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バビロンは滅びる エレミヤ書50章1~20節

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聖書箇所:エレミヤ書50章1~20節(旧約P1387、エレミヤ書講解説教83回目)
タイトル:「バビロンは滅びる」
エレミヤ書50章に入ります。これまで、ユダ及び周辺諸国に対する主のことばを見てきましたが、いよいよバビロンについての預言が語られます。バビロンは主なる神様の許しの中で、ユダ及び周辺諸国に対する神の道具として用いられてきましたが、今度はそのバビロンにも主のさばきが及ぶことになります。バビロンに対する預言はすでに25章12節で語られていましたが、ここではもっと具体的に語られます。
今回はその最初の部分から三つのポイントでお話したいと思います。第一に、あの大バビロンでも滅びるということです。それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。神はご自身が語られたことを必ず成就されるのです。だから、この神のことばに信頼しましょうということ。第二のことは、バビロンが滅びたのはどうしてでしょうか。それは彼らが主に対して罪を犯したからです。その結果彼らは傲慢になり、やりたい放題になってしまいました。だれに対して罪を犯したのかという正しい認識を持たなければなりません。第三のことは、バビロンに対する審判は、同時にご自身の民イスラエルに対する回復と救いをもたらすということです。もしあなたが罪を言い表すなら、神は信じて正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。この三つのことです。それでは本文を見ていきましょう。

Ⅰ.バビロンは滅びる(1-10)
まず、1~10節をご覧ください。1~2節をお読みします。「50:1 【主】が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデア人の地について語られたことば。50:2 「国々の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。『バビロンは攻め取られた。ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた。』」
2節の「旗を掲げて知らせ」とは、この預言を広く公に告げ知らせるという意味です。バビロンは、すでに学んできたようにパレスチナのほとんど全土に至るまで、そしてエジプトにまでもその勢力を伸ばし、諸国を制圧してきましたが、そのバビロンについて語られた主のことばを、国々の間に広く告げ知らせるようにというのです。
その中心的なメッセージは何かというと、バビロンは滅びるということです。2節には、「バビロンは攻め取られた。ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた。」とあります。「ベル」も「メロダク」もバビロンの代表的な守護神です。「ベル」は「主」とか「主人」という意味がありますが、バビロンの主神でした。「メロダク」は一般には、「マルドゥク」と呼ばれていて、意味は「あなたの反逆」です。「メロダク」はまさに主に反逆する存在でしたから、それにふさわしい名前と言えます。そのベルは辱められ、メロダクは打ちのめされます。古代オリエントにおいては、その国の敗北は、その背後にある神の敗北と考えられていました。つまり、バビロンの守護神であったベルとメロダクが辱められ、打ちのめされることによって、真の神はどなたであるのかが明らかにされるのです。皆さん、真の神はどなたですか。ベルじゃありません。メロダクでもありません。真の神は、イスラエルの神、「主」です。それはご自身を父と子と聖霊という御名で表わされた三位一体の神なのです。
いったいバビロンはどのようにして滅ぼされるのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「まことに、北から一つの国がそこに攻め上り、その地を荒れ果てさせた。そこには住むものもない。人から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。
「北から攻め上る一つの国」とは、メディアとペルシャの連合軍のことです。バビロンは、北から来るメディアとペルシャの連合軍によって滅ぼされるというのです。それは文字通りに成就しました。B.C.539年にペルシヤの王キュロスがバビロンを陥落させたのです。難攻不落と言われたバビロンが陥落したのです。だれがそんなことを考えることができたでしょうか。バビロンは二重の城壁に囲まれていました。その周囲は65キロメートルもあったと言われています。城壁の高さは90メートルです。高いところで100メートルもありました。厚さは24メートルです。ですから、何台もの馬車が城壁の上を走ることが出来たのです。そんな分厚い壁をどうやって打ち破ることができるでしょうか。無理です。そんな壁をよじ上ることができる人など一人もいません。そんなことをしたら塔の上で見張っていた者から矢を放たれてしまいます。だったら土を掘って地下から侵入したらいいじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、それもできません。なぜなら、城壁が地下深くまで築かれていたからです。その深さ、実に11メートルもありました。ですから、この城壁を打ち破るのは人間的には不可能なことでした。しかし、人にはできなくても、神にはどんなことでもできます。神はかつて小国だったメジィアとかペルシャを用いて、あの大バビロンを滅ぼされるのです。ここに書かれてあることが文字通り成就するのです。
4節と5節をご覧ください。ここには「50:4 その日、その時──【主】のことば──イスラエルの民もユダの民も、ともにやって来る。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、【主】を尋ね求める。50:5 彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて言う。『さあ、私たちは【主】に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって』と。」
これはバビロンに対する預言ではなく、イスラエル民とユダの民に対する預言です。「その日、その時」とは、メディアとペルシャの連合軍によってバビロンが滅ぼされる時のことです。その日、その時、どんなことが起こるのでしょうか。その日、その時、イスラエルとユダの民は、ともにやって来て、泣きながら、彼らの神、主を尋ね求めるようになります。70年にわたるバビロン捕囚から解放され、祖国に帰還するようになるということです。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、主を尋ね求めます。詩篇137篇1節に、彼らが捕囚の民としてバビロンに連行された時の詩があります。「バビロンの川のほとりそこに私たちは座りシオンを思い出して泣いた。」
まさに彼らはバビロンの地で、故郷エルサレムのことを思い出して泣いていました。それはただ感傷にふけって泣いたというよりも、心の底から悔い改めた涙です。偶像礼拝という罪のゆえに、また7年ごとの安息年を守らなかった罪のゆえに、バビロンでの70年にわたる捕囚の生活を強いられていたわけですが、その中で彼らは自分たちが犯してきた罪の愚かさに気付いて泣いたのです。そして70年の時を経て、彼らはシオン(エルサレム)に帰還するわけですが、その時は以前の彼らとは違います。彼らは心から主を尋ね求めて、こういうようになります。「さあ、私たちは【主】に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって」
すばらしいですね。一度は自分たちの罪によってバビロン捕囚を経験して涙しても、それがやがて喜びに変えられるのです。詩篇30篇5節に「まことに御怒りは束の間いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」とありますが、まさに「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」ということを文字通り体験するのです。
いったいどうやってそれが実現するのでしょうか。ここには「忘れられることのない永遠の契約によって」とあります。それは彼らの力によってではありません。忘れられることのない永遠の契約によってです。「永遠の契約」って何ですか?それは31章3節に「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」とありましたが、永遠の愛のことです。神の愛は変わることがありません。彼らがどんなに神に背いても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はそれを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。神の愛はどんなことがあっても変わることがないのです。彼らはこの永遠の愛によって救われるのです。
それは、歴史的にはB.C.539年にペルシャのキュロス王がバビロンを打ち破り、そこに捕らわれていたユダの民を解放することによって実現しますが、これはその時のことだけではありません。ここに「その日、その時」とありますが、これはこれまで何度も説明したように、終末において起こること表す時に用いられる特徴的なことばです。つまり、このエレミヤの時代にはバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還することを表していましたが、それだけでなく、遠い未来においては、終末における起こる同様の出来事を表しているのです。すなわち、終末においてイスラエルはみな救われるという出来事が起こるということです。それはキリストが再臨の時に起こります。ゼカリヤ書12章10節にこうあります。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)
  「自分たちが突き刺した者」とは、神のひとり子であられるイエス・キリストのことです。彼らはやがてその方を仰ぎ見るようになります。いつですか?キリストが再臨される時です。その時イスラエルは自分たちが突き刺した方を見て嘆き、激しく泣いて悔い改めます。このようにして、イスラエルはみな救われるのです。彼らは忘れられることのない永遠の愛によって愛されているからです。
黙示録17章と18章に書かれているのはこのことです。17章5節には「大バビロン」という淫婦たちのことが出てきますが、これは17章18節を見ると、「地の王たちを支配する大きな都のことです。」とあります。それはもはや国名というよりも神に反逆する勢力のことを指していることがわかります。その大バビロンが倒れるのです(18:2)。神が聖徒たちのためにさばかれるからです。そして19章に入ると天が開かれ、「確かで真実な方」と呼ばれ、義を持ってさばき、戦いをされる方が現れます。それはイエス・キリストのことです。そうです、主イエスが再臨されるのです。そのとき、彼を見るすべての者たちが悔い改めて嘆き悲しむのです。黙示録1章7節にあるとおりです。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)
こうしてイスラエルはみな救われるのです。そして神が用意された千年王国に入り、やがて新しい天と新しい地に入れられます。ですから、このバビロンがさばかれ、神の民が悔い改めて救われるという内容は、今から2,500年前の話だけでなく、今の私たちの時代から後の近い将来に起こることの預言でもあったのです。
それは必ず成ります。なぜなら、聖書の預言は100%みな成就するからです。皆さん、聖書は預言の書です。実に全体の三分の一が預言で占められています。そしてその預言の95%がこれまでの歴史の中で成就しました。残りは5%です。それはいつ成就するのでしょうか。これからです。これから成就します。私たちはそういう歴史のただ中にいるのです。これまで95%が成就したのであれば、これからの5%も必ず成就するということは、だれにでもわかることです。私たちは世の終わりにいるわけですが、それを見るかどうかはわかりません。しかし、たとえ見なくても必ずその通りなります。その日、その時、あなたは忘れられることのない永遠の契約によって、キリストが支配する神の御国を受け継ぐようになるのです。そう信じて神のことばに信頼して歩みたいと思います。
Ⅱ.主に対して罪を犯したバビロン(6-18)
いったいバビロンの問題はどこにあったのでしょうか。それは彼らが主に対して傲慢であったことです。6~18節には、そのバビロンの傲慢さが指摘されています。まず、6~7節には、「50:6 わたしの民は、迷った羊の群れであった。その羊飼いたちが彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡り、休み場も忘れた。【50:7 彼らを見つける者はみな彼らを食らい、彼らの敵は言った。『私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである【主】、彼らの先祖の望みであった【主】に対して罪を犯したためだ』と。」とあります。
「わたしの民」とは、神の民イスラエルのことです。彼らが迷ったのはその羊飼いが彼らを迷わせたからです。それはイスラエルの指導者たちのことを指しています。ここでは特ににせ預言者たちのことを指しています。彼らに従った結果、民は安息を味わうどころかさまよってしまい、バビロンの支配のもとで70年を過ごさなければなりませんでした。
7節の「彼らを見つける者」とはバビロンのことです。彼らはみなその羊たちを食らい、こう言いました。「私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである【主】、彼らの先祖の望みであった【主】に対して罪を犯したためだ」と。
 これはバビロンが言ったことばです。バビロンは、イスラエルが陥落したのはイスラエルの民が自分たちの神に対して罪を犯したからであり、その結果我々に滅ぼされたのだと。確かにイスラエルがさばかれたのは彼らが罪を犯したからであり、そのために主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いられたのは事実です。しかし、かといってバビロンがした侵略行為や略奪行為が正当化されるわけではありません。それは明から神の目には悪なのです。
それで主は、ご自身の計画を成し捕囚の民の回復の約束を果たすために、そのようにおごり高ぶるバビロンに対して、彼らを滅ぼすと告げられました。それが8~10節にあることです。9節の「大国の集団」とはペルシャのことです。主はペルシャを奮い立たせ、バビロンに攻め上らせるのです。そのようにしてカルデア(バビロン)は略奪されることになるのです。
そのことは、11~13節でも言われています。「50:11 わたしのゆずりの地を略奪する者たちよ。おまえたちは楽しみ、喜び躍り、打穀する雌の子牛のようにはしゃぎ、荒馬のようにいななくが、50:12 おまえたちの母はひどく恥を見、おまえたちを産んだ者は屈辱を受ける。見よ。彼女は国々のうちの最後のものとなり、荒野となり、砂漠と荒れた地となる。50:13 【主】の御怒りによって、そこに住む者はなく、ことごとく廃墟と化す。バビロンの近くを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。」
「わたしのゆずりの地を略奪する者たち」とは、バビロンのことです。ここで注目したいことは、イスラエルは「わたしのゆずりの地」と言われていることです。神のゆずりの地、神の相続地であるということです。彼らがイスラエルを略奪したのは単にイスラエルの地を略奪したというよりも、それは「わたしのゆずりの地」とあるように、主のゆずりの地、主が相続した主の土地を略奪したということなのです。要するに、彼らの罪とは、主に対して犯した罪だったのです。これが、バビロンが滅ぼされた最大の原因です。バビロンはイスラエルの民を滅ぼし、大喜びしながら、その地を略奪しました。その傲慢な罪のゆえに、主はバビロンを滅ぼし、そこを廃墟と化すのです。
そのことは、さらに14~16節のところで明確に語られます。14節には「すべて弓を引く者よ。バビロンの周りに陣備えをし、これを射よ。矢を惜しむな。彼女が【主】に対して罪を犯したからだ。」とあります。
「すべて弓を引く者よ」とは、そのペルシャに対する呼びかけです。主はペルシャに対して、バビロンの周りに陣備えをし、これを射るようにと命じておられます。なぜですか?なぜなら、彼らが主に対して罪を犯したからです。ですから、15節のところで、これは「主の復讐だ」と言われているのです。主に対して罪を犯したから、主が復讐されるわけです。ペルシャの王キュロスはこのことをどれだけ理解していたかわかりませんが、バビロンが滅ぼされた最大の理由はここにあったのです。
皆さん、主に対して罪を犯すなら、主に対して傲慢であるならば、主が復讐されることになります。私たちも主に対して罪を犯していないかを考えなければなりません。というのは、私たちが罪を犯す時、それは神に対してというよりも、むしろ人に対して罪を犯したという意識の方が強いからです。あの人に対して申し訳ないことをした、あんなことをやってしまった、こんなことを言ってしまった、あのことで傷つけた、このことで迷惑をかけたという思いが強いのです。しかし、本来、罪というのは人に対してというよりも神に対して犯すものです。確かにバビロンはイスラエルを滅ぼしその地を略奪しましたが、それはイスラエルに対してというよりも、神に対して犯した罪だったのです。
この認識がなければ、それは真の悔い改めではありません。真の悔い改めとは人に対してではなく神に対してなされるものだからです。人に対して罪を犯したという思いだけで終わっているならば、それは単なる後悔にすぎません。結果、また同じことを繰り返すことになります。なぜなら、神に対して罪を犯したという認識が欠如しているからです。神がどれほど心を痛めておられるかを考えたことがあるでしょうか。よくわかりませんと言う方がいたら、十字架のキリストを見てください。よくわかると思います。神に対して罪を犯すということがどういうことなのかを。
クリスチャンのシンガーソングライターに岩渕まことさんが、「父の涙」という歌を作りました。
  1.心にせまる父の悲しみ
    愛するひとり子を十字架につけた
    人の罪は燃える火のよう
    愛を知らずに今日も過ぎていく

   ※十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
     十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

  2.父が静かに見つめていたのは
    愛するひとり子の傷ついた姿
    人の罪をその身に背負い
    父よ 彼等を許して欲しいと
この曲は、岩渕さんが当時8歳だった娘の亜希子さんを亡くした悲しみの中で生まれた曲だそうです。亡くなられた亜希子さんの姿と、彼女を亡くした御自身の悲しみが、イエス様と父なる神様に重なりました。愛するひとり子を十字架につけるというのはどれほどの悲しみなのか。そこには父の涙が流れていました。それは私たちの罪の身代わりとして死なれたイエスの愛だったと。
だから、十字架のキリストを見上げるとわかるのです。そのキリストの姿をじっとこらえてご覧になられ、そのキリストにご自身の怒りを注がなければならなかった父なる神の涙から、神の御思いがひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。
神に対して罪を犯すとはそういうことです。それがわかると短絡的に罪を犯そうという思いにはなれません。人に対して罪を犯したと思っていると、あれほど申し訳ないと思ったことでも忘れてしまうこともあります。でも、神に対して罪を犯しているという認識を持つならば本物の悔い改めの涙があふれて来て、もう二度とこんなことはしたくない、できないという思いになるはずです。
ですから、私たちにとって重要なのはだれに対して罪を犯しているのかという正しい認識を持つことです。それがなければ主の前に傲慢な者となり、自分のやりたい放題になってしまいます。主が許容された範囲を超えてやり過ぎてしまい、ついにはバビロンのように滅ぼされてしまうことになるのです。
それが17~18節にあることです。17節には「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついに、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らった。」とあります。
17節の「雄獅子」とは複数形で書かれています。これは2頭の雄獅子のことで、アッシリアとバビロンのことを指しています。イスラエルはかつて2頭の雄獅子に滅ぼされました。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついて、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らいました。これは、歴史的にはB.C.722年にアッシリアが北王国イスラエルを滅ぼしたことと、バビロンがB.C.586年に南ユダを滅ぼした出来事を指しています。しかしネブカドネツァルの場合はやりすぎました。アッシリアの王もイスラエルを食らいましたが、バビロンの王はただ食らったのではなく、彼らは骨まで食らいました。やり過ぎたのです。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われます。18節です。「見よ。わたしはアッシリアの王を罰したように、バビロンの王とその地を罰する。」
神を恐れず、神に対して罪を犯しているという認識を持たないと、自分のやりたい放題となり、ついにはバビロンにように滅びてしまうことになるということを覚え、神の前にへりくだる者でありたいと思います。
Ⅲ.イスラエルの回復の恵み(19-20)
最後に、19~20節を見て終わります。ここにはイスラエルの回復について書かれてあります。「50:19 わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで満ち足りる。50:20 その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」」
「カルメルとバシャ」、「エフライムとギルアデ」は、北イスラエル王国にあった地域です。そこはかつてアッシリアの王によって略奪されたところですが、そこが先に回復していきます。ですから、これはただユダの民がエルサレムに帰還するというだけでなく、北イスラエルも南ユダ王国も、統一王国として回復するという預言なのです。それはユダの民がバビロンから解放されエルサレムに帰還するということ以上のことです。それはここに「その日、その時」とあるように、世の終わりにおいて成就する預言なのです。
20節はすばらしいですね。ご一緒に読みましょう。「その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」
北イスラエルと南ユダがどれほどの罪を重ねてきたか、どれほどおぞましいことをしてきたか、そこには自分の子どもを偶像に犠牲としてささげるというモレク礼拝もありました。そういう罪をこれでもかというくらい繰り返してきました。決して許されないことです。それなのに、ここで主は何と言っていますか。
「イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」
神の赦しは、罪の一切合切を帳消しにするのです。つまり、神が赦すとき、神は私たちの罪をすべて忘れてくださるのです。人の赦しには限界があります。「私は赦します」と言っても、脳の中には記憶として残っています。確かに赦すとは言っても、あの時はこうだった、ああだったと、しばらくしてからまた思い起こし、蒸し返して、それで人を責めたりします。あるいは赦したはずなのに、苦々しい思いとか、怒りとか、恨みとかがこみ上げてきますが、神は違います。「またやったのか」というようなことは一切言われません。すべてを帳消しになさるのです。31章34節に「わたしが彼らの不義を赦し、もはや二度と彼らの罪を思い起こさない。」とあるように、完全に忘れてくださるのです。有難いですね。
ですから、神様があなたの罪を赦してくださったのなら、あなたはもうその罪を思い起こす必要はありません。過去の罪でいつまでも悔やまないでください。あなたがはっきりと「私は神様の前で罪を犯しました」と正直に告白し、神の赦しを請うなら、あなたの罪はイエス・キリストの十字架によって完全に赦されているのです。赦されているということは、あなたはもう思い起こす必要もないし、人から何か言われても、サタンがあなたの耳元で何をささやいても、もうそれに囚われる必要はないということです。神が忘れたと言われるなら、あなたもそのようにみなすべきです。もう私も忘れたと。そうやって私たちは過去の罪から解放されていくのです。
神のみこころは、あなたがいつまでも過去の罪に囚われていじいじしながらいつも過去を振り返り、後ろ向きに生きるのではなく、もう過去の罪から解放されて、そのような過去はなかったかのように生きることです。うしろのものを忘れること。それが神のみこころです。もしまだ罪を悔い改めていないなら、罪を言い表していないなら、それこそ最優先に成されるべきことです。赦されたなら、もう悩む必要はないのです。
生涯、罪責感にさいなまれてきた老婦人がいました。彼女は17歳で嫁いだ後すぐに夫が満州に徴用され、妊娠したまま実家に戻ってきました。当時は木の皮まで食べた苦しい時代だったので、実家の家族の視線は冷たいものでした。そして、生まれた子どもは双子でしたが、両方に満足に乳を飲ませることができず、片方は死んでしまいました。
 「神様の前に出て、この罪をどうすればよいのかわからない」と罪の重荷をずっと背負って生きてきました。
そんな時、牧師から「神はイエスを通して、子どもを死なせてしまった母親の罪を赦されました。神様はその罪を二度と思い起こさず、あなたを神様の娘とされたのです」という話を聞きました。おばあさんはその言葉に号泣し、十字架の贖いの福音によって笑顔を取り戻すことができました。(リビングライフ、2010年9月号、P35)
私たちは神の愛と恵みをその時々の状況によって判断してしまいます。物事がうまくいけば「神は私を愛しておられる」と言い、うまくいかなければ「なぜ神は私をこのように苦しめるのだろう」と神の愛を疑います。しかし、神の愛はその時ごとに確認するようなものではありません。それは、すでに確証された事実です。すでに神はあなたを愛することを決められ、あなたの罪をきよめてくださったのです。
これが神の約束です。この神のことばを素直に受け取ることができた人々は、たとえその現実がどれほど苦しく、耐えがたいものであっても、湧き出るような神が与えてくださる希望に満たされ、その前途は、トンネルのかなたに明るい出口を見え始めたようなものです。それは、神のことばを真剣に受け取る者に与えられる恵みなのです。
それは、今日同じように神のことばを真剣に聞いているあなたにも言えることです。バビロンに対する神の審判の日は、イスラエルの民に回復と救いをもたらす時でした。まことに審判と救いは一枚の紙の両面のようなものであり、切り離して考えることはできません。そのような回復と希望があなたにも与えられていることを信じて、まことの羊飼いであられる主イエスについて行きたいと思います。

ここに救いがある エレミヤ書49章23~39節

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聖書箇所:エレミヤ書49章23~39節(旧約P1385、エレミヤ書講解説教82回目)
タイトル:「ここに救いがある」
46章から諸国の民についての語られた主のことばから学んでいますが、今日はダマスコに対して語られた主のことばと、ケダルとハツォル、そしてエラムに対して語られた主のことばから学びたいと思います。
三つのポイントでお話します。第一に、ダマスコに告げられたのは神のさばきという悪い知らせでしたが、ここに良い知らせがあります。良い知らせは、主イエスにあるということです。第二のことは、ケダルとハツォルに対する主のことばから教えられることですが、自分は一人でやっていけると思い上がるなら、滅びを招くことになるということです。そして第三のことは、エラムに対する主のことばから教えられることですが、あなたは何を誇り、力の源としていますかということです。神以外のものを誇るなら神はそのようなものを砕かれますが、主に立ち返るなら救いの恵みを受けることができということです。それでは、本文を見ていきましょう。
Ⅰ.ダマスコに対する預言(23-27)
まず、ダマスコに対する預言から見ていきましょう。23~27節をご覧ください。「49:23 ダマスコについて。「ハマテとアルパデは恥を見た。まことに、彼らは悪い知らせを聞き、海のようにかき乱され、静まることもできない。49:24 ダマスコは弱り、恐怖にとらわれ、身を翻して逃げた。産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて。49:25 どうして、誉れの町、わたしの喜びの都が捨てられたのか。49:26 それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、黙らされる。──万軍の【主】のことば──49:27 わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす。」」
ダマスコはアラムの首都でした。アラムとは今日のシリアのことです。シリアはイスラエルの北方に隣接している国ですが、今日でもテレビのニュースでよく観ます。そのダマスコに対する預言です。
「ハマテとアルパデは恥を見た」とありますが、「ハマテ」と「アルパデ」はダマスコの北にあった町です。このハマテとアルパデは恥を見ることになります。彼らは海のようにかき乱され、静まることもできません。なぜなら、彼らは悪い知らせを聞くからです。それは敵によって海ようにかき乱され、静まることもできないという知らせです。ダマスコは弱り果て、恐怖にとらわれ、産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて、身を翻して逃げることになります。26節には、その日、敵の攻撃によってダマスコの若い男たちは町の広場に倒れ、戦士たちもみな、黙らされるとあります。黙らされるとは殺されるということです。そしてこの預言はB.C.605年に成就します。バビロンの王ネブカドネツァルはエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢を打ち破ると、このダマスコも打ちました。46章2節で見た通りです。27節には「わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その日はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす」とありますが、ダマスコの城壁は崩され、ベン・ハダドの宮殿は焼き尽くされました。
23節の真ん中に「まことに、彼らは悪い知らせを聞き」とありますが、それは本当に「悪い知らせ」です。バビロンの王によって焼き尽くされ、捕らえられるというのは、悪い知らせでしかありません。しかし、ここに「良い知らせ」があります。それは、そのバビロン捕囚から解放されるという知らせです。
それは「良い知らせ」、「福音」です。皆さんは「福音」という言葉をよく聞くと思いますが、福音とは何ですか。私はクリスチャンになる前にこの漢字すら読めませんでした。何だろう、「フクオン」って?「福音」とは、ギリシャ語では「εὐαγγέλιον」(エウアンゲリオン)と言いますが、この言葉は、元々はバビロン捕囚から解放される知らせのことです。ここから来ているんですね。それがバビロン捕囚ならぬ罪の奴隷から解放されることを意味することばとして用いられるようになったのです。それが福音です。つまり、悪い知らせとは罪の奴隷の状態であることに対して、良い知らせとは、その罪の奴隷の状態から解放されるという知らせのことなのです。
そこから解放してくださる方は誰ですか。それは言わずと知れた私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは十字架で死なれ三日目によみがえられることによって、この救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、このイエスを救い主と信じるならだれでも救われます。罪から解放されるのです。これが福音です。私たちはこの福音によって救われました。
そしてこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として私たちはこの世に置かれているのです。この世は良い知らせを知りません。知っているのは悪い知らせばかりです。テレビやネットから流れてくる情報は悪い知らせばかりじゃないですか。そこには全く希望がありません。この世の人たちは自分の中に神を求める思いがあるのに、その神がどのような方なのかを知らないからです。まさに「知られていない神」です。どこに行ったら良いのかわからずみんなさまよっているのです。もしこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を知ることができたら、どんなに希望と生きる力が与えられることでしょう。
私は先日右眼の手術を受けましたが、実はちょっとだけ不安がありました。昨年11月にも受けたのですが、その時に出血が目の奥に入り込んだため4日目もう一度手術を受けなければならずかなり目にダメージがあったので、そうならないといいなぁと祈ったのです。
病院に到着後、その日は何もすることがなかったので、聴く聖書でテサロニケの手紙を聴きました。すると主はこのように語りかけてくださいました。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(Ⅰテサロニケ5:28)
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。それは私に対する神の約束のことばだと確信しました。主の恵みの御手があると。主が私の罪を贖われた。主は私とともにおられる。強くあれ。雄々しくあれ。主はいつもあなたとともにおられる。
本当に励まされました。こんな時いくら「頑張ってください」と言われても、自分にはどうすることもできません。でも主があなたとともにおられるというメッセージは、本当に平安と希望を与えてくれました。そして主イエス・キリストの恵みによって手術は成功し、心配していた目の奥に血が入り込むこともなく、4日目に退院することができました。ハレルヤ!
ところで、手術が終わった日、さくらチャーチの一人のご婦人からメールをいただきました。その方は乳がんの検査を受けられたのですが、その結果陽性であることが判明しました。リンパ腺にも転移しているらしく、しばらく化学療法を続けた後で手術をする方針だとだということでした。
私は片方の目でしたがすぐにメールを差し上げ、自分に与えられたイエス・キリストの恵みがその方にもあるようにと書き送りました。するとその方から返信が届きました。
 「先生、恵みの言葉を有難う御座います。今病院から戻りました。お盆前で院内も患者でいっぱいでした。先生のメールを読んでいまして、あ―、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らに居られると思いました。これから始まる科学療法にも、太刀打ちできる勇気が湧いてきます。何より増して、大橋牧師の手術が成功された事が嬉しいです。良かったですね。・・・・牧師に大いなる神の恵みを。アーメン。」
何だか逆に励まされたような感じですが、私はこれを読んで福音の力ってすごいなぁと思いました。「あー、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らにおられる」って言えるのは、本当に凄いことだと思うんです。この世にこのような希望があるでしょうか。十字架で死なれ、三日目によみがえられた主があなたをすべての罪から解放してくださった。主がいつもあなたとともにおられ、あなたの前を歩んでくださるというメッセージは、本当にかけがいのなにメッセージ、良い知らせです。この世のどこを探してもこんなにすばらしいメッセージ、福音の良い知らせはありません。この良い知らせがあなたにも与えられているということを忘れないでください。
Ⅱ.ケダルとハツォルの王国について(28-33)
次に、ゲダルとハツォルに対する主のことばを観たいと思います。28~33節をご覧ください。「49:28 バビロンの王ネブカドネツァルが討ったケダルとハツォルの王国について。【主】はこう言われる。「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。49:29 その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって叫ぶ。『恐怖が取り囲んでいる』と。49:30 ハツォルの住民よ、逃げよ。遠くへ逃れよ。深く潜め──【主】のことば──。バビロンの王ネブカドネツァルが、おまえたちに対してはかりごとをめぐらし、おまえたちに対して計略をめぐらしているからだ。49:31 さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。49:32 彼らのらくだは獲物になり、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、もみ上げを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、あらゆる方向から彼らに災難をもたらす。──【主】のことば──49:33 ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなる。そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」」
「ケダル」はイシュマエルの息子の名(創世25:13)で、アラビア半島に住む遊牧民です。現在のサウジアラビアの辺りに住んでいたのではないかと考えられています。イスラム教徒によると、イスラム教徒の開祖はムハンマドですが、彼はこのケダルの子孫だと言っています。
「ハツォル」とは、ガリラヤ湖の北部にも「ハツォル」という町がありますがそのハツォルではなく、アラビア半島のどこかにあった町ではないかと考えられています。
そのケダルとハツォルに対して主は何と言われましたか。28節後半から29節には、「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。」とあります。これはバビロンの王ネブカドネツァルに対して言われたことばですが、彼はケダルに攻め上り、これを荒らし回ります。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られることになるのです。天幕と羊の群れとか、らくだと言われてねピンとこないかもしれませんが、たとえばこれを資産とかホンダのSUVのような高価なものに置き換えるとわかりやすいかと思います。あなたが今まで築いてきた資産のすべてが奪われたとしたらどうでしょうか。もう絶望するのではないでしょうか。なぜここにラクダが出てくるのか不思議に思われるかもしれませんが、ラクダは当時の貿易では欠かすことができない高価なものだったからです。「ラクダ」は砂漠の船と呼ばれていて、価値あるものでした。今でいうとホンダの車であったり、ハーレーダビッドソンかもしれませんね。ラクダに乗ったら楽だ!なんて。そんな価値あるものがすべて奪われるとしたらどうでしょう。もう立ち上がれないのではないでしょうか。車だけならまだしも、家や資産のすべてが奪われたとしたら悲しい限りです。ケダルとハツォルはまさにそんな悲惨な目に遭うのです。いったい何が問題だったのでしょうか。
31節をご覧ください。ここには「さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。」とあります。
 どういうことでしょうか。ケダルとハツォルは遊牧民だったので、誰も自分たちのところに攻めてくる者はいないと、安心しきってのん気にしていたのです。鍵など必要ありませんでした。城塞都市ではなかったからです。いつものんきに暮らしていました。フーテンの寅さんのように。今の時代、鍵をかけなかったら大変ですよ。すっかり持って行かれます。娘が高校生の時、駅まで自転車で行っていましたが、何度盗まれたでしょうか。何台も盗まれました。しっかり鍵をかけていても、ですよ。
しかし、ゲダルとハツォルはそういう心配がありませんでした。扉も、かんぬきも必要なく、だれとも同盟関係を結ぶ必要もありませんでした。そんなことしなくたって自分たちだけでやっていけると高をくくっていたのです。そういう自負心というか、プライドの結果、31節にあるように、彼らは孤立して住んでいたのです。
これはどこかの国に似ているんじゃないですか。この国もどちらかというとそういう傾向があります。確かに日本には同盟国があり孤立しているわけではありませんが、でも自分たちだけでやっていけるという勝手な思い込みがあるのではないでしょうか。誰の助けを受けなくても、自分の力でやっていけると。
それはクリスチャンも例外ではありません。自分は一人でやっていけるので別に教会に行く必要がないと思っている人が意外と多いです。信仰生活は一人でも守っていけるから大丈夫ですという思いがあるなら、それはこのケダルやハツォルと何ら変わりがありません。一人で聖書を読んで、一人賛美して、一人で礼拝できるから大丈夫です。時には家に人を招いて家庭集会をすることもできるし、メッセージだってインターネットでいくらでも聴くことができます。交わりだって教会に行かなくてもできるから大丈夫ですと言うなら、このケダル人やハツォル人と同じなのです。とんでもない勘違いをしていることになります。私たちは一人でなんて生きていくことなどできないからです。神はそのために教会を用意してくださいました。主にある兄弟姉妹が共に集まって共に礼拝し、共に生きるようにと。だから礼拝に来ると元気が出るんです。そして神様がどのようなお方なのかを本当の意味で知ることができて、その神によって力を与えられるのです。
今年の教会のテーマは、ともに生きる幸いです。「133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:1-3)とあるとおりです。
自分は一人でやっていけるとおごり高ぶるなら、ゲダルやハツォルのように、神のさばきを受けることになります。主はそういう人たちのところに攻め上れと、ネブカドネツァルに命じておられるように、やがて滅ぼされることになるのです。もうらくだ!なんて言えなくなります。
そしてこの預言の通り、B.C.599年にバビロンの王ネブカドネツァルがケダルを攻撃して、その天幕と家畜をすべて略奪しました。自分はどうなのかを吟味して、もしそのような思いがあるなら悔い改めて、神のみこころに歩ませていただこうではありませんか。
Ⅲ.エラムに対する主のことば(34-39)
最後に、エラムについて語られた主のことばを見て終わりたいと思います。34~39節をご覧ください。「49:34 ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった【主】のことば。49:35 万軍の【主】はこう言われる。「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。49:36 わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに吹きつけさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らす。エラムの散らされた者が入らない国はない。49:37 わたしは、エラムを敵の前に、そのいのちを狙う者たちの前にうろたえさせ、彼らの上にわざわいを、わたしの燃える怒りをその上に下す。──【主】のことば──わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす。49:38 わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。──【主】のことば──49:39 しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」」
ユダの王ゼデキヤの治世の初めとは、B.C.597年です。エラムとは、バビロンの東にあった国で、今日のイランのことです。地図をご覧ください。

(ラーンテック、「世界史探求」~初期のペルシアとメディア(前7世紀頃)~)
バビロンとペルシアの間にある地域です。ユダからはだいぶ離れたところに位置しています。そのエラムに対して主が言われたことはどんなことでしょうか。35節には、「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。」とあります。彼らの力の源は何でしたか。弓です。彼らは弓が得意だったのです。言うならば、これは軍事力ですね。それが彼らの力の源だったのです。彼らはそれを自慢していました。しかし主は、そんな彼らの力の源である弓を折ると言われたのです。もう頼りにならないようにすると。
それは私たちも同じです。もしあなたが神様以外ものを自慢しているなら、神様はそれをへし折られることもあります。神以外に誇るものがあるとしたら、それが何であれ折られるのです。使徒パウロはガラテヤ書6章14節で、私たちには私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはなりませんと言っています。もし十字架以外に誇るものがあるとしたら、神は時にそれをあなたから取り上げられることがあるということを覚えておかなければなりません。神の力によって私たちは砕かれ弱くされます。でもそれは一重に私たちが神を誇るようになるためです。
あなたが誇りにしているものは何ですか。あなたが自慢しているもの、あなたが絶対的な信頼を置いているもの、それは何でしょうか。私にはこれがある。あれがある。この資格がある。このキャリアがある。この仕事がある。健康がある。お金がある。家族がある。これらはすべて神の恵みです。それなのに、これらのものを神よりも誇ることがあるとしたら、神はそれを取られることがあるのです。でもその時はむしろ幸いです。なぜなら、神があなたの力となってくださるからです。
エラムの場合はどうでしょう。36節と37節をご覧ください。主は天の四隅から、四方の風をエラムに吹き付けさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らすと言われました。この「四方の風」とは、エラムに向かって攻めて来る敵のことですが、その結果、彼らはその地から散らされてしまうことになります。勿論、そこにはバビロンの王ネブカドネツァルもいました。彼はB.C.597年にバビロンはエラムを攻撃しました。そして最終的には37節にある通り、エラムは完全に絶ち滅ぼされてしまうことになるのです。主が語られたことは必ず実現します。自分を誇り、神以外のものに信頼を置くなら、あなたもエラムのような結果を招くことになることを覚えておかなければなりません。
しかし、エラムに対する預言はこれだけで終わっていません。39節をご覧ください。ここには、「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」とあります。これは、エラムに対する回復の預言です。エラムには、将来の回復の希望が語られているのです。これは終末時代に起こることですが、しかし、歴史上、それが既に成就していることを私たちは見ることができます。たとえば、使徒2章7~11節を開いてください。ここには、「2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」とあります。
これはペンテコステの日に、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々からエルサレム集まっていましたが、そのとき聖霊に満たされた弟子たちが、御霊が語らせてくださるままに、その人たちの国のことばで話し始めまると、それを聞いた人たちは驚いて、呆気にとられて言いました。彼らが自分たちの国のことばで話していたからです。そして、福音のことばを理解した彼らはイエス・キリスト信じて救われて行ったのです。9節を見ると、その中にこのエラム人がいたことがわかります。
「私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、」
彼らの完全な回復は終わりの日に成就しますが、このようにこの歴史においてすでに成就している部分もあるのです。
このように、神のさばきの宣告の中にも常に神のあわれみがあるのを見ることができます。46章からずっとさばきの宣告を聞き続けて、中には暗い気持ちになった人もおられるかもしれませんが、でも神はその都度その都度ちゃんと回復の希望を語り、救いの約束を与えておられたのです。ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる主は、その救いの御手を差し伸ばし続けておられるのです。決して背を向けて見捨てることはありません。勿論、どこまでも頑なな者に対しては妥協することはありませんが、でも同時に神様はあわれみ深い方であり、もしあなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、驚くべき恵みを注いでくださるのです。もうさばかれても致し方ない者に対して救いの御手を差し伸べてくださる。最後の最後まであきらめずに。そして神にしかできない救いの御業を成し遂げてくださるのです。
それは私たち日本人も同じです。自分たちは神様に頼らなくたってやっていけると豪語し、神に背を向け自分勝手に歩んでいるような者にも救いの御手が差し伸べられているのです。そうです、世の終わりにあっては間違いなく私たちはさばきに向かっていますが、そこにはちゃんとあわれみも備えられているのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
ですから、私たちはこの時代がどういう時代なのかを見極めなければなりません。そして神のさばきを宣告しなければなりませんが、同時に神のあわれみと神の救いも、それ以上に力強く高らかに宣べ伝えなければならないのです。私たちは悪い知らせだけでなく、福音の良い知らせを宣べ伝えるために召された者なのですから。この世の人たちは良い知らせを知りません。知られない神を拝んでいます。こうした人たちにイエス・キリストのみ救いの良い知らせを宣べ伝えなければならないのです。それが私たちがここに置かれている最大の理由であり、最大の使命です。
エレミヤもその使命を全うしました。どのような取り扱いを受けようと、どんなに迫害されようとも、彼は最後までその使命を忠実に果たしたのです。私たちもそうありたいですね。確かに今は恵みの時、今は救いの日です。ここにその救いがありますと。救い主イエス・キリストを信じるなら、どんな人でも救われますと。たとえあなたがダマスコであっても、あるいはゲダルやハツォルのような人であっても、エドムのような人であっても救われて、永遠のいのちという神の祝福を受けることができるのです。その日を待ち望みつつ、主はこの国も救ってくださると信じて祈り続けようではありませんか。

エドムについての預言 エレミヤ書49章7~22節

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聖書箇所:エレミヤ書49章7~22節(旧約P1384、エレミヤ書講解説教81回目)
タイトル:「エドムについての預言」
46章から諸国の民についての預言が語られています。これまでエジプト、ペリシテ、モアブ、アンモンに対する主のことばを学んできましたが、今日はエドムに対する主のことばです。
Ⅰ.神のさばきから免れることはできない(7-13)
まず、7~13節をご覧ください。7節には「エドムについて。万軍の【主】はこう言われる。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」とあります。
エドム人は、巻末の地図6「イスラエル王国とユダ王国」を見ていただくとわかりますが、死海の南東、モアブの南に住んでいました。彼らの先祖はヤコブ(イスラエル)の兄のエサウです。ですから、イスラエル人とは最も親しい関係にあった民族と言っても良いでしょう。彼らは文字通りイスラエル人(ヤコブ)とは兄弟だったのです。それなのに彼らは、歴史上、イスラエルと争いを繰り返し、ついにその名がイスラエルに敵対する異邦人諸国の象徴となりました(エゼキエル35:1-15)。そんなエドムについて、語られた主のことばがこれです。
「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」
「テマン」はその地図にボツラという地名が出てきますが、その南方約20キロメートルにある町です。創世記36章11節を見ると、テマンはエサウの孫の1人の名前として出ています。ヨブ記にはヨブの3人の友人が登場しますが、その1人がテマン人でした。何という人ですか?そうです、テマン人エリファズですね。彼はこのテマンの出身でした。まさにテマン人は知恵者として知られていたのです。そのテマンに対して主はこう仰せられました。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」どういうことでしょうか。そうした人間の知恵によっては神のさばきを免れることができないということです。どんなに知恵があっても、人間の知恵によっては神の怒りから救われることはできないのです。
8節をご覧ください。今度は「デダン」という町が出てきます。「デダンの住民よ、逃げよ。そこを離れよ。深く潜め。わたしが彼の上にエサウの災難を、彼を罰する時を、もたらすからだ。」
「デダン」は、エドムの南東、アラビア半島の北部にあった町です。テマンがエドムの北にある代表的な町なら、デダンは南にある代表的な町でした。今日のサウジアラビアではないかとも言われています。このデダンの住民に対しては何と言われていますか?デダンの住民に対しては、そこから離れるように警告されています。なぜなら、そこも神のさばきを受けることになるからです。このデダンはかつて商業都市として栄えた町でした。産物も豊富で、経済的に豊かな所でした。そこから離れるようにというのです。知恵で有名なテマンも、商業で有名なデダンも、神のさばきを逃れることはできないからです。いくら知恵があっても、いくら経済的に豊かであっても、そうした人間的なものによっては神の怒りから逃れることはできないのです。
9節には、その神のさばきの徹底さがぶどうの収穫にたとえられています。「ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろう。盗人が夜中に来るなら、彼らの気がすむまで荒らすだろう。」
ぶどうを収穫する者は、ぶどうの実を残すことはありません。取り残しがないように収穫するからです。主はそのようにエドムをさばかれるのです。また、夜中に来る盗人は気が済むまで奪っていきます。そのように主はエサウを裸にし、その隠れ場をあらわにするのです。
11節には「おまえのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生かし続ける。おまえのやもめたちやは、わたしに拠り頼まなければならない」とあります。
みなしごたちややもめたちは保護されなければならない対象ですが、そのみなしごややもめたちを見捨てよと言うのです。どうしてでしょうか。神の激しいさばきが臨むからです。ですから彼らにはそんな余裕さえないのです。
それゆえ、主はこう仰せられます。12節です。「見よ。その杯を飲むように定められていない者でも、それを必ず飲まなければならないのなら、おまえだけが罰を免れられるだろうか。罰を受けずにはすまされない。おまえは必ず飲まなければならない。」
「その杯」とは神の怒りの杯のことです。その杯を飲むように定められていない者とは、イスラエルの民とは何の関係もない民、すなわち、異邦人のことを指しています。そのような者でさえ神の怒りの杯を飲まなければならないとしたら、まして神の民イスラエルと兄弟であるエドム人が神のさばきを免れられることは決してありません。どうしてですか?彼らは神の祝福に与りながらそれを軽視し、神の祝福を求めた弟ヤコブに敵対したからです。エサウはいわゆる肉的な人でした。彼は双子の兄として長子の権利という神の祝福が与えられていたにもかかわらず、一杯のレンズ豆のスープと引き換えにその権利を弟ヤコブに譲ってしまいました。そんなものはいらないと。それよりも美味しいシチューが食べたい。彼にとって霊的祝福はどうでも良いことだったのです。彼の関心はただ食べたり、飲んだりすることだけ、この世のことだけでした。彼は神の祝福を全く価値のないものとみなしていたのです。そういうエサウの性質を受け継いだのがエドム人です。ですから彼らが神のさばきを逃れることは決してないのです。必ず神の怒りの杯を飲まなければなりません。
13節をご覧ください。ここでは、それは必ず成就するということが言われています。お読みします。「まことに、わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。必ずボツラは恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となる。そのすべての町は、永遠の廃墟となる。」
「わたしは自分にかけて誓う」とは、100%それを成し遂げるという意味です。「ボツラ」は先ほどの地図にもありますが、エドムの首都でした。そこは今「ペトラ」と呼ばれている要塞都市で、世界遺産として有名な場所です。皆さんの中にはご覧になれられた方もおられるかもしれません。1989年の映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなった町でもあります。そこはかつて繁栄を極めた町でした。なぜなら、そこは16節に「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ」とあるように、自然の要塞となっていたからです。どんな敵が攻めて来ても攻め入ることができない難攻不落の町だったのです。つまり、軍事的にも優れていたということです。彼らはそのことも誇っていました。さらに、後で写真を見ていただくとわかりますが、建築物のほとんどは岩山を削って造られたものです。そこに独創的な貯水システムも造られました。つまり、彼らは建築技術も優れていたということです。しかし、そんなボツラも永遠の廃墟となると、主は言われました。
不思議なことですが、今ボツラ(ぺトラ)は文字通り廃墟となっています。そこにはだれも住んでいません。かつては交易の中心地として、数万人が暮らしていましたが、今は人っ子ひとりいません。それゆえ、謎の古代都市と呼ばれているんです。ボツラはどうして没落したのか。13節にある通りです。ボツラは必ず恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となると。そのすべての町は、永遠の廃墟となるのです。そのことばの通りになったのです。
誰もこの神のさばきから免れることはできません。テマンのようにどんなに知恵があっても、デダンのようにどんなに経済的に豊かであっても、ボツラのように軍事的に優れ、高度な建築技術、科学技術を持っていたとしても、この神の怒りから逃れることはできないのです。いったいどうしたら良いのでしょうか。
そのためには、本当の岩であられる主に身を避けなければなりません。詩篇2篇12節にこうあります。「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。」
「身を避ける」とは、「拠り頼む」とか、「信頼する」ということです。どこに身を避けるのか、だれのもとに身を避けるのかが重要です。エドム人は知恵や経済、軍事力、科学技術に身を避けましたが、そのようなものは神の怒りから人を救うことはできませんでした。神の怒りから人を救うことができるのは主なる神ご自身だけであって、この主に身を避けなければなりません。主に信頼しなければ救われないのです。
これが聖書全体を貫いているテーマです。主イエスを信じるなら救われるとそういうことです。なぜ主イエスを信じるなら救われるのでしょうか。なぜ主イエスに身を避けるなら救われるのでしょうか。なぜなら、主イエスこそ私たちが神の怒りから救われるために神が与えてくださった方法だったからです。パウロはこのことをこう述べています。ローマ5章9節です。
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」
アーメン!「ですから」とは、その前に語られたことを受けてのことですが、その前には「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(5:8)とあります。「ですから」なのです。キリストは私たちがまだ罪人であったとき、私たちの罪のために死んでくださったことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださいました。自分の敵のために死ぬ人がいますか。いません。自分の愛する人のためなら死ぬ人はいるかもしれませんが、自分に背き自己中心に歩んでいる人のために死ぬ人なんてほとんどいないでしょう。しかし神は、ご自身に背を向け自己中心に歩んでいた私たちのために、聖書ではこれを罪と言いますが、そんな罪人のために死んでくださることによって、ご自身の愛を明らかにしてくださったのです。それが神のひとり子イエス・キリストの十字架でした。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれることによって、その罪を取り除いてくださったのです。「ですから」です。ですから、今すでにこのキリストの血によって義と認められた私たちが、神の怒りから救われるのはなおさらのことなのです。だってそのためにそれだけ大きな神の愛が注がれたのですから。救われないわけがありません。もしあなたがこのイエスをあなたの罪からの救い主として信じるならあなたの罪は赦され、神に義と認められ、神の怒りから救われるのです。イスラエルがエジプトから救われたように。彼らはどのようにエジプトから救われましたか?自分の家の鴨居と門柱に、小羊の血を塗ることによってです。それを見た神はご自身の怒りを過越していかれました。それと同じです。イエス・キリストこそその過越しの小羊なのです。もしあなたの心にこのキリストの十字架の血を塗るなら、神の怒りはあなたを過越して行くのです。テマンの知恵も、デダンの経済も、ボツラの軍事力や建築技術も、この世のいかなるものもあなたを神のさばきから救うことはできませんが、神が用意された神の救いイエス・キリストを受け入れるなら、この神の怒りから救われることができるのです。
毎週火曜日の夜に、家内は以前小学校で英語を教えていた時に教頭をされておられた方に英会話を教えていますが、夏休みに入る最後のクラスが始まる1時間くらい前に電話があり、その日は台風で大雨警報も発令されているのでお休みしますとのことでした。「はい、わかりました」と電話を切ると、彼女からすぐにまた電話がありました。「パット先生はおられますか」と。それで家内に電話を代わるといきなり、「パット先生、『神は愛なり』ってどういう意味ですか」と聞いて来られました。それで家内は、「それは、神様は愛です、という意味です」と答えました。すごいなあ、ズバリそのままです。神は愛です。しかし、大切なことだと思ったのか「ちょっと待ってください。家の旦那さんに代わりますから」と言って、すぐに私に代わりました。私たちは驚いて顔を見合わせました。なぜなら、その日の朝二人でデイボーションをしてお祈りをしたのですが、「今晩は池田さんと英語のクラスがありますが、彼女の心を開いて良い証ができるように導いてください」と祈ったからです。これまでずっと良い関係がありましたがなかなか証することができなかったので、少しでも証ができるように、そういう機会を与えてくださいと祈ったら、何と向こうから「神は愛なり」ってどういう意味ですかと聞いてきたのです。すごいですね、神様は。私たちは彼女の心を動かしたり、開いたりすることはできませんが、神様にはできます。神様は彼女の心を開いてくださいました。
それでお話をお聞きしたところ、数年前にお亡くなりになった彼女の旦那さんの親友が山形に住んでおられ、最近その方から97歳で亡くなられたその方のお母様が毛筆で書かれた短冊をいただいたそうです。そこに書いてあったのがこのことばだったのです。「神は愛なり」。聞くと、そのお母さんはクリスチャンだったそうです。こういうこともあるんだなぁと感心しながら、私はできるだけわかりやすくお話したつもりですが、イエス様を信じていない方に神の愛をお話するのはほんとうに難しいなぁと改めて感じました。なぜなら、その愛は私たちには持ち合わせていないものだからです。
電話を切った後で、もっとわかりやすく伝える方法はないかと考えているうちに、そうだ、三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」を読んだらもう少しわかるのではないかと思い、それを購入して郵送しました。9月の夏休み明けまでお読みください。その時に感想を聞かせてくださいと。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
この神の愛を信じるなら、あなたも神のさばきから救われます。あなたが神のさばきから逃れる唯一の道は、あなたのために十字架で死なれた神の御子を信じる以外にはないのです。たとえあなたがエドムのようにイスラエルと兄弟であっても、たとえあなたがクリスチャンホームに生まれ育ったとしても、たとえあなたにクリスチャンの友人がいたとしても、そのようなことはあなたが救われることとは何の関係もありません。あなたがこの神のさばきから救われるためには、あなたのために十字架で死んでくださったイエスを救い主と信じなければならないのです。主イエスを信じるなら、主イエスに身を避けるなら、あなたもこの神のさばきから逃れることができます。
Ⅱ.エドムの高慢を砕かれる主(14-18)
いったいエドムの問題は何だったのでしょうか。14~18節をご覧ください。「49:14 私は【主】から知らせを聞いた。「使者が国々に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに向けて立ち上がれ。』49:15 見よ。わたしがおまえを国々の中の小さい者、人に蔑まれる者としたからだ。49:16 岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ。おまえの脅かしと高慢は、おまえ自身を欺いている。鷲のように巣を高くしても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──【主】のことば。」49:17 エドムは廃墟となり、そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。49:18 ソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのように──【主】は言われる──そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」
主は国々の間に使者を送り、エドムとの戦いに立ち上がるようにと命じておられます。なぜなら、主が彼らを砕かれ、国々の中にあって小さい者、人に蔑まれる者とするからです。それは彼らが高ぶっていたからです。16節には「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者」とありますが、これは先ほど申し上げたように、彼らが要塞を誇っていたことを表しています。写真をご覧ください。

引用:ナショナルジオグラフィック「謎の古代都市ペトラ、砂漠の世界遺産」
これは最近のペトラ(ボツラ)の写真です。写真の中にいる人たちはそこに住んでいる人ではありません。観光客です。見ておわかりの通り、そこは岩だらけです。そのように自然の要塞となっているため、エドム人はここは難攻不落だと誇っていたのです。これは前回のアンモン人と同じですね。彼らは谷を誇っていましたが、エドム人は岩を誇っていました。彼らは自分たちの知恵、経済力、軍事力、要塞を誇り、こうしたものを鼻にかけていたのです。

 

(引用:世界遺産マニア、「ヨルダンの世界遺産」)
この写真などもきれいですね。これも人が意図的に作ったものではなく、水の侵食により自然に形成されたものだそうです。この先に見えてくるのが、アル・ハズネと呼ばれる宝物庫で、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台となった所です。いつか行ってみたいですね。
しかし主は、そんなエドム人の高慢を砕かれます。16節にあるように、彼らが鷲のようにどんなに巣を高くしても、そこから彼らを引きずり降ろされるのです。そこはかつてソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのようになります。ソドムとゴモラは、エドムの北にある町です。かつてアブラハムとロトの時代にソドムとゴモラが滅ぼされたように、エドムも滅ぼされることになるのです。ソドムとゴモラはどのように滅びましたか。完全に滅びました。そのようにエドムも完全に滅ぼされるのです。18節の最後のところに、「そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない」とは、そのことを表しています。完全に廃墟となるのです。
特筆すべきことは、エドムには将来の回復の預言が与えられていないことです。そうです、この預言の通り、エドムは完全に滅亡することになります。この後でバビロンによって滅ぼされると、紀元前4世紀に砂漠の民であるナバデア人の侵略を受けることになります。それで彼らはユダの南方のネゲブに逃れるのですが、そこでユダヤ人の中に組み込まれていきました。そしてその地で彼らはイドマヤ人と呼ばれるようになるのでが、イエス様が生まれた頃、ローマ帝国の支持を取り付けてユダヤ、サマリア、ガリラヤを治めたのがヘロデ大王です(前37-4年在位)。マタイ2章1~22節には、イエス様が生まれた時、東方の博士たちから、ユダヤのベツレヘムにユダヤ人の王が生まれたと聞いて動揺し、その周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたという話は有名です。(マタイ2:1-22)。しかし、A.D70年にローマがエルサレムを滅ぼしてからは、各地に散らされて消滅していきました。彼らが一つの民として存在することはなくなったのです。ここに預言されてある通りです。
そういう意味では、高慢の罪がどれほど恐ろしいものであるかがわかるかと思います。私たちも自分の中にエドム人のような高慢がないかどうか吟味しなければなりません。私たちの中には好色とか、淫乱といった罪とは無縁だという人がいるかもしれませんが、でも高慢の罪と無縁だという人がいるでしょうか。エドム人の高慢は対岸の火事ではありません。そのように者は鷲のように巣を高くしても、引きずり下ろされることになるということを覚えておかなければなりません。
Ⅲ.そこに選ばれた人を置く(19-22)
最後に、そのために神は選ばれた人を置かれるということを見て終わりたいと思います。19~22節をご覧ください。19節をお読みします。「49:19 「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか。」
このエドム人の滅亡についての言及は、それだけでは終わっていません。ここに、それがどのようにして成されるのかも預言されています。それは、獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように一瞬にしてそこから追い出されることになります。ヨルダンの密林にはかつて獅子、ライオンが住んでいました。ライオンが襲って来て牧場に上って来るように、それは一瞬にして起こるのです。この獅子は何を表しているのかというと、バビロンの王ネブカドネツァルです。ネブカドネツァル王率いるバビロン軍が獅子のようにエドムに襲い掛かり、彼をそこから追い出すことになるのです。
だれがそれをなさるんですか。それをなさるのは主です。ここには「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。」とあるとおりです。第三版では「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。」と訳しています。「わたし」ということばを繰り返してそのことを強調しているのです。そのために主は選ばれた人をそこに置かれるのです。それは誰ですか?そうです、ネブカドネツァルです。神はご自身の怒りの器として、エドム人をさばく道具として彼を選び、そこに置かれるのです。彼は異邦人の王ですが、神はそのような未信者でもご自身の目的のために用いられるのです。たとえ未信者であろうとも、そのために神は選びそこに置かれるのです。
同様に神はあなたを打つために、あなたを懲らしめてもっと謙遜になるために、あなたを練りきよめてイエス様のような人に造り上げるために、選ばれた人を置かれるのです。それはあなたのノンクリスチャンの伴侶かもしれません。あるいは、ノンクリスチャンの両親であったり、職場の上司や同僚、部下かもしれません。あなたの親しい友人かもしれません。それがだれであっても、神はあなたを打つために、あなたのそばにそのような人を置いておられるのです。それが神によって選ばれた人です。
ダビデのために神はサウルを選ばれ、そこに置かれました。ダビデがあんなに偉大な王になれたのは、サウルがいたからです。サウルがいなかったらあんなに偉大な王にはなれなかったでしょう。だからそこから逃げないでください。あなたにも神が選ばれた人がちゃんといますから。その人を憎んではいけません。ダビデはサウロをどのように見ていましたか?ダビデはサウロを、神が選ばれた器として認めていました。だからダビデは何度もサウルを討つチャンスがあったのに、神が油注がれた人に手を下してはならないと言って、決して自分から手をくだそうとはしなかったのです。それはダビデがそのために神が選ばれ、そこに置かれたと認めていたからです。
それはあなたにも言えることです。嫌だなぁ、辛いなぁ、苦しいなぁと思うことがあっても、それはあなたに必要な人として神が選ばれ、神がそこに置いておられるのです。こんな人さえいなければ!と言わないでください。その人はあなたに必要な人なのです。必要でなかったらあなたの前に置かれることはなさいません。あなたから取り去られるでしょう。あの人がいるから、この人がいるから、私は教会に行きたくないんですというのは、とんでもない誤解です。神が置いてくださったのです。私たちが選ぶのではありません。神が選んでくださり、神が置いておられるのです。
それは人だけではありません。あなたの人生に起こる災難と思えるようなあらゆる出来事にも言えることです。どうしてこんなことが起こるのか、なぜこんな病気になってしまったのか。できればこの苦しみの杯を取り除いてほしい。でもそれは神が選んでそこに置いてくださったのです。あなたの成長のために。あなたがもっと深く神を知るために。あなたがへりくだって神を求めるために。詩篇119篇71節にはこうあります。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
「苦しみ」は、できれば避けて通りたいものです。しかし、その苦しみを通して今まで見るとこができなかったものを見ることができるなら、ほんとうの意味で神のおきて、神のみこころ、神ご自身を知ることができるなら、それはすばらしいことではないでしょうか。そのために神はネブカドネツァルを選び、あなたのそばに置かれたのです。心配しないでください。神様は決して耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます(Ⅰコリント10:13)。あなたにとって必要なのは、それがどのような人、どのようなことであっても、神様はあなたを愛し、あなたのために働いておられると信じ、それを主のみこころとして受け止めることです。
20~22節をご覧ください。「49:20 それゆえ、聞け。エドムに対して立てられた【主】の計画を、テマンの住民に対して練られた策を。必ず、彼らは、群れの中の小さいものまで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場は彼らのことで恐れ惑う。49:21 彼らの倒れる音で地は震え、その悲鳴は葦の海でも聞こえる。49:22 見よ。彼は鷲のように舞い上がっては襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げる。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになる。」
それゆえ、私たちも聞かなければなりません。エドムに対して立てられた主の計画を。バビロンの王ネブカドネツァルが鷲のように舞い上がって襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げることを。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになります。私たちもエドムのようにならないように自分の知恵や経済、力を誇るのではなく、へりくだって神を求め、神に拠り頼む者でありたいと思います。あなたに対して立てられた主の計画を、はっきりと知ることができますように。

モアブについての預言 エレミヤ書48章1~47節

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2025年7月6日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書48章1~47節(旧約P1379、エレミヤ書講解説教79回目)
タイトル:「モアブについての預言」
エレミヤ書48章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はモアブについての預言です。少し長い箇所ですが、全体から学びたいと思います。
Ⅰ.モアブの高ぶり(1-25)
まず、1~25節までをご覧ください。6節までをお読みします。「48:1 モアブについて。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。その砦は辱められ、打ちのめされた。48:2 もはやモアブの誉れはない。ヘシュボンは、これに悪事を企んでいる。『行って、あの国民を絶ち滅ぼし、無き者にしよう』と。マデメンよ、おまえも黙らされる。剣がおまえの後を追っている。48:3 ホロナイムから叫び声がする。『暴行だ。大いなる破滅だ』と。48:4 モアブは打ち破られる。その幼き者たちは叫び声をあげる。48:5 まことに、ルヒテの坂は嘆きの中にあり、彼らは泣きながら上る。ホロナイムの下り坂では、痛々しい破滅の叫びが聞こえる。48:6 逃げて、自分自身を救え。荒野の中の灌木のようになれ。」
まず、モアブ人について確認しておきましょう。地図をご覧ください。

 

 

 


(引用:新生宣教団、「聖書『ルツ記』を読み解く」)
モアブは死海の東側、今日のヨルダンの南側に位置しています。創世記を見るとモアブ人のルーツが記されてあります。それはアブラハムの甥のロトです。ロトは、アブラハムと一緒に父の家、カルデヤのウルを離れ、カナンにやって来ました。すると主がアブラハムもロトも祝福されたので家畜が増えると、互いのしもべの間で争いが起こりました。家族が争うのはよくないと考えたアブラハムは、ロトに好きな場所を選んでそこに住むように言います。それでロトは東の低地を選び、そこにあったソドムという町に定住したのですが、彼らの罪がきわめて重かったため、主はソドムを火と硫黄の雨によって滅ぼされました。しかしアブラハムの必死のとりなしによってロトはその中から救い出されました。そのロトと二人の娘によって生まれたのがモアブとアンモンです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。それがモアブ人とアンモン人のルーツです。ですから、モアブはイスラエルとは遠い親戚なのです。彼らはイスラエルと同じように祝福を受け継ぐべきでしたが、自らその祝福から離れて行きました。そして、たびたびイスラエルに侵入しては彼らに敵対したのです。
たとえば民数記22章には、約束の地を目指していたイスラエルがモアブに宿営した時、モアブの王であったバラクはイスラエルを恐れ、ベオルの子バラムを雇ってイスラエルを呪おうとしたとあります。その結果、モアブ人は主の集会に加わることができなくなってしまいました。申命記23章23節に「アンモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して【主】の集会に加わることはできない。」とある通りです。
そうかと思えば、皆さんもよくご存知のルツはモアブ人でした。彼女は姑ナオミが信じていたイスラエルの神、主を信じて、夫が亡くなってからもナオミに仕え、彼女がベツレヘムに帰る時には一緒にベツレヘムへ行きました。彼女はそこでボアズと結婚するわけですが、彼との間に生まれたのがあのダビデ王の祖父のオベデでした。ということは、ダビデにも、その子孫から生まれる救い主イエスにも、わずかながらこのモアブ人の血が流れていたことになります。ですから、モアブ人にもルツのように真の神の民となる人がわずかでもいたことは事実ですが、ここでは彼らに対してさばきが預言されています。
1節をご覧ください。そのモアブ人について、イスラエルの神、万軍の主はこう言われました。「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。」
「ネボ」とか「キルヤタイム」とは、モアブの町々のことです。元々はイスラエル12部族の1つであるルベン族に与えられた町でした(民数記32:37~38)。しかし、後にモアブ人がそこを占領したため、モアブの町となったのです。つまり、彼らは神の民イスラエルに敵対したのです。そんなネボやキルヤタイムは辱められ、攻め取られ、打ちのめされることになります。さらに、「ヘシュボン」、「マデメン」、「ホロナイム」、「ルヒデ」といった町々も滅ぼされることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。
7節をご覧ください。ここには「おまえは自分が作ったものと財宝に拠り頼んだので、おまえも捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」とあります。彼らは、自分たちが作ったものと財宝に拠り頼みました。現代もそうですが、ある程度貯金や財産があると安心するように、彼らは豊かな経済力を、安定と繁栄の保証と考えたのです。ケモシュとは偶像神ですが、快楽と豊穣の神です。そのため彼らはケモシュに仕えたのです。しかし、そのようなものが恒久的な安定をもたらしてくれるでしょうか。そのような国はやがて滅ぼされることになります。荒らす者が侵略して捕らえられ、偶像とともに捕囚となって出て行くことになのです。
この「荒らす者」とは誰のことなのかはっきりしたことはわかりませんが、おそらくバビロンのことでしょう。というのは、バビロンはB.C.586年にエルサレムを破壊すると、その5年後に今度はモアブを攻撃することになるからです。バビロンがこれらの町に入って来て彼らを捕らえ、捕囚の地へと引き連れて行くようになるのです。町は一つも逃れることはできません。谷は滅び失せ、平地は根絶やしにされるのです。いったいどうすれば良いのでしょうか。
だから9節でこのように言われているのです。「モアブに翼を与えて、飛び去らせよ。その町々は住む者もなくて荒れ果てる。」
このような神のさばきのもとでは、そこから逃れるしかありません。他に救われる道はないからです。それほど激しいさばきが彼らの上に下ることになるのです。
その激しさは、10節でこのように言われているほどです。「主のみわざおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。」
どういうことですか。それは徹底的になされるということです。これはモアブを攻撃するバビロンに対する神からの警告です。攻撃の手を緩めてはいけないと。それは主の御業であり、主がそのようにされるのだから、徹底的にそれを成し遂げなければならないと。それをおろそかにしてはいけません。それをおろそかにする者は、のろわれることになります。そんな神のさばきから逃れることができる者がいるでしょうか。いません。だから、モアブに翼を与えて、飛び去らせるようにせよというのです。
11~13節をご覧ください。「48:11 モアブは若いときから安らかであった。彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。48:12 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」
どういうことでしょうか。彼らは自分たちの安定した状態を誇っていました。自分たちは他国の侵略によって捕囚として連れて行かれたことは一度もないと。確かにモアブの歴史を見ると、彼らは安定していました。他の国によって侵略されたことは、これまで一度もありませんでした。11節の「モアブは若い時から安らかであった。」というのは、そのことを示しています。
エレミヤはそれをぶどう酒作りにたとえています。それが11節で言われていることです。
「彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。」
ぶどう酒を同じ桶で保存すれば、酒かすによって味がよくなりますが、違う桶に移せば味が変わってしまいます。彼らは他の桶に移されたことがないので、醸造された上質のぶどう酒のようだと誇っていたのです。彼らは捕囚という厳しい現実を経験したことがありませんでした。しかし主は、そんな彼らのうぬぼれを砕かれると宣言されました。12節と13節です。
「それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」
その日モアブ人たちは、ケモシュ(偶像神)に信頼したことを恥じるようになります。それは、イスラエルの民がベテルに置かれた金の子牛の像に信頼を置いたことを恥じたのと同じです。国が経済的に豊かになり、政治的に安定していることも重要ですが、そうした豊かさによっていつしか高慢になり、霊的堕落に陥ることがあるということを肝に銘じなければなりません。
これは、現代の私たち日本人にも言えることではないでしょうか。戦後80年、日本は平和な時代を過ごしてきました。経済的な発展も遂げてきました。生活が苦しいとは言っても食べていけないわけではありません。健康で働くことさえできれば何とか生きていくことはできます。たとえそうでなくても、国がある程度の生活を保障してくれます。確かに尖閣諸島や青島の領有権を巡って近隣諸国と軍事衝突が起こる可能性もありますが、そうした危機感を持っている人は稀です。自分たちは豊かになった。戦争もない。ある程度の蓄えで何とか生きていけると思っています。神様、仏様に頼らなくてもケモシュがいるから大丈夫だと、平々凡々と生きているわけです。神様がいなければ生きていけないといった必死さはありません。まるでモアブのようです。
ヨハネの黙示録に、主がアジアにある七つの教会に書き送った手紙がありますが、その中でラオディキアの教会に宛てて次のように言われました。
 「3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
ラオディキアの教会の問題は何でしたか。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っていましたが、自分の本当の姿が見えていませんでした。本当はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていませんでした。そのため彼らは、熱くもなく、冷たくもありませんでした。そんな彼らに主が言われたことはこうでした。熱いか、冷たいかであってほしい。そしてそのために、自分の目が見えるように目に塗る目薬を買いなさい、と言われたのです。黙示録3章20節のみことばは、そのような背景で語られたことばでした。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
主はそんなあなたの心のドアを叩いておられます。その音があなたに聞こえるでしょうか。聞こえたらドアを開けてください。そうすれば主はあなたの心の中に入ってあなたとともに食事をし、あなたも主とともに食事をするようになります。それが本当の幸いです。そのためには、へりくだって主を求めなければなりません。私たちが強くなったり高くなったりするときは、弱くなり低くなる知恵を学ぶ必要があるのです。
尊敬するある牧師がこう言われました。「成熟したクリスチャンとは、主がいなければどうすることもできないクリスチャンです」
皆さん、これが主に信頼するということです。クリスチャンは人の目には派手でもなく、見えるところにおいては弱々しく映るかもしれませんが、神さまの目では最も安定した人です。なぜなら、万軍の主が共におられるからです。そのためには、私たちの心の目が開かれなければなりません。そして、自分はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることに気付いたら、熱心に悔い改めなければならないのです。主がいなければどうすることもできませんと、心から主に拠り頼まなければなりません。それが成熟したクリスチャンなのです。
Ⅱ.モアブのために泣かれた主(26-45)
次に、26~45節をご覧ください。30節までをお読みします。「48:26 彼を酔わせよ。【主】に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。48:27 イスラエルは、おまえにとって笑いものではなかったのか。それとも、おまえが彼のことを語るたびに彼に向かって頭を振っていたのは、彼が盗人の間に見つけられたためか。48:28 モアブの住民よ。町を見捨てて岩間に住め。穴の入り口のそばに巣を作る鳩のようになれ。48:29 われわれはモアブの高ぶりを、──彼は実に高ぶる者──その傲慢、その高ぶりを、その誇り、その慢心を聞いた。48:30 わたしは彼の不遜さを知っている。──【主】のことば──その自慢話は正しくない。その行いも正しくない。」
すでに見たように、モアブが滅ぼされた最大の理由は、彼らが高ぶったからです。26節には、「彼に酔わせよ。主に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。」とあります。27節にあるように彼らは、先に滅ぼされたイスラエルを笑いものにしていました。他の国の悲劇を知ることは、自らの国のあり方を学ぶチャンスだったのに、モアブはそこから何も学ぶことをしなかったばかりか、ユダを笑いものにしたのです。
主はそんなモアブの高ぶりを見抜かれ、その高慢さを指摘されました。「わたしは彼の不遜さを知っている。」と。自分を正しいとする態度は、自分に足りないことがあっても、その足りないところを見えなくしてしまいます。結果、何も学ぶことができません。ですから私たちはいつも謙虚になって、自分の足りなさを認め、いつも十字架の恵みに拠りすがらなければなりません。また、自分でできるようなことであっても神の助けを求め、いつも謙遜な態度で神に拠り頼むべきです。さらに隣人に対して蔑(さげす)むようなことをせず、逆に仕えることによって、神の愛とあわれみを示していくべきです。それなのにモアブは、主に対して高ぶりました。それゆえ、主はモアブの高ぶりを砕かれるのです。バビロンという国を用いて、徹底的に滅ぼされます。
ところが31節を見ると、不思議なことが書かれてあります。そのモアブのために、主は泣き叫ぶ、とあるのです。「それゆえ、わたしはモアブのために泣き叫び、モアブ全体のために叫ぶ。人々はキル・ヘレスの人々のために嘆く。」
どういうことでしょうか。そんなモアブなど滅ぼされて当然なのに、主はそんな彼らのために泣いておられる。モアブが滅ぼされることを悲しんでおられるのです。それがぶどうの木のたとえで表わされていることです。32~33節をご覧ください。
「48:32 シブマのぶどうの木よ。わたしはヤゼルの涙にまさり、おまえのために泣く。おまえのつるは伸びて海を越えた。ヤゼルの海に達した。そして、おまえの夏の果物とぶどうの収穫を、荒らす者が襲った。48:33 モアブの果樹園から、その地から、喜びと楽しみが取り去られる。わたしは石がめから酒を絶えさせた。喜びの声をあげてぶどうを踏む者もなく、ぶどう踏みの喜びの声は、もはや喜びの声ではない。」
シブマとヤゼルは、ぶどうの栽培で有名なモアブの場所です。そのシブマとヤゼルが涙に濡れるのです。そのぶどうの枝は死海を越え、ヤゼルのほとりにまで達しました。それなのに、荒らす者がやって来て、ぶどうの収穫を略奪するからです。人々に喜びをもたらすはずのぶどうの収穫が無くなってしまうということです。もはや彼らは喜びの声をあげることができません。そこにあるのはぶどう踏みの声ではなく、悲とみの嘆きの声です。主はそのことを嘆いておられるのです。36節には、「わたしの心は、モアブのために笛のように鳴る」とあります。主は笛が鳴るようにモアブのために嘆かれるのです。なぜでしょうか。
神は、ひとりも滅びることを願っておられないからです。たとえ傲慢で、高ぶっていたモアブでさえ、彼らが悔い改めて救われることを願っておられたからです。これが主の思い、主の心です。
でも私たちは違うでしょう。たとえば、もしこれまであなたに嫌な思いをさせてきた、この人のせいで私は大変な思いをしてきた、あの人のせいで私は本当に苦しんできたという人が辛い思いをしていたら気持ちいい。それこそスカッと爽やかコカ・コーラです。それが人間の性というものです。でも神様はそのような方ではありません。神様はそれがたとえその人の自業自得でしたことであってもその不幸を悲しまれ、涙を流されるのです。「わたしはわたしの涙であなたを潤す」とある通りです。
このモアブという民族はイスラエルと遠い親戚であったことはお話した通りですが、その中でも特にモアブ人ルツがボアズと結婚したことによってダビデの祖父のオベデが生まれたことは特筆すべき点です。なぜなら、ダビデにもこのモアブ人の血が流れていたことになるからです。そして、それはその子孫である救い主イエス・キリストの中にも、このモアブ人の血がわずかばかり流れていたことになるのです。そうしたモアブ人が滅びることを、神はとても悲しまれたのです。よく「断腸の思い」ということばがありますが、断腸の思いとは、腸がちぎれるほど、悲しくつらい思いのことです。まさに神は滅んでいく人間の姿を、断腸の思いで見ておられるのです。腸がずたずたにちぎれるような悲しい思いで見ておられる。
あなたには、この神の思いが届いていますか。その目の涙が見えるでしょうか。主はモアブだけでなく、あなたのためにも泣いておられます。あなたが神に背いて苦しみの中にあるとき、病気や人間関係で疲れ果て苦しんでいるとき、主も泣いておられるのです。そのために、十字架で死んでくださいました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
あなたは、それほどまでに愛されているのです。であれば、あなたは、あなたをこれほどまでに愛しておられる主のもとに立ち返り、そこで主の慰めと励まし、癒しを回復と受けるべきではないでしょうか。
Ⅲ.モアブの回復(40-47)
最後に、40~47節を見て終わりたいと思います。ここでは神によってさばかれるモアブの嘆きが、3つのたとえによって表現されています。まず、鷲のたとえです。40~42節をご覧ください。「48:40 まことに、【主】はこう言われる。「見よ。敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げる。48:41 町々は攻め取られ、要害は取られる。その日、モアブの勇士の心は、産みの苦しみにある女の心のようになる。48:42 モアブは滅ぼし尽くされて、民でなくなる。【主】に対して高ぶったからだ。」
敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げます。この敵とはバビロンのことです。バビロンが鷲のようにモアブに襲いかかるので、モアブは滅ぼし尽くされることになります。
二つ目のたとえは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいによるさばきです。43節と44節です。「48:43 モアブの住民よ、おまえを恐怖と落とし穴と罠が襲う。─主のことば─48:44 その恐怖から逃げる者は穴に落ち、穴から這い上る者は罠に捕らえられる。わたしがモアブに彼らの刑罰の年を来させるからだ。─主のことば─」
モアブに襲うのは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいです。恐怖から逃れた者は落とし穴に落ち、穴から這い上がる者は罠に捕らえられます。どうやってもこのさばきから逃れることはできません。モアブは完全に滅びることになるのです。
そしてもう一つは、ヘシュボンの詩です。45~46節です。「48:45 ヘシュボンの陰には、逃れる者たちが力尽きて立ち止まる。火がヘシュボンから、炎がシホンのうちから出るからだ。それは、モアブのこめかみと、騒がしい子どもの頭の頂を焼く。48:46 ああ、モアブ。ケモシュの民は滅びる。おまえの息子は捕らわれの身となり、娘は捕虜になって連れ去られるからだ。」
これは民数記21章29節でも語られたことですが、ここでもう一度引用されています。それは、モアブに下る神のさばきが完全であることを示すためです。そして、この預言は東の方からアラビア人たちが攻めて来た時に成就することになります。エゼキエル25章8~11にあるとおりです。
「25:8 【神】である主はこう言われる。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言った。25:9 それゆえ、わたしはモアブの山地の町々、その国の誉れであるベテ・ハ・エシモテ、バアル・メオン、キルヤタイムの町々をことごとく開け放ち、25:10 アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。25:11 わたしがモアブにさばきを下すとき、彼らは、わたしが【主】であることを知る。」アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。」
これはモアブ人に対して語られていることです。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言ったので、主はこのモアブとセイルをアンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間で記憶されないようにする、と言われたのです。モアブに対する神の預言は、完全に成就することになります。
しかし47節を見ると、彼らに対する預言はこれで終わっていないことがわかります。その続きがあります。それは、主はこのモアブの民を回復するという宣言です。ご一緒に読みましょう。「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。─主のことば。」
モアブに対するさばきと回復のメッセージは、結局、ユダの民に間接的な慰めをもたらしました。神が異邦人のモアブを捕囚から解放されるなら、自分たちも必ず回復することになるからです。これは慰めではないでしょうか。主はあなたをご自身の救いに招いてくださいました。その神の賜物と召命は変わることがありません。どんなことがあっても、あなたは必ず回復することになるのです。一時的に苦難の中に置かれることがあっても、やがて必ずそこから回復する時がやって来るのです。ここに真の希望があります。これが神の計画なのです。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)
ですから、もしあなたが今困難と苦しみの中にいるなら、落胆せずこの希望を見上げてください。あなたは必ず回復するのです。だからどんなことがあっても、どんな状況に陥ってもあきらめないでください。神から離れている自分、罪を悔い改めて、神に立ち返ってください。そして神とともに歩ませていただこうではありませんか。それが私たちにとっての幸いの道、主があなたに願っておられることなのです。

士師記18章

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士師記18章からを学びます。

 Ⅰ.ダン部族の偵察隊(1-10)

 1~10節をご覧ください。まず6節までをお読みします。「18:1 そのころ、イスラエルには王がいなかった。ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった。18:2 そこでダン族は、彼らの諸氏族全体の中から五人の者を、ツォルアとエシュタオルから勇士たちを派遣し、土地を偵察して調べることにした。彼らは五人に言った。「行って、あの地を調べなさい。」五人はエフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこで一夜を明かした。18:3 ミカの家のそばに来たとき、彼らはあのレビ人の若者の声に気づいた。そこで、彼らはそこに立ち寄り、彼に言った。「だれがあなたをここに連れて来たのですか。ここで何をしているのですか。ここに何の用事があるのですか。」18:4 彼は、ミカがこれこれのことをして雇ってくれたので、ミカの祭司になったのだ、と言った。18:5 彼らは言った。「どうか神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」18:6 その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、【主】がお認めになっています。」」

1節に再び、「そのころ、イスラエルには王がいなかった」とあります。17章において、王がい
なかった時代、イスラエルがどのような状態であったかを見ました。それは「混乱」でした。何をしているのかわからない状態でした。彼らはそれぞれが自分の目に正しいと見えることを行っていたからです。自分では正しいと思うことであっても、実際には神のみこころから外れたことを行っていたのです。前回はそれをミカという人物を通して学びましたが、今回はダン族の堕落を通して学びたいとし思います。

1節には、「ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった」とあります。ヨシュア記を見ると、ダン部族にはすでに相続地が割り当てられていたことがわかります(ヨシュア19:40-48)。それなのに、ここにはダン部族には相続地が割り当てられていなかったとあるのはどういうことでしょうか。地図をご覧ください。

 

 

 

(地の塩港南キリスト教会文書伝道部 まなべあきらの聖書メッセージ「聖書の探求(250,251) 士師記17~18章 ミカの偶像、偶像の略奪、ダン部族のパレスチナ北端の地への移住」より引用)

彼らに与えられた相続地はペリシテ人が住む地中海沿岸の地域であったことがわかります。それで彼らはその地を征服することができないでいたのです。相続地はあくまでも神からの約束であって、実際には自分たちでその地を征服しなければなりませんでした。しかし、彼らにはそれができないでいたのです。それで彼らは別の場所に相続地を得るために、5人の偵察隊を派遣して候補地を探らせることにしました。すると彼らは、エフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこに泊まりました。

彼らがミカの家のそばに来たとき、あのレビ人の若者の声がするのに気づきました。以前どこかで会って面識があったのでしょうか、すぐにあのレビ人の声だと気付きました。彼らは、この若者がミカの家の祭司になっていることを知ると、自分たちの旅が成功するかどうか、神に伺ってほしいと頼みます。神の幕屋が設置されたシロが近くにあったにもかかわらず、です。彼らは大祭司を通してお伺いを立てることを無視し、このレビ人に尋ねたのです。

するとミカの祭司は彼らに言いました。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」これもいい加減な答えでした。なぜなら、主は彼らがしているこの旅を認めていなかったからです。主が願っておられたのはその地の住人を追い払うことであって、他に土地を求めることではありませんでした。それなのに彼は適当なことを言ったのです。彼はアロンの家系ではなかったので元々祭司の資格もありませんでしたが、たとえ祭司であったとしても、その務めは神のみこころを正しく伝えることであって、単に人々のしていることを神の名によって認めることではありません。ここにも一つの混乱が見られます。神の名によって人々の願望を宗教的に認めようとする肉の性質が現れているからです。

次に7~10節をご覧ください。「18:7 五人の者たちは進んで行ってライシュに着き、そこの住民が安らかに住んでいて、シドン人の慣わしにしたがい、平穏で安心しきっているのを見た。この地には足りないものは何もなく、彼らを抑えつける者もいなかった。彼らはシドン人から遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかった。18:8 五人の者たちが、ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、身内の者たちは彼らに、どうだったか、と尋ねた。18:9 彼らは言った。「さあ、彼らに向かって攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実にすばらしい。あなたがたはためらっているが、ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。18:10 あなたがたが行くときは、安心しきった民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡してくださった。その場所には、地にあるもので欠けているものは何もない。」」

その5人の者たちは北に進みライシュに着きました。ライシュはヘルモン山の南側の麓近くあります。そこの住民は安らかに住んでいて、どことも軍事同盟を結んでいる様子もなく、戦う用意もなかったので、征服するには最適であるように見えました。そこで彼らはダン部族の領内ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、「あの地を占領しよう」と報告しました。それは彼らが安心しきっているというだけの理由ではありませんでした。その地は実にすばらしく、広々としており、何と言っても、神がそれをあなたがたの手に渡してくださったというのがその理由でした。

しかし、ここにも誤解がありました。神がその地を与えてくださったというのは勝手な思い込みにすぎず、神から出た信仰の戦いはヨシュアによって割り当てられた地を占領することだったからです。ですから、このダン部族の戦いは、彼らの不信仰によってもたらされた勝手な戦いにすぎませんでした。状況が良いからといってそれが必ずしも神の御心であるとは限りません。信仰の土台がしっかりしていなければ、結局のところ、それは信仰の誤解で終わってしまうことになります。

Ⅱ.混乱(11-20)
 
次に、11~20節をご覧ください。「18:11 そこで、ダンの氏族の者六百人は、武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、18:12 上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営した。それゆえ、その場所は今日に至るまで、マハネ・ダンと呼ばれている。それはキルヤテ・エアリムの西部にある。18:13 彼らはそこからさらにエフライムの山地へと進み、ミカの家に着いた。18:14 ライシュの地を偵察に行っていた五人は、身内の者たちに告げた。「これらの建物の中にエポデやテラフィム、彫像や鋳像があるのを知っているか。今、あなたたちは何をすべきか分かっているはずだ。」18:15 そこで、彼らはそこに行き、あのレビ人の若者の家、ミカの家に来て、彼の安否を尋ねた。18:16 武具を着けた六百人のダンの人々は、門の入り口に立っていた。18:17 あの地を偵察に行った五人の者たちは上って行き、そこに入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は、武具を着けた六百人の者と、門の入り口に立っていた。18:18 これら五人がミカの家に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取ったとき、祭司は彼らに言った。「何をしているのですか。」18:19 彼らは祭司に言った。「黙っていなさい。手を口に当てて、私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか。」18:20 祭司の心は躍った。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。」

そこで、ダン族の者600人は武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営しました。彼らは、部族の先鋒として群れの先頭に立っていたのでしょう。そして、そこからさらにエフライムの山地にあるあのミカの家に到着しました。そして、先にライシュを偵察に行った5人の者が、ミカの家にエポデやテラフィム、彫像や鋳造があることを告げると、全員でそこに上って行き、それらを略奪しました。これらの物は、元々ミカが母親から盗んだ銀によって作られたものですが、今度はそれが他の人の手によって盗まれてしまったのです。何とも皮肉な結果です。それにしてもダン族もイスラエル部族の一つです。その部族がこんな偶像を略奪していったい何になるというのでしょうか。彼らは、ミカの家にあった偶像に心を魅かれていたのです。これが自分たちのお守りになると思っていました。まことの神を信じている者にとっては考えられないことですが、こういうことが起こるのです。

そればかりではありません。彼らは祭司もミカから奪いました。祭司も祭司です。「あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか」と尋ねられると、「祭司の心は踊った」とあります。ミカの家にいるときはお金に引き寄せられましたが、今度は栄誉に引き寄せられました。部族や氏族の祭司になることができるという言葉に魅かれたのです。それでこの祭司は、主人を裏切り、エポデとテラフィムと彫像を盗み、彼らの中に入って行きました。

 何が起こっているのかさっぱり理解できません。すべてが混乱しています。人の手で作った偶像が、自分たちを守ってくれるはずがありません。それなのに、ダン族の者たちはこれらの偶像に心が魅かれていましたし、祭司も祭司で、地位や名誉に心が魅かれ、主人ミカを裏切ったばかりか、そこにあった偶像を盗みました。この祭司は、所詮雇われた祭司にすぎません。彼は裏切り者で、盗人でした。すべてが混乱しています。異常事態です。いったい何が問題だったのでしょうか。それは、「イスラエルには王がいなかった」ことです。彼らはただ自分の目に良いと見えることを行っていたのです。それが問題でした。彼らはイスラエルの神を捨てていたわけではありません。自分たちでは信じているつもりでした。しかし、神の御言葉に聞かなかった結果、カナンの神々を礼拝するという混合宗教に陥っていたのです。しかし、これは何もイスラエルの民だけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも神の御言葉に聞き従うのではなければ、自分の目に良いと見えることを行うようになり、同じような過ちに陥ってしまうことになります。

  Ⅲ.ダン族がもたらした不幸(21-31)

  最後に、21~31節までを見て終わりたいと思います。まず、21~26節までをご覧ください。「18:21 彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行った。
18:22 彼らがミカの家からかなり離れたころ、ミカは近所の家の者たちを集めて、ダン族に追いついた。18:23 彼らがダン族に呼びかけると、ダンの人々は振り向いて、ミカに言った。「あなたはどうしたのだ。人を集めたりして。」18:24 ミカは言った。「あなたがたは、私が造った神々と、それに祭司を奪って行きました。私のところには何が残っているでしょうか。私に向かって『どうしたのだ』と言うとは、いったい何事です。」18:25 ダン族はミカに言った。「あなたの声が私たちの中で聞こえないようにしなさい。そうしないと、気の荒い連中があなたがたに討ちかかり、あなたは、自分のいのちも、家族のいのちも失うだろう。」18:26 こうして、ダン族は去って行った。ミカは、彼らが自分よりも強いのを見てとり、向きを変えて自分の家に帰った。」

「彼ら」とはダン族のことです。彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行きました。するとミカは、近所の家の者たちを集めて、ダン族の後を追いかけます。彼らはダン族に呼びかけますが、多勢に無勢です。逆に脅しをかけられ、そのまま引き下がるしかありませんでした。これはミカの罪に対する神のさばきです。ミカが所有していた偶像は、そもそも彼が母親から盗んだ銀によって造られた物でした。その偶像が今度は他人に盗まれてしまったのです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。神を恐れない人の人生は、結局のところ、このような結果を招くことになるのです。

彼は、この事件から何を学んだでしょうか。もし彼がこれをきっかけに真の神に立ち帰ったのであれば、この出来事は彼にとっては幸いであったと言えるでしょうが、もし何も学ぶことがなかったら、それこそ悲劇です。誰でも失敗は付きものです。大切なのは、そこから何を学ぶかということです。その失敗から学び、神に立ち帰らせていただきましょう。

最後に、27~31節までをご覧ください。「18:27 彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪い、ライシュに行って、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼いた。18:28 だれも救い出す者はいなかった。その町はシドンから遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかったからである。その町はベテ・レホブの近くの平地にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。18:29 彼らは、イスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。しかし、その町の名は、もともとライシュであった。18:30 さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、その地の捕囚のときまで、ダン部族の祭司であった。18:31 こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた。」

彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪うと、ライシュに行って、その民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼きました。その町はシドンから遠く離れていたため、誰も助けてくれなかったので、簡単に征服することができました。それで彼らは町を建て、そこに住みました。彼らは、その町の名を自分たちの先祖ダンの名にちなんで「ダン」という名をつけました。これがイスラエル12部族の北限の所有地となります。この時以来、全イスラエルを指すときに「ダンからベエル・シェバまで」という表現が使われるようになりました。

彼らはそこに自分たちのために彫像を立てました。恐らく神の宮も建て、そこに彫像を安置したことでしょう。31節には、「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた」とあります。神の宮はシロに設置されるはずでしたが、この時以来、このダンにも設置されたのです。そして、後にイスラエルが南北に分裂すると、北王国イスラエルの王ヤロブアムは、このダンとベテルに金の子牛を置くようになります。ヤロブアムは、ダン部族が彫像を立てた場所に金の子牛を置いたのです。それは、北王国がB.C.722年にアッシリア帝国によって滅ぼされるまで続きます。彼らは、ミカの家にあった偶像を手に入れたことは神の祝福だと思っていましたが、実はそうではなく、逆にそれが彼らを束縛するもとになりました。このようなことが私たちにも起こります。祝福だと思っていたことが、災いの原因になることがあります。そういうことがないように、常に御言葉に聞き従い、神のみこころを求めて歩みましょう。

士師記17

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士師記17

士師記17章から学びます。17~21章までは、この士師記の後書きです。私たちはこれまで、士師の時代がどのような時代だったのかを学んできましたが、その間に起こった典型的な出来事がまとめられています。その特徴は何かというと、6節にあるように、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」ということです。その時代がどのような時代であったのかを見ていきたいと思います。

 Ⅰ.自分の息子の一人を祭司にしたミカ(1-6)

まず、1節から6節までをご覧ください。 「17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「【主】が私の息子を祝福されますように。」17:3 彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して【主】にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。 17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」

エフライムの山地の出身で、ミカという名の人がいました。ミカというのは、「誰が主のよう
であろうか」という意味ですが、彼はその名とは裏腹に、主に反した行動を取ります。彼は母から銀1,100枚を盗みました。しかし、その銀貨が盗まれた時、母親がのろいを誓い、それが彼の耳にも届いて恐ろしくなったのか、彼は「実は、その銀は私が持っています」と告白し、それを母に返しました。こうしたのろいの誓いは、呪われた人の上に留まるとされていたからです。

すると母親は何と言ったでしょうか。母はこのように言いました。「主が私の息子を祝福され
ますように。」
どういうことでしょうか。自分の銀を盗んだ息子を祝福してくれるようにと祈るとは・・。ここに一つの混乱が見られます。自分の息子がお金を盗んだのであれば、たとえ息子がそれを告白したとしても、「なんでこんなことをしたのか。このようなことはしてはならない」と叱るのが親でしょう。それなのに彼女は、「主が私の息子を祝福してください」と言ったのです。普通ではありません。

そればかりではありません。息子が母親にその銀1,100枚を返すと、母はその銀を主に献げ、その中から銀200枚を取り、自分の息子のために彫像と鋳像を作るのです。「彫像」とは、へブル語で「ペセル」という言葉から派生した言葉ですが、「彫る」とか「刻む」という意味です。おそらく、木や石や青銅などを彫って作った偶像のことでしょう。「鋳像」とは、へブル語で「マッセーカー」という言葉から派生した言葉ですが、意味は「地金を注ぐ」です。つまり、鉄や青銅、錫(すず)、鉛、アルミニウムなどの金属を溶かし、鋳型に流し込んで作られた偶像のことです。出エジプト記34章17節には、「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」と禁じられていますが、それは明らかに十戒で禁じられていた「偶像を作ってはならない」という主の律法に違反することでした。

さら5節には、「このミカという人には神の宮があった。」とあります。これも律法に違反しています。というのは、神の宮は、主が命じられた場所に置かなければならなかったからです。この当時は、それはエフライム領内のシロという場所にありました。

それだけではありません。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を祭司に任命していました。エポデとは祭司用の服のことです。またテラフィムとは家の守護神のことです。これも律法に違反しています。祭司はアロンの家系から選ばれなければならず、だれもが勝手になれるというものではありませんでした。

これらのことからどういうことが言えるでしょうか。6節です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」
確かに彼らは自分の目で良いと思えることを行っていましたが、それが必ずしも正しいことであったとは限りませんでした。それが神のみこころに反していることもあったのです。というか、かなり的を外していたことがわかります。彼らは決してイスラエルの神、主を捨てたわけではありませんでしたが、彼らの信仰はいつしかカナンの習慣に迎合し、神の民としてのあり方から大きくズレてしまっていたのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

ここには、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあります。民を導く指導者がいなかったのです。それで彼らは、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。神の指導者がいない民は、実に悲惨であることがわかります。常に聖書から神のみこころを語り、民を導く羊飼いがいないということは混乱を招くことになります。日本にも様々な事情により無牧の教会がたくさんありますが、群れを牧する羊飼いがいないことは羊にとって致命的な結果を招くことがあります。たとえ牧師がいたとしても、その牧師が正しく神のみことばを語り、みことばによって羊を養わなければ同じことです。群れを導くリーダーのために祈らなければなりません。

Ⅱ.祭司を雇ったミカ(7-13)
 
次に7節から13節までをご覧ください。「17:7 ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。 17:8 その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、 17:9 ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」 17:10 そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。 17:11 このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。 17:12 ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。 17:13 そこで、ミカは言った。「私は【主】が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」

 7節には、ユダのベツレヘム出身の一人の若者が登場します。彼はレビ人でそこに寄留していました。どういうことかというと、彼はユダのベツレヘム出身のレビ人でしたが、ユダ族に属している人ではなかったということです。ただそこに寄留していただけです。というのは、レビ人はイスラエルに相続地を持っていなかったからです。神ご自身が彼らの相続地でした。彼らに与えられていたのは住む町と放牧地だけでした。ですから、この「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する」というのは、ユダのベツレヘムに居住していたレビ族出身の人という意味です。彼は滞在する所を求めて、ユダの町であるベツレヘムを出て、旅を続けていました。そして、エフライムの山地にあるミカの家までやって来たのです。

するとミカは、彼がベツレヘムから来たレビ人であることを知ると、「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。」と懇願しました。この「父」というのは、その家の主人ということではなく、霊的導き手という意味です。そして、その対価として提示したのは、毎年、銀10枚と、衣服一そろいと、それに食料を差し上げるということでした。つまり、生活費を支給するということです。これはレビ人にとって大きな誘惑だったことでしょう。というのは、それだけあれば生活の安定が得られるからです。すると、このレビ人は一つ返事で同意しました。それでミカの家で一緒に住むことにしました。彼はミカの息子の一人のようになりました。するとミカは何と言ったでしょうか。13節に「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」とあります。どういうことでしょうか?

これまでミカは息子の一人を祭司に任命していましたが、今や本物の祭司がミカの個人的な祭司になったということです。それで彼は喜んでいるのです。しかも彼はここで、それをしてくださったのは「主」だと言っています。「主が私を幸せにしてくださることを知った」と。それが主からの祝福であると勝手に思い込んだのです。しかし、これは大きな誤解でした。レビ人だからというだけで祭司になれるわけではないからです。下記のレビ族の家系図をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(「レビ族の家系」、空知太栄光キリスト教会ホームページより引用)

 これを見ていただくとわかるように、祭司になることができるのはレビ族の中でもアロンの家系から出る者だけでしたが、彼はそうではありませんでした。

レビ族とは、ヤコブの3番目に生まれた息子レビから始まっている一族です。レビ族は神にとって特別な存在でした。つまり、彼らは神のために聖別された部族であったのです。そのため神は、レビ族の各氏族(ゲルション族、ケハテ族、メラリ族)に聖所の務めを果たすという重要な務めを与えられました。そして、それぞれの氏族に専門の任務を与えたのです。すなわち、ゲルション族には、聖所の幕に関する部分(天幕のおおい、会見と入口の垂れ幕、幕と幕をつなぐひもなど)の管理と運搬、ケハテ族には、聖所にある器具の一切(契約の箱、机、燭台、祭壇、それらに関する用具など)の管理と運搬、メラリ族には、聖所を支える部分(板、横木、柱、台座、釘など)です。各氏族に与えられた任務はそれぞれ独立したものであり、他の部族の任務を兼用したり、代替えすることは許されませんでした。それぞれが専門職として割り当てられたのです。

祭司とレビ人はもともと同じレビ族から派生していますが、祭司とその職はレビの2番目の息子であるケハテから生まれた最初の子であるアロンの家系から出た者たちで、いわば、特別職でした。祭司たちはすべてアロンの家系で世襲制でした。祭司たちは会見の天幕における礼拝を実際に取り仕切っていく者たちでした。そして、この祭司を支えたのがレビ人なのです。つまりレビ人は祭司の指導の管理下にあったのです。礼拝を取り仕切る祭司のもとで仕える存在、それがレビ人たちだったのです。民数記3章5~7節で神はモーセに次のように告げています。「主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。」
ですから、レビ人は神に仕え、祭司に仕え、そしてイスラエルの人々に仕える者たち(奉仕者)だったのです。また、彼らが祭司職にかかわることは一切許されませんでした。民数記3章10節には「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とあります。それほどに祭司職は特別な職であったのです。
それなのにミカは、自分勝手に神の宮を設置し、そこに偶像を安置して、さらに資格のないレビ人を祭司に任命しました。こうしたことは、主の目には忌むべきことでしたが、ミカはそれを主からの祝福だと勘違いしたのです。

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。続く18章1節をご覧ください。ここにも出てきます。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」それで、彼らは自分の目で良いと見えることを行っていたからです。このことは6節でも言われていたことです。このことが何度も繰り返して記されています。この士師記の著者は、このミカの行為が、士師時代の無法状態を表す良い例としてあげているのです。イスラエル人の信仰は、祭司制度の混乱にまで及んでいたのです。

しかし、これは何も当時のイスラエル人だけの問題ではありません。現代の私たちクリスチャンにも問われていることです。自分の目に良いと見えることを行っている人は、すなわち、勝手な信仰生活をしている人は、偶然にも良いことがあると、それを神からの祝福を受けている証拠だと受け止めて喜びますが、それはただの勘違いであり、聖書信仰とは相入れないものです。そのような信仰は、遅かれ早かれ、神のさばきをその身に招くようになり、結局、信仰からも離れてしまうことになります。こんなはずではなかったのに・・・と。

次の18章を見るとわかりますが、やがてミカもそのさばきを受けることになります。自分が雇った祭司に裏切られ、彼が所有していた偶像が奪われてしまうことになるのです。彼が母親から盗んだ銀によって作られた偶像が、今度は他の人の手によって盗まれるというのは、何とも皮肉な話です。私たちはそういうことがないように、自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求めましょう。主のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。そのためにはよく聖書のことばを学び、主のみこころを求めましょう。自分の中にミカのように都合の良い信仰はないかどうか、吟味しなければならないのです。

 

ペリシテ人についての預言 エレミヤ書47章1~7節

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2025年6月8日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書47章1~7節(旧約P1379、エレミヤ書講解説教78回目)
タイトル:「ペリシテ人についての預言」
エレミヤ書47章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はペリシテ人に対する預言が語られます。
 Ⅰ.ペリシテ人の破滅(1-5)
まず、1~5節までをご覧ください。1節をお読みします。「47:1 ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった【主】のことば。」
これは、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことばです。ファラオとはエジプトの王の称号です。そのファラオがガザを討つ前に、主はペリシテ人についてエレミヤに語っておられたのです。それはB.C.605年頃だと思われます。何度かお話していますが、その年、バビロンが台頭を恐れたファラオは、バビロンと戦うためにパレスチナに北上しました。そこでバビロン軍と戦うわけです。それはユーフラテス河畔のカルケミシュというところで行われた戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれていますが、結果は、エジプト軍の惨敗でした。しかし、パレスチナに北上したエジプト軍は、ペリシテ人最大の都市ガザを討ちました。その前に、主がペリシテ人について語られたエレミヤに語られた預言がこれです。
それはどのような内容だったでしょうか。2~5節をご覧ください。「47:2 【主】はこう言われる。「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流す。人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶ。47:3 荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。47:4 すべてのペリシテ人を破滅させる日、ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来たからだ。まことに【主】は、ペリシテ人を、カフトルの島の残りの者を破滅させる。47:5 ガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙らされる。平地の残りの者よ、いつまで、おまえは身を傷つけるのか。」
2節にある「北から水が上って来て」とは、バビロン軍のことです。その水はあふれる流れとなって、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流します。それは洪水のように襲ってきて、ペリシテの町々を呑み込むのです。すでにガザはエジプトの王ファラオによって討たれていましたが、今度はそのファラオを討ったバビロンによってすべての町が吞み込まれることになります。ですから、ペリシテ人はエジプトとバビロンのどちらからも攻め込まれて破滅することになるのです。まさにWパンチです。
その光景は、実に悲惨でした。3節には「荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。」とあります。荒馬、戦車の音に、人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶことになります。父親たちは気力を失い、自分の子どもたちを顧みる余裕さえありません。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからです。
4節には、その日には生き残ってツロとシドンを助けようとする者もみな、断ち滅ぼされることになるとあります。ツロやシドンはペリシテの同盟国だったので、生き残って、彼らを助けようとするわけですが、助けようとしても助けることができないのです。ツロとシドンを助けようとする生き残りのすべての者もみな、断ち切られることになるからです。
また4節には「カトフルの島」という名称が出てきますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。そこがペリシテ人の出身地でした。彼らは元々そこに住んでいましたが、パレスチナの海岸地帯に移り住むようになったのです。ちなみに、パレスチナという地名は、このペリシテという名前に由来しています。パレスチナに移り住んだペリシテ人は、ユダヤ人と対立しながら現在のガザ地区のアラブ人となっていったのです。そのカフトルの島の残りの者を破滅させるというのは、ペリシテ人を根絶やしにするということです。
5節にある「ガザ」と「アシュケロン」は、ペリシテを代表する都市です。そのガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙されることになります。それは深い悲しみと嘆きを表現しています。なぜそれほど深く嘆き悲しむのでしょうか。徹底的に滅ぼされることになるからです。ペリシテ人はすべて滅び失せることになるということです。
 これが、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について主が預言者エレミヤに告げられたことばです。いったいなぜペリシテ人は、そのように破滅することになったのでしょうか。
Ⅱ.ペリシテ人が滅ぼされた理由(6-7)
6~7節をご覧ください。ここには、「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」とあります。
ここには、それは主の剣だとあります。主が剣に命じたのでこのようになったのです。それは彼らが主のみこころに従わなかったからです。いったいどのような点で主のみこころに叶わなかったのでしょうか。
ここで、創世記12章1~3節を開きたいと思います。「12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
これはイスラエルの父祖アブラハムに対して主が語られたことばです。アブラハム契約と呼ばれているものです。それはアブラハムが主の命令に従い、自分の父の家を離れ、主が示す地へ行くなら、主は彼を祝福し、彼の名を大いなるものとするというものでした。3節には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。この約束のとおり、神はアブラハムの子孫から出るメシヤによって、この約束を成就してくださいました。その方とはだれでしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。神はこのイエスによって地上のすべての民族を祝福する、すなわち、救いに導くという計画を持っておられたのです。そのためにアブラハムは選ばれました。神はこの祝福の基として特別にアブラハムを選ばれたのです。このアブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われることになります。これが聖書の原則なのです。しかし、ペリシテ人はこの原則に従いませんでした。神によって選ばれたアブラハムの民族、神の民を呪ったのです。それゆえ、神様から呪われることになったのです。もし彼らがイスラエルを祝福したのであれば、祝福されたでしょう。しかし、彼らはイスラエルに敵対し、絶えず攻撃しました。それゆえ、彼らは滅ぼされることになったのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
ここで地図をご覧ください。「ペリシテ人の地(新改訳聖書第三版、地図6)」


ペリシテ人について特筆すべきことは、彼らがどこに住んでいたかという点です。下の黒い楕円で囲まれた地域がペリシテ人の地です。ガザはその中にある赤い円で囲まれた町。その上は5節に出てきたアシュケロンです。ガザは今もイスラエルと戦闘状態にありますが、アシュケロンと合わせペリシテ人の5大都市の一つでした。ペリシテを代表する都市です。そのずっと上、北の方にある2つの黒い円で囲まれた町は、4節に出てきたツロとシドンです。このペリシテ人の地と隣り合わせにあるのがユダの地です。ペリシテの東側にある四角で囲まれた血です。その右斜め上にあるのがエルサレムです。つまり、ペリシテ人の地はユダの地と隣り合わせにあったということです。もうほとんど入り混じっています。それで彼らは絶えずイスラエルに侵入してはイスラエルを支配しようとしたのです。イスラエルにとってはまさに「肉のとげ」のような存在だったのです。
旧約聖書を読むと、彼らに対する言及は古くはアブラハムの時代に遡りますが、顕著に出てくるのは士師記の時代です。今、さくらチャーチでは士師記を学んでいますが、サムソンが戦ったのがこのペリシテ人でした。その後もサムエル、サウル、ダビデの時代も彼らはイスラエルを悩まし続けます。最終的にダビデがペリシテ人を討ち、征服しました。ダビデが戦ったのはゴリヤテというペリシテ人の大男でした。1サムエル記17章4節によると、彼の身長は6キュビト半もありました。1キュビトは44.5cmですから、6キュビト半は289cmになります。ほんとかいな?と首をかしげたくなります。あのジャイアント馬場でさえ209cmでしたから、相当大きかったことがわかります。でもダビデはその巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。それでペリシテ人はイスラエルに屈することになったのです。ソロモンの時代になると、ペリシテ人は完全にイスラエルに仕えるようになります。しかし、B.C.931年にイスラエルが北と南に分裂するとペリシテ人は再び勢力を回復し、イスラエルを悩ますことになります。そんなペリシテ人を、神は徹底的に滅ぼされるのです。なぜでしょうか?神に選ばれた民に敵対したからです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
それは、この人類の歴史を見てもわかります。先日、いつも教会にお米を届けてくださる方が、「先生、最近、高原剛一郎先生が書かれた『世界は聖書で出来ている』という本が出版されたのでプレゼントします」と言ってわざわざ持って来られました。どれどれとめくって見たら、このことについて書かれてありました。詳細は触れませんが、過去500年の人類の歴史を見ると、世界の覇権を握った国々は、すべてユダヤ人を祝福した国だったというのです。それはスペインでありポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカです。これらの国の興隆と没落を振り返ると、そこにはこの原則が流れていたというのです。特に第一次世界大戦前後のイギリスと、第二次世界大戦後のアメリカを見るとよくわかります。ヨーロッパの辺境にある島国が、やがて「7つの海を支配する」大英帝国に成長した背景には、このようなユダヤ人への支援と協力があったからなのです。
また、戦後アメリカが超大国に成長した背景にも、第一次世界大戦後ヨーロッパで難民となったユダヤ人を受け入れたという事実がありました。アメリカに移住したユダヤ人たちは、背水の陣で生き残りをかけ、並外れた努力を重ねた結果、他のどの移民集団よりも短期間で成功を収め、金融、不動産、映画産業、マスコミ、医学、法律、自然科学、そして芸術、文化に至るまで、他を圧倒しました。第二次世界大戦後アメリカは、世界の超大国として君臨したのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるという聖書の原則が働いていたのです。
しかし、これは必ずしもユダヤ人という民族に限ったことではありません。それは私たちクリスチャンのことでもあるからです。いやむしろ霊的な意味では、私たちこそアブラハムの子孫、霊的イスラエルです。なぜなら、アブラハムの子孫から出るメシヤ、救い主なるイエス・キリストを信じたことで、神の民とされた者だからです。Ⅱペテロ2章9~10節にはこうあります。
「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた人たちのことです。ペテロはそのように選ばれた人たちに対して、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民だと言っているのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者であると言ったのです。そう、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた私たちも、このアブラハムの子孫であり、真のイスラエルなのです。ですから、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。私たちは祝福すべきであって、呪うべきではありません。もし神に選ばれた者を呪うことがあるとしたら、ペリシテ人のように呪われることになります。なぜなら、アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
以前、米沢の恵泉キリスト教会牧師の千田次郎先生からこんなお話を聞いたことがあります。それは、かつて全日本リバイバルミッションが盛んに行われていた頃のことですが、主催者の滝元明先生から、東北で決起集会をしたいので協力してほしいと要請があったそうです。しかし、千田先生はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、伝道は大きな集会を開くことではなく、マタイ28章にあるように、あらゆる国の人々を弟子とすることだからです。そのために行って福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、主が命じたことを守るようにみことばを教えなければなりません。必ずしも大きな伝道集会を開くことが必要ではない。そういう思いがありました。
しかし、ある日御言葉を読みながら祈っていると、このことが示されたのです。「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」。そしてアブラハムとは誰だろうと思い巡らしていると、それは滝元先生ではないか。滝元先生は神によって選ばれた神の器だと。その滝元先生を祝福することこそ、神様が望んでおられることだと確信し、その働きの祝福を覚えて祈るようになったということでした。
私はそのお話を聞いたとき、すごいなぁと思いました。というのは、人は自分の考えと違うとなかなか受け入れることができないものですが、神のみこころを求めて祈る中で、たとえそれが自分の考えと違っても神のみこころなら従うということを実践されておられたからです。それこそ神様に喜ばれることであり、神様が祝福してくださる信仰だと思いました。私はまだそれほど長い信仰生活を送ってきたわけではありませんが、確信をもって言えることは、神の御言葉に従う者を神は豊かに祝福してくださるということです。それは霊的な面においても、精神的においても、肉体的な面においても、物質的においても、経済的においても、社会的な面においても、すべての面においてです。Ⅱ歴代16章9節に、「【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」とある通りです。問題は、私たちの心が主の心と一つになっているかどうかです。もし一つになっているなら、主はそのような人々に御力をあらわしてくださいます。それはこの点においても言えることです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。
先日、私は64回目の誕生日を迎えましたが、この64年を振り返りながら、このような人生を与えてくださった主に感謝しました。なかなかないと思うんですよ。18歳で信仰に導かれ、22歳で伝道者として召され、以後42年にわたりイエス様一筋に仕えることができるなんて。私は長嶋茂雄さんにはなれなかったし、マイケル・ジョーダンにもなれなかったけど、キリストのしもべとして歩み続けることができました。それは一重に神様のあわれみだったと思います。そのために神様は選んでくださいました。そう感じます。
しかしそのように祈っていたら、神様からの御声がありました。「違う」と。「えっ、どういうことですか」と尋ねると、主は私にこう語っておられるように感じました。
「確かに、わたしはあなたを選んだが、それ以上にパットを選んだのだ」と。「パットがアブラハムで、あなたはそのアブラハムに仕えるしもべにすぎない。」と。
これはどういうことだろうと思い巡らしていると、神様が言われることがわかるような気がしました。
家内が宣教師として来日したのは1979年ですから、今から46年前になります。一般に、宣教師は母国のサポーターから献金を募り、何らかの宣教団体を通して遣わされてきますが、家内はそうしませんでした。献金を集めるのがあまり得意じゃないということもありましたが、何よりもそうすれば4年に一度デブテーションで戻らなければなりません。自分をサポートしてくれている教会に報告しなければならないからです。伝道の途中で1年間も空けることは宣教にとって大きな妨げになるのではないかと考えたのです。ですから彼女は宣教団を通してではなく、セルフサポートといって自分で働きながら宣教する道を選びました。それは自由に宣教できるというメリットはありますが、老後のことを考えると厳しい選択でもありました。というのは、働きを終えて帰国する時、何の保障もないからです。でも彼女はアブラハムのように「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」との召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかも知らずに、ただ信仰によって来日しました。そこで私と出会って結婚に導かれたのです。それは老後の保障どころか、帰国の路が閉ざされることを意味していました。日本に骨を埋めることを覚悟したということです。それほどの覚悟で来たのは、神様が彼女を選ばれたからです。パットがアブラハムで私はそのしもべにすぎないと言われる主のことばの意味がわかるような気がしました。そういえば、来日したばかりの頃、彼女はよく言っていました。「私は口下手なのでモーセですが、あなたはよく喋るのでアロンだ」と。主はご自身の御業のためにモーセを選んだように、パットを選ばれたのです。
であれば、私がすべきこと何でしょうか。このアブラハムを祝福することではないかと思ったのです。アブラハムを祝福する者は祝福されるからです。
それはパットだけでなく、神の民とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはお互いに神に選ばれた神の民なのです。であれば、祝福すべきであって呪ってはいけません。喜んでいる者とともに喜び、泣く者と一緒に泣く。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちに順応しなければなりません。そういう人を、神様は祝福してくださるからです。ペリシテ人はそうではありませんでした。イスラエルを祝福したのではなくイスラエルに敵対し、いつも戦いを挑みました。それゆえ、神から厳しい裁きを受けることになったのです。私たちはそういうことがないように、この御言葉に従わなければなりません。神に選ばれた神の民を、愛する兄弟姉妹を心から祝福しなければなりません。祝福すべきであって呪ってはいけないのです。
Ⅲ.主のみことばの剣(6-7)
第三のことは、だから神のことばに従いましょう、ということです。6~7節をもう一度ご覧ください。「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」
ここには単にペリシテがバビロンによって討ち破られたというだけでなく、その背後に神の力と支配があったことがわかります。6節は、平安がないことを嘆くペリシテ人の嘆きです。「ああ、主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」
ここで注目していただきたいことは、エレミヤが「主の剣」と言っていることです。実際にはペリシテもエジプトと同様に、目に見えるところではバビロンの攻撃によって討ち破られたわけですが、エレミヤはその出来事の背後に、主の力と支配があることを認めていました。
7節もそうです。「どうして、休めるだろうか。主が剣に命じられたのだ。」とあります。主が命じられたのだから、主のみこころが実現するまでは休むことはありません。彼らに求められていたことは、それが主の剣であると認め、主の前にへりくだり、ペリシテの神ダゴンではなくイスラエルの神、主を信じることだったのです。
それはペリシテ人だけのことではありません。私たちにも言えることです。聖書には、文字通り武具としての剣だけでなく、主なる神が語られる「みことばの剣」について言及されています。へブル4章12節です。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
神のことばはそれほどまでに鋭いのです。人の心の奥深くに光を当て、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。それは両刃の剣よりも鋭いのです。ですから、この神のことばによって罪が示されたのなら、「いたたっ!さやに収まり、静かに休め」と言うのではなく、私の罪のために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストの御前に進み出て、砕かれた、悔いた心をもって、罪の赦しを求めなければなりません。そして御言葉によって励まされ、慰められ、強められ、教えられ、助けられて、御国を継ぐ者とさせていただかなければなりません。それがペリシテ人に対して語られた主のことばを通して教えられることです。神のことばに従いましょう。神のことばに従ってアブラハムを祝福しましょう。イスラエルを祝福しましょう。主にある兄弟姉妹を祝福しましょう。祝福すべきであって、呪ってはいけません。神のことばに生きるとき、必ずあなたも祝福の基となることができます。それこそ、あなたが世の光、地の塩としてこの世に遣わされている目的だからです。

士師記17章

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士師記17

士師記17章から学びます。17~21章までは、この士師記の後書きです。私たちはこれまで、士師の時代がどのような時代だったのかを学んできましたが、その間に起こった典型的な出来事がまとめられています。その特徴は何かというと、6節にあるように、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」ということです。その時代がどのような時代であったのかを見ていきたいと思います。

 Ⅰ.自分の息子の一人を祭司にしたミカ(1-6)

まず、1節から6節までをご覧ください。 「17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「【主】が私の息子を祝福されますように。」17:3 彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して【主】にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。 17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」

エフライムの山地の出身で、ミカという名の人がいました。ミカというのは、「誰が主のよう
であろうか」という意味ですが、彼はその名とは裏腹に、主に反した行動を取ります。彼は母から銀1,100枚を盗みました。しかし、その銀貨が盗まれた時、母親がのろいを誓い、それが彼の耳にも届いて恐ろしくなったのか、彼は「実は、その銀は私が持っています」と告白し、それを母に返しました。こうしたのろいの誓いは、呪われた人の上に留まるとされていたからです。

すると母親は何と言ったでしょうか。母はこのように言いました。「主が私の息子を祝福され
ますように。」
どういうことでしょうか。自分の銀を盗んだ息子を祝福してくれるようにと祈るとは・・。ここに一つの混乱が見られます。自分の息子がお金を盗んだのであれば、たとえ息子がそれを告白したとしても、「なんでこんなことをしたのか。このようなことはしてはならない」と叱るのが親でしょう。それなのに彼女は、「主が私の息子を祝福してください」と言ったのです。普通ではありません。

そればかりではありません。息子が母親にその銀1,100枚を返すと、母はその銀を主に献げ、その中から銀200枚を取り、自分の息子のために彫像と鋳像を作るのです。「彫像」とは、へブル語で「ペセル」という言葉から派生した言葉ですが、「彫る」とか「刻む」という意味です。おそらく、木や石や青銅などを彫って作った偶像のことでしょう。「鋳像」とは、へブル語で「マッセーカー」という言葉から派生した言葉ですが、意味は「地金を注ぐ」です。つまり、鉄や青銅、錫(すず)、鉛、アルミニウムなどの金属を溶かし、鋳型に流し込んで作られた偶像のことです。出エジプト記34章17節には、「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」と禁じられていますが、それは明らかに十戒で禁じられていた「偶像を作ってはならない」という主の律法に違反することでした。

さら5節には、「このミカという人には神の宮があった。」とあります。これも律法に違反しています。というのは、神の宮は、主が命じられた場所に置かなければならなかったからです。この当時は、それはエフライム領内のシロという場所にありました。

それだけではありません。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を祭司に任命していました。エポデとは祭司用の服のことです。またテラフィムとは家の守護神のことです。これも律法に違反しています。祭司はアロンの家系から選ばれなければならず、だれもが勝手になれるというものではありませんでした。

これらのことからどういうことが言えるでしょうか。6節です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」
確かに彼らは自分の目で良いと思えることを行っていましたが、それが必ずしも正しいことであったとは限りませんでした。それが神のみこころに反していることもあったのです。というか、かなり的を外していたことがわかります。彼らは決してイスラエルの神、主を捨てたわけではありませんでしたが、彼らの信仰はいつしかカナンの習慣に迎合し、神の民としてのあり方から大きくズレてしまっていたのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

ここには、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあります。民を導く指導者がいなかったのです。それで彼らは、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。神の指導者がいない民は、実に悲惨であることがわかります。常に聖書から神のみこころを語り、民を導く羊飼いがいないということは混乱を招くことになります。日本にも様々な事情により無牧の教会がたくさんありますが、群れを牧する羊飼いがいないことは羊にとって致命的な結果を招くことがあります。たとえ牧師がいたとしても、その牧師が正しく神のみことばを語り、みことばによって羊を養わなければ同じことです。群れを導くリーダーのために祈らなければなりません。

Ⅱ.祭司を雇ったミカ(7-13)
 
次に7節から13節までをご覧ください。「17:7 ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。 17:8 その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、 17:9 ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」 17:10 そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。 17:11 このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。 17:12 ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。 17:13 そこで、ミカは言った。「私は【主】が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」

 7節には、ユダのベツレヘム出身の一人の若者が登場します。彼はレビ人でそこに寄留していました。どういうことかというと、彼はユダのベツレヘム出身のレビ人でしたが、ユダ族に属している人ではなかったということです。ただそこに寄留していただけです。というのは、レビ人はイスラエルに相続地を持っていなかったからです。神ご自身が彼らの相続地でした。彼らに与えられていたのは住む町と放牧地だけでした。ですから、この「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する」というのは、ユダのベツレヘムに居住していたレビ族出身の人という意味です。彼は滞在する所を求めて、ユダの町であるベツレヘムを出て、旅を続けていました。そして、エフライムの山地にあるミカの家までやって来たのです。

するとミカは、彼がベツレヘムから来たレビ人であることを知ると、「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。」と懇願しました。この「父」というのは、その家の主人ということではなく、霊的導き手という意味です。そして、その対価として提示したのは、毎年、銀10枚と、衣服一そろいと、それに食料を差し上げるということでした。つまり、生活費を支給するということです。これはレビ人にとって大きな誘惑だったことでしょう。というのは、それだけあれば生活の安定が得られるからです。すると、このレビ人は一つ返事で同意しました。それでミカの家で一緒に住むことにしました。彼はミカの息子の一人のようになりました。するとミカは何と言ったでしょうか。13節に「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」とあります。どういうことでしょうか?

これまでミカは息子の一人を祭司に任命していましたが、今や本物の祭司がミカの個人的な祭司になったということです。それで彼は喜んでいるのです。しかも彼はここで、それをしてくださったのは「主」だと言っています。「主が私を幸せにしてくださることを知った」と。それが主からの祝福であると勝手に思い込んだのです。しかし、これは大きな誤解でした。レビ人だからというだけで祭司になれるわけではないからです。下記のレビ族の家系図をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レビ族の家系」、空知太栄光キリスト教会ホームページより引用

 これを見ていただくとわかるように、祭司になることができるのはレビ族の中でもアロンの家系から出る者だけでしたが、彼はそうではありませんでした。

レビ族とは、ヤコブの3番目に生まれた息子レビから始まっている一族です。レビ族は神にとって特別な存在でした。つまり、彼らは神のために聖別された部族であったのです。そのため神は、レビ族の各氏族(ゲルション族、ケハテ族、メラリ族)に聖所の務めを果たすという重要な務めを与えられました。そして、それぞれの氏族に専門の任務を与えたのです。すなわち、ゲルション族には、聖所の幕に関する部分(天幕のおおい、会見と入口の垂れ幕、幕と幕をつなぐひもなど)の管理と運搬、ケハテ族には、聖所にある器具の一切(契約の箱、机、燭台、祭壇、それらに関する用具など)の管理と運搬、メラリ族には、聖所を支える部分(板、横木、柱、台座、釘など)です。各氏族に与えられた任務はそれぞれ独立したものであり、他の部族の任務を兼用したり、代替えすることは許されませんでした。それぞれが専門職として割り当てられたのです。

祭司とレビ人はもともと同じレビ族から派生していますが、祭司とその職はレビの2番目の息子であるケハテから生まれた最初の子であるアロンの家系から出た者たちで、いわば、特別職でした。祭司たちはすべてアロンの家系で世襲制でした。祭司たちは会見の天幕における礼拝を実際に取り仕切っていく者たちでした。そして、この祭司を支えたのがレビ人なのです。つまりレビ人は祭司の指導の管理下にあったのです。礼拝を取り仕切る祭司のもとで仕える存在、それがレビ人たちだったのです。民数記3章5~7節で神はモーセに次のように告げています。「主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。」
ですから、レビ人は神に仕え、祭司に仕え、そしてイスラエルの人々に仕える者たち(奉仕者)だったのです。また、彼らが祭司職にかかわることは一切許されませんでした。民数記3章10節には「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とあります。それほどに祭司職は特別な職であったのです。
それなのにミカは、自分勝手に神の宮を設置し、そこに偶像を安置して、さらに資格のないレビ人を祭司に任命しました。こうしたことは、主の目には忌むべきことでしたが、ミカはそれを主からの祝福だと勘違いしたのです。

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。続く18章1節をご覧ください。ここにも出てきます。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」それで、彼らは自分の目で良いと見えることを行っていたからです。このことは6節でも言われていたことです。このことが何度も繰り返して記されています。この士師記の著者は、このミカの行為が、士師時代の無法状態を表す良い例としてあげているのです。イスラエル人の信仰は、祭司制度の混乱にまで及んでいたのです。

しかし、これは何も当時のイスラエル人だけの問題ではありません。現代の私たちクリスチャンにも問われていることです。自分の目に良いと見えることを行っている人は、すなわち、勝手な信仰生活をしている人は、偶然にも良いことがあると、それを神からの祝福を受けている証拠だと受け止めて喜びますが、それはただの勘違いであり、聖書信仰とは相入れないものです。そのような信仰は、遅かれ早かれ、神のさばきをその身に招くようになり、結局、信仰からも離れてしまうことになります。こんなはずではなかったのに・・・と。

次の18章を見るとわかりますが、やがてミカもそのさばきを受けることになります。自分が雇った祭司に裏切られ、彼が所有していた偶像が奪われてしまうことになるのです。彼が母親から盗んだ銀によって作られた偶像が、今度は他の人の手によって盗まれるというのは、何とも皮肉な話です。私たちはそういうことがないように、自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求めましょう。主のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。そのためにはよく聖書のことばを学び、主のみこころを求めましょう。自分の中にミカのように都合の良い信仰はないかどうか、吟味しなければならないのです。

 

エジプトについての預言 エレミヤ書46章1~28節

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聖書箇所:エレミヤ書46章1~28節(旧約P1376、エレミヤ書講解説教77回目)
タイトル:「エジプトについての預言」
今日は、エレミヤ書46章全体から学びます。44章までにおいて、エレミヤ書におけるユダの民とエルサレムに対する預言は終わりました。そして前回の45章では、エレミヤの書記をしていたバラクに対する励ましのメッセージが語られました。ここからは、諸国に民に対する預言が語られます。エレミヤは預言者としての召命を受けたとき、ユダの民に対する預言だけでなく、国々への預言者としても召されていました。1章5節にはこうあります。 
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
  それが、ここから終わりまで続くわけです。その最初がエジプトに対する預言です。そしてそれはペリシテ、モアブ、アンモン、エドムと続き、最後にバビロンに対して語られます。それは人の目には偉大で力強く見えるこうした国々も、実は、主なる神様の主権と支配によって成り立っていることを示すためです。私たちはとかく、信仰や教会に関すること以外においては、神様はあまり関わっていないかのように思いますが、そうではなく、この世のすべての領域において神様は主権をもって働いておられるのです。その神様の働きをご一緒に見ていきたいと思います。
 Ⅰ.何ということか、この有様は(1-12)
まず、エジプトについての預言です。1~12節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「46:1 諸国の民について、預言者エレミヤにあった【主】のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について。ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った。」
ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とは、前回の45章にもありましたが、B.C.605年のことです。その年にバビロンの王ネブカドネツァルがエジプトの王ファラオの軍勢と戦ってこれを打ち破りました。これはユーフラテス河畔のカルケミシュという町で起こった戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれています。バビロンはアッシリアと戦ってその首都ニネベを打ち破ると、その後アッシリアの残党がこのカルケミシュに移ったので、それを追ってカルケミシュに向かいました。しかし、そのバビロンの台頭を恐れたエジプトがバビロンに戦いを挑んだのです。それがこのカルケミシュでの戦いです。結果はエジプトの惨敗でした。その時の様子が3節以降に描かれています。
「46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵たちよ、馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて配置につけ。槍を磨き、よろいをまとえ。46:5 何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。──【主】のことば──46:6 足の速い者も逃げられない。勇士たちも逃れられない。北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。46:7 ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。46:8 エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』46:9 馬よ、進め。戦車よ、走れ。勇士たちは出陣せよ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引くルデ人よ。46:10 その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日。剣は食らって満ち足り、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の【神】、主に、いけにえが献げられる。46:11 おとめである娘エジプトよ、ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を用いても無駄だ。おまえには癒やしがない。46:12 国々は、おまえの恥辱のことを聞く。おまえの哀れな叫び声は地に満ちる。勇士が勇士につまずき、ともに倒れるからだ。」
5節には、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。─【主】のことば─」とありますが、このことばにエジプトの悲惨な状況が映し出されています。彼らはおじ惑い、うしろに退きます。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去ることになるのです。恐怖が彼らを囲むからです。エジプトを代表するのはナイル川ですが、彼らはかつてナイル川のように湧き上がり、地をおおうほどの勢力があると言って誇っていましたが、バビロン軍に敗北し、哀れな叫び声が地に満ちることになります。有志が有志につまずき、ともに倒れるのです。いったい何が問題だったのでしょうか。
10節をご覧ください。ここには「その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日」とあります。これは主が敵に復讐する日なのです。それは単にバビロン軍との戦いというのではなく、主が成された主との戦いなのです。主との戦いですから、エジプトがどんなに強くても勝てるはずがありません。その戦いの背後には、偉大な主の御手が働いているからです。
ところで、この「敵に復讐する日」とは何を指しているのでしょうか。何に対する復讐なのでしょうか。多くの学者は、これはこの戦いの4年前(B.C.609年)に、ユダの王のヨシヤがエジプトの王ファラオ・ネコに殺されるという事件があったのですが、それに対する復讐ではないかと考えています。しかしここではもっと広い意味での復習、エジプトが神に対して行った傲慢な態度に対する復讐であったと見た方が良いと思います。というのは、ここから諸国の民に対する預言が語られるわけですがそれをずっと見ていくと、どの国々に対しても共通している三つのことがあることがわかります。一つは、そうした国々は自分の財産や軍事力など、物質的な力に拠り頼んでいたという点です。二つ目のことは、彼らは天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいたという点です。そして三つ目のことは、イスラエルやユダに対して敵対したということです。エジプトの場合は、ヨシヤ王を殺したということがその中に含まれますが、それだけでなくこうした国々は他の点でも神に敵対しました。そのことに対する復讐なのです。
7節には、エジプトの軍隊はナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻いていたとあります。皆さん、「奔流」ってわかりますか? ゴーゴーと音をたてて激しく流れる川のことです。それは恐ろしさを感じるほどです。それだけ勢いがあるということです。それは全地を覆うほどの勢いです。8節には、「エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』」とあります。それは全地をおおい、町も住民も滅ぼし尽くすほどの勢いなのです。
しかしいくら強力な軍事力を誇り、この世を支配するほどの勢力があっても、それらのすべては神様のご支配の中にあることを覚えておかなければなりません。神様がエジプトに病を下せば、どれほど効き目のある薬を使っても何の役にも立ちません。神様が低くすれば、国々の中では辱めを受けることになるのです。国や民族を栄えさせたり衰えさせたりするのは神様であられるからです。ですから、自分の人生がどれほど栄えているようなときでもへりくだり、逆にどれほど低い位置に置かれているようなときでも落胆せず、神に信頼しなければなりません。最近、アメリカの大統領が各国に相互関税を科し世界経済が不透明な中、自国民を守ることは大切なことですが、自分たちの力を誇り、世界中の国々を自分たちに従わせようとする言動は、厳に慎まれなければなりません。聖書に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18、新改訳第3版)とあるように、そのような国は、やがて滅びていくことになるからです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。
あなたはどうですか。すべてのことがうまくいっていると思うとき、へりくだって神の主権を認めているでしょうか。逆にうまくいかず辛い中にあるとき、落胆せずに神を信頼していますか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)あなたがどこにいても、すべての道で主を認めましょう。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。
また、それは同時に、神の御心に反してエジプトというこの世と同盟を結ぼうとしたユダの民に対する復讐でもあったと言えます。彼らは主なる神ではなくエジプトに頼り、エジプトに下って行きました。そのユダの不従順に対する報復でもあったのです。神様に頼らず、この世とその力に頼るとき、神様は彼らが頼るものを滅ぼされるのです。この世の力、この世の富、この世の権力に頼ることは、崩れる城壁の上に立っていることと同じことなのです。私たちが頼るべきお方はすべてを支配しておられる主だけです。ただ生を見上げ、主に拠り頼みましょう。
Ⅱ.その名を万軍の主という王のことば(13-26)
次に、13~26節までをご覧ください。エジプトに対するさばきことばが続きます。13節には「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を討つことについて、主が預言者エレミヤに語られたことば。」とあります。12節までには、B.C.605年のカルケミシュの戦いにおいてエジプトがバビロンに敗北する様子が預言されていましたが、ここには、エルサレムが陥落後、バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトを打つことについての預言が記されてあります。
14節には、「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聴かせて言え。」とありますが、それは、エジプトはもちろんのこと、ミグドル、メンフィス、タフパンヘスといったエジプトが支配していた都市にもバビロンの勢力が及びます。
15節には「なぜ、お前の押す牛は押し流されるのか。それは踏みとどまり得ない。主が彼を突き倒されたからだ。」とありますが、「おまえの雄牛」とは、偶像のことです。バビロンによって、エジプトが頼りとしていた雄牛の像が押し流されて立てなくなるという意味です。ここでは、偶像の空しさが露呈されているのです。
また19節には「メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ。と、メンフィスがエジプトに住む娘にたとえられていますが、そうした美しい娘のようなメンフィスは荒れ果て廃墟となり、住む人が誰もいなくなるというのです。
20節の表現はおもしろいですね。「エジプトは、かわいらしい雌の子牛。しかし北からアブが襲って来る。」とあります。「かわいらしい雌の子牛」とはエジプトのことです。そして「北から襲って来るアブ」とはバビロンのことを指しています。アブであるバビロンが北からやって来て、雌の子牛であるエジプトを刺すのです。アブないです。これは、バビロンの軍勢がエジプトを襲い征服するという比喩的表現です。
22節もおもしろいです。「「彼女の声は逃げ去る蛇の音のようだ。敵が軍勢を率い、木こりのように、斧を持って入って来るからだ。」とあります。「彼女の声」とは敗走するエジプト軍が立てる音ですが、それが逃げ去る蛇の音のようだというのです。敵であるバビロン軍が木こりのように斧を手に持ち、森の木々を切り倒すように、エジプト人を切り倒すからです。そのようにエジプトはバビロンによって辱められ、彼らの手に渡されることになるのです。
問題は、なぜそのようなことになるのかということです。15節に戻ってください。3行目にこうあります。「主が彼を突き倒されたからだ」。また26節にもこうあります。「わたしは彼らを、そのいのちを狙う者たちの手に、バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す。」
皆さん、お気づきになりましたか。これは主ご自身がなさることなのです。私たちは歴史の中で起こったことや今、この時起こっていることについて、なぜこんなことになったのかとその原因を分析したり考えたりしますが、実は、そうした出来事の背後には主の御手があるのです。そこにも主が働いておられるということです。このことは、私たちをより謙虚にさせてくれるのではないでしょうか。すべてのことは主の御心のままに導かれているのです。それが良いことであっても悪いことであっても。それは、そこにすべてのことを働かせて益としてくださるという主ご自身のご計画があるからです。それがどういうことなのか私たちにはわからなくても、そこに主が働いておられることを認め、その主にすべてをゆだねることが、私たちも想像もできないほどの神様の栄光が現わされていくことにつながっていくのです。
今週も聖書の学びとお祈り回がありますが、たとえばそれは、前回学んだエズラ記6章にも見られることでした。そこにはバビロン捕囚から帰還したユダの民が預言者ハガイとゼカリヤが語る神のことばに励まされて神殿再建を始めたわけですが、そぐに妨害が入りました。その地の総督タテナイやシェタル・ボゼナ、その同僚たちの妨害に遭って工事が難航するわけです。彼らはペルシャの王ダレイオスに書状を送って、キュロス王からの命令が下った事実を調べてほしいと訴えました。すると、ダレイオス王はエクバタナというところで一つの巻物を発見し、そこに確かにキュロス王によって命令が下されたことを確認したダレイオス王は、タテナイたちに、神の宮の工事をそのままやらせておくようにと命じただけでなく、何とその宮の完成のために、彼らが取り立てた税金の中からその費用を支払って、間違いなくそれが完成するようにせよ、と命じたのです。まさに災い転じて福となる、です。タテナイたちは立てなくなってしまいました。彼らのそうした妨害のお陰でユダの民はますます確信が与えられ、必要も満たされて、ダレイオス王の第6年についに神の宮を完成させることができたのです。いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖書はこう告げています。
「これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」(エズラ6:22)
それは主が成されたからです。その背後に主が働いておられたのです。すべては主のご計画によるのです。
「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)
であれば、私たちはそこに主の御手があることを認め、主が働かれ、事を行わせてくださることを信じなければなりません。
それがこの46章18節で言われていることです。ここには、「わたしは生きている。­その名を万軍の主という王のことば ­」とあります。どういうことですか。ここには3人の王の名前が出ています。バビロンの王と、エジプトの王、そしてこの万軍の主という王です。バビロンの王とはだれですか。ネブカドネツァルです。ではエジプトの王は誰でしょうか。ファラオ・ネコです。しかし、それだけではありません。ここにはもう一人の王がおられます。それは万軍の主という王です。それは、神の御座の右で全世界を治めておられる王の王であられる主イエス・キリストです。バビロンの王ネブカドネツァルは、神の道具となってエジプトを攻撃するために用いられました。エジプトの王ファラオの名声と権威は一時天に届く勢いでしたが、今や彼の時代は過ぎ去りました。しかし、万軍の主という王は、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、エジプトの王や将軍、兵士たちを退けました。この方こそ王の王、主の主であられる方なのです。この方が、これらすべてのことをなされるのです。私たちは、神の御座で全世界を納めておられる万軍の主という王であられるイエスを信じて、この方に拠り頼まなければなりません。
あなたの人生のまことの王は誰ですか。イエス様だけがあなたを救うことができます。イエス様だけがあなたに神の国をもたらすことができるまことの王なのです。
Ⅲ.ヤコブよ、恐れるな(27-28)
ですから第三のことは、恐れるな、ということです。27~28節をご覧ください。「46:27 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、だれにも脅かされずに平穏に安らかに生きる。46:28 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
エジプトに対するさばきを語られた後で主は、イスラエルに回復のメッセージを語られます。それは27節にあるように、彼らの子孫を捕囚の地から救い出すという約束です。神様は全世界をさばいても、ご自身の選びの民を必ず救われます。神の救いの御業は、さばきと並行してなされるのです。それは1枚の紙の両面のような関係です。エジプトはさばかれますが、イスラエルは回復の恵みにあずかるということが、対照的に語られているのです。エジプトは滅ぼし尽くされても、イスラエルが滅ぼし尽くされることはありません。だから恐れるなと。エジプトに対する激しい神様のさばきの預言の中で、イスラエルに対する慰めのことばが語られているのはこのためです。この世はさばかれることはあっても、神の契約の民は必ず救い出されるのです。31章3節にこうあります。
「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」
これが神様の愛です。神様の愛は永遠の愛なのです。永遠の愛とは、いつまでも、です。それは止まることがありません。神の愛はどんなことがあっても止まることがないのです。あなたがどんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、ずっと愛してくださいます。あなたの状態とは関係ありません。あなたがどんなに堕ちても、だれもあなたを受け入れない状況でも、神の愛は永遠にあなたに注がれているのです。それはあなたが優れているからではありません。あなたが良い人だからでもない。それはただ神があなたを愛されたからです。
この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることができます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができるのです。回復することができます。イスラエルもバビロン捕囚という憂き目に遭いましたが、この愛によってもう一度回復することができるのです。いい言葉ですね。「回復」。英語では「restoration」と言います。もう一度神に立ち返り、やり直すことができる。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。
このみことばを読んだ後で、もしあなたが神様のみことばは真理であると信じているなら、神様はイスラエルを見捨ててはおられないということ、あなたを見捨ててはおられなんいということを信じなければなりません。そして「恐れるな」、「おののくな」と言われる神様のことばに信頼しなければなりません。どんなにエジプトにさばきが下っても、あなたは恐れてはならないのです。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。
それが28節で約束されていることです。「わたしが、あなたとともにいるからだ」。この主があなたとともにおられます。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。それなのに恐れたり、心配しているとしたら、それはあなたがこの神のことばを信じていないということです。ただ頭だけで信じているだけです。救い主であり、全能者であられる主が私の人生にも働いておられるということを信じていないのです。主は私たちのたましいだけでなく、私たちの人生も救ってくださいます。病んだ心も肉体もいやしてくださいます。さまざまな生活の問題にも答えを与えてくだいます。それなのに、熱心に教会に通い、神様を信じていると言いながら、神様がいないかのような生き方をしているとしたら、それは観念的に信じているだけであって、実際の生活において神様が生きて働いておられることを信じられないのです。口では主は全能者であると言いながら、実際には「でも、さすがにこれは無理でしょ」とか思っているわけです。
主はイスラエルの歴史において働かれ、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトをさばかれ、イスラエルに懲らしめを与えただけでなく、その中から救い出してくださいました。そしてやがてそこから救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。その主がこのように約束してくださいました。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
主は今も生きておられます。今も生きてあなたとともにおられ、あなたの人生のただ中に働いておられるのです。あなたが成功しても失敗しても、健康な時も病気の時も、主はあなたとともにおられます。であれば、何を恐れる必要があるでしょう。その名を万軍の主という王がともにおられるなら、私たちは失望落胆する必要はないのです。
ただ、一つのことを覚えておかなければなりません。それは28節の最後にあるように、懲らしめはあるということです。「ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
 神様は、あなたとともにいて、あなたを救ってくださいますが、あなたが犯した罪については懲らしめを与えられます。それはあなたを滅ぼすためではなく、あなたを聖めるためです。懲らしめを喜ぶ人はいないでしょう。しかし、懲らしめがもたらす結果を喜ぶことはできます。その結果とは回復と聖めだからです。へブル12章11節にこうあります。
「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」
すべての懲らしめや訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。回復と聖めがもたらされます。それによって、主は私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてくださるのです。それこそクリスチャンとしての本望です。ですからそこに希望を置き、たとえ現状が苦しくてもそこから逃げないで、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けたいと思うのです。