イエスを否定したペテロ ヨハネ18章12~27節

2020年8月16日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ18章12~27節(P222)

タイトル:「イエスを否定したペテロ」

 

 きょうは、ヨハネ18:12~27から「イエスを否定したペテロ」というタイトルでお話しします。ゲッセマネの園でイエスは、イスカリオテのユダの裏切りにより一隊のローマ兵士と祭司長たちによって送られた下役によって捕えられました。しかし、イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われました。ここで著者のヨハネが示そうとしていたのは、自ら進んで十字架に向かおうとしおられた主イエスの姿です。それとは裏腹に、このゲッセマネの園は人間の弱さも示していました。ペテロはイエスを捕らえるためにやって来た人たちの一人、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としてしまいました。なぜそんなことをしたのでしょうか。そんなことをすれば捕らえられてしまうことになります。剣は真の解決をもたらしません。それでイエスは、ペテロに「剣をさやに収めなさい」と言ってこのしもべの耳を癒されました。イエスの最後の奇跡は、何とペテロの失敗をカバーするものでした。誘惑や試練に会うとき、私たちは愚かな判断、行動をしてしまうものなのです。

 

きょうの箇所にも、ペテロの失敗、弱さが記されてあります。彼はイエス様のためなら、いのちも捨てますと言いましたが、その数時間後には、「私はあの人の弟子ではない」と言ってイエスを否定するのです。三度も。きょうは、このペテロの弱さと、それとは対照的に、どんな場合でも堂々と真実を告白されるイエス様の姿からご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.ペテロの弱さ (12-18)

 

まず12節から14節までをご覧ください。

「一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」

 

 一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえると、まずアンナスのところに連れて行きました。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからです。彼自身も、以前大祭司を務めていたこともあり今はもう引退していましたが、娘の婿となったカヤパが大祭司になっていたこともあり、まだ相当の影響力をもっていました。いわば陰の実力者だったのです。それで、彼らはまずアンナスのところに連れて行き、そこで不当な裁判が持たれました。その後、現大祭司のカヤパのもとに連れて行かれますが、ヨハネはここでそのカヤパを紹介するにあたり、彼が以前ユダヤ人に助言した言葉をもう一度引用しています。14節です。それは「一人の人が民に代わって死ぬ方が得策である」という言葉です。これはカヤパが自分たちの利益のみを考えて語った言葉でしたが、はからずもそれがイエス・キリストの身代わりの贖いを予告していたものであったことから、この福音書を書いたヨハネは再びそれを引用することによって、イエスの身代わりの死がいよいよ始まろうとしていることを、示そうとしたのです。

 

 15~18節までをご覧ください。

「シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、「ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。」

 

シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行きました。「もう一人の弟子」とは、この福音書を書いているヨハネのことです。イエスが捕らえられると、他の弟子たちはイエスを見捨てて一目散に逃げて行きましたが、ペテロとヨハネはイエスについて行きました。ヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入りましたが、ペテロはそうでなかったので、門の外で遠くから中の様子を眺めていました。この大祭司とはアンナスのことです。先ほども申し上げたように、現役の大祭司はカヤパですが、ここにある大祭司とはアンナスのことを指しています。アンナスも大祭司とみなされていたのです。

そのアンナスとヨハネがどうして知り合いだったのかきよくわかっていません。これについては大きく二つの説があります。一つは、ヨハネの父ゼベダイはガリラヤ湖で魚を捕っていた漁師でしたが、そこでとれた魚を大祭司の家まで届けていたことで、知り合いになったのではないかという説です。しかし、いくら魚を届けていたとしても、漁師と大祭司とでは身分が違いすぎます。それに、ヨハネの父親が漁をしていたのはガリラヤ湖ですから、大祭司アンナスが住んでいたエルサレムまで届けるにはあまりにも遠すぎます。

もう一つの説は、ヨハネの母はサロメですが(マタイ27:56)、サロメはイエスの母マリヤの親戚でした。そしてマリヤの親戚には、バプテスマのヨハネの母エリサベツがいました。エリサベツの夫はだれですか。そうです、祭司ザカリヤです。それでヨハネは大祭司とも知り合いだったのではないかというのです。この説の方が有力ではないかと思いますが、いずれにせよ、ヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ることができました。

 

しかし、ペテロはどうでしたか。16節、ペテロは、門のところで立っていました。でもこれはただ立っていたというよりも、どこかペテロの心の状態を表しているかのようです。彼は以前、「あなたのためならいのちも捨てます」と言いましたが、今は臆病になって中に入って行くことができませんでした。門の外に立ってその様子を遠くから眺めていたのです。それで、ヨハネが門番の女に話をして、彼を中に入れてもらうようにしました。

 

すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、いきなりこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」ドキッ!不意打ちを食らったかのような突然の質問に、ペテロは驚きを隠すことができませんでした。それで冷静にふるまいながら、「違う」と言いました。彼女としてはあまり見た顔ではなかったので、ただ軽く聞いた程度だったのでしょうが、ペテロとしては息がとまるのではないかと思うくらい焦ったのではないかと思います。辺りは薄暗かったので互いの顔がはっきり見えない状態だったので、とっさに「違う」と答えたのです。彼はイエス様に「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言った人ですよ。また、ゲッセマネの園では、ローマ兵とユダヤの神殿警備隊がイエスを捕らえるためにやって来た時、剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落とした人です。そのペテロが、門番をしていた召使いの女が放ったたった一つのことばに、シュ~ンとなっていました。びくびくしていたのです。なぜでしょうか。それは、彼も捕らえられてしまうのではないかと恐れていたからです。彼は、「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言いましたが、それは人間的な強がりや意志にすぎなかったのです。いざとなると、自分を守ることしか考えられませんでした。それはペテロだけではありません。私たちも同じです。私たちも、主の支えがなければ何も出来ない弱い者であるということがわかっていないと、この時のペテロのようになってしまいます。自分では信仰があると思っていても、それは信仰とは全く異質の人間的な強がりや意志にすぎない場合があるのです。

 

それは、18節のペテロの態度にも表れていました。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こして立って暖まっていましたが、ペテロも彼らと一緒にいて、立って暖まっていました。これは過越の祭りの期間でした。過越の祭りは3月末から4月中旬までの間に行われますから、まだ肌寒いわけです。しかも真夜中であれば相当寒かったでしょう。それでしもべたちや下役たちが炭火を起こして暖まっていたのですが、ペテロもちゃっかりとそこにいて暖まっていました。彼自身は気付いていなかったでしょうが、これは大変危険なことでした。敵の火で暖まっていたのですから。これは、外の気温だでなく彼の心も冷えていたということです。ペテロの心も寒かった。それで彼は、敵の火で暖めてもらっていたのです。私たちにもこういうことがありますね。イエス様は何と言われましたか。イエス様はいつもの場所、ゲッセマネの園に来られると、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)と言われました。イエス様は十字架を前に、悲しみのあまり死ぬほどでした。ですから、苦しみもだえながら、いよいよ切に祈られたのです。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどでした。ところが、弟子たちは何をしていましたか。彼らは眠りこけていました。「どうして眠っているのですか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」(ルカ22:46)と言われても、彼らはまた眠りこけてしまいました。同じことが三度繰り返されました。確かに彼らは疲れていましたが、ただ疲れていたのではありません。霊的に眠った状態だったのです。祈るべき時に祈らないと危険です。私たちは本当に弱い者であり、どんなに信仰があると言っても、祈らないで行動すると簡単に失敗し躓いてしまうことになります。敵の火で暖まってしまうような結果になってしまうのです。それはただ気温が寒かったからということではなく、ペテロの心が寒かったから、ペテロの信仰が寒かったからです。ペテロの失敗の本当の原因はここにありました。私たちも誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなければなりません。

 

Ⅱ.イエスの強さ(19-24)

 

次に、19節から24節までをご覧ください。

「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。」

 

場面がペテロのシーンからイエスの裁判に移っています。場所は同じ大祭司の中庭ですが、映画のシーンのように、ペテロとイエスのシーンを交互に映し出しています。ここでも、大祭司とは、元大祭司のアンナスのことです。これは実際の裁判ではなく、実際の裁判が行われ前の予備尋問のようなものです。最初からイエスを有罪と決めつけての尋問ですから、訴訟手続きそのものが間違っています。彼はどんなことを尋問しましたか。彼は弟子たちについて、また、その教えについてイエスに尋問しました。弟子たちについて尋問したのは、ローマ帝国に対する反逆罪で弟子たち全員を総督ピラトに告発するためでした。イエスの教えてについて尋問したのは、その異端性を暴き、冒涜罪に当たることを立証するためでした。

 

それに対してイエス様は何と答えましたか。20-21節にこうあります。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」(20-21)

イエス様は弟子たちに関しては沈黙されましたが、その教えに関しては、それは公然となされたのだから、それを聞いた人たちに尋ねればわかるはずだと反論されました。問題があるなら、その人たちに聞くべきだというのです。というのは、律法の中には、裁判において証言するのは本人ではなく、二人か三人の証言者によるという規定があるからです。ですからイエス様は、質問をする大祭司に向かって、「なぜ、わたしに尋ねるのですか」と言われたのです。

 

すると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打ちました。最初に神の子に手を出したのは、正義を行うはずの下役たち、ユダヤ教の神殿警察の者でした。恐れ多くも神の子イエスを平手で打ったのです。しかし、この下役の言葉と行動には注目すべきものがあります。というのは、彼は「大祭司にそのような答え方をするのか」と言っているからです。下役は自分が平手で打った方がどういうお方であるかを知りませんでした。「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って彼が平手で打ったお方こそ、実は真の大祭司だったのです。イエス・キリストは永遠の大祭司であり、神様と人をとりなすお方です。このとりなしの働きを示すために、人間の大祭司が一時的に立てられたわけですが、その人間の大祭司の権威を認め、その権威を尊重することはとても大切なことです。ですから、この下役が取った態度は間違いではありませんでした。彼の過ちは、自分の目の前にいるお方が真の大祭司であったということを知らなかったことです。もしもこの役人の霊的な目が開かれていて、自分の目の前にいるお方が聖なるお方、全能の神、メシアであることを知っていたなら、彼の行動は全く違ったものになっていたことでしょう。彼は即座にキリストの足元にひれ伏して礼拝したに違いありません。

 

すると、イエスは彼に答えて言われました。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」

イエス様は、たとえ彼がご自分のことを知らなかったとは言え、悪に対しては毅然とした態度で立ち向かいました。相手が受け入れないということがわかっていても、正しいことを語られたのです。もしかすると、また平手で打たれるかもしれません。いや、今度はグーパンチを浴びせられるかもしれません。しかし、イエス様は動じることはありませんでした。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」と、堂々と応じたのです。イエス様こそまことの神、王の王、主の主なのです。

 

ある国の皇太子が、クルージングを楽しんでいました。やがて霧が出て来て前方を遮りました。すると灯りが見えます。このままでは衝突してしまいます。相手にメッセージを送りました。

「そちらの進路を変更されたし!」

すると相手から返事が返って来ました。

「そちらこそ進路を変えてください」

皇太子は頭に来て、改めてメッセージを送りました。

「そっちが変更しろ!こっちは皇太子である」

すると再び相手から返事がありました。

「進路を変えるのはそちらです。こちらは灯台です」

もし、あなたが皇太子ならどうしますか?

 

まさにイエス様は世の光です。灯台なるお方です。進路を変えなければからないのは、私たちの側なのです。この方こそ真の大祭司、聖なる方、全能の神、メシアであられるのです。それなら、どうしてこの方を打つのでしょうか。私たちはこの方が正しい方、神の子、救い主であると認め、この方の前にひれ伏さなければなりません。彼らはイエス様に返すことばがありませんでした。それでアンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送ったのです。

 

Ⅲ.鶏の鳴き声を聞いたペテロ(25-27)

 

最後に、25-27節をご覧ください。

「さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。」

 

場面は、再び大祭司の中庭にいたシモン・ペテロに戻ります。そこはイエス様が顔につばきをかけられ、殴りつけられていたところですが、一方ペテロはどうしていたかというと、彼はまだ敵の火に暖まっていました。イエス様が苦しめられている間、ずっと彼は人で暖まっていたのです。すると人々が彼にこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないだろうね。」マタイの福音書を見ると、彼らがそのようにペテロに言ったのは、彼のことばになまりがあったからでした。彼らは「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」(26:73)と言いました。これはきついですね。ことばのなまりはそう簡単には直せません。私に関西弁を話せと言われても無理です。標準語だって難しいんですから。その人の言葉を聞くと、その人がどこで生まれ育ったかがすぐにわかります。私の両親は福島県の霊山という山奥で生まれた人なので、二人ともかなりのズーズー弁です。「フクシマ」も、私が育った福島では「フクシマ」とは言わず、「フグシマ」と言います。なまりが抜けないのです。それで私もズーズー弁が抜けなくて、言葉には相当のコンプレックスがあるのです。私がこんなに内向的なのはそのせいです。ペテロはガリラヤ出身でしたから、そのことばのなまりでわかりました。するとペテロは否定して、「弟子ではない」と言いました。二回目です。今回は以前よりも否定する度合いが強くなっています。一回目は、「違う」だけでしたが、今回は「弟子ではない」とはっきりと否定しました。三回目はどうでしょう。

 

26節をご覧ください。今度は大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言いました。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人は誰ですか?そうです、マルコスです。そのマルコスの親戚が、「見たんです。あなたが園でマルコスの耳を切り落としたのをこの目で見たのです。」と言ったものですから、もう言い逃れは出来ません。被害者の感情には相当なものがありますから、それには実感が込められていたことでしょう。するとペテロは何と答えましたか。27節、「ペテロは再び否定した。」。もう一度否定しました。マタイの福音書を見ると、ただ否定したのではなく、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。」(26:74)とあります。言わなくてもいいようなことを言っちゃいました。大抵の人は嘘の上に嘘を塗ろうとすると、このような結果になります。「のろわれてもよい」とは、絶対に嘘じゃないということです。神にかけて誓うと言う人がいますが、そういうことです。神にかけて言うけど、嘘じゃない。嘘でも嘘じゃないと言って否定したわけです。完全に否定しました。イエス様を三度も否定しました。すると何がありましたか。27節、「コケコッコー」、「すると、すぐに鶏が鳴いた。」

 

イエス様はこのことを知っていました。ですから、最後の晩餐の時に、ペテロが「あなたのためなら、いのちも捨てます。」と言ったとき、こう言われたのです。

「わたしのために命を捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:38)

その御言葉の通りになりました。ペテロは鶏が鳴いた時、この言葉を思い出しました。ルカの福音書を見ると、この時イエス様が振り向いてペテロを見つめられたとあります(ルカ22:61)。目と目が合ったのです。そして彼は、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」とイエス様が言われたことばを思い出して、外に出て、激しく泣きました(ルカ22:62)。

 

ペテロは、以前は自分自身にとても自信のある男でした。行動的なタイプの人です。イエス様を愛して、本当にいのちをかけて最後まで従おうと思っていました。他の弟子たちが躓いても、自分だけは絶対にそんなことはないと思っていました。いわゆる体育会系の人です。そのように思っていた彼が今、そうでないということに気付かされ、完全に打ちのめされてしまったのです。完全に砕かれました。イエス様は、そのことをちゃんと知っておられました。人間の強さというものが、どれほど弱く、脆いものであるかということを。ですから、ペテロのためにとりなしの祈りをされたのです。ルカ22:31-32です。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロは失敗しましたが、彼の信仰は無くなりませんでした。なぜでしょうか。イエス様が彼のために祈られたからです。彼はのろいまでかけて誓いイエス様を否定しましたが、それでも信仰が無くなりませんでした。なぜですか。それはイエス様が彼のために祈られたからです。そして復活してから後40日間、彼らの前にご自身を現わされると、ペテロに三度尋ねられました。

「あなたはわたしを愛しますか」

これは、ペテロが三度主を否定したことを赦し、公に彼の信仰を回復させるためでした。ペテロが「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と告白すると、主は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そして、初代教会の指導者として立ててくださったのです。ペテロの信仰は完全ではありませんでしたが、主が彼のために祈り、赦し、癒し、励まし、立ち上がらせてくださったので彼は神の器として用いられ、神の御言葉を通して多くの人々を救いに導き励ますことができたのです。

 

それは私たちも同じです。もしかすると、あなたは自分にはできないことはない、自分には何でもできると思っているかもしれません。自分にはそれだけの意志と力があると。しかし、自分自身に自信がある時には神の働きをすることはできません。表面的にはできるかもしれませんが、しかし、それで神の働きをすることはできないのです。神の働きは、自分が簡単に失敗し、躓いてしまうような弱い者であることをとことん知り、神の前に砕かれ、自分の人生を主イエス様に明け渡した時に始まるのです。

 

ベトナムのダナンにあるカトリック教会、ダナン大聖堂は、ダナンの街でひときわ存在感を発揮するピンク色の教会です。屋根の上に鶏の像があることから「鶏教会」とも呼ばれています。なぜ屋根の上に鶏があるのかとある外がその教会の神父に尋ねると、その教会の神父はこう答えました。

「ペテロは残りの生涯の間、鶏の声を聞くたびにあの時のこと(イエス様を三度裏切ったこと)を思い出して泣いて悔い改めました。それ以来、教会に鶏の像をつけるようになったのです。」

私はそれを聞いて笑ってしまいました。そんな考えがどこから来るのでしょうか。聖書は何と言っていますか。ペテロはイエス様の御力を味わってから、完全な赦しを得て新しくされ、もう二度とその罪を思い起こすことはなかったのです。それなのにイエス様が赦してくださった罪を、鶏が鳴いたからと言ってまた思い出して泣くなどということはあり得ません。また人は神様のみことばを聞いて悔い改めるのであって、鶏の声を聞いて悔い改めるわけではないのです。

 

ペテロは、鶏の鳴き声を聞いて、イエス様が言われたことを思い出して激しく泣きました。彼は自分の弱さ、自分の足りなさに打ちのめされ完全に砕かれたのです。しかし、自分の罪を悔改めた彼は完全な赦しを得て新しくされ、自分の力ではなく、神の力、イエス・キリストの力に完全により頼んだので、神に大きく用いられたのです。

 

私たちもペテロと同じように弱い者です。多くの失敗をします。でも、安心してください。イエス様があなたのために祈っていてくださいます。あなたの信仰が無くならないようにと祈っていてくださるのです。イエス様はすでにあなたを赦してくださいました。ですから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるべきです。まずはあなたが自分の弱さを知り、そんな者でさえも愛されていることを深く知って、イエス様にあなたの人生のすべてを明け渡すことです。あなたが神の前に砕かれるとき、神の恵みと神の力があなたに注がれるからです。

 

サムソンといえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。長髪を思い浮かべる人、腕力の強さを思い浮かべる人など、さまざまでしょう。「サムソナイト」というメーカーのスーツケースがありますが、これは丈夫で強いサムソンにちなんで名づけられたものです。彼は長所を生かせず失敗したヒーローです。彼は、神様の偉大なみわざを行うために用意された器でした。ところが、彼は大きな勝利の後に、女性を追いかけては失敗します。そして、最後は自分の力の秘密であった髪の毛を剃り落とされると、ペリシテ人に捕らえられ、両目をえぐり取られ、青銅の足かせをかけられて牢につながれてしまいました。しかし、牢の中で悔い改めた彼は再び神の力を受け、一度に三千人のペリシテ人を打ち殺すことができました。それは、彼が生きている間に殺した数よりも多かったと聖書にあります。確かに彼は失敗の多い人生でした。しかし、最後は神の御力を受けて神の器として働くことができたのです。

 

あなたもサムソンのように失敗することがあるかもしれません。ペテロのようにイエスを否定することがあるかもしれない。しかし、あなたが悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦してくださいます。そして、あなたを立ち直らせてくださいます。主があなたのために祈られたからです。その時あなたは兄弟たちを力づけてやらなければなりません。それはあなたの力によってではなく、主の恵み、主の御力によってです。主はあなたの信仰がなくならないように祈られました。主の恵みに感謝しましょう。そしてこの恵みによって立ち直り、主の御力によって主に仕えさせていただきましょう。

上に立つ権威に従いなさい ローマ人への手紙13章1~7節

2020年8月9日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙13章1~7節

タイトル:「上に立つ権威に従いなさい」

 

 きょうは「上に立つ権威に従いなさい」というタイトルでお話したいと思います。私たちが救われたのは私たちが何かをしたからではなく、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じたからです。そして、その信仰さえも、一方的な神の恵みによるものです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)そのように、神の一方的な恵みによって救われた私たちは、この世にあってどのように生きるべきでしょうか。

 

パウロは、このローマ人への手紙12章からそのことについて実際的な面から語ります。その土台は、全き献身です。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(12:1)そして、次に、その基本的な生き方として「愛」について語りました。きょうのところでパウロは、それに続いてクリスチャンのこの世における生き方の基本的な原則を取り上げています。それは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。

 

きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。第二のことは、自分の良心のためにも従うべきです。神によって立てられた権威に従うということは神に従うことですから、そうすることによって、良心に自由と平安を受けることができるからです。第三のことは、それはすべての人に対して言えることです。すべての人に対して義務を果たさなければなりません。

 

 Ⅰ.上に立つ権威に従いなさい(1-2)

 

 まず第一に、人はみな、上に立つ権威に従うべきであるということです。1-2節をご覧ください。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」

 

 ここでパウロは、人はみな、上に立つ権威に従うべきであると言っています。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。どういう意味ですか?これは、私たちがこの地上において生きるとき、それがどのような手段によって成り立ったものであれ、その権威に従わなければならないということです。なぜなら、そうした権威でさえ神の許しによって立てられたものであるからです。したがって、その権威に逆らうということがあるとしたら、それはそうした権威に対して逆らっているのではなく、神に対して逆らっているということになるのです。であれば、そのさばきを自分自身の身に招くことになるのは当然のことです。もちろん、どんな政府であれ、どんな組織であれ、この地上にあるかぎり、完全であるということありません。必ずどこかに欠陥があるものです。しかし、その欠陥の程度がどうであれ、それは神によって存在しているのであって、神の許しなしにはあり得なかったものなのです。ですから、この地上の権威に従うということは神様に従うことなのです。ですから、この地上の権威に従うなら平和が与えられ、そうでなかったら混乱や争いが生じることになります。なぜなら、私たちの神様は、混乱の神ではなく秩序の神だからです。

 

 それは、聖書が一貫して述べていることです。たとえば、Ⅰペテロ2:13-19にはこうあります。

「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。」(Ⅰペテロ2:13-19)

 

  ここには、「善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」とあります。なぜでしょうか?善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。たとえ、不当な苦しみを受けることがあっても、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることなのです。もちろん、キリスト者は誤りを認めたり、違法行為を黙認したり、自己保全から妥協することはありません。もし、何か異なることがあれば、たとえ相手が時の政府であっても訴える必要があります。けれども、どのように訴えるかということです。デモに参加するのが当然であるかのように考えている人もいます。また、教会はこの世の権力(国家)と戦うことが聖書の意図していることであるかのように捉えている指導者もいます。しかし、聖書が教えていることはそうではなく、人の立てたすべての制度に、主のゆえに従うということです。それが善良で優しい主人であるからというだけでなく、たとえ横暴な主人であっても従いなさいということです。私たちはそのためにこの世に遣わされているのです。そのことを通して主を証し、神の救いのご計画が実現していくためです。ですから、もし政府やその他上に立てられた権威が違法なことをする場合は、そのことを丁寧に発信し、進言し、また提言しますが、敵に立ち向かうように暴力で対抗したりはしないのです。これが聖書の基本原則です。

 

 イスラエルの民がエジプトを出て荒野に導かれた時、レビ族の中のケハテという氏族の子でコラという人がいましたが、彼はモーセとアロンがイスラエルの民の上に立って指導しているのに腹を立て、彼に逆らってこう言いました。

「あなたがたは分を越えている。自分たちはみな残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは主の集会の上に立つのか。」(民数記16:3)

すると神様は激しく怒られ、彼らが立っていた地面が割れ、彼らとその家族、また彼らに属するすべてのものを呑みこんでしまいました。指導者モーセに逆らった罪のゆえです。神様はお立てになった権威に逆らう者に、同じような裁きを下されます。なぜ?存在している権威はすべて、神によって立てられたものだからです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招くのです。

 

 今、大田原教会の祈祷会ではⅠサムエルから学んでいますが、先週は24章から学びました。そこには、ダビデを殺すたちに追って来たサウルが、ダビデが隠れていた洞穴に用を足すために入ったとき、ダビデのしもべたちが、「今日こそ、主があなた様に、「見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ」と言われたその日です。」と言いましたが、ダビデはサウルに撃ちかかるようなことをせず、後ろからそっと近づくと、サウルの上着の裾を、こっそりと切り取りました。なぜか。主に油注がれた方に手を下して、主に罪を犯すことなどできないと考えたからです。サウルがどんなに神のみこころからズレているような王であっても、主に油を注がれた器である以上、それは神が立てた権威だと認めていたのです。ですから、主君サウロを殺す機会があっても彼は決して自分から手をかけるようなことをしませんでした。すべてのさばきを神にゆだね、神が裁いてくださることをじっと待ったのです。ですから彼は神に祝福されたのです。ダビデは、神が立てた権威にいつも従ったのです。

 

 最近、ある著名な社会学者が「現代人が経験する混乱は、父親不在の社会になったために生まれたものである」と言いました。「父親不在の社会」とはどのような社会なのでしょうか?昔は家庭で父親が一言言えば、家の中の秩序が整いました。父親の言葉には威厳があったのです。父親が、「こら」と叱れば、「悪いことをしてはいけない」という思いが植え付けられました。けれども今は、この権威が失墜してしまいました。なぜ?妻が夫を軽んじているからです。父親が「こら」と言うと、脇で妻が「あんた何よ。いいじゃない」なんと言うので、子供たちも本気で父親の言うことを聞かなくなってしまったというのです。社会学者たちは、こうした混乱は19世紀に自由主義が広がったために起こったと言っています。自由主義とは、既存の宗教的、社会的権威を一切排除して、理性と文化が人間を進歩させるという考えです。つまり、人間中心主義です。しかし、果たしてそうした人間の理性が社会を進歩させたでしょうか。権威を軽んじた結果、社会が進歩したどころか崩壊していくことにつながっていったのです。

 

 聖書はキリスト者に、神が与えられたすべての権威に従うようにと教えています。この権威を回復しなければなりません。例えば家庭における一夫一婦制も、親子の関係も、神の創造の時から定められていた神の秩序です。神さまは人類をアダムとエバに創造されました。即ち、一人の男性と一人の女性を創造してくださったのです。そして、その二人は一心同体の夫婦となり、その夫婦によって子どもたちを与えてくださいました。親子の関係は最初からそのように神が定められたものなのです。家庭に権威を与えたのは神さまですから、子どもたちが自分の父と母に従うとき、それは神に従うことになるのです。また、子どもたちが親に逆らうとき、それは神に対して逆らうことになります。それは神が定めた秩序なので、子どもは親に従わなければならないのです。

 

 もちろん、そのためには父と母は子どもたちに対して不公平な裁きをしたり、虐待したり、悪いことをするなら、神の代表としての立場を汚し、子どもに対して罪を犯すことになるというのは言うまでもありません。そして、子どもはそのような親を見るとき、神に対して誤解したり、疑ったり、逆らう者になるでしょう。父と母が正しくその権威を用いないと、逆に子どもを神に逆らわせるようにしてしまうことになります。親が悪い支配をするとき、子どもたちを悪に導くことになるのです。エペソ人への手紙6章4節でパウロは、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペソ6:4)と命じています。その意味は、「悪い支配をするなら、支配の権威に立つ者は支配される者に悪い影響を与えることになる」ということにもなるのです。

 

 これは教会においても同じことです。教会の牧師、長老、役員といった組織は神が与えたものですから、教会は主のゆえに従うことが求められます。それは、へブル13:7に「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることがないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」とあることからもわかります。同様のことは、Ⅰペテロ5:5やへブル13:7にもあります。教会の牧師、役員、指導者も失敗することがあるでしょう。どうしたら良いかわからなくて悩むこともあります。あるいは間違った判断をしてしまうこともあります。しかしそれでも従うのは、それが神によって立てられた権威であり、神が定められた秩序だからなのです。

 

 それは、私たちが国家に従うのも同じです。私たちが国に従うのは国が間違いのないことをしているからではありません。なぜ、こんな政策をするのかと首をかしげることも少なくありません。このコロナの対策においても、どうしてこんな対策をするのだろうと思うことも多くありました。しかし、それでも国家に従うのは、それが、神が立ててくださった神の権威だからです。神が政府という組織を作られ、政府で働く人たちを備えてくださったからなのです。政治家たちや官僚たちはみな、神に仕えるしもべたちなのです。そういう認識をもっていつも仕えてもらえたら本当は一番いいのですが、政府においてはそういう人は皆無に等しいのでなかなか期待することはできません。それでも私たちが従うのは、政府もまた神によって与えられた神の秩序だからなのです。パウロは、こうした人たちのために祈るようにと勧めているのはそのためです。

 

「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(Iテモテ2:1-2)

 

 それは、この社会のすべての関係においても言えることです。大学生たちはよく自分の担当教授の悪口を言ったりしますが、クリスチャンの学生はそうした真似をしないで、逆に、先生を心から尊敬し、その権威を重んじなければなりません。社会人であれば、上司の悪口を言ったり、安易に逆らったりするのではなく、かえって上司のために祈り、よく聞き従わなければなりません。それが神のみこころであり、神が立てた秩序なのです。それは私たちが敬虔に、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため、つまり、私たちの祝福のためでもあるのです。

 

 Ⅱ.良心のためにも従いなさい(3-5)

 

 なぜ上に立つ権威に従わなければならないのでしょうか。ここにもう一つの理由が書かれてあります。それは、自分の良心のためでもあります。3-5節をご覧ください。

「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」

 

 「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。」良いことをして怒られるというようなことはめったにありません。もっとも、いくつかの例外はあったとしても、一般的には良いことをするとき、人はほめられるのです。

 

先月、アメリカワシントン州で酒に酔った男が交通事故を起こしたとき、非番だったエリオットさんは社内にいた人の無事を確認すると、事故を起こした男が現場から立ち去ろうとしているのに気付き、身柄を拘束しようすると、男はエリオットさんに襲い掛かり、彼女の首をヘッドロックしました。エリオットさんが窒息しそうになったとき、「その人から手を放せ」と勇敢にその男に次々と飛びかかったのは5人の少年たちでした。それでエリオットさんはヘッドロックから逃れることができ、少年たちが地面に押さえつけた男に手錠をかけて逮捕したのです。この5人の少年たちがいなかったら、エリオットさんは殺されていたかもしれません。エリオットさんは感謝してもしきれません、と言いました。そして、子の5人の少年たちには、Community Heroism Award(地域社会英雄賞)が送られました。良いことをすればクリスチャンであってもなくてもほめられるのです。逆に、悪いことをしたらだれであっても罰を受けます。この世の支配者は、あなたに益を与えるための、神のしもべだからです。彼らは神のしもべであって、良い行いをすればほめられ、悪を行えば、悪の報いを受けるのです。

 

ここには「神のしもべ」ということばが2回も使われています。つまり、パウロは上に立つ権威というのはすべて神から与えられたものであって、その権威に従うということは神ご自身に従うことであり、神を恐れることであると受け止めていたのです。その権威に従わないということは神に従わないことでもあり、クリスチャンとしてふさわしい態度ではあるとは言えません。これは神が与えたものなので、神に信頼して、神を恐れて、神に対する感謝をもって、神が立てた権威者に従うということこそ、キリスト者にとってふさわしい態度です。そうでなかったら、良心に責めを感じるようになるでしょう。罪責感を抱くようになってしまいます。私たちはいつも、神の御前に、責められることのない良心をもって歩むべきです。そのためにも私たちは、神様が立ててくださった権威に従わなければならないのです。

 

 それにしても、パウロの信仰は見上げたものです。彼は、国家やその他の支配者もすべて神の御手の中にあると信じていました。つまり、摂理の神への信仰をもっていたのです。もちろん、それは冒涜的な権威に対して無批判であったということではありません。時としてはダニエル書に出てくるあの三人の少年シャデラク・メシャク・アベデネゴのように、いのちをかけて王の命令を拒絶しなければならないという局面もあるでしょう。しかし、そうした中にあっても、すべてのことが神の御手の中にあって、立てられた権威はすべて神によるものだと受け止めて従おうとしたのです。

 

私たちキリスト者は、往々にしてこの社会を悪とみなし社会の権威に対して敵対していこうという思いを抱きがちですが、このような摂理の信仰のゆえに、立てられた権威に従っていこうという姿勢は重要なのです。コロサイ人への手紙の中には、こうあります。

「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:22-23)

何事につけ、主に対してするように心を尽くすのがクリスチャンです。人が見ていれば熱心にやっているふりはするけれど人が見ていなければ手を抜くぞというのは、要領のいい人であるかもしれませんが、神のしもべとしてふさわしい姿であるとは言えません。神のしもべとは、だれが見ていてもいなくても、主に従うように、地上の主人に心から仕える人なのです。

 

 Ⅲ.義務を果たしなさい(6-7)

 

 第三のことは、だれにでも義務をはたさなければならないということです。7-8節をご覧ください。

「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

 

ここには「みつぎ」と「税」ということばが出てきますが、当時の世界では、それぞれ違った税を表していましたが、今日ではその両者を含めて税金全般のことだと言っていいでしょう。すなわち、ここでは納税の義務について教えられているのです。納税について聖書は何と教えているでしょうか?みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納めなさいと命じています。 

 

 当時のユダヤ人は、このように異教徒に対して税や貢を納めるということは、神以外のものに仕えることになるのではないかということで毛嫌いしていました。ですから、税を取り立てる人、取税人は、罪人のかしらのように思われていたのです。しかし、それがローマ帝国であっても、異教徒であったとしても、それは納めなければならないものなのです。なぜですか?義務だからです。「義務」というのは負債のことです。8節には、愛以外には何の借りがあってはならないと教えられていますが、すべての義務というのは、借金を返すように果たしていかなければならないものだというのです。貢や税を納めることはその義務です。それは恐れなければならない者を恐れ、敬うべき者を敬うことなのです。それは形に表された権威者への服従でもあるということです。

 

 このことについてイエス様は何と言われたでしょうか?マタイ17:24-27を開いてみましょう。

「また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」彼は、「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか。それともほかの人たちからですか。」ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

 

 このところでイエス様は、この世の王たちは自分の子どもたちからではなく、ほかの人たちから税を取り立てるので、子どもたちにはその義務はないが、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚の口から1枚のスタテル硬貨を取って税金として納めるようにと言われました。

 

 それは私たちクリスチャンにも言えることです。確かに私たちはイエス様を信じたことで神の国に属するものになりましたが、それはこの世の義務や責任をないがしろにしてもいいということではありません。だれにでも義務を果たさなければならないのです。正直に生きることが求められているのです。

 

 これは日本のキリスト者にとっては大きなチャレンジです。というのは、アメリカでも、韓国でも、もし教会に献金をすればその分は控除の対象になりますが、日本ではそのようにはならないからです。税金として国に納めるくらいなら少しでも神様にささげたいと思ってささげても、それは控除になりません。ということはどういうことかというと、献金にプラス税金も支払わなければならないということです。でも、聖書が私たちに教えていることはどういうことかというと、この世の義務や責任をしっかりと果たしなさいということです。それがこの世におけるクリスチャンが取るべき態度なのです。それこそ神に服従している証であり、神が私たちに望んでおられる生き方なのです。私たちがそのように神に従って生きるなら、神はその信仰に報いてくださるでしょう。むしろ、クリスチャンがたくさん税金を収めることができるというのは、それだけ神様がたくさんのものを与えてくださっているということですから、むしろそのことを感謝すべきではないでしょうか。

 

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられた神の秩序だからです。天の御国を仰ぎ見ながら、この地上に生きる者として与えられた責任を十分に果たしていく者でありたいと思います。それは私たちが平安で静かな一生を過ごすため、私たちの祝福のためでもあるのです。これが、聖書が教えているこの世に生きるキリスト者の基本原則なのです。

わたしがそれだ ヨハネ18章1~11節

2020年8月2日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ18章1~11節(P221)

タイトル:「わたしがそれだ」

 

 きょうから、ヨハネの福音書18章に入ります。主は、この地上に残していく弟子たちに最後の長い説教をされ、祈りをもって締めくくられると、いよいよ十字架に向かって進んで行かれます。1節に、「これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、ギデロンの谷の向こうに出て行かれた。」とあるのは、そのことです。そこでイエスは、ご自身を捕らえにやって来たイスカリオテのユダ率いる一団と対峙するわけですが、その時の主の態度がすごかった。まさに神としての御力がみなぎっていました。それがこの言葉に表れています。「わたしがそれだ」。きょうはこのイエス様の言葉から、私たちのために十字架に向かって進んで行かれるイエス様のご愛をご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.すべて知っておられたイエス (1-4)

 

まず1節から4節までをご覧ください。1節をお読みします。「これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。」

 

 これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれました。そこには園があって、イエスは弟子たちとその園の中に入られました。この園とは、言うまでもなくゲッセマネの園です。「ゲッセマネ」とは、「油しぼり」という意味があります。そこはオリーブの木が茂っていて、そのオリーブの実をしぼってオリーブオイルが作られていたので、そのように呼ばれていました。そこは、イエスが弟子たちとたびたび集まっていた場所でした。ルカ22:40には、「いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。」とありますが、イエスはいつもここで祈りの時を持っておられたのです。

 

あなたがクリスチャンであれば、あなたにとってもいつもの場所が必要です。私たちは毎日忙しく走り回って疲れ果てていますが、身も心も元気になるためにいつもの場所に来て、神様との静かな時間を持つべきです。それがあなたの生活を潤してくれるからです。イエス様のこの地上での生涯は、これを大切にされました。それは私たちも同じです。私たちも私たちのゲッセマネの園が必要です。そこで定期的に主と交わり、聖書を読み祈ることによって、神の力を受けることができます。単純なことですが、とても重要なことです。

 

イエス様は、そのゲッセマネの園に来られました。ここで最後の祈りをするためです。夜が明けると十字架に付けられることになります。主はそのことをよくご存知でした。ですから、それは壮絶な祈りの葛藤だったのです。ルカ22:44には、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。同様のことが、マタイの福音書とマルコの福音書にも詳しく記されてあります。しかし、ヨハネはそのことについては一切触れずに、別の視点でこのゲッセマネの園での出来事を記しています。それは、イエスが神であるという視点です。その権威あるお姿を、このゲッセマネの園でも見ることができるのです。それがユダの先導によってやって来た一行にイエスが捕らえられるというこの出来事なのです。

 

2節と3節をご覧ください。「一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」

イスカリオテのユダもその場所を知っていました。ですから、最後の晩餐を抜け出した彼は、そこに行けばイエスを敵の手に渡すことができると思い、銀貨30枚を払ってくれた祭司長たちやローマの軍隊を引き連れてやって来たのです。ここに「一隊の兵士」とありますが、これはローマ兵たちのことです。子の兵士たちは、エルサレムで祭りがあるたびに治安維持のため遣わされていた人たちですが、通常は600人で構成されていました。時には200人になることもあったようすが、ですから、この兵士とは200人~600人の兵士であったことがわかります。また、「下役たち」とは、ユダヤ教の神殿警備隊のことです。彼らはたった一人の人を捕まえるために、こんなに大勢でやって来たのです。しかも、彼らは明かりとたいまつと武器を持っていました。この時は過越の祭りの時で満月に当たりますから、しかもほとんど雨が降ったり、曇ったりすることがありませんので、明かりやたいまつなど必要ありませんでした。月の明かりがこうこうと輝いていたからです。それなのに彼らが明かりやたいまつや武器を持ってやって来たのは、彼らがイエスの力を知っていたからです。死人のラザロさえも生き返らせたお方ですから、力には力で対抗しようと完全武装し、武器まで手にしてやって来たのです。

 

そんな彼らに対して、イエスは何と言われましたか。4節をご覧ください。「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。」 

そんな彼らに対して、イエスは「だれを捜しているのか」と言われました。普通なら、イスカリオテのユダが自分を裏切るために出て行ったとき、おそらくゲッセマネの園に来るだろうと考えて、できるだけそこには近寄らないようにするでしょうが、イエスはそこへ来たというだけでなく、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と言われたのです。なぜでしょうか?それは、イエスがご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたからです。

 

ここに、私たち人間との違いがあることがわかります。私たちはすべてのことを知っているわけではありません。しかし、イエス様はご自分に起ころうしていることをすべて知っておられました。それで、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と言われたのです。どういうことでしょうか。イエス様はご自分が十字架につけられることを知っておられたので、そのように言われたということです。えっ、普通なら逆でしょう。ご自分が十字架につけられるということを知っていれば、どこかに隠れようとするんじゃないですか。しかし、イエス様は逃げも隠れもしませんでした。むしろ、自分から進んで、「だれを捜しているのか」と言われたのです。それは、イエスがすべてのことを知っておられたからです。そのすべてとは、ユダに裏切られて十字架につけられて死なれるということだけでなく、三日目に死人の中からよみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれる、というすべてのことです。神の計画のすべてを知っておられました。だから進み出て「だれを捜しているのか」と言われたのです。イエス様はすべてのことを知っておられ、そのご計画に従ってすべてを導いておられるのです。私たちに必要なのは、このすべてをご存知であられる主にゆだね、主のみこころのままに生きることです。時として私たちは、自分が願っていることと違ったことが起こる時それを受け入れることができず、嘆いたり悲しんだりするわけですが、すべてを支配しておられる主が最善に導いてくださると信じて、主に信頼して歩んでいかなければなりません。

 

アウグスティヌスは、私たちの人生を、神が縫われた刺繍のようなものだ、と言いました。裏側からだけ見ると、ただ糸が絡まり合っているようにしか見えません。いろいろな色の糸が複雑に絡み合っていてよく分らないわけですが、しかし、完成して表側を見たときに、ああなるほど、この色、この形、この表現のためにあそこで糸が切れていたのか。全部このためだったんだということがわかります。それは私たちの人生も同じで、それがあたかも混沌としているようであっても、神様は私たちの人生に刺繍をしておられるのです。時にどうして神様は私にこんな事を許されているのだろうと心を痛めることがありますが、それは、まだその事柄を通しての神様の計画全体を見ていないだけであって、やがて具体的に素晴らしい神様の祝福を見ることになるのです。

 

リーマンショックの影響である姉妹のご主人が勤務していた会社が、東京地裁に会社更生法の適用を申請しました。負債総額は2兆3千億円となり、事業会社としては戦後最大の経営破綻で政府の管理下になりました。2010年1月19日のことです。

ご主人から「1万6千人がリストラされる。覚悟していてくれ。」と言われた時、目の前が真っ暗になりました。それは、3人に1人の割合で、特に50歳以上は大半の人が対象になっていたからです。退職金、企業年金はいったいどうなるのだろう。就職の超氷河期と言われているこの時に、60歳になるご主人の再就職は非常に厳しく望めるような状況ではないと不安でいっぱいになりました。

しかし、そのことを聞いた時、この姉妹から出た言葉は、「37年間一生懸命働いてくれてありがとう。本当にありがとう。大丈夫!神様が共におられるから。これから新しい事が始まるのよ。感謝のお祈りをしましょう。」ということでした。「神様、感謝します。あなたが私達を愛しておられ、良き事の働きのためにこの問題が許され、この悪いと思われる事の向こう側に神様の素晴らしい祝福のご計画がありますから感謝します。必ずこの事を通して主の栄光が豊かに現されますからありがとうございます。」と祈ると心に平安と確信が与えられました。ご主人の目は涙で潤んでいました。

退職後すぐに就職を支援する人材紹介の会社に登録し、面接の受け方、履歴書の書き方などのセミナーを受け、今までは採用する側でしたが、される側に一変しました。担当者からは「大卒の就職率が60%と言われている中で、60歳以上の就職は非常に厳しい状況です。お知り合いとか縁故で探されることもお勧めいたします。」と言われました。まさしく就職の超氷河期でした。

枯れ葉が舞う頃、以前仕事上で関わったヨーロッパに本社がある外資系の会社から、これからアジアの働きを強めるために新しいプロジェクトを計画しているので、是非今までのキャリアを生かして働いてほしいという話がありました。今までやっていた仕事の経験を活かす事ができ、職場は国際色豊かで、ヨーロッパ出張もあり、自分たちが願っていたことだったので、「やった。ばんざい!神様感謝します。この就職先が主の導きでしたら、必ず決まりますように。御心に従いたいですから私たちにわかるように教えて下さい。あなたが私たちを導いておられる最善の計画を歩むことができますように助けてください。」と祈りました。

しかし、数日後、勤めようとしていた外資系の会社から、新しいプロジェクトの企画内容、予算を再検討することになり、時期を遅らせることになりましたと連絡が来ました。そのときは、本当にがっかりしましたが、後で振り返ってみると、それはまさに神様からのストップでした。というのは、その年の11月1日にご主人の父親が脳梗塞で倒れて入院し、2週間後母親も心臓疾患で意識不明になり、救急車で大学病院に運ばれ入院しました。それはかりか、2011年1月9日には、実家の父親が天に召されたのです。ご主人が家にいて何かと助けてくれたので、ご主人のご両親の看病と介護、母親の死の悲しみを乗り越えることが出来ました。もし最初の話がスムーズに進んでいたら、11月1日からの勤務だったので、とても忙しくなっていたはずです。休めるような状況ではありませんでした。神様はすべてをご存じだったのです。

すると、翌年1月19日に1通のメールが届きました。ロンドンに転勤していたとき、家族ぐるみで親しくさせていただいた方からでした。ある公益法人で民間企業からの優秀な人材を探しているのだが、働いてみませんかという内容でした。外資系の企業よりもさらに良い条件でした。それはちょうど1年前の1月19日に、ご主人が勤務していた会社が、東京地裁に会社更生法の適用を申請し、ご主人と共に感謝の祈りをした日でした。

2月1日からの勤務と正式に決まり、登録していた人材紹介の会社に就職が決まったことを報告に行きました。担当者から「幸運ですね。」と言われた時、ご主人はこう答えました。「妻の祈りです。」

神様は私達一人ひとりを愛しておられ、私達の人生に素晴らしい計画を用意しておられるのです。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。

 

リビングプレイズに「御手の中で」という賛美があります。

1 御手の中で 全ては変わる 賛美に  我が行く道を 導きまたえ あなたの御手の中で

2  御手の中で 全ては変わる 感謝に 我が行く道に 現したまえ あなたの御手の業を

順調な時や何かすばらしい出来事が起きた時は、自然と賛美や感謝をすることができますが、試練の時はなかなかできません。しかし、神はすべてのことを知っておられ、私たちにとって最善に導いておられると信じるなら、自分に訪れた些細な問題と困難に落胆し、絶望しながら生きるのではなく、神様の驚くべき祝福を感謝しながら生きることができるのではないでしょうか。箴言に「あなたの行くところどこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)とあるとおりです。

 

Ⅱ.わたしがそれだ(5-9)

 

次に、5節から9節までをご覧ください。

「彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」

 

「だれを捜しているのか」というイエスのことばに対して、彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエスは彼らに、「わたしがそれだ」と言われました。この「わたしはそれだ」という言葉は、イエス様の神宣言です。ギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉です。この言葉は、かつてモーセが神様に名前を尋ねた時、「わたしは「わたしはある」という者である」(出エジプト3:14)と言われた、あの名前です。へブル語では「ヤーウェ」と言いますが、それは「あらゆる存在の根源」を意味しています。ですからここでイエスが「わたしがそれだ」と言われたのは、あの出エジプト記の中で神が「わたしは「わたしはある」という者である」と言われた、あの神ご自身であるということだったのです。

 

それがどういうことなのかを、ヨハネはこの書の中で具体的にこれを7回用いて説明してきました。それが、「わたしがいのちのパンです」(6:35)とか、「わたしは世の光です」(9:5)、「わたしは羊たちの門です」(10:7)、「わたしは良い牧者です」(10:14)、「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木です」(15:1)だったのです。ですから、イエス様がここで「わたしがそれだ」と言われたのは、ご自分こそ「わたしはある」というお方であり、すべての存在の根源であられる方、神ご自身であるということだったのです。ですから、イエスは、「わたしと父とは一つです。」(10:31)と言われたのです。また、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)と言われたのです。イエス様を見れば、まことの神がどのような方であるかがわかります。彼らは「ナザレ人イエス」を捜していましたが、そのナザレ人イエスは、まさに神ご自身であられたのです。

 

そのことばを聞いた時、彼らはどうなりましたか?6節を見ると、「彼らは後ずさりし、地に倒れた」とあります。どういうことですか?その圧倒的な権威あることばに、ドミノ倒しのように後ずさりして、そこに倒れてしまったのです。何百人という完全武装したローマの兵士とユダヤの神殿警備隊が、何の武器も持っていなかった一人の人の声によってバタバタと倒れたのです。それだけイエス様の声には低音の響きがあったということではありません。それほど権威があったということです。それはこの天地を創造された時の権威でした。神が「光よ、あれ」と命じると、光ができました。この神とは、創世記1:26に「われわれのかたちに人を造ろう」とあるように、三位一体の神です。父と子と聖霊の三位一体の神が、天地創造に関与しておられました。ですから、それはイエスのことばでもあったのです。イエス様が「光よ、あれ」と命じると光ができました。「大空よ、水の真っただ中にあれ。」と命じると、そのようになったのです。私がどんなに「・・あれ」と言っても何も出てきませんが、神が「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と命じると、そのようになったのです。神のことば、キリストのことばには、それほどの権威があるのです。

 

それは主イエスの公生涯を見てもわかります。イエスがある安息日にカペナウムの会堂で教えられると、人々はその教えに驚きました。権威があったからです。それは単なる良いお話しだったとか、感動的な話であったというのではありません。権威ある教えだったのです。また、そこに汚れた霊につかれていた人がいましたが、イエスがその悪霊を叱って「この人から出て行け」と言われると、悪霊はたちまちその人から出て行きました。また、そのことばは、病気で死にかかっていた王室の役人の息子を癒しました。まだ家までは遠く離れていましたが、「あなたの息子は治ります」と言われたとき、息子は癒されたのです。また、イエスのことばには自然界も従いました。イエス様が「嵐よ、静まれ」と命じると、風はやみ、すっかり凪になりました。また、死んで四日も経っていたラザロに「出て来なさい」と命じると、死んだラザロが、手と足を長い布で巻かれたまま出て来ました。イエスの言葉は、死人さえも生き返らせることができたのです。なぜこのようなことができたのでしょうか。イエスは神であり、そのことばには絶対的な権威があったからです。

 

その神の名が、それを聞いた捕縛者たち一行を圧倒したのです。彼らがあとずさりし、地に倒れてしまったのは、そのためでした。この天地万物の創造者であり支配者であられる神の御前に、完全武装したローマの軍隊もユダヤ教の権威を持った人々も、全く無力であったのです。それはまた、この方を信じる者には、その権威が与えられているということを示しています。私たちは本当に無力な者であり、信仰の弱い者ですが、この御名を信じた者として、この権威が与えられているのです。このことを信じましょう。そして、「これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ2:25)とあるように、私たちの中に、この主が働いておられることを感謝しましょう。そして、この事実を信じることによって、神様が約束してくださった永遠のいのちの祝福を受ける者となろうではありませんか。

 

7節から9節をご覧ください。「イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」

 

ご自分を捕らえにやって来た者たちにイエスは「だれを捜しているのか」と問われましたが、それはご自分が神であることを宣言し、彼らにその権威を示すためでした。しかし、ここでイエス様はもう一度彼らに同じことを尋ねています。「だれを捜しているのか」。なぜでしょうか。それは、弟子たちを守るためでした。彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は、「それはわたしだ」と言ったではないかと言われました。そして、「わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせなさい。」と言われました。イエス様は最後までご自分の弟子たちを守ろうとされたのです。この人たちを去らせなさい。私だけで十分でしょう。それは9節にあるように、「あなたがくださったものたちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためでした。これは、イエス様が17:12で言われたことです。イエス様は弟子たちのために祈られました。「わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。」この祈りが成就するためです。

 

この時、弟子たちの信仰はまだ弱いものでした。もしも彼らがこの時イエス様と一緒に捕らえられてしまったらなら、一も二もなく信仰を捨ててしまったことでしょう。そういうことがないように、彼らを守られたのです。Ⅰコリント10:13にはこうあります。

「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

イエス様は、弟子たちが耐えられないような試練に会わせられませんでした。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を用意しておられたのです。

 

皆さんもよくご存知の競泳の池江璃花子選手は、数々の競泳の日本記録を更新し、2018年にジャカルタで開かれたアジア大会では6種目で優勝。日本人初となるアジア競技大会6冠を達成し、大会MVPに輝きました。しかし、その半年後の2019年2月、私たちは信じられないニュースを知りました。その池江選手が白血病と診断されて入院したというのです。東京オリンピックを翌年に控えてのことでした。本人としてはどれほどショックだったことでしょう。しかし、その時池江選手が語ったことは、神様は、耐えられない試練に会わせることはなさらないという、この聖書のことばでした。どなたかから聞いた励ましの言葉だったのかもしれません。この言葉は、立ちあがることができないほどの絶望の中でどれほど彼女を支えてくれたことかと思います。

その約束の言葉に支えられ、10か月に及ぶ入院生活を経て、去年末に退院すると、競技への復帰を目指して少しずつトレーニングを再開しました。そして、先月2日、退院後初めてプールで練習する様子を報道陣に公開しましたが、そこで池江さんが語ったことは、「心から楽しんで水泳ができています。」という素直な喜びでした。そして、「日に日に力がついている実感があり、自分が中学1年生とか2年生くらいのときの泳力まで戻ってきたと思います。」と話すぐらいにまで回復したのです。そのうえで、闘病生活を踏まえて「元には戻れないかもしれないと思うこともありますが、病気になっても、また強くなれるということを知ってもらいたいです。」ということでした。それが、彼女が競技への復帰を目指す理由だったのです。

先月4日は彼女の20歳の誕生日でしたが、彼女はその抱負を次のように語りました。「大人の第一歩だと思うので自覚を持ちたいです。自分の意思を持った、内面的に強い女性になりたいです。」すばらしいですね。内面的に強い女性になりたい。これこそ神が用意してくださった脱出の道ではないかと思いました。確かにオリンピックに出場することもすばらしいことですが、それ以上に一人の人間として、一人の女性として内面的に強い人になりたいと語ることができるのは、競泳をすること以上に大切なものを見出したからではないでしょうか。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるのです。

 

それは私たちも同じで、私たちも振われたり、打ちのめされたりすることがありますが、全く滅ぼされることはありません。ノックダウンすることはあっても、ノックアウトすることはないのです。それは、私たちの主イエスが私たち一人一人をやさしく見守り、優れた医者のように確かな技術をもって、私たちが耐えられる試練の分量というものを正しく量られるからです。そして、ヨハネ10:28に、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」とあるように、ご自身の民を永遠に守ってくださるからです。あなたをイエス・キリストの手から奪い去るものは何もありません。ですから、最もひどい暗黒の中にいるようでも、イエス様の目があなたに注がれているということを覚え、どんなことがあっても守られていることを信じて、この方にすべてをゆだねようではありませんか。

 

Ⅲ.剣をさやに収めなさい(10-11)

 

最後に、10-11節を見て終わりたいと思います。「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」」

 

ところが、シモン・ペテロが持っていた剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としてしまいました。せっかくイエス様が彼らを守られたのに、ここでペテロは、またまた早まったことをしてしまいました。彼はどちらかというと衝動的なタイプの人間でした。すぐに反応しちゃう人ですね。そういう人がいます。何でも反応してしまう人です。こういう人はいいとこともありますが、失敗も多いのです。私もペテロのような人間なので、彼の気持ちが手に取るようにわかるような気がします。彼は、最後の晩餐の席上「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(13:37)と言いましたが、それは彼の本心だったでしょう。そして、大勢の人たちがイエス様を捕らえに来たときは、それを証明する絶好の機会だと思ったに違いありません。だからこそ、大祭司のしもべマルコスに襲いかかったのです。本当は頭をねらったのでしょうが、外してしまいました。それで右の耳を切り落としたのです。それでも彼がイエス様の一番弟子であったことは、私たちにとって大きな励ましではないでしょうか。というのは、私たちもたくさんの失敗をしますが、イエス様は最後までその失敗をカバーして下さるからです。

 

すると、イエス様はペテロにこう言われました。「剣をさやに収めなさい。」どういうことでしょうか?剣は本当の解決をもたらさないということです。本当の解決、本当の平和は、イエス・キリストによってもたらされます。ペテロは剣でイエス様を守ろうとしましたが、イエス様はその剣を必要とされませんでした。イエス様が成さろうと思えば、何十万という天の軍勢さえも呼ぶことが出来ましたが、イエス様はそのようにはなさいませんでした。そのようなものは本当の解決にならないということを知っておられたからです。

 

ヨハネは触れていませんが、ルカの福音書を見ると、その切られた耳がどうなったかが記されてあります。ルカは医者でしたから、その耳がどうなったのか気になったのでしょう。そしてルカによると、「やめなさい。そこまでにしなさい。」と言われると、イエス様はその耳にさわって彼を癒された、とあります(22:51)。イエス様の最後の奇跡は、ペテロの失敗をカバーするものでした。そして、敵の耳を癒されたのです。なぜ?そうでないと、ペテロが捕らえられて殺されてしまうからです。イエス様はペテロを最後まで守られたのです。

 

そしてこう言われました。「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」どういうことですか?これこそ、真の解決、本当の平和をもたらすものであるということです。「杯」とは祝福を分かち合うものですが、ここでは神の怒り、神のさばき、苦しみを表現しています。つまり、この杯とは十字架の苦難のことを指していたのです。この杯を飲まなければ本当の平和はもたらされないということです。なぜなら、聖書には「義人はいない、一人もいない。」とあるからです。すべての人が罪を犯したので、神のさばきを受けなければなりません。しかし、あわれみ深い神様は、私たちがそのさばきを受けることがないように、ご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。それは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださるためです。イエス様は、本来私たちが受けなければならない神の怒りを、代わりに十字架で受けてくださったのです。それはこの御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これが十字架の意味です。御子を信じる者はさばかれません。御子が代わりにさばきを受けてくださったからです。神の怒りと神のさばきの杯を飲み干してくださいました。だから、イエス・キリストにある者は決してさばかれることがないのです。罪に対する神の怒りはもう残っていません。イエス様は十字架の上で「完了した」と宣言されました。私たちの罪の贖いは完全に成し遂げられたのです。ですから、この方を信じる者は、だれでも救われるのです。イエス様が飲み干してくださった杯こそ、私たちのすべての問題に対する解決です。あなたの問題の真の解決はここにあるのです。

 

それなのに、どうしてあなたは剣を抜いて戦おうとするのですか。イエス様があなたのために十字架という杯を飲み干してくださったのです。あなたがどんな絶望の中にあっても、イエス様の十字架のもとにゆくならば、永遠のいのちと永遠の愛、永遠の希望を受けることができます。それによって、神なき望みなき人間から、神様に愛されている子どもとして、新しく生まれ変わることができるのです。言い換えれば、それは人間性の回復でもあります。神なき望みなき状態が、いかに人間性を損なっていたことでしょうか。そのことによって、私たちは理性も、感情も、常に恐れや不安や絶望に支配され、真の愛を知らず、真の希望を知らず、真の喜びを知らない者でありました。たとえば戦争もそうです。平和を維持するためにはもっともっと強力な武力を装備しなければいけない。こうした矛盾したことを、誰もが信じて疑いません。これが神なき望みなき人間の理性です。


 しかし、私たちがイエス・キリストの十字架のもとで、独り子を惜しまず与えてくださった神様の偉大な愛に出会うならば、恐れや不安は消え去ります。そして、愛すること、信じること、生きる喜びを知るのです。そして今までとは何もかも違ってきます。平和のためには赦すこと、武装を解除することであるという、考えてみれば当たり前のことですが、そうした理性が取り戻されるのです。私たちの犯してきた罪が消えてなくなるわけではありませんが、そのことは私たちを絶望に陥れるのではなく、このような者をも愛してくださった神の愛の大きさを讃える源となるのです。

 パウロは、このようにまったく生まれ変わった人間の一人でした。キリスト教を憎み、教会を迫害し、クリスチャンを捕らえて牢屋に放り込むことを信仰だと思って生きていたパウロが、逆にイエス・キリストの福音を世界中に伝える人となったのです。パウロはこのように言いました。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

これが神の約束です。確かに、信じてからも罪を犯します。私たちは弱さのゆえにこういうこともありますが、しかし、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7)
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。これこそ真の救い、真の平和、真の解決ではないでしょうか。私たちが今まで何をしてきたか、今何ができるか、これから何ができるのか。そういうことに関わらず、神様が私たちを愛してくださっている。その神様の愛を信じて、希望を持つことができるのです。困難がないわけではありません。悩みがないわけではありません。しかし、神様がともにおられることを知り、希望をもって困難に立ち向かうことができるのです。私たちをこのような人間として生まれ変わらせてくださる救いが、われらの主イエス・キリストの十字架にはあるのです。これが、私たちの人生における最大の祝福です。私たちの人生における最大の祝福は、罪が赦されているということなのですから。

 

イエス様はそのためにこの杯を飲み干してくださいました。あとはそれを受け取るだけでいいのです。信じるだけです。イエス様の救いを信じなければなりません。ここに救いがあるということをどうぞ信じてください。自分の生き方を変えず、自分の好きなことだけをしようという決心は、この世の不幸の大きな原因でしかありません。どうしてあなたの問題を人間の思いや考えで解決しようとするのですか。それは、ペテロが剣で大祭司のしもべの耳を切り落としたことと同じです。そこには何の解決もありません。真の解決は、イエス・キリストの十字架を信じることです。そうすれば、あなたのすべての理解を超えた神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

あなたの人生の旅路のあらゆる段階で、「主よ。あなたのみこころのものを私にお与えください。あなたのみこころとするところに行かせてください。みこころのままに私を扱ってください。私の思いではなく、あなたのみこころだけがなりますように。」と祈りましょう。剣ではなく、主の杯を受けましょう。私たちの主イエスは、「わたしはそれだ」と言われる方です。そして、あなたのために十字架の杯を飲み干してくださいました。私たちが真に頼るべきお方は、あなたのために十字架にかかり、あなたの救いを成し遂げてくださったイエス・キリストなのです。

すべての人を一つにしてください ヨハネ17章20~26節

2020年7月26日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ17章20~26節(P221)

タイトル:「すべての人を一つにしてください」

 

 十字架を前にしてイエス様は、目を天に向けて祈られました。まず、ご自身のために祈られました。そして、弟子たちのために祈られました。今日の箇所では、すべての時代の、すべてのクリスチャンのために祈っておられます。20節には、「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」とあります。

 

 私たちは、弟子たちが話したことばによってイエス様を信じました。それは単にことばだけでなく彼らが書き記したことば、聖書のことばを通して信じました。イエス様は、そのすべてのクリスチャンたちのために祈られたのです。いや、今も天で祈っておられます。いったいどのようなことを祈られたのでしょうか。

 

Ⅰ.すべての人を一つにしてください(21-23)

 

まず、21-23節までをご覧ください。「21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」

 

イエス様はまず、すべてのクリスチャンを一つにしてくださいと祈られました。クリスチャンが一つになるというのはどういうことでしょうか。教会にはいろいろな人たちがいます。年齢が違えば、性格も違う、それぞれが育った環境も違います。また、考え方も違いますし、聖書の理解においても違いがあるわけです。そういう人たちが一つになるということは簡単なことではありません。ここで注意しなければならないことは、イエス様が一つになるようにと言われたのは、組織的、外面的に一つになることではなく、霊的に、内面的に一つになるということです。ビジネスにおいても、教育の分野でも、どの組織でも、一つの目標を掲げ、それに向かって協力し合い、熱心に行動すれば、物事は成し遂げられるでしょう。しかし、ここでイエス様が言っていることはそういうことではないのです。ここでイエス様が言っていることは、信仰的に一つになることです。信仰的に一致するとはどういうことでしょうか。

 

ここに、その良い例が示されています。それは、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」一つになるということです。つまり、父なる神と子なる神の一体性と同じ一致です。私たちが暖かい愛の交わりができるのは、キリストを信じる信仰による一致があるからです。言い換えると、ひとりひとりがイエス・キリストの十字架の贖いの死によって、その罪を赦されたという体験を持っているからなのです。そこから生まれてくる一体性です。それがなかったら一致は生まれません。どんなに人間的に努力しても限界があり、空中分解することになってしまいます。調子が良い時は愛し合うことができても、調子が悪い時には、いざ関係がぎくしゃくしてくるともう耐えられなくなってしまいます。しかし、イエス様がこんな罪深い者を愛し、そのためにご自分のいのちを捨ててくださったことを知り、この方を信じるなら、私たちの内に神の愛が生まれ、その愛で愛し合うことによってたとえ考え方が違っても必ず一つになることができるのです。ですから、教会が一致することにおいて最も重要なことは、考え方が違うとは、性格が違うとか、ジェネーションギャップがあるとかということではなく、このキリストの愛によって罪の赦しを得ているかどうかです。それによって新しく生まれ変わっているかどうかなのです。それがあるなら、そこに完全な一致と調和が生まれるのです。父なる神が子なる神キリストのうちにおられ、子なる神が父なる神のうちにおられるような一致です。

 

皆さん、私たちが信じている神は、三位一体の神です。三位一体とは、聖書の教えの中でも最も難しいものの一つですが、神は唯一ですが、三つの人格を持っているということです。すなわち、ただ一人の神ですが、父なる神と、子なる神、聖霊なる神の三つの神がおられるということです。ただ一つで三つというのはなかなか理解できないことですが、聖書の神は、そういう神なのです。そして、この三位一体の神は、それぞれ人格を持っていますがその本質と性質、属性において全く一つであられるのです。つまり、父も、子も、聖霊も神であり、また、父も、子も、聖霊も愛であり、聖なる方であり、義なる方であられるのです。この三つの神は、それぞれ人格は別々ですが、そこには完全な調和と一致があります。それと同じように、すべてのクリスチャンの間に、すべての教会の間に完全な一致と完全な調和があるようにと祈られたのです。それは不可能なことではありません。なぜなら、私たちはこの三位一体の神を信じ、この神によって新しく生まれた者だからです。以前はそうではありませんでした。全部自分のためでした。自分が考え、自分が思うことが行動の唯一の基準だったのです。そのような人たちの集まりのが、どうやって一致を保つことができるでしょうか。できません。それは夫婦関係を見てもわかるでしょう。夫婦はまさに自我と自我のぶつかり合いです。生まれも、育ちも、性別も、考え方も全く違う人間が一緒に生活するわけですから、それを調整することは至難の業です。最初のうちはあまり感じなくても、次第に考え方に大きなギャップが生じてくるようになります。もうフーフー言うようになるのです。そんな二人が一緒にやって行くことができるとしたら、そこに神の愛とあわれみがあり、互いが互いを見るのではなく、イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストを通して与えられた神の愛に信頼しているからにほかなりません。もし自分を主張し始めたら、そこには一致とか調和は生まれることはないでしょう。それは自分の意見を言ってはいけないということではありません。自分の意見を言うことは全く問題ありませんが、それが叶わなくても神の力強い御手の下にへりくだり、神があなたのことを心配してくださると信じて、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねることです。そうすれば主が、ちょうど良い時にあなたを引き上げてくださいます。これが信仰です。これが一致することはできません。イエス様が、すべての人が一つになるようにと言われたのは、こういうことだったのです。

 

いったいそれは何のためでしょうか。ここには、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」とあります。神を知らない人が信じるためです。このような暖かい愛の交わりを見る時、この世の人々はその中に主がおられることを知ることができます。教会に初めて来られる方は、説教の内容はほとんど覚えていなくても、その場の雰囲気はよく覚えていて、そこにこの世にはない何かを感じます。それが何なのかわからなくとも、続いて教会に通ううちに、それがイエス・キリストの愛と信仰によるものであることがわかるようになり、信仰へと導かれていくのです。それが22節で言われていることです。

 

ここには「またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。」とあります。この「栄光」こそ、イエスによって与えられた栄光なのです。この世の人々が教会を見る時この世にないものを持っているのを見ますが、それこそが神の栄光にほかなりません。その栄光はこの世にはない輝きです。この世にあるのは憎しみであり、争いであり、対立であり、お互いに傷つけ合うことであり、ののしり合うことです。そこには愛のひとかけらもありません。しかし、キリストの教会はそうではありません。そこにはキリストの愛があります。いのちをかけて私たちを愛してくださった愛といのちが溢れています。たとい、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、自分の利益を求めず、ほかの人の益になることを求めます。人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまん、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。もちろん、このように完全にできるわけではありません。それができるのはイエス様だけです。しかし、私たちはそのイエス様に似た者となるように祈り、聖霊の助けと励ましをいただきながら日々歩んでいるので、少しずつですが、そのように変えられているわけです。少なくても、そのような群れとなるように求めて祈っています。いったいこのような愛の共同体がこの世にあるでしょうか。ありません。ですから、この世の人たちがこの愛の共同体である教会が一つになっているのを見るとき、ああ、イエス様はほんとうに神様だと信じるようになるのです。

 

熊本県の人吉市という所に、松尾鷲嶺(まつおしゅうれい)という仏教の僧侶がおられました。この方は80歳を過ぎてからキリスト信仰に入り、寺を捨てて、クリスチャンになりました。それは大変なことです。1962年のことですから、今から58年も前のことですが、この方の奥さんが駅前で教会の特別伝道集会のビラをもらい、生まれて初めてキリスト教の教会へ行ったのです。その時、奥さんは聴いたメッセージがどんなものであったかは覚えていませんでしたが、どうしても忘れることのできないものがありました。それはその場の雰囲気です。老若男女の様々な人々がいるのに、そこには暖かい愛の一致があったのです。婦人は感動して家に帰りました。それは自分のお寺の現実と余りに違っていました。そのすばらしい雰囲気が忘れられず、夫人はその翌日も教会へ行き、ついに信仰を告白するようになりました。寺の僧侶の奥さんがクリスチャンになったということで、その後が大変でした。夫の松尾鷲嶺師は婦人にキリスト教信仰を捨てるように迫るのですが、そうしているうちに、夫も生きた本当の神を知るようになり、ついに二人ですべてを捨て、寺を出たのです。その後、二人は小さな小屋に住みながら、「私たちの人生で今ほど幸福な時はありません」と告白しつつ、天に召されていったというのです。

これほどまでにお二人の一生を変えたものは何だったのでしょうか。それは暖かい愛を持った教会の交わりでした。教会には、この世界のどこにもないキリストの愛の交わりがあります。栄光の輝きがあるのです。僧侶の婦人は、暖かい愛の一致を持った教会の交わりに出会いました。それによってキリストが神から来られた救い主であると信じることができたのです。私たちが一つになるのはそのためです。私たちがキリストの十字架の死によって罪を赦されたという一体感で互いに愛し合い、赦し合うなら、そこに神の愛と神の栄光が現われ、イエスこそ救い主であるとこの世の人たちが信じるようになるのです。

 

Ⅱ.わたしがいるところにおらせてください(24-25)

 

イエス様がすべてのクリスチャンのために祈られた第二のことは、わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください、ということでした。24-25節をご覧ください。

「24 父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。25 正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。」

 

「わたしにくださったもの」とは、イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンのことです。イエス様はすべてのクリスチャンが一つになるようにと祈られましたが、続いて、そのすべてのクリスチャンが、イエス様がおられるところにいるようにしてくださいと祈られました。「わたしがいるところ」とは、天国のことです。ピリピ3:20-21には、「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」とあります。クリスチャンには、日本とか、アメリカとか、韓国とかの他に、もう一つの国籍があります。それはどこですか。天国です。私たちのふるさとは天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。そのときキリストは、私たちの卑しいからだを、ご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちに与えられている約束であり、私たちの希望です。私たちのこの肉体は枯れ、やがて滅んでしまいますが、キリストが再臨されるとき、私たちのこの卑しいからだは、キリストが復活した時と同じからだ、栄光のからだによみがえり、永遠に主とともに生きるようになるのです。なぜなら、イエス・キリストを信じたことで罪が赦され、永遠のいのちが与えられたからです。天に国籍を持つものとされたのです。

 

それはいったい何のためですか。その後のところにこうあります。「わたしの栄光を、彼らが見るためです」。イエス様の栄光を見るためです。私たちは今、聖書を通して確かにイエス様の栄光を見ていますが、はっきり見ているわけではありません。ぼんやり見ているだけです。Ⅰコリント13:12に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあるように、鏡に映るのをぼんやりと見ているにすぎません。当時の鏡は銅が磨かれたもので作られていましたから、今のようにクリアではありませんでした。おぼろげにしか見ることができませんでした。そのように今は、ぼんやりと見ているのです。しかし、主とお会いする時は顔と顔とを合わせて見るので、はっきりと見るようになります。その時には主が私たちのことをすべて完全に知っておられるように、私たちも完全に主を知るようになります。今はぼんやりと見ているにすぎませんが、やがて天の御国でその栄光の輝きをはっきりと見るようになるのです。イエス様がおられる天国に私たちもいるようになり、そこでイエス様の栄光を見るようになるというのはすばらしい希望です。今、世界中でコロナウイルスの問題だけでなく、バッタが大量発生による農作物に壊滅的な被害や、東シナ海の領有権をめぐって米中の対立が深刻化しています。日本でも豪雨による災害に加え、コロナウイルスの感染拡大によって、非常な恐れと不安が蔓延しています。この地上は見渡す限り、こうした災害が耐えません。いったいどこに希望があるのでしょうか。ここに真の希望があります。イエス様がいるところにいて、イエス様の栄光をこの目で拝することができること、これこそが希望なのです。

 

25節をご覧ください。ここでイエス様は「正しい父よ」と呼んでおられます。11節では「聖なる父よ」と呼ばれましたが、ここでは「正しい父よ」と呼ばれました。つまり、神が正しい方であり、義なる方であることを強調しているのです。この世は聖なる神、正しい神を知りません。まことの神を知らないのです。それで自分たちでいろいろな神々を作って拝みますが、神は人間の手でこしらえることができるような方ではなく、その人間を造られた方、創造主です。この世はその方を知りませんが、私たちはこの方を知っています。そして、この方が救い主を遣わされたことを知ったのです。それは私たちが、イエス様がいるところにいるようになるためです。永遠のいのちを持つためです。永遠のいのちとは何ですか。それは唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

 

日本人の寿命は世界一長く、2年前の統計では、男性が81.25歳、女性が87.32歳です。今、日本では100歳以上の人が7万人以上もいます。では、人生長く生きればそれで幸せなのかと言というとそうでもなく、若くして亡くなったとしても、あの人の人生はすばらしかった、感動的だった、輝いていた。そんなふうに周りの人々に思い出させるとすれば、それは豊かな人生だったと言えるのではないでしょうか。

「寿命」ということばがありますが、「寿」というのは、死んでもなお残るいのちのことだそうです。その人が亡くなってお葬式も済み、そこにはもういないけれども、その人の存在が多くの人の心の中でなお生きていること、それを「寿」という漢字で示したのです。死んだ後も多くの人々の中に美しい思い出を残せたとしたら、それこそが寿命でしょう。それはイエス様がいるところにいること、永遠のいのちによって全うされるのです。

 

フジテレビのニュースキャスターだった山川千秋さんは、1988年に食道がんのため180日の療養後、お亡くなりになりました。奥さんから助からないと告知された時、山川さんは絶望的な気持ちになりました。クリスチャンである奥さんは、山川さんを信仰に導きます。その時のことを、奥さんは次のように言っておられます。

「夫は、死の恐怖や、不安から逃れ、安心して死ぬにはどうすればよいのかと問うてきました。わたしは、その答えは人間によっては絶対に与えられない。それができる方は神様、すなわちイエス・キリストしかいないと答えました。

すると、夫はどうすればイエス・キリストに救ってもらえるのかと、尋ねてきました。わたしは、神の前に正直になること、これまで神に背いてきた罪を悔い改めて、主イエスを自分の救い主として受け入れると口に出して言うことだ、と答えました。夫はしばらく考え、自分の過去の罪を素直に告白し、やがて表情は穏やかなものになりました。」

その後、山川さんは遺言を残し、すべてを整えて非常に安らかになくなられたそうです。山川さんが亡くなられる前に「死は終わりではない」という著書を記されましたが、それは、彼が天国に行き、そこでイエス様とともに永遠に生きることを確信したいたからです。その著書の中で山川さんは、長男冬樹君に宛てて手紙を書きました。
「冬樹へ。お父さんは病に倒れたが、そのことによって、主イエス・キリストを知った。それは、すばらしいことだと思わないか。父親を亡くした君の人生は、平坦ではないが、主イエス・キリストに頼って

生きれば、すばらしい人生が与えられる。また天国で会おうぜ。」

 「また天国で会おうぜ。」すばらしい言葉だと思いませんか。希望があります。イエスを信じる者は死んでも生きるのです。イエス様のいる天国で、イエス様と永遠に生きることができるのです。

 

あなたは、この永遠のいのちを受けましたか。イエス様はあなたのために祈られました。イエス様がおられところに、あなたもいることができるようにと。そして、イエス様の栄光を見ることができるようにと。どうぞ、あなたもイエス様を信じてください。そして、イエス様がおられるところにいることができますように。

 

Ⅲ.神の愛が彼らのうちにあるように(26)

 

最後に、26節を見て終わりたいと思います。「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

 

ここで主は弟子たちのためにされたことを要約しています。それは、「あなたの御名を知らせました」ということです。「神の御名」とは、名は体を表すとあるとおり、神の本質とか、神の性質、あるいは神ご自身のことです。ですから、イエス様が御名を知らせたというのは、神がどのような方であられるのかを知らせたということです。ことばで信じられないなら、わたしのわざを見て信じなさい、と言われました。ですからイエス様は力あるわざをなさって、ご自分が神から遣わされた方であることを示されたのです。それで弟子たちはそれを見て信じました。そして、私たちもそれを聞いて信じました。私たちに何か理解力があったからではありません。イエス様がご自身のみことばの中ではっきりと示されたので信じることができたのです。

 

それはこれまでのことだけではありません。これからも同じです。ここには、「これからも知らせます」とあります。ずっと知らせます。なぜでしょうか?それは、「あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」どういうことですか?神の愛が弟子たちの心の中にあり、イエス様が彼らの心のなかに住むようにということです。イエス様の願いは、神がイエスを愛しておられるその愛を、イエスを信じている彼らが感じ、イエスご自身も信仰によって彼らの中に住むということだったのです。あなたは、神がイエスを愛しておられるその愛を、あなたにも向けられていることを感じておられるでしょうか。イエス様が、あなたの心に住んでおられるでしょうか。

 

使徒パウロは、エペソ人への手紙の中で、次のように祈っています。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:16-21)

 

この神の愛、キリストの愛こそ、私たちの人生のすべてにおける勝利の秘訣です。私たちの人生には、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろなことが起こりますが、しかし、このキリストにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。だから、信仰によってしっかりと神の愛にとどまってくただきたいのです。あなたが落胆するのは、あなたの目がこのキリストの愛にではなく、問題そのものに向けられているからです。キリストをあなたの心に住まわせるなら、そして、神がどれほどあなたを愛しておられるのかということに気付くなら、どのような境遇にあっても、キリストにある愛から、あなたを引き離すことは何もできません。

 

かつてデンマークに一人の男の子が生まれました。彼が生まれたのは棺桶の中でした。お母さんは他人の汚れものを洗って生計を立てていました。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていました。本当に貧しい家に生まれ、極貧の生活の中で彼は育ちました。彼は大人になって恋をしましたが、恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばかりでした。ついに彼は生涯独身で過ごしました。彼は70歳まで生きて、最後に言ったことばが、これでした。

「私の人生は童話のように幸せでした」

この人こそアンデルセンです。彼はなぜこのような環境や状況の中にあっても「幸せでした」と言えたのでしょうか。その秘訣を彼はこう言っています。

「私を愛し、私を助けて下さるイエス・キリストがいつも共にいて下さったからです。」

イエス・キリストがともにいてくださることが、彼をそのように言わしめたのです。イエス・キリストがともにおられることで、神がどれほど自分を愛しておられるのかをしることが、「幸せでした」と言える秘訣だったのです。

 

あなたはどうですか。あなたのうちにキリストがおられますか。どうぞ、信仰によって、あなたの心のうちにキリストを住まわせてください。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。イエス様は、今もあなたのために祈っておられるのです。

迫害する者を祝福しなさい ローマ人への手紙12章14~21節

2020年6月21(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙12章14~21節

タイトル:「迫害する者を祝福しなさい」

 

 ローマ人の手紙は大きく分けると二つに分けられます。1~11章までの教理の部分所と、12~16章までの実践的な部分です。パウロは11章までのところで信仰による義について語ると、12章から、その信仰によって救われたクリスチャンは、この世の中でどのように歩むべきかを語ります。その基本は12章1~2節にあるように、あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた供え物としてささげるということでした。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。

 

そして、その基本は何かというと愛です。愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい、ということです。また、兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさいということです。

 

そして、今日の箇所にはその愛の具体的な適用が述べられています。つまり、どのようにして愛し合うのかということです。特に、自分に敵対する人に対してどのような態度を持つべきであるかということです。それに対して聖書は、自分に敵対する者たちを祝福しなさい、と教えています。14節には、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」とあります。これが、クリスチャンが持つべき態度です。神に愛され、罪を赦していただいた者が持つべき態度なのです。

 

きょうは、このことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。第一に、クリスチャンは自分の敵を愛し、迫害する者を祝福しなければならないということです。第二に、とはいうものの、こちらがどんなに努力しても相手の態度が一向に変わらない場合があります。そのようなときにはどうしたらいいのでしょうか。そのような時には、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことを求めなければならないということです。第三に、それでも相手が悪意をもって向かってくる時、私たちはいったいどうしたらいいのでしょうか。神の怒りに任せなさいということです。

 

 Ⅰ.迫害する者を祝福しなさい(14-17)

 

 まず、第一に、自分の敵を愛し、迫害する者を祝福しなさいということについてです。14-17節をご覧ください。「14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。16 互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」

 

聖書は、あなたがたを迫害する者を祝福しなさい、と教えています。祝福すべきであって、のろってはいけません。だれに対してでも、悪に対して悪をもって報いるのではなく、すべての人が良いと思うことを心がけなければなりません。これは、私たちが生来持っている自然な態度に逆行するものです。というのは、もと私たちは悪いことをされると、もっと大きな悪で復讐しようとする気持ちが働くからです。本日からTBS日曜劇場にあの「半沢直樹」が帰ってきまが、彼のお決まりのセリフは、「やられたら、やり返す。倍返しだ!」それが、観ている人の気持ちをスカッとさせるのはなぜかというと、もともと人間にはそういう習性があるからです。

 

 旧約聖書の律法には、「目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、」(出21:24)とあります。これは、「やられたらやり返す」を意味する復讐の教えであるかのようなイメージがありますが、そうではありません。これは「正義」を示している教えなのです。そこには愛のひとかけらも感じられないと思うかもしれませんが、しかし、ここにこそ神のあわれみが存分に示されているのです。というのは、もし誰かが誰かの歯を折ったとしたらどうでしょう。折られた人は自分の歯を折ってしまった人に対して歯を折るだけでは気が収まらず、殺してしまいたいとさえ思うのではないでしょうか。目が潰されたら、潰した相手の目をえぐり取るくらいでは収まらず、首まで切ってしまいたいと思うでしょう。これが人間なんです。ですから、「目には目を、歯には歯を」の中にこそ正義があるのです。これは、簡単に言えば、犯した罪とそれに対して与えられる罰とが釣り合った状態を正義としています。従って「やられたらやり返す、倍返しだ!」は正義に反することになります。なぜなら「やられたこと」に対して「倍返し」をするわけですから、「やられたこと」と「やり返したこと(倍返し)」の両者を天秤にかけた場合、釣り合いがとれず片方に傾くことになります。

 

しかしここには、その神の義が本当の意味で全うされる道が示されています。あなたを迫害する者を迫害するのではなく、祝福しなさいという教えです。「悪に対して悪をもって報いることをせず」というのです。イエス様はこう言われました。「目には目で、歯には歯で」と言われたのをあなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」(マタイ5:38-40)

そんなの無理です。自分に悪意をもって向かってくる相手をどうやって赦すことができるでしょうか。まして祝福するなどできるはずがありません。しかし、クリスチャンはそうすべきなのです。なぜ?イエス・キリストによってすべての罪を贖っていただいた者だからです。神に敵対していた私たちは神にさばかれても致し方なかったのに、神はそんな私たちをさばいたのではなく、祝福しました。そんな者のために愛する御子を与え、この御子を十字架にお掛けになることによってすべての罪を赦してくださったのです。

 

イエス様は、マタイの福音書5章43-48節のところでこうも言われました。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。異邦人でも同じことをします。しかし、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ってこそ、天におられる父の子どもになれるのです。敵を赦す程度ではなく、迫害する者のために祈れ、祝福せよ、これが主のみこころであり、神様が私たちに願っておられることなのです。

 

 皆さんは、淵田美津雄(ふちだ・みつお)という人のことを聞かれたことがあるでしょうか。この人は元真珠湾攻撃の隊長で、戦後クリスチャンになった人です。どのようにして救われたのかを「真珠湾からゴルゴダへ」(ともしび社、1954年)という本の中で証ししています。少し長いですが、その部分を抜粋してお読みします。

 

いま私の胸に去来することは、私は祖国日本を愛し、火のような敵愾心(てきがいしん)を抱いて戦ってきたが、それはいわれなき憎悪(ぞうお)ではなかったか。祖国愛と見たなかに偏狭にして独善なものがなかったか。人類を、そして世界を理解することを忘れていたのではなかったのか。その祖国愛が、愛する民族をこの塗炭(とたん)の苦しみに追いやる始末になったのではなかったのかということです。終戦とともに、日本は人類の悲願である戦争放棄を世界にさきがけて宣言して、「灰燼(かいじん)の中から再建へ」とスタートしました。戦争放棄の理念を裏返して見れば、そこには日本が全人類への憎悪に終止符を打ったことを意味するのでなければならないと、私は思うのです。

 しかし、理念では憎悪に終止符を打つことは分っていても、私の感情は別でした。そのころ私は戦犯裁判の証人として、横浜の占領軍軍事法廷に喚問されていました。被告はC級戦犯の人たちで、連合軍の捕虜を虐殺した罪に問われていたのです。

 戦犯裁判は、国際正義の名において人道に反した者を裁くのだと言っていましたが、私はこれを勝者が敗者に対して行う、法に名を借りた復讐であると見て、反感と憎悪で胸を燃やしていたのです。


するとそこへアメリカに捕らわれていた日本軍捕虜が送還されて、浦賀に帰って来ました。私

は浦賀に出向いて、帰りついた日本軍捕虜からアメリカ側の取り扱いぶりを聞きただしました。ところが、いろいろと話を聞き回っているうちに、あるキャンプにいた捕虜たちから次のような美しい話をするのを聞き、心を打たれました。

 この人々が捕らわれていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカのお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるのです。まず病人への看護から始まりました。やがて二週間たち、三週間と経過しても、このお嬢さんのサービスには一点の邪意も認められなかったのです。

 やがて全員はしだいに心を打たれて、「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねました。お嬢さんは、初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので、やがて返事をなさいました。その返事はなんと意外でした。「私の両親が日本軍隊によって殺されましたから」

 両親が日本軍によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでは、話は逆です。「詳しく聞かせてくれ」と私は膝(ひざ)を乗り出しました。

 話はこうでした。このお嬢さんの両親は宣教師で、フィリピンにいました。日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていました。やがて三年、アメリカ軍の逆上陸となって、日本軍は山中に追い込まれて来ました。そしてある日、その隠れ家が発見されて、日本軍は、この両親をスパイだと言って斬(き)るというのです。「私たちはスパイではない。だがどうしても斬るというのなら仕方がない。せめて死ぬ支度をしたいから三十分の猶予(ゆうよ)をください」そして与えられた三十分に、聖書を読み、神に祈って斬(ざん)につきました。

 やがて、事の次第はアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。お嬢さんは悲しみと憤(いきどお)りのため、眼は涙でいっぱいであったに違いありません。父や母がなぜ斬られなければならなかったのか。無法にして呪わしい日本軍隊、憎しみと怒りに胸は張り裂ける思いであったでしょう。

 だが静かな夜がお嬢さんを訪れたとき、両親が殺される前の三十分、その祈りは何であったかをお嬢さんは思いました。するとお嬢さんの気持ちは憎悪から人類愛へ転向したというのです。私はその美しい話を聞きましたが、まだよく分かっていなかったのです。

 

そしてしばらくの月日が流れました。ある日、私は所用があって渋谷駅に下車しました。駅前に出ると、一人のアメリカ人が道行く人々にパンフレットを配っていました。私も行きずりに渡されたので、眺めて見ると「私は日本の捕虜でした」と題してあり、一人のアメリカの軍曹の写真が掲載されてあったのです。

 それはかつて東京爆撃隊の爆撃手であった、J・デシーザーの入信手記でした。私の心は動きました。特にデシーザーが捕らわれて獄中で虐遇されているときに、彼はなぜ人間同士がこうも憎み合わなければならないのかと考え、「人類相互のこうした憎悪を真の兄弟愛に変えるキリストの教えというものについて、かつて聞いたことに心が向き、聖書を調べてみようという不思議な欲求にとらわれた」と言っていることばが、同じ心境にある私の心を捕らえたのでした。

 ひとつ、私も聖書を読んでみようと思い立ち、早速、聖書を買い求めて、あちらこちらとさぐり読みをしているうちに、ルカの福音書二十三章三十四節、「父よ、彼らを赦(ゆる)したまえ、その為(な)す所を知らざればなり」のところで、私はハッと、あのアメリカのお嬢さんの話が頭にひらめいたのでした。

 これは十字架上からキリストが、自分に槍(やり)をつけようとする兵士たちのために、天の父なる神さまにささげたとりなしの祈りです。敵を赦しうる博愛、今こそ私はお嬢さんの話がはっきりと分かりました。斬られる前の、お父さんやお母さんの祈りに思い至ったのです。「神さま、いま日本軍隊の人々が私たちの首をはねようとするのですが、どうか、彼らを赦してあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争など起こるから、このようなこともついてくるのです」私は目頭がジーンと熱くなるのを覚え、大粒の涙がポロポロと頬(ほお)を伝いました。私はゴルゴダの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直りました。その日、私はイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。


「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」
(Ⅱコリント五・一七)

 

 自分の敵を赦し、迫害する者のために祈ること、これが、神が私たちクリスチャンに求めておられることです。それはただ十字架の上で祈られたイエス・キリストの愛を知った者にしかできない祈りなのです。

 

 いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。ここにはそのために必要な二つのことが教えられています。もちろん、敵を赦し、迫害する者のための祈ることは、ただキリストの十字架の愛と赦しがなければ決してできません。その前提に立ちながら、ここにはそのためには二つの心が必要だと教えられているのです。その一つは15節にありますが、「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」ということです。これはどういうことかというと、相手の身になって考えるということです。相手の身になって考える心からそうした敵をも赦す愛が生まれてくるのです。

 

 しかしどうでしょうか、泣く者といっしょに泣くことはできても、喜ぶ者といっしょに喜ぶことはなかなかできることではありません。悲しみの中にいる人とともに泣いてあげることはそれほど難しいことではありませんが、隣人がうまくいっているのを見て喜ぶことは意外と難しいものです。親のいない子どもたちをみてかわいそうに思ったり、身体に障害を抱えている人が、それに負けずに生きている人のドキュメントを観て涙を流すことはあっても、大きな祝福にあずかっている人を見て、心から喜ぶことは簡単なことではありません。

 

 人類最初の殺人事件はどうして起こったのでしょうか?それは妬みによってです。弟アベルのいけにえは神に受け入れられたのに、自分のいけにえが受け入れられなかったのを妬んだ兄のカインが、弟アベルを殺してしまったのです。それはカインだけのことではありません。私たちも他の人が祝福されているのを見るといっしょになって喜ぶどころか、嫉妬心を抱いてしまいます。。ですから、ここには喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしに泣きなさいとあるのです。兄弟姉妹の家族が祝福されるのを見て「ほんとうに良かったですね」と心から言ってあげられるとしたら、どんなにすばらしいでしょう。クリスチャンはひがんだり、妬んだりせずにいっしょに喜び、いっしょに悲しんであげられる。相手の身になって考えられることが大切です。そうした心が敵対する者をも祝福するという態度へとつながっていくのです。

 

 もう一つのことは16節にあります。ここには、「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」とあります。自分を誇りたい心、砕かれたくない心は誰にでもあります。自分をよく見せようと思えば、ついつい嘘をつくこともあるでしょう。ですからここには、「互いに一つ心になりなさい」と勧められているのです。英語の訳ではこれを「Live in Harmony」となっています。つまり、調和をもって生きなさいということです。どういう人が調和をもって生きられるのでしょうか。謙遜な人です。自分こそ知者だなどと思っていない人です。心が高ぶった人は、人と調和は持つことができません。自分こそ知者だなどと考えている人は、なかなか砕かれることができないのです。自己主張をして、相手を尻に敷くような毒のような言葉ばかり口にしてしまうので、すぐに調和が乱れてしまうのです。そういう人が行くところではどこでも平和が崩れてしまうのです。逆に自らを低くしへりくだった心で自分は知者ではないと思うならば、人々から認められ、愛され、平和に暮らすことができます。

 

ガラテヤ5:22-23には、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」とあります。これらは御霊の実なのです。決して私たちの力や努力によって得られるものではありません。聖霊が私たちに注がれて初めて愛することができ、喜ぶことができ、平安を得ることができ、忍耐することができるのです。親切、善意、柔和、自制といった実を保つことができるのです。

 

 私たちの生まれながらの力では迫害する者を祝福したりすることはできません。私たちの力では自らを低くして、自分こそ知者だなどと思わない心を持つことはできないのです。ただ主の前にひざまずき、主が私のために十字架でご自身のいのちをささげてくださったほどに愛してくださったことを知って、初めてできることなのです。

 

 Ⅱ.すべての人と平和を保ちなさい(18)

 

  第二のことは、とはいうものの、こちらがどんなに努力しても相手の態度が一向に変わらない場合があります。そのようなときにはどうしたらいいのでしょうか。そのような時には、自分に関する限り、すべての人と平和を保つことを求めなければならないということです。18節をご覧ください。ここには、「 自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 

「自分に関する限り」とは、「自分に出来ることにおいては」という意味です。私たちがどれほど善意で接しても、私たちを悪く言ったり、敵対したり、悪口雑言を言ったりする人はいるものです。しかし、他の人がどうであろうとも、私たちは自分に出来ることにおいては、すべての人と平和を保とうとする姿勢が必要です。相手が悪意を持っていれば本当の平和を持つことは難しいですが、せめて自分に関する限り、自分に出来ることにおいては、平和を保つようにしなければなりません。これも実際の生活においては簡単なことではありません。私たちは日々の生活の中で平和が保てなくなったとき、「あの人が悪かったんだ」とすぐ人のせいにしたくなるからです。人はいつでもだれかのせいにしないと自分を保つことができません。しかし、そのような時でも、少なくとも、自分の中では平和を保つようにベストを尽くさなければなりません。

 

 ダビデはそうでした。ダビデは、サウルが妬みのゆえに自分を殺そうとしていても、自分からサウルに手を出すことはしませんでした。あるときサウルはダビデを追ってエン・ゲディの荒野に行きました。するとそこに洞穴があったので彼は用をたすためにその中に入って行くと、その洞穴の奥の方にダビデとその部下が座っていました。それはサウルを殺す絶好のチャンスでしたが、ダビデは立ち上がるとサウルの上着の裾をこっそりと切り取り、後にそれをサウルに見せてこう言いました。「わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着をよくご覧ください。あなたの上着の裾を切りましたが、あなたを殺しませんでした。それによって、私の手に悪も背きもないことを、お分かりください。あなたに罪を犯していないのに、あなたは私のいのちを取ろうとねらっています。」(Ⅰサムエル24:11)

 サウルはダビデを殺そうとしていましたが、ダビデはサウルがどんな人でれ、主に油を注がれた方でからといって殺そうとしませんでした。自分に関する限り、自分にできることにおいては、平和を保つことを心掛けました。そのように私たちも自分に関するかぎり、すべての人と平和を保つことを心がけなければなりません。

 

 Ⅲ.神の怒りに任せなさい(19-20)

 

 最後に、19-20節をご覧ください。それでも一向に状態が改善せず、相手が悪意をもって向かって来る時、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。ここには、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」

とあります。

 

自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せるのです。もちろん私たちが不当な仕打ちを受けたり、間違ったことをされたりする場合は、公の機関に訴えることもできます。訴えた方がいい場合もあるかもしれません。しかし、それでも大切なことは、神様にゆだねることです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いる」と主は言われるからです。復讐は私たちがすることではありません。それは神様がなさることです。神様は正しくさばかれる方です。その神にさばきにゆだねなければならないのです。

 

 そればかりではありません。20節には、「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いたのなら飲ませよ。」とあります。「なぜなら、そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」とあります。飢えた敵に食べ物を与え、水を飲ませるというのは、愛とあわれみの対応です。どうせ言っても無駄だからと無視するのではなく、愛によって対応しなさいというのです。そうすることによって、彼の頭に燃える炭火を積むことになるからです。これはどういうことでしょうか?これは神のさばきを望むということではありません。これは敵に恥ずかしい思いをさせるという意味です。相手の悪い行為にもかかわらず、クリスチャンのあなたが親切をもって応対すれば、相手は良心にいたたまれないような痛みを覚え、恥ずかしい思いになるということです。何ということでしょう。これが、神が示してくださった勝利の道です。

 

 イエス様がご自分を十字架につけた人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたとき、その横にいた強盗が救われ、神の愛が立証されました。あのステパノが迫害され、殉教した時も、「彼らを赦してください」と祈ったとき、その祈りを通してパウロが救いに導かれ、傑出した異邦人の使徒となりました。旧約聖書に出てくるヨセフも自分をエジプトに売り渡した兄弟たちを赦し、神様はここに導かれたのですと告白したとき、彼は復讐したいという誘惑に打ち勝ち、勝利者としての人生を全うすることができました。私たちは祝福すべきであって、のろってはなりません。このみことばに生きるとき、私たちが神様から恵みをいただき、祝福に満たされた、勝利ある人生を送ることができるのです。

 

デズモンド・ムビロ・ツツは南アフリカの平和運動家であり、聖公会のケープタウン大主教でもあります。彼は反アパルト政策運動の指導者として1984年にノーベル平和賞を受賞しました。その彼が「赦しなしに平和ない」という著書の中で、このように逸話を紹介しています。

南アフリカでは、長期にわたって支配階級の白人と抑圧された黒人の紛争が絶えなかった。白人による支配が終わり、ネルソン・マンデラが大統領になった時、この国は、どのような未来像を描けば良いかという問題に直面した。私は友人たちと協力して、「真実と平和のための委員会」を設立した。その目的は、白人も黒人も委員会の前で過去に犯した罪や受けた傷を告白することであった。委員会はその先にあるゴールも示した。白人と黒人が赦し合い、和解することがゴールである。

白人も黒人も、委員会の場に出て自らの罪(暴行、殺人、テロ行為)を告白した。その内容はまるで地獄絵のようであった。その中で特に感動的なストーリーがあった。

カラタ夫人の夫は黒人活動家であったが、彼は何度も逮捕され拷問に会った。そして、ある日を境にその姿を消してしまった。新聞の一面に彼の車が燃えている写真が掲載された。カラタ夫人とその娘は委員会の前に出て、夫を殺害した犯人を見つけてほしいと泣きながら嘆願した。当時幼かった娘は、今では成人している。彼女は「私たちは犯人を赦したいのです。しかし誰を赦せばいいのか分からないのです。」と言った。

しばらくして、数人の警官が名乗り出た。カラタ夫人とその娘は、夫/父親を拷問して殺した犯人たちを赦した。なぜなら、それこそクリスチャンがなすべきことだからである。赦すということは、裁きを神にゆだねることである。神の代理者である私たちの使命は、憎しみの鎖を断ち切ることである。神がキリストにあって私たちを赦されたように、私たちも他の人たちを赦すのである。」

 

 これが十字架の道であり、祝福に満たされた勝利ある人生の秘訣です。この社会の中で、あるいは家庭の中で、私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。当然ながら、それは教会も例外ではありません。ここでは、クリスチャンではない人たちと平和を保ちなさいと教えていますが、これはどんな人間関係においても言えることです。それは、あなたがたを迫害する者たちを祝福するということです。祝福すべきであって、呪ってはいけません。喜んでいる人たちとともに喜び、泣いている人たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなければなりません。それでも解決しない時は、神の怒りにゆだねなければなりません。飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませなければなりません。そうすれば、あなたは彼の頭の上に燃える炭火を積むことになります。

 私たちは、自分に対して悪をもって向かってくる相手をなかなか赦すことができない者ですが、この十字架の原則に従って勝利する者でありたいと思います。だれに対してでも、悪に悪をもって報いることをせず、すべての人が良いと思うことをしていきましょう。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝たなければなりません。これが、聖書が私たちに教えている勝利の道なのです。

弟子たちのための祈り ヨハネ17章6~19節

2020年7月12日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ17章6~19節(P219)

タイトル:「弟子たちのための祈り」

 

 きょうは、ヨハネの福音書17章から、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから学びたいと思います。最後の晩餐の席から立ち上がり、ゲッセマネの園に向かわれたイエスは、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と言われました。それはご自身が十字架で死なれるが、三日目によみがえられること、そして、天に昇り神の右の座に着かれると、約束の聖霊をお遣わしになることを意味していました。その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださいます。その方を通して、主はいつまでも彼らとともにいてくださると約束してくださったのです。今は悲しみますが、その悲しみは喜びに変わります。だから、勇気を出してください。あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 

これらのことを話されると、イエス様は目を天に向けて祈られました。それがこの17章の内容です。この後でイエス様はゲッセマネの園で祈られるとその場で捕らえられ、翌日十字架につけられます。そうした緊張した場面で、主は祈られたのです。この祈りは大きく三つに分けられます。まずご自身のための祈りです。それは前回見た1節から5節までの内容です。それから、今日学ぼうとしている弟子たちのための祈りです。6節から19節までです。そして、全世界のすべてのクリスチャンのための祈りです。20節から26節までの内容です。

 

きょうは、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから三つのことをお話ししたいと思います。第一に、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。イエス様はなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。第二に、祈りの内容です。イエス様は彼らのためにどんなことを祈られたでしょうか。その一つは、彼らを悪い者から守ってくださいということでした。第三に、イエス様が彼らのために祈られたもう一つの祈りです。それは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。

 

Ⅰ.あなたのものはわたしのもの(6-10)

 

まず、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。まず6節から8節までをご覧ください。 

「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

 

彼らは、神によってこの世から選び出された者たちです。イエス様は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(15:6)その彼らに、イエス様は神の御名を現わしました。現わしましたというのは、明らかにしたということです。どのように明らかにされたのでしょうか。神のわざを行うことによってです。ヨハネの福音書にはイエス様が神から遣わされた方、メシヤであるというしるし、これは証拠としての奇跡のことですが、7つ記録されています。それでイエスは、ご自分があの出エジプト記3:14で言われていた主ご自身であると宣言されたのです。するとどうでしょう、多くのユダヤ人たちは信じませんでしたが、弟子たちはイエスのことばを受け入れ、イエスが神から遣わされた方であることを信じました。

 

しかし、その後彼らはどうなりますか。その後イエス様が捕らえられると、彼らは一目散に逃げて行くことになります。その中の一人ペテロは、他の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきませんと言いましたが、結局、三度も否認することになります。にもかかわらず、イエスはこうした弱い弟子たちに対して、「彼らはあなたのみことばを守りました」とか、「あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と言われました。

 

ここに主の慰めを感じます。イエス様は、自分たちが見るよりもはるかに多くのことを、彼らの中に見ておられたということです。たとえ弱い信仰であっても、たとえからし種のように小さな信仰であったとしても、そこに信仰があることを見て取って、神のものとして受け入れてくださったのです。それは信じない人たちとは雲泥の差です。イエス様はマタイ10:42で、「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」と言われましたが、そうした弟子たちの誠実さというか、小さな信仰が忘れられていないことをはっきりと示されたのです。

 

主は、そんな弟子たちのために祈られました。9節と10節をご覧ください。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。」

 

ここには、イエス様が弟子たちのために祈られた理由が書かれてあります。イエスはなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らが父なる神のものであり、その父が子にくださったものたちだからです。すなわち、彼らはイエス様のものであるからです。ここに、この世のものと神のものとの違いをはっきりと知ることができます。主の弟子というのは、この世とは区別された者たちです。この世とは神に反逆し、神なしで成り立っている世界のことです。ですから、ヤコブが、「世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)と言っているのです。でもクリスチャンは、この世のものではありません。この世から救い出された者たちです。神のもの、イエス様のものとされました。だから祈るのです。

 

9節に「世のためではなく、あなたがわたしにくださった人たちのために」と言っているのはそのことです。イエス様は、信じない者たちにされないことを、信じる者たちのためになさるということです。ここに神を信じる人たちとそうでない人たちの間に明確な区別があることがわかります。そして、信じる人たちを特別に愛しておられるということがわかります。このようなことを言うと、それはおかしいんじゃないかと言う人たちもいるでしょう。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのであって、そのために御子イエス・キリストを十字架にお掛けになったのではないですか。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それなのに、ある人たちを特別に愛するというのは不公平です!そうです。イエス様は全人類を愛し、すべての人のために死なれ、すべての人に十分な救いを備えられ、すべての人を召し、すべての人を招き、すべての人に悔い改めるようにと命じられました。しかし、それをすべての人が受け入れるかというとそういうわけではありません。神はすべての人に対しては惜しみなく、十分に、無条件にその愛を与えてくださいましたが、それを受け入れるのは一部の人たちです。確かに神の恵みはすべての人に注がれていますが、その恵みは、それを信じる人たちだけに有効であるということも事実なのです。イエス様にとって、ご自身を信じる人たちは特別なのです。だから、イエス様はご自身によって神のもとに来る人たちだけのために、とりなしておられるのです。それが、この「世のためではなく、あなたがわたしに下さった人たちのために」という意味です。

 

これはすばらしい約束です。全能の主が、ご自身を信じる者ために祈っていてくださるのですから。へブル7:25 には、「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。キリストを信じる者は、決して滅びることがありません。なぜなら、イエス様がその人たちのために祈っていてくださるからです。その祈りをやめることはありません。そして、その祈りが勝利をもたらしてくれるからです。彼らは信仰に堅く立ち、終わりの日まで守られるのは、彼ら自身の意志や能力によるのではなく、主が彼らのためにとりなしておられるからなのです。たとえば、イスカリオテのユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返して、「私は無実の人の地を打って罪を犯しました。」と言いましたが、最終的に彼は、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました。再び立ち上がることはなかったのです。一方、ペテロはそうではありませんでした。ペテロもイエス様を知らないと三度も否定しましたが、彼はその後悔い改めて、神との関係を回復しました。この両者の間にどうしてこのような違いがあったのでしょうか。それは、主イエスがペテロのために祈っておられたということです。イエス様はペテロにこう言われました。

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

 

皆さん、だれかに祈られているということほど心強いことはありません。祈りは神の御手を動かすからです。あなたのために祈っていてくださるのは、あなたの救い主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。その主があなたのために祈っていてくださるのですから、どんなことがあっても大丈夫。あなたは最後まで守られるのです。私たちは本当に信仰の弱い者ですが、主はそんな者のために祈っていてくださいます。なぜ?イエス様を信じたからです。イエス様を信じて神のものとなりました。神のものはイエスのものです。それでイエス様に特別に愛される者となったのです。特別にです。イエス様にとって、あなたは特別なのです。You are special.だからイエス様はあなたのために祈っておられるのです。これこそ、イエス様を信じている者たち、クリスチャンの特権です。しかも、10節の終わりのところには「わたしは彼らによって栄光を受けました」とあります。すぐにつまずいたり、すぐに主の御心を傷つけてしまうような者であっても、主は私たちを誇り栄光と思っていてくださるということです。イエスを信じたからです。そのことを思うと、もう感激で胸がつまってしまうのではないでしょうか。

 

Ⅱ.悪い者から守ってください(11-16)

 

第二に、その祈りの内容です。11節から16節までをご覧ください。11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」あります。

 

イエス様は、そんな弟子たちのために二つのことを祈られました。一つは、11節にあるように「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということで、もう一つは、16節にあるように「真理によって彼らを聖別してください」ということです。

 

まず、「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということですが、11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。どういうことでしょうか。イエス様はもうすぐいなくなります。十字架で死なれ、三日目によみがえられますが、その後、父のもとに行かれるからです。しかし、弟子たちは主とともにこの世からいなくなるわけではりあません。彼らはこの世に残されます。彼らには大切な使命が与えられていたからです。それは何かというと、キリストの証人となって、全世界に御国の福音を宣べ伝えることです。ですから主は、彼らを守ってくださるようにと祈られたのです。つまり、イエス様はご自分の民がこの世から取り去られることではなく、この世の中で悪から守られることを願われたのです。

 

すべてをご存知であられた主は、弟子たちがどのような思いを抱くであろうかということをよく知っておられました。その数は非常に少なく、力は弱く、敵や迫害に取り囲まれたら、だれでもこの悩み多い世から解放されて御国に行きたいと願うことでしょう。あのダビデでさえ、敵の手に取り囲まれたときこう言いました。「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。」(詩篇55:6)この言葉には、敵の手から解放されて主のもとに行きそこで休むことができたらどんなに良いことかという、彼の思いがよく表われています。

しかし、主は、ご自分の民がこの世から取り去られ、悪い者から逃れることよりも、この世に残って悪から守られることの方が重要であると思われました。戦いや誘惑から取り去られることは心地よいことのように思われるかもしれませんが、必ずしもそれが益になるというわけではありません。なぜなら、もしクリスチャンがこの世から取り去られたとしたら、どうやって神の恵みを証しすることができるでしょうか。イエス様は、山上の説教の中で、「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5:13-14)と言われました。もしクリスチャンがすぐにこの世から取り去られたとしたら、どうやってこの地の塩としての役割を果たすことができるでしょう。どうやって暗闇を照らす光となることができるでしょうか。私たちは地の塩、世の光として、自分自身をこの世に示していかなければなりません。

 

いったいどうやって示すことができるのでしょうか。私たちが主から与えられた使命を果たすためにはこの世に埋没していてはだめなのであって、神を必要としないこの世の原理に立ち向かい,苦闘しながらも、主から与えられた使命を果たしていかなければならないのです。そのためには、主の助けが必要です。この世を支配しているのは悪魔ですから、私たちのような弱いクリスチャンが素手で立ち向かえるような相手ではありません。14節から16節までのところで主はこう言っておられます。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」

イエス様はここで言っている「悪い者」とは悪魔のことです。イエス様が願っておられたことは、私たちクリスチャンがこの世から取り去られることではなく、この悪魔から守られることでした。いったいどうやって守られるのでしょうか。

 

11節に戻ってください。ここには、「わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。また、12節にも、「わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。」とあります。これはどういう意味でしょうか。これは、「神ご自身の御力によって」という意味です。この方は天地を創造された全能者です。また、私たちを罪から救ってくださった救い主です。そして死からよみがえられた勝利者であられます。この神の御名によって守ってくださるというのです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)イエス様は、この世にあっては何の苦難もないとは言われませんでした。苦難はあるんです。しかし、勇気を出すことができます。なぜなら、主はこの世に勝利されたからです。この方の御名によって、この方の力によって、私たちは守られるのです。私たちの力によるのではありません。

 

パウロは、ローマ8:35-39でこの真理を次のように言っています。

「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

キリストの愛から引き離すのはだれですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者となることができるのです。私たちがキリストを信じたことによって、神の子とされたからです。私たちには、ご自身の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が共におられます。この神が、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださるのです。

 

ですから皆さん、安心してください。あなたは悪魔から守られています。キリストを信じた時、神の御霊、聖霊があなたの内に住んでくださいました。主がいつも、またいつまでも、あなたとともにいてくださいます。神の愛と神の恵みが、あなたを取り囲んでいます。悪魔にやられるんじゃないかなぁと心配する必要は全くありません。なぜなら、イエスは、「わたしはすでに世に勝ちました。」と宣言されたからです。十字架に掛かる前に勝利の宣言をされました。そして、十字架の上で「テテレスタイ」「完了した」と言われました。私たちの罪の支払いは完了したのです。そして、イエス様は死からよみがえられました。死から復活されたことによって、死の力を持っている悪魔を完全に滅ぼされたのです。あなたは、この神の力で守られているのです。もしあなたがキリストを信じるなら、あなたは神の子とされ、あなたの内に、この世にいるあのもの(悪魔)よりもはるかに力のある方が住んでくださいます。あなたもキリストを信じてください。そうすれば、神の力によってあなたも守られます。ここでイエス様はそのように祈っておられるのです。このキリストの守りの中にあることを感謝しましょう。キリストの中にいるのであれば、そして、キリストがあなたの中におられるのであれば、あなたはこのキリストの力、神の力で完全に守られるのです。

 

それは何のためでしょうか。11節、「私たちと同じように、彼らが一つとなるためです。」彼らが一つの心、一つの思いになって、共通の敵に立ち向かい、共通の目標を目指して戦えるように、そして内輪もめや分裂によって分けられたり、弱められたり、麻痺したりすることがないように、彼らを保つためです。このことについては、次回の箇所でもう少し詳しくお話ししたいと思います。

 

Ⅲ.真理によって聖別してください(17-19)

 

 イエス様の弟子たちに対するもう一つの祈りは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。17節をご覧ください。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」真理によって彼らを聖別するとはどういうことでしょうか。

 

 聖別するとは、もともと神のために区別するという意味があります。この世のものから離れて、ただ神だけのものになるということです。旧約聖書では、イスラエルの民の初子は、人であれ、家畜であれ、神のものとして聖別されました。同じように、私たちもこの世にあって、神のものとして聖別されなければなりません。イエス様が言われたように、この世は悪に満ちているので、私たちがこの世に生きているかぎり、悪に汚れる機会がたくさんあります。家にいれば夫婦喧嘩をして汚れることもあるでしょう。テレビを観ていればいろいろな情報で汚れることもあります。家を一歩出れば、ママ友とのうわさ話や妬みで汚れます。ビジネスでは不正によって汚れることがあるかもしれません。しかし、神のものであるならば、それらのものから離れて、きよめられなければなりません。すなわち、この「聖別してください」というイエス様の祈りは、生活と品性において罪の汚れからもっと分離して、きよくしてくださいということだったのです。その思いとことばと行いと生活と品性において、もっときよく、もっと霊的に、そしてもっとキリストに似るものとしてくださいという祈りだったのです。神の恵みは、すでに彼らを召し、回心させてくださることによって示されましたが、その恵みがさらに高く、またさらに深められるために、彼らのたましいと、霊、からだのすべてにおいてきよめられ、イエス様ご自身に似る者とされるようにという祈りだったのです。イエス様を信じて救われることを新しく生まれる(新生)とか、義と認められる(義認)と言いますが、この新生や義認は完全で完成されたわざであり、イエス様を信じた瞬間に完成されますが、きよめられること、これを聖化と言いますが、これは、私たちの心にもたらされる聖霊による内的なわざであって、私たちがこの地上に生きている間は継続してなされるものです。ですから、イエス様は弟子たちのために救われるようにとは祈りませんでした。彼らは、イエス様が話されたことばによってすでに救われていたからです。彼らにとって必要だったのはきよめられること、聖別されることでした。

 

いったいどうやったらきよめられるのでしょうか。ここには、「真理によって彼らを聖別してください」とあります。「真理」とは何ですか。真理とは神のみことばのことです。みことばは、私たちが聖霊によってきよめられるために用いられるすばらしい手段です。人が救われるのもみことばによります。聖別されること、きよめられることもそうです。みことばが、人の心、精神、良心、そして感情に蒔かれ、強力に結び付けられることによって、聖霊はその人の品性をもっときよいものへと成長させてくださいます。人はよく座禅とか滝に打たれるといった修行を積むことによって、あるいは、欲を捨てることによって、また、宗教的な儀式を行うことによってきよめられると思っていますが、そうした外側からの働きかけは、残念ながら人をきよめることはできないのです。あなたがどんなに頑張っても、無理なんです。よく求道者の方とお話しをしていると、「どうですか、イエス様を信じてください」と言うと、多くの方がこのように言われます。「いや、もうちょっといい人間になったら信じます。」ならないです。もうちょっと良い人間になろうとすることはいいことですが、なりません。そうじゃないですか。いい人間になりましたか。なりません。悪くはならないかもしれませんが、欲もならない。どちらかというと、悪くなっています。生きていると考えなくてもいいことを考えたり、言わなくてもいいこと、やらなくてもいいことを言ったりやったりするからです。だから、どんなに頑張ってもいい人にはならないのです。じゃ、どうしたらいいんですか。イエス様を信じればいいのです。イエス様を信じるとその人には神の御霊が与えられ、全く新しく生まれ変わり、良い人へと変えられて行くからです。Ⅱコリント3:17-18にこうあります。「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」それは、御霊なる主の働きによるのです。ただ表面的に優しくなったとか、親切になったとかということではなく、根こそぎ変えられるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

すべてが新しくなります。イエスを信じることで喜びと平安、希望が与えられます。それはどんな状況にも奪われることのない希望です。神の愛がその人に注がれているからです。神様がいかに偉大で真実な方であるかを知るようになり、その神のみこころに従って生きていきたいという思いで心が満たされていきます。その結果、主の御霊が私たちを変えられていくのです。あなたの努力とか、頑張りとかによるのではなく、真理によってとあるように、あなたが神を信じ、神のことばに従うことによって、変えられていくのです。

 

ですから、聖書のみことばを規則正しく読むことと、説き明かされたみことばを聞き続け、それに従うことがどんなに重要であることがわかります。みことばは、気づかずして、私たちをきよめるために働いてくださるからです。詩篇119:9には、「どのようにして若い人は自分の道を、清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」とあります。それは若い人だけではありません。すべての人に言えることです。どのようにして、人は自分の道を清く保つことができるのでしょうか。神のみことばのとおりに、道を守ることです。そうすれば、私たちは自分の道を清く保つことができるばかりか、神のみこころにかなった者に変えられるのです。

 

 なぜきよめられる必要があるのでしょうか。聖別されなければならないのでしょうか。18節にはこうあります。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを遣わしました。」これがその目的です。神がキリストをこの世に遣わされたように、キリストもまた彼らをこの世へと遣わされます。つまり、クリスチャンはキリストの証人であり、その使命をしっかりと果たすためです。クリスチャンがこの世に遣わされたとき、その人と接した人が「この人は普通の人と違うなあ」「すごく暖かい感じがする」「本当に優しく親切だ」「私もあの人のようになりたい」と思うようであれば、その人は福音に耳を傾けたくなるでしょう。反対に、この人のようにはなりたくない、なんだか冷たいんだよね、というのではあれば、だれも聞きたいとは思わないでしょう。ですから、私たちがキリストの大使として、キリストの香りをこの世に放つために、きよめられる必要があるのです。

 

 バンク・オブ・アメリカのロサンゼルス支店で起こったことです。銀行の駐車場は利用客に限って無料でしたが、乱用する人が続出したので、全場所有料としました。ある日「有料になったことを知らなかったから今日は無料にしてくれ」と、ヨレヨレのシャツとジーンズ姿の60過ぎの男性が、窓口の係の人に頼みました。彼の後ろには順番待ちの人の列が出来ています。少しイライラした窓口係は、その男性に冷たく言い放ちました。「これはもう決まったことです。文句があるなら支店長に言ってください。ハイ、次の方!」

 仕方なくその男性は再び列の最後尾に並び、そして自分の番が来たとき、自分の口座から全額を下ろし、向かいの銀行に移し変えてしまいました。その額何と420万ドル、日本円で約4億5千万円でした。窓口係のチョットしたイラッとした態度が、この銀行に大きな損出をもたらしたのです。これはキリストの証人にも言えることです。私たちの態度が、その人に与える影響は大きいものがあります。イエス様の目と、イエス様の心と、イエス様の態度で接するなら、キリストの証人としてその使命を立派に果たすことができます。

 

 ちなみに、神奈川県の秦野市に愛鶴(あいず)タクシーという会社があります。この会社は不況のタクシー業界で業績を伸ばしている会社です。以前あるホテルと契約して仕事をしていた時、そのホテルの支配人から、「キミのところの会社はサービスというものが分かっていない、もう使わない」と言われてしまいました。社長の篠原さんは、その時へりくだってホテルの支配人を訪ね、「サービスについてゼロから教えてください」と頼みました。すると支配人は「その答えは聖書の中にある」と言ったのです。

 それは、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:31)という言葉でした。それから社長の篠原さんは、一生懸命お客様のニーズはどこにあるのかを考えたそうです。その中の一つのアイデアは、「福祉タクシー」というものでした。身体障害者やお年寄りの人たちの立場に立ったタクシーです。タクシーを改造し、運転手にはホームヘルパー2級の資格を取らせました。また、手話を習わせたりしました。するとどうでしょう。同業他社の人々は「昼間だけのタクシーで儲かる筈がない」と言って、篠原さんの試みを冷たい視線で眺めていました。しかしこの試みは世間の人々に受け入れられたのです。社会的弱者に優しいタクシー会社というイメージが拡がり、普通のタクシーの需要も伸びたのです。

 このような会社が伸びないはずがありません。キリストの言葉に生きるなら、そこには神のいのちと力が働きますから、必ず良い方向へと導かれるはずだからです。

 福音の宣教も同じです。大切なのはどのように伝えるかということではありません。だれが伝えるかということです。だれがとは、どのような立場の人がということではなく、また、どのような性格の人がということでもなく、どのような性質の人が伝えるのかということです。キリストの性質にある人が、キリストに似た人がキリストの証人として伝えるなら、神の栄光が現されることでしょう。イエス様はそのために彼らを聖別してくださいと祈られたのです。

 

 最後に19節をご覧ください。イエス様は、「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」と言っておられます。どういうことでしょうか。イエス様は完全にきよく、罪がないお方だったので、きよめられる必要はありませんでした。そのイエス様が、「わたしは彼らのために、わたし自身を聖別します」と言われたのです。この意味は、「わたしは自分自身を聖別して、祭司として、自分を犠牲としてささげます。」という意味です。それは、わたしの弟子たちが真理によって聖別され、きよい民となるためにです。それは、イエス様が間もなく十字架で贖いの死を遂げられることを意味していました。イエス様はまさにご自身を神のものとして聖別されたのです。それは、弟子たちが彼らに与えられた使命を果たすためでした。その使命とは何ですか。その使命とはキリストの証人として、この世に遣わされるということでした。

 

弟子たちはその初穂として遣わされたのです。彼らを通して福音が宣べ伝えられ、多くの人がキリストを信じて救われ、神の栄光が現されるようにと。同じように、神はあなたをこの世から選び、ご自身のもとして聖めてくださいました。救ってくださいました。それはあなたを通して神の栄光が現されるためです。私たちはキリストによって罪の赦しと永遠のいのちを受けました。しかし、それは完全になったということではありません。まだ弱さがあります。しかし、私たちには、そうした弱さを知ってとりなしてくださる方がおられます。イエス様です。イエス様があなたのために祈っておられます。あなたの弱さに同情してくださるだけでなく、あなたをそこから助け出して、力を与えてくださいます。そして、あなたを通してご自身の栄光を現してくださいます。私たちも内側からきよめられて、キリストの栄光、神の栄光を現す者となりましょう。そのために、イエス様はご自分のいのちをささげてくださったのです。

永遠のいのちとは ヨハネ17章1~5節

2020年7月5日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ17章1~5節(P219)

タイトル:「永遠のいのちとは」

 

 ヨハネの福音書17章に入ります。きょうは、「永遠のいのちとは」というタイトルでお話しします。一般の人にとって、永遠のいのちと聞いてもあまりピンとこないかもしれません。今をどう生きるかとか、どうしたら幸せに生きることができるかといったことならまだしも、死んでからのことなど考えたくないし、考える必要もないと思っているからです。しかし、永遠のいのちとは、死んでからのことだけではありません。今を生きる私たちが真に必要なものでもあります。それはたましいの救いであり、神がともにおられるということです。それとは逆に、死とは、神がおられないこと、神の呪いを意味しています。この世でどんなに成功し、名を上げたとしても、神の祝福がないところには真の幸福はありません。生きがいも、生きる喜びも持つことができません。ですから、永遠のいのちを得て、神がともにおられる人生こそ、ほんとうにすばらしいものなのです。

 

 それでは、どうしたら永遠のいのちを持つことができるのでしょうか。きょうは、このことについて三つのポイントでお話ししたいと思います。第一のことは、イエス様が十字架で死なれたのは、この永遠のいのちを与えるためであったということです。第二のことは、この永遠のいのちと何ですか。それは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。ですから、第三のことは、どうしたらこの永遠のいのちを持つことができるのかということです。それは、神の御子イエス・キリストを信じることです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていないからです。

 

Ⅰ.永遠のいのちを与えるため(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。」

 

「これらのこと」とは、13章から16章までのところでイエス様が話されたことです。イエス様は弟子たちに、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と言われました。それはご自身が十字架で死なれるが、三日目によみがえられること、そして、天に昇り神の右の座に着かれると、約束の聖霊をお遣わしになることを意味していました。その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださいます。その方を通して、主はいつまでも彼らとともにいてくださると約束してくださったのです。今は悲しみますが、その悲しみは喜びに変わります。だから、勇気を出してください。あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 

これらのことを話されると、イエスは目を天に向けて言われました。言われたというのは、祈られたということです。私たちは普通祈るときは目を閉じ、頭を垂れますが、当時は、目を天に向けて祈るのが一般的でした。しかし、祈りにおいて大切なことはどのように祈るかということではなく、どんな時でも祈ることです。また、イエス・キリストの名によって祈ることです。目を閉じて祈ってもいいし、目を開けて祈っても構いません。ひざまずいて祈ってもいいし、立ったままでも構いません。歩きながら祈るのもいいでしょう。家事をしながらでも、ウォーキングしながらでも大丈夫です。運転しながらでも構いません。ただ運転をしながら祈る時は十分注意しなければなりません。大変危険ですから。家内が祈る時は、いつも目を開けて祈ります。目をつぶると、そのまま夢心地になってしまうからですというのはうそで、目を開けたままの方が祈りやすいからだと言います。どのような姿勢で祈っても構いません。また声に出して祈ってもいいし、出さないで黙って祈っても構いません。どのように祈っても、神はあなたの祈りを聞いてくださいます。

 

イエス様は、目を開けて天を見上げ、声に出して祈られました。この章全体がイエス様の祈りです。これは大変珍しいことです。福音書の中にはイエス様が祈られたことがたくさん書かれてありますが、このように祈りの言葉が記録されてある箇所はあまり多くありません。あってもとても短い内容です。しかし、ここには長い祈りの言葉が記録されています。一般に、キリスト教会ではマタイの福音書6章にある祈りを「主の祈り」と呼んでいますが、それは主が弟子たちにどのように祈ったら良いのかを教えられたものであってイエス様の祈りそのものではありません。実際には、このヨハネの福音書17章が、主の祈りと呼ばれる箇所です。

 

この祈りは三つの部分に分けられます。まず、1節から5節までですが、ここでイエス様はご自分のために祈られました。次に6節から19節までです。そこには弟子たちのための祈りが記されてあります。そして、20節から26節までは、すべての時代の、すべてのクリスチャンのためのとりなしの祈りです。きょうは、その最初の部分です。イエス様がご自身のために祈られた祈りです。

 

ここでイエス様は、声に出さないで祈ることもできましたが、あえて声に出して祈られました。なぜでしょうか?それは、弟子たちがそれを聞くことができるためです。さらに、現代に生きている私たちすべてのクリスチャンが聞くことができるためです。というのは、この祈りを通してイエス様と父なる神がどれほど親しい関係であるのかを知ることができますし、また、イエス様がだれであるのかをはっきりと知ることができるからです。そして、イエス様があなたと私、すべてのクリスチャンのためにとりなしておられることを知ることができるからです。

 

それでは、イエス様の祈りを見ていきましょう。1節の後半をご覧ください。イエス様はまず、「父よ、時が来ました。」と言われました。「父」とは、アラム語で「アバ」です。これは父に対する親しい呼び方で、今日の言葉では「パパ」とか、「お父さん」という感じです。イエス様は父なる神を、いつも「アバ」と親しく呼びかけられました。

 

「時が来ました」何の時でしょうか。十字架に掛けられる時です。ヨハネの福音書で「時」とある時は、十字架の時を意味しています。イエス様は十字架に掛かって死なれるために来られました。それは、私たちの罪の身代わりとなってご自分のいのちを与えるためです。イエス様はこれまで何度も「わたしの時は来ていません」と言われましたが、12:23で初めて、「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と言われました。それで、13:1ではご自分の時が来たことを知られたイエスは、最後まで弟子たちを愛され、彼らの足を洗われました。そして、彼らだけに最後のメッセージをされたのです。それが16章までの内容です。そして、ここでイエス様は父なる神に向かって、「時が来ました」と言われました。ついに、その時が来ました。十字架に掛かる時が来たのです。この翌日、イエス様は十字架に付けられることになります。

 

「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。」どういう意味でしょうか?イエス様が十字架に掛かることが神の栄光を現すことであり、子の栄光を現すことでもあるということです。どうしてですか?それは、信じる者がみな、永遠のいのちを持つためです。そのために神は、すべてを支配する権威を子に与えてくださいました。それは、父が下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。イエス様が永遠のいのちを与えてくださいます。

 

ヨハネ5:24にはこうあります。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

イエスの言葉を聞いて、イエスを信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。ここでは、移るでしょうとか、移るに違いないというのではなく、その瞬間に移っているのです。イエスを信じる者は、その瞬間に永遠のいのちを持つのです。それは死んでからのことだけでなく、まだ死んでいない、この世にあってもということです。この世にあって天国を味わうことができるのです。なぜなら、神がともにおられところ、それが天国だからです。イエス様を信じてすべての罪が赦されると、神はご自身のいのちであられる聖霊を送ってくださいます。この聖霊によってさながら天国を味わうことができるのです。イエス様は、この永遠のいのちを与えるために来てくださったのです。

 

しかしここには、「それは、あなたが下さったすべての人に」とあります。それは、だれにでもではなく、神がくださったすべての人に、です。6:44には、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」とあります。父なる神が引き寄せてくれなければ、だれも父のもとに行くことはできないのです。それは、15:16でイエス様が言われたことでもあります。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」私たちがイエス様を選んだのではありません。イエス様が私たちを選んでくださいました。父が私たちを引き寄せてくださったので、私たちはイエスのもとに来ることができたのです。

 

1990年7月、福島で牧師をしていた時、金沢哲夫兄という方が信仰に導かれ受洗しました。金沢兄は、精神的な病を患っていましたがその中で純粋に求道し、救われました。以来30年間、病気のためになかなか教会に来ることができませんでしたが、その信仰を詩集にまとめて送ってくださいました。今回が5冊目となりますが、その中にお便りが入っていて、これが最後の詩集となります、とありました。腹膜全体にガンが見つかり、余命半年の宣告を受けたのです。イエス様を信じて、永遠のいのちが与えられたことを感謝しますとありました。

今回の詩集のタイトルは、「天地創造の神」ですが、これは兄弟の祈りです。

 

「祈らずにいられようか」

祈らずに いられようか

世界は とんでもないくらい 深いのだ

宇宙は とんでもなく 広いのだ

祈らずに いられようか

 

「祈り」

神は 世界を 変えるほどの 大きな 祈りにも 答えて くださる

けれど 個人的な 小さな祈りにも 答えて くれる

 

こんな詩もあります。

「煙草(たばこ)」(神は祈りに答えてくださる)

自慢できる話ではないが

私は苦難の日に エコーを 一日五箱吸った時があった

普段はピース・ライトを二箱吸っていた

近頃は メンソールのラーク10gを 二箱吸っている

値上がりしてからは 止めさせて下さいと 祈り始めた

それでも一向に減りそうもなかったので

一日一箱で間に合わせて下さいと 懇願した

そうしたら どうにか一箱で収まった

神は切なる祈りに答えてくださった

馬鹿なことを言う奴だと 思われるかも知れないが 大真面目なのだ 

経済的にも 健康の為にも 信仰のためにも

この調子では 止められそうな時が来ることは確実だ

 

その中で私が最も感動したのは、この詩です。

「今頃気付くなんて」(すでに祈られていたのだ)

今頃気付くなんて 私は無神論の時代から すでに祈られていたのだ

神を否定し 酒場で飲んだくれていた時も

ヒッピー・フーテン 放蕩三昧の時も すでに祈られていたのだ

今頃気付くなんて 旧約時代 人類が誕生した時

天地創造の時から 神はすでに祈っていたのだ 今頃気付くなんて

ニーチェやサルトル、ハイデッカー・マルクス その他の無神論者の哲学者、思想家達も

広大無辺な神にはかなわない

すでに祈られていたのだ(本当の意味での無神論者なんていない) 今頃気付くなんて

ニートやホームレス、酒場で飲んだくれているあなたも 祈られている

早く、教会へ行こう

 

これは、2013年3月に書かれた詩ですが、ずっと祈られていたのです。それにちっとも気付きませんでした。自分で信じたと思っていた。でも、祈られていたのです。人類が誕生した時から、天地が創造された時から、ずっと祈られていました。だから今、ここにいるのです。神が引き寄せてくださらない限り、だれもイエスのもとに行くことはできません。永遠の昔から、神が引き寄せてくださった方に、キリストは永遠のいのちを与えてくださるのです。あなたはそれに気付いていましたか。今からでも遅くありません。大切なのは、気付いたその時に主のもとに行くことです。

 

Ⅱ.永遠のいのちとは(3)

 

 それでは、永遠のいのちとは何でしょうか。3節をご一緒に読みましょう。

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

 

 永遠のいのちとは、唯一の真の神を知ることです。また、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。「知る」というのは、単に知識として知るというだけのことではありません。頭だけで理解することではないのです。体験的に、人格的に知ることです。神を信じているという方はたくさんいます。世界中にたくさんの宗教があります。みんな神を信じていると言いますが、果たしてその神とはどういう神でしょうか。日本には八百万の神と言って、八百万も神がいるんです。しかし、まことの神は唯一です。ただ一人です。そう聖書は教えています。その神によって天地万物が造られました。この神は、すべての存在の根源であられます。この方がまことの神です。そして、神はその中に住むすべてのものをお造りになられました。しかし、この神を見た者は一人もいません。また、見ることができない方です。人間がどんなに頑張っても、宇宙に行ったとしても、見つけることはできません。どんなに探しても、どんな宗教を作ったとしても、この神に到達することはできないのです。この神から近づいてくださらない限り、人は神を知ることはできません。

 

 しかし、この神から遣わされた方がいます。それがイエス・キリストです。神が人となって来てくださいました。「イエス・キリスト」という名前の「イエス」は、「神は救い」という意味です。「キリスト」は名前ではなく称号です。「油注がれた者」という意味があります。つまり、イエス・キリストは、救い主として神によって遣わされた方であるという意味です。まことの神はあなたを救う方であり、その方の名はイエスであるということです。ですから、イエスは神の子であり、救い主です。神が人となって来られた方であり、神ご自身であられるのです。

 

 この方は永遠なる方です。ヨハネ1:1には、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」とあります。この「初め」とは、永遠の初めのことです。何か起点があってそこから始まったというのではなく、始まりのない初めです。アルファであり、オメガであられます。最初であり、最後です。永遠なる方なのです。永遠なる方なので、永遠のいのちを持っておられるのです。一時的に神になったのではありません。永遠から永遠まで神なのです。その永遠のいのちを持っておられる方が、人となって来られました。そして、その永遠のいのちを与えることができるのです。

 

 ですから、キリストは「わたしと父とは一つです。」(10:30)と言われたのです。また、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)と言われました。そして、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通しでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)と言われました。キリスト抜きに神を知ることはできません。永遠のいのちとは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることなのです。あなたはこの方を知っておられますか。

 

 フランスのシャルル・ドゴール空港で、一人の英国人紳士が、ベンチに座って顔を伏せたまま動きませんでした。その様子を見ていた空港の警備員が心配そうに尋ねました。「ご気分でも悪いのですか」すると紳士は答えました。「いえ、そうではありません。ここにコンコルドで飛んで来たのですが、あまりのスピードに私の身体はここに着いたのですが、私の心はまだここに着いていないのです。それで心が追い付いて来るまで、ここでしばらく休んでいるのです。」

現代はあらゆるものが猛スピードで動き、まさに心が付いていくのが大変な時代です。その結果人々は、物質的な豊かさの中で心のバランスを失っているのです。日本の自殺者が毎年三万人を越えているのも、その表れだと思います。

私たちは、どうすれば心のゆとりや心の豊かさを保つことができるのでしょうか。どこに人生の基盤を置くのかということです。それを表面的で、物質的なこの世に置くのか、永遠のいのちに置くのかということです。もし、この世のものに基盤を置くなら、砂の上に家を建てた人のように、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、すぐに倒れてしまうことになるでしょう。しかし、もし堅い岩の上に置くなら、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、びくともしないでしょう。

 

ある女子高のクラス会が、温泉宿で、一泊二日で20年ぶりに持たれました。夕食の時、学生気分に戻って、誰とはなしに「ねえ、財布の中身を見せっこしよう」と言い出しました。「私、三十万円」「私、十万円」と言ってキャーキャー言い合っていました。一人の女性が「私、三千円」と言うと、皆シーンとなってしまいました。皆は、彼女の私生活を覗き見たような気がして、気まずい雰囲気が漂いました。帰り道、彼女の友人が気を遣って慰めました。「ゴメンナサイね、昨晩は大人げないことをしてあなたを傷つけちゃって」。しかし、彼女は平然として言いました。「大丈夫、私そんなこと全然気にしていないし、傷付いてもいないから。だって私、銀行口座に親の遺産が三十億あるんだもの」確かにそれだけの大金があれば、財布の中身比べにも動揺しないでしょう。しかし、世の中にはお金では解決できない問題が山ほどあります。ある資産家が臨終の床で医者に叫びました。「先生、いのちを助けてくれ!お金ならいくらかかってもいいから。」

 

この世界には、ただ一人だけ確かな方がいらっしゃいます。それは天地を創造されたまことの神です。この方と心のベルトがしっかりと掛けられている人は、何が起こってもあわてることはありません。あなたはいかがですか。永遠のいのちとは、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。この方としっかり繋がっていれば、そして、この方に支えられているという確信がある人は、何があっても動じることはないのです。

 

Ⅲ.救いのわざを成し遂げられたイエス・キリスト(4-5)

 

 では、どうしてイエス・キリストによらなければ、永遠のいのちを得ることができないのでしょうか。それは、御子イエス・キリストが十字架で私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったからです。4節と5節をご覧ください。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」

 

イエス様は、神のわざを行うようにと、神から遣わされました。そのわざとは何でしょうか。十字架と復活です。イエス様は多くの奇跡を行いましたが、その中でも最も大きなわざは、十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられることでした。イエス様は、そのわざを成し遂げて、地上で神の栄光を現したのです。

 

私たち人間は生まれながら罪を持っています。ですから、だれにも教えられなくても、わがままで、自分さえよければよいと考えるエゴイズムであるわけです。それは最初の人間アダムとエバが罪に陥ったからです。その結果、アダムの子孫として生まれて来るものは皆、その人が欲するか否かにかかわりなく、罪を持って生まれてくるのです。これを原罪といいますが、それを持っている限り、だれに教えられなくても罪を犯すのです。罪は、私たちの行いだけによらず、私たちの思いと言葉と行いによって犯します。よくないことを考え、それが心から口に出て、人を傷つけ、ついにはそれが行為にまで至り、神の御心をも、ほかの人をも傷つけてしまうのです。その罪には必ず償いが求められるわけで、その償いを果たし終えるまでは、どこまでも追いかけてきます。ですから、いつも何かに追われているような気がしてならないのです。平安がありません。その償いとは何ですか。聖書は、その償いは「死」であると言っています。その罪のために私たちは死ななければなりませんでしたが、私たちが死しなくてもよいように、神がその解決の道を備えてくださいました。それが十字架なのです。イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかって死んでくださいました。ですから、この方を、あなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。永遠のいのちを持つことができるのです。

 

 永遠のいのちは、死んでから持つものではありません。むしろ、この地上に生きている時に持つものです。

「私たちの齢は70年、健やかであっても80年です。そのほとんどは、労苦と災いです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」(詩篇90:10)

では、死んだらどうなってしまうのでしょうか。死んだら消えて無くなってしまうのではありません。では、何かに生まれ変わるのですか。違います。私たちは皆、信仰のある人もない人も、死んだら肉体は消えて無くなりますが、霊魂は永遠に生きるのです。問題は、その永遠をどこで生きるのかということです。聖書は、まことの神を知らなければ永遠の滅びに行くと言っています。イエス・キリストを信じなければ、火と硫黄の池に投げ込まれるのです(黙示録20:15)。死んだらすべてが終わるといいますが、そうではありません。燃える火の中で永遠に生きなければならないのです。それほど恐ろしいことはありません。聖書はそのことを厳かに教えています。脅しているのではありません。それが真実です。だから聖書は、私たちがそこに行かないようにと、神がひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださったのです。あなたの代わりに十字架で死なれるために。この方を信じる者は救われます。すべての罪が赦されて、天国に行くことができるのです。天国は聖なるところなので、少しでも罪があると入ることはできません。ですから、神はひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです。それが十字架と復活の御業でした。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。イエス様は、ご自分が行うようにと神が与えてくださったわざを成し遂げて、この地上で栄光を現しました。ですから、この救い主イエス・キリストを信じる者の罪は赦され、天の御国に入れていただけるのです。

 

 Ⅰヨハネ5:11-13にこうあります。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」

この御子を持つことが永遠のいのちです。あなたは御子を持っていますか。あなたの心の中には、御子イエス・キリストが住んでおられるでしょうか。この方と個人的に交わっておられるでしょうか。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。あなたがイエス・キリストを信じ、この方と親しい交わりを持つとき、そこに永遠のいのちが始まります。どうぞ、イエス・キリストを信じてください。イエス・キリストをあなたの心の中に迎え、この方との親しい交わりの中に生きてください。そこに神の国があります。神の国は、あなたがたのただ中にあるからです。この方を信じて、この神の国を生きることができるのは何という幸いでしょうか。あなたもその中に招かれているのです。

 

 先月、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さんで、拉致被害者家族会の前の代表であられた横田滋さんが召されました。横田さんはめぐみさんが失踪した1977年から、40年以上にわたって妻の早紀江さんとともにめぐみさんの救出を訴え、全国で署名活動を行ったり、1,400回を超える講演活動を行ってきました。

 早紀江さんは、めぐみさんが失踪した翌年に新潟の教会に導かれてクリスチャンになりましたが、夫の滋さんは長年、早紀江さんの信仰に理解を示しながらも、めぐみさんを突然奪われた苦しみから、信仰を持てずにいました。しかし、2017年に早紀江さんが通う川崎の教会で洗礼を受けました。

 早紀江さんのお話しによると、滋さんは、新潟でめぐみがいなくなった時、めぐみさんを捜し回り、泣きながら「神も仏もあるものか」と叫んでいたそうです。その時から「本当の宗教なんていうものはない。自分が強くなければ駄目なんだ」と言って、ちょっとでもキリスト教のことに触れると怒っていたようですが、早紀江さんが教会に通うことには反対しませんでした。

 そのように長い間、神様を拒んでいた滋さんでしたが、2017年に川崎の教会の牧師が「神様を受け入れますか」と聞くと、「はい」と言って素直に、にこやかに返事をされ、受洗に導かれたのです。「神も仏もあるものか」と思っていた滋さんでしたが、最後は神にすべてをおゆだねしたのです。

 滋さんが召される直前、看護師さんから「何でもいいから声をかけてあげてください。大きな声をかけてあげてください。」と言われた早紀江さんは、耳の近くまで顔を寄せて「お父さん、天国に行けるんだからね。気持ちよく眠って下さい。私が行くときは忘れないで待っていてね」と、大きな声でお話しすると、滋さんはうっすらと涙を浮かべた様子で、眠るように亡くなられました。

 「めぐみを助け出してからじゃないと逝けない」と言っておられた滋さんにとって、どれほど無念であったかと思いますが、しかし、そのことで早紀江さんが信仰に導かれ、最後には滋さんも信仰に導かれたことは、神様の大きなあわれみではないかと思います。そのことによってイエス・キリストを知り、永遠のいのちを持つことができたのですから。永遠の主イエス・キリストが、私たちの考えをはるかに超えた方法で最高の出会いを与えてくださるでしょう。

 葬儀には、60名ほどの方々が列席されたとのことですが、最後に早紀江さんが挨拶されました。その挨拶は、もう伝道メッセージだったそうです。滋さんが天国へ行ったことの喜びと平安、その力強い美しい生き方だけで、証しでした。

 「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」(ヨハネ4:47)

 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

 あなたも永遠のいのちを持ってください。それは、唯一のまことの神と神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。それは、あなたを罪から救ってくださったイエス・キリストにあるのです。

 

しかし、勇気を出しなさい ヨハネ16章25~33節

2020年6月28日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ16章25~33節(P218)

タイトル:「しかし、勇気を出しなさい」

 

 きょうは、ヨハネの福音書16章の最後の箇所からお話しします。この箇所は、13章から続いてきた弟子たちに対するイエス様のお話しの最後の言葉です。いわば遺言のようなものですね。誰の言葉でも、その人の最後の言葉は大切にされます。それは、自分がいなくなった後もこの言葉を握り締めてしっかりと生きて行って欲しいという、そういう願いが込められているからです。その最後のところで、イエス様が言われたことはどんなことだったのでしょうか。33節にこうあります。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

 何と力強い、そして慰めに満ちた言葉でしょうか。すべての説明を抜きにして、私たちの心に直接響いてくる言葉です。きょうは、この言葉を中心に「しかし、勇気を出しなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.平安を得るために(25-33a)

 

まず、第一に、イエス様がこれらのことを語られたのは何のためかということです。それは、彼らがキリストにあって平安を得るためです。33節の冒頭にこうあります。「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。」

 

「これらのこと」とはどんなことでしょうか。それは、イスカリオテのユダが去って行った後、主イエスが11人の弟子たちに語られたすべてのことです。これらのことを弟子たちに話されたのは、彼らが主にあって平安を持つためでした。

 

このことは、25節のところでも言われています。「わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。」イエス様は「これらのこと」をたとえで話しました。たとえば、前回のところでは、ご自分が十字架で死なれることと三日目によみがえられること、そして、聖霊として来られることの悲しみと喜びを、女性の出産のたとえで語られました。女は子を産むとき苦しみますが、子を生んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。そのように、悲しみは喜びに変わります。

しかし、弟子たちにはその意味がよくわかりませんでした。なぜですか?彼らの心は悲しみでいっぱいだったからです。悲しみでいっぱいだったのでもうそれ以上聞くことができませんでした。彼らにとって必要だったのは説明ではなく励ましでした。それで、悲しみは喜びに変わると言われたのです。イエス様は去って行かれますが、やがて聖霊が降り、すべてのことを教えてくださると言われました。

 

26節をご覧ください。「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。」

「その日」といつのことでしょうか。23節で見たように、聖霊が降られた日、ペンテコステのことです。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。それまではイエスの名によって求めたことはありませんでした。なぜなら、イエス様が彼らとともにおられたからです。ともにいて彼らの必要をすべて満たしてくださいました。しかし、その日には、約束の聖霊が降られた後は、イエスの名によって求めるようになります。その日には、イエスが天におられるからです。ですから、その日には、イエスの名によって直接父に求めるようになるのです。

 

なぜでしょうか。その理由が27節にあります。それは、「父ご自身があなたがたを愛しておられる」からです。なぜ私たちは直接神に祈れるのでしょうか。なぜ神に求めることができるのでしょうか。それは、神があなたを愛しておられるからです。なぜ神は私たちを愛しておられるのでしょうか。性格がいいからではありません。元気があるから。関係ないです。クリスチャンホームに生まれたから。違います。それは、「あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。」すごいですね。でも、彼らの信仰はどのような信仰でしたか。この後のところを見るとわかりますが、その数時間後にはイエス様を裏切って逃げてしまうような弱い信仰でした。それにもかかわらず、主は彼らの中に純粋で、真実な信仰があると認めてくださいました。神はあなたの弱さや私の弱さを十分知っていながら、それでも愛してくださったのです。なぜでしょうか。それは私たちがキリストを信じ、キリストが神のもとから来られた方であると信じたからです。

 

ユダヤ人たちはどうでしたか?信じませんでした。彼らは聖書を知っていました。宗教にも熱心でした。道徳的にも見た目にはいい人たちでした。毎週礼拝を欠かさず、聖書を教える立場にもありました。神はただお一人であると信じ、神を敬っているとも言いました。しかし、その神が遣わされた方を受け入れなかったのです。彼らの出した結論は、イエスは悪霊につかれているということでした。イエス様は、わたしは父から来たと言われましたが、彼らは信じませんでした。救い主を拒むなら、その方を遣わされた神を拒むことになります。しかし、弟子たちはイエスを受け入れ、イエスが神のもとから来られた方であると信じました。それで神は彼らを愛したのです。イエスを信じる者は神から愛されます。あなたは、イエス・キリストを信じておられるでしょうか。キリストは神の子、神が人となって来られた方であると信じているでしょうか。もしそのように信じているなら、あなたも神に愛されています。あなたが良いことをしたからではなく、神が遣わされた方を信じているので、神に愛されているのです。神があなたを愛しているのであなたは神に求めることができ、神はそれに答えてくださいます。だから、あなたは神に求めることができるのです。神の子とされたからです。求めなさい。そうすれば、受けるのです。

 

29~30節をご覧ください。「弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」

どういうことでしょうか?弟子たちは、イエス様が言われることを理解できませんでした。17節にもありますが、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るとはどういうことだろう。また、「私は父のもとに行くからだ」とイエス様が言われたことは、どういうことなのかわかりませんでした。何のことを言っているのかわからない、何で去って行こうとしているのかわかりませんでした。それで彼らはイエス様に聞けなかったので、こそこそと互いにつぶやいていたわけです。しかし28節で、主がはっきりと父のもとから出てこの世に来られたこと、そして再びこの世を去って、父のもとに行くと言われた時、それがどういうことなのかが分かりました。それで「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。」と言っているのです。それで、「ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」と言ったのです。すばらしい信仰の告白です。

 

でも、イエス様はそれに対して何と言われましたか。31~32節をご覧ください。「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」

弟子たちは、イエス様が神の子、救い主であると信じました。しかし、ここで「あなたがたは今、信じているのですか。」と言われました。それは、主が弟子たちの信仰の弱さを見抜いておられたからです。確かに彼らはイエス様を信じました。しかし、この後でどんなことが起こるのかを知っておられました。彼らの信仰が揺さぶられるということを知っておられたのです。それでこう言われたのです。

「見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。」

その時がすでに来ていました。その時とは、イエス様が十字架に付けられる時です。そのためにイスカリオテのユダが、祭司長や律法学者、役人たちを引き連れてイエスを捕らえるためにやって来ます。その時が来ていました。そして捕らえられると、弟子たちがどうなるのかを知っておられました。彼らは信じましたが、イエス様を捕らえる者たちがやって来ると、それぞれ散らされて自分の家に帰って行きます。そこには、イエス様だけが残されることになります。イエス様はそのことも知っておられました。知らなかったのは弟子たちだけでした。弟子たちは自分ではイエス様が言われることを完全に理解していると思っていましたが、実際のところは全く理解していなかったのです。

 

それは私たちも同じです。私たちもみことばを悟り、すべてを理解したかのように思い込んでいる時がありますが、実際には全く理解していないことがあるのです。パウロは、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(Ⅰコリント10:12)と言いましたが、自分が立っていると思っている人は注意しなければなりません。倒れないように気を付けなければならないのです。また、パウロは「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12:10)と言いましたが、そのように言うことができたのは、彼が自分のことをよく知っていたからではないでしょうか。自分がどれほど弱い者であり、いつ倒れてもおかしくないということをよく知っていたのです。主のみこころを知り、みこころに生きるためには、パウロのように謙虚な心で聖霊の助けを求めなければなりません。

 

しかし、弟子たちがそのようになることを知っていても、イエス様はここで失望されませんでした。がっかりだな、この人たちには。3年半もいっしょにいたのに、ちっともわかっていなかったんだな。いざとなったら自分がかわいいのか。残念!なんて失望なさいませんでした。なぜ?彼らのことを最初から知っておられたからです。そして人に頼っていませんでした。弟子たちを集めれば大丈夫、この人たちがいればもう安心だなんて思いませんでした。イエス様は父なる神、まことの神に信頼していました。ですから、すべての人に裏切られたとしても孤独ではありませんでした。父がともにおられたからです。イエス様の平安の源はここにありました。イエス様がこれらのことを話されたのは、信仰の弱い弟子たちを責めるためではありませんでした。そうてではなく、彼らが主イエスにあって平安を持つためでした。それは、状況によって変わるようなうわべだけのものではありません。どんな状況にあっても変わらないものです。主は弟子たちの弱さを十分知っておられた上で、彼らが戻って来られる道を備えておられたのでした。どんなに失敗しても、主にあって平安を得なさいというみことばは、世の終わりまで、私たちが覚えておかなければならないメッセージなのです。

 

Ⅱ.しかし、勇気を出しなさい(33b)

 

 次に、33節のその後の言葉をご覧ください。イエス様は、ご自分を裏切るであろう弟子たちを受け入れ、彼らが戻って来ることができるように道を備えてくださったばかりでなく、彼らに勝利の力も与えてくださいました。ここには、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。」とあります。

 

 何と力強い言葉でしょうか。この言葉は、この世を生きるすべての人が聞かなければならないメッセージです。なぜなら、私たちは世にあっては苦難があるからです。そうじゃないですか。問題のない人なんて一人もいません。私たちの人生には、いろいろな問題や苦難があります。辛いこと、苦しい、悲しいことが、次々と襲って来ます。特に、クリスチャンとして生きていこうとすると、迫害を受けることもあります。この世は悪魔の支配下にありますから、イエス様がそうであったように、イエス様を信じて生きる私たちにもあるのです。

 

「しかし」です。ここには、「しかし、勇気を出しなさい。」とあります。この「しかし」という言葉はとても小さな言葉ですが、この言葉の中には、神の大いなる決意が込められています。イエス様は、私たちが「しかし」と言わなければならない現実があることをよく知っておられた上で、勇気を出しなさいと言われたのです。

 

皆さん、「勇気」とは何でしょうか。「勇気」という言葉を辞書で調べてみると、いさましい意気。物に恐れない気概。何事にも恐れず立ち向かっていく気力がみなぎっているさま。とあります。勇気とは、怖いものや、危険なものに出会っても、それから逃げずに、立ち向かっていく、そういう、いさましい心のことであると言えます。昨年、日本でラグビーのワールドカップが開かれましたが、大きな男たちが怪我も恐れず真正面からぶつかり合う姿を見て、日本中が感動しました。確かに怖いはずです。怪我でもしたらどうしようと思うでしょう。それでもそこから逃げずに立ち向かっていくからこそ、感動が生まれるのではないでしょうか。それは私たちも同じです。私たちも勇気を必要としています。若い人には、色々なことにチャレンジしていく勇気が必要です。お年寄りの方には、昔のように思うように体が動かないかもしれませんが、そのことを受け入れる勇気が必要です。病気をして手術を受ける勇気。独り暮らしをする勇気。家族のことで悩んでいる人も、仕事に行き詰まっている人も、受験をする人も、就職活動をしている人も、新しい所に引っ越しをしようとしている人も、みんな勇気が必要です。

 

今年は、コロナウイルスの問題で世界中が混乱の中に置かれていますが、この世界的パンデミックにより、卒業式ができない全米の高校卒業生たちに向けて、オバマ前大統領がスピーチをしました。その中で彼は、このCOVID-19で、もし彼らが大学に進学することになっていて、秋にはキャンパスに通うつもりでいたのであれば、それはもはや当たり前のことではないかもしれないということこと、また、学校に通いながら仕事をするつもりでいるなら、最初の仕事を見つけることは難しくなるかもしれないということ、比較的裕福な家族でさえ、大きな不確実性を抱えているし、以前から苦労していた人たちは、危機に瀕しているということを前提に、彼は三つのアドバイスをしました。

その第一のことが、恐れるな、でした。アメリカはこれまでに奴隷制度、内戦、飢饉、病気、大恐慌、そして9.11とう困難な時期を経てきましたが、その度にそうした問題を乗り越え、いやむしろ以前にも増して強くなったのは、彼らのような新しい世代の若者が過去の過ちから学び、物事をより良くする方法を見いだしたからだ、と言ったのです。アメリカは今もコロナウイルスの問題だけでなく、人種差別の問題や、その他多くの問題を抱えていますが、そうした問題があることが問題なのではなく、問題は、それに立ち向かっていく勇気があるかどうかということです。そして、それはアメリカだけではなく全世界のすべての人に言えることであり、また、今の時代だけでなく、すべての時代に共通して言えることなのです。あなたはどうですか。あなたは勇気があります。

 

これは、イエス様が十字架につけられる前の晩に弟子たちに言われた言葉です。イエス様は、この言葉を語られた翌日に十字架につけられて、死なれます。その時弟子たちは、みんな怖くなって逃げて行きました。イエス様について行く勇気がなかったのです。みんな逃げて行ってしまったので、イエス様はたった一人で十字架への道を歩んで行かなければなりませんでした。でも、実は一人ではありませんでした。弟子たちがみんな逃げて行き自分一人が残されましたが、そこに父なる神がともにおられたので一人ではなかったのです。

 

私たちも一人でやらなければならないと思ったら恐怖でしょう。でも、私たちは一人ではありません。イエス様がともにおられます。イエス様はこう言われました。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」(14:20)父なる神がイエス様と一緒にいてくださるように、イエス様は、いつも私たちとともにおられます。だから勇気を出しなさい、と言われたのです。

 

マタイ28:20には、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」とあります。この「いつも」という言葉は、「すべての日にわたって」という意味があります。「すべての日」ですから、私たちが行き詰まった時も、病気の時も、死ぬ時も、いつもということです。いつもイエス様が一緒にいてくれるのです。イエス様は、私たちが苦しいこと、辛いこと、悲しいことに決して強くないということをよく知っておられるのです。いいえ、強くないどころかとても弱いということを知っておられるんです。だから、いつも一緒にいて助けてくださるのです。そして、こう言われるのです。しかし、勇気を出しなさい、と。

 

Ⅲ.世に勝利された主イエス(33C)

 

どうしてイエスが一緒におられるなら大丈夫なのでしょうか。最後にその理由を見て終わりたいと思います。33節の最後のフレーズを見てください。ここには、「わたしはすでに世に勝ちました。」とあります。イエス様は、私たちの弱さをよくご存じです。でも、私たちが苦難に遭うとき、そこから逃げなさいとは言われていませんでした。むしろ、勇気を出しなさいと言われました。なぜなら、イエスはすでに世に勝たれたからです。どういうことですか。イエス様は、十字架で死んで私たちの罪を贖ってくださったというだけでなく、三日目にその死の中からよみがえってくださったということです。十字架での死は、一見すると惨めな敗北のように見えます。しかし、主イエスは、その死からよみがえられたことで、この世を支配している悪魔を完全に打ち破られたのです。それが「わたしはすでに世に勝ちました」という言葉の意味です。このお方が、私たちとともにいてくださるのです。私たちとともにいて、私たちのために、私たちに代わって戦ってくださるのです。

 

大江健三郎さんのエッセイの中に、「チャンピオンの定義」という文章があります。それによると、チャンピオンという言葉には、「ある人に代わって戦ったり、ある主義主張のために代わって議論する人」という意味があるそうです。大切なことを、他の人の代わりに、担ってくれる人。それが、チャンピオンだというのです。そうであるなら、イエス様は、私たちのチャンピオンです。イエス様が、私たちに代って戦ってくださったからです。イエス様は、私たちに代って戦ってくださり、勝利してくださいました。私たちの戦いは、この主イエスという力強いチャンピオンによって支えられているのです。

 

ゴスペルシンガーソングライターの小坂忠さんの歌に、「勝利者」という賛美があります。

何が苦しめるのか/ 何が喜びを 奪い去るのか/ 

心の中にはいつでも/ 嵐のような 戦いがある

勝利者はいつでも/苦しみ悩みながら/ それでも前に向かう

勝利者はいつでも、苦しみ悩みながら、それでも前に向かって行くのです。勝利者という言葉を聞くと、皆さんはどのような姿を思い浮かべるでしょうか。勝利者という言葉は、挫折とか、失望とか、孤独といったこととは全く無縁で、表彰台の一番高い所で、大観衆の拍手でたたえられる姿を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、それは私たちが知ることのできる勝利者のほんの一面にしかすぎません。汗を流し、歯を食いしばって前に向かう時や、挫折や失望や孤独にさいなまれる時もあります。それでもあきらめずに前に向かって歩み続けるのです。それが勝利者だというのです。それは、主イエスが私たちに代わって戦ってくださるからです。私たちは何度も打ちのめされそうになることがありますが、すでに世に勝利された主イエスが私たちに代わって戦ってくださるので、それでも前に向かって進んで行くことができるのです。

 

この「勇気を出しなさい」という言葉ですが、宗教改革者ルターは、これを「慰められていなさい」と訳しました。かなりの意訳ですが、決して見当違いの訳ではないと思います。実に、勇気とは主によって慰められていること、主に慰められて生きることなのです。

戦争中に、理由もなく検挙され、拷問と、厳しい獄中生活に耐えたホーリネス系の教会の牧師たちは、7人の殉教者を出しながらも、勇気をもってその困難を乗り越えました。その勇気の源になったのは、まさにこの主イエスの御言葉による慰めでした。拷問を受けて命の危険にさらされ、御言葉に慰められて勇気を与えられ、弾圧に耐えたのです。ある牧師は、冬はマイナス30度にもなる樺太で、2年間も独房に入れられました。釈放後、その先生は、「慰められたのは、やはり御言葉でした」と語っておられます。まことの勇気とは、御言葉による慰めから与えられるのです。

その牧師たちの中に、米田豊という牧師がおられますが、米田先生は、獄中生活から釈放された時、骨と皮だけというような衰弱したお姿であったそうですが、先生が獄中で記されて日記の中に、このような言葉があります。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。この短い言葉の中に、御言葉によって慰められ、勇気を与えられたという人の、幸いの全てが込められているのではないでしょうか。人間的に見れば、どうして、過去が感謝だと言えるでしょうか。現在は平安などと、どうして言えるしょう。軍部の影響下にある裁判所がどんな判決を下すのか全く分からないのに、将来は信頼あるのみとはどういうことなのでしょうか。そのように思います。しかし、これが、神の言葉に生きる人の姿なのです。「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ」。この言葉の中には、「あなたがたは世にあって苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と言われたイエス様の言葉が響いています。すでに世に勝利されたイエス様がおられるので、勇気を出すことができます。過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ。そう言えるのです。

 

この「勇気を出しなさい」と訳された言葉は、「サルセイテ」というギリシア語ですが、この言葉はマタイ14:27にも使われています。弟子たちが、ガリラヤ湖を船で渡っている時、突然の嵐に遭って死の恐怖に襲われていたとき、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちの船に近づき、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われたあの「しっかりしなさい」という言葉です。そう言われてイエス様が船に乗り込まれるとどうなりましたか。風は止み、波は穏やかになりました。私たちは人生にはしばしば不安になり、勇気を失うことがあります。しかし、そんな時も私たちは決して一人ではありません。嵐の中を来てくださるお方が共にいてくださいます。嵐の只中で、私たちに近づいてきてくださるお方がおられるのです。そのお方が、私たちの船に乗り込んでくださり、嵐を静めてくださいます。力あるお言葉によって、私たちを慰めてくださり、平安を与えてくださるのです。

 

私たちは、人生の嵐の中で、主イエスが必ず私たちの船に乗り込んでくださることを確信して、勇気をもって人生の航路を進んで行きたいと思います。その秘訣は何でしょうか。信仰です。Ⅰヨハネ5:4-5を開いてください。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。私たちも人生の中で様々な困難、苦難、悲しみ、苦しみ、患難があります。聖書はないとは教えていません。あるんです。しかし、勇気を出してください。主イエスはすでに世に勝利されました。この方を神の子と信じる者は、神から生まれた者です。キリストを信じたあなたも同じ勝利が約束されています。あなたが今どんな困難の中にあるかわかりませんが、神はすべてを知っておられます。どうぞこの方に祈ってください。イエスの名によって祈ってください。あなたの祈りは必ず答えられますから。イエス・キリストは死んでよみがえられた方、今も生きて働いておられます。この方はあなたを愛しておられます。私たちは、この方に信頼して歩んでいきましょう。それが私たちの平安の秘訣であり、どんなことがあっても揺るがされることのない信仰生活の基盤なのです。

 

悲しみは喜びに変わる ヨハネ16章17~24節

2020年6月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ16章17~24節(P218)

タイトル:「悲しみは喜びに変わる」

 

 ヨハネの福音書16章からお話ししています。この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知られたイエス様は、自分の愛する弟子たちだけを集めて、最後のメッセージをされました。それが13章から16章までにある内容です。その中心は何かというと、ご自身が去って行くことは、彼らにとって益であるということでした。なぜなら、去って行けば、助け主をお遣わしになるからです。その方が来ると、その方がいつまでも彼らとともにおられ、また、彼らのうちにおられ、すべての真理に導いてくださいます。私たちの人生にはいろいろな問題が起こりますが、この聖霊の助けによって、また、聖霊によって書き記された聖書のみことばによって真理に導いていただくことができます。

 

きょうのところはその続きです。弟子たちは、このイエス様が言われたことがどういうことなのか理解することができませんでした。つまり、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」とは、どういうことなのかがわからなかったのです。

きょうは、このイエス様が言われたことについてご一緒に考えたいと思います。第一に、その意味です。しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るとはどういうことなのでしょうか。第二に、その結果です。すなわち、あなたがたの悲しみは喜びに変わるということです。そして第三のことは、だから、求めなさいということです。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 

Ⅰ.「しばらくすると」とはどういうことか(17-18)

 

まず、「しばらくすると」と言われた意味について考えてみましょう。17節と18節をご覧ください。「17そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」18 こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」

 

弟子たちは、イエス様が話していることがよくわかりませんでした。そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言いました。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」、また「わたしは父のもとに行くからだ」と言われるのは、どういうことなのだろう。」皆さん、これはどういう意味なのでしょうか。弟子たちだけでなく、私たちが見ても「うん?」と首をかしげるのではないかと思います。イエス様はその後のところで、「あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と言っています。このことばから考えると、次の三つの解釈が考えられます。一つは、十字架で死なれたイエス様が三日目によみがえられることを指しているのではないかということです。イエス様が十字架で死なれることは彼らにとって本当に悲しいことでしたが、そのイエスが三日目によみがえられました。彼らの悲しみは喜びに変えられました。

 

二つ目は、イエス様が聖霊として降臨されたペンテコステのことを指しているのではないかという解釈です。イエス様は苦しみを受けられた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され、40日にわたって彼らに現れて、神の国のことを語られました。そして、弟子たちと一緒にいるとき、彼らに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」(使徒1:4-5)と言われると、彼が見ている間に、天に上って行かれました。それから10日後ペンテコステの日に、主が約束したとおり、聖霊が降りました。弟子たちはイエス様が去って行かれたことで悲しみますが、その約束の聖霊が来られたことで喜ぶようになります。

 

そして三つ目は、イエス様の再臨の時を指しているのではないかという解釈です。主は、14:1~3でこう言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに向かえます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようになるためです。」

この約束からもう2000年以上が経ちました。しかし、主の御前では2000年も「しばらくすると」にすぎません。Ⅱペテロ3:8には、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。ですから、永遠なる主の目では2000年も「しばらく」にすぎないのです。しばらくすると、私たちもこの目で栄光の主イエスを見ることになるでしょう。この約束が近い将来、終わりの日に起こります。しばらくすると、イエスを見るようになるのです。

 

この三つの解釈のどれをとっても間違いではないように思います。しかし、このことを言われた文脈を考えると、これは、聖霊が来られる時のことを指しているのではないかと考えるのが最も適当であると思われます。というのは、16:7でイエス様は、「しかし、わたしが去って行くことは、あなたがたの益となるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」と言われたからです。この方が来ると、どうなるんですか?この方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかにされます。この方は真理の御霊だからです。この方が来ると、すべての真理に導いてくださいます。その流れの中で、このことが言われているのです。また、その後のところを見ても、その時、彼らの悲しみは喜びに変わるとあります。これはイエス様が復活されたときも、聖霊が降られたときも、主が再臨されたときでも言えることですが、その後にある、求めなさい、ということば考えると、これが一番良く当てはまるのは、ペンテコステの日であるからです。イエス様が復活されたときであれば、イエス様が一緒におられるので、イエスの名によって祈る必要はありません。また、イエス様が再臨される時も、イエスの名によって祈り求める必要はありません。直接イエス様と会ってお話しし、父なる神ともお話しすることができるからです。しかし、イエス様が天におられる時であれば、父なる神に祈り求める時には、イエスの御名によって求めなければなりません。ですから、ここでイエス様が「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見ます。」と言われたのは、ペンテコステに聖霊が降臨することによって、再びイエスを見るようになるということだったのです。

 

弟子たちにはそのことがわかりませんでした。理解することができなかったのです。皆さんはどうですか。聖書を読んでいてもこれはどういう意味なんだろうと、わからないことがあるんじゃないかと思います。私はしょっちゅうあります。もうずっと読み続けていますが、わからないことだらけです。だからこうして聖書を一節一節お話ししているのです。そうすれば、少しずつ見えてくると思っているからです。今、このヨハネの福音書からお話ししていますが、新約聖書はコリント人への手紙を残すだけとなりました。旧約聖書は、祈祷会で1章ずつ学んでいますが、創世記から始まってサムエル記第一まできました。イザヤ書も終わりました。私が生きている間に何とか全部講解できたらと願っています。そうすれば、後悔しないんじゃないかと・・。いずれにせよ、記されてみことばを「はい、きょうはどこから読もうかな」とパッと開いたところを読むというのではなく、規則正しく読むこと、また、説き明かされたみことばに聞くことが重要です。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」ということばも、前後の文脈から考えると何とかわかりますが、そうでないとチンプンカンプンになります。

 

感謝なことに、弟子たちはイエス様と共に生活し、イエス様から直接聞いたにもかかわらずわかりませんでした。それを考えると励まされます。弟子たちがわからないのが励ましというのはちょっと変かもしれませんが、そうでしょ。イエス様とずっと一緒にいた弟子たちでさえわからなかったのですから、私たちがわからないことがあっても当然だからです。彼らはひそひそと話していましたが、わかりませんでした。なぜわからなかったのでしょうか。それがいくらか抽象的であったということもあるでしょうが、そういうことよりも、聖霊が降っていなかったからです。イエス様は、13節で「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」と言われました。その聖霊が、まだ降っていなかったのです。だから、彼らの心の目が閉ざされていました。神のことばを聞いてもわからなかったのです。でも、聖霊が注がれたとき彼らの心の目が開かれ、「ああ、そういうことだったのか」と分かりました。私たちもそうです。今は分からないことがあります。でも、忍耐して聞き続けていくなら必ずわかるようになります。あなたのうちにおられる聖霊が、あなたをすべての真理に導いてくださいます。だから諦めないでください。諦めないで読み続けてください。必ずわかるようになりますから。

 

Ⅱ.悲しみは喜びに変わる(19-22)

 

次に、19節から22節をご覧ください。19節と20節には、「イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」とあります。

 

感謝なことに、イエス様は弟子たちが何かを尋ねたがっているのに気付かれました。そして、それがどういうことなのかを説明してくださいました。「まことに、まことに」とは、イエス様が大切なことを語られる時によく使われた表現です。これは、本当に真実なことです、という意味です。だから、よく注意して聞きなさいという思いが込められています。何が真実なことなのでしょうか。「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」ということです。

 

この後で、イエス様が言われたとおりのことが起こります。イエス様が十字架に付けられることで、弟子たちは嘆き悲しむようになります。そこにはイエス様を愛してガリラヤからついて来た女性たちもいましたが、彼女たちも嘆き悲しみました。しかし、喜ぶ者がいました。だれですか。「世」です。「世」とは神に敵対する世のことです。イエス様を信じない人たち、邪悪な世界の人たちのことです。当時のユダヤ教の指導者たちがそうでした。彼らはイエス様が十字架につけられて死なれたことで喜びました。しかし、その喜びは悲しみに変わりました。イエス様が死からよみがえられたからです。悪魔はイエスが十字架で死んだことで勝利したと思って喜びましたが、その死からよみがえられたことで、完全に滅ぼされてしまいました。喜びが悲しみに変わったのです。

 

しかし、弟子たちは逆でした。イエス様が十字架で死なれることで嘆き悲しみますが、その悲しみが喜びに変わります。死からよみがえられるからです。イエス様が十字架につけられることは耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしましたが、そのイエスがよみがえられたことで、悲しみが喜びに変わるのです。

イエス様が死んで三日目の日曜日の夕方のことでした。弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていたのですが、そこへイエス様が来られました。すると彼らの真中に立ってこう言われたのです。「平安があなたがたにあるように。」こう言って手と脇腹を彼らに見せられました。彼らはどうなりましたか。聖書にはこうあります。「弟子たちは主を見て喜んだ。」(20:20)悲しみが喜びに変わりました。そして、イエス様が天に昇り、約束の聖霊を注がれた時、弟子たちは喜びに満たされました。使徒2:46-47には、聖霊に満たされた弟子たちは、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民から行為を持たれた。」とあります。

 

聖霊に満たされている人は、喜びに満たされています。最終的には、イエス様が再び戻って来られる時、神の国に入れられて、永遠の喜びが与えられます。黙示録21:3-4には、その様子が次のように記されてあります。

「私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 

ここでイエス様は、弟子たちの質問に明確には答えませんでした。弟子たちが尋ねたかったことは、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」とはどうことかということでした。しかし、それがどうことなのかということについてはっきり言わなかったのです。なぜでしょうか。なぜなら、もう聞く力がなかったからです。彼らは悲しみでいっぱいでした。だから、あえて詳しく話さなかったのです。

 

私たちもそうでしょ。何でもかんでも知りたい時があります。特に苦しい時や悲しい時はそうです。なぜこういうことが起こるんですか、なぜこんなに苦しまなければならないんですか、なぜ悲しまなければならないんですか、教えてください牧師さん・・。そういう時、本当に答えに悩みます。だってその人は説明してほしいわけじゃないんですから。ただその気持ちを受容してほしいだけです。人生にはこういうことがあって、これも神のお導きということがあるんです。それは、私たちをさらに成長させるために、神が用意してくださった恵みなんですと言っても、聞く耳を持ちません。聞きたくないのです。悲しみで心がいっぱいだからです。だから、説明が必要な時とそうでない時があるんです。この時弟子たちに必要だったのは説明ではなく約束でした。だからイエス様は弟子たちにそのことについて説明したのではなく、約束を与えたのです。「あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」

 

皆さんはどうですか。何かのことで悲しんでいませんか。苦しんでいませんか。そういう人は、この神の約束を信じてください。悲しみは喜びに変わります。いつですか。「しばらくすると」です。それがいつなのかははっきりわかりませんが、必ずやってきます。

 

イエス様はそれを出産のたとえでお話しされました。21節です。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」

私にも3人の娘がいますが、3人とも出産に立ち会うことができました。とても感動的でした。特に最初の娘が生まれた時は、「おぅ、これが私の分身か」と感動したのを今でもよく覚えています。いのちの誕生というのは、本当にすばらしいですね。でも大変です。私は男ばかり兄弟4人ですが、 兄弟が4人もいるとパッと生まれてきたんじゃないかと思っていたのですが、そうじゃないんです。いのちがけです。陣痛が来るとかなり苦しいようなのです。ようなのですというのは、実際に経験したことがないのでわからないのですが、家内の話ではかなり痛いらしい。私の痛風とどっちが痛いかと聞いたら、比べものにならないというのです。風が吹いただけで痛いので痛風というのに、それよりも痛いとしたらかなりの痛みです。私たちはラマーズ法という呼吸法で産んだのですが、家内が苦しそうなので、「ほら、ラマーズやろう、ヒッ、ヒッ、フー」なんてやると、「うるさい!」と怒られるのです。うるさいって、この時のためのラマーズ法じゃないのか、今やらなかったらいつやるんですか、だから「やるよ、ヒッ、ヒッ、フー」なんて言うと、怒りがエスカートして、何が飛んでくるかわからない状態になるのです。つくづく思いました。男に生まれて良かった!と。胃カメラの内視鏡検査だって大変でもう二度とやりたくないと思っているのに、出産はその比ではありません。出産の度に女性は強いなぁ、忍耐強いなぁと感動します。

 

その子どもの誕生ほど大きな喜びはありません。しかし、最初から喜びがあるのかというとそうではなく、その前には痛みがあります。苦しみを通るのです。しかし、子どもが生まれるとどうでしょう。その喜びのために激しい痛みを忘れてしまいます。もう覚えていません。悲しみが喜びに変わるとはそういうことだというのです。

 

旧約聖書にヨセフという人物が登場します。彼はヤコブの11番目の子どもでしたが、父ヤコブから他のどの兄弟よりも愛されました。ところが、彼が17歳になった時に、ある夢を見ました。それは、畑で束を作っている夢でしたが、兄たちの束が自分の周りに来て、自分の束を伏し拝むというものでした。それを聞いた兄たちは、「おまえが私たちを治める王にでもなるというのか」とカンカンに怒り、その夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになりました。そればかりか、ヨセフが再び見た夢のことで、兄たちの怒りは限界に達しました。その夢とは、太陽と月と11の星が自分を伏し拝んでいるというものでした。それは、自分たちだけでなく、父と母もみなヨセフを拝むようになるということを示していました。それで兄たちはヨセフを殺そうと企みました。それで自分たちを捜しに来たヨセフを穴に投げ込んでしまおうとしましたが、ちょうどその時イシュマエル人の商人が通りかかったので、 銀貨20枚で彼を売り飛ばしてしまいました。

そのイシュマエル人はヨセフをエジプトに連れて行くと、エジプトの侍従長、今でいうと天皇に仕える人たちの長ですが、その家の奴隷として売られてしまいました。彼としては、どれほど悲しかったことでしょう。しかし、不幸はそれだけでは終わりませんでした。主がヨセフとともにおられたので、侍従長の家はヨセフのゆえに祝福されました。そして、妻以外のすべての管理を彼に任せたのです。

ところが、ヨセフがかなりの男前だったのか、その妻が彼を誘惑するのです。ヨセフはその妻から逃れようとしましたが、必死に抵抗した際に衣服を取られ、それでヨセフが彼女を襲ったと濡れ衣を着せられて、何と地下牢に入れられてしまったのです。どうして自分の人生にこういうことが起こるのかと、彼は悲しんだことでしょう。

しかし、そんな時エジプトの王ファラオが夢を見ました。ファラオは、それがどのようなことなのかを解き明かすためにエジプト中の賢者たちを集めましたが、誰一人としてその夢を解き明かすことができる者はいませんでした。そこでヨセフが呼ばれ、その夢を解き明かすと、彼は一夜のうちに大臣に引き上げられました。それはまさに夢のような出来事でした。しかし、もっと夢のような出来事が彼の人生に起こります。

それからしばらくすると、エジプトの王ファラオが見た夢の通り、世界中に飢饉が起こりました。エジプトではヨセフが大臣となって食料をしっかりと管理していたので全く問題はありませんでしたが、その他の国々ではその飢饉に耐えることは困難でした。それはカナンの地にいたヤコブの家も例外ではなく、彼はエジプトに食料があるということを聞くと、何人かの息子たち、すなわち、ヨセフの兄たちをエジプトに遣わしたのです。兄たちがヨセフのところに来たとき、ヨセフはエジプトの言葉を話していたので、まさかそれがヨセフであるとは気付きませんでしたが、ヨセフにはそれが自分の兄たちであることがすぐにわかりました。ヨセフはそのことをすぐに兄たちに告げることをしませんでしたが、兄たちの姿を見ていて、自分を制することができなくなり、そばに立っているすべての者をそこから出し、兄弟たちに自分のことを明かしたのです。兄弟たちはヨセフを前にして、驚きのあまり何も答えることができませんでしたが、そんな兄たちにヨセフはこう言いました。

「私は、あなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。というのは、この二年の間、国中に飢饉が起きていますが、まだあと五年は、耕すことも刈り入れることもないからです。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(創世記45:4-8)

この涙は、悲しみの涙ではありません。喜びの涙です。ヨセフははっきりわかりました。どうしてあんな夢を見たのか、そのことで、どうして兄たちに憎まれ、エジプトに奴隷として売られ、あんなに苦しみを味わわなければならなかったのか、しかし、それがイスラエルを救う神のご計画だったということがわかったとき、その悲しみが喜びに変えられたのです。

 

このとき弟子たちはどうでしたか。彼らも悲しんでいました。イエス様が王となってイスラエルをローマから救ってくれると信じていたのに、王になるどころか十字架で死なれるということを聞いて失望していました。自分が期待していたことと違うとき人々は失望します。私たちもそうでしょ。自分が期待していたことと違うことが起こるとき失望します。「なぜですか・・」と。弟子たちもそうでした。それで彼らは悲しみでいっぱいになり、混乱していたのです。そこでイエス様は彼らに約束を与えてくださったのです。「あなたがたは今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたに会います。そして、あなたがたの心は喜びで満たされます。その喜びを奪い去る者はありません。」今は悲しんでいますが、イエス様と再びお会いする時が来ます。その時は喜びます。それはだれかに奪い去られるようなものではなく、永遠の喜びです。

 

皆さんの喜びはどのようなものですか。家庭が幸せであること、もちろん、それはすばらしいことです。仕事が祝福されること、それも感謝なことです。しかし、そのような状況はいつも変化します。家庭に問題が起こることがあれば、仕事もうまくいかない時もあります。そのような時はどうでしょうか。なかなか喜ぶことができません。喜びが奪われてしまいます。もしそのように外側の祝福だけを見ていたら、アップダウン、振り回されてしまうことになります。しかし、クリスチャンの喜びはそういうものとは違います。状況がどうであれ、経済的に豊かであるかどうか、そういうことと関係なく、もう救われているのです。永遠のいのちが与えられていること、それが祝福であり、喜びなのです。あなたは永遠のいのちを持っていますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。神の霊、聖霊があなたの内側に住んでいますか。もしイエス・キリストを信じ、聖霊があなたのうちにおられるなら、あなたの喜びは尽きることはありません。

 

状況はいつも変わります。喜べない状況というのはいくらでも起こって来るのです。信仰を持ったら悲しいことが起こらないとか、苦しいことが起こらないということはありません。信じていない人と同じように、悲しいことや苦しいことも起こります。裏切ることも、裏切られることもあります。ひどいことを言われることもある。失望することはしょっちゅうです。もう誰とも話したくないと思うこともあります。でもこのようなことが起こる時というのは、大抵その問題にばかり心が奪われている時です。そのことばかり考えているのです。そして、自分の内側だけを見つめてしまうのです。それでよけいに落ち込むわけです。しかし、私たちの目が上に向くなら、私たちの心をイエス様に向けるなら、私たちの悲しみは喜びに変わります。過去の出来事に捉われるのではなく、主が与えてくださる約束という将来に目を向けるなら、悲しみは喜びに変わるのです。これは弟子たちだけでなく、あなたへの約束でもあります。あなたの悲しみも喜びに変わります。いつですか?しばらくすると。主はあなたを捨てて孤児にはなさいません。どんなに辛いときでも、どんなに苦しい時でも、あなたとともにおられ、あなたのうちにいて、あなたを助けてくださいます。あなたの目がイエス様に向くなら、あなたの悲しみは喜びに変わるのです。

 

前にも紹介しましたが、一つの美しい詩を紹介します。マーガレット・F・パワーズが書いた「あしあと」という詩です。

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

あなたの人生でいちばん辛く、悲しいとき、イエス様があなたを背負ってくださいます。このイエス様に目を向け、この方にしっかりととどまり、この方に信頼するなら、あなたの悲しみは喜びに変わるのです。油断すると、またすぐに心が沈みます。ですから、主を見上げてください。もうしばらくすると、主が来られます。あなたの悲しみは喜びに変わるのです。

 

Ⅲ.あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるため (23-24)

 

最後に、23節と24節を見て終わります。その日にはどうなるのですか。「その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」

 

「その日」とはいつのことですか?ペンテコステ、五旬節の日です。その日には、弟子たちはイエス様に何も尋ねません。なぜですか?直接父なる神に尋ねることができるからです。これまではイエス様がいつも彼らとともにいて、彼らの願いを聞き、その願いをかなえてくださいましたが、その日には、イエス様に何も尋ねません。もちろん、その日には、イエス様はもうこの地上にはいませんから。天に上り神の右の座に着いておられます。しかしそれよりも、直接父なる神に祈れるようになるからです。どういうことですか?聖霊が注がれるということです。聖霊が注がれるということは、すべての罪が赦され、神の子どもとされたということです。イエス様は、聖書が示すとおり、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられました。そして、天に上って行かれました。それが本当であるということの証拠として神は聖霊を送ってくださったのです。すなわち、イエス・キリストを信じる者はだれでも罪が赦され、神の子どもとしていただけるのです。だからもうイエス様に尋ねなくてもいいのです。直接、神に尋ねることができます。神に祈ることができます。神の子どもとされたのですから。そして、イエスの名によって父に求めるなら、父は何でもあなたに与えてくださいます。

 

イエス様はこのことを何度も繰り返して語られました。14:13、14には、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。」とあります。また15:7でも、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」と言われました。また、15:16でも、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあります。イエスの名によって求めなら、父は何でも与えてくださいます。

 

だから、私たちに必要なことは、「求める」ということです。24節には、「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」とあります。求めるなら受けるのです。問題は、それは何のためかということです。ここにはその目的が記されてあります。それは、あなたがたの喜びが満ち溢れるようになるためです。私たちの喜びが満ち溢れるようになるためです。悲しみが喜びに変わるというだけでなく、その喜びが満ち溢れるようになるために、神は私たちの祈りに答えてくださるのです。どうですか、皆さん、私たちがこれを体験することができたら本当に喜びに満ち溢れるようになるのではないでしょうか。ピリピ4:19には、「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とありますが、これが単に頭だけでなく、体験を通して知ったなら、信仰が血となり、肉となって、私たちのものとなるのではないでしょうか。

 

祈りにおいてもそうです。何か問題や困難にぶつかり、自分の力では到底解決できないことを知った時、生きておられる本当の神を知らない人は、そこで自暴自棄になるか、そこから逃避するか、あるいは、それとは別の自分に都合のよい問題を作り出し、それと取り組んでいるのだと自分に言い聞かせることで、本当の問題を避けようとするか、ごまかすことでしょう。しかし、それは決して問題の解決にはならず、そのままそこに残り続けることになります。けれども、クリスチャンは自分が無力であることを知っており、また自分が考える解決は、いつも自分にとって都合のよいものであって、それが本当の解決ではないということを知っているので、主イエスの名によって父なる神に祈り求めます。そうする時、必ず本当の解決が与えられ、それに従う時、すばらしい解決が与えられるということを体験して、喜びに満ち溢れるようになるのです。そういう体験がないと、「あ、祈りは聞かれるのね」という、単なる観念的な信仰に終わってしまいます。しかし、それを体験として持っている人は違います。苦しみの中にも主が与えてくださるという確信によって喜ぶことができるからです。

 

福島で牧会していたとき、新会堂建設に取り組んだことがあります。若い者ばかりで、果たして私たちにできるだろうかと思いましたが、もちろん、私たちできることではありませんでした。しかし、神のあわれみによって、神に祈り求めたとき、神が働いてくださり、不思議な方法で与えてくださいました。そこは市街化調整区域といって建物が建てられない土地でしたが、神様が祈りに答えてくださり、福島県では前例がありませんでしたが、開発許可を与えてくださったのです。それでさらに建築に必要な資金もすべてを満たされました。しかし、その最初の奇跡は、宗教法人が認可されることでした。それがないと開発許可の申請もできなかったからです。そのためには、私たちの自宅を教会の名義にしなければならなかったのですが、そのために銀行からの借り入れの際に設定した抵当権を抹消しなければなりませんでした。抵当権というのは、銀行から借りいれた資金を返済できない時に、その家なり土地を担保にすることですが、それを抹消するためには、銀行から借り換えて、かつ新しい借り入れには抵当権を設定しないために保証人を立てなければなりませんでした。自宅のローンも半分くらい支払っていたのでそれほど多額ではありませんでしたが、その保証人となると、かなりの資産を持っている人でなければなれませんでした。教会の人たちを見渡してもそんなに資産のある人はいませんでした。そのとき主が、このみことばを与えてくださいました。マタイ7:7-8のみことばです。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」本当かなあと思いましたが、信じて祈りました。

すると、こういうことがありました。その頃、ご両親が老舗洋服屋さんを営んでいる姉妹が信仰に導かれました。そして、既にイエス様を信じていた二人のお兄さんも私たちの教会に加えられて信仰が熱心になったことでクリスチャンのお母さんが驚かれ、自分にも聖書の学びをしてほしいと言われたのです。それで7回でしたが聖書の学びを行うと、学びの最後にこう言われたのです。「あの、私どもは本当に何もできないのですけれども、もし何かお役に立てるようなことがあれば何なりと言ってください。」

私は、その時は何も考えていなかったので、「ありがとうございます。その時にはよろしくお願いします。」と言って別れましたが、その夜、そのことを家内に告げると、家内が「もしかすると、神様はその方を用いておられるのではないでしょうか」と言ったのです。でも、保証人になるって大変なことでしょう。まさかお願いなんてできないなと思いましたが、とにかくお願いしてみたのです。

後日、その方のご主人から電話が来て、その方のお店に行くことになりました。するとその方がこう言いました。「先生、うちは先祖代々、人様の保証人にはならないことになっているんです。」ガ~ンです。そうだよな、無理に決まっている。心でそう思っていた時、この方が続いてこう言ったのです。「うちは先祖代々、人様の保証人にはならないことになっているんです。でも、今回は違う。人様の保証人ではなく神様の保証人です。だから、喜んでさせていただきます。」

びっくりしました。てっきりだめかと思っていたので、こんなこともあるのかと思い、神様に感謝しました。そのために祈っていたのに、こんなこともあるのかって思ったのです。祈っていても、信じて祈っていないということですね。でも、神様はそんな祈りでも聞いてくださいました。それで、その後さらにいろいろな困難がありましたが、600坪の市街化調整区域を取得し、新会堂を献堂することができたのです。

 

問題は、私たちが求めないことです。求めなさい。そうすれば受けるのです。それは、あなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。皆さんも、どうぞイエスの名によって求めてください。そうすれば受けるのです。それは、あなたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。今まで味わったことのないような喜びを体験するでしょう。

 

しばらくすると、悲しみは喜びに変わります。そして、その喜びは、だれも奪い去ることはできません。いや、あなたの喜びが満ち溢れたものとなるために、神はあなたの祈りに喜んで答えたいのです。神の子としていただいたということはそういうことなんです。求めなさい。そうすれば受けるのです。あなたの喜びが満ち満ちたものとなりますように。イエスの名によって何でも祈りましょう。あなたの悲しみは喜びに変わるのです。

その方が来ると ヨハネ16章1~16節

2020年6月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ16章1~16節(P217)

タイトル:「その方が来ると」

 

 ヨハネの福音書16章に入ります。きょうのタイトルは「その方が来ると」です。「その方」とはだれですか。その方とは、助け主であられる聖霊のことです。その方が来ると、どうなるかということです。

 

この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知られたイエス様は、自分の愛する弟子たちだけを集めて、最後のメッセージをされました。それが13章から16章までにある内容です。この翌日、イエス様は十字架に掛けられて死なれるわけですが、その前に弟子たちに大切なことを教えられました。特に、前回のところでは、世があなたがたを憎む時、どうしたら良いかというお話しをされました。イエス様を信じて生きるというのはすばらしいことです。そこにこの世では得られない祝福を得ることができます。その一つは、キリストを信じる者は神のわざを行うことができ、また、イエスの名によって祈るなら、何でもかなえられるということでした。その結果、私たちは喜びに満ち溢れるようになります。そればかりか、心にイエスの平安を持つことができます。それは、世が与えるのとは違います。それは、状況によって変化するような平安ではなく、どんな状況にあっても変わらない平安です。

 

しかし、クリスチャンになるということは、良い事ばかりではありません。すべてがバラ色になるというわけではないのです。なぜ?世があなたがたを憎むからです。この世とは、神に敵対する世のことです。ですから、クリスチャンになるとこの世とは考え方や価値観が変わるので、そこには当然対立が生じます。イエス様ご自身がそうだったわけですから、イエス様を信じ、イエス様に従うクリスチャンが、同じように迫害を受けるのは当然のことです。しかし、安心してください。イエス様は何と言われましたか。20節、「しもべは主人にまさるものではない」と言われました。しもべとは私たちのこと、主人とはイエス様のことです。しもべは主人にまさるものではありません。イエス様が受けられたほどの苦難を受けることはありません。むしろ、イエス様が父なる神のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊によって、大胆に、確信をもってイエス様を証しすることができます。今日は、その方、真理の御霊が来る時、どうなるのかについてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.これらのことを話したのは(1-6)

 

まず、1~6節までをご覧ください。1節をお読みします。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」

「これらのこと」とは、今、お話ししたことです。クリスチャンはこの世の人々から憎まれ、迫害されることがありますが、そういうことが起こってもあわてふためく必要はありません。そのためにイエス様は、前もって話してくださったのです。もし前もって話さなかったらどうなるでしょう。「こんなはずじゃなかった・・・」ということになります。人は、苦難に遭うと疑いが起こってくるものです。クリスチャンになると祝福されて、何でもトントン拍子にうまくいくと思っていると、そうでない現実が襲ってきた時、神様の存在さえも疑うようになり、信仰から離れてしまうことさえあります。もちろん、クリスチャンになると、苦難ばかり襲ってくるのかというと違います。クリスチャンになると、私たちが抱えていた問題が解決します。神を信じない人の世界観というのは閉ざされた感があります。何をやっても空しいでしょう。昔の伝道者はこう言いました。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)「空」と言っても食べるという意味の「食う」じゃありませんよ。空しいということです。日の下でどんなに労苦しても、それがいったい人にとって何の益になるのでしょう。たまに刺激的なことがあったとしても、同じ日々の繰り返しの中で歳を取り、やがてその生涯を終えます。すべてが空しく、風を追うようなものです。けれども、イエス様を信じて神の子とされ、神がともにおられるということを体験すると、この世では得られない解放感を味わうことができます。ですから、それまでとは違った喜びと感謝にあふれるようになるのです。しかし、私たちがクリスチャンになるということは、悪魔の支配下から神の支配下に移されるということですから、そこには当然それをおもしろく思う者がいるわけです。悪魔です。そして、あの手この手を使って神から引き離そうとするのです。このことをよく知っておけば、クリスチャンになってから起こる様々な困難や苦難に対しても、対処することはそれほど難しいことではありませんが、そうでないと、「何でそうなるの」と嘆いてみたり、つまずいたりすることになります。イエス様はそういうことがないように、このことを前もって弟子たちに話されたのです。

 

では、具体的にどういうことが起こって来るのでしょうか。2節には、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。」とあります。「会堂」とはユダヤ教の会堂のことです。当時、会堂は礼拝をする所だけでなく、子供たちの学校であったり、人々の揉め事を仲裁する裁判所であったり、生活に関するあらゆる場所として使われていました。そこから追放されるということは、当時のユダヤ人社会から追放されることを意味していました。いわゆる村八分です。村八分にされることほど恐ろしいことはありません。それは学校でのいじめの論理と同じです。日本人がクリスチャンになることを恐れる理由の一つがここにあります。つまり、日本人がクリスチャンになることを恐れるのはクリスチャンが少数派であって、大部分がそうではないからです。みんなやってることだものと、長いものには巻かれていれば安心感はあるでしょう。しかし、そうした自分を欺くような生き方は主体性というものが失われ、結局のところ、「俺の人生は何だったんだろう」ということになります。クリスチャンとして生きるということは、確かにそこに戦いはありますが、本当の生きる目的と喜びを実感しながら生きるということなのです。

 

いったいなぜ彼らはそこまでクリスチャンを迫害するのでしょうか。その理由が3節にあります。「彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。」

ユダヤ人はアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民だと思っていました。民族的には確かにそうです。彼らには神からの律法、旧約聖書が与えられていたので、キリストについては良く知らなかったとしても、父なる神についてはよく知っていたはずです。それなのに、彼らは神から遣わされたキリストを受け入れなかったばかりか、その方を十字架に付けて殺してしまいました。なぜ?神を知らなかったからです。知っているようで実際にはそうではありませんでした。もし神を知っていのであれば、神から遣わされた方を拒むことはしなかったでしょう。それをしたということは、本当の意味で神を知らなかったということなのです。キリストを通してでなければ、だれも神を知ることはできません。どんなに宗教的に熱心であっても、それが必ずしも神を知っているというわけではないからです。

 

4節と5節をご覧ください。イエス様がこれらのことを話された理由がここにかかれてあります。それは、「その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」「その時」とはクリスチャンが迫害される時のことです。その時が来たとき、イエス様がそのことについて話されたことを彼らが思い出すためでした。イエス様は、初めからこのことを話しませんでした。なぜなら、イエス様がともにおられたからです。どんなに敵が攻めて来ようとも、イエス様がともにおられたので安心でした。しかし、そのイエス様が今、父なる神の許へ行こうとしていました。そうなれば、そうした攻撃をもろに受けることになります。ですから、今、これらのことを彼らにお話ししているのです。その時が来たとき、彼らがそのことを思い出すためです。

 

ですから、予め知っておくということはとても大切なことです。クリスチャンになったらいいことずくめだと思っていたら、そうでないことが起こった時つまずいてしまうことになります。しかし、そうじゃないんだ、確かにイエスの名によって祈ると、神はその祈りを聞いてくれますが、祈っても、祈っても、なかなか道が開かれないこともあるし、むしろ、想像もしていなかった問題が起こることもあると最初から知っていたら、そういう覚悟で臨むことができ、それを乗り越えることができます。ですから、信仰について聖書は何と言っているか、また、それをどのように理解しているかということは、とても重要なことなのです。

 

弟子たちはどうでしたか。5節の後半のところを見てください。「けれども、あなたがたのうちだれも、「どこに行くのですか」と尋ねません。」とあります。

どうして彼らは尋ねなかったのでしょうか。彼らの心が悲しみでいっぱいになっていたからです。イエスが父のもとへ行かれるということ、そしてそのときには迫害されるということを聞いて、心が悲しみでいっぱいになっていました。それで、だれもイエスに「どこに行くのですか」と聞かなかったのです。もう聞きたくありませんでした。彼らが期待していたのは、イエスが自分たちを救ってくれるということでした。この場合の救いというのは、自分たちを支配していたローマ帝国の支配からの救いのことです。それなのに、イエス様は十字架で死なれるとか、父の許に行かなければならないとか、全くわけのわからないことを言うものですから、受け止めることができないでいたのです。でも問題はイエス様ではく、弟子たちの方でした。イエス様は最初からご自分が来られた目的や、それをどのようにして成し遂げられるのかを彼らに話してきました。すなわち、イエス様が来られたのは彼らを罪から救うためであり、そのために十字架に掛かって死なれること、そして、三日目によみがえられること、天に昇って行かれること、そのすべてを話されましたが、彼らは聞く耳を持たなかったのでそれがどういうことなのか理解することができなかったのです。

 

私たちも同じです。理解できないと、心が悲しみでいっぱいになります。そして、つまずいてしまうことになります。ですから、イエス様が言われることをよく聞いてください。イエス様は私たちにも前もって語ってくださいました。それを聞いて理解することが、あるいは理解に努めることが、どんなことがあっても悲しみに沈まない秘訣です。

 

Ⅱ.去って行くことはあなたかたの益になる(7)

 

次に、7節をご覧ください。イエス様が去って行かれると聞いて、彼らの心は悲しみでいっぱいになっていましたが、そんな彼らにイエス様はこう言われました。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」

 

イエス様が弟子たちのもとから去って行くことは、弟子たちにとって益になることでした。なぜなら、去って行かなければ、彼らのところに助け主はおいでにならないからです。でも、行けば、来られます。行けば、来られますというのは変な言い方ですが、イエス様がその助け主を彼らのところに遣わしてくださるということです。この「助け主」については、すでに14:16で教えられていたことです。そこには、「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」とあります。

 

「もうひとりの助け主」とは、イエス様と全く同じように助けてくださる方という意味です。今まではイエス様がいつもともにいて直接助け、慰めてくれましたが、そのイエス様が去って行かれることで、今度は全く同じ方が来て助けてくださるのです。この方は13節にあるように、真理の御霊です。それは、彼らにとって益になることでした。なぜなら、イエス様が去って行かなければ、確かにイエス様がそばにいて助けてはくれますが、人としてこの地上におられたわけですから、そこには時間的、空間的な限界があったからです。いつでも、どこでも、すぐに助けを与えられるかというとそういうわけにはいきませんでした。

 

たとえば、イエス様が今日もしパレスチナに生きておられるとしたら、私たちは困ったことが起きた時一々ビザを取ってパレスチナまで行かなければなりませんし、緊急を要する時に、国際電話で話をしようとしても、全世界の人が助けを求めるために電話に殺到して、なかなかつながらないということもあります。まあ、今は便利な時代ですね。国際電話なんて必要ありません。LINEがあればすぐにつながります。しかも、ビデオ通話ですよ。また、ズームという会議用のソフトもあります。世界中の人と同時に話をすることができるようになりました。英語礼拝では5月までZOOMで礼拝が行われていましたが、アメリカにいるネイサン兄が参加してメッセージをしてくれました。いいですね。これからはZOOMの時代です。でも限界があります。途中で、Wi-Fiが弱くて接続できませんという表示がされて、切れてしまうこともあります。やっぱり実際に会って話すのとは違います。こうしたテクノロジーは、補助的な手段にはなっても限界があるのです。

 

しかし、もうひとりの助け主にはそうした限界がありません。この方は、いつでも、どこでも共にいて、助けることができます。今この教会の真中にいてくださる主は、同時にこの教会だけでなく、すべての教会にもいてくださいます。イエス様は「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)と言われました。また、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。どのようにしていつまでも、世の終わりまで、私たちとともにいてくださるのでしょうか。この聖霊を通してです。このように、聖霊は時間と空間に全く制約されることがなく、世界中どこにいても、困ったことが起こった時に助けを求めれば、いつでも答えることができるのです。この方は、世界中のクリスチャンとともに、いやクリスチャンのうちにいてくださるのです。だから、イエス様が去って行かれることは、彼らにとって益なのです。

 

時として私たちも、何かを失うとき、弟子たちのように心が悲しみでいっぱいになることがあります。しかし、失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられるときでもあるということを覚えておきたいものです。

9 年前、東日本大震災時地震、津波、原発事故に遭遇し故郷を追われた福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生は、今回のコロナウイルスの問題に遭遇し、まさか、人生にこのような日があるとは思いもしなかったと、「黄金の冬ごもり」というコラムの中でこのように言っておられます。

今回のコロナ災禍では、教会堂はあるのに、 教会員はそこにいるのに、礼拝できないという悔しさをかみしめました。最後となった 4 月12 日の礼拝で、先生は思わずことばがつまって祝祷ができませんでした。震災で生き延びた教会は、コロナで力尽き、最後の砦と思った礼拝もかなわず、敗残兵が倒れたように思ったのです。翌19 日の礼拝は、3人の牧師が誰もいなくなった礼拝堂にひっそりと集い、やむなくYouTube礼拝を配信しました。

けれども気がつけば、初代教会も迫害の中で、そして今日の中国の教会も共産主義体制の下で、やむなく家々で礼拝をささげています。この機会はもしかしたら、神様がくださった原点回帰の時でしょうか。私たちは震災の時のように、今礼拝や交わりが決して当たり前ではないことを、つくづく思い知らされています。

そう言えば地球も今、コロナで人間の活動が停止して、貴重な癒しのearth day(地球の日)を迎えているそうです。大気汚染のPM2.5は劇的に下がり、ガンジス河もきれいになったとか。

また、必要は新たなアイデアを生み出します。震災時、私たちはバラバラになった教会員を何とか繋ごうと、ネットで礼拝の配信を始めました。ちょうどその頃スマホが急速に普及し、今回のスムーズなコロナ対応ネット配信礼拝につながりました。そして今回はどうでしょう。いつの間にか増えてしまった会議の整理や、時代に即さなくなった慣例の見直し、ほんとうに大切なものの確認などは、コロナ後の新たな世界を生き抜く、サバイバル教会に脱皮する第一歩です。

9 年前の大霙災は、私たちから多くのものを奪いました。けれども、結果は移住地での新たな教会づくりでした。寝る場所や食べる物確保に右往左往した当時を思うと、今回は住まいや教会は奪われていません。私たちは、大丈夫です。「わたしの前で静まれ」(イザヤ41:1)  と語られた主とふたりきりで、黄金の冬ごもりの季節を過ごしましょう。

春は来ます。苛立ちや不安を手玉に取り、信頼や寛容を育んで、来るべきコロナ後の世界への旅支度を始めるのです。

「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌3章33節)

という内容です。本当にそうですね。何かを失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられる時でもあるのです。まさに今回のコロナの問題は、教会が原点に帰る時として、また、私たちが人生の原点に帰る時として、神が私たちに与えておられることなのではないかと思います。そのことを覚えて感謝し、今、黄金の巣ごもりの時を過ごしたいと願わされます。

 

Ⅲ.その方が来ると (8-16)

 

では、その方が来るとどのようなことをなさるのでしょうか。8~16節までをご覧ください。まず11節までをお読みします。

「8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」

 

その方、聖霊が来るとどのようなことをしてくださるのでしょうか。イエス様はここで、二つのことを述べておられます。その一つがこれです。つまり、その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを明らかにされるということです。世とは、神に敵対している世のことです。この世に、罪について、義について、さばきについて、その誤りを明らかにされます。どういうことでしょうか。

 

9節をご覧ください。まず罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。「信じない」とは、信じようとしないとか、信じることを拒むという意味で、心を固く閉ざして、信じようとしないということです。なぜ信じないのでしょうか。自分が罪人であることがわからないからです。一般に私たち日本人は、「罪」というと物を盗んだり、人を殺したり、詐欺を働いたりするなど、いわゆる犯罪を行うことを罪だと考えているので、自分はそんな犯罪なんてやっていないし、法律に違反することもしていないので、自分には罪がないと考えているのです。しかし、そもそも聖書が言っている罪ということは、そういうことではありません。聖書が言っている罪とは「ハマルティア」です。「的外れ」です。本来あるべき状態でないことです。つまり、まことの神から離れている状態のことを言います。本来、人間は神のかたちに造られ、神の栄光を現すものとして造られたのに、その神から離れ自分勝手というか、自己本位に生きるようになってしまいました。聖書はそれを罪と言っているのです。ですから、ローマ3:23には、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」とあるのです。罪を犯したから罪人なのではなく、罪人なので罪を犯すのです。その罪がわからないのです。頭ではなんとなくわかるのですが、ピンとこないのです。しかし、その方が来ると、その罪について明らかにしてくださいます。自分がいかに自分勝手に生きてきたか、また、そのために神に反逆していたかが分かり、自分の罪を認めないわけにはいかなくなるのです。

 

たとえば、使徒の働き2章には、ペンテコステの日に聖霊が降られたときのペテロの説教がありますが、ペテロが、「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」(使徒2:22-24)、「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(同2:33)と語ると、「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(同2:37)のです。グサッと心に刺さったんです。私も罪人だとわかりました。イエス・キリストを十字架につけたのはこの私だったんだ。私の罪のためにイエス様は十字架で死んでくださった。私はほんとうに罪人だということがわかったのです。それで彼らはどうしましたか。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けました。何とその日3,000人ですよ。3,000人ほどの人々が仲間に加えられました。

 

罪がわからないとイエス様を信じることができません。だって罪がなければ救われる必要がないわけですから。自分が正しい人間であればどうして救われる必要があるでしょうか。ありません。だから信じることができないのです。しかし、その方が来ると、罪について明らかにしてくださいます。自分が本当に罪深い人間だということがわかるようになるのです。

 

10節をご覧ください。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」どういうことでしょうか。「義」とは正しいということです。聖霊様が来られると、キリストは正しい方、義なる方であることを明らかにしてくださるということです。どのように明らかになさるんですか。それはイエス様が父のもとに行き、彼らがもはやイエス様を見なくなることによってです。どういうことですか?ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)とか、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)と言われるのを聞いて、イエスを殺そうとしました。なぜなら、イエスは神を冒涜したと思ったからです。実際、彼らはイエス様を十字架に付けて殺しました。しかし、イエス様は死んで終わりだったでしょうか。いいえ、死んで三日目によみがえられました。そして40日間彼らにご自身のお姿を現わされると、彼らの目の前で天に昇って行かれ、神の右の座に着かれました。それはどういうことかというと、神に受け入れられ、神の権威の座に着かれたということです。そこに着かれたということは、キリストには全く罪がなかったということを示しています。キリストは神と全く等しい方であるということです。どうして神の右の座に着かれたということがわかるのでしょうか。聖霊様です。イエス様が天に昇って行かれ、神の右の座に着かれたことの証明として、神は約束の聖霊を送ってくださいました。そのことによってキリストが神の子であり、全く正しい方であるということが明らかにされたのです。そして、この聖霊によって、キリストこそまさしく神の子であられ、私たちを罪から救うことができる救い主であるということが分かったのです。

 

パウロはこのことを、ピリピ3:5~9でこう言っています。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

彼はわかりませんでした。とにかく宗教に熱心であれば救われると思っていました。その熱心は教会を迫害したほどです。しかし、キリストがどのような方であるかがわかったとき、そのキリストのすばらしさのゆえにすべてを損と思うようになりました。彼はそれを「ちりあくた」だと言っています。それはキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。彼は律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義を持ったのです。

 

皆さん、信仰に熱心であれば救われるというわけではありません。救いはイエス・キリストにあります。なぜなら、キリストはあなたの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたからです。そして、天に昇って行かれ、神の右の座に着かれました。すなわち、この方こそまことに義なる方、神の子、救い主であられるのです。その方が来ると、このことを明らかにしてくださいます。

 

そして11節をご覧ください。ここには、「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」とあります。どういうことですか。「この世を支配する者」とは、悪魔、サタンのことです。この悪魔は、完全にさばかれました。悪魔は、キリストを十字架に付けた時、してやったりと思ったことでしょう。しかし、キリストがその死の中からよみがえられたことで、その思いは脆くも崩れてしまいました。悪魔の最後の砦は死ですが、キリストがその死を打ち破られたことで、悪魔を完全に滅ぼされたからです。その結果、悪魔は終わりの時のさばきを待つばかりになりました。今はそれが実行されるまでの猶予期間にすぎません。悪魔は、どうにかして多くの人がキリストを信じないように働きかけたり、クリスチャンに対しても誘惑したり、脅したりして信仰から離れさせようと躍起になっていますが、もう勝敗はすでに決まっているのです。イエス・キリストを信じる者は決して罪に定められることはありません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)」

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」

 

これが、クリスチャンが抱く希望です。なぜなら、この世を支配する者がさばかれたからです。私たちは、神のさばきに会って当然の者でした。罪がありましたから。しかし、神はそんな者を愛して、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架で死んでくださいました。死んだだけではありません。よみがえられました。そのことによって、これまで私たちをがんじがらめにしていた罪の支配から解き放ってくださったのです。もう罪に支配されることはありません。さばきに会うことはありません。なぜなら、この世を支配する者がさばかれたからです。私たちは聖霊によって、罪に打ち勝つ力が与えられ、キリストの復活の力によって勝利ある人生を送ることができるようになったのです。何とすばらしいことでしょう。しかし、それは聖霊様が来られるまでわかりませんでした。聖霊様が来られたことで、罪について、義について、そしてさばきについて、世の誤りを明らかにしてくださったのです。

 

そればかりではありません。その方が来るとどうなるのか、12節からのところにもう一つのことが教えられています。12~15節をご覧ください。

「12あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。」

 

イエス様は弟子たちに話したいことがたくさんありましたが、それ以上のことは話しませんでした。なぜなら、その時の弟子たちの信仰のレベルではそれ以上のことを受け入れることができなかったからです。しかし、一つのことだけはどうしても話しておかなければなりませんでした。それは、その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださるということです。どういうことでしょうか。ある人たちは、これを文字通りすべての真理と理解しています。つまり、科学や医学、政治、経済といったあらゆる分野における真理のことです。しかし、ここで言っていることはそういうことではありません。聖書はあらゆる分野の真理を示しているわけではないからです。

 

そこである人たちは、これはその後にある「御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます」という言葉から、将来起こるであろうすべてのことを指していると考えていますが、そういうことでもありません。確かに主は世の終わりの前兆について語られましたが、それが将来起こるであろうすべてのことではないからです。あまり読み込みすぎると、かえって真理から離れてしまうことにもなりかねません。では、これはどのような意味でしょうか。それは、主が弟子たちに語られたすべてのことを思い起こさせ、その意味を明らかにしてくださるということです。特に、救いに関する教えです。つまり、この後に起こる十字架と復活の出来事、そして昇天という救いに関する一連の出来事について、その真理を明らかにしてくださるということです。

 

弟子たちの多くは漁師でした。特別な専門教育を受けたこともない、無学で普通の人でした。しかし、彼らには最高の教師がいました。イエス・キリストです。彼らはイエス・キリストから直接教えを受け、そのみわざを間近で見ました。そのイエス様が天に行かれるということで、彼らの心は悲しみでいっぱいでしたが、しかし、そのイエス様が去って行かれることで、イエス様と全く同じ方が、いや、時間と空間を超えているという点ではそれ以上の方が来て彼らを教え、すべての真理に導いてくださいます。彼らの内側にいて、イエスさまが言われたことを思い起こさせてくださいます。そのようにして書かれたのが聖書です。聖書は、弟子たちによって書かれたイエス・キリストについての証言ですが、それは弟子たちによって書かれたというよりも、聖霊によって書かれた証言です。Ⅱペテロ1:21にはこうあります。「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」「預言」とは「聖書」のことですが、預言は、決して人間によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。聖霊が彼らをすべての真理に導いてくださったのです。

 

世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。なぜなら、イエス様は世に勝利されたからです。その方が来ると、そのことを思い起こさせてくださいます。さまざまな困難に直面する時、聖書のことばを通して、私たちをすべての真理に導いてくださり、助けと励ましを与えてくださいます。こんなに心強い助けがあるでしょうか。現代は先行き不透明な時代です。しかし、この方が来るとき、私たちをすべての真理に導いてくださいます。あなたのうちには、この方がおられますか。イエス・キリストを信じてください。イエス様を信じるすべての人に、神は賜物としてこの聖霊を与えてくださいます。この方こそ、私たちが直面するさまざまな困難の解決であり、その中を生き抜く力なのです。