互いに愛し合いなさい ヨハネ13:31-38

2020年3月22日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章31~38節

タイトル:「互いに愛し合いなさい」

 

 ヨハネの福音書13章後半です。前回は、イスカリオテ・ユダの裏切りを学びました。イエス様は彼に何度も悔い改めの機会を与えましたが、彼は最後まで悔い改めませんでした。最後の晩餐の席で、イエス様からパン切れを受け取ると、すぐに出て行きました。時はいつでしたか?時は夜でした。それは単に夜であったということではなく、永遠の暗闇を表していました。彼はイエス様から離れて、永遠の暗闇に落ちることを選んだのです。しかし本当の弟子は、イエスのもとに留まります。ユダが出て行った後で、イエス様はとても大切なことを話されました。それがきょうの箇所です。

 

 Ⅰ.栄光を受けるとき(31-32)

 

まず、31節と32節をご覧ください。

「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。」

 

ユダが出て行ったとき、イエスは大切な話をされました。それは、「今、人の子は栄光を受けた」ということです。「今」とはいつですか?今とは、ユダが悔い改めないで出て行った今です。人の子とはイエス様のことですが、今、人の子は栄光を受けられました。なぜユダが出て行った今、栄光を受ける時なのでしょうか。

 

これまでも何回か語ってきましたが、ヨハネの福音書において「栄光を受ける」というのは、キリストが十字架で死なれることを指し示していました。ユダの裏切りによってキリストが十字架で死なれます。だから栄光を受けられるのです。どうして十字架で死なれることが栄光なのでしょうか。それは、私たちを罪から救うという神の永遠の計画が成し遂げられるからです。それは最初の人アダムとエバが罪を犯した時から、神が予め定めておられたことでした。それが完成する時、それが十字架なのです。イエスが十字架で死なれることで、アダムによって全人類にもたらされた罪が贖われるのです。ですから、この後17章に入ると、そこにイエス様の最後の祈りが記されてありますが、こう言われました。4節です。

「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」

イエス様は多くの奇跡をもって神の栄光を現しましたが、最終的には、神がイエスに行うようにと与えてくださったわざを成し遂げることによって現わされます。それが十字架なのでした。十字架のわざを通して神の栄光が完全に現されました。ですから、イエス様が十字架ら付けられたとき最後に発せられたことばは、「完了した」(19:30)ということばだったのです。「完了した」。「テテレスタイ」。これは、神の救いのみわざが完了したという意味です。私とあなたの罪の負債、借金を、イエスが代わりに支払ってくださいました。完済してくだった。すべての借金から解放されたらどんなに気持ちが楽になるでしょう。これまでずっと重くのしかかっていた荷物を下ろすことができます。もうそのことで思い悩む必要はありません。イエス様があなたの罪の負債を完済してくださったからです。ですから、十字架は人の子が栄光を受けられる時なのです。

 

また、ここには、「神も人の子によって栄光をお受けになりました」とあります。イエス様だけではありません。そのことによって、父なる神も栄光を受けらます。なぜなら、イエスが十字架で死なれることによって神がどのような方なのか、そのご性質がはっきりと示されるからです。皆さん、神はどのような方ですか?聖書には、神は愛であると教えられていますね。どうやって神が愛であるということがわかるのでしょうか?それは単なる絵に描いた餅ではありません。神はことばだけでなく行いによって、そのことをはっきりと示してくださいました。それが十字架でした。十字架によって神の愛と神の恵みが、すべての人に示されたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

私たちがまだ罪人であったとき、私たちがまだ神を信じないで、神を無視し自分勝手に生きていたとき、そのような状態であったにも関わらず、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神の私たちに対する愛というものを明らかにしてくださいました。

Ⅰヨハネ4:9-10には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。どこに愛があるのですか?ここにあります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださったということの中にあるのです。具体的には、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされたという事実の中にです。それは十字架のことです。それはいわば「にもかかわらずの愛」です。十字架で神の愛がはっきりと示されました。だから、十字架はキリストだけでなく、父なる神の栄光も現わすのです。

 

十字架はキリストが栄光を受ける時であり、また、父なる神も栄光を受けられるときです。あなたは、十字架をどのように受け止めておられますか。私たちの人生にも十字架があるでしょう。自分自身の十字架があります。できますなら、この杯を取り除いてくださいと祈りたくなるようなとき、どうしても乗り越えられないと思うような困難に直面するときです。しかし、それは栄光のときでもあるのです。あなたが祝福されるときであり、神が栄光を受けられるときでもあります。問題は、あなたがその十字架をどのように受け止めていらっしゃるかということです。神の御心に従順になるとき、神が栄光をお受けになり、あなたもまた祝福されるのだということを覚え、あなたの十字架を負って、キリストに従って参りましょう。

 

Ⅱ.イエスが愛したように(33-34)

 

次に、33~35節をご覧ください。

「子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

イエス様は、弟子たちに対して「子どもたちよ」と呼びかけられました。この福音書の中では初めて使われている呼び方です。非常に親しみと愛情を感じる呼び方です。なぜイエス様は彼らを「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょうか。それは彼らといられる時間がほんの数時間しか残されていなかったからです。もうすぐこの地上を去って行かなければなりませんでした。そんな彼らとの別れを惜しんで「子どもたちよ」と呼ばれたのでしょう。今まではすべての人に対して救いのメッセージを語ってきました。でも今は愛する者たちだけに、本当に言いたいことを伝えようとしていました。それは、「わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ということでした。どういうことでしょうか?

 

「わたしが行くところ」とは、父なる神のところ、天の御国のことです。イエスはかつてユダヤ人たちに、「あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」(7:34)と言われましたが、それを弟子たちにも言われました。「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできません。」ただユダヤ人たちに言った時と違うのは、今はついて来ることができないが、後にはついて来るということでした。(36)なぜ今はついて行くことができないのですか。なぜなら、まだその場所が用意されていないからです。ですから、イエスが行って、彼らのために場所を用意したら、また来て、彼らをご自分のもとに迎えてくださいます。イエスがいるところに、彼らもいるようにするためです。しかし、ユダヤ人たちはそうではありません。彼らは今ついて行くことが出来ないというだけでなく、後もついて行くことができません。なぜなら、イエスを信じなかったからです。イエスの弟子たちはその後も大きな失敗をしでかします。ペテロに至っては、イエスを知らないと三度も否定するという罪を犯しますが、それでも悔い改めてイエスを信じたことですべての罪が聖められたので、イエスの行かれるところ、天の御国に行くことができるのです。

 

そのことを前提として、イエスは大切なことを語られます。それが34節と35節の御言葉です。ご一緒に声に出して読みましょう。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 

もうすぐ彼らからいなくなるという直前に、いわば遺言のように語られたのがこの言葉です。イエス様は彼らに新しい戒めを与えられました。それは、「互いに愛し合いなさい。」ということでした。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と。どうしてこれが新しい戒めなのでしょうか。旧約聖書の中にも隣人を愛さなければならないという戒めがありました。たとえば、レビ記19:18には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(レビ19:8 )とあります。ですから、互いに愛し合うとか、隣人を愛するというのは別に新しい戒めではないはずです。いったいどういう点で、これが新しい戒めなのでしょうか。それは、どのように隣人を愛するのかという点においてです。確かに旧約聖書にも、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」とありますが、イエス様が言われたのは、あなたの隣人を、あなた自身を愛するように愛しなさいというのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように愛しなさい」ということでした。あなたの隣人をあなた自身のように愛するというのは、あなたが自分を愛するのと同程度に愛するということですが、イエスが愛したように愛するというのは、それを越えているのです。では、イエスが愛したように愛するとはどういうことでしょうか。

 

私たちはこの少し前にその模範を学びました。それはイエス様が弟子たちの足を洗われたという出来事です。そのとき主は何と言われたかというと、「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)と言われました。イエス様はそのことによって、愛するとはこういうことなのだということの、模範を示してくださったのです。それは最も高いところにおられた神ご自身が、人として現れてくださり、仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われたということを意味していました。そのように愛するのです。つまり、自分を捨てて兄弟姉妹に仕えるということです。自分を愛するようにではありません。自分を捨てて愛するのです。自分を捨てると口で言うのは簡単なことですが、いざこれを実行しようと思うと大変なとこです。できません。ですから、イエスはこの後で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(15:13)と言われたのです。これが愛です。これより大きな愛はありません。そのような愛で互いに愛し合いなさいと言われたのです。

 

とてもじゃないですが、そんなことできるはずがないじゃないですか。私たちも愛が一番大切だとか、最後は愛が勝つなんて言っていますがそれはただの口先だけであって、結局最後はみんな自分がかわいいのです。だから嫌になったり、都合が悪くなったりすると、「や~めた」となるんじゃなるのです。それが自然ですよ。人間は自分を捨てるという愛を持ち合わせていないのです。

 

そうなんです。ですからこの新しい戒めを、それだけの意味として捉えるとしたら、それは人間の道徳の教えの領域にとどまってしまうことになります。しかし、イエスがここで言いたかったのは単なる愛の模範ということではなく、私たちが互いに愛し合うための源がここにあるという意味で語られたのです。それが「わたしがあなたがたを愛したように」という意味です。弟子たちはその愛を見ました。彼らはただ愛の教えを聞いただけではなく、実際に見て、触れて、体験しました。そのキリストの愛を模範にして、互いに愛し合うことが、ここでイエスが与えられた新しい戒めだったのです。それは、キリストの十字架の死によって示された神の愛を受けた者にだけできる愛です。神はそのために力を与えてくださいました。それが神の霊、聖霊です。

 

ローマ5:5には、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。聖霊によって神の愛が注がれています。あなたがイエス様を救い主として信じた時、その瞬間に、イエス様があなたの心の内に来てくださいました。どのように来てくださったんですか?聖霊によってです。聖霊はキリストの霊、神の霊です。イエス様を信じた瞬間に、この聖霊があなたの心に住んでくださいました。これがクリスチャンです。クリスチャンとは、神の霊、聖霊を持っている人です。今までは持っていませんでした。今までは罪があったので神がお住になることができませんでしたが、イエス様を信じたことですべての罪が取り除かれ、賜物として聖霊が与えられました。この聖霊が私たちを助け、愛する力を与えてくださいます。聖霊があなたを内側からイエス様と同じご性質を持つ者に変えてくださるのです。その性質とは何でしょうか。愛です。

 

ガラテヤ5: 22~23をご覧ください。ここには、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」とあります。御霊の実は「愛」です。ですから、キリストを信じた者はみな、イエス様のように愛の人に変えられていくのです。自動的に変えられるわけではありません。また、信じた瞬間にすぐに変えられるというわけでもありません。信じた瞬間に全く怒らなくなったとか、いつもニコニコしていて、問題にも全く動じなくなったとか、もう何でも赦してくれる!となればすごいですが、現実にはそういうわけにはいきません。むしろ、本当に自分はイエス様を信じているのだろうかと、自分を疑いたくなるような醜い性質が頭をもたげることが多いのですが、しかし、神の御霊が与えられるなら、少しずつ愛の人に変えられていきます。植物の種が蒔かれると、必ず実を結びます。時間はかかりますが、やがて実を結ぶようになるのです。御霊の実も同じで、あなたの心に信仰の種が蒔かれると、あなたの心に神の御霊が宿り、神の愛があなたに注がれるようになるのです。そして、やがて御霊の実を結ぶようになります。愛の人へと変えられていくのです。それは御霊なる主の働きによるのです。

 

いったいなぜイエス様は、互いに愛し合うようにと命じられたのでしょうか。35節をご覧ください。それは、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになるからです。もし私たちが自分を低くして互いに愛し合うなら、それによって、信仰のない周りの人たちが「ああ、あの人たちはキリストを本当に信じている人たちなんだ」「クリスチャンってすごいなぁ」と言って、神を認めるようになります。すなわち、神を信じるようになるのです。どんなに私たちがイエス様は主ですと叫んでも、互いにいがみ合ったり、憎み合ったりしているなら、だれも本気にしないでしょう。私たちがキリストの命令に従って互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であるということを、すべての人が認めるようになるのです。

 

以前紹介しましたが、奥山実先生が今回の新型コロナウイルス感染症について、フェイスブックに投稿された記事を見ましたが、アーメンでした。混乱のただ中にある武漢市で、クリスチャンらは黄色い防護スーツを来て犠牲的な奉仕をしました。彼らは無料のマスクとともに福音のトラクトを配布したのです。それによって多くの人々、役人や警官たちさえも、クリスチャンの真実の姿に敬服し評価し始めているとの情報もあります。武漢ではこの困難が永遠に変わらぬ希望の福音を宣べ伝える機会となっています。

私たちの希望はいつも暗闇の中にこそ輝くのだということを覚え、彼らのために祈りたいと思います。この混乱が、一見脅威と思えることではありますが、中国のみならず、この国の人々にとっても、真実に信頼に足るものが一体何であるのかを示す機会になるのだと信じて疑いません。

私たちの信じている神様はこの困難の中にあって、こま国においても大きな霊的祝福をもたらすことのできる方だと信じます。ともに祈りましょう。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。そのやみの中でこそ、私たちクリスチャンの真価が問われているのです。それが互いに愛し合うということです。イエス様が愛したように互いに愛し合うこと、それを実行することによって、すべての人がイエスを認めるようになるのです。

 

Ⅲ.最後まで愛されるイエス(36-38)

 

最後に、36節から38節までをご覧ください。

「シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 

シモン・ペテロは、キリストの一番でしたが、彼は、イエス様が「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(33)と言われたことがよく理解できませんでした。それで、イエス様に尋ねました。「主よ、どこにおいでになるのですか。」

するとイエス様は、「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と答えられました。これは先ほど言ったように、天国のことです。イエス様は、父なる神のみもと、天国に行かれます。今は来ることができませんが、しかし後にはついて来ます。

 

この言葉のとおり、ペテロは後にイエス様のもとに行きました。ローマ皇帝ネロの大迫害のとき、ペテロはローマで処刑されました。当時、ローマの処刑法は十字架刑でしたが、彼は主と同じ姿では申し訳ないと逆さにしてくれるように頼み、逆さ十字架につけられたと言われています。でもペテロは、そのときはわかりませんでした。イエス様が言われたことがどういうことなのか。それでイエス様に尋ねました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」ペテロらしいですね。彼は直情的な人間でしたから、あなたのためならいのちを捨てます!と啖呵を切ったのです。これは彼の本心だったでしょう。彼は本当にイエス様を愛していました。いのちをかけるほど愛していた。だからこそ、漁師という仕事を捨てでまで従ったのです。

 

でもどうでしょう。私たちはこの後でどんなことが起こるのかを知っています。イエス様が十字架につけられるために捕らえられると、彼はイエス様を知らないと言うようになります。イエス様はそのことも全部知っておられ、その上でこのように言われました。38節です。

「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

「まことに、まことに」とは、大切なことを言われる時に使われたことばです。ペテロよ、あなたはわたしのためにいのちを捨てるというのですか。わたしはあなたに言います。あなたは、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言います。マルコ14:31には、「ペテロは力を込めて言い張った。」とあります。絶対にそんなことはない!彼はそのように言い張りました。三度目にはのろいをかけてまで誓ったとあります。しかし、その後で彼はイエス様が言われたように、三度イエスを知らないと言いました。これが人間の弱さです。私たちはどんなに誓っても、最後までそれを貫くことは並大抵のことではありません。。イエス様はそういうことを重々承知の上で、彼を愛されました。ルカ22:31~32には、イエス様が彼にこのように言われたことが書いてあります。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

さまざまな問題によって、あるいはサタンの攻撃や困難、迫害によって、信仰を失いそうになることがあります。でも、イエス様は決して見捨てることはなさいません。それは私たちの信仰が強いからではありません。イエス様が祈っていてくださるからです。イエス様は、ペテロの信仰が無くならないように祈ってくださいました。あなたが信仰にとどまっていられるのも、イエス様が祈ってくださったからです。救われたのもそうです。だれかが陰で祈ってくれたからです。そして何よりもイエス様ご自身が祈ってくれました。今でもとりなしていてくださっています。それは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるためです。確かにペテロはイエス様を三度も否定しました。しかし、イエス様がよみがえられて、彼の信仰を回復させました。そして信仰を回復させていただいた彼は教会の指導者として立てられ、多くの人々を励まし、死に至るまで忠実にキリストに従うことができました。

 

イエス様は、私たちの弱さも知っておられます。失敗することもすべて知っておられます。その上で愛してくださったのです。私たちの過去だけでなく、今も、そしてこれからもそうです。それでも私たちをあきらめることをせず、最後まで愛してくださるのです。

 

神は、そのひとり子をお与えになるほどに、あなたを愛してくださいました。イエス様はあなたの罪を負って十字架で死なれ、三日目によみがえられました。このキリストを信じる者はだれでも救われます。まだ信じていらっしゃらない方は、信じてください。そうすれば、すべての罪は赦され、イエス様が行かれたところ、天の御国に入れていただくことができます。永遠のいのちが与えられるのです。

 

もう信じているという方は、すでに救われています。だんだん救われて行くのではなく、信じた瞬間に救われました。もうすべての罪が赦されました。ただ足は洗わなければなりません。足を洗うってどういうことでしたか?日々の歩みの中で犯した罪を悔い改めるということでしたね。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。しかし、もし自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。赦されない罪などありません。聖霊を冒涜する罪、すなわち、イエスを信じないという罪以外は、どんな罪でも赦されます。どうぞこのことを覚えておいてください。長い信仰生活にはいろいろなことがあります。いろいろな問題が起こってきます。健康の問題、結婚の問題、子育ての問題、仕事の問題、人間関係の問題、本当にいろいろな問題が起こります。あるいは、自分自身のことで大きな失敗をしでかすかもしれません。しかし、それがどんな問題であっても、キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すものは何もありません。むしろ、そうした問題は、あなたがもっと神の愛を体験する良い機会として、神が与えておられるのかもしれません。問題そのものは辛いことですが、その問題の中で神に祈り、御言葉を読み、イエス様と交わることによって、さらに深く神の愛を体験することができます。主は、決してあなたを離れず、あなたを捨てません。ですから、この神の愛にしっかりとどまりましょう。キリストの恵みにとどまり続けましょう。そして、イエスが愛したように、私たちも互いに愛し合いましょう。その愛に心から応答したいと思うのです。

暗闇から光へ

2020年3月15日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ13章21~30節(P212)

タイトル:「暗闇から光へ」

 きょうは、きょうはヨハネ13章21~30節から「暗闇から光へ」というタイトルで話しします。

Ⅰ.心が騒いだイエス(21)

まず、21節をご覧ください。

「イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

「これらのこと」とは、その前のところでイエスが語られたことです。イエスは「わたしのパンを食べる者が、わたしに向かってかかとをあげます。」という聖書のことばを引用して、ユダが自分を裏切ることについて、前もって語りました。イエス様は、これらのことを話されたとき心が騒ぎました。なぜ騒いだのでしょうか。それは、イスカリオテのユダが自分を裏切るということを知っておられたからです。いや、イスカリオテのユダが裏切るだけでなく、そのことを悔い改めなかったからです。その結果、彼が永遠に滅びてしまうことを思うといたたまれなかったのです。その心の深い部分で、霊の憤りを感じ、心が騒がずにはいられませんでした。

イエスは弟子たちを愛しておられました。当然、ユダのことも最後まで愛しておられました。そして彼の足さえも洗ってくださいました。イエスはこれまで何度もご自身を裏切る者がいると警告し、悔い改めを促してこられました。ヨハネは、このユダの裏切りについて、主が3度も語っておられたことを記しています。たとえば、6章ではいのちのパンの説教の後、「わたしがあなたがた12人を選んだのではありません。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」(ヨハネ6:70)と言われました。これはイスカリオテ・ユダのことです。イエスは、ユダのことを指してこう言われたのです。

また、このちょっと前にありますが、主が弟子たちの足を洗われた時も、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」(13:10)と言われました。これはユダのことです。ユダはきよめられていませんでした。

さらに、この18節、19節でも、主は旧約聖書のことばを引用して、「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます」と書いてあることは成就する、と言われました。

このように、イエスは弟子たちの中にご自分を裏切る者がいるということを何度も語られ悔い改めるように促してきたのに、彼はそれを受け入れませんでした。3年余り主のそばにいてずっと親しく交わってきた者たちの中に自分を裏切る者がいるということはどんな悲しかったことでしょう。そして何よりもそのことを悔い改めず、その結果、永遠に滅びてしまうことを思うと、霊の憤りを覚え、心を騒がせずにはいられなかったのです。それでこう言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

これで4度目です。ここでは「まことに、まことに」と言っておられます。これは本当に重要なことを語られる時に使われる言葉です。それは、ユダに対して、今からでも遅くはない。だから何とか悔い改めてほしいという、主の痛いほどの思いが込められていることがわかります。

それは、このユダだけに言えることではありません。私たちにも同じです。大切なのは、何をしたかではなく、何をしなかったかです。私たちもすぐに主を裏切るような弱い者であり罪深い者ですが、それでももし、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるということを忘れてはなりません。そして、罪が示されたなら、悔い改めなければならないのです。主は赦してくださいます。今からでも決して遅くはありません。もし、あなたが罪を持っているならユダのように頑(かたくな)にならないで、悔い改める者となりましょう。

Ⅱ.イエスの懐で(22-25)

次に、22~25節をご覧ください。22節には「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」とあります。マタイ26:22には、「弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。」とあります。彼らは大変ショックでした。まさか自分のことではないだろうと、自分さえも疑ったほどです。

23節、24節を見てください。それで、弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていたので、ペテロは彼に、だれのことを言われたのかを尋ねるように合図をしました。どういうことかというと、これは最後の晩餐でのことですが、最後の晩餐とは言っても、当時はレオナルド・ダヴィンチの絵にあるようにテーブルを囲んで皆が椅子に座って食べていたわけではありません。当時はコの字型のテーブルに左ひじを付いて、横になって食べました。テーブルを囲んで、主人は左から2番目に座りました。一番左、すなわち、主人の右側に座っていたのがヨハネです。主人の右側には、主人が最も信頼する人が座ることになっていました。それがヨハネだったのです。また、主人の左側はゲスト席となっていましたが、そこに座っていたのがイスカリオテのユダでした。そこから弟子たちが順に座り、一番左の端に座っていたのがシモン・ペテロだったのです。彼はテーブルをぐるっと回って、向かい側の一番しもべの席に座っていました。ですから、ヨハネから見ると向かい側にいたので、お互いに顔をよく見ることができたのです。そこでペテロはヨハネに、だれのことを言われたのか尋ねるようにと合図をしました。おそらく声を出さないで、目くばせか何かで合図したのでしょう。あるいは、口パクだったかもしれません。「だれのことをいわれたのか聞いて・・・」ヨハネはどこにいましたか?ヨハネはイエス様の右側にいました。右側で横になっていたので、ちょうどイエス様の胸の辺りで横になっているように見えたのです。

イエス様の右に座るというのは、イエス様に最も信頼された者であるという証です。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスが愛しておられた弟子である。」別にイエス様は彼だけを愛しておられたわけではありません。弟子たちみんなを愛しておられました。いや、弟子たちばかりでなく、私たちすべての人を愛しておられました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)

イエス様はみんなを愛しておられます。それなのに彼は、自分のことを、イエスが愛しておられた弟子であると言っているのです。このように言える人は幸いです。なぜなら、そこに真の平安を得ることができるからです。そうでしょ、もし自分がだれからも愛されていないと感じていたら不安になってしまいます。また、あの人から憎まれ、この人から嫌われていると思ったら悲しくなってしまいます。ヨハネは、自分はイエス様に深く愛されていることがわかっていました。でもそれはヨハネだけではありません。すべての人に言えることです。ただ彼はそのように実感することができました。なぜでしょうか。それは単に彼がイエスの右側に座っていたからというだけでなく、イエスの愛がどのようなものであるのかをよく知っていたからです。彼はこう言っています。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

どこに愛があるんですか。ここにあります。神がそのひとり子をこの世に遣わし、私たちの罪のために、宥めのささげ物として死んでくださったことにあるのです。神は、私たちが愛される資格があるから愛したのではありません。そうでなくても、そうでないにもかかわらず愛してくださいました。私があれができる、これができるから愛してくださったのではありません。もしそうだとしたら、それができなくなったらもう愛される資格はなくなってしまうことになります。でも、神の愛はそういうものではありません。私たちがまだ神を知らなかった時、神のみこころにではなく自分勝手に生きていた時に、聖書ではそれを罪と言いますが、そんな罪人であったにもかかわらず、神は愛してくださいました。

聖書に、放蕩息子のたとえ話があります。ある人に二人の息子がいました。弟のほうが父に、「お父さん、財産の分け前を私にください」と言いました。それで、父は財産を二つに分けてやりました。すると、それから何日もたたないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立ちました。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまいました。何もかも使い果たした後でその地方に大飢饉が起こり、彼は食べることに困り果ててしまいました。いったいどうしたらいいものか・・・。そこで彼はある人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、だれも彼に与えてはくれませんでした。

その時、はっと我に返った彼は、父のところに行ってこう言おうと決心します。「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

すると父親はどうしたと思いますか。息子が立ち上がって、父のもとに向かうと、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、走り寄って、彼を抱き、何度も口づけしました。息子が父親に、「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたに対して罪を犯しました。もうあなたの子どもと呼ばれる資格はありません。」と言うと、父親は彼に一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつを履かせました。そして肥えた子牛を引いて来てほふり、食べてお祝いしたのです。

この父親は天の神様の姿です。そして、弟息子は、私たち人間、一人一人のことです。私たちは神から愛される資格などありませんでした。むしろ、神に反逆し、自分勝手に生きていました。それにもかかわらず神はあわれんでくださり、赦してくださいました。救われるはずのない私たちを救ってくださったのです。救ってくださっただけでなく、ずっとその愛で愛してくださいます。私たちがどんなに罪を犯しても、神のもとに立ち返るなら、神は赦してくだるのです。神の愛は変わることがありません。私たちはそんな愛で愛されているのです。これが私たちキリストを信じた者たち、クリスチャンです。

ヨハネはそこに座っていました。座っていたというか、横たわっていました。それはちょうどイエス様の懐に抱かれているようでした。彼はイエス様の心臓の音を聞いたと言われていますが、まさに彼はイエス様の心臓の音が聞こえるくらい、イエスのそばにいました。彼はそのように自覚していたのです。そこに彼の安心感があったのです。

あなたはどうですか。イエス様の心臓の音を聞いていますか。イエス様のハートが届いていますか。だれも自分のことなんか愛してくれないとか、みんな自分を嫌っていると思っていませんか。そう思うと人間関係が非常に難しくなります。だれからも愛されていないと感じることがあっても、イエス様はあなたを愛しておられます。あなたもイエスの心臓の音を聞くべきです。あなたがいるべき所は、イエス様の胸元なのです。そこでイエスの愛を感じ、安心感を持っていただきたいと思うのです。

Ⅲ.暗闇から光へ(26-30)

最後に、26節から30節までをご覧ください。26節には、「イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。」とあります。イエスは、「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」と言われましたが、その後のところを見てもわかるように、それでも弟子たちには、それがだれのことを言っているのかがわかりませんでした。というのは、当時の習慣では、このように過越の食事において、パン切れを浸して渡すという行為は、主人がゲストをもてなしたり、給仕したり、親しみを示すものであったからです。ですから、だれもイエスがしていることを見て、ユダがイエスを裏切ろうとしているとは思わなかったのです。ということはどういうことかと言うと、イエスは最後の最後まで、ほかの弟子たちにはわからないように、彼の罪をみんなの前であばき出すようなことをせず、しかも本人には分かるような方法で、悔い改めを迫る愛の訴えをし続けておられたということです。イエスは最後まで彼をあわれみ、愛と恵みを示されたのです。

しかし、彼はイエスの御言葉に耳を貸そうとはしませんでした。27節をご覧ください。ここには、「ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」」とあります。すごい言葉です。「サタンがはいった」ユダは主の愛と恵みを完全に拒んで、パン切れだけを受け取りました。そのとき、サタンが彼に入ったのです。サタンは最初、彼の思いに働きかけました。2節には「夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを与えていた。」とあります。そして、この最後の晩餐において、主の最後の愛の訴えがなされましたが、ユダがそれを拒んだことで、サタンが彼に入ったのです。どういうことですか?サタンが入るということがあるんですか。あります。どんな人でも、主の愛の訴えを拒み続けるなら、自分では意識していないかもしれませんが、実はそこに巧妙なサタンの働きがあって、その働きに支配されてしまうことになるのです。

ですから、イエスは彼にこう言われたのです。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」もうこれ以上、望みはないということです。彼はイエスよりもサタンを選んでしまったからです。主が彼を見捨てられたから、彼が悪魔の道を選んだのではありません。彼が主の愛を最後まで拒んだので、その結果、見捨てられることになってしまったのです。このことは、私たちにも言えることです。主は何度も悔い改めなければ危険であること、そのままでは最後の裁きに会わなければならないということを、手を変え、品を変え、繰り返して語っておられます。ユダの場合のように直接的にではなくとも、ある時には聖書を通して、ある時にはクリスチャンの友人を通して語り掛けてくださっています。このようにして悔い改めのチャンスを与えてくだっているのです。しかし、それを永久になさるわけではありません。後ろの扉が閉ざされる時がやって来るのです。ですから、もしあなたが、その愛の訴えを頑なに拒み続けるなら、あなたは自分で悪魔を選び取ってしまうことになるのです。そして、もはや救いの望みは完全に断たれてしまうことになります。

それが30節にあることです。ここには、「ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」とあります。ほかの弟子たちは、ユダが裏切るために出て行ったとは思いませんでした。というのは、彼は会計係だったので、祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていたからです。しかし、そうではありませんでした。彼はイエスを裏切るために出て行ったのです。彼が出て行った時、外はどうなっていましたか?時は夜でした。新改訳第三版では、「すでに夜であった。」とあります。すでに夜であったとは言っても、過越の食事は夕食ですから、夜であるのは当然です。それなのに、ここにわざわざ「時は夜であった」とあるのは、それが単に時間的な状況を伝えたかったからではなく、彼の心の状態、彼の心の闇を強調したかったからなのです。イエスは最後までユダを愛し、悔い改める機会を与えておられたのに、彼は出て行きました。外はすでに夜だったのです。夜は不安です。でも、どんな不安や恐れがあっても、必ず朝がやって来ます。朝太陽が昇ると、あれほど不安だった夜が、嘘のようにすべてが消えて行きます。でも想像してみてください。朝が来ない夜というのを。太陽が昇って来ない朝を。繰る日も繰る日も真っ暗闇です。それがずっと続くとしたらどうでしょうか。恐ろしいですね。でもそれがキリストから離れた人の状態です。キリストから出て行ってしまった人の状態なのです。そこは永遠に光を見ない外の暗闇です。そこで泣いて歯ぎしりするのですと、聖書は言っています。そこで永遠を過ごさなければならないのです。

しかし、キリストを信じた人は違います。その暗闇から光の中に移されます。コロサイ1:13~14に、このように書かれてあります。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」

神は私たちを暗闇の力から解放して、愛する御子のご支配の中に、光の中に移してくださいました。どのように移してくださったのですか?「この御子にあって」です。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。イエス・キリストにあって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちをいただいたのです。

あなたはどうですか?まだ暗闇の中にいませんか。もう生きる望みもない。何を頼っていいのかわからない。今まで望みだと思っていたものが消えてしまった。いったいこれから何を頼って生きていけばいいのか。この世が作り出す望みはそんなものです。得たと思ったらすぐに消えてしまいます。しかし、神は私たちに生ける望みを与えてくださいました。神はそのひとり子をこの世に遣わし、あなたの罪の身代わりとして、そして私の罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。この方がイエス・キリストです。キリストは、死の恐怖に打ちひしがれていた人たちを解放し、罪の奴隷として、これはやってはいけないとわかっていてもついつい行い、みじめになっている私たちをそこから救ってくださいます。自分ではどうすることもできない悪の支配にあって、そこから解放してくださいます。この方にあって私たちは、罪の赦し、永遠のいのちを受けることができるのです。暗闇から光へと移されるのです。

ただ移されるというだけではありません。ずっとその光の中を歩むことができます。イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。」(13:10)と言われました。水浴した者は、風呂に入ったら、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。足だけ洗ってもらえばいいのです。これは毎日です。私たちの足は汚れます。だから、毎日洗ってもらう必要があります。罪があると祈ることができなくなります。しかし、水浴した者は、足以外は洗う必要はありません。全身がきよいからです。もう光の中へ移されたからです。罪を思い出させる涙の夜は去り、笑みと感謝の朝を生きることができるのです。

きょうは、この後で美香さんとあかねさんのバプテスマ式が行われますが、それは、主イエス・キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しを得ていることを表しています。暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移されました。もう闇の中ではなく、光の中を歩むのです。

それは私たちも同じです。私たちも、キリストにあって贖い、すなわち、罪の赦しをいただきました。もはや闇があなたを支配することはありません。私たちは光の中を歩むのです。どんなことがあっても、主はあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたはイエス様に愛された者、イエス様の懐に抱かれた者なのです。後は、足だけ洗えばいい。日々汚れた足を洗ってもらい、聖霊によって日々きよめられながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきましょう。