民数記2章

民数記2章

 

 きょうは民数記2章から学びたいと思います。まず1~2節をご覧ください。

 

Ⅰ.旗じるしのもとに宿営しなければならない(1-2)

 

「【主】はモーセとアロンに告げられた。 「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の周りに、距離をおいて宿営しなければならない。」

 

 1章には20歳以上の者で、軍務につくことのできる者が登記されました。その数の総計は603,550人でした。それは、これから約束の地に向かって進む彼らにとって、戦いに備える必要があったからです。そのように軍隊が組織されてこそ、敵と戦っていくことができます。ですから、その最初は軍隊を整えることだったのです。きょうのところには、その配置について教えられています。ここには、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない、とあります。イスラエルの民は、自分の好きなところどこにでも宿営したのではありませんでした。部族ごと、決められたところにテントを張らなければなりませんでした。そして、そのしるしがこの旗だったのです。旗しるしのもとに宿営することになっていました。この旗は、それぞれ幕屋の周りの東西南北の4方向に掲げられています。12部族は、それぞれの方角に3部族ずつ割り当てられ、それぞれに代表の部族がいました。

 

この「旗」とは、部隊としての「旗」です。旧約聖書の中には14回使われています。そのうち13回がこの民数記で使われています。これは「旗をかかげる」とか「際立たせる」、「群れをなして集まる」という意味があります。イスラエルの民は自分の属する旗のもとに宿営したのです。全体としては、12部族が「会見の天幕」を中心にして互いに向き合い、互いに寄り添い合う形となっています。この「旗」は自分の持ち場を知って、そこで「共に生き」、「共に歩み」、「共に進み」、「共に敵と戦い」、「共に仕える」ことを意識させるものでした。

 

 それは新約聖書ではキリストご自身のことであり、キリストのことばを象徴しています。私たちはその旗じるしのもとに集められた者であり、「キリストの名」のもとに集まり、とどまらなければなりません。ヨハネ15章4~9節にこうあります。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」

イエス様を離れては、私たちは何もすることができません。イエス様にとどまってこそ敵に勝利することができるのです。ですから、私たちはキリストにとどまることを学ばなければならないのです。

 

 こうしてイスラエル人で軍務につく者の人数が数えられました。次に、彼らが宿営においてどこに位置するのか、その配置について書かれています。

 

Ⅱ.宿営の配置(3-31)

 

では、それぞれの配置を見ていきましょう。まず東側に宿営する者です。3-9節までをご覧ください。「前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとのユダの宿営の旗の者でなければならない。ユダ族の族長はアミナダブの子ナフションである。彼の軍団は、登録された者が七万四千六百人である。その隣に宿営するのはイッサカル部族であり、イッサカル族の族長はツアルの子ネタンエルである。彼の軍団は、登録された者が五万四千四百人である。その次はゼブルン部族で、ゼブルン族の族長はヘロンの子エリアブである。彼の軍団は、登録された者が五万七千四百人である。ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。」

まず前方、東側です。東側は宿営が前進していく方向です。そこにはユダ部族の旗が掲げられました。そして、この旗じるしのもとに右隣にイッサカル族が、左隣にゼブルン族が宿営しました。この三つの部族が幕屋の東に宿営したのです。その合計の人数は18万6400人です。後で他の方角の宿営地を見ますが、そのどれにもまさって、もっとも大きくなっています。9節後半をご覧ください。ここには、「彼らが先頭に進まなければならない。」とあります。これは、イスラエルが旅立つとき、東のユダ部族が先頭になって進んで行ったということです。いったいなぜでしょうか?それは、これがイエス・キリストを表していたからです。

 

創世記49章9~10節を開いてください。ここには、「ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。雄獅子のように、雌獅子のように、うずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こせるだろうか。王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う。」とあります。シロとは犬の名前ではありません。シロとはメシヤのことです。これは王なるメシヤがユダ族から出て諸国の民を従わせるという預言なのです。メシヤなる方は、このユダ族から起こります。イエス・キリストは「ユダの獅子」なのです。このイエスが先頭に立って進んでくださるのでイスラエルは勝利することができるのです。

 

それは幕屋の構造を見てもわかります。幕屋の入り口はどの方向にあったでしょうか?東側です。東から入って西へ、至聖所、神の臨在へと至ります。主イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)イエスが門なのです。だれでもイエスを通って入るなら救われるのです。イエス様こそ神に至る道であり、私たちを神と結びつけることのできる唯一の仲介者なのです。ですから、ユダ族が先頭に立って進まなければならなかったのです。

 

次に、南側に宿営した部族です。10~17節をご覧ください。「南側は、軍団ごとのルベンの宿営の旗の者たちである。ルベン族の族長はシェデウルの子エリツルである。彼の軍団は、登録された者が四万六千五百人である。その隣に宿営するのはシメオン部族で、シメオン族の族長はツリシャダイの子シェルミエルである。彼の軍団は、登録された者が五万九千三百人である。その次はガド部族で、ガド族の族長はデウエルの子エルヤサフである。彼の軍団は、登録された者が四万五千六百五十人である。ルベンの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十五万一千四百五十人。彼らは二番目に進まなければならない。 次に会見の天幕、すなわちレビ人の宿営が、これらの宿営の中央にあって進まなければならない。宿営する場合と同じように、彼らはそれぞれ自分の場に就いて、自分の旗に従って進まなければならない。」

 

南側にはルベン族が宿営し、ルベン族の旗が掲げられます。その右隣にはガド族がおり、左隣にはシメオン族がいます。その総数は151,450人です。イスラエルが旅立つときは、ユダ族に続いて、二番目にこの軍団が出発しなければなりませんでした。

 

次に17節をご覧ください。次に進むのはレビ族です。彼らは、これらの宿営の中央にあって進まなければなりませんでした。彼らが宿営する場合と同じように、おのおの自分の場所について彼らの旗に従って進まなければならなかったのです。

 

レビ人の宿営、つまり幕屋の用具や付属品を運んでいる人たちは、三番目に進みます。これは、前方からも後方からも軍がおり、幕屋が敵から守られるためです。彼らが宿営する真ん中に幕屋があり、彼らが進んでいる真ん中にも幕屋があります。これはすばらしいことです。彼らの真ん中には常に主なる神が住んでおられたのです。また、彼らは常に主なる神を中心に生活を営んでいました。

 

 次に、18~24節までをご覧ください。「西側は、軍団ごとのエフライムの宿営の旗の者たちである。エフライム族の族長はアミフデの子エリシャマである。彼の軍団は、登録された者が四万五百人である。その隣はマナセ部族で、マナセ族の族長はペダツルの子ガムリエルである。彼の軍団は、登録された者が三万二千二百人である。その次はベニヤミン部族で、ベニヤミン族の族長はギデオニの子アビダンである。彼の軍団は、登録された者が三万五千四百人である。エフライムの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十万八千百人。彼らは三番目に進まなければならない。」

 

次に、西側に宿営した部族です。西側は東側の反対側、ちょうど幕屋の裏側になります。そこに宿営したのはエフライム族です。エフライム族の旗が掲げられます。そして幕屋に向かって右隣にマナセ族、その隣はベニヤミン族が宿営しました。マナセではなくエフライムが中心になっています。マナセが兄でエフライムが弟です。それなのにマナセ、エフライムではなく、エフライム、マナセの順になっています。なぜでしょうか?それはヤコブの預言のとおりだからです(創世記48:13-14)。マナセが兄であったのも関わらず、ヤコブは腕を交差させて、エフライムに長子の祝福を行ないました。そして、弟が兄よりも強くなることを預言しました。はたして、そのとおりになったのです。

 

  次に、北側に宿営する者です。25-32節をご覧ください。「北側は、軍団ごとのダンの宿営の旗の者たちである。ダン族の族長はアミシャダイの子アヒエゼルである。彼の軍団は、登録された者が六万二千七百人である。その隣に宿営するのはアシェル部族で、アシェル族の族長はオクランの子パグイエルである。彼の軍団は、登録された者が四万一千五百人である。その次はナフタリ部族で、ナフタリ族の族長はエナンの子アヒラである。彼の軍団は、登録された者が五万三千四百人である。ダンの宿営に属する、登録された者の総数は、十五万七千六百人。彼らはその旗に従って、最後に進まなければならない。以上が、イスラエルの子らで、その一族ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」

 

北側にはダン部族が宿営し、ダンの旗が掲げられました。その右隣にアシュル族が、左隣にナフタリ族が宿営しました。

 

Ⅲ.イスラエルの宿営とイエス・キリスト(32-34)

 

最後に、32~34節をご覧ください。「以上が、イスラエルの子らで、その一族ごとに登録された者たちであり、全宿営の軍団ごとに登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。しかしレビ人は、【主】がモーセに命じられたように、ほかのイスラエルの子らとともに登録されることはなかった。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、それぞれその氏族ごと、一族ごとに進んで行った。」

 

こうして、東西南北の4つの方角に整然とイスラエルが宿営しました。その数603,550人です。その姿を遠くから見たら、ほんとうにすばらしい光景であったでしょう。それにしても、なぜ神はこのような配置を取らせたのでしょうか。ここで各方角に宿営した部族の総人数に着目してください。9節を見ると、東側の総数は186,400人と一番多いことがわかります。そして、南と北がそれぞれ15万人強で、大体同じ人数です。同じ方角のレビ人の人数を数えて足すと、南も北も同じような人数になりです。そして、西がもっとも少ない135,400人です。ということは、これを上空から眺めると、ちょうど十字架の形になります。これは十字架のフォーメーションだったのです。十字架こそ荒野を旅するイスラエルにとって勝利の秘訣だったのです。もちろん、その時点ではそんなことに気付く人はだれもいなかったでしょう。しかし、この軍団こそ、イエス・キリストご自身を指し示していたのです。

 

ここで民数記24章5~6節を開いてください。イスラエルを呪うように預言するように雇われたバラムは、この神の宿営を見てこう言いました。「なんとすばらしいことよ。ヤコブよ、あなたの天幕は。イスラエルよ、あなたの住まいは。それは、広がる谷のよう、また川のほとりの園のようだ。【主】が植えたアロエのよう、また水辺の杉の木のようだ。」

バラムは、まじないによってイスラエルを呪うようにバラク王に雇われたのに、その美しいフォーメーションを見たとき、あまりにも美しくて思わず祝福してしまいました。十字架を見てだれも呪うことなどできません。それはかつて処刑の道具として用いられたおぞましいもので、呪われたものなのに、それが祝福のシンボルに変えられたのです。それは十字架こそ神が私たちを救うために用いられた神の愛の象徴だからです。よくアクセサリーに十字架のものをみます。十字架のネックレスとか、十字架のイヤリングです。十字架は神と私たちのアクセスになってくれたのでアクセサリーになったのです。だれも十字架を呪うことはできません。だれでもイエスの十字架のもとに行くなら罪から救われ、永遠のいのちという祝福を受けるのです。

 

ところで、神はなぜイスラエルの12部族を4つの旗のもとに、4つのグループに分けたのでしょうか。その4つというのはユダ族、ルベン族、エフライム族、ダン族です。そして、それぞれこの4つの紋章を見ると、一つのことに気が付きます。それは、これが天的な存在であるケルビムを表しているということです。

 

まずユダ族ですが、ユダ族の旗じるしはライオン、獅子でした。それからルペン族は人間です。またエフライム族は雄牛です。そしてダン族は鷲ですね。聖書の他の箇所で、この四つの動物が出てくる箇所があります。それはエゼキエル1章と黙示録4章です。エゼキエル1章10節には、人間の顔、獅子の顔、牛の顔、鷲の顔をもった生き物が当時用します。これは黙示録4章7-8節を見ると、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を賛美している天使であることがわかります。そう、それはケルビムとか、セラフィムと呼ばれる天使たちのことであり、その類の生き物なのです。つまり、この4つの旗じるしを通して、天国のイメージを表していたのです。

 

それから、この4つの生き物ですが、これは4つの福音書を表しているのではないかと考える人もいます。最初はマタイの福音書です。マタイの福音書はユダヤ人の王として来られたキリストの姿が強調されています。ですから、王としての系図が記されてあるのです。マタイの福音書はユダヤ人のために書かれたのです。動物の王といったら何でしょうか。百獣の王ライオンです。それはユダの紋章でした。ですから、ユダ族に対応するのがマタイの福音書であると言えます。

 

マルコの福音書は、しもべとしてのキリストの姿が強調されています。仕えるために来られたキリストです。ですから、マルコの福音書には系図がないのです。エフライム族の紋章は雄牛でした。それはしもべの象徴です。ですから、エフライム族に対応するのがマルコの福音書であると言えます。

 

そして、ルカの福音書は人間としてのキリストの姿が強調されています。人の子としてのキリストです。ですから、系図はアダムまで遡って記録されているのです。ルベン族の紋章は何だったでしょうか。それは人間でした。ですから、これはルカの福音書に対応します。

 

そして、ヨハネの福音書は神としてのキリストが強調されています。それはダン族によって現されています。鷲のように空高く飛ぶことができる。それはまさに天的な存在を表していたのです。イエス・キリストこそ神の子であるということです。

 

ですから、このイスラエルの宿営はイエス・キリストご自身と、その十字架が描かれていたのです。神の子として、人の子としてこの世に来られたイエス・キリストを受け入れるなら、私たちは救われ、圧倒的な神の臨在の中で勝利が与えられるということです。そのことが現されているのが福音書です。この福音を理解して、福音に生きるなら、私たちも勝利のうちに約束の地に行くことができるのです。

民数記1章

2021年2月24日(水)バイブル・カフェ

民数記1章

 

 きょうから民数記の学びに入ります。「民数記」は英語で「Numbers」と言いますが、ヘブル語では『ベミドバル』、「荒野で」という意味です。これが「民数記」となっているのは、イスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖書、これはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、『アリスモイ』(数)と呼ばれたことから、民数記という名称がつけられました。しかし、元々は「荒野で」という名前で、エジプトから連れ出されたイスラエルが約束の地カナンに向かうその途上の荒野で、神がどんなことをしてくださったのかが記されたものです。この民数記は「不平不満の書」とか、「つぶやきの書」などとも言われていますが、それは彼らがこの荒野でつぶやいたことからつけられました。

 

Ⅰコリント10章は、この民数記の出来事が背景にありますが、その中でパウロはこう言っています。11節です。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためでふり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。」ですから、これは私たちへの教訓のために書かれたものなのです。私たちの信仰生活は天の御国に向かっての荒野の旅です。その旅路においては、かつてエジプトの奴隷の状態から連れ出されたことを忘れ、ちょくちょくつぶやくことがありますが、そのことによっていったいどういうことになったでしょうか。結論から言うと、40年も荒野をさまようことになってしまったのです。そして、その時代の多くの人々は死に絶え、たった二人だけ、神に従ったヨシュアとカレブだけが新しい世代の人たちと共に約束に地に入ることができました。申命記1章2節を見ると、このホレブからカデシュ・バルネアまで、カデシュ・バルネアというのは荒野と約束の地の境にある地ですが、そこまではたった11日で行ける距離でしたが、、彼らは40年も荒野を彷徨うことになってしまいました。なぜてしょうか?つぶやいたからです。彼らは神の単純な約束を信じることができず、不従順であったので、そのような結果になってしまったのです。具体的には、モーセが12人の偵察隊を送ったとき、彼らは「敵は大きく強いので、そこに入って行くことはできない」と言って嘆きました。不平不満を言って神につぶやきました。それで彼らは40年も荒野をさまよわなければならなかったのです。

それは現代を生きる私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。私たちの人生にも荒野があります。そこで神の約束のことばを信じるか、信じないかによって、その結果が決まるのです。信じるか、信じないかの差は大きいのです。民数記では、それが問われています。

 

民数記はモーセ五書の一つで、モーセによって書かれた四番目の書です。モーセによってずっと書かれているということは、それなりに流れがあるということです。まず創世記ですが、創世記のテーマは、神の民の選びと言えます。神は、罪に陥った人類を救うためにアブラハムを選ばれました。アブラハムから出る子を通して、人類を救おうと計画されたのです。それがイサクであり、ヤコブでした。ヤコブがイスラエルになりました。彼の12人の子どもたちを通してイスラエルの12部族が誕生したのです。

 

創世記の次は出エジプト記です。出エジプト記のテーマは、神の民の贖いと言えるでしょう。神によって選ばれたイスラエルが飢饉に直面したとき、神はヨセフを通してイスラエルをエジプトに導かれました。しかし、新しいエジプトに新しい王が誕生したとき、彼らはエジプトの奴隷として仕えるようになりました。その奴隷の状態から救い出したのはモーセでした。神はモーセを通して430年も奴隷としてエジプトに捕えられていたイスラエルを解放したのです。

 

そして、前回まで次のレビ記を学びました。レビ記のテーマは何でしょうか。神の民の礼拝です。神によって贖われた神の民に求めてられていたことは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」ということでした。聖別することが求められていたのです。そのために彼らはいけにえをささげなければなりませんでした。神に近づくためには、神が定められた方法によらなければ近づくことはできなかったのです。それがいけにえであり、それは神の小羊であるイエス・キリストを象徴していました。そして、その礼拝において聖なる者としての生き方とはどのようなものかが教えられました。

 

その次が民数記です。民数記のテーマは、神の民の奉仕です。この場合の奉仕とは、戦いと言ってもいいでしょう。神の民として贖われ、聖なる者としてされた者が、実際に約束の地に向かって歩み出すのです。私たちの信仰生活には様々な戦いがあります。それは外敵との戦いだけでなく、自分の肉との戦いなどです。その戦いにどのように勝利することができるのかを、この民数記から学ぶことができます。それでは本文を見ていきましょう。

 

  1. 人口調査(1-16)

 

まず1~16節までをご覧ください1節には、「1 人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」とあります。これはイスラエルの民がエジプトを出て二年目の第二月の一日に、主がシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられたことです。エジプトを出てから1年間は、イスラエルの民をシナイ山へと導き、そこで神の戒め、十戒を与え、幕屋を建設されました。モーセは今、そのシナイ山のふもとにある会見の天幕にいます。

 

出エジプト記40章2節を見ると、イスラエルが会見の天幕である幕屋を建てられたのはエジプトを出て二年目の第一月の一日でした。したがって、ここに1ヶ月間の空白があるのがわかります。この空白の1か月の期間に何があったのでしょうか。この期間にレビ記が入ります。神の幕屋が完成したとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました(出エジプト40:34)。主はその会見の天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました(レビ記1:1)。その内容がレビ記です。私たちはレビ記を学ぶのに半年くらいかかりましたが、実際は1か月です。その1か月の間に神の民としてのあり方を学び、そして今いよいよ約束の地カナンに向けて出発するのです。その旅の準備が12章まで語られます。

 

その準備の最初にしたことはどんなことだったでしょうか?2節から16節までをご覧ください。 「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。シメオンからはツリシャダイの子ナフション。ユダからはアミナダブの子ナフション。イッサカルからはツアルの子ネタヌエル。ゼブルンからはへロンの子エリアブ。ヨセフの子のうちからは、エフライムからアミフデの子エリシャマ、マナセからペダツルの子ガムリエル。ベニヤミンからはギデオニの子アビダン。ダンからはアミシャダイの子アヒエゼル。アシェルからはオクランの子パグイエル。ガドからはデウエルの子エルヤサフ。ナフタリからはエナンの子アヒラ。」これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。」

 

ここで、神はモーセにイスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ、と命じました。なぜでしょうか?戦うためです。これは20歳以上の者で、すべての軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えるためでした。戦うためには軍隊を整えなければならなかったのです。神の軍隊の陣営を組織し、その戦いに備えなければなりませんでした。それで部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

 

エペソ人への手紙6章を見ると、クリスチャンの生涯も悪霊との戦いであると言われています。私たちがクリスチャンとなり、そして教会から出て、この世の中で歩もうとすると、必ず戦いがあります。その戦いにおいて悪魔の策略に立ち向かうために、神のすべての武具を身に着けなければなりません。

 

 そのために選ばれたのが父祖の家のかしらたちです。部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者たちが選ばれ、モーセやアロンたちとともにいなければなりませんでした。すなわち、彼らの助手となる人たちです。モーセとアロンたちがそのすべてを行なうのではなく、部族ごとにかしらを立てて、彼らの助手となりました。それが5節から15節までに記されている人たちです。この人たちの名前をよく見てみると、「エリ」とか「エル」という名前が多いことに気づきます。この「エリ」とか「エル」というのは「神」という意味で、彼らの名前は神の名が入った複合体であることがわかります。そこに彼らの信仰が表われています。彼らは皆、神に信頼し、神のために仕える勇士になるようにというに召された者たちだったのです。

 

  1. 神に数えられている民(17-46)

 

次に17節から46節までをご覧ください。ここに20歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記しました。なぜ登記する必要があったのでしょうか?彼らがどこの家の出身の者で、どこに属しているのかを明らかにするためでした。イスラエルの民の中で、自分の家系がわからないという人は一人もいませんでした。

 

これは私たちにも言えます。私たちが戦いに出ていくためには、まず自分がどこに所属しているのかを明らかにしなければなりません。そうでないと戦えないのです。私たちの家系は何でしょうか?私たちはどこに所属しているのでしょうか?私たちの家系は神の家族です。クリスチャンという家系に所属しています。自分がクリスチャンなのかどうかどうかがわからないというのは問題です。神によって罪が贖われて神の民、クリスチャンであるということがわからないと戦うことができないのです。戦うためにはまず、自分が神の民とされたということ、クリスチャンであるということを明らかにしなければなりません。どうやって明らかにすることができるのでしょうか?いつも教会に行っていればクリスチャンでしょうか。洗礼を受けていればクリスチャンなのでしょうか。そうではありません。私たちが救われてクリスチャンであるかどうかは、神の御霊が証してくださいます。ローマ8章16節を開いてください。ここには、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。クリスチャンの内には聖霊の内住があります。私たちが神の子どもであることは、その聖霊が証してくださいます。ですから、自分がクリスチャンであるかどうか確信のない人はどうか真剣に祈ってください。そうすれば、神の聖霊が証してくださいます。神の働きをしていくためには、あなたが神の家族に登録されなければなりません。神の子どもであるということをはっきりさせる必要があるのです。そうでないと良い成果を上げることはできません。戦いに勝利することはできないのです。

 

それは同時に、あなたがどの家系に属しているのかをはっきりさせることでもあります。つまり、どの地域教会に属しているのかを明確にする必要があるということです。Ⅰコリント14章33節には、「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」とあります。この「平和の神」というのは「秩序の神」という意味です。神は混乱の神ではなく秩序の神なのです。一定の組織に加わっていることは、自分を守ることにもなります。この荒野で敵から攻撃された時、もしどこに加わっているのかがわからなかったら、誰も助けてくれる人がいなかったとしたら、一緒に戦ってくれる人がいなかったとしたら、敗残兵となってしまいます。私はどこの教会にも入りたくない、だれの指示も受けない、私はイエスさまの指示にだけ従うというのは、聞こえがいいみたいですが、勝手気ままで、無責任な態度なのです。アカンタビリティーということばがあります。報告責任と言いますが、どこかの群れに属していなければ、このアカンタビリティーを持つこともできません。クリスチャンは一匹狼で戦うことはできないのです。どこかの群れに属していなければなりません。私たちが救われたのは戦いに勝利するためです。敗北するためではありません。孤独で、不安定で、満足のない歩みをするためではないのです。私たちが救われたのは、私たちが勝利するためです。そして、そのためには私たちは登記されなければなりません。私たちが神の子どもであるということ、また、私たちはどの地域教会に属しているのかを登記することによって、私たちの身分が明らかとなり、この世での戦いに勝利することができるのです。

 

次に19節から46節までをご覧ください。ここにはそれぞれの部族の人数が記されています。ルベン部族46,500人、シメオン部族59,300人、ガド部族45,650人です。そして、ユダ部族74,600人です。イッサカル部族は54,400人、ゼブルン部族57,400人です。エフライム部族40,500人、マナセ部族32,200人、ベニヤミン部族35,400人です。そして、ダンは部族62,700人、アシェル部族41,500人、ナフタリ部族53,400人です。この12部族で合計60万3550人です。ものすごい数です。女や子どもを含めれば、おそらく300万人を越えていたでしょう。いったいなぜ、このように細かに人数が記録されているのでしょうか。

 

その大きな理由の一つは、アブラハムに対する約束が成就したことの確認です。創世記15章5節で、神はアブラハムを外に連れ出し、天を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神は彼の子孫を空の星、海辺の砂のように数多く増し加えると約束されたのです(同22:17)その約束がどのように成就したのかを、この民数記で見ることができます。ヤコブがエジプトを下るときには、たった70人しかいませんでした。それから約430年の歳月が経った今、その群れは20歳以上の男子で60万人以上、その他を含めると300万人以上に増えました。神はアブラハムとイサクとヤコブに約束されましたが、はたしてそのようになっているのです。 このことを見るとき、私たちは励ましを受けるのではないでしょうか。神は約束されたことを一つもたがわず成就してくださる真実な方なのです。

 

このように軍務につく者が登記されました。彼らは兵士として戦うために、まず自分たちが兵士として数えられなければいけませんでした。だれが兵士であるのかを、主が数えておられたのです。主は、だれが戦うのかをご自分で知っておられ、その者たちにご自分の力と知恵と資格を与え、彼らが戦うときに、主ご自身が戦ってくださったのです。神は数えておられるのです。私たちの中には数など気にするべきではない、大切なのは質だ!ということをよく聞きます。しかし、数えることも大切なのです。使徒の働きをみると、そこにはちゃんと数えられていることがわかります。最初の教会には3,000人が加えられました。すぐに5,000人の群れに成長していきました。数えることも大切なのです。しかし、それは自分たちの教会がどれだけ大きいかとか、どんなにすばらしい教会なのか、どんなに優れているのかを自慢するためではありません。プライドを助長するためではなく祈るためです。だれが出席しているのか、だれが休んだのかを数えることによって、そのために祈っていくのです。教会が神の家族であれば、当然いるべき人がいなければ心配になるでしょう。教会にはいてもいなくてもいいような人は一人もいません。みんな誰かのケアを必要としています。そのために互いに覚え、互いに祈り合っていかなければなりません。そのために数えるのです。だれが来たかなんて関係ない。自分さえちゃんとしていればそれでいいというのは、あまりにも自分よがりの信仰になってしまいます。互いにいたわり合い、互いに助け合い、互いに支え合っていくことが求められます。そのために数えるのです。

 

 Ⅰ歴代誌21章1節をご覧ください。ここにはダビデが人口調査をしたことが書いてあります。彼はいったい何のために数えたのでしょうか。「ここに、サタンがイスラエルに逆らって、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」とあります。これはサタンの誘惑によるものでした。サタンはダビデに人口を調査させ、主の力よりも自分の力、自分がいかに優れているのか見せ、自分の力に頼らせようとしました。それは主のみこころを損なわせました。それで主のさばきが下ったのです。疫病によって7万人のいのちが奪われました。

 

ですから、このような動機で数えるのは罪です。自分たちの教会がどんなにすぐれているかとか、立派であるかを誇るための人口調査は神のみこころではありません。しかし、互いに祈り合うために、相手の状態を知りながら、神に助けを求めていくために数えることは大切です。だから、数を数える時にはその動機に注意し、バランスをよく考えなければなりません。ここで神が人口を調査したのは、イスラエルが軍隊を組織して荒野での戦いを戦っていくためだったのです。

 

  1. レビ族について(47-53)

 

 最後に47節から終わりまでのところを見てください。ここには、レビ人について説明されています。「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。はモーセに告げて仰せられた。 「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。 イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。」

 しかし、レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録されませんでした。なぜなら、彼らの奉仕は神の幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理することだったからです。彼らには他の部族とは異なる務めが与えられていたのです。神の幕屋に関する務めです。ですから、彼らは幕屋の回りに宿営しなければなりませんでした。それは、イスラエルの軍団が神の幕屋に近づくことがないためです。幕屋には主が住んでおられ、そこは聖なるところであったので、だれも近づいてはならなかったのです。ただレビ族だけは近づくことができました。彼らは神に一番近いところにいることができたのです。

 

 これは、今日の牧師の務めとも言えます。信じるすべての者が、主イエスによって生ける神に近づくことができるようになった今、奉仕に関してここまでの明確な境界線はないかもしれません。それどころか、たとえば牧師と信徒、男女の違いなどによる務めの境界線は、なくなってきているとさえ言えるかもしれません。

 けれども、建てられた牧師は、社会で戦っている愛する方々のために心を込めて祈り、社会で戦っている信徒も、牧師や役員のために祈り、仕えるという構図は同じです。そうして、それぞれに与えられた異なる務めを理解しながら、共に主に仕え、前進していくのです。

 

イスラエルの民は、このようにして、すべて主が命じられたとおりに行いました。彼らは約束の地カナンに向けて歩んでいくために、軍隊を組織して出て行ったのです。それは、私たちの信仰の旅路も同じです。私たちも約束の地、天の御国に向かって進んで行くために、神が仰せられたように軍隊を組織して敵からの攻撃に備え、神のすべての武具をもって悪摩との戦いに勝利する者でありたいと思います。

出エジプト記40章

2021年2月10日(水)祈祷会

聖書箇所;出エジプト記40章

 

 いよいよ出エジプト記の最後の章になりました。今日は40章からご一緒に学びたいと思います。

 

 Ⅰ.モーセへの命令(1-15)

 

 まず、1~15節までをご覧ください。8節までをお読みします。「【主】はモーセに告げられた。 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を設営しなければならない。あなたはその中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前をさえぎる。机を運び入れて備品を並べ、燭台を運び入れて、そのともしび皿を載せる。香のための金の祭壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入り口に掛ける。会見の天幕である幕屋の入り口の前には、 全焼のささげ物の祭壇を据え、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を据えて、これに水を入れる。周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛ける。」

 

前回まで、主の知恵に満たされた人たちが、幕屋とその用具を作り、モーセがそれを点検したことを学びました。そして、イスラエルの子らが、すべて主が命じられたとおりに行ったことを見たモーセは、彼らを祝福しました。

いよいよ実際に幕屋を建設する時がやって来ました。主はモーセに、第一の月の一日に、会見の天幕である幕屋を建設するように告げられました。それはイスラエルがエジプトを出てから1年、シナイ山の麓に到着してから9カ月後のことでした(19:1)。その間、モーセは二度にわたってシナイ山で40日間を過ごしました。すなわち、イスラエルの民は約半年の間に幕屋のすべての部品を完成させたことになります。驚くほどのスピードです。

 

モーセはその中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前をさえぎらなければなりませんでした。そして、机を運び入れ備品を並べ、燭台を運び入れて、ともしび皿を載せます。香のための金の祭壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入り口に掛けます。中庭には全焼のささげ物の祭壇を据え、その祭壇と会見の幕屋との間に洗盤を据え、これに水を入れます。また、庭の門に垂幕を掛けました。

 

この位置関係が非常に重要です。門は東側にありました。そこから入って行きますが、門から入ると正面に青銅の祭壇があります。次に洗盤があり、その先に幕屋がありました。そして幕屋の幕をくぐると、聖所に入ります。そこは燭台の光で輝き、板は金でおおわれ金色に輝いていました。正面に向かって右側に供えのパンの机が置かれ、左には燭台が置かれました。正面には、聖所と至聖所の仕切りになっている垂れ幕に接して、香壇が置かれました。その仕切りの垂れ幕の先が至聖所で、そこには契約の箱とその上に贖いの蓋が置かれました。

  これを礼拝の順番として考えると、次のようになります。私たちが礼拝するときは、まず東の門から入らなければなりません。その門とはキリストのことです。ある人は仏教、ある人は神道、ある人はイスラム教、ある人はお金、名声、結婚などなど、いろいろな方法で救われようとしますが、救いは唯一イエス・キリストによってのみです。主イエスが、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」(ヨハネ10:9)と言われました。イエスだけが救いに至る唯一の門であって、それ以外に救われる門はありません。

 

その門をくぐると青銅の祭壇があります。これは神のさばきを象徴していました。キリストは神のさばきを受けて十字架で死んでくださったということです。

 

そして聖所に向かいますが、その前に洗盤によって手足を洗わなければなりません。それはバプテスマを表していました。キリストの十字架の贖いを信じること、バプテスマはそのことを表しています。これは鏡で出来ていました。つまり、神のみことばによる洗いを受けなければならなかったのです。

 

そして聖所に入ると、供えのパンがありました。これはキリストご自身を指しています。キリストは、「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)と言われました。このパンを食べること、すなわち、聖餐にあずかり、キリストとの親密な交わりにあずかることができました。そしてともしびの油が表わしていた聖霊の働きを受け入れます。また、香壇が示しているように祈りをささげなればなりませんでした。そして、聖所と至聖所の仕切りの垂れ幕はキリストの肉体を表わしていました。この方の十字架のみわざによって、天におられる父なる神に大胆に近づくことができるのです。これを上空から見れば、十字架の形をしています。神の栄光はキリストご自身であり、その十字架のみわざによって現されたのです。

 

次に、9~15節までをご覧ください。「あなたは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものの油注ぎを行い、それと、そのすべての用具を聖別する。それは聖なるものとなる。全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具の油注ぎを行い、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。洗盤とその台の油注ぎを行い、これを聖別する。また、あなたはアロンとその子らを会見の天幕の入り口に近づかせ、水で洗い、アロンに聖なる装束を着せ、油注ぎを行って彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせる。また彼の子らを近づかせ、これに長服を着せる。彼らの父に油注ぎをしたように、彼らにも油注ぎをし、祭司としてわたしに仕えさせる。彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」」

 

次に注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてのものに注がなければなりませんでした。つまり、聖別しなければならなかったということです。祭司であるアロンとその子らにも油を注いで聖別しなければなりませんでした。この聖別によって、アロンの家系は「代々にわたる祭司職」とされました。これは聖霊の働きを意味しています。この地上において、主のために聖別されるためには、聖霊の油注ぎが必要なのです。どんな働きにも聖霊の油注ぎ、聖霊の満たしがなければ、神の働きを行なうことはできません。ですから、私たちはどんな時でも祈り、聖霊の油注ぎを受ける必要があります。

 

また、大祭司が油注がれたのは、キリストが神の聖霊を無限に受けた大祭司であることを表していました。それゆえ、私たちはキリストを通して、大胆に神に栄光の御座に近づくことができるのです。

 

Ⅱ.幕屋の完成(16-33)

 

次に、16~33節までをご覧ください。「モーセは、すべて【主】が彼に命じられたとおりに行い、そのようにした。 第二年の第一の月、その月の一日に幕屋は設営された。モーセは幕屋を設営した。まず、その台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕の覆いを掛けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、さとしの板を取って箱に納め、棒を箱に付け、「宥めの蓋」を箱の上に置き、箱を幕屋の中に入れ、仕切りの垂れ幕を掛け、あかしの箱の前をさえぎった。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の内部の北側、垂れ幕の外側に机を置いた。その上にパンを一列にして、【主】の前に並べた。【主】がモーセに命じられたとおりである。会見の天幕の中、机の反対側、幕屋の内部の南側に燭台を置き、【主】の前にともしび皿を掲げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。それから、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の祭壇を置き、その上で香り高い香をたいた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋の入り口に垂れ幕を掛け、会見の天幕である幕屋の入り口に全焼のささげ物の祭壇を置き、その上に全焼のささげ物と穀物のささげ物を献げた。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。会見の天幕に入るとき、また祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。【主】がモーセに命じられたとおりである。また、幕屋と祭壇の周りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうしてモーセはその仕事を終えた。」

 

モーセは、すべて主が命じられたとおりに行いました。前回までのところには、イスラエルの子らは、すべて主が命じられたとおりに行い、それを見たモーセが彼らを祝福しましたが、ここでは、モーセ自身が主から命じられたとおりに行い、その仕事を終えました。モーセは、主が命じられたとおりに行ったという記述が、ここに7回繰り返されていることに注目してください(19,21,23,25,27,29,32節)。7は完全数です。この表現は、幕屋が神の計画どおりに建設されたことを示しています。神が命じられたとおりに生きる人は幸いです。そのような人は、主に祝福された人生を歩むことができます。私のもとには毎日のように相談の依頼が舞い込んできますが、すべての問題の解決の鍵は、主が命じられたとおりに行うことです。自分の思いや考えではなく、主が何と語っておられるのかを正しく受け止め、その通りに行うことです。そうすれば、すべての問題が解決します。なぜなら、主のみことばは私たちが正しく生きるための完全な道しるべだからです。

イスラエル民は、金の子牛の事件から立ち直り、モーセに導かれて幕屋の建設を終了させました。だれも完璧な人などいません。だれでも失敗を犯します。しかし、大切なことは、それでも悔い改め、そこから立ち直ることです。私たちには、モーセ以上の解放者であられる主イエスがおられます。この主の恵みに信頼して、希望の明日に向かって歩み始めようではありませんか。

 

ところで、モーセは幕屋を建設しました。彼は、主が命じられたとおりに幕屋を建設したのです。そして、第二のモーセであられるイエスは、ご自身の教会を建設されました。マタイ16:18には「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」とあります。「この岩の上に」とは、ペテロが告白した信仰告白、すなわち、イエスこそ、神の御子キリストです、という信仰の告白の上にということです。教会はこの告白の上に建っています。したがって、これと違うものがその土台にあるとしたら、それは教会として成り立たないことになります。つまり、キリストの教会の土台は、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目によみがえられたことという、この福音を信じ、主イエスを救い主として受け入れることです。それを信じた者だけがこの神の幕屋、神の教会に加えられ、神との交わりを持つことができるのです。

 

イエスは地上でのすべての仕事を終えられました。イエスは酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、頭を垂れて、霊をお渡しになられました。最後まで、実に十字架の死に至るまで忠実に父なる神に従い、そのとおりに救いのみわざを成し遂げてくださいました。私たちもキリストにならい、主が命じられたとおりに歩む者でありたいと思います。

Ⅲ.栄光の雲(34-38)


 最後に、34~38節を見て終わります。「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。 モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。」


  そのとき、すなわち、モーセがすべての仕事を終えたとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました。それでモーセは会見の天幕に入ることができませんでした。この栄光は、人間が直視することができないほどの輝きだったからです。ヨハネ1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とありますが、この「私たちの間に住まわれた」とは、「幕屋を張られた」という意味です。神が人間の肉体の姿を取られて現れてくださいました。イエス・キリストは、まさにイスラエル人が幕屋において栄光の雲を見るように、神の栄光の輝きとなって現われてくださったのです。ですから、私たちはキリストから目を離さないようにしなければなりません。キリストこそ神の栄光の現われであり、私たちをその栄光で照らしてくださるからです。

 

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立ちました。雲が上らないと、上る日まで、旅立ちませんでした。彼らが旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからです。雲がイスラエル民を導きました。昼は主の雲が幕屋の上にありました。それは雲が、彼らが行くべき道を示し日陰となって太陽の陽から守ってくださったということです。また、夜は火の柱が彼らとともにありました。それは、同じように彼らの行くべき方向性を示し、外敵から宿営を守られたということです。ですから、彼らがすべきことは何であったかというと、この雲を見上げることだけでした。主イエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われました。いつもともにいてくださる主を見ること、それが私たちにゆだねられていることです。主がいつもともにおられると信じて、この主を見上げて、主の導きに従って、私たちの信仰の旅を歩んでまいりましょう。

出エジプト記39章

2021年1月27日(水)バイブルカフェ

出エジプト記39章

 

出エジプト記も残すところ39章と40章だけとなりました。ここには、かつて主がモーセに命じられた祭司の装束を、彼らがどのように行ったかについて記されてあります。まず1~3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.祭司の装束(1-31)

 

まず1~31節までをご覧ください。3節までをお読みします。「彼らは、青、紫、緋色の撚り糸で、聖所で務めを行うための式服を作った。また、【主】がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、エポデを作った。彼らは金の板を打ち延ばして金箔を作り、これを切って糸とし、青、紫、緋色の撚り糸に撚り込み、それぞれ亜麻布の中に意匠を凝らして織り込んだ。」

 

「彼ら」とは、知恵の御霊に満たされた職人たちのことです。彼らは、幕屋の中にあるさまざまな用具を作りました。ここで彼らはアロンの聖なる装束を作りました。金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いてエポデを作ったのです。彼らは、金を延ばして、それを撚り糸の中に織り込みました。金は神のご性質と神の栄光を表していました。

 

次に、4~7節をご覧ください。「エポデに付ける肩当てが作られ、それぞれがエポデの両端に結ばれた。エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。彼らは縞めのうを金縁の細工の中にはめ込んだ。それには、イスラエルの息子たちの名が、印章を彫るように刻まれていた。彼らはそれらをエポデの肩当てに付け、イスラエルの息子たちが覚えられるための石とした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

大祭司が着るエポデには、左右両方に肩当てが作られ、それぞれエポデの両端に結ばれました。その肩当てには、金の枠にイスラエルの息子たちの名が刻まれていた縞めのうが付けられていました。それは、イスラエルの息子たちが覚えられるための石です。これは、大祭司がイスラエルの民を代表していることを象徴していました。また、イザヤ46:3-4に、「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とありますが、主が彼らを背負って救い出すことを表していました。また、エポデの上に来るあや織りの帯をエポデと同じように作りました。これは主がモーセに命じられたとおりです(28:6-14)。

 

次に、祭司の胸当てです。8~14節をご覧ください。「また、意匠を凝らして、エポデの細工と同じように、金色、青、 紫、 緋色の撚り糸、 それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、胸当てを作った。正方形で二重にしてその胸当てを作った。 長さは一ゼレト、 幅一ゼレトで、 二重であった。その中に四列の宝石をはめ込んだ。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。第二列はトルコ石、サファイア、ダイヤモンド。第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。第四列は緑柱石、縞めのう、碧玉。これらが金縁の細工の中にはめ込まれた。これらの宝石はイスラエルの息子たちの名にちなむもので、彼らの名にしたがい十二個であった。それらは印章のように、それぞれに名が彫られ、十二部族を表した。」

 

彼らはまたエポデを作る時と同じように、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で胸当てを作りました。これは正方形で二重になっていました。これは「さばきの胸当て」と呼ばれていたもので、その中にウリムとトンミムと呼ばれる石が入れられていました(28:30)。

この胸当てには肩当てと同じように宝石が3個ずつ4列に埋め込まれました。この宝石もイスラエル12部族の民を表していました。大祭司の心にこの12の部族が刻まれていたのです。それは同時に、私たちクリスチャンが大祭司であられるキリストの心に刻まれていることを表しています。クリスチャンはみなそれぞれ違う石で、輝きも違いますが、どれもみな宝石のように価値あるものです。キリストによって贖われたので、代価を払って買い取られたので、価値ある者にされたました(イザヤ43:3-4)。クリスチャンはみなキリストの胸にしっかりと刻まれているのです。

 

ここに出てくる宝石は、黙示録に出てくる新しいエルサレムの都を構成している宝石にとても似ています(黙示録21:11-21)。それらの土台石は12使徒を表わしていましたが、そのうち9つがここの宝石と同じものです。門はイスラエル12部族を表していましたが、それらはみな真珠で出来ていました。それは神の栄光の中にイスラエルがおり、そして教会も存在していることを象徴しています。

次に、純金の鎖です。15~21節をご覧ください。「また、胸当てのために、撚ったひものような鎖を純金で作った。彼らは金縁の細工二個と金の環二個を作り、二個の環を胸当ての両端に付けた。胸当ての両端の二個の環には、二本の金のひもを付けた。その二本のひものもう一方の端を、先の二つの金縁の細工と結び、エポデの肩当ての前側に付けた。さらに二個の金の環を作り、それらを胸当ての両端に、エポデに接する胸当ての内側の縁に付けた。また、さらに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の前に、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に、向かい合うように付けた。胸当ては、その環からエポデの環に青ひもで結び付け、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデから外れないようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。」


この鎖は胸当てをエポデに固定するためのものです。胸当ての四隅に金の環が付けられ、それを青いひもで

結んだのです。なぜこんなことをしたのかというと、胸当てがエポデからずり落ちないためです。この胸当てには

12の宝石が埋め込まれてありましたが、これはイスラエルの12部族、また、私たちクリスチャンのことを表して

いました。これが主の胸からずり落ちないためです。私たちはこの青いひもでしっかりと結ばれているので、決し

てずり落ちることはありません。ちなみに金の環は神の愛、青いひもは天の恵みを表しています。ですから、私

たちが神の愛からずり落ちないのは、一方的な神の愛によるのです。彼らは主がモーセに命じられたとおりに行

いました(28:22-30)。

 

次に、22~26節をご覧ください。「また、エポデの下に着る青服を、織物の技法を凝らして青色の撚り糸だけ

で作った。青服の首の穴はその真ん中にあり、よろいの襟のようで、ほころびないようにその周りに縁を付けた。青服の裾の上に、青、紫、緋色の撚り糸で撚ったざくろを作った。また彼らは純金の鈴を作り、その鈴を青服の裾周りの、ざくろとざくろとの間に付けた。すなわち、務めを行うための青服の裾周りには、鈴、ざくろ、鈴、ざくろとなるようにした。 【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

これは、エポデの下に着る長服のことです。これは1枚の布でできた筒状の長福で、頭を入れる穴だけ開いていました。その裾にはざくろと純金の鈴がつけられました。それは、風が吹いても長服の裾がめくれないようにするためです。ざくろは、肥沃と豊かさ、そしていのちを象徴していました。それはキリストのいのちの豊かさを象徴していたのです。鈴は、大祭司が至聖所で聖なる務めを果たしていることを音によって外部の人に知らせるためのものです。それは金で出来ていました。それはキリストのとりなしを象徴していました。同じ鈴が香炉にも付けられていたからです。キリストは私たちの大祭司となって、私たちのために神にとりなしてくださいます。彼らはこれも主がモーセに命じられたとおりに作りました(28:31-35)。

 

次に、27~29節です。「彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服を、亜麻布のかぶり物、亜麻布の麗しいターバン、そして撚り糸で織った亜麻布のももひきを作った。また、撚り糸で織った亜麻布と、青、紫、緋色の撚り糸を用い、刺繍を施して飾り帯を作った。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

また、彼らはアロンとその子らのために、織物の技法を凝らして、亜麻布の長服と、亜麻布のかぶり物、亜麻布のターバン、そして、撚り糸で織った亜麻布のももひきを作りました。この「ももひき」は、彼らの裸が祭壇の上にあらわにならないためです(20:26)。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:39-40)。

 

さらに、30~31節をご覧ください。「また、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印章を彫るように「【主】の聖なるもの」という文字を記した。これに青ひもを付け、それを、かぶり物に上の方から結び付けた。【主】がモーセに命じられたとおりである。」

 

さらに、彼らは聖別の記章の礼を純金で作り、その上に印象を掘るように「主の聖なるもの」という文字を記し、それを青ひもで、かぶり物の上の方に結び付けました。これはアロンがイスラエルの代わりに咎を負い、彼らが主への聖なるものとしてささげられることを表していました。これは私たちの罪咎を負って十字架で死んでくださったイエス・キリストを表しています。エペソ1:17には、「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」とありますが、そのことです。私たちは、大祭司であられるイエス・キリストの贖いによって罪が赦され、聖い者とされているのです。これも、主がモーセに命じられたとおりでした(28:36-38)。

 

Ⅱ.主が命じられたとおりに行ったイスラエルの子ら(32-42)

 

次に32~42節をご覧ください。「こうして、会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに行い、そのようにした。彼らは幕屋をモーセのところに運んで来た。天幕とそのすべての備品、留め金、板、横木、柱、台座、赤くなめした雄羊の皮の覆い、 じゅごんの皮の覆い、 仕切りの垂れ幕、あかしの箱と、その棒、「宥めの蓋」、机と、そのすべての備品、臨在のパン、きよい燭台と、そのともしび皿、すなわち一列に並べるともしび皿、そのすべての道具、ともしび用の油、金の祭壇、注ぎの油、香り高い香、そして天幕の入り口の垂れ幕、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒、そのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門のための垂れ幕と、そのひも、その杭、会見の天幕の幕屋の奉仕に用いるすべての用具、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。イスラエルの子らは、すべて【主】がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。」

 

こうして、彼らは会見の天幕のすべての奉仕を終えました。ここに何度も繰り返されている言い回しがあります。それは、「主が命じられたとおりに、行なった」という言葉です。5節、7節、21節、26節、29節、31節、そして、今読んだ32節と42節です。彼らは自分たちで考え自分たちの方法で幕屋を作ったのではなく、すべて主が命じられたとおりに行いました。自分の方法ではなく、神の命令に従ったのです。

 実は、出エジプト記はこの言葉によって事が進展しています。モーセが燃える柴を見たときいろいろな言い訳をしました。「私は、口べたで、預言をすることはできません。」とか、「イスラエル人たちが、私があなたから遣わされたのを信じないでしょう」とか、私が、彼らが、・・という人間のレベルの話をしていました。しかし、モーセとアロンがファラオのところに行ってからは、主が命じられたとおりに行なった、という言い回しが続くのです。その中で十の災いがエジプトに下り、ファラオはイスラエルをエジプトから出て行かせることになります。自分の世界ではなく、神の世界の中に生きるようになったのです。

 

このことは、私たちクリスチャンのあるべき姿でもあります。私が何々をした、というのではなく、主がこう言われたということが中心になるべきなのです。そうすることで、その人の生活を見るときに、確かに主がこの人のうちに働かれていることを認めることができるようになるのです。

 

Ⅲ.モーセによる祝福(39:43)

 

それを見たモーセはどうしたでしょうか。43節をご覧ください。「モーセがすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、【主】が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した。」

 

モーセがそのすべての仕事を見ると、彼らは、主が命じられたとおりに行っていたので、モーセは彼らを祝福しました。一度は金の子牛を造り、それを礼拝した民でしたが、ここではモーセから祝福を受けているのです。民が主の命じられたとおりに行ったのを見たとき、モーセは感動したのでしょう。このように、イスラエルの民が祝福を受けたのは、モーセから聞いた主の命令に彼らが忠実だったからです。

 

それは、私たちにも言えることです。主イエスはこのように言われました。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:14-15)

イエスを愛することは、その戒めを守ることです。私たちも主の戒めを守るなら、主は私たちを祝福してくださいます。この新しい年も、主のみことばをしっかりと握り締め、主のみことばに歩みましょう。主のみことばに歩むお一人お一人に、主の祝福が豊かにありますようにお祈りします。

出エジプト記38章

2021年1月13日(水)祈祷会

聖書箇所:出エジプト記38章

 

 出エジプト記38章から学びます。

 

Ⅰ.祭壇(1-8)

 

まず、1~8節をご覧ください。「また彼は、アカシヤ材で全焼のささげ物の祭壇を造った。 長さ五キュビト、 幅五キュビトの正方形で、 高さは三キュビトであった。その四隅の上に角を作った。その角は祭壇から出ているようになっていた。彼は祭壇に青銅をかぶせた。彼は、祭壇のすべての用具、すなわち、壺、十能、鉢、肉刺し、火皿を作った。そのすべての用具を青銅で作った。祭壇のために、その下の方、すなわち、祭壇の張り出した部分の下に、祭壇の高さの半ばに達する青銅の網細工の格子を作った。四個の環を鋳造して、青銅の格子の四隅で棒を通すところとした。 彼はアカシヤ材で棒を作り、それらに青銅をかぶせた。その棒を祭壇の両側にある環に通して、それを担ぐようにした。祭壇は、板で、中が空洞になるように作った。また、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入り口で務めをした女たちの鏡で、それを作った。」

 

また彼は、アカシヤ材で全焼のささげものの祭壇を造りました。「彼」とは「ベツァルエル」のことです。「祭壇」とは、全焼のささげ物を焼くための器具です。これは、27:1~8で命じられていたことですが、彼はそれを実行しました。その大きさは長さ、幅が5キュビト(2.2m)で、高さは3キュビト(1.33m)でした。他の器具よりも大きく、器具の中では一番大きいものでした。

 

その四隅の上に角を作り、その角は祭壇から出ているようになっていました。それは、全焼のささげ物が落下しないように結び付けておくためのものでした。と同時に、そのいけにえの犠牲の効能を表すためのものでもありました。出エジプト29:12には、「その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の四隅の角に塗る。」とありますが、それはイスラエルの民の罪を贖ういけにえの犠牲の効能を示すためのものだったのです。キリストの血による贖いが、神との和解、罪の赦しの効能があることを象徴していたのです。

 

祭壇に青銅をかぶせました。祭壇だけでなく、祭壇のすべての用具、すなわち、壺、十能、鉢、肉刺し、火皿にもかぶせました。それはアカシヤ材で作られていたので、火で燃えないようにするためです。そればかりでなく、青銅は神のさばきを象徴していましたが、いけにえの動物が神のさばきを受けることを示していました。それは私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたイエス・キリストを指し示していました。キリストは罪の身代わりとなって十字架にかかり神のさばきを受けてくださることで、私たちの罪を贖ってくださったのです。ですから、この祭壇は、イスラエルの民に与えられていた恵みだったのです。いけにえの動物の血によって、イスラエルの民の罪が覆われたのです。しかし、これは一時的な解決であって最終的な解決ではありませんでした。最終的な解決は、完全ないけにえとなられたイエス・キリストにあったからです。

 

8節には「洗盤」について記されてあります。それは、聖所と祭壇の間に置かれました。それは、祭壇におけるいけにえの血による贖いによって与えられる「立場」を得ることによって、はじめて洗盤に近づくことができるということを意味していました。アロンとその子どもたち、すなわち、祭司たちは、その水で手と足を洗いました。それは、会見の天幕の入口で務めをした女たちの鏡で作られました。それは今日のような鏡ではなく、青銅を磨いたもので、はっきりとではなく、ぼんやりと映るものであったようです。ですから、それは青銅で出来ていました。しかし、たとえそれが青銅で出来ていても、良く磨かれた青銅は「鏡」の役割を果たしました。その役割は「写し出されたものを見る」ことにあります。「見る」とは、祭司たちが青銅の洗盤できよめられる(聖別される)ことと関係があります。

 

「洗盤」とその中に入れる「水」は、いずれも「神のことば」を象徴しています。祭司は、常に洗盤の水、すなわち「神のことば」によって日々聖別される必要がありました。なぜなら、祭司たちは、この世の思想、概念、常識、価値観によって汚されてはならないからです。彼らの働きや歩みだけでなく、彼らの思いが汚されないためには、神に仕える者たちが日々神のことばによってきよめられ続ける必要があるのです。神のみことばには、そのような力がありました。へブル4:12には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」とあります。

また、ヨハネ15:3には、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。みことばは、私たちを聖める力があるのです。

それはエペソ5:26~27を見てもわかります。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

「キリストがそうされたのは」とは、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたのは、ということです。キリストがご自身をささげられたのは、私たちをきよめて聖なるものとするためだったのです。どのようにして?ここには「みことばにより、水の洗をもって」とあります。まさにみことばは水の洗いなのです。かつて祭司たちが洗盤の水で手と足をあらったように、みことばは私たちをきよめてくれます。

だから、「女たちの鏡」が用いられたのです。鏡は人の姿を映し出しますが、みことばも鏡のように私たちの心の奥底に潜んでいる罪を照らし、その罪を洗い清め、赦しを与えるからです。私たちも神のことばに従うとき、私たちはきよめられ、神の力を受けることができます。ですから、日々のデボーションを大切にしましょう。心に蓄えたみことばによって、私たちの救いは完成へと導かれるからです。

 

Ⅱ.幕屋の庭(9-20)

 

 次に、9~20節をご覧ください。「彼はまた、庭を造った。南側では、庭の掛け幕は撚り糸で織った百キュビトの亜麻布でできていた。柱は二十本、その台座は二十個で青銅、柱の鉤と頭つなぎは銀であった。北側も百キュビトで、柱は二十本、台座は二十個で青銅、その柱の鉤と頭つなぎは銀であった。西側には五十キュビトの掛け幕があり、柱は十本、その台座は十個、その柱の鉤と頭つなぎは銀であった。正面の東側も五十キュビト。門の片側には、十五キュビトの掛け幕と、柱が三本、台座が三個あった。庭の門の両側をなすもう一方の側にも十五キュビトの掛け幕があり、柱は三本、台座は三個であった。庭の周囲の掛け幕はみな、撚り糸で織った亜麻布でできていた。柱のための台座は青銅で、柱の鉤と頭つなぎは銀、柱頭のかぶせ物も銀であった。それで庭の柱はみな、銀の頭つなぎでつなぎ合わされていた。庭の門の垂れ幕は、刺?を施したもので、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布でできていた。長さは二十キュビト、高さ、あるいは幅は五キュビトで、庭の掛け幕に対応していた。その柱は四本、その台座は四個で青銅であった。その鉤は銀であり、柱頭のかぶせ物と頭つなぎは銀であった。ただし、幕屋とその周りの庭の杭は、みな青銅であった。」

 

 彼はまた、庭を作りました。これも27:9~19で命令されていたことです。庭の大きさは、南側、すなわち東西に100キュビト(約44.5m)で、北側も同じです。柱は20本ありました。それを支える台座も20個で、青銅で出来ていました。また、柱の鉤となる頭つなぎは銀でできていました。庭の柱はこの頭つなぎでつなぎ合わされていました。聖書で「青銅」という場合は、それは「銅」のことを指しています。最も耐火性のある金属です。幕屋の庭にある金属は「青銅」「銀」です。聖所では「銀」と「金」、至聖所では「純金」が使われ、奥に行けば行くほど価値の高い金属が使われています。

 「銀」は罪人のために払われた贖い(身代り)の代価としてのイエスのいのちを、また「青銅」は火のような試練である十字架を忍ばれたイエスを象徴しています。

 

 西側、すなわち南北に50キュビト(約22.25m)の掛け幕、柱は10本、それを支える台座が10個、その柱の鉤と頭つなぎは銀でできていました。庭の周囲の掛け幕はみな、より糸で織った亜麻布でできていました。これは、イスラエル民を異邦人から区別するためのものでした。幕屋全体が、神が聖であることを教えていました。神は聖なので、聖と俗が混同してはならなかったのです。それを区別したのがこの掛け幕です。

 

  正面の東側も50キュビトありました。門の片側には、15キュビトの掛け幕と、柱が3本、台座が4個ありました。門の両側をなすもう一方の側も同じサイズでした。その真中が門の垂幕になっていました。大きさは20キュビトです。その垂れ幕は刺繍を施したもので、青、紫、緋色の撚り糸、それにより糸で織った亜麻布で出来ていました。これは前にも述べたように、キリストのご性質を表していました。キリストこそ神に至る門です。だれでも、キリストを通らなければ神のもとに行くことはできません。神に近づくためには、神が用意された方法によらなければなりませんでした。

 

 Ⅲ.あかしの幕屋の記録(21-31)

 

最後に、21~31節をご覧ください。「幕屋、すなわち、あかしの幕屋の記録は次のとおりである。これはモーセの命によって記録されたもので、祭司アロンの子イタマルのもとでレビ人が奉仕したことであった。ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルは、【主】がモーセに命じられたことをことごとく行った。彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブがいた。オホリアブは、彫刻をする者、意匠を凝らす者、また青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺?をする者であった。聖所の設営のすべてにおいて、その仕事のために用いられた金、すなわち奉献物の金の総計は、 聖所のシェケルで二十九タラント七百三十シェケルであった。登録された会衆による銀は、聖所のシェケルで百タラント千七百七十五シェケルであった。二十歳以上で登録された者が全部で六十万三千五百五十人だったので、これは一人当たり一ベカ、聖所のシェケルで半シェケルである。聖所の台座と垂れ幕の台座を鋳造するのに用いた銀は百タラントで、百個の台座に百タラント用いた。一タラントで一個の台座である。また、千七百七十五シェケルで柱の鉤を作り、柱の頭にかぶせ、頭つなぎで柱をつないだ。奉献物の青銅は七十タラント二千四百シェケルであった。これを用いて、彼は会見の天幕の入り口の台座、青銅の祭壇と、それに付属する青銅の格子、および祭壇のすべての用具、また、 庭の周りの台座、 庭の門の台座、幕屋のすべての杭、庭の周りのすべての杭を作った。」

 

これは、あかしの幕屋の記録です。モーセの命令によって記録されたもので、この調査の責任者は、アロンの子イタマルでした。彼が指揮を取ってレビたちが調査をし、その結果をまとめたのです。

この作業を行ったのは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルです。彼は、主がモーセに命じられたことをことごとく行いました。また彼とともに、ダン部族の、アヒサマクの子オホリアブが、彫刻や、亜麻布の刺繍をしました。

 

そのために用いられた金の総計は、29タラント730シェケルです。1タラントはやく34㎏ですから、986㎏になります。1シェケルは11.4gですから、730シェケルは8,332gになります。現在の金の価値は、1gあたり

4,869円です。ですから、これは現在の価値で48億4千万円くらいになります。幕屋がみすぼらしいと思っている人がいたらとんでもないことです。見た目は豪華ではないかもしれませんが、それは神の栄光に満ち溢れていました。まさに、イエス・キリストはそのようなお方です。見た目は普通の人のようですが、その中身は神の栄光、神の恵みまことに満ちておられたのです。

 銀の総計は、100タラント1,775シェケルでした。これは約3,500㎏となります。現在の価値で1g約80円ですから、2億7千万円となります。

 青銅は、70タラント2,400シェケルでした。これは約2,500㎏です。現在の価値で1㎏560円ですから、  140万円となります。

 

幕屋の建設のために、これだけの奉納物がささげられました。これらの他にも宝石などもささげられました。ですから、その数字は天文学的な数字になります。これらのものはすべて、イスラエルの民による自発的なささげものでした。彼らはこれを喜んで行いました。心から進んで行ない、また知恵が与えられた者たちが、主が命じられたようにことごとく行なっていったのです。それはすべてエジプト人から受けたものでした。しかし、これだけのものをささげることは、そこにそれだけの犠牲があったということです。恐らく、それぞれには何グラムばかりの貴金属しか持ってなかったでしょう。しかし彼らは、それを喜んでささげたのです。それは彼らがささげたというよりも、主が彼らの心を動かして、このようなわざをさせてくださいました。それは私たちにも言えることです。自分が持っているものは本当にわずかなものかもしれませんが、それを主の働きのために喜んでささげるとき、主はこのような偉大なみわざを成してくださるのです。

 

福島で牧会していた時、会堂建設の恵みに与りました。600坪もある広い土地に、100名収容できる礼拝堂と、100名収容できるホールが仕切りで区切られ、それを開けると200名収容できる建物でした。まず、土地購入のためにささげました。その土地は市街化調整区域にあったため、2,000万円とかなり安い価格が提示されていました。しかし、教会が開発許可の認可を得ると、地主は3,500円に価格をつり上げました。7,000万円もかけて造成したので、せめて半額の3,500万円で売却したかったのです。地主との価格の交渉の中で、地主が「では2,700万円でどうですか」と提示してきたので、「ここだ!」と、「では2,700万円と2,000万円の間をとって2,500万円にしましょう!」と言うと、地主は、「やられました!」としぶしぶ合意しました。私は「ヤッター」と思いましたが、若い信徒が多く集う私たちの教会で2,500万円をささげることは容易なことではありませんでした。私たちは、土地代を献げ、会堂の建築費を銀行から借り入れする計画をしていたので、何としても2,500万円を集めなければならなかったのです。今でも忘れることができません。半分の1,250万円が献げられたとき、礼拝後家内がカップケーキを半分にしてみんなに配り、「半分達成しました。神様に感謝しましょう。」と言いました。半額突破パーティーです。みんな土地代の半分がささげられたことを神様に感謝しました。

すると、残りの半分が与えられるまでには、そんなに時間がかかりませんでした。みんな喜んで献げました。特に、当時は結婚式が多く、2カ月に1回くらいありしたが、この会堂建設のために感謝献金をしました。もちろん、私たちも断食をして献げました。断食と言っても、毎週水曜日の夜は余った食材で料理したものを食べるというもので、その日の食材費500円を毎週献げ、その年のクリスマスに教会に持って行きました。

そのようにして、必要の2,500万円が与えられ、土地を献金で取得することができたのです。そして、さらに神様の恵みと奇跡によって必要のすべてが満たされ、翌年に献堂することができました。

 

当時のイスラエルも同じだったのではないかと思うことがあります。自分が持っているものは本当にわずかであっても、それを喜んで主に献げるとき、主はご自身の偉大なみわざを成し遂げてくださるのです。

 

ピリピ2:12~16にはこのようにあります。「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」

救いを達成するための良い行ないは、みな神が私たちのうちで行なってくださいます。志を立てさせ、事を行なわせてくださいます。私たちに求められているのは、すべてのことをつぶやかず、疑わずに行うことです。働きは主ご自身が成されますが、主は私たちに志や感動を与えてくださって、喜んでそれを行なう者たちによってその働きが完成させてくださるのです。そして、ご自分の働きを始められた主が、キリスト・イエスの日までにそれを完成してくださるのです。

出エジプト記37章

2020年12月9日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記37章

 出エジプト記37章から学びます。

Ⅰ.契約の箱と宥めのふた(1-9)

まず、1~9節までをご覧ください。5節までをお読みします。「ベツァルエルは、アカシヤ材で、長さ二キュビト半、幅一キュビト半、高さ一キュビト半の箱を作り、その内側と外側に純金をかぶせ、その周りに金の飾り縁を作った。箱のために金の環を四つ鋳造し、その四隅の基部に取り付けた。一方の側に二つの環を、もう一方の側にもう二つの環を取り付けた。また、アカシヤ材で棒を作り、それに金をかぶせ、箱を担ぐために、その棒を箱の両側の環に通した。」

 

前回の36章もそうですが、ここでも命令に対する実行という形になっています。ここには、ベツァルエルが箱を作ったことが記されてありますが、これは25:10~16にある神の命令の実行です。この箱とは契約の箱です。中には十戒が書かれた2枚の石の板、マナを入れた金の壺、それにアロンの杖が収められていました。これが幕屋全体の中心でした。つまり、神のみことばこそ幕屋全体の中心であったということです。それは神の臨在を表していました。ヨハネ1:14には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。イエス・キリストは、神のことばとして私たちの間に住まわれました。イスラエルの民は、幕屋の中のこの契約の箱を見て神がともにいてくださることを確認したように、私たちは、インマヌエルなる神イエス・キリストを仰ぎ見て、神がともにおられることを確認するのです。この神のことばこそ私たちの信仰生活の中心であり、最も重要なものなのです。

 

 この神の契約の箱を作ったのはベツァルエルでした。それ以外のものは心に知恵のあるもの、すなわち、神によって賜物が与えられた人たちによって作られましたが、この契約の箱はベツァルエルによって作られました。彼はこの幕屋建設の棟梁であり監督者でしたが、監督自らがこの製作に当たったのです。なぜでしょうか?それは、これが幕屋全体の中心であり最も重要なものだからです。

 

先日、同盟の総会に出席した際、牧会談話をする機会がありましたが、ある牧師が牧会に疲れた、と言われました。よく話を聞くと、あれもやらなければならない、これもやらなければならないと、やらなければならないことがとても多く、そのすべてをこなすのは難しいということでした。よく話を聞くと、その牧師はいろいろなことに関心があり、そのすべてに首を突っ込んでいるような状態でした。

牧師にとっての誘惑は、あれもこれもやりたがることです。いろいろな刺激を求めたいのです。しかし、それはかえって疲れさせることになります。そのことによって祈りと御言葉に取り組む時間が取れなくなってしまうからです。そして、十分な準備がないまま日曜日の講壇に立つので、今度はそのことで負い目を抱くようになります。それが大きな疲れになるわけです。牧師にとって重要なことは優先順位を確立することです。祈りと御言葉を最優先にしなければなりません。日曜日の説教は毎週必ずやって来ます。そこから逃れることはできません。しかし、そこに取り組めば平安があります。プラス、その中で神が自分自身に御言葉をもって語ってくださるので励まされ、力が与えられます。ですから、牧師が説教の準備に取り組むことは大切なことなのです。それは自分自身だけではなく、群れ全体にとってもそうです。その結果、全体が生き生きすることになります。

 ある牧師は、教会はもっと効果的な伝道をすべきだと言います。しかし、一番効果的な伝道は牧師が御言葉に仕えることなのです。そんなに人が救われないようでも、5年、10年経つといつの間に御言葉にしっかりと立つ信徒が増えてくることになります。これが神のなさることです。それが最も効果的な伝道なのです。日本はいま霊的に困難な時代を迎えています。どの教会もかつてのように多くの求道者がいるわけではありません。だからといっていろいろなことをすれば良いというのではなく、むしろ、最も大切なものを大切にしなければなりません。神の御言葉を中心に、それに取り組むことです。そうすれば、神がご自身の教会を建て上げてくださいます。ベツァルエルが直接契約の箱の製作に取り組んだのは、神のみことばこそ幕屋の中心であり、本質的なことであり、最も重要なことであることを理解していたからでしょう。

 

 ところで、この箱はアカシヤ材で作られ、その内側と外側に純金がかぶせられました。アカシヤは人間の性質を、そして金は神性を象徴していました。つまり、これは人として現れた神の子キリストを象徴していたのです。それにこれだけの純金がかぶせられたのは、キリストの栄光、神の栄光を表していたからです。前回の箇所で見たように、幕屋の一番外側はじゅごんの皮で作られていました。それは丈夫な素材でしたが、黒っぽい、見るからにみすぼらしいものでした。でも、その内側は神の栄光に輝いていました。イエス・キリストは、外側は何の輝きもないかのように見えますがその内側は神の栄光に輝いておられる方なのです。

 

 次に、6~9節をご覧ください。「さらに、純金で「宥めの蓋」を作った。その長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。また、二つの金のケルビムを作った。槌で打って、「宥めの蓋」の両端に作った。一つを一方の端に、もう一つを他方の端に作った。「宥めの蓋」の一部として、ケルビムをその両端に作った。ケルビムは両翼を上の方に広げ、その翼で「宥めの蓋」をおおっていた。互いに向かい合って、ケルビムの顔が「宥めの蓋」の方を向いていた。」

 

さらに、純金で「宥めのふた」を作りました。それは契約の箱を覆うもの。これはギリシャ語で「ヒラステーリオン」という語ですが、「なだめの供え物」という意味です(Iヨハネ2:2)。罪に対する神の怒りをなだめるものです。それは、イエス・キリストの十字架の血を象徴していました。イエス・キリストが十字架で血を流して死んでくださることによって、神の私たちの罪に対する怒りがなだめられ大胆に神に近づくことができるようになったのです。すなわち、私たちの力では神の箱に収められていた神の戒めを守ることはできず、したがって、神に近づくこともできませんが、その契約の箱を覆うかのようにその戒めを完全に守られた方が十字架で死んでくださることによって、その血の贖いを受けた私たちは、神に近づくことができるようになったのです。私たちが罪から救われるのは、イエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架にかかっての死なれたことを受け入れ、信じるだけでいいのです。ほかに何の条件もありません。救いはただイエスの血潮を信じるだけです。神のあわれみによるのです。救われるために何か努力をしなければならないとか、奉仕をしなければならないといったことは何もありません。身代わりとなって死んでくだせさったイエスを信じることによってのみです。これが福音です。これが幕屋の中心です。私たちが神にお会いするにはどうしたら良いのでしょうか。この神のあわれみにすがることです。自分では神の御言葉を行うことはできません。そのできない自分を認め、神のあわれみに拠りすがること。それが、私たちが救われる唯一の道なのです。25:22で神は、「そこでわたしはあなたと会見、・・・ことごとく語ろう」と言われました。「そこで」とは、どこで、でしょうか。イエスが身代わりとして十字架で血を流して死んでくださり、神のなだめとなってくださった「そこで」神は私たちに会ってくださるのです。

 

Ⅱ.パンを置く机と燭台(10-16)

 

 次に、パンを置く机と燭台です。10~16節までをご覧ください。「彼はアカシヤ材で机を作った。その長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半であった。これに純金をかぶせ、その周りに金の飾り縁を作った。その周りに一手幅の枠を作り、その枠の周りに金の飾り縁を作った。その机のために金の環を四つ鋳造し、四本の脚のところの四隅にその環を取り付けた。その環は枠の脇に付け、机を担ぐ棒を入れるところとした。アカシヤ材で机を担ぐための棒を作り、 これに金をかぶせた。また、机の上の備品、すなわち、注ぎのささげ物を注ぐための皿、ひしゃく、水差し、瓶を純金で作った。」

 

彼はアカシヤ材で机を作りました。彼とはベツァルエルです。これも主が命じたとおりです。彼は、25:23~30で命じられたことを実行したのです。この机は供えのパンの机と呼ばれるもので、至聖所の垂幕に向かって右側に置かれていました。この机には、イスラエル12部族の象徴として12個のパンが置かれていました。この供えのパンはイエス・キリストの型でした。ヨハネ6:35には、「わたしは、いのちのパンです。」とあります。旧約時代、神は荒野でイスラエルの民をマナをもって養われましたが、新約時代においては、イエス様ご自身が私たちの霊の糧となってくださいます。このいのちのパンを食べるとは、イエス・キリストを救い主として信じ、日々そのお方と交わることです。いのちのパンは毎日食べる必要があります。日々のデボーションは、私たちが日々の糧をいただく時です。

 

 12節には、この机の周りに一手幅の枠を作りとあります。これはパンがずり落ちるのを防ぐために作られたものです。つまり、イエス・キリストを信じた者は、どんなことがあっても落ちることはないということです。イザヤ書にはそのことが随所に出てきます。神の契約を守らないイスラエルに対して、神はどこまでも契約を守られます。どんなことがあっても彼らが落ちることがないように守ってくださるのです。

 

次に、17~24節をご覧ください。ここには、燭台のことが書かれてあります。「また彼は燭台を純金で作った。その燭台は槌で打って作った。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁があった。六本の枝がその脇の部分から、すなわち燭台の三本の枝が一方の脇から、燭台のもう三本の枝がもう一方の脇から出ていた。一方の枝には、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくが、また、もう一方の枝にも、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある三つのがくが付いていた。燭台から出る六本の枝はみな、そのようであった。燭台そのものには、アーモンドの花の形をした、節と花弁のある四つのがくが付いていた。それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六本の枝が燭台から出ていた。それらの節と枝は燭台と一体で、その全体は一つの純金を打って作られていた。また、ともしび皿を七つ作った。その芯切りばさみも芯取り皿も純金であった。純金一タラントで、燭台とそのすべての器具を作った。」

 

 これも、25:31~39で命じられた通りです。この燭台は、純金1タラントで作られました。1タラントとは約30㎏です。どれほど高価なものであったかがわかります。それはキリストの神性を表していました。これは金を型に流して作られたのではなく、槌(ハンマー)で打って作られました。これはキリストが十字架で打たれたことを表しています。これに台座、支柱、がく、節、花弁がつけられました。アーモンドの花の形をした節と花弁は復活の象徴です。アーモンドは春一番に咲く花です。すなわち、十字架で死なれ、三日目に復活されたキリストご自身の象徴だったのです。そして、その脇の部分からそれぞれ3つの枝が出ていたというのは、キリストの花嫁なる教会のことです(黙示録1:20)。教会はキリストの血をもって買い取られたキリストの花嫁です。キリストという木から出た枝。十字架と復活の主のあかし。それが燭台の光です。キリストは「わたしは世の光です。」(ヨハネ8:12)と言われました。この光を受けた教会も、この世の光です。教会はキリストの光を輝かせなければなりません。この燭台が一つの純金で作られていたのは、教会はキリストと同じ性質が与えられているということです。キリストのように死んで、キリストのように復活する。それがキリストの教会なのです。

 

Ⅲ.香の祭壇と聖なる注ぎの油(25-29)

 

 最後に、25~29節を見て終わります。「彼はアカシヤ材で香の祭壇を作った。長さ一キュビト、幅一キュビトの正方形で、高さは二キュビトであった。祭壇から角が出ているようにした。祭壇の上面と、側面のすべて、および角には純金をかぶせ、また、その周りには金の飾り縁を作った。また、その祭壇のために二つの金の環を作った。その飾り縁の下の両側に、相対するように作り、そこに祭壇を担ぐ棒を通した。その棒をアカシヤ材で作り、それに金をかぶせた。ベツァルエルはまた、調香の技法を凝らして、聖なる注ぎの油と純粋な香り高い香を作った。」

 

 次に、ベツァルエルが作ったのは香の祭壇でした。これも30:1~10で命じられたことの実行です。これは至聖所の垂幕のすぐ前に置かれました。垂幕の向かい側には契約の箱がありました(30:6)。つまり、これは至聖所に向けられていたということです。それは聖徒たちの祈りを表していました。聖徒たちが神に出会い、神と交わり、生ける神を体験するには祈りが必要であるということです。これは朝毎に、夕暮れにも、煙を立ち上らせなければなりませんでした(29:7-8)。それは常供のささげ物であったのです(30:8)。つまり、聖徒たちはいつも祈りの香を立ち上らせなければならないということです。

 

 彼はまた調合法に従って、聖なる注ぎの油と純粋な香り高い香を作りました。これも30:22~33の命令の実行です。聖なる注ぎの油は、神が命じた調合法によって混ぜ合わされました。もし、これに似たものを調合するなら、その者は死ななければなりませんでした。香料もまた、神が命じられたとおりの調合で作られました。これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、死ななければなりませんでした。

 この油は、幕屋のさまざまな器具を聖別するためのものです。祭司も、この油によって聖別されました。メシヤとは、「聖なる油によって聖別された方」を指します。そのようなメシヤの出現を預言者イザヤは預言し(イザヤ61:1)、それが主イエスにあって成就しました。イエスが受けた油注ぎとは、聖霊の油注ぎのことです。

 

 イエスは、メシヤとしての働きに必要な力を聖霊から受けましたが、イエスを信じる者には、それと同じ聖霊の油注ぎが与えられます。Iヨハネ2:20,27には、クリスチャンにはこの油がとどまっているとありますが、これが聖霊のことです。この油を聖所の器具に、また祭司に注がれなければなりませんでした。この油が注がれるとき、それは聖なるものとなります。クリスチャンはそのすべての働きにおいて、聖霊の油そそぎが必要であるということです。何一つ肉によって、人間的な力によって行ってはならないのです。聖なる油を注がれ、それによって歩まなければなりません。その模範がイエス・キリストです。ルカ4:18-21を見ると、イエス・キリストにはこの油が注がれていました。ですから、私たちがこの油が注がれるためには頭であるキリストにつながっていなければなりません。詩篇133:1-3をご覧ください。頭に注がれた油は、ひげに、アロンのひげに流れて衣の端にまで滴ります。私たちも主に用いていただくために、聖霊の油注ぎが与えられるように祈りましょう。

出エジプト記36章

2020年11月25日バイブルカフェメッセージ

出エジプト記36章

 

 出エジプト記36章から学びます。

Ⅰ.あり余る奉仕(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。「ベツァルエルとオホリアブ、および、聖所の奉仕のあらゆる仕事をする知恵と英知を【主】に授けられた、心に知恵ある者はみな、すべて【主】が命じられたとおりに仕事をしなければならない。」モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および【主】が心に知恵を授けられた、すべて心に知恵ある者、またその仕事をするために進み出ようと、心を動かされた者をみな呼び寄せた。彼らは、 聖所を造る奉仕の仕事のためにイスラエルの子らが持って来たすべての奉納物を、モーセから受け取った。しかしイスラエルの子らは、 なおも朝ごとに、進んで献げるものを彼のところに持って来た。そこで、聖所のすべての仕事をしていた知恵のある者はみな、それぞれ自分がしていた仕事から離れてやって来て、モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。【主】がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。」

モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、及び主が心に知恵を授けられた、すべての心に知恵ある者、また、その仕事をするために進み出ようと、心を動かされた者をみな呼び寄せました。「主が心に知恵を授けられた、すべて心に知恵ある者」とは、そのために聖霊の賜物と知恵が与えられている人のことで、「その仕事をするために進み出ようと、心を動かされた者」とは、その仕事をするために進み出ようと、聖霊によって心を動かされた人たちです。神の御業はこのような人たちによって成し遂げられていくのです。

しかし、ここで問題が生じました。どんな問題でしょうか。それは、彼らは聖所を造る奉仕の仕事のためにイスラエル人が持って来た奉納物をモーセから受け取ったわけですが、イスラエルの民が朝ごとにささげ物を持ってきたので、あり余るほどになってしまったということです。彼らはモーセのところに来て、現状を伝えました。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどです。」

イスラエルの民がいかに感動して、進んでささげていたかがわかります。教会で、献金があり余るほどなのでもう持ってこないでください、という話は聞いたことがありません。どうして彼らはこんなに喜んでささげたのでしょうか。それは、あの金の子牛を拝むという罪を悔改めたことでその罪が赦されたこと、そして、栄光の主が彼らとともにおられるということを実感したからでしょう。すなわち、罪が赦された喜びのゆえです。ダビデは、詩篇32:1で「幸いなことよ。その背きの罪を赦され、罪を覆われた人は。」と歌っていますが、罪が赦されること、それほど大きな喜びはありません。そのような人と、主がいつもともにいてくださるからです。イスラエルの民には、その喜びが溢れていたのです。それで、

主の幕屋の建設のために、喜んでささげたいと思ったのです。

Ⅱ.幕(36:8-19)

次に、8~19節までをご覧ください。「仕事に携わっている者のうち、心に知恵ある者はみな、 幕屋を十枚の幕で造った。幕は、撚り糸で織った亜麻布、 青、 紫、 緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らしてケルビムを織り出した。幕の長さはそれぞれ二十八キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、幕はみな同じ寸法とした。五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、もう五枚の幕も互いにつなぎ合わせた。つなぎ合わせたものの端にある幕の縁に、青いひもの輪を付け、もう一つのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにした。その一枚の幕に五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の端にも五十個の輪を付け、その輪を互いに向かい合わせにした。金の留め金を五十個作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせ、こうして一つの幕屋にした。また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作った。その幕を十一枚作った。幕の長さはそれぞれ三十キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビト、その十一枚の幕は同じ寸法とした。そのうち五枚の幕を一つに、 もう六枚の幕も一つにつなぎ合わせ、つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも五十個の輪を付けた。青銅の留め金を五十個作り、天幕をつなぎ合わせて一つにした。天幕のために、赤くなめした雄羊の皮で覆いを作り、さらに、その上に掛ける覆いをじゅごんの皮で作った。」

これは26章の繰り返しです。内容がほとんど同じです。一見、無味乾燥に思える繰り返しのようにも見えますが、実はそうではありません。このように、同じことが繰り返して書かれている時は、それなりに重要であるということです。ではどういう点でこの記述が重要なんのでしょうか。それは、26章で語られた内容をここで実行したという点においてです。すなわち、命令と実行の関係になっているということです。それはどういうことかというと、イスラエルの民は神から与えられた命令を忠実に守って実行したということです。

 

8節には、幕屋の幕とその上に掛ける天幕について記されてあります。この幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸でおられたもので、ケルビムの刺繍が施して造られました。幕は全部で10枚でしたが、その幕5枚を互いにつなぎ合わせ、また、ほかの幕5枚も互いにつなぎ合わせました。そのつなぎ合わせた物の端にある幕の縁に、青いひもの輪を付け、ほかのつなぎ合わせた物の端にも同じようにしました。その1枚の幕に50個の輪を付け、ほかのつなぎ合わせた幕の端にも50個の輪を付けて、その輪を互いに向かい合わせにしました。そして金の留め金50個を作り、その留め金で、幕を互いにつなぎ合わせて、一つの天幕にしました。この「留め金」は26章の説明にあったように、キリストの神性と力を象徴していました。つまり、この2枚の幕を結び付けるのは、キリストによるということです。これは神と私たち人間のことであり、ユダヤ人と異邦人のことを象徴していました。これはただ神の愛、神の恵みによって結び合わされるのであって、私たちの力や働きによるのではありません。

 

また、天幕の上に掛ける幕のために、やぎの毛でおった幕を作りました。全部で11枚です。その5枚の幕と6枚の幕も一つにつなぎ合わせなければなりませんでした。つなぎ合わせたものの端にある幕の縁には50個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の縁にも50個の輪を付けました。しかし、それを留める留め金には「青銅の留め金」が用いられました。なぜ「青銅の留め金」だったのでしょうか?内側の幕には金の留め金が用いられましたが、ここでは青銅の留め金です。それは、神のさばきを象徴していたからです。黒の幕が青銅の留め金でつなぎ合わされていたのは、人の罪に対する神のさばきを表していました。イエス・キリストは、まさに私たちの罪のために神のさばきを受けられたのです。

 

やぎの毛の幕の上にさらに覆いが2枚用いられました。どのような幕ですか。赤くなめした雄羊の皮で作った覆いと、その上にはじゅごんの皮で作った覆いです。「赤くなめした雄羊の皮」は、雄羊の身代わりを象徴していました。やぎの毛でできた黒い「天幕」はすべての罪の象徴ですから、それを覆うのは「赤くなめした雄羊の皮」でなければならなかったのです。Ⅰペテロ1:18-19には、「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、キリストの尊い血こそ、私たちの罪を贖うことができるものです。

「私たちは、この御子の内にあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによる事です(エペソ1:7)。

 

また、「じゅごん」というのは紅海に生息していた動物で、アザラシのことではないかと考えられていますが、これは風雨にさらされても大丈夫な皮です。それは、どんなに強大な嵐が襲って来ても大丈夫な屋根であることを示しています。しかし、それはとりわけ人の目を引くような魅力あるものではありません。誰も入りたいとは思えないこの幕屋のみすぼらしい外観は、イザヤが預言した、この地を歩まれたキリストの姿そのものでした。イザヤ53:2には「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。

しかし、見た目にはみすぼらしく、人々を引きつけるには何の魅力もないようなこの幕屋でも、ひとたび中に入ったら、そこには神の栄光の輝きがありました。全く次元の違う輝きを放っていたのです。それは人の目には隠されています。イエスは大工の息子として来られましたが、そこには神の本質と栄光の輝きが隠されていたのです。

 

この幕が象徴していたのは何だったのでしょうか。それは、キリスト以外に救いは無いということです。神の栄光の輝きに至るには、私たちの罪を聖めてもらわなければなりません。それがキリストの十字架の贖いであったということです。キリストは神の栄光の輝き、神の御子であり、私たちの罪を完全に聖めることができたのです。表面だけを見るなら何ともみすぼらしい姿にしか見えなかったかもしれませんが、「このキリストの内にこそ、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3) 

 

イスラエルの民は、主がモーセを通した命じられたとおりに造りました。あなたはどうですか。あなたは、この幕に込められた神の救い、キリストの十字架の贖いをその通り受け入れているでしょうか。この方の内側の輝きを知る事のできた人は幸いです。見みすぼらしく見えるようでも、キリストには神の栄光が宿っているのです。

 

Ⅲ.幕屋の建枠と横木(20-38)

次に、20~38節をご覧ください。まず34節までをお読みします。「さらに幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作った。一枚の板は、長さ十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。板一枚ごとに、はめ込みのほぞを二つ作り、幕屋のすべての板にそのようにした。こうして幕屋のために板を作った。南側に二十枚。その二十枚の板の下に銀の台座を四十個作った。一枚の板の下に、 二つのほぞのために二個の台座、ほかの板の下にも、二つのほぞのために二個の台座を作った。幕屋のもう一つの側、北側に板二十枚。銀の台座四十個。すなわち、一枚の板の下に二個の台座。次の板の下にも二個の台座。幕屋のうしろ、西側に板六枚を作った。幕屋のうしろの両隅に板二枚を作った。これらは底部では別々であるが、上部では、一つの環のところで一つに合わさるようにした。二枚とも、そのように作った。これらが両隅である。板は八枚、その銀の台座は十六個。すなわち、一枚の板の下に二個ずつの台座があった。また、アカシヤ材で横木を作った。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、幕屋のもう一方の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、西側の板のために横木を五本作った。それから、板の中間を端から端まで通る中央横木を作った。板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作った。横木にも金をかぶせた。」

これは、幕屋のための板について記されてあります。彼らは幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに建てる板を作りました。その命令の通りです。この板も幕と同じように長細い形をしていますが、それをいくつも作り、そこに棒を通すことによって一つの壁にしたのです。そして、板が倒れないようにそれを支えるための台座も造りました。それは銀です。先ほど話しましたように、天を表わす聖所の部分が地上に触れるときに贖いが必要な銀が使われるのです。そして、板も横木もみな金をかぶせました。主が、モーセを通して民に命じられた通りです。そのとおりに実行したのです。

この板は何を表していたのかというと、私たち一人一人のクリスチャンのことです。教会はキリストのからだ(幕屋)です。その幕屋を構成している材料がこの板なのです。それはアカシヤ材で作られました。それは罪に汚れた人間の姿を表していました。アカシヤ材は曲がった木で、それだけでは全く役に立たない価値のないものですが、そんな者の罪が贖われて、神の教会を建て上げていくための材料として用いられるのです。その板を支えていたのが銀の台座です。銀は贖いの象徴です。キリストが贖ってくださったので私たちはもはやこの世のものではありません。だから台座によって宙に浮いているのです。宙に浮いているようにこの世に遣わされているのです。

 

31~34節には、その板を支えるための横木について記されてあります。板は、5本の横木によって支えられていました。そして板の中間には、端から端まで通る中央の横木を作りました。そしてその横木には金がかぶせられました。アカシヤに金という表現は前から出てきますが、それは人となられた神、イエス・キリストを象徴していました。この横木とは板であるクリスチャンを支えるキリストご自身の象徴だったのです。エペソ4:16には、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長して、愛のうちに建てられるのです。」とあります。

教会は、キリストによって結び合わされて、愛のうちに建て上げられていきます。それは「板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作った。」(34)とあることからもわかります。この環こそ愛のしるしです。教会はキリストによって結び合わされ、愛によって結ばれてこそ建て上げられていくものなのです。

 

最後に、35~38節を見て終わります。「また、青、 紫、 緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作った。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出した。その垂れ幕のために、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱を作った。それらの鉤は金であった。また、柱のために四つの銀の台座を鋳造した。天幕の入り口のために、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、刺?を施して垂れ幕を作った。また、五本の柱とその鉤を作り、柱頭と頭つなぎに金をかぶせた。その五つの台座は青銅であった。」

 

ここには聖所と至生所を仕切る垂れ幕と、天幕の入口の幕について語られています。この垂れ幕は四色のケルビムが織り出されていました。この幕こそイエス・キリストご自身のことです。言うならば、キリストご自身の肉体を象徴していたのです。へブル10:19-20に、「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。」とあるように、キリストはご自身の肉体という垂幕を、十字架で裂かれることによって、私たちが天国のまことの聖所に入ることができるようにしてくださったのです。キリストが十字架につけられたとき、上から下に真っ二つに裂けた(マタイ27:50-51)のは、この垂れ幕のことです。今は、キリストにあって神の御座が完全に開かれており、私たちは、キリストにあって大胆に神に近づくことができるのです。

 そして37-38節には、聖所の入口である幕について記されてあります。この幕もキリストを象徴していました。キリストこそまことの門です。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。この方を通って入るなら救われます。」(ヨハネ10:9)

 

あなたは、この門から入ったでしょうか。この門から入るなら救われます。イスラエルの民は、主がモーセに命じられた通りに行いました。私たちも、主が命じられたとおりにキリストを信じ、キリストの十字架の贖いを受けることによってのみ救われるのです。

出エジプト35章

2020年11月11日(水)祈祷会メッセージ

聖書箇所:出エジプト35章

 

出エジプト記35章を開いてください。金の子牛の事件によって神との契約を取り消されたイスラエルでしたが、モーセのとりなしによって神の赦しを得て、再び神との契約を結ぶことができました。モーセは40日40夜、シナイ山で主とともにいました。彼が山から降りて来ると、彼の顔が輝きを放っていました。それでモーセはイスラエルの民と話し終えると、顔に覆いを掛けました。その輝きを失わないためです。そして主と語るために主のもとに行く時は、その覆いを外していました。それは、律法の限界を示していました。確かに、律法にはそれなりの輝きがありますが、それによって救われることはありません。けれども、人が主に向くならその覆いは取り除かれます。そして鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行くのです。それが御霊の輝きです。その輝きは律法のように一時的なものではなく永続した輝きです。

 

そして35章に入ります。ここには、モーセがシナイ山で受けた幕屋と祭司の事柄について記されてあります。幕屋は神の臨在が現われる場所です。モーセは、その幕屋を建設するにあたり、主が行えと命じられたとおりに行っていきます。これは25~31章で語られた内容の繰り返しです。このように繰り返して記されてあるということは、それだけ重要であるということです。ここから私たちは、どのようにして主の働きをしていったら良いかを学びたいと思います。

 Ⅰ.安息日の規定(1-3)

 

まず、1~3節をご覧ください。「モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。「これは、【主】が行えと命じられたことである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は、 あなたがたにとって【主】の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。」」
 

これから幕屋の材料を集めること、幕屋を造る作業を開始させるのですが、その初めに安息日についての規定について語られました。それは、彼らが本当に大切なもの、第一にすべきものを見失わないようにするためです。本当に大切なものとは何でしょうか。主を礼拝することです。言い換えると、主ご自身を求めることです。以前にもお話ししましたが、主のための働きは主を礼拝するという行為があってこその働きです。主を礼拝することこそ本質的なことであって、それに伴う作業はその次のことなのです。

 

クリスチャン生活と教会、諸活動の中心は、主を礼拝することです。信仰生活の他の点でどんなに成長していても礼拝の生活が確立されていなかったら、あるいはまた、教会のどの活動に力を入れても、礼拝がその中心に据えられていなかったら、すべては空回りしてしまいます。礼拝こそ信仰の中心であり、礼拝によって強められ、励まされ、燃やされ、一週間の生活に遣わされていきたいと思います。


Ⅱ.進んでささげるささげ物(4-19)

 

次に、4~9節をご覧ください。まず、9節までをお読みします。「モーセはイスラエルの全会衆に告げた。「これは【主】が命じられたことである。あなたがたの中から【主】への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、【主】への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。」


モーセはイスラエルの全会衆に、主への奉納物を持ってくるように命じました、これらは25:4~7

にもあった15種類の材料です。ここでは、そのささげものを献げるにあたっての心構えが記されてあります。それは、「すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい」ということです。義理とか、義務感からではなく、心から、喜んでささげる者から受け取るようにということです。Ⅱコリント9:6~7でパウロは、このように言っています。「私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

これが献金についての原則です。献金について聖書の中で貫かれている原則は、自分自身のもの、特に自分にとって尊いものを主に献げるということと同時に、それらが自分の意思で、主体的に、喜んで献げるということです。他の人が献げているからとか、牧師にそのように言われたからとかではなく、自分の心で決めたとおりに、喜んで献げるということです。神は喜んで献げる人を愛してくださいます。実際、スラエルの民は、心から進んで献げました(35:21,22,29)。その結果、あり余るほどのささげものが献げられたのです(36:5-7)。

 

次に、10~19節をご覧ください。「あなたがたのうち、心に知恵ある者はみな来て、【主】が命じられたものをすべて造らなければならない。幕屋と、その天幕、覆い、留め金、板、横木、柱、台座、 箱と、その棒、 『宥めの蓋』、仕切りの垂れ幕、机と、その棒とそのすべての備品、臨在のパン、ともしびのための燭台と、その器具、ともしび皿、ともしび用の油、香の祭壇と、その棒、注ぎの油、香り高い香、そして幕屋の入り口に付ける入り口の垂れ幕、全焼のささげ物の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門の垂れ幕、幕屋の杭、庭の杭、そのひも、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。」」

 

 ここには、ささげられた材料を使って幕屋やその中にあるもの、あるいは祭司の装束を造るようにと言われています。誰にそのことが命じられているかというと、「心に知恵のある者」です。心に知恵のある者はみな来て、主が命じられたものをすべて造らなければなりませんでした。心に知恵のある者とはどういう人でしょうか。それは人間的な言い方をすれば職人さんたちのことでしょう。ただの職人さんではありません。これは神の知恵、神の霊に満たされた、御霊の賜物が与えられていた人たちです。このようなものを巧みに造ることができる特別な能力を神から与えられている人がいます。そのような人たちに命じられているのです。30~31節には、「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」とあります。また、「ダン部族のアヒサマクの子オホリアブ」にもそのようにされました。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神から与えられた仕事を成し遂げるためです。

 

同じように神様は、私たち一人一人を召し、主から与えられた仕事を成し遂げるために、御霊の賜物を与えてくださいました。Iコリント12章には、「奉仕にはいろいろな種類があり、働きにはいろいろな種類がありますが、主は同じ主です。みなの益になるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」(12:4-7)とあります。神から与えられている賜物は、それぞれみな違います。ちょうど人間のからだは一つでも、そこに多くの器官があるように、キリストのからだにもいろいろな種類の賜物が与えられた人たちがいるのです。それぞれに与えられた賜物を通して、主のからだである教会が建て上げられていくのです。それはどういうことかというと、第一に、私たちはそれぞれを必要としているということです(12:21)。それぞれ互いに補い合ってこそ、教会はしっかりと建て上げられていくのです。第二のことは、比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものであるということです。私たちはからだの中で比較的に尊いとみなす器官をことさらに尊ぶ傾向がありますが、神は違います。劣ったところをさらに尊んで調和させてくださいます。そうやってキリストのからだが立て上げられていくのです。

 

 Ⅲ.心を動かされた者、霊に促しを受けた者(20-35)
 

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。20~29節をご覧ください。「イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。進んで献げる心のある者はみな、男も女も、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を【主】に献げる者はみな、そのようにした。また、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物を献げる者はみな、それを【主】への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のあらゆる仕事のためにそれを持って来た。また、心に知恵ある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。部族の長たちは、エポデと胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石を持って来た。また、ともしび、注ぎの油のため、また香りの高い香のために、香料と油を持って来た。イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」

 モーセの前から立ち去った民はどのように応答したでしょうか。「心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持ってきた。」(21)

ここで繰り返して記されていることは、「心を動かされた者」、「霊に促しを受けた者」です。つまり、彼らは自分のものをささげるときに、いやいやながらではなく、また強制されてでもなく、自分でささげたいと思って、それを心から喜んでしたということです。そこには聖霊による感動がありました。それは、金の子牛の事件の罪が赦されたという感動でもありました。さらに、主の栄光が再び宿るという恵みへの感動でした。

 

 29節をご覧ください。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」とあります。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな」とあります。金の子牛を作るためにアロンが指定したのは金だけでした。金を持っていない人たちはそれに参加することができませんでした。しかし、幕屋の建設は違います。幕屋の建設のためには15種類のものが必要とされました。つまり、誰でも参加することができたのです。事実、民は主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、あり余るほどのささげものを献げました。神の事業には、全員が参加するのです。

 

それは、神の教会も同じです。教会は牧師だけの働きによって成し遂げられるものではありません。信者全員が参加することによって建て上げられていくものです。まさに全員野球です。そのことを覚え、喜んで主の働きに参与させていただきましょう。

 

 最後に、30~35節をご覧ください。「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、意匠を凝らす仕事をするためである。また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺?する者、また機織りをする者の仕事を成し遂げるためである。」

 

祭具や祭司の彫刻において細工が必要ですが、そのために主はベツァルエルを名指しで召されました。そして、彼が幕屋のあらゆる仕事を成し遂げるために、彼に知恵と英知と知識を与えました。神の霊で彼を満たされたのです。神は、ご自身の働きのために召してくださった人にこのように神の霊を与えてくださるのです。教会において、神の働きにおいて必要なのは能力がある人ではなく、神の霊に満たされた人です。神の霊、知恵と英知と知識なのです。

 

もうひとりはオホリアブという人物です。彼はベツァルエルの補助者となりました。彼はダン部族の出身でした。最大のユダ部族からベツァルエルが召され、最小のダン部族からオホリアブが召されました。ここから、神はイスラエル12部族のすべてを用いようとしておられたことがわかります。主は彼らをすぐれた知恵で満たされました。それは彼らがあらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神の幕屋を制作するという仕事を成し遂げるためです。これは主が名指しで召したとあるように、神の主権によって成されたことでした。

 

この原則は、新約の時代の教会にも言えることです。エペソ4:11~13節には、「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」とあります。

 

主は、キリストのからだを建て上げるために、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある日外たちを牧師また教師としてお立てになりました。名指しで召されたのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きを指せ、キリストのからだを建て上げるためです。ですから、他の兄姉に与えられた賜物をねたんだり、うらやましがったりする必要はありません。互いの賜物を認め合い、キリストが建て上げられていくことを求めて、自分に与えられた賜物を喜んで主に用いていただきましょう。

出エジプト記34章

2020年10月28日(水)祈祷会

聖書箇所:出エジプト記34章

 

 出エジプト記34章から学びます。まず、1~3節をご覧ください。

 

Ⅰ.主の御名(1-9)

 

「主はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」

 

主はモーセに、「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。」と言われました。主は、モーセが砕いた石の板にあった、あのことばをその石の上に書き記そうとされたのです。「あのことば」とは「十戒」のことです。神は、ご自分の指で書かれた二枚の石の板をモーセに授けられました(31:18)が、モーセはそれを山のふもとで砕いてしまいました(32:19)。宿営に近づくと、民が金の子牛を拝んで踊っているのを見たからです。それでモーセの怒りは燃え上がり、持っていた二枚の石の板を砕いてしまったのです。しかし、モーセの必死のとりなしによって、神は彼らとともにいて、ご自身の栄光を現してくださると約束してくださいました。

 

そして、モーセに「前のものと同じような二枚の板を切り取れ。」と言われました。その石の板の上に、前の石の板にあった、あのことばを書き記すためです。神はまた同じ祝福を、イスラエルの民に注がれようとされたのです。私たちも、一度失敗しても、神は以前と変わらずまったく同じように、私たちに祝福することがおできになります。やり直しを与えてくださる神なのです。こうしてモーセはシナイ山に登りました。

 

次に、4~5節をご覧ください。「そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」」

 

モーセは、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を取って、山に登りました。これが三度目の登頂です。毎回、40日40夜山頂にとどまりました。

すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセとともに立って、主の名を宣言されました。主の名を宣言するとは、主のご性質を明らかにされたということです。御名とは神の本質であり、それこそモーセが祈りの中で願っていたことです。モーセは祈りの中で「どうかあなたの栄光を私に見せてください。」(35:18)と祈りましたが、神はご自身のご性質を示すことによって栄光を現そうとされたのです。それが6,7節にあることです。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」

 

「主はあわれみ深く、情け深い方」というのは、一般の日本人が抱いている神の概念とはだいぶ違います。一般に日本人は、神は怖い方、たたりをもたらすような方恐ろしい方だと思っています。「さわらぬ神にたたりなし」なるべく神に関わらないようにしたい。人生の節目、節目にお参りして、厄払いをしてもらって、そうしたたたりが起こらないようにしようと考えているのです。

しかし、聖書の神はそのような方ではありません。「主は、あわれみ深く、情け深い方」です。このことを理解することはとても大切です。33:19にも「主の名」が出てきました。そこには「あらゆる良きものをあなたの前に通らせ」とありました。主は良い方、あらゆる恵みとあわれみに富んだ方であり、それを私たちにお与えになる方です。そのように理解することで、自ずと神に近づき、神と交わりを持つことができます。恐れがあると、必ず退いてしまいます。神が良い方であると理解していないと、神は自分を罰して、自分に意地悪をするのではないかと恐れて、神から遠ざかることになってしまいます。それではサタンの思うつぼです。神はあわれみ深く、恵み深い方であることを知っているからこそ、自ずと悔い改めに導かれ、その神のあわれみを求めて祈るように導かれるのです。

 

このことはクリスチャンにとっても大切なことです。クリスチャンの中にも間違った神概念をもっている人がいます。すなわち、旧約聖書の神は怖い神で、新約聖書の神は優しい、愛の神だといった理解です。旧約の神と新約の神を分けてしまうのです。しかし、そうではありません。旧約の神も、新約の神も同じ神です。旧約聖書にもこのように「主はあわれみ深く、恵み深い方」であることが語られているし、新約聖書にも、特に黙示録などを見ると、罪を裁かれる神として描かれています。ですから、旧約聖書と新約聖書の神は同じ神なのです。神はあわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる方。この神理解をしっかりと持つことが重要です。

 

「あわれみ深く」とは、当然受けるべきものを受けないということです。私たちは罪ゆえにさばかれても当然な者でしたが、神はそのさばきを受けないようにしてくださいました。それが「あわれみ」ということです。これに似たことばで「恵み深い」ということばがあります。これは当然受けるに値しない者が受けることです。私たちは罪深い者であるがゆえに、当然永遠のいのちを受けるに値しない者ですが、そんな者が受けるとしたら、それは恵みです。私たちはそれだけの価値などないにもかかわらず、それを受けるとしたら、それは神からの一方的な恵みでしかないのです。そう、恵みとは過分な親切とも言えます。神は、恵みとまことに富んでおられる方です。これは主イエスについても言われています。「この方は恵みとまことに富んでおられた。」(ヨハネ1:14)とあります。これが神のご性質です。

 

しかし、ここには「恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」とあります。そして、父の咎を子に、子の子に、三代に、四代に報いる者である。」とあります。これはどういうことでしょうか。これは、親の犯した罪が遺伝のように子どもに受け継がれていくということではありません。エゼキエル18:1-4には、「次のような【主】のことばが私にあった。「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』という、このことわざを繰り返し言っているが、いったいどういうことか。わたしは生きている──【神】である主のことば──。あなたがたがイスラエルでこのことわざを用いることは、もう決してない。見よ、すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。」とあります。ですから、自分の状況が悪い時、それを親のせいにしたり、先祖のせいにするのは間違っています。

 

しかし、父の咎を受けなくとも、その影響は子どもに与えてしまいます。子どもがすることで、何でこんなことをしてしまったのかと思うとき、よく考えてみると、それがまさに自分の姿であるのを見ることがあります。自分の醜さなり、自分の弱さ、自分のあり方が子どもに受け継がれていくことがあるのです。良いことも、悪いことも。ですから、霊的なことにおいてはできるだけ子どもに良い影響を及ぼすように努めていかなければなりません。でも、たとえ悪いからといってあきらめる必要はありません。それを断ち切ることはいくらでもできます。それは断ち切る祈りをするということではなく、主のみことばを学び、謙虚に主の前にひざまずくことによってです。

 

8,9節を見ると、モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏したとあります。なぜでしょうか。主はあわれみ深く、恵み深い方であることを知り、その主のご性質に信頼して祈ろうと思ったからです。彼はこう祈りました。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」(9)

イスラエルの民はうなじのこわい民で、決して主に受け入れられるような者ではありませんでしたが、主があわれみ深い方であることを知って、どうか主が自分たちのただ中いて、進んでくださるように、と祈ったのです。

ここに礼拝者としてのモーセの姿が描かれています。モーセは神のご性質の前にひれ伏し、ありのままをさらけ出して祈る礼拝者でした。別に何も隠し立てすることなく、弱さを持ったままの人間として、それを正直に主の前に告白し、主のあわれみを求めて祈ったのです。私たちにもこの神の恵みとあわれみが差し出されています。それゆえに、モーセのように、神のあわれみを求めてひれ伏し、ひざまずいて祈ろうではありませんか。

 

Ⅱ.契約の更新(10-28)

 

次に、10~28節をご覧ください。まず、20節までをお読みします。「主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、【主】のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。わたしが今日あなたに命じることを守れ。見よ、わたしは、アモリ人、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。あなたは、ほかの神を拝んではならない。【主】は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。あなたはその地の住民と契約を結ばないようにせよ。彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く。あなたは、そのいけにえを食べるようになる。彼らの娘たちをあなたの息子たちの妻とするなら、その娘たちは自分たちの神々と淫行を行い、あなたの息子たちに自分たちの神々と淫行を行わせるようになる。」

 

主は、ご自身のご性質を示された後で、イスラエルと契約を結ぶと言われました。神との契約を守るなら、彼らがどの地にいても、どの国にいても、かつてなされたことのない奇しいことを行うというのです。その契約とはどのようなものでしょうか。その内容は20~23章に記されてあるシナイ契約にあるものと同じです。つまり、主はイスラエルの民と再びシナイ契約を結ぶと言われたのです。

 

その具体的な内容は、まず、彼らが入って行くその地の住民と契約を結ばないようにということでした(12)。いや、彼らの祭壇を取り壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければなりません。彼らの娘たちを自分のり息子にめとらせるようなことはしてはなりません。どうしてでしょうか。その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕って、みだらなことをさせるようになるからです。つまり、罠に陥ってしまうことになるからです。ここでいう罠とは、自分たちの神である主ではなく、その地の神々を慕って、みだらなことをしたり、拝んだりすることです。主はそれを忌み嫌われます。なぜなら、主はねたむ神だからです。

 

 第二のことは、自分のために鋳物の神々を造ってはならないということです。17節をご覧ください。「あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。」

鋳物の神々とは何でしょうか。ここには偶像と言わないで鋳物の神々と言われています。偶像は鋳物の神々のことです。自分の好きな形にかたどり、自分の欲望に合わせて造られた神、それが偶像です。しかし、真の神は違います。真の神は鋳物でかたどって造られたものではなく、私たちを造られた創造主なる神です。私たちのために命を捨てて、私たちを罪から救い出してくださった神、この方こそ真の神なのです。それ以外の神を拝んではなりません。

 

第三のことは、種を入れないパンの祭りを守らなければならないということです。18節をご覧ください。「あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。」

種を入れないパンの祭りとは、過ぎ越しの祭りに続いて行われた祭りのことです。その祭りを通して、出エジプトの出来事を思い起こし、神に感謝と賛美をささげなければならなかったのです。パン種とは罪を象徴していました。罪のない神の子キリストがあなたのために十字架に掛かって死んでくださることによって、あなたの罪を贖ってくださいました。イスラエルがエジプトから脱出したことを思い出したように、あなたが罪の奴隷から救われたことを思い出す必要があったのです。

 

第四のことは、19-20節にあります。「最初に胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜の雄の初子はみな、牛も羊もそうである。ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折る。また、あなたの息子のうち長子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。」

最初に生まれるものはすべて主に捧げなければなりません。なぜなら、最初に胎を開くものはすべて、主のものだからです。彼らの家畜の雄の初子はみな、牛も羊も主にささげなければなりませんでした。「初物」とは最高のもの、ベストなものという意味です。残りものではなく、最初のものを、良いものを、最高のものを主にささげなければなりませんでした。

ただし、ろばの初子は羊で贖われなければなりませんでした。すべての初子は、主のものですが、ろばはきよくない動物であったためいけにえとしてささげることができなかったからです。神はきよくないものを受け入れることができなかったので、贖わなければならなかったのです。それを贖ったのが羊でした。

これはどういうことかというと、私たちと救い主イエス・キリストのことを示しています。私たちはきよくないろばです。そのろばが贖われるためには贖われなければならなかったのですが、それが小羊であられるキリストだったのです。キリストが代わりに死んでくださいました。私たちは罪に汚れたものなので神に受け入れられませんでしたが、その罪を小羊であられたキリストが贖ってくださったのです。そうでなければ、私たちは永遠の死に落ちなければなりませんでした。しかし、傷のない小羊がすでに私たちのために血を流し、致命的な律法ののろいから私たちを解放してくださいました。この傷のない小羊に対する私たちの感謝を主にささげようではありませんか。

 

その後のところをご覧ください。ここには、「だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない」とあります。これはどういうことでしょうか?いつでも主にささげる用意をして、主の前に出るようにということです。私たちが普通主の前に出るのは主に祝福してもらうためだと考えています。それもあります。しかし、もっと大切なのは主にささげることです。私たちは主に賛美をささげ、主に感謝をささげ、主を喜ぶために主のもとに来るのです。だから主の栄光をほめたたえるために、私たちのすべてのものを持って、主の前に出なければならないのです。

 

第五は、安息日を守ることです。21節をご覧ください。「あなたは、六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時にも刈り入れの時にも、休まなければならない。」

安息日を守るように命じられています。それは主を覚えるためです。主の偉大な御業を覚えて礼拝するために、六日間は働き、七日目を休まなければならなかったのです。ところで、ここには「耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。」とあります。どういう意味でしょうか。最も忙しい時もということです。猫の手も借りたいような時でもです。そのような時に休むのには信仰が試されます。最も忙しい時にその手を離すことはチャレンジです。しかし、それによってだれが一番重要なのか、何を一番大切にしているのかがわかります。どんなに忙しくても本当に大切な人のためなら時間を取るはずです。それを最優先にするでしょう。何とか時間をやりくりして都合をつけるはずです。それを神のためにするようにということです。そうでないと輝きを失ってしまいます。これは決して律法ではありません。あくまでも私たちが輝くためです。忙しくて教会に行けない。忙しいとは心を亡くすと書きます。それは祝福を失ってしまうことになります。イスラエルで安息日を迎えることは私たちがお正月を迎えるようなものでした。家族そろって喜んで迎えたのです。そのように安息日を迎えなければなりません。

 

22節の、「小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の代わりには収穫祭を行わなければならない。」とは、「七週の祭り」と「仮庵の祭り」のことです。「七週の祭り」は、別名「ペンテコステ」とも言います。過越の祭りから数えて七週+1日で50日、これをペンテコステと言うのです。この日に何があったか覚えていますか?使徒2章を見ると、この日に聖霊が降臨して教会が誕生しました。ですから、ペンテコステは教会が誕生した日です。初穂とは、過越の祭りから最初の日曜日に行われました。これが、主が復活した日です。主は過越しの小羊として十字架で死なれ、三日目によみがえられました。それは死んでも生きるという永遠のいのちの初穂としての復活だったのです。その記念のために七週の祭りを行うのです。教会に集まって主の復活を祝う。これがないと輝きません。なぜなら、クリスチャンには充電が必要だからです。たまにくればいいというものではなく、いつも、週ごとに集まって主の復活を祝い、主を礼拝することで、聖霊に満たされるのです。

 

それだけではありません。「年の変わり目には収穫祭を行わなければならない。」とあります。これは仮庵の祭りのことです。かつてイスラエルが荒野で40年間過ごしたことを思い出すために、神が定めてくださったお祭りです。自分たちで作った小屋(キャンプテントのような)で、神がかつてイスラエルを荒野で守ってくださったことを思い出したのです。これは主イエスが再びこの地上に戻って来て、この地上に千年王国を打ち立ててくれることの預言でもあります。そのとき完全に成就します。だから、この仮庵の祭りは、主の再臨を待ち望むことでもあるのです。このように主を待ち続ける人は幸いです。

 

これが、先の種を入れないパンの祭り(過越しの祭り)と合わせて、イスラエルの三大祭りです。イスラエルには例祭が七つあって、その中でもこの三つの祭りは重要でした。イスラエルの成人男性はみな、主の前に出なければなりませんでした。それが23節で言われていることです。ここで「男子」と言われているのは、男子が義務づけられていれば、妻やこどもたちも自動的に着いてきたからです。イスラエルは年に三度、神の前に出て、これを祝わなければなりませんでした。それはこの世俗から離れ、主の御名の栄光を求めたということです。どんなにこの世にいても自分たちは主のものであって、主に従って歩む民であるということを、このような形で示したのです。それは年に三度そのようにしなければならないということではなく、私たちの心のあり方にとって必要なことでもあります。いつも主の前に出て、主の御顔を仰ぐ者でありたいと思います。特に男性は一家の大黒柱として、いつも主の前に出て、家族の霊的祝福を祈らなければなりません。教会も牧師が主の前に出ないと、教会全体が曇ってしまいます。霊的リーダーとして建てられていることを覚えて、その務めを果たしていかなければならないのです。

 

24節には、そのように年に三度、主の前に出るために上る間、家も、土地も守られるという約束です。祭りに参加するなら、主があなたの家と土地を守ってくださるのです。

 

25~26節をご覧ください。ここには、「わたしへのいけにえの血を、種入りのパンに添えて献げてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。あなたは子やぎをその母の乳で煮てはならない。」とあります。

いけにえの血とは、礼拝でささげる血のことです。それを、種を入れたパンに添えて献げてはなりませんでした。なぜなら、種は罪を象徴していたからです。礼拝でささげるものの中に罪が入っていてはならないということです。肉的な思い、自己中心的な思いからではなく、純粋に主を求め、主に礼拝を献げなければなりません。

 

26節の「最上のもの」とは、十分の一献金のことです。初穂は最上のものでした。それは主のものです。だから、それを主にささげなければならなかったのです。

「子やぎをその母の乳で煮てはならない」というのは、肉と乳製品を一緒に煮てはならないということです。それはカナン人たちの慣習であったからです。彼らは子やぎを母の乳で煮て食べました。それが豊穣の神への礼拝だったのです。だから、それは偶像礼拝を避けよということです。クリスチャンが日本の伝統行事だからといって豆まきをしたり、門松を飾ったり、鏡餅を置いたりしてはなりません。それは悪鬼を追い払う行事として行っていたもので、そのようなものから遠ざかるようにしなければなりません。

 

27,28節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「これらのことばを書き記せ。わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」モーセはそこに四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。」

 

モーセは四十日四十夜、主とともにいました。彼はパンも食べず、水も飲まずにいたのです。普通は何も食べず、何も飲まないと9日で死んでしまいます。しかし、モーセは四十日四十夜、何も食べず飲みませんでした。主イエスもそうです。モーセは神と会見していたので、何も食べなくても大丈夫だったのです。それでモーセはガリガリになったかというそうではありません。彼の顔は光を放っていました(29)。私たちも主とお会いすると輝きを放ちます。神と会見し、神を礼拝したのに輝かないとしたらどこかおかしいと言えます。それは主と顔と顔とを合わせていなかったことになります。何か考え事をしていたり、全く別の世界にいたり、よからぬ事を考えたりしていると輝くことはありません。しかし、主に向くなら輝きます。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記しました。

 

Ⅲ.モーセの輝き(29-35)

 

最後に、29~35節をご覧ください。「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。モーセが彼らを呼び寄せると、アロンと、会衆の上に立つ族長はみな彼のところに戻って来た。モーセは彼らに話しかけた。それから、イスラエルの子らはみな近寄って来た。彼は【主】がシナイ山で告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。モーセは彼らと語り終えると、 顔に覆いを掛けた。モーセが主と語るために【主】の前に行くとき、彼はその覆いを外に出て来るまで外していた。 外に出て来ると、 命じられたことをイスラエルの子らに告げた。イスラエルの子らがモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は輝きを放っていた。 モーセは、 主と語るために入って行くまで、 自分の顔に再び覆いを掛けるのを常としていた。」

 

モーセが山から降りて来ると、主と話したために顔の肌が輝きを放っていました。モーセは主の栄光を見たために、月が太陽の光を反射させるように、主の栄光を反射させていたのです。モーセ自身はそのことを知りませんでしたが、アロンと、イスラエルの子らはそれを見て、モーセに近づくのを恐れました。それで、モーセは彼らを呼び寄せて、主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じました。

 

モーセはイスラエルの民に語り終えたときに、再び顔に覆いをかけました。語っているうちにその輝きが消えていくからです。それが律法の輝きです。Ⅱコリント3:6-18には、それはやがて消え去る栄光とあります。それが律法の輝きです。古い契約は一時的なもので、やがい消え去って行くものです。しかし、新しい契約によってもたらされる栄光は、永遠に消えることがありません。モーセは消え去る栄光を見られまいとして顔に覆いを掛けましたが、福音を信じることによって与えられる御霊の務めとその栄光は決して消え反ることのない輝きです。ですから、モーセが消え失せるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けるようなことはしません。それなのに、イスラエルの人々の思いは鈍くなったので、今日に至るまで、そのおおいが取れのけられていません。古い契約が朗読されるときはいつでも、いつでも同じおおいが掛けられているのです。

しかし、人が主に向くなら、おおいは取り除かれます。それはキリストによって取りのけられるものだからです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな顔のおおいが取のけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのです。

 

モーセは「どうか、あなたの栄光を見せてください」と言いました(33:18)。私たちにとっての最高の喜びは主の栄光にあずかることです。主のご臨在。そのために必要なことは主の恵みとあわれみのご性質に基づいて祈り、主が与えてくださった恵みの契約を行っていくこと。つまり、主に向いて、主のみこころを求めて生きることです。そうすれば、主の御霊が私たちを輝かせてくださるのです。

 

出エジプト記33章

2020年10月14日(水)バイブルカフェ

聖書箇所:出エジプト記33章

 

 出エジプト記33章を学びます。前回のところで、イスラエルの不信仰について学びました。イスラエルは金の子牛を造ってそれを拝み、その回りで踊り狂うという信じられないことをしました。山から下りて来てそれを見たモーセは、二枚の石の板を粉々に砕くと、金の子牛を砕いてそれをイスラエルの民に煎じて飲ませました。それでも反抗する民がいたので、主につく者たち(レビ族)は、公然と反抗する者たちを殺しました。そしてモーセは、もし彼らが救われるのなら、自分の名がいのちの書から消されても良いと、とりなしの祈りをします。すると主は、「わたしが告げた場所に民を導くように」と言われました。きょうの箇所は、その続きです。まず、1-6節をご覧ください。

 

Ⅰ.わたしは上らない(1-6)

 

まず、1-6節をご覧ください。3節までをお読みします。「【主】はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」」

 

主はモーセに「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。」と言われました。主は彼らを滅ぼそうとされたのではなく、約束の地に導こうとされたのです。そこは、かつてアブラハム、イサク、ヤコブに「これをあなたの子孫に与える」と約束された地です(創世記12:7,26:3)。主は、どのように導いてくださるのでしょうか。ここには、「わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし」とあります。

「一人の使い」とは、天使のことです。23:23には「わたしの使いがあなたの前を行き」とありますが、ここでは「一人の使い」となっています。「わたしの使い」とは「主の使い」、すなわち、受肉前のキリストのことですが、ここでは「一人の使い」になっているのです。どうしてでしょうか。理由は3節にあります。彼らはうなじを固くする民なので、もし主が彼らの近くにいたら、その途中で彼らを滅ぼしてしまうことになるからです。うなじを固くするとは、強情になって神の仰せに聞き従わないことです。そのようにして罪を犯すので、聖なる神が近くにいたらたちまち滅ぼされてしまいます。そういうことがないように、民がそのまま生きているためには、聖なる神がそばにいることはできません。これは、約束された地は与えられているが、主がともにおられないということです。

 

皆さんは、これをどのように受け止めたらいいのでしょうか。別に神がいなくても約束されたものを手に入れることができればそれでいいじゃないかと思われますか。もしそのように受け止めるとしたら、それは私たちの信仰が少し歪んでいることになります。というのは、私たちの信仰は神ご自身を求めることだからです。クリスチャンがクリスチャンであることの特権と祝福は、神がともにおられることが確信できることです。主イエスは、そのためにこの世に来てくださいました。主がこの世に来られたことで「インマヌエル」、訳すと「神がともにおられる」という約束を成就してくださったのです。時が良くても悪くても、祝福の時も逆境の時も、どのような時も主がともにおられるという確信があるからこそ、私たちには平安があるのです。自分の人生がどんなに順調に進んでいるようでも、主がともにおられなかったら悲惨なのです。ダビデは詩篇27:4でこのように言っています。「一つのことを私は【主】に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り【主】の家に住むことを。【主】の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」それなのに、ここで主は「わたしは、あなたがたの中にあっては上らない」と言われたのです。

 

それに対して、民はどのように応答したでしょうか。4-6節をご覧ください。「民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。【主】はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。」

 

彼らはこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいませんでした。なかった。その悪い知らせを聞いて嘆き悲しんだのです。だれも飾り物を身につける者はいませんでした。それは、「飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。」と、主が命じておられたからです。

この「飾り物」とは、金の子牛の周りで踊った時に身に着けていた物です。民はそれを取り外しました。それは自らの罪の悔い改めるしるしでした。イスラエルの民は自らの罪によって主との交わりを失ったことを大いに悲しみ、悔い改めたのです。神との交わりを回復するためには、罪を悔い改め、罪から離れることが求められるのです。

 

Ⅱ.顔と顔とを合わせて(7-11)

 

 次に、7-11節をご覧ください。「さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも【主】に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。」

 

金の子牛の事件後、神と民との会見に変化が生じました。それまでは、神の栄光は宿営の中に宿っていましたが、その事件後は宿営から離れてしまいました。それでモーセは宿営から離れたところに天幕を張ったのです。これが「会見の天幕」と呼ばれるものです。モーセは主と会見するために特別な場所を設けたわけです。この天幕は幕屋とは違います。ヘブル語で幕屋を「ミシュカー」と言いますが、これはテントのことです。単なる天幕です。モーセは神と民の和解のために、神と会見する必要がありました。それが会見の天幕です。それは宿営の真ん中ではなく、宿営から離れた所、宿営の外にありました。どうして宿営の外にあったのでしょうか。それは宿営の中はうるさかったからです。静かな場所が必要でした。イエス様もよく荒野に退いて祈っておられましたが、それはそこが静かな場所だったからです。モーセはその会見の天幕に行って祈りました。それはモーセにとって簡単なことではありませんでした。何しろ300万人もの民を率いてキャンプしていたのです。毎日の忙しい業務から離れて宿営の外に行くには、かなりの犠牲が強いられたことでしょう。しかし彼はそれだけの犠牲を払っても主が言われるように宿営の外に天幕を張り、主と会うためにそこへ行ったのです。

 

主とお会いするということはそういうことです。そこには犠牲が伴いますが、日々の雑多な生活の中から身を引いて主に向き合い、ひとり静まって祈ることが必要なのです。私たちは礼拝や祈祷会、聖書の学び、ディボーションを通して主に向かいますが、なぜそれが必要なのかというと、それはまさにモーセのように幕屋、テントを張るようなものだからです。あらゆる犠牲を払い会見の天幕に行かなければならないのです。

 

モーセが会見の天幕に行くとき、民はどのようにしていたでしょうか。8節には、「モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。」とあります。彼らはみな立ちあがり、自分の天幕の入口に立って、彼が天幕に入るまで見守りました。かつて民は、「あのモーセという者」と言ってモーセを蔑みましたが今は違います。モーセをリーダーとして、神の器と認めました。そして、神と民の仲介者として敬ったのです。

 

モーセが天幕に入ると、雲の柱が下りて来て、天幕の入口に立ちました。これは主が降りてこられたことのしるしです。こうして主はモーセと語られました。そのとき自分の天幕の入口にいた民も立ちあがって、それぞれ自分の天幕の入口で主を伏し拝みました。モーセが神と話しているという事実の前に、畏怖の念を感じたのでしょう。

 

11節には、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた。」とあります。これは文字通りモーセが神の顔を見たということではありません。なぜなら20節には「あなたはわたしの顔を見ることはできない」とあるし、Iヨハネ4:12にも「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。」とあるからです。人となられた神の子イエスを見ることはできますが、父なる神を見ることはできません。神の栄光に与ることはできますが、神を見ることはできないのです。ですから、「顔と顔を合わせて」とはそれほど親しく語られたということです。私たちが友と話をするときは顔と顔とを合わせて語ります。それと同じです。

 

モーセ以前にも、神の友と呼ばれた人がいました。アブラハムです(ヤコブ2:23,Ⅱ歴代20:7)。主は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語られましたが、同じように神はアブラハムに包み隠すことなく語られました。そしてそれはモーセやアブラハムだけでなく、私たちも同じです。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られたように、私たちを友と呼ばれ、私たちのために命を捨ててくださいました。ヨハネ15:13には、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。イエス様は私たちを「友」と呼んでくださいました。そのイエス様は今私たちの心に住んでおられます(エペソ3:17)。友なるイエスが、聖霊によって、私たちの心に住んでおられるのです。顔と顔とを合わせて見ることができるのです。それなのに、私たちはこの主との会見を楽しんでいるでしょうか。主との語らい、主とともにいること、主ご自身を喜んでいるでしょうか。どちらかというと、日々にことで忙しく、主ご自身と顔と顔とを合わせることを後回しにしていることはないでしょうか。クリスチャンの祝福とは、いろいろな祝福を受けることよりも、その祝福を与えてくださる主とともにいること、主と顔と顔とを合わせて語り合うことなのです。

 

Ⅲ.モーセの祈り(12-23)

 

最後に、12-23節をご覧ください。ここでモーセは、神に三つの祈りをささげています。その一つが12-14節にある内容です。「さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」」

 

第一の祈りは、「あなたの道を教えてください」というものでした。主は、「一人の使い」を使わすと言われましたが、だれを遣わしてくれるのかがわかりませんでした。そこで彼は、主がともにおられるのでなければ、自分たちは進んでいくことができない。主がともにいて行くべき道を示してほしいと言ったのです。モーセは、主が彼に約束してくださったこと、すなわち、「あなたは名指しで選び出した」とか、「あなたは特にわたしの心にかなっている」ということを取り上げ、だから、自分から離れないで、あなたの道を教えてくださいと祈ったのです。

 

 それに対して主は、こう答えました。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(14)

第三版では、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」とあります。主はモーセとともにあって、彼を休ませてくださると約束してくださったのです。それは、モーセにとってどれほどの慰めであったことでしょう。

 

それでモーセはさらに主に祈ります。15-16節です。「モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

 

主のことばに対してモーセは、自分だけでなく民とともにいてほしいと訴えます。もし、神がいっしょでなければ、自分たちをここから上らせないように(15)と。ここでモーセは民と一体化しています。モーセは民のためにとりなしているのです。そして、モーセとイスラエルが、この地上の民と区別されるのは、主がともにおられるかどうかということによるのですから、どうかイスラエルとともにいてほしいと訴えたのです。

 

それに対して主は何と言われましたか。17節です。「【主】はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」」

イスラエルの民ともいっしょにいてくださるという約束です。すごいね。主がイスラエルとともにいると言われたのは、モーセのとりなしによるものでした。それと同じように、主が私たちとともにいてくださるのは、主イエスのとりなしのゆえです。私たちにはこのような祝福や特権にあずかる資格はありません。ただ主イエスのとりなしのお陰なのです。

 

第三の祈りは18-23節にあります。「モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」また【主】は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

 

 するとモーセは、主がともにいてくださるというだけでなく、「あなたの栄光を見せてください」と言いました。「栄光」とはヘブル語で「シェキーナー」語です。これはどういうことかというと、主ご自身を見たいということです。これは人間には不可能なことですが、信仰者であればだれもが抱く願いではないでしょうか。自分が信じている主をおぼろげながらではなく、顔と顔とを合わせてはっきり見たい。自分を救ってくださった主を、もっと知りたいという願いです。

 

 これが信仰の本質です。信仰とは主を知ることです。主イエスは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)と言われました。またIヨハネ1:1にも「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」とあります。永遠のいのちとは、主を知ることです。主を知ることを求め、このことから目を離していなければ、私たちの信仰の生活は安定し充実したものになっていきます。このことから離れると、とたんに永遠のいのちがわからなくなってしまいます。自分の思い込みの信仰になり、安定性に欠けることになります。主を知ること、主を見続けること、それが信仰の歩みなのです。

 

それに対して、主は何と言われましたか。19節には「主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、【主】の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」とあります。

神の栄光を見せてくださいというモーセに対して、主は「わたしのあらゆる良きものをあなたの前を通らせ、主の名であなたの前に宣言する。」と言われました。どういうことでしょうか。神の栄光が現される時には必ずあらゆる良きものが見られるということです。「善」と「栄光」は切っても切り離せない関係にあります。神の栄光を体感しているという人は、神の善を体感していると言い換えることもできます。God is so Good.なのです。神の良きものを経験している人は、まさに神の栄光を見ているのです。

 

そして、「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」と言われました。これは、神は主権者であられるということです。これはローマ人への手紙9章の主題でもあります。。神は一方的にあわれまれるということです。私たちの行いとは全く関係ありません。神の善というのは、私たちの行いには左右されないのです。あくまでもご自分の主権として一方的にあわれまれるのです。私たちの善は条件付きです。これだけのことをしたから恵みを受けるとか、これだけの人だからあわれまれて当然といったところがありますが、神は違います。一方的な神のあわれみによるのです。主の一方的な恵みとあわれみによって私たちは救われました。それはただ主の自由な意志によるのです。

 

主はまた言われました。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。」モーセは主の顔を見ることはできません。なぜなら、神の顔を見て、なお生きていることはできないからです。人間の限界性のゆえに、モーセは神の栄光のすべてを見ることはできなかったのです。聖書の中に、主の栄光を見て圧倒された人たちがいます。たとえば、イザヤ(6:5)もそうですし、ダニエル(10:8)もそうです。また、使徒ヨハネ(黙示録1:17)もそうです。主のすべてを見て、なお生きることができるのは、子なる神であられるキリストだけです(ヨハネ1:18)。Iテモテ6:16には、「人間がだれひとり見たこともない、見ることができない方」とあります。いまだかつて神を見た者はひとりもいません。モーセは神を見せてくださいと願いましたが、叶いませんでした。見たら死んでしまうからです。神はそれほど聖なる方なのです。

 

そこで主が言われたことは、「岩の上に立て」ということでした。主の栄光が通り過ぎるとき、主はモーセを岩の裂け目に入れるからです。そのとき、主がそこを通り過ぎるまで、主の手で彼をおおわれるためです。これはどういうことかというと、23節にあるように、主の手をのけるとモーセは主のうしろ姿を見るが、主の顔は決して見られないということです。チラッと見せてあげるということです。

 

しかし、新約時代に生きる私たちは、主の栄光をはっきりと見ることができます。それは、神のひとり子イエス・キリストを通してです。そして、その栄光は十字架の上に表されました。この岩とは、イエス・キリストのことです。この岩が裂けたのはキリストが十字架に掛かられたということです。その裂け目に入れると言われました。キリストの十字架という岩の裂け目に入るなら、神の栄光を見ることができます。そして、イエス・キリストの贖いを信じキリストの義の衣を着るなら、神の栄光を見ることができます。それ以外に方法はない。神の栄光を見たければ、キリストのうちにあることです。そこにいれば神に打たれることはありません。キリストがおおっていてくださるからです。