迫害する者を祝福しなさい ローマ人への手紙12章14~21節

2020年6月21(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙12章14~21節

タイトル:「迫害する者を祝福しなさい」

 

 ローマ人の手紙は大きく分けると二つに分けられます。1~11章までの教理の部分所と、12~16章までの実践的な部分です。パウロは11章までのところで信仰による義について語ると、12章から、その信仰によって救われたクリスチャンは、この世の中でどのように歩むべきかを語ります。その基本は12章1~2節にあるように、あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた供え物としてささげるということでした。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。

 

そして、その基本は何かというと愛です。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい、ということです。また、兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさいということです。

 

そして、今日の箇所にはその愛の具体的な適用が述べられています。つまり、どのようにして愛し合うのかということです。特に、自分に敵対する人に対してどのような態度を持つべきであるかということです。それに対して聖書は、自分に敵対する者たちを祝福しなさい、と教えています。14節には、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」とあります。これが、クリスチャンが持つべき態度です。神に愛され、罪を赦していただいた者が持つべき態度なのです。

 

きょうは、このことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。第一に、クリスチャンは自分の敵を愛し、迫害する者を祝福しなければならないということです。第二に、とはいうものの、こちらがどんなに努力しても相手の態度が一向に変わらない場合があります。そのようなときにはどうしたらいいのでしょうか。そのような時には、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことを求めなければならないということです。第三に、それでも相手が悪意をもって向かってくる時、私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか。神の怒りに任せなさいということです。

 

 Ⅰ.迫害する者を祝福しなさい(14-17)

 

 まず、第一に、自分の敵を愛し、迫害する者を祝福しなさいということについてです。14-17節をご覧ください。「14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」

 

聖書は、あなたがたを迫害する者を祝福しなさい、と教えています。祝福すべきであって、のろってはいけません。だれに対してでも、悪に対して悪をもって報いるのではなく、すべての人が良いと思うことを心がけなければなりません。これは、私たちが生来持っている自然な態度に逆行するものです。というのは、もと私たちは悪いことをされると、もっと大きな悪で復讐しようとする気持ちが働くからです。本日からTBS日曜劇場にあの「半沢直樹」が帰ってきまが、彼のお決まりのセリフは、「やられたら、やり返す。倍返しだ!」それが、観ている人の気持ちをスカッとさせるのはなぜかというと、もともと人間にはそういう習性があるからです。

 

 旧約聖書の律法には、「目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、」(出21:24)とあります。これは、「やられたらやり返す」を意味する復讐の教えであるかのようなイメージがありますが、そうではありません。これは「正義」を示している教えなのです。そこには愛のひとかけらも感じられないと思うかもしれませんが、しかし、ここにこそ神のあわれみが存分に示されているのです。というのは、もし誰かが誰かの歯を折ったとしたらどうでしょう。折られた人は自分の歯を折ってしまった人に対して歯を折るだけでは気が収まらず、殺してしまいたいとさえ思うのではないでしょうか。目が潰されたら、潰した相手の目をえぐり取るくらいでは収まらず、首まで切ってしまいたいと思うでしょう。これが人間なんです。ですから、「目には目を、歯には歯を」の中にこそ正義があるのです。これは、簡単に言えば、犯した罪とそれに対して与えられる罰とが釣り合った状態を正義としています。従って「やられたらやり返す、倍返しだ!」は正義に反することになります。なぜなら「やられたこと」に対して「倍返し」をするわけですから、「やられたこと」と「やり返したこと(倍返し)」の両者を天秤にかけた場合、釣り合いがとれず片方に傾くことになります。

 

しかしここには、その神の義が本当の意味で全うされる道が示されています。あなたを迫害する者を迫害するのではなく、祝福しなさいという教えです。「悪に対して悪をもって報いることをせず」というのです。イエス様はこう言われました。「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」(マタイ5:38-40)

そんなの無理です。自分に悪意をもって向かってくる相手をどうやって赦すことができるでしょうか。まして祝福するなどできるはずがありません。しかし、クリスチャンはそうすべきなのです。なぜ?イエス・キリストによってすべての罪を贖っていただいた者だからです。神に敵対していた私たちは神にさばかれても致し方なかったのに、神はそんな私たちをさばいたのではなく、祝福しました。そんな者のために愛する御子を与え、この御子を十字架にお掛けになることによってすべての罪を赦してくださったのです。

 

イエス様は、マタイの福音書5章43-48節のところでこうも言われました。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。異邦人でも同じことをします。しかし、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ってこそ、天におられる父の子どもになれるのです。敵を赦す程度ではなく、迫害する者のために祈れ、祝福せよ、これが主のみこころであり、神様が私たちに願っておられることなのです。

 

 皆さんは、淵田美津雄(ふちだ・みつお)という人のことを聞かれたことがあるでしょうか。この人は元真珠湾攻撃の隊長で、戦後クリスチャンになった人です。どのようにして救われたのかを「真珠湾からゴルゴダへ」(ともしび社、1954年)という本の中で証ししています。少し長いですが、その部分を抜粋してお読みします。

 

いま私の胸に去来することは、私は祖国日本を愛し、火のような敵愾心(てきがいしん)を抱いて戦ってきたが、それはいわれなき憎悪(ぞうお)ではなかったか。祖国愛と見たなかに偏狭にして独善なものがなかったか。人類を、そして世界を理解することを忘れていたのではなかったのか。その祖国愛が、愛する民族をこの塗炭(とたん)の苦しみに追いやる始末になったのではなかったのかということです。終戦とともに、日本は人類の悲願である戦争放棄を世界にさきがけて宣言して、「灰燼(かいじん)の中から再建へ」とスタートしました。戦争放棄の理念を裏返して見れば、そこには日本が全人類への憎悪に終止符を打ったことを意味するのでなければならないと、私は思うのです。

 しかし、理念では憎悪に終止符を打つことは分っていても、私の感情は別でした。そのころ私は戦犯裁判の証人として、横浜の占領軍軍事法廷に喚問されていました。被告はC級戦犯の人たちで、連合軍の捕虜を虐殺した罪に問われていたのです。

 戦犯裁判は、国際正義の名において人道に反した者を裁くのだと言っていましたが、私はこれを勝者が敗者に対して行う、法に名を借りた復讐であると見て、反感と憎悪で胸を燃やしていたのです。


するとそこへアメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。私

は浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしました。ところが、いろいろと話を聞き回っているうちに、あるキャンプにいた捕虜たちから次のような美しい話をするのを聞き、心を打たれました。

 この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるのです。まず病人への看護から始まりました。やがて二週間たち、三週間と経過しても、このお嬢さんのサービスには一点の邪意も認められなかったのです。

 やがて全員はしだいに心を打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、やがて返事をなさいました。その返事はなんと意外でした。「私の両親が日本軍隊によって殺されましたから」

 両親が日本軍によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは、話は逆です。「詳しく聞かせてくれ」と私は膝(ひざ)を乗り出しました。

 話はこうでした。このお嬢さんの両親は宣教師で、フィリピンにいました。日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていました。やがて三年、アメリカ軍の逆上陸となって、日本軍は山中に追い込まれて来ました。そしてある日、その隠れ家が発見されて、日本軍は、この両親をスパイだと言って斬(き)るというのです。「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというのなら仕方がない。せめて死ぬ支度をしたいから三十分の猶予(ゆうよ)をください」そして与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈って斬(ざん)につきました。

 やがて、事の次第はアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤(いきどお)りのため、眼は涙でいっぱいであったに違いありません。父や母がなぜ斬られなければならなかったのか。無法にして呪わしい日本軍隊、憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いであったでしょう。

 だが静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、その祈りは何であったかをお嬢さんは思いました。するとお嬢さんの気持ちは憎悪から人類愛へ転向したというのです。私はその美しい話を聞きましたが、まだよく分かっていなかったのです。

 

そしてしばらくの月日が流れました。ある日、私は所用があって渋谷駅に下車しました。駅前に出ると、一人のアメリカ人が道行く人々にパンフレットを配っていました。私も行きずりに渡されたので、眺めて見ると「私は日本の捕虜でした」と題してあり、一人のアメリカの軍曹の写真が掲載されてあったのです。

 それはかつて東京爆撃隊の爆撃手であった、J・デシーザーの入信手記でした。私の心は動きました。特にデシーザーが捕らわれて獄中で虐遇されているときに、彼はなぜ人間同士がこうも憎み合わなければならないのかと考え、「人類相互のこうした憎悪を真の兄弟愛に変えるキリストの教えというものについて、かつて聞いたことに心が向き、聖書を調べてみようという不思議な欲求にとらわれた」と言っていることばが、同じ心境にある私の心を捕らえたのでした。

 ひとつ、私も聖書を読んでみようと思い立ち、早速、聖書を買い求めて、あちらこちらとさぐり読みをしているうちに、ルカの福音書二十三章三十四節、「父よ、彼らを赦(ゆる)したまえ、その為(な)す所を知らざればなり」のところで、私はハッと、あのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいたのでした。

 これは十字架上からキリストが、自分に槍(やり)をつけようとする兵士たちのために、天の父なる神さまにささげたとりなしの祈りです。敵を赦しうる博愛、今こそ私はお嬢さんの話がはっきりと分かりました。斬られる前の、お父さんやお母さんの祈りに思い至ったのです。「神さま、いま日本軍隊の人々が私たちの首をはねようとするのですが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争など起こるから、このようなこともついてくるのです」私は目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬(ほお)を伝いました。私はゴルゴダの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直りました。その日、私はイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。


「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」
(Ⅱコリント五・一七)

 

 自分の敵を赦し、迫害する者のために祈ること、これが、神が私たちクリスチャンに求めておられることです。それはただ十字架の上で祈られたイエス・キリストの愛を知った者にしかできない祈りなのです。

 

 いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。ここにはそのために必要な二つのことが教えられています。もちろん、敵を赦し、迫害する者のための祈ることは、ただキリストの十字架の愛と赦しがなければ決してできません。その前提に立ちながら、ここにはそのためには二つの心が必要だと教えられているのです。その一つは15節にありますが、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」ということです。これはどういうことかというと、相手の身になって考えるということです。相手の身になって考える心からそうした敵をも赦す愛が生まれてくるのです。

 

 しかしどうでしょうか、泣く者といっしょに泣くことはできても、喜ぶ者といっしょに喜ぶことはなかなかできることではありません。悲しみの中にいる人とともに泣いてあげることはそれほど難しいことではありませんが、隣人がうまくいっているのを見て喜ぶことは意外と難しいものです。親のいない子どもたちをみてかわいそうに思ったり、身体に障害を抱えている人が、それに負けずに生きている人のドキュメントを観て涙を流すことはあっても、大きな祝福にあずかっている人を見て、心から喜ぶことは簡単なことではありません。

 

 人類最初の殺人事件はどうして起こったのでしょうか?それは妬みによってです。弟アベルのいけにえは神に受け入れられたのに、自分のいけにえが受け入れられなかったのを妬んだ兄のカインが、弟アベルを殺してしまったのです。それはカインだけのことではありません。私たちも他の人が祝福されているのを見るといっしょになって喜ぶどころか、嫉妬心を抱いてしまいます。。ですから、ここには喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしに泣きなさいとあるのです。兄弟姉妹の家族が祝福されるのを見て「ほんとうに良かったですね」と心から言ってあげられるとしたら、どんなにすばらしいでしょう。クリスチャンはひがんだり、妬んだりせずにいっしょに喜び、いっしょに悲しんであげられる。相手の身になって考えられることが大切です。そうした心が敵対する者をも祝福するという態度へとつながっていくのです。

 

 もう一つのことは16節にあります。ここには、「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」とあります。自分を誇りたい心、砕かれたくない心は誰にでもあります。自分をよく見せようと思えば、ついつい嘘をつくこともあるでしょう。ですからここには、「互いに一つ心になりなさい」と勧められているのです。英語の訳ではこれを「Live in Harmony」となっています。つまり、調和をもって生きなさいということです。どういう人が調和をもって生きられるのでしょうか。謙遜な人です。自分こそ知者だなどと思っていない人です。心が高ぶった人は、人と調和は持つことができません。自分こそ知者だなどと考えている人は、なかなか砕かれることができないのです。自己主張をして、相手を尻に敷くような毒のような言葉ばかり口にしてしまうので、すぐに調和が乱れてしまうのです。そういう人が行くところではどこでも平和が崩れてしまうのです。逆に自らを低くしへりくだった心で自分は知者ではないと思うならば、人々から認められ、愛され、平和に暮らすことができます。

 

ガラテヤ5:22-23には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」とあります。これらは御霊の実なのです。決して私たちの力や努力によって得られるものではありません。聖霊が私たちに注がれて初めて愛することができ、喜ぶことができ、平安を得ることができ、忍耐することができるのです。親切、善意、柔和、自制といった実を保つことができるのです。

 

 私たちの生まれながらの力では迫害する者を祝福したりすることはできません。私たちの力では自らを低くして、自分こそ知者だなどと思わない心を持つことはできないのです。ただ主の前にひざまずき、主が私のために十字架でご自身のいのちをささげてくださったほどに愛してくださったことを知って、初めてできることなのです。

 

 Ⅱ.すべての人と平和を保ちなさい(18)

 

  第二のことは、とはいうものの、こちらがどんなに努力しても相手の態度が一向に変わらない場合があります。そのようなときにはどうしたらいいのでしょうか。そのような時には、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことを求めなければならないということです。18節をご覧ください。ここには、「 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 

「自分に関する限り」とは、「自分に出来ることにおいては」という意味です。私たちがどれほど善意で接しても、私たちを悪く言ったり、敵対したり、悪口雑言を言ったりする人はいるものです。しかし、他の人がどうであろうとも、私たちは自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保とうとする姿勢が必要です。相手が悪意を持っていれば本当の平和を持つことは難しいですが、せめて自分に関する限り、自分に出来ることにおいては、平和を保つようにしなければなりません。これも実際の生活においては簡単なことではありません。私たちは日々の生活の中で平和が保てなくなったとき、「あの人が悪かったんだ」とすぐ人のせいにしたくなるからです。人はいつでもだれかのせいにしないと自分を保つことができません。しかし、そのような時でも、少なくとも、自分の中では平和を保つようにベストを尽くさなければなりません。

 

 ダビデはそうでした。ダビデは、サウルが妬みのゆえに自分を殺そうとしていても、自分からサウルに手を出すことはしませんでした。あるときサウルはダビデを追ってエン・ゲディの荒野に行きました。するとそこに洞穴があったので彼は用をたすためにその中に入って行くと、その洞穴の奥の方にダビデとその部下が座っていました。それはサウルを殺す絶好のチャンスでしたが、ダビデは立ち上がるとサウルの上着の裾をこっそりと切り取り、後にそれをサウルに見せてこう言いました。「わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着をよくご覧ください。あなたの上着の裾を切りましたが、あなたを殺しませんでした。それによって、私の手に悪も背きもないことを、お分かりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私のいのちを取ろうとねらっています。」(Ⅰサムエル24:11)

 サウルはダビデを殺そうとしていましたが、ダビデはサウルがどんな人でれ、主に油を注がれた方でからといって殺そうとしませんでした。自分に関する限り、自分にできることにおいては、平和を保つことを心掛けました。そのように私たちも自分に関するかぎり、すべての人と平和を保つことを心がけなければなりません。

 

 Ⅲ.神の怒りに任せなさい(19-20)

 

 最後に、19-20節をご覧ください。それでも一向に状態が改善せず、相手が悪意をもって向かって来る時、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。ここには、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」

とあります。

 

自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せるのです。もちろん私たちが不当な仕打ちを受けたり、間違ったことをされたりする場合は、公の機関に訴えることもできます。訴えた方がいい場合もあるかもしれません。しかし、それでも大切なことは、神様にゆだねることです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いる」と主は言われるからです。復讐は私たちがすることではありません。それは神様がなさることです。神様は正しくさばかれる方です。その神にさばきにゆだねなければならないのです。

 

 そればかりではありません。20節には、「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いたのなら飲ませよ。」とあります。「なぜなら、そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」とあります。飢えた敵に食べ物を与え、水を飲ませるというのは、愛とあわれみの対応です。どうせ言っても無駄だからと無視するのではなく、愛によって対応しなさいというのです。そうすることによって、彼の頭に燃える炭火を積むことになるからです。これはどういうことでしょうか?これは神のさばきを望むということではありません。これは敵に恥ずかしい思いをさせるという意味です。相手の悪い行為にもかかわらず、クリスチャンのあなたが親切をもって応対すれば、相手は良心にいたたまれないような痛みを覚え、恥ずかしい思いになるということです。何ということでしょう。これが、神が示してくださった勝利の道です。

 

 イエス様がご自分を十字架につけた人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたとき、その横にいた強盗が救われ、神の愛が立証されました。あのステパノが迫害され、殉教した時も、「彼らを赦してください」と祈ったとき、その祈りを通してパウロが救いに導かれ、傑出した異邦人の使徒となりました。旧約聖書に出てくるヨセフも自分をエジプトに売り渡した兄弟たちを赦し、神様はここに導かれたのですと告白したとき、彼は復讐したいという誘惑に打ち勝ち、勝利者としての人生を全うすることができました。私たちは祝福すべきであって、のろってはなりません。このみことばに生きるとき、私たちが神様から恵みをいただき、祝福に満たされた、勝利ある人生を送ることができるのです。

 

デズモンド・ムビロ・ツツは南アフリカの平和運動家であり、聖公会のケープタウン大主教でもあります。彼は反アパルト政策運動の指導者として1984年にノーベル平和賞を受賞しました。その彼が「赦しなしに平和ない」という著書の中で、このように逸話を紹介しています。

南アフリカでは、長期にわたって支配階級の白人と抑圧された黒人の紛争が絶えなかった。白人による支配が終わり、ネルソン・マンデラが大統領になった時、この国は、どのような未来像を描けば良いかという問題に直面した。私は友人たちと協力して、「真実と平和のための委員会」を設立した。その目的は、白人も黒人も委員会の前で過去に犯した罪や受けた傷を告白することであった。委員会はその先にあるゴールも示した。白人と黒人が赦し合い、和解することがゴールである。

白人も黒人も、委員会の場に出て自らの罪(暴行、殺人、テロ行為)を告白した。その内容はまるで地獄絵のようであった。その中で特に感動的なストーリーがあった。

カラタ夫人の夫は黒人活動家であったが、彼は何度も逮捕され拷問に会った。そして、ある日を境にその姿を消してしまった。新聞の一面に彼の車が燃えている写真が掲載された。カラタ夫人とその娘は委員会の前に出て、夫を殺害した犯人を見つけてほしいと泣きながら嘆願した。当時幼かった娘は、今では成人している。彼女は「私たちは犯人を赦したいのです。しかし誰を赦せばいいのか分からないのです。」と言った。

しばらくして、数人の警官が名乗り出た。カラタ夫人とその娘は、夫/父親を拷問して殺した犯人たちを赦した。なぜなら、それこそクリスチャンがなすべきことだからである。赦すということは、裁きを神にゆだねることである。神の代理者である私たちの使命は、憎しみの鎖を断ち切ることである。神がキリストにあって私たちを赦されたように、私たちも他の人たちを赦すのである。」

 

 これが十字架の道であり、祝福に満たされた勝利ある人生の秘訣です。この社会の中で、あるいは家庭の中で、私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。当然ながら、それは教会も例外ではありません。ここでは、クリスチャンではない人たちと平和を保ちなさいと教えていますが、これはどんな人間関係においても言えることです。それは、あなたがたを迫害する者たちを祝福するということです。祝福すべきであって、呪ってはいけません。喜んでいる人たちとともに喜び、泣いている人たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなければなりません。それでも解決しない時は、神の怒りにゆだねなければなりません。飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませなければなりません。そうすれば、あなたは彼の頭の上に燃える炭火を積むことになります。

 私たちは、自分に対して悪をもって向かってくる相手をなかなか赦すことができない者ですが、この十字架の原則に従って勝利する者でありたいと思います。だれに対してでも、悪に悪をもって報いることをせず、すべての人が良いと思うことをしていきましょう。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝たなければなりません。これが、聖書が私たちに教えている勝利の道なのです。

弟子たちのための祈り ヨハネ17章6~19節

2020年7月12日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ17章6~19節(P219)

タイトル:「弟子たちのための祈り」

 

 きょうは、ヨハネの福音書17章から、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから学びたいと思います。最後の晩餐の席から立ち上がり、ゲッセマネの園に向かわれたイエスは、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と言われました。それはご自身が十字架で死なれるが、三日目によみがえられること、そして、天に昇り神の右の座に着かれると、約束の聖霊をお遣わしになることを意味していました。その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださいます。その方を通して、主はいつまでも彼らとともにいてくださると約束してくださったのです。今は悲しみますが、その悲しみは喜びに変わります。だから、勇気を出してください。あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 

これらのことを話されると、イエス様は目を天に向けて祈られました。それがこの17章の内容です。この後でイエス様はゲッセマネの園で祈られるとその場で捕らえられ、翌日十字架につけられます。そうした緊張した場面で、主は祈られたのです。この祈りは大きく三つに分けられます。まずご自身のための祈りです。それは前回見た1節から5節までの内容です。それから、今日学ぼうとしている弟子たちのための祈りです。6節から19節までです。そして、全世界のすべてのクリスチャンのための祈りです。20節から26節までの内容です。

 

きょうは、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから三つのことをお話ししたいと思います。第一に、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。イエス様はなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。第二に、祈りの内容です。イエス様は彼らのためにどんなことを祈られたでしょうか。その一つは、彼らを悪い者から守ってくださいということでした。第三に、イエス様が彼らのために祈られたもう一つの祈りです。それは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。

 

Ⅰ.あなたのものはわたしのもの(6-10)

 

まず、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。まず6節から8節までをご覧ください。 

「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

 

彼らは、神によってこの世から選び出された者たちです。イエス様は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(15:6)その彼らに、イエス様は神の御名を現わしました。現わしましたというのは、明らかにしたということです。どのように明らかにされたのでしょうか。神のわざを行うことによってです。ヨハネの福音書にはイエス様が神から遣わされた方、メシヤであるというしるし、これは証拠としての奇跡のことですが、7つ記録されています。それでイエスは、ご自分があの出エジプト記3:14で言われていた主ご自身であると宣言されたのです。するとどうでしょう、多くのユダヤ人たちは信じませんでしたが、弟子たちはイエスのことばを受け入れ、イエスが神から遣わされた方であることを信じました。

 

しかし、その後彼らはどうなりますか。その後イエス様が捕らえられると、彼らは一目散に逃げて行くことになります。その中の一人ペテロは、他の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきませんと言いましたが、結局、三度も否認することになります。にもかかわらず、イエスはこうした弱い弟子たちに対して、「彼らはあなたのみことばを守りました」とか、「あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と言われました。

 

ここに主の慰めを感じます。イエス様は、自分たちが見るよりもはるかに多くのことを、彼らの中に見ておられたということです。たとえ弱い信仰であっても、たとえからし種のように小さな信仰であったとしても、そこに信仰があることを見て取って、神のものとして受け入れてくださったのです。それは信じない人たちとは雲泥の差です。イエス様はマタイ10:42で、「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」と言われましたが、そうした弟子たちの誠実さというか、小さな信仰が忘れられていないことをはっきりと示されたのです。

 

主は、そんな弟子たちのために祈られました。9節と10節をご覧ください。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。」

 

ここには、イエス様が弟子たちのために祈られた理由が書かれてあります。イエスはなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らが父なる神のものであり、その父が子にくださったものたちだからです。すなわち、彼らはイエス様のものであるからです。ここに、この世のものと神のものとの違いをはっきりと知ることができます。主の弟子というのは、この世とは区別された者たちです。この世とは神に反逆し、神なしで成り立っている世界のことです。ですから、ヤコブが、「世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)と言っているのです。でもクリスチャンは、この世のものではありません。この世から救い出された者たちです。神のもの、イエス様のものとされました。だから祈るのです。

 

9節に「世のためではなく、あなたがわたしにくださった人たちのために」と言っているのはそのことです。イエス様は、信じない者たちにされないことを、信じる者たちのためになさるということです。ここに神を信じる人たちとそうでない人たちの間に明確な区別があることがわかります。そして、信じる人たちを特別に愛しておられるということがわかります。このようなことを言うと、それはおかしいんじゃないかと言う人たちもいるでしょう。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのであって、そのために御子イエス・キリストを十字架にお掛けになったのではないですか。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それなのに、ある人たちを特別に愛するというのは不公平です!そうです。イエス様は全人類を愛し、すべての人のために死なれ、すべての人に十分な救いを備えられ、すべての人を召し、すべての人を招き、すべての人に悔い改めるようにと命じられました。しかし、それをすべての人が受け入れるかというとそういうわけではありません。神はすべての人に対しては惜しみなく、十分に、無条件にその愛を与えてくださいましたが、それを受け入れるのは一部の人たちです。確かに神の恵みはすべての人に注がれていますが、その恵みは、それを信じる人たちだけに有効であるということも事実なのです。イエス様にとって、ご自身を信じる人たちは特別なのです。だから、イエス様はご自身によって神のもとに来る人たちだけのために、とりなしておられるのです。それが、この「世のためではなく、あなたがわたしに下さった人たちのために」という意味です。

 

これはすばらしい約束です。全能の主が、ご自身を信じる者ために祈っていてくださるのですから。へブル7:25 には、「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。キリストを信じる者は、決して滅びることがありません。なぜなら、イエス様がその人たちのために祈っていてくださるからです。その祈りをやめることはありません。そして、その祈りが勝利をもたらしてくれるからです。彼らは信仰に堅く立ち、終わりの日まで守られるのは、彼ら自身の意志や能力によるのではなく、主が彼らのためにとりなしておられるからなのです。たとえば、イスカリオテのユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返して、「私は無実の人の地を打って罪を犯しました。」と言いましたが、最終的に彼は、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました。再び立ち上がることはなかったのです。一方、ペテロはそうではありませんでした。ペテロもイエス様を知らないと三度も否定しましたが、彼はその後悔い改めて、神との関係を回復しました。この両者の間にどうしてこのような違いがあったのでしょうか。それは、主イエスがペテロのために祈っておられたということです。イエス様はペテロにこう言われました。

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

 

皆さん、だれかに祈られているということほど心強いことはありません。祈りは神の御手を動かすからです。あなたのために祈っていてくださるのは、あなたの救い主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。その主があなたのために祈っていてくださるのですから、どんなことがあっても大丈夫。あなたは最後まで守られるのです。私たちは本当に信仰の弱い者ですが、主はそんな者のために祈っていてくださいます。なぜ?イエス様を信じたからです。イエス様を信じて神のものとなりました。神のものはイエスのものです。それでイエス様に特別に愛される者となったのです。特別にです。イエス様にとって、あなたは特別なのです。You are special.だからイエス様はあなたのために祈っておられるのです。これこそ、イエス様を信じている者たち、クリスチャンの特権です。しかも、10節の終わりのところには「わたしは彼らによって栄光を受けました」とあります。すぐにつまずいたり、すぐに主の御心を傷つけてしまうような者であっても、主は私たちを誇り栄光と思っていてくださるということです。イエスを信じたからです。そのことを思うと、もう感激で胸がつまってしまうのではないでしょうか。

 

Ⅱ.悪い者から守ってください(11-16)

 

第二に、その祈りの内容です。11節から16節までをご覧ください。11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」あります。

 

イエス様は、そんな弟子たちのために二つのことを祈られました。一つは、11節にあるように「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということで、もう一つは、16節にあるように「真理によって彼らを聖別してください」ということです。

 

まず、「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということですが、11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。どういうことでしょうか。イエス様はもうすぐいなくなります。十字架で死なれ、三日目によみがえられますが、その後、父のもとに行かれるからです。しかし、弟子たちは主とともにこの世からいなくなるわけではりあません。彼らはこの世に残されます。彼らには大切な使命が与えられていたからです。それは何かというと、キリストの証人となって、全世界に御国の福音を宣べ伝えることです。ですから主は、彼らを守ってくださるようにと祈られたのです。つまり、イエス様はご自分の民がこの世から取り去られることではなく、この世の中で悪から守られることを願われたのです。

 

すべてをご存知であられた主は、弟子たちがどのような思いを抱くであろうかということをよく知っておられました。その数は非常に少なく、力は弱く、敵や迫害に取り囲まれたら、だれでもこの悩み多い世から解放されて御国に行きたいと願うことでしょう。あのダビデでさえ、敵の手に取り囲まれたときこう言いました。「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。」(詩篇55:6)この言葉には、敵の手から解放されて主のもとに行きそこで休むことができたらどんなに良いことかという、彼の思いがよく表われています。

しかし、主は、ご自分の民がこの世から取り去られ、悪い者から逃れることよりも、この世に残って悪から守られることの方が重要であると思われました。戦いや誘惑から取り去られることは心地よいことのように思われるかもしれませんが、必ずしもそれが益になるというわけではありません。なぜなら、もしクリスチャンがこの世から取り去られたとしたら、どうやって神の恵みを証しすることができるでしょうか。イエス様は、山上の説教の中で、「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5:13-14)と言われました。もしクリスチャンがすぐにこの世から取り去られたとしたら、どうやってこの地の塩としての役割を果たすことができるでしょう。どうやって暗闇を照らす光となることができるでしょうか。私たちは地の塩、世の光として、自分自身をこの世に示していかなければなりません。

 

いったいどうやって示すことができるのでしょうか。私たちが主から与えられた使命を果たすためにはこの世に埋没していてはだめなのであって、神を必要としないこの世の原理に立ち向かい,苦闘しながらも、主から与えられた使命を果たしていかなければならないのです。そのためには、主の助けが必要です。この世を支配しているのは悪魔ですから、私たちのような弱いクリスチャンが素手で立ち向かえるような相手ではありません。14節から16節までのところで主はこう言っておられます。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」

イエス様はここで言っている「悪い者」とは悪魔のことです。イエス様が願っておられたことは、私たちクリスチャンがこの世から取り去られることではなく、この悪魔から守られることでした。いったいどうやって守られるのでしょうか。

 

11節に戻ってください。ここには、「わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。また、12節にも、「わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。」とあります。これはどういう意味でしょうか。これは、「神ご自身の御力によって」という意味です。この方は天地を創造された全能者です。また、私たちを罪から救ってくださった救い主です。そして死からよみがえられた勝利者であられます。この神の御名によって守ってくださるというのです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)イエス様は、この世にあっては何の苦難もないとは言われませんでした。苦難はあるんです。しかし、勇気を出すことができます。なぜなら、主はこの世に勝利されたからです。この方の御名によって、この方の力によって、私たちは守られるのです。私たちの力によるのではありません。

 

パウロは、ローマ8:35-39でこの真理を次のように言っています。

「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

キリストの愛から引き離すのはだれですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者となることができるのです。私たちがキリストを信じたことによって、神の子とされたからです。私たちには、ご自身の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が共におられます。この神が、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださるのです。

 

ですから皆さん、安心してください。あなたは悪魔から守られています。キリストを信じた時、神の御霊、聖霊があなたの内に住んでくださいました。主がいつも、またいつまでも、あなたとともにいてくださいます。神の愛と神の恵みが、あなたを取り囲んでいます。悪魔にやられるんじゃないかなぁと心配する必要は全くありません。なぜなら、イエスは、「わたしはすでに世に勝ちました。」と宣言されたからです。十字架に掛かる前に勝利の宣言をされました。そして、十字架の上で「テテレスタイ」「完了した」と言われました。私たちの罪の支払いは完了したのです。そして、イエス様は死からよみがえられました。死から復活されたことによって、死の力を持っている悪魔を完全に滅ぼされたのです。あなたは、この神の力で守られているのです。もしあなたがキリストを信じるなら、あなたは神の子とされ、あなたの内に、この世にいるあのもの(悪魔)よりもはるかに力のある方が住んでくださいます。あなたもキリストを信じてください。そうすれば、神の力によってあなたも守られます。ここでイエス様はそのように祈っておられるのです。このキリストの守りの中にあることを感謝しましょう。キリストの中にいるのであれば、そして、キリストがあなたの中におられるのであれば、あなたはこのキリストの力、神の力で完全に守られるのです。

 

それは何のためでしょうか。11節、「私たちと同じように、彼らが一つとなるためです。」彼らが一つの心、一つの思いになって、共通の敵に立ち向かい、共通の目標を目指して戦えるように、そして内輪もめや分裂によって分けられたり、弱められたり、麻痺したりすることがないように、彼らを保つためです。このことについては、次回の箇所でもう少し詳しくお話ししたいと思います。

 

Ⅲ.真理によって聖別してください(17-19)

 

 イエス様の弟子たちに対するもう一つの祈りは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。17節をご覧ください。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」真理によって彼らを聖別するとはどういうことでしょうか。

 

 聖別するとは、もともと神のために区別するという意味があります。この世のものから離れて、ただ神だけのものになるということです。旧約聖書では、イスラエルの民の初子は、人であれ、家畜であれ、神のものとして聖別されました。同じように、私たちもこの世にあって、神のものとして聖別されなければなりません。イエス様が言われたように、この世は悪に満ちているので、私たちがこの世に生きているかぎり、悪に汚れる機会がたくさんあります。家にいれば夫婦喧嘩をして汚れることもあるでしょう。テレビを観ていればいろいろな情報で汚れることもあります。家を一歩出れば、ママ友とのうわさ話や妬みで汚れます。ビジネスでは不正によって汚れることがあるかもしれません。しかし、神のものであるならば、それらのものから離れて、きよめられなければなりません。すなわち、この「聖別してください」というイエス様の祈りは、生活と品性において罪の汚れからもっと分離して、きよくしてくださいということだったのです。その思いとことばと行いと生活と品性において、もっときよく、もっと霊的に、そしてもっとキリストに似るものとしてくださいという祈りだったのです。神の恵みは、すでに彼らを召し、回心させてくださることによって示されましたが、その恵みがさらに高く、またさらに深められるために、彼らのたましいと、霊、からだのすべてにおいてきよめられ、イエス様ご自身に似る者とされるようにという祈りだったのです。イエス様を信じて救われることを新しく生まれる(新生)とか、義と認められる(義認)と言いますが、この新生や義認は完全で完成されたわざであり、イエス様を信じた瞬間に完成されますが、きよめられること、これを聖化と言いますが、これは、私たちの心にもたらされる聖霊による内的なわざであって、私たちがこの地上に生きている間は継続してなされるものです。ですから、イエス様は弟子たちのために救われるようにとは祈りませんでした。彼らは、イエス様が話されたことばによってすでに救われていたからです。彼らにとって必要だったのはきよめられること、聖別されることでした。

 

いったいどうやったらきよめられるのでしょうか。ここには、「真理によって彼らを聖別してください」とあります。「真理」とは何ですか。真理とは神のみことばのことです。みことばは、私たちが聖霊によってきよめられるために用いられるすばらしい手段です。人が救われるのもみことばによります。聖別されること、きよめられることもそうです。みことばが、人の心、精神、良心、そして感情に蒔かれ、強力に結び付けられることによって、聖霊はその人の品性をもっときよいものへと成長させてくださいます。人はよく座禅とか滝に打たれるといった修行を積むことによって、あるいは、欲を捨てることによって、また、宗教的な儀式を行うことによってきよめられると思っていますが、そうした外側からの働きかけは、残念ながら人をきよめることはできないのです。あなたがどんなに頑張っても、無理なんです。よく求道者の方とお話しをしていると、「どうですか、イエス様を信じてください」と言うと、多くの方がこのように言われます。「いや、もうちょっといい人間になったら信じます。」ならないです。もうちょっと良い人間になろうとすることはいいことですが、なりません。そうじゃないですか。いい人間になりましたか。なりません。悪くはならないかもしれませんが、欲もならない。どちらかというと、悪くなっています。生きていると考えなくてもいいことを考えたり、言わなくてもいいこと、やらなくてもいいことを言ったりやったりするからです。だから、どんなに頑張ってもいい人にはならないのです。じゃ、どうしたらいいんですか。イエス様を信じればいいのです。イエス様を信じるとその人には神の御霊が与えられ、全く新しく生まれ変わり、良い人へと変えられて行くからです。Ⅱコリント3:17-18にこうあります。「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」それは、御霊なる主の働きによるのです。ただ表面的に優しくなったとか、親切になったとかということではなく、根こそぎ変えられるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

すべてが新しくなります。イエスを信じることで喜びと平安、希望が与えられます。それはどんな状況にも奪われることのない希望です。神の愛がその人に注がれているからです。神様がいかに偉大で真実な方であるかを知るようになり、その神のみこころに従って生きていきたいという思いで心が満たされていきます。その結果、主の御霊が私たちを変えられていくのです。あなたの努力とか、頑張りとかによるのではなく、真理によってとあるように、あなたが神を信じ、神のことばに従うことによって、変えられていくのです。

 

ですから、聖書のみことばを規則正しく読むことと、説き明かされたみことばを聞き続け、それに従うことがどんなに重要であることがわかります。みことばは、気づかずして、私たちをきよめるために働いてくださるからです。詩篇119:9には、「どのようにして若い人は自分の道を、清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」とあります。それは若い人だけではありません。すべての人に言えることです。どのようにして、人は自分の道を清く保つことができるのでしょうか。神のみことばのとおりに、道を守ることです。そうすれば、私たちは自分の道を清く保つことができるばかりか、神のみこころにかなった者に変えられるのです。

 

 なぜきよめられる必要があるのでしょうか。聖別されなければならないのでしょうか。18節にはこうあります。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを遣わしました。」これがその目的です。神がキリストをこの世に遣わされたように、キリストもまた彼らをこの世へと遣わされます。つまり、クリスチャンはキリストの証人であり、その使命をしっかりと果たすためです。クリスチャンがこの世に遣わされたとき、その人と接した人が「この人は普通の人と違うなあ」「すごく暖かい感じがする」「本当に優しく親切だ」「私もあの人のようになりたい」と思うようであれば、その人は福音に耳を傾けたくなるでしょう。反対に、この人のようにはなりたくない、なんだか冷たいんだよね、というのではあれば、だれも聞きたいとは思わないでしょう。ですから、私たちがキリストの大使として、キリストの香りをこの世に放つために、きよめられる必要があるのです。

 

 バンク・オブ・アメリカのロサンゼルス支店で起こったことです。銀行の駐車場は利用客に限って無料でしたが、乱用する人が続出したので、全場所有料としました。ある日「有料になったことを知らなかったから今日は無料にしてくれ」と、ヨレヨレのシャツとジーンズ姿の60過ぎの男性が、窓口の係の人に頼みました。彼の後ろには順番待ちの人の列が出来ています。少しイライラした窓口係は、その男性に冷たく言い放ちました。「これはもう決まったことです。文句があるなら支店長に言ってください。ハイ、次の方!」

 仕方なくその男性は再び列の最後尾に並び、そして自分の番が来たとき、自分の口座から全額を下ろし、向かいの銀行に移し変えてしまいました。その額何と420万ドル、日本円で約4億5千万円でした。窓口係のチョットしたイラッとした態度が、この銀行に大きな損出をもたらしたのです。これはキリストの証人にも言えることです。私たちの態度が、その人に与える影響は大きいものがあります。イエス様の目と、イエス様の心と、イエス様の態度で接するなら、キリストの証人としてその使命を立派に果たすことができます。

 

 ちなみに、神奈川県の秦野市に愛鶴(あいず)タクシーという会社があります。この会社は不況のタクシー業界で業績を伸ばしている会社です。以前あるホテルと契約して仕事をしていた時、そのホテルの支配人から、「キミのところの会社はサービスというものが分かっていない、もう使わない」と言われてしまいました。社長の篠原さんは、その時へりくだってホテルの支配人を訪ね、「サービスについてゼロから教えてください」と頼みました。すると支配人は「その答えは聖書の中にある」と言ったのです。

 それは、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:31)という言葉でした。それから社長の篠原さんは、一生懸命お客様のニーズはどこにあるのかを考えたそうです。その中の一つのアイデアは、「福祉タクシー」というものでした。身体障害者やお年寄りの人たちの立場に立ったタクシーです。タクシーを改造し、運転手にはホームヘルパー2級の資格を取らせました。また、手話を習わせたりしました。するとどうでしょう。同業他社の人々は「昼間だけのタクシーで儲かる筈がない」と言って、篠原さんの試みを冷たい視線で眺めていました。しかしこの試みは世間の人々に受け入れられたのです。社会的弱者に優しいタクシー会社というイメージが拡がり、普通のタクシーの需要も伸びたのです。

 このような会社が伸びないはずがありません。キリストの言葉に生きるなら、そこには神のいのちと力が働きますから、必ず良い方向へと導かれるはずだからです。

 福音の宣教も同じです。大切なのはどのように伝えるかということではありません。だれが伝えるかということです。だれがとは、どのような立場の人がということではなく、また、どのような性格の人がということでもなく、どのような性質の人が伝えるのかということです。キリストの性質にある人が、キリストに似た人がキリストの証人として伝えるなら、神の栄光が現されることでしょう。イエス様はそのために彼らを聖別してくださいと祈られたのです。

 

 最後に19節をご覧ください。イエス様は、「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」と言っておられます。どういうことでしょうか。イエス様は完全にきよく、罪がないお方だったので、きよめられる必要はありませんでした。そのイエス様が、「わたしは彼らのために、わたし自身を聖別します」と言われたのです。この意味は、「わたしは自分自身を聖別して、祭司として、自分を犠牲としてささげます。」という意味です。それは、わたしの弟子たちが真理によって聖別され、きよい民となるためにです。それは、イエス様が間もなく十字架で贖いの死を遂げられることを意味していました。イエス様はまさにご自身を神のものとして聖別されたのです。それは、弟子たちが彼らに与えられた使命を果たすためでした。その使命とは何ですか。その使命とはキリストの証人として、この世に遣わされるということでした。

 

弟子たちはその初穂として遣わされたのです。彼らを通して福音が宣べ伝えられ、多くの人がキリストを信じて救われ、神の栄光が現されるようにと。同じように、神はあなたをこの世から選び、ご自身のもとして聖めてくださいました。救ってくださいました。それはあなたを通して神の栄光が現されるためです。私たちはキリストによって罪の赦しと永遠のいのちを受けました。しかし、それは完全になったということではありません。まだ弱さがあります。しかし、私たちには、そうした弱さを知ってとりなしてくださる方がおられます。イエス様です。イエス様があなたのために祈っておられます。あなたの弱さに同情してくださるだけでなく、あなたをそこから助け出して、力を与えてくださいます。そして、あなたを通してご自身の栄光を現してくださいます。私たちも内側からきよめられて、キリストの栄光、神の栄光を現す者となりましょう。そのために、イエス様はご自分のいのちをささげてくださったのです。

出エジプト記28章

2020年7月8日(水)祈祷会メッセージ

聖書箇所:出エジプト記28章

 

今日は、出エジプト記28章から学びます。これまで幕屋の建築について見てきましたが、28章と29章には祭司について書かれています。その幕屋で人がどのように奉仕するのか、その奉仕者である祭司について学びます。今日は前半部分28章です。

 Ⅰ.祭司として仕えさせよ(1-3)

 

まず1~3節までをご覧ください。

「1 あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビフ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。2 また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。3 あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵ある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなさい。 彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」

 

ここにはアロンとその子たちを祭司として仕えさせるようにとあります。祭司とは、簡単に言えば、神と人との仲介者のことで、神の幕屋に仕える人たちのことです。神に対して、祭司は人を代表します。とりなしの祈りをしたりすることは、祭司の務めです。そして人に対しては、神の祝福や恵みやいやしを分け与える神の代表者でもあります。祭司の働きによって、イスラエル人は神に近づくことができました。この祭司もイエス・キリストの型であり、イエス・キリストのことを表していました。イエス・キリストこそまことの大祭司です。ですから、この祭司について学ぶとキリストがどのような方であるのかがわかるのです。

 

モーセの兄アロンと彼の子どもたちが祭司として任じられました。何のためでしょうか。主に仕えるためです。ここには、「祭司としてわたしに仕えさせよ。」とあります。主に仕えるということは何か主のために特別のことをすることではなく、主が命じられたことを行うことです。

 

2節をご覧ください。ここには「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ」とあります。大祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着なければいけませんでした。普通の服装では聖所に入ることができなかったのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストを表していたからです。イエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」とありますが、栄光と美を表す聖なる装束は、この栄光のキリストを表していたのです。そのために、主が知恵の霊を満たした、心に知恵ある人たちが用いられました。

 

Ⅱ.大祭司の装束(4-39)

 

4-39節までに、栄光と美を表す聖なる装束がどのようなものであったかが記されてあります。まず、4-5節をご覧ください。

「4 彼らが作る装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らが、祭司としてわたしに仕えるために、 聖なる装束を作る。5 彼らは、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取る。6 彼らに、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、意匠を凝らしてエポデを作らせる。」

 

彼らは大祭司のために、胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を作らなければなりませんでした。なぜなら、それはイエス・キリストを指し示していたからです。大祭司はそのままの姿で、神のみもとに近づくことはできませんでした。また、自分を良くすることによっても、神に近づくことはできませんでした。イザヤ書に、「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」(64:6)とあるように、罪に汚れた者だからです。そのような者が神の幕屋に入って行き、神に近づくことができるのは、イエス・キリストの義を身に着けていなければならないのです。パウロは、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)と言いました。ですから、イエス・キリストが、私たちにとって聖なる栄光と美の装束です。私たちは、自分の正しさではなく、キリストの完全な義を身にまとうことによって神に近づくことができるのです。

 

最初はエポデを作りました。これはエプロンのような形をしており、大祭司の胸と腹の部分を覆っていました。その材質は、金色、青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布が用いられていました。金色は何を表していましたか。キリストの神性です。キリストが神であることを表していました。青色は天、神の国ですね。それは、キリストが天から来られた方であることを示していました。紫色は王としてのキリストです。緋色は赤ですが、これはキリストの十字架の血による贖いを表していました。そして亜麻布は白ですが、これはキリストの聖さ、キリストの義を表していました。このエポデはキリストの権威を象徴していたのです。

 

7-14節をご覧ください。これに二つの肩当てが付けられました。この肩当てはイスラエル12部族を表していました。その肩当てにはそれぞれしまめのうがはめ込まれていて、片方にはイスラエル12部族のうちの6つの部族の名前が、またもう一方には6つの部族の名が記されてありました。つまり、キリストはご自身の民であるイスラエルの12の部族(クリスチャン)を背負ってくださるということです。イザヤ46:3-4には、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とあります。私たちは、大祭司であられる主イエスに担われているのです。ずっと・・。何と感謝なことでしょうか。

 

8節をご覧ください。ここには「エポデの上に来るあや織りの帯」を作るようにとあります。材料と色はエポデを作る時と同じ色、同じ材料です。すなわち、これもイエス・キリストのことを表していました。この帯は何を象徴していたのでしょうか。出エジプト12:11には、帯を引き締めて、足にくつをはき、急いで行くようにとありますが、それは、着物がはだけないためでした。要するに、働きやすくするために帯を締めるのです。それは、しもべとしてのキリストの姿を象徴していたのです。キリストは仕えるしもべとしてこの世に来てくださいました。そして、この帯がエポデと同じ材質と色で作られなければならなかったのは、権威者であられるキリストとしもべとしてのキリストというこの二つの性質がキリストの中にあるということです。神としての権威をもっておられた方が、しもべとなって仕えてくださいました。栄光の神であられるキリストは仕えるしもべでした。これが真のリーダーです。真のリーダーとは、サーバント・リーダーなのです。

 

次に15-21節までをご覧ください。

「15 あなたはさばきの胸当てを意匠を凝らして作る。それをエポデの細工と同じように作る。すなわち、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて作る。16 それは正方形で二重にする。 長さ一ゼレト、幅一ゼレト。17 その中に宝石をはめ込み四列にする。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。18 第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。20 第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれる。21 これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表す。」

 

ここには、「さばきの胸当て」を作るようにと命じられています。この「さばき」というのは神のさばきというよりも、神のみこころは何かということを判断するさばきのことです。イスラエルが何かのさばき、判断、知恵を求めたとき、彼らは大祭司の所にやって来て、神のみこころを伺ったのです。それがさばきの胸当てです。このさばきの胸当てにはウリムとトンミムが入っていました(30)。ウリムとトンミムとはどのようなものであったかは明確ではありませんが、Iサムエル14:41には、これがくじとして用いられていたことが記されてあります。くじとして用いられていたことから、神のみこころを求めるくじのようなものであったのではないかと考えられているのです。ウリムが出たらイエス,トンミムがノーというように判断していたのでしょうす。判断がくじによって与えられるというのは、このくじは単なる偶然にではなく、神がその判断と決定をそれによって与えられるという信仰が基調にあったのです。

 

 このさばきの胸当てもエポデと同じ色、同じ材質で作られました。ということは、これもまたイエス・キリストのことを表していたということです。違うのは何かというと、この胸当てには高価な宝石がちりばめられていたということです。宝石は3個ずつ4列にしてはめ込められていました。この12の宝石は、イスラエルの12部族を表していました(21)。それがこの胸当てにはめ込まれていたのは、大祭司の心にイスラエル12部族の名前が刻まれていたということです。イエス・キリストの心にクリスチャンの名前がしっかりと刻まれているのです。彼らはそれぞれ違う石で表されていましたが、どれも皆、宝石です。どの部族も価値があります。皆、それぞれ光を持っています。光り方は違いますが、どれもみな大祭司のハートにしっかりと刻み込まれていたのです。

イザヤ49:15-16には、「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。」とあります。私たちはキリストから忘れられるということは決してありません。その心にしっかりと刻まれているからです。それぞれ輝き方はみな違いますが、宝石のように価値ある者として見られているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

どの教団、どの教派、どの教会の人であっても、あなたがキリストを信じて神のものになっているのなら、神の目にあなたは高価で尊い存在なのです。宝石のように輝いていめのです。まだ輝いていないという人がいますか?そういう人がいたら、その人は宝石の原石なのです。そのうちに輝いてきますから、心配堂しないでください。

それは私たちだけでなく、あなたの隣人も同じです。あなたの隣人もキリストを信じて神のものとなったのであれば、キリストの目には同じように高価で尊いのです。私たちは、そのような目で隣人を見ていく必要があります。

 

22-29節をご覧ください。

「22また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作る。23 胸当てのために金の環を二個作り、その二個の環を胸当ての両端に付ける。24その胸当ての両端の二個の環に、二本の金のひもを付ける。25その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付ける。26さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付ける。27 また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付ける。28 胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにしなければならない。29 このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」

 ここには、胸当てを身に着けるための鎖と環について述べられています。この鎖は、純金で作られました。胸当てを体に固定するために、胸当ての四隅に金の環がつけられます。そして上の環は金の鎖で肩当ての環につなぎあわせ、下の環はエポデにつけられた環に青ひもでつなぎます。それは何のためでしょうか。胸当てがエポデからずり落ちないようにするためです。大祭司の胸当てはイエス・キリストの心です。私たちはあの宝石のように主のみ胸に抱かれて大切に守られているのです。それは決してずり落ちることはありません。

 29節には、「このようにして、アロンが聖所に入るときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの息子たちの名をその胸に担う。それらの名が、絶えず主の前で覚えられるようにするためである。」とあります。これはキリストの愛情のしるしです。こうして大祭司はイスラエルの民族を代表して聖所で奉仕し、神と人との間のとりなしをするのです。ヘブル7:24-25には、「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とありますが、キリストはこの大祭司として、私たちのために神にとりなしていてくださるのです。

 次に31-35節までをご覧ください。

「31 エポデの下に着る青服を青の撚り糸だけで作る。32 その真ん中に、首を通す口を作る。その口の周りには、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付け、よろいの襟のようにする。33 その裾周りには、青、紫、緋色の撚り糸でざくろを作る。その裾周りのざくろの間には金の鈴を付ける。34 すなわち、青服の裾周りに、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。35 アロンはこれを、務めを行うために着る。 彼が聖所に入って主の前に出るとき、 またそこを去るとき、 その音が聞こえるようにする。彼が死ぬことのないようにするためである。」


 ここには、エポデの下に着る青服の作り方が記されてあります。これは青色の撚り糸で作られました。これにはそでがなく、ひざが隠れるほどの長さのものでしたが、あるものは足首にまで達する長いものでした。というのは、33節に裾のことが記されてありますが、それによると足首まである長い服であったのがわかるからです。その真ん中には頭を通す穴を開け、ほころびないように織物の技法を凝らして縁を付けました。その裾周りには青色、紫色、緋色の撚り糸で作ったざくろを作り、その裾の周りに付けました。また、その周りのざくろの間に金の鈴をつけました。ざくろは、多数の実を付けていることから肥沃、豊かさ、生命の象徴でした。それはキリストの生命の豊かさを表わしていました。また、金の鈴は、大祭司キリストの働きを示していました。それはとりなしの祈りです。35節を見ると、アロンが聖所での務めをするときにはこれを着なければなりませんでした。そして、彼が聖所にはいり、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにしなければならなかったのです。それは、彼が神と人とに覚えられているというしるしでした。そうしないと、彼は打たれて死んだのです。鈴の音が止まると死んだということが、神と人の両方にわかりました。

 

 36-38節をご覧ください。

「36 また、純金の札を作り、その上に印章を彫るように主の聖なるもの』と彫り、37 これを青ひもに付け、それをかぶり物に付ける。それがかぶり物の前面にくるようにする。38 これがアロンの額の上にあって、アロンは、イスラエルの子らが聖別する聖なるもの、彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。これは、彼らが主の前に受け入れられるように、絶えずアロンの額の上になければならない。」

 

 ここには、「純金の札」について記されてあります。純金の札を作り、その上に印を彫るように、「主への聖なるもの」と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物の前面にくるように付けばなりませんでした。その大きさについてはいろいろな節があります。ある伝承では幅4センチ、長さは耳から耳に届くほどの大きさであったとされています。

 しかし、最も重要なのは、そこに「主への聖なるもの」と彫られた純金の札を付けなければならなかったということです。これが、38節に「彼らのすべての聖なる献上物に関わる咎を負う。」とあるように、。イスラエルの咎を負うためであったからです。イスラエル人が持ってきた物はいろいろな清めと洗いがなされていますが、完全に聖い神の御前には汚れています。そこで、民を代表するアロンは、それを額の上に置きその汚れたささげ物がすべて聖められるようにしたのです。これでイスラエル人のささげ物が、絶えず神の御前に受け入れられるようになりました。エペソ書1:7には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。」とありますが、私たちはこの大祭司であられるキリストの贖いによって罪が赦され、聖められているのです。この方にあって私たちは神に受け入れられた物、聖い者とされたのです。大祭司であられるキリストが私たちの咎を負ってくださったからです。そのことによって、私たちは大胆に神の御前に出ることができるようにされたのです。

 

 39節をご覧ください。

「さらに亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺を施して作る。」

 

 長服は亜麻布で市松模様に作られました。市松模様というのは白と黒の正方形を、互い違いに並べた基盤目模様のことです。「石畳」「あられ」などとも言われます。かぶりものは亜麻布で作られました。これは恐らく主への敬意のしるしだったのでしょう。飾り帯は刺繍で作る。大祭司の装束の中に履物についての言及がないのは、おそらく彼らがはだしで務めをしていたからと考えられます。

 Ⅲ. アロンの子らの装束 (40-43)

 最後に、40-43をご覧ください。                             「40 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表すターバンを作らなければならない。41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。42 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。それは腰からももまで届くようにする。43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためである。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟である。」

 大祭司アロンの働きを補佐するアロンの子らたちのためには、長服と飾り帯とターバンが作られました。ターバンは栄光と美を表していました。彼らは聖別された油を注がれて祭司に任命されました

 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作りました。それは腰からももに届くようにしました。これはアロンと彼の子らが聖所で務めを行うために祭壇に近づく時に着ました。これは彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないようにするためのものでした(20:26)。もしも彼らの裸があらわにされてしまうなら、神に打たれて死ななければならなかったからです。どういうことでしょうか。これはキリストの贖いを象徴していました。アダムとエバが罪を犯した時、彼らはいちじくの葉をつづり合せたもので腰の覆いを作りましたが、そんなものは2,3日で枯れてしまい全く役に立ちませんでした。自分の力や働きによって裸をおおうことはできません。自分の裸をおおうことができるのは、神が用意してくださった動物の皮で作られた着物でした。まさにその動物こそキリストの血を象徴していたのです。神は、そのようにして彼らの裸をおおってくださいました。同じように、私たちの裸をおおうのは亜麻布のももひきです。それはイエス・キリストを指し示していました。それを着なければならないのです。アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着ました。彼らが咎を負って死ぬことのないようにするためです。これは彼と彼の後の子孫のための永遠の掟です。

 今日、完全なる大祭司であるイエス・キリスト(ヘブル3:1)が私たちのために神の前にとりなしをしていて下さいます(ヘブル7:24-27)。大祭司アロンはイエスキリストのひな型であり、イエス・キリストこそが永遠の大祭司として神の御前に私たちのためにいつもとりなしておられます。今もキリストは大祭司として真の幕屋である聖所で仕えていることを覚え(ヘブル8:1,2)、キリストによって罪を贖っていただいたことを感謝しましょう。

永遠のいのちとは ヨハネ17章1~5節

2020年7月5日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ17章1~5節(P219)

タイトル:「永遠のいのちとは」

 

 ヨハネの福音書17章に入ります。きょうは、「永遠のいのちとは」というタイトルでお話しします。一般の人にとって、永遠のいのちと聞いてもあまりピンとこないかもしれません。今をどう生きるかとか、どうしたら幸せに生きることができるかといったことならまだしも、死んでからのことなど考えたくないし、考える必要もないと思っているからです。しかし、永遠のいのちとは、死んでからのことだけではありません。今を生きる私たちが真に必要なものでもあります。それはたましいの救いであり、神がともにおられるということです。それとは逆に、死とは、神がおられないこと、神の呪いを意味しています。この世でどんなに成功し、名を上げたとしても、神の祝福がないところには真の幸福はありません。生きがいも、生きる喜びも持つことができません。ですから、永遠のいのちを得て、神がともにおられる人生こそ、ほんとうにすばらしいものなのです。

 

 それでは、どうしたら永遠のいのちを持つことができるのでしょうか。きょうは、このことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。第一のことは、イエス様が十字架で死なれたのは、この永遠のいのちを与えるためであったということです。第二のことは、この永遠のいのちと何ですか。それは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。ですから、第三のことは、どうしたらこの永遠のいのちを持つことができるのかということです。それは、神の御子イエス・キリストを信じることです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていないからです。

 

Ⅰ.永遠のいのちを与えるため(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。」

 

「これらのこと」とは、13章から16章までのところでイエス様が話されたことです。イエス様は弟子たちに、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と言われました。それはご自身が十字架で死なれるが、三日目によみがえられること、そして、天に昇り神の右の座に着かれると、約束の聖霊をお遣わしになることを意味していました。その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださいます。その方を通して、主はいつまでも彼らとともにいてくださると約束してくださったのです。今は悲しみますが、その悲しみは喜びに変わります。だから、勇気を出してください。あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 

これらのことを話されると、イエスは目を天に向けて言われました。言われたというのは、祈られたということです。私たちは普通祈るときは目を閉じ、頭を垂れますが、当時は、目を天に向けて祈るのが一般的でした。しかし、祈りにおいて大切なことはどのように祈るかということではなく、どんな時でも祈ることです。また、イエス・キリストの名によって祈ることです。目を閉じて祈ってもいいし、目を開けて祈っても構いません。ひざまずいて祈ってもいいし、立ったままでも構いません。歩きながら祈るのもいいでしょう。家事をしながらでも、ウォーキングしながらでも大丈夫です。運転しながらでも構いません。ただ運転をしながら祈る時は十分注意しなければなりません。大変危険ですから。家内が祈る時は、いつも目を開けて祈ります。目をつぶると、そのまま夢心地になってしまうからですというのはうそで、目を開けたままの方が祈りやすいからだと言います。どのような姿勢で祈っても構いません。また声に出して祈ってもいいし、出さないで黙って祈っても構いません。どのように祈っても、神はあなたの祈りを聞いてくださいます。

 

イエス様は、目を開けて天を見上げ、声に出して祈られました。この章全体がイエス様の祈りです。これは大変珍しいことです。福音書の中にはイエス様が祈られたことがたくさん書かれてありますが、このように祈りの言葉が記録されてある箇所はあまり多くありません。あってもとても短い内容です。しかし、ここには長い祈りの言葉が記録されています。一般に、キリスト教会ではマタイの福音書6章にある祈りを「主の祈り」と呼んでいますが、それは主が弟子たちにどのように祈ったら良いのかを教えられたものであってイエス様の祈りそのものではありません。実際には、このヨハネの福音書17章が、主の祈りと呼ばれる箇所です。

 

この祈りは三つの部分に分けられます。まず、1節から5節までですが、ここでイエス様はご自分のために祈られました。次に6節から19節までです。そこには弟子たちのための祈りが記されてあります。そして、20節から26節までは、すべての時代の、すべてのクリスチャンのためのとりなしの祈りです。きょうは、その最初の部分です。イエス様がご自身のために祈られた祈りです。

 

ここでイエス様は、声に出さないで祈ることもできましたが、あえて声に出して祈られました。なぜでしょうか?それは、弟子たちがそれを聞くことができるためです。さらに、現代に生きている私たちすべてのクリスチャンが聞くことができるためです。というのは、この祈りを通してイエス様と父なる神がどれほど親しい関係であるのかを知ることができますし、また、イエス様がだれであるのかをはっきりと知ることができるからです。そして、イエス様があなたと私、すべてのクリスチャンのためにとりなしておられることを知ることができるからです。

 

それでは、イエス様の祈りを見ていきましょう。1節の後半をご覧ください。イエス様はまず、「父よ、時が来ました。」と言われました。「父」とは、アラム語で「アバ」です。これは父に対する親しい呼び方で、今日の言葉では「パパ」とか、「お父さん」という感じです。イエス様は父なる神を、いつも「アバ」と親しく呼びかけられました。

 

「時が来ました」何の時でしょうか。十字架に掛けられる時です。ヨハネの福音書で「時」とある時は、十字架の時を意味しています。イエス様は十字架に掛かって死なれるために来られました。それは、私たちの罪の身代わりとなってご自分のいのちを与えるためです。イエス様はこれまで何度も「わたしの時は来ていません」と言われましたが、12:23で初めて、「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と言われました。それで、13:1ではご自分の時が来たことを知られたイエスは、最後まで弟子たちを愛され、彼らの足を洗われました。そして、彼らだけに最後のメッセージをされたのです。それが16章までの内容です。そして、ここでイエス様は父なる神に向かって、「時が来ました」と言われました。ついに、その時が来ました。十字架に掛かる時が来たのです。この翌日、イエス様は十字架に付けられることになります。

 

「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」どういう意味でしょうか?イエス様が十字架に掛かることが神の栄光を現すことであり、子の栄光を現すことでもあるということです。どうしてですか?それは、信じる者がみな、永遠のいのちを持つためです。そのために神は、すべてを支配する権威を子に与えてくださいました。それは、父が下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。イエス様が永遠のいのちを与えてくださいます。

 

ヨハネ5:24にはこうあります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

イエスの言葉を聞いて、イエスを信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。ここでは、移るでしょうとか、移るに違いないというのではなく、その瞬間に移っているのです。イエスを信じる者は、その瞬間に永遠のいのちを持つのです。それは死んでからのことだけでなく、まだ死んでいない、この世にあってもということです。この世にあって天国を味わうことができるのです。なぜなら、神がともにおられところ、それが天国だからです。イエス様を信じてすべての罪が赦されると、神はご自身のいのちであられる聖霊を送ってくださいます。この聖霊によってさながら天国を味わうことができるのです。イエス様は、この永遠のいのちを与えるために来てくださったのです。

 

しかしここには、「それは、あなたが下さったすべての人に」とあります。それは、だれにでもではなく、神がくださったすべての人に、です。6:44には、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」とあります。父なる神が引き寄せてくれなければ、だれも父のもとに行くことはできないのです。それは、15:16でイエス様が言われたことでもあります。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」私たちがイエス様を選んだのではありません。イエス様が私たちを選んでくださいました。父が私たちを引き寄せてくださったので、私たちはイエスのもとに来ることができたのです。

 

1990年7月、福島で牧師をしていた時、金沢哲夫兄という方が信仰に導かれ受洗しました。金沢兄は、精神的な病を患っていましたがその中で純粋に求道し、救われました。以来30年間、病気のためになかなか教会に来ることができませんでしたが、その信仰を詩集にまとめて送ってくださいました。今回が5冊目となりますが、その中にお便りが入っていて、これが最後の詩集となります、とありました。腹膜全体にガンが見つかり、余命半年の宣告を受けたのです。イエス様を信じて、永遠のいのちが与えられたことを感謝しますとありました。

今回の詩集のタイトルは、「天地創造の神」ですが、これは兄弟の祈りです。

 

「祈らずにいられようか」

祈らずに いられようか

世界は とんでもないくらい 深いのだ

宇宙は とんでもなく 広いのだ

祈らずに いられようか

 

「祈り」

神は 世界を 変えるほどの 大きな 祈りにも 答えて くださる

けれど 個人的な 小さな祈りにも 答えて くれる

 

こんな詩もあります。

「煙草(たばこ)」(神は祈りに答えてくださる)

自慢できる話ではないが

私は苦難の日に エコーを 一日五箱吸った時があった

普段はピース・ライトを二箱吸っていた

近頃は メンソールのラーク10gを 二箱吸っている

値上がりしてからは 止めさせて下さいと 祈り始めた

それでも一向に減りそうもなかったので

一日一箱で間に合わせて下さいと 懇願した

そうしたら どうにか一箱で収まった

神は切なる祈りに答えてくださった

馬鹿なことを言う奴だと 思われるかも知れないが 大真面目なのだ 

経済的にも 健康の為にも 信仰のためにも

この調子では 止められそうな時が来ることは確実だ

 

その中で私が最も感動したのは、この詩です。

「今頃気付くなんて」(すでに祈られていたのだ)

今頃気付くなんて 私は無神論の時代から すでに祈られていたのだ

神を否定し 酒場で飲んだくれていた時も

ヒッピー・フーテン 放蕩三昧の時も すでに祈られていたのだ

今頃気付くなんて 旧約時代 人類が誕生した時

天地創造の時から 神はすでに祈っていたのだ 今頃気付くなんて

ニーチェやサルトル、ハイデッカー・マルクス その他の無神論者の哲学者、思想家達も

広大無辺な神にはかなわない

すでに祈られていたのだ(本当の意味での無神論者なんていない) 今頃気付くなんて

ニートやホームレス、酒場で飲んだくれているあなたも 祈られている

早く、教会へ行こう

 

これは、2013年3月に書かれた詩ですが、ずっと祈られていたのです。それにちっとも気付きませんでした。自分で信じたと思っていた。でも、祈られていたのです。人類が誕生した時から、天地が創造された時から、ずっと祈られていました。だから今、ここにいるのです。神が引き寄せてくださらない限り、だれもイエスのもとに行くことはできません。永遠の昔から、神が引き寄せてくださった方に、キリストは永遠のいのちを与えてくださるのです。あなたはそれに気付いていましたか。今からでも遅くありません。大切なのは、気付いたその時に主のもとに行くことです。

 

Ⅱ.永遠のいのちとは(3)

 

 それでは、永遠のいのちとは何でしょうか。3節をご一緒に読みましょう。

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

 

 永遠のいのちとは、唯一の真の神を知ることです。また、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。「知る」というのは、単に知識として知るというだけのことではありません。頭だけで理解することではないのです。体験的に、人格的に知ることです。神を信じているという方はたくさんいます。世界中にたくさんの宗教があります。みんな神を信じていると言いますが、果たしてその神とはどういう神でしょうか。日本には八百万の神と言って、八百万も神がいるんです。しかし、まことの神は唯一です。ただ一人です。そう聖書は教えています。その神によって天地万物が造られました。この神は、すべての存在の根源であられます。この方がまことの神です。そして、神はその中に住むすべてのものをお造りになられました。しかし、この神を見た者は一人もいません。また、見ることができない方です。人間がどんなに頑張っても、宇宙に行ったとしても、見つけることはできません。どんなに探しても、どんな宗教を作ったとしても、この神に到達することはできないのです。この神から近づいてくださらない限り、人は神を知ることはできません。

 

 しかし、この神から遣わされた方がいます。それがイエス・キリストです。神が人となって来てくださいました。「イエス・キリスト」という名前の「イエス」は、「神は救い」という意味です。「キリスト」は名前ではなく称号です。「油注がれた者」という意味があります。つまり、イエス・キリストは、救い主として神によって遣わされた方であるという意味です。まことの神はあなたを救う方であり、その方の名はイエスであるということです。ですから、イエスは神の子であり、救い主です。神が人となって来られた方であり、神ご自身であられるのです。

 

 この方は永遠なる方です。ヨハネ1:1には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。この「初め」とは、永遠の初めのことです。何か起点があってそこから始まったというのではなく、始まりのない初めです。アルファであり、オメガであられます。最初であり、最後です。永遠なる方なのです。永遠なる方なので、永遠のいのちを持っておられるのです。一時的に神になったのではありません。永遠から永遠まで神なのです。その永遠のいのちを持っておられる方が、人となって来られました。そして、その永遠のいのちを与えることができるのです。

 

 ですから、キリストは「わたしと父とは一つです。」(10:30)と言われたのです。また、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)と言われました。そして、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通しでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)と言われました。キリスト抜きに神を知ることはできません。永遠のいのちとは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることなのです。あなたはこの方を知っておられますか。

 

 フランスのシャルル・ドゴール空港で、一人の英国人紳士が、ベンチに座って顔を伏せたまま動きませんでした。その様子を見ていた空港の警備員が心配そうに尋ねました。「ご気分でも悪いのですか」すると紳士は答えました。「いえ、そうではありません。ここにコンコルドで飛んで来たのですが、あまりのスピードに私の身体はここに着いたのですが、私の心はまだここに着いていないのです。それで心が追い付いて来るまで、ここでしばらく休んでいるのです。」

現代はあらゆるものが猛スピードで動き、まさに心が付いていくのが大変な時代です。その結果人々は、物質的な豊かさの中で心のバランスを失っているのです。日本の自殺者が毎年三万人を越えているのも、その表れだと思います。

私たちは、どうすれば心のゆとりや心の豊かさを保つことができるのでしょうか。どこに人生の基盤を置くのかということです。それを表面的で、物質的なこの世に置くのか、永遠のいのちに置くのかということです。もし、この世のものに基盤を置くなら、砂の上に家を建てた人のように、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、すぐに倒れてしまうことになるでしょう。しかし、もし堅い岩の上に置くなら、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、びくともしないでしょう。

 

ある女子高のクラス会が、温泉宿で、一泊二日で20年ぶりに持たれました。夕食の時、学生気分に戻って、誰とはなしに「ねえ、財布の中身を見せっこしよう」と言い出しました。「私、三十万円」「私、十万円」と言ってキャーキャー言い合っていました。一人の女性が「私、三千円」と言うと、皆シーンとなってしまいました。皆は、彼女の私生活を覗き見たような気がして、気まずい雰囲気が漂いました。帰り道、彼女の友人が気を遣って慰めました。「ゴメンナサイね、昨晩は大人げないことをしてあなたを傷つけちゃって」。しかし、彼女は平然として言いました。「大丈夫、私そんなこと全然気にしていないし、傷付いてもいないから。だって私、銀行口座に親の遺産が三十億あるんだもの」確かにそれだけの大金があれば、財布の中身比べにも動揺しないでしょう。しかし、世の中にはお金では解決できない問題が山ほどあります。ある資産家が臨終の床で医者に叫びました。「先生、いのちを助けてくれ!お金ならいくらかかってもいいから。」

 

この世界には、ただ一人だけ確かな方がいらっしゃいます。それは天地を創造されたまことの神です。この方と心のベルトがしっかりと掛けられている人は、何が起こってもあわてることはありません。あなたはいかがですか。永遠のいのちとは、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。この方としっかり繋がっていれば、そして、この方に支えられているという確信がある人は、何があっても動じることはないのです。

 

Ⅲ.救いのわざを成し遂げられたイエス・キリスト(4-5)

 

 では、どうしてイエス・キリストによらなければ、永遠のいのちを得ることができないのでしょうか。それは、御子イエス・キリストが十字架で私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったからです。4節と5節をご覧ください。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」

 

イエス様は、神のわざを行うようにと、神から遣わされました。そのわざとは何でしょうか。十字架と復活です。イエス様は多くの奇跡を行いましたが、その中でも最も大きなわざは、十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられることでした。イエス様は、そのわざを成し遂げて、地上で神の栄光を現したのです。

 

私たち人間は生まれながら罪を持っています。ですから、だれにも教えられなくても、わがままで、自分さえよければよいと考えるエゴイズムであるわけです。それは最初の人間アダムとエバが罪に陥ったからです。その結果、アダムの子孫として生まれて来るものは皆、その人が欲するか否かにかかわりなく、罪を持って生まれてくるのです。これを原罪といいますが、それを持っている限り、だれに教えられなくても罪を犯すのです。罪は、私たちの行いだけによらず、私たちの思いと言葉と行いによって犯します。よくないことを考え、それが心から口に出て、人を傷つけ、ついにはそれが行為にまで至り、神の御心をも、ほかの人をも傷つけてしまうのです。その罪には必ず償いが求められるわけで、その償いを果たし終えるまでは、どこまでも追いかけてきます。ですから、いつも何かに追われているような気がしてならないのです。平安がありません。その償いとは何ですか。聖書は、その償いは「死」であると言っています。その罪のために私たちは死ななければなりませんでしたが、私たちが死しなくてもよいように、神がその解決の道を備えてくださいました。それが十字架なのです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかって死んでくださいました。ですから、この方を、あなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。永遠のいのちを持つことができるのです。

 

 永遠のいのちは、死んでから持つものではありません。むしろ、この地上に生きている時に持つものです。

「私たちの齢は70年、健やかであっても80年です。そのほとんどは、労苦と災いです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」(詩篇90:10)

では、死んだらどうなってしまうのでしょうか。死んだら消えて無くなってしまうのではありません。では、何かに生まれ変わるのですか。違います。私たちは皆、信仰のある人もない人も、死んだら肉体は消えて無くなりますが、霊魂は永遠に生きるのです。問題は、その永遠をどこで生きるのかということです。聖書は、まことの神を知らなければ永遠の滅びに行くと言っています。イエス・キリストを信じなければ、火と硫黄の池に投げ込まれるのです(黙示録20:15)。死んだらすべてが終わるといいますが、そうではありません。燃える火の中で永遠に生きなければならないのです。それほど恐ろしいことはありません。聖書はそのことを厳かに教えています。脅しているのではありません。それが真実です。だから聖書は、私たちがそこに行かないようにと、神がひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。あなたの代わりに十字架で死なれるために。この方を信じる者は救われます。すべての罪が赦されて、天国に行くことができるのです。天国は聖なるところなので、少しでも罪があると入ることはできません。ですから、神はひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです。それが十字架と復活の御業でした。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。イエス様は、ご自分が行うようにと神が与えてくださったわざを成し遂げて、この地上で栄光を現しました。ですから、この救い主イエス・キリストを信じる者の罪は赦され、天の御国に入れていただけるのです。

 

 Ⅰヨハネ5:11-13にこうあります。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」

この御子を持つことが永遠のいのちです。あなたは御子を持っていますか。あなたの心の中には、御子イエス・キリストが住んでおられるでしょうか。この方と個人的に交わっておられるでしょうか。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。あなたがイエス・キリストを信じ、この方と親しい交わりを持つとき、そこに永遠のいのちが始まります。どうぞ、イエス・キリストを信じてください。イエス・キリストをあなたの心の中に迎え、この方との親しい交わりの中に生きてください。そこに神の国があります。神の国は、あなたがたのただ中にあるからです。この方を信じて、この神の国を生きることができるのは何という幸いでしょうか。あなたもその中に招かれているのです。

 

 先月、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さんで、拉致被害者家族会の前の代表であられた横田滋さんが召されました。横田さんはめぐみさんが失踪した1977年から、40年以上にわたって妻の早紀江さんとともにめぐみさんの救出を訴え、全国で署名活動を行ったり、1,400回を超える講演活動を行ってきました。

 早紀江さんは、めぐみさんが失踪した翌年に新潟の教会に導かれてクリスチャンになりましたが、夫の滋さんは長年、早紀江さんの信仰に理解を示しながらも、めぐみさんを突然奪われた苦しみから、信仰を持てずにいました。しかし、2017年に早紀江さんが通う川崎の教会で洗礼を受けました。

 早紀江さんのお話しによると、滋さんは、新潟でめぐみがいなくなった時、めぐみさんを捜し回り、泣きながら「神も仏もあるものか」と叫んでいたそうです。その時から「本当の宗教なんていうものはない。自分が強くなければ駄目なんだ」と言って、ちょっとでもキリスト教のことに触れると怒っていたようですが、早紀江さんが教会に通うことには反対しませんでした。

 そのように長い間、神様を拒んでいた滋さんでしたが、2017年に川崎の教会の牧師が「神様を受け入れますか」と聞くと、「はい」と言って素直に、にこやかに返事をされ、受洗に導かれたのです。「神も仏もあるものか」と思っていた滋さんでしたが、最後は神にすべてをおゆだねしたのです。

 滋さんが召される直前、看護師さんから「何でもいいから声をかけてあげてください。大きな声をかけてあげてください。」と言われた早紀江さんは、耳の近くまで顔を寄せて「お父さん、天国に行けるんだからね。気持ちよく眠って下さい。私が行くときは忘れないで待っていてね」と、大きな声でお話しすると、滋さんはうっすらと涙を浮かべた様子で、眠るように亡くなられました。

 「めぐみを助け出してからじゃないと逝けない」と言っておられた滋さんにとって、どれほど無念であったかと思いますが、しかし、そのことで早紀江さんが信仰に導かれ、最後には滋さんも信仰に導かれたことは、神様の大きなあわれみではないかと思います。そのことによってイエス・キリストを知り、永遠のいのちを持つことができたのですから。永遠の主イエス・キリストが、私たちの考えをはるかに超えた方法で最高の出会いを与えてくださるでしょう。

 葬儀には、60名ほどの方々が列席されたとのことですが、最後に早紀江さんが挨拶されました。その挨拶は、もう伝道メッセージだったそうです。滋さんが天国へ行ったことの喜びと平安、その力強い美しい生き方だけで、証しでした。

 「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ4:47)

 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

 あなたも永遠のいのちを持ってください。それは、唯一のまことの神と神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。それは、あなたを罪から救ってくださったイエス・キリストにあるのです。

 

しかし、勇気を出しなさい ヨハネ16章25~33節

2020年6月28日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ16章25~33節(P218)

タイトル:「しかし、勇気を出しなさい」

 

 きょうは、ヨハネの福音書16章の最後の箇所からお話しします。この箇所は、13章から続いてきた弟子たちに対するイエス様のお話しの最後の言葉です。いわば遺言のようなものですね。誰の言葉でも、その人の最後の言葉は大切にされます。それは、自分がいなくなった後もこの言葉を握り締めてしっかりと生きて行って欲しいという、そういう願いが込められているからです。その最後のところで、イエス様が言われたことはどんなことだったのでしょうか。33節にこうあります。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

 何と力強い、そして慰めに満ちた言葉でしょうか。すべての説明を抜きにして、私たちの心に直接響いてくる言葉です。きょうは、この言葉を中心に「しかし、勇気を出しなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.平安を得るために(25-33a)

 

まず、第一に、イエス様がこれらのことを語られたのは何のためかということです。それは、彼らがキリストにあって平安を得るためです。33節の冒頭にこうあります。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。」

 

「これらのこと」とはどんなことでしょうか。それは、イスカリオテのユダが去って行った後、主イエスが11人の弟子たちに語られたすべてのことです。これらのことを弟子たちに話されたのは、彼らが主にあって平安を持つためでした。

 

このことは、25節のところでも言われています。「わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。」イエス様は「これらのこと」をたとえで話しました。たとえば、前回のところでは、ご自分が十字架で死なれることと三日目によみがえられること、そして、聖霊として来られることの悲しみと喜びを、女性の出産のたとえで語られました。女は子を産むとき苦しみますが、子を生んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。そのように、悲しみは喜びに変わります。

しかし、弟子たちにはその意味がよくわかりませんでした。なぜですか?彼らの心は悲しみでいっぱいだったからです。悲しみでいっぱいだったのでもうそれ以上聞くことができませんでした。彼らにとって必要だったのは説明ではなく励ましでした。それで、悲しみは喜びに変わると言われたのです。イエス様は去って行かれますが、やがて聖霊が降り、すべてのことを教えてくださると言われました。

 

26節をご覧ください。「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。」

「その日」といつのことでしょうか。23節で見たように、聖霊が降られた日、ペンテコステのことです。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。それまではイエスの名によって求めたことはありませんでした。なぜなら、イエス様が彼らとともにおられたからです。ともにいて彼らの必要をすべて満たしてくださいました。しかし、その日には、約束の聖霊が降られた後は、イエスの名によって求めるようになります。その日には、イエスが天におられるからです。ですから、その日には、イエスの名によって直接父に求めるようになるのです。

 

なぜでしょうか。その理由が27節にあります。それは、「父ご自身があなたがたを愛しておられる」からです。なぜ私たちは直接神に祈れるのでしょうか。なぜ神に求めることができるのでしょうか。それは、神があなたを愛しておられるからです。なぜ神は私たちを愛しておられるのでしょうか。性格がいいからではありません。元気があるから。関係ないです。クリスチャンホームに生まれたから。違います。それは、「あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。」すごいですね。でも、彼らの信仰はどのような信仰でしたか。この後のところを見るとわかりますが、その数時間後にはイエス様を裏切って逃げてしまうような弱い信仰でした。それにもかかわらず、主は彼らの中に純粋で、真実な信仰があると認めてくださいました。神はあなたの弱さや私の弱さを十分知っていながら、それでも愛してくださったのです。なぜでしょうか。それは私たちがキリストを信じ、キリストが神のもとから来られた方であると信じたからです。

 

ユダヤ人たちはどうでしたか?信じませんでした。彼らは聖書を知っていました。宗教にも熱心でした。道徳的にも見た目にはいい人たちでした。毎週礼拝を欠かさず、聖書を教える立場にもありました。神はただお一人であると信じ、神を敬っているとも言いました。しかし、その神が遣わされた方を受け入れなかったのです。彼らの出した結論は、イエスは悪霊につかれているということでした。イエス様は、わたしは父から来たと言われましたが、彼らは信じませんでした。救い主を拒むなら、その方を遣わされた神を拒むことになります。しかし、弟子たちはイエスを受け入れ、イエスが神のもとから来られた方であると信じました。それで神は彼らを愛したのです。イエスを信じる者は神から愛されます。あなたは、イエス・キリストを信じておられるでしょうか。キリストは神の子、神が人となって来られた方であると信じているでしょうか。もしそのように信じているなら、あなたも神に愛されています。あなたが良いことをしたからではなく、神が遣わされた方を信じているので、神に愛されているのです。神があなたを愛しているのであなたは神に求めることができ、神はそれに答えてくださいます。だから、あなたは神に求めることができるのです。神の子とされたからです。求めなさい。そうすれば、受けるのです。

 

29~30節をご覧ください。「弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」

どういうことでしょうか?弟子たちは、イエス様が言われることを理解できませんでした。17節にもありますが、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るとはどういうことだろう。また、「私は父のもとに行くからだ」とイエス様が言われたことは、どういうことなのかわかりませんでした。何のことを言っているのかわからない、何で去って行こうとしているのかわかりませんでした。それで彼らはイエス様に聞けなかったので、こそこそと互いにつぶやいていたわけです。しかし28節で、主がはっきりと父のもとから出てこの世に来られたこと、そして再びこの世を去って、父のもとに行くと言われた時、それがどういうことなのかが分かりました。それで「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。」と言っているのです。それで、「ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」と言ったのです。すばらしい信仰の告白です。

 

でも、イエス様はそれに対して何と言われましたか。31~32節をご覧ください。「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」

弟子たちは、イエス様が神の子、救い主であると信じました。しかし、ここで「あなたがたは今、信じているのですか。」と言われました。それは、主が弟子たちの信仰の弱さを見抜いておられたからです。確かに彼らはイエス様を信じました。しかし、この後でどんなことが起こるのかを知っておられました。彼らの信仰が揺さぶられるということを知っておられたのです。それでこう言われたのです。

「見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」

その時がすでに来ていました。その時とは、イエス様が十字架に付けられる時です。そのためにイスカリオテのユダが、祭司長や律法学者、役人たちを引き連れてイエスを捕らえるためにやって来ます。その時が来ていました。そして捕らえられると、弟子たちがどうなるのかを知っておられました。彼らは信じましたが、イエス様を捕らえる者たちがやって来ると、それぞれ散らされて自分の家に帰って行きます。そこには、イエス様だけが残されることになります。イエス様はそのことも知っておられました。知らなかったのは弟子たちだけでした。弟子たちは自分ではイエス様が言われることを完全に理解していると思っていましたが、実際のところは全く理解していなかったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちもみことばを悟り、すべてを理解したかのように思い込んでいる時がありますが、実際には全く理解していないことがあるのです。パウロは、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Ⅰコリント10:12)と言いましたが、自分が立っていると思っている人は注意しなければなりません。倒れないように気を付けなければならないのです。また、パウロは「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:10)と言いましたが、そのように言うことができたのは、彼が自分のことをよく知っていたからではないでしょうか。自分がどれほど弱い者であり、いつ倒れてもおかしくないということをよく知っていたのです。主のみこころを知り、みこころに生きるためには、パウロのように謙虚な心で聖霊の助けを求めなければなりません。

 

しかし、弟子たちがそのようになることを知っていても、イエス様はここで失望されませんでした。がっかりだな、この人たちには。3年半もいっしょにいたのに、ちっともわかっていなかったんだな。いざとなったら自分がかわいいのか。残念!なんて失望なさいませんでした。なぜ?彼らのことを最初から知っておられたからです。そして人に頼っていませんでした。弟子たちを集めれば大丈夫、この人たちがいればもう安心だなんて思いませんでした。イエス様は父なる神、まことの神に信頼していました。ですから、すべての人に裏切られたとしても孤独ではありませんでした。父がともにおられたからです。イエス様の平安の源はここにありました。イエス様がこれらのことを話されたのは、信仰の弱い弟子たちを責めるためではありませんでした。そうてではなく、彼らが主イエスにあって平安を持つためでした。それは、状況によって変わるようなうわべだけのものではありません。どんな状況にあっても変わらないものです。主は弟子たちの弱さを十分知っておられた上で、彼らが戻って来られる道を備えておられたのでした。どんなに失敗しても、主にあって平安を得なさいというみことばは、世の終わりまで、私たちが覚えておかなければならないメッセージなのです。

 

Ⅱ.しかし、勇気を出しなさい(33b)

 

 次に、33節のその後の言葉をご覧ください。イエス様は、ご自分を裏切るであろう弟子たちを受け入れ、彼らが戻って来ることができるように道を備えてくださったばかりでなく、彼らに勝利の力も与えてくださいました。ここには、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。」とあります。

 

 何と力強い言葉でしょうか。この言葉は、この世を生きるすべての人が聞かなければならないメッセージです。なぜなら、私たちは世にあっては苦難があるからです。そうじゃないですか。問題のない人なんて一人もいません。私たちの人生には、いろいろな問題や苦難があります。辛いこと、苦しい、悲しいことが、次々と襲って来ます。特に、クリスチャンとして生きていこうとすると、迫害を受けることもあります。この世は悪魔の支配下にありますから、イエス様がそうであったように、イエス様を信じて生きる私たちにもあるのです。

 

「しかし」です。ここには、「しかし、勇気を出しなさい。」とあります。この「しかし」という言葉はとても小さな言葉ですが、この言葉の中には、神の大いなる決意が込められています。イエス様は、私たちが「しかし」と言わなければならない現実があることをよく知っておられた上で、勇気を出しなさいと言われたのです。

 

皆さん、「勇気」とは何でしょうか。「勇気」という言葉を辞書で調べてみると、いさましい意気。物に恐れない気概。何事にも恐れず立ち向かっていく気力がみなぎっているさま。とあります。勇気とは、怖いものや、危険なものに出会っても、それから逃げずに、立ち向かっていく、そういう、いさましい心のことであると言えます。昨年、日本でラグビーのワールドカップが開かれましたが、大きな男たちが怪我も恐れず真正面からぶつかり合う姿を見て、日本中が感動しました。確かに怖いはずです。怪我でもしたらどうしようと思うでしょう。それでもそこから逃げずに立ち向かっていくからこそ、感動が生まれるのではないでしょうか。それは私たちも同じです。私たちも勇気を必要としています。若い人には、色々なことにチャレンジしていく勇気が必要です。お年寄りの方には、昔のように思うように体が動かないかもしれませんが、そのことを受け入れる勇気が必要です。病気をして手術を受ける勇気。独り暮らしをする勇気。家族のことで悩んでいる人も、仕事に行き詰まっている人も、受験をする人も、就職活動をしている人も、新しい所に引っ越しをしようとしている人も、みんな勇気が必要です。

 

今年は、コロナウイルスの問題で世界中が混乱の中に置かれていますが、この世界的パンデミックにより、卒業式ができない全米の高校卒業生たちに向けて、オバマ前大統領がスピーチをしました。その中で彼は、このCOVID-19で、もし彼らが大学に進学することになっていて、秋にはキャンパスに通うつもりでいたのであれば、それはもはや当たり前のことではないかもしれないということこと、また、学校に通いながら仕事をするつもりでいるなら、最初の仕事を見つけることは難しくなるかもしれないということ、比較的裕福な家族でさえ、大きな不確実性を抱えているし、以前から苦労していた人たちは、危機に瀕しているということを前提に、彼は三つのアドバイスをしました。

その第一のことが、恐れるな、でした。アメリカはこれまでに奴隷制度、内戦、飢饉、病気、大恐慌、そして9.11とう困難な時期を経てきましたが、その度にそうした問題を乗り越え、いやむしろ以前にも増して強くなったのは、彼らのような新しい世代の若者が過去の過ちから学び、物事をより良くする方法を見いだしたからだ、と言ったのです。アメリカは今もコロナウイルスの問題だけでなく、人種差別の問題や、その他多くの問題を抱えていますが、そうした問題があることが問題なのではなく、問題は、それに立ち向かっていく勇気があるかどうかということです。そして、それはアメリカだけではなく全世界のすべての人に言えることであり、また、今の時代だけでなく、すべての時代に共通して言えることなのです。あなたはどうですか。あなたは勇気があります。

 

これは、イエス様が十字架につけられる前の晩に弟子たちに言われた言葉です。イエス様は、この言葉を語られた翌日に十字架につけられて、死なれます。その時弟子たちは、みんな怖くなって逃げて行きました。イエス様について行く勇気がなかったのです。みんな逃げて行ってしまったので、イエス様はたった一人で十字架への道を歩んで行かなければなりませんでした。でも、実は一人ではありませんでした。弟子たちがみんな逃げて行き自分一人が残されましたが、そこに父なる神がともにおられたので一人ではなかったのです。

 

私たちも一人でやらなければならないと思ったら恐怖でしょう。でも、私たちは一人ではありません。イエス様がともにおられます。イエス様はこう言われました。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」(14:20)父なる神がイエス様と一緒にいてくださるように、イエス様は、いつも私たちとともにおられます。だから勇気を出しなさい、と言われたのです。

 

マタイ28:20には、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」とあります。この「いつも」という言葉は、「すべての日にわたって」という意味があります。「すべての日」ですから、私たちが行き詰まった時も、病気の時も、死ぬ時も、いつもということです。いつもイエス様が一緒にいてくれるのです。イエス様は、私たちが苦しいこと、辛いこと、悲しいことに決して強くないということをよく知っておられるのです。いいえ、強くないどころかとても弱いということを知っておられるんです。だから、いつも一緒にいて助けてくださるのです。そして、こう言われるのです。しかし、勇気を出しなさい、と。

 

Ⅲ.世に勝利された主イエス(33C)

 

どうしてイエスが一緒におられるなら大丈夫なのでしょうか。最後にその理由を見て終わりたいと思います。33節の最後のフレーズを見てください。ここには、「わたしはすでに世に勝ちました。」とあります。イエス様は、私たちの弱さをよくご存じです。でも、私たちが苦難に遭うとき、そこから逃げなさいとは言われていませんでした。むしろ、勇気を出しなさいと言われました。なぜなら、イエスはすでに世に勝たれたからです。どういうことですか。イエス様は、十字架で死んで私たちの罪を贖ってくださったというだけでなく、三日目にその死の中からよみがえってくださったということです。十字架での死は、一見すると惨めな敗北のように見えます。しかし、主イエスは、その死からよみがえられたことで、この世を支配している悪魔を完全に打ち破られたのです。それが「わたしはすでに世に勝ちました」という言葉の意味です。このお方が、私たちとともにいてくださるのです。私たちとともにいて、私たちのために、私たちに代わって戦ってくださるのです。

 

大江健三郎さんのエッセイの中に、「チャンピオンの定義」という文章があります。それによると、チャンピオンという言葉には、「ある人に代わって戦ったり、ある主義主張のために代わって議論する人」という意味があるそうです。大切なことを、他の人の代わりに、担ってくれる人。それが、チャンピオンだというのです。そうであるなら、イエス様は、私たちのチャンピオンです。イエス様が、私たちに代って戦ってくださったからです。イエス様は、私たちに代って戦ってくださり、勝利してくださいました。私たちの戦いは、この主イエスという力強いチャンピオンによって支えられているのです。

 

ゴスペルシンガーソングライターの小坂忠さんの歌に、「勝利者」という賛美があります。

何が苦しめるのか/ 何が喜びを 奪い去るのか/ 

心の中にはいつでも/ 嵐のような 戦いがある

勝利者はいつでも/苦しみ悩みながら/ それでも前に向かう

勝利者はいつでも、苦しみ悩みながら、それでも前に向かって行くのです。勝利者という言葉を聞くと、皆さんはどのような姿を思い浮かべるでしょうか。勝利者という言葉は、挫折とか、失望とか、孤独といったこととは全く無縁で、表彰台の一番高い所で、大観衆の拍手でたたえられる姿を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、それは私たちが知ることのできる勝利者のほんの一面にしかすぎません。汗を流し、歯を食いしばって前に向かう時や、挫折や失望や孤独にさいなまれる時もあります。それでもあきらめずに前に向かって歩み続けるのです。それが勝利者だというのです。それは、主イエスが私たちに代わって戦ってくださるからです。私たちは何度も打ちのめされそうになることがありますが、すでに世に勝利された主イエスが私たちに代わって戦ってくださるので、それでも前に向かって進んで行くことができるのです。

 

この「勇気を出しなさい」という言葉ですが、宗教改革者ルターは、これを「慰められていなさい」と訳しました。かなりの意訳ですが、決して見当違いの訳ではないと思います。実に、勇気とは主によって慰められていること、主に慰められて生きることなのです。

戦争中に、理由もなく検挙され、拷問と、厳しい獄中生活に耐えたホーリネス系の教会の牧師たちは、7人の殉教者を出しながらも、勇気をもってその困難を乗り越えました。その勇気の源になったのは、まさにこの主イエスの御言葉による慰めでした。拷問を受けて命の危険にさらされ、御言葉に慰められて勇気を与えられ、弾圧に耐えたのです。ある牧師は、冬はマイナス30度にもなる樺太で、2年間も独房に入れられました。釈放後、その先生は、「慰められたのは、やはり御言葉でした」と語っておられます。まことの勇気とは、御言葉による慰めから与えられるのです。

その牧師たちの中に、米田豊という牧師がおられますが、米田先生は、獄中生活から釈放された時、骨と皮だけというような衰弱したお姿であったそうですが、先生が獄中で記されて日記の中に、このような言葉があります。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。この短い言葉の中に、御言葉によって慰められ、勇気を与えられたという人の、幸いの全てが込められているのではないでしょうか。人間的に見れば、どうして、過去が感謝だと言えるでしょうか。現在は平安などと、どうして言えるしょう。軍部の影響下にある裁判所がどんな判決を下すのか全く分からないのに、将来は信頼あるのみとはどういうことなのでしょうか。そのように思います。しかし、これが、神の言葉に生きる人の姿なのです。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。この言葉の中には、「あなたがたは世にあって苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われたイエス様の言葉が響いています。すでに世に勝利されたイエス様がおられるので、勇気を出すことができます。過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ。そう言えるのです。

 

この「勇気を出しなさい」と訳された言葉は、「サルセイテ」というギリシア語ですが、この言葉はマタイ14:27にも使われています。弟子たちが、ガリラヤ湖を船で渡っている時、突然の嵐に遭って死の恐怖に襲われていたとき、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちの船に近づき、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたあの「しっかりしなさい」という言葉です。そう言われてイエス様が船に乗り込まれるとどうなりましたか。風は止み、波は穏やかになりました。私たちは人生にはしばしば不安になり、勇気を失うことがあります。しかし、そんな時も私たちは決して一人ではありません。嵐の中を来てくださるお方が共にいてくださいます。嵐の只中で、私たちに近づいてきてくださるお方がおられるのです。そのお方が、私たちの船に乗り込んでくださり、嵐を静めてくださいます。力あるお言葉によって、私たちを慰めてくださり、平安を与えてくださるのです。

 

私たちは、人生の嵐の中で、主イエスが必ず私たちの船に乗り込んでくださることを確信して、勇気をもって人生の航路を進んで行きたいと思います。その秘訣は何でしょうか。信仰です。Ⅰヨハネ5:4-5を開いてください。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。私たちも人生の中で様々な困難、苦難、悲しみ、苦しみ、患難があります。聖書はないとは教えていません。あるんです。しかし、勇気を出してください。主イエスはすでに世に勝利されました。この方を神の子と信じる者は、神から生まれた者です。キリストを信じたあなたも同じ勝利が約束されています。あなたが今どんな困難の中にあるかわかりませんが、神はすべてを知っておられます。どうぞこの方に祈ってください。イエスの名によって祈ってください。あなたの祈りは必ず答えられますから。イエス・キリストは死んでよみがえられた方、今も生きて働いておられます。この方はあなたを愛しておられます。私たちは、この方に信頼して歩んでいきましょう。それが私たちの平安の秘訣であり、どんなことがあっても揺るがされることのない信仰生活の基盤なのです。

 

出エジプト記27章

2020年6月24日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記27章

 出エジプト記27章から学びます。幕屋の建設について学んでいます。「主は、「彼らにわたしのための聖所を造らせ。そうすれば、わたしは彼らの中に住む。」(25:8)と言われました。最初に作ったのは契約の箱でした。以下、宥めの蓋、臨在のパンを置く机、燭台を作り、幕屋の幕、幕屋の本体である壁、聖所と至聖所を仕切る幕、天幕の入口の幕と進んできました。幕屋の建設は、最も重要な契約の箱から作られてその周辺のものへと広げられていきました。きょうは、外庭に置く祭壇について学びます。

Ⅰ.祭壇(1-8)

まず1~8節までをご覧ください。                          「1 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの正方形とし、高さは三キュビトとする。2 その四隅の上に角を作る。その角は祭壇から出ているようにし、青銅をその祭壇にかぶせる。3 灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな青銅で作る。4 祭壇のために青銅の網細工の格子を作る。その網の上の四隅に青銅の環を四個作る。5 その網を下の方、祭壇の張り出した部分の下に取り付け、これが祭壇の高さの半ばに達するようにする。6 祭壇のために棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。7 それらの棒は環に通す。祭壇が担がれるとき、棒が祭壇の両側にあるようにする。8 祭壇は、板で、中が空洞になるように作る。山であなたに示されたとおりに作らなければならない。」

 祭壇をアカシヤ材で作ります。祭壇は、幕屋の外庭というところに置かれていたもので、幕屋に入ると最初に目にするものです。一番大きなものですぐに目に付きました。「祭壇」はヘブル語で「ミズベーアッハ」と言いますが、「動物をいけにえとしてほふる」ことを意味しています。そのサイズは、長さが5キュビト、幅も5キュビトの正方形で、高さが3キュビトありました。1キュビトは約44㎝ですから、1辺が約2.2m、高さは約1.3mの大きさです。ですから、とても大きいものでした。それをアカシヤ材で作らなければなりませんでした。

その祭壇の四隅に角を作りました。角は力の象徴です。血の持つ力を象徴していました。この祭壇の四隅にある四つの角に贖罪の血を塗ることで、あたかも神がご自身を求めようとする人の心に平安を与えることを示していたのです。その祭壇に青銅をかぶせました。3節以降を見ると、祭壇だけでなく、その道具のすべてに青銅をかぶせなければなりませんでした。それは、罪に対する神の怒りを表していたからです。つまり、それは裁きの象徴だったのです。そこで、罪のためにいけにえがささげられました。罪を贖うためのいけにえです。傷も、しみもない動物(雄牛とか、雄やぎとか、小羊)が連れて来られると、民はその動物の頭の上に手を置き、自分の罪を言い表わしました。そして、自分の罪を動物に転嫁したのです。その動物をほふり祭壇の上で焼くことによって、自分のすべての罪が贖われると信じていました。それはあまりにも残酷なことなので、それを見るともう二度と罪を犯さないようにと心に思うのですが、残念ながら人間は弱いもので、また同じような罪を犯してしまうのです。ですから、毎年かわいい動物を連れて来ては、むごたらしい残酷な全焼のいけにえの儀式を行わなければならなかったのです。

このいけにえの動物こそイエス・キリストを指し示していました。イエス・キリストは全く罪も、しみも、しわもないお方でしたが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださいました。青銅の祭壇で神の裁きを受けて死んでくださったのです。それは私たちの罪を永遠に贖うためでした。それがヘブル書で言われていることです。(ヘブル10:1~10)雄牛ややぎの血は、人間の罪を取り除くことができません。むしろ、これらのいけにえによってかえって罪が思い出されるのです。しかし、キリストは、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。それが十字架です。なぜキリストは十字架にかかって死ななければならなかったのでしょうか?それは、キリストが神の怒りの火を受けて裁かれなければなかったからです。

民数記21:4~9をご覧ください。ここには荒野でパンもない、水もない、みじめな食物に飽き飽きしたと不平不満を言うイスラエルの態度に怒られた主が、民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死んだことが記録されてあります。その神のさばきから逃れるために、神がモーセに言われたことは、青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に掛けるということでした。すべて、これを仰ぎ見た者は生きると約束されたのです。不思議な方法です。青銅の蛇です。蛇はサタンの象徴、そして、青銅は神の裁きの象徴です。この青銅の蛇こそイエス・キリストを表していました。それはヨハネ3:14~15を見てもわかります。「人の子もあげられなければならない」とイエスは言われました。イエスは、青銅の蛇として上げられ(十字架につけられ)たのです。これを仰ぎ見る者が救われるために。それが、私たちの罪が赦されるために神が定められた方法だったのです。その通りにキリストは神の怒りを受けて裁かれたのです。

「灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿」を作りました。灰つぼは、灰を取るつぼのことで、宿営の外のきよい所に持ち出すためのものでした。これが意味することは、イエスが十字架にかかった場所が「宿営の外」でなければならなかったということです。十能と肉刺しは、いけにえを焼き尽くための器具でした。神のみこころを執行するためのものと言えるでしょう。鉢は、いけにえの血をその中に入れて持ち運ぶためのものです。火皿は、熱い炭火を運ぶためのものです。

祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作りました。まさにバーベキューの世界です。また、祭壇も、他の用具と同じように環を作り、棒が差し込まれるようにしました。この祭壇はいつでも、どこにでも運ばれたのです。このことは、私たちの罪のいけにえとしてほふられた小羊は、いつでも、どこでも、有効であるということを表しています。これは永遠の贖いなのです。キリストはただ一度、まことの聖所に入られましたが、その救いは、いつでも、どこでも、有効なのです。いつの時代でも、だれでも、この贖いを信じる者は救われるのです。

Ⅱ.掛け幕(9-19)

次に、9~19節までを見ていきましょう。

「9 次に幕屋の庭を造る。南側は、撚り糸で織った長さ百キュビトの亜麻布の庭の掛け幕を、その側に張る。10 その柱は二十本、 その台座は二十個で青銅、 その柱の鉤と頭つなぎは銀とする。11 同じように、北側も長さ百キュビトの掛け幕とする。その柱は二十本、その台座は二十個で青銅、その柱の鉤と頭つなぎは銀とする。12 また、庭の西側は幅五十キュビトの掛け幕、その柱は十本、その台座は十個とする。13 正面の、庭の東側の幅も五十キュビト。14 門の片側には十五キュビトの掛け幕、その柱は三本、その台座は三個とする。15 もう片方の側も十五キュビトの掛け幕、その柱は三本、その台座は三個とする。16 庭の門には、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いた、長さ二十キュビトの、刺?した垂れ幕を張る。その柱は四本、その台座は四個とする。17 庭の周囲の柱はみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わせ、その鉤は銀、台座は青銅とする。18 この庭は長さ百キュビト、幅五十キュビト、そして高さは撚り糸で織った亜麻布の幕の五キュビトとし、その台座は青銅とする。19 幕屋の奉仕に用いるすべての備品、すべての杭、庭のすべての杭は青銅とする。」

 ここには幕屋の庭を造る規定が記されてあります。これは外庭のことです。掛け幕で囲んで庭を造りました。そのために長さ100キュビト、約44メートルの亜麻布を張りました。幅は50キュビト、約22メートルです。亜麻布については以前学びましたが、これは聖さを象徴していました。それは人の聖さではありません。神の聖さであり、神によって罪を贖っていただいた聖徒たちの聖さです。柱は20本で、その20個の台座は青銅、柱の鉤と頭つなぎは銀でした。青銅は裁き、銀は贖いの象徴です。

13節を見ると、東に面する庭の幅も50キュビトですが、そこには門が作られたので、片側に15キュビト、もう片側に15キュビトの掛け幕が作られ、その真ん中に20キュビトの門が造られました。16節には、この門には、青色、紫色、緋色のより糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った幕を張る、とあります。この4つの色については既に学びましたが、これはイエス・キリストを表しています。イエスは「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)と言われました。この門を通って入るなら救われるのです。聖所に近づく道は、この門から入る以外はありません。「すべての道は神に通じる」のではないのです。多くの人が、仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、結局、同じ神を信じているとか、良いことを行っていれば誰でも神に到達できると思っていますが、そうではありません。それはあたかも亜麻布の掛け幕から中に侵入するようなものです。そうすれば、青銅の柱また台座が表している神の裁きによって滅んでしまうだけです。神に近づくためにはこの門を通って入らなければならないのです。しかも、この門には鍵がついていませんでした。いつでもオープンです。いつでも入ることができます。神はいつでも私たちを招いておられるということです。いつでも、だれでも、この門を通って入るなら救われるのです。

 ところで、これで神に近づくための門は3つになります。一つはこの幕屋の庭に入るための門、もう一つは聖所に入るための門です。そして、もう一つは至聖所に入るための門です。これは垂れ幕のことですが、全部で3つです。しかもこの3つの垂れ幕はみな同じように作られていました。これは全部イエス・キリストのことを表していたからです。神の臨在に近づくためには、その都度イエス・キリストを通らなければならないということです。いつでも、その度ごとにイエス・キリストの十字架を忘れてはならないのです。私たちの信仰の原点、またその土台は、十字架の神の恵みなのです。パウロはコリント第一の手紙2:2で、「十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」と言いました。キリストが私たちの信仰の原点であって、いつもこの方から目を離してはいけないのです。この方から目を離した瞬間、つまずいてしまうことになります。私たちはいつもこの方を通っていかなければならないのです。

ところで、この門は東側にありました。東側から入って西側に向かいました。しかし、当時のカナン人など異教の祭壇はその反対で、西側から入って東側に向かいました。なぜかというと、東が日の出る方向なので、東から出てくる太陽を拝んだからです。それを神として崇めていたからです。しかし、イスラエルの主、神はそうではありません。まことの神をあがめる時は、その反対方向を向いて、敢えて「わたしは、主にお従いします。」という行為を取るようにさせたわけです。生きた信仰というのは、世の流れに逆らうようなものです。「死んだ魚は川の流れに流されますが、生きている魚は、流れに逆らって泳ぎます。それが生きている証拠なのです。

 幕屋の後に、ソロモンの時代には神殿が建てられますが、その時の入り口も東側にありました。そして、主が終わりの日に建ててくださる神殿がエゼキエル書に幻の中に記されていますが、東向きの門です。そしてエゼキエル書43章によると、「主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。」(43:44)とあります。メシヤがエルサレムに来られるのも、東からです。

Ⅲ.ともしび(20-21)

最後に、20節と21節を見て終わります。

「20 あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。21 会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。」

 話は外庭から、聖所の中にある燭台に戻ります。聖所に入ると、左側に金の燭台がありました。祭司はそれをいつも絶やすことなく、ともしびを整えておかなければなりませんでした。その中にあるものは、この光がなければ見ることができません。前回学んだように、その光はキリストご自身の光であり、また私たちがその光の中で歩むことを表していました。そしてその光をともすのが「油」です。聖書には「油」に関する言及が数多く出てきますが、神のために用いられる時には聖霊の働きを表しています。

この油については2つの言及があります。その一つのことは、ここに「イスラエルの子らに命じて」とあるように、イスラエルの民に命じられていたことです。彼らは、ともしび用の油を持って来なければなりませんでした。これはどういうことかというと、私たちは日々聖霊に満たされていなければならないということです。聖霊に満たされるために教会に来るのではなく、聖霊に満たされている人たちが教会に来ることによって教会は明るくなるのです。教会は、牧師が輝いていれば明るくなるのではなく、クリスチャン一人一人が神に向かい、いつも聖霊に満たされていることによって明るくなるのです。その聖霊の油を持ってくることによって明るくなるのです。もちろん、教会に来て満たされることを求めることが悪いことではありません。しかし、何かを期待してそれがかなわないと満たされないというのではなく、神を神として拝み、神を礼拝することから私たちの信仰が輝いてくることを求めなければなりません。

もう一つのことは、夕方から朝までともしびを整えておかなければならないということです。祭司は、これは私たちクリスチャン一人一人のことですが、いつも絶やすことなく、ともしびを整えておかなければなりません。夕方から朝までです。おもしろいのは、朝から夕方までではなく、夕方から朝までと言われていることです。イスラエルの一日は夕方から始まりました。安息日も、金曜日の日没から始まって土曜日の日没までとなっていました。一日の始まりは夕方から始まるのです。夕方から始まるというのはどういうことかというと、最初は暗いがだんだん明るくなっていくということです。クリスチャン生活も同じです。最初は暗いけどだんだん明るくなっていきます。聖霊の油に満たされて、それをともしび皿に注ぐので、最初は暗くてもだんだん明るくなっていきます。

これが私たちの歩みです。明るいところから暗くなっていくのではなく、最初は暗くてもだんだん明るくなっていく生涯です。純粋なオリーブ油を持って来て、それを24時間ともしびをともすことによってそのような生涯を送ることができるのです。

悲しみは喜びに変わる ヨハネ16章17~24節

2020年6月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ16章17~24節(P218)

タイトル:「悲しみは喜びに変わる」

 

 ヨハネの福音書16章からお話ししています。この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知られたイエス様は、自分の愛する弟子たちだけを集めて、最後のメッセージをされました。それが13章から16章までにある内容です。その中心は何かというと、ご自身が去って行くことは、彼らにとって益であるということでした。なぜなら、去って行けば、助け主をお遣わしになるからです。その方が来ると、その方がいつまでも彼らとともにおられ、また、彼らのうちにおられ、すべての真理に導いてくださいます。私たちの人生にはいろいろな問題が起こりますが、この聖霊の助けによって、また、聖霊によって書き記された聖書のみことばによって真理に導いていただくことができます。

 

きょうのところはその続きです。弟子たちは、このイエス様が言われたことがどういうことなのか理解することができませんでした。つまり、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」とは、どういうことなのかがわからなかったのです。

きょうは、このイエス様が言われたことについてご一緒に考えたいと思います。第一に、その意味です。しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るとはどういうことなのでしょうか。第二に、その結果です。すなわち、あなたがたの悲しみは喜びに変わるということです。そして第三のことは、だから、求めなさいということです。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 

Ⅰ.「しばらくすると」とはどういうことか(17-18)

 

まず、「しばらくすると」と言われた意味について考えてみましょう。17節と18節をご覧ください。「17そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」18 こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」

 

弟子たちは、イエス様が話していることがよくわかりませんでした。そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言いました。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」、また「わたしは父のもとに行くからだ」と言われるのは、どういうことなのだろう。」皆さん、これはどういう意味なのでしょうか。弟子たちだけでなく、私たちが見ても「うん?」と首をかしげるのではないかと思います。イエス様はその後のところで、「あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と言っています。このことばから考えると、次の三つの解釈が考えられます。一つは、十字架で死なれたイエス様が三日目によみがえられることを指しているのではないかということです。イエス様が十字架で死なれることは彼らにとって本当に悲しいことでしたが、そのイエスが三日目によみがえられました。彼らの悲しみは喜びに変えられました。

 

二つ目は、イエス様が聖霊として降臨されたペンテコステのことを指しているのではないかという解釈です。イエス様は苦しみを受けられた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され、40日にわたって彼らに現れて、神の国のことを語られました。そして、弟子たちと一緒にいるとき、彼らに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」(使徒1:4-5)と言われると、彼が見ている間に、天に上って行かれました。それから10日後ペンテコステの日に、主が約束したとおり、聖霊が降りました。弟子たちはイエス様が去って行かれたことで悲しみますが、その約束の聖霊が来られたことで喜ぶようになります。

 

そして三つ目は、イエス様の再臨の時を指しているのではないかという解釈です。主は、14:1~3でこう言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに向かえます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようになるためです。」

この約束からもう2000年以上が経ちました。しかし、主の御前では2000年も「しばらくすると」にすぎません。Ⅱペテロ3:8には、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。ですから、永遠なる主の目では2000年も「しばらく」にすぎないのです。しばらくすると、私たちもこの目で栄光の主イエスを見ることになるでしょう。この約束が近い将来、終わりの日に起こります。しばらくすると、イエスを見るようになるのです。

 

この三つの解釈のどれをとっても間違いではないように思います。しかし、このことを言われた文脈を考えると、これは、聖霊が来られる時のことを指しているのではないかと考えるのが最も適当であると思われます。というのは、16:7でイエス様は、「しかし、わたしが去って行くことは、あなたがたの益となるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」と言われたからです。この方が来ると、どうなるんですか?この方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかにされます。この方は真理の御霊だからです。この方が来ると、すべての真理に導いてくださいます。その流れの中で、このことが言われているのです。また、その後のところを見ても、その時、彼らの悲しみは喜びに変わるとあります。これはイエス様が復活されたときも、聖霊が降られたときも、主が再臨されたときでも言えることですが、その後にある、求めなさい、ということば考えると、これが一番良く当てはまるのは、ペンテコステの日であるからです。イエス様が復活されたときであれば、イエス様が一緒におられるので、イエスの名によって祈る必要はありません。また、イエス様が再臨される時も、イエスの名によって祈り求める必要はありません。直接イエス様と会ってお話しし、父なる神ともお話しすることができるからです。しかし、イエス様が天におられる時であれば、父なる神に祈り求める時には、イエスの御名によって求めなければなりません。ですから、ここでイエス様が「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見ます。」と言われたのは、ペンテコステに聖霊が降臨することによって、再びイエスを見るようになるということだったのです。

 

弟子たちにはそのことがわかりませんでした。理解することができなかったのです。皆さんはどうですか。聖書を読んでいてもこれはどういう意味なんだろうと、わからないことがあるんじゃないかと思います。私はしょっちゅうあります。もうずっと読み続けていますが、わからないことだらけです。だからこうして聖書を一節一節お話ししているのです。そうすれば、少しずつ見えてくると思っているからです。今、このヨハネの福音書からお話ししていますが、新約聖書はコリント人への手紙を残すだけとなりました。旧約聖書は、祈祷会で1章ずつ学んでいますが、創世記から始まってサムエル記第一まできました。イザヤ書も終わりました。私が生きている間に何とか全部講解できたらと願っています。そうすれば、後悔しないんじゃないかと・・。いずれにせよ、記されてみことばを「はい、きょうはどこから読もうかな」とパッと開いたところを読むというのではなく、規則正しく読むこと、また、説き明かされたみことばに聞くことが重要です。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」ということばも、前後の文脈から考えると何とかわかりますが、そうでないとチンプンカンプンになります。

 

感謝なことに、弟子たちはイエス様と共に生活し、イエス様から直接聞いたにもかかわらずわかりませんでした。それを考えると励まされます。弟子たちがわからないのが励ましというのはちょっと変かもしれませんが、そうでしょ。イエス様とずっと一緒にいた弟子たちでさえわからなかったのですから、私たちがわからないことがあっても当然だからです。彼らはひそひそと話していましたが、わかりませんでした。なぜわからなかったのでしょうか。それがいくらか抽象的であったということもあるでしょうが、そういうことよりも、聖霊が降っていなかったからです。イエス様は、13節で「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」と言われました。その聖霊が、まだ降っていなかったのです。だから、彼らの心の目が閉ざされていました。神のことばを聞いてもわからなかったのです。でも、聖霊が注がれたとき彼らの心の目が開かれ、「ああ、そういうことだったのか」と分かりました。私たちもそうです。今は分からないことがあります。でも、忍耐して聞き続けていくなら必ずわかるようになります。あなたのうちにおられる聖霊が、あなたをすべての真理に導いてくださいます。だから諦めないでください。諦めないで読み続けてください。必ずわかるようになりますから。

 

Ⅱ.悲しみは喜びに変わる(19-22)

 

次に、19節から22節をご覧ください。19節と20節には、「イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」とあります。

 

感謝なことに、イエス様は弟子たちが何かを尋ねたがっているのに気付かれました。そして、それがどういうことなのかを説明してくださいました。「まことに、まことに」とは、イエス様が大切なことを語られる時によく使われた表現です。これは、本当に真実なことです、という意味です。だから、よく注意して聞きなさいという思いが込められています。何が真実なことなのでしょうか。「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」ということです。

 

この後で、イエス様が言われたとおりのことが起こります。イエス様が十字架に付けられることで、弟子たちは嘆き悲しむようになります。そこにはイエス様を愛してガリラヤからついて来た女性たちもいましたが、彼女たちも嘆き悲しみました。しかし、喜ぶ者がいました。だれですか。「世」です。「世」とは神に敵対する世のことです。イエス様を信じない人たち、邪悪な世界の人たちのことです。当時のユダヤ教の指導者たちがそうでした。彼らはイエス様が十字架につけられて死なれたことで喜びました。しかし、その喜びは悲しみに変わりました。イエス様が死からよみがえられたからです。悪魔はイエスが十字架で死んだことで勝利したと思って喜びましたが、その死からよみがえられたことで、完全に滅ぼされてしまいました。喜びが悲しみに変わったのです。

 

しかし、弟子たちは逆でした。イエス様が十字架で死なれることで嘆き悲しみますが、その悲しみが喜びに変わります。死からよみがえられるからです。イエス様が十字架につけられることは耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしましたが、そのイエスがよみがえられたことで、悲しみが喜びに変わるのです。

イエス様が死んで三日目の日曜日の夕方のことでした。弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていたのですが、そこへイエス様が来られました。すると彼らの真中に立ってこう言われたのです。「平安があなたがたにあるように。」こう言って手と脇腹を彼らに見せられました。彼らはどうなりましたか。聖書にはこうあります。「弟子たちは主を見て喜んだ。」(20:20)悲しみが喜びに変わりました。そして、イエス様が天に昇り、約束の聖霊を注がれた時、弟子たちは喜びに満たされました。使徒2:46-47には、聖霊に満たされた弟子たちは、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民から行為を持たれた。」とあります。

 

聖霊に満たされている人は、喜びに満たされています。最終的には、イエス様が再び戻って来られる時、神の国に入れられて、永遠の喜びが与えられます。黙示録21:3-4には、その様子が次のように記されてあります。

「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 

ここでイエス様は、弟子たちの質問に明確には答えませんでした。弟子たちが尋ねたかったことは、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」とはどうことかということでした。しかし、それがどうことなのかということについてはっきり言わなかったのです。なぜでしょうか。なぜなら、もう聞く力がなかったからです。彼らは悲しみでいっぱいでした。だから、あえて詳しく話さなかったのです。

 

私たちもそうでしょ。何でもかんでも知りたい時があります。特に苦しい時や悲しい時はそうです。なぜこういうことが起こるんですか、なぜこんなに苦しまなければならないんですか、なぜ悲しまなければならないんですか、教えてください牧師さん・・。そういう時、本当に答えに悩みます。だってその人は説明してほしいわけじゃないんですから。ただその気持ちを受容してほしいだけです。人生にはこういうことがあって、これも神のお導きということがあるんです。それは、私たちをさらに成長させるために、神が用意してくださった恵みなんですと言っても、聞く耳を持ちません。聞きたくないのです。悲しみで心がいっぱいだからです。だから、説明が必要な時とそうでない時があるんです。この時弟子たちに必要だったのは説明ではなく約束でした。だからイエス様は弟子たちにそのことについて説明したのではなく、約束を与えたのです。「あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」

 

皆さんはどうですか。何かのことで悲しんでいませんか。苦しんでいませんか。そういう人は、この神の約束を信じてください。悲しみは喜びに変わります。いつですか。「しばらくすると」です。それがいつなのかははっきりわかりませんが、必ずやってきます。

 

イエス様はそれを出産のたとえでお話しされました。21節です。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」

私にも3人の娘がいますが、3人とも出産に立ち会うことができました。とても感動的でした。特に最初の娘が生まれた時は、「おぅ、これが私の分身か」と感動したのを今でもよく覚えています。いのちの誕生というのは、本当にすばらしいですね。でも大変です。私は男ばかり兄弟4人ですが、 兄弟が4人もいるとパッと生まれてきたんじゃないかと思っていたのですが、そうじゃないんです。いのちがけです。陣痛が来るとかなり苦しいようなのです。ようなのですというのは、実際に経験したことがないのでわからないのですが、家内の話ではかなり痛いらしい。私の痛風とどっちが痛いかと聞いたら、比べものにならないというのです。風が吹いただけで痛いので痛風というのに、それよりも痛いとしたらかなりの痛みです。私たちはラマーズ法という呼吸法で産んだのですが、家内が苦しそうなので、「ほら、ラマーズやろう、ヒッ、ヒッ、フー」なんてやると、「うるさい!」と怒られるのです。うるさいって、この時のためのラマーズ法じゃないのか、今やらなかったらいつやるんですか、だから「やるよ、ヒッ、ヒッ、フー」なんて言うと、怒りがエスカートして、何が飛んでくるかわからない状態になるのです。つくづく思いました。男に生まれて良かった!と。胃カメラの内視鏡検査だって大変でもう二度とやりたくないと思っているのに、出産はその比ではありません。出産の度に女性は強いなぁ、忍耐強いなぁと感動します。

 

その子どもの誕生ほど大きな喜びはありません。しかし、最初から喜びがあるのかというとそうではなく、その前には痛みがあります。苦しみを通るのです。しかし、子どもが生まれるとどうでしょう。その喜びのために激しい痛みを忘れてしまいます。もう覚えていません。悲しみが喜びに変わるとはそういうことだというのです。

 

旧約聖書にヨセフという人物が登場します。彼はヤコブの11番目の子どもでしたが、父ヤコブから他のどの兄弟よりも愛されました。ところが、彼が17歳になった時に、ある夢を見ました。それは、畑で束を作っている夢でしたが、兄たちの束が自分の周りに来て、自分の束を伏し拝むというものでした。それを聞いた兄たちは、「おまえが私たちを治める王にでもなるというのか」とカンカンに怒り、その夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになりました。そればかりか、ヨセフが再び見た夢のことで、兄たちの怒りは限界に達しました。その夢とは、太陽と月と11の星が自分を伏し拝んでいるというものでした。それは、自分たちだけでなく、父と母もみなヨセフを拝むようになるということを示していました。それで兄たちはヨセフを殺そうと企みました。それで自分たちを捜しに来たヨセフを穴に投げ込んでしまおうとしましたが、ちょうどその時イシュマエル人の商人が通りかかったので、 銀貨20枚で彼を売り飛ばしてしまいました。

そのイシュマエル人はヨセフをエジプトに連れて行くと、エジプトの侍従長、今でいうと天皇に仕える人たちの長ですが、その家の奴隷として売られてしまいました。彼としては、どれほど悲しかったことでしょう。しかし、不幸はそれだけでは終わりませんでした。主がヨセフとともにおられたので、侍従長の家はヨセフのゆえに祝福されました。そして、妻以外のすべての管理を彼に任せたのです。

ところが、ヨセフがかなりの男前だったのか、その妻が彼を誘惑するのです。ヨセフはその妻から逃れようとしましたが、必死に抵抗した際に衣服を取られ、それでヨセフが彼女を襲ったと濡れ衣を着せられて、何と地下牢に入れられてしまったのです。どうして自分の人生にこういうことが起こるのかと、彼は悲しんだことでしょう。

しかし、そんな時エジプトの王ファラオが夢を見ました。ファラオは、それがどのようなことなのかを解き明かすためにエジプト中の賢者たちを集めましたが、誰一人としてその夢を解き明かすことができる者はいませんでした。そこでヨセフが呼ばれ、その夢を解き明かすと、彼は一夜のうちに大臣に引き上げられました。それはまさに夢のような出来事でした。しかし、もっと夢のような出来事が彼の人生に起こります。

それからしばらくすると、エジプトの王ファラオが見た夢の通り、世界中に飢饉が起こりました。エジプトではヨセフが大臣となって食料をしっかりと管理していたので全く問題はありませんでしたが、その他の国々ではその飢饉に耐えることは困難でした。それはカナンの地にいたヤコブの家も例外ではなく、彼はエジプトに食料があるということを聞くと、何人かの息子たち、すなわち、ヨセフの兄たちをエジプトに遣わしたのです。兄たちがヨセフのところに来たとき、ヨセフはエジプトの言葉を話していたので、まさかそれがヨセフであるとは気付きませんでしたが、ヨセフにはそれが自分の兄たちであることがすぐにわかりました。ヨセフはそのことをすぐに兄たちに告げることをしませんでしたが、兄たちの姿を見ていて、自分を制することができなくなり、そばに立っているすべての者をそこから出し、兄弟たちに自分のことを明かしたのです。兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり何も答えることができませんでしたが、そんな兄たちにヨセフはこう言いました。

「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(創世記45:4-8)

この涙は、悲しみの涙ではありません。喜びの涙です。ヨセフははっきりわかりました。どうしてあんな夢を見たのか、そのことで、どうして兄たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られ、あんなに苦しみを味わわなければならなかったのか、しかし、それがイスラエルを救う神のご計画だったということがわかったとき、その悲しみが喜びに変えられたのです。

 

このとき弟子たちはどうでしたか。彼らも悲しんでいました。イエス様が王となってイスラエルをローマから救ってくれると信じていたのに、王になるどころか十字架で死なれるということを聞いて失望していました。自分が期待していたことと違うとき人々は失望します。私たちもそうでしょ。自分が期待していたことと違うことが起こるとき失望します。「なぜですか・・」と。弟子たちもそうでした。それで彼らは悲しみでいっぱいになり、混乱していたのです。そこでイエス様は彼らに約束を与えてくださったのです。「あなたがたは今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたに会います。そして、あなたがたの心は喜びで満たされます。その喜びを奪い去る者はありません。」今は悲しんでいますが、イエス様と再びお会いする時が来ます。その時は喜びます。それはだれかに奪い去られるようなものではなく、永遠の喜びです。

 

皆さんの喜びはどのようなものですか。家庭が幸せであること、もちろん、それはすばらしいことです。仕事が祝福されること、それも感謝なことです。しかし、そのような状況はいつも変化します。家庭に問題が起こることがあれば、仕事もうまくいかない時もあります。そのような時はどうでしょうか。なかなか喜ぶことができません。喜びが奪われてしまいます。もしそのように外側の祝福だけを見ていたら、アップダウン、振り回されてしまうことになります。しかし、クリスチャンの喜びはそういうものとは違います。状況がどうであれ、経済的に豊かであるかどうか、そういうことと関係なく、もう救われているのです。永遠のいのちが与えられていること、それが祝福であり、喜びなのです。あなたは永遠のいのちを持っていますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。神の霊、聖霊があなたの内側に住んでいますか。もしイエス・キリストを信じ、聖霊があなたのうちにおられるなら、あなたの喜びは尽きることはありません。

 

状況はいつも変わります。喜べない状況というのはいくらでも起こって来るのです。信仰を持ったら悲しいことが起こらないとか、苦しいことが起こらないということはありません。信じていない人と同じように、悲しいことや苦しいことも起こります。裏切ることも、裏切られることもあります。ひどいことを言われることもある。失望することはしょっちゅうです。もう誰とも話したくないと思うこともあります。でもこのようなことが起こる時というのは、大抵その問題にばかり心が奪われている時です。そのことばかり考えているのです。そして、自分の内側だけを見つめてしまうのです。それでよけいに落ち込むわけです。しかし、私たちの目が上に向くなら、私たちの心をイエス様に向けるなら、私たちの悲しみは喜びに変わります。過去の出来事に捉われるのではなく、主が与えてくださる約束という将来に目を向けるなら、悲しみは喜びに変わるのです。これは弟子たちだけでなく、あなたへの約束でもあります。あなたの悲しみも喜びに変わります。いつですか?しばらくすると。主はあなたを捨てて孤児にはなさいません。どんなに辛いときでも、どんなに苦しい時でも、あなたとともにおられ、あなたのうちにいて、あなたを助けてくださいます。あなたの目がイエス様に向くなら、あなたの悲しみは喜びに変わるのです。

 

前にも紹介しましたが、一つの美しい詩を紹介します。マーガレット・F・パワーズが書いた「あしあと」という詩です。

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

あなたの人生でいちばん辛く、悲しいとき、イエス様があなたを背負ってくださいます。このイエス様に目を向け、この方にしっかりととどまり、この方に信頼するなら、あなたの悲しみは喜びに変わるのです。油断すると、またすぐに心が沈みます。ですから、主を見上げてください。もうしばらくすると、主が来られます。あなたの悲しみは喜びに変わるのです。

 

Ⅲ.あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるため (23-24)

 

最後に、23節と24節を見て終わります。その日にはどうなるのですか。「その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」

 

「その日」とはいつのことですか?ペンテコステ、五旬節の日です。その日には、弟子たちはイエス様に何も尋ねません。なぜですか?直接父なる神に尋ねることができるからです。これまではイエス様がいつも彼らとともにいて、彼らの願いを聞き、その願いをかなえてくださいましたが、その日には、イエス様に何も尋ねません。もちろん、その日には、イエス様はもうこの地上にはいませんから。天に上り神の右の座に着いておられます。しかしそれよりも、直接父なる神に祈れるようになるからです。どういうことですか?聖霊が注がれるということです。聖霊が注がれるということは、すべての罪が赦され、神の子どもとされたということです。イエス様は、聖書が示すとおり、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられました。そして、天に上って行かれました。それが本当であるということの証拠として神は聖霊を送ってくださったのです。すなわち、イエス・キリストを信じる者はだれでも罪が赦され、神の子どもとしていただけるのです。だからもうイエス様に尋ねなくてもいいのです。直接、神に尋ねることができます。神に祈ることができます。神の子どもとされたのですから。そして、イエスの名によって父に求めるなら、父は何でもあなたに与えてくださいます。

 

イエス様はこのことを何度も繰り返して語られました。14:13、14には、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」とあります。また15:7でも、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」と言われました。また、15:16でも、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあります。イエスの名によって求めなら、父は何でも与えてくださいます。

 

だから、私たちに必要なことは、「求める」ということです。24節には、「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」とあります。求めるなら受けるのです。問題は、それは何のためかということです。ここにはその目的が記されてあります。それは、あなたがたの喜びが満ち溢れるようになるためです。私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。悲しみが喜びに変わるというだけでなく、その喜びが満ち溢れるようになるために、神は私たちの祈りに答えてくださるのです。どうですか、皆さん、私たちがこれを体験することができたら本当に喜びに満ち溢れるようになるのではないでしょうか。ピリピ4:19には、「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とありますが、これが単に頭だけでなく、体験を通して知ったなら、信仰が血となり、肉となって、私たちのものとなるのではないでしょうか。

 

祈りにおいてもそうです。何か問題や困難にぶつかり、自分の力では到底解決できないことを知った時、生きておられる本当の神を知らない人は、そこで自暴自棄になるか、そこから逃避するか、あるいは、それとは別の自分に都合のよい問題を作り出し、それと取り組んでいるのだと自分に言い聞かせることで、本当の問題を避けようとするか、ごまかすことでしょう。しかし、それは決して問題の解決にはならず、そのままそこに残り続けることになります。けれども、クリスチャンは自分が無力であることを知っており、また自分が考える解決は、いつも自分にとって都合のよいものであって、それが本当の解決ではないということを知っているので、主イエスの名によって父なる神に祈り求めます。そうする時、必ず本当の解決が与えられ、それに従う時、すばらしい解決が与えられるということを体験して、喜びに満ち溢れるようになるのです。そういう体験がないと、「あ、祈りは聞かれるのね」という、単なる観念的な信仰に終わってしまいます。しかし、それを体験として持っている人は違います。苦しみの中にも主が与えてくださるという確信によって喜ぶことができるからです。

 

福島で牧会していたとき、新会堂建設に取り組んだことがあります。若い者ばかりで、果たして私たちにできるだろうかと思いましたが、もちろん、私たちできることではありませんでした。しかし、神のあわれみによって、神に祈り求めたとき、神が働いてくださり、不思議な方法で与えてくださいました。そこは市街化調整区域といって建物が建てられない土地でしたが、神様が祈りに答えてくださり、福島県では前例がありませんでしたが、開発許可を与えてくださったのです。それでさらに建築に必要な資金もすべてを満たされました。しかし、その最初の奇跡は、宗教法人が認可されることでした。それがないと開発許可の申請もできなかったからです。そのためには、私たちの自宅を教会の名義にしなければならなかったのですが、そのために銀行からの借り入れの際に設定した抵当権を抹消しなければなりませんでした。抵当権というのは、銀行から借りいれた資金を返済できない時に、その家なり土地を担保にすることですが、それを抹消するためには、銀行から借り換えて、かつ新しい借り入れには抵当権を設定しないために保証人を立てなければなりませんでした。自宅のローンも半分くらい支払っていたのでそれほど多額ではありませんでしたが、その保証人となると、かなりの資産を持っている人でなければなれませんでした。教会の人たちを見渡してもそんなに資産のある人はいませんでした。そのとき主が、このみことばを与えてくださいました。マタイ7:7-8のみことばです。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」本当かなあと思いましたが、信じて祈りました。

すると、こういうことがありました。その頃、ご両親が老舗洋服屋さんを営んでいる姉妹が信仰に導かれました。そして、既にイエス様を信じていた二人のお兄さんも私たちの教会に加えられて信仰が熱心になったことでクリスチャンのお母さんが驚かれ、自分にも聖書の学びをしてほしいと言われたのです。それで7回でしたが聖書の学びを行うと、学びの最後にこう言われたのです。「あの、私どもは本当に何もできないのですけれども、もし何かお役に立てるようなことがあれば何なりと言ってください。」

私は、その時は何も考えていなかったので、「ありがとうございます。その時にはよろしくお願いします。」と言って別れましたが、その夜、そのことを家内に告げると、家内が「もしかすると、神様はその方を用いておられるのではないでしょうか」と言ったのです。でも、保証人になるって大変なことでしょう。まさかお願いなんてできないなと思いましたが、とにかくお願いしてみたのです。

後日、その方のご主人から電話が来て、その方のお店に行くことになりました。するとその方がこう言いました。「先生、うちは先祖代々、人様の保証人にはならないことになっているんです。」ガ~ンです。そうだよな、無理に決まっている。心でそう思っていた時、この方が続いてこう言ったのです。「うちは先祖代々、人様の保証人にはならないことになっているんです。でも、今回は違う。人様の保証人ではなく神様の保証人です。だから、喜んでさせていただきます。」

びっくりしました。てっきりだめかと思っていたので、こんなこともあるのかと思い、神様に感謝しました。そのために祈っていたのに、こんなこともあるのかって思ったのです。祈っていても、信じて祈っていないということですね。でも、神様はそんな祈りでも聞いてくださいました。それで、その後さらにいろいろな困難がありましたが、600坪の市街化調整区域を取得し、新会堂を献堂することができたのです。

 

問題は、私たちが求めないことです。求めなさい。そうすれば受けるのです。それは、あなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。皆さんも、どうぞイエスの名によって求めてください。そうすれば受けるのです。それは、あなたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。今まで味わったことのないような喜びを体験するでしょう。

 

しばらくすると、悲しみは喜びに変わります。そして、その喜びは、だれも奪い去ることはできません。いや、あなたの喜びが満ち溢れたものとなるために、神はあなたの祈りに喜んで答えたいのです。神の子としていただいたということはそういうことなんです。求めなさい。そうすれば受けるのです。あなたの喜びが満ち満ちたものとなりますように。イエスの名によって何でも祈りましょう。あなたの悲しみは喜びに変わるのです。

その方が来ると ヨハネ16章1~16節

2020年6月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ16章1~16節(P217)

タイトル:「その方が来ると」

 

 ヨハネの福音書16章に入ります。きょうのタイトルは「その方が来ると」です。「その方」とはだれですか。その方とは、助け主であられる聖霊のことです。その方が来ると、どうなるかということです。

 

この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知られたイエス様は、自分の愛する弟子たちだけを集めて、最後のメッセージをされました。それが13章から16章までにある内容です。この翌日、イエス様は十字架に掛けられて死なれるわけですが、その前に弟子たちに大切なことを教えられました。特に、前回のところでは、世があなたがたを憎む時、どうしたら良いかというお話しをされました。イエス様を信じて生きるというのはすばらしいことです。そこにこの世では得られない祝福を得ることができます。その一つは、キリストを信じる者は神のわざを行うことができ、また、イエスの名によって祈るなら、何でもかなえられるということでした。その結果、私たちは喜びに満ち溢れるようになります。そればかりか、心にイエスの平安を持つことができます。それは、世が与えるのとは違います。それは、状況によって変化するような平安ではなく、どんな状況にあっても変わらない平安です。

 

しかし、クリスチャンになるということは、良い事ばかりではありません。すべてがバラ色になるというわけではないのです。なぜ?世があなたがたを憎むからです。この世とは、神に敵対する世のことです。ですから、クリスチャンになるとこの世とは考え方や価値観が変わるので、そこには当然対立が生じます。イエス様ご自身がそうだったわけですから、イエス様を信じ、イエス様に従うクリスチャンが、同じように迫害を受けるのは当然のことです。しかし、安心してください。イエス様は何と言われましたか。20節、「しもべは主人にまさるものではない」と言われました。しもべとは私たちのこと、主人とはイエス様のことです。しもべは主人にまさるものではありません。イエス様が受けられたほどの苦難を受けることはありません。むしろ、イエス様が父なる神のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊によって、大胆に、確信をもってイエス様を証しすることができます。今日は、その方、真理の御霊が来る時、どうなるのかについてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.これらのことを話したのは(1-6)

 

まず、1~6節までをご覧ください。1節をお読みします。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」

「これらのこと」とは、今、お話ししたことです。クリスチャンはこの世の人々から憎まれ、迫害されることがありますが、そういうことが起こってもあわてふためく必要はありません。そのためにイエス様は、前もって話してくださったのです。もし前もって話さなかったらどうなるでしょう。「こんなはずじゃなかった・・・」ということになります。人は、苦難に遭うと疑いが起こってくるものです。クリスチャンになると祝福されて、何でもトントン拍子にうまくいくと思っていると、そうでない現実が襲ってきた時、神様の存在さえも疑うようになり、信仰から離れてしまうことさえあります。もちろん、クリスチャンになると、苦難ばかり襲ってくるのかというと違います。クリスチャンになると、私たちが抱えていた問題が解決します。神を信じない人の世界観というのは閉ざされた感があります。何をやっても空しいでしょう。昔の伝道者はこう言いました。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)「空」と言っても食べるという意味の「食う」じゃありませんよ。空しいということです。日の下でどんなに労苦しても、それがいったい人にとって何の益になるのでしょう。たまに刺激的なことがあったとしても、同じ日々の繰り返しの中で歳を取り、やがてその生涯を終えます。すべてが空しく、風を追うようなものです。けれども、イエス様を信じて神の子とされ、神がともにおられるということを体験すると、この世では得られない解放感を味わうことができます。ですから、それまでとは違った喜びと感謝にあふれるようになるのです。しかし、私たちがクリスチャンになるということは、悪魔の支配下から神の支配下に移されるということですから、そこには当然それをおもしろく思う者がいるわけです。悪魔です。そして、あの手この手を使って神から引き離そうとするのです。このことをよく知っておけば、クリスチャンになってから起こる様々な困難や苦難に対しても、対処することはそれほど難しいことではありませんが、そうでないと、「何でそうなるの」と嘆いてみたり、つまずいたりすることになります。イエス様はそういうことがないように、このことを前もって弟子たちに話されたのです。

 

では、具体的にどういうことが起こって来るのでしょうか。2節には、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。」とあります。「会堂」とはユダヤ教の会堂のことです。当時、会堂は礼拝をする所だけでなく、子供たちの学校であったり、人々の揉め事を仲裁する裁判所であったり、生活に関するあらゆる場所として使われていました。そこから追放されるということは、当時のユダヤ人社会から追放されることを意味していました。いわゆる村八分です。村八分にされることほど恐ろしいことはありません。それは学校でのいじめの論理と同じです。日本人がクリスチャンになることを恐れる理由の一つがここにあります。つまり、日本人がクリスチャンになることを恐れるのはクリスチャンが少数派であって、大部分がそうではないからです。みんなやってることだものと、長いものには巻かれていれば安心感はあるでしょう。しかし、そうした自分を欺くような生き方は主体性というものが失われ、結局のところ、「俺の人生は何だったんだろう」ということになります。クリスチャンとして生きるということは、確かにそこに戦いはありますが、本当の生きる目的と喜びを実感しながら生きるということなのです。

 

いったいなぜ彼らはそこまでクリスチャンを迫害するのでしょうか。その理由が3節にあります。「彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。」

ユダヤ人はアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民だと思っていました。民族的には確かにそうです。彼らには神からの律法、旧約聖書が与えられていたので、キリストについては良く知らなかったとしても、父なる神についてはよく知っていたはずです。それなのに、彼らは神から遣わされたキリストを受け入れなかったばかりか、その方を十字架に付けて殺してしまいました。なぜ?神を知らなかったからです。知っているようで実際にはそうではありませんでした。もし神を知っていのであれば、神から遣わされた方を拒むことはしなかったでしょう。それをしたということは、本当の意味で神を知らなかったということなのです。キリストを通してでなければ、だれも神を知ることはできません。どんなに宗教的に熱心であっても、それが必ずしも神を知っているというわけではないからです。

 

4節と5節をご覧ください。イエス様がこれらのことを話された理由がここにかかれてあります。それは、「その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」「その時」とはクリスチャンが迫害される時のことです。その時が来たとき、イエス様がそのことについて話されたことを彼らが思い出すためでした。イエス様は、初めからこのことを話しませんでした。なぜなら、イエス様がともにおられたからです。どんなに敵が攻めて来ようとも、イエス様がともにおられたので安心でした。しかし、そのイエス様が今、父なる神の許へ行こうとしていました。そうなれば、そうした攻撃をもろに受けることになります。ですから、今、これらのことを彼らにお話ししているのです。その時が来たとき、彼らがそのことを思い出すためです。

 

ですから、予め知っておくということはとても大切なことです。クリスチャンになったらいいことずくめだと思っていたら、そうでないことが起こった時つまずいてしまうことになります。しかし、そうじゃないんだ、確かにイエスの名によって祈ると、神はその祈りを聞いてくれますが、祈っても、祈っても、なかなか道が開かれないこともあるし、むしろ、想像もしていなかった問題が起こることもあると最初から知っていたら、そういう覚悟で臨むことができ、それを乗り越えることができます。ですから、信仰について聖書は何と言っているか、また、それをどのように理解しているかということは、とても重要なことなのです。

 

弟子たちはどうでしたか。5節の後半のところを見てください。「けれども、あなたがたのうちだれも、「どこに行くのですか」と尋ねません。」とあります。

どうして彼らは尋ねなかったのでしょうか。彼らの心が悲しみでいっぱいになっていたからです。イエスが父のもとへ行かれるということ、そしてそのときには迫害されるということを聞いて、心が悲しみでいっぱいになっていました。それで、だれもイエスに「どこに行くのですか」と聞かなかったのです。もう聞きたくありませんでした。彼らが期待していたのは、イエスが自分たちを救ってくれるということでした。この場合の救いというのは、自分たちを支配していたローマ帝国の支配からの救いのことです。それなのに、イエス様は十字架で死なれるとか、父の許に行かなければならないとか、全くわけのわからないことを言うものですから、受け止めることができないでいたのです。でも問題はイエス様ではく、弟子たちの方でした。イエス様は最初からご自分が来られた目的や、それをどのようにして成し遂げられるのかを彼らに話してきました。すなわち、イエス様が来られたのは彼らを罪から救うためであり、そのために十字架に掛かって死なれること、そして、三日目によみがえられること、天に昇って行かれること、そのすべてを話されましたが、彼らは聞く耳を持たなかったのでそれがどういうことなのか理解することができなかったのです。

 

私たちも同じです。理解できないと、心が悲しみでいっぱいになります。そして、つまずいてしまうことになります。ですから、イエス様が言われることをよく聞いてください。イエス様は私たちにも前もって語ってくださいました。それを聞いて理解することが、あるいは理解に努めることが、どんなことがあっても悲しみに沈まない秘訣です。

 

Ⅱ.去って行くことはあなたかたの益になる(7)

 

次に、7節をご覧ください。イエス様が去って行かれると聞いて、彼らの心は悲しみでいっぱいになっていましたが、そんな彼らにイエス様はこう言われました。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」

 

イエス様が弟子たちのもとから去って行くことは、弟子たちにとって益になることでした。なぜなら、去って行かなければ、彼らのところに助け主はおいでにならないからです。でも、行けば、来られます。行けば、来られますというのは変な言い方ですが、イエス様がその助け主を彼らのところに遣わしてくださるということです。この「助け主」については、すでに14:16で教えられていたことです。そこには、「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」とあります。

 

「もうひとりの助け主」とは、イエス様と全く同じように助けてくださる方という意味です。今まではイエス様がいつもともにいて直接助け、慰めてくれましたが、そのイエス様が去って行かれることで、今度は全く同じ方が来て助けてくださるのです。この方は13節にあるように、真理の御霊です。それは、彼らにとって益になることでした。なぜなら、イエス様が去って行かなければ、確かにイエス様がそばにいて助けてはくれますが、人としてこの地上におられたわけですから、そこには時間的、空間的な限界があったからです。いつでも、どこでも、すぐに助けを与えられるかというとそういうわけにはいきませんでした。

 

たとえば、イエス様が今日もしパレスチナに生きておられるとしたら、私たちは困ったことが起きた時一々ビザを取ってパレスチナまで行かなければなりませんし、緊急を要する時に、国際電話で話をしようとしても、全世界の人が助けを求めるために電話に殺到して、なかなかつながらないということもあります。まあ、今は便利な時代ですね。国際電話なんて必要ありません。LINEがあればすぐにつながります。しかも、ビデオ通話ですよ。また、ズームという会議用のソフトもあります。世界中の人と同時に話をすることができるようになりました。英語礼拝では5月までZOOMで礼拝が行われていましたが、アメリカにいるネイサン兄が参加してメッセージをしてくれました。いいですね。これからはZOOMの時代です。でも限界があります。途中で、Wi-Fiが弱くて接続できませんという表示がされて、切れてしまうこともあります。やっぱり実際に会って話すのとは違います。こうしたテクノロジーは、補助的な手段にはなっても限界があるのです。

 

しかし、もうひとりの助け主にはそうした限界がありません。この方は、いつでも、どこでも共にいて、助けることができます。今この教会の真中にいてくださる主は、同時にこの教会だけでなく、すべての教会にもいてくださいます。イエス様は「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)と言われました。また、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。どのようにしていつまでも、世の終わりまで、私たちとともにいてくださるのでしょうか。この聖霊を通してです。このように、聖霊は時間と空間に全く制約されることがなく、世界中どこにいても、困ったことが起こった時に助けを求めれば、いつでも答えることができるのです。この方は、世界中のクリスチャンとともに、いやクリスチャンのうちにいてくださるのです。だから、イエス様が去って行かれることは、彼らにとって益なのです。

 

時として私たちも、何かを失うとき、弟子たちのように心が悲しみでいっぱいになることがあります。しかし、失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられるときでもあるということを覚えておきたいものです。

9 年前、東日本大震災時地震、津波、原発事故に遭遇し故郷を追われた福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生は、今回のコロナウイルスの問題に遭遇し、まさか、人生にこのような日があるとは思いもしなかったと、「黄金の冬ごもり」というコラムの中でこのように言っておられます。

今回のコロナ災禍では、教会堂はあるのに、 教会員はそこにいるのに、礼拝できないという悔しさをかみしめました。最後となった 4 月12 日の礼拝で、先生は思わずことばがつまって祝祷ができませんでした。震災で生き延びた教会は、コロナで力尽き、最後の砦と思った礼拝もかなわず、敗残兵が倒れたように思ったのです。翌19 日の礼拝は、3人の牧師が誰もいなくなった礼拝堂にひっそりと集い、やむなくYouTube礼拝を配信しました。

けれども気がつけば、初代教会も迫害の中で、そして今日の中国の教会も共産主義体制の下で、やむなく家々で礼拝をささげています。この機会はもしかしたら、神様がくださった原点回帰の時でしょうか。私たちは震災の時のように、今礼拝や交わりが決して当たり前ではないことを、つくづく思い知らされています。

そう言えば地球も今、コロナで人間の活動が停止して、貴重な癒しのearth day(地球の日)を迎えているそうです。大気汚染のPM2.5は劇的に下がり、ガンジス河もきれいになったとか。

また、必要は新たなアイデアを生み出します。震災時、私たちはバラバラになった教会員を何とか繋ごうと、ネットで礼拝の配信を始めました。ちょうどその頃スマホが急速に普及し、今回のスムーズなコロナ対応ネット配信礼拝につながりました。そして今回はどうでしょう。いつの間にか増えてしまった会議の整理や、時代に即さなくなった慣例の見直し、ほんとうに大切なものの確認などは、コロナ後の新たな世界を生き抜く、サバイバル教会に脱皮する第一歩です。

9 年前の大霙災は、私たちから多くのものを奪いました。けれども、結果は移住地での新たな教会づくりでした。寝る場所や食べる物確保に右往左往した当時を思うと、今回は住まいや教会は奪われていません。私たちは、大丈夫です。「わたしの前で静まれ」(イザヤ41:1)  と語られた主とふたりきりで、黄金の冬ごもりの季節を過ごしましょう。

春は来ます。苛立ちや不安を手玉に取り、信頼や寛容を育んで、来るべきコロナ後の世界への旅支度を始めるのです。

「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌3章33節)

という内容です。本当にそうですね。何かを失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられる時でもあるのです。まさに今回のコロナの問題は、教会が原点に帰る時として、また、私たちが人生の原点に帰る時として、神が私たちに与えておられることなのではないかと思います。そのことを覚えて感謝し、今、黄金の巣ごもりの時を過ごしたいと願わされます。

 

Ⅲ.その方が来ると (8-16)

 

では、その方が来るとどのようなことをなさるのでしょうか。8~16節までをご覧ください。まず11節までをお読みします。

「8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」

 

その方、聖霊が来るとどのようなことをしてくださるのでしょうか。イエス様はここで、二つのことを述べておられます。その一つがこれです。つまり、その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを明らかにされるということです。世とは、神に敵対している世のことです。この世に、罪について、義について、さばきについて、その誤りを明らかにされます。どういうことでしょうか。

 

9節をご覧ください。まず罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。「信じない」とは、信じようとしないとか、信じることを拒むという意味で、心を固く閉ざして、信じようとしないということです。なぜ信じないのでしょうか。自分が罪人であることがわからないからです。一般に私たち日本人は、「罪」というと物を盗んだり、人を殺したり、詐欺を働いたりするなど、いわゆる犯罪を行うことを罪だと考えているので、自分はそんな犯罪なんてやっていないし、法律に違反することもしていないので、自分には罪がないと考えているのです。しかし、そもそも聖書が言っている罪ということは、そういうことではありません。聖書が言っている罪とは「ハマルティア」です。「的外れ」です。本来あるべき状態でないことです。つまり、まことの神から離れている状態のことを言います。本来、人間は神のかたちに造られ、神の栄光を現すものとして造られたのに、その神から離れ自分勝手というか、自己本位に生きるようになってしまいました。聖書はそれを罪と言っているのです。ですから、ローマ3:23には、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」とあるのです。罪を犯したから罪人なのではなく、罪人なので罪を犯すのです。その罪がわからないのです。頭ではなんとなくわかるのですが、ピンとこないのです。しかし、その方が来ると、その罪について明らかにしてくださいます。自分がいかに自分勝手に生きてきたか、また、そのために神に反逆していたかが分かり、自分の罪を認めないわけにはいかなくなるのです。

 

たとえば、使徒の働き2章には、ペンテコステの日に聖霊が降られたときのペテロの説教がありますが、ペテロが、「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」(使徒2:22-24)、「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(同2:33)と語ると、「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(同2:37)のです。グサッと心に刺さったんです。私も罪人だとわかりました。イエス・キリストを十字架につけたのはこの私だったんだ。私の罪のためにイエス様は十字架で死んでくださった。私はほんとうに罪人だということがわかったのです。それで彼らはどうしましたか。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けました。何とその日3,000人ですよ。3,000人ほどの人々が仲間に加えられました。

 

罪がわからないとイエス様を信じることができません。だって罪がなければ救われる必要がないわけですから。自分が正しい人間であればどうして救われる必要があるでしょうか。ありません。だから信じることができないのです。しかし、その方が来ると、罪について明らかにしてくださいます。自分が本当に罪深い人間だということがわかるようになるのです。

 

10節をご覧ください。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」どういうことでしょうか。「義」とは正しいということです。聖霊様が来られると、キリストは正しい方、義なる方であることを明らかにしてくださるということです。どのように明らかになさるんですか。それはイエス様が父のもとに行き、彼らがもはやイエス様を見なくなることによってです。どういうことですか?ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)とか、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)と言われるのを聞いて、イエスを殺そうとしました。なぜなら、イエスは神を冒涜したと思ったからです。実際、彼らはイエス様を十字架に付けて殺しました。しかし、イエス様は死んで終わりだったでしょうか。いいえ、死んで三日目によみがえられました。そして40日間彼らにご自身のお姿を現わされると、彼らの目の前で天に昇って行かれ、神の右の座に着かれました。それはどういうことかというと、神に受け入れられ、神の権威の座に着かれたということです。そこに着かれたということは、キリストには全く罪がなかったということを示しています。キリストは神と全く等しい方であるということです。どうして神の右の座に着かれたということがわかるのでしょうか。聖霊様です。イエス様が天に昇って行かれ、神の右の座に着かれたことの証明として、神は約束の聖霊を送ってくださいました。そのことによってキリストが神の子であり、全く正しい方であるということが明らかにされたのです。そして、この聖霊によって、キリストこそまさしく神の子であられ、私たちを罪から救うことができる救い主であるということが分かったのです。

 

パウロはこのことを、ピリピ3:5~9でこう言っています。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

彼はわかりませんでした。とにかく宗教に熱心であれば救われると思っていました。その熱心は教会を迫害したほどです。しかし、キリストがどのような方であるかがわかったとき、そのキリストのすばらしさのゆえにすべてを損と思うようになりました。彼はそれを「ちりあくた」だと言っています。それはキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。彼は律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義を持ったのです。

 

皆さん、信仰に熱心であれば救われるというわけではありません。救いはイエス・キリストにあります。なぜなら、キリストはあなたの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたからです。そして、天に昇って行かれ、神の右の座に着かれました。すなわち、この方こそまことに義なる方、神の子、救い主であられるのです。その方が来ると、このことを明らかにしてくださいます。

 

そして11節をご覧ください。ここには、「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」とあります。どういうことですか。「この世を支配する者」とは、悪魔、サタンのことです。この悪魔は、完全にさばかれました。悪魔は、キリストを十字架に付けた時、してやったりと思ったことでしょう。しかし、キリストがその死の中からよみがえられたことで、その思いは脆くも崩れてしまいました。悪魔の最後の砦は死ですが、キリストがその死を打ち破られたことで、悪魔を完全に滅ぼされたからです。その結果、悪魔は終わりの時のさばきを待つばかりになりました。今はそれが実行されるまでの猶予期間にすぎません。悪魔は、どうにかして多くの人がキリストを信じないように働きかけたり、クリスチャンに対しても誘惑したり、脅したりして信仰から離れさせようと躍起になっていますが、もう勝敗はすでに決まっているのです。イエス・キリストを信じる者は決して罪に定められることはありません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)」

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」

 

これが、クリスチャンが抱く希望です。なぜなら、この世を支配する者がさばかれたからです。私たちは、神のさばきに会って当然の者でした。罪がありましたから。しかし、神はそんな者を愛して、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架で死んでくださいました。死んだだけではありません。よみがえられました。そのことによって、これまで私たちをがんじがらめにしていた罪の支配から解き放ってくださったのです。もう罪に支配されることはありません。さばきに会うことはありません。なぜなら、この世を支配する者がさばかれたからです。私たちは聖霊によって、罪に打ち勝つ力が与えられ、キリストの復活の力によって勝利ある人生を送ることができるようになったのです。何とすばらしいことでしょう。しかし、それは聖霊様が来られるまでわかりませんでした。聖霊様が来られたことで、罪について、義について、そしてさばきについて、世の誤りを明らかにしてくださったのです。

 

そればかりではありません。その方が来るとどうなるのか、12節からのところにもう一つのことが教えられています。12~15節をご覧ください。

「12あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。」

 

イエス様は弟子たちに話したいことがたくさんありましたが、それ以上のことは話しませんでした。なぜなら、その時の弟子たちの信仰のレベルではそれ以上のことを受け入れることができなかったからです。しかし、一つのことだけはどうしても話しておかなければなりませんでした。それは、その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださるということです。どういうことでしょうか。ある人たちは、これを文字通りすべての真理と理解しています。つまり、科学や医学、政治、経済といったあらゆる分野における真理のことです。しかし、ここで言っていることはそういうことではありません。聖書はあらゆる分野の真理を示しているわけではないからです。

 

そこである人たちは、これはその後にある「御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます」という言葉から、将来起こるであろうすべてのことを指していると考えていますが、そういうことでもありません。確かに主は世の終わりの前兆について語られましたが、それが将来起こるであろうすべてのことではないからです。あまり読み込みすぎると、かえって真理から離れてしまうことにもなりかねません。では、これはどのような意味でしょうか。それは、主が弟子たちに語られたすべてのことを思い起こさせ、その意味を明らかにしてくださるということです。特に、救いに関する教えです。つまり、この後に起こる十字架と復活の出来事、そして昇天という救いに関する一連の出来事について、その真理を明らかにしてくださるということです。

 

弟子たちの多くは漁師でした。特別な専門教育を受けたこともない、無学で普通の人でした。しかし、彼らには最高の教師がいました。イエス・キリストです。彼らはイエス・キリストから直接教えを受け、そのみわざを間近で見ました。そのイエス様が天に行かれるということで、彼らの心は悲しみでいっぱいでしたが、しかし、そのイエス様が去って行かれることで、イエス様と全く同じ方が、いや、時間と空間を超えているという点ではそれ以上の方が来て彼らを教え、すべての真理に導いてくださいます。彼らの内側にいて、イエスさまが言われたことを思い起こさせてくださいます。そのようにして書かれたのが聖書です。聖書は、弟子たちによって書かれたイエス・キリストについての証言ですが、それは弟子たちによって書かれたというよりも、聖霊によって書かれた証言です。Ⅱペテロ1:21にはこうあります。「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」「預言」とは「聖書」のことですが、預言は、決して人間によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。聖霊が彼らをすべての真理に導いてくださったのです。

 

世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。なぜなら、イエス様は世に勝利されたからです。その方が来ると、そのことを思い起こさせてくださいます。さまざまな困難に直面する時、聖書のことばを通して、私たちをすべての真理に導いてくださり、助けと励ましを与えてくださいます。こんなに心強い助けがあるでしょうか。現代は先行き不透明な時代です。しかし、この方が来るとき、私たちをすべての真理に導いてくださいます。あなたのうちには、この方がおられますか。イエス・キリストを信じてください。イエス様を信じるすべての人に、神は賜物としてこの聖霊を与えてくださいます。この方こそ、私たちが直面するさまざまな困難の解決であり、その中を生き抜く力なのです。

世があなたがたを憎むなら ヨハネ15章18~27節

2020年6月7日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ15章18~27節(P216)

タイトル:「世があなたがたを憎むなら」

 

 ヨハネの福音書15章からお話ししています。きょうは、その4回目となりますが、「世があなたがたを憎むなら」というタイトルでお話しします。18節に、「世があなたがたを憎むなら」とあります。イエス様は、前回のところですばらしい約束を与えてくださいました。それは、あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したということです。それは何のためですか。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためです。その実とは救われる魂のこと、救いの実のことでした。それは彼らの力によるのではありません。神の力、聖霊の力によるのです。ですから、そのために祈るようにと勧められていたのです。あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはすべて、父が与えてくださいます。すばらしいですね。私たちには、このような約束が与えられているのです。

 

 しかし、それは簡単なことではありません。なぜなら、そこには迫害があるからです。苦難があります。きょうの箇所には、迫害とか、憎むという言葉が何回も出てきます。まず18節には、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」とあります。19節にも、「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」とあります。20節にも、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」とあります。また23節にも、「わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。」とありますし、24節にも、「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」とあります。25節の言葉も合わせると、この箇所だけで9回も遣われています。ピリピ1:29には、「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」とあるように、私たちの信仰生活というのは、キリストを信じることで受ける恵みと同時に、キリストのために受ける苦しみもあるのだということを覚えておかなければなりません。そうでないと、そのような苦難に遭った時、どうしてこのようなことが起こるのかと失望落胆し、信仰から離れてしまうことにもなりかねません。ですから、クリスチャン生活にはこの世から憎まれることがあるということを、イエス様は予め教えられたのです。

 

 いったいなぜクリスチャンはこの世から憎まれるのでしょうか。イエス様は、ここでその三つの理由をお話しなさいました。それは第一に、イエス様ご自身が憎まれたからです。イエス様が憎まれたのであれば、イエス様に従うクリスチャンが憎まれるのは当然のことです。第二のことは、クリスチャンはこの世のものではないからです。もしこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、クリスチャンはこの世のものではなくキリストのもの、神のものです。だから、世はクリスチャンを憎むのです。そして、三つ目の理由は、この世がクリスチャンを憎むのは、まことの神を知らないからです。まことの神を知っていたなら、キリストを憎むことはしなかったでしょう。なぜなら、キリストは神から遣われた方なのですから。

 ですから、結論は何かというと、世がどんなにあなたを憎んでも、キリストにしっかりととどまり、キリストを証ししましょう、ということです。

 

Ⅰ.イエスご自身が憎まれたから(18)

 

まず、第一の理由から見ていきましょう。いったいなぜクリスチャンは憎まれるのでしょうか。なぜなら、主イエスご自身も憎まれたからです。18節をご覧ください。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」

 

この「世」とは、神に敵対する世界のことです。聖書は、この世は悪魔の支配の下にあり、神に敵対するものであると言っています。たとえば、14:30で主は、「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。」と言われました。「この世を支配する者」とは悪魔のことです。悪魔がこの世を支配しているのです。元々、この世界は神によって造られました。神がこの世界を造られた時、その造られたすべてのものをご覧になり、「見よ、それは非常に良かった。」(創世記1:31)と言われました。ですから、この世界は元々すばらしいものだったのです。しかし、最初の人アダムとエバが悪魔の誘惑に負けて罪を犯したことで、全人類が悪魔の支配の下に置かれることになってしまいました。それゆえ、この世は神を認めません。ピリピ3:19に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」とあるように、彼らは自分に都合の良いものを神とするようになりました。また、人間の力を誇り、人間には無限の力がある。コロナだって大丈夫。みんなで力を合わせれば必ず乗り越えられると、人間の力を誇るようになりました。その一方で、道徳的にはどうかというと、良くなるどころかますます悪くなり、平気で人を誹謗中傷したり、自分の欲望を満たすために人を騙したり、人の財産やいのちまでも奪うようになってしまいました。オレオレ詐欺は後を絶ちません。次から次に新しい業を繰り出してきます。これが神から離れた世界であり、この世の現実です。

 

しかし、神はこの世を愛し、御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。主イエスがこの世に来られると、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言われ、神の国の福音を宣べ伝えられました。様々な病気で苦しんでいる人を癒し、悪霊を追い出し、すべての町々、村々に行って神の国の福音を伝えられたのです。するとどうでしょう。そこには、主イエスを信じる人と信じない人の二つに分かれました。イエス様を信じない人たちのトップはユダヤ教の指導者たちでしたが、彼らはどうしたかというと、イエス様を歓迎するどころかイエス様を憎み、迫害しました。それはイエス様がご自分を神としたからです。イエスは言われました。

「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)

「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、「わたしはある」なのです。」(ヨハネ8:58)

それを聞いたユダヤ人たちはどうしましたか。彼らは怒り、神を冒涜したといってイエスを石打ちにしようとしました。しかし、群衆の手前それができないと思った彼らは、偽りの証言によってイエスを罪に定め、十字架につけて殺してしまったのです。彼らとしては「してやったり」でしたが、しかし、それこそが、永遠の昔から世を救うために定めておられた神の救いのご計画でした。。神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。それが十字架です。誰がそのようなことを考えることができるでしょうか。だれもできません。しかし、神にはできます。神にはどんなことでもできるのです。

 

このように、主イエスがこの世に来られた時、イエス様を信じない人たちはイエス様を憎みました。これはイエス様だけのことではありません。イエスを信じるすべての人に言えることです。あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るためです。しかし、それはまさに狼の中に羊を送り出すようなものでした。いつ襲われるかわかりません。なぜなら、世は彼らを憎むからです。でも心配しないでください。イエス様ご自身もそうだったのですから。彼らよりも先に憎まれました。イエス様が憎まれたのであれば、イエス様に従うクリスチャンが憎まれるのは当然のことではないでしょうか。

 

イエス様は彼らを伝道に遣わすにあたり、そのことを前もってお話しされました。そうでないと、そういうことが起こった時、「こんなはずじゃなかった」とがっかりして、信仰から離れてしまうことにもなりかねないからです。

 

先日、ある方からお電話をいただきました。お会いしたことはありませんが、以前、結婚の相談で何度かお話したことがある方でした。長年、ある県の養護教諭として働いておられましたが、職場の方から辞めてほしいと言われたのか、そうせざるを得なかったのかわかりませんが、辞めることになりました。次の仕事をどうしようと祈っていたところ、牧師になるのはどうだろうという思いが与えられ、いくつかの神学校で学びました。しかし、どこからも招聘がないというのです。仕方なく千葉県のある教会にオファーしたところ、これこれの条件でしたらお願いするかもしれないと言われ、今その結果を待っているとのことでした。もしだめだったら、ある教団にと言わせたところ、その教団の神学校で学べば卒業後はその教団関係の教会に赴任できるというのでそのようにしようと考えているんですがどう思いますか、ということでした。

どう思いますかって、牧師になるというのはすばらしいことですが、誰でもなれるわけではありません。というのは、牧師は職業ではなく主から与えられた賜物と召命によるからです。もし、一つの職業と考えたらどうなりますか。続けていくことはできないでしょう。思うように伝道が進みません。教会の方からもいろいろなことを言われます。自分の限界も感じるでしょう。そのような中でどうやって続けて行くことができるでしょうか。初めは牧師謝儀なんてどうでもいいと思っていても、だんだん割に合わないと思うようになります。それでも、その働きを続けていくことができるとしたら、それは主のあわれみと主がそのように召してくださったからという召命があるからです。そうでなかったら続けていくことなんてできません。こんなはずじゃなかったとなるでしょう。

 

ですから、教会の牧師になりたいと思うなら、まず、今置かれている現場でしっかりと主に仕えることです。そうすれば、周りの方々から認められるようになるでしょう。その先に牧師とか伝道者の働きがあるのです。牧師の謝儀とか牧師の休日いったことはどうでもいいということではありませんが、そういうものは後からついてくるものであって、それありきということになると、こんなはずじゃなかったということになるのではないでしょう。

 

それは、私たちの信仰生活も同じです。私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選び、私たちを任命してくださいました。それは私たちが行って実を結ぶためであり、私たちがイエスの名によって祈るなら、何でも父が与えてくださるためです。

しかし、それは祝福だけではありません。祝福と同時に苦しみも賜りました。聖書が教えていることは、あなたがたは世にあって苦難があるということです。16:33をご覧ください。ここには、「あなたがたは、世にあって苦難があります。」とあります。苦難があるんです。すべてが祝福というわけではありません。「しかし」なんです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出すことができます。なぜなら、主イエスは、世に勝利されたからです。この方がともにおられるのだから、勇気を出すことができます。私たちは、このように言われたイエス様の言葉をしっかりと心に留めておかなければなりません。そして、たとえ世に憎まれることがあっても、そのことで驚いたりするのではなく、私たちよりも先にイエス様が憎まれたことを思い、心を備えておきたいと思うのです。

 

Ⅱ.この世のものではないから(19-20)

 

クリスチャンはなぜ迫害されるのでしょうか。二つ目の理由は、クリスチャンはこの世のものではないからです。19節と20節をご覧ください。「もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。」

 

もしクリスチャンがこの世のものであったなら、世はクリスチャンを愛したでしょう。しかし、クリスチャンは世のものではありません。それで、世はクリスチャンを憎むのです。私たちは以前、この世に属していました。ですから、神がどう思うかなんて全く関係ありませんでした。自分の思いのままに、自由奔放に生きていました。みんなやっていることだもの、ちょっとくらいならいいだろう。バレなければいい、そういう感覚で生きていました。人様に迷惑をかけなければいいじゃないですか。自分の人生なんだから、自分で好きに決めて何が悪いんですかと、すべて自分の思いのままに生きていたのです。それが生きる基準でした。

 

しかし、キリストを信じたことで生きる基準なり、価値観が変わりました。もうこの世のものではなく、神のものとなったからです。キリストがこの世から選び出してくださいました。ですから、この世の常識とか自分がどう思うかといったことよりも、神が願っていることは何か、何が良いことで神に受け入れるのかということが生きる基準となりました。

ジェームズ・ローガン氏は、アメリカ連邦議会議員として国に仕え、司法委員も務めたクリスチャンです。彼のワシントンへの道は平坦ではありませんでした。母親は十代の頃、バーテンの男に妊娠させられ、生まれたのがジェームズです。バーテンは妊娠の事実を知ると、すぐさま彼女を捨てました。母親には彼を育てる経済力は無く、彼は祖父母に育てられました。

母親の所に戻った頃、母親はアルコール依存症の男と結婚していました。しかし、間もなく離婚。そんな環境に育った彼は高校を中退します。そして、麻薬の売買、拳銃強盗などの問題を起こす連中と、いつも付き合っていました。

しかしジェームズは、かつて祖父から物事の善悪と、目標をもってそれに向かうことの大切さを教わっていたので、意を決して学校に戻り大学へ進みます。そして法律学校で学び検察官となり、州議会議員、判事、連邦政府議会議員として国に仕えます。ある日、彼はエレベーターの中で出会ったクリスチャンのジョイに導かれてクリスチャンになります。その後、その女性と結婚します。ジェームズ・ローガン氏は、自分の人生を大きく変えた、前向きに生きることのすばらしさや、信仰の力について伝えるために、自分の半生を本にしました。彼は、キリストと出会った時に与えられる、五つの変化について語っています。

金銭に対する価値観が変わる

今、多くの人はお金の奴隷になって、お金のためなら何でもするというような風潮があります。しかし、キリストを信じる時、与える喜びを知ります。「受けるよりも与える方が幸いです。」というイエス・キリストのことばを実感するようになります。

追求すべき目標が変わる

自分の利益だけを追及する生き方から、人々を助け、神の栄光を現すような生き方へと目標が変えられます。

物事の見方が変わる

物事の見方が否定的なものから、肯定的なものへと変えられます。「すべてのことについて感謝できる」ようになります。「すべてのことが益に変えられる」と信じられるようになります。従って、人生のあらゆる出来事に対して前向き、肯定的、創造的な態度を取ることができるようになります。

性格が変わる

物事の見方が変わると、当然生活が変えられていきます。救われた魂は、キリストの人格を徐々に映し出すようになって行くのです。

人格が変わる

キリストに従うとき人格が築き上げられます。人格は性格とは違います。人格とは、分化や周囲の価値観に影響されない確信です。確信がある人は、人の言いなりになって利用されることはありません。自分の足で立ち、自分で判断するようになります。その確信は、神のことばである聖書の教えに基づくものです。

 

すばらしいですね、これは、ジェームズ・ローガン氏の場合ですが、イエス・キリストとの出会いによって、彼の人生は180度変えられました。人を恐れる生活から神を恐れる生活へ、自分の利益を追及する生き方から、人々を助け、神の栄光を現すような生き方へと変えられたのです。それは彼だけでなく、キリストのものとされたすべての人に言えることです。だったらみんなクリスチャンになったらいいのにと思いますが、なかなかそういうわけにはいきません。世はキリストに敵対しているからです。つまり、私たちがこの世から憎まれたるのは、私たちがもはやこの世に属しているのではなく、神に属する者となったからです。ですから、世と違う生き方をしているために憎しみや迫害を受けるとき、むしろ、私たちはイエスに属している者であることが証明されることになるのです。

 

主は、山上の説教の中でこう言われました。

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」(マタイ5:10-12)

義のために迫害されている者は幸いです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。言い換えるなら、それによってその人が神に属していることが明らかになるからです。キリストのためにののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言を浴びせられるとき、あなたがたは幸いなのです。それは、私たちがもはやこの世のものではなく、神の国に属する者となったという証拠でもあるからです。もちろん、クリスチャンが苦しい目に遭ったからと言っても、それが自分の落ち度や自分に責任がある場合は別です。あくまでも義のために迫害されたり、主イエスのために苦しみを受ける時のことですが、もしキリストのためにののしられたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口を浴びせられることがあるとしたら、むしろそれは喜ぶべきことなのです。

 

20節をご覧ください。ここには、「しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。」とあります。どういうことでしょうか。

私たちはキリストのしもべです。キリストのいのちという代価をもって神に買い取られました。ここには、しもべは主人にまさるものではない、とあります。主人とは誰ですか。イエス様です。私たちはキリストのしもべです。ですから、人々がキリストを迫害したのであれば、しもべである私たちを迫害するのは当然のことですが、その迫害は主人以上のものではありません。このことを覚えておかなければなりません。それは、私たちが疲れ果ててしまうことがないためです。へブル12:2-4にはこうあります。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。」

私たちはどんな迫害に遭ったとしても、イエス様ほどの苦しみに遭うことはありません。イエス様は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱めをもろともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。私たちは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなければなりません。それは、私たちが元気を失い、疲れ果ててしまうことがないためです。私たちの主は、私たちよりもはるかに大きな苦難に遭われたということを思うとき、不思議と勇気と力が与えられるのではないでしょうか。だから、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにしなければなりません。

 

Ⅲ.まことの神を知らないから (21-27)

 

この世がクリスチャンを迫害するのはどうしてでしょうか。その第三の理由は、まことの神を知らないからです。21節から27節までに注目してください。21節には、「しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。」とあります。

 

どうして世はクリスチャンを迫害するのでしょうか。それは、わたしを遣わした方を知らないからです。イエスを遣わした方とは誰ですか。そうです、それは父なる神、まことの神のことです。その方を知らないのです。たとえば、ユダヤ人たちはどうでしたか。彼らはイエスを迫害しました。彼らは神の民であり、聖書をよく知っていました。熱心に祈りをささげ、断食もしていました。それなのに、主がこの世に来られた時、主を受け入れたかというとそうではなく、何と十字架につけて殺してしまいました。なぜでしょうか?神を知らなかったからです。彼らは神の民であり、神の律法が与えられていましたが、本当の意味で神を知っていなかったのです。本当に神を知っていたのであれば、その神によって遣わされたキリストを拒んだりはしなかったでしょう。ましてや、十字架に付けて殺すようなことはしなかったはずです。確かに彼らは宗教的に熱心でした。でも、それは形だけで中身がありませんでした。大切なのは中身がどうであるかということです。彼らは宗教的でしたが、まことの神について全く知らなかったのです。

 

22節と23節をご覧ください。「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。」

 

もしイエス様が来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし、彼らはイエス様が語られたことを聞きました。イエス様は、ご自身が父なる神から遣わされた者であり、父なる神と一つであるということ、また、自分を見た者は父を見たのと同じであるということを話されました。また、ご自分が十字架にかかって身代わりの死を遂げられることについても話されました。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14-15) 

それなのに、その方を信じなかったとしたら、そこにはもはやそこには弁解の余地はありません。

 

そればかりではありません。24節をご覧ください。「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」

イエス様が話されたことを信じられないという人のために、イエス様は、彼らの間でわざを行われました。それは、ほかのだれも行ったことのないわざです。たとえば、このヨハネの福音書の中には7つのしるしが記されてあります。イエスがメシヤであることの証拠としての奇跡です。たとえば、①カナの婚礼では水をぶどう酒に変えました(2:1~12)。②王室の役人の息子の病気を癒されました(4:43~54)。③また、ベテスダと呼ばれる池では38年間も病気で伏せていた人を癒されました(5:1~18)。④さらに、5つのパンと2匹の魚で、男だけで5,000人の空腹を満たされました(6:1~15)。⑤そして、舟を漕ぎあぐねていた弟子たちを助けるために、ガリラヤ湖の上を歩いて近づかれました(6:16~21)。⑥生まれつきの盲人の目も癒されました(9:1~41)。⑦最後は、死んで四日も経っていたラザロを生き返らせました(11-1~45)。

どれ一つとっても人間には不可能なわざです。しかし、主はこれをご自分が神から遣わされた者、メシヤであることの証拠として行われたのです。そして、ユダヤ人たちはそれを見ました。もし、イエス様が彼らの間でそれを行わなかったなら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし、彼らはそのわざを見て、そのうえで主イエスと父なる神を憎みました。どうしてですか。25節にはこうあります。「これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」

「ゆえもなく」とは「理由もなしに」という意味です。彼らは理由もなしにキリストを拒んだのです。それはこの旧約聖書の預言が成就するためでした。旧約聖書の中に、そのことがちゃんと預言されていたのです。

 

それはこの時のユダヤ人だけではありません。私たちも同じです。確かに私たちはキリストから直接話を聞いたわけではありません。また、直接キリストのわざを見たわけでもない。しかし、私たちには聖書が与えられています。聖書を見れば、キリストのことば、キリストのわざを知ることができます。それなのに、キリストを信じないとすれば、それはこのユダヤ人同様、「ゆえなく憎んだ」ことになるのです。そういう意味では、現代の私たちにとっても、弁解の余地は全くありません。

 

このように、私たちはキリストによって選ばれ、世に遣わされた者ですが、世はあなたがたを憎みます。そのような時、私たちが覚えておかなければならないことは、私たちよりも先にイエス様が憎まれたということ、そして、そのように憎まれるということは、私たちがキリストに属するものになったという証明でもあるということ、そして、そのように世が私たちを憎むのは、彼らが神を知らないからであって、弁解の余地はありません。

 

こうした前提に立って、世があなたがたを憎むとき、どのような態度を取ったら良いのでしょうか。その結論が、26節、27節にあります。ご一緒に読みましょう。

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。」

 

このことは、逆に言えば、こうした偏見と悪意の渦巻く中にあって、クリスチャンは主を証ししなければならないということです。クリスチャンにはそのような使命が与えられているのです。でも、憎しみと迫害の中でどうやって証しすることができるのでしょうか。その鍵は26節にあるように、イエス様が父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊です。その方が来るとき、その方がキリストについて証ししてくださいます。ですから、私たちはキリストを証しすることを止めてはいけないのです。それが、私たちに与えられている使命です。私たちはそのために選ばれたのです。それを自分一人でやらなければならないとしたら、自分の力でやらなければならないとしたらどぅでしょう。できません。しかし、「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」あなたが伝えるのではありません。あなたは、聖霊とともに行って証しするだけです。そのとき、聖霊が知恵と力を与えてくださり、語るべきことを教えてくださいます。迫害に耐える力も与えてくださいます。

 

ディビッド・リヴィングストンは、暗黒大陸アフリカへの宣教師として有名ですが、彼の1856年1月14日の日記には、「今日は私の16年間のアフリカ滞在中最大の危機を迎えた」と記しています。実は、彼ら一行を現地人が待ち伏せしていて、いのちをねらっているという情報が入って来ました。リヴィングストンの仲間は「行くのを止めよう」とか「迂回しよう」と提案しましたが、リヴィングストンは「私たちを守ってくださる方は、必ず守る紳士である。この紳士のことばを私は信じる」。そう言って、マタイの福音書28:20のことばを引用しました。イエス・キリストは、そこで、次のように約束しています。

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

そして、リヴィングストンたちは予定通りのコースを白昼堂々と進んで行ったのです。待ち伏せしていた現地人たちは何かに縛られたように動けず、自分たちの目の前を過ぎるリヴィングストンたちをただ見送るだけでした。

 

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。私たちも、世の終わりまで、いつもともにおられる聖霊が助けてくださると信じ、世が私たちを憎んでも、行って実を結ぶ者とさせていただきましょう。

友と呼んでくださるイエス ヨハネ15章12~17節

2020年5月31日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ15章12~17節(P216)

タイトル:「友と呼んでくださるイエス」

 

 ヨハネの福音書15章からの3回目のメッセージとなります。きょうは「友と呼んでくださるイエス」という題でお話しします。皆さんには、本当に友と呼べる人がどれだけいるでしょうか。先日、ある牧師と電話でお話しをしていたら、その牧師が、自分には親友が二人いて、自分に何かあったらこの二人が飛んで来て全部やってくれる(葬式)ことになっているので安心なんですと言うのを聞いて、そういう人がいるってすばらしいなぁと思いました。私たちは一般に、学校や職場、あるいは隣近所において気さくに話し合える程度の人はいるかもしれませんが、いざという時に、その人のためにはどんなことでもして上げられるという本当の友は、そう多く持ってはいません。人によっては、夫婦の間ですら、信頼関係がほとんどないという場合も少なくありません。しかし、人生において本当の友を持っているということは、実にすばらしいことです。

 

 きょうの箇所でイエスは、弟子たちに「わたしはあなたをしもべとは呼びません。わたしはあなたがたを友と呼びました。」と言われました。イエスは弟子たちを「友」と呼んでくださいました。きょうはこのことについて三つのことをお話しします。第一に、その条件です。イエスが友と呼ばれるのはどういう人でしょうか。それは、イエスの命じることを行う人です。「わたしの命じることを行うなら、あなたがたは、わたしの弟子です。」と言われました。第二に、理由です。なぜイエスは弟子たちを友と呼ばれたのでしょうか。なぜなら、イエスは父から聞いたことをすべて、彼らに知らせたからです。本当の友とは、自分の胸の内を隠すことはしません。すべて知らせるのです。第三に、どのようにして弟子たちはイエスの友となったのですか。その方法と目的です。それは彼らがイエスを選んだからではなく、イエスが彼らを選び、任命したからです。それは、彼らが行って実を結び、その実が残るためであり、また、彼らがイエスの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 

Ⅰ.わたしが命じることを行うなら(12-14)

 

まず12節から14節までをご覧ください。ここには、「12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」とあります。

 

どのような人がイエスの友ですか。ここには「わたしの命じることを行うなら」とあります。イエスの命じることを行う人は、イエスの友です。では、イエスが命じることとは何でしょうか。それは12節にあります。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」

 

イエスはこのことをこれまでも何回も語って来られました。13:34では、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われました。また、14:15でも「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言われました。そして、14:21でも「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」と言われました。また、15:10でも「わたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。」と言われました。

このようにイエスは、このことを何回も語って来られたのです。もう耳にたこができるほど聞きました。それなのに、ここで繰り返して語られたのです。なぜでしょうか。それほど重要なことだからです。どうしてそんなに重要なんですか。それは、神は愛だからです。ヨハネはこの神の愛についてヨハネの手紙の中でこう言っています。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:10)

どこに愛があるんですか。「そこに愛があるんか?」というCMがありますね。どこに愛があるんですか。ここにあります。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされたというその事実にです。私たちが神を愛したのではありません。私たちはむしろ神を無視し、自分勝手に生きているようなものでした。しかし神は、そんな私たちを愛してくださり、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされたのです。ここに愛があります。

 

そして、この神の愛を知った人は、同じように神を信じ、新しく生まれた人たち、すなわち、信仰の仲間である兄弟姉妹を愛するようになるはずです。なぜなら、愛は神から出ているからです。愛がない者に神はわかりません。なぜなら、神は愛だからです。ですから、神の愛を知り、神によって新しく生まれた者は、互いに愛し合うことができるのです。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。そのことによって私たちも神のうちにとどまっていることがわかります。神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。ですから、神を愛する者は兄弟をも愛すべきです。これが、イエスが繰り返して言われたことであり、イエスの戒めです。この戒めを行うなら、あなたはイエスの友なのです。

 

13節をご覧ください。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」どういうことですか?イエスは、私たちが互いに愛し合うことができるように、ご自分のいちのを捨ててくださったということです。同じように、私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきであり、これが互いに愛し合うということなのです。

 

ところで、現実の生活においては、そのようにいのちを捨てるということは、例外的な場合であると言ってよいでしょう。確かに、実際に他人のために命を捨てることもあります。たとえば、三浦綾子さんの小説「氷点」の題材にもなった洞爺丸の沈没事件で、救命胴衣を譲った宣教師たちがそうです。

1954年(昭和29年)6月26日に青森と北海道の函館を結ぶ、青函連絡船の洞爺丸が台風15号のために沈没し、乗員・乗客1314人のうち、1155人が死亡するという事件が起りました。これはタイタニック号に次ぐ世界第二の海難事故と言われています。

その船の中にアメリカ人宣教師ディーン・リーパーと、カナダ人宣教師アルフレッド・ラッセル、が乗り合わせていましたが、彼らはおびえる乗客を手品で和ませたり、逃げ惑う人たちを最後まで励まし続けました。そして、自分の救命胴衣を日本人の子どもに着せ、死んでいったのです。彼らがこのように落ち着いた振る舞いで他人を思いやることができたのは、キリストの十字架の愛を知ったからに外なりません。

しかし、現実の生活において、このように実際に自分のいのちを捨てるという場面に遭遇することは極めて稀なことです。では、ここでイエスが「自分のいのちを捨てる」と言われたのはどういう意味だったのでしょうか。

 

この「捨てる」ととう言葉ですが、これはギリシャ語でティセミー(τιθημι)という言葉です。これは「捨てる」という意味だけでなく、「置く」とか「差し出す」という意味を持っています。つまり、自分のいのちを捨てるというのは、文字通り自分のいのちを捨てるというだけでなく、自分のいのちを自分のためにだけ使うのではなく、それを差し出すこと、そこに置くこと、すなわち、ほかの人々のためにささげて生きることを意味しているのです。自分さえよければよいと考える自己本位な生き方でなく、ほかの人のために自分を使う生き方です。実際に、あの洞爺丸に自分が乗り合わせていたらいったいどんな行動を取っていたかと思うと恐ろしくなります。おそらく、だれよりも早く逃げていたのではないかと思います。これは危ない、早く逃げないと、と救命胴衣を我先に奪い、海の中に飛び込んだのではないかと思うのです。この話を食事の時に家内にしたら「想像できる」と言いました。本当に自分は卑しい人間だなぁと思いましたが、そんなもののためにイエス様は十字架で死んでくださったのです。それによって愛がわかりました。自分のいのちを捨てるなんてできないと思いますが、しかし、そんな卑しい者を愛し、十字架で死んでくださったことを思うと、そして、このみことば、「人がその共のためにいのちを捨てるということ、これより大きな愛はだれも持っていません。」を握っているなら、それが可能となるのではないでしょうか。三浦綾子さんの小説に「塩狩峠」もありますが、あの小説に登場する鉄道職員永野信夫さんが連結した列車の暴走を防ぐために自分の体を犠牲にしたのも、このみことばを握っていたからです。

ですから、その愛で愛された者として、自分さえよければいいという自己本位な生き方でなく、ほかの人のために自分を差し出すような生き方に変えていただきたいと思うのです。もちろん、それは私たちが自分の生活について何も考えてはいけないということではありません。自分さえよければほかの人のことなどどうでもよいと考えるエゴイズムとはちょうど反対に、ほかの人のために自分をささげ、その人の益のために生きる生き方をしていくということが、ここで勧められていることなのです。

 

この戒めを行うなら、あなたはイエスの友です。ちょっと待ってください。私たちは行いによって救われたのではありません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって救わたのです。それはだれも誇ることがないためです。むしろ、そのような弱い者だからこそ、何もできないような者だからこそ、神がしてくださったのではありませんか。それなのに、「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」というのはおかしいんじゃないですか。

いいえ、全然おかしくありません。なぜなら、神の愛を知り、キリストが私たちのために死んでくださったということを体験したなら、むしろ、喜んでそれに従いたいという思いになるはずだからです。だからイエスは13節で、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言われたのです。そんなこと私たちにはできません。だからイエスは、ご自分のいちのを捨ててくださったのです。そのことがわかったら、むしろ、喜んで自分をささげたいと思うようになるでしょう。

 

ヨハネは、そのことをⅠヨハネ3:16でこのように言っています。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」キリストが私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださり、それによって私たちに愛がわかったのだから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきなのです。「ですから」とはそのことです。愛が分からない人にはできません。愛がわかった人、そしてその愛を受け入れた人だけができる。なぜなら、主がそのようにしてくださるからです。イエスは何と言われましたか。イエスは、「わたしにとどまりなさい」と言われました。

「わたしにとどまりなさい。わたしがあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(15:4)

ですから、それはイエスにとどまることによってもたらされるものなのです。イエスにとどまることによって、聖霊がそのような性質に変えてくださるからです。御霊の実は何ですか。御霊の実は愛です。だから、キリストにとどまるなら、聖霊が働いて私たちが愛の人になれるように助けてくださるのです。

 

しかし、それは自動的にもたらされるものではありません。イエス様を信じたら今日から愛の人になりました、とはならないんです。愛は成長し続けていかなければなりません。つまり、私たちがイエスの戒めに従うことが求められるのです。イエスが命じられることを行うのです。確かに、私たちはキリストを信じる信仰によって救われましたが、そのようにして救われたのであれば、そこに必ず行いが伴うのです。それが愛です。Ⅰヨハネ3:17-18に、「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」とあるのはこのことです。愛とは、口先だけではなく、行いと真実をもって表されるものであり、私たちがそれを行動に移して実行した時に全うされるのです。

 

だから聖書には「こうしなさい」と命令形で書かれてあることが多いんです。どうしてこのように命令形で書かれてあるのかというと、私たちの意志に向かって語っているからです。私たちの気分とか感情に訴えかけているわけではありません。意志に訴えているのです。私たちはどちらかというと「こうしなさい」と言われるのを嫌いますが、でも聖書がこのように言っているのは、私たちの気分とか感情というものはいつも変わるからです。だから気分に向かって訴えるのではなく、意志に向かって命じているのです。気分が乗っても乗らなくても意志を働かせて行うなら、聖霊が助けてくださいます。みことばが「互いに愛し合いなさい」と言われたら、「いやだ、あの人だけは無理です。馬が合わないんです。気分が乗りません」じゃなくて、「はい、愛します」と決めて従うことが肝心です。そうすれば、後で気分が乗ってきますから。その時は気分が乗らなくても、聖書のことばに従って行動するなら、祝福されるのです。

 

たとえば、部屋の片づけなどはそうでしょう。気分が乗らないからやらないでいると、いつまで経ってもできません。しかし、よしやろう!と決めて行動するとだんだん気分が乗ってきます。そして、あれもしよう、これもしようということになるわけです。止められない、止まらない、です。勉強だってそうです。気分が乗らないとやりたくありませんというと、いつまでも手につきません。しかし、よしやろう!と決めて始めると、意外と楽しいものです。たぶん。信仰生活もそうでしょ。気分が乗らないから聖書を読まないでいると、いつまでも読むことができません。でも、気分と関係なく聖書に書いてあるように、神の国とその義とを第一にするなら、これらものはすべて、それに加えて与えられます。「持っている人はさらに与えられて豊かになる。 持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マタイ25:29)とあるとおりです。

出来る人と出来ない人の違いはそこにあります。それはその人の持っている能力の差ではなく、やるかやらないかという行動力の差です。気分というのは私たちの意志について来るものです。だから、気分が乗っても乗らなくてもやってみることです。そうすれば、必ず気分がついてきますから。

 

ですから、イエスの命じることを行うことです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」この戒めを守るなら、あなたはイエスの友なのです。

 

Ⅱ.父から聞いたことを知らせたからです(15)

 

第二に、15節をご覧ください。「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。」

 

イエスは、「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です」と言われました。もう「しもべ」とは呼ばれません。しもべは主人が何をするのか知らないからです。「しもべ」とは「奴隷」のことです。奴隷は、主人が言われることをただやるだけです。なぜそれをしなければならないのかとか、なぜそのように言っているのか、どのように考えているのかなどを知りません。しかし、「友」は違います。友は常に親しく交わる仲間であり、自分の心の内を何でも話せる人です。自分が考えていることだけでなく、自分の夢や目標、将来のことまで何でも話します。友がそれを聞いてくれることを知っているからです。信頼できる友であればあるほど、自分の心の思いを洗いざらいは話すことができます。親に話せないことでも友達には話せます。友達はそれを聞いて理解してくれるからです。それが本当の友です。イエスは弟子たちを「友」と呼ばれました。なぜなら、イエスは、父から聞いたことをすべて、彼らに知らせたからです。すごいですね。包み隠さずすべてのことを話されました。あなたに。なぜ?「友」だからです。皆さんは、そういう友達がいますか。自分のことを何でも話せる人、そういう人がいたら、どんなにすばらしいことでしょう。イエスは私たちを「わたしの友」と呼んでくださいました。そのように親しい間柄に入れてくださったのです。

 

ヤコブ2:23に、「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。』」とあります。アブラハムは「神の友」と呼ばれました。どういう点で彼は神の友と呼ばれたのでしょうか。それは、神がアブラハムに隠し事をされなかったという点においてです。神はご自分が考えておられることを、包み隠さずすべて彼に告げました。

それは創世記18章に書いてあります。あるとき、3人の御使いがアブラハムの天幕を訪れます。それは、彼の妻サラに来年の今ごろ男の子が生まれているということを告げるためでしたが、もう一つの目的がありました。それは、ソドムとゴモラという町を滅ぼすかどうか調査するためでした。3人の御使いがソドムの方に向かったとき、アブラハムは彼らを見送りに、一緒に行くと、その中の一人、この方は主ご自身でしたが、こう考えられました。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)神は、ご自分が成そうとしいたことを、アブラハムに隠しませんでした。ソドムとゴモラの町を滅ぼしに行くんだと告げたのです。

するとアブラハムは、そこに自分の甥のロトが住んでいたのを知っていたので、必死に執り成しました。

「その町に50人の正しい人がいるかもしれません。それでもあなたは彼らを滅ぼされるのですか。その50人の正しい人のために、その町をお赦しにならないのですか。」

「もし正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町をすべて赦そう。」

「もしかすると、50人に5人不足しているかもしれません。その5人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのですか。」

「いや滅ぼさない。もしそこに45人を見つけたら。」

「もしかすると、そこに見つかるのは40人かもしれません。」

「そうはしない。その40人のゆえに。」

そう言って、10人まで来たとき、主は「滅ぼすまい。その10人のゆえに」と言って、アブラハムの祈りを聞いてくださいました。

結局、10人もいなかったので、その町は滅ぼされてしまいました。それほどひどい町だったのです。しかし、アブラハムの必死の祈りを聞かれた神は、ロトに、この町から出て行くようにと言って救い出されました。

それにしても神は、ご自分が成そうとしていたことを、アブラハムに隠しませんでした。なぜでしょうか?それは、彼が「神の友」と呼ばれたからです。

同じようにイエスはここで、弟子たちを「友」と呼ばれました。それは、ご自分が成そうとしておられることを彼らに隠さなかったからです。すべて彼らに知らせました。

 

それは私たちも同じです。主は私たちも「友」と呼んでくださいました。なぜなら、イエスは、父から聞いたことをすべて、私たちに知らせくださったからです。それはイエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられること、そして、父なる神の所へ行かれ場所を用意されるということ、その場所を用意したら、また来て、ご自身のもとに迎えてくださるということ、それまでの間、もう一人の助け主を送り、私たちとともに、いや私たちの内にいて、私たちを助けてくださるということ、それゆえに、主は決して私たちを捨てて孤児にはしません。イエス様が再び来られる日までには、世に憎まれることがあります。この世はイエスを迫害したのだから、必ずあなたがたを迫害すると、この後のところで語られます。

イエスが再び戻られる前にはどんなことが起こりますか。イエスは世の終わりが来る前に起こること、前兆を知らせてくださいました。すなわち、世の終わりには、まず偽キリストが現れます。また戦争や戦争のうわさも聞くでしょう。あちこちで飢饉と地震も起こります。そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺すこともあると言われました。偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出てくると、夏が近ことがわかります。同じように、これらのことをすべて見たら、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。ですから、用心しているように。人の子は思いがけない時に来るのです。

 

これはすべてイエスが教えられたことです。恐ろしいほど今、これらのことが起こっています。ああ、世の終わりが近いなあということがわかります。そのことをイエスは、私たちに包み隠さず話してくださいました。なぜ?私たちは「イエスの友」「神の友」だからです。もはやしもべではありません。神の友として、ご自分の心を隠すことなく、父なる神から聞いたことを、私たちに話してくださったのです。すごいでしょ。これは神の友、キリストの友としての特権です。キリストの友でなければ知ることはできません。友だからこそ何でも話すことができ、何でも聞くことができる。聞いて、知ることができるのです。何と大きな特権でしょうか。このような特権は、この世のどんなものとも比較することができません。そして、このような特権が与えられているのですから、私たちはこの関係を大切にしなければなりません。つまり、友の話を聞き、友に話を聞いてもらうという関係です。これが祈りとみことばです。ディボーションです。その時間を大切にしたいですね。そして、決して裏切ることのない永遠の神、主イエスに信頼して、日々歩ませていただきたいと思うのです。

 

Ⅲ.わたしがあなたがたを選び、任命したのです (16-17)

 

第三に、その方法と目的です。私たちはどのようにしてキリストの友とされたのでしょうか。また、それは何のためでしょうか。16節と17節をご覧ください。

「16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。17 あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。」

 

イエス様には12人の弟子がいましたが、その弟子たちはどのようにしてイエスの弟子になったのでしょうか。彼らがイエスを選んだのではなく、イエスが彼らを選び、彼らを弟子として任命しました。たとえば、マタイ4:18には、シモンとその兄弟アンデレが弟子として召された時のことが記されてありますが、それは一方的な主の選びによるものでした。彼らは漁師で、ガリラヤ湖で漁をしていましたが、イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、湖で網を売っていた彼らをご覧になられ、「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」(マタイ4:18)と言われたのです。すると彼らはすぐに網を捨ててイエスに従ったのです。

さらにそこから進んで行き、別の二人の兄弟で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びなられました。すると彼らはすぐに舟と網を残してイエスに従ったのです。

取税人マタイの場合も同じです。マタイが収税所に座っていたのを見たイエスは、「わたしについて来なさい。」と言われると、彼は立ち上がってイエスに従いました。すべてイエスが先に選び、弟子として任命してくださったのです。

 

それは、私たちとイエス様との関係においても言えることです。私たちは自分で選んで教会に来たかのような錯覚を持っていますが、実はそうではなく、神様がそのように選んでくださったので今ここにいるのです。私は18歳の時、たまたま今の家内に出会い、たまたま教会に導かれ、自分でイエス様を信じたと思っていましたが、実はそうではなく、自分がそのように決めるずっと前から、神がそのように選んでおられ、私が福音を聞いた時、それに応答することができるように働いておられたのです。

あなたも、だれかに誘われたので教会に来るようになったと思っているかもしれません。また、聖書の話を聞いたとき、そうしようと自分で決めたと思っているかもしれませんが、そうではないのです。イエス様があなたを選び、任命したのです。

 

先月のイースターにバプテスマを受けるはずだった下荒地兄は、このコロナウイルスで延期になってしまいました。証も書き、バプテスマの証明書も書き終え、お祝いのプレゼントまで用意して、すべての準備が出来ていました。私も37年間牧師をしていますが、バプテスマが延期になったのは初めてでしたが、そこにも神様の導きがあったと信じて感謝しています。なぜなら、それで待ったことでバプテスマを受ける時には喜びもひとしおでしょう。主の恵みが何倍にもなることと思います。

ですから、私は事前に下荒地兄の証を読ませていただきました。感動したのは大地という名前です。お母さんが大地という名前を付けてくれました。お兄さんが太陽で、弟が大地です。太陽と大地。詳しいことはバプテスマ式の時に本人がお話しされると思いますが、そこにクリスチャンのお母さんの祈りがあり、ご病気があり、晃子さんとの出会いがあったということです。そして、その深い所で神の選びがあり、ここに導いてくださったということです。神があきらかに働いておられたのがわかります。

 

私たちもみな例外なく、神に選ばれています。神が先にあなたを選んでいてくださいました。だからあなたは神を信じることができたのです。あなたがキリストを選んだのではなく、キリストがあなたを選び、あなたを任命してくださいました。いつ神が選んでくださったんですか?あなたが生まれる前から、いや世界の基の置かれる前からです。エペソ1:3-4にはこうあります。

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」

先ほども申し上げたように、私は18歳の時にイエス様を信じました。今の家内に誘われて教会に行き、半年ほど過ぎたころに「このままではいけない」と思って信じようと決心したわけです。しかし、実際には18歳の時ではなく、それよりもずっと前に、私が生まれる前から、いや世界の基が置かれる前から、永遠の神によって救われるように選ばれていたのです。私は兄弟が4人いてその末っ子ですが、兄弟でイエス様を信じているのは私だけです。兄たちには何度もイエス様のことを話し、できるだけ近くの教会に行くようにと勧めるのですが、「やめろ、背中が痒くなるから」と言うのです。「お前はいいけど、俺はいい。」と言います。どうしてこんなに違うのか。私が18歳の時教会に誘われた時、全然違和感がありませんでした。むしろ、憧れさえ抱いていました。

考えてみると、私の家族はみな霊山という町の山奥に住んでいました。しかし、祖父母が亡くなったときそこには寂しくて住めないということで、伊達町という町に移り住んだのですが、そこで私は生まれました。だから、私はシティーボーイなのです。その町には昔から教会があり、私はその教会付属の保育園でいつも聖書の話を聞いていました。また、小学校に入ってからも3~4年生になるまでずっと日曜学校に通っていたので、聖書のことはそれほど深くわかりませんでしたが、イエス様が神様だということは何気なく感じていたのです。教会に行くことも全く違和感がありませんでした。ですから、18歳の時に教会に誘われたとき、これだ!と思ったのです。

それは、私がそう思ったというよりも、正確には神がそのように導いてくださいました。私がそのように思うずっとずっと前から、神が選んでおられたのです。

 

それはいったい何のためでしょうか。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めることは何でも、父が与えてくださるようになるためです。どういうことでしょうか?

この「実」とは、伝道の実のことです。イエス様を信じて救われる人たちのことです。私たちが出て行って伝道し、その伝道の実がいつまでも残るようにと、主は私たちを選び、その働きに任命してくださったのです。

考えてみると、この時からキリスト教はどのようになって行ったでしょうか。使徒1:8で、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」との約束を受けた弟子たちは、ペンテコステに聖霊を受けると、エルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、及び地の果てまでキリストの証人となりました。多くの人たちがキリストを信じて神の国、天国に入れられました。そして、その実が残りました。今も残っています。その実とは永遠に残る実です。これは彼らの力によるものではありません。これは聖霊の力、祈りの力でした。だからここに、「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあるのです。多くの人が救われ、その実が残るのは神のみこころです。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。ですから、私たちが行って実を結び、その実が残るようになるのは主のみこころであり、そのために祈って、聖霊に満たされなければならないのです。

 

そのために必要なことは何ですか。互いに愛し合うことです。これがイエスの戒めです。この戒めを守るなら、私たちはイエスの友と呼ばれます。それは降って湧いたかのような話ではなく、永遠の昔から、この世界の基の置かれる前から、キリストにあって選ばれていたことでした。そんな永遠の愛を受けて私たちは選ばれ、キリストの友と呼ばれたのは、私たちが行って実を結び、その実が残るためでした。これが私たちに与えられている使命です。私たちはこのために存在しているのです。ですから、このために祈りましょう。イエスはあなたを友と呼んでくださいました。私たちにはそのようなすばらしい特権が与えられているのです。そのことを感謝し、私たちも出て行って、実を結ぶ者とさせていただきましょう。