神によって勇気づけられて、聖なるものとされた人々とともに、神の福音を語り続けていく必要があるのです。そこに神が働いてくださり、ご自身の救いの御業を成してくださるのです。

 

先週は大田原教会で二つの葬儀が行われました。1週間に二つの葬儀を行ったのは、私の38年の牧会生活の中で初めての経験でしたが、どちらの葬儀も参列したご親族が慰められ、福音が証される良い機会となりました。

2つ目の葬儀が終わった日の午後に、主がこの葬儀を通して証してくださったことを感謝し、1人で会堂の片付けをしていると、1本の電話がありました。

「・・と言いますが、どうしたら教会に入れますか」という電話でした。いきなり「どうしたら教会に入れますか」ということばに面喰ってしまいました。でも冷静になってお話を伺うと、教会のすぐ近くに住んでおられるというので、できればお会いしてお話を聞いた方がいいかなと思い、「教会に来られますか」と聞くと、「はい、大丈夫です。今からでもいいですか」と言うので、「はい、どうぞ」と言うと、3分後にはいらっしゃいました。教会のすぐ近くのアパートに住んでおられる方だったのです。

それでお話を伺うと、数年前から鬱になり近くの病院にかかっているということでした。でも全然よくならなくて悩んでいたとき、ちょうど教会の前を通りかかったら外国人の方々が教会から出てくるところで、みんな楽しそうに会話しているのを見て、自分も教会に行ってみたいと思うようになったとのことでした。

私はびっくりしました。私は英語礼拝部の方々には外ではあまりはしゃがないでくださいとお願いしていたのに、そのはしゃぐ姿を見て感動したというのですから。そしてそのタイミングもすごいですね。彼女が教会の前を通りかかったとき、ちょうどそのとき英語礼拝部の方々が教会から出てきたのです。それは神さまのお導き以外の何ものでもないと思いました。もし、私などが教会から出てきたらそうは思わなかったかもしれません。

それで、いろいろお話をお聞きし、イエス様を信じ、いつまでも変わらない神のことばに信頼するなら絶対大丈夫、必ず神様があなたを救ってくださいますお話すると、急に希望が与えられたのか目が輝き出し、今週から聖書の学びを始めることになったのです。

確かにこのコロナ禍においては伝道や礼拝など教会の活動には制限もありますが、私たちはそうした中にあっても、私たちの神によって勇気づけられて、神の福音を語り続けることができるのです。

 

Ⅱ.人を喜ばせるのではなく、神に喜んでいただこうとして(3-6)

 

次に3節から6節までをご覧ください。ここにはパウロがどのような動機で福音を語っていたのか。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。」

 

ここでパウロは、自分たちの宣教について三つのことを否定しています。まず第一に、彼らの勧めは誤りから出ているものではない、ということです。「誤り」とは、聖書の真理からさまよって、自分の意見を語ることです。しかし彼らの勧めは聖書の真理から出たものでした。その真理とは、キリストの十字架に示された神の愛の真理です。パウロたちは、彼らの宣教において、神の愛の真理について誤りがなかったのです。どのような状況にあっても、どのような相手に対しても、神様がこの世へと御子を遣わし、その御子を私たちのために十字架に架け、復活させたことに示される神の愛の真理を宣べ伝えたのです。

 

第二に、彼らの勧めは「不純な心」から出たものではありませんでした。不純な心とは純粋な心でないことです。つまり彼らの勧めは、純粋な動機から出たものだったのです。

 

第三に、彼らの宣教、彼らの勧めは「だましごと」でもありませんでした。だましごととは、人をだますような話のことです。実際はそうではないのに、あたかもそうであるかのように装うことです。この「だましごと」と訳された言葉は「策略」とも訳すこともできる言葉で、他の聖書の訳では「策略によるものでもありません」と訳されています。ここで「だましごと」が、具体的に何を意味しているかははっきりしませんが、相手に気に入られようとする思い、あるいは相手から見返りを得ようとする思いなのかもしれません。また、策略によらないと言われているのは、当時、巧みな言葉を使って、価値のないことを価値があることのように宣伝する策略を用いる詭弁家、偽説教者がいたことを示唆しています。しかしパウロたちの伝道はそのような策略によるものではありませんでした。いえ、そのような策略など必要なかったのです。なぜなら、神の福音は価値のないものではなく、価値があるように見せかける必要も全くなかったからです。神の福音こそが、私たちを救い生かすのです。「だましごと」にしても、「策略」にしても、それは人間の思いです。しかしパウロたちの宣教は、人間の思いによるものではなかったのです。

 

4節をご覧ください。ここには、「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」とあります。パウロたちは、「人に喜ばれるためではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただこうとして」神の福音を語っていました。それこそ、神に認められて福音を委ねられた者のあるべき姿です。その動機がどこにあるかが問われているのです。彼らは決して人を喜ばせようとして語ることはしませんでした。むしろ神に喜んでいただこうとして語ったのです。なぜなら神は、私たちの心をお調べなさる方だからです。

詩篇139編23~24節にはこうあります。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

神様は私たちの心を探り、知っておられます。どんなに顔に出したり、口に出したりしなくても、どんなに上手に繕ったとしても、神は私たちの心のすべてを知っておられるのです。人は欺けても神を欺くことはできません。

 

私たちはしばしば神様に喜んでいただくよりも、人に喜ばれることを願います。人に喜ばれることは悪いことではありませんが、しかし神を忘れ人に喜ばれることばかりに心を奪われると、そのことに囚われて、どうしたら相手が喜んでくれるかということばかり考えるようになります。すると相手が喜びそうなことを言ったり、相手に合わせて、相手が喜んでくれるように振る舞ったりしてしまうのです。意識してもしなくても、そこには相手を喜ばすための「策略」が潜んでいることがあるのです。たとえそれで相手が喜んでくれたとしても、「よこしまな思い」や「策略」によって相手を喜ばそうとすることによって、キリストによる救いを証しすることはできません。なぜなら、神様を無視して人を喜ばせようとしても、そこに神の愛の真理はないからです。

 

それは人に喜んでもらうことや自分自身の満足などはどうでもいいということではありません。そのように極端に考える必要はないのです。神を喜ばせることを第一にするなら、その結果として、必ず人にも、自分にも正当で十分な喜びと満足が与えられるからです。ただ、ここで言いたいのは、喜ばせるという動機がどこから出ているのかということです。もしそれが人を喜ばせようとするだけのものであれば、どうしてもそこには人におもねる心やへつらいの態度が現れてくることになります。ですから、そこには何一つ良いものは生まれてこないのです。神様との正しい関係があってこそ、人との正しいあり方が生まれてくるからです。

 

パウロは、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。こんなこと言ったら相手が不快に思うのではないか、もしかすると嫌われるのではないかという心配もあったでしょうが、神の福音をゆだねられた者として、それにふさわしくはっきりと語ったのです。

 

伝道者にとって最大の誘惑の一つは、聞く人に気に入られるように語ることです。厳しいさばきのことばや罪について語るのを避け、奇跡をそのまま述べることをためらい、当たり障りのない、相手に合わせた福音を、まぁ、こういうのは福音とは言いませんけれども、そうした教えを語ろうとするのです。しかしパウロはそうした誘惑に負けませんでした。5節にあるように、彼は、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。もしパウロが町の人たちに取り入ろうとして伝道していたら、迫害や反発は起こらなかったでしょうが、けれども、その代わりに困難な中でも明確に救われて、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになる人も起こされなかったでしょう。しかし彼は、そうしたへつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。彼は神に認められた者にふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、神に喜んでいただこうとして、神の福音を語ったのです。

 

これは私たちの模範とすべき姿です。伝道するのが厳しい状況かもしれません。私たちの証しが拒まれることもあるかもしれません。けれども私たちは、神様との交わりに生きる中で、神様から勇気を与えられ、厳しい状況の中にあっても、キリストの十字架と復活による救いを証ししてい者でありたいと思います。その救いの恵みによって、本当の喜びが与えられていくからです。

 

Ⅲ.母のように、父のように(7-12)

 

第三に、7~12節をご覧ください。ここには、パウロがテサロニケの人たちにどのようにふるまったのかが記されてあります。「キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」

 

人は子供が生まれて親になると、喜びとともに子供を育てる責任を感じます。テサロニケで多くの霊の子供たちが生まれると、パウロはその親として彼らの養育に全力を注ぎました。彼はどのように彼らを養育したでしょうか。7節には、彼はキリストの使徒として権威を主張することもできましたが、彼らの間では幼子のようになったとあります。彼は、キリストの使徒としての権威を主張して重んじられることもできましたが、その権威に固執せずく、彼らの間ではただ神様の憐れみと恵みによってのみ救いに与ることができる弱く小さな者として、福音を証しし宣べ伝えたのです。それは母が我が子を養い育てるようにです。母が自分の子を養い育てるように優しくふるまいました。ここには、無条件に子供を包み込む母親の姿があります。そればかりか、自分のいのちまでも、喜んで与えたいと思っていました。それほど彼らを愛していたのです。

 

旧約聖書に描かれているイスラエルの神にも、このような側面が描かれています。たとえば、イザヤ書66章13節には「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。また、詩篇131篇2節にも、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。」とあります。

まことに神は、母親のように慰め、無条件の愛で包み込んでくださる方です。その神の愛でパウロは優しくふるまったのです。それは8節にあるように、彼らのことを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んで彼らに与えたいと思ったほどです。ここで彼は自分と子供を同一化しています。自分のいのちまでも与えたいと思うほど愛していたのです。

 

そうかと思えば、11節、12節にあるように、父親がその子供に対して接するように接しました。すなわち、「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩よう、勧め、励まし、厳かに命じ」たのです。これは威厳を持って子供たちを正しい道に導き、訓戒する父親の姿です。このような父親の愛は「あなたがた一人ひとりに」とあるように、一人ひとりを重んじ、ねんごろに教え諭すという愛でした。決して十把一からげに訓戒するというものではありませんでした。一人ひとりに、丁寧に、時間をかけて、細かな点にまで配慮して成されたのです。このようなことのためには相当の時間と労力が必要だったのではないかと思います。私も牧師としてこのように御言葉の奉仕に仕えさせていただいておりますが、実はこうした説教の奉仕は全体の働きの一部であって、全体の運営や一人一人の牧会のことなど、やるべきことがたくさんあります。勿論、礼拝の説教やみことばの奉仕はとても大切なので、このためにも相当の時間を割いて準備にあたっていますが、こうしたみことばの奉仕に加え、一ひとりの必要に応え、一人ひとりがみこころにかなった歩みができるように助け、励まし、導きを与えていけるように祈り、配慮したいと思っています。それはいくら時間があっても足りないくらいです。

 

ましてパウロは9節を見ると、誰にも負担をかけないように、昼も夜も働きながら、神の福音を彼らに宣べ伝えたとあります。まさに神業です。どうやってそんなことができたのか。考えられません。私たちの何倍もの働きをしていた彼が、経済的な負担をかけまいと、夜も昼も働きながら、神の福音を宣べ伝えたのです。まさに親心です。親は子どもにはできるだけ負担をかけないようにと、自らが負担して、それでも喜んで子どものために自分をささげます。そんな親心をもってみことばを宣べ伝えたのです。

 

彼は後にエペソの長老たちに説教したとき、このように言いました。「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:31)それはまさに涙とともになされた祈りの訓戒だったのです

 

このようにテサロニケでのパウロ働きには母親のような優しさと、父親のような厳かさがありました。この両面があってこそ、テサロニケの教会は大きく成長することができたのです。それは今日の教会にも言えることです。今日の教会もこの両面がないと、健全な成長は望めません。ともすれば優しすぎたり、厳しすぎたりのどちらか一方に走ってしまい、そのバランスを欠いてしまいがちになりますが、厳しさの中にも優しさがあり、優しさの中にも厳しさもあるといったバランスが求められているのです。

 

人間が成長するということは決まった材料を与えれば同じ結果が出てくるというようなものではありません。確かに子供が正しく成長していくためには、できるだけ良い環境に置くことが求められますが、最も大切なことは、母親のやさしさと父親の厳しさのバランスが必要であるということです。それはキリストの教会にも言えることです。教会もやさしさと厳しさのバランスがあってこそ健全に成長していくのです。パウロは母親のように優しくふるまい、父親のように御国に召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

 

ですから、パウロの伝道はまやかしやだましごとでも、何でもありませんでした。彼は純粋な心で、ただ神を喜ばせようとして語りました。たとえそこにどんな労苦と苦闘があっても、敬虔に、正しく、まただれからも責められるところがないようにふるまったのです。

 

それは、私たちの模範でもあります。福音宣教の働きには必ずこのような非難や中傷、誤解も伴うことがありますが、そのような中にあっても私たちは常に純粋な心で、人を喜ばせようとしてではなく、ただ神に喜んでいただくために語るという姿勢を忘れないようにしたいものです。それが神に認められて福音をゆだねられた者なのです。

 

主イエスよ、来てください 雅歌8章8~14節

聖書箇所:雅歌8章8~14節

タイトル:「主イエスよ、来てください」

 

 雅歌からの最後のメッセージです。雅歌の最後の最後は、「私の愛する方よ、急いで来てください。」という花嫁のことばで終わっています。聖書の一番最後はヨハネの黙示録ですが、その最後も同じです。花婿であるキリストに対する花嫁のことば、キリストの花嫁であるである教会のこのことばで終わっています。「主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)

 

ここに、私たちの見るべき目標があります。私たちはどこに向かって走るのか、何のために走るのかを知ることはとても重要なことです。聖書はそれを、主イエス・キリストを待ち望むことであると言っているのです。使徒パウロもこのように言っています。

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20-21)

彼の生きる目標は何だったのでしょうか。それは天の御国でした。そこから主イエスが救い主として再び来られるのを待ち望んでいたのです。なぜなら、そのとき主イエスは私たちの卑しいからだを、栄光に輝くキリストのからだと同じ姿に変えてくださるからです。これが花嫁である教会、私たちクリスチャンの究極の目標です。

この地上にあっては艱難があります。様々な災害があれば病気もあります。私たちはその度に悩み、苦しみ、最後にはその生涯を終えるのです。であれば、いったいどこに生きる意味があるというのでしょうか。私たちは何のために生きるのでしょうか。それはこの地上を越えた天の御国、キリストの再臨を待ち望むことにあるのです。私たちも「主イエスよ、来てください。」という再臨の信仰をもって主を待ち望まなければなりません。

 

 Ⅰ.私は城壁、その乳房はやぐらのよう(8-10)

 

今日の御言葉を見ていきましょう。まず8~10節をご覧ください。「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげようか。もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

ちょっと読んだだけでは何のことを言っているのかわかりにくい文章です。ここに「私たちの妹」とありますが、これまで妹のことについては全く触れられていませんでした。この妹とはだれのことなのか。花嫁の妹のことです。花嫁が妹のことを心配して、自分の兄たちと一緒に、妹が結婚するまでどうやって妹の純潔を守って上げることができるかと心配しているのです。これは霊的には未熟なクリスチャンのことを指しています。外からの攻撃に何の防備もできていないのです。

 

そんな花嫁の問いに対して、兄たちはこう答えます。9節です。「もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。」どういうことでしょうか。

「城壁」とは、自分たちの城を守る防壁のことです。また「胸壁」とは、その城壁に付いている砦のことです。その砦が付くことによって、より一層防備を固めることができます。すなわち、妹がどんな男も寄せ付けない強い意志を持っているなら、城壁の上にさらに胸壁を建てて、守りをしっかりと固めようと言っているのです。

一方、「彼女が戸だったら」どうでしょうか。「戸」というのは、家の中に何でも取り入れてしまう弱い心を表しています。すなわち、自分で心と体のドアを簡単に開けてしまう脆(もろ)さを持っている状態のことです。もし彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう、つまり彼女を囲んで守ってあげよう、というのです。

 

あなたは城壁ですか、それとも戸ですか。私たちは城壁なのか戸なのかによって、その結果が決まります。主イエスとの関係を城壁のようにしっかりと守るなら、私たちは安心して過ごすことができます。それは10節に「私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」とあるように、主の目に平安をもたらすような存在となるからです。

 

しかし、逆にあなたが戸であるならば、すなわち、霊的貞潔を守らずに、来るものは拒まずで、何でも簡単に取り入れてしまうようであるなら、主イエスとの関係が損なわれ、主から離れてしまうことになります。ですから、私たちは城壁になるように心がけたいと思います。そうすれば主は必ずあなたを盤石にし、ますます強固にしてくださいます。

 

10節をご覧ください。「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

これは花嫁のことばです。彼女はここで、「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。」と言っています。つまり、私は強い意志で貞潔を守ってきたと言っているのです。キリストの花嫁である教会もそうでありたいですね。

 

イエス様はそのような教会は、「ハデスの門もそれには勝つことができません。」(マタイ16:17)と言われました。「それには」とは、岩の上にしっかりと建てられた教会のことです。「あなたは生ける神の子キリストです」と告白して止まない教会は、岩の上に建てられた家のように、どんな強敵が襲ってきてもビクともすることがありません。もしかするとあなたはそのように感じていないかもしれません。私はすぐに誘惑に負けてしまうような者で情けないなぁとか、ふがいないなぁと思っているかもしれませんが、しかし城壁があるなら大丈夫です。イエス・キリストという岩の上にしっかりと建てられているなら、主が必ず守ってくださるからです。

 

また、ここには「私の乳房はやぐらのよう。」とあります。この「乳房」とは、成熟を表しています。9節には妹の乳房についての言及がありましたが、妹の乳房はどうだったかというと、「乳房はない」とありました。すなわち、成熟していなかった、未熟だったというのです。それに対して、姉である花嫁の乳房はどうであるかというと、あるというだけでなく「やぐらのよう」と言われています。やぐらのように堅固であるということです。そのために花婿に、平安をもたらす者のようになったのです。

 

私たちもクリスチャンとして成長すればするほど、やぐらのように強い信仰を持つことができるようになります。そうなれば、花婿キリストに平安をもたらす者になることができるのです。どうしたらそのような者になることができるのでしょうか。

 

第一に、みことばを慕い求めることです。Ⅰペテロ2章1~2節にこうあります。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

「霊の乳」とはみことばのことです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めることです。そうすれば成長し、救いを得ることができます。

 

第二に、キリストのからだである教会に身を置くことです。使徒20章32節にはこうあります。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」

これはパウロのことばです。パウロはミレトの港にエペソの長老たちを集めて言いました。何が彼らを成長させ、御国を継がせることができるのか。「みことば」です。みことばが、あなたがたを成長させてくださいます。しかしその後にとても重要なことを語っています。それは、「聖なるものとされたすべての人々ともに」ということです。「聖なるものとされた人々」とは、クリスチャンのこと、すなわち、クリスチャンたちの群れである教会のことを指しています。そのようなすべての人々とともに、御国を受け継がせることができるのです。「いや、私は家で一人で聖書を読んでいるので大丈夫です」とか、「私は聖書のメッセージをインターネットで聞いています」という方もおられますが、それでは御国を継がせていただくことはできません。勿論、一人で聖書を読んだり祈ったりすることは大切なことです。でもそれで十分かというとそうではなく、私たちは常に「聖なるものとされたすべての人々」とともにあることが必要なのです。そうすれば、御国を継がせていただくことができます。やぐらのような乳房になることができるのです。これが、聖書が教えていることです。

 

第三に、神の与えてくださるすべての武具を身につけることです。エペソ6章10~11節にはこうあります。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」

使徒パウロはここで、悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさいと勧めています。それはどんな武具なのかというと、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべての上に信仰の盾を取らなければなりません。それによって、悪い者が放つ火矢を消すことができるからです。また救いのかぶとをかぶり、御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。そしてどんなときにも御霊によって祈らなければなりません。そうすれば、悪い者が放つ火矢を消すことができるのです。

 

あなたはどうですか。神のすべての武具を身につけていますか。それは高いお金を払って勝ち取らなければならないというようなものではありません。イエス様を信じる者にはだれにでも備えられているものです。ただで受け取ることができます。問題は、あなたがそれに関心をもっているかどうかです。キリストの花嫁は城壁、乳房はやぐらのようです。私たちも神が備えてくださるすべての武具を身に着け、どんなに敵が攻撃して来てもビクともしない堅固なやぐらのように、成熟したクリスチャンになることを求めていきたいと思います。

 

Ⅱ.花婿の愛に応えて(11-13)

 

次に、11~13節をご覧ください。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があって、そのぶどう畑を、守る者たちに任せていた。それぞれは、そのぶどうの実に代えて銀千枚を納めることになっていた。私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせておくれ。」

 

これは花嫁のことばです。花婿ソロモンは、バアル・ハモンという所にぶどう畑を持っていました。それを農夫に貸して、ぶどうの収穫に代えて、それぞれに銀千枚を納めさせていたのです。いわゆる小作料ですね。

 

そして、花嫁自身もぶどう畑をもっていました。12節の「私」とは花嫁のことです。彼女はかつてぶどう畑で働く労働者でしたが、ソロモン王と結婚したことで、ソロモンの妻、妃となりました。しかし、なぜかここで彼女はソロモンに銀千枚を納め、そこで働く労働者たちには銀二百枚を支払うと言っています。でも彼女は小作人ではありません。彼女はソロモン王の妻です。王妃です。であれば、ソロモン王のものはすべて自分のもとでもあります。夫に支払う義務などないのです。私は妻の財布からは取りませんが、妻が支払ったものを支払うようなことはしません。妻のものは私のもの、私のものは私のもの・・・。しかも夫のソロモンは広大なぶどう畑をもっていましたから、妻からお金をもらうなんて必要もなかったのです。にもかかわらず、彼女は夫に銀千枚を支払うと言っているのです。また、その実を守る者には銀二百枚与えるというのです。どういうことでしょうか。

 

これは彼女がそうしなければならないという義務があったからではなく、彼女が自分からそうしたいと願っているのです。またその実を守る者とは、そのぶどう園で働く労働者のことですが、それは彼女の兄たちのことです。兄たちは自分をちゃんと育ててくれたのでその報奨金として、銀二百枚を与えたいと言っているのです。それは義務ではなく、彼女の心からの願いから出たことだったのです。

 

このことは、私たちの信仰生活においてもとても大切なことです。私たちもイエス様を信じてイエス様の花嫁となりました。それで今はこうしなければならないという律法から解放されて自由となりました。イエス様が律法から解放してくださったからです。私たちは今律法の下にではなく、恵みの下にいるのです。すべての律法や義務から解放されたのです。しかしそれは私たちが何をしてもいいということではなく、そこには責任が利根なうことを意味しています。その責任とは何でしょうか。それは、そのように解放してくださった主に感謝して生きるということです。そこには当然感謝と喜びが溢れ、それに応答したいという思いが生まれてくるからです。つまり律法はささげることを要求しますが、一方で、愛は自発的にささげることで応答するということです。この違いがわかるでしょうか。要求と応答は全く違うのです。

 

こうして私たちが主を礼拝しているのは、要求ではなく応答です。主が私たちを愛してくださったので、私たちはその愛に応答して主を礼拝したいのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛しなさいという主の戒めを、愛の応答として実践したいのです。出エジプト記20章に、有名なモーセの十戒があります。その十戒の前提がこれなのです。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神、主である。」(出エジプト記20:2)

だから、それはもう律法ではないのです。主は「わたしの他に、ほかの神々があってはならない」とか「自分のために偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と仰せられましたが、それは主が彼らをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったから、罪の奴隷の中から救い出し解放してくださったからです。つまり、この主の愛に対する応答としてなされる行為であるということです。だから、喜んで礼拝をささげたい、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するのです。

 

聖書にはマグダラのマリヤという一人の女性のことについて記されてあります。彼女は最後まで主に従った女性たちの中の一人です。彼女はイエス様が十字架につけられた時もそこにいました。また埋葬の様子も見届け、そして、週の初めの日の明け方早く主イエスの亡骸がおさめられてあった墓に向かいました。そんなことをしたら捕まるかもしれないのに、そんなことをしたら処刑されるかもしれないのに、だれよりも先にイエスに会いたいという一心で墓に向かったのです。なぜでしょうか。

それは、主に愛されたからです。ルカの福音書を見ると、彼女は七つの悪霊に憑かれていたとあります(ルカ8:2)。七つの悪霊ですよ、一つの悪霊でも大変なのに、彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは完全にという意味です。聖書で「7」という数字は完全を表していますから。彼女は完全に悪霊に取り憑かれていたのです。その結果、ありとあらゆる罪に陥ってしまいました。自分でも何をしているのかわかりませんでした。誰も彼女を救うことができませんでした。しかし彼女はそこから解放されました。主が彼女から悪霊を追い出してくださったからです。主が彼女を救ってくださいました。それで彼女はそのイエスの愛に応えたかったのです。その結果彼女は、最後まで主に従って行ったのです。喜んで・・。

私たちも同じです。私たちもかつては神に背き、自分勝手に生きていた者でした。かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として不従順の子らの中に今も働いている悪霊に従って歩んでいました。その結果、何が何だかわからず、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、神の御怒りを受けるような者でした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。アメージング・グレースです。それゆえに私たちは、このアメージング・グレースに応答して、心から主を愛する者でありたいと思うのです。

 

Ⅲ.私の愛する方よ、急いでください(14)

 

最後に14節をご覧ください。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと。」

 

これも花嫁のことばです。ここで花嫁は花婿に言っています。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと」。「かもしかのように」とか「若い鹿のように」とは、軽快に山を跳び越え、丘の上を跳ねて来る様を表しています。そのように来てくださいと言うのです。

 

これは、キリストの花嫁である私たち教会の祈りでもあります。Ⅰコリント16章22~24節をご覧ください。ここには、「主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。」とあります。「主よ、来てください。」は、アラム語で「マラナ・タ」と言います。これは初代教会において生まれた祈りの言葉です。ペンテコステの出来事によって誕生した、アラム語を話すユダヤ人たちの群れである最初の教会で祈られていた祈りの言葉が、そのまま新約聖書の言葉となったのです。そういう意味でこの言葉は、初代の教会の信仰をよく表わしたものであると言えます。

 

「主よ、来てください」という意味のこの「マラナ・タ」が初代の教会においてしばしば祈られた大切な祈りであったということは何を意味するのでしょうか。それは、主イエス・キリストに「来てください」と祈ることが、初代教会の信仰の中心であったということです。それは主イエスご自身の約束に基づくことでした。マルコ13章24~27節に、主イエスが、この世の終わりについて語られたこのような言葉があります。

「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」

「人の子」とは主イエスご自身のことですが、世の終わりに、人の子であられるイエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度この世に来られ、選ばれた人たち、救いにあずかった者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さいました。

また使徒1章11節には、復活された主イエスが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使がこう言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

主イエスがもう一度この世においでになることがこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会は、主イエスがもう一度来て下さること、即ち主イエスの再臨を待ち望んでいたのです。

 

したがって「マラナ・タ」ということばは、キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りなのです。「主よ、来てください」と言うと、「イエス様ちょっとここへ来て私を助けて下さい。今困っているこの問題を解決して下さい」という意味にとられがちですが、そういうことではありません。勿論私たちは日々の生活の中で、主イエスが聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さることを信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈ることができるし、主イエスはそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さると信じています。しかしこの「マラナ・タ」という祈りは、主イエスの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りだったのです。

 

そして、この祈りは新約聖書の一番最後のヨハネの黙示録22章20節にも出てきます。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(黙示録22:20-21)

ここには「マラナ・タ」という言葉ではありませんが、同じ意味の祈りです。「主イエスよ、来てください」これが聖書の一番最後に書かれてあるのです。新約聖書はこの祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言ってもよいでしょう。つまりこれが聖書の締めくくりとして、神様が一番強調したかったことなのです。「私の愛する方よ、急いでください。」「主イエスよ、来てください。」「マラナ・タ」

 

なぜこれが最も重要な祈りなのでしょうか。それは主イエスが再び来られるとき、罪によって壊滅状態になってしまったこの世を刷新してくださるからです。今の世の中を見てください。昨年からのコロナ感染によって全世界が悲鳴を上げています。いつまで続くのか、どこまで続くのか、みんな不安になっています。アメリカと中国の緊張関係はどうでしょう。いつ戦争に発展するかわかりません。今度世界戦争が起こったら核戦争となり、取り返しがつかないことになってしまいます。世界の環境はどうでしょうか。今イギリスでCOP26が行われていますが、世界がひとつとなって取り組むべき課題として、この気候変動対策があげられています。このような問題は永遠に続きます。私たちの生活はどうでしょうか。悩みや苦しみは絶えることはありません。一難去ってまた一難です。いったいどこに希望があるのでしょうか。罪によって汚されたこの世には、どこにも希望はありません。

 

しかし、ここに希望があります。それはイエス・キリストです。主イエスが来られるとき、主はすべてを新しくしてくださいます。私たちをご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちの究極的な希望なのです。私たちに必要なのは、コロナ感染や自然災害、戦争の不安に脅えることではなく、またそれを人間の力によって解決しようとすることではなく、そうした努力をしつつも、この世界を創造された方、万物の支配者であられる神に立ち返ることです。神の救いを待ち望むことなのです。それが「マラナ・タ」「主よ、来てください。」という祈りなのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)

その上で、主の再臨を待ち望むのです。そうすれば、主がこの世界を刷新し、完全な御国をもたらしてくださいます。真の平和を与えてくださるのです。

 

明日、教会でインド人のルイバ・ラムチャンという方の葬儀が行われます。かつてアジア学院で働いておられた奥様とテモテ先生がお知り合いであったことから、そして、ルイバさんご自身がインドで熱心なバプテスト教会の信者さんであったことから、ここでやってほしいとの依頼があったのです。私は生前のルイバさんとお会いしたことがありませんが、インドで農業をしながら人々に貢献したいと、アジア学院で農業を学び、また南那須にある養豚場で研修を受けて帰国後、インドで十数年間村の開発に尽力しました。しかし、数年前に咽頭がんを発病しインドのニューデリーの病院で治療していましたが、日本で治療した方がいいのではないかと4年前に再入国して治療を続けていました。

召天される数時間前に奥様とのビデオ通話でルイバさんのことをお聴きしました。それによると、ルイバさんは神がともにいてくださるので大丈夫と言っているとのことでした。毎日聖書を読み、神に祈り、すべてを神にゆだねているとのことでした。ご主人は熱心なクリスチャンでインドのバプテスト教会に通っていたので、神がともにおられることを感謝しているとおっしゃっておられました。もう大きくなられた3人のお子様を残して天国に行かれるのは残念なことだったでしょう。結婚されるまで生きていたかったに違いありません。しかしルイバさんにとっての何よりの希望、それは主がともにいてくださるということだったのです。

 

皆さんの希望は何ですか。どこに希望があるのでしょうか。私たちにはいろいろな希望がありますが、これこそ究極的な希望です。主イエスよ、来てください。マラナ・タ。キリストの花嫁である私たちクリスチャン、教会にふさわしい祈り、それは「マラナ・タ」、主よ、来てくださいという祈りなのです。これが、雅歌を通して神が私たちに伝えたかったことなのです。

愛は死のように強く 雅歌8章5~7節

聖書箇所:雅歌8章5~7節

タイトル:「愛は死のように強く」

 

 いよいよ雅歌からのメッセージも、今回を含めてあと2回となりました。きょうのところからまた場面が変わります。最後の場面です。きょうは、「愛は死のように強く」というタイトルでお話します。

 

 Ⅰ.そこは産みの苦しみをした所(5)

 

まず、5節の前半の部分をご覧ください。「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る女の人はだれでしょう。」

 

これは、エルサレムの娘たちのことばです。3章6節にも「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう」とありましたが、それは花嫁ことを指していました。花嫁は荒野から上って来る者です。それはキリストの花嫁であるクリスチャンのことを指しています。クリスチャンは罪の荒野から上って来た者なのです。キリストが私たちを罪の荒野から救い出してくださいました。その特徴は何かというと、「自分の愛する方に寄りかかって」いることです。キリストの花嫁であるクリスチャンは、愛する主に寄りかかって荒野から上って来るのです。感謝ですね。

 

そして、5節の後半をご覧ください。ここには「私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた。そこは、あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」とあります。これは花婿のことばです。花婿が花嫁に、私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた、と言っているのです。どういうことでしょうか。

 

このりんごの木の下とは、花婿と花嫁が出会った場所です。そのりんごの木の下で花婿は彼女の目を覚まさせました。そこはどういう所ですか。「そこは、あなたの母があなたのために、産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」です。つまり、そこは彼女が生まれた所です。それは、クリスチャンにとっては十字架のことであると言えます。私たちはそこで新しく生まれ、目を覚まさせていただきました。それまでは、自分は何一つ悪いことなどしたことがないまともな人間だと思っていたのに、十字架の下でキリストに出会ったとき、「ああ、私は本当に罪深い人間だ。そのためにイエスが身代わりとなって死んでくださったんだ」ということがわかったのです。それまではわかりませんでした。自分ほど良い人間はいないと思っていたのです。私たちはみなイエス様に出会うまではそのように思っています。しかしイエス様に出会い、イエス様が産みの苦しみをしてくださった所で、私たちの目が覚ましていただき、はっきりわかるようになりました。そして私たちは、新しく生まれ変わることができたのです。そこがあなたの生まれた所。そこがあなたの信仰の原点なのです。

 

私たちはイエス様と出会った木の下で自分の罪に向き合うとき、そして私たちを産んでくださった十字架の下に近づくとき、そこで信仰の原点を見出すことができるのです。もうこの方から離れません。本当の意味での花婿イエス様との人生のスタートを切ることができるのです。あなたはどうでしょうか。

 

Ⅱ.愛は死のように強く(6)

 

次に、6節をご覧ください。「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」

 

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。」と言っています。「封印」とは、手紙などの封じ目に印を押すことです。実際には、封じ目に「〆(しめ)」とか「封(ふう)」、「緘(かん)」などと書いたり印を押したりしますが、あれです。その封印には二つの意味がありました。

 

一つは決して解かれることがないということです。ですからここで花嫁が「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」と言っているのは、互いの愛が決して解かれることがないようにしてくださいということです。私はあなたのものです。そしてあなたは私のものです。私たちは互いのものなのです。それはもう解かれることはありません。たとえ死んでも、です。花嫁はここで「愛は死のように強く」と言っているのはそのことです。彼女の愛は死んでも解かれることがありません。それほど強いのです。すごいですね、夫婦は生きている間だけでもフーフーしているのに、死んでも解かれたくないと強く願うほどの愛を持っているのですから。決して離れることがないように、決して解かれることがないように、あなたの胸にしっかり刻み付けてください。あなたの腕にしっかり押印してくださいと切望しているのです。

 

「封印」のもう一つの意味は、契約の確かな保証です。封印とは「証印」と訳すこともできます。はんこですね。それは、契約の確かな保証を表しています。私たちも何らかの契約をするとき互いに押印しますが、それはその契約の確かさを保証しているわけです。ですから「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」とは、自分をはんこのように花婿の胸に、花婿の腕に押してくださいということです。どんなことがあっても決して離れることがないと保証してくださいと願っているのです。

 

私たちにもそのようなはんこが押されているのを知っていますか。エペソ1章13~14節にこうあります。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」

ここには、「約束の聖霊によって証印が押されました」とあります。私たちは真理のことば、救いの福音のことばを聞いて信じたとき、約束の聖霊が与えられました。その聖霊によって証印を押されたのです。それは、私たちがどんなことがあっても天の御国を受け継ぐことができるという保証です。人間の約束ならば、状況が変われば契約も破棄されるということもあるかもしれませんが、神であられる聖霊様が保証しておられるのであれば、どんなことがあっても大丈夫です。救いを失うことは絶対にありません。イエス様を信じる者はだれでも救われ、天国に行くことができるのです。聖霊によってその証印が押されています。私たちはいい加減なもので、イエス様を信じてからも罪を犯すような弱い者ですが、それでも救いを失うということは決してありません。罪を悔い改めて神に立ち返るなら、神はどんな罪でも赦してくださるのです。

 

アメリカ人女性が作った詩で「あしあと」という詩があります。

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

(「あしあと」マーガレット・F・パワーズ)

 

何度か紹介したことがある詩です。何度読んでも励まされます。なぜなら、ここには変わらない神の真実が描かれているからです。私たちは感情的なもので、状況によって主が共にいてくださると喜んでみたり、どこかへ行ってしまったと悲しんだりすることがありますが、主は決して約束を反故にすることはされません。すべての道においてともに歩まれると約束された方は、どんなことがあっても離れることはないのです。なぜなら、聖霊によって証印を押してくださったからです。聖霊による愛の関係は、決して絶えることがないのです。愛は死のように強いからです。

 

ところで、ここには「ねたみはよみのように激しいからです」ともあります。愛は死のように強いというのはわかりますが、ねたみはよみのように激しいとはどういうことでしょうか。愛とねたみは相いれないものように感じます。それは愛の裏側には常にねたみがあるということです。愛とねたみは表裏一体なのです。愛が強ければ強いほど、ねたみも激しくなります。神は愛ですが、同時にねたむ方でもあります。出エジプト記20章5節には、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。」とあります。ここで主ははっきりと「主であるわたしはねたむ神」と言っています。また、出エジプト記34章14節でも、「あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。」とあります。神はねたみの神なのです。

 

しかしそれは私たちが抱くようなねたみとは違います。一般に「ねたむ」とは、他人が自分よりも優れた状態である時、それを羨ましく思ったり、憎らしく思うことで、罪の中の一つに数えられているものです。事実、愛の賛歌として有名なⅠコリント13章4節には、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。」とあります。愛はねたまないのです。それなのにここには、ねたみはよみのように激しいとあります。それは神のねたみは私たち人間が抱くねたみと違って、ご自分にのみ帰せられる愛とか栄光を、だれかほかのものに与えられる時に抱く思いのことです。ですから新共同訳ではここを「熱情は陰府のように酷い。」と訳しているのです。

 

私の二番目の娘が3歳の頃、屋内プールに連れて行ったことがありました。私は紺の水泳パンツと黒いキャップ、それに黒いゴーグルを着けていました。しかし、ちょっと疲れたのでプールサイドに腰かけて休憩していたら、何を血迷ったのか、娘が急に「お父さん!」と叫んでプールに向かって走り出し、そのまま勢いよくジャンプしたのです。もちろん、そのまま沈んでいきました。遠くから見ていた私は「なんだ!」と思いながら娘を救出しようと近寄ると、そこに私と全く同じ格好をしていた男性がいたのです。娘はそれを私と勘違いして思いっきり飛び込んだのです。焦ったのはその男性の方でした。いったい何が起こったのかを理解できず、しかしこのままでは小さな女の子が溺れるのではないかと思って、必死で救出してくれました。

「すいません。なんだか私と間違えたみたいです」と言ってその場を後にしましたが、私の中には少し複雑な気持ちがありました。「おいおい、お父さんはボクだよ。知らない人に行っちゃだめだよ!」と。

そのときですが、神様の気持ちをちょっと理解できたような気がしました。私たちは神によって造られた者です。それなのに、神ではない他の神々に走っていくことがあるとしたら、神はねたまれるのではないかと。そうなんです、愛とねたみは表裏一体であって、本当の愛にはねたみが伴うのです。

 

そのねたみはよみのように激しいのです。「よみ」とはヘブル語で「シェオル」と言います。死んだ人が行くところです。ですから、これも死のように激しいと同じことなのです。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。それほど花嫁の花婿に対する愛が燃えているということです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。それはひとえに花婿の愛がそれほどまでに強く、激しいからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)これが愛です。神は、それほどに、あなたを愛されたのです。

 

それは私たちに対する神の熱情の表れです。その炎は火の炎であり、すさまじい炎です。あなたはそれほどまでに愛されているのです。神はあなたのことを片時も忘れたことはありません。私たちは平気で神様を裏切り、神様そっちのけで自分のことばかり気になって、とにかく我力で、自分勝手に生きているような者ですが、神は違います。神の愛は死のように強く、よみのように激しいのです。私たちは、そんな愛で愛されているのです。ですから私たちは、この花嫁のように、たとえ死んでも解かれることのないような強い愛であなたの胸に刻んでくださいと応答したいです。封印のように、あなたの腕に押印してください、と強く願う者でありたいと思うのです。

 

Ⅲ.大水もその愛を消すことができません(7)

 

最後に、7節をご覧ください。「大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」

 

その愛は炎のように燃える、すさまじい愛でした。そのような愛は大水でも消すことができません。この「大水」という言葉は、創世記6章17節では「大洪水」と訳されています。それはノアの箱舟の大洪水のことです。地球がすべて覆われるような大水でも消すことはできないということです。あの東日本大震災では、測り知れないほどのパワーがある津波が東北の太平洋沿岸部を襲いました。それは町々村々をまるごと吞み込むほどのパワーでした。しかしそれほどの大水をもってしても、神の愛を消すことはできないのです。

 

「奔流もそれを押し流すことはできません。」「奔流」とは、第三版では「洪水」と訳していますが、これは支流に対する奔流のことです。ちょろちょろと流れるような川ではありません。ゴーゴーと音を立てて勢いよく流れる川、それが奔流です。その奔流さえも押し流すことができません。つまり神の愛は最強であるということです。

 

Ⅰコリント13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。

いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛はいつまでも残ります。何があっても愛だけは残るのです。私たちはこのことを覚えておきましょう。愛は何をもってしても押し流すことはできません。すべてを失ったとしても残るのです。愛する家族を失い、自分の家を失い、仕事を失い、何もかも失ったとしても、神の愛を失うことは決してありません。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で最もすぐれているのは愛なのです。

 

あなたが人生に行き詰ったとき、どうしたらいいかわからなくなったとき、この聖書の箇所を読んでください。この箇所を読むだけで神から愛の力が与えられ、すべての迷いが吹っ飛んでいきますから。それはローマ8章28~39節のみことばです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。大水もその愛を消すことはできません。奔流もそれを押し流すことはできないのです。神の愛はそれほどパワフルなものです。あなたはこの愛を受けているのです。

 

ただ一つだけ注意が必要です。それはこの愛をどのようにして得るのかということです。7節の後半をご覧ください。ここには、「もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」とあります。どういうことでしょうか。

神の愛はお金で買えるようなものではないということです。また、私たちの行いによって得られるものでもありません。私はこれだけ献金したのだから神は愛してくれるに違いないと思ったら大間違いです。私はこれだけ奉仕したんだから愛されて当然だと思っているとしたら蔑みを受けることになります。もし人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えるなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。必ず期待はずれに終わってしまいます。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。神の一方的な恵み受け入れるということです。私たちが何かをしたからではありません。何もしなくても、神はあなたを愛しておられます。その愛をただ感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、神の愛があなたを覆ってくださいます。

 

じゃ、何もしなくてもいいんですか。聖書を読まなくても、祈らなくても、教会に行かなくても、献金しなくても・・。いいのです。あなたが神の愛を受けるのは、神の一方的な恵みによるのですから、あなたが何をしたかなんて関係ないのです。ただ誤解しないでいただきたいのは、本当の意味であなたが神の愛を受けたのであれば、当然、教会に行くたくなりますし、神からのラブレターである聖書を読んだり、祈ったりしたくなるはずです。喜んで神様のために自分をささげたいと思うはずなのです。もしそうでないとしたら、本当にあなたが神の愛を受けているのかどうかを点検しなければなりません。私たちが良い行いをするのは神の愛を受けるためではなく、神に愛されたから、神の愛を受けたからであるということを覚えておかなければならないのです。

 

但し、あなたがもっと積極的に神の愛を受けたいと思うなら、どうぞ御言葉を読んでみてください。祈ってみてください。礼拝や祈祷会に足しげく通ってみてください。礼拝を絶やさないでください。そうすれば、神の愛はもっとあなたに迫ってくるでしょう。神の愛がどのようなものであるかがわかるようになります。花婿イエスは、あなたのためにすべてを投げ捨ててあなたを獲得してくださったのですから。

 

大水もその愛を消すことができません。奔流も押し流すことができません。その愛を与えてくださった主に感謝しましょう。そして、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しましょう。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに臨んでおられることです。

 

最後に、エペソ3章16~19節のみことばを読んで祈りたいと思います。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。アーメン。」

あなたがその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるお祈りします。

民数記17章

民数記17章

 

今日は、民数記17章から学びます。前回のところでは、コラとその仲間たちがモーセに反抗した結果、生きたままよみに下るという神のさばきを受けたことを学びました。神が祭司として選ばれたのはアロンの家系であって、彼らはそれを認め受け入れなければならなかったのです。今日の箇所には、そのことをさらに別の方法で示されます。それが有名なアロンの杖です。

 

 Ⅰ.族長たちの杖(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。「1 主はモーセに告げられた。2 「イスラエルの子らに告げ、彼らから杖を、部族ごとに一本ずつ、彼らの部族のすべての族長から十二本の杖を取れ。その杖に各自の名を書き記さなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書き記さなければならない。彼らの部族のかしらにそれぞれ一本の杖とするからだ。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中の、わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてわたしは、イスラエルの子らがあなたがたに向かって言い立てている不平を、わたし自身から遠ざけ、鎮める。」6 モーセがイスラエルの子らにこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、部族ごとに、族長一人に一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、主の前、すなわちあかしの天幕の中に置いた。」(1-7)

 

主はモーセに、イスラエルの子らに、彼らから杖を部族ごとに一本ずつ、全部で12本を取り、その杖に自分の名前を書き記すように言われました。それを会見の天幕の中の、あかしの箱の前に置くようにと言われたのです。何のためですか。神が祭司として選びお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。

 

「杖」は、イスラエル人が日常的に使っていたものです。たとえば、創世記38章18節には、ユダが息子のエルと結婚したタマルに「しるしとして何をやろうか」と言うと、彼女は「あなたの印章とひもと、あなたが手にしている杖」と答えています。

また、出エジプト記4章2節では、ミデヤンの荒野で羊を追っていたモーセが神に召されたとき、主が彼に、「あなたが手にしている杖を地に投げよ。」と言われました。それは羊飼いの杖であると同時に、神の御業を行う杖であったのです。その杖を取るようにと言われました。勿論、それらは枯れ木でした。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置くと、神が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。まさに「枯れ木に花を咲かせましょう」というわけです。枯れ杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司として選んでおられる者であるということをはっきり示そうとされたのです。

 

それで族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖12本を渡したので、モーセはそれらを会見の天幕の中の、あかしの箱の前に置きました。

 

Ⅱ.アロンの杖(8-13)

 

するとどうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ。レビの家のためのアロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがそれらの杖をみな、主の前からすべてのイスラエルの子らのところに持って来たので、彼らは見て、それぞれ自分の杖を取った。10 主はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者たちへの戒めのために、しるしとせよ。彼らの不平をわたしから全くなくせ。彼らが死ぬことのないようにするためである。」11 モーセはそのようにした。主が命じられたとおりにしたのである。」(8-11)

 

その翌日のことです。モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいました。イスラエルではアーモンドは春を告げる花として、1月から2月に咲きます。それが一晩で花を咲かせ、実を結ばせたのです。これは明らかに創造主なる神の御業でした。枯れた木からいのちを芽生えさせることは神にしかできないことだからです。ある人は、切り取ったばかりの生木を置いたのではないかと言う人もいますが、決してそうではありません。たとえそうであっても、水のない所で一夜のうちに実を結ぶことなどあり得ないことです。これは5節にあるとおり、主が大祭司として選んでおられるのはアロンであることをイスラエルの子らに示し、彼らがモーセとアロンに向かって言い立てている不平を遠ざけるために成された神の御業だったのです。主はそれを彼らが目で見える形で証明してくださいました。いくら言葉で説明しても納得しない彼らに、目に見える形で示してくださったのです。「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」と言いますが、意味は、「目覚める」とか「見張る」です。すなわち、主がこれを見張っている、はっきりと見つめているということです。

 

神は、死んだような枯れた木からも花を咲かせ、実を結ばせることのできる方です。それは死者の中からキリストを復活させてくださった神の御業を現わしていました。神は十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせてくださったのです。すなわち、このアーモンドの杖はキリストご自身を予表していたのです。それは、このあかしの箱の中に入れられたものをみてもわかります。10節には、このアロンの杖があかしの箱の中に収められたとあります。あかしの箱、すなわち、契約の箱には他に、契約の板とマナが治められていました。契約の板は、モーセがシナイ山で神から授けられた、十戒を記した二枚の石の板のことです。またマナは、神の民が荒野で飢えていたとき、神が40年間の荒野での旅の間中、毎朝、降らせてくださったもので、神の慈しみを示すものです。それと一緒にこのアロンの杖が収められたのは、アロンが類い稀な大祭司としての使命を持っていることを示すと同時に、それがイエス。キリストご自身を指示していたからなのです。考えてみると、この契約の箱自体がイエス・キリストを指し示すものでした。その中に二枚の石の板とアロンの杖、マナの入った金の壺が収められていたのは、これらすべてがイエス様を指示していたからなのです。その枯れたような杖から芽が出て、花が咲き、実を実らせました。

 

皆さんはアーモンドというと何を思い出すでしょうか。私はアーモンドチョコレートを思い出します。美味しいですよね。別にチョコレートでなくてもアーモンドの実自体が美味しいです。キリストによってつける実も同じです。ガラテヤ5章22~23節には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。これらはキリストを信じることによってもたらされる御霊の実です。それらは実に麗しいものです。私たちにはキリストを信じ、キリストの結び合わされることによって、復活のいのちが与えられ、麗しい実をつけることができるのです。

 

主はアロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。それは逆らう者たちへの戒めのためでした。しるしとして保管しておくためです。これもまた実物教育でした。主がアロンの家系を選んで祭司職に召しておられるという証拠として、逆らう者たちへの戒めとしたのです。また彼らが主に対して不平を漏らすことをなくし、彼らが死ぬことがないようにするためです。このように主の前に証拠物件を置くということは、事件が決着したことを意味していました。そして、この配慮は、イスラエルの民が二度とこのような過ちを犯して死の罰を受けることがないように、というものだったのです。

 

Ⅲ.神の恵みにお頼りして(12-13)

 

それに対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。12節と13節をご覧ください。「12 しかし、イスラエルの子らはモーセに言った。「ああ、われわれは死んでしまう。われわれは滅びる。全員が滅びるのだ。13 すべて近づく者、主の幕屋に近づく者が死ななければならないとは。ああ、われわれはみな、死に絶えなければならないのか。」」(12-13)

 

ここでイスラエルの子らは、自分たちは滅んでしまうと叫んでいます。どうしてでしょうか。すべて主に近づく者、主の幕屋に近づく者は死ななければならないと、律法にあるからです。それなのに彼らは、自分たちも祭司として神に近づくことができると言い張ってしまいました。しかし、神に選ばれた者でない者が主の幕屋に近づこうとするならば、主の恐るべき裁きを受けることになります。主に反抗して神に近づこうとすることがいかに恐ろしいものであるかを痛感したのです。それで彼らは叫んだのです。それは言い換えると、彼らは主の恵みを理解していなかったからであると言えます。祭司を通して与えられる恵みがどれほど大きなものなのを理解せせず、あくまでも自分の力で神に近づこうとしていたのです。彼らにとって必要だったことは、神がどれほど深く、あわれみ深い方であるかを知ることでした。そして、その主の恵みにお頼りし、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れることだったのです。つまり、信仰を持つことです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人はいつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。「だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」

全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白する者です。そういう者は恐れがありません。なぜなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れが締め出されるからです。

 

そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司イエス・キリストです。へブル4章14~16節をご覧ください。「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

私たちは神の子イエスという偉大な大祭司によって、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。なぜなら、まことの大祭司であられるイエスが、私たちのために神にとりなしてくださるからです。それは私たちの力や行いによるのではなく、大祭司イエスのとりなしによるのです。

 

そのことに彼らは気づきませんでした。神がアロンを大祭司としてお立てになったのは、彼らが死ななくても良いようにとりなしの働きをするためでした。ですから、彼らはその神の権威を受け入れ、神が立ててくださったアロンの祭司職を認めなければならなかったのです。しかし、そうでなかったので、彼らは自分たちが滅びてしまうのではないかと怯えていたのです。

 

それはイスラエルの子らだけではありません。ややもすると、私たちも彼らと同じような過ちを犯してしまうことがあります。自分の力で神に近づこうと考えてしまうことがあります。しかし、神は行いによってではなく、恵みによって私たちを救ってくださいました。神のひとり子イエス・キリストの十字架と復活の御業を信じる信仰によって救われ、大胆に恵みの御座に近づくことができるようにしてくださったのです。そのために立てられたのが、大祭司イエスです。キリストのとりなしによって私たちの罪が赦され、永遠のいのちが与えられたがゆえに、私たちはキリストに信頼し、そのとりなしをいただいて、神に近づく者でありたいと思うのです。

民数記16章

民数記16章

 

きょうは民数記16章から学びます。私たちは前回のところで、主の命令に背いて約束の地に上って行かなかったイスラエルの民に対して、主が、彼らが約束の地に入ったときにささげるべきささげものの規定について語られたことを学びました。イスラエルの民は確かに主の命令に背いたため二十歳以上の者はみな約束に地に入ることができませんでしたが、それでも、主は彼らに希望を語ったのです。

今回の箇所には、そのイスラエルが40年にわたる荒野での生活を始めようとしていたときに起こったもう一つの大きな事件について語っています。それはコラの子たちの反抗です。

 

Ⅰ.コラの子たちの反抗(1-35)

 

  • 子らの子たちの反抗(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。「1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ル

ベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」」

 

ここには、レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラが、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち250人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向ったことが記されてあります。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と言ったのです。彼らはなぜそのように言ったのでしょうか。

 

ここで問題になっているのはケハテの子、イツハルの子のコラという人物です。レビの氏族には三つの氏族がいました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。ゲルション族は、幕を運搬する奉仕が与えられ、メラリ族は、板とか、土台、柱などを運搬しました。それに対してケハテ族は、契約の箱を始め、供えのパンの机、香壇、青銅の祭壇など、幕屋の聖具を運ぶ最も聖なる奉仕に召されていました。ですから、ケハテ族は、レビ族の三つの氏族の中でも最も主の栄光に近いところで奉仕する特権が与えられていたのです。それなのに、彼らは主の幕屋で奉仕することが許されていませんでした。幕屋で奉仕するのは祭司だけであって、祭司だけが聖所の中に入り、燭台のともしびを整え、供えのパンを取り替え、また青銅の祭壇では数々の火による捧げ物をささげることができたのです。コラは、そのケハテ族に属する者でした。それゆえ、彼らは祭司たちをねたんでいたのです。なぜアロンの家系だけがそのような特権が与えられているのか、なぜ自分たちにはそれができないのかと。それを間近で見ていたコラは、自分にもこの務めを行う権利があると主張したのです。

 

しかも、その理由がもっともらしいのです。3節を見ると彼らは、「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」と言っています。あなただけが特別なのではない、主にとってはここにいるみんなが同じように大切なのであって、あなたたちだけが、主の集会の上に立っているのはおかしいというのです。

皆さん、どうでしょうか。もっともらしい意見ではないでしょうか。私たちの教会はバプテストの群れに属していますが、その一つの特徴は会衆制にあります。会衆制とは、教会政治が牧師や長老によって決められるのではなく、会衆みんなの総意によって決められるというものです。牧師も会衆と同じ立場であって特別な権力があるわけではないのです。ですから、私たちの教会では毎月定期的にミーティングを行い、教会の運営をみんなで話し合って決めているのです。また、年に一度は総会を持ち、教会の方向性をみんなで確認しています。ここでコラたちが言っていることはそういうことです。彼らは自分たちが支配したいというねたみによって突き動かされていたのに、そのようなことを理由にして、あたかもそれが正当であるかのように言いました。

 

ルベン族のダタンとアビラム、そしてオンが共謀したのも、さらには250人の有力者たちが共に立ち上がったのも、本質的には同じ理由からでしょう。ルベン族はヤコブの長男だったので、自らが第一の者であるという自負があったのかもしれません。また250人の有力者たちも、彼らが人々に認められているという自負があったので、モーセとアロンに立ち向かったのでしょう。

 

またそこにはイスラエルが荒野を40年間放浪しなければならなくなったということも、その大きな要因の一つであったと考えられます。人は物事が順調に進んでいる時はこうした不平や不満は抑えられがちですが、いざ困難に直面するとそうした不平や不満が一気に噴出し、このような反抗という形で表れてくるのです。彼らにとって必要だったのはそのような状況にあっても不平や不満をぶちまけることではなく、力強い主の御手にへりくだることでした。Ⅰペテロ5章6節には、こうあります。「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。」

 

2.慎み深い考え方をしなさい(4-11)

 

それに対してモーセはどうしたでしょうか。4節から7節までをご覧ください。「4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、主は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。6 こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、7 明日、主の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。主がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」」

 

モーセはこれを聞いて、主の前にひれ伏しました。彼は、このようなことも主の御許しの中で起こっていることを認め、主がこの問題を解決してくださるように祈り求めたのです。そして、コラとそのすべての仲間とに、主がだれを選ばれ、ご自分に近づけられるのかを知るために、火皿を取って、その中に火を入れ、その上に香を盛るように、と言いました。

火皿とは、神の前で香をたく際に、燃える炭火を入れる特別な道具です。祭司だけが祭壇で香をたくことができました。祭司でない者が香をたいたり、祭司が規定に反して香をたいたりすると、だれであれ死罪とされました。ですから、もし生き残ることができれば神に選ばれた者であるということです(レビ10:1-2)。

 

モーセはさらにコラに言いました。8節から11節までをご覧ください。「8 モーセはコラに言った。「レビの子たちよ、よく聞きなさい。9 あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。10 こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。11 事実、一つになって主に逆らっているのは、あなたとあなたの仲間全員だ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」」

 

これはどういうことかというと、コラは、レビ族として荒野の旅をするときに、幕屋を取り外して、運搬し、また次の宿営地において再び組み立てるという奉仕を行なっていました。そして、幕屋の外庭においても、祭司たちを補佐する役割を担っていました。特にケハテ族は、聖所の中の用具を運搬するということで、他のレビ族の氏族よりもさらに主に近いというか、栄誉ある働きに召されていたのです。それなのに、コラはそれで満足せず、祭司職、つまり、聖所の中における奉仕までを要求したのです。それは分を越えていることでした。モーセが分を越えていたのではなく、コラたちが分を越えていたのです。ローマ12章3節には、「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。

 

神はご自身のみからだである教会を建て上げるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それは一方的な神の恵みによるのであって、神がそのようにお選びになられたのです。モーセがイスラエルの上に立って指導したかったのではなく、神が彼をその働きに召して賜物を与えてくださったのです。そのモーセに反抗するということは、それは神に対して反抗することでもあるのです。

ですから、ここでコラたちがモーセに、「あなたがたは分を越えている」と言ったのは、このことを全く理解していないからであり、神が定めた秩序を無視したことだったのです。神が定めた秩序とは人間主体の民主主義ではなく、神が恵みによって与えられた賜物にしたがって、慎み深い考え方をすることなのです。

 

 3.神のさばき(12-35)

 

次に、12~35節までをご覧ください。「12 モーセは人を遣わして、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「われわれは行かない。13 あなたは、われわれを乳と蜜の流れる地から連れ上って、荒野で死なせようとし、そのうえ、われわれの上に君臨している。それでも不足があるのか。14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地にわれわれを導き入れず、畑とぶどう畑を、受け継ぐべき財産としてわれわれに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。われわれは行かない。」

15 モーセは激しく怒った。そして主に言った。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取り上げたことはなく、彼らのうちのだれも傷つけたことがありません。」16 それからモーセはコラに言った。「明日、あなたとあなたの仲間はみな、主の前に出なさい。あなたも彼らも、そしてアロンも。17 あなたがたは、それぞれ自分の火皿を取り、その上に香を盛り、それぞれ主の前に持って行きなさい。二百五十の火皿を、あなたもアロンも、それぞれ自分の火皿を持って行きなさい。」18 彼らはそれぞれ自分の火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンと一緒に会見の天幕の入り口に立った。19 コラは、二人に逆らわせようとして、全会衆を会見の天幕の入り口に集めた。そのとき、主の栄光が全会衆に現れた。

20 主はモーセとアロンに告げられた。21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしは彼らをたちどころに滅ぼし尽くす。」22 二人はひれ伏して言った。「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。一人の人が罪ある者となれば、全会衆に御怒りを下されるのですか。」23 主はモーセに告げられた。24 「会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から引き下がるように言え。」25 モーセは立ち上がり、ダタンとアビラムのところへ行った。イスラエルの長老たちもついて行った。26 そして会衆に告げた。「さあ、この悪い者どもの天幕から離れなさい。彼らのものには何もさわってはならない。彼らのすべての罪のゆえに、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの周辺から離れ去った。ダタンとアビラムは、妻子、幼子たちと一緒に出て来て、自分たちの天幕の入り口に立った。

28 モーセは言った。「私を遣わして、これらのわざを行わせたのは主であり、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたに分かる。29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の定めにあうなら、私を遣わしたのは主ではない。30 しかし、もし主がこれまでにないことを行われるなら、すなわち、地がその口を開けて、彼らと彼らに属する者たちをことごとく?み込み、彼らが生きたままよみに下るなら、あなたがたはこれらの者たちが主を侮ったことを知らなければならない。」

31 モーセがこれらのことばをみな言い終えるやいなや、彼らの足もとの地面が割れた。32 地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を?み込んだ。33 彼らと彼らに属する者はみな、生きたまま、よみに下った。地は彼らを包み、彼らは集会の中から滅び失せた。34 彼らの周りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地がわれわれも?み込んでしまわないか」と人々は思ったのである。35 また、火が主のところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。」

 

モーセは使いをやって、ダタンとアビラムを呼び寄せようとしましたが、彼らの来ようとしませんでした。なぜでしょうか。モーセが自分たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、この荒野で死なせようとしたということです。あれっ、乳と蜜の流れる地とは神が約束されたカナンの地のことなのに、彼らはここでかつて自分たちが住んでいたエジプトのことを、そのように言っているのです。また、「それでも不足があるのか」という言葉も、先ほどモーセがコラに対して言った言葉をもじっています。さらに、約束のカナン人の地にあなたがたが連れて行かなかった、とモーセたちの失敗をあげつらっています。

 

それでモーセは激しく怒り、彼らのささげものを顧みないようにと、主に申し上げました。そして、コラに言いました。コラとその仲間たち、そしてアロンとは、明日、主の前に出るように・・・と。するとコラたちは、おのおの火皿を取り、それに火に入れて、その上に香を盛りました。そしてイスラエルの全会衆を会見の天幕の入り口に集め、モーセとアロンに逆らわせようとしたのです。

 

すると主はモーセに、この民から離れるようにと言われました。彼らをたちどころに滅ぼされるからです。モーセが怒っている以上に、主が怒っておられました。そして、主はそのように反逆する民を滅ぼそうとされたのです。

 

するとモーセとアロンはひれ伏して言いました。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

何とモーセとアロンは、自分たちに逆らい主に反逆した者たちのためにとりなして祈りました。ここまで反抗した相手のためにとりなすことは人間的にはなかなかできないことですが、モーセは地上のだれにもまさって謙遜な人でした。そのような中にあっても冷静に、あわれみの心をもって主にとりなしたのです。すごいですね。

 

すると主は、この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言うようにと言われました。彼らを滅ぼそうとされたからです。それに巻き込まれないように彼らから離れるようにと言われたのです。しかし、モーセに反抗し会衆を扇動したダタンとアビラムに対しては、きびしいことばを語りました。25節から35節にある内容です。

 モーセは、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、まず会衆に、彼らから離れるように告げると、これが自分の考えによるのではなく、主が遣わして、これらのことをさせたのであることを示すために、地がその口を開いて、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとく呑み込み、生きながらよみに下るようにさせる、と言いました。そして、モーセがこれらのことばを語り終えるや、彼らの下の地面が割れると、彼らとその家族、またコラに属するすべての者が、呑み込まれたのです。彼らは、生きながら、よみにくだりました。よみとは死者の住む世界です。死んだ人が行くところなのです。そのよみに、生きながら下って行ったのです。これはおそろしいことです。

このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げました。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからです。しかし、神はあわれみ深い方です。モーセとアロンのとりなしによって、彼らが滅びないで済むようにしてくださいました。

また、先ほどコラと共に来てモーセとアロンに立ち向かった250人は、その持っていた火皿の火が彼らを焼き尽くしました。このように神によって遣わされたモーセに反逆した彼らは、恐ろしい神のさばきを受けたのです。

 

Ⅱ.祭壇のための被金(36-40)

 

次に、36節から40節までをご覧ください。「36主はモーセに告げられた。37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出し、火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。38 いのちを失うことになったこれらの罪人たちの火皿は、打ちたたいて延べ板とし、祭壇のためのかぶせ物とせよ。それらは、主の前に献げられたので、聖なるものとなっているからである。これらはイスラエルの子らに対するしるしとなる。」

39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちが献げた青銅の火皿を取り、それを打ち延ばして祭壇のためのかぶせ物とし、40 そのことがイスラエルの子らに覚えられるようにした。これは、アロンの子孫以外の資格のない者が、主の前に進み出て香をたくことのないようにするため、その人が、コラやその仲間のような目にあわないようにするためである。主がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。」

 

新共同訳聖書では、ここから17章になっています。なぜここから17章にしたのかはわかりません。もともと章節は人間が便宜的に作ったものでそこに霊感が働いたわけではありませんが、ここから17章にしたのには何か意図があったのではないかと思います。17章には「アロンの杖」についての言及があるので、祭壇のかぶせ物について記されてあるここから17章にしたのではないかと考えられます。しかし、49節にはイスラエルに下った神罰に対する言及があるので、これはコラやダタンとアビラム、また、250人のリーダーたちに対するさばきの続きと見た方がよいかと思います。

 

ここで主は、罪を犯していのちを失った者たちの火皿を取り、それを打ちたたいて、祭壇のためのかぶせ物を作るようにと言われました(出エジプト27:1-3,38:1-2)。「かぶせ物」とは、アカシヤ材で作った祭壇の上にかぶせた青銅のことです。「青銅」はすべての金属の中で最も火に強いと言われますが、それは罪に対する神の怒りの激しさを示していました。それをかぶせたのです。火皿も青銅で出来ていました。何のためでしょうか。それは「しるし」のためです。アロンの子孫でないほかの者たちが、主の前に近づいて煙を上らせるようなことがないために、そのようなことをして主の怒りをかい、滅びることがないようにするためです。それは自分たちへの戒めとするためでした。それはまさに私たちの罪のために焼き尽くすささげものとなられた十字架のキリストを指し示していました。キリストの十字架を見る時、私たちの罪がいかに大きいものであるかを知ります。その罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されました。これはしるしなのです。私たちはこのしるしを見て、キリストの贖いの恵みに感謝しつつ、神に喜ばれる歩みをしていきたいと願わされます。

 

 Ⅲ.さらなる神罰(41-50)

 

最後に41節から50節までをご覧ください。「41 その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かって不平を言った。「あなたがたは主の民を殺した。」42 会衆がモーセとアロンに逆らって結集したとき、二人が会見の天幕の方を振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現れた。43 モーセとアロンは会見の天幕の前に来た。44 主はモーセに告げられた。45 「あなたがたはこの会衆から離れ去れ。わたしはこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼす。」二人はひれ伏した。

46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らのために宥めを行いなさい。主の前から激しい御怒りが出て来て、神からの罰がもう始まっている。」

47 モーセが命じたとおり、アロンが火皿を取って集会のただ中に走って行くと、見よ、神の罰はすでに民のうちに始まっていた。彼は香をたいて、民のために宥めを行った。48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、主の罰は終わった。49 コラの事件で死んだ者とは別に、この主の罰で死んだ者は、一万四千七百人であった。50 アロンが会見の天幕の入り口にいるモーセのところへ戻ったときに、主の罰は終わっていた。」

 

これほど恐ろしい神のさばきを目の当たりにし、そのさばきを免れたイスラエルの民はさぞ感謝したかと思いきや、全く違っていました。その翌日、モーセとアロンに向かって不平を言ったのです。「あなたがたは主の民を殺した。」と。言い換えると、「愛がない」ということでしょうか。彼らはコラたちに同情していたのです。主の指導者たちにつぶやくことは主につぶやくことであり、そのことに対するさばきがどれほど恐ろしいものであるかを目の当たりにしたのに、彼らはそこから学ぶことをせず、同じような過ちを犯しました。

 

それで、モーセとアロンが天幕の方を振り向くと、雲がそれをおおい、主の栄光が現れました。そしてモーセとアロンに、彼らから離れるようにと言われました。主が彼らをたちどころに滅ぼされるからです。

するとモーセはひれ伏しました。そして、アロンに、彼らの罪の贖いをするようにと命じます。けれども、すでに神罰は始まっていました。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰でイスラエルの14,700人が死んだのです。しかし、アロンが死んだ者と生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやみました。これは、神と人間の間に立たれたイエス・キリストを指し示しています。罪のゆえに神に滅ぼされてもいたしかたない私たちのために、神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、私たちと神との間に立って罪の贖いをしてくださったので、神の怒り、神罰はやんだのです。

 

彼らはいつまでも自分の感情に流されていました。何が神のみこころなのかを知り、それに従うことよりも、たとえそれが罪であっても、自分の思いや感情に従って歩もうとしたのです。これはクリスチャンにとっても陥りやすい過ちです。神のみこころがどうであるかよりも、あくまでも自分の考えを優先するのです。自分が滅ぼされるまで、自分の肉に従って生きようとするのです。その結果、このような滅びを招いてしまうのです。私たちは自分の感情がどうであれ、神のみこころが何であるかを知り、それに従うことが求められます。それが信仰の歩みなのです。

 

花婿を導いた花嫁 雅歌7:11-8:4

聖書箇所:雅歌7章11節~8章4節

タイトル:「花婿を導いた花嫁」

 

 雅歌も終盤を迎えています。きょうは雅歌7章11節から8章4節までの箇所から、「花婿を導いた花嫁」というタイトルでお話します。今日の箇所には、花婿を導く花嫁の姿が描かれています。たとえば、11節には、「さあ、私の愛する方よ、私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。極めつけは8章2節のことばです。「私はあなたを導いて、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませて差し上げましょう。」

とあります。ここにはきっきりと「あなたを導いて」とか「お連れして」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。

 私たちはいつも花婿であるキリストに導かれていると思っていますが、もちろん、そういう面もありますが、同時に花婿を導いているという側面もあります。これまではどちらかというとイエス様に導かれること、イエス様に何かをしていただくことが中心の信仰でしたが、それと同時に、霊的、信仰的に成長していく中で、今度はイエス様を導く者に、イエス様に喜んでささげる者へと変えられていくのです。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

 

 Ⅰ.恋なすびは香りを放つ(7:11-13)

 

まず、7章11~13節までをご覧ください。「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。そこで私は、私の愛をあなたにささげます。」

 

これは花嫁のことばです。花嫁は花婿から「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ。」(7:1)と言われると、10節でこう告白しました。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」

これは、花嫁が単に自分を花婿にささげるというだけでなく、また、自分よりも花婿を優先するというレベルでもなく、「あの方は私を恋い慕う」、つまり、花婿にとって自分が関心の的であると告白したのです。もう何があっても大丈夫です。花婿が必ず守ってくださいますから。そうした平安の中で完全に憩っているのです。花婿は必ず良いことをしてくださるという確信があります。だって自分は花婿にとって関心の的なのですから。ただ花婿がいて、自分をつかんでいてさえすれば、それで十分なのです。つまり、花婿にすべてを完全にゆだねているのです。花嫁はそこまで成長しました。

そして、花嫁は続いてこう言っています。11節、「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」

この「村」とは8章2節にある母の家、実家のことです。エルサレムの都会にある王宮のような華やかなところだけでなく、自分にとって人生の原点でもある実家に戻り、そこで愛を楽しみましょう、と誘っているのです。

 

その理由が12節に書かれてあります。「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。」

彼女は6章3節で「シュラムの女よ」と呼ばれていますが、シュラムがあるガリラヤ地方ではぶどうの木が芽を出したり、ぶどうの木が花を咲かせたり、ざくろの花が咲いたりするのを見ることができます。そうした自然の中で夫婦の交わりを持つことができます。それは、エルサレムのような都会では不可能なことです。

 

13節をご覧ください。「恋なすびは香りを放ち、私たちの門のそばには、すべての最上の果物があります。新しいものも、古いものも。私の愛する方よ、これはあなたのために蓄えておいたものです。」

実家があるガリラヤには「恋なすび」も豊かに実っています。「恋なすび」は「マンドレイク」という名で知られていています。昔から薬草として使われていましたが、受胎効果が有るとも思われていました。創世記30章14節では、不妊で悩んでいたラケルが姉のレアに、息子ルベンが取って来た恋なすびを譲ってほしいと言っているのはそのためです。恋なすびは良い香りを放つため、性的欲情をかき立てるものでもありました。それは花婿と花嫁の関係をより親密にするものです。そこには、恋なすびが香りを放ち、すべての最上の果物がありました。それは花嫁が花婿のために蓄えておいたものです。ですから、ここで花嫁は花婿との関係をより一層親密にするものを用意しています、と言っているのです。

 

それは、私たちにも必要なことです。花婿なるキリストとの関係をより親密にするものが必要です。たとえば、私たちが手にしているこの聖書はその一つでしょう。聖書は「恋なすび」であるとも言えます。イエス様との関係をより親密にさせてくれます。聖書を通してイエス様の心を知り、イエス様との関係をより身近に感じさせてくれます。聖書はまさに恋なすびなのです。

 

また、教会での交わりもそうです。私たちがバプテスマを受けてクリスチャンになると、どこからか信仰を捨てるようにとか、少なくともあまり熱心にならないようにというプレッシャーと受けることがあります。そうした中にあっても動揺しないでしっかりと希望を告白するために、あるいは、信仰から出てくる愛と善行を促すように励まし合うために、教会に集まる必要があります。それはただ習慣として集まるというだけでなく、集会が心の習慣の一部となるような積極的な関わり方が求められるのです。そうでないと、信仰から離れてしまうことになるからです。教会での交わりはまさに恋なすびであり、イエス様との関係をより親密にするために必要なものなのです。

 

他にどのようなものがあるでしょうか。静かな場所で祈ることもそうでしょう。イエス様のことばを思いめぐらして祈るとき、イエス様の麗しさ、その愛に満たされます。信仰の良書を読むのもいいです。特に、信仰に生きた人たちの証は、私たちの信仰を励ましてくれます。バイブルスタディー祈祷会に参加することも大切です。バイブルスタディーに参加することで、それまで気付かなかったことに気付かされます。

昨年8月にスタートしたC-BTEのクラスは、先週基本原則シリーズⅠを終了しました。基本原則シリーズⅠでは、クリスチャンライフのベーシックなことを学びますが、参加している数人の兄弟から、この学びがなかったらただ教会の礼拝に出席して、与えられた奉仕をして終わりということになっていたのではないかと思います、と言うのを聞いて、この学びを継続してきてよかったなぁと思いました。まさにこうした学びも恋なすびです。

私たちには恋なすびが必要です。イエス様との関係を親密にするためのものを蓄えておきたいと思います。

 

Ⅱ.花婿を導いた花嫁(8:1-3)

 

次に、8章1~3節をご覧ください。これも花嫁のことばです。1節には、「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに会ってあなたに口づけしても、だれも私を蔑まないでしょうに。」とあります。どういうことでしょうか。

 

この「口づけ」とは、あいさつとして交わされる軽い口づけのことです。しかし中東では、今でもそうですが、男女が公に人々の前で口づけを交わすことはできませんでした。それが許されたのは家族の間柄に限られていたのです。中東では、女性が外に出る時は覆いを付けなければならず、外に出て異性と一緒にいることができたのは、唯一血のつながった兄弟だけだったのです。ですから花嫁はここで、もしあなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、外であなたに会って口づけしても、だれにも蔑まれないのに、と言っているのです。つまり、花婿に対する愛情の表現には限界があるということです。もっと自由に、もっとあからさまに、もっと強く花婿に対する愛を表したいと切に願っているのです。

 

皆さんはどうでしょうか。この花嫁のように花婿イエスをもっと愛したいと願っておられるでしょうか。もっと自由に、もっと豊かに、もっと親密に愛を表したいと強く願っているでしょうか。確かに、教会にいる時は大きな声で賛美することができます。涙して祈ることもできるでしょう。でも家に帰ったらどうでしょうか。クリスチャンは自分だけという家庭も少なくありません。そうなると、夫やこどもたちの前で祈ったりするのを躊躇してしまうかもしれません。職場ではどうでしょうか。クリスチャンばかりの職場だったら何でもないことでも、ノンクリスチャンが圧倒的に多いところでは教会の話やイエス様の話をするのをはばかってしまいます。そんな中でももっとイエス様を賛美したい、もっとイエス様と交わりたい、もっとイエス様のすばらしさを伝えたいと願っているならどんなにすばらしいことでしょうか。それほどまでにイエスに夢中で、イエスの愛に捉えられる者になりたいです。

 

2節には「私はあなたを導いて、私を育ててくれた母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの加重をあなたに飲ませて上げましょう。」とあります。

「私を育ててくれた母の家」とは、花嫁の実家のことです。花嫁にとって実家は、あまりいいイメージがありませんでした。1章6節を見ると、そこは兄弟たちにこき使われた所であり、顔が浅黒くなるまでぶどうの番人をさせられたところです。ですから、できればあまり近づきたくなかったはずです。しかし、その実家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて上げたいと言っているのです。なぜでしょうか。そこは花婿と出会った思い出の場所だからです。かつて花婿を見失ったとき、花嫁が彼を見付けたのもこの実家の近くでした。ですから、母の家はもう嫌なところではなくなったのです。そこは花婿と出会うことができたすばらしい場所という思いを抱くことができるようになりました。

 

それは私たちにも言えます。私たちにも実家のようなところがあります。別に実家が悪い所という意味ではありませんよ。彼女の場合はそれが実家であったというだけのことですが、そのようにいじめられたり、意地悪されたり、侮辱されたり、こき使われたりと、あまり良いイメージを持つことかできない場所があるということです。しかし、そんなところでも、イエス様と出会うなら、そこは最高の場所となります。

 

その実家である母の家に導いて、そこにお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁の果汁をあなたに飲ませて上げましょうというのです。えっ、逆じゃないですか。そこに導いて、ぶどう酒やざくろの果汁を飲ませてくれるのは花婿の方ではないのですか。これまでもずっとそうでした。いつも花婿が花嫁を導いてくださいました。花嫁が花婿を導くなんておこがましいことです。でもここでは花婿が導いているのではなく、花嫁が導いてと言っています。花嫁が花婿を母の家にお連れしたいと言っているのです。どういうことでしょうか。

 

確かに、私たちはイエス様に導かれている者です。私たちが救いに導かれたのもそうです。それはイエス様の導きによるものであり、一方的な恵みです。しかし、同時に、私たちもイエス様を導いている面があるのです。たとえば、イエス様は大宣教命令の中で、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)と言われましたが、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われたイエス様は、同時に、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言われました。つまり、私たちが出て行くところには、いつもイエス様が共におられるのです。言い換えると、クリスチャンがイエス様をお連れするという面があるということです。それはイエス様に何か指図するということではなく、イエス様が喜んでくださるところにお連れするということです。花嫁がお連れしたかったのは、彼女を育ててくれた母の家でした。そこで香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて差し上げたかったのです。

 

「香料を混ぜたぶどう酒」とは、究極の喜びを表しています。「香料」は祈りの象徴、「ぶどう酒」は喜びの象徴です。祈りに喜びが混ぜ合わされているというのは、あるいは、喜びに祈り混ぜ合わされているというのは、ただの喜びではなく究極の喜びであるということです。それは尽きることがない喜びです。揺らぐこともなく、失われることもありません。そのような喜びを花婿に差し上げましょう、と言っているのです。

 

ヨハネの手紙第三1章3節にはこうあります。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。」

この手紙は、当時エペソの教会の長老であったヨハネが書いた手紙ですが、ここで彼は、「兄弟たちがやって来て、あなたがたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます」と言っています。彼にとっての喜びは、クリスチャンが真理に歩んでいるということでした。それはヨハネに限ったことではなく、牧師であればみんなそうです。クリスチャンが真理に歩んでいること、信仰に堅く立っているということを聞くことほど大きな喜びはありません。それは大牧者であられるイエス様も同じです。イエス様が喜んでくださることは、私たちが真理のうちに歩むことです。そのようなものを飲ませてさしあげることかできます。

 

それは、ざくろの果汁にも言えることです。よくスーパーに行くとざくろのジュースが置いてありますが、ざくろは強い抗酸化力があるので、ガンや腎臓病の予防に効果的だと言われています。また、美白化粧品にも使用されるエラグ酸を含むので、くすんだ肌を美白肌へと導いてくれるそうです。それは疲れたからだを癒す効果がある最高の飲み物でした。それを飲ませい差し上げましょう、というのです。それはどれほど花婿を爽やかな気持ちにさせることができたでしょうか。こうしたものをイエス様にささげることができるのです。

 

これまで私たちは、イエス様から何かをしていただくことしか考えられなかったかもしれませんが、でも私たちが霊的、信仰的にステップアップしていく中で、今度はイエス様に差し上げることができるようになってきます。イエス様にとって喜びとなるもの、イエス様にとってすがすがしく、爽やかにさせるものをささげることができるのです。そのためには、まず自分自身をささげたいですね。なぜなら、イエス様が求めておられるのはお金でも、時間でも、労力でもでもなく、私たち自身であるからです。つまり、献身するということです。それがイエス様にとって最もうれしいことであり、喜んでくれることなのです。花嫁が花婿に自分をささげるように、キリストの花嫁である私たちは、花婿であるキリストに自分をささげたいと思うのです。

 

3節をご覧ください。ここには「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」とあります。これも2章6節で語られていたことの繰り返しです。あの方の左の腕が私の頭の下にあるとは、左の腕でがっちりと支えているというイメージです。そして右の腕が私を抱いてくださるとは、優しく抱きしめているというイメージです。ちょうど母親が赤ちゃんを抱っこしている姿です。それは確かな保護と細やかな愛情を表現しています。あなたが危険に陥らないようにがっちりと支えていてくれます。あなたがつまずいて倒れそうになった時、主は力強い御手をもって支えていてくださるのです。

あなたはそのようなイエス様の愛情を感じているでしょうか。包み込むような優しい愛情を受けているでしょうか。イエス様の腕が、文字通りあなたをしっかり支えているということを覚えていてください。イエス様がおられるなら寂しくありません。もう何も怖くはないのです。あなたの下には永遠の腕があるからです。ここに真の満たしと安心感を得ることができます。あなたにとってイエス様がそのような方であるかどうかをもう一度考えてほしいと思います。

 

Ⅲ.揺り起こしたり、かき立てたりしないでください(4)

 

最後に、4節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

これも花嫁のことばです。ここで花嫁はエルサレムの娘たちにお願いしています。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」と。これは2章7節と3章5節にもありました。振り返ってみましょう。2章7節には、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。また、3章5節にも、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。それがここでもう一度繰り返して言われているのです。

なぜ繰り返して言われているのでしょうか。2章7節で説明した時にもお話しましたが、この繰り返しによって一つの場面を締めくくっているからです。ですから、8章5節から、また新しい場面を迎えることになります。それはこの雅歌全体のクライマックスです。しかし、それだけでなく、実は、このことがとても大切なことだからです。その大切なことを思い起こしてほしかったのです。

私たちは大事なことでもすぐに忘れてしまいます。喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れるで、どんなに大事な教訓でも、喉元を過ぎるとそれがどんなに熱かったのかを忘れてしまいます。思い起こす必要があります。だから繰り返して語られているのです。「ああ、これは本当に大事なことでした。」と思い起こさせているのです。その内容はどんなことかというと、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。」です。これは直訳すると、「あなたがたは揺り起こしたり、かき立てたりして、私の愛を目覚めさせないでください。私が良いと思う時までは。」となります。私が良いと思う時までは、私がそうしたいと思う時までは、揺り起こしたり、かき立てたりしないで、そっとしておいてくださいとお願いしているのです。

 

このエルサレムの娘たちはたびたび登場していますが、彼女たちの存在は本当に有難いものです。その度に何かを気付かせてくれます。たとえば、5章9節では花嫁が花婿を見失ったとき、彼女は必至になって花婿を捜すも見つからなかったとき、このエルサレムの娘たちにお願いして、一緒に捜してください、そしてあの方を見付けたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。

するとこのエルサレムの娘たちは言いました。「いったいあなたにとって花婿はどんな存在なんですか、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。」と。それで花嫁はハッとして、花婿のすばらしさを思い起こし、その存在のすばらしさを告白しました。「あの方のすべてがいとしい。これが私の愛する方、これが私の恋人です。」いわば、彼女の思いを引き上げてくれたわけです。有難いことです。

 

しかし、そのような存在であるがゆえに、時にはお節介とも思われる言動をすることがありました。それで花嫁は「ちょっと待ってください、私は静かに考えたいのです。私がそうしたいと思う時まで、私の心を揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。」とお願いしているのです。花嫁は、花婿との愛の関係をどれほど大切にしているかがわかります。事ある度に花婿との関係を思い起こしては、花婿との関係を大事にしているのです。彼女の成長ぶりが伺えます。

 

事ある度にイエス様との関係を思い起こすこと、これは私たちにも求められていることです。あなたにとってイエス様はどのような存在でしょうか。あなたとイエス様との関係はどうでしょうか。あなたにとってイエス様との関係が何よりも大切となっているでしょうか。イエス様との関係がどうなのかを、私たちも事ある度に思い起こし、キリストの愛に目覚めるように祈りたいと思います。

高貴な人の娘よ 雅歌7章1~10節

聖書箇所:雅歌7章1~10節

タイトル:「高貴な人の娘よ」

 

 きょうは、雅歌7章から学びます。花嫁が花婿を見付けると、花婿は何事もなかったかのように花嫁を受け入れ、花嫁の美しさを再び称賛しました。そして自分の車に乗せて二人だけの親密な交わりを持つことができる場へと連れて行きました。その時でした。エルサレムの娘たちの声が聞こえてきました。「帰りなさい、帰りなさい」。もう帰りたくない、このままずっと花婿との二人だけの時間を過ごしたいと思っていた花嫁でしたが、エルサレムの娘たちも花嫁の姿を見ることを切に願ったのです。今回はその続きです。

 

 Ⅰ.高貴な人の娘(1a)

 

 まず、1節をご覧ください。1節をお読みします。「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。」

 

 これは花婿のことばです。花婿のことばが9節まで続きます。ここで花婿は花嫁の美しさを絶賛しています。文字通り彼女のつま先から頭のてっぺんまでその美しさを絶賛しているのです。よく読んでいくと顔を赤らめてしまうような表現が続きますが、このところを読んでいくと、花婿がどれほど花嫁を愛しているかがわかります。それは同時にイエス様が私たちをどれほど愛しておられるかということでもあります。なぜなら、この花婿とは主イエスのこと、そして花嫁とは私たち教会のことを指しているからです。

 

 いったい花嫁のどこがそんなに美しいのでしょうか。ここには「高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。」とあります。花婿は花嫁のことを「高貴な人の娘よ」と呼んでいます。しかし、この花嫁は決して高貴な出の娘ではありませんでした。1章6節をご覧ください。彼女は農家の娘であったことが紹介されていました。ただの農家の娘であったというだけでなく、家では使用人のようにこき使われていたのです。ここには「あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。」とあります。彼女は兄弟たちが怒りを燃やし、彼らのぶどう畑の番人にしたので、彼女の肌は日に焼けて、浅黒くなったと嘆いています。彼女はそのことでコンプレックスを持っていました。しかし、花婿はそんな彼女に目を留めて花嫁とし、王家に迎え入れてくれました。それゆえ彼女は、「私は黒いけれども美しい。」と宣言することができたわけです。卑しい娘が、高貴な娘としての立場を与えていただいたのです。それで、高貴な人の娘よ、と呼ばれるようになりました。

 

 それは私たちも同じです。私たちもかつては罪過と罪との中に死んでいた者ですが、キリストを信じ、キリストと結び合わされたことによって、神の子と呼ばれるようになりました。高貴な人の娘よ、と呼ばれるようになったのです。ガラテヤ人への手紙3章26節には、「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。」とあります。人間の親子でさえ、子どもという身分のゆえに親から様々な祝福を受けることが出来ます。子どもであるというだけでその家の鍵が与えられ、家の中のものは何でも自由に使うことさえできるわけです。

 

私が結婚したばかりの頃、アメリカの妻の実家に行ってみて驚いたのは、冷蔵庫が大きいことです。しかも製氷機付きです。中には日本では飲んだことがないようなジュースがたくさんあるではありませんか。その頃はバブル期で日本の円が高く、円に換算するとものすごく安いのです。「ああ、飲みたいなぁ」と思っても、人の家の冷蔵庫を開けるのは失礼だと思いずっと我慢していましたが、でも飲みたくなってある時妻に「冷蔵庫からジュースを飲んでもいいかな」と言ったら「もちろん、いいよ」というので「それじゃ」と言って恐る恐る冷蔵庫を開けて飲んだのです。あとで妻の両親から「だれだ、冷蔵庫の中のジュースを勝手に飲んだのは」と怒られるのではないかとビクビクしていましたが、だれも何も言いませんでした。なぜ?私は家族の一員になったからです。家族の一員なったので冷蔵庫を開けて何を飲んでも文句を言われないのです。

 

ましてや、私たちは人間の家族ではなく神の家族に迎え入れられ、神の子どもとされました。この天地万物を創造された方の子どもになるということは、神の御住まいである天の御国を受け継ぐ者となったということです。これらすべては神の恵みです。それは私たちの行いによって勝ち得たものではありません。神様が一方的にイエス・キリストを通して与えてくださったものです。それゆえに、私たちも「高貴な娘よ」と呼んでいただける身分、立場とされたのです。そのことをしっかりと覚えておきたいと思います。

 

 ところで、この「高貴な」という言葉ですが、これはヘブル語では「ナディーブ」と言います。意味は「積極的である」とか「自発的である」、「寛大である」、「気高い」です。ですから、新共同訳ではこれを「気高いおとめよ」と訳しています。気高いとは、道徳的に優れているとか、人格的に優れている、王家のような高い身分であることを指しています。ですから、口語訳では「女王のような娘よ」と訳しています。

 

それはイエス様のような人のことです。イエス様は王の王、主の主であられる方なのに、決して傲慢ではありませんでした。イエス様は神の御姿であられる方なのに、神としてのあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を空しくし、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。そればかりか、自らを低くして、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。王の王、主の主であられる方が、しもべの中のしもべになられたのです。これこそ高貴な人です。真に高貴な人とは、ただ自分の家柄や身分を自慢するのではなく、イエス様のようにへりくだって、しもべなる人のことです。そのような人こそ神の子としてふさわしい気高い人なのです。私たちは高貴な人の娘としてふさわしい人になれるように求めていきたいと思います。

 

Ⅱ.人を喜ばせる愛よ(1b-9)

 

次に、1節後半から9節までをご覧ください。ここには、この花嫁の美しさが具体的に語られています。まず1節の後半をご覧ください。ここには「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。」とあります。

 

まず、花嫁の足です。花嫁の美しさの一つは、サンダルをはいた足でした。サンダルをはいているとはどういうことでしょうか。シンデレラのようなかかとの高い透き通ったサンダルでも履いていたのでしょうか。そういうことではありません。サンダルをはいたとは、彼女が高貴な人の娘であったということを表しています。当時、貧しい人はサンダルをはきませんでした。裸足だったのです。しかし、彼女はサンダルをはいていました。それだけ高貴な人であったということです。

 

 次は「ももの丸みです」です。ここには「あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ」とあります。何ですか、「ももの丸み」とは。新改訳聖書第三版には「丸みを帯びたもも」と訳しています。創造主訳聖書では「まろすやかなもも」と訳しています。これはまろやかなもものことです。ももはももでも果物の桃ではなく、足からもものつけ根までの部分を指しています。その部分が一番まろやかなのです。人間のももと鳥のももを比べるのはどうかとも思いますが、鶏肉で一番おいしいのは「もも」の部分です。引き締まっていて、旨味とコクが感じられます。脂肪分が多く、調理した時にジューシーに仕上がるのが特徴です。ですから、からあげや照り焼きなどに使われるのはこの「もも肉」なのです。

 

それは名人の手のわざです。名人の手で作り上げられた飾りのようであるということです。いわば職人技であるということです。まろやかなももが職人技であるというのはすごいですね。実はこれは私たちにも言えることで、私たちは神の職人技による作品なのです。エペソ2章10節には「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。クリスチャンを見れば、誰が造ったのかは一目瞭然です。それは神の芸術作品なのですから。名人の手で作られた飾りようなものなのです。

 

 さらに、2節には「ほぞは丸い杯。混ぜ合わせたぶどう酒は尽きない。腹は小麦色の山。ゆりの花で囲まれている。」とあります。

 何ですか、「ほぞ」とは?皆さん、聞いたことがありますか。これは「おへそ」のことです。「おへそ」を美的に表現したのが「ほぞ」です。「おへそ」は俗語です。これは雅歌ですから、雅の歌です。上品で、精錬された歌なので、「へそ」と言わず「ほぞ」と言っているのです。私たちもこれからは上品に言いましょう。「ほぞ」。

 

それは杯のように丸い形になっていました。丸い杯とは、丸く見事な形をしているということです。でべそではありません。ですから、混ぜ合わせたぶどう酒は尽きないのです。もしへそが出ていたらぶどう酒を注ぐことができません。しかし、花嫁のおへそは丸い杯のように見事な形をしていたので、ぶどう酒を注ぐことができました。それは祝福が溢れている状態を象徴しています。詩篇23篇5節には「私の杯はあふれています。」とあるのはそのことです。最近はおへそにピアスを付けている人もいますが、そんなことをしなくてもこの花嫁もおへそは祝福に溢れた魅力的なものでした。

 

では、お腹はどうでしょうか。「腹は小麦色の山。ゆりの花で囲まれている」とあります。小麦色の山とは健康的で、血色が良いという意味です。よく小麦色の肌といってその美しさを表現することがあります。

しかもそれがゆりの花に囲まれています。ゆりの花というと白色を思い浮かべるかと思いますが、これは赤色です。アネモネとかチューリップなど野原を真っ赤に染める花でした。それは若々しく健康的であるということです。

ですから、腹はゆりの花で囲まれた小麦色の山のようであるというのは、山のようにお腹がポッコリと出ているということではなく、そのように血色が良く、健康的なお腹であるということです。その真ん中にあるのがおへそです。ほぞです。そこがぶどう酒の杯に溢れているのです。そこから喜びがあふれています。これは何のことかというと、ヨハネの福音書7章37~39節のことを表しています。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

 イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われました。私を信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。この「その人の心の奥底から」という言葉は、欄外の注釈には直訳「腹から」となっています。イエス様のもとに来て飲むなら、その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。これは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について言われたのですが、それは腹から流れでるようになるのです。まさにお腹の中心にあるほぞから混ぜ合わせたぶどう酒が溢れるということです。そのような喜びと祝福の生ける水の川が流れ出るのです。

 

 あなたのほぞはどうですか。生ける水の川が流れていますか。混ぜ合わせたぶどう酒が溢れているでしょうか。もうカラカラで何もないという状態ではないでしょうか。イエス様のもとに来て飲むなら、イエス様を信じるなら、あなたの心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。

 

 3節をご覧ください。「二つの乳房は、二匹の子鹿、双子のかもしかのようだ。」ここでは花嫁の乳房を絶賛しています。この表現は4章5節にもありました。「乳房」は祝福と恵みの象徴です。それが二匹の小鹿、双子のかもしかにたとえられているのは、それが若々しく、跳びはねるような、張りのあるもので、しかも、バランスがとれていることを表しています。とてもきれいな乳房であるということです。ここでは肉体的な乳房の美しさよりも、霊的にそうであるということです。つまり、花嫁の心が若々しく、みずみずしく、張りがあって、跳びはねるように魅力的であるということです。

 

あなたの心はどうでしょうか。精神的、霊的にアップダウンしていませんか。あなたが花婿であるキリストにあるなら、あなたも双子のかもしかのように若々しく、瑞々しく、跳びはねるような、しかもバランスのとれた心となります。

 

4節をご覧ください。今度は首と目と鼻です。「首は象牙のやぐらのようで、目は、バテ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池。鼻は、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようだ。」

すごい表現ですね。象牙のやぐらとか、バテ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池とか、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようと言われてもピンときません。象牙のやぐらとは、なめらかで白いことを表しています。それが「やぐら」のようにスラっとしているということです。花嫁の首はそのように美しい首でした。京都の舞子さんのようです。

バデ・ラビムの門のそばのヘシュボンの池のような目ですが、「ヘシュボン」とは、巻末の地図を見ていただくとわかりますが、エルサレムから東にヨルダン川を渡って約60㎞のところにあります。死海の北東に位置しています。ここはかつてモアブの首都でした。ですから、一国の首都であったような立派な町だったのです。その門です。「どんなもんだい」という声が聞こえてきそうです。それはバテ・ラビムと呼ばれる門でした。そこには大勢の人たちが集まりました。その近くにあったのがヘシュボンの池です。それは、特に澄んだ池でしたが、そのヘシュボンの池のように澄んだ目であるということです。その澄んだ目を見ただけで引き付けられるような魅力的な目でした。

 

鼻はどうですか。ここには「鼻は、ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらのようだ。」とあります。すごい比喩ですね。ダマスコの方を見張るレバノンのやぐらです。レバノンについては4章8節でも説明しましたが、そこには北からアマナの頂、セニルの頂、ヘルモンの頂と、山脈が南北に連なっています。レバノン山脈と呼ばれています。全長は150㎞にも及びます。そのレバノン山脈にあるやぐらからダマスコの方を見張るようなスラっとした高い鼻であるということです。

 

5節をご覧ください。今度は頭です。「頭はカルメル山のようにそびえ、髪の毛は紫の羊毛のよう。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」

カルメル山で有名なのは、神の預言者エリヤが、バアルとアシェラの預言者たちと対決した場所です。それがこのカルメル山でした。しかし、もともとの意味は「実り豊かな地」です。そこは実り豊かな美しい地でした。それは髪の毛に表れていました。「髪の毛は紫の羊毛のよう。王はそのふさふさとした髪のとりこになった。」すなわち、羊毛のようにふさふさしているということです。それだけ豊かであるということ、それだけゴージャスであるということです。

 

ただふさふさしているというだけではありません。ここにはその髪の色が紫色であると言われています。どうしたのでしょうか。これまでは「ギルアデの山を下るやぎの群れのようだ」と、その黒髪が称賛されていました。しかし、ここでは紫になっています。あの美しい黒髪を紫色に染めたのでしょうか。ある注解によると、光に当たって紫色に見えたのではないかと説明してありますが、そういうことではありません。ここで強調しているのは「紫色」です。それは高貴な色です。それは王家の気高さを表現しているのです。つまり、1節には「高貴な人の娘よ」とありましたが、彼女は王家に嫁いだことで、王家の一員、ロイヤルファミリーに迎え入れられたということを表現しているのです。それが花嫁の立場です。感謝ですね。

私たちもイエス様に出会って、イエス様を信じたことで、イエス様と一つに結ばれました。王の王、主の主である神の家族の一員とされました。私たちの髪の毛も紫色になっています。ふさふさとしています。このことを忘れないようにしたいです。

 

次に、6節をご覧ください。「ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。」

ここで花婿は花嫁を、「人を喜ばせる愛よ」と呼んでいます。愛を擬人化しているのです。英語で愛する人のことを「my love」と呼ぶことがあります。私の愛する人よ、という意味です。ですから「人を喜ばせる愛よ」というのは、「私を喜ばせる 愛する人よ」ということです。

 

聖書には、神は愛なり、とあります。その神が私たちのことを「愛よ」と呼んでいるのです。それほどまでに私たちは神に愛されているのです。イザヤ書43章4節には「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあります。最近、教会の看板に書かれてある聖書のことばで一番多いのはこのことばです。一昔前まではマタイ11章28節のみことばでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」しかし、今は違います。今一番多いのはこのことばです。今の時代を反映しているのでしょうか。みんな愛に飢えています。みんな愛を求めています。その愛はどこにあるのでしょうか。ここにあります。神は愛です。この神がイエス・キリストをお与えになったほどにあなたを愛してくださいました。ここに神の愛があるのです。この愛を信じる者、キリストの花嫁に対して主は「私の愛する人よ」と呼び掛けてくださるのです。

 

7節をご覧ください。ここには「あなたの背たけはなつめ椰子の木のよう、乳房はその実の房のようだ。」とあります。

「なつめ椰子の木」は、へブル語で「タマル」と言います。「美しい」という意味があります。ですから、ここで花婿は花嫁の背たけをなつめ椰子の木にたとえて、美しいと言っているのです。ファッションモデルのようにスラッとしていたのかもしれません。私はどうみてもずんぐりむっくりで・・という方がおられますか。がっかりしないでください。あなたの花婿はあなたを見てこのように言ってくださるのですから。

 

また乳房はその実の房のようです。新改訳改訂第3版では「あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。」とありますが、正確にはこの新改訳2017の訳のように「その実の房のようだ」となっています。なつめ椰子の実は「デーツ」として有名ですが、その実の房のようだというのです。皆さんは、デーツの実の房を見たことがありますか。ネットで調べてみるとぶどうの房のように、あるいはバナナの房のようになります。でももっと大きいのです。まさにふさふさしています。ですから、ここで花婿は、花嫁の乳房を見て、なつめ椰子の木の実の房のように豊かであると言っているのです。

 

8節をご覧ください。「私は言った。「なつめ椰子の木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうの房のようであれ。息の香りはりんごのようであれ。」どういうことでしょうか。

「その枝をつかみたい」とは、そのなつめ椰子の実の房をつかみたいということです。それは先ほど申し上げたように、ぶどうやバナナよりももっと大きな房になります。それをつかんでかぶりつきたいと言っているのです。これは乳房のことですから、乳房をつかみ取りたいとか、かぶりつきたいというのは性的描写のことです。聖書にこのような描写があるとびっくりしますが、これはあくまでも夫婦の間の性生活のことですから、それはむしろすばらしいことです。それをつかみ取りと思うほど魅力的であるということですから。だから、ここに「あなたの乳房はぶどうの房のようであれ」とあるのです。なつめ椰子の実の房のようであれと言われているのです。

 

また、「息の香りはりんごのようであれ」と言われています。このりんごについても2章3節や2章5節にもありましたが、それは甘い香りを放ちます。それは花婿の香り、イエス・キリストの香りでもあります。花嫁の息の香りがそのような香りであればいいのにというのです。

 

そして9節には口づけのことが記されてあります。「あなたの口は最良のぶどう酒のようであれ。」そのぶどう酒は、私の愛する方に滑らかに流れ、眠っている者たちの唇に流れる。」

時々妻に「あなたはきょう何を食べましたか」と言われることがあります。口が臭いというのです。何を食べたかって、ラーメンとか、カレーライスとか、そういうものを食べた後は口が臭くなります。しかし、花嫁の息の香りはりんごのようです。花嫁との口づけは、最良のぶどう酒のように、なめらかで甘く、眠っている花婿の唇を開かせます。もう何から何まで魅力的です。花婿と結ばれた花嫁の姿は、花婿の心を完全に満たすのです。

 

これがキリストの花嫁である私たちの姿です。それは花婿の心を魅了するほどの美しさです。それは花嫁である私たちが花婿と結ばれ、一つになり、高貴な人の娘とされたからです。私たちは取るに足りない卑しい者ですが、花婿に愛され、高貴な人の娘としていただいたものとして、ますますキリストの心を魅了するような者となりたいと思います。

 

Ⅲ.あの方は私を恋い慕う(10)

 

最後に、10節を見て終わりたいと思います。これまでは花婿が花嫁の美しさを絶賛していましたが、ここから8章4節まで花嫁のことばが続きます。その最初のことばがこれです。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」

 

これまで花婿は花嫁の美しさを絶賛してきましたが、何といっても花嫁の一番の美しさは、その心でした。ここで彼女は「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と告白しています。

「私は、私の愛する方のもの。」という告白は、これで3回目になります。最初の告白は、2章16節にありました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

「私の愛する方は私のもの」という告白は、「あなたは私のもの」という所有の意味が強く表現されていました。花嫁にとって花婿は自分の楽しみであり、花嫁は自分の視点からしか花婿の愛を捉えることができませんでした。どういう事かと言うと、自分の人生の中に神様の祝福を加えようとする、自分の視点で神様の恵みを利用している愛です。神様、こうしてください。神様、私はこれが必要です。これはいりませんと、祝福や問題ばかりに目がいき、それを解決してほしいがためのイエス様です。まだ自分が中心にいます。

 

ところが、前回見たように6章3節の段階では、その愛に成長が見られました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

ここでは順序が逆になっています。「私の愛する方は私のもの」よりも、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と告白できるようになりました。つまり、自分より花婿が中心で、自分はその次なのだと自覚するようになったのです。自己中心的な愛から、献身的な愛へと変えられたのです。神様のみこころが中心で、その中で生きるように変えられました。あなたのご計画の中で私を祝福してくださいと、自分が中心ではなく、みことばが中心となり、その上で自分の生活を整えていくようになったのです。これは大きな成長です。自分を献げることができるようになったのですから。

 

しかし、ここではそれだけではありません。ここで花嫁は、「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と告白しています。

ここで花嫁は、自分が完全に花婿のものであるというだけでなく、「あの方は私を恋い慕う」と、自分が花婿の関心の的であると告白しているのです。もう何をしても、何が起こっても怖くありません。イエス様が必ず守ってくださいますから。つまり、平安の中で完全に憩っている状態です。イエス様が私に対して必ず良いことをしてくださるという確信があるのです。ただイエス様が共におられ、自分をつかんでいてくだされば、それで十分なのです。イエス様にすべてを完全にゆだねているのです。そこまでレベルアップしました。

 

あなたは今、どの段階にいますか?あなたの愛が成長する秘訣は、礼拝です。ワーシップです。私たちに対するイエス様の愛を知れば知るほど、イエス様に対する愛は成熟していきます。あなたは高貴な人の娘と呼ばれるようになりました。それが、花嫁のアイデンティティーです。イエス様は、あなたをこよなく愛してくださいました。その愛を知れば知るほど、あなたは安心してすべてを主に献げることができるようになるのです。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と、私たちも告白する者でありたいと思います。

民数記15章

民数記15章

 

 きょうは民数記15章から学びたいと思います。まず1節から16節までをお読みします。

 

Ⅰ.穀物のささげ物と注ぎのささげ物(1-16)

 

1 主はモーセにこう告げられた。

2 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、

3 食物のささげ物を主に献げるとき、すなわち、特別な誓願を果たすためであれ、進んで献げるものとしてであれ、例祭としてであれ、牛か羊の群れから全焼のささげ物かいけにえをもって、主に芳ばしい香りを献げるとき、

4 そのささげ物をする者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを、主に献げなければならない。

5 また全焼のささげ物、またはいけにえに添えて、子羊一匹のための注ぎのささげ物として、四分の一ヒンのぶどう酒を献げなければならない。

6 雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパを献げ、

7 さらに注ぎのささげ物として、ぶどう酒三分の一ヒンを献げなければならない。これは、主への芳ばしい香りである。

8 また、あなたが特別な誓願を果たすために、若い牛を全焼のささげ物、もしくはいけにえとする場合、あるいは交わりのいけにえとして主に献げる場合は、

9 その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物を献げ、

10 また注ぎのささげ物として、ぶどう酒二分の一ヒンを献げなければならない。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

11 牛一頭、雄羊一匹、いかなる羊、やぎについても、このようにしなければならない。

12 あなたがたが献げる数に応じて、それらの数にしたがって、一頭、一匹ごとにこのようにしなければならない。

13 すべてこの国に生まれた者が、主への芳ばしい香りの、食物のささげ物を献げるには、このようにこれらのことを行わなければならない。

14 また、あなたがたのところに寄留している者、あるいは、あなたがたのうちに代々住んでいる者が、主への芳ばしい香りである、食物のささげ物を献げる場合には、あなたがたがするようにその人もしなければならない。

15 一つの集会として、掟はあなたがたにも、寄留している者にも同一であり、代々にわたる永遠の掟である。主の前には、あなたがたも寄留者も同じである。

16 あなたがたにも、あなたがたのところに寄留している者にも、同一のおしえ、同一のさばきが適用されなければならない。」」

 

13章と14章には、イスラエルの民がカデシュ・バルネアまで来ていたこときに、不信仰になって、神の約束のことばに背いたため、荒野を40年間さまようことになってしまったということが記されてありました。そして、この15章に入ると、様々なささげ物の規定が記されています。イスラエルの不信仰とこのささげ物の規定がいったいどんな関係があるのでしょうか。

 

1節には、「わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、」とあります。これは、荒野での長い辛く苦しい期間を経てカナンの地に入ることのできる新しい世代の者たちに対して語られていることがわかります。彼らがカナンの地に入ってから守るように命じられているのは、いけにえをささげるにあたっての新しい規定ではなく、すでに命じられている規定に対する補足的なもので、これによって以前の規定は完全に満たされることになります。つまり、この穀物のささげものは、彼らが約束の地に入ってから得られる収穫のことで、それはいのちの象徴でありました。確かに彼らは不信仰によって40年もの間荒野でさまよわなければなりませんでしたが、やがて新しい世代がその地に入るとき、そこで豊かないのちを受け継ぐようになるという希望が語られたのです。

 

このように主はイスラエルの失敗のその後で、その失敗にもかかわらず、彼らに希望のメッセージを語ることを忘れませんでした。たとえ彼らが不信仰に陥って失敗しても、神様はご自身の約束を忠実に果たされる方であり、失望のどん底にあっても、その変わらない希望を垣間見させてくださるのです。荒野で死なせることを告げられた後で、約束の地における収穫物のささげものについて語られた主は、そのような配慮をもっておられたのです。

 

そのささげものについては3節から記されてあります。されは、特別誓願を果たすためであっても、自分から進んでささげるものであっても、主に喜ばれるささげ物として、完全に焼き尽くすいけにえや、そのほかのいけにえのために、牛や羊を焼いてささげる時には、子羊一頭ごとに、それぞれ穀物のささげものとして、三分の一ヒン(1ヒンは3.8リットル=約1.2リットル)油を混ぜた小麦粉十分の二エパ(1エパは23リットル=4.6リットル)と、注ぎのささげものとして、四分の一ヒン(1ヒンは3.8リットル=約1リットル)のぶどう酒をささげます。

雄羊の場合には、穀物のささげものとして油三分の一ヒン(約1.2リットル)を混ぜた小麦粉十分の二エパ(約4.6リットル)と、注ぎのささげ物として三分の一ヒン(約1.2リットル)のぶどう酒をささげます。

若い牛の場合は、穀物のささげものとして、二分の一ヒン(約2リットル)をの油を混ぜた小麦粉十分の三エパ(約7リットル)と、そそぎの油としてぶどう酒二分の一ヒン(約2リットル)をささげます。

これを表で表すと以下のとおりとなります。

 

いけにえ

穀物のささげ物

注ぎのささげ物

 

子羊1頭ごとに

油1/4ヒンを混ぜた小麦粉1/10エパ

ぶどう酒1/4ヒン

 

雄羊1頭ごとに

油1/3ヒンを混ぜた小麦粉2/10エパ

ぶどう酒1/3ヒン

 

若い牛1頭ごとに

油1/2ヒンを混ぜた小麦粉3/10エパ

ぶどう酒1/2ヒン

 

1ヒンは3.8リットル、1エパは2.3リットル。ささげ物の種類によらず、いけにえの動物の種類により、1頭ごとに以上の規定によってささげられました。これが主に喜ばれるささげものです。

 

14節からのところには、それはイスラエル人に対してだけでなく在留異国人も、あるいは、彼らのうちに代々住んでいる者たちも同じようにしなければならないと規定されています。それはイスラエルの民と同じです。どういうことでしょうか?それは創世記12章3節で神がアブラハムに語られた約束の成就と考えることができます。神はアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と仰せになられましたが、イスラエルに与えられる祝福を異邦人にも押し流そうとされたのです。もちろん、その約束はイエス・キリストによって実現するものです。イエス・キリストによって文字通り隔ての壁が取り除かれ、キリストにあってユダヤ人も異邦人も一つとされ、同じ祝福にあずかるようにされるのですが、その中にあって、こうしてすでに神のイスラエルに対する祝福が、異邦人にももたらされていたのです。

 

Ⅱ.初物の麦粉で作った輪型のパンのささげ物(17-21) 

 

次に17節から21節までを見てください。

17 主はモーセにこう告げられた。

18 「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたを導き入れようとする地にあなたがたが入り、

19 その地のパンを食べるようになったら、あなたがたは主に奉納物を献げなければならない。

20 初物の麦粉で作った輪形パンを奉納物として献げ、打ち場からの奉納物として献げなければならない。

21 初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を献げなければならない。」

 

ここでも、彼らが約束の地に入り、その地のパンを食べる時どうしなければならないかということが教えています。約束の土地で得た収穫物は動物のいけにえとして添えるだけではなく、その初物を献えなければなりませんでした。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として奉納物として主に献げなければならなかったのです。

 

ヨシュア記5章10~12節を見ると、イスラエルはヨルダン川を渡ってギルガルに宿営したとき、彼らはすべて割礼を受け、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過ぎ越しのいけにえをささげ、その翌日、その地の産物と炒り麦を食べたて言われていますが、おそらくこの時に、初物の麦粉で作られた物が、主にささげられたのであろうと思われます。その翌日からマナが降るのが止みました。しかも、このように初物の麦粉のうちから献げられるのは、約束の地に入った時だけでなく、代々にわたってのことです(15:21)。それは、あなたの家に祝福が宿るためであります。

 

主はいつも「初もの」を私たちに求められます。初めに生まれてきた男子、つまり初子は主のものです。それは一番良いものを意味しています。残りものではなく、自分にとって最も大切なものをささげるのです。そのことによって、私たちのすべては主のものであり、主の恵みによって生かされていることを信仰によって認めることになるのです。ですから、初物をささげるということは、とても重要なことだったのです。私たちも約束の地に入ったならば、すなわち、霊的な恵みと祝福を経験したならば、初物を主にささげなければなりません。それは、私たちの家に祝福が宿る霊的な原則なのです。

 

Ⅲ.あやまって罪を犯した場合(22-36)

 

次に22節から36節までを見ていきましょう。

22 あなたがたが迷い出て、主がモーセに告げたこれらすべての命令、

23すなわち、主が命じた日以後、代々にわたって、主がモーセを通してあなたがたに命じたすべてのことを行わないとき、

24 もしそのことが、会衆が気づかずになされたのなら、全会衆は、主への芳ばしい香りのための全焼のささげ物として若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに罪のきよめのささげ物として雄やぎ一匹を献げなければならない。

25 祭司がイスラエルの全会衆のために宥めを行うなら、彼らは赦される。それは過失であり、彼らが自分たちの過失のために、自分たちのささげ物、すなわち主への食物のささげ物と罪のきよめのささげ物を、主の前に持って来たからである。

26 イスラエルの全会衆も、あなたがたの間に寄留している者も赦される。それは民全体の過ちだからである。

27 もし個人が気づかずに罪に陥ってしまったのなら、一歳の雌やぎ一匹を罪のきよめのささげ物として献げなければならない。

28 祭司は、気づかずに罪に陥ってしまった者のために、主の前で宥めを行う。彼のために宥めを行い、その人は赦される。

29 イスラエルの子らのうちのこの国に生まれた者でも、あなたがたの間に寄留している者でも、気づかずに罪を行ってしまった者には、あなたがたと同一のおしえが適用されなければならない。  

30 この国に生まれた者でも、寄留者でも、故意に違反する者は主を冒涜する者であり、その人は自分の民の間から断ち切られる。

31 主のことばを侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断ち切られ、その咎を負う。」

32 イスラエルの子らが荒野にいたとき、安息日に薪を集めている男が見つかった。

33 薪を集めている者を見つけた人たちは、その人をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。

34 しかし、その人をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、彼を留置しておいた。35 すると、主はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」

36 そこで、全会衆は主がモーセに命じられたように、その人を宿営の外に連れ出し、石で打ち殺した。-

 

ここには、もし彼らがあやまって罪を犯した場合、どうしたらいいかが教えられています。これは、レビ記14:13-21で取り扱われていることですが、違うのは、レビ記の方では、「主がするなと命じられたことの一つでも行って」罪を犯した時のことであるが、ここでは逆に、「代々に渡って主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行わないときは」(23)とあるように、不履行の罪に陥った時はどうしたら良いかを教えていることです。

 

その場合、前者の場合は、若い雄牛を1頭罪のためのいけにえとしてささげましたが、後者の場合は、若い雄牛1頭を全焼のいけにえとして、また定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、そしてさらに罪のきよめの注ぎのささげ物として雄やぎ1頭をささげなければなりませんでした。このように祭司がイスラエル人の全会衆のための贖いをする時には、過失の場合のいけにえに従っていけにえをささげたので、イスラエルの全会衆も、在留異国人も赦されました。

 

ここでは「過失のため」とか、「過失だから」と、「過失」が強調されています。過失とは何でしょうか。過失とは、不注意によって、うっかりと、あやまって犯した罪のことです。故意にではありません。あやまってしたのだから、このようにして全焼のいけにえをささげるなら赦されたのです。

 

また、個人があやまって罪を犯した場合も同じです。一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげ、祭司が贖いをすれば、その者は赦されました。ところで、会衆全体が罪を犯した場合は、若い雄牛をささげなければなりませんでしたが、個人の場合は雌やぎとなっています。それは、会衆全体の場合の方が、責任が重かったからでしょう。

 

しかし、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければなりませんでした。「故意に」と訳されていることばは「高く上げた手」という意味で、「主に向って手を振り上げる」とか、「公然と主に逆らって」という意味で用いられています。それは、主を冒涜することであり、主のことばを侮り、その命令をわざと破ることです。そのような者は民の間から断ち切られなければなりません。

 

これは、私たちクリスチャンにとっても非常に厳粛な意味を持っています。クリスチャンはキリストの死によって贖われた者であるとはいえ、故意にみことばに背くことがあるとすれば、それがどんなに大きな罪であるかを、よく考えなければなりません。

イエス様は「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)と言われました。人はその犯すどんな罪でも赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえに罪に定められます。「聖霊をけがす」とはどういうことでしょうか。すでに私たちはイエスの血によってあらゆる罪を洗い流していただき、聖霊の内住を受けている者です。ですから、キリストにある者が罪に定められることは決してありません。御霊の内住を受けているクリスチャンは「聖霊をけがす罪」を犯すことができないのです。

 

そもそもこのことばが語られた背景を見ると、エルサレムから下って来た律法学者たちが、イエス様のなされた御業を見て「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていたことに対して、弟子たちに語られたことです。彼らはイエスを信じようとしていなかったばかりか、イエスが汚れた霊につかれていると言っていました(30)。この「言っていた」という言葉は、過去の行いを指すよりも、その時の状態の状態を指しています。すなわち、過去に一度、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言ってしまったからといって、その一度きりの行いのために永遠に赦されないというのではありません。また言葉で言うことだけが問題なのではなく、人がイエスさまのことをどう判断しているのか、ということが問題です。

 

ですから、これは今、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていて、これからも言い続けるのならば、あなたは永遠に赦されず、とこしえの罪に定められる危険にさらされている、という警告のことばなのです。もしこれが警告ではなく「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていた人たちが、すでに聖霊をけがす罪を犯していて、永遠に赦されないことを宣言することなのなら、イエスさまが23節で彼らを傍に呼んで、彼らに対してこのように言うことはなかったでしょう。

つまり、聖霊をけがす罪とは、イエスさまの言葉を聞き、イエスさまの行いをみて、聖霊が人の心にイエスさまを受け入れるように働きかけているのに、そのはたらきに逆らって心を閉ざし、イエスさまなんて信じない、彼は悪霊につかれているのだ、と言い続けることです。神が人を赦されようとしないのではなく、人が神の赦しを受け入れないので、そのような人が、とこしえの罪に定められます。一方、どんなに罪深い者でも、イエスを信じなら、すべての罪は赦されていることに安息することができるのです。

 

また、ヘブル書10章26節には、「もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、」とあります。これも解釈が難しい箇所です。真理の知識とはキリストが人間の身代わりに死なれたことによって信じる人は救われるという知識のことですから、この知識を信じて受け入れた人が、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていないとしたら、クリスチャンには罪の清めのためのいけにえは残されていないことになります。しかし、クリスチャンといえども人は皆罪を犯します。そのためにイエスさまがおられるわけで、ことさらに罪を犯したからもはや罪のいけにえがないとしたら、救われたクリスチャンと言えど不安になるのではないかと思います。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 

イエス様が完全な罪のためのいけにえとしてご自身を十字架でささげてくださったのに、それを拒否するなら、その人たちの罪を贖うことのできるいけにえは、もはやありませんよ、ということなのです。28節には「モーセを律法を拒否する者は、二人または三人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。」とありますが、この「拒否する」とか、「無視する」というのは、故意に逆らうということです。たとえば、律法には「殺してはならない」という戒めがありますが、そのつもりがないのに誤って殺人を犯してしまった人には救済の道が用意されていました。しかし、故意に人を殺したら死刑です。そのように、律法を故意に無視する人は死刑なのですから、ましてや、私たちに完全な救いを与えてくださるイエス・キリストを故意に無視する人は、永遠の滅びに向かうのは当然ではないか、というのです。

 

そのような人の特徴として29節のところで紹介されています。それはまず、神の御子を踏みつける人です。神様がせっかく私たちのために遣わしてくださった御子を足の下に踏みつけるというのは、御子だけでなく父なる神様をもこれ以上ないほど甚だしく侮辱することになるからです。

 

また、そういう人は神の恵みを侮ります。神は、私たちを愛し、私たちを救うために御子イエスを送ってくださいました。そのイエス様を救い主として信じる人々の内には、聖霊が宿ってくださり、いつも共にいて教え、導き、守ってくださるのです。それによって、「神は私たちとともにおられる」という聖書の約束が実現しました。私たちが神様を知ることができるのも、イエス様を救い主として信じることができるのも、新しいいのちを与えられて神様とともに生きることができるのも、聖霊の働きがあるからなのです。もし、その恵みの御霊を侮るなら、神様が差し出してくださっているすべての祝福を拒否することになるのです。

 

つまり、ここで言われている「拒否する者たち」とか「逆らう者たち」というのは、自分の意志でキリストに背を向け、神の御子イエス様が救い主であることを認めず、十字架による罪の赦しも受け入れず、聖霊のみわざも否定する人たちです。神を侮った生き方をしている人たちのことです。

 


 そして、29節には、そういう人たちの特徴が書かれています。

 

民数記に戻ってください。32~36節には、その具体例が書かれてあります。イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男がいました。たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来ました。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておきましたが、すると、主はモーセに、その者は必ず殺されなければならない、と言われたので、全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺したのです。どういうことでしょうか。

 

薪を集めることなんて本当にささいなことではありませんか。それ自体は決して悪いことではありません。それなのになぜこの男は殺されなければならなかったのでしょうか。それは、神が定めた安息日を守らなかったからです。彼はそれを知らずにではなく、意図的に、故意に行いました。つまり、知りながら行ったのです。彼は神に逆らい、神を侮っていたので、そのような行為をしたのです。それは新約聖書の光に照らされるなら、まさに自分の意志でキリストに背を向け、神の御子イエス様が救い主であることを認めず、十字架による罪の赦しも受け入れず、聖霊のみわざも否定する生き方です。そういう人にはもはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、永遠の滅びがもたらされることになるのです。

 

Ⅳ.着物のすそのふさ(37-41)

 

最後に37節から41節までをご覧ください。

37 主はモーセに告げられた。

38 「イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅に房を作り、その隅の房に青いひもを付けるように言え。

39 その房はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。

40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。

41 わたしが、あなたがたの神、主であり、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。わたしはあなたがたの神、主である。

 

ここで主はイスラエル人に、着物のすその四隅に房を作り、その房に青いひもをつけるように言いました。何のためでしょうか。それは彼らがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行うためです。そして、淫らなことをする自分の心と目の欲に従ってさまよい歩くことがないようにするためです。こうして彼らが、神のすべての命令を思い起こして、これを行い、神の聖なる者となるためです。マタイ23章5節を見ると、律法学者やパリサイ人たちは、この着物の房を長くしていたとあります。何のためでしょうか。他人の目を引くためです。彼らはこのようにして、自分たちがいかに律法をよく守っているのかを誇示しようとしていたのです。

 

しかし、これは自分たちのわざを誇るためではありません。むしろ逆で、日常生活において、彼らがいつもそれを見て、積極的にも、消極的にも、自らを戒め、励まして、主の命令を守り行うためだったのです。その心がないのに形だけ長くしても意味がありません。それは、彼らが神の命令を思い起こして、これを行い、彼らが神の聖なるものとなるため、つまり、神との交わりの中で、心から神を喜ぶ者となるためでした。それこそが、神がイスラエルをエジプトから救い出された目的です。私たちもいつも主の愛の中にとどまり、罪から救い出してくださった方を覚え、感謝と喜びをもって、主のみこころに歩む者でありたいと思い。

帰りなさい、帰りなさい 雅歌6章1~13節

2021年9月19日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑫)

聖書箇所:雅歌6章1~13節

タイトル:「帰りなさい、帰りなさい」

 

 きょうは、雅歌6章から学びます。花婿を見失った花嫁は必至になって捜し求めますが、そのために彼女はこの質問に明確に答えなければなりませんでした。それは、「あなたの愛する方は、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。」という質問です。それに対して彼女は、「これが私の愛する方、これが私の恋人です。」と答えることができました。他の人にとってどうであろうと、この方は自分にとって本当に大切な方であるという確信を持つことができたのです。きょうの箇所はその続きです。

 

 Ⅰ.成長する愛(1-3)

 

 まず、1節から3節までをご覧ください。「あなたの愛する方はどこへ行かれたのでしょう。女の中で最も美しいひとよ。あなたの愛する方はどこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました。園の中で群れを飼うために、ゆりの花を摘むために。私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

 

 1節は、エルサレムの娘たちのことばです。花嫁は花婿がいかに優れた方なのかを告白すると、エルサレムの娘たちは心動かされ、「私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」と申し出ました。

 

このところから教えられることは、主への賛美は人々の心を動かすということです。エルサレムの娘たちは、花嫁がなぜそんなに必死になって花婿を捜し求めるのか理解できませんでした。しかし、花嫁が花婿のすばらしさをほめたたえたとき、彼女たちの心が動かされ、自分たちも一緒に捜したいと思うようになったのです。これが伝道です。伝道とは、イエスさまとの愛の関係から生まれてくるものです。イエスさまとの愛の関係があると、必然的にこの方について話さずにはいられなくなります。「あの方のすべてがいとしい」と。その方を心からほめたたえ礼拝するなら、それを見るノンクリスチャンは、イエスさまを知りたいと思うようになるのです。勿論、トラクトを配ったり、機会がある度にイエスさまを証することは大切なことですが、最も効果的な伝道は、花嫁である教会が一つとなって花婿であるキリストをほめたたえることなのです。そのとき、この世はイエスさまを知るようになります。

 

イエスさまが教えられたのはこのことです。ヨハネの福音書17章21節を開いてください。ここには、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」とあります。

これは、十字架を前にして祈られたイエスさまの祈りです。イエスさまは「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたがたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」と言われました。「彼ら」とはイエスさまの弟子たちのことです。また私たちクリスチャンのことでもあります。どうしたらこの世は、神がイエスを遣わされたと信じるようになるのでしょうか。それは、父がイエスのうちにおられ、イエスが父のうちにいるように、私たちすべてのクリスチャンが一つになることによってです。教会が一つになって主を礼拝し、主をほめたたえている姿を見ることによって、この世はイエスこそ神の子であると信じるようになるのです。これが、イエスさまが教えられたことです。

ですから、私たちに求められていることは、私たちが互いに愛し合い、心を一つにしてイエスさまをほめたたえることです。もしかすると、それを見たノンクリスチャンは初めのうちは驚き怪しむかもしれませんが、だんだんとそこにはこの世にはない本当の愛があることを知って、「私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」と申し出るようになるのです。

 

2節と3節をご覧ください。「私の愛する方は、自分の庭へ、香料の花壇へ下って行かれました。園の中で群れを飼うために、ゆりの花を摘むために。私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」

これは花嫁のことばです。花嫁は花婿がどこか遠くへ行ってしまったのではないかと思っていましたが、実はごく近くにいました。花婿は「自分の庭」にいたのです。花嫁はどうやって花婿の居場所がわかったのでしょうか。ふと花婿の庭に目をやってみたら、花婿が自分の庭に下って行くのを見たのです。花婿はそこで群れを飼うために、ゆりの花を摘むために、香料の花壇へと下って行きました。それで彼女はこう言いました。「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」どういうことでしょうか。

 

このことばをよく覚えておいてください。彼女がこのように言ったのはこれが2回目です。2章16節でも同じように告白しました。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」しかしここでは彼女はまず、「私はあなたのもの」と告白しています。ここに花嫁の成長を見ることができます。以前の彼女なら「私は私の愛する方のもの」という前に、「私の愛する方は私のもの」と告白していました。まず「私」でした。でもここではそうではありません。その前に「私はあの方のもの」と告白できるようになりました。愛がより純粋になっているのです。花婿といっしょにいることができるという喜びだけではなく、それ以上に自分が夫のものであるということを喜んでいるのです。彼女は花婿との関係の危機を経験したことで、人生の優先順位が変えられました。花婿に対する愛が深くなるにつれ、自己中心的であった愛が献身的な愛へと変わったのです。

 

それは私たちにも言えることです。イエスさまと出会い、イエスさまを信じたことで、イエスさま私のもの、私はイエスさまのものとなりました。このようにイエスさまと一つとなれることはすばらしいことですが、こうした夫婦の危機を乗り越えることによってイエスさまに対する愛がさらに深められ、それまで自己中心的であった愛が献身的な愛へと変えられていくのです。

 

あなたはどうですか。あなたは人生の試練を通して何を学びましたか。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」から「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」と人生の優先順位が変えられ、主への愛が深められ、それまで自己中心的であった信仰が、主のみこころにかなった献身的な信仰に変えられているでしょうか。

 

Ⅱ.旗を掲げた軍勢のように恐ろしい(4-10)

 

次に、4節から10節までをご覧ください。花嫁のことばを聞いた花婿は、花嫁の美しさをほめたたえます。4節には「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しい。あなたはエルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐れられる。」とあります。

「ティルツァ」とは、後にイスラエルは北と南に分かれますが、その北イスラエル王国の首都です。後に北王国イスラエルの首都は「ティルツァ」から「サマリヤ」に移ります。ですから、サマリヤに移される前に首都があった町が「ティルツァ」です。意味は「本物の美しさ」です。ですから「あなたはティルツァのように美しい」とは、「あなたは本当に美しい」という意味になります。花婿は花嫁を見てそのように喜んだのです。これが花婿であるイエスさまが花嫁である私たち教会を見る目です。

また「エルサレムのように愛らしい」とありますが、「エルサレム」とはご存知のようにイスラエル南ユダの首都です。哀歌2章15節には、このエルサレムを「美の極み」とか「喜びと言われた都」と言われています。ですから、これは美の極みであり、喜びの都です。

これら二つの町に共通しているのは、美しさと堅固さです。堅固な城壁に守られていて、揺るぎない土台にありました。王国の都としての栄光と尊厳があります。そのように花嫁も全イスラエルの美しさと栄光に輝いていたのです。

 

しかし、ここにはもう一つのことが言われています。それは「旗を掲げた軍勢のように恐れられる」です。どういうことでしょうか。旗を掲げるとは、戦いで勝利したことを表しています。勝利した軍勢が旗を掲げました。戦いに負ければ、旗は屈辱のうちに取り去られました。けれども、その旗が掲げられる時には、いつも勝利の栄光がありました。花嫁はそのような存在なのです。花婿の前で美しく愛らしい花嫁は、一方で、天の都のように堅固で揺るぐことがない、いつも勝利者としての尊厳があるということです。

 

でもここには「その軍勢は恐れられる」とあります。恐ろしいというのは、美しいとか愛らしいというイメージとは相入れない表現のように感じます。しかし、これは鬼のように恐ろしいというイメージではありません。その恐ろしさは、神の聖さと密接に関連しています。神は聖なる方です。ですから、イエス・キリストによって罪が贖われたクリスチャに求められていることは「聖なるもの」であることです。Ⅰペテロ章16節には、「あなたがたは聖なるものであなければならない。わたしが聖だからである。」と書いてあるからです。」(Ⅰペテロ1:16)とあります。もし花嫁なる教会がこの世に融合し、この世に媚びることがあるとしたら、神の聖さを失い、同時に「恐ろしさ」も失うことになってしまいます。反対に、その聖さを保つなら、旗を掲げた軍勢のように恐れられることになります。そのような花嫁には真の魅力があります。その姿に花婿はとりこにされ、釘付けにされるのです。ですから、花嫁のすばらしさはただ美しいというだけでなく、「美しさ」と「恐ろしさ」を合わせ持った存在として、主の栄光を現わし続ける存在なのです。

 

5節をご覧ください。「あなたの目を私からそらしておくれ。それが私を引きつける。あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ。」

花嫁の目が花婿を引きつけます。花嫁のひとみが花婿の心を引きつけるのです。これはどういうことかというと、もしあなたがイエスさまを見るなら、イエスさまの心はあなたに釘付けになるということです。私たちはいつもイエスから目を離さないようにしましょう。

 

その後のところには、「あなたの髪は、ギルアデから下って来るやぎの群れのようだ」とあります。同じことが4章1節でも語られていました。流れるような黒髪の美しさを表現しています。

 

また、6節と7節には「歯は、洗い場から上って来た雌羊の群れのよう。それはみな双子で、一方を失ったものはそれらの中にはいない。頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」とありますが、これも4章2~3節で語られていたことです。「洗い場から上って来た雌羊の群れのよう」とは、真っ白であるということです。また、「双子で、一方を失ったものはそれらの中にはない」とは、歯並びの美しさを表現しています。上歯と下歯が見事に揃っています。欠けた歯は一つもありません。

「頬はベールの向こうで、ざくろの片割れのようだ。」というのは、赤くて思わずかみつきたくなるような美味しそうな頬であるということです。

 

8節と9節には、「王妃は六十人、側女は八十人、おとめたちは数知れない。汚れのないひと、私の鳩はただ一人。彼女は、母にはひとり子、産んだ者にはまばゆい存在。娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめた。」とあります。

ソロモンには300人の王妃と、700人の側女がいました。ここに王妃は60人、側女は80人とありますから、その初期の頃のことでしょう。彼には多くの王妃と側女がいました。おとめたちは数知れないほどです。しかし、どれだけ多くの王妃がいても、どれだけ多くの側女がいても、どれだけ数知れないほどのおとめたちがいても、あなたは別格だと言っているのです。だったら花嫁だけにしておけばいいのにと思いますが、それがソロモンの弱さでもありました。しかし、それほど多くの女性たちがいても、花嫁だけは特別な存在でした。しかもそれはその王妃たちや側女たちも認めるほどでした。「娘たちは彼女を見て、幸いだと言い、王妃たち、側女たちも見て、彼女をほめました。」

「あなたは私にとってはきれいだけど、客観的に見たらそうじゃないかもしれない」ではないのです。だれが見てもそうなのです。花婿が見ても、他のおとめたちが見ても、くらべものにならないくらい彼女はきれいで特別な存在でした。

 

10節をご覧ください。「このひとはだれでしょう。暁のように見下ろし、月のように美しく、太陽のように明るく、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」

彼女には、暁の光、月のような美しさ、太陽のような輝き、旗を掲げた軍勢のような恐ろしさがありました。これが花嫁である私たち教会の姿でもあります。花婿なるキリストにとって、教会はそのように特別な存在なのです。彼女が同じような罪、同じような失敗を繰り返したにも関わらず、です。彼女は同じような失敗を繰り返し花婿を見失ってしまいました。にもかかわらず花婿は花嫁を一切非難したり、責め立てたりしないで、心から受け入れています。いや、受け入れているどころか、これ以上ないことばで称賛しているのです。9節には「汚れのないひと、私の鳩はただ一人」と言っています。だから、汚れていますって。それなのに花婿は決して彼女を責めないのです。それは彼女の罪を大目に見ているとか、見逃しているということではなく、花婿が彼女の罪を代わりに負ってくださったからです。贖ってくださいました。ですから、もし罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主は何度でも赦してくださるのです。そして、それらの罪をすっかり思い出すことをしないのです。イザヤ1章18節にこうあります。

「さあ、来たれ。論じ合おう。──主は言われる──たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

すばらしいですね。たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださるのです。これが永遠の神の約束です。ですから、私たちも同じような失敗を繰り返すような者ですが、同じ罪を犯すような弱い者ですが、それでもイエスさまに立ち返るなら何度でもやり直すことができるのです。そして、あなたは暁の光のように、月のように美しく、太陽のように明るく、旗を掲げた軍隊のように、光り輝く存在となり、力強い存在となるのです。なぜなら、その旗じるしは「愛」だからです。私たちの花婿であられるキリストは愛によって戦ってくださるからです。

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」(Ⅰコリント13:13)

最後に愛は勝ちます。正義で戦ってはいけません。律法で戦ってもいけません。それは人を滅ぼしてしまうことになります。しかし、愛は人を救います。愛はすべての罪を覆うからです。事実、神の愛があなたを救いました。花婿なるキリストはその十字架の愛によって私たちを救ってくださいました。この主イエスの愛を知れば知るほど、主イエスとの交わりが深くなればなるほど、私たちの主に対する愛と信頼も深められ、揺るぎないものになるのです。

 

Ⅲ.帰りなさい、帰りなさい(11-13)

 

最後に、11節から13節までをご覧ください。11節と12節をお読みします。「私はくるみの木の庭へ下って行きました。谷の新緑を見るために。ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るために。気づいたら、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」

 

これは花嫁のことばです。花嫁は、くるみの木の庭へ下って行きました。新緑を見るためにです。また、ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るためにです。新緑とはいのちの象徴であり、ぶどうの木とざくろの花は祝福と喜びの象徴です。このような庭で花嫁は花婿に会うのです。あなたもくるみの木の下に行ってみてください。そこで神との交わりをもってください。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。そこはあなたの心を清々(すがすが)しくしてくれます。

 

ところで、気づいたら、花嫁は民の高貴な人の車に乗せられていました。民の高貴な人とは花婿のことです。この方はイスラエルの王でした。その方の車に乗せられていたのです。知らないうちにさらわれたということではありません。花婿の庭の美しさに魅せられてうっとりしていたら、急に花婿の車に乗せられてドライブに連れて行かれたという感じです。こんなに素敵なことがあるでしょうか。あこがれの花婿の車に乗せられて連れて行かれるのです。嫌な人ならともかく、愛してやまない人の車に乗せられて、二人だけの時間を持つことができるのです。まさに夢のような時間です。もうずっとこのままいたいと思ったことでしょう。

 

しかし、そのときこのような声が聞こえました。13節です。「帰りなさい、帰りなさい。シュラムの女よ。帰りなさい、帰りなさい。私たちがあなたを見ることができるように。」

これはエルサレムの娘たちのことばです。この言葉から、この花嫁はシュラムの女であったことがわかります。「シュラム」という町の名前は聖書には他に記述がなく、どこにあるのかはっきりわかりません。それでこの「シュラムの女」は、架空の女だと解釈されるようになりました。

一方で、ダビデの晩年にダビデに仕えた美しい女性でシュネムの女でアビシャグという女性がいますが(Ⅰ列王記1:3)、この女性のことではないかと考える人もいます。すなわちこれは「シュラム」ではなく「シュネム」のことではないかというのです。

さらに、ソロモンには多くの王妃と側女がいましたが、その中の一人ではないかと考える人もいます。

いったい何が正しいのかわかりません。しかし、わからなくていいのです。なぜなら、これはある一人の女性というよりも、不特定多数の教会、私たちクリスチャンのことだからです。「シュラム」とはことばには「完全」とか「平和」という意味があります。ですから、「シュラムの女」とは完全な方の女性とか、平和の方の女性ということに意味になります。そうです、完全な花婿イエス・キリストの花嫁、シュラムの女なのです。

 

そのシュラムの女に、エルサレムの娘たちが呼び掛けています。「帰りなさい、帰りなさい。」です。これが繰り返して言われています。繰り返されているということは強調されているということですが、ここには強い願望が表れているのです。だれが言っているのでしょうか。エルサレムの娘たち、あるいは、彼女の周りにいた人たちです。彼女たちはこの花嫁のまばゆいばかりの存在に「幸いだ」と言い、彼女をほめたたえました。その彼女たちに「帰りなさい」と呼び掛けているのです。「帰って来てください」と強く願っているわけです。何のためでしょうか。ここに「私たちがあなたを見ることができるように」とあります。彼女を見るためです。ですから「帰りなさい」とは、どこかへ行ってしまいなさい、ということではなく、自分たちのところに帰って来てくださいということです。なぜ?私たちがあなたを見ることができるように。あなたを見たいのです。あなたがどんなに美しく、どんなにすばらしいのかを。

 

一方で花嫁は何をしていましたか。ドライブです。花婿の車に乗せられて、花婿と二人だけのデートを楽しんでいました。そこで花婿との親密な時間を堪能していたのです。その一方で、エルサレムの娘たちが「帰ってください」と叫んでいるのです。どういうことでしょうか。

 

この箇所から、イエス様の御姿が変貌した出来事を思い出します。マタイの福音書17章にあります。イエスさまはペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて高い山に登られると、弟子たちの目の前で御姿が変わりました。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。それは神の子としてのイエスさまの栄光の御姿でした。

するとそこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていました。それを見たペテロは、そのすばらしい光景に黙っていることができず、こう言いました。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マタイ17:4)

つまり、そこにテントを三つ張って、ずっとキャンプしましょうと言ったのです。どうして彼はそんなことを言ったのでしょうか。あまりにもすばらしい光景だったからです。実のところ彼は何を言ったらよいのかわからなかったのです。それほどすばらしい光景だったのです。

しかし、山の麓では何が起こっていたでしょうか。そこには病気で苦しんでいる人たちや悪霊で苦しんでいる人たち、罪によってさまざまな問題で悩んでいる人たちがたくさんいました。彼らはみなイエスさまの救いを必要としていたのです。彼らは山の麓から叫んでいたでしょう。「帰って来てください」「帰って来てください」、帰って来て、私たちを助けてくださいと、懇願していました。

 

私たちにもこのような時があります。礼拝で祈りやみことばを通して主の臨在に包まれているように時、まるで夢心地であるかのようなすばらしい体験をしている時に、「帰って来てください」という声を聞くことがあるわけです。できればずっとそこにとどまっていたい。もうその場から離れたくない。そのすばらしい余韻にずっと浸っていたい。もう罪の現実には戻りたくないと思うような時があります。しかし、そのような時に「帰って来てください」という声が聞こえてくるのです。「私たちはあなたを見たいのです。私たちのために帰って来てください」そういう声を聞くわけです。山の上の栄光から下りて来て、麓にいる私たちを助けてくださいという声を聞くのです。そうです、私たちは主を礼拝し主と深い交わりを持つ時と同時に、そこから下りて来て、山の麓で輝くことが求められているのです。イエス様はこう言われました。

「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:14-16)

あなたがたは世の光です。光を升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らすことができます。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなければなりません。あなたに向かって「帰って来てください」という声に耳を傾かせる必要があるのです。あなたはその声を聞いているでしょうか。まず花婿であられるイエスさまとのりが必要です。くるみの木の庭に行って、そこで祈り、復活の主のいのちに触れてください。そこで永遠の喜び、永遠の平安、永遠の祝福を味わってください。気づいたら、花婿の車に乗ってドライブに連れて行かれることもあるでしょう。しかし、どうか忘れないでください。山の麓には、あなたを見たいと望んでいる人たちがいることを。あなたを通して、主がどれほどすばらしい方なのかを知り、天におられる父があがめられるようになることを、主は望んでおられるのです。

 

最後に、13節の残りの部分を見て終わりたいと思います。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのか。二つの陣の舞のように。」

これは花婿のことばです。7章1節から花婿のことばが続くので、本来であれば、そちらに入れた方が自然ですが、ここにあるので、この13節との関係を見ていきたいと思います。これは、花婿がエルサレムの娘たちをはじめ、そこにいる人たちに言っていることばです。「どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのか。二つの陣の舞のように。」

 

この「二つの陣」とはヘブル語では「マハナイム」と言います。新改訳聖書第三版には※が付いていて、下の説明に「マハナイムの舞」とあります。背景には、創世記32章1~2節の出来事がありますが、この「舞」は喜びの踊りを表しています。それは勝利の喜びです。しかし、こう言うこともできるのではないでしょうか。すなわち、それは救いの喜びであるということです。その喜びの踊り、喜びの舞です。

ルカの福音書15章10節にはこうあります。「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあふれるのです。私たちもその喜びの舞に招かれています。それは山の上の栄光の場にいるだけでは味わうことができないものです。山の麓で苦しんでいる人たちの前でキリストの光を輝かせることによってもたらされるのです。そこにいる人たちが花婿の愛を一杯受けて美しく輝いた栄光の花嫁、あなたの姿を見て、主に立ち返ることができるように、「帰りなさい、帰りなさい。」という叫びに応えて、彼らの前で主の栄光を輝かせたいと思います。そして、ともに二つの陣の舞、マハナイムの舞をしようではありませんか。