ヨハネの手紙第一4章1~6節「神から出た者」

きょうから4章に入ります。ヨハネはクリスチャンに神を知ってほしいとこの手紙を書きました。1章と2章では神は光であるということ、そして3章からは、神は愛であるというテーマで語っていますが、この4章はその続きです。3章1節には、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」とあります。それがどんなにすばらしい愛であるのかを知ってほしい。それは単に頭で知るだけではなく心で深く体験することです。深く交わることです。

 

Ⅰ.吟味しなさい(1)

 

まず、1節をご覧ください。

「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」

 

神の愛について語るというのですからもっと温かい内容かと思ったら、ヨハネは突然、「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」と語ります。神の愛といったいどんな関係があるというのでしょうか、全く関係ないじゃないですかと思われる方もおられるのではないかと思います。でもそれは愛とは何であるかを知らないからです。愛の賛歌として有名なⅠコリント13章6節には、愛は、「不正を喜ばずに真理を喜びます。」とあります。皆さん「愛」とは何でしょうか。愛とは何でも受け入れるということではありません。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」(Ⅰコリント13:4-7)これが愛です。愛は不正を喜ばずに真理を喜びます。ですから、真理は何かを吟味しなければならないのです。

 

ここには、「霊をすべて信じてはいけません」とあります。この「霊」とは原語で「プニューマ」という言葉です。これはその前の3章24節の「御霊」と訳されている言葉と同じ言葉です。3章24節の「御霊」も4章1節の「霊」も同じ「プニューマ」という語ですが、それが神の霊であるということが文脈上でわかる場合は「御霊」と訳されているのです。英語では大文字の「Spirit」と大文字で表記することで、それが神の霊であることがわかります。しかし、「御霊」も「霊」も原文では同じ「プニューマ」が使われているので、どの霊のことを言っているのかは文脈をよく見なければわかりません。神の霊もあれば、悪魔の霊、悪霊もあります。また天使も霊的存在ですし、私たち人間も神のかたちに造られたとあるように霊をもっています。いろいろな霊があります。ですからヨハネは、霊だからと言ってすべてを信じてはいけないと言っているのです。何でもかんでも聖霊の働きだとは限りません。私たちは時々、これは聖霊の力だとか、聖霊の導きだと聞くことがありますが、それを鵜呑みにしてはいけないということです。その霊が神からのものであるかどうかを吟味しなければなりません。偽預言者がたくさん世に出て来ているからです。

 

パウロはコリントの教会に宛てて書き送った手紙の中でこのように言っています。

「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受けたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。」(Ⅱコリント11:3-4)

パウロの時代、コリントの教会の中にも別のイエスを宣べ伝えたり、異なった霊、異なった福音をもたらす者たちがいました。パウロはそのような者たちの悪巧みによって彼らの純粋な信仰が汚されてしまうのではないかと心配していたようですが、コリントの教会はそうした教えに惑わされることなく、純粋な信仰を保っていたのです。

 

それは二千年前のコリントの教会ばかりでなく、二千年後の今日の教会にも言えることです。同様の問題が起こっています。新しい教えの風が吹いてくると、何でもかんでも信じたくなります。信仰が未熟であればあるほど、聞いたらそのまま受け入れてしまいたくなるのです。勿論、神のみことばに対しては幼子のように素直に聞き従うという姿勢が大切です。でもほんとうにそうなのかどうかは、よく吟味しなければなりません。

 

イエス様は12人の弟子達を伝道に送り出すとき、「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」(マタイ10:16)と言われました。それは狼の中に羊を送り出すようなものだからです。それは安全が保証されているような気楽な務めではありません。そのような彼らに求められていたことは、蛇のように賢く、鳩のように素直であることでした。どちらか一方だけではいけません。蛇のようにいつもしかめっ面ばかりしていてはいけません。疑い深いトマスのように、「俺は絶対に信じない」といった態度では良いものも入ってこなくなります。しかし、鳩のようにただ素直であればいいというのでもいけません。そうした教えに惑わされて信仰の純粋さを失ってしまうことになるからです。ですから、霊だからといって何でもかんでも信じるというのではなく、その霊が神からのものであるかどうかを、よく吟味しなければならないのです。時には蛇のような賢さを持ち合わせていなければならないということです。

 

使徒の働き17章10,11節には、ベレヤの人たちの信仰について紹介されています。迫害によってテサロニケを追われたパウロとシラスはこのベレヤの町に逃れますが、そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入りました。会堂に入るとびっくり!彼らはテサロニケにいた人たちよりも素直にみことばを受け入れただけでなく、果たしてそのとおりかどうか、毎日熱心に聖書を調べていたからです。その結果、彼らのうちの多くの者が信仰に入りました。

 

みことばを熱心に聞き、それを素直に信じることは大切なことです。しかしそれが本当かどうかを調べることは、私たちが祝福された信仰生活を送っていくためにとても重要なことなのです。ローマ・カトリック教会では、聖書は私的解釈を施してはならないとあることから教会の正式な解説がなければ読めないと主張しますが、そうではありません。このベレヤの人たちのように「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べ」ることができます。霊だからといって何でもかんでも信じてはいけません。その霊が神からのものかどうかを、吟味しなければならないのです。

 

Ⅱ.神からの霊(2-3)

 

では、それが神からのものであるかどうかをどうやって見分けることができるのでしょうか。2節と3節をご覧ください。

「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。」

 

いったいどのようにしてそれが神からの霊であると知ることができるのでしょうか。それは、人となって来られたイエス・キリストを告白する霊であるかどうかによって分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。しかし、イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。告白するとは信じるということです。人となって来られたイエス・キリストを信じているかどうか、それを信じている霊はみな、神からのものですが、それを信じていない霊はみな、神からのものではないのです。

 

ところで、ここではただイエス・キリストを告白しない霊というのではなく、人となって来られたイエス・キリストを告白する霊ということが強調されています。どういうことでしょうか?これは以前にもお話ししたように、当時教会の中に吹き荒れていたグノーシス主義という考えの影響があります。グノーシス主義の特徴は霊肉二元論です。つまり、この世界は物質と霊によって成り立っており物質は悪であるが、霊は善であるという考えです。ですから、このグノーシスの考えによると、神の子であるキリストが人となって来られるはずがないというのです。神は霊であって善であるのに対して、肉体は物質であって悪だからです。だからキリストが人となるわけがないのです。それは人の目でそのように見えただけであって、まるで人の姿をとって生まれ、人として生き、人として死に、人として復活したかのように見えにすぎないというのです。こういうのを何というかというと「仮現論」と言います。仮に現れたかのように見えるという意味です。それは本当ではなくただの幻影にすぎないが、そのように見えたというものです。これがキリスト教会の中に蔓延していました。

 

こうしたグノーシス主義の教えは、当時のクリスチャンたちにとんでもない結果をもたらしました。一つは禁欲主義です。すべての肉は悪なので、その肉を打ちたたいて悟りを開こうとしました。それが断食であったり、難行苦行という形で現われました。しかし、残念ながらそのようなことによって霊の世界を開くことはできません。私たちの霊が救われるのはただ神が人となって来られたイエス・キリストを信じ、私たちの罪の贖いとして十字架で死んでくださったと信じることによってでしかありません。それ以外に救われる道はないのです。

 

グノーシス主義がもたらしたもう一つの結果は放縦主義です。放縦主義とはほしいままにふるまうとか、やりたい放題に生きるということです。これは禁欲主義とは正反対です。つまりこの肉の世界と霊の世界は何の関わりもないし、肉の世界ですることは霊の世界には何の影響も与えないのだから、何をしてもいいという考えです。

 

ですから、ヨハネはここで神からの霊がどのようなものであり、何が真理で正しい教えなのかをはっきり示してくれたので、私たちはその真理に堅く立つことができるようになりました。グノーシス主義は自分たちの勝手なイメージで神を作り上げ、教会の中に混乱と破滅をもたらしましたが、それは今日も同じです。特に聖書を読まない人に限って神はこういうものだと決め込んで、特別な知識がなければ本当の神を知ることもできないと主張し、その結果とんでもない生き方をするようになっていますが、本物の救いは聖書に記されたイエス・キリストにあります。人となって来られた神の御子イエス・キリストにあります。このイエスを告白する霊はみな神からのものであり、そうでないものはみな、神からのものではありません。それは悪魔からのもの、反キリストの霊なのです。

 

Ⅲ.神から出た者(4-6)

 

第三のことは、その結果です。神から出た者は、彼らに勝利することができるということです。4節から6節までをご覧ください。4節には、「子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。」とあります。「彼ら」とは、反キリストの霊によって動かされている人たちのことです。またその背後で働いている悪の力、悪霊のことです。神からの霊を受け、人となって来られたイエス・キリストを告白する者たちは神から出た者であり、そうした者たちに勝つことができるのです。それは私たちに力があるからではありません。私たちのうちに偉大な方が住んでおられるからです。それは聖霊なる神です。キリストの霊とも言われます。私たちの内には聖霊が宿っておられます。キリストの御霊が住んでおられます。それによって私たちはこの世にいる者、これはこの世の支配者である悪魔、サタンのことですが、それに勝利することができます。この世での信仰生活にはさまざまなプレッシャーがありますが、そのようなプレッシャーの中でも勝利することができるのです。

 

それはちょうど深海魚のようです。深海魚は不思議なもので水深何千メートルという海の底で生きています。どうしてあんな深い海の底で生きられるのでしょうか。海の底は深ければ深いほど相当の水圧がかかるため、普通の魚は生きていくことはできません。それなのに深海魚はその水圧をもろともせずに平気でスイスイ泳いでいます。それは深海魚の皮が潜水艦のように分厚い鉄板に覆われているからではありません。実は深海魚は中が脂身でいっぱいだからです。アンコウを思い出してください。脂がのっていておいしいですよね。その脂が浮袋のようになって水圧を押し戻すので、どんなに水圧がかかっても大丈夫なのです。

 

クリスチャンは深海魚のようです。アンコウに似ています。別に見た目が似ているということではなく、そうした世の中の圧力、プレッシャーを受けながらも、内側にイエス・キリストの聖なる御霊に満たされているので、どんなプレシャーにも勝利することができます。神を信じない罪の世界にいても、それに屈することなく、勝利の人生を歩むことができるのです。確かに、私たちは弱い者です。深海魚をみればわかります。皮は薄くブヨブヨしています。潜水艦のような分厚い鉄板で覆われているわけではありません。でも私たちの内には強い方、聖霊様が住んでおられるので、この方の力によってこの世にあっても圧倒的に勝利することができるのです。

 

「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

 

私たちがもしこの世に勝利しようと自分の外側を強めようとするならば、打ち負かされてしまうでしょう。どんなに鉄の鎧で自分を固めようとしても、すぐにつぶされてしまいます。私たちが作り上げるものでは、どうやってもこの世の敵に立ち向かっていくことはできません。でもどんなに私たちが弱くても、私たちの内にキリストの御霊、神の聖霊が住んでくださるなら、どんなプレッシャーにも耐えることができ、必ず打ち勝つことができます。なぜなら、私たちのうちにおられる方は、この世にいるあの者よりも力があるからです。

 

しかし、彼らはこの世の者です。ですから、この世のことを話し、この世も彼らの言うことを聞きます。その方がとても魅力的にも見えます。彼らは深海魚のような人たちではなく潜水艦のような人たちです。彼らは肉を誇ります。自分たちの力で何とかプレッシャーに打ち勝とうと躍起になっています。でもどうでしょうか。昨今のこの社会の動向をみると、それが間違っているということに少しずつ気付いてきているのではないでしょうか。学生のスポーツの在り方も勝利至上主義から人格形成のための一つの手段にすぎないということが見えて来て、今までの在り方がどこか間違っていたということに気付いてきているのです。私たちはアンコウのようなものです。この世の方がよっぽど強そうに見えます。でも見た目に騙されてはいけません。それが必ずしも強いわけではないのです。どんなに弱そうな者でも、その内側に神の霊を宿している人こそ本当に強い人です。あの人はまるで深海魚のように弱々しい。見た目もちょっと似ているかもしれないが、でもあの人の内にはものすごい力が働いている。それは神の力であるということを、イエス・キリストを信じて、その方が内に住んでくださることによって証明されるのです。

 

6節をご覧ください。「私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者たちは私たちの言うことを聞きません。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。」

 

神から出た者は、私たちの言うことを聞くとあります。私たちの言うこととは、ヨハネたちの言うこと、すなわち、聖書の言うことです。神から出た者は聖書の言うことを聞きます。聖書の言うことを聞くか聞かないかによってそれが真理の霊なのか、偽りの霊なのかを見分けることができます。なぜなら、聖霊が聖書を書きました。聖霊は真理の御霊とも言われています。ですから、聖霊は聖書が言っていることと矛盾しません。しかし、聖書のことばに耳を傾けない、聖書の教えから外れていくなら、それは偽りの霊です。それによって私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けることができます。

 

あなたは神から出た者ですか。もしそうであれば、必ず神の御声、聖書の声に聞き従います。羊が羊飼いの声を聴き分けるように聞き分けます(ヨハネ10:27)。私たちの周りには実に多くの声がありますが、私たちの内におられる真理の御霊によって、また真理のみことばによって、真理の霊と偽りの霊をしっかり見分ける者でありたいと思います。愛はそこから始まります。愛は不正を喜ばずに、真理を喜ぶからです。

 

士師記3章

士師記3章を学びます。まず1節から6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.主が残しておかれた異邦の民(1-6)

 

「カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。――これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである。――すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった。これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。」

 

2章の終わりのところで言われていたように、確かにイスラエルの民は神の命令に背き、その地の住民を追い払うことをせず、かえって自分たちの首を絞めることになりましたが、それはまた、その地の住民によってイスラエルを試みるためもありました。1節、2節には、「主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、イスラエルの次の世代の者で、まだ戦いを知らない者たちに、戦い方を教え、知らせるためであった」とあります。

 

私たちの信仰生活にも、確かに、神の御心に従って、神の御心を成し遂げるための戦いがあります。それはこの世との戦いであり、罪との戦い、肉の欲望との戦い、悪魔との戦い、信仰をきよく保つところの戦いです。もちろん、戦いはできれば避けて通りたいことですし、平穏に暮らせるのであればそれに越したことはありません。しかし、私たちはそうした戦いの中で自分自身ではなく主に拠り頼むようになるのです。特に戦いを知らない次の世代の者にとっては、どうしても避けられないことでした。神は、それを教えるために、試練と苦しみを残しておかれたのです。

 

その信仰の試練を、イスラエルの民はどのように乗り越えたでしょうか。5節6節には、「彼らはカナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただなかに住み、彼らの嫁を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。」とあります。つまり彼らはその地の住民と同化してしまったのです。神のみこころは、その地の住民と縁を結んではならないということでしたが(申命記7:3)、彼らは神の命令に背いてしまったのです。なぜでしょうか。

 

イスラエルの民にとっては、戦って町を手に入れるよりはその地の住民と結婚し、平和的に同化してしまうことの方がずっと得策のようにすら思われからです。しかし、その結果どうなったでしょうか。イスラエルの民は、相手の神々を受け入れ、拝むことになりました。そしていつしか自分たちの神を忘れ、信仰の遺産を捨て去ることになってしまったのです。

 

ローマ人への手紙12章2節には、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」とあります。神の民であるクリスチャンはこの世にあっても、この世と調子を合わせてはいけません。唯一まことの神を知り、その神の愛と聖さに生きる者であるならば、その光を輝かせなければならないのです。しかし、イスラエルの民は、その神の選びとその責任を忘れてしまいました。イスラエルの民の課題は、私たちの課題でもあります。聖書の真理を世に伝え、神の恵みの福音を語り伝える信仰的な戦いを意識できなければ、結局はこの世に流されてしまいます。神は戦いを教え、知らせようとされていることを忘れてはいけません。主がともにおられることを覚え、信仰の戦いに勝利させていただきましょう。

 

Ⅱ.オテニエル(7-11)

 

次に、7節から11節までをご覧ください。

「こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。主の霊が彼の上にあった。彼はイスラエルをさばき、戦いに出て行った。主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。それで彼の勢力はクシャン・リシュアタイムを押えた。こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。その後、ケナズの子オテニエルは死んだ。」

 

「こうして」とは、イスラエルの子らがその地の住民と婚姻関係を結ぶことで彼らと同化するようになり、彼らの神々に仕えるようになってということです。イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えました。すると主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に渡されたので、彼らは8年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えることを余儀なくされました。アラム・ナハライムはメソポタミアのことであり、現在のシリヤの北部に位置します。つまり、ずっと北に位置していた王がイスラエルまでやって来て、彼らを支配したのです。それでイスラエルが主に叫び求めると、主はイスラエルのために一人の救助者を起こして、彼らを救われました。それがオテニエルです。

 

彼はユダ族の出で、カレブの弟ケナズの子でした。すなわち、カレブの甥です。彼については1章11節のところに紹介されてあります。カレブがキルヤテ・セフェルに攻め入った際その地をなかなか攻略することができなかったとき、カレブは、「キルヤテ・セフェルを打って、これを攻め取る者に、私の娘アクサを妻として与えよう。」と言うと、このオテニエルが手を挙げ、それを攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えました(1:13)。ですから彼はとても勇敢な者であったことがわかります。主はこのオテニエルを最初の士師としてイスラエルを救うために遣わされたのです。

 

しかし、それは彼が勇敢だったというよりも、彼の上に主の御手があったからです。10節には、「主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。」とあります。彼に特別な能力があったからではなく、また彼に軍事力や政治力があったからではなく、彼に主の霊が臨んだので、彼は勝利することができたのです。オテニエルがイスラエルをさばいていた40年間、イスラエルは穏やかでした。しかし、オテニエルが死ぬと状況は一変します。

 

Ⅲ.エフデとシャムガル(12-31)

 

12節から30節までをご覧ください。まず12節です。

「そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らが主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。」

このように新改訳聖書第三版では「そうすると」とありますが、原文では「ワウ」というへブル語の接続詞で、これは単純に「また」を意味するものなので、必ずしも、時間的な順序で、オテニエルが死んでからエフデの活躍があった、と理解する必要はありません。おそらくそういう理由から新改訳2017ではこの接続詞が省略されているのだと思われます。実際オテニエルが戦ったクシャン・リシュアタイムは、北方のアラムの王であり、エフデが暗殺したエグロンは、南方のモアブの王です。時間的にも、場所的にも、何の繋がりもありません。実際には、個別的で、部族的な事柄だったのです。

 

ですから、オテニエルの死とは直接的な関係はありませんが、イスラエル人は主の目の前に悪であることを重ねて行いました。それで主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせました。

 

「エグロンはアモン人とアマレク人を集め、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領した。」

「なつめやしの町」とはエリコのことです。モアブはヨルダン川の東に住んでいる民ですが、ヨルダン川の西にまでやって来て、エリコを占拠していたのです。こうして、イスラエルの子らは18年の間、モアブの王エグロンに仕えました。

 

そこで、イスラエルの子らが主に叫び求めると、主は彼らのために一人の救助者を起こされました。誰でしょう。エフデです。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きであったとあります。なぜここに左利きであったと強調されているのでしようか。左利きでも右利きでもどうでもいいじゃないかと思いますが、ここには左利きであったことが強調されているのです。その理由は後で明らかにされます。ここにはイスラエル人はそのエフデの手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送ったとあります。

 

その時です。エフデは長さ約1キュビトの両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上の帯にはさみました。そして貢ぎ物を携えてエグロンのもとに行きました。ここにはわざわざエグロンがたいへん太った男であった紹介されています。なぜこんなことまでわざわざ記録されているのかわかりませんが、おそらく22節のところに、彼が剣で刺されたとき柄も刃も一緒に腹の中に入ってしまい、脂肪が刃をふさいでしまったということを言いたかったのでしょう。もしかすると、もっとダイエットしなさいと言っているのかもしれません。いずれにせよ、エグロンがたいへん太っていたということで、この時の様子がリアルに伝わってきます。

 

19節を見てください。エフデがエグロンに、「王様、私はあなたに秘密のお願いがあります」と告げると、エグロンは彼に、「今は、言うな」と言いました。どうしてエグロンはこのように言ったのでしょうか。エフデが秘密のお知らせがあると言ったことで、そばにいた者たちを出て行かせようと思ったのでしょう。それにしてもなぜエグロンが付き人たちを外に出させたのでしょうか。そこにはエフデの巧妙な手口があったことがわかります。それは21節の「あなたに神のお告げがあります」という言葉です。この「神」は、当時のイスラエル人が使う神の名「ヤハウェ」ではなく、その地域で広く使われていた一般的な神の名「エロヒーム」です。その「神」から王に秘密の知らせがあると言ったことでエグロンが興味を持ち、「今は言うな」とお付きの者を外に出させたのでしょう。つまり、エフデは実に巧妙な手口で彼を騙したのです。どうしたらエグロンを打ち破ることができるかを考えて、考え抜いて、見出した方法が、この方法だったのです。

 

そんなやり方を使うなんて汚いと思うかもしれません。しかし、私たちの戦いには綺麗な戦い方だけではなく、ある意味で泥まみれの戦いもあります。だからこそ、私たちは戦うことを避けたいと思ってしまうのです。もちろん、聖書はそのような戦い方を肯定しているわけではありません。パウロはⅡテモテ2章5節で、「規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません」と語っているように、規定に従って競技をすること、労苦する農夫であることを勧めています。そのようなイメージで戦い抜くことを勧めています。しかし、この時のエフデにとってはそれが最善の策として神が彼に与えてくださったのです。

 

21節をご覧ください。「このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を指した。」

ここに、なぜエフデが左利きであることが記録されているのかがわかります。彼が左手を伸ばして右もものところに手を入れても、瞬時にそれが剣であるとは相手も気づきにくいでしょう。人間的には一般から離れているような特徴、他の多くの人と異なるので恥ずかしいと思うことがありますが、主はそれをご自分の栄光のために用いられるのです。

 

23節をご覧ください。彼は用意周到な人物でした。エグロンを指した後窓から出て廊下へ出て行き、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めました。それは時間かせぎをするためです。案の定、彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来ますが、王のいる屋上の部屋にかんぬきがかけられているのを見ると、王は涼み部屋で用をたしていると思い、戸をあけませんでした。しかし、いつまで待っても出て来ないので、しもべたちが鍵を取って戸を開けると、王は床に倒れて死んでいました。

 

26節をご覧ください。エフデは、しもべたちが手間取っている間にセイラに逃れました。そして到着すると、彼はエフライムの山地で角笛を吹き鳴らし、イスラエルを招集しました。何のためでしょうか。28節にあるように、モアブに通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、彼らを打つためです。ヨルダン川の西にもたくさんのモアブ人がいました。彼らが自分たちの国に戻ろうとするのをエフデは阻止しようとしたのです。そのようにしてイスラエル人は約1万人のモアブ人を討ったのです。モアブ人はみな、頑強で、力のある者たちでしたが、一人として逃れた者はいませんでした。

 

このようにして、モアブはその日イスラエルの手に下り、イスラエルはエフデのもとで80年間、穏やかに過ごすことができました。これは士師の中で最も長く続いた平和の期間です。

 

最後に31節をご覧ください。

「エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。」

 

エフデと同時期に、違う地域でペリシテ人と戦った士師がいます。それはシャムガルです。彼は、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打ってイスラエルを救いました。牛の突き棒とは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すための棒です。片方の先はとがっていて、もう一方はのみのようになっていました。シャムガルは、おそらくは農作業をしていた普通の人だったのでしょう。このように、普通の人でも主に用いられます。普段の生活の場で大きな働きをするように主が用いられるのです。神学校に行かなければ伝道や牧会の働きができないというのではなく、主はその置かれているところで、その人が持っているもので仕えることができるように用いてくださるのです。

ローマ人への手紙3章1~8節「神は真実な方です」

きょうは「神は真実な方です」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪について語ってきました。神を知っていながらその神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、無知な心が暗くなった結果、してはならないことをするようになってしまった異邦人に対して、そんな異邦人をさばきながらもそれと同じようなことをしていたユダヤ人たち。彼らは自分たちが神によって特別に選ばれた者であることを誇りから形式的に律法に仕えていました。そんなユダヤ人たちに対してパウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、かえって人目に隠れたユダヤ人こそ本当のユダヤ人であると言いました。御霊による、心の割礼こそが割礼なのだと、バッサリと斬り捨てました。このようにしてパウロは、異邦人もユダヤ人もみんな罪人なのだと論じていくわけですが、その前に彼は、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、なぜ神は彼らをご自分の民として選ばれたのか、その理由を語ります。それは神が真実な方だからです。

 

きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人のすぐれたところです。第二のことは、そのようなユダヤ人の不真実に対する神の真実です。第三のことは、であれば、私たちは神の真実に応えましょう。

 

Ⅰ.ユダヤ人のすぐれたところ(1-2)

 

まず、第一に、では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったいと何かということについて見ていきたいと思います。1~2節をご覧ください。

 

「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」

 

パウロは2章で異邦人同様、ユダヤ人も罪を犯しているのなら、しかも彼らは律法を知りながらそれを破っているのであれば、律法を知らずに罪を犯している異邦人よりももっとひどいのではないかと言うと、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、と自問自答します。ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何なのか。

 

これに対してパウロは、「大いにあります」と答え、ユダヤ人のすぐれている点を語ります。それは彼らには神のことばがゆだねられていることです。これはシナイ山で与えられた十戒を中心とした神からのことばのことです。申命記4章12節には、「主は火の中から、あなたがたに語られた。」とあります。神ご自身がイスラエルに語られました。このような民族は他にはありません。これはユダヤ人にとって何よりも大きな特権でした。彼らには約束の地が与えられました。またソロモンの時代には世界で最も栄え、世界中のあこがれの的になったほどです。しかし、彼らにとって最もすばらしい特権は、この神のことばがゆだねられていたことでした。これは他のどの祝福にも優ったすばらしい祝福です。ですからここには「第一に・・・」と言われていながら、第二がないのです。「第一に・・・」しかありません。これがすべてです。これで十分です。これは他の民族にはありませんでした。これはユダヤ人だけに与えられた特権であり、他の民族はユダヤ人を通して聞かなければならなかったのです。そういう意味でユダヤ人は、神と他の民族の橋渡しをする務め、使命が与えてられていたと言えるでしょう。彼らにはこのような特権が与えられていたのです。彼らにはバビロンやペルシャのような大帝国になったり、ローマのような強力な軍隊を持ってはいませんでしたが、そのようなものよりもはるかに力ある神のことばが与えられていたのです。

 

イスラエルの長い歴史の中で彼らの祝福を一言でまとめることができるとしたら、それはこの神のことばを受けた国であったということに尽きると思います。永遠のまことの神を知ること以上に大きな祝福はないのですからです。神ご自身に関する知識は他のいかなる真理よりもすぐれたものであれば、イスラエルはギリシャの哲学やローマの法律、中国の政治の知恵よりもはるかに優る宝を所有していたと言えるのです。端的に言うならば、イスラエルは全ての国々の上に高く上げられた民族なのです。これほど偉大な特権と祝福をいただいている民は他にはいません。

 

そして、実は私たちにもこの特権がゆだねられています。第二テモテ3章16節には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)とありますが、この神のことばである聖書が与えられています。今から150年前、200年前はまだ日本語に訳されたばかりだったので、英語とか、ラテン語で読まなければなりませんでした。しかし、最近は日本語にも翻訳され、昨年も新改訳2017が出版されたように、少しずつわかりやすくなっています。訳としてまだぎこちないところもありますが、ラテン語やギリシャ語で読むよりはずっとわかりやすくなっています。いづても、だれでも、自由に、聖書のみことばを読めるようになりました。それは本当に祝福ではないでしょうか。

 

1,450年頃まではヨーロッパにも印刷機がなかったので、書物はどれもみな大変貴重なものでした。教会には聖書がありましたが、信者はそれを自由に持つことができませんでした。博物館にある聖書を見たことのある人もおられるかと思いますが当時の聖書は非常に大きなもので、すべて手書きで書かれてあり、それに盗まれないように鎖までかけられていました。教会に来て聖書を盗むのです。今では国際ギデオン協会の方々が、「どうぞ聖書を読んでください」と学校の校門で配っても、「い~らない」と言ってゴミ箱に捨てる人も多くいます。昔では考えられないことです。盗まれないように鎖をかけて、宝のように大切に保管されていたのです。それでクリスチャンはいつ聖書のことばを聞くことができたのかというと、日曜日に礼拝に集まった時だけでした。ですから、礼拝では牧師がみことばを長く朗読しました。できるだけ神のみことばを聞きたかったのです。今でも伝統的な教会に行くと、毎週の礼拝で旧約聖書と新約聖書の読む箇所が決まっていて、牧師によって朗読されることがあります。教会員は聖書を持っていなかったので、日曜日の礼拝で、みことばをたくさん読んであげなければならなかったのです。そのようにして、信者たちはみことばを聞くことができました。それほど貴重なものなのです。ですから、みことばが朗読される時には会衆は全員立って聞いていたそうです。長い時には2~3時間続きました。立っていますから居眠りなどはできません。彼らは礼拝のために礼拝堂入った時から終わって出て行く時までずっと立ちっぱなしで礼拝することも少なくなかったのです。それでもみことばが聞きたかった。みことばに飢え渇いていたのです。聖書が少なかった時代、信者たちのみことばを求める心は非常に強かったのです。

 

私たちは今、聖書を読もうと思えばいつでも読むことができます。しかも一冊だけでなく何冊も持っているという人もいるでしょう。いや私はスマホで見てるという人もいます。日本語だけでなく英語や他の国の聖書も持っているという人もいます。そうした恵まれた時代に生かされているのです。であれば私たちは神のことばが与えられていることに感謝して、みことばから教えられ、これをまだ知らない人たちに伝えていくという使命を果たしていく者でありたいと思います。ユダヤ人のすぐれたところは、この神のことばが与えられていたことだったのです。

Ⅱ.神は真実な方です(3-4)

 

次に3~4節をご覧ください。ここには、「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。

 

どういうことでしょうか。ユダヤ人にのことばが与えられていたとしても、もし彼らがそれに従わなかったとしたらどうなるのでしょうか。結局のところ、無駄になってしまうのでしょうか。パウロは力を込めて言います。「絶対にそんなことはありません。」なぜなら、たとえすべてのユダヤ人が不真実であっても、神は常に真実な方だからです。神は彼らにみことばを与え、もしこのみことばに聞き従うなら、神の宝の民となるという約束をしてくださいました(出エジプト19:5~6)。それで彼らはこのみことばに聞き従ったかというとそうではありませんでした。むしろこれを背き続けてきました。ではこの約束は全く意味がなかったということなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。なぜなら、彼らが不真実であったとしても、神は常に真実な方だからです。人間は平気で約束を破ります。どんなに神の前で誓ってもいとも簡単に破ってしまいます。しかし、神は違います。神はどんなことがあっても約束を破られる方ではありません。どこまでも守られるのです。なぜなら、神は真実な方だからです。ここに神との契約の確実性があるのです。ですからこれは一方的な神の祝福の約束であって、私たち人間の不信仰や不真実によって無効になるものではないのです。イエス様は次のように言われました。

 

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

 

キリストのことば、神のことばは、滅びることがありません。必ず成就するのです。また、イザヤ書46章3~4節にも、次のような約束が記されてあります。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

胎内いる時からになわれているだけでなく、年をとっても、いや、しらがになって、背負われるというのです。これが神の約束です。ここに神の真実が表れています。神の真実は、私たちの不真実によって無効になるようなものではありません。神の賜物と召命とは変わることがないからです。(ローマ11:29)

 

何度か紹介しましたが、マーガレット・パワーズという人が書いた「あしあと」(フット プリント)という詩は、このことを私たちに思い起こさせてくれます。

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

わたしと語り合ってくださると約束されました。

それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

ひとりのあしあとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

あしあとがひとつだったとき、

わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

二組のあしあとがずっとあったのに、途中で一組しかない。考えてみるとそれは自分の人生の中で最も辛く、悲しく、苦しい時でした。最も神を必要としていた時に限って、あしあとが一組しかないのです。「主よ。なぜあなたはその時にいてくださらなかったのですか。」いてくださらなかったのではありません。一緒におられました。ずっと一緒に歩いていてくださった。あしあとが一つしかなかったのは、主があなたを背負っていたからだ・・と。

 

本当に感動的な詩です。私たちは何度も何度も背負われて来たのだと思います。そして、これからも同じことをしてくださるのです。激しい試練に遭うとき、もう神に見捨てられたのではないかと思うような時でも、主は私たちの側にいてくださるのです。主は決してあなたを裏切るようなことはなさいません。あなたが不真実でも、常に真実であられます。ですから、決して人生をあきらめてはなりません。決して失望してはならないのです。

 

Ⅲ.神の真実に答えて(5-8)

 

ではこの真実な神の前に、私たちはどうあるべきでしょうか。ですから第三のことは、この神の真実に答えましょうということです。5~8節です。

 

「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか―私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」

 

このようなことを申し上げると、中には、「そのように、もし私たちの不真実が神の義を明らかにするのであれば、その神の栄光を現すために、どんどん悪いことをしようではないか」と言う人がおられます。そのことに対してパウロは、絶対にそんなことはないと言っています。このような浅はかな考え方は、神を人間と同じレベルにまで引き下げてしまうのであって、神は絶対者であってさばき主であるということがわかっていないからなのです。私たちの神様はこの世界を創造されただけでなく、この世界を動かしておられます。そして最後にこの世界をさばかれます。このさばき主の前には、このような論理は通用しないのです。いや、それは人間の社会においても、決して通用しないものでしょう。たとえば、泥棒がいることによって警察官は成り立っているのだから、警察官は泥棒を逮捕すべきではないし、むしろ感謝すべきだといった主張しても通用するはずがありません。同じことです。であれば、このような神の真実によって、その一方的な恵みによって救われたのではあれば、この神の真実、神の恵みに答えるような生き方を求めていかなければなりません。キリストの恵みによって救われたのだから、どんな生活をしても構わないのだと考え、なおも罪深い生活を続けるようなことがあるとしたら、そこにはもはや神の恵みは残されてはいません。そのように論じる人が罪に定められるのは当然なのです。もし神の私たちに対する真実、その恵みがどれほどのものであるかを本当に理解していたら、そんなことは決してできないはすです。ローマ人への手紙5章15節に、「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」とあります。

 

皆さん、神の下さる恵みは、多くの人々に満ち溢れているのです。神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことも助けてくださるんだろうか?」と疑いながら祈ることもあるでしょう。にもかかわらず神様は、私たちの思いや期待をはるかに越えて、溢れるばかりに恵みを注いでくださいます。ダビデは詩篇23篇でその恵みを、「私の杯は溢れています。」(23:5)と言いました。ペテロは夜通し漁をしても一匹の魚も捕れなかったとき、主から「深みに漕ぎだして網を降ろしなさい」と言われその通りに降ろしてみると、網が破れるほど多くの魚を捕ることができました。(ルカ5章)カナの結婚式では一瓶や二瓶ではない、庭にあった大きな石がめ六つの水をぶどう酒に変えてくださいました。男だけで五千人の人たちが腹ペコだった時には、五つのパンと二匹の魚で彼らの空腹を満たされたばかりか余ったパン屑を集めると大きなかごで十二のかごが残るほどに恵みを注いでくださいました。これが神様の恵みです。イエス・キリストを信じる者に、神は溢れほどの恵みを注いでくださいます。であれば私たちは、「だったらもっと罪を犯そう」ではなくて、恐れとおののきをもって、この主の恵みに答える者でありたいと思うのです。

 

中国の家の教会の指導者でアクラ張という牧師がおられましたが、私が福島の教会を牧会していたとき先生は二度も教会に来て説教してくださいました。一見、よれよれのおじいちゃんのようですが、一度説教が始まったら、それは火が出るような説教でした。

「私は、1948年に17歳で主の召しを受け聖書学校に入りました。卒業後は華東地区という地区の教会で伝道者として奉仕していました。しかし、1955年に国が管理する教会に加入しなければならなくなってしまったため、主の導きに従って教会を辞めました。そして、自由な立場の伝道者として仕え始めました。そのため3年後には「反革命活動」の現行犯として逮捕され、労働改造農場で23年間過ごすことになりました。

1981年に、海外への出国申請が認められたため、労働改造所を出ることが許され1982年にアメリカへ移住、その後まもなくして人民裁判所により名誉回復通知書を正式に受け取りました。

アメリカに移住後は仕事をしながら神学を学び、並行して2つの教会で奉仕を続けました。1988年に神学校を卒業しフルタイムの奉仕に入りました。中国の家の教会に仕える働きです。思い返すにつけ、父なる神の導きは実に不思議なものです。それはまさに、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5b)「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84:6)とみことばで語られている通りの体験でした。神様に感謝しました。

あっという間に私も80歳の老人の列に加わるようになりました。ガンの末期という重い病気にもかかりましたが、神様の恵みは至れり尽せりです。十分な治療の機会を与えてくださり、病を癒して、命を留めてくださいました。

「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150:6)

私の救い主、わが神、いのちの主よ。あなたの道とお心を私は知っています。

「 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩篇63:3)

選ばれた民に主はこう語っておられます。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:3~4)

愛する主よ。私はこの事を特にあなたにお祈りします。

「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者につげ知らせます。」(詩篇71:18)

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:14)

「生きる限り、必ずや前線に立ち続けよう」と、かつての盟友と励まし合いました。主よ。私たちはあなたのご真実とご慈愛を仰ぎます。

残り少なくなった私たちの世代の働き人のために、どうぞお祈りください。信仰と愛と忠実さをしっかりと持ち続けて、清い晩年を全うし、主にまみえることのできますように、神よ、私たちをお守りください。アーメン!」

 

これぞ主のご真実に答えた生き方ではないでしょうか。主の恵みは溢れているのです。主はどんなことがあってもあなたを裏切ることは決してありません。この主のご真実の前に、息ある限り、信仰と愛と忠実さをもって仕えていく。それが私たちに求められていることなのです。

士師記2章

士師記2章を学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.声を上げて泣いたイスラエル(1-5)

 

「さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」主の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で主にいけにえをささげた。」

 

前回の箇所には、イスラエルの民が神の命令に反してその地の住民を完全に追い払わなかったので、多くの未占領地を残す結果となったことが記されてありました。その結果どうなったのかが今回の箇所に記されてあります。 1節から3節までのところに、主の使いがギルガルからボキムに上って来て、神のみことばを伝えます。ギルガルはヨシュアがヨルダン川を渡って、エリコに行く前に宿営していたところです。そこを他の土地を占領するときの戦いの拠点にしました。そこからボキムに上って来てこう言ったのです。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」

つまり、神がイスラエルの民をエジプトから上らせ、彼らの先祖に誓ったカナンの地に導き入れる時、イスラエルの民に命じた約束を彼らが守らなかったので、神が彼らの前から彼らを追い払わないだけでなく、彼らはイスラエルの敵となり、彼らの神々はイスラエルにとって罠となるということです。神がイスラエルに命じた命令とは申命記7章1~4節にあるように、主がその地の住民をイスラエルに渡すとき、イスラエルは彼らを必ず聖絶しなければならないということでした。彼らと何の契約も結んではなりませんでした。彼らにあわれみさえも示してはなりませんでした。それなのに彼らは神の声に聞き従わず、その地の住民を聖絶しませんでした。それゆえ神は彼らを追い払わず、彼らはイスラエルの敵となって彼らを苦しめることになるというのです。

 

4節と5節を見てください。主の使いがこれらのことばを語ったとき、イスラエルの民はみな声をあげて泣きました。それでその場所の名は「ボキム」と呼ばれるようになりました。意味は「泣く者たち」です。そこでイスラエルの民は、神にいけにえを献げました。このようなことになったのは、イスラエルの民が神のみことばを完全に守らなかったからです。イスラエルの民が妥協して神の命令に従わず、偶像崇拝をするカナン人を完全に追い払わなかったからなのです。

 

このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。どこか割り引いて神のことばを聞いてしまうため、自分の首を絞めるようなことがあるのです。それは神が悪いのではありません。私たちが悪いのです。神がこのようにしなさいという命令してもそこまでしなくてもとか、そんなに熱心になる必要はない、信仰はほどほどがいいとか言って、徹底して従うことを嫌うのです。むしろ、そこまで従おうとする人たちはバランスを崩しているとか言って非難することもあります。しかしそれはこの時のイスラエルのようにカナン人が敵となり、彼らの神々が自分たちにとって罠となる結果となり、声をあげて泣くことになるのです。幸いな人とは詩篇1篇にあるように、「主のおしえを喜びと死、昼も夜もその教えを口ずさむ人です。その人は水路のそばに植えられた木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄えるのです。

 

Ⅱ.主を知らない別の世代(6-15)

 

次に6節から15節までをご覧ください。まず10節までをお読みします。

「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。ヨシュアが葬られた記録です。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあそれで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。とに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」

 

この箇所は、ヨシュア記24章28~31節までの繰り返しとなっています。それでこの箇所はヨシュア記と士師記を直接結び付ける役割をしているのではないかと考えられています。その中心的なことは、ヨシュアが生きていた時と死んでからとでは、イスラエルの民はどのように変わったかということです。6,7節には、ヨシュアが生きていた時のイスラエルの様子が描かれています。ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ自分の相続する土地を占領しようと出て行きました。彼らはヨシュアが生きていた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、主に仕えました。ところが、主のしもべヨシュアが死ぬと、10節にあるように、「彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない」別の世代が起こりました。つまりヨシュアが生きていたときは、みな主に仕えましたが、ヨシュアが死ぬと、そこには「主を知らず、主のわざも知らない」世代が起こったのです。この「知る」ということは抽象的な概念ではなく、出エジプトや、荒野での奇跡、ヨルダン渡河、さらにはエリコやアイといった町々を攻略した神の奇跡を体験したということ、つまり、彼らをエジプトから救ってくださった神が今も生きて働いているということを信じる信仰を持っているということです。なぜ彼らは主を知らず、主のわざも知らなかったのでしょうか。それはイスラエルの民がその子孫に信仰教育と歴史教育をきちんと行わなかったからです。

 

このことは信仰の継承について大切なことを私たちに教えています。先日、国際ギデオン協会の田村兄弟が来られ、西那須野教会の初期の頃のことを証してくださいました。初めは5人しかいなかったそうです。そうした中で福本先生が牧師として赴任して来られた時、これからは農業の時代だから農業を研修する施設を作らなければならないと、全県に農業研修の施設を作ろうをされました。その一つがアジア学院でした。ただ農業研修の施設を作ったのではありません。それを通して地域に福音を宣べ伝えていくというビジョンがありました。そのビジョンが教会の力となりました。ですからみんなでよく祈りました。ところが、あれから何十年と経って行く中でそうしたビジョンが無くなり、信仰が形骸化してきたと言います。それはこの時のイスラエルのように主を知らない、主のわざを知らない世代が起こったからです。そういう世代になっても心から主を愛する人となるように教会は次世代のこどもたちにしっかりと信仰を継承していかなければなりません。

 

その結果、彼らはどのようになっていったでしょうか。11節から15節までをご覧ください。

「それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。」

 

読んで字のごとくです。すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えました。彼らは、自分たちをエジプトの地から導き出された父祖の神、主を捨てて、ほかの神々を拝み、それらに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡されました。彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらしたのです。

バアルとは、カナン人が当時拝んでいた主体となる神でした。農耕を行なっていたので、その天候などすべてを左右する神であったと考えられています。そしてアシュタロテはバアルの妻であり、女神です。豊穣の神と考えられていました。アシュタロテについては、バビロンのイシュタル、ギリシヤのビーナスも同じ起源であるとされています。カナン人のバアルとアシュタロテ信仰は、それがみだらな性的行為と密接に関わっていただけでなく、自分の子供たちを火の中にくぐらせたり、建物の柱の中に入れたりして、いけにえとしてささげていました。主を忘れたイスラエルの子らは、こうしたバアルやアシュタロテに仕え、主の目の前に悪であることを行い、主の怒りをかい、彼らがどこへ行っても、わざわいを受けることになってしまいました。

 

イスラエルは初め、周囲の住民を追い払うことをせず、いわば、殺さないで共存しました。その結果、他の神々に仕え、それらを拝み、神の怒りを招くことになってしまいました。私たちも肉をそのままにしておくと、結果的にその肉に仕えることになり、神の怒りを受けることになってしまいます。ですからパウロは、「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)と言ったのです。それらを殺さなければなりません。妥協してはならないのです。学校や職場で未信者と一緒にいるうちに、神を忘れて自堕落な生活に陥ってしまったということはないでしょうか。そうした未信者と一緒にいることも大切ですが、しかし、主を忘れてもろもろのバアルやアシュタロテに仕えるようなことがあるとしたら、この時のイスラエルのようにわざわいを招くことを肝に銘じておかなければなりません。

 

Ⅲ.信仰の試練(16-23)

 

次に16節から23節までをご覧ください。

「そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかそれで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」の神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」

 

「そのとき」とは、イスラエルが主の命令に背いて、主の目に悪であることを行ったために、主の怒りが燃え上がり、彼らを略奪する者の手に渡されたので、彼らは大いに苦しんだとき、です。そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われました。ここでわかることは、神がイスラエルをさばかれるのは神が契約に不忠実な方であるとか、愛がないからではなく、どこまでも罪を憎まれるからです。にもかかわらず神は、罪と背信のイスラエルを滅ぼすことをせず、さばきつかさを起こして、彼らを救われました。具体的には3章から16章にかけて、14人の士師が出てきますが、そのたびに主はイスラエルを救い出されます。ところが、19節を見てください。そのさばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻ってしまいます。そして、先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝むということが繰り返されます。イスラエルはそうした頑なな生き方から離れませんでした。それゆえ、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、彼らの前から異邦の民を追い払わないと言われたのです。その結果、彼らはまた苦しみ、叫び、助けを求めます。実に、背信→さばき→助けを求める叫び→さばきつかさによる救い、という図式が繰り返されるのです。それはなぜでしょうか。22節には、「試みるためである」とあります。これは「彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」どういうことでしょうか。

 

これは、3章1節にもあるように、イスラエルを試みるためでした。つまり、そのように異邦の民を残しておくことによって、カナンでの戦いを全く知らないイスラエルの民がどのようにそれを乗り越えるのかをテストするためだったのです。神はしばしばこのように私たちの信仰を試すことがあります。創世記22章1節には、神はアブラハムを試練にあわせられました。自分のひとり子イサクを主にささげなさいと命じました。考えられないことです。いったいなぜ神はそんなことを言われたのでしょうか。それは彼を試みるためでした。信仰の試練です。その命令に対して彼がどのように従うのかを試したのです。アブラハムはそのテストに合格しました。荒野の民もマナによって信仰を試されました(出16:4,申8:16)。このように私たちの信仰もしばしば試される時があるのです。神が起こされたさばきつかさは「家庭教師」のようなもので、イスラエルはその家庭教師に助けられている間だけ成績があがる不良学生のようなものでした。

 

私たちにもこうした異邦の民が残しておかれることがあります。しかし、それは私たちを倒すためではなく、反対に私たちの信仰を強くするためです。そのような試練の中で主はどのような方なのか、どのように偉大な方なのかを知り、この方にますますより頼む者となるためなのです。ヤコブ1章2~4節にはこうあります。

「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところがない、成熟した、完全な者となります。」

また、へブル12章7~11節にもこうあります。

「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練をしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。・・・・すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

 

いったいどうやって私たちは主を知ることができるのでしょうか。残された異邦の民を通してです。その試練の中で主がどのような方なのかを知り、この方に心からより頼むことができるようになるのです。主を知らない別の世代が起こります。どんな世代が起こっても、彼らが主を知るようになるのはこの試練を通してであるということを覚え、試練が来るときには、それをこの上もない喜びと思って受け止めましょう。

ヨハネの手紙第一3章11~25節「互いに愛し合うこと」

きょうは、「互いに愛し合うこと」というタイトルでお話しします。ヨハネは前回の箇所で、神から生まれた者と悪魔から生まれた者について述べました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。この罪を犯さないというのは全く罪を犯さないということではなく継続して罪を犯さないということ、つまり罪

、私たちは神の御前に確信を持つことができます。」

 

きょうは、「互いに愛し合うこと」というタイトルでお話しします。ヨハネは前回の箇所で、神から生まれた者と悪魔から生まれた者について述べました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。この罪を犯さないというのは全く罪を犯さないということではなく継続して罪を犯さないということ、つまり罪にとどまらないということでした。クリスチャンでも罪を犯すことがあります。でも罪を楽しみ、そこにとどまっていることはありません。罪を犯す者は神から生まれた者ではなく、悪魔から生まれた者です。このことによって神の子どもと悪魔の子どもを区別することができます。もちろん、ここで言われている「義」とは人の目に正しいということではなく、神の目で正しいということです。ですからイエス・キリストを救い主として信じなければ、だれも義と認められることはありません。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:23-24)とあるとおりです。救い主を信じ受け入れることによって義と認められます。そしてそのように認められた者は、義を行う者へと変えられていくのです。神の種がその人のうちにとどまっているからです。もしそうでないとしたら、神の子どもではありません。

 

しかし、神の子どもか悪魔の子どもかの区別は、それだけによるのではありません。10節の終わりにはそれを区別するもう一つのポイントが記されてあります。それは兄弟を愛しているかどうかということです。ここには、「兄弟を愛さない者もそうです。」とあります。「そうです」とは、神の子どもではなく悪魔の子どもであるということです。兄弟を愛さない者は神の子どもでなく悪魔の子どもです。つまり、クリスチャンではないということです。なぜヨハネはそこまで言い切るのでしょうか。きょうは、この「互いに愛し合うこと」について三つのポイントお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.互いに愛し合うべきであること(11-15)

 

まず、第一のことは、互いに愛し合うべきことは、私たちが初めから聞いている命令であるということです。11節から15節までをご覧ください。

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはなりません。私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。」

 

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。」「使信」とは「教え」とか「命令」のことです。それが、私たちが初めから聞いている神の教えであり、神の命令です。イエス様はこのように言われました。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34-35)

 

ですから、これは何も新しい教えではないのです。これはイエス様ご自身が教えられたことであり、私たちが初めから聞いていることです。イエス様はここで、私たちが互いに愛し合うなら、それによって私たちがキリストの弟子であることを、すべての人が認めるようになると言われました。クリスチャンが互いに愛し合うことが最高の証だというのです。逆に、クリスチャン同士がいがみ合ったり、言い争ったり、憎み合ったり、嫉みあったりするなら、それは最悪の証であると言えます。だれもイエスが救い主であることを認めないでしょう。それはキリストの栄光を傷つけることになります。ノンクリスチャンを愛するよりもクリスチャン同士が互いに愛し合うことの方がもっと効果的な証になるのです。クリスチャン同士が互いに愛し合うことが一番の証です。だからといってノンクリスチャンを蔑ろにしてもいいとか、あしざまにしてもいいということではありません。ノンクリスチャンに対しても愛をもって仕えていくことは当然のことですが、それよりももっと効果的な証があると言っているのです。それはクリスチャンが互いに愛し合うことです。クリスチャンが互いに愛し合うなら、ノンクリスチャンはそれを見てあこがれさえ抱くようになります。「そんな愛など見たことがない、世の中はみんな自分勝手で自分のことしか考えられないのに、血のつながりもない、全く生まれも育ちも、背景も異なる者同士が、しかも年齢や性別も違う者同士が、お互いにお互いのことを喜び、お互いに献身的に仕え合って、こんなにも熱く愛し合うことができるのはどうしてなのだろう」と思うようになるのです。そんな愛など見たことも、聞いたことも、感じたこともありません。このような愛の共同体にぜひとも自分も加えてほしいものだと願うようになるのです。それなのに、兄弟を憎むということがあるとしたら、それは何を物語っているかというと、その人は永遠のいのちにとどまっていないということ、すなわち、神の愛を知らないし、神の救いを経験してもいないということです。つまり、神の子どもではないということなのです。

 

ヨハネはここでその一つの事例を取り上げてそのことを説明しています。それはカインです。12節をご覧ください。「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」

カインについては皆さんもよくご存知だと思います。ここでヨハネは、「カインのようになってはいけません」と言っています。なぜでしょうか。なぜなら彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺したからです。彼は弟アベルを殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。彼のどのような行いが悪かったのでしょうか。

 

創世記4章を見ると、カインは地を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。そして、しばらく時が過ぎて、主へのささげ物を持って来たとき、カインは大地の実りを主へのささげ物として持ってきましたが、アベルは、自分の羊の初子の中から、しかも肥えたものを持ってきました。すると神はアベルとそのささげ物に目を留めましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。いったい何が問題だったのでしょうか。この箇所だけを見ると、カインはいかにも適当にささげ物をもって来たかのような印象がありますが、そういうことではありません。問題は、それが神の定めた方法によるものであったかどうかということです。すなわち、弟アベルは神が定めた方法で、神が求めた物をささげたのに対して、カインはそうではなかったのです。カインは神が求めた方法ではなく、自分の考えで、自分の方法によってささげたので、神に受け入れられなかったのです。神が定めた方法とは動物の犠牲をささげることでした。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです。いのちとして宥めを行うのは血であるからです。(レビ17:11)カインはそのことを両親のアダムとエバから聞いていたのに守りませんでした。そして自分の考えによってささげ物をささげたのです。一方、アベルはどうだったかというと、彼は神が定めた方法でささげました。なぜ彼はそのようにしたのでしょうか。

 

へブル人への手紙の著者はこう言っています。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証されました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証してくださったからです。」(へブル11:4)つまり、アベルは信仰によってささげたのです。ささげ物をささげるということは礼拝するということです。どのように礼拝すればいいのでしょうか。神が定めた方法があります。神が定めた方法でなければ神に受け入れられません。このことは後に私たちの罪の身代わりとして神にささげられた神の小羊イエス・キリストを指し示すものでした。イエス・キリストを通してでなければだれも神のみもとに行くことはできません。どんなに自分の方法で神に受け入れられようと思っても、それは受け入れられないのです。それはこのカインのようです。

 

カインは自分のささげ物が受け入れられなかったことで、弟のアベルをねたみました。自分のささげ物が受け入れられないのに、なぜあいつがささげた物が受け入れられたのか、自分はこんなに不幸なのに、なぜあいつがあんなに祝福されているのか、自分にはこんなに力があってこんなこともできるのに、なぜあいつが注目されなければならないのか、そう言ってねたんだのです。これが悪い者から出た者のモデルです。カインは悪い者から出た者の典型でした。そして、私たちもカインのように兄弟を殺すなら、カインと同じように悪い者から出た者、つまり、神の子どもと呼ばれる資格はないということを覚えておかなければなりません。

 

兄弟を殺すとはどういうことでしょうか。私たちはカインのように人を殺す者ではありません。しかし、人を殺すとは文字通り人を殺すことだけではないのです。イエス様はマタイの福音書5章で、「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に「ばか者」と言う者は最高法院でさばかれます。「愚か者」と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:22)と言われました。兄弟に対して怒ったり、「ばか者」と言ったり、「愚か者」というようなことがあるとしたら、それは人を殺していることと同じです。もしあなたがだれか他の兄弟姉妹のことを悪く言うなら、それは人を殺していることと同じことなのです。実際にそれを聞いた人はそのような目でその人を見るようになるでしょう。あなたが悪く言ったとおりに、その人は悪く見るようになります。「あっ、知らなかった。あの人がそんなに悪い人だったなんて・・・」「この人がこんなにひどい人だったなんて・・」そう思い込んでしまいます。事実を確認すればただのうわさ話にすぎないことも、それを真に受けてしまうことで、そのようなフィルターでその人を見てしまうようになります。それは人を殺すことと等しい行為です。恐ろしいですね。注意したいです。

 

いったいなぜカインはそのようなことをしたのでしょうか。悪い者から出たからです。悪い者とは悪魔のことです。悪魔から出たので兄弟を愛することができなかったのです。しかし、神から出た者は兄弟を愛します。14節をご覧ください。ここには、「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。」とあります。いったいどのようにして私たちは死からいのちに移されたことを知ることができるのでしょうか。それは兄弟を愛することによってです。兄弟を愛する者は神から生まれた者ですが、兄弟を憎む者はみな、人殺しです。それによって、私たちは神の子どもなのか、それとも悪魔の子どもなのかを判別することができます。皆さん、クリスチャンであることのしるしとは何でしょうか。クリスチャンであるしるしは十字架のネックレスを首にぶら下げていることではありません。あるいは、車に魚のマークを貼ることでもないのです。皆さん、なぜ多くのクリスチャンが車に魚のシールを貼っているかご存知ですか。それはクリスチャンの信仰を表しているからです。魚はギリシャ語で「イクスース」と言いますが、その魚のそれぞれの文字が、「イエス・キリストは私たちの救い主です」という意味を表わすことばの頭文字になっているからです。それはすばらしい信仰の告白ですが、しかし、それをただ車に貼っているからクリスチャンだというわけではありません。あいるは、いつも教会に通うことがクリスチャンだと言うことを保証するのでもありません。クリスチャンのしるしは、その人が神によって生まれた神の子どもであるというしるしは、兄弟姉妹を愛し合しているかどうかです。その愛こそクリスチャンであることのしるしなのです。そこに永遠のいのちがあります。そこで永遠のいのちを満喫することができるのです。

 

詩篇133篇1~3節を開いてください。そこにはこうあります。

「見よ。なんという幸せ なんという楽しさであろう。兄弟たちが一つになって ともに住むことは。それは、頭に注がれた貴い油のようだ。それは、ひげに、アロンのひげに流れて 衣の端にまで滴る。それはまた ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」

主はどこにとこしえのいのちの祝福を命じられたのでしょうか。それは兄弟が一つとなって住むことの中に、です。兄弟姉妹が互いに愛し合うという交わりの中に、です。そこで永遠のいのちの祝福を味わうことができます。クリスチャン同士が互いに愛し合わなければ、永遠のいのちを味わうことかできません。だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることがないからです。それは生ける屍であり、生きているようでも死んでいる冷たい存在でしかありません。

 

互いに愛し合うべきことは、私たちが初めから聞いている使信です。それが、神が私たちに命じていることです。だから私たちは互いに愛し合うのです。自分の感情では受け入れることができない相手であっても、神がそのように命じておられるのでそれに従うのです。それによって私たちが神によって生まれた者であることがわかります。死からいのちに移ったことを知るのです。神から生まれた者として神の命令に従う、それが神の子どもとされたクリスチャンの基本的な姿なのです。

 

Ⅱ.それによって愛がわかった(16-18)

 

第二のことは、なぜ互いに愛し合うのか、その理由です。それは私たちが神から生まれた者であり、死からいのちに移った者として当然のことですが、ここにはいやいやながらではなく、強いられてでもなく、自ら進んで愛し合う根拠が記されてあります。それはキリストの愛です。16節から18節までをご覧ください。16節をご一緒に読みましょう。

「キリストは私たちのために、ご自身のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

 

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それは私たちが罪のうちに滅びることがないためです。私たちのすべての罪を赦すために、キリストはご自分のいのちを捨ててくださった。それほどまでに私たちは愛されているのです。ですから、私たちも互いに愛し合うべきです。兄弟のためにいのちを捨てるべきなのです。兄弟姉妹を愛せないというのは、どんなに私たちが愛されているのかを知らないか、それとも忘れているからです。「どうしてもあの人を赦すことができない」というのは、自分がイエス様によって赦されたということを知らないからです。私のような者が赦されたということを知るなら、もう言葉にならないくらいうれしくて、人を赦せないという思いはどこかへ吹っ飛んでしまうでしょう。私たちが主にどれほど愛されているかを知るなら、もはや兄弟姉妹を愛せないとか、赦せないということはありません。主があなたに対してどれほどあわれんでくださったのか、どれほど忍耐してくださったのかを思うとき、あなたも兄弟姉妹に対してあわれみを示さずにはいられなくなります。キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。いや、捨てずにはいられなくなります。

 

17節を見てください。それなのに、兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。いません。神の愛はとどまっていません。そんなに神のあわれみを受けていながら、兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすことがあるとしたら、それは神の愛からかけ離れたことなのです。

 

皆さんは、「シティ・オブ・ジョイ」という映画を観たことがありますか。この映画はインドのカルカッタにあった「シティ・オブ・ジョイ」という無料診断所を舞台に繰り広がれる話です。あるときこの街にイギリス人の医師でマックスという人が、一人の少女の命を救えなかったことから自分の無力さに打ちのめされ、空虚な心を埋めるかのようにやって来ます。ある日彼は暴漢に襲われた時、ハザリという貧しいインド人に助けられ、この「シティ・オぶ・ジョイ」に運ばれてきます。マックスはパスポートを無くしたことからこの診療所「喜びの街」を手伝うことになりますが、その町のボスが診療所の家賃を値上げしたことで暴動が起こります。そうした街の腐敗に耐えられず、そこから逃げようとするマックスに対して、もう一人の診療所の医師ジョアンナはこう告げるのです。

「人が生きてくくというのは大変なことよ、みんな生まれた瞬間から希望と絶望の間であがいているの。人生には三つの選択肢しかないわ。傍観するか、逃げるか、それともその中に飛び込むか。最悪の選択肢は逃げる傍観者だわ。」
人生には三つの選択肢しかありません。それは、傍観するか、逃げるか、それともその中に飛び込むかです。最悪の選択肢は逃げる傍観者です。あなたには三つの選択肢しかないのです。傍観するか、逃げるか、それとも飛び込むかです。困った人を見て「ああ、かわいそうだすね」「何と不幸なことでしょう」とただ眺めているか、そのようなことに関わるのはごめんですと、そこから逃げ去るか、どんなに傷つけられても、どんなに犠牲を払っても、その中に飛び込むかです。関わることは時間的に、労力的に、経済的に犠牲が伴うことですが、それが愛するということなのです。

 

あの良きサマリア人はそうした。強盗に襲われ傷ついた人を見たとき、かわいそうに思い、彼に近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き解放しました。翌日、彼は宿屋の主人に二枚のデナリ硬貨を差し出し、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(ルカ10:35)と言いました。

一方、神に仕える祭司がそこを通りかかったとき、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。同じく、レビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。

この三人のうちでだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみ深い行いをした人です。イエスは言われました。「あなたも行って、同じようにしなさい。」

 

愛について語ることは簡単です。でも実際に愛することは簡単なことではありません。そこには自己犠牲が伴うからです。でも私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。ことばや口先で愛することも大切です。ここには、「ことばや口先だけで愛することをせず」とありますから、ことばや口先で愛することも大切であることがわかります。

「あなたはちっとも愛していると言ってくれないんだから・・」

「何、言ってんだ。結婚してどのくらい経つと思っているの。言わなくたってわか

るだろう。」

これはだめです。言わないとわからない時があります。愛をもって真理を語ることも必要なんです。でも、それだけではいけません。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛さなければなりません。ただの傍観者であったり、それを見てあわれみの心を閉ざしたり、そこから逃げるのでもなく、どんなに傷ついても、どんなに犠牲を払っても、その中に飛び込んで行かなければならない時があるのです。私たちにはそれができます。なぜなら、愛を知ったから。キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです。いや、捨てずにはいられなくなります。こんなどうしようもない者が愛されたということが分かったので、兄弟姉妹を愛せずにはいられないのです。

 

Ⅲ.互いに愛し合うことによって(19-24)

 

第三に、その結果です。互いに愛することによってどうなるのでしょうか。19節から24節までをご覧ください。まず19節と21節に注目してください。

「そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で心安らかでいられます。たとえ自分の心が責められたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです。愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。」

 

「そうすることによって」とは、互いに愛し合うことによってということです。互いに愛し合うことによって、私たちは自分が真理に属していることを知ります。真理とは何でしょうか。真理とはイエス・キリストです。イエス様は、「わたしは道です。真理です。いのちです。」と言われました。ですから、互いに愛し合うことによって、私たちが真理に属していることを知るというのは、イエス様に属しているということ、つまり、クリスチャンであるということを知るということです。自分はクリスチャンであるという確証を得るのです。イエス様を信じていても、本当に救われているかどうか、本当に天国に行けるのかどうか、クリスチャンなのかどうかわかりませんという方がおられますか。そういう方は兄弟姉妹を愛してください。それによって、自分が真理に属しているということを知り、神の御前で安らかでいられることができます。救いの確信を得られるのです。

 

たとえ自分の心が責めたとしても、です。私たちは自分の心が責められる時があります。神のみこころに従わなかった時や、自分の思いや感情で行動した時、言わなくてもいいようなことを言って人を傷つけてしまった時、「ああ、本当に自分はだめな人間だな、なぜこんなことをしてしまったんだろう、」と自分を責めることがあります。これでもクリスチャンなのかとがっかりすることがあります。しかし、たとえ自分の心が責めても、安らかでいられます。なぜなら、神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知であられるからです。どういうことですか?私たちは時として大きな罪を犯し、そのことを自分でも信じられないことがありますが、神にとっては全然不思議なことではありません。なぜなら、神はあなたのすべてをご存知であられるからです。

 

詩篇139篇1~3節には、「主よ、あなたは私を探り 知っておられます。あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ、 遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。」とあります。神は、私たちのすべてを知っておられます。私たちは、自分で自分を知っていると思っていますが、実際のところは知らなければならないことも虫っていません。ですから罪を犯したりするとびっくりするのです。「なんで私がこんなことをしちゃったのか・・。」「考えられない・・・」でもそう思うのはあなただけであって、神はそう思っていません。なぜなら、神はあなたのすべてをご存知であられるからです。だから、たとえあなたの心があなたを責めても、全然心配いりません。神が弁護してくださいます。私たちが互いに愛し合うことによって真理に属しているということを神が証明してくれるので、全く心配いらないのです。21節、そのように、自分の心が責めないから、私たちは神の御前に確信を持つことができます。「私は全然責められません。何をしても平気です。自分の心が自分を責めるなどという経験をしたことがありません」それはここで言っていることではありません。それはただ鈍感であるだけです。ここで言っていることは、そうした良心が痛むようなことがあっても真理に属しているという確信のゆえに、平安でいられるということです。なぜ?「そうすることによって」です。互いに愛し合うことによって、そのような者でも真理に属しているということを知ることができるからです。

 

それだけではありません。22節をご覧ください。「そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。」どういうことでしょうか?神の子どもとされたということです。子どもであれば、求めるものは何でも受けます。子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような親はいません。卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。いません。自分の子どもには良いものを与えます。同じように、天の父はご自分に求める者たちに良いものを与えてくださいます。聖霊を与えてくださいます。それは私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。では、神の命令とは何でしょうか。神が喜ばれることとは何でしょう。

 

23節をご覧ください。ご一緒にお読みしたいと思います。「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。」

皆さん、神の命令とは何でしょうか。それは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じることです。そして、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うことです。これが神の命令です。ただ互いに愛し合うのではありません。まず御子イエス・キリストの御名を信じることです。誤解しないでください。私たちの罪が赦されるのはただイエス様の十字架の血によってです。その神の御子イエス・キリストの名を信じること、すなわち、キリストを救い主として心に受け入れ、その口で告白することによってのみ救われます。私たちの行いによるのではありません。しかし、そのようにイエス・キリストの御名を信じた者は互いに愛し合いなさいという具体的な行いを通して、自分が神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまるということ、すなわち、救われているという確信を持つことができるのです。なぜなら、それは神が私たちに与えてくださった御霊が証してくださるからです。まさに、Ⅰペテロ4章7節に「愛は多くの罪を負おうからです。」とあるとおりです。

 

ですから皆さん、私たちも互いに愛し合いましょう。それによって私たちは真理に属していることを知ることができます。たとえ自分の心が自分を責めるようなことがあっても、神の御前に心安らかでいられます。まず私たちを愛し、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださったキリストの愛を受け入れましょう。こんな私のために神がどれほどの愛を注いでくださったのかを知り、その御子イエス・キリストの名を信じましょう。そして、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合いましょう。それによって私たちは神に属していることを知り、救いの確信を得ることができるのです。まさに愛は多くの罪を負おうからです。

 

ヨハネの手紙第一3章1~10節「何とすばらしい愛」

ヨハネの手紙第一3章に入ります。ヨハネはこれまで「神は光である」というテーマで語ってきました。3章から新しいテーマに入ります。それは「愛」です。「神は愛である」というテーマです。これが4章まで続き、最後の5章で「神はいのちである」と伝えて、この手紙を閉じます。ヨハネはこの手紙を通してこの手紙の受取人であるクリスチャンたちに、神がどのような方かを知ってほしかったのです。この「知る」というのは単に知識として知るということではなく体験的に深く知ることです。言い換えるならば、神と深く交わるということです。神について頭で知ることはできますが、頭で知ることと体験することは違います。ヨハネが願っていたのはこの体験することでした。神と向き合い、神と語り合い、神と交わり、神を体験することで、この神がどんなにすばらしい方であるかを知ってほしかったのです。

 

それでヨハネはまず「神は光です」と言い、神が光であるというのはどういうことなのかを語りました。そしてこの3章からは神は愛ですと、神がどのように私たちを愛してくださったのかを語り、その愛に生きるとはどういうことなのかを語るのです。

 

Ⅰ.私たちは神の子どもです(1)

 

まず1節をご覧ください。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」

 

ここのポイントは「考えなさい」ということです。人は何を見るか、何を考えるかによってその行動が決まります。だから「考える」というのはとても重要なことです。ここで私たちが考えなければならないのはどんなことでしょうか。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか、注いでくださったかということです。

ヨハネの福音書1章12節には「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。この方とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストを信じる人たちに、神の子どもとされる特権が与えられました。これは特権なのです。考えてみてください。神の子どもとされるというのは神の家族に加えられるということです。父なる神の家族に加えていただける。神の家族に養子として迎えていただけるのです。それまではどこの馬の骨ともわからないような者が、神の子どもとされたのです。何とも不遇な人生を送ってきた者が、王の王、主の主であられる方の子どもとされたのです。これはすごいことではないでしょうか。よく孤児院に捨てられた子どもが大金持ちの家に養子として引き取られたという話を聞くことがありますが、神は大金持ちどころかこの天地万物を創られた方です。この方を自分の父と呼ぶことができるのです。すごいことです。

 

ですからここには、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」とあるのです。この愛を考えてほしい、見てほしい、知ってほしい。そうすればあなたの生活は変わりますから。イエス様を信じたのにちっとも変わらないとしたらどこかおかしいのです。それは本当の意味でこの愛を知っていないか、あるいは知っているつもりでもただ知識として知っているだけで、本当の意味では知っていないかのどちらかです。神の愛を知るなら必ず変えられるはずです。では御父の愛とはどのような愛なのでしょうか。どんなにすばらしい愛を与えてくださったのでしょうか。

 

まずエペソ1章3~5節を開いてください。ここには、「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基の置かれる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。

神は世界の置かれる前から、私たちを救いに選んでいてくださいました。私たちは生まれる前から、いや世界が置かれる前から、神の子どもとなるように神によって見出され、神によって選ばれ、神によって愛されていたのです。ただそれを知らなかっただけです。でもイエス様がこの世に来てくださりそのことを示してくださったので、知ることができました。私の好きなみことばの一つに申命記33章27節のみことばがあります。それは、「永遠の腕が下に」というみことばです。私たちの下にはいつも永遠の腕があります。私たちが赤ちゃんであった時にはいつもお母さんの腕がありました。少し大きくなって体重が重くなるとお母さんには持てないので、お父さんの腕に抱っこされました。両親の腕に抱き抱えられるとき私たちは平安があります。少しずつ大人になるにつれそうした母の腕や父の腕に抱えられるが少なくなりました。今度は自分の力で生きていきなさいと、いつまでも甘えていないで自分の足で立って歩きなさいと、突っぱねられるようになりました。それはそれで大切なことですが時に不安を覚えることもあります。しかしそのようなとき、永遠の腕が下にあるということはなんと心強いことでしょうか。人生の嵐の中にも、いつも神様の腕があります。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」(エレミヤ31:3)あなたはこの永遠の愛をもって愛されているのです。

 

この愛についてヨハネは4章10節でこのように言っています。ちょっと先取りして読んでみたいと思います。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」いったいどこに愛があるのでしょうか。ここにあります。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物として御子を遣わされたことの中にあります。神はそのためにご自身のひとり子を与えてくださいました。神は、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つために、実に、そのひとり子を与えてくださいました。それほどまでに愛してくださいました。ひとり子と言えば自分の命よりも大切な存在です。その大切なひとり子を与えるほどに愛してくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。

 

しかも、ローマ5章8節にこうあります。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

神はどのようにしてご自身の愛を明らかにしてくださったのでしょうか。私たちがまだ罪人であったとき、私たちのために死んでくださったことによってです。罪人のために死ぬ人がいるでしょうか。いません。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいないでしょう。善良な人、情け深い人のためにならあるいはいるかもしれません。であれば、罪人のために死ぬ人などどこにもいません。しかし、キリストは私たちが罪人であったときに私たちのために死んでくださいました。罪人であったときにとは、私たちが最低の状態、最悪の状態であったときにということです。あなたは、こんな汚れた者が愛される資格はないと思うかもしれません。しかし、神は私たちが聖いから愛してくださったのではありません。正しいから愛してくださったのではないのです。罪に汚れ、愛される資格などないにもかかわらず愛してくださいました。これが神の愛なのです。

 

皆さん、神の愛は途切れることがありません。永遠の愛をもって愛してくださいました。私たちは生まれるずっと前からこの永遠の愛で愛されていました。私たちがどんなに神に背き、どんなに罪に堕ちても、神はなおも愛し続けてくださいました。私たちが自分勝手に生きていた時でも、神はずっと寄り添ってくださいました。ヨハネはこの愛を考えなさい、と言うのです。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさいと。原文ではここは「見よ、何という神の愛。」となっています。私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを見なさい、考えなさいというのです。なぜなら、もしあなたがこの愛を見たら、あなたの生き方や考え方というものが根本的に変えられるからです。私たちの生き方や考え方というのは、この事実から出てくるものなのです。

 

この世はこの愛を知りません。しかし、私たちは知りました。イエス・キリストがこの世に来てくださり、十字架で死んでくださることによってその愛を示してくださいました。それは永遠の愛でした。あなたが何者であれ、過去にどんなことをしたかとか、今、何をしているか、またこれから先どんなことをするかということと関係なく、この愛はいつもあなたに注がれているのです。なぜなら、神の愛は永遠だからです。だからこれは人知を超えた愛なのです。これ以上の愛はありません。どうかこの愛を知ってください。私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えてください。そうすれば、あなたの生き方は必ず変わるのです。

 

Ⅱ.キリストに似た者となります(2)

 

第二のことは、神の子どもとされた私たちは、やがてキリストに似た者となるということです。2節をご覧ください。

「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」

 

私たちは今すでに神の子どもです。そのように見えないかもしれませんが、イエス様を信じる人はみな例外なく神の子どもなのです。隣の人を見てください。とても神の子どものように見えないかもしれませが、イエス様を信じたのであれば間違いなく神の子どもとされています。そして神の子どもとされた私たちは、やがてキリストに似た者になっていきます。ここには神の子どもとされた者は、やがてどのようになるかが示されています。「やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者となることは知っています。」

 

今はそのように見えなくても、やがて必ずキリストに似た者となります。なぜなら、あなたは神によって生まれたからです。神によって生まれたのであれば、やがて必ず神のようになるのです。それはちょうど生まれたばかりの赤ちゃんのようです。生まれたばかりの赤ちゃんは確かにかわいいですが、顔はしわくちゃで、お世辞にもイケメンだとか、美人だとは言えません。でもそんな赤ちゃんが大人になると、驚くほどのイケメンになったり、美人になったりします。その時はわかりませんが、後で明らかになります。それは霊的にも同じで、クリスチャンになっても今はしみだらけ、傷だらけで、全然神の子のようには見えないかもしれませんが、いつか必ずにキリストに似た者となるのです。ヨハネはここでそのことを「知っている」と言っています。わかっています。必ずそうなるのです。

 

なぜそのように言えるのでしょうか。なぜならそのとき、私たちはキリストをありのままに見るからです。その時とはキリストが現れる時、すなわち、キリストの再臨の時です。その時イエス様を信じている人は空中に一挙に引き上げられ空中で主と会うようになります。そして、そこで顔と顔とを合わせて主を見るようになるのです。すごいでしょう。でももっとすごいのは、その時イエス様の姿をみた時です。その時私たちの姿がイエス様の姿と同じ姿であるのを見るのです。まさに「おったまげ~」です。その時私たちは一瞬のうちに朽ちないからだ、栄光のからだに変えられるのです。

Ⅰコリント15章52~53節には次のように書かれてあります。

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」(Ⅰコリント15:52-53)

終わりのラッパが鳴り響くとき、キリストが天から下ってこられます。そのときクリスチャンはたちまちのうちに空中に引き挙げられ、空中で主と会うのです。まずキリストにあって死んだ人たちが、次にキリストにあって生き残っている者たちです。一挙に引き上げられ空中で主と会うのです。そのようにして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。これがクリスチャンの希望です。だから私たちは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。自分たちの労苦が主にあって無駄ではないことを知っているからです。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストが現れるときに、この栄光のからだによみがえります。この肉体は塵に帰りますが、霊のからだ、栄光のからだによみがえるのです。そういう希望があるのです。

 

Ⅰコリント13章12節には、「今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ていますが、そのときには顔と顔とを合わせて見るようになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになります。」とあります。「そのとき」というのが、キリストが現れるときのことです。そのときに私たちは一挙に空中に引き上げられ、顔と顔とを合わせて主を見るようになるのです。その時には完全に主を知るようになります。今は一部分しか見ていません。それはちょうど鏡に映るのをぼんやりと見ているようなものです。おぼろげながらにしか見ることができません。それでも十分感動していますが、でもその日には顔と顔とを合わせて見るようになるので、イエス様がどんなにすばらしい方であるかをはっきりと見ます。そのとき私たちは主と同じ姿に変えられているのを見るのです。ピリピ3章21節にはこうあります。

「キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21)

 

でもそれは私たちが携挙される時だけでなく、この地上に生かされている間もそうです。私たちがこの地上にいる間も、少しずつ、徐々にではありますが、着実にキリストの似姿に変えられていくのです。これを聖化と言います。聖なる姿に変えられるので「聖化」と言うのです。それは御霊なる主の働きによるのです。Ⅱコリント3章18節にはこうあります。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を写しつつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

主の御霊が私たちを、栄光から栄光へとキリストと同じ姿に変えてくださいます。きのうよりも今日、今日よりも明日へと、キリストの姿に変えられていくのです。そしてキリストが現れるとき、完全に変えられます。すばらしいではありませんか。ですから日々神のみことばを読み、主の御霊に身をゆだねて歩んでいこうではありませんか。

 

パウロはローマ8章28~29節で次のように言っています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。その益とは何でしょうか。29節には、それは御子と同じ姿に変えてくださることであると言われています。私たちの人生に起こるすべての出来事には辛いことがあれば苦しいこともありますが、神はそうしたすべてのことを働かせて益としてくださるのです。そうしたすべての出来事を働かせて、私たちをご自身の姿に変えてくださるのです。益としてくださるとはそういうことです。

 

ですから、もし皆さんが今、試練に直面しているとしたら期待してください。皆さんはそのことを通してイエス様の姿に変えられているのでから。もし皆さんの人生に問題があるなら感謝しましょう。なぜなら、主はその問題を用いて私たちをご自身の栄光の姿に変えてくださるのですから。皆さんの中で病気の方がおられますか。そのような方は祈りましょう。その病気が癒されるようにというだけでなく、そうした苦しみに耐えることができるように、そしてその苦しみを通して、主と同じ姿に変えられていくことができるようにと。

 

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、祈りの詩が刻まれています。これは「病者の祈り」として有名な詩です。

大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに

慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった

 

より偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことができるようにと、病弱を与えられた

 

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと、貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった

 

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと、命を授かった

 

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた

 

神の意にそぐわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

 

私はあらゆる人の中でも、最も豊かに祝福されたのだ

「病者の祈り」作者不明

 

皆さん、私たちも祈ろうではありませんか。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられたのです。神はすべてのことを働かせて益としてくださいました。人間的にすべてが不幸であるかのような出来事を通して、神は私たちをご自身の姿に、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださるのです。

 

Ⅲ.キリストに望みを置いている者(3-10)

 

第三のことは、キリストにこの望みをおいている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。3節から10節をご覧ください。3節をお読みします。

「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」

 

「この望み」とは何でしょうか。それはこれまで語ってきたように、キリストに似た者となるという望みです。すなわち、再臨の希望です。今はどうであれ、イエス・キリストが戻って来られるときには、すべてが希望に変わります。この希望を抱く者はみなキリストが清い方であるように、自分を清くするのです。具体的には4節以降に書かれてあるように、罪を犯すことがないということです。4節には、「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。」とあります。6節には、「キリストにとどまる者はだれでも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。どういうことでしょうか。

 

それは、クリスチャンは罪を犯すことがないというではありません。私たちは確かに罪を赦されましたがまだ罪の性質が残っていて、罪を犯さないで生きることはできないのです。ですから1章8節のところでヨハネは、「もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちには真理はありません。」と言ったのです。大切なのは罪を犯さないということではなく、罪を犯さずには生きてはいけない存在であることを認め、神の前にその罪を悔い改めることです。それこそ神と交わりを持つ土台であり、光の中を歩むクリスチャンの根本的な生き方なのです。では、ここでヨハネが言っている罪を犯さないとはどういうことなのでしょうか。

 

この「罪を犯さなない」ということばですが、これは現在完了形で書かれてあります。現在完了形というのは継続を表しています。つまり、この「罪を犯している者」とは継続的に罪を犯している者のことを意味しているのです。それが習慣となっていて、罪を犯しても何とも思わないことです。痛くも痒くもありません。どうしてかというと救われていないからです。それは神から生まれた者ではないという証拠なのです。9節には、「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」とあります。神から生まれた者は罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているので、罪を犯すことができないのです。「神の種」とは、神のいのちのこと、聖霊のことです。クリスチャンはイエス・キリストを信じて神のいのちをいただきました。クリスチャンのうちには神の聖霊が住んでおられるのです。だから罪を犯すことができないのです。これは全く罪を犯さないということではなく、意識的に、常習的に罪を犯すことができないという意味です。罪を犯したり、少しでも神のみこころに反したりすると、良心が痛むからです。うちに住んでおられる聖霊が悲しまれるのです。クリスチャンも罪を犯すことはありますが、罪を犯すと「どうして自分はこんなことをしちゃったんだろう」と後悔したり、「ああ、私はほんとうに駄目な人間だなぁ」と落ち込んだりします。それは神から生まれた者だからです。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことがない、できないのです。

 

日本ケズィック・コンベンションの産みの親である、故ポーロ・リース師が箱根のケズィック・コンベンションでこんな話をされました。18世紀にフランス革命が起こり、王と王妃が処刑されました。ところが人々は、王子に対して別の取り扱いをしました。彼らは幼い王子を有名な悪党に預け、あらゆる手段を用いて王子の品性を破壊しようとしました。しかし歴史はこの王子について興味深いことを伝えています。悪党が王子に悪事をさせようとするたびに、彼はこう答えたと言います。「ぼくにはできない。ぼくは王となるために生まれたのだから。」

 

神から生まれた者は神の子どもです。神の王子です。神の王子たる者がどうして罪の内を歩むことができるでしょうか。10節前半はこれまで述べてきたことの要約です。「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。」「このこと」とは何ですか。自分を清くするか、それとも反対に罪を犯すか、罪のうちに歩むかということです。そのことによって、神の子どもなのか、それとも悪魔の子どもなのかがはっきりわかります。つまりその人が神によって新しく生まれた者なのかどうかがはっきりわかるのです。その具体的な表れが兄弟を愛するということですが、そのことについては次回お話ししたいと思います。

 

私たちが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったでしょう。私たちはこの愛によって新しく生まれました。私たちのうちにはこの神の種、神のいのちである聖霊がとどまっています。だから私たちは罪を犯すのではなく、この望みに希望を置き、キリストが清い方であるように、自分を清く保つのです。すべては、この事実から出ています。この事実が私たちの歩みを変えるのです。どうかこのこと考えてください。ここに目を留めてください。あなたが神の子どもと呼ばれるために、神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったのかを。「見よ、何という愛」。この愛を見るとき、あなたも確実に変えられていくのです。

ローマ人への手紙2章17~29節「本当のユダヤ人」

投稿日: 2018/05/26 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは「本当のユダヤ人」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1章の後半部分から、人間の罪について語ってきました。それは神を知っていながらもその神を神としてあがめようとしないばかりか、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心が暗くなって、してはならないようなことをするようになったということです。そうした人間の不敬虔と不義とに対して、神の怒りが天から啓示されるようになりました。

 では、一方のユダヤ人はどうかというと、彼らはそうした異邦人を見下し、裁いていましたが、実は彼らも、そのようにさばきながら、自分たちもそれと同じようなことを行っていたのです。彼らは神に選ばれた民であることを良いことに、その特権と恵みに甘んじて、多少の問題があっても神は大目に見てくれるだろうと錯覚していたのです。そうしたユダヤ人たちに対してパウロは、そんなにことは断じてない、神はえこひいきなどしない方であり、その終わりの日に、その人の行いに応じて報いをお与えになられると言ったのです。

 きょうのところはその続きですが、このところにもユダヤ人の罪が暴露されています。これまでもパウロはユダヤの罪を取り上げて語ってきましたが、これまではあからさまに「ユダヤ人は・・」という言い方をしないで、「すべて他人をさばく人よ」(2:1)とか、「艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも・・」(2:9)というように、一般化して語ってきました。しかし、ここからはっきりとそれがユダヤ人に対してであるということがわかるように名指しでその罪を指摘し、彼らがどういう点で間違っていたのかを示すのです。すなわち、彼らは自分たちこそ神に選ばれたユダヤ人だと自負してはいるが、そうしたことが神の民であることの証明になるのではないと言うのです。では本当のユダヤ人とはどういう人のことを言うのでしょうか。

 きょうはこのことについて三つの点でお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人たちの誇り、プライドについてです。第二のことは、そうしたユダヤ人たちの問題についてです。ですから第三のことは、本当のユダヤ人というのは外見上のユダヤ人のことではなく、心から神に従って生きる人たちのことであるということです。

 Ⅰ.ユダヤ人たちの誇り(17-20)

まず、ユダヤ人たちの誇りについて見ていきましょう。17~20節までをご覧ください。

「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」

 ここにはユダヤ人たちの誇りがしるされてあります。彼らの誇りは中途半端なものではありませんでした。なぜなら、第一に彼らには律法が与えられていたからです。神様は彼らにご自身を啓示され、みことばを与えて下さり、他の多くの民族に本当の神を証する使命を与えて下さいました。第二に、18節にあるように、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法によって教えられ、わきまえていました。ユダヤ人たちは神様からみことばが与えられていただけでなく、そのみことばによって養われていました。彼らは小さな頃からみことばの教育を受け、成人式を行う12歳になる頃には、すでにモーセ五書といって聖書の最初の五つの書を暗記していたと言われています。神様のみことばによって考え、判断する訓練が小さい頃から身に付いていたのです。他の人が外側しか見られないものでも、ユダヤ人本質を見ることができました。それはそうした神のことばによって訓練されていたからです。ノーベル賞受賞者の23%がユダヤ人だと言われていますが、それはまさに、幼いときからこうしたみことばによって訓練を受けてきたことによる祝福が大きいと言えます。小さい時からみことばによって訓練されるということはすばらしいことなのです。よく「私はクリスチャンホームに生まれ育って息苦しかった」と言う人がいますが、とんでもない、それは最も大きな祝福なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、幼い頃からそれを学んできたので、神様のみこころは何か、
すなわち、何が良いことで正しいことなのかを知っていたのです。それゆえに彼らは、そうしたことを知らない霊的盲人たちの案内人であり、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認していました。

 おそらく、この世に存在する民族の中で、もっとも誇り高き民族はユダヤ人でしょう。彼らは、自分たちは神様から特別に選ばれた民であって、いつも世界の歴史の中心にいると考えていました。そういう選民意識の虜になっていたのです。そしてそうでない人たち、すなわち異邦人を一段低い者と見なしていました。それは異邦人を「犬」と呼んでいたことからもわかります。当時のラビと呼ばれていた教師たちが書いた文章を見ると、「なぜ神様はこの地に異邦人を置かれたのか?それは地獄の燃料のためだ」と記されているほどです。時折、ユダヤ人たちが真っ赤な色の奇妙な帽子をかぶっているのをテレビで見ることがありますが、この帽子は自分たちが神様の選民であるという身分を表示するためです。この帽子にどれほどのプライドをもっていたかというと、戦争が起きても鉄かぶとの下にその帽子をかぶって行軍したほどであると言われています。

 人はそれぞれ誇りを持って生きています。誇りを持っていない人などいません。みんな何らかの誇りを持って生きているのです。そして、正当な誇りというのは私たちの人生に益をもたらしてくれます。そのような誇りは、時には自信を与え、所属意識を持たせてくれるからです。私は以前保護司をしてますが、胸につけるバッジと身分証明書がありました。一度たりとも使ったことはありませんでしたが・・・。なぜそんなものがあるのかというと誇りのためです。保護司会という会に属しているという意識を持たせるためなのです。それは国会議員も同じです。国会議員は議員バッジがあって、いつもそれを胸につけています。国会議員としての誇りのためです。会社でもロゴのついた制服を着用するのを義務付けることがありますが、それも所属意識を持たせるためです。このような正当な誇りは私たちの人生において良い役割をもたらしますが、しかしこのような誇りが、時として自分の果たすべき役割を妨げたり、将来をダメにしてしまうことも少なくありません。

 たとえば、過去の学歴や経歴を誇るあまりに、職場で少しでも気にくわない処遇を受けたりすると、「おれを誰だと思っているんだ!」と怒鳴ってみたり、「何でおれがこんなところで働いていなければならないんだ」といぶかり、会社を辞めてしまう人も少なくありません。それはこの誇りが邪魔をしているからです。自分の知っている人がテレビにでも出ようものなら、「自分はあの人のことを知っているけど、昔は大した人間じゃなかった」とか、「あいつは学生時代は全然勉強ではなかったのに」とかと言って、揶揄しりするのです。じゃ自分はどうかというと、そうしたプライドが邪魔をしてなかなか前に進めずもがき苦しんだりしているのです。

 このような誇りはむなしいものであり、人を生かすものではなく殺すものです。プライドが強くなりすぎると病的な高慢に陥ります。こういう誇りは何の助けにもならないどころか人生をだめにしてしまうのです。まさにユダヤ人の誇りはむなしく、腐ったものでした。どういう点で彼らの誇りは腐っていたのでしょうか。

 Ⅱ.ユダヤ人たちの問題(21-24)

 21~24節をご覧ください。ここには、「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。」とあります。

 彼らの問題は、神から律法が与えられ、何をすべきかを知っていながらも、それを行っていなかったことです。人に盗むなと説いておきながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、神殿のものをかすめ取っていました。律法を誇りとしていながら、その律法に違反していたわけです。

 これはクリスチャンにも通じます。「あなたはイエス様を信じているんですか」と尋ねると、「うちの父親は牧師です」とか、「親戚にクリスチャンが多いんです」とチンプンカンプンなことを言われる方がいますが、あなたがクリスチャンですかという質問と全く関係ありません。クリスチャンホームだから自動的にクリスチャンになるのではなく、親戚にクリスチャンが多ければ自分もクリスチャンなのかというとそうではありません。では、あなたは信じているんですかと尋ねると、「いや、私は信じていない」と答えたりします。これが問題です。このような人は、イエス様の十字架の血潮によって救われているのではありません。親戚にどれだけクリスチャンがいるかとか、両親が熱心なクリスチャンであるかどうかで、その人が救われるのではありません。私たちが救われるのは、イエス・キリストを信じているかどうかなのであって、そのような外見上のことが問題ではないのです。

 ユダヤ人たちが持っていた最高の誇りは、自分たちがアブラハムの子孫であるということでした。しかし、そんな彼ら対してイエス様は次のように言われました。ルカの福音書3章8節です。
「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」

 この意味は、血筋など全く関係ありません。心から神様を信じなければなりません。皆さん、ユダヤ人は今なおこのような外見上のものによって誤った確信を持っている方がおられるのです。しかし、大切なのはそうした血筋や父母の信仰ではなく自分自身がイエス様を信じているかどうかです。ヨハネの福音書1章13節には、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」とあります。イエス様を信じ聖霊によって証印を押されるまでは、どんな人であっても救いを得ることはできません。両親の信仰の遺産をよく受け継ぐなら、それは自分の財産になります。それはいくらでも誇れるでしょう。「私の家は三代にわたって主に仕え、今も熱心に仕えている。」これはすばらしい恵みです。しかし、そうした血統に頼り信仰の中身がないとしたら問題です。ユダヤ人たちは盗むなと言いながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌うと言いながら偶像崇拝のようなことをしていたのです。中身がありませんでした。彼らの宗教は外見だけの宗教だったのです。

 今はすべての権威が崩れ行く時代です。ある家で、あまりにも勉強しない息子に父親がこう言いました。「おい。少しくらいは勉強したらどうだ。リンカーンはおまえの年で独学で弁護士になったんだぞ」すると息子は何と言ったでしょうか。「何言ってんだよ。リンカーンはお父さんの年に大統領になったんだよ」。訓戒を与えようとする父親に対して、あんたなんかにそんなこと言われたくないと言って反発するのです。何が問題なのでしょうか。中身がないことです。口先だけで生きている。親が本気になってその生き方を見せるときだけ、語ることばに力を持つのです。これは親だけでなく学校の教師でも誰でも、人を指導する立場にある人ならすべての人に言えるのではないでしょうか。子どもたちに、「神様のみことばは重要だ」と何百回言っても、自分がそのみことばに生きていなければ力がありません。子どもたちは両親が何を重んじているかをちゃんと見ているのです。教会学校の聖書クイズで一番になったと報告しても、親は特に反応はしないでしょう。しかし、学校のテストで成績が一番になったと聞いたらもう大騒ぎです。友達や親戚中に話して回るのではないでしょうか。そうすると知らず知らずのうちに子どもの心に、「お父さんとお母さんは、神様を信じて従うことが一番大切だとは言うけれども、実際は学校の成績が一番になることを喜ぶんだな!」と思うようになるのです。そして、礼拝や教会のことは放っておいてもいいから、学校で一番になって両親を喜ばせなくちゃという意識を持つようになります。私たちが何を言うかではなく、どのように行うかが重要であって、そうした実際の生き方が子どもたちの心に植え付けられるのです。

 重要なのは聖書をどれだけ知っているかということではありません。重要なのはそれをどれだけ行っているかです。その生き方なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、神のみこころは何なのか、何をなすべきなのかということを知っていながら、あるいはそれを教えていながら、自分ではそれを行っていませんでした。それが問題だったのです。そのようにして彼らは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間でけがされている」というみことばのとおりになってしまいました。

 Ⅲ.本当のユダヤ人とは(25-29)

 ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、心から神を信じなさいということです。御霊によって生きましょうということです。25~29節をご覧ください。
「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

 パウロはここで、割礼の問題を取り上げています。割礼とは、男子の性器の先端の皮を切り取ることです。それは神の民であるユダヤ人のしるしであり、救いのしるしでした。割礼のない者は地獄に行くと、ユダヤ教のラビたちが教えていました。それほど割礼はユダヤ人たちにとって重要なものだったのです。その割礼についてパウロはここで何と言っているでしょうか。パウロはこう言うのです。割礼を受けているかいないかが重要なのではなく、律法を守っているかどうかが重要なのだ・・・と。すなわち、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではない。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人なのであり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼なのです。どういうことかというと、信仰というのは、内面性が重要であるということです。信仰が堕落すると外的、儀式的なことが強調されるようになり、それに力を入れ始めるようになりますが、しかし、信仰において重要なのはその内容であって、御霊によって、心から神を信じ、神に仕えていく生き方なのです。

 しかし、それはユダヤ人だけのことではありません。私たちもややもするとこうしたユダヤ人たちと同じように外見に、形式的な信仰に陥ってしまう危険性があるのではないでしょうか。たとえば、洗礼を受けさえすれば救われるといった考えです。洗礼を受けることは大切なことです。なぜなら、それは神のみこころだからです。しかし、洗礼を受けることが天国に行けるという保証ではないのです。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:17)と聖書にあるように、信じることが重要なのです。それは継続を表しています。信じ続けること、何があってもイエス様にとどまり、イエス様に従って歩んで行きますという決心です。すなわち、信仰の内面性なのです。心の中まで見通される神の前に立ち、へりくだって神を仰ぎ、神を慕い求め、神のみこころにかなった歩みをしていきたいと願う心です。その時、その誉れは、人からではなく、神から来るのです。

 アメリカにロバート・ファンクさんというアメリカ最大の牧畜業を営んでおられる方がおられます。この方はプロのホッケーチームのオーナーもしておられる方ですが、とても熱心なクリスチャンです。しかし、最初から熱心だったのかというと、そうではありません。
 この方はお母さんがクリスチャンであったことから、小さい頃からいつも教会に連れて行かれました。ところが学校を卒業してビジネスに入ったとたんに、仕事が忙しくなって教会に行かなくなってしまいました。それでも彼は、20年以上も教会に通っていたのだから、自分ではクリスチャンだと思っていました。そして、聖書のこともよく知っていると自慢していたのです。
 そんなある日、仕事の仲間に誘われてビリー・グラハムという有名な伝道者の集会に出かけて行きました。その集会には何万人も集まって来るので普通の建物ではなく、野球場で行われていました。何万人という多くの人々の中の一人として、彼は聖書の話なら大抵知っているという思いで聞いていたのです。
 ところが、ビリー・グラハムの語る一つ一つの言葉が、彼の心に新鮮な響きをもって響いてきました。そして、自分は今までクリスチャンだと思っていたけれども、もしかすると違うのではないかと思うようになりました。というのは、ビリー・グラハムが次のように言われたからです。
「本当の信仰とは、何年教会に通っているとか、聖書をどれだけ知っているかということではなく、生ける神と個人的な関係が築かれているかどうです。」
 そのとき彼は考えました。神様との個人的な関係?考えてみたら、自分は何年も教会に行って、聖書のこともよく知っているけれども、神様と個人的な関係を持っているだろうか?もしそれが本当の信仰だと言うのなら、自分にはそれがないのではないか・・・と。そして、何千人の人たちともに、イエス・キリストを主として信じて受け入れ、イエス・キリストを中心とした生き方が始まったのでした。

 Ⅱコリント5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。」というみことばがあります。この「だれでもキリストのうちにあるなら」ということばを、モファットという聖書学者は、「だれでもキリストに信頼するなら」と訳しています。つまり、たとえクリスチャンでも、キリストに信頼しないなら、キリストに信頼することを忘れていたら、新しく造られたものとしての人生を歩むことはできないのです。「新しく造られた者」とは、十字架につけられたイエス・キリストを信じて、神の子として新しく生まれることであり、その御霊によって、御霊に信頼して、日々、生ける神と個人的な関係を持って歩む人のことなのです。どんなにみことばを知って、暗唱していても、そのみことばにあるように、イエス様を信じ、御霊に従って、謙遜に歩む者でなければ意味がないのです。

 大切なのは、新しい創造です。それこそ真のイスラエルなのです。どうか、自分の知識、経験、能力といった外見だけのむなしい誇りを捨てて、イエス・キリストを信じ、その御霊によって、日々、神に従って歩んでください。そのとき、主が驚くべきみわざを成してくださることでしょう。この基準に従って進む人こそ神のイスラエル、本当のユダヤ人なのです。神はこのような人を求めておられるのです。



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ヨハネの手紙第一2章18~29節「キリストのうちにとどまりなさい」

投稿日: 2018/05/19 投稿者: Tomio Ohashi


 きょうは、「キリストのうちにとどまりなさい」というテーマでお話しします。ヨハネは1章5節で「神は光であり、神には全く闇がない」と語り、この神を信じ、神の光の中を歩む者とはどのような者なのかを示しました。それは第一に自分の罪を悔い改め、御子イエスの血によって罪をきよめていただくことでした(1:9)。もし自分に罪がないと言うなら、その人は自分を欺いているのであって、その人のうちには真理はありません。しかし、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。これが光を歩む者の土台、ベースです。

第二のことは兄弟を愛するということでした(2:10)。もし私たちが神を知っているというなら神の命令を守るはずです。その命令とは何でしょうか。その命令とは兄弟を愛するということです。目に見える兄弟を愛することができなくて、どうして目に見える神を愛することができるでしょうか。自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

そして第三のことは、前回の箇所で学びましたが、世を愛してはならないということでした(2:15)。もし世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。なぜなら、だれも二人の主人に仕えることはできないからです。神を愛する者は、神に心を傾けなければならないのです。

 そしてきょうのところには、光の中を歩むクリスチャンが警戒しなければならないことが教えられています。それは「反キリスト」です。世の終わりが近くなると選民を惑わそうと多くの反キリストが現れますが、そのような者に惑わされないように気を付けなければなりません。どうすればいいのでしょうか。キリストのうちにとどまっているということです。きょうはこのことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 Ⅰ.今は終わりの時(18-21)

 まず18節から21節までをご覧ください。18節をお読みします。
「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」

ヨハネはここで「幼子たち」と呼びかけています。前回のところでヨハネは、この手紙の読者たちにそれぞれの霊的段階に分けて、「子どもたちよ」「父たちよ」「若者たちよ」と呼びかけましたが、ここでは「幼子たち」と呼びかけています。これは霊的に幼いというよりも、すべてのクリスチャンに対して語られていると理解して良いでしょう。この時ヨハネは100歳近くに達していたと思われますが、そんな長老ヨハネからすべてのクリスチャンに向けて家族のような親しみを込めて語りかけられているのです。

その内容は何というと、今は終わりの時であり、多くの反キリストが現れているということでした。それによって今が終わりの時であることがわかります。イエス様はマタイの福音書24章の中で、世の終わりの前兆、しるしについて預言されましたが、その中の一つにこの反キリストが現れることを上げました。4節、5節です。
「そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしこそキリストだ」と言って、多くの人を惑わします。」(マタイ24:4-5)
世の終わりには多くの反キリストが現れます。これが世の終わりの前兆の一つなのです。そしてヨハネの時代にはすでにこの反キリストが現れていました。それはどういうことかというと、今がその終わりの時であるということです。

でもちょっと待ってください。イエス様がこのように言われたのは今から二千年前ですよね。でもまだ世の終わりは来ていないじゃないですか。世の終わりだと言うのであれば、もうとっくの昔に来ているはずじゃないですか。それっておかしくないですか?いい質問ですね。でもそのように言われるのは、この「終わりの時」とは何かをよく理解していないからです。一口に「時」と言ってもいろいろな時があります。まず個人的な「時」があります。今年は就職の時だという人がいれば、昨日は結婚式がありましたが、結婚の時だという人もいますし、マイホームを建てる時だという人もいます。また会社や政治の世界にも時があります。多くの人はそうした自分の時に心が奪われ、もう一つの大切な時があることを忘れています。それは神の時です。神の計画全体の中で今がどのような時なのかということを見失ってはなりません。神は天地万物を創造された時からキリストが再臨され新しい天と新しい地を創造される時までの計画を持っておられ、その時を進めておられるのです。

では、その神の計画全体の中で「今」はどのような時なのでしょうか。ヨハネはここで「今は終わりの時です」と告げています。「終わり」とは「最後」という意味です。すなわち、今は神のご計画全体の中で最終段階にさしかかっている時なのです。新約聖書では、この「終わりの時」を二つの意味で用いています。第一に、キリストが生まれてから再臨されるまでの全期間という意味です。キリストが初めに来られた時から、この終わりの時はすでに始まっているということです。もう一つの理解は、そうした中でも特にキリストの再臨がごく近い時を指しているということです。この場合キリストがいつ来られても不思議ではありません。ここでヨハネが用いているのはこの第二の意味においてです。ヨハネがこのように言ってからすでに二千年が経とうとしています。そういう意味では、時は刻一刻と世の終わりが近づいていることは確かなことだと言えます。いったいどうしてそのように言えるのでしょうか。

ヨハネはここでその理由を次のように述べています。それは、多くの反キリストが現れているからです。「反キリスト」とは何でしょうか。「反キリスト」とはギリシャ語で「アンティ・クリストス」と言いますが、意味はキリストに反抗する者、キリストに取って代わる者です。聖書ではこの「反キリスト」という言葉が、三つの種類で用いられています。第一に、終わりの時に現れる一人の反キリストのことです。この反キリストについてはダニエル書9章27節、11章31節、12章11節に言及されていますが、世の終わりに現れてエルサレムの神殿を冒し、常供のささげ物を取り払い、荒らす忌まわしいものを据えると言われています。イエス様もマタイ24章15節で、この「荒らす忌むべきもの」について言及しました。

第二に、これは反キリストの霊のです。Ⅰヨハネ4章3節を見ると、ここに「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」これは一人の反キリストのことではなく、ありとあらゆるところに活発に働いている反キリストの霊です。古くはイスラエルが奴隷であった時のエジプトの王ファラオに、あるいは、紀元前5世紀にペルシャの王アハシュエロスに仕えていたハマンもそうです。彼は、ペルシャにいた全ユダヤ人の抹殺を計画しました。あるいは近代では皆さんもご存知でしょう第二次世界大戦の時に600万人ものユダヤ人を虐殺したアドルフ・ヒトラーもその一人です。彼らはイエスを告白しないばかりか、キリストに反抗し、神が選ばれし民の虐殺を試みました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは反キリストの霊が働いていたからです。

しかし、ここで言われている「反キリスト」というのはこれら二つの意味とは違います。ここで言われている「反キリスト」とは、偽預言者たち、偽教師たちのことです。それはここに「多くの反キリスト」と複数形で書かれてあることからもわかります。具体的にはイエス・キリストの神性を否定する者たちのことです。イエス・キリストは神と等しい方ではない。イエス・キリストは神に造られた存在であって、神に劣る存在だと教えていた者たちです。前回もお話ししたように当時はグノーシス主義という教えがはびこっていました。その教えの特徴は「霊肉二元論」でした。つまり、霊は善で、肉体は悪であるという考えです。このような考えに立ちますと、肉体を持っておられたイエスが神であるはずがないということになります。そこでイエスはもともと人間だったがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時にキリストの霊が下り神のようになったが、十字架につけられる直前にその霊がキリストから離れて行ったので、その結果、人間イエスだけが十字架の苦しみを受けたにすぎないというようなまやかしを吹聴していたのです。

初代教会は常に戦いの中にありました。コリントの教会は道徳的な問題があり、ガラテヤの教会は救いの問題がりました。また、テサロニケの教会はキリストの再臨の問題が論争の中心でした。ペテロの第一の手紙では苦難の問題が強く打ち出されていました。そして今ヨハネが取り扱っているのはエペソの教会を中心とする小アジアの教会が抱えていたキリスト論でした。そしてそれは真理の根幹にかかわる大きな問題でした。

そしてそれは彼らばかりでなく、現代の私たちの教会も抱えている戦いでもあります。なぜなら、今は終わりの時だからです。多くの反キリストが現れて、神の民を惑わそうとしているのです。ですから、私たちは今がどのような時(時代)なのかを見分け、これにきちんと対処していかなければなりません。クリスチャンはただ熱心でまじめであればそれでよいのではありません。今がどのような時であるのかを見分け、真理であられるキリストにしっかりととどまっていなければならないのです。それによってキリストが約束してくださったもの、永遠のいのちを受け継ぐことができるからです。

Ⅱ.反キリストの特徴(19-25)

では、この「反キリスト」とはどのような者たちなのでしょうか。19節から25節までのところに、この反キリストについて二つの特徴が述べられています。一つは、反キリストは教会を去って行った者たちであるということです。19節をご覧ください。
「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。」

「私たちの中から」とは「教会の中から」という意味です。反キリストの特徴は教会から出て行った者たちであるということです。もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったら出て行くことはなかったでしょう。とどまっていたはずです。しかし、彼らが出て行ったのは、私たちの仲間ではなかったということが明らかにされるためでした。

でも誤解しないでください。ここで言われている「私たち」すなわち「教会」とはこのような一個一個の教会(地域教会)のことではなく、キリストのからだとしての教会、つまり、普遍的な教会ことです。もしこれが地域教会のことであったとしたら、私たちはほとんど反キリストになってしまいます。信仰を持ってからずっと同じ教会にとどまっているという人は少ないからです。しかし、ここで言っているのはそういうことではなく、キリスト教は間違っているとキリスト教信仰に反抗し、どのキリストの教会にも属さない人たちのことです。信仰告白の異なる者がどうして神の家族であり得ましょう。たとえどんなに人間的に親しくてもそれで神の家族になるわけではありません。キリスト教信仰において一致しなければ、結局、教会を去って行くことになります。それは彼らが私たちの仲間ではなかったことが明らかにされるためです。世の終わりにはこのようにして光と闇とが明らかにされていくのです。

第二の特徴は、22節と23節に記されてあります。それは、イエスがキリストであることを否定する者たちであるということです。
「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父を持っているのです。」
イエス・キリストは100%まことの神であり、100%まことの人であられましたが、ヨハネはここで特にキリストの神性を否定する者、キリストは神ではないと主張する者こそ反キリストであると強調しています。

キリスト教の三大異端として知られているエホバの証人、モルモン教、統一協会などにはいずれもこの二つの特徴がみられます。彼らはもともと教会の中にいましたが教会を出て、自分たちの独自のグループを作りました。その特徴はイエスがキリストであるということを否定していることです。
たとえば、エホバの証人は、正式には「ものみの塔聖書冊子協会」と言いますが、1884年にアメリカのチャールズ・ラッセルという人によって始められました。彼はもともと長老派の教会に通っていたクリスチャンです。9歳の時に母親を亡くすと自宅近くの組合教会に行くようになりますが、そこで聖書の教えと自分の考えが合わないため納得できないと、教会を出て独自の教理を作りました。
たとえば地獄の教理です。神が人をさばくなんてありえない、とても恐ろしいことだと、地獄の教理を否定したのです。また、イエス・キリストが神である考えられないと、三位一体の教えも否定しました。ではイエスとは何なのか。イエスはエホバなる神が創造された天使長ミカエルです。この天使長のミカエルが人間イエスになって万物を創造したというのです。つまり、イエスはエホバによって創造された被造物にすぎないというのです。彼らもイエスを信じていると言います。しかし、彼らが信じているイエスとは神としてではなく、天使長ミカエルが人間になったイエスが十字架で死なれたことを信じているのです。それは聖書の教えを逸脱しているのですが、反対に彼らは既成の教会こそ間違っていると、攻撃してくるのです。

モルモン教も同じです。モルモン教は正式には「末日聖徒イエス・キリスト教会」と言いますが、名前だけでは一般のキリスト教会と区別ができないほど非常に紛らわしいですね。私がまだ教会に行き始めた頃、郵便局で二人のアメリカ人に声をかけられました。彼らは自分たちがクリスチャンだというので、私はうれしくなって「そうですか、私もそうです。」と言うと、「今度ぜひ教会に来てください」と誘われたので、「わかりました。ぜひ行きたいと思います」と案内の記された名刺をいただいたのですが、帰ってから家内に話したら、「それは教会じゃない。モルモンです」と言われ、「そうか、危なかったな。行かなくてよかった」と思いました。もしあの時ホイホイと着いて行ったら、今ごろモルモン教の伝道師になっていたかもしれません。

このモルモン教の創設者はジョセフ・スミスという人ですが、彼もまたクリスチャンホームで育ちました。しかし、彼が14歳の時に神から啓示を受けたと言います。「すべての既成の教会は間違っているし、どの教会に行ってもならない」というものでした。それで彼は教会を出て、自分たちの独自のグループを作りました。それがモルモン教会です。彼は独自に与えられた啓示を「モルモン経」としてまとめ、聖書と同等の権威あるもの、いや聖書よりももっと正確に神の御旨を知ることができるものと主張しました。その教えの特徴は神論にあります。聖書は、神はただおひとりで、とこしえからとこしえまで神であり、全知全能で遍在されると教えていますが、モルモン教では、これとは違い、神は、かつて「ある地球」に住み、他の神の支配下にあって、死を免れない人間であった、と教えています。 生死を味わった人間として、神は進歩することができ、完全な者へと達し、そのあと自らの努力で神へと昇栄した、というのです。わけがわからないですね。ですから、モルモン教の教理によると、人もまた信仰の研鑽を積み、地上でモルモン教会の戒め、儀式に対して従順であることによって神々となることができる、と言います。イエス・キリストについては、天父エローヒムが生み出した旧約聖書のエホバであり万物を創造したと教えます。いすせれにせよ、モルモン教でもイエスは神によって創られた神だと主張しています。
もちろん、このような教理ですから、正統派の教会にとどまることはできず、1830年4月6日、ジョセフ・スミスが24歳のとき、ニューヨーク州でモルモン教会を設立することになります。彼は神ご自身がモルモン教会を「地上における唯一まことの生ける教会」と指定したと宣言しました。モルモン教会だけが唯一まことの教会だと主張し、既成の教会を否定したのです。

また、統一協会もそうです。統一協会は、正式には「世界キリスト教統一神霊協会」と言います。「協会」は「教会」ではなく「協会」です。創設者の文鮮明も初めは熱心なクリスチャンでした。でもクリスチャンホームで育てば自動的にクリスチャンになるというのではなく、中には異端的な教えをもってカルトを作るような者も現れます。彼も初めは長老派の教会に属し、日曜学校でも教えていました。しかし16歳の時にイエス・キリストが彼の目の前に現れ、「わたしが果たせなかった神の御旨を、あなたが変わりに担ってもらいたい」と懇願したので、最初は恐れ多いと断るも、何度も何度も懇願されたので、「わかりました。私があなたのやり残した仕事を担いましょう。」と引き受けることにしました。1954年のことです。
その教えの特徴は、キリストを否定するところにあります。イエス・キリストは祭司ザカリヤとマリヤの間に誕生した不倫の子どもだと言います。イエスは創造目的を完成した人間にすぎず、だれでも努力によってその域まで達することができる。したがって、イエスは創造目的を完成した人間として神性を持っていましたが、神ご自身ではないし、神にはなりえません。イエス・キリストの十字架の贖いは不完全だったので、神が再臨のキリストを地上に送り、地上に天の御国建設の使命を託したというのです。その再臨のメシヤ、キリストこそ文鮮明だというのです。

何ともデタラメな教理ですが、こういう教えを信じる人たちもいるんですね。彼らに共通していることは、彼らは教会を去って行った者たちであるということと、イエスがキリストであることを否定する者たちであるということです。でも世の終わりが近くなると彼らだけでなく、こうした惑わす者たちがたくさん現れるようになります。「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすのです。ですから、私たちは惑わされることがないように気を付けなければなりません。どうしたらいいのでしょうか。

Ⅲ.キリストにとどまりなさい(26-29)

ですから、第三のことは「キリストのうちにとどまりなさい」ということです。26節から29節までをご覧ください。
「私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありません。あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」

ヨハネはこの惑わす者たちについて、書いてきました。それは彼らがこうした反キリストの教え、偽りの教えに惑わされることなく、真理にとどまることによってです。24節には、「あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。」とあります。「もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。」

このヨハネの手紙におけるキーワードの一つは、この「とどまる」ということです。イエスがキリストであることを否定しないために必要なことは、私たちが初めから聞いていることにとどまることです。初めから聞いていることとは何でしょうか。それは「真理」です。20節と21節をご覧ください。ここには27節と同じことが書かれてあります。つまり、私たちには「聖なる方からの注ぎの油」があるので、みな真理を知っているのです。

ここに「知っている」ということばが繰り返して出てきます。この「知っている」ということばはこれまで出てきた「知る」ということばとは違うギリシャ語が使われています。これまで出てきた「知る」ということばはギリシャ語で「ギノスコー」ということばでしたね。それは表面的にではなく深く知るということでした。知的な面だけでなく体験的に知るということです。しかし、ここで使われている「知っている」ということばはギリシャ語で「オイラー」という語で、これは直感的に知るという意味です。パッと見ただけでわかります。瞬間的に物事の本質を判別することができるという意味です。ですから、異端的な教えを聞くとそれが間違っているということが直感的にわかるのです。何が、どのように違うのかを説明することはできないかもしれませんが、何か違うということが直感的にわかるのです。ピンときます。なぜでしょうか?20節にあるようにも私たちには「聖なる方からの注ぎの油」があるからです。この「注ぎの油」については27節にも繰り返して書かれてあります。「聖なる方からの注ぎの油」とは何でしょうか。それは聖霊のことです。すなわち、私たちには聖霊が注がれているので、聖霊が私たちに真理を教えてくれるのです。ヨハネの福音書には、この方は「真理の御霊」と言われています。「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。」(ヨハネ16:13)この注ぎの油が、すべてについてあなたに教えてくれるのです。ですから、エホバの証人の教えを知らなくても、モルモン教の教えがわからなくても、統一協会の教えを知らなくても、ピンときます。それが違うということが直感的にわかるのです。ちょっと聞いただけで、「あっ、違う」とパッとわかる。「ちょ」「ピン」「パッ」です。

ですから、キリスト教の三大異端について詳しく学ばなくてもいいし、学ぶ必要もありません。私たちに必要なのは真理にとどまることです。本物に触れることです。本物を知れば、すぐに偽物を見分けることができます。銀行の行員さんは手で触っただけで偽札がわかると言います。なぜなら、いつも本物に触れているからです。ですから本物を知れば偽物がわかります。私たちは聖なる方からの注ぎの油があるので、真理を知っています。大切なのは、この真理にとどまることです。私たちの問題はこの真理から離れてしまうことです。自分の置かれた状況に振り回されたり、人のことばに影響されて、真理から離れてしまうのです。

信仰の父と称されているアブラハムでさえ神が約束した地に入ることができたのに、そこにききんがあったとき、エジプトに下って行ってしまいました。それは神のみこころではありませんでした。神のみこころはそこにとどまっていることでた。それなのに彼はとどまっていることができませんでした。かぜでしょうか。神ではなく問題を見たからです。自分の生活が脅かされるのではないかと心配して、神に信頼することができなかったからです。彼にとって必要なのは神のことばに信頼し、そこにとどまっていることだったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも真理を信じています。しかし、自分の予期せぬことが起こったり、どうしようもない問題の渦に巻き込まれたりするとき、神のことばにとどまることができず、そこから離れてしまうことがあります。私たちは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなければなりません。もしそこにとどまっているなら、私たちも御子と御父のうちにとどまることができます。これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

イエス様はこのことをぶどうの木と枝の関係にたとえて、こう言われました。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:4-5)

さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。世の終わりが近くなると多くの反キリストが現れて、私たちの信仰を惑わし、私たちは揺れに揺れますが、しかし、終えし得られたとおり、御子のうちに、キリストのうちにとどまりましょう。これこそ終わりの時に生きる私たちクリスチャンの歩みなのです。



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ヨハネの手紙第一2章12~17節「世を愛してはならない」

投稿日: 2018/05/16 投稿者: Tomio Ohashi


 ヨハネの手紙から学んでおります。1章のところでヨハネは光の中を歩む人とはどういう人なのかについて述べました。それは自分が罪人であることを認め、その罪を悔い改める人です。そうすれば光であられる神と交わりを保ち、光の中を歩むことができます。御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださるからです。

 そして前回のところでは、光の中を歩む人のもう一つの特徴を述べました。それは兄弟を愛するということです。自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいるのであって、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかがわかりません。闇が目を見えなくしているからです。しかし、自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。

 きょうのところには、光の中を歩む人のもう一つの姿が描かれています。それは御父を愛するということです。言い換えると、世を愛さないということです。もしだれかが世を愛するなら、その人のうちに御父の愛はありません。きょうはこの「世を愛してはならない」ということについてお話ししたいと思います。

 Ⅰ.子どもたち、若者たち、父たち(12-14)

 まず12節から14節までをご覧ください。
「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが、御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」

ヨハネは1節で、「私の子どもたち」と呼びかけて、彼らが罪を犯さないようにと勧めましたが、ここでもまた「子どもたち」と呼んでいます。しかし、ここでは「子どもたち」だけでなく、「父たち」、「若者たち」という呼びかけもなされています。どういうことでしょうか。おそらくこれは、神の家族の構成というか、クリスチャンの霊的成長段階を表しているのではないかと思われます。つまり、神の家族には信仰的に子どものような人がいれば、若者のような人、そして父のような人がいるということです。それは単に年齢的にそうであるということではなく、霊的成長の段階においてそうであるということです。この世では幼児、青年、成人、そして老人という四つのステージに分けられますが、クリスチャンの成長段階は子供たち、若者たち、父たちの三つの段階に分けられるということです。

まず子供たちとはどういう人たちのことでしょうか。12節をご覧ください。ここには、「子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。」とあります。14節には、「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。」とあります。「子ども」と訳されている原語のギリシャ語では「テクニオン」と言う言葉で、これは、いわゆる「子ども」のことです。これに対して、「幼子たち」とは「ダイギオン」ということばが使われています。これは「小さな幼子」を意味しています。ですから、ここでは生まれたばかりの小さな幼子とちょっと成長した子どもを一つのカテゴリーに入れているのです。

この子どもたちに言われていることはどんなことでしょうか。それはイエスの血によってあなたの罪が赦されたということです。もう罪責感に悩むことはありません。あなたのすべての罪は赦されて神の子どもとされました。それは14節でも言われています。ここには、「幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。」とあります。「御父を知った」というのは、神がどのような方であるかを知ったということ、つまり、神は愛であるということを知ったということです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである。」(ヨハネ3:16)つまり、あなたの罪は赦されたという信仰の基本的事実を知ったということです。

これが信仰の出発点です。すべてのクリスチャンの土台であります。しかもここに「イエスの名によって」とあるように、それは自分の努力や決心によってではなく、イエスの御名を信じることによって一方的に与えられた恵みです。イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目に死からよみがえってくださったことによって救いの御業は完成しました。この救いは、主イエスの御名を信じるすべての人にもたらされたのです。これがすべてのクリスチャンの土台です。御霊によって新しく生まれたクリスチャンはこの事実を知り、ここに立っていなければなりません。

しかし、罪赦されたクリスチャンはいつまでもそれだけにとどまっていてはいけません。そこから霊的にステップアップしていかなければならないのです。それが次の「若者たち」という段階です。13節をご覧ください。ここには「父たち」とありますが、その前にその後にある「若者たち」を見ていきましょう。子どもは急に父になるわけではなく若者という成長段階を通って父になっていくからです。この「若者たち」に言われていることはどのようなことでしょうか。ここには、「若者たち。私があなたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。14節にも同じことが繰り返して語られています。14節には、「若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」ほとんど同じ内容です。

「若い者たち」とは、「悪い者に打ち勝った」人たちです。それは霊の戦いにおいて勝利した人たちのことを指しています。すなわち、敵である悪魔の誘惑や攻撃に勝利した人たちのことです。頼もしいですね。血気盛んというか、力強さを感じます。人間の成長段階においても20代、30代の若者は力があります。あまり肉体的な疲れを感じません。まさかユンケルとかリポビタンDといった栄養剤を飲んでいないでしょう。集中力があります。それは信仰的にも同じで、彼らは霊の戦いにおいて悪い者に打ち勝つことができます。どのようにして打ち勝ったのでしょうか?14節には、「あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。それは神のことばにとどまることによってです。「とどまる」という言葉は、この手紙におけるキーワードの一つです。神のみことばがその人にとどまることによって、悪魔に打ち勝つことができるのです。逆にみことばにとどまっていなければ、敗北してしまうことになります。神のことばにとどまらない若者は無鉄砲のように、ただ勢いがあるだけでどこに飛んで行くかわかりません。しかし、神のことばにとどまるなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

次は「父たち」です。13節をご覧ください。「父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたが知るようになったからです。」これと同じことが14節にも繰り返して語られています。父たちの特質は何でしょうか。「初めからおられる方」を知っているということです。「初めからおられる方」とはだれのことですか。そうです、イエス・キリストのことです。ヨハネの福音書1章1~3節にはこうあります。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」

イエス・キリストこそ初めからおられた神です。父たちとは、この方を知るようになった人たちです。どういうことでしょうか?この「知る」ということばは原語のギリシャ語では「ギノスコー」ということばで、これはただ知識的に知るということではなく、体験的に知るという意味があります。つまり、この人たちはイエスを体験的に知ったことでこの方と深く交わり、その結果イエスのように変えられた人たちであるということです。これがクリスチャンの目標でもあります。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られました。良い行いをすることによって救われるのではなく、良い行いをするために救われたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いさえもあらかじめ備えてくださいました。それはイエス様に似ることによって、イエス様のようになることによってもたらされます。ですから霊的に成熟している人たちを見てください。だれの目にも魅力的です。輝いています。理想的ですね。何があっても動じません。そこには平安があります。いつも内なる喜びにあふれているのです。

先日、東京バプテスト教会の阿久津恵美さんが二人のご友人と一緒にさくらの教会を訪ねてくださいました。阿久津さんは大田原のご出身の方ですが東京に行ってから教会に行くようになりクリスチャンになられました。大田原の出身の方がどうやって信仰に導かれたのかとても興味があり、大田原に向かう車の中で尋ねました。「ところで、阿久津さんはどうやってクリスチャンになられたのですか?」すると彼女はこう答えられました。
「私はキリスト教の幼稚園に通っていたので小さい時からキリスト教には抵抗はなかったんですが、上京して就職した職場がかなり殺伐としていて人間関係も最悪だったんです。しかしその中に一人だけいつもにこにこしていて平安そうな同僚がいたんです。だからその人に、「あなたはどうしてそんなに平安でいられるの」と尋ねたら、その人はクリスチャンで毎週教会に行っているということでした。それで違う教会でしたが日曜日に教会に行ってみたんですが、皆さんとても温かく迎えてくださいました。でもあまり伝道してくれなかったので結局クリスチャンになるまで10年くらいかかっちゃったんですが、イエス様を信じることができて感謝です。」

イエス様のような人はだれの目にも明らかです。いろいろな困難や苦しみがあっても動じません。だれもがそのようになりたいと思うような魅力をもっています。それが霊的大人です。ここでは「父たち」と呼ばれています。言い換えると、そのような人はイエス様だけで十分ですという人です。イエス様が自分のすべてなのです。前回のところにも、「神のうちにとどまっているという人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。」とありましたが、そういう人は、イエス様が歩まれたように歩みます。イエス様ならどうするかということを考えて歩むのです。若い時はそうではありませんでした。あれもこれもといろいろなことに関心がありました。しかし霊的に成熟してくるとだんだん一つに絞られていきます。イエス・キリストだけで十分ですとなるのです。

使徒パウロは、Ⅰコリント2章2節でこう言っています。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」(Ⅰコリント2:2)
彼は十字架につけられたイエス・キリストで十分でした。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、彼は十字架につけられたイエス・キリストで十分でした。なぜなら、キリストは神の力、神の知恵であられるからです。かつてパウロはあれもこれもといろいろ追い求めていましたが、神のお取り扱いを受けると彼の関心一つのことに絞られました。それが初めからおられる方を知るということだったのです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんは今どの段階におられるでしょうか。皆さんが子どもであることはすばらしいことです。イエス様を信じて罪赦されたということは最高の祝福です。それはすべてのクリスチャンが知らなければならないことであり、すべてのクリスチャンの土台です。でもそこにとどまっていてはなりません。私たちはさらに成長することができます。若者として勝利を味わうことができます。みことばによって霊の戦いに勝利することができるのです。しかし、そこで止まっていてもいけないのです。さらに進んですばらしい霊的高嶺に達することができます。それは初めからおられた方を知るということ、イエス・キリストのようになることです。それを目指して進まなければなりません。

Ⅱ.世を愛してはならない(15-16)

では、イエス様だけを愛し、イエス様だけを求めて生きるためにはどうしたらいいのでしょうか。15節と16節をご覧ください。「あなたは世をも世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものです。」

これは子どもたちだけでなく、若者たちにも、父たちにも、すべての人に対して語られていることです。それは世も世にあるものも、愛してはならないということです。どういうことでしょうか?これは「社会から孤立して生きなさい」ということではありません。また、「自分の趣味や楽しみはすべて捨てなければならない」ということでもないのです。また、社会から離れれば離れるほど自分がきよくされると思い込んで、「私は新聞など読みません。新聞などという世のものに触れると心が汚れますから。」とか、「テレビも見ません。見るのはNHKと『ライフライン』だけです」というのも違います。ここで言われている「世」とは、神によって造られながら神を認めようとせず、神に敵対して悪魔の支配下にある領域のことです。つまり、「御父から出たものではなく、この世から出たもの」です。それはどういうものかというと、16節にあるように、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」といったものです。悪魔はこのようなものをもって人を神から引き離そうと誘惑してきます。

「肉の欲」とは何でしょうか。「肉の欲」とは、人間の持って生まれた肉の性質、堕落した罪深い性質のことです。ガラテヤ5章19~21節には、「肉のわざは明らかです。すなわち、みだらな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」とあります。
詳訳聖書には、この「肉の欲」とは「官能的な満足に対する渇望」とあります。この世の不品行や姦淫とかいわゆる性的不道徳な欲望のことだと言われています。一般に、欲それ自体は問題ではありません。性欲にせよ食欲にせよ、ほんらい神様が人間に与えられたよいものなのです。しかし、これらの欲は神様がお許しになったルールのなかでのみ人間を幸福にするのであって、それを逸脱すると肉の欲となってしまいます。

「目の欲」とは何でしょうか。目の欲とは、外側から目を通して入ってくる誘惑のことです。ものの外観に惑わされ、真の価値を見失ってしまうことです。井戸垣彰先生は、「目の欲は肉の欲が働く入口である。」(「新聖書講解シリーズ」P157)と言っています。「肉の欲」はしばしば目から入ってくるからです。たとえば、エバが食べてはならないという木の実を取って食べたのは、悪魔に誘惑されて、それを見たからです。それを見ると、その木は食べるのによさそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかったのです。それで彼女はその見を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べました。また、ダビデがバテシェバと姦淫を行った時も、自分の部下であるウリヤの妻バテシェバを見て、その美しさに魅了されたのが原因でした。

人は何を見るかによって思いが形成され、それが行動に現れていきます。ですからイエス様も、情欲をいだいて女を見るものは、姦淫を犯したと言われたのです。それは心で犯す罪のことです。ですから、何を見るかということはとても重要なことなのです。あなたは何を見ているでしょうか。目の前にどんなものを置いていますか。気を付けたいですね。目の欲は私たちの回りにあふれています。そして目の欲は飽くことを知りません。それが私たちの肉をあおるのです。ですから、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)とあるように、目に注意しましょう。いつも良いものを見るようにしたいものです。そして、御霊に満たされ、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ5:22-23)とあるように、御霊の実を身につけたいと思います。

次は「暮らし向きの自慢」です。「暮らし向きの自慢」とは、英語では「Pride of life」とあります。それは自分の生活を誇ることです。たとえば自分がどんな豪邸に住んでいるかとか、高級車を持っているかとか、どれだけ貯金があるかとか、ブラントもののバッグを持っているかとか、あるいは、自分がどんなに賢い人間かを誇ることもそうです。大邸宅に住むこと自体が罪ではないし、ベンツやBMWといった高級車に乗ることも罪ではありません。貯金をすることも、ブランドもののバッグやスーツを持っていることも、それ自体では罪ではありません。しかし、そのようなものを持っているから自分を偉いと思う心があるならば、そうした虚栄心や起こりがあるとしたらそれは世を愛しているのであって、御父から出たものではないということを覚えておかなければなりません。

いったいなぜこの世にあるものを愛してはならないのでしょうか。15節と16節をもう一度ご覧ください。ここにその理由が記されてあります。それは、「もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。」それは「御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」すなわち、もしこの世を愛するなら、そこには、御父を愛する愛はありません。愛の性質上、人は二つのものを同時に愛することはできないのです。一方を愛して他方を憎むか、一方を重んじて他方を軽んじることになるからです。イエス様はこのことをマタイの福音書6章24節でこのように言われました。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」

多くの人が悩むのは、同時に二人の主人に仕えようとするからです。しかし同時に二人の主人に仕えることはできません。神にも仕え、富にも仕えることはできません。神に仕えるのか、富に仕えるのか、二つに一つであって、その中間など絶対にないのです。両方を大事にし、両方に仕えようとするなら、間違いなく神以外のものに支配され、飲み込まれてしまうことになってしまうでしょう。

Ⅲ.世と世の欲は過ぎ去る(17)

ではどうしたらいいのでしょうか。金ではなく神を愛しましょう。世と世にあるものではなく、神を愛しましょうということです。最後に17節をご覧ください。「世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」

どうして世と世の欲を愛してはならないのでしょうか。ここにもう一つの理由が述べられています。それは過ぎ去ってしまうものだからです。いつまでも続くものではありません。永続しないものに愛を注いで何になるでしょう。何にもなりません。すべては水の泡です。この世に重きを置くなら、残念ながら最後は消えて無くなってしまいます。

しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。それは岩の上に家を建てた人のようです。イエス様はマタイの福音書7章のところでこう言われました。
「ですから、わたしのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」(マタイ7:24-27)

あなたは何の上に土台を据えていますか。岩の上ですか、それとも砂の上ですか。この世に土台を据えるなら、それは見え目では良いかもしれませんが、人生に洪水が押し寄せたると、倒れてしまうことになります。しかし神のみこころを行うならば、永遠の神の国に土台を据えて生きるなら、どんな嵐が襲って来てもびくともすることはありません。岩の上に建てられているからです。これこそ神を愛する者、神のみこころを行う者です。

私たちの信仰生活の目標はイエス様のようになることです。しかしその過程にはそれを妨げるものが何と多いことでしょう。様々な誘惑があります。悪魔は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったものをもって誘惑してきます。だからヨハネは、私たちが罪を犯さないためにどうしたらいいのかを教えているのです。それはイエス・キリストです。私たちには御父の前で弁護してくださる義なるイエス・キリストがおられるのです。この方が助けてくださいます。
「あなたがたの経験した試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

イエス様も私たちと同じ試練を経験なさいました。四十日四十夜、断食した後で荒野に上って行かれました。すると試みる者がやって来て、イエス様を誘惑しました。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)
これは肉の欲です。空腹を覚えているときそんなことを言われたら、どの石もパンのように見えるでしょう。でもイエス様は答えて言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」(マタイ4:4)
大切なのは神のみことばが何と言っているかであって、自分の肉の欲を満たすことではないと言って退けました。

すると再び悪魔がやって来て、今度はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の頂に立たせて言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。神はあなたのために御使いを送り、その両手であなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たらないようにするでしょう。」(マタイ4:6)
これは暮らし向きの自慢です。もしそうなれば英雄になれるでしょう。自分がどんなにすごい者なのかを誇ることができます。でもそんな悪魔の誘惑に対してイエス様はキッパリと言いました。「あなたの神である主を試みてはならない」と書いてある。」(マタイ4:7)

すると今度はイエス様を高い山に連れて生き、この世のすべての王国と栄華を見せて言いました。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」(マタイ4:8)
これも大きな誘惑ですね。人は目に見えるものに弱いからです。私はいつも教会の隣の土地を見ていて、「ここが教会の駐車場になったらいいなぁ」と思っていますが、そんな時、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを上げようと言われたら、心がグラグラするのではないかと思います。グリグラですよ。しかし、イエス様はこう言われました。「下がれ。サタン。あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。」(マタイ4:10)
すると悪魔はイエス様を離れて行きました。イエス様はここにある肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といった悪魔の誘惑に勝利しました。なぜでしょうか。御父を愛しておられたからです。御父から出ておられたからです。神から出た者は、神のみこころを行います。

そして、このイエス様が、いつも私たちとともにいてくださいます。それは私たちの模範のためでした。イエス様は私たちが受ける試練や誘惑を前もって経験され、それをよく知っておられました。この方があなたとともにいて助けてくださるのです。あなたは決して一人ではありません。主がいつも共にいて助けてくださることをどうぞ忘れないでください。そして、この主にあって悪魔の誘惑に勝利させていただきましょう。世と世にあるものを愛するのではなく、あなたのためにいのちを捨てるほど愛してくださった主を愛しましょう。そのようにして少しずつでもイエス様のような者に変えられていくことを求めていきたいと思います。



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士師記1章

投稿日: 2018/05/12 投稿者: Tomio Ohashi


 今回から士師記の学びに入ります。まず1節をご覧ください。
「さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」
士師記は「ヨシュアの死後」から始まります。そして士師記の最後、21章25節には、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」とありますが、ヨシュアが死んでから最初にイスラエルの王となったサウロに油を注いだ最後の士師サムエルが没するまでの約300年間(B.C.1381-1050)、イスラエルの民がどのような歩みをしていたのかの歴史が記されてあります。

 「士師」とは、「さばきつかさ」のことです。それは一言でいえばイスラエルの指導者のことです。イスラエルが敵によって苦しめられているとき、軍事的指導者として戦い、また行政的にも司法的にも指導的役割を果たしました。

 全体の内容は大きく分けると三つに分けられます。第一のパートは1章から2章にかけて、ヨシュア死後のイスラエル人とカナン人の敵対関係について、第二のパートは、3章から16章にかけて士師による苦難からの解放の様子について、そして第三のパートは、17章から21章にかけて、イスラエルの民の霊的状態、すなわち、イスラエルの民はおのおの自分の目に正しいと見えることを行ったため、社会は無秩序でめちゃくちゃな状態となっていたということです。

それでは、早速1章を見ていきたいと思います。まず1節から21節までをご覧ください。まず7節までをお読みします。

Ⅰ.アドニ・ベゼク(1-21)

「さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。」そこで、ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私に割り当てられた地に私といっしょに上ってください。カナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地にあなたといっしょに行きます。」そこでシメオンは彼といっしょに行った。ユダが上って行ったとき、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を打った。彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り取った。すると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。」

ヨシュアの死後、イスラエル人は主に尋ねました。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦うべきでしょうか。」
なぜイスラエル人はこのように主に尋ねたのでしょうか。イスラエル人はカナン人と戦って勝利し、既にヨシュアによってその地の割り当て地が与えられていたはずです。しかし、それでもまだ完全に占領していたというわけではなく、まだ占領すべき地が残っていたからです。ヨシュア記13章1節には、主がヨシュアにこう言ったとあります。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」神の約束にしたがって、確かにヨシュアはその地を自分たちのものにすることができましたが、それでもなお占領すべき地は残っていたのです。ですから、ヨシュアが死んだ後も彼らは戦い続けなければなりませんでした。

すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。」ユダ族はカレブによって導かれた最も勇敢な部族です。ですから、上って行ってその地の住民と戦うのに最もふさわしい部族だったのでしょう。それでユダは兄弟シメオンと一緒に上って行きました。シメオン族はユダ族に吸収されるかのように、ユダ族の中に割り当て地を受けていたので、ユダとしては兄弟の中でも特に親しみを感じていたのでしょう。兄弟の中の兄弟という感覚があったに違いありません。

それで彼らが上って行くと、ベゼクでアドニ・ベゼクと戦い、カナン人とペリジ人を討ちました。ベゼクとは、マナセ族の領地のちょうど真ん中ぐらいにある町です。すなわちユダとシメオンは北上してこの町の王アドニ・ベゼグと戦ったのです。そして、そこに住んでいたカナン人とペリジ人を討ちました。

ところが、その時アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らは後を追って捕らえ、その両手両足の親指を切り落としました。これは何とも残虐な行為のようですが、相手を戦うことができないよう状態にしたということです。手の親指がなければ剣を持って戦うことができないし、足の親指がなければ、体全体のバランスをとることができず、立って歩くこともできません。結局彼はエルサレムに連れて行かれて死にました。

その時彼が言ったことばに注目してください。7節です。彼は「神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」と言いました。かつて自分が行なった罪深い行為の報いを受けていると思ったのです。かつて70人の王たちにした報いを受けて、自分の同じようにされていると思ったのです。確かに神は人の悪を憎まれます。そしてその悪に対して正しく報いを与えられます。しかし、もし彼が「神が愛と憐れみの満ちた方」だということを知っていたら、同じ状況になっても違うことを言ったのではないでしょうか。「神様、私は罪人です、私の罪を許して下さい。私の両手両足の親指が失われた事は自業自得です。でも、私の人生はあなたのものですし、あなたが始められたのですから、たとえ人が私の親指を奪い去っても、あなたの愛と計画を持ち去ることは出来ないでしょう。あなたはきっと私の人生を癒して生き返らせて下さいます。どうか私を助けて下さい。」その時、彼の指は回復しなかったとしても彼の霊的な手足は回復して、失意から希望に変えられたに違いありません。私たちも自業自得というようなことがよくありますが、それでも神は愛と憐みに満ちた方であると信じて、この神の前にへりくだり、神のあわれみを受ける者でありたいと思います。

次に8節から15節までをご覧ください。
「また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は以前はキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを打ち破った。ユダはそこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は以前はキルヤテ・セフェルであった。そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか。」と尋ねた。アクサは彼に言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」

その後、ユダ族はエルサレムを攻めてこれを取りました。そこにはエブス人という強力な敵がいましたが、そこも攻め取りました。その後彼らは南下して、山地やネゲブやシェフェラに住んでいたカナン人を攻めました。ネゲブとは砂漠地帯、シェフェラとは山地と平地の間の丘陵地帯、すなわち、低地のことです。ですからこれは、ユダ族が山地と低地と砂漠地帯一体で戦いを繰り広げたということです。そしてヘブロンに住んでいたカナン人も攻めました。ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバと言います。ヨシュア記14章15節には、このアルバという人物はアナク人の中で最も偉大な人物であったとあります。そのアルバの三人の息子シェシャイとアヒマンとタルマイが住んでいましたが、それも攻めて討ちました。

しかし、そんなカレブでしたが、かなり厳しい戦いを強いられたことがありました。それはキルヤテ・セフェルとの戦いです。それでカレブは「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」(12)と言って、自分の娘を褒美として与えてまでもこの地を攻め取ろうとしました。そのとき手を上げたのが、ケナズの子オテニエルでした。彼はこのキルヤテ・セフェルを攻め取ったので、カレブは彼に自分の娘のアクサを妻として与えました。

彼女が嫁ぐとき、彼女は夫に畑を求めるようにしきりに促すも、彼女が求めたものは湧き水でした。それでカレブは彼女に、上の泉と下の泉を与えました。どうして彼女は畑ではなく湧き水を求めたのでしょうか。それは15節にあるように、そこがネゲブの地、すなわち、砂漠地帯だったからです。どんなに畑を求めてもその畑を耕して収穫を得るためには水が必要です。それでアクサは湧き水を求めたのです。カレブは、娘のこの要求を非常に喜び、上の泉だけでなく下の泉も与えました。この泉とはため池のことです。ため池は、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などでは農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう、人工的に造成されました。、カレブはこの泉を与えたのです。

これは私たちの信仰生活においてとても重要なことを教えていると思います。すなわち、私たちには土地が必要ですが、収穫のためにはより根源的なものが必要であるということです。ではより根源的なものとは何でしょうか。それが泉なのです。とかく私たちは表面的なものに関心が向き、それを求めがちですがもっと重要なのはより本質的なもの、より根源的なものです。それは、祈りとみことばであり、そこから湧き出てくる神のいのち、聖霊の満たしです。私たちがまず求めなければならないものはこの神の国とその義であって、そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられ、神の御業があらわされるようになります。そうでないと、私たちの信仰は極めて表面的で、薄っぺらなものになってしまうでしょう。そして人間としての本来の在り方というものを失ってしまうことになってしまうことになります。そのようにならないように、私たちはいつも私たちの中に祈りの祭壇を築き、神のいのちに満ち溢れることを求めていかなければなりません。

次に16節から21節までをご覧ください。
「モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。ユダは兄弟シメオンといっしょに行って、ツェファテに住んでいたカナン人を打ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。ついで、ユダはガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。彼らはモーセが約束したとおり、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の息子を追い払った。ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。」

モーセは、ミデヤンの祭司イテロのところに住み、そこでチッポラを妻としました。ですからモーセにはイテロの息子たちである義兄弟がいたのです。それがケニ人です。そのケニ人の子孫がユダ族といっしょになつめやしの町からアラドの南にある荒野に上って行き、そこの民とともに住みました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。エリコから南にあるユダの荒野に上って行きました。彼らにとって荒野の方が住みやすかったのでしょう。

ユダ族の快進撃は続きます。今度は兄弟シメオンと一緒に行って、ツェファテに住んでいたカナン人を討ち、そこを聖絶しました。さらにアシュケロンとその地域、エクロンとその地域も攻め取りました。このアシュケロン、エクロンは海岸地域です。後にペリシテ人が住むようになる土地です。ですから、彼らはかなり広範囲にわたって攻め取ったことがわかります。どうしてこのように広範囲にわたって攻め取ることができたのでしょうか。それは主がともにおられたからです。主がともにおられたので、ユダは山地を占領することができました。しかし、平地の住民は追い出すことができませんでした。鉄の戦車を持っていたからです。けれども、それは理由になりません。主がともにおられるのであれば、たとえ敵が鉄の戦車を持っていても何の問題もないからです。それなのに追い出すことができなかったのは、神の約束よりもその置かれた状況を見て恐れたからです。主ご自身よりも鉄の戦車の方が大きくなってしまったのです。主ご自身がともにおられその敵と戦われるのですから、彼らにとって必要だったのはただ主に聞き従うことだったのです。それなのに彼らは敵の戦車を見て恐れてしまいました。ユダは完全に聞き従わなかったのです。

このようなことが私たちにもあります。主に従ってはいるけれども中途半端な従い方をしてしまうということが・・・。私たちは、自分で克服できる問題には信仰をもって対処しますが、克服できないと思うことに対しては逃げてしまうことがあるのです。ちょうど「鉄の戦車があるから」という言い訳をしてしまうのです。けれども、このように信仰において妥協があると、最終的に肉が共存し、自分自身を苦しめてしまうことになってしまいます。

21節をご覧ください。それはベニヤミン族も同じでした。ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住むようになりました。エルサレムも、谷にいた住民のように、地形的に敵が入り込めないようになっており、自然の要塞となっていました。けれども、それでエブス人を倒すことができないという言い訳にはなりません。彼らには全能の主がついておられたのですから。実際に後にダビデがエブス人と戦うようになりますが、その時まで何百年も本当は攻略することができたのに攻略せず、戦いを先延ばしにしていただけなのです。私たちは逃げることはできません。ただ前進して戦うのみです。主がともにおられるなら、主が勝利を与えてくださいます。それを信じて前進するかどうかです。鉄の戦車を見ておびえてはなりません。難攻不落の要塞を見てあきらめてはならないのです。主が戦ってくださることを信じて、主の命令に従って前進しなければならないのです。

Ⅱ.ヨセフの一族によるべテル奪回(22-26)

次に22節から26節までご覧ください。ここにはヨセフ一族によるベテロの奪回のことが記されてあります。
「ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。主は彼らとともにおられた。ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は以前はルズであった。見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。そこで、その者はヘテ人の地に行って、一つの町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。」

「ヨセフの一族」とは、マナセ族とエフライム族のことです。彼らはベテルに上って行きました。ベテルはエルサレムの北19キロに位置し、ベツレヘムとエフライムの境にある町です。以前は、ルズと呼ばれていました。しかし、ヤコブが兄エサウのもとから逃れてハランに住む叔父ラバンのもとへ向かう途中ここで天からのはしごの夢を見たことで、ここをベテル、「神の家」と呼ぶようになりました。かつてアブラハムもネゲブに向かう途中でこのベテルに滞在して、祭壇を築きました。そういう意味ではとても霊的に重要な町です。

ヨセフ一族はこのベテルを攻略するにあたりその町を探るも、なかなか攻略の糸口が見つかりませんでした。そこで彼らはその町から出てきた人を見て、「この町に入るところを教えてほしい。」と言います。「そうすれば私たちも、あなたに誠意を尽くすから。」と。かつてイスラエルがエリコを攻略した際にラハブにしたようにです。するとその人は町の出入り口を教えてくれたので、彼らは剣の刃でこの町を討ちました。しかし、教えてくれたその人とその氏族の者はみな約束したとおり自由にしてやりました。自由になったその人はどうしたかというと、ヒッタイト人の地に行って町を建て、その町をルズと呼びました。このヒタイト人とはヘテ人のことで、北シリア,アナトリア一帯を領有していたと言われています。(アマルナ文書)

Ⅲ.カナン人を追い払い得なかった村落のリスト(27-36)

最後に27節から36節までを見て終わりたいと思います。 ここにはマナセ、エフライム、ゼブルン、アシェル、ナフタリ、ダンといったカナンの中部と北部に定住した部族がカナン人を追い払わなかった村落のリストが記されてあります。
まずマナセ部族です。27節と28節をご覧ください。「マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。イスラエルは、強くなってから、カナン人を苦役に服させたが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」
エフライムも同じです。29節です。「エフライムはゲゼルの住民カナン人を追い払わなかった。それで、カナン人はゲゼルで彼らの中に住んだ。」
マナセとエフライムはカナン人を苦役に服させましたが、完全に追い払うことをしませんでした。苦役に服させるのと追い払うのでは大きな違いがあります。私たちは、肉を十字架につけて殺してしまわなければいけません。それなのに、その肉をそのままにして表面的に対処しようとすると、それが共存して逆にそれによって悩まされることになってしまうのです。彼らはいつもこうした弱さがありました。ヨシュア記17章16節にも、かつてヨシュアがマナセとエフライムに「戦いなさい」と鼓舞したのに、彼らはヨシュアにこういう言い訳をしました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(ヨシュア17:16)」
鉄の戦車が問題なのではありません。問題はだれとともに戦うのかということです。主が共に戦ってくださるのであれば何の問題でもありません。しかし、彼らは自分たちにできるかできないかを計算することで、信仰によって踏み出すことをしませんでした。

次はゼプルンです。30節には、彼らはキテロンの住民とナハロルの住民を追い払わなかったので、カナン人は彼らのただ中に住み、苦役に服しました。

次はアシェルです31,32節をご覧ください。彼らもアッコの住民やシドンの住民などを追い払わなかったので、その土地の住民の中に住みました。ここではカナン人が彼らの中に住んだのではなく、彼らがカナン人の中に住んだとあります。霊と肉が逆転しています。追い払うことをしないと支配していると思っていても、逆に支配されるようになってしまいます。

次はナフタリです。33節です。彼らもベテ・シェメェシュの住民やベテ・アナトの住民を追い払わなかったので、その土地に住むカナン人の中に住みました。

最後はダン族です。34節から36節です。「エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、なにせ、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。こうして、エモリ人はハル・へレスと、アヤロンと、シャアルビムに住みとおした。しかし、ヨセフの一族が勢力を得るようになると、彼らは苦役に服した。エモリ人の国境はアクラビムの坂から、セラを経て、上のほうに及んだ。」
ダン族がもっとも状況がひどいです。彼らは自分たちの割り当て地に住むことさえできませんでした。追い払うのではなく、追い払われてしまいました。ヨセフの一族とはエフライム族のことです。彼らが強くなったとき、エモリ人を苦役に服させました。

モーセ(申命記7章)とヨシュア(ヨシュア記23章)の警告を聞き入れなかった結果が、この士師記の種々のエピソードにつながっていきます。どんなに自分の目で良いと思えることでもそれが神の命令にかなったものでなければ、神に従うべきです。「十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(ヨシュア23:11)とヨシュアは警告したが、真に、私たちは自らの霊性を守る歩みが求められています。そのことに私たちが気づかされ、この世の倫理、この世の考え方に流されず、それらを超えた聖書の教えに立つことができるように、祈り歩ませていただきましょう。



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