士師記18章

士師記18章からを学びます。

 Ⅰ.ダン部族の偵察隊(1-10)

 1~10節をご覧ください。まず6節までをお読みします。「18:1 そのころ、イスラエルには王がいなかった。ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった。18:2 そこでダン族は、彼らの諸氏族全体の中から五人の者を、ツォルアとエシュタオルから勇士たちを派遣し、土地を偵察して調べることにした。彼らは五人に言った。「行って、あの地を調べなさい。」五人はエフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこで一夜を明かした。18:3 ミカの家のそばに来たとき、彼らはあのレビ人の若者の声に気づいた。そこで、彼らはそこに立ち寄り、彼に言った。「だれがあなたをここに連れて来たのですか。ここで何をしているのですか。ここに何の用事があるのですか。」18:4 彼は、ミカがこれこれのことをして雇ってくれたので、ミカの祭司になったのだ、と言った。18:5 彼らは言った。「どうか神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」18:6 その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、【主】がお認めになっています。」」

1節に再び、「そのころ、イスラエルには王がいなかった」とあります。17章において、王がい
なかった時代、イスラエルがどのような状態であったかを見ました。それは「混乱」でした。何をしているのかわからない状態でした。彼らはそれぞれが自分の目に正しいと見えることを行っていたからです。自分では正しいと思うことであっても、実際には神のみこころから外れたことを行っていたのです。前回はそれをミカという人物を通して学びましたが、今回はダン族の堕落を通して学びたいとし思います。

1節には、「ダン部族は、自分たちが住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、その時まで彼らには相続地が割り当てられていなかったからであった」とあります。ヨシュア記を見ると、ダン部族にはすでに相続地が割り当てられていたことがわかります(ヨシュア19:40-48)。それなのに、ここにはダン部族には相続地が割り当てられていなかったとあるのはどういうことでしょうか。地図をご覧ください。

 

 

 

(地の塩港南キリスト教会文書伝道部 まなべあきらの聖書メッセージ「聖書の探求(250,251) 士師記17~18章 ミカの偶像、偶像の略奪、ダン部族のパレスチナ北端の地への移住」より引用)

彼らに与えられた相続地はペリシテ人が住む地中海沿岸の地域であったことがわかります。それで彼らはその地を征服することができないでいたのです。相続地はあくまでも神からの約束であって、実際には自分たちでその地を征服しなければなりませんでした。しかし、彼らにはそれができないでいたのです。それで彼らは別の場所に相続地を得るために、5人の偵察隊を派遣して候補地を探らせることにしました。すると彼らは、エフライムの山地にあるミカの家まで行って、そこに泊まりました。

彼らがミカの家のそばに来たとき、あのレビ人の若者の声がするのに気づきました。以前どこかで会って面識があったのでしょうか、すぐにあのレビ人の声だと気付きました。彼らは、この若者がミカの家の祭司になっていることを知ると、自分たちの旅が成功するかどうか、神に伺ってほしいと頼みます。神の幕屋が設置されたシロが近くにあったにもかかわらず、です。彼らは大祭司を通してお伺いを立てることを無視し、このレビ人に尋ねたのです。

するとミカの祭司は彼らに言いました。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主がお認めになっています。」これもいい加減な答えでした。なぜなら、主は彼らがしているこの旅を認めていなかったからです。主が願っておられたのはその地の住人を追い払うことであって、他に土地を求めることではありませんでした。それなのに彼は適当なことを言ったのです。彼はアロンの家系ではなかったので元々祭司の資格もありませんでしたが、たとえ祭司であったとしても、その務めは神のみこころを正しく伝えることであって、単に人々のしていることを神の名によって認めることではありません。ここにも一つの混乱が見られます。神の名によって人々の願望を宗教的に認めようとする肉の性質が現れているからです。

次に7~10節をご覧ください。「18:7 五人の者たちは進んで行ってライシュに着き、そこの住民が安らかに住んでいて、シドン人の慣わしにしたがい、平穏で安心しきっているのを見た。この地には足りないものは何もなく、彼らを抑えつける者もいなかった。彼らはシドン人から遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかった。18:8 五人の者たちが、ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、身内の者たちは彼らに、どうだったか、と尋ねた。18:9 彼らは言った。「さあ、彼らに向かって攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実にすばらしい。あなたがたはためらっているが、ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。18:10 あなたがたが行くときは、安心しきった民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡してくださった。その場所には、地にあるもので欠けているものは何もない。」」

その5人の者たちは北に進みライシュに着きました。ライシュはヘルモン山の南側の麓近くあります。そこの住民は安らかに住んでいて、どことも軍事同盟を結んでいる様子もなく、戦う用意もなかったので、征服するには最適であるように見えました。そこで彼らはダン部族の領内ツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来ると、「あの地を占領しよう」と報告しました。それは彼らが安心しきっているというだけの理由ではありませんでした。その地は実にすばらしく、広々としており、何と言っても、神がそれをあなたがたの手に渡してくださったというのがその理由でした。

しかし、ここにも誤解がありました。神がその地を与えてくださったというのは勝手な思い込みにすぎず、神から出た信仰の戦いはヨシュアによって割り当てられた地を占領することだったからです。ですから、このダン部族の戦いは、彼らの不信仰によってもたらされた勝手な戦いにすぎませんでした。状況が良いからといってそれが必ずしも神の御心であるとは限りません。信仰の土台がしっかりしていなければ、結局のところ、それは信仰の誤解で終わってしまうことになります。

Ⅱ.混乱(11-20)
 
次に、11~20節をご覧ください。「18:11 そこで、ダンの氏族の者六百人は、武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、18:12 上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営した。それゆえ、その場所は今日に至るまで、マハネ・ダンと呼ばれている。それはキルヤテ・エアリムの西部にある。18:13 彼らはそこからさらにエフライムの山地へと進み、ミカの家に着いた。18:14 ライシュの地を偵察に行っていた五人は、身内の者たちに告げた。「これらの建物の中にエポデやテラフィム、彫像や鋳像があるのを知っているか。今、あなたたちは何をすべきか分かっているはずだ。」18:15 そこで、彼らはそこに行き、あのレビ人の若者の家、ミカの家に来て、彼の安否を尋ねた。18:16 武具を着けた六百人のダンの人々は、門の入り口に立っていた。18:17 あの地を偵察に行った五人の者たちは上って行き、そこに入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は、武具を着けた六百人の者と、門の入り口に立っていた。18:18 これら五人がミカの家に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取ったとき、祭司は彼らに言った。「何をしているのですか。」18:19 彼らは祭司に言った。「黙っていなさい。手を口に当てて、私たちと一緒に来て、私たちのために父となり、また祭司となりなさい。あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか。」18:20 祭司の心は躍った。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。」

そこで、ダン族の者600人は武具を着けてツォルアとエシュタオルを出発し、上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営しました。彼らは、部族の先鋒として群れの先頭に立っていたのでしょう。そして、そこからさらにエフライムの山地にあるあのミカの家に到着しました。そして、先にライシュを偵察に行った5人の者が、ミカの家にエポデやテラフィム、彫像や鋳造があることを告げると、全員でそこに上って行き、それらを略奪しました。これらの物は、元々ミカが母親から盗んだ銀によって作られたものですが、今度はそれが他の人の手によって盗まれてしまったのです。何とも皮肉な結果です。それにしてもダン族もイスラエル部族の一つです。その部族がこんな偶像を略奪していったい何になるというのでしょうか。彼らは、ミカの家にあった偶像に心を魅かれていたのです。これが自分たちのお守りになると思っていました。まことの神を信じている者にとっては考えられないことですが、こういうことが起こるのです。

そればかりではありません。彼らは祭司もミカから奪いました。祭司も祭司です。「あなたは一人の人の、家の祭司となるのと、イスラエルで部族また氏族の祭司となるのと、どちらがよいのか」と尋ねられると、「祭司の心は踊った」とあります。ミカの家にいるときはお金に引き寄せられましたが、今度は栄誉に引き寄せられました。部族や氏族の祭司になることができるという言葉に魅かれたのです。それでこの祭司は、主人を裏切り、エポデとテラフィムと彫像を盗み、彼らの中に入って行きました。

 何が起こっているのかさっぱり理解できません。すべてが混乱しています。人の手で作った偶像が、自分たちを守ってくれるはずがありません。それなのに、ダン族の者たちはこれらの偶像に心が魅かれていましたし、祭司も祭司で、地位や名誉に心が魅かれ、主人ミカを裏切ったばかりか、そこにあった偶像を盗みました。この祭司は、所詮雇われた祭司にすぎません。彼は裏切り者で、盗人でした。すべてが混乱しています。異常事態です。いったい何が問題だったのでしょうか。それは、「イスラエルには王がいなかった」ことです。彼らはただ自分の目に良いと見えることを行っていたのです。それが問題でした。彼らはイスラエルの神を捨てていたわけではありません。自分たちでは信じているつもりでした。しかし、神の御言葉に聞かなかった結果、カナンの神々を礼拝するという混合宗教に陥っていたのです。しかし、これは何もイスラエルの民だけのことではありません。私たちにも言えることです。私たちも神の御言葉に聞き従うのではなければ、自分の目に良いと見えることを行うようになり、同じような過ちに陥ってしまうことになります。

  Ⅲ.ダン族がもたらした不幸(21-31)

  最後に、21~31節までを見て終わりたいと思います。まず、21~26節までをご覧ください。「18:21 彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行った。
18:22 彼らがミカの家からかなり離れたころ、ミカは近所の家の者たちを集めて、ダン族に追いついた。18:23 彼らがダン族に呼びかけると、ダンの人々は振り向いて、ミカに言った。「あなたはどうしたのだ。人を集めたりして。」18:24 ミカは言った。「あなたがたは、私が造った神々と、それに祭司を奪って行きました。私のところには何が残っているでしょうか。私に向かって『どうしたのだ』と言うとは、いったい何事です。」18:25 ダン族はミカに言った。「あなたの声が私たちの中で聞こえないようにしなさい。そうしないと、気の荒い連中があなたがたに討ちかかり、あなたは、自分のいのちも、家族のいのちも失うだろう。」18:26 こうして、ダン族は去って行った。ミカは、彼らが自分よりも強いのを見てとり、向きを変えて自分の家に帰った。」

「彼ら」とはダン族のことです。彼らは向きを変え、子ども、家畜、家財を先頭にして進んで行きました。するとミカは、近所の家の者たちを集めて、ダン族の後を追いかけます。彼らはダン族に呼びかけますが、多勢に無勢です。逆に脅しをかけられ、そのまま引き下がるしかありませんでした。これはミカの罪に対する神のさばきです。ミカが所有していた偶像は、そもそも彼が母親から盗んだ銀によって造られた物でした。その偶像が今度は他人に盗まれてしまったのです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。神を恐れない人の人生は、結局のところ、このような結果を招くことになるのです。

彼は、この事件から何を学んだでしょうか。もし彼がこれをきっかけに真の神に立ち帰ったのであれば、この出来事は彼にとっては幸いであったと言えるでしょうが、もし何も学ぶことがなかったら、それこそ悲劇です。誰でも失敗は付きものです。大切なのは、そこから何を学ぶかということです。その失敗から学び、神に立ち帰らせていただきましょう。

最後に、27~31節までをご覧ください。「18:27 彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪い、ライシュに行って、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼いた。18:28 だれも救い出す者はいなかった。その町はシドンから遠く離れていて、そのうえ、だれとも交渉がなかったからである。その町はベテ・レホブの近くの平地にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。18:29 彼らは、イスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。しかし、その町の名は、もともとライシュであった。18:30 さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、その地の捕囚のときまで、ダン部族の祭司であった。18:31 こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた。」

彼らは、ミカが造った物とミカの祭司とを奪うと、ライシュに行って、その民を襲い、剣の刃で彼らを討って、火でその町を焼きました。その町はシドンから遠く離れていたため、誰も助けてくれなかったので、簡単に征服することができました。それで彼らは町を建て、そこに住みました。彼らは、その町の名を自分たちの先祖ダンの名にちなんで「ダン」という名をつけました。これがイスラエル12部族の北限の所有地となります。この時以来、全イスラエルを指すときに「ダンからベエル・シェバまで」という表現が使われるようになりました。

彼らはそこに自分たちのために彫像を立てました。恐らく神の宮も建て、そこに彫像を安置したことでしょう。31節には、「こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てていた」とあります。神の宮はシロに設置されるはずでしたが、この時以来、このダンにも設置されたのです。そして、後にイスラエルが南北に分裂すると、北王国イスラエルの王ヤロブアムは、このダンとベテルに金の子牛を置くようになります。ヤロブアムは、ダン部族が彫像を立てた場所に金の子牛を置いたのです。それは、北王国がB.C.722年にアッシリア帝国によって滅ぼされるまで続きます。彼らは、ミカの家にあった偶像を手に入れたことは神の祝福だと思っていましたが、実はそうではなく、逆にそれが彼らを束縛するもとになりました。このようなことが私たちにも起こります。祝福だと思っていたことが、災いの原因になることがあります。そういうことがないように、常に御言葉に聞き従い、神のみこころを求めて歩みましょう。

士師記17

士師記17

士師記17章から学びます。17~21章までは、この士師記の後書きです。私たちはこれまで、士師の時代がどのような時代だったのかを学んできましたが、その間に起こった典型的な出来事がまとめられています。その特徴は何かというと、6節にあるように、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」ということです。その時代がどのような時代であったのかを見ていきたいと思います。

 Ⅰ.自分の息子の一人を祭司にしたミカ(1-6)

まず、1節から6節までをご覧ください。 「17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「【主】が私の息子を祝福されますように。」17:3 彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して【主】にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。 17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」

エフライムの山地の出身で、ミカという名の人がいました。ミカというのは、「誰が主のよう
であろうか」という意味ですが、彼はその名とは裏腹に、主に反した行動を取ります。彼は母から銀1,100枚を盗みました。しかし、その銀貨が盗まれた時、母親がのろいを誓い、それが彼の耳にも届いて恐ろしくなったのか、彼は「実は、その銀は私が持っています」と告白し、それを母に返しました。こうしたのろいの誓いは、呪われた人の上に留まるとされていたからです。

すると母親は何と言ったでしょうか。母はこのように言いました。「主が私の息子を祝福され
ますように。」
どういうことでしょうか。自分の銀を盗んだ息子を祝福してくれるようにと祈るとは・・。ここに一つの混乱が見られます。自分の息子がお金を盗んだのであれば、たとえ息子がそれを告白したとしても、「なんでこんなことをしたのか。このようなことはしてはならない」と叱るのが親でしょう。それなのに彼女は、「主が私の息子を祝福してください」と言ったのです。普通ではありません。

そればかりではありません。息子が母親にその銀1,100枚を返すと、母はその銀を主に献げ、その中から銀200枚を取り、自分の息子のために彫像と鋳像を作るのです。「彫像」とは、へブル語で「ペセル」という言葉から派生した言葉ですが、「彫る」とか「刻む」という意味です。おそらく、木や石や青銅などを彫って作った偶像のことでしょう。「鋳像」とは、へブル語で「マッセーカー」という言葉から派生した言葉ですが、意味は「地金を注ぐ」です。つまり、鉄や青銅、錫(すず)、鉛、アルミニウムなどの金属を溶かし、鋳型に流し込んで作られた偶像のことです。出エジプト記34章17節には、「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」と禁じられていますが、それは明らかに十戒で禁じられていた「偶像を作ってはならない」という主の律法に違反することでした。

さら5節には、「このミカという人には神の宮があった。」とあります。これも律法に違反しています。というのは、神の宮は、主が命じられた場所に置かなければならなかったからです。この当時は、それはエフライム領内のシロという場所にありました。

それだけではありません。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を祭司に任命していました。エポデとは祭司用の服のことです。またテラフィムとは家の守護神のことです。これも律法に違反しています。祭司はアロンの家系から選ばれなければならず、だれもが勝手になれるというものではありませんでした。

これらのことからどういうことが言えるでしょうか。6節です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」
確かに彼らは自分の目で良いと思えることを行っていましたが、それが必ずしも正しいことであったとは限りませんでした。それが神のみこころに反していることもあったのです。というか、かなり的を外していたことがわかります。彼らは決してイスラエルの神、主を捨てたわけではありませんでしたが、彼らの信仰はいつしかカナンの習慣に迎合し、神の民としてのあり方から大きくズレてしまっていたのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

ここには、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあります。民を導く指導者がいなかったのです。それで彼らは、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。神の指導者がいない民は、実に悲惨であることがわかります。常に聖書から神のみこころを語り、民を導く羊飼いがいないということは混乱を招くことになります。日本にも様々な事情により無牧の教会がたくさんありますが、群れを牧する羊飼いがいないことは羊にとって致命的な結果を招くことがあります。たとえ牧師がいたとしても、その牧師が正しく神のみことばを語り、みことばによって羊を養わなければ同じことです。群れを導くリーダーのために祈らなければなりません。

Ⅱ.祭司を雇ったミカ(7-13)
 
次に7節から13節までをご覧ください。「17:7 ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。 17:8 その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、 17:9 ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」 17:10 そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。 17:11 このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。 17:12 ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。 17:13 そこで、ミカは言った。「私は【主】が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」

 7節には、ユダのベツレヘム出身の一人の若者が登場します。彼はレビ人でそこに寄留していました。どういうことかというと、彼はユダのベツレヘム出身のレビ人でしたが、ユダ族に属している人ではなかったということです。ただそこに寄留していただけです。というのは、レビ人はイスラエルに相続地を持っていなかったからです。神ご自身が彼らの相続地でした。彼らに与えられていたのは住む町と放牧地だけでした。ですから、この「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する」というのは、ユダのベツレヘムに居住していたレビ族出身の人という意味です。彼は滞在する所を求めて、ユダの町であるベツレヘムを出て、旅を続けていました。そして、エフライムの山地にあるミカの家までやって来たのです。

するとミカは、彼がベツレヘムから来たレビ人であることを知ると、「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。」と懇願しました。この「父」というのは、その家の主人ということではなく、霊的導き手という意味です。そして、その対価として提示したのは、毎年、銀10枚と、衣服一そろいと、それに食料を差し上げるということでした。つまり、生活費を支給するということです。これはレビ人にとって大きな誘惑だったことでしょう。というのは、それだけあれば生活の安定が得られるからです。すると、このレビ人は一つ返事で同意しました。それでミカの家で一緒に住むことにしました。彼はミカの息子の一人のようになりました。するとミカは何と言ったでしょうか。13節に「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」とあります。どういうことでしょうか?

これまでミカは息子の一人を祭司に任命していましたが、今や本物の祭司がミカの個人的な祭司になったということです。それで彼は喜んでいるのです。しかも彼はここで、それをしてくださったのは「主」だと言っています。「主が私を幸せにしてくださることを知った」と。それが主からの祝福であると勝手に思い込んだのです。しかし、これは大きな誤解でした。レビ人だからというだけで祭司になれるわけではないからです。下記のレビ族の家系図をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(「レビ族の家系」、空知太栄光キリスト教会ホームページより引用)

 これを見ていただくとわかるように、祭司になることができるのはレビ族の中でもアロンの家系から出る者だけでしたが、彼はそうではありませんでした。

レビ族とは、ヤコブの3番目に生まれた息子レビから始まっている一族です。レビ族は神にとって特別な存在でした。つまり、彼らは神のために聖別された部族であったのです。そのため神は、レビ族の各氏族(ゲルション族、ケハテ族、メラリ族)に聖所の務めを果たすという重要な務めを与えられました。そして、それぞれの氏族に専門の任務を与えたのです。すなわち、ゲルション族には、聖所の幕に関する部分(天幕のおおい、会見と入口の垂れ幕、幕と幕をつなぐひもなど)の管理と運搬、ケハテ族には、聖所にある器具の一切(契約の箱、机、燭台、祭壇、それらに関する用具など)の管理と運搬、メラリ族には、聖所を支える部分(板、横木、柱、台座、釘など)です。各氏族に与えられた任務はそれぞれ独立したものであり、他の部族の任務を兼用したり、代替えすることは許されませんでした。それぞれが専門職として割り当てられたのです。

祭司とレビ人はもともと同じレビ族から派生していますが、祭司とその職はレビの2番目の息子であるケハテから生まれた最初の子であるアロンの家系から出た者たちで、いわば、特別職でした。祭司たちはすべてアロンの家系で世襲制でした。祭司たちは会見の天幕における礼拝を実際に取り仕切っていく者たちでした。そして、この祭司を支えたのがレビ人なのです。つまりレビ人は祭司の指導の管理下にあったのです。礼拝を取り仕切る祭司のもとで仕える存在、それがレビ人たちだったのです。民数記3章5~7節で神はモーセに次のように告げています。「主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。」
ですから、レビ人は神に仕え、祭司に仕え、そしてイスラエルの人々に仕える者たち(奉仕者)だったのです。また、彼らが祭司職にかかわることは一切許されませんでした。民数記3章10節には「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とあります。それほどに祭司職は特別な職であったのです。
それなのにミカは、自分勝手に神の宮を設置し、そこに偶像を安置して、さらに資格のないレビ人を祭司に任命しました。こうしたことは、主の目には忌むべきことでしたが、ミカはそれを主からの祝福だと勘違いしたのです。

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。続く18章1節をご覧ください。ここにも出てきます。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」それで、彼らは自分の目で良いと見えることを行っていたからです。このことは6節でも言われていたことです。このことが何度も繰り返して記されています。この士師記の著者は、このミカの行為が、士師時代の無法状態を表す良い例としてあげているのです。イスラエル人の信仰は、祭司制度の混乱にまで及んでいたのです。

しかし、これは何も当時のイスラエル人だけの問題ではありません。現代の私たちクリスチャンにも問われていることです。自分の目に良いと見えることを行っている人は、すなわち、勝手な信仰生活をしている人は、偶然にも良いことがあると、それを神からの祝福を受けている証拠だと受け止めて喜びますが、それはただの勘違いであり、聖書信仰とは相入れないものです。そのような信仰は、遅かれ早かれ、神のさばきをその身に招くようになり、結局、信仰からも離れてしまうことになります。こんなはずではなかったのに・・・と。

次の18章を見るとわかりますが、やがてミカもそのさばきを受けることになります。自分が雇った祭司に裏切られ、彼が所有していた偶像が奪われてしまうことになるのです。彼が母親から盗んだ銀によって作られた偶像が、今度は他の人の手によって盗まれるというのは、何とも皮肉な話です。私たちはそういうことがないように、自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求めましょう。主のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。そのためにはよく聖書のことばを学び、主のみこころを求めましょう。自分の中にミカのように都合の良い信仰はないかどうか、吟味しなければならないのです。

 

ペリシテ人についての預言 エレミヤ書47章1~7節

2025年6月8日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書47章1~7節(旧約P1379、エレミヤ書講解説教78回目)
タイトル:「ペリシテ人についての預言」
エレミヤ書47章に入ります。46章から諸国の民に対する預言が語られていますが、今回はペリシテ人に対する預言が語られます。
 Ⅰ.ペリシテ人の破滅(1-5)
まず、1~5節までをご覧ください。1節をお読みします。「47:1 ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった【主】のことば。」
これは、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について預言者エレミヤにあった主のことばです。ファラオとはエジプトの王の称号です。そのファラオがガザを討つ前に、主はペリシテ人についてエレミヤに語っておられたのです。それはB.C.605年頃だと思われます。何度かお話していますが、その年、バビロンが台頭を恐れたファラオは、バビロンと戦うためにパレスチナに北上しました。そこでバビロン軍と戦うわけです。それはユーフラテス河畔のカルケミシュというところで行われた戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれていますが、結果は、エジプト軍の惨敗でした。しかし、パレスチナに北上したエジプト軍は、ペリシテ人最大の都市ガザを討ちました。その前に、主がペリシテ人について語られたエレミヤに語られた預言がこれです。
それはどのような内容だったでしょうか。2~5節をご覧ください。「47:2 【主】はこう言われる。「見よ。北から水が上って来てあふれる流れとなり、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流す。人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶ。47:3 荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。47:4 すべてのペリシテ人を破滅させる日、ツロとシドンを助ける生き残りの者すべてを断ち切る日が来たからだ。まことに【主】は、ペリシテ人を、カフトルの島の残りの者を破滅させる。47:5 ガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙らされる。平地の残りの者よ、いつまで、おまえは身を傷つけるのか。」
2節にある「北から水が上って来て」とは、バビロン軍のことです。その水はあふれる流れとなって、地とそこに満ちているもの、町とその住民を押し流します。それは洪水のように襲ってきて、ペリシテの町々を呑み込むのです。すでにガザはエジプトの王ファラオによって討たれていましたが、今度はそのファラオを討ったバビロンによってすべての町が吞み込まれることになります。ですから、ペリシテ人はエジプトとバビロンのどちらからも攻め込まれて破滅することになるのです。まさにWパンチです。
その光景は、実に悲惨でした。3節には「荒馬のひづめの音のため、戦車の響き、車輪のとどろきに、父親たちは気力を失い、子どもたちを顧みない。」とあります。荒馬、戦車の音に、人々はわめき、地の住民はみな泣き叫ぶことになります。父親たちは気力を失い、自分の子どもたちを顧みる余裕さえありません。すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからです。
4節には、その日には生き残ってツロとシドンを助けようとする者もみな、断ち滅ぼされることになるとあります。ツロやシドンはペリシテの同盟国だったので、生き残って、彼らを助けようとするわけですが、助けようとしても助けることができないのです。ツロとシドンを助けようとする生き残りのすべての者もみな、断ち切られることになるからです。
また4節には「カトフルの島」という名称が出てきますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。そこがペリシテ人の出身地でした。彼らは元々そこに住んでいましたが、パレスチナの海岸地帯に移り住むようになったのです。ちなみに、パレスチナという地名は、このペリシテという名前に由来しています。パレスチナに移り住んだペリシテ人は、ユダヤ人と対立しながら現在のガザ地区のアラブ人となっていったのです。そのカフトルの島の残りの者を破滅させるというのは、ペリシテ人を根絶やしにするということです。
5節にある「ガザ」と「アシュケロン」は、ペリシテを代表する都市です。そのガザは頭を剃られ、アシュケロンは黙されることになります。それは深い悲しみと嘆きを表現しています。なぜそれほど深く嘆き悲しむのでしょうか。徹底的に滅ぼされることになるからです。ペリシテ人はすべて滅び失せることになるということです。
 これが、ファラオがガザを討つ前に、ペリシテ人について主が預言者エレミヤに告げられたことばです。いったいなぜペリシテ人は、そのように破滅することになったのでしょうか。
Ⅱ.ペリシテ人が滅ぼされた理由(6-7)
6~7節をご覧ください。ここには、「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」とあります。
ここには、それは主の剣だとあります。主が剣に命じたのでこのようになったのです。それは彼らが主のみこころに従わなかったからです。いったいどのような点で主のみこころに叶わなかったのでしょうか。
ここで、創世記12章1~3節を開きたいと思います。「12:1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
これはイスラエルの父祖アブラハムに対して主が語られたことばです。アブラハム契約と呼ばれているものです。それはアブラハムが主の命令に従い、自分の父の家を離れ、主が示す地へ行くなら、主は彼を祝福し、彼の名を大いなるものとするというものでした。3節には、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。この約束のとおり、神はアブラハムの子孫から出るメシヤによって、この約束を成就してくださいました。その方とはだれでしょうか。そうです、それはイエス・キリストです。神はこのイエスによって地上のすべての民族を祝福する、すなわち、救いに導くという計画を持っておられたのです。そのためにアブラハムは選ばれました。神はこの祝福の基として特別にアブラハムを選ばれたのです。このアブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われることになります。これが聖書の原則なのです。しかし、ペリシテ人はこの原則に従いませんでした。神によって選ばれたアブラハムの民族、神の民を呪ったのです。それゆえ、神様から呪われることになったのです。もし彼らがイスラエルを祝福したのであれば、祝福されたでしょう。しかし、彼らはイスラエルに敵対し、絶えず攻撃しました。それゆえ、彼らは滅ぼされることになったのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
ここで地図をご覧ください。「ペリシテ人の地(新改訳聖書第三版、地図6)」


ペリシテ人について特筆すべきことは、彼らがどこに住んでいたかという点です。下の黒い楕円で囲まれた地域がペリシテ人の地です。ガザはその中にある赤い円で囲まれた町。その上は5節に出てきたアシュケロンです。ガザは今もイスラエルと戦闘状態にありますが、アシュケロンと合わせペリシテ人の5大都市の一つでした。ペリシテを代表する都市です。そのずっと上、北の方にある2つの黒い円で囲まれた町は、4節に出てきたツロとシドンです。このペリシテ人の地と隣り合わせにあるのがユダの地です。ペリシテの東側にある四角で囲まれた血です。その右斜め上にあるのがエルサレムです。つまり、ペリシテ人の地はユダの地と隣り合わせにあったということです。もうほとんど入り混じっています。それで彼らは絶えずイスラエルに侵入してはイスラエルを支配しようとしたのです。イスラエルにとってはまさに「肉のとげ」のような存在だったのです。
旧約聖書を読むと、彼らに対する言及は古くはアブラハムの時代に遡りますが、顕著に出てくるのは士師記の時代です。今、さくらチャーチでは士師記を学んでいますが、サムソンが戦ったのがこのペリシテ人でした。その後もサムエル、サウル、ダビデの時代も彼らはイスラエルを悩まし続けます。最終的にダビデがペリシテ人を討ち、征服しました。ダビデが戦ったのはゴリヤテというペリシテ人の大男でした。1サムエル記17章4節によると、彼の身長は6キュビト半もありました。1キュビトは44.5cmですから、6キュビト半は289cmになります。ほんとかいな?と首をかしげたくなります。あのジャイアント馬場でさえ209cmでしたから、相当大きかったことがわかります。でもダビデはその巨人ゴリヤテを石投げ一つで倒しました。それでペリシテ人はイスラエルに屈することになったのです。ソロモンの時代になると、ペリシテ人は完全にイスラエルに仕えるようになります。しかし、B.C.931年にイスラエルが北と南に分裂するとペリシテ人は再び勢力を回復し、イスラエルを悩ますことになります。そんなペリシテ人を、神は徹底的に滅ぼされるのです。なぜでしょうか?神に選ばれた民に敵対したからです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
それは、この人類の歴史を見てもわかります。先日、いつも教会にお米を届けてくださる方が、「先生、最近、高原剛一郎先生が書かれた『世界は聖書で出来ている』という本が出版されたのでプレゼントします」と言ってわざわざ持って来られました。どれどれとめくって見たら、このことについて書かれてありました。詳細は触れませんが、過去500年の人類の歴史を見ると、世界の覇権を握った国々は、すべてユダヤ人を祝福した国だったというのです。それはスペインでありポルトガル、オランダ、イギリス、そしてアメリカです。これらの国の興隆と没落を振り返ると、そこにはこの原則が流れていたというのです。特に第一次世界大戦前後のイギリスと、第二次世界大戦後のアメリカを見るとよくわかります。ヨーロッパの辺境にある島国が、やがて「7つの海を支配する」大英帝国に成長した背景には、このようなユダヤ人への支援と協力があったからなのです。
また、戦後アメリカが超大国に成長した背景にも、第一次世界大戦後ヨーロッパで難民となったユダヤ人を受け入れたという事実がありました。アメリカに移住したユダヤ人たちは、背水の陣で生き残りをかけ、並外れた努力を重ねた結果、他のどの移民集団よりも短期間で成功を収め、金融、不動産、映画産業、マスコミ、医学、法律、自然科学、そして芸術、文化に至るまで、他を圧倒しました。第二次世界大戦後アメリカは、世界の超大国として君臨したのです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるという聖書の原則が働いていたのです。
しかし、これは必ずしもユダヤ人という民族に限ったことではありません。それは私たちクリスチャンのことでもあるからです。いやむしろ霊的な意味では、私たちこそアブラハムの子孫、霊的イスラエルです。なぜなら、アブラハムの子孫から出るメシヤ、救い主なるイエス・キリストを信じたことで、神の民とされた者だからです。Ⅱペテロ2章9~10節にはこうあります。
「2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
「あなたがた」とは、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた人たちのことです。ペテロはそのように選ばれた人たちに対して、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民だと言っているのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者であると言ったのです。そう、イエス・キリストを信じるようにと選ばれた私たちも、このアブラハムの子孫であり、真のイスラエルなのです。ですから、イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。私たちは祝福すべきであって、呪うべきではありません。もし神に選ばれた者を呪うことがあるとしたら、ペリシテ人のように呪われることになります。なぜなら、アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるからです。
以前、米沢の恵泉キリスト教会牧師の千田次郎先生からこんなお話を聞いたことがあります。それは、かつて全日本リバイバルミッションが盛んに行われていた頃のことですが、主催者の滝元明先生から、東北で決起集会をしたいので協力してほしいと要請があったそうです。しかし、千田先生はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、伝道は大きな集会を開くことではなく、マタイ28章にあるように、あらゆる国の人々を弟子とすることだからです。そのために行って福音を宣べ伝え、バプテスマを授け、主が命じたことを守るようにみことばを教えなければなりません。必ずしも大きな伝道集会を開くことが必要ではない。そういう思いがありました。
しかし、ある日御言葉を読みながら祈っていると、このことが示されたのです。「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」。そしてアブラハムとは誰だろうと思い巡らしていると、それは滝元先生ではないか。滝元先生は神によって選ばれた神の器だと。その滝元先生を祝福することこそ、神様が望んでおられることだと確信し、その働きの祝福を覚えて祈るようになったということでした。
私はそのお話を聞いたとき、すごいなぁと思いました。というのは、人は自分の考えと違うとなかなか受け入れることができないものですが、神のみこころを求めて祈る中で、たとえそれが自分の考えと違っても神のみこころなら従うということを実践されておられたからです。それこそ神様に喜ばれることであり、神様が祝福してくださる信仰だと思いました。私はまだそれほど長い信仰生活を送ってきたわけではありませんが、確信をもって言えることは、神の御言葉に従う者を神は豊かに祝福してくださるということです。それは霊的な面においても、精神的においても、肉体的な面においても、物質的においても、経済的においても、社会的な面においても、すべての面においてです。Ⅱ歴代16章9節に、「【主】はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」とある通りです。問題は、私たちの心が主の心と一つになっているかどうかです。もし一つになっているなら、主はそのような人々に御力をあらわしてくださいます。それはこの点においても言えることです。アブラハムを祝福する者は祝福され、呪う者は呪われるのです。
先日、私は64回目の誕生日を迎えましたが、この64年を振り返りながら、このような人生を与えてくださった主に感謝しました。なかなかないと思うんですよ。18歳で信仰に導かれ、22歳で伝道者として召され、以後42年にわたりイエス様一筋に仕えることができるなんて。私は長嶋茂雄さんにはなれなかったし、マイケル・ジョーダンにもなれなかったけど、キリストのしもべとして歩み続けることができました。それは一重に神様のあわれみだったと思います。そのために神様は選んでくださいました。そう感じます。
しかしそのように祈っていたら、神様からの御声がありました。「違う」と。「えっ、どういうことですか」と尋ねると、主は私にこう語っておられるように感じました。
「確かに、わたしはあなたを選んだが、それ以上にパットを選んだのだ」と。「パットがアブラハムで、あなたはそのアブラハムに仕えるしもべにすぎない。」と。
これはどういうことだろうと思い巡らしていると、神様が言われることがわかるような気がしました。
家内が宣教師として来日したのは1979年ですから、今から46年前になります。一般に、宣教師は母国のサポーターから献金を募り、何らかの宣教団体を通して遣わされてきますが、家内はそうしませんでした。献金を集めるのがあまり得意じゃないということもありましたが、何よりもそうすれば4年に一度デブテーションで戻らなければなりません。自分をサポートしてくれている教会に報告しなければならないからです。伝道の途中で1年間も空けることは宣教にとって大きな妨げになるのではないかと考えたのです。ですから彼女は宣教団を通してではなく、セルフサポートといって自分で働きながら宣教する道を選びました。それは自由に宣教できるというメリットはありますが、老後のことを考えると厳しい選択でもありました。というのは、働きを終えて帰国する時、何の保障もないからです。でも彼女はアブラハムのように「あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」との召しを受けたとき、それに従い、どこに行くのかも知らずに、ただ信仰によって来日しました。そこで私と出会って結婚に導かれたのです。それは老後の保障どころか、帰国の路が閉ざされることを意味していました。日本に骨を埋めることを覚悟したということです。それほどの覚悟で来たのは、神様が彼女を選ばれたからです。パットがアブラハムで私はそのしもべにすぎないと言われる主のことばの意味がわかるような気がしました。そういえば、来日したばかりの頃、彼女はよく言っていました。「私は口下手なのでモーセですが、あなたはよく喋るのでアロンだ」と。主はご自身の御業のためにモーセを選んだように、パットを選ばれたのです。
であれば、私がすべきこと何でしょうか。このアブラハムを祝福することではないかと思ったのです。アブラハムを祝福する者は祝福されるからです。
それはパットだけでなく、神の民とされた私たちクリスチャンにも言えることです。私たちはお互いに神に選ばれた神の民なのです。であれば、祝福すべきであって呪ってはいけません。喜んでいる者とともに喜び、泣く者と一緒に泣く。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちに順応しなければなりません。そういう人を、神様は祝福してくださるからです。ペリシテ人はそうではありませんでした。イスラエルを祝福したのではなくイスラエルに敵対し、いつも戦いを挑みました。それゆえ、神から厳しい裁きを受けることになったのです。私たちはそういうことがないように、この御言葉に従わなければなりません。神に選ばれた神の民を、愛する兄弟姉妹を心から祝福しなければなりません。祝福すべきであって呪ってはいけないのです。
Ⅲ.主のみことばの剣(6-7)
第三のことは、だから神のことばに従いましょう、ということです。6~7節をもう一度ご覧ください。「47:6 「ああ。【主】の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。【主】が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸──そこに剣を向けられたのだ。」
ここには単にペリシテがバビロンによって討ち破られたというだけでなく、その背後に神の力と支配があったことがわかります。6節は、平安がないことを嘆くペリシテ人の嘆きです。「ああ、主の剣よ。いつまで休まないのか。さやに収まり、静かに休め。」
ここで注目していただきたいことは、エレミヤが「主の剣」と言っていることです。実際にはペリシテもエジプトと同様に、目に見えるところではバビロンの攻撃によって討ち破られたわけですが、エレミヤはその出来事の背後に、主の力と支配があることを認めていました。
7節もそうです。「どうして、休めるだろうか。主が剣に命じられたのだ。」とあります。主が命じられたのだから、主のみこころが実現するまでは休むことはありません。彼らに求められていたことは、それが主の剣であると認め、主の前にへりくだり、ペリシテの神ダゴンではなくイスラエルの神、主を信じることだったのです。
それはペリシテ人だけのことではありません。私たちにも言えることです。聖書には、文字通り武具としての剣だけでなく、主なる神が語られる「みことばの剣」について言及されています。へブル4章12節です。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
神のことばはそれほどまでに鋭いのです。人の心の奥深くに光を当て、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。それは両刃の剣よりも鋭いのです。ですから、この神のことばによって罪が示されたのなら、「いたたっ!さやに収まり、静かに休め」と言うのではなく、私の罪のために十字架にかかり、救いを成し遂げてくださった主イエス・キリストの御前に進み出て、砕かれた、悔いた心をもって、罪の赦しを求めなければなりません。そして御言葉によって励まされ、慰められ、強められ、教えられ、助けられて、御国を継ぐ者とさせていただかなければなりません。それがペリシテ人に対して語られた主のことばを通して教えられることです。神のことばに従いましょう。神のことばに従ってアブラハムを祝福しましょう。イスラエルを祝福しましょう。主にある兄弟姉妹を祝福しましょう。祝福すべきであって、呪ってはいけません。神のことばに生きるとき、必ずあなたも祝福の基となることができます。それこそ、あなたが世の光、地の塩としてこの世に遣わされている目的だからです。

士師記17章

士師記17

士師記17章から学びます。17~21章までは、この士師記の後書きです。私たちはこれまで、士師の時代がどのような時代だったのかを学んできましたが、その間に起こった典型的な出来事がまとめられています。その特徴は何かというと、6節にあるように、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」ということです。その時代がどのような時代であったのかを見ていきたいと思います。

 Ⅰ.自分の息子の一人を祭司にしたミカ(1-6)

まず、1節から6節までをご覧ください。 「17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「【主】が私の息子を祝福されますように。」17:3 彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して【主】にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。 17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」

エフライムの山地の出身で、ミカという名の人がいました。ミカというのは、「誰が主のよう
であろうか」という意味ですが、彼はその名とは裏腹に、主に反した行動を取ります。彼は母から銀1,100枚を盗みました。しかし、その銀貨が盗まれた時、母親がのろいを誓い、それが彼の耳にも届いて恐ろしくなったのか、彼は「実は、その銀は私が持っています」と告白し、それを母に返しました。こうしたのろいの誓いは、呪われた人の上に留まるとされていたからです。

すると母親は何と言ったでしょうか。母はこのように言いました。「主が私の息子を祝福され
ますように。」
どういうことでしょうか。自分の銀を盗んだ息子を祝福してくれるようにと祈るとは・・。ここに一つの混乱が見られます。自分の息子がお金を盗んだのであれば、たとえ息子がそれを告白したとしても、「なんでこんなことをしたのか。このようなことはしてはならない」と叱るのが親でしょう。それなのに彼女は、「主が私の息子を祝福してください」と言ったのです。普通ではありません。

そればかりではありません。息子が母親にその銀1,100枚を返すと、母はその銀を主に献げ、その中から銀200枚を取り、自分の息子のために彫像と鋳像を作るのです。「彫像」とは、へブル語で「ペセル」という言葉から派生した言葉ですが、「彫る」とか「刻む」という意味です。おそらく、木や石や青銅などを彫って作った偶像のことでしょう。「鋳像」とは、へブル語で「マッセーカー」という言葉から派生した言葉ですが、意味は「地金を注ぐ」です。つまり、鉄や青銅、錫(すず)、鉛、アルミニウムなどの金属を溶かし、鋳型に流し込んで作られた偶像のことです。出エジプト記34章17節には、「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」と禁じられていますが、それは明らかに十戒で禁じられていた「偶像を作ってはならない」という主の律法に違反することでした。

さら5節には、「このミカという人には神の宮があった。」とあります。これも律法に違反しています。というのは、神の宮は、主が命じられた場所に置かなければならなかったからです。この当時は、それはエフライム領内のシロという場所にありました。

それだけではありません。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を祭司に任命していました。エポデとは祭司用の服のことです。またテラフィムとは家の守護神のことです。これも律法に違反しています。祭司はアロンの家系から選ばれなければならず、だれもが勝手になれるというものではありませんでした。

これらのことからどういうことが言えるでしょうか。6節です。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」
確かに彼らは自分の目で良いと思えることを行っていましたが、それが必ずしも正しいことであったとは限りませんでした。それが神のみこころに反していることもあったのです。というか、かなり的を外していたことがわかります。彼らは決してイスラエルの神、主を捨てたわけではありませんでしたが、彼らの信仰はいつしかカナンの習慣に迎合し、神の民としてのあり方から大きくズレてしまっていたのです。その原因はどこにあったのでしょうか。

ここには、「そのころ、イスラエルには王がなく」とあります。民を導く指導者がいなかったのです。それで彼らは、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていたのです。神の指導者がいない民は、実に悲惨であることがわかります。常に聖書から神のみこころを語り、民を導く羊飼いがいないということは混乱を招くことになります。日本にも様々な事情により無牧の教会がたくさんありますが、群れを牧する羊飼いがいないことは羊にとって致命的な結果を招くことがあります。たとえ牧師がいたとしても、その牧師が正しく神のみことばを語り、みことばによって羊を養わなければ同じことです。群れを導くリーダーのために祈らなければなりません。

Ⅱ.祭司を雇ったミカ(7-13)
 
次に7節から13節までをご覧ください。「17:7 ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。 17:8 その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、 17:9 ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」 17:10 そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。 17:11 このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。 17:12 ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。 17:13 そこで、ミカは言った。「私は【主】が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」

 7節には、ユダのベツレヘム出身の一人の若者が登場します。彼はレビ人でそこに寄留していました。どういうことかというと、彼はユダのベツレヘム出身のレビ人でしたが、ユダ族に属している人ではなかったということです。ただそこに寄留していただけです。というのは、レビ人はイスラエルに相続地を持っていなかったからです。神ご自身が彼らの相続地でした。彼らに与えられていたのは住む町と放牧地だけでした。ですから、この「ユダのベツレヘム出身で、ユダの氏族に属する」というのは、ユダのベツレヘムに居住していたレビ族出身の人という意味です。彼は滞在する所を求めて、ユダの町であるベツレヘムを出て、旅を続けていました。そして、エフライムの山地にあるミカの家までやって来たのです。

するとミカは、彼がベツレヘムから来たレビ人であることを知ると、「私と一緒に住んで、私のために父となり、また祭司となってください。」と懇願しました。この「父」というのは、その家の主人ということではなく、霊的導き手という意味です。そして、その対価として提示したのは、毎年、銀10枚と、衣服一そろいと、それに食料を差し上げるということでした。つまり、生活費を支給するということです。これはレビ人にとって大きな誘惑だったことでしょう。というのは、それだけあれば生活の安定が得られるからです。すると、このレビ人は一つ返事で同意しました。それでミカの家で一緒に住むことにしました。彼はミカの息子の一人のようになりました。するとミカは何と言ったでしょうか。13節に「今、私は、主が私を幸せにしてくださることを知った。レビ人が私の祭司になったのだから。」とあります。どういうことでしょうか?

これまでミカは息子の一人を祭司に任命していましたが、今や本物の祭司がミカの個人的な祭司になったということです。それで彼は喜んでいるのです。しかも彼はここで、それをしてくださったのは「主」だと言っています。「主が私を幸せにしてくださることを知った」と。それが主からの祝福であると勝手に思い込んだのです。しかし、これは大きな誤解でした。レビ人だからというだけで祭司になれるわけではないからです。下記のレビ族の家系図をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「レビ族の家系」、空知太栄光キリスト教会ホームページより引用

 これを見ていただくとわかるように、祭司になることができるのはレビ族の中でもアロンの家系から出る者だけでしたが、彼はそうではありませんでした。

レビ族とは、ヤコブの3番目に生まれた息子レビから始まっている一族です。レビ族は神にとって特別な存在でした。つまり、彼らは神のために聖別された部族であったのです。そのため神は、レビ族の各氏族(ゲルション族、ケハテ族、メラリ族)に聖所の務めを果たすという重要な務めを与えられました。そして、それぞれの氏族に専門の任務を与えたのです。すなわち、ゲルション族には、聖所の幕に関する部分(天幕のおおい、会見と入口の垂れ幕、幕と幕をつなぐひもなど)の管理と運搬、ケハテ族には、聖所にある器具の一切(契約の箱、机、燭台、祭壇、それらに関する用具など)の管理と運搬、メラリ族には、聖所を支える部分(板、横木、柱、台座、釘など)です。各氏族に与えられた任務はそれぞれ独立したものであり、他の部族の任務を兼用したり、代替えすることは許されませんでした。それぞれが専門職として割り当てられたのです。

祭司とレビ人はもともと同じレビ族から派生していますが、祭司とその職はレビの2番目の息子であるケハテから生まれた最初の子であるアロンの家系から出た者たちで、いわば、特別職でした。祭司たちはすべてアロンの家系で世襲制でした。祭司たちは会見の天幕における礼拝を実際に取り仕切っていく者たちでした。そして、この祭司を支えたのがレビ人なのです。つまりレビ人は祭司の指導の管理下にあったのです。礼拝を取り仕切る祭司のもとで仕える存在、それがレビ人たちだったのです。民数記3章5~7節で神はモーセに次のように告げています。「主はモーセに告げられた。「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。」
ですから、レビ人は神に仕え、祭司に仕え、そしてイスラエルの人々に仕える者たち(奉仕者)だったのです。また、彼らが祭司職にかかわることは一切許されませんでした。民数記3章10節には「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。」とあります。それほどに祭司職は特別な職であったのです。
それなのにミカは、自分勝手に神の宮を設置し、そこに偶像を安置して、さらに資格のないレビ人を祭司に任命しました。こうしたことは、主の目には忌むべきことでしたが、ミカはそれを主からの祝福だと勘違いしたのです。

いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。続く18章1節をご覧ください。ここにも出てきます。「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」それで、彼らは自分の目で良いと見えることを行っていたからです。このことは6節でも言われていたことです。このことが何度も繰り返して記されています。この士師記の著者は、このミカの行為が、士師時代の無法状態を表す良い例としてあげているのです。イスラエル人の信仰は、祭司制度の混乱にまで及んでいたのです。

しかし、これは何も当時のイスラエル人だけの問題ではありません。現代の私たちクリスチャンにも問われていることです。自分の目に良いと見えることを行っている人は、すなわち、勝手な信仰生活をしている人は、偶然にも良いことがあると、それを神からの祝福を受けている証拠だと受け止めて喜びますが、それはただの勘違いであり、聖書信仰とは相入れないものです。そのような信仰は、遅かれ早かれ、神のさばきをその身に招くようになり、結局、信仰からも離れてしまうことになります。こんなはずではなかったのに・・・と。

次の18章を見るとわかりますが、やがてミカもそのさばきを受けることになります。自分が雇った祭司に裏切られ、彼が所有していた偶像が奪われてしまうことになるのです。彼が母親から盗んだ銀によって作られた偶像が、今度は他の人の手によって盗まれるというのは、何とも皮肉な話です。私たちはそういうことがないように、自分の目に良いと見えることではなく、神の目に良いと見えることを求めましょう。主のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。そのためにはよく聖書のことばを学び、主のみこころを求めましょう。自分の中にミカのように都合の良い信仰はないかどうか、吟味しなければならないのです。

 

エジプトについての預言 エレミヤ書46章1~28節


聖書箇所:エレミヤ書46章1~28節(旧約P1376、エレミヤ書講解説教77回目)
タイトル:「エジプトについての預言」
今日は、エレミヤ書46章全体から学びます。44章までにおいて、エレミヤ書におけるユダの民とエルサレムに対する預言は終わりました。そして前回の45章では、エレミヤの書記をしていたバラクに対する励ましのメッセージが語られました。ここからは、諸国に民に対する預言が語られます。エレミヤは預言者としての召命を受けたとき、ユダの民に対する預言だけでなく、国々への預言者としても召されていました。1章5節にはこうあります。 
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
  それが、ここから終わりまで続くわけです。その最初がエジプトに対する預言です。そしてそれはペリシテ、モアブ、アンモン、エドムと続き、最後にバビロンに対して語られます。それは人の目には偉大で力強く見えるこうした国々も、実は、主なる神様の主権と支配によって成り立っていることを示すためです。私たちはとかく、信仰や教会に関すること以外においては、神様はあまり関わっていないかのように思いますが、そうではなく、この世のすべての領域において神様は主権をもって働いておられるのです。その神様の働きをご一緒に見ていきたいと思います。
 Ⅰ.何ということか、この有様は(1-12)
まず、エジプトについての預言です。1~12節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「46:1 諸国の民について、預言者エレミヤにあった【主】のことば。46:2 エジプトについて、すなわちユーフラテス河畔のカルケミシュにいたエジプトの王ファラオ・ネコの軍勢について。ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、バビロンの王ネブカドネツァルがこれを打ち破った。」
ユダの王、ヨシヤの子のエホヤキムの第四年とは、前回の45章にもありましたが、B.C.605年のことです。その年にバビロンの王ネブカドネツァルがエジプトの王ファラオの軍勢と戦ってこれを打ち破りました。これはユーフラテス河畔のカルケミシュという町で起こった戦いなので、カルケミシュの戦いと呼ばれています。バビロンはアッシリアと戦ってその首都ニネベを打ち破ると、その後アッシリアの残党がこのカルケミシュに移ったので、それを追ってカルケミシュに向かいました。しかし、そのバビロンの台頭を恐れたエジプトがバビロンに戦いを挑んだのです。それがこのカルケミシュでの戦いです。結果はエジプトの惨敗でした。その時の様子が3節以降に描かれています。
「46:3 「盾と大盾を整えて、戦いに向かえ。46:4 騎兵たちよ、馬に鞍をつけて乗れ。かぶとを着けて配置につけ。槍を磨き、よろいをまとえ。46:5 何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。──【主】のことば──46:6 足の速い者も逃げられない。勇士たちも逃れられない。北の方、ユーフラテス川のほとりで、彼らはつまずき倒れる。46:7 ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻くこの者はだれか。46:8 エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』46:9 馬よ、進め。戦車よ、走れ。勇士たちは出陣せよ。盾を取るクシュ人、プテ人、弓を引くルデ人よ。46:10 その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日。剣は食らって満ち足り、彼らの血に酔う。北の地、ユーフラテス川のほとりでは、万軍の【神】、主に、いけにえが献げられる。46:11 おとめである娘エジプトよ、ギルアデに上って乳香を取れ。多くの薬を用いても無駄だ。おまえには癒やしがない。46:12 国々は、おまえの恥辱のことを聞く。おまえの哀れな叫び声は地に満ちる。勇士が勇士につまずき、ともに倒れるからだ。」
5節には、「何ということか、この有様は。彼らはおじ惑い、うしろに退く。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去る。恐怖が取り囲んでいる。─【主】のことば─」とありますが、このことばにエジプトの悲惨な状況が映し出されています。彼らはおじ惑い、うしろに退きます。勇士たちは打たれ、うしろも振り向かずに逃げ去ることになるのです。恐怖が彼らを囲むからです。エジプトを代表するのはナイル川ですが、彼らはかつてナイル川のように湧き上がり、地をおおうほどの勢力があると言って誇っていましたが、バビロン軍に敗北し、哀れな叫び声が地に満ちることになります。有志が有志につまずき、ともに倒れるのです。いったい何が問題だったのでしょうか。
10節をご覧ください。ここには「その日は、万軍の【神】、主の日、敵に復讐する復讐の日」とあります。これは主が敵に復讐する日なのです。それは単にバビロン軍との戦いというのではなく、主が成された主との戦いなのです。主との戦いですから、エジプトがどんなに強くても勝てるはずがありません。その戦いの背後には、偉大な主の御手が働いているからです。
ところで、この「敵に復讐する日」とは何を指しているのでしょうか。何に対する復讐なのでしょうか。多くの学者は、これはこの戦いの4年前(B.C.609年)に、ユダの王のヨシヤがエジプトの王ファラオ・ネコに殺されるという事件があったのですが、それに対する復讐ではないかと考えています。しかしここではもっと広い意味での復習、エジプトが神に対して行った傲慢な態度に対する復讐であったと見た方が良いと思います。というのは、ここから諸国の民に対する預言が語られるわけですがそれをずっと見ていくと、どの国々に対しても共通している三つのことがあることがわかります。一つは、そうした国々は自分の財産や軍事力など、物質的な力に拠り頼んでいたという点です。二つ目のことは、彼らは天地の創造主ではない、偶像の神々を拝んでいたという点です。そして三つ目のことは、イスラエルやユダに対して敵対したということです。エジプトの場合は、ヨシヤ王を殺したということがその中に含まれますが、それだけでなくこうした国々は他の点でも神に敵対しました。そのことに対する復讐なのです。
7節には、エジプトの軍隊はナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻いていたとあります。皆さん、「奔流」ってわかりますか? ゴーゴーと音をたてて激しく流れる川のことです。それは恐ろしさを感じるほどです。それだけ勢いがあるということです。それは全地を覆うほどの勢いです。8節には、「エジプトは、ナイル川のように湧き上がり、奔流のように逆巻く。彼は言う。『湧き上がって地をおおい、町も住民も滅ぼそう。』」とあります。それは全地をおおい、町も住民も滅ぼし尽くすほどの勢いなのです。
しかしいくら強力な軍事力を誇り、この世を支配するほどの勢力があっても、それらのすべては神様のご支配の中にあることを覚えておかなければなりません。神様がエジプトに病を下せば、どれほど効き目のある薬を使っても何の役にも立ちません。神様が低くすれば、国々の中では辱めを受けることになるのです。国や民族を栄えさせたり衰えさせたりするのは神様であられるからです。ですから、自分の人生がどれほど栄えているようなときでもへりくだり、逆にどれほど低い位置に置かれているようなときでも落胆せず、神に信頼しなければなりません。最近、アメリカの大統領が各国に相互関税を科し世界経済が不透明な中、自国民を守ることは大切なことですが、自分たちの力を誇り、世界中の国々を自分たちに従わせようとする言動は、厳に慎まれなければなりません。聖書に「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18、新改訳第3版)とあるように、そのような国は、やがて滅びていくことになるからです。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」(ヤコブ4:6)とあるとおりです。
あなたはどうですか。すべてのことがうまくいっていると思うとき、へりくだって神の主権を認めているでしょうか。逆にうまくいかず辛い中にあるとき、落胆せずに神を信頼していますか。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)あなたがどこにいても、すべての道で主を認めましょう。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださいます。
また、それは同時に、神の御心に反してエジプトというこの世と同盟を結ぼうとしたユダの民に対する復讐でもあったと言えます。彼らは主なる神ではなくエジプトに頼り、エジプトに下って行きました。そのユダの不従順に対する報復でもあったのです。神様に頼らず、この世とその力に頼るとき、神様は彼らが頼るものを滅ぼされるのです。この世の力、この世の富、この世の権力に頼ることは、崩れる城壁の上に立っていることと同じことなのです。私たちが頼るべきお方はすべてを支配しておられる主だけです。ただ生を見上げ、主に拠り頼みましょう。
Ⅱ.その名を万軍の主という王のことば(13-26)
次に、13~26節までをご覧ください。エジプトに対するさばきことばが続きます。13節には「バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトの地を討つことについて、主が預言者エレミヤに語られたことば。」とあります。12節までには、B.C.605年のカルケミシュの戦いにおいてエジプトがバビロンに敗北する様子が預言されていましたが、ここには、エルサレムが陥落後、バビロンの王ネブカドネツァルが来て、エジプトを打つことについての預言が記されてあります。
14節には、「エジプトで告げ、ミグドルで聞かせ、メンフィスとタフパンヘスで聴かせて言え。」とありますが、それは、エジプトはもちろんのこと、ミグドル、メンフィス、タフパンヘスといったエジプトが支配していた都市にもバビロンの勢力が及びます。
15節には「なぜ、お前の押す牛は押し流されるのか。それは踏みとどまり得ない。主が彼を突き倒されたからだ。」とありますが、「おまえの雄牛」とは、偶像のことです。バビロンによって、エジプトが頼りとしていた雄牛の像が押し流されて立てなくなるという意味です。ここでは、偶像の空しさが露呈されているのです。
また19節には「メンフィスは荒れ果て、焼かれて住む者もいなくなるからだ。と、メンフィスがエジプトに住む娘にたとえられていますが、そうした美しい娘のようなメンフィスは荒れ果て廃墟となり、住む人が誰もいなくなるというのです。
20節の表現はおもしろいですね。「エジプトは、かわいらしい雌の子牛。しかし北からアブが襲って来る。」とあります。「かわいらしい雌の子牛」とはエジプトのことです。そして「北から襲って来るアブ」とはバビロンのことを指しています。アブであるバビロンが北からやって来て、雌の子牛であるエジプトを刺すのです。アブないです。これは、バビロンの軍勢がエジプトを襲い征服するという比喩的表現です。
22節もおもしろいです。「「彼女の声は逃げ去る蛇の音のようだ。敵が軍勢を率い、木こりのように、斧を持って入って来るからだ。」とあります。「彼女の声」とは敗走するエジプト軍が立てる音ですが、それが逃げ去る蛇の音のようだというのです。敵であるバビロン軍が木こりのように斧を手に持ち、森の木々を切り倒すように、エジプト人を切り倒すからです。そのようにエジプトはバビロンによって辱められ、彼らの手に渡されることになるのです。
問題は、なぜそのようなことになるのかということです。15節に戻ってください。3行目にこうあります。「主が彼を突き倒されたからだ」。また26節にもこうあります。「わたしは彼らを、そのいのちを狙う者たちの手に、バビロンの王ネブカドネツァルの手とその家来たちの手に渡す。」
皆さん、お気づきになりましたか。これは主ご自身がなさることなのです。私たちは歴史の中で起こったことや今、この時起こっていることについて、なぜこんなことになったのかとその原因を分析したり考えたりしますが、実は、そうした出来事の背後には主の御手があるのです。そこにも主が働いておられるということです。このことは、私たちをより謙虚にさせてくれるのではないでしょうか。すべてのことは主の御心のままに導かれているのです。それが良いことであっても悪いことであっても。それは、そこにすべてのことを働かせて益としてくださるという主ご自身のご計画があるからです。それがどういうことなのか私たちにはわからなくても、そこに主が働いておられることを認め、その主にすべてをゆだねることが、私たちも想像もできないほどの神様の栄光が現わされていくことにつながっていくのです。
今週も聖書の学びとお祈り回がありますが、たとえばそれは、前回学んだエズラ記6章にも見られることでした。そこにはバビロン捕囚から帰還したユダの民が預言者ハガイとゼカリヤが語る神のことばに励まされて神殿再建を始めたわけですが、そぐに妨害が入りました。その地の総督タテナイやシェタル・ボゼナ、その同僚たちの妨害に遭って工事が難航するわけです。彼らはペルシャの王ダレイオスに書状を送って、キュロス王からの命令が下った事実を調べてほしいと訴えました。すると、ダレイオス王はエクバタナというところで一つの巻物を発見し、そこに確かにキュロス王によって命令が下されたことを確認したダレイオス王は、タテナイたちに、神の宮の工事をそのままやらせておくようにと命じただけでなく、何とその宮の完成のために、彼らが取り立てた税金の中からその費用を支払って、間違いなくそれが完成するようにせよ、と命じたのです。まさに災い転じて福となる、です。タテナイたちは立てなくなってしまいました。彼らのそうした妨害のお陰でユダの民はますます確信が与えられ、必要も満たされて、ダレイオス王の第6年についに神の宮を完成させることができたのです。いったいどうしてこのようなことが起こったのでしょうか。聖書はこう告げています。
「これは、主が彼らを喜ばせ、またアッシリアの王の心を彼らに向けて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」(エズラ6:22)
それは主が成されたからです。その背後に主が働いておられたのです。すべては主のご計画によるのです。
「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」(ピリピ2:13)
であれば、私たちはそこに主の御手があることを認め、主が働かれ、事を行わせてくださることを信じなければなりません。
それがこの46章18節で言われていることです。ここには、「わたしは生きている。­その名を万軍の主という王のことば ­」とあります。どういうことですか。ここには3人の王の名前が出ています。バビロンの王と、エジプトの王、そしてこの万軍の主という王です。バビロンの王とはだれですか。ネブカドネツァルです。ではエジプトの王は誰でしょうか。ファラオ・ネコです。しかし、それだけではありません。ここにはもう一人の王がおられます。それは万軍の主という王です。それは、神の御座の右で全世界を治めておられる王の王であられる主イエス・キリストです。バビロンの王ネブカドネツァルは、神の道具となってエジプトを攻撃するために用いられました。エジプトの王ファラオの名声と権威は一時天に届く勢いでしたが、今や彼の時代は過ぎ去りました。しかし、万軍の主という王は、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトを打ち、エジプトの王や将軍、兵士たちを退けました。この方こそ王の王、主の主であられる方なのです。この方が、これらすべてのことをなされるのです。私たちは、神の御座で全世界を納めておられる万軍の主という王であられるイエスを信じて、この方に拠り頼まなければなりません。
あなたの人生のまことの王は誰ですか。イエス様だけがあなたを救うことができます。イエス様だけがあなたに神の国をもたらすことができるまことの王なのです。
Ⅲ.ヤコブよ、恐れるな(27-28)
ですから第三のことは、恐れるな、ということです。27~28節をご覧ください。「46:27 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしがあなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、だれにも脅かされずに平穏に安らかに生きる。46:28 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──わたしが、あなたとともにいるからだ。わたしは、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
エジプトに対するさばきを語られた後で主は、イスラエルに回復のメッセージを語られます。それは27節にあるように、彼らの子孫を捕囚の地から救い出すという約束です。神様は全世界をさばいても、ご自身の選びの民を必ず救われます。神の救いの御業は、さばきと並行してなされるのです。それは1枚の紙の両面のような関係です。エジプトはさばかれますが、イスラエルは回復の恵みにあずかるということが、対照的に語られているのです。エジプトは滅ぼし尽くされても、イスラエルが滅ぼし尽くされることはありません。だから恐れるなと。エジプトに対する激しい神様のさばきの預言の中で、イスラエルに対する慰めのことばが語られているのはこのためです。この世はさばかれることはあっても、神の契約の民は必ず救い出されるのです。31章3節にこうあります。
「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」
これが神様の愛です。神様の愛は永遠の愛なのです。永遠の愛とは、いつまでも、です。それは止まることがありません。神の愛はどんなことがあっても止まることがないのです。あなたがどんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、ずっと愛してくださいます。あなたの状態とは関係ありません。あなたがどんなに堕ちても、だれもあなたを受け入れない状況でも、神の愛は永遠にあなたに注がれているのです。それはあなたが優れているからではありません。あなたが良い人だからでもない。それはただ神があなたを愛されたからです。
この愛を信じている人は、どん底からも這い上がることができます。どんな傷でも癒されます。どんな失敗もやり直すことができます。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができるのです。回復することができます。イスラエルもバビロン捕囚という憂き目に遭いましたが、この愛によってもう一度回復することができるのです。いい言葉ですね。「回復」。英語では「restoration」と言います。もう一度神に立ち返り、やり直すことができる。この神の愛に応えるチャンスが、あなたにも与えられているのです。
このみことばを読んだ後で、もしあなたが神様のみことばは真理であると信じているなら、神様はイスラエルを見捨ててはおられないということ、あなたを見捨ててはおられなんいということを信じなければなりません。そして「恐れるな」、「おののくな」と言われる神様のことばに信頼しなければなりません。どんなにエジプトにさばきが下っても、あなたは恐れてはならないのです。なぜなら、主があなたとともにおられるからです。
それが28節で約束されていることです。「わたしが、あなたとともにいるからだ」。この主があなたとともにおられます。だったら何を恐れる必要があるでしょうか。それなのに恐れたり、心配しているとしたら、それはあなたがこの神のことばを信じていないということです。ただ頭だけで信じているだけです。救い主であり、全能者であられる主が私の人生にも働いておられるということを信じていないのです。主は私たちのたましいだけでなく、私たちの人生も救ってくださいます。病んだ心も肉体もいやしてくださいます。さまざまな生活の問題にも答えを与えてくだいます。それなのに、熱心に教会に通い、神様を信じていると言いながら、神様がいないかのような生き方をしているとしたら、それは観念的に信じているだけであって、実際の生活において神様が生きて働いておられることを信じられないのです。口では主は全能者であると言いながら、実際には「でも、さすがにこれは無理でしょ」とか思っているわけです。
主はイスラエルの歴史において働かれ、バビロンの王ネブカドネツァルを用いてエジプトをさばかれ、イスラエルに懲らしめを与えただけでなく、その中から救い出してくださいました。そしてやがてそこから救い主イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そして十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。その主がこのように約束してくださいました。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
主は今も生きておられます。今も生きてあなたとともにおられ、あなたの人生のただ中に働いておられるのです。あなたが成功しても失敗しても、健康な時も病気の時も、主はあなたとともにおられます。であれば、何を恐れる必要があるでしょう。その名を万軍の主という王がともにおられるなら、私たちは失望落胆する必要はないのです。
ただ、一つのことを覚えておかなければなりません。それは28節の最後にあるように、懲らしめはあるということです。「ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
 神様は、あなたとともにいて、あなたを救ってくださいますが、あなたが犯した罪については懲らしめを与えられます。それはあなたを滅ぼすためではなく、あなたを聖めるためです。懲らしめを喜ぶ人はいないでしょう。しかし、懲らしめがもたらす結果を喜ぶことはできます。その結果とは回復と聖めだからです。へブル12章11節にこうあります。
「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」
すべての懲らしめや訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。回復と聖めがもたらされます。それによって、主は私たちを栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられてくださるのです。それこそクリスチャンとしての本望です。ですからそこに希望を置き、たとえ現状が苦しくてもそこから逃げないで、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けたいと思うのです。

士師記16章

 士師記16章からを学びます。

 

 Ⅰ.ガザに下ったサムソン(1-3)

 

まず1~3節までをご覧ください。「16:1 サムソンはガザへ行き、そこで遊女を見つけて、彼女のところに入った。16:2 「サムソンがここにやって来た」と、ガザの人々に告げる者があったので、彼らはそこを取り囲み、町の門で一晩中、彼を待ち伏せた。彼らは「明け方まで待ち、彼を殺そう」と言って、一晩中鳴りを潜めていた。16:3 サムソンは真夜中まで寝ていたが、真夜中に起き上がり、町の門の扉と二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩に担いで、ヘブロンに面する山の頂に運んで行った。」

 

サムソンはガザへ行き、そこで遊女を見つけて、彼女のところに入りました。ガザはペリシテ人最大の町です。つまり、彼はペリシテ人の中心地にいたということです。それは、ペリシテ人全体を敵に回したことを意味していました。彼はそこで遊女を見つけ、彼女のところに入りました。彼は以前もペリシテ人の女に惹かれて結婚しましたが、今度はただのペリシテ人ではありません。遊女です。これは彼がナジル人だからということだけでなく、だれにとっても罪であることは明らかです。それは、彼の信仰がそこまで堕ちていたことを表しています。彼は罪に対して無感覚になっていたのです。

 

すると、「サムソンがここにやって来た」と告げる者があったので、ガザの人々は、サムソンを捕らえるために町の門で一晩中、待ち伏せますが、サムソンは真夜中に起き上がり、町の門の扉と二本の門柱を引き抜いて、それを肩にかつぎヘブロンに面する山の頂まで運んで行きました。これはどういうことかというと、当時、戦いに勝利した軍が敵の門の扉を運び去るという習慣があったので、サムソンはここで勝利を宣言したということです。それにしても、ガザからヘブロンまでの距離は約60㎞もありました。標高差は約900mです。その距離を彼は重い扉を担いで歩いたのです。

 

 サムソンは本当に問題の多い人物でしたが、神はこのような器を用いてご自身の御業を行われたことに驚ろかされます。私たちもサムソンのように罪深い者ですが、そんな者をも用いて神様はご自身の御業を成さろうとしておられることを覚え、その神様のみこころに応答したいと思います。

 

  Ⅱ.サムソンの力の秘密(4-21)

 

次に、4~21節までをご覧ください。まず9節までをお読みします。「16:4 その後、サムソンは、ソレクの谷にいる女を愛した。彼女の名はデリラといった。16:5 ペリシテ人の領主たちが彼女のところに来て、言った。「サムソンを口説いて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、縛り上げて苦しめることができるかを調べなさい。そうすれば、私たちは一人ひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。」16:6 そこで、デリラはサムソンに言った。「どうか私に教えてください。あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょうか。」16:7 サムソンは言った。「もし、まだ干していない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになるだろう。」16:8 そこで、ペリシテ人の領主たちは、干していない七本の新しい弓の弦を彼女のところに持って来たので、彼女はそれでサムソンを縛り上げた。16:9 彼女は、待ち伏せる者を奥の部屋に置いておき、「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます」と言った。しかし、サムソンはまるで麻の撚り糸が火に触れて切れるように、弓の弦を断ち切った。こうして、彼の力の源は知られなかった。」

その後、サムソンは、ソレクの谷にいる女を愛しました。彼女の名は「デリラ」といいました。「ソレクの谷」は、サムソンの故郷ツォルアや国境の町ベテ・シェメシュ、またペリシテ人の町ティムナなどがあるところです。しかし、これ以降の話の展開から判断すると、デリラはやはりペリシテの女であったと考えられます。

 

サムソンがデリラの家にいることを知ったペリシテの領主たちは、デリラにサムソンを口説いて、彼の力の秘密がどこにあるかを調べてほしいと、一つの提案を持ちかけます。もし彼女が調べることができたら、ペリシテの領主一人一人から銀1,100枚を受け取るというものでした。ペリシテ人の領主は5人いたので、合計で銀5,500枚となります。イスカリオテのユダがイエスを売った代価は銀30枚でしたから、それを考えると、デリラが受け取る報酬は考えられないほど膨大な額であったことがわかります。つまり、デリラはお金に目がくらんだのです。お金のためなら平気で夫を裏切るような女性でした。そんな女性を愛したサムソンも本当に愚かです。

 

そこで、デリラはサムソンに言いました。6節です。「どうか私に教えてください。あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょうか。」

するとサムソンは、「もし、まだ干していない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになるだろう。」と答えました。これは嘘です。でも全くの嘘かというとそうではありません。「まだ干していない七本の新しい弓の弦」とは、生乾きの動物の腸のことで、ナジル人にとっては汚れた物でした。ですから、それで縛れば弱くなるというのは、彼からナジル人としての本質を取り去ることができれば自分は弱くなるということを意味していました。ですから、全くの嘘ではなく、わからないであろうヒントが含まれていたのです。それから、7本の新しい弓の弦ですが、彼の髪の毛は7房であったことを考えると、髪の毛にその秘密があるということなので、これもまた全くの嘘ではありません。

 

でも、これは非常に危険なやり取りでした。彼はその危険な道を歩み始めていたのです。私たちにもこのようなことがあるのではないでしょうか。この程度なら大丈夫だろうと安易な思いから失敗を招いてしまうことがあります。罪と戯れることがないように、そうした道を歩き始めていることに気づいたら、すぐに軌道修正しなければなりません。

 

しかし、幸いにも、彼の力の源は知られることはありませんでした。ペリシテ人の領主たちが、まだ干していない7本の新しい弓の弦で彼を縛り上げましたが、「サムソン、ペリシテ人があなたを襲ってきます」とデリラが言うと、彼はまるで麻の撚り糸が火に触れて切れるように、断ち切ったのです。

 

 するとデリラはどうしたでしょうか。10~12節までをご覧ください。「16:10 デリラはサムソンに言った。「まあ、あなたは私をだまして?をつきましたね。今度こそ、どうしたらあなたを縛れるか教えてください。」16:11 サムソンは言った。「もし、仕事に使ったことのない新しい綱で、私をしっかり縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになるだろう。」16:12 そこで、デリラは新しい綱を取って、それで彼を縛り、「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます」と言った。奥の部屋には待ち伏せしている者がいた。しかし、サムソンは腕からその綱を、糸のように断ち切った。」

 

デリラは、サムソンが嘘をついたことを知り、さらにサムソンに食い下がります。そこでサムソンは言いました。「もし、仕事に使ったことのない新しい綱で、私をしっかり縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになるだろう。」

「仕事に使ったことのない新しい綱」とは、汚れた物に使ったことのない新しい綱という意味です。ここにも、ナジル人である彼の特質を取り去れば、力がなくなるというヒントが隠されていました。 そこで、デリラは新しい綱を取って、それで彼を縛ますが、デリラが、「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます」と言うと、彼はその綱を、まるで糸のように立ち切ってしまいました。

 

 すると、デリラはどうしたでしょうか。彼女は、以前にも増してサムソンに懇願します。13節と14節です。「16:13 デリラは、またサムソンに言った。「今まで、あなたは私をだまして?をついてきました。どうしたらあなたを縛れるか、私に教えてください。」サムソンは、「もしおまえが機の経糸と一緒に私の髪の毛七房を織り込み、機のおさで締めつけておくならば」と言った。16:14 彼女は機のおさで締めつけて言った。「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます。」すると、サムソンは眠りから覚めて、機のおさと機の経糸を引き抜いた。」

 

サムソンは、「機の縦糸と一緒に髪の毛七房を折込み、それを機のおさで締め付けておくならば」と言いました。そこでデリラがそのようにして再び「サムソン、ペリシテがあなたを襲ってきます。」と言うと、今度も彼はいとも簡単に、機のおさと機の縦糸を引き抜いてしまいました。それも嘘だったのです。しかし、サムソンは、徐々に危険の深みに足を踏み入れていることがわかります。その答えの中には、髪の毛に秘密が隠されていると述べているからです。このように、堕落というのは徐々に進行していきます。サムソンの失敗も、徐々に進行していくわけです。    

 

機の経糸も嘘であるということがわかると、デリラは泣き落としにかかります。15~17節です。「16:15 彼女はサムソンに言った。「あなたの心が私にはないのに、どうして『おまえを愛している』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのか教えてくださいませんでした。」16:16 こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。16:17 ついにサムソンは、自分の心をすべて彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の髪の毛が剃り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう。」」

 

これはサムソンにとってとても辛いことでした。自分の妻に泣かれることほど男にとって辛いことはないからです。奥さんが何としても夫を口説きたいと思うなら、このデリラのようにすると言いのです。彼がどれほど辛かったかは、16節のことばを見るとわかります。ここには、「こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。」とあります。サムソンにとってはかなりのプレッシャーだったのです。

 

そこで彼は、ついに自分の心をすべて彼女に明かしてしまいました。すなわち、彼がナジル人であって、もし髪の毛が剃り落とされたら、彼の力は去り、弱くなって普通の人のようになるということを伝えたのです。なぜなら、髪の毛を剃り落とすということは彼がナジル人ではなくなり、主からの力を受けられなくなるということを意味していたからです。それは彼の不従順が外面的に現れた瞬間でした。これまでも彼は不従順な歩みをしてきましたが、これによって主との関係が最終的に断絶することになってしまったのです。いったいどこに問題があったのでしょうか。すべてはデリラという女性を愛したことから始まりました。罪の誘惑の根を早いうちに立ち切らなかったことが、悲劇的な結果を招くことになってしまったのです。

 

自分の力の秘密を明かしたサムソンはどうなってしまったでしょうか。18~22節までをご覧ください。「16:18 デリラは、サムソンが自分の心をすべて明かしたことが分かったので、こう言って、人を遣わし、ペリシテ人の領主たちを呼び寄せた。「今度こそ上って来てください。サムソンは心をすべて私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来たとき、その手に銀を持って来た。16:19 彼女は膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んで彼の髪の毛七房を剃り落とさせた。彼女は彼を苦しめ始め、彼の力は彼を離れた。16:20 彼女が「サムソン、ペリシテ人があなたを襲って来ます」と言ったとき、彼は眠りから覚めて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は、【主】が自分から離れられたことを知らなかった。16:21 ペリシテ人は彼を捕らえ、その両目をえぐり出した。そして彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。16:22 しかし、サムソンの髪の毛は、剃り落とされてからまた伸び始めた。」

 

デリラは、サムソンの秘密のすべてをペリシテの領主たちに明かすと、彼らから約束の銀を受け取ります。そして、サムソンを膝の上で眠らせると、人を呼んで彼の髪の毛七房を切り落とさせました。眠りから覚めたサムソンは、これまでのようにペリシテ人たちを蹴散らそうとしましたが、すでに神の力は彼から離れ去っていました。それで彼はペリシテ人に捕らえられ、両目をえぐり出され、ガザに連れて行かれました。そこで彼は、青銅の足かせをつけて牢につながれました。そこで彼が行っていたことは、臼をひく仕事です。それは婦人のする仕事でした。あの怪力を持ったサムソンが青銅の足かせをかけられ、婦人の労働に服したのです。これは、サムソンにとって最大の屈辱でした。

 

このようなサムソンの悲劇はどのようにして引き起こされたのでしょうか。それは、彼からその力が取り去られたことによります。私たちクリスチャンも神に背き、罪の道を歩み続けるなら、そして、その罪を悔い改めないなら、神の力、聖霊が取り去られることがあるということを覚えておかなければなりません。もし自分から聖霊が取り去られたことに気づいていないなら、それこそ最大の悲劇です。

 

Ⅲ.再び髪が伸び始めたサムソン(22-31)

 

しかし、それですべてが終わったわけではありません。聖書は、そこに回復の道もあるということを教えています。22~31節までを見て終わります。「16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえを献げて楽しもうと集まり、そして言った。「われわれの神は、敵サムソンをわれわれの手に渡してくださった。」16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「われわれの神は、われわれの敵を、われわれの手に渡してくださった。この国を荒らして、われわれ大勢を殺した者を。」16:25 彼らは上機嫌になったとき、「サムソンを呼んで来い。見せ物にしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で笑いものになった。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、16:26 サムソンは自分の手を固く握っている若者に言った。「私の手を放して、この神殿を支えている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」16:27 神殿は男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、見せ物にされたサムソンを見ていた。16:28 サムソンは【主】を呼び求めて言った。「【神】、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。」16:29 サムソンは、神殿を支えている二本の中柱を探り当て、一本に右手を、もう一本に左手を当てて、それで自らを支えた。16:30 サムソンは、「ペリシテ人と一緒に死のう」と言って、力を込めてそれを押し広げた。すると神殿は、その中にいた領主たちとすべての民の上に落ちた。こうして、サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。16:31 彼の身内の者や父の家の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルの間にある父マノアの墓に運び上げて葬った。サムソンは二十年間イスラエルをさばいた。」

 

22節はおもしろいですね。サムソンの髪の毛は、剃り落とされましたがまた伸び始めました。これは何を表しているのかというと、彼がナジル人としての立場を回復したということです。神に反逆して罪を犯したらそれですべてが終わってしまうというわけではありません。髪の毛は再び伸び始めるのです。神の力、神の聖霊を取り戻す唯一の道は、神に立ち返って、罪の悔い改めることです。そうすれば回復することができます。サムソンは再びナジル人としての立場を回復しました。この神の恵み深さを思い出し、今自らの罪を悔い改めて神に立ち返りましょう。信仰によって神の赦しと力を受け取りましょう。

 

さて、ナジル人としての立場を回復したサムソンは、その後どのように歩んだでしょうか。23節からのところには、ペリシテ人たちが、サムソンを捕らえたことを自分たちの神ダゴンに感謝するために、宴会を開いた様子が記録されてあります。そこにはペリシテの領主と、多くの男女が集っていました。彼らはサムソンを見せ物にしようと牢から呼んできました。

するとサムソンは自分の手を握っている若者に、宮を支えている2本の中柱に寄りかからせてくれと頼みます。神殿は男や女でいっぱいでした。屋上にも3,000人の男女がいて、見せ物にされていたサムソンを見ていました。

その時です。サムソンは主を呼び求めて祈りました。「神、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください。私の二つの目のために、一度にペリシテ人に復讐したいのです。」そして、二本の中柱を探り当て、力を込めて押し広げると、神殿が崩れ落ち、その中にいたペリシテの領主たちと民が死にました。それはサムソンがそれまでに殺した者よりも多い数でした。

 

サムソンの人生は波乱に満ちた人生でした。どんな強敵にも打ち勝つことができた彼が、最も弱い女性に負けました。また、ナジル人として聖別されていた彼が、触れてはならない獅子の死体の中から蜂蜜を取って食べたことで、神の祝福を失ってしまいました。しかしどんなに欠点の多い器であっても、主はご自身のご計画のために彼を用いられました。へブル11章32節には、「これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても語れば、時間が足りないでしょう。」とあります。信仰に生きた人たちの中に、彼の名前が刻まれているのです。彼の生き方を見る限り、彼が信仰の人ということにはとても抵抗があるかもしれませんが、そんな彼についてこのように記されているのです。それは、彼がどんなに神に背き、罪の中を歩んでも、髪の毛が再び伸びてきたからであり、言うならば、彼はナジル人として神に選ばれた者であったからです。

 

私たちもサムソンのように罪の中に陥ることもありますが、それでもその罪を悔い改めるなら、再びナジル人として回復することができます。それは私たちの力ではありません。神がそのように選んでおられたからです。神のナジル人として、私たちも生まれるずっと前から神によって選ばれたいたことを思い、いつも悔い改めて、神の道を歩ませていただきましょう。

分のために大きなことを求めるな エレミヤ書45章1~5節


聖書箇所:エレミヤ書45章1~5節(旧約P1376、エレミヤ書講解説教76回目)
タイトル:「自分のために大きなことを求めるな」
今日はエレミヤ書45章から、「自分のために大きなことを求めるな」というタイトルでお話します。これは、エレミヤの書記をしていたバルクに対して語られた主のことばです。5節に「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」とあります。バルクが求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。なぜそれを求めてはなかったのでしょうか。
 Ⅰ.バルクの嘆き(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。2 「バルクよ、イスラエルの神、【主】は、あなたについてこう言われる。3 『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」」
1節に「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年」とあります。これは、B.C.605年のことです。前回見た44章はユダの民に対するエレミヤの最後のメッセージでしたが、この45章はそれから30年後のことです。B.C.586年にバビロンによって滅ぼされた南ユダの民は、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれました。残りの民はエレミヤを通して語られた主のことばに背きエジプトに下って行きましたが、そのユダの民に語られたことばが44章にあったわけです。ですから44章との連続性はなく、むしろ内容的には36章の出来事の後のことです。36章にはどんなことが書かれてありましたか。ちょっと振り返ってみましょう。36章1~8節をご覧ください。
「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻物に書き記した。5 エレミヤはバルクに命じた。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。6 だから、あなたが行って、あなたが私の口述によって巻物に書き記した【主】のことばを、断食の日に【主】の宮で民の耳に読み聞かせよ。また、町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。7 そうすれば、【主】の前で彼らの嘆願が受け入れられ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからだ。」8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの書物を読んだ。」
ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときというのは、このときのことなのです。エレミヤは主から巻物を取って、イスラエルとユダとすべての国についてわたしがあなたに語ったすべてのことばをみな、書き記せと言われたので、書記のバルクを読んで、それをことごとく巻物に記しました。そのときエレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行くことができなかったので、代わりにバルクが行って、それを民に読み聞かせました。するとそれが王の耳にも入ることになりました。するとどうなったでしょうか。
それを聞いたエホヤキム王は激怒し、何とその巻物を数行ごとに小刀で切り裂き、暖炉の火の中に投げ入れ、すべてを燃やしてしまったのです。それを書き留めるのにどれほどの時間と労力を要したことでしょう。何せ、エレミヤがヨシヤ王の時からずっと預言してきたことを書き記してきたものですから。その期間、約22年間です。私が大田原に来てみことばを語って今年で22年になります。これまでの21年間に語ったメッセージは全部取ってありますが、それが焼かれたらどんな気持ちになるでしょう。おそらく、自分の存在が消し去られたような気持ちになるのではないかと思います。バルクはまさにそのような目に遭ったのです。そればかりか、エホヤキム王はバルクとエレミヤを捕らえようとしました。しかし主が彼らを隠されたので、彼らは難を逃れることができたばかりか、さらに多くのことばも加えて、もう一度エレミヤのことばを書きしました。とはいえ、この時のバルクの失望はいかばかりだったかと思います。その時の彼の思いが、ここに記されてあるのです。3節をご覧ください。
「『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」
ヨブのことばで言うなら、「生まれて来ない方が良かった」です。それほど辛い経験をヨブはしたわけですが、バルクも同じです。バルクはヨブほどの苦難を味わったわけではありませんが、心境は同じです。「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」と嘆きました。バルクの痛みとは何でしょう。それは心の痛みでした。主はそれに悲しみを加えられました。それが先ほど36章の出来事です。主のことばを語ってもだれも聞き入れてくれない。それどころか、それを語った自分さえも抹殺しようとしたのです。折角、書き留めた主のことばさえ火で焼き尽くしてしまいました。そんな状況に彼はホトホト疲れ果て、何の憩いも見いだせないと言ったのです。彼はエレミヤの秘書として、苦しみと試練を共にしてきました。それはエレミヤの信仰に共感すればこそのことですが、いざ自分のお尻に火が付くと、改めて自分の置かれた現実に目が覚めて、信仰が揺るがされたのです。
それはバルクに限らず私たちも同じではないでしょうか。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24)と言うのでイエス様を信じたんじゃないですか。それなのに死からいのちにどころか、いのちから死に移っているのではないかと思えたるような時、あるいは、「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:2-3)とあるから、その通りに従って来たのに、実を結ぶどころか枯れていきそうだと感じる時、私たちもバルクのように、主は私の痛みに悲しみを加えられた、私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せないとつぶやいてしまうことがあるのではないでしょうか。
最近、あるクリスチャンの姉妹から電話がありました。土地のことでトラブルになったが、神様のみこころはどうしたらわかるのでしょうかという内容でした。固定資産税のことを考えると一日も早く地目変更をして売却した方がいいと思い自分なりに必死に取り組みましたが、逃げるに逃げられない状況になってしまったというのです。そんな時、ディボーションで私たちの教会のホームページからサムエル記のメッセージをずっと読み続ける中でダビデの信仰に触れ、どうしてもお聞きしたいということでした。1時間半の間ひたすらお話を聞きながら、この方が、ここは自分の思いで動かないでしばらく待つことにしたと言われました。確かに固定資産税は心配ですが、それも神様にゆだねることにしました。そう決めたら平安があるんですと。でもこの方には2人のノンクリスチャンの妹さんがおられるのですが、責められるんだそうです。
「お姉ちゃん、何やってるの。早くしないと固定資産税が大変になるじゃない。クリンチャンライフって大変だね。こんな状況になっても神様を信じるの?神様を信じて何になるのよ。神様って何?」
これが普通でしょ。でもみことばに従って神の時を待つことにしたら、神様は不思議な方法で滞納していた税金分のお金を与えてくださいました。ですから、彼女は「これだ!」という確信があるのですが、このまま神様が示してくださるまで待っていて良いのでしょうか、ということでした。
信仰生活を送る上で、自分の身が危うくなりそうな状況になったらどんなことばが口をついて出てくるでしょう。その思いが、神とエレミヤの目に留まりました。それで主はエレミヤを通してバルクに対することばを語られたのです。ですから、これは今日のあなたに対する主の励ましのことばでもあるのです。
Ⅱ.自分のために大きなことを求めるな(4-5a)
そんなバルクに対して主が語られたことはどんなことだったでしょうか。それは、自分ために大きなことを求めるなということでした。4節と5節の前半までをご覧ください。
「4エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『【主】はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。」
主がエレミヤを通してバルクに語られたことは、自分のために大きなことを求めるな、ということでした。これはどういうことでしょうか。彼が自分のために求めていた大きなこととは、いったい何だったのでしょうか。新聖書注解という注解書の中で安田吉三郎先生は、このように解説しています。
「バルクは何を期待していたのであろうか。彼が預言者エレミヤに従った時、この預言者の働きによって国の運命は転換し、その結果彼は新しいイスラエルにおいて名声と高い地位と富が得られると考えたのであろうか。名門の出のバルクにとって、このような野心は無縁だとは言い切れない。エレミヤの預言を書に記し、これを神殿で人々に朗読した時、バルクは、人々の心の中に革命が起こると期待したかもしれない。さらに自分の巻物が首長たちに読まれ、その上王の前で朗読されると聞いた時、彼の心は恐れと期待におののいていたのではないだろうか。」
これは安田吉三郎先生の憶測ですが、的を得ていると思います。というのは、その前後の文脈をみると、そのようにあるからです。4節には、主はご自分が建てたものを自分で壊し、植えたものを自分で引き抜かれる方であると言われています。つまり、主は主権者であられるということです。そしてそのように言われた後で、5節に「見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ─主のことば──」と言われました。つまり、それはバルクが思い描いたようにはならないということです。
バルクは預言者エレミヤの口述筆記者という名誉ある役割が与えられていました。1節には、彼はネリヤの子とありますが、彼は名門の出身で、教養も豊かな人物でした。エレミヤ51章59節には、彼の兄セラヤはゼデキヤ王の時に高官だったことがわかります。恐らく彼は、兄と同じような地位に就くことを願っていたのでしょう。もし預言者エレミヤについて行き、エレミヤの預言によって王や首長たちが悔い改めるなら、ユダ王国に新しい未来が開かれることになります。そうなったらエレミヤは国の中で重要な地位に就くことでしょう。それは、エレミヤの書記である自分の昇進をも意味していました。ちょうどイエス様の弟子でゼベダイのふたりの子ヤコブとヨハネがイエス様に、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(マルコ10:37)と願ったように、です。
しかし、彼の期待は見事に裏切られることになります。事態は彼が願ったようにはいかなかったのです。むしろ逆でした。エホヤキム王やユダの首長たちは悔い改めるどころか、逆に彼らの怒りをかうことになり、口述筆記した巻物は切り裂かれ、暖炉の火で燃やしてしまいました。それどころか、彼の身にも危害が加えられる恐れがありました。彼の夢は脆くも崩れ去ってしまったのです。それは主がご自身に立ち返ろうとしない民にわざわいを下そうとしておられたからです。バルクがどんなに高貴な家の出で、優秀な者であっても、彼は一つのことを理解しなければなりませんでした。それは、主は私たちが関わるすべての物事の主権者であられるということです。4節の「わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。」ということばは、この真理を明らかにしています。それなのに彼は、自分ために大きなことを求めていたのです。
何事でも「自分のために」という思いが強すぎると、実際に思うようにいかない時、バルクのように嘆き、失望し、疲れ果ててしまうことになります。大切なのは、主が私たちに関わるすべての物事の主権者であられると認め、自分はそのための管にすぎないことを自覚することです。そうでないと、自分のしたことに一喜一憂することになるからです。イエス様は弟子たちにこう言われました。
「17:9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)
これがイエス様のしもべである私たちに求められている姿勢です。もしあなたが主に命じられたことをすべて行ったら、こう言うべきです。「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。それは、この世の価値観とは全く逆です。この世では、自分のしたことに対して、その報いがあるかないかを尺度にして生きています。たとえば、それをやったらどれだけ報酬があるかとか、どれだけ昇進するかといったことです。けれども、そのような生活は失望や落胆、また有頂天になることの繰り返しで、疲れ果ててしまうことになります。自分のために大きなことを求めるのではなく、主のために大きなことを求めなければなりません。それは主に対して忠実であること、ただ主が言われていることを行っているということ、そして成果ではなく、主との関係、主との交わりを喜び、これを求めることです。そうすれば、目先の報いに左右されることはなくなります。
こんなコラムを読みました。ご主人が出張で数日間家を留守にする時、4歳の息子が、「パパはあと何個寝たら帰って来るの?パパは今どこにいるの?何をしているの?」と一日に何度も尋ねてきたそうです。公園で遊んでいても、美味しいおやつを食べていても、どんなに楽しいことをしていても、息子の頭の中にあるのは常に「お父さんは?」でした。
 そんな息子の姿を見ながら、自分は息子のように神様のことを求めているか」と考えさせられたそうです。
聖書に、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)とあります。自分の願い、自分の計画、自分の必要ばかりに意識を向けていたら、気付かないうちに、この世と調子を合わせてしまうことになります。神様のみこころだけが、私たちを暗やみから光へと引き上げてくれます。だから、神のみこころに焦点を合わせなければなりません。忙しくて、お皿洗いながらしか祈れない時もあります。疲れ切って聖書を読んだり、祈れない時もあるでしょう。しかしそのような時こそ、より深いところへ進んでいくための神からの招きの時なのです。神様と共にありたいという奥深い心の飢え渇きを満たしてくれる時なのです。
 3Dのイラストをじっと集中して一点を見続けていると、絵が浮かび上がって立体的に見えてきます。そのようにいったん手を止めて、全神経を集中させ、神様を求め、探し、たたく時間が私たちに必要なのです。
Ⅲ.神の約束(5b)
しかし、そんなバルクに対して主は、一つの報いを与えると約束してくださいました。それは彼のいのちを守られるということです。5節後半をご覧ください。
「しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」
神はバルクに、この世での成功は約束されませんでしたが、彼のいのちが守られることを保証されました。「あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」とは、そういう意味です。リビングバイブルでは「わたしはこの民に大きなわざわいを下すが、あなたには報いとして、あなたがどこへ行っても、あなたのいのちを守る」とあります。バルクが受ける報いは、ただ彼のいのちを保つということでしたが、これほど素晴らし約束があるでしょうか。神の使命を忠実に成し遂げた後の報いは、この世の富や名誉で測ることができるものではありません。それはいのちを保つということ、永遠のいのちに与るということです。
バルクは、エレミヤたちとともにエジプトに連れて行かれましたが、彼にとっては、どこに行くかは大きな問題ではありませんでした。どこにいても、いのちを守られる主がともにおられるということ、この真実に心を留めることが大切だったのです。
バルクは、エルサレム陥落を目撃し、エレミヤに同行してエジプトに下り、そこでエレミヤの死を見届けました。その過程で彼は、自らの使命に目覚めたのです。それは自分のために大きなことを求めるのではなく、これらいっさいの事柄の証人となり、それを後世に伝えることでした。そしてエレミヤの預言を「エレミヤ書」という形にまとめたのです。自分に対する預言をエレミヤ書のこの箇所に置いたのも彼です。明確ではありませんが、エレミヤは、このバルクへのことばを、晩年になって彼に伝えたのかもしれません。バルクは、預言者エレミヤの死後も生きて、この記録を預言者エレミヤの生涯の記録のあとに、そっと補足として加えたのだろうと考えられています。44章でエレミヤの生涯の預言を書き終えた後に、どうしてこの記事がここに挿入されているのかは、そのような理由からでしょう。個人的に成功するかどうかは、主のみこころがなるかどうかに比べたら、取るに足りない小さなことではありませんか。バルクはその生涯の中で、このことを学んだのです。
それは私たちも同じです。私たちにとって大切なのは、自分のために大きなことを求めることではなく、自分の身を通して神の栄光が現わされること、みこころが天で行われるように、地でも行われますようにと祈り求めることなのです。

エレミヤの最後の預言 エレミヤ書44章15~30節

聖書箇所:エレミヤ書44章15~30節(旧約P1374、エレミヤ書講解説教75回目)
タイトル:「エレミヤの最後の預言」
前回から、エレミヤ書44章から学んでいます。これはエレミヤがユダの民に語った最後の預言、最後のメッセージです。最後のメッセージということは、とても重要なメッセージであるということです。そうでしょ、皆さんも最後に何かを語るとしたら本当に大切なことを語るのではないでしょうか。皆さんが最後に家族に言うことがあるとしたら何を伝えますか。昨日は、本当にいい天気だったね、なんて言わないと思います。イエス様が最後に語ったことばはマタイ28章18~20節にありますが、それは、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい、ということでした。大宣教命令ですね。これが、イエス様が最後に弟子たちに言われたことです。ですから、あらゆる国の人々を弟子とするということは、私たちクリスチャンにとってとても重要なことです。ではエレミヤを通して主が語られた最後のメッセージはどのようなことだったのでしょうか。
 Ⅰ.それって、本当ですか?(15-19)
まず、15~19節をご覧ください。「44:15 そのとき、自分たちの妻がほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っている女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民は、エレミヤに答えた。44:16 「あなたが【主】の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。44:17 私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも父祖たちも、私たちの王たちも首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。44:18 だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」44:19 「私たち女が、天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき、女王にかたどった供えのパン菓子を作り、注ぎのぶどう酒を注いだのは、夫をなおざりにしてのことだったでしょうか。」
「そのとき」とは、その前の14節までに語られていたときのことです。それはユダの町々とエルサレムが滅ぼされたのは、彼らの先祖たちが主に背いてほかの神々のところに行き、犠牲を供えて仕えたからでした。彼らは心砕かれず、神を恐れず、神から与えられた律法と掟に歩みませんでした。それなのになぜ、あなたがたは同じことをするのか。それで主は、エジプトに下って行ったユダの民を絶ち滅ぼすと宣言されました。「そのとき」です。
そのとき、自分の妻たちがほかの神々に犠牲を供えていることを知っている男たちのすべてと、大集団をなしてそばに立っていた女たちすべて、すなわち、エジプトの地とパテロスに住むすべての民が、エレミヤにこう言いました。16節です。
「あなたが主の名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」
エジプトに下って行ったユダの民は、改めてエレミヤによって語られた主のことばに従わないと言いました。この時従おうとしなかったのは、ユダの指導的な立場にあった人たちだけではありません。エジプトに移り住んだすべての民です。
エレミヤは、かつて「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。」(17:9)と言いましたが、この時の彼らの態度は、まさにそれを証明していました。彼らはかつて、自分たちも父祖たちも、自分たちの王も首長たちも、ユダの町々やエルサレムの通りで行っていたように、天の女王に犠牲(いけにえ)をささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたいと言ったのです。なぜでしょうか?17節後半から18節をご覧ください。ここで彼らはこのように言っています。
「私たちはそのとき、パンに満ち足りて幸せで、わざわいにあわなかった。だが、天の女王に犠牲を供え、それに注ぎのぶどう酒を注ぐのをやめたときから、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされたのだ。」
えっ、それって本当ですか?彼らも彼らの父祖たちも、エルサレムの通りで行っていたように、天の女王にいけにえを備え、注ぎのぶどう酒を注いでいたとき、パンに満ち足りて幸せだったんですか?それを止めたときから、万事に不足し、剣と飢饉によって滅ぼされたんですか?ウソです。それは事実ではありません。実際は逆です。彼らがその身にわざわいを招くようになったのは、彼らが彼らの神、主の警告を無視して天の女王に犠牲を供えて仕えたからです。
この「天の女王」については、すでに7章18節に出てきましたが、古代のさまざまな地域において女神の称号として使われていた神々のことです。たとえば、カナンではアシュタロテという神です。これは女神です。バビロンではイシュタル、ギリシャではアフロデテ、ローマではビーナスなどです。彼らはそうした偶像に仕えていたから自分たちはわざわいにあわなかったと言っていますが、実際には、彼らがわざわいにあわなかったのは、主が彼らをあわれんでおられたからです。彼らはそのことに全く気付いていませんでした。つまり、彼らの過去に対する認識とか歴史観というのは、目の前の一時的な現象だけを見て判断する、いわゆるこの世のご利益信仰と何ら変わらないものだったのです。物事がうまくいっているときはハレルヤと賛美しても、そうでないと、いとも簡単に神様を捨て去り、ほかの神々を求めたのです。このような自分の欲望を満たすことを基準にした信仰は、過去の事実さえも歪めてしまうことになるのです。
かつてエジプトから脱出したイスラエルの民もそうでしたね。彼らは、エジプトを出て荒野に導かれたとき、モーセとアロンに向かって不平を言いました。
「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト16:3)
それって、本当ですか?エジプトにいた時、彼らは本当に幸せだったのでしょうか。肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていましたか。違います。彼らは奴隷として酷い仕打ちを受けていました。それなのに彼らはそのことをすっかり忘れていたのです。なぜでしょうか?自分の欲望を満たすものを神だと思い込んでいたからです。
それは私たちにも問われていることです。私たちも信仰をそのように捉えていると、目の前に試練や苦難が起こったり自分の思うようにいかなかったりすると、あたかも神様を信じていなかった時の方が良かったと錯覚するのです。でも、それって本当ですか?違います。15、16、17と私の人生暗かった・・・。イエス様に出会う前は、皆さんも暗かったんじゃないですか。確かに自分が好きなように自由に生きていたかもしれません。でもその結果は、自分が何をしているのかもわからない空しい人生だったはずです。私は今でも覚えていますよ。私の人生の華は高校時代でしたから。自分が好きなように、それこそ自分の肉と欲と心の望むままに生きていました。でもその結果は、空しさでした。エペソ2章1節には、それは、自分の背きと罪との中に死んでいた者であり」と言われています。そうです、これぞ我が人生と思っていた人生は、死んでいたものだったのです。しかし、あわれみ豊かな神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きと罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。ハレルヤ!
それなのに、神様を信じる前の方が良かった、この世の神、天の女王にささげものを捧げていた時の方が幸せだったと主張するのはナンセンスです。正しくありません。
私はチューリップというバンドが好きでよくCDを聴くのですが、その中に「夏の終わり」という歌があります。
「夏は冬にあこがれて、冬は夏に帰りたい。
あの頃のこと今では すてきにみえる。」
まさに、ないものねだりの子守歌ですね。夏になると冬にあこがれ、冬になると夏がすてきに見えます。でも実際は、夏は夏で厳しい暑さに苦しみ、冬は冬で凍てつくような寒さに苦しむのです。でも暑いと冬はいいなぁと感じ、寒いと夏がいいなあと思うのは、その現象だけを見て判断するからです。でも神によって救われた恵みを基準にして進む人は違います。そういう人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができます。今、自分に降りかかっている災難と思えるようなことさえも、神はすべてのことを働かせて益としてくださると信じているからです。
ですから、自分の感情や気分といったものを当てにしないで信じることです。そういうものは体の調子や周囲の事情、さては天候によっても左右されるものだからです。しかし私たちの信仰はけっして人間の側の何かによってもたらされるものではなく、神様の言葉によって保証されるものです。ですから、真実な神の約束である聖書の御言葉を信じる時、そこに神が約束されていることを知ることによって、揺れ動くことのない確かな信仰の土台を築くことができるのです。
あなたは自分が置かれている状況を、どのように理解していますか。神様の言葉を基準にして、神様の視点で解釈しているでしょうか。自己中心的な解釈は神の語りかけを締め出し、祝福の機会を失うという結果をもたらすのです。
Ⅱ.神のさばきの宣言(20-28)
そんな考え方をしていた彼らに、エレミヤは何と言いましたか。20~28節をご覧ください。まず23節までをお読みします。「44:20 そこでエレミヤは、そのすべての者、すなわち、男たちと女たち、また彼に口答えした者たち全員に言った。44:21 「ユダの町々やエルサレムの通りで、あなたがたや、あなたがたの先祖、王たち、首長たち、また民衆が犠牲を供えたことを、【主】が覚えず、心に上らせなかったことがあるだろうか。44:22 【主】は、あなたがたの悪い行い、あなたがたが行ったあの忌み嫌うべきことのために、もう耐えることができず、それであなたがたの地は今日のように、住む者もなく、廃墟となり、恐怖のもと、ののしりの的となったのだ。44:23 あなたがたが犠牲を供えたため、また、【主】の前に罪ある者となって、【主】の御声に聞き従わず、主の律法と掟と証しに歩まなかったために、今日のように、あなたがたにこのわざわいが起こったのだ。」」
そのように主張するユダの民に対してエレミヤは、正しい認識を示します。つまり、ユダの町々やエルサレムにわざわいが下ったのは、彼らが天の女王を拝むことを止めなかったからです。そのことを主はちゃんと覚えておられ、もう耐えることができなくなられたからです。
そんなエレミヤのメッセージに耳を傾ける者など一人もいませんでした。それでもなお、エレミヤは、すべての民、すべての女たちに真実を語り続けます。それが24~28節の内容です。これがエレミヤの最後の預言、最後のメッセージとなります。それは次の4つのことでした。
まず25節をご覧ください。ここには、「『イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。あなたがたとあなたがたの妻は、自分たちの口で約束し、自分の手で果たしてきた。あなたがたは、天の女王に犠牲を供えて彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐという誓願を、必ず実行すると言っている。では、あなたがたの誓願を確かなものとし、あなたがたの誓願を必ず実行せよ。』」とあります。
 ここには、あなたがたが天の女王に誓った誓願を必ず果たせ、とあります。これは皮肉的な勧めです。その語調には、挑戦とも、あきらめともとれるようなニュアンスが見られます。
二つ目のことは、26節です。「それゆえ、エジプトの地に住むすべてのユダの人々よ、【主】のことばを聞け。『見よ、わたしはわたしの大いなる名によって誓う──【主】は言われる──。エジプトの全土において、「【神】である主は生きておられる」と、わたしの名がユダの人々の口に上ることはもうなくなる。」
これは、彼らが主に立ち返って赦されることは二度とないということです。いわば決定的なさばきの宣告です。主はどんな罪でも赦してくださいます。しかし、悔い改めなければ、赦したくても赦すことはできません。
そして三つ目のことは27節です。「見よ、わたしは彼らを見張っている。わざわいのためであって、幸いのためではない。エジプトの地にいるすべてのユダの人々は、剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せる。」
どういうことですか?エジプトにいるすべてのユダヤ人は、不信仰のゆえに剣と飢饉によって、ついには完全に滅び失せるということです。
しかし28節を見ると、もう一つのことが記されてあります。それは、「剣を逃れる少数の者だけが、エジプトの地からユダの地に帰る。こうして、エジプトの地に来て寄留しているユダの残りの者たちはみな、わたしのことばと彼らのことばの、どちらが成就するかを知る。」ということです。この「剣を逃れる少数の者」とは、イスラエルの残りの者たちのことです。どの預言者も、ユダに対する神のさばきだけでなく、そこにさばきを逃れる少数の者たちがいることを預言しています。神にあっては、絶望的な状況の中にも希望があるということです。そこからやがて救い主が遣わされることになります。ですから、悔い改めができなくなるほどまで罪に染まり切ってはなりません。主にあっては、必ず希望があるからです。その希望を見上げて救いの道を歩ませていただこうではありませんか。
Ⅲ.神のことばは必ず成就する(29-30)
最後にエレミヤは、神からのしるしを彼らに伝えます。これがエレミヤの最後のメッセージの最後です。これが、主がエレミヤを通して伝えたかったことです。29~30節をご覧ください。「44:29 これが、あなたがたへのしるしである──【主】のことば──。わたしはこの場所であなたがたを罰する。あなたがたにわざわいを下すというわたしのことばが必ず成就することを、あなたがたが知るためである。』44:30 【主】はこう言われる。『見よ。わたしは、エジプトの王ファラオ・ホフラをその敵の手に、そのいのちを狙う者たちの手に渡す。ちょうどユダの王ゼデキヤを、そのいのちを狙っていた彼の敵、バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡したように。』」」
これが彼らに対するしるしです。すなわち、ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカドネツァルの手に渡されたように、エジプトの王ファラオ・ホフラも彼のいのちをねらう敵の手に渡されるというのです。これがしるしです。何のしるしかというと、エジプトで主が彼らを罰すると語られたことばが必ず成就することのしるしです。この預言の通り、この時から18年後にバビロンがエジプトに侵入し、エジプトの王ファラオ・ホラフは将軍アマシスの謀反によって殺されることになります。B.C.565年のことです。主のことばは必ず成就するのです。だから神のことばに従うようにと、エレミヤは語るのです。これがエレミヤの最後の最後のメッセージでした。
エレミヤはすべての者たちから見捨てられてもなお、神のことばに絶対的な信頼を寄せていました。彼はおそらく自分に言い聞かせるような思いで、これがあなたがたへのしるしだと告げたのでしょう。イエス様はこう言われました。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マルコ13:31) 
天地は滅び去ります。しかし、主のことばは決して滅び去ることはありません。たとえ天地が滅び去り、すべてが無くなったとしても、主のことばは決して滅びることはないのです。必ず成就します。これこそ、私たちにとって真の慰めではないでしょうか。
預言者イザヤはこう言いました。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:7-8)
すべての人は草のようです。その栄光は花のようです。それはすぐに枯れてしまい、しぼんでしまいます。朝に生え出たかと思ったら、夕べにはしおれてしまいます。人はそんなの草や花のようなのです。そんなこと信じられない、そんなことはないという人がいたら、どうぞ家に帰って自分の顔を鏡でよく見てください。いつの間にか白髪が増えたなぁと気が付くでしょう。しみやしわが増えたことがわかります。あんなに若々しかったのに、いつの間にか老けてしまいました。あんなに青々としていたのが、いつの間にか枯れてきました。あんなきれいに咲き誇っていたのに、いつの間にか色あせてしぼんでしまいました。あの人は教授になった、医者になった、大臣になった、大統領になったと言っても、その人生は70年か80年で終わってしまいます。どんなに栄華を極めても、10年、20年、そこに留まることができたら、関の山です。人生はあっという間に過ぎ去ります。ソロモンはこれを「空の空。すべては空」だと言いました。仏教ではこれを「諸行無常」と言いました。平家物語の冒頭に引用されています。
祗園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘(かね)の声(こえ)、諸行無常(むじょう)の響きあり。
娑(さ)羅(ら)双樹(そうじゅ)の花の色、 盛者(しょうじゃ)必衰(ひっすい)の理(ことわり)をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、唯(ただ)春(はる)の夜の夢のごとし。
たけき者(もの)も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。(平家物語)
祇園精舎の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがあります。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるということを表しています。どんなにこの世で栄えても、その栄えはずっとは続きません。まさに春の夜の夢のようです。勢い盛んで激しい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じなのです。そう詠ったのです。実に空しい存在です。
こんなこと言われても全然慰めになりません。そうです、この世には、真の慰めはないのです。ですから、この現実をしっかりと見つめそれを額面通り受け止めるなら、それが慰めになります。この現実を突きつけられたら確かにショックかもしれません。決して受け入れたくないでしょう。でも、これが現実なのです。事実を事実として受け止められるなら慰めが来ます。自分は枯れていく存在なのだと。いつまでも咲き誇っているわけではない。いつかしぼんでいきます。やがて死んでいく。それは明日かもしれません。年をとってから死ぬとは限りません。今晩死ぬかもしれない。人生はそんなに長くないのです。草花のようにすぐにしぼんでいくものでしかありません。その事実を受け入れその先にある希望をしっかり見つめて生るなら慰められます。この地上にあるものがすべてではないということがわかるとき、人は慰めを受けるのです。
詩篇102篇25~28節にはこうあります。「25 あなたははるか以前に地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。26 これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。28 あなたのしもべらの子孫は住みつき、彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。」
この地上のものは滅びます。いつまでも続くものではありません。健康も、美しさも、失われる時がやってきます。目に見えるものがいつまでも続くものではありません。そのようなものにとらわれていたら、そのようなものに人生をかけているとしたら、それほど虚しいことはありません。それによって慰められことはできないからです。しかしあなたはながらえます。神は永遠に変わることがなく、その年は尽きることがないからです。この方に信頼すれば慰めを得られるのです。
主イエスは言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
これこそ慰めではないでしょうか。主イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいます。あなたが見捨てられることは絶対にありません。見放されることはないのです。世界がどのようになっても、津波がすべてを奪っていくようなことがあっても、病気になって余命いくばくかもないとなっても、神は約束を違(たが)える方ではありません。そのおことばの通りにあなたを守ってくださいます。これほど大きな慰めはありません。
ですからパウロはこう言ったのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
たとえ肉体が滅びることがあってもそれで終わりではありません。私たちは天の御国で永遠に生き続けるからです。しかも、先週はイースター礼拝でフレミング先生から私たちはやがて栄光のからだに復活するということが語られましたが、イエス・キリストが再び来られる時、永遠に朽ちることのない栄光の体によみがえるのです。そうしていつまでも主とともにいるようになります。ここに希望があります。クリスチャンにはその約束の保証として御霊が与えられているのです。その御霊によって私たちはやがて確かに永遠の命がもたらされることを確信し、真の平安を得ることができるのです。主はそのために初穂としてよみがえられました。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているからです。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
慰めを必要としている人がいたら、ぜひこのことを知ってほしいと思います。そして目先のことで一喜一憂する人生から、いつまでも変わることのない神のことば、聖書のことばに立った確かな人生を歩んでいただきたいと思うのです。これが真の慰めのメッセージです。これが、主がエレミヤを通してユダの民に伝えたかった最後のメッセージだったのです。

 

士師記15章

 

 士師記15章からを学びます。

 

 Ⅰ.サムソンの怒り(1-8)

 

まず1~8節までをご覧ください。「15:1 しばらくたって、小麦の刈り入れの時に、サムソンは子やぎを一匹持って自分の妻を訪ね、「私の妻の部屋に入りたい」と言ったが、彼女の父は入らせなかった。15:2 彼女の父は言った。「私は、あなたがあの娘を嫌ったのだと思って、あなたの客の一人に与えた。妹のほうがきれいではないか。あれの代わりに妹をあなたのものにしてくれ。」15:3 サムソンは彼らに言った。「今度、私がペリシテ人に害を加えても、私は潔白だ。」15:4 それからサムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕らえた。そして、たいまつを取り、尾と尾をつなぎ合わせて、二本の尾の間にそれぞれ一本のたいまつをくくり付けた。15:5 彼はそのたいまつに火をつけ、それらのジャッカルをペリシテ人の麦畑の中に放し、束ねて積んである麦から、立ち穂、オリーブ畑に至るまで燃やした。15:6 ペリシテ人たちは言った。「だれがこんなことをしたのか。」すると彼らは「あのティムナ人の婿サムソンだ。あの人が彼の妻を取り上げて、客の一人にやったからだ」と言った。ペリシテ人は上って来て、彼女とその父を火で焼いた。15:7 サムソンは彼らに言った。「おまえたちがこういうことをするなら、私は必ずおまえたちに復讐する。その後で、私は手を引こう。」15:8 サムソンは彼らの足腰を打って、大きな打撃を与えた。それから、彼は下って行って、エタムの岩の裂け目に住んだ。」

 

「しばらくたって」とは、14章の出来事からしばくたってということで

す。サムソンはペリシテの娘が気に入りティムナに下って行き彼女と結婚しましたが、その祝宴で30人の客にした謎かけに失敗し、怒りに燃えて自分の父の家に帰って行きました。その間サムソンの妻はどうなったかというと、彼につき添った客の一人のものとなってしまいました。それからしばらくたってのことです。

 

 小麦の刈り入れの時に、サムソンは子やぎ一匹を持って自分の妻を訪ね、「私の妻の部屋に入りたい」と言いました。これは「通い婚」という制度が背景にあります。アラブ人の間では今日でも通い婚をしている人たちがいるそうです。この通い婚では、通って来る夫はみやげ物を持ってくるのが習わしとなっています。サムソンがここで子やぎ一匹を持ってきたというのも、のためです。

 

しかし、彼女の父親はサムソンを家の中へ入らせませんでした。なぜなら、サムソンが自分の父の家に帰ったとき、娘を婚礼に来ていた客の一人に与えてしまったからです。それで彼女の父親は代わりに妹を妻にしてくれるようにと頼みましたが、サムソンは激怒して、「今度、私がペリシテ人に害を加えても、私は潔白だ。」と言いました。

 

 それで彼はどうしたかというと、ジャッカル三百匹を捕らえ、たいまつを取り、尾と尾をつなぎ合わせてその間にたいまつをくくり付け、麦畑の中に放ちました。それで積んである麦から、立ち穂、オリーブ畑に至るまで、すべて燃え尽きてしまいました。これは、ペリシテ人にとって大打撃となりました。それでペリシテ人たちは怒り、だれがこんなことをしたのかと言うと、ティムナ人の婿のサムソンだということが判明しましたが、その矛先をサムソンの妻と父に向け、彼らを火で焼いてしまいました。

 するとサムソンは彼らにこう言いました。「おまえたちがこういうことをするなら、私は必ずおまえたちに復讐する。その後で、私は手を引こう。」そして、妻とその父を焼き殺した人々を殺したのです。何とも悲しい結末です。いったいなぜこのような結果になってしまったのでしょうか。それは、彼らが悪い種を蒔いたからです。サムソンの妻の父親は父親で娘を別の人に与えてしまい、ペリシテ人はペリシテ人でそれがサムソンの妻とその夫のせいだということを知ると、彼らを火で焼いて殺してしまいました。しかし元はと言えば、これらの出来事はサムソンが神の命令に背いたことに原因がありました。彼は神に選ばれたナジル人であったのに神の命令に背き異邦人を妻としました。確かに14章4節には、それが主によることであったとありますが、彼は神に選ばれたナジル人であったのに、その言動はかなり破天荒で、神のみこころにかなったものではありませんでした。それは元はといえばサムソン自身が招いた悲劇だったのです。

 

ガラテヤ6章7節に「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになるということです。」とあります。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。良い種を蒔けば、良い実を刈り取り、悪い種を蒔けば、悪い実を刈り取るようになるのです。あなたはどのような種を蒔いていますか。悪い種ではなく、良い種を蒔きましょう。神のみことばに従って、正しい道を歩ませていただこうではありませんか。

 

Ⅱ.ラマテ・レヒ(9-18)

 

次に、9~18節までをご覧ください。まず13節までをお読みします。「15:9 ペリシテ人が上って来て、ユダに向かって陣を敷き、レヒを侵略したとき、15:10 ユダの人々は言った。「なぜおまえたちは、私たちを攻めに上って来たのか。」彼らは言った。「われわれはサムソンを縛って、彼がわれわれにしたように、彼にもしてやるために上って来たのだ。」15:11 そこで、ユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った。「おまえは、ペリシテ人がわれわれの支配者であることを知らないのか。おまえはどうしてこんなことをしてくれたのか。」サムソンは言った。「彼らが私にしたとおり、私は彼らにしたのだ。」15:12 彼らはサムソンに言った。「われわれはおまえを縛って、ペリシテ人の手に渡すために下って来たのだ。」サムソンは言った。「あなたがたは私に討ちかからないと誓いなさい。」15:13 彼らは答えた。「決してしない。ただおまえをしっかり縛って、彼らの手に渡すだけだ。われわれは決しておまえを殺さない。」こうして、彼らは二本の新しい綱で彼を縛り、その岩から彼を引き上げた。」

 

「人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになる」という聖書の原則が、サムソンに適用されます。サムソンがペリシテ人たちに大きな打撃を与えるとペリシテ人たちが上って来て、ユダに向かって陣を敷きました。レヒはユダ族の領地にあった町です。レヒの人々は、ペリシテ人たちが上って来た理由がサムソンにあることを知り、エタムの岩の裂け目にいたサムソンのところに下って行きました。ここには三千人でやって来たとありますが、なぜこれほど大勢の人たちでやって来たのでしょうか。サムソンは何も持たずに獅子を引き裂いた人です。1人や2人では立ち向かうことは出来ないと思ったのでしょう。でもこれだけの人がいれば、どんなに力のあるサムソンでも捕らえることができると思ったのです。

 

しかし、それだけいればペリシテ人と戦うことができたはずです。あのギデオンは主の勇士300人でミデヤン人と戦って勝利しました。それなのに彼らはそれほどの人数がいてもペリシテ人と戦おうとしませんでした。なぜでしょうか。11節には、「ペリシテ人がわれわれの支配者であることを知らないのか」(11)とあります。彼らにはペリシテ人を倒せると思えなかったのです。つまり、彼らには主が彼らを救ってくださるという信仰がなかったのです。頭では主は万軍の主と知っていても、いざ目の前に力ある者を見ると自分たちにはできないと判断したのです。しかし、それは彼らの業ではなく主の業です。主が成さるならどんな敵でも倒すことができます。たとえペリシテに支配されていたとしてもそこから解放してくださったはずです。しかし彼らは信じることができませんでした。レヒの人々がサムソンのところにやって来ると、自分に討ちかからないという条件で、自分をペリシテ人の手に引き渡すことに同意しました。

 

ペリシテ人に引き渡されたサムソンはどうなったでしょうか。14~17節までをご覧ください。「15:14 サムソンがレヒに来たとき、ペリシテ人は大声をあげて彼に近づいた。すると、【主】の霊が激しく彼の上に下り、彼の腕に掛かっていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、その縄目が手から解け落ちた。15:15 サムソンは真新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、それで千人を打ち殺した。15:16 サムソンは言った。「ろばのあご骨で、山と積み上げた。ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」15:17 こう言い終わると、彼はそのあご骨を投げ捨てた。彼はその場所を、ラマテ・レヒと名づけた。」

 

サムソンの姿を見たペリシテ人たちは、大声を上げて喜びました。戦わずしてサムソンを捕らえることができたのですから。しかし、彼らはサムソンが神のナジル人であることを理解していませんでした。彼には全能の主の霊が注がれていたのです。その主の霊が激しく彼の上に下ると、彼を縛っていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、焼け落ちてしまいました。するとサムソンは真新しいろばのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、それで千人のペリシテ人を打ち殺しました。いったいこの力はどこから来たのでしょうか。それは彼の内側から出たものではなく、神から来たものでした。主の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はろばのあご骨で千人の敵を打ち殺すことができたのです。

 

これは、私たちにも言えることです。たとえ私たちを縛るものがあっても、主の霊があなたに下るなら、その縄目はあなたの手から溶け落ちるのです。主の霊はあなたを解放し、自由にすることができます。取るに足りない「ろばのあご骨」を用いて、神の敵を打ち破ることができるのです。そのろばのあご骨こそ私たちそのものです。使徒1章8節に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」とあるとおりです。

 

あなたを縛っているものは何ですか。それがどんなに丈夫な真新しい綱であっても、主の霊があなたに臨むなら、あなたはそれを打ち破ることができるのです。ユダの人々のようにただ敵の言うままになるのではなく、自らを神にささげ、主の霊に満たしていただき、主の勝利を得させていただこうではありませんか。

 

Ⅲ.エン・ハ・コレ(18-20)

 

最後に、18~20節を見て終わりたいと思います「15:18 そのとき、彼はひどく渇きを覚え、【主】を呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えてくださいました。しかし今、私は喉が渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」15:19 すると、神はレヒにあるくぼんだ地を裂かれたので、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復し、生き返った。それゆえ、その名はエン・ハ・コレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。15:20 こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間イスラエルをさばいた。」

 

「そのとき」とは、サムソンがろばのあご骨でペリシテ人千人を撃ち殺したときのことです。サムソンはひどく渇きを覚えました。なぜなら、ユダの人々はサムソンによって助け出されたのに、彼に援助の手を差し伸べなかったからです。そこで彼は主を呼び求めて言いました。彼はこのペリシテに対する勝利が、主によってもたらされたものであることをよく認識していたのです。それなのにいま喉が渇いて死にそうであり、このままではペリシテ人と戦うことができなくなり、彼らの手に落ちることになってしまうと訴えているのです。

 

すると神はその祈りにただちに答えてくださり、レヒにあるくぼんだ地を裂かれると、そこから水が出してくださいました。何とも優しい神様ですね。サムソンはその水を飲んで元気を回復し、生き返りました。それゆえ、その名は「エン・ハコレ」と呼ばれました。その意味は、「呼ばわる者の泉」です。

 

皆さん、主は呼ばわれる者の泉です。詩篇34篇6~8節には、「34:6 この苦しむ者が呼ぶと【主】は聞かれすべての苦難から救ってくださった。34:7 【主】の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される。34:8 味わい見つめよ。【主】がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。」とあります。

これは、すべてのクリスチャンに与えられている約束です。苦しむ時に呼ばわるとき、主は聞かれ、すべての苦難から救ってくださいます。あなたは今何に渇いていますか。あなたが主に叫ぶなら、主はその叫びを聞かれ、すべての苦しみから救ってくださいます。主は主を恐れる者の周りに陣を張り、あなたを助け出してくださるのです。このみことばに信頼して、この新しい年も、主に叫び求めましょう。そして、主がどれほどいつくしみ深い方であるかを味わい、主に身を避ける一年とさせていただきましょう。

士師記14章

士師記14章からを学びます。

 

 Ⅰ.ペリシテ人の娘を気に入ったサムソン(1-4)

 

まず1~4節までをご覧ください。「1 サムソンは、ティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘で、ティムナにいる一人の女を見た。2 彼は上って行って、父と母に告げた。「私はティムナで一人の女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、彼女を私の妻に迎えてください。」3 父と母は言った。「あなたの身内の娘たちの中に、また、私の民全体の中に、女が一人もいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人から妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「彼女を私の妻に迎えてください。彼女が気に入ったのです。」4 彼の父と母は、それが【主】によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。そのころ、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。」

 

サムソンは、ティムナに下って行き、そこでペリシテの娘をみそめます。サムソンが住んでいた

のはダン族のツォルアという山地の町でしたが、ペリシテ人の町ティムナは、目と鼻の先にありました。ですから、サムソンはその町に下って行ったのですが、そこで美しい一人の女を見たのです。サムソンはその娘を見て、ひとめぼれしてしまいました。それで、彼は自分の父と母に告げて言いました。「私はティムナで一人の女を見ました。ペリシテの娘です。今、彼女を私の妻に迎えてください。」(2)

 

するとサムソンの両親は、「あなたの身内の娘たちの中に、また、私の民全体の中に、女が一

人もいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人から妻を迎えるとは。」(3)と言いました。それは明らかにモーセの律法に違反していたからです。モーセの律法には、異邦の民と姻戚関係に入ってはならないとあります。申命記7章3せつには、「あなたの娘をその息子に嫁がせたり、その娘をあなたの息子の妻としたりしてはならない」とあります。なぜなら、「彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く」(出エジプト34:15)ようになるからです。ペリシテ人は割礼を受けていませんでした。また、ダゴンという偶像を礼拝していました。ですから、彼の両親が反対したのは当然のことです。しかも彼はナジル人として聖別された人でした。そのような人が異邦人と結婚するなど考えられませんでした。

 

しかし、サムソンは彼の願いを取り下げようとはしませんでした。「彼女を私の妻に迎えてください。彼女が気に入ったのです。」(3)と、頑として受け入れなかったのです。何だか幼子がだだをこねているみたいですね。どうして彼は父母の言うことを聞き入れることができなかったのでしょうか。4節には次のようにあります。「彼の父と母は、それが【主】によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。そのころ、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。」

 

どういうことでしょうか?これは、サムソンの考えが正しかったということではありません。明らかに彼は過ちを犯そうとしていました。しかし主はその過ちを用いてさえもご自身の計画を実現させようとしておられたのです。つまりサムソンを用いてイスラエルをペリシテ人から救おうとしておられたのです。

 

このように神は、人の頑なさや自己中心的な態度さえもご自身の計画を実現させるために用いることがあるのです。それはちょうどヤコブの子たちが弟ヨセフをエジプトに売り渡した時と同じです。彼らがやったことは明らかに悪でしたが、神はそれをヤコブの家族を救うために用いてくださいました。ですから、サムソンの思いが正しかったということではなく、神はそれを許容されたということです。

 

だからと言って、神の恵みとあわれみを試すようなことをしてはいれません。ただ過去において失敗した経験がある人は、主がそのことさえも益としてくださると信じて主の御名をあがめ、神のみこころに歩まなければなりません。神は、私たちの失敗さえも良き目的のために用いてくださる方なのです。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:13)

 

Ⅱ.獅子を引き裂いたサムソン(5-9)

 

次に5~9節までをご覧ください。「5 サムソンは彼の父と母とともにティムナに下り、ティムナのぶどう畑にやって来た。すると見よ、一頭の若い獅子が吼えたけりながら彼に向かって来た。6 このとき、【主】の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、何も手に持たず獅子を引き裂いた。サムソンは自分がしたことを父にも母にも告げなかった。7 サムソンは下って行って、その女と話した。サムソンは彼女が気に入った。8 しばらくたってから、サムソンは彼女を妻にしようと戻って行った。あの獅子の死骸を見ようと、脇道に入って行くと、なんと、獅子のからだに蜜蜂の群れがいて、蜜があった。9 彼はそれを両手にかき集めて、歩きながら食べた。彼は自分の父母のところに行って、それを彼らに与えたので、彼らも食べた。その蜜を獅子のからだからかき集めたことは、彼らには告げなかった。」

 

サムソンは、彼の父と母とともにティムナに下って行きました。その女と会うためです。そしてぶどう畑にやって来ると、一頭の若い獅子が彼に襲いかかりました。この時は父と母は一緒ではなかったようです。後のところに、彼はこのことを父と母に告げなかったとありますから・・。

すると、主の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、獅子を引き裂きました。何も手に持たずして、です。しかし、サムソンはそれを自分の両親に告げませんでした。なぜでしょうか。なぜなら、彼はナジル人として聖別されていたからです。このナジル人については前回学びましたが、三つのことが禁止されていました。その一つは、ぶどう酒や強い酒を飲んではならないということでした。しかし彼はティムナに下ったとき、ぶどう畑にやって来ました。何のためですか?ぶどうの実を食べるためでしょう。しかし、それはナジル人として禁じられていたことでした。ですから、彼はそのことを両親に告げなかったのです。そして、サムソンは下って行って、その女と話をしました。すると彼はもっと彼女が気に入りました。

 

しばらくたってからのこと、サムソンは彼女を妻にしようとティムナに戻って来ました。「しばらくたってから」とは、この時からしばらくたってからという意味です。サムソンはツォアルの自分の家に戻っていたのでしょう。それからしばらくたって、彼は彼女を妻にしようと戻って来たのです。そしてあの時の獅子の死骸はどうなっているかを見ようと、脇道に入って行くと、なんと、獅子のからだに蜂蜜の群れが巣を作っていました。するとその中に密があったので、彼はそれをかき集めて、歩きながら食べました。そのときそこに両親はいませんでしたので、自分の両親のところに行ってそれを与えたので、彼らも食べました。彼は、それが獅子の死体から集めたものであることは告げませんでした。なぜでしょうか。ここも彼がナジル人として神に聖別された者であることと関係があります。ナジル人として禁止されていたもう一つのことは、汚れたものに近づいてはならないということでした。死体に近づいてはならなかったのです。しかし、彼はそれを無視して蜜を食べました。それがバレないように、そのことを父母には内緒にしたのです。

 

こうやって見ると、彼は早くも神の命令に背いていたことがわかります。一度ならず二度も・・。彼がぶどう畑にやって来たとき、一頭の若い獅子が彼に襲いかかったのは、このことを思いださせるためだったのでしょう。しかし、主の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、獅子を引き裂いてしまいました。彼にそのような力が与えられていたのは彼がナジル人であるがゆえであったのに、彼はそのナジル人の誓いを簡単に破ってしまったのです。いったいなぜ彼は神の命令に背いてしまったのでしょうか。

 

勿論、彼はそのことを十分自覚していたでしょう。しかし彼の行動は、自分の思いとは全く別のことをしていました。これはサムソンばかりでなく、私たちもよく経験することです。パウロは、このことをローマ人への手紙7章15節で次のように言っています。「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」

そして、そんな自分の姿を嘆き、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(同7:24)と叫びました。それはパウロだけではなく、私たちも同じではないでしょうか。私たちはイエスを信じ、イエスに結び合わされた者として、神に聖別された者であるにもかかわらず、ここでサムソンがしているように、平気で神のみこころに背くようなことをしてしまいます。その結果、パウロのように、「私は本当にみじめな人間です。」と叫ぶことがあるのです。サムソンも同じでした。彼はわかっちゃいるけど止められなかったのです。彼は、自分がしたいことではなく、したくない悪を行っていたのです。

 

いったいどうしたら良いのでしょうか。どこにその解決の鍵があるのでしょうか。パウロは続くローマ7章25節からのところで、その解決を見出しました。それはイエス・キリストです。イエス・キリストにあるいのちの御霊の原理です。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。 肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ7:25-8:11)

そうです、私たちの混乱した状態から私たちを救うことができるのは、イエス・キリストのいのちの御霊でしかありません。もし神の御霊が私たちのうちに住んでおられるなら、私たちは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。そして、この御霊が、私たちの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。ですから、私たちにとって必要なことは、神の御霊によって生きることです。そうすれば、肉の欲求を満足させることはありません。サムソンの問題はいのちの御霊によってではなく、自分の肉の欲求に従って行動したことだったのです。

 

Ⅲ.謎かけ(10-20)

 

最後に、10節から終わりまでを見て終わりたいと思います。まず14節までをご覧ください。「10 彼の父がその女のところに下って来たとき、サムソンはそこで祝宴を催した。若い男たちはそのようにするのが常だった。11 人々はサムソンを見て、客を三十人連れて来た。彼らはサムソンに付き添った。12 サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに一つの謎をかけよう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを見事に私に解き明かし、答えを見つけることができたなら、あなたがたに亜麻布三十着と晴れ着三十着を差し上げよう。13 もし、それを解き明かすことができなければ、あなたがたが私に、亜麻布の衣服三十着と晴れ着三十着を差し出すことにしよう。」彼らは言った。「謎をかけなさい。われわれは聞こう。」14 そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出た。強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、その謎を解き明かすことができなかった。」

 

サムソンの父がその女のところに下って来たとき、彼はそこで七日間祝宴を催しました。ペリシテ人たちは、サムソンに三十人の客を連れて来ました。そのようにすることが常だったからです。それで彼らはサムソンに付き従いました。

 

するとサムソンは、彼らに謎かけをします。これは古代ギリシャの習慣です。ペリシテ人たちはギリシャ系の民族だったので、このような習慣があったのです。謎かけというのは楽しいですね。私もよく孫と「なぞなぞクイズ」をやります。「花子さんのお母さんには四人の娘がいました。春子、夏子、秋子、さて、もう一人の娘の名前は何でしょう?」答えは「冬子」ではありません。「花子」です。こういう「なぞなぞ」をよくします。

サムソンが出した謎かけとはどういうものであったかというと、「食らうものから食べ物が出た。強いものから甘い物が出た。」いったいこれは何だ!というものでした。そして、彼らのやる気を引き出すためか、彼は正解者には豪華な賞品を約束します。それは亜麻布三十着と晴れ着三十着です。もし彼らが祝宴の七日の間に、その答えを見つけることができたら、これらを差し上げるというのです。通常、謎かけというのは、論理的に考えれば答えが見つかるものですが、サムソンのなぞかけは本人しかわからないものでした。ですから、どんなに豪華な賞品を出しても決して問題にはならないはずでした。むしろ、それは彼にとって好都合でした。なぜなら、もし、それを説き明かすことができなければ、逆に彼らからそれらを受けることができたからです。

 

すると彼らは「いいでしょう。謎をかけなさい。われわれは聞こう」と言って、その謎かけにチャレンジすることにしました。しかし、三日たっても、その謎を解き明かすことができませんでした。それで彼らはどうしたかというと、彼の妻を利用して答えを引き出そうとします。15~20節までをご覧ください。「15 七日目になって、彼らはサムソンの妻に言った。「おまえの夫を口説いて、あの謎をわれわれに明かしなさい。そうしないと、火でおまえとおまえの父の家を焼き払ってしまうぞ。おまえたちはわれわれからはぎ取ろうとして招待したのか。そうではないだろう。」16 そこで、サムソンの妻は夫に泣きすがって言った。「あなたは私を嫌ってばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の同族の人たちに謎をかけて、それを私に明かしてくださいません。」サムソンは彼女に言った。「見なさい。私は父にも母にもそれを解き明かしてはいないのだ。おまえに解き明かさなければならないのか。」17 彼女は祝宴が続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女はその謎を自分の同族の人たちに明かした。18 町の人々は、七日目の日が沈む前にサムソンに言った。「蜂蜜よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か。」すると、サムソンは彼らに言った。「もし、私の雌の子牛で耕さなかったなら、あなたがたは私の謎を解けなかっただろうに。」19 そのとき、【主】の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民を三十人打ち殺し、彼らからはぎ取って、謎を明かした者たちにその晴れ着をやり、怒りに燃えて父の家に帰った。20 サムソンの妻は、彼に付き添った客の一人のものとなった。」

 

彼らはいくら考えてもわからなかったので、サムソンの妻に脅しをかけ、その謎の秘密を探らせました。「おまえの夫を口説いて、あの謎をわれわれに明かしなさい。そうしないと、火でおまえとおまえの父の家を焼き払ってしまうぞ。おまえたちはわれわれからはぎ取ろうとして招待したのか。そうではないだろう。」

 

そこで、サムソンの妻は夫に泣きすがります。妻にこんなふうにされたら、答えない訳にはいきません。私などはこんなふうにされなくても答えてしまうでしょう。サムソンは非常に悩みますが、彼女は祝宴が続いた七日間、ずっとサムソンに泣きすがったので、ついにその秘密を彼女に明かしてしまいました。彼女はそれを同族のペリシテ人たちに明かすと、彼らは、七日目の日が沈む前にサムソンに言いました。

「蜂蜜よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か。」(18)

「食らうものから食べ物が出」の「食らうもの」とは「獅子」のこと、「強いものから甘い物か出た」の「甘い物」とは「蜂蜜」のことでした。

 

すると、サムソンは彼らに言いました。「もし、私の雌の子牛で耕さなかったなら、あなたがたは私の謎を解けなかっただろうに。」(18)

「私の雌の子牛」とは、サムソンの妻のことです。つまり、サムソンの妻が教えてくれなかったら、この謎を解けなかっただろう、ということです。

 

サムソンは、ペリシテ人の別の町アシユケロンに下って行き、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らから着物をはぎ取とって、謎を解いた者たちに与えました。そして、彼は怒りに燃えて父の家に帰ると、その女の父は、他の男に娘をやってしまいました。

 

子やぎを引き裂くように素手で獅子を引き裂いたサムソンでしたが、たった一人の女の口説きによって、墓穴を掘ってしまったのです。いったい何が問題だったのでしょうか。それは、彼が神のみこころに反して、無割礼のペリシテ人から妻を迎えたことです。そして、そのペリシテ人たちを軽々しく挑発してしまったことです。彼は神のナジル人であり、主の霊が彼とともにあったのに、その主のみこころを求めて歩まなかったのです。

 

私たちも神のナジル人として神にささげられた者であっても、サムソンのようにすぐに神のみこころに背いてしまう者ですが、一方的な神の恵みによって救われた者として、常に神の御言葉を通してみこころを求め、みこころにかなった歩みができるように求めていきたいと思います。