三つ撚りの糸は簡単には切れない 伝道者の書4章1~16節

2020年11月1日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書4章1~16節(旧約P1142)

タイトル:「三つ撚りの糸は簡単には切れない」

 

 伝道者の書4章に入ります。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」と、日の下での労苦、神様抜きの、神様無しの労苦がいかに空しいものであるかを語ってきた伝道者ですが、その中にも光る言葉というか、含蓄のある言葉が散りばめられています。今日のみことばもその一つでしょう。「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」今日は、この「三つ撚りの糸は簡単には切れない」というテーマでお話ししたいと思います。

 

 Ⅰ.片手を満たして憩いを得る(1-6)

 

 まず、1節から6節までをご覧ください。3節までをお読みします。「私は再び、日の下で行われる一切の虐げを見た。見よ、虐げられている者たちの涙を。しかし、彼らには慰める者がいない。彼らを虐げる者たちが権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」

 伝道者は改めて、日の下で行われている一切の虐げを見ました。虐げる者たちが力で人々を虐げ、ねじ伏せているのです。虐げられている人たちは無力で、何の抵抗もできません。彼らはただ涙するだけで、立ち上がることすらできないのです。しかも、そんな彼らを慰める者もいません。どうしようもない非情な社会です。

この伝道者の生きていた時代がどういう時代であったのかわかりませんが、伝道者が見ていた状況は、現代にとても似ています。この伝道者の時代も格差社会だったのでしょう。今、日本では経済的格差がどんどん広がり、富める人はますます富み、貧しい人は貧しいまま、負のスパイラルから抜け出せずにいます。

 

伝道者はこうした現実を見てこう言います。2節です。「いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。」いのちがあって虐げられながら生きている人よりは、死んだ人のほうがましだということです。死人は、地上での労苦から解放されているからです。生きていても虐げから逃れることができず、涙するしかないのであれば、むしろ死んだ人の方が幸いではないか、というのです。これはいじめられた人がよく口にすることです。「こんなことなら死んだ方がましだ」。いじめや虐待は、それほど辛いものなのです。

 

それだけではありません。3節には、「また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」とあります。すごいことばです。「この両者」とは、「いのちがあって生きながらえている人」と「すでに死んだ死人」のことを指しています。この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、最初から生まれて来なかった者だと言うのです。なぜなら、最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることがないからです。虐げられることもありません。しかし、これは伝道者がこの世に存在することを否定しているのではなく、日の下で行われている現実を見て、それがいかに空しいものであるのかを述べているだけです。いったい問題はどこにあるのでしょうか。それは、彼が日の下の現実だけを見ていたことです。1節には「日の下で行われる一切の虐げを見た」とありますし、3節にも「日の下で行われる悪いわざ」とあります。「日の下で」ということが強調されているのです。すなわち彼は、日の上を見ませんでした。

 

伝道者はここで、虐げられている者には慰める者がいないと言っていますが、果たしてそうでしょうか。確かに「日の下」だけを見たらそうでしょう。しかし、「日の上」には慰めがあります。そうした虐げられている人たちの背後には神がおられ、彼らの嘆きの声を聞き、その歩みを守っておられるのです。詩篇10:17-18にはこうあります。「主よ。あなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた者をかばってくださいます。地から生まれた人間がもはや彼らをおびえさせることがないように。」

 

「それでも夜は明ける」という映画を観ました。原作は「トゥエルブ・イヤーズ・ア・スレーブ」ですが、奴隷制度がはびこっていたアメリカを舞台に、自由の身でありながら拉致され、南部の綿花農園で12年間も奴隷生活を強いられた黒人男性の実話を描いた映画です。主人公が体験した壮絶な奴隷生活と、絶望に打ち勝つ希望を描き出している映画です。実際はもっとひどかったんだろうなあと思いながら観ていましたが、こんな人生なら死んだ方がましだと思ったことでしょう。「日の下」の現実だけをみたらそうなんです。どこにも希望など見いだすことなどできません。しかし、日の上を見るなら、そこに貧しい者たちを顧みてくださる神がおられます。そして、その神が慰めと希望、耐える力を与えてくださいます。それが「ゴスペル」です。ゴスペルは、そんな黒人の奴隷たちが、神の助けとあわれみを求めて魂を注ぎ出して歌った歌なのです。その映画の中にも奴隷生活を強いられていた人たちが魂を注ぎ出して神に歌うシーンがあって、とても印象的でした。

 

キリストはこう言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)この方は、あなたを休ませてくれます。この地上でどんなに虐げられていても、その人を自由にし、罪から解放してくださいます。あなたがこの方のもとに来るなら、あなたも虐げという苦しみから解放され、平安と慰めを得ることができるのです。

 

次に、4節をご覧ください。4節には「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」とあります。

次に伝道者は、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見ました。しかし、それは人間同士のねたみと嫉妬が動機で行われているのを知るのです。ある人がすべての才能を用いて努力し、労苦して成功すると、周りの人々はそれを喜ぶどころかかえってねたむという現象が生じます。そこには、相手を蹴落とさなければ生き残れないという競争原理が働いているからです。しかし、あらゆる労苦とあらゆる仕事の目的が、そのように人間同士が競い合うことにあるとしたら、何と空しいことでしょうか。それもまた風を追うようなものです。

 

5-6節をご覧ください。「愚かな者は腕組みをし、自分の身を食いつぶす。片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」どういうことでしょうか。

その反面、怠惰で愚かな者は、何もしないでただ傍観し、自分のからだを弱らせるだけだということです。5節の「愚かな者は腕組みをし、自分の身を食いつぶす。」は、新改訳改訂第3版では、「愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。」となっています。「手をこまねく」とは、「怠ける」という意味です。ですから、愚かな者は怠けて、自分の身を食いつぶす、すなわち、自滅するのです。

 

しかし、それとは反対に、賢い人の生き方があります。それが6節にあることです。「片手に安らかさを満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。」どういうことでしょうか。新共同訳ではここを、「片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良い。」と訳しています。つまり、あれも欲しいこれも欲しいと、両手ですべてをつかみ取ろうとしてあくせく働くよりも、片手でもいいから得られるもので満足し憩いを得る方がずっと良い、ということです。今あるもので満足するという知恵です。箴言30:8には、「むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。」とあります。貧しさも富も私に与えないで、ただ、私に定められた食物で、私を養ってくださいとは、このことです。自分に与えられたもので満足するということです。皆さんはどうでしょうか。自分に与えられたもので満足しているでしょうか。それとも、もっと良いものをと、両手に労苦を満たしているでしょうか。

 

ヘブル13:5にはこうあります。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」」いま持っているもので満足するのです。古代ギリシャの哲学者ソクラテスはこう言いました。「いま持っているものに満足しない者は、ほしいものを手に入れても満足しない」満足とは欲しいものを得ることではなく、今あるもので十分だと思うことです。片手を満たして、憩いを得るのは 両手を満たして、なお労苦するよりも良いのです。片手を満たして憩いを得る人生を、いま持っているもので満足する、そういう人生を求めたいと思います。

 

Ⅱ.三つ撚りの糸は簡単には切れない(7-12)

 

第二のことは、共同体の力についてです。7節から12節までをご覧ください。7節と8節をお読みします。「私は再び、日の下で空しいことを見た。ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」

伝道者は再び、日の下で空しいことを見ました。それは、ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人です。その人は朝から晩まで仕事、仕事、仕事と、仕事に依存的になっています。その労苦には終わりがありません。しかもそれは世のため、人のためではなく、自分のため、自分の富を得るためです。もっと多くの富を持とうと目をギラギラさせ、ただ労苦して働く毎日です。1年365日、寝ても覚めても仕事のことばかり。ひたすら働き続ける企業戦士というイメージです。そこには飽くなき欲望があります。

しかも、「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」と自ら問うこともしません。つまり、自分は何のために働いているのか、だれのためにこんなに自分を犠牲にしているのか」と考えることすらしないのです。いわゆる思考停止状態です。現代に生きる私たちに対する警鐘と受け取れる言葉ではないでしょうか。

 

いったいどこに問題があるのでしょうか。ひとりで労苦していることです。ひとりで労苦するよりも、人と力を合わせて生きる方がどんなに美しいでしょう。家族や信仰の共同体もなく、ひとりで生きることは辛いことです。孤独に生きて絶えず働いても、自分のものに満足できず、財産や名誉に執着して神に与えられた人生を味わえないなら、それはとても不幸でむなしい人生です。

 

ですから、伝道者はそのことを勧めるために、次のように語るのです。9節から12節です。ご一緒に読みたいと思います。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

 

「二人は一人よりもまさっている。」という言葉は、よく結婚式で引用される言葉です。人はひとりでは生きられない、という共に生きることのすばらしさを教えてくれます。しかし、これは結婚においてだけ言えることではなく、この社会全体に言えることです。一人よりも二人、二人よりも三人と、共に生きて互いに力を合わせるほうがまさっています。なぜでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。

「二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」その方がもっと良い報酬が得られます。また10節には、「どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。」とあります。二人なら、どちらか一人が倒れても、もう一人がその仲間を支えて起こしてあげることができます。さらに11節には「二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。」とあります。寒い日に寝るとき温まることができます。だんだん朝晩が寒くなってきました。足が冷たいとなかなか寝付かれません。ひどい時には一晩中眠れないこともあります。でも、どうでしょう。そんな時でも妻の足で暖めてもらうとよく寝ることができます。妻は「や~だ、冷たい!」と嫌がりますが、聖書は何と言っているかというと、二人が一緒に寝ると温かくなる、と教えています。これが戦争などの場合であれば、もっと実感するでしょう。兵士たちが寒さをしのぐために身を寄せ合って寝るなら、温かく寝ることができるでしょう。つまり、一人よりも二人、二人よりも三人です。互いに力を合わせて一つになれば、ひとりでいる時よりも強い力を発揮することができるのです。これにもし神が結び合わされたらとしたらどうでしょう。それは強力な絆になります。簡単には切れません。

 

12節をご覧ください。ここには、「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。さらにそこに神がともにおられるなら、その絆はもっと強くなります。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。これは夫婦関係においても、家族においても、学校や職場、社会全体においても、そして信仰の共同体である教会にも言えることです。どんなことがあっても分かち合って共に歩む信仰の共同体は、神が私たちに与えてくださったすばらしい贈り物なのです。

 

地球上で最大の哺乳動物と言われているシロナガスクジラは、ジェットエンジンよりも大きな声で歌うことで有名です。驚いたことに、全世界のシロナガスクジラが同時に同じ歌を歌えるそうです。実験の結果、太平洋のシロナガスクジラが歌を変えると、大西洋のシロナガスクジラも歌を同じように変えることがわかりました。まるで指揮官がいるように合唱するのです。

神は、私たちがひとりでどれほどうまくやれるかを見ておられるのではなく、それぞれ任されたパートをしっかりと演奏し、一つの美しいハーモニーを奏でるオーケストラのように、共同体の中で一致することを望んでおられるのです。

「自分ひとりで」信仰生活をするほうが楽だと言う人がいます。集まること自体が負担で時間の浪費だと考えるのです。しかし、ひとりで信仰生活をしようとする人は、苦難の波が襲ってくる時もひとりで耐えなければなりません。私たちの人生はそれほど簡単なものではありません。時には倒れ、時につまずき、時には苦しむことがあります。そんな時起こしてくれる人がいないとしたら、どんなに大変なことでしょうか。二人は一人よりもまさっています。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。

 

ずっとうまくいっていた事業が破綻した中年男性が、次のように言いました。「事業の失敗によって経済的損失を被ったことはもちろんつらいですが、周りの人々がみな自分を無視して去って行き、ひとり残されたことが最もつらいです。」

つらいとき、そばにいてくれる人がいるだけでも慰められ、苦難を克服する力になります。信仰の共同体の中にいるなら、つまずいたり倒れたりしても、周りの兄弟姉妹たちが支えてくれる力によってもう一度立ちあがることができます。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえます。三つ撚りの糸は簡単には切れないのです。

 

Ⅲ.人の評判を気にしない(13-16)

 

第三のことは、人の評判を気にしないということです。なぜなら、人気とか評判といったものは、人の気まぐれによっていつでも変わるものだからです。13節から16節までをご覧ください。13節と14節をお読みします。「貧しくても知恵のある若者は、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王にまさる。そのような若者は、牢獄から出て王になる。たとえ、その王国で貧しく生まれた者であっても。」

 

伝道者はここで、貧しくても知恵のある若者と、年老いた王を比較しています。この若者には何の影響力もありませんが、彼には知恵がありました。一方、年老いた王は、若い時に幾多の試練を乗り越え、ついに王位に就きましたが、しかし年をとると頑固になり、他人からの忠告に耳を貸さなくなりました。受け入れなくなったのです。年を取ると丸くなるというのは間違いです。年をとればとるほど反対に頑固になっていきます。丸くなるというのはいちいち口論したり、抵抗したりするのが面倒くさくなるのでそのように見えるだけです。でも心の中では全くもって納得できず、逆に苦々しい思いを持ってしまうのです。自分でも気づかないうちに頑固になっていきます。この年老いた王がソロモン自身なのかわかりませんが、もしかすると、自分の経験から言ったのかもしれません。いずれにせよ、そのように貧しくても知恵のある若者と、忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王ではどちらがまさっているでしょうか。貧しくても知恵のある若者です。たとえ彼が牢獄から出て王になったとしても、あるいは、その王国で貧しく生まれた者であったとしても、です。

 

しかし、事はそれだけでは終わりません。15節と16節をご覧ください。「私は見た。日の下を歩む生きている者がみな、王に代わって立つ、後継の若者の側につくのを。その民すべてには終わりがない。彼を先にして続く人々には。後に来るその者たちも、後継の者を喜ばない。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」どういうことでしょうか。

これは、ちょっとわかりづらい訳です。新共同訳では16節をこのように訳しています。「民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はない。これまた空しく、風を追うようなことだ。」つまり民衆は、先の王に代わった後継の若い王に対して、最初のうちは期待してその若者の側につくかもしれませんが時間が経つうちに不満を抱くようになり、次第に彼を喜ばなくなる、ということです。初めは賢くていい王だなぁと思っていても、慣れてくると、やっぱりこの王も幼いところがあるなとか、ああいう考えはおかしいなどと批判するようになるのです。民衆はそのようなことを限りなく続けているわけです。「その民すべてに終わりがない」とはそういうことです。明後日はアメリカの大統領選ですね。トランプかバイデンか、どちらが大統領になるかわかりませんが、どちらが大統領になっても言えることは、評判がいいのは最初のうちだけで、そのうち批判されるようになるということです。飽きてくるのです。国民はそういうことを限りなく続けています。それを見た伝道者は何と言っていますか。これもまた空しく、風を追うようなものだ。あんなにすばらしいと絶賛した人を、今度はこき下ろすかのように忌み嫌う民衆の態度に空しさを覚えているのです。

 

いったい何が問題なのでしょうか。15節にあるように、彼の心が日の下のことに奪われていることです。日の下を歩む人たちはみな、そうなのです。そのすべてに終わりがありません。それは果てしなく続くのです。なぜでしょうか。人の心とはそのようなものだからです。人の心はそれほど移ろいやすく、気まぐれなものであり、頼りないものなのです。人の心はコロコロ変わるからこころと言うんだ、と言った人がいますが、人の心はそれほど変わりやすいものなのです。そんな人の評判を気にし、それを人生の最終目標とするなら、そこには何の満足も安心も得られないでしょう。私たちは、日の下のそうした人の評判や評価ではなく、神の評価、神の評判を求めなければなりません。

 

一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。神を中心とした共同体の中で、兄弟姉妹の語る神の声に耳を傾けながら、神の評価を求めながらいきていく、そういう人生こそ真に幸いな人生であり、いつまでも人々の尊敬を受ける知恵ある生き方なのではないでしょうか。

出エジプト記34章

2020年10月28日(水)祈祷会

聖書箇所:出エジプト記34章

 

 出エジプト記34章から学びます。まず、1~3節をご覧ください。

 

Ⅰ.主の御名(1-9)

 

「主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

 

主はモーセに、「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。」と言われました。主は、モーセが砕いた石の板にあった、あのことばをその石の上に書き記そうとされたのです。「あのことば」とは「十戒」のことです。神は、ご自分の指で書かれた二枚の石の板をモーセに授けられました(31:18)が、モーセはそれを山のふもとで砕いてしまいました(32:19)。宿営に近づくと、民が金の子牛を拝んで踊っているのを見たからです。それでモーセの怒りは燃え上がり、持っていた二枚の石の板を砕いてしまったのです。しかし、モーセの必死のとりなしによって、神は彼らとともにいて、ご自身の栄光を現してくださると約束してくださいました。

 

そして、モーセに「前のものと同じような二枚の板を切り取れ。」と言われました。その石の板の上に、前の石の板にあった、あのことばを書き記すためです。神はまた同じ祝福を、イスラエルの民に注がれようとされたのです。私たちも、一度失敗しても、神は以前と変わらずまったく同じように、私たちに祝福することがおできになります。やり直しを与えてくださる神なのです。こうしてモーセはシナイ山に登りました。

 

次に、4~5節をご覧ください。「そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」」

 

モーセは、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を取って、山に登りました。これが三度目の登頂です。毎回、40日40夜山頂にとどまりました。

すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセとともに立って、主の名を宣言されました。主の名を宣言するとは、主のご性質を明らかにされたということです。御名とは神の本質であり、それこそモーセが祈りの中で願っていたことです。モーセは祈りの中で「どうかあなたの栄光を私に見せてください。」(35:18)と祈りましたが、神はご自身のご性質を示すことによって栄光を現そうとされたのです。それが6,7節にあることです。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 

「主はあわれみ深く、情け深い方」というのは、一般の日本人が抱いている神の概念とはだいぶ違います。一般に日本人は、神は怖い方、たたりをもたらすような方恐ろしい方だと思っています。「さわらぬ神にたたりなし」なるべく神に関わらないようにしたい。人生の節目、節目にお参りして、厄払いをしてもらって、そうしたたたりが起こらないようにしようと考えているのです。

しかし、聖書の神はそのような方ではありません。「主は、あわれみ深く、情け深い方」です。このことを理解することはとても大切です。33:19にも「主の名」が出てきました。そこには「あらゆる良きものをあなたの前に通らせ」とありました。主は良い方、あらゆる恵みとあわれみに富んだ方であり、それを私たちにお与えになる方です。そのように理解することで、自ずと神に近づき、神と交わりを持つことができます。恐れがあると、必ず退いてしまいます。神が良い方であると理解していないと、神は自分を罰して、自分に意地悪をするのではないかと恐れて、神から遠ざかることになってしまいます。それではサタンの思うつぼです。神はあわれみ深く、恵み深い方であることを知っているからこそ、自ずと悔い改めに導かれ、その神のあわれみを求めて祈るように導かれるのです。

 

このことはクリスチャンにとっても大切なことです。クリスチャンの中にも間違った神概念をもっている人がいます。すなわち、旧約聖書の神は怖い神で、新約聖書の神は優しい、愛の神だといった理解です。旧約の神と新約の神を分けてしまうのです。しかし、そうではありません。旧約の神も、新約の神も同じ神です。旧約聖書にもこのように「主はあわれみ深く、恵み深い方」であることが語られているし、新約聖書にも、特に黙示録などを見ると、罪を裁かれる神として描かれています。ですから、旧約聖書と新約聖書の神は同じ神なのです。神はあわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる方。この神理解をしっかりと持つことが重要です。

 

「あわれみ深く」とは、当然受けるべきものを受けないということです。私たちは罪ゆえにさばかれても当然な者でしたが、神はそのさばきを受けないようにしてくださいました。それが「あわれみ」ということです。これに似たことばで「恵み深い」ということばがあります。これは当然受けるに値しない者が受けることです。私たちは罪深い者であるがゆえに、当然永遠のいのちを受けるに値しない者ですが、そんな者が受けるとしたら、それは恵みです。私たちはそれだけの価値などないにもかかわらず、それを受けるとしたら、それは神からの一方的な恵みでしかないのです。そう、恵みとは過分な親切とも言えます。神は、恵みとまことに富んでおられる方です。これは主イエスについても言われています。「この方は恵みとまことに富んでおられた。」(ヨハネ1:14)とあります。これが神のご性質です。

 

しかし、ここには「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」とあります。そして、父の咎を子に、子の子に、三代に、四代に報いる者である。」とあります。これはどういうことでしょうか。これは、親の犯した罪が遺伝のように子どもに受け継がれていくということではありません。エゼキエル18:1-4には、「次のような【主】のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、いったいどういうことか。わたしは生きている──【神】である主のことば──。あなたがたがイスラエルでこのことわざを用いることは、もう決してない。見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。」とあります。ですから、自分の状況が悪い時、それを親のせいにしたり、先祖のせいにするのは間違っています。

 

しかし、父の咎を受けなくとも、その影響は子どもに与えてしまいます。子どもがすることで、何でこんなことをしてしまったのかと思うとき、よく考えてみると、それがまさに自分の姿であるのを見ることがあります。自分の醜さなり、自分の弱さ、自分のあり方が子どもに受け継がれていくことがあるのです。良いことも、悪いことも。ですから、霊的なことにおいてはできるだけ子どもに良い影響を及ぼすように努めていかなければなりません。でも、たとえ悪いからといってあきらめる必要はありません。それを断ち切ることはいくらでもできます。それは断ち切る祈りをするということではなく、主のみことばを学び、謙虚に主の前にひざまずくことによってです。

 

8,9節を見ると、モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏したとあります。なぜでしょうか。主はあわれみ深く、恵み深い方であることを知り、その主のご性質に信頼して祈ろうと思ったからです。彼はこう祈りました。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」(9)

イスラエルの民はうなじのこわい民で、決して主に受け入れられるような者ではありませんでしたが、主があわれみ深い方であることを知って、どうか主が自分たちのただ中いて、進んでくださるように、と祈ったのです。

ここに礼拝者としてのモーセの姿が描かれています。モーセは神のご性質の前にひれ伏し、ありのままをさらけ出して祈る礼拝者でした。別に何も隠し立てすることなく、弱さを持ったままの人間として、それを正直に主の前に告白し、主のあわれみを求めて祈ったのです。私たちにもこの神の恵みとあわれみが差し出されています。それゆえに、モーセのように、神のあわれみを求めてひれ伏し、ひざまずいて祈ろうではありませんか。

 

Ⅱ.契約の更新(10-28)

 

次に、10~28節をご覧ください。まず、20節までをお読みします。「主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、【主】のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。わたしが今日あなたに命じることを守れ。見よ、わたしは、アモリ人、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。あなたは、ほかの神を拝んではならない。【主】は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。あなたはその地の住民と契約を結ばないようにせよ。彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く。あなたは、そのいけにえを食べるようになる。彼らの娘たちをあなたの息子たちの妻とするなら、その娘たちは自分たちの神々と淫行を行い、あなたの息子たちに自分たちの神々と淫行を行わせるようになる。」

 

主は、ご自身のご性質を示された後で、イスラエルと契約を結ぶと言われました。神との契約を守るなら、彼らがどの地にいても、どの国にいても、かつてなされたことのない奇しいことを行うというのです。その契約とはどのようなものでしょうか。その内容は20~23章に記されてあるシナイ契約にあるものと同じです。つまり、主はイスラエルの民と再びシナイ契約を結ぶと言われたのです。

 

その具体的な内容は、まず、彼らが入って行くその地の住民と契約を結ばないようにということでした(12)。いや、彼らの祭壇を取り壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければなりません。彼らの娘たちを自分のり息子にめとらせるようなことはしてはなりません。どうしてでしょうか。その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕って、みだらなことをさせるようになるからです。つまり、罠に陥ってしまうことになるからです。ここでいう罠とは、自分たちの神である主ではなく、その地の神々を慕って、みだらなことをしたり、拝んだりすることです。主はそれを忌み嫌われます。なぜなら、主はねたむ神だからです。

 

 第二のことは、自分のために鋳物の神々を造ってはならないということです。17節をご覧ください。「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」

鋳物の神々とは何でしょうか。ここには偶像と言わないで鋳物の神々と言われています。偶像は鋳物の神々のことです。自分の好きな形にかたどり、自分の欲望に合わせて造られた神、それが偶像です。しかし、真の神は違います。真の神は鋳物でかたどって造られたものではなく、私たちを造られた創造主なる神です。私たちのために命を捨てて、私たちを罪から救い出してくださった神、この方こそ真の神なのです。それ以外の神を拝んではなりません。

 

第三のことは、種を入れないパンの祭りを守らなければならないということです。18節をご覧ください。「あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。」

種を入れないパンの祭りとは、過ぎ越しの祭りに続いて行われた祭りのことです。その祭りを通して、出エジプトの出来事を思い起こし、神に感謝と賛美をささげなければならなかったのです。パン種とは罪を象徴していました。罪のない神の子キリストがあなたのために十字架に掛かって死んでくださることによって、あなたの罪を贖ってくださいました。イスラエルがエジプトから脱出したことを思い出したように、あなたが罪の奴隷から救われたことを思い出す必要があったのです。

 

第四のことは、19-20節にあります。「最初に胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜の雄の初子はみな、牛も羊もそうである。ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折る。また、あなたの息子のうち長子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。」

最初に生まれるものはすべて主に捧げなければなりません。なぜなら、最初に胎を開くものはすべて、主のものだからです。彼らの家畜の雄の初子はみな、牛も羊も主にささげなければなりませんでした。「初物」とは最高のもの、ベストなものという意味です。残りものではなく、最初のものを、良いものを、最高のものを主にささげなければなりませんでした。

ただし、ろばの初子は羊で贖われなければなりませんでした。すべての初子は、主のものですが、ろばはきよくない動物であったためいけにえとしてささげることができなかったからです。神はきよくないものを受け入れることができなかったので、贖わなければならなかったのです。それを贖ったのが羊でした。

これはどういうことかというと、私たちと救い主イエス・キリストのことを示しています。私たちはきよくないろばです。そのろばが贖われるためには贖われなければならなかったのですが、それが小羊であられるキリストだったのです。キリストが代わりに死んでくださいました。私たちは罪に汚れたものなので神に受け入れられませんでしたが、その罪を小羊であられたキリストが贖ってくださったのです。そうでなければ、私たちは永遠の死に落ちなければなりませんでした。しかし、傷のない小羊がすでに私たちのために血を流し、致命的な律法ののろいから私たちを解放してくださいました。この傷のない小羊に対する私たちの感謝を主にささげようではありませんか。

 

その後のところをご覧ください。ここには、「だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない」とあります。これはどういうことでしょうか?いつでも主にささげる用意をして、主の前に出るようにということです。私たちが普通主の前に出るのは主に祝福してもらうためだと考えています。それもあります。しかし、もっと大切なのは主にささげることです。私たちは主に賛美をささげ、主に感謝をささげ、主を喜ぶために主のもとに来るのです。だから主の栄光をほめたたえるために、私たちのすべてのものを持って、主の前に出なければならないのです。

 

第五は、安息日を守ることです。21節をご覧ください。「あなたは、六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時にも刈り入れの時にも、休まなければならない。」

安息日を守るように命じられています。それは主を覚えるためです。主の偉大な御業を覚えて礼拝するために、六日間は働き、七日目を休まなければならなかったのです。ところで、ここには「耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。」とあります。どういう意味でしょうか。最も忙しい時もということです。猫の手も借りたいような時でもです。そのような時に休むのには信仰が試されます。最も忙しい時にその手を離すことはチャレンジです。しかし、それによってだれが一番重要なのか、何を一番大切にしているのかがわかります。どんなに忙しくても本当に大切な人のためなら時間を取るはずです。それを最優先にするでしょう。何とか時間をやりくりして都合をつけるはずです。それを神のためにするようにということです。そうでないと輝きを失ってしまいます。これは決して律法ではありません。あくまでも私たちが輝くためです。忙しくて教会に行けない。忙しいとは心を亡くすと書きます。それは祝福を失ってしまうことになります。イスラエルで安息日を迎えることは私たちがお正月を迎えるようなものでした。家族そろって喜んで迎えたのです。そのように安息日を迎えなければなりません。

 

22節の、「小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の代わりには収穫祭を行わなければならない。」とは、「七週の祭り」と「仮庵の祭り」のことです。「七週の祭り」は、別名「ペンテコステ」とも言います。過越の祭りから数えて七週+1日で50日、これをペンテコステと言うのです。この日に何があったか覚えていますか?使徒2章を見ると、この日に聖霊が降臨して教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは教会が誕生した日です。初穂とは、過越の祭りから最初の日曜日に行われました。これが、主が復活した日です。主は過越しの小羊として十字架で死なれ、三日目によみがえられました。それは死んでも生きるという永遠のいのちの初穂としての復活だったのです。その記念のために七週の祭りを行うのです。教会に集まって主の復活を祝う。これがないと輝きません。なぜなら、クリスチャンには充電が必要だからです。たまにくればいいというものではなく、いつも、週ごとに集まって主の復活を祝い、主を礼拝することで、聖霊に満たされるのです。

 

それだけではありません。「年の変わり目には収穫祭を行わなければならない。」とあります。これは仮庵の祭りのことです。かつてイスラエルが荒野で40年間過ごしたことを思い出すために、神が定めてくださったお祭りです。自分たちで作った小屋(キャンプテントのような)で、神がかつてイスラエルを荒野で守ってくださったことを思い出したのです。これは主イエスが再びこの地上に戻って来て、この地上に千年王国を打ち立ててくれることの預言でもあります。そのとき完全に成就します。だから、この仮庵の祭りは、主の再臨を待ち望むことでもあるのです。このように主を待ち続ける人は幸いです。

 

これが、先の種を入れないパンの祭り(過越しの祭り)と合わせて、イスラエルの三大祭りです。イスラエルには例祭が七つあって、その中でもこの三つの祭りは重要でした。イスラエルの成人男性はみな、主の前に出なければなりませんでした。それが23節で言われていることです。ここで「男子」と言われているのは、男子が義務づけられていれば、妻やこどもたちも自動的に着いてきたからです。イスラエルは年に三度、神の前に出て、これを祝わなければなりませんでした。それはこの世俗から離れ、主の御名の栄光を求めたということです。どんなにこの世にいても自分たちは主のものであって、主に従って歩む民であるということを、このような形で示したのです。それは年に三度そのようにしなければならないということではなく、私たちの心のあり方にとって必要なことでもあります。いつも主の前に出て、主の御顔を仰ぐ者でありたいと思います。特に男性は一家の大黒柱として、いつも主の前に出て、家族の霊的祝福を祈らなければなりません。教会も牧師が主の前に出ないと、教会全体が曇ってしまいます。霊的リーダーとして建てられていることを覚えて、その務めを果たしていかなければならないのです。

 

24節には、そのように年に三度、主の前に出るために上る間、家も、土地も守られるという約束です。祭りに参加するなら、主があなたの家と土地を守ってくださるのです。

 

25~26節をご覧ください。ここには、「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンに添えて献げてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

いけにえの血とは、礼拝でささげる血のことです。それを、種を入れたパンに添えて献げてはなりませんでした。なぜなら、種は罪を象徴していたからです。礼拝でささげるものの中に罪が入っていてはならないということです。肉的な思い、自己中心的な思いからではなく、純粋に主を求め、主に礼拝を献げなければなりません。

 

26節の「最上のもの」とは、十分の一献金のことです。初穂は最上のものでした。それは主のものです。だから、それを主にささげなければならなかったのです。

「子やぎをその母の乳で煮てはならない」というのは、肉と乳製品を一緒に煮てはならないということです。それはカナン人たちの慣習であったからです。彼らは子やぎを母の乳で煮て食べました。それが豊穣の神への礼拝だったのです。だから、それは偶像礼拝を避けよということです。クリスチャンが日本の伝統行事だからといって豆まきをしたり、門松を飾ったり、鏡餅を置いたりしてはなりません。それは悪鬼を追い払う行事として行っていたもので、そのようなものから遠ざかるようにしなければなりません。

 

27,28節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「これらのことばを書き記せ。わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」モーセはそこに四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」

 

モーセは四十日四十夜、主とともにいました。彼はパンも食べず、水も飲まずにいたのです。普通は何も食べず、何も飲まないと9日で死んでしまいます。しかし、モーセは四十日四十夜、何も食べず飲みませんでした。主イエスもそうです。モーセは神と会見していたので、何も食べなくても大丈夫だったのです。それでモーセはガリガリになったかというそうではありません。彼の顔は光を放っていました(29)。私たちも主とお会いすると輝きを放ちます。神と会見し、神を礼拝したのに輝かないとしたらどこかおかしいと言えます。それは主と顔と顔とを合わせていなかったことになります。何か考え事をしていたり、全く別の世界にいたり、よからぬ事を考えたりしていると輝くことはありません。しかし、主に向くなら輝きます。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記しました。

 

Ⅲ.モーセの輝き(29-35)

 

最後に、29~35節をご覧ください。「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼は【主】がシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えると、 顔に覆いを掛けた。モーセが主と語るために【主】の前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。 外に出て来ると、 命じられたことをイスラエルの子らに告げた。イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。 モーセは、 主と語るために入って行くまで、 自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。」

 

モーセが山から降りて来ると、主と話したために顔の肌が輝きを放っていました。モーセは主の栄光を見たために、月が太陽の光を反射させるように、主の栄光を反射させていたのです。モーセ自身はそのことを知りませんでしたが、アロンと、イスラエルの子らはそれを見て、モーセに近づくのを恐れました。それで、モーセは彼らを呼び寄せて、主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じました。

 

モーセはイスラエルの民に語り終えたときに、再び顔に覆いをかけました。語っているうちにその輝きが消えていくからです。それが律法の輝きです。Ⅱコリント3:6-18には、それはやがて消え去る栄光とあります。それが律法の輝きです。古い契約は一時的なもので、やがい消え去って行くものです。しかし、新しい契約によってもたらされる栄光は、永遠に消えることがありません。モーセは消え去る栄光を見られまいとして顔に覆いを掛けましたが、福音を信じることによって与えられる御霊の務めとその栄光は決して消え反ることのない輝きです。ですから、モーセが消え失せるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けるようなことはしません。それなのに、イスラエルの人々の思いは鈍くなったので、今日に至るまで、そのおおいが取れのけられていません。古い契約が朗読されるときはいつでも、いつでも同じおおいが掛けられているのです。

しかし、人が主に向くなら、おおいは取り除かれます。それはキリストによって取りのけられるものだからです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔のおおいが取のけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。

 

モーセは「どうか、あなたの栄光を見せてください」と言いました(33:18)。私たちにとっての最高の喜びは主の栄光にあずかることです。主のご臨在。そのために必要なことは主の恵みとあわれみのご性質に基づいて祈り、主が与えてくださった恵みの契約を行っていくこと。つまり、主に向いて、主のみこころを求めて生きることです。そうすれば、主の御霊が私たちを輝かせてくださるのです。

 

人は獣にまさっているのか 伝道者の書3章16~22節

2020年10月25日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書3章16~22節(旧約P1142)

タイトル:「人は獣にまさっているのか」

 

 きょうは、伝道者の書3章後半から学びます。前回のところで伝道者は、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある」と語りました。そして、神のなさることのすべてを私たちは見極めることができませんが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」のだから、その神にすべてをゆだね、永遠の今を生きることが大切だと言いました。

 

けれども、その目を一旦日の下に向けると、上向いた伝道者の心がまたダウンします。さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見たからです。それでは獣と同じではないか、人は獣にまさっているのか、まさっていない、と結論付けるのです。皆さん、どうですか、人は獣にまさっているのでしょうか。よく「あの人は動物以下だ」というのを聞くことがありますが、人は動物以下の存在なのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。きょうは、このことについてご一緒に考えてみたいと思います。

 

 Ⅰ.神のさばき(16-17)

 

 まず、16節と17節ご覧ください。16節、「私はさらに日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。」

 神のなさることは、すべて時にかなって美しいと、神の計画の完全さを述べた伝道者は、ここではそれとは裏腹に、日の下で行われている空しさの一つの事例を取り上げています。それは、さばきにおいて不正が行われているという現実です。この「さばきの場」とは、正義が行使されるはずの法廷のことを指しています。その後の「正義の場」とは、これも「さばきの場」と同じ意味です。ある人(G・A・バートン)はこの「正義の場」を「さばきの場」と区別して、「正しい人の場」、つまり、神との関係においての正しい場のことであると解釈していますが、そういう意味ではありません。むしろ、同じことを、異なった言い方で二度繰り返して強調することによって、正義のみが行使されるはずの法廷において、不正がはびこっているということを訴えているのです。法律が曲げられている。法律が機能していません。そういう社会の現実を見たのです。

 

 17節、「私は心の中で言った。「神は正しい人も悪しき者もさばく。そこでは、すべての営みとすべてのわざに、時があるからだ。」

このような社会の矛盾を見て、伝道者は心の中でこう考えました。神は悪者を決して見逃しはしない。いつか正しい人も悪者も裁かれるが、それは人間が考える時ではなく、神が定めた時である。今それがなされないのは、すべての営みと、すべてのわざには、神の時があるからだと。

 

皆さん、すべての営みには時があります。これは前回のテーマでもありました。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」(3:2-8)

神が裁きを行われることにも時があります。たとえ、この地上で不正が見逃されたとしても、最終的に神のさばきがあります。へブル9:27には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。最終的な神はさばきの時に、すべての正しい人と悪しき者の行いを義によってさばかれるのです。世のさばきは正しくなくても、神のさばきは正しく行われます。であれば私たちは、正しくさばかれる神の御前に、しっかりと備えておかなければなりません。どのようにして備えていたら良いのでしょうか。イエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神の子としていただくことです。イエス様を信じる者はさばかれることがありません。

 

使徒パウロは、ローマ2:16で「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」と言っています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われます。それが明らかにされるのはいつでしょうか。終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、神の義であられるイエス・キリストを信じて罪を赦していただき、神に喜ばれる歩みを求めて生きなければなりません。

 

アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身の伝道者がいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やすほどの悪人で、淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは何一つありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼は、自分が望むすべてのものを手に入れることができました。にもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋に幾つもの鍵をかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視していなければなりませんでした。絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも度々ありました。心の孤独と悲しみやつらさに、来る日も来る日も身震いしながら過ごしていたのです。イザヤ48:22に「悪者どもには平安がない」とありますが、彼には平安がなかったのです。これが裁きです。

 

数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が犯した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまったのです。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったことは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」ということでした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼には平安がありませんでした。

 

終わりの日に受ける神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対して、明確な解決を持っていない人はみな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きていかなければならないのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

 

あなたは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられますか。キリストの下に来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何も恐れることはありません。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちが与えられ、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、神の怒りと憤りがくだるのです。そのさばきがいつであるかはわかりません。すべての営みと、すべてのわざに、神の時があるからです。しかし、それがいつであっても「備えあれば憂いなし」です。確かな神のさばきに備えて、救い主イエス・キリストを信じ、神の御心に歩もうではありませんか。

 

Ⅱ.人は獣にまさっているのか(18-21)

 

次に、18-21節までをご覧ください。18節には、「私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試みて、自分たちが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」とあります。

正義の場に不正がはびこり、それが当然のような社会が存在するのはどうしてなのか、伝道者はここでもう一つの理由を述べています。それは、人間を試みて、彼らが獣にすぎないということに気付かせるためです。人間と動物は何ら変わらない、同じだというのです。

 

皆さん、どう思いますか。輪廻転生を信じている人は、「そのとおり」と言うかもしれませんね。彼らは、死んであの世に行った霊魂は、また生まれ変わってくると信じています。つまり、輪廻と転生を繰り返すと考えているのです。どんな世界に生まれ変わるのかというと、仏教では人の生まれ変わりには、生前の悪行が関連していて、それに応じて六道のいずれかに生まれ落ちると言います。つまり、必ずしもまた人に生まれ変われるとわけではないのです。もしかすると、動物に生まれ変わるかもしれません。「ワン、ワン」、「ニャーン」です。「あら、また会いましたニャン」とか、「元気でしたワン」とか言うのです。

 

しかし、これはウソです。人間は動物とは全く違います。なぜ伝道者はそのように言っているのでしょうか。19節と20節をご覧ください。ここには、伝道者がそのように言う理由が記されてあります。「なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。すべては同じ所に行く。すべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。」

なぜ、人と獣は何ら変わらないのか、伝道者は、その結末が同じだからだと言います。これも死ねば、あれも死ぬ。どちらも同じ所に行きます。すなわち、すべてのものは土から出て、土に帰るからです。つまり、人も獣も、どちらも最終的には死を迎えるということです。

 

さらに、21節には「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に昇り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」とあります。これは伝道者が死という点では同じだが、その霊の行き着く所は人の子らと獣とでは違うと言っているのではありません。実際にはそのとおりで、人の子らと獣が行くところは違いますが、この時点で伝道者がそのように悟っていたわけではないのです。ここで伝道者が言いたかったことは、「人の子らの霊が上に昇るかどうか、また、獣の霊が下に降りて行くかどうかを、だれが知るだろうか、だれも知らない。」ということです。つまり、人間の行きつくところと獣の行きつくところ、その運命は同じであるということです。それゆえ、人は獣にまさっているのかというとそうではありません。まさっていない。人も獣も同じです。すべては空しいからです。これが、伝道者の結論でした。

 

けれども、そうでしょうか。注意して見てください。この時、伝道者の信仰はバックスライドしていました。日の下で行われる一切のことを見て、すべては空だと思っていました。この世の何をもってしても自分の心を満たすものがないのを見て、すべてが空しいと感じていたのです。何のために生きているのかがわかりませんでした。人生に失望し、落胆していたのです。信仰によって物事を見ることができませんでした。ですから彼は、この世の人たちと何ら変わらない目しか持っていなかったのです。その目で見たら、人も獣もみな同じでしょう。人が獣よりもまさっているのは何もないと思ったのです。

 

しかし、そうでしょうか。これは完全に間違っています。もし進化論に立てばそうかもしれません。進化論では、宇宙の起源を物質と考えています。進化論者たちは、宇宙と人間の起源が、水や火、土、空気、原子、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと考えています。ですから、すべては偶然であり、人生や宇宙には何の意味もないということになります。試験管を振ったら偶然にいのちが生まれたというようなものです。すべては偶然なのです。だとしたら、それは空しいことです。

 

一方、聖書では何と言っているのかというと、聖書は、人間は決して偶然の産物ではなく、神様によって造られたと教えています。神様は天と地と海と、その中に住む一切のものを造られ、最後に人を創造されました。しかし、人はそれまで造られたものとは全く違います。それは、神のかたちに造られたという点です。創世記1:26には、「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」とあります。そして、こう仰せられました。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(1:27)。

神のかたちとして造られたとはどういうことでしょうか。それは霊を持つ者として造られたということです。この霊をもって神に祈り、神に感謝し、神を賛美し、神と交わりを持つためです。そうです、私たち人間は、霊的に造られたのです。私たちは肉体と精神を持っていますが、そればかりではなく、霊を持つ者として創造されました。ですから、どの時代の、どの民族であれ、どんな人でもみな手を合わせて生きてきたのです。それがどういう神であるかは別として、人はみな神を礼拝する者として造られているのです。これが動物とは決定的に違う点です。動物は肉体と本能を持っていますが、この霊を持っていません。これは人間にだけ与えられているものです。皆さん、動物が祈っているのを見たことがありますか。かわいい犬が手を組んで「ワン、ワン」と祈ったり、猫が目を閉じて「ニャン、ニャン」と祈っているのを見たことがあるでしょうか。ないでしょう。もしかると、祈っているのかなと思うような行動をしているのを見たことがあるかもしれませんが、それは単に甘えているか、じゃらけれているだけです。祈っているのではありません。しかし、人はいつの時代でも、どんな人でも、手を合わせます。なぜ?そのように造られているからです。11節には、「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とありますね。第三版では、「永遠の思いを与えられた」となっています。人にはそのような思いが与えられているのです。

 

娘が小学生の時、バスケットボールの試合で青森に行く機会がありました。先生や父兄の方々は飲み会ばかりやっていましたが、あまりおもしろくなかったので、一人で青森市内にある三内丸山遺跡を見に行きました。三内丸山遺跡は、日本最大級の縄文時代の集落跡です。今から約4,000年から~5,000年前の人々はどんな暮らしをしていたのかとても興味がありました。

行ってみると、その集落の真中に大きなやぐらが建っていました。地面に穴を掘って、直径1mもあるクリの木を6本立て、それを組み合わせて作ったものです。高さは15mくらいありました。いったいどうして集落の真中にこんなに大きなやぐらが建てたのかと不思議に思いガイドさんに尋ねてみたら、それはいろいろな用途のために作られたようですが、中でもそこで暮らす人たちが農業の収穫に感謝して、神を礼拝する祭りのために作られたのではないか、と教えてくれました。

今から5,000年も6,000年も前の人たちはすでに、神に祈ることをしていたのです。それは、人は神によってそのように造られているからであり、永遠を思う心が与えられているからです。そのように造られた人によってむしろそれは自然の営みなのです。

 

ですから、人は死んだら肉体はちりに帰りますが、霊はこれを造られた神に帰るのです。伝道者も、後でこのことに気付きます。12:7に「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。しかし、この時点ではまだそのことに気付いていませんでした。全部一緒じゃないか。人も獣もみんな一緒。すべてのものは土から出て、土に帰る。人が獣にまさっていることなど何もない・・と。

 

しかし、そうではありません。人は神の計画によって、特別に神のかたちに造られました。そして、やがてその霊は神のもとに帰るのです。ですから、伝道者の「それでは、人は獣にまさっているのか。」という問いに対しては、私たちはこのように答えることができます。「Yes,人は獣にまさっています。神の計画によって、特別に神のかたちに造られたのですから。」決して人の子と獣の結末は同じではありません。「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」のです。

 

であれば私たち人間には、私たちを造られた方、創造者の目的があるはずです。それは何でしょうか。それは神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。ウエストミンスター小教理問答書第一問にはこうあります。

「人のおもな目的は何ですか。」

「人のおもな目的は、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶことです。」

これが私たちに与えられた人生の目的です。この目的に従って生きるとき、私たちの心は真の満たしを受けます。そうでしょ、たとえば、ここにマイクがありますが、このマイクは何のためにあるのかというと、ここで話をする人の声を大きくし、聞きやすくするためです。もしこれが故障していてその役割を果たさなかったら、逆に、ハウリングを起こして使いものにならないとしたら何の意味もありません。同じように、私たちも私たちを造られた創造主なる神の目的に従って生きるとき、すべては空しいのではなく、真の喜びと満足を得ることができるのです。

 

Ⅲ.だれが、これから後に起こることを見せてくれるか(22)

 

 最後に22節をご覧ください。「私は見た。人が自分のわざを楽しむことにまさる幸いはないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」

人生の目的がわからなかった伝道者は、ここで一つの結論を見出します。それは、生きているうちに楽しむ以外に良いことはないということです。それにまさる幸いはないと。なぜなら、これから後に起こることを見せてくれる人がいないからです。「これから後に起こること」とは、これから後の将来のことという意味もありますが、むしろ、死後のことを意味しています。人は死んだらどうなるかということです。人は死んだらどうなるかなんてだれもわからないのだから、生きている今を思う存分楽しむしかない、それが人の幸いというものだ、というのです。それが人の受ける分であるからだ。果たしてそうでしょうか。

 

もしこれから後に起こることがわからなければ、そうかもしれません。この先どうなるのかがわからなければ今を存分に楽しむしかないでしょう。しかし、もしこれから後に起こること、死んだらどうなるのかを見せてくれる人がいるとしたら、そしてそれが真実であると受け止めることができるなら、そのような価値観は一変し、それに備えた生き方をするようになります。そして、「これから後に起こること」を見せてくれることができる方がおられます。だれですか。そうです。死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。

 

キリストはソロモンよりも偉大な方です。ソロモンは偉大な知恵の持ち主で、シェバの女王がその知恵を聞くためにはるばる地の果てからやって来たほどですが、そのソロモンさえわからなかったことを、キリストは知っておられるのです。なぜなら、この方は天から来られた方だからです。ヨハネ3:13には「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来られた者、人の子は別です。」とあります。キリストは天から下って来られました。永遠の神であられるお方が人の姿を取って、この地上に来てくださったのです。ですから、この方は別格です。この方は生も死も、また永遠の世界も、また三位一体の神の関係についても、目に見えない世界のこと、天地創造以前の世界についてもすべてご存知であられました。ソロモンとは比較にならないほどの知恵を持っておられた方なのです。この方は、死からよみがえられました。ですから、これから後こと、すなわち、死後のことまでも完全に知っておられたのです。このような方は他にはいません。確かに、これまで死んで蘇生した人はいます。しかしそのような人たちは、やがてまた死んで行きました。けれども、キリストは死からよみがえられただけでなく、永遠に死ぬことのないからだによみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。

 

伝道者ソロモンはここで、「だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろうか。」と言っていますが、キリストはこの問いに対する明確な答えをもっておられるのです。私たちはよく「死ぬのが怖い」と言いますが、なぜ怖いのでしょうか。先が見えないからです。死んだらどうなるのかがわかりません。だから怖いと感じるのです。しかし、私たちにはそれを見せてくださる方がいます。だから、私たちは不安に苛まれる必要はありません。恐怖に脅える必要もないのです。イエス・キリストが答えです。神はイエス・キリストを信じる者に永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって、死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

 

プロテスタントのホーリネス系の団体で日本宣教会という団体がありますが、その創立者の一人で、相田登代という先生がおられました。この方は新潟県の有名な神社の神主の娘でしたが、キリストを信じ、さらに伝道者とて歩まれました。先生はお元気な時に、説教の中で「死を恐れてはなりません。一階から二階に上がるように、私達にとって死は、この地上の住まいから、天の御国に移ることなのです。」と言いました。

 

すばらしいですね。死は一階から二階に上がるように、この地上の住まいから、天の御国に移ることです。確かに、愛する者との一時的な離別では悲しみが伴いますが、それは永遠の離別ではありません。天に於いて、再び、愛する者と再会します。そして永遠に、喜びと祝福、そして愛に満ちている御国に住むのです。神はイエス・キリストを信じる者にこの永遠の命を約束されました。主イエスを信じる者は、信仰によって死を越え、決して消えることがない希望を持っているのです。

 

私たちはイエス・キリストを通して、この希望を持っているのですから、ここで伝道者ソロモンが言っているようにこの地上で楽しむことがすべてだと言わなくても良いのです。私たちはイエス・キリストによって永遠のいのちが与えられていることを感謝し、この地上での生涯を、日々神と交わりながら、すべてを神にゆだねて生きていくことができるのです。

さばいはいけません ローマ人への手紙14章1~12節

2020年10月18日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙14章1~12節

タイトル:「さばいはいけません」

 

 きょうは「さばいてはいけません」というタイトルでお話したいと思います。ある有名なキリスト教雑誌が、牧師たちを対象にアンケート調査をしました。それは「教会で一番困る人はどういう人ですか?」というアンケートでした。そして、第一は「四十日間断食をした人」、二位が「徹夜祈祷をよくする人」、三位は「神学を勉強した人」でした。断食、徹夜、神学の勉強、これらのことは個人の霊的成長にとってとても重要なものです。それなのに、なぜこれらのことが問題になったのでしょうか?それはこれらのことを経験したかなり多くの人が、その恵みを自分の成長に適用するのではなく、他人に適用してさばいてしまうためです。四十日間も断食祈祷をすれば、どんなに恵まれることでしょうか。それなのに断食祈祷が終わるとすぐに、「うちの牧師は恵みがないなぁ」とか、「うちの役員たちはもっと祈らなくちゃ」と言ってしまうのです。祈ったのであればより謙遜に、よりへりくだり、より恵みに溢れるはずなのに、かえって人をさばいてしまいやすくなるのです。私たちはみな心配するか、批判するかのどちらかに傾きやすい性格を持っています。比較的に弱い人は心配し、強い人は批判しやすいのです。人が集まるところには必ず問題が生じます。人によって性格も違えば考え方も違いますし、育った環境や年代、培われてきた信仰の背景、信仰生活のカラーなどが違うからです。十人十色ということばがありますが、十人いれば十人の色や考え方があるわけですから、違って当然なのです。大切なのは、そうした違いを批判したり、責めたりするのではなく認め合うことです。

 

 きょうは、この「さばいてはいけません」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一に、クリスチャンが他人をさばいてしまう原因の一つは、信仰の理解に差があるためです。何でも食べてよいと信じている人もいれば、野菜の他には食べないという人もいます。第二のことは、他の人をさばかないために必要なことは、自分の立場をわきまえることです。第三のことは、クリスチャンにとって最も重要なことは何のためにするのかということです。すなわち、クリスチャンは主のために生きているという意識をしっかりと持つことです。

 

 Ⅰ.食べる人と食べない人(1~4)

 

 まず1~4節までをご覧ください。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」

 

 ここでパウロが触れている問題はどういうことかというと、信仰の弱い人と強い人との摩擦の問題です。1節には、「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」とあります。この弱い人とは体の弱い人のことではなく、信仰の弱い人のことです。その人は信仰がないわけではなく、信仰はあるのですが弱いのです。イエス・キリストを信じたことによって救われていますが、それでも信仰が弱い人たちがいます。どういう人たちでしょうか。

 

 信仰の共同体の中で他人をさばいてしまう原因の一つは、聖書の理解、信仰の差があるためです。この手紙が書き送られたローマはその当時世界の中心都市でしたから、そこにはいろいろな人々が集まっていました。ユダヤ教から回心した人がいれば、ギリシャ的な背景のある人、ローマ的な背景の人、あるいは肌の色もさまざまで、奴隷もいれば、高貴な人もいました。また、教養のある人もいれば、ない人など、実にさまざまな人々いたのです。いろいろな人がいればいろいろな考え方があって当然ですが、ここで問題になっていたのは、聖書の解釈に基づく違いに原因がありました。2,3節には食べ物の問題が、そして5,6節には日の問題があげられていますが、こうした問題に関しての理解に違いがあったのです。

 

 まず食べ物についてですが、ある人たちは何でも食べてよいと信じている人がいれば、野菜よりほかに食べてはならないと信じている人がいました。それは、いわゆる菜食主義の人たちのように健康的な理由から主張していたのではなく、宗教的な理由からそのように主張していたのです。当時、いわゆる信仰が強いという人々は、キリストの福音によって旧約の律法と伝統から自由になったと信じていたので、旧約聖書のレビ記(11~16節)には汚れた食べ物に関する規定がありましたが、そういうことを気にせず食べていました。また、コリント人への手紙第一8章4節に出てくる「偶像にささげられた肉」についても、偶像の神がいるわけじゃないし、そんなことを気にしていたら何も食べることができないと、何でも食べていいと信じていました。このような人たちは福音がもたらした自由というものがどういうものであるかをよく知っていましたので、そうしたことにこだわっている人たちを見下げていたのです。

 

 あるいは、5,6節を見ると、ある人たちはある日を、他の日に比べて大事だと考える人たちもいましたが、どの日も同じだと考える人もいました。これはクリスチャンになっても依然として安息日をはじめとした旧約聖書に規定されている日を特別な日として守っていた人たちのことだと思われますが、律法から解放されたと信じていたクリスチャンにとっては、いまだに律法に捕らわれた生き方をしていた彼らの生き方、考え方を受け入れることができず、さばいていたのです。

 

 しかし、そのように信仰において意見や考え方が違ってもさばいてはいけません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけないのです。神がその人を受け入れてくれたからです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、食べ物のことでさばき、滅ぼすようなことがあっては神様に申し訳ありません。神が受け入れてくださったのであれば、私たちも受け入れることは当然です。

 

 しかし、自分はクリスチャンだと自認している人でも、神に受け入れられていない人もいます。どういう人でしょうか?それは、こうした食べ物や飲み物についてではなく、救いに関して間違った教理を持っている人です。救いは主イエスにあります。そのイエスを主と告白しなければ救われません。にもかかわらず、イエス様を神と認めなかったり、イエス様を信じるだけでは救われないと言う人たちがいるのです。いわゆるリベラル派の人たちです。自由主義神学と言います。リベラル派の中にもいろいろな人たちがいるので一概にこうだとは言えませんが、その特徴の一つは、聖書の無謬性、無誤性を信じていないことです。聖書の無謬性とか無誤性というのは、聖書は誤りのない神のことばであるということです。それを信じていません。ですから、たとえば天地創造とか、ノアの箱舟、バベルの塔の物語があるでしょ。そうした物語は科学的・歴史的に事実ではなく、宗教的に有益な神話であるとみなすのです。一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも否定するのです。そんなの関係ないのです。大切なのはそれが事実であるかどうかではなく、そこから何を読み取るのか、何を学ぶのかということです。この自由主義神学の立場に立つドイツの神学者にルドルフ・ブルトマンという人がいますが、彼は聖書の非神話化に取り組んだ人です。聖書の中から神話的な要素を取り除き、それが意味していることを信仰によって受け入れるという取り組みでしたが、その結果何も残りませんでした。聖書はそれほど人間の想像を超えた記述に満ちているということです。その内容を受け入れないとしたら、それはもはやキリスト教だとは言えなくなってしまいます。だって聖書の信条や、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に逸脱することになるからです。それは異端というより、その宗教そのものが根本から問われることになります。ですから、こういうのは論外です。クリスチャンであると言いながら、こうした聖書の救いに関する基本的な教えを曲解したり、受け入れていないとしたら、そのような教えの風やだましごとの哲学には、断固反対すべきです。

 

 1910年にエディンバラで世界宣教会議が行われましたが、その時の資料の中に「腐った鰯(いわし)は肥やしになるが、腐った教会はごみ捨て場からも拒否される」ということばがありました。しかし、それは事実です。本当に神様はいらっしゃる、イエス様の十字架の血潮が救ってくださる、イエス様以外に救いはないと、神様を、イエス様を、聖霊様を、そして、イエス様の十字架の贖いを信じない教えは腐っているとしか言いようがありません。私たちは毎週礼拝で使徒信条を唱えていますが、それは聖書の基本的な信条だからです。そのことばを信じることによって救われるのであって、それ意外に救われる道はありません。このような根本的な問題については、はっきり間違っている人と、私たちは袂(たもと)を分かたなければならないのです。

 

 しかし、グレーな部分があります。たとえば、バプテスマのやり方などはそうでしょう。ある人たちは、バプテスマは水を垂らすだけでいい、これを滴礼と言いますが、そう人たちがいれば、いやバプテスマというのはもともと「浸める」という意味だから全身を水に浸さなければならないと主張する人たちもいます。私たちが属している保守バプテスト同盟はバプテストの流れを汲んでいますから、中には滴礼で洗礼を受けた人が教会の会員として加わる時にもう一度バプテスマを受けてもらう教会もあります。しかし、大切なのはどのような方法で洗礼を受けたかということではなく、信じてバプテスマを受けるということです。信じてバプテスマを受ける者は救われるのです。たとえ、そのやり方が違っても信じてバプテスマを受けたのであればそれは神様に喜ばれることであると、私たちは考えています。ですから、このようなことで考え方が違うからと言ってさばいてはいけないのです。

 

 このようなことは、バプテスマのやり方ばかりでなく、クリスチャン生活のこまかな点でも言えることです。ある人は、クリスチャンはお酒やたばこを飲んではならないと考える人がいれば、そうしたことは自由だと考える人もいます。コーヒーや紅茶など、カフェインが入っている飲み物を飲んではならないと主張するクリスチャンがいれば、映画館や劇場に入ってはならないとか、男女の交際をしてはならないと考えているクリスチャンもいます。ひどいのになると、女性はズボンをはいてはならないと主張するクリスチャンもいます。もし女性がズボンをはいてはならないとしたら、クリスチャンの女性の方はスカートをはいて田植えをするのでしょうか?それも大変です。しかし、そのように考えている人もいるのです。しかし、それはその人の考えであって、その意見をさばいてはいけません。受け入れなければならないのです。

 

 アメリカのチャールズ・スウィンドルという牧師は、クリスチャンが他の人を批判してはいけない七つの理由を次のように述べました。

1.私たちはすべての事実をみな知らない。2.私たちはその動機を完全に理解できない。3.私たちは完全に客観的な考えをすることはできない。4.その状況にいなければ正確に知ることはできない。5.私たちには見えない部分がある。6.私たちには偏見があり、視野が薄れていることがある。7.私たちは不完全で、一貫性がない。です。

 考えてみると、ほんとうに私たちが知っていることは一部分であり、自分に都合がいいようにしか受け取らない傾向があります。自分を中心に物事を見ていく癖があるのです。そのような私たちが、ほかの人をさばくようなことがあるとしたら、それこそ問題ではないでしょうか。

 

 イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」と言われました。(マタイ7:1~5)私たちがさばかなければならないのは他の人ではなく、自分自身です。まず自分の目から梁を取り除かなければなりません。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができるでしょう。

 

 信仰の共同体(教会)の中にはいろいろな人がいます。そこにいろいろな違いがあってもそれをさばくのではなく、互いに認め合い、互いに受け入れ合うべきなのです。自分の考えだけが正しいと言える人は誰もいません。黙想に慣れている人は、一斉に大きい声で祈る人々を狂信的だと言わないでください。また、いつも叫んで祈っている人は、静かに祈る人を見て、霊的に冷え切っているなどと言わないでください。叫んで祈ろうが、黙想して祈ろうが、祈ればいいのです。ただ「自分とは違うスタイルで恵みを受けているんだ」と考えることです。それが寛容であるということではないでしょうか。

 

 Ⅱ.自分の立場をわきまえる(4)

 

 第二のことは、私たちは自分の立場をわきまえなければならないということです。4節をご覧ください。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」

 

 なぜ、信仰の弱い人を受け入れなければならないのでしょうか?なぜ、その意見をさばいてはならないのでしょうか?そのことを教えるためにパウロはここで、私たちがどのような身分、立場であるかに目を向けさせています。それはしもべにすぎないということです。それなのになぜ、他人のしもべをさばくのですか?この「しもべ」ということばは家の使用人のことです。ある人の家で使われている使用人について、他人がとやかく言う権利があるでしょうか?ありません。もしあるとしたら、それはその家の主人だけです。ましてや同じしもべの身分にすぎない者が、他の家のしもべについて何かを言う権利などありません。もしそのようなことがあるしたら、それこそ自分の立場をわきまえない証拠です。それは神のみわざに対する中傷であり、越権行為です。越権行為とは、自分の権利を超えているということです。そのようなことを平気でしているとしたら、それこそ罪であり、厳に戒められなければならないのです。

 

 Ⅲ.主のために生きる(5-8)

 

 ではどうしたらいいのでしょうか?ですから第三のことは、主のために生きなさいということです。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり根本的なことです。5~8節までをご覧ください。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

 

 ここには「・・のために」ということばが7回も出てきます。つまり、食べるとか食べない、日を守るとか守らないということが大切なのではなく、何のために食べ、何のために食べないのか、何のために日を守り、何のために守らないのかということが重要であるということです。そしてクリスチャンにとって重要なことは、それが「主のために」ということです。食べる人は主のために食べるのであって、食べない人も主のために食べないのです。日を守る人も主のために守り、主のために守らないのです。それぞれどのように行動するかは自分の心の中で確信を持って行動すべきであって、何よりも重要なことは、それが主のためなのかどうかです。私たちが主のために生き、主のために死ぬのかどうか、そこにかかっているのです。

 

 パウロはローマ人への手紙6:12で、「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。」と言いました。いったいなぜ、私たちの体を罪の支配にゆだねて、情欲に従ってはいけないのでしょうか?その理由をパウロは、その後のところで次のように言っています。6:18です。「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」イエス・キリストを信じ、キリストにつぎ合わされ、キリストの奴隷、義の奴隷となったのですから、罪の支配にゆだねてはならないのです。ガラテヤ2:20にはこうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」キリストとともに十字架につけられ、キリストとともに古い罪の生活に死に、キリストにあって生きる者へと変えられたので、私たちはそのように生きるのです。主のために生きる者に変えられた。これがクリスチャンにとって最も重要なことであり、根本的なことなのです。

 

 皆さんは何のために生きていらっしゃいますか?クリスチャンはだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬ。そう告白して生きるのがクリスチャンなのです。

 

 先週も紹介しましたが、ドイツの有名な音楽家ヨハネ・セバスチャン・バッハですね、彼はあるとき宗教改革をしたマルチン・ルターに手紙を書き送りました。その中で彼は「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人々の魂が新たにされることでなければならない」と言いました。少なくともバッハはそう思ったのです。ですから、彼が書いた楽譜の最後のところにはいつも「S・D・G」とサインしたのです。これはある言葉の頭文字です。その言葉とは「Soli Deo Gloria」です。これはラテン語でが、「神にのみ栄光あれ」という意味です。彼は新しい曲を作るたびに、この曲が神の栄光を現すものでありますように、そしてこれを聴く人の魂が新たにされますようにという祈りを込めて、曲を作っていたのです。バッハの目的は、神の栄光が現されることだったのです。

 

 白衣の天使と言われたナイチンゲールは、クリミア戦争中にスパイとして追われ死刑に処せられました。敵は治療するな、という軍の命令に逆らったためです。そのナイチンゲールが死刑に処せられる直前に語ったこと言葉があります。それは「愛国心だけでは足りません」という言葉です。愛国心だけでは足りません。もっと大きな愛が必要です。そう言って彼女は敵、味方関係なく傷ついた人々を介抱しました。その結果、スパイとして処刑されましたが、この言葉は、私たちクリスチャン一人一人が心に刻まなければならない叫びです。正義だけでは足りません。愛がなければなりません。正しい人であるだけでは駄目です。受け入れる広い心が必要です。クリスチャンには広い心が必要です。批判せずに寛容でなければなりません。信仰の弱い人を受け入れるべきです。その意見をさばいてはいけないのです。そのような生き方の中にこそ、神の栄光が現されるのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものですと告白しながら生きるクリスチャンにとって、それは難しいことではないのです。

出エジプト記33章

2020年10月14日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記33章

 

 出エジプト記33章を学びます。前回のところで、イスラエルの不信仰について学びました。イスラエルは金の子牛を造ってそれを拝み、その回りで踊り狂うという信じられないことをしました。山から下りて来てそれを見たモーセは、二枚の石の板を粉々に砕くと、金の子牛を砕いてそれをイスラエルの民に煎じて飲ませました。それでも反抗する民がいたので、主につく者たち(レビ族)は、公然と反抗する者たちを殺しました。そしてモーセは、もし彼らが救われるのなら、自分の名がいのちの書から消されても良いと、とりなしの祈りをします。すると主は、「わたしが告げた場所に民を導くように」と言われました。きょうの箇所は、その続きです。まず、1-6節をご覧ください。

 

Ⅰ.わたしは上らない(1-6)

 

まず、1-6節をご覧ください。3節までをお読みします。「【主】はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」」

 

主はモーセに「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。」と言われました。主は彼らを滅ぼそうとされたのではなく、約束の地に導こうとされたのです。そこは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに「これをあなたの子孫に与える」と約束された地です(創世記12:7,26:3)。主は、どのように導いてくださるのでしょうか。ここには、「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし」とあります。

「一人の使い」とは、天使のことです。23:23には「わたしの使いがあなたの前を行き」とありますが、ここでは「一人の使い」となっています。「わたしの使い」とは「主の使い」、すなわち、受肉前のキリストのことですが、ここでは「一人の使い」になっているのです。どうしてでしょうか。理由は3節にあります。彼らはうなじを固くする民なので、もし主が彼らの近くにいたら、その途中で彼らを滅ぼしてしまうことになるからです。うなじを固くするとは、強情になって神の仰せに聞き従わないことです。そのようにして罪を犯すので、聖なる神が近くにいたらたちまち滅ぼされてしまいます。そういうことがないように、民がそのまま生きているためには、聖なる神がそばにいることはできません。これは、約束された地は与えられているが、主がともにおられないということです。

 

皆さんは、これをどのように受け止めたらいいのでしょうか。別に神がいなくても約束されたものを手に入れることができればそれでいいじゃないかと思われますか。もしそのように受け止めるとしたら、それは私たちの信仰が少し歪んでいることになります。というのは、私たちの信仰は神ご自身を求めることだからです。クリスチャンがクリスチャンであることの特権と祝福は、神がともにおられることが確信できることです。主イエスは、そのためにこの世に来てくださいました。主がこの世に来られたことで「インマヌエル」、訳すと「神がともにおられる」という約束を成就してくださったのです。時が良くても悪くても、祝福の時も逆境の時も、どのような時も主がともにおられるという確信があるからこそ、私たちには平安があるのです。自分の人生がどんなに順調に進んでいるようでも、主がともにおられなかったら悲惨なのです。ダビデは詩篇27:4でこのように言っています。「一つのことを私は【主】に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り【主】の家に住むことを。【主】の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」それなのに、ここで主は「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と言われたのです。

 

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。4-6節をご覧ください。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。【主】はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。」

 

彼らはこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいませんでした。なかった。その悪い知らせを聞いて嘆き悲しんだのです。だれも飾り物を身につける者はいませんでした。それは、「飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。」と、主が命じておられたからです。

この「飾り物」とは、金の子牛の周りで踊った時に身に着けていた物です。民はそれを取り外しました。それは自らの罪の悔い改めるしるしでした。イスラエルの民は自らの罪によって主との交わりを失ったことを大いに悲しみ、悔い改めたのです。神との交わりを回復するためには、罪を悔い改め、罪から離れることが求められるのです。

 

Ⅱ.顔と顔とを合わせて(7-11)

 

 次に、7-11節をご覧ください。「さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも【主】に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。」

 

金の子牛の事件後、神と民との会見に変化が生じました。それまでは、神の栄光は宿営の中に宿っていましたが、その事件後は宿営から離れてしまいました。それでモーセは宿営から離れたところに天幕を張ったのです。これが「会見の天幕」と呼ばれるものです。モーセは主と会見するために特別な場所を設けたわけです。この天幕は幕屋とは違います。ヘブル語で幕屋を「ミシュカー」と言いますが、これはテントのことです。単なる天幕です。モーセは神と民の和解のために、神と会見する必要がありました。それが会見の天幕です。それは宿営の真ん中ではなく、宿営から離れた所、宿営の外にありました。どうして宿営の外にあったのでしょうか。それは宿営の中はうるさかったからです。静かな場所が必要でした。イエス様もよく荒野に退いて祈っておられましたが、それはそこが静かな場所だったからです。モーセはその会見の天幕に行って祈りました。それはモーセにとって簡単なことではありませんでした。何しろ300万人もの民を率いてキャンプしていたのです。毎日の忙しい業務から離れて宿営の外に行くには、かなりの犠牲が強いられたことでしょう。しかし彼はそれだけの犠牲を払っても主が言われるように宿営の外に天幕を張り、主と会うためにそこへ行ったのです。

 

主とお会いするということはそういうことです。そこには犠牲が伴いますが、日々の雑多な生活の中から身を引いて主に向き合い、ひとり静まって祈ることが必要なのです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書の学び、ディボーションを通して主に向かいますが、なぜそれが必要なのかというと、それはまさにモーセのように幕屋、テントを張るようなものだからです。あらゆる犠牲を払い会見の天幕に行かなければならないのです。

 

モーセが会見の天幕に行くとき、民はどのようにしていたでしょうか。8節には、「モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。」とあります。彼らはみな立ちあがり、自分の天幕の入口に立って、彼が天幕に入るまで見守りました。かつて民は、「あのモーセという者」と言ってモーセを蔑みましたが今は違います。モーセをリーダーとして、神の器と認めました。そして、神と民の仲介者として敬ったのです。

 

モーセが天幕に入ると、雲の柱が下りて来て、天幕の入口に立ちました。これは主が降りてこられたことのしるしです。こうして主はモーセと語られました。そのとき自分の天幕の入口にいた民も立ちあがって、それぞれ自分の天幕の入口で主を伏し拝みました。モーセが神と話しているという事実の前に、畏怖の念を感じたのでしょう。

 

11節には、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた。」とあります。これは文字通りモーセが神の顔を見たということではありません。なぜなら20節には「あなたはわたしの顔を見ることはできない」とあるし、Iヨハネ4:12にも「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とあるからです。人となられた神の子イエスを見ることはできますが、父なる神を見ることはできません。神の栄光に与ることはできますが、神を見ることはできないのです。ですから、「顔と顔を合わせて」とはそれほど親しく語られたということです。私たちが友と話をするときは顔と顔とを合わせて語ります。それと同じです。

 

モーセ以前にも、神の友と呼ばれた人がいました。アブラハムです(ヤコブ2:23,Ⅱ歴代20:7)。主は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語られましたが、同じように神はアブラハムに包み隠すことなく語られました。そしてそれはモーセやアブラハムだけでなく、私たちも同じです。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られたように、私たちを友と呼ばれ、私たちのために命を捨ててくださいました。ヨハネ15:13には、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。そのイエス様は今私たちの心に住んでおられます(エペソ3:17)。友なるイエスが、聖霊によって、私たちの心に住んでおられるのです。顔と顔とを合わせて見ることができるのです。それなのに、私たちはこの主との会見を楽しんでいるでしょうか。主との語らい、主とともにいること、主ご自身を喜んでいるでしょうか。どちらかというと、日々にことで忙しく、主ご自身と顔と顔とを合わせることを後回しにしていることはないでしょうか。クリスチャンの祝福とは、いろいろな祝福を受けることよりも、その祝福を与えてくださる主とともにいること、主と顔と顔とを合わせて語り合うことなのです。

 

Ⅲ.モーセの祈り(12-23)

 

最後に、12-23節をご覧ください。ここでモーセは、神に三つの祈りをささげています。その一つが12-14節にある内容です。「さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」」

 

第一の祈りは、「あなたの道を教えてください」というものでした。主は、「一人の使い」を使わすと言われましたが、だれを遣わしてくれるのかがわかりませんでした。そこで彼は、主がともにおられるのでなければ、自分たちは進んでいくことができない。主がともにいて行くべき道を示してほしいと言ったのです。モーセは、主が彼に約束してくださったこと、すなわち、「あなたは名指しで選び出した」とか、「あなたは特にわたしの心にかなっている」ということを取り上げ、だから、自分から離れないで、あなたの道を教えてくださいと祈ったのです。

 

 それに対して主は、こう答えました。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14)

第三版では、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」とあります。主はモーセとともにあって、彼を休ませてくださると約束してくださったのです。それは、モーセにとってどれほどの慰めであったことでしょう。

 

それでモーセはさらに主に祈ります。15-16節です。「モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

 

主のことばに対してモーセは、自分だけでなく民とともにいてほしいと訴えます。もし、神がいっしょでなければ、自分たちをここから上らせないように(15)と。ここでモーセは民と一体化しています。モーセは民のためにとりなしているのです。そして、モーセとイスラエルが、この地上の民と区別されるのは、主がともにおられるかどうかということによるのですから、どうかイスラエルとともにいてほしいと訴えたのです。

 

それに対して主は何と言われましたか。17節です。「【主】はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」」

イスラエルの民ともいっしょにいてくださるという約束です。すごいね。主がイスラエルとともにいると言われたのは、モーセのとりなしによるものでした。それと同じように、主が私たちとともにいてくださるのは、主イエスのとりなしのゆえです。私たちにはこのような祝福や特権にあずかる資格はありません。ただ主イエスのとりなしのお陰なのです。

 

第三の祈りは18-23節にあります。「モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また【主】は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

 

 するとモーセは、主がともにいてくださるというだけでなく、「あなたの栄光を見せてください」と言いました。「栄光」とはヘブル語で「シェキーナー」語です。これはどういうことかというと、主ご自身を見たいということです。これは人間には不可能なことですが、信仰者であればだれもが抱く願いではないでしょうか。自分が信じている主をおぼろげながらではなく、顔と顔とを合わせてはっきり見たい。自分を救ってくださった主を、もっと知りたいという願いです。

 

 これが信仰の本質です。信仰とは主を知ることです。主イエスは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言われました。またIヨハネ1:1にも「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」とあります。永遠のいのちとは、主を知ることです。主を知ることを求め、このことから目を離していなければ、私たちの信仰の生活は安定し充実したものになっていきます。このことから離れると、とたんに永遠のいのちがわからなくなってしまいます。自分の思い込みの信仰になり、安定性に欠けることになります。主を知ること、主を見続けること、それが信仰の歩みなのです。

 

それに対して、主は何と言われましたか。19節には「主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」とあります。

神の栄光を見せてくださいというモーセに対して、主は「わたしのあらゆる良きものをあなたの前を通らせ、主の名であなたの前に宣言する。」と言われました。どういうことでしょうか。神の栄光が現される時には必ずあらゆる良きものが見られるということです。「善」と「栄光」は切っても切り離せない関係にあります。神の栄光を体感しているという人は、神の善を体感していると言い換えることもできます。God is so Good.なのです。神の良きものを経験している人は、まさに神の栄光を見ているのです。

 

そして、「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われました。これは、神は主権者であられるということです。これはローマ人への手紙9章の主題でもあります。。神は一方的にあわれまれるということです。私たちの行いとは全く関係ありません。神の善というのは、私たちの行いには左右されないのです。あくまでもご自分の主権として一方的にあわれまれるのです。私たちの善は条件付きです。これだけのことをしたから恵みを受けるとか、これだけの人だからあわれまれて当然といったところがありますが、神は違います。一方的な神のあわれみによるのです。主の一方的な恵みとあわれみによって私たちは救われました。それはただ主の自由な意志によるのです。

 

主はまた言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」モーセは主の顔を見ることはできません。なぜなら、神の顔を見て、なお生きていることはできないからです。人間の限界性のゆえに、モーセは神の栄光のすべてを見ることはできなかったのです。聖書の中に、主の栄光を見て圧倒された人たちがいます。たとえば、イザヤ(6:5)もそうですし、ダニエル(10:8)もそうです。また、使徒ヨハネ(黙示録1:17)もそうです。主のすべてを見て、なお生きることができるのは、子なる神であられるキリストだけです(ヨハネ1:18)。Iテモテ6:16には、「人間がだれひとり見たこともない、見ることができない方」とあります。いまだかつて神を見た者はひとりもいません。モーセは神を見せてくださいと願いましたが、叶いませんでした。見たら死んでしまうからです。神はそれほど聖なる方なのです。

 

そこで主が言われたことは、「岩の上に立て」ということでした。主の栄光が通り過ぎるとき、主はモーセを岩の裂け目に入れるからです。そのとき、主がそこを通り過ぎるまで、主の手で彼をおおわれるためです。これはどういうことかというと、23節にあるように、主の手をのけるとモーセは主のうしろ姿を見るが、主の顔は決して見られないということです。チラッと見せてあげるということです。

 

しかし、新約時代に生きる私たちは、主の栄光をはっきりと見ることができます。それは、神のひとり子イエス・キリストを通してです。そして、その栄光は十字架の上に表されました。この岩とは、イエス・キリストのことです。この岩が裂けたのはキリストが十字架に掛かられたということです。その裂け目に入れると言われました。キリストの十字架という岩の裂け目に入るなら、神の栄光を見ることができます。そして、イエス・キリストの贖いを信じキリストの義の衣を着るなら、神の栄光を見ることができます。それ以外に方法はない。神の栄光を見たければ、キリストのうちにあることです。そこにいれば神に打たれることはありません。キリストがおおっていてくださるからです。

すべての営みに時がある 伝道者の書3章1~15節

2020年10月11日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書3章1~15節(旧約P1141)

タイトル:「すべての営みに時がある」

きょうは、伝道者の書3章前半から学びます。「空の空。すべては空」と言った伝道者は、その空しさを埋めるものを日の下で徹底的に追及してきました。たとえば、知恵と知識を身につけたり、快楽を味わってみたり、さらには事業を拡大して、ありとあらゆる金、銀、財宝を手に入れ、立派な邸宅を建て、森を造成したり、美しい庭を造り、そこで最高のエンターテインメントを催したりしましたが、それもまた空しいものでした。彼は、おおよそ人間が望むもの、これさえあれば、あれさえあれば、自分は満足できるのではないかといったすべてのものを手に入れましたが、それらのもので満たされることはなかったのです。「ヘベル、ヘベル。すべてはヘベル」です。日の下で行われるわざは、すべは空しく、風を追うようなものでした。

そのような中で伝道者は、一つの真理を見出します。それは、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」ということです。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.すべての営みに時がある(1-8)

まず、1節から8節までをご覧ください。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」

有名な「時の詩」です。天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時があります。この「営み」とは、人間が意図的に行う行為のことです。ここには全部で28の営みを列挙していますが、これは、人生全体を示していると言えるでしょう。動詞に注目していただくと分かりますが、対句になっていて、それが14回繰り返されています。

まず、2節をご覧ください。ここには、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」とあります。人生には始まりと終わりの時があるということです。その時を自分で決めることはできません。親でさえ、わが子の誕生の時を知りません。誰もその時を選ぶことができないのです。生まれるときと死ぬ時は、神によって定まっているのです。これは単なる運命論ではありません。私たちは神の時に生まれ、神の時にこの地上での生涯を送り、神の時に召され、やがて神のもとに帰るのです。

次にソロモンは、農業のサイクルに言及しています。「植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。」植える時と収穫の時には、神が決めた時があるのです。昨日はアジア学院で収穫感謝礼拝が行われそこでメッセージをしましたが、講壇の前にはこの秋に収穫された作物がきれいに並べられているのを見て、収穫を与えてくださった主に心から感謝しました。植える時と収穫の時を誤ると、その恵みを逃すことになります。

3節をご覧ください。「殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。」
「殺すのに時がある」とは、人を殺すのに時があるということではありません。おそらく、人のいのちが取り去られることにも時があるということでしょう。それは事件や事故、戦争などすべての営みの中においてです。癒すのにも時があります。たとえば、大切な人と死別する時だれでも痛みと悲しみを持ちますが、その悲しみが癒されるのにも時があります。何らかのことで受けた心の傷が癒されるのも同じです。癒されるのに時があるのです。
また、古くなった建物を取り壊し、そこに新しい建物を建てるのにも時があります。それは建物だけではなく、たとえば、組織の態勢の立て直しにおいても言えることです。崩すのに時があり、建てるのに時があるのです。

4節には、「泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」とあります。私たちの人生は悲劇と祝福の繰り返しです。良い事ばかりあればいいのすが、そういうわけにはいきません。逆に、どうしてこんなに不幸が続くのだろうと思うような中にも、必ず良いことがあります。人生は悲しみと喜びの繰り返しですが、その時も神によって定められているのです。

5をご覧ください。「石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。」
「石を投げ捨てる」とは、耕作に適した農地を開墾するために、石を取り除くことを指しています。イザヤ5:2には、「彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。」とあります。これはイスラエルをぶどうの木にたとえ、良いぶどうがなるのを期待していた神が、農地を開墾して、石を取り除き、心待ちにしている様子を描いたものです。神はイスラエルが良い実を結ぶように石を取り除いて、開墾したのです。逆に、「石を集める」とは、家や塀などを作るのに石を集めることを示唆しています。それぞれの行為には、定まった時があるのです。
「抱擁するのに」とは、愛を表現するのにという意味です。愛を表現する時も2種類の時があります。それは、抱擁によって積極的に愛を示す時と、抱擁をやめることによって愛を示さない時です。抱擁をやめる時とはどういう時のことかというと、それが不道徳の場合のことでしょう。ですから、やみくもに抱擁すればいいということではなく、抱擁するのにも時があり、抱擁をやめるのにも時があるのです。

6節には、「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。」とあります。ビジネスや商売をやっている人はわかりますが、あるいは、それ以外の事に携わっている人にも言えることですが、求めるのに時があり、あきらめるのに時があります。すべての物事が順調に進んで行けばいいのですが、いつもそうとは限りません。今日はうまくいっても、明日はどうなるかなんてだれにもわかりません。自分の力ではどうしようもないこともあるのです。また、それがいつ逆転するかもわかりません。求めるのに時があり、あきらめるのに時があるのです。
また、保つのに時があり、投げ捨てるのに時があります。「断捨離」がブームですね。断捨離とは、不要なものを捨てるというイメージが強いですが、実はそうではなく、物の整理を通して人生が変わる効果的な方法だと言われています。その「もの」でさえ、保つのに時があり、捨てるのに時があるのです。

7節をご覧ください。「裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。」
「裂く」と「縫う」とは、衣服に関する表現です。「裂く」とは、激しい悲しみを表現する際に衣を引き裂くという、イスラエルの習慣から来ています。創世記には、息子ヨセフが死んだと思い激しく痛み悲しんだヤコブが、自分の着ていた衣服を引き裂く場面があります(創世記37:34)。この裂く時が喪に服することを表現しているのならば、「縫う時」とは喪に服していた期間が終了した時のことを指していると考えられます。
黙っているのに時があり、話すのに時があります。私たちの人生には黙っているべき時と、反対に、口を開いて話さなければならない時があります。黙っていなければならない時に話し、話さなければならない時に話さないで失敗することがどれだけあるでしょう。黙っているのに時があり、話すのに時があることを心に留めたいと思います。

そして、8節です。「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」どういうことでしょうか。当時ソロモンの回りでも紛争が絶えなかったのでしょう。戦闘、殺戮、破壊といった悲劇的な事件が、日常的に繰り返されていました。そうした戦いに翻弄され、多くの涙が流されていたのです。そのような中で、束の間の愛する時、平和の時を経験していたのだと思います。

このように私たちの人生には定まった時期があり、すべての営みには時があります。その「神の時」に逆らうのではなく、今がどういう時なのかを見極めてその「時」に従って生きる人生こそ、幸いな人生だと言えるのです。

ドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1748年に両眼の視力を失ってしまいました。そのころライプチヒに来ていた英国の名医によって二度も手術を受けましたが、ついに全くの盲目になってしまいました。それ以来、バッハの生活は昼も夜も暗黒に包まれてしまいました。しかし、作曲活動は依然として続けられ、ついにその暗黒の日々の中からカンタータ第106番「神の時は最上の時なり」を作り上げたのです。
「神の内に私たちは生き、動き、在在する 神の意思であるかぎり。
私たちは最善の時に神の中で死ぬ、神が望まれる時に。
あぁ主よ、私たちの心に刻んでください、我々が死すべき者であることを、我々が賢明になるために。
あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ 生き続けるのではない。
これが いにしえの契約;人は必ず死ぬ。
そうです、主イエスよ、来てください!」
(「カンタータ第106番「神の時は最上の時なり」対訳:国井健宏」

ここに、バッハの心の思いが表れています。私たちは、神の内に生き、動き、在在しているのです。そして、神の最善の時に死にます。この神の時が最上の時なのです。自分であれこれと頑張らなくてもいいのです。神の時を待ち望むことが重要なのです。すべてのことに定まった時があるのですから。それゆえ、この神にすべてをゆだね、神のみ旨に生きる人こそ、真に幸いな人だと言えるのではないでしょうか。

Ⅱ.神のなさることは時にかなって美しい(9-11)

次、に9-11節をご覧ください。「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

9節は、1節から8節までの結論です。すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時があるのならば、私たち人間がどんなに頑張ってもそれに何かを付け加えたり、差し引いたりすることはできません。したがって、私たちがどんなに労苦しても何の益も得られないということになります。

しかしその一方で、伝道者は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言っています。すばらしいことばです。天の下のすべての営みには時がありますが、神がなさることは、すべて時にかなって美しいのです。

この「時」とは、へブル語で「エーマ」と言いますが、これは時間で計ることができる「時」ではなく、計ることができない時です。私たちは、有限な時間の中に生きていますが、この「神の時」はその時間の中に、突如として現れるものです。人生には、「あのとき、あの人に出会ったから、今ここにいる」とか、「あのときあの場所に行ったから、あの人に出会うことができた」ということがあります。あとから振り返ってみると、それは私たちの運命を決める決定的瞬間の「時」であったわけです。ある人はそれを偶然と言う人もいるし、神の摂理だという人もいますが、私たちの人生には、確かにそういう時があるのです。一瞬、時間が止まり、突然、神が介入したかのような不思議な「時」です。その時が人生を決めることがあります。神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」第三版には、「永遠の思いを与えられた」とあります。人は本能的に、有限な時間の先に何かがあることを感じながら生きています。なぜなら、神は人を造られた時、ご自身のかたちに創造さられたからです。永遠に神とともに生きるように造られました。ですから、人間の中にはどこか永遠の世界へのあこがれがあるのです。動物が巣に帰る、帰巣(きそう)本能があるように、人間も本来いるべきところに帰りたいという本能があるのです。この伝道者が「空の空。すべては空。」と言ったのはそのためです。心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しんでも空しさを感じたのは、この地上は永遠の世界ではないからです。人の心に永遠の思いが与えられているならば、その永遠の今を生きることこそ、真の解決につながるのです。

ところで、その後の言葉を見てください。ここには、「しかし人は、神が行うみわざを始まりから終わりまで見極めることができない。」とあります。人間は絶対者であられる神が持っている計画の全貌を知ることができません。神の計画を知らないでいくら労しても、それは空しい結果をもたらすだけです。せっかく上向いてきた伝道者の心が、ここでまたトーンダウンしています。「やっぱりだめだ」という思いになっているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。

すべての営みに時があります。そして、神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。神は、私たちの思いをはるかに超えた神のタイミングで、また、想像もしなかったご自身の方法でその御業を成してくださいます。しかし、その時は隠されているため、人はその時を見極めることができないのです。確かに、生まれる時と死ぬ時は、どんなに知恵を尽くしても、力を尽くしても、人には知ることも、変えることもできません。私たちは、そのことを理解しているので、人間の誕生の神秘に驚いたり、死の厳粛さを覚えるのです。しかし、ほかの「時」はどうでしょうか。日々のスケジュールを自分で決めて、人生の選択を自ら下しながら生きています。そのため、自分の人生は自分で完全にコントロールしている、コントロールできるものだと思い込んでいます。

ですから伝道者はここで、「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」と言ったのです。「神の時」は、いつ、どんな形でやってくるかわかりません。であれば、私たちは、この「時」を支配しておられる神の前にひれ伏し、へりくだるしかありません。「神の支配」と聞くと、「自分の人生は自分で決めるんだ」と反発する人もいるかもしれません。もちろん、人生は各人が自由に選択して、主体的に生きていくべきです。しかし、神の行うみわざを、初めから終わりまで見極めることはできないのは事実です。であれば、私たちにできることは何でしょうか。その神の時に身を任せ、その中で、神の時を待ち望むことではないでしょうか。

愛喜恵のためにお祈りいただきありがとうございます。愛喜恵はシカゴの大学を卒業することができ、現在は来年1月から大学院で学ぶための準備をしています。しかし、生活のために何らかの仕事をしなければならないと、3月頃からずっと仕事を探していましたが、コロナウイルスの影響もあってなかなか見つけることができませんでした。車いすの状態ということもあって仕事も限られおり、どうしようかと悩んでいましたが、奇跡的に与えられました。それはノースとリッジグループという会社なのですが、電話でクレームの対応をしている人を評価する仕事です。その会社の顧客には日本の会社もあるので、日本語ができて、なおかつ日本人の心というか、文化もある程度理解できる人ということで採用されたようです。それは意外と時給も高く、チャレンジのある仕事で、自分のスケジュールに合わせて働くことができるので大学院での学びにも影響することがないという点でベストな仕事でした。本人もよほどうれしかったんでしょうね、珍しくラインでメッセージが届きました。
「神様は、いつも祈りに答えてくれる。それが、グレースが願っていた時と違うかもしれないけれども、神様は人生において、完璧な計画を持っていて、神様のタイミングで、恵みを与えてくださる!・・・3月から仕事を探していて、9からの仕事。半年間、仕事が見つかるかとか、インタビューしても、返事がなかったり、ストレスや困難が続いていたけれども、恵みに満たされて、神様はいつもその痛み、嘆きを聞いてくださる!」
本人としては、かなりストレスがあったんでしょう。そんな苦しみの中で主に祈ったとき、主がベストのタイミングで、ベストの仕事を与えてくださいました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。このみことばは、あなたの人生においてもしかりです。神は、あなたの人生にも時にかなって美しいことをされるのです。そのことを信じて、神にすべてをゆだねて歩みたいと思います。

Ⅲ.神がなさることは永遠に変わらない (12-15)

最後に12-15節を見て終わりたいと思います。「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを神はなおも求められる。」

ここでのキーワードは「知った」という言葉です。この言葉が繰り返して使われています。伝道者は何を知ったのでしょうか。まず12節には、「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」とあります。彼は、人の心には永遠の思いが与えられていることを知っていました。しかし、働く者が労苦して何の益もないとしたらも、果たして人生にはどんな意味があるというのでしょうか。彼は、人は生きている間に喜び楽しむことのほかは、何も良いことがないことを知ったのです。しかし、これまでの心境に変化が見られるのは、それだけで終わっていないことです。13節では、「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」と言っています。人が食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことができるとしたら、それもまた神の賜物だということも知ったのです。

伝道者はまた、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことも知りました。それゆえ、それに何かをつけ加えたり、取り去ったりすることはできません。人間は何かとつけ加えたがります。たとえば、神の救いについても、キリストの十字架だけでは足りないと、それに何かをつけ加えようとするのです。たとえば、信じるだけでは足りない、もっと聖書を読まなければならない。もっと祈らなければならない。もっと奉仕をしなければならない。もっと献金をしなければならない。もっと伝道しなければならない。もっといい人にならなければない、といろいろとつけ加えようとするのです。律法主義と呼ばれるものです。そうでないと救われないし、神に祝福してもらえない、神に認めてもらえないと考えるのです。しかし、そうではありません。神の救いの御業は完了しているのです。あなたはそれに何かをつけ加える必要は全くないのです。

また、取り去ろうとしてもなりません。神が語られることについて、それをすべて自分に語られたこととして受け入れなければなりません。それが他人について語られている分にはうなずいて、その通りだと言いますが、自分に語られていることだと思うと、どこか割り引いて受け止めようとする傾向があります。そして、自分に都合の良い部分だけを選り好みして聞いてしまうのです。そのように自分の都合に合わせた受け止め方、自分主体になるのではなく、神主体に、神が語られたすべてを受け入れなければなりません。それは、私たちが神を恐れるようになるためであり、神の計画に従って生きるためです。

15節には「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを、神はなおも求められる。」
神が支配される歴史は、同じことの繰り返しです。今あることは、すでにあったこと、これからあることも、すでにあったことです。追い求められてきたことを、神はなおも求められます。つまり、永遠に変わることのない完全な神の御業を認め、その神を恐れて生きることこそ、それがすべての問題の解決なのです。

私たちの人生は空です。それはほんの束の間です。しかしその空しい人生は、神が定めた「時」に支配されています。その不思議な神の時で満ちた人生は、謎に満ちていると言うほかありません。生まれる時も、死ぬ時も、いや私たちの人生のすべてが、神の時で満ちているのです。

人間は、有限な時間のあとを追いかけるようにして生きています。しかし、どんなに「時」をつかもうとしても、決して掴むことはできません。この手で「時をつかんだと思っても、すぐに指の間からこぼれ落ち、手には何も残りません。それだけではありません。人生には、どんなに避けようとしても、避けられない「時」もあります。すべてのことには定まった時があるのです。その「時」は、悪い時だけではありません。今、悪い時と思っても、あとから振り返ると、意味のある時だったとわかる時がくるでしょう。そんな今という「時」が、神からの賜物として私たち一人一人に与えられているのです。

であれば、たとえ人生が空、ヘベルであっても、あるいは、人生に悲しみや痛み、辛さといったものがあっても、いや、そうした現実だからこそ、むしろ、神から与えられた今という「時」を生きるようにと伝道者は語っているのではないでしょうか。すべての営みには時がある。その神の時を見極めながら、神のなさることに期待して、永遠の今を生きていきたいと思うのです。

神のみこころのままに 伝道者の書2章12~26節

2020年10月4日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書2章12~26節(旧約P1139)

タイトル:「神のみこころのままに」

 

 伝道者の書から学んでおります。きょうは、2章後半の箇所から「神のみこころのままに」というタイトルでお話しします。

エルサレムの王、ダビデの子、伝道者ソロモンは、日の下で行われるすべてのことを見て、そこに何の益も見出すことができないと、「空の空。すべては空」と言いました。たとえば、この自然界を見てもそうです。一つの時代が去り、次の時代が来ますが、地はいつまでも変わることがありません。日は昇り、日は沈み、また、元の昇るとこへと帰ってきます。風は南に吹いたかと思うと、巡り巡って北に吹きますが、結局のところ、巡る道に帰って来ます。川はみな海に流れ込みますが、また元の場所に戻ってきます。つまり、同じことを繰り返しているだけなのです。

私たちの人生はどうでしょうか。私たちの人生も、もっと何かがあると思って、その満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、昔からすでにあったものにすぎません。

そこで伝道者は、日の下に何か益になるものはないかと探究します。彼はまず、知恵と知識を得ました。しかし皮肉なことに、知恵が多くなると悩みも多くなり、知識が増すと苛立ちも増しました。

次に試してみたのは、笑いと快楽でした。しかし、それもまた、空しいものでした。

それでは、事業を拡張したらどうでしょうか。そこで彼は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果実を植えました。木の茂った森を潤すために、いくつもの池も造りました。たくさんの男女の奴隷を得、多くの牛や羊、金、銀、財宝を集めました。毎晩有名なエンターテーナーを招き、ショーを催しました。人の子らの快楽である、多くの女性も手に入れました。彼は心の赴くままに、あらゆることを楽しみましたが、すべては空しく風を追うようなものでした。日の下には何一つ益になるものはなかったのです。

 

これが私たちの人生です。日の下でどんなに労苦しても、それらのものは私たちの人生に何の益ももたらしません。あの人はいいなぁ、あんたにお金持ちで、あんな豪邸に住んで、優秀な家族がいて、社会的にも地位があって、どんなに幸せなんだろうと思うことがありますが、そうでもないということです。日の下で、神様の抜きの生活は、たとえ心の赴くままに、あらゆることを楽しんだとしても、実に空しいのです。風を追うようなものなのです。それでは、どうしたらいいのでしょうか。ソロモンは、さらに二つのことに着目してその解決を求めます。

 

Ⅰ.知恵の空しさ(12-17)

 

まず、知恵です。12節から17節までをご覧ください。14節までをお読みします。「私は振り返って、知恵と狂気と愚かさを見た。そもそも、王の跡を継ぐ者も、すでになされたことをするにすぎない。私は見た。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。」

 

伝道者が行ったさまざまな探究は、空しい結果に終わりました。そこで彼は、次に知恵ある生き方と愚かな生き方を比較し、どちらの方が優れているかを探ろうとしました。その結果は、彼の跡を継ぐ後継者たちにも伝えられます。なぜなら、後継者たちがこれ以上のことを発見することはないからです。1:9に、日の下には新しいものは一つもないとあったように、「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは前の時代にすでにあったものにすぎません。ですから、彼の後継者たちが、これ以上のものを発見することはありません。

 

そして、わかったことは何ですか。知恵は愚かさに勝っているということです。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっています。当たり前と言えば当たり前のことですが、14節には、「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。」とあります。知恵のある者は頭に角があるのではなく目があります。これはどういうことかというと、先が見通せるということです。将来の具体的な人生設計まで描くことができます。しかし、愚かな者はそれができません。愚かな者は闇の中を歩くからです。闇の中を歩く者は、心が盲目なので先を見ることができないのです。だから、闇の中を歩くしかありません。

 

しかし、です。確かに知恵のある者は愚かな者にまさっています。しかし、両者の結末はどうでしょうか。同じ結末に行き着きます。同じ結末とは、死ぬということです。どんなに知恵があっても、あるいは愚かであっても、結局のところ、どちらも死ぬわけです。死ぬときは何も持って行くことができません。よく言われますよね。「あなた、どんなに稼いだって、死ぬときは何も持っていけないのよ。」人は皆裸で生まれ、裸で死んで行きます。どんなに棺桶の中にいろいろな物を入れたとしても、すべて焼かれて無くなってしまいます。あの世には何も持っていくことはできないのです。どんなに知恵があっても・・。

 

そこで伝道者は何を思うのでしょうか。15節をご覧ください。「私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。」

伝道者はこう考えます。もし自分も愚かな者と同じ結末を迎えるのであれば、なぜ、知恵を追及する必要があるのか。死の現実を考えると、生涯をかけて知恵を追及することに、いったい何の意味があるというのでしょう。これもまた空しいことです。

 

16-17節を見てください。「事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」

事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはありません。どんなに有名な人でも、ノーベル賞を取るような偉大な人でも、死んでしまうと、いつかは忘れられてしまいます。悲しいですね。

「大田原キリスト教会の牧師、だれだったか覚えている。」

「ええと、大橋富男という人じゃない。」

「あっ、そう」

「だれ、それ?」

こんな感じです。でも、これが現実です。すぐに忘れ去られてしまいます。その現実を悟った伝道者は何と言っていますか。「私は生きていることを憎んだ。」と言っています。生きていること自体を憎むようになりました。最近、テレビのドラマで俳優の三浦春馬さんを見ることがあります。亡くなる前に収録されたのでしょう。番組の終わりには、「三浦春馬さんは・・お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。」というテロップが流れます。生前の三浦春馬さんのお顔を見ながら、いったいどんなお気持ちだったんだろうと思います。つい最近も、私の好きな女優さんで竹内結子さんが亡くなりました。詳しい事情はわかりませが、もしかしたら、この伝道者と同じような気持ちだったのかもしれません。伝道者は、「日の下で行われるわざは、私にとってわざわいだからだ。」と言っています。すべては空しく、風を追うようなものだったのです。

 

人生を真剣に考えれば考えるほど、同じような結論に達するのではないでしょうか。死という現実の前に、私たちは何の成す術もありません。この伝道者の絶望は、私たち現代人の絶望でもあります。日の下でどんなに労苦しても、それが人にとっていったい何の益になるでしょうか。すべては空しく、風を追うようなものです。私たちの人生は、この地上生涯を越えたところに生きる目標を持たない限り、何の希望も見出せず、空しいままで終わってしまうのです。

 

Ⅱ.労苦のむなしさ(18-23)

 

次に伝道者が着目したのは「労苦」です。18~19節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。」

 

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を憎みました。なぜでしょうか。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからです。なぜそれが問題なのでしょうか。立派なことじゃないですか。そうです、立派なことです。跡を継ぐ者のために自分が労苦して残してあげる。立派なことです。問題はその跡を継ぐ者がどういう者であるかがわからないことです。その者が知者なのか、それとも愚かな者なのか、だれも知ることができません。その知らない者が、自分が骨折り、知恵を使って築いてきた財産を、支配するようになるのです。

 

事実、ソロモンの後継者はレハブアムという息子でしたが、彼は本当に愚かな者でした。ソロモンが築いた国の繁栄と栄華を、国家を二分させることで台無しにしたからです。彼については列王記第一12:6以降に記されてありますが、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちの助言を退け、自分に仕えている若者たちの助言を受け入れてイスラエルの民のくびきを重くしたため、結局、国が二分されることになってしまいました。そしてそれ以降、北はアッシリア帝国に、南はバビロニア帝国に捕囚され衰退の一途をたどることになりました。ソロモンが建てたエルサレムの神殿も破壊されてしまいます。日本でも、初代起こして、二代目まずまず、三代目につぶれるということを耳にすることがありますが、自分の跡を継ぐ者がどういう者であるかが、企業においても、教会においても、非常に重要なことです。しかし、それがどういう者なのかが分からないのです。ソロモンの場合は、自分のすぐ下、二代目でつぶれました。イスラエル王国はダビデによって盤石なものとされ、ソロモンによって黄金期を迎えましたが、三代目のレハブアムの時に衰退の一途をたどることになったのです。ですから、自分がどんなに汗水たらして一生懸命働き、立派なものを残したとしても、それを継ぐ者がそれをちゃんと使ってくれるかというと、その保証はありません。これはまた空しいことです。そういう目的のために労苦することも空しいことです。せっかく努力して築き上げたものが台無しにされてしまうのですから。逆に、そうしたものが仇になってしまうことさえあります。こうやって見ると、聖書って非常に現実的ですね。

 

20~21節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。」

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望しました。21節には、「これもまた空しく、大いに悪しきことだ」とあります。「大いに悪しきことだ」は、第三班では「非常に悪いことだ」と訳されています。これが悲観主義の根底にあるものです。「非常に悪い」という感情に支配されることです。非常に悪いという感情に支配されますと、悲観的になってしまいます。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないとしたら、そして、その築き上げたものが台無しにされてしまうとしたら、いったい労苦そのものに何の意味があるというのでしょう。何もありません。これもまた空しいことです。最悪です。

 

それゆえ伝道者は、この労苦について次のように結論しました。22~23節です。ご一緒に読みましょう。「実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」

日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何の意味もありません。その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休めないのです。なかなか眠れません。どうですか、皆さん、共感するところがあるのではないでしょうか。毎日、朝から晩まで働いても、その労苦と思い煩いは、いったい何なのでしょうか。そう考えると早く退職して、自分の好きなことでもして、ゆっくりと過ごしたいと思うのもわかります。やっとその歳になったかと思ったら、病気にかかって死んでしまうということも少なくありません。そうであるなら、日の下だけを見て労苦することがどんなに空しく、悲しいことであるかがわかります。そこには絶望しかありません。

 

しかし、私たちは日の下だけではなく、日の上があることを知っています。そして、日の下での私たちの労苦はその日の上でのためであり、そこでもたらされる報いにつながるものであるということを知っているのです。Ⅰコリント15:58には、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」とあります。「ですから」とは、私たちは、一瞬のうちに変えられるのですから、という意味です。すなわち、終わりのラッパが鳴るとき、死者は朽ちないからだ、栄光のからだ、霊のからだによみがえるからです。そのとき、「死は勝利に呑まれた」と記されたみことばが実現します。そうです、神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利と希望を与えてくださいました。「ですから」です。この死に対する勝利、永遠の希望が与えられている人にとって、日の下での私たちの労苦は決して無駄ではありません。確かにどんなに労苦しても、人は死ななければならない存在であることを思うと、この地上での労苦に何の意味も見出せないかもしれませんが、しかし、日の下での労苦が日の上に続くものであることを知るなら、それは決して無駄ではないことがわかるのです。この地上で主に対して行われた労苦が、天の上でもたらされる報いから漏れることがないということを思うとき、むしろ、喜んで主のわざに励むことができるのです。

 

Ⅲ.神のみこころを求めて(24-26)

 

ですから、第三のことは、神のみこころを求めて生きましょうということです。24~26節をご覧ください。「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

 

「食べたり、飲んだりして」とは、ただいのちをつなぐだけの人生のことです。人には、食べたり飲んだりして自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがありません。しかし、そのようにすることもまた、神の御手によるのです。つまり、それもまた神の恵みによるのであって、神を除外してはあり得ないことなのです。実に神から離れては、だれも食べだれも楽しむことはできません。イエス様はマタイ6:34で、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」と言われました。明日のための心配は無用です。明日のことは、明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。だれが、明日どうなるかを知っているでしょうか。私たちは、しばらくの間現れてすぐに消えてしまう霧にすぎません。であれば、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをとよう」と言うべきではないでしょうか。ヤコブは、彼の手紙の中でそのように勧めています(ヤコブ4:13-15)。それなのに私たちは、「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言うのです。これは、神を無視して富だけを追及する罪人たちへの警告であります。罪人は神を無視して富だけを追い求めるので、日毎に与えられる糧にさえ満足できないのです。使徒パウロは言いました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

 

それゆえ、伝道者の結論は何かというと、26節です。ご一緒に読みたいと思います。「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

神のみこころにかなう生き方をする人には知恵と知識と喜びが与えられるが、罪人には労苦の人生が与えられることになります。この伝道者の書のことばで言うなら、こういうことです。12:13-14、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

 

あなたはどうですか。食べること、飲むことに執着するあまり、それを豊かに与えておられる神に目を向けているでしょうか。

リビングライフのエッセイに、韓国のイ・チェチョルさんの証があります。ハンさんという聖徒が日曜日に礼拝をささげるために子どもたちと一緒にタクシーに乗りました。料金を払おうとして1万ウォンを出すと、運転手はおつりがないと言いました。ハンさんは子どもたちから小銭を借りて支払いましたが、その運転手から1万ウォンを返してもらっていないことに気付きました。しかし、手遅れでした。タクシーはもう行ってしまったのです。ハンさんは不愉快になりました。しかし、その瞬間「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)とのみことばが思い浮かび、「神様がお金に対する執着を捨てる訓練をさせてくれているのだ」と悟り、心が平安になりました。

子どもから借りたお金を返そうと近所の店で両替していると、子どもが叫びました。「お母さん!さっきタクシーのおじさんが、道の向こう側から窓の外に1万ウォンを振りながら小道に入って行ったよ。行ってみよう。」

しかし、ハンさんは次のように答えました。「いいのよ。あのおじさんは、あのお金を受け取る価値がある人なの。あの1万ウォンよりももっと大切な平安をお母さんにくれたんだから。」そして道を歩きながら心の中で祈りました。「イエス様、もしあの人がイエス様のことを知らないなら、きょうをきっかけに主を信じて、この平安が与えられますように。」

すごいですね。生活のすべてに主が生きて働いています。「主のみこころなら、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」というみことばに生きておられます。これこそ、伝道者が見出した結論でした。

 

あなたはどうですか。人は、神から離れては真の幸福を得ることはできません。それがなかったら、すべてが空しいだけでなく、絶望的な人生となってしまいます。しかし、神を恐れ、神とともに生きるなら、そこに感謝と喜びと平安が溢れるようになります。実に、人の幸せは神の御手にかかっているのです。神が恵みを施してくださらない限り、私たちは生きることがでないのです。神を喜ぶ人、神を喜ばせる人、神を第一にして生きる人に、神はこの世の知らない平和と喜びとあらゆる恵みを与えてくださいます。人の手ではなく、神の御手によるものが、私たちを幸せにするのです。

あなたの心を満たすもの 伝道者の書2章1~11節

2020年9月27日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書2章1~11節(旧約P1139)

タイトル:「あなたの心を満たすもの」

 

 前回から伝道者の書を学んでおります。前回もお話ししたように、この書のポイントはこれです。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「日の下」というのは「日の上」に対する表現で、神様抜きの、神様なしのという意味です。神様なしの人生は、実に空しい。どんなに楽しいことやすばらしいことをやっても、イマイチ心が満たされません。喜び、平安がありません。全然ないと言っているのではありません。イマイチなのです。それをやっている時はいいのですが、その後で急に空しさが襲って来ることがあります。日の下でどんなに労苦しても、それは人にとって何の益にもならないのです。

 

伝道者は「空の空。すべては空。」という言葉を繰り返して語っています。「空」という言葉は、文字通り「空っぽ」という意味です。実がないのです。見てくれは良くても、中身は空っぽです。それは煙のようにつかみようがありません。伝道者はいろいろな人生の経験を通して、このことを語るのです。たとえば、知恵とか知識ですね。人はみないろいろなことを学びたいし、知りたいです。私たちは好奇心でいっぱいですのでどの本屋さんも、どの図書館も、いつも人が絶えません。新しい情報、新しい知識、そうした知的関心や好奇心が旺盛なのです。しかしこの伝道者は、1:16に「今や、私は、私より前にエルサレムにいただけよりも、知恵を増し加えた。」とあるように、いろいろなことを知ろうと熱心に知恵、知識を増しました。もう知識王ですよ。もしクイズ王決定戦にでも出ようものなら、ピンポーン、ピンポーンと、すぐにスイッチを押して答えられるような人でした。本当にいろいろなことを知っていて、彼に抜きん出るような人はいませんでした。それほどよく学んだ人だったのです。

 

 ところが、それほど多くの知識を得た伝道者は何と言いましたか。1:17には、「それもまた、風を追うようなものだ。」とあります。「空」です。「ヘベル」です。いろいろなことを学び、いろいろなことを探究しましたが、彼の心にあったものは、風を追うようなもの、つまり、何とも掴みようのないもの、ヘベルだったのです。むしろ、知恵が多くなることで皮肉なことに悩みも多くなりました。知識を増したことで、苛立ちも増しました。何か物事が整理できたかというとそうではなく、学べば学ぶほど、聞けば聞くほど、知れば知るほど、逆に心の中には喜びや満足感といったものが消え失せ、不安や恐れ、空しさが残ったのです。きょうの箇所はその続きです。

 

Ⅰ.快楽を味わってみて (1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」

 

 伝道者が次に試してみたのは快楽でした。快楽を味わってみるということです。彼は心の中でこう言いました。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」彼は人生を十分楽しむことができれば、人は幸せになることができるのではないかと考えたのです。ソロモン王は最高の知者であるのみならず、富者、大金持ちでもありました。列王記第一10章を見ると、彼がどれほどの富を持っていたかがわかります。彼のところには1年間に666タラント、すなわち、数億円もの金が入ってきました。このほかに、隊商から得たもの、貿易商人の商いから得たもの、アラビアのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがありました。彼は、大縦1つに六百シェケルの金を使いました。大盾とは、足から頭まですっぽりおおってしまう大きな盾のことですが、これをすべて延べ金で作ったのです。六百シェケルは数十万円の価値になるでしょうか。金ですから、初めから戦うための実用性はなく、威光を表していた過ぎません。また延べ金で盾三百を作り、レバノンの森の宮殿に置きました。そこには大きな象牙の王座を作り、これにも純金をかぶせました。彼が飲み物に用いる器もすべて金です。レバノンの森の宮殿にあった器もすべて純金で、銀の物はありませんでした。銀はソロモンの時代には価値あるものとは見なされていなかったのです。それだけ富んでいたということです。私の名前も富んでいる男ですが、数億倍、いやそれ以上の違いがあります。信じられないほど富んでいました。ということはどういうことかというと、どんな快楽でも味わうことができたということです。

 

 まあ、私たちも庶民の快楽を味わうことがあります。この辺は温泉も近いですから、ちょっと車を走らせるとゆったりと温泉に入ることができます。佐久山温泉。那須温泉。大田原温泉。喜連川温泉。いろいろありますね。私も温泉に入るのは好きですが、もう一年以上行っていません。寒い日などに行くことがありますが、本当に気持ちがいいです。他にも、楽しいことはたくさんあります。私の趣味は食い道楽なんですが、さくらに向かう途中、佐久山温泉の近くに小さな和菓子屋さんがあって、そこを通るたびに「アンドーナッツあります」という張り紙がしてあるんです。しかも、土日限定です。私は小さい時から母が買ってくれた「あぶら饅頭」の味を忘れられず、そこを通るたびに「ああ、食べたい」「ああ、食べたい」と言うものですから、家内が「だったら買って食べたら」と言うので買おうと思っても、いつも「本日完売」の張り紙が出ているのです。そうなると、ますます食べてみたくなるでしょう。ある日曜日さくらの教会に行く途中で言ってみたらありました。しかも最後の1袋でした。1袋に3つしか入っていなかったので、教会の皆さんの分はないなと、家内に1つ、私が2つ食べました。しかし、思っていたような味じゃなくてがっかりしました。でも楽しいものです。食べ歩きは。

 

 中にはカフェに行ったり、映画を観たり、野山を散策したり、釣りに行ったり、スポーツを観戦したり、農作物を作ったりと、いろいろなことを楽しんでおられるのではないかと思いますが、ソロモンが味わったのは私たちのそれとは比較にならないものでした。ありとあらゆる快楽を味わうことができたのです。そのソロモンが感じたことはどんなことだったか。1節、「しかし、これもまた、なんと空しいことか。」何とも冷めた言い方です。そうした快楽や楽しみは全く無意味なものであり、何の実りももたらさなかったのです。

 

 2節をご覧ください。ここには、「笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」とあります。第三版は、「笑いか。ばからしいことだ」と訳しています。笑いは、内容にもよりますが、おもしろいですよね。私はよく「笑点」をよく見ますが、一つのお題に対して回答者が答えるわけですが、実におもしろい。よくぞまあこんなことを考えられるものだなあと感心してしまいます。何だか心が軽くなるのを感じます。でもそんな笑いさえも、この伝道者は狂気だと言い切るのです。もちろん、ここで伝道者が言っていることはそうした笑いそのものがばかばかしいとか、趣味や楽しいことが全く無意味だということではありません。ここで伝道者が言っていることは、日の下で行われること、つまり、神を抜きにしての快楽や笑いは空しいということです。人間が自らの手で満足を作り出そうとすることの愚かさを言っているのです。というのは、その背後には狂気と悲しみが潜んでいるからです。この新改訳聖書2017で、「笑いか。それは狂気だ。」と訳しているのはそのためです。神を無視した人生において、どんなに快楽と笑いを求めても、結局それは意味のないことであり、何の役にも立たないのです。

 

 心に病を抱えているひとりの男の人が、精神科医を訪ねました。彼は、極度のうつ病で苦しんでいたのです。それであらゆることを試してみましたが、なんの効果もありませんでした。朝目が覚めると、心に重いものがありました。その状態は、時間の経過とともに悪化して行きました。彼はこのままでは生きていくことができないと思い、助けを求めて精神科医のところに行きました。

 その日の診察が終わって部屋を出ようとした時、精神科医からこんな提案を受けました。「町の劇場でショーが行われているから、それを観に行くといいですよ。イタリア人のピエロが出ています。彼は毎晩、腹がよじれるほど観客を笑わせてくれます。あなたもそれを観て苦しいことを忘れ、2時間ほど笑ったらどうですか。治療効果があると思いますよ。」

 するとその患者は、無表情でこう答えました。「私がそのピエロなんです。」

 

 ですから、ここで伝道者はやみくもに快楽や笑いはみな悪いものだとか、必要ないものだと言っているのではありません。クリスチャンはこうした楽しいことをすべて避けるようにと勧めているわけでもないのです。むしろ、クリスチャンも笑いのある楽しい生活であったらいいと思います。しかし、その楽しみというのはこの世の楽しみとは違い、日の上での楽しみ、神の御前で喜ぶことです。

 

 ダビデは、人生における真の喜びについてこのように歌っています。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)

 クリスチャンの喜びとはこれでしょう。神の御前での喜びです。ダビデが経験した喜びは、この喜びでした。「日の下」ではなく、「日の上」での喜び、神の御前での喜びだったのです。あなたの御前には喜びが満ち溢れ、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

 

 いつだったか忘れましたが、私がまだ20代の頃、アメリカの家内を日本に派遣した教会の礼拝に行った時のことです。その教会の青年の方々が私たちを歓迎して礼拝後にポットラックパーティーを開いてくれました。その教会の牧師は、今はもう天国におられますがキュースターという牧師で、日本の宣教にとても重荷をもっておられた方で、私たちがアメリカに帰国するたびにいつも暖かくもてなしてくれました。その牧師から依頼されたのでしょう。青年の方々が私たちのために楽しい時を計画してくれたのです。

私たちが連れて行かれたのはある若い夫婦の家でした。バックヤードにはプールがあって、バーベキューができるスペースもありました。彼らはそこで思いっきりはしゃいでいました。私たちをウエルカムするのかと思ったら、私たちのことはそっちのけで、キャー、キャー言いながら自分たちが思いっきり楽しんでいるのです。そうかと思ったらランチの後で私たちについて話を聞きたいと言い、真剣に聞いて祈ってくれました。オンとオフがはっきりしているんですね。別に気取らないし、かた苦しさもないのです。本当にリラックスした一時でした。日の上での喜び、神の御前での楽しみというのはこういうことなんだなぁということを教えられたような気がしました。

 

 Ⅱ.愚かさを身につけてみて(3-8)

 

次に、3節から8節までをご覧ください。3節には、「私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。人の子がそのいのちの日数の間に天の下ですることについて、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていよう。」とあります。

 

そこで伝道者が次に考えたことは、ぶどう酒によって元気づけられることでした。ぶどう酒は伝道者が好んでいたものです。最良のぶどう酒を飲めば、からだは元気づけられるだろうと思ったのです。さらに「愚かさ」も身に着けてみることにしました。「愚かさ」とは1:17にも出てきましたが、「知恵」と真逆のものです。そこにも、知恵と知識を、そして、念のためにその真逆の狂気と愚かさを知ろうと心に決めたとあるように、自由奔放に生きる方が楽しいとは思うが、何が良いかを見つけるまでは、念のために愚かさも試してみようとしたのです。しかし彼の心は知恵によって導かれていたので、完全に愚かになることはありませんでした。心のどこかでブレーキをかけながら、からだはぶどう酒で元気づけようとしたのです。そういう時がありますよね。ちょっと羽目を外してみようと思っても、心のどこかでブレーキをかけているということが。そうやって少し愚かさを試してみようとしましたが、それでも彼の心が満たされることはありませんでした。

 

そこで伝道者が次にしたことは、自分の事業を拡張することでした。4-6節をご覧ください。「私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。」

すごいじゃないですか。彼は自分に与えられた仕事や、さまざまな事業をどんどんやる人でした。今日でもすばらしい事業家、サクセスストーリーを歩んでいる人がいます。ソロモンも彼は彼なりにその時代、自分に与えられた仕事に一生懸命打ち込み、事業を拡大していったのです。そして豪邸も建てました。広々としたぶどう畑もいくつも造りました。立派な庭園も造りました。そんな暮らしにあこがれませんか。私の家の前はセブンイレブンなので、もっと静かで森に囲まられたところでクラスことができたらなぁと思うことがあります。ソロモンにはそれがありました。いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹も植えました。いいですね。園を歩きながらリンゴを取っては食べられる。いろいろな果実をとってそれをシリアルに入れれば、あとは牛乳を注ぐだけです。そして、その森を潤すために池も造りました。もう彼の右に出る人はいませんでした。それくらいのすばらしい事業を展開していたのです。

 

一方でまた男女の奴隷もいました。7-8です。「私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。」

ここをよく見ると、家で生まれた奴隷も何人もいたとあります。つまりお金で買った奴隷だけでなく、自分が所有していた奴隷が生んだ奴隷がいたということです。それだけ多くの奴隷がいたわけです。当時はどれだけ奴隷を所有しているかも、その人の豊かさのステータスであり、一つのバロメーターだったのです。そして同じ7節には、「私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。」とあります。羊何頭、牛何頭を所有していたというのも、その人がいかに豊かな人であったか、富裕な人であったかを表していました。

 

そしてまた彼は、自分のために金や銀、それに王たちの宝や諸州の宝も集めました。もう珍しい金銀財宝をいっぱい手にすることができたのです。先ほども紹介したように、列王記第一10章を見ると、彼は銀を石ころのように使ったとあります。そしてシェバの女王など、諸国が宝をもって彼のところに貢ぎました。かつては無名の若い青年でした。そのソロモンが一代でここまで築くことができたというのはすごいことです。普通なら先代の成し遂げた事業の上にそれを拡張していくわけですが、彼は一代でここまで財を築きました。どれほど頑張って来たかがわかります。

 

さらに彼は男女の歌い手を得ました。ニューヨークのエンターテーメント、音楽、ショーを、毎晩自由に楽しむことかできたということです。そして人の子らの快楽である、多くの側女も手に入れました。列王記第一11章には、彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがいたとあります。そんなに妻がいれば名前を覚えるも大変だったと思いますが、彼はそれだけの女性がいれば充足できるのではないかと思ったのです。しかし残念ながらその結果は、そうした妻たちによって心が転じられてしまうということでした。彼の心がほかの神々へと向けられ、イスラエルの神、主から離れることになってしまったのです。結局、そのようなものによって心が満たされることはありませんでした。後に残ったのは何ですか?ただの空しさだけでした。

 

いったい何が問題だったのでしょうか。決して事業を拡張したり、邸宅を建てたり、いくつものぶどう畑を設けたり、きれいな庭や園を造ったりすることが問題なのではありません。問題は、それがすべて自分のためであったことです。この4節から8節までには「自分のために」ということばが繰り返して用いられていることがわかります。「自分の事業を拡張し」、「自分のために邸宅を建て」、「自分のためにいくつものぶどう畑を設け」、「自分のためにいくつもの庭と園を造り」、「自分のためにそこにあらゆる種類の果樹を植え」ました。また、「自分のために銀や金」を集め、「自分のために男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れました。」全部自分のためです。それは、自分の欲求にしたがって事業をするのだという意図です。

イザヤ書55:2にはこうあります。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。」神に聞き従うことが、私たち人間にとって最良の食物なのです。自分のためではなく、神のために働き、神のために邸宅を建て、神のためにぶどう畑、庭や園、池を造り、神のために金銀財宝が用いられるなら、神の喜びと栄光で満たされるのです。

 

Ⅲ.すべてが空しい(9-11)

 

第三に、その結論です。9節から11節までをご覧ください。「こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

 

こうして彼は偉大な者となりました。それ以前にエルサレムにいただれよりも、です。彼は最高の富める者、富者になりました。しかも、その間、彼は知恵を失うことはありませんでした。9節後半の「私の知恵は私のうちにとどまった」とは、知恵を失うことがなかった、つまり、正気を保ったということです。もう知恵も豊かで、近くの国の王たちが謁見にやって来るほどでした。彼はそれほど知恵においても、働きにおいても、富においても、何事においても、成功した人だったのです。いろんな苦労もあったでしょう。しかし10節を見てもわかるように、彼はどんな苦労もいとわず、その苦労に立ち向かっていきました。しかし、どんなに物を手に入れても、いくら心の赴くままに、あらゆることを楽しんでも、彼の心が満たされることはありませんでした。彼は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った結果、こう言いました。11節です。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

 

本当に信じられないことばです。あんなにビジネスで成功し、立派な邸宅を建て、多くの財を築き、何もかもうまく行き、心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しむことができたソロモンが、その労苦を振り返って発した言葉は、「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。」ということだったのです。ここには書いてありませんが、ため息を入れるとピッタリするかもしれませんね。「見よ。すべてが空しいことか。ハァ~。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」これが、この時点における伝道者の正直な思いでした。私たちから見ればもっと喜んでいいはず、もっと感謝していいはず、もっと幸せですと言っていいはず、もっと私の人生は本当にすばらしいと言っていいはずなのに、彼は「空しい」と言ったのです。「すべては空しく、風を追うようなものだ」と。

 

何がこの伝道者の心に足りなかったのでしょうか。何が彼をしてそのように言わしめたのでしょう。その答えは11節の最後に書かれてあります。つまり、「日の下には何一つ益になるものはない。」ということです。「日の下」とは、先ほども申し上げたように、神様なしの、神様を無視した、ただ自分のために生きる人生という意味です。それが人の目にどんなに魅力的なもののように見えても、神様抜きの生活は空しいのです。それは、人は神のかたちに造られているからです。人は神と交わりを持ち、神のいのちをいただいてこそ、真に生きることができるからです。前回も紹介しましたが、そのことをパスカルは、「私の心には、本当の神以外には満たすことができない、真空がある」と言いました。私たちの心には、本当の神以外には満たすことができない真空があるのです。それが満たされて初めて、人は生きることができるのです。それを満たすことができるのは、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストだけです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)とあるとおりです。ですから、救い主イエス・キリストを信じ、罪を赦していただいて、神のいのち、永遠のいのちをいただき、神と共に生きるとき、私たちは何をしても喜ぶことができるし、感謝することができるのです。それが上からの知恵です。

 

現代を生きる私たちも、この伝道者の生き方から学ぶべきです。物や快楽は、私たちに本当の喜びや満足をもたらすことはできません。大切なのは「何を手に入れ、何を成し遂げたか」ということではなく、「どのような人になり、どのように生きたか」ということです。あなたは何を求めて生きていらっしゃいますか。この世の富や快楽、名誉ですか。そうした物欲による葛藤や競争ではなく、日の上の喜び、神の国とその義を第一に求める生き方こそ、私たちが求めなければならないものです。

 

アメリカ中西部になだたる金持ちがいました。彼は、愛する娘にどのような遺産を残こしたらよいかを考えました。現金、証券類、株、不動産などと考えていきましたが、それらの遺産では満足できませんでした。そうした物質的なもので人は幸せになれないことを、十分に経験していたからです。

「信仰以外に、人を真に幸福にするものはない」

ついに彼は、信仰が最も安心できる遺産であるとの結論に達しました。しかし、そこには大きな問題がありました。彼はお金持ちではありましたが、信仰を持っていなかったからです。そのうえ、信仰というものは娘自身が選び取らなければなりません。

「そうと決まったら、自分自身がまずその信仰を手に入れることだ」と、彼は聖書を読み始め、ついにイエスこそ救い主であると信じるに至りました。その結果、娘を誘って教会に行くようになったのです。

 

どうぞ、この伝道者のことばを聞いてください。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものです。日の下には何一つ益になるものはない。」(11)しかし、日の上には、あなたを真に満たすものがあります。神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さるということを、私たちは知っています。この神の下に来てください。イエス・キリストがあなたの救い主です。イエスはあなたを満たすことがおできになります。この地上のことに振り回された生き方から、主のみこころにかなった生き方へと、主体的に生きることができるようになります。それは、真にあなたの心を満たしてくれるでしょう。私たちは今朝、私たちに与えられているものがどんなに価値があり、真に私たちの心を満たすものであるかを知り、主だけで満足する人生を選び取る者でありたいと思います。

 

出エジプト記32章

2020年9月24日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記32章

 

 出エジプト記32章から学びます。

 

Ⅰ.金の子牛(1-6)

 

まず、1-6節までをご覧ください。「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」

 

モーセがシナイ山に登り40日40夜主と会っている間、地上ではどんなことが起こっていたでしょうか。1節には、「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」とあります。彼らの心は、モーセがいなくなると主から離れてしまいました。神の時を待つことができず、自分たちの手で神に代わるものを求めたのです。それが、過去に慣れ親しんでいたエジプトの神の一つであった子牛でした。彼らは、自分の手で安心を勝ち取ろうとしたのです。つまり、自分たちを守り導いてくれる神を造り出そうとしたのです。エジプトから救い出されたという神の救いの力を体験しても、神の臨在が感じられなくなると、過去のもの、目に見えるものに心が奪われてしまったのです。人は目に見えないものを待ち望むのができません。その代わりに目に見えるもの、手っ取り早いものを造ろうとします。それで彼らもアロンに、自分たちに先立って行く神を求めたのです。

 

それでアロンは、彼らの妻や息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外させて、自分のところに持って来るように言いました。そしてそれをのみの鋳型に流し込み、鋳物の講師にしたのです。そしてこう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」そして、翌朝その金の子牛の像に全焼のささげものを捧げ、交わりのいけにえを捧げました。

 

それにしても、どうしてアロンまでもが民の要求を受け入れ金の子牛を造ってしまったのでしょうか。アロンはそれが罪であるということを十分知っていたはずです。人を恐れたからです。「人を恐れるとわなにかかる。」(箴言29:25)とあります。アロンは人を恐れてしまいました。このままでは民は何をするかわからない。だから、民の怒りを鎮めるために彼らの気持ちを満足させなればならない。それで民が要求したとおりのことを行ったのです。しかし、彼は人ではなく、神を恐れるべきでした。神を恐れる者は守られるのです。

 

このようなことは、私たちにもよくあります。人を恐れることてしまうことがあるのです。それで、人

の顔色を伺いながら話したり、行動したりするのです。しかし、「人を恐れるとわなにかかる。しかし、

主を恐れる者は守られる。」とあるように、人を恐れるのではなく、主を恐れ、主にのみ従う者であり

たいと思います。

 

Ⅱ.モーセのとりなし(7-14)

 

 次に、7-10節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」

 

主は、そのことをモーセに伝えます。そこには、イスラエルの民に対する主の悲しみが表れています。7節には、イスラエルの民を「わたしの民」と呼ばないで、「あなたの民は」と呼んでいます。ご自分の民と呼ぶはずの親密さが無くなっているのです。そして、「堕落してしまった」と言っています。これは創世記6:12で、ノアの時代の人々が堕落した時に使った言葉と同じです。すなわち、ノアの時代の人々が水によってさばかれた時に匹敵する罪を行ったということです。

 

9節には「うなじを固くする民だ」とあります。「うなじを固くする」とは、これからもよく出てくることばですが、これは馬の乗り手が手綱で馬を引いても全然言うことをきかない状態のことを指しています。まさに彼らの心はかたくなで、どんなに神がみことばを語っても聞こうとしませんでした。

 

そのような彼らに対して、主は断ち滅ぼすと言われましたが、モーセに対しては、彼を大いなる国民と

すると言われました。これはモーセにとって大きな誘惑であったにちがいありません。彼らが滅ぼされ

ても自分は大いなる国民となるのだから。

 

 しかし、モーセはそのことを良しとせず、主に嘆願してこう言いました。11-14節です。「しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」

 

彼はまず、「ご自分の民に向かって、どうして、御怒りを燃やされるのですか。」と言いました。彼らは神が創造された民であるばかりでなく、その偉大な力と力強い御手をもってエジプトの地から導きだされた民です。それほど愛されたご自身の民なのです。その民に対してどうして御怒りを燃やされるのでしょうか。

 

そんなことをすれば、神の名がそしられることになってしまいます。12節には、「どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。」とあります。そんなことをしたらエジプト人たちが神の名をそしることになるでしょう。ですから、彼らのためだけでなく主の名誉にかけて、その名誉が傷つけられないためにも、わざわいを思い直してくださいと訴えたのです。

 

そればかりではありません。ここでモーセは神の約束にも訴えています。13節には、「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」」とあります。

 

つまり、モーセは神の贖い、神の御名、神の約束に訴えて、彼らを滅ぼさないでくださいと懇願したのです。徹頭徹尾、神を中心に、それを前面に押し出して訴えたわけです。イスラエルの民の正しさ、理屈などは一切関係ありません。ただ神の義に訴えたのです。これが神のみこころにかなった祈りです。私たちがだれかの救いのために祈るとき、それはその人がどういう人であるかということ以上に、それが神にとってどういうことなのかを考えて祈らなければなりません。

 

すると、主は何と言われましたか。14節です。「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」どういうことでしょうか。主が考え直すということがあるのでしょうか。Iサムエル15:29には、「実に、イスラエルの栄光であられる方は、偽ることもなく、悔いることもない」とあります。神は悔いることのない方です。ですから、神の御心が変わることはありません。それなのに、ここで神の御心が変わったかのような印象を与えているのは、モーセにとりなしの祈りの機会を与えるためだったのです。ここに祈りの本質があります。私たちの祈りも、神の御心を変化させるためではなく、神の御心がなるようにというものなのです。

 

Ⅲ.懲らしめ(15-29)

 

 次に、15-20節までをご覧ください。「モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。」

 

モーセが二枚の石の板を手にして山の中腹まで降りて来ると、そこに留まっていたヨシュアが麓で民が叫ぶ声を聞いて、「宿営の中にいくさの声が聞こえる」と言いました。それは何の声か?それは勝利を叫ぶ声ではなく、歌いさわぐ声でした。すなわち、民が金の子牛の前でどんちゃん騒ぎをしている声でした。モーセは宿営に近づき、そこで子牛と踊りを見るなり怒りが燃え上がり、手にしていたあの二枚の石の板を投げ捨て、山のふもとで砕いてしまいました。そして、彼らが造った子牛を火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らすと、イスラエル人に飲ませました。これはどういうことかというと、イスラエルの民が神の戒めをことごとく破ったことに対する神の怒りを表すものであり、それがどれほどこの大きな罪であるかを示し、もう二度と同じ罪を犯すことがないようにとその苦さを味わうようにさせたのです。

 

21-29節をご覧ください。「モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」アロンは言った。「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』それで私は彼らに『だれでも金を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」モーセは、民が乱れていて、アロンが彼らを放っておいたので、敵の笑いものとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも【主】につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。モーセは言った。「あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、【主】に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように。」

 

モーセがアロンに、「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」と言うと、アロンは何と答えたでしょうか。彼はまず「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。」と言いました。つまり、民は本質的に悪い性質を持っていると言い訳したのです。つまり、自分の責任逃れです。

 

さらにアロンは、民がそのことを自分に強く要求したのだ、と答えています。「彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』」(23)ここでアロンは、なかなか山から降りて来なかったモーセにも責任があるのではないかと訴えていいます。

 

極めつけは、子牛は自然に出て来たという言い訳です。「民が、自分たちに先立って行く神々を作ってほしいというので、彼らが身に着けていた金を集めて火の中に入れたところ、この子牛が出て来たのです。」(24)そんなことがあるはずないじゃないですか。アロンがのみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にしたのです。それなのに、彼は火の中に金を入れたら子牛が出て来たかのように言いました。全く反省の色がありません。なぜアロンはこのようなことを言ったのでしょうか。申9:20に、「主はアロンに向かって激しく怒り、彼を滅ぼそうとされたが・・」とあることから、彼はそれを恐れたのではないかと思います。

 

モーセは民が乱れていてアロンが彼らを放っておいたので、敵の物笑いとなっているのを見て、神のさばきを執行します。モーセについたレビ族によって、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺すというさばきを行ったのです。その日、民のうち約三千人が剣で倒れました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは、神の共同体の中に聖さがなくなれば、共同体全体が崩壊してしまうことになるからです。これは旧約聖書だけの話ではありません。新約聖書にも、アナニヤとサッピラの事件が記録されています。地所の代金の一部を自分のために取っておいたアナニヤとサッピラは、息が絶えてしまいました(使徒5:5)。また、父の妻を自分の妻にしていた者に対して、自分たちの中から取り除くべきだと言っています(Ⅱコリント5:2)。それは、わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることになるからです。その結果、どうなったでしょうか。アナニヤとサッピラの事件の時は、「これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」(使徒5:5)とあります。しかし、こうした執行は決して人間の思いとは違うので、これを行う時にはかなり注意が必要となります。

 

ところで、この時、主についたのは誰でしたか?レビ族です。彼らはモーセを通して主が語られた通りに自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺しました。愛する家族を殺すことはなかなかできません。しかし彼らは家族よりも主のみこころに立ったのです。なぜ彼らは主のみこころに立つことができたのでしょうか。それは、彼らが学んでいたからです。

 

創世記34章をご覧ください。ここには、シメオンとレビの妹ディナがヒビ人ハモルの子シェケムに犯されるという事件のことが記録されてあります。その解決のために出された条件は、互いに婚姻関係を結ぶということでした。しかし、割礼を受けていないヒビ人のところへイスラエル人をとつがせるわけにはいきません。そこで割礼を受けてイスラエルのようになるならそれを受け入れましょうと提案すると、ヒビ人はその条件を受け入れ、割礼を受けることになりました。ところが、彼らが割礼を受けて三日目になって、ディナの兄シメオンとレビが剣を取って何なくその町を襲い、ハモルとシェケム、そしてその町のすべての男子を殺してしまったのです。このことはヤコブにとって困ったことでした。なぜなら、そのことによってカナン人とペリジ人に憎まれることになったからです。シメオンとレビの問題は何だったのでしょうか。シェケムの住人を許せなかったということです。彼らはその過ちから学んだのです。

 

私たちも、主のみこころに立てず、時に失敗することがあります。しかし、その失敗をいつまでもくよくよするのではなく、そこから学ぶことが大切です。その失敗を次の機会に生かさなければなりません。レビ族はかつての失敗から学んでいました。そして、このような主のさばきを執行する苦しい局面でも、主につくことができたのです。

 

Ⅳ.神の書物(30-35)

 

 最後に、30-35節を見て終わりたいと思います。「翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は【主】のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」【主】はモーセに言われた。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。」こうして【主】は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。」

 

モーセは、罪を犯したイスラエルの民をいさめると、主のもとに上って行きました。彼らの罪の宥めをすることができるかもしれないと思ったからです。そこで彼は主のもとに上って行くと、驚くべき祈りをささげました。それはもし、主が彼らの罪を赦してくださるのなら、自分の名前を神の書物から消し去っても構わないということです。この「あなたの書物」とは何でしょうか。これは「いのちの書」のことです。ルカ10:20で主イエスは、70人の弟子たちに対してこう言われました。「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と。また黙示録3:5には、「彼の名をいのちの書から消すようなことは決してない。」と言われました。この「いのちの書」のことです。だからここでモーセが言っていることは、彼らが天国に入るために、代わりに自分を地獄に送ってくださいということだったのです。かつてパウロも同胞ユダヤ人の救いのために同じように祈りました(ローマ9:3)。モーセは、それほどの愛をもって祈ったのです。

 

 けれども主は、モーセの祈りを聞かれませんでした(33-34)。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。」と言われました。こうして主は民を打たれました。二十歳以上の男子はみな荒野で死に絶えたのです。それは35節にあるように、アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからです。アロンはモーセに代わって民を治めなければならなかったのにそれを怠り、民が欲していたこと、民が願っていたことにそのまま追従してしまいました。これは主に仕えるということではありません。主に仕えるとは主の御心を行うことです。人を恐れるとわなにかかる。しかし、主を恐れる者は守られる。この神を恐れ、神の中に人々を導いていくこと。そのために労することが求められているのです。

主イエス・キリストを着なさい ローマ人への手紙13章11-14節

2020年9月20日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙13章11-14節

タイトル:「主イエス・キリストを着なさい」

 きょうは、「主イエス・キリストを着なさい」というタイトルでお話したいと思います。中世の偉大な神学者アウグスチヌスは、このみことばによって回心し、その生き方が劇的に変えられたと言われています。彼は成績が優秀で、カルタゴの大学に留学し、真理探求に情熱を燃やしていましたが、マニ教にはまり、ある女性との間に子どもまでもうけてしまいましたが、結婚が許されず、彼の内面に葛藤を生みました。それで、383年にイタリアのミラノに行くのですが、そこで「取って読め。取って読め」という子供が歌う声を聞いて、そこにあった新約聖書を開いたのです。そのとき偶然に開いたのがこの箇所でした。それまで、自分の力でいくら努力してもなかなか聖い生活に入ることができずもがき苦しんでいた彼は、この箇所を読んだときたちまち心が平安に満たされ、疑惑の雲がすっかり消え失せたのでした。それで383年にミラノの司教アンブロシウスからキリスト教の洗礼を受けたのです。彼はこれまでの深い眠りから覚め、新しいいのちある生活へと変えられたのでした。

 きょうは、この箇所から、世の終わりに生きる私たちクリスチャンはどのように歩むべきなのかつにいてお話したいと思います。第一のことは、クリスチャンは今がどのような時であるかを知っているということです。第二のことは、ですからクリスチャンは目を覚ましていなければなりません。第三のことは、古い着物を脱ぎ捨て新しい着物を着なければならないということです。

 Ⅰ.今がどのような時か知っているのですから(11a)

 まず、11節をご覧ください。ここには、「さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。」とあります。

クリスチャンは、今がどのような時なのかを知っています。この「時」という語は、ギリシャ語で「カイロス」という語です。新約聖書には「時」を表す言葉として二つの言葉が使われています。一つは「クロノス」で、もう一つが「カイロス」です。「クロノス」は、すべての人に平等に与えられている時のことです。その時の流れの中で、私たちは生まれ育ち、年を取り、死んでいくのです。時計の針がカチカチと時を刻んでいるその間に、流れていくその時のことです。それに対してもう一つの「カイロス」は、多くの人は知りませんが、クリスチャンだけが知っている時のことです。それはどのような時かというと、「神の時」のことです。今、伝道者の書を学んでいますが、3章に有名な言葉が出てきます。それは、「天の下のすべての営みには時がある。」(3:1)この「時」が「カイロス」です。もちろん旧約聖書はへブル語で書かれていますので、へブル語では「エーマ」という語ですが、これをギリシャ語に訳すと「カイロス」となるのです。同じ3:11にも「神のなさることは時にかなって美しい。」とありますが、その「時」も「カイロス」です。これは時間で計ることができる「時」ではなく計ることができない「時」、その中に突如して洗われる「神の時」のことなのです。ここでは、キリストが再臨される時、この世の終わりの時のことを指して使われています。11節に、「今は救いが私たちにもっと近づいているのですから。」とあることからもわかります。これはキリストの再臨の時のことであり、救いが完成する時のことです。その時が近づいているというのです。

 皆さん、この世はただいたずらに続いていくのではありません。やがて終わりの時がやってきます。その時主イエスが天から再び来られ、すべてのクリスチャンをこの世の闇から救い出してくださるのです。黙示録にはその時の様子を、次のように描かれています。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1-4)

 その時神に従うすべてのクリスチャンの目から涙が拭い去られ、もはや痛みも悲しみも叫びも苦しみもありません。警察やレスキュー隊、病院、リハビリセンターも必要ありません。すべての悲しみや苦しみから解き放たれるからです。その真ん中には神と小羊であられる主イエスがおられ、水晶のように光るいのちの水の川が流れ出ていて、そのいのちの水の川が諸国民の民をいやすのです。それは私たちクリスチャンにとってもっとも喜ばしい時です。そういう時がやって来るのです。

 皆さん、この世には何と多くの悲しみや苦しみがあるでしょうか。今もコロナ禍にありますが、他にもは毎年のようにじしん台風といった自然災害によって家を失い、家族を失って、どれほど多くの人たちが深い悲しみを負っているでしょうか。どれほど多くの方々が病気で苦しんでおられることでしょう。。人間関係の問題でどれほど多くの人々が悩み、苦しんでいることか。結婚や子育て、仕事のことで疲れ果ている人もたくさんおられます。しかし、やがてそうした悩み、苦しみ、悲しみ、痛みから完全に解放され、真の喜びと平安がもたらされる時がやって来るのです。それはキリストが再臨される時であり、私たちの救いが完成する時です。

 クリスチャンは、この時を知っているのです。それがいつなのかはわかりませんが、確実に近づいています。パウロがこの手紙を書いたのは今から約二千年前ですが、その時に比べたらはるかに近づいていると言えます。マタイ24章を見ると、イエス様はその前兆について語られました。その時には、「私こそキリストだ」という偽キリストが大ぜい現れ、多くの人々を惑わします。あるいは、戦争も絶えないでしょう。方々でききんと地震が起こります。やがて反キリストが現れ、にせ預言者が多く起こって、キリストを信じる者を激しく迫害するでしょう。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなるのです。「これらのことを見たら、人の子が戸口まで近づいているということを知りなさい」(マタイ24:33)と言われました。

 私たちはこのようなしるしの多くを見ています。3.11では未曾有の大地震を経験しました。津波や原発の被害は大きく、未だに復旧できていない状況です。世界中を見ても、自然災害は至る所で起こっています。最近も「ドコモ口座」不正引き出し事件がありましたが、非常に巧妙な手口でサイバー金融犯罪が発生しています。何がどうなっているのかもわからないくらい、社会全体がパニックに陥っています。確かにその時は近づいているのです。イエス様は、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)と言われましたが、この世の終わりは必ずやって来るのです。

 Ⅱ.目を覚ましなさい(11b)

 ではどうしたらいいのでしょうか。パウロは11節の後半のところで次のように言っています。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。」クリスチャンは世の終わりが近づいているということを知っているのですから、目を覚ましていなければなりません。

クリスチャンの内科医の天里(あまさと)待三(たいぞう)さんは「眠れぬ夜のために」という小論文の中で、現代の社会は情報を得やすい社会であると同時に、その情報が刺激となり、睡眠を妨げることがあるので、夜9時以降はテレビの番組などもよく注意して選択し、なるべく刺激にならないような番組を選んで見るべきだと助言しています。そして何よりもの解決は、主に身を横たえることだと言っています。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

 私たちが思い煩ってなかなか眠れないとき、それを考えないようにとその問題から逃げようとしたり、その問題を後回しにするのではなく、その問題を神様にゆだねること、それが最も良い解決方法だというのです。ですから、私たちが一番眠りやすいのはいつかというと礼拝の時なんです。神様が平安を与えてくださるので、いつもはなかなか眠れない人でもぐっすりと休むことができます。ただ礼拝中に休まる時には一つだけ注意が必要です。それは聖書を持ったまま居眠りしてはいけないということです。周りの人が起きてしまうから・・・。これは、今は亡き本田弘慈先生の冗談です。

 しかし、ここでは居眠りのことではなく、眠りから目を覚ますようにと言われています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています・・・と。どういうことでしょうか?キリストの再臨が近づいているので、それに備え、目を覚ましていなさいということです。

 マタイ25章には、愚かな5人の娘と賢い5人の娘のたとえがあります。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。一方、賢い娘たちはというと、自分のともしびといっしょにちゃんと油も用意していました。花婿が来るのが遅れたので、娘たちは、みな、うとうとと眠り始めました。ところで、夜中になって、突然、「そら、花婿が来たぞ。迎えに出なさい。」という声がしたのです。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えましたが、愚かな娘たちは、ともしびは持っていても油を用意していませんでした。焦った娘たちは油を用意していた娘たちにお願いしました。どうか油を分けてくれださいと。ところがその賢い娘たちは、「いいえ、分けてあげるだけの余分な油はありませんので、店に行って、自分の分を買ってください」と答えました。仕方なく娘たちが油を買いに店に行くと、ちょうどその時に、花婿がやって来たのです。油の用意をしていた娘たちは、花婿といっしょに婚礼に祝宴に行くことができましたが、用意していなかった娘たちは、間に合いませんでした。「ご主人さま。どうぞ開けてください」とお願いしても、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言われ、戸は堅く閉められてしまいました。まさに備えあるところに憂いなしです。目を覚ましているとは、それがいつ来ても大丈夫なように、備えておくことなのです。

 私は、毎週日曜日朝9時に那須の礼拝に行き、その後で11時に大田原で行われる礼拝に向かいますが、以前那須から大田原に向かう途中、スピード違反の取り締まりをやっていました。ちょうど前の車が捕まってしまいました。それほどスピードを出していなかったのに、あれで捕まっては大変だと思いましたが、もし、スピード違反の取り締まりをやっているとわかっていたら事前に用心していたでしょう。泥棒に入られるのも同じです。夜の何時に来るかがわかっていたら、目を覚まして見張っているはずです。おめおめと家に入られるというようなことはしません。イエス様が来られるのも同じです。いつ来られるのかわかりません。ですから、いつ来られてもいいように、よく用意しておかなければなりません。

 Ⅲ.イエス・キリストを着なさい(12-14)

 第三に、では、どのように用心していたらいいのでしょうか。古い着物を脱ぎ捨てて、新しい着物を着なさい、キリストを着なければならないということです。12-14節までをご覧ください。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

 パウロはここで、夜が更けて、昼が近づいたので、着替えをしなさいと言っています。やみのわざを脱ぎ捨てて、光の武具を着けなさいと言っています。やみのわざとは何でしょうか。パウロはここで、やみのわざを三つのグループに分けて説明しています。最初のグループは「遊興と酩酊」です。これは酒を飲んでどんちゃん騒ぎすることです。泥酔は人の感覚が麻痺した状態です。クリスチャンは信仰的に、倫理的に鈍くなってはいけないのです。

 第二のグループは「淫乱と好色」です。これは性的不道徳を指しています。この手紙を書いたコリントでは、このような罪が広くはびこっていました。「好色」は破廉恥なことで、はずかしさを忘れることです。

 第三のグループは「争いとねたみ」です。これは争いに関する罪のことです。ある注解書によると、これは酔っぱらったり、性的な罪の中に深く落ち込んでいかないような比較的正しい人が陥りやすい罪だとありました。

 要するに、これらの行為は生まれながらの古い人の生き方で、肉の欲を満たすことです。それが表れるとこうしたわざになるのです。それは、ガラテヤ書にある肉の行いのリストを見てもわかります。そこには、「肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。」(ガラテヤ5:19-21)とあります。

 しかし、クリスチャンはこうしたやみのわざを捨てて、光の武具を身につけなければなりません。ここで「武具を身につけようではないか」と言われているのは、まさに今は戦いの時だからです。戦いに出かけようとするとき、ゴムの切れたズボンをはいて行くようなことはしません。そんなことをしたらズボンをあげている間に、敵にやられてしまいます。戦いに出かける時には、それにふさわしい武具を身につけなければなりません。すなわち、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取らなければなりません。(エペソ6:14-17)

 それは、主イエス・キリストを着るということです。ここでパウロは、「主イエス・キリストを着なさい」と言っています。キリストを着るとはどういうことでしょうか?キリストを着るとは、キリストと一つになることです。ひかりの子どもとして、ふさわしい生活をすることです。

 よく街の中を歩いていると「イエス・キリスト以外に救いはない」とか、「イエスは主です」と書かれたTシャツを着ている方を見かけることがあります。また、車を運転していても、魚のかたちをしたステッカーをはっているのをよく見かけます。あのさかなのマークが何を意味しているかを知っている人は、「あ、あの人もクリスチャンだ」とわかりますが、そうでないと、「あれっ、このマークは何だろう」となります。あれは、ギリシャ語でイエス、キリスト、神の、子、救世主)の頭文字「イクトゥス」ですが、それがちょうどギリシャ語で「魚」という意味になるのです。そこで、自分もクリスチャンだということを表すためにあの魚のマークをつけているわけです。

 そのようにして自分の信仰を表すこともすばらしいことですが、ここではむしろそれにふさわしい生き方、生活をしなさいということです。当時のクリスチャンは、キリストという着物を着て歩いていると人々から思われるほど、それがにじみ出ていたのです。そのように歩みなさいということです。

 先日、数年前まで大田原にいて、今は千葉県の鴨川にいる中国人のクリスチャンと電話でお話ししました。結婚したばかりなのに、奥様が中国に戻っている間にコロナウイルスが発生し、来日できなくなってしまいました。長期滞在のビザの在る日とは来日して二週間の自宅待機をすれば大丈夫なのですが、婚姻関係のビザが切れてしまい来れなくなってしまったのです。こちらから中国に行くことはできますが、そうすれば中国で二週間の自宅待機をし、日本に帰国してまた二週間の自宅待機をしなければならないので、約1か月を自宅待機しなければならないため行くにも行けないのです。それで電話の声もトーンダウンしていて、何となく寂しい感じでした。

 彼をさらに寂しくさせたのは、最近、鴨川にある日蓮宗のお寺に行った時、そこで日本のクリスチャンの評判を聞いたのですがそれがとても悪かったので、とてもがっかりしたらしいのです。中国でクリスチャンというととても優しく親切で、温かく、隣人を心から愛するので評判がいいのです。私も実際に中国に行ってみてそれを肌で感じました。私たちを心からもてなしてくれるのです。自分たちの暮らしもそんなに楽でなさそうなのに、自分たちのことよりも訪問した客のために最大限のもてなしをしてくれるのです。これはすごいです。どこに行ってもそうです。中国人がみんながそうかというとそうではなく、やはり自分勝手な人が多いらしいのですが、クリスチャンになると他の人のことを顧みるようになるのです。しかし、彼が日本で接するクリスチャンは意外と自分のことばかり考えていて、この人がクリスチャンなのかどうかわからないのです。いわゆる、キリストの香がしないのです。日本のキリスト教はどうなるんでしょうかと問われましたが、日本のクリスチャンのことを考える前に、今自分が置かれているところから始めていかなければならないんじゃないかなと言うと、「そうですね」と納得してくれました。

以前、阪神タイガースにスタンリッジという投手がいましたが、彼はクリスチャンでそのような生き方をしていました。チームが勝ってヒーローインタビューを受ける時はいつも、チームメイトのマートン選手と同様に、必ず「神様は私の力です!」とメッセージを送ります。それは彼が、自分が神様の良い証人になりたいと願っているからです。ですから、シーズン中であるにもかかわらず、横浜市にある本郷台キリスト教会が主催する野球教室に出かけて行っては子供たちに野球を教え、神様の話もするのです。

「私はクリスチャンとして野球をしています。それは野球をしている時もそうでない時も、神様のために自分は生きているからです。なぜ、私が神様を信じるようになったか?それはイエス様が私のことをとても愛してくれたからです。イエス様は全世界のすべての人たちのためにこの世に来られ、私の罪のために、身代わりとなって十字架にかかってくださいました。だから、私はマットと共に、野球を見てくれている人たちに「神様は私の力です」と言いたいのです。」

 ダビデは、「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」と歌いました。(詩篇16:8,9)また、ネヘミヤは、「主を喜ぶことはあなたがたの力です。」(ネヘミヤ8:9,口語訳)と言いましたが、そのようにいつも神様を目の前に置いて、神様を中心として生きること、また、イエス様を喜びたたえながら生きること、それがイエス・キリストを着るということなのではないでしょうか。それこそ、主の再臨が近い今、私たちクリスチャンに求められている姿なのです。

 皆さんは、このような備えができているでしょうか?イエス様がいつ来られても大丈夫でしょうか?普通、人はどこかに出かける時にはよく準備して行くものです。それなのにイエス様の再臨が近いのにその備えができていないとしたら、それこそおかしいことです。なぜなら、私たちは二,三日の旅にではなく、永遠の旅に出かけるわけですから。そのための準備をしっかりとしておかなければなりません。イエス様が来られるというのに、罪に汚れた衣服を着ていたとしたら大変です。そうではなく、ひかりの武具を身につけなければなりません。主イエス・キリストを着なければならないのです。「マラナ・タ」という祈りがあります。意味は、「主よ。来てください」です。私たちはいつも「マラナ・タ」と祈りつつ、主のご再臨に備えておきたいと思います。