なぜ泣いているのですか ヨハネの福音書20章1~18節

 イースターおめでとうございます。私たちは今日、特別の日を迎えました。イエス・キリストがよみがえられた日です。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られました。葬られたというのは、完全に死んだということです。しかし、キリストは聖書に書いてあるとおりに三日目に墓からよみがえられました。そして、それが事実であることを示すために、12人の弟子たちをはじめ、多くの人たちに現われてくださったのです。これが、最も大切なこととして聖書が私たちに教えていること、良い知らせ、福音です。今朝は、この復活のキリストについて、ヨハネの福音書から一緒に学びたいと思います。

 

 Ⅰ.見て、信じた(1-10)

 

 まず、1節から10節までをご覧ください。1,2節をお読みします。

 「1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」」

 

 「週の初めの日」とは日曜日のことです。朝早くまだ薄暗いうちに、マグダラのマリアはイエスが葬られていた墓に行きました。他の福音書を見ると、他に2人の女たちが一緒であったことがわかります。彼女たちは、イエスが十字架につけられたときもずっと十字架のそばにいました。そして、イエスのからだが十字架につけられた場所の近くの墓に納められるのを確認すると、安息日が明けるのを待って墓に向かって行きました。いったいなぜ彼女たちは墓に行ったのでしょうか。マルコ16:1には、「イエスに油を塗りに行こうと思い」とあります。イエスが十字架で死なれた直後、イエスの身体には香料が塗られましたが、十分ではないと思ったのでしょう。その女たちの中で、ヨハネはマグダラのマリアにスポットを当てています。なぜ彼女にスポットを当てたのかはわかりません。おそらく、彼女はキリストと出会い、その人生が大きく変えられたからだと思います。

 

 彼女は、かつて悲惨な人生を歩んでいました。ルカ8:2を見ると、彼女は七つの悪霊につかれていました。一つや二つではありません。七つです。尋常ではありません。そのため彼女は、非常に苦しい日々を過ごしていました。その彼女がイエス様によって悪霊を追い出してもらったのです。どれほどうれしかったことでしょう。彼女は悪霊から解放されるとイエスに従い、イエスに仕えました。彼女はだれよりもイエスを愛していました。というのは、だれよりも多く赦されたと感じていたからです。ルカの福音書7章には、イエスがパリサイ人シモンの家に招かれ食事をしたときのことが記されてあります。そこに一人の罪深い女が香油の入った石膏の壺を持ってイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐいました。そして、その足に口づけして香油を塗ったのです。その罪深い女とはこのマグダラのマリアでした。パリサイ人シモンはそれを見て、心の中でこう思っていました。「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っているはずだ。この女は罪深いのだから。」(ルカ7:39)すると、イエスはあの有名なたとえ話を語りました。500デナリを借りている人と50デナリを借りている人がいてどちらも返すことができなかったので、金貸しが二人とも借金を帳消しにしてやると、この二人のうちどちらが金貸しをより多く愛するようになるかという話でした。「より多く帳消しにしてもらった方だと思います」とシモンが答えると、イエスは彼に、「あなたの判断は正しい」と言われました。そして、彼女がこのようなことをしたのは、彼女の多くの罪が赦されたからだ、と言われたのです。なぜなら、多く赦された者は多く愛しますが、少ししか赦されない者は少ししか愛さないからです。すなわち、彼女は多く赦されたので、多く愛したのです。彼女は他の女たちと一緒に十字架でのイエスの死を最後まで見届けました。自分の愛する主が死んでしまったことで、彼女の心は悲しみで一杯でした。ですから彼女は、安息日が終わるやいなや墓に向かって行ったです。

 

 墓に行ってみると、墓を塞いでいた大きな石が取りのけられているのを見ました。すると彼女は中を確認することもしないで、走って、シモン・ペテロとイエスが愛されたもう一人の弟子、これはこの福音書を書いているヨハネのことですが、彼らのところに行って、「だれかが墓から主を取って行きました」と告げました。彼女の頭の中にはイエスが復活したという考えはこれっぽっちもありませんでした。ふっかつの「ふ」の字もなかったのです。

 

 3節から8節までをご覧ください。

「3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。」

 

そこで、ペテロともう一人の弟子のヨハネは外に出て、急いで墓に行きました。二人は一緒に走りましたが、ヨハネの方がペテロよりも速かったので先に墓に着きました。ヨハネの方が若かったからでしょう。この時ヨハネは20代、ペテロは30代後半ぐらいだったと思われます。30代も後半になると。息が切れて早く走ることができなくなります。思っているように走れないのです。それで、ヨハネの方が先に着きました。ヨハネは墓に着くと身をかがめて中を見ましたが、中には入りませんでした。なぜでしょう。ヨハネはそういう性格だったからです。そういう人がいます。石橋をたたいて渡るような人です。世の中にはいろいろな人がいます。石橋をたたいて渡る人、石橋をたたいても渡らない人、石橋をたたかずともさっさと渡る人です。ヨハネは石橋をたたいて渡る人でした。慎重に行動するタイプだったのです。だから、亜麻布が置いてあるのが見えましたが、中には入らなかったのです。

 

一方ペテロはというと、石橋をたたかずとも渡る人でした。彼はヨハネよりも遅れて墓に着きましたが、墓に着くなりさっさと中に入って行きました。慎重なタイプの人と突進するタイプの人がいるとしたら、彼は突進するタイプの人でした。私みたいな人間です。ペテロを見ていると自分を見ているような気がします。闘牛のように突進していきます。彼が中に入って行くとどうでしょう。そこには亜麻布が置いてありましたが、不思議なことに、イエスの頭を包んでいた布とイエスのからだを包んでいた布が、離れたところに置いてありました。しかも、きちんと丸めてです。いったいこれはどういうことか。このような番組がありますね。様々なミステリー事件の真相を、手がかりをもとに解明していく推理バラエティーです。「誰が?」「なぜ?」「どのように犯行を行ったのか?」という情報を基に、事件の解決に挑戦していくのです。ここでは、墓の中に入ってみるとイエスのからだがなく、そこにあったのは亜麻布だけ。しかも、その亜麻布は頭を包んでいた布と、からだを包んでいた布が離れたところにあった。しかも、それぞれの布はちゃんと丸めてありました。いったいこれはどういうことか?もし誰かがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、こんな手のこんだことをするでしょうか。しません。からだに巻かれていた布は、香料や没薬が染み付いてベトベトになっていたはずです。それをわざわざほどいて、しかも丁寧に丸めて置いておくようなことをする人はいません。ただそのまま運べば良かったのですから。しかし、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布とは、離れたところに別々に置いてありました。そこにあるはずのイエスのからだだけが消えて無くなっていたのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

 

8節をご覧ください。そのとき、先に墓に着いていたヨハネも中に入りました。そして、見て、信じました。いったい何を信じたのでしょうか。ヨハネはその状況をつぶさに見て、イエスがよみがえられたと信じたのです。確かにそこにイエスのからだがありませんでした。マグダラのマリアは、だれかが墓から主を取って行ったと言うけれども、現場の状況から見てあり得ないことです。だって、イエスの頭を包んでいた布とからだを包んでいた布が別々に、離れたところに置いてあったんですから。しかも、丁寧に丸めて。もしマリアが言うようにだれかがイエスのからだを盗んで行ったとしたら、そんな手の込んだことはしないでしょう。しかも、墓を見守っていた番兵たちもいないのです。墓を塞いでいた大きな石は脇に転がしてありました。これらの物的証拠を検証すれば、導かれる結論は一つしかありません。それは、イエスはよみがえられたということです。ヨハネは、それを見て、信じたのです。ただ感情的にそう思ったのではなく、一つ一つの証拠を見て、そのように判断したのです。

 

皆さん、私たちが何かを見るという時、いろいろな見方があります。たとえば、ただ何となく見るということがあります。その場合は、ぼんやり見ています。そのように見ながら、「あ、ここにマイクがある」「ここに講壇がある」と認識しているのです。しかし、もう一つの見方があります。それはじっと見るとか、注意深く見るということです。それがどんなものなのかを観察するわけです。ヨハネが見たのはこれでした。彼はただぼんやりと見たのではなく、注意深く見ました。マグダラのマリアは、イエスのからだが無いのを見てだれかが取って行ったと思いましたが、ヨハネはその状況を注意深く見て、そうではないと判断したのです。そして、イエスはよみがえられたと結論付けたのです。でも確かなことはまだわかりません。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していなかったからです。

 

Ⅱ.なぜ泣いているのですか(11-16)

 

一方、マリアはどうだったでしょうか。11節から16節までをご覧ください。

「11一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

ペテロとヨハネは、自分たちのところに帰って行きました。彼らはイエスがよみがえらなければならないという聖書のことばを、まだ理解していませんでした。一方、マグダラのマリアは墓の外にたたずんで泣いていました。彼女がどれだけイエスを思っていたのか、愛していたのかがわかります。愛する方が亡くなり、そのからだがないのです。いったいどこに行ってしまったのか。帰ろうにも帰れません。帰りたくない。そして泣きながら、からだをかがめて墓の中を覗き込んだのです。すると、イエスのからだが置かれてあった場所に、白い衣を着た二人の御使いが座っていました。一人は頭のところに、もう一人は足のところに。彼らはマリアに言いました。「女の方、なぜ泣いているのですか。」普通だったらその光景に驚いて「これは夢か幻か、あなたはだれですか。これは現実ですか」とか言ってもおかしくなかったでしょうが、彼女にとって天使なんてどうでも良いことでした。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわかりません。」(13)と、主のからだが無いという状況にただうろたえるばかりでした。

 

そのときです。彼女がこう言ってうしろを振り向くと、そこにイエスが立っているのを見ました。しかし、彼女にはそれがイエスであることがわかりませんでした。もしかすると、朝早かったので寝ぼけていたのかもしれません。あるいは、入口の方が明るくて、立っている人が黒く見えたのかもしれません。いや、涙で目が曇っていてはっきり見えなかったのでしょう。ただ一つはっきりと言えることは、彼女の悲しみは、そこにいる人がだれであるのかがわからないほどのものであったということです。

 

それで、イエスは彼女に言われました。15節です。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」イエスは決してマリアが泣いている理由がわからなかったわけではありません。イエスはマリアの気持ちを全部ご存知の上でこのように言われたのです。

 

マリアは、イエスのからだがだれかに盗まれたと思っていました。それで悲しんでいたのです。しかし、今は悲しむ時ではありません。今は喜ぶ時です。なぜなら、その主イエスがここにいるからです。主はよみがえりました。それなのに、なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。彼女が捜していたのは死んだイエスのからだでした。しかし、イエスはよみがえられたのです。よみがえられて、今、あなたの目の前に立っています。なぜ泣いているのですか。彼女はイエスが目の前に立っているにもかかわらず、イエスが復活したことを認めることができず、そこにいるのは園の管理人だと思っていたのでずっと泣いていたのです。そして、その人にこう言いました。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのかを教えてください。私が引き取ります。」

おじさん、頼みます。教えてください。あなたじゃないんですか、主のおからだを運び去ったのは・・。彼女の目は涙で曇っていたので、はっきり見ることができませんでした。

 

しかし、そんな彼女の目が開かれる時がやって来ます。それは、イエスが彼女の名前を呼ばれた時です。16節、「イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、へブル語で「ラボに。」、すなわち「先生」とイエスに言った。」

 

イエスは彼女の名前を呼ばれました。ヨハネ10:3には、「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。」とあります。良い牧者は羊たちの名前を呼んで連れ出しますが、羊たちはその声を知っているのです。

先日、久しぶりに下の娘が家に戻りました。いつも忙しくてなかなか戻って来ないのですが、久しぶりに3~4日ゆっくりしていきました。しかし、今回は一人ではありませんでした。チワワという愛犬を連れて来たのです。名前は「ラブ」です。それがなかなかかわいいのです。でも「ラブ」なんて呼びたくなかったので、「チワ」と呼んだら全然反応してくれないのです。「チワ、こっちおいで。頼むから」と言っても来ない。でも娘が「ラブ」と呼ぶと、しっぽをふって喜んでついて行きます。どこまでも。トイレに行く時にもリビングから出ないようにドアを閉めると、「クーン、クーン」と泣くのです。娘を愛しているのです。そっちの主人よりも、こっちの主人の方がいいよ、と言っても見向きもしません。娘の話ではうるさい人は嫌いだそうで、かえって脅えるというのです。だから、静かに「チワちゃん」で呼んでみましたが、やはりだめでした。チワワは、主人の声を知っていたのです。同じように、羊たちは、牧者の声を聞き分けます。イエス様が「マリア」と呼ばれると、彼女はそれがイエス様だとすぐにわかりました。それで、「ラボニ」、すなわち「先生」と言ったのです。イエス様がマリアの名前を呼ばれたとき、マリアの心の眼が開かれたのです。当時、「マリア」という名前の人はたくさんいました。この朝イエスの墓に一緒に行ったのも、もう一人のマリアと一緒でした。ヤコブの母マリアですね。ですから、当時マリアという名前の人はたくさんいましたが、マグダラのマリアは「マリア」と呼ばれたとき、彼女はそれがイエス様だとすぐに気付いたのです。

 

イエス様はマリアの名前を呼ばれたように、あなたの名前も呼んでくださいます。私は時々イエス様が自分の名前を呼ばれる時のことを想像することがあります。「トミオ→」「トミオ↑」「トミオ↓」「トミオ 」イントネーションによって受け止め方も全然違いますね。きっとマリアを呼ばれた時は、優しく呼ばれたことでしょう。「マリア」。主は、私たちの名前も優しく呼んでくださいます。それによってどれほど慰められることでしょうか。どれほど勇気づけられることか。イザヤ42:1~5にこうあります。

「1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」(イザヤ43:1-5a)

あなたを創造され、あなたを形造られた主があなたの名前を呼び、「恐れるな」と言ってくださいます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」と言ってくださる。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と言ってくださるのです。私たちの人生には悲しみで涙するようなことがどれほどあるでしょう。しかし、私たちの救い主イエス・キリストは死からよみがえられ、あなたの名前を呼んでくださるのです。この主の御声を聞きながら歩めることはどんなに感謝なことでしょうか。

 

Ⅲ.すがりついてはいけません(17-18)

 

最後に、17節と18節を見て終わります。

「17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。」

 

マリアは、自分の名前を呼ばれるとそれがイエスであることがわかり、うれしくて、うれしくて、イエス様にすがりつこうとしました。するとイエスは言われました。「わたしにすがりついてはいけません」触れると汚れてしまうからではありません。事実、この後でイエス様は疑い深いトマスにご自身を現されたとき、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」(27)と言っています。ですから、触れることが問題ではなかったのです。では何が問題だったのかというと、イエスがまだ父のもとに上っていなかったということです。父のもとに上って行かないと、神との和解が成立しないからです。天に上り、父なる神の右の座に着かれることによって、イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれ、よみがえられたことが本当であることが証明されるのです。どうしてそれで召命されるのかというと、イエスが約束された聖霊が来られるからです。約束の聖霊が遣わされることによって、確かにイエスは罪の赦しのために十字架で死なれ、その死の中からよみがえられたということがわかるのです。つまり、イエスは確かに救いの御業を完成したことがわかるのです。ですから、イエス様は17節でこう言われたのです。

「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

 

このようにして、マグダラのマリアは、復活の最初の目撃者として弟子たちのところに遣わされました。イエス様が復活して最初にご自身を現されたのは、このマグダラのマリアだったのです。それは一番弟子のペテロでも、イエスに愛された弟子のヨハネでもなく、ましてや、イエス様を十字架につけた祭司長や律法学者たちでもなく、たった一人の罪深い女性、マグダラのマリアにご自身を現されたのです。イエスに敵対する者は、復活したイエスを見ることができませんでしたが、ただイエス様を心から愛する者にご自身を現されたのです。主の復活を見たのは、主を愛する者だけだったのです。

 

ヨハネ14:18~21を開いてください。ここには、「18わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」」とあります。イエス様は、ご自身を愛する者にご自身を現してくださるのです。

 

マグダラのマリアは、イエスを失い、深い悲しみの中に沈んでいました。しかし、イエスが彼女に現われてくださいました。そのことがわかったとき、彼女の悲しみは飛び上がるほどの喜びに変えられました。当の本人は、イエス様が目の前にいるにもかかわらず、それがイエス様だとわかりませんでした。涙で心の目が曇っていたからです。しかし、イエス様に名前を呼ばれたとき、それがイエス様だとはっきりわかりました。

 

皆さんはどうですか。マリアが深い悲しみで涙していたように、不安や悲しみに押しつぶされてはいないでしょうか。でも、イエス様はよみがえられました。そして、こう言われます。

「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」

主は、あなたの名前を呼ばれます。イエス様は復活して、あなたのうしろに立っておられるのです。あなたがこの復活の主イエスを信じ、主があなたとともにおられることを信じるなら、確かに不安や恐れはあるでしょうが、主がその涙をすっかり拭ってくださいます。なぜなら、キリストは死からよみがえられたからです。主はあなたを捨てて、孤児とはしません。もはやあなたは1人ではありません。復活したイエス・キリストがいつまでもあなたとともにおられます。このことがわかれば、どのような問題も、どのような困難も、どのような悲しみも必ず乗り越えることができます。

今、国中が、いや全世界がコロナウイルスの脅威にさらされています。現状を見れば恐れ以外の何ものでもないでしょう。しかし、復活された主を見るなら、そこに希望を見いだすことができます。なぜなら、そこに真の解決があるからです。いずれ、この感染症も終息するでしょう。しかし、それは最終的な解決と希望ではありません。なぜなら、もっと困難な時代を迎えることになるからです。しかし、クリスチャンにとってどんなに困難な時代がやって来ても、恐れる必要はありません。最終的な希望がどこにあるのかを知っているからです。それはキリストの再臨です。イエス様は、ルカ21:28でこう言われました。

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」

「これらのこと」とは、終末に起こるしるしのことです。これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなければなりません。あなたがたの贖いが近づいているのですから。ですから、これらのことは、クリスチャンにとっては贖いが近づいているしるしなのです。それは救いの完成の時であり、クリスチャンにとっての希望の時です。その時が近づいているのです。最終的な希望がどこにあるのかを聖書から教えられ今を生きることができるというのは、何と幸いなことでしょうか。そこに希望を持つことができるからです。キリストはそのためによみがえられました。永遠のいのちが与えられている私たちは、この困難の先にある再臨の希望を確信して生きることができるのです。

沖縄にある「オリブ山病院」の理事長で、読谷(よみたん)バプテスト伝道所の牧師である田頭真一(たがみ・しんいち)先生は、このように言っておられます。「最大の問題は新型コロナウイルスで死ぬことではなく、イエス・キリストを知らずして死ぬことです。最大の希望は感染が終息することではなく、再臨のイエス・キリストをお迎えすることなのです。」アーメン。

「なぜ泣いているのですか」「だれを捜しているのですか」主はよみがえられました。あなたの名を呼んでおられます。その御声を聞き、主があなたと共におられることを信じてください。あなたもこの希望に生きることができますように。

十字架につけられたキリスト ヨハネ19:1-30

2020年4月5日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ19章1~30節

タイトル:「十字架につけられたイエス」

 今週は受難週となります。ですから、いつもの講解説教をお休みしてヨハネが語る十字架の意味についてご一緒に学びたいと思います。十字架は、イエス・キリストの生涯のクライマックスです。キリストはなぜ十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

 Ⅰ.十字架につけろ(1-16a)

 

まず、1節から7節までをご覧ください。

「1 それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。2 兵士たちは、茨で冠を編んでイエスの頭にかぶらせ、紫色の衣を着せた。3 彼らはイエスに近寄り、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、顔を平手でたたいた。4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」6 祭司長たちと下役たちはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは彼らに言った。「おまえたちがこの人を引き取り、十字架につけよ。私にはこの人に罪を見出せない。」7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」

 

「それでピラトは」の「それで」とは、その前の18章40節の言葉を受けてのことです。ピラトはイエスに何の罪も認められなかったのでイエスを釈放したいと思ったのですが、そのことをユダヤ人たちに尋ねると、彼らが大声で「その人ではなく、バラバを」と言ったので、ピラトは、仕方なくイエスを捕らえてむちで打ちました。

 

当時のむち打ちは、先端に動物の骨や金属がつけられた長い皮のひもで打たれたので、すぐに肉体が引き裂かれ、耐えがたい苦痛が全身に走りました。十字架につけられる前に息絶えてしまう人もいたほどです。キリストはなぜむちで打たれなければならなかったのでしょうか。そもそもイエスには罪がありませんでした。それなのに、なぜむちで打たれなければならなかったのか。それは、旧約聖書の預言が成就するためでした。イザヤ書53章には、来るべきメシアについてこのように預言されてありました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」(イザヤ53:4-5)

これが来るべきメシアの姿です。キリストは、私たちの背きのために罰せられ、打たれ、苦しめられますが、その懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒されるのです。それは私たちの罪のためであったのです。このようにキリストがむちで打たれることによって、この方こそメシアであるということが明らかにされました。それは、2節と3節で、兵士たちがイエスの頭に茨の冠をかぶらせ、紫色の衣を着せて、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、平手で顔をたたいたのも同じです。考えられますか。救い主の顔で殴るんですよ。どれほど罪深いことか・・。それはメシアが苦難を受けるというこのみことばが成就するためでした。

 

4節と5節をご覧ください。「ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」

ピラトは、イエスに罪がないことがわかっていました。彼はそのことを3回も繰り返して言っています。ここと、6節、それと18章38節です。しかし、彼らがなかなか納得しなかったので、痛めつけたイエス様の姿を見れば怒りも収まるのではないかと、イエスを官邸の外に連れて来て、こう言いました。「見よ、この人だ。」

 

すると、祭司長と役人たちは何と言ったでしょうか。6節、彼らはイエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫びました。どんなにピラトが、「私にはこの人に罪を見出せいせない。」と言っても、彼らの怒りは収まりませんでした。なぜでしょうか。その理由が7節にあります。「ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人は死に当たります。自分を神の子としたのですから。」どういうことですか?イエスが自分を神の子と主張したということです。それは彼らの律法、つまり旧約聖書の教えに違反することでした。律法によれば、そのような者は石打ちにされなければなりませんでしたが、彼らはローマに支配下にあったので、ローマの処刑法である十字架を要求したのです。

 

8節をご覧ください。ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れを覚えました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの要求を受け入れなければ、民衆の暴動に発展するかもしれないと思ったからです。もしそんなことにでもなれば、今度は自分の身が危うくなります。また、マタイ27:19を見ると、この時彼の妻が夢を見て、「あの正しい人と関わらないでください」と告げられていたので、ただならぬことが起こっていると感じていたのです。

 

それでピラトは再び総督の官邸に入り、イエスに尋ねました。「あなたはどこから来たのか」どこから来たのかと言っても、別に出身地を聞いているわけではありません。いったいあなたは誰なんですか。どこから来たんですか。本当に神のもとから来たんですか、ということです。しかし、イエスは何も答えませんでした。答える必要がなかったからです。なぜなら、もう何度も語られたからです。あとは信じるだけです。それなのに最も肝心なことから逃げて回りくどい質問に繰り返して答えるのは意味がありません。するとピラトはイラッとしたのか、少し語気を強めて言いました。「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか。」(10)

 

すると、イエスは答えて言われました。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」(11)

ピラトは自分に権威があると思っていましたが、それは間違っていました。ほんとうの権威は神にあります。そして、神がこの地上を治めるためにその権威を彼に与えておられるのにすぎないのに、彼は自分に権威があると錯覚していました。ですから彼は神の権威を認めてイエスを釈放すべきだったのに、それをしませんでした。なぜでしょうか?人を恐れたからです。ユダヤ人たちを恐れたのです。自分の立場を守ろうとして正しいことを行いませんでした。そういう意味では彼も、罪を免れることはできません。この人には罪がないと認めていても、結局、彼も多勢にくみすることになってしまいました。

箴言29:25には、「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」とあります。人を恐れるのではなく神を恐れ、神に信頼しましょう。

 

しかし11節でイエスは、こうも言っています。「ですから、わたしをあなたに引き渡した者に、もっと大きな罪があるのです。」どういうことでしょうか。「わたしをあなたに引き渡した者」とは、ユダヤ人たちのことです。彼らは聖書を知っていて、神のみこころが何であるのかを知っていたにもかかわらず、イエスを拒みました。いや、十字架に引き渡ししました。ですから、彼らにはもっと大きな罪があるのです。

 

12節から16節前半までをご覧ください。

「12 ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」13 ピラトは、これらのことばを聞いて、イエスを外に連れ出し、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。14 その日は過越の備え日で、時はおよそ第六の時であった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「見よ、おまえたちの王だ。」15 彼らは叫んだ。「除け、除け、十字架につけろ。」ピラトは言った。「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」祭司長たちは答えた。「カエサルのほかには、私たちに王はありません。16 ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。」

 

ピラトはイエスを釈放しようと努力しましたが、ユダヤ人たちの激しい抵抗によってできませんでした。彼らはピラトに激しく言いました。「この人を釈放するなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」

「カエサル」とは、ローマ皇帝の称号です。そんなことをするなら、あなたはカエサルの友でない、自分を王とする者はカエサルに背いているのだから、イエスを釈放するなんて考えられない、そんなことをするならカエサルに訴えるぞと、ピラトを脅しているのです。

結局、ピラトは彼らの脅しに負けて、イエスを外に連れ出し、へブル語で「ガバタ」と呼ばれる場所で、裁判を行うことにしました。そして、ユダヤ人たちに、「見よ、おまえたちの王だ。」と言うと、彼らはまたも激しく叫びました。「除け、除け、十字架につけろ。」このように叫んだ人たちの中には、ちょっと前にイエスがエルサレムに入場したときに、しゅろの木の枝を持って、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と叫んだ人たちもいたでしょう。彼らは、イエスが自分たちの期待していたメシアではないと気づくと、手のひらを返したような態度を取ったのです。

一方、ピラトは何が正しいのかをよく知っていました。しかし彼は、ユダヤ人たちの激しい声に負け、イエスを十字架につけるために彼らに引き渡しました。彼は、自分の立場を守るためにイエスを彼らに引き渡したのです。

 

何ということでしょう。ユダヤ人もユダヤ人であれば、ピラトもピラトです。彼らは自分たちの立場とか、自分たちの考えとか、自分たちのことしか考えられませんでした。こうした人々の罪のために、キリストは十字架に引き渡されたのです。私たちはこの記事を読んで「何とひどいことを」と思うかもしれませんが、実は私たちも五十歩百歩、彼らと何も変わらない罪人なのです。聖書は、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(ローマ3:23)と言っています。その罪のために、キリストは十字架につけられたのです。

 

クリスチャントゥデイに、こんなコラムがありました。幼い弟が、庭先で空に向かって棒を振り回していました。それを見た兄が「何をしているのか?」と聞くと「空の星を取るんだ」と言いました。すると兄が言いました。「そこでは届かない。屋根の上に登れ」

確かに庭先と屋根の上では高さに大きな差があります。しかし神の目から見ればその差などあってないに等しいものです。私たちは他人と比べてあの人より自分は正しいと思っているかもしれませんが、実はそうではないのです。私たちも彼らと同じ罪人であり、その罪のためにキリストは十字架に引き渡されたのです。

 

Ⅱ.十字架につけられたイエス(16b-24)

 

次に、16節後半から24節までをご覧ください。16節から18節をお読みします。

「16 彼らはイエスを引き取った。17 イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。18彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。」

 

イエスは、自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれました。「どくろの場所」とは、へブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と呼ばれている所です。イエスは、自分で十字架を負って、ゴルゴタに出て行かれたのです。前の晩からの不正な裁判で相当疲れもあったでしょう。また体も大分弱っていたに違いありません。ルカの福音書によると、イエスがゴルゴタに向かう途中、十字架を背負って歩くのが困難になったため代わりにクレネ人シモンという人が十字架を担いだとありますが、ヨハネはそのことについては一切触れていません。それは、イエスが自ら進んでいのちを捨てるために十字架に向かって行かれたことを強調したかったからでしょう。彼らはその場所でイエスを十字架につけました。また、イエスを真中にして、こちら側とあちら側に、ほかに二人の犯罪人を一緒に十字架につけました。ですから、そこには3本の十字架が立てられていたわけです。罪の無い方が、罪人の一人として数えられました。どうしてでしょうか?そのように旧約聖書に預言されてあったからです。イザヤ書53:12には、こうあります。「それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」

この預言のとおりにイエスは自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたのです。

 

それにしてもヨハネは、十字架の苦しみについては全く語らず、ただその事実だけを伝えています。なぜでしょうか。それは当時の人たちが、十字架の苦しみというものがどれほどのものであったのかを、よく知っていたからです。彼らはその場所でイエスを十字架につけたというだけで十分でした。それだけでピンときました。しかし、イエスの苦しみは肉体の苦しみ以上に、霊的苦しみが伴うものでした。というのは、キリストは私たちすべての罪を背負って死なれたからです。罪を負われるということは、父なる神との関係が断たれることを意味していました。なぜなら、神は罪ある者と共にいることはできないからです。ですから、イエスが全人類の罪を負われたということは、その瞬間神との関係が断たれたのです。世が始まる前から、永遠の初めから持っておられた父なる神との親しい関係が、罪ある者とされた瞬間に断たれてしまったのです。このような霊的な苦しみの方が、はるかに辛いことでした。

 

19節をご覧ください。ピラトは罪状書も書いて、十字架の上に掲げました。それはその囚人がどんな罪を犯したのかを人々が見るためです。当時のローマの慣習では囚人の首にぶら下げることになっていましたが、イエスの罪状書きは、十字架の上に掲げられました。それは誰からもよく見えるようにするためでした。そこには何と書いてありましたか?そこには、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれてありました。しかも、それはヘブル語とラテン語とギリシャ語で書かれてありました。すべての人が理解できるようにするためです。そこは都に近かったので、多くの人々が各地から集まっていました。へブル語はユダヤ人にわかるように、ラテン語は当時の公用語でローマ兵たちが使っていました。ギリシャ語は多くの人たちが使っていた言葉です。ですから、このようにへブル語とラテン語とギリシャ語で書かれてあったことで、すべての人が理解することができました。つまり、イエスはすべての人の罪のために死なれたということです。ピラトはユダヤ人たちを皮肉って書いたつもりでしたが、逆にそれが真実を示すことになりました。そうです、イエスはユダヤ人の王だけでなく、全世界の救い主なのです。

 

するとユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください。」と訴えました。しかし、ピラトはユダヤ人たちに対する腹いせもあったのでしょう、そんなの知ったことか、私が書いたものは、書いたままにしておけと言って、書き換えることをしませんでした。ピラトはイエスが無実であると3度も宣言して釈放しようとしたのに、彼らに脅されてできなかったからです。今さら強がって見ても無駄です。罪の無い方を死刑にしたという事実は変わりません。それゆえ、彼は責任を逃れることはできないのです。私たちは毎週礼拝で使徒信条を告白していますが、そこには「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ・・」とあります。不名誉にも、彼の名はこのような形で語り告げられることになってしまいました。実際はユダヤ人たちの方が悪いのに、ユダヤ人たちの陰謀によって十字架につけられたのに、このようにピラトの名が語り告げられるようになったのは、こうした彼の優柔不断さというか、ユダヤ人たちの脅しに負けて正義を曲げてしまったからであり、その罪から逃れることはできません。

 

23節ご覧ください。兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにしました。また下着も取りましたが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであったので、それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引くことにしました。いったいなぜこんな小さなことまで聖書にかかれてあるのでしょうか。これも旧約聖書のことばが成就するためでした。「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」

これは詩篇22:18にあるみことばですが、このみことばが成就するためだったのです。このような聖書の箇所を見ると、これは後で旧約聖書の預言と辻褄を合わせようしたのではないかと疑う人がいますが、そうではありません。だってこの兵士たちは敵でしょう。敵がわざわざ辻褄を合わせるようなことをするわけがありません。こういうことからも、聖書が真実であるということは明らかです。

 

Ⅲ.完了した(25-30)

 

最後に、25節から30節までをご覧ください。まず27節までをご覧ください。

「兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」

 

イエスの十字架のそばには、イエスの母マリアとその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていました。たくさんのマリアです。彼女たちはイエスを愛して最後までつき従って来た人たちです。そして、イエスは母とそばに立っている愛する弟子を見て、母にこう言われました。「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。」

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書を見ると、イエスは十字架の上で七つのことばを発せられたことがわかりますが、これはその最初の言葉です。愛する弟子とは、この福音書を書いているヨハネのことですが、「ここに、あなたの息子がいる」と言われました。そして、ヨハネには、「ご覧なさい。あなたの母です。」と言われました。つまり、イエスはヨハネに、母マリアの今後の世話を任せたのです。不思議ですね。マルコの福音書を見ると、イエスには他に4人の兄弟と2人の妹たちがいたことがわかります。であれば、その弟や妹たちに母の世話を任せるのが普通かと思いますが、それを弟子のヨハネにゆだねたのです。それは、この時点ではまだ弟たちが信仰を持っていなかったからでしょう。それで神の家族である弟子のヨハネにゆだねたのです。十字架の上の極限の苦しみの中でも、イエスはこのような形で母に対する愛と思いやりを示されました。それは、この方に信頼する者は、決して失望させられることがないことを示すためでもあったのです。

 

28節から30節までをご覧ください。

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」

それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われました。この聖書の預言は、詩篇69:21のみことばです。そこには、「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」とあります。このみことばが成就するために、このように言われたのです。この渇きは肉体的な渇きとともに霊的な渇きを意味していました。イエスは私たちが罪のゆえに、私たちが本来受けなければならない地獄の苦しみを代わりに負ってくださったのです。黙示録20:14には、それは「火の池」とあります。イエスは私たちの罪の身代わりとなって火の池で渇いてくださいったのです。それは私たちが永遠に渇くことがないためです。

 

そして、30節にはイエスの最後の言葉が記されてあります。それは「完了した」です。ギリシャ語では「テテレスタイ」です。これは勝利の宣言でもあります。すべてが終わった!神の救いのご計画はすべて完了しました。この「テテレスタイ」という言葉は、当時、商人たちの間で使われていた言葉で、完済したことを表しました。相手に支払わなければならない借金をすべて支払った時、「テテレスタイ」と宣言したのです。完了した!だから、私たちも住宅ローンを完済した時には「テテレスタイ」と宣言することができます。

 

またこの言葉は、奴隷たちが自分に与えられた仕事が終わったとき、その主人に報告する時にも使われました。「終わりました」「テテレスタイ」イエスは、従順な神のしもべとして父なる神から与えられた罪の贖いという仕事を完全に成し遂げられました。罪のない子羊が私たちの罪のためになだめの供え物として神にささげられたことで、私たちの罪の負債のすべてが支払われたのです。あなたの罪の借金、私の罪の借金はあまりにも莫大でとても負い切れるものではありませんでしたが、神ご自身が私たちの代わりに支払ってくださいました。それが子羊となって十字架で死なれたイエス・キリストです。イエス・キリストによって罪の負債がすべて支払われたのです。完了しました。テテレスタイ!イエス様は、そのように言われると、頭を垂れて父なる神に霊をゆだねられました。

 

この福音書を書いたヨハネは、この十字架のシーンを目撃しました。彼は3年半の間イエスのそばにいて、イエスの心臓の音を聞きながら、イエスの権威ある教えを聞き、その奇しい御業を見ました。そして最後にこの十字架のシーンを目撃してこれを書いたのです。いったいなぜイエスは十字架につけられたのでしょうか。それは、私たちを罪から救うためでした。私たちは、このままでは自分の罪のために滅びても仕方ない者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちに大きな愛を示してくださいました。それが十字架です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

ヨハネが言いたかったことはこのことだったのです。キリストは、私とあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。この十字架につけられたキリストを信じるなら、どんな人でも永遠のいのちが与えられます。

 

ジェフリー・ダーマー(Jeffrey Lionel Dahmer、1960~1994)は、「ミルウォーキーの怪物」と言われた男です。彼は17人の青少年を殺し、彼のアパートから11の遺体が発見されました。彼は被害者の体をバラバラに切断し、頭蓋骨を冷蔵庫に保管し、心臓を貯蔵し、肉片の一部を食べたことも自供しました。

法廷でのダーマーの写真を見ると、どれも凍り付いたような表情をして微動だにせず座っています。自責の念も見られず、後悔している様子も全く見られません。遺族にしてみればそんな彼を何回死刑にしても満足することはないでしょう。アメリカ中の人々はジェフリー・ダーマーの異常な殺人に騒然としましたが、それ以上に人々を驚かせることがその後に起こりました。

彼が獄中でイエス・キリストを救い主と信じたのです。彼は、最期は囚人仲間の1人に殺されますが、その何か月か前に信仰を持ち、そして「私は本当にひどいことをしてしまった。自分のしたことを本当に申し訳なく思っている。遺族の方に心から詫びたい」と謝罪しました。そして彼は洗礼を受け、聖書を読み、刑務所内のチャペルに通うようになったのです。

彼は「自分の罪は神の前に赦され、天国への希望が与えられ、今はとても平安です」と告白しました。ある人たちは困惑しました。「あんな殺人鬼を神は救われるはずがない」と公言する人もいました。しかし思い出してください。二千年前イエス・キリストが十字架につけられたとき、同じように十字架刑に処せられた強盗の男がイエスに向かって言ったことを。

「イエス様、あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)そのときイエスは何と言われましたか。イエスはその強盗に即座に言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

ジェフリー・ダーマーも同じことをしたのです。そして彼も同じ答えをイエス様からもらいました。それはジェフリー・ダーマーだけではありません。私たちも同じです。神は自分の罪を悔い改める者に、即座に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださるのです。あなたは自分がジェフリー・ダーマーや十字架の強盗と比べればはるかに良い人間だと言われますか。しかし、神の眼には同じです。義人はいません。一人もいません。すべての人が罪を犯しました。そもそも神を信じないことが罪だと聖書は言っています。本来であれば、私たちも十字架で死ななければならない者です。しかし、そんな私たちのためにキリストが身代わりに死んでくださいました。あなたも例外ではありません。キリストはあなたのために死んでくださいました。キリストは十字架の上で「完成した」と宣言してくださいました。あとは、あなたがこの知らせを聞いて、信じて受け入れるだけでいいのです。だから、この知らせは「福音」、「良い知らせ」なのです。あなたが何か良いことをしたからではなく、何かそのために修行したからでもなく、この十字架であなたの身代わりとなって死んでくださったキリストを信じるだけで、あなたの罪も赦されるのです。キリストが十字架で死なれたのはそのためだったのです。ここに神の愛があります。どうぞこの愛を受け取ってください。すでにこの愛を受け取った方は、いろいろな困難や試練、失敗に遭うかもしれません。しかし、最後までこの愛にとどまり続けましょう。この試練もまた、あなたの信仰が成長するために神から与えられた恵みなのです。

偽りのない愛で ローマ人への手紙12章9~13節

2020年3月29日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙12章9~13節

タイトル:「偽りのない愛で」

 きょうは「偽りのない愛で」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、12章からのクリスチャン生活の実際的な歩みについて勧めています。「こういうわけですから、兄弟たち、私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(12:1)それはまず、私たち自身を神に受け入れられる聖い、生きた供え物としてささげるということから始まります。そして、私たちは一人一人キリストのからだの器官として、各自に分け与えられた信仰の量りに応じて、慎み深く考えなければなりません。すなわち、預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧める人であれば勧め、分け与える人であれば分け与え、指導する人であれば熱心に指導し、慈善を行う人であれば喜んでそれを行いなさいということ(12:3-8)でした。

 

今回は、その3回目となりますが、ここでは兄弟姉妹の基本的なあり方について言及されています。それは愛です。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。」とあります。新改訳第三版では、「善に親しみなさい。」です。

 

クリスチャンの基本的なあり方、それは愛に生きるということです。クリスチャンがキリストのからだである教会において一つになるとき、それがほんとうの意味でキリストのからだとなるのです。どんなにすばらしい賜物が与えられていても、もしそこに愛がなかったら何の意味もありません。このように賜物について教えた後で愛について語るというケースは、コリント人への第一の手紙13章と同じです。12章で賜物について語ったパウロは、続く13章でこう述べています。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Iコリント13:1-3)

 

 たとえ異言の賜物が与えられていても、たとえ預言の賜物が与えられていても、またあらゆる奥義と知識とに通じ、山を動かすほどの信仰をもっていても、愛がなければ、何の値打ちもありません。愛こそ、すべての働きや賜物をその根底において支えるものであり、すべてを結ぶ帯なのです。きょうは、この「偽りのない愛で」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、愛には偽りがあってはいけないということです。クリスチャンは本物の愛で愛さなければなりません。第二のことは、クリスチャンは兄弟愛をもって心から互いに愛し合わなければなりません。第三のことは、そのためには望みを抱いて喜びましょうということです。

 

 I.愛には偽りがあってはいけません(9)

 

  まず第一に、愛には偽りがあってはならないということです。9節をご覧ください。ここには、「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善にから離れないようにしなさい。」とあります。

 

 パウロはまず、愛には偽りがないようにと勧めています。この「偽りがあってはなりません」という言葉は、役者が演技をすることを表す言葉です。つまり、演技をするように愛してはならないという意味です。この世の中には演技の愛が何と多いことでしょうか。いかにも愛しているかのように見せかけて、実際にはただ演技をしているだけということがあります。表面的には愛しているようでも、心の中ではそうでないケースが多いのです。しかし、愛には偽りがあってはなりません。つまり、偽りのない愛、本物の愛で愛さなければならないのです。

 

 では本物の愛とはどのようなものなのでしょうか。ここにはその一つの特質が描かれています。それは、「悪を憎み、善から離れない」ということです。皆さん、本当の愛は、悪を憎み、善に親しみます。不正を喜ばずに真理を喜ぶのです。

 

 ある時、一人のお母さんが、子どものことで相談に見えました。中学生になったばかりの娘が急に反抗的になったが、その理由がよく分からない、ということでした。今度は、その娘さんを呼んで話を伺うと、一つのことを話してくれました。小学校を卒業して春休みに入り、いよいよ中学生になるという時でした。四月になって、母親の実家のおばあちゃんに会いに行こうと、二人で電車に乗るために切符を買おうとしたら、母親がこう言ったのです。「あんたはまだ小さいから小学生の料金で乗れるわよ」と。4月1日を過ぎれば自分はもう中学生だからと、「今日から私は大人の料金」と思っていたのですが、お母さんが「あんたは小さいから子どもの料金でも大丈夫。聞かれたら小学生って言うのよ」と言われて、子供料金で乗せられたのです。その時彼女はえらく傷つきました。「大人ってずるいなぁ」と。そのことでこの母親は、娘の信頼を失ってしまったのです。たった何百円かを節約するために、大切な娘の信頼を失ってしまったのです。本物の愛は、悪を憎み、善から離れません。

 

 こうやって見ると、聖書が教える愛とこの世で言う愛とには、大きなギャップがあることがわかります。聖書で言う愛とはその動機に注目しますが、この世で言う愛は行いと結果に注目するからです。世の中では貧しい人たちにお金を与え、飢えている人たちに食べ物を分け与える人たちを、愛に満ちた人、道徳的な人だと考えますが、聖書では愛がある人というのはそうした行為や結果だけでなく、動機まで問われるのです。したがって、どんなに美しい行為をしたとしてもその動機が適切でなければ、それは愛とは言えないのです。聖書の観点から見るならば、本当の愛とは神との関係によって与えられる愛を動機として現れるものです。なぜなら、愛は神にあるからです。何回も引用しますが、ヨハネの手紙の第一4:9-10には、こうあります。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Iヨハネ4:9-10)

 

 本当の愛は神にだけあるのです。神がそのひとり子をこの世に遣わしてくださり、私たちのためになだめの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。ここにとは、十字架にということです。神は、そのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったということの中に、神の愛が示されました。この愛に満たされることによって初めて周りの人たちと喜びと悲しみを分かち合うことができるのです。そうでなかったら、その人が意識しても、しなくても、それはただ自己満足のための、打算的な愛になってしまいます。そのような愛の中には、決して真実な愛が芽生えることはありません。

 

 Ⅱ.兄弟愛をもって互いに愛し合う(10)

 

  第二のことは、兄弟愛をもって心から互いに愛し合いなさいということです。10節をご覧ください。ここでパウロは、「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。」と言っています。

 

「兄弟愛」という言葉の原語は、ギリシャ語の「フィラデルフィア(Philadelphia)」です。これは9節に出てくる「愛」とは違います。9節に出てくる「愛」は「アガペー」という言葉で、私たちに対する神の愛を表していますが、この10節に出てくる「兄弟愛」は、クリスチャン相互において現れる愛のことです。つまりここでパウロが言わんとしていることは、教会において互いに愛し合うことができるのは、一方的な神の愛と恵みを知った者であるということです。神の愛を知った者は、今度はその愛を兄弟姉妹の中で「兄弟愛」として実践しなさいということです。この「互いに愛し合う」という言葉は、先週の礼拝でのテーマでした。イエス様は十字架につけられる前夜、弟子たちに新しい戒めを与えました。何でしたか。「互いに愛し合いなさい」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と。「互いに愛し合う」というのは、家族的な親しい愛を表わす言葉です。世のすべての交わりの中で家庭こそ安心といこいの場ではないでしょうか。なぜなら、そこには麗しい愛の交わりがあるからです。その愛で互いに愛し合わなければなりません。それは教会が神の家族であり、クリスチャンが互いに兄弟姉妹だからです。

 

 神様の愛を知らない人は、兄弟愛をもって互いに愛し合うことはできません。ローマ1:29-32には、神を神としてあがめず、神様に感謝もせず、自分では知者であると言いながら、愚かな者となっている人間の姿が描かれています。「29彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」

 

 これらはどれも愛に反する思いや行為です。神から離れ、自分を含めた偶像を神としている社会では、自分勝手になっていく傾向があります。自分の考えが物事の判断のものさしになるのです。その結果、一つになることができません。そこには愛のひとかけらもありません。特に注目していただきたいのは31節の「情け知らずの者」という言葉です。これは「アストロゴス」という言葉ですが、12:10に出てくる「互いに愛し合い」という「ストロゴス」という言葉にそれを打ち消す「ア」という言葉が付いたものです。ですからこの「情け知らずの者」というのは、家族の愛を持っていない、家族的な愛と親しみを知らない人のことになります。それは愛に反するこの長いリストの中で、一つの要素として取り上げられています。つまり、神を知らない罪深い人間の特徴というのは、本当の家族の愛を持つことができないということです。親を親と思わず、従おうともしません。悪意、陰口、争い、欺き、悪巧みなど、自分勝手に生きようとするのです。そうした態度や行いが、彼らの家族関係の特徴となっているのです。

 

 最初の人間アダムとエバが罪を犯した時彼らの関係は破壊され、そこにあった麗しい交わりが失われたように、家族のような関係が破壊されてしまいました。それが罪深いこの世における人間関係なのです。しかし、クリスチャンはそうであってはいけません。クリスチャンは神の愛、キリストの十字架によって罪贖われた者として、互いに兄弟姉妹であり、神の家族なのですから、その愛をもって互いに愛し合わなければならないのです。

 アフリカにイーク族という部族がいるそうです。この部族は互いに話をしません。話をするとしても、それはすべて嘘です。朝起きると、男たちは遠方に目を向けて座っています。互いに言葉は交わしません。そして誰かが獲物を見つけるといきなり立ち上がって、その獲物と反対の方向に走り出します。仲間の目を騙(だま)すためです。それから獲物に近づいていきます。他人のために獲物を捕ることもしません。全部自分のためです。ですから獲物を獲って家に戻ると、まず自分が最初に食べ、妻にも与えますが、4~5歳以上の子供には与えないので、子供が死ぬことも珍しくありません。死人を葬ることをせず、老人が死ぬと蹴飛ばして横の獣道みたいなところに放置して無視するのです。そこまで動物的になってしまう社会が実際に存在しています。

 

 程度の差こそあれ、現代の社会とそんなに変わらないのではないでしょうか。みんな自分さえよければいいと思っています。今、新型コロナウイルスでマスクの品薄が続いていますが、テレビはそのマスクを自宅に何十箱と買いだめしている人を取材していました。このくらいあれば家族5人で使っても1年間は間に合う・・と。それだけあったら医療機関に提供するとか、老人介護施設に提供するとか、困っている人に差し上げればいいのにと思いますが、そのようには考えないで、どれだけ自分が助かるかと、自分のことしか考えられません。それがこの世です。このような社会に誰が住みたいと思うでしょうか。このような教会に誰が来たいと思うでしょうか。教会に行ってみたらだれも話しかけてもくれないとか、何しに来たの?というような目で見られるとしたら、ほんとうに悲しいです。

 

 今、シカゴの大学で学んでいる娘が大阪に引っ越した時、どの教会に行こうかといろいろな教会を探したところ、ある教会に行くことにしました。娘は車いすの生活をしているのでできれば礼拝堂が1階にある教会がいいなぁと思っていたら、その教会は礼拝堂が3階にあってエレベーターもありませんでした。しかし、その教会に初めて行ったとき、そこで応対してくれたおばちゃんがとても温かいというか、温かいを越えて熱い方で、大歓迎で迎えてくれたそうです。「よく来ました。あなたは私たちの家族です。何の気兼ねもいりませんよ。」と言うと、「今、仲間を連れてきましたから・・」と屈強な男たちを何人か連れて来て、娘を背負って3階まで運んでくれました。そうした熱心さは集会にも表れていて、全体的に熱いものを感じたそうです。それは本人だけでなくボランティアで一緒に行ってくれたヘルパーさんも同じように感じました。これまで別の教会にも一緒に行ったことのあるこのヘルパーさんは、「教会もいろいろあるんですね。」と言うと、「こういう教会なら来てみたい」と言いました。こういう教会なら来てみたいという、こういう教会というのは、家族愛に溢れた教会です。そういう教会にはだれでも行ってみたいと思うものです。

 

 では、そのためにはどんなことが必要なのでしょうか?パウロは、その次のところでこのように言っています。「尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」どういう意味でしょうか?ピリピ2:3-8節を開いください。ここには、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とあります。

 

 パウロはここで、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と勧めています。そして、その模範としてキリストの姿を取り上げています。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そして自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。これが、人を自分よりもすぐれた者と思うということです。つまり、人を自分よりもすぐれた者と思うということは、自分と誰かを比較してその人を自分よりも優れていると思うということではなく、人を自分よりも大切だと思いなさい、ということなのです。「尊敬しなさい」という意味です。

 

イエス様は私たちのことを大切な存在だと認めてくださったがゆえに、私たちのためにこの世に来てくださり、十字架にかかって死んでくださいました。自分の方が大切だと思っていたのであれば、そのようなことはしなかったでしょう。しかし、イエス様はご自分の栄光をかなぐり捨ててくださいました。それは、私たちのことを愛しておられたからです。それは一方的な愛でした。私たちに愛される資格があったので愛してくださったというのではなく、そうでないにもかかわらず、愛してくださいました。もし相手がすべてにおいて自分よりも優れた人であるならば、自分のいのちを捨ててもいいと思うことがあるかもしれません。しかし、キリストは私たちがまだ罪人あったとき、私たちのために死んでくださいました。そのことによって神は、私たちに対するご自分の愛を明らかにしてくださったのです。イザヤ43:4に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とありますが、それはこのことです。神はその愛を十字架で示してくださいました。それが「アガペー」の愛です。「他の人のことを自分よりも大切だと思いなさい」というのは、この十字架の愛で愛しなさいということなのです。この愛があって初めて、私たちにも愛が生まれ、兄弟愛をもって互いに愛し合うということが可能になるのです。

 

 Ⅲ.望みを抱いて喜び(12)

 

 ですから第三のことは、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みましょうということです。この見える世界の現実を見たら、互いに愛し合うということなどできません。目の前の様々な現象に振り回されて怒ったり、すねたり、ひがんだりするでしょう。なぜなら、この世は戦場だからです。戦場というのは戦いの場なのです。どこに行っても戦いがあります。いろいろな問題にぶつかります。しかし、そんな戦場にいても上を見上げるなら、やがてもたらされる永遠の御国と永遠の祝福にあずかることができるという希望のゆえに、喜びと平安を得ることができるのです。

 

 パウロは8:18で、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」と言いました。救い主イエス・キリストを信じる者に約束されている将来は栄光です。この栄光が約束されているがゆえに、私たちは大いに喜び、患難をも乗り越えることができるのです。私たちが喜べるのは今の状況が楽しいからではないのです。たとえ今はそうでなくても、やがてそのような栄光と祝福にあずかることができるという希望があるから喜ぶことができるのです。この望みのゆえに、私たちは苦手のような人であっても兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思うことができるのです。

 

 今、新型コロナウイルス感染が世界的に拡大している中で、最も拡大が広がっているのはイタリアです。そのイタリアのロンバルデイア州(北部イタリア)の医師の証Julian Urban氏が、次のような証を書きました。


「私は、この数週間、暗い悪夢の中で、今イタリアで起きて見ていることを経験するなど

とは、今まで決して想像すらしませんでした。悪夢のせせらぎは、今や大河となってどんどん大きくなるばかりです。

 最初数人の患者が来て、それから数十人、その後数百人となりました。私たちが今しているのは、最早医療行為ではなく、誰が生き誰が死ぬべきかの決断を下す事なのです、これらの患者は、今まで生涯にわたってイタリアの健康税を払ってきたのにです。

 数週間前まで同僚と私は無神論者でした。 神の存在を除外し科学的知見に基づいて学んできた医師が、そう考えるのは珍しいことではありませんでした。ですから私も、両親が教会に行くのを心の中では嘲笑っていました。

 9日前のことですが、私たちの病院に、75歳になるある牧師が入院してきました。彼はとても親切な人でしたが、深刻な呼吸困難を発症していました。彼は聖書を持っており、彼自身が非常に困難な状況の中にあるにもかかわらず、瀕死の患者らの手を握って聖書を読んで聞かせていました。その姿に、我々は非常に驚かされ感銘を受けていました。我々医師たちは、皆疲れており、落胆し、精神的にも肉体的にも燃え尽きていたのです。そういうわけですから、私たちは時間を見つけては彼の話に聞き入っていました。我々はもう限界だった。できる事は何もなく、人々が、刻一刻、毎日死んでいるのです。完全に消耗しきっていました。すでに2名の同僚の命が失われ、他の者たちも感染していました。

  そんな極限の中で、ようやく私たちは、神に助けを求めなければならないことに気づき始めたのです。早速私たちは、2、3分でも時間を見つけては、神に祈ることを始めました。

 私たちが互いに話すとき、私たちはかつて強硬な無神論者だったにもかかわらず、信じがたいことに、今や私たちは、日々の平安を求めつつ、病人を支え続けることが出来るようにと、主の助けを乞うているのです。

  昨日, 75歳の牧師が亡くなられました。ここ3週間で120人以上の死者が出て、我々は憔悴しきっていました。彼は、自身が瀕死の状態にあり、私たちも苦境の只中にあったにもかかわらず、私たちがもはや見いだすことさえ望むことができない平安をもたらしてくれたのです。牧師は主のもとに旅立ちました。今の状況が続くなら、私たちも彼の後を追うでしょう。

 6日間家に帰れず、最後に食事をとったのがいつだったかも思い出せない状況の中で、私はこの地上に自分が置かれている意味を見出しました。今はもう、誰かを助けるためにこの命を使い果たすことができたら本望です。 私は今、困難と仲間の死との極限の中におりながら、どういうわけか、自分が神に立ち返ることができたと言う幸せに満たされているのです。どうかイタリアのために祈ってください。」

 

 私は、この75歳の老牧師の愛に感銘を受けました。この牧師は、ご自分も非常に困難な状況の中にあるにもかかわらず、瀕死の患者らの手を握って聖書を読んで聞かせたり、祈ったりして励まし続けました。そして、疲れ切っていたこの医師が主のもとに立ち返るきっかけを与えてくれました。いったいこの牧師はどうしてこのようなことができたのでしょうか。それは、神の愛を知っていたからです。偽りのない愛、真実の愛を知っていたので、苦しみの中にある人をその愛で愛することができたのです。

 

 私たちもかつては罪過と罪の中に死んでいたものです。そんな私たちを神は愛し、私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださいました。そのことによって愛がわかったのです。だから、私たちも互いに愛し合うことができるのです。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。この神の愛による関係を求めていきましょう。それは、私たちの目が自分から神の愛に、この世から天の御国に向けられることによってもたらされるのです。

互いに愛し合いなさい ヨハネ13:31-38

2020年3月22日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章31~38節

タイトル:「互いに愛し合いなさい」

 

 ヨハネの福音書13章後半です。前回は、イスカリオテ・ユダの裏切りを学びました。イエス様は彼に何度も悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最後の晩餐の席で、イエス様からパン切れを受け取ると、すぐに出て行きました。時はいつでしたか?時は夜でした。それは単に夜であったということではなく、永遠の暗闇を表していました。彼はイエス様から離れて、永遠の暗闇に落ちることを選んだのです。しかし本当の弟子は、イエスのもとに留まります。ユダが出て行った後で、イエス様はとても大切なことを話されました。それがきょうの箇所です。

 

 Ⅰ.栄光を受けるとき(31-32)

 

まず、31節と32節をご覧ください。

「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」

 

ユダが出て行ったとき、イエスは大切な話をされました。それは、「今、人の子は栄光を受けた」ということです。「今」とはいつですか?今とは、ユダが悔い改めないで出て行った今です。人の子とはイエス様のことですが、今、人の子は栄光を受けられました。なぜユダが出て行った今、栄光を受ける時なのでしょうか。

 

これまでも何回か語ってきましたが、ヨハネの福音書において「栄光を受ける」というのは、キリストが十字架で死なれることを指し示していました。ユダの裏切りによってキリストが十字架で死なれます。だから栄光を受けられるのです。どうして十字架で死なれることが栄光なのでしょうか。それは、私たちを罪から救うという神の永遠の計画が成し遂げられるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、神が予め定めておられたことでした。それが完成する時、それが十字架なのです。イエスが十字架で死なれることで、アダムによって全人類にもたらされた罪が贖われるのです。ですから、この後17章に入ると、そこにイエス様の最後の祈りが記されてありますが、こう言われました。4節です。

「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」

イエス様は多くの奇跡をもって神の栄光を現しましたが、最終的には、神がイエスに行うようにと与えてくださったわざを成し遂げることによって現わされます。それが十字架なのでした。十字架のわざを通して神の栄光が完全に現されました。ですから、イエス様が十字架ら付けられたとき最後に発せられたことばは、「完了した」(19:30)ということばだったのです。「完了した」。「テテレスタイ」。これは、神の救いのみわざが完了したという意味です。私とあなたの罪の負債、借金を、イエスが代わりに支払ってくださいました。完済してくだった。すべての借金から解放されたらどんなに気持ちが楽になるでしょう。これまでずっと重くのしかかっていた荷物を下ろすことができます。もうそのことで思い悩む必要はありません。イエス様があなたの罪の負債を完済してくださったからです。ですから、十字架は人の子が栄光を受けられる時なのです。

 

また、ここには、「神も人の子によって栄光をお受けになりました」とあります。イエス様だけではありません。そのことによって、父なる神も栄光を受けらます。なぜなら、イエスが十字架で死なれることによって神がどのような方なのか、そのご性質がはっきりと示されるからです。皆さん、神はどのような方ですか?聖書には、神は愛であると教えられていますね。どうやって神が愛であるということがわかるのでしょうか?それは単なる絵に描いた餅ではありません。神はことばだけでなく行いによって、そのことをはっきりと示してくださいました。それが十字架でした。十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に示されたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

私たちがまだ罪人であったとき、私たちがまだ神を信じないで、神を無視し自分勝手に生きていたとき、そのような状態であったにも関わらず、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神の私たちに対する愛というものを明らかにしてくださいました。

Ⅰヨハネ4:9-10には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。どこに愛があるのですか?ここにあります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださったということの中にあるのです。具体的には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされたという事実の中にです。それは十字架のことです。それはいわば「にもかかわらずの愛」です。十字架で神の愛がはっきりと示されました。だから、十字架はキリストだけでなく、父なる神の栄光も現わすのです。

 

十字架はキリストが栄光を受ける時であり、また、父なる神も栄光を受けられるときです。あなたは、十字架をどのように受け止めておられますか。私たちの人生にも十字架があるでしょう。自分自身の十字架があります。できますなら、この杯を取り除いてくださいと祈りたくなるようなとき、どうしても乗り越えられないと思うような困難に直面するときです。しかし、それは栄光のときでもあるのです。あなたが祝福されるときであり、神が栄光を受けられるときでもあります。問題は、あなたがその十字架をどのように受け止めていらっしゃるかということです。神の御心に従順になるとき、神が栄光をお受けになり、あなたもまた祝福されるのだということを覚え、あなたの十字架を負って、キリストに従って参りましょう。

 

Ⅱ.イエスが愛したように(33-34)

 

次に、33~35節をご覧ください。

「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

イエス様は、弟子たちに対して「子どもたちよ」と呼びかけられました。この福音書の中では初めて使われている呼び方です。非常に親しみと愛情を感じる呼び方です。なぜイエス様は彼らを「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょうか。それは彼らといられる時間がほんの数時間しか残されていなかったからです。もうすぐこの地上を去って行かなければなりませんでした。そんな彼らとの別れを惜しんで「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょう。今まではすべての人に対して救いのメッセージを語ってきました。でも今は愛する者たちだけに、本当に言いたいことを伝えようとしていました。それは、「わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ということでした。どういうことでしょうか?

 

「わたしが行くところ」とは、父なる神のところ、天の御国のことです。イエスはかつてユダヤ人たちに、「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われましたが、それを弟子たちにも言われました。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ただユダヤ人たちに言った時と違うのは、今はついて来ることができないが、後にはついて来るということでした。(36)なぜ今はついて行くことができないのですか。なぜなら、まだその場所が用意されていないからです。ですから、イエスが行って、彼らのために場所を用意したら、また来て、彼らをご自分のもとに迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。しかし、ユダヤ人たちはそうではありません。彼らは今ついて行くことが出来ないというだけでなく、後もついて行くことができません。なぜなら、イエスを信じなかったからです。イエスの弟子たちはその後も大きな失敗をしでかします。ペテロに至っては、イエスを知らないと三度も否定するという罪を犯しますが、それでも悔い改めてイエスを信じたことですべての罪が聖められたので、イエスの行かれるところ、天の御国に行くことができるのです。

 

そのことを前提として、イエスは大切なことを語られます。それが34節と35節の御言葉です。ご一緒に声に出して読みましょう。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

もうすぐ彼らからいなくなるという直前に、いわば遺言のように語られたのがこの言葉です。イエス様は彼らに新しい戒めを与えられました。それは、「互いに愛し合いなさい。」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。どうしてこれが新しい戒めなのでしょうか。旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならないという戒めがありました。たとえば、レビ記19:18には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:8 )とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずです。いったいどういう点で、これが新しい戒めなのでしょうか。それは、どのように隣人を愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。では、イエスが愛したように愛するとはどういうことでしょうか。

 

私たちはこの少し前にその模範を学びました。それはイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。そのとき主は何と言われたかというと、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)と言われました。イエス様はそのことによって、愛するとはこういうことなのだということの、模範を示してくださったのです。それは最も高いところにおられた神ご自身が、人として現れてくださり、仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われたということを意味していました。そのように愛するのです。つまり、自分を捨てて兄弟姉妹に仕えるということです。自分を愛するようにではありません。自分を捨てて愛するのです。自分を捨てると口で言うのは簡単なことですが、いざこれを実行しようと思うと大変なとこです。できません。ですから、イエスはこの後で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)と言われたのです。これが愛です。これより大きな愛はありません。そのような愛で互いに愛し合いなさいと言われたのです。

 

とてもじゃないですが、そんなことできるはずがないじゃないですか。私たちも愛が一番大切だとか、最後は愛が勝つなんて言っていますがそれはただの口先だけであって、結局最後はみんな自分がかわいいのです。だから嫌になったり、都合が悪くなったりすると、「や~めた」となるんじゃなるのです。それが自然ですよ。人間は自分を捨てるという愛を持ち合わせていないのです。

 

そうなんです。ですからこの新しい戒めを、それだけの意味として捉えるとしたら、それは人間の道徳の教えの領域にとどまってしまうことになります。しかし、イエスがここで言いたかったのは単なる愛の模範ということではなく、私たちが互いに愛し合うための源がここにあるという意味で語られたのです。それが「わたしがあなたがたを愛したように」という意味です。弟子たちはその愛を見ました。彼らはただ愛の教えを聞いただけではなく、実際に見て、触れて、体験しました。そのキリストの愛を模範にして、互いに愛し合うことが、ここでイエスが与えられた新しい戒めだったのです。それは、キリストの十字架の死によって示された神の愛を受けた者にだけできる愛です。神はそのために力を与えてくださいました。それが神の霊、聖霊です。

 

ローマ5:5には、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。聖霊によって神の愛が注がれています。あなたがイエス様を救い主として信じた時、その瞬間に、イエス様があなたの心の内に来てくださいました。どのように来てくださったんですか?聖霊によってです。聖霊はキリストの霊、神の霊です。イエス様を信じた瞬間に、この聖霊があなたの心に住んでくださいました。これがクリスチャンです。クリスチャンとは、神の霊、聖霊を持っている人です。今までは持っていませんでした。今までは罪があったので神がお住になることができませんでしたが、イエス様を信じたことですべての罪が取り除かれ、賜物として聖霊が与えられました。この聖霊が私たちを助け、愛する力を与えてくださいます。聖霊があなたを内側からイエス様と同じご性質を持つ者に変えてくださるのです。その性質とは何でしょうか。愛です。

 

ガラテヤ5: 22~23をご覧ください。ここには、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。御霊の実は「愛」です。ですから、キリストを信じた者はみな、イエス様のように愛の人に変えられていくのです。自動的に変えられるわけではありません。また、信じた瞬間にすぐに変えられるというわけでもありません。信じた瞬間に全く怒らなくなったとか、いつもニコニコしていて、問題にも全く動じなくなったとか、もう何でも赦してくれる!となればすごいですが、現実にはそういうわけにはいきません。むしろ、本当に自分はイエス様を信じているのだろうかと、自分を疑いたくなるような醜い性質が頭をもたげることが多いのですが、しかし、神の御霊が与えられるなら、少しずつ愛の人に変えられていきます。植物の種が蒔かれると、必ず実を結びます。時間はかかりますが、やがて実を結ぶようになるのです。御霊の実も同じで、あなたの心に信仰の種が蒔かれると、あなたの心に神の御霊が宿り、神の愛があなたに注がれるようになるのです。そして、やがて御霊の実を結ぶようになります。愛の人へと変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによるのです。

 

いったいなぜイエス様は、互いに愛し合うようにと命じられたのでしょうか。35節をご覧ください。それは、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになるからです。もし私たちが自分を低くして互いに愛し合うなら、それによって、信仰のない周りの人たちが「ああ、あの人たちはキリストを本当に信じている人たちなんだ」「クリスチャンってすごいなぁ」と言って、神を認めるようになります。すなわち、神を信じるようになるのです。どんなに私たちがイエス様は主ですと叫んでも、互いにいがみ合ったり、憎み合ったりしているなら、だれも本気にしないでしょう。私たちがキリストの命令に従って互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であるということを、すべての人が認めるようになるのです。

 

以前紹介しましたが、奥山実先生が今回の新型コロナウイルス感染症について、フェイスブックに投稿された記事を見ましたが、アーメンでした。混乱のただ中にある武漢市で、クリスチャンらは黄色い防護スーツを来て犠牲的な奉仕をしました。彼らは無料のマスクとともに福音のトラクトを配布したのです。それによって多くの人々、役人や警官たちさえも、クリスチャンの真実の姿に敬服し評価し始めているとの情報もあります。武漢ではこの困難が永遠に変わらぬ希望の福音を宣べ伝える機会となっています。

私たちの希望はいつも暗闇の中にこそ輝くのだということを覚え、彼らのために祈りたいと思います。この混乱が、一見脅威と思えることではありますが、中国のみならず、この国の人々にとっても、真実に信頼に足るものが一体何であるのかを示す機会になるのだと信じて疑いません。

私たちの信じている神様はこの困難の中にあって、こま国においても大きな霊的祝福をもたらすことのできる方だと信じます。ともに祈りましょう。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。そのやみの中でこそ、私たちクリスチャンの真価が問われているのです。それが互いに愛し合うということです。イエス様が愛したように互いに愛し合うこと、それを実行することによって、すべての人がイエスを認めるようになるのです。

 

Ⅲ.最後まで愛されるイエス(36-38)

 

最後に、36節から38節までをご覧ください。

「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 

シモン・ペテロは、キリストの一番でしたが、彼は、イエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(33)と言われたことがよく理解できませんでした。それで、イエス様に尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか。」

するとイエス様は、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と答えられました。これは先ほど言ったように、天国のことです。イエス様は、父なる神のみもと、天国に行かれます。今は来ることができませんが、しかし後にはついて来ます。

 

この言葉のとおり、ペテロは後にイエス様のもとに行きました。ローマ皇帝ネロの大迫害のとき、ペテロはローマで処刑されました。当時、ローマの処刑法は十字架刑でしたが、彼は主と同じ姿では申し訳ないと逆さにしてくれるように頼み、逆さ十字架につけられたと言われています。でもペテロは、そのときはわかりませんでした。イエス様が言われたことがどういうことなのか。それでイエス様に尋ねました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」ペテロらしいですね。彼は直情的な人間でしたから、あなたのためならいのちを捨てます!と啖呵を切ったのです。これは彼の本心だったでしょう。彼は本当にイエス様を愛していました。いのちをかけるほど愛していた。だからこそ、漁師という仕事を捨てでまで従ったのです。

 

でもどうでしょう。私たちはこの後でどんなことが起こるのかを知っています。イエス様が十字架につけられるために捕らえられると、彼はイエス様を知らないと言うようになります。イエス様はそのことも全部知っておられ、その上でこのように言われました。38節です。

「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

「まことに、まことに」とは、大切なことを言われる時に使われたことばです。ペテロよ、あなたはわたしのためにいのちを捨てるというのですか。わたしはあなたに言います。あなたは、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言います。マルコ14:31には、「ペテロは力を込めて言い張った。」とあります。絶対にそんなことはない!彼はそのように言い張りました。三度目にはのろいをかけてまで誓ったとあります。しかし、その後で彼はイエス様が言われたように、三度イエスを知らないと言いました。これが人間の弱さです。私たちはどんなに誓っても、最後までそれを貫くことは並大抵のことではありません。。イエス様はそういうことを重々承知の上で、彼を愛されました。ルカ22:31~32には、イエス様が彼にこのように言われたことが書いてあります。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

さまざまな問題によって、あるいはサタンの攻撃や困難、迫害によって、信仰を失いそうになることがあります。でも、イエス様は決して見捨てることはなさいません。それは私たちの信仰が強いからではありません。イエス様が祈っていてくださるからです。イエス様は、ペテロの信仰が無くならないように祈ってくださいました。あなたが信仰にとどまっていられるのも、イエス様が祈ってくださったからです。救われたのもそうです。だれかが陰で祈ってくれたからです。そして何よりもイエス様ご自身が祈ってくれました。今でもとりなしていてくださっています。それは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるためです。確かにペテロはイエス様を三度も否定しました。しかし、イエス様がよみがえられて、彼の信仰を回復させました。そして信仰を回復させていただいた彼は教会の指導者として立てられ、多くの人々を励まし、死に至るまで忠実にキリストに従うことができました。

 

イエス様は、私たちの弱さも知っておられます。失敗することもすべて知っておられます。その上で愛してくださったのです。私たちの過去だけでなく、今も、そしてこれからもそうです。それでも私たちをあきらめることをせず、最後まで愛してくださるのです。

 

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。イエス様はあなたの罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。まだ信じていらっしゃらない方は、信じてください。そうすれば、すべての罪は赦され、イエス様が行かれたところ、天の御国に入れていただくことができます。永遠のいのちが与えられるのです。

 

もう信じているという方は、すでに救われています。だんだん救われて行くのではなく、信じた瞬間に救われました。もうすべての罪が赦されました。ただ足は洗わなければなりません。足を洗うってどういうことでしたか?日々の歩みの中で犯した罪を悔い改めるということでしたね。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。赦されない罪などありません。聖霊を冒涜する罪、すなわち、イエスを信じないという罪以外は、どんな罪でも赦されます。どうぞこのことを覚えておいてください。長い信仰生活にはいろいろなことがあります。いろいろな問題が起こってきます。健康の問題、結婚の問題、子育ての問題、仕事の問題、人間関係の問題、本当にいろいろな問題が起こります。あるいは、自分自身のことで大きな失敗をしでかすかもしれません。しかし、それがどんな問題であっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。むしろ、そうした問題は、あなたがもっと神の愛を体験する良い機会として、神が与えておられるのかもしれません。問題そのものは辛いことですが、その問題の中で神に祈り、御言葉を読み、イエス様と交わることによって、さらに深く神の愛を体験することができます。主は、決してあなたを離れず、あなたを捨てません。ですから、この神の愛にしっかりとどまりましょう。キリストの恵みにとどまり続けましょう。そして、イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。その愛に心から応答したいと思うのです。

暗闇から光へ

2020年3月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章21~30節(P212)

タイトル:「暗闇から光へ」

 きょうは、きょうはヨハネ13章21~30節から「暗闇から光へ」というタイトルで話しします。

Ⅰ.心が騒いだイエス(21)

まず、21節をご覧ください。

「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

「これらのこと」とは、その前のところでイエスが語られたことです。イエスは「わたしのパンを食べる者が、わたしに向かってかかとをあげます。」という聖書のことばを引用して、ユダが自分を裏切ることについて、前もって語りました。イエス様は、これらのことを話されたとき心が騒ぎました。なぜ騒いだのでしょうか。それは、イスカリオテのユダが自分を裏切るということを知っておられたからです。いや、イスカリオテのユダが裏切るだけでなく、そのことを悔い改めなかったからです。その結果、彼が永遠に滅びてしまうことを思うといたたまれなかったのです。その心の深い部分で、霊の憤りを感じ、心が騒がずにはいられませんでした。

イエスは弟子たちを愛しておられました。当然、ユダのことも最後まで愛しておられました。そして彼の足さえも洗ってくださいました。イエスはこれまで何度もご自身を裏切る者がいると警告し、悔い改めを促してこられました。ヨハネは、このユダの裏切りについて、主が3度も語っておられたことを記しています。たとえば、6章ではいのちのパンの説教の後、「わたしがあなたがた12人を選んだのではありません。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」(ヨハネ6:70)と言われました。これはイスカリオテ・ユダのことです。イエスは、ユダのことを指してこう言われたのです。

また、このちょっと前にありますが、主が弟子たちの足を洗われた時も、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(13:10)と言われました。これはユダのことです。ユダはきよめられていませんでした。

さらに、この18節、19節でも、主は旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることは成就する、と言われました。

このように、イエスは弟子たちの中にご自分を裏切る者がいるということを何度も語られ悔い改めるように促してきたのに、彼はそれを受け入れませんでした。3年余り主のそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということはどんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果、永遠に滅びてしまうことを思うと、霊の憤りを覚え、心を騒がせずにはいられなかったのです。それでこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

これで4度目です。ここでは「まことに、まことに」と言っておられます。これは本当に重要なことを語られる時に使われる言葉です。それは、ユダに対して、今からでも遅くはない。だから何とか悔い改めてほしいという、主の痛いほどの思いが込められていることがわかります。

それは、このユダだけに言えることではありません。私たちにも同じです。大切なのは、何をしたかではなく、何をしなかったかです。私たちもすぐに主を裏切るような弱い者であり罪深い者ですが、それでももし、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるということを忘れてはなりません。そして、罪が示されたなら、悔い改めなければならないのです。主は赦してくださいます。今からでも決して遅くはありません。もし、あなたが罪を持っているならユダのように頑(かたくな)にならないで、悔い改める者となりましょう。

Ⅱ.イエスの懐で(22-25)

次に、22~25節をご覧ください。22節には「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」とあります。マタイ26:22には、「弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。」とあります。彼らは大変ショックでした。まさか自分のことではないだろうと、自分さえも疑ったほどです。

23節、24節を見てください。それで、弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていたので、ペテロは彼に、だれのことを言われたのかを尋ねるように合図をしました。どういうことかというと、これは最後の晩餐でのことですが、最後の晩餐とは言っても、当時はレオナルド・ダヴィンチの絵にあるようにテーブルを囲んで皆が椅子に座って食べていたわけではありません。当時はコの字型のテーブルに左ひじを付いて、横になって食べました。テーブルを囲んで、主人は左から2番目に座りました。一番左、すなわち、主人の右側に座っていたのがヨハネです。主人の右側には、主人が最も信頼する人が座ることになっていました。それがヨハネだったのです。また、主人の左側はゲスト席となっていましたが、そこに座っていたのがイスカリオテのユダでした。そこから弟子たちが順に座り、一番左の端に座っていたのがシモン・ペテロだったのです。彼はテーブルをぐるっと回って、向かい側の一番しもべの席に座っていました。ですから、ヨハネから見ると向かい側にいたので、お互いに顔をよく見ることができたのです。そこでペテロはヨハネに、だれのことを言われたのか尋ねるようにと合図をしました。おそらく声を出さないで、目くばせか何かで合図したのでしょう。あるいは、口パクだったかもしれません。「だれのことをいわれたのか聞いて・・・」ヨハネはどこにいましたか?ヨハネはイエス様の右側にいました。右側で横になっていたので、ちょうどイエス様の胸の辺りで横になっているように見えたのです。

イエス様の右に座るというのは、イエス様に最も信頼された者であるという証です。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスが愛しておられた弟子である。」別にイエス様は彼だけを愛しておられたわけではありません。弟子たちみんなを愛しておられました。いや、弟子たちばかりでなく、私たちすべての人を愛しておられました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)

イエス様はみんなを愛しておられます。それなのに彼は、自分のことを、イエスが愛しておられた弟子であると言っているのです。このように言える人は幸いです。なぜなら、そこに真の平安を得ることができるからです。そうでしょ、もし自分がだれからも愛されていないと感じていたら不安になってしまいます。また、あの人から憎まれ、この人から嫌われていると思ったら悲しくなってしまいます。ヨハネは、自分はイエス様に深く愛されていることがわかっていました。でもそれはヨハネだけではありません。すべての人に言えることです。ただ彼はそのように実感することができました。なぜでしょうか。それは単に彼がイエスの右側に座っていたからというだけでなく、イエスの愛がどのようなものであるのかをよく知っていたからです。彼はこう言っています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

どこに愛があるんですか。ここにあります。神がそのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪のために、宥めのささげ物として死んでくださったことにあるのです。神は、私たちが愛される資格があるから愛したのではありません。そうでなくても、そうでないにもかかわらず愛してくださいました。私があれができる、これができるから愛してくださったのではありません。もしそうだとしたら、それができなくなったらもう愛される資格はなくなってしまうことになります。でも、神の愛はそういうものではありません。私たちがまだ神を知らなかった時、神のみこころにではなく自分勝手に生きていた時に、聖書ではそれを罪と言いますが、そんな罪人であったにもかかわらず、神は愛してくださいました。

聖書に、放蕩息子のたとえ話があります。ある人に二人の息子がいました。弟のほうが父に、「お父さん、財産の分け前を私にください」と言いました。それで、父は財産を二つに分けてやりました。すると、それから何日もたたないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たした後でその地方に大飢饉が起こり、彼は食べることに困り果ててしまいました。いったいどうしたらいいものか・・・。そこで彼はある人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時、はっと我に返った彼は、父のところに行ってこう言おうと決心します。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

すると父親はどうしたと思いますか。息子が立ち上がって、父のもとに向かうと、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って、彼を抱き、何度も口づけしました。息子が父親に、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたに対して罪を犯しました。もうあなたの子どもと呼ばれる資格はありません。」と言うと、父親は彼に一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつを履かせました。そして肥えた子牛を引いて来てほふり、食べてお祝いしたのです。

この父親は天の神様の姿です。そして、弟息子は、私たち人間、一人一人のことです。私たちは神から愛される資格などありませんでした。むしろ、神に反逆し、自分勝手に生きていました。それにもかかわらず神はあわれんでくださり、赦してくださいました。救われるはずのない私たちを救ってくださったのです。救ってくださっただけでなく、ずっとその愛で愛してくださいます。私たちがどんなに罪を犯しても、神のもとに立ち返るなら、神は赦してくだるのです。神の愛は変わることがありません。私たちはそんな愛で愛されているのです。これが私たちキリストを信じた者たち、クリスチャンです。

ヨハネはそこに座っていました。座っていたというか、横たわっていました。それはちょうどイエス様の懐に抱かれているようでした。彼はイエス様の心臓の音を聞いたと言われていますが、まさに彼はイエス様の心臓の音が聞こえるくらい、イエスのそばにいました。彼はそのように自覚していたのです。そこに彼の安心感があったのです。

あなたはどうですか。イエス様の心臓の音を聞いていますか。イエス様のハートが届いていますか。だれも自分のことなんか愛してくれないとか、みんな自分を嫌っていると思っていませんか。そう思うと人間関係が非常に難しくなります。だれからも愛されていないと感じることがあっても、イエス様はあなたを愛しておられます。あなたもイエスの心臓の音を聞くべきです。あなたがいるべき所は、イエス様の胸元なのです。そこでイエスの愛を感じ、安心感を持っていただきたいと思うのです。

Ⅲ.暗闇から光へ(26-30)

最後に、26節から30節までをご覧ください。26節には、「イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。」とあります。イエスは、「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と言われましたが、その後のところを見てもわかるように、それでも弟子たちには、それがだれのことを言っているのかがわかりませんでした。というのは、当時の習慣では、このように過越の食事において、パン切れを浸して渡すという行為は、主人がゲストをもてなしたり、給仕したり、親しみを示すものであったからです。ですから、だれもイエスがしていることを見て、ユダがイエスを裏切ろうとしているとは思わなかったのです。ということはどういうことかと言うと、イエスは最後の最後まで、ほかの弟子たちにはわからないように、彼の罪をみんなの前であばき出すようなことをせず、しかも本人には分かるような方法で、悔い改めを迫る愛の訴えをし続けておられたということです。イエスは最後まで彼をあわれみ、愛と恵みを示されたのです。

しかし、彼はイエスの御言葉に耳を貸そうとはしませんでした。27節をご覧ください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」とあります。すごい言葉です。「サタンがはいった」ユダは主の愛と恵みを完全に拒んで、パン切れだけを受け取りました。そのとき、サタンが彼に入ったのです。サタンは最初、彼の思いに働きかけました。2節には「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを与えていた。」とあります。そして、この最後の晩餐において、主の最後の愛の訴えがなされましたが、ユダがそれを拒んだことで、サタンが彼に入ったのです。どういうことですか?サタンが入るということがあるんですか。あります。どんな人でも、主の愛の訴えを拒み続けるなら、自分では意識していないかもしれませんが、実はそこに巧妙なサタンの働きがあって、その働きに支配されてしまうことになるのです。

ですから、イエスは彼にこう言われたのです。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」もうこれ以上、望みはないということです。彼はイエスよりもサタンを選んでしまったからです。主が彼を見捨てられたから、彼が悪魔の道を選んだのではありません。彼が主の愛を最後まで拒んだので、その結果、見捨てられることになってしまったのです。このことは、私たちにも言えることです。主は何度も悔い改めなければ危険であること、そのままでは最後の裁きに会わなければならないということを、手を変え、品を変え、繰り返して語っておられます。ユダの場合のように直接的にではなくとも、ある時には聖書を通して、ある時にはクリスチャンの友人を通して語り掛けてくださっています。このようにして悔い改めのチャンスを与えてくだっているのです。しかし、それを永久になさるわけではありません。後ろの扉が閉ざされる時がやって来るのです。ですから、もしあなたが、その愛の訴えを頑なに拒み続けるなら、あなたは自分で悪魔を選び取ってしまうことになるのです。そして、もはや救いの望みは完全に断たれてしまうことになります。

それが30節にあることです。ここには、「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」とあります。ほかの弟子たちは、ユダが裏切るために出て行ったとは思いませんでした。というのは、彼は会計係だったので、祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていたからです。しかし、そうではありませんでした。彼はイエスを裏切るために出て行ったのです。彼が出て行った時、外はどうなっていましたか?時は夜でした。新改訳第三版では、「すでに夜であった。」とあります。すでに夜であったとは言っても、過越の食事は夕食ですから、夜であるのは当然です。それなのに、ここにわざわざ「時は夜であった」とあるのは、それが単に時間的な状況を伝えたかったからではなく、彼の心の状態、彼の心の闇を強調したかったからなのです。イエスは最後までユダを愛し、悔い改める機会を与えておられたのに、彼は出て行きました。外はすでに夜だったのです。夜は不安です。でも、どんな不安や恐れがあっても、必ず朝がやって来ます。朝太陽が昇ると、あれほど不安だった夜が、嘘のようにすべてが消えて行きます。でも想像してみてください。朝が来ない夜というのを。太陽が昇って来ない朝を。繰る日も繰る日も真っ暗闇です。それがずっと続くとしたらどうでしょうか。恐ろしいですね。でもそれがキリストから離れた人の状態です。キリストから出て行ってしまった人の状態なのです。そこは永遠に光を見ない外の暗闇です。そこで泣いて歯ぎしりするのですと、聖書は言っています。そこで永遠を過ごさなければならないのです。

しかし、キリストを信じた人は違います。その暗闇から光の中に移されます。コロサイ1:13~14に、このように書かれてあります。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」

神は私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子のご支配の中に、光の中に移してくださいました。どのように移してくださったのですか?「この御子にあって」です。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。イエス・キリストにあって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちをいただいたのです。

あなたはどうですか?まだ暗闇の中にいませんか。もう生きる望みもない。何を頼っていいのかわからない。今まで望みだと思っていたものが消えてしまった。いったいこれから何を頼って生きていけばいいのか。この世が作り出す望みはそんなものです。得たと思ったらすぐに消えてしまいます。しかし、神は私たちに生ける望みを与えてくださいました。神はそのひとり子をこの世に遣わし、あなたの罪の身代わりとして、そして私の罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。この方がイエス・キリストです。キリストは、死の恐怖に打ちひしがれていた人たちを解放し、罪の奴隷として、これはやってはいけないとわかっていてもついつい行い、みじめになっている私たちをそこから救ってくださいます。自分ではどうすることもできない悪の支配にあって、そこから解放してくださいます。この方にあって私たちは、罪の赦し、永遠のいのちを受けることができるのです。暗闇から光へと移されるのです。

ただ移されるというだけではありません。ずっとその光の中を歩むことができます。イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。」(13:10)と言われました。水浴した者は、風呂に入ったら、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。足だけ洗ってもらえばいいのです。これは毎日です。私たちの足は汚れます。だから、毎日洗ってもらう必要があります。罪があると祈ることができなくなります。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。もう光の中へ移されたからです。罪を思い出させる涙の夜は去り、笑みと感謝の朝を生きることができるのです。

きょうは、この後で美香さんとあかねさんのバプテスマ式が行われますが、それは、主イエス・キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しを得ていることを表しています。暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移されました。もう闇の中ではなく、光の中を歩むのです。

それは私たちも同じです。私たちも、キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しをいただきました。もはや闇があなたを支配することはありません。私たちは光の中を歩むのです。どんなことがあっても、主はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたはイエス様に愛された者、イエス様の懐に抱かれた者なのです。後は、足だけ洗えばいい。日々汚れた足を洗ってもらい、聖霊によって日々きよめられながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきましょう。