偉大な同労者たち ローマ人への手紙16章1~16節

聖書箇所:ローマ人への手紙16章1~16節

タイトル:「偉大な同労者たち」

 

きょうはローマ人への手紙16章から「偉大な同労者たち」というテーマでお話したいと思います。

 

 聖書を見ますと、名前ばかり書かれてある箇所がいくつかあります。たとえば、マタイの福音書1章はそうですね。誰が誰を産んで・・・という表現がずっと続きます。中にはせっかく聖書を読み始めたのに、これではつまらないと、読むのをあきらめてしまう人もいます。ルカの福音書3章もそうですね。名前の羅列です。特に読むのに骨が折れるのは歴代誌です。歴代誌第一は1章から9章にわたって名前ばかり出てきます。このような文章を読むのは牧師でさえ大変です。そのような記録はおまけの記録みたいで、何の意味もないと考えてしまうのも無理はありません。ですから、すぐに次の章に行ってしまいたくなるのです。しかし、このローマ人への手紙16章は、無意味な記録ではありません。ここにはパウロの働きを助けた偉大な同労者たちの記録が記されてあるからです。

 

 きょうは、この偉大な同労者たちの働きを三つのポイントで学んでいきたいと思います。第一に、多くの人を助けたフィベという女性について見たいと思います。第二に、忠実な同労者であったプリスキラとアクラです。第三に、そこに偉大な同労者たちの働きがあったということについて見ていきたいと思います。

 

 Ⅰ.多くの人を支援したフィベ(1-2)

 

  まず、1節と2節をご覧ください。「私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。」

 

 パウロは、この手紙の最後のところで、ローマの教会にいる多くの人たちにあいさつを送っています。ここに出てくる名前だけでも28人にも及びます。まだ一度も行ったことのないローマの教会に、これだけ多くの知人、友人がいたことには驚かされますが、それ以上に驚かされるのは、そうした一人一人に対するパウロの行き届いた心遣いです。

 

 その最初に紹介されているのがフィベという女性です。この人はケンクレアにある教会の奉仕者でした。ケンクレアとはコリント地方にあった町です。ここには「教会の奉仕者である」とあります。新改訳聖書第三版では、「執事」と訳しています。「ケンクレヤにある教会の執事で」。この「奉仕者」とか「執事」ということばは元々「しもべ」を意味する言葉であることから、今でいうところの教会の役員や執事のことを指しているのかどうかはわかりませんが、多くの人々の面倒をよく見ていたことは確かです。2節には、「彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです」とあります。そういう意味では、執事としての務めを立派に果たしていたと言えるでしょう。

 

 このフィベという女性はどんな人だったのでしょうか。2節を見ると、ここに「どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し」とあることから、彼女がコリントで書かれたこのローマ人への手紙をローマまで行ったのではないかと考えられています。私たちが今手にしているこのローマ人への手紙は、このフィベによって運ばれたものなのです。今でこそページ数で見ればほんの16章の薄い読み物ですが、当時はすべて巻物に記録されていたため、たぶん風呂敷包みで二つぐらいになったであろうと思います。私たちは誰かに手紙を託すとき、「いいか、しっかり頼むぞ!」と言って手渡すのではないかと思いますが、そのことばには相当の信頼が込められています。フィベという女性はパウロが尊い手紙をゆだねるほど、大いに信頼されていた女性だったのです。女性に対して人権意識が薄かったこの時代にこれだけの信頼を受けていたというのは、まさに革命的なことでした。

 

 もう一つこのフィベについて紹介されていることは、彼女が「多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人、支援者であったということです。このことばは、彼女が経済的な支援者であったことを示しています。使徒パウロは、初めテントメーカーをして自ら生活費を稼ぎながら宣教をしていましたが、次第に主の働きが忙しくなるにつれて、稼ぐことができなくなりました。そのようなときに、パウロの経済的な必要を満たしてくれたのがこのフィベだったのです。いやパウロだけではありません。彼女は自分に与えられた財で、主に仕えていた多くの働き人を助けていたのです。

 

 イエス様と弟子たちが伝道していたとき、どのくらいの生活費が必要だったでしょうか。そんなことを計算した経済学者がいますが、その人の試算によると、まず1ヶ月の食費は、1食300円として一度にかかる費用が3,900円、1ヶ月なら30万円を超えます。それが1年続くと360万円にもなるのです。イエス様は神の御子でしたが、この地上で御国の福音を伝えるために何も食べなくても大丈夫だったのかというとそうではなく、ちゃんと食べなければなりませんでした。ではその食費はどうしていたのでしょうか?どこから捻出していたのでしょうか?その辺に転がっていた石に向かって、「エイ、お金になれ!」と命じたわけではありません。ルカの福音書8章3節を見ると、その背後には多くのスポンサーがいたことがわかります。それは「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たち」です。多くの女たちが、イエス様と弟子たちの働きを支えていたのです。そのような人たちの献身があったからこそ、イエス様とその弟子たちの宣教の働きが可能だったのです。

 

 フィベも同じです。彼女はパウロをはじめ多くの働き人を経済的に支えました。そうした支えがあったからこそパウロは何も妨げられることなく、また、そうしたことで心配することなく伝道に専念することができたのです。彼女のこうした貢献は、パウロにとって大きいものがありました。今日も彼女のような献身的な人たちを通して、神様のみわざは大きく前進しているのです。

 

 Ⅱ.忠実な同労者プリスカとアキラ(3-5a)

 

  次に、3~5節までをご覧ください。ここには忠実な同労者プリスキラとアクラについて紹介されています。「キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。」

 

 このプリスカとアキラは夫婦です。プリスカが妻でアキラが夫です。最初はアキラとプリスカと紹介されていたのですが、次第にプリスカとアキラと紹介されるようになりました。いつの間にかプリスカの名前がアキラよりも前に挙げられるようになったのです。なぜそのようになったのかはわかりませんが、どうも夫のアキラより妻のプリスカの方がパウロが語る福音の理解において鋭いものがあったのか、あるいは、彼女の方が伝道において熱心だったからではないかと考えられています。しかし、たとえプリスカの方が福音の理解において優れていても、またその働きにおいて熱心であったとしても、これはあくまでも夫婦二人の働きによるのだということを聖書は示しているよう思います。パウロが彼らと初めて出会ったのは、第二次伝道旅行で彼がコリントを訪れた時でした。そのことは使徒の働き18章に記されてありますが、彼らもローマからそこにやって来ていて、そこでパウロと出会ったのです。彼らも同じテントメーカーをしていたので、パウロは彼らの家に住みそこで一緒に仕事をしたほどの仲です。

 

 このプリスカとアキラについて語られていることは、自分のいのちの危険を冒してまでパウロのいのちを守ってくれた人たちであるということです。彼らは、パウロの命のためには自分の首さえも差し出すほどだったと言っているのです。パウロがそう感じるほど、このプリスカとアキラは忠実な同労者でした。天国に行ってからパウロに「あなたが一番忘れがたい同労者は誰ですか?」と尋ねたら、きっと「プリスカとアキラです」と答えることでしょう。もう既に天国に行っていますから、おそらくそう言ったのではないかと思いますが・・・。それほど忠実に神に献身していた夫婦だったのです。このような夫婦の存在は、牧師にとってどれほど大きな慰めであり、励ましでしょうか。皆さんもそういう人になってください。自分を主張し、自分の思い通りにいかないとすぐに嫌になっては不満をぶちまけ足を引っ張るような人ではなく、「彼らは命の恩人」だと言わしめるほどの忠実な同労者になっていただきたいと思うのです。

 

 家内は1979年にアメリカのカリフォルニアにあるカルバリーバプテスト教会(アメリカンバプテスト)から遣わされて来日しました。この教会の牧師は当時、キースターという牧師でしたが、先生には5~6人の子供さんがおられましたが、最後のお子さんが1歳になられた頃、奥様に癌があることがわかり、しばらくして天国に召されました。すると、この教会は500~600人くらいの大きい教会でしたが、一緒に主に仕えていた教育牧師のDr.カールソンご夫妻が一緒に住みましょうと申し出られたのです。Dr.カールソン夫妻にも4~5人の子供さんがおられたので、全部で10人くらいの子供を育てながらキースター牧師を支えたのです。退職後、子供たちは全員巣立って行きましたが、3人はヨセミテ国立公園近くのオーカーストという町で一緒に暮らし、リンゴ栽培をしながら地域の牧師たちを支えました。

キースター牧師とDr.カールソンの奥様グレースさんは十年くらい前に召されましたが、Dr.カールソンは一昨年前に92歳で召されました。6年前に渡米した際、老人ホームに入所していたDr.カールソンを訪問した際に、一生懸命に自分が牧師をしていたとき日本に宣教師として行った姉妹がいました。と熱く語ってくれました。それは家内のことでしたがすっかり忘れていたようで、「そうですか、そんな人もいたんですね」と会話しました。いつまでも私たちのことを忘れないで覚えていて祈っていてくれたことに感謝しました。

帰国後、そのDr.カールソンも天に召されたことを聞きました。「ああ、今は3人で天国で仲良く暮らしているのかと思うと、なんとも微笑ましく感じます。もし天国にいるキースター先生に、「あなたの人生において一番忘れがたい同労者はだれですか」と質問したら、きっと同じような答えが返ってくることでしょう。「ケンとグレースです。彼らは人生をかけて私を支えてくれたのですから。」まさにプリスカとアクラは、パウロにとってそのような存在だったのです。

 

このプリスカとアキラ夫婦について、ここでもう一つ重要なことが紹介されています。それは5節にありますが、「また彼らの家の教会によろしく伝えてください」ということばです。彼らの家が教会だったということです。家の教会です。今日のように、教会が会堂に集まるようになったのはこの時から大分後になってからのことで、2世紀になってからのことです。当時は建物を持つ教会はほとんどありませんでした。ですから、このように信者の家が教会として用いられたのです。すべてが家の教会でした。開放された家庭でイエス・キリストの御名によって人々が集まれば、それが教会となったのです。プリスカとアキラ夫婦は行く先々で家庭を開放し、礼拝をささげる場所にしていたのです。

 

 これが教会なのか、家庭集会なのかは別として、ここで教えられることは、私たちの家庭が開放されるとき、そこに主のすばらしいみわざが起こるということです。クリスチャンが礼拝や交わりのために家庭を開放することは大きな祝福であり、そのこと自体が立派な神様の働きなのです。特に、どの教会もまだ開拓伝道に等しいような日本の教会においては、この家の教会の存在が極めて重要だと言えます。そこが福音の発信地、宣教の突破口となるということです。このようにクリスチャンの家庭が開放されそこで福音の種が蒔かれることによって、やがてそれが大きな実を結んでいくのです。それが教会になるかどうかはともかく、私たちもプリスカとアキラ夫妻のように、主の働きのために与えられた家庭が開放されるように祈っていきたいと思います。

 

 Ⅲ.偉大な同労者たち(5b-16)

 

  最後に、5節後半~16節までをご覧ください。ここにはフィベやプリスカとアキラ以外に、パウロに仕えた人たちの名前が列挙されています。パウロは胸に刻まれた、忘れられない同労者たちを思い浮かべながら、ローマ教会の聖徒たちに、彼らに「よろしく伝えてください」と言うのです。

 

 まず5節には、「私の愛するエパイネトによろしく」とあります。この人は「キリストに献げられたアジアの初穂である」とあります。アジアで最初にキリストを信じた人でした。このアジアとは、ローマ帝国のアジア州のことです。今のトルコです。パウロにとっては忘れることのできない人の一人だったのでしょう。

 

 次に出てくるのはマリアです。この人については「あなたがたのために非常に労苦した」とあります。フィベもそうでしたがこのマリアも女性です。私たちは、この安否を尋ねるあいさつの冒頭から、女性の名前が出てくることに驚きを感じます。フィベ、プリスカとアキラのプリスカ、このマリアと続き、その後の7節に「ユニア」もそうです。12節の「トリフォサ」もそうです。さらに12節後半に出てくる「ペルシス」、13節の「ルフォスの母」もそうです。また15節の「ネレウスとその姉妹」とあります。記録された人物中の約3分の1が女性です。これはパウロが生きていた当時の時代背景からすると、画期的なことです。ユダヤ人の男たちは朝ごとに「神様感謝します。私が女として生まれず、私が異邦人として生まれないようにしてくださった神様に栄光をささげます」と祈ったほどです。その当時、女性たちはとても卑しい人生を送っていました。当時のローマの哲学者セネカは「女も人なのか」という問題を巡って論争したと書いてあります。今の時代、こんなことを言ったら大変なことになります。それほど女性に対する人権意識が低い時代だったのです。そのような時代にパウロは、大胆にあいさつ文の最初から女性の名前を入れたのです。女性たちがパウロの働きを支えるということにはどれほどの労苦が伴ったことかと思いますが、そうした中で彼女たちはパウロの働きを支えていたのです。

 

 それから7節を見ると、ここに「私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく」とあります。彼らはパウロといっしょに投獄された経験を持っていて、使徒たちの間でもかなりよく知られていた人たちでした。福音のために苦楽を共にした思い出がよみがえってきたのでしょう。しかも彼らは「わたしよりも先にキリストにある者となっていた」という言い方をして、自分よりも先にクリスチャンになっていた人たちです。そうした信仰の先輩に対する敬意も表そうとしていたようです。

 

 また10節には「アペレ」という人のことが紹介していますが、彼は「キリストにあって認められている人」でした。この「認められている」という言葉は、第三版では「練達した」と訳されています。元々の意味は「テスト済みの」という意味です。彼はどこへ出しても大丈夫とだれからも太鼓判を押されるような立派なクリスチャンだったのです。

 

 ローマの教会にはこのような人たちがたくさんいたのです。そしてこれらの人たちの中には、おそらくパウロがまだ一度も会ったことのない人々も含まれていました。そのようにまだ一度も会ったことのない人でも、彼の中では主にある同労者であるという意識があったのです。つまり、彼らがパウロとどういう関係があったのかという見方ではなく、主にあって、キリストにあって、同労者であるという理解を持っていたのです。

 

 人はどんな人でも、自分に合う人と合わない人がいるものです。おそらくパウロにとってもそうであったに違いありません。けれども彼は、自分の思いを優先させるようなことはしませんでした。あくまでもキリストを通して見ていたのです。キリストにあって、主にあって見るとき、たとえ自分に合わないような人であってもその人もまた主にある同労者であり、主にあって選ばれた聖徒たちであると認識していたのです。だからこそ彼は、そういう人たちを用いて、そういう人たちといっしょに労することができたのです。

 

皆さん、ここに多くの聖徒たちの名前が列挙されているのは、そのことを私たちに教えるためだったのです。つまり神様の働きは決して一人でできるものではないということです。使徒パウロとてそうでした。皆さんはパウロに対してどのような印象を持っているでしょうか?とても強靱で、ただイエス様のためだけに生きた、ひたむきな人というイメージがあるかもしれません。数百人で取り掛かってもやり遂げられないようなことを、一人で成し遂げたスーパースターというイメージがあるかもしれません。アジアとヨーロッパを回りながら教会のない所に教会を建て、悪魔が支配する所に十字架の旗を立てていく、神様が願うとおりに用いられた英雄というイメージがあるかもしれません。

 

 しかし、このところを見ると、彼があれほど多くのことを成し遂げられたのは、こうした人たちの助けがあったからなのです。ここには少なくとも28人の名前が出てきます。ローマの教会に書き送った手紙の中だけで、記録する必要のあった人だけでそんなにいたのですから、彼の生涯全般にわたり彼と関わりのあった同労者たちの数はどれほど多くいたかわかりません。パウロの働きは彼一人の力によって成し遂げられたのではなく、その陰にいた多くの同労者たちの助けによって支えられていたのです。いわば彼らとともに働くチームミニストリーであったということです。このように教会が一つのチームとして機能するとき、一人でなし得る何倍もの働きができるようになるのです。

 

 使徒の働き6章4節を見ると、エルサレムの教会にやもめの配給のことで問題が起こったとき、使徒たちは兄弟たちの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い七人の人を選び、その人たちにこの問題に当たってもらうことにし、彼らは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励んだとあります。これは祈りとみことばだけすればいいということではなく、使徒たちは祈りとみことばに力を入れられるように残りの教会の仕事を他の人にゆだねてやってもらったということです。やらないということではなく、他の人を用いて、ほかの人といっしょに働いたのです。そのとき何倍もの力となって表れるからです。事実、教会がそのようにみんなで一緒に働いたことで、エルサレム教会は弟子の数が非常に増えていっただけでなく、何と多くのユダヤ教の祭司までもが信仰に入ったとあります。(同6:7)私たちの教会もそうですね、今年西山宣教師が牧師補佐として立っていただきましたが、教会でプリンターを導入し、週報等の印刷も行うようになりました。その他、受付の方、司会の方、奏楽の方、献金の方、音響の方、お掃除の方、その他のミニストリーにおいても、それぞれ重荷を負い合うことで、キリストのからだとしての教会が立て上げられています。祈りとみことばを土台として、こうした一つ一つの働きがチームとして機能するとき、そこに大きな主のみわざと栄光が現れるのです。これが信仰です。

 

 先週まで伝道者の書から学びましたが、そこにはこうありました。「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」(4:9)また、4章12節には、「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」とあります。一番強い糸とはどんな糸なのでしょうか。一番強い糸とは太い糸ではなく、三つ撚りの糸なのです。牧師が信徒と一緒になって撚り糸のようになって伝道するとき、本当に強い力、大きな力になるのです。

 

 皆が皆、牧師にならなければならないということはありません。皆が皆、神学校に行って学ばなければならないということでもありません。しかし、皆が皆、隣人を助ける同労者にならなければなりません。信徒として立派に神様の働きをすることができます。神様はそのような献身者を求めておられるのです。いわゆるレイマンと呼ばれる人たちです。「レイマン」とは信徒伝道者のことです。こういう人たちが起こされることを願っておられるのです。牧師が忠実に主に仕えることは当然のことですが、こうした信徒のリーダーが同労者として神様の前に忠実に仕えるとき、教会は多くの祝福を受け、力強く前進していくのです。

 

 パウロはそうした一人一人の主にある同労者たちを覚えて「彼らによろしく」と言っています。この「よろしく」というのは単なるあいさつではありません。これは「彼らの労苦を認め、心から尊敬しなさい」ということです。主に仕えることには多くの労苦が伴いますが、そこにはこうした報いも約束されているのです。どうかそれぞれが神様から与えられた使命を果たし、主に用いられる偉大な同労者となりますように。そして皆さんがだれかの胸に、忘れられない恵みを与えてくれた人として刻まれますように。いや、誰よりも主のお心に、その名前が忘れられない刻まれる人になりますようにお祈りします。

神を恐れ、神の命令を守れ 伝道者の書12:1~14

伝道者の書12章をお開きください。伝道者の書からの最後のメッセージとなります。伝道者は、最後にこの書の結論を述べます。それは13節にありますが、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてである。」ということです。

伝道者はこれまで「生きる」をテーマに人生の意味や目的について語ってきました。そしてわかったことは、「すべては空」であるということです。「空の空。すべては空。」です。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の役になると言うのでしょうか。なりません。伝道者はそれを知ろうとしてあらゆる知識や知恵を増し加えようとしました。思う存分快楽も味わってみました。事業を拡張して自分のために邸宅を建て、いくつもの庭園を造り、毎晩のようにエンターテーメントショーを催して楽しみました。しかし、そうしたことで彼の心の空白を埋めることができたかというとそうでなく、できませんでした。その時には満たされているように感じても、次の瞬間にはまた空しさが襲ってきたのです。最終的にすべての人は同じ結末を迎えます。みな死んで行くのです。であれば、生きるということにいったい何の意味があるというのでしょうか。

 あります!それは、この天地万物を造られ、私たちを造られた神を信じ、神を喜び、神のために生きることです。すべては神の御手の中にあります。人はどんなに頑張ってもすべてのことを見極めることができません。明日何が起こるかもわからないのです。自分ではどうすることもできないことがあります。ですから、すべてを支配しておられる神を認め、神にゆだねて生きることこそが最善なのです。つまり、神を恐れ、神の命令を守ることです。これが人間にとってすべてなのです。今日はこの伝道者の書の結論から、私たちの人生の幸いについてご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ(1-8)

 まず、1節から8節をご覧ください。1節をお読みします。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

伝道者ソロモンは、11章9節で「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。」と言いました。これは「心の赴くままに生きなさい」ということではありません。その逆で、神様のみこころに歩めということです。神のみこころならば思い切ってチャレンジしたらいい、ということですね。ですから、9節の後半部分ではちゃんと釘が刺されていて、「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ」とあるのです。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。そのことをしっかりと覚えておきなさいというのです。

ですから、若いからと言って何をしても良いというわけではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴うことがあるのです。そういうことで人生を台無しにしてはいけません。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。それは、どのような生き方なのでしょうか。それがこの1節にあるように、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。あなたが若い時に、あなたの造り主を心に刻みなさい、ということです。

画家のゴーギャンは地上の楽園を目指して旅立ち、タヒチ島に辿り着きました。しかし、そこも彼にとって楽園とはなりませんでした。彼は自分の最後の作品に、自分の心の内を表すかのようなタイトルを付けました。そのタイトルとは、「われわれはどこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこへ行くのか」というものでした。

私たちがこの問いに対する答えを見出すためには、私たちにいのちを与え、私たちの人生にすばらしい計画を持っておられる創造主なる神を知らなければなりません。

ここでは、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」とあります。どういう意味でしょうか。旧約時代の平均寿命は40歳にも満ちませんでした。青春期の若者があとどれくらい生きられるか、時はごく限られていたのです。20歳になった若者の平均寿命が七十年、八十年という現代の日本とは全く意味が違います。終わりまでの時間はごくわずかでした。その終わりを前にして今のこの時を創造主から与えられたかけがえのない賜物として受け止めなさい、という意味が込められているのだと思います。そういう意味では、この聖句は必ずしも若者だけへの呼びかけられているメッセージではありません。むしろ高齢になってあとどれくらい生きられるのかを考える多くの人たちへのメッセージでもあるのです。

ここには、「わざわいの日が来ないうちに」とあります。「また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に」とあります。創造主訳聖書では、これを「老人になって、希望が無いという日が来ないうちに」と訳しています。老人になると希望がないというわけではありませんが、若い時のように心で願うことを元気にやり遂げる力はありません。苦しみの日々が来ないうちに、「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに、創造主なる神を心に留めよ、というのです。

伝道者は2節からその年月とはどのようなものであるかを説明しています。2節には、「太陽と光、月と星が暗くなる前に、また雨の後に雨雲が戻って来る前に。」とあります。「太陽と光、月と星が暗くなる」とは、肉体的にも精神的にも言えることです。老年になると、目はかすみ、心は悲観的になりがちです。「また雨の後に雨雲が戻って来る前に」とありますが、この場合の「雨」とは、人生の試練のことを指していると思われます。青年期にも雨がありますが、老年期になるとそれが頻繁に現れるという意味です。

3節をご覧ください。「その日、家を守る者たちは震え、力のある男たちは身をかがめ、粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女たちの目は暗くなる。」

「家を守る者は震え」とは、高齢になって手足が震えることのたとえです。また「力のある男たちは身をかがめ」とは、足腰が弱くなって身をかがめるようになることです。かつてまっすぐに伸びていた足腰が体重を支えることができなくなり、腰が曲がってしまいます。みんなそうです。「粉を引く女たちは少なくなって仕事をやめ」おもしろいですね。これはおそらくこれは歯が抜けてしまうことを表現しているのだと思います。粉が少なくなると女たちの仕事ができなくなるように、歯が少なくなると噛み合わせができなくなるということです。歯本来の仕事ができなくなります。おもしろいことに、この「粉をひく女」は英語では「The grinders」と言いますが、臼歯(きゅうば)も同じ「grinders」という言葉を使うそうです。「grinders」が少なくなると仕事にならないのです。「窓から眺めている女たちの目は暗くなる」とは、高齢によって視力が低下することを表現しています。

そればかりではありません。4節をご覧ください。高齢になるとどうなりますか?「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみな、うなだれる。」

「通りの扉は閉ざされ、臼をひく音もかすかになり」とは、耳が遠くなるということです。周りの人の声が聞こえなくなります。騒々しい音も気にならなくなるのです。「鳥の声に起き上がり」とは、朝の目覚めが早くなるということです。鳥の鳴き声でも起きてしまうからです。私の寝室の隣は小さなベランダになっていますが、しばらく前に2羽の鳩がひっきりなしにやって来るようになりました。そして朝から唸っているのです。それで私は目が覚めてしまいます。歳をとったということでしょうか?「歌を歌う娘たちはみな、うなだれる」とは、歌を歌っても低くなったり、弱くなったりするということです。つまり、高齢になると声がかすれ、高い音程が出せなくなり、歌う能力が低下するのです。

さらに5節にはこうあります。「人々はまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、バッタは足取り重く歩き、風鳥木は花を開く。人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」

「高いところを恐れる」とは、高所恐怖症のことです。若い時は何でもなかったのに、年を取ると、はしごを上ったり、高い所に立ったりするのが怖くなります。「道でおびえる」とは、坂道を歩くのが怖くなり、道を歩くことに困難が生じるということです。創造主訳聖書ではそのことをわかりやすく訳しています。「息切れがして、坂道を上るのが大義になり、足の自由がきかず、立ち往生し」と訳しています。

「アーモンドの花は咲き」とは、頭が白くなることです。アーモンドは白い花を咲かせるのですが、それが満開に咲くように、頭が白くなります。私の頭もアーモンドの花のようになりました。

「バッタは足取り重く歩き」とは、老人の歩き方を表現しています。確かに老人になると若い時のようにシャキシャキと歩くことは困難になります。バッタが歩いているのを見るとわかりますが、バッタが歩く時はよろよろ歩きますが、そのように身をかがめてよろよろ歩くようになるということです。

「風鳥木は花を開く」これも難解です。「風鳥木」とはスパイスに用いる「ケッパー」の木のことです。へブル語で「ハパックス」と言います。これが「欲望する」という意味の「アーバー」に由来していることから、これは食欲とか、性欲のことを意味していると考えられています。また、「開く」という語ですが、へブル語で「ターフェール」という語です。これは「しぼむ」を意味する「パラル」という語に由来していることから「開く」ではなく「しぼむ」ではないかと考えられているのです。ですから風鳥木は花を開くとは、食欲や性欲が減退することを意味しているのではないかと考えられます。口語訳ではそのように訳しています。口語訳では、「その欲望は衰え」となっています。また、創造主訳聖書でも「性欲もなくなり」と訳しています。さらに、英語の訳はすべてそのように訳しています。

「And desire no longer is stirred.」(NIV)

「And desire fails.」(NKJV)

「and all desire will be gone.」(TEV)

これが、ここで言わんとしていることでしょう。人は老年になると、食欲も性欲も減退し、何の楽しみも見出せなくなります。

そして、「人はその永遠の家に向かって行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。」これは、死を迎えるということです。「泣く者たちが通りを歩き回る」とは、葬儀に参列した人たちが死を悼み悲しみ、葬送の列に加わっている様子を語っています。

6節をご覧ください。「こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。」(6)こうして、ついには死がやって来るということです。歳月が経つと人の肉体は老い、衰え、ついには死に至ります。この地上で、死を免れることができる人はひとりもいません。死はすべての人に平等に訪れるのです。

では、人は死んだらどうなるのでしょうか。7節には、「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」とあります。人は死んだら、肉体は土から造られたので土に帰りますが、霊はこれを与えてくださった神のもとに帰ります。もちろん、神が提供された救いを信じた人とそうでない人とでは行き先が異なります。信じた人は神がおられる天国へ、それを拒否した人は神がいない所、ハデスに行くことになります。

であれば、私たちはどうあるべきなのでしょうか。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」ということです。「わざわいの日が来ないうちに」。わざわいの日が来ないうちに、神に会う備えをしなければなりません。人は死んだらどうなるのでしょうか。へブル9章27節には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」とあります。人は死んだら神の前に立つようになります。神の御前に立って人生の精算する時がやって来るのです。死んでもまた救われるチャンスがあるというのは間違っています。わざわいの日が来ないうちに、あなたの創造者を覚え、あなたの救い主を信じなければなりません。その日に備えて生きることこそ真に知恵のある生き方なのです。そのような人は、この世の富や栄誉に執着することをしません。そして、自分にいのちを与えてくださったいのちの源であられる神を認め、神を恐れて生きるのです。

あなたはどうですか。神ではないほかのものに全精力を注いではいないでしょうか。もうそうであるなら、あなたの人生においてどんな調整が必要でしょうか。やがて老年期を迎え、肉体は衰えて行きます。ついには銀のひもが切れ、金の器は打ち砕かれることになります。しかし、いつまでも変わらないものがあります。それはあなたを創り、あなたにいのちを与えてくださった創造主なる神です。これこそ、私たちが真に追い求めていくべきものなのです。ですからあなたは、あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えなければなりません。

Ⅱ.真理のことば(9-12)

次に9節から12節までをご覧ください。9節と10節をお読みします。「伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。」

伝道者は知恵ある者でした。そのうえ、その知恵を民に教えました。彼は思索し、探求して、多くの箴言をまとめました。箴言とは人生論のことです。また、真の祝福と喜びを与え、人生を有意義にするための真理のことばです。それは、箴言としてまとめられた聖書のことばのことです。それは神から出たものであり、伝道者の書もまた聖霊によって記された神のことばです。

11節と12節です。「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。」(11-12)

ここには「知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの」とあります。「突き棒」とは士師記3章31節には「牛を追う棒」とありますが、牛が後ろに下がると当たって痛くなるように付けてある棒のことです。それで土を耕すようにするわけです。そのように、鈍い者を教え、正しい道に導くという意味です。「よく打ち付けられた釘のよう」とは、よく打ち付けられた釘はしっかりしていることから、信頼に値するという意味です。これらは一人の牧者によって与えられました。この牧者とは誰でしょうか。ここでは伝道者ソロモンのことですが、ソロモンを通して語られた神の知恵、イエス・キリストのことです。私たちにはこのような真理のみことばが与えられているのです。ですから、私たちはこの真理のことばに耳を傾け、従わなければなりません。

伝道者は、さらにもう一つのことを注意しています。それは、彼は多くの書物を書くこともできましたが、どんなに多くの本を書いてもきりがないということです。むしろ、そうしたものに没頭すると、かえって疲れ果ててしまうことになります。学びにはきりがありません。あれもこれも学ぼうとするあまり、大切なものを見失ってしまうことになります。本当に大切なのは神によって与えられた聖書です。聖書以外のものをいくら学んでも、結局のところ疲れ果ててしまうことになります。これで十分なのです。

箴言30章5節には、「神のことばは、すべて精錬されている。神は、ご自分に身を避ける者の盾。」とあります。神のことばには力があります。私たちは日々様々なプレッシャーやストレスに押しつぶされそうになることがありますが、そうしたプレッシャーに押しつぶされることなく、耐える力を与えてくれるのは、これが神によって与えられた神のことばだからです。この神のことばが私たちを生かすのです。

以前、ある教会の礼拝で説教をした時、礼拝後に一人の女性が私の所に来て「昨日、聖書を買いました。表紙の裏に私に相応しいことばを何か書いてください」と言いました。その人は教会に初めていらしたという方だったので、どんなことばがいいかなぁと考えながらその方のお顔を見ていると、ある一つのみことばが思い浮かびました。それは、イザヤ書43章4節のみことばです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」それで、そのみことばを書いて渡すと、その方はしばらくそれをじっと眺めていましたが、それを胸に抱くようにして帰って行かれました。それから数カ月後に、その方からメールが来ました。

「実はあの日、私は先生が書いてくださったことばがどんなことばであろうと神様からのことばとして受け取る覚悟でした。実は私はあの時、売春の仕事をしていました。こんな汚れた自分にふさわしいことばとは、どんなことばだろうと思って待っていました。すると先生は驚くべきことばを書いて下さいました。こんな私が「高価で尊い」なんて信じられませんでした。「神に愛されている」なんてとても思えませんでした。しかしあのことばで私の心は救われました。最近、私はイエス・キリストを信じました。仕事も会社の事務をしています。あの聖書のことばが私の人生を変えてくれました。」

聖書のことばは、私たちに生きる力を与えてくれます。私たちは、この神のことばに生きるものでありたいと思います。私たちの周りにはたくさんの書物がありますが、でも、学びに没頭すると、からだは疲れます。しかし、神のことばは私たちを生かしてくれます。私たちが信頼するのは、一人の牧者、神の子イエス・キリストによってもたらされた神のことばなのです。

Ⅲ.神を恐れ、神の命令を守れ(13-14)

最後に、13節と14節を読んで終わりたいと思います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

結局のところ、私たちの人生にとって最も重要なことは何なのでしょうか。それは、「神を恐れよ。神の命令を守れ。」ということです。なぜなら、神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからです。最終的なさばき主である神を恐れ、神の命令を守ることこそ、すべての人にとって知恵ある人生であると言えるのです。

ルカの福音書12章16~21節に、イエス様が話された愚かな金持ちのたとえ話があります。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

この金持ちはどういう点で愚かだったのでしょうか。それは「ピント外れの価値観」を持っていた点です。彼は大豊作の作物を、新しい倉を建ててその中に十分に蓄えました。そして自分のたましいにこう言いました。

「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」

これは単なる独り言や心の中のつぶやきではありません。これは彼の人生観そのものでした。物がたくさん貯まったことで、たましいの安全までも保障されたと思ったのです。彼は「物でたましいの安全を買うことはできない」という大原則を忘れていました。ですから神から「愚か者」と叱責されたのです。「愚か者」とは「感覚を失った者」という意味です。彼は人生における正しい感覚を失ってしまっていたのです。

そんな彼に神は言われました。「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と。その「今夜」とは、まさに宴会の真最中のことです。「もう大丈夫、安心だ、楽しもう」と言っていたその時です。「今夜」つまり、人生の終わりは誰にでもやって来ます。しかし、それがいつ来るかは誰にも分かりません。

しかし、神の前に富む者は、この人生の終わりにしっかりと備えています。「肉体の死」ということに出会っても、失わないものをちゃんと持っているのです。それはまことのいのち、永遠のいのちです。死ぬ時に手放さなければならないものをいくらっていても、それは本当の豊かさではありません。死を越えてもなおその手に残るもの、それは永遠の神との関係です。イエス・キリストを救い主として信じる者に与えられる永遠のいのちです。

同じルカの福音書16章19~31節には、「金持ちとラザロ」の話が出て来ますが、「ラザロ」はその永遠のいのちを得た人です。金持ちは毎日贅沢に暮らし、神様を求めようともせず、自分中心の生活をしていました。一方ラザロは惨めな生活で、神様の助けなしには生きられない存在でした。それは「ラザロ」という名前からもわかります。「ラザロ」という名前は「神は助け」という意味があります。彼は神の助けなしには生きていけないと告白していたのです。彼らの死後、金持ちはハデスに、ラザロはアブラハムの懐、つまりパラダイスにいました。私たちの人生は、死んで終わりではありません。生きている間の行いに応じて、神様の裁きがあり、天国と地獄に振り分けられるのです。人は、誰でも心に罪を持っています。神様

信じない自己中心的な人生を送った人は天国には行けません。しかし、イエス様は今から2000年前に十字架にかかられ、私たちを罪の束縛から解放して下さいました。罪を悔い改め、十字架の贖いと復活を信じるなら、その罪は赦され、罪のない者として永遠のいのちを受けることができます。たとえ死んでも天国に行くことが出来るのです。


 このような人こそ、神を恐れ、神の命令に歩む人です。創造者である神を信じ、神と共に歩む時、私たちの霊は満たされます。もはや、むなしい生き方ではなく、天に希望を置き、意味のある生き方が始まるのです。重要なのはスピードよりも方向です。どの方向に向かって生きているのかということです。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいが来ないうちに。結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

あなたはどうですか。あなたの人生が後悔や嘆きではなく感謝と賛美に満たされたものとなるように、ここで伝道者ソロモンが見いだした知恵を心に刻んでいただきたいと思います。すべてを支配しておられる神を認め、神を恐れ、この神とともに意味のある人生を送らせていただこうではありませんか。

平安があなたがたにあるように ヨハネの福音書20章19~21節

2021年4月4日(日)イースター礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネの福音書20章19~21節

タイトル:「平安があなたがたにあるように」

 

 イースターおめでとうございます。きょうはイースターをお祝いしての礼拝ですが、私たちがこうしてイースターをお祝いするのは、イエス・キリストの復活の出来事が私たちにとって重要な出来事だからです。私たちは毎年クリスマスを盛大にお祝いますが、このイースターはクリスマス以上に重要な出来事だと言えるかもしれません。確かにクリスマスは神様が私たちを愛し、私たちを罪から救うためにひとり子イエスをこの地上に送って下さった日ですからとても重要な日ですが、イースターは、その御子が十字架でなされ罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださったということが真実であることを保証するものですから、そういう意味ではもっと重要な出来事だと言えます。イエス様が死からよみがえらなかったなら、私たちはどうやって罪から救われたと確信することができるでしょうか。どうやって天国に行くことができると確信することができるでしょうか。というのは、ローマ人への手紙6章23節には「罪から来る報酬は死です」とあるからです。もしキリストが死んで復活しなかったら、キリストにも罪があったということになるのです。そうであれば、私たちが救われたというのは単なる思い込みにすぎず、盲信でしかないということになります。しかし、イエス様はよみがえられました。イエス様が復活されたことで、聖書が言っているとおり、この方を信じる者は永遠のいのちを持ち、天の御国で永遠に神とともに生きるようになるという希望を持つことができるのです。もう死を恐れる必要はありません。確かに死は怖いですが、死は永遠の入り口にすぎず、イエス様を信じる人は、やがて栄光の御国に入るのです。それはイエス様が復活してくださったからです。イエス様が復活されたので、私たちは確信をもって死の不安と恐怖から解放され、永遠のいのちの希望に生きることができるのです。きょうは、このすばらしいキリストの復活の出来事から、キリストにあるいのちと希望をいただきたいと思います。

 

 Ⅰ.弟子たちの真中に立たれたイエス(19-20)

 

まず、19~20節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

 

「その日」とは、マグダラのマリヤが復活の主イエスに会った日のことです。それは週の初めの日、すなわち、イエス様が十字架につけられてから三日目の日曜日のことでした。マグダラのマリヤは、その日、朝早くまだ暗いうちに、イエスのお体に香油を塗ろうと墓に行くと、そこに置かれていた石が取り除けられているのを見ました。だれかが墓から主を取って行ったのだと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとヨハネに告げます。それを聞いたペテロとヨハネは急いで墓に向かいましたが、墓に着いてみると、そこには亜麻布は置かれてありましたが、主イエスのお体はありませんでした。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書のことばを理解していなかったので、まさか主がよみがえられたとは思いもしませんでした。

 

一方、マリヤも何が起こったかがわからず、墓の外でたたずんでいましたが、そんな彼女に主が現れてくださり、「マリヤ」と声をかけられました。その声を聴いたときマリヤはすぐにそれがイエス様だということがわかり、イエス様にすがりつこうとしましたが、イエス様は「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのもとに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(17)と言われました。それで彼女は行って弟子たちにそのことを告げたのです。「その日」のことです。

 

その日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていました。弟子たちは、イエスに従っていた自分たちも捕らえられ、裁判にかけられるのではないかと恐れていたのです。復活したキリストが、自分たちのところに来て姿を見せてくださるまで、弟子たちは完全に恐れに打ちのめされていました。彼らはいつもイエス様と一緒にしてそのすばらしい御業を見たり、聞いたりしていましたが、いざイエス様が十字架で処刑されると、どうしたらいいのか、何を信じたらいいのかわからなくなってしまったのです。

 

今は亡き毒舌落語家に、立川談志(たてかわだんし)という方がおられました。彼はとにかく、自分の目で見たもの以外は信用しないという人でした。著書の中で、テレビはやらせ、新聞はウソと言い放っています。「ものごとってなぁ、自分が見たものだけが本物だ。あとは全部うわさ話よ。」とよく言っていました。しかし、どうして人の話を、頭から信じないようになったのかというと、それは日本の敗戦にありました。

子供のころ談志さんは、日本軍は連戦連勝を続けているという、この大本営発表を信じ切っていましたが、それなのに、日本の本土は簡単に空襲を受けたのです。まだ小学生だった彼は、東京大空襲を経験し、その目で、その耳で、地獄を経験するのです。母と兄の3人で避難する途中、川の中から聞こえてくる「助けてくれ」という声と、土手からの「助けてやれない」という声が交差する中を必死で走り回ったといいます。信じ切っていた発表が、真っ赤な嘘だとわかったとき、それから彼は疑い深い人間になったというのです。

 

主イエスこそ人となった神であり、全能の救い主だと信じていた弟子たちは、このイエスが死刑にされ、墓にまで埋葬されてしまったとき、もうすべてが終わった、いったい自分たちが信じてきたことは何だったのかと、頭が混乱していたに違いありません。彼らは意気消沈し、また同時に、次に当局は自分たちを捕らえに来るかもしれない、と恐れていたのです。

 

すると、そこにイエスが来られました。イエスが来て彼らの真ん中に立たれると何と言われましたか?「平安があなたがたにあるように。」と言われました。閉まっていた戸を通り抜けることができたのは、イエス様のからだが地上での物理的制約を受けない霊のからだであったことを示しています。復活されたイエス様のお体は物質的な障壁を越えられるものであったということです。しかしそれは単なる霊ではなくちゃんとした肉体をもっていました。ルカの福音書24章には、復活したイエス様を見て幽霊だと思った弟子たちに対して、イエス様が「なぜ取り乱しているのですか。わたしにさわって、よく見なさい。」と言われました(24:38-39)。「幽霊なら肉や骨はありません。でも私にはあります。」そう言って、彼らに手と脇腹を見せられたのです。手と脇腹というのは、イエス様が十字架につけられた時の釘の跡と槍の跡のことです。ですから、復活されたイエスは確かに肉や骨がありましたが、それはこの肉体とは違い、物理的な障壁を越えられるものだったのです。

 

そして、こう言われました。「平安があなたがたにあるように。」イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。この言葉は、ギリシャ語で「シャローム」という言葉です。これは今もユダヤ人があいさつで使っている言葉ですが、「平安があなたがたにあるように」とか「ごきげんよう」といったニュアンスの言葉です。しかし、ここでイエス様が彼らに「シャローム」と言われたのは単なるあいさつではなく、それ以上の意味がありました。それは不信仰に陥り不安と恐れに脅えていた彼らの信仰を回復し、彼らにメシヤの到来を告げ知らせることによって、喜びと平安をもたらすためだったのです。

 

このとき彼らは不信仰に陥っていました。第一に、彼らはイエス様からガリラヤに行くようにと言われていたのにもかかわらず、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていました。第二に、彼らはイエス様があらかじめ語っておられた復活の預言を信じていませんでした。第三に、イエス様が復活されても、自分たちは幽霊を見ているのではないかと思っていました。

このように彼らはイエス様が言われたことを信じることができなかったため、恐れと不安に脅えていたのです。

 

しかし、イエス様が彼らの真中に立たれ「平安があなたがたにあるように」と言われ、その手と脇腹を示されたとき、彼らは主を見て喜びました。あの恐れと不安が、喜びに変えられたのです。復活した主イエスが現れ「平安があなたがたにあるように」とみことばをかけてくださることによって、その手と脇腹を示されることによって、彼らに再び信仰が与えられたのです。イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえると言われていたことばを思い出したのです。弟子たちはそれを見て喜んだのです。

 

皆さん、信仰の対極にあるのは何でしょうか?信仰の対極にあるのは恐れとか不安です。恐れや不安は霊の眼を閉ざしイエス・キリストを見えなくさせます。反対に信仰は、喜びと希望を与えてくれます。不安と恐れのどん底にいた弟子たちが喜ぶことができたのは、復活したイエス様が現れて「平安があなたがたにあるように」と御声をかけてくださったからです。それはイエス様の恵み以外の何ものでもありません。イエス様は恐れと不安で何も見えなくなっていた彼らに「シャローム」と言われ、彼らの信仰を回復させてくださいました。同じように主は今も、この時の弟子たちのように不安と恐れに苛まれている私たちに現われてくださり、同じように御声をかけておられるのです。「シャローム」「平安があなたがたにあるように。」あなたが不安や悲しみでどんなに落ち込んでいても、主があなたの前に立っておられることを認め、そのみことばを聞くならば、あなたも弟子たちのようにそれを見て喜ぶことができます。いや、あなたが落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなるのです。

 

生涯現役の医師として活躍された日野原重明さんが、2017年に天国に召されました。たくさんの本を残されましたが、その一冊に学生時代の思い出について書かれたものがあります。

京都大学の医学部を受験した日野原さんは、合格発表を見に行くため、家を出ようとしていました。するとそこに友人から電話がかかってくるのです。彼は日野原さんの受験番号を知っていました。そして自分の合格を確認するだけではなく、ついでに日野原さんの合否を見に行ってみたというのです。その結果「番号はなかったよ」というのです。内心自信があった日野原さんは、本当にがっかりしました。誰も近づくことができない程に落ち込んだのですが、やがて大学から連絡が入りました。「合格しているのにどうして手続きに来ないのですか?」
 どういうことか。実は当時の医学部受験には、二つのコースがあったのです。友人はそれを知らずに、もともと日野原さんが受けていない方のコースの合格掲示板を見て、早合点したのです。もう一つの方にはちゃんと受験番号がありました。それが分かったとき、喜びが爆発したそうです。がっかりした気持ちが深かった分、それをくつがえす事実に向き合ったとき、天にも昇るような気持ちだったと言います。

 

それは私たちも同じです。私たちも辛くて、悲しくて、不安で、落ち込むことがあります。でも落ち込めば落ち込むほど、その喜びも大きくなります。信仰によって復活の主イエスを見るとき、私たちの悲しみは喜びに変えられるからです。あなたはどうでしょうか。あなたの心は不安や悲しみでいっぱいになっていませんか。もしそうであるならば、復活されてあなたの前に立ち、「平安があるように」と言われる主の御声を聞いてください。死から復活して今も生きておられる主を信じ、主のみことばを聞くとき、あなたも喜びに満たされるようになるのです。

 

Ⅱ.わたしもあなたがたを遣わします(21-23)

 

次に、21~23節をご覧ください。「イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 

この喜びと平安によって眠っていた弟子たちの使命感が、はっきりと呼び覚まされます。それは、罪の赦しの宣言のために遣わされるということです。イエスは彼らにこう言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

イエス様はここで再び彼らに「平安があなたがたにあるように。」と言われました。どうしてでしょうか。このときの「平安があなたがたにあるように」ということばは、19節で言われたことと意味が違います。19節で言われた時は弟子たちの信仰を回復させ、恐れと不安の中にあった彼らに喜びをもたらすためでしたが、ここではそうではありません。別の目的で語られているのです。それは、彼らを福音宣教の使命に遣わすためでした。父なる神は、ご自身の権威をもって御子イエスを派遣されましたが、それと同じように、今度は主イエスの権威によって彼らが遣わされるのです。そのために必要だったことは何でしょうか。それは神との平安です。罪責感を負ったままでは、主の使命を果たすことはできません。ですからここで主は再び「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。

 

そればかりではありません。イエス様はそのように言われると、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

これはペンテコステに起こった聖霊降臨のことではありません。この「息を吹きかける」という言葉は、創世記2章7節にもありますが、そこには、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とあります。ここには、土地のちりで形造られた人間に神が息を吹きかけることで、人は生きるものとなったとあります。この「息」という言葉と「霊」という言葉はヘブル語では同じ言葉(ヘルアッハ)が使われています。つまりイエス様が弟子たちに息を吹きかけたのは、そのことによって彼らが生きるものとなるためだったのです。そのことで弟子たちは、新しく生まれ変わったのです。ですからここで「聖霊を受けなさい」と言われているのです。聖霊を受けるとは、その人の罪が赦され、神のいのちが与えられるということです。つまり、この時キリストは彼らの罪を赦し、ご自身の聖なる霊を彼らに与えられたのです。これはイエスを信じるすべての人にされることです。神はイエスを信じるすべての人の罪を赦し、ご自分の聖なる御霊を与えてくださいます。それが「救われる」ということです。

 

そのことによって、私たちは神から与えられた使命を全うすることができます。その使命とは何でしょうか。罪の赦しの宣言です。23節にこうあります。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」どういうことでしょうか。

もちろんこれは私たちがだれかの罪を赦したり、残したりする権威があるということではありません。罪を赦すことができるのは神だけです。私たちにはそのような権威はありません。しかし私たちにはその神が決定されたことを宣言する役割が与えられているのです。その権威が与えられているということです。聖霊を受け、主イエスが父なる神から権威が与えられたように、そのイエスの権威によって遣わされる者にも同じ権威、罪の赦す権威が与えられているのです。すごいですね。信じられないことですが、聖霊によって新しく生まれ変わった私たちには、そのような権威が与えられているのです。私たちもこの時の弟子たちのように不信仰な者で、罪深い者にすぎませんが、復活のイエス様を信じることでイエス様に息を吹きかけられ、聖霊によって新しく生まれ変わった者であることを覚え、この神の権威と聖霊の導きによって、きょうも周りの人々に神の愛と罪の赦しの福音を伝えていきたいと思うのです。

 

Ⅲ.キリストの復活がもたらしたもの

 

最後に、このキリストの復活がもたらしたものを考えてみたいと思います。このあと弟子たちはこの罪の赦しの宣言を伝えて行くことになります。その様子は使徒の働きを見るとわかりますが、彼らはいのちがけで伝えていきました。それで初代教会のクリスチャンたちは破竹の勢いで広がっていき、ついにはヨーロッパ大陸全土がキリストの福音に圧倒されていきます。いったいその原動力は何だったのでしょうか。それは、キリストの復活がもたらしたものです。キリストは私たちの罪を背負い十字架で死んで下さった後に、三日目に復活してくださいました。この復活によって死を滅ぼされたという歴史的事実が、彼らにそのような力を与えたのです。それが原動力となったのです。つまり、この復活の事実こそが、キリストが死から復活したということが迷信ではなく、実際にあった事実であったということを物語っているのです。

 

私は最近、「言霊信仰」に関する本を読みました。日本人は昔から起こって欲しくないことを言葉にして出すと、本当にそれが実現すると信じているところがあります。ですから、結婚式では「切れる」とか「別れる」とか「割れる」といったことばは禁句です。受験生がいる家では「すべる」とか「落ちる」がタブーですね。逆に、むかしから「勝つ」と「カツ」をかけて、勝負や試験の前に「豚カツ」を食べる験担ぎになっています。そんなのバカバカしいと思っている人でも、実は知らず知らずの間に使っているのです。たとえば、会合や宴会などを終えるとき「お開きにする」という言い方をしますが、本当は「おしまいにする」とか「会を閉める」なのです。でも、それでは縁起が悪いと考えて、あえて反対の「開く」という言い方をするようになり、それがすっかり定着するようになったのです。

こういう現象は日本社会では随所に見受けられます。しかしこれこそが日本の安全保障の障害になっているのではないか、と指摘する人もいるのです。起こって欲しくないことは考えないようにすることによって、万が一のことに備えることができなくなってしまうからです。

 

これは個人の人生についても言えることで、その代表が、死につながることをいっさい隠すということです。ですから病院では4号室や、4番ベッドはなく、飛行機には4番シートがありません。それは縁起の悪いものがあったら、本当に死んでしまうかもしれない、と恐れるからです。しかし4という数字をどんなに使わないようにしていても、死は必ずやって来るのです。必ずやって来るものについては、考えないようにするのではなく、そのためにしっかりと準備しておくことの方が賢明です。しかし、死に対する準備などできるのでしょうか。できます!

 

キリストは私たちの罪を背負って、十字架で死んで下さった後、三日目に復活することで、死を滅ぼしてくださいました。これは迷信でも何でもなく、この歴史の中で実際に起こった事実です。それは、私たちの罪が赦され、永遠のいのちを与えるために神が成してくださった神のみわざです。この神のみわざを受け入れる者、すなわち、この方を信じる者は罪が赦されて、死んでも生きる永遠のいのちが与えられるのです。

 

キリストはあなたのために死なれました。そして文字通りよみがえられました。あなたの前に立って「平安があなたがたにあるように」と言っておられます。どうぞ、この復活された主イエス・キリストを信じてください。そして、あなたの人生が天国に向かう喜びと平安なものになってほしいと思います。主はよみがえられました。復活の主の力と喜びがあなたにもありますように。「平安があなたがたにあるように。」

 

最大の恵み ローマ人への手紙15章14~21節

2021年3月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ローマ人への手紙15章14~21節

タイトル:「最大の恵み」

 

 きょうは「最大の恵み」というタイトルでお話したいと思います。このローマ人への手紙は、使徒パウロからローマの教会の人たちに書き送った手紙です。パウロはこの手紙も終わりに近づいたころ、もう一度これを書いた目的を述べています。それは異邦人に福音を宣べ伝えることです。そのためにローマの教会の人たちに祈ってほしかったのです。パウロは神から恵みを受けた者として、異邦人の使徒として召されました。使徒というのは「遣わされた者」という意味です。ユダヤ人ではない人たちを異邦人と言いますが、その異邦人に福音を伝えるという使命が与えられていました。それで、聖霊の助けによって熱心に主に仕え、エルサレムから始めてイルリコに至るまで、宣教のわざを続けてきました。イルリコというのは、現在のクロアチア、アドリヤ海に面した地域のことです。パウロは「エルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡りキリストの福音をくまなく伝えた」と言っています。その距離約二千二百キロメートルです。大雑把にとらえれば、北海道の端から沖縄の端まででしょうか。当時の旅のゆっくりしたこと、また様々な危険があったことを考えれば福音を広めるパウロの苦労は大変なものであったことでしょう。しかしパウロはそのような苦労をものともせず、「もうこの地方には私が働くべき場所はなくなりました」(15章23節)と言うほどに徹底して伝道して歩いたのです。

 

そして、当時ローマ帝国の果てと言われていたイスパニヤ、これは今のスペインのことですが、そこにも趣いて行きたいと考えていました。そのためには祈りが不可欠です。そうした伝道の計画をローマの教会の人たちに伝え、そのために祈ってほしかったのです。パウロにとっての最大の喜びは、イエス・キリストの福音を伝えることでした。神様がそのために自分を用いてくださるということが最大の恵みだったのです。それは私たちにも言えることです。私たちにとっても最大の喜びは、イエス・キリストの福音を伝えることです。この福音こそ多くの人々の人生を変える喜ばしい知らせなのです。

 

私の友人がアフリカでNPO団体の職員として働いていた時のこと、自分たちが立ち入らないような奥地にまでキリスト教の宣教師たちが入っていって熱心に福音宣教を進めている姿に驚かされたと言います。不便な生活をし、犠牲を払いながら、一体何を語っているのだろうか。興味を持った友人は、教会に通い始めました。そしてついにイエス・キリストにある罪の赦しときよめの祝福を理解するようになり、信仰を持ったというのです。そして、たばこをくゆらし、ただボーッと過ごすだけの人生から、神を喜び神の御心に沿って歩む、活き活きした人生へと脱出することができたと言います。キリストの福音は、私たちの人生を、このように変える力があるのです。

きょうは、パウロがどのようにこの福音を異邦人に宣べ伝えていたのかを、三つのポイントでお話ししたいと思います。

 Ⅰ.神が与えてくださった恵みのゆえに(14-17)

 

 第一に、14~17節までをご覧ください。ここには、パウロに与えられた使命がどのようなものであったかが記されてあります。「私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。」

 

 パウロは、これから語ろうとしていることをローマのクリスチャンたちに語るにあたり彼らを責めるような口調や態度ではなく、彼らを認めることから始めています。14節には、「私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。」と言っているのです。人が励まされ、強められるために一番重要なことは、その人が認められることです。人は認められるとき、自分の命までもささげ、与えられた使命を成し遂げようとします。パウロはまさにこの原則を用いて、彼らを認めることから始めているのです。それは何とかして彼らに、これから語ることを理解してほしかったからです。それは神の福音を宣べ伝えることについての神の計画です。

 

16節には、「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。」とあります。

パウロが受けた恵みとは何でしょうか?それはイエス・キリストによる救いです。これまでパウロは、旧約聖書にある神の律法を守らなければ救われないと、律法による救いを徹底的に説いてきました。しかし、すべての人は罪人なので神の律法を完全に行うことはできず、律法によっては義とみとられることがないとわかったとき、律法ではない、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを信じることによって、価なしに義と認められるということがわかりました。そしてその恵みを受け入れたとき、その恵みのゆえに、異邦人に福音を伝える者となったのです。それは異邦人が、聖霊によって聖なる者とされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。創造主訳聖書には、「異邦人を聖霊によって聖められた、創造主に受け入れられるものとするためである。」と訳されてあります。つまり、異邦人もまた聖霊によって聖められて、神に受け入れられるようにするために、異邦人の使徒となったということです。その恵みを受けた者として、今度はその恵みを分け与える者となったのです。

 

 皆さんは、「恵み」というとどんなことを思い浮かべるでしょうか。どちらかというと、好いことがたくさんあったりとか、物質的に恵まれること、行く先々で道が開かれるといったことを考えるのではないかと思いますが、恵みとはそういうことではありません。恵みの意味を広辞苑で調べてみると、

1.めぐむこと。恩恵。また、いつくしみ。「自然の恵み」「天の恵み」

  1. キリスト教で、原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済をいう。聖寵 (せいちょう)。

とあります。辞書にはちゃんとキリスト教での恵みの意味も書いてありますね。でも、実はここに書いてある内容では、恵みの本質を説明しているとは言えません。恵みとは、ただ恩恵を受けたり、何かの利益を得ることではありません。また、”原罪にもかかわらず信仰によって与えられる神の愛による救済”という説明にも、大切なポイントが抜けています。そのポイントは何かというと、『無条件で与えられる』ということです。恵みは、行いによってでも、対価を払うことでもなく、タダで与えられるものなのです。これは頑張ることを美徳にしている日本人には、理解するのが難しいことです。私たち日本人は、実は恵みとは反対の報いという考え方が強い民族性なのです。報いとは、行いや対価に応じて、与えられるものですが、無条件で与えられる恵みとは、全く逆のものです。例えば働けば報酬として、給料を貰うことができます。お金を払えば、物を買うことができます。誰かに親切にすることで、ご褒美が貰えるかもしれません。また、逆に悪いことをすれば、罰を受けます。犯罪を犯せば、罰金や懲役刑を受けます。これらは良くも悪くも、全て何かの行いや対価に応じて、自分に返ってくるものなので、全て報いです。けれども、恵みとは全く逆で、無条件で与えられるものです。無条件で何かを得ることを期待するなんて、怠け者で悪いことだと考えられてしまいますが、聖書では、全く救われるに値しない者に対して、神が一方的に与えてくださったもの、それがイエス・キリストの救いです。

 

ですから、キリスト教の救いは恵みなのです。これがキリスト教の神髄とも言えることです。だから、この恵みを完全に受け入れることができた人の先にあるのは、「これで大丈夫なんだ!」という平安な心なのです。パウロはこの恵みを受けたのです。彼は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったのです。

 

パウロは、Ⅰテモテ1章12~16節で次のように言っています。「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」

 

パウロが、キリスト・イエスに感謝をささげているのはなぜでしょうか?それは、キリストが彼をこの務めに任命して、彼を忠実な者として認めてくださったからです。彼は以前、神を汚す者であり、クリスチャンを迫害するような者でした。いわば、神の敵として歩んでいたのです。まさに罪人のかしらのような人間でした。そんな者が赦されるはずがありません。しかし、彼は神のあわれみによって罪が赦され、キリストの福音を宣べ伝える者にされました。それこそ、ことばに言い尽くせない恵みだと、パウロは感激に溢れて告白しているのです。神様のために用いられることが幸せなのです。神様は自分よりも育ちも良く、頭も良くて、人格的にも立派な人を差し置いて、私のような者を用いてくださるとしたら、それこそ恵みではないでしょうか。

 

「驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れる我(われ)に」(新聖歌233)。教会に行ったことがない人も、どこかで耳にしたことがあるでしょう。「アメージング・グレース」です。この歌は、ジョン・ニュートン(1725〜1807)によって1779年に発表されました。「アメージング・グレース」は、今日も教団教派を超えて歌い継がれている定番の賛美歌となっていますが、この讃美歌にはニュートン自身の劇的な回心の経験がその根底に流れています。

 

母親は熱心なクリスチャンでしたが、7歳にして母を亡くしたニュートンは11歳で父と共に船に乗るようになり、さまざまな経緯を経て奴隷貿易に携わるようになりました。その頃のニュートンの評判は、反抗的で、罰当たり、不親切というものだった。

しかし、ニュートンが22歳の時に転機が訪れます。1748年5月10日、激しい嵐が船を襲い、転覆の危機にあった船中でニュートンは神の憐みを求めて必死に祈りました。船は奇跡的に嵐を免れ、この経験がニュートンの回心の「始まり」となったのです。1754〜55年の間に、ニュートンは奴隷貿易をやめ、その代わりに神学を学び始める。そして1764年、ついに英国国教会の牧師になりました。その後彼は、黒人たちをまるで家畜のように扱う奴隷貿易に携わったことを罪を悔い改め、そのような者でさえも赦してくださった神の恵みに感謝して、この歌を造ったのです。アメージング・グレース。あっという恵み。その恵みのゆえに、彼もまたイエス・キリストの福音を伝える者となったのです。

 

パウロは、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったのです。それは私たちも同じです。Ⅰペテロ2章9~10節はこうあります。  「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」

 

私たちはみな祭司となったのです。これを万人祭司と言います。パウロはここで、「祭司の務めを果たしています」と言っていますが、私たちも神の祭司として、その務めがゆだねられているのです。それは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けたからです。アメージング・グレース。驚くほどの恵みを受けた者として無今度はその恵みに応答し、キリスト・イエスに仕える者となったのです。

 

 Ⅱ.御霊の力によって(18-19)

 

 次に18~19節を見てみましょう。「私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。」

 

 ここには、パウロがどのようにして異邦人への伝道を成し遂げていったのかが書かれてあります。「キリストはことばと行いにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。」その結果、彼はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えることができたのです。

 

イルリコというのは、先ほども申し上げたように現在のクロアチア、アドリヤ海に面した地域のことです。エルサレムからは直線距離にして2,200㎞ほどあります。彼は、エルサレムから始めて、そうした地方に至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。そればかりではありません。23節には「しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、」と言っています。イスパニヤというのは今のスペインのことです。当時の世界の西のはずれと言われていました。そのイスパニア、スペインまで福音を伝えたいと思っていたのです。今日のように交通機関が発達していなかった時代に、よくもまあこんなに福音を伝えることができたものだと感心しますが、いったいその力は何だったのでしょうか?それはキリストの力によるものでした。キリストがことばと行いによって、また、しるしと不思議によって、さらに御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。それはパウロの力ではなかったのです。キリストがパウロを用いて、ご自身のみわざを成し遂げてくださったのです。

「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 

 聖霊があなたがたの上に望まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。そして、力強い主の証人となることができます。その行く先々で、しるしと不思議を行ってくださいます。福音が伝えられる現場では、こうしたこうしたみわざが現れるのです。

 

 使徒の働き13章には、パウロとバルナバがアンテオケ教会から遣わされてキプロス島に渡った時、そこで魔術師エルマと戦ったことが記されてあります。パウロの話を聞いていた総督セルギオ・パウロが神のことばを聞いていると、彼を信仰の道から遠ざけようとして、邪魔をしました。するとパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、「あらゆるよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。おまえは盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができないようになる。」と言うと、たちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は見えなくなってしまいました。この出来事に驚いた総督は、主の力ある教えに驚いて信仰に入ったのであります。

 

 ルステラではこんなことがありました。生まれつき足のきかない人がすわっていましたが、どのようにしてかわかりませんけれども、彼がパウロの話を聞いていると、パウロは彼にいやされる信仰があるのを見て、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言いました。すると彼は飛び上がって、歩き出したのです。驚いた群衆は、パウロとバルナバがギリシャの神々だと思っていけにえをささげようとしましたが、パウロがあわてて、そんな馬鹿なことはやめてください。私たちも皆さんと同じ人間なんですよ。このようなむなしいことを捨てて、天と地を造られた生ける神様を信じてください、というと、大勢の者たちが信仰に入ったのです。

 

 第二次伝道旅行でピリピという町に行った時のことです。占いの霊にとりつかれていた若い女奴隷から悪霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人たちがパウロとシラスを訴えて牢屋に入れてしまいました。パウロとシラスが獄中で祈りつつ、賛美の歌を歌っていると、奇跡が起こりました。大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち全部の扉が開いてしまったのです。それを見た看守は、「もうだめだ」と思って自害しようとしましたが、そこにいたパウロとシラスが「自害してはならない。私たちはここにいる」という、彼らは恐る恐るひれ伏しながら、「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言ったので、パウロはこう言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)するとこの看守とその家族はイエス様を信じて全員救われたのです。

 

 ローマに向かう船が難破して、奇跡的に救い出され、マルタ島についた時も、パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべると、熱気のために、一匹のまむしがはい出て来て、彼の手にとりつきましたが、「何だ、この蛇は!」と言ったかどうかわかりませんが、パウロが火の中に振り落としても、何の害も受けませんでした。

 

 使徒の働きを見ると、こうしたしるしや奇跡は山ほど出てきます。まさに、イエス様が言われたように、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)これはまさに御霊なる主、聖霊のお働きによるのです。

 

 ある人々は、このようなしるしと不思議を行う力は二千年前に終わったと言います。しかし、福音を携えていくところには、確かに奇跡が起こるのです。今も南米で、アフリカで、中国で、インドネシアで、世界中の至るところでこうしたしるしや不思議をなす力によって、福音がものすごい勢いで広がっています。使徒の働きに記されているすべてのわざは、今日も福音が宣べ伝えられる所で、私たちを通して行われるのです。それはこの日本も例外ではありません。みことばが宣べ伝えられるところではどこでも、このような神の力が現れるのです。それがパウロの宣教の力だったのです。

 

 Ⅲ.開拓者精神(20-21)

 

 最後に、こうしたパウロの異邦人伝道の原動力について見て終わりたいと思います。20~21節をご覧ください。「このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」」

 

 「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝える」とは、それは異邦人の世界のことで、まさに世界宣教のことです。また、「他人の土台の上に建てないように」とか「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる」というのは、文字通り開拓伝道のことです。パウロは、こうした世界宣教と開拓伝道のビジョンに燃えていました。今日のように交通機関が発達していなかった時代です。でも彼らはこのような宣教のビジョンを持っていました。しかし、もっと驚くべきことは、実際に彼はそれを達成しようとしていたことです。こうした彼の開拓者精神はどこから出ていたのでしょうか?それは、彼がいつも神の視点で物事を見ていたことです。常に神のみこころは何かを考え、そこに生きようとしていたからです。21節には、「こう書かれているとおりです。「彼のことを告げられていなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」とあります。これはイザヤ書を52章からの引用です。このように書かれてある聖書のことばが成就すると信じていたのです。

 

 それが自分にできるかどうかということではありません。神のみこころは何か。そしてそれが神のみこころならば、何としてもそれを達成しなければならないという情熱から出ていたことだったのです。Ⅰテモテ2章4節には、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあります。神のみこころは、すべての人が救われて真理を知るようになることです。まだキリストの福音を聞いたことのない人たちが聞き、神を知るようになることを望んでおられます。そのためにどうあるべきなのかを求めた結果がこれだったわけです。今、私たちに求められているのは、こうした神様の目で物事を見、それを行っていくということではないでしょうか。

 

 戦後、この日本に福音が伝えられた背後には、多くの宣教師たちの犠牲がありました。日本が戦いに破れ、精神的に虚脱状態に陥っていたとき、多くの宣教師たちが来日してキリストの福音を伝えてくれたのです。

 その先駆者となったのがF・B・ソーリーという宣教師です。ソーリー宣教師は、1948年に来日し、焼け跡の東京の街角に立ってエネルギッシュに福音を伝えました。アコーデオンをかなでながら歌を歌い、通訳を用いて説教したと伝えられています。東京での宣教の働きを終えると、今度は和歌山に移って意欲的に天幕伝道を始めました。「どうして和歌山なんですか?温泉があるからですか」と泉田昭先生(日本バプテスト教会連合練馬教会名誉牧師)が冗談に尋ねると、ソーリー宣教師は、にっこりと笑いながらこう言ったと言います。「アイム、ソーリー」というのは冗談で、「調べてみると、日本でクリスチャンが最も少ない地方は富山県と和歌山県であることがわかりました。富山県ではカナダから来た宣教師たちが伝道することになったので、私たちは和歌山県で伝道することにしたのです。」

 何というスピリットでしょうか。戦後日本の宣教は、こうした開拓者精神に溢れた宣教師たちによって、福音が伝えられて行ったのです。それは、栃木県も同じではないでしょうか。日本で最もクリスチャンが少ない地方は栃木県さくら市です。

 

 イギリスからやってきていたP・ウィルスという宣教師は、「キリストを信ずれば、馬が行灯(あんどん)をくわえたような、長い不景気な顔をした人でも、かぼちゃのように、にこにこした笑顔に変わります」と巧みな日本語で、熱心に語ったそうです。あんどんとは、木などで枠を作って紙を張り、中に油の皿を置いて点灯するものですね。だからぼんやりしているわけですが、そんな馬が行灯をくわえたような不景気な顔をしている人でも、イエス様を信じると、かぼちゃのような顔になるなんて、すごい表現だと思うんです。イエス様を信じると、私たちの不幸の原因である罪が赦され、永遠のいのちがあたえられるのです。

 

 今、時代は大きく変わりました。しかし、どんなに時代が変わってもいつまでも変わらない原則があります。それは、この救霊の情熱です。まだキリストの福音が伝えられていない所に何とかして福音を伝えたいという情熱です。私は国内開拓伝道会というところでご奉仕させていただいておりますが、その委員のお一人に日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会牧師の中島秀一先生がおられます。中島先生は80を過ぎておられる先生で、ご自身の教会も300人くらいの大きな教会ですが、この先生が言われる野です。「日本の教会はまだまだ開拓伝道です」と。中島先生のスピリットに触れると、本当に励まされます。

 

日本の現状を見ると、それは必ずしも容易なことではありませんが、しかし、神はこの福音宣教の使命を、私たちクリスチャンにゆだねておられるのです。それは神が与えてくださった恵みのおえに、神の御霊の力によって、神のみことばの約束に基づいてなされていくものです。

 

私たちの教会は今日、創立5周年を迎えることかできました。この礼拝の後で君島兄がまとめてくださった5年間の歩みを間ながら、ここまで守り、導いてくださった主に感謝しつつ、この教会がこの福音宣教の使命を担っていく教会となるように祈りたいと思います。

あなたのパンを水の上に投げよ 伝道者の書11章1~10節

2021年3月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書11章1~10節(旧約P1153)

タイトル:「あなたのパンを水の上に投げよ」

 

 伝道者の書11章に入ります。今日のメッセージのタイトルは、「あなたのパンを水の上に投げよ」です。伝道者はこれまで繰り返し、私たちの人生はこれから後に起こるはわからないし、だれもそのことを告げることはできない、ということを語ってきました。それでは、その不確かな将来において私たちはどのようにあるべきなのでしょうか。今日のところで、伝道者はこのように勧めています。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」(1)

 

Ⅰ.あなたのパンを水の上に投げよ(1-2)

 

 まず、1節と2節をご覧ください。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。」

 

「あなたのパンを水の上に投げよ」とても有名なことばです。皆さんも何回か耳にしたことがあるみことばではないでしょうか。でもこれがどういうことなのかを知っている方は少ないのではないかと思います。この「パンを水の上に投げる」とは、次の3つの解釈があります。その一つは、これを穀物の海上貿易のことだと理解し、海上貿易には多くのリスクが伴うが、そのリスクを恐れず投資するなら多くの利益をもって報われる、というものです。この場合パンは穀物のこと、あるいは自分の財のことであり、「投げる」とは貿易のことを指しているということになります。それを「水の上に投げよ」とあるので、海上での取引に投資することと解したのです。

英語訳聖書(TEV)では「あなたのお金を海上貿易に当てよ。そうすればいつの日か、多くの報いが与えられるであろう」と訳しています。この伝道者ソロモン自身、海上貿易で巨万の富を築いています(列王記上10:22-24)。船を危険な海に送り出して海上貿易を行うことは難破や海賊等の危険がありますが、成功すれば巨額の利益を得ることになります。

 

もう一つの解釈は、この「水」を洪水で氾濫した肥沃な土地とのことだと解釈し、そうした土地にパン、すなわち、穀物の種を蒔くなら、多くの収穫を期待できる、というものです。

 

そして、もう一つの解釈は、「パン」を比喩的に解釈し、物惜しみしないで多くの人々に情けを施すなら、必ずその報いを思いがけないところから受けるだろう、というものです。伝統的なユダヤ教のラビ(宗教指導者)たちはこのように受け止めています。彼らはこれを「不確かな将来の中で今できる善を為せ、そして報いを楽しみに待て」と意味だと理解しています。

 

日本を代表するクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼もこの考え方を支持しています。彼はその注解書の中で次のように言っています。「世に無益なることとて、パンを水の上に投げるが如きはない。水はただちにパンに沁み込みて、ひたされるパンの塊は直ちに水底に沈むのである。パンを人に与うるは良し、これを犬に投げるのも悪しからず、されどもこれを水の上に投げるに至っては無用の頂上である。しかるにコヘレトはこの無益のことを為せと人に告げ、己に諭したのである。汝のパンを水の上に投げよ、無効と知りつつ愛を行え、人に善を為してその結果を望むなかれ。物を施して感謝をさえ望むなかれ。ただ愛せよ、ただ施せよ、ただ善なれ、これ人生の至上善なり。最大幸福はここにありとコヘレトは言うたのである」(内村鑑三注解全集第五巻、p253)。

 

これらいずれの解釈においても言えることは、自分の手の中にある善いものを惜しみなく蒔くなら、必ずその報いを受けるようになる、ということです。その背景にあるのは、申命記15章10節のみことばです。ここには、「必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。」とあります。「彼」とは、「あなたの同胞」のことです。あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対して心を頑なにしてはならないのです。手を閉ざしてはなりません。必ずあなたの手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。なぜなら、このことのゆえに、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。

 

同じことが、ガラテヤ6章9~10節にもあります。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」

ですから、パンを水の上に投げるとはビジネスにとどまらず、貧しい人たちに分け与えたり、支援したりといった慈善事業においても言えることなのです。善を行うことに飽きず、失望しないで取り組むならば、やがて時が来て、その刈り取りをすることになるでしょう。これが神の国の原則です。

 

イエス様はルカの福音書6章31~35節で、このように言われました。「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています。しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。」

報酬や賞賛を求めずに善を行え、ということです。だれでも自分を愛してくれる人を愛することはできます。自分に善くしてくれる人に善いことをすることもできます。返してもらうことを当てにして貸すことはできます。しかしイエス様はそれでは不十分だと言われました。そういうことは、罪人でさえできます。自分の敵を愛すること、彼らに良くしてやり、返してもらうことを当てにしないで貸すこと、それがいと高き神の子とされた者にふさわしい態度であると言われたのです。「あなたのパンを思い切って水の上に流したらどうか」と。

 

これを文字通りに実行したのがマザーテレサです。彼女はこう言いました。「人はしばしば、不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい・・・正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい・・・心を穏やかにし、幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも心穏やかでいなさい。今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行い続けなさい。持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい」。私たちも今日、このような神の国の原則に生きるようにと招かれているのです。

 

このような神の国の原則は、福音宣教においても言えることです。神様はこう言われます。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」と。すべてのクリスチャンはいのちのパンを持っています。それは、イエス・キリストです。イエス様は「わたしは、いのちのパンです。」と言われました。そのパンを水の上に投げなければなりません。それを人に分け与えなければならないのです。イエス様を信じればだれでも救われます。なぜなら、イエス様が私たちの罪の刑罰を身代わりに受けてくださったからです。ですから、イエス様を信じたらどんな人でも罪赦されて天国に行くことができるのです。イエス様はその鍵を私たちクリスチャンにゆだねてくださいました。それがいのちのパンです。ですから、このパンを持っている私たちは、これを持っていない人たちに分け与えなければなりません。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

すばらしい知らせではありませんか。イエス様を信じればどんな人でも救われます。信じなければ地獄です。どんなに自分は道徳的に立派な人生を送っていると言う人でも、イエス様を信じなければ地獄なんです。どんなに頑張っても、その人は自分で自分の罪を清算することはできません。イエス様を信じなければ、どんなに立派な人でも地獄なのです。しかし、イエス様信じたらだれでも天国に行きます。どんなに悪い人でも救われるのです。ローマ人への手紙4章4~5節には、「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」とあります。敬虔な者を義と認めるというのではありません。不敬虔な者、何の働きもない者を義と認めてくださるのです。これが恵みです。敬虔な者を義と認めるのは当たり前でしょう。でもそうではなく、不敬虔な者を義としてくださるのです。不敬虔な者でもイエス様を信じるなら義と認められるのです。これが恵みなんです。恵みによる救いです。イエス様の贖いというのはそれほどすごいものなのです。そのいのちのパンを、イエス様を信じた私たちはみな持っています。このパンを投げなければなりません。

 

問題は、それを水の上に投げよと言われていることです。水の上に投げたらどうなりますか?そんなことをしたら、内村鑑三が言っているように、水はただちにパンに沁み込んで、水底に沈んでしまうか、水に流されてしまうことになります。しかし、これが伝道なんです。伝道というのは、水の上にパンを投げるようなものです。投げても、投げてもなかなか実が見えません。でも大切なことは、それを投げ続けることです。そうすれば、ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すようになるからです。私たちは、これから後に何が起こるかわかりません。でもわかることは、もし水の上にパンを投げるなら、ずっと後の日になって、それを見出すようになるということです。

 

一年ほど前、MTCの奥山実先生が来会してメッセージをされました。それを聞いた時、神様がなさることって本当にすごいなぁと思わされました。その時、インドネシアのカリマンタン島で伝道された時のお話しをしてくださいました。そこは首狩り族で有名な地でしたが、福音を待っているという知らせを聞いた奥山先生は、もう一人の現地の牧師と一緒に島に入り、1カ月間一つ一つの村を訪問して伝道したところ、多くの人々がイエス様を信じました。しかし、それはある日突然にして起こったわけではありません。実はアメリカの改革派教会が100年も前から種を蒔き続けてきたのです。この島での伝道は困難を極めました。かつてこの島はボルネオ島と言いましたが、ここに遣わされた宣教師は本当に多くの犠牲を強いられました。ある宣教師の家族はご主人が天に召され、また別の家庭では奥さんが天に召され、ある家庭では子どもが3人同時に天に召されるということもありました。それでアメリカ改革派教会はこれ以上犠牲を出すわけにはいかないと、すべての宣教師とその家族をボルネオ島から引き揚げさせたのです。帰国した宣教師たちはアメリカの教会でそのことを証しすると、アメリカの若者たちが立ち上がりました。それでアメリカ改革派教会は、一度はボルネオでの伝道をあきらめたのですがもう一度始めることにしたのです。それが100年続いていたのです。ところがびくともしなかった。なぜなら、カリマンタンでは村長が信じないとだれも信じないからです。そのカリマンタンが総崩れしました。村長が信じ、村人皆信じました。

当時、インドネンアでは共産党員とイスラム教徒との間に激しい戦いが繰り広げられていましたが、イスラム教徒に追い詰められた共産党員がこのカリマンタンに逃げ込んだのです。すると、共産党員が首狩り族と同じ格好をしていたので、だれが首狩り族でだれが共産党員なのかわからなくなってしまったのです。それでイスラム教徒は首狩り族の村長に、何かしらの宗教を持たないと皆殺しにすると宣告したのです。当時、インドネシアの公認の宗教は5つあって、仏教、ヒンズー教、イスラム教、それにカトリックとプロテスタントでした。それで村長たちはどの宗教を選んだのかというとプロテスタントを選びました。なぜなら、彼らは100年もアメリカの宣教師を見てきたからです。そこに奥山先生ともう一人の牧師が入って福音を語ったので、多くの人たちが信じることができたのです。

ですから、その背景にはアメリカの改革派教会の宣教師たちの種まきがあったのです。彼らが犠牲を払いながらみことばの種を蒔き続けてくれました。それが実を結んだのです。

 

伝道は、まさにパンを水の上に投げるようなものです。徒労に感じてしまう事があります。しかし、それは決して空しく返ってくることはありません。なぜなら、福音の種にはいのちがあるからです。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すことになるでしょう。ですから、皆さん、みことばを宣べ伝えましょう。時が良くても悪くても、しっかりやりましょう。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また、勧めたいと思います。そうすれば、必ず、刈り取りをすることになります。これが神の国の原則です。

 

2節には、「あなたの受ける分を七、八人に分けておけ。地上でどんなわざわいが起こるかをあなたは知らないのだから。」とあります。どういうことでしょうか。これは1節と同じことですが、良いことではなく悪いことが起こったときのために備えておくことの大切さを教えています。

ルカによる福音書16章1~13節には、不正な管理人のたとえ話がありますが、彼はこのことを行いました。彼は主人の財産を無駄遣いしていました。そのことが主人にばれた時、解雇されることを悟り、果たしてどうしようかと考えた末、主人から債務のある人の額を半分にしてやったりしたのです。いわゆる恩を売ったんですね。どうしてそんなことをしたのかというと、たとえ管理人としての仕事がクビになっても、恩を売った人たちの中からだれかが自分を助けてくれるのではないかと思ったからです。

 

イエス様は、この不正な管理人をほめました。それは彼が抜け目なくやったからです。確かにやったことは悪いことでしたが、自分の状況を考え、自分の困難な将来を見据えて、何とか助かりたいと、知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って備えをした、その賢さがほめられたのです。
 それは霊的にも言えることです。私たちも、未来に備える必要があります。肉体が滅んだ後、永遠の天国に入るための用意が必要なのです。勿論、それは救い主を信じるということですけれども、そればかりでなく、神から与えられている様々なもの、たとえばそれがお金であったり、財産であったり、時間であったり、賜物、能力、人脈、所有物、そして福音を、預けてくださった神の良い管理者として、それらを抜け目なく、賢く用いなければならないのです。

 

Ⅱ.朝に種を蒔き、夕方にも手を休めてはならない(3-6)

 

次に、3節~6節をご覧ください。まず、3節と4節をお読みします。「濃い雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。木が南風や北風で倒れると、その木は倒れた場所にそのまま横たわる。風を警戒している人は種を蒔かない。雨雲を見ている人は刈り入れをしない。」

 

雲が垂れこめると、雨が降ります。風が吹いて木が倒れると、そのままそこに横たわります。これはどういうことかというと、嵐が来るのではないかと思うとついつい躊躇したり、風が吹いて木が倒れそうになると、それがどの方向に倒れるのかと心配になって、結局、何もしないということです。風を警戒する人は種を蒔くことができません。雨雲を見ている人は刈り入れをすることができないのです。つまり、完璧な条件でなければ動かないという人は、結局何もしないで終わってしまうのです。その結果、作物を腐らせてしまうことになります。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」と言われも、今はそういう余裕がないからもう少し余裕ができたらやりますとか、もう少し条件が整ったらやりますと言って、いつまでたってもできないのです。皆さんもこのような敬虔があるんじゃないですか。もっと良い時にと思っているうちに、何もできなかったということが。一番良い時、ベストな時はいつですか。「今」でしょ。たとえいろいろな心配事があっても、たとえある程度のリスクがあっても、この先何が起こるのかわからないし、私たちは先のことを予測すらできないのですから、何もしないで手をこまねいているのではなく、今それをしなければならない、というのです。

 

日本の教会開拓も同じですね。確かに日本の伝道は厳しいものがあるかもしれません。人はいない、建物はない、資金もありません。でもだからできないと考えるのではなく、確かに状況を見れば厳しいかもしれませんが、自分たちにできることは何かを考え、それを少しずつ行っていけばいいのです。なぜなら、神様のみこころは何ですか。神のみこころは一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることだからです。そのために神様は教会を与えてくださったのです。そのことはエペソ人への手紙3章に書かれてあります。パウロはそれをキリストの奥義と言っていますが、「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」(3:6)これが神の家族である教会のことです。このキリストにあって、建物全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。それは、このキリストの奥義がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためでした。つまり、キリストのご計画とは、神の家族である教会を通して、この奥義、キリストの福音を宣べ伝えることだったのです。教会はそのために存在しているのです。であれば、私たちはこのキリストのご計画の実現のために何ができるのかを祈らなければなりません。「条件が整ったらやりましょう」というのでは、結局、何もできません。あるものまでも失うことになってしまいます。パウロは2テモテ4章2節で、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」と言っていますが、そうです、時が良くても悪くても、です。時が良くても、悪くても、みことばを宣べ伝えなければならないのです。

 

そのことが、5節と6節で説明されています。「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは一切を行われる神のみわざを知らない。朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」

 

「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。」新共同訳聖書は、「骨々のことと同様」を、「骨の中に」と訳し、「風」を「霊」と解釈し、「あなたは、身ごもった女の胎の中で、どうして霊が骨の中に入るかを知らない」と訳していますが、言わんとしていることは同じです。つまり、私たち人間はすべてのことを知っているわけではない、ということです。妊婦の胎内で赤子の骨々がどのように組み合わされるか、その骨の中にどのように霊が入るのか知らないのです。そのように、私たちは神が行われる一切のみわざを知ることはできません。

 

であれば、どうすればよいのでしょうか。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。」将来どうなるかわからないのだから、最善の策は、自分にできるだけの努力をすることです。朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはいけないのです。なぜでしょうか?「あなたは、あれかこれか、どちらが成功するか、あるいは両方とも同じようにうまくいくかを知らないのだから。」どの仕事がうまくいくかわからないからです。あるいは、両方ともうまくいくかもしれません。伝道もこれと同じです。どの種から芽が出るのか、どの種が実を結ぶかなんてだれにもわかりません。人を見たり、状況を見て、自分で勝手に判断して、今はみことばの種を蒔くのをやめておこうとか、この人には親切にして、あの人には語ろうというのではなく、相手がだれであれ、状況がどうであれ、自分のベストを尽くしてみことばの種を蒔き続けなければなりません。だれが救われるのか、だれが実を結ぶようになるかなんてだれにもわからないからです。善を行うことも同じです。

 

Ⅲ.今の時を大切に(7-10)

 

最後に、7~10節を見て終わりたいと思います。「光は心地よく、日を見ることは目に快い。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない。すべて、起こることは空しい。若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

 

1~6節で人生がいかに不確かなものであるか、だから、ただ手をこまねいているのではなく、朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはならないと、どんな時でも自分のベストを尽くすこと、最善を尽くすことが賢明であると説いた伝道者は、それゆえに今の時を大切にするようにと勧めています。

 

 「光は心地よく、日を見ることは目に心地よい。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむがよい。」光は喜びの象徴です(詩篇97:11)。その光の中を生きることができるのは何と幸いなことでしょうか。人生は楽しい!人生は喜びで満ちています。しかし、人生には闇の日も多くあることを忘れてはなりません。すべて、日の下で起こることは空しいのです。この「すべて、起こること」とは何でしょうか。一般にこれは死後のことを指すと考えられていますが、尾山令仁先生は、これをこの地上で起こるすべてのことと解釈し、「しかし、永遠の世界と比べたら、この地上のことは全くむなしいことを覚えておきなさい。」と訳しています(創造主訳聖書)。

 

ある人たちは、この「闇の日」と「すべて起こること」を、「老年の日々」を指すとして、老年には「闇の日」が待っているとして、これを病気、肉体の痛み、失望などの老人の運命だと考えています。そのように考える人たちは、「光」を青年期の象徴と解釈し、若いときは夢があり、活力があり、行動力がありますが、老年には闇の日が待っていて、病気や肉体の痛み、失望などがあって実に空しいと考えます。しかし、そうでしょうか。私はそう思いません。

ヨエル書2:28~29節にこうあるからです。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。その日わたしは、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。」ここに「老人は夢を見る」とあります。これは、ペンテコステに聖霊が注がれることを預言したものですが、その日どんなことが起こるんですか。「あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」神の聖霊が注がれるとき、老人は夢を見るのです。いつでも夢を、いつでも夢を♪♪です。

 

だから老年期は闇だと考えるのは間違っています。確かに若い時のように体は思うように動かないかもしれませんが、しかし、これまでの人生の中で培ってきたことを生かして最高の今を生きることができるのです。逆に、若いからいいというわけでもありません。昨年はコロナのこともあって若者の自殺者が急増しました。しかもそれらの多くは10代だと言われています。若ければ光かというとそうではなく、年を取れば闇かというとそうでもありません。主イエスを信じて永遠のいのちが与えられるなら、いつも光の中を生きることができます。人生は楽しい!のです。ここで伝道者が言わんとしていることは、この世に生かされている「今」を喜び楽しむようにということです。しかし、闇の日があることを忘れてはなりません。私たちの人生には痛みや悲しみ、苦しみの日があるということも覚えておかなければならないのです。

 

そのことを教えているのが9節と10節です。ここには、「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」とあります。

人生は、若いうちが花です。なんだ、やっぱり年を取ったら枯れるということじゃないですかと思うかもしれませんが、そういうことではありません。年をとっても大丈夫!いつでも夢を見ることができます。しかし、若くないと出来ないこともたくさんあります。年をとってからではできないこともある。だから若いうちに楽しむこと、若い日にあなたの心を喜ばせることが大切です。それは心の赴くままにということではありません。神様に祈り、神様の栄光のために、自分はこれがしたい、これをやってみたいというとこがあるならば、思い切ってチャレンジしてみるのがいい、思う存分やりなさいということです。多少羽目を外すようなことがあっても、行き過ぎるようなことがあっても、自分が思うようにやってみたらいいのです。親はそれを否定しない方がいい。あれもだめ、これもだめ、たぶんだめ、きっとだめ、というイメージを与えてしまうと、こどもは、人生はつまらないもの、窮屈で重苦しいものだという印象を持ってしまいます。でもこども時代は二度とやってきません。若い時も二度とやってこないのです。であれば、たとえ失敗することがあっても、人生を楽しむことが大切です。イエス様を信じて、イエス様のために生きることがどんなに楽しいことなのかを、親は見せてあげなければならないのです。

 

しかし、伝道者は釘をさすことを忘れていません。9節の終わりのところでこのように言っています。「しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。」怖いですね。これじゃ、やりたくてもできません。若い男よ、若いうちに楽しめと言っておきながら、しかし、神がこれらすべてにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。若気の至りということばがありますね。若いから何をやってもいいということでありません。人は種を蒔けば、それを刈り取るようになります。罪の結果、悲劇を招くようになるということをしっかり覚えておきなさい、というのです。そうですよね、その時は良いと思っても、後でそれが心の傷、体の傷になってしまうことがあります。年をとっても尾を引いてしまうことがあるのです。ここではそれを、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ、ということばで警告しています。

 

それゆえ、結論は何かというと、10節です。「あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」

どういうことでしょうか。あなたの心から心配事や悩みを取り除きなさい、ということです。若さも青春も空しいからです。若いから何をしても良いということではありません。人生は楽しいものですが、それによって痛みが伴ってしまうことがあります。そういうことで人生を台無しにしてはならないのです。あなたの人生から痛みや悩みを取り除き、真の喜びと自由を満喫しなければなりません。そのことをパウロは若き伝道者テモテに次のように書き送っています。「あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(2テモテ2:22)

また、同じ牧会書簡と呼ばれているテトスへの手紙の中で、若い人たちに向けてこのように勧めています。「同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。」(テトス2:6)若い人に求められていることはこの一つです。それは、「思慮深くあるように」。何をしても自由です。若いうちは思う存分楽しめばいい。あなたの心を喜ばせよ。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを忘れないように。だから、「思慮深くあるように」と。いったい思慮深くあるとはどのようなことなのでしょうか。伝道者は次の12章でそのことを述べますが、ここでちょっとだけ先取りして読んでみると、12章1節にこうあります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

 

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」これが私たちのすべてです。人生は誠に不確かなものです。一寸先は闇です。この先何が起こるのか誰にもわかりません。だからといって何もしないで手をこまねいているのではなく、あなたのパンを水の上に投げなければなりません。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出すようになります。どんな時でも自分のベストを尽くさなければなりません。朝にあなたの種を蒔き、夕方にも手を休めてはならないのです。今、今という間に今は過ぎ去って行きます。それゆえ、今を大切に生きなければなりません。それは、あなたの創造者を覚えるということです。あなたが創造者であられる神を覚え、神に信頼し、へりくだって神の救いをいただき、神のみこころに歩むなら、人生は実に楽しいものです!特に、若いというのはすばらしいですね。未来があります。希望があります。でも年をとっても大丈夫です。イエス・キリストを信じるなら、義の太陽であられるキリストがあなたを照らしてくださいますから。その光に照らされて、輝いて生きることができます。そのような人からは闇も消え去ります。永遠のいのちをいただき、永遠に楽しむことができる。そのような人生を与えてくださった主に感謝します。そして、その主に信頼しつつ、私たちに与えられたいのちのパンを水の上に投げ続けたいと思います。

わざわいなこと、幸いなこと 伝道者の書10章12~20節

2021年3月7日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書10章12~20節(旧約P1152)

タイトル:「わざわいなこと、幸いなこと」

 

 今日は、伝道者の書10章後半から学びます。この箇所も、前回に続いて、知恵を正しく用いることの大切さを教えています。

 

Ⅰ.愚か者の唇はその身を滅ぼす(12-15)

 

 まず、12~15節をご覧ください。「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を呑み込む。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」

 

愚か者の定義は、10章前半でも見ました。たとえば、3節には「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とありました。「あの人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ってみたり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するわけです。また、4節には「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とありました。すぐにカッとなって怒りをぶちまけ、その場を立ち去ってしまいます。我慢することができません。

 

ここでも、そのことばについて言及されています。「知恵のある者が口にすることばは恵み深く、愚かな者の唇は自分自身を?み込む。彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、悪しき狂気。愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを、だれが彼に告げることができるだろうか。」

その人が発することばを聞いていると、その人が知恵ある人なのか、愚かな人なのかがよくわかります。というのは、知恵ある者が語ることばは優しく人を生かしますが、愚かな者が語ることばは相手に不快感を与え、結局、自分自身を滅ぼしてしまうことになるからです。最初は単なる冗談のつもりで言ったことが、最後には悪い結果をもたらすのです。

 

その特徴は何かというと、よくしゃべるということです。永遠にしゃべり続けます。彼は黙っていることができません。黙るタイミングを知らないのです。その結果、しゃべらなくてもいいようなことをしゃべっては、墓穴を掘るようなことをしてしまいます。たとえば、自分の将来のことや、これから後に起こることを知ったかぶりしてしゃべるのです。これから後に起こること、これから先、自分の身にどんなことが起こるかなんてだれも知りません。それなのに、それを得意になってしゃべっているとしたら、それこそ自分がどれほど愚かな者であるのかを露呈しているようなものです。賢い人は、自分が無知であること、人間の知識には限界があることをよく心得て慎重に言葉を選んでしゃべりますが、愚かな人は自分の限界をわきまえずに多くのことを言って誇るのです。しかし、ことば数が多ければ失敗も多くなり、罪が露わになります。

 

このように言葉に関する言及は、箴言の中にもたくさん出てきます。たとえば、箴言15章4節には、「穏やかな舌はいのちの木。偽りの舌はたましいの破滅。」とあります。また、箴言16章24節にも、「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」、27節には「よこしまな者は悪をたくらむ。その言うことは焼き尽くす火のようだ。」とあります。ヤコブの手紙にも、私たちの舌はわざわいであり、小さな火でも大きな森を燃やすように、人生の車輪を焼き尽くす、と言われています(ヤコブ3:5-6)。では何もしゃべらなければ良いのかというとそうでもありません。人間関係は心のキャッチボールですから、ことばのやり取りを通して良いコミュニケーションを図ることが求められます。問題は、どんな時に、どんな言葉を語るのかということです。ここには、知恵のある者が口にすることばは恵み深くとありますから、恵み深いことば、優しいことばをかけて、人の成長に役立つ言葉を語り、聴く人に恵みを与えなければなりません。

 

元医師で、「子どもの家福音寮」の寮長をしていた井上哲雄牧師は、あるとき男の子が廊下で立ち小便をしているのを見つけました。子どもはすぐにでも怒鳴られるのではないかとおどおどしていると、井上牧師は、「君はがまんできなかったんだね」と優しく言っただけで、何もとがめませんでした。

何年か過ぎ、成人したその少年は、「このときの寮長先生の思いやりの言葉が、今も忘れられない」と、しきりに感謝していました。

このことを聞いたカウンセラーの伊藤重平氏は、こう言っています。「がまんできなかったんだね」という言葉は、その行動を裁かず、ゆるす愛となる。

小さい親切、小さい愛の言葉が、地上を天国のように幸福にするのを手助けにする反面、偽りの舌、愚かなことばが、自分の人生ばかりか他人の人生さえも滅ぼしてしまうことになるのです。

 

15節には「愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。」とあります。それはことばだけのことではありません。労苦にも言えることです。愚かな者の労苦は、自分自身を疲れさせます。彼は町に行く道さえ知らないのです。「町に行く」というのはもっとも単純な行為ですが、それさえも知らないため道に迷ってしまうのです。そのような者がこれから後に起こることを論じるなど論外でしょう。私たちはキリストを信じ、神にかたどり造られた新しい人を着た者として、悪いことばではなく、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与える者になりたいと思います。

 

Ⅱ.わざわいの国と幸いな国(16-17)

 

次に、16節と17節をご覧ください。「わざわいなことよ、あなたのような国は。王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をする国は。幸いなことよ、あなたのような国は。王が貴族の出であり、高官たちが、酔うためではなく力をつけるために、定まった時に食事をする国は。」

 

ここには「わざわいな国」と「幸いな国」が比較されています。どのような国がわざわいな国で、どのような国が幸いな国なのかということです。愚かさと幸いのレベルが個人から国家レベルで語られています。ここには「王」ということばがありますが、これは支配者に置き換えることができます。夫婦であれば夫であり、家庭であれば親ですし、会社であれば社長、教会であれば牧師、役員、国であれば為政者となります。それを治めている人たちのことです。その王が若輩で、高官たちが朝から贅沢な食事をしているような国は、わざわいです。この「若輩で」ということばは「子どもじみて」という意味です。リーダーが子どものように幼い国は、わざわいであるということです。なぜなら、そのような王は国を治め、導く力がないからです。高級官僚たちが仕事に就かず、朝から晩までパーティー三昧です。どんちゃん騒ぎをしています。本当は仕事の準備をしなければならないのに、仕事はそっちのけで快楽にふけっているのです。こういう人が国家元首だったらどうなるでしょうか?その国は混乱することになります。そういう人が会社の社長だったら、会社は潰れてしまうでしょう。そういう親だったら家庭は崩壊してしまうことになります。そういう牧師だったら、教会は混乱するでしょう。

 

それに対して、王がしっかりしている国は幸いです。その王は人格者であり、高貴な家の出であります。彼には知恵があり、高級官僚たちが食事をするのも遊びにふけったり酔っぱらったりするためではなく、しっかり仕事をするためです。力をつけるとはそういうことです。国を治める人が怠惰であれば、国家は傾き、わざわいを招くことになります。国家の栄子盛衰は、その国の指導者がどれほど神の前にへりくだり誠実であるか、つまり、知恵があるかにかかっているのです。

 

幸いにも、私たちの国、神の国を治めておられる王は完全な方です。その方は主イエス・キリストです。キリストはこの世界に王として来られました。この方が王となって治めておられる国に住むことができるのは本当に幸いなことです。使徒ヨハネは次のように証言しています。

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:10-12)

ですから、私たちがイエス・キリストを、自分の人生の王として迎え入れる時、イエス・キリストは私たちの王となって働いてくださり、祝福に導いて下さるのです。イエス・キリストが治めてくださる国は幸いな国です。この国が傾いたり、わざわいを招くことは決してありません。王であられるキリストが完全に治め、導いてくださるからです。

第一に、キリストはご自身の民を正しい道に導いて下さいます。イザヤ30:21に「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。」とあります。キリストは王として私たちの人生の決断の時や、岐路に立つ時、必ず正しい道に導いてくださいます。

 

第二に、キリストはご自身の民を安全に守ってくださいます。2テサロニケ3:3には「しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。」とあります。私たちの人生は「一寸先は闇」と言われるように、何が起こるかわからない不確かさに満ちています。しかし、主はすべてを支配し守って下さいます。この王なるキリストに導かれる人は「一寸先は光」となるのです。

 

そして第三に、ご自身の民の必要をすべて満たしてくださいます。ピリピ4:19に「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」とあります。王の責任は、自分の民が豊かな生活をすることができるように心を配ることです。ですから、私たちがイエス・キリストを、自分の人生の主として迎え入れる時、イエス・キリストは私たちの人生で王として働いてくださり、祝福してくださるのです。

 

あなたはこの方を王として迎えておられますか。そして、恵みとまことに満ちた人生を送っておられるでしょうか。神の国の王であられるキリストによって支配された国、その民であることは、何と幸いなことでしょうか。

 

Ⅲ.自分の口に見張りを置く(18-20)

 

最後に、18~20節までを見て終わりたいと思います。「怠けていると天井が落ち、手をこ

まねいていると雨漏りがする。パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」

 

 怠けていると天上が落ち、手をこまねいていると雨漏れがするとは、16節で語られたことのたとえです。国のリーダーなり、組織のリーダーが、自らなすべきことをなさずにいると、その屋台骨まで揺らいでしまうことになるということです。怠けていると、天井が落ち、雨漏りすることになります。私たちが最初に購入した家は築30年の古い家でしたが、少しでも教会らしくしようと瓦の屋根でしたが塔を取り付けました。するとその塔と瓦屋根の隙間から雨が入り込み雨漏りしました。結局、開拓15年目の年に新会堂を建設しましたが、その際に撤去して雨漏りしないようにしました。それで新会堂を建築する際に業者の肩に一つだけお願いしたことは雨漏りだけはしない会堂を作ってください、ということでした。「大丈夫だから、雨漏りなんてしないから」と言ってくださったので安心していたら、半年も経たないうちに雨漏りがしたのです。どうも2階のベランダのシートの隙間から雨が浸みこんだようですが、それが会堂全体に回りいろいろな所から雨漏れしたのです。ここに怠けていると天井が落ちるとありますね。そのままにしておけばやがて天井が落ちてしまうことになりますから早急に業者にお願いして修理してもらいましたが、何度点検しても雨漏りが続いて大変だった苦い思い出があります。

 

 しかし、これは建物が壊れるというだけでなく家庭や教会、社会、国が崩壊してしまうということです。自分の家、自分の国も、怠けているといつの間にか雨漏りすることになります。問題が起きてから手をこまねいていると、いつまでも手をつけないでその問題を棚上げにしていると、結局、すべてが崩壊していくことになります。

 

 19節には、「パンを作るのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。」とあります。パンを作るとは、料理教室のことではありません。和気あいあいとパン作りを楽しむということではないのです。食事を作ることです。食事は楽しいですよね。食事の場は笑いのためであり、ぶどう酒は人生に楽しみをもたらしてくれます。どちらかというと私は食事を楽しむというよりも、とにかく食べることしか考えられないため妻からいつも言われます。「もう少しゆっくり食べなさい。食事は楽しみながら食べるものよ」。

 

 また、伝道者は「金銭はすべての必要に応じる」と言っています。これはどういうことかというと、「お金さえあれば何でも買える」ということです。これは正しいでしょうか?これは間違っています。確かにお金があれば食物やぶどう酒を買うことができます。また、私たちに必要なものも買えるでしょう。でも、金銭で買えないものもあります。たとえば、愛とか、喜びとか、平安とか、希望といったもの、何と言っても天国への切符を買うことはできません。お金では、真の幸福を買うことはできないのです。ですから、ここで伝道者が言いたかったことは、金銭によってほとんどのものを手に入れることができる、お金は必要のために用いられるということです。お金がすべてではありません。

 

 20節をご覧ください。ここには、「心の中でさえ、王を呪ってはならない。寝室でも、富む者を呪ってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。」とあります。日本語のことわざにも、「壁に耳あり、障子に目あり」ということばがあります。まさに、そのような人の悪口とか噂話は、巡り巡って必ずその人に知られることになるのです。なぜ?なぜなら、空の鳥がその声を運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。おもしろいですね、鳥が運ぶのです。つまり、予期せぬ方法で、予期せぬ人物によって、そのことが伝えられることになるということです。ですから、たとえ王が未熟であっても、あるいは悪い者であっても、それを呪ってはいけません。「寝室でも」とは、家族や親友の前でさえ、という意味になります。まさか夫婦や家族のごく親しい人にだけ言ったことが外部に漏れることはないだろうと思いますが、空の鳥がその声を運び、翼のある者がそのことを告げるのです。つまり、自分の口に見張りを置く人こそ知恵のある人だというのです。

 

 あなたはどうですか。自分の口に見張りを置き、神の御言葉でいのちを生かし、神の共同体のために知恵のある者となることを求めているでしょうか。人々にこぼしていた不平不満が神にささげる祈りと変えられるように求めていきたいと思います。

 

 星野富弘さんの詩の中に、「花が上を向いて咲いている。私は上を向いてねている。あたりまえのことだけど、神様の深い愛を感じる」という詩があります(「風の旅」立風書房、p30)。

 どんな草花も暗闇に向かって咲くことはありません。みな、光の方、天に向かって咲きます。冬がくれば枯れますが、春になるとまたいのちが芽吹きます。私たちにはさまざまな人生の冬がありますが、それは春になって芽吹くためです。光に向かって咲くためです。突然の出来事に、一時は火山が噴火したかのような驚きを感じることがありますが、そこにも神様の守りの御手があるのです。この神様としっかりつながっていること、祈りによって神に向かうこと、それこそが、人々にこぼしていた不平不満が、神にささげられる祈りへと変えられる秘訣です。

 

 聖書には全部で31,173節ありますが、その真中の節は詩篇118篇8節です。そこにはこうあります。「主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。」人に信頼するよりも最初から神様のもとに行けということです。ちなみに、ギリシャ語の聖書の中で一番短い節はⅠテサロニケ5章17節です。そこにはこうあります。「絶えず祈りなさい。」人に信頼するのではなく神に信頼すること、その神に絶えず祈ること、それこそ自分の口に見張りを置き、神の御言葉でいのちを生かし、神の共同体のために知恵のある者となるための秘訣なのです。愚かな者にならないで、知恵のある者となるために神に向かい、神に祈りましょう。人に信頼するよりも神に信頼しましょう。それが、聖書が求めている知恵のある人なのです。

知恵は人を成功させる 伝道者の書10章1~11節

2021年2月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書10章1~11節(旧約P1151)

タイトル:「知恵は人を成功させる」

 

 伝道者の書10章に入ります。8章1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者ソロモンは、どのような人が知恵のある人なのかを、そうでない者、すなわち愚かな者との対比によって語ってきました。日の下で行われる一切のわざを見る限り、そこに見られる様々な不条理に、食べて飲んで楽しむよりほかに人にとって何の幸いもないのではないかと思える中で、彼は、すべてが神のみわざであることに気付かされます(8:17)。それがどういうことなのか、人がどんなに労苦して探し求めても、見極めることはできません。けれども、すべてが神のみわざなのです。そのことに気付くのです。

 

 しかし、すべての人に同じ結末が起こるのを見ると、同じ結末というのは死ぬということですが、やはり生きていることにどんな意味があるのだろうかと疑問を抱きます(9:2)。けれども、生きていること自体に意味があります。生きている犬は死んだ獅子にまさる(9:4)。生きているからこそ悔い改めて、神に立ち返ることができます。イエス・キリストを救い主として信じることができます。そして、神の恵みの中で、神が与えてくださる一つ一つの恵みに感謝して生きることができるわけです。死んでしまったらそれも叶いません。

 

ですから、確かにこの地上の営みを見ると、そこにある様々な不条理に空しさを感じることもありますが、神の知恵は力にまさるのです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれます。一方、知恵がないとすべてをぶち壊してしまうことになります。今日は、その続きです。知恵は人を成功させるということです。

 

Ⅰ.少しの愚かさはすべてを台無しにする(1-4)

 

 まず、1~4節をご覧ください。「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」

 

「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。」伝道者は9章18節で語った「一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す」ということを、たとえで説明しています。良き物全体が、少しの愚かさによって台無しにしてしまうということです。たとえばここに調香師が調合した高価な香油があるとして、そこに一匹のハエが飛び込んで、死んでしまったとしたらどうでしょう。香油は悪臭を放ち、発酵し始めます。そんな香油をだれが使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。そのように、人間の評判も少しの愚かさで取り返しがつかないほど失墜してしまいます。それまでの業績や名声は、少しの失言や過ちによって台無しになってしまうのです。今巷を騒がせている女性蔑視発言もその一つでしょう。女性の話は長いと言っただけで、東京オリンピック・パラリンピックの組織の長が辞任することになりました。それに輪をかけるように、新たに就任した組織委員長を擁護しようとして発した「男勝り」ということばが破門を起こしました。一匹の死んだハエが、高価な香油全体をくさせてしまうのです。

 

2節には、「知恵のある者の心は右を向く。愚か者は左を向く」とあります。「右」とは正しい方向を指し、「左」とは悪の方向を指しています。創造訳聖書は「知恵のある人の心は、正しい道に行き、愚かな者の心は、悪の道に行く」と訳しています。知恵のある者の心は、自然に正しい方向に向かいますが、愚かな者の心は、悪い方に向かうのです。

 

3節には、「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とあります。これは恐ろしいですね。愚か者はただ道を行く時でさえ、自分が愚かであることを皆に言いふらすというのです。「この人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ったり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するのです。

 

4節をご覧ください。ここには「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とあります。これは、あなたの上に立つ人があなたに対して腹を立てるようなことがあっても、あなたはそこから離れてはならないということです。ではどうすれば良いのでしょうか?

 

そのためにはまず冷静になることです。冷静であれば、大きな罪は離れて行くことになります。つまり冷静になり、支配者の前で低くなり、ひたすら謝るなら、支配者からそれ以上の怒りを買うことはなくなるということです。これは結婚関係にも言えることですし、どのような関係にも言えることです。私たちはだれか支配者のような立場にある人から怒られるとすぐにカッとなってその場を離れようとする傾向がありますが、それはよくないことです。そのような時にはまず冷静になることが求められます。まあ、冷静になれるようであれば最初から問題も大きくならないと思いますが、問題はなかなか冷静になれないことです。すぐにカッとなってその場を離れようとします。些細なことでイライラし、怒りをぶちまけようとします。たとえば、車を運転している時に、前の車が遅かったりすると我慢できなくなって、カッとなってしまいます。「何だろう、40キロかよ。ここは50キロでしょ。何とかしてほしい・・」近年、あおり運転が問題になっていますが、そうしたニュースをみるとドキッとすることがあります。いつ自分がそうなってもおかしくないんじゃないか・・・と。だから自分はできるだけ車のハンドルを握らないようにしているというか、用がない限り運転しないようにしています。でも一番いいのは冷静でいることです。

 

箴言29章11節には「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる」(箴言29:11)とあります。この御言葉は、怒りやすい人は愚かな人であると教えています。箴言というのは、「安全に生きるためのマニュアル」です。聖書の時代の人たちは、隣人と争えば、命がけの戦争に巻き込まれてしまう可能性がありました。ですから、「どのようにすれば平和に生きることができるか」を、箴言から学んでいたわけです。箴言は、人間関係のマニュアルです。その箴言で言っていることは、「愚か者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれをおさめる」ということです。知恵のある者になりたいてだすね。

 

その箴言の別の個所には、こうあります。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(箴言25:28)

この聖句は、頭に血が上った時に思い出すべきものです。「ああ、今の私は城壁の壊れた、防御不能の町のようだ」と思えば、ちょっとは冷静になれるでしょう。現代人にも、平安な生活のためのマニュアルが必要です。怒りやすい人は、例外なしに人間関係の問題を抱えています。「怒りやすい人は愚かな人だ」ということを、思い出す必要があります。

 

では、どうすれば良いのでしょうか。アンガーマネージメントという怒りの感情をコントロールするノウハウが日本でも紹介されていますが、その中に「6秒ルール」と呼ばれるものがあります。この「6秒ルール」というのは、人間が怒りを覚えるとき、脳内では興奮物質のアドレナリンが激しく分泌されています。そのことによってより興奮してしまい、冷静ではいられなくなってしまうらしいのです。しかしこのアドレナリン分泌のピークは、怒りを発してから6秒後と言われていて、つまりその最初の6秒間を我慢してやり過ごすことができれば、その後は徐々に冷静さを取り戻すことができるというのです。だれかがあなたに腹を立てても、それにすぐに反応するのではなく6秒間待つのです。一番簡単な方法は、心の中で6秒数えるというものです。数を数えるといった単純な作業を行うことで、意識を自然とそちらに向けることができます。他にも「朝からの行動を順番に思い出してみる」とか、目に見えているものの名前、例えば、時計とか、本棚とか、パソコンとかを一つずつ心の中で読み上げる、などといったことも有効です。自分なりに「カッとなったらまずはこうする」というルールを作っておくことで、突発的な怒りに任せた行動を未然に防ぐことができるというのです。これは冷静であるためにはどうしたら良いのかを教える一つの助けになるでしょう。でも、怒りをおさめることは簡単なことではありません。どうすれば良いのでしょうか。自分はすぐに怒ってしまう愚かな者であると認め、それを悔い改めて、神に立ち返ることです。

 

そこが聖書のすばらしいところだと思います。私たち人間は本当に愚かな者で、すぐに左の方に行ってしまいます。冷静でいなければならないと分かっていても瞬間湯沸し器のようにすぐにカッとなってしまい、つまずいてしまいます。少しの愚かさどころか多くの愚かさによって、人生を台無しにしてしまうような者なのです。このような者に救いはあるのでしょうか。あります。それがイエス・キリストが来られた目的です。もしあなたがそのことを認め、悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、あなたは何度でもやり直すことができます。それが、聖書が語っている主要なモチーフです。

 

ヨシュア記20章2節には、次のような御言葉があります。「イスラエルの子らに告げよ。「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。」

ここに「逃れの町」が出てきます。これはイスラエルがカナンを制圧した直後に、主がヨシュアに語られたことです。この「逃れの町」とは、誤って人を殺してしまった者がそこに逃げ込むためなら、その人は仇討ちから免れ、罰を受けずに済むようになるためのものでした。イスラエル全体に6箇所定められていましたが、それは、だれでも、どこにいても逃げ込むことができるためでした。

 

なぜ神はこの逃れの町を制定されたのでしょうか。それはこの町の存在そのものが、神の本質を表していたからです。つまり神は私たちを裁くことを良しとし、その目を常に裁きに向けておられる方ではなく、私たちを愛し、赦すお方であられるということです。そういう愛のお方なのです。よく「神は愛なり」と言いますが、その「愛」とはどういうものなのでしょうか。神はこの逃れの町の制定によって具体的に愛するとはどういうことなのかを教えようとされたのです。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかということを神は知り尽くし、深く理解しておられるということです。逃れの町を作られた第一の理由は、ここにありました。

 

アメリカ第十六代大統領アブラハム・リンカーは、南北戦争の最中、自分の家族や側近者たちがこぞって南部の人たちを非難し、悪しざまに言うのを聞いて、「あまり悪く言うのはよしなさい。われわれだって立場を変えれば、きっと南部の人たちのようになるのだから。」と言いました。

リンカーンは、常に、盗人にも五部の理があるのを認め、断罪しない人物でした。相手の立場を見ることができました。その人にはその人なりの理由があるということを常に理解しようと努めたのです。彼の深い人間理解の故に、リンカーンは多くの人々に慕われ、今もなお尊敬され続けているのです。

 

へブル4章15~16節に、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

キリストは私たち人間の弱さをすべて思いやることがおできになります。なぜなら、キリストご自身が罪は犯されませんでしたが、あらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解しておられるのです。だから、私たちは安心して、折にかなった助けを受けるために、恵みの御座に近づくことができるのです。

 

ですから、この逃れの町が制定された目的は、愛の神が、誤った人々をもう一度立ち直らせるためであったということです。それが、聖書全体が語っている主要なモチーフなのです。すなわち、あなたはやり直すことができるということです。そのような実例を聖書から上げようと思えばきりがありません。モーセにしても、ダビデにしても、ペテロにしても、パウロにしても、皆神の赦しを体験し、信仰によって立ちあがった人たちです。それは神の愛に由来しています。パウロのように、ペテロのように、キリストは人々が立ち直り、やり直すことを願っておられるのです。神が用いられる人とは、何の過ちや欠点のない完璧な人ではなく、とりもなおさず失敗や過ちを悔い改めてやり直った人々であり、その人の失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いられるのです。

 

イエス様の宣教の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でしたが、これを現在の私たちの言葉で言い直すならば、「あなたはもう一度やり直すことができる。もう一度やりなおしなさい。」というメッセージなのです。そのためにキリストは十字架に掛かって死んでくださいました。私たちを失敗させ間違いを犯させる罪を打ち砕き、その罪から解放してくださるためです。この十字架の贖いこそ、私たちがもう一度やり直すことができる道筋です。ところが、多くの人はそれを知りません。環境を変え、場所を変えればやり直すことができるのではないかと考えるのです。しかし、それは錯覚であり無駄なことです。なぜなら、あなたの人生をやり直すことができる唯一の道は、十字架の前に立ち、その御前にへりくだって悔い改め、贖いの恵みを受け入れることだからです。キリストにあってすべての罪が洗い清められ、悪魔の力が粉砕されることによってのみ、私たちはもう一度新しくやり直すことかできるのです。

 

ですから、私たちは本当に愚かな者で、すぐにカッとなってその場を離れとしまう者ですが、そんな者でも神に深く愛されていることを覚え、悔い改めて、神に立ち返っていただきたいのです。そして、キリストとともに聖霊の力によって再スタートをきっていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ.権力者から出る過失(5-7)

 

次に、5~7節までをご覧ください。「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは、権力者から出る過失のようなもの。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に座しているのを、また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを、私は見た。」

 

伝道者が日の下で見たもう一つの悪は、権力者から出る過失のようなものでした。権力者に部下を見る目がないということです。その結果、資格も能力のない者が高い地位につけられたり、逆に、能力のある者が、雑務をこなすだけに時間を費やすということが起こるのです。また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くということが起こります。馬に乗るとは高い地位に着くということです。また、地を歩くとは、低い地位に下ろされるということです。権力者たちが見方を誤ると、このような結果となります。少しの愚かさが、大きな結果をもたらすことになります。人をどのように見るのか、その小さな知恵が、全く逆の結果をもたらすことになるのです。

 

ドイツを代表する文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)は、こう言いました。「彼らが当然そうあるべきように、人々を扱いなさい。そうすればあなたは、彼らがそうあるべきものになるのを助けることになるだろう」これは、人を育てる時の大原則です。彼らが当然そうあるべきものになるように助けるのです。

この原則を、教育の現場で実践した人がいます。物理学者の大学教授フロイド・ベーカー博士です。彼は、学期初めにいつも学生たちに言いました。私は勉強しない学生は好きではない。だからキミたちは全力を尽くして頑張らなければならない。念のために言っておくが、キミたちのうち50%はパスしないだろう。それが、自分にならないように気をつけたまえ!」

不思議なことに、彼の予想は常に実現しました。つまり50%の学生が、いつも落第したのです。そして仲間の大学教授とは、最も落第生を多く出した者が最も優秀な教授なのだ、と言い合っていました。

そんな時彼は、妻と一緒に教会に通い始めました。聖書を読むうちに自分の学生たちをみる目が、いかに間違ったものであったかを知るようになります。そして、コリント人への手紙第一13章を読んでいる時、自分は愛のない教授であることを悟ります。

それから、彼の学生たちに対する態度が変わりました。彼は、学生たちに向かってこう言いました。「私は、キミたち全ての者がパスすることを望んでいる。君たちがパスするのを見ることが私の職務なのだ。課題は難しい。しかし、キミたちなら必ずパスできるはずだ。」

するどうでしょう。この後、クラスの雰囲気が以前のものとは違ったものになりました。そして学生たちは、全員がパスしたのです。Cを取った学生もいましたが、多くの者はBかAの成績を取ったのです。

どのように人を見るかです。その見方を誤ると、とんでもないような結果となってしまいます。教育の目的は、生徒を傷つけることではなく、生徒を信じて期待し、その可能性を掘り起こしてやることなのです。「愛は、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)

少しの愚かさが残念な結果をもたらすことがないように、知恵と知識の宝がすべて隠されているキリストに信頼し、神から知恵をいただいて、神のみこころに歩みたいと思います

 

Ⅲ.知恵は人を成功させる(8-11)

 

第三のことは、知恵は人を成功させるということです。8~11節までをご覧ください。「穴を掘る者

は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」

 

ここにも、少しの愚かさが、どんなに大きな危険をもたらすかが語られています。8節と9節には、「穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。」とあります。穴を掘る者がそこに落ち込み、石垣を崩す者が、そこにいる蛇にかまれ、石を切り出す者が、その石に押しつぶされ、材木を切り出す者が、その木で危険にさらされるということがあるということです。しかし、知恵はこのような危険から守ってくれます。

 

10節には「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」とあります。斧がよく切れなければ、刃を研がないと、もっと多くの力を要することになります。余分な労力が必要になるということです。しかし、刃を研ぐなら、その時間が無駄であるかのように思われますが、必ず報われることになります。道具を整えないのは愚かなことです。知恵は人を成功させるのに益になるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。斧を研いでいますか。よりよく神に仕えるために、自分の能力のどの部分を高めたらよいかを考え、それを高めるための努力をしているでしょうか。それとも、鈍くなった斧で切ってはいないでしょうか。「Oh, No!」なんて。鈍い斧のままでは、時間とエネルギーが無駄になるだけです。まずは自分という道具を磨かなければなりません。それが知恵です。どうやったら自分を磨くことができるのでしょうか。

 

ローマ人への手紙5章3~5節に、次のようにあります。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

何が希望を生み出すのでしょうか。練られた品性です。では練られた品性は、どのようにしてもたらされるのでしょうか。忍耐です。その忍耐は苦難によって生み出されます。そうです、自分という斧が磨かれるためには、神が与えてくださる苦難とか試練を忍耐することが求められます。試練こそその人が成長するための最も大きな糧なのです。

 

あるご婦人が、スイスを旅行した時のことです。散歩の途中に山腹にある羊の囲いの所に来たとき、中を覗いて見ると羊飼いがいて、彼の周りに沢山の羊がいました。ところが一匹の羊が、群れから離れて横に倒れて苦しんでいました。彼女は、羊飼いに声をかけました。

「あの羊はどうして倒れているのですか」

「あの羊は、足が折れているんです」

「どうして足が折れたのですか」と聞くと、

「私がわざと折ったのです」と、答えました。

彼女はびっくりして、「どうしてそんな可哀想なことをしたのですか」と尋ねると、羊飼いはその理由を説明してくれました。

「ミセス、私の羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんです。私の声に、絶対に従いません。そして危ない崖の上や、深い藪の中に勝手にどんどん入って行くのです。そして自分が行くだけでなく、他の羊も惑わして道連れにしてしまうんです。だから私は、この羊の性質を直すために、この羊の命を救うためにこの羊の足を折ったのです。今では、すっかり従順な羊になりました。私の手から餌を食べ、私の手を舐め、私に寄り添ってくるんです。まもなく足も回復するでしょう。そうしたらこの羊は、今度は他の羊の模範となるでしょう。仲間を惑わす代わりに、迷った仲間を連れ戻すでしょう。その時、私がこの羊の足を折った目的が達成されるのです」

私たちは迷える子羊です。そんな者が研がれるために、神は試練を与えられるのです。その試練を通し

て私たちは、謙遜や忍耐や従順といった練られた品性を身に着けるのです。

 

詩篇の記者は、こう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)私たちは、試練を通して神のおきてを学びます。それによって成長いくのです。ですから、試練に出会って、そこから出てくるたびに、私たちの心の中に人生の真実を求める心が大きくなっていきます。そして、以前の自分よりも今の自分の方が、よりイエス様を愛するようになります。よりイエス様を愛しているなら、私たちは確実に成長しているのです。これが神の知恵です。あなたはこの知恵を働かせていますか。知恵を働かせることが、成功に至る鍵です。

 

しかし、もう一つのことがあります。それが11節の御言葉です。「もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」どういうことでしょうか。口語訳には「蛇がもし呪文をかけられる前に、かみつけば、蛇使いは益がない。」と訳されています。ここでは物事を行うタイミングの重要性を教えています。蛇に呪文をかける前に蛇がかみつけば、蛇使いの存在価値はなくなってしまいます。そのように、成すべきこととその方法を知っていても、タイミングを逃すなら、その人は何の役にも立ちません。これが知恵です。

 

知恵は、人を成功させるのに益になります。少しの愚かさがすべてを台無しにします。どのように人を見るかによって、その結果も違ってきます。私たちの日常生活でも常に危険が潜んでいます。そのような人生の中で成功に導くのは神の知恵です。斧が鈍くなったら、刃を研がなければなりません。もし蛇がまじないをかけられる前に、かみつけば、蛇使いに何の益にもならないのです。自分に与えられた賜物を磨き、開発する知恵も求められます。またそのタイミングを見極める知恵も必要です。知恵は人を成功させるのに益になります。私たちは矛盾したこの世に生きていますが、この神の知恵によって、最後まで信仰を貫き、忠実に主にお従いしたいと思います。

伝道者の書9章11~18節 知恵は力にまさる

2021年2月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書9章11~18節(旧約P1150)

タイトル:「知恵は力にまさる」

 

 今日は、9章後半の箇所から「知恵は力にまさる」というタイトルでお話しします。前回の9章前半のところで伝道者は、すべての人に臨む死の問題を取り上げ、すべての人が死人のところに行くのであれば、生きていることに何の意味もないのではないかと問いかける中で、しかし、人には拠り所があることに気付かされます。生きている犬は死んだ獅子にまさるのです。どんなに偉大なライオンであっても死んでしまったら何の力もないように、生きていること自体に意味があります。生きている限りまだ望みがあるのです。救い主を信じて永遠のいのちを持つことができます。そして、その神のいのち、神の与えてくださる一つ一つの恵みを楽しむことができるのです。どんな恵みですか。それはパンやぶどう酒といった日ごとの糧もそうですし、ここには「あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい」とありますが、それぞれの伴侶もまた、神が与えてくださった恵みなのです。だからあなたはいつも白い衣を着よ、頭には油を絶やしてはならない、とあるのです(9:8)。「白い衣」とは祭りの装いのことでしたね。油は喜びの象徴です。ですから、私たちに与えられたこの地上でのいのちの日の間に救い主イエス・キリストを信じ、神が与えてくださった一つ一つの恵みを楽しめばいいのです。

 

今日はその続きです。伝道者が再び、日の下で行われていることを見て、その不条理に空しさを感じるわけですが、その中で知恵について三つのことを見出します。第一に、すべてのことに神の時があるということです。しかも、人は自分の時を知らないのです。であれば、その時を支配しておられる神にすべてをゆだね、たとえ問題にぶつかったとしても、神に信頼して祈るべきです。第二に、知恵は力にまさりますが、その知恵さえ蔑まれることがあるということです。その知恵とはだれのことでしょうか。イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れるために十字架に掛かって死んでくださったにもかかわらず、人々はこのキリストの愛を受け入れず、信じることもせず、自分勝手な道に進みました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、十字架のことばは、滅びる人たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)ですから、第三のことは、この十字架のことばに信頼し、このことばに従いましょう、ということです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の支配者の叫びよりもよく聞かれるのです。

 

Ⅰ.人は自分の時を知らない(11-12)

 

 まず、11~12節をご覧ください。「私は再び、日の下を見た。競走は足の速い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のように、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。」

 

伝道者が再び日の下を見ると、そこにもう一つの不条理があるのを見ました。それは、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇士の者でもない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない、ということです。

 

「競争は足の速い人のものではなく」そうですね、足が速い人が、必ずしも競争に勝つかというとそうでもありません。今年の7月に延期になった東京オリンピック、開催されるかどうか微妙な状況ですが、たとえば、世界記録を持っているアスリートがオリンピックで必ずしも金メダルをとれるかというとそうとは限りません。思わぬハプニングが生じることがあるからです。

 

「戦いは勇士のものではない。」それでは、勇敢な兵士がいれば戦いに勝てるのかというと、そうでもありません。私は大河ドラマが好きでよく観ていますが、前回は「麒麟が来る」の最終回でした。戦国時代の武将たちを見ると、必ずしも力のある武将が天下を取ったかというとそうではありません。たとえば、武田信玄はその一人でしょう。「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で、徳川軍を撃破すると、いよいよ織田信長の本拠地・尾張に攻め入ろうとした時、持病が悪化し、やむなく撤退を決めます。1572(元亀3年)年4月、武田信玄は病気が回復することなく、甲斐へ戻る途上で53歳の生涯を閉じました。戦国最強と謳われ、天下の織田信長を恐れさせながらも、天下を取ることは叶いませんでした。あの時、武田信玄が病気にならなかったら、歴史は代わっていたかもしれません。

 

「パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知恵のある人のものではない。」そうですよね、知恵があるからといって、裕福になるわけではないし、悟りがあるからといって、事業に成功するわけでもありません。「愛顧」とは、口語訳では「恵み」と訳しています。新共同訳では「好意」と訳していますね。「知識があるといって好意をもたれるのでもない。」と。そうですね、知恵があれば好意を持たれるかというとそうでもなく、逆に煙たがれることもあります。

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。「すべての人が時と機会に出会うからだ」。どういうことでしょうか。すべての人が時と機会に出会うからだとは。これはすでに3章で言われてきたことです。3章1節に「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とあります。たとえば、生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時があります。この時と機会に恵まれなければ、成功することはできません。どんなに力があっても、どんなに知恵や悟りがあっても、必ずしも成功するとは限らないのです。問題は、人は自分の時を知らないということです。12節には、「しかも、人は自分の時を知らない」とあります。残念ながら、人はその時を知りません。魚が網にかかるように、また、鳥が罠にかかるように、人の子らにも、突如として試練や不幸が襲いかかることがあるのです。そのようにして人はわざわいの時に捕らえられ、最後は死を迎えることになります。それはあんまりではありませんか。しかし、それが私たちの人生なのです。であれば、私たちはそのような不確かな世界にあってどのように生きれば良いのでしょうか。この時と機会を支配しておられる神に信頼し、すべてを神にゆだねて祈るべきです。

 

私たちクリスチャンは、神の許しなしには何も起こらないと信じています。また、神の愛に応答して全力で生きることが、神に喜ばれることであることも知っています。ですから、この神の主権を認め、神を恐れて生きればいいのです。そうすれば、何も恐れることはありません。すべての出来事は神の御手、神の摂理の中で起こりますが、神はすべての出来事の中に働いて益としてくださるからです。すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るならば、すべてのことが自分にとって最善となるのです。

 

主イエスは弟子たちを伝道に遣わされる際に、そこで遭遇するであろう様々な迫害に対して、どのように対処したらよいかを次のように教えられました。マタイ10章28~33節です。

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」(マタイ10:28-33)

 

有名なみことばですね、「そんな雀の一羽でさえ」。そんな雀の一羽でさえ、神の許しなしに地に落ちることはありません。そんな雀とはどんな雀なのかというと、ここに、二羽の雀が一アサリオンで売られているではありませんか、とありますね。一アサリオンというのはお金の単位ですが、当時の労働者の一日の賃金相当の額でした。そうですね、仮に時給1,000円とすると一日8,000円ですが、この十六分の一ですから、500円ということになります。そうすると一羽の雀の値段はその半分となりますから250円なのですが、そもそも雀は一羽では売りものにならないのです。二羽セットにしないと商品価値がありませんでした。「一羽の雀」とはそのように値がつかないくらい安いもの、価値の低いものを表しています。そんな一羽の雀でも、「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス様はおっしゃったのです。つまり天の父である神様は、一羽では売り物にならないような全く無価値な雀でさえ、見守っておられ、心に留めておられるのです。であれば、勧めよりも価値があるあなたのために、神が何もしてくださらないということがあるでしょうか。私たちは自分のことを、全く価値がないとか、無力な者だと思っているかもしれません。自分の周囲には、立派な人がたくさんいて、あれも出来る、これも出来ると、いろいろな意味で恵まれている人が沢山いるのに、自分はその人たちに比べて何も出来ない、何もとりえがないと思っているかもしれない。あるいは、以前は自分もあれも出来たのにこれも出来たのに、社会の中である地位や役割を持っていたのに、年を取ってきて、あるいは病気になってしまったために、その地位や役割を失ってしまった、社会の人々の役に立たない者、むしろ迷惑をかける者になってしまったと思っている人もいるかもしれません。自分なんていなくなった方が世の中のためなのではないかと思っているかもしれません。私たちはそのように自分に自信が持てなくなり、無力感に苛まれ、生きている価値がないように思ってしまうことがあります。そういう私たちにイエス様はここで、神は一羽の雀さえも心に留め、見守っておられると言われたのです。

 

それは雀だけではありません。あなたの髪の毛のことも考えてみなさい、というわけです。30節には「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」とあります。一本残らず数えられているのです。私たちは自分の髪の毛の数などありません。数えきれないのです。「ああ、また抜けたなぁ」とか、「大分少なくなってきたなあ」ということくらいはわかりますが、何本あるかなんて数えられません。しかし、神様はその数まで数えておられるというのです。つまり、私たちが自分のことを分かっていると思っている以上に神様は私たちのすべてのことを知っておられるということです。それだけしっかりと私たちのことを見ておられ、関心を持っておられ、私たちに関わろうとしておられるのです。だから、恐れることはないのです。問題は、あなたがこのすべてを支配しておられる神を認め、神を恐れて生きているかということです。あなたがこの神を認めるなら、神によってあなたも認められます。しかし、もし認めないなら、神に認められることもありません。人生の不条理の人生の中で神を恨み、人生を呪い、不平不満を言いながら生きるのではなく、神を認め、すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るべきです。そうすれば、すべてのことがあなたにとって最善となるのです。信じますか。

 

2014年10月号のリビングライフの中に、こんな証が載っています。白血病で闘病中の子どもがいました。その子の親はイエス様を信じていませんでした。ある日、教会学校の教師が子どもたちに「神様に送る手紙」を書かせました。そして子どもたちに「神様が住んでいるところは住所がなくて配達できないから、私が預かっておいて後から渡しますね」と伝えました。2,3年後、結婚して家の整理をしていたその教師は、子どもたちの手紙を見つけました。その中に、白血病を患って亡くなってしまったその子の手紙もありました。そこにはこのように書かれてありました。

「神様、ぼくは今、本当に痛くて死にそうです。でも、ぼくは自分よりもお父さんの方がかわいそうです。ぼくのせいで毎日やけ酒ばかり飲んでいるからです。ぼくは死んだら天国に行くけれど、お父さんはイエス様を信じていないので天国に行けません。神様!お父さんがイエス様に出会って救われて天国に行けますように。」

教師は子どもの家を探してその手紙を父親に渡しました。死んだ息子の手紙を、涙を流しながら読んでいた父親は、その場にひざまずいて叫びました。「神様、私を赦してください。あの子は今頃天国で私のために祈っているはずです。父である私が信じて救われてこそ、あの子の祈りが答えられるのではないでしょうか。私は、イエス様を信じます。」驚くべき救いのみわざが成し遂げられたのです。(リビングライフ、2014年10月号、P95「ついに答えられた祈り」)

 

私たちも様々な問題にぶつかることがあります。どうしてこのようなことが起こるのかわからないというような出来事に遭遇します。しかし、それがどういうことなのかがわからなくても、神はすべてをご存知であられます。すべてのことには定まった神の時があり、天の下のすべての営みには神の時があります。この神の主権を認め、すべてを神にゆだねて祈るとき、神があなたの人生にご介入くださり、ご自身のみわざをなさってくださいます。そう信じて、神に祈り続けましょう。

 

Ⅱ.知恵は力にまさる(13-16)

 

次に、13~16節までをご覧ください。「私はまた、知恵について、日の下でこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。わずかの人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いた。その町に、貧しい一人の知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救った。しかし、だれもその貧しい人を記憶にとどめなかった。私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」

 

伝道者はまた、知恵について、日の下でもう一つの不条理を見ました。それは彼にとって大きなことでした。それはどんなことかというと、わずかな人々が住む小さな町がありましたが、そこに強大な王、大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いたのです。土塁とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれる防壁のことです。砦ですね。普通は攻めてくる敵の侵入を防ぐために築かれるものですが、ここでは逆に、その町を攻めるために築かれました。ですから、城壁を破って町に侵入するのも時間の問題です。

すると、その町に、一人の貧しい知恵のある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救いました。それで彼は町の英雄になりましたが、だれもその人のことを記憶にとどめておくことはありませんでした。彼の存在は完全に忘れられてしまったのです。

 

それを見た伝道者は、こう言って嘆きます。16節、「私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」どういうことでしょうか。

確かに、知恵は力にまさります。敵の攻撃から救い出す力があります。聖書は知恵の宝庫ですから、聖書からの知恵によって危機を脱出したという例がたくさん聞きます。しかし、その知恵がやがて蔑まれるようになり、だれにも顧みられなくなることがあるのです。そして、やがて忘れられてしまいます。つまり、知恵が無力に感じられことがあるというのです。

 

これは、私たちの信仰にも言えることではないでしょうか。この貧しい一人の知恵ある者ですが、これをイエス様に置き換えることがいます。だれですか?悪魔です。悪魔は、小さな町である私たちを攻め立てる大王です。そこに砦を築いて攻撃してくるので、私たちの力ではどうすることもできません。

しかし、その町にいる貧しい一人の知恵者が、その知恵を用いてその町を救ってくださいました。それが救い主イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れる道を用意してくださいました。それが十字架のみわざです。神はキリストの十字架のみわざを通して、私たちを罪から救う道を用意してくださいました。にもかかわらず、多くの人はこの十字架のことばを受け入れず、キリストを信じることもせず、自分勝手な道に進んで行ってしまいました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

神はこの十字架のことばを通して、信じる人を救おうとされました。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かであっても、召された者たちにとってキリストは、神の力、神の知恵なのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。それゆえ、キリストのことば、十字架のことばを受け入れ、キリストを通して父なる神に感謝をささげる人こそ幸いな人なのです。

 

あなたは、この貧しい人の知恵のことばを聞いていますか。そのことばを受け入れているでしょうか。その知恵のことば、十字架のことばに生きていますか。私たちは忘れっぽい者です。すぐに忘れてしまいます。しかし、私たちの人生で多くのことを忘れても、このことだけは忘れないでください。十字架のことばは、滅びる人たちにとっては愚かであっても、救われる私たちには神の力なのです。

 

 Ⅲ.知恵は武器にまさる(17-18)

 

 第三に、17~18節までをご覧ください。「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。」

 

 貧しい者の知恵は無視されたり、軽視されたり、忘れられたりしますが、それでも価値があります。ここには、「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれる」とあります。愚かな権力者たちが大声で叫ぶよりも、知恵ある者が静かに語ることばの方が良く聞かれるのです。より力があるというのです。

 

例えば、Ⅰサムエル記を見ると、アビガイルという一人の女性が登場します。彼女はナバルという人の妻でした。ナバルはカルメルという所で事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていましたが、彼はその名のごとく「愚か者」でした。それで、そのすべての財を失いかけますが、その危機から救ったのが妻のアビガイルでした。

 ある日のこと、ダビデは彼のもとに10人の若者を遣わして、何か手もとにある物を与えてほしいと頼みました。長きにわたる放浪生活で食べ物がなく困窮していたのです。しかし、ナバルの答えはダビデの期待を裏切るというか、その気持ちを逆なでするようなものでした。彼はその若者たちに「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」(Ⅰサムエル25:10-11)と大口をたたいてダビデの要請をきっぱりと断ったのです。

それを聞いたダビデは激怒し、部下たちに「各自、自分の剣を帯よ。」と命じ、ただちにナバル討伐に向かいました。すると、その出来事を聞いた妻のアビガイルは、多くの食べ物をもってダビデのもとに出で生き、ダビデの足もとに触れ伏してこう言いました。

「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお赦しください。主は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(Ⅰサムエル25:24-31)

 

彼女は自分の罪を認めて告白した上で、その罪を赦してほしいと懇願しました。また、自分がダビデのもとに来たことで、ダビデが自分の手で復讐することを主が止められたのだと告げ、その主が復讐してくださるようにと祈ったのです。それなのに、もしダビデがナバルと戦うというのであればそれは単なる復讐にすぎず、ダビデの名を汚すことになるので、そういうことをせず、主がダビデを栄えさせてくださるようにと祈ったのです。

これは、感情的になっていたダビデにとっては最善のアドバイスでした。もしダビデが感情的になってナバルを攻撃していたとすれば、彼の人生にとって大きな汚点となっていたことでしょう。ですから、アビガイルのことばは、そんなダビデを悪からから救ったといっても過言ではありません。

 

それでダビデは、イスラエルの神をほめたたえ、ナバル討伐をやめました。そして、アビガイルが持って来た贈り物を受け取り、彼女の願いのすべてを聞き届けたのです。ダビデはこのアビガイルと出会わせてくださった神をほめたたえ、神に感謝しました。そして、その後、主がナバルを打たれたので彼は死に、アビガイルはダビデの妻になりましたが、本当に聡明な女性です。彼女の知恵によって、ナバルの家だけでなく、ダビデ自身も罪を犯すことがないように守られたのですから。その忠告に耳を傾けたダビデもさすがですが、その忠告をダビデにしたアビガイルは実に知恵のある賢明な人でした。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりも力があるのです。

 

 一方、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊します。知恵は武器にまさりますが、一人の愚か者によってすべてのものがぶち壊されることがあるのです。例えば、今のアビガイルの例で言うなら、ナバルはそうでしょう。「ダビデとは何者だ」と大口をたたいて、すべてをぶち壊そうとしました。

それは、10章1節に出てくる死んだハエと同じです。10章1節に「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」とあります。10章からは、その知恵ある者と愚かな者が対比されて語られていきますが、この愚かな者の言動がどのような影響を及ぼすのかを、死んだハエにたとえているのです。調香師が調合した香油には、高価な価値があります。しかし、そこに一匹のハエが飛び込んで来て、死んだとしたらどうでしょうか。すべてが台無しになってしまいます。香油は異臭を放ち、腐らせます。そんな香油を使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。ナバルの言動とは、まさにこの死んだハエのようでした。

 

 しかし、知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれます。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。私たちは愚かな人の叫びではなく、静かに聞こえる知恵ある者のことば、キリストのことばを心に刻まなければなりません。ひとりの知恵ある者が町を救ったのとは反対に、ひとりの罪人が共同体を壊すことがあります。私たちはこのような愚かな者にならないように、いつも悪魔の声、この世の声に警戒しなければなりません。そして、キリストのことばを心に蓄え、神の知恵、真理のことばによって共同体を建て上げる者でありたいと思います。この知恵によって歩む一人一人に、神の力、神の祝福が豊かにありますように。

神に会う備えをせよ 伝道者の書9章1~10節

2021年2月7日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書9章1~10節(旧約P1149)

タイトル:「神に会う備えをせよ」

 

 伝道者の書9章に入ります。今日は、9章前半の箇所から「神に会う備えをせよ」というタイトルでお話しします。伝道者ソロモンは、日の下で行われる一切のわざを見て、こう結論しました。8章17節です。「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めて、見出すことはない。知恵のある者が死っていると思っても、見極めることはできない。」

 ただ確かなことは、すべてのことが、すべての人に同じように起こるということです。正しい人も正しくない人も、みな死人のところに行きます。では、私たちの人生には、いったいどんな意味があるというのでしょうか。今日のところで伝道者はこう言います。4節、「しかし、人には拠り所がある。」生きている犬は死んだ獅子にまさっています。生きている限り、拠り所、希望があります。救い主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得るという希望があるのです。だから、生きているってすばらしいことなのです。その主イエスを信じて、神によって与えられた一つ一つの恵みに感謝して生きることができます。あなたは、その救いを得ているでしょうか。神に会う備えができているでしょうか。

 

Ⅰ.死は終わりではない(1-3)

 

 まず、1~3節をご覧ください。「まことに、私はこの一切を心に留め、このことすべてを調べた。正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。善人にも、罪人にも同様で、誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様だ。日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。」

 

1節の「この一切」とか、「このことすべて」とは、8章9節にある「日の下で行われる一切のわざ」のことです。すなわち、この地上で行われるすべてのことであります。伝道者は、そのすべてを見て、心を注いだわけですが、その結果分かったことは何かというと、8章17節にあることでした。つまり、すべては神のみわざであるということ、そして、人は日の下で行われる神のみわざを見極めることはできないということです。どんなに労苦して探し求めても、どんなに知恵のある者が知っていると思っても、それを見極めることはできません。正しい人も、知恵のある人も、彼らの働きのすべてが神の御手の中にあるからです。それが愛から出ているのか、憎しみから出ているのかも、人には分かりません。

 

2節をご覧ください。すべてのことは、すべての人に同じように起こります。私たちの人生で最も不可解なことは、正しい人にも、正しくない人にも、善人にも、きよい人にも、信仰者も、不信仰者も、神に誓う人にも、誓うのを恐れる人にも、すべての人が同じ結末を迎えるということです。同じ結末とは何でしょうか。人はみな死ぬということです。死はすべての人にやって来ます、100パーセントの確立で。すべての人が死んで墓に葬られることになるのです。悪者が死んで墓に入るというのならわかりますが、正しい者も同じように死んで墓に入るというのは納得できません。このようにすべての人が同じ結末を迎えるならどういうことになるでしょうか。3節を見てくたさい。3節には、「人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり」とあります。どうせ死ぬのだから、自分の好きなように生きればいい、ということになります。良いことをしようが、悪いことをしようが関係ありません。悪いことをしても別に何も変わらないのなら、自分の心の赴くままにすればいいと、人の心がますます悪に傾くようになるのです。これは空しいことです。なぜなら、私たちの人生は、死は終わりではないからです。日の上でのいのち、死後のいのちが神によって用意されているからです。

 

皆さんは、「ヒアアフター」という映画をご存知でしょうか。この映画は、死を身近で体験した3人の登場人物が、それぞれアメリカ、フランス、イギリスに住んでいるのですが、死後と向き合いながら生きていく中で、やがて一つにつながっていくという物語です。周りの人々は、「死後の世界があるなら誰かが証明しているはずだ!」と本気にしないのですが、死を身近に体験した人たちにとってはそうではありません。それが生と向き合うきっかけとなり、その生き方に大きな影響を及ぼすことになるのです。

 

米国の伝道者にスタンレー・ジョーンズ(1884-1973)という人がいましたが、彼はよく次の伝道地に向かう汽車の中で説教の準備をしていたと言われています。しかし、長いトンネルの中に入るとトンネルと周りの人々の騒々しい声が耳にささって、説教づくりを妨害するのです。以前から他の乗客の騒音でイライラしていた彼は、ついに我慢しきりなくなり怒鳴ろうとした時、期待にふくらんだ一人の少年の声を聞くのです。

「見て、見て、お母さん。ほら、明日だよ。」

少年がそう叫んだのは、暗くて長いトンネルを出て、太陽がまぶしく輝く世界を目にしたからでした。

 

死の向こう側にあるものを見ることができる人は幸いです。私たちの人生はこの地上だけで終わるものではありません。すべての人生の終着駅は死ですが、死には二種類あるのです。一つは「信じる者の死」で、もう一つは「信じない者の死」です。信じる者の死は、主イエスを信じて罪の赦しと永遠のいのちを受け、永遠の御国に入る門であり、「信じない者」の死は、永遠の滅びに入る門、地獄の門です。私たちはどちらの死を迎えるのかを選択しなければなりません。

 

Ⅱ.神に会う備えをせよ(4-6)

 

次に、4~6節までをご覧ください。すべての人が同じ結末を迎えるのであれば、生きていることにどんな意味があるというのでしょうか。「しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」

 

「しかし、人には拠り所がある」何ですか、「拠り所」とは?新改訳第三版では「希望」と訳しています。「すべて生きている者に連なっている者には希望がある」つまり、人は死んだら終わりですが、生きている限り、何かしらの希望があるということです。そのことをわかりやすく伝えるために用いているたとえが、その後に出てくる、生きている犬と死んだ獅子の話です。「生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ」どういうことでしょうか。ここでは犬と獅子が対比されています。犬は最も劣った動物で、獅子は最も優れた動物であるという意味で対比されているのです。そんな犬でも、生きている限り、死んだライオンよりもまさっています。また、5節にあるように、生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。生きているだけでましだということです。さらに、5節の後半には「彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる」とあります。死んでしまえば、もはや何の報いを受けることもなければ、その名前すら忘れられてしまいます。この地上での憎悪やみたみも消えうせ、この地上で起こることには全く関係が無くなってしまうのです。

 

しかし、これは、人は死ぬと眠りにつき意識がなくなるということを教えているのではありません。これまで何度も見てきたように、伝道者は「日の下」で行われているすべてのことを観察して、そのように語っているのです。すなわち、神様なしの、神様抜きの、人間の知恵と論理によって人生を観るならこうなるということです。つまり、聖書を持たない知者が、世界について、人生について、哲学的に思索を重ねると、このような結論に到達するということです。

 

しかし、このような人間的な思索の中でも、生きている限り希望があります。人は死ねば、神のさばきの前に立つ日が例外なくやって来ますが、生きている限り、そのことに備えてイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得る機会があるからです。しかし、死んだ者には何の望みもありません。

 

ある人たちは、Ⅰペテロ3章18~20節から、死んでからでも救われるチャンスがあると主張しています。いわゆるセカンドチャンス論です。そこにはこうあります。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。」

 

この「キリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。」という言葉ですが、キリストは、よみに下り、囚われている人たちの霊のところに行って福音を宣べ伝えられた、と考えるのです。それはノアの時代に、箱舟を作られていた間に、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのところです。しかし、これはそういう意味ではありません。確かにキリストは十字架で死なれ、よみに下って行かれ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行って神のことばを語られましたが、それは救いのことばではなく、さばきのことばでした。さばきの宣言だったのです。聖書は一貫して、死んでからも救われるチャンスがあるなどとは語っていません。聖書が言っていることは、人は死んだら神のさばきがあるということです。へブル9章27節にこうあります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」

つまり、人は100%の確率で誰もが死んで行きますが、同じように死後神の前に立ち、神の裁きを受けるようになることも100%であるということです。死後に救われるチャンスがあるのではなく、死後にさばきを受けるのです。であれば、生きているうちに、この神のさばきに備えなければなりません。死んでからでは遅いのです。生きているから希望があるのです。拠り所があります。死んだ者は何も知りません。

 

クリスチャン音楽家の森繁昇さんが、「君は死んでゆく。用意はできてるか? Ready To Die」という歌を歌っておられます。もうかなり前になりますが、初めて聞いたときドキッとしました。人は死ぬということをストレートに歌っているからです。どうぞ心を準備してお聞きください。いいだすか、心の準備は出来ましたか?

おじいちゃんが死ぬ。おばあちゃんが死ぬ。 父さんが死に、母さんが死に、兄さん、姉さんも。

弟が死ぬ。 妹が死ぬ。 妻に夫、奥さん、主人に、ポチもタマも死ぬ。

息子が死ぬ。 娘が死ぬ。 嫁が死に、婿が死に、孫に曽孫も。

おじさんが死ぬ。おばさんが死ぬ。いとこにはとこ、甥も姪も、義理の父も母も死ぬ。

 「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

街で死ぬ。 村で死ぬ。山で、川で、海で、畑で、そこらじゅうで死ぬ。

病院で死ぬ。 自分の家で死ぬ。 台所か、居間か、風呂か、トイレか、玄関先で死ぬ。

金持ちが死ぬ。貧乏人が死ぬ。知ってる人が、知らない人が、友達が死ぬ。

有名人が死ぬ。 ホームレスが死ぬ。 朝でも、昼でも、夕暮れ時でも、真夜中でも死ぬ。

あの人だけが死ぬんじゃないよ。 この人だけが死ぬんじゃないよ。

他の人だけが死ぬんじゃないよ。君の番もくるからさ。

そんなに泣かなくてもいいさ、 涙や悲しみを無駄にしなくても。

君は死んでゆく。用意はできてるか?

交通事故で死ぬ。 飛行機事故で死ぬ。病気の人も、元気な人も、思いがけなく、死ぬ。

戦争で死ぬ。 自殺して死ぬ。撃たれて、刺されて、締めれて、叩かれ、殺人犯も死ぬ。

歩いてて死ぬ。走ってて死ぬ。働いていて、遊んでいて、ブラブラしていて、死ぬ。

がんばる人も、がんばらない人も年寄り、若者、子供に 赤ちゃん 生まれる前に死ぬ
ちょうど車にはねられて死んだ犬が 何度もひかれているうちに だんだん乾いてきてついには埃となって 完全に吹き飛ばされて無くなるように人も死に至るのさ 

君は死んでいく用意はできてるか

笑ってる人が死ぬ 泣いてる人も死ぬ 親切な人 いじわるな人 ガッツのある人も
怒りっぽい人も 優しい人も 威張っている人 だましている人 だまされている人も

会長が死ぬ 社長が死ぬ 専務に常務、部長に次長に課長に係長。

新入社員が死ぬ。サラリーマン全部死ぬ。政治家、先生、警察、お医者、葬儀屋も、死ぬ。

たとえ人が世界を全部、自分のものとしても、何になろう? もし、永遠のいのちを損じたら。

しかし、創造主の愛をもらう者が、死んでもまた、生きるのなら、

誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

創造主に罪を赦される者が、死んでもまた、生きるのなら、誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

君は死んでゆく。用意は、 君は死んでゆく。用意は、君は創造主に会う用意は、できてるか?

 

初めて聞いた方はドキッとしたのではないかと思いますが、福音のメッセージがストレートに語られているすばらしい歌ではないかと思います。だれも、自分が死ぬなんて考えられません。いや、考えたくありません。死んだら終わりだと思っているからです。でも、その先に希望があることがわかっていれば、それに備えて生きるのではないでしょうか。その希望こそイエス・キリストです。キリストは神の御子であられ、罪を犯したことがない方でしたが、私たち罪人を愛して、私たちの罪の刑罰を受けて十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることがなく、永遠のいのちを持つためです。この方を救い主と信じるなら、どんな人であっても罪に定められることがなく、天国に入ることができます。永遠のいのちを得ることができるのです。この曲の最後の方に、「君は創造主に会う用意は出来ているか」とありますが、これこそ、創造主に会うための用意です。あなたは、その用意ができているでしょうか。

 

旧約聖書の預言者アモスは、こう言いました。「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12)

あなたは、神に会う備えが出来ていますか。それは生きている時でなければできません。生きているなら希望があります。4節にあるように、生ける者すべてのうちに数えられている者には、拠り所がるのです。死んでからでは遅いです。生きているうちに、その備えをしてください。それこそ、あなたが生かされている最大の目的です。この世での一番の祝福は何ですか。それは、多くの富や権力を持つことではありません。救い主イエスを信じて永遠のいのちを持つことです。救い主イエスを見出し、人生の正しい目的を見つけること、それが一番の祝福なのです。

 

2月4日の世界宣教祈祷課題は、ナイジェリアのために祈る日でしたが、2018年2月19日、ナイジェリア北部ヨベ州ダプチの科学技術教育学校から110名の女生徒と共に誘拐され、ボコ・ハラムの囚われの身となってしまったキリスト者の少女レア・シャリブ姉妹の事件に言及されていました。

ボコ・ハラムによる学生誘拐事件は、国際世論の非難の的となっていて、ナイジェリア政府や国際世論の強い圧力もあって、1ヶ月後の3月24日には、104名の少女らが解放されました。ところが当時14歳で、キリスト教徒のレアは、自身の信仰を棄ててムスリムに改宗することを拒んだため、彼女ひとりが残されてしまったのです。

解放された学友によると、全員が解放されたあの日、レアもすべての少女と一緒に解放されるはずでした。ところがボコ・ハラムは、レアがトラックに乗る直前、キリスト教徒からムスリムに改宗するためのいくつかの儀式的宣言をするように彼女に要求しましたが、彼女は「私はイスラム教徒ではないので、決してそれは言えません」と拒んだのです。

すると、彼らは怒って「お前がキリストを冒涜しないなら、我々とともに残ってもらおう!」と脅したのですが、なおも彼女はその要求を拒否しました。他の学友らも――おそらくは一時的なポーズだけでも――レアに改宗するよう促したのですが、このわずか14歳の少女は、決して主を否んで裏切ることはしなかったのです。

彼女は、自分だけが解放されないことを悟ると急いで母親への手紙を書き、それを解放される友人の手に託しました。その時の手紙には次のように記されてありました。

「お母さん、どうか私のことで心配しないでください。お母さんは、私がいなくなって、とても辛い思いをしていると思うけど、何処にいても私はきっと大丈夫だと伝えたくて、急いでこの手紙を書きました。私の神様は、このような試みの中でもずっと御自身を現わしてくださっています。お母さんが朝のデボーションで『神様は苦しんでいる人々により近く寄り添って下さる』と教えてくれた言葉の通りです。私は今、それが真実だと証明することができます。いつの日か、きっとお母さんに再会できると信じています。私は今お母さんのそばにいなくても、主なるイエス・キリストの内にいます。」 

レアの学友らは走り出すトラックから、ひとり残された彼女が見えなくなるまで見つめ、泣きながらいつまでも手を振っていたと言います。

 

私は、レアのことを思うと、信仰とは何なのかを考えさせられます。たった14歳の少女がいのちがけで守ろうとしたもの、それはまことの命ではないかと思うのです。人命尊重、人命尊重、と連呼される昨今、この14歳の少女は「人の人生には命よりも大切なものがある」ことを強烈に投げかけてやめないのです。

 

 Ⅲ.神が与えてくださった恵みを楽しむ(7-10)

 

 では、生きている間、私たちはどのように過ごせばよいのでしょうか。7~10節までをご覧ください。「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」

 

 7節には、「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」とあります。伝道者はここで、神が与えてくださるものを楽しむことが最善の生き方であると言っています。神がそれを許しておられるのだから、日々の生活を楽しめばよいというのです。これは、いわゆる快楽に溺れろということではありません。日ごとの糧に感謝して、それを喜び楽しみなさい、ということです。

 

 8節には、「いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。」とあります。「白い衣」とは祭りの装いのことだと言われています。頭に油を絶やしてはならないとは、油は聖書では人の心を喜ばせるものとありますから(箴言27:9)、神が与えてくださる恵みの中で、祭りのように楽しみ、喜ぶ人生を生きるようにということでしょう。

 

 そして、9節には「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。」とあります。すなわち、結婚関係も最大限楽しむべきであるということです。尾山令仁先生は、これを「この地上でのむなしい人生においては、妻と生活を楽しむに越したことはない。それが、あなたがこの地上で生きている間、神があなたの労苦に対して創造主が与えてくださる恵みである。」と訳しています。その恵みを楽しむのがよいのです。結婚して何年も経つと、それが恵みであることも忘れて、自分のペースで勝手気ままに振る舞うことが多いですが、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよいのです。アーメン。一緒に聖書を読んだり、祈ったり、チョコレートをかけてカードゲームするのもいいでしょう。たまには一緒に出かけるのもいいですね。いつも出かけていると有り難さに欠けるので、たまに出かけるのがいいのです。いずれにせよ、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい。これが神のことばです。

 

 また10節には、「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。」とあります。今、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、ということです。「あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」死んでからでは、働くことも、計画することも、知恵も知識もないからです。つまり、仕事であっても、知恵であっても、知識であっても、生きている今の時に、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、というのです。

 

私の友人の牧師に、路傍伝道ネットワークの代表をしておられる菅野直基という牧師先生がいらっしゃいますが、フェイスブックで「今日を最後の日として生きよう」というショートメッセージをされました。

「私たちの人生はたった一度だけです。時間には限りがあり、あっという間に過ぎていくもの、だから人生はおもしろい。明日があると思えば、今日出来る事を明日に先延ばししてしまうことがあります。この世が永遠に続くと思うなら、後でしようと、急いだってしょうがないんじゃないの、ってなりますけれども、これは「もし」のことであって、聖書では、私たちの人生は70年、健やかであっても80年、どんなに生きても120年だとあります。そういう意味では、今日という日がどれほど大切でしょうか。もしかすると、今日が最後の日になるかもしれないのです。もし今日が最後の日だとしたらどう過ごしますか。誰と会うか、何をするか、どのように過ごしたいかを考えるのではないでしょうか。そして、そのように思い巡らす中で一番重要なことからやっていくのではないでしょうか。今日を最後の日として考えて生きるなら最高の一日になるはずです。それを毎日続けていったらものすごいことです。何気ない出会いも大切にしたいと思うでしょうし、険悪な関係だった人との関係も修復しておきたいと思うでしょう。今日を最高に生きるために、今日という日を、そして今を最後の日として生きていけたらいいですね。」

 

今日という日を、今を、最後の日として生きる。そうすれば、一番大切なことからやっていくはずです。一番大切なこと、それは、神に会う備えをするということです。そして、神が与えてくださった一つ一つの恵みに感謝し、これを喜び、楽しみ、自分の手でできることに、全力を尽くすということです。

 

あなたはどうですか。神に会う備えが出来ていますか。それはただイエス様を信じるというだけでなく、あなたの人生において神を認めて生きるということです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5)

心を尽くして主に拠り頼みましょう。自分の悟りに頼るのではなく、あなたの行くすべてにおいて主を認めましょう。主が与えてくくださる恵みに感謝しましょう。そうすれば、主があなたの道をまっすぐにしてくださいます。

すべては神のみわざ 伝道者の書8章9~17節

2021年1月31日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章9~17節(旧約P1149)

タイトル:「すべては神のみわざ」

 

 きょうは、伝道者の書8章後半の御言葉から学びます。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者は知恵のある者とされるのにあさわしいのはだれかを、正しい者と悪しき者を対比して語っています。きょうの箇所でも、知恵のある者とはどのような者なのかを、三つのポイントで語っています。すなわち、第一に、知恵のある者は、神を恐れ、神の御前に生きる人であるということです。第二に、私たちの人生は矛盾に満ちているかのように見えることが多いですが、すべてのことが神のご支配の中で起こっているわけですから、神が与えてくださることに感謝し、満足する生き方を学ばなければなりません。そして第三のことは、すべては神のみわざであって、人は神のみわざを見極めることはできません。ですからすべてを神にゆだね、神に信頼して歩まなければなりません。そのような人こそ知恵のある者なのです。

 

Ⅰ.悪しき者には幸せがない(9-13)

 

 まず、9~13節をご覧ください。9節と10節をお読みします。「私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」

 

「このすべて」とは、この地上で行われるすべてのことです。伝道者は、そのすべてを見て、心を注ぎました。すると、そこに人を支配し、傷つけている人がいるのを見たのです。また、10節、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見ました。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられます。これもまた空しい。どういうことでしょうか。実はここはちょっと難解な箇所です。「聖なる方のところ」とは「神」のこと、あるいは、「神の宮」のことを指しています。その聖なる方のところから悪しき者が離れ去って行くことはありません。なぜなら、彼らは元々神から離れているからです。またここには、悪しき者がわざを行ったその町で忘れられるとありますが、それは結構なことなのに、ここには「空しい」とあるのです。どういうことでしょうか。

 

そこで口語訳聖書は、この「忘れられる」という言葉、へブル語で「イシュタッケフー」という言葉ですが、これを「ほめられる」という言葉、へブル語の「イシュタッベフー」に修正し、次のように訳しました。「彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。」と「忘れられる」を「ほられる」に修正したんですね。そうすれば、悪しき者がほめられるのはおかしいですから、「これもまた空しい」ということになります。つながるわけです。

 

しかし、これはそういうことではありません。14節に「悪者」と「正しい者」とか対比されているように、ここでも悪者と正しい者が対比されているのです。つまり、悪しき者たちが葬られて去っていくことと、正しい者が、聖なる方の所を去り、そして、町で忘れられてしまうということです。ですから、新改訳第三版ではこのように訳しているのです。「そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。」ですから、この「彼ら」を「悪しき者」ではなく、「正しい者」と理解したわけです。これが、本文が語っていることです。この新改訳2017では「忘れられる」という原語を修正しなかったのは良かったのですが、主語を「彼ら」としたため、これが「悪しき者」を指しているように訳したため、意味が通じなくなってしまいました。正しい者が、聖なる方のところから離れ去り、その町で忘れられることがあるとしたら、それもまた空しいではないでしょうか。

 

そればかりではありません。11~12節前半までを見てください。「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。悪を百回行っても、罪人は長生きしている。」

この世では悪い行いに対する宣告がすぐに下されるどころか、むしろ、悪人が称賛されることがあります。それを見て人の子らの心は悪を行う心で満ちるのです。彼らは悪を百回行っても、長生きしています。そんなことってありますか?あるんです。あの人はあんなに悪いことばかりしているんだから、罰が当たってすぐに死んでしまうだろうと思いきや、意外と長生きしているのです。しかも、祝福されたりして・・。そのような状況を見ると、何とも不条理な世の中だと思ってしまいます。だったら悪いことをしていた方が得じゃないかとさえなります。

 

しかし、伝道者はそのような不条理を嘆きつつ、悪者には真の幸せがないと強調しています。それが12節の真中にある「しかし」です。12節の「しかし」から13節までを読んでみましょう。「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」

悪者に対して神のさばきが下るどころか、もっと栄えているかのように見えることで、人々は大胆に悪を行っていますが、その生涯を影のように長くすることはできません。神の御前での恐れがないからです。しかし、神を恐れ、真実に生きる人を、神は必ず顧みてくださいます。そして、彼らの生涯を美しいものにしてくださるのです。

 

大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後、千葉県の東葛飾中学校で英語の教師をしていましたが、大正15年、28歳の時、肺結核を発病し30歳で天に召されました。

しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。

「私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に一人の人に出会いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。ここにおいて、私の自らの心の問題、広く人生に対する問題が、氷が解けるように解けていくのを感じました。」

八木重吉は、イエス・キリストとの出会いによって、神を見出し、神の御前で恐れ、幸せであることを体験したのです。その八木重吉が、「雨」という詩を残しています。

雨の音がきこえる
 雨が降っていたのだ
 あの音のようにそっと 

世のためにはたらいていよう

雨があがるように

しずかに死んでいこう

とても含蓄のある詩だと思います。雨の音のように そっと世のために働いていよう、雨があがるように、しずかに死んでいこう。この世と真逆ですよね。この世ではいかに自分を見せるかと、自分が中心の世界ですが、キリストと出会った重吉は、神を恐れ、神の御前で生きる生涯へと変えられたのです。神を恐れて生きる人の人生を、神はこのように美しいものにしてくださるのです。

 

Ⅱ.神が与えてくださるささやかな幸せ(14-15)

 

次に、14~15節ご覧ください。14節には、「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」とあります。

ここで伝道者は、なおもこの世にはあまりにも不条理なことが多いことを嘆いています。例えば、悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受けたり、正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受けるというようなことです。これまでも伝道者は一般原則と例外的な事例とが頻繁に逆転するのを見て、人生の空しさを覚えてきましたが、ここでも同じです。悪しき者が受けるべき報いを悪しき者が受け、正しい人が受けるべき報いを正しい人が受けるとすれば納得できるのですが、そうでないことが起こると、人生は本当に空しいなぁと感じます。

 

そのような空しさを見た伝道者は、次のような結論に至ります。15節です。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」

そうでしょう、そんな不条理なことがまかり通るのであれば、いったい私たちの人生にはどんな意味があるというのでしょうか。ここで伝道者が言っているように、日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない、ということになります。伝道者はこれまでも同じことを語ってきました。3章22節や5章18節にも、繰り返して語られてきました。人生には何の目的も、意味もなければ、食べて飲んで楽しむよりほかに、何の楽しみもありません。ここには「快楽を賛美する」とありますが、そういう人生になってしまいます。

 

実際、この世はそうじゃないですか。私も学校を出て4年間この世の企業で働いたことがありますが、みんなそうでしたよ。「大橋君、今晩は飲みにでも行こうか、パッと行こうぜ」。私はその頃はもうクリスチャンになっていたので別に行きたいわけではありませんでしたが、これも社会勉強になるかなぁと思ってついて行くと、みんな会社にいるときとは全然違う顔になるんです。快楽を賛美しているのです。これもまた空しいことです。酔っぱらっていい気分になったかと思ったら、また翌日には厳しい現実が載っていて、悪い気分になるのですから。

 

しかし、日の上には喜びがあります。神への賛美で溢れています。黙示録4:11には、天国での賛美の様子が描かれています。24人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、また、自分たちの冠を御座の前に投げ出してこう言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)

救い主イエスを信じ、「神共にいまし」を体験した人は、日の下にあっても、このような神への賛美と感謝に満ち溢れた生活を送ることができるのですから。

 

パウロの時代にも、同じように快楽を賛美していた人たちがいました。彼らは、自分たちはどうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないと考えていたのです。そんな彼らに対してパウロはこのように言いました。「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」(Ⅰコリント15:32-33)

もし、どうせ死ぬのだから、という考えに立つなら、生きることにどんな意味があるというのでしょうか。何の意味もありません。であれば、生きている間、おもしろおかしく生きるしかありません。「さあ、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」ということになります。

 

けれども、私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。霊のからだに復活するということです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストがご再臨されるとき、朽ちないからだ、霊のからだによみがえるのです。そんなことあるはずないじゃないですか。あるなら、だれかが証明しているはずです。そう言うでしょう。そうです、ある方がそれを証明してくださいました。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたことで、キリストを信じる者が同じように復活するということを証明してくださったのです。聖書ではそれを「初穂」という言葉で表しています。イエス様はその初穂でした。同じように、私たちも復活するのです。

ですから、死は終わりではありません。死は永遠の入口にすぎないのです。死んでからのいのちがあります。そのいのち、永遠のいのちを与えるためにキリストはこの世に来てくださり、十字架に掛かって死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

 

死んでからのいのちがあるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があるのです。天からの報いを期待することができますから。この地上で行われていることだけを見たら、この世の矛盾に失望するだけでしょう。ここでソロモンが言っているように、「これもまた空しい」ということになります。「さあ、食べて飲んで楽しもう」ということになるのです。だって、それ以外に楽しみがないのですから。

しかし、日の上には喜びが満ち溢れています。ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と賛美しましたが、神の御前には喜びと楽しみが溢れています。であれば、たとえこの世がどんなに矛盾と混乱に満ちていても、私たちは神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足して生きることができるのです。

 

ナポレオンの時代に、シャネットという男が無実の罪で牢獄に入れられました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。

その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、驚いたことに固い土の中から小さな草が芽を出しているのにシャロネットは気が付きました。彼にはそれが、神が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫色と白色の花を咲かせました。

この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼は疑いが晴れて釈放され、自由の身になったのです。

私たちも同じです。日の下だけを見るなら自暴自棄になるでしょう。しかし、そこからわずかに差し込む神の光、神の恵みに感謝して生きるなら、そこに人生の意味を見出し、快楽ではなく神を賛美する人生へと変えられるのです。

 

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。

「今日は感謝な日だった。まず強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことを感謝する。さらに全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことを感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」

こうやってみると、私たちが心の目を開くとき、私たちには感謝すべき材料がいくらでもあることに気付きます。神は、あなたの一生の間にも、その労苦に添えて豊かな恵みを注いでおられるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足しながら、神を賛美する人生を歩ませていただきましょう。

 

Ⅲ.すべては神のみわざ(16-17)

 

第三に、16~17節をご覧ください。「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」

 

伝道者は、不眠不休でこの地上で行われている人の営みを見極めようとしましたが、できませんでした。人はどんなに労苦して探し求めても、神がなさることを見極めることはできないのです。こうした人間の知恵の限界は、神のみわざがどれほど不思議なものであるのかを教えています。本当に神がなさることは不思議ですね。それは、私たちの考えや思いをはるかに超えています。

 

例えば、旧約聖書の中にエステル記という書があります。もちろん、主人公はエステルという一人の女性です。彼女の人生は時代の流れに翻弄されるところから始まります。祖国イスラエルはバビロンという国の捕囚の身となり強制移住させられ、彼女もその一人として流れ着きます。しかも両親は早くに亡くなり、養父モルデカイのもとで暮らす不幸な身の上でした。そんな彼女が、ペルシャ帝国下でやがて世界に君臨した王の妃として立てられるのです。

まさか自分がペルシャ王の王妃に選ばれようとは、夢にも思わなかったでしょう。ところが、「まさかそんな大それたことを、自分が」と叫びたくなるような事件に巻き込まれていくのです。

養父モルデカイがユダヤ人のため、当時の権力者であった王の家来ハマンに頭を下げなかったことで、ユダヤ人皆殺しの法令が発布されてしまったのです。

ユダヤ民族絶滅の危機に際して、もし救えるとしたら、王のすぐ隣の席にいたユダヤ人の王妃エステルしかいませんでした。逃げられない袋小路のような重圧の中で、彼女は信仰によってジャンプします。いくら王妃とはいえ、当時、王の許可なく勝手に王の許に進み出るようなことをすれば、死刑に処せられました。けれども、彼女はそのことを百も承知で、ユダヤ民族救出のために決心したのです。

「たとい法令に背いても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

その結果、ユダヤ人絶滅を謀ったハマンは、自らがユダヤ人モルデカイをつけるために作った処刑柱にかけられ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われたのです。悲しみが喜びに、敗北が勝利に一変しました。

ユダヤ人はこのことを記念してプリムの祭りを制定し、今日でも祝い続けています。このエステル記には神ということばも奇跡も出てきませんが、背後に神がおられるとしか説明のしようがない、不思議な神のみわざが記されてあるのです。

 

そうです、すべては神のみわざなのです。であれば、私たちに出来ることは何でしょうか。私たちに出来ることは、私たちの人生も神が用意されたパズルであることを覚え、すべてを神にゆだね、神が定められたことに従って生きていくことです。そのとき、私たちの思いをはるかに超えた、神の偉大なみわざが、私たちの人生にも現されることになります。

 

昔、殿様のお気に入りの梅の絵を描くために、有名な絵師が城に招かれました。いざ描こうとした時、猫が一匹現れて真っ白い紙の上をトコトコ駆け抜けて行きました。紙の上には猫の足跡がくっきりと残りました。

家来たちは大慌てで、切腹を覚悟した者もいました。しかし、その時、絵師は何事もなかったかのように筆を取り、絵を描き始めました。すると名人の手によって、ある足跡は梅の花びらに用いられ、ある足跡は梅の木の節目に用いられ、絵が完成した時、どこに猫の足跡があったか全く分からなくなりました。

 

同じように、私たちが全能なる神の御手に人生で起こるすべてのことを委ねるなら、苦しみも悲しみも痛みもすべてが益と変えられ、私たちの人生にすばらしい彩り(いろどり)を添えてくれるのです。すべては神のみわざです。理解できないこの世の不条理すらすべて益としてくださる神に信頼し、神にすべてを委ねましょう。神はあなたを顧みてくださり、あなたの生涯を必ずや美しいものにしてくださるからです。