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その一生の間、神のことばに聞き従って エレミヤ52章1-34節

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2025年12月7日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書52章1~34節(旧約P1397、エレミヤ書講解説教88回目)
タイトル:「その一生の間、神のことばに聞き従って」
いよいよ、エレミヤ書の最後の章となりました。今日の説教のタイトルは「その一生の間、神のことばに聞き従って」です。
まず、51章の最後のところをご覧ください。ここには「これまでが、エレミヤのことばである。」とあります。ここまでがエレミヤのことばです。そしてこの52章はそうではありません。これはエレミヤのことばでなく、エレミヤ以外の誰かによって加筆されたものです。内容は、Ⅱ列王記24章18節~25章30節とほぼ同じです。書かれた時期は31節以降を見ればわかりますが、エホヤキンがバビロンの獄屋から出された後です。いったいなぜこの章がエレミヤ書に加えられたのでしょうか。いろいろな理由が考えられますが一番大きな理由は、これまでエレミヤが語ってきたことが成就したということ、その通りに歴史は動いたということを証明するためです。それが簡潔にまとめられているのです。神のことばは必ず成就します。だからこそ、神のことばは信頼するに値するのです。ですから、私たちは生涯神のことばに聞き従い、私たちに与えられた使命全うさせていただきたいと思うのです。3つのことをお話します。
第一に、ユダの王ゼデキヤの最後です。ゼデキヤの最後は実に悲惨なものでした。どうして彼はそのような最後を迎えたのでしょうか。それは彼が主のことばに聞き従わなかったからです。
第二のことは、エルサレムの最後です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされると、主の宮にあった青銅の柱や車輪付きの台などが、根こそぎバビロンに運び込まれました。どうしてこのような記述がエレミヤ書の最後に記されてあるのでしょうか。それはエレミヤによって語られたことが成就したことを示すためです。神のことばは必ず実現するのです。
第三のことは、ユダの王エホヤキンの最後です。彼はバビロンに投降し捕囚の民として連行されましたが、捕え移されて37年目に、バビロンの王エビル・メロダクによって解放され、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされ、その一生の間、いつも王の前で食事をすることができました。どうして彼はそのような扱いを受けたのでしょうか。それは彼が神のことば、エレミヤのことばに従ったからです。主のことばに従った結果、彼は最後に神のあわれみを受けたのです。
Ⅰ.ゼデキヤの最後(1-11)
まず、1~11をご覧ください。3節までをお読みします。「52:1 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。52:2 彼は、すべてエホヤキムがしたように、【主】の目に悪であることを行った。52:3 実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、【主】の怒りによるものであった。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。」
ここに、南ユダ最後の王ゼデキヤについて言及されています。南ユダ王国の歴代王図をご覧ください。彼は21歳で王となり、エルサレムで11年間、王でした。彼の母の名は「ハムタル」といい、リブナの出身のエレミヤの娘でした。エレミヤとあるのは、エレミヤ書を書いたエレミヤとは別人です。

(南ユダの歴代王図 (主ノ宮光「聖書資料館」)参照)
彼は、すべてエホヤキム王がしたように、主の目に悪であることを行いました。エホヤキム王はゼデキヤの異母兄弟で、B.C.605年にヨシヤ王がメギドの戦いで戦死するとその王位を継承しましたが、彼は主の目の前に悪を行いました。どれだけの悪を行ったのかについては、25章1~7節を見るとわかります。彼は主の預言者たちを通してしきりに語られた神のことばを聞こうとせず、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝みました。そのエホヤキムがしたように、ゼデキヤも主の目の前に悪であることを行い、主の怒りを引き起こしたということです。その後、彼はバビロンの王に反逆しました。神のみこころはバビロンの王に降伏することだったのに、彼は主のみこころに背き、バビロンの王に反逆したのです。
その結果はどうなりましたか?4~11節をご覧ください。「52:4 ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。52:5 こうして都はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていた。52:6 第四の月の九日、都の中で食糧難がひどくなり、民衆に食物がなくなった。52:7 そのとき、都は破られ、戦士たちはみな逃げて、夜のうちに、王の園に近い二重の城壁の間にある、門の道から都を出た。カルデア人が都を包囲していたので、彼らはアラバへの道を行った。52:8 カルデアの軍勢は王の後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いついた。すると、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。52:9 カルデアの軍勢は王を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王のところへ彼を連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。52:10 バビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみなリブラで虐殺した。52:11 さらに、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた。」
ゼデキヤの治世の第九年に、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築きました。B.C.588年のことです。これがゼデキヤ王の第十一年まで続きました。ですから、エルサレムは約2年半の間バビロン軍によって包囲されたことになります。いわば兵糧攻めにされたわけです。それでエルサレムは飢饉に陥りました。都の中の食料が尽きてしまい、食べ物がなくなってしまったのです。そのとき都は破られました。B.C.586年のことです。
バビロン軍が城壁を打ち破って町に侵入すると、ゼデキヤの側近たちは戦う気力をなくしてしまい、町から逃亡します。王の園と呼ばれるところに脱出口があって、そこから都を出てアラバへの道を行きました。それは死海に抜ける道でしたが、王の後を追っていたカルデアの軍勢によってエリコの草原で捕らえられると、リブラにいたバビロンの王のところへ連れて行かれました。リブラは、エルサレムから北に320キロのところにあります。するとバビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみなリブラで虐殺しました。さらに、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないでバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れたのです。
何と悲惨なことでしょう。どうしてこのような結果になってしまったのでしょうか。それは、ゼデキヤが神のことばに背いてバビロンに降伏しなかったからです。神のみこころは彼がバビロンの捕囚の民となることだったのに、彼はそれを拒みました。もし彼がエレミヤのことばに従って降伏していたら、このようにはならなかったはずです。しかし彼は神のことばに背き、偽預言者のことば従って最後までバビロンに反逆したのです。その結果、このような事態を招いてしまったのです。
確かに、バビロンに反逆することはユダの民の目には悪とは映らなかったでしょう。むしろ、南ユダ王国の独立を願っていた彼らにはすばらしいことだと映ったに違いありません。ですから、バビロンに反逆することはユダの人々の目では悪ではないかのようでしたが、主の目には悪だったのです。
皆さん、このことをよく考えたいと思います。私たちの目には悪ではなくても、主の目には悪であるということがあるのです。私たちは常に、それが主の目にとってどうなのか、それが主の目にとって前なのか悪なのか、正しいことなのか間違っているかを判断しなければなりません。歴史的な経緯がどうであるとか、この世の人たちがどう考えているとかではなく、それが主の目に正しいことなのかどうかを判断しなければならないのです。そうでなければ、それは主の目には悪であり、主の御怒りを引き起こすことになるのです。
ゼデキヤはバビロンの王に反逆しました。なぜそれが主の目に悪だったのでしょうか。なぜなら、主が預言者エレミヤを通してそのように語っておられたのにそれに聞き従わなかったからです。エレミヤは、バビロン捕囚はイスラエルの罪が招いた結果であって避けることはできないのだから、バビロンに逆らわないで主のさばきを甘んじて受けるように、捕囚の民としてそこで主の取り扱いを受けるようにと勧めましたが、ゼデキヤはそれを受け入れませんでした。偽預言者パシュフルのことばに惑わされてバビロンに反逆したのです。その道を選択したのです。
皆さん、私たちの前にも同じような選択肢が置かれています。それは主に従うのか、それとも自分の考えに従うのかという選択です。そのような決断が私たちの日々の生活の中で瞬間、瞬間、問われているのです。そして主は、私たちが死ではなくいのちを、呪いではなく祝福を選ぶことを願っておられます。なぜなら神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるからです。あなたはどちらの道を選びますか。主に従い、主に喜ばれる道ですか、それとも、自分が良いと思っている道ですか。人の目に麗しく見える道ですか。私たちは人ではなく、主に喜ばれる道を選びたいと思います。
Ⅱ.エルサレムの最後(12-30)
次に、12~30節をご覧ください。ここにはエルサレムの最後について記されてあります。12~13節には、「52:12 第五の月の十日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、52:13 【主】の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。」とあります。
これはB.C.586年のことです。これもエレミヤが前もって預言していたことでした。38章18節には、「あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、あなた自身も彼らの手から逃れることができない。」とあります。その通りになったのです。エルサレムは火で焼かれ、神殿も完全に焼失してしまいました。また、エレミヤのことばを拒んでバビロンに降伏しなかった者たちは虐殺されました。しかし、エレミヤのことばを聞いて素直にバビロンに降伏した者たちはいのちを免れ、特に危害を加えられることなく、バビロンに捕え移されました。貧しい民の一部は残され、ぶどうや農産物を育てる農夫として使われました。そこにバビロン軍が駐在するために食料が必要だったからです。
17~23節をご覧ください。「52:17 カルデア人は、【主】の宮の青銅の柱と、車輪付きの台と、【主】の宮にある青銅の「海」を砕いて、その青銅をみなバビロンへ運んだ。52:18 また、灰壺、十能、芯取りばさみ、鉢、平皿、奉仕に用いるすべての青銅の器具を奪った。52:19 また親衛隊の長は、小鉢、火皿、鉢、灰壺、燭台、平皿、水差しなど、純金や純銀のものを奪った。52:20 ソロモン王が【主】の宮のために作った二本の柱、一つの「海」、車輪付きの台の下にある十二の青銅の牛、これらすべての物の青銅の重さは、量りきれなかった。52:21 その柱は、一本の柱の高さが十八キュビト、その周囲は十二キュビト、その厚さは指四本分で、中は空洞になっていた。52:22 その上の柱頭は青銅で、一つの柱頭の高さは五キュビトであった。柱頭の周りに格子細工とざくろがあって、すべて青銅であった。もう一本の柱も、そのざくろも、これと同様であった。52:23 周りには九十六のざくろがあり、周りの格子細工の上には全部で百のざくろがあった。」
これはⅠ列王記7章も記されてあることですが、どうしてエレミヤ書の最後にこのような記述があるのでしょうか。はたから見たらどうでもいいような内容のように思えますが、そのようなことがわざわざ最後に記述されてあるのです。
ここに出てくる器具はみな神殿で使われていた祭具です。それらには見事な装飾が施されていました。そのほとんどは青銅のものばかりでした。純金や純銀のものはすでにバビロンに運び込まれていたので、最後に残っていた青銅のものが運ばれました。どうしてこのような詳細な記述があるのかというと、28章で見た預言者エレミヤと偽預言者のハナヌヤの論争を思い起こしていただくとわかりますが、どっちが本当の主の預言者かを示すためです。エレミヤは、神殿に残された器具はすべてバビロンに運ばれると預言しましたが、ハナヌヤは何と言いましたか?彼はそうではないと言いました。彼はバビロンに運ばれた器具は2年のうちに戻されると預言したのです(28:3)。どちらが言ったことが正しかったでしょうか。エレミヤです。エレミヤが預言した通りになりました。そのことを示しているのです。
特筆すべきことは、21節にある2本の青銅の柱です。まさかこんなに大きな物が運ばれるなんてだれも想像できなかったでしょう。21節にはそのサイズが記されてありますが、それは高さが18キュビト、その周囲は12キュビト、その厚さは指4本分で、中は空洞になっていました。1キュビトは44.5センチですから、その高さは約8メートル、周囲は約5メートルになります。相当の大きさです。コンクリ―トの電柱くらいの巨大な柱です。それらがことごとくバビロンに運び入れられたのです。
どうしてそんなに巨大な青銅の柱までも運び込まれたのでしょうか。それは主がそのように言われたからです。たとえそれが非現実的なことでも、人間的な感覚ではあり得ないことのようなでも、主が語られたことは必ず成就するのです。だから私たちも確信をもって、大胆に神のことばを伝えなければなりません。周りの人たちは、クリスチャンは何て馬鹿馬鹿しいことを信じているんだろうと思っているかもしれません。あまりにも非現実的だと。世の終わりが近いとか、世の終わりが来るとその前にクリスチャンは地上から引き挙げられて空中で主イエスと会い、いつまでも主とともにいるようになるとか、荒唐無稽な話をしていると言うでしょう。そんな馬鹿な話はないと。でも神のことばである聖書がそのように言っているのです。たとえ非現実的なことのようであっても主のことばがそのように告げているなら、私たちは主のことばを信じ、その上に立たなければなりません。なぜなら、草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに堅く立つからです。
それはこの歴史を見てもわかります。たとえば、マルコ13章1~2節を開いてみてください。「13:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」」
これはイエス様が世の終わりについて教えられたことです。イエス様が宮から出て行かれるとき、弟子の一人がこう言いました。「なんとすばらしい石でしょうか。なんとすばらしい建物でしょうか。」するとイエス様はこう言われました。「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」積まれたまま残っていることは決してないと言われたのです。まさか、それらの石は600トンもあるんですよ。そんな石が崩されるはずがありません。でもイエス様はこの石が崩されずに、積まれたままで残っていることはないと言われたのです。あり得ません。世界七不思議に数えられた建物ですよ。これが崩されるなんて考えられません。でも実際にイエス様が言われた通りになりました。A.D.70年にローマ帝国によってエルサレム神殿は崩されてしまいました。常識では考えられないことが起こったのです。
それは、私たちへの教訓でもあります。私たちが信じられないようなことでも、神のことばは必ず成就するのです。ですから、私たちもこの世の常識にとらわれたり、目に見えるもので判断したりしないで、聖書は何と言っているのかを見て、判断しなければなりません。また、世の終わりになるとハナヌヤのような偽預言者が大勢現れるとイエス様も言われましたが、そうした偽預言者に警戒し、必ず聖書の教えに照らし合わせて、その人物と教えを吟味しなければなりません。そのためには、みことばを蓄える必要があります。
次に、24~27節をご覧ください。ここには、神のことばに聞き従わなかった霊的リーダーの最後が記されてあります。それは祭司のかしらセラヤや次席祭司ゼパニヤ、神殿内の秩序を見張る人たち、戦士の指揮官であった一人の宦官、王の七人の側近たち、軍の長の書記、都にいた民衆60人です。彼らは親衛隊長ネブザルアダンによってリブラにいたネブカドネツァルのもとに連れて行かれ、そこで虐殺されました。これもエレミヤが13章13~14節で預言していた通りです。王や祭司だからと言っていのちを免れると思ってはなりません。たとえ王であっても、たとえ祭司であっても、神のことばに聞き従わなければさばきを受けることになるのです。
28~30節には、捕囚の民の運命について記されてあります。ネブカドネツァルがバビロンに捕え移した民の数の合計は、四千六百人でした。これはⅡ列王記24章14~16節にある数と大分違うことから矛盾しているという人もいますが、これは矛盾ではありません。数え方が違うだけです。エレミヤ書にある数は連行された民の全員の数というよりも、成人男性の実数だったのでしょう。
しかし、それよりも重要なことは、これらの民はエレミヤが語る神のことばを信じてバビロンに降伏し、捕囚の民となったということです。それは見た目には全てを失うことであり、故郷を追われて外国の地に強制移住させられるということですから、幸せな生活を期待することなどはできなかったでしょう。何をされるかわかりません。不安と恐怖でいっぱいだったに違いありません。それでも彼らはエレミヤを通して語られた主のことば聞き従ったのです。
結果はどうでしたか。29章4~7節にこうありました。「29:4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。29:5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。29:6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。29:7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』」
 神はバビロンの地で彼らの生活を守ってくださったばかりでなく、もう一度エルサレムに帰ることができるように備えてくださいました。それは70年という期間限定の捕囚だったのです。これがユダの民に対する神の計画だったのです。52章に登場するこの捕囚の民は、神のことばに聞き従ったので、神のあわれみを受けることができたのです。神のあわれみは尽きることはありません。神のことばに聞き従う者に注がれるのです。
Ⅲ.エホヤキンの最後(31-34)
最後に、31~34節を見て終わりいたと思います。「52:31 ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十五日、バビロンの王エビル・メロダクは、即位した年のうちにユダの王エホヤキンを呼び戻して、獄屋から出し、52:32 優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。52:33 彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。52:34 彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。」
ここには、ユダの王エホヤキンについて記されてあります。エホヤキンはユダの王エホヤキムの子どもで、ゼデキヤの甥にあたります。彼は18歳でユダの王となりましたが、わずか3ヶ月と10日でバビロンに降伏して捕囚の民となりました。B.C.597年のことです。彼はバビロンに捕え移されると獄屋に幽閉されました。それから11年後のB.C.586年にエルサレムが崩壊したという知らせを聞くのです。もう帰るとこころはない。自分の王宮はありません。それを聞いた彼は意気消沈したことでしょう。もうこのまま一生獄屋で過ごし、日の目を見ることなく、劣悪な環境の中で老いて死んで行くのかと、絶望したに違いありません。
しかし、31節からのところを見てください。37年目の12の月の25日に転機が訪れます。バビロンの王エビル・メロダクが王に即位すると、王はその年のうちにエホヤキンを呼び出して、獄屋から出し、優しいことばをかけて、バビロンで彼とともにいた王たちのどのくらいよりも、彼の位を高くしたのです。そして囚人服を脱がせ、その一生の間、いつも王の前で食事をしたのです。その生活のすべては、死ぬまでその一生の間、バビロンの王から支給されていたのです。何があったのでしょうか。これは破格の厚遇です。獄屋に入れられた37年目というのは、彼が55歳の時でした。それから彼がどれくらい生きたのかわかりませんが、仮に80歳まで生きたとすれば、残りの25年間をそのように暮らすことができたということです。いったい何があったのでしょうか。
 ある人は、バビロンの王として新しく即位したこのエビル・メロダクがイスラエルの真の神を信じて回心したのではないかと考えています。彼の父ネブカドネツァルがイスラエルの神を信じて回心していたように、彼もバビロンにいた信仰者たちの影響を受けて回心したのではないかというのです。
 またある人は、このエビル・メロダクは一時、父ネブカドネツァルの怒りをかって投獄されたことがありましたが、それが、エホヤキンが幽閉さていた獄中だったのではないかと考えています。そこで彼はエホヤキンと知り合い親しくなっていたので、晴れてエビル・メロダクが王になった時エホヤキンを解放して親切にしてあげたのではないかというのです。
 聖書にはその理由が書かれていないので真相はわかりませんが、ただ一つ確信をもって言えることは、エホヤキンはそんなに良い王ではありませんでしたが、エレミヤが語った主のことばに従ってバビロンに降伏し、捕囚の民としてバビロンに来たということです。その一点だけは神に従ったので、神が彼を祝福してくださったのではないかということです。このエホヤキンについては既に見てきたように、そんなにいい王ではありませんでした。というよりも、はっきり言って悪い王でした。24章30節には、それゆえ彼は「子を残さず、一生栄えない男」と呼ばれたほどです。彼の子どもは王位を継ぐことはできませんでした。それでダビデ王家はこのエホヤキンをもって絶えてしまうわけです。王族としての血統が絶え普通の人になったのです。その子孫がイエス様の父ヨセフです。マタイ1章にある系図を見るとわかります。そんな彼が55歳になった時、神のあわれみ受けたのです。なぜ?神のことばに聞き従ったからです。Ⅱ列王記24章12節にこうあります。
「ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。」
 勝ち目のない相手に降伏するのは当然かと思われますが、エホヤキンには選択する権利がありました。最後まで徹底抗戦をしてバビロンに反逆するのか、それともエレミヤを通して語られた主のことばに従ってバビロンに降伏するのかという選択です。ここには「降伏したので」とあります。何気ないことばですが、非常に重要な言葉です。これは彼の人生を左右する決定的なことばでした。彼は手の付けられない悪い王でしたが、バビロンに降伏することを選んだので、主は彼をあわれんでくださったのです。
 彼は37年という長きに渡り獄中生活を強いられましたが、37年目にして奇跡が起こりました。その獄屋から釈放されたのです。皆さん、何年かかっても神の約束は必ず成就します。神のことばに聞き従ったからといって、すぐに自分の思うようになるとは限りません。それは時間を要するかもしれない。でもちょうど良い時に、神が引き上げてくださいます。私たちが想像もできないような方法で。
南ユダ最後の王ゼデキヤと比較してください。彼の最後は悲惨なものでした。それは最後まで主のことばに従わなかったからです。しかし、エホヤキンの最後はどうでしたか?全く対照的な終わり方です。彼は37年目の第12の月の25日に、バビロンの王エビル・メロダクに呼び戻され、獄屋から釈放されました。そしてバビロンで彼とともにいた王たちのどのくらいよりも高いくらいに就き、その一生の間、いつも王の前で食事をすることができました。彼の生活費は、死ぬ日まで一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されました。なぜ、そんな厚遇を受けることができたのでしょうか?彼が主のことばに聞き従ったからです。
私たちもエホヤキンのように悪い王かもしれません。一生栄えない男という烙印を押されても仕方がないような者です。それにもかかわらず、神のことば、聖書のことばを信じてイエス・キリストを救い主として受け入れただけで、神のあわれみを受けました。まさにエホヤキンの37年目の第12月の25日は、私たちを罪から救い、ご自身の救いに与らせるために、神が人となって来られたクリスマスを象徴するような出来事ではないでしょうか。こんな者でも神のあわれみを受けることができたのです。これが神の計画です。神の計画はエレミヤを通して私たちにはっはりと示されました。それは29章11節にあるように、「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
これがあなたに対する神の計画です。だから、たとえあなたの現状がどんなに苦しくても、たとえ自分の思うようにいかないようでも、神は必ずあなたを顧みてくださると信じて、どこまでも神のみことばに従わななければならないのです。そのために37年かかるかどうかほかりませんが、確かなことは、終わってみたら感謝、終わってみたら幸せだったと言える生涯を、主は計画しておられるということです。だからあきらめないでください。あなたも一生、神のみことばに聞き従い、神からの恵みを受ける者であってほしいと思います。これがエレミヤ書全体を通して、神があなたに願っておられることなのです。

力尽きたバビロン エレミヤ51章47-64節

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聖書箇所:エレミヤ書51章47~64節(旧約P1395、エレミヤ書講解説教87回目)
タイトル:「力尽きたバビロン」
これまでずっとエレミヤ書を学んできましたが、いよいよ最終章に近づいてきました。エレミヤ書は52章までありますが、52章はこれまで学んできたユダ王国の滅亡に関するバビロン捕囚の出来事が改めて記録されてありますが、その部分は誰かによって後にエレミヤ書に付加されたものです。従って、エレミヤのことばとしては今回が最後となります。64節の最後に、「ここまでが、エレミヤのことばである。」とある通りです。エレミヤの最後のことばは何だったのでしょうか。64節にはこうあります。
「このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして、彼らは力尽きる。」
それはバビロンの滅びでした。バビロンは沈み、浮かび上がることはありません。彼らは主がもたらすわざわいを前にして、力尽きるのです。この「彼らは力尽きる」という言葉ですが、新改訳第三版では「彼らは疲れ果てる」とあります。意味は同じですが、「疲れ果てる」の方がわかりやすいかもしれませんね。バビロンは沈み、浮かび上がることはありません。彼らは主がもたらすわざわいのために、疲れ果てるのです。
しかし、神の民はそうではありません。神の民はどんなに沈められても再び浮かび上がります。七転び八起きということわざがありますが、まさに七転び八起きです。決して力尽きることはありません。疲れ果てることはないのです。バビロン捕囚ならぬ罪の束縛から解放された者は、もう罪に悩んだり、苦しんだりすることはないからです。今日はこのことについて3つのことをお話します。
第一に、その時代が来るということです。その時代とは、バビロンが滅びる時のことです。その時バビロン捕囚から解放された者は、エルサレムに帰還することになります。ですから、立ち止まってはなりません。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に思い浮かべなければなりません。
第二のことは、それは必ずなるということです。なぜなら、主は報復の神だからです。主はバビロンに報復されるので、バビロンは必ず力尽きることになります。それは主がなさることです。私たちがすべきことではありません。ですから、私たちは先走った判断をして人をさばくようなことをしないで、さばきを主にゆだねなければなりません。
第三のことは、バビロンは沈み、力尽きても、神の民であるクリスチャンは決して力尽きることはないということです。イエス・キリストがその重荷を負ってくださったからです。だからこそ私たちはイエス様から力をいただいて、天のエルサレムに向かって進んで行くことができるのです。
Ⅰ.その時代が来る(47-53)
まず、47~53節をご覧ください。47~48節には、「51:47 それゆえ、見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはバビロンの彫像を罰する。この全土は恥を見、刺し殺された者はみなそのただ中に倒れる。51:48 天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからだ──【主】のことば──。」とあります。
「その時代が来る」とは、バビロンが倒れる時代が来るということです。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからです。これはメディアとペルシャの連合軍のことを指しています。彼らはバビロンに来てこれを荒らすので、バビロンは倒れることになるのです。すると、天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌うことになります。なぜでしょうか。
その理由が、49~51節にあります。それは、バビロンがイスラエルをさんざん苦しめたからです。これはその報復なのです。神は必ず復讐されるのです。それは過去においてそうだったというだけでなく、未来においてもそうなるということです。「その時代が来る」というのは終末において起こることをも預言しているからです。黙示録18:2に「倒れた。大バビロンは倒れた。」とありますが、それはこのことです。世の終わりにまると、悪の象徴であるバビロンは滅びるのです。その時、天にあるものは、黙示録19章にあるように主をほめたたえ、喜び踊るようになるのです。子羊との婚礼の時が来たからです。ですから、50節にこうあるのです。
「剣を逃れた者よ、行け。立ち止まるな。遠くから【主】を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。」
剣を逃れた者とはユダの民、イスラエルのことです。彼らは神のさばきから逃れることができました。それゆえ、ただちにその地を出なければなりません。立ち止まってはならないのです。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に思い浮かべなければなりません。捕囚の民にとってエルサレムを思い浮かべることは辛いことでした。なぜなら、他国人が主の宮に入り、そこを汚したからです。しかし、52節と53節にあるように、主は必ずバビロンの偶像を罰するという約束を与え、民を慰めます。「51:52 それゆえ、見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはその彫像を罰する。刺された者がその全土でうめく。51:53 たとえバビロンが天に上っても、たとえ、砦を高くして近寄りがたくしても、わたしのもとから荒らす者たちがそこへ行く。──【主】のことば。」
それは、私たちにも言えることです。罪の束縛から解放された者は、そこに立ち止まってはなりません。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に浮かべて前進しなければならないのです。そこに辿り着くまでにはいろいろなことがあるでしょう。踏みにじられたり、馬鹿にされたり、あからさまに罵られることもあるかもしれません。そういう思いをしながらも、遠くから主を思い出し、天のエルサレムを心に思い浮かべ、て前進しなければならないのです。
皆さんは「天路歴程」という本を読んだことがありますか。この本は、17世紀にジョン・バンヤンという人によって書かれた本です。バンヤンは許可なく説教をしたという罪で投獄されましたが、その獄中で書いたのがこの本です。
この物語の主人公のクリスチャンは、「自分の汚れた魂を救うためにはいったいどうすればよいか」と悩みます。すると一人の伝道者に出会いアドバイスをもらうんですね。「あの希望の光を目指してまっすぐに進みなさい」と。それで彼は「滅びの町」から逃れて天国への旅を始めますが、その中でイエス・キリストと出会い、自分の重荷をすべて十字架の御許に下すことができました。クリスチャンになったのです。しかし、天国への旅はさらに続きます。その途中で様々な試練や誘惑に直面します。最後の試練は、死の川を渡ることでした。それは辛く、苦しい川でしたが、「あなたが水の中を過ぎる時も、わたしはあなたとともにてる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)の御言葉に励まされ、ついにあの希望の光、天のエルサレムにたどり着くのです。
こうしてクリスチャンの巡礼の旅は終わりますが、これを書き終えた時、ジョン・バンヤンは次のようなことばを書き残しています。
 「私はまだこの荒野にたたずんでいたのです。私はため息をついた後で祈りました。ああ、神様、私の巡礼の旅を早く終わらせ、無事に天の御国に導いてください。」
 ジョン・バンヤンは、まさに主に思いを馳せ、天のエルサレムを心に思い浮かべてこの地上の生涯を歩んだのです。
それは私たちも同じです。私たちもやがて天に帰ります。そこには神がともにおられ、あなたの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。もはや死はなく、悲しみも、叫び、苦しみもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。ここに真の希望があります。だからこそ、私たちは今、前に進むことができるのです。確かにこの地上にあっては困難や苦難を避けることはできません。でも、約束の地、天のエルサレムに辿り着くことができるなら、すべてのことが喜びに変えられるでしょう。
私たちは今、「天路歴程」、その巡礼の旅を続けているのです。今の悲しみはいつまでも続くものではありません。その時代は必ず来ます。バビロンは倒れ、私たちは天のエルサレムに帰るのです。そのことを忘れないでください。この世というバビロンから解放された者として、遠くから主を思い出し、エルサレムに思いを馳せて、進んでいかなければならないのです。
Ⅱ.主は報復の神(54-58)
次に、54~58節をご覧ください。バビロンから、破滅の音が聞こえてきます。それは大波が襲う時のような響きです。荒らす者が攻めて来て、その勇士たちは捕えられ、その弓も折られるからです。主はその首長たちや知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせ、永遠の眠りにつかせるので、彼らは目覚めることはありません。
58節をご覧ください。ここには、「万軍の【主】はこう言われる。「バビロンの厚い城壁は完全にくつがえされ、その高い門にも火が放たれる。国々の民は無駄に労し、諸国の民は、ただ火に焼かれて、力尽きる。」とあります。
このようにして、バビロンは完全に崩壊することになります。難攻不落と呼ばれたバビロンも完全にくつがえされ、ただ火に焼かれて、力尽きるのです。注目すべきことは、どうしてそのようなことが起こるのかということです。56節をご覧ください。ここには「主は報復の神であり、必ず報復されるからだ。」とあります。
皆さん、主は報復の神です。自らを神と等しい位置に置く者に対して、必ず復讐されるのです。このことはこれまでも何度も語られて来たことです。そのバビロンへの報復として主が成さるわけです。それなのに、私たちは自分で報復しようと思うことがあります。しかし、それは私たちがすることではなく、神ご自身がなさることです。さばきを主にゆだねなければなりません。そうすれば、主はご自分の時に、ご自分の方法でさばいてくださいます。それがたとえ自分の方法やタイミングとは違っても、主は完璧なタイミングで、完璧な方法でなさってくださるのです。
パウロもローマ人への手紙の中でこう言っています。「12:19愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。12:20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」12:21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)
私たちは、人に批判されたり、中傷されたり、理不尽な扱いを受けたりする時、怒りが湧き上がってくることがあります。どうしても感情的になってしまうのです。そんな時どうすれば良いのでしょうか。自分で報復するのではなく、神の怒りに任せるのです。怒りは罪ではありませんが、罪へと誘われやすいからです。
ダビデは、親切にしたナバルが自分を罵(ののし)っている事を耳にすると、すぐさま、報復の行動を取ろうとしました。しかし、賢明なナバルの妻アビガイルの機転と進言によって、自分で復讐し神の前に罪を犯す事を思いとどまりました。怒りは、底に憎しみが潜み、周囲に害毒を撒き散らします。ナバルがダビデを罵(ののし)った事も、神の許しのもとで起きたことでした。ダビデが神の視点に立ち、それを見ていたなら、軽率な行動に走る事から守られたでしょう。しかしこの事でダビデは学びました。後にシムイに呪われた時、冷静に対処することができました。報復しようとする部下に「放っておけ。彼に呪わせよ。主が彼に命じられたのだから」と言えたのです。これはダビデが学んだことです。「復讐はわたしのする事である。わたしが報いる」と。だから神の怒りに任せよと。さらには、善をもって悪に打ち勝ち、侮辱をもって侮辱に報いず祝福を与えよと。それは自分には不可能なことですが、内におられる聖霊がして下さいます。私たちはすべてを知りませんが、主はすべてを知っておられます。私たちは限られた情報とか、限られた知識で判断して、さばこうとしますが、主はすべてのことを完全に知っておられるので、正しいさばきをすることができます。
ですから、自分で復讐してはいけません。復讐は主がなさいます。神のさばきにゆだねなければなりません。このバビロンに対するさばきは、主の報復だったのです。
Ⅲ.力尽きたバビロン(59-64)
最後に、59~64節をご覧ください。ここまでが、エレミヤのことばです。エレミヤは、58節までにバビロンに対する預言を語り終えますが、その後で、この巻き物をある人物に託します。それは59節に出てくる「マフセヤの子ネリヤの子セラヤ」という人です。この人はエレミヤの書記をしていたバルクの兄弟だと思われます。というのは、バルクの父親の名前も「ネリヤ」だったからです。ネリヤという同じ父を持つ兄弟がバルクとこのネリヤだったのでしょう。ここには、彼が「宿営の長であった」とありますから、政治的に近い地位にある人物であったことがわかります。
エレミヤは、バビロンに下るすべてのわざわいが記された1つの巻物をセラヤに託してこう言いました。61~64節です。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、51:62 こう言いなさい。『【主】よ。あなたはこの場所について、これを滅ぼし、人から家畜に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てた地とする、と語られました。』51:63 そしてこの書物を読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、51:64 こう言いなさい。『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。』」
エレミヤはこれまでもいろいろな実物を使って預言しました。それは行動預言と呼ばれるもので、その行動を通して神のことばを預言するというものです。時には縄とかせを作り、それを首につけてゼデキヤ王とユダの民に「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。」(27:12)と語ったこともありました。ここでも、セラヤがゼデキヤとともに捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたら、そこでバビロンについて主が語られたことばが書き記された一つの書物を注意深く読み、それを読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、「このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。」と言うようにと命じました。それは、バビロンは沈み、二度と浮かび上がれないということを象徴していました。あれほど権勢を誇ったバビロンでも、最終的には力尽きるということを、彼らの印象に残るように語られたのです。
しかし、それとは対照的に、主を待ち望む者は新しく力を得て、鷲のように翼をかって上ることができます。どんなに沈められても必ず浮かび上がります。もう滅ぼされた、もう二度と浮かび上がることはないだろうと思われても、必ず浮かび上がるのです。それはイスラエルの歴史を見てもわかります。彼らはA.D.70年にローマ帝国の迫害によって全世界に散らされて祖国を失うと、もう再起ができない状態になりましたが、何とそれから1900年後に再び祖国に戻り国を復興したのです。考えられません。1900年間も世界中に散り散りバラバラになっていた流浪の民が、もうだれもがイスラエルという国名も忘れていたのに、1900年という時空を経て再興するなんて。でも、本当にそうなりました。どうしてそのようになったのでしょうか。神が約束しておられたからです。神の約束は一つも違わずみな成就します。それは近い未来においてばかりでなく、遠い未来においてもそうです。現代の私たちの時代にも成就しているのです。
イスラエルに敵対した国々はことごとく滅ぼし尽くされました。これも聖書に書かれてある通りです。神はアブラハムに対して「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」と約束されましたが、そのとおりになったのです。聖書に記された神のことばの通り、すべての歴史が動いているのです。それはこれからも同じです。必ずその通りになります。神のことばの通りにバビロンは力尽きましたが、神のことばの通りにイスラエルは復興しました。ですから、神の民は疲れ果てることはないのです。これは特に罪について言われていることです。イエス様はこう言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
救い主イエスを信じている人は何と幸いでしょうか。その人は、疲れ果てることがないからです。イエス様がその重荷を負ってくださいました。十字架の上で。イエス様が十字架で死んでくださったのは、あなたを罪から解放するためでした。ですから、あなたがイエス様を信じるなら、あなたは罪というバビロンから解放されるのです。もう罪に悩むことはありません。苦しむことはありません。あなたは罪から解放されたからです。ギリシャ語ではそれを「εὐαγγέλιον,エウアンゲリオン」と言います。これは、「良い(eu- エウ、”good”)知らせ(-angelion アンゲリオン、”message”)」、”good news” という意味で、「福音」のことです。皆さん、何が良い知らせなんですか。これが良い知らせです。あなたは罪から解放されました!これが良い知らせです。あなたのすべての罪は赦されました。あなたはもう疲れ果てることはありません。罪責感に苛(さいな)まれることもありません。いつまでも過去のことでくよくよしたり、後悔したり、苦々しい思いを抱いたり、恨み、つらみ、憤りにかられる必要はないのです。そういう生活は疲れ果てます。あなたから精力を奪っていきます。前に進むどころか、後ろ向きにしか生きることができません。でもあなたはそこから解放されました。イエス様があなたを招いてくださったからです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と。
これはすべての疲れた人、重荷を負っている人に呼び掛けられていることばです。どんな人でも、どんな罪でも赦されます。どんな罪の重荷を抱えていても、イエス・キリストがその罪を負ってくださいました。十字架の上で。ですから安心してください。そして、この招きに応答してください。そうすれば、あなたも疲れ果てた人生から、力尽きた人生から、すぐに解放されます。あなたの疲れから回復はリポビタンDではなく、イエス様からもたらされます。それはたましいの回復からもたらさるからです。そしてイエス様があなたを休ませてくださいます。
ここはまだ真の意味での神の住まいではありません。これは仮の住まいです。教会は神の家ですが、究極的な神の家ではありません。究極的な神の家は天にあります。そこが私たちのほんとうの住まい、私たちの家です。私たちはそこを目指して生きています。そしてそこを目指して生きる人は、決して疲れ果てることはありません。この地上で生きなければならないとしたら、疲れ果てるでしょう。そこにはどこにも心休まるところはないからです。
でも私たちにはこのすばらしい知らせが与えられています。イエス様がたましいの疲れを休ませてくださいます。真の回復をもたらしてくださいました。このすばらしい知らせを、一人でも多くの人に知らせたいですね。あなたはこう罪から解放されました。バビロン捕囚から解放されたんですよ。バビロンは沈み、力尽きました。浮かび上がることはありません。でもあなたは大丈夫です。必ず回復します。あなたがイエスを信じるなら、沈んでも、必ず再び浮かび上がります。何度転んでも、起き上がります。七転び八起きの人生が、あなたにも約束されているんです。それはあなたがイエス様を救い主と信じたから。信じて罪から解放されたからです。それはこれからも同じです。あなたの巡礼の旅、天のエルサレムへの旅には様々な試練や苦難もあるでしょう。でも、あなたは必ず乗り越えることができます。だってイエス様がともにおられるんだから。ともにいて力を与えて助けてくださるんだから。あなたは決して疲れ果てることはありません。そんな人生があなたにも約束されているのです。このすばらしい人生の旅を、イエス様とともに、天の御国を目指して、歩ませていただきましょう。

その中から出て、自分自身を救え エレミヤ書51章11~46節

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聖書箇所:エレミヤ書51章11~46節(旧約P1391、エレミヤ書講解説教86回目)
タイトル:「その中から出て、自分自身を救え」
今日、私たちに与えられている御言葉は、エレミヤ書51章11~46節です。50章からバビロンに対するさばきの宣告が語られていますが、今日はその続きとなります。今日のメッセージのタイトルは、「その中から出て、自分自身を救え」です。45節にこうあります。「わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。」
それは、その前の6節でも勧められていたことでした。「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、【主】の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。」主はバビロンを滅ぼされるので、そこに留まって一緒に滅ぼされることがないように、その中から逃れるようにということです。そのことが繰り返して勧められているわけです。
このように繰り返して語られているということは、それだけ重要であるということです。バビロンから出ることがどうしてそれほど重要なのでしょうか。今日は、このことについて3つのポイントでお話します。
第一のことは、主はご自分にかけて誓われたことを必ず成し遂げられるということです。すなわち、主は必ずバビロンを滅ぼすということです。
第二のことは、たとえ理解できなくても従わなければならないということです。イスラエルを懲らしめる道具として用いられたバビロンが裁かれるのはおかしいのではないですか。それは主のご計画であって、そのために用いられたのに、そのバビロンがどうして滅ぼされなければならないのですか。全く理解できません。しかしたとえあなたの頭で理解できないことであっても、主が命じておられるならばそれに従わなければなりません。
第三のことは、だから、バビロンの中から出て、自分自身を救えということです。そうでないと、この世から聞こえてくるうわさによってあなたの心が弱くなってしまうからです。あなたが聞かなければならないのはこの世の声ではなく主なる神の声なのです。
Ⅰ.その御名は万軍の主(11-19)
まず、11~19節をご覧ください。14節までお読みします。「51:11 矢を研ぎ、小盾を取れ。【主】はメディア人の王たちの霊を奮い立たせられる。御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは【主】の復讐、ご自分の神殿の復讐だからである。51:12 バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ。見張りを強くし、番兵を立て、伏兵を備えよ。【主】は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを実行されるからだ。51:13 大水のほとりに住む、財宝に富む者よ。おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た。51:14 万軍の【主】はご自分にかけて誓われた。「わたしは必ず、バッタの大群のような人々でおまえを満たす。彼らはおまえに対して叫び声をあげる。」」
11節には、「矢を研ぎ、小盾を取れ。」と命じられています。これは、バビロンを攻撃する軍隊に向けて命じられていることばです。ここでは、バビロンを攻撃する軍隊が「メディア人の王たち」と複数形で書かれてあります。これは1節でも触れたようにメディアとペルシャの王たちのこと、あるいは、キュロス王とダリヨス王のことを指しているものと思われます。主はこうした王たちの霊を奮い立たせてバビロンを滅ぼされるのです。それはバビロンが主の神殿を破壊したからです。その復讐なのです。
12節には、バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ、とあります。旗を掲げるとは、敵に向かって行動を起こすという意味です。それを命じられるのは主であって、主は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを必ず実行されるのです。
13節には「大水のほとりに住む、財宝に富む者よ」とありますが、これはバビロンに住む者たちのことです。バビロンの真ん中にはユーフラテス川が流れていました。彼らはその恩恵を受けて富んでいたのです。しかしそのバビロンの住民に対して主は、「おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た」と宣告されます。彼らはユーフラテス川がもたらす恵みによって繁栄と豊かさを誇りましたが、その最期を迎えることになるというのです。それは14節にあるように、諸国の軍隊という大群のバッタのような人々でその地を満たされることによってです。
富であれ、名誉であれ、力であれ、こうしたものは究極的な救いをもたらすことはできないのです。それは、私たちも注意しなければなりません。これだけ富があれば、これだけ蓄えがあれば、この先、安心して暮らしていけると思ったら大間違いです。そうしたものが究極的な救いをもたらすことはできないからです。やがて寿命が尽きてしまう時が来るのです。
では、私たちに究極的な救いをもたすものは何でしょうか。15~19節をご覧ください。ここにはイスラエルの神と、バビロンの偶像が比較を通して、イスラエルの神、主がどれほど偉大な方であるかが示されています。
15~16節には、「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。」とあります。主は天地の創造主であられます。その力と知恵は創造された世界を見ればわかります。雲、稲妻、風といった自然現象は、その神の力を示しています。
一方、偶像はどうでしょうか。17~18節には「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、 彫像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。」とあります。偶像には息もなく、力もありません。そんな偶像に頼るのはまことに愚かなことです。それは空しいことであり、物笑いの種でしかありません。
しかし、主に信頼する者はそうではありません。19節に「ヤコブの受ける分は、このようなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主のゆずりの民。その御名は万軍の【主】。」とあるように、ヤコブが信じた神は、無力な偶像のようなものではなく、万軍の主です。だから、この方に信頼する者は決して失望することはないのです。問題は、あなたが何に信頼するか、誰に従うのかということです。あなたが従うものによってその結果も決まるのです。
アメリカのニューヨークにブルックリン・ダバナクルという教会があります。1972年にこの教会に牧師として赴任したのはジム・シンバラという牧師でしたが、彼は神学を学んだことがありませんでした。バスケットボールの選手として活躍が認められると、スポ―ツ特待生として大学に入りました。卒業後、就職してサラリーマンをしていたとき、妻の父親に「ニューヨークの小さな教会で牧会者として仕えてみないか」と勧められました。しかし、自信がなかったので「私に牧会ができるでしょうか。神学も学んだこともないし、運動ばかりして本もろくに読んだことがないのに」と断りました。その時、父の一言が胸に刺さりました。「資格が重要なのではない。神が召しておられるかどうかが重要なんだよ。」
 彼はその教会に赴任すると、見捨てられた人々にイエス様の愛を伝え始めました。麻薬中毒者、犯罪者、売春婦、ホームレスの人たちを対象に福音を宣べ伝えたのです。すると神の愛によって多くの人々が変えられました。彼は神に用いられ、ニューヨークを変えるほどの影響力のある人になったのです。
皆さん、資格が重要なのではありません。あなたがどのような人かは全く関係ないのです。重要なのは、「あなたを召し、用いてくださるのは誰か」ということです。まさにイエス様が「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言われたとおりです。それは主がなさることなのです。主が真理の御言葉の上にご自身の教会を建ててくださいます。主は万物を造る方、その御名は万軍の主です。あなたにはできなくても、神にできないことは一つもありません。あなたにとって難しいことでも、神にとっては何でもないことです。あなたの力で神の力をはかってはなりません。あなたの人生のすべてを神に明け渡してください。そうすれば、神があなたの人生を、祝福へと導いてくださいますから。
Ⅱ.たとえ理解できなくても(20-33)
第二のことは、たとえあなたが理解できなくても従うということです。20~33節をご覧ください。まず24節までお読みします。「51:20 「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたによって国々を砕き、あなたによって諸王国を滅ぼす。51:21 あなたによって馬も騎手も砕き、あなたによって戦車も御者も砕き、51:22 あなたによって男も女も砕き、あなたによって年寄りも幼い者も砕き、あなたによって若い男も若い女も砕き、51:23 あなたによって牧者も群れも砕き、あなたによって農夫もくびきを負う牛も砕き、あなたによって総督や長官たちも砕く。51:24 わたしはバビロンとカルデアの全住民に対し、彼らがシオンで行ったすべての悪に、あなたがたの目の前で報復する。─【主】のことば─」
ここには、「あなたによって」ということばが10回も出てきます。「あなた」とはバビロンのこと、「わたし」とは主なる神のことです。バビロンはかつて主の鉄槌、戦いの道具として諸国を砕く神の道具として用いられました。
しかし、24節を見ると、そのバビロンがシオンで行ったすべての悪のゆえに、イスラエルの民の目の前で裁かれることになるというのです。どういうことでしょうか。理解できません。神のご計画のためにその道具として用いられたバビロンが、今度はその神によってさばかれなければならないというのは。それは神様が計画されたことであって、バビロンはただそのために用いられただけなのに、どうしてバビロンがさばかれなければならないのでしょうか。勿論、やりすぎたことは否めません。彼らはあくまでも神の道具としてイスラエルを懲らしめるための器にすぎなかったのに、自分に与えられた分を越えて、神の領域にまで手を伸ばしてしまいました。主の神殿にあった器を自分たちの偶像の宮に飾ったり、それで酒を飲んだりしました。彼らは主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶってしまったのです。だからといって、神の道具として使われたバビロンがさばかれるというのは納得できません。
このようなことは、この世界を創造し、主権者として常に支配しておられる神の存在を認めることなくしては、なかなか受け入れることができないことです。人間の理性では納得できることがではないからです。それは神が一方的になしてくださったイエス・キリストによる贖いのみわざを、救いの恵みとして受け入れることも同じです。頭で理解することができません。それは理性だけではなく、信じることによってもたらされるものだからです。賛美歌に「ただ信ぜよ」という讃美がありますが、たとえ自分に理解できないことでも、神が言われることをただ信じて受け入れることが求められるのです。
ある目の見えない人が、眼球を提供されて手術を受けることになりました。手術が無事終わり、目の包帯を取る日が来ました。少しずつ包帯が取れて次第に物体が見え始めました。彼の目の前に広がったのは非常に美しい世界でした。うれしさのあまり、そばにいた母親に言いました。「お母さん、どうしてこんなに美しい世界を話してくれなかったの。」すると、母親は答えました。「毎日あなたにこの美しい世界のことを話して聞かせたわ。ただ、あなたがその言葉を理解できなかっただけよ。」
これと同じです。どんなに聖書に書かれてあっても、どんなに聞いても、その言葉を理解できないことがあります。しかし、終わりの日が来ると、すべてが明らかになります。人々は目の前のあまりにもすばらしい天国と、永遠の燃える火の世界があることを知るでしょう。その時、人々は「どうしてこんな世界があることをもっと早く教えてくれなかったのか」と言って泣き叫ぶでしょう。しかし、神はすでにそのことを多くの預言者たちを通して語られ、神の国に行く唯一の道であるイエス・キリストを送ってくださいました。大切なのはそれがあなたにとって理解できるかどうか、納得できるかどうかではなく、神のことばを信じるかどうか、信じて従うかどうかにかかっているのです。
今は天国におられる滝元明先生が書かれたトラクトに、こんな話があります。
 ひとりの実業家がイエス様を信じてクリスチャンになりました。彼は、人生があまりにも素晴らしく変えられ、うれしくて仕方がないので、誰にでもイエス・キリストを信じた喜びを伝えました。
 かつて学校の校長をしていたおじさんのところにも伝道に行き、イエス・キリストは神が遣わされた神の子であり、人間を罪から救うために、身代わりとなって十字架で死なれたこと、三日目に死の力を打ち破って、死人の中から復活されたこと、そして、イエスを信じるなら、救われて永遠のいのちを持つことができることを、30分ほど熱心に話しました。
 するとおじさんは大声で笑い出しました。
 「なに、キリストが死人の中から復活した?そんな馬鹿な話はするな。おれに話しても、他の人にそんな話をするのはやめておけ。」
 「おじさん、どんなに笑ってもいいよ。私は本気で信じているんだ。クリスチャンは死ぬことは恐ろしくないよ。死ぬのは永遠のいのちの始まりだから」
 それから数年後、そのおじさんはがんになり、がんセンターに入院しました。だんだん食欲もなくなり、目の前に死が近づいたことを知りました。夜になると死の恐れがおそってきて、眠ることもできなくなりました。
 「おれは死ぬ。死んだらどこに行くのか」と、毎晩苦しみ続け、数年前に聞いた言葉をふと思い出しました。
 「おじさん、クリスチャンは死ぬことは永遠のいのちの始まりだよ」
 本当にそんな心境になれるのだろうか・・・・。叔父さんは、奥さんに電話をかけてもらい、彼を呼び出しました。
 彼が病院に駆けつけると、伯父さんは言いました。
 「おまえの言っていたイエスの話を聞かせてくれ。ほんとうに死の恐れから救われることができるのか」
 危篤状態にある人に長い話はできません。
 「叔父さん、三つの話をするので聞いてください。一つ、聖書には「すべての人は罪を犯した」とあります。叔父さんも神の前に罪人だよ。そのことを認めますか?
 「おれは罪人だとわかっている」
 「もう一つ、『人間には、一度死ぬことと死後にさばきをうけることが定まっている』とあります。叔父さんも罪人のまま死んだら地獄に行くよ。わかる?」
 「もう一つ、主イエスを信じたら天国に行ける。なぜなら、罪のない神の御子イエスが人の罪の身代わりとなって十字架に死なれ、人類の誰も打ち破ることができなかった、死の力を打ち破って死人の中からよみがえられたから。このことを信じるだけで、罪の赦しを受けて、天国に行けるんです。」
 すると叔父さんがいいました。
 「おれはイエスを信じる。おれのために祈ってくれ」
 5分間ほどの会話でした。
 「主イエスさま、私は罪人です。お赦しください。主イエスさまを信じます。永遠のいのちをお与えください」
 二人は声を出して祈りました。その瞬間、伯父さんの上に平安が訪れました。
 「ああ、もうこれでいい。おれも天国に行ける」
 それから数日後、伯父さんは最期に次の言葉を筆で書きしるし、安らかに天国に行きました。
 「天国のいのちがあることがわかった。イエス・キリストを信じることができた」
 だれでも、主イエスを信じるだけで救われるのです。(Precius Vol7 )
このような不思議は、次の25節と26節にも出てきます。ここには、「51:25 全地を破壊する、破壊の山よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。──【主】のことば──わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを岩から突き落とし、おまえを焼けた山とする。51:26 だれもおまえから石を取って、要の石とする者はなく、礎の石とする者もない。おまえは永遠に荒れ果てた地となる。──【主】のことば。」」
ここには、バビロンの崩壊の様子が描かれています。「全地を破壊する破壊の山」とは、バビロンのことです。主はその破壊の山であるバビロンに手を伸ばし、彼を岩から突き落として、焼けた山とするのです。もう誰もバビロンから石をとって要の石、礎の石とする者はいません。バビロンは永遠に荒れ果てた地となるからです。
これが常識です。かつてどんなに権勢を誇り、栄華を極めたバビロンでも、そこから石を取って要の石、礎の石にする人はいません。しかし、そのように人に捨てられた石が、要の石、礎の石になったという例があります。それがイエス・キリストです。マルコ12章10~11節には「12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。12:11 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」とあるように、イエス様は家を建てる者たちが捨てた石なのに、要の石となりました。要の石とは、その家を建てるに当たり、無くてはならない要の石のことです。イエス様はまさに、家を建てる者たちが捨てた石なのに、要の石になりました。これは私たちの目には不思議なことです。しかし、神はこのようなことをなさるのです。それは、人間の理解を越えた神のみわざです。私たちに求められているのは、私たちが理解できないことでも、それを神の救いの御業として受け入れることなのです。そうすれば、あなたは救われます。自分自身を救うことができるのです。
Ⅲ.それぞれ自分自身を救え(27-46)
ですから、第三のことは、その中から出て、自分自身を救え、ということです。「その中」とはとの中ですか?バビロンです。バビロンの中から出て、自分自身を救わなければなりません。これが、主が命じておられることです。27~46節をご覧ください。まず、32節までをお読みします。「51:27 この地に旗を掲げ、国々の中で角笛を鳴らせ。バビロンに向けて国々を聖別せよ。バビロンに向けて王国を召集せよ。アララテ、ミンニ、アシュケナズを。バビロンに向けて司令官を立て、群がるバッタのように、馬を上らせよ。51:28 バビロンを攻めるため国々を聖別せよ。メディアの王たち、その総督やすべての長官たち、その支配にある全土の民を。51:29 地は震え、もだえる。【主】はご計画をバビロンに成し遂げ、バビロンの地を住む者もいない荒れ果てた地とされる。51:30 バビロンの勇士たちは戦いをやめ、砦の中に座り込む。彼らの力は干からびて、女たちのようになる。その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。51:31 飛脚はほかの飛脚に走り次ぎ、使者もほかの使者に取り次いで、バビロンの王に告げて言う。「都は、くまなく攻め取られ、51:32 渡し場も取られ、湿地も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っています」と。」
神が諸国を招集し、バビロンに向かって旗を掲げるようにと命じるのは、これが3度目です(50:2,51:12)。その攻撃に加わるのは、アララテ、ミンニ、アシュケナズといった国々です。「アララテ」はノアの箱舟が漂着したところですが、現在のアルメニア地域のあたりです。「ミンニ」は、現在のイラン西部にあたります。「アシュケナズ」はアララテに近い所にあります。こうした国々が、バビロンを攻撃する軍隊に加わるのです。
これらの軍隊がバビロンを攻撃すると、バビロンの兵士たちは戦いをやめ、砦の中にこもり、力を失ってしまいます。やがて門のかんぬきは砕かれ、敗戦を告げる飛脚たちが走り継ぎ、バビロンの王にこのように告げます。「都は、くまなく攻め取られ、渡し場も取られ、湿地も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っています。」(31b-32)
この王とはバビロンの王ナボニドゥスです。息子のベルシャツァルは城内で酒を飲んで酔っ払っていたところを、メディアの王率いる軍隊によって殺されてしまいました。その知らせが父親のナボニドウスに伝えられるのです。当時、世界の七不思議の一つと言われた空中庭園を作り、その繁栄を誇示したバビロンが陥落したのです。
世の人は、それは時代の流れだと言います。平家物語の冒頭に、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響あり、とあるように、この世のすべての現象は常に変化し、一瞬たりとも同じ状態を保つことはない。それこそ自然の成り行きだと自分にも言い聞かせ、美しいまでに寂しい歴史観を説明するかもしれませんが、しかし聖書は、繰り返し、繰り返し、そうではないと、私たちに訴えるのです。33節にも「イスラエルの神、万軍の【主】が、こう言われるからだ。」とあるように、それは主権者である神が、なされることなのです。
33節には、そのバビロンの滅亡が麦の打ち場にたとえられています。収穫の前には、その準備のために打ち場が作られます。そうすれば、誰もが、刈り入れの時がやって来たことを知ります。そのように、バビロンも刈り入れのとき、すなわち、神の審判の時が来たことを知るのです。そして、バビロンに神の審判が下ることになります。
その様子が36~44節に描かれています。44節には、「わたしはバビロンでベルを罰し、これが呑み込んだ物を吐き出させる。国々はもう、そこに流れ込むことはない。バビロンの城壁さえも倒れてしまった。」とあります。「ベル」はバビロンの偶像です。主はそのベルを罰し、これ呑みこんだ物を吐き出させます。これはバビロンに捕えられていたユダの民を、エルサレムに帰還させるということです。34節にあるように、バビロンの王ネブカドネツァルはユダの民を食い尽くし、竜のように呑み込み、それで腹を満たしますが、今度はその呑み込んだイスラエルを吐き出すわけです。こうしてバビロンは完全に滅びることになるのです。
だから、45節と46節に、こう勧められているのです。「51:45 わたしの民よ、その中から出よ。【主】の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。51:46 そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。」
「その中から出よ」とは、バビロンの中から出よということです。これは6節でも言われていたことです。そうでないと、バビロンとともに滅ぼされてしまうことになるからです。46節にはこうあります。「そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。」
そうでないと、あなたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになります。この「うわさ」とは何でしょうか。これは前回お話したように、バビロンとは「この世」の象徴ですが、あなたが救われてもこの世というバビロンから出ないと、この世がもたらすさまざまなうわさによって翻弄され、心が弱くなってしまうということです。世を恐れると、信仰が委縮してしまうからです。だからイエス様は、からだを殺してもたましいを殺せない者たちを恐れるな、と言われたのです。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさいと。そうするなら、世に対する恐れから抜け出すことができます。そして、世を制することができる真実な信仰者として、力強く歩むことができるのです。
「この世と調子を合わせてはなりません。むしろ、何が良いことで神に受け入れられ、完全なのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
この世と調子を合わせてはなりません。そうでないと、この世のうわさに翻弄され、心が弱くなってしまいます。結果的にその中に埋没してしまうことになってしまうのです。そうではなく、むしろ、神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。たとえあなたが苦手な人にプレッシャーをかけられても、本当に恐ろしい存在は別にあると思い出せば、落ち着いて対応できるのではないでしょうか。
神のことばに従うのか、この世の声に従うのかによって結果は大きく変わります。神のことばに信頼を置いて行動しないなら、やがてこの世のうわさに翻弄され、心が弱くなってしまうのです。でも、神のことばを聞いてそれに従うなら、あなたは神によって力をいただき、鷲のように、翼をかって上ることができます。
先日、三原先生の奥様の鳩子さんのお母様が召されました。その告別式の中で鳩子さんがお母さんとの思い出を証しされました。
 前夜式が終わり寝る前にお父さんと二人で少し話ました。お父さんはこう言いました。
 「お母さんは、お父さんの事が好きだったんだな~。だから天に召される時も娘も息子も待たずに行ったんだろう。」
 来てくれた看護師さんが、召される直前の人は会いたい人が来るまで頑張れると父に教えてくれたそうです。確かに、お父さんと二人が良かったんだね。お母さんらしい!と思い笑ってしまいました。
 仲の良い両親の下に生まれたことは幸せであり、神様からの大きな恵みです。
 聖書には、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とあります。母の尊敬しているところは、父に従いなさいという命令に最後まで従ったところです。母は父がする事に反対した事がなかったそうです。私からすると、えっ?そんなことあるの?反対した事がないなんて・・・。
でも、私が信じている事は、聖書のみことばは、この世界を造られた神様に従うなら必ず幸せになれる!という事です。確かに、母は聖書のみことばに従いました。そして、幸せでした。これは、神さまと母からのチャレンジかもしれません。私も天に召されるその日まで、夫を愛し、夫に従う。頑張ります!
それは夫婦関係ばかりでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。皆さん、聖書のみことばに従えば、必ず幸せになれます。そして、神様から聖霊の力を受けることができます。走ってもたゆまず、歩いても疲れません。しかし、この世の声に従うなら、あなたの心は弱まり、そこから聞こえてくるうわさに翻弄されることになるでしょう。だから、あなたはそこから出て、主の燃える怒りから逃れ、自分自身を救わなければなりません。それは簡単なことではありません。この世の力が強く、日々その影響を受けながら私たちは生きているからです。しかしたとえその中にいても、私たちは主のもの、その牧場の羊です。いつも主を求め、主を見上げ、主の聖霊の助けをいただきながら、主の御声に聞き従う者でありたいと思います。そのときあなたは自分自身を救うことができます。たとえ意気消沈することがあっても主によって励まれ、勝利ある人生を歩むことができるのです。

主のみわざを語ろう エレミヤ書51章1~10節

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聖書箇所:エレミヤ書51章1~10節(旧約P1391、エレミヤ書講解説教85回目)
タイトル:「主のみわざを語ろう」
エレミヤ書51章に入ります。50章からバビロンに対するさばきの宣告が語られていますが、今日はその続きです。今日は、「主のみわざを語ろう」というテーマで、3つのことをお話します。
第一に、バビロンはさばかれるが、イスラエルは決して見捨てられることはないということです。
第二のことは、だからバビロンに留まって共倒れすることがないように、バビロンの中から逃げよということです。
第三のことは、ではバビロンから救われた者はどうすればいいんですか。バビロンから救われた者は、そのすばらしい主のみわざを語らなければならないということです。
Ⅰ.イスラエルは見捨てられることはない(1-5)
まず、1~5節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「51:1 【主】はこう言われる。「見よ。わたしはバビロンに対し、レブ・カマイの住民に対して、滅ぼす者の霊を奮い立たせ、51:2 他国人たちをバビロンに送る。彼らはこれを吹き散らし、その地を滅ぼす。彼らは、わざわいの日に、四方からこれを攻める。」」
バビロンに対するさばきの宣告です。主はバビロンに対して、滅ぼす者の霊を奮い立たせ、他国人をバビロンに送ると言われました。「滅ぼす者の霊」とは、メディアの王のことです。11節には、「滅ぼす者たちの霊たち」と複数形であることから、これはメディアとペルシャの王たちの霊のこと、あるいは、キュロス王やダリヨス王の霊のことを指していると思います。「霊」はヘブル語で「ルアッハ」といいますが、原語では「息」とか「風」とも訳されることばです。創世記2章7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とありますが、この「いのちの息」と訳されていることばが「ルアッハ」です。ですから2節に「吹き散らし」とあるわけです。主は滅ぼす者たちを奮い立たせ、その息、その風でバビロンを吹き散らされるのです。
3節と4節には、「51:3 射手には弓を引かせるな。よろいを着けて立ち上がらせるな。そこの若い男たちを惜しむな。その全軍を聖絶せよ。51:4 刺し殺された者たちが、カルデア人の地に、突き刺された者たちが、その通りに倒れる。」とあります。これはバビロンが徹底的に滅ぼされるということです。
しかし、イスラエルに対してはそうではありません。5節をご覧ください。ここには、「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の【主】に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。」とあります。
イスラエルもユダも、主に対して罪を犯しました。イスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちたのです。しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはありません。ここがバビロンに対するさばきとイスラエルに対するさばきの大きな違いです。バビロンもイスラエルも主に対して罪を犯し、神のさばきを受けることになりましたが、同じさばきでもイスラエルが受けるさばきとバビロンが受けるさばきとでは全然違うのです。イスラエルが受けるさばきはさばきというよりも懲らしめであって、ここでバビロンに宣告されているようなものとは違います。確かに彼らも罪を犯したためバビロン捕囚という憂き目にあいましたが、バビロンのように徹底的に滅ぼされることはありません。なぜなら、イスラエルは神の民、契約の民だからです。神との契約の民は決して見捨てられることはないのです。
パウロはこのことをコリント人への手紙第一11章32節でこのように言っています。「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」(Ⅰコリント11:32 第三版)
パウロはここで、私たちがさばかれるのはどういうことかを述べています。それは、私たちが、この世とともに罪に定められないため、永遠に滅びることがないために、主によって与えられる懲らしめなのです。discipline、訓練、しつけなのです。
へブル人への手紙12章には、神はイスラエルを子として扱っておられるとあります。自分の子どもを訓練しない親がいるでしょうか。もしいるとしたら、それは私生児であって、本当の子どもではありません(ヘブル12:8)。本当に親であるなら、自分の子どもの成長を願い、そのためにはむちさえもいとわないからです。ですから、確かにイスラエルもユダも、イスラエルの聖なる方から離れ、その地は罪過で満ちましたが、だからといって、彼らが主に見捨てられることはないのです。神と契約を結んだのであれば、神が契約を破らない限り、どんなことがあっても見捨てられることはありません。神は真実な方だからです。
いったいなぜイスラエルはそのような契約を結ぶことができたのでしょうか。それは彼らが特別に優れていたからではありません。真面目な民族だったからでもないのです。彼らが神と契約を結ぶことができたのは何か特別な理由があったからではなく、ただ神が彼らを愛されたからです。ただそれだけです。皆さんもよく知っておられるでしょう。彼らの祖先はヤコブです。イサクの双子の兄弟の弟ヤコブ。意味は「かかとをつかむ者」です。彼は兄エサウのかかとをつかんで生まれてきました。俺が先だと。案の定、彼は兄の弱みにつけこんで長子の権利を兄から奪ってしまいました。本当にずる賢い人だったのです。そんなイスラエルと神は契約を結ばれました。それは彼らがそれに値する民だったからではなく、ただ神が彼らを愛されたからです。また、彼らの先祖たちに誓った誓いを守られたからです。申命記7章7~8節にこうあります。「7:7 【主】があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。7:8 しかし、【主】があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、【主】は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」
すごいでいね。主は常に真実であられます。どこまでも約束に忠実な方なのです。主がそのようにすると約束されたのなら、どこまでもそれを守られるのです。ですから、イスラエルが神と特別な契約を結ぶことができたのはそこに何らかの特別な理由があったからではなく、神が一方的に彼らを愛されたからなのです。
それは私たちにも言えることです。神が私たちを救ってくださったのは何か私たちが特別なことをしたからではありません。神が一方的に私たちを愛し、神の御子イエスを信じるように、信じて神の民となるように予め選んでくださったからです。イエス様はこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(【新改訳改訂第3版】ヨハネ15:16)
私は18歳の時に信仰に導かれました。私は本当に肉的な人間で、クリスチャンにはほど遠いような者でした。私の友人はみんな思っていますよ。「へぇ、あいつがクリスチャンになるなんて考えられない」と。私もそう思います。15,16,17と私の人生暗かった。何のために生きているのか、どこに向かって進んで行ったらよいのかわからないで彷徨っていました。手あたり次第に、やりたい放題やろうと生きていました。高校3年生の時です。まさに地に足が着いていないという状態でした。
私は4人兄弟の末っ子として生まれましたが、母は本当に私をかわいがってくれました。目の中に入れても痛くないという感じだったんじゃなにいかと思います。みんなから「富男くんは本当にいい子だ」と言われ、自慢の子どもだったのかもしれません。だからなのか、私にはこうしろとか、ああしろとか、もっと勉強しろとか、もっと真面目に生きろとか、一切言わなかったんです。私は心には深い葛藤を抱えていましたがそれを表に出そうとはせず、常に明るく、いたって活発に、いたって楽しく生きていました。そんな私が高校3年生の時、後に結婚することになる妻に誘われて教会に行くようになるわけですが、私が自転車を引いて家の近くの坂道を上っていたとき、母が私にこう言ったんです。「トミちゃん、あんまり深入り知らんなよ。」
 心配だったんでしょうね。目の青い人に誘われて教会に行くようになったのを。もしかしたら誰かに言われたのかもしれません。教会に行っているようだけど大丈夫か、とか。私は、「大丈夫、深入りなんてしないから」と言いましたが、深入りしちゃいました。そして、そういう母もやがて信仰に導かれ、バプテスマの恵みに与りました。65歳の時です。
イエス様を知らない人はみんなそうですよ。何だか後戻りできない世界に足を踏み入れるようで怖いんだと思います。私もそうだったし母もそうだった。しかし、神様の恵みによってイエス様を信じることができました。それは私が何かしたからではなく、そういう類の人だったからでもなく、神様が永遠のご計画の中で選び、一方的に愛してくださったからです。
ですから、私たちが救われたのはただ神の恵みなんです。神からの賜物です。神様は、そのようにしてイスラエルと、また私たちと契約を結んでくださいました。そして神と契約を結んだのであれば、すなわち、神を信じたのであれば、たとえ異邦人であったとしてもだれでも救われるのです。そうでなければただの罪人です。それゆえ、契約外の民として滅ぼされることになってしまいます。しかし、神と契約を結び神の民とされたのなら、どんなことがあっても見捨てられることはありません。あなたが過去にどんな罪を犯したとしても、また、現在罪を犯しているとしても、あるいは、将来犯すであろう罪も、悔い改めて神に立ち返るならすべて赦されるのです。それが神のことばである聖書が約束していることです。それはイエス様が十字架で死なれ、その罪を贖ってくださったからです。そのイエスを信じて永遠のいのちを受けることができたからです。それは永遠の契約なのです。永遠の腕があなたの下にあるのです。ですから、神の御子イエスを信じて神の子とされたのなら、その神、万軍の主に見捨てられることはありません。
確かに、懲らしめはあるかもしれません。しかし、それは主があなたを愛しておられるからであって、あなたが成長するようにと与えておられる訓練なのです。バビロン捕囚は辛いことです。多くのものを失うでしょう。想像することもできないような辛い思い、悲しい思いを経験するかもしれません。それでも、その神、万軍の主に見捨てることは決してないのです。
Ⅱ.バビロンの中から逃れよ(6~8a)
ですから、第二のことは、バビロンの中から逃れよ、ということです。6節をご覧ください。「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、【主】の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。」
バビロンは滅びてしまうので、そこに留まれば一緒に滅ぼされることになります。だから、そこから逃れるようにというのです。そこから逃れて、自分自身を救わなければなりません。しかし、残念ながら、そこから逃れた人はごくわずかでした。B.C.539年にペルシャの王キュロスによってバビロンが陥落すると、キュロスは寛容な政策を取りました。バビロンに捕えられたイスラエルの民に対して、エルサレムに帰還することを許したのです。それなのに、それに応じたのは、本当にわずかな人たちでした。たった5万人です。残りの人たちは皆バビロンに留まりました。なぜ?住み慣れたバビロンから出ようとは思わなかったのです。そこにいれば安定して暮らしていけると思ったからです。しかしそれは、バビロンと同じ運命をたどることになるということを意味していました。彼らに求められていたのはその中から逃れることです。そこから逃れて自分のいのちを救うことです。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされることがないようにすることだったのです。
それは私たちにも言えることです。黙示録17章、18章を見ると、このバビロンとは神に敵対するこの世の勢力のことです。せっかく神の一方的な恵みによってこの世から救い出されたのに、そこに留まろうとすれば、私たちも共に倒れてしまうことになります。だから聖書はこういうのです。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
皆さん、この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。
しかし、それがなかなか難しいのです。なぜでしょうか。さくらチャーチでは月に一度、礼拝後に尾山令仁先生の「信仰生活の手引き」を用いて学びの時を持っておりますが、前回のテーマは、神の御心に従うにはどうすれば良いかということでした。皆さん、神の御心に従うにはどうすれば良いのでしょうか。その中にこうありました。そのためには、まず神の御心を知らなければなりません。そのためにはまず自分が当面している具体的な問題に対する好きとか嫌いといった自分の考えとか意見、感情を、すべて神にささげることです。そうしたものをもったまま、神の御心を知ろうとすることは、こわれた磁石で方向を知ろうとするようなもので、分かりません。そして、どうしても神のみこころが記されている聖書を読まなければなりません。聖書には、あらゆる具体的な問題に対する解決の原則が記されているからです。聖書をよく読んでいる人なら、これで神のみこころの90パーセントは知ることができます。では、残りの10パーセントは何か。残りの10パーセントは、聖霊の導きを求め、聖霊が私たちの心の中にはっきりとした確信を与えてくださるまで祈ることです。聖霊は必ず御言葉と矛盾しないことを示されるはずですから、いつもよりもっと熱心に祈らなければなりません。そのように祈り求めて、そこに動くことのない心の平安が与えられたら、それを神の御心と信じて、すぐに従わなければならないのです。ところが、多くの人たちが失敗するのは、神の御心を知ろうとして、実は自分の感情を無意識のうちに当てにしているからです。自分の願っていることが出てくるまで、それを神の御心とは思わないのです。このような態度では、結局のところいつまでたっても、神の御心を知ることはできません。それは、ちょうどラジオで、周波数の違うところに合わせていて、自分の聞こうとしている放送が入らなくて焦っているようなものです。
なるほど、私たちの多くは自分の願っていることが出てくるまで、それを神の御心と思わないんですね。すると、ある姉妹が、「いや、今はどこに行っても自分を大切にするようにとか、自分を愛しなさいとか、自分を信じなさいとか、聖書と全く逆のことを勧めているのでわからなくなる時があるんです。」と言われました。
今はそういう時代なんです。どんなに神の御言葉が語られても、結局は自分を中心に考えるように動いているのです。そのような中で自分の考えや感情や意見を、すべて神にささげてしまうようにと言われても、なかなかできることではありません。
しかし、あなたが神の御心に従いたいと思っているなら、この世というバビロンから逃れたいと願っているならば、この世と調子を合わせるのではなく、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。バビロンに留まりたいという思いを捨て、バビロンの中から逃れて、自分のいのちを救わなければならないのです。
あのロトの妻はどうして滅びてしまったのでしょうか。神がソドムの町を滅ぼされたとき、そこから出るようにと言われ、後ろを振り向いてはならないと言われたのに、振り向いてしまったからです。どうして彼女は後ろを振り向いたのでしょうか。ソドムの町がどうなったのか気になったのかもしれません。でも、一番の理由は、彼女がそこに執着していたからです。その結果、彼女は塩の柱になってしまいました。それは私たちに対する教訓でもあります。主は「この世」というバビロンをさばかれますが、もしあなたがこの世に執着しているなら、バビロンと一緒にさばかれてしまうことになります。あなたはその中から逃れる備えをしなければなりません。バビロンの中から逃げて、自分のいのちを救わなければならないのです。
7~8節の前半をご覧ください。「51:7 バビロンは【主】の手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲む。それゆえ、国々は正気を失う。51:8 バビロンは、たちまち倒れて砕かれる。」
バビロンは主の手にある金の杯です。多くの国々はそれでぶどう酒を飲んで酔いしれるわけです。良い思いをさせてもらったということです。まさにお酒を飲んで酔いしれるような思いです。黙示録17章と18章を見ると、このバビロンによって利益を得ている国々が、その酔いによってすっかり騙されていたことが記されてあります。18章23節には、「なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」(【新改訳改訂第3版】黙示録18:23)とあります。
それは地上の商人たちばかりでなく私たちも言えることです。私たちは世が提供するものによって騙されてしまうことがありますが、しかし、そのようなものはすべて滅びていくことになります。そのことに私たちも気付かなければなりません。この世があなたに約束するもの、それは善悪の知識の木の実のようなものかもしれません。それを食べるそのとき、あなたは死ぬ、と聖書にあります。だから、注意しなければなりません。この世というバビロンに留まっているのではなく、その中から逃れていのちを得なければならないのです。なぜなら、8節にあるように、バビロンは、たちまち倒れて砕かれることになるからです。
Ⅲ.主のみわざを語ろう(8b-10)
ですから、第三のことは、私たちの神、主のみわざを語ろう、ということです。8節後半~10節をご覧ください。「51:8バビロンのために泣き叫べ。その痛みのために乳香を取れ。もしかしたら、癒やされるかもしれない。51:9 私たちはバビロンを癒やそうとした。だが、それは癒やされなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう。バビロンへのさばきが、天に達し、大空まで上ったからだ。51:10 【主】は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、【主】のみわざを語ろう。」
ここには、バビロンのために泣き叫べ。その痛みのために乳香を取れ。とあります。もしかすると、癒されるかもしれないから。これは誰に対して語られているのでしょうか。9節には「私たちはバビロンを癒そうとした。だが、それは癒されなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう」とあります。この「私たち」とはだれのことでしょうか。ハーベスタイムの中川健一先生や新聖書講解シリーズのエレミヤ書注解を書かれた服部嘉明先生は、これをバビロンの同盟軍たちと考えていますが、そうじゃないと思います。というのは、これはイスラエルに対して勧められている文脈の中で語られているからです。これはバビロンに捕えられ、バビロンに移住したイスラエルの神を信じる忠実な者たちのことです。そこにはダニエルやシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴといった3人の友人たちもいました。彼らはいのちをかけてイスラエルのまことの神を証し、バビロンが癒されるために、彼らが神に立ち返っていのちを得るようにといろいろな働きかけをしました。その結果、ネブカドネツァル王は最終的にイスラエルの神を認めましたが、孫のベルシャツァルは認めませんでした。応答したのはほんのわずかな人たちだけで、結果的に、バビロンは癒されませんでした。その罪が天にまで達し、大空まで上ったからです。
それで彼らはこう言うのです。10節です。「【主】は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、【主】のみわざを語ろう。」
シオンとはエルサレムのことです。だからバビロンではなくエルサレムに帰り、そこで主が彼らのためにどんなことをしてくださったのか、そのすばらしい主のみわざを証しようというのです。これがバビロンから救われたユダの民、イスラエルに求められていることでした。バビロンから救われたイスラエルに求められていたことはバビロンの中に留まることではなく、その中から逃れて、シオンで、彼らの神、主がどんなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを語ることだったのです。
それは、神の一方的な恵みによってこの世というバビロンから救われた私たちに求められていることです。私たちはどういうところから救われて来たのかを思い巡らしながら、神があなたに、どんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを知らせなければなりません。神が聖書を通してあなたに約束してくださったことがたくさんあるはずです。それがかなったならば、あなたの身に成就したならば、あなたはそのことを生きた証人として証しなければなりません。それが神によって救われ、神の契約の民とされた者に与えられた責任なのです。それは、福音の真理を論理的に説明し、キリストの信仰の決断をせまるというものではありません。それは、神が私たちの身の上になしてくださったみわざをほかの人々に語ることです。
マルコの福音書5章には、ゲラサ人の男の話があります。彼は悪霊に取り憑かれ、墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、縛っておくことができませんでした。彼が足かせや鎖をひきちぎり、足かせも砕いてしまい、だれも彼を抑えることができなかったからです。それで、彼は昼も夜も墓場や山で叫びつづけ、石で自分のからだを傷つけていたわけですが、そんな彼をイエス様が癒してくださいました。悪霊から解放してくださったのです。それで彼は感動してイエス様にお供させてほしいと懇願しましたが、イエス様はそれをお許しにならず、彼にこう言われました。
「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:19)
それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったのかを、デカポリス地方で言い広めると、人々はみな驚きました。悪霊によってあれほどひどい状態だった人が癒されて、正気に返ったからです。
これが私たちにも求められていることです。私たちは多くの悪霊に取り憑かれていた者です。パウロのことばでいうなら、自分の罪過と罪との中に死んでいたものです。そうした不従順らの子らの中にあって、かつては自分の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たち同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。それなのに、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。何という恵み、何というあわれみでしょう。その驚くべき神の恵みを語らなければならないのです。それはもう語らなければならないといった性質のものではなく、もう語らずにはいられないという性質のものです。自分がどれほど罪深い者であり、神がその中から救い出してくださったということを本当に体験しているならばそうなるでしょう。
皆さんもよくご存じだと思います。「アメイジング・グレイス」(おどろくばかりの)の作詞者はジョン・ニュートンという人です。彼は18世紀、イギリスで奴隷貿易の船長をしていました。彼は荒くれ者で、奴隷に対して冷酷な扱いをしていました。しかしある日の航海で大きな嵐に遭遇し、死に直面して初めて、「神様、助けてください」と叫んだのです。すると、神は彼をあわれんで、奇跡的に命を救ってくださいました。
 「どうして、この私が。」
 その時、彼はその嵐が神の与えてくださった試練と守りだったと確信し、7歳の時に亡くした母親が残してくれていた聖書を読み始め、イエス・キリストを、自分の罪を赦してくださる救い主として信じてクリスチャンとなり、新しく生まれ変わったのです。それは彼が23歳の時でした。彼は悔い改め、一転して、奴隷を人として親切に扱うようになったばかりか、さらに船を降り、神に仕えるようになります。
 そんな彼が、「こんな愚かな、どうしようもない者をも神は救ってくださった」という「おどろくばかりの恵み」を歌ったのが、この讃美歌です。
1. 驚くばかりの 恵みなりき
この身の汚れを 知れるわれに
2. 恵みはわが身の 恐れを消し
任(まか)する心を 起(おこ)させたり
3. 危険をもわなをも 避け得たるは
恵みの御業と 言うほかなし
4. 御国に着く朝 いよよ高く
恵みの御神を たたえまつらん
(新聖歌 233)
彼はやがて教会の牧師となり、多くの讃美歌を書き、死ぬまで、この「恵み」を語り続けました。彼は、晩年失明に苦しみましたが、「アメイジング・グレイス」で歌われているように、彼の心の目は開かれ、はっきりと見えるようになっていました。
「私はかつての自分ではありません。神の恵みによって今の自分があるのです」「多くの危険、労苦、わなを通って、私はここまで来ました。ここまで私を安全に導いてくださったのは恵みです。そしてこの恵みは、私を天のわが家まで導いてくださるでしょう」(ジョン・ニュートン)
私たちもそう告白するものでありたいですね。私はかつての自分ではありません。神の恵みによって今の自分があるのですと。それが罪赦された者、神の恵みに与った者、バビロンの中から救い出された私たちに与えられている使命なのです。

 

聞け、バビロンに対して立てられた主の計画を エレミヤ書50章21~46節

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聖書箇所:エレミヤ書50章21~46節(旧約P1389、エレミヤ書講解説教84回目)
タイトル:「聞け、バビロンに対して立てられた主の計画を」
前回からバビロンに対する神のさばきの宣告から学んでいます。今回はその続きとなりますが、50章後半の箇所から、「聞け、バビロンに対して立てられた主の計画を」というタイトルでお話します。三つのポイントでお話します。
第一に、バビロンが滅ぼされた理由です。それは神に対しておごり高ぶったことです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられます。
第二のことは、バビロンに対するさばきは、同時にイスラエルに解放と贖いをもたらしました。イスラエルを贖われる方は強いのです。この方にできないことは一つもありません。
第三のことは、ですから、あなたに対して立てられている主のご計画を聞かなければならないということです。
Ⅰ.高ぶったバビロン(21-32)
まず、21~32節をご覧ください。21節には「メラタイムの地、ペコデの住民のところに攻め上れ。彼らを追って、殺し、聖絶せよ。──【主】のことば──すべて、わたしがあなたに命じたとおりに行え。」とあります。
 これはペルシャの王キュロスに対して語られたことばです。「メラタイム」とはバビロンの南部にある地名ですが、「2倍の反抗」という意味があります。「ペコデ」とは地名ではなくバビロンの南部、チグリス川東岸に住むアラム人の部族の名前です。意味は「罰する」です。つまり、神は2倍の反抗を重ねてきたバビロンを罰するというのです。
23節と24節をご覧ください。ここには「50:23 全地を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ、どうして国々の恐怖のもととなったのか。50:24 バビロンよ。わたしがおまえに罠をかけ、おまえは捕らえられた。おまえはそれを知らなかった。おまえは見つけられて捕まえられた。【主】に争いを仕掛けたからだ。」とあります。
「全地を打った鉄槌」とは、バビロンのことです。バビロンは鉄槌のように他国を破壊してきましたが、今度はそのバビロンが砕かれることになります。どうしてでしょうか。それは24節にあるように、主が彼を捕えたからです。全地を打った鉄槌のようなバビロンも、主の支配下に置かれていたということです。彼らはそれを知りませんでしたが、主はちゃんと覚えておられました。なぜなら、24節の最後にあるように、彼らは「主に対して争いを仕掛けたから」です。
これはどういうことかというと、彼らはやりすぎたということです。これは前回のところにもありました。14節です。そこには「彼女が主に対して罪を犯したからだ」とありました。ここでは「主に争いを仕掛けたからだ」と言われています。これが、バビロンが滅ぼされた最大の理由だったのです。彼らが主に捕まえられたのは、彼らが主に対して罪を犯したからです。主に争いを仕掛けたからなのです。彼らはイスラエルを懲らしめる道具として主に用いられましたが、やりすぎてしまいました。イスラエルの神にまで手を伸ばすべきではなかったのです。
それは具体的にはどういうことかというと、28節にあるとおりです。ここには「バビロンの地から逃れて来た者の声がする。シオンで、私たちの神、【主】の復讐のこと、その神殿の復讐のことを告げ知らせている。」とあります。これはエルサレムの神殿が汚されたということです。勿論、汚したのはバビロンです。彼らは、神殿の祭儀で用いる金の器とか銀の器を持ち出して自分たちの偶像の宮に飾ったり、それで酒を飲んだりしたのです。いわゆる、神にケンカを売ったわけです。これはいけません。彼らはあくまでもイスラエルを懲らしめるための神の道具として用いられただけであって、その役割を果たしたならばそれで手を引くべきだったのに、調子にのってその神にまで手を伸ばし神を冒涜するようなことをしたのです。ですからここに「主の復讐」とあるわけです。バビロンの地から逃れて来た者たちは、主の復讐のことを告げ知らせていたとはそのことです。
29節の最後のところには、そのことがもっと端的に表現されています。ここには、「【主】に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。」とあります。これが彼らの最大の問題でした。彼らは、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったのです。それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、黙らされることになったのです。
この彼らの「高ぶり」については、31節と32節にも繰り返して語られています。「50:31 高ぶる者よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。──万軍の【神】、主のことば──おまえの日、わたしがおまえを罰する時が来たからだ。50:32 そこで、高ぶる者はつまずき倒れ、これを起こす者もいない。わたしは、その町々に火をつける。火はその周りのものすべてを焼き尽くす。」」
いったいバビロンはなぜ滅びてしまったのでしょうか。それは彼らがイスラエルの聖なる方、主に向かって、高ぶったからだったからなのです。
ところで、高ぶるとはどういうことでしょうか。イザヤ14章12~15節を見ると、それがどういうことなのかがわかります。「14:12 明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。14:13 おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』14:15 だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
ここには、「暁の子、明けの明星」が天から落ちたことが記されています。これが悪魔の起源と考えられています。皆さん、悪魔はどこから来たんですか?それは神が造ったのではありません。「暁の子、明けの明星」が堕落して悪魔になったのです。この「暁の子、明けの明星」はラテン語では「ルシファー」と言いますが、ルシファーは天使たちの中でも最も高い位置にいた天使でした。彼は光に輝いていたのです。そのルシファーがどうして天から落ちてしまったのでしょうか。それは彼が心の中でこう言ったからです。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」
これが高ぶるということです。皆さん、高ぶるとは神を神としないことです。神に代わって自分が神になろうとすることなのです。「俺は神だ」と言う人がいますが、恐ろしいことです。「罪」は英語で「sin」と言いますが、その真ん中には文字は何がありますか。「I」ですね。「自分」です。神ではなく自分、神中心ではなく自分中心であること、それが罪の本質です。ですから、罪とは神を信じないで、自分を信じること、神に従わないで自分の思いで生きることです。そしてこの高ぶりこそありとあらゆる罪の根源なのです。この罪の結果、明けの明星、暁の子、ルシファーは天からよみの穴の底に落とされてしまいました。この罪の結果、バビロンはさばかれ、滅ぼされることになったのです。それは彼らが主に対して罪を犯したからです。主に争いを仕掛けたからです。主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからです。
それは、私たちとも無縁ではありません。だれもがこの罪にさらされています。たとえば、もしあなたが何かをする時、別に祈らなくてもいい、自分でできるから大丈夫だと思っているなら、それは無意識のうちに高ぶっていることになります。なぜなら、特に神は必要ではないと思っているからです。私たちは神の助けがなければ一歩も前に進むことができないどころか、生きていくことすらできないのに、いつしか自分の力でできると思い込んでいます。無意識のうちにこの高ぶりの罪に陥っているわけです。悪魔の誘惑は本当に巧妙ですね。そのように思い込ませるわけですから。しかし、神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられます。私たちに求められているのは、すべてを支配しておられる神の力強い御手の下にへりくだることなのです。
Ⅱ.イスラエルを贖う方は強い(33-34)
次に、33節と34節をご覧ください。「50:33 万軍の【主】はこう言われる。「イスラエルの子らとユダの子らは、ともに虐げられている。彼らを捕らえて行った者はみな、彼らを固くつかんで解放することを拒んでいる。」50:34 彼らを贖う方は強い。その名は万軍の【主】。主は、必ずや彼らの訴えを取り上げて、その地を憩わせるが、バビロンの住民は震え上がらせる。」
これはバビロンではなくイスラエルに対して語られたことばです。バビロンに対するさばきは、イスラエルには解放と贖いをもたらしました。それは前回もお話したように、1枚の紙の表裏のようなもので、表がバビロンに対するさばきなら、裏にはイスラエルに対する解放と贖いがあります。彼らはどのようにして解放されるのでしょうか。その鍵となることばは、ここにある「彼らを贖う方は強い」ということばです。イスラエルはかつて400年間エジプトに捕えられていましたが、どのようにしてそこから解放されましたか。主の一方的な御業によってです。それは第二の出エジプトと呼ばれているこのバビロン捕囚にも言えることで、彼らは力強い主の御業によって70年にわたるバビロン捕囚から一方的に解放されました。それは人にはではないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。彼らを贖われる方は強いからです。この方は最強なのです。今、東京で世界陸上が行われていますが、男子棒高跳びのディプランティスを観ましたか。すごかったですね。6メートル30センチですよ。世界新記録です。しかも3回目で。憎いですね。私はテレビで観戦していて、思わず叫びました。「ディプランティス、すごい!最強だ!」そう叫びながら、「あれ、ちょっと待てよ。最強はディプランティスではなく、イスラエルを贖われる方だな。比較にもならない。だってイスラエルを贖う方は6メートル30センチどころか、天の天まで飛ぶことができるんだから」。当時はバビロンが絶大な力を持って諸国を支配しましたが、バビロンがどんなに強くても、イスラエルを贖われる方には全くかないません。ですから、バビロンが彼らを解放することをどんなに拒んでも、この方はそれを成し遂げられるのです。いったいどのようにして主はバビロンからイスラエルを解放されたのでしょうか。
35~37節をご覧ください。ここには、「50:35 「剣がカルデア人に下り、──【主】のことば──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちに下る。50:36 剣が易者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らは気をくじかれる。50:37 剣が、その馬と車、そこに住む混血の傭兵にも下り、彼らは女たちのようになる。剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。」とあります。ここには「剣」ということばが5回も繰り返して使われています。「剣」がカルデア人に下るのです。この剣とは神の審判、神のさばきを表しています。神の審判、神のさばきが彼らの上にくだるのです。どのように?それが38節に書かれてあります。ここには、「日照りがその水の上に下り、それは涸れる。」とあります。どういうことでしょうか。
この水とはユーフラテス川のことを指しています。バビロンの真ん中にはユーフラテス川が流れていました。ですから、どんなに兵糧攻めにしても落とすことはできなかったのですが、神はその川を干上がらせることによってこれを落としました。具体的には、B.C.539年にメド・ペルシャの連合軍がこの城壁を取り囲むとユーフラテス川を堰き止めて支流を作ると、人工的に川の流れを変えたのです。するとここにあるようにバビロンを流れていたユーフラテス川が涸れ、川底まで見えるようなりました。それでペルシャ軍はその川底をくぐって場内に侵入することができたのです。それだけだったらさすがにバビロンを落とすことはできなかったでしょう。なぜなら、仮に場内に侵入することができたとしても、そこには青銅の扉があり、それを打ち破らなければならなかったからです。それは至難の業でした。しかし、神はこれを難なく討ち破られました。どうやって討ち破ったかというと、そこには続きがあります。何と敵であるバビロンをお酒で酔わせたのです。誰も攻めてくることなどできないと高をくくっていたバビロンの王ベルシャツァルは、城内で酒を飲んで酔っ払っていました。それで鍵をかけるのを忘れてしまったのです。それで無防備となっていたバビロンは難なくメド・ペルシャ軍によって攻め落とされてしまったのです。偶然でしょうか。いいえ、違います。神がそのようにされたのです。神はすべてのことを支配しておられ、この難攻不落と呼ばれたバビロンをそのような方法で討ち破られたのです。これが、神がなさることです。神様は本当に不思議なことをされるのです。このような方はほかにはいません。この方に優る者はだれもいないのです。イスラエルを贖う方は強いのです。この方が私たちの救い主であられます。34節後半に「主は、必ずや彼らの訴えを取り上げて、その地を憩わせる」とありますが、主は必ずあなたの訴え、あなたの祈りを取り上げて、あなたを憩わせてくださるのです。
Ⅲ.聞け、あなたに対して立てられた主の計画を(41-46)
ですから、第三のことは、あなたに対して立てられた主の計画を聞くように、ということです。まず、41~44節をご覧ください。41節には「見よ、一つの民が北から来る。大きな国と多くの王が、地の果てという果てから奮い立つ。」とあります。
「北から来る一つの民」とは、メディアとペルシャの連合軍のことです。さらに多くの王たちが地の果てから攻めてきます。彼らは弓と投げ槍をもってバビロンに襲いかかります。それは残忍で、あわれむことがありません。それは獅子がヨルダンの密林から突如して上ってくるように、一瞬にして彼らを追い出してしまうのです。注目すべきことは、そのために神は「選ばれた人をそこに置く」と言われたことです。44節をご覧ください。「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか。」ここに「選ばれた人をそこに置く」とあります。この「選ばれた人」とはだれでしょうか?それはバビロンの王ネブカドネツァルではありません。彼はイスラエルを懲らしめるために神によって選ばれた人でしたが、ここではそのバビロンを滅ぼすために選ばれた人ですから、これはペルシャの王キュロスのことを指していることがわかります。神はそのためにキュロスを選び、そこに置かれたのです。
不思議なことは、そのことがエレミヤから遡ること100年も前の預言者イザヤに名指しで告げられていたことです。イザヤ45章1節をご覧ください。「【主】は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。」(イザヤ45:1)
イザヤはエレミヤから遡ること100年も前の預言者ですよ。その時にはまだアッシリア帝国の時代で、バビロンはまだ新興国の一つにすぎませんでした。ましてメディアとかペルシャといった国はどこにあるかもわからない小さな国だったのです。そんな時代に主はイザヤを通してご自身の民をバビロンから解放するためにキュロス王を選び、そこに置くと言われたのです。すごいですね。だれがこんなことを考えることができるでしょうか。だれもできません。しかし、神にはできます。神は光を造り出し、闇を創造され、平和をつくり、わざわいを創造されました。主はこれらすべてを行うことができる方なのです。このような神はほかにはいません。神はその全知全能の御手をもってすべてを導いておられたのです。
ですから、結論は何かというと、45節にあることです。ここには、「それゆえ、聞け。バビロンに対して立てられた主の計画を。カルデア人の国に対して練られた策を。」とあります。主がバビロンに対してどのような計画を持っておられたのかを聞かなければなりません。そして、主があなたに対して立てられている主の計画を聞かなければならないということです。
もしかするとあなたは、今、自分が置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とつぶやいておられるかもしれません。それは自分が考えていたこととは違います。むしろ全く反対です。私が願っていたのは平凡でもいい、貧しくてもいい、ささやかでもいい、「ああ、本当にしあわせだ」と感じるような人生なのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのですか。どうして苦難の連続なんですか。どうして・・・。
でも、主はこう言われるのです。聞け。バビロンに対して立てられた主の計画を。これがバビロンに対して立てられた主の計画です。これがあなたに対して立てられた主の計画なのです。あなたにとって必要なことは、どうしてこんなに苦しいのかと嘆く前に、主がどのような方なのかを知り、この力強い御手のもとにへりくだることです。十字架に架けられる前夜、イエス様はゲッセマネの園でこう祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)それは私たちの模範です。私たちも、それが自分の願いとは違って、主が私たちにも確かにご計画を持っておられると信じ、その主のみこころに従うことが求められているのです。
皆さんも聞いたことがあるでしょう。ニューヨークにあるリハビリテーションセンターの受付の壁に「ある病者の祈り」が掲げられています。作者不詳とされていますが、含蓄のある祈りだと思いますので紹介したいと思います。
大事をなそうとして
力を与えて欲しいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった。
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた。
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。
人生を享受しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
私がこの詩を読んで思ったことは、これを書いた人がだれかはわかりませんが、この人は自分に対する神の計画を知り、それに生きた人ではないかということです。だれも失敗なんてしたくありません。病気にもなりたくない。貧しいのなんて嫌です。できるだけ楽しく、できるだけ豊かに、できるだけ明るく生きていきたい、そう思っています。それにも拘わらず、病気や苦しみ、失敗、貧しさ、弱さ、悲しみがあるとしたら、それこそ、自分が謙虚であるようにと、神が与えてくれた恵みなのだと。その神の計画を聞き、すべてを支配しておられる神のみ旨に従うことこそ、神が私たちに求めておられることなのです。
先週、那須の礼拝に千葉県浦安市で牧師をしておられる小塚朝生先生が出席されました。礼拝後に、近くのレストランで会食しながら交わりの時を持たせていただきましたが、その時先生が私にこの本(「心通わせて」)をプレゼントしてくれました。この本は重い障害を持って生まれたご次男の和基君と過ごした23年間の記録をまとめたものです。先生は銀行で30年余り働いた後で献身し牧師となられましたが、先生をそのように導かれたのは何だったのかと思いながら読ませていただきましたが、それはこの和基くんとの関わりを通して与えられた思いであったことを知りました。銀行の世界では効率や成果を求められますが、重い障害者の世界では、ただそこに存在するだけの世界です。そういう人も天国に行けるのでしょうか。答えはイエスです。先生はそれを聖書のみことばから確信を与えられ、同じように重い障害を持って生まれた人がいる家族にその希望を伝えたいという思いが与えられたのです。それが先生に対して立てられた主の計画でした。確かにそれは厳しい戦いの連続だったかと思いますが、そのことを通して先生ご自身が深い主の恵みに触れさせていただいたのではないかと思ったのです。
同じように主は、あなたにも深い計画を持っておられます。それはエレミヤ29章11節にあるように、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。だったらなぜそんな苦難があるんですかと思われる人もいるでしょう。それはあなたの人生には何の苦難もないという意味ではありません。あなたの人生のすべてがバラ色で、楽しく、豊かで、希望に満ちた人生であるということを約束しているわけではないないのです。それはその時にお話しましたが、終わってみたらすべてが恵み、すべてが感謝だという意味です。あなたがその人生を終えるとき、振り返ってみたら、そこには平安と希望があると言っているのです。それがクリスチャンに約束されていることです。それがあなたに約束されていることです。だから、たとえあなたの人生において苦難が尽きないようであっても、終わってみたら感謝と言えるような人生を、神様はあなたに用意しておられるのです。私たちは今、その全容を知ることはできませんが、やがて天の御国に行くとき、「ああ、こういうことだったのか」ということを知り、神を崇めるようになるでしょう。ですから、どうぞ聞いてください。あなたに対して立てられている主の計画を。
それは必ずなります。主がすべてを支配し、導いておられるからです。このような神はほかにはいません。彼らを贖う方は強いのです。その名は万軍の主。この力強い神の御手の下にへりくだりましょう。そして、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねましょう。神があなたのことを心配してくださるからです。神は、ちょうど良い時に、あなたを高く上げてくださるのです。

バビロンは滅びる エレミヤ書50章1~20節

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聖書箇所:エレミヤ書50章1~20節(旧約P1387、エレミヤ書講解説教83回目)
タイトル:「バビロンは滅びる」
エレミヤ書50章に入ります。これまで、ユダ及び周辺諸国に対する主のことばを見てきましたが、いよいよバビロンについての預言が語られます。バビロンは主なる神様の許しの中で、ユダ及び周辺諸国に対する神の道具として用いられてきましたが、今度はそのバビロンにも主のさばきが及ぶことになります。バビロンに対する預言はすでに25章12節で語られていましたが、ここではもっと具体的に語られます。
今回はその最初の部分から三つのポイントでお話したいと思います。第一に、あの大バビロンでも滅びるということです。それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。神はご自身が語られたことを必ず成就されるのです。だから、この神のことばに信頼しましょうということ。第二のことは、バビロンが滅びたのはどうしてでしょうか。それは彼らが主に対して罪を犯したからです。その結果彼らは傲慢になり、やりたい放題になってしまいました。だれに対して罪を犯したのかという正しい認識を持たなければなりません。第三のことは、バビロンに対する審判は、同時にご自身の民イスラエルに対する回復と救いをもたらすということです。もしあなたが罪を言い表すなら、神は信じて正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。この三つのことです。それでは本文を見ていきましょう。

Ⅰ.バビロンは滅びる(1-10)
まず、1~10節をご覧ください。1~2節をお読みします。「50:1 【主】が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデア人の地について語られたことば。50:2 「国々の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。『バビロンは攻め取られた。ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた。』」
2節の「旗を掲げて知らせ」とは、この預言を広く公に告げ知らせるという意味です。バビロンは、すでに学んできたようにパレスチナのほとんど全土に至るまで、そしてエジプトにまでもその勢力を伸ばし、諸国を制圧してきましたが、そのバビロンについて語られた主のことばを、国々の間に広く告げ知らせるようにというのです。
その中心的なメッセージは何かというと、バビロンは滅びるということです。2節には、「バビロンは攻め取られた。ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた。」とあります。「ベル」も「メロダク」もバビロンの代表的な守護神です。「ベル」は「主」とか「主人」という意味がありますが、バビロンの主神でした。「メロダク」は一般には、「マルドゥク」と呼ばれていて、意味は「あなたの反逆」です。「メロダク」はまさに主に反逆する存在でしたから、それにふさわしい名前と言えます。そのベルは辱められ、メロダクは打ちのめされます。古代オリエントにおいては、その国の敗北は、その背後にある神の敗北と考えられていました。つまり、バビロンの守護神であったベルとメロダクが辱められ、打ちのめされることによって、真の神はどなたであるのかが明らかにされるのです。皆さん、真の神はどなたですか。ベルじゃありません。メロダクでもありません。真の神は、イスラエルの神、「主」です。それはご自身を父と子と聖霊という御名で表わされた三位一体の神なのです。
いったいバビロンはどのようにして滅ぼされるのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「まことに、北から一つの国がそこに攻め上り、その地を荒れ果てさせた。そこには住むものもない。人から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。
「北から攻め上る一つの国」とは、メディアとペルシャの連合軍のことです。バビロンは、北から来るメディアとペルシャの連合軍によって滅ぼされるというのです。それは文字通りに成就しました。B.C.539年にペルシヤの王キュロスがバビロンを陥落させたのです。難攻不落と言われたバビロンが陥落したのです。だれがそんなことを考えることができたでしょうか。バビロンは二重の城壁に囲まれていました。その周囲は65キロメートルもあったと言われています。城壁の高さは90メートルです。高いところで100メートルもありました。厚さは24メートルです。ですから、何台もの馬車が城壁の上を走ることが出来たのです。そんな分厚い壁をどうやって打ち破ることができるでしょうか。無理です。そんな壁をよじ上ることができる人など一人もいません。そんなことをしたら塔の上で見張っていた者から矢を放たれてしまいます。だったら土を掘って地下から侵入したらいいじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、それもできません。なぜなら、城壁が地下深くまで築かれていたからです。その深さ、実に11メートルもありました。ですから、この城壁を打ち破るのは人間的には不可能なことでした。しかし、人にはできなくても、神にはどんなことでもできます。神はかつて小国だったメジィアとかペルシャを用いて、あの大バビロンを滅ぼされるのです。ここに書かれてあることが文字通り成就するのです。
4節と5節をご覧ください。ここには「50:4 その日、その時──【主】のことば──イスラエルの民もユダの民も、ともにやって来る。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、【主】を尋ね求める。50:5 彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて言う。『さあ、私たちは【主】に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって』と。」
これはバビロンに対する預言ではなく、イスラエル民とユダの民に対する預言です。「その日、その時」とは、メディアとペルシャの連合軍によってバビロンが滅ぼされる時のことです。その日、その時、どんなことが起こるのでしょうか。その日、その時、イスラエルとユダの民は、ともにやって来て、泣きながら、彼らの神、主を尋ね求めるようになります。70年にわたるバビロン捕囚から解放され、祖国に帰還するようになるということです。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、主を尋ね求めます。詩篇137篇1節に、彼らが捕囚の民としてバビロンに連行された時の詩があります。「バビロンの川のほとりそこに私たちは座りシオンを思い出して泣いた。」
まさに彼らはバビロンの地で、故郷エルサレムのことを思い出して泣いていました。それはただ感傷にふけって泣いたというよりも、心の底から悔い改めた涙です。偶像礼拝という罪のゆえに、また7年ごとの安息年を守らなかった罪のゆえに、バビロンでの70年にわたる捕囚の生活を強いられていたわけですが、その中で彼らは自分たちが犯してきた罪の愚かさに気付いて泣いたのです。そして70年の時を経て、彼らはシオン(エルサレム)に帰還するわけですが、その時は以前の彼らとは違います。彼らは心から主を尋ね求めて、こういうようになります。「さあ、私たちは【主】に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって」
すばらしいですね。一度は自分たちの罪によってバビロン捕囚を経験して涙しても、それがやがて喜びに変えられるのです。詩篇30篇5節に「まことに御怒りは束の間いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」とありますが、まさに「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」ということを文字通り体験するのです。
いったいどうやってそれが実現するのでしょうか。ここには「忘れられることのない永遠の契約によって」とあります。それは彼らの力によってではありません。忘れられることのない永遠の契約によってです。「永遠の契約」って何ですか?それは31章3節に「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」とありましたが、永遠の愛のことです。神の愛は変わることがありません。彼らがどんなに神に背いても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はそれを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。神の愛はどんなことがあっても変わることがないのです。彼らはこの永遠の愛によって救われるのです。
それは、歴史的にはB.C.539年にペルシャのキュロス王がバビロンを打ち破り、そこに捕らわれていたユダの民を解放することによって実現しますが、これはその時のことだけではありません。ここに「その日、その時」とありますが、これはこれまで何度も説明したように、終末において起こること表す時に用いられる特徴的なことばです。つまり、このエレミヤの時代にはバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還することを表していましたが、それだけでなく、遠い未来においては、終末における起こる同様の出来事を表しているのです。すなわち、終末においてイスラエルはみな救われるという出来事が起こるということです。それはキリストが再臨の時に起こります。ゼカリヤ書12章10節にこうあります。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)
  「自分たちが突き刺した者」とは、神のひとり子であられるイエス・キリストのことです。彼らはやがてその方を仰ぎ見るようになります。いつですか?キリストが再臨される時です。その時イスラエルは自分たちが突き刺した方を見て嘆き、激しく泣いて悔い改めます。このようにして、イスラエルはみな救われるのです。彼らは忘れられることのない永遠の愛によって愛されているからです。
黙示録17章と18章に書かれているのはこのことです。17章5節には「大バビロン」という淫婦たちのことが出てきますが、これは17章18節を見ると、「地の王たちを支配する大きな都のことです。」とあります。それはもはや国名というよりも神に反逆する勢力のことを指していることがわかります。その大バビロンが倒れるのです(18:2)。神が聖徒たちのためにさばかれるからです。そして19章に入ると天が開かれ、「確かで真実な方」と呼ばれ、義を持ってさばき、戦いをされる方が現れます。それはイエス・キリストのことです。そうです、主イエスが再臨されるのです。そのとき、彼を見るすべての者たちが悔い改めて嘆き悲しむのです。黙示録1章7節にあるとおりです。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)
こうしてイスラエルはみな救われるのです。そして神が用意された千年王国に入り、やがて新しい天と新しい地に入れられます。ですから、このバビロンがさばかれ、神の民が悔い改めて救われるという内容は、今から2,500年前の話だけでなく、今の私たちの時代から後の近い将来に起こることの預言でもあったのです。
それは必ず成ります。なぜなら、聖書の預言は100%みな成就するからです。皆さん、聖書は預言の書です。実に全体の三分の一が預言で占められています。そしてその預言の95%がこれまでの歴史の中で成就しました。残りは5%です。それはいつ成就するのでしょうか。これからです。これから成就します。私たちはそういう歴史のただ中にいるのです。これまで95%が成就したのであれば、これからの5%も必ず成就するということは、だれにでもわかることです。私たちは世の終わりにいるわけですが、それを見るかどうかはわかりません。しかし、たとえ見なくても必ずその通りなります。その日、その時、あなたは忘れられることのない永遠の契約によって、キリストが支配する神の御国を受け継ぐようになるのです。そう信じて神のことばに信頼して歩みたいと思います。
Ⅱ.主に対して罪を犯したバビロン(6-18)
いったいバビロンの問題はどこにあったのでしょうか。それは彼らが主に対して傲慢であったことです。6~18節には、そのバビロンの傲慢さが指摘されています。まず、6~7節には、「50:6 わたしの民は、迷った羊の群れであった。その羊飼いたちが彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡り、休み場も忘れた。【50:7 彼らを見つける者はみな彼らを食らい、彼らの敵は言った。『私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである【主】、彼らの先祖の望みであった【主】に対して罪を犯したためだ』と。」とあります。
「わたしの民」とは、神の民イスラエルのことです。彼らが迷ったのはその羊飼いが彼らを迷わせたからです。それはイスラエルの指導者たちのことを指しています。ここでは特ににせ預言者たちのことを指しています。彼らに従った結果、民は安息を味わうどころかさまよってしまい、バビロンの支配のもとで70年を過ごさなければなりませんでした。
7節の「彼らを見つける者」とはバビロンのことです。彼らはみなその羊たちを食らい、こう言いました。「私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである【主】、彼らの先祖の望みであった【主】に対して罪を犯したためだ」と。
 これはバビロンが言ったことばです。バビロンは、イスラエルが陥落したのはイスラエルの民が自分たちの神に対して罪を犯したからであり、その結果我々に滅ぼされたのだと。確かにイスラエルがさばかれたのは彼らが罪を犯したからであり、そのために主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いられたのは事実です。しかし、かといってバビロンがした侵略行為や略奪行為が正当化されるわけではありません。それは明から神の目には悪なのです。
それで主は、ご自身の計画を成し捕囚の民の回復の約束を果たすために、そのようにおごり高ぶるバビロンに対して、彼らを滅ぼすと告げられました。それが8~10節にあることです。9節の「大国の集団」とはペルシャのことです。主はペルシャを奮い立たせ、バビロンに攻め上らせるのです。そのようにしてカルデア(バビロン)は略奪されることになるのです。
そのことは、11~13節でも言われています。「50:11 わたしのゆずりの地を略奪する者たちよ。おまえたちは楽しみ、喜び躍り、打穀する雌の子牛のようにはしゃぎ、荒馬のようにいななくが、50:12 おまえたちの母はひどく恥を見、おまえたちを産んだ者は屈辱を受ける。見よ。彼女は国々のうちの最後のものとなり、荒野となり、砂漠と荒れた地となる。50:13 【主】の御怒りによって、そこに住む者はなく、ことごとく廃墟と化す。バビロンの近くを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。」
「わたしのゆずりの地を略奪する者たち」とは、バビロンのことです。ここで注目したいことは、イスラエルは「わたしのゆずりの地」と言われていることです。神のゆずりの地、神の相続地であるということです。彼らがイスラエルを略奪したのは単にイスラエルの地を略奪したというよりも、それは「わたしのゆずりの地」とあるように、主のゆずりの地、主が相続した主の土地を略奪したということなのです。要するに、彼らの罪とは、主に対して犯した罪だったのです。これが、バビロンが滅ぼされた最大の原因です。バビロンはイスラエルの民を滅ぼし、大喜びしながら、その地を略奪しました。その傲慢な罪のゆえに、主はバビロンを滅ぼし、そこを廃墟と化すのです。
そのことは、さらに14~16節のところで明確に語られます。14節には「すべて弓を引く者よ。バビロンの周りに陣備えをし、これを射よ。矢を惜しむな。彼女が【主】に対して罪を犯したからだ。」とあります。
「すべて弓を引く者よ」とは、そのペルシャに対する呼びかけです。主はペルシャに対して、バビロンの周りに陣備えをし、これを射るようにと命じておられます。なぜですか?なぜなら、彼らが主に対して罪を犯したからです。ですから、15節のところで、これは「主の復讐だ」と言われているのです。主に対して罪を犯したから、主が復讐されるわけです。ペルシャの王キュロスはこのことをどれだけ理解していたかわかりませんが、バビロンが滅ぼされた最大の理由はここにあったのです。
皆さん、主に対して罪を犯すなら、主に対して傲慢であるならば、主が復讐されることになります。私たちも主に対して罪を犯していないかを考えなければなりません。というのは、私たちが罪を犯す時、それは神に対してというよりも、むしろ人に対して罪を犯したという意識の方が強いからです。あの人に対して申し訳ないことをした、あんなことをやってしまった、こんなことを言ってしまった、あのことで傷つけた、このことで迷惑をかけたという思いが強いのです。しかし、本来、罪というのは人に対してというよりも神に対して犯すものです。確かにバビロンはイスラエルを滅ぼしその地を略奪しましたが、それはイスラエルに対してというよりも、神に対して犯した罪だったのです。
この認識がなければ、それは真の悔い改めではありません。真の悔い改めとは人に対してではなく神に対してなされるものだからです。人に対して罪を犯したという思いだけで終わっているならば、それは単なる後悔にすぎません。結果、また同じことを繰り返すことになります。なぜなら、神に対して罪を犯したという認識が欠如しているからです。神がどれほど心を痛めておられるかを考えたことがあるでしょうか。よくわかりませんと言う方がいたら、十字架のキリストを見てください。よくわかると思います。神に対して罪を犯すということがどういうことなのかを。
クリスチャンのシンガーソングライターに岩渕まことさんが、「父の涙」という歌を作りました。
  1.心にせまる父の悲しみ
    愛するひとり子を十字架につけた
    人の罪は燃える火のよう
    愛を知らずに今日も過ぎていく

   ※十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
     十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

  2.父が静かに見つめていたのは
    愛するひとり子の傷ついた姿
    人の罪をその身に背負い
    父よ 彼等を許して欲しいと
この曲は、岩渕さんが当時8歳だった娘の亜希子さんを亡くした悲しみの中で生まれた曲だそうです。亡くなられた亜希子さんの姿と、彼女を亡くした御自身の悲しみが、イエス様と父なる神様に重なりました。愛するひとり子を十字架につけるというのはどれほどの悲しみなのか。そこには父の涙が流れていました。それは私たちの罪の身代わりとして死なれたイエスの愛だったと。
だから、十字架のキリストを見上げるとわかるのです。そのキリストの姿をじっとこらえてご覧になられ、そのキリストにご自身の怒りを注がなければならなかった父なる神の涙から、神の御思いがひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。
神に対して罪を犯すとはそういうことです。それがわかると短絡的に罪を犯そうという思いにはなれません。人に対して罪を犯したと思っていると、あれほど申し訳ないと思ったことでも忘れてしまうこともあります。でも、神に対して罪を犯しているという認識を持つならば本物の悔い改めの涙があふれて来て、もう二度とこんなことはしたくない、できないという思いになるはずです。
ですから、私たちにとって重要なのはだれに対して罪を犯しているのかという正しい認識を持つことです。それがなければ主の前に傲慢な者となり、自分のやりたい放題になってしまいます。主が許容された範囲を超えてやり過ぎてしまい、ついにはバビロンのように滅ぼされてしまうことになるのです。
それが17~18節にあることです。17節には「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついに、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らった。」とあります。
17節の「雄獅子」とは複数形で書かれています。これは2頭の雄獅子のことで、アッシリアとバビロンのことを指しています。イスラエルはかつて2頭の雄獅子に滅ぼされました。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついて、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らいました。これは、歴史的にはB.C.722年にアッシリアが北王国イスラエルを滅ぼしたことと、バビロンがB.C.586年に南ユダを滅ぼした出来事を指しています。しかしネブカドネツァルの場合はやりすぎました。アッシリアの王もイスラエルを食らいましたが、バビロンの王はただ食らったのではなく、彼らは骨まで食らいました。やり過ぎたのです。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われます。18節です。「見よ。わたしはアッシリアの王を罰したように、バビロンの王とその地を罰する。」
神を恐れず、神に対して罪を犯しているという認識を持たないと、自分のやりたい放題となり、ついにはバビロンにように滅びてしまうことになるということを覚え、神の前にへりくだる者でありたいと思います。
Ⅲ.イスラエルの回復の恵み(19-20)
最後に、19~20節を見て終わります。ここにはイスラエルの回復について書かれてあります。「50:19 わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで満ち足りる。50:20 その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」」
「カルメルとバシャ」、「エフライムとギルアデ」は、北イスラエル王国にあった地域です。そこはかつてアッシリアの王によって略奪されたところですが、そこが先に回復していきます。ですから、これはただユダの民がエルサレムに帰還するというだけでなく、北イスラエルも南ユダ王国も、統一王国として回復するという預言なのです。それはユダの民がバビロンから解放されエルサレムに帰還するということ以上のことです。それはここに「その日、その時」とあるように、世の終わりにおいて成就する預言なのです。
20節はすばらしいですね。ご一緒に読みましょう。「その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」
北イスラエルと南ユダがどれほどの罪を重ねてきたか、どれほどおぞましいことをしてきたか、そこには自分の子どもを偶像に犠牲としてささげるというモレク礼拝もありました。そういう罪をこれでもかというくらい繰り返してきました。決して許されないことです。それなのに、ここで主は何と言っていますか。
「イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」
神の赦しは、罪の一切合切を帳消しにするのです。つまり、神が赦すとき、神は私たちの罪をすべて忘れてくださるのです。人の赦しには限界があります。「私は赦します」と言っても、脳の中には記憶として残っています。確かに赦すとは言っても、あの時はこうだった、ああだったと、しばらくしてからまた思い起こし、蒸し返して、それで人を責めたりします。あるいは赦したはずなのに、苦々しい思いとか、怒りとか、恨みとかがこみ上げてきますが、神は違います。「またやったのか」というようなことは一切言われません。すべてを帳消しになさるのです。31章34節に「わたしが彼らの不義を赦し、もはや二度と彼らの罪を思い起こさない。」とあるように、完全に忘れてくださるのです。有難いですね。
ですから、神様があなたの罪を赦してくださったのなら、あなたはもうその罪を思い起こす必要はありません。過去の罪でいつまでも悔やまないでください。あなたがはっきりと「私は神様の前で罪を犯しました」と正直に告白し、神の赦しを請うなら、あなたの罪はイエス・キリストの十字架によって完全に赦されているのです。赦されているということは、あなたはもう思い起こす必要もないし、人から何か言われても、サタンがあなたの耳元で何をささやいても、もうそれに囚われる必要はないということです。神が忘れたと言われるなら、あなたもそのようにみなすべきです。もう私も忘れたと。そうやって私たちは過去の罪から解放されていくのです。
神のみこころは、あなたがいつまでも過去の罪に囚われていじいじしながらいつも過去を振り返り、後ろ向きに生きるのではなく、もう過去の罪から解放されて、そのような過去はなかったかのように生きることです。うしろのものを忘れること。それが神のみこころです。もしまだ罪を悔い改めていないなら、罪を言い表していないなら、それこそ最優先に成されるべきことです。赦されたなら、もう悩む必要はないのです。
生涯、罪責感にさいなまれてきた老婦人がいました。彼女は17歳で嫁いだ後すぐに夫が満州に徴用され、妊娠したまま実家に戻ってきました。当時は木の皮まで食べた苦しい時代だったので、実家の家族の視線は冷たいものでした。そして、生まれた子どもは双子でしたが、両方に満足に乳を飲ませることができず、片方は死んでしまいました。
 「神様の前に出て、この罪をどうすればよいのかわからない」と罪の重荷をずっと背負って生きてきました。
そんな時、牧師から「神はイエスを通して、子どもを死なせてしまった母親の罪を赦されました。神様はその罪を二度と思い起こさず、あなたを神様の娘とされたのです」という話を聞きました。おばあさんはその言葉に号泣し、十字架の贖いの福音によって笑顔を取り戻すことができました。(リビングライフ、2010年9月号、P35)
私たちは神の愛と恵みをその時々の状況によって判断してしまいます。物事がうまくいけば「神は私を愛しておられる」と言い、うまくいかなければ「なぜ神は私をこのように苦しめるのだろう」と神の愛を疑います。しかし、神の愛はその時ごとに確認するようなものではありません。それは、すでに確証された事実です。すでに神はあなたを愛することを決められ、あなたの罪をきよめてくださったのです。
これが神の約束です。この神のことばを素直に受け取ることができた人々は、たとえその現実がどれほど苦しく、耐えがたいものであっても、湧き出るような神が与えてくださる希望に満たされ、その前途は、トンネルのかなたに明るい出口を見え始めたようなものです。それは、神のことばを真剣に受け取る者に与えられる恵みなのです。
それは、今日同じように神のことばを真剣に聞いているあなたにも言えることです。バビロンに対する神の審判の日は、イスラエルの民に回復と救いをもたらす時でした。まことに審判と救いは一枚の紙の両面のようなものであり、切り離して考えることはできません。そのような回復と希望があなたにも与えられていることを信じて、まことの羊飼いであられる主イエスについて行きたいと思います。

ここに救いがある エレミヤ書49章23~39節

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聖書箇所:エレミヤ書49章23~39節(旧約P1385、エレミヤ書講解説教82回目)
タイトル:「ここに救いがある」
46章から諸国の民についての語られた主のことばから学んでいますが、今日はダマスコに対して語られた主のことばと、ケダルとハツォル、そしてエラムに対して語られた主のことばから学びたいと思います。
三つのポイントでお話します。第一に、ダマスコに告げられたのは神のさばきという悪い知らせでしたが、ここに良い知らせがあります。良い知らせは、主イエスにあるということです。第二のことは、ケダルとハツォルに対する主のことばから教えられることですが、自分は一人でやっていけると思い上がるなら、滅びを招くことになるということです。そして第三のことは、エラムに対する主のことばから教えられることですが、あなたは何を誇り、力の源としていますかということです。神以外のものを誇るなら神はそのようなものを砕かれますが、主に立ち返るなら救いの恵みを受けることができということです。それでは、本文を見ていきましょう。
Ⅰ.ダマスコに対する預言(23-27)
まず、ダマスコに対する預言から見ていきましょう。23~27節をご覧ください。「49:23 ダマスコについて。「ハマテとアルパデは恥を見た。まことに、彼らは悪い知らせを聞き、海のようにかき乱され、静まることもできない。49:24 ダマスコは弱り、恐怖にとらわれ、身を翻して逃げた。産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて。49:25 どうして、誉れの町、わたしの喜びの都が捨てられたのか。49:26 それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、黙らされる。──万軍の【主】のことば──49:27 わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす。」」
ダマスコはアラムの首都でした。アラムとは今日のシリアのことです。シリアはイスラエルの北方に隣接している国ですが、今日でもテレビのニュースでよく観ます。そのダマスコに対する預言です。
「ハマテとアルパデは恥を見た」とありますが、「ハマテ」と「アルパデ」はダマスコの北にあった町です。このハマテとアルパデは恥を見ることになります。彼らは海のようにかき乱され、静まることもできません。なぜなら、彼らは悪い知らせを聞くからです。それは敵によって海ようにかき乱され、静まることもできないという知らせです。ダマスコは弱り果て、恐怖にとらわれ、産婦の陣痛のような苦しみにとらえられて、身を翻して逃げることになります。26節には、その日、敵の攻撃によってダマスコの若い男たちは町の広場に倒れ、戦士たちもみな、黙らされるとあります。黙らされるとは殺されるということです。そしてこの預言はB.C.605年に成就します。バビロンの王ネブカドネツァルはエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢を打ち破ると、このダマスコも打ちました。46章2節で見た通りです。27節には「わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その日はベン・ハダドの宮殿を食い尽くす」とありますが、ダマスコの城壁は崩され、ベン・ハダドの宮殿は焼き尽くされました。
23節の真ん中に「まことに、彼らは悪い知らせを聞き」とありますが、それは本当に「悪い知らせ」です。バビロンの王によって焼き尽くされ、捕らえられるというのは、悪い知らせでしかありません。しかし、ここに「良い知らせ」があります。それは、そのバビロン捕囚から解放されるという知らせです。
それは「良い知らせ」、「福音」です。皆さんは「福音」という言葉をよく聞くと思いますが、福音とは何ですか。私はクリスチャンになる前にこの漢字すら読めませんでした。何だろう、「フクオン」って?「福音」とは、ギリシャ語では「εὐαγγέλιον」(エウアンゲリオン)と言いますが、この言葉は、元々はバビロン捕囚から解放される知らせのことです。ここから来ているんですね。それがバビロン捕囚ならぬ罪の奴隷から解放されることを意味することばとして用いられるようになったのです。それが福音です。つまり、悪い知らせとは罪の奴隷の状態であることに対して、良い知らせとは、その罪の奴隷の状態から解放されるという知らせのことなのです。
そこから解放してくださる方は誰ですか。それは言わずと知れた私たちの救い主イエス・キリストです。キリストは十字架で死なれ三日目によみがえられることによって、この救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、このイエスを救い主と信じるならだれでも救われます。罪から解放されるのです。これが福音です。私たちはこの福音によって救われました。
そしてこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者として私たちはこの世に置かれているのです。この世は良い知らせを知りません。知っているのは悪い知らせばかりです。テレビやネットから流れてくる情報は悪い知らせばかりじゃないですか。そこには全く希望がありません。この世の人たちは自分の中に神を求める思いがあるのに、その神がどのような方なのかを知らないからです。まさに「知られていない神」です。どこに行ったら良いのかわからずみんなさまよっているのです。もしこの良い知らせ、イエス・キリストの福音を知ることができたら、どんなに希望と生きる力が与えられることでしょう。
私は先日右眼の手術を受けましたが、実はちょっとだけ不安がありました。昨年11月にも受けたのですが、その時に出血が目の奥に入り込んだため4日目もう一度手術を受けなければならずかなり目にダメージがあったので、そうならないといいなぁと祈ったのです。
病院に到着後、その日は何もすることがなかったので、聴く聖書でテサロニケの手紙を聴きました。すると主はこのように語りかけてくださいました。「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。」(Ⅰテサロニケ5:28)
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにありますように。それは私に対する神の約束のことばだと確信しました。主の恵みの御手があると。主が私の罪を贖われた。主は私とともにおられる。強くあれ。雄々しくあれ。主はいつもあなたとともにおられる。
本当に励まされました。こんな時いくら「頑張ってください」と言われても、自分にはどうすることもできません。でも主があなたとともにおられるというメッセージは、本当に平安と希望を与えてくれました。そして主イエス・キリストの恵みによって手術は成功し、心配していた目の奥に血が入り込むこともなく、4日目に退院することができました。ハレルヤ!
ところで、手術が終わった日、さくらチャーチの一人のご婦人からメールをいただきました。その方は乳がんの検査を受けられたのですが、その結果陽性であることが判明しました。リンパ腺にも転移しているらしく、しばらく化学療法を続けた後で手術をする方針だとだということでした。
私は片方の目でしたがすぐにメールを差し上げ、自分に与えられたイエス・キリストの恵みがその方にもあるようにと書き送りました。するとその方から返信が届きました。
 「先生、恵みの言葉を有難う御座います。今病院から戻りました。お盆前で院内も患者でいっぱいでした。先生のメールを読んでいまして、あ―、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らに居られると思いました。これから始まる科学療法にも、太刀打ちできる勇気が湧いてきます。何より増して、大橋牧師の手術が成功された事が嬉しいです。良かったですね。・・・・牧師に大いなる神の恵みを。アーメン。」
何だか逆に励まされたような感じですが、私はこれを読んで福音の力ってすごいなぁと思いました。「あー、クリスチャンで良かった!私にはイエス様が傍らにおられる」って言えるのは、本当に凄いことだと思うんです。この世にこのような希望があるでしょうか。十字架で死なれ、三日目によみがえられた主があなたをすべての罪から解放してくださった。主がいつもあなたとともにおられ、あなたの前を歩んでくださるというメッセージは、本当にかけがいのなにメッセージ、良い知らせです。この世のどこを探してもこんなにすばらしいメッセージ、福音の良い知らせはありません。この良い知らせがあなたにも与えられているということを忘れないでください。
Ⅱ.ケダルとハツォルの王国について(28-33)
次に、ゲダルとハツォルに対する主のことばを観たいと思います。28~33節をご覧ください。「49:28 バビロンの王ネブカドネツァルが討ったケダルとハツォルの王国について。【主】はこう言われる。「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。49:29 その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって叫ぶ。『恐怖が取り囲んでいる』と。49:30 ハツォルの住民よ、逃げよ。遠くへ逃れよ。深く潜め──【主】のことば──。バビロンの王ネブカドネツァルが、おまえたちに対してはかりごとをめぐらし、おまえたちに対して計略をめぐらしているからだ。49:31 さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。49:32 彼らのらくだは獲物になり、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、もみ上げを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、あらゆる方向から彼らに災難をもたらす。──【主】のことば──49:33 ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなる。そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」」
「ケダル」はイシュマエルの息子の名(創世25:13)で、アラビア半島に住む遊牧民です。現在のサウジアラビアの辺りに住んでいたのではないかと考えられています。イスラム教徒によると、イスラム教徒の開祖はムハンマドですが、彼はこのケダルの子孫だと言っています。
「ハツォル」とは、ガリラヤ湖の北部にも「ハツォル」という町がありますがそのハツォルではなく、アラビア半島のどこかにあった町ではないかと考えられています。
そのケダルとハツォルに対して主は何と言われましたか。28節後半から29節には、「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られる。」とあります。これはバビロンの王ネブカドネツァルに対して言われたことばですが、彼はケダルに攻め上り、これを荒らし回ります。その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋も、すべての器も、らくだも、運び去られることになるのです。天幕と羊の群れとか、らくだと言われてねピンとこないかもしれませんが、たとえばこれを資産とかホンダのSUVのような高価なものに置き換えるとわかりやすいかと思います。あなたが今まで築いてきた資産のすべてが奪われたとしたらどうでしょうか。もう絶望するのではないでしょうか。なぜここにラクダが出てくるのか不思議に思われるかもしれませんが、ラクダは当時の貿易では欠かすことができない高価なものだったからです。「ラクダ」は砂漠の船と呼ばれていて、価値あるものでした。今でいうとホンダの車であったり、ハーレーダビッドソンかもしれませんね。ラクダに乗ったら楽だ!なんて。そんな価値あるものがすべて奪われるとしたらどうでしょう。もう立ち上がれないのではないでしょうか。車だけならまだしも、家や資産のすべてが奪われたとしたら悲しい限りです。ケダルとハツォルはまさにそんな悲惨な目に遭うのです。いったい何が問題だったのでしょうか。
31節をご覧ください。ここには「さあ、安んじて住む穏やかな国に攻め上れ。──【主】のことば──そこには扉もなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。」とあります。
 どういうことでしょうか。ケダルとハツォルは遊牧民だったので、誰も自分たちのところに攻めてくる者はいないと、安心しきってのん気にしていたのです。鍵など必要ありませんでした。城塞都市ではなかったからです。いつものんきに暮らしていました。フーテンの寅さんのように。今の時代、鍵をかけなかったら大変ですよ。すっかり持って行かれます。娘が高校生の時、駅まで自転車で行っていましたが、何度盗まれたでしょうか。何台も盗まれました。しっかり鍵をかけていても、ですよ。
しかし、ゲダルとハツォルはそういう心配がありませんでした。扉も、かんぬきも必要なく、だれとも同盟関係を結ぶ必要もありませんでした。そんなことしなくたって自分たちだけでやっていけると高をくくっていたのです。そういう自負心というか、プライドの結果、31節にあるように、彼らは孤立して住んでいたのです。
これはどこかの国に似ているんじゃないですか。この国もどちらかというとそういう傾向があります。確かに日本には同盟国があり孤立しているわけではありませんが、でも自分たちだけでやっていけるという勝手な思い込みがあるのではないでしょうか。誰の助けを受けなくても、自分の力でやっていけると。
それはクリスチャンも例外ではありません。自分は一人でやっていけるので別に教会に行く必要がないと思っている人が意外と多いです。信仰生活は一人でも守っていけるから大丈夫ですという思いがあるなら、それはこのケダルやハツォルと何ら変わりがありません。一人で聖書を読んで、一人賛美して、一人で礼拝できるから大丈夫です。時には家に人を招いて家庭集会をすることもできるし、メッセージだってインターネットでいくらでも聴くことができます。交わりだって教会に行かなくてもできるから大丈夫ですと言うなら、このケダル人やハツォル人と同じなのです。とんでもない勘違いをしていることになります。私たちは一人でなんて生きていくことなどできないからです。神はそのために教会を用意してくださいました。主にある兄弟姉妹が共に集まって共に礼拝し、共に生きるようにと。だから礼拝に来ると元気が出るんです。そして神様がどのようなお方なのかを本当の意味で知ることができて、その神によって力を与えられるのです。
今年の教会のテーマは、ともに生きる幸いです。「133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:1-3)とあるとおりです。
自分は一人でやっていけるとおごり高ぶるなら、ゲダルやハツォルのように、神のさばきを受けることになります。主はそういう人たちのところに攻め上れと、ネブカドネツァルに命じておられるように、やがて滅ぼされることになるのです。もうらくだ!なんて言えなくなります。
そしてこの預言の通り、B.C.599年にバビロンの王ネブカドネツァルがケダルを攻撃して、その天幕と家畜をすべて略奪しました。自分はどうなのかを吟味して、もしそのような思いがあるなら悔い改めて、神のみこころに歩ませていただこうではありませんか。
Ⅲ.エラムに対する主のことば(34-39)
最後に、エラムについて語られた主のことばを見て終わりたいと思います。34~39節をご覧ください。「49:34 ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった【主】のことば。49:35 万軍の【主】はこう言われる。「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。49:36 わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに吹きつけさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らす。エラムの散らされた者が入らない国はない。49:37 わたしは、エラムを敵の前に、そのいのちを狙う者たちの前にうろたえさせ、彼らの上にわざわいを、わたしの燃える怒りをその上に下す。──【主】のことば──わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす。49:38 わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。──【主】のことば──49:39 しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」」
ユダの王ゼデキヤの治世の初めとは、B.C.597年です。エラムとは、バビロンの東にあった国で、今日のイランのことです。地図をご覧ください。

(ラーンテック、「世界史探求」~初期のペルシアとメディア(前7世紀頃)~)
バビロンとペルシアの間にある地域です。ユダからはだいぶ離れたところに位置しています。そのエラムに対して主が言われたことはどんなことでしょうか。35節には、「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を折る。」とあります。彼らの力の源は何でしたか。弓です。彼らは弓が得意だったのです。言うならば、これは軍事力ですね。それが彼らの力の源だったのです。彼らはそれを自慢していました。しかし主は、そんな彼らの力の源である弓を折ると言われたのです。もう頼りにならないようにすると。
それは私たちも同じです。もしあなたが神様以外ものを自慢しているなら、神様はそれをへし折られることもあります。神以外に誇るものがあるとしたら、それが何であれ折られるのです。使徒パウロはガラテヤ書6章14節で、私たちには私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはなりませんと言っています。もし十字架以外に誇るものがあるとしたら、神は時にそれをあなたから取り上げられることがあるということを覚えておかなければなりません。神の力によって私たちは砕かれ弱くされます。でもそれは一重に私たちが神を誇るようになるためです。
あなたが誇りにしているものは何ですか。あなたが自慢しているもの、あなたが絶対的な信頼を置いているもの、それは何でしょうか。私にはこれがある。あれがある。この資格がある。このキャリアがある。この仕事がある。健康がある。お金がある。家族がある。これらはすべて神の恵みです。それなのに、これらのものを神よりも誇ることがあるとしたら、神はそれを取られることがあるのです。でもその時はむしろ幸いです。なぜなら、神があなたの力となってくださるからです。
エラムの場合はどうでしょう。36節と37節をご覧ください。主は天の四隅から、四方の風をエラムに吹き付けさせ、彼らをこの四方の風で吹き散らすと言われました。この「四方の風」とは、エラムに向かって攻めて来る敵のことですが、その結果、彼らはその地から散らされてしまうことになります。勿論、そこにはバビロンの王ネブカドネツァルもいました。彼はB.C.597年にバビロンはエラムを攻撃しました。そして最終的には37節にある通り、エラムは完全に絶ち滅ぼされてしまうことになるのです。主が語られたことは必ず実現します。自分を誇り、神以外のものに信頼を置くなら、あなたもエラムのような結果を招くことになることを覚えておかなければなりません。
しかし、エラムに対する預言はこれだけで終わっていません。39節をご覧ください。ここには、「しかし、終わりの日になると、わたしはエラムを回復させる。──【主】のことば。」とあります。これは、エラムに対する回復の預言です。エラムには、将来の回復の希望が語られているのです。これは終末時代に起こることですが、しかし、歴史上、それが既に成就していることを私たちは見ることができます。たとえば、使徒2章7~11節を開いてください。ここには、「2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」とあります。
これはペンテコステの日に、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々からエルサレム集まっていましたが、そのとき聖霊に満たされた弟子たちが、御霊が語らせてくださるままに、その人たちの国のことばで話し始めまると、それを聞いた人たちは驚いて、呆気にとられて言いました。彼らが自分たちの国のことばで話していたからです。そして、福音のことばを理解した彼らはイエス・キリスト信じて救われて行ったのです。9節を見ると、その中にこのエラム人がいたことがわかります。
「私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、」
彼らの完全な回復は終わりの日に成就しますが、このようにこの歴史においてすでに成就している部分もあるのです。
このように、神のさばきの宣告の中にも常に神のあわれみがあるのを見ることができます。46章からずっとさばきの宣告を聞き続けて、中には暗い気持ちになった人もおられるかもしれませんが、でも神はその都度その都度ちゃんと回復の希望を語り、救いの約束を与えておられたのです。ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる主は、その救いの御手を差し伸ばし続けておられるのです。決して背を向けて見捨てることはありません。勿論、どこまでも頑なな者に対しては妥協することはありませんが、でも同時に神様はあわれみ深い方であり、もしあなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はそのすべての罪を赦し、驚くべき恵みを注いでくださるのです。もうさばかれても致し方ない者に対して救いの御手を差し伸べてくださる。最後の最後まであきらめずに。そして神にしかできない救いの御業を成し遂げてくださるのです。
それは私たち日本人も同じです。自分たちは神様に頼らなくたってやっていけると豪語し、神に背を向け自分勝手に歩んでいるような者にも救いの御手が差し伸べられているのです。そうです、世の終わりにあっては間違いなく私たちはさばきに向かっていますが、そこにはちゃんとあわれみも備えられているのです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
ですから、私たちはこの時代がどういう時代なのかを見極めなければなりません。そして神のさばきを宣告しなければなりませんが、同時に神のあわれみと神の救いも、それ以上に力強く高らかに宣べ伝えなければならないのです。私たちは悪い知らせだけでなく、福音の良い知らせを宣べ伝えるために召された者なのですから。この世の人たちは良い知らせを知りません。知られない神を拝んでいます。こうした人たちにイエス・キリストのみ救いの良い知らせを宣べ伝えなければならないのです。それが私たちがここに置かれている最大の理由であり、最大の使命です。
エレミヤもその使命を全うしました。どのような取り扱いを受けようと、どんなに迫害されようとも、彼は最後までその使命を忠実に果たしたのです。私たちもそうありたいですね。確かに今は恵みの時、今は救いの日です。ここにその救いがありますと。救い主イエス・キリストを信じるなら、どんな人でも救われますと。たとえあなたがダマスコであっても、あるいはゲダルやハツォルのような人であっても、エドムのような人であっても救われて、永遠のいのちという神の祝福を受けることができるのです。その日を待ち望みつつ、主はこの国も救ってくださると信じて祈り続けようではありませんか。

エドムについての預言 エレミヤ書49章7~22節

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聖書箇所:エレミヤ書49章7~22節(旧約P1384、エレミヤ書講解説教81回目)
タイトル:「エドムについての預言」
46章から諸国の民についての預言が語られています。これまでエジプト、ペリシテ、モアブ、アンモンに対する主のことばを学んできましたが、今日はエドムに対する主のことばです。
Ⅰ.神のさばきから免れることはできない(7-13)
まず、7~13節をご覧ください。7節には「エドムについて。万軍の【主】はこう言われる。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」とあります。
エドム人は、巻末の地図6「イスラエル王国とユダ王国」を見ていただくとわかりますが、死海の南東、モアブの南に住んでいました。彼らの先祖はヤコブ(イスラエル)の兄のエサウです。ですから、イスラエル人とは最も親しい関係にあった民族と言っても良いでしょう。彼らは文字通りイスラエル人(ヤコブ)とは兄弟だったのです。それなのに彼らは、歴史上、イスラエルと争いを繰り返し、ついにその名がイスラエルに敵対する異邦人諸国の象徴となりました(エゼキエル35:1-15)。そんなエドムについて、語られた主のことばがこれです。
「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」
「テマン」はその地図にボツラという地名が出てきますが、その南方約20キロメートルにある町です。創世記36章11節を見ると、テマンはエサウの孫の1人の名前として出ています。ヨブ記にはヨブの3人の友人が登場しますが、その1人がテマン人でした。何という人ですか?そうです、テマン人エリファズですね。彼はこのテマンの出身でした。まさにテマン人は知恵者として知られていたのです。そのテマンに対して主はこう仰せられました。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」どういうことでしょうか。そうした人間の知恵によっては神のさばきを免れることができないということです。どんなに知恵があっても、人間の知恵によっては神の怒りから救われることはできないのです。
8節をご覧ください。今度は「デダン」という町が出てきます。「デダンの住民よ、逃げよ。そこを離れよ。深く潜め。わたしが彼の上にエサウの災難を、彼を罰する時を、もたらすからだ。」
「デダン」は、エドムの南東、アラビア半島の北部にあった町です。テマンがエドムの北にある代表的な町なら、デダンは南にある代表的な町でした。今日のサウジアラビアではないかとも言われています。このデダンの住民に対しては何と言われていますか?デダンの住民に対しては、そこから離れるように警告されています。なぜなら、そこも神のさばきを受けることになるからです。このデダンはかつて商業都市として栄えた町でした。産物も豊富で、経済的に豊かな所でした。そこから離れるようにというのです。知恵で有名なテマンも、商業で有名なデダンも、神のさばきを逃れることはできないからです。いくら知恵があっても、いくら経済的に豊かであっても、そうした人間的なものによっては神の怒りから逃れることはできないのです。
9節には、その神のさばきの徹底さがぶどうの収穫にたとえられています。「ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろう。盗人が夜中に来るなら、彼らの気がすむまで荒らすだろう。」
ぶどうを収穫する者は、ぶどうの実を残すことはありません。取り残しがないように収穫するからです。主はそのようにエドムをさばかれるのです。また、夜中に来る盗人は気が済むまで奪っていきます。そのように主はエサウを裸にし、その隠れ場をあらわにするのです。
11節には「おまえのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生かし続ける。おまえのやもめたちやは、わたしに拠り頼まなければならない」とあります。
みなしごたちややもめたちは保護されなければならない対象ですが、そのみなしごややもめたちを見捨てよと言うのです。どうしてでしょうか。神の激しいさばきが臨むからです。ですから彼らにはそんな余裕さえないのです。
それゆえ、主はこう仰せられます。12節です。「見よ。その杯を飲むように定められていない者でも、それを必ず飲まなければならないのなら、おまえだけが罰を免れられるだろうか。罰を受けずにはすまされない。おまえは必ず飲まなければならない。」
「その杯」とは神の怒りの杯のことです。その杯を飲むように定められていない者とは、イスラエルの民とは何の関係もない民、すなわち、異邦人のことを指しています。そのような者でさえ神の怒りの杯を飲まなければならないとしたら、まして神の民イスラエルと兄弟であるエドム人が神のさばきを免れられることは決してありません。どうしてですか?彼らは神の祝福に与りながらそれを軽視し、神の祝福を求めた弟ヤコブに敵対したからです。エサウはいわゆる肉的な人でした。彼は双子の兄として長子の権利という神の祝福が与えられていたにもかかわらず、一杯のレンズ豆のスープと引き換えにその権利を弟ヤコブに譲ってしまいました。そんなものはいらないと。それよりも美味しいシチューが食べたい。彼にとって霊的祝福はどうでも良いことだったのです。彼の関心はただ食べたり、飲んだりすることだけ、この世のことだけでした。彼は神の祝福を全く価値のないものとみなしていたのです。そういうエサウの性質を受け継いだのがエドム人です。ですから彼らが神のさばきを逃れることは決してないのです。必ず神の怒りの杯を飲まなければなりません。
13節をご覧ください。ここでは、それは必ず成就するということが言われています。お読みします。「まことに、わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。必ずボツラは恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となる。そのすべての町は、永遠の廃墟となる。」
「わたしは自分にかけて誓う」とは、100%それを成し遂げるという意味です。「ボツラ」は先ほどの地図にもありますが、エドムの首都でした。そこは今「ペトラ」と呼ばれている要塞都市で、世界遺産として有名な場所です。皆さんの中にはご覧になれられた方もおられるかもしれません。1989年の映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなった町でもあります。そこはかつて繁栄を極めた町でした。なぜなら、そこは16節に「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ」とあるように、自然の要塞となっていたからです。どんな敵が攻めて来ても攻め入ることができない難攻不落の町だったのです。つまり、軍事的にも優れていたということです。彼らはそのことも誇っていました。さらに、後で写真を見ていただくとわかりますが、建築物のほとんどは岩山を削って造られたものです。そこに独創的な貯水システムも造られました。つまり、彼らは建築技術も優れていたということです。しかし、そんなボツラも永遠の廃墟となると、主は言われました。
不思議なことですが、今ボツラ(ぺトラ)は文字通り廃墟となっています。そこにはだれも住んでいません。かつては交易の中心地として、数万人が暮らしていましたが、今は人っ子ひとりいません。それゆえ、謎の古代都市と呼ばれているんです。ボツラはどうして没落したのか。13節にある通りです。ボツラは必ず恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となると。そのすべての町は、永遠の廃墟となるのです。そのことばの通りになったのです。
誰もこの神のさばきから免れることはできません。テマンのようにどんなに知恵があっても、デダンのようにどんなに経済的に豊かであっても、ボツラのように軍事的に優れ、高度な建築技術、科学技術を持っていたとしても、この神の怒りから逃れることはできないのです。いったいどうしたら良いのでしょうか。
そのためには、本当の岩であられる主に身を避けなければなりません。詩篇2篇12節にこうあります。「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。」
「身を避ける」とは、「拠り頼む」とか、「信頼する」ということです。どこに身を避けるのか、だれのもとに身を避けるのかが重要です。エドム人は知恵や経済、軍事力、科学技術に身を避けましたが、そのようなものは神の怒りから人を救うことはできませんでした。神の怒りから人を救うことができるのは主なる神ご自身だけであって、この主に身を避けなければなりません。主に信頼しなければ救われないのです。
これが聖書全体を貫いているテーマです。主イエスを信じるなら救われるとそういうことです。なぜ主イエスを信じるなら救われるのでしょうか。なぜ主イエスに身を避けるなら救われるのでしょうか。なぜなら、主イエスこそ私たちが神の怒りから救われるために神が与えてくださった方法だったからです。パウロはこのことをこう述べています。ローマ5章9節です。
「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」
アーメン!「ですから」とは、その前に語られたことを受けてのことですが、その前には「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(5:8)とあります。「ですから」なのです。キリストは私たちがまだ罪人であったとき、私たちの罪のために死んでくださったことによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださいました。自分の敵のために死ぬ人がいますか。いません。自分の愛する人のためなら死ぬ人はいるかもしれませんが、自分に背き自己中心に歩んでいる人のために死ぬ人なんてほとんどいないでしょう。しかし神は、ご自身に背を向け自己中心に歩んでいた私たちのために、聖書ではこれを罪と言いますが、そんな罪人のために死んでくださることによって、ご自身の愛を明らかにしてくださったのです。それが神のひとり子イエス・キリストの十字架でした。イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれることによって、その罪を取り除いてくださったのです。「ですから」です。ですから、今すでにこのキリストの血によって義と認められた私たちが、神の怒りから救われるのはなおさらのことなのです。だってそのためにそれだけ大きな神の愛が注がれたのですから。救われないわけがありません。もしあなたがこのイエスをあなたの罪からの救い主として信じるならあなたの罪は赦され、神に義と認められ、神の怒りから救われるのです。イスラエルがエジプトから救われたように。彼らはどのようにエジプトから救われましたか?自分の家の鴨居と門柱に、小羊の血を塗ることによってです。それを見た神はご自身の怒りを過越していかれました。それと同じです。イエス・キリストこそその過越しの小羊なのです。もしあなたの心にこのキリストの十字架の血を塗るなら、神の怒りはあなたを過越して行くのです。テマンの知恵も、デダンの経済も、ボツラの軍事力や建築技術も、この世のいかなるものもあなたを神のさばきから救うことはできませんが、神が用意された神の救いイエス・キリストを受け入れるなら、この神の怒りから救われることができるのです。
毎週火曜日の夜に、家内は以前小学校で英語を教えていた時に教頭をされておられた方に英会話を教えていますが、夏休みに入る最後のクラスが始まる1時間くらい前に電話があり、その日は台風で大雨警報も発令されているのでお休みしますとのことでした。「はい、わかりました」と電話を切ると、彼女からすぐにまた電話がありました。「パット先生はおられますか」と。それで家内に電話を代わるといきなり、「パット先生、『神は愛なり』ってどういう意味ですか」と聞いて来られました。それで家内は、「それは、神様は愛です、という意味です」と答えました。すごいなあ、ズバリそのままです。神は愛です。しかし、大切なことだと思ったのか「ちょっと待ってください。家の旦那さんに代わりますから」と言って、すぐに私に代わりました。私たちは驚いて顔を見合わせました。なぜなら、その日の朝二人でデイボーションをしてお祈りをしたのですが、「今晩は池田さんと英語のクラスがありますが、彼女の心を開いて良い証ができるように導いてください」と祈ったからです。これまでずっと良い関係がありましたがなかなか証することができなかったので、少しでも証ができるように、そういう機会を与えてくださいと祈ったら、何と向こうから「神は愛なり」ってどういう意味ですかと聞いてきたのです。すごいですね、神様は。私たちは彼女の心を動かしたり、開いたりすることはできませんが、神様にはできます。神様は彼女の心を開いてくださいました。
それでお話をお聞きしたところ、数年前にお亡くなりになった彼女の旦那さんの親友が山形に住んでおられ、最近その方から97歳で亡くなられたその方のお母様が毛筆で書かれた短冊をいただいたそうです。そこに書いてあったのがこのことばだったのです。「神は愛なり」。聞くと、そのお母さんはクリスチャンだったそうです。こういうこともあるんだなぁと感心しながら、私はできるだけわかりやすくお話したつもりですが、イエス様を信じていない方に神の愛をお話するのはほんとうに難しいなぁと改めて感じました。なぜなら、その愛は私たちには持ち合わせていないものだからです。
電話を切った後で、もっとわかりやすく伝える方法はないかと考えているうちに、そうだ、三浦綾子さんが書かれた「塩狩峠」を読んだらもう少しわかるのではないかと思い、それを購入して郵送しました。9月の夏休み明けまでお読みください。その時に感想を聞かせてくださいと。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
この神の愛を信じるなら、あなたも神のさばきから救われます。あなたが神のさばきから逃れる唯一の道は、あなたのために十字架で死なれた神の御子を信じる以外にはないのです。たとえあなたがエドムのようにイスラエルと兄弟であっても、たとえあなたがクリスチャンホームに生まれ育ったとしても、たとえあなたにクリスチャンの友人がいたとしても、そのようなことはあなたが救われることとは何の関係もありません。あなたがこの神のさばきから救われるためには、あなたのために十字架で死んでくださったイエスを救い主と信じなければならないのです。主イエスを信じるなら、主イエスに身を避けるなら、あなたもこの神のさばきから逃れることができます。
Ⅱ.エドムの高慢を砕かれる主(14-18)
いったいエドムの問題は何だったのでしょうか。14~18節をご覧ください。「49:14 私は【主】から知らせを聞いた。「使者が国々に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに向けて立ち上がれ。』49:15 見よ。わたしがおまえを国々の中の小さい者、人に蔑まれる者としたからだ。49:16 岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ。おまえの脅かしと高慢は、おまえ自身を欺いている。鷲のように巣を高くしても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──【主】のことば。」49:17 エドムは廃墟となり、そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。49:18 ソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのように──【主】は言われる──そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」
主は国々の間に使者を送り、エドムとの戦いに立ち上がるようにと命じておられます。なぜなら、主が彼らを砕かれ、国々の中にあって小さい者、人に蔑まれる者とするからです。それは彼らが高ぶっていたからです。16節には「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者」とありますが、これは先ほど申し上げたように、彼らが要塞を誇っていたことを表しています。写真をご覧ください。

引用:ナショナルジオグラフィック「謎の古代都市ペトラ、砂漠の世界遺産」
これは最近のペトラ(ボツラ)の写真です。写真の中にいる人たちはそこに住んでいる人ではありません。観光客です。見ておわかりの通り、そこは岩だらけです。そのように自然の要塞となっているため、エドム人はここは難攻不落だと誇っていたのです。これは前回のアンモン人と同じですね。彼らは谷を誇っていましたが、エドム人は岩を誇っていました。彼らは自分たちの知恵、経済力、軍事力、要塞を誇り、こうしたものを鼻にかけていたのです。

 

(引用:世界遺産マニア、「ヨルダンの世界遺産」)
この写真などもきれいですね。これも人が意図的に作ったものではなく、水の侵食により自然に形成されたものだそうです。この先に見えてくるのが、アル・ハズネと呼ばれる宝物庫で、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台となった所です。いつか行ってみたいですね。
しかし主は、そんなエドム人の高慢を砕かれます。16節にあるように、彼らが鷲のようにどんなに巣を高くしても、そこから彼らを引きずり降ろされるのです。そこはかつてソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのようになります。ソドムとゴモラは、エドムの北にある町です。かつてアブラハムとロトの時代にソドムとゴモラが滅ぼされたように、エドムも滅ぼされることになるのです。ソドムとゴモラはどのように滅びましたか。完全に滅びました。そのようにエドムも完全に滅ぼされるのです。18節の最後のところに、「そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない」とは、そのことを表しています。完全に廃墟となるのです。
特筆すべきことは、エドムには将来の回復の預言が与えられていないことです。そうです、この預言の通り、エドムは完全に滅亡することになります。この後でバビロンによって滅ぼされると、紀元前4世紀に砂漠の民であるナバデア人の侵略を受けることになります。それで彼らはユダの南方のネゲブに逃れるのですが、そこでユダヤ人の中に組み込まれていきました。そしてその地で彼らはイドマヤ人と呼ばれるようになるのでが、イエス様が生まれた頃、ローマ帝国の支持を取り付けてユダヤ、サマリア、ガリラヤを治めたのがヘロデ大王です(前37-4年在位)。マタイ2章1~22節には、イエス様が生まれた時、東方の博士たちから、ユダヤのベツレヘムにユダヤ人の王が生まれたと聞いて動揺し、その周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたという話は有名です。(マタイ2:1-22)。しかし、A.D70年にローマがエルサレムを滅ぼしてからは、各地に散らされて消滅していきました。彼らが一つの民として存在することはなくなったのです。ここに預言されてある通りです。
そういう意味では、高慢の罪がどれほど恐ろしいものであるかがわかるかと思います。私たちも自分の中にエドム人のような高慢がないかどうか吟味しなければなりません。私たちの中には好色とか、淫乱といった罪とは無縁だという人がいるかもしれませんが、でも高慢の罪と無縁だという人がいるでしょうか。エドム人の高慢は対岸の火事ではありません。そのように者は鷲のように巣を高くしても、引きずり下ろされることになるということを覚えておかなければなりません。
Ⅲ.そこに選ばれた人を置く(19-22)
最後に、そのために神は選ばれた人を置かれるということを見て終わりたいと思います。19~22節をご覧ください。19節をお読みします。「49:19 「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか。」
このエドム人の滅亡についての言及は、それだけでは終わっていません。ここに、それがどのようにして成されるのかも預言されています。それは、獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように一瞬にしてそこから追い出されることになります。ヨルダンの密林にはかつて獅子、ライオンが住んでいました。ライオンが襲って来て牧場に上って来るように、それは一瞬にして起こるのです。この獅子は何を表しているのかというと、バビロンの王ネブカドネツァルです。ネブカドネツァル王率いるバビロン軍が獅子のようにエドムに襲い掛かり、彼をそこから追い出すことになるのです。
だれがそれをなさるんですか。それをなさるのは主です。ここには「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。」とあるとおりです。第三版では「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。」と訳しています。「わたし」ということばを繰り返してそのことを強調しているのです。そのために主は選ばれた人をそこに置かれるのです。それは誰ですか?そうです、ネブカドネツァルです。神はご自身の怒りの器として、エドム人をさばく道具として彼を選び、そこに置かれるのです。彼は異邦人の王ですが、神はそのような未信者でもご自身の目的のために用いられるのです。たとえ未信者であろうとも、そのために神は選びそこに置かれるのです。
同様に神はあなたを打つために、あなたを懲らしめてもっと謙遜になるために、あなたを練りきよめてイエス様のような人に造り上げるために、選ばれた人を置かれるのです。それはあなたのノンクリスチャンの伴侶かもしれません。あるいは、ノンクリスチャンの両親であったり、職場の上司や同僚、部下かもしれません。あなたの親しい友人かもしれません。それがだれであっても、神はあなたを打つために、あなたのそばにそのような人を置いておられるのです。それが神によって選ばれた人です。
ダビデのために神はサウルを選ばれ、そこに置かれました。ダビデがあんなに偉大な王になれたのは、サウルがいたからです。サウルがいなかったらあんなに偉大な王にはなれなかったでしょう。だからそこから逃げないでください。あなたにも神が選ばれた人がちゃんといますから。その人を憎んではいけません。ダビデはサウロをどのように見ていましたか?ダビデはサウロを、神が選ばれた器として認めていました。だからダビデは何度もサウルを討つチャンスがあったのに、神が油注がれた人に手を下してはならないと言って、決して自分から手をくだそうとはしなかったのです。それはダビデがそのために神が選ばれ、そこに置かれたと認めていたからです。
それはあなたにも言えることです。嫌だなぁ、辛いなぁ、苦しいなぁと思うことがあっても、それはあなたに必要な人として神が選ばれ、神がそこに置いておられるのです。こんな人さえいなければ!と言わないでください。その人はあなたに必要な人なのです。必要でなかったらあなたの前に置かれることはなさいません。あなたから取り去られるでしょう。あの人がいるから、この人がいるから、私は教会に行きたくないんですというのは、とんでもない誤解です。神が置いてくださったのです。私たちが選ぶのではありません。神が選んでくださり、神が置いておられるのです。
それは人だけではありません。あなたの人生に起こる災難と思えるようなあらゆる出来事にも言えることです。どうしてこんなことが起こるのか、なぜこんな病気になってしまったのか。できればこの苦しみの杯を取り除いてほしい。でもそれは神が選んでそこに置いてくださったのです。あなたの成長のために。あなたがもっと深く神を知るために。あなたがへりくだって神を求めるために。詩篇119篇71節にはこうあります。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
「苦しみ」は、できれば避けて通りたいものです。しかし、その苦しみを通して今まで見るとこができなかったものを見ることができるなら、ほんとうの意味で神のおきて、神のみこころ、神ご自身を知ることができるなら、それはすばらしいことではないでしょうか。そのために神はネブカドネツァルを選び、あなたのそばに置かれたのです。心配しないでください。神様は決して耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます(Ⅰコリント10:13)。あなたにとって必要なのは、それがどのような人、どのようなことであっても、神様はあなたを愛し、あなたのために働いておられると信じ、それを主のみこころとして受け止めることです。
20~22節をご覧ください。「49:20 それゆえ、聞け。エドムに対して立てられた【主】の計画を、テマンの住民に対して練られた策を。必ず、彼らは、群れの中の小さいものまで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場は彼らのことで恐れ惑う。49:21 彼らの倒れる音で地は震え、その悲鳴は葦の海でも聞こえる。49:22 見よ。彼は鷲のように舞い上がっては襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げる。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになる。」
それゆえ、私たちも聞かなければなりません。エドムに対して立てられた主の計画を。バビロンの王ネブカドネツァルが鷲のように舞い上がって襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げることを。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになります。私たちもエドムのようにならないように自分の知恵や経済、力を誇るのではなく、へりくだって神を求め、神に拠り頼む者でありたいと思います。あなたに対して立てられた主の計画を、はっきりと知ることができますように。

モアブについての預言 エレミヤ書48章1~47節

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2025年7月6日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書48章1~47節(旧約P1379、エレミヤ書講解説教79回目)
タイトル:「モアブについての預言」
エレミヤ書48章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はモアブについての預言です。少し長い箇所ですが、全体から学びたいと思います。
Ⅰ.モアブの高ぶり(1-25)
まず、1~25節までをご覧ください。6節までをお読みします。「48:1 モアブについて。イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。その砦は辱められ、打ちのめされた。48:2 もはやモアブの誉れはない。ヘシュボンは、これに悪事を企んでいる。『行って、あの国民を絶ち滅ぼし、無き者にしよう』と。マデメンよ、おまえも黙らされる。剣がおまえの後を追っている。48:3 ホロナイムから叫び声がする。『暴行だ。大いなる破滅だ』と。48:4 モアブは打ち破られる。その幼き者たちは叫び声をあげる。48:5 まことに、ルヒテの坂は嘆きの中にあり、彼らは泣きながら上る。ホロナイムの下り坂では、痛々しい破滅の叫びが聞こえる。48:6 逃げて、自分自身を救え。荒野の中の灌木のようになれ。」
まず、モアブ人について確認しておきましょう。地図をご覧ください。

 

 

 


(引用:新生宣教団、「聖書『ルツ記』を読み解く」)
モアブは死海の東側、今日のヨルダンの南側に位置しています。創世記を見るとモアブ人のルーツが記されてあります。それはアブラハムの甥のロトです。ロトは、アブラハムと一緒に父の家、カルデヤのウルを離れ、カナンにやって来ました。すると主がアブラハムもロトも祝福されたので家畜が増えると、互いのしもべの間で争いが起こりました。家族が争うのはよくないと考えたアブラハムは、ロトに好きな場所を選んでそこに住むように言います。それでロトは東の低地を選び、そこにあったソドムという町に定住したのですが、彼らの罪がきわめて重かったため、主はソドムを火と硫黄の雨によって滅ぼされました。しかしアブラハムの必死のとりなしによってロトはその中から救い出されました。そのロトと二人の娘によって生まれたのがモアブとアンモンです。姉の子がモアブで、妹の子がアンモンです。それがモアブ人とアンモン人のルーツです。ですから、モアブはイスラエルとは遠い親戚なのです。彼らはイスラエルと同じように祝福を受け継ぐべきでしたが、自らその祝福から離れて行きました。そして、たびたびイスラエルに侵入しては彼らに敵対したのです。
たとえば民数記22章には、約束の地を目指していたイスラエルがモアブに宿営した時、モアブの王であったバラクはイスラエルを恐れ、ベオルの子バラムを雇ってイスラエルを呪おうとしたとあります。その結果、モアブ人は主の集会に加わることができなくなってしまいました。申命記23章23節に「アンモン人とモアブ人は【主】の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して【主】の集会に加わることはできない。」とある通りです。
そうかと思えば、皆さんもよくご存知のルツはモアブ人でした。彼女は姑ナオミが信じていたイスラエルの神、主を信じて、夫が亡くなってからもナオミに仕え、彼女がベツレヘムに帰る時には一緒にベツレヘムへ行きました。彼女はそこでボアズと結婚するわけですが、彼との間に生まれたのがあのダビデ王の祖父のオベデでした。ということは、ダビデにも、その子孫から生まれる救い主イエスにも、わずかながらこのモアブ人の血が流れていたことになります。ですから、モアブ人にもルツのように真の神の民となる人がわずかでもいたことは事実ですが、ここでは彼らに対してさばきが預言されています。
1節をご覧ください。そのモアブ人について、イスラエルの神、万軍の主はこう言われました。「わざわいだ、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムも辱められ、攻め取られた。」
「ネボ」とか「キルヤタイム」とは、モアブの町々のことです。元々はイスラエル12部族の1つであるルベン族に与えられた町でした(民数記32:37~38)。しかし、後にモアブ人がそこを占領したため、モアブの町となったのです。つまり、彼らは神の民イスラエルに敵対したのです。そんなネボやキルヤタイムは辱められ、攻め取られ、打ちのめされることになります。さらに、「ヘシュボン」、「マデメン」、「ホロナイム」、「ルヒデ」といった町々も滅ぼされることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。
7節をご覧ください。ここには「おまえは自分が作ったものと財宝に拠り頼んだので、おまえも捕らえられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。」とあります。彼らは、自分たちが作ったものと財宝に拠り頼みました。現代もそうですが、ある程度貯金や財産があると安心するように、彼らは豊かな経済力を、安定と繁栄の保証と考えたのです。ケモシュとは偶像神ですが、快楽と豊穣の神です。そのため彼らはケモシュに仕えたのです。しかし、そのようなものが恒久的な安定をもたらしてくれるでしょうか。そのような国はやがて滅ぼされることになります。荒らす者が侵略して捕らえられ、偶像とともに捕囚となって出て行くことになのです。
この「荒らす者」とは誰のことなのかはっきりしたことはわかりませんが、おそらくバビロンのことでしょう。というのは、バビロンはB.C.586年にエルサレムを破壊すると、その5年後に今度はモアブを攻撃することになるからです。バビロンがこれらの町に入って来て彼らを捕らえ、捕囚の地へと引き連れて行くようになるのです。町は一つも逃れることはできません。谷は滅び失せ、平地は根絶やしにされるのです。いったいどうすれば良いのでしょうか。
だから9節でこのように言われているのです。「モアブに翼を与えて、飛び去らせよ。その町々は住む者もなくて荒れ果てる。」
このような神のさばきのもとでは、そこから逃れるしかありません。他に救われる道はないからです。それほど激しいさばきが彼らの上に下ることになるのです。
その激しさは、10節でこのように言われているほどです。「主のみわざおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。」
どういうことですか。それは徹底的になされるということです。これはモアブを攻撃するバビロンに対する神からの警告です。攻撃の手を緩めてはいけないと。それは主の御業であり、主がそのようにされるのだから、徹底的にそれを成し遂げなければならないと。それをおろそかにしてはいけません。それをおろそかにする者は、のろわれることになります。そんな神のさばきから逃れることができる者がいるでしょうか。いません。だから、モアブに翼を与えて、飛び去らせるようにせよというのです。
11~13節をご覧ください。「48:11 モアブは若いときから安らかであった。彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。48:12 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」
どういうことでしょうか。彼らは自分たちの安定した状態を誇っていました。自分たちは他国の侵略によって捕囚として連れて行かれたことは一度もないと。確かにモアブの歴史を見ると、彼らは安定していました。他の国によって侵略されたことは、これまで一度もありませんでした。11節の「モアブは若い時から安らかであった。」というのは、そのことを示しています。
エレミヤはそれをぶどう酒作りにたとえています。それが11節で言われていることです。
「彼はぶどう酒の澱の上によどみ、桶から桶へ空けられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、香りも変わらなかった。」
ぶどう酒を同じ桶で保存すれば、酒かすによって味がよくなりますが、違う桶に移せば味が変わってしまいます。彼らは他の桶に移されたことがないので、醸造された上質のぶどう酒のようだと誇っていたのです。彼らは捕囚という厳しい現実を経験したことがありませんでした。しかし主は、そんな彼らのうぬぼれを砕かれると宣言されました。12節と13節です。
「それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしは彼に酒蔵の番人たちを送る。彼らは彼を桶から移し、彼の桶を空にして、壺を砕く。48:13 モアブは、ケモシュのゆえに恥を見る。イスラエルの家が、彼らが拠り頼むベテルのゆえに恥を見たように。」
その日モアブ人たちは、ケモシュ(偶像神)に信頼したことを恥じるようになります。それは、イスラエルの民がベテルに置かれた金の子牛の像に信頼を置いたことを恥じたのと同じです。国が経済的に豊かになり、政治的に安定していることも重要ですが、そうした豊かさによっていつしか高慢になり、霊的堕落に陥ることがあるということを肝に銘じなければなりません。
これは、現代の私たち日本人にも言えることではないでしょうか。戦後80年、日本は平和な時代を過ごしてきました。経済的な発展も遂げてきました。生活が苦しいとは言っても食べていけないわけではありません。健康で働くことさえできれば何とか生きていくことはできます。たとえそうでなくても、国がある程度の生活を保障してくれます。確かに尖閣諸島や青島の領有権を巡って近隣諸国と軍事衝突が起こる可能性もありますが、そうした危機感を持っている人は稀です。自分たちは豊かになった。戦争もない。ある程度の蓄えで何とか生きていけると思っています。神様、仏様に頼らなくてもケモシュがいるから大丈夫だと、平々凡々と生きているわけです。神様がいなければ生きていけないといった必死さはありません。まるでモアブのようです。
ヨハネの黙示録に、主がアジアにある七つの教会に書き送った手紙がありますが、その中でラオディキアの教会に宛てて次のように言われました。
 「3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。3:19 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
ラオディキアの教会の問題は何でしたか。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っていましたが、自分の本当の姿が見えていませんでした。本当はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていませんでした。そのため彼らは、熱くもなく、冷たくもありませんでした。そんな彼らに主が言われたことはこうでした。熱いか、冷たいかであってほしい。そしてそのために、自分の目が見えるように目に塗る目薬を買いなさい、と言われたのです。黙示録3章20節のみことばは、そのような背景で語られたことばでした。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
主はそんなあなたの心のドアを叩いておられます。その音があなたに聞こえるでしょうか。聞こえたらドアを開けてください。そうすれば主はあなたの心の中に入ってあなたとともに食事をし、あなたも主とともに食事をするようになります。それが本当の幸いです。そのためには、へりくだって主を求めなければなりません。私たちが強くなったり高くなったりするときは、弱くなり低くなる知恵を学ぶ必要があるのです。
尊敬するある牧師がこう言われました。「成熟したクリスチャンとは、主がいなければどうすることもできないクリスチャンです」
皆さん、これが主に信頼するということです。クリスチャンは人の目には派手でもなく、見えるところにおいては弱々しく映るかもしれませんが、神さまの目では最も安定した人です。なぜなら、万軍の主が共におられるからです。そのためには、私たちの心の目が開かれなければなりません。そして、自分はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることに気付いたら、熱心に悔い改めなければならないのです。主がいなければどうすることもできませんと、心から主に拠り頼まなければなりません。それが成熟したクリスチャンなのです。
Ⅱ.モアブのために泣かれた主(26-45)
次に、26~45節をご覧ください。30節までをお読みします。「48:26 彼を酔わせよ。【主】に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。48:27 イスラエルは、おまえにとって笑いものではなかったのか。それとも、おまえが彼のことを語るたびに彼に向かって頭を振っていたのは、彼が盗人の間に見つけられたためか。48:28 モアブの住民よ。町を見捨てて岩間に住め。穴の入り口のそばに巣を作る鳩のようになれ。48:29 われわれはモアブの高ぶりを、──彼は実に高ぶる者──その傲慢、その高ぶりを、その誇り、その慢心を聞いた。48:30 わたしは彼の不遜さを知っている。──【主】のことば──その自慢話は正しくない。その行いも正しくない。」
すでに見たように、モアブが滅ぼされた最大の理由は、彼らが高ぶったからです。26節には、「彼に酔わせよ。主に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き、彼も笑いものとなる。」とあります。27節にあるように彼らは、先に滅ぼされたイスラエルを笑いものにしていました。他の国の悲劇を知ることは、自らの国のあり方を学ぶチャンスだったのに、モアブはそこから何も学ぶことをしなかったばかりか、ユダを笑いものにしたのです。
主はそんなモアブの高ぶりを見抜かれ、その高慢さを指摘されました。「わたしは彼の不遜さを知っている。」と。自分を正しいとする態度は、自分に足りないことがあっても、その足りないところを見えなくしてしまいます。結果、何も学ぶことができません。ですから私たちはいつも謙虚になって、自分の足りなさを認め、いつも十字架の恵みに拠りすがらなければなりません。また、自分でできるようなことであっても神の助けを求め、いつも謙遜な態度で神に拠り頼むべきです。さらに隣人に対して蔑(さげす)むようなことをせず、逆に仕えることによって、神の愛とあわれみを示していくべきです。それなのにモアブは、主に対して高ぶりました。それゆえ、主はモアブの高ぶりを砕かれるのです。バビロンという国を用いて、徹底的に滅ぼされます。
ところが31節を見ると、不思議なことが書かれてあります。そのモアブのために、主は泣き叫ぶ、とあるのです。「それゆえ、わたしはモアブのために泣き叫び、モアブ全体のために叫ぶ。人々はキル・ヘレスの人々のために嘆く。」
どういうことでしょうか。そんなモアブなど滅ぼされて当然なのに、主はそんな彼らのために泣いておられる。モアブが滅ぼされることを悲しんでおられるのです。それがぶどうの木のたとえで表わされていることです。32~33節をご覧ください。
「48:32 シブマのぶどうの木よ。わたしはヤゼルの涙にまさり、おまえのために泣く。おまえのつるは伸びて海を越えた。ヤゼルの海に達した。そして、おまえの夏の果物とぶどうの収穫を、荒らす者が襲った。48:33 モアブの果樹園から、その地から、喜びと楽しみが取り去られる。わたしは石がめから酒を絶えさせた。喜びの声をあげてぶどうを踏む者もなく、ぶどう踏みの喜びの声は、もはや喜びの声ではない。」
シブマとヤゼルは、ぶどうの栽培で有名なモアブの場所です。そのシブマとヤゼルが涙に濡れるのです。そのぶどうの枝は死海を越え、ヤゼルのほとりにまで達しました。それなのに、荒らす者がやって来て、ぶどうの収穫を略奪するからです。人々に喜びをもたらすはずのぶどうの収穫が無くなってしまうということです。もはや彼らは喜びの声をあげることができません。そこにあるのはぶどう踏みの声ではなく、悲とみの嘆きの声です。主はそのことを嘆いておられるのです。36節には、「わたしの心は、モアブのために笛のように鳴る」とあります。主は笛が鳴るようにモアブのために嘆かれるのです。なぜでしょうか。
神は、ひとりも滅びることを願っておられないからです。たとえ傲慢で、高ぶっていたモアブでさえ、彼らが悔い改めて救われることを願っておられたからです。これが主の思い、主の心です。
でも私たちは違うでしょう。たとえば、もしこれまであなたに嫌な思いをさせてきた、この人のせいで私は大変な思いをしてきた、あの人のせいで私は本当に苦しんできたという人が辛い思いをしていたら気持ちいい。それこそスカッと爽やかコカ・コーラです。それが人間の性というものです。でも神様はそのような方ではありません。神様はそれがたとえその人の自業自得でしたことであってもその不幸を悲しまれ、涙を流されるのです。「わたしはわたしの涙であなたを潤す」とある通りです。
このモアブという民族はイスラエルと遠い親戚であったことはお話した通りですが、その中でも特にモアブ人ルツがボアズと結婚したことによってダビデの祖父のオベデが生まれたことは特筆すべき点です。なぜなら、ダビデにもこのモアブ人の血が流れていたことになるからです。そして、それはその子孫である救い主イエス・キリストの中にも、このモアブ人の血がわずかばかり流れていたことになるのです。そうしたモアブ人が滅びることを、神はとても悲しまれたのです。よく「断腸の思い」ということばがありますが、断腸の思いとは、腸がちぎれるほど、悲しくつらい思いのことです。まさに神は滅んでいく人間の姿を、断腸の思いで見ておられるのです。腸がずたずたにちぎれるような悲しい思いで見ておられる。
あなたには、この神の思いが届いていますか。その目の涙が見えるでしょうか。主はモアブだけでなく、あなたのためにも泣いておられます。あなたが神に背いて苦しみの中にあるとき、病気や人間関係で疲れ果て苦しんでいるとき、主も泣いておられるのです。そのために、十字架で死んでくださいました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
あなたは、それほどまでに愛されているのです。であれば、あなたは、あなたをこれほどまでに愛しておられる主のもとに立ち返り、そこで主の慰めと励まし、癒しを回復と受けるべきではないでしょうか。
Ⅲ.モアブの回復(40-47)
最後に、40~47節を見て終わりたいと思います。ここでは神によってさばかれるモアブの嘆きが、3つのたとえによって表現されています。まず、鷲のたとえです。40~42節をご覧ください。「48:40 まことに、【主】はこう言われる。「見よ。敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げる。48:41 町々は攻め取られ、要害は取られる。その日、モアブの勇士の心は、産みの苦しみにある女の心のようになる。48:42 モアブは滅ぼし尽くされて、民でなくなる。【主】に対して高ぶったからだ。」
敵が鷲のように襲いかかり、モアブに対して翼を広げます。この敵とはバビロンのことです。バビロンが鷲のようにモアブに襲いかかるので、モアブは滅ぼし尽くされることになります。
二つ目のたとえは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいによるさばきです。43節と44節です。「48:43 モアブの住民よ、おまえを恐怖と落とし穴と罠が襲う。─主のことば─48:44 その恐怖から逃げる者は穴に落ち、穴から這い上る者は罠に捕らえられる。わたしがモアブに彼らの刑罰の年を来させるからだ。─主のことば─」
モアブに襲うのは、恐怖と落とし穴と罠という三つのわざわいです。恐怖から逃れた者は落とし穴に落ち、穴から這い上がる者は罠に捕らえられます。どうやってもこのさばきから逃れることはできません。モアブは完全に滅びることになるのです。
そしてもう一つは、ヘシュボンの詩です。45~46節です。「48:45 ヘシュボンの陰には、逃れる者たちが力尽きて立ち止まる。火がヘシュボンから、炎がシホンのうちから出るからだ。それは、モアブのこめかみと、騒がしい子どもの頭の頂を焼く。48:46 ああ、モアブ。ケモシュの民は滅びる。おまえの息子は捕らわれの身となり、娘は捕虜になって連れ去られるからだ。」
これは民数記21章29節でも語られたことですが、ここでもう一度引用されています。それは、モアブに下る神のさばきが完全であることを示すためです。そして、この預言は東の方からアラビア人たちが攻めて来た時に成就することになります。エゼキエル25章8~11にあるとおりです。
「25:8 【神】である主はこう言われる。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言った。25:9 それゆえ、わたしはモアブの山地の町々、その国の誉れであるベテ・ハ・エシモテ、バアル・メオン、キルヤタイムの町々をことごとく開け放ち、25:10 アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。25:11 わたしがモアブにさばきを下すとき、彼らは、わたしが【主】であることを知る。」アンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間でアンモン人が記憶されないようにする。」
これはモアブ人に対して語られていることです。「モアブとセイルは『見よ、ユダの家は異邦の民と変わらない』と言ったので、主はこのモアブとセイルをアンモン人と一緒に東の人々に渡してその所有とし、国々の間で記憶されないようにする、と言われたのです。モアブに対する神の預言は、完全に成就することになります。
しかし47節を見ると、彼らに対する預言はこれで終わっていないことがわかります。その続きがあります。それは、主はこのモアブの民を回復するという宣言です。ご一緒に読みましょう。「しかし終わりの日に、わたしはモアブを回復させる。─主のことば。」
モアブに対するさばきと回復のメッセージは、結局、ユダの民に間接的な慰めをもたらしました。神が異邦人のモアブを捕囚から解放されるなら、自分たちも必ず回復することになるからです。これは慰めではないでしょうか。主はあなたをご自身の救いに招いてくださいました。その神の賜物と召命は変わることがありません。どんなことがあっても、あなたは必ず回復することになるのです。一時的に苦難の中に置かれることがあっても、やがて必ずそこから回復する時がやって来るのです。ここに真の希望があります。これが神の計画なのです。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)
ですから、もしあなたが今困難と苦しみの中にいるなら、落胆せずこの希望を見上げてください。あなたは必ず回復するのです。だからどんなことがあっても、どんな状況に陥ってもあきらめないでください。神から離れている自分、罪を悔い改めて、神に立ち返ってください。そして神とともに歩ませていただこうではありませんか。それが私たちにとっての幸いの道、主があなたに願っておられることなのです。