分のために大きなことを求めるな エレミヤ書45章1~5節


聖書箇所:エレミヤ書45章1~5節(旧約P1376、エレミヤ書講解説教76回目)
タイトル:「自分のために大きなことを求めるな」
今日はエレミヤ書45章から、「自分のために大きなことを求めるな」というタイトルでお話します。これは、エレミヤの書記をしていたバルクに対して語られた主のことばです。5節に「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」とあります。バルクが求めていた大きなこととは何だったのでしょうか。なぜそれを求めてはなかったのでしょうか。
 Ⅰ.バルクの嘆き(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたとき、預言者エレミヤが彼に語ったことばは、こうである。2 「バルクよ、イスラエルの神、【主】は、あなたについてこう言われる。3 『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」」
1節に「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年」とあります。これは、B.C.605年のことです。前回見た44章はユダの民に対するエレミヤの最後のメッセージでしたが、この45章はそれから30年後のことです。B.C.586年にバビロンによって滅ぼされた南ユダの民は、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれました。残りの民はエレミヤを通して語られた主のことばに背きエジプトに下って行きましたが、そのユダの民に語られたことばが44章にあったわけです。ですから44章との連続性はなく、むしろ内容的には36章の出来事の後のことです。36章にはどんなことが書かれてありましたか。ちょっと振り返ってみましょう。36章1~8節をご覧ください。
「1 ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなことばがあった。2 「あなたは巻物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書き記せ。3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述にしたがって、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻物に書き記した。5 エレミヤはバルクに命じた。「私は閉じ込められていて、【主】の宮に行けない。6 だから、あなたが行って、あなたが私の口述によって巻物に書き記した【主】のことばを、断食の日に【主】の宮で民の耳に読み聞かせよ。また、町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。7 そうすれば、【主】の前で彼らの嘆願が受け入れられ、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。【主】がこの民に語られた怒りと憤りは大きいからだ。」8 そこでネリヤの子バルクは、すべて預言者エレミヤが命じたとおりに、【主】の宮で【主】のことばの書物を読んだ。」
ヨシヤの子エホヤキムの第四年に、ネリヤの子バルクが、エレミヤの口述によってこれらのことばを書物に書いたときというのは、このときのことなのです。エレミヤは主から巻物を取って、イスラエルとユダとすべての国についてわたしがあなたに語ったすべてのことばをみな、書き記せと言われたので、書記のバルクを読んで、それをことごとく巻物に記しました。そのときエレミヤは閉じ込められていて、主の宮に行くことができなかったので、代わりにバルクが行って、それを民に読み聞かせました。するとそれが王の耳にも入ることになりました。するとどうなったでしょうか。
それを聞いたエホヤキム王は激怒し、何とその巻物を数行ごとに小刀で切り裂き、暖炉の火の中に投げ入れ、すべてを燃やしてしまったのです。それを書き留めるのにどれほどの時間と労力を要したことでしょう。何せ、エレミヤがヨシヤ王の時からずっと預言してきたことを書き記してきたものですから。その期間、約22年間です。私が大田原に来てみことばを語って今年で22年になります。これまでの21年間に語ったメッセージは全部取ってありますが、それが焼かれたらどんな気持ちになるでしょう。おそらく、自分の存在が消し去られたような気持ちになるのではないかと思います。バルクはまさにそのような目に遭ったのです。そればかりか、エホヤキム王はバルクとエレミヤを捕らえようとしました。しかし主が彼らを隠されたので、彼らは難を逃れることができたばかりか、さらに多くのことばも加えて、もう一度エレミヤのことばを書きしました。とはいえ、この時のバルクの失望はいかばかりだったかと思います。その時の彼の思いが、ここに記されてあるのです。3節をご覧ください。
「『あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。【主】は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。』」
ヨブのことばで言うなら、「生まれて来ない方が良かった」です。それほど辛い経験をヨブはしたわけですが、バルクも同じです。バルクはヨブほどの苦難を味わったわけではありませんが、心境は同じです。「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない」と嘆きました。バルクの痛みとは何でしょう。それは心の痛みでした。主はそれに悲しみを加えられました。それが先ほど36章の出来事です。主のことばを語ってもだれも聞き入れてくれない。それどころか、それを語った自分さえも抹殺しようとしたのです。折角、書き留めた主のことばさえ火で焼き尽くしてしまいました。そんな状況に彼はホトホト疲れ果て、何の憩いも見いだせないと言ったのです。彼はエレミヤの秘書として、苦しみと試練を共にしてきました。それはエレミヤの信仰に共感すればこそのことですが、いざ自分のお尻に火が付くと、改めて自分の置かれた現実に目が覚めて、信仰が揺るがされたのです。
それはバルクに限らず私たちも同じではないでしょうか。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24)と言うのでイエス様を信じたんじゃないですか。それなのに死からいのちにどころか、いのちから死に移っているのではないかと思えたるような時、あるいは、「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:2-3)とあるから、その通りに従って来たのに、実を結ぶどころか枯れていきそうだと感じる時、私たちもバルクのように、主は私の痛みに悲しみを加えられた、私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せないとつぶやいてしまうことがあるのではないでしょうか。
最近、あるクリスチャンの姉妹から電話がありました。土地のことでトラブルになったが、神様のみこころはどうしたらわかるのでしょうかという内容でした。固定資産税のことを考えると一日も早く地目変更をして売却した方がいいと思い自分なりに必死に取り組みましたが、逃げるに逃げられない状況になってしまったというのです。そんな時、ディボーションで私たちの教会のホームページからサムエル記のメッセージをずっと読み続ける中でダビデの信仰に触れ、どうしてもお聞きしたいということでした。1時間半の間ひたすらお話を聞きながら、この方が、ここは自分の思いで動かないでしばらく待つことにしたと言われました。確かに固定資産税は心配ですが、それも神様にゆだねることにしました。そう決めたら平安があるんですと。でもこの方には2人のノンクリスチャンの妹さんがおられるのですが、責められるんだそうです。
「お姉ちゃん、何やってるの。早くしないと固定資産税が大変になるじゃない。クリンチャンライフって大変だね。こんな状況になっても神様を信じるの?神様を信じて何になるのよ。神様って何?」
これが普通でしょ。でもみことばに従って神の時を待つことにしたら、神様は不思議な方法で滞納していた税金分のお金を与えてくださいました。ですから、彼女は「これだ!」という確信があるのですが、このまま神様が示してくださるまで待っていて良いのでしょうか、ということでした。
信仰生活を送る上で、自分の身が危うくなりそうな状況になったらどんなことばが口をついて出てくるでしょう。その思いが、神とエレミヤの目に留まりました。それで主はエレミヤを通してバルクに対することばを語られたのです。ですから、これは今日のあなたに対する主の励ましのことばでもあるのです。
Ⅱ.自分のために大きなことを求めるな(4-5a)
そんなバルクに対して主が語られたことはどんなことだったでしょうか。それは、自分ために大きなことを求めるなということでした。4節と5節の前半までをご覧ください。
「4エレミヤよ、あなたは彼にこう言え。『【主】はこう言われる。見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。5 あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ──【主】のことば──。」
主がエレミヤを通してバルクに語られたことは、自分のために大きなことを求めるな、ということでした。これはどういうことでしょうか。彼が自分のために求めていた大きなこととは、いったい何だったのでしょうか。新聖書注解という注解書の中で安田吉三郎先生は、このように解説しています。
「バルクは何を期待していたのであろうか。彼が預言者エレミヤに従った時、この預言者の働きによって国の運命は転換し、その結果彼は新しいイスラエルにおいて名声と高い地位と富が得られると考えたのであろうか。名門の出のバルクにとって、このような野心は無縁だとは言い切れない。エレミヤの預言を書に記し、これを神殿で人々に朗読した時、バルクは、人々の心の中に革命が起こると期待したかもしれない。さらに自分の巻物が首長たちに読まれ、その上王の前で朗読されると聞いた時、彼の心は恐れと期待におののいていたのではないだろうか。」
これは安田吉三郎先生の憶測ですが、的を得ていると思います。というのは、その前後の文脈をみると、そのようにあるからです。4節には、主はご自分が建てたものを自分で壊し、植えたものを自分で引き抜かれる方であると言われています。つまり、主は主権者であられるということです。そしてそのように言われた後で、5節に「見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下そうとしているからだ─主のことば──」と言われました。つまり、それはバルクが思い描いたようにはならないということです。
バルクは預言者エレミヤの口述筆記者という名誉ある役割が与えられていました。1節には、彼はネリヤの子とありますが、彼は名門の出身で、教養も豊かな人物でした。エレミヤ51章59節には、彼の兄セラヤはゼデキヤ王の時に高官だったことがわかります。恐らく彼は、兄と同じような地位に就くことを願っていたのでしょう。もし預言者エレミヤについて行き、エレミヤの預言によって王や首長たちが悔い改めるなら、ユダ王国に新しい未来が開かれることになります。そうなったらエレミヤは国の中で重要な地位に就くことでしょう。それは、エレミヤの書記である自分の昇進をも意味していました。ちょうどイエス様の弟子でゼベダイのふたりの子ヤコブとヨハネがイエス様に、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(マルコ10:37)と願ったように、です。
しかし、彼の期待は見事に裏切られることになります。事態は彼が願ったようにはいかなかったのです。むしろ逆でした。エホヤキム王やユダの首長たちは悔い改めるどころか、逆に彼らの怒りをかうことになり、口述筆記した巻物は切り裂かれ、暖炉の火で燃やしてしまいました。それどころか、彼の身にも危害が加えられる恐れがありました。彼の夢は脆くも崩れ去ってしまったのです。それは主がご自身に立ち返ろうとしない民にわざわいを下そうとしておられたからです。バルクがどんなに高貴な家の出で、優秀な者であっても、彼は一つのことを理解しなければなりませんでした。それは、主は私たちが関わるすべての物事の主権者であられるということです。4節の「わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。」ということばは、この真理を明らかにしています。それなのに彼は、自分ために大きなことを求めていたのです。
何事でも「自分のために」という思いが強すぎると、実際に思うようにいかない時、バルクのように嘆き、失望し、疲れ果ててしまうことになります。大切なのは、主が私たちに関わるすべての物事の主権者であられると認め、自分はそのための管にすぎないことを自覚することです。そうでないと、自分のしたことに一喜一憂することになるからです。イエス様は弟子たちにこう言われました。
「17:9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:9-10)
これがイエス様のしもべである私たちに求められている姿勢です。もしあなたが主に命じられたことをすべて行ったら、こう言うべきです。「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と。それは、この世の価値観とは全く逆です。この世では、自分のしたことに対して、その報いがあるかないかを尺度にして生きています。たとえば、それをやったらどれだけ報酬があるかとか、どれだけ昇進するかといったことです。けれども、そのような生活は失望や落胆、また有頂天になることの繰り返しで、疲れ果ててしまうことになります。自分のために大きなことを求めるのではなく、主のために大きなことを求めなければなりません。それは主に対して忠実であること、ただ主が言われていることを行っているということ、そして成果ではなく、主との関係、主との交わりを喜び、これを求めることです。そうすれば、目先の報いに左右されることはなくなります。
こんなコラムを読みました。ご主人が出張で数日間家を留守にする時、4歳の息子が、「パパはあと何個寝たら帰って来るの?パパは今どこにいるの?何をしているの?」と一日に何度も尋ねてきたそうです。公園で遊んでいても、美味しいおやつを食べていても、どんなに楽しいことをしていても、息子の頭の中にあるのは常に「お父さんは?」でした。
 そんな息子の姿を見ながら、自分は息子のように神様のことを求めているか」と考えさせられたそうです。
聖書に、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)とあります。自分の願い、自分の計画、自分の必要ばかりに意識を向けていたら、気付かないうちに、この世と調子を合わせてしまうことになります。神様のみこころだけが、私たちを暗やみから光へと引き上げてくれます。だから、神のみこころに焦点を合わせなければなりません。忙しくて、お皿洗いながらしか祈れない時もあります。疲れ切って聖書を読んだり、祈れない時もあるでしょう。しかしそのような時こそ、より深いところへ進んでいくための神からの招きの時なのです。神様と共にありたいという奥深い心の飢え渇きを満たしてくれる時なのです。
 3Dのイラストをじっと集中して一点を見続けていると、絵が浮かび上がって立体的に見えてきます。そのようにいったん手を止めて、全神経を集中させ、神様を求め、探し、たたく時間が私たちに必要なのです。
Ⅲ.神の約束(5b)
しかし、そんなバルクに対して主は、一つの報いを与えると約束してくださいました。それは彼のいのちを守られるということです。5節後半をご覧ください。
「しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。」
神はバルクに、この世での成功は約束されませんでしたが、彼のいのちが守られることを保証されました。「あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える」とは、そういう意味です。リビングバイブルでは「わたしはこの民に大きなわざわいを下すが、あなたには報いとして、あなたがどこへ行っても、あなたのいのちを守る」とあります。バルクが受ける報いは、ただ彼のいのちを保つということでしたが、これほど素晴らし約束があるでしょうか。神の使命を忠実に成し遂げた後の報いは、この世の富や名誉で測ることができるものではありません。それはいのちを保つということ、永遠のいのちに与るということです。
バルクは、エレミヤたちとともにエジプトに連れて行かれましたが、彼にとっては、どこに行くかは大きな問題ではありませんでした。どこにいても、いのちを守られる主がともにおられるということ、この真実に心を留めることが大切だったのです。
バルクは、エルサレム陥落を目撃し、エレミヤに同行してエジプトに下り、そこでエレミヤの死を見届けました。その過程で彼は、自らの使命に目覚めたのです。それは自分のために大きなことを求めるのではなく、これらいっさいの事柄の証人となり、それを後世に伝えることでした。そしてエレミヤの預言を「エレミヤ書」という形にまとめたのです。自分に対する預言をエレミヤ書のこの箇所に置いたのも彼です。明確ではありませんが、エレミヤは、このバルクへのことばを、晩年になって彼に伝えたのかもしれません。バルクは、預言者エレミヤの死後も生きて、この記録を預言者エレミヤの生涯の記録のあとに、そっと補足として加えたのだろうと考えられています。44章でエレミヤの生涯の預言を書き終えた後に、どうしてこの記事がここに挿入されているのかは、そのような理由からでしょう。個人的に成功するかどうかは、主のみこころがなるかどうかに比べたら、取るに足りない小さなことではありませんか。バルクはその生涯の中で、このことを学んだのです。
それは私たちも同じです。私たちにとって大切なのは、自分のために大きなことを求めることではなく、自分の身を通して神の栄光が現わされること、みこころが天で行われるように、地でも行われますようにと祈り求めることなのです。