聖書箇所:エレミヤ書51章1~10節(旧約P1391、エレミヤ書講解説教85回目)
タイトル:「主のみわざを語ろう」
エレミヤ書51章に入ります。50章からバビロンに対するさばきの宣告が語られていますが、今日はその続きです。今日は、「主のみわざを語ろう」というテーマで、3つのことをお話します。
第一に、バビロンはさばかれるが、イスラエルは決して見捨てられることはないということです。
第二のことは、だからバビロンに留まって共倒れすることがないように、バビロンの中から逃げよということです。
第三のことは、ではバビロンから救われた者はどうすればいいんですか。バビロンから救われた者は、そのすばらしい主のみわざを語らなければならないということです。
Ⅰ.イスラエルは見捨てられることはない(1-5)
まず、1~5節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「51:1 【主】はこう言われる。「見よ。わたしはバビロンに対し、レブ・カマイの住民に対して、滅ぼす者の霊を奮い立たせ、51:2 他国人たちをバビロンに送る。彼らはこれを吹き散らし、その地を滅ぼす。彼らは、わざわいの日に、四方からこれを攻める。」」
バビロンに対するさばきの宣告です。主はバビロンに対して、滅ぼす者の霊を奮い立たせ、他国人をバビロンに送ると言われました。「滅ぼす者の霊」とは、メディアの王のことです。11節には、「滅ぼす者たちの霊たち」と複数形であることから、これはメディアとペルシャの王たちの霊のこと、あるいは、キュロス王やダリヨス王の霊のことを指していると思います。「霊」はヘブル語で「ルアッハ」といいますが、原語では「息」とか「風」とも訳されることばです。創世記2章7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とありますが、この「いのちの息」と訳されていることばが「ルアッハ」です。ですから2節に「吹き散らし」とあるわけです。主は滅ぼす者たちを奮い立たせ、その息、その風でバビロンを吹き散らされるのです。
3節と4節には、「51:3 射手には弓を引かせるな。よろいを着けて立ち上がらせるな。そこの若い男たちを惜しむな。その全軍を聖絶せよ。51:4 刺し殺された者たちが、カルデア人の地に、突き刺された者たちが、その通りに倒れる。」とあります。これはバビロンが徹底的に滅ぼされるということです。
しかし、イスラエルに対してはそうではありません。5節をご覧ください。ここには、「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の【主】に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。」とあります。
イスラエルもユダも、主に対して罪を犯しました。イスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちたのです。しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはありません。ここがバビロンに対するさばきとイスラエルに対するさばきの大きな違いです。バビロンもイスラエルも主に対して罪を犯し、神のさばきを受けることになりましたが、同じさばきでもイスラエルが受けるさばきとバビロンが受けるさばきとでは全然違うのです。イスラエルが受けるさばきはさばきというよりも懲らしめであって、ここでバビロンに宣告されているようなものとは違います。確かに彼らも罪を犯したためバビロン捕囚という憂き目にあいましたが、バビロンのように徹底的に滅ぼされることはありません。なぜなら、イスラエルは神の民、契約の民だからです。神との契約の民は決して見捨てられることはないのです。
パウロはこのことをコリント人への手紙第一11章32節でこのように言っています。「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」(Ⅰコリント11:32 第三版)
パウロはここで、私たちがさばかれるのはどういうことかを述べています。それは、私たちが、この世とともに罪に定められないため、永遠に滅びることがないために、主によって与えられる懲らしめなのです。discipline、訓練、しつけなのです。
へブル人への手紙12章には、神はイスラエルを子として扱っておられるとあります。自分の子どもを訓練しない親がいるでしょうか。もしいるとしたら、それは私生児であって、本当の子どもではありません(ヘブル12:8)。本当に親であるなら、自分の子どもの成長を願い、そのためにはむちさえもいとわないからです。ですから、確かにイスラエルもユダも、イスラエルの聖なる方から離れ、その地は罪過で満ちましたが、だからといって、彼らが主に見捨てられることはないのです。神と契約を結んだのであれば、神が契約を破らない限り、どんなことがあっても見捨てられることはありません。神は真実な方だからです。
いったいなぜイスラエルはそのような契約を結ぶことができたのでしょうか。それは彼らが特別に優れていたからではありません。真面目な民族だったからでもないのです。彼らが神と契約を結ぶことができたのは何か特別な理由があったからではなく、ただ神が彼らを愛されたからです。ただそれだけです。皆さんもよく知っておられるでしょう。彼らの祖先はヤコブです。イサクの双子の兄弟の弟ヤコブ。意味は「かかとをつかむ者」です。彼は兄エサウのかかとをつかんで生まれてきました。俺が先だと。案の定、彼は兄の弱みにつけこんで長子の権利を兄から奪ってしまいました。本当にずる賢い人だったのです。そんなイスラエルと神は契約を結ばれました。それは彼らがそれに値する民だったからではなく、ただ神が彼らを愛されたからです。また、彼らの先祖たちに誓った誓いを守られたからです。申命記7章7~8節にこうあります。「7:7 【主】があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。7:8 しかし、【主】があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、【主】は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」
すごいでいね。主は常に真実であられます。どこまでも約束に忠実な方なのです。主がそのようにすると約束されたのなら、どこまでもそれを守られるのです。ですから、イスラエルが神と特別な契約を結ぶことができたのはそこに何らかの特別な理由があったからではなく、神が一方的に彼らを愛されたからなのです。
それは私たちにも言えることです。神が私たちを救ってくださったのは何か私たちが特別なことをしたからではありません。神が一方的に私たちを愛し、神の御子イエスを信じるように、信じて神の民となるように予め選んでくださったからです。イエス様はこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(【新改訳改訂第3版】ヨハネ15:16)
私は18歳の時に信仰に導かれました。私は本当に肉的な人間で、クリスチャンにはほど遠いような者でした。私の友人はみんな思っていますよ。「へぇ、あいつがクリスチャンになるなんて考えられない」と。私もそう思います。15,16,17と私の人生暗かった。何のために生きているのか、どこに向かって進んで行ったらよいのかわからないで彷徨っていました。手あたり次第に、やりたい放題やろうと生きていました。高校3年生の時です。まさに地に足が着いていないという状態でした。
私は4人兄弟の末っ子として生まれましたが、母は本当に私をかわいがってくれました。目の中に入れても痛くないという感じだったんじゃなにいかと思います。みんなから「富男くんは本当にいい子だ」と言われ、自慢の子どもだったのかもしれません。だからなのか、私にはこうしろとか、ああしろとか、もっと勉強しろとか、もっと真面目に生きろとか、一切言わなかったんです。私は心には深い葛藤を抱えていましたがそれを表に出そうとはせず、常に明るく、いたって活発に、いたって楽しく生きていました。そんな私が高校3年生の時、後に結婚することになる妻に誘われて教会に行くようになるわけですが、私が自転車を引いて家の近くの坂道を上っていたとき、母が私にこう言ったんです。「トミちゃん、あんまり深入り知らんなよ。」
心配だったんでしょうね。目の青い人に誘われて教会に行くようになったのを。もしかしたら誰かに言われたのかもしれません。教会に行っているようだけど大丈夫か、とか。私は、「大丈夫、深入りなんてしないから」と言いましたが、深入りしちゃいました。そして、そういう母もやがて信仰に導かれ、バプテスマの恵みに与りました。65歳の時です。
イエス様を知らない人はみんなそうですよ。何だか後戻りできない世界に足を踏み入れるようで怖いんだと思います。私もそうだったし母もそうだった。しかし、神様の恵みによってイエス様を信じることができました。それは私が何かしたからではなく、そういう類の人だったからでもなく、神様が永遠のご計画の中で選び、一方的に愛してくださったからです。
ですから、私たちが救われたのはただ神の恵みなんです。神からの賜物です。神様は、そのようにしてイスラエルと、また私たちと契約を結んでくださいました。そして神と契約を結んだのであれば、すなわち、神を信じたのであれば、たとえ異邦人であったとしてもだれでも救われるのです。そうでなければただの罪人です。それゆえ、契約外の民として滅ぼされることになってしまいます。しかし、神と契約を結び神の民とされたのなら、どんなことがあっても見捨てられることはありません。あなたが過去にどんな罪を犯したとしても、また、現在罪を犯しているとしても、あるいは、将来犯すであろう罪も、悔い改めて神に立ち返るならすべて赦されるのです。それが神のことばである聖書が約束していることです。それはイエス様が十字架で死なれ、その罪を贖ってくださったからです。そのイエスを信じて永遠のいのちを受けることができたからです。それは永遠の契約なのです。永遠の腕があなたの下にあるのです。ですから、神の御子イエスを信じて神の子とされたのなら、その神、万軍の主に見捨てられることはありません。
確かに、懲らしめはあるかもしれません。しかし、それは主があなたを愛しておられるからであって、あなたが成長するようにと与えておられる訓練なのです。バビロン捕囚は辛いことです。多くのものを失うでしょう。想像することもできないような辛い思い、悲しい思いを経験するかもしれません。それでも、その神、万軍の主に見捨てることは決してないのです。
Ⅱ.バビロンの中から逃れよ(6~8a)
ですから、第二のことは、バビロンの中から逃れよ、ということです。6節をご覧ください。「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、【主】の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。」
バビロンは滅びてしまうので、そこに留まれば一緒に滅ぼされることになります。だから、そこから逃れるようにというのです。そこから逃れて、自分自身を救わなければなりません。しかし、残念ながら、そこから逃れた人はごくわずかでした。B.C.539年にペルシャの王キュロスによってバビロンが陥落すると、キュロスは寛容な政策を取りました。バビロンに捕えられたイスラエルの民に対して、エルサレムに帰還することを許したのです。それなのに、それに応じたのは、本当にわずかな人たちでした。たった5万人です。残りの人たちは皆バビロンに留まりました。なぜ?住み慣れたバビロンから出ようとは思わなかったのです。そこにいれば安定して暮らしていけると思ったからです。しかしそれは、バビロンと同じ運命をたどることになるということを意味していました。彼らに求められていたのはその中から逃れることです。そこから逃れて自分のいのちを救うことです。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされることがないようにすることだったのです。
それは私たちにも言えることです。黙示録17章、18章を見ると、このバビロンとは神に敵対するこの世の勢力のことです。せっかく神の一方的な恵みによってこの世から救い出されたのに、そこに留まろうとすれば、私たちも共に倒れてしまうことになります。だから聖書はこういうのです。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
皆さん、この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。
しかし、それがなかなか難しいのです。なぜでしょうか。さくらチャーチでは月に一度、礼拝後に尾山令仁先生の「信仰生活の手引き」を用いて学びの時を持っておりますが、前回のテーマは、神の御心に従うにはどうすれば良いかということでした。皆さん、神の御心に従うにはどうすれば良いのでしょうか。その中にこうありました。そのためには、まず神の御心を知らなければなりません。そのためにはまず自分が当面している具体的な問題に対する好きとか嫌いといった自分の考えとか意見、感情を、すべて神にささげることです。そうしたものをもったまま、神の御心を知ろうとすることは、こわれた磁石で方向を知ろうとするようなもので、分かりません。そして、どうしても神のみこころが記されている聖書を読まなければなりません。聖書には、あらゆる具体的な問題に対する解決の原則が記されているからです。聖書をよく読んでいる人なら、これで神のみこころの90パーセントは知ることができます。では、残りの10パーセントは何か。残りの10パーセントは、聖霊の導きを求め、聖霊が私たちの心の中にはっきりとした確信を与えてくださるまで祈ることです。聖霊は必ず御言葉と矛盾しないことを示されるはずですから、いつもよりもっと熱心に祈らなければなりません。そのように祈り求めて、そこに動くことのない心の平安が与えられたら、それを神の御心と信じて、すぐに従わなければならないのです。ところが、多くの人たちが失敗するのは、神の御心を知ろうとして、実は自分の感情を無意識のうちに当てにしているからです。自分の願っていることが出てくるまで、それを神の御心とは思わないのです。このような態度では、結局のところいつまでたっても、神の御心を知ることはできません。それは、ちょうどラジオで、周波数の違うところに合わせていて、自分の聞こうとしている放送が入らなくて焦っているようなものです。
なるほど、私たちの多くは自分の願っていることが出てくるまで、それを神の御心と思わないんですね。すると、ある姉妹が、「いや、今はどこに行っても自分を大切にするようにとか、自分を愛しなさいとか、自分を信じなさいとか、聖書と全く逆のことを勧めているのでわからなくなる時があるんです。」と言われました。
今はそういう時代なんです。どんなに神の御言葉が語られても、結局は自分を中心に考えるように動いているのです。そのような中で自分の考えや感情や意見を、すべて神にささげてしまうようにと言われても、なかなかできることではありません。
しかし、あなたが神の御心に従いたいと思っているなら、この世というバビロンから逃れたいと願っているならば、この世と調子を合わせるのではなく、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。バビロンに留まりたいという思いを捨て、バビロンの中から逃れて、自分のいのちを救わなければならないのです。
あのロトの妻はどうして滅びてしまったのでしょうか。神がソドムの町を滅ぼされたとき、そこから出るようにと言われ、後ろを振り向いてはならないと言われたのに、振り向いてしまったからです。どうして彼女は後ろを振り向いたのでしょうか。ソドムの町がどうなったのか気になったのかもしれません。でも、一番の理由は、彼女がそこに執着していたからです。その結果、彼女は塩の柱になってしまいました。それは私たちに対する教訓でもあります。主は「この世」というバビロンをさばかれますが、もしあなたがこの世に執着しているなら、バビロンと一緒にさばかれてしまうことになります。あなたはその中から逃れる備えをしなければなりません。バビロンの中から逃げて、自分のいのちを救わなければならないのです。
7~8節の前半をご覧ください。「51:7 バビロンは【主】の手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲む。それゆえ、国々は正気を失う。51:8 バビロンは、たちまち倒れて砕かれる。」
バビロンは主の手にある金の杯です。多くの国々はそれでぶどう酒を飲んで酔いしれるわけです。良い思いをさせてもらったということです。まさにお酒を飲んで酔いしれるような思いです。黙示録17章と18章を見ると、このバビロンによって利益を得ている国々が、その酔いによってすっかり騙されていたことが記されてあります。18章23節には、「なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」(【新改訳改訂第3版】黙示録18:23)とあります。
それは地上の商人たちばかりでなく私たちも言えることです。私たちは世が提供するものによって騙されてしまうことがありますが、しかし、そのようなものはすべて滅びていくことになります。そのことに私たちも気付かなければなりません。この世があなたに約束するもの、それは善悪の知識の木の実のようなものかもしれません。それを食べるそのとき、あなたは死ぬ、と聖書にあります。だから、注意しなければなりません。この世というバビロンに留まっているのではなく、その中から逃れていのちを得なければならないのです。なぜなら、8節にあるように、バビロンは、たちまち倒れて砕かれることになるからです。
Ⅲ.主のみわざを語ろう(8b-10)
ですから、第三のことは、私たちの神、主のみわざを語ろう、ということです。8節後半~10節をご覧ください。「51:8バビロンのために泣き叫べ。その痛みのために乳香を取れ。もしかしたら、癒やされるかもしれない。51:9 私たちはバビロンを癒やそうとした。だが、それは癒やされなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう。バビロンへのさばきが、天に達し、大空まで上ったからだ。51:10 【主】は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、【主】のみわざを語ろう。」
ここには、バビロンのために泣き叫べ。その痛みのために乳香を取れ。とあります。もしかすると、癒されるかもしれないから。これは誰に対して語られているのでしょうか。9節には「私たちはバビロンを癒そうとした。だが、それは癒されなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう」とあります。この「私たち」とはだれのことでしょうか。ハーベスタイムの中川健一先生や新聖書講解シリーズのエレミヤ書注解を書かれた服部嘉明先生は、これをバビロンの同盟軍たちと考えていますが、そうじゃないと思います。というのは、これはイスラエルに対して勧められている文脈の中で語られているからです。これはバビロンに捕えられ、バビロンに移住したイスラエルの神を信じる忠実な者たちのことです。そこにはダニエルやシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴといった3人の友人たちもいました。彼らはいのちをかけてイスラエルのまことの神を証し、バビロンが癒されるために、彼らが神に立ち返っていのちを得るようにといろいろな働きかけをしました。その結果、ネブカドネツァル王は最終的にイスラエルの神を認めましたが、孫のベルシャツァルは認めませんでした。応答したのはほんのわずかな人たちだけで、結果的に、バビロンは癒されませんでした。その罪が天にまで達し、大空まで上ったからです。
それで彼らはこう言うのです。10節です。「【主】は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、【主】のみわざを語ろう。」
シオンとはエルサレムのことです。だからバビロンではなくエルサレムに帰り、そこで主が彼らのためにどんなことをしてくださったのか、そのすばらしい主のみわざを証しようというのです。これがバビロンから救われたユダの民、イスラエルに求められていることでした。バビロンから救われたイスラエルに求められていたことはバビロンの中に留まることではなく、その中から逃れて、シオンで、彼らの神、主がどんなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを語ることだったのです。
それは、神の一方的な恵みによってこの世というバビロンから救われた私たちに求められていることです。私たちはどういうところから救われて来たのかを思い巡らしながら、神があなたに、どんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを知らせなければなりません。神が聖書を通してあなたに約束してくださったことがたくさんあるはずです。それがかなったならば、あなたの身に成就したならば、あなたはそのことを生きた証人として証しなければなりません。それが神によって救われ、神の契約の民とされた者に与えられた責任なのです。それは、福音の真理を論理的に説明し、キリストの信仰の決断をせまるというものではありません。それは、神が私たちの身の上になしてくださったみわざをほかの人々に語ることです。
マルコの福音書5章には、ゲラサ人の男の話があります。彼は悪霊に取り憑かれ、墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、縛っておくことができませんでした。彼が足かせや鎖をひきちぎり、足かせも砕いてしまい、だれも彼を抑えることができなかったからです。それで、彼は昼も夜も墓場や山で叫びつづけ、石で自分のからだを傷つけていたわけですが、そんな彼をイエス様が癒してくださいました。悪霊から解放してくださったのです。それで彼は感動してイエス様にお供させてほしいと懇願しましたが、イエス様はそれをお許しにならず、彼にこう言われました。
「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:19)
それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったのかを、デカポリス地方で言い広めると、人々はみな驚きました。悪霊によってあれほどひどい状態だった人が癒されて、正気に返ったからです。
これが私たちにも求められていることです。私たちは多くの悪霊に取り憑かれていた者です。パウロのことばでいうなら、自分の罪過と罪との中に死んでいたものです。そうした不従順らの子らの中にあって、かつては自分の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たち同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。それなのに、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。何という恵み、何というあわれみでしょう。その驚くべき神の恵みを語らなければならないのです。それはもう語らなければならないといった性質のものではなく、もう語らずにはいられないという性質のものです。自分がどれほど罪深い者であり、神がその中から救い出してくださったということを本当に体験しているならばそうなるでしょう。
皆さんもよくご存じだと思います。「アメイジング・グレイス」(おどろくばかりの)の作詞者はジョン・ニュートンという人です。彼は18世紀、イギリスで奴隷貿易の船長をしていました。彼は荒くれ者で、奴隷に対して冷酷な扱いをしていました。しかしある日の航海で大きな嵐に遭遇し、死に直面して初めて、「神様、助けてください」と叫んだのです。すると、神は彼をあわれんで、奇跡的に命を救ってくださいました。
「どうして、この私が。」
その時、彼はその嵐が神の与えてくださった試練と守りだったと確信し、7歳の時に亡くした母親が残してくれていた聖書を読み始め、イエス・キリストを、自分の罪を赦してくださる救い主として信じてクリスチャンとなり、新しく生まれ変わったのです。それは彼が23歳の時でした。彼は悔い改め、一転して、奴隷を人として親切に扱うようになったばかりか、さらに船を降り、神に仕えるようになります。
そんな彼が、「こんな愚かな、どうしようもない者をも神は救ってくださった」という「おどろくばかりの恵み」を歌ったのが、この讃美歌です。
1. 驚くばかりの 恵みなりき
この身の汚れを 知れるわれに
2. 恵みはわが身の 恐れを消し
任(まか)する心を 起(おこ)させたり
3. 危険をもわなをも 避け得たるは
恵みの御業と 言うほかなし
4. 御国に着く朝 いよよ高く
恵みの御神を たたえまつらん
(新聖歌 233)
彼はやがて教会の牧師となり、多くの讃美歌を書き、死ぬまで、この「恵み」を語り続けました。彼は、晩年失明に苦しみましたが、「アメイジング・グレイス」で歌われているように、彼の心の目は開かれ、はっきりと見えるようになっていました。
「私はかつての自分ではありません。神の恵みによって今の自分があるのです」「多くの危険、労苦、わなを通って、私はここまで来ました。ここまで私を安全に導いてくださったのは恵みです。そしてこの恵みは、私を天のわが家まで導いてくださるでしょう」(ジョン・ニュートン)
私たちもそう告白するものでありたいですね。私はかつての自分ではありません。神の恵みによって今の自分があるのですと。それが罪赦された者、神の恵みに与った者、バビロンの中から救い出された私たちに与えられている使命なのです。